モーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟を助けてください』
『はいけい女王様、弟を助けてください』
原題:TWO WEEKS WITH THE QUEEN by Morris Gleitzman, 1989(オーストラリア)
モーリス・グライツマン/作 唐沢則幸/訳 横山ふさ子/絵
徳間書店
1998.03

<版元語録>弟のルークの病気はもう治らないと聞かされたコリン。世界一の名医を求めてコリンはイギリスの女王様に手紙を書く。不治の病の弟のために名医を探す男の子の姿をユーモアたっぷりに描いた、感動的な物語。

もぷしー:私はこの作品のほうが、素直についていけました。対象年齢に対して、等身大で描かれていますよね。子どもが読んでも共感しやすいし、自分にも何かできるんじゃないか、という誰でもがもつ疑問に答えるというか、提案し、勇気づけてくれる。子ども向けに死を扱っているものとして、やさしく、そっと触るような感じの作品が多いのに対して、この本は、焦りの中でアクティブに描かれていて、おもしろいと感じました。ものがすべて具体的で、誰が見ても「それはないでしょう」、というジョークになる部分は子どもにはジョークとして伝わり、泣きたくなっちゃうところは本当にそうだと思わせるところが、うまいと思いました。エイズとか同性愛者の問題も盛り込みつつ、といって声を大にするのでなく、身近な出来事として書いている。日本では、まだあまり行われていないことだと思いました。結末ですが、弟がまだ生きているというのが、いい終わり方ですね。治るわけでもなく、自分の挑戦に対する応えという意味でよくできていると思った。

紙魚:物語を読んでいくのはとてもおもしろかったです。ただ、今の日本の子どもたちだったら、こういった状況に置かれたとき、どんな物語になるんだろうと考えてしまいました。女王ではなくて、どこにこういう手紙を書く対象をもっているのかな。昔だったら、神様とかお地蔵様に願いごとをしましたよね。でも、今の子どもたちには当てはめにくい。そういう対象が、今はどういうところにあるのかな? それが今の子どもを語る鍵にもなりうると思うんです。利発な子どもなら政治家かもしれないし、もしかしたら芸能人、モーニング娘なんていうのがそういう存在かもしれない。それもあながち笑い話ではないと思うんですよ。日本の子どもたちは、芸能人にものすごく力を見出している。自然の力ではなく、即物的なテレビの力にかなり頼っていると思うんですね。この主人公が、弟の死に直面しても、最初はまず親に対して自分のアピールをしていくところがおもしろかったです。自分の弟が死ぬんだとわかったとしたら、大人だったらただただ落ちこんで、それが物語になっていくのでしょう。だけどこの本の主人公は、そこが出発点となって自分がアクティブになっていくところに好感がもてました。

ウェンディ:初めて読んだときは、電車の中でちょっと読んだら涙ぐんだり吹きだしたりで、これは電車の中で読んじゃいけないな、なんて思いながら、なんてすごい作家なんだろうと、ほかの訳書もさがして読みました。そのときの感動は、前のお二人とも似てるんですが、普通の兄弟喧嘩からはじまって弟の病気を知り、徐々に弟を助けたいという情熱が昂じていく構成とか、両親をはじめ大人がよく描けている点とか、従兄弟やゲイのカップルとの交流を通じて、弟に会いにいこうと思うというラストまで、すばらしい作家だと喝采しましたね。でも、2回目に読んでみると、気になってくるところもあったな。確かにグライツマンはうまい作家だとは思うけど、大人に言われたことへの反応の仕方とか、狙いすぎというか、ちょっとあざとさを感じてしまった。筆がすべりすぎるんでしょうか。あと、弟が入院したら親がコリンをイギリスへ送ってしまうところ。たしかにこんな向こう見ずな子がいて、こんな状況になったら、いっそどこかへ預けてしまおうと思うかもしれない。でも、辛い目にあわせたくないという親の言葉には疑問を感じてしまった。

