日付 2006年2月23日
参加者 ケロ、ポロン、すあま、アカシア、むう、祐、ハマグリ、げた、カーコ
テーマ 新スポ根

読んだ本:

ダーシー・フレイ『最後のシュート』
『最後のシュート』
原題:THE LAST SHOT by Darcy Frey 1994
ダーシー・フレイ/著 井上一馬/訳
福音館書店
2004.06

オビ語録:1991年ニューヨーク、コニー・アイランド。バスケットボールに賭けた四人の若者の暑い夏。……その後、四人の運命は大きくわかれた。ある者は栄光の舞台へ、ある者は悲劇的な結末へ。感動のノンフィクション。
ロバート・ウェストール『青春のオフサイド』
『青春のオフサイド』
原題:FALLING INTO GLORY by Robert Westall 1993
ロバート・ウェストール/著 小野寺健/訳
徳間書店
2005.08

オビ語録:知らぬまにぼくたちは〈入ってはいけない場所〉に足を踏み入れていた…/巨匠ウェストールが描く、輝きと深い闇が交錯する十七歳の忘れがたい日々
香坂直『走れ、セナ!』
『走れ、セナ!』
香坂直/著
講談社
2012-08

版元語録:秋の陸上競技会の100メートル走でリベンジを誓う小学5年生の女の子セナ。だけど2学期早々,陸上部が突然解散することに…。


最後のシュート

ダーシー・フレイ『最後のシュート』
『最後のシュート』
原題:THE LAST SHOT by Darcy Frey 1994
ダーシー・フレイ/著 井上一馬/訳
福音館書店
2004.06

オビ語録:1991年ニューヨーク、コニー・アイランド。バスケットボールに賭けた四人の若者の暑い夏。……その後、四人の運命は大きくわかれた。ある者は栄光の舞台へ、ある者は悲劇的な結末へ。感動のノンフィクション。

アカシア:語り手の「私」は、p26に「私は、チームに密着する地元の記者として」と出てはくるんですが、どういう立場でどうかかわろうとしているのか、後の方になるまでうまくつかめなくて、読んでいてとまどいました。それにノンフィクションなのかフィクションなのかもわからない(帯にはノンフィクションとありますが、図書館で借りたので)。雑誌に連載されていたせいか、コーチのこと、プレーヤーの争奪戦、親の期待、本人の焦り等々、流れが整理されていなくて、同じ問題が繰り返し出てくる。それに、それぞれのキャラの違いがそうそうくっきりしていなくて、イメージしにくかったですね。単行本にするときには、章ごとに一人一人とりあげるなどしたら、もっとわかりやすかったのでは? 読んで得したな、と思ったのは、コニーアイランドが遊園地だけじゃないこととか、NBAビジネスの内幕とかがわかったこと。
翻訳については、原文の文体はわからないけれども、下町の10代の少年たちの会話を、ずいぶん古典的に訳しているなあ、と思いました。たとえば6ページの just do it を「不言実行」と訳したり、ナイキのコマーシャルの口調「若者よ、一生懸命働き、一生懸命練習して、ご褒美にナイキの靴を買おう」も古典的。ひっかかったところもいくつかありました。たとえばp150に「俺は我慢して奴らの望むところへパスを出してやるのに、頭で受けやがるんだ。あいつら塊だよ、パンの塊だ」ってありますけど、パンの塊なんて日本語の会話で聞いたことないから、えっ?って思った。p151の「ずっとこれだよな?」も、どういうニュアンスなのか、よくつかめない。p268には「印象をよくするためにちょっとめかし込んで行ったほうがいいと思ってるんだ」と言ったあと「たぶんスニーカーがいだろうな」とあるんですけど、「めかし込む」と「スニーカー」が普通はつながらないから、ここも、えっ?と思ってしまう。p343ではステッフォンが「うんにゃ」と言ってますけど、そこまでの口調と違う。それと、「彼」という人称代名詞がやたらと出てくるのも気になりました。
訳者あとがきには、「これはバスケットボールについての本であると同時に、アメリカン・ドリームについての本でもある」とありますけど、本文p348には「奨学金の獲得を目指す一連の過程は、〜アメリカン・ドリームの黒人版ではなく、その残酷なパロディになってしまっている」とあって、もう少しこの2つの言い方の間の隙間を埋めておかないと読者に対して不親切です。この著者の言いたいことは、最後の最後の方に出てきて、それはおもしろいし、その後の主人公たちの生き方と照らし合わせてみるとなおさらおもしろいのですが、そこまでたどり着くのが一苦労。NBAで活躍しているステッフォン・マーベリーを知っている人なら、その周囲のことがよくわかるから、どんどん読めるでしょうが、中高生一般にお薦めできるような本だとは思いませんでした。

