日付 2001年2月20日
参加者 愁童、アサギ、ウォンバット、オカリナ、トチ、
ねむりねずみ、ウエンディ、ペガサス、チョイ、紙魚
テーマ 10代の心

読んだ本:

コルビー・ロドースキー『ルーム・ルーム』
『ルーム・ルーム』
原題:THE TURNABOUT SHOP by Colby Rodowsky, 1998(アメリカ)
コルビー・ロドースキー/作 金原瑞人/訳
金の星社
2000.12

<版元語録>母を亡くしたリビィは、母の友人ジェシーに引きとられる。明るくておしゃれだった母と違い、見るからに地味で常識的な彼女とは気が合いそうもない。しかし、さまざまな出来事の中で、やがて心を通い合わせてゆく。
イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』
『だれが君を殺したのか』
原題:DIE SACHE MIT CHRISTOPH by Irina Korschunow 1978(ドイツ)
イリーナ・コルシュノウ/作 上田真而子/訳
岩波書店
1983.05

<版元語録>君の死んだ日、ぼくは警察によばれた、ただ一人の目撃者として。あれは事故だったのか、それとも自殺か。みなぼくに問いただそうとした。だけど本当のことは、わからない。ぼくは、君の死の真の意味をさぐろうと思う。
斉藤洋『サマー・オブ・パールズ』
『サマー・オブ・パールズ』
斉藤洋/作
講談社
1990.08

<版元語録>中学2年の進は、好きな女の子の誕生日プレゼントを買うために、ひと夏でお金が必要だった。夏期講習でいっしょになったクラスメートの直美がすこし気になってもいる。ふとしたはずみで、おじさんからお金を借りて株を買った進だが…。株とプレゼントと揺れる心の行方は。


ルーム・ルーム

コルビー・ロドースキー『ルーム・ルーム』
『ルーム・ルーム』
原題:THE TURNABOUT SHOP by Colby Rodowsky, 1998(アメリカ)
コルビー・ロドースキー/作 金原瑞人/訳
金の星社
2000.12

<版元語録>母を亡くしたリビィは、母の友人ジェシーに引きとられる。明るくておしゃれだった母と違い、見るからに地味で常識的な彼女とは気が合いそうもない。しかし、さまざまな出来事の中で、やがて心を通い合わせてゆく。

アサギ:ノンストップでおもしろく読んだわ。ただし初めから、足の方からムズムズと痒いものがあがってくるような居心地の悪さがあった。いかにも、「ハートウォーミングで、心開いていくいい話なんです」とBGMで言われ続けている気がして、それが鼻についたのではないかしら。あまり高い評価はできないな。

チョイ:色々なシチュエーションが、どこかで読んだことがあるような気がして、こうなるだろう、という予定通りの結末でした。原書で読むと、言葉遊びとかがもっとおもしろいんでしょうが、あまり、そういうおもしろさは伝わってこなくて、つまらなくもないけど、おもしろくもない。今の海外子どもの本の典型で、よくもなく悪くもないという感じかな。

アサギ:これを取り上げた理由は、「ずっとお母さんに語りかけるという手法をどう思うか」ということだったのね。手法としては抵抗なかったわ。昔読んだ『日曜日だけのママ』(メブス作 平野卿子訳 講談社)もこういう展開だったわね。

チョイ:11歳くらいの感覚とか捉え方を表現するうえでは、適切な訳かな。ただジェシー・バーンズって、リビィのお母さんとあまりに対象的に作られすぎてるんですよね。そういう点でリビィが発見していく過程が、あんまり魅力的ではなかった。こういう物語があってもいいけれど、それぞれの役割配置がわかりすぎて、鼻につく感じでした。

ペガサス:こういうのって最近、多い設定よね。何度も読んだことがある感じがしたわね。いちばん面白いと思ったのは、リビィのまわりに色々な人が登場するんだけど、読み進むにつれて一番前面に出てくるのは、お母さんのアルシーアだという点ね。リビィの心の中だけで生きているんだけれど、会話で話が進んでいくので、アルシーアはどういうお母さんだったかとか、2人の緊密な関係だとかが、手に取るようにわかってくるのね。でも実は、それはもうこの世にいない人、というのがおもしろい構造だと思ったわ。
それに対して、ジェシーはあまり描かれていないのね。ジェシーとうまくいくか、ということが焦点なのに、ジェシーとはどんな人なのか、あまり詳しく書かれていない。たくさんの登場人物のなかで、おそらく最も静かで、性格をとらえにくい。いちばん書かれていない人が、いちばん読者が気になる、というのが、他にないおもしろいところではないかしら。その2人︎がだんだん前面に出てきて、この2人はどういう友人関係だったのかということが興味深くなってくる。アルシーアとジェシーの接点はどこにあったのか。日ごろから親しくて何もかもわかっている友人ではないのに、最愛の娘を託したのか。一見何の接点もないような2人の女性に、その実すごく大きな接点があったわけで、それを探っていくのがおもしろいというタイプのお話ではないかな。その接点が果たして何なのかというと、わからないんだけど、人と人とのつながりの︎おもしろさというか、決め手はものすごくつまらないことかもしれないんだけど、自分の身に置き換えてみたりして考えるのがおもしろい、という感じを味わいました。リビィは嫌なことは嫌としながらも、現状を受け入れようとする。「どんなことがあっても、あなたは生きていくのよ」というお母さんの言葉を支えにして、とにかく前に進んでいかなければならないんだ、というところに好感がもてました。登場する大人たちが、子どもを子ども扱いせず、1人の対等な人間として扱っているところが、子どもに励ましになるのではないかしら。『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ)や『ナルニア』(C.S.ルイス)など、子どものころ読んだ本の名前がたくさん出てくるあたりも、なんかうれしかった。子どもに薦めたい本ね。

