藤野千夜/作
理論社
2002.01
<版元語録>芥川賞受賞後第一作/私と弟が迷い込んだのは、微妙なズレのパラレルワールド!?/変わらない日常、だけど誰かのいない世界/同時代のせつないくらいのリアルさを、軽やかにつかみとる/著者初の書き下ろし長編
ねむりねずみ:『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作 理論社)と似てるなあって思いました。最初の一人称のしゃべり方で、ガガガってひっかかっちゃった。今風というのはこういうのかもしれないけれど、好きじゃない。とりとめがなくて、宙に放り投げられたような感じで。今を生きていくっていうのはこういう感じなんだろう、うまくそれが出てるな、とは思うけれど、書いてどうなるんだろうとも思った。両親がいなくても何となく生きていけちゃうという感じが今風なんだろうな。弟がいじめられているとか問題はあるのに、なんだか迫ってくるところがない。物書きとしてはすごく力があるのだろうけれど・・・。
ペガサス:はーっ(ため息)。3分の2くらいまではおもしろく読んだのね。現代に生きる子どもたちが、実態のない生活観というのをもっているというのを書きたかったのかなと思う。猫の死体を車がひいたんだけど両親に問いただしても答えは得られない、吉牛(牛丼の「吉野家」)の前に戻ろうとするんだけど戻れないというあたり、今の暮らしの中には、なんかへんだぞと思う瞬間があって、そういう雰囲気を書きたかったのかな。自分が本当に感じたことと、実際に起こったことのずれを書くために、最初のエピソードを出したのかも。ただ、そうなのかなと思うことはあっても、そうなんだよねと思うところはなかった。今の子の、何をしてもうざったいという感じはよく書けてる。小道具も今のもので、固有名詞をちりばめているから、今の子たちにはすっと読めるようになっている。切れ切れの感覚はよく書けてるけど、羅列にとどまっている。途中でABA´と3つの世界が出てきて、どう差があるのかなと考えて読むんだけど、クマノイさんみたいに差がある人もいれば、塾の先生みたいに差がない人物像もある。だから、混乱してしまうときもあった。結局3つの世界をどうやって決着をつけるのかな、ということになるけど、はたして辻褄の合う決着が得られたのか? でも、わけがわからなくてもいいのかな、というふうには思いました。今の子の追体験をした物語だと思います。
アカシア:作者は、性同一性障害を抱えた人ですよね。世間のスタンダードと自分のスタンダードのずれを、ふつうの人より感じていて、それを書きたかったんじゃないかな? 全編を通じて、不安定な感じが読者にも伝わってくる。それに、3つの世界の差があるのは、お父さんとお母さんとクマノイさんだけなんですよね。お父さんとお母さんが死んでいるんだ、と解釈すると、この作品の構造はすっきりわかるような気がしました。両親が亡くなっていると考えると、主人公の頭の中でだんだん想像の世界が薄れていって現実を受け入れる方向に進んでいくんだってことが、わかるでしょ。
ペガサス:そっか、だから写真にうすく写るんだ。
トチ:最後の1行を読んだら、それがわかって悲しくなったけれど、たしかにわかりにくいよね。
アカシア:会話は、今の中学生の会話になっているんだと思うんだけど、p117のダイゴの「失敬だなァ」っていうのは使わないよなと思いました。あと、この子たちが通っている私立の学校は、学生帽をかぶらなければならないくらい校則が厳しいとすれば、ナイキのスニーカーなんか通学に履けないんじゃないのかな? リアリティということでは、そのあたりひっかかったんだけど。題名の『ルート225』って、どういう意味? 国道は出てくるけど。
羊:私はね、うそー、なんでこれで終わるのかよー、と思いました。でも、子どもの本を読むのは能力がいるんじゃないか、もう私は読めない体質になったんじゃないかとも感じました。会話にいちいちひっかかったりして、読みづらかった。両親が死んだとは思っていなかったので、それを聞いたらストンときちゃった。でも、気持ちがおさまらないので、芥川賞をとった『夏の約束』(藤野千夜作 講談社)を読んだら、そっちは現実逃避の話ではなくて、私たちはこっち側しか見えてないんだけど、向こう側も見えるっていう中間の感覚を書いてるのかなと思いました。p280の「この世界の東京じゃなくてもとの世界の東京のことだけど、どちらにしろ離れてしまうと、その境界はじょじょにあいまいになって、今ではどっちも同じように、ぼんやりとなつかしい場所のような気もする。」という部分を読んだときは、その感覚がわかるような気がした。
もぷしー:この本は、理屈や常識でわかろうとして読んじゃいけないんだなと思いました。最後には元の世界に戻ってくるんだろうと思いながら読んだら、肩すかしをくらいました。そもそも、二人の姉弟に、現実に戻りたいという切迫した気持ちがないような気がする。基本的には、現実に戻ろうとしていると思うんだけど、なんで戻りたいのかは書かれてない。テレカがなくなれば、それはそれであって、本当に戻らなくちゃいけない切迫感はない。今の現実を本当は受け入れたくなくて、考えないようにしていたら、ほかの世界に行ってしまった話なのかなと思いました。弟のダイゴも、自分と世間とのずれを感じてるんだけど、いじめでもなんでも、なかったことにしようとバリアをはっているうちに、現実とか本当のことへのこだわりがなくなってきてしまったんじゃないかな。この話の、パラレルワールドの世界は、二人が現実のところからずれてしまって、でも真実の世界もうっすらと見えているようすを描いているのかと思いました。