むう:訳については、アカシアさんのおっしゃるとおりだと思います。わたしも、あれ?と思う箇所がけっこうありました。読んでみて、これは子どもの本ではなく、大人向けのノンフィクションだと思ったし、そもそも井上さんがボブ・グリーンの訳をしているというのが頭にあったので、最初からノンフィクションのつもりで読んでいました。子どもの本という枠をはずして読んだので、さまざまなことを時系列で並べていくなかで、アメリカの社会のある一面が浮かび上がってくるのがとても、おもしろかったです。ある登場人物に沿って読み進んでいく物語というよりは、さまざまな事実を積み重ねていって全体像をあぶり出すタイプの本だと思いました。プロバスケットボールの選手を青田刈りする人々が殺到する有望高校生を集めたナイキ主催の全国大会が、黒人ばかりの選手を白人のコーチや監督が品定めして、あたかも牛の品評会のようだという形容があったりするのも、きついけれど、なるほどと思いました。ローマの拳闘士にも通じるようなプロスポーツの見せ物としての性格や、そこにしか活路を見いださざるをえず、その夢にすら手が届かずに終わってしまう貧困層の子どもたちといったアメリカの実情がかいま見えて、その意味でとてもおもしろかった。ただ、子どもを描いた本と子どもに向けた本は違っていて、これは子供に向けた本ではないように思った。訳文からも、それを感じました。どうしてこの本が福音館から出ているの?という感じですね。向こうでは子ども向けに出ているんでしょうか。

:大人の本、子どもの本という区分けにかかわらず、この作品は名作とは言いがたいですね。アメリカなら、このような本は掃いて捨てるほどあるんです。ナラティブの失敗でしょうか。作者が何を目的として書いているのか、意図がわからない。伝記ならば、このような設定で書くには無理がある。青春物語だとするなら、ひとりひとりの登場人物にリアリティが感じられない。おそらく、語り手の視点の問題でしょう。社会的な問題意識を描くなら、もっと主張やメッセージを明確にすべきですね。「私」の位置の不確かさが問題です。語り手になったり、登場人物になったり、255ページあたりでは解説者になっている。一貫性がないんですね。

