日付 | 2007年4月19日 |
参加者 | 宇野和美、うさこ、ミッケ、ポン、げた、ケロ、アカシア、裕、ねず、紙魚 |
テーマ | 子どもたちの強さ |
読んだ本:
原題:AL CAPONE DOES MY SHIRTS by Gennifer Choldenko, 2004
ジェニファ・チョールデンコウ/著 こだまともこ/訳
あすなろ書房
2006.12
オビ語録:巨悪のヒーロー、アル・カポネを筆頭に、選りぬきの極悪囚が送りこまれる島、アルカトラズ島。そんな〈悪魔の島〉にやってきたムース少年と5人の子どもたちが織りなす、涙と笑いの熱い友情物語! *2005年ニューベリー賞銀賞受賞作
原題:EL ZOO D'EN PITUS by SABASTIA SORRIBAS, 1966
サバスティア・スリバス/著 宇野和美/訳 スギヤマカナヨ/絵
あすなろ書房
2006.12
オビ語録:病気になったピトゥスを救うために5人のなかまが考えたのは、一日だけの移動動物園!
草野たき/著
岩崎書店
2006.10
版元語録:5年生になって仲良しの直子とまた一緒になれたスミは喜ぶ。塾 にも行きなさいと母親に言われ、塾に通うことになるが、そこに はクラスでも目立つ友人二人も通っていた。
アル・カポネによろしく
原題:AL CAPONE DOES MY SHIRTS by Gennifer Choldenko, 2004
ジェニファ・チョールデンコウ/著 こだまともこ/訳
あすなろ書房
2006.12
オビ語録:巨悪のヒーロー、アル・カポネを筆頭に、選りぬきの極悪囚が送りこまれる島、アルカトラズ島。そんな〈悪魔の島〉にやってきたムース少年と5人の子どもたちが織りなす、涙と笑いの熱い友情物語! *2005年ニューベリー賞銀賞受賞作
アカシア:主人公の男の子ムースの、いかにも要領の悪いようす、おたおたしてしまうようすが目に浮かぶように書けてますね。ほかの子どもたちもそれぞれ特徴があって、キャラクターとしてどれもなかなかいい。ムースのお姉さんは、本当は14歳なのに10歳で通しているわけですけど、ムースがちゃんと理解して世話をしているところとか、ほかの子どもたちもナタリーをそれなりに受け入れているところなんか、いいですね。ただね、刑務所に洗濯物を出して、アル・カポネにシャツを洗ってもらおうっていうところが、設定としてとてもおもしろいと思うんですけど、日本の今の子どもは、アル・カポネを知ってるんでしょうか?
ねず:アルカトラズは「ルパン三世」に出てきたけど。
アカシア:アル・カポネは極悪人なんだけど、表の世界ではできないことでも裏を通じてできるって子どもは思ってるわけでしょう? ナタリーのことも、アル・カポネがひそかに何とかしてくれたのかもしれないっていう、話の運び方ですよね。ストーリーが一本の筋というよりは何本かの筋がより合わさってできていて、それを統合しているキーワードがアル・カポネだと思うから、アル・カポネのイメージをしっかり持っているほうが楽しめますよね。
裕:アメリカではアル・カポネって、わかっている?
ねず:アメリカの子どもは知ってるんじゃないかしら?
裕:アル・カポネがわからなくても、楽しめる?
ポン:アル・カポネのことをあんまり知らなくても、物語自体のおもしろさがたくさんあるから、楽しめると思うなあ。
裕:充分楽しめるっていうのは、物語のおもしろさ?
