日付 2000年10月26日
参加者 ウンポコ、愁童、ウォンバット、ひるね、オカリナ、
ねむりねずみ、モモンガ
テーマ ふしぎなお話

読んだ本:

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

原題:THE SUBTLE KNIFE by Philip Pullman, 1997(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>オーロラの中に現われた「もうひとつの世界」に渡ったライラは、“スペクター”と呼ばれる化け物に襲われ、大人のいなくなった街で、別の世界からやって来た少年ウィルと出会う。父親を探しているウィルはこの街で、不思議な力を持つ“短剣”の守り手となる。空間を切りさき別世界への扉を開くことのできるこの短剣を手に入れた少年と、羅針盤を持つライラに課せられた使命とは…。気球乗りのリーや魔女たち、そして天使までも巻き込んで、物語はさらに大きく広がっていく―。世界中で大ベストセラー、カーネギー賞受賞の壮大で胸躍る冒険ファンタジーの傑作。
エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

原題:ROWAN OF RIN by Emily Rodda, 1993(オーストラリア)
エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

<版元語録>リンの村を流れる川が、かれてしまった。このままでは家畜のバクシャーもみんなも、生きてはいけない。水をとりもどすために、竜が住むといわれる山の頂きめざして、腕じまんの者たちが旅立った。たよりになるのは、魔法をかけられた地図だけ。クモの扉、底なし沼、そして恐ろしい竜との対決…。謎めいた6行の詞を解きあかさなければ、みんなの命が危ない。 *オーストラリア児童文学賞
富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

<版元語録>理子にとって神様は、いつも気まぐれで不公平で、えこひいきばかりする、ろくでもないやつです。でも、ふとしたことから記憶を無くしたへんてこな神様と知り合うことになって…。神様を助ける女の子の楽しい物語。
坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

<版元語録>「あれえ!」みちのまんなかで、お月さまにであっちゃった。お月さま、なんでこんなところにいるのかなあ。


神秘の短剣

フィリップ・プルマン『神秘の短剣』
『神秘の短剣』 (ライラの冒険シリーズ2)

原題:THE SUBTLE KNIFE by Philip Pullman, 1997(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳
新潮社
2000.04

<版元語録>オーロラの中に現われた「もうひとつの世界」に渡ったライラは、“スペクター”と呼ばれる化け物に襲われ、大人のいなくなった街で、別の世界からやって来た少年ウィルと出会う。父親を探しているウィルはこの街で、不思議な力を持つ“短剣”の守り手となる。空間を切りさき別世界への扉を開くことのできるこの短剣を手に入れた少年と、羅針盤を持つライラに課せられた使命とは…。気球乗りのリーや魔女たち、そして天使までも巻き込んで、物語はさらに大きく広がっていく―。世界中で大ベストセラー、カーネギー賞受賞の壮大で胸躍る冒険ファンタジーの傑作。

ウォンバット:今回、私はたいへん苦しい闘いでして。毎晩、おふとんの中で読もうとしたんだけど、もう眠れて眠れて……。結局p170で時間切れとなってしまいました。このシリーズの1巻目『黄金の羅針盤』(新潮社)も、以前この会でとりあげたけど、私はどうも好きになれなかったのね。寒々しくて。今回も、最初にウィルが人を殺してしまうでしょ。それで彼は、罪の意識にさいなまれるわけだけど、こんなに簡単に人が死ぬっていうのも、どうもなじめないのよねぇ。なんだか、全体におぞましい雰囲気だし。

オカリナ:私は、読むには読んだけど、ぐんぐん引き込まれたというより読書会のために最後まで読んだって感じ。読んでて、気持ちが引っぱられるということはなかった。『黄金の羅針盤』のときも思ったことだけど、頭には響くけど、心には響かないのかな。それで、どうもすわりが悪いというか、おちつきが悪いの。このシリーズは2冊読んでも、全体の構造がまだよくわからない。だから頭ではいろいろ考えるんだけどね。こんな、とてつもない話、この先どういうふうにまとめるつもりなんだろうね、なんていう興味はすごくある。

ひるね:アマゾン・コムに、Margot Liveseyという人が「プルマンをいいという友だちは、しつこくて雄弁だった」って、書いていたんだけど、なるほどと思ったわ。

一同:ふーん、なるほど!

