原題:GRANNY THE PAG by Nina Bawden,1995
ニーナ・ボーデン/作 こだまともこ/訳
偕成社
2002
版元語録:皮ジャンパーでハーレーをぶっ飛ばすおばあちゃんの愛情につつまれてくらす少女、キャットの「家族ってなに?」
裕:「プタ」とか、言葉あそびをうまく訳してるなと思った。自分自身の体験からかもしれないけど、ニーナ・ボーデンって、最後のところで、陰影を書くのを避けちゃうのね。お父さんもお母さんも狂言回しのように、やけにさらっと書いている。ただ、おばあちゃんは、素敵にかっこよく書けていて成功している。現代的なおばあちゃんで、精神的な病気につきあう様もリアリティがあって、パターン化してない。それから、子どもどうしの関係で、サブのプロットがあるのは、うまかった。でも、いちばん感動したのは、訳者の後書き。
紙魚:家族って、距離も近いし、時間も長くいるのに、一日一日のことを話したりはしても、自分のことを紹介するように話したりはしないじゃないですか。たとえば、初めて会った人には、趣味は何だとか、好きな食べ物は何だとか、自分のことをてっとりばやく、かいつまんで話しますよね。でも、家族の場合は、共に生活するうちに、お互いのことをつかんでいく。だから意外に知らないことがあったり、勘違いしてたりするんだけど、この物語のなかで、実の両親の家から帰る時のプレゼントの中に図書券が入っていたところ、とても主人公の気持ちが伝わりました。やっぱり、家族は合コンのように(!)てっとりばやく、相手を知るという関係ではないんですよね。
カーコ:この女の子は育ての親と実の親との間で揺れるんですけど、結局きちんと向き合ってくれるほうを選ぶんですよね。これって、現代の日本の子どもに通じるテーマだなと思いました。親がいつも子どものことを見ていることはとても大事なのに、今って、子どもが中学生くらいになると、「この子はもう大きいから」ってすっかり子どもから離れてしまう親が多いような気がします。だから、このおばあちゃんとこの子の関係は、テーマとしてすごくおもしろかった。
きょん:途中までしか読んでないので印象だけなんですけど、テンポがよくて現代的。
アカシア:私は小さいときに、かわいそうで健気な主人公が出てくる本をいっぱい読んで、なんてかわいそうなのと感動してたことがあるんですね。そんな自分が今は嫌なので、そういう本は眉唾と思っているんです。この本はそういうのと違って、最初から、読者の同情をひくように書かれていない。女の子が、変なおばあちゃんの人間性に気づいていく関係をきちっと書いている。実際の両親がカリカチュアライズされているところは、ちょっとやりすぎな印象を受けましたけど。訳は、うまい。
愁童:ぼくはね、日本語のタイトルで勝手にイメージが出来上がっちゃって、違った方向に期待しすぎちゃった。だから、ちょっとがっかりした。だってハーレーに乗るって、すごくマニアックなことで、それもおばあちゃんでしょ。その人物像の方に想像が膨らみすぎちゃった。その時点で、本筋を読み損なっているんだね。で、おばあちゃんは、あんまりよく書けてないなって、もどかしい思いをしながら読むハメになっちゃった。3冊の中では、いちばんこの子が不幸だよね。実の親が健在なのに、その存在になじめないんだから。それから翻訳って難しいね。「プタ」って、日本人からすると、おばあちゃんを鮮明にイメージしづらいような気がした。
アカシア:原題はGRANNY THE PAGで、pagにはpig との関連もあるし、hagからの連想もあるかもしれない。46ページには「プタたちは特別な人たち」っていう表現があるけど、ここはKGBとかCIAみたいな秘密諜報機関とか、それに類するような秘密の団体をにおわせているんだと思うのね。そういう得体の知れない胡散臭さみたいなものは「プタ」だと伝わらないかもね。でも、ここは翻訳不可能な部分だと思う。
愁童:あとさ、親権を有利な展開に感じさせる伏線として精神を病んでるフリスバーさんの描写が出てくるんだけど、そこはちょっとひっかかった。ストーリー展開の上であまり必然性が感じられない。最後の、おばあちゃんが溺れそうになった後、たばこをやめてくれたという一行で、すとんと終わらせる所なんかは、うまいですね。
