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雪の日にライオンを見に行く

『雪の日にライオンを見に行く』表紙
『雪の日にライオンを見に行く』
志津栄子/作 くまおり純/絵
講談社
2023.01

きなこみみ:大阪が舞台の物語で、大阪者としては非常に親近感がわく物語でした。「居場所」ってなんだろう、というのがテーマですね。唯人という主人公の民族的なルーツである中国残留邦人の問題、金沢から転校してきて、大阪にも学校になじめなくて「ひとりぼっちで外国にいるみたい」というアズという女の子の心情、唯人の母が捨ててしまった故郷の人との繋がりなど、さまざまな奥行で「居場所をさがす」ということが語られるのがいいなと思いました。ふたりで天王寺動物園のライオンを見に行くシーンが、とくに好きなところ。天王寺動物園は、新世界のすぐ横にあって、独特な空気感のあるところです。雑踏のなかに、いきなり動物園があって、そこにいるライオンというのは、確かに場違いな感じがするなあと思いました。大阪は、在日の方たちがたくさん集まっておられる町もあり、様々なルーツの人たちが集まりやすいところだと思います。一方で、関西弁がキツい印象を与えたり、ニュアンスが通じにくかったりして、疎外感を与える一面もあるよなあと、この物語を読んで改めて感じたりもしました。この物語も、やはり言葉の力について考えさせられました。集団のなかでひとりぼっちだと思う唯人は、何をするにも自信がなくて、黙りがちになってしまう。自分たちを捨てた父親へのもやもやも胸にたまって、余計に重い。でも、同じような疎外感を抱えるアズと言葉を重ねるうちに、少しずつ自分が好きになるのが、いいなと。p165で、唯人が、母と本音で話しながら「なんやこれ、気持ちええ!」と思うところが、とてもよかった。自分の思いを言葉にしてみる。誰かと共有する。それが「胸のおくにチカっとあかりが灯る」場所をつくることにつながって、人との繋がりが、ふるさとで、居場所なんだというメッセージが温かいです。ふたりの担任のみのり先生が、距離をとって見守りつつ、要所要所でぴしっというべきことを押さえていい役割を果たしているのが印象的。唯人の背景は非常に深く書けていて、それが唯人という人物のなかで有機的に繋がっているのに対して、アズのこだわっている、母との関係が、もう少しリアルに見えていたら良かったなとも思いました。

花散里:表紙とタイトルを見た時に、私は読んでみたいとは思えませんでした。「ちゅうでん児童文学賞受賞作品」であるということからかもしれませんが、日本の児童文学作品を読んでいて常に感じることは、外国の作品と比べて、内容が軽いというか浅いように思っています。外国の作品は、海外の良い作品を選んで翻訳者、編集者の方々が日本に紹介してくださっているということもあるのかもしれませんが、子どもたちに手渡したいと思う作品が多いと感じています。
本作でもひとりひとりの登場人物の描かれ方に魅力が感じられないこと、ビリケンや通天閣、あべのハルカスなど、大阪の土地勘がないと分かりにくいということも含めて、設定もよくないと思いました。祖父が残留孤児という設定にも無理があり、唯人の父親の描かれ方も明確ではないと思います。母親が淡路島の家族と、どういう形で決別したのか、その母親が、「家族に見せびらかしに行くんや」という展開にも、どうして唯人と行ってみようかと思ったのかが安易すぎるように感じました。アズの存在、中国語、なわとび大会など、いろいろなことを盛り込みすぎていて、物語の展開の仕方も軽すぎて、不満に思いました。新しい作家たちの作品を紹介していくという点では、文学賞受賞作品の刊行ということもあるのかもしれませんが、文学的に、子どもたちに手渡せる作品であるのかどうかという考察はしてほしいと思います。

ルパン:私はすっと読んでしまって、まあまあおもしろいと思いました。全体の構成としてどうかというよりは、一個一個の場面に共感する子はけっこういるんじゃないかと思います。共感できないとしたら、アズが、まわりがせっかく仲良くしようとしているのにまったくこたえようとしないところ。それでも仲間に入れようとするこのクラスは、なかなかいいクラスですよね。ふつうだったら、イジメとか、少なくとも仲間外れにされたりすると思います。
施設に行ったときに、アズがおばあさんに話を合わせたことをからかう文香を、唯人がやっとの思いでたしなめたシーンは印象に残りました。あと、私は大阪に住んでいたことがあるんですが、いろんなルーツの人が今も肩を寄せ合って生きている感じがしました。東京やほかの地方にはない大阪のふところの深さとともに、そこで生きる人の苦しさを垣間見た気がしているので、ここに書かれている人たちの、自分たちのルーツを守りつつも、それでもやっぱり、日本で生まれて日本で育って、自分たちは何人なんだろうという感情は、ていねいに描けているのではないかと思いました。

シア:まずこの題名なんですが、雪の日にライオンを見に行ったのって、ほんのワンシーンなんですよね。ライオンが絡んでくるわけでもないのに、なんでこんな印象的な題名にしたんでしょう? どちらかというとビリケンの方にスポットが当たっていますよね。それでライオンはどうしたの? と読後に気になってしまいました。信じられないほどクラスのみんながやさしいのも気になりましたが、前の担任の先生のクラス運営がよほどよかったんでしょう。それに最近は少子化なのでクラスの人数も少なくて、子どもたちにゆとりがあるのかもしれません。とはいえ、なんだか老成していますよね。アズが登校しなくなったりしているのに、保護者が絡んでこないのもなんだかリアリティがありません。先生の描き方もなんだかしっくりこなくて、学級崩壊ポイントもいくつかあったのに何事もなく通り過ぎているので、どうにも上っ面だなあと思いながら読んでいました。最近の日本の児童文学はこういうほわっとした作品が多いように思います。ほわほわと上がり下がりもなく平坦に終わり、人間関係の解決や掘り下げなどもあまりしません。とにかく無難なんですよね。毒にも薬にもなりません。ティーンエイジャーなら、漫画の方がよほどおもしろいと思います。文体の関西弁は、おもしろいはおもしろいんですが、ほぼセリフなんですよね。なんだかなあという感じです。それに大人なら中国との関わりなどわかりますが、子どもが読んで理解できるのか疑問です。大阪のいじりといじめについての感覚の差は感じることができました。ちゅうでん児童文学賞で大賞を受賞していますが、どの辺が受賞ポイントなのか知りたいですね。

ニャニャンガ:中国残留法人の祖父を持つ唯人と転校生の女子アズとの交流を通した成長物語で、コンパクトで後味のいい作品だと私は思いました。関西弁で書かれているおかげで標準語よりきつくなく、読みやすく感じましたが、全体的にほわほわとした印象は否めません。深くはないのかもしれないけれど、ひとりぼっち同士のふたりが近づいていくの、よかったです。