オカリナ:私は、まず「ルームルーム」っていう題名に惹かれたの。で、どういう意味かなと思ったら、Loom Room(機織り部屋)なのね。このおもしろさが、日本の子どもに伝わるかしらね。原題はこの本の訳語でいうと「くるりや」なんだろうけど、そっちを活かしてもおもしろかったんじゃないかな。

ウォンバット:おもしろかった。好きな雰囲気の本。こういう文体って、下手するとすごく甘ったるくなりそうなのに、そうはなってなくて、素直に読めてとてもよかった。主人公のお母さんを慕う気持ちがよく伝わってくるし、すっと物語に入っていけた。私が興味しんしんだったのは、アルシーアとジェシーの関係。秘密が明かされるのを楽しみに、わくわくしながら読んでいたのに、そういう話じゃないってことがだんだんわかってきて、ああ、違うんだ、リビィが心を開いていく話なのか、と気づいて、ちょっとがっかり。だってアルシーアとジェシーとの間には、絶対何か強い信頼関係が育まれるようなことがあったと思うんだ。子どもを1人託すんだから、誰にでも頼めることじゃないでしょ。その秘密が知りたい! と思っていたから。お母さんとジェシーとの間に、決定的なエピソードが何か1つでもあったらよかったのに。お母さんのことが、だいたいよくわからないんだな。いちばん大切な存在なのに。お母さんがどんな人だったのかに興味をそそられ、それにひっぱられて読んだみたいなところがまずあったから。なんだか変わった暮らしぶりだったみたいだし。しょっちゅうパーティーをしたりして。こういうのってヒッピーなの? あと、登場人物がみんないい人でしょ。それって、こういう状況の子にはいいことだけど、現実にはありそうにないと思った。アパートの住人だって、ふつう1人くらい嫌な人がいるだろうし。と、まあちょっと現実離れしているけれど、この作品では、そのおかげでリビィが救われてるわけだから、よかったと思う。挿絵も新しい感じでよかった。べったりした絵がついていたら、もっと重くなっていたと思う。

オカリナ:アルシーアとジェシーの関係は、それなりに描かれているんじゃないかな。私はわかる気がしたな。2人の間に信頼関係があって、アルシーアのほうから見れば、地味でダサいけど、安定してて誠実で信頼できる人だったんじゃないかな。しょっちゅうつき合ってなくても、そういう関係が結べてる人っているじゃない。

ウォンバット:自分ははちゃめちゃだけど、子どもはちゃんとした人に託したかった、ということでしょうかね。

オカリナ:たとえばキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)だと、自分が必要とされてるのを意識するってことが、子どもが変わる大きなきっかけになるでしょ。でも、この話ではリビィが変わるのは、ルーム・ルームがきっかけなのね。自分が今居る部屋にもともとあったものが、自分が来たことによってくるり屋の地下に移されたために、火事で焼けちゃった、というんだけど、そのことに必要以上に罪悪感を感じてるようで、その後ろめたさでジェシーに歩み寄っていくというのが、ちょっと気分悪かったな。それから、お友達のルーは黒人ですよね。この2人が、まったく人種の違いを感じさせない行き来をしているんだけれど、はたしてそれが、ボルティモアでリアルなことなのか、疑問に思いました。たとえば『クレージー・マギーの伝説』(ジェリー・スピネッリ作 菊島伊久栄訳 偕成社)でも、白人の子が黒人社会と白人社会の間を行ったり来たりするんだけど、寓話としてしか成立しなかったでしょ。この作品は、リアルなフィクションとして書いているんだれど、それで果たしていいのか、そこにいちばん疑問を感じたな。Amazon.comに読者の意見を寄せている人が2人いたんだけど、2人とも「短い」と言ってるのね。アメリカの子にとっては、これが短いのか! と思って印象的だった。1人はディズニー映画にしたらいいんじゃないかとも書いていたわね。

愁童:基本的には、チョイさんやアサギさんに同感。ペガサスさんの意見にも、そういう見方があるのかと思った。ただ、作者や訳者の思惑が透けて見える気がしちゃってね。こういうふうに書けば、こういう題にすれば、読者はついてくる、というね。機織り機が変わるきっかけになっているんだれど、ジェシーと機の関係は書かれてないんだよね。きちんと書き込まれていないことがきっかけで、リビィとジェシーの関係が好転するという展開は、すごくセンチメンタルな感じがして嫌だったな。あと、登場人物がこんなに出てこなくてもいいんじゃないか、混乱させないでよ、と思った。義理の親との葛藤を書いた話で、この読書会でやったものに、『ぎょろ目のジェラルド』(アン・ファイン作 岡本浜江訳 講談社)や『バイバイわたしのおうち』(ジャクリーン・ウイルソン作 小竹由美子訳 偕成社)のようなのがあるけど、これらの主人公は主体的に相手に向き合って動いていくんだけどリビィの方は、思いがすぐ亡き母親にもどっていって、自分からジェシーに向き合おうとはしないよね。母親亡くして可哀想といいう読者の感傷に寄りかかってる部分が大きいような気がする。葛藤といえるほどのぶつかりあいがあるわけでもないし、平板で、状況説明的で、感傷的だよね。それさえ書いていれば読者はついてくると言わんばかりで、平板で淡々としていて、人物が立ちあがってこない。そのへんがちょっと不満。あと、読みにくくて、中味の割には長いなって感じた。

ウォンバット:人物がたくさん出てくるのは、それまでの母1人子1人という状況との対比、という意味もあったんじゃない? 対照的な家族という意味で・・・。そして、人が多いほどに、よけいに強く孤独を感じるってこともあるんじゃない?

