R・J・パラシオ&エリカ・S・パール/著 中井はるの訳
ほるぷ出版
2023.11
花散里:『ワンダー』(R.J.パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)のいじめっ子が主人公、ということで読んでみたいと思いました。巻頭の「現在」で、「あまりいい理由」でなく転校したこと、「いじめた側」であったことが書かれています。そのことを正直に話したら、フランスにいるおばあちゃんが、真剣に聞いてくれて、「いい再出発できるよ」と励ましてくれたことが、まず心に残りました。いじめる側である加害者も、ある意味、成育歴のなかで「被害者」だったのではないかということで。おばあちゃんに子どもだった頃のこと、戦争があったことを聞いていくという、ストーリー展開は、『ワンダー』とは違った物語だと思いながら読みました。
ホロコーストをテーマにした作品は多いですが、中高生にはなかなか手に取られず、書架に面出しして紹介文などとともに展示していますが、読まれていないのが現状です。おばあちゃんの体験を聞いていくということが、平和な世の中を築いていくということに対して、過去の問題を知っていかなくてはならないということに繋がっていると思います。巻末の「用語解説」を載せていることも、過去の悲惨な出来事が子どもたちに伝わるのではないかと思いました。エピローグの「忘れてほしくない」という思いを伝えるために、『ワンダー』とともに並べて、子どもたちに読んでほしいと思いました。
ハル:もとがグラフィックノベルだったというので、なるほど、と腑に落ちましたが、やっぱり、コミックや映画と小説とでは、視点の置き方が違うし、アプローチの仕方が違うから、この本はコミックの手法をそのまま小説に落とし込んだようで、違和感がありました。終盤の鳥の目になって真実を見るところとか、特に。もともとの原文もそうなんだと思いますが、わかりにくいところがあったり(たとえば、お父さんがぐるぐる回して空に放ってくれるところは、いわゆる「たかいたかい」なのかなと思いましたけど、ほんとに投げてるみたいだし、「痛くないようになげてくれる」って書いてあったけど、手を放してどうやって痛くないように投げるのか、文字ではよくわかりませんでした)、訳文もこまかいところでちょこちょこつっかかってしまいました。特に、エピローグで、電話を切ったあとも主語が「おばあちゃん」になってるのは、これは、誰がどこから見てるんだ?? あとは、細かいところですが、物置に隠れているのに、みんなしょっちゅう「さけぶ」ので、大丈夫なのかとハラハラしました。
アカシア:ノベライズしたことで不自然になってしまっているところがあるように思いました。たとえば、ヴィンセントがオオカミに食われて死ぬところはあっけないし、ナチスだと思っていた隣人のラフルールさんとサラが一緒にいるのを見て、ボミエ一家が別に驚きもしないところなど、不自然です。それに、ボミエ一家が人間というより聖人として描かれているので、全体にリアリティが薄いように思いました。こういう話を読んで泣きたいと思っている人にはいいかもしれないけど。p287に「さあ、約束しておくれ、いとしい男の子。世界に忘れさせないって。正義に反する行いを見たら戦うって、声をあげるって、おばあちゃんに約束して、ジュリアン」というサラの言葉があるのですが、サラは自分は完全に正義の方に立っていて、孫息子にも戦えと迫っているわけです。たしかにホロコーストは正義に反する悪だし、子々孫々戦えと言いたい気持ちはわかりますが、これが2022年に書かれた作品だと考えると、たとえばイスラエルのパレスチナに対する暴力はどうなんだ、と言いたくなります。そういう点には目をつぶって、自分たちの被害だけを言い募る作品が、ハリウッド映画にも児童文学にも山のようにあります。アメリカでそういう作品が山のように出ることについては、そしてそれが日本で山のように翻訳出版されることに関しては、パレスチナに対してイスラエルが行っていることを正当化したり、そこから目をそらす結果になっていはしないか、と危惧しています。また、日本の人たちの目を日本の戦争犯罪からホロコーストというナチスの犯罪へとそらす結果にもなっているかもしれません。私は、そういう意味でも、また作品の完成度からいっても、これを子どもに与えようとは思いませんでした。
