ひこ・田中/著
講談社
2023.03
すあま:読んだ後の率直な感想としては、おもしろくなかった。主人公と非常に古臭い考え方を持つ両親との会話が平行線でかみ合わないまま、ずっと続いていくのを読み続けるのが辛かったからです。大人対子どもの構図も日本の児童文学によくある感じで、もうちょっといい大人、ちゃんとした大人に登場してほしかった。主人公の友だちは、みんな主人公の気持ちや状況をわかってくれるけれど、それぞれの個性が見えないというか、だれがだれだか途中でわからなくなり、女の子たち3人は、3人いる必要があったのかな、と思いました。
さららん:しばらく前に読んだので、忘れているところもありますが、おもしろいなと思ったのは、主人公が、お弁当の冷凍食品の買い方や、おかずの作り方など、友だちのアドバイスでだんだんうまくなっていくところ。中学生の男の子の、身の丈にあった生活感に好感を持ちました。封建的な父親と、父親にいいなりの、子どもの世話を生きがいにしている母親の在り方はステレオタイプで、ひこさんがふだん描く両親の在り方と全くちがっています。私は、ひこさん的な、子どもを対等な存在として接する両親が大好きなんですが、この物語は自立がテーマなので、あえて古いタイプの両親を出したんじゃないかな。うちの両親も(ここまで露骨じゃないけれど)かなり封建的だったので、そんな中でどう主人公が自立していくか、応援するような気持ちで読みました。彼は決してめげずに、また自暴自棄にも陥らず、自分を保ってよく闘っていると思うし、この両親と共に暮らしていく以上、いくじがない闘いかもしれないけれど、弁当作りは(そして洗濯も)ずっと続けていくんでしょう。立ちはだかる「壁」にボールを投げては受け取り、投げては受け取りしながら、子どもは子どもなりに成長していく。これまでのひこさんの作品とは違うけれど、共感を覚える子はきっといると思うのです。
コアラ:まず、カバーの袖の文を読んで、あまりピンとこないな、と思いました。読み始めても共感できないままで、主人公のタツキの姿が全く立ち上がってこない。最後まで、どの登場人物も、体温のある生身の人間という感じがしませんでした。たとえば、p136〜p137のタツキとカホの会話。タツキが、母親に触られたくなかったこと、気持ちが悪かったことをカホに話し、「どうしてだろう」とカホに聞きます。カホが、お母さんから自立したいからだと指摘すると、「母親からの自立?」とタツキが驚きます。中1にもなって、子どもから大人になる時期に自分がいる、という発想をしていなかったタツキに、どうしても違和感があって、リアルさが感じられませんでした。親を疎ましく思う反抗期の感覚と、男女の役割分担の問題、子どもを支配する親の問題などが、書かれてはいるけれども、ストーリーになっていない感じがしました。ただ、最近の子どもはやさしいし、人を傷つけたくない、特に親を傷つけたくない、と思っている子が、そう思ったまま反抗期に突入したら、親を疎ましく思う感情と、傷つけたくないという気持ちとで、引き裂かれてつらいかもしれない、とは思いました。親に対する反発が芽生えてくる時期を、荒れる様子で描くのではなく、弁当を作ったり洗濯を自分でしたりするという、自立の方向で描く、というのは、アイディアとしてはおもしろいけれど、この作品については、物語として私はおもしろいとは思えませんでした。そのなかで、装丁のタイトルの書体は、うまく表しているなあと思いました。
ハル:ちょうど最近、何の記事だったか、「子どもの反抗期がなくなっている」という記事を読んで(親側に理解がありすぎて、子どもは反抗する理由がない、という内容でした)、ほんとかなぁとは思いながらも、そう言われてみると、児童文学の中でも、最近は「親子の絆」「きょうだいの絆」が強くて、会話も多くて愛があって、意見が食い違ったとしてもきちんと対話できる素直な子か、よっぽどひりひりする内容で、家族が崩壊していて達観している子かのどちらかで、いわゆる普通の家庭だけど、理由もなく親が嫌いで、話しかけられるといらっとくる、という子は見かけず、ほんとに反抗期ってないのかも? と思っていたところでした。なので、ある朝、いつものように母親に背中を触られたらぞくっときた、という描写に、きたー! とわくわくしたのですが、読み進めてみると、この家の親があまりに気持ち悪すぎて、残念でした。これは、逃げなきゃいけないやつ。もっと自然な、みんなが通る道(でもないのかもしれませんが)の反抗期を読みたかったです。もしかして、これは、反抗期じゃなくて、虐待を描いているのでしょうか?
