アカシア:文学としては、すごくおもしろいし、好きな本です。トビにいろいろなイメージを重ね合わせているところも、おもしろかった。ただ、子どもの本だとすると、ものたりないところがありますね。山に連れていって、わざわざはぐれるようにした犬は、その後どうなったのか、子どもの読者ならとても気になるはずです。

カーコ:原著はYA向けに出されているんですよね。トビの使い方が印象的。少年がトビに魅せられていくようすや、冬の寒々とした光景など、イメージが鮮明でした。でも、ストーリーは、わからないところはわからないまま、読んでいかなければならない感じで居心地が悪かった。たとえば、犬を山に置き去りにした後、養老院に行ったときの、オルグマンが拒否する反応が、よくわかりませんでした。お父さんとのやりとりも、どういう気持ちなのかわからないところがあります。

アカシア:私はそこがすごくうまく書けてると思ったけど。オルグマンが繊細な人だから、少年の言い訳を聞きたくないんじゃないかしら。「悲しいような苦しいような、なんともいえない表情」をしていたと書いてあるし。自分がその仕事をしなくてはいけなかったのを、少年に肩代わりさせたことの良心の呵責もあるだろうし。ただ126ページの「なんてこった」という台詞で、そのあたりが伝わるかどうかは難しいところですね。

カーコ:生きていきながら手を染めていく罪や、喪失感が底辺に流れていて、自分が今いるのとは違う場所に連れていってくれる作品。本のつくりからすると、日本の中高校生が手にするとは思えません。

紙魚:父と息子って、言葉でわざわざあらわさなくても、目線とか仕草とか、それまでの人生とか、いろいろなところでお互いに感じ合っている。それがそのまま文章で表現されていて、少ない会話と豊かな地の文から、その関係性がじわじわと伝わってきた。人と人の関係性を、会話だけで表現しようとしていなくて、むしろ、言葉以外の部分であたたかいものを授受し合っているのが伝わってくる物語。いい本でした。

アカシア:カーコさんが言ってた、お父さんとのやりとりでわからない部分というのは、どのあたりなの?

カーコ:やりとりがわからないというよりは、説明がないから、どういうシチュエーションでその言葉が発せられたかを、想像で補いながら読まなければならない。

アカシア:説明しないで読者に読み取ってもらいたいというあたりは、ほかの児童文学作品にはあまりないですよね。わざと読者との間に距離をおいている。だからこそ、しっくりとくるという読者も逆にいるでしょうし。シチュエーションや全体を流れる哀感は、『夜の鳥』(トールモー・ハウゲン著 山口卓文訳 河出書房新社)に似てますね。

ハマグリ:そうね。病気の父親をもつ少年の不安を描いている点で、私も『夜の鳥』と似ていると思ったわ。張りつめた緊迫感がよく描かれている。でも『夜の鳥』のほうが、たんすの中に鳥がいっぱいいる、というような具体的な形で少年の不安をあらわしているので、より児童文学的かも。『おわりの雪』では、犬を殺すことにどうしてこんなに関わるのかな、と思ったけど、最後まで読むと、この子のなかに常に「死」があったんだなとわかりました。この少年の、自分でも整理できないような心のひだを書いていて、夜眠れないときにぽたぽたと水がたれるところなんかも、うまく心理を表していると思う。こういうのを文学っていうのかな。140ページの「みじかい沈黙があった。〜〜ゆるしてくれ」がこの物語の山場よね。

アカシア:お父さんが自分の死を覚悟していたこと、お父さんが覚悟していたことを少年が知ってあわてるようすが、この短い部分に凝縮されてるのね。

ハマグリ:犬を捨てにいくとき、雪のなかを一歩一歩あるいて行くのをえんえんと書いていたわけが、これがあるからわかったの。

むう:この本は、子どもの本ではないと思うけれど、おもしろく読みました。筋で読む本じゃないので、とととっと走り読みができない。読む側も、ていねいに作品の世界につきあわなくてはいけないんだなあと、久しぶりにじっくり読んだ本です。とても静かな印象で、出てくるのも、「命を奪う」こととか「老い」であるとか「死」であるとか「囚われのトビ」とか、全体に沈んでいるんだけど、微妙なところがていねいに書いてあって響いてくる気がしました。「トビ」には、主人公やその父親の自由への渇望のようなものが投影されているようにも感じました。格言というわけではないのだけれど、25ページで「つらいのとはちょっとちがうんだ」と主人公が言うのに対して父親が「むかし父さんも、あることを経験した。ふつうならつらいと感じるようなことだったが、おれはそうは感じなかった。だがそのかわり、自分は独りだと、これ以上ないほど独りきりだと感じたんだ…」と答えるところがあって、しかもそれが決して浮いた感じになっていない。独特の雰囲気があると思いました。たとえば、犬の遠吠えをぶったぎる、といったイメージにしても、なにかあっと思わせられるところがたくさん重なっている作品。つねに「死」がそばにある感じでありながら、トビを買おうという主人公の姿勢には、生きていくという姿勢が感じられて、でもそれが解放されきるわけでもなくという微妙な感じがあとに余韻を残します。さまざまな人との会話が直球のやりとりというのとは違って、自分の思いを口にすると、相手はそれに触発されてまた自分の思いを口にし、といった進み方なのも、独特な感じです。長靴が光ったりとかいった物の描写で心象風景を表しているのもおもしろかった。

