日付 2018年09月18日
参加者 アンヌ、オオバコ、カピバラ、コアラ、しじみ71個分、すあま、たぬき、西山、花散里、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、レジーナ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 私を変えた出会い

読んだ本:

茂木ちあき『空にむかってともだち宣言』(課題図書)
『空にむかってともだち宣言』
茂木ちあき/作 ゆーちみえこ/絵
国土社
2016.03

<版元語録>ミャンマーから転校生がやってきた。あいりはすぐにうちとけてなかよくなるが、給食のときにちょっとした事件が起きて…。それをきっかけに、クラスみんなで「アジアのご近所さん」ミャンマーのことや、日本にくらす難民についても学び始める。
デボラ・エリス『九時の月』
『九時の月』
原題:MOON AT NINE by Deborah Ellis, 2014
デボラ・エリス/作 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2017.07

<版元語録>LGBTとは、恋とは、愛とは。革命後のイランを舞台とした、愛し合う二人の少女たちの悲しい運命を描く実話を基にした物語。
ジョン・ボイン『ヒトラーと暮らした少年』
『ヒトラーと暮らした少年』
原題:THE BOY AT THE TOP OF THE MOUNTAIN by John Boyne,2015
ジョン・ボイン作 原田勝訳
あすなろ書房
2018.02

<版元語録>ドイツ人の父とフランス人の母との間に生まれた少年ピエロは、パリで暮らしていた。しかし、相次いで両親を亡くし、叔母のベアトリクスに引き取られることに。住み込みの家政婦をしているベアトリクスの勤め先はベルクホーフ。それは、ヒトラーの山荘だった。7歳の少年ピエロは、期せずして総統閣下と寝食を共にすることになる。ヒトラーにかわいがられたピエロは、その強いリーダーシップに惹かれ、彼を信じ、彼に認められることだけを夢見て、変わりはじめた・・・・・・


空にむかってともだち宣言

茂木ちあき『空にむかってともだち宣言』(課題図書)
『空にむかってともだち宣言』
茂木ちあき/作 ゆーちみえこ/絵
国土社
2016.03

<版元語録>ミャンマーから転校生がやってきた。あいりはすぐにうちとけてなかよくなるが、給食のときにちょっとした事件が起きて…。それをきっかけに、クラスみんなで「アジアのご近所さん」ミャンマーのことや、日本にくらす難民についても学び始める。

コアラ:読みやすかったです。内容がよくまとまっていて、ミャンマーのことも難民のことも子どもが読んでわかるようになっていますね。特に、難しい話になりがちな難民の説明について、男の子たちがナーミンをからかったという事件から急遽難民についての授業になるという展開は、うまいなと思いました。気になったところがいくつかあります。p14の8行目、「どおりで」は「どうりで」の間違いですよね。あとp36の挿絵で、あいりが男の子のように描かれていて、どの子があいりなのかパッと見てわかりませんでした。

花散里:こういう作品から外国のことを知ることができるので良いと思いました。今、日本のどこの地域の学校にも、外国から来た子どもたちが在籍しています。日本語がまだよく理解できていない子どもたちとのやり取り等が伝わってきますね。共感して読める子が多いのではないかと思います。

アンヌ:今の日本は実際に殆ど難民を受け入れていない状態なので、この一家がNGOのサポートを受けている難民だという設定が気になりました。給食の時の勇太のいじめは、あいりが暴力をふるいたくなるほどひどいので、この「難民を知る授業」で、どれほど理解できたのか疑問です。だから、先生がいうp72の「ありがとう、航平くん」は、皮肉に聞こえました。クラス全体でミャンマーの民族舞踊を踊るというところは、音楽や振りつけでその国を体で感じて子供たちも見ている親の方も楽しくミャンマーの文化を知ることができる、いい場面だと思います。少し疑問だったのはp117の「ハグとハイタッチ」。ハグはどれくらい日本語になっているんでしょう。

ルパン:さくっと読めました。ミャンマーのことをあまり知らなかったので勉強になりました。テーマありきという感じで、登場人物の子どもたちがそれに合わせて動かされている感はありましたが、あまり期待していなかったので、その割りには楽しめたということかもしれません。期待しなかった理由は、ひとえにタイトルです。読書会のテキストになっていなかったら、まずは手に取らなかっただろうと思います。子どもたちは手を出すんでしょうか…あ、課題図書だったんですか? なるほど。課題図書なら読むのかな。でも、これ、小学生が読んでおもしろいんでしょうか。

