日付 2001年5月24日
参加者 ねむりねずみ、オカリナ、トチ、裕、アサギ、もぷしー、チョイ、紙魚
テーマ ファンタジー

読んだ本:

末吉暁子『雨ふり花さいた』
『雨ふり花さいた』
末吉暁子/作 こみねゆら/画
偕成社
1998.04

<版元語録>ままもひと朝 ひと朝 ひと朝かぎり ふた朝 ふた朝かぎり…うすむらさきの雨ふり花が咲き乱れる野面に、寂しげな歌が流れる。座敷わらしの茶茶丸につれられてはるかな過去に飛んだユカは、雨のデンデラ野で、歴史の中に消えていった人たちと出会う。命の重さと、生きることへの愛しさを描いた物語
ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ1』
『ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖』
原題:DIE TRAUME DES JONATHANN JABBOK Jabbok by Ralf Isau, 1995(ドイツ)
ラルフ・イーザウ/作 酒寄進一/訳
あすなろ書房
2000.11

<版元語録>ネシャン北域の森で、少年は謎めいた杖を発見する。青い光を発する杖を握ると、五感はとぎすまされ、記憶や感情を伝える力まで強まるようだ。これは涙の地ネシャンを解き放つ伝説の杖ハシェベトなのか?エンデが見いだした本格ファンタジー作家が放つ少年たちの地の果てへの旅。
スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』
『ドラゴンの眼(上)(下)』
原題:THE EYES OF THE DRAGON by Stephen King,1987(アメリカ)
スティーブン・キング/作 雨沢泰/訳 
アーティストハウス
2001.03

<版元語録>ドラゴンの心を持つ勇敢な王子・ピーター。魔法の水晶を持つ邪悪な魔術師・フラッグ。闇の中に隠された事実。正義と勇気をかけた闘いが、今始まる! スティーヴン・キングが愛娘に贈った冒険ファンタジー。


雨ふり花さいた

末吉暁子『雨ふり花さいた』
『雨ふり花さいた』
末吉暁子/作 こみねゆら/画
偕成社
1998.04

<版元語録>ままもひと朝 ひと朝 ひと朝かぎり ふた朝 ふた朝かぎり…うすむらさきの雨ふり花が咲き乱れる野面に、寂しげな歌が流れる。座敷わらしの茶茶丸につれられてはるかな過去に飛んだユカは、雨のデンデラ野で、歴史の中に消えていった人たちと出会う。命の重さと、生きることへの愛しさを描いた物語

トチ:同じ日本の民話や伝説をもとにした本でも、『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)などに比べるとやっぱり格が違う。どんどんストーリーにひきこまれていくし、真面目にテーマと取り組んでいると言う感想を持ちました。少々重い感じがしたのは、たぶん文体のせいなのね。例えばp189のサダさんと佐藤さんの会話の後の記述。「幼なじみだという二人は、いつのまにかすっかり昔にもどって、えんりょなくやりあっては笑いころげている。顔には出ていないが、二人ともかなり酒が入っているようだ」というようなところ。会話だけをぱっと出さずに、ていねいに念を押している。しっかりと読者に伝えたいという真摯な姿勢のあらわれだと思うし、好感が持てるんだけど、少しくどいかもしれない。かといって、「いまどきの若者や子どもの言葉で書いた」と称する、だらしのない文章もいただけないし・・・今のように言葉がめまぐるしく変わっている時代は、どういう文体で児童文学を書いたらいいか、真面目な作家ほど悩んでいるんじゃないかしら。それから、p267に「自分の場所」に戻るというユカの決心が書いてあるけれど、茶々丸とのストーリーに比べて現実のユカの生活の書き方が少し足りないので、いまひとつぴんと来なかった。あと、細かいことだけれど、宿のノートに書いてあったお母さんの名前にユカが気づかなかったのはふしぎ。これくらいの年齢の少女って、結婚前の母親の苗字には関心があるんじゃないかしら。まして、母親が亡くなっているんだから。