ポン:物語のおもしろさもあるけれど、まず、なんといっても舞台設定のおもしろさがありますよね。刑務所の島で暮らすなんて! その発想に拍手をおくりたい気持ち。当時の島での暮らしぶりについても入念な取材をしたうえで描いたそうで、とてもリアリティがある。登場人物もみんな生き生きとしていて、それぞれのことをみんな好きになっちゃう。ちなみに、私のいちばんのお気に入りはテレサなんだけど。
ひとりひとりのことがすごくよくわかるように描かれていると思う。たとえば、54ページ。ナタリーがエスター・P・マーリノフに行ってしまったあと、ムースにはナタリーの部屋のドアが開けられないの。それで、お父さんがナタリーの部屋に行ってムースのグローブをとってきてくれるんだけど、そのときムースがナタリーのお気に入りの毛布が部屋に残されているのを見ちゃうっていう場面。ムースの複雑な気持ちがよく伝わってくるし、ナタリーのこと、大切に思っていることもよくわかる。
ストーリーもね、ほんとにいいんだなぁ。胸きゅんポイントがたくさんあるの。とくに好きだったのは、188ページ。自分の世界に、自分の奥深くにある遠い世界に行ってしまったナタリーを子どもたちがそれぞれのやり方で気づかう場面。ナタリーのほっぺたにとまったハエを、アニーがしーっと追い払ったり、無関心そうにしているジミーは何も言わないんだけど、器械をつくりながらナタリーのためにそっと石を積んであげたり……みんなやさしいよねえ。やっていること自体はユーモラスでオカシイんだけど、みんなの思いやりにじーん。あっ、309ページもいい。お父さんがムースとナタリーを抱きしめて、「おまえたちはおれの誇りだ」っていうところ。ほろっとしちゃった。
ミッケ:最初は、アル・カポネの話なんだ、と思いこんで読み始めたんだけれど、そのうちに、あれ、カポネは脇役なんだなってわかりました。こういう興味の引っ張り方は、うまいと思います。気づいてからは、最近日本でもようやくニュースなどでとりあげられるようになった、障碍がある子の兄弟や親のありようが中心なんだなあ、と思って読みました。そういう意味では、かなり大まじめなことを扱っているのに、それがちっとも暗くなくて深刻でないところが、この本のいいところだと思います。なんといっても、刑務所の島という舞台設定が生きていますね。なんか起こるんじゃないかというんで、ちょっとドキドキしながら読んでいける。その意味で、タイトルと設定が実にじょうず。もちろん、刑務所ならではのことがいろいろあるわけで、へえ、ふうん、と思わせられるんだけれど、全体を貫いているのは、ムースくんやお母さんやお父さんが、お姉さんをめぐってどういうふうに感じ、どう動いてどうなったかという、ある種の成長物語。それにしても、それぞれの子がよく書けていて、特にパイパーがとても印象に残りました。初めのうちは、主人公からすれば引っ張り回されてばかりでたまらない、っていう感じのかなりしたたかで計算高い所がある子なんだけれど、途中あたりから優しいところがちらちら見えてきて、でも憎まれ口をきいて、というのがいいですね。それと、カポネのことは、最後の最後で落語のおちみたいにちょろっと出てくるんだけれど、それがまた、にやっとしちゃう感じでよかったです。訳もとてもいいし、楽しく読みました。お姉さんを巡るムースの働きかけや状況の変化が、最後の320ページをすぎたあたりでパタパタと運んでいくのも、無理がなくて納得できました。
