日付 | 2014年09月18日 |
参加者 | アカシア、アンヌ、慧、さらら、夏子、ルパン、レン、ワトソン、レ ジーナ |
テーマ | 石 |
読んだ本:
濱野京子/著
偕成社
2014.03
版元語録:わたしの辞書に「希望」なんかない。1995年に生まれ、2011年3月に卒業式をむかえた15歳たちの1年間。中学生から。
田中彩子/作 一色/挿絵
福音館書店
2014.04
版元語録:江戸時代、上州の石屋「大江屋」に、石工見習いのふたりの少年がいた。ひとりは、一流の石工をめざし一心に修行に励む寛次郎。もうひとりは、天才肌で素性の謎めいた申吉。申吉は実の名を捨吉といい、「石神」を祀る「荒れ地」からやってきたのだった……。宿神思想に想を得て、ふたりの少年の成長を描いた意欲作。第12回児童文学ファンタジー大賞佳作受賞作
原題:RICO, OSKAR UND DIE TIEFERSCHATTEN by Andreas Steinhoefel, 2008
アンドレアス・シュタインヘーフェル/作 森川弘子/訳
岩波書店
2009.04
版元語録:特別支援学校に通うリーコは、誘拐犯に連れ去られた親友オスカーを救うため、ひとりで町に飛び出します……。ケストナー文学賞受賞作家の話題作!
石を抱くエイリアン
濱野京子/著
偕成社
2014.03
版元語録:わたしの辞書に「希望」なんかない。1995年に生まれ、2011年3月に卒業式をむかえた15歳たちの1年間。中学生から。
ルパン:自分の娘と同じ学年の少女が主人公だったので、身近な感覚で読みました。ちょうど中学卒業のときに震災だったり。ただ、辞書を切り取るシーンから始まるところがちょっと……。辞書も本ですから、よほどのことがないと切ったりしないんじゃないかと思ったんですけど、たいした理由もなく家族全員分の辞書を切っちゃうところが、なんだか生理的にいやな感じがしました。あと、いかにも「作家が調べたことを登場人物に言わせている」というのが透けて見えるようなところが随所に見られるのが気になりました。『レガッタ!』よりはこちらのほうがいいですけれど。説明的なところが多いと、お話のわくわく感が止まっちゃってつまらなくなるのがもったいないところです。偉生はけっこう好きでした。キャラがしっかり立っていて。
レジーナ:私たちの電力は原発に依存しているのではなく、原発は一度稼働すると止めるのが難しいという事実は、これまで知りませんでした。原発を地方に押しつけていることへの作者の強い問題意識が、全面的に押し出された作品ですね。頭で書いている印象を受けました。人物像にもう少し厚みがあり、生き生きと動いていたら、もっとよかったと思います。夏希の存在が、途中から急に薄くなります。原発の問題に気づいた登場人物の一人は弁護士を目指しますが、動機がよくわかりませんでした。これについては、主人公も理解できないと言っていますが……。
レン:けっこうおもしろく読みました。翻訳だと、こういう文体にはなかなかもっていけないんですね。創作ならではの、中学生のリアルな空気感があって。主人公もほんとうに普通の子で、優等生でもなく、とりたてて取り柄もなく、そして、ふしぎ君の偉生君。こういう子っているよな、と。べったりせず、でも毎日学校で顔を合わせる中学生の感じが出ていると思いました。中学生の読者が読んだら、どう思うかな。何気なく手にとって、震災のことをふりかえって考えるんじゃないかな。いい印象で読みました。
慧:日本の児童文学として、とてもおもしろかったです。今どきの文体で始まってありきたりかと思いきや、途中からどんどん引きこまれて。成熟した偉生がとっても好きになったので、死んじゃうのがショックでした。偉生と姉さん以外の子どもたちの関係も良かったですね。青春群像というか、集団の楽しさがあって、足を引っ張り合うでもなく、仲がいい。中学生の現状というのはよく知らないのですが、クラス全員の前で告白をしてもすぐに交際に発展することもなく、まわりも静かに見守っている感じが大人っぽいなあと思いました。キュンとしました。
