『クレージー・バニラ』
バーバラ・ワースバ/作 斉藤健一/訳
徳間書店
1994.11
原題:CRAZY VANILLA by Barbara Wersba, 1986(アメリカ)

<版元語録>家族とも心が通わず、友だちもいない、孤独な14歳の少年タイラー。野鳥の写真を撮ることだけを救いにする毎日だったが、恵まれない境遇にもめげずに大きな夢を着実に追う少女ミッツィに出会ってから、タイラーは変わっていった…。ロングアイランドの大自然を背景に、思春期の少年の揺れ動く心とそのきらめきを見事にすくい取った感動的な小説。

モモンガ:とっても好きな本だった。子どもの気持ちがよく描けていると思う。どういうふうにいったらいいのかな・・・主人公タイラーは、友達がいなくて、家族に対しても、思ってることと違うようなことを、ついいってしまって、それがストレスになっちゃうような子なんだけど、そういう子の描き方がうまいよね。タイラーはミッツィと出会って、彼女のことが好きになっちゃうんだけど、人が突然だれかを好きになるっていう気持ちも、うまく表現してると思った。タイラーとミッツィだけでなく、ミッツィのお母さんとか登場人物はみんな、どこか破綻したところのある人たちなんだけど、どの人にも愛情をもった描き方がされてて、それぞれの人間性がよくわかる。だから、どの人にも人間的な興味がもてるのよね。あと、詩の使い方がうまい! ミッツィの好きなスティービー・スミスの詩。「ぼくはあなたたちが思っていたよりはるか沖まで流されていたのです。あれは手を振っていたのではなく、溺れて助けを求めていたのです」っていうの。この詩が、タイラーの気持ちをよく表していると思う。タイラーは、今の自分の状況はこの詩みたいだっていうんだけど、ミッツィに「きみは溺れてなんかいないよ。手を振っているのかもしれないけど、溺れているんじゃないわ」って励まされるのよね。お兄さんがゲイだって知ったときの家族の反応も、よくわかる感じ。『少年と少女のポルカ』のヤマダの家は、ちょっと嘘っぽいと思ったけど。ねえ、『クレージー・バニラ』って、タイラーにとってどういう意味をもっていると思う? とっても存在感があるタイトルだけど、タイラーって、こういうおもしろい名前がひらめくタイプじゃなさそう・・・。どうしてこのエピソードをもってきたのかしら?

ねねこ:「クレージー・バニラ」って、英語で何か特別な意味があるの?

オカリナ:別にないんじゃない? ただクレージーなバニラってだけで。

ウォンバット:私、いいタイトルだと思う。『クレージー・バニラ』。内容を知る前からいいなあと思ってたけど、アイスクリームの名前だって知ってからはもっと好きになった。とってもおいしそう。高校生のとき、サーティワンアイスをきわめた(毎月変わるアイスクリームの味と名前を常におさえてました)私には、わかるこのすばらしさが。バニラは地味だけど、なくてはならない基本の味。それにクレージーって過激な言葉がくっついて、ユニークな名前になってる。タイラーのいうとおり、ネーミングって、シンプルでインパクトがないといけないと思うんだけど、その両方をちゃんと満たしてる。コンテスト優勝まちがいなし!と思ってたのに、残念ね。さっき、登場人物がそれぞれよく描けてるって言ってたけど、私も賛成。とくにお兄さんの恋人のビンセント・ミラニーズがおもしろかった。3〜4年前かな、日本でもさかんに「ミニマム」っていいだしたの。ビンセントはインテリア・デザイナーでミニマリズムの旗手。倉庫をすばらしい住居につくりかえたって、ベタボメの雑誌記事をお兄さんが送ってくるんだけど、それってタイラーからしたら、がらんとした殺風景な部屋を、おおげさにほめたたえてるように見える。それで、タイラーは「ビンセントってのは、なんてヤなやつなんだ。世界一のいかさま師だ」って、怒って雑誌を捨てちゃうんだけど、たしかにミニマリズムって、いかさまと紙一重ってとこ、あるでしょ。だから、すっごくおかしかった。タイラーは、はじめからビンセントのことをよく思っていなくて嫌いになりたいんだけど、いざ会ってみたら、スキのないちゃんとした人だったもんだから、フクザツな心境・・・。とんでもないやつだったら、あきらめもつくのに。わかるわぁ、その気持ち。という感じで、細部も全体も好きな作品だった。でも、翻訳で1ヵ所気になるところがあったの。ミッツィがタイラーに向かって「きみ」っていうでしょ。二人が池で再会する場面で、「こんなところで何してるんだ」ってタイラーにいわれたミッツィが「きみの池なの?」って聞き返すんだけど、ヘンな感じ。そもそも今あんまり「きみ」っていわないでしょ。しかも「そっちこそ、なんなのよ!」っていうシチュエーションで、「きみ」は、使わないんじゃない?

