田中彩子『石の神』
『石の神』
田中彩子/作 一色/挿絵
福音館書店
2014.04

版元語録:江戸時代、上州の石屋「大江屋」に、石工見習いのふたりの少年がいた。ひとりは、一流の石工をめざし一心に修行に励む寛次郎。もうひとりは、天才肌で素性の謎めいた申吉。申吉は実の名を捨吉といい、「石神」を祀る「荒れ地」からやってきたのだった……。宿神思想に想を得て、ふたりの少年の成長を描いた意欲作。第12回児童文学ファンタジー大賞佳作受賞作

:とてもおもしろかった。差別を受ける人たちの集落の様子も、石を彫るようになる過程も、石の神に魅入られるさまも、模索も。全部。 

夏子:この作品は、時代はいつになっているんでしたっけ? 

:江戸時代ですね。18世紀の終わりです。 

夏子:この作家さん、まだ新人と呼んでいいのかしら? 応援したいと思いました。でも同時に、欠点も目につきます。主人公のひとりの寛次郎は、モーツアルトに対するサリエリではないけれど(素直な若者なので、サリエリとは似ていません)、常識的で優等生的。もうひとりの捨吉は破天荒な天才であって、まさしくモーツアルトですよね。こういう二つのキャラクターの絡み合うような対立が、つまらないはずがない。ただ捨吉のような子どもは、自ら内面を語ったりしないでしょう。だからこちらに視点が移って、捨吉の側から語られるところになると、無理が生じるのでは? 捨吉は、差別されている地域で育てられ、しかしそこの出身者ではないことから、周りの人々が村に戻れるようにと努力する。でもそれを振り切って、放浪の旅に出てしまう。これは、説得力に欠けると思いました。また周りの大人の個性が、もう少し描き切れているといいですね。育ての親、職人の親方、流れの職人と、それぞれ援助者の役割を果たしますが、みんな似ているんです。どの大人も粒立っておらず、平面的な感じがします。 

レジーナ:日本の児童文学の独特の空気感があり、長谷川摂子の『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。人を守るだけでなく祟りもする石神は、土着の信仰の対象であり、善悪を越えた荒ぶる神ですね。ひとつひとつの場面が印象的でした。捨吉の彫った地蔵の気迫、洞窟の中、石仏という圧倒的な力を前にして、自分が空っぽになる感覚にはリアリティがあります。石神に取り憑かれた捨吉が、並はずれた力ですばらしい作品を次々に生み出すことに快感をおぼえる一方、「こつこつと人の世を生きる道に戻れなくなるのではないか」と恐怖を感じる場面には、狂気と紙一重の芸術のこわさがよく描かれています。

ルパン:うーん、これは一度読んだだけではよくわからなかったですね。『天狗ノオト』(理論社)よりはだいぶすっきりしていて、ずっとよいとは思いましたが。私にはちょっと難しかったです。これ、読者対象年齢は何歳くらいなんでしょう。視点が捨吉になったり寛次郎になったりするのだけど、そのバランスがよくないように思います。主人公は捨吉でしょう、たぶん。最初と最後は捨吉なんだけど、間はほとんど寛次郎。どちらが主人公なんだろうと思いながら読み、結局どちらにもあまり感情移入できないまま終わりました。特に、主役であるはずの捨吉の気持ちがよくわからなくて。石神の役割も。結局、捨吉は今後、人を感動させるものを作っていくのでしょうか? 

:もう作らないと思いますよ。 

ワトソン:『天狗ノオト』よりは大分読みやすくなっていて、よかったです。日本古来に伝わる畏怖につながる世界観を書くのがとても上手な作家だと思います。個人的には好きな世界観です。ただ、これを理解するのはなかなか難しいという印象は否めません。特に前半は入っていきにくく、そこを乗り越えれば物語の世界に入っていけると思いました。年齢を考えなければこの作品でよいのかもという印象です。 

