日付 2001年6月21日
参加者 トチ、チョイ、ねむりねずみ、もぷしー、スズキ、
紙魚、ウェンディ、アサギ、愁童、オカリナ
テーマ 少年の心

読んだ本:

笹生陽子『きのう、火星に行った。』
『きのう、火星に行った。』
笹生陽子/作 廣中薫/画
講談社
1999.06

<版元語録>おれの名まえは山口拓馬。六年三組。趣味は、なんにもしないこと。特技は、ひたすらサボること。そんなおれに、とつぜんやってきた、…とことんついてない日。
ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』
『風をつむぐ少年』
原題:WHIRLIGIG by Paul Fleischman, 1998(アメリカ)
ポール・フライシュマン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
1999.09

<版元語録>アメリカ大陸の四隅に「風の人形」をたてること。それがブレントにできる、たったひとつの償いだった。ワシントン州、カリフォルニア州、フロリダ州、メイン州…アメリカ大陸を西へ東へさまよう一万三千キロの旅。ひびわれたティーンエイジャーの魂が潤いをとりもどし、再生していく姿を描いたロード・ムービー。1998年度パブリッシャーズ・ウィクリー誌ベストブック。
ジェリー・スピネッリ『スターガール』
『スターガール』
原題:STARGIRL by Jerry Spinelli, 2000(アメリカ)
ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳
理論社
2001.04

<版元語録>ハイスクールの転校生スターガール・キャラウェイは不思議な子だった。白いドレスにウクレレ、ランチタイムの儀式、風変わりなチアガール。彼女は町はずれの砂漠に秘密の場所をもっていた…。ほかでは味わえないラヴ・ストーリー。


きのう、火星に行った。

笹生陽子『きのう、火星に行った。』
『きのう、火星に行った。』
笹生陽子/作 廣中薫/画
講談社
1999.06

<版元語録>おれの名まえは山口拓馬。六年三組。趣味は、なんにもしないこと。特技は、ひたすらサボること。そんなおれに、とつぜんやってきた、…とことんついてない日。

もぷしー:ひとことで言えば、発想が奇抜でおもしろかったです。火星に行く話でもないのに、タイトルに「火星」が使われているのも、印象強いし。主人公の拓馬って、私が思っている現代っ子にぴったりはまりました。冷めてはいるけど、本当は熱くなるのもいいことを知ってて冷めてる子ですよね。どんなことでも、先に結果が見えてしまう頭のいい子。対照的な努力家、でくが出てきて、影響されて成長していくのも安心して読める感じ。弟に関しては、悪い意味ではなくて、キャラクターが想像しにくかった。無邪気でもないのに子どもらしいっていうのがちょっとわかりづらい。お兄さんの目で書かれているからかな? そう魅力的には感じられなかったです。信じる力とか、熱い気持ち、メッセージって、昔と変わらないテーマですよね。タイトルが『きのう、火星に行った。』てなってるのは、信じてなかったものを信じられるようになったってことでしょうか。p129のビデオのナレーションに「地球を生きた星と呼ぶなら、火星はまさに死んだ星です」ってあるけど、干からびてしまった姿が、主人公に重なってるのかなと思いました。生命力ある地球に対して、死んだ火星が自分だったのかということなのかと。

アサギ:私も楽しく読めました。主人公の年代は、私にとってはるかに昔だけど、リアリティが感じられたわ。全体にすごく感じがいい作品だけど、唯一不満なのは、主人公が勉強もスポーツも何でもできるってとこかしら。はたして対象年齢の小学生にも共感できる本なのかしらね。同世代だったら、優秀な子には、もしかしたら共感を持ちにくいかも。名前の呼び方で、ところどころフルネームが入るのが気になったけど。欧米文学の特徴だと思ってたから。