アンヌ:なんだか題材が並べられているだけのような気がして、もう一度書き直してもらいたいような気分になりました。辞書を切る気持ちとか、うまくつながっていかなかったです。主人公は、人から見たら面倒見のいい「姉さん」で、偉生から、こんなところやあんなところがいいと言われるのだけれど、どうも一致しない。少女漫画にして、外からこの主人公の魅力をもうひと描きしてくれたらいいんじゃないかと思いました。削られた部分があったのかもしれないとも思えました。偉生は何となく宮沢賢治を思わせる鉱物少年で、魅力的でした。
ワトソン:今回の3冊の中では私はこれが一番読みやすかったです。文章がすんなりと入ってきました。登場人物の苗字から原発関連の話になるのかなという予想ができました。辞書から「希望」を切りとるところは、新しい版の辞書買うというラストへ結びつけるためのものという印象が残ってしまいました。あとがきから、1995年生まれの子の物語をという依頼だったようなので、この時代について残すという意味で書かれた話なのかなと思いました。そういう意味では意義ある作品と言えると思います。ただ、同じ年に生まれた娘にも感想を聞いたら、幸いこの話のように友達を亡くすというようなつらい体験もしなかったし、ゆとり世代といわれるけれど、世間が思うほど自分が生まれた年を意識することはないと言っていました。
アカシア:おもしろかったです。2010年から11年という一年間の友だち関係の出来事に、チリの鉱山の落盤事故、ニュージーランドの地震、新燃岳噴火、はやぶさの帰還、タイガーマスクのランドセル寄贈なんていう折々の社会の出来事を織り交ぜて書いているのもいいですね。内側だけの心模様だけじゃなく外の出来事にも目を向けてほしい、という著者の気持ちが表れているのかもしれません。そしてもちろん地震と原発事故が3月には起こります。3.11の後、日本中が動揺していたことを、読みながら私もまざまざと思い出しました。欲を言えば、原発について話し合うところが、やっぱり硬い表現になってしまっているのが残念。やわらかい表現では話せないことだというのはわかりますが、もう少し技術用語を超えたものになっているとよかったかな。もっとも著者は意図的に日常になじまないことをわざと強調しているのかもしれませんが。それから、さっき他の方がおっしゃっていましたが、私も会話の文体のテンポのよさに、翻訳文学だとここまでできないなあと差を痛感しました。たとえば最初の方に「ねえよ、そんなの」という市子の独白があるのですが、翻訳だったら女の子の台詞はこうは訳せない。ここまでやれるとおもしろいですけどね。ちょっと疑問に思ったのは、会話の中では苗字で言い合っているのに、地の文では名前になっている。どうしてなんだろうな、と思いました。それと、辞書を破くというのは、この年代の子どもなら大いにあり得ると思います。
ルパン:でも、切っちゃったページ、裏に大事な言葉が載っているかもしれないのに。
アカシア:子どもって、大人の想像の範囲を軽々と超えていく存在だと思うんです。で、児童文学作家なら当然のことながら、そこを書きたいんじゃないかな。
レン:はやぶさの帰還に「希望、感じるよね」という同級生に反発を感じるのは、わかりますよね。
夏子:「希望」という歌が上手に使われていますよね。岸洋子さんという歌手は、上手なこともあって、ねっとりとせまってくる感じ。
慧:薄っぺらい希望は切り取ったけど、震災や苦しみを越えた後に自分の希望は見える、ということでしょうか。
アカシア:辞書も後で同じのを買うわけじゃないんですよ。切り取ったのは、岩波国語辞典第六版横組だけど、最後に自分のお小遣いで買ったのは同じ辞典の第七版普通版なんです。だから一歩前に進んでる。
さらら:濱野さんの作品はもともと大好き。だから期待して読みました。原発事故や、その後に起きたことを書きたいという気持ちはよくわかり、意欲的な作品だと思いました。いっぽうで、冒頭で「希望」という字が出ている辞書のページを冒破った主人公が、最後に、辛いこともあったけれど、行方不明になった友人の「希望」を受け入れる決心をして新しい辞書を買うところに、計算が透けてみえて、やや残念でした。会話は生き生きしていて、軽妙です。なのに、どこかテーマにあわせて書かれたのでは、という意識が読み手の私の心にひっかかって、人物がしっかり動いてこなかった。特に、大震災の後の主人公の心理の動き、喪失からの立ち直りが、すこし早すぎるような気がしました。中学生や高校生が実際に読むと、違う感想を持つのかもしれません。でも大きな喪失、そこからの再生、その肝心のところがまだ十分に書けていない気がします。もともと連載だったので、しかたがない部分はありますが、作家のなかで人物像が完全に熟していないうちに、外に出してしまった印象を持ちました。このテーマで、もう一回書いてほしいな、濱野さんには。
