エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
『点子ちゃんとアントン』
原題:PUNCTCHEN UND ANTON by Erich Kastner, 1929(ドイツ)
エーリヒ・ケストナー/作 高橋健二 or 池田香代子/訳
岩波書店 
1955

<版元語録>お金持ちの両親の目を盗んで,夜おそく街角でマッチ売りをするおちゃめな点子ちゃんと,おかあさん思いの貧しいアントン少年.それぞれ悩みをかかえながら,大人たちと鋭く対決します―つぎつぎと思いがけない展開で,ケストナーがすべての人たちをあたたかく描きながらユーモラスに人生を語る物語.

:ケストナーは、大人と子どもを対等に描こうとしているし、時をこえるものをかならず描いていくという点では評価はしてるんだけど、私は感覚的にどうも合わないんですね。

トチ:ケストナーは子どものときにいちばん好きな作家だったから、きちんと批評できないかもしれないけれど・・・現代のものと比べて、文学の形としては古いかもしれないけれど、作家の立っている位置に現代的なものを感じたわ。お母さんの誕生日のエピソード、子どものときはアントンがかわいそうと思ったけれど、大人になった今読んでみて、お母さんの気持ちに共感できるものがあって、新鮮な感じがしました。訳については、高橋訳が頭にこびりついているために、池田訳はなんだか饒舌な感じね。良い悪いは別にして、初めて読んだ訳でその本のイメージができてしまうってこと、よくあるわよね。

モモンガ:子どもの頃に読んだときは、ケストナーの作品って独特な雰囲気を感じてた。著者が、私は君たちの味方だよって顔を出すところが、ほかの本とは違う感じを受けたの。好きで端から読んだわけでもないんだけど、楽しく読んだ。後になって、ケストナーがマザコンといわれるほど、お母さんとの結びつきが強くって、母と息子の緊密な関係があったということを知ると、なるほどと思ったりして。あと、「点子ちゃん」っていう名前の訳がすばらしいと思うのよねー。これ以外には考えられない! 日本でもロングセラーになってる秘密のひとつだと思う。

愁童:ぼくにはね、ケストナーっていうのは、なんとなくへへーっとひれ伏さなければならない存在に思えちゃうんだよな。大人が顔を出すのは、嫌だな。著者の声を出すんじゃなくて、作品のなかで勝負しろよと思っちゃうんだよね。映画の方観ちゃったら、これ読む子いないんじゃないかな。以上!

オイラ:高橋訳もいいじゃない。ケストナーの力で読ませるんだろうけど。彼は、子どもの本の書き手として何が大事かときかれて、子どもの頃のことをどれだけ覚えてるかだと明言している。核心をついていると思ったし、ディテールが豊かに描かれてるから、読んでて子ども時代の感覚を思い出すところがいっぱいあった。

コナン:あたりまえのことをあたりまえに書いてる感じですけど、子どもの頃を思い出しました。最近、入社2年目で、子どもの頃を思い出すという機会が増えましたね。

ウォンバット:やっぱりケストナーって大きな存在で、今新しいものを読むときにも一つの基準になっている作家だと思うんですけど、私も愁童さんと同じで、作者がいちいち顔を出すのが、ちょっとね・・・。押しつけがましくて嫌。点子ちゃんのキャラクターも好きだし、お話はおもしろくて物語部分はとってもいいんだけど。点子ちゃんと楽しくやってるところにおじさんが出てくると、さーっとさめちゃう。じゃまされたって感じ。「もうおじちゃん、勝手に近寄ってこないでー」と言いたい。そもそも前書きもきらいだった。

オイラ:その部分、ぼくはユーモラスに感じたの。

こだま:大人の書き手が登場すると、子どもの読者が安心するってことはあるわよね。

オカリナ:そうかな?

