日付 | 2001年7月19日 |
参加者 | トチ、愁童、オカリナ、ウォンバット、紙魚 |
テーマ | おばあちゃん |
読んだ本:
原題:A LONG WAY FROM CHICAGO by Richard Peck, 1998(アメリカ)
リチャード・ぺック/作 斎藤倫子/訳
東京創元社
2001.02
<版元語録>大柄なうえに型破りな性格。そんなおばあちゃんを訪ねたあの夏、死ぬほどつまらないと思っていた田舎町で生まれてはじめて死体を見ようとは!わたしたち兄妹はシカゴの都会っ子で祖母の豪胆ぶりに、すっかり怯えた。それでも来年になると、また列車に乗りこむ。「おばあちゃんは、わたしたちのいいお手本とは言えないと思うんだけど」なにが起こるかわからないから、おもしろい。銃はぶっぱなす、大ボラはふく、法は無視する、牛乳瓶にネズミをいれる…毎年毎年、いったいなんのために?ニューベリー賞次席、全米図書賞児童書部門最終候補となった、感動のベストセラー。
及川和男/作 中村悦子/画
岩崎書店
2000.12
<版元語録>美咲は小学校6年生。おばあさんのカズさんは、琥珀のペンダントを大切にしている。「なみだの琥珀」と名付けたペンダントに秘められたナゾを解くために、美咲はカズさんと夏休みに岩手県の久慈市を訪れた。
さだまさし/作 東菜奈/絵
くもん出版
2001.07
<版元語録>たんじょう会のテーブルには、いろとりどりのりょうりや、おかしがならんでいた。…そうだ、きょうは、ぼくが「主役」なのだ。きみは、なにをバトンタッチする!?未来への祈りをこめて、いま、すべての子どもたちへ―。“心”をうたいつづける歌手・さだまさしが書いた児童文学。
シカゴよりこわい町
原題:A LONG WAY FROM CHICAGO by Richard Peck, 1998(アメリカ)
リチャード・ぺック/作 斎藤倫子/訳
東京創元社
2001.02
<版元語録>大柄なうえに型破りな性格。そんなおばあちゃんを訪ねたあの夏、死ぬほどつまらないと思っていた田舎町で生まれてはじめて死体を見ようとは!わたしたち兄妹はシカゴの都会っ子で祖母の豪胆ぶりに、すっかり怯えた。それでも来年になると、また列車に乗りこむ。「おばあちゃんは、わたしたちのいいお手本とは言えないと思うんだけど」なにが起こるかわからないから、おもしろい。銃はぶっぱなす、大ボラはふく、法は無視する、牛乳瓶にネズミをいれる…毎年毎年、いったいなんのために?ニューベリー賞次席、全米図書賞児童書部門最終候補となった、感動のベストセラー。
愁童:本を読む楽しさが感じられるね。作家って人をだます力次第だと思うんだけど、これは楽しくだまされる感じで、おもしろい。与太話みたいなストーリー展開なんだけど、妙にリアリティもあって・・・。訳もうまいのかな。簡潔な文章で快調に進んでく。原作の文体や雰囲気がよく理解されているんだろうな。心理描写ではなくて、行動をきっちり書くことで人物がしっかり鮮明に見えてくるよね。妹の描きかた、兄妹の距離感が絶妙。さらっと書いているんだけど、イメージははっきり浮かぶ。シャーリー・テンプルなんかの話ともからめて、さりげなく当時の女の子としての妹像を伝えてる。うまいなと思った。このおばあさんも恐いなと思わせながらも、最後の輸送列車の章で、孫への気持ちがストレートに描写される。やられたな、うまくだまされたな、という満足感で読了。これを読めてよかった。
ウォンバット:やっぱり強烈に風変わりな人がいろいろしでかしてくれる話って、おもしろくて好き。この物語は、それがおばあちゃんっていうところがいい! それで、どかんどかんと事件が起こるんだけど、語り口は淡々としていて、苦笑という空気が心地いいし、笑いをかみころしてるというトーンがよかったです。いちばん好きだったのは、「ブレーキマンの幽霊」。しかけもよく、気分もよく読めました。さっき愁童さんが、きょうだいの描き方がいいと言ってたけど、私も同感! 「お互いがいないかのようにふるまってた」というところなんか、特にね。きょうだいの関係をとってもうまくあらわしてると思った。この章では、兄(わたし)が13歳で、妹(メアリ・アリス)が11歳、バンデーリア・ユーバンクスは17歳なんだけど、メアリ・アリスって、なんておませさんなんだろう。11歳とは思えない、大人っぽさ。ああいうおばあちゃんの孫だから、やっぱり血をひいているのかな。後書きによると、メアリ・アリスを主人公にした物語も書いているということなんだけど、そっちもおもしろそう。一箇所だけちょっと、ん?と思ったところがありました。p126の駆け落ちする二人が列車に乗り込む場面なんだけど、「ふたりは手に手をとり、線路の反対側から機関車に近寄ると、特別客車後部の屋根のないデッキによじのぼった」。この「線路の反対側」っていうと……
