日付 | 2021年12月16日 |
参加者 | ネズミ、ハル、シア、アカシア、アンヌ、さららん、マリトッツォ、雪割草、まめじか、西山、サークルK、(しじみ71個分、ニャニャンガ) |
テーマ | 非日常の経験 |
読んだ本:
岩瀬成子/作
講談社
2019.06
<版元語録>小学五年のわたしは引っ越してきた町でいつもと違う知らない道が気になり、ずっと先に白い花がさく家が見える路地へと入っていく。
原題:THE ECHO PARK CASTAWAYS by Hennessey, M. G, 2021
M・G・へネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2021.05
<版元語録>それぞれの事情で、養母の家に預けられた三人の子どもたち。みんながバラバラの方向を向いていて、ちゃんと向き合わずに過ごしてきた。そこへ新しくアスペルガー症候群の男の子が仲間入りし、その子の母親に会いたいという願いをかなえるために四人は冒険に出かけることになる
もうひとつの曲がり角
岩瀬成子/作
講談社
2019.06
<版元語録>小学五年のわたしは引っ越してきた町でいつもと違う知らない道が気になり、ずっと先に白い花がさく家が見える路地へと入っていく。
まめじか:英語を習わせるのも家を買うのも、子どものためだと言いながら、実は親の自己満足なんですよね。そうした大人の一方的な思いや、遠いのに自転車通学を許されない不条理な学校の仕組みの中で、朋もお兄ちゃんも窮屈な思いをしています。そして子どもの自我が目覚め、そういう大人の押しつけに反発すると、やれ反抗期だとかなんだとか言われてしまう。そんな中で言いたいことを言えない朋の気持ちが、「先生はいっぱい言葉をもっているのに、こっちにはなにもない」(p88)という語りにこめられていると感じました。朋はひとりの時間に日常のすき間にはいりこんで、そこで不思議なできごとを体験するわけですが、秘密をもつことが成長につながるのは、E.L.カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)にも通じます。曲がり角の先は別の道がつづいてる、ここ以外の世界もきっとあるというのを、こういう形で描けるなんて。作者の力量を感じる作品でした。
雪割草:今回の選書係だったのですが、最近読んだなかでとてもよかったので、選びました。まず、私は兄がいるのですが、兄とのやりとりの描写にリアリティがあり、親しみを感じました。しれっと妹に洗いものをさせたり、中学になって変わっていったり、兄も案外考えているんだなと感心させられたり、なんでも兄には話せたり。それから、この作品のように、日常の中でふと、異空間や異次元といった非日常にいくことのできる物語が好きで、子どもの頃から憧れていました。「心って、いつおとなになるの?」(p183)や「ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの……。」(p239)とあるように、オワリさんとその子ども時代のみっちゃんを通して、一人の人間のなかに子ども時代が生きつづけていることを感じることができました。また、このふたりをつなぐ存在として、センダンの木を登場させているのもいいなと思いました。ネギを背負った人など、ところどころユーモアがあるのも楽しかったです。ただ、表紙の女の子の絵は、私の想像とは違うと感じました。
アカシア:どんなふうに違ったんですか?