スズメ:私は、とっても面白い作品だと思いました。さすがひこさん、上手いなあと。子どもたちの会話も生き生きしているし、「後ろ向きに歩く」っていうのがたびたび出てきて、そうそう、大人ってぜったい後ろ向きに歩かないけど、子どものころはそうだったなあと思いだしました。この登校のときにいっしょになる3人の友だちが、「マクベス」の3人の魔女みたいに、良いアクセントになっていて、それでいて魔女たちと違って、ちゃんと意味のある言葉を吐いて狂言回しの役目も果たしている。見事だなあと思いました。それでいて、子どもたちの姿かたちや服装などは詳しく描写せずに、お弁当の中身や、主人公の家の父親がいるときは7品、8品の豪華版、母と子だけのときは2品の食事は、目に見えるようにくっきりと詳しく描いている。こういうところも上手いと思いました。 ただ、作者の考えがあるのだろうとは思いましたが、主人公の親が「いつの時代のひと?」と思うほど古めかしいのが気になりました。読者のなかには、おもしろく読んだあとで「うちの親は、これほどじゃないよ」とか、「お弁当作りがお母さんの楽しみなんだから、奪うこともないんじゃない?」という感想をいだくだけで終わりになってしまう人がいるんじゃないかな。物語のなかには、作者が「こういう世界を作ったから、見にきて!」と誘いこむ作品と、「これ、どう思う?」と読者に問いかける作品があると思うけど、これは後者だと思うんですね。だから、ぜひグループで読んで、いろんな感想を出しあって、いろんなことに気づいてほしいと思いました。
オカリナ:おもしろく読めるし、時系列が一直線なのでわかりやすいといえばわかりやすいのですが、ワンテーマでこれだけ一直線に長々とていねいに書かれると、途中で飽きる読者も出てくるかも。たとえば『住所、不定』(スーザン・ニールセン作 長友恵子訳 岩波書店)では、なんだかわからないところから始まって、それが徐々にときほぐされていく、読ませる構成になっています。そういう工夫はあえてしていないのでしょうか。この作品では、親にかわいがられて、それに甘んじていた少年が、それを不気味だと思うようになる過程もていねいに描かれています。ただ、暮らしという観点から見ると、家事をやるとしても深くは考えずにただやってきた男性が書いたものという気がどうしても少ししてしまいました。たとえば冷凍食品は、味がどうこうという前に、農薬、添加物などの問題もあるし、この本では、洗濯も白物と色物をわけていないのはともかく、洗剤、柔軟剤、漂白剤を当然のように使っています。どうせ書くなら、そのあたりをも作者が意識を広げたうえで書いてほしかったなあ、と思ってしまったんですね。それと、お弁当は、アメリカとかヨーロッパだと、パンにハムをはさむとかピーナツバターをはさむとかして、あとはリンゴなどですます、簡単なランチボックスが多いですよね。日本は、きちんとかわいく作りすぎているかも。タツキにも、まったく違うものを作るという発想はないんですよね。
しじみ71個分:好きか嫌いかというと、そんなに好きなタイプの物語ではないですけれど、読んで本当におもしろいと思いました。母親にさわられて、体がゾクッと気持ち悪さを感じてしまう、というところなどは、私にとっては「気持ちわるっ!」とてもリアルに感じられて、「わー、ひこさん、すごい!!」と思いました。なんで、そんな気持ち悪いお母さん像が描かれているのかと思っているうちに、もっと気持ち悪いお父さん像がさらに描かれて、これまたすごいことになって、心臓に悪いなぁと思いながら読みました。この家族は既に内面的には崩壊しているし、お母さんもアイデンティティを見失って、夫と息子に依存して生きているわけですよね。なので、弁当を自分で作るというのは、母の弁当に象徴される支配を脱却して、生きるための闘いなんだろうと私は受け止めて読みました。弁当を自分で作る、自分で自分のものを洗濯すると宣言してからの、主人公龍樹の闘いというのが、ほんとすごくて、家庭内でネチネチネチネチと交わされる会話がすごい!もー、ホントにひこさんすごいと思いました。もうちょっと若い人の観点でこの物語を作ったら、父親は暴力をふるうだろうし、子どももバットを持ち出して、家庭が崩壊していく様子を描きそうなものですが、微妙な心の機微をずーっと追って、少年の自立を描いていくこの作品は、そういうのとは一線を画していると思います。それと、この物語を読み終わって、あ、親のことを嫌いでもいいんだ、ずっと好きていなくていいんだと、許されたような解放感を覚えました。