コゲラ:中国残留邦人の家族という設定は、いままで児童文学で無かったような気がして(私が読んでいないだけかも!)、とても新鮮で、いいなと思いました大阪弁で書かれていることにも好感が持てました。ただ、私は関西で暮らしたことがないので、大阪弁=饒舌という感じがあって、唯人の内面とちょっと合わないような気もしました。おそらく偏見だろうと、反省してますけどね。タイトルは魅力的だと思って読みはじめ、なにかクライマックスのいいところで、効果的にライオンを見にいく場面が出てくるかなと期待していましたけど、途中でちょこっと出てきただけで、肩透かしをくらったような気分になりました。作者のなかでは、故郷を離れて大阪のど真ん中にいるライオンと主人公たちがリンクしているのだろうけど。
また、おじいちゃんが孤児になって、中国の親に引きとられたことを書いてある箇所を何度も読みかえしたけど、ここもずいぶんあっさり書いてありますね。どうして赤ちゃんだったおじいちゃんに名前を書いた手ぬぐいが結びつけられていたのかとか、戦争を知っている世代には胸に迫る場面だけど、今の子どもにはわかるかな? 作者が意識的に避けているのかな? あとがきの「この物語に登場する先生や子どもたちは、もはやおとぎ話の住人? いえいえ、子どもたちは今も昔も変わりません。どこまでもやさしく、大きな包容力を持っています」という断定的な言い方にも違和感を持ちました。ひょっとして深刻なことは書くまいというこだわりを、この作者は持っているんでしょうか?

wind24:5年生の1年間の出来事ですね。引っ込み思案の唯人と、心をひらかない転校生のアズを中心に子どもたちが成長していく姿が描かれています。小さないざこざはありますが、クラスの子たちが概ね素直でやさしく描かれています。現実はもっとシビアだろうと思います。子どもたちの世界はもっと冷たく時には残酷なのでは? そこは、作者のこうあってしいという願いなんでしょうか。
唯人の父親は早くに蒸発していますが、それでもなお、母親は父親の家族のなかで暮らし、蒸発した父親の悪口を全く言いません。人間が出来過ぎているのでは?と思いました。と同時に、大家族で子どもがそこに自分の居場所があり、安心して生活できることには好感を覚えました。クラスが大繩跳びで次第に団結していきますが、大繩のモチーフはありきたりなので新しさは感じませんでした。また唯人が5年の終わりでは180度変わり、好少年に描かれ過ぎではないかとも思いました。話の終盤で、アズと唯人に淡い初恋の気持ちが芽生えるのは、ほほえましいと思います。

エーデルワイス;図書館から借りたこの本は「ちゅうでん教育振興財団」の寄贈になっています。(他にも地域によって何件かの図書館で寄贈図書になっていました。)私は、好きな作品です。主人公唯人の心の軌跡をたどって読んでいるようで、唯人の心は苦しいなと思いました。いとこを頼りに生きていたけれど、いとことその家族がうらやましかったと気づくところには唯人の成長を感じました。p47の9行目「…唯人が感じているのはやさしさの孤独…」いじめもないクラスだけれどその中の孤独はよくわかります。唯人とアズ、結末は安心するような書き方でしたが、想像するにこの先二人はまだまだ大変でしょう。唯人はお父さんを中国で探し対峙しなくてはならないし、アズは淡路島のお母さんの実家を訪ねたら、そこで新たな問題が発生するでしょう。金沢のお父さんに残りたいと主張しても無理やり大阪まで連れてきて、自分の忘れられない初恋の話をするようなお母さんとも長く向き合わなければならないですし。『中国残留邦人』を扱っていますが、それ自体の問題より背景としている気がします。雪の日に動物園へ唯人と梓がライオンを見に行くシーンは心に残り、私はタイトルについてもなるほどと思いました。

サンザシ:自分に自身が持てない二人の子ども──父親が中国に帰ってしまい母と二人で暮らしている唯人と、周囲にとけこもうとしないアズ──が、おたがいだけは警戒せずに友だちになり、次の一歩を踏み出せるようになる姿が、ていねいに描かれていました。悪い人物は一人も出てこないし、悪意あるいじめっ子も一人も出てきません。それはいいのですが、アズがイマイチくっきり浮かび上がってきませんでした。こういう子がいてもいいのですが、もう少し内面を描いてほしかったし、唯人のおじいちゃんにも大きな葛藤があったはずですよね。先日、来日したシドニー・スミスさんが、「子どもの本は様々な感情を安心して体験できる場。それが将来実際に困難にぶつかったときに役に立つ」とおっしゃっていました。だとすれば、ほわほわの物語でも少しは役に立つのかな、と思いましたが、これならマンガのほうがいいという意見にも一理あると思います。

アンヌ:私も題名と内容が合わない気がしました。唯人については知らない世界が描かれていて物語もていねいに彼を追っている気がしますが、もう少し、アズについて書かれてもよかったのではないかと思います。ライオンももう少し、活躍してもよかったんじゃないかと。大阪独特のノリとツッコミの会話が描かれていますが、悪気のないものであるとしても、転校生にはつらいだろうと思います。同じ立場の子がこれを読んでホッとするかは疑問です。現実の小学校生活はこんなに忙しいのかもしれませんが、行事3つは多すぎる気がしました。

ハル:「そういうやつがおってもええ」っていうメッセージには、読者としてはだいぶ救われる思いもあるけれど、アズ本人が自分の性格を持て余しているので、「そういうやつがおってもええ」が、救いになるのかなぁ、どうかなぁ。著者は、現在は岐阜県にお住まいのようで、舞台とあった大阪とはどういうつながりがあるのかわからないけれど、金沢からきたアズがとても気取った話し方をしているような印象があり、そのあたりに大阪至上主義的なものも感じます。金沢の言葉遣いがこういうものなのか、関西の言葉以外はいわゆる標準語で書かれたのか、ちょっとよくわかりませんでした。

西山:私は好感を持てませんでした。ということでネガティブなコメントばかりになりますが……。タイトルはムード優先で思わせぶりに感じます。全体的に、設定の大渋滞。元号ばかりで、いつ、だれが何歳の時、それから何年というのもすんなり分からないし。大縄跳びは、地域により学校により違うと思いますが、男女別にする必要がわかりません。へなちょこ男子が、ちょっと生きづらさをかかえている女の子の前では急に立派になって、上から目線で振る舞うのは、それが唯人の成長として読めるのでしょうけれど、私は抵抗を感じました。アズのほうがよっぽどしっかりしているのに。バスの中のいじりのしつこさが耐え難く、それで唯人が立ちあがったのは展開としてはわかりますけれど、最終的に、悪気はないのだからこの大阪ノリを受け入れようよというベクトルを作品が持っている気がして、そこも抵抗を感じます。長縄跳びというところから、梨屋アリエさんの『ツー・ステップス!』(岩崎書店)の深さを思いだしたことでした。