ポロン:私は、すっごくおもしろく読みました。オドロキに満ちた物語! 3つの大きなオドロキがありました。1つめは、知らなかったスゴイ世界を知ったオドロキ。いやはや、たいへんな世界です。そんななかで、ここまでがんばる高校生がすがすがしい。4人の子は、みんなタイプがちがうし、私はそんなにこんがらがらなかったな。それぞれの登場人物を応援したくなった。
2つめのオドロキは、この作品がノンフィクションだった、ということ。これは衝撃的でした。26ページの最後の行に、「私はチームに密着する記者として、これからその一部始終を見届けることになるのである」とあるので、てっきり地方紙の記者かなにかなんだと思ってたら、新聞社で働いてるようすとか、自分で書いた記事とかでてこないし、ヘンだなーと思いながら読んでいたんです。学校にも自由に出入りしてるみたいだし、みんなの家のことも知ってるし……。「私」は、どこへでも行けて、自分がその場にいなかったときのこともわかっちゃう「神の目をもつナレーター」で、こういう設定って、フィクションっぽい。それで、フィクションだと思い込んでいたのに、エピローグの最後に「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある」という一文を発見して、もーびっくりしました。結局、「私」というのは、フリーライターで、1冊の本(つまりこの本)を書くという契約をした。このリンカーン高校バスケ部について書くための専属ライターだったということでよいのかしら。
3つめのオドロキは、この本が図書館のスポーツの分類の中のバスケットのコーナーにあったこと。こういう本を好きな人も、このコーナーにあるとは思ってないかも。と思う反面、バスケの練習法がのってる本を見たくてきた、普段ぜんぜん本を読まないような子が偶然手にとって、「いいじゃん、この本」っていうような出会いが生まれたりするのもよいなあと思いました。この本、別の図書館では、YAのコーナーにあったのですが……。
あと、文章についてなんですが、全体に一文が長くて、ときどきわかりづらかった。たとえば23ページ「リンカーン高校のチームの選手名簿は……」というところなど、まちがってはいない、正しい、正しいんだけど、入り組んだ文章で、すっと読めなかった。それから日本語では、この単語はちょっと……と思ったところがいくつかありました。たとえば、14ページの1行目、ステッフォンの髪型について「はやりのレザーカット」と出てきますが、次の行では「小さなつるつるの頭」とのことなので、たぶんスキンヘッドなんだと思うのです。だから「かみそりを使った髪型」ということだと推測するのですが、日本語で「レザーカット」といったら、別のもの。ちょっと前にカリスマ美容師という人たちが得意としていたような、長さのある髪にシャギーをいれたようなものを指しますよね。ほかにも、14ページ4行目の「キャンディ・バー」は、日本語ではたぶん「チョコレート・バー」。26ページ9行目や31ページ4行目に出てくる「ハイトップ・デザインのスポーツシューズ」は「ハイカット」のことかなと思いました。

すあま:私が借りた図書館でも、バスケットボールの分類の棚にありました。最初フィクションだと思っていたので、「私」がだれなのかが、わからなかった。装丁の感じは早川書房の本のようですね。大人で、ある程度読みなれた人じゃないとこの本は難しいと思う。作者の興味は、バスケットではなく、バスケット界の影の部分にあるわけだから、『スラムダンク』を好きな子がこれを読むとは思えない。

ケロ:全体を通して、突き放したような覚めた感じを、おもしろいな、と思って読みました。バスケットボールの専門用語や、アメリカの黒人の多く住む地区独特の空気など、わからないところを飛ばし読みしましたが。ただ、他の方も言っているように、最後の一文を読んで、初めてノンフィクションだということが分かりました。このような本の場合、ノンフィクションだということを、きちんと最初に言ってくれないといけないのでは?と思いました。これは、編集という視点での事なのかもしれませんが。それとともに、ちょっと章立てがよくわからなかったです。プロローグ、夏、一流大学による選抜、エピローグなんですけど、なんでここなのかな?という感じ。内容については、山場がなく、それぞれの学生のことが、流れでとらえられない。訳については、ボブ・グリーンの訳者だし、以前に読んだ物にもあったアメリカンコラムニストの匂いがあり、同じ世界だな、と思って読んだので、あまり違和感はありませんでした。

ハマグリ:折りを見て少しずつ読もうとしたら、前に読んだところが頭に入ってなくて、また最初から読むということを繰り返しました。わかりづらいところが多いですね。やはり、「私」が一体だれなのか、なかなかわからなかった。本分の終わりに「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある。」と書いてあるけど、これを前に持ってきたほうが、最初からはっきりノンフィクションとわかって読めてよかったのに。長年バスケットをやっている息子(20代)に読ませたら、ぱっと読んで、おもしろいと言ってました。バスケをやっている人なら、練習風景にしても、試合の詳細についても、もっと想像力が働いて、楽しめるのではないでしょうか? NBAの試合をよく見ていれば、選手の生い立ちや裏話にも関心があるので、この本はそのあたりの本当のことが書かれているということで、興味深く読めるのだと思います。バスケをやっている子ならだれでも読んでいるのはコミックの『スラムダンク』。あのときのあのセリフ、あの試合のあのシュート、というのが共通の話題になっています。本でも、そういう存在になれるものが出ればいいのに、この本はYAじゃないと読めないですよね。それから、エピローグで後日談があって、謝辞があり、訳者あとがきで後日談の後日談があるのは、ちょっとしつこい感じがした。エピローグだけで終わったほうが余韻があってよかったのではないかと思います。