オオバコ:先日、「おもしろい……といわないと怒られそうな本がある」という発言を聞いて思わず笑ってしまいましたが、この本は「良い本……といわないと怒られそうな本」だと思いました。課題図書に選ばれたということですが、なぜ選ばれたのか、どんな感想文が出てくるのかすぐに分かってしまいそう。テーマだけで本を選んで感想文を書かせていいのかな? みなさんがおっしゃるとおり、小学生向けにサラッと書かれていて読みやすいけれど、物語としておもしろくない。社会科の、あるいは道徳の教科書みたいな書き方をしていますね。それでも、「難民」を取りあげているところに意味があるのかな・・・・・・と思って、ネットで作者のインタビュー記事を読んでみました。そうしたら「(ミャンマーから来て主人公のクラスに入った)ナーミンを、わたしは難民だとは書いていません」といっているのね。だから、作中で「難民とはなにか」を、主人公の母親の友だちが子どもたちに説明しているけれど、この本は「難民について書かれた物語」じゃないんですね。たしかに日本は難民申請をしてもほんの少数しか認められない、難民を受け入れないといっていい国。昨年も2万人申請したのに、認可されたのが20人だったと新聞に出ていました。そういう事情もあって、作者は前記のように述べたんでしょうけれど、そこのところをサラッと書き流してしまっていいものなの? それにミャンマーといえばロヒンギャを迫害して多くの難民がバングラデシュに流れこんでいるというニュースが海外のテレビ放送では毎日のように流されているし(日本ではほとんど報道されないけれど)、先日の朝日新聞の歌壇にも<アウンサンスーチーと今は呼びすてにしておこう・・・・・・>という歌が載っていたばかり。いったいナーミンのお父さんはアウンサンスーチーが政権を取ってから警察に捕まったの? それとも、軍政時代の話? サラッと書いてあるから、ますますモヤモヤしてきて、ひと言でいえば「みんな仲良し、みんな良い子」的な、のんきな物語だなというのが、率直な感想です。

レジーナ:日本で難民認定されるのは非常に難しく、この本でも、ナーミンの家族が難民だとは書いていなくて、それについてはぼかしてある感じがしました。p26で、ゴンさんも「いろいろと事情があるんだ」と言うだけで、あいりにきちんと説明しないですし。海外にルーツをもつ子どもは、言葉の問題を抱えているケースが多くあります。そんなにすぐに言葉もうまくならないそうです。p69で、ナーミンは自分の過去を流暢に語りだすのですが、たった数か月でこんなに話せるようになるのでしょうか。

ハル:たしかに、言葉の壁だったり、偏見だったり、実際にはこの本には描かれていないような苦労がもっとあるんだろうなとは思いましたが、物語全体をとおして、知らなかったこと、無知であることを攻めるのでははなく、知らなかったなら、これから学んで理解を深めようよ、と呼びかけるような、作者の姿勢に愛を感じました。給食の時間に男の子たちが悪ノリしてしまうシーンも「軽い気もちでいったいたずらが、思いがけず大さわぎになってしまい、とまどっているようにも見えた」(p61)り、先生も、二度とそういうことは言うな! とかその場で叱りつけそうなところを、そうせず、子どもたちに学ばせて考えさせる、そういう姿勢がよかったです。

西山:いま、みなさんが出している本を見てびっくりしたのですが、私、同じ作者の『お母さんの生まれた国』(新日本出版社)を読むんだと思い込んでました! 主人公の小学生が、カンボジア難民という母親の過去と向き合う物語ですが、こちらの方が、読みごたえはあります。『空に向かってともだち宣言』も出てすぐに読みましたが、申しわけないけれど、すっかり内容忘れています。移民や難民の問題を、小学生を読者対象として書いたことは意味のあることだと思っています。ノンフィクションとして書かず、フィクションにするからには、事実関係の伝達だけでなく、むしろ、当事者は、周りの子どもの感じ方や考え方を捕まえたいと思っているのでしょう。その点で、人物描写には課題もあるとは思います。

たぬき:課題図書としてこれが選ばれたということですが、二、三十年前の本としても通用しますね。これを選んだ人たちは低学年向けの難民ものを探していたんでしょうか? 難民だから給食いらないよね、っていうのはひどすぎますね。傷つけるつもりはないけど、そうしてしまうとか、いろいろな場合があったほうがリアル。この文字量で描こうとしたのはいいなあと思いました。非常にさわやかで、いい人がでてきて、さっと読めるんですが、ひっかかりがない。だから読んでも記憶に残らないのかもしれません。そこはもっと攻めてほしかったです。

マリンゴ:さらりと読めました。著者の、ミャンマーへの愛情が伝わってきます。テーマもいいと思います。ただ、先が気になって惹き込まれるタイプの物語ではないなと感じました。その理由の1つとして、ナーミンが控えめでいい子で、受け身すぎるキャラクターであることが挙げられるかも。こういう転校生なら、クラスに受け入れられて必ず好かれるよね、というタイプなので。最初はおとなしく見えても、徐々にユニークな発言をし始めたりしたら、目が離せなくなったと思うのですが。後半はミャンマーの文化紹介になってますね。そのせいか、なかよし大使に選ばれた場面でも「よかったね」とは思うのですが、カタルシスを得られるところまではいきませんでした。

カピバラ:今日話し合う本は3冊とも、大人がひきおこした政治情勢に翻弄される子どもが描かれています。日本の作品にはこういったテーマがまだ少ないので、そこにチャレンジする姿勢に好感をもちました。知らない外国で起こっている出来事ではなく、自分の身近なクラスメイトから考えるのは読者にもわかりやすいと思います。これからもこういう本がどんどん出るといいですね。でもやはり物語としての魅力はいまひとつなのが惜しい。タイトルや表紙の雰囲気も、もう少し考えてほしいです。