モモンガ:私は、p98までしか読めなかった。『黄金の羅針盤』がとても気に入っていたから、これも楽しみにしてたんだけど、今回は時間がなかったの。ここはun poco読みか?! とも思ったんだけど、この作品はちゃんと味わいたかったから、いいかげんには読めなかった。今回は、世界が3つになるのよね。

ひるね:そうそう。現実世界、ライラたちの世界、ダイモンのいる世界の3つね。

ねむりねずみ:私は、1巻も2巻も原書で読んだのね。まず1巻を読んで、大きなショックをうけたの。うっわー、これはすごい!! って。それで、2巻が出版されたとき、うれしくって、大事に読もうと思ったのに、読みはじめたらおもしろくて、一晩で一気に読んじゃった。今回、翻訳を読んでみたけど、原書どおりのおもしろさだった。プルマンは、すごい世界を作ったわね! やっぱり「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 松岡祐子訳 静山社)とは、根本的に違う。この本は「ライラの冒険シリーズ」の2なんだけど、1巻めに完全におんぶにだっこというんじゃなくて、これはこれで、またすばらしい世界になってる。こうなってくると、3巻目は、もっとすばらしくなるか、おもいっきり破綻するか、のどっちかしかないでしょ。どうなっちゃうんだろうね。私は、1か所、泣けるところがあったの。それは、気球乗りのリー・スコーズビーが死ぬ
ところなんだけど。この物語の登場人物って、基本的にみんな強いでしょ。ライラもウィルも、ものすごく強い。それで唯一、弱いというか、ふつうの人であるリーさんは死んでしまう、と。登場人物があんまりにも強くて、日本人がふだんなじんでいる心象風景とは、ずいぶん違うでしょ。だから、日本の読者の中には、そういうところでなじめないというか、ついていけないって思っちゃう人もいるかもしれないね。登場する子どもたち、ライラにしてもウィルにしても、従来の子ども像とは全然違うのよ。1巻目で、ライラは、父にも母にも裏切られる。2巻目では、ウィルは子どもなのに、保護されるのではなく、逆に母を守らなくてはいけない保護者のような立場に立たされてる。ふたりとも“今”を反映した存在。それから、天使が善悪を越えた存在として登場するのも、オリジナリティがあるよね。

ウンポコ:ぼくは、p47まで。

ウォンバット:さすが、元祖ウンポコ!

ウンポコ:1巻目は読んでなくて、だいじょうぶかなと思いながら読みはじめたんだけど、やっぱりわかんないところがあってね。『黄金の羅針盤』を読んでないとだめなのか・・・と、ちょっと疎外された感じがして、落ちこんじゃったね。物語世界に惹きこまれていけば、すいすい読めるんだろうなーとは思うけどさ。1章は、おもしろかったんだよね。でも2章以降は、もうロッククライミング状態。

愁童:今回のテーマは、ぼくとひるねさんが決めたの。どうしてこれを選んだかというと、裕さんに言われたことが気になっててね。ぼくは、『黄金の羅針盤』を読んだとき「ハリー・ポッター」と同工異曲のご都合主義だと思っちゃったんだよね。ライラが窮地に陥ると、すぐだれかが助けてくれるだろ、というようなことを発言したら、裕さんに「プルマンの世界は、英国では非常に高く評価されてる。これが理解できないのはオカシイ!」というようなことを言われたんだな。そのときは、そんなこと言われてもという感じだったんだけど、どうも、その言葉がひっかかっててね。2巻目を読めば、プルマンの世界のすばらしさが理解できるかなと思ったんだ。そして、読んでみたわけだけど、おもしろかったな。「ハリ・ポタ」と違って独創性もあるし。天使にしても、キューピーみたいな顔をしていて羽がついててっていう既成のイメージとは全然違う、プルマン独自の新しいものになっていて、読み手の中にはっきりしたイメージを残してくれる。力のある頭のいい作家だよね。とてもよく練られていて、よくできてる。だけど、できすぎというのかな、スキがなくて、物語世界に没入できるような作家の体温みたいなものが、あまり感じられない。

モモンガ&ひるね:クールよねー。

ひるね:私は、おもしろくて好きでしたね、この作品。オリジナリティの魅力ね。天使にしても、剣にしても。だけど、こんなものすごい大風呂敷をひろげて、これから先、ストーリーテラーとして、どうまとめるのかしらね。登場人物にしてもなんにしても、ひとことでいえば「おもしろくて、わかりにくい」のよ。おもしろいのは原作のおかげ、わかりにくいのは翻訳のせいかな、と思った。だって、えーっと、ほらここ、p296の「塔の灰色の、胸壁の上には、死肉を食うハシボソガラスが旋回していた。ウィルは、なにが自分たちをそこへひきよせたのかを知って、吐き気をもよおした」っていうところ。読んでて、私は、何が自分たちをそこへ引き寄せたのか、全然わからなかったのね。雑な読み方をして、読み飛ばしてしまったかなと思ったの。これはウィルが指を切断したあとの場面なんだけど、よくよく考えてみたら、指から流れおちる血が、カラスを引き寄せたのかなと、思い当たってね。もしかしたら、これは3人称で書かれているから、themをカラスなのに自分たちと誤訳してこういうわかりにくいことになっちゃったのかもしれないと気づいた。これって編集者が気づかないとね。

オカリナ:これ、もったりした文章だけど、原文は、短く、切り付けるような、すぱすぱっとした文章なんじゃないの?

