カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)