雪割草:本では、もうちょっとおてんばなイメージでした。
まめじか:私も、この子はもっとはっきりものを言える子だと思うので、イメージとは違いました。絵はおしとやかな感じがします。
アカシア:酒井さんの絵は、静的で内容から受ける印象より少し幼い感じがいつもしますね。だから人気があるのかもしれませんけど。
シア:私もイメージと異なって、酒井駒子さんの絵は大人好みになりすぎると思っています。YA辺りならいいのかもしれませんが。表紙から抑えめなのもあって、描写はていねいで良かったんですけれど、心は打たれませんでしたね。将来役に立つから、という言葉がそのとき限りの大人の言葉として扱われていて、悲しく思いました。みっちゃんがそろばん塾を辞めたその後がわかったりすると、大人の方便にも聞こえるような“将来役に立つ”という言葉の意味が生きてくると思うんです。お母さんに隠れて読んだ漫画はどうだったかとか、ダンスはどうなったのかとか、全然わからなくて。大人の言うなりになることと、自分で決めることの本当の違いがオワリさんの人生を通して見えなかったので、このタイムリープで学べるものや成長がなかった気がします。英語にしても、同音異義語の不思議とかいい視点を持っているのに、笑われるからと委縮して言えなくなっていてもったいないと思います。フォローしてくれない人たちがたまたまいただけで。アメリカ人なのに鷹揚に接しない先生も珍しいけど。心を開いたり勇気を出せば、耳を傾けたり足りない言葉をくみ取ってくれる大人もいるという役割をオワリさんがやってくれていないので、見えない将来に時間をかけたくない、で話が終わってしまっていて、結局オワリさんがロールモデルにならず、今回の経験は気持ちが若返ったオワリさんにしかメリットがなかったと思います。子どもが読んだらおもしろいんじゃないかな。「うん、でも、たぶん、わかってないと思うけど」(p250)と最後まで周りと壁を作って、大人と子どもの境界線をはっきりつけてしまう子どもの視点で書かれているので、「だよねぇ!」「わかるぅ!」と今を見ている子どもたちが共感できる作品にはなっていると思います。保護者が読めば気づきみたいなのは得られるかもしれません。気になったのは、なぜ主人公が元の時代に戻れなくなるとか、昔の時代に行けなくなったとかがわかるのかということです。つるバラが決め手なのでしょうか?
まめじか:私は、オワリさんの人生とか、習いごとが将来役にたったかどうかなんていうのは、この本にはなくていいのではないかと。主人公の朋が、今ここだけじゃない世界を知るというのが、この本のキモなので。
さららん:ふつうの家族、絵空事じゃない家族の中にある無数の違和感を、岩瀬さんはいつもうまくとらえています。大人も子どもも、そしてその関係も、ありきたりではありません。いま生きている人間が感じられるところ、そして子どもの反骨心が、岩瀬作品の魅力です。新しい家に引っ越したあと、願いをかなえたママはやけに張りきっているけれど、空回り気味。「わたし」やお兄ちゃんとの関係はもちろん、パパとの微妙にすれちがう関係も会話の中に巧みにとらえていて、「うちとおなじだ……」と驚きました。中学生になったばかりのお兄ちゃんは、コーヒーフロートを勝手に作ってひとりで飲んでいるのですが、そんなエピソードにも妙なリアリティがあります。でも現実の話だけで終わらず、オワリさんというおばあさんが朗読する物語の世界や、時間を超えて主人公が迷いこむ世界など、重層的にいろんな要素が入っていて、かなり凝った造りになってますね。「英語でなにかいおうとすると、普段自分の中にある日本語のいろんな言葉の意味がすうっとうすくなっていくような気がした」(p12)など、英語を学び始めたときのもどかしさを表現する言葉には膝を打ちました。「よりよいって、それはだれがきめるの? 人によって、それはちがうんじゃないの。そんなあいまいなもののために、いまの時間をただがまんして無駄にしろっていうの」(p221)と、主人公がパパにいうところでは大喝采。これが言えないがために、今の子どもたちは炸裂するくらい苦しんでいるんじゃないかと思うのです。「わたし」はほんとに頑張った! オワリさんとの出会い、まったく違う時間、違う角度から自分を見られことが、主人公の力になったのだと思いました。