宇野:長い本だけれど、一章一章が短くてどんどん進んでいく構成が読みやすいですね。全体にそこはかとないユーモアがあって、ルイス・サッカー『穴』(講談社)を思い出しました。細部がおもしろくて。お姉さんをめぐる、家族それぞれのいろいろな思いがきちんと書かれていてよかったです。今年から特別支援教育というのが始まって、いろいろな子どもが教室にいて、そういう子どものお母さんも担任もコーディネーターも、みんなすごくたいへん。どうしていいかわからないのに、とにかく病院に行きなさいとか薬を飲みなさいとか迫られたり。子どもがどこまで読み取るか分からないけど、このお母さんの追いつめられた感じは真に迫っていて、大人として胸が痛くなりました。その一方で、子どもらしさもよく書かれているんですね。野球をしたくて約束するのに、その日にお母さんに呼ばれるというところとか。でもちがうことで自分を楽しませたりして、いじらしい。野球をするシーンでも、この子が野球が好きなことがひしひしと伝わってきました。ストーリーでは、ムースとパイパーの関係がかわっていくのが楽しかった。「うん」と思っていても「うん」と言わない、こんな子っているなって。表面はとげとげして見えるけれど、実はよく理解しているという関係が、表面仲良さそうなのに、実は何を考えているかわからない今の子の人間関係と対照的だなと思いました。すごく楽しかったです。
紙魚:この本は、アル・カポネという人がどういう存在なのかわからないと、せっかくのおもしろさが少し損なわれてしまいます。おそらく、日本の子どもたちは知らないと思うんですね。例えば、いちばん最初に、じゃーん、極悪人アル・カポネ登場! というような印象深いシーンがあったりしたら、それに引っ張られてもっとおもしろく読めるかなとは思いました。一章ごとが短いのは、とても小気味よいです。章ごとにおもしろいことが散りばめられていて、リズムもあるので、どんどん先に向かっていけます。それからタイトルと装画には、強さを感じました。
ケロ:まずタイトルが楽しそうで読んでみたいという気にさせられますね。ただ、読者にとって、アル・カポネがどんな強烈な人だったかがもっと分かっているとよかったのでは?たとえば、アル・カポネに洗濯してもらえる、というシーンで、みんながこぞって出すのが感覚としてピンとこない。洗いあがってきたときに、ただ洗ってあるだけじゃんってクラスのみんなが引くんですよね。そのあたり、クラスメイトたちが何を期待していたのか、よく分からないのでは? いやいや出しているのかなとか。
ルイス・サッカーの『穴』に似ているというのは、ムースの役回りなのかな。自分では普通にしているつもりでも、悲劇的に悪い役回りになるところとか。テーマは重いのだけど、この『穴』に似ているような、ユーモアが救っているし、おもしろく読ませるなと思いました。実際にあったアルカトラズ島をお話に結びつけたのはすごい思いつき。作者は、アルカトラズ島に関わりがあったのかなとか、いろいろ思いながら読みました。実際はアル・カポネは、アルカトラズ島にきたときには、もう権力を失っていたらしいですね。1936年のストに参加しなくてバッシングを受けたらしい。その直前のエピソードという設定なのですね。
ねず:原書の後ろを見ると、参考文献が40冊近くならんでいるから、著者は相当調べて書いたらしい。アルカトラズのガイドもしたとか。
ケロ:訳者あとがきも、フォローがきいているので、日本の読者に親切。
ポン:アル・カポネについては、8ページに書いてあるくらいでよいのでは? 読みはじめれば、わりと早い段階で(28ページ)テレサのカードが出てきて、アル・カポネのプロフィールはわかるし、どういう存在かっていうのも読んでいくうちにわかると思うけど……? 私もアル・カポネのこと、よく知らないまま読んだけど、楽しめました。
アカシア:私の年代だと、アル・カポネはテレビや映画でよく知ってるんですけど、今の日本の子どもに手渡すときにどうすればいいか、やっぱり考えちゃいますね。
ミッケ:たとえばカポネが関わった大事件を取り上げた一面トップの大見出し、みたいなのを扉絵かなにかで入れたりしたら、あんまり説明的でなくさりげなく、なんかカポネってすごいらしいぞ、というのが伝わるかも。
紙魚:ちゃんと読み進めていけば、実際のアル・カポネを知らなくても、だんだんとその悪者ぶりはわかってはくるんですけどね。
