カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』
『金鉱町のルーシー』
原題:THE BALLAD OF LUCY WHIPPLE by Karen Cushman, 1996(アメリカ)
カレン・クシュマン/著 柳井薫/訳
あすなろ書房
2000.06

<版元語録>ゴールドラッシュに湧く金鉱町へやって来たウィップル一家。金脈を掘り当てようと血眼の男たち、彼らの下宿で賄いの仕事をする母、家事・狩り・パイ売りに奮闘するルーシー。厳しい自然を相手に悪戦苦闘する人々の物語。

モモンガ:カレン・クシュマンの前作『アリスの見習い物語』(柳井薫訳 あすなろ書房)も、好感のもてる作品だったけど、今回もまたよかったわ。前作は時代設定がとても古かったけど、この作品はゴールドラッシュで、もうちょっと新しいから、時代背景も理解しやすかった。母と娘の関係がユニークね。なんていっても、お母さんの個性が強烈! ルーシー本人は、静かに本を読んでいるのが好きっていうおとなしいタイプの子でしょ。だから、お母さんのほうが前面に出てて、印象深かった。少女の成長を描いた物語って、今いるところから出ていくっていうのが多いでしょ。でも、これは逆パターン。あんなに東部に帰るためにがんばっていたけど、最後はカリフォルニアにとどまることを選択する。この選択がたのもしい! 結末が図書館をつくるというのは、ちょっとハマリすぎの感もあるけど……。

すあま:図書館員にとってはうれしいところ。評価のポイントがピピピッとあがっちゃう。

アサギ:私もおもしろかったわ。ノンフィクション的なおもしろさ。ルーシーの生活ぶりが興味深かった。切り傷にクモの巣と黒砂糖の混ぜたものをあてるとか、食べすぎのときは、砂糖を入れたトウヒの煎じ薬を飲ませるとか、料理の仕方、ほら、あの干しリンゴのパイとかね。ゴールドラッシュのころって、こんな感じだったのかな、と思った。でもね、最後まですーっと読んだし、いい作品だと思うけど、ものすごーくおもしろいというわけではなかったの。「おもしろい」というより、「興味深い」と言うべきなのかしら。惜しいと思ったのは、ユーモアが活きてないこと。さらっとした訳だからかな、とも思うんだけど。たとえばね、買ったスイカがとても重くて、運ぶのがたいへんという場面で「すいかに取っ手をつけなかったのは神様の失敗だと思った」とか、森の中で暮らしてる野性児のようなリジーのことを「首の垢にジャガイモが植えられるほど汚い」とか、おもしろい言い回しはそこここにあるの。でも、それが「気がきいてるぅ!」っていう、しゃれた表現には感じられなかったのよね。せっかくの、ユーモラスなところが、目立たなくなっちゃってる。それがちょっと残念ね。あと、クーガンさんは、ほんとにガラガラヘビのジェイクだったの?

オカリナ:どうかな? ほんとのところどうだったのかは、書いてないんじゃない?

アサギ:それと、ルーシーとリジーが、泥だらけでふらついてるインディアンの女の子に遭遇する場面で、生理の話をするでしょ。リジーは「生理中の女がさわるとミルクがだめになる」って言うんだけど、それって、魔女に対して言われてることと同じじゃない? 生理中の女と魔女って、リンクしてるんじゃないかと思うんだけど。穢れてるってことかしらね。近づいてはいけない存在っていうか・・・。私は、いずれにしても、こういう生活ぶりはおもしろいと思ったけど、強烈にひきつけられるというものは、なかったな。

オカリナ:淡々としてるからね。

アサギ:ねえ、いつ気づいた? ルーシーがラッキーディギンズに残ることに。

モモンガ:私、最後まで気づかなかった。

アサギ:あ、よかった。仲間がいたわ。私も最後まで気づかなかったの! だから、ラストは意外性があって、とってもよかったのよ。途中はあんまりインパクトがなかったから、なおさらね。私は映画でもなんでも、いつも最後まで気がつかなくて、作者の思惑どおりにびっくりしちゃうタチなもので、みなさんはどうだったのかなと思ってたのよ。

モモンガ:最後が印象的よね。途中こまかいことは、あんまりよくおぼえてなくても、この結末だけは、心に強く残っているもの。

アサギ:だけど、すごいわね。15歳の女の子がこういう状況で母と離れ、自分の道を選び、ひとりで歩いていこうというんだから。現代の日本の15歳とは、ぜんぜん違うのよね。