マリトッツォ:安定の岩瀬成子さん作品という感じで、引き込まれて最後まで読みました。児童文学は、「続ける」「頑張る」「達成する」というテーマがどうしても多くなるので、大人から見て正当な理由がなくやめる状況に寄り添っているこの本は、子どもの味方だなと思います。また、一般的なタイムトラベルものだったら、なぜそこに行ってしまうのか、というロジックが明確でないと入り込めないのですが、この作品は描写がていねいなので、明確な説明がなくてもそんなに気になりませんでした。あと、主人公の「わたし」の一人称と、おばあさんの創作の文章がはっきりと違うので、そういうところにもリアルさを感じました。「わたし」の文章は、同じ言葉を重ねることが多くて、たとえば、「わたしはリモコンで部屋の明かりを消した。リモコンで部屋の明かりを消すのも、この家に来ておぼえたことの一つだった。」(p24)というふうに、重複が多いんですよね。この年頃の子の思考、表現を忠実に再現していると思います。なお先ほど、そろばん教室を辞めて、その結果どうなったのかが書かれてない、という話題が出ましたが、「そろばん塾を辞めても喫茶店の経営はちゃんとできた」ことが、もしかしたらひとつの答えなのかもと思いました。
アンヌ:今回はテーマが「非日常の経験」だったので、てっきりファンタジーだと思っていたのですが、p60まで読んでやっと異世界が現れるので、もしかすると異世界より現実界に比重がある物語なのかと気づきました。なんとなく『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)を思わせるタイムスリップ物なのですが、ファンタジーにある謎とき的要素は全然ないまま終わります。異世界で、犬を連れた男の子やいじめっ子をやっつけることができて自由にふるまえる自分に気づいて、そこで現実世界でも家族に自己主張できるようになるという話がていねいに語られていくのは魅力的でしたが、やはり私としては異世界の方に興味があったので、せっかく、みっちゃんに現実世界で会えても、主人公は相手が自分に気づくかとドキドキしたりしないし、みっちゃんであるオワリさんの方も気づかないままでいるのが、なんだか不思議な気がしました。どちらかというと、朗読している庭に入っていくときの方が、過去にタイムスリップするときよりドキドキ度が高かったり、オワリさんが作る話がおもしろくて謎があったりするので、この現実世界の方がおもしろい気もしました。最後は、主人公がこれからも、またオワリさんに会いに行こうと思っているところで終わるから、いつか、二人がお互いに気づくというか名乗りあう時が来るかもしれません。そんな風に、読者がいろいろ考えて、この物語が続いていく感じで終わるところがこの作品の魅力なのかもしれません。でも、ファンタジー好きの私にとっては、少々不満がある物語でした。
ネズミ:私はとてもおもしろかったです。英語塾をやめたいと言えるまでというのがストーリーの中心だと思います。こうなって、こうなったから、こうなったというふうに結果が差し出されて「はい、終わり」となる本もありますが、岩瀬さんの本は、この物語の前にも後にもお話が続いているのを、ここだけふっと切り取ったような印象があって、そこがほかの書き手と違うなと。曲がり角の向こうに、思いがけない世界があるすてきさ。p8で、マークス先生の言う「エイプウィル」が「四月」のことなんだとわかったあとに、「なんだあ、と思った。それから、疲れる、と思った。」とか、p250のお風呂に入りなさいと母親に言われたおにいちゃんが、「おれはあとで」と答えて、「わたしも」と、わたしがいうところなど、何気ない表現に日常や人となりが透けてみえます。こういう表現が物語を支えているのだと思います。
さららん:会話を「作ろう」とは思っていないのかも。登場人物が頭の中で、いつのまにか動き出して、勝手に話しているんでしょう。
ネズミ:この子が、大人にグサッとささるようなことを言うのも、そういうことなのかも。最後に、英語塾に行かないというのを言えてよかったです。