うさこ:いい物語だなと思いました。特にこの中に出てくる子どもたちの強さが好きでした。ただ、もったいないなあと思うところが、みなさんの意見にもあったように、物語のなかに誘いこむ導入のしかた。アル・カポネについて日本の子どもたちがどういう認識をもち、どのくらい知っているのかな、と思いながら読みました。どんどん読み進めていくと家族の物語で、カポネを全く知らなくても読めるのだけど、知っていたほうが登場する子どもたちに、より気持ちをよりそわせておもしろく読めると思う。作者あとがきを読んでそうだったのかと思うところもあるので、それをアレンジして前に持ってくるという手もあったかなと。
ねず:そのへんのところは、難しい問題だと思うわ。作者、訳者、編集者は、前置きなしに、すっと物語の世界に入っていってほしいと思うだろうし……
げた:タイトルが気に入って、アル・カポネがどんな人だったか、子どもにわかるか、なんていうことを考えずに、自分だけがおもしろがって読んでしまった。確かに、うちの子どもは、アル・カポネのこと知らないですね。図書館ではYAの新刊に入っています。ちっちゃい女の子パイパーにムースがもて遊ばれるあたりで、ムースとパイパーの関係にいらついたり、おもしろがったり。お姉さんとムースのことよりも、こっちの方が気になりました。でも、お姉さんが囚人105と出会った後の、ムースのお姉さんを護ろうとする、健気な思いも伝わってきました。長い読み物だけど一気に読めた。タイトルも表紙の絵も思わず、手にしたくなる魅力がありますね。
ねず:タイトルが魅力的で、すぐに手に取りました。作者のホームページで見たのですが、彼女はラブストーリーを書きたかったんですね。
アカシア:パイパーだけじゃなく、テレサもムースのことが好きなのよね。
ねず:ひとりひとりのキャラクターが、とても生き生きと描かれている。ナタリー自身の性格もよく描けていて、そこがこの本のいちばんの魅力。それから、アルカトラズ島はまさに職住接近の場所で、子どもたちも親の働いている姿をいつも見ているし、大人たちも子どもたちのことがよく分かっている。変な言い方だけど、アルカトラズ島は子育てには最適の場所だったのかも! そういう場所を舞台に選んだことで、物語がいっそう生き生きとしたんじゃないかしら。舞台の面白さと、自閉症の姉を持つという作者の経験がうまく結びついて、いい作品に仕上がったのだと思う。この本が第二作めだというから、これからの活躍が期待される作家ですよね。
ポン:訳もいいですよね〜。こういう文体って、なかなか難しいと思うんだけど、くだけかげんがほどよい感じ。いちばん最後の一文「例の件、終わった」が、また洒落ててすばらしい! ニクイ!
アカシア:この作品がアル・カポネを知らない日本の子どもたちにどう受け入れられるのか、私はまだ気になっています。たとえば『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著 講談社)は省略された文章ですけど、ピントが一直線でずれることがないので、読者がついていける。でも、この本では、障碍を持ったお姉さんが寄宿学校に入れるのか? ムースとパイパーの関係はどうなるのか? お父さんは失職することはないのか? ムースは居場所を見つけられるのか? ナタリーは囚人に恋してしまってだいじょうぶなのか? と、たくさん要素がある。長い文学作品に親しんできていない子どもには、ちょっとばかり難しいかもしれませんね。本をよく読む子には、逆にそこがおもしろいでしょうけど。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)
ピトゥスの動物園
原題:EL ZOO D'EN PITUS by SABASTIA SORRIBAS, 1966
サバスティア・スリバス/著 宇野和美/訳 スギヤマカナヨ/絵
あすなろ書房
2006.12
オビ語録:病気になったピトゥスを救うために5人のなかまが考えたのは、一日だけの移動動物園!