コアラ:今回の選書係だったのですが、書店で見てよさそうだなと手に取って、読んでみてなかなかよかったので、選びました。今まで何度か読み返したのですが、どうしても一言でまとめられないという気がしています。作者は、やさしい世界を描きたかったのだと思います。現実というより、やさしさのほうに振った世界です。クラスを仕切る女の子がいて誰も逆らえないけれど、陰湿ないじめがあるわけではなく、クラスに馴染めない転校生のアズも除け者にしない、という「受け入れる」風土のあるクラス。やさしい環境だけれど、やさしさの中の孤独を唯人が自覚する場面があって、そのやさしさの中の孤独が、この作品の空気感になっていると思いました。登場人物の心情がよく描かれていて、どの人の思いもよくわかるなあと、私は共感しながら読みました。中国残留邦人だった祖父の思いや言葉が、唯人の中に根付いていくのも、世代を超えて受け継がれていくのがいいなと思いました。みなさんのお話を聞いていて、私は気づかなかったけれど、ああ、なるほどなと思えるものあったりして、いろいろな意見が聞けてよかったです。

コゲラ:お正月におじいちゃんの家で開口笑というお菓子を初めて食べた……という場面ですが、そんなにおいしいお菓子なら、どうして唯人はいままでごちそうしてもらえなかったんだろうと、ちょっとばかりひっかかりました!

(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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橋の上の子どもたち

『橋の上の子どもたち』表紙
『橋の上の子どもたち』
パドマ・ヴェンカトラマン/作 田中奈津子/訳
講談社
2020.11

ルパン:この作品は出版されてすぐに読みました。細かいところを忘れていたので、再読でもう1回。感動しました。ラクが最後に死んでしまうことは覚えていたので、それがわかっていて最初から読むと、いっそう切なくて。ひとりでも多くの子どもたちが助けられることを祈ってやみません。実は、ワールドビジョンという団体の活動で、インドの男の子のチャイルドサポーターを10年近くやっていたのですが、ここへきてインドの政策により突然シャットダウンされてしまい、お別れを言うことすらできませんでした。国内にこんなにたくさんのホームレスの子どもや児童労働の問題があるのに、外国の支援は受けないというのです。この子たちを救う国のシステムがあればいいのに、と思うのに、それどころか、何かしたいと思っても国がじゃまするんです。二重の意味で切ない思いでした。

さららん:父親の暴力から、障害のある姉さんのラクを守ろうと、ヴィジは家を出る決心をします。大人の目から見れば暴挙かもしれないけれど。案の定、ふたりは住むところにも食べるところにも困りますが、橋の上に住むアルルたちと出会い、なんとか生きるすべを見つけます。ラクは、ヴィジが思っていた以上に手先が器用で、ラクの作ったネックレスが売れて逆にヴィジたちが救われる場面もあります。そこに障害のある子の力を制限しているは、むしろ周囲の人間なのだ、という作者の視点を感じました。実際にあったエピソードをつなぎあわせて書かれたこの物語は、ラクが病気にかかり死んでしまうまでの過程も、罪悪感に苦しむヴィジの心の回復もていねいに描かれ、「前に進むことは、ラクを置いていっちゃうことではないって、やっとわかったの」(p249)という言葉に行きつきます。私は自分の経験も思い出し、この言葉が胸にしみました。作中では、子どもが子どもらしく描かれ、笑ってしまう箇所もありました。人物像は表層的かもしれませんが、人生経験の少ない子ども読者にとって、暴力や貧困と闘いながらインドで生きる日々のお話を先へ先へと読んでいくためには、人物はこのぐらいの軽さでちょうどよいように思えました。先日観たばかりの映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」(サラ・ポーリー監督)でも、村の男性たちから長い間性的暴行を受けてきた村の女性たちが、自分たちの尊厳を守るために議論を重ね、ある選択をします。家出をするというヴィジの選択は、自分たちの尊厳を守るための行為だったんだ、と重ねて思いました。本人はそう言葉にはしていないし、言葉にできるはずもないのですが。

サンザシ:JBBYで出している「おすすめ! 世界の子どもの本」でも、この本がおすすめされていましたね。南インドの貧困を描きながら希望も描かれているのがいいと思いました。でも、ちょっと主人公がいい子過ぎて、立体的に浮かび上がってきませんでした。アルルの人物像も同じです。これだと、キャラクターがリアルに感じられないので、子どもの読者が主人公に一体化してお話の中に入っていくのが難しいなと思ったんです。遠い国にかわいそうな子がいるという感想で終わってしまうような気がして。この父親も、なぜ暴力をふるうのかがよくわからないので、リアルには浮かび上がってきませんでした。登場キャラクターが、一定の役割を負わされているだけで立体的なリアルな存在に感じられないのが、私はとても残念でした。

ハル:冒頭で家庭内暴力の描写がけっこうきつかったので、ん? これは、小学生でも読めると見せかけて、本当はもうちょっと上の年齢向けの本なんじゃないの? 対象年齢、大丈夫? と疑ってしまいましたが、読み進めると、主人公たちと同じくらい年代の、小学高学年くらいから読んでほしい本だなと思いました。ハンディのあるお姉ちゃんラクを、しっかりものの妹ヴィジが助けているように見えて、ラクがいなかったら、ヴィジのサバイバルはもっともっと過酷なものになっていたかもしれませんね。ラクに助けられている部分はとても大きい。そういう点でも、遠い国の恵まれない子どもたちの話、と思わず、自分たちと同じ年ごろの子どもたちの物語として読んでもらえたらと思いました。

アンヌ:ヴィジが家出をするときに働けば何とかなると思っているのが、いかにもインドという国を表しているなと思いました。大勢の子供たちが働かされている社会なんだなと。さらに、ゴミの山の男のようないかにも裏社会につながりのある男だけではなく、バスの運転手として働く男も、家出少女と見ると捕まえて商品として売り飛ばそうと追いかけていることに衝撃を受けました。もちろん、日本社会でも少女たちを性的な商品として扱う人間がいますが……。男の子でも、ムトゥのように売られて強制労働させられる子供たちがいる社会なのだということにも、恐怖を覚えました。そんな中で、彼女たちを商品として見ない少年たちに会えたのは運がよかったと思います。いろいろな宗教がある国である割には、キリスト教色が強い作品だと思いました。ムトゥに比べてアルルの話す言葉はときたま牧師さんのようで、ちょっと不思議な感じもしました。後半のラクの死に傷ついたヴィジの心が回復するまでを実にゆっくりと書いてあるところはよかったなと思います。他の国とは違う時間の流れを感じました。最後にヴィジがDVを繰り返す父親を許して家に帰ったということにしないで、自分の道を選んだと作者が書いてくれたことが、これを読む読者のためにも、とてもうれしいです。