ウォンバット:ルーシーをはじめ、登場人物がみんなたくましい! バイタリティにあふれてて、悲惨な状況にもメゲないんだな。弟の死とか、悲しい出来事もあるけれど、悲しいときにはさめざめと泣いて気持ちを落ち着けて、明日はまた新たな気持ちで立ち向かおう! という姿勢が、なんてったって好き。やっぱり、いつも前向きでいなくちゃねという気持ちにさせられた。あと、忘れられないのは、助け合いの精神と荒くれ男の人情味あふれるやさしさ。お母さんたちがサンドイッチ諸島に渡るお金が足りないっていうとき、ひげのジミーがこっそり自分の金歯をさしだすところと、火事で本をなくして悲しんでるルーシーに、ミズーリから『アイヴァンホー』が届く場面ではうるうるしちゃったな。

モモンガ:あ、そうそう! 思い出した! このあいだ、この本の原書を見る機会があったの。クシュマンの第1作Catherine, Called Birdy(未邦訳)とTheMidwife’s Apprentice(『アリスの見習い物語』)、そしてThe Balladof Lucy Whipple(『金鉱町のルーシー』)、3冊一緒に。どれも表紙は女の子の絵なんだけど、とても印象的だった。3冊とも、強い意志が感じられる表情をしてるのよ。ちょっと鬼気せまる感じで、こわいくらい。笑ったりしてなくて。The Ballad of Lucy Whippleは、スッと正面を見すえてる女の子の絵なんだけどね。3冊並べてみるととっても迫力があって、「歴史モノ!」って感じなの。原書とくらべると、日本版は同じ本とは思えない雰囲気。印象がぜんぜん違う。

アサギ:そういえば、翻訳もので、原書の絵をそのまま使うことってあまりないわね。どうしてかしら。テイストが違うから?

オカリナ:うーん。そうはいっても、半分くらいは使ってるんじゃないかしら。ドイツものは特にテイストが違う場合が多くて、あんまり使ってないかもしれないけどね。

アサギ:そう言われてみれば、そうかも。中学生以上とか、読者の対象年齢が高いものは、けっこう使ってるかもしれないわね。もっと小さい子向け、小学校低学年向けのものなんかは、あんまり使ってないと思うけど。

オカリナ:それに、原書の絵を使うとなると、テキストとはまた別に、版権料を払わなくちゃいけなくなるでしょ。だったら、日本人に合ったものを、あらたに描きおこしてもらったほうがいいって考え方なのかもね。

アサギ:この本、読者対象は、どのくらいに設定してるのかしら?

ウォンバット:中学生以上って感じかな。

すあま:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、人にすすめられて読んだのね。すすめられなければ、たぶん読まなかったと思うんだけど、読んでよかった。おもしろかったから! お母さん、ほんと強烈。日々の暮らしはたいへんだし、弟の死とか、シビアな面もきちんと描かれているんだけど、ユーモアがあるから楽しく読めた。母娘のやりとりも笑える感じ。ルーシーは東部にもどるためにお金をためてるんだけど、貧乏くさくなくて、よかった。そんなの、まじめに書いてあったら「おしん」みたいで、つまんないとこなんだけど。でも、おもしろく書いてあるからね、これは。終わり方も、ヨシッ! 主人公に素直に共感できた。本の好きなひとりの女の子として、ついていける。図書館関係者としては、数少ない本をみんなで大事に読むところ、1冊の本が、いろいろな人をめぐりめぐって、またちゃんとルーシーのもとに返ってくるところが、とりわけうれしい。ほらね、アメリカでは、もうこの時代から図書館がちゃんと機能してたんだからねって、いばりたい気持ち。でも、そういうこと言いはじめると、日本と比べちゃってねぇ・・・。ちょっと気持ちにダーク入ってきちゃうんだけど。それにしても、このお母さん、めちゃくちゃだよね。ルーシーは、親のエゴでこんなところまで連れてこられちゃってるわけでしょ。ほんとは静かに本を読んでいたい娘に向かって、「はい、ライフル」って狩りを強要する母だもんねぇ。第一、子どもの名前に「カリフォルニア」なんてつけるかね、普通? そして、それが気にいらないからって、自分で勝手に名前を変えちゃう娘のキャラクターもいい。そういうところも共感できるのが、いいよね。ストーリーはとってもいいと思うんだけど、難をあげれば、見た目とタイトルが、ちょっとね・・・。