愁童:友達との友情から話が発展するのかと思ったけど、大人との関係で進んでいく。子どもの本なんだし、友だちになる子も割にうまく書いているんだから、そのへんをもっとふくらませてほしかったな。

チョイ:素直に読むか意地悪く読むかで、評価がまるっきり違いますね。意地悪く読むと、設計図が見えてしまって・・・。

オカリナ:ジェシーにとって機がとても大事なものだったということは、書いとくべきよね。そこがポイントになってるんだから。

ペガサス:いや、原作の題は「くるり屋」で、機はそんなに大事ではなかったんだと思うけど、訳者が「ルーム・ルーム」を題にしてしまったために、機がキーワードのようになってしまったんでしょう。「ルーム・ルーム」は、おもしろい言葉ではあるけれど、どうしてことさら、これを訳題に取り上げたのかな。親戚の子たちの話から、リビィが使ってる部屋は、もとはルーム・ルームだったんだということをリビィははじめて知るわけだけど、ジェシーにとってどんなに大切だったかということは、あまり書かれていない。

ウェンディ:ジェシーにとってどうこうではなくて、リビィが気にしているということでしょ。でも、最後にあっけなく仲良くなるのはできすぎかも。そのへんを、もっと書きこんだ方がよかったんじゃない?

オカリナ:でも一人称だから無理があるわよね。

ペガサス:「ルームルーム」をキーワードにするのが、無理なのよ。

紙魚:私は、あまりにも淡々と話が進んでいくので、これはきっと何か謎が隠されているんだろうなと思いながら読んだんです。そうやって妄想たくましくした結果、リビィってほんとうはアルシーアの子どもなんじゃないか? なんて考えちゃった。実はジェシーとアルシーアの間には学性時代に何かあって、やむをえずジェシーがリビィをひきとったんだけど、結果としては、またアルシーアのもとに戻ってくることになるんだわなんて勝手に推測しながら読んでました(笑)。

ウォンバット:私も、私も! 実は同じ人を好きだったとか、絶対、何かそういう背景があるはずだと・・・。『”少女神”第9号』(フランチェスカ・リア・ブロック著 金原瑞人訳 理論社)にも、性転換していたって話があったでしょ。だから、実はアルシーアとジェシーのどっちかが男で、リビィは、この2人のあいだに生まれた子どもだった、とか。これは考えすぎですね。

紙魚:そうですよね。ジェシーとアルシーアがすれちがう何かしらののエピソードが出てきてほしいとは思ったな。こういう女の子のけたたましい一人称の話としては、『ブリジットジョーンズの日記』(ヘレン・フィールディング作 亀井よし子訳 ソニー・マガジンズ)を思いだしました。あのブリジットジョーンズの一人称の感じを、ティーンズが言ったらこうなるのかななんて思って。ただ、リビィの“ブリジット・ジョーンズ”らしさは、自分のことを「あたし」と言ったり、「だっさーい」と連呼したりするところぐらいなんですよね。ちょっと疑問に思ったのが、女の子のキャラクターを表すのに、「あたし」と「わたし」と使いわけますよね。訳者はリビィを「あたし」と描いていますけど。日本語では、一人称はそのくらいしか選択肢がないんですね。「わい」とか「あたい」「おいら」いう訳にはいかないし、ここではそんなのヘンだし。ただ、他にもこの子のキャラクターを表す会話の訳し方が出てほしかった。リビィらしいノリ、他人との距離感、この年代の女の子独特のノリの感覚がもう一つ出しきれていない気がして。もし原文で読んだら、それが出ていて、おもしろいのではないかとも思いました。原書はもう少し、この子の生態、体温みたいなものが出ているのではないかと。
あと、挿絵もよかったです。ティーンズだけでなく、もう少し上の年代の女性も手にとりたくなるようなセンスがよかったです。それから、断ちぎりぎりのところに注がいっぱいあって、びっくりしましたね。私は昔、注を読みながら物語を読むのって苦手だったんです。読んでいる最中に注を読むとリズムが止まるので、読みとばして、終わりまで読んでしまってからパラパラ眺める程度でした。だから、こんなについてるのにはびっくりしました。ぐっときたいと思いながら読んでしまうと、ちょっとがっかりするかも。でも、いやな本ではなく、おもしろく読めた本でした。

アサギ:焦点の2人の関係ね。リアリティはないかもしれないけど、こういう人間関係もあるのかな、とヘンに納得してしまったところがあって、違和感は感じなかったわ。こんなこと、現実にあるかなとは思ったけれど、すぱんとかっこよく、潔く・・・なんていったらいいのかな。ずっと疎遠にしていても、何か事があれば、ぎゅっとなる関係というか・・・。

オカリナ:でも、リビィは全然選べないし、何も言えないわけじゃない。今、子どもが大人を訴えられるような国なのに、そのへん、リアリティあるのかな?

ペガサス:事前にリビィに話があってもいいのにね。母親のアルシーアは病気だった時間があって急死したわけじゃないんだから。全然話はなかったことになっているみたいだけれど。

チョイ:でも、弁護士に話す時間はあったのよね。

オカリナ:オーソドックスな子どもの本のパターンだから、それを喜んで読む子もいると思う。でも、リアルな状況を描いて、それを子どもがどう乗り越えていくのか、という話とは違うと思う。

トチ:昔ならリアルになっただろう話が、今はファンタジーになる、という面もあるわよね。

ペガサス:黒人の話でもう1つ気になったことは、ブラン・マフィンというあだ名のおばさんが出てきて、挿絵は黒人のように描かれているけれど、この人が黒人だという描写はどこにもなかった。ブラン・マフィンが茶色いから? 原作の挿絵はどうなんだろう?