雪割草:この作品を選んだのは、日本の子どもたちは読んでどう思うだろうか、果たして興味をもって読めるだろうかと考えてしまうところがあり、みなさんの意見を聞いてみたいと思ったからでした。15年くらい前の学生の頃、インドの児童労働の被害にあった子どものための施設に行って泊めてもらい、子どもたちと一緒に過ごしたときのことを思い出しました。厳しい現実を生きている子どもたちのことは、ぜひ知ってもらいたいと思います。でも、学校で出前講座などをしてきて思うのは、興味をもってもらうには、小さなことでいいので、つながりを感じてもらえるような仕掛けが必要です。この作品は、子どもたちの食べものや暮らしぶりなど生活感がとてもリアルに描かれています。それから、信じるということが鍵になっています。でも、遠い国の話で終わらないようにする仕掛けが、もう少し必要かなとは思います。

花散里:刊行されたとき、父親からの虐待やインドの階級制度の中での子どもたちの様子に衝撃を受けて読みました。今回、読み返して、カースト制度の中で、障害を持った姉を持つ少女が、残虐な父親の暴力などから二人で家出をした後の生きざまがよく描かれていると感じました。私の勤務校では高1生が、アジアの国々に研修に行きますが、昨年、インドに行った生徒たちがカースト制度の中での自分たちと同世代の子どもたちについて動画を作成して報告していました。日本の子どもたちがインドなど、アジアの国々の実情を知ることは大事だと、本作を読んで思いました。障害を持った兄弟を描いた優れた作品はありますが、姉のラクに対するヴィジの思い、特にラクが亡くなってしまったことへの自責の念など、ていねいに描かれていると思います。登場人物、とくにアルルはキリスト教の教えとともによく描かれ過ぎではと思うところもありましたが、逆境の中でも手を差し伸べてくれている誰かがいるということがヴィジにとっては救われる存在だったのではないかと思いました。障害があるラクがビーズのネックレスを作るのが得意であることなどの表現も印象に残りました。インドという国を知っていくうえでの作品としても、子どもたちに手渡して行きたい作品だと思います。

シア:今回の本は夏休みだったせいか、なかなか借りられませんでした。「ふたりがいつまでもいっしょにいること。それは、あたしが信じていた数少ないことの一つだった。」(p6)とあったので、これは絶対に重たい内容の本だと思い、覚悟して読みました。物語のテーマがとてもわかりやすくかっちり作られているので、まさしく読書感想文用の本だと思いました。でもそのせいか、いい子や大人な子が多かったように思います。主人公のヴィジはとても大人すぎました。11歳で姉を連れて家出を決意するなど、そうそうできるものではないと思います。アルルも悟りすぎではないかと思うほどで、クリスチャンのよい面を描いているようにも感じました。とはいえ、子どもたちみんなはとても可愛らしく、台詞の一つ一つが愛らしかったです。家族を愛しているのが伝わってきます。小説では登場人物の死はイベントとして描かれやすいですが、この本はそうではなく残された人たちの心をていねいに描いていました。そこがリアルに感じました。現実によく起きていることだからなんでしょうね、胸が痛いです。だから余計に父親や母親についての追及もほしかったです。「父さんをも愛することができるようにね」(p246)とありますが、そこまでされても父親を愛さなければならないのでしょうか。インドだけでなく日本でも貧困家庭の問題はありますので、他人事ではないと思いました。ところで、この作品は食べ物や服などのインド特有の文化がおもしろいです。異文化を知ることができるのは海外児童文学ならではの魅力だと思います。最後に、題名なのですが「橋の上」でいいのでしょうか。読んでみると「橋の下」ではないかと思うのですが。

ルパン:ほんとうに橋の上です。たまに翻訳者もまちがえて「橋の下」なんて言ってますけど、廃墟になった橋の上に住んでいます。

wind 24:20日ほど前に読み、読み返しができなかったのでおぼろげな感想です。インドではカースト制度は70年も前に廃止されたにもかかわらず、未だに社会に深く入り込んでいて、抜け出せない貧富の差があります。この物語では、いちばん底辺にある「隷民」に生まれた姉妹が主な登場人物として出てきます。障がいのある子ラクの家族の中での扱いや、暴力でしか問題解決ができない生活能力のない父親、その夫に逆らえない無気力な母親。家庭の中が殺伐としていて家族の結びつきが希薄です。その中で姉を思いやるヴィジの言動が突出し過ぎる描かれ方だなあと、今となっては少し違和感を感じます。物語の構成はおもしろいのですが、登場人物の描き方が平たく、あまり魅力を感じませんでした。おしまいに父親がようやく登場しますが、天然なのか卑屈なのかよくわからない描き方なので、ここで登場させる意味があったのでしょうか。ヴィジが父親の言動から、母親が何度裏切られてもそのたびに父親を許してきたことが理解できたような気がする、とありましたが、果たして12歳くらいの少女がそんな気持ちに到達するのだろうかと共感できませんでした。日本の子どもたちに想像ができない部分や自分事としてとらえられない部分があると思うので、まずは背景を知ることからも、『みんなのチャンス ぼくと路上の4億人の子どもたち』(石井光太/作 少年写真新聞社)で、ヴィジたちのような子どもたちがいることを知ってほしいと思いました。先進国に住む私たちの人間活動がどんなふうに発展途上国の人たちに影響を及ぼしているかをも、こどもたちに伝えていきたいと思います。

エーデルワイス:訳がよくて読みやすい本でした。その日その日の食べ物を確保するところ、飢え、腐ったバナナを食べるところなどリアルに伝わってきました。p243でお父さんの暴力をどうしてお母さんが許してきたのか、11歳のヴィジが分かるところが凄い! その場で心から許しを請うているお父さんを一瞬許しそうになりますが、流されずに自分の未来へ邁進するヴィジの姿が清々しいラストでした。

すあま:同じ作者の『図書室からはじまる愛』(パドマ・ヴェンカトラマン/作 白水社)がとてもよかったので、期待して読みました。あとがきにも書かれていたように、インドの大変な状況にある子どもたちのことを知ってほしい、ということが前面に出ている本だなと思いました。最後は前向きな感じで終わるけれども、その後もまだ苦労は続いていく。続きを読んでみたい気もしました。読み終わってから少したってみると、何か物足りない、心に残らない感じがしたのが残念です。

