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エツコさん

あんみつの器の上に小さくなったおばあさんが腰掛けている
『エツコさん』
昼田弥子/作  光用千春/絵
アリス館
2022.12

Wind24 : 短い章立てで、エツコさんと関わりを持つ人たちとの交流が描かれていて読みやすかったです。エツコさんにはそんな意図がなくても、出会った子どもたちが幸せな気持ちになり、前向きな行動や考えを持っていきます。エツコマジックと言ってもいいでしょうか。読み進めていくと、エツコさんが認知症であることが分かっていきますが、自分が自分でなくなる、どこにいるかもわからなくなってしまうなど、認知症の症状がリアルに書かれています。きっと寂しいし、怖い思いをする状態にあるのでしょう。またそんなエツコさんを不安の中にいながらも支え続ける娘の有子さん や孫の真名ちゃんの気持ちも、ていねいに描かれていると思いました。

さららん:認知症のエツコさん自身の体験を内側から描くと同時に、子どもたちの見るエツコさんを外側からもふんわりと描いています。ファンタジーではないのに、どこかファンタジックな感じのする作品ですね。例えば1章では、エツコさんのあとを歩いているうちに、この章の主人公、樹(たつき)の時空はふっとワープしてしまいます。ただ描写が粗いように思えるところもあり、それを読者が想像を広げるための間としてとらえるべきか、迷うところでした。あまり細かいことまで書かないで想像にまかせる、マンガっぽい文章なのでしょうか。「明里がなんとなくいってみたら、日菜はオバケでもみたような顔をしてかたまった」(p64)など、見えたものを書いている印象がありました。2章の中の「でも、まあ、宿題は火みたいにあぶなくないから、だいじょうぶかな」(p43)というセリフが、大人の私には言葉足らずのように思えましたが、子どもにとっては自然な日本語なのかも。3章の中で、航平の夢の中に出てくる男の人(エツコさんの亡くなった夫さん)と、あとで出てくる「メガネをかけた男の人」(p75)は同一人物なのか別人なのか、初めのうちわかりづらく、ぜいたくをいえば描写で少し補っておいてほしかったです。p189で、真名がおばあちゃん(エツコさん)との最初の思い出は忘れていても、「ひょっとして、このあったかい気持ちが、わたしの人生で最初の記憶なのかな」と感じる場面、懐かしい温かさとして思い出すところがとても好きです。認知症であっても、なくても、ありのままに人を受け入れることを伝える、気持ちのよい終わり方でした。

ルパン:しばらく前に読んだので、細かいところは忘れてしまったんですが、エツコさんは小学校の先生だったんですよね。退職した教員はいちばん認知症になりやすいんだそうです。そこはリアルだなあ、と思いました。

コゲラ:申し訳ないのですが、今回のテーマをすっかり忘れ(忘れること、忘れないことがテーマだったのに!)、まっさらな状態で読みはじめたので、とても難しい本でした。最初の「迷子」では樹という男の子が引っ越し先で道に迷い、認知症だといわれているエツコさんに従って歩いているうちに、前に住んでいた町の公園や、けんか別れした友だちのアパートが目の前に現れる……これはもう、超能力とまでは言わないまでも、エツコさんの不思議な力を扱った物語に違いないと、しょっぱなからミスリードされたわけです。でも、つぎの章の「雨やどり」では、小学校の教師だった記憶の中にいるエツコさんが、妹に算数を教えるのを、語り手の明里が見守っているうちに、エツ子さんが若い教師の姿に戻っていくというもので、認知症でなくても昔のことを生き生きと語っている人を見ていると、そのころの姿がまぶたに浮かんでくるということはよくあるので、不思議とかファンタジーとか言えるようなものではない。「ん?」と思いました。ところが、次の「お守り」では、エツコさんのお守りを拾った航平が、お守りに入っている写真を見てもいないのに、写真そのもののエツコさんの亡き夫が夢に現れる。やっぱり、これは不思議な話なのかなと思いつつ、「きいろい山」を読みました。これは、この本のなかではとても良くできている話で、友だちもおらず、父親に暴力をふるわれているユウトの心情が胸に迫りましたし、公園に落ちていたオオノさんを思わせるオオカミのぬいぐるみを、エツ子さんに「お友だちでしょ」といわれたことがキイとなって、ショックを受けたために抜けおちていた記憶がよみがえるというストーリーも感動的です(いささかセンチメンタルではありますが)。でも、大人の目から見ると、これってけっこう怖い話ではないのかな。ユウトが俳句と口にしたとたんに、山頭火の句が出てくるオオノさん。山頭火のことを良く知っているわけではないのですが、たしか幼いころに自死をとげた母親を目撃し、弟も同様に死を選び、自身もそういう衝動にかられることがあったと読んだことがあります。もし雨が降らず、ユウトが親も知らないまま一緒に山に行ったら……などと、余計なことを考えてしまいました。そして、最後の「エツコさん」と「記憶」の章になって、やっと「忘れること、忘れないこと」がテーマの作品だと気づいたわけです。というわけで、私にとってはテーマや内容以前に、物語の作り方、組み立て方について考えさせられた本でした。中村さんの家から男の人が出てくる場面で、私も野坂さんと同じように、ちょっと迷いましたが、野坂さんのマンガみたいな文章という言葉を聞いて、なるほどと思いました。