ワトソン:どうして「石を抱いた」なんでしょうね。
アカシア:「石」と「意志」は掛詞になっています。p178-179に「洋一、変なやつだった、っていわなかったな。洋一の思いが、今ごろになってじんわりと伝わってくるようだった。臆面もなく語る夢。気恥ずかしくなるような希望。/偉生は、意志を抱いていた」ってあります。
(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)
石の神
田中彩子/作 一色/挿絵
福音館書店
2014.04
版元語録:江戸時代、上州の石屋「大江屋」に、石工見習いのふたりの少年がいた。ひとりは、一流の石工をめざし一心に修行に励む寛次郎。もうひとりは、天才肌で素性の謎めいた申吉。申吉は実の名を捨吉といい、「石神」を祀る「荒れ地」からやってきたのだった……。宿神思想に想を得て、ふたりの少年の成長を描いた意欲作。第12回児童文学ファンタジー大賞佳作受賞作
慧:とてもおもしろかった。差別を受ける人たちの集落の様子も、石を彫るようになる過程も、石の神に魅入られるさまも、模索も。全部。
夏子:この作品は、時代はいつになっているんでしたっけ?
慧:江戸時代ですね。18世紀の終わりです。
夏子:この作家さん、まだ新人と呼んでいいのかしら? 応援したいと思いました。でも同時に、欠点も目につきます。主人公のひとりの寛次郎は、モーツアルトに対するサリエリではないけれど(素直な若者なので、サリエリとは似ていません)、常識的で優等生的。もうひとりの捨吉は破天荒な天才であって、まさしくモーツアルトですよね。こういう二つのキャラクターの絡み合うような対立が、つまらないはずがない。ただ捨吉のような子どもは、自ら内面を語ったりしないでしょう。だからこちらに視点が移って、捨吉の側から語られるところになると、無理が生じるのでは? 捨吉は、差別されている地域で育てられ、しかしそこの出身者ではないことから、周りの人々が村に戻れるようにと努力する。でもそれを振り切って、放浪の旅に出てしまう。これは、説得力に欠けると思いました。また周りの大人の個性が、もう少し描き切れているといいですね。育ての親、職人の親方、流れの職人と、それぞれ援助者の役割を果たしますが、みんな似ているんです。どの大人も粒立っておらず、平面的な感じがします。
レジーナ:日本の児童文学の独特の空気感があり、長谷川摂子の『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。人を守るだけでなく祟りもする石神は、土着の信仰の対象であり、善悪を越えた荒ぶる神ですね。ひとつひとつの場面が印象的でした。捨吉の彫った地蔵の気迫、洞窟の中、石仏という圧倒的な力を前にして、自分が空っぽになる感覚にはリアリティがあります。石神に取り憑かれた捨吉が、並はずれた力ですばらしい作品を次々に生み出すことに快感をおぼえる一方、「こつこつと人の世を生きる道に戻れなくなるのではないか」と恐怖を感じる場面には、狂気と紙一重の芸術のこわさがよく描かれています。
ルパン:うーん、これは一度読んだだけではよくわからなかったですね。『天狗ノオト』(理論社)よりはだいぶすっきりしていて、ずっとよいとは思いましたが。私にはちょっと難しかったです。これ、読者対象年齢は何歳くらいなんでしょう。視点が捨吉になったり寛次郎になったりするのだけど、そのバランスがよくないように思います。主人公は捨吉でしょう、たぶん。最初と最後は捨吉なんだけど、間はほとんど寛次郎。どちらが主人公なんだろうと思いながら読み、結局どちらにもあまり感情移入できないまま終わりました。特に、主役であるはずの捨吉の気持ちがよくわからなくて。石神の役割も。結局、捨吉は今後、人を感動させるものを作っていくのでしょうか?