トチ:私は、訪ねてきた精神病患者のおじいさんと主人公の少女のやりとりの部分を読んで、感動したんだけど。後書きを読むと、作者の家族にも精神をわずらった人がいるというから、それでこれだけ深く書けているんだと思ったのね。『ぼくの心の闇の声』(ロバート・コーミア/作 原田勝/訳 徳間書店)なんかは、原作にある精神病院に関する一文をカットしているのよ。あえてそういうことを出さないようにしている。差別になるかならないか、あまり神経を使いすぎてもいけないし、ハリポタの事件のように無神経なのももちろん困る。でも、この作品ではあまり気にならなかったけど。
ねむりねずみ:主人公がいい子すぎず、悪い子でもなく、ちょうどその年齢の子どもという感じでいきいきしていて好きでした。一人称の語り口がぴったりだと思う。おばあちゃんもすてきな人だし。両親はたしかにステレオタイプに書かれているけれど、この子から見れば、そういう感じに見えるんだろうと思った。最後に裁判所の決定がおりて一緒に住み続けた後の、海の場面が好きです。あの場面では力関係の逆転が示唆されている。それまでのかなり自立しているとはいえ女の子が面倒を見てもらう、頼る関係での「いっしょにいたい」から、やがては自分が「めんどうをみるんだ」という対等な関係が感じ取れて、それがぐっときた。さっきのリアリティの話に戻れば、この子が、心を病んだおじさんに対して見事に対処できたのは、日頃おばあちゃんを見てそう育ってきたからなわけで、あの場面はふたりの関係をあらわすための重要な描写だと思う。それと、この本を爽快感を持って読み終えることができたのは、この子がからっとしていて、誰かの力を頼ることなく、自分で精一杯動いているからだと思う。
羊:私も好きな作品でした。いきがいい女の子、かっこいいおばあちゃんが出てきて、おもしろく読めた。私も、祖母のもとで暮らしてたことがあるんです。中2くらいのときに、両親のところに戻らなくちゃいけなくて、親の財布からお金をくすねて、おばあちゃんの家へ行ったりした。納得できない時期だったんですね。この子の気持ちと重なりました。おばあちゃんと少女の関係がとってもいい。
ペガサス:私ね、途中まで、おばあちゃんを「ブタ」って読んでたの。でも、原題を見て「プタ」なんだって気づいたもんだから、おばあちゃんの印象がちょっと違ってしまったかもしれない。おばあちゃんがすてきというよりは、主人公に好感をもてた。「あたしが」っていう一人称で書かれているけれど、実際には子どもがここまで表現できるわけはなく、著者が影のナレーターとなっているのだけど、気持ちにそって読めるのがいいと思いました。両親がカリカチュアライズされているのも、この子から見ればそうなんだから、私はうまいと思ったんですね。193ページの「その晩は、いつもよりおそくベッドにはいった。プタは、ずっとあたしの部屋にいてくれた。ねむくなったので、あたしはもうだいじょうぶだからねむったらといったけれど、ほんとうはプタがそのまま部屋にいてくれたので、うれしかった。プタがベッドのすぐそばにすわって、やわらかいあかりで本を読んでいるけはいを感じていると、なんだか気持ちがおちついて、ほっとした。」という部分が、子どもって本当にこういうふうに感じるんじゃないかなと思って好きでした。会話の訳し方も今の子どものことばづかいで、効果的でしたね。ちょっと古いものだと女の子のセリフには「〜だわ」ばかり使われていたりするけど、これはうまく訳されていると思いました。
トチ:この本の魅力って、ひとつのストーリーの芯でひっぱっていくのではなく、エピソードなんですよね。ほんのちょっと出てくる人物でも、ものすごくよく書けてるでしょ。弁護士とか、児童福祉士とか。
愁童:ぼく感心したのは、おばあちゃんがこの子の母親をこれまでは「あの人」と言っていたのに「娘」と言うのを聞いて、主人公がショックを受けるところ。
トチ:軽いところもあるんですよね。校長先生の名前とか、ちょっとね。
ペガサス:描写が具体的だから、わかりやすいのよね。
愁童:うん、『おき去りにされた猫』は状況描写がうまいけど、『おばあちゃんはハーレーにのって』は人物描写がうまいよね。