トチ:イギリスの友人からおもしろいよと薦められていたのに、忙しくてほったらかしておいたのね。しばらくして原書を読んだらおもしろくて、初めのうち、吹きだしてばかりいたわ。今回、日本語で読んだら、初めのほうのめちゃめちゃな行動がうるさいなと思った。原文で読んだときはそうは思わなかったのにね。内的な独白ではなくて、主人公の行動で物語を進めていくところは、児童文学だなと思いました。

オカリナ:最初の部分はドタバタ調が気になったし、こんな子実際にはいないだろうな、と思っちゃった。でも、エンターテイメント作品だと思いこんで読んでいったら、だんだんそれ以上の何かがあるということがわかってきました。日本だと、素直に直接行動に出るようなこういう子は生きられないよね。しかも、コリンは5、6歳なのかと思ったら、12歳。でも、オーストラリアの田舎だったら、12歳でもこういう子どもらしい子どもがありうるんでしょうかね。原本の表紙を見ても、この感じはエンタテイメントよね。まあ、一見してシリアスだと、暗いと思われて手にとってもらえないからかもしれないけど。

チョイ:すごくツボを心得ている作家ですよね。作りすぎの感じもあるけど・・・。コリンがルークとお茶を飲むところではじめてわーと泣くでしょ。あそこではちょっと感動しました。あと、アリステアの一家がすごくおかしい。おばさんがいちいち介入してきて。でも、日本が舞台だったら、こういう物語は成立するのかしら。日本の子どもの現実はこういうおもしろい物語が不自然になってしまうみたい。日本ではなかなかこういう物語は成立しない。これは翻訳物ならではの良さよね。クレメンツの『合言葉はフリンドル』(笹森識訳 講談社)なんかでもそう思いましたが・・・。コリンも13歳にしてはすごく幼いでしょ。日本の男の子なら、こんなことしないじゃない。オーストラリアの田舎の子、素朴ないい子って感じよね。キャラクターに救われてるというか。設定と舞台で作れる良さをしみじみ感じました。ただ、p30あたりの「うー腹ぺこだ」のあたりがわかりにくい。

オカリナ:大人の配慮が子どもにはかえってよくないのだというメッセージは伝わったんだけど、いくらエンタテイメントでも、家に鍵をかけて子どもを閉じ込めるかしらね? 全体的にはよくできてて、おもしろかったけど。

ねむりねずみ:私も、翻訳が出る前に原書で読み始めたら、おもしろくておおしろくてという感じだったな。でも、訳が出たときには少し読んで閉じてしまった。冒頭ががちゃがちゃがちゃ、どどどっていう感じで、原書で受けたイメージと違ったから。グライツマンは確かにうまいと思います。針小な物を棒大にして見せて笑わせるっていう技を持っている人だけど、ここでは、死を扱っているからか、上っ滑りに過ぎる感じをあまり受けなかった。それに、コミカルだから死を内にこもらずに書けたような気もする。シナリオライターだけあって、回転が早い、とんとんと話が展開していって、エンタテイメントとしてもおもしろいし、・・・たしかに非現実的で子どもっぽくて、発想がちょっと誇大妄想的だけど、それって実は小さい頃には誰でもそういう部分をもっていたんじゃないのかな。途中から、この子、どこで現実に着陸するんだろう、軟着陸できるのかなって気になりました。結局、一緒にいること、今を大事にすることが一番だってわかって帰っていくというラストは、納得がいってよかったな。初めて読んだとき、ゲイやエイズを扱っている扱い方を見ていて、なんか日本と違うなって思った。日本だと、やたら重たくなっちゃったり、でなければ、まるでタブーみたいにしてしまいそうな気がするんだけど、こうやって児童文学でさらりと、しかもちゃんと入れてくることができているんだって思いました。