慧:もう作らないと思いますよ。
ワトソン:『天狗ノオト』よりは大分読みやすくなっていて、よかったです。日本古来に伝わる畏怖につながる世界観を書くのがとても上手な作家だと思います。個人的には好きな世界観です。ただ、これを理解するのはなかなか難しいという印象は否めません。特に前半は入っていきにくく、そこを乗り越えれば物語の世界に入っていけると思いました。年齢を考えなければこの作品でよいのかもという印象です。
アンヌ:石神の謎を解き明かそうと読みこみました。けれど難しくて、参考に前作の『天狗ノオト』も読みました。その結果、太古の神の存在が作者の中心にあるのではないかと思いました。そのうえで、「先生」が龍の絵を描いて説明したときに語られたような、要石のように、太古の神を止めるために、石神があるのではないかと思いました。村を出た捨吉が八つ当たりをするようにいくつも石神を倒したから、自由になった太古の神が捨吉の中に入ったのではないかと。寛次郎にも山の中の神社に行ったとき、そこに閉ざされていた太古の神の誘いがあったのだと思います。捨吉が、仏ではなく、太古の神を思わせる異様な風貌の石神を彫ってしまったり、洞窟の壁を彫りたくなってしまったりするのは、捨吉の中にいる太古の神のせいだと考えました。ただ、そう考えていくと、p203の「石工の掘るのは、神でも仏でもない、こうありたい、こうなるといいという、ただその、ひとのこころでしかないのだ」とある、作者自身の謎ときにうまくつながらない気もします。捨吉が、村から連れ出そうとしてくれた先生から逃げ出し、さらに村に戻らなかったのはなぜか。それは、役人が切り殺された夜に連れ出されたことや、労働をしたことがない先生のぬるりとした手を触ったとき、全然違う別社会に連れ出されそうになると感じたからではないかと思いました。中央とつながりのある、けれど、社会の裏側にあるような世界を暗示しているようで。石工の親方の家で場面では、職人の生活を自由に書いていて、そこを主に会話で成り立たせている所など、池波正太郎の作品にあるような楽しさを感じました。
アカシア:序章の最後で、「はたしておれは、そちらに行かなくてよかったのだろうか」と寛次郎が思っているのですが、これは、捨吉のような天才になれなかったことへの後悔も少しあるっていうことなんでしょうか?
慧:寛次郎は捨吉に嫉妬していたけど、石神による力だったと分かって、やっぱりこれでよかったのだと納得しているのではないでしょうか。
アカシア:p217に登場する背の高い翁は石神なんですね。ここで、寛次郎は申吉を人間の世界に引き戻して、申吉も普通の人になるってこと? 私はおもしろく読んだのですが、序章にもその後にも道に迷う場面が出てきて紛らわしかったり、双助が村に侵入した賊に匕首で切られて負傷したとき、又五郎が村の差別に憤慨するが、具体的に何があったのか書かれていないので、読者はとまどうだろうとか、細かい表現に疑問を感じるようなところ(たとえば、p21の「体を丸めた龍は目を剥いて、頭の後ろをにらもうとしている」)はあって、まだまだ荒削りだなとは思ったのですが、これからきっとおもしろい作品が書ける人だろうな、という予感はありました。カットの絵もいいですね。
さらら:『石の神』は、『石を抱くエイリアン』よりおもしろく読めました。それは、完成までにかかった時間と関係する部分もありそうです。受賞から8年かけて、単行本の形になるまで、編集者とがっぷり組んで、文章を練り上げていったはず。加筆しては削り、また加筆しては削り、形を変えて、そこからまた書き直して……と繰り返された時間は、「石を刻む」作業に似ている気がします。作者は、書きこむことで、少しずつ見えてきた「像」をさら彫りこんでいったのではないかしら。捨吉が住んでいた「荒れ地」――そこに歴史的な裏づけがあるのかどうかは、わかりません。史実としては疑問をさしはさむ余地はあったけれど、私は、歴史に場を借りた一種のファンタジー、ひとつの物語として読みました。「荒れ地」から放り出された捨吉が、石を彫る親方のもとに転がりこむ。そして寛次郎との友情を育んでいく。「友情物語」として紹介した書評もどこかで読んだけれど、単なる友情物語ではない。そうくくってしまっては、多くのものが抜け落ちます。寛次郎が石を彫るなかで、いつしか求めた素朴な祈りとしての神仏と、捨吉の表現した、闇の中に引っ張りこむ力としての神仏。石があって、人があって、神仏がいる。その三つが、それぞれ「存在」としてリアルに描かれている点に魅かれました。荒削りだけど、「もの」の手触りのあるところが、良さになっているんじゃないかな。
夏子:もしかして非差別部落が成立するより前の時代なのかな? 被差別部落が成立する以前には、差別を受けているグループがもう少しぼんやりとした形で、あちこちに点在していたということはありませんか? そういうグループのひとつかな、と思って読んでいました。
アンヌ:おじいさんは、首切り役人の手伝いをしていたとあります。ここが、被差別部落の出身を示唆しているのではないでしょうか。
(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)
リーコとオスカーともっと深い影
原題:RICO, OSKAR UND DIE TIEFERSCHATTEN by Andreas Steinhoefel, 2008
アンドレアス・シュタインヘーフェル/作 森川弘子/訳
岩波書店
2009.04
版元語録:特別支援学校に通うリーコは、誘拐犯に連れ去られた親友オスカーを救うため、ひとりで町に飛び出します……。ケストナー文学賞受賞作家の話題作!