トチ:線路をはさんで、ブレーキマンの反対側ってことでしょうね。
ウォンバット:そういうことねー。んー、考えたらわかるけど、一瞬あれ? と思っちゃった。とはいえ、ひっかかったのはそのくらいで、全体的には、読みやすかった。
スズキ:久々にいいお話を読んだという感じです。そもそも、時代も一昔前だし、お祭りとか、ショットガンとか、なじみがない世界なんだけど、決して遠い世界には感じないんですよね。それは、このおばあちゃんが魅力的で、人間として惹かれるからこそなのかなと思います。川で漁をするエピソードでは、自分では違法な事をしておきながらも変なおじさんたちの弱みをにぎったりして・・・。どんなルールでも、人の命を助けるためだったら、このおばあちゃんは無視するの平気。たとえ他人が変な目で見ても、人間が生きるための基本的な分別をもたなければいけないなと思わされました。キャラクターが生き生きと読みとれるのは、訳文のうまさもあると思います。でも、題名はちょっとよくないんじゃないかな。もっとすがすがしい感じが伝わってくる題名にしてもよかったのでは?
オカリナ:シカゴよりおばあちゃんやその周辺の方が怖いってことよね。
スズキ:私はタイトルでは買わないな。内容を知ってたら別だけど。
紙魚:主人公が「わたし」と書かれていたので、すっかり女の子だと思いながら読み始めたら、10ページに「わたしのほうが〜男の子だというのに」とあって、えー男の子だったんだ、とわかったんですね。でも、不意をくらったのは、そんなことじゃなくて、やっぱりおばあちゃんの豪快さ。エピソードごとに、ぶんぶんとおばあちゃんのキャラクターが、こちらに迫ってくる。この本は、全体的な流れは決して乱暴な感じはないのに、ところどころ、容赦なく人を酷評するような、罵るような形容がでてきますよね。でも、それもみなあっぱれという感じで、ぜんぜんいやじゃない。言葉って、ひとつだけ取り出すときつくても、全体の中での使われ方しだいで、印象がぜんぜん違うんだなと実感しました。おばあちゃんのことが大好きになった章は、スグリパイの「審査の日」です。これまで、力技ともいえる方法で、なんでも乗り越えてきたおばあちゃんが、なんともしおらしく見えてしまったのでした。とはいっても、こんなことでめげるような人でもないんですけどね。このおばあちゃんには、自分だけの物差しがあるんですよね。町の人の常識でもなく、強者の論理でもなく、自分の判断基準がちゃんとある。そこがとてもよかったです。きっとそれらを孫たちが受け継いでいくのでしょう。最後の輸送列車のシーンは格別でした。すかっとして、じーんとくる物語でした。
トチ:私もとてもおもしろかった。訳文も、訳者がのめりこんでいるというか、本当に原作者に代わって、原作者の声で語っていて、優れた訳だと感心しました。愁童さんが人間を行動で描いているとおっしゃっていたけれど、私もそう思いました。ハリー・ポッターみたいに平面的ではなくて、立体的な人物像なのね。善悪という尺度だけでは、測れない。本作りもこれだったらいいですね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳 東京創元社)と同じ会社が出したとは思えないわ。『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)に通じる、アメリカの健康的な児童文学。『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)は、あまり健康的な感じはしなかったけれど。
オカリナ:おもしろかった!! 最初は、ほら話なのかな、あるいは死んだ人が本当に生き返るスーパーナチュラルな話なのかな、と思って読んでいったんだけど、きちんと現実につながっていて、いいですね。強面の豪傑おばあちゃんなのに、最後までくるとまた違う面が見えたりして、うまい作者ですよねー。この作家は、要注目! と思いましたね。表紙の絵は、原書そのままらしいですね。これなら、『肩胛骨は翼のなごり』と違って、子どもも読みたいと思うかもしれない。
トチ:どういう子が読むのかしら? かなり読書力のある子でしょうね。