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


だれが君を殺したのか

イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』
『だれが君を殺したのか』
原題:DIE SACHE MIT CHRISTOPH by Irina Korschunow 1978(ドイツ)
イリーナ・コルシュノウ/作 上田真而子/訳
岩波書店
1983.05

<版元語録>君の死んだ日、ぼくは警察によばれた、ただ一人の目撃者として。あれは事故だったのか、それとも自殺か。みなぼくに問いただそうとした。だけど本当のことは、わからない。ぼくは、君の死の真の意味をさぐろうと思う。

トチ:最初のうちは、若者の死に至る悩みがえんえんと書かれていて、これって今の若い人にはわかるのかしら、ちょっと遠いかなとも思って読み進んでいるうちに、クリストフが失踪したあとでいわゆるホームレスの事件が起こるところで、ドーンと今につながった。今でもじゅうぶん読み応えがあるし、将来も読みつがれていく作品だと思う。最初、古いなあと感じたのは、訳文のせいかも。「床をともにした」という表現のところで、思わず笑っちゃった。80年代には、まだこういう言葉を使っていたのね!でも、「床をともにする」人がいても救われないというクリストフの痛ましい孤独は、大人の私にもわかるし、今の若い人も身にしみてわかるんじゃないかしら。細かいことだけど、「マタイ受難曲」のような有名な曲は、ことさら「マタイ伝による云々」というようなていねいな訳し方をしなくてもいいと思うのよね。岩波の翻訳ものって、「わからないでしょうから、教えてあげる」というようなところとか、官能的なところをぼかして訳すというような過剰な配慮が感じられるんだけど、私の偏見でしょうか?

ウエンディ:私がいちばん最初にこの本を読んだときは、まだ主人公たちと近い年齢だったんですね。そのときは、私の言いたいことをよくぞ言ってくれたと思ったんです。大人になることの難しさ、若いゆえの純粋さとか潔癖さとか。それを描くための1つ1つのエピソードどはすごいと思う。クリストフをどんどん追いつめていく描写がすごくうまい。クリストフが死んでしまったところから始まって、マルティンが彼のことを思いだしつつ悩みつつ、ショックをのりこえていく構図だけど、数学マイヤーも、実はそういう苦しみをのりこえてきたんだということはうまく書かれていますよね。でも、ほかの登場人物たちは、どこかしら都合よく描くための道具にされている気もしました。床をともにしたウルリケでさえも。あと、コルシュノウにしては、大人がステレオタイプかなという気はしました。そこが不満といえば不満かな。時間がいろんなところに飛んでいて、ちょっと読みづらいところが気になったけど、それは訳の問題かもしれない。逆に、映画になったりしたら、効果的かもしれない。

紙魚:読みすすめていくと、はしばしに突き刺さるような鋭い感覚が描かれていて、次々波が押し寄せてくるようでした。限りなく絶望的でぬかるみにはまっていくようでありながら、ページを読み進める力はぐんぐんわいてくるという感じ。この本は今は絶版なのかしら。なかなか手に入らなくて、結局借りたんです。品切れなのかな? ネットでも流通してなかったし。もし、今出回ってないのだとしたら、とてももったいない。時代は変わっても、この本を読んで、救われた気持ちになる人は絶対にいると思う。絶版にしないで、出してほしい本です。クリストフやマルティンのように、親に対して何も答えたくないとか、学校や社会の事柄も受け入れたくないとか、自分にとって優秀だと思う人にひかれていくところなどは、だれでも必ず通りすぎることだと思うんです。1つ1つのエピソードを読みながら、自分自身の過ぎ去りし日のことをすくいあげて、かみくだく作業がしぜんとできました。この主人公は、クリストフにもなれず、でも大衆にもなれないという葛藤の中に生きているんですね。こういう行ったり来たりしている若者ならではの感覚がきちんと描かれていると思う。どっち派でもなく、何に関しても行ったり来たり。この年代の人に共感を呼ぶのではないかしら。
ところで、私はドイツの教育制度というのは、帰国子女の人からよくできていると聞いていたんです。マイスター制度があったりして、けっして知識偏重の社会ではないと。でもこれを読むと、日本と同じようですよね。子どもが苦しんでいる。彫刻家だったけれど、今ではスイッチを売ってるお父さんが、彫像をたたき割るシーンなどもぐっときましたね。常にマルティンは、クリストフは正しかったのか、章ごとにと問いかけているんですけど、実際はクリストフのことを正しくないと思いつつ、クリストフにひかれている。自分に対しても他人に対してもいつも問いただしていて、大人になると生きることの辛さとか弱さとかを受容できるのに、けっして受容できない若さをうまく表現しているなあと思います。ぐらっときたシーンを挙げだしたらきりがないくらい。ただ、マルティンがちょっとずつ大人になっているなあと思ったのは、p198の「もっとしょっちゅう笑えばいいのに、母さん」という言葉。こういうことって思っていてもなかなか言えないことなんだけど、お母さんに対して言葉に出して言ったときには、胸がつまってしまいました。

愁童:作者が女性のせいか、ぼくにはちょっとクリストフの描かれ方に違和感がありました。ドイツのものには、こういう繊細な少年がよく登場するけど、クリストフのように、金権に反抗したり、公害に反対したり、意識が外へ向かう少年と、自殺する少年のイメージがどうもしっくりこなかった。まあ父親との関係なんかから、意識を外へ向けざるを得ない少年の絶望感みたいな読み方がほんとかなとも思うけどね。自殺するほど追い込まれながら、公害に怒ってみせるなんてできるのかな、なんて思ってしまったら、どうも気持ちが盛りあがらなくなった。少年2人の、それぞれの両親との葛藤はうまく書かれているね。迫力があった。