ミッケ:これは、『アル・カポネによろしく』より対象年齢が低いんですよね。動物園を作る?と大人なら目が点になるようなことを大まじめに考えて、トラを借りてくるなんて言い出して、どうなることかと思っていたら、子どものトラを借りられることになったりで、えっ?というようなことがそれなりに現実になって、でもそれほどはちゃめちゃでもなくというところが、楽しかったです。とくに遠足にいったときのあれこれは、よく書けていたと思います。フクロウがそう簡単に捕まるかな? とは思ったけれど、でも、マネリトゥスがジャーンという感じで出てきて、みんなとあれこれやって、夕方バスで帰るみんなを見送り、もうこれでこの子の出番は終わったのかと思っていたら、最後でまた動物園に見に来るというのがよかった。本の作りも、全体に対象年齢がはっきりしていていいと思いました。
げた:子どもたちが、仲間のためにいっしょになって動物園をつくろうとしている姿に感動した。なかなか最近こういう、子どもたちが生き生きと活躍する本がないので、うちの図書館のブックリストに載せました。絵もかわいいじゃないですか。いかにもいい子ばっかりっていう感じがするんだけど、こういう子が活躍してほしいという気持ちもあって、おすすめの本にしました。きっと子どもたちがこんな風に生き生きするためには、しっかり見守っている、大人の存在が必要なのだろうなと思いました。
うさこ:病気の友だちのために子どもたちみんなで力を合わせて…と明るくて生き生きしていていいお話なのだけれど、作者は生活童話を書きながら、自分のユートピアの中にいる子どもたちを書いてしまったのかな、というのが感想でした。最もあれっ、と思ったところは、動物をつかまえてくるところはとてもていねいに書かれているのだけれど、その後、食べ物や排泄など世話をする、管理することは書かれていない。生き物を扱うときはその世話が最もたいへん。ここらあたりをあいまいにしているのが読んでいて消化不良でした。また、お金を扱う入場券のこととか、前日のパレードが絵のようにすっとできてしまうとか、物語を支える細部に疑問を持ち、とても残念でした。夏休みで宿題もせず、毎日毎日外出して怒られないのかなとも考えてしまった。
ポン:1966年の作品ですからね。
宇野:少なくとも、塾とかないし。
うさこ:かわいくていい絵なんだけど多く入れすぎて、読み手の想像力を奪ってしまっているし、ここぞというときの挿絵のインパクトが薄れてしまうようにも思いました。
ケロ:こういうタイプの本って、日本にはないですよね。新鮮な感じがしました。ただ、大人たちは出てこないけど、それなりに大がかりなことが動いている。バスが何台も出て動物をつかまえに行くとか。あれ、近所でやっていたんじゃなかったの? って思っていたら、きっと大人達がちゃんとからんでいたのね、って思ったりして。そのへんのピントが合わせづらかったです。
宇野:バスが8台というのはオーバーですよね。ただ多いってことを示したかっただけでしょう。
ケロ:現実ではなかなかないようなお話なんだけれど、中に書かれているエピソードが、子どもたちがみんなで何かやろうとしたときに、実際にありそうなことなので、とてもおっもしろく読みました。いいな、と思ったエピソードは、小さい子が、最初みんな掃除班に入れられてしまって泣いてしまうのを、もう一度割り振り直すところ。時代はちがっても共感できると思いました。ただ、友だちのために動物園をやろう、という話のわりに、ピトゥスは小道具的にしか使われていないですね。そこはちょっと残念。
アカシア:文学って、光と影の両方を伝えるものだと思うけど、これは、影の部分はなくて、光の部分だけを楽しく書いているんですね。小さい子向けだから、それでもいいと思うんですけど。だから、動物たちをつかまえるところは工夫が具体的に書かれてるんですけど、その後のめんどうな部分、影の部分は書かれていない。つかまえた動物の世話をするのも、お父さんお母さん。いいのかな、とちょっと思いました。チョウチョウを開園1週間前につかまえて小さな箱に入れておいてだいじょうぶなのかな、とか、死んじゃったらどうするのかな、とか、野鳥もつかまえてるけど禁止されてないのかな、とか、いろいろと考えてしまいました。それから、中高生のお兄さんは大工で、お姉さんは裁縫だなんて、ジェンダー的には古いですね。最初の子どものチームにも、女の子はひとりだけだし。おもしろかったけど、気になるところもありました。訳は、ていねいで、わかりやすくて、いいですね。
