ハリネズミ:この本の構成が最初よくわからなかったんですね。「日記へ」という言葉があるんだけど、これはなに? 先生が何か書いて、それを受けて生徒が日記へとつなげていくってこと? 日記を書いている一人一人全部違うのか、同じ人物もいるのか? どうまとめていったのか? など、頭の中に疑問符をうかべながら読んでいきました。最後まで読むと、全部違う生徒が書いていることはわかりましたが。もう少し最初に説明が会った方がわかりやすいと思います。内容的には、『ジャック・デロシュの日記』とは反対に、みんな希望を見つけていくんですね。その希望の見つけ方も150人それぞれで、大きくジャンプして希望が見えてくる子もいるし、表向きは変わらないけど自分を再確認することによって希望を見いだす子もいる。そして途中には、だまっていないで声をあげることが大事というメッセージが流れている。
教師ががんばって、だめな生徒たちやクラスを立て直して行くという話はよくありますが、これは生徒の側からの直接の声が聞こえるのでいいですね。これは翻訳だからしょうがないのだけど、原文だともっと口調にそれぞれの子の特徴が出てるんじゃないかなと思います。この訳はわかりやすいし、少しずつ変えて苦労しているのは見えるんですけど、言い方の違いみたいなことまで出して行くのは難しい。だから、5人くらいが交替で書いているのかな、と最初に思っちゃった。
私が個人的に引っかかったのは、ホロコーストに関する部分です。340ページに「第二次世界大戦〜いかに似ているかを学んだ。〜訴えていることも知った。」とありますが、意地悪く見れば、このユダヤ人の先生は、現在のイスラエルが加害者になってしまっていることまでは、生徒たちに語っていないようです。それによって、この本が伝えんとする一種の理想主義がちょっと薄っぺらくなってしまっていると、私は思ったんです。あとね、今のアメリカの貧困地域の公立学校の実情が、この本を読むとよくわかりますよね。

山北:私は『ジャック・デロシュの日記』のときに、ミステリータッチのフィクションで重い問題を扱うことに不安と迷いを感じていたので、どんなテーマであれ、この本のように本物であるということは説得力があるなあと思いました。読み始め、この本がどういう構成なのかわかりにくかったので、先に説明があった方がすっきりするタイプの本だと思います。日本版を刊行するにあたって、冒頭の「覚書」あたりに日記プロジェクトの説明を加えていたら、もっと身を入れて読めたように思います。日本人はアメリカの高校生っていうと華やかな部分を想像すると思うので、スラム街でいろんなことをあきらめている人がいることを知るだけでも重要。日本で虐待に遭ったりチャンスをもらえないでいる子たちにも意義ある本になると思う。日本だと、つらい目に遭っているこの比率がここまで高くないので、周囲に相談を持ちかけづらいと思うんですね。その子たちに、150とおりの問題、その解決のヒントが届けば意義深いと思いました。生徒自身が、それも日記という個人的なものに書いた文章であるだけに、読者もかまえがとれると思うんですね。読後感もよかったです。

メリーさん:アメリカらしいサクセスストーリーで、とてもおもしろかったです。文章で自分を表現できるということを知った時の、子どもたちの姿がとても素敵でした。「書く」ということは、「話す」以上に、自分と向き合い、他人に伝える努力をする。それが自分も、自分のまわりも変えていくいい例だと思います。そうやって考え、伝える努力をした結果、遠くはなれたサラエボの戦争についても、自分の身近な問題と関連づけて考えることができるようになる。「書く」ということを武器にした子どもたちはすごいなと思いました。

サンシャイン:この先生が新任で、やる気のない先生たちの中で頑張ってやっていったというところが、おもしろかったです。9.11前なので、またアメリカの現状は変わっているかもしれませんが。宣戦布告なき戦争、人種の対立など、21世紀に入る前のアメリカのひとつの姿。アメリカって人間が「なま」だなあとつくづく思います。日本の場合は、「なま」にはなかなかなれないで、回りの人の目とか世間体とか常識とかによって、ほんわかと包まれている。若い頃住んでいた時はおもしろくもあったのですが、年をとると住むのはつらいなと思っています。

ハリネズミ:人間が「なま」って、どういうこと?

サンシャイン:うう、なんというか、はっきり言えば男と女の問題ですけど。欲望のままに行動するというか。日本では世間体があるからそうしようかと思っても行動に移せない、やっぱりやめておこうかといった判断をさせる空気があると思います。それに対してアメリカにはある種むき出しの人間がいる、という感じが否めません。

メリーさん:すごいことまで告白していますよね。ここまでいくには相当時間がかかっていると思うんですが。自分の「なま」なところまで出したものを、あとから編集しているんだとは思うのですが。