ルパン:今回の3冊のなかでは、私はこれが一番よかったです。ただ……すごい冒険ですよね。障害のある子どもに一人称で語らせることにまず驚きました。ストーリー性があるので、最後までおもしろく読みました。ただ、最後まで今回のテーマである「石」が出てこないので、この本でよかったんだっけ?と気になっちゃいましたけど。あと、この、リーコのお母さん、いいですよね。
アンヌ:とても、おもしろい本でした。石の謎を知りたくて、続きの2つの巻『リーコとオスカーとつぶれそうな心臓たち』『リーコとオスカーと幸せなどろぼう石』も読みました。楽しくて、何度か読み返しました。オスカーは、リーコを上から見ている部分があったりして最初は嫌な奴だけれど、繊細な部分がわかってくる。知能が高すぎる子どもの立場の難しさもよく書いてあると思いました。本当はうまく文章が書けないリーコだけれど、作者はパソコンで日記を書かせることによって、文章訂正機能で訂正されることにしていて、うまいと思いました。子どもの心の中では、矛盾しないような情景がいくつかあって、例えば、この巻ではないけれど「石を育てる」ことができるということを、すんなり受け入れるところとか、立ち止まらずに、ストーリーがどんどん進んでいくところがよかったと思います。デーナーというファストフードが出てきて、トルコ料理のデーナーケバブ風の食べ物という註が付いていたので、トルコの移民の文化がドイツに根付いているのだなと感じました。
ワトソン:障害のある子どもを主人公としているけれど、物語の流れとして無理なく読むことが出来ました。四角で囲ってあるところの説明がリーコ的な独特な表現で興味深かったです。翻訳の作品を久しぶりに読んだので、日本のものにはないおもしろさを改めて感じました。ぜひ、続きを読んでみたいです。
レジーナ:「モグモグちゃん」等、リーコの独特の言葉づかいは本来、作品の大きな魅力になっているのでしょうが、日本語版からは伝わってきませんでした。p18で、リーコがマカロニをフィッツケに見せると、フィッツケが「落ちてきただけか?」と聞き、リーコは「だれが、ですか?」と聞き返すのですが、これはきっとリーコが、名詞の性を人だと勘違いしたのでしょうね。もう少し訳を工夫しないと、日本の読者にはわからないでしょう。p104の「衝立(パラヴェント)」を、リーコは「スペインふうの壁」と説明していますが、何のことかよくわかりませんでした。p122の「ミスター・ストリンガーはミス・マープルのいちばんの友だちなんだけど、太りすぎているだけじゃなくて、ミス・マープルの結婚相手にしては頭が悪すぎるんだ。でも、ミス・マープルにはそうなんだ。」や、p153で部屋が散らかっていることをビュールさんに謝られて、リーコが「かたづけが習慣になっているなら、ママと結婚することになった場合、大歓迎だからだ」と考える箇所は、前後の文脈がつながっていないように感じました。元の文章がそうなのか、翻訳の問題なのか……。リーコの目で捉えた世界を、翻訳にも生かしてほしかったのですが。周囲の大人が、リーコに対等に接しているところや、夜の仕事をしつつも愛情深くリーコを育てている母さんが、道に迷うリーコのために、家からまっすぐ歩いたところにある学校を見つけてくるところは、とても好感が持てました。リーコも愛情を受け止めながら育っているから、すぐに大人に頼るのではなく、自分で問題を解決しようとし、「友達になりたかったのではなく、事件を解決したくて近づいた」と告白したオスカーを、許すことができるのでしょう。3巻まで読み進める内に、私もリーコをそばで見守っている気持ちになり、最後の場面では、数々の冒険をくぐり抜けたリーコの、何てことはないけれど、でも確かな成長の一歩が感じられて、胸が熱くなりました。