裕:1年半ぶりにこの会に参加したので、カルチャーショックがあったのかもしれないけれど、これは「上質なエンターテイメント」。可もなく不可もなく、これだけで本になっちゃうわけ? ピトゥスはどうなっちゃっているわけ? この経験はこの子どもたちにどう生きているわけ? 子どもは読むでしょうし、売れるでしょうが、それだけでいいの? ただ、力というのはあって、元気をもらえる。へたに深いところにふれていない。別れがないし、後腐れもない。日常生活とはちがうけれど、日常生活のエッセンスを入れた上手なバランス。『くまのプーさん』を思い出しました。現実世界に触れず、あの世界だけを上手にとどめて成功している。40年前の作品と聞いて納得しました。
ねず:子どもの目で、夢中になって読みました。とってもおもしろかった! 最初はグループ作りのおもしろさ、次は動物狩りのおもしろさ。作者もおもしろがって書いているので、ついついピトゥスのことを忘れちゃうのよね。それで、ときどき思い出したように、すまなそうにピトゥスのことが出てくる。たしかに童心主義というか、大人が見る子ども像という感じもしなくはないけど、このくらいの年齢の読者には、それでいいと思う。洞窟の場面など、どきどきさせるエピソードも盛りこんであるし、サービスいっぱい。子どもたちが読んだら、きっとわくわくするんじゃないかしら。訳も、それぞれのキャラクターにふさわしい口調で台詞を言わせているし、とても工夫されていて、いい訳だと思いました。
裕:そういう意味で、「上質のエンターテイメント」なんですよね。
アカシア:こういう楽しさって、日本の作家だとどうしてもリアリティが問題になるから、結局翻訳物で子どもに手渡すってことになるのかもしれませんね。
ミッケ:著者は小学校の先生だったそうですが、子どもたちのグループ分けの話だとか、細かいところに、なるほど先生としての経験が生きているなあ、と感じさせるところがありますね。
紙魚:この物語って、たくさん登場人物が出てきますよね。でも、あまりごちゃごちゃしないのは、それなりに性格がわかりやすく書き分けられているのと、スギヤマさんの絵にも助けられるからだと思います。もしもこれが一人称で書かれていたりしたら、子どもの目って近視眼的だから、ここまでいろいろな子がいることを書けなかったと思います。お話もとっても気に入りましたが、スギヤマさんの仕事ぶりになにしろ脱帽しました。先ほど、挿絵が多すぎるのではという意見もありましたが、私はこの絵の質と量がとてもいいと思いました。読み物といっても、文章と絵の関わりがかなり密接なんですね。本づくりの過程に興味がわきました。確かに、大人が子どもを見ているというのはあると思います。でも、年齢の低い人たちの場合には、そのことが安心感につながる場合もあると思います。
ポン:タネットはなんて立派なんだろうとか、私は子どもの心で読みました。ちょっとしたところに胸きゅん。握手しなおすところとか、いいですよね。光と影というようなことは、全然考えもしなかった。筆箱を供出した子が17人もいたっていうのは、びっくりしたけど。ちょっと軽率なやつがいたりするのも楽しい。宇野さんの訳はやさしくて、この作品の雰囲気をよく伝えてると思う。私が好きなのは、やっぱりこういう世界なのかも。
宇野:みなさんのおっしゃるとおりだと思います。10年以上前に本屋さんで、この本だけ20何刷かになっていたのを見て手にとったんです。原作がカタルーニャ語なんですが、スペイン語版の翻訳は悪いと人に言われ、カタルーニャ語で訳したいと思いました。スペインは内戦後、スペイン語以外の言語の本は出すことができない時代があって、この本はカタルーニャ語が解禁になってすぐに刊行された、記念すべきカタルーニャ児童読物なんです。実は、いろいろな日本の出版社に要約を見せて何度もボツになり、しまいに全訳して持ち込んでようやく採用された作品です。原書を読んだときは、原書の絵もいいなと思ったのですが、スギヤマさんの絵を見たらだんぜんこちらがよくて感激しました。大人が子どもを見て書いているという感じは、確かに全編にありますね。でも、原書にたくさんあった「子どもたちは〜」という主語は、できるだけ子どもの視点で読めるように気をつけて訳しました。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)
教室の祭り
草野たき/著
岩崎書店