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西山(メール参加):p7本文冒頭の「ラク、あなたはあたしの妹みたいに感じていたでしょ?」に始まる段落で、ラクを妹みたいに感じていたのは「あたし」自身でしょう?と思ってひっかかってしまい、冒頭から不信感を持ちながら読むことになってしまいました。あと、p9L8「「二百ルピー!」……ポケットに入れる前に落っことしそうになった」では、え?受けとっていたの?とつまづき、p25最後ではラクがあんなに大事にしていた人形マラパチ拾わないの?と気になり、その後ラクがいつマラパチがないとパニックを起こすかと心配して読み進めたのですが、言及はなく、それでいて最後の最後に現れた父親がマラパチそっくりの木の人形を持ってくることに不自然さを覚えました。
p66では、チャイ屋のおばさんの子どもの形見と言えるレインコートなのに、失っても、そのことには全く心を向けていない様子(防水シートとしてしか考えていない様子)には、非常に違和感を覚えました。これは、訳文の問題ではなく、私がウェットなだけでしょうか。
訳文の問題と、作品の問題と、単に異文化の問題と、それぞれだと思います。全体としては子どもの生存権という観点から、この作品がどこにどういう風に資することができるのか……。インドという「遅れた国」の、「昔」の話として日本の子どもに消費されるだけで終わらないためには何が必要なのか、そういうことを考えて行く材料にはなるでしょうか。

しじみ71個分(メール参加):インドで路上生活を送る子どもたちの姿を描く物語でしたが、支援活動に携わる作家さんだけに、描写がリアルで、胸に迫りました。暴力をふるう父親から、障害のある姉を連れて逃げ出し、路上生活をする少年たちに出会いますが、この少年たちのキャラクターも、物語の中でのそれぞれの役割も明確で、物語に優しさや深みを与えていたと思います。こんなよい子たちにたまたま会えたのは出来過ぎな気もしますが、彼らとの出会いがなくて、もっと厳しい状況を体験するような展開になっていたら、リアルかもしれないけど、辛すぎて読み進めにくくなったかもしれないですね。ラクがデング熱で死んでしまうのも、大人を信用せず、誤った情報を信じ込み、力を借りなかった子どもらしい未熟な判断のためで、とても悲しく切ないのですが、それも大人が子どもを大切にしない現実が子どもを追い詰めた結果なので、重たい課題として胸に刺さりました。おそらく、実際には、この物語よりずっと悲惨な現実があるのだと思います。この物語を読んだ子どもたちが、作中の子どもたちを可哀想だと思うだけでは「施し」の視点でしかないので、作者後書きにあるように、子どもを大切にする世界を作るにはどうすればいいのかをわが事として考え、さらに知っていこうとするように、手渡す大人が繋げていかないといけないなと思いました。
障害のある姉のラクが自分の痛みや苦しみよりも先に人のそれを思う気高さは、とても魅力的ですが、そこには少し障害者の聖人化のニュアンスを感じつつも、この物語の中ではとても美しく、深みを与える大事な要素になっていて、私はとてもよかったと思いました。

(2023年08月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ティーカップ

『ティーカップ』表紙
『ティーカップ』
レベッカ・ヤング/文 マット・オットリー/絵 さくまゆみこ/訳
化学同人
2023.09

オーストラリアの絵本で、移民・難民をテーマにしています。最後の文がないところがいちばん大事なところなので、そこをちゃんと見てもらえるとうれしいです。移民・難民の人たちは自分が生まれ育った場所の文化をもって新たな天地にやってくるということが象徴的に表現されています。移民が多く多様な文化を受容してきたオーストラリアならではの絵本でもあり、今の世界が直面している問題についても語っていると思います。

IBBYのオナーリストにオーストラリアから推薦されて掲載されていた絵本で、絵がとてもいいのです。ただ原著はマットコート紙なのに、日本語版は上質紙なので、ちょっとそこがもったいなかったかな。

(編集:田村由記子さん 装丁:神波みさとさん)

『ティーカップ』本文絵

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長い長い夜

『長い長い夜』表紙
『長い長い夜』
ルリ/作・絵、カン・バンファ/訳
小学館
2022.07

『長い長い夜』をおすすめします。

「ぼく」は、雄カップルがあたためた卵からかえった子どものペンギン。一緒に旅をしているのは、角を狙う密猟者に家族も友だちも殺され、人間への復讐を決意している地球最後のシロサイ。シロサイは、子どもペンギンに父親たちの話をしてやり、守り、一緒に戦禍を生き延びていく。生命や愛について、さまざまなことを感じさせ、考えさせてくれる。最近の韓国の作品は本づくりも内容も面白いのが多いが、異種交流のこの寓話もその一つ。世界のサイ5種は、実際にどれも絶滅の危機に瀕している。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年8月27日掲載)

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タフィー

『タフィー』表紙
『タフィー』
サラ・クロッサン/作  三辺律子/訳
岩波書店
2021.10

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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なかよしの犬はどこ?

『なかよしの犬はどこ?』表紙
『なかよしの犬はどこ?』
エミリー・サットン/作・絵 のざわかおり/訳
徳間書店
2022.02

『なかよしの犬はどこ?』をおすすめします。

知らない町に父親と引っ越してきたペニーは、庭にやってきた犬といっぱい遊んで寂しさを忘れる。どこの犬だろう? ペニーと父親は、買い物をしながら犬のことをたずねてまわる。こうして町の人たちと知り合いになったものの犬は結局見つからない。しょんぼり帰ってくると、お隣からあの犬と男の子がひょっこり顔を出した。寂しさを抱える子どもが友だちを得るという展開に共感できる絵本。町の人々の肌の色、ペニーのおもちゃ、父子家庭の有りようなどいろいろな意味でステレオタイプを打ち破っている絵も楽しい。
3歳から

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年04月30日掲載)

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わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス〜 ふたつでひとつのマザーグースえほん

『わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス〜 ふたつでひとつのマザーグースえほん』
モーリス・センダック/作 じんぐうてるお/訳
冨山房
1996.11

ホームレス,病気,飢饉,エイズなどの社会問題に目を向け,マザーグースの詩にのせて展開する,不思議な魅力のファンタジー絵本。 (日本児童図書出版協会)

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さがす

長倉洋海『さがす』表紙
『さがす』
長倉洋海/著
アリス館
2020.05

『さがす』をおすすめします。

著者がこれまで撮りためてきた世界各地の子どもたちの写真に、自分自身の来し方を重ねた写真絵本。「自分の場所」はどこなのか? 「生きる意味」は何なのか? 今年68歳になる著者は、それをさがして、弾丸のとびかうアフガニスタンやコソボ、極寒のグリーンランド、灼熱(しゃくねつ)のアラビア半島など、さまざまな環境の中でさまざまな生き方をしている人々に出会ってきた。そして今、ようやくその答えを見つけ、「さがしていたものは、いま、自分の手の中にある」と語る。世界を駆けめぐってきた写真家ならではの、その答えとはどういうものなのか? 心にひびく写真の一枚一枚、言葉の一つ一つを味わいながら、読者も一緒に考えてみてほしい。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年8月29日掲載)

