
村上雅郁/作
フレーベル館
2023.04
〈版元語録〉吹き抜ける風が心をゆらす——ぼくらは自分のままでいたいだけ。そうあるように、ありたいだけ。7つの短編が連作に。軽やかに、でもたしかに、心に響く『ぼくら』の話。
きなこみみ:人の心って、外に出ている部分はほんの氷山の一角なんですけど、でも、人はその無限さを覗くのがめんどうくさくて、簡単に目に見える部分で他者を分類したがるんですよね。そんな目に見えない小さな抑圧や暴力に対する静かな告発の物語だと思います。いちばん共感したところは、p229で梢恵が「これってさ、私が弱いせいなのかな、みんなは、平気なのかな。私が、私が出来損ないで、ほかの人が気にしないようなちいさなことできずつくような、ほんとうにどうしようもない人間だから―私が、悪いのかな」というセリフがあるんですけど、こういうセンシティブな部分を「弱さ」として恥ずかしいと思ったり、消化できないでいたりすることって、私自身、こんな年齢でもよくあって。パレスチナで、今、起きているジェノサイドのことを考えると、ものすごく鬱々としてしまうんですけど、一応大人だし、と思って、表向きなんにも感じてません、ていう顔して日常生活まわしてるんです。でも、そんな自分にまた傷ついて、という繰り返しをしてるんですよね。ひとりでこの世界に立ち向かうのは、とっても勇気がいって、特に日本人はそこが苦手なんですけど、そんなとき、連帯してくれるのは、やっぱり物語だなと思うんです。この物語は連作短編で、みんな一対一の関係で苦しんでるように思えるんですけど、実はこれはマジョリティと向き合う、「ひとり」の物語で、そのひとりを繋ぐ糸が、野良猫みたいな雰囲気の黒野くんで、細い糸が連帯になっていくんだなと思います。物語が作るそういう連帯って、他者と自分を考えるときの心の足場になってくれる、それも文学の役割だなって、思いました。
エーデルワイス:登場人物が多いので似顔絵を見て確かめながら読みました。しかし読み進めていくと、頭の中ではそれぞれ似顔絵とは別の顔が浮かびました。学園ものだけれど、学年、男女を超えた繊細さがあり、新鮮でした。黒野良輔君は「くろノラ」の生まれ変わりかと思うほど不思議な存在。こんな子がいてくれたらどんなにいいでしょう。轟虎之助君がウサギ王子の祇園寺羽紗さんにタルトタタンを作りに行くところがいいです。p83にスーパーで黒野君と轟君がりんごの紅玉を買うシーンにあれっ?と思いました。梅雨明けの6月下旬7月初めに東京のスーパーでは紅玉を売っているのでしょうか。岩手では10月初旬に紅玉が出ます。出荷期間が短く、毎年知り合いのりんご農家に頼んで箱で買い、秋の私はせっせとアップルパイを作っています。ですから不思議に思いました。
しじみ71個分:前に読んだ同じ著者の『りぼんちゃん』(フレーベル館)より好感が持てました。登場人物がうまく書き分けられていると思いましたし、黒野君が狂言回しになって、友だちの間で話を聞くことで閉ざされた心の内を開いていって、問題を少しずつ明るい方向に向けていく連作短編でおもしろかったです。青春期のつらい気持ちは誰でも経験があると思うので、読めば共感できると思うし、苦しいときの参考にもできるのではないかと思いました。そういう意味では魅力的な本だと思います。タイトルのとおり、黒野君が人の話を聞きに行って、最終的に自分の心を見つめて、考えて、溝ができてしまった相手に向き合うよう促している。それぞれの人物の思いは胸を打つところがありました。否定されずに、人に聞いてもらいたい気持ちは誰でも皆あるんじゃないでしょうか。困っているときに、そういう機会が持てればいいと思いますし、対話の大切さが伝わると思いました。
ただ、ちょっと黒野君が大人っぽすぎるかなと思わなくもないです。私は死んだ猫のくろノラがお墓参りしたときに乗り移ったとか、そんな展開なのかと思ったくらいです。結局、普通の人間の少年でしたが、そうだとするとちょっと大人っぽすぎるかな。黒野君が等身大の14歳の少年だったらどうなっていたかなと思います。それと、ウサギ王子は特にですが、描かれている子どもたちの悩みがかなり極端だなと思われる点もありました。『りぼんちゃん』のときもそうでしたが、作者の言いたいことをそのまま登場人物に言わせるようなところがあって、どうしても大人の考えがにじみ出ています。それが気になるところではありますが、さわやかな話だし、子どもたちはおもしろいと思うのではないかなと思いました。
ハル:読者の声に耳を傾けよう、心に寄り添おう、としていることはよくわかるのですが、私は苦手でした。登場人物たちが生身な感じがしなくて、この物語の中に「この子たちは本当に存在しているの?」という疑問がわきました。私を型にはめないで! という感情は、もっと普遍的なものだと思っていたのですが、特別なケースとして描かれているような印象があって、それが共感できなかった理由かもしれません。それに、美術部って団体競技でもないのに、ひとりだけ真面目に描いてたからって、そんなんで浮きますか? 美術部の描き方に不満ありです。それから、人目につくところでタルトタタンが食べられないという理由も、どれだけ説明してくれてもよくわかりません。見た目にも、特に女性的も男性的もないようなお菓子じゃないですか。どうしてタルトタタンにしたんでしょう。音がおしゃれだからですか。と、いろいろ好き放題言ってしまいましたが、黒野くんが猫じゃなくて、そこはほっとしました。