ひるね:アメリカの友人たちに聞いたら、この作品の文体を好きとか嫌いとかいった人はいたけど、難解だといった人はひとりもいなかった。だから、難解なのは、日本語の問題だと思うわ。

オカリナ:今までの冒険物って、仲間と力をあわせて進んでいくっていうパターンが多かったでしょ。その点、この作品は新しいと思うのね。ライラもウィルも孤独。ひとりでがんばってる。ふたりが協力するところも出てくるけど、一心同体の仲間というふうにはならなくて、お互いに完全に心を許しはいない。こういう世界を描くには、もっと簡潔な、きびきびした文章でないと、雰囲気があわないんじゃない? なんだか人物像がはっきりしなくて、感情移入しにくいのよね。

ひるね:私は、とくに会話が気になったわ。魔女の話し方もピンとこないし、リー・スコーズビーもグラマン博士もまったく同じ口調になってる。原書はどうなのかしら。

オカリナ:それにしても、いったい、どういうふうに終わらせるつもりなんだろうね。まるで見当がつかないわね。3巻目を読んでみないことには、わからない。

愁童:『黄金の羅針盤』で残された謎が、『神秘の短剣』でずいぶん解明された。そこんとこは評価したいね。それはいいんだけど、今回解明されたのと同じくらい2巻目自体の謎があるからなあ。

ねむりねずみ:明らかになった分を埋め合わせるように、また新たな謎が・・・。次の巻へもちこされる謎の数は、結局減ってない。私にとって、ライラはとても魅力的なキャラクターだった。この巻では、彼女の成長もみられるでしょ。わがまま者で、他人を思いやることなんて、『黄金の羅針盤』では皆無だったけど、『神秘の短剣』の途中から、ライラはウィルのことを思いやることができるようになる。それにしても、この話、弱い人はみんな死んじゃうんだよね。リー・スコーズビーも、恋をした魔女も。

ウンポコ:冷徹なのかな。

オカリナ:ウェットではないよ。

ウンポコ:この顔は、絶対ウェットではないね。(後袖のプルマンの顔写真をみて、うなずく)

ひるね:プルマンは、お父さんが軍人だったから、小さい頃から引っ越しが多くて、いろんな国での生活を体験しながら大きくなったのよ。そんな体験が、彼を「ひとりで生きる」ってタイプの人にしたんじゃない?

ウンポコ:この本、子ども向けではないよね。

ひるね:読者として子どもを意識してるのなら、子ども向けの翻訳者を選ぶはず。だから、子ども向けには作ってないわね。子ども向けと限定しないで、大人にも読めるような本にするのはいいことのように思うかもしれないけれど、外国で子ども向けに出版された本を出すのなら、まず第一に子どもが読めるような本作りをして、子どもの手に渡してもらいたいと私は思うの。エミリー・ロッダの『ローワンと魔法の地図』や、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 掛川恭子訳 講談社)が大人の本棚に並んでいるのはとてもうれしいことだけれど、もともと子どもに向けて書かれた本が書店の子どもの本の本棚にないのは悲しい。本というのはお金を出して版権を買った出版社だけのものではなくて、ある意味でみんなの財産なんじゃないかな

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローワンと魔法の地図

エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳
『ローワンと魔法の地図』 (リンの谷のローワン1)

原題:ROWAN OF RIN by Emily Rodda, 1993(オーストラリア)
エミリー・ロッダ/著 さくまゆみこ/訳 佐竹美保/絵
あすなろ書房
2000.08

<版元語録>リンの村を流れる川が、かれてしまった。このままでは家畜のバクシャーもみんなも、生きてはいけない。水をとりもどすために、竜が住むといわれる山の頂きめざして、腕じまんの者たちが旅立った。たよりになるのは、魔法をかけられた地図だけ。クモの扉、底なし沼、そして恐ろしい竜との対決…。謎めいた6行の詞を解きあかさなければ、みんなの命が危ない。 *オーストラリア児童文学賞

愁童:これはすごい。発売たちまち4刷! 売れてるんだねー。シンプル・イズ・ベストって感じ。安心して読めた。古典的ファンタジーの定石なんだけど、ゲーム的な要素も入ってる。あとがきを読むと、ジェンダーのこととか、ちょっと難しいことが書いてあるから混乱してしまうけど、強いといわれていた者たちがつぎつぎに脱落して、最後には弱者が使命をやりとげるというのは、おもしろかった。「ハリ・ポタ」やプルマンの理屈っぽい世界に比べると、この作品は、読みながら心の中で遊べる楽しさがある。ファンタジーのよさを再認識したね。

ウンポコ:ぼくも、おもしろかった。すらすら読めて、うれしかったよ。難をあげるなら、登場人物の姿がくっきり浮かんでこないってことくらいかな。ローワン、ストロング・ジョン、アランはOKだけど、その他の人は、男か女かもわかりにくい。ちょっとぼやっとしたところがあった。最初に登場人物の紹介でもついていたら、読書力のないぼくでも、わかったかもしれないけどさ。ちょっと難しいよ。と思っていたら、訳者あとがきに「男女差のない世界を描いている」とあった。ぼくは、そこまでは気づかなかったな。

