原題:NADIA by Galilah Ron-Feder-Amit (イスラエル)
ガリラ・ロンフェデル・アミット/作 母袋夏生/訳 高田勲/絵
さ・え・ら書房
1999.04
<版元語録>医者になって、地域医療につくしたい。それが、ナディアの夢だった。そのためにナディアはのどかなアラブ村を出て、ユダヤ人の寄宿学校に入学する。「自分がアラブ人だってことを恥に思っちゃいかんぞ」という、父さんのことばを胸に。民族による考え方のちがいにとまどい、よそ者意識とたたかいながら、一歩一歩、ナディアは夢の実現にむかっていく。だが、その夢がくずれそうな瞬間がおとずれる…。
ひるね:題材が新鮮だったわ。イスラエルに住むアラブ人の少女の物語なんだけど、こういう現実があるということを、はじめて知った。その土地で生まれて、ちゃんと国籍ももってるのに、マイノリティなんて、こういうこともあるのね。全体としては、少女小説の手法だけど、中身も濃いと思う。終わり方も、薄っぺらでないいところがいい。ルームメイトの女の子たち、タミーとヌリットにしても、心を開いてくれていると思っていたタミーに最後に裏切られ、逆に、軽薄だと思っていたヌリットと、最後にはなかよくなってしまうのも、おもしろい。訳者あとがきによると、イスラエルでは「自己批判の書として若い人たちに熱狂的に受け入れられた」ということなんだけど、うらやましいわね。こういう本、日本でももっと出版されればいいのに。だけど、こんなふうにナマの議論が出てくるのは、日本ではどうかしら? 受け入れられるかしらね。イスラエルでは、情緒でぼかさずに、身近な問題が直接出てくるところが、若い世代にウケたんでしょうけど・・・。あと、訳についてなんだけど、「やぶさかでない」とか、古めかしいことばが出てくるところが、ちょっと気になったわ。
裕:これはペルフロムの『第八森の子どもたち』と違って、日々の営みが、ちゃんと大きなものにつながってる物語ね。こういう本を読まなければ、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人の対立なんて、日本の子どもたちは知る由もないでしょう。この本を日本で出版する意義は、大きいと思うわ。ナディアは慎み深くて、男の子をわざと遠ざけたりするでしょ。日本の女の子たちとはずいぶん違っていて、人物造形には日本の現実とかけ離れたものを感じたけど、感覚的に描かれているところを糸口に、日本の読者も物語世界に入っていけるんじゃないかしら。体験としてとらえられていることを接点に、日本の読者も入っていける。そして、表面的なことだけじゃなくて、大きな物語まで感じることができると思うのね。大人の小説だったら、もっと観念的になってしまいそうなところだけど、子ども向けだから救われてるっていう部分もあると思う。でも、この本、表紙がイマイチね。ナディアが憧れてる女医さんナジュラーも、リアリティが薄くて観念的に片づけられちゃってるのが、残念。でも、ま、細かいことはおいときましょう。こういう本、日本でもどんどん紹介してほしいわね。
ウンポコ:ぼくもこの作品、感心したね。ウンポコも、最後まで読めたよ。作者の姿勢がいいんだな。主人公の心の内を、つぶさに描いてるでしょ。だから、ナディアの気持ちが読者の心にも残って、なんかこう、応援したくなるんだよ。「ナディア、がんばって!」って。もう、ぐいぐい読まされちゃった。ナディアがさんざん悩んでるところも、ぼくなんかからみたら、そんなにふさぎこまなくてもいいのにって思っちゃうところはあるんだけど、また、そういう彼女の葛藤が、いじらしゅうてね。民族のるつぼにある国と、そうでない国日本との、ものすごいギャップも感じたね。ナディアをとりまく日常と比べたら、日本はまさにぬるま湯! 今回の4冊のなかでは、この作品と八百板さんの『ソフィアの白いばら』に大きなショックを受けたな。だけど、それにしても、ちょっと本づくりが古いよね。
オカリナ&モモンガ:古い! 古い! さ・え・ら書房らしいといえば、らしいけど。
ウンポコ:ぼくもそうなんだけど、どうしても感覚が古くなってきちゃってるんだよ。だからそれを自覚して、思い切って外の若い編集者に依頼するとかしたほうがいいときもあると思うんだけど。
オカリナ:タイトルも古いよ。
モモンガ:「心の」とか言われると、それだけで読みたくなくなっちゃう。
ひるね:原題は Nadiaなのよね。
ウンポコ:理論社がつくったら、もっとよかったかも。もっとこう、すてきな表紙にしてさ。こういう作品、日本だったらだれが書けるだろう? やっぱり後藤竜二かな。でも、日本とは比べものにならないほど、イスラエルは深刻だからなあ。ぼく自身、今回読んでみて、はじめてこういう問題を知ることができて、たいへんよかったと思うね。よくぞ、この本を出版してくれましたね。さ・え・ら書房よ、アリガトウ!