ひるね:そうかしら。私、ちっともおかしいと思わなかった。女の子が、年下の男の子に対していう言葉だし、ミッツィはクルーカットで男みたいな格好をした子だから、ボーイッシュな雰囲気を醸し出す、うまい訳だなと思ったけど。

ウォンバット:そうかな。やっぱりここは「きみ」より「あんた」って気がするけどな。ここだけではないのよね、「きみ」っていうの。

ひるね:二人が仲よくなってからも、ミッツィは「きみ」っていってるわね。「ウッドラフ」ともいうけど。

ねねこ:「きみ」って、都会っぽい感じ。私、東京に出てきて、はじめて男の子に「きみ」って言われたとき、うっとりしちゃった。うわっ、おしゃれーと思って。うちの地元のほうでは、だれも言わないからね。でも、今の若い女の子が男の子に対しては、あんまり「きみ」って言わないかも。

愁童:ぼくたちの若いときには、女の子に「きみ」っていうの、普通だったけどねえ。

ねねこ:今でも、男の人が年下の男の人に対しては使うけどね。上司が部下に対して「きみ、きみ」とかさ。

ウォンバット:私たちは、茶化すときくらいしか使わないなあ。

ひるね:世代の違いかしら。

愁童:そうかもしれないね。ぼくは、この作品、青春のみずみずしさが感じられて、いい作品だと思うけど、ひっかかりというか、こういう場で話題にする切り口が見つからなくて。ちょっとクラシックすぎちゃうんだな・・・。でも、殺伐とした時代に、こういうお話はいいと思う。一貫して流れているのは「動物の写真を撮ること」。それが、二人をつないでいる。ミッツィがタイラーに「写真にあまりセンチメンタルな感情をもちこんじゃ、だめよ。動物のかわいらしい瞬間だけを選んで撮影しても、その本当の姿を撮影したことには、ならないんだから」って言うんだけど、なるほどと思ったな。とてもいい勉強になった。「クレージー・バニラ」は、すべてのきっかけであり、キーワードなんだよね。二人が出会ったのは、「クレージー・バニラ」がコンテストで落選したからだし、ミッツィは、はじめ「ひどい名前ね」なんていってたんだけど、彼女がこの街を出ていくことになって、さよならをいう場面では「『クレージー・バニラ』ってほんとはすごくいい名前だったよ」って言う。これは、ただ単にアイスクリームの名前のことを言ってるわけではなくて、暗に写真のことを言ってるんじゃない? 同じ動物写真を志す同志として、一緒にがんばろうよっていうエールがこめられた言葉だと思った。

ひるね:私も最後までおもしろく読めた。さわやかな物語。いろいろと問題はあっても、こんな楽しい夏休みを過ごせるなんて、若い人はいいわね。私にとって、この作品の魅力の99%は、野鳥の撮影に対する興味だったんだけど、とてもおもしろかったわ。ちょっと気にくわなかったのは、主人公タイラーがお金持ちのお坊ちゃまだっていう設定。自分は渦中にふみこんでいかないで、ただ外から眺めていて、「ぼくちゃんのことは、どうしてくれるんだよ!?」って言ってるだけみたいな感じがした。タイラー自身、成長はしてるけど、ダメージは受けてないわけだから。あとさっき、ゲイに対する家族の反応がよくわかるっていう話があったけど、私は反対に『少年と少女のポルカ』のヤマダ一家のほうがリアリティがあると思う。この作品のほうが嘘っぽい感じ。

オカリナ:これは、真実を知ったばかりの時期の話だから、『ポルカ』と一概には比べられないんじゃない? ヤマダは、もうずっと前からスカートはいちゃってたわけだから。でも、この作品では、ゲイのお兄さんの影が薄いね。それにしても、この兄とタイラーの会話の部分の訳は、不自然だと思わない? 映画の字幕みたい。「兄さんのこと、大好きだよ」「ぼくもだ。おまえみたいにいいやつはいないよ」なんて訳してる。内容は、よくも悪くもクラシックな作品だよね。

:私は動物が好きすぎて、深入りしすぎるというか、深い関係になりすぎちゃうようなところがあって……それは、ひとつの悩みなんだけど、この作品の「動物との距離のとりかた」は、そんな私に、とても参考になった。タイラーとゼッポの関係とかね。野鳥の撮影も、興味深かった。全体的にはおもしろいけど、まあクラシックな作品だと思う。形式もノーマルだし、先が読めちゃう。結末も「こうなるだろうなあ」と思ったら、やっぱり! だったし。あっさり味。1回読んで、「さわやかで、気持ちいい」作品ってことで、いいんじゃない?

