『風をつむぐ少年』
ポール・フライシュマン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
1999.09
原題:WHIRLIGIG by Paul Fleischman, 1998(アメリカ)

<版元語録>アメリカ大陸の四隅に「風の人形」をたてること。それがブレントにできる、たったひとつの償いだった。ワシントン州、カリフォルニア州、フロリダ州、メイン州…アメリカ大陸を西へ東へさまよう一万三千キロの旅。ひびわれたティーンエイジャーの魂が潤いをとりもどし、再生していく姿を描いたロード・ムービー。1998年度パブリッシャーズ・ウィクリー誌ベストブック。

もぷしー:トーンもテーマも重かったけれど、その割に章ごとに視点の転換が入ってくるし、湿度が低いというか、からっとした感じなので、「たいへんなことをしてしまった責任を、どう償っていくか」というテーマを、純粋に読むことができました。自暴自棄になっているところまでの設定も、主人公の考えなしの行動だとか、周りに迎合しつつ目立とう、という素直な気持ちが、よく表現されていると思いました。やがて、結果的に人を殺してしまうわけですけど、相手の親が言うことは、日本の文学だったらこういう設定はないだろうと思いますね。娘の死に対する償いとして風車を作ってくれという課題を出すなんて、日本だったらありえない。だから文学においてもそうはならない。カウンセリングのやり方にしても、日本では「その問題を見つめてみよう」というアプローチ、アメリカではシュミレーション的というか、問題と直接向かいあうのでなく、気づくと変わっているという療法があると思います。そういう文化に則った、異文化のお話なのかなと思いました。日本だと、こういう場面に親が出てくると、恨みの色になってしまいがちだと思うんですが、それはなぜなんだろう、と考えさせられました。
少し前に読んだので、記憶が定かでないのですが、最後で、p205の「今彼の心の目に、これまで作った四つの人形が、ひとつの大きな装置となって互いに連動しあっているのが見えた。この世界も、言ってみれば巨大な一個の回転装置だ・・・」というところ。風車を作るくらいのことで、彼は本当にここまで分かったのかな。こんなふうに締めくくられると、あまりに立派で・・・という気が少ししました。もうちょっと、彼の言葉としてそっと終わらせてくれた方が、ついていきやすかったのでは? でも、全体を通して考えると、難しいテーマにも関わらず、遠くから、そばから、横から、と各度を変えて、上手に描いているんですね。こういう見方も学んでいかないとな、と思いました。

紙魚:私もp205で急にトーンが変わったので、あれ、まとめに入っちゃったのかなと思いました。わざわざ書かなくても、ちょうど本を読み終わって、自分なりに自然にその構図が描けると思うのにな。まるで文字の色が変わったかのように、トーンが急に変わった気がして。作者は、伝わるかどうか不安になって書いちゃったのかな、なんて思っちゃいました。

トチ:作者は、読者に通じるかどうか不安になるんでしょうね。いい気分になって、書いちゃいけないことまで書いちゃうこともあるだろうし・・・。

愁童:ぼくは、そこに違和感は感じなかったですよ。作者が説明しているだけでしょ。主人公がそう思っているというふうには読まなかった。

スズキ:初めは、主人公はどこにでもいる典型的なティーンネージャーで、物事をあまり深く考えないで、人生今から! どうにでもなる、という感じだった。ところが、そんな男の子が、事故で人を殺してしまう。このシーンは、えっ本当に死んじゃったの、と何度も読み返した。ちょっとしたことで、人の人生が変わることってありうるんだ、と読んでいる私のほうが、重く捉えてまった。でも、ブレントが旅に出て、いろいろやっていって、「前よりうまくできた」「今度はこれができるようになった」といったように体の体験を通して、だんだんと精神的に成長していくあたりが、からっとさわやかに描かれていた。読んでいるうちに、自分の過去の過ちを背負いつつ生きていくことを学び、回復していくブレントに、いつのまにか引きこまれていた。最後のまとめについてですが、私はこの文章にくるまで、なんで風車なんだろう、トーテムポールでもよかったのに、なんて思っていました。だから、最後のこの部分があって納得がいきました。