カーコ:実はこの本は書評で見て、バスケットをしている息子が昨年高校に受かったときプレゼントしたのですが、読んだ形跡がありません。今回自分で読んで、バスケットやNBAがいくら好きでも、本を読みなれていない中学生には難しそうだ、と思いました。その理由の一つは、固有名詞やアメリカの生活を知らないとわからない言葉が非常に多いこと。もう一つは、この4人の高校生の描き方。彼らの内面をえぐりだすというよりも、外から見て書いている感じ。試合のシーンなども、この子たちに感情移入して読めませんでした。『スラムダンク』を読んでいる子を、それと一味違ったおもしろさでひきつけるところまで行かないのでは? みなさんの指摘している訳文の文体は、私はわざとこういうふうに訳したのか、と思いました。

げた:図書館員としては、福音館書店の本であれば、いい本だろう、と思ってしまうんですよ。あとがきには、古典とあるし。読んでみて、みなさんと同じような感想を持ちました。バスケットボールの本というよりも、ニューヨークの公営住宅街に住む子どもたちが、どうやってはいあがっていくかという社会派の本なのかと。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


青春のオフサイド

ロバート・ウェストール『青春のオフサイド』
『青春のオフサイド』
原題:FALLING INTO GLORY by Robert Westall 1993
ロバート・ウェストール/著 小野寺健/訳
徳間書店
2005.08

オビ語録:知らぬまにぼくたちは〈入ってはいけない場所〉に足を踏み入れていた…/巨匠ウェストールが描く、輝きと深い闇が交錯する十七歳の忘れがたい日々

アカシア:「エマ・ハリスをはじめて見たとき、ぼくは十歳だった。/戦争中だった」っていう書き出しがうまいですね。それに、ほかの2冊に比べて、この本は人間がちゃんと描けている。p44に「自分自身でさえ怖くなるようなさまざまな迷いを抱えたこの醜い野郎」と主人公の少年が自分のイメージを語るところがありますが、この年齢の男の子の心のあり方がよく出ています。主人公のロバート・アトキンソンとと先生のエマ・ハリスだけでなく、脇役のウィリアム・ウィルソン、ジョン・ボウズ、それにかわいそうなジョイス・アダムソンなどの描き方もうまい。こんな子いるだろうな、というリアリティがあります。文学を書きなれているウェストールのうまさなんでしょうね。スポーツ(ラグビー)を描いている部分も、先生やコーチを出し抜いて秩序をひっかきまわしてやろうという作戦があって、おもしろく読めます。訳でひっかかったのは一箇所だけで、p171の「仲間なんていうと、銀行強盗みたいだね」というところ。あとは、うまい。最近子どもの本で人間をちゃんと描き出しているものが少ないので、そういう意味でも、今日読んだ3冊の中ではこれがいちばんお薦めですね。

むう:とにかく、おもしろかったです。人間もよく描けているし、情景もすばらしい。主人公と先生とがローマン・ウォールに行くときのあたりの風景なんかも目に浮かぶようで、いいなあと思いました。思春期の男の子の、力が有り余っていたり、性のことをもてあましたりといったことがきちんと描けていて圧倒的。まわりの女性もちゃんと描けてはいるけれど、ちょっと男にとって都合のいい女性ばかりという気がしなくもなかった。でもそれは、おそらく主人公の目から見ているからなんでしょうね。ロアルド・ダールもそうだけれど、イギリスには男の子をきちんと書ける男の作家がいますね。とにかく、力のある作家だなあと思いました。

すあま:ウェストールの作品でこの本の前に読んだのが『禁じられた約束』(野沢香織訳 徳間書店)だったので、2冊が同じような印象で、私の頭の中ではセットになっています。大人になりかけ、でもやっぱり17歳、というところがちゃんと書いてありますね。最後は主人公が脅迫されていて、どう決着がつくのかと思っていましたが、納得のいく終わり方でした。読み手の年代によって、主人公の気持ちに添って読む人と、先生の気持ちに添って読む人がいるのではないでしょうか。

ポロン:おもしろくて好きです。青春の甘酸っぱいところと痛快なところが両方入っています。ラグビーにおけるがんばり方もイイ。ジョン・ボウズがとても好きで応援してました。エマが、最後は仕事に一生を捧げました、というのは、男性の願望なんでしょうか?