2006.10
版元語録:5年生になって仲良しの直子とまた一緒になれたスミは喜ぶ。塾 にも行きなさいと母親に言われ、塾に通うことになるが、そこに はクラスでも目立つ友人二人も通っていた。
うさこ:タイトルがすごく気になって、今の子どもたちの日常を切り取った作品だなあと思って読み進めたのですが、この本で印象に残ったのは「強い人になりたい」ということば。スミコが友だち関係にすごく悩んでいることを本の3分の2くらいまで書いてありますが、でもそんなに大きな変化がない。それが18章で大きく展開し、ラストまでが急激な感じがしました。156ページ「心の強い人になるんだ」が、イコール「いじめに耐える人」という風に伝わってくる。いじめに耐えつつナオコと携帯でつながっているのだけれど、人間関係の描き方が希薄。携帯で通じ合ってる、メールでつながっているというだけで、それ以上に踏み込むのはいやがられるのが今の子の関係性なのでしょうか。人間関係の深みを感じられなくて、さびしい作品だなと思いました。疑問点として、スミコはナオコが気になっているのに電話すらしないのに、最後、携帯でメール、おやっと思いました。作品を通して、ナオコの人柄もよくつかめませんでした。
ケロ:タイトルはインパクトがありました。「祭り」ってこわいですね。女の子同士の確執からどう抜け出すか。このことに関しては、結論とか解決が出しづらい問題だとは思うのですが、なにか最後まで読んでも納得がいかないままになるお話だと感じました。ナオコという、弱いと思っていた子が強さを見せ、自分のほうが見捨てられていたんだと、ガーンとなるスミコ。作者は、そのインパクトが書きたかったのかな? 高学年のおそらく女の子が、この作品から何を受け取るのかな。知りたいなと思います。パーフェクトなお母さん像を描く必要はないと思うのだけれど、このお母さん像が今ひとつしっくりこなかった。大人になっていくと、あきらめることを選ぶことが必要と言うけれど、前半のお母さん像とズレを感じる。お母さんが「選ぶ」と言っていることと、友だちを「選ぶ」というのは、同レベルで考えられることなのかしら…。こういうお話は、ハッピーエンドでなくてもいいから、もっと元気の出るふうに結末を持ってきてくれるといいんだけど。
アカシア:いじめを書いている作家はたくさんいますが、作者がどういう位置に立って書くかが大事だと思うんです。この作家の立ち位置は、私には共感できませんでした。作者の考えはスミコのお母さんの言葉にあらわれていて、それは「AじゃなくBを選んでもいいんだ」ってことだと思うんですが、どっちかを選ばなくちゃ行けないっていうこと自体、私は嫌だったんです。それでは人間関係が狭くなるだけで豊かにはならないでしょう? いろんな人たちといろんな友だちの作り方がある、と私は思うから。それ以外にも、気になるところが多くて、楽しめませんでしたね。28ページ「バーカ、こないだの体育の…」今の子は、こんな長い会話はしませんよね。84ページでは、お母さんが自分は充分努力したって言うんですけど、努力している姿が書いてないんで、しらけちゃいました。カコとてっちゃんの描き方も薄っぺらだし。
ねず:日本の創作物については、いつも辛口になるので、まず最初にいいなと思ったところを言おうと思います。ナオコの家にクラスのみんなが押しかけるところ、無邪気さを装った底知れない悪意があって、なんともいえない迫力がありました。こういうところが、この作者は得意なのかしら? でも、読み終わって「いやなものを読んじゃった」という感じがしました。57ページ最後の「友だちっていうのは、選んでいいのよ」というお母さんの台詞を読んだときは、心がすうっと冷たくなるような気がしました。西川てつこともうひとりの友だちの平べったい書き方にも疑問を持ったし、共感をおぼえるような登場人物がひとりも出てこない。いじめ問題を取りあげるにしても、もっと人間の本質に迫るような、読者が大人になっても折りにふれて思い出すような、そういう作品を書いてほしいと思いました。こういうことしか書くことがないのかな。もっと子どもに語りたいことがあるでしょうに。それから、地の文と語り口調がまじっていて、「わーっと声に出して喜んだ」ではなく「わーって声に出して……」となっているような所がときどきあって、あんまり端正な文章ではないという気がしました。