ハル:5章のp154あたり、窓辺のイスにすわってじっとしている夕暮れに、だんだん霧がかかっていくように過去と現在があいまいになって、その霧がだんだん晴れていって「自分のりんかくをとりもどす」(p157)、といった描写に真に迫っているものを感じ、リアルに想像できて怖くなりました。でも、認知症でなくても、いまも誰しもが何かを忘れたり、記憶にふたをしたり、書き換えたりしながら生きているのだから、何も怖がることはない、寂しがることもない、とも思わせてくれる力のある作品です。ただ、読みながら、これは児童文学なのかな? という思いも……。純文学的というか、大人だから味わえる本なんじゃないかなぁと思ったり、子どもに向けた書き方ではないのかなと思ったり。まだ、どこかそう思う気持ちもあるのですが、認知症になったおばあちゃんが、いろんなことを忘れてしまうことと、私たち(子どもたち)が小さい頃の記憶をなくしていることと、何がかわるんだろう、というところにお話をもってきたことで、児童書として成立したのかなぁ……。なんて。よくわかっていませんが。

アカシア:ファンタジーではなくリアリスティック・フィクションなんだけど、なんか不思議な空間に入り込んじゃう体験を描いていますね。『メアリー・ポピンズ』みたいに大人がそこへ連れていくのではなく、認知症のエツコさんをきっかけにして子どもはそこへ入り込んでいく。「お守り」では、全然会ったこともない人の夢を見ますが、現実ではありえないですよね。この本では現実と不思議な世界の境はどうなっているのでしょう。わざとあいまいにしているのかもしれません。「きいろいやま」はユウトの日記の1ページが白紙になる。それがどういうことなのか、意味がよくわかりませんでした。空白にした理由はどこにあったんでしょう。エツコさんは認知症で、現実の世界から抜け出してしまうことがあるけれど、エツコさんだけでなく、だれにでもそういうことってあるよね、という書き方には、とても好感が持てました。それから、作品の中にエツコさんの元先生らしさのようなものがちゃんと描かれているので、リアルに人物が立ち上がってきました。本書では、認知症を気の毒な人という視点で見るのではなく、周りの人たちもあたたかく見ているのがすてきでした。

雪割草:この作品を読んで、昔、中学生の頃に読んだ『わたしを置いていかないで』(I・スコーテ作 今井冬美訳 金の星社)を思い出しました。細かいことは覚えていないのですが、心に残っている1冊で、主人公の女の子が、アルツハイマー病の父親への喪失感を抱えながら、少しずつ前を向いていく話だったと思います。今回の作品は割と軽く、ユーモアがあり、周りの人もエツコさんが好きであたたかく見守っていて、認知症へのこういう描き方もいいなと思いました。視点が章ごとに変わるせいか、全体としてふわっとした印象になってしまっているように感じ、もう少し全体を貫くものがあってもよかったように感じました。私も、なぜ「きいろいやま」の章を入れたのか、その意図がよくわかりませんでした。「忘れること」について、認知症や幼児期健忘とならべて、ショックで忘れてしまうことの例でしょうか。それでも子どもにとっては、そう身近には起きない衝撃的な出来事に感じます。汚れたぬいぐるみもよくわかりませんでした。