ハル:作家は皆さんそうだと思いますが、岩瀬さんの小説は、岩瀬さんにしか書けないものだということを特に強く感じます。なんてことなさそうな表現のひとつひとつが素晴らしい。p54で描かれている、お父さんとお母さんのけんかの、端で聞くとうんざりな感じとか、p100で犬をけしかけてきた高校生くらいの男の子に「YTっていうのはおぼえたからね!」とか。いかにもちょっと大人になりはじめた時期の子どもという感じ。p157は、朋がみっちゃんのいる世界は自分がいてはいけない世界だと気づきはじめる場面ですが、p156では「ばいばーい」って無邪気に手を振り合って、p157の3行目でいきなり「後ろはふりむかなかった。ふりむけなかった。ふりむいちゃいけない気がしていた」とくる。そこで読者は朋も気づいていたことを知ってぞっとするわけです。この1行が効いているなぁと思います。そして初読のときから何げに強く印象に残ったのは、作中作までおもしろい! というふうに、あげたらきりがないんですけど、子どもは将来のためでなく「今」を精一杯生きているんだと改めて思い出させてくれるところとか、物語の構成もテーマももちろんなのですが、技巧を楽しむという意味でも繰り返し読みたい1冊です。それから、先ほど、朋がタイムスリップした意味についてのご意見がありましたが、たとえば、みっちゃんが習わされていた「そろばん」だって、今の世界の朋にとったら、学校でちょっと習うくらいのもの。こんなこと言ったら反対意見もいただきそうですが(笑)、朋が習わされている「英語」だって、そのうち同時通訳機みたいなのがもっと優秀になって、いやいや勉強する必要なんてなくなるかもしれない。大人のいう「将来役にたつ」は案外あてにならないぞということを知っただけでも、タイプスリップさせた価値はあるんじゃないでしょうか。
アカシア:岩瀬さんは、言葉の使い方がほかの作家と質的に違いますよね。梨屋アリエさんの『エリーゼさんを探して』(講談社)という作品も、親にものが言えない子どもというテーマですが、梨屋さんのほうは、主人公がお母さんとはすべて「です・ます調」で会話しているという設定で、抑圧された状態を表しています。岩瀬さんの方は、子どもの気持ちをそのまま描いていくという書き方。岩瀬さんは、自分が子どもの時の気持ちを忘れてないんですね。このテーマは、思春期の子どもにとってはとても大きいのでしょうね。嫌なことはしなくてもいいというふうに子どもの背中を押してくれる本なんですね。岩瀬さんは今アンデルセン賞候補になっていますが、このおもしろさを100%楽しめるのは、日本の現代に生きている人たちかもしれないと思ったりもします。岩瀬さんの作品はストーリーラインだけで読ませるものとは違うので、翻訳するのはそう簡単じゃないでしょうね。日本語の堪能なとてもじょうずな翻訳者が岩瀬さんに乗り移ったみたいになって翻訳してくれるといいな。
まめじか:前提となる生活のこまごました背景を知らないと、ね。
サークルK(後から参加):とってもおもしろかったです、主人公と曲がり角の先にいるみつほさん/みっちゃんの関係が、まるで『トムは真夜中の庭で』のトムとハティの関係に似ているのかな、と思ったので。初めての環境に慣れていく子どものドキドキ感が伝わってきました。現代的な両親の期待に(違和感を感じながらも)応えようとしてもがく主人公の姿や、一足先に思春期になってあまり自分の気持ちを話さなくなっていくお兄ちゃんとの関係に、読者は共感できるのではないでしょうか。p30で、お母さんが(賃貸住宅ではない)初めての持ち家に愛着があって、たとえ不在であってもきれいにしておかないと「(台所が)ママに告げ口をするような気がした」という文章にハッとさせられました。人間が不在でも、その人が大事にしているものがその人本人に代わって、人間を見張っていると感じてしまうことは時々あるような気がするから、そういう表現はとても興味深かったです。大人が子どもの先回りをしてどんどんことを進めていくことへの批判――子どもが間違えたり傷ついたりする自由が奪われるべきではない――をこめた主人公の成長物語になっているように思いました。
西山(後から参加):以前読んだんですけど、再読しはじめて、ああこの路地の雰囲気知ってる、この景色見覚えある、この登場人物たちも知ってる・・・と思うのですが、初読時の感想も、ストーリーも思い出せません。自分の記憶の情けなさを棚に上げてなんですけれど、岩瀬成子の作品は、一言一言をおいしく味わう、そういう経験になっている気がします。たとえば、「わたしは塾に行く途中で、急に気が変わる予定だった。」(p30)などという一節がたまらなくおもしろい。そうやっておもしろく読んだのに、覚えていないと……。
アカシア:大テーマのある作品じゃないからですかね?