:末吉さんの文章って読みやすくて、しかもユーモアがありますね。でも、この作品は、複雑な構想のうえになりたっていて、それがあまりうまくいってない。昔話の謎とき、悲しい父娘の関係、悲恋などの過去の話と、現代的なテーマである母の不在、父と娘の関係などいろんな要素を全体にまとめていっているんだけど、うまくほどけてなくてそれに違和感を感じちゃった。おそらく読者は、ユカの現代性にコミットしていくはずなんだけど、それと過去の物語がうまくつながってなくて、混乱しているんです。ドライなユカが、ミステリーハントの過程で成長していくのを描きたかったんでしょうけど、リアリティがなくて。私は茶々丸をシェイクスピアの『テンペスト』のエイリアルと重ねて読んだんだけど、彼の女の子にぽっとするようなところや、人間にないパワーの持ち方など、リアリティのあるキャラクターとしてうけとめられなかったな。プロットに混乱があるし、人物の描きこみに違和感があったし、ユカのリアリティがなかったというところでしょうか。

ねむりねずみ:日本の言い伝えって、今どうなっているんでしょうね。この本の中では、現代性と過去のリンクがいまいちうまくいってない。三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』(新潮文庫)なんか読むと、おむつのくさい匂いからはじまっていて、座敷わらしの描き方がぜんぜん違う。座敷わらしって、怨念とかのイメージじゃないですか。だから、どうもこの茶々丸っていうのが、そういう根っこからはなれちゃって、イギリスの妖精に羽がはえたみたいなイメージなんだな。どうもリアリティがない。ただ、遠野という場所は、神話や物語が今もなお生きている場所だっていうことは感じられました。現代と過去だけでなく、物語と不登校の話もリンクしてないんだけど、茶々丸の頭がすぐこんがらがったりする場面はおもしろかったな。

オカリナ:うーん、私はただどんどん読んだという感じ。特にひっかかったところはないし、これといって不満はありませんでしたね。みんなも言ってるけど、『空へつづく神話』よりはずっとよかった。今の子どもはたぶん、座敷わらしっていってもどんなものかわからないだろうけど、そういうものを狂言まわしにしてうまく描いている。ファンタジーって、もう、善と悪の対立で描くのって古いと思うのね。この作品でも、座敷わらしのトリックスター的なところをもっと出したら、もっとおもしろかったかもしれない。

アサギ:全体的にはおもしろいんだけど、どうしてユカにくっきりと座敷わらしが見えるのかっていう必然性がぼんやりしていてわかりにくかったんじゃない? 昔と現代のお話をひとつにもりこむというのは、うまくいっていて、これって日本にしかないファンタジーよね。でも、結局どこへ行ってどこへ帰ってきたかがわかりにくい。

紙魚:本との出会い方って、いろいろありますよね。どうしてもどうしてもほしくてやっと親に買ってもらった本だとか、友だちに薦められなきゃたぶん読まなかった本だとか。この本がどういうふうに子どもたちに読まれるのかなと考えてみたら、たぶん、学校の図書館で出会うような本じゃないかなと思ったんですね。物語もおもしろいし、構成もしっかりしてる。なにしろ親切なんですよ。作者は編集をやってた方だし、決して誤解をさせないような文章と構成なんです。ちょっとでもわからないようなくだりがあって、あれ、これってどういうことかななんて疑問をもつと、すぐその後にちゃんと説明がついてくる。とってもていねいなんです。編集者が誤解がうまれないよう、念を押す感じ。だから、ちょっととっつきにくい歴史をとりこんでいるにもかかわらず、物語がすらすら進んでいく。今まで歴史なんかに興味がなかった子でも、この本を読んで、歴史に興味をもったりするかもしれないですよね。

チョイ:末吉暁子さんってきっと、調べたりするのが好きな作家なんでしょうね。『地と潮の王』(講談社)なんかもそうだけど、調べたこと、学んだことを生かして独自のストーリーを創ろうとしている貴重な作家の一人じゃないでしょうか。まず書きたいモチーフがあって、それを物語化して児童書にするとどうなるかを考えていくタイプみたいですよね。この本の場合も、まず座敷わらしのことを書きたいという気持ちがあって、それを児童文学として成立させるにはどうしたらいいかを考えていったみたい。そのうえでいつも、あるレベルを保っているのは偉いと思う。富安陽子さんの『ぼっこ』(偕成社)とか、柏葉幸子さんの『ざしきわらし一郎太の修学旅行』(あかね書房)とか、こういう土着的な物語ってほかにもあるんだけど、末吉さんのはひとつ頭が抜けていると思う。やっぱり佐藤さとるさんの弟子ということもあって、感情表現をおさえ、客観描写をつみあげていくことによって、読書の誰もがある一定のイメージを作りだせる文章が大事だと考えているんでしょう。安心して読めますね。ただ、その向こうにある香りとか匂いとか湿気みたいなものを表現するのは不得意みたい。松谷みよ子さんみたいな、立ち上がってくるような怨みや、思いの深さなんてものはなくて、いい人が書いた文学って感じ。むしろ短編なんかのほうに、思いを前面に出しているものがあるようです。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖

ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ1』
『ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖』
原題:DIE TRAUME DES JONATHANN JABBOK Jabbok by Ralf Isau, 1995(ドイツ)
ラルフ・イーザウ/作 酒寄進一/訳
あすなろ書房
2000.11

<版元語録>ネシャン北域の森で、少年は謎めいた杖を発見する。青い光を発する杖を握ると、五感はとぎすまされ、記憶や感情を伝える力まで強まるようだ。これは涙の地ネシャンを解き放つ伝説の杖ハシェベトなのか?エンデが見いだした本格ファンタジー作家が放つ少年たちの地の果てへの旅。

ねむりねずみ:訳者の後書きに、ファンタジーとコンピューターゲームの興奮って書かれているんだけど、いまいちわからなかった。ヨナタンとジョナサンの交錯のしかたなんかはおもしろかったけど。どうしてスコットランドが舞台なんでしょう? ジョナサンとおじいさんの関係が『小公子』に似ているからかな? いろいろ考えながら読んだので、長かったですね。続きは気になるけど。人物についてはあまり書きこんでないけど、どちらかといえば、ヨナタンよりヨミイの方が、おとなに描かれてますよね。ヨナタンが敵を殺してしまった後、悩んだりする場面なんかはおもしろかった。キャラクターとしては、ディン・ミキトさんが好きでした。癒しの権化のようなイメージ、やさしさ、せつなさが残りました。きっと、物語が進んで、あのもらった核が活きてくるんでしょうね。どのキャラクターも名前が覚えづらいので、人物紹介のまとめがあるといいですよね。

オカリナ:これって,ふつうのファンタジーよね。ドイツでは珍しいんじゃない? 特にハイ・ファンタジーって、イギリスとかアメリカとか、やっぱり英語圏が多いですもんね。ドイツは、ファンタジーが育つ環境じゃないのかしら?

アサギ:あら、私が今読んでる、「ほら男爵」系のドイツの物語はすっごくおもしろいのよ!

オカリナ:でも、「ほら男爵」系の物語は、いわゆる魔法系ファンタジーとはちょっと違うんじゃない? この作品、ちょっとひっかかるところがあったんだけど、大急ぎで作っちゃったのかな?

アサギ:5年くらいかかったって聞いたわよ。

オカリナ:たとえば、ここなんだけど「ジョナサンが眠って一週間記憶〜」というところ。本当に眠っていたのか、それとも記憶が欠落しているのか、よくわからない。p136の「ジラーのせいで何度も不快な思いをさせられてきたのだ。ヨナタンはけりをつける決心をして、鳥かごに〜」ってあるけど、「けりをつける」っていったら、最終的な決着をつけるってことでしょ。でも、一言言ってやっただけなのよね。こういう些細なところにひっかかっちゃったの。プロットをどんどん重ねて場面を変化させていくおもしろさはわかるんだけど、それだけだったら、私は物足りないな。

アサギ:たしかに、闇と光というとファンタジーの王道なんだけど、評判になるほどすばらしい作品とも思えなかったわね。私にとって、ファンタジーの決め手は「整合性」。第1巻では、まだいろいろばらまいてる段階で、2・3巻にいくにしたがって、ちゃんと収斂されるのかしら? 気になったのは、人物描写が浅いところ。ジェイボック卿の気持ちがとけていくところも、すてきなんだけど、浅い。とくに20世紀のジョナサンの方に文学性がないのよ。おじいさんとの会話も通俗的。格調の高いところと下世話なところがごっちゃじゃない! うーん、これは翻訳者のせいかもしれないけど。虚構の世界の方は、現実性がないからか、ある程度書きこまれているのよね。でも、補足しながら読んでいる自分がいるのを感じるの。三種の神器みたいな小道具は好きだったわ。筋としては、けっしてきらいじゃないんだけど。

ねむりねずみ:私も、ディン・ミキトさんなんかはおもしろいと思ったな。

アサギ:でも、ゼトアの人物造形は浅いと思わない?