雪割草:日本の作品は学園ものが多く好きではありませんが、先ほど意見が出ていたように登場人物の関係性がフラットで好感がもてました。章ごとに語り手、視点が変わるので、一つの物事に対していろんな見方ができておもしろく、次が読みたくなりました。読者にとっても、他の人の立場に立つ練習になり、よいかもしれません。でも後半の章になってくると、きれいすぎるというか、作者の理想が溢れていてついていけませんでした。黒野くんは、私も達観しすぎているかと思います。どの登場人物も自分に自信がなく、そうした自信のなさに黒野くんが「大丈夫。困ったことにはならない」と言ってあげる。そういう安心を子どもたちは必要としているというのは伝わってきました。
wind24:ティーンエイジャーの気持ちに入り込めないところも多々ありましたが、漫画の連載にしたら同じ年ごろの子どもたちの共感を得て、興味を持たれるのではないだろうかと思いながら読みました。黒野君、いそうでなかなかいない魅力的な性格。本当に中学生?と思うくらい含蓄深い言動に驚かされました。自分を振り返っても(半世紀前!?)少し背伸びして人生のこととかを語り合う友がいて、ありったけの言葉を駆使して言い負かそうとし合っていたことを懐かしく思い出しました。「ヘラクレイトスの川」の章では思春期の子を持つ親御さんに是非読んでもらいたいと思います。不登校の子どもの気持ちや寄り添うことの大切さ、結局は周りのアドバイスは本人にとっては圧でしかないということ。梢ちゃんの場合は兄の正樹の言動が救いになっていく。寄り添うという意味では最後の章の「くろノラ」がそうでした。いきなりの「です。ます。」調に戸惑いはありましたが、保健の三澄先生の語りかけということで納得。彼女もまた孤独を抱えながら中学生活を過ごしていたことが明かされます。そして、剣道部のウサは思うに自分の性に違和感を感じています。性自認が何であるかは明らかにされていませんが、今LGBTQのことが話題にできる時代になってきているので、もう少し突っ込んで書いてほしかったです。肯定的な書き方をすれば、救われる読者もいるのでは?
ハリネズミ:私はこの本は好きです。飄飄とした黒野君を狂言回しにして、6人の生徒と養護教諭が一人称で語っていく連作短編集で、それぞれの短編がかかわりあっているおもしろさがあります。私がいいなあと思って新鮮に感じたのは、たとえば兄に「人がなんと言おうと関係ない。自分の道を行けよ」と言われた轟虎之助が、p97で「少なくともぼくは、だれかに『人がなんて言おうと関係ない』なんて、言えない。/人になにかを言われることは、つらい。/自分の道を歩いているだけで、その道に勝手な名前をつけられるのは、歩き方に文句をつけられるのは、どんなに好意的でも笑われるのは、ほんとうにつらい」と心のうちを明かすところや、p230で兄に「変わらなくてもいいよ。梢恵はそのままで、いいよ」と言われた柏木梢恵がp230で「いいじゃん。お兄ちゃんは。強いからそういうことが言えるんだよ。きずつかないから。きずついても、ちゃんと立ちあがれるから。私には無理なんだよ。苦しくて、つらくて、変わりたいけれど、変わるのも苦しくて、どうしようもないんだよ……!」「変わらなくていいだなんて! じゃあ、ずっと、ずっと苦しめって言うの?」と反論するところ。「他人の意見なんか気にしなくていいんだ」とか、「変わらなくてそのままでいいんだ」とかは、子どもに関わる人や児童文学が伝えがちなメッセージですよね。でも、そう言われて逆につらくなる子どもたちがいるんだということがリアルに伝わってきました。
それから、冒頭にある「クラスになじめなかったり、大切な人とすれちがってしまったり、だれにも理解されずに、ひとりぼっちでとほうにくれている(中略)そういう子って、きっとこの世界にたくさんいるんだと思います。助けてあげてください。私に、そうしてくれたみたいに」と養護教諭の西島先生がネコ(くろノラ)に言っている言葉が全体のテーマのように掲げてあるので、黒野君はそのネコの役目を引き継いだかに見えるわけですが、最後の章で黒野君はp324「くろノラは、だれかを助けてやろうとか、そんなこと、ぜんぜん思っていなかったって。ただただ、おもしろかったんですよ。この学校に通ったいろいろな子たちと関わるのが」と言い、自分も助けようと思ったわけではなく、楽しいからいろいろな友だちと関わってきた、って言うんですね。ネコが乗り移ったわけでもなく、先生の願いやネコの遺志をついだわけでもなく、自分が楽しいから、というところが、いいなあ。
4つ目のエピソードでは、男子たちのいたずらがあまりにも稚すぎて笑ってしまうんですが、それが最後に登場するウサギ王子と小畑玲衣の仲直りの場面の伏線になっているんですね。
