日付 | 2015年7月30日 |
参加者 | ハリネズミ、夏子、レン、ひら、ゴルトムント、アンヌ、ルパン、マリ ンゴ、レジーナ |
テーマ | 仕事さまざま |
読んだ本:
原題:THE GREAT TROUBLE by Deborah Hopkinson, 2013
デボラ・ホプキンソン/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2014
版元語録:秘密をかかえるロンドンの浮浪児イールはスノウ博士の助手。コレラの原因が井戸水だという証拠を集めるため奔走する。1854年の史実をもとにした物語。 *青少年読書感想文全国コンクール 中学校の部 課題図書
原題:MARIE MIT DEM KOPF VOLLER BLUMEN by Sigrid Laube, 2007
ジークリート・ラウベ/著 若松宣子/訳
岩波書店
2013.07
版元語録:メスメル博士のお屋敷に、庭師の父親と住むマリーは、修道院で勉強中です。だけど、マリーが考えているのは植物のことばかり。本当は父親のように庭の仕事をやりたいのです……。18世紀末のオーストリアで、時代や社会の制約にもめげず、自分の道をひらいていく少女を描く歴史フィクション。
斉藤倫/著 牡丹靖佳/挿絵
福音館書店
2014.09
版元語録:彼の名前はどろぼん。絶対につかまらないどろぼう。雨の降りしきる午後、あじさいの咲き誇る庭で、ぼくはどろぼんをつかまえた。
ブロード街の12日間
原題:THE GREAT TROUBLE by Deborah Hopkinson, 2013
デボラ・ホプキンソン/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2014
版元語録:秘密をかかえるロンドンの浮浪児イールはスノウ博士の助手。コレラの原因が井戸水だという証拠を集めるため奔走する。1854年の史実をもとにした物語。 *青少年読書感想文全国コンクール 中学校の部 課題図書
ゴルトムント:歴史ものです。実在の人物や出来事をうまく取り入れています。コレラを研究した先生の実話が元になったとあとがきにもありました。もちろん主な登場人物は創作されたわけで、基本的にはフィクションですけれども。こういうお話は歴史上の事実をうまく取り入れるのが大事ですね。今日のもう一冊の『庭師の娘』(ジークリート・ラウベ著 若松宣子訳 岩波書店)も。伏線を結構たくさん置いて家族のことや、いろんなことがだんだん分かってくるようになっています。どんなことだろうと気になりながら読み進めました。コレラの原因が空気ではなく水だったこと。博士の研究成果をうまく伝えている本とも言えます。少年に関しては、明るい未来を暗示しつつ終わっています。
ひら:主人公が「小さな大人」として登場している状況から「子ども」として書かれていく描写がおもしろかった。フィリップ・アリエスは『〈子供〉の誕生』(みすず書房)という本の中で、16世紀以前は「子供」という概念(=世の中から庇護される社会的な存在)はなく、「小さな大人」という存在だけだった、と論評しています。その本の中では、かつて人間は7歳ぐらいから小さな大人になり、大人と一緒に労働力として働いていたし、逆に7歳以前はコミュニケーションも取りづらいし、当時は高い確率で死亡したため、大人は将来の労働力を効率的に確保するために、できるだけたくさん子どもを産み、7歳以前の子供は育児コストを下げるために「大きな動物に近い感じで養われていた」と書かれていたように記憶しています。この本の舞台になっているイギリスの世界はちょうど近代市民社会が成立し始める頃で、裕福な市民の家ではいわゆる「子供」という概念が誕生して普及していたと思いますが、まだ社会の底辺には「小さな大人」もたくさんいた時代でしょう。一方で、16世紀からなぜ「子供」という概念が誕生し、子供は大切にしなければならい、という社会通念、倫理観が普及したのか、社会的、経済的な合理性があったからだと思います。つまり自分の子供を「小さな大人」として育てるよりも、産業革命によって職業が高度化し、医療の進歩によって子供が死ぬ可能性が低くなった等から、一人ひとりの子供を丁寧に育て、学習させ、ある一定レベルの職業につけた方が親として(極論すれば人間の個体として)生存確率が上がり、楽ができる。そこから後付で倫理体系が組み立てられたように思います。儒教を広めた孔子やキリスト教を広めたコンスタンティヌスしかり、基本的には治世者の統治しやすさのニーズ、一人ひとりの個体の生き残るためのニーズの後追いの形で倫理感が構成され、経済的、社会的に合理性が高い倫理がその後自然淘汰的に普及していっているのではないでしょうか。主人公は物語の前半で「小さな大人」として非常に大変そうに描写されていますが、その後「子供」として保護されていく状況(倫理観の変遷のような状況)がうまく拾い上げられていて、おもしろく読めました。