モモンガ:私は、作られたお話を大人が楽しませてくるって感じがしたな。

愁童:作られたお話ってわりには、点子ちゃんのキャラクターはよく書けてるよね。

オカリナ:私は子どものときに読んで、自分が点子ちゃんみたいな子じゃなかったから違和感を感じたの。この子って、饒舌でおせっかいでしょ。リアリズムの話って、自分と違うタイプの強烈な個性の子が主人公だと入っていけない場合があるじゃない。それに、高橋訳だとユーモアが感じられなくて、おもしろくなかった。歯を抜くときに犬が動いてくれないなんていうエピソードは楽しかったんだけどね。おじさん(ケストナー)が顔を出すところは、うるさいなって思ったわね。アントンがお母さんの誕生日を忘れてて自責の念に駆られるとこなんか、私はアントンがかわいそうでたまらないのに、ケストナーは「考えなしに逃げだして、お母さんをおいてきぼりにするのは感心しない」とか「人間は分別を失ってはいけない。耐えしのばなければならない」なんて、最後に付け加えてる。ヤな感じ。おまけに、登場人物の中でどの人がいい人間で、どの人が感心しないかってことまで、作者が顔を出して言っている。それに、『ふくろ小路』を同時に読んだから階級っていうのを考えちゃったんだけど、階級の低い女中の「でぶのベルタ」なんか、「てんでだめな人だけどがんばりました」っていう書き方よね。それに、貧しいアントンとお母さんは最後には点子ちゃんの家に丸抱えになるんだけど、「この結末は正当で幸福です」ってケストナーは断定してるのよ! 思春期前の男女二人の子どもの友情っていう部分は、じょうずに描かれてるけどね。
映画は、今の時代に合うようにシチュエーションを変えてましたね。映画と原作の違いは、(1)原作ではアントンと点子ちゃんの通う学校は別で、点子ちゃんは私立の女子校に行ってて、自家用車で送り迎えされてる。映画では二人は同じ学校に通っていて、同じことを見聞きしている。(2)点子ちゃんのお母さんは、原作では専業主婦だけれど、映画では第三世界の子どもたちを援助するボランティア団体の役員。(3)点子ちゃんの家庭教師は、原作では悪漢の婚約者を持ったドイツ人だけれど、映画ではフランス人で、悪漢の婚約者はイタリア人のウェイター。(3)原作では家庭教師が点子ちゃんに乞食の真似をさせるけど、映画では家庭教師がイタリア人と遊んでいる間に、点子ちゃんが一人で地下鉄の駅で歌をうたってお金をかせごうとする。(4)アントンのお母さんは、原作では派出婦だけれど映画では元サーカス団員で今はウェイトレス。(5)アントンの家では、原作ではお母さんの誕生日を忘れてたことがきっかけだけど、映画ではお父さんを捜しにいく。(6)いじめっ子は、原作では点子ちゃんの家の門番の子だけど、映画では点子ちゃんやアントンと同じクラスの子。(7)結末は、原作ではアントンのお母さんが点子ちゃんの家の使用人になるけど、映画では点子ちゃんのお母さんが失礼な態度をわびてアントンのお母さんと友だちになる。
訳に関しては、高橋さんのは「よござんすか」とか「大いにおもうしろうござんしたね」なんていう部分が古いし、全体に堅い感じで、私は好きになれないな。新しい訳にしてよかったと思う。

オイラ:高橋訳にも、池田訳にも同じ雰囲気があるのは、ケストナーの文体が軽快なせいだよね、きっと。

愁童:アントンがお母さんの誕生日を忘れてて家出するってとこは、どうも腑に落ちないな。

オカリナ:アントンとお母さんが再会したときの喜びようを見た点子ちゃんが、自分の家庭と引き比べてさびしい思いをするっていうところ、映画ではとても重要な場面だったけど、原作では書かれてないのよね。

:私は点子ちゃんに魅力を感じたんですよね。私は子どものとき、普通にしなさいとか、ちゃんとしなさいって、しょっちゅう大人に言われたんだけど、どういうのが普通なのかよくわからなくて、コンプレックスになってたんです。大人になっても、普通にしなくちゃ、ってずっと思ってて。でも、この本読んだら、点子ちゃんて私と同じじゃないですか。なんだ、私だってあれでよかったんじゃないかって、はじめて思えたんですよ。で、自分の言葉でしゃべれるようになった。そういう意味でも、『点子ちゃん』はすごく好き。

スズキ:映画を見にいったら、子どもたちがすごくかわいかったんで、これは読まなくちゃと思ったんです。実際読んでみたら、アントンが誕生日さわぎで家出しちゃうところが、思ってたアントンと違う。もう少し天真爛漫でもいいのにって思いました。原作では、アントンがあまりにもいい子の見本みたいで、鼻についたんです。点子ちゃんにはキャラクターとしての魅力がありました。名作は敬遠してたけど、ケストナーは思ったより気軽に読めたという感じです。

紙魚:幼稚園の本棚にあったんですよね。いちばん上の左端に石井桃子さんの『ノンちゃん雲にのる』と並んで。棚の低い方には、園児でも読める絵本があって、年齢があがるにつれて徐々に上の方の棚に手を伸ばしていくんです。だから、『点子ちゃん』を読むっていうのは、私の憧れでもあったんですよね。象徴的な本でした。読んでみたらおもしろいんだけど、ケストナーが、時々口をはさんでくるところは、じつは読みとばしていました。子どものときって、物語の部分とそうじゃない部分を交互に読むのって、苦手でした。注を読むのだって、リズムがくるってだめだったくらい。

オイラ:ぼくはユーモアを感じて、ああ、ケストナーおじさん、はいはいって感じで読めたけどな。

オカリナ:19世紀だったら、子どもの本に教訓臭っていうのもわかるけど。20世紀なんだからさ。

モモンガ:教訓臭っていうより、ユーモアなのよ。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)