オカリナ:人物造形が浅いってことは、今の多くのファンタジーがそうなんじゃないかな。小道具を手に入れることによってパワーはアップしても、その人物の内面が変わるわけじゃないのよね。私は、スーザン・クーパーあたりからそうなってきてると思う。

ねむりねずみ:人を殺しても、ちょっと悩んで、悩みましたってところで終わっちゃうし。

もぷしー:みなさん厳しい意見のようですが、私は、この会で読むんじゃなかったら、おもしろく読んだかも。「乗せられて読んでしまえばきっとおもしろい」というつもりで読むと、話の先が気になって、読み進められるとは思います。でも、クリティカルな目で読んでいくと、かなりひっかかります。主人公が内面成長もなく困難をクリアしてしまうRPG的なところなんか、読み応えがないなあって。それに、1巻ってまだまだ旅の途中なのに、急に終わっちゃうじゃないですか。1巻なら1巻のなかで、ある程度主人公が成長してほしかったな。
ところで「ジョナサン」ってドイツ語でも「ジョナサン」って発音するんですか? 両方「ヨナタン」だとしたら、早くからヨナタンとパラレルするキャラクターだってわかってしまいそう。日本語だと、だんだん気づいてくる感じだったけど。ところで、これ読んでいて、邦画『ホワイトアウト』を思いだしたんです。テロリストがダムをのっとっていく話なんだけど、そもそもテロリストがなぜテロという行為に及ばなければならなかったか、理由がわからないんです。それといっしょで、ゼトアって、最初から「悪」として描かれていて、なぜ悪に走ったかわからないんですよね。やはり、キャラクターの行動に必然性がないと、読んでいても感情移入できません。それに、ヨナタンが困難をすべて小道具で解決しちゃうのも、どうかな。自力で苦難を乗り越えないなら、逆に、すべての試練に意味がなくなってしまって、読む甲斐がないと思ってしまいました。

アサギ:そうね。ゼトアは逆に、へんに安直な人間的ふくらみをもたせているんじゃないかって気になったわ。

ねむりねずみ:作者は、人間性には興味がないんじゃない?

アサギ:ただ、たしかに先行きは気になるわね。先が気になるっていうのは、エンターテイメントの基本よね。

:うちの息子は、『ハリー・ポッター』を何度も読むんですよ。いいかげんにやめてほしいという気持ちもあって、この『ネシャン・サーガ』をすすめたの。こっちの方が、文学的に一歩進んでいると思うから。この本には『ハリー・ポッター〜』にない「象徴性」が感じられました。

オカリナ:「象徴性」って、剣が力への欲望をあらわすとかっていうこと?

アサギ:「全き愛」というのも、何かしらあるんだろうけど。

ねむりねずみ:自分が神の代理としてふるまえば、剣も敵を滅ぼすようにはたらくわけですよね。

紙魚:私の印象は、エンデ+RPG(ロールプレイングゲーム)+スターウォーズって感じ。キャラクターの描きこみも、物語の世界観もとっても薄い。見返しの地図を見ながら読んでいったんだけど、冒険物語なのに、行き先が見えないんですよ。大きなうねりになっていかない。たしかにテレビゲームっておもしろくて、新しいソフトがあると、私、寝ないでやっちゃったりするんですよ。大人でもこんなにのめりこんでやるものを、子どもにやめろなんて言えないなあ、なんて思っちゃうくらい。ただ、私は大人になってテレビゲームにふれたせいか、読書とテレビゲームって思考の流れが違うなと感じるんですね。読書って、ページをめくりながら少しずつ情報を手に入れて、自分のイメージを構築していきますよね。でも、テレビゲームって反対のような気がするんです。自分の位置がわからなくなったりすると、ボタン一つ押せば、例えば、屋敷の中のどこに自分がいるのか一目瞭然なんです。自分でイメージをふくらませる作業はあまり必要ないんです。この本には、それと同じようなこと感じたな。イメージを構築していくおもしろさがないし、どこへ向かおうとしているのかが見えない。