西山:岩瀬作品は、読書の快を感じる作品ですね。
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しじみ91個分(メール参加):新しい家に越してきて環境に慣れない主人公の朋が、ふと思い立って英語塾に行かずに小道の先の曲がり角を曲がったら過去の空間に行ってしまい、一人の女の子と出会うというお話ですが、嫌なことがあったり、くさくさしたりしたときに、ふっと「どこかに行っちゃいたいな」と思ってしまうときの、「どこか」の感じをありありと体験させられるような物語でした。読んで、子どもの頃、マンションの一室の自宅に帰るとき、いつもと違うの入口から入ったら、角度の加減で廊下の突き当りにあるはずの自宅が見えず、家がなくなったんじゃないかと怖くなった小学生のときの経験を思い出しました。朋が、朗読をするオワリさんと仲良くなって異空間に入り込み、みっちゃんという女の子と仲良くなりながらも、帰れなくなるんじゃないかとこわくなり、こちらの世界に戻ってくる感じは、日常の裂け目に入り込んでしまったときの、空恐ろしい不安をリアルに感じさせてくれ、ちょっと背中がぞわぞわしてしまいました。でも、朋が感じたその恐怖感は、逃避を選ばず、きちんと日常に向き合って行こうとする生命力の裏返しでもあるのかなと思って読みました。また、ほかの方もおっしゃっていることですが、全編を通して、『トムは真夜中の庭で』へのオマージュを感じました。モチーフになるのは双方1本の木で、あちらはイチイの木で、こちらはセンダンの木などと、さまざま両作品間の違いはありますが。過去の異空間にタイムスリップして、おばあさんの若い頃に出会うというしかけには共通するものを感じます。岩瀬さんの物語は、子どもの日常に生じたちょっとしたズレや断層から、日常がゆらいでいく様子を描いているように思うのですが、それを読むと心がざわざわします。でも、それが気持ちよくて、岩瀬さんの物語が好きなんだなぁと自分で思います。お兄ちゃんの晴太の思春期の親離れが進行していく様子も好ましく読みましたが、同時に賢いお兄ちゃんだなとも思いました。岩瀬さんのリアルな描写と、タイムスリップファンタジーとの組み合わせが大変におもしろかったです。
(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)
海を見た日
原題:THE ECHO PARK CASTAWAYS by Hennessey, M. G, 2021
M・G・へネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2021.05
<版元語録>それぞれの事情で、養母の家に預けられた三人の子どもたち。みんながバラバラの方向を向いていて、ちゃんと向き合わずに過ごしてきた。そこへ新しくアスペルガー症候群の男の子が仲間入りし、その子の母親に会いたいという願いをかなえるために四人は冒険に出かけることになる
ハル:ここ何回か、里親と里子の家族のお話を読みましたが、今回はだめな里親というか、里親自身も成長していった点が新鮮でした。理想的ではないのかもしれませんが、それでいいようにも思うんですよね。「だめ」の程度にもよるとは思いますが、心が成熟した素晴らしい大人しか里親になれないというんじゃなくてね。p184の観覧車から海を見るシーンが印象的でした。「きっと世界は、そんなにひどいところじゃない」という1行には、励まされもするし、この子たちのこれまでの日々を思ってつらくもなります。
ネズミ:それぞれの声で語りながら、4人の里子や里親の様子がだんだんと見えていく構成、物語としての盛り上がりなど、非常によくできていて、おもしろく読みました。ただ、声をかえての一人称語りは、すぐには状況がつかみにくく、特に日本では、読者を選ぶだろうとも思いました。父親だけ国にかえされてしまった、エルサルバドルからきたヴィク。言葉が出ない、スペイン語圏出身のマーラの状況など、外国から来たということも、よくわからないかも。とてもいい作品だけれど難しそうだなと。