ハリネズミ:昔、日本にも綴り方教室なんかの運動がありましたよね。「書く」という教育でいろいろ引き出せるってこと、あるんですね。

サンシャイン:日本の綴り方教室の時代に、どこまで書かせていたのかはわかりませんが、この本でいえば書かれていることが赤裸々だってことかな。それから、いい先生を徹底して持ち上げる文化、サポートして資金も援助してっていうところがすごいですね。奨学金がつくとか。コンピュータを35台でしたっけ、寄付してくれたり。初任から同じ生徒を持ち上がった4年間で、彼女もある意味のしあがったわけでしょう。たぶん日本の職場では、こうはうまくいかないと思いますよ。嫉妬やら、足を引っ張ることがあったりして。それがさっき行ったほんわかと包まれていることのマイナス面ですね。集団の中で目立たせないという空気です。

ハリネズミ:ここまで徹底的にやって評価されればいいけれど、そこまで行けないとアメリカでもきっと批判されますよ。

サンシャイン:この先生の心の中に差別意識がないこと、ラベルをつけて一くくりにしないことが素晴らしいです。9.11後だったら、もっと違ったかたちになったのでは?

紙魚:私は、9.11前でも9.11後でも、書く内容には多少の影響が出たかもしれませんが、目の前のあまりにも苛酷な状況に必死で、なかなか視野を広げられなかった高校生たちの目がどんどん開いていくということには、変わりはなかったように思います。

サンシャイン:それから、宗教的なことがいっさい出てこないところがおもしろかったですね。

ききょう:目が離せない本でした。いろんな思いをさせてもらいました。いろんなというのは、私自身が教師なので、学習指導・児童指導はもとより、様々な報告やら何やらで本当に現場はものすごいんですね。やればやるほど仕事がきます。ひとつは、この先生に対するうらやましさと、いったいどうやって時間をやりくりしていたんだろうということ。週末もアルバイトをやっていて、時間のやりくりが相当大変だったはずです。そういう点からも彼女の情熱を感じました。同時に彼女の周囲の非協力的な人やねたみが、非常に現実的に感じられました。残念ながら今の日本ではこうはできません。それが痛くもあり、いろんな思いをかきたてられました。とにかく、私が置かれている状況では、出る杭は打たれるんです。先生のクラスだけ違うことをやっていると言われる。「あの先生のクラスでいいなあ」と思われることがよくない。親も、「あの先生だったらやってくれるのに」と言ったりするので、こういうふうにやってみたくても絶対にできないんですね。私ももっと子どもたちにやってあげたいことがあるのに、様々な軋轢でできないでいるので、複雑な気持ちで読みました。私が初任で行った中学校は、家庭的な問題を抱えている子どもが多かったのですが、荒々しい言動の奥に、「ぼくを見て」「私を見て」という本音だったり甘えだったりがあったのを思い出しました。学校教育って、本当はこうしていかなければならないなと、教師という立場で読んでしまいました。
それから、日本にも、「書く」ことの力をつかって一歩踏み出していく教育が行われていたんですけど、今の国語の学習は「書く」より「話す」なんです。内容がないにもかかわらず、話すテクニックばかりを身につけていくんです。中身をどう掘りおこしていくのかということが大事なのだけど、それをこの先生はやっているなと思いました。また、授業の中で生徒たちによく本を読ませ、そこから様々な活動をスタートさせている点に感銘を受けました。今、日本で行われている子ども向けの読書推進というと、本の冊数だったり、時間だったりするんですね。本を読んだ先のことはあまり問われないんです。『アンネの日記』のようなスタンダードな本が可能性をもっているということを感じて、励まされました。「書く」ことって子どもには大事ですね。私は「日記へ」というのは、75ページのところで、「『アンネの日記』などが出てきますが、日記に向かって書くというスタンスなのだと解釈しました。日本の国語教育は、いろんなものを掘りおこしていく可能性があると思って、1冊紹介します。朝読が言われはじめたときに、国語の書かせる授業のなかで出していた「高校生新聞」というのがあるんですね。タイトルは、『私の目は死んでない!』(評論社)です。当時入手したときには、日本の作品のなかでは画期的でした。『フリーダム・ライターズ』とくらべると、ステーキとおすましくらいの違いはありますが。書くことは、自分の見方がかわっていくという、すばらしい行為なのだなと思いました。私にとっては、大切な本です。

げた:文学としてというより、記録として読みました。カリフォルニアって、こんなにすごい状況なんですね。確かにそういえば、ピストルの撃ち合いとかあったなと思い出しました。長男が高校生のときにホームステイしたんですが、ほとんど白人ばかりでこういう経験はありませんでした。感動した点が二つあります。まず一つは、この先生がすごいなと思いました。子どもたちをとんでもない現実から救い出すには、とにかく、経済的に自立させるために大学へ進学させることを目標にしで、それを本当に実現しちゃった。すごいですよね。ほとんどの子どもたちが、高校を卒業した家族がいないという状況で、ですよ。もう一つは、「寛容」という言葉です。偏狭な民族主義はいちばん嫌いなんですが、自分の考えにもぴったりきました。それからこの「フリーダムライターズ」の根源が、図書館のブックリストにとりあげている『ローザ』(ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書)からつながっているんだということについても気づきました。

