夢の彼方への旅

エヴァ・イボットソン『夢の彼方への旅』
『夢の彼方への旅』
原題:JOURNEY TO THE RIVER SEA by Eva Ibbotson, 2001
エヴァ・イボットソン/著 三辺律子/訳
偕成社
2008-06

版元語録:20世紀初頭のロンドンからアマゾンの奥地へ。ヨーロッパの文明と大自然が混在する世界で、少女マイアを待ち受ける恋と冒険の物語。

ショコラ:おもしろかったです。アマゾンの自然や暮らしのようすもよくわかったし、主人公のマイアがいろんなことに興味をもつこと、イギリス社会の住居のようすもよく書かれていると思いました。マイアがいっしょに暮らすアマゾンの生活にとけこめない夫人、変わったコレクションを持っているご主人、友達になれると思っていた双子など家族の性格描写がよく描き分けられていました。フィンと行く湖がとてもきれい。ミントン先生はマイアをあたたかく見守っている先生ですが、ミントン先生とフィンの関係もわかり、人と人との関係がつながっていておもしろかったです。読んでいて情景がよくわかったので、子どもも読みやすいだろうと思いました。

もぷしー:場所の移動とか違った生き方をしてきた人間の紹介が、きちんと整理されてとてもスムーズに描かれているところに、作者の達者さを感じました。マイアが引っ越した先の環境も、現地の湿度とか、周囲の人の行動とか趣味などを通じて書かれているので、無理なく立体的な世界が作り出されているのだと思います。ただ、これは好ききらいの問題になると思いますが、『小公子』になぞらえて書いているからか、登場人物がよい人、悪い人にくっきり分けられていて、あまりに通り一遍。たとえば双子ですけど、2人セットで描かれて、意地悪をするという特徴しかない。自然の情景描写とかはものすごく詳しく描かれてるのに対して、双子が意地悪に育ってしまった理由っていうのはほとんど描かれていなくて、キャラの現実味が薄くなっているなって。意地悪キャラの現実味がないと、それと闘っていくマイアの良さ、強さの現実味もなくなる感じがしてもったいない。他に気になったのは、お金持ちの子どもが親を失い、意地悪な人に囲まれて苦労したけれど、最後にはいい人に出会って、お金にも恵まれて幸せになりました、というシンデレラストーリーが、現代の子どもに対して説得力があるのかなという点。あまりに現実とかけ離れているので、子どもがこれを読んでどういう刺激を受けるのか、知りたいです。

カワセミ:確かに、『小公子』、『小公女』を思わせるような、一昔前の児童文学らしい作品だなと思いました。わかりやすい構図をたくさん用意しているので、とても読みやすい。よい人物と、いけすかない人物もはっきりしている。インディオの人たちの自然にとけこむ暮らしと、カーター家の人々に代表される、自然をシャットアウトする暮らし方の対比。フィンのおじいさんのように血筋にこだわる人たちと、身寄りはなくなっても出会った人とのきずなを大切にする人たちの対比。そして、3人の子どもが出てくるけど、3人とも親がいない孤児。これも子どもの読者をひきつける要因ですね。3人とも今の境遇に満足していなくて、自分の居場所を求めている。3人とも魅力的なキャラで、子どもが共感できる部分を持っている。そんな3人の境遇をいろいろ織りまぜながら語っていくので、飽きずに読んでいける。しかも読みながら、この3人の結末は必ずハッピーエンドになるという確信があって、安心して読める。そういうところも、一昔前の児童文学に似ているのでしょう。舞台になったがアマゾンの自然もとても魅力的。それから、随所に見られるユーモア。双子の描写や、カーター家の家族は戯画化され、おもしろく描かれている。ピンクのブタみたい、という戯画化した描き方なので、最後の顛末があわれでも、あまりかわいそうと思わず笑って読めてしまう。2人のカラスも、本人たちのきまじめさと、はたからみた様子のギャップがおもしろいし、ミントン先生がコルセットをはずす場面も、おかしい。『小公子』の時代の児童文学と比べて、インディオの人たちの描き方は、どう変わっているんでしょう? 登場人物たちはこの時代のイギリス人だから、差別的な見方をする人も出てくるわけで、それはいいんだけど、作者の姿勢としてはこれでいいのかな? 自然と暮らす人々へのあこがれとか尊敬の念というのが出てはいるんだけど。

ハリネズミ:舞台は何年でしたっけ?