スズキ:私も今回2回目で比較的冷静に読めたので、初めて読んだとき見えなかったことが見えてくることもありました。2回目でも、はらはら、ドキドキさせられて、やっぱりおもしろかった。イギリスに一人で行かせる、鍵をかけて閉じ込めるといった一つ一つのプロットは一瞬どうして? と思うけれど、コリンがストーリーの中にぐいぐい引っ張っていってくれる感覚が気持ちよくて、よい作品だなと改めて思いました。弟の病気や死を意識してずっと読んだあと、ラストシーンでは、感動的な兄弟の再会で締めくくられるので、生きているってすばらしいと思える作品。コリンは女王様に手紙を書いたり、会いに行ったり、それでもダメとわかると、もっとあれこれやってみる。本当に物語がどこに行っちゃうの? と著者に聞きたくなるくらい、次々行動していく。別に死や病気に限らず、やりたいことをやるためには、あんたならどうする? 肩の力を抜いてやってみようよ、という気持ちを引き出してくれるんですよね。日本の作品と比べるとすると、読者へのアプローチのスタンスとして、那須正幹の『ズッコケ三人組』と似ているかなあ。あと、大人ってあてにならないんだな、と感じた。どこの国でも同じなんだなあ、って。

すあま:この子って10歳くらいかな。『ズッコケ三人組』の主人公たちも6年生くらいだよね。でも、今あのシリース゛を楽しめる年代は小学1、2年生どまり。日本の子どもでコリンに共感できるのは? 今の12歳だと、もっとひねくれていて、無理だろうと思う。周りの人物がそれぞれにおもしろく、アリステアとテッドの二人は特にいいキャラ。下手するとドタバタして、出来事だけでおもしろく感じさせてしまいがちなだけど、そうはなっていない。それから、テッドがコリンを助けるんだけど、逆にテッドもコリンに助けられている。ラストシーンはツボにはまって、ぐっとくる。すとんとうまく落としてくれていて、読後感がよい。おもしろく最後まで読めたのが、とてもよかったな。あれっと思ったのは、弟のルークが何の病気なのか、コリンがいつのまにか知っていて、さりげなく病気に言及するところ。病名を知るというところが強調されている作品が多いのに、血を顕微鏡で見たりして気にしている場面がある割には、肩すかしを食ったような感じもあった。訳題はいいような、悪いような。「拝啓」っていうのは、今どきのEメール時代にどうなんだろう。ただ、訳書の扉絵がポストに投函してるところなので、「拝啓」がわからなくても、手紙を書いたのか、ということはわかりますよね。あと、コリンが女王様に電話しようとして、あちこち調べまくるところはおもしろかった。

ブラックペッパー:「おもしろかった」という意見が多いなか、申し上げにくいのですが、私はこの本、とっても読みにくかった。なんだかドタバタしすぎて、くたびれる感じ。トチさんが「日本語の問題」とおっしゃったのを聞いて、それもあるかもと思ったけど、なにより英国風味のギャグにのりきれなくて、物語世界に入りこむのが難しかった。たとえば、おなかをすかせたお父さんの台詞「騎手を乗せたまま馬をまるごと食えるぞ」(p30)とか、アイリスおばさんがアリステアに対してずっごく過保護にしている様子とか、塩がひとさじ多すぎる、というか、やりすぎの感あり。これって、少し前に流行ったミスター・ビーンとか「ハリー・ポッター」にも感じていて、私は「英国フレーバー」の一種だと思ってるんだけど、今回はそれがハナについてしまった。まあ、ミスター・ビーンは、その塩がききすぎてる感じや、なんとなく手放しでわっはっはと笑えないところも好きだったんだけど・・・。そんなわけで、意地悪な気持ちで読んでしまったので、訳者があとがきで書いておられるラストシーンのベストテンという説にも同感できなかった。あとちょっと不思議に思ったことがいくつかあるんだけど、コリンはqueenのもう一つの意味がわからなかったでしょ。ほら、テッドの家に行って表札に「女王様」なんて書いてある、ヘンだな、っていう場面。私たちでもqueenのもう一つの意味を知っているのに、英語圏の子がそれを知らないなんて、あるのかな? 日本でも、小さい子は知らないと思うけど。オーストラリアでは、そっちの意味は流通してないの?

