小手鞠るい『ある晴れた夏の朝』
『ある晴れた夏の朝』
小手鞠るい/作
偕成社
2018.08

<版元語録>アメリカの8人の高校生が、広島・長崎に落とされた原子爆弾の是非をディベートする。肯定派、否定派、それぞれのメンバーは、日系アメリカ人のメイ(主人公)をはじめ、アイルランド系、中国系、ユダヤ系、アフリカ系と、そのルーツはさまざまだ。はたして、どのような議論がくりひろげられるのか。そして、勝敗の行方は?

さららん:ディベートという形式で、原爆の是非を知的に問う展開が珍しく、おもしろかったです。舞台はアメリカ。原爆肯定派、否定派に分かれた登場人物ひとりひとりが個性的で、異なる文化的背景を持っています。主人公の日系のメイに肩入れしながら一気に読み進み、「原爆ノー」に深く共感しながら、気持ちよく読み終えました。小さな点ですが、冒頭の原爆否定派の挿絵を見ると、メイのチームのリーダー、ジャスミンの顔が、日本人にも見えるというイメージとは違っていますよね。人物像をじっくり描く書き方ではないため、たとえばメイの母親には、人間としての厚みがあまり感じられませんでした。でも、この作品に出会えてよかったと思います。十代の子どもたちに薦めたい。

鏡文字:この本は夏に読んでいて、いろんな人に薦めています。戦争を扱うのに、こういう書き方もあるんだな、という点で参考になる本だと思います。ディスカッションする高校生たちの配置が絶妙ですよね。ただ、物語という点で若干、物足りなさもつきまとう。あと、大人になったメイから始まりますが、そこに戻ってはこないんですね。細かい内面とか書く物ではないんですが、年表がおもしろかったです。最初と最後の事項に作者の意志を感じます。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、主語がない、と批判的にとらえる見方もあるので、ここは、みなさんがどう感じたのか、興味がありました。

サンザシ:かつてはあいまいだと言われたけど、今は、この文章の主語は人類全体だと広島市などは公式な見解を述べています。

ハル:こういう方法があったのか!と勉強になりました。このごろ「戦争ものは読まれない」と聞きますが、読書としてのおもしろさもしっかりあって、きっと主人公たちと同年代の読者も、さまざまな刺激を受けるんじゃないかと思います。本のつくりもていねいだし。ただ、日本人の私が読めば“we Japanese”の解釈のところで「あれ?」とひっかかってしまいますし、そこで否定派が打ちのめされてしまうのが、どこかぴんとこない感じはあります。最後まで読めば、ああそういう文化の違いがあるんだなとわかりますし、逆に印象にも残りましたので、これはこれでいいのかもしれません。いずれにしても、子どもたちにもぜひ読んでほしいと思う1冊でした。

コアラ:フィクションでディベートをするのがおもしろいと思いました。アメリカの高校生が、原爆について肯定派と否定派に分かれて意見を戦わせるという内容ですが、その中でアメリカの学校で習ったことというのが出てきますよね。たとえば、p44〜p45のスノーマンの原爆についての数値的な説明。私は日本の学校で、原爆の悲惨さについては教わりましたが、彼が説明したような数字的なことは習った記憶がありません。アメリカと日本の教育の違いというものがわかって興味深かったです。読み進めながら、原爆について考えられるいろいろな議論を上手にまとめていると思ったし、肯定派、否定派それぞれの意見にうなずいたり、考えさせられたりしました。p73の日本兵に殺された中国人という視点は忘れてはいけないと思います。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、凝縮されたものがあると思うので、メイの母親が解釈する場面には胸が熱くなりました。日本の子どもたちがこの作品を読んでそれぞれの意見を追っていって、自分の考えを深めていければいいなと思ったし、そういう子たちが社会に出ていくのは頼もしいと思いました。