両親たちを恨み、亡き者としなくても、嫌いなら嫌いなままで、なんとなく生きていくっていうのもありなんだと。これは、けっこう、多くの子どもたちの救いになるんじゃないかなと思います。親から解放される術として、弁当をつくり、洗濯をして、静かに抵抗するというのは、けっこうすごいことだし、やりきって偉いですよね。母親からも最後には「手際がよくなった」などと認める発言を引き出すまでになっています。お友だちがコントみたいに出てくるのも、場面展開としていいなと思いますし、友だちが繰り返し出てきては、「後ろ向いて歩くのはやめなよ」とか、友だちと幼馴染の定義とか、同じような発言や行動を重ねていくあたりは、コントのような、定番の安心感を生んでいます。人物を絞り込んでデフォルメして、生活のリアルから少し離れた感を出しつつ、内面描写に凝縮していく展開は、濃密に煮込んだ舞台や戯曲のようだと感じました。
きなこみみ:この作品は、とても身につまされて読みました。『住所、不定』よりも、こっちのほうが私にはリアルっていうか。このお父さんとお母さん、確かにとっても気持ち悪いんですけど、このお母さんの気持ち悪さは私も自分のなかに持っているし、他人事ではない感じなんです。デフォルメはされているんですけど、家父長制の権化のようなお父さんと、その価値観を内面化しているお母さん。でも家父長制の病理って、まだ日本の中にはすごく根強くあるし、日常に深く深く食い込んでいると思うんです。一見何も問題ないように見えている家庭のなかのレイシズムとか家父長制の暴力的なところとか、初めに主人公のタツキがぞくっとする感覚って、言葉にはならなくても、子どもの鋭い感受性がそれを感じたんじゃないかなと。この子は、あれ、おかしいな、と思う自分の中の感覚を見据えて、体で感じた違和感と向かい合って、なんとか言語化しようとします。この作品は、「家父長制」という言葉も、「フェミニズム」という言葉も使わないで、日常のなかに、おかしいことこんなにあるよね、と見せてくれる。p202で、タツキの友だちが、「弁当を作る男子は変わっていて、女子は普通だと思っているんだよ。多くの男子はそうだよ」と気づくシーンがあるんです。これは無意識のマイクロアグレッション、日常に埋め込まれている無自覚な差別です。これは、家庭もそうだし、社会にも、もしかしたら都会よりも地方にいくほど、それは非常に強く残っているかもしれません。この物語はそういうものを、可視化したものだなと、ひこさんの非常に野心的な作品だと思いながら読みました。この家庭がどこか嘘っぽいのは、母親っていう役割、父親っていう役割、子どもっていう役割を、ずっと演じ続けてきたせいかなと思います。p15で、「鏡に映っている自分の顔を見たとき、どんな表情をすればいいか困ってしまうのだ。無表情でいればいいのだろうけれど、それではいけないような気持ちになってしまう」とあるのは、そういうことなんじゃないかなと。タツキの両親に、全く言葉が通じない感じって、日本の今の政府に似ているように思うんです。父親が、タツキが弁当作りをやめないなら、小遣いをとめる、というんですね。これって、マイナカードを使わない自治体は交付金も減らしちゃいますよ、保険証も廃止しちゃいますよ、使わない人は診療費高くなるからね~、っていうのと一緒の発想やん、と思っちゃいました。あなたたちこういうもん、こういう病理持っているでしょと、日本人につきつけられてるように思って、変な話、ちょっと興奮しながら読みました。
雪割草:率直にいってお母さんが怖く、お父さんは亭主関白で、「ぼく」も自立と言いながら母親にあまり強く言えなく中途半端で、なかなか入り込めませんでした。自分で洗濯するといっても洗濯機を使うわけで、お弁当を作るにも冷凍食品、家族が少ないのに自分だけ好きにするのはわがままに思えてしまいました。洗濯に洗剤、漂白剤、柔軟剤を使うのは、人にも環境にも悪く、当たり前のように書かないでほしかったです。ジェンダーや家族の問題を描きたくて、そのアイディアからはじまったのかなと思うほど、作品の印象がそのテーマに引っ張られました。子どもたちが、女と男に対する常識についてやりとりするところも、理屈っぽく感じました。よかったところをあげるなら、子どもも意見してよいことをはっきり書いているところです。敢えての設定だとしても、この親は私と同年代なわけで、こんな親はいるだろうか、古いのではと思いました。