アンヌ:以前読んだ同じ著者の『変化球男子』(杉田七重訳 鈴木出版)では、作者が読者に伝えたい知識──ホルモン剤とか支援団体の存在とか──がかなり盛り込まれた作品でしたが、今回はあとがきに作者の「里親制度」についての思いが書かれてはいるのですが、表立ってはいません。物語も登場人物もおもしろくて、その中で、絶望させない、偏見を持たせないような感じで、里子のことを分からせてくれます。なんと言ってもヴィクの持つスパイ妄想がおもしろくて、夢中で読んでいると話がクエンティンをママに合わせようという「作戦遂行」に移っていき、気がつけば子どもたちがみんな揃って旅に出ていました。ナヴェイアの視点でイライラしながら進んでいく道中の途中で、子どもたちが思いがけず遊園地や海で「楽しむ」ということを知ったり、大声で笑いあったりする場面に行きつきます。クエンティンに母親の死という重要なことを知らせるのに、海辺で砂遊びをしながら話すというところでは、海の持つ力が見事に生かされていると思いました。家に帰った後、ヴィクもナヴェイアもミセス・Kもそれまでと変わっていて、気づかないまま肩の力が抜けている。家族として互いに肩を貸しあって、少しずつ楽になっているという終わり方には感心しました。
マリトッツォ: 読み終わってから、『変化球男子』の著者の方か、とびっくりしました。作風がまったく結びつかなかったです。この本は今回、課題本にしてもらってよかったと思っています。もし自分でたまたま手に取って読み始めていたら、途中、かなりしんどくてやめてしまっていたかもしれないからです。終盤で、ぱっと未来が開かれていくような、なかなか他の本では味わえない満足感があります。これは中盤までの閉塞感があってこそですね。里親を称賛するわけでもなく否定するわけでもない、このリアルさは、著者がこういう活動をしている方だからか、とあとがきを読んで深くうなずきました。クエンティンのような自閉症の子の一人称は、掴みづらいことが多いのですが、他の二人のパートで状況が説明されているのでわかりやすく、バランスが絶妙だと思いました。いろいろ好きな表現があります。たとえば細かいところですが、「足にまだ砂がついていて、シーツにも砂がこぼれてるのがうれしい。ビーチもぼくたちのことが好きになって、それで家までついてきたみたいだった」(p260)という部分、素敵ですよね。一つだけ戸惑ったのは、観覧車の部分です。え、安全バーが必要で何周もするの? と、驚きました。
さららん:里親のミセス・Kのもとで暮らす年齢も境遇も異なる4人の子どもが、1つの家族になっていくまでのお話です。数か月ぶりに読み直してみたのですが、いいものを読んだという印象は変わらず、4人それぞれの在り方がずっと心に残っています。自分も「お姉ちゃん」として育ったので、特にナヴェイアに心を寄せて読みました。しっかり者のいい子に見えますが、自分の未来の夢をかなえるために、ある意味打算的に手の焼ける年下の子たちの世話をしています。でも、クエンティンのママの病院へみんなで行くという1日の冒険を通して、ナヴェイアは大きく変わり、他の子の在り方をまるごと受け入れていくのです。みんなで観覧車に乗って初めて海を見る場面、そのあともう1度病院を抜け出して海にいく場面が、ほんとに効果的で、象徴的です。会話のなかで、4人の関係が少しずつ変化するのがわかり、互いにいたわりあえるようになっていきます。(最後はミセス・Kに対してまで!)自分のことで頭がいっぱいのクエンティンが、英語がほとんど話せないマーラと心を通わす場面など、とてもよかったです。ロードムービーのような展開のため、刻々と場所が移るにつれて感情や考えもゆれ動く、いってみれば「目に見える」物語なので、読者の記憶に深く残るような気がします。それまで英語をほとんど話さなかったマーラが、最後のほうで「まったくうちの家族ときたら」(p277)と首をふりふり言うところ、そこが実に自然で、マーラを抱きしめたくなりました。
雪割草:この作品は、里子の子どもたちを通して新しい家族のかたちを描いているのかなと、読んでみたいと思っていました。最初の印象は、ヴィクがうるさくて口調が老けているように感じました。でも、口調は父親を尊敬しているからでは、と言われて納得しましたし、2回目に読んだときは、ADHDの特徴がよく描かれていると思いました。作品全体を通じては、厳しい状況にある子どもたちが、海の美しさに圧倒されるシーンのように、世界を肯定できるような、希望をもてるような体験をすることや、仲間の存在が生きる力につながるということを、改めて感じることができました。また、原題にある「漂流者」や、「わたしたちは、ひとりでやっていかないといけないの……。」(p161)にあるように、子どもたちの心情もよく描かれていると思いました。私の友人や友人の親が里子を育てていますが、そういった家庭は日本では少ないと思うので、里親制度や、子どもを社会やコミュニティで育てるといった考え方が広まっていくといいなと思いました。「オナカスッキリ! ナヤミスッキリ!」(p180)は子どものセリフとして違和感がありました。
アカシア:これは、吊り広告の言葉をそのまま繰り返してるんじゃないですか?