紙魚:私は、なにしろ会話がうまいなあと惚れ惚れしました。先月『海に帰る日』(小池潤作 理論社)を読んだときは、こんな言い方するかな? なんてところが、ところどころあったけど、この人の会話には、そういうところがひとつもない。単に語尾なんかの問題ではなくて、ディテールはもちろん、やり取りや間合いが小気味いい。実際の会話って、説明とかどんどんとばして、お互いがわかっていれば飛躍していきますよね。でも、小説ってついつい説明過多になっちゃう。でも、これほんとに、そうそう、そうなのよーって、リズムが心地よかったです。物語としては、これまでの藤野さんの作品の方がおもしろかったけど、『ぶらんこ乗り』みたいに、筋を追うだけが必ずしも本じゃないとも思います。そういった意味では、成功していると思う。
すあま:『ルート225』のタイトルは、数学の√(ルート)だということに読んだ後で気づいた。章タイトルにある「ルート169」、13歳からはじまっていて、最後は「ルート225」で15歳、という意味がわかったら、この本についてはもう気がすんだ。会話の感じは、テンポもいいし、ちょっと前でいうと、吉本ばななというところかな。最後どうなるかを知りたくて読んでいったけど、女の子の気持ちに深みがなくて、気持ちにそえなかった。悩みもさらっとしているし、違う世界に行っても解決するわけでもない。必死さも今一つ伝わってこない。
裕:テーマは「ずれ」だなと思ったんですよね。現実とのずれ、両親とのずれ、ずれのモチーフをいろいろなところにもってきていて、究極的なずれは、あの世とこの世だったんだなと気づいたんですね。ただ、私はリアリティが感じられなかった。不安定さにリアリティがなくて、感覚的な部分と構成が合致しなくて、外枠と内容物がうまくかみあっていない。ふりまわされて疲れました。会話が物語をつくっているようには見えるけど、物語がおもしろくない。タイトルは、すあまさんの説明をきいて納得しました。
ブラックペッパー:不思議感あふれる作品でした。「理解されること」を重要視していないのかな。わからない人にはわかってもらわなくてもいいというのも、それはそれで好きになることはあるけど、この物語の場合は、どういう仕掛けだったのか知りたくて読んでたのに、私は両親が死んでしまったとは思わなかったので、結局どういうことだったのかわからなくてザンネン。でも、全体の空気は、とってもよかった。たいへんな事態なのにさめさめだったり、会話なんかも今の時代の人はまさにこういう感じ。このあいだの『海に帰る日』は無理してる感じがあったけど、これはナチュラル。藤野さんは、こういうの上手だなあ。このユルーイ感じ、好き。
トチ:わたしも会話はうまいなあと思いました。こういう会話が書ける人って、耳がいい作家だと思う。ただ、これだけのページを費やして書く内容かなあという気もしました。それに、たとえば『吉牛』とか今時の言葉をたくさん使っているけれど、こういう言葉って、あっという間に古くなってしまうのよね。子どもの本はベストセラーよりロングセラーってよくいわれるでしょ。作者は別に子どもの本って意識して書いていない、読みつがれていってほしいなんて思っていないのかもしれないけれど。『ぶらんこ乗り』もそうだったけれど、このごろの理論社の創作ものには、「別に分からなければ分からなくてもいいですよ。好きな人だけ読んでくれればいいですよ」って言われているような気になってしまうんだけど……。
アカシア:以前理論社を創立した小宮山量平さんのお話をうかがったことがあるんだけど、彼は、理論社は必ずしも完璧に仕上がった作品ばかりでなく、これは見所があるとか、この作家は将来性があるっていう視点で本を出版するんだって、おっしゃってましたよ。
ねむりねずみ:すみません、さっき開口一番さんざん批判しておいて寝返るみたいで気が引けるんですが、さっきの、この作品は両親が死んじゃったことを受け入れようとしている子どもの話だというご意見で、目から鱗が落ちました。そう思って見直すと、すべてがあるべきところに見事にはまるんですね。見事にはまるし、作品としての迫力もすごい。非常に近しい人の死を受け入れられずに、すべての事柄を薄い膜を通してしか感じられないでいる人間から見たこの世という感じがよく書けている。この長さがあって、しかも構造もなんだかがたがたしているからこそ、そういう人間の気持ちがきちっと表現できている。そういう意味で必然的。短編ではこういう風には表現できないと思います。野心的だし、なかなかない作品。もっとも、読むほうは疲れるけれど。
ペガサス:ビニール傘を広げるときの感覚とか、ありきたりの日常の描写が、すごくうまいよね。ただね、男の子っていうものを、手にびっしり毛がはえてくるとかって表現するところは、ちょっとげっとなっちゃった。
羊:私も、性同一性障害を抱えた作家だというのを聞いて、描こうとしていることがわかったような気がしました。
紙魚:いやいや。そういうところを知らなかったとしても、この作品世界はわかると思いますよ。
(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)