うさこ:活字の力が、生きる力を呼び覚ます、といった内容でとてもよかったです。読み進むにつれ、夢とか希望とか明るい方向へ向かっていくことが読んでいて爽快でした。日記を通して、自分と向き合うことで自己回復していくさまがよく伝わってきます。日記を書くってなんだろう、と深く考えてしまいました。書いてる生徒一人一人、それぞれの状況や立場は違うのだけれど、一つ一つのエピソードがうまくつながって1冊の本として完成している。これはノンフィクションの強さだなと思いました。残念だったのは、日記一つ一つに番号がついているけれど、まるで囚人番号か何かのようで冷たい感じがしました。例えば、ニックネームでもペンネームでもいいので名前をつけてほしかったです。それと、日記の語り口調がどれも同じ。150人の感性や個性もあるので、個々の語り口にしてもよかったのかなとも思いましたが、本の形で読者に読ませるには、ある程度、平らにならさなければいけなかったのでしょうね。

紙魚:この本は、150人の日記を編んでいるので、読みながら、散漫なものをよりあわせて総括していく作業が必要ですよね。なかなか辛抱が必要だともいえるのですが、でも、これを先生の成功物語のようなフィクションにしてしまっては、この感動は得られなかったのではと思いました。言ってみれば、フィクションよりもずっと嘘みたいな話です。でも、日記という現実に書かれたものであるという重しが、これだけの説得力を持たせてくれました。それにしてもこの先生は、授業の設計が見事! 最近、「話す」力もそうですが、「読む」力というのもよく言われていますよね。でも、「書く」力の大切さってほとんど聞きません。自分が手紙を書いたりするときに、いやというほど実感するのに。私自身も「書く」ことを続けようと思いました。

みっけ:とてもおもしろかったです。彼我の差についても、実話とフィクションについても、本当にいろいろ考えさせられた本でした。それにしても、生徒たちの内面が実に見事に変わって、軽々とハードルを越えて育っていく様子は、ああこれが若さなんだろうな、とまぶしいくらいでした。そういう意味で、この本を読んだ人たちは、生徒たちと教師のがんばりや変化、そしてそこに加勢する人々の行為から、アメリカンドリームを再確認できるんじゃないでしょうか。そういう意味で、アメリカでは大いに歓迎される本だろうなと思いました。もちろん日本人にも、十分おもしろく読めるわけですが。実話に基づいているだけあって、最初のうちは、ちょっと散漫な感じで長いなあと思ったりするんですが、その散漫な感じや長いなあという感じがないと、後半のぐぐっと変化していくところ、高まっていくところが生きてこないんですね。この構成も、現実をかなりうまく表現していて、感心しました。みなさんがおっしゃるような活字の力もですが、わたしはそういう活字を手渡す人の力も感じました。この先生は、『ロミオとジュリエット』のことをチカーノとブラックのギャング団の話なんだ、みたいなことをいったりするわけで、そうやって文学と生徒とをつないでいく。本好きではない子の場合、こういう仲介者がいて初めて活字と向き合えることだってあるわけです。
この作品には、いい材料、つまりよい文学作品とうまくそれを手渡す人と、もうひとつ、教室マジックがあると思いました。1回こっきりの講演などとは違って、クラスというのは、同じメンバーがある程度定期的に同じ教師と向き合って、授業の内容(この場合は文学作品やものを書くこと)に向き合わざるを得ない装置です。こうやって同じ方向を向くという経験を繰り返していくなかで、作品の中で「家族みたい」と書かれている雰囲気が生まれ、それがまた文学との出逢いを深いものにしていっている気がします。それと、書くことの力という点については、この子たちがある程度書けるようになるまでも、かなりの時間や教師の働きかけが必要だったのでしょうが、とにかくそれぞれがそれなりに文章を書けるようになり、自分自身を出すようになってから、今度は互いの文章を編集させるんですね。この本では206ページで、編集がはじまった、という話が出てくるんだけれど、それぞれの書いたものを、同じ場を共有している子が読んで編集する、という作業が始まる。これは大きな変化だと思うんです。編集することによって、同じ教室にいる子の感じていることがわかってくる。つまり、203番教室に来るまでは、自分一人で孤立した部分を抱えていた子どもたちが、まず、アンネ・フランクをはじめとするさまざまな文学作品の中の人物に向かって、自分と同じ事で悩んでいる、苦しんでいる、喜んでいる、という形で開かれ、絆を感じ始める。それが今度は、同級生の文章を編集するという経験を通して、匿名とはいえ、もっと身近な人に向かって開かれて、絆を感じ始める。さらにここにきて、読む自分と書く自分がひとつになって、読むことや書くことの意味をさらに深く実感するようになる。実に周到に組み立てられた授業ですよね。本当に感心しました。ただ残念なことに、日本ではこういう実践は難しいだろうなと思いました。学校内の事情もあるし、社会風土も違うし。あと、みなさんもおっしゃっていたけれど、日本語の文でももうちょっと個々人の個性が出ていると、さらにわかりやすかったなあ、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)