ハリネズミ:こういう本があってもいいとは思いますが、たとえば、このお父さんは日本ではジャーナリストになれないとか、子どもだってすぐには日本語が話せるようにならないだろう、とか、リアルな日常の中ではもっと葛藤があるはずなのに、それが書かれていないので、「よかったですね」としか言えないなあ。タイトルからして能天気な気がします。最後はめでたしめでたしですが、これを読んだ子どもたちは、本当に難民のことを考えるようになるんでしょうか? 疑問です。いい意味でも悪い意味でも、日本の作家が社会問題を扱うとこんなふうになりがちという一例だと思います。ドイツは申請した人の半数以上は受け入れているのに日本は申請数が少ない上に認定数は0.6%だそうです。そういうことを考えると、難民について、あるいは国を脱出した人について考えるにしては、これだけだと弱い気もします。p64に「難民は、世界中に1500万人以上いて、日本に避難してきている人も、1万人以上いるという」とありますが、いつの時点の話なんでしょう? 日本は、1978年から2005年末まではインドシナ難民をたくさん受け入れたのですが、今はごく少数です。また、ナーミンたちはどうして国を脱出せざるをえなくなったのでしょう? 現代のミャンマーから日本への難民は主にロヒンギャで、ロヒンギャはミャンマー語を話さないようです。また、この本の記述からは、ミャンマー人は箸を使わないように思えますが、ミャンマー人も麺類を食べるときは箸を使うそうです。ナーミンがただのかわいそうな女の子ではなく、生き生きとして能力もあり、まわりの人たちにも文化的な影響をあたえる存在として描かれているのはとてもいいと思ったので、身近なところにもこういう人がいるよと知らせる入り口としてはいい本なのかもしれないけど、もうすこし考え抜いたうえで書くと、さらによかったのに、と残念に思いました。

しじみ71個分:さらっと読みました。難民をテーマとして取り上げたことはとてもいいなと思います。うまくいきすぎだったり、周りの人々の理解がやたらあったり、日本語がうますぎたり、と教科書的に都合のいいところはたくさんあるのですが、こういうテーマを扱う本が増えていくことに意義があると思っています。どんどん増えていくうちに、内容も深化していくのではないでしょうか。とてもおもしろかったのですが、この本を図書館で借りたところ、ページの途中に、「あいりちゃん、すごい!」と、小学生らしい子どもの字で書いたメモがはさまっていて、この本の中身をちゃんと受け止めたんだなぁ、と感動してしまいました。大きなテーマを小さい子どもたちにどう伝えるかは一つの大きな課題だと思います。この本は中学年向けでしょうか、難しいテーマを難しく伝えると読むのを放棄して逃げだしちゃう子どももいるように思います。こういう教科書的な表現もひとつの子どもへのアプローチの仕方かと思いました。今後、バリエーションが出てくることに期待したいです。

すあま:すっかり難民の家族の話だと思いこんでいました。難民ではなくて日本にやってきた子どもの出てくる本は他にもあり、難民問題をテーマにするなら、ナーミンの家族はどちらなのかもう少しはっきり書いてもよかったんじゃないかな。巻末に解説があるといいのではないでしょうか。日本が国として難民に冷たいということなど、もっと書いてほしかった。ちょっと物足りなかったです。

花散里:日本の児童書は、巻末に解説のない作品が多いですね。難民のことを中学年くらいに伝えるには、この内容以上に盛り込むのは難しいと思うので、解説で補うしかないと思うんですけど。

ハリネズミ:日本の作家の本だけ読んでいても、世界のことはなかなかわかってこないような気がするのは、私だけでしょうか。日本の出版人は、子どもはまだ社会の問題に触れなくていいと思ってるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):読みやすくさわやかで、希望が持てます。授業で「難民地図」を示し、子どもたちに説明したところが印象的でした。以前、アウンサンスーチーの『ビルマからの手紙』を読んだことがあります。そのアウンサンスーチーが、今はロヒンギャ問題で批判されています。ミャンマーの民主化はまだ遠いのでしょうか?

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


九時の月

デボラ・エリス『九時の月』
『九時の月』
原題:MOON AT NINE by Deborah Ellis, 2014
デボラ・エリス/作 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2017.07

<版元語録>LGBTとは、恋とは、愛とは。革命後のイランを舞台とした、愛し合う二人の少女たちの悲しい運命を描く実話を基にした物語。

ルパン:読み終わって、おなかいっぱい、という感じでした。いろいろな意味で、濃かったです。まずはイランのことですが、15歳の子が死刑になるとか、それも、同性の子を好きになったから、というのは衝撃的でした。2代にわたって自分の子どもを見捨てる親の存在も。実在のモデルがいるとわかって、ほんとうにショッキングでした。イランの政情のことと同性愛の問題と、重いテーマがふたつあって、うまく絡み合っていると思いましたが、どちらが主軸のテーマなのだろうと考えながら読んでしまって、ちょっと感情移入しきれなかったところもありました。

アンヌ:革命後のイランについては漫画の『ペルセポリスI イランの少女マルジ』(マルジャン・サトラピ著 バジリコ)ぐらいしか読んだことがなくて、この作品で改めて革命防衛隊が学校や家庭の中にまで入り込んでくる生活に恐怖を感じました。空爆が行われている街で、王党派の人々を集めて毎日のようにパーティをする両親に反発する主人公。ユダヤ教のラビとも友人として語り合える学者の父親を持つサディーラ。普通なら反政府的な行動をとった娘の命を助けてもいいんじゃないかと思える両方の親がとる行動が衝撃的でした。宗教や社会が断罪する世界で、同性愛者が受ける過酷な状況には震え上がりました。冒頭のファリンが描く悪霊の物語が稚拙で入り込めない感じなのに、2人の恋の場面はとても繊細です。特に古都シーラーズで過ごす場面の描写はとても美しく、イランの古い文化の魅力を感じました。