花散里:一人ひとりの人物の描き方、友情についてなどがしっかりと描かれていなくて、物語に入れず、どの章も私はおもしろく読めませんでした。登場人物の心の機微などをていねいに描いてほしいと思いました。くろノラの存在、三澄先生を絡めてのストーリー展開、構成もどうなのかと思いました。私は中・高の学校図書館に勤務しており、国語科の教員と協働で生徒たちに本を読んでほしいと、様々な取り組みをしています。読み応えのある外国の児童文学のような良い作品を常に手渡したいと思っています。日本の児童文学からも読みごたえのある作品と出合いたいと思いながら、読んだ作品でした。
マリンバ: これまで、2人の主人公の話を書くことの多かった著者が、短編連作に挑戦している“意欲作”だと思います。物語が複雑に絡まり合って、おもしろく読めました。ただ、人は増えても、みんなメンタルに不安を抱えている繊細な人たちで、ふり返ったときに、どの子もちょっと似ている気がしました。5章の柏木正樹くんなどガサツな登場人物も、最終的には繊細な相手を理解する、という展開になっていて、ガサツな人がガサツなまま繊細な人とふれあうのは、著者としては否定的なのかなと思いました。あと、たとえばp228「だけど、私、かなしかった……そして、こわくなった」というように、かなしい、こわい、楽しい、といった言葉が頻繁に登場するのが、やや安易な気もしました。ただ、子どもたちにとても好まれているようなので、こういうストレートで徹底的に心理描写を描くものが、今の子には伝わりやすいのかなとも思います。
ニャニャンガ:読みはじめは登場人物を把握できず、登場人物紹介を何度も見ながら確認する手間がありましたが、それを乗りこえる価値がある作品だと思いました。これだけ主要な登場人物が多い作品はめずらしい気もしますが、作者がきちんとまとめあげていてすごいです。わたしが好きなのはエピソード2の「タルトタタンの作り方」です。あのときの祇園寺先輩が語ったコンプレックスが後半で生きてくるあたりが好きです。本作の登場人物もほんとうの自分を出せないでいる子が多く、今回のテーマである「正体を隠して生きる?」につながりました。ただ、轟くんが何度も「ちいさく笑う」などと「ちいさく」を多用するのは自分が小さいからなのかと思ってしまいました。
ハリネズミ:さっき、ハルさんからは羽紗がタルトタタンにそれほどまでにこだわるのが理解できないとか、エーデルワイスさんからはこの時期に紅玉が手に入るのか、いう話がありましたが、そのあたりはどうですか?
ニャニャンガ:リンゴは一般的に6月から8月まで手に入りずらく、紅玉はもっと季節が限られていると思います。
ハリネズミ:タルトタタンって、別に女子っぽいお菓子でもないんじゃないか、という意見もありましたが。
マリンバ: タルトタタンというケーキの名前は、けっこう小説に使われている気がします。たとえば、一般書になりますが、近藤史恵さんの『タルト・タタンの夢』(東京創元社)や、中島京子さんの『樽とタタン』(新潮社)が頭に浮かびました。
ニャニャンガ:祇園寺先輩の性自認についてですが、この物語では女子として読みました。性自認というより、クラスメートや後輩たちから見られているイメージを崩さないためではないでしょうか?
さららん:7つの章はそれぞれモチーフもメインキャラクターも異なり、一見、断片的のようなんですが、登場人物が絡み合い、かなり凝った構成だと思いました。最後に羽紗はなぜタルトタタンにこだわるのか?という大きな謎が解決し、二人の少女の小学校時代からの行き違いが解けるところも気持ちよかったです。だれにもプライドやこだわりがあって、それがちょっとしたすれ違いで、友だちとの間に亀裂を作ります。でも違う視点から、さりげなく言葉をかける黒野くんの存在によって、みんなの小さな誤解やわだかまりが溶けていくんです。たとえ小さな悩みに見えても、子どもにとって人間関係は大きな悩み。自分のさりげなく発した言葉が相手をどんなに傷つけたかを知り、そこからどう立ち直るかを、対話を通して丹念に描いている。「あなたは二度と同じ川に入れない。二度目に入ったときは、一度目とはちがう水が流れているから」という意味を持つ「ヘラクレイトスの川」という言葉は、不登校になった子どもたちにそのまま伝えたい、と思いました。小さかったとき、立ち止まって歩き出した自分は、そのまま歩き続けた自分とは違う自分なんじゃないかと思って、友だちにそう話したら、バカか、という目で見られましたが……。トリックスターの黒野くんは、もしかしたらファンタジー的な存在かと危惧したのですが、最終章、「くろノラの物語」のところで、彼がどうしてそんな子になったのか、エピソードが挿入されます。黒野くんが地に足のついた存在になって、よかった! わかったようなことを言わないで、相手の言葉にただ耳を傾ける姿勢は、作者が児童館に勤務する中で身につけた姿勢なのでしょう。そのことにより相手も、自分のほんとの気持ちに気づくようになるんですね。
(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)