レン:去年読んでおもしろかったので選びました。読み返せなかったので、細かいところは忘れてしまったのですが、コレラの謎、イールの家族のことをつきとめていくというミステリーの仕立ての展開でぐいぐい読めました。イールのまわりに、さまざまな大人たちが登場するのも印象的。大人の姿がくっきりと描かれていると思いました。
レジーナ:19世紀のロンドンの暮らしも、「青い恐怖」の謎を追う過程も、おもしろく読みました。イールがスノウ博士の研究を手伝い、助手としての仕事を認められる中で、周囲の大人に心を開いていく様子が、納得できるように描かれています。イールは少し、いい子過ぎる気もしますが…。平澤さんの装画も素敵で、日本の子どもが手に取りやすい本です。以前、ハリネズミさんがおっしゃっていたように、ジョーン・エイキンと比較すると、作品の弱さはあるかもしれませんが、この本はステッピングストーンになるのではないでしょうか。今の中学生を見ていると、エイキンまで読める子がなかなかいません。私は、この本が気に入った子には、エイキンの『ウィロビー・チェースのオオカミ』(こだまともこ訳 冨山房)を勧めています。
夏子:プロットが派手で、ミスエリーを読むような勢いで、先へ先へと読み進むことができました。翻訳も読みやすいと思います。伏線がいろいろあって、ひとつを除くと、後でよく活かされています。うまく活かされていない一つというのは、継父(母親の再婚相手で悪漢)に誘拐されたところ。主人公が最も恐れていた通りの結果となり、絶対絶命の危機を迎えたわけで、いちばんハラハラドキドキする場面ですよね。それなのに友人に救出されると、それだけで終わってしまって、悪漢の継父がその後どうなったのか、言及がまったくありません。最大の敵である継父との関係は、きちんと決着をつけておいてほしかったです。もうひとつクレームを言うと、主人公のイールは高潔で、ひたすら弟を守っていますが、いくらなんでも高潔すぎるのでは? また何もかもがイールの活躍で解決するのでなくて、ひとつの活躍だけで充分ではないかと思いました。そのほうがリアリティがあったのにね。時代やプロットにディケンズ作の『オリバー・ツイスト』の影響が見られますが、時代は『オリバー・ツイスト』の20年後で、ロンドンでコレラが大流行したころですよね。当時のロンドンの雰囲気、不潔さとか匂いが伝わってくると、もっとよかったな。無いものねだりで申しわけないけど。
アンヌ:私にとっては大変読みにくい本でした。まず、第一部で引っかかってしまい、なかなか前に進めませんでした。最初に提出される謎が多すぎるような気がします。ロンドンのテムズ川のどぶ浚いという仕事からして、うまくイメージがわきにくいのに、周りの大人たちや主人公がとても恐れているフィッシュという男の正体も、よくわからないまま話が進んでいきます。ビール醸造所というところもなかなか想像するのが難しいのに、舞台がすぐ近所の仕立屋さんの病人の部屋に移ってしまう。だから、主人公が何のためにお金をためているかという謎ときに行き着くまでに、時代や舞台が頭の中にうまく構成されていきませんでした。ディケンズから類推して何とか想像しましたが、そういう知識なしに、いきなりこの物語でその時代を感じるのは難しい気がします。その後、推理小説のようにコレラと水の関係を解き明かそうとする物語になっていくと、一気にすらすら読むことができました。ただ、フィッシュという悪人は捕まっていないのに、「スノウ博士が偉いから大丈夫」というような博士の家政婦さんの言葉で終わったり、どうみてもひどい引き取り手に思えたベッツィの叔母さんが実はとてもいい人だったりとか、物語を進めるために都合よくしてしまうように感じられる所には、疑問が残りました。
夏子:中流の家庭なんじゃないかな。