モモンガ:このタイトル、「金鉱町」っていう文字が、なんとも硬い感じなのよね。

すあま:この本がポンッと図書館の棚においてあっても、中学生は手にとらないと思う。だから、こういう本こそ、書評なんかで紹介されるべきなのよ! 内容がわかれば、おもしろそうと思って手をのばす子もいるでしょ。ほっといても売れる本は、何もしなくたって売れるんだから、書評で紹介する必要なんてないの。ほんとは。ゴールドラッシュの雰囲気もよくわかるし、それこそ「大草原の小さな家」シリーズとあわせて紹介するのもいいかも。『アリスの見習い物語』は、もうちょっとおとなしい感じだったよね。あれはあれで、また違った雰囲気でおもしろかった。ま、それはおいといて、私が主張したいのは、この本、装丁と内容が合ってないってこと。タイトルもイマイチ。読んでみたら、この表紙から受けた印象とはまったく違ってて、いい意味で裏切られたかって感じでよかったけど、本としては損だよね。

モモンガ:「この女の子、だれ?」って感じよね。ルーシーにしては、幼すぎるでしょ。

オカリナ:「意志をもって生きていこうとする女の子」っていうのが、この作品のいいところであり、読者を獲得しやすいところだと思うんだけど、この表紙では、それが伝わってこない。

すあま:この絵だと、東部に帰るために自力でなんとかしようと奮闘する女の子っていうより、「帰りたーい」とかいって、めそめそしそうな女の子に見えちゃう。

アサギ:可憐な感じ。きれいな絵だと思うだけど、内容を考えるとちょっとね・・・。

すあま:いい絵だけど、この話には合ってない。

ウンポコ:タイトルの「金鉱町」というのも、ちょっとイメージがうかびにくいんだよな。

すあま:こういう「もったいない」っていうか「惜しい」本って、いっぱいあるよね。そういう本を前にすると、つくった人間は、ほんとに売る気があるのかぁ?! ってききたくなっちゃう。こんなんで、子どもにアピールするつもりがあるのだろーか。

モモンガ:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、自分のなかでは「女の子が、自分にあった仕事をさがしていく物語」と位置づけているの。ゴールドラッシュだから「金鉱町」にしたんだろうけど、「金鉱町」なんて、今の日本の子どもたちには、なじみがないと思うんだけど。

アサギ:ちょっと遠すぎる世界。

オカリナ:今の児童書をめぐる状況って厳しくて、せっかくのいい作品も初版4000部作って、それが売りきれなかったら、 すぐに絶版になっちゃったりするじゃない。それじゃ、もったいないと思うのよね。この本も「今年のよい本2000年版」なんかには、きっと選ばれると思うけど、息長く読みつがれていくかどうかは、ちょっと疑問。あとね、逃亡奴隷が出てくるでしょ。私は「カラード」っていう言葉に、ひっかかったの。アメリカでは、黒人の呼び方に歴史的な変遷があって、ニグロ→カラード→ブラック→アフロ・アメリカン→アフリカン・アメリカンって変わってきてるんだけど、「カラード」というと、奴隷だったということが、うまく伝わらないんじゃないかと思う。南アフリカでは、黒人と白人のハーフやインド・パキスタン系の人のことを「カラード」というんだけど、アメリカでは混血じゃなくてもカラードって言ってたからね。

モモンガ:今、アメリカでは、「カラード」って言葉は使わないの?

オカリナ:あんまり聞かない。皮膚の色だけを、具体的に示す場合には使うこともあるだろうけど、それ以外では、使うことないんじゃないかな。

モモンガ:アジア系の人もふくめて、白人じゃない人はみんなカラードなのかと思ってた、私。

オカリナ:今は、とにかくアメリカ人は全員「アメリカン」でしょ。皮膚の色などにこだわるな、っていう気持ちもこめられてると思うけど。それにしても、「カラード」っていう言葉、子どもには、わかりにくいよね。

アサギ:「ニグロ」っていうと、差別的なひびきがあるでしょ。ドイツでは「ネーガー」っていうけど、そこに差別的な意味があるとは思えない。

オカリナ:ニグロにしてもネーガーにしても、元の意味は「黒」だから、それ自体は差別じゃないんだけど、歴史的にその言葉がどう使われてきたかで、いろいろな意味が付け加えられてしまうのよね。黒人が身近にいる国と、そうじゃない国の違いもあると思うし。

アサギ:日本も身近ではない国だけど、なんて呼んでるかしらね、最近は。

ウォンバット:アフリカ系にしても、アジア系にしても、必要がないときはわざわざ書かないようにしてるんじゃない? 新聞なんかでは。中国系だったら名前でわかることもあるけど、そうでもなければ、顔写真をみてはじめて人種を知るっていうこともあるよね。山田詠美は、たしか「アフリカ系アメリカ人」を使ってたと思うけど。

アサギ:でも、文学辞典なんかで、人種をテーマにして書いている作家なんかの場合には、その人の肌の色とか人種の情報も重要なんじゃない?