何人かの声:仲間うちで、いつもフルネームで呼ばれる人っていますよ。

愁童:前に読んでいて、今回あらためてまた読んだんだけど、最初の時の方が印象良かったな。文体、いいですよね。切りこむ感じ。最初読んだ時は、火星に行ったと言う部分が違和感なく読めたんだけど、今回読んだら、何もひっかからなくてすべっていっちゃうのが気になった。アサギさんがいったフルネームで名前を書くっていうの、ぼくは違和感を感じたな。名前と作者が描いている少年のイメージが重ならなくて・・・。

アサギ:それはフルネームということではなくて、「拓馬」という名前が違うんじゃないかしら。

愁童:そうかぁー。名前がトータルなキャラクターをひっぱってこないんだよね。あと、6年生の男の子だから、かなり男っぽいはずなんだけど、感性的な部分での反応が、ちょっと違うなあなんて思っちゃったな。この子の、達観していて屈折したところが、なぜ出てきたのかが書かれてない。必然性がわかりにくいんだよね。でも、ちょっと屈折してる男の子書くの、この人はうまいね。『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)もおもしろかったし。

オカリナ:愁童さんは必然性が書かれてないと言ったけど、私は、今の子はこれがふつうなんじゃないかと思う。ふつう、能力があって冷めてるという子は、なかなか書きにくいんだけど、これはちゃんと書けてるし、おもしろい。カニグズバ—グの『クローディアの秘密』だって、主人公は才能があるけど白けてはいない。その白けてる子が、最後は熱くなったところで終わるから、出来すぎの感もあるんだけど、子どもの本としてのおさまりもいいし、読後感もいいんじゃない! こういう文体って、創作ならではね。弟は特殊な感じだけど、特殊な環境におかれてたってことを考えれば、いるかもしれない。最近読んだ中では、ダントツにおもしろい本の1冊でした。

紙魚:私は、主人公がそんなに冷めてるとは思えなかった。よく、今の子は冷めてるとかって言われるけど、こういう子が冷めてる子だとしたら、まだまだ情熱あるじゃない!と思っちゃった。「静かなる情熱」という印象。表に出なくても内に秘めてるとすれば、それは情熱家でしょう。拓馬に、つぎからつぎへと言いたいことを並べられてるみたいだった。確かに、愁童さんが言っていたように、考えさせられるひまがなくて、ひっかからないんだけど、むしろそれがすがすがしかった。走りぬける爽快感があった。

トチ:最初から作者は、意識して冷めてる子を書きたかったんじゃないかな。弟にリアリティが無いという話もでたけれど、私はそうは思わなかったわ。ただ、文体に迫力があるというところだけれど、口数が少ないという設定の登場人物に、地の文で饒舌に語らせるというのは、難しいという感じがしたけれど。

オカリナ:口数が少ない子のほうが、心の中でいろいろ考えてるんじゃない。

トチ:たしかにそうだけれど、特に初めのうち、キャラクターをつかみにくいところがあったの。

愁童:駅ビルに、弟を置いてきちゃうところがあるでしょ。おやじに殴られるところで、男親との確執みたいなのがもうこの年代では強いからね。冷めてるライフスタイルの子が、一発殴られて、なんで素直になっちゃうのかなとは思うよね。心の機微みたいなのが、物足りなかった。文体にもおされちゃうし。でも読者としてはここで殴られると、それまで溜まったストレスみたいなのがスパっと解消される。そこは、うまいよね。

チョイ:優等生でいることって、学校でも会社でもめんどくさいことなんですよね。そのめんどうを避け始めると、そのスタンスに馴れてきちゃって人生全体がつまらなくなってくる。現実のめんどうくささの避け方を早々と身につけた、こういう子どもを主人公に設定するのは、おもしろいと思った。弟は、体が弱かったゆえに想像力を駆使し、人生を自分でおもしろくしていく術がなかったら生きてゆけなかった。お兄ちゃんは順調で、ある種の優等生で、何をやってもそこそこ器用だから、弟と逆に、人に期待されることでめんどうになるのを避けていく生き方を、身につけてしまったんでしょうね。ただ、この作品では、兄は弟たちに影響され、変化していくんだけど、弟の方は、はじめから出来すぎているっていくか、あまり変化しない。そこがちょっと物足りなかったかな。このタイトルは、「とにもかくにも人生は自分でおもしろくしなくっちゃ」っていうことの象徴かな。フルネームを多用する手法は、皿海達哉さんや、日比茂樹さんたち、「牛」の同人がよくやりましたね。フルネームにすると、書き手と登場人物の間にある距離感が出て、作品にクールな印象が生まれるような気がします。