ミッケ:みなさんのお話を聞きながら、あれこれ考えていたんですが、この本は、いじめをしたり、されたりしている子どものレベルを超えるものを提示してない気がします。主人公は、ふたりの女の子にいわば引っ張られるような形で、なんとなくもやもやを抱えながら親友と遠ざかるんだけれど、これじゃだめだっていうんで、ふたりの女の子に向かって、自分の思っていたことを言う。それ自体は悪くないんだけど、主人公と一緒に3人で楽しく過ごしていたと思いこんでいた2人にしたら、それってどういうこと?ってなっちゃう。そこへの目配りがないんですね。なにしろふたりにすれば、藪から棒に足下をすくわれたみたいな格好なわけで、そりゃあむっとしたり腹を立てたりもするでしょう。ここで、主人公の側が、自分が反省しているというあたりをきちんと相手に伝えきれないこともあって、そこからいじめが始まるわけですよね。こうなると、いじめられる側は、消極的な抗戦をして、徐々に仲間が増えていくのを待つしかない。まあ、こういう形で終わること自体は、子どもたちの現状からいってこうしか書けないだろうし、リアリティのある展開なんだろうと思うけれど、でもねえ、という気がする。たとえば、お母さんの「選んでいいのよ」っていう言い方や、この子が仲間に対して、わたしはあんたたちじゃなくあの子を選ぶ、みたいにスパッと相手を切り棄てるようなことをいうことからもわかるように、この本では、いじめたりいじめられたりする平面の中で物語が完結していて、そこからひとつ上にあがっていじめを乗り越えるという道が提示されていない。大人も含めて、子どもの狭い視野から抜け出せていなくて、子どもたちも最後までそういう狭い視野のままなんですね。あっちにつくか、こっちにつくかという同じレベルでの2分法で終わっている。いじめる側といじめられる側、というふうに決めつけておしまいという感じなんですね。だからこういうふうにしかなりようがない。それがこの本の限界だと思います。
アカシア:ナオコも結局スローガンで動いているみたいで、生きている立体的な人間という気がしないんですね。もっと登場人物を魅力的に書いてほしかったな。
ミッケ:冒頭から、主人公の澄子さんがだらだらしていて、魅力的じゃないんですよね。
裕:だから、みんな共感できない。魅力的じゃないのよ。
ねず:お母さんのことは、この子はどう思ってるの?
裕:お母さんはこう言うけれどって、反発するところがないのよ。親子のとらえ方が浅薄な原因かな。ただ著者は、いじめられてもしたたかな子どもを、書こうとしたんじゃないかな。
ねず:したたかさを書いても、おもしろい作品ならいいけれど……
紙魚:そういうところは、今の時代の傾向かなとも感じます。以前、お母さんたちが集まった席で、「自分の子どもが、いじめっ子になるのと、いじめられっ子になるのではどちらがいいか」という議論になったとき、一人のお母さんは「どうしても選ばなければならないのなら、いじめられっ子」と、もう一人のお母さんは「どちらもいや」とこたえました。あとのお母さんたちは全員が「いじめられるくらいなら、いじめっ子になった方がいい」と答えたんです。そういうことが大きな声で言えてしまうという今の風潮は確かにあると思うので、こういう作品はそうした時代のトレースなのかなとも感じたりします。
ポン:なんであんまりおもしろくなかったのか、今みんなの話を聞いて、わかった気がする……。ちっちゃい、ちっちゃいところで行われていることを書いているから、今同じような状況にある子が読んだら、すごく共感できるのかもしれないけど、その場にいない私にとっては、遠い世界。私の想像力は、うまく働きませんでした。
宇野:「友だちを選んでいい」というのは、よく言われる「みんな仲良く」に対する言葉かもしれませんね。
げた:私は、みなさんとはぜんぜん違うふうに読みました。ナオコが出てきた教室が祭りだっていうんだけど、そこにいる子どもたちは、ナオコの心の中は考えず、自分の気持ちや都合とその場のノリで行動している。そういうことに対して、スミコはほかの子どもたちから排斥されながらも、ナオコの気持ちをなんとか考え、なんとかしようとしている。その中で自分自身も変えていこう、強い人になりたいというスミコの変化を書いているのかな、と思ったんですよね。私は、スミコに共感できるものがありましたね。他人のことを思いやれる子ほど、かえって受難者になるという詩を読んだことがありますが、まさにスミコのことですよね。
(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)