アサギ:私には印象の薄い本でしたね。うまくできているし、いろいろな人の物語が挿入されて、その人たちがブレントの作った風車に癒されたりする、という構成もうまい。だから、子どもにきかれたら薦めると思うのね。薦めるというのは、相手に時間と労力を使わせるわけだから、自分もどこかいいところがあると思ってるってことよね。日本の親だったら、泣いたりわめいたり、じめっとするわけで、文化の違いを感じたわね。これはキリスト教的背景という本ではないけれど、翻訳ものを読んだり訳したりしていると、背後に神があるのかな、という感じはよくするのよ。もう一つ、私は1年住んだことがあるくせに、アメリカをよく知らなくて、アメリカは均質な文化を要求する文化、という意識があったのね。ドイツなんかだと、それがなくて、南で最もポピュラーな料理を北の人は知らない、というのをよしとする。それに対して、アメリカはファストフード以外にも、同じメニュー、同じ安心感で普及したチェーンレストランが全国にあると聞いてたから、錯覚が起きていたのね。でも、このロードムービーともいうべき作品を読むと、いろんな習慣の違いが出ているでしょ。考えてみれば、あれだけ広い国で、気候も違う。偏見が正されて、新鮮でしたね。
最後の説明の4行について。私は、はじめから地の文と思って納得してたわ。最後は、読み終わった本をもどして、新しい本を読み始めたっていうの。余韻があっていいと思ったわ。あと、ルーシーショーとか、古いアメリカの名前が、懐かしかったわねえ。乱暴だと思ったのは、p176の、おばあさんが最後に「たとえドイツの人でもね」っていうところ。これ、ドイツ人が読んだら怒るだろうなあ。

愁童:これ、すごく好きな本になったな。印象が薄いのは確かだよ。何が書いてあったかは、よみがえってこない。だけども、風車が立っているという存在感、卓越した構成と着想に感動したね。娘の顔をした風車というモチーフを考え出した、作者の書き始めのポテンシャルエナジーはすごいね。読んで得する本だと思うよ。人生観とか哲学だけで本は存在するものでもない。このイメージがすごい。母親の悲しみもよくわかる。こういう形で書かれたことを、癒しのイメージだけで捉えたくないな。

オカリナ:被害者のお母さんのサモーラ夫人は、主人公のブレントに対して、罪の償いというよりブレントの成長のきっかけとなるような提案をするでしょ。でも、このお母さんは、一般的なアメリカ人というより、赤毛で、インド更紗のスカートをはいてて、フィリピン人の男性と結婚するような女性だって書かれていて、その時点で、作家は普通の常識人とはちょっと違うように設定しているんだと思うの。お父さんはブレントを絶対拒否して、手紙だって切り刻んで返すくらいでしょ。その方が普通なのかもしれない。お母さんは、いろんなところでいろんなことをやってきた人。これがなかったら何もわからなかったようなブレントに、最大のプレゼントをするわけよね。すごい!
フライシュマンは、「一人の人間の行為は、直接的にではなくとも、必ずだれかに影響を及ぼす」と強く考えている作家だと思う。作品の印象が薄いとしたら、「アメリカの四隅に娘の顔をつけた風車を立てる」という設定が強く前面に出ていて、それ以外の部分が後から追いかけているからなのかな。一人の行為は必ず誰かに影響する、というのは、他の作品にも見られる、フライシュマンの一貫したテーマ。でも、それがあまりにも前面に出すぎると、かえって印象に残らなくなる気がするのね。こういうことを書かなくちゃ、と思うと、それに引きずられてプロットが後からついていくじゃない。思想は自分の中にあって、思いついたことを書いていくうちに、それがおのずとあらわれてくる、っていう方が作品としてはおもしろいかも。