バリケン:1910年って書いてありましたよ。

カワセミ:インディオのそれぞれの部族の人たちの描き方って、難しいですよね。全体的には共感を持って書いているんだろうけど、ちょっと微妙だなって。

セシ:よかったのは、マイアが生き生きしたキャラクターで読者をひっぱるところ。でも全体としてみると、それほどいい本とは思いませんでした。ものごとの考え方の構図がありきたりというか、二項対立なんですよね。文明と未開、善と悪。未開な部分は善であるし、アマゾンの人々は素朴であるけれども、自分たちより未開で劣っているというような意識を感じました。外の人間がラテンアメリカのことを書くのと、ラテンアメリカの人が自分たちのことを書くのとは、やっぱり違う。現地の人が書いたものなら、あちらのようすを描くのに、部族の風習や食べ物、まじない師や、自然と結びついたアニミズム的な考え方などが、たいてい自然に盛り込まれているので。これは、イギリスの植民者の視点ですよね。

カワセミ:作者はそういう気持ちはないのかもしれないけど、舞台が古いのである程度そういう描き方をしなければならなかったのでは?

セシ:作者が実際に現地のことを知らないんじゃないかしら? 知識だけで書いている感じがします。

バリケン:物語としてはおもしろいし、ユーモアのある語り口もいいと思いました。これだけの厚さのものを物語のおもしろさにひかれて一気に読めば、子どもも満腹感があるだろうし、その辺は評価したいと思います。でも、それ以上感動するとか、魅かれるという作品じゃありませんね。あくまでもエンターテインメントで、深みがないというか。アマゾンの描き方も、行ったことのない人や、観光旅行でちょっと滞在した人が憧れる楽園のよう。セシさんと同じように、作者はブラジルには行ってないと思うわね。『小公女』のブラジル版というか。イーヴリン・ウォーの『黒いいたずら』(白水社)も作者は読んでいるだろうし、そういうものを重ねあわせたような作品。それから、双子一家の描き方って、ハリポタのおじさん一家の描き方と同じよね。意地悪な子を「太ってる」とか「ブタみたい」と書いてあるのを読んで、太った子がとても悲しがったとアメリカに行ったときに学校の先生が言っていたけれど、そういう書き方はどうなんでしょうね?

ハリネズミ:この作品は、ステレオタイプのストーリーをうまく組み合わせて、お定まりのキャラクターをうまくちりばめたエンタメですよね。フィンていうのは、あこがれの少年、クロヴィスは『王子と乞食』、マイアは『小公子』、『小公女』。それはいいんだけど、現代の作家が書くんだからもっと新しい視点がほしいのに、それはないんですね。リアリティも希薄。
フィンはキニーネを飲まなきゃって書いてありますけど、ずっと飲みつづけてたら体をこわします。訳語についても、おかしいと思うところがいろいろありました。たとえば、日本ではアリゲーターもクロコダイルもワニですが、この本にはアリゲーターは普通のワニとは違うって書いてある。普通のワニっていうのがクロコダイルなんですね。これでいいのかな? もっと引っかかったのは、酋長という訳語です。酋長っていうのは、歴史的にみると、侮蔑的に使われてきた言葉です。この訳者がわざと使っているのか、それとも知らないで使っているのか。

バリケン:chiefは、たいていは族長とかリーダーとか訳すわよね。

ハリネズミ:「酋長」って訳語を使っていいとか悪いとか言う前に、私はこの訳語を使うことで、物語全体の構図がへんなふうになっちゃう、と思ったの。著者はインディオ(インディヘーナ)の人たちをある種のあこがれをもって、プラスイメージで描いているわけですよね。殺虫剤を所かまわずまいている人たちと対比してるわけですから。でも、酋長という言葉を使うことによって、そのプラスイメージが割り引きされちゃうんですね。未開で遅れた人たちというイメージが前面に出てきちゃいますから。その結果、本当にすばらしいのは、西欧的な価値観にのっとったうえで、自然の中でインディオのまねごとをして暮らすフィンみたいな人たちだっていう図式になっちゃう。著者が言いたかったのは、本当にそういうことなのかな?