夏子:こういう子どもの一人称で書くのは、冒険ですよね。でもすぐれた作家だということは、よくわかります。完成度の高い優れた作品だと思う。主人公ふたりはもちろん、周りの大人も個性がくっきりとしていて、それぞれ魅力がありますよね。地面に落ちていたマカロニを、おじさんが食べちゃったのには、びっくり。ところが問題は翻訳で、私はまったく気に入りません。何も考えずに訳しているんじゃないかと疑ってしまうほど。リーコの一人称で書かれているわけだけど、いかにも知的障がいのある子どもの文章という風ではいけないと思う。だけどね、一方でこの設定に無理がない、と感じさせてくれないと話が成り立たないでしょ。ところが日本語は、努力した跡が見えません。小学生の男子が絶対に使わないような言葉のオンパレードじゃないですか! 少しだけ例をあげると、p177「足の速い小型車」とか、p178「あまり悪くはない男前」とか、どうしてこういう言葉が出てきちゃうの!
レン:原語の形をそのまま素直に訳したのかしら。よいと思ったのは、大人も子どももいろんな登場人物が出てきて、リーコがその中で暮らしている感じがよく出ていること。だけど、私も文章に引っかかって苦労しました。冒頭のp5にある「日本の読者へ」から引っかかってしまいました。3行目の「でたらめの思いつきの産物」という言葉、子どもがピンとくるかなと。リーコが、「ときどき頭の中がビンゴマシーンの中みたいにゴチャゴチャになる」という表現も、大人にはパッとわかるおもしろい比喩だけれど、ビンゴマシーンを見たことがない子はイメージしにくそう。p135の「階段室は死にたえたように静かだった」とか、p142「いまいましい6階め」とか、「ン?」と思った表現はほかにもいろいろ。翻訳の問題ではなく、リーコだからこういう表現なのかしら。
慧:これ、障がいを持っているという設定にする必要があるんでしょうかね。障がいと冒険の関係の焦点がぼけているし、翻訳もものすごく読みにくかった。つまらなくてわかりにくかった。素直にいいキャラクターだと思ったのは刑事さんだけで、アパートの住人にも魅力がなかったです。
アカシア:私も、主人公が障がいを持っている設定にする必要があったのか、と疑問を持ちました。この長さで小学生に読ませるとなると、よほどおもしろく翻訳しないとまずいですよね。リーコには知的障がいがあって、オスカーの方は人並み外れて高い知能があるという設定の難しさはあります。でも、残念ながら翻訳や編集にもう一工夫必要ですね。おそらく原文はおもしろく書けていて構成もいいんでしょうけど、それが現状の日本語版では伝わってこない。
夏子:障がいとプロットの絡みとしては、リーコが人の家に入りたがって、どんどん入っていくところでは? そういう子じゃないと、この話は成り立たないわけなので。
アンヌ:四角で囲ってある註のような文章は、難しい言葉の説明なんですが、リーコが書いたことになっていて、巻末ではなく、そのまま文章の中に入っているんですよね。リーコのお母さんって、ロシア人でしたっけ。名前がターニャですけれど。
レジーナ:ドイツ人にもターニャっていう名前がありますよ。
アカシア:このコラムみたいな部分も、本文との関係がぱっとわからないところがあって、もう一工夫したらよかったのにね。ドイツでは小学生が読んでいるのかもしれませんが、日本の小学生は最初の「みっけマカロニ」のところで「何これ?」とつまずくでしょう。かといってプロットが単純だから中学生は読まないでしょうし。難しいですね。タイトルも、「もっと深い」って何と比較して?と、思いました。
アンヌ:作者の「日本の読者へ」が巻頭にありますが、いきなりショーペンハウアーの引用文で始まって、たじろぎました。これは巻末でいいのでは。子どもの時、翻訳小説のわからないところは棚上げにして読んでいた気がします。今回も、読み返すときは、四角に入った註は、飛ばして読んでいました。
(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)