朽木祥/著
講談社
2013.10
版元語録:中学1年生の希未は、昨年の灯篭流しの夜に、見知らぬ老婦人から年齢を問われる。仏壇の前で涙を流す母。同じ風景ばかりを描く美術教師。ひとりぼっちになってしまった女性。そして、思いを寄せた相手を失った人―。希未は、同級生の友だちとともに、よく知らなかった“あの日”のことを、周りの大人たちから聞かせてもらうことに…。
アンヌ:この本を読み終えた後、最後に記載された「作中の短歌の出典」のところに、短歌の作者の方への問い合わせがあり、ああ、もう関係者の方々も亡くなられているのかもしれないのだなと気付きました。そして、この出典のところまで読んで、この本を読んだ意味が初めて分かるという気がしました。短歌が書かれたのは、戦後と1970年代。この物語の舞台は、戦後25年の1970年。それぞれの時代を、もう一度、さらに時が流れた現代から見直す必要性を感じます。作中におかれた短歌を読みながら、作者は、まざまざとこの物語にある光景を見たのだろうと思いました。短歌の意味をすくい取って物語とし、そしてその歌い手たちの心を救済する手段として、子供たちが絵を書く行為を物語の中で提案する。そういう形で、書かずにはいられなかったのではないかと思います。今、ちょうど、イスラム国の事件があったり、空爆が行われたりして、無辜の死こそが戦争の本質だと感じています。今、読む意義のある作品だと思いました。
レジーナ:広島生まれの被爆二世の方が書いていらっしゃるので、実感のこもった作品です。方言の台詞は、温かみがあっていいですね。主人公は、被爆者の子どもの世代です。自分たちは実際に戦争を体験したわけではないけれど、周囲の大人の多くが深い傷跡を抱えている環境で、子どもたちはしだいに、そうした人々の心に寄り添って生きるとはどういうことなのかを考えるようになります。ひとりで答えを出すのではなく、文化祭の絵をみんなで描き、友人たちと一緒に問題に向き合う姿が印象的でした。最後にみんなで灯篭流しをする場面もそうですが、人が引き起こした戦争で受けた傷を、少しでも癒せるものがあるとすれば、それはやはり他者と交わり、つながっていくことなのでしょう。声高に平和を叫ぶのではなく、ひとりひとりの小さな物語を通して、普通の生活や平和の尊さ、それを突然断ち切る暴力について読者に考えさせます。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』に関しては、ちょうど数日前の新聞で読みました。記事には、芸術はときに、画家本人の思いから離れてひとり歩きをしてしまうと書かれていました。
レン:大変丁寧に書かれた作品だと思いました。杇木さんの『八月の光』は、当事者である四人の被爆者を直接描いていたけれど、これは自分が体験したのではない子どもが、親や祖父母の世代のことを知るという形で、体験していない子どもとヒロシマをつなぐ作品ですね。両方読むと興味深いです。未曾有の悲劇の中で想像を絶する体験をして、痛みを抱えた大人がたくさんいて、杇木さんはこの主人公の女の子の年代でしょうか。この子が感じていることは、作者の体験なのかなと思いました。子どもたちがかかわることで、悲しみを封印していた大人たちが心を開き、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していく姿も印象に残りました。人為的な戦争という行為による死が、明日を奪い、思いを断ってしまう、そんなことを引き起こすのはやめてくれというメッセージ。美しい灯籠の場面のイメージにのせて、いろんなことを考えさせられました。
登場人物の子どもたちが、身の回りにいる、一世代上で原爆を経験した人たちのことを、「知っているつもりで知らない」とよく言います。それから、その人たちに直接話をきくのではなく、その回りの誰かからきくという形で、それぞれ何があったのかを知っていきます。このあたり、非常にリアリティがあるというか、よくわかると思いました。祖父も入市被曝をしていて、原爆投下間もない長崎に入っています。おそらくすさまじい光景を見ていたはずです。でも、その時の話をあまり聞いたことがない。いま、長崎や広島で、ボランティアで被爆体験を語ってくださっている人のなかには、何十年も経ってからやっと話せるようになったという人もいます。それほど傷が深い。この作品の舞台になっている時代は、被爆二世が中学生という時代ですから、記憶は、よけいに生々しいものとしてあったでしょう。
