クモッチ:3人の女の子が出会って成長(?)する話。思い返すと、この時期というのは、自分がいいなと思う物について「そうだよね」って答えてくれる存在や、素敵だなと思う部分を持つ存在を、親などから離れたところで発見していく時期なんですね。そして、未完成な部分もたくさんあって、不用意なことを言って友だちを傷つけてしまうこともあったり、自分が傷ついたり……。それが、その後の人生でも大切な財産になるのでしょう。作者は、そういう「友情」が好きなんだろうな。中、高学年向けのこの作者の作品を読むと、それを感じます。独特な世界を持っていますよね。ただ、この作品では、「透さん」というのがわからなくて、どうして3人のところに現れ、助けることまでできたのか。『小公女』を妹たちに楽しく教えた時代に戻りたかった? それだけだと説得力に欠けるし、ちょっと気持ちが悪い。そこに違和感がありました。あ、あと、この作品は、章ごとに視点がかわるんですよね。1章がまゆ子、2章がアミ、3章が透さん、4章がテト。それを不自然にならずに書いているのがすごいと思いました。もう少しこの効果があらわれても良かった気がしますが。

アカシア:私は『小公女』という作品も好きじゃないし、いわば少女っぽいフリルのついた憧れっていうか、乙女チックな世界が個人的に嫌いなんです。だからなのか、素直に入り込めなくて、やっぱり高楼さんは小さい子向けに書いた作品のほうがずっと楽しいな、って思ってしまいました。テトとアミとまゆ子という3人の少女の個性もあまりくっきりしていないし。若さの時間にいる人と、老いの時間にいる人が出会うという設定はおもしろかったんですけど。

うさこ:高楼さんの作品はどれも好ましく読んで、わりとファンなので、これも楽しく読みました。少女向け小説、少女文学として無理なくほどよく清潔に書かれたものだなって思いました。少女から少しずつ大人へと成長していくみずみずしい感覚と、ちょっとあやうい、もろい面を持ちあわせる少女たち。謎の青年に出会うときのファンタジーのスイッチのオンオフがはっきりしていたので、3人いっしょだからまた不思議なことがおこるかも、と期待感をもって読めました。大人の描き方っていうのも、わりにすてきかな。ミズネズとかまゆ子のお母さんとかも、完成された大人じゃないけれど、すてきな人物として登場する。森さんもそう。アミの両親の奈良のシカのエピソードなんか、すごくおもしろくて、このあたり、高楼さんのユーモアが出ています。透さんの3章は、ちょっと「ええっ」てひいちゃっいました。75,6歳のおじいさんにしては、少々メルヘンチックかな。透さんが純日本人じゃなくてハーフだとしたらもっと納得できるかもしれません。この作家の感性のみずみずしさは、情景描写の描き方や、人物の様子を書き表すのが説明的でなく上手で、すっと読み手に伝わって入ってくる。自然のうつりかわりの描写もよくて、好きでした。

サンシャイン:私もおもしろく読みはじめました。謎があるのかなと思わせながら、同一人物のような違うような青年が出てきます。女の子たちの心の働きはよく書けていると思います。ミステリアスなちょっとすてきな青年が現れて、女の子たちが本当は惹かれているんだけど、好意を示してはいけないと思ってわざと無視するっていうのはよく書けていると思います。私も第3章に入って白けてしまいました。説明しすぎという印象。老人の人生をたどろうとしている所は計算が先に立っていて、あまりいただけません。

げた:3人の会話や関係がとても新鮮でした。少女趣味ということになるのかもしれないけど、男同士にはないものなので、こんな世界もあるのかと興味深く読みました。『小公女』がキーワードですが、中身は、あまり関係ないですよね。『小公女』を読んだ頃のことが忘れられないおじいさんが、たまたま同じバスに乗り合わせた少女たちの会話の中の『小公女』ということばに引き込まれたことから、このファンタジーが始まるわけなんですよね。『時計坂の家』(リブリオ出版)は、おばあちゃんの過去の謎にせまるような話だったと思いますが、身近な人の謎解きのようなファンタジーもいいかな、と思いました。

小麦:高楼さんの作品ってすごく好きなのですが、色々な引き出しがある中で惹かれるのは、やっぱりユーモア路線。今回の乙女路線は、少女期の渦中にいる時に読んだらきっと夢中になったんだろうなあ……という感じ。大人になってしまった今では、その甘さが鼻についたりもするんだけど、この「きれいなものは、きれい」というきっぱり自己完結した、ある意味閉ざされた世界観というのはわかる気もします。自分たちだけの世界にすっぽり包まれて幸せ、というような。でも、大人の私が読むと物足りなかったです。ちょうどこの本を読んだ後で、『対岸の彼女』(角田光代著 文芸春秋)を読んだんですけど、あの作品では、二人の少女が自己完結した世界のなかで仲良くなって、暴走して、家出して、事件をおこす。それから時を経て、主人公が現実を生きている今が描かれています。主人公が経営する小さな会社では、社員がクーデターをおこしてやめちゃったりして、結構ハードな現実なんだけど、学生時代の濃密な時間や思い出が、一歩踏み出す強さを与えてくれている。そこがすごくいいなと思ったんです。でも、『緑の模様画』は、甘く心地いい空間が描かれているだけで、そこから踏み出す強さや現実が描かれていない。そこが物足りなく感じてしまったんだろうなぁと思います。

うさこ:この丘の上学園という限られた守られた特別な世界。

アカシア:現代の吉屋信子って感じ。

クモッチ:でも、ここまで幅広く書けて、絵も描ける力のある人は、ほかに見当たらないと思いますよね。

メリーさん:設定は、少女小説や少女マンガにとても近いですね。乙女的、閉じた空間というところはありますが、時間と空間の描写はおもしろい。過去と未来を行き来する感じが、とても軽やか。『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄著 中央公論社)ではないですが、人間は時間に束縛されているのではなく、自らが時間を作り出していく。時間は自分が決めるものなのだと、この作品を読みながらつくづく思いました。

ジーナ:少女趣味なところは、私も好きではないのだけれど、作品全体としては、とてもいいと思いました。立ちあがってくるイメージがおもしろく、場面が目に浮かんできます。たとえば、47ページ「かかとに体重をのせ、ふんふん、とはずむように歩く、しっとりとした夕暮れの道は……」のような表現は独特ですよね。ほかにもあちこちこういう表現が出てきて、うっとりしました。私も、この本の一つのテーマは友情だと思うんです。まゆ子、お母さん、森さんという、3世代の友情があり、さらに大人の友情の中に、ずっと離れていても、あったときに通じ合える関係を描くことで、まゆ子たちの友情にも希望を感じさせてくれていると思いました。また、まゆ子が小学校のとき学校に行けなくなるけれど、中学になってなんとなくその危機を乗り越えるというところ。私はここで、大人の善悪を押しつけない、「べき」だとか「こうじゃなくちゃ」という規範的な目がない書き方が、とてもいいと思いました。なんでも答えを出して、白黒つけなくても生きていけると思わせる書き方です。視点をずらせるのもうまいんですね。目の前に見えることだけじゃなくて、不思議なことがひそんでいるとか。こういう、リアルなものにひねりを加えたおもしろさは、高楼さんのほかの作品にも共通していると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)