『花になった子どもたち』
ジャネット・テーラー・ライル/著 多賀京子/訳 市川里美/絵
福音館書店
2007.11
原題:THE LOST FLOWER CHILDREN by Janet Taylor Lisle,1999

オビ語録:妖精の物語にみちびかれて、古い庭で姉妹が見つけたものはーー/オリヴィアは9歳、ネリーは5歳。ふたりがひと夏身をよせたおばさんの家には、草深い大きな庭があった。

メリーさん:安心して読める、安定感のあるお話でした。目新しさはないけれど、日常に隠れている、ふとしたできごとに目が向くお話だと思います。姉妹がけんかをし、妹のほうが息をつめて、庭の茂みに隠れる場面は印象的でした。土のにおいや草のにおい、罪悪感を抱えながら、物語の登場人物に自分を投影している妹の描写は真に迫っていると思います。姉が母親を恋しく思い、天井に天国の地図を描くところなども、いいなあと思いました。最後、姉妹の性格ががらりと変わるのは、少し唐突な気もしましたが、(おばさんの麦わら帽子から髪が出ているところを悪くないと思うように)少しずつ他人を受け入れる素地が作られていったのだなと思い、納得です。

クモッチ:私は、この本は結構好きでした。はじめ、古めかしい本のように思ったんですが、読み進むうちに、とても現代的でシビアな問題をきちんと描いていることがわかってきます。この姉妹は、お母さんを亡くして不安定な状態にいて、二人を引き受けなくちゃならなくなったミンティーおばさんは、とても注意深く接し、この子たちを少しでもいい状態にもっていきたいと思っているんですね。手探りで彼女たちのようすをうかがっているのがとてもよく伝わってきました。二人がそんな辛い時期を乗り越えるのが庭だった、というのは、新鮮でした。ガーデニングとかいっていやされるのは、大人のような気がするのだけれど、物語中の、もうひとつのお話の効力によって、花が人に思えてきて、子どももその不気味さもひっくるめて、興味を持つのでしょうね。その辺がおもしろかったです。上手だな、と思ったのは、近所の子どもが遊びに来て、妹がそれを台無しにしてしまうシーンの後、お姉ちゃんが天井の地図を見ながら考えていて「ネリーには私がついているけど私はひとりぼっちなんだ」とあらためて思う場面。とても切ない気持ちが伝わってきました。

紙魚:装丁の感じや、読み始めた印象から、ずいぶん昔の本なのかなと思いましたが、途中、電話の子機が出てきて、あっ、現代の物語なのだと気づきました。子どもがおもしろく読むのかどうかはちょっとわかりませんが、大人として読むには、とても楽しめる本でした。それまで、庭になんて目をとめなかった子どもたちが、花になった子どもたちを想像することで、ぐんぐんと庭の存在感を強く感じとっていくさまは、おもしろかったです。ティーカップさがしをするのが目的ではなくて、そのことがきっかけとなって、姉妹が大きくなっていくのですよね。市川里美さんのていねいな挿絵も、とても素敵でした。128〜129ページの見開きの絵などは、何度も何度も、すみずみまで見てしまいました。物語を読み進める、いい目印になりました。