トチ:私も以前にゲームに凝って、3日3晩くらい午前2時くらいまでやっていたの。それからハッと気がついたのね。これは結局だれか他の人間が作った宇宙で遊んでいるだけのものじゃないかって。そう思ったら、すうっと熱がさめてしまって、もう2度とやりたいとは思わない。ところが文学は違うのね。確かに作者が作ったものではあるけれど、作品の中でも作者が思いもよらぬ展開を見せたりする。まして、読者に渡ったら、どういう風に変わっていくか予想もつかない。変なたとえかもしれないけれど、文学作品にはなにか神とか自然の摂理とか宇宙とか、人知を超えたものに通じる穴みたいなものが無数にあいていると思うの。それがゲームとの違いだと思う。

チョイ:読んでも、この世界の理解が深まらないっていうか、知識が増えない、っていうか、ためにならないのってどこか空しい。どうして他人が勝手に作ったこんな特殊な用語を覚えなくちゃいけないんだろうって思うときあるよ。

:今の子にとっては、哲学的なものはトゥーマッチなのよ。しんどいのはいやなんじゃない?

もぷしー:私は2・3巻でうまく展開していたら、おもしろくなる思います。まあ、もう少しごつい部分はほしいけど。

オカリナ:プロットの変化が本のおもしろさの大部分を占めて、内側の変化とか成長には作者も読者もあまり注意を払わないってことになると、それでも文学なのかな?

アサギ:パソコンがないころは、作者が、想像する世界の隅々まで自分で構築しておいて、その中で動かす人物にしても、くっきり陰翳があるところまで考えぬいたんでしょうけどね。整合性だって、パソコンにいろいろデータを入れておけば、ほころびが出ないのかもしれないわね。パソコンの普及も、文学に影響しているわよね。

オカリナ:それにしても、表紙の佐竹美保さんの絵は物語の奥行きを感じさせるわね。

:『黄金の羅針盤』も、表紙で得してたね!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ドラゴンの眼(上)(下)

スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』
『ドラゴンの眼(上)(下)』
原題:THE EYES OF THE DRAGON by Stephen King,1987(アメリカ)
スティーブン・キング/作 雨沢泰/訳 
アーティストハウス
2001.03

<版元語録>ドラゴンの心を持つ勇敢な王子・ピーター。魔法の水晶を持つ邪悪な魔術師・フラッグ。闇の中に隠された事実。正義と勇気をかけた闘いが、今始まる! スティーヴン・キングが愛娘に贈った冒険ファンタジー。

もぷしー:すらすら読ませるのは、さすがスティーヴン・キングだなと。でも初めの方は描写がグロテスクで、気持ち悪い箇所が多い。もうちょっと軽やかに書いてくれた方が、ストーリーの大筋に集中できたんじゃないかな? 設定としては、対照的な兄弟のコンプレックスってことですよね。劣等感を抱いてる弟には共感をもてたんだけど、なんでもできちゃうピーターは、あまりにも優等生すぎて、平等に感情移入できませんでした。

紙魚:私はもう、スティーヴン・キングっていうだけで点があまくなっちゃうので、今回の本にもあまいです! もともと、子どもを書くのがとてもうまいし、人間をよーく見ている作家ですよね。『ドラゴンの眼』に関しても、父親として娘のために書いた物語ですが、もちろん同じことを感じました。親が子に向かって書く物語って、筋とか構成と かは別にして、子どもに向けての願いが強く出ますよね。「真実」ってどういうものなのか、娘に伝えようとしているのがよかったです。

:もう訳がひどくて・・・。みなさん、気になりませんでしたか? たとえば、p120〜121のあたりなんて特にひどい。確かに「真実」が描かれていたはするんだけど、他のキングの作品にくらべれば、生協で1割引で買っても損した気分。キングはもちろん評価してるんですけどね。

オカリナ:私は、訳は気にならなかったけど。

紙魚:私もほとんど気になりませんでした!