ウォンバット:私も、この本読んでよかったな。イスラエルのアラブ人のことって全然知らなかったから、いい勉強になった。そういう知識を得るためにはとてもよかったと思うけど、文学作品としては、ちょっとねー、つまんなかった。なんだかストレートすぎちゃって。メッセージを伝えるために、書きましたって感じがアリアリで。物語を楽しむところまではいけなかった。
ねむりねずみ:私は、さっき読みおわったばかり。どうなるんだろうと思ってる間に、読めちゃった。私はもともと、パレスチナとか、問題のあるところに興味があるのね。こないだも、イスラエル人の夫をもつアラブ人女性が、夫をアラブ人に殺されて、民族間の板ばさみで、苦しい立場に立たされてるっていう新聞記事を読んだんだけど、難しい問題だと思った。日本人から見たらまるっきり他人ごとだから、仲よくすればいいのにって思うけど・・・。日本の中にも差別はある。在日とか、部落とか、人為的につくられた差別が。なんで? って思うけど、これもすぐに解決できる問題じゃないのよね。パレスチナは宗教の問題だから、もっともっと複雑。どうしても折り合うことのできない問題でしょう。個人のレベルで知り合うことと、集団として知り合うことの違いっていうのもあるよね。個人対個人だったらいいのに、それがグループになると、対立が起きてしまう。主人公ナディアは、そんなストレスフルな状況にある。なんでもないことでも「これでいいのか」「相手にヘンだと思われないか」っていちいち確認してからでないと、前に進めなくなってる。自分とは違う志向の集団にひとりで入れられたら、自分自身のバランスをとるのが難しいのね。こういうことがあるっていうのを教えてくれて、その世界にすっと入りこませてくれるのは、まさに児童文学の力だと思うな。
ウンポコ:物語性がないのにその世界にすっと入りこめるっていうのは、なぜなんだろう?
オカリナ:ウンポコさんは、大状況を考えながら読んでるからじゃないの? 私は、逆に主人公には共感をもちにくかった。ナディアは、あまりにもナーバスでしょ。だれに対しても、すぐ、相手
vs 自分というふうに、まず自分と対立するものとしてとらえてる。そういう姿勢に引っかかっちゃったのかな。
ひるね:ナディアって優等生すぎてヤなヤツとも言えるね。
オカリナ:他によって自分を規定していくという感じが強すぎるのね。自意識過剰な気がするの。
ひるね:『大草原の小さな家』で、ローラとメアリーがはじめて町の学校にいく場面でね、ふたりはとても緊張してるんだけど、いざ学校に着くと、ローラは「なによ、あんたたち。カケスみたいにぎゃーぎゃーうるさいわね」っていうの。子どもの本の好きな人って、こういう主人公のほうが好きなのよね。
裕:アラブ人だから・・・って一歩ひいちゃうようなところは、日本の子どもにはわかりにくいかもしれないけど、うちとけたいのに、うちとけられないっていうようなところは、感覚的に理解できるんじゃないかしら。そういうことって、日本にもあるでしょ。
オカリナ:育ってる文化が違うから、こんなふうに思ってしまうのかもしれないけど、日本の子どもにも共感して読んでもらいたいと思うのね。ナディアをヤなやつじゃなく描く工夫が、翻訳でもう少しあったらよかったのかな。
ウンポコ:ナディアは14歳っていう設定だけど、もっと大人びてる。19歳くらいの感じ。
愁童:意外性がないんだよな。作者の設計図が透けてみえちゃって、設計図通りに物語が進んでいくから、葛藤がない。何かコトが起きると、ナディアが過剰に反応してしまうっていうところはあるにしても。
ひるね:物語に、ふくらみがないのよね。
モモンガ:ふくらみがないのは、作者がこのテーマを語るために、人物を設定してるからじゃない? それが、わかりやすさの秘訣でもあると思う。
ひるね:主人公が、こんなにヤな子なのも、珍しいわね。
オカリナ:イスラエルの作家が、アラブの少女を描いてるっていうせいもあるんじゃない?