雪割草:読み応えがあって引き込まれました。なんで、『ワンダー』のいじめっ子を主人公にしたんだろうと考えました。あのいじめっ子が、おばあちゃんの話をこんな真摯に聞くのだろうかと意外に思いました。これは私の偏見かもしれません。おばあちゃんがユダヤ人ということは、ユダヤの血が入っている子が誰かをいじめたという事実によって、今の情勢を暗示したかったのでしょうか。わかりません。『ワンダー』と共通しているなと思ったのは、ハンサムな子が最後、オオカミに顔をズタズタにされてしまいますが、見た目よりも見えないもの、心の美しさを描きたかったのかなと思いました。でも、ヴィヴィアンは素晴らしすぎますね。隣の家同士、それぞれユダヤ人をかくまいながら、お互いを疑っていて、親ナチだと思っているところはリアルだと思いました。タイトルからも作者の平和への願いを感じますが、主人公の隠れ家での暮らしがていねいに描かれることで、何が奪われたのか、平和とはなにかについて考えさせる作品だと思いました。ノベライズ版のせいかもしれませんが、ジュリアンのもとへサラが鳥になって飛んでいく場面は、いきなりファンタジックになって驚きました。
アンヌ:同じおばあさんの物語を『ワンダー』の続きの『もうひとつのワンダー』で読んでいて、そのときはとても美しい物語だと感動したのに、今回はそうでもなかったので、なぜだろうと思っていました。みなさんのお話を聞いて、絵では説明できるところが文章化されていない、フィクションと事実の入り交じり具合がおかしいのかと少し納得しました。ユダヤ人を迫害したのはドイツ人だけではなく、ロシアや周辺国でも起きていたこと、フランス人もそこに加担したこと等については、最近は児童書でも書かれてきました。でも、今回この物語を読みながら、ユダヤ人だけが迫害されたのではなく、精神を病んだ人や身体障がい者なども、迫害されていたのだということも伝えていかなければならないと思いました。まだ十代の子供に過ぎないヴィンセントが民兵に志願して、人間を狩ること人を殺すことに快楽を感じている場面には恐怖を感じました。オオカミが出てきてファンタジー的に解決されていますが、戦時下では人を殺すのが正しとされることの異常さが描かれている場面でもあります。現在ハマスを抹殺するという目的のために避難民の人権を奪い、多くの子どもたちの死を招いているイスラエル政府の姿勢を見ると、この物語をユダヤ人迫害の物語としてだけ読むのではなく、戦争というもの異常さ、怖さを伝える物語として読んでいかなくてはならないと思うのです。
エーデルワイス:いとしい男の子=モン・シェール、いとしい女の子―マ・シェリー、わたしのお嬢さん=マ・プティット、これらの呼びかけから会話が始まると心がほかほかしてきます。サラがジュリアンに助けられ、(p82)下水道を歩いて逃げるシーンは映画のシーンのようでドキドキしました。最後の用語解説を読んで、作者は史実を参考に(「アンネの日記」など)書いたことが分かりました。読書会の中で、コミックとグラフィックノベルの違いを説明していただき感謝です。『ホワイトバード』のグラフィックノベル版を読みたいと思いました。翻訳本が出るといいですね。
西山:私も、現在進行中のイスラエルによるガザ攻撃を思うと複雑な思いでした。ホロコーストを取り上げた作品は児童文学に限らずたくさんあって、それが、皮肉なことに「これから凄惨なことが起きるぞ起きるぞ」と、そのドキドキをエンターテインメントとして消費できてしまうという問題を聞いたことがあります。この作品では、おばあちゃんになったサラが語っているのだから、彼女が生き延びるのは分かっています。まぁ、それは、子ども読者に安心を保障するやり方で,アリだとは思っています。ただ、それだけでなく、彼女のスケッチブックが、ジュリアンの連行原因ではないというのが免罪符になっていて、読者が安心して泣いて読んでいればいい,という作りになってしまっているのではないかと、大変気になります。例えば『ジャック・デロシュの日記』(ジャン・モラ作 横川晶子訳 岩崎書店)のように、読者をも追い詰めるような作品と比べて、こちらは、作品を消費した、という感じがして、すっきりしません。ヴィシー政権の過剰適応というか、フランスが背負う黒歴史は書かれてしかるべきと思います。『サラの鍵』(タチアナ・ド ロネ著 高見浩訳 新潮社)は、私は映画しか観ていないのですが、あれもヴェルディヴ事件が扱われていましたよね。