:心理的な構築に欠けているし、物語作家としても、語り手の位置に重大な問題があります。章ごとの終わりに「それは君たちの考えること・・・」なんていうのも視点が一定してなくておかしいし、カリカチュアのとらえ方もおかしい。ローランド王の鼻くそも、ドライにとらえてはいるんでしょうけど。小説、物語というのは、『プロット』と『キャラクター』と『ポイント・オブ・ビュー』の3つがそろっていなくちゃいけないんです。確かに、親が子に伝える真実の存在はあるんだけど、それを翻訳が邪魔してる。

ねむりねずみ:終盤に進むにしたがって、スピーディーに、たたみかけるようになってくるので、映像向きかなと思う。たしかに「それは君たちの考えること・・・」のところで、次の章との継ぎ目が見えるみたいな感じ。ずーっと読んでていきなり考えろと言われても、えっ! と思ってしまう。やっぱり翻訳がうまくいってないのかな。でも、後になっていくと物語がぐんぐん進んで気にならなくなっちゃった。弟が矢を射る場面なんかは、そうだ、そうだと読めたし。ただ、全体としてはすごく感動したというほどではなかった。娘に読ませたくて書いて、愛蔵版で作ったという感じでしたね。

トチ:スティーヴン・キングって、ロイス・ローリーと同じグループで勉強してたんだって。最初は児童文学を書いてたのかもね。

オカリナ:私ははじめて『It』(文芸春秋)を読んだときに、スティーヴン・キングの子どもの描き方のうまさに、まいっちゃったのね。『ドラゴンの眼』では、トマスとローランド王がうまく書けてましたね。ピーターは、現実的な存在というより象徴的な善なのよね、きっと。 キングは12歳の娘に「高潔」ってことを教えたかったのかな。後書きを読むと、ナオミというのは娘の名前だってわかるけど、物語の中ではナオミの登場の仕方がずいぶん唐突よね。その辺のことをいえば、他の作品ほど完成度は高くないのかもしれないけど。

アサギ:途中で読者に語りかけるってことでは、吉本ばななにも、唐突に読者に向かって「ところで〜じゃない?」というところが出てくるわよ。あれはあれで、作家のスタイルとして認められてるわよね。私は、人物描写っていうのは性格をつくっていくことだと思う。これこれこういう性格があって、その結果プロットができてくる。奇想天外であろうと、人間を書けているか、性格を書けて いるかってことが大事よね。子どものときに読んで今でも記憶に残ってるのは、性格、人物造形がしっかりしてるものよね。

チョイ:昔話などは、人物はあくまでも象徴的で、プロットで動かすことによって話が動くよね。さっきの「プロット」「キャラクター」「ポイント・オブ・ビュー」の3点が完璧ってばかりではないかも。あと、文体がいいっていうのもあるよね。

トチ:文体と同じに、挿入してある歌や詩に感動するってことが、幼い子どもでも・・・というより、幼い子どもほどあるんじゃないかしら。私自身の経験でも、小出正吾訳の『ニルスの冒険』を読んだときに、白ガチョウのモルテンが他の鳥をからかう短い詩のような言葉や、『雪の女王』に出てくる「野バラの咲いた谷間におりて、小さいイエスさまお訪ねしよう」という歌に、良く意味もわからず感動した思い出があるわ。小さい子どもほど、美しい文体には敏感なんじゃないかしら。

オカリナ:でもさ、『ハリー・ポッター』よりは、この作品のほうがやっぱりおもしろかったな。

紙魚:それって、キングに人間を見る力があるっていうことだと思う。

チョイ:さっき、文体がよくて惹かれる場合があるって話だったけど、ディテールに惹かれることもありますよね。

アサギ:絵本なんかで、絵の中の細部に無性に惹かれることもあるわね。ファッションとかって気になるもの。昔『夕暮まで』(吉行淳之介 新潮社)読んでて、どうしても受け入れられないことがあったの。妻と子どもがフレンチトーストを食べてるの。フレンチトーストがその状況に合わなくて、すごく嫌だったわ。もともと、フレンチトーストは好きだけど、この場面にはどうしても合わないっていうのがあるのよ。

オカリナ:それは、こういう人物だったら、こういうものを食べるんじゃないかっていうイメージがあるってことよね。その辺は固定観念っていうこととも関係してくるから、ちょっと要注意かも。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)