ルパン:今日みんなで話す三冊のなかで、私はこれが一番おもしろいと思いました。スピーディな展開でで飽きさせないし。コレラという深刻な問題を扱ってはいるのですが、どちらかというとエンタメっていう感じでした。ただ、いろんな大人がたくさん出てきすぎて覚えられないんですよね。最後、エドワードさんといういい人に引き取られることになり、めでたしめでたしなんですけど、このエドワードさん、最後しか出てこないじゃないですか。名前は出て来るけど、出かけてることになっていて、そのあたりは何ともいえずご都合主義ですよね。そもそも、こんないい人がそばにいたなら、これほど苦労しなくてよかったし。帰りを待っていればよかったわけで。あと、エイベルさんとエドワードさんが、紛らわしくて、どっちがどっちだかわからなくなったりしました。この話のなかでいちばんキャラが立っていたのは、博士の家政婦で、チョイ役のウェザーバーンさんです。
マリンゴ:これが課題図書!と信じられなかったほど、中盤まで過酷なストーリーでした。でも、途中から、現実(歴史)とリンクしていくおもしろさを感じました。ただ、物語のインパクトが強すぎて、これが真実のような気がしてしまうので、現実と架空の人物をブレンドする手法は難しいと改めて思いました。
ハリネズミ:出てすぐに読んで、なかなかよくできた物語だと思いました。庶民の人たちの人間模様がうまく描けているし、コレラをめぐる謎解きもおもしろかった。ディケンズに似ているという方がおいででしたが、私はむしろエイキンだと思いました。ディケンズは今読むと、とても冗長でわきのお話も詳しく書いたりするので、メインストーリーで読ませるエンタメとしてはエイキンに近いかと。気になったのは、著者が作り出した人物は生き生きと描かれていたのに、歴史上の人物のほうは厚みが欠けていた点です。実在の人物なのでウソは書けないため、想像にも限界があったのだと思います。
レジーナ:伝記も書いている作家なので、史実を変えるのには抵抗があったのでは。
夏子:この作家は、ディケンズの伝記も書いているのよね。
レン:イギリスの子どもが読んだら、人物名もぱっと覚えられるんでしょうね。
夏子:この本がすぐれた賞に価するとは思えないなぁ。サトクリフの作品だと、主人公の個性が歴史のなかに生きているでしょ。本当に過去にこういう少年がいたんだろうな、と深く納得させてくれるけれど、この作品はそこまではいっていない。作家はアメリカ人で、ロンドンの街にくわしくなかったのかも。
(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)
庭師の娘
原題:MARIE MIT DEM KOPF VOLLER BLUMEN by Sigrid Laube, 2007
ジークリート・ラウベ/著 若松宣子/訳
岩波書店
2013.07
版元語録:メスメル博士のお屋敷に、庭師の父親と住むマリーは、修道院で勉強中です。だけど、マリーが考えているのは植物のことばかり。本当は父親のように庭の仕事をやりたいのです……。18世紀末のオーストリアで、時代や社会の制約にもめげず、自分の道をひらいていく少女を描く歴史フィクション。
夏子:この作品は、作中に登場するメスメル博士に興味を持っていたので、ぜひ読みたいと思って選びました。メスメル博士は、英語のmesmerize(催眠術をかける、魅了するという意味)の語源となった人物です。1768年にウィーンで10歳上の裕福な女性と結婚。お金持ちになったので、モーツアルトを初めとする芸術家たちのパトロンとなりました。「動物磁気」という概念と治療で知られていた医者です。今で言うと、「気」で直すという感じで、手かざしで治療したのね。当時の学会で否定されてしまったため、彼の晩年については何もわからないんです。ちょっと怪しい人物ではあるのですが、非常に興味深いですよね。作品のなかでどんな風に料理されるのか期待して読んだんですが、おもしろくも何ともない人物像に描かれていますね。メスメル博士も凡庸だし、せっかく登場するモーツァルト少年も、いきいきと迫ってこない。脇役に魅力がありません。主人公も、この子がなぜ庭師になりたいのか、という肝心なところにリアリティがありません。幾何学的なフランス式の庭園から、(自然な感じがする)イギリス式庭園へと流れが変わる、それを主人公は先取りするわけなので、この子はモーツアルトに匹敵する天才なんだわね。そこがうまく描かれているとはいえず、残念ながら力のある作品とは思えなかった。翻訳もちょっと硬い感じでした。