ねむりねずみ:今回この本をとりあげたのは、前に読んでかなりおもしろいなと思ってたので、みなさんの意見をうかがいたかったからなんです。この会に参加するようになってから、勉強しなくちゃと思って、児童書を山積みにしてばーっと読んだなかで、ひこさんの『ごめん』とこれが心にひっかかってて。まず、主人公の設定がいいと思ったんです。この子のつっぱり具合とかもいいし。私は小さいころ病気がちだったので、へろへろしながら頑固な弟も、とてもリアルだと思いました。私が子どものころも、冷めた子はいたし、現代っ子だって、何も考えてないということはないと思う。あくまでも冷めたポーズをとってるだけじゃないかな。情熱っていうより生命力の問題だと思うんです。今の子どもたちは外部からの刺激が多くて、大人との関係も昔とは違うでしょ。一人っ子も多くて、大人に注目されることも多いし。そういうなかで自分の生命力を守るには、ガードしないとやっていけないんじゃないかな。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


風をつむぐ少年

ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』
『風をつむぐ少年』
原題:WHIRLIGIG by Paul Fleischman, 1998(アメリカ)
ポール・フライシュマン/作 片岡しのぶ/訳
あすなろ書房
1999.09

<版元語録>アメリカ大陸の四隅に「風の人形」をたてること。それがブレントにできる、たったひとつの償いだった。ワシントン州、カリフォルニア州、フロリダ州、メイン州…アメリカ大陸を西へ東へさまよう一万三千キロの旅。ひびわれたティーンエイジャーの魂が潤いをとりもどし、再生していく姿を描いたロード・ムービー。1998年度パブリッシャーズ・ウィクリー誌ベストブック。

もぷしー:トーンもテーマも重かったけれど、その割に章ごとに視点の転換が入ってくるし、湿度が低いというか、からっとした感じなので、「たいへんなことをしてしまった責任を、どう償っていくか」というテーマを、純粋に読むことができました。自暴自棄になっているところまでの設定も、主人公の考えなしの行動だとか、周りに迎合しつつ目立とう、という素直な気持ちが、よく表現されていると思いました。やがて、結果的に人を殺してしまうわけですけど、相手の親が言うことは、日本の文学だったらこういう設定はないだろうと思いますね。娘の死に対する償いとして風車を作ってくれという課題を出すなんて、日本だったらありえない。だから文学においてもそうはならない。カウンセリングのやり方にしても、日本では「その問題を見つめてみよう」というアプローチ、アメリカではシュミレーション的というか、問題と直接向かいあうのでなく、気づくと変わっているという療法があると思います。そういう文化に則った、異文化のお話なのかなと思いました。日本だと、こういう場面に親が出てくると、恨みの色になってしまいがちだと思うんですが、それはなぜなんだろう、と考えさせられました。
少し前に読んだので、記憶が定かでないのですが、最後で、p205の「今彼の心の目に、これまで作った四つの人形が、ひとつの大きな装置となって互いに連動しあっているのが見えた。この世界も、言ってみれば巨大な一個の回転装置だ・・・」というところ。風車を作るくらいのことで、彼は本当にここまで分かったのかな。こんなふうに締めくくられると、あまりに立派で・・・という気が少ししました。もうちょっと、彼の言葉としてそっと終わらせてくれた方が、ついていきやすかったのでは? でも、全体を通して考えると、難しいテーマにも関わらず、遠くから、そばから、横から、と各度を変えて、上手に描いているんですね。こういう見方も学んでいかないとな、と思いました。

