『四十一番の少年』 (井上ひさしジュニア文学館11)

井上ひさし/作
汐文社 (文藝春秋社)
1998

<版元語録>孤児院で暮らす兄のもとに、ラーメン屋に一人預けられた弟からの葉書、そこには、しみが…。弟の生活を思いやり、孤児院に引き取ることにした兄は、弟を迎えに行くが…。作者の自伝的要素の強い小説三編を収録。

ねむりねずみ:私の数々の引越しの中で処分されなかった、数少ない文庫本の一冊。井上ひさしでは『ブンとフン』など、ユーモラスなものを中心に一時期のめり込んで読んでいたけど、こんなものも書くのか、と一目置くきっかけになった一冊でした。淡々とした語り口だから、逆に起こっている事のすごさがこっちに迫ってきて、すごく強く印象に残る。作者の意図や作品の構造がどうとか読者に考える隙を与えない。読者が自然に入ってゆけるところが、やっぱりうまいと思いました。文学作品を読んだ、という手応えがあった。終戦後の状況を描いた話だけれど、必死に這い上がってゆくハングリーさとか、今の子が読んだらどうとらえるのかなっていうのが興味あります。これは、子ども向けに書かれたわけじゃないんでしょ?

アカシア:でも、汐文社のは「井上ひさしジュニア文学館」シリーズとして出てるのよ。

すあま:私は、J文学の無い時代に育ったから、文庫本の中から自分が読めそうなものをさがして『ブンとフン』などを読んでいたのですが、養護施設でボランティアをしていた頃に読んだ思い出深い一冊がこれです。時代は違っても共感して読めた。今の養護施設は、児童虐待の保護施設のようになっていて、本の中の養護施設とは、子どもたちのバックグラウンドがずいぶん違ってきましたよね。みなさんは、バックグラウンドが古いという印象を持ちました?

ももたろう:養護施設の状況は違うかも……でも、いじめは今でもあって、子どもの世界にも力関係がある。恐怖を感じながらも、何とか取り入って生きていこうとする姿勢なんかは、今にも通じると思う。だから、主人公利雄の気持ちに従って読めました。子ども時代の気持ちを、大人になっても体が震えるほど怖い、という形で、さかのぼって表現しているところが面白い。こういう作品から、主人公の気持ちを読み取れる読書力のある子ども読者がどこまでいるかな? 読ませてみたいな。

愁童:今回の3冊の課題の中で、いちばん文学を読んだという感じがした。時代背景が違っても、いじめの本質は昔と今で変わらないから、今の子にも結構読まれるのではないか? 子どもたちに日本語で小説を読ませるなら、こういう文章を読んで欲しいなってしみじみ思った。

アカシア:『ハルーンとお話の海』『愛のひだりがわ』vs『四十一番の少年』という構図で考えると、登場人物の内面を描くか描かないかという点で、対極的な作品だと思いました。もし、登場人物の内面を描かないで、外側のおもしろさだけで引っ張っていくのなら、それはゲームでもいいんだから、本なんか無くてもいいことになってしまう。本の未来はないでしょうね。この本の「解説」で、「ユーモア作家井上ひさしには珍しい、笑いの無いシリアス作品」というようなコメントがあったけど、それは的外れだと思った。私は、この作品に井上ひさしのユーモアの部分が随所に見られると思った。不謹慎だとは思うけど、ナザレトホームの歌とか、昌吉の未来の履歴書とかは、哀しいなかにも笑える要素がずいぶんあると思う。『愛のひだりがわ』の場合は、「作者はプロなのに子どものだからといってこんなの書いていいのか!」と思ったけど、これは逆だった。いじめについても、良いとも悪いともいわないで、今も昔も同じようにあるんだよと言うふうに扱っていて、井上ひさしはやっぱりプロだなと思った。

愁童:それを排除しようとするのが今の教育体制だけど、そんなことしても状況は変わらないよね。こんな本読んで、人間理解を深めることが先決。

アカシア:いじめは、仲良くするように努力すれば止むんだと思っているほうが悲惨。

:これを読んだ感想は、一言でいうと、面白かった。安心して読むことができました。いじめなんかも必ずあることだし、昌吉の人をうらやんでちょっと意地悪しちゃう気持ちも、切ないくらいわかる。良し悪しは別として、人の心の動きを書いているのがいいと思う。利雄が舟に乗って冒険に行くところも、本当は誘拐の手助けになっちゃうところで、良いことではないんだけど、妙におかしい。少しずらした視点で考えると、もっと大きなものが見える。これが文学なんだな、と思って読めた。