オカリナ:力のある作品ね。今の若い人たちも、中学、高校時代には同じような気持ちを感じていると思う。でも、そういう部分に寄り添うような作品が少ないのは残念。クリストフが死んだのには、あるひとつの絶対的な理由があるというよりは、いろいろ要因があって、それらが積み重なっていったからだと思うのね。お父さんとの不和は要因の一つだけど、それだけが突出してるわけじゃない。ドイツにだって日本にだって、こういうお父さん、まだいると思うし。ウルリケの妊娠騒ぎも要因の一つで、ウルリケ自身は、クリストフに妊娠したと言ってしまって、実はそうじゃなかったことは告げてなかったから、原因の半分は自分じゃないかと思ってる。教師の無理解もあるけど、この年齢の子どもなら、こんなふうに教師を見てる子は結構たくさんいると思う。他にも、村に急にお金が入ってきたけどみんなお金の使い方を知らないから、大人の愚かな部分見せつけられるとか、浮浪者の事件のこととか、そんなもろもろのことが、いろいろ重なりあってるよね。あたりまえの人間にはなりたくないと抵抗しているクリストフ。それは、主人公のマルティンにも共通している姿だと思う。愁童さんは、意識が外へ向かうのと繊細なのは矛盾するっておっしゃったけど、この子たちは積極的に政治にかかわって公害反対運動をしたり、金権体質に抗議したりしてるわけじゃなくて、本能的に嫌だ、ノーと言ってるのよね。だから矛盾はないと思うの。上田さんの訳は、ほかの作品より硬い感じがしましたね。こういう心理的状況に陥ってる中高生を次の段階に行けるよう助けてくれるような本だと思うけど、この文章だと難しいかもしれないな。

トチ:原文は、もっとユーモアをもって書いていたところももあるんじゃないかしら。すべてがこう硬かったわけでもないと思うのよ。

愁童:先生のあだ名のところなんかは、なかなかおもしろかったよね。ああいうところが、他にもあるのかもしれない。たとえば、マルティンのお父さんがスイッチを売っているという設定や、新しいスイッチを得意げに説明する箇所なんか、おもしろいよね。

トチ:そうそう、軽いところもあるから、重いところもあっていいのよね。知人に、読書会を主催しているお母さんがいるの。その会に中3の子が何人かいるんだけど、いい本を読んだときに、いいとは絶対言わないんだって。自分がほんとうに感動した本のことは言わないらしいの。たしかに子どものときって、感動したことを言葉にはしないわよね。この本は、今の時代につながるところもあるので、違うかたちで出していかなければいけない本なのではないかな。

ウォンバット:よかったという意見が多いなか、言いにくいんですけど、私には、少々りっぱすぎる感じの本でして・・・。内容も苦くて、読んでいるうちに、しかめっ面になっちゃいました。なかなか読み進められなくて、行ったり来たりしてしまって。全体の色はダークで、限りなく黒に近いグレー。能天気なところが、ちょっとくらいあってもよさそうなもんなのに、そういうのも全然なくて、気を抜くところがない。あー、とにかく読みおわってよかった、と思ってしまいました。ねえ、結局、自殺かどうかはわからないんでしょ。

ペガサス:ちょうど風邪をひいていたせいもあるけれど、これを読むとよけい頭が痛くなってしまって。やはり、みんなが言っているように文体が古いのよね。上田さんご自身はそんなに硬い感じの方ではないのに。この本を今の子どもが読みとおすのは、ものすごく大変なのではないかな。それから、内容的には、エイダン・チェンバーズを思いだしちゃったわ。マルティンがお母さんに「何になりたいの」ときかれても、わからない。でも「こうなりたくない」ということだけはわかっている。それってほんとうに青春の悩みよね。父親の挫折とかが目前にあったりね。でも私には、クリストフが何に悩んでいるかは、よくはわからなかった。クリストフがそんなに魅力的には伝わらなかったわ。

ウエンディ:マルティン側から見た目線で書いてるから、すべてがわかるわけじゃないのでは?

オカリナ:私にはクリストフの悩みがよくわかったの。もしかしたら、読む方がどういう体験をしてきたかによって、どの程度共感できるかが違うんじゃない?

ほぼ一同:(うなずく)

トチ:クリストフが抱いていたのは、群集になりたくないって気持ちよね。ところで、黒い本(1983年初版)の方の群集っていう字がまちがっていたのが、ショックだったんだけど。

一同:えーっ! ほんとだ。

オカリナ:文体のことを言えば、同じような年齢の子ども同士の会話でも、この本で書かれているのと、斉藤洋の本では、ずいぶん違うわね。

ねむりねずみ:私は読んでみて、あードイツって感じだった。訳は確かに時代がかっていると思う。でも、学生だったころの同級生が抱えていた問題とも共通していたし、違和感はなかった。若いときって、現実とのつながりがうまくもてなくて、自分を思いっきり持ち上げたり、かと思うとやたら貶めたりするんですよね。そういうところもうまく描かれていて、すごくおもしろかった。暗さにも迫力があるし。途中、この状況からどうやって抜け出すのかなって思っていたら、マイヤー先生が出てきた。ちょっとあれって感じもしたけど、こういう終わり方しかないかなとも思った。ドナウの風景もきれいに描かれていたし。自分自身のことも振り返ってみて、クリストフみたいな人が生きるか死ぬかというところに立たされるのは、何か大事件のせいじゃなくて、細かいことの積み重ねの結果だと思う。私自身は、そういう若い人に、生きるほうに分岐していこうよと言う立場にいたことがあるので、その辺の感じはすごくよく伝わってきた。まあこういうくぐもり方は、ある意味若さゆえの甘えなんだけど。クリストフについては、親との関係が大きいかなって思った。それと社会との関係の中で、この若さだと人生に対して粘り腰になれないんで、はじけてしまったともいえるんじゃないかな。若い世代の人たちからすれば、大人はしょせん大人でしかない。そこをどう「大人」という一言でくくられないようにするか、現場で若者と向き合っている人たちのそういう大変さについて考えてしまいました。大人がいくらがんばっても生身の人間、他者だからこそ若者の心に入っていけないっていう場合もあって、そんなときに本と向き合ったほうが素直になれたりする。そういう意味で、本は若い人が生きていく上で大きな助けともなりうるなあ、とあらためて感じました。