紙魚:私もp205で急にトーンが変わったので、あれ、まとめに入っちゃったのかなと思いました。わざわざ書かなくても、ちょうど本を読み終わって、自分なりに自然にその構図が描けると思うのにな。まるで文字の色が変わったかのように、トーンが急に変わった気がして。作者は、伝わるかどうか不安になって書いちゃったのかな、なんて思っちゃいました。

トチ:作者は、読者に通じるかどうか不安になるんでしょうね。いい気分になって、書いちゃいけないことまで書いちゃうこともあるだろうし・・・。

愁童:ぼくは、そこに違和感は感じなかったですよ。作者が説明しているだけでしょ。主人公がそう思っているというふうには読まなかった。

スズキ:初めは、主人公はどこにでもいる典型的なティーンネージャーで、物事をあまり深く考えないで、人生今から! どうにでもなる、という感じだった。ところが、そんな男の子が、事故で人を殺してしまう。このシーンは、えっ本当に死んじゃったの、と何度も読み返した。ちょっとしたことで、人の人生が変わることってありうるんだ、と読んでいる私のほうが、重く捉えてまった。でも、ブレントが旅に出て、いろいろやっていって、「前よりうまくできた」「今度はこれができるようになった」といったように体の体験を通して、だんだんと精神的に成長していくあたりが、からっとさわやかに描かれていた。読んでいるうちに、自分の過去の過ちを背負いつつ生きていくことを学び、回復していくブレントに、いつのまにか引きこまれていた。最後のまとめについてですが、私はこの文章にくるまで、なんで風車なんだろう、トーテムポールでもよかったのに、なんて思っていました。だから、最後のこの部分があって納得がいきました。

アサギ:私には印象の薄い本でしたね。うまくできているし、いろいろな人の物語が挿入されて、その人たちがブレントの作った風車に癒されたりする、という構成もうまい。だから、子どもにきかれたら薦めると思うのね。薦めるというのは、相手に時間と労力を使わせるわけだから、自分もどこかいいところがあると思ってるってことよね。日本の親だったら、泣いたりわめいたり、じめっとするわけで、文化の違いを感じたわね。これはキリスト教的背景という本ではないけれど、翻訳ものを読んだり訳したりしていると、背後に神があるのかな、という感じはよくするのよ。もう一つ、私は1年住んだことがあるくせに、アメリカをよく知らなくて、アメリカは均質な文化を要求する文化、という意識があったのね。ドイツなんかだと、それがなくて、南で最もポピュラーな料理を北の人は知らない、というのをよしとする。それに対して、アメリカはファストフード以外にも、同じメニュー、同じ安心感で普及したチェーンレストランが全国にあると聞いてたから、錯覚が起きていたのね。でも、このロードムービーともいうべき作品を読むと、いろんな習慣の違いが出ているでしょ。考えてみれば、あれだけ広い国で、気候も違う。偏見が正されて、新鮮でしたね。
最後の説明の4行について。私は、はじめから地の文と思って納得してたわ。最後は、読み終わった本をもどして、新しい本を読み始めたっていうの。余韻があっていいと思ったわ。あと、ルーシーショーとか、古いアメリカの名前が、懐かしかったわねえ。乱暴だと思ったのは、p176の、おばあさんが最後に「たとえドイツの人でもね」っていうところ。これ、ドイツ人が読んだら怒るだろうなあ。

愁童:これ、すごく好きな本になったな。印象が薄いのは確かだよ。何が書いてあったかは、よみがえってこない。だけども、風車が立っているという存在感、卓越した構成と着想に感動したね。娘の顔をした風車というモチーフを考え出した、作者の書き始めのポテンシャルエナジーはすごいね。読んで得する本だと思うよ。人生観とか哲学だけで本は存在するものでもない。このイメージがすごい。母親の悲しみもよくわかる。こういう形で書かれたことを、癒しのイメージだけで捉えたくないな。

