ル・グウィン『アースシーの風』
『アースシーの風 ゲド戦記V』
原題:THE OTHER WIND by Ursula K. Le Guin, 2001(アメリカ)
アーシュラ K. ル/グィン著 清水真砂子訳
岩波書店
2003.03

<版元語録>待望の最新作/故郷の島で、妻テナー、幼い時から育てた養女テハヌーと共に静かに余生を楽しむゲド。ふたたび竜が暴れ出し、緊張が高まるアースシー世界を救うのは誰か?

アカシア:この巻では、英雄ゲドは魔法を使う力をなくして普通の人になってます。でも、4巻目の時ようにただ力を失っただけではなく、日常生活をしているがゆえの知恵をしっかり身につけているのね。ハンノキが市の国に呼ばれることから始まって、レバンネンなど、たくさんの登場人物が出てくるけど、最後にはみんなが解放されて、それぞれ自分の道を選び取るのがおもしろかった。

ペガサス:これは、1冊だけ読むのではなく、最初からのつながりで考えないといけない作品。4巻目が最後の書と言われながら、読者を混乱に陥れて終わっていたのが、この巻で希望をもって進んでいけるというので、やっと納得できたと思う。作者が最初の巻を書いてから何十年もたち、主人公も年老いるわけだが、全巻を通してみると、一人の人間が人生をどう生きるかという物語とも読めるし、人類全体の変遷の物語とも読めると思う。また、作者の世界観の変遷が見られる。魔法使いとしてこれほどまでに修行して力を獲得していくのに、結局その魔法はよほどのことがないと使えないわけね。使えば宇宙の均衡を崩してしまうから。河合隼雄さんが『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日新聞社)のなかで、魔法使いになる修業をナバホのメディスンマンの修業と結び付けて、「結局のところ大魔法使いになればなるほど何もしなくなるのだ」と述べている。確かにこの物語には、人類が築き上げてきた文化的な価値でなく、アニミズム的なものや、動物の本能的行動など、もっと違うところから学んでいくという態度も描かれていて、おもしろいと思った。力を獲得するために奮闘して、目的を達成して終わり、というのではない。

愁童:アカシアさんみたいな読み方があったのか。「ゲド戦記」の大切な部分は3巻までに書かれていて、これはキャンディーズのさよならコンサートみたいなもんだと思ったんだよ。文章でいくつか気になるところがあって、編集者も翻訳者ももう少し気遣いをしてほしかったな。

アカシア:4巻目は、作者がジェンダー的に全体を考え直して書かずにいられなかったんだと思うのね。だけど思想が前面に出すぎてた。だから作者についての研究をするには面白いけど、物語としてはあまりおもしろくなかった。でも、この5巻はおもしろい。

愁童:作家が若い頃書いた作品と、いろいろ考えて年を経て書いた作品では、迫力も違う。2巻目でテナーが、自分で自分の道を選び取っているときに、すでにジェンダーの意識はあったと思うんだ。それが、4巻目で薄汚いおばさんに書き直されなければならなかったのか。

アカシア:私はテナーが薄汚いとは思わなかったな。ル・グィン独自の視点は、影をどう扱うかにあらわれてますよね。今のネオ・ファンタジーは「主人公は善であり正義であって、悪は外にいる」という、ブッシュみたいな単純図式が多いけど、この作者は、闇や悪は自分の分身という認識ですよね。3巻目までは、頭で考える知識(男の領域)と、日常の暮らしの中から学ぶ知恵(女の領域)とが分離していた。それが、4巻からあとは違うのね。

愁童:でも、3巻めまでの輝きが4巻、5巻にはないじゃない。

アカシア:その輝きって何? ヒロイズム?

ペガサス:4巻、5巻がなければ、3巻までで輝いているけれど、5巻まで読んだときに感じるおもしろさは違ってくる。5巻まで読んで、もう一度前をふりかえりたくなる。

愁童:4巻で一番納得がいかなかったのは、最後に竜が出てくるところ。

アカシア:竜は5巻につながるカギなんです。この巻では、幼いときに虐待されひどい火傷を負って生きてきたテハヌーが竜になって空にのぼっていく。そこのイメージがいいんですよ。「テハヌーは両手を高くあげた。炎が手を走り、腕を走り、髪の毛に入り、顔に入り、その胴体に入り、大きな翼となってその頭上に燃え上がると、テハヌーのからだが宙に浮いた。全身火と化した生き物は、今、空中に美しく光り輝いていた。テハヌーはことばにならない、澄んだ叫び声をあげると、首をのばして、高い空へと、まっしぐらに飛んでいった」っていうんだけど、テハヌーが自分らしさを回復し、解放されるのがよく出てると思った。

ペガサス:4巻、5巻を読んで意見が分かれるところも、この本の価値なのでは。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)