藤野千夜/著
ベネッセコーポレーション(講談社文庫も)
1999.03
<版元語録>オトコが好きな男、オンナになろうとする男、電車に乗れない女の子の物語。ナニカが過剰だとも欠乏しているともいえる20世紀末の高校生の心のうちを描く、トランスセクシュアルな作家のデビュー作。第14回「海燕」新人文学賞受賞作「午後の時間割」を併録。
モモンガ:「なるほど」と思うところも、「ウソでしょ」と思うところもあったけど、どんなことでも、あたかもなんでもないことのように描くこの書き方には、ちょっとはまっていきそうな魅力がありました。もちろん現実にはこんなにあたり前のようにはいかないだろう、というギャップが感じられるけれど、それはそれとして、この小説世界にはまって楽しみたい、という気分になる。でも、女の子らしさの描き方に違和感があるな。女性の作家だったら、こんなふうには書かないんじゃないかしら。 たとえば女になりたいヤマダが、タータンチェックのパジャマとか、赤い薔薇の花でそろえたカーテンとベッドカバーとかね、どうしてそうなっちゃうの?
ねねこ:だって、それはヤマダがそういう人だからよ。そういうふうにしたいのよ。
オカリナ:ヤマダのタイプの人って、過剰に「女性的」になりがちなんじゃない?
モモンガ:あ、そっか。ヤマダはそういう女になりたいわけね。でもそうじゃない女もいるわけであって、オトコがなりたいオンナと本当のオンナは違うわけで・・・えーっと、わけわかんなくなっちゃった。
ウォンバット:私は、この作品とても好き。今日のイチオシ。藤野さんと私って、きっと同じようなものを読んだり聴いたりして大きくなったんじゃないかと思うな。年も近いし。まず思い出したのは、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』(小学館PF ビッグコミックス)。この漫画大好きなんだけど、ここに流れてる空気と共通のものを感じました。いろいろ悩みや問題があることはあるんだけど、全体としては、たらたらとした楽しい高校生活っていう感じでね。藤野さんが、この漫画を読んでるに違いない! と思ったのは、登場人物の名前なんだけど『少年と少女のポルカ』と『河よりも長くゆるやかに』では、クボタトシヒコと能代季邦(トシクニ、トシちゃん)、ヤマダアキオと神田秋男、タニガワミユキと久保田深雪というふうに、かぶってる。それが偶然とは思えなかったんですね。あと大島弓子も好きだと思うな。「漫画の猫みたいだな」っていうのは、『綿の国星』のことじゃない? ヤマダは『つるばらつるばら』を思い出させるし、『午後の時間割』は、『秋日子かく語りき』とか『あまのかぐやま』を連想して、久しぶりに大島弓子、読み返しちゃった。で、私がとりわけいいなあと思うのは、「トシヒコは13歳のときに、自分がホモだということで悩まないと決めた」というところ。このふっきれ方がいい。社会の中で、自分が少数派になる局面っていろいろあるでしょ。とくに学校では、他者と違っていてはいけないことが多いから、少数派になってしまうと暮らしにくくなる。でもそれは価値観の違いであって、絶対的なものではないんだよね。そういうことで悩んでる子には、彼らの対処の仕方がとっても参考になると思うな。
愁童:ぼくは、どうも肌があわなかった。小説としてはおもしろいけど、共感はもてないね。やっぱり生活感がないのはダメと言われて育った世代だからね。知識人の大人が、今の子どもの風俗をうまく料理したという感じがしちゃって。『トゥインクル』と同根異種だと思うな。まあ、生活感がないのが今の生活といわれれば、それまでなんだけど。
ひるね:私も、この作品が今日のイチオシ。ゲイがでてくる物語っていろいろあるけど、身近な人がゲイでっていうパターンが多いでしょ、クレージー・バニラ』みたいに。主人公がゲイというのは、珍しいわね。事実から出発して背筋をのばして、つっぱりもせず、卑下もせず、淡々としてるとこがいいと思う。出来事に対して一直線に怒ったり、悩んだりしてなくて、ちょっとズレてる。そのズレ幅が、余裕というかユーモアになってる。まあ、現実には、学校はこんなに寛大じゃないと思うけど。ヤマダのお父さんが、女っぽくなってきたヤマダに「グロテスクだな」っていうんだけど、どんなカッコしてたって息子は息子なんだから、お父さんのとるべき態度はそれでいいんだよって応援したくなる。でも、ヤマダとかトシヒコみたいな人って、少なくないのよ。表面化してないだけで。彼らより、電車に乗れないミカコの方が深刻だと思うな。未来も全然明るくないものね。ミカコとトシヒコのつきあい方も、自然でこういうのもあるんだろうなと思った。『午後の時間割』もおもしろかったわ。
オカリナ:私、作家について何も知らないで読んだから、最初女の人が書いてるのかと思って、きれいにまとめすぎてるなって思ったの。でも、実際にいろいろ体験してる人だったら、逆にどろどろしたところは書かないだろうなって、思い直した。生きにくい子って今たくさんいると思うけど、この作品の中の彼らはうまくかわしながら生きてるとこがおシャレで、心地よく読みました。悩むのをやめたってふっきれてるところからスタートしてるというか、どろどろ悩んでいるところを、わざと書いてないのよね。でも、『午後の時間割』の方は、同人誌に、載ってそうな作品ですね。
流:私は、受け入れられないとこもある反面、すっごくわかるっていうとこもあった。でも、ある種反発があって、肯定的にはなれないな。『午後の時間割』の方が「わかるっ」という感じだったんだけど、高校生の頃の嫌だった自分を思い出してつらくなった。なんか葛藤があって。すごくかきまわされた感じ。わかりすぎる小道具が迫ってきちゃってね。
ねねこ:作りものといえば作りものなんだけど、私はなんだかとても励まされた。日本の文学って、正攻法で戦いすぎて、湿気るか、乾きすぎかのどちらかになりがちだけど、こういうやり方もあるんだなあと思った。おだやかなエールというのかな。あれっ作りすぎ? と思うことでも、許せちゃう潔さというか、性格の良さが感じられた。こまごましたことを具体的に書きこんでるんだけど、それで遊べる楽しさもあるし。小説が現実の乗り越え方を、提示している一つの例だと思った。
愁童:でも、べつに、これを小説でやる必要はなかったんじゃない?
ねねこ:これはこれで、漫画ではできない、小説ならではの空気感だと思うけどな。純文学の人が「これは風俗に流されてる」ってよくいうけど、この作品は、そんな風俗的なものでもないと思う。そもそも「風俗に流される」ってどういうことなのか、私はよくわからないんだけど。
モモンガ:ねね、みなさんおっしゃらなかったけど、「本校開闢以来の伝統」っていうところおかしくなかった? 私、げらげら笑っちゃった。
一同:私もー。
モモンガ:この作品、そういうユーモアもきいててとってもいいけど、タイトルはよくないわね。どうしてこんなタイトルにしたのかな。若い子は手にとりそうにないよね。
(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)