花散里:ずっと読みたいと思っていた本で、読み終わったときには衝撃を受けました。ファリンがサディーラと出会ったことで変わるというストーリー展開は、まさに今回のテーマ通りですが、イランやイラクとの政治状勢、宗教のことなどがまだ充分に理解できていない世代の子どもたちは、どのように読むのでしょうか。爆撃が続き、死との隣り合わせのような日々の中で、親たちの開くパーティーを見つめる子どもなど、紛争が続く国で生きる人々のことを描いた作品を日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

コアラ:原書の書誌情報(コピーライト)が入っていないですよね。2章以降は章タイトルがないのも変な感じがしました。章番号の下のデザインはペルシア文字のようで興味を引きました。ネットで調べたら、「章」という意味のペルシア語にこのような文字が入っていて、いいデザインだなと思いました。イランというあまり馴染みのない世界が舞台なので、知らない世界を知るという点ではおもしろかったけれど、内容としては、ちょっと冷めた目で読んでしまいました。障害があればあるほど愛は燃え上がるよね、とか。サディーラは理想化されすぎという気がします。ただ同性愛というだけで死刑になる国があるということには、驚きました。問題提起という面では意味があるけれど、子どもが読んで、特に同性愛の傾向のある子どもが読んで勇気付けられるかな、というと、ちょっと暗すぎる内容だと思います。あと、物語に著者の考え方が現れているようなところがあって、例えばp92の7行目など、ちょっとついていけない感じがしました。気になったところは、訳者あとがきのp285の2行目、「イギリスのM16」となっていますが、これは「イギリスのMI6(エムアイシックス)」ですよね。

ハリネズミ:私は、訳のせいか、ファリンにあまり共感できなかったんです。最初の方で、ファリンがパーゴルへの復讐に凝り固まっているように取れてしまい、またこの訳だとアーマドをさんざんに利用しているようにとれます。p37やp45の訳も、アーマドをバカにしたような無神経な発言に取れるので、結末についても自業自得感が出てきてしまいます。また原文はもっとリズムのいい文章なのだと思いますが、もう少していねいに、細やかに訳さないと、メッセージだけが前面に出てマンガ的になってしまい、物語の中に入り込みにくくなります。ファリンがサディーラをどれだけ深く思っているかとか、サディーラの魅力を読者にも納得できるようにもう少し表現してほしかったです。でないと、一時の熱に浮かされてヒステリックになっているだけのようにもとれてしまうので。悪霊ハンターの物語も、この訳だととてもつまらないですね。

カピバラ:1988年のイランという日本の読者には遠い状況でありながら、前半は居場所がないと感じている十代の少女らしい心情が描かれて共感できると思います。紙に好きな人の名前を書く、お互いの秘密を打ち明け合う、離れていても毎晩9時に月を見る、というような、好きな人への溢れる思いが描かれ、相手が同性でも異性でも同じと思わせる描写が多くありました。後半は死と隣り合わせの緊迫した状況に、読者も緊張を強いられ、苦しくなります。最後はあまりにも理不尽でむごいのですが、実話をもとにしているので、今の日本の読者にも知っておいてほしいと思います。また、当時のイランの富裕層の考え方がよくわかりました。70年代後半にイギリスに行ったとき、イランの金持ちの子弟が大勢留学していて、首からさげたロケットには国王の写真、家には国王一家の写真を飾っていたのを思い出しました。ファリンの母親と同じ世代かなと思います。

マリンゴ:ラストが衝撃的でした。脱出できて、サディーラとは会えないのだろうなとは思いつつ、みんなとの再会のシーンを想像していたので、その斜め上を行くエンディングにびっくりしました。でも、アーメドの態度が徐々に変わってくる様子がうまく描写されているため、リアリティを感じて、うまいなと思いました。ここで終わる?というところで放り出されるわりに、読後感が悪くなかったのは、そのリアリティのおかげかもしれません。p121「戦争によって得たものはかえさなければならない」という部分が印象に残りました。文章に矛盾を感じる箇所がありました。

たぬき:日常の雰囲気や生活感が伝わるのはいいと思いました。基礎知識がないと理解しに口と思うので、巻末に説明をいれるとか、子どもにやさしい設計にしたほうがいいのではないでしょうか。

西山:帯に「あたしたち、悪いことしてない。ただ一緒にいたいだけだよ! LGBTとは、恋とは、愛とは。」とあって、一見恋愛小説として押し出しています。それは、ひとつの作戦だけど、違和感がありました。明日をも知れぬという状況下で、そこから目をそらして享楽的に暮らすファリンの両親の感覚には共感できません。そういう革命前の支配階級に近い富裕層への反発が、革命を支持したのだろうということも理解できるとも思いましたが、圧倒的に理不尽な暴力が伴っている原理主義革命にはとうてい共感できない。書き割り的にならないで、複雑な状況を割り切れないまま突きつけられて、そこに小説のおもしろさを感じました。複雑な状況がからまりあう中で、いろんな登場人物を見せています。いちばんショックだったのは、サディーラのお父さんが変わってしまうところでした。サディーラの家でラビや娘たちとお茶を飲みながら穏やかに詩編の言葉などを語り合う場面は印象的で、すごく知的で、教養のある感じの良い父親の印象だったのに、サディーラとファリンのことを知ったあとで娘を完全に拒絶しますよね。そこまで同性愛は受けいれられないものなのかと、愕然としました。ドキュメンタリー風に作られたイラン映画『人生タクシー』で禁止されている英米の映画DVDなどが闇で流通する様子とかできてきたのを思い出しました。この映画はおもしろかったので、機会がありましたら、ぜひ。