チョイ:ところで、さっきの『ルーム・ルーム』では、生きなくちゃいけないといいつつ、『だれが君を殺したのか』はまた違った内容だし、いったい今回の本選びはどういう主旨なんでしょうね?(一同笑う)私は、この本で16、17歳の頃の感覚がよみがえりました。2年くらい前に、高校のときの日記が出てきて、読んでいたら、やっぱり私の近くにクリストフみたいな子がいるんですよ。現実と折り合いがつかなかったり、高圧的な親がいたり、いろんな状況がこの本と重なっていて、16、17の時ってこうなんだなあと、しみじみ実感。7、80年前に書かれた有島武郎の長編『星座』なんかにも、まさに同じことが書かれていたりするし。若い人たちがどうやって生きていくかという問題は、ずっとく繰り返されるんだなと思いました。今回、「あの子は弱かったのよ」と言うバールのおかみさんや、マイヤー先生など、つい大人の言葉に共感する自分に気づいて、時の流れを感じてしまいましたけど。この本はずっと持っていて、何度か手放す機会もあったのだけど、なんとなく気になって捨てられない本でした。確かに暗いかもしれないけれど、青春時代には必要な本だと思います。どうしようもないその時期の感覚を共有できる本があって、また生きていく力につながっていくんじゃないかな。

アサギ:今回の本選びは、テーマは完全に後づけなのよ。それぞれ読みたいものを持ちよって、それらを並べてみて、それじゃあ10代だねっていうことだったの。斉藤洋さんの本が読みたいというところもあったし。この本の原題は、「クリストフのこと」っていうのね。もともとコルシュノウという作家は、幼年文学を中心に書いていて、10年くらい前に児童書とは縁を切ると宣言して、それからは一般向けのものを書いているの。この本は、当時、ドイツで評判になったんです。やっぱり読んでいて、自分の青春時代を思いだしたわね。確実に時代というものを越えていると思う。クリストフの嘲笑的なところは、ぎりぎり精一杯だけど、他を見下していることで、かろうじて自分を保っているというところ。確かに親の描き方はステレオタイプだけど、実際にそういう人はいるので私はいいかなと思った。むしろ、数学マイヤーがステレオタイプに感じたわ。過激に学生運動をやった人で、いかにもありそうという感じ。ここはありふれていて、平凡と感じてしまった。マルティンのお父さんが、現実と妥協しながらスイッチを売っているというのも、ステレオタイプかもしれないけど、この年になっちゃうとね、どんなものを読んでも、読んだことがあるように感じるのよ。若い人が読めば説得力があるんじゃないかしら。

チョイ:農家のおばさんが「あの子は長生きできないと思った」というのが、うまいわね。おばさんが生命力を見ているあたりも、人物像がくっきりしている。本当のところはわからないけど、私はクリストフは自殺だと思う。人が死ぬっていうときは、いろいろな要素がつまっているも思う。さっき公害というのは違うんじゃないかって意見もあったけど、私は違うとは思わなかった。どちらにせよ、原因はひとつでは言いきれないはず。音楽を愛していても救われないというのがあったり、数々の要因が投げだされていて、そういう総体が彼を追いつめていくさまが描かれている。

アサギ:前に、彼女のインタビューを読んだことがあるんだけど、たしか息子さんの友だちが自殺しているのね。そのときに、なんとかしてこの難しいときを生きのびてほしいと思って書いたらしいの。その試みは、成功していると思う。私はみんなが言うほど暗いとは思わなかった。マルティンは強く生きていくだろうなあとも思うし。この本を読んで、生きていく力を得る子はいるんじゃないかなあ。作者の志は達成されていると思う。考えてみたんだけど、マルティンとクリストフは実は1人で、マルティンは自分の中ののクリストフを殺して生きのびたとも読み取れるわね。そうやって生きのびる子もいるんじゃないかしら。

一同:(ふーむとうなずく)

アサギ:コルシュノウは今でも文壇で活躍しているんだけど、もう児童書は書かないと宣言しているの。彼女は常に、自分の子どもとの関係で作品を書いていたのね。幼年童話にしても、自分の子どもに聞かせたくて書いていたのよ。『ゼバスチアンからの電話』(石川素子・吉原高志共訳 福武書店)もそうだし。でも、児童書の世界から去ってしまったのは残念よね。

ペガサス:アサギさんのクリストフとマルティンは1人だったという考え方は納得できるなあ。なんだかいろいろ言葉にならなかったことが、すとんと落ちた感じ。マルティンはクリストフのことをわかっていたのねと思いながら読んだしね。

チョイ:マルティンがクリストフと違うのは、他者を理解しようとするところじゃないでしょうか。いろいろな外界の重圧の中で、生きていける力になるかならないかは、ここが分かれ道になったんだと思う。マルティン自身もクリストフが生きのびられないことはわかっていたのかも。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


サマー・オブ・パールズ

斉藤洋『サマー・オブ・パールズ』
『サマー・オブ・パールズ』
斉藤洋/作
講談社
1990.08

<版元語録>中学2年の進は、好きな女の子の誕生日プレゼントを買うために、ひと夏でお金が必要だった。夏期講習でいっしょになったクラスメートの直美がすこし気になってもいる。ふとしたはずみで、おじさんからお金を借りて株を買った進だが…。株とプレゼントと揺れる心の行方は。

愁童:2、3年前に図書館の若い男性司書に薦められて読んだことがあったんだね。今回再読して、少し好感度はあがったけど、この本に、この読書会で出会うとは思わなかった。これだけ、あっけらかんと、時代をまるごと肯定されちゃうと、その思い切りの良さに脱帽したくなっちゃう。これ、バブルがはじける直前ぐらいに出た本ですよね。あの頃サラリーマンをやってて、いろいろな経済学者や技術評論家の時代の観測論文を読まされた。例えばニューセラミックのマーケットとして歯科の分野が有望だ。高齢化社会が進むから入れ歯の需要は増加する。口の中の半分が入れ歯になると仮定し、セラミック入れ歯が一本5万から10万とすると、人間1人の口の中に、70万から140万の需要が存在する。車は一家に1台だけど、これは家族全員がマーケットに成りうるのだから、自動車メーカー以上のビッグビジネスが生まれる必然性がある、なんてね。そういう風潮の中で、この作者も同じ視点に立って書いているのね。作家は、そういうのとは違う視点がほしいなんて思うのは古いかな、と思うぐらいに、おもしろく読めるんだけどね。今が書かれているか否かと議論したことがあるけど、こういう今ってありかなって気になった。その作家独自の目がほしいよね。クリストフ的目があってもよかったんじゃないかな。