バリケン:たとえばイングランドだって、なんとか族とかいうけど、そういうのは族長って言いますよね。すべての古い社会の長に「酋長」って言葉を使ってるわけじゃない。

ハリネズミ:翻訳者って、歴史やら文化人類学やら民族学やらいろいろと知らないといけなくて大変だとは思うんですけど。でも、もし舞台が古いから古い言葉を使おうっていうんで「酋長」を持ってきたとすれば、安易すぎる。言葉って生きてるから、元の意味だけじゃなくて、使われている間に付与されてきたものもたくさん含んでいるでしょ。その全体をとらえたうえで使ってほしいな。

カワセミ:最後に4人はアマゾンに戻っていくんだけど、結局めずらしい動物がとれるとか、そういう興味で行くっていうんじゃ、作者自身の限界も感じるわよね。

バリケン:観光客的ね。

カワセミ:博物館にいって、めずらしいものを見てみたいって思うところにとどまってる。

バリケン:作者はいろんなことを調べたって書いているけど、植物なんかは調べても、歴史的なことは調べてないんじゃないかしら。

ハリネズミ:エンタメ系でも、エイキンとか、もっと考えている人は考えているけど、この作者には、おもしろければそれだけでいい、っていう危うさがあるのかも。

バリケン:訳語についてもう一言。原文読んでないけどわからないけど、28ページ「ベスト」ってシャツのことじゃない? アメリカだとvestはベストだけど、イギリスでは下着のシャツなのよね。

もぷしー:お定まりのキャラクターだと思って読めない部分もありますよね。めずらしい昆虫をつかまえたとき、本国に送ったらすごく高く売れるとか、妙になまなましい。今後も、めずらしい昆虫なんかをつかまえて暮らすのかなって。

バリケン:それで絶滅しちゃったりしてね。

ハリネズミ:そういうところは、危ういよね。うまい作家で読ませてしまうから、よけい危うい。

カワセミ:そういところに、無意識の甘さが出ちゃうのよね。ポロっと書いちゃうのよ。

バリケン:ジャクリーン・ウィルソンの作品みたいに、環境は変わらないけれど、主人公は変わっていって、生きる力を得ることができるというのとちがって、いろんな意味でひと昔前の物語って感じがするわね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年2月の記録)

夢の彼方への旅

エヴァ・イボットソン『夢の彼方への旅』
『夢の彼方への旅』
原題:JOURNEY TO THE RIVER SEA by Eva Ibbotson, 2001
エヴァ・イボットソン/著 三辺律子/訳
偕成社
2008-06

ショコラ:おもしろかったです。アマゾンの自然や暮らしのようすもよくわかったし、主人公のマイアがいろんなことに興味をもつこと、イギリス社会の住居のようすもよく書かれていると思いました。マイアがいっしょに暮らすアマゾンの生活にとけこめない夫人、変わったコレクションを持っているご主人、友達になれると思っていた双子など家族の性格描写がよく描き分けられていました。フィンと行く湖がとてもきれい。ミントン先生はマイアをあたたかく見守っている先生ですが、ミントン先生とフィンの関係もわかり、人と人との関係がつながっていておもしろかったです。読んでいて情景がよくわかったので、子どもも読みやすいだろうと思いました。

もぷしー:場所の移動とか違った生き方をしてきた人間の紹介が、きちんと整理されてとてもスムーズに描かれているところに、作者の達者さを感じました。マイアが引っ越した先の環境も、現地の湿度とか、周囲の人の行動とか趣味などを通じて書かれているので、無理なく立体的な世界が作り出されているのだと思います。ただ、これは好ききらいの問題になると思いますが、『小公子』になぞらえて書いているからか、登場人物がよい人、悪い人にくっきり分けられていて、あまりに通り一遍。たとえば双子ですけど、2人セットで描かれて、意地悪をするという特徴しかない。自然の情景描写とかはものすごく詳しく描かれてるのに対して、双子が意地悪に育ってしまった理由っていうのはほとんど描かれていなくて、キャラの現実味が薄くなっているなって。意地悪キャラの現実味がないと、それと闘っていくマイアの良さ、強さの現実味もなくなる感じがしてもったいない。他に気になったのは、お金持ちの子どもが親を失い、意地悪な人に囲まれて苦労したけれど、最後にはいい人に出会って、お金にも恵まれて幸せになりました、というシンデレラストーリーが、現代の子どもに対して説得力があるのかなという点。あまりに現実とかけ離れているので、子どもがこれを読んでどういう刺激を受けるのか、知りたいです。