レジーナ:「主人公がなぜ、庭を好きなのかが描かれていない」というお話がありましたが、マリーは造園に関して、天才的な素質を持った少女なので、私はその点は気になりませんでした。マリーは夢見がちで、庭のことでいつも頭がいっぱいです。この物語では、マリーとモーツァルトという、ふたりの天才の姿が捉えられています。それぞれ豊かな才能を与えられていますが、周囲の環境は必ずしも、それを発揮できる場ではありません。モーツァルトは、周りの大人に実力を疑われたり、妬まれたりします。一方マリーは、父親が庭師ですが、女性のマリーは仕事を自由に選べません。ヤーコプとの恋はうまくいきすぎる気がしました。この時代、マリーが庭の仕事をするには、結婚するしかないので、仕方ないのかもしれませんが……。庭の描写は、「こんな庭を見てみたい」と読者に思わせるように、もっといきいきと描いてほしかったです。マリーが造ろうとしているのは、イギリス式庭園です。この時代、啓蒙主義という新しい考え方が入ってきて、博士のような先進的な人物を通じて、人々に広まっていく。人や社会の考え方が変わり、新しい時代になっていく。それが、このイギリス式庭園に象徴されています。ジャガイモやトマトがヨーロッパにもたらされ、食卓に上るようになるところや、ウィーンの町の描写も興味深く感じました。原書の表紙にはピンクと紫の花が描かれ、ポップな印象ですが、日本語版の装画には味わいがあり、より作品の雰囲気に合っています。
レン:ちょっと読みにくかったです。冒頭で、修道院で看護の仕事をするのではなく、庭師になりたいというのはわかりましたが、その後、造園に打ち込む描写は少なくて。修道院で薬草の世話をさせてもれえることになったとき、私はよかったなと思ってしまったんですね。そしたら、そうじゃなかった。火をたいて花を守る場面はおもしろかったけれど、結局好きな人と結ばれてハッピーエンドかって。後書きを読んではじめて、職業や結婚相手を選ぶのにも自由のない時代だから意味のあることだったのだとわかりましたが、ただお話を読んだだけだと、それが伝わらないかな。それに、人物のイメージがつかみにくい気がしました。せりふから、こういう人かと読んでいたら、次のせりふでは印象が違って。特にブルジがそうで、どういう立ち位置の人かがつかめず、落ち着きませんでした。
ひら:「好きなこと(仕事)をあきらめなくていいんだよ、そのうちうまくいくからさ」という物語で、教訓的なトーンが強くリアリティがなくて感情的に入り込めなかった。逆に言えば、よくある「主人公が、環境的なハンデを克服しようと努力し、成功した」というハッピーエンドストーリーでもないんですね。作者もあとがきで書いているように、「親の言う相手と結婚して、女性として決められた仕事をするのが普通(つまり倫理的)だった時代」において、「当時としては異端の価値観をがんばって持ち続けた」ということがテーマなんでしょうね(ある意味それだけではあるが・・・)。また「好きな仕事をする」という当時としては異端の価値観が、なぜ児童文学として成り立っているかというと、現代では一般的に流布していて、安心して親や教師が子供に伝えられる価値観だからでしょう。例えば同じ手法を転用すれば、人種差別について「昔は皮膚の色で仕事や結婚も決まっていたんだけど、そんな時でも、皮膚の色でなくその人の能力や性格で物事を色々と判断した人がいたんだよ」という美談を若干の事実も踏まえて50年後に児童文学として書くこともできる。文学と倫理の関係で考えると、例えば同性愛は今の時点で倫理的に広く受け入れられている価値観ですが、まだ児童文学としてはこなれていない価値観ですよね(逆に純文学が扱うテーマとしては少し弱すぎるかも。例えば「自殺」を「尊厳死」として肯定する価値観は十分に異端なので純文学として切り立つ可能性があるのでは)。
ゴルトムント:ドイツ語の作品ですが、筆者のアイデンティティは、オーストリア人でウィーンの人。推測ですが、モーツァルトは、本人の実態に近く描かれているのでは。天才ですからね。息をするようにメロディーが出てくる。楽譜に書くのが追いつかない。
レン:モーツァルトは12歳というわりに幼く感じました。私は、なぜモーツァルトを登場させないといけなかったのか疑問でした。時代性を伝えられますが、あれだけの天才のモーツァルトがひきあいに出されると、マリーのことも「結局、ものをいうのは才能」と読めてしまい、そうなると、平凡な読者は親しみを持ちにくいなと。