みっけ:私は、かなり好きなお話でした。安定した構造で、大叔母さんのところに行かされたらそこに草ぼうぼうの庭があって……という展開は、いかにもクラシックなものだけれど、ここに書かれている子どもたちの変化がとてもリアルで、ちゃんと子どもが書かれているなあ、と思えたんです。姉妹で年齢に差があるせいもあると思うのですが、たとえばお母さんの死であるとか、大叔母さんの家で暮らすことになるとか、そういった出来事に対する受け止め方に差があって、そのあたりもきっちり書かれていると思います。だいたい、最初のうちの妹のわがまま放題な様子もかなりすごいけれど、こういうことってあると思うんです。ごく小さいときに大きな変化を被ると、すごく不安になって、せめて自分でいろいろなきまりを作って、それをかたくなに守ることで、自分にもコントロールできるところがある、という気持ちを持たないとやっていられない。
この姉妹の違いという点で言えば、途中でお姉ちゃんが「花になった子どもたち」のお話をしてあげると、お姉ちゃんの予想以上に妹の方が夢中になりはじめますよね。これってたぶん、一番小さな子に自分を重ねているんだろうと思うんですが、そうすると今度は、お姉ちゃんがちょっと引きはじめる。このあたりの機微もリアルだと思いました。それに、妹がぐいぐいと変わっていくあたりも、そうだろうなあと思いました。何らかのこだわりを持っていた人間が、それとは全く別のことに夢中になることで、こだわる必要を感じなくなる。また、夢中になって行動を起こすうちに、今まで人とは関わりたがらなかった人でも、他人がそばにいることをある程度自然に受け止められるようになる。そういう変化もリアルに書けている。
もうひとつ、大叔母さんの設定もリアルだと思いました。子どもにとってはいい大人なんだと思うんですが、この人は、自分にとって理解できないところの多い相手とのつきあい方を、焦ることなく探っていくでしょう。相手がわがままをいったからといって、すぐに正面衝突するのではなく、うまく流しながら相手を理解していく。そのあたりが、ゆったりしていていいですよね。それと、ティーカップ探しは読者を引っ張る一つの大きな要素なんだけれど、どうなるんだろう、真相はどうなんだろう、と思っていると、最後のあたりで、なんだ大叔母さんが仕組んだことか、ということになる。ところが最後のところで、でもひょっとしたら?という感じで締めくくっているのが、とても楽しかった。

ハリネズミ:私は、妹の変わり方が腑に落ちなくて、そこにひっかかりましたね。いろんな決まりを自分でつくっているだけでなく、気に入らないことがあったら石を投げちゃうくらいの子なのよね。病的なほど、自分でいろいろ決まりをつくっている。それがこれほどあっけなく変わっちゃうんでしょうか? 自然が子どもの気持ちをいやすというのは、『秘密の花園』にも書かれているし、昔からよくあるテーマですよね。大人は、この終わり方もいいと思うかもしれないけど、子どもは、謎が解決されないので、すっきりしないのでは?

紙魚:私も、子どもが読んだら、実際にはどうなんだろうと思います。かなり大人っぽい話ですよね。

ハリネズミ:ポットがふたつあるのはおかしいと思うのでは? 大人は、不思議でいいやと思うかもしれないけど、子どもは納得しにくい。

フェリシア:おばさんが仕込んで埋めているのだけれど、読者には、本当に埋まっていたかもしれないと思わせるようにしているのでしょうか。

クモッチ:もし、最後にポットがまた発見されないと、なんだおばさんが埋めたんだな、という事になってしまうので、おもしろくなくなってしまいますね。だから、最後におばさんも知らないポットが発見された、という終わりかたをしたのかな。ネリーは、本の世界に夢中になり、庭にのめりこむことで、花に変えられた子どもたちと、友だちになったように感じ、だんだんに心を開いていったのかな。だから、実際に近所の子たちが来たときに、抵抗なく接することができた、という感じで流れを理解することができました。

小麦:最初は「ネリーって、なんていやな子」と思ったんですけど、中盤ティーカップ探しにネリーが夢中になっていくあたりから、どんどん好きになっていきました。今まで他人に対して心を開かなかったネリーが、お兄ちゃんたちに手伝いを頼んじゃったり、どんどんたくましくなっていく。ティーパーティを再現する時も、本の通りにやらなくちゃいけないかしら? というおばさんに「クッキーでじゅうぶん」なんて、さばさば答えたりしていて、おかしいです。冒頭では、気難しく病的な子どものように書かれているけど、それは今までの事情で感情がくすぶっているからで、本来ネリーは、のびのびした、子どもらしい子なんだと思います。後半、ティーカップ探しに夢中になるにつれ、ネリーが自分らしさを取り戻していく感じがいいと思いました。
ティーカップの魔法は結局とけないわけだけど、ネリーはたいして気にしないんですよね。子どもたちが集ってパーティーがはじまり、すっかりそっちに夢中になっちゃう。最初は「こんなのあり?」って思ったんですけど、ネリーのキャラクタ?を考えると、ありえるなと。細かいことなんて飛んじゃって、目の前のものに夢中になることってありますよね。私も子どもの頃、烈火のごとく怒り狂っていたはずが、次の瞬間けろりと笑ってたりなんてこと、よくありましたし。