アカシア:そこは、男性の願望というより、エマが教師だったという部分が大きいと思ったけどな。

ケロ:のめりこんで、泣いて読みました。(「えー、泣いたのー」という声あり)。はい、だあーっと滝のように涙が出ました。何に泣いたのかというと、この切ない恋愛にですよ。こんな風な恋愛を描いて、子ども向け(ま、YAですが)というのは、日本ではないな、と思いました。主人公よりも、先生に感情移入してしまいました。自分の年のせいかな。ジョイスがかわいそうな子っていう意見があったけれど、私はそうは思いませんでした。むしろ、勝者ですよね。主人公に出会って、最初はろくに自分を表現できなかった子が、だんだん自分を確立し、輝いていく様子がえがかれていて。こういうところも、ジョイスときちんと対比されて描かれていて、すごいな、と思いました。

ハマグリ:私は先生の立場で読むというよりは、この主人公の気持ちになって読みました。最初の描き方が、とても読者をひきつける。デブ、デブと言われている子が、いじめた子をのしてしまい、体が大きいことを逆に武器にして、ラグビーで開花していく。頭がいいということにも気付いていく。この子の側から、最後まで読めました。一番好きだった場面は図書館にローマン・ウォールのことを調べにいくところ。司書が執務室にしまいこんでいる本を読ませてもらうくだり。「そこでコリンウッド・ブルースを開けたぼくは、ラグビーをはじめたときとおなじく、一気に栄光の世界へ突入したのだった。まるで、それまで知らなかった自分の家を見つけたような、それがもう何年も待ってくれていたような気持ちがした」(p27)。人類の偉大な財産に触れた喜びが伝わってきました。書き方も文学的で、「だがテニソン・テラスはちょうど未婚の叔母のように、自分の生活を固く守っていた。」(p89)というように、比喩を用いた修飾節が多く、言葉を尽くして書き込んでいます。女性では、エマよりもむしろ、ジョイスの書き方がうまいと思いました。ジョイスとつきあいながら、主人公がエマと天秤にかけて考えていくところがうまく書けています。ただ、この時代のイギリスという背景を味わえるかどうか。今の高校生が読んだとき、『ジェーン・エア』のロチェスターと『嵐が丘』のヒースクリフが引き合いに出されたり、シェイクスピアの『テンペスト』の脇役の名前が出てきてもわからないんじゃないかしら? 日本の読者にとっては限界があるのが残念です。

カーコ:私も『禁じられた約束』に続けて、印象をダブらせながら読みました。感心したのは、思春期の男の子の描き方。感情の機微や友達とのかけひきなど、このリアリティは男性作家にしか出せないのでは? また、読み終えたあとに、一人一人の人物がどういう人だったかくっきりと思い浮かべられます。これは人物がとてもよく書けているからでしょう。しかも、「子どもに書く」という姿勢が貫かれていて、どの人物に対しても目線があたたかい。日本でもこういう世界が書ける男性作家が出てくるといいですね。

げた:私も『禁じられた約束』と併せて読んでみました。。共感というよりは、気恥ずかしいような気持ちを持ちながら読んでいきました。主人公が優秀な子で、うらやましいな、というところも。ラグビーのラフプレーで、バッジをとられるのだけれど、文章の中ではラフプレーだということが読めなかった。原題は Falling into Glory ですが、日本語の書名とはかなり違いますよね?

アカシア:思春期ってつらいことがたくさんある時期だと思うんです。でもその中に、栄光の瞬間があるんですよ。さっきハマグリさんが挙げてくれたところにも『栄光の世界へ突入した」という表現がありましたけど、エマとの関係の中にも栄光があるんじゃないでしょうか?

げた:仮題のときは『栄光への堕落』となっていたのに、出版時には『青春のオフサイド』としたんですよね?

ポロン:オフサイドって、フライングみたいな意味ですか? ちょっと早かった。一瞬早く前に出てしまったということ?