エーデルワイス:とても読みやすかったです。私の文庫で小学4年生の女の子が、「認知症」についての授業を受けたことを話してくれました。老人施設の職員と教師が寸劇をして認知症について分かりやすく説明したそうです。小学校でも認知症について学ぶようになったのですね。この作品は認知症を扱った文学的作品だと思いました。「きいろいやま」が話題でしたが、私は6編どれも印象的でした。p98の、航平が真名ちゃんの家にいった場面で、「中村さんが」と航平が言っているのですが、エツコさんのことなのかと思い、読み返すうちに、真名ちゃんのことを言っているのだと気づきました。そのところが分かりにくいと思いました。

ANNE:リアルな物語の中に空想の世界が入ってくるのですが、これはファンタジーということではなく、子どもの心のなかに確かに存在する世界を表しているのですね。6つの短編中、「きいろいやま」はお父さんのDVが背景にあり、読んでいてつらかったです。認知症のエツコさんを、町の人々があたたかく見守っている様子にほっこりしました。エツコさんはきっとすてきな先生だったのでしょうね。

マリオネット:とても余韻が残る本でした。1章が謎めいていて若干つかみづらいですが、徐々に、認知症のエツコさんがクローズアップされていきます。エツコさんの側から見た世界と、孫から見たエツコさん、そして外部の人から見たエツコさん、とさまざまな角度からストーリーができているところがとてもいいと思いました。「忘れる」ということが、認知症の人だけではなくて、子どもにだってあること、そして忘れていても、それはちゃんとあったことなのだ、とわかる――そのあたりのメッセージが素敵だと思いました。なお、1章にタコが出てきますけど、同じ作者の『あさって町のフミオくん』(ブロンズ新社)にもタコが出てきたんですよね。タコが作者にとっては大切なアイテムなのでしょうか。

しじみ71個分:この本を読み終わって、「やられたなー、いい本だなー」と思いました。これまで自分が読んだ、認知症の高齢者と子どもとの触れ合いを描いた作品には、あきらめというか、寂しさを感じる悲しい作品が多くて、失われゆくものに対する気持ちが中心の話になりがちだなと感じていたところがあります。でも、この作品は、エツコさんがそれまでに生きてきた人生や元気だったときの人となりが、認知症になった後も、町の人の対応や、出会った子どもたちの反応などから読み取れます。エツコさんが学校の先生時代にどんなにまじめで優しいいい先生だったかが、それぞれのエピソードの端々から感じられました。以前にお医者さんの話を聞きましたが、認知症になったから不幸なのではなく、認知症になってもその人の尊厳が大事にされていれば、幸福な人生の最後を迎えることもできるのだそうです。介護が辛いのも、元気だった頃の家族や周囲との関係性が、病気になった後の日々を方向付けるのだということで、読みながら、そのお話を思い出しました。
町の人たちは、お世話になったエツコさんのことをよく覚えています。たとえ老いていっても人の尊厳が大事にされているという、物語の端々に滲む優しさに、ぐっと来てしまいました。エツコさんは娘にも娘の夫にも、亡くなった夫にも、孫にも愛されていて、温かな愛情がすみずみまで描かれているところがとてもいいと思いました。また、非常におもしろいと思ったのは、物語の構造がとても凝っていて、章ごとに、小学生の子どもたちがエツコさんに出会って、道に迷う、現実と非現実のあわいが曖昧になってくる、時間が逆行するなど、認知症の症状として言われるような状況を、小学生たちが逆転して体験し、そこから心の中に引っかかっていたことを思い出すというところでした。「あんみつ」の章以外、エツコさんはきっかけづくりの媒介者の役割を果たしていて、子どもたちがエツコさんの体験を追体験することで、自分の心と対話するという形になっています。とても素晴らしい着眼点だと思い、うなりました。また、この本の中では、「きいろいやま」が気に入っています。父親から殴られているユウトくんが、唯一、友情を感じるのがオオノさんなんですね。自分以外の人がそのオオノさんを「不審者」扱いすることで、どれほどユウトくんは傷ついたかを思うと泣けてきます。ずっと、お話に出てくる「ぬいぐるみ」は一体なんだろうと思って考えていましたが、犬にも見える、オオカミにも見えるボロボロのそれは、オオノさんの象徴、ユウトから見るオオノさんと、ほかの人が見るオオノさんだったのかもしれないですね。ボロボロで見捨てられたぬいぐるみを、エツコさんが「ともだちでしょう?」とユウトに一所懸命に手渡そうとしたことで、ユウトはオオノさんを友だちだと思っていたことを自覚し、オオノさんの死を受けとめられるようになります。オオノさんと山にいくはずだった日の日記が白紙になって読めないという表現は、ちょっと分かりにくかったかもしれないけれど、ショックのあまり記憶障害を起こしたり、認知を無意識に拒否したりしたのかもしれないなとも思いました。哀しさをはらんだいいお話だったと思います。最後の「記憶」の章では、孫の真名の「忘れてしまったとしても、経験したことはなくならない」という言葉にはまた泣かされそうになりました。著者が、四日市のメリーゴーランドの増田さんが主宰する「童話塾」出身と知り、ますますやられたなぁと感服した次第です。私にとってはとてもおもしろい作品でした。私は表紙の絵もわりと好きです。