カワセミ:確かに、『小公子』、『小公女』を思わせるような、一昔前の児童文学らしい作品だなと思いました。わかりやすい構図をたくさん用意しているので、とても読みやすい。よい人物と、いけすかない人物もはっきりしている。インディオの人たちの自然にとけこむ暮らしと、カーター家の人々に代表される、自然をシャットアウトする暮らし方の対比。フィンのおじいさんのように血筋にこだわる人たちと、身寄りはなくなっても出会った人とのきずなを大切にする人たちの対比。そして、3人の子どもが出てくるけど、3人とも親がいない孤児。これも子どもの読者をひきつける要因ですね。3人とも今の境遇に満足していなくて、自分の居場所を求めている。3人とも魅力的なキャラで、子どもが共感できる部分を持っている。そんな3人の境遇をいろいろ織りまぜながら語っていくので、飽きずに読んでいける。しかも読みながら、この3人の結末は必ずハッピーエンドになるという確信があって、安心して読める。そういうところも、一昔前の児童文学に似ているのでしょう。舞台になったがアマゾンの自然もとても魅力的。それから、随所に見られるユーモア。双子の描写や、カーター家の家族は戯画化され、おもしろく描かれている。ピンクのブタみたい、という戯画化した描き方なので、最後の顛末があわれでも、あまりかわいそうと思わず笑って読めてしまう。2人のカラスも、本人たちのきまじめさと、はたからみた様子のギャップがおもしろいし、ミントン先生がコルセットをはずす場面も、おかしい。『小公子』の時代の児童文学と比べて、インディオの人たちの描き方は、どう変わっているんでしょう? 登場人物たちはこの時代のイギリス人だから、差別的な見方をする人も出てくるわけで、それはいいんだけど、作者の姿勢としてはこれでいいのかな? 自然と暮らす人々へのあこがれとか尊敬の念というのが出てはいるんだけど。

ハリネズミ:舞台は何年でしたっけ?

バリケン:1910年って書いてありましたよ。

カワセミ:インディオのそれぞれの部族の人たちの描き方って、難しいですよね。全体的には共感を持って書いているんだろうけど、ちょっと微妙だなって。

セシ:よかったのは、マイアが生き生きしたキャラクターで読者をひっぱるところ。でも全体としてみると、それほどいい本とは思いませんでした。ものごとの考え方の構図がありきたりというか、二項対立なんですよね。文明と未開、善と悪。未開な部分は善であるし、アマゾンの人々は素朴であるけれども、自分たちより未開で劣っているというような意識を感じました。外の人間がラテンアメリカのことを書くのと、ラテンアメリカの人が自分たちのことを書くのとは、やっぱり違う。現地の人が書いたものなら、あちらのようすを描くのに、部族の風習や食べ物、まじない師や、自然と結びついたアニミズム的な考え方などが、たいてい自然に盛り込まれているので。これは、イギリスの植民者の視点ですよね。

カワセミ:作者はそういう気持ちはないのかもしれないけど、舞台が古いのである程度そういう描き方をしなければならなかったのでは?

セシ:作者が実際に現地のことを知らないんじゃないかしら? 知識だけで書いている感じがします。

バリケン:物語としてはおもしろいし、ユーモアのある語り口もいいと思いました。これだけの厚さのものを物語のおもしろさにひかれて一気に読めば、子どもも満腹感があるだろうし、その辺は評価したいと思います。でも、それ以上感動するとか、魅かれるという作品じゃありませんね。あくまでもエンターテインメントで、深みがないというか。アマゾンの描き方も、行ったことのない人や、観光旅行でちょっと滞在した人が憧れる楽園のよう。セシさんと同じように、作者はブラジルには行ってないと思うわね。『小公女』のブラジル版というか。イーヴリン・ウォーの『黒いいたずら』(白水社)も作者は読んでいるだろうし、そういうものを重ねあわせたような作品。それから、双子一家の描き方って、ハリポタのおじさん一家の描き方と同じよね。意地悪な子を「太ってる」とか「ブタみたい」と書いてあるのを読んで、太った子がとても悲しがったとアメリカに行ったときに学校の先生が言っていたけれど、そういう書き方はどうなんでしょうね?