ゴルトムント:小説というのは描写が命。だけど今は、描写が細かいと読者はなかなかついていけないでしょう。例えば植物の具体的な名前がいっぱい出てくるけど、知らないと読者は飽きてしまいます。マリア・テレジア、モーツァルト、実在の人物をやはりうまく配しています。オペラのコシファントゥッテに博士が出てくるそうで、もう一度聴き直さなくては。主人公の女の子は、時代に負けずに自分の人生を歩もう、というテーマでしょうね。
アンヌ:何か、とても不器用な感じのする物語でした。前半の修道院生活に対する嫌悪感にはとてもリアリティがあるのですが、ウィーンの街の様子、モーツァルトの使い方、メスメル博士の言葉の中に現れる啓蒙思想やブルーストッキングなどの新思想などが、なんだか取ってつけたようで、それぞれについては、描いているけれど、物語の中で活きていない感がずっと最後までしました。ヤーコブとの恋も、一昔前の少女小説じみていて、もう一つ効果を発していない気がします。マリーの心の中が、夢みがちな少女という設定なので、はっきり描かれていないからなのかもしれません。マリーは、庭をスケッチし縮尺を使って設計図を描くことができたり、霜を防ぐ方法を考え出したりすることができる女の子には、到底見えません。もっと自然そのものへの愛着を示す場面などがあれば、いきなり彼女がイギリス式庭園を作り上げられるだけの考えを持っていることに納得がいくのにと思いました。何もかもメスメル博士が言い換えて説明し直して話が進んでいくという感じで、マリーの中にもうまく入り込めないまま、どんどん物語が展開していきました。メスメル博士は、もっと魔法使いのような人間に描かれてもおもしろい人なのに、市民階級のパトロンという役割ではもったいない気がしました。なんだか物語を回していく役割だけなのが残念でした。せっかくモーツアルトが登場するのに、マリーはモーツアルトへの反感を抱くばかりなのも奇妙な感じがしました。もっと、活き活きとお互いの人格を感じ合える場面があればよかったのにと、思いました。
ルパン:可もなく不可もなく、という印象をもってしまいました。メスメル博士は、皆さんのお話を聞いていると、どうやら本物のほうがおもしろそうですね。描かれた人物がみんな平坦で…。いちばん期待してしまったのはプレッツェル売りです。でも、「この人、何者!?」って思わせておいて、結局何者でもなかった。
アンヌ:このあたりから、モーツアルトがもっと活躍してくれるのかと思ったのですが、そうではなくて、がっかりしました。
ルパン:気になったのはP194のところです。寒いから火をたいて植物を温める、っていう発想は、「へえ」って思いましたが、火を燃やしたまま、草花を見守るでもなく、主人公もほかのみんなも家に入っちゃうんですよね。火事になるんじゃないかと心配しちゃいました。しかも、あとで見に行くのはマリーでなく、ほかの人。これでは庭園への愛も感じられず、クライマックスという気もしないまま終わってしまいました。それに、伯爵夫人の依頼はどうなったんでしょうね。結婚によって修道院に入らなくて済んだ、という結末は、マリーの夢とうまくリンクしていなくて、ひどくちぐはぐな印象でした。父親も、マリーの才能を認めているのかいないのかはっきりしないし。
ゴルトムント:父親は、女は庭師になどしないという古い価値観の持ち主。啓蒙専制君主のマリア・テレジア。ウィーンのシェーンブルン宮殿はベルサイユそっくりに作っているわけで、18世紀にはフランス的なものに高い価値を置いた時代だったのでしょう。その当時の空気をベースに書いているんですね。
ルパン:「その当時の空気」がきちんと描けてないから、よけいわかりにくいですよね。でも、本質的な問題は、そこではなくて、ストーリー展開にあるのだと思います。主人公に魅力があって、物語がおもしろければ、多少歴史的背景がわかりづらくても、子どもは気にしないですから。ファンタジーやSFみたいに、ありえないような設定であっても楽しめるものはたくさんあるわけだし。
夏子:庭というと、『秘密の花園』のイメージが強烈よね。『秘密の花園』では、主人公のメアリーの内面と庭が強く結びついているでしょ? ところがこの本では、読み進んでも、主人公と庭とがうまく結びついてこない。主人公の自立心や個性が感じられないために、魅力がないのだと思う。現代の読者が読むのだから、当時の時代背景は今とは違うとはいえ、読者が主人公に共感できるところがないと、読めないなぁ。
マリンゴ:何かがうまくいかないと日常で悩んでいる子どもが読めば、もっと“ままならない”時代もあったのだと感じ、自分も頑張ろうと思えるかも。ただ個人的には、マリーが天才すぎることに共感できませんでした。天才だからマリーは救済されたのか、そうでなければ修道院行きだったのか、とイマイチ感が残ります。ごく特例を描いた物語のような気がしています。