キーワード:写真、世界、さがしもの

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天才ルーシーの計算ちがい

『天才ルーシーの計算ちがい』表紙
『天才ルーシーの計算ちがい』
ステイシー・マカナルティ/著 田中奈津子/訳
講談社
2019.04

『天才ルーシーの計算ちがい』をおすすめします。

12歳のルーシーは雷に打たれて以来、どんな難問でも解ける数学の天才になった。ある日ルーシーは、親代わりの祖母から、ホームスクールを卒業して学校に行くように言われるのだが、極端な潔癖症だし変な癖もあるのでいじめを受け、すぐに学校が嫌になってしまう。そんなルーシーが、数学以外の世界でも自分の居場所を見つける物語。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年7月27日掲載)

キーワード:学校、いじめ、数学(算数)、居場所

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ひみつのビクビク

『ひみつのビクビク』表紙
『ひみつのビクビク』
フランチェスカ・サンナ/作 なかがわちひろ/訳
廣済堂あかつき
2019.04

『ひみつのビクビク』をおすすめします。

異国で暮らすことになった子どもの気持ちを、わかりやすく描いた絵本。不安や恐怖をビクビクという存在で表現している。主人公の少女は、本当に危険なことを避けてくれるビクビクを友だちだと思ってきた。でも言葉もわからない異文化の中に放り込まれると、ビクビクがどんどんふくらみ、少女の気持ちは急速に縮こまってしまう。今後は日本にもこのような子どもが増えてくるだろうと思うと、テーマがタイムリーで、子どもの立ち直る力にも目が向けられている。(5歳から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年4月27日掲載)

キーワード:不安、居場所、絵本

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たったひとりのあなたへ〜フレッド・ロジャーズからこどもたちへのメッセージ

リード&フェラン『たったひとりのあなたへ』(さくまゆみこ訳 光村教育図書)表紙
『たったひとりのあなたへ〜フレッド・ロジャーズからこどもたちへのメッセージ』
エイミー・リード/文 マット・フェラン/絵 さくまゆみこ/訳
光村教育図書
2020.01

アメリカの絵本。フレッド・ロジャーズというのは、アメリカで半世紀以上親しまれた子ども番組の制作者でありメインキャストでもあった人。子どもの言うことに耳を傾け、子どもをどこまでも尊重しようとし、ゆっくりとしたペースで番組を進めていきました。自分が小さいときにいじめられたり、孤独だったりした時のことを忘れず、子どもたちには「あなたはあなたのままでいい。あなたらしく生きればいい」と語りかけていました。また社会の偏見を打ち破ろうとした人でもありました。

彼の番組はYoutubeでもいくつか見られるようですので、のぞいてみてください。

たしかに古い感じはしますし、のんびりとした趣ですが、今アメリカでは、フレッド・ロジャーズが見直されているようです。トム・ハンクスが主演する映画もできています。それは今の刺激の多すぎる社会や、トランプ的な存在にノーと言いたい人も増えているからかもしれません。

(編集:吉崎麻有子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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ソロモンの白いキツネ

『ソロモンの白いキツネ』表紙
『ソロモンの白いキツネ』
ジャッキー・モリス/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2018. 10

アンヌ:きれいな、いい表紙絵だとは思うのですが、なんとなく手に取った時からこの絵で先入観を持ってしまって、アニメの『あらいぐまラスカル』のように野生の白狐を飼う話だと思いこんでしまいました。p29~p30の見開きの絵からも、この父親は白人だと思って、なかなかイヌイットの人々の話だと気づけませんでした。10年以上も、学校でも父親とも会話を交わしていない少年が、不意にソロモンのように知恵者のような発言ができるところは腑に落ちません。読んでいくと、最後のほうは「信太の狐」の伝説のようで、前半の野生のキツネの話がイヌイットのおとぎ話に移行していくのかなと思いましたが、リアリティのある感じからそれも違うように思えて、うまく物語の中に入りこめませんでした。

コアラ:絵本のようなつくりだと思いました。読み終わって改めて見ると、絵は最初と真ん中と最後の3枚しかなかったのですが、情景が思い浮かぶような物語で、本の形と内容が合っていると思いました。白いキツネとソルは深いつながりがあるということが、読むにつれてだんだんわかってくるし、父親の悲しみも描かれていて、しみじみと深みのある物語だと思います。じいちゃんとばあちゃんが先住民族だったことや、読み書きができないことが出てくるけれど、それがあまりたくさんは書かれていないので、逆に読み終わってからあれこれと考えをめぐらせることになりました。余韻と深みのあるいい本だと思います。大人にもおすすめですね。

イバラ:最初読んだときは、私もソルが先住民の子どもだということがわかりませんでした。読み直してみて、よくわかりました。p53に「民族」という言葉がありますが、これを「先住民族」としてくれると、最初からもっとくっきりわかったように思います。都会で居心地悪く暮らしていた先住民の父と息子が、ホッキョクギツネの導きで故郷に帰る話なんですよね。祖父母の自然に近い暮らしの中で子どもが癒やされるという話はたくさんありますが、これは、それだけでなく、ソルが文字の読み書きのできない祖父母に文字を教えるという場面もあり、お互いに補いあっていくのがいいですね。父と息子も、故郷に帰ることによって理解しあうようになるんですね。それに、文章がもつイメージが、すばらしく美しいですね。私はタイトルだけ違和感が少しありました。ソルが、キツネは自分のものではない、自由な存在だと言っている場面があるので、「ソロモンの」じゃなくて「ソロモンと」のほうがいいかと思ったんです。

カピバラ:とても静かな印象の物語。言葉少ないけれど、その裏にいろいろなことが隠されていて、あとから物語の背景がわかってくるようなところがあります。小さな作品ではあるけれど、大きなことを伝えようとしていると思いました。黒い髪に黒い目でいじめられるのですが、主人公が先住民族だということは、日本の読者にはわかりにくいと思いました。心に残る作品でした。

リック:とても美しい物語。絵も素晴らしい。読後、じんわりと心に残り続ける、出会えてよかった作品です。ただ、主人公の男の子もお父さんも、ちょっと語りすぎなのが気になります。いじめと戦う必要はない、という主人公の言葉はとてもいいと思いました。これはいじめがメインテーマの話ではないけれど、いじめられている当事者が読んだら、勇気づけられる言葉だと思います。ずっと本棚においておきたい1冊です。