ハリネズミ:この作品は、ステレオタイプのストーリーをうまく組み合わせて、お定まりのキャラクターをうまくちりばめたエンタメですよね。フィンていうのは、あこがれの少年、クロヴィスは『王子と乞食』、マイアは『小公子』、『小公女』。それはいいんだけど、現代の作家が書くんだからもっと新しい視点がほしいのに、それはないんですね。リアリティも希薄。
フィンはキニーネを飲まなきゃって書いてありますけど、ずっと飲みつづけてたら体をこわします。訳語についても、おかしいと思うところがいろいろありました。たとえば、日本ではアリゲーターもクロコダイルもワニですが、この本にはアリゲーターは普通のワニとは違うって書いてある。普通のワニっていうのがクロコダイルなんですね。これでいいのかな? もっと引っかかったのは、酋長という訳語です。酋長っていうのは、歴史的にみると、侮蔑的に使われてきた言葉です。この訳者がわざと使っているのか、それとも知らないで使っているのか。

バリケン:chiefは、たいていは族長とかリーダーとか訳すわよね。

ハリネズミ:「酋長」って訳語を使っていいとか悪いとか言う前に、私はこの訳語を使うことで、物語全体の構図がへんなふうになっちゃう、と思ったの。著者はインディオ(インディヘーナ)の人たちをある種のあこがれをもって、プラスイメージで描いているわけですよね。殺虫剤を所かまわずまいている人たちと対比してるわけですから。でも、酋長という言葉を使うことによって、そのプラスイメージが割り引きされちゃうんですね。未開で遅れた人たちというイメージが前面に出てきちゃいますから。その結果、本当にすばらしいのは、西欧的な価値観にのっとったうえで、自然の中でインディオのまねごとをして暮らすフィンみたいな人たちだっていう図式になっちゃう。著者が言いたかったのは、本当にそういうことなのかな?

バリケン:たとえばイングランドだって、なんとか族とかいうけど、そういうのは族長って言いますよね。すべての古い社会の長に「酋長」って言葉を使ってるわけじゃない。

ハリネズミ:翻訳者って、歴史やら文化人類学やら民族学やらいろいろと知らないといけなくて大変だとは思うんですけど。でも、もし舞台が古いから古い言葉を使おうっていうんで「酋長」を持ってきたとすれば、安易すぎる。言葉って生きてるから、元の意味だけじゃなくて、使われている間に付与されてきたものもたくさん含んでいるでしょ。その全体をとらえたうえで使ってほしいな。

カワセミ:最後に4人はアマゾンに戻っていくんだけど、結局めずらしい動物がとれるとか、そういう興味で行くっていうんじゃ、作者自身の限界も感じるわよね。

バリケン:観光客的ね。

カワセミ:博物館にいって、めずらしいものを見てみたいって思うところにとどまってる。

バリケン:作者はいろんなことを調べたって書いているけど、植物なんかは調べても、歴史的なことは調べてないんじゃないかしら。

ハリネズミ:エンタメ系でも、エイキンとか、もっと考えている人は考えているけど、この作者には、おもしろければそれだけでいい、っていう危うさがあるのかも。

バリケン:訳語についてもう一言。原文読んでないけどわからないけど、28ページ「ベスト」ってシャツのことじゃない? アメリカだとvestはベストだけど、イギリスでは下着のシャツなのよね。

もぷしー:お定まりのキャラクターだと思って読めない部分もありますよね。めずらしい昆虫をつかまえたとき、本国に送ったらすごく高く売れるとか、妙になまなましい。今後も、めずらしい昆虫なんかをつかまえて暮らすのかなって。

バリケン:それで絶滅しちゃったりしてね。

ハリネズミ:そういうところは、危ういよね。うまい作家で読ませてしまうから、よけい危うい。

カワセミ:そういところに、無意識の甘さが出ちゃうのよね。ポロっと書いちゃうのよ。

バリケン:ジャクリーン・ウィルソンの作品みたいに、環境は変わらないけれど、主人公は変わっていって、生きる力を得ることができるというのとちがって、いろんな意味でひと昔前の物語って感じがするわね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年2月の記録)