ハリネズミ:原題は、Marie mit dem Kopf voller Blumenですから、頭の中が花でいっぱいになっているマリー、というような意味だと思いますが、マリーの花に対する愛が、そんなに描かれていないし、しょっちゅう花のことばかり考えていました、という描写がもっともっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。現状では、介護よりはガーデニングが好きだと思っているうちに、自分の努力ではなく運がよくて「足長おじさん」のような人が現れて憧れの仕事につけた、というふうに思えてしまいます。メスメル博士も癖があっておもしろそうな人物なのに、この作品では単なる好々爺になっていますね。ひらさんが児童文学はその時代の倫理観に左右されるとおっしゃっていましたが、私はあまりそうは思っていません。それよりも、どんな世界になったらいいかと考えて書いているのが児童文学なのではないでしょうか。
ひら:「米国人を殺すのは正しい」という価値観は現代では異端ですが、戦時では流布するべき価値観として成り立っていて、児童文学として成立できたと思います。逆に現代の日本において「米国人を殺すのは正しい」という価値観の児童文学を書く(売る)のは難しいのではないでしょうか。
ハリネズミ:戦時中は多くの児童文学作家も、お上の政策に協力してしまいましたね。ただ児童文学なるものが目指すものがあるとすれば、それは「お上に迎合して売れればいい」というのではなく、もっと本質的なものなんじゃないかと思いますが。
ひら:児童文学の主な消費者は親や図書館であり、ユーザーが子どもであるケースが多いと思っています。その際、例外はもちろんありますが、基本的に親や公共機関は保守的な価値観(言い換えればラジカルでない価値観)を再生産する本を購入、勧めることが多いと思います。
ハリネズミ:今の価値観を肯定してそれにのっとって書く人もいますが、一つの理想の姿を意識したうえで書く作家もいますよね。現状肯定してしまうと、未来には向かいませんからね。
レン:児童文学は、さまざまな考えの間の揺らぎも伝えているのでは?
夏子:児童文学は、既成の価値観を無力化するためにあるのでは?
(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)
どろぼうのどろぼん
斉藤倫/著 牡丹靖佳/挿絵
福音館書店
2014.09
版元語録:彼の名前はどろぼん。絶対につかまらないどろぼう。雨の降りしきる午後、あじさいの咲き誇る庭で、ぼくはどろぼんをつかまえた。
アンヌ:詩的な表現に満ちていて、すごいなあと思いながら読みました。盗みの場面で、どろぽんが口ずさむ歌が好きです。読み終った後、この感じに似ているのは何だろうと思っていたら、ふと、別役実の戯曲を初めて読んだ時のことを思い出しました。どろぽんの歌の原点に祖父が歌った歌があるんじゃないかという謎ときのような場面とか、生き物の声も、ものの声も聞こえる矛盾とか、後半にはいくつか、いらないと言えばいらない場面もありますが、あまり気にせず、好きな個所を読み返して楽しみました。
ひら:p204に「何をうばっても盗んでもイイ、良いこともないし、悪いこともない」とありますが、主人公のどろぼんの仕事は、全ての価値を相対化したうえで、世の中に善悪はないし、(たとえ相手にとって価値があるモノでも)それ自体本当に価値があるか分からないから、奪ってなくしてあげてもいい、という前提で存在する仕事。ただ、自分の人生ではじめて「よぞら」という絶対的な価値が出来たことで「世界が主(つまり神)のいない森だとしたら、じぶんであるじになるように生きるしかない」と、考えるようになる。つまり自分自身が自分の神として世界に対して意味づけし、価値体系を構築しなければならない立場になってしまう。今まで自分の価値体系を持っていなかったからこそ、そのために色々な人の価値体系の中からいらないモノの声を聴くことが出来たどろぼんにとって、「どろぼんはうまれてはじめて『いきる』とは恐ろしいと思った」と思うに至った(ここでの『いきる』というのは意味づけされた価値体系の中で生きる、という意味)。同項に「ひたすら道に迷いながら、いろいろなことをかんがえた」とも書いてあるが、よぞらという絶対的な価値に初めて出会うことで「迷い」が出てきているのがうまく表現されています。