ねむりねずみ:この本、装丁がいいわよねー。でも、私は基本的に理屈っぽいほうが好きなのかな。ローワンは臆病なんだけど、いい子でしょ。ちゃんと最後までやりとげるし。どこか、悪い子の部分もほしかったと思っちゃうのよね。憎らしくったって、私にはライラのほうが魅力的に見える。ローワンも、もうちょっと悪い子すればいいのに。2巻3巻では、やってくれるのかな? ジェンダーに関しては、ふたごのヴァルとエリスの性別がわからなかったから、気になった。

モモンガ:同感! 私も男か女かわかりにくいと思った。名前も、日本人の名前だったら、性別も、なんとなくわかるけど、ここに出てくるのは、ちょっとわからないものね。日本語は、英語みたいにheとかsheとか出てくるわけじゃないし。実際、双子はヴァルが女でエリスが男なんだけど、エリスのほうが、女の子の名前のような感じもするでしょ。

ねむりねずみ:最後のところ、p211の「ローワンの胸の中にあった古いしこり」って、ちょっとピンとこなかったんだけど……。

オカリナ:父が死んだのは自分のせいだっていう負い目と、母に臆病でひよわだと思われてるってということを言ってるんじゃない?

ねむりねずみ:そっか。あと、p188のローワンがジョンを気づかう場面。ローワンは、旅のはじめのほうでジョンが声をかけてくれたときのことを思い出してるんだけど、私はそこの場面とうまくジョイントしなかった。

モモンガ:謎ときに夢中になっちゃうわよね。ドラクエの世界。謎の詞にあてはめながら、最後まで読める。あの詞のページを、何度もぱらぱらめくったりして。この物語のおもしろさは、弱い子が主人公ってことだと思う。ローワンは弱虫だし、腕じまんの厳選メンバーの中に、ひとりだけ紛れこんだ子どもだけど、子どもならではの動物との交流とか、子どもにしか見つけられないこととか、ローワンだからこそできるっていうことが、ストーリーにうまくいかされてる。この子が最後に残るってことは、はじめからわかっちゃうのはいいんだけど、そこにもうひとつ、インパクトがほしかったな。ローワンは、妙に大人っぽくなっちゃうでしょ。みんなが眠っているところを見て、いとおしく思うところとか、やるのは自分しかいない! って決意したりするところなんか。そうじゃなくて、子どもっぽいままで、大人だったらできないけど、子どもだからこそできたってなったら、子ども読者はもっと喜ぶと思うのよ。

愁童:竜ののどにささったとげをとるところなんて、うまいと思ったけどな。

モモンガ:うーん。でも、いくらバクシャーのとげをとったことがあるにしても、おんなじようにはいかないんじゃない? だって、この絵(p196〜197)見て! すごい迫力! こんな、ものすごい竜のとげを、よくとったわね。

ひるね:けんかの弱い子とか、いじめられっ子って、犬とかウサギとかを愛でたりするでしょ。だからローワンも、痛がっている竜をかわいそうと思ったんじゃない?

ウォンバット:私は、それよりも使命感だと思ったな。ローワンはバクシャーを大切に思っていて、その心の交流には胸が熱くなるものがあるんだけど、その愛するバクシャーや村の人を救えるのは、今や自分しかいないんだ、やらねばっ!! ていう使命感。

ひるね:無意識でも、読者には期待があるのよね。登場する子どもに対して。あんまり優等生なのはイヤとか、やんちゃであってほしいとか、よくある子ども像からはずれると、物語に添っていけないようなところってあると思う。前に手がけた本で、風邪をひいた動物の子が悪夢をみるっていう本があってね。それに対して「子どもは、風邪をひいたくらいで悪夢なんてみません。子どもはもっと強いものです」って書いた書評があってびっくりしたことがあったわ。私は、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったけど。

モモンガ:私も、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったわ。

オカリナ:これは、ファンタジーとしての価値を論じるような作品ではなくて、エンタテイメントの楽しさがウリの本だと思うのよね。物語世界の厚みとかプロットの独自性を期待するんじゃなくて・・・。どこかで見たり聞いたりするようなプロットが使ってあるんだけど、それを組み合わせて、これだけ短くてこれだけおもしろい物語をつくりあげたっていうのが、すごいことじゃない? ファンタジーの名作とは比べられないけど、日本では「ハリー・ポッター」がああいう残念な形で世に出てしまったこともあるし、こういう本にがんばってもらいたい。本が嫌いな子でも楽しく読める要素があると思うの。

ねむりねずみ:ロールプレイニングっぽいよね。これだったら、ゲーム感覚で楽しめて、ふだんあんまり本を読まない人でも、親近感をもてるんじゃないかな。

ウンポコ:逆に、つぎつぎ襲いかかる苦難もクリアするだろうって、わかっちゃうから、大人は、物足りなさを感じたりもするんだがね。でも、子どもはわくわくするだろうね。爽快な感じで。文学へのとっかかりとしてはイイと思うな。

オカリナ:ジェンダーの問題だけど、まず私は、ランが男だと思っちゃったのね。「昔は偉大な戦士だった」というからには、男かな? と。でも、リンの村では「戦士=男」ではないの。ランも、実は老女。職業にしても、男だから女だからということに関係なく、それぞれの適性にあったことを仕事にしている。ふつうのエンターテイメントって、既成の男性像、女性像によりかかってるのが多いでしょ。その点、この作品は新しいと思うのよ。ひと味ちがう。

ひるね:私は、M駅前の児童書に力を入れてる書店でこの本を見て、涙が出るほど感激したのね。この、本づくりのすばらしさに。表紙、別丁の扉、紙の色、書体の選び方……すべてに神経がいきとどいてる。「ハリー・ポッター」とは、なんたる違い!