:『ハルーンとお話の海』は、何か読み取れるはずなのに読み取れなくて、肩透かしな感じだった。井上ひさしを読んで、やっと前の2作で感じたフラストレーションがおさまりました。この作品は、登場人物の内面を自分自身の内的体験をコアにして書いているところに強みがあると思う。子どもの主人公を、大人になってから自嘲的に自己省察させるという、その距離がユーモアを生んでおり、シリアスな中にも救いがある。子どもの主人公を、大人になってから自己省察させることによって、子どもというものを使った大人の小説家の手法を見た。テーマ性をしっかりもった作品で、他の二作と違って、純文学が子どもを使ってとして成功した例だと思う。ただ、母親に書いた手紙など、古臭さが感じられ、どこまで今の子の読書に耐えうるかは疑問。今の大学生でもどうかしらねえ……。

もぷしー:「作者の新しい試み」や「新しい文体」など、一種のファッション性を追求する最近のJ文学を読んでいるさなかにこれを読んで、久々に、読者が作者の意図に振り回されずに、内容だけを味わえる作品だな、と思いました。話のバックグラウンドが古いのでは?ということも、いじめなど現代に通じるテーマもあるし、それはそれで受け入れられるんじゃないかな。この本は私が生まれた年に書かれたものですが、自分が体験していないことでも、描かれている感情が今もリアルに生きていることなので、のみこめました。ただ、現代は人と人との距離がかなり離れているけれど、この作品の時代は、係わり合いになりたくない人の生活や内面まで知ってるような感じだから、人間との距離のとり方はずいぶん違っているなという感じを受けましたが。子ども時代にはかなり深刻であったろう出来事を、消化してから描かれているところに作品の余裕を感じ、子どもたちに読んで欲しいなと思いました。

トチ:みなさんと同じで、とにかくうまい、文章といいプロットといい、まさしくプロの作品だと思いました。冒頭部分など、地理的にも描写が難しいところを主人公の目の位置で描いているから、ありありと読み手の目にうつってくる。構成も、牧歌的な雰囲気ではじまり、ところどころちくっと刺のようなものはあるけれど、ユーモアもあり、ぐいぐいひきつけられていく。丸木舟の冒険で、主人公の気分も晴れ晴れとしてくるところで、一気にどん底まで落ちていく。そこの展開は、すごいと思いました。でも、子羊のように純真無垢な男の子が死んでいく場面はとてもショックで、ああ読まなければよかったと思うくらい、落ち込んでしまいました。ストーリーの上では無くてはならない場面だけれど。
もぷしーさんは、子ども時代に深刻だった事件を大人になって消化して書いているところに余裕を感じたということだけれど、私は少し違った感じを持ちました。昌吉は救えなかったのに自分はいまこうして生きているということに、主人公は子どものころには感じなかった罪の意識を覚えているのではないかしら。カソリックのことはよく知らないけれど、悪とか罪というものに対するカソリック的な考え方(感じ方)がうかがえたような気がする。曽野綾子の『天上の青』も悪と許しを書いた文学だと思うけれど、悪の描き方や感じ方が少し違っていて、そこのところも興味深かった。

ペガサス:さっき、笑いのポイントとして挙がっていた未来の履歴書のシーンでは、私は涙が出て、とても笑えなかった。胸が痛くなった。昌吉は確かにひどい子だけど、子どもの純真さと冷酷さの両方をを併せ持った子として描かれている。だから読者に「憎い」という気持ちを起こさせない。それは作者が人間愛(人間を良い悪いの2つの尺度だけで測らない)をもって昌吉像を描いてるからだと思う。大人になってから書いているからそれができたのではないか。いじめられてるさなかでは、主人公利雄は昌吉をあんなふうには温かく見られなかっただろうし。そういう点で、このお話は、人間の両面性を理解できる大人になってから読む本じゃないかと思った。

トチ:でも、人間の両面性を気にしないでいられる年齢って、今どんどん下がってきてるんじゃない?

一同:うんうん。

アサギ:井上ひさしはやっぱりうまい!って、私も思いました。でも、このお話読んでると、どんどん辛くなってくるのね。確かにユーモアは、対象との間に一定の距離が無ければ生まれないんだけれど、このお話には、かえって距離をとってユーモアにしなければ語れなかったっていう、切実な感じがある。それがこの作品に深みを与えているのね。未来の履歴書も、読んでて胸がいっぱいになった。井上ひさしのユーモア作品と演劇の作品は知ってたけど、これを読んで新たな発見をしました。ただ、いい作品だけど、読んでいてかなり辛かった。若いうちはショックを受けても跳ね返せるけど、だんだん、こういう作品は辛すぎて読みたくないって思ってしまった。

トチ:そういうショックには、子どもの方が強いんじゃないの?