サンザシ:アメリカの高校生がこんなふうに討論し、途中までは勝ち負けにこだわっているんだけど、最後は勝ち負けをこえて次の段階に進んで行くのがいいなあと思いました。日本の高校生ではあまり体験できないことなので、うらやましい。ひっかかったのは、「過ちは繰り返しませぬから」に関して、スノーマンが、日本人は懺悔しているんだからそれに報いるために原爆を落としてよかったんだ、と言う。それを聞いて反対派が負けたと思うのがどうしてなのか、私は納得できませんでした。たとえ語句の解釈が正しいとしても、日本人が反省してるってことと、原爆を落としていいってことは、やっぱりイコールで結びつかないから。p184で、お母さんが日本語の世界はそんなふうにできてないと言うところも、ちょっと気になりました。日本語は、自己主張することなく相手や世界にとけこむようにできているとあって、ちょっと先にも個人より仲間の調和を重んじるということが美徳として書かれています。アメリカではそれが美徳かも知れませんが、日本ではこういうのが強い同調圧力となって子どもたちを苦しめている。その点は、日本の読者が対象だとすると、もっとつっこんでほしかった。賛否両論がとびかうのは新鮮ですが、頭をつかう読書になるので、読者対象はかぎられるかもしれません。本を読んで考えるという習慣がない子だと、ハードルが高いかも。

マリンゴ:アメリカ在住の小手鞠さんだからこそ、書ける作品だと思います。ディベートがどう展開するのか気になって、一気読みしました。さまざまな角度から、日本の戦争について語っていて、中高生なら知らないことも多いのでは?と思います。ただ、各キャラクターの描写が最低限で、どんな人物かがあまり立ち上がってこない。青春小説の読みすぎかもしれませんが(笑)、主人公の葛藤や頑張って準備する様子などをもう少し読みたかったです。登場人物が、物語を動かすための駒として使われている感じもあります。けれど、推察になりますが、きっと「敢えて」なんでしょうね。ディテールを描いていくと分厚くて読みづらい本になるので、そこはもう描かない、という判断をしたのかなと思います。なお、ラストのほう、「過ちは繰返しませぬから」の部分、アメリカ人だったら、なるほど、と思って読むでしょうけど、日本人ならミスリードに気づくんじゃないかな・・・と感じました。でも、みなさんの感想を聞くと、わたしが疑り深すぎるのかな・・・。今のままでいいのかも、と思い直しました。

西山:これはディベートではありませんよね。p19からp20にかけて「ディスカッション」と説明しています。「どちらかといえば、ディベートに近いものになるかもしれないな」とは書いてあります。私は自分ではディベートをやったことはありませんが、中学の国語で積極的に取り組んでいる教師もいましたが、自分の意見とは関係なく賛成反対の役割で議論するのが、私にはどうしても好きになれません。でも、これはそうじゃない。まず自分の考えがあって、そこから議論しているので、共感して読みました。原爆に限らず、原爆、太平洋戦争、いろんな事実関係をイロハから、啓蒙的に書いて伝えている。すごいなと思いました。赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)が天皇の戦争責任について、アメリカの高校に通う日本人の少女がひとり矢面に立たされる話だったように記憶しています。並べて読み直すと何か見えてくるのかも知れないなと思います。p57「反対意見を主張するときには、まず、相手の意見のどの部分に反対するのか、ポイントをはっきり示してから反論に取りかかること。/学校で習ったこの教えを守って、私は主張を始めた」というところに、感心というかうらやましいというか、反省させられたというか・・・。あと、〇〇系〇〇人とか、単純に「〇〇人」と国籍で人をくくれない様を見せてくれているのもいいなぁと思った点でした。

サンザシ:ディベートについて今ちょっと調べてみたんですけど、大統領候補が討論したりするのもディベートですよね。そっちは広義のディベートで、狭義のディベートが、今西山さんがおっしゃった教育現場で使われているもので、賛成・反対の説得力を競い合う競技を指すみたいですよ。

さららん:でも、この本の中のは、ディベートじゃないと言ってますね。

レジーナ:中学のディベートの時間では、基本的に肯定派と反対派に分かれるけど、自分の意見は反対だとしても肯定派として話してもいいし、自由に選んでいいことになっていました。

ネズミ:昔、友だちがESSでディベートをやっているのを見ると、参加者は賛成と反対の両方の論を用意しておいて、くじを引いてどちらの側かを決めていました。

サンザシ:それだと考える訓練にはなっても、自分の意見を言う練習にはならないんじゃない?