オカリナ:被害者のお母さんのサモーラ夫人は、主人公のブレントに対して、罪の償いというよりブレントの成長のきっかけとなるような提案をするでしょ。でも、このお母さんは、一般的なアメリカ人というより、赤毛で、インド更紗のスカートをはいてて、フィリピン人の男性と結婚するような女性だって書かれていて、その時点で、作家は普通の常識人とはちょっと違うように設定しているんだと思うの。お父さんはブレントを絶対拒否して、手紙だって切り刻んで返すくらいでしょ。その方が普通なのかもしれない。お母さんは、いろんなところでいろんなことをやってきた人。これがなかったら何もわからなかったようなブレントに、最大のプレゼントをするわけよね。すごい!
フライシュマンは、「一人の人間の行為は、直接的にではなくとも、必ずだれかに影響を及ぼす」と強く考えている作家だと思う。作品の印象が薄いとしたら、「アメリカの四隅に娘の顔をつけた風車を立てる」という設定が強く前面に出ていて、それ以外の部分が後から追いかけているからなのかな。一人の行為は必ず誰かに影響する、というのは、他の作品にも見られる、フライシュマンの一貫したテーマ。でも、それがあまりにも前面に出すぎると、かえって印象に残らなくなる気がするのね。こういうことを書かなくちゃ、と思うと、それに引きずられてプロットが後からついていくじゃない。思想は自分の中にあって、思いついたことを書いていくうちに、それがおのずとあらわれてくる、っていう方が作品としてはおもしろいかも。

紙魚:主人公の少年といっしょにバスに乗りこみ、いっしょに風車を立て、ロードムービーを楽しむように読めました。フライシュマンもすごいけれど、さっきその良さを語ってくれた愁童さんの言葉にもじーんときちゃった。世界は自分の力でどうとでも変えられるという考えと、自分の力ではどうしようもないこともあるという考えがありますよね。この作品には、自分の力ではどうにもならないことがいっぱい出てきます。人の気持ちや生死には手出しができないですから。けっしてあきらめでなく、及ばないものに対する畏怖の念を抱き、どうすることもできないこともあるということを知るたび、人は優しくなることもあるんじゃないかな。
子どもの本でも、自分で世界を変えようという本と、自分だけではどうすることもあるという本、その両方があってほしいです。例えば恋愛を描くにしても、「誰でも振り向かせてみせる」という部分と、「どうしても振り向かせられないんだ」という部分。どちらの側の作品もあってほしいと、これを読んで思いました。未来に希望をつなぐ終わり方も、とてもいいなと思いました。取り返しのつかないことをしてしまって、償いに風車を作る。風車というのは、プロペラがあるだけで、風がないと回らない。4つの風車と主人公の気持ちが、風によってつながっていった気がしました。フライシュマンは、自分がしたことで誰かが影響を受けていく、その機微が見える人なのでしょう。最後のp205の「〜巨大な一個の回転装置〜」の4行は、ちゃんと伝わってるから言わなくてもいいよと思ったほど、それまでにイメージができあがっていました。導入部分は、「ビバリーヒルズ高校生白書」のようなアメリカっぽい世界が広がっていて、それもおもしろかったです。それが突然、交通事故のところで、一瞬何が起こったかわからなくなって、次章の挿入部分に入りますよね。そのあやふやさ。ブレントも、そうやってじわじわ事態をのみこんでいくはず。挿入を使って、それを表しているところが、うまいですよね。
ブレントは、まさに自意識過剰な年齢。パーティーに出ていた頃と、旅を終えたときでは、同じように過剰な自意識ではあっても、きちんと成長のステージがちゃんと見えてきますよね。おしつけがましくない描写もいいと思いました。そういう年代の人たちをやさしく見守る視線、寄り添うように眺める視点もいいと思いましたね。