花散里:認知症のエツ子さんと6章それぞれに登場する子どもたちの物語が、表紙絵、目次の文字、挿絵、裏表紙の絵とも重なり、どの章も全然、入り込めず、関心を持って読めませんでした。認知症ということをどのようにして文学として子どもたちに伝えていくか。登場人物が入れ替わっていくなかで、どのような表現でエツコさん(章によって「中村さん」という表現になり)を取り上げていくのか、ということ、さらに文体の問題、会話形式で、「—」、「……」が多用されていることなどが気にかかり、児童文学として作品を創っていくということ自体、欠けているのではないかと感じました。本書を読んで、改めて外国の児童文学と比較して、日本の児童文学をどのように手渡していくのかを考えました。

きなこみみ:認知症のエツコさんを中心に物語が展開するんですが、エツコさんという一人の老人を、さまざまな距離感で描いてあることに惹かれました。ここ数年、認知症をテーマにした物語は増えていると思いますが、どちらかというと、認知症の人を、こんな風に理解しましょう、みたいな教科書的なスタンスが多いように思います。でも、この物語に登場する人たちは、エツコさんへの距離をことさらに詰めようとはしていなくて、ひとりの人間のなかに、様々な記憶や時間軸が積み重なっていること、ランダムに自分のなかの、様々な時間があふれてくる瞬間の不思議さを、ごく自然に受け入れて描いてあることに、しみじみとしました。私にも認知症の母がいて、日々イライラしたり、振り回されてしまったりするわけですが、それでもここまでが認知症で、ここからがそうではない、という線引きなどできない感じが常にしています。
記憶や時間軸が入れ替わったり、失われたりするのは、老人だけではない。例えば、ひとつめの「迷子」も、ずっと引っ越しのときの友だちとのいざこざが忘れられなくて、あの日の友だちの冷たい眼差しが心にひっかかったまま、胸にしこりを抱えていた樹という少年にとって、その痛みの記憶は結び目のように消化できないものとして詰まってる。それが、公園、というきっかけで噴き出すんです。また、皆さんもおっしゃっていますが、印象的なのが「きいろいやま」で、家庭で、理解しあえない父親と暮らす寂しさや居場所を抱えたユウトにとって、ホームレスのオオノさんとの時間はとても大切なものだった。でも、そのオオノさんが死んでしまったことを、多分ユウトは受け入れられなかった。だから、その記憶を消してしまったんです。人間は、消したい記憶を、心の奥底にぎゅっと隠してしまうことがある。でも、つらい記憶は消化できずに、また蘇る。それが、この日記の文字が失われたり、現れたりする秘密に関係してるんじゃないかなと。勝手に日記を読んだりする両親のいやらしさにうんざりしますが、p123で、父親が「おれがなぐったのも、まあ、わるかった」と言うんですけど、どういう経緯で、だれを殴ったのか、はっきりとは書かれていない。ユウトを殴ったと思うのですが、もしかしたら、二人で出かけようとしたときに、オオノさんを殴ったりしたのかも、と深読みしたりしました。公園に横たわっていたぬいぐるみ、ぼろぼろのぬいぐるみが、傷ついたユウトの心のようで、やはり居場所がなくて死んでしまったオオノさんのようで、とても切ない。そのぬいぐるみを、そっとぬぐって綺麗にするエツコさんのいたわりや、優しさが、柔らかい光になって見える味わい深い短編だと思います。最後の「記憶」で、真名がエツコさんとパンを食べながら、胸の奥がポカポカしてくるシーンがあるんですが、「きいろいやま」の、ぬいぐるみのシーンとここは、呼応している、繋がっているように思います。エツコさんのいたわりや優しさが、この短編集のなかで貫かれていることへの回答なのかな、と。派手なところはないんですけど、日常のなかに埋もれている記憶を、そっと掬い取るような味わいを堪能しました。

