原題:THE BREADWINNER by Deborah Ellis, 2000
デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2002
版元語録:タリバン政権下のアフガニスタン。女性は男性同伴でなければ、1歩も外に出られない。父をタリバン兵に連れ去られ、食糧もお金も手に入らなくなった一家の窮地を救うため、11歳の少女パヴァーナは髪を切り、少年となってカブールの町へ出ていく……。たくましく生きるアフガンの少女を描いた作品。
むう:あまりぱっとしない印象でした。私のようにアフガニスタンのことに関心はあってもそれほど詳しく知らない人間にとっては、はじめて知ることばかりなので、それに圧倒されて読み進めることができたんだけど、物語として面白いというタイプの本ではありませんでした。フィクションの場合、現実そのものが強烈ななかで、それに拮抗するどのような物語を作れるかが問われますよね。イラン映画に「少女の髪どめ」というのがありましたが、アフガン難民の少女が少年と偽って働き、その子が女であると見破った少年が恋心を抱くというもので物語としてよくできていました。別に恋でなくてもいいので、この本にももっと引きつける物語がほしかった。もうひとつ、主人公の母親の印象がバラバラで、継ぎ接ぎ細工のような妙な感じでよくわからなかった。
アカシア:『ガラスのうさぎ』は、主人公ががんばるばかりなのに対して、主人公の女の子とお姉さん、男の子など、日常が書かれている点に好感を持ちました。ただ、私は中村哲さんの本を読んでから、タリバン=悪という単純化はアメリカの攻撃=OKにつながるんだなあ、と思って警戒しているんですが、この本は、タリバンが悪いという北米の視点で書かれちゃってますね。それにp9には「ソ連軍が去っていくと、ソ連軍に銃をむけていた人びとは、まだその銃でなにかを撃ちつづけたいと思った。そこで、たがいに銃をむけて撃ちあいはじめた」とあり、p31には「アフガニスタン政府はいつの時代も、自分たちに反対する者を刑務所にほうりこむ」とありますが、歴史や背景を知らない日本の子どもたちは、アフガニスタン人は野蛮で、アフガニスタンは遅れた国なんだ、と思ってしまわないかと心配です。訳では、p23でお父さんが「われわれアフガン人は、イギリスの支配を望んだだろうか?」とマリアムにきくと、マリアムが「ノー!」と英語で答えるんですね。原文はカナダ人が書いているのでNo! かもしれませんが、日本語ならもっと別の表現にしないと、ここはまずいですね。確かにお母さん像は、私もわかりにくいと思いました。お父さんが刑務所に入れられたとわかっているのに、どうして通りの人にお父さんの写真を見せて歩くのかも疑問だし、最後も、お母さんのほうからパヴァーナを捜してるふうではないさないのは、どうしてなんでしょう?
ハマグリ:異文化世界の中で次から次へといろいろなことが起こるので、目を丸くしながら読んでしまうという感じだったけど、物語としては、今ひとつ物足りなかったわね。お母さん、お姉さんに人間的魅力が感じられません。怒られたり、いばられたりしても、主人公にとっては家族なので、どこかにもっと愛情を感じられる部分があってもいいと思うのに。子どもにどうやって戦争と平和のことを考えさせるかということを最近考えているんだけど、児童文学というのは主人公が子どもなので、戦争を扱った児童文学は、どうしたって被害者の立場で描かれることになってしまう。『ガラスのうさぎ』のような体験ものだと、なんて大変だったんだろう、なんてかわいそうなんだろう、だけで終わってしまっていいのか、という問題があるでしょ。「なぜ、そうなったのか」を考えるきっかけをつかむようなものが、これからの戦争児童文学には必要になってくるんじゃないかしら。それから、子どもにとっては決して楽しい話ではないので、それでも読んでおもしろかったと思えるような、物語としての価値もないといけないと思うの。