ハル:恋愛小説の部分も味わいながら読みましたけど…どうしてこの(性格がきつい感じの)ファリンにサディーラは惹かれたのかなと思っていたのですが、翻訳で人物の印象が変わっていたのかもしれないですね。それ以外の面では、女の子たちが、学ぶことで自我に目覚め、それが破滅につながったのだとしたら、本当に恐ろしいこと、あってはならないことだと思います。実話を元にした物語だということですが、自分を偽ってでも、生きてほしかった。そうしたら、いつか…ということもあったかもしれません。信念のために死を選ぶことをすばらしいとせず、読者は自分だったらどう生きるかを、考えてほしいなと思いました。ショックな結末で、中高生などの若い読者にはどうなのかなという気もしましたが、いまだにこういう社会もあるんだと知ることも必要だと思います。

レジーナ:表紙画がすてきですね。p198の「あなたを選ぶってことは、わたし自身を選ぶってこと」という一文は胸に響きました。ファリンは、刑務所で、自分は成績がいいから助けてもらえるはずだと考えます。全体を通して考え方が幼いので、この主人公には共感できませんでした。p119の「おまえなんか、無だ」をはじめ、訳文に違和感があり、ところどころひっかかりました。

オオバコ:この作者は、実際に取材したことを何故ノンフィクションではなくフィクションで書くのかと疑問に思っていましたが、来日したときの講演を聞いたとき、ノンフィクションでは実際に取材した人たちに危険が及ぶのでフィクションで書くと聞いて、目を開かされる思いがしました。今まさに起こっている、それくらい深刻な、命にかかわる現実を書きつづけている作家なんですね。この作品もフィクションというよりノンフィクションとして読みました。ですから、登場人物の言動や、物語の結末を、こうしたほうが良かったのにとか、こう書いてほしかったというのは、ちょっと的外れのような気がします。わたしも西山さんと同じように、この本はLGBTをテーマとしているというより、多様性を認めない国家体制や社会の恐怖を描いていると思ったし、読者もそんなふうに読んでくれたらいいなと思いました。女子高のロッカールームの様子や、明日どうなるかわからない日々を過ごす金持ちの奥様方や、アフガン難民の運転手のことなど、とてもおもしろく読みました。ただ、主人公がちっとも好きになれない、軽薄な女の子で、感情移入できなかったのが残念。これは、翻訳のせいじゃないかな。級長のパーゴルの言葉づかいも乱暴で汚いから、かえって滑稽な感じがしたし。せっかくの重みのある、大切な作品なので、もっとていねいに訳してほしかったと思います。

しじみ71個分:私はこの本を読んでどう受けとめたらいいかわかりませんでした。テーマの重点が、戦争にあるのか、文化多様性や差異にあるのか、LGBTにあるのか、人権問題なのか…。そもそも、厳しい境遇にある強い、新しい女性を描くなら、主人公のファリンが人物として魅力的である必要があると思うのですが、彼女がノートに書き綴る悪霊ハンターの話が、非常に表層的で、アメリカずれした感があり、まったくおもしろくないので、主人公に感情移入することができず、彼女の心情にそってお話を読み進めることができませんでした。主人公が魅力的ではないので、恋の相手となるサディーラと恋に落ちるさまが簡単すぎるように思えたし、思春期にありがちな、恋と憧憬の誤解とか、のぼせ上がりにしか読めませんでしたので、命をかけるほどの恋になるのか?とつい思ってしまいました。本の中の登場人物の心のひだが深く描かれていないと、読み手の心がついていかないものですね。同性愛に厳しい国であることは十分分かっているはずだろうに、ふたりの逢い引きも不用意すぎてすぐに見つかって、つかまってしまうというのもなんだか軽薄な感じを受けました。それと、カナダの人が書いたということに、微妙にひっかかっています。訳のせいなのかもしれませんが、今の世の中全体が、西洋的な価値観で動いていると私は日頃感じているのですが、西洋的な視点から見た物語の中で、この本を読んだ子どもたちが、イランは悪い国、人権を無視する文化的に遅れた国みたいに、簡単に思ってしまうのではないかと心配になりました。1980年代の物語として書かれていますが、体制派反体制派の反目の中で密告が常態化していることや、同性愛で死刑になるというような社会を支持するわけではもちろんないですが、その国の文化の成り立ちや、歴史的背景等に思いを致さないでそういった点ばかり強調してしまうと、子どもたちは偏った印象を持ってしまわないか、という心配が残りました。日本でも死刑はありますし、ほかの国でも同性愛が禁じられている国はあります。一方、物語の中でも、詩を吟じ合う場面などは、とても美しく、ユダヤ教のラビとの交流も描かれていてとてもよい部分があったので、非常にもったいない気がしました。