オカリナ:子どもって、わりあい倫理観が強かったりするから、こんなおばあちゃんダメだっていう子もいるかもしれませんね。
トチ:でも、世界が広い作品よね。
オカリナ:おばあちゃんがトリックスターなのよね。こういうおばあちゃんを、日本の作家も書いてくれるといいですね。
愁童:子どもから見て、不可解なおばあちゃんているでしょ。ちょっと思い出したのは、『西の魔女が死んだ』(梨木香歩著 小学館)。あのおばあちゃんに対する思い入れとくらべたら、なんともこれは健康的だね。モラルを押しつけるでもなく、「嘘も方便」みたいな。たとえば、エフィの描き方。おばあちゃんの宿敵として登場させてるんだけど、不当に加えられる権力的、差別的な攻撃に対しては、おばあちゃんがその宿敵をかばっちゃう。だけど、それが正義だから、というような書き方じゃなくて、おばあちゃんの不可解な性格から来るように読み手に思わせておいて、結果として、生き方の根っこからくるものなんだと感じさせる。一本筋が通ってますよ。
ウォンバット:日本の作品には、なかなかこういうおばあちゃんって出てこない気がする。
トチ:日本では、『ばばばあちゃん』シリーズ(さとうわきこ作 福音館書店)のように、絵本によく元気のいいおばあちゃんが出てくるけれど、あれは子どもがおばあちゃんの姿で登場しているんだものね。
愁童:同じようにやや古い時代を描いた『悪童ロビイの冒険』(キャサリン・パターソン著 岡本浜江訳 白水社)は途中で読めなくなっちゃった。常識とか枠組みが古過ぎる感じで、今さら読んでもしようがないかなんて思ってね。こっちは、古い時代を書いてるけど、そういうのをつきぬけるおもしろさがあったよね。
スズキ:作家がいっしょうけんめい生きているって気はしますよね。
紙魚:たとえば明治生まれのおじいちゃん、おばあちゃんなんか、常識からつきぬけているところ、ありますよね。私の祖父母は、ふだんは温和なやさしい人なんでけど、プロレスが大好きだったんですよ。テレビでプロレスが始まると、二人して血気盛んに大声で応援するんです。血しぶきがあがったりすると、もっともっと興奮高まったりして。幼い頃だったから、なんでこんな恐いものが楽しいんだろうと不思議だったし、その時ばかりは、祖父母が別の人間になっちゃったような感じがしました。プロレスだけでなく、人にどう思われるかとかはどうでもよくて、自分の好きなものをこよなく愛するという姿勢があったと思います。俺がいいと思ってんだから、それでいいんだみたいな。
ウォンバット:あっ、私も明治の人には何かある!と、ずっと思ってた。といっても、私の知ってる「明治の人」は、藤田圭雄さんや高杉一郎さんくらいなんだけど。どこか共通する空気を感じるの。なんかこう、一徹な感じがあって、心にゆとりがあるというか・・・それはまだ自分の中で言語化できていないんだけど、大正や昭和にはない何かが・・・。
オカリナ:私の祖父母も明治生まれだったんですけど、変な人たちで、都会のまん中に住んでるのに、水道ひかなくていいって言って、ギーコギーコこがなくちゃいけない井戸をずっと使ってたの。しかもご飯は、祖父が庭にすえた七輪で毎日がんこに炊いてたのよ。
トチ:昔の人って、物差しが自分の中にあったのよ。
紙魚:今は、学校教育の影響が大きいんじゃないでしょうか。明治の時代って、学校の勉強より家業の方が大事だったりして、その家その家の多様な価値観があったと思うんですよ。でも、学校教育が普及するころから、価値観が束ねられていく。ちょっと違う話かもしれないけど、今の子って、シール遊びをするにしても、決められたページの決められた場所じゃないとシールを貼らないんですよ。自由に貼っていいよって言うと、どこに貼ればいいの?って逆にきかれちゃう。それに、雑誌の付録なんかでも、貼る場所を設定しておかないと、父兄から文句がきたりするんですよね。
オカリナ:高い家具なんかにベタベタ貼られたら嫌だと思うんじゃないの?
紙魚:全体の傾向として、自由になんでもやっていいよと言われるより、定まってることをそのとおりにできて達成感を味わうっていう方が好まれるようですよ。
オカリナ:最近、日本のおばあちゃんもこわいと思うのよね。ラジオの教育相談聞いてると、親や本人じゃなくて、しょっちゅうおばあちゃんから相談電話がかかってくるの。おばあちゃん、やることなくて時間あるから、息子や娘や嫁に子育てを任せておけないみたい。偉い先生に自分の常識的見解の後押しをしてもらって、それを孫に向けようとしてる。この作品に出てくるおばあちゃんとは、逆の意味でこわいと思わない?