サラだし、思い出さずにはいられませんでした。あと、この家族の家庭内教育はどうなっているのだと思いますね。息子にも孫にもジュリアンという名前をつけたサラおばあちゃんの家族で、どうして、いじめっ子(というと生ぬるいですが)ジュリアンを生んでしまったのか。あとから構想された続編だからそういう齟齬も出たのかなとは思いますが、人間の描き方としてどうなのかとは思います。あと、超現実的なところは、お母さんの死や、ジュリアンの死をサラに受け入れさせる役割を果たしていて、それも気になりました。結局、胸が張り裂けそうな悲しみや後悔が回避されていて、それ故に子ども読者にとってよいという考え方もあると思いますが、私は肯定的に受け取れずにいます。
シマリス:とても惹き込まれる物語で、私は仕事そっちのけで一気に読んでしまいました。以前、「今の子どもたちはハッピーエンドとわかっていないと怖がって読めない」という話が出ましたけれど、この本は、おばあちゃんが語っているおかげで、少女は生き残ったんだ、と先に知ることができて、安心して読める本だと思いました。フランスのこの地域における憲兵と民兵の違いなども興味深かったです。ただ、気になることが3つありました。まず、少女がジュリアンの死を知る場面です。鳥になってその現場へ行く妄想なわけですが、それを少女は事実だと確信を持ちすぎてますよね。おばあちゃんが語り手なので、それでいいといえばいいのですが、そこに至るまでの場面がずっとリアルなテイストで紡がれているので、いきなりファンタジックな要素というか、トーンが変わってしまうことに戸惑いがありました。2つめは、少女がジュリアンを好きになっていく部分です。こういう閉鎖的な状況だったら、誰でもこうなる可能性はあるのではないかと。だから、戦争が終わって解放されてから、彼女がジュリアンとずっと一緒に居続けるのか、どんな選択をするのか、そこが大事だなと思っていたら、ジュリアンは死んで、美化されるわけですよね。ちょっとずるいなと思ってしまいました。3つめは、p260のあたり、ヴィヴィアンが家に帰ってきて、納屋から脱出してラフルールさんに保護されている少女を見る場面ですけれど。この時点でヴィヴィアンはラフルールさんのことをナチスの味方だと思っているはずですよね。ラフルールさんに見つかってしまった!と焦るなど、ひと悶着あるはずなのに、何もなく話が進んでいるところが不思議でした。あとは余談で翻訳の部分ですけども、p198の8行目、「けったいな時間」という表現が気になりました。けったいな、は方言ですよね。ここで急に方言を使う理由がわからなかったので、ちょっと引っかかりました。
wind24 : ナチス政権ホロコーストの中、物語はフィクションですが、史実を交えた進め方はドキュメンタリーを観ているようでもありました。映像が目に浮かびましたが映画化されるそうでうね。サラがジュリアン家族にかくまわれ、隠れ家に潜み、ジュリアンと淡い恋中になっていくのは、アンネ・フランクの生活を彷彿とさせました。当時ユダヤ人を逃がすために奔走した市井の人たちがたくさんいたことも思います。「白い鳥」ホワイトバードの存在が物語りにファンタジー性を添えています。サラが小さな時にお父さんとやっていたお気に入りの遊びがあり、お父さんに「小鳥ちゃん」と言われていたことがもとになっています。いろいろな場面でホワイトバードが現れ危険を知らせたり、また幸せな気持ちになったりとサラの心を代弁しているかのようです。
おばあちゃんになったサラがジュリアンの名前を引き継ぐ孫のジュリアンとの会話で現在と過去を繋いでいく物語りの進め方もメリハリがあってよかったです。二度と過ちをおかさないために、起きたことを知り、語り継いでいくことが大切とのメッセージを受け取りました、中高生に是非勧めたいと思います。
アカシア:コミックとグラフィックノベルは違います。グラフィックノベルのほうは、ノベルという言葉がついていることからもわかるように、物語・小説になっています。パラシオの緻密な書き方とこのノベライズ版にはかなりの差があるように思いました。Amazonでグラフィックノベルの方のサンプル(パラシオが絵も描いている)を見てみましたが、そっちを出したほうがよかったのでは?
シマリス:日本でグラフィックノベルというと、どういう作品が該当するのでしょうか?