アンヌ:おいしいお弁当を作る話かと思って読み始めたら、全然違うお話でした。親の作るお弁当が嫌ならば、まずは最低限の空腹を満たすために梅干し入りのおにぎりを握って家を飛び出すとかすると思うのですが、この物語では冷凍食品を組み合わせて母親が作るような「おかず入りのお弁当」を作って見せます。なんだか、お弁当がとても象徴的で、空腹を満たすものではないことに気味の悪さを感じました。しかも、そのお弁当に入れるご飯は自分で炊くわけではないし、家にある材料や調味料は使う。自立的な行為としては中途半端だと思います。さらに、母親の作るお菓子はとてもおいしそうなのに、母親の人間性を表す小道具として扱われていたりして、食べ物への嫌悪感が強くて、読み続けるのがつらい気分がしました。けれども後半、一方的な会話ではありますが、親と話すことで、タツキは父親を意地悪している子供みたいだとか、母親は自分をいつまでも小さい子供にしておきたいんだとか判断していき、自立したい自分というものをしっかり自覚することができるようになるので、ほっとしました。
まめじか:ジェンダーステレオタイプや不均衡について考えさせる作品として、おもしろく読みました。こんなにはっきり見える形ではないとしても、日本の社会の中に根強くあることだと思うので。主人公が母親に背中をふれられてゾクッとしたり、母親のつくったお弁当をプレッシャーに感じて気分が悪くなったり、母親と話すネタをためていたりするのがリアルでした。ひこさんの作品は、ものわかりのいい、友だちのような親がよく出てきますが、この作品はそうではないのがこれまでとは違いますね。親の描写については、極端だという意見も先ほどありましたが、これまで親の支配下にあった主人公がそこからぬけだそうとする過程を描く上で、必要な設定ではないかと思います。経済力で家族をコントロールしようとする父親の横暴さ、父親に従うことに甘んじている母親のずるさに気づきながら、自分はどんな大人になりたいかと考える主人公がたのもしく感じられました。
ANNE:ひこ・田中さんの作品は、小学生の男の子の初恋と性に関する戸惑いをテーマにした『ごめん』が印象に残っているのですが、このお話はまた違った味わいでおもしろく読みました。中学1年生の男の子の親離れのきっかけは「お弁当」ですが、私が住んでいる地域では中学生が毎日お弁当を持っていくという状況がまずないので、そこをうまく思い浮かべられませんでした。「男は仕事、女は家庭」というお父さんと、家族の世話をすることが生きがいのようなお母さんが、あまりにもステレオタイプ過ぎて少し違和感もありました。子どものおやつにシューを焼いて、食べる分だけクリームを詰めてくれるお母さんなんて実際にいるのかしら?お母さんに「今日、学校はどうだった?」と聞かれたときのために、学校でのエピソードが複数あった日は一つだけ話してあとはストックしておくという技にもちょっと笑えました。毎日一緒に登校する友人たちとの会話や、隣の席の女の子とのやり取りなどが少し理屈っぽいなとも思ったのですが、読後感はとても良かったです。
マリーナ:専業主婦で、子どもの世話に全力を尽くすお母さん、というのが、今の児童書では少なくなってきているので、新鮮でした。思春期の男の子の心情がとてもよくわかって、ああ、なるほど、と思うことが多かったです。一つだけ気になったのは、地の文の父、母の表現が「父親、母親」に統一されていたことです。友だちとの会話も、ほとんどそうだったかと思います。でも、「お父さん」「父さん」「親父」「父」などいろんな表現があると思うので、全部が同じというのは、若干違和感がありました。主人公も、自立に目覚めるまでは、「お母さん」などの言い方でもよかったんじゃないかと。
ニャニャンガ:興味深く読んだものの、母親が中学1年生の息子にべったりなのを気持ち悪く感じてしまいました。主人公のタツキが母親に触れられるのを嫌がるようになったのは自然な流れだと思いますが、個人差はあれど中学生というのは少し遅いように感じました。それだけタツキは箱入り息子だったのかもしれません。ただ物語は、タツキの視点で語られているので、もしかしたら母親はひとりのときは自分の趣味などを楽しんでいるのかもしれないと想像してみたのですが無理があるでしょうか。父親が言葉で息子を追い詰める感じは、『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の父親を思い出すほど怖かったです。両親の反対を押し切り自分で考え行動していくタツキには成長を感じました。