紙魚:主人公の少年といっしょにバスに乗りこみ、いっしょに風車を立て、ロードムービーを楽しむように読めました。フライシュマンもすごいけれど、さっきその良さを語ってくれた愁童さんの言葉にもじーんときちゃった。世界は自分の力でどうとでも変えられるという考えと、自分の力ではどうしようもないこともあるという考えがありますよね。この作品には、自分の力ではどうにもならないことがいっぱい出てきます。人の気持ちや生死には手出しができないですから。けっしてあきらめでなく、及ばないものに対する畏怖の念を抱き、どうすることもできないこともあるということを知るたび、人は優しくなることもあるんじゃないかな。
子どもの本でも、自分で世界を変えようという本と、自分だけではどうすることもあるという本、その両方があってほしいです。例えば恋愛を描くにしても、「誰でも振り向かせてみせる」という部分と、「どうしても振り向かせられないんだ」という部分。どちらの側の作品もあってほしいと、これを読んで思いました。未来に希望をつなぐ終わり方も、とてもいいなと思いました。取り返しのつかないことをしてしまって、償いに風車を作る。風車というのは、プロペラがあるだけで、風がないと回らない。4つの風車と主人公の気持ちが、風によってつながっていった気がしました。フライシュマンは、自分がしたことで誰かが影響を受けていく、その機微が見える人なのでしょう。最後のp205の「〜巨大な一個の回転装置〜」の4行は、ちゃんと伝わってるから言わなくてもいいよと思ったほど、それまでにイメージができあがっていました。導入部分は、「ビバリーヒルズ高校生白書」のようなアメリカっぽい世界が広がっていて、それもおもしろかったです。それが突然、交通事故のところで、一瞬何が起こったかわからなくなって、次章の挿入部分に入りますよね。そのあやふやさ。ブレントも、そうやってじわじわ事態をのみこんでいくはず。挿入を使って、それを表しているところが、うまいですよね。
ブレントは、まさに自意識過剰な年齢。パーティーに出ていた頃と、旅を終えたときでは、同じように過剰な自意識ではあっても、きちんと成長のステージがちゃんと見えてきますよね。おしつけがましくない描写もいいと思いました。そういう年代の人たちをやさしく見守る視線、寄り添うように眺める視点もいいと思いましたね。

トチ:もっとも優れた点は設定ね。設定を考えついた時点で、この作品は成功だったのでは。同じ作者の『種をまく人』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)と同じで、途中で言いたいことがわかってしまって、同じようなことを言ってるな、と思ったこともあったわ。その意味では、もう少し違うことを書いてほしかった。でも、おもしろかったし、薦めたい本ね。図書館に置くべき本だとは思った。アメリカ的、キリスト教的というよりも、もっと原初的な宗教観を感じたわ。それにしても、アメリカ人は寓話的なものが好きなのかしら。ルイス・サッカーの『穴』や、ジェリー・スピネッリの作品もそんな感じがするし・・・ただ、私の好みを言わせてもらえば、寓話のようにかっちり作者の世界ができているものよりも、破れたところがあって、作者自身も思いもよらぬほうへ行ってしまう文学のほうが好きなのよね。風車を立てるというのは日本にはない感覚という意見があったけれど、私は贖罪のために仏像を彫るというのを連想してしまって、かえって日本的な、なんだか懐かしい感じがしたわ。

オカリナ:この風車は英語だとwhirligigで、シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(斎藤倫子訳 あかね書房)にも出てくるわね。アメリカでは象徴的な意味合いをもっているのかも。

チョイ:ここに出てくる4個所っていうのは、アメリカの四隅にあたるのかしら? 風水でもないのにね。

ねむりねずみ:最初、今回の課題を決めるので、これどうかなって読んで、今回もう1度読んだんですけど、はじめは構成に頭がいってしまって、『種をまく人』といっしょだなって思った。同じフライシュマンの台本形式で書かれた『マインズアイ』(寝たきりのおばあさんから女の子に想像力の翼が継承されていく物語)とも同じだな、っていうのが先に来ちゃった。この著者は、よい意味で行為は波紋を広げるというメッセージを持っているんだなって。2回目に読んでみたら、なるほど主人公の成長物語になっているんだということがわかった。ワシントン州では物をつくる充実感、カリフォルニアではありのままの自分として人と接すること、そしてその次は、自分と他の人とのやりとりの楽しさを知ること、そして最後に心の中の秘密を打ち明けて、本当の意味で前に進める状態になった。順を追ってできているんだなって思った。でも、先にメッセージがあるというのもあるけれど、構成としてできすぎちゃっているような気がする。感情面から読者を巻きこむのとは違う感じの本ですね。派生するエピソードのひとつの、バイオリンを練習させられる男の子のエピソードが好きでした。やはり着想のすごさなんだなって、いま感想をうかがってあらためて思いました。表紙のイメージ(くるくる回る)がすごく大きいと思う。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)