トチ:もっとも優れた点は設定ね。設定を考えついた時点で、この作品は成功だったのでは。同じ作者の『種をまく人』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)と同じで、途中で言いたいことがわかってしまって、同じようなことを言ってるな、と思ったこともあったわ。その意味では、もう少し違うことを書いてほしかった。でも、おもしろかったし、薦めたい本ね。図書館に置くべき本だとは思った。アメリカ的、キリスト教的というよりも、もっと原初的な宗教観を感じたわ。それにしても、アメリカ人は寓話的なものが好きなのかしら。ルイス・サッカーの『穴』や、ジェリー・スピネッリの作品もそんな感じがするし・・・ただ、私の好みを言わせてもらえば、寓話のようにかっちり作者の世界ができているものよりも、破れたところがあって、作者自身も思いもよらぬほうへ行ってしまう文学のほうが好きなのよね。風車を立てるというのは日本にはない感覚という意見があったけれど、私は贖罪のために仏像を彫るというのを連想してしまって、かえって日本的な、なんだか懐かしい感じがしたわ。

オカリナ:この風車は英語だとwhirligigで、シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(斎藤倫子訳 あかね書房)にも出てくるわね。アメリカでは象徴的な意味合いをもっているのかも。

チョイ:ここに出てくる4個所っていうのは、アメリカの四隅にあたるのかしら? 風水でもないのにね。

ねむりねずみ:最初、今回の課題を決めるので、これどうかなって読んで、今回もう1度読んだんですけど、はじめは構成に頭がいってしまって、『種をまく人』といっしょだなって思った。同じフライシュマンの台本形式で書かれた『マインズアイ』(寝たきりのおばあさんから女の子に想像力の翼が継承されていく物語)とも同じだな、っていうのが先に来ちゃった。この著者は、よい意味で行為は波紋を広げるというメッセージを持っているんだなって。2回目に読んでみたら、なるほど主人公の成長物語になっているんだということがわかった。ワシントン州では物をつくる充実感、カリフォルニアではありのままの自分として人と接すること、そしてその次は、自分と他の人とのやりとりの楽しさを知ること、そして最後に心の中の秘密を打ち明けて、本当の意味で前に進める状態になった。順を追ってできているんだなって思った。でも、先にメッセージがあるというのもあるけれど、構成としてできすぎちゃっているような気がする。感情面から読者を巻きこむのとは違う感じの本ですね。派生するエピソードのひとつの、バイオリンを練習させられる男の子のエピソードが好きでした。やはり着想のすごさなんだなって、いま感想をうかがってあらためて思いました。表紙のイメージ(くるくる回る)がすごく大きいと思う。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スターガール

ジェリー・スピネッリ『スターガール』
『スターガール』
原題:STARGIRL by Jerry Spinelli, 2000(アメリカ)
ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳
理論社
2001.04

<版元語録>ハイスクールの転校生スターガール・キャラウェイは不思議な子だった。白いドレスにウクレレ、ランチタイムの儀式、風変わりなチアガール。彼女は町はずれの砂漠に秘密の場所をもっていた…。ほかでは味わえないラヴ・ストーリー。

もぷしー:うー、この本に関してはコメントできないです。女の子のキャラクターは、奇抜で印象に残るんだけど、彼女の魅力が伝わらないことには、どうもこの本はおもしろく読めないんじゃないかな。ひとつだけ、スターガールが自分を変えようとしている、演出しようとしているところ、過剰に人にどう見られるかを意識しているところは共感できました。誰の幸せにも不幸にも真剣にやってあげるのは、みんなの理想というメッセージが含まれているかもしれないですね。