まめじか:いい作品なんだろうな、とは思ったのですが……。シビアなテーマの作品なのに、今ふうの軽い言葉がいっぱい入ってるのが浮いてるようで、二次元のキャラみたいに感じてしまいました。たとえばヴィクのせりふで、「当ててみ?」(p6)、「オタク、ちょっとヘンタイ趣味入ってます?」(p8)、「タルい」(p30)、「マジ、こわいんですけど」(p155)。一方で「世を忍ぶ」(p11)、「迷惑をこうむる」(p179)など、11歳にしては大人っぽい言葉づかいをするのが、どうもしっくりこなくて。そんな感じで読み進めたので、訳者あとがきの「この世界には、こんなにも、こんなにも素晴らしい子どもたちがいる」という最後の一文でひっかかってしまいました。もちろん、この本に出てくる子たちの状況はとても大変なものですが、そうした子はほかの本の中にも、現実にもいっぱいいるし。あと些末なことですが、マーラがホームレスの男の犬にチョコレートをやっていますが、チョコレートって、犬に絶対食べさせちゃいけないものの1つですよね。p3のクエンティンの語りで、「女の人はこまった顔になって」とあるのですが、アスペルガーのクエンティンは人の気持ちを読みとるのが難しいと思うので、どんな表情が悲しい顔なのか習ったからわかったということですよね。
アカシア:普通は、学習を経てわかるようになると言われていますよね。これまでの多くの作品は、ハンデを持っている子どもが1人という作品が多かったのですが、この作品は、ADHDとアスペルガーの子が登場し、マーラという小さな女の子も何らかの発達の遅れを抱えているのかもしれません。なので、書くのが難しいかと思ったのですが、年齢や性別や障碍も違うのでちゃんと書き分けられ、ひとりひとりが独立した存在に描かれているのがすごい、と思いました。ナヴェイアは、成績のいい子で、ハンデを持っているわけではないと思いますが、黒人なので生きにくさはやっぱり感じています。ナヴェイアがクェンティンを連れていこうとしたときに、白人の女の人に疑念をもたれる場面もありました。生きにくさをそれぞれ抱えている子どもたちだからこそ、お互いとを自分のことのように感じてわかり合えるのだと思いました。ナヴェイアが優等生の自分の殻を脱ぎ捨てて海辺でみんなで楽しもう、という場面は、とても印象的でした。この作品には助ける大人が出てこないので、子どもがお互いに助け合います。しかも、やっぱり問題を抱えている大人のミセスKに子どもたちが保護者的な視線を送っているのもおもしろいと思いました。4人でクエンティンのお母さんを探しにいこうというあたりからは、展開も速くなるのでハラハラしましたし、子どもたちの関係がだんだん密になっていくのもわかって、おもしろく読みました。わからなかったのは、さっきまめじかさんもおっしゃった犬にチョコレートをやるところ。それからp15にミセスKが「養母」として出てきますが、養子ではないので「里親」なのでは?
