すあま:カニグズバーグの新作ということで、ある程度、期待をもって読み始めました。前半はおもしろかったんだけど、後半の塔をめぐる争いになってから、あんまりおもしろくなくなってしまいました。主人公をキャンプでいじめていた子たちが最後に出てくるけど、そんな簡単に関係が修復されてしまうものなんでしょうかね?

ハマグリ:私も期待して読んだんですけどね。カニグズバーグはとにかく周到に考えて、最初から最後まできちんと作る人なんだなということはわかったけど、実はあまり楽しめなかった。この主人公みたいな、ちょっと大人びた女の子を書くのはうまいと思う。二人のおじさんの雰囲気も、他の作品にない感じで、ユニークでよかった。犬のタルトゥーフォも脇役としてとても効いている。でも、よくわからないところも多かったし、ピンとこないところがあった。でもカニグズバーグなんだからきっとおもしろいに違いないという思いがあって、それに邪魔されてしまったかもしれない。やっぱり、私は初期の作品のほうが好きです。

むう:私もかなり期待して読んだんですが、読み終わって、作者は何書きたかったんだろうと思っちゃいました。当然ながら、文章はうまい人だし、主人公や二人のおじさんはとても魅力的なんですけどね。そもそもカニグズバーグは繊細で自立心の強いタイプの子を書くのがとても上手で、ここでも「わたしたち」という言葉にこだわる主人公の気持ちはとてもよくわかる。でも、ずっと読み進んでいって、半分近くまでキャンプの話が続いて塔の話に入ったところで、ふと、タイトルが「スカイラー通り19番地」なんだから、これからはじまる塔の話が本番ということなのかな、と思ったのだけれど、どうもそうじゃないんですね。前半のキャンプの話はぐっと主人公に引き込まれて読み進んだのだけれど、後半の塔の話になると、印象がまるで変わってきちゃって、ひどくちぐはぐな感じを受けました。塔の話になってからの展開がずいぶんドタバタしていて、きちんと書き込まれていない感じですね。主人公やおじさん以外の人々が、ジェイクにしてもそうなんだけど、なんとなく周辺にとどまっていてあまり活躍していない印象が残ったんです。あと、最後に塔を大企業が買っちゃうという結末はひじょうに不満でした。「ステップ3のあと」の部分の書き方が、懐古調で妙にたんたんとしているせいもあるのかな、読み終わってとっても寂しい感じが残りました。ああ、さすがのカニグズバーグにも、最盛期のような輝きはなくなってしまったのか、と思いました。

:最近出てた他の作品が読みにくかったので、これはカニグズバーグを読んだなという感じが持てました。カニグズバーグの新作だと期待しすぎちゃうので、いろいろ厳しい意見が出るのでしょう。おじいさん二人が、映画『ウォルター少年の夏休み』の雰囲気に似て、うまく伝わってきました。ただ、塔がどういう形なのかイメージが持てなかった。塔をアウトサイダーアートという言葉で価値を高めて、買い取ってもらうというのも、解決の一つかなとは思いました。でも、やはり寂しさが残ってしまいました。

ブラックペッパー:私は、その寂しさは、ロレッタさんとピーターのせいではないかと思うんですけど。ジェイクならわかるけど、会ったこともない人に電話で頼んで解決しちゃうのが達成感がなくて、寂しいのでは? 私は、女の子が歌を歌うところが好き。「わたしたち」の言葉にこだわるところも。

紙魚:しかも、ジェイクはロレッタさんと結婚しちゃうんですからね。聞いてないよーと思いました。

ブラックペッパー:あと、「カピシ」はcapisciだと思いますが、「カピーシ」がナチュラル。もし、わざと変ないい方をしてるのであれば、傍点つけるとかしたほうがよいと思う。OKは「オーケー」とか「オッケー」ならいいけど「オケ」じゃダメなのと一緒。許容範囲をこえています。

きょん:寂しかったのは、塔を記念碑のようにしてしまったからだと思います。マーガレットたちは、そんなことを望んでいたわけじゃないでしょう。窓をあけて、塔が見えるというその状態が大切でしょ。自分たちの生活空間の中に自然にとけ込んでいる“塔”が大切だったのだと思うのに。

ブラックペッパー:でも、壊されちゃったら、もっと寂しい……。

きょん:どうしてスカイラー通りに残すことが無理なのかわからないですよね。あの塔の周辺の町並みは、都市計画の中で旧市街のように残そうとしていた地域なのだから、塔を残すことだって可能なのでは? 事実の記録じゃなくて“お話”なんだし。