フェリシア:里美さんのさし絵は、素敵ですが、装丁の絵は少し古めかしい感じがします。妹のネリーについては、私も最初は病的な感じがしていました。友だちとかかわりを持てなかったり、お姉さんとしか話さなかったり、自分だけの奇妙な規則を作ったり……自閉症的な感じがしたので、てっきり自閉症の子なのだと思いました。ですので、話の途中で急速に変化していくので、あれっ?と思いました。そのあたりは、しっくりこなかったです。いちばんしっくりこなかったのは、男の子に手伝ってもらうところ。心をひらいて第三者を受け入れるということを言うがために、男の子を登場させたように感じてしまったのね。ああ、ここでネリーの成長を書きたかったんだと。また、保護者となるおばあちゃんと子どもたちの関係が、手探りで子どもとかかわっていくところ、すべて受け入れようとするしているところなど、『スリー・スターズ』とは対照的で、興味深いです。また、ネリーがまともになっていくのと同時に、ミンティーおばさんも元気を取り戻して再生していく感じが心地よかったです。

ユトリロ:筆者の視点は登場人物全てに等距離というわけではなく、姉のオリヴィアに近いんですね。ネリーは母親を亡くしたつらさをルールを決めて自分を縛ることで表現しているんだけども、オリヴィアの視点から書かれているので、妹はきっとこうなのよねという感じになっている。自分のなかでルール通りにいかないとヒステリーになるような妹を、お姉ちゃんはカバーしてあげていて、おばさんも「落とし穴に落ちちゃう」というような表現をしている。お父さんよりもおばさんの受け止め方の方がうまくて、おばさんとの関わり方のなかで、ネリーも癒されていったのかな。ところで結局、このカップはどうしたんでしょうね? おばさんが埋めたんですか? ひと時代前にこの家に作家が住んでいて、そしておばさんの家族が住むようになって、おばさんは庭の世話をしていた。そこに、母親が亡くなった姉妹がやってきた、という筋でいいんですよね。それでやっぱりおばさんがカップを埋めたという解釈でいいんですか?

フェリシア:おばあさんも、子どものときにその本を読んでいるのですから、子どものときに同じように、テーブルセッティングしていて、遊んでいたのではないですか? 私の想像ですが。

クモッチ:47ページで、おばさんが「これまでだって、いろんなものを見つけましたよ…」と言うんですよね。これ、どういう意味だったのかな。これが伏線になって、空想の世界(お話の世界)がひろがっているんだけど、ここからして、おばさんが仕組んでいたのかな?

フェリシア:でも、深くから出てきたのもあったんですよね。

小麦:でも、最初のカップはおばさんが見つけています。やっぱりおばさんがやっているんですよ。こっそり埋めて。

フェリシア:そんなに大きな問題じゃないんです。

ハリネズミ:でも、知りたい。

フェリシア:それを考えながら読むんですよね。

ユトリロ:いかにもイギリスの話かと思っていたら、アメリカの作品なんですよね。それから、邪悪な妖精っているんですか。私は「精」という言葉に引っ張られて、割合いいイメージを持っていたんですが。

ハリネズミ:フェアリーの中にも、悪いのや醜悪なのがいっぱいいるんですよね。『妖精事典』(キャサリン・ブリグズ/著 平野敬一他/訳 冨山房)を見ると、たくさん出てきます。いい妖精でも、いたずら好きだし。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)