ウォンバット:けっこう微妙な問題ですよね。嫁姑だとしたら、なおさら・・・。
トチ:うちのなかで、大人の価値観がみんな一緒だと、子どもはきついわよね。
愁童:怖い事件が子どものまわりで起きたりすると、すぐカウンセラーを派遣して心のケアをみたいな風潮だよね、最近は。一理あると思うけど、まず親じゃないのかな。親がすぐおりちゃって、他人に頼るんじゃ子どもはたまらないよね。
紙魚:たしかに、今って権威がある人をもてはやしすぎですよね。
愁童:かえって、この作品に出てくるようなおばあちゃんのほうが、子どもを癒すんじゃないかね。
スズキ:ハリポタ読んでおもしろいと思う子は、こういうの読んでもおもしろいのかな。
ウォンバット:それは難しいんじゃない? あれは、ここはおもしろいんだよって説明しちゃってる本だもの。
愁童:でも、本を読むおもしろさって、まさにこういう本にあるんじゃないの。想像しながら読むんだから。自分の読書体験をふまえても、わりと子どもって許容範囲が広いから、こういうのも案外いけるんじゃないかな。
オカリナ:ハリポタは、文学とは言えないでしょう。これは文学だから、人間の心理を想像しながら読まないと読めない。プロットの積み重ねのおもしろさだけじゃないからね。
スズキ:この作品は、プロットの無駄がないですよね。必要最低限のことしか書いてないから。情緒的な飾りもないし。
オカリナ:子どもがこの作品をおもしろいと思うかどうかは、このおばあちゃんを好きになれるかどうかで決まると思うな。おばあちゃん像が焦点を結んでくれば、おもしろい。だけど、ただハチャメチャなことしてるだけじゃないか、って思う子もいるかもしれない。
トチ:夜空の星を結んで星座を思い描くように、登場人物のひとつひとつの行動を結んでいって人物像が思い描ける力、それが読書力というものなんじゃないかしら。出来事のおもしろさ以上のものを子どもたちがどう読みとっていくか、ぜひ知りたいわ。
ウォンバット:そういえば、文章を理解するものとして「天声人語」ってなんであんなにもてはやされるんでしょうね。ずっと疑問だったんですよ。
オカリナ:昔はいい文章が多かったんじゃない。凝縮してて。
愁童:今は、ひところのような力がないよね。
オカリナ:「朝日新聞」の「天声人語」っていうのが、一つの権威になってるのね。児童書の出版社だって、「岩波」や「福音館」は権威があるわよ。図書館でも、いまだに岩波か福音館の本だったら疑わずに買うっていうところ多いらしいし。でも、実際にどんなもの出してるか見ると、昔とはずいぶん違ってきてて、権威にばかりは頼れなくなってると思うんだけどな。
(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)
なみだの琥珀のナゾ
及川和男/作 中村悦子/画
岩崎書店
2000.12
<版元語録>美咲は小学校6年生。おばあさんのカズさんは、琥珀のペンダントを大切にしている。「なみだの琥珀」と名付けたペンダントに秘められたナゾを解くために、美咲はカズさんと夏休みに岩手県の久慈市を訪れた。
愁童:反戦とかが中心にあって書いていくのかと思ったら、結局これはルーツさがしなんだね。『雨ふり花咲いた』(末吉暁子著 偕成社)と構成が似てるけど、あっちの方は、子どもに読ませるんだという情熱が伝わってくる。児童文学作家としての姿勢の違いを感じた。謎解きなんだけど、人物描写がまるでない。主人公の設定が内気だとか、人見知りだとかいうことになってるけど、作中の言動には、そんなことを感じさせる表現がない。琥珀を恋人同士が持っていて、戦争がおこって、という着想だけなんだよね。今の子どもたちに何を伝えたいのかはわからない。登場人物のイメージも感動も残らないしね。これじゃあ、登場人物は泣いても、読者は泣けない。琥珀をたよりに、自分のルーツをさがしにいくという着想はいいんだよ。でも、主人公がすんなりおばあちゃんについてっちゃう、なんて、違和感持っちゃうなあ。あまりにも素直すぎる。子どものものにかぎらず、本を書くっていうのは、フィクションの世界を自分も楽しむとか、自分の世界に読者をひきずりこんでやるぞというのがなくちゃ。自分だけ感動してる感じがして、読者を置いてかないでよ、って思った。宮沢賢治なんかも出てくるけど、岩手県だからなのかな。でも出てくるのも必然性がないんだよね。
トチ:私は、児文協の児童文学って感じがする。
愁童:教育的配慮もあるし、理念もわかるんだけど、みさきを出して何を伝えたいかはわかんないよね。琥珀が博物館に飾られるといういきさつをただ書いている気がしてね。すいすい読めることは確かだけど。
トチ:文体とか表現はいいってこと?