アカシア:JBBYでもバリアフリー図書に今回からグラフィックノベルも含むとあったので、詠里さんの『僕らには僕らの言葉がある』(KADOKAWA)というグラフィックノベルを推薦し、IBBYにも選定されています。これは高校生球児が主人公で、耳の聞こえないピッチャーと耳の聞こえるキャッチャーがバッテリー組んでお互いの距離を近づけていく物語ですね。ほかには、『THIS ONE SUMMER ディス・ワン・サマー』(マリコ・タマキ作 ジリアン・タマキ絵 三辺律子訳 岩波書店)というアメリカのグラフィックノベルもJBBYの「おすすめ! 世界の子どもの本」で紹介しています。こっちは、子どもと大人の狭間にいる思春期の少女がひと夏の間に感じたさまざまな思いを、グラフィックノベルならではの手法で絶妙に表現しています。
雪割草:パレスチナやガザについてフィクションの作品がないのは、私もとても残念に思います。
アカシア:空襲や飢えなどもろに暴力にさらされている中では、当事者が、特にノンフィクションを書くのは難しいでしょうね。事実をきちんと調べたりする余裕がないでしょうし。パレスチナの詩の本は出ていますね。日本ではホロコーストの物語が夏になるとたくさん出ますが、それが現在のイスラエル政府の態度の免罪符になってしまっているような気もします。読者も、あれだけひどいことをされたと知ってユダヤ人への同情は生まれはしても、そんな人たちがガザの一般市民や子どもたちを虐殺していることは知らないですませている。ネタニヤフやイスラエル政府は、「ホロコースト犠牲者の国」というイメージを国内外で宣伝して自国の利益につなげることには熱心でも、そこから自分たちも学ぶべき教訓だとは思っていない。だからホロコースト同様のジェノサイドをパレスチナに対して行おうとしている。子どもの本は、もっとパレスチナの声を今は伝えるべきだと私は思っています。
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さららん(メール参加):孫のジュリアンと、80歳を過ぎてパリでひとり暮らしするおばあちゃんの電話を通して、ヴィッシー政権時代の、フランスに住んでいたユダヤ人家族の歴史を知ることができました。あの時代のフランスで、ひとりかくまわれて、命を助けられた少女の物語はあまり読んだことがなかったので、新鮮でした。ブルーベルに象徴される自然の美しさ、それと対照的な人間の非情さ。特に学校に憲兵がやってきて、ユダヤ人の子どもたちを連れ去る場面で、サラがひとり隠れる場面、ヴィンセントが銃を乱射する場面には映画のような緊迫感がありました。
夢見がちで、自己中心的なサラは、ポリオで片足が不自由なジュリアンを見下していたのですが、その一家に命を救われ、ものの見方が大きく変わっていきます。少女の成長物語でもあれば、ジュリアンとの淡い初恋の物語でもあり、アンネ・フランクとペーターのやりとりを思い出しました。
p132の「ナチスは私から多くのものを奪ったけれど、空や鳥を盗むことはできなかった。…わたしの想像力をこわすことなんてできない」という言葉が印象的です。
いっぽうで、「ただ見たばかりの夢から、もう美しママンに会えないのだと知ったのだ」(p106)とか、ヴィンセントに殺されそうになったとき、森のオオカミが現れてサラを救うところ、ジュリアンの死を白い鳥になって目撃するところなど、超現実的な要素が多く、それをどう受け止めたらいいのか、やや戸惑いを覚えました。p266の「現在」の章で、おばあちゃんは白い鳥と一体化して、ニューヨークにとび、孫のジュリアンが平和行進に参加する様子を見ます。タイトルにもなっている、ホワイトバード=白い鳥の存在を実感あるものとして信じられるかどうか……私は少し作り物のように見え、予定調和的な部分に物足りなさを覚えました。
作者は、差別と偏見の歴史を忘れないでほしい、忘れたときにホロコーストはまた繰り返される、という強い思いがあったはずです。詳しい用語解説にも、今の子どもたちに理解してほしいというメッセージを感じます。ただ、あれほど『ワンダー』でひどいことをした孫のジュリアンが、おばあちゃんの話に心を動かされ、おばあちゃんに正義のために戦うと約束するところにあまり感動しませんでした。できればジュリアン自身が変わっていくところを、もう少し具体的なエピソードで肉付けして、描いてほしかったです。
(2024年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)