原題:MIT CLARA SIND WIR SECHS by Peter Hartling, 1991
ペーター・ヘルトリング/著 佐々木田鶴子/訳
偕成社
1995
版元語録:父さんと母さんと、わたしたち兄妹一家に、もうひとり家族がふえることになった。そうしたら、お母さんに病気が発見され、赤ちゃんへの影響を心配して、みんなは悩んだり、いらいらしたり。日常のドラマをユーモラスに描く。
アカシア:取り上げられているのが普通の家庭で、子どもがすでに3人いるところに赤ちゃんが生まれるという設定。お父さんもお母さんも普通の感じで、そのあたりは好感がもてます。ただ、ヘルトリングの他の作品と比べて印象が薄いのは、フィリップに視点になったり、テレーゼの視点になったりと動いているからかもしれませんね。
雨蛙:ヘルトリングということで期待して読みはじめたんですが、物語の世界に入るのにわりと時間がかかりました。ごく普通の家庭の日常が淡々と描かれていくせいかもしれません。好きだけれど、ほかの作品と少し違うという印象。一番下のパウルが、視点がずれているのではと思うところがあったことと、おばちゃんが二人出てきて、そのままぱたっと出てこなくなったのが残念だったですね。障害を持って生まれるかもしれないという深刻な状況ですが、終わり方がさすがヘルトリング。家庭ものとしてよく描けています。ただ、クララのことではなく、それぞれの家族の描写が多く、起伏が少なくて子どもには読みにくい面があるかも。フィリップは、カメラ的な役割を背負いすぎているきらいがあると感じました。フィリップ自身の気持ちをもっと描いてほしかったし、お父さんは、その性格を考えるともっと違ったふうに子どもたちに写るのではと思えるところもありました。それだけ、ヘルトリング自身の思い入れが強い作品なのだと思うけど。
アサギ:ヘルトリング自体は好きだけれど、これはインパクトが弱いと思いました。でも、リアリティはある。すごく好きな表現があって、164ページ、2行目の「お父さんは、帰ってくるのがすごく上手だ!」というところ。私は個人的に自分の体験とダブるので、その意味では熱心に読んでしまったわ。最初にドイツでベビーシッターをした家が、この家族と似ていたので。
ハマグリ:ヘルトリングの作品は次々に読んでいましたが、『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』など、とても印象的な作品がある中では、この本は印象はうすい。登場人物のだれかが主役ではないから、そうなるのでしょう。でも、5人の家族がそれぞれにいろんなことを考えながら、赤ちゃんを迎える、という雑多な感じが、逆にこの本の魅力だと思います。実際にクララが登場するのは本の最後の部分で、そこに至るまでの家族の気持ちが描かれ、まだ生まれていないけれど、クララは家族の一員だ、と意識していく過程が書けているので、少子化でお母さんのおなかが大きくなってくるのを体験する子どもが少なくなっている昨今、日本の子どもにも読んでほしいと思うな。
ケロ:『フラワー・ベイビー』のあとで読んだので、イメージが作りやすかった。なるほど、いろいろな人の目線で描かれているのは、あえて意図していたのかと思いました。パウルがすることや、ふりまわされてしまうところなど、本当にこんな感じだろうなあと思いますよね。ヘルトリングが自分の家族に近いものを描いているからこそのリアリティ。その中に、味がありますね。二人のおばさんの天然ボケぶりなど、まわりの人たちも味がある。いろいろな色を見せてもらったという印象。ふつう、この手の話だと、クララが生まれて色々あって…という話になると思うけど、生まれてくる前の話を描いていながら、クララに対するまなざしをちゃんと描いているところがすごいなあと思いました。
カーコ:他の本のほうが印象深いというのはあるけれど、何より登場人物が面白いし、日常生活の機微がとてもよくかけていると思いました。書きすぎず、不足もなく、読者が考える余地を残している。日常のごくあたりまえのことが文学になっているのに感動しました。たとえば33ページの3行目からの「こいつ」騒動。ここだけで、この家族のありようがよくわかる。揺れや迷いが出ていて、人物にふくらみがある。あと、組体裁や本を持った具合が、本の内容とあっていて気持ちがよかったです。シリーズ全体として、本作りがいいですね。でも今は、とかく新しいものばかりがもてはやされるので、埋もれてしまうのではないかと心配です。折に触れて、今の子どもに紹介していきたい作品です。
ハマグリ:ヘルトリングは大好きで、いろいろと読んでいます。『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などと比べると、なんとなくごちゃごちゃっとしていて印象が散漫だけれど、日常がとてもよく書けているのがいいなと思いました。ヘルトリングが書きたかったのは、家族に赤ちゃんが加わることによる一人の人の成長ではなく、赤ちゃんが加わることによる集団としての家族の変化なんだと思います。だから誰かひとりに視点を固定する形でなくなって、視点が移るので拡散もするのだけれど、そこが書きたかった作品なんじゃないかと思いました。ただ、訳については私もひっかかったところがありました。
アサギ:ヘルトリングは、原文がとても洗練されているので、訳は難しいの。ヘルトリングはもともと詩人なので、言葉が究極までそぎおとされているから。そのまま訳すとぶっきらぼうだし、かといって足していくと、原文の味がなくなってしまう。行間を読む作家ですね。ネストリンガーと対照的。ところで、このお父さんって、どんな感じがします? 88年に来日したとき、ヘルトリングの奥さんが、「彼には家族というものがわからない」と言っていたのを思い出しました。現実のヘルトリング家は、奥さんが支えていたのではないかしら。
むう:ヘルトリングさん自身、幼少期は家庭に恵まれなくて、今は暖かい家庭を築いているからこそ、こういうものを書きたいと思ったのかもしれませんね。幼少期の厳しかった現実からくる寂寥感やなにかが『松葉杖……』などの作品を生み出したとしたら、これはヘルトリングさんの今が生み出したのかな。
(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)