アサギ:絶対強いと思う。でも子どもには、この作品の切実さは、わからなくてもいいんじゃないかしら。

アカシア:切実とはいっても、ユーモアの中にある切実さは、子どもにも通じるものがあるのでは? 「子ども」の年齢によると思うけど、中学生より上には、こういう作品も読んで欲しいと思う。ハッピーエンドでない作品もね。

トチ:私は、本を読んで落ちこんだって、ショックを受けたっていいと思うのよ。じゃなければ、本を読む意味なんてないもの。

アサギ:これは、作品が優れている分、よけい辛かったの。

アカシア:今の子は、本を読んでも、落ち込むまで感じ取れないみたい。

愁童:昔は、中学生といえばもう大人扱い。純文学でも古典でも、難しいものをたくさん読まされた。わからない文学も背伸びして読んでいたものだったけど、今の子は、等身大のものばかり読んで育っている。そもそもあまり読んでいないから、フィクションに共感して、疑似体験をするという経験が少ないし、本を読んで落ち込むこともできない。第一落ち込むような本は読まないよね。

トチ:級友の女の子の家の運転手など、ほんの少ししか出てこない人でも、描き方が非常にうまい。全ての登場人物を温かく、まあるく描いている。それだからこそ、ストーリーの切実さがよけいに増してくるのよね。

アサギ:心に残るんだけど、辛さのほうがたくさん残ってしまうのよ。それを跳ね返せるのは、若さのパワーなの。

愁童:映像ばかり見て育つと、出来上がった他人の既製イメージばかり蓄積されるわけで疑似体験には成りにくいよね。活字でそれを読んでいる子は、自分でイメージを構築しなければならないから、しんどいけど、そのプロセスが体験につながるもんね。

:いや、子どもにはもっと正常なポテンシャリティがあると思うわ。

アカシア:でも、映像だけで育ってきた子は、人間と人間の関係性がうまく結べなくなっているように思う。親子関係だけじゃなくて、他人との間にどれだけ深い関係が結べるか、っていうことが大事なのよ。そして人と人との関係って、文学から吸収できるところがたくさんある。映像文化だけでは、育ってこない力だと思う。ハリポタみたいなのばかりを読んでいると、内面を描いた文学に出会ったとき、暗いだけで面白くありませんでした、っていうことになっちゃう。本は、自分で世界を構築しなければいけないから、ある程度その力がないと楽しめない。結局、力がなくても読めるハリポタみたいな作品ばかりがもてはやされるようになってしまう。

もぷしー:出版社のほうも、たとえ本当は『四十一番の少年』のような本を出していきたくても、そういう本はなかなか読んでもらえないから、どうしてもハリポタのようなものを多く出版する傾向があると思う。映像的な本ばかり出版していたら、読書の楽しみが子どもに育たないのを助長しているようなものなのだけど……ジレンマ。

ももたろう:読書経験の少ない読者に、いきなり『四十一番の少年』を読みなさいといってもそれは無理。やはり、絵本や幼年文学からはじめて、幼い頃からの読書体験を積み重ねていかないと。

:ずっと映像だけで育ってきた子どもでも、大学に入ってから文学に開眼することもある。それからでも遅すぎるわけじゃないと思う。ポテンシャリティはあるわよ。

愁童:最近、学校での10分間読書がきちんと行われてきていて、それでだいぶ変わってきていると思う。この間見学したけれど、その10分は、大人も含めて、学校中全員しーんとして本を読んで、音が全くしない。そういうふうに一日10分何かに集中するということだけでも、何かが変わると思う。問題のある子は、その10分も耐えられないんだけどもね。でもとにかく活字に触れて、考えることが大切だと思う。それから、昔にくらべて、生徒に立って声をだして教科書を読ませるとことが減ってきているようだ。先生が、区切りのいいところで、はい次、と言うことができなくなっているんだよ。文脈と全然違うところでぶちっと切ったりする。あれじゃあ、子どもの読解力は育たないよ。先生が、本が読めなくなってきているわけだ。

ももたろう:究極的に言うと、大人が本を読むべき、ということかな。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)