土橋悦子/作 長新太/絵
福音館書店
1999.06
版元語録:小さな針箱に住む針の夫婦の物語。テーブルから落ちたぬい針だんなを探しに,まち針おくさんは果敢に家をでます。愉快な絵童話。
ウンポコ:ぼくは、福音館書店のこのシリーズ(創作童話シリーズ)、とってもいいと思ってるの。高楼方子さんの『みどりいろのたね』も、このシリーズでしょ。ページをめくるおもしろさをねらった本づくりが、いつもうまくいってるんだよ。だけど、この作品はよくなかった。おもしろくない。何がおもしろいのか、わからん。発想が古いよ。「奇想天外なおもしろさ」方面にいってほしいと思うんだけど、いってくれない。絵も全然ダメ。「困った」「弱った」としか、いいようがない。
ウォンバット:えー?! そう? 私は、すごくおもしろかったけど。私、今日のラインナップの中では『バイバイわたしのおうち』と、この作品がよかったんだけど、ウンポコさんにそんなに言われるんじゃ、この本をイチオシにしちゃおう。まず、もう見返しから笑っちゃった。これ、おもしろくない? あといちばんおかしかったのは、ぬい針だんなが無事にもどってきた場面。「ぬい針だんなとまち針おくさんがもどると、針ばこの中はよろこびで大さわぎになりました。ふたりがいなかったので、しごとにならなかったのです」っていうところ。まわりの人たち、心配してるようで、実は妙にさめてるの。笑った笑った。ぬい針とまち針の表情もおもしろいし、さすが長新太!
愁童:そうかなあ。ぼくは、いいとは思えない。たとえばここに出てくるハサミ、ふつうのハサミじゃなくて、にぎりバサミでなくちゃいけないんじゃない? ヘンだよ、糸を切るハサミなのに。それにさあ、まず題材が古いよ。今の子どもには無理じゃない? このストーリー。まち針を見たことのある子なんて、そういないでしょ。今はなんだってミシンだから、「縫い目がきれい」なんてわからないだろうし。フェミニズムの人から見たら、女性の生き方としてまち針おくさんの描き方について、いろいろ言いたい人、いるんじゃない? 主体性がないでしょ。「あんなに、ぬい目のきれいな人は、めったにいないよ」と思っては、ほれぼれとながめるのでしたとは、なんと古くさい。旧態依然としたまち針とぬい針なんて。作家にも、その時代をヴィヴィッドに生きている感性が必要だと思う。書くのなら時代を意識した上で書くべき。土橋さんは持論として、「幼年童話に思想はいらない。簡潔な文章でリズミカルであればいい」っていってるけど、「今」を意識する必要はあると思うよ。たしかにうまいし、手慣れた作品だいうことは認めるけどさ。
ひるね:気持ちよく読めるけど、すぐ忘れちゃいそうな本。やっぱり「文は人なり」「作品は人なり」だから、幼年童話でも、その人の時代とのかかわり方が明確にあらわれるのよね。
愁童:「生きた感性」で書かれるべきだよ。
モモンガ:土橋さんの作品だからこそ、欲を言いたくなってしまうってところはあるわね。ストーリーテリングの名手が物語の執筆を手がけるって、外国でもよくあるじゃない? だから土橋さんもついにここまできたかって、すごく楽しみにしてたのね。期待してた分、実は私もちょっとがっかりした。ぬい針とまち針自体に古さは感じなかったけどね。今でもどこの家庭にも針箱はあるし、子どもにも身近なものだと思うから。それをこういうふうに描くというのは、おもしろいわね。うっかり足をすべらせたぬい針だんなが次の日になっても帰ってこなくて、「まち針おくさんは、しんぱいのあまり、ますますほそくなりました」とか、ドアと床のすきまを通り抜けようとして、じまんのピンクの真珠でできた頭がじゃまになるところなんかは、とてもおもしろかったから、そういうエピソードがもっとたくさんあればよかったと思う。まち針おくさんをもっともっと活躍させてほしかった。ネコや掃除機にだんなのいそうな場所を教えてもらったり、バッタの葉っぱに便乗させてもらったりというのではなくて、人の手を借りずに、一人でもっとがんばってほしかった。その辺は残念。
オカリナ:ここに向かう電車のなかで読み返したんだけど・・・。たしかに古いタイプの夫婦の在り方よね。作者は、ちゃんとこういうお母さんをやってるんだな、と感心したの。
ひるね:あっ! 今、たいへんなことに気づいちゃった!
