ねむりねずみ:私は、アン・ファイン自体が好きなの。いい人ばかりとか、悪い人ばかりじゃないし、親の都合で離婚という事態になっても、子どもたちがそれぞれに自分なりの位置をつかもうとしていくのがいい。『ぎょろ目のジェラルド』(岡本浜江/訳 講談社)もそうだったけど、リアルでそれでいてユーモラスだし、元気が出る作品だから好き。前々からアン・ファインの作品に限らず、英米の児童文学には離婚とか片親などの家庭を扱ったものが多いなあ、やっぱり、深刻な問題が日本より早くきてたんだなあと思っていたけれど、これもそういう本ですね。それにしても、お手軽な解決がないところも、作者の力だと思った。とくによかったのはコリンの話。コリンの踏ん切れない感じがずっと続いていて、最後にコリンが「話すことなんか何もない」というのを忘れて終わるあたりがいいなあ。内容だけでなく、全体の雰囲気でその子の個性を表していると思いました。でも、漫画の延長線みたいな表紙と挿絵には、猛烈に違和感を抱いた。ひとつひとつのお話が類型的じゃなくて、それぞれが悩んで、解決することもしないこともあるっていうあたり、深刻な話なのに基本的に暗くなくて、読後感がさわやかだというあたりも好き。

アカシア:私もアン・ファインは好き。本来だったら出会わない人たちが、あるきっかけで出会う、という設定もうまい。シリアスな題材を扱っていながら、ユーモアもたっぷり。そういうのができるのって、イギリスではアン・ファインとジャクリーン・ウィルソンくらいじゃないかな。子どもの歴史の中で見ると、かつては親の庇護のもとで安心していた子どもたちは、今や親には頼れない。それどころか親の不始末に寛容に対処し、自分で居場所を探さなければいけないというところまで来ている。それぞれの家庭環境が複雑なので、関係図があるのは、わかりやすくて助かったな。

きょん:こういうテーマなので、こういう装丁にしたのかもしれないけど、ちょっと……。辛辣な感じで、真実を語るのがおもしろい。子どもは真実をわかっていながら、それを表現することができないから、おとなは子どもにはわからないと思っているんですよね。ちょっと説教くさいところもあるんだけど、心にずんときた。でも、こういうふうに、つらい話でまとめられているのって、子どもが読みたいと思うのかな、という疑問はある。

カーコ:このあいだ『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳 理論社)を読んだとき、アカシアさんが「同じように数人の子を描いているけれど、こっちのほうが人物がたっている」とおっしゃっていたので、そういう頭で読みました。いつもとちがう状況におかれた中学生が、見つけた手記をきっかけに、素直になって、心がやわらかくなって語りだすというのがうまいなと思います。いろいろな家族をうつしだしていておもしろく読めた。子どもたちがこれをどういうふうに受け止めるのかなとは思うんだけど、素直に深く語る子ども自身の声を読んで、人はそれぞれいろんなことを考えているんだな、背景があるんだなということを感じとれるんじゃないかな。複雑な家族の物語なのに誘い込み方がうまい。中学生が合宿に行って、幽霊屋敷で嵐、こわい話かなってひきつけておいて、本題に入っていく。
本作りは気になった。文字の大きさとか装丁とか、しっくりきませんでした。文字が大きければ読みやすいわけではないのに。これだと、内容が安っぽく見えてしまうのでは?

紙魚:みなさんからも出てますが、やはり装丁はしっくりこないです。私、注文してて届いたとき、あれ、まちがった本がきたのかなって思っちゃいました。

:期待して読んだら、ちょっと裏切られた感じ。3点あげられるんですが、ひとつは、導入としては成功しているが、導入にすぎない。何かしら生かされたかたちで円環が閉じるようなところがほしかった。自分のうまさに寄りかかっているのでは? ふたつめは、親子の関係を書くには、大人どうしの関係を書けなければならない。リアリティを感じられなかった。三つめは、短編として散漫。共通のモチーフも弱い。でも、辛口になっちゃったのは、期待しすぎたから。アン・ファインの今までの作品よりいいとは思えなかった。この装丁は、日本で売りたいという意識が強すぎるのかも。

トチ:私も訳書が出るのを期待していたんだけど、書店で装丁を見てぎょっとしたわ。あまりにも子どもにおもねっているような感じがしていやでした。物語の作り方はさすがアン・ファインだと思ったけれど、実はこのごろあまりうまい作品は好きじゃなくなってきたの。技巧が透けて見えるっていうのかな。それから、この社はアン・ファインの作品の版権をたくさん取っているらしいけれど、なかなか出版されない。歴史物語やファンタジーなら話は別だけれど、アン・ファインの作品のように現代の子どもを主人公に置いたものは、早く出版してもらいたいと思う。版権を取るというのは、翻訳出版する権利を得るだけでなく、それだけの義務も負うってことだと思うんだけれど。