スズキ:たまたま「東京ブックフェア」で3割引で売ってたので、お得と思って買ったんですよ。帯には「ほかでは味わえないラヴ・ストーリー」とあったから、「ほかでは味わえない」何かを味わいたかったんだけど、読んでみると「味」がなかった感じ。スターガールがバスケの試合で両方のチームを応援したり、みんなの誕生日を祝ったりするのは、新鮮に感じられて私もやってみたいとは思ったけど。そんなハチャメチャな彼女が大好きだという、男の子がじめじめしてて好きになれなかった。スターガール自身の描写もあまり深みがなく、男の子が彼女にどうして惹かれてるかもわからない。この男の子のほうが、へこたれてこのカップルはだめになるかもと思ったけど、だめになることもなく、最後は彼女のほうが蒸発してしまって、ちょっと消化不良っていう感じ。感想を求められるとつらいです。

ウェンディ:アメリカには個性を認める国っていう印象があったけど、出る杭は打たれるっていうのはやっぱりあるのね。世捨て人でもないかぎり、相手のことを考えてなくちゃいけないというレオの考え方に、スターガールは惹かれながらも、そうはなれない。じゃあ、レオがどうしてスターガールに惹かれるか、わからない。レオが好きなあまりにスターガールが自分らしさを捨てるところも、葛藤が見えてこない。心の揺れがよく書けてるのはレオの方で、スターガールはリアリティがない。レオの視点で描かれるからかもしれないけれど。でも、レオみたいなナイーブな男の子って、結構いるのかもしれない。

愁童:今朝から読み始めたんだけど、あんまり深く読んでないのでわからないです。なんでこういうこと書かなくちゃいけないの? いやに平凡でしょ。幼稚園みたい。何を言おうとしているのかわからなかったですね。個性とは言ってるけど、結局、一面的な状況に対する反論なのかな?

オカリナ:この本は、構造としては『クレージー・マギーの伝説』(スピネッリ 偕成社)の女性版でしょ。でも、独りでも自分の価値観を貫くという主人公のキャラクターが、この作品ではとても観念的で、くっきりとうかび上がってこない。最後までぼやけたまま。『クレージー・マギーの伝説』のほうがおもしろかったな。私はどうしてもスターガールに感情移入できなくて、困った。

トチ:スターガールみたいな子がいたら、私だったらいじめちゃう。

オカリナ:個性あるものは排除されるということが言いたいだけなら、つまらない。スピネッリの他の作品は、もっとおもしろいのにね。アーチ—とか、せっかくおもしろいキャラクターが出てきても、最後には凡人だけが残るというのもねえ。

紙魚:私も、スターガールの魅力がわからなかったなあ。個性というものが、二極で単純に描かれてしまっているのも気にいらない。制服の反対に、奇妙な服とか。スターガールのことを言及すればするほど、スターガールの個性が薄っぺらくなっていくようで、個性って言葉で表すのはほんと難しいですね。装丁はとってもよかったです。

トチ:スピネッリの作品のなかでは失敗作よね。こんな風に(一見)個性の強い子って、自分を理解してくれない人たちとはかかわりたくないと思うのが普通なのに、この子は執拗に他人に好かれたいとするのよね。好きな男の子のために、自分のスタイルも変えてしまうし。

オカリナ:個性的っていうんじゃなくて、単にピュアだっていう設定なんじゃないの?

トチ:スターガールが描けてないと思うの。自我がなくて、自分から行動できない子としか感じられない。『肩甲骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 金原瑞人訳 東京創元社)に出てくる、主人公の隣の女の子も、いってみれば変わり者だけれど、すごく生き生きしてたじゃない。こういう本がどうして人気があるのかしら?