ねねこ:私は、動物を撮る姿勢の違いに、ミッツィとタイラーの性格や生活の違いも感じられておもしろかった。動物をありのままに撮ろうとするミッツィと、できるだけ美しく撮ろうとするタイラーとの対比に、それまでの生き方や生い立ちまでをも連想させられた。

:青春文学の古典、サリンジャーや、ジョン・アーヴィングの流れをくんだ作品だと思う。大人になりきれない子どもが、客体ではなくて、主体となって登場して、自分のアイデンティティを探し求めるっていうタイプ。家族が、自分のアイデンティティを保証してくれなくなっちゃってるのよね。若者の孤独が色濃くあるところも、共通点。でもこの作品は、サリンジャーみたいに「出口がない」ところまでいってない。孤独をポジティブな方向にもっていっているから。孤独を野鳥の撮影に投影していて、それが、「出口」になってる。そこから「さわやか感」が、生まれているんだと思うんだけど。家族といえば、兄弟関係がリアルじゃないわね。感心しなかった。お兄さんは、いかにもプロットのために登場させられたって感じ。ミッツィのお母さんは、アン・ファインを彷彿させた。ほら、エコロジー推進運動をやってたりして、がんばる女性、自立する女性がたくさん登場するでしょ。自立した女の子の影響で、男の子も自立に向かうっていうのは、『青い図書カード』(ジェリー・スピネッリ著 菊島伊久子訳 偕成社)にもあったわね。ここに出てくるアイスクリームの名前って、ヘンなのばっかり。読者のだれもが「クレージー・バニラ」のほうがカッコいいってわかってるのに、「穴ぼこパイナップル」が当選しちゃうのが、現実なのよね。「クレージー・バニラ」が、ぴりっときいてると思ったわ。

ねねこ:「バニラ」は、家庭の象徴としての言葉なのかもしれないね。甘くておいしいけど次第に溶けていくアイスクリームのように、表面的にはうまくやっていたけど、どこかはかない家庭のイメージ。その家庭に内在するクレージーさを表しているのかなって思ったけど、考えすぎかな。こういうふうに家庭を扱うのは、アメリカ映画やアメリカ文学の典型っていう感じがする。安心して読めるんだけど、感動的というには、ちょっと足りないっていうか、またかっていうか・・・。

ひるね:バーバラ・ワースバって、日本ではこれしか翻訳されてないでしょ。他の作品はつまんないのかも。この本は一人称の視野が端正で、ほどよく整ってていいけれど、他はおもしろくなさそう。うますぎるもの。

愁童:『超・ハーモニー』(魚住直子著 講談社)と似てるよね、設定も。

モモンガ:私は「スタンドバイミー」を思い出した。ほら、語り手のお兄ちゃんが死んじゃうでしょ。大好きなお兄ちゃんがいなくなるっていうところなんかが、似てると思わない?

オカリナ:どうして、こういろいろ心配しちゃったりするのかなあ。英語圏の児童文学では、親がだらしないと、子どもが親みたいになっちゃって親子の関係が逆転するっていうとこ、あるよね。タイラーは、経済的に安定した家庭で育てられたからかな。

ひるね:自分は、問題から離れた安全なとこにいるのよね、タイラーは。

ねねこ:そういうタチというか、そういう性格にしたかったんじゃないの?

ひるね:タチもあると思うけど、そこが、主人公が泥沼にずぶずぶはまっていかないっていうところが、安心して読める秘訣なんじゃないかしら。

モモンガ:タイラーには居場所があるからね。それにしても、お金持ちの子が主人公っていうのは、新鮮だった。悩みを抱えた少年少女は、家庭が貧しかったりして、家庭に問題があることが多いでしょ。タイラーの家庭にも問題はあるけど、経済的にはリッチで恵まれてる。いじめっ子とか、敵役でお金持ちの子が登場することはあっても、主人公っていうのは、今まであんまりなかったよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)