愁童:ぼくも、冒頭の誘い込みがうまいとは思ったんだけど、個人の話になっていくと、がっかりした。策におぼれたという感じ。継母、継父だから不幸っていう悩みのサンプルを並べたみたいで、それで?って言いたくなる。今や実の親だって似たような悩みはあるわけで、親の組み合わせ方をいろいろ並べてみても、あまり意味ないんじゃないか。ここからなにを子供に読みとってほしいんだろ。半ば話すことを強要してて、話せば楽になるよってカウンセリングの事例研究みたい。話して救われたみたいな書き方って好きになれない。

アカシア:たとえば、アメリカだと、単親家庭を経験したことがある子どもは、全体の半分いるんですって。日本の環境でこれを読むと特別に思えるかもしれないけど、アメリカやイギリスの子が読むともっと普通で切実なんじゃないかな。リアルだと思う。カウンセリングらしいところもあるのはたしかだけど、読んで一歩進める気持ちになれる。そっか、やっぱりカウンセリングの効用もあるのかもしれない。

愁童:そうかもしれない。でも、日本の子どもに、この作品の何をどう読んでほしいんだろ?

トチ:出版社はそこまで意識してこの作品を出したんじゃないと思うけれど……

アカシア:アン・ファインだったら、賞を取った他の作品を先に出してもいいのにね。

愁童:今、児童書業界、不況でしょ。ぼくは最近、どうしても、出す側と受け取る側のギャップを感じるね。

トチ:本当のところ、アン・ファインの版権をすべて取って、出せるのから出していっているんじゃない? それから、こういう後書きって好き? なんか物語りの余韻を壊してしまうような気がするんだけど。

ペガサス:私なんか、後書きがないとほっとしちゃうこともある。

アカシア:さっき、うまさが鼻につくって話が出たけど、私は、うまさって子どもの本には必要なんじゃないかと思う。今ってね、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)がわからないっていう文学部の学生がいる時代なのよ。文学を読みなれた人はともかく、子どもの本にはプロットのおもしろさって、欠くべかざるものだと思うな。

愁童:「ハリー・ポッター」が子どもの読書の起爆剤になるかって話が出てたけど、つぎの1冊に何を読むかが大切なのに、ちゃんと考えてない送り手の側に問題があると思うな。

アカシア:文学は、プロットとキャラクターとポイント・オブ・ビューの3点が必要と裕さんが前に言ってたけど、今はプロットだけの本が多すぎる。

紙魚:ただ、「ハリー・ポッター」を読んだ子どもたちには、1冊読み通した満足感とか達成感がかならずあると思うんですよ。それがかならず次の1冊につながっていくと私は思う。私も子どものときって、純文学とエンターテイメントに分けることなく、どんな本でも、本は本でしかなかったし。

アカシア:そうはいってもね、人と人のつながりが描かれているのが文学なのに、そういうものが少なすぎる。きちんと書き込まれているものも子どもに読ませたい。

愁童:児童文学を読んで育った親の世代が、わりあい保守的なんだよね。森絵都とかぜんぜん読んでないんだよ。そうすると、出版社がせっかく出しても広がらないよね。それで今の子たちって、漫画のノベライズとか読んでるんだよ。学校の先生も、どういう本が出ているか知らないよね。

きょん:それって、絵本の世界にもあると思うんです。どんなに新刊を出しても、すすめる側の先生方は、古いものしか出してこない。

愁童:新しいものを探していこうとしない。権威とかにも弱いしね。

ペガサス:でも絵本は、実際クラシックなロングセラーの方がいいのが多いわよ。

カーコ:中学生は、お金を持って「ハリー・ポッター」を自分で買いにいくだけの財力がある。口コミが発達していて、おもしろいと思えばお金をかけられる。だから、司書さんにもっと他の本も手渡してほしいですよね。うちの近所の図書館は、ヤングアダルトの棚がないんです。中高生は利用が少ないとか、一般の本と線引きができないとか、難しい点はあるけれど、働きかけてほしいですよね、プロとして。図書館員の職自体が自治体に尊重されていないという問題もあるんでしょうけど。さっき出た森絵都も、司書が知っていれば学校図書館に置くんでしょうし。

ペガサス:図書館員の集まりに行ったりすると、親に「うちの子は『ハリー・ポッター』を楽しそうに読んでた」って言われて図書館員はだまっちゃうのよ。言葉を持たないの。本を扱う仕事の人がそういう意識だと残念ね。