オカリナ:今のベストセラーを見てると、本を読まなかった人がたまたま読んで、あー本ってこんなにおもしろいんだって再確認してるような気がする。本当はもっとおもしろい本がたくさんあるのにね。

愁童:この本、おもしろくないよね。ハリポタのほうがまだおもしろいよ。

アサギ:でもね、ベストセラーになる条件って、ふだん読まない人が買うってことなのよ。

チョイ:スターガールのキャラクターに統一感がないのが、何よりも居心地悪かったですね。生命観、自然観、宇宙観みたいなものが、どうにもイメージできない。一所懸命彼女を解釈しようとすると、アニミズムを体現した存在かなとも思えるんだけど、一方であんなに他人のことを調べまくったりして、何だか気持ち悪い。でも、この本、アメリカのベストチョイスかなんかに選ばれてるんですよね。うーん、アメリカ人って、時々理解しがたい。

ねむりねずみ:スターガールの造形の仕方が、デスマスクをつくる過程みたいだった。しっかりしたものがあるんじゃなくて、ぺたぺたと外側から貼り付けてできていく感じ。とりあえず、レオはだらしない。私はスターガールをすごくいやな奴だとは思わなくて、まあこういうのもいるかなという感じでしたね。でもラストはいやだったな。スターガールを自分に都合のいいときだけ楽しんでいる周囲の残酷さがいやだった。

チョイ:超自然的なものがあらわれたときの平凡な人間の心理的錯乱をかきたかったのかな。

ねむりねずみ:この物語って、最初と最後で誰も変わってないんだよね。もちろんスターガールも。スターガールって寂しがりやなんじゃない?

トチ:だけど、理解してくれる女の子がひとりはいたわけだから、それでいいんじゃないかしら。

チョイ:スターガールは特殊な存在でしょ。作者も、スターガールがみんなからけっして好かれないことを知って書いてる感じがしますよね。

オカリナ:やっぱり主人公は魅力的に描いてほしいな。

スズキ:スターガールのスピーチ原稿を読ませてくれれば、感想も変わっていたかもしれないな。

チョイ:それを書くだけの筆力が、作者になかったってことかな。

愁童:途中から恋愛関係が入ってくると、よけいわかんなくなっちゃう。個人の愛をとるか、大勢の愛をとるかっていうのも、わかんないな。そんなこといってどうするのかな。恋愛っているのはオール・オア・ナッシングじゃないでしょ。これじゃ、破綻するのは当然じゃない。

もぷしー:スターガールに出会ったのは、事故みたいなものっていうことなのかな?

紙魚:まわりのみんなに影響をあたえることもなく、最後はスターガールが去っていくって、まるでスターガールが天災だったかのような。

トチ:ホラー仕立てにしたらよかったかもね。

紙魚:ほんとにこういう子がいて、誕生日の日にお祝いにきたとしたら、ストーカーだと思っちゃうかも。

トチ:スターガールじゃなくて、ストーカーガールにすればよかったじゃない。善意のかたまりみたいな、こわい人っているわよね。

紙魚:このところ、意味がつかみづらいことをスタイリッシュに書くっていう作品が目立つなあ。

オカリナ:そういうの、大人の文学には前からあったのよ。

ねむりねずみ:意味がないことを書くのは、危険がないから楽なんじゃないかな。読者のほうも、何もつきつけられないから、気楽に読めるし。

オカリナ:子どもの文学にはちゃんと物語性があっておもしろいね、っていうことだったのに、最近の作品を見ると、子どもの文学にも中身よりスタイルっていう書き方が浸透してきちゃったのかな。それを持ち上げる人もいるしね。

チョイ:ポーズでおもしろいとか言ってても、本音ではあまりそうじゃなかったら、結局、また読者が少なくなることにつながるからこわいよね。

もぷしー:スターガールって、映画の『アメリカンビューティー』の女の子に重なったな。魅力的には描かれてるけど、女の子のほんとのところはわからない。この作品も、流行に乗ってできちゃったものなのかしら。アメリカでアカデミー賞をとったから、それに近づけてキャラクターを作っちゃったのかな?

アサギ:『作家の値打ち』で、福田和也が批評の責任ということを書いていて、「批評家がつまらない作品を持ち上げると、それにつられてせっかくふだん本を読まない人が手に取ってくれても、なんだ本なんかやっぱりつまらないじゃないか、と思ってますます本離れがすすんでしまう」というようなことをいっていたわね。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)