オカリナ:そういう場合は、解説のなかで、わかるようにしてるんじゃないかな。名前のすぐあとに「黒人作家」なんていうふうには、書かないようになってきてるということだと思うんだけど。
私は、この作品、最初はてれてれしてるなぁと思ったのね。それが、火事が起きるあたりからぐぅっと引きこまれていって、最後は「こうくるかっ?!」と思った。歴史小説だから、アメリカの子どもだったら、きっとおもしろがるだろうね。日本の子どもには、あんまり身近に感じられないだろうけど。日本の作家も書いてほしいな、こういう歴史ものを。日本では、古い時代のものだと、女の人って一歩うしろにさがった存在として描かれることが多いでしょ。そうじゃない女の人って、大人の小説には出てくるけど、子どもの本にはまだあんまり登場してない。それとも、私が知らないだけかな。おもしろいと思うんだけどな、日本版のこういう話。だれか書いてくれないかしら。

モモンガ:私、NHKの朝の連ドラって、けっこう好きなの。とくに、大正から昭和初期の少女の自立もの。時代的に女の人にとっていろいろ障害が多いから、ドラマチックになりやすいのね。それをはねのけて生きぬいていくっていう話、とってもおもしろいと思うんだけど。そのあたり、子ども向けの本で、だれか描いてくれる人、いないかしらね。

ウンポコ:そうだなぁ、いそうだけどね、だれか。今、思いうかばないな。ところで、魅力的なタイトルをつけるっていうのも、大事なことだよね。ぼくは、「タイトラー」っていう職業があってもいいと思ってるの。だって、表紙まわりだって、昔は編集者がやってたのに、今はデザイナーにたのむでしょ。コピーライターっていう職業もあるしさ。編集者は作品に近づきすぎちゃって、客観的にみられなくなりがちなんだ。タイトルを決めるときって、著者、編集、営業もいれて会議をして、さんざん考えて決定する社もあるそうだ。10年くらいまえ、読者である中学生に選んでもらったこともあったけれど、採用しなかった。英語をそのままカタカナにした題が中学生にはウケがよかったんだけど、当時はまだ、原題そのまんまっていうのに抵抗があって、ふみきれなかったんだよね。タイトルとか、オビにいれる言葉とか考えるの、上手な人がいたら、お金払ってもいい。だれかやらない? すあまさん、どうかな?

すあま:そうですねぇ・・・。(気乗りしない様子)

オカリナ:この読書会でも、タイトルつけなおしっていうの、やったら? 「今月のリタイトル本」とか、「今月の売る気があるのか本」とか・・・。せっかく内容がいいのに、タイトルや装丁で損してる本って、たくさんあるから。

モモンガ:書名にカタカナの人名が入ってると売れないとか、いうよね。

ウンポコ:そうかい?

モモンガ:あれ? 図書館員だけ? そういってるのは。

ウンポコ:「ん」が入ってると売れるって、いうのもあるよ。ほら、「アンパンマン」なんて、「ん」が3つも入ってる。

オカリナ:カタカナの書名はだめっていうのも、ない?

アサギ:一時期、長いタイトルが流行ったこと、あったわね。そういえば、この本の章タイトルも、ひとつひとつが長くておもしろいわね。ドイツに多いパターン。ドイツ人って、好きよね、こういうの。

ウンポコ:あ、そうなんだ! ドイツに多いの? 斉藤洋がよくやってるのは、だからだったのか。

オカリナ:装丁のことで言えば、目次の次のページ、人物紹介なんだけど、なんだかここだけ浮いてない?

モモンガ:ゴシックで太い書体だから、黒々してるのよね。

オカリナ:ほかはいいのに、なんだかここだけ妙に素人っぽい作り方。どうしちゃったんだろう? ハリ・ポタに負けないくらいここは素人っぽいな。

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)