西山:かえって隠れ蓑になってしまう。

さららん:教育で使うディベートというのは、もしかしたら、アメリカから伝わってきたのかもしれませんね。

ネズミ:ESSでディベートやってた人たちは論が立つようになって、外交官になったりしてますよ。

サンザシ:欧米だと、でたらめな論理でも堂々と自己主張する人もいるので、敢えて別の視点に立ってみるというのも必要なんだと思いますけど、日本はもっと自分の意見を言える練習をしたほうがいいんじゃないかな。

さららん:この本には、アメリカに住んでいる作者の実感がこもっていますよね。国籍で人をくくるのではなく、ひとりひとりに光を当てて考え、取り上げています。物事の多面性を見る入口として、こういう本は必要。

ネズミ:この本は、アメリカのことを学べる感じがしました。原爆のアメリカでの捉え方の話をアーサー・ビナードがするのを聞いたことがありますが、本当なんだなあと。でも、英語の論理をそのまま日本語にしたような会話文には、かなり違和感がありました。たとえばp27「まあまあ、スコット。今はそれくらいにしておかないか。そのつづきは討論会の会場で正々堂々と」とか。わざとつっかかるように書いたのかな。だとすると、この表紙にひかれて手にとった中学生は、すっと入れるのかなと心配になりました。8人の同じような年齢の人物を書きわけるのは大変なので、チャレンジングだと思いますが。あと、内容について、これは書かないのかなと思ったのは被曝のこと。放射能で土地や物が汚染されて被曝したり、あとあとまで病気の危険を負ったりといったことは、反対の理由になるのではないかと思うんですが。

サンザシ:もう一つ。ダリウスというアフリカ系の人が、自分たちは抑圧される一方の人間だから「ほんとうに罪のない人間というカテゴリーに入ると思う」って言うんですけど、ちょっとノーテンキすぎるように思いました。

ネズミ:最初の方は、罪がないかあるかという話になっているので、そういう意見が出たんじゃないかな。

レジーナ:私もおもしろく読みました。真珠湾攻撃は宣戦布告するはずだったのに、大使館の対応の遅れで不意打ちになったとは知りませんでした。「日本には、国民が一丸となって戦うという法律があったのだから、罪のない市民が犠牲になったとはいえない」と言う中国系のエミリー、「有色人種の土地にばかり核兵器が使われたのは、人種差別だ」と説くジャスミン、アメリカで差別されてきた黒人の視点から、原爆投下を非難するダリウスなど、多様なルーツをもつ高校生が、それぞれの視点から語っていておもしろかったです。口調が、ひと昔まえの翻訳ものや外国のテレビ番組のテロップみたいで、それは少し気になりました。p107「とんでもない!」「とびきり楽しい午後を過ごしてね」とか、p126「いまいましい!」とか。翻訳物は文体で敬遠されるって言われているのに。意図的にこういう口調にしたのかもしれませんが。

サンザシ:小手鞠さんが若い頃に読んだ翻訳小説がこういう口調だったのかしら?

ネズミ:やっぱりわざとかも。

西山:舞台が日本じゃないっていうことをはっきりさせたいから、こうしたんじゃない?

鏡文字:だとしたら、すごい技術ですね。

レジーナ:でも、あえてそうする必要はあるのでしょうか。翻訳ものでも、今はなるべく自然な文章にしますよね。そうじゃないと、読まれないので。

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エーデルワイス(メール参加):今年度の「マイベスト」になりました。感動でいっぱいです。物語としてもぐいぐいひっぱってくれるので、あっという間に読み終えていました。中高生に是非読んでほしいですね。国、人種、戦争、あらゆる困難な問題もこうして解決できたらいいですね。

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)