すあま:私は、この作者の他の作品も読んでいますが、これは読後感がよくなかったです。児童文学として書くなら、やはりラストは救いがあるもの、明るいものでなければと思います。悪霊の話で終わってしまい、落ち着かない気持ちのままになってしまいました。最後の4分の1が捕まってからのことで、だれが密告したのかもわからないままでつらい場面が多く、長く感じました。友だちを作ってこなかったファリンにとって、初めての友だちであるサディーラに夢中になるのは共感できましたが、それが恋愛感情とは思えませんた。また、パーゴルの言葉づかいがあまりにも乱暴で、違和感がありました。

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エーデルワイス(メール参加):イランにアメリカ文化(映画ビデオ)が入っていたり、戦争で爆撃を受けながらも金持ちはパーディを開いていたりすることに、驚きました。主人公のファリンが、裕福な暮らしや親のことを疎ましく思いながらも、学校の成績が優秀なことや名門を誇りに思っているところなどがよくわかりません。運転手と結婚させられたファリンがその後どうなったのかをもっと知りたいと思いました。両親は、娘の命は助けても、見捨てたのですね。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ヒトラーと暮らした少年

ジョン・ボイン『ヒトラーと暮らした少年』
『ヒトラーと暮らした少年』
原題:THE BOY AT THE TOP OF THE MOUNTAIN by John Boyne,2015
ジョン・ボイン作 原田勝訳
あすなろ書房
2018.02

<版元語録>ドイツ人の父とフランス人の母との間に生まれた少年ピエロは、パリで暮らしていた。しかし、相次いで両親を亡くし、叔母のベアトリクスに引き取られることに。住み込みの家政婦をしているベアトリクスの勤め先はベルクホーフ。それは、ヒトラーの山荘だった。7歳の少年ピエロは、期せずして総統閣下と寝食を共にすることになる。ヒトラーにかわいがられたピエロは、その強いリーダーシップに惹かれ、彼を信じ、彼に認められることだけを夢見て、変わりはじめた・・・・・・

カピバラ:純粋で無垢な少年の心情、周りの人々の人物描写が巧みで、次々と場所が変わるけれど情景描写もうまく、まるで映画を見ているようにおもしろかったです。後半、次第にヒトラーに心酔していくのですが、どんなところに惹かれたのかという部分が描き切れていないと思い、そこは少し物足りませんでした。だから唐突に変わっちゃった気がしました。最後にアンシェルと再会するところに希望が感じられてほっとしました。最初にアンシェルとの仲良しぶりがほほえましく描かれているところが、伏線としてここで生きてきます。物語として納得のできる終わり方でした。ベルクホーフは本当に美しいところだったようで、絵本作家ベーメルマンスの伝記にも、少年時代に暮らしたこの土地の美しさが出てきます。時々山の家にヒトラーが来て、人々が興奮する様子もありました。美しい場所だけに、そこで行われていることの恐ろしさが際立っており、その対比もうまいと思いました。

ハリネズミ:『九時の月』を読んでいる時と違って、翻訳にいらだつことなく、すーっと物語の中に入っていけました。文学作品は、こんなふうにていねいに訳してほしいと思います。原作もいいのでしょうが訳もいいので、登場人物がそれぞれ特徴をもった存在として浮かびあがってきます。ヒトラーはそんなに魅力的な人物ではないかもしれないけれど、ピエロはついつい惹きつけられて、間違った判断をしてしまうんですね。その怖さがリアルです。ピエロは孤独で、名前も変え、アイデンティティも失っている。そんなときに、ちょっと親切にしてくれのがみんなが崇拝している強くて偉い人だと、すっと取り込まれてしまう。子どもは、周囲の熱狂に左右されやすい、とも言えるのかもしれません。最後は希望も見えて、展開もおもしろく、子どもに手渡したいなと思いました。

コアラ:今回のテーマを聞いた時には、漠然といい出会いをイメージしていましたが、これは悪い出会いというか、恐ろしい出会いでした。読み進むについれて、主人公のピエロが、横柄で権力的に変化していくのが怖くなりました。7歳という年齢で、ヒトラーという、権力を持つ圧倒的な存在に出会って影響を受けていく恐ろしさを感じましたね。主人公に共感しながら読むというよりは、主人公を一歩引いた目で見るというか、少年が変化していくのを大人の目で読んだという感じですが、この本の対象年齢は何歳くらいでしょうか。本のCコードは0097となっていて一般向けなので、YA扱いでしょうか。最後のほうで、この本を書いたのがアンシェルだという展開になりますが、p280の後ろから3行目の「だが、もちろん、すぐに彼だとわかった。」の行のところから、主語がアンシェルの一人称になるところは、劇的でしたね。いい終わり方だったけれど、p282で、この本のテーマを全部言ってしまっているのが、ちょっと残念でした。読み取り方をまとめてくれているから、わかりやすいといえばわかりやすくなっているけれど、読者の自由な読み取りに委ねてもいいのではないかと思いました。