いまはそれから年月が経ってしまって、また別の意味であの時のことが伝わりにくくなっているのではないかと思います。おそらく私の子どもの世代では、直接お話をうかがうということは、もう無理になっているでしょう。起きたことを伝えていく手段は、できるだけたくさんあったほうがいいし、伝え方もアップデートしていかなくてはならない。そういう意味では、朽木さんよく書いてくださったなと、感謝のような思いがあります。
語りにくい当事者の思いを代弁するように、ところどころに挿入される短歌がきいています。短歌や手記にたどりつけるように、こういうアプローチをしてくださったのは、有難いことだと思いました。
読んでいて胸が衝かれるようになったのは、それぞれみんな、あの日以来、心残りがある人なんですよね。美術の吉岡先生は、変わった雰囲気の先生として登場して、色黒で歯が白くて、笑い顔が歯磨きの広告のようだといわれたり、最初はちょっと滑稽な印象ですよね。生徒が帰るのを、窓際でずっと見送ってくれるのも、ちょっと変わった人のように思われている。ところが、その見送りの理由があとになってわかる。滑稽だったイメージが反転する。こういうところは、読んでいて巧いなと思いました。
アカシア:同じ朽木さんの『八月の光』と一緒に読むといいな、と思いました。『八月の光』は被爆体験を実際にした人たちが主人公ですが、こっちはその次の世代の人たちがその体験をどう受け継いで自分のものとしていくか、という物語。ストーリーにも工夫があって、灯籠流しの時に声を掛けてきた年配の人はいったいだれなのか? 吉岡先生はどうしていつも窓からじっと見ているのか? お母さんはどうして何も書いてない灯籠をいつも流すのか? などの謎で読者を引っ張っていく。灯籠流しの美しい場面から始まって、最後も灯籠流しで終わり、主人公はその間に確実に成長している、という構成もうまい。朽木さんはご自身で被曝二世とおっしゃっていますが、だからこそリアルに書けることってあるんですね。この作品では、作者が子どもたちに伝えたいことも、かなり前面に出てきていますね。
レン:前にこの会で松谷みよ子さんの本をとりあげたとき、子どもの頃タイトルから、「戦争」ものだと思わずに読んであとでだまされた気がしたと言っていた人がいたけれど、これは最初から「広島」と構えて、未来を担う子どもに投げかけていますね。余談ですが、うちの母が「子育てで一つだけ絶対心がけていたのは、朝子どもを叱って送りださないこと」と言っていたのを、この作品を読んで思い出しました。戦時中を生きていた人だから。
ajian:登場する子どもたちは、身の回りの人たちがどういうことを体験したのか調べて、それをそれぞれ絵にするなど、ある意味で理想的な形で受けとって、引き継いでいるんですよね。実際そういうふうに持っていくのは難しいとしても、「重い」とかハードルを感じずに、どうやって引きつけたものか、ということは常々考えます。
レン:『はだしのゲン』(中沢啓治著 汐文社)は、子どもたちは夢中になって読みますよね。
ajian:『はだしのゲン』はおもしろいです。たんにサバイバルものとして読んだとしてもおもしろい。新しいアプローチは、これからもいくらでもあるべきだと思います。
レン:『さがしています』(アーサー・ビナード文 岡倉禎志写真 童心社)とか。数は少ないですけど。
アカシア:共同で教科書をつくりましょうという動きはアジアでもありましたよね。それに童心社の日・中・韓平和絵本シリーズの試みなんかも。
レン:こういう本を手渡していくのは必要ですね。
アカシア:京庫連(京都家庭文庫地域文庫連絡会)が、定期的に「きみには関係ないことか」というタイトルの、戦争と平和を考えるための児童書のブックリストを出してますよね。そういうのを参考にして、もっと平和教育をやらないと、政治家がどんどん変な方向に舵を切って、そのまま持って行かれてしまいますね。
(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)