愁童:というか気になんないですよね。まあ、筋にひっぱられるて、すいすい読める文体。うまいのかな?
スズキ:私の感想は・・・(てんてんてん)なんですよ。というのは、なんか読み終わったときに、よく書けましたって言ってもらいたいレポートみたい。自分のルーツをさかのぼる旅をした人がその時の事をまとめたレポートの印象があります。悪い作品とは決してないと思いますが、かといって読み終わったときに残る物があまりにもなさ過ぎる気がします。物語の展開やキャラクター一人一人の描き方が薄っぺらい気がしました。あくまでも私の感想ですけど。
紙魚:うーん、私もこの本に関しては言うことがないんですよ。今日の会で言うことないなって困ってしまいました。本って、いろいろな層の本がありますよね。経験もそうだけど。どの本もすべてぴったりくるわけじゃない。どれもが感動するわけじゃない。夏休みに100冊読んでも、どれもがおもしろいわけじゃない。でも、嫌いではないけど特にびびっときたわけでもない本があるから、よけい好きな本が際立つってことあるじゃないですか。この本は、そういうその他に含まれるような印象。
愁童:後書きに書いてあるけど、人と人とのつながりは大事、みたいなところに立っているから、人が書けてないんだよ。課題図書とかにはなるかもしれないよ。感想文はきっと書きやすい。
トチ:ルーツ探しをテーマにするときは、ルーツ探しが主人公の子どもにとって、どれほど深刻で重要な意味があるかを書かなければ、読者を物語の世界にひきこむことができないんじゃないかしら。『蛇の石(スネークストーン)秘密の谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社)は、主人公自身のルーツ探しだから、もちろん深刻だし、感動的な作品にしあがっていた。『雨ふり花さいた』は、タイムスリップというテクニックを使って、読者を物語の世界にひきこむことに成功していた。この作品には、そういう工夫というか、テクニックがないので、夏休みの作文みたいになってしまったんじゃないかしら。
愁童:児童文学に対する情熱が違うんじゃない。
トチ:日本の作家って、どれくらい海外の作品を読んでいるのかしら?
オカリナ:読んでる人もいるけど、数は少ないと思うな。私は、この作品はいいと思えなかったし、まあまあだな、とさえ思えなかった。ストーリーが必然的に進んでいくという感触がまったくなかったんですよ。たとえば、p32で、琥珀の中の空気を、琥珀の涙というところ。まだおばあちゃんのことがわかったわけじゃないのに、どうして涙なんていう安直な言葉をここで出してしまうんだろう? それから、認知症になったおばあさんに民宿の人がきいて、かずさんが泣くとこ。海女なんですよ、と泣く。そこで泣く必然性が書きこまれてないから、読者はおいていかれて、しらけちゃう。あともう一ついやだなと思ったのは、みさきが「おばあちゃんはみなし子なんだ。かわいそうに」って言うところ。孤児イコールかわいそうっていう出し方が安易だし、実際にどんな苦労があったのかを書く前に、こうやって外側から「かわいそう」というレッテルを貼っちゃうのは、文学とは言えないんじゃないかしら。
愁童:同世代の人でも、こういうふうには思わないな。
オカリナ:私は、「かわいそうに」なんていう言葉を安易に使う作家は、信用できないなって思ってるの。かわいそうって、自分が上に立たなきゃ言えない言葉でしょ。
(2001年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)
おばあちゃんのおにぎり
さだまさし/作 東菜奈/絵
くもん出版
2001.07
<版元語録>たんじょう会のテーブルには、いろとりどりのりょうりや、おかしがならんでいた。…そうだ、きょうは、ぼくが「主役」なのだ。きみは、なにをバトンタッチする!?未来への祈りをこめて、いま、すべての子どもたちへ―。“心”をうたいつづける歌手・さだまさしが書いた児童文学。
今回、読めた人が少なくて残念ながら議論にならなかった。