ネズミ:これまでのひこさんの作品は、いつも今ふうの両親だったので、この作品を読んだときまず、めずらしいなと思いました。主人公は内心穏やかではないのに、表面的には親の言うことにうなずいて、波風を立てない態度をとるのですが、そのたびに「ぼくは最低の人間かもしれない」「父親を軽蔑した。軽蔑する自分が怖かった」というふうに、身を削られていくんですね。管理され、支配下におかれている人間が、いかに身を削られ、発言できなくなっていくかが如実に描かれ、すごいと思いました。それでも、お弁当を作らずにいられない。タツキが、自分に対してと父親に対してとで違うことをいう母親や、前の発言と食い違う論理で叱る父親の矛盾を、しつこいほど追求していくのを読んで、大人だっておかしいところがあるし「ノー」と声をあげてもいいんだよ、男だって料理したって洗濯したっておかしくないよと、作者が読者を励ましているように感じられました。
オカリナ:この両親は、ひどすぎますよね。だから、読んだ子どもは、逆にうちはここまでじゃないといって、そこで考えをストップしてしまうこともありそうです。
しじみ71個分:確かに、家父長独裁で専業主婦なんていうのは全く今風ではないと思いますが、逆に今風な理解のある、進歩的な親ばかりを描いていたら、今、実際に子どもたちが被害者になる事件が多発しているわけで、その今の闇みたいなものを描けないんじゃないでしょうか。
オカリナ:今風のだめな親を描いた作品もたくさんあるので、ここまで古くさくしなくてもよかったんじゃないかな。親に異議を申し立てるという点では、『小やぎのかんむり』(市川朔久子著 講談社)や『いいたいことがあります!』(魚住直子著 偕成社)が、おもしろかったです。
しじみ71個分:私が思ったのは、この家族は、前回読んだ『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の手前の状態なんだろうなということです。父親の発言も支配的でひどいし、父親のいないところでは悪口をいうくせに、本人の前では追随する母親も共依存状態で、責められる息子を救うよりも自分に累が及ばないことを優先しているし、親を肯定できない自分が悪いのではないかと自己肯定感が失われつつあって、すでにソフト虐待状態ですよね。痛ましい事件も起こっていますが、虐待の実態にはさまざまグラデーションがあるとも思いますし、その背景に煮詰まった家族関係による苦悩があるかもしれない、と想像してもらえるのではないでしょうか。
オカリナ:極端すぎて、自分のことと思えないってことはないんですか?
アンヌ:極端なものを読むことによって、似たような気配を感じるきっかけにはなるかもしれません。
オカリナ:自分にもかかわることとしてリアルに感じるといいんですけど、パロディだと思われてしまうかも。
きなこみみ:この物語を、パロディじゃんって感じる子は、この物語を必要としていないのかもしれないんですけど…お父さんが投げかけてくる、こういうゴリ押しの理不尽さって、誰でも人生のどこかで出会うと思うんです。だから、お父さんのやり方に、どこがおかしいのか、どうして違和感を覚えるのか、ぐるぐる自分の頭で考えるタツキの言葉って、そんな理不尽さに遭遇してしまったときのサンプルパターンというか…あ、あのとき、こんな理不尽なこと言ってくる大人のこと書いたお話あったなって、いつか、ふっと思い出せるかもしれないなと思って。日常のなかで、うまく言葉にできない、でも、もやっとすることを可視化するのは子どもの物語の一つの役割だと思うんですよね。自分の家庭以外のことって、案外わからないものなんで、この物語の家庭は確かに極端だけど、これを必要としている子はたくさんいて、その子たちが読むことで解放される面があるのでは。
オカリナ:なるほど。
しじみ71個分:私も、この本を読み終わったあと、正直、解放感を感じました。別に、親と特別仲が悪いとか、そいういうわけではないのですが、自分でも自覚しないうちに、親を大切に思わないといけない、親を悪く思ってはいけないというような価値観がやはりどこかに埋め込まれているんじゃないか、だから解放感を感じたのかなと思いました。そう考えてみると、そういうふうに知らず知らずのうちに思い込まされているのは、決して私だけじゃないのではないかとも思います。
ニャニャンガ:とはいっても、今の中学生の親世代で、こういう人たちはめずらしいのでは?
きなこみみ:学校って、今も古い価値観が結構根強く残っていますし。道徳の教科書も、「父母や祖父母を敬愛すること」が求められたりするんで、どの子も無関係じゃないようにも思ったりします。
(2023年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)