迷いというのはある価値体系から自分でそれぞれの価値に意味づけして、優先順位をつけて選択して行く際の心理的な難しさを表す言葉だと思いますが、そもそもどろぼんにとっては、あらゆる事象がすべて相対化されたまったく同価値だったので、「迷う」という行為そのものが存在しなかった。だからこそ、他の人の様々な価値を俯瞰的に見ることができ、相手にとっていらないモノの声がいつも向こうから聞こえてきた。ただ、自分で意味づけした「よぞら」という絶対的な価値を「どろばんは探し続けた。だって探すしかなかったからだ」という状況になってしまった。つまりどろぼんは相対的な価値だけでは世の中を生きていくことが出来ない、と初めて感じてしまった(あるいはそのような生き方に出会ってしまった)、それは児童文学として考えると、読者である子どもが自分の価値観、価値体系を模索しながら探していくプロセスにとてもうまく呼応しながら表現しているように思います(ちなみに「黒い犬」はエジプト神話ではアヌビスと呼ばれ死を導く神の使いの人型の犬で、黒い犬を探すプロセスはある意味、今までのどろぼんが死んで、新しい自分を探す、死と再生のプロセス=子供の成長も象徴しているように感じます)。また、どろぼんは価値を相対化することで、本当はその人にとって価値のないものを取り除くのが仕事なので、p4「いつも何かの中間にいるべきだし、どっちつかずでだれにもおぼえられないようになっている」という外見や、219ページの「みんなだれかの子供で、だれかのこどもじゃないひとなんで一人もいない、ということに驚いてしまう」プロフィールは、普通の人としてのアイデンティティーを持たないキャラクターとしてうまく書かれていると思います。逆に言えば、もしどろぼんがだれかの子供であれば、その生まれた背景のためになんらかの価値観を引き継ぐことになってしまうため、物語の整合性から言えば、どろぼんには例え拾ってくれたとしても両親は生きていてはいけないと思いますが、拾ってくれたお母さんが、どろぼんがいらないモノの声が聞こえてきた時から「声が出なくなった」こと、つまり声や言葉(=合理的な価値体系の象徴)を奪われる生贄となったことで、うまく物語のバランスを取っています。この続編はないと思うけど、この続きがあるとしたら、最終的にどろぼんはよぞらともう一人の女性パートナーを見つけることで、自分自身の絶対的な価値(と全体性)を手に入れ、モノの声は聞こえなくなって、そしてお母さんの声も戻って来るはず。どろぼんはその人が本質的に気にしなくてもいい、気にしない方が幸せな価値(それはある人にとってはお金、出世、結婚等かもしれない)を取り除いてくれる(あるいは軽くしてくれる)一種のカウンセラーのようなキャラクター。深く詩的で、好きな物語です。
レン:最初読んだとき、不思議な話だなと思いました。どろぼんがどうなるのか気になって、どんどん読めてしまうフィクションの力を感じますが、登場人物は大人ばかり。児童文学としてどうなんだろうと、みなさんの意見を聞いてみたくて今回の課題に選びました。どろぼんが「拾われた子」であることは、大事な要素だと思います。なぜ、親がわからないという設定にしないといけなかったのか。親子の関係を、所有から解き放ちたかったのか。「モノを持つこと」と、「モノを持つことから生まれる束縛」「大切にすること、されること」などを、考えさせられる物語だと思いました。
レジーナ:物語に雰囲気があり、装丁の美しい本ですね。以前『おうさまのおひっこし』(牡丹靖佳 福音館書店)を読んでから、気になっていた画家の方が挿絵を手がけています。とぼけた挿絵が、作品の雰囲気にぴったりです。物語の最後で、警察が泥棒を救おうとするところにおかしみがあります。ファンタジーの要素を入れながら、家族をテーマにしているのは、近年の柏葉幸子さんの作品を思わせます。公園もそうですが、「ただ存在すること」の意味を考えさせる本です。ものに魂が宿るというのは、日本に古くからある考え方ですが、この作品では、ものが人の心と結びつき、時に縛ってしまうのをどろぼんが解放してあげます。ところどころ気になる点はありました。ヨゾラを殴る場面で、混乱して思わず殴ってしまったのでしょうが、ここでどろぼんが殴る必然性や、そのときの気持ちが理解できませんでした。その後、228ページに「それは、ただしいとか、ただしくないとかじゃない。