ウンポコ&モモンガ:感じのいい本だよねー!

愁童:ファンタジーって感じだよな。

モモンガ:表4なんかも、とってもいい雰囲気。佐竹さんの絵がいいのよ。

ウンポコ:このごろ、佐竹さん、大活躍だな。『魔女の宅急便3 キキともうひとりの魔女』(角野栄子著 福音館書店)の絵も、そうだよね。

オカリナ:えっ、3って、もう出たの?

ウンポコ:出たばかりだよ、今月(10月)かな。「魔女の宅急便」は、3作すべて絵描きさんが違うから、(『魔女の宅急便』林明子絵、1985、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』広野多珂子絵、1993、すべて文は角野栄子、福音館書店)本としては不幸だけど、それぞれイメージは変わってないし、なかなかいいよね。

ひるね:今、大人の本の会社が子どもの本も手がけるようになってきてるでしょ。「ハリー・ポッター」にしても、プルマンにしても。あと、9月に、東京創元社から出版された『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳)も、原書は児童書でしょ。それはそれで、よいものができあがれば何も問題ないけれど、残念なことに粗悪品も出回ってる。日本の翻訳児童書の装丁って、世界を見回してもとてもレベルが高いと思うの。外国の原作者に日本語版をみせると、いろんな国で翻訳出版されているけど、日本語版がいちばんいいって、みんな言うのよ。本の作り方が、日本ほどすばらしいところはないって。それは、児童書の編集者たちが、長い時間かけてつくりあげてきた文化だと思う。センダックも子ども時代をふりかえって、「本をもらったら、なでて、においをかいで、少しかじってみた」って言ってるけど、やっぱり子どもにとって、本って、特別なものだと思うのね。大人向けの本のノウハウしかない会社が児童書をつくるのは、ちょっと難しいんじゃないかしら。『神秘の短剣』と『ローワン』を比べてみても、違いは明らか。「ライラの冒険シリーズ」も『ローワン』と同じように、大人向けのコーナーと子ども向けコーナーと、両方に並ぶようになるといいのにね。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


空へつづく神話

富安陽子『空へつづく神話』
『空へつづく神話』
富安陽子/作 広瀬弦/絵
偕成社
2000.06

<版元語録>理子にとって神様は、いつも気まぐれで不公平で、えこひいきばかりする、ろくでもないやつです。でも、ふとしたことから記憶を無くしたへんてこな神様と知り合うことになって…。神様を助ける女の子の楽しい物語。

オカリナ:この本、ここに到着する1時間まえに読み終わったんだけど、なんか、ジグソーパズルのピースがぴったりはまらないって感じなのよね。その土地その土地に伝わる神話を、子どもたちに身近なものにしたいという意図はとてもいいと思ったんだけど・・・。ヒゲさんって神様なのに、神様らしいことをするのって、お姉さんをカエルに変えるのと、空を飛ぶことくらいでしょ。ま、それは記憶喪失だから、しょうがないとして。でも、最後も不満だった。とってつけたみたいなんだもの。理子とヒゲさんの関係の変化も、はじめはけんかしてたのが、だんだん仲良くなって、最後は「行かないで!」ってなるんだけど、その過程がちゃんと描けてないから、「行かないで」が、しっくりこないんだなぁ。全体に、リアリティが感じられなかった。たとえば、最初のほうで、理子が連絡帳で男の子のお尻をたたいたら、女の子たちが「乱暴ねえ」とか「けがさせたんじゃないの」とか、ひそひそ陰口をたたいたり、先生におこられたりっていう場面があるんだけど、ちょっとノートでお尻をたたいたくらいで、そんな展開にならないでしょ、ふつう。このくらいの年の子が、学校でどんなふうにしてるか、具体的に見てから書いたほうがいいんじゃない? 図書館でヘビになったヒゲさんを、後ろのおばさんが見て騒いで、他の人たちに追いかけられる……っていう場面も、現実にはこんなふうにはならないでしょ。ひまわりの花が強風で頭だけ落ちるってことも、ないと思うんだけどな。ひまわりは花がポタッと落ちるんじゃなくて、茎がくたっと折れるんじゃないかな。こまごましたことだけど、そういうことがしっかりしてないと、リアリティはわいてこないな。とびとびの時間で読んだせいかもしれないけど、そんなことがいろいろ気になっちゃった。