オカリナ:私は『誰が君を殺したのか』とはわざと違えて、今回はジャンルの違う本3冊になっているのかと思って、まったくのエンターテイメントとして読んみました。会話がおもしろいし、株の仕組みの説明なんかもとてもわかりやすくて、なるほどと思った。ただしバブル期の本ですね。おじさんが100万円貸して、儲かってガールフレンドにプレゼントするなんていうのは、バブルが終わってから読むと、あまりにばかばかしい。読者にも、テレビのバラエティ番組みたいに、おもしろおかしいドタバタとして感覚で受け取られると思う。ただ、女性像が古いなあと思った。言葉遣いもそうだし、女の子は誕生日に金目のものをほしがるものだから稼いでプレゼントするのがいいとか、さちこさんと高杉峰雄さんとの関係にしても、「女というのは金がかかる」だって? ふーん。この作家は、どの作品でも新しい価値観の提示はしてない気がするな。おもしろさで本嫌いの子も惹きつける力をもった作品だと思うんだけど、表面的にはエンターテイメントでも、もう少し芯があるといいな。

ウォンバット:こういう本は、意地悪な気持ちになってしまうと、とめどなくなってしまいそうなので、そうならないようにと注意しながら読んだんですが、出てきてしまったんですね、見過ごせない言葉が。ちょっと今、ここで口に出すのも恥ずかしい単語なんだけど、「ペチャパイ」。アウト! って感じ。今は、誰も使わないでしょ。しかも、女の子が言っちゃうんだもん。「あんまり見ないで。わたしペチャパイだから」なんて、これはないと思う。主人公の願望としてそう言われたい、というのがあるんだろうけれど、「見ないで」という人が、水着になる場所に自分から誘ったりしないでしょ? 本当にコンプレックスがあって、心の底から見られたくない! と思ってたら、男の子とプールに行ったりしないよー。10年前でも、この言葉はなかったと思う。と、まあそういうわけで、ここから先は、もう意地悪な気持ちになってしまって、復活できませんでした。そのうえ、後ろの方でもう1回出てきちゃうのよ、この言葉。(と発言したけど、先日「からくりTV」で浅田美代子がこの単語を口に出しているシーンに遭遇。衝撃を受けました。死語だと思ってたのに・・・。)「楽しめる」っていう意味ではいい作品かもしれないけど、私が「楽しむ」にはちょっと無理があった。服部さんが関西弁こてこてで、楽しいやくざみたいになってるのも、作られすぎの感じ。こういう人が、そんなにぽこぽこいる訳はない。

アサギ:ペチャパイってそんなに古いの? 自分から言うときは何て言うの?

ウォンバット:「胸がない」とか「小さい」とか言うけど、あまり名詞では言わないんじゃない?

ペガサス:斉藤洋は割りと好きな作家。章題のつけ方とかもおもしろいと思ったわ。ものごとのおもしろがり方がおもしろいと思って。ともすれば堅苦しくなりがちな日本の話の中では、好きな方に入るかな。おもしろく読めるお話。でもやっぱり10年前の話だなと思った。子どもたちが、嫌だけどさして反発もせずに学習塾に行くような時代だったんだなと思った。ダメだなと思ったのは、女の子は著者が考えているかわいい女の子に過ぎないというところね。「時々わけのわからない考え方をする」のは自分のお母さんだけのことなのに、それを「女ってものは」と言ってしまうところ、ダメだな、という感じがしてしまった。こういう考え方をする人って女の子ってこういうふうに誰でも話をかえる、とか。自分の考え方をおしつけてる。幸子さんが女性の理想像として描かれているけれど、もういいわ、と思ってしまった。10年前ではあるけれど、やはり外国の作品より身近に感じられるので、日本のものにこそ、もっとおもしろいものが出てほしい、とは思ったわ。気軽に読める楽しいお話がもっとあればと思う。

ねむりねずみ:『誰が君を殺したのか』の後に読んだので、軽いなあと思いました。前に読んだひこ・田中さんの『ごめん』(ベネッセ)に結構インパクトがあったので、つい比較してしまい、まるで違うなあと。この本の最後のプロフィールに、書いていて赤面したってあるけど、赤面するようなレベルの覚悟で書くなよなって思ったりして。『ごめん』は正面から第2次性徴を扱っていて、そのまっすぐさが印象的だった。それに対して、この本は難しいことにあえて切り込んでいく感じがない。作者の好きなイメージが並んでる感じ。うまく配置された出来事にスルスルっとのっかっていくっていうか。エンターテイメントでおしまい、考えさせてくれない感じがすごく強かった。おとぎ話だなって思った。『ごめん』とは好対照だったな。

アサギ:斉藤さんのものを久しぶりに読んでみたかったんです。おもしろかった。ただ、11万いくらの時計って、当時としても、リアリティあるのかしら。すべてにゼロ1つ違うんじゃないかな。文章は上手で楽しく読めると思うのね。目次のつけ方も、いかにもドイツ文学の人ね。ドイツの作品の影響が感じられておもしろいと思ったわ。会話は確かに女の子はこういう話し方しないけど、10年前にリアルタイムで読んだ子は、親近感をもって読んだのでは。金額は別として、やりとりとか口調とかノリっていうのって、共感をもって読んだ子がいたんじゃないかな。どうって話じゃないんだけど、楽しく読めて。女性に関して書いてるところは、体質が古いのね。斉藤さんの作品は、デビュー作が好きで、2作目も好きだったけど、浪花節で、その頃から体質は全然変わんないんだなと思った。思想なんかは、もともとないのかしら。

チョイ: この作品は著者の思想が凝縮されたものなのよ。ストーリーの中に隠されてるんだけど、この作品だといちばんわかりやすい。

トチ:年齢の低い子ども対象のものよりヤングアダルトになると、わかりやすいのよね。

アサギ:これはひたすらエンターテイメントですよね。語り方は通俗的だけど、上手。巧さは今回も感じたんだけど。男の人って女の子をこういうふうにステレオタイプに描く人多いでしょ。「ドラえもん」のしずかちゃんだって、男の子の願望が生み出した女の子像の典型よね。私は見るたびにいやだなと思うけど・・・。逆はどうなのかしら。女性の作家だと男が書けないってこともあるのかしら?