マリンゴ: 絵がとにかく素敵でした。作者がイラストレーターというプロフィールを見て、この人の絵かと思いこんでいたら、違うんですね。途中でそれを知って、実はショックでした(笑)。本の装丁などが、モーパーゴの『だれにも話さなかった祖父のこと』(あすなろ書房)を想起させました。版元も一緒ですものね。旅をするうちに、距離が近くなっていく父と息子、いいなと思います。あと、子どもが、いじめのある学校に行かない、と主張できるようになるところも印象的でした。p49 「あいつらとたたかう必要なんてない。ぼくがいじめてくれってたのんだわけじゃないんだから」という言葉が頭に残っています。1つだけ気になるのは、ホッキョクギツネがすべてのキーワードであることを、ストーリー上の随所で強調されている点。ああ、すべてがつながっているんだなぁ、と読者が気づいて余韻を感じるスペースがないように思えて、わずかに残念でした。

しじみ71個分:今回読んだのは2回目で、1回目はいい話だと思ったけれども、あっさり読んでしまいました。今回、さらりとおさらいしたくらいですが、ページをめくっている間にもじんと心にしみてくる静かな感動がありました。その魅力はなんだろうかと考えました。白いキツネも主人公のソロモンも都会に似合わないものとしてやってきて、一緒に故郷へ帰る旅をする中で、母親を失った後、おかしくなった父親との関係も修復されていくというのもよかったし、また、故郷の祖父母の背景まで理解が深まっていきました。白いキツネは象徴的な存在で、自然と共生するイヌイットの、ソロモンのオリジンの文化や民族の血脈の高貴さが美しく表されていると思いました。学校で黒い目や髪を理由にいじめられたりする日常を脱し、故郷に帰るにつれて、自分の中の民族のルーツに気づいてだんだんと強くなり、彫刻家になりたいという気持ちに気づき、前向きに考えられるようになるという流れが表現されています。気持ちよく感動して読みました。絵も著者が描いたと思っていたのですが、違いましたね。で、絵を見て、車に乗っているお父さんは白人っぽいなと思い、ソロモンはハーフなのかなと思って読んでいました。

さららん:読んでいて、うれしくなった作品です。引き締まった訳がいいですね。ソルの視点ではじまりながら、短い文章の中ですっと第三者の視点に移行し、父親の感情に入っていく。たとえばp9など、その移行が自然で見事です。p13「ソルは息を長く吐きだした。ほんとうにいたんだ。シアトルの波止場のどまんなかに、まいごになった場ちがいなホッキョクギツネが、ぽつんと一匹。まるで、ソルとおなじように」。この最後の文章で、「まるで自分と同じように」とは訳さず、「ソル」と名前を出すことで、読者は主人公の気持ちにうまく近づけるように思います。ほかにも、そのキツネを、波止場の男たちがピーナッツバターのサンドイッチでつかまえるところなどに、さりげないユーモアを感じました。ソルは学校での疎外感、父親は妻を失った悲しみを抱え、二人とも都会の暮らしになじめずにいるのに、それを内側に抱えこんでしまうタイプです。鍵となるホッキョクギツネ(母親の愛の象徴?)の登場により、物語が動きはじめ、自分らしい生き方をとりもどしていくまでが、センスよく描かれています。読後感もさわやか。こんな作品もあるんだよと、本をあまり読んでいないYA世代にすすめてみたいです。個人的には、イヌイットのテーマを掘り下げた、もっと書きこんだ作品も読みたくなりました。

鏡文字:とても美しい物語だと思いました。絵がきれいというだけでなく、文章から惹起されるイメージが視覚的にきれいです。白いキツネ、森、オーロラ・・・・・・。冒頭、ソルがソロモンの愛称だとわからなかったんです。これは、英語圏ではあたりまえのことなんでしょうか。

イバラ:p33に出てきます。ソロモンの愛称がソルだって。訳者の千葉さんがここで入れたんでしょうね。

鏡文字:p33というと、ほぼ中間なので・・・・・・。まあ、見返しをちゃんと見ればすむ話でしょうが。12歳というのも、見返しには説明がありますが、そこを読まずに本文を読み始めてしまい、人物設定を理解するのに戸惑ったこともあって、冒頭部分がちょっと入りづらかったです。後半はテーマが盛りだくさんです。先住民のこと、いじめのこと、文字のこと・・・・・・。いじめのことは前半でも触れられますが、先住民=いじめられる対象、ということでいいのかな、というのが少し疑問でした。だれ一人、味方してくれなかったのでしょうか。ある種、象徴的作品ということだからなのかもしれませんが、どことなく二項対立的に描かれているようにも思えて。美しい作品ですが、物語として読むと少し舌足らずで、詩的で象徴的な作品とすると、やや饒舌かな、という印象です。

ハル:コアラさんもおっしゃっていましたが、私も今改めて見直して、あれ? こんなに絵が少なかったんだっけ、と思いました。全ページに絵が入っていたような感覚で、文章もイラストも、心に視覚的な余韻が残るような、味わい深い本だなぁと思います。今回の3冊の中では、このお話は、異なる世界、文化が受け入れられなかった話ですね。今いる場所が自分に合わない場合、逃げるのでも、戦うのでもなく、自分に合う場所を選択していくこともできるんだというメッセージは、とても大事なことだと思います。それでも、異なる文化との断絶ではなく、少しずつ変わっていくのではないか、これから始まってくのではないかと思わせる、優しいラストでした。

すあま:スターリング・ノースの『あらいぐまラスカル』のように野生のキツネを飼って最後に野生に戻す、という話かと思って読み進めていったら、キツネには名前もつけずにあっさりと山に帰したのが意外な展開でした。でも、ふるさとがアラスカであるということが、なかなかわからなかったので、日本の子にはどこの話なのかぴんとこないのではないかと思いました。アラスカとシアトルの位置関係もわかりにくいのでは? 登場人物が少なく、文章も少ないので、長編がまだ読めないような中学生にもすすめられると思いました。読後感もよかったです。

西山:いま、うかがって、ああそういう読者層が想定できるのかと思いました。展開が早いのに驚きつつ読んで、絵本ではないけれど、たっぷりのドラマがあるはずだけれど、文章は少ないし・・・・・・と、だれがどのように楽しむのかイメージできなかったんです。半ば、散文詩を味わうような感じでさらさらぁっと読んでしまった感じです。

まめじか:「まいごになった場ちがいなキツネ」と、都会になじめなかった母親、学校で居場所のないソルの姿が重なります。「子どもの人生だって、そんなに気楽で楽しくなんかない」(p34)というセリフには、深くうなずかされました。「オーロラのなかにはかげもあって、そこには死者の魂が宿っているとも信じられている」(p58)という文章をはじめ、全体をとおして人生の美しさと苦さを見据えています。作者のまなざしの深さを感じました。母親とキツネは特別な絆で結ばれていたと、イヌイットの祖母は語りますが、ジャッキー・モリスの『こおりのなみだ』(小林晶子/訳 岩崎書店)も、人と動物の魂の結びつきを描いています。これは、クマの赤ん坊が人の子として育てられる話です。