ウォンバット:んー、オカリナさんの意見に同感だな。紙の上の世界でしかないって感じ。理子がどういう子なのか、伝わってこない。キャラクターも不明だし、神様がやってくるのもトートツ。最初の場面で、理子が不機嫌だっていうのは、わかるんだけど、前の日に服を買ってもらえなかったくらいで、これほど神をうらんだりするかしら。

ひるね:くだらないと思っちゃう。

ウォンバット:おさがりって、たしかに兄弟姉妹の間で波紋を巻き起こすものだから、ぱっと使ったんだろうけど、思いつきの枠を出てないと思う。

ひるね:使いふるされてるエピソード。

ウォンバット:おさがりが嫌でさわぐのって、もっと小さい頃じゃない? だいたい小学校6年生にもなれば、12年近くも次女をやってるわけだから、次女としての自分の運命を受け入れてるはずだと、次女の私は力説したい。次女ならではのおトクなことだって、いっぱいあるでしょ。おさがりだって、すてきな洋服のときはうれしいし、おさがりがあるぶん、服をたくさんもってるってことだってあるし。6年生だったら、もうそういうことがわかってる年だと思うなぁ。だいたいおさがりなんて、しょっちゅうあることのはずなのに、こんなに、神をうらむほど思いつめるなんてねぇ。「おさがりの服=がっくり」ってたしかに黄金の定理だけど、こんなふうに使うのは感心しない。短絡的だと思う。

モモンガ:着想はおもしろいと思うのよ。会話もうまい。「ツルだってカメだって、恩返しするんだから、神様にも恩返しくらいできるはずよ」とか、くだらない会話がおもしろくて笑っちゃった。でもね、私は、最後、ふたりが飛ぶのが不満なの! 子どもって、自分と同じふつうの子が、不思議を体験するっていうのが好きなのね。こういう物語は、そこが醍醐味なのよ。読んでる子は、理子にも、自分と同じ能力のままで不思議を体験してほしいの。だからヒゲさんは飛んでもいいんだけど、理子は飛んじゃだめなの。ヒゲさんも、こんなりっぱな風体なのに、大したことしないのよね。たぶん作者も、イメージがちゃんとかたまってなかったんじゃないかしら。思いつきっていわれても、しかたないかも。

ねむりねずみ:絵のタッチが似てるせいかな、宮崎駿を連想しちゃった。意図は全部いいんだけど、意図が見えちゃう場合は、物語として成功してないよ。最後も、とつぜん二面性が出てきちゃうのは、いかんぞっ! あと、ちょっと気になってるのは、ヒゲさんの口調なんだけど、昔の人なんだから、もっと古いしゃべり方のはずじゃない? 現代の子どもと、意思の疎通がすっとできるっていうのは・・・。

モモンガ:いきなり現代っ子と、こんなおもしろい会話をしちゃうのは不自然だよね。話がかみ合わなくて困ったりすれば、ストーリーとしても説得力があったのに。

ウンポコ:好きな作家なんだけど、この作品はなんだかチャチになっちゃってる。ほんとは、もっと神秘的なものを描く力のある作家だと思うんだよ。ちょっと、この作品はうまくいってない。宮沢賢治の世界をとりこむことのできる、数少ない作家のひとりなんだけどね。編集者としては、クスサンのもようを、見返しあたりにぜひ入れたいとこだな。道具立てはかなりいいのに、ほんと残念。

ひるね:道具立ては、いいのよ!

オカリナ:アイディアをいかして、ちゃんと世界を構築すれば、いいものが書ける人なのにね。編集の人がもっと作家に迫ってやりとりすれば、もっとおもしろくなったんじゃないかな。

愁童:この作品、最初に読んだどきはおもしろいと思ったんだよ。でも、この会のために、どんなストーリーか思い出そうとしたら、ぜんぜん思い出せなかったんだ。まえに、ねねこさんが「みなさん、日本のものに厳しすぎる」っていってたのが頭に残ってて、一生懸命好意的に、前向きに読んだつもりなんだけど。この作品には、郷土史を発掘するという知的なおもしろさがある。でも、その線を押すなら、たかがおさがりの洋服ぐらいで神に見放されたなんてところから始めてほしくなかったな。神様に出会うのは、学校の図書室なんだけど、描写を読むと図書室ではなくて、図書館のイメージなんだよな。どうも、ぴったりこない。どこかツメがあまい。表現も「とげとげした顔」なんて個性的でおもしろいかなと思う反面、ひょっとしたら誤植かな、なんて思わせるようなワキのあまさを感じちゃう。いい素材を使ってるのに、もったいないな。もっと発酵させる必要があったんじゃないかな。