チョイ:『十一月の扉』(高楼方子作 リブリオ出版)みたいに、女が女を書いてもうまくいかないって場合もあるし。

オカリナ:文章の巧い人がそういうふうだと残念よね。

アサギ:子どもが喜んで読める文章を書ける人ね。会話が生きてるし、躍動感がいい。

愁童:一見うまいと思うけど、『誰が君を殺したのか』のややこしい日本語が懐かしくなっちゃうんだよね。

トチ:『天のシーソー』(安東みきえ作 理論社)もそうだったけど、文は人なりよね。ティーンの男の子の話だけど、中年の男の目から書いている。さちこさんもなおみも同じなのね。宝石をもらえば喜び、金目のものをもらえばうれしい。こういう語り口で違う考えのことを言ってくれたら、すばらしいんだろうな、と思った。ファッションについて、ひとつ。90年代にしても、着てるものがやぼったい。リボンがついてたりして。90年頃でも、センスのある子なら、そんなもの絶対に着なかったわよ。

ペガサス:作者がそういうのがかわいいと思っているから書いてるのよ。

ウォンバット:リボン好きですよね。あと、水玉も。

トチ:古いミステリーでも、着ているものの描写がでてくると、うっとりとすることがある。作者のセンスが出てくるのよね。あと、この本が出版された当時の書評に「最後の本物の真珠をちり紙につつんで女の子に渡すところで、読者は喝采するだろう」と書いてあったんだけど、私にはどういうことか分からない。相手の女の子が本物をもらっていながら偽物と思い込むところが、いい気味だと思うのかしら。

チョイ:もう1人好きになった女の子への唯一の免罪符っていうことだと思うけど。

オカリナ:あげないという選択肢もあったのよね。それをちり紙に包んで渡すというのは、いやらしくない?

チョイ:こういうメンタリティですよ。1回やるといったことはやるという。

ペガサス: 顔が立たなきゃというのがあるとか。粗末なもののようにしてあげたけど、本当は高価な物をおれはあげたんだ、っていう・・・。

アサギ:あげないという選択はなかったんじゃないの? 友達との関係でやらざるをえなくなったんだろうと思ったの。

チョイ:反省してると思うんですよ。成り行きでそうなったけど、株で儲けたお金でというのを、いいとは思ってない。

トチ:ちり紙につつんだことの意味は何なのかしらね。

アサギ:単純に、9月1日にって約束しちゃって引っ込みがつかない。プレゼントも買っちゃった。それでちり紙でいいやとなったんだと思ったの。好きじゃない子に高いものと思われても困るんじゃない? あぶく銭だという後ろめたさは感じるわね。

トチ:物に対する感覚が、嫌だなという感じがしたわ。残酷よね。金額に関わらず、筆箱の中で傷だらけになっちゃうだろう、っていう、その感覚がいや。

オカリナ:もともとリアルな話として書いてるわけじゃないんだから、100万円だろうと1000万円だろうといいんじゃない?

ペガサス:金額は、実際にはありえないんだからおもしろいんじゃないかな。中途半端に手が届きそうなより、いいんじゃないかな。

愁童:でも、その時代をまるごと肯定してしまうような書き方は、まずいんじゃないかな。

紙魚:なかなか厳しいご意見が出ていますが、私は皆さんとはちょっと違う視点も持ちました。もちろん物の大切さとか、愛情はパッケージじゃないこととか、今は当然わかっているけれど、シンプルにそう思えない若い頃もあったんじゃないかなと思いだしました。中学生のとき、同じクラスの女の子が誕生日に、つきあっている男の子から2万円の指輪をもらったんです。男の子は夜な夜な工事現場のアルバイトをしてお金をためて、その指輪を買ったんです。そのときに、クラス中でそのことが話題になって、いいなあとみんなからうらやましがられていました。それは、まだ指輪をもらう子なんてそうそういない頃で、指輪をもらうってこと自体がうらやましがられたし、しかも2万円もの高価な指輪だったってことがうらやましがられたんです。若いときって、幼いながらにそういうのをうれしいって思ってしまうことってあると思う。

アサギ:それはバイトしてくれたってところにウェイトがあったんでは。

紙魚:もちろんそれはそうです。でも、正直なところ2万円の価値というものもあったと思うんです。今は、ものの価値は金額じゃないとはっきり言えるけど、それは、その後、いろいろな人と出会ったり、いろいろな経験をしたからこそ、見出せたのであって、単純に若い子たちが高価なものがほしいと思ってしまう気持ちもわかるような気がします。若いときには、ほんとうの価値が見えないことがよくあるんじゃないかな。でもそれは幼稚さゆえのこと。幼稚な男の子と、幼稚な恋におちる幼稚な時代というのが一瞬あって、それはそれで、美しい年代だったりする。この物語は、その時代を描いたのかななんて感じました。

アサギ:今はもっと幼稚になってるわよね。男と女のことだけ突き進んじゃってるけど。

チョイ:身体はそうだけど、心はかえって退化してるみたいで、アンバランスよね。自立していない年代の騒動というか。時代を書くのも難しいし、時代を越えて書くのも難しいし、これからの仕事まで考えてしまった。この2冊で、どちらのやり方も難しいなと思った。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)