アカシア:書名のオフサイドはいいと思ったんですけど、「青春の」は古くさいし、ダサい。私が中高生だったら「青春のナンタラ」という本なんて読みたくはないですね。おじさんやおばさんが懐古的に読む本かと思ってしまう。中高生に手に取ってほしい本なので、それが残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


走れ、セナ!

香坂直『走れ、セナ!』
『走れ、セナ!』
香坂直/著
講談社
2012-08

版元語録:秋の陸上競技会の100メートル走でリベンジを誓う小学5年生の女の子セナ。だけど2学期早々,陸上部が突然解散することに…。

アカシア:さらっと読めたんだけど、登場人物が全部ステレオタイプなので、がっかりしました。紋切り型の表現が多すぎます。お母さんの秘密というのが、秘密でもなんでもないし。新人賞入賞というけれど、どうなんでしょう? ハードカバーで出して、読者を獲得できるんでしょうか?

むう:すいません。他の2冊がそれなりにインパクトが強いというか、ぐっとこっちに来るものを持っていたので、今となってはこの本についての印象がほとんどどこかに飛んでしまって、ぜんぜんおぼえていません。

すあま:あまり期待せずに読んだんですけど、逆に読後の印象はよかったです。前回の講談社の新人賞佳作は『佐藤さん』だったので、佳作の人も良い書き手に育つ可能性があるように思います。今の子どもの感じを出そうとするあまり会話の部分で失敗する人が多い中で、これは違和感なく読めました。あまり本を読みなれてない子が読むのにいいと思います。

ポロン:おきゃんな文体に、最初はちょっとな、と思ったけれど、読み始めたらそんなに嫌じゃなかった。今時っぽい感じだし、みんなの意見を聞きたいと思いました。だけど、今の子って小学生からスパイクはいてるのかしら? 私の時代はスパイクは中学からだったんだけど……。スパイクをはいたら、タイムも1秒くらいはかるくあがっちゃうので、スパイクをはいてる子とはいてない子が、同じ競技会で走るというのは、ちょっと無理があると思いました。

アカシア:今の小学生に詳しい方が、「これは小学生とは思えない」という感想をおっしゃっていましたよ。

ポロン:走るところが、いまいちカッコよくなかったのが残念。速い人が走ると、それはそれはカッコよく、美しいものなので、もう少しそれが感じられたらよかった。あと、気になったのは「走りが」という言葉。テレビなどで「いい走りを見せてくれました」というような使い方を耳にすることはあるけれど、「走りがすき」といった言い方は、ふつうあんまりしないのでは?

ケロ:以前数学と文学は相性がいいという話が出たことがありましたけど、スポーツと文学の相性がいい本ですよね。良い意味で、単純にジーンと感動できる部分がある、というか。「セナ」という題名から、読むまでは陸上の話とは思いませんでした。また、お母さんがアイルトン・セナが好きと言ってるわりには、レースの事とか、あまり出て来ないですよね。これも、ちょっと残念。もう少し枝葉を広げられる様な気がするのですが。「走れ、セナ!」というタイトルとこの絵は、手に取りたくなるけど。

ハマグリ:見た感じがまずおもしろそうだし、日本の作品で、5年生を主人公にしたものは少ないから、その点がまずうれしい。最近の日本の児童文学は、もっと主人公の年齢が高く、ひねこびたところがあったり、人間との関わりが変にクールだったりするものが多いけど、この本の主人公は、わりと素直で単純で、5年生の子どもらしいところに好感がもてます。確かに登場人物がステレオタイプではあるけれど、ところどころ、今の子どもが共感できるところがありますよ。字面も文章の量も読みやすく、とにかくさらさらっと1冊読み通せる本だと思う。そういう本って貴重なのではないでしょうか。チビデブコンビは、ありがちな設定だけど、それぞれに俳句が上手だったり、数字を記憶する才能があったりしておもしろいので、もう少し書き込めばもっと良くなっただろうに。惜しい。

げた:紋切り型は紋切り型なんですけど、この読者対象で、前向きな作品は少ないので、図書館でも子どもに薦めたいと数をそろえました。

アカシア:だけど、紋切り型の本で人間について知るのは難しいんですよね。もうちょっと深みがあるとよかったんだけどな。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)