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エーデルワイス(メール参加):12歳のソロモンの心の動きがていねいに描かれていますね。ソルがおばあちゃんに「はじめるのに遅すぎることはないよ」というところが、とてもいい。今年読んだ本のマイベストになりそうです。

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

アラン・グラッツ『明日をさがす旅』(さくまゆみこ訳 福音館書店)表紙
『明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち』
アラン・グラッツ/著 さくまゆみこ/訳
福音館書店
2019.11

この本の主人公は3人。ヨーゼフと、イサベルと、マフムード。ドイツのベルリンに住んでいたユダヤ系のヨーゼフは、ナチの迫害を受けて、1939年にハンブルク港からキューバ行きのセントルイス号に乗り込む。キューバのハバナ郊外に住んでいたイサベルは、政権に反抗する父親が逮捕されそうになり、1994年にボートでアメリカを目指す。シリアのアレッポに住んでいたマフムードは、2015年に空爆で家が破壊され、難民を受け入れてくれるはずのヨーロッパに向かう。

時代も場所も異なる3人の難民の子どもたちの物語ですが、やがて彼らの運命の糸が思いがけなくも結びついていきます。私たちの想像を超えた危険や迫害にさらされ、恐怖に脅えながらも、子どもたちは、明日への希望を失わず、居場所をさがし、成長していきます。歴史的事実を踏まえたフィクションです。

時間・空間が交錯するのですが、グラッツのストーリーテラーとしての腕がすばらしい。読ませます。

(編集:水越里香さん 装画:平澤朋子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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<紹介記事>

・「朝日新聞」(子どもの本棚)2019年12月28日掲載

今、地球上にはふるさとを追われ命の危険も覚悟で国外へ移り住まなくてはならない人たちが大勢いる。この物語には、そういう状況にありながらも希望を失わずに生きていく子どもたちの姿が描かれている。ナチスの迫害からのがれるユダヤ人の少年。カストロ政権下のキューバからアメリカに向かう少女。内戦中のシリアからヨーロッパを目指す少年。同時進行でつづられる三つの物語が最後のほうでつながるところが圧巻である。難民問題を考えるきっかけにしたい1冊。(アラン・グラッツ作、さくまゆみこ訳、福音館書店、税抜き2200円、小学校高学年から)【ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん】

 

日本にも続く「難民の道」

(ふくふく本棚:福音館書店)

安田菜津紀さんエッセイ「難民』

 

 

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空の王さま

ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵『空の王さま』さくまゆみこ訳
『空の王さま』
ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵 さくまゆみこ訳
BL出版
2017.10

イギリスの絵本。見知らぬ国にやってきて、知り合いもなく、言葉もわからず、自分をよそ者だと感じている少年が主人公です。この少年がとなりにすむ足の不自由なおじいさんと知り合いになり、おじいさんが飼っているレース用のハトに自分の気持ちを託します。デイビスの献辞も「新たな土地で居場所を見つけなくてはならないすべての子どもたちに」となっています。

2015年にBIBグランプリにかがやいたローラ・カーリンの絵がすばらしい! 先日絵本の会で、ひとりの画家が今年度のベスト絵本に挙げてくださり、画家の目から見るとどこがすごいかを話してくださいました。その話を伺って私もなるほどと思いました。

本当の絵本とは、文が語っていないことを絵が語っている作品だと、私はシュルヴィッツの絵本論から学びましたが、この絵本はまさにそれです。絵が、文章にはない多くのことを語っているので、文字だけを追っていたのではもったいない。少年の孤独、少年のとまどい、少年の疑い、そして少年の喜びを絵からも感じとってください。
(装丁:安東由紀さん 編集:江口和子さん)

*ニューヨークタイムズ・ベストイラスト賞受賞
*ケイト・グリナウェイ賞ショートリスト
*SLA「えほん50」2019に選定

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紅のトキの空

ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳
『紅のトキの空』
ジル・ルイス作 さくまゆみこ訳
評論社
2016.12

イギリスの児童文学。『ミサゴのくる谷』や『白いイルカの浜辺』でおなじみのジル・ルイスの作品です。ルイスは獣医でもあるので動物の描写が正確だし、困難な状況を抱えた子どもたちに寄り添おうとする気持ちが、この作品にも反映されています。
この作品に象徴的に登場するのは、ショウジョウトキ(スカーレット・アイビス)。トリニダード・トバゴに生息する真っ赤なトキです。そこから名前をつけられたスカーレットは12歳で、褐色の肌(写真でしか知らない父親がトリニダード・トバゴの人だったのです)。精神的な問題を抱えた母親と、発達が遅れている白い肌(父親が違うということですね)の弟との3人暮らし。毎日の生活をなんとか回しているのはスカーレットなのですが、なにせ12歳なのでそれにも限界があります。
スカーレットは母を心配し、弟を守ろうと懸命なのですが、住んでいるアパートが火事になったことから、これまでの暮らしとは違う世界に投げ出されてしまいます。果たしてスカーレットたちは、自分の居場所を見つけることができるでしょうか?この作品にも、傷ついた鳥や捨てられた鳥の世話をしているマダム・ポペスクという魅力的なおばあさんが登場します。
ジル・ルイスは後書きで、主人公スカーレットのような、家族の責任を自分が背負わなくてはいけないと思っている子どもが、英国にはたくさんいると書いています。また、「家」や子どもの居場所について考えて書いた本だとも述べています。
(装画:平澤朋子さん 装丁:中嶋香織さん 編集:岡本稚歩美さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定

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<紹介記事>

・「子どもと読書」(親子読書・地域文庫全国連絡会)2017年5〜6月号

 

・「こどもとしょかん」(東京子ども図書館)2017年春号

 

・「子どもの本棚」(日本子どもの本研究会)2018年1月号

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ぼくのいぬがまいごです

エズラ・ジャック・キーツ&パット・シェール『ぼくのいぬがまいごです!』さくまゆみこ訳
『ぼくのいぬがまいごです』
エズラ・ジャック・キーツ & パット・シェール作 さくまゆみこ訳
徳間書店
2000.01

アメリカの絵本。プエルトリコからニューヨークにやってきたばかりの少年ホワニートが、いなくなった犬をさがして、街に出ていきます。ホワニートは英語が話せません。でも、肌の色もまちまちな、様々な子どもたちが手を差し伸べ、犬をさがすのを手伝ってくれます。もともとはスペイン語と英語のバイリンガル絵本でした。キーツがどの部分をどこまで担当したのか、調べたけどわかりませんでした。
(編集:星野博美さん)