ひるね:へつらいを感じるのは、それでかしら。「メッセージがある」ということと、文学的なふくらみというのは、わけて考える必要があるわね。
モモンガ:1対1だったらだいじょうぶなのに、民族とか、単位が大きくなると問題が起きてしまうこともあるっていう事実を伝える本は、あっていいよね。レベルは違うにしろ、ひとつの集団の中に、少数派が入っていくときの摩擦のようなものは、日本にもあるでしょ。そういうときの心理状態というのは、日本の子どもにもわかると思うから、きっとみんな、共感できるんじゃないかしら。私は、最初のほうで、ナディアが、知りあったばかりのタミーとヌリットに自分がアラブ人だってことをいうべきか、いやそれとも……?! とすごく悩む場面で、物語にぐっとひきこまれたの。この本は、民族の問題を知る一端になると思うわ。子どもたちに薦めたい本。
愁童:だけどさ、矛盾もあるよね。ナディアのお父さんというのは、古いしきたりを大事にする村の中では革新派で、新しい機械なんかもどんどん採り入れて、成功した人だろ。いわば、もうふたつの文化の壁を乗り越えちゃってる人なわけだ。そういう父親のもとで育った子がこんなにナーバスだというのは、どうも腑におちないんだよな。
裕:ナディアは、アラブの世界のパイオニアなのよ! それはフェミニズムの視点からみてみれば、よくわかると思う。進歩的であろうとすることは、ものすごいエネルギーが必要なの。フェミニストもそう。矛盾を抱えてるこそから、悩むんじゃないの。
ウンポコ:この作者、女性? 男性?
オカリナ:「ガリラ」というと、女性のようね。
愁童:ナディアの家は一家総出で、フロンティア路線を歩んでるくせに、ナディアがひとりで古い村から出ていくということを、ドラマにしちゃってる。
ねむりねずみ:ナディアは、化石みたいな村に住んでるんだよね。
オカリナ:村は、ナディアにとってくつろげる場所として、描かれてるんだと思う。
裕:私は、お父さんがもってきてくれるブドウの使い方がうまいと思った。彼女の緊張をとかしてくれる小道具になってる。村も、彼女の一部なの。だから、村のことを頭から否定するのは不可能だし、新しい世界の価値を認めながらも、全身染まることもできない。板ばさみ状態。こうやって、自己矛盾を抱えながら、女は進歩してきたのよ。
オカリナ:ナディアは、ジーンズにチェックのブラウスといういでたちをしていても、まるっきりイスラエルの子と同じになれるわけではない。そういうところから、ナディアの人間像が浮き彫りになってる。
愁童:ナディアは、村の友だちアジーザがスカートの下にズボンをはいてることをはずかしく思ってる。そういう心って、人間的によくわかるけど、説得力がないよね。ナディアの生き方を考えてみるとさ……。
モモンガ:いったん外に出ていって、他の世界を知ってから、村にもどってきた彼女の感覚はよくわかるわ。新しい場所で新しい経験をした後って、ずっと住んでいた場所も、今までとは違って見えるものでしょ。
ウンポコ:ナディアの心の揺れ動きは、よくわかる。すごく悩んでる。でも、矛盾的構造の中でも、ナディアの未来は明るいぞと思ったね。ぼくは、あんまり悩まない子って不幸だと思ってるんだよ。ナディアは、たくさん悩んでるけど、そこに成長を感じる。いじらしいね。そういうことを手渡してくれる、人間の素敵さを感じるなあ。
愁童:フェミニズムを表に出すのであれば、最後の場面、オディに説得されて、学校にとどまることにするのではなく、自分で決断してほしかったな。
裕:主人公が女の子だからこそ、この物語は活きてると思う。そこからフェミニズムにも、つながっていくんだけど……。
ひるね:なにもかもフェミニズムでくくるのは、難しいんじゃない?
裕:でも、愁童さんの疑問は、フェミニズムでみんな解明できると思うわ。
愁童:うーん。でも、ローティーンが読んでも、わからないんじゃないかな。今、ガラス細工みたいな子っていっぱいいるけど、ナディアの葛藤を、そういう感覚で、自分の悩みと同じものとしてとらえられてもねぇ……。
ひるね:メッセージを伝えたいがために、オーバーになっちゃってる。橋田壽賀子のドラマみたい。強調しすぎの感アリかも。
(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)