ひるね:日本の創作に対しては、あまりある愛があるために、ついついけなしてしまうのよ、私。褒めた記憶ってないから、これからは気をつけよっと。でも、これも愛するがゆえなのよ。よろしくね、みなさん。さて、この作品は、郷土に根ざしてるというところは、いいと思うのよ。疑似英国ファンタジーとは、ひと味違う。しかしね・・・。唯一おもしろいと思ったのは、カエルになったお姉ちゃんのエピソードくらいだったの。そもそも、なぜ神様が、理子のまえにあらわれたのか、わからない。風土記の著者の桐山好久の曾孫、中央図書館の館長、桐山克久が登場したときもこいつが悪者か?! と思ったけど、ただの好好爺だったでしょ。拍子抜け。神様もボケてるときはいいけど、たまにまともになったときに、とつぜん破壊する心と、育む心をもってるなんて、自分で言うけど、そういうことが伝わってこないの。こないだも、たいへんな水害があったでしょ。なのに、こういう展開って、ちょっとノーテンキすぎるわよね。こんなこというと生真面目すぎると言われるかもしれないけど、大人より子どものほうが、こういうことって敏感だと思う。この作品のように、日本の風土に根ざしたものが、もっと出てきてほしいから、がんばってほしい。応援してるわよ。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


クリーニング屋のお月さま

坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』
『クリーニング屋のお月さま』
坂東真砂子/作 大沢幸子/絵
理論社
1987.10

<版元語録>「あれえ!」みちのまんなかで、お月さまにであっちゃった。お月さま、なんでこんなところにいるのかなあ。

愁童:短い作品だけど、おもしろかった。坂東さんは、非常識を自信をもって書いてる。読者を惹きこむよね。とんちんかんなイメージに読者をひきずりこむ力がすごい。お話としてはナンセンスで、まぁ、どってことないんだよ。でもそれが、逡巡なしにぽーんと出てくるから、なんなんだ?! と思うけど、これだけ自信をもって書かれちゃうと、読んでるほうが「スイマセン!」っていっちゃうね。有無をいわさない迫力がある。ものすごい力強さ。

ウンポコ:坂東さんは、寺村輝夫さんの弟子なんだけど、それを背景に感じてしまった。寺村さんの幼年童話のおもしろさを、ぴたっと受け継いでるね。それは、木にたとえれば、枝も葉もなく、幹だけで進んでいくっていう感じ。この作品も、寺村さんがいちばん喜びそうなパターン。本づくりも、うまくいってるね。ぼくも、32Qの文字の本ずいぶん作ったから、思い入れのある分野なんだよ。こういうタイプの本がではじめた1968〜1969年頃には、非難ゴウゴウだったんだ。サイコロ本なんていわれてさ。

ひるね:えっ? サイコロ?

ウンポコ:ほら、文字が大きくて、サイコロみたいだって。文字が少なくても、話が通じるようなすばやい話の展開が必要なんだ。その点この作品は、この造本にぴったりの、スピーディな展開になってる。でも、タイトルは、あれっ? と思った。だって、お月さまはクリーニング屋に行くわけだろ。ちょっと合わないんじゃない? このタイトルは。

ねむりねずみ:おもしろくて、けらけら笑っちゃった。迫力あるナンセンス。絵もあってるよね。このヘンテコな感じに。こういうもの、あんまり読んだことがなかったから、もっと読んでみたいと思ったわ。

モモンガ:今回は時間がなくて、とてもこの本までは読めないわと思ってたけど、思いがけず、幼年童話でよかった。すぐ読めた。こういう話、好き。おもしろかった。「なんで?」とか、言っちゃいけない世界なのよね。そこがおもしろい。こういうことって、タツオくらいの年齢の子どもが、いちばんよくわかるんじゃないかしら。とくにおもしろかったのは、「お月さまは、ごろりとカウンターに体をくっつけていった。『夜までに、いそいでおねがいしたいの』」っていうとこ。 このクリーニング屋、カネダ・ドライっていう、おかしな名前のお店なんだけど、この名前のおかしさが活きてないと思った。月にもどったお月さまに「カネダ・ドライ」って文字がすけてみえるとか、そういうオチを期待していたんだけど。それとか、自動販売機を食べちゃったお月さまは、空の上で煙草吸ってるとかね。

一同:わっはっは(笑)

モモンガ:でも、全体としては、とても楽しく読みました。

オカリナ:さーっと読んで、ああおもしろい、はいっOK! って感じだった。ナンセンスでこれだけおもしろいものを書けるんだから、重厚なおどろおどろしい大人ものばかりじゃなくて、こういう作品も、もっと書いてほしいな。

ウンポコ:でも、今、幼年童話って、売れないんだよな。ひところにくらべて、売り上げは、がっくりなの。

ウォンバット:おもしろかったけど、言うことがみつからないなあ。読んで「あ、そう」って感じ。ナンセンスって、うまくいってない作品だと、「あ、そう」とはならないのよ。つっこみどころばっかりみたいになっちゃって。その点、この作品はそうはなってないから、とてもうまくいってるんだと思う。絵も、いいよね。お話にあってる。私がとくに好きだったのはp21の絵。

ひるね:私も、気にいったわ。子どもが読んだら、コワイと思うところも、あるんじゃないかしら。子どもにすりよってないところがイイ。モモンガさんとは反対の感想なんだけど、サービス精神のなさが気にいったの! これは、1987年の作品だから、ちょっと前のものだけど、今もとても人気があるのよ。家の近所の図書館でもよく読まれてる。その図書館は旧式だから、スタンプをみれば、何人読んでるかわかっちゃうの。幼年童話って、他のものとは全然違うジャンルなのよね。そして、絵本と物語の橋渡しとなる、とても大事な分野だと思う。基本的にアイディアの勝負なの。SFとか、ショートショートみたいな部分がある。書くほうにとっても、おもしろい分野だと思うわ。幼年童話って外国にもあるの?