花散里:原書のタイトルには「ヒトラー」とは書かれていない。この日本語のタイトルでは、読む前から少年が出会ったのがヒトラーだったと解ってしまう。第1部の第5章ぐらいから読み進んでいって、その人物が「ヒトラー」なのではないかと思えるような場面の緊張感が削がれてしまっているのではないかと感じました。第2部からのヒトラーと出会ったことで性格が変わって行く様子は恐ろしいほどで叔母さんの死などは特に壮絶で一気に読ませます。同じ著者の『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)は結末が衝撃的で印象深かったのですが、この作品ではピエロが〈ピエロ〉に戻るエピローグまでを読んで救われる思いでした。ヒトラー死後の戦後までを、子どもたちはどのように読むだろうかと思いました。

アンヌ:タイトルを見て、ヒトラーと向き合うことになるんだなと思うとなかなか手が出ませんでした。過酷な孤児院生活の後、状況もわからないまま叔母に引き取られ、あっという間にヒトラーに取り込まれて行ってしまう。まあ、理解はできるのだけれど、釈然としませんでした。愛情をもって引き取ってくれたはずの叔母さんが、使命を持った二重生活を送っているから、ピエロと本当に話し合えなかったせいでしょうか。とにかく、最後のエピローグでアンシェルが出てきて、ほっとしました。

たぬき:タイトルと袖文句で、どういう本かわかっていまいます。なぜヒトラーにひかれたのか、だからこそこわいという見方もあるけれど、もっと子どもにわかるように書いてもいいのかと思います。

しじみ71個分:非常におもしろく読みました。フランスで孤児となった少年のアイデンティティが、ベルクホーフのヒトラーの山荘で家政婦として働くおばさんに引き取られ、ヒトラーと出会ってしまったことにより変貌していくさまが痛々しく、胸に刺さりました。ピエロのアイデンティティの喪失が、ペーターとドイツ風に呼ばれるようになり、父母がつけてくれた名前を奪われることや、自分の物として唯一持っていったケストナーの『エーミールと探偵たち』がいつのまにかどこかに無くなってしまって、代わりに『わが闘争』を含むヒトラーの書斎の本を読むようになっていくなど、いろいろ細かく描きこまれて、読み応え十分でした。また、おばさんのベアトリクスとか、それぞれの登場人物のキャラクターも明確に描かれていて、それぞれの役割がわかりやすいですし、料理人のエマがいい味を出していて魅力的です。メイドのヘルタは、最初は運転手のエルンストに懸想するような、軽い人物として描かれているのが、ヒトラーの死後、山荘を去るときには、ピーターに重々しい台詞を残して行くところが、急にりっぱな人間になったようで、おかしかったですが、戦後のピエロの魂の彷徨のきっかけにもなっていて、重みがありました。
子どもでも戦争の加害者になり、重い十字架を抱えてしまうという姿が描かれていますが、このピエロは、最初は間違いなく、第一次世界大戦の被害者です。父親が大戦後に心を病み、事故死し、働きずくめになった母親も死んで孤児になってしまいます。誰でも加害者にも被害者にも、簡単になり得るわけで。少年が力もなく、身寄りもなく、経済的にも困窮し、何もないところで強大な力にあこがれ、ヒトラーに自己を同一化していきますが、そのヒトラーという力へのあこがれは、常に恐怖に裏打ちされてもいるわけで、恐怖による支配としても描かれていました。なぜ人が戦争犯罪に加担していくかを考えさせられましたし、本当に読むと痛くて、胸にせまる物語でした。

オオバコ:『縞模様のパジャマの少年』は、作者も言っているように寓話として書かれているから、雪崩をうつようにエンディングに落ちていく迫力がありましたが、この本はもっとじっくりと描かれていて、より大きな物語の世界を創っています。序章と終章が円環のように結ばれている構成も、見事だと思いました。大変な作家ですね。心優しい、ケストナーを読んでいた少年がどんどん変わっていく有り様が恐ろしい。メイルストロムの大渦巻みたいに大きな力に吸いこまれていく人たちと、それに必死にあらがっている人たち。そんな群像に、現在の日本にも通じるものを感じました。だって、文書をなによりも大事にしている官僚たちが、平気で国会に提出する書類を差しかえたり、偽造したりするのって、身震いするほど恐ろしいと思いませんか? それと、良い意味でショックを受けたのは「加害者としての子ども」を描いているところです。戦時下の子どもは戦地に赴いて人を殺すこともないし、自分から戦争をはじめたわけでもない被害者であり、文学のなかでもそういうふうにしか描けないと思っていました。日本の創作児童文学も、圧倒的に被害者としての子どもを描いたものが多いですよね。中国に赴いた少年兵が主人公の乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』はありますが。でも、これほどドラマチックでなくてもピエロのような少年は日本にもいただろうし、こういう形で子どもたちの戦争を描くこともできるかもしれないと思いました。その点も、とても新鮮でした。原田さんの訳はいつもそうですが、今回も翻訳の上手さに圧倒されました。特に会話の訳が見事で、登場人物のそれぞれがありありと目に浮かび、生き生きと動いている。「まいった、まいった!」という感じでした。