ねむりねずみ:テッドの家に行ったときに、クィーンズって複数で書いてあるわけだから、これが女王様じゃないってヒントは転がってるんだけど、本人の頭の中では結びついていないんじゃないかな。

オカリナ:この子は12歳という設定だけど、日本だったら情報がありすぎるから、女王とか天皇に手紙書いたってしょうがないって思っちゃうだろうし、英国一の名医を自国に連れ帰るなんてできっこないと行動する前からあきらめちゃうだろうし、物語として成立しないだろうな。イギリスでも無理があると思うけど・・・。女王に手紙を書こうなんて、普通はイギリスの子でも思わないだろうな。顕微鏡のシーンもそうだけど。

チョイ:でも、同じくオーストラリアの田舎の話でも、全然違うものもあるんですよ。

ねむりねずみ:一つのこと夢中になると、他のことは見えなくなってしまう子なんですよね。

ブラックペッパー:私は、この子はノーブルな家庭の子で、queenにヘンな意味はありません、と言っちゃうような家庭の子なのかなあ、などど、いろいろなことを考えてしまいました。

トチ:でも、そういうのって、関心がなければ、全然気づかないものでしょう。頭に入ってこないものなのでは?

ねむりねずみ:一般に子どもって、自分の関心のあるところだけを拡大鏡で見ているようなところがあるから、それで気づかなかったんじゃないかな? 女王様に手紙を書くことばかり考えてたから、それに引っ張られたのもあると思うし。

ブラックペッパー:はじめ、テッドが殴られたのも、車をパンクさせた犯人だと思われたからだと思っていたんです。でも、ウェールズ人だからというのもあったんですね。いろんな解釈ができるところなのかも。ゲイを理由に殴られたっていうのもありかもしれないけど、でもさ、ゲイだからっていきなり殴られたりするもの?

ねむりねずみ:労働者階級の過激な人たちだと、そういうこともあるみたいですよ。

ブラックペッパー:あ、あと、もう一つだけ。カエルのチョコって、どういうの? なんでカエルなんだろうって考えちゃった。物語に入りこめないと、どうもヘンなことばかり気になってしまって・・・。

愁童:おもしろいと聞いて期待して読んだんだけど、ちょっと期待外れだったかな。死を扱っているにしては、雑音がうるさすぎた。目配りのよさが、かえってわずらわしくなった。それほど意外性があるわけでもなく、あまりおもしろいとは思わなかった。導入部では弟は、まだ発病してないんだけど、最初から病気だと思って読み始めちゃった。

オカリナ:読む前から弟が死にそうになる話だとわかっちゃうのは、訳題のせいじゃない?

愁童:映画「ホームアローン」の手法とよく似てるね。主人公の設定年齢をもっと低くすればいいのに。この本、死と向き合うというより、弟の死を題材にして、兄の子どもっぽい反応や行動をおもしろおかしく読者の前に提示して引っ張るというほうに力点があるみたい。ラストもそれほど感動的じゃないしね。ゲイを夕飯に招待する設定も、作者の目配りの良さに共感は持つけど、やりすぎって感じ。

トチ:コリンは、12歳というより小学校3、4年くらいの感じね。「できすぎ」ということだけど、作者がシナリオライターでもあるということを知って、なるほどと思った。そのままテレビドラマや芝居になりそうなストーリーですもの。

ブラックペッパー:コリンのやることって、何歳の子の行動なのか、よくわからない。ばらつきがあるでしょ。ホテルで電話を借りる場面で、ドアボーイにチップを渡して・・・なんていうのは、すっごく大人っぽい行動だと思ったけど。

すあま:8歳くらいでいろいろできる方が、12歳で子どもっぽすぎるよりはいいのでは。原書出版が89年だから今から10年前だけど、10年前でもちょっとどうかな、という感じ。オーストラリアではのびのび育っているのかなあ。

チョイ:ちょっと間違うと、頭の弱い子になっちゃうのよね。

愁童:死をテーマにした作品と思って読むと、ちょっと違うしね。

チョイ:『はいけい女王さま、たすけてください』でいいのかも。

ブラックペッパー:たしかに、「弟を」が入ると、お涙ちょうだいの雰囲気になっちゃいますよね。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)