オカリナ:あるんじゃない。I Can Read Booksとか、あるものね。

ウンポコ:擬音語・擬態語って作者のセンスがあらわれるとこだよね。とくに擬態語は造語できるしね。クリーニングがすんだお月さまが出てくるところ、「なかから、へにょり」ってなってるんだけど、うまい! と思った。オリジナリティがあるし、よく感じも出てる。手垢のついたような擬態語を平気で使うような作家もいるけどさ、困るんだよね。そういうの。寺村さんは、そのへん、ものすごく神経を使って、よく考える作家だから、その教えをしっかり受けついでるなーと思った。

モモンガ:ちょっとブラック入ってるよね。子どもってくそまじめだから、このブラックはわからないかも。最後、1000円返してもらえなかったことを、気に病んじゃう子もいそう。これ、そうとう自信もって書いてるでしょ。だから、惹きこまれちゃうのよね。これが、もし陳腐だったら、破綻してるね。

愁童:読むほうは、さらさらっと読んじゃうけど、作者はとてもよく考えてると思うんだよ。クリーニング屋のおやじも、いい味出してるよなあ。ふつう、お月さまが来店したら、うろたえそうなもんだけど、平然と「いらっしゃい」なんていってる。子どもにすりよらず、自信をもって書いてると思うね、ぼくも。作品としては、1000円返さないとこがいい。

ひるね:そこは、議論になるところよね。1000円って、子どもにとっては、たいへんなお金だし。ファンタジーって、どこか不思議な場所に行って、もどってきたらマツボックリを手にもってたとか、おみやげをもって帰ることが多いけど、これは、その逆パターンかもね。もって帰るんじゃなくて、もってかれちゃうの。

ウンポコ:お月さまが、「おまえを食べちゃうぞ」っていうのもおもしろいよな。

ひるね:シュールよねぇ。でも、子どもの中には、「これは嘘だよね。お話なんだよね」っていう子もいるでしょ。そういう子には、なんて説明するの?

ウンポコ:ナンセンスは、企画を通すのがたいへんなんだよ。えらい人のなかには、ナンセンスを解さない人もいるからね。こういうのって、感想文が書きにくい本だしね。

ひるね:1000円返してほしかったでーす、とか?

ウンポコ:お月さまが、悪いと思いまーす、とかさ。だから、読書感想文の課題図書には、入りにくいんだよなぁ。こういう作品は。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


[第2部]

読書会終了後の飲み会の席に、フランクフルト帰りのウーテさん登場。時差のため、午後2時起床とのこと。フランクフルトのブックフェアの話や、ドイツ人は厚い本が好きといった話などでもりあがるが、日本シリーズを観戦中のとなりのサラリーマンチームのにぎやかさには、いつもかしましい私たちも閉口する。ウンポコさんは、「最近の男は、声がカン高くてヤだねぇ。恥ずかしいよ」と嘆く。

そんななかで飛び出した、ウーテさんの日本語論はたいへん興味深いものでありました。それは「ヨーロッパの言語は耳で聴く言語。日本語は、視覚的な言語」というもの。たとえば「風力計」。日本人だったら、風力計を知らなくても、文字をみれば、小学校3年生の子だって、それがどんなものなのか、文字から理解できる。いっぽうドイツでは、風力計という単語を知らなければ、ギリシャ語かラテン語の知識がないかぎり、大人だって、その単語が風力計を指しているということがわからないそうだ。日本語の特殊性について、あらためて考えさせられる。

しかし、ほー、なるほどなぁと感じいっているところに、オカリナさんから「それは日本語の特性ではなくて、漢字や表意文字の特性じゃない」という、するどいつっこみが……。うーむ。そういわれれば、そうかも、と思っていると、ウンポコさんは「日本語は、3種類の文字をミックスして使うところが、すばらしいのだ。とくにカタカナがあったおかげで、植民地にならずにすんだのだぞ」と発言。うーむ。たしかに。でも、まー、植民地は、少々、論理の飛躍か? たしかに、外国語もそのまま表記できちゃうんだから、カタカナは、すごい発明だよな。しかし、なんでもかんでも、カタカナにすればよいのか?! と考えると、それもちょっとちがう気がする。ウンポコ氏いわく、中国では、外来語はまず音を漢字になおそうとするんだって。だから、たとえば「ジョギング」は「長駆」と書くそうな。へーえ。知らなかったっす。言葉について考えるのはおもしろい。と、わかったようなわからないような、とりとめもない会話を楽しむうちに、秋の夜は更けていきました。(ウォンバット記)