レジーナ:主人公がヒトラーにひかれたのは、父親的な存在を求める気持ちからでしょう。無垢な少年が変わっていったという意見もありましたが、私はそうは思いませんでした。ピエロが特別、無垢なわけではなく、ふつうの子どもの純粋さをもち、成長してもその部分は残っていて、だからこそヒトラーに影響されたように見えました。p198でカタリーナにさとされても、「今のやりとりを記憶の中からとりのぞき、頭の中の別の場所に入れなおした」ように、良心がわずかに痛む瞬間はあっても、気づかないふりをしてやりすごします。以前読んだ本で、ドイツ人が、収容所から生還したユダヤ人に、「そんなことが起きていたなんてまったく知らなかった」と言い、「わたしたちはみんな気づいていたのだから、知らなかったなんて、ぜったいに言ってはいけない」と、奥さんに言われる場面がありました。p261のペテロとヘルタの会話で、そのシーンを思いだしました。ナチスがユダヤ人のまえに殺したのは、障がいのある人たちなので、アンシェルの耳が聞こえないことにも深い意味がありますね。場の雰囲気に流されるうちに、アンシェルや伯母やエルンストを切り捨てていくピエロにも、草花を愛するような優しい人だったのに、戦争で心が傷つき、暴力をふるうようになる父親にも、人間としての弱さがあり、それは私たちだれもがもっている弱さなのだと思います。p172で、エーファとフロライン・ブラウンと、表記が分かれているのですが、なにか意味はあるのでしょうか。

オオバコ:YAだから、原作のままに訳してもいいんじゃないかしら?

ハル:これは、ピエロが引き取られた先にいたのがたまたまヒトラーだったというだけで、ヒトラーに魅力があったということではなく、たとえば村長さんとか、そういった戦争に関係ない人だったとしても、権力があって、こわくて、ときどき優しくて、なんていう人の前に突然立たされたら、誰だってなびいてしまうんじゃないかと思います。戦争に限らず、学校や社会やいろんな日常で、いつのまにか強い力に染まっていた、という危険はいつもあると思います。純粋無垢であればあるほど。そうならないためにはしっかり勉強をしなければいけない。でも、その教育がすでに毒されていたら…?と、恐ろしくなりました。戦争が終わって、ピエロも自分の犯した罪を背負い、償いの日々を生きていかなければなりません。でも、そこに希望を見つけたような思いがしました。戦争があった(または、たとえばいじめの加害者になってしまった)。最悪だった。許されない。で終わるのではなく、過ちを認め、罪を背負い、償いながら生き続けることで、次の世代か、いつかの希望につながっていくんだなと思いました。

西山:希望とか絶望とかは考えませんでしたね。取り返しのつかなさをつきつけられて呆然とする感じ。ピエロの変質は不自然とは思いません。「力」にひかれていく様子がとてもわかる。近くにいる人たちをぴりぴりさせ、まわりの人間の生殺与奪をにぎっている総統と一緒に出掛けている自分を「羨望のまなざしで見るだろう」(p198)という場面、汽車の中で自分をいたぶったヒトラーユーゲントがその場にいたらどんなに驚き、恐れるだろうかと考えているだろうと、ピエロの高揚感が想像できてしまいました。権力のそばにいて得意に思う快感を理解してしまった瞬間、私もピエロと同じ側に立っているわけで、そういう意味でも実に怖い読書でした。

ハリネズミ:ピエロは、取り返しのつかないことをしてきたのですが、ぐるっと回って振り返ったときに、そこに自分を理解してくれるかもしれない友だちが確かにいる、というのは希望だと私は思ったんです。

マリンゴ:前作の『縞模様のパジャマの少年』は、あまりに衝撃的でした。後半、かなり力技になるんですけど、それに気づいたときはもう物語に引きずり込まれているんですよね。なので、今回の作品も期待したのですが、こちらのほうが早い段階から力技な感じがしました。決して、物語に入れなかったわけではないのですが、少し距離を置いて読みました。主人公が変わらなくて、まわりの人間たちが変わっていくのを観察する、という物語はよくありますが、主人公が変わっていってしまう、という展開になっているのはすごいと思います。変わっていって、そして自分がやってしまったことに気づく。幅広い世代に読んでもらえたらいいですね。今の日本でも、ネットなどを見ていると、大きな声に引きずられがちなように感じることがあります。この物語を、自分に置き換えて読んでもらえるといいのではないでしょうか。

オオバコ:これから主人公は自分の罪に向き合って、贖罪の人生を送っていく。そこに魂の救いがある……というところに、ちょっとほっとしました。

西山:『九時の月』でも、解説で、モデルになった女性が生きのびたことがわかってほっとしました。これもまた、一つの希望のある終わり方だと思います。

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エーデルワイス(メール参加):p261の「でもあんたは若い。まだ16なんだから、関わった罪と折り合いをつけていく時間はこの先たっぷりある。でも自分にむかって、ぼくは知らなかったとは絶対に言っちゃいけない。・・・それ以上に重い罪はないんだから」というヘルタの言葉が印象的でした。レニ・リーフェンシュタールも登場しますが、自伝を読んだり展覧会に行ったりしたことを思い出しました。『縞模様のパジャマの少年』と同様に映画になりそうな気もしますね。8月にNHKBS3でヒトラーを題材にした映画『ブラジルから来た少年』(1978年アメリカ・イギリス製作)を観ました。グレゴリー・ペックがメンゲレ博士を、ローレンス・オリビエがナチハンターの役を演じていました。サスペンス調でおもしろく、現代に警鐘を鳴らしていて、古さを感じませんでした。当時、この映画を観た人はどのくらいいたのでしょう? 地方でも今はマイナーな映画も上映されるようになったけれど、当時は上映されていなかったように思います。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)