アカシア:私は、暮らしの中に塔を残すのは今の現実社会では無理なんだ、とカニグズバーグがあきらめちゃったような気がして、それが寂しかった。

きょん:登場人物は、ユニークでおもしろかった。あと、マーガレットがなぜイギリス国歌を歌っているのかがわからなかったんです。

ブラックペッパー:ひとりで歌をうたっちゃうっていう気持ち、あると思うなあ。あと歌詞もいい! とくに2番。

きょん:最後、ピーターはどうなったんでしょう??? ちょっとラストは、バタバタととりとめもなく集結していくところが残念でした。何となく妙な感じが残る本でした。

愁童:ぼくは、ええっ、これ、カニグズバーグなの? という感想。ほかの作品のように、存在感のある印象的な人物がバーンと出てこない。書きたかったのは、ひょっとして、アウトサイダーアートだったのかな、なんて思っちゃった。スチールパイプを組んで、がらくたをぶらさげている塔を、記念碑として残すというは、説得力に乏しい。つまんなかった。ジェイクにはひかれたんだけど、いじめっ子たちをつれてきて運動をするというのはご都合主義に過ぎないんじゃないか? カニグズバーグのものとしては説得力に欠けていて、がっかりしました。唯一キャンプの女の子を問いつめる場面ではカニグズバーグらしさを感じたけど……。

アカシア:私は、カニグズバーグの作品は、人物の描写のうまさとリアリティへのこだわりが特徴だと思ってるんです。で、人物に関していうと、校長先生はただの性悪でなくて厚みのある人物としてうまく書かれていると思ったし、「わたし」「わたしたち」にこだわっている主人公の女の子の描写もうまい。おじさんたちも魅力的。ジェイクの意外性もいい。でも、リアリティという点では、あまりいただけませんでしたね。もっとリアリティにこだわる作家だと思っていたんだけど、私が読み落としているんでしょうか? たとえば塔を守るためには、そこに取り壊しの人が入ってきたら所有権を主張して無断侵入で訴えて阻止しよう、という作戦を立てるわけですよね? でも、途中から方針が変わったのか、塔に立てこもってしまい、これは危険だからと警察に保護されてしまう。最初の作戦でいけばこんなことにはならなかったんじゃないかって、疑問がわきましたね。それに、おじさんたちは、いろいろな描写から生活の質にはとてもこだわっている人だと思えるのに、ケータイの会社に塔を保存してもらう、という終わり方でいいのか、ということも気になりました。私も、この塔が地域の人々の生活の中にあるからこそ意味があるのだと思っていたので。それとも、スカイラー通りでの塔の役割はもう終わった、とカニグズバーグはみなしているのでしょうか? その辺がよくわからなくて、もどかしかったんですね。それから校長のカプラン先生ですけど、ジェイクについてスカイラー通りまでついてきてしまうなんて、少なくとも翻訳で読むかぎりリアリティがありませんよね。残されたキャンプはいったい誰が面倒を見ているんでしょう? それから、これは訳の問題ですが、ジェイクの「回顧展」ってあるけど、回顧展って、ふつう死んでからやるんじゃない? 私はこの言葉が出て来た時点で、ああジェイクは死んでしまったんだ、と思ってしまいました。そしたらまた登場してきたのでびっくり。この作品でも下訳の人が入っているのかしら? カニグズバーグは一言一言がゆるがせにできない文章を書く人だと思うので、翻訳者ご自身が最初から取り組んでいらっしゃれば、読者のもどかしさはもう少し減ったのかもしれませんね。

ハマグリ:そうだよね。もっとおもしろいはずだよね。

カーコ:筋としてはすらすら読めるのですが、登場人物が増えて、設定も作品のつくりも複雑になって、最後のおさまりがつきにくくなっている感じがしました。『ホエール・トーク』(前出)も『ホー』(カール・ハイアセン作 千葉茂樹訳 理論社)もそうでしたが、社会的な問題解決というと、弁護士や各方面の人々が登場します。私はうっとうしく感じるのですが、アメリカでは普通のことなのでしょうか。校長先生も街づくりをする自治体も、正義の旗じるしをかかげているのに、実際は個々人の幸せにはつながっていないとか、おじさん二人にとって時間は過ごすためにある、とか、おもしろいところはいろいろありました。生きることに肯定的なのがいいですね。ただ、一人称でなくてはいけなかったのかなと思った部分がありました。たとえば、131ページ後半、街のことが書かれている部分は非常に三人称的で違和感がありました。ゴシックで書いてある章タイトル(?)も、しっくりしませんでした。きらいではないけど、問題がしぼりこまれていた初期の作品のほうが、私は好きです。

紙魚:イギリスの田舎に、意味のない鉄塔を立てている人がいるという話をきいたことがあります。おそらくカニグズバーグは、その鉄塔のことが頭にあって、この物語を書いたのではないかしら。でも、それがうまく物語のなかにとけこんでいなくて、キャンプのいじめの話、塔の話、その後の結末、という固まりのまま、ぶつぶつと途切れているのが残念でした。ジェイクがいじめっ子たちを追いこむ場面は痛快だし、「わたし」「わたしたち」という概念をおりまぜたりするところなんかはさすがですが、自分たちの(主人公もわたしたち読者も)手の届かないところで、物語が動いていく寂しさが残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)