もぷしー:書名『生きのびるために』の「ために」に悲壮感を感じてしまいました。パヴァーナの生活と性格を考えると、「生きのびてやる」とまではいかなくても、もっとタイトルに生命力がほしかった。原書の書名のほうが力強いですよね。「未来は未知のまま、パヴァーナの前につづいていた」という終わり方は、まだ続いている感じがあって、この作品に合っています。お母さんの人物像がはっきりしないという感想は、私ももちました。最後にお母さんが作った雑誌が出てきますが、その中身などが書かれていれば、もっとはっきりしたのでは? 思ったより事態は悲惨だというのはわかりましたが、読者は私にはどうしようもない、という気持ちになってしまいます。戦争文学全体として大事だと思ったのは、悲惨、悲惨でなく、責任を感じながら強くなっていくという人の姿。それは伝える意義があるかと思いました。
きょん:現実に起きている話なのに、ドラマのように読んでしまいました。まさに戦争が、フィクションになっているようでした。『ヒットラーのむすめ』もそうでしたが、作中の主人公が、「ではどうしたらいいの?」って問いかけ、その答えを読者が考えながら、読み進めていくことで、戦争についてを考えるきっかけになるのだと思います。
パヴァーナに悲壮感がなく「生き抜く」強さが全面に感じられるので、『ガラスのうさぎ』より気持ちよく読めました。確かに9ページの「ソ連軍が去っていくと〜」の部分は、そんなに断定的に、人種差別的なことを言っていいのかしら……って、びっくりしました。あまりにもタリバンの描き方が乱暴だったし。
父親と一緒にゴザを広げていた市場の一角の建物の高い窓から、時折ものが投げおろされていますが、だれが、なんのために、ということがとても気になりました。これは、想像ですが、建物から出てこれない女の人が、「私は、まだ生きていますよ」というメッセージを送ってるんでしょうか。また、父親と一緒だった女の子が、一人でゴザを広げるようになり、男装しても、女の子だとわかったので、「がんばれ」って応援するつもりで、中からものを投げおろしていたんでしょうか。最後、パヴァーナが、この町を去るときには、もう市場には来られないので、建物の中の女性を励ますこともできないからと言って、花を植えるところからも「同じ女性として、会えないけれども、一方は、かげから姿を見て、一方は想像することで、励まし合っていた」のかもしれないなあと想像しました。すれ違いだけれど、お互いに思いは通じていたのか……と。でも、このシチュエーションは、読者が理解するには、結構難しいと思いました。もう少し、そこのところもわかりやすく描けていたら、よかったのですが。
愁童:異文化を見下して書いている感じがして、好感を持っては読めなかった。宗教的な日常生活の部分は書かれていないし、タリバン=悪、女性のブルカ=女性蔑視みたいな視点ばかりが目立ってしまう。実際には、ああいう圧制下にあっても、庶民レベルは結構しぶとく生きてるだろうし、そういう生活者同士の連帯や生活臭のある部分をきちんと書いてくれないと、アフガンの人は可哀想、イスラム原理主義は悪し、だけみたいな感じになって、日本の子どもには何だかよくわからないのではないかな。
アカシア:訳者あとがきには、この著者はパキスタンのアフガン難民キャンプを取材したと書いてありますよね。だけど、国外に逃げられたのはお金のある人だったと、中村哲さんは言ってました。じっさいにパキスタンの中に入ってみないと、わからないところもあるのかもしれませんね。
ハマグリ:窓のおばさんのことをもっとおもしろく書くといったことが、フィクションの面白さなのにね。事実を土台にしてはいても、もっと子どもが面白く読めるものにしてほしいな。
愁童:家族間の体温も感じられないね。
もぷしー:おねえさんは資本主義的社会のそこらにいそうな人ですね。お父さんも西洋風の理想のお父さん。そのせいか、悲惨な状況に西洋の家族が巻き込まれた、という印象を持ってしまいました。
カーコ:世界で起きているこういう現実を知らせることは大切だと思うんですけど、この本は、お話として読者を最後までひきつけていく吸引力があまり感じられませんでした。パヴァーナの気持ちで読んでいこうとするのだけれど、家族の描写がちぐはぐで、なかなか寄り添わせてもらえない。子どもにこのような現実を伝える書き方、子どもにわかる書き方とはどういうものだろうと考えさせられました。
(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)