雨蛙:薦められることが多くて2回読みました。前回も今回も、いい作品なのだろうと思いましたが、読み進めるのがつらかった。父親の「死」が近いことが、実はどこかでわかっているのに、直接はだれも語らない。でも、主人公のとる行動や、父親との会話のなかにはつねにそのことがにじみ出ているからだと思います。つらかったけれど、忘れることのできない作品であることもたしかで、私も、YAとして出しても十分共感を得られると感じました。日本版のつくりは大人向けですが、子どもたちが手にとりたくなるような工夫がほしかったです。

:文学性の高い作品だなあと思いました。現実世界に密着した話で、欲しいんだけど買えないとか、父親が病気だとか、虚無感とか、現実の厳しさが表れています。物事がうまくいかない生活の質感がよく出ている。とぎすまされた文章というか、飾り気がないのがこの人の持ち味。猫を殺したりという、美しくも楽しくもない、目に見えない雰囲気を描き出すのがうまい。私は甘ちゃんというか、子どもっぽいところがあるので、こういう暗い話は苦手なんですけど、一気に読みました。父と子の幸福な絆に支えられているところに救いがあるからだと思います。ただ悲しくてつらいだけじゃない。出てくる大人が、トビを売る人は別だけど、信頼できる人たちなのもいい。ひとつだけ気になったのは、お母さんの仕事のこと。お母さんは夜の商売をしてたのかな? ハッピーエンドの児童書ばかりを読んでいてこれを読むと、大人の世界に入ったなあと思えるでしょうね。自分の経験から言うと、十代の頃に『異邦人』を読んだときみたいな印象です。

ハマグリ:この作品では随所に「似ている」という言葉が出てきて、それに傍点が振ってありますよね。たとえば18ページでは「あのころぼくが語った話は『ほんとうの話』の影とか鏡像のようなものだった、つまり、『ほんとうの話』とよく似たなにかだった」26ページでは「それはぼくの手の影というより、いろんな動物、なにか奇妙な物体がうごめくのに似ているようだった」86ページ「ひとつの丘に似ているたくさんの丘」108ページ「その部屋は、すこし、星の夜空に似ていた」最後も「そのときぼくは、まあたらしい長靴をみつめるひとに、似ていた」というふうにね。これは、どういうことなの?

アカシア:現実を直視しない、というか直視できない状態をあらわしているんじゃないかしら? お父さんがまもなく死ぬっていうことも、知ってはいてもお父さんも息子も口には出さない。お母さんが生活費をかせぐのに夜の仕事をしていることも、口に出しては誰も言わない。それが嫌だと思っても、ドアが閉まる音と自動消灯スイッチの音が聞こえるのが嫌だというふうにしか言えない。それと同じで、つらい現実からいつでも少しずれたところを見ている、ということをあらわしているんじゃないかな。

むう:この本を読み終わった後々まで余韻が残って、そのなかで「死」というものをずいぶん考えさせられたような気がします。別にこの本が声高に「死」について語っているわけではないのに。ひとつ特徴的な気がしたのは、この本には、「死」と正対する姿はいっさい出てこないということ。養老院でおばあさんが死んだときも、みんなそのことがなかったように日常を続けようとしていたり。でもその描写から逆に、とても受け止めきれないような大きなものとしての「死」の重さがあぶり出されている。直接書かないことによって、重さを出している。

ハマグリ:最後もそうよね。長靴をぴかぴかにみがくんだけど、それを見ないでいる。二重的に見ているということなのかしら。

アカシア:うまく言えないけど、おもてに出ているのは自分が長靴を見ている姿なんだけど、第三者の目で見ると、そんなふうにも見えるとしか言えない自分がいる。

カーコ:トビも、すごく象徴的に使われていますよね。前半はトビが捕らえられるシーン、後半はトビが肉を食べるようすが執拗に繰り返されるのが、生命線みたい。トビが野性や命の象徴みたいに。

うさぎ:私は、登場人物の年齢とか、具体的な設定がわからなくて、入っていきづらかったんです。物語全体に色がないというか、生活感がない。グレーな部分だけが表されていますよね。それが文学作品ということなのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)