ニャニャンガ:みなさんのお話を伺ううちに、こんなにいろいろ意見が分かれるとはと、興味深かったです。『エツコさん』は、子どもの本の店主さんにすすめられたのですが、読めば読むほど作品に引き込まれました。認知症のためにいろいろ忘れてしまうエツコさんを軸に、心に小さな棘がささった子どもたちのお話は、ほほえましいような悲しいような……子どもたちに読んでほしいと強く思いました。エツコさんが忘れても、子どもたちの思い出のなかに、エツコさんとの思い出が引き継がれていくのだろうと思います。
何人かの方が気になった読みにくさに関してですが、日本語としては正しくない部分もありますが、物語の語り手の子どもそれぞれの視点なのでそういうものとして、読みづらさは感じませんでした。
とくに好きなのは「きいろいやま」で、白紙に見えた日記帳に文字が見えたときはドキドキしました。オオノさんがいい人でよかったです。あまりにショックな出来事に記憶を封印していたのだろうと思います。カバーをめくると、クリームパンとあんパンが描いてあるのが個人的にはツボでした。このクリームとあんパンは、最後の物語とリンクしているのでじんとします。

さららん:お話に絵がすごく合っていると思いました。この絵が苦手な方も多かったようですが、私はこの絵が、物語の魅力をいっそう引き出しているように感じました。

アカシア:「きいろいやま」の日記が白紙になるところは、ニャニャンガさん、きなこみみさん、しじみ71個分さんのご意見を聞いて、ああ、なるほどと納得がいきました。ほかの方がどう読んだかを聞くと、自分では気づかなかったところがわかって、読みを深めることができるので、この会はありがたいです。

(2024年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

Comment

タフィー

『タフィー』表紙
『タフィー』
サラ・クロッサン/作  三辺律子/訳
岩波書店
2021.10

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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こんとんじいちゃんの裏庭

『こんとんじいちゃんの裏庭』表紙
『こんとんじいちゃんの裏庭』
村上しいこ/著
小学館
2017

『こんとんじいちゃんの裏庭』(読み物)をおすすめします。

リアルな状況を踏まえた男の子の成長物語だが、同時に現代ならではの冒険物語にもなっている。中学3年生の悠斗の祖父は、交通事故にあって入院し、意識が混濁したままになる。しかも悠斗の家族は、加害者から損害賠償を請求される。納得できない悠斗は、警察、保険会社、日弁連の法律センターなどを回って真相究明にのりだす。一方で、祖父のかわりに「裏庭」の果樹の世話も続ける。こうした過程を通して周囲の人々を一面的にしか見ていなかったことに気づいた悠斗は、多面的な視点を獲得して成長していく。

14歳から/認知症 家族 訴訟

 

Grandpa’s Back Garden

A realistic coming-of-age story about a 15-year-old boy, Yuto. One day, his grandfather, who showing signs of dementia, is run over as he cycles over a pedestrian crossing, and is taken to hospital where he remains in a state of semi-consciousness. On top of that, Yuto’s family receives a demand for compensation from the person who ran him over. Yuto is outraged and decides to try to clarify the truth. He goes to see the police, the insurance firm, and the law center. At the same time, he continues to care for his grandfather’s garden the way his grandfather taught him. In the process, he learns to see things from various points of view. (Sakuma)

  • Text: Murakami, Shiiko
  • Shogakukan
  • 2017
  • 256 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784092897571
  • Age 14 +

Traffic accidents, Elderly people, Gardening

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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