アンヌ:石神の謎を解き明かそうと読みこみました。けれど難しくて、参考に前作の『天狗ノオト』も読みました。その結果、太古の神の存在が作者の中心にあるのではないかと思いました。そのうえで、「先生」が龍の絵を描いて説明したときに語られたような、要石のように、太古の神を止めるために、石神があるのではないかと思いました。村を出た捨吉が八つ当たりをするようにいくつも石神を倒したから、自由になった太古の神が捨吉の中に入ったのではないかと。寛次郎にも山の中の神社に行ったとき、そこに閉ざされていた太古の神の誘いがあったのだと思います。捨吉が、仏ではなく、太古の神を思わせる異様な風貌の石神を彫ってしまったり、洞窟の壁を彫りたくなってしまったりするのは、捨吉の中にいる太古の神のせいだと考えました。ただ、そう考えていくと、p203の「石工の掘るのは、神でも仏でもない、こうありたい、こうなるといいという、ただその、ひとのこころでしかないのだ」とある、作者自身の謎ときにうまくつながらない気もします。捨吉が、村から連れ出そうとしてくれた先生から逃げ出し、さらに村に戻らなかったのはなぜか。それは、役人が切り殺された夜に連れ出されたことや、労働をしたことがない先生のぬるりとした手を触ったとき、全然違う別社会に連れ出されそうになると感じたからではないかと思いました。中央とつながりのある、けれど、社会の裏側にあるような世界を暗示しているようで。石工の親方の家で場面では、職人の生活を自由に書いていて、そこを主に会話で成り立たせている所など、池波正太郎の作品にあるような楽しさを感じました。

アカシア:序章の最後で、「はたしておれは、そちらに行かなくてよかったのだろうか」と寛次郎が思っているのですが、これは、捨吉のような天才になれなかったことへの後悔も少しあるっていうことなんでしょうか? 

:寛次郎は捨吉に嫉妬していたけど、石神による力だったと分かって、やっぱりこれでよかったのだと納得しているのではないでしょうか。 

アカシア:p217に登場する背の高い翁は石神なんですね。ここで、寛次郎は申吉を人間の世界に引き戻して、申吉も普通の人になるってこと? 私はおもしろく読んだのですが、序章にもその後にも道に迷う場面が出てきて紛らわしかったり、双助が村に侵入した賊に匕首で切られて負傷したとき、又五郎が村の差別に憤慨するが、具体的に何があったのか書かれていないので、読者はとまどうだろうとか、細かい表現に疑問を感じるようなところ(たとえば、p21の「体を丸めた龍は目を剥いて、頭の後ろをにらもうとしている」)はあって、まだまだ荒削りだなとは思ったのですが、これからきっとおもしろい作品が書ける人だろうな、という予感はありました。カットの絵もいいですね。 

さらら:『石の神』は、『石を抱くエイリアン』よりおもしろく読めました。それは、完成までにかかった時間と関係する部分もありそうです。受賞から8年かけて、単行本の形になるまで、編集者とがっぷり組んで、文章を練り上げていったはず。加筆しては削り、また加筆しては削り、形を変えて、そこからまた書き直して……と繰り返された時間は、「石を刻む」作業に似ている気がします。作者は、書きこむことで、少しずつ見えてきた「像」をさら彫りこんでいったのではないかしら。捨吉が住んでいた「荒れ地」――そこに歴史的な裏づけがあるのかどうかは、わかりません。史実としては疑問をさしはさむ余地はあったけれど、私は、歴史に場を借りた一種のファンタジー、ひとつの物語として読みました。「荒れ地」から放り出された捨吉が、石を彫る親方のもとに転がりこむ。そして寛次郎との友情を育んでいく。「友情物語」として紹介した書評もどこかで読んだけれど、単なる友情物語ではない。そうくくってしまっては、多くのものが抜け落ちます。寛次郎が石を彫るなかで、いつしか求めた素朴な祈りとしての神仏と、捨吉の表現した、闇の中に引っ張りこむ力としての神仏。石があって、人があって、神仏がいる。その三つが、それぞれ「存在」としてリアルに描かれている点に魅かれました。荒削りだけど、「もの」の手触りのあるところが、良さになっているんじゃないかな。 

夏子:もしかして非差別部落が成立するより前の時代なのかな? 被差別部落が成立する以前には、差別を受けているグループがもう少しぼんやりとした形で、あちこちに点在していたということはありませんか? そういうグループのひとつかな、と思って読んでいました。 

アンヌ:おじいさんは、首切り役人の手伝いをしていたとあります。ここが、被差別部落の出身を示唆しているのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)