西山:一気に読みました。作者のあとがきで、現実のことがくわしく書かれてて、これがロサンゼルスの里親制度の抱える問題ということは明示されているわけですが、日本の読者が読んだときに、日本の里親制度にネガティブな印象をもたないかな、とちょっと危うく思いました。海を見た幸せな1日を経て、子どもたちの関係が親密に変化してからの様子に、『かさねちゃんにきいてみな』(有沢佳映作 講談社)を思い出しました。抱えている背景の深刻さは違うとはいえ、異年齢の子どもたちのその年齢らしさや、互いへの気遣いが重なって、状況が違っても普遍性を持っている子どもの本質的な部分を見せてもらえた気がします。(以下、言いそびれとその後考えたことです。クエンティンが他者の中でなんとかやっていけるように、お母さんがたくさんのアドバイスをして、クエンティンがことあるごとに、その言葉を思い出すことでパニックを回避している姿がとても印象的でした。読書会が終わって、つらつら思い返していて、こんなに彼を導いていたお母さんなのに、どうして自分の死を受け入れられるようにする手立てをしていなかったのかとふいに思い至りました。癌を予期できないとしても、いきなりの事故死ではないし、病気にならなくても、いずれ自分の方が先に死ぬのだという現実を、クエンティンが受け入れられるように用意することは最大のミッションなのではと。そう思うと、ちょっと冷めました。)
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ニャニャンガ(メール参加):クエンティン、ヴィクの視点ではじまるため、物語に入るのに少し時間がかかりましたが、ナヴェイアが登場して全体像が見えはじめ、さらにクエンティンのために旅に出たところかにはすっかり引き込まれていました。ミセスKが心を閉ざして子どもたちの世話をしないせいで、ナヴェイアが年下の子たちの面倒を引き受ける姿には胸をしめつけられます。ほかの3人の面倒をひとりでしていたナヴェイアが限界に達したとき、ヴィクが頼りになる存在になり、子どもたちの絆が強くなって、ほんとうによかったです。しらこさんによる表紙も、とてもいいと思いました。ロサンゼルスの里親制度をよく知る作者だからこそ書けた作品です。
しじみ71個分(メール参加): ロサンゼルスの里親制度の実態をリアルに描写していて、子どもたちの切実な実情を伝える本だと思いました。養育に欠ける子どもたちがたくさんいるために、里親にあまり向かないような状況の人のところにも里子が引き取られることがあるというのは、ロサンゼルスに特徴的な事象なのか、全米的な問題なのでしょうか。いずれにしても大変な状況だとまず思いました。最年長のナヴェイアが我慢を重ねて小さい里子たちの面倒を見て、大学に進学して自立することを願う姿はいじらしく、特にp95で、突然「涙が目に盛り上がってきた」という場面には共感して、こちらもウルウルしてしまいました。いろんなことに疲れてるんだろうなぁって思い……。ADHDのヴィクは頭の中に言葉があふれていて、うるさいですが、私には可愛らしく見えて、とても好きなキャラクターです。新入りのクエンティンがアスペルガーで、小さいマーラはスペイン語しか話さないという、それぞれ異なる難しさを抱えた子どもたちがどうなっていくのか、興味に引っ張られて最後まで読み通しました。海を初めて見たシーンは特に印象的で、困難にある子どもたちには子どもらしい家族とのあたたかな思い出や楽しい経験がない、あるいは奪われたりかもしれないということに気付かされて、胸がつまりました。クエンティンの母を探して旅をして、海と出合ったことが、4人の共通の喜びの経験となり、家族として結びついていくきっかけになっていて、そこはとてもうまい装置になっているなと思いました。失意のために、養母としての役目が果たせてこなかったミセスKが、最後に子どもたちのおかげで気力を取り戻し、立ち直るという結末も読後感がよかったです。
(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)