一同:なになに?
ひるね:あのね、針山っていうのは一夫多妻制なのよ。だって縫い針は1本でいいけど、まち針1本じゃ、縫えっこないもの。
ほぼ全員:ほんとだ!
ウォンバット:そうよお。私、最初からそう思って読んだ。だからナンセンスとしておもしろいんじゃないの?
ひるね:どうせなら、役割を入れ替えて「一妻多夫制」にしちゃったら、もっとおもしろかったかも。
モモンガ:それは新しいかもね。絵もねえ、いいんだけど・・・。でも長さんの絵はもう見なれてるから、新鮮味がなかった。「またこの絵か」って感じは否めない。はじめてこの絵を見る子どもはいいかもしれないけど。
ウンポコ:長さん、ノッてなかったんじゃないの? これはあんまりよくないね。猫の絵なんか、親切に教えてくれるというところなのに、とっても意地悪そうな顔に描いてある。
ひるね:破天荒なナンセンスだったら、長さんももっと力を発揮できたのに。残念ね。夫婦を描いたものでも、イギリス昔話の「お酢だんな」なんてとてもおもしろいナンセンスなんだけど、そこまでいかなくても、翔んでるところがあったらおもしろかったのに。『冬のおはなし』もそうだけど、いい人ばっかり出てきちゃうでしょ。『ふらいぱんじいさん』(神沢利子作 堀内誠一絵 あかね書房)のようなインパクトの強さが必要だと思う。お話を聞かせるときの効果やテクニックをよく心得てる人だから、うまいなと思うところは多々あるけど、登場人物に、もう少し個性がある人、思いを託せる人が一人でも、というか「ひと品」でもあれば、もっと違ったと思うのよ。ところで、読み聞かせって、難しいわよね。
ウンポコ:音読してみると、いろんな発見があるんだよ。この作品も音読してみたけど、どうもイメージがわきにくかった。とくに、どうしても許せないと思ったのは、床とドアのすきまを通
り抜けようとするところかな。「足からはいってみたり」「右をむいたり」「左にうごいたり」と3ページもめくらせておいて、「さんざんくろうして、やっと、戸だなの中に入ることができました」ですませてしまってるところ。これでは、子ども読者は納得しないよ。「どうなるんだろう?」と思って読んでるのに「さんざんくろうして」だけじゃ、この3場面はなんだったんだあ! っていいたくなるでしょ。
モモンガ:さんざん苦労したから、頭がちょこっと欠けてしまいましたっていうなら、おもしろいのにね。ストーリーテリングのときにはとてもいい作品でも、本にするときには、構成を考え直さないとまずかったんじゃないかな。
ウンポコ:まち針おくさんが、掃除機のゴミの袋を「ふみやぶる」っていう表現があるんだけど、針は細い一本足なんだから、踏み破れないよね。
愁童:頭がまだ外にあるのに、だんなのゴミの袋の中で光っているのが、なぜ見えるんだろう……とか。
モモンガ:絵本と物語の橋渡し的存在のこういう本こそ大切なのに、ちょっと残念ね。対象年齢がこのくらいのもので、何かいいものが出てきてほしいわ。
ひるね:私たちでつくっちゃおうか?「一妻多夫制」の『まち針だんなとぬい針おくさん』。たくさんの「まち針男」を従えた「ぬい針おくさん」の話。すきまを通り抜けたあと、「まち針男」の自慢の頭がちょこっと欠けちゃう……。
一同:いいかもね!
(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)