ただ、だれでもみんなまちがうし、その小さな無数のまちがいがあつまって、世界はできているというだけ」とありますが、人や生き物の関係では、決してしてはいけないことがあって、ヨゾラを殴るのも、してはいけないことだったのではないでしょうか。キジマくんのペンケースを見つけたどろぼんは、自分に聞こえるものの声は、「持ちぬしが、あったことさえおばえてもいないもの。なくなっても気づきもしないもの。そして、持ちぬしのところから、消えてしまいたい、と、願っているもの」と気づきます。忘れられたものと、なくなった方がいいものは違うので、分けた方がいいのではないでしょうか。またフリーマーケットで、がらくたのようなものがなぜ売れるのでしょう。44ページに「あわてて、キジマくんに向きなおった瞬間に、ゴミ箱が、立てかけてあったグラウンド整備のトンボに当たって、がーん、と鳴り、とおりかかった一年生の女の子たちが、わっといって、たおれた」とあります。よく読めば、倒れたのはゴミ箱だとわかるのですが、はじめは女の子が倒れたのかと思いました。「ころして」と、ものの声が聞こえる場面はこわいですね。
夏子:物の声が聞こえて、しかし生き物の声が聞こえるようになると、物の声が聞こえなくなるという設定は、すごくおもしろかった。「ヨゾラを盗む」など詩的イメージも豊かで、歌もなかなかおもしろかったです。でもどろぼんは、実の親ではないとはいえ、ギャンブラー夫妻に愛されて育ったんですよね? それなのに人間の声が聞こえず、人間とはコミュニケーションがないわけで、う〜ん、人と対応しないところが、いかにも現代の日本の作品らしいのかな。でも、そこに問題を感じます。嫌いな本ではないし、魅力のある作品ではあるんですけど・・・。あさみさんの話し方が「〜ですわ」というのは、古くさいですよね。それから勾留された場所では、もっとさまざまな声が聞こえるはずでは? ヨゾラを愛すると、ものの声が聞こえなくなって、そうなると普通のどろぼうになってしまうんですね。
マリンゴ:独創的ですばらしいと感じました。ファンタジーだけど、宙にふわふわ浮いていない、不思議なリアリティがあると思いました。ただラスト、新しい価値観をもって未来に踏み出す物語だと思っていたので、「まだ泥棒を続けるのかい!」とツッコミを入れたくはなりました。
ルパン:すみません、私はおもしろくなかったです。そういうことを言う私がおもしろくない人間なのかな。「人もものを盗るのはいけません」って思っちゃって。持ち主がいらないモノなら盗んでもいい、というのが、どうしても受け入れられないんですよね。犬の「よぞら」に愛情を感じるようになって、連れ戻そうとするのはいいんだけど、「よばれていくのではなく、自分の意志で」と言いながら、盗んだ指輪を売ったお金で買い取ろうとするわけですよね。それって、ぜんぜん正攻法じゃないです。そもそも、盗品を売って生計を立てるというのはいかがなものかと。
夏子:工場で働いていますよ。
ハリネズミ:どろぼうが仕事なのでは? 私は、「どろぼん どろぼん どろろろろ〜〜」というこの呪文みたいなものをおもしろいと思えるかどうかで、この本は評価が違ってくるだろう、と思いました。私はダサイな、と思ってしまったので、作品そのものにも乗れませんでした。なのでよけいにいろいろなところにひっかかったんだと思いますが、まず浅見さんの台詞が「〜ますわ」なんて、いつの時代なんでしょう? 44ページの最初の3行については、倒れたのはゴミ箱なんでしょうけど、女の子たちが倒れたようにも取れるので、なんでこの文が必要なの、と思いました。それから、モリサワのリュックを盗んだ件はそのままでいいのか、とか、いじめられているキジマ君が昔のことを思い出して、いじめっ子のモリサワに謝るんだけど、そういう解決の仕方でいいのか、なんていうところも引っかかりました。犬のよぞらが前の虐待した飼い主に「ふさふさ、ふさふさ。いっしょうけんめい」尻尾を振ったんだけど、実は犬が尻尾を振るのは不安な時や恐ろしいときも尻尾を振るということがわかって、どろぼんが取り返しにいくという場面も、なんだかリアリティが希薄だなあと思いました。犬は全身で感情を表現するから尻尾以外からも見てとれることはあるはずなのに。最後も、生きものの声が聞こえるようになってきたどろぼんなのに、「遠いまちに引っ越して、どろぼうをがんばってみようとおもいます」なんていう終わり方でいいんでしょうか? とにかく疑問がいっぱいわいてくる本でした。
(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)