
原題:A KIND OF SPARK by Elle McNicoll, 2020
エル・マクニコル/作 櫛田理絵/訳
PHP研究所
2022.08
〈版元語録〉スコットランドの小さな村で、二人の姉と両親と共に暮らす自閉の少女・アディ。昔、「人とちがう」というだけで魔女の烙印を押され命を奪われた人々がいることを知ったアディは、その過ちの歴史を忘れぬよう村の委員会に慰霊碑を作ることを提案するのだが……。 「わたしも魔女にされていたかもしれない――」魔女として迫害されていた人たちのなかには、自分のような人が含まれていたのではないだろうか……? 先生や友だちからの偏見、自閉的な姉からの理解と、定型発達の姉との距離、人とのちがいを肯定的に捉える転校生との出会い……。「魔女狩り」という史実に絡めて多様性の大切さを訴えつつ、ニューロダイバーシティの見地から自閉の少女の葛藤と成長を描いた感動作。
マリンバ:とても読み応えがありました。主人公が、視覚的にものを見る、ということを言葉で表現するのはとても難しいと思うのですが、それがうまくいっています。作者自身が自閉スペクトラム症と診断された、と知って納得です。あと、魔女裁判のことを調べるのに熱中していること、サメが好きであること、すべてに理由があって、無駄のない構成になっていると思いました。クライマックスも、終わり方も、よかったです。エミリーの弱点を知って、それを仕返しにクラスのみんなに伝えるような展開になるのでは、と心配しましたが、杞憂でほっとしました。今、日本でも発達障害のグレーゾーンがよく話題になります。そういうことに悩む人たちにも届けたい作品だと思いました。ただ1つ気になるのは装丁です。インパクトがなくて、物語の強さと合っていない気がしました。
花散里:表紙から受けたイメージと作品の内容がかなり違うと私も感じました。読んでみると、登場人物、一人ひとりがしっかり描かれていて読み応えのある作品でした。今、特別支援学校で読み聞かせをしています。以前には公立小学校の特別支援学級で13年間、読み聞かせをしていました。通常学級にも支援が必要な子どもたちがいましたが、その頃は、「自閉症の子ども」という言い方をしていたと思うので、本作で、自閉症ではなく、「自閉的」というところや、スティミング(自己刺激行動)についてなど、いろいろと学ばせてもらったという思いでした。主人公、その双子の姉、キーディとのやりとり、ニナとの後半での会話などが印象的で作品全体の構成が良くて、主人公、家族、友だちなど周りの人々、特に図書室のアリソン先生、魔女の慰霊碑建立に資金提供してくれたというミリアムなどがしっかりと描かれていると思いました。全体的に人と人との関りについての描かれ方が印象に残りました。
ハリネズミ:おもしろく読みました。自閉的な人は、それぞれずいぶん多様なんだと思いますけど、感覚過敏だったり、人の表情をうまく読み取れなかったり、騒音や接触が苦手だったり、共感力が強くなりすぎることがあったりと、アディのような人がどんなところで苦労しているのかが、リアルに伝わってきました。呪われた子とか、現代の悲劇とか、知恵おくれなどという周囲の偏見に対しても、病気なのではなく他の人とは認知の仕方が違うのだということが、はっきり書かれていました。それだけではなく、物語としてもおもしろかったです。ほかの登場人物も、リアルに浮かび上がってきました。マーフィ先生だけは、こんなにひどい人が本当にいるのかと思ったんですけど、著者が自分の体験の中でこんなふうに差別されたことがあったのかもしれませんね。アディの家族がみんなでアディを支えているところも、最近の作品の中では逆に新鮮でした。
雪割草:障がいのある子に対する偏見について、魔女裁判の例を重ねて描くというアイディアがおもしろいと思いました。自閉症についてよく知らなかったので勉強にもなりました。それからアディが魅力的だと思いました。物事への洞察力があり、思いやりもあって謙虚。周りの人を動かす力もあることに納得しました。エディンバラの郊外が舞台になっていて、留学していたので懐かしく思います。よくわからなかったのは、ミリアムだけさん付けではなく呼び捨てなこと。有名人だからでしょうか。この作品はBBCの実写版になっていて、オードリーが褐色の肌の子でした。作品のなかでは、黒い目で黒い髪でロンドンから来たためだと思いますがアクセントが村の人と違うとだけありました。それから、牛の目が毛の下に隠れているといった記述がありましたが、ふさふさの毛のハイランドの牛だと思います。なので、ただ「牛」ではなく日本の牛と違うことを明記した方がよかったと思うし、表紙の牛は違いますね。私も表紙自体が作品の内容と合っていないと思いますが、牛もちゃんと描いてほしかったです。
ハリネズミ:この本の中ではオードリーの肌の色は描写されていないんですけど、映画とか絵本にする場合は、登場人物を多様にしないといけないんでしょうね。
wind24:とてもおもしろく読みました。3姉妹を中心に話が進みますが、自閉症の長女と自閉的傾向のある三女。通常発達の次女はその板挟みで無関心を装うしかなく辛く孤独を抱えた立場であったでしょう。中世は魔女としてたくさんの女性たちが殺されました。その中には自閉症やアスペルガーなど、今で言う発達障がいの方も多くいたのではないかと思います。人は自分と違うものを排除しようとする傾向があります。キーディやアデラインはその時代に生まれていたら魔女として死刑になっていたかもしれません。アデラインはそのことを他人事ではなく自分の事として感じています。このジェニパーで魔女として殺された人たちの慰霊碑を立てるのはアデラインが前に進むためにはどうしても成し遂げなければならなかったことです。町を巻き込み、反対派を説得し、理解者や協力者を得ていく、アデラインの不屈な精神力が素晴らしい。p139でマッキントッシュさんに「自閉症の子」と言われたアデラインが言い返す言葉が印象的です。「私は自閉的な人間というだけで、病気などではありません!」
子どもたちを見守り続ける両親、和解し絆を深めるニナとの関係性。そしていちばんの理解者キーディ。そんな家族に囲まれたアデラインだからこそ、自分の意思をつらぬき、道を切り開いていくことができるだろう、これからも、と思いました。
ハル:とてもおもしろかったです。魔女裁判をこういう視点で考えたことがなかったので、根本に潜む恐ろしさに改めて気づかされました。キーディも素敵でしたが、ニナの存在も大きいですね。自閉的なキーディとアディの間で、定型発達のニナにだっていろんな思いがある。それぞれに自分を置き換えながら読むことができる1冊でした。
ハリネズミ:表紙をどうするのかは難しいところですね。シリアスなテーマだからシリアスな絵にしたら、誰も手に取らないかもしれないですもの。それにしても、この表紙はちょっと違いますね。
しじみ71個分:前に1度読んだきりなので再読しようと思ったら、図書館で予約が8人待ちになっていて、かないませんでした。図書館の開架にあったのですが表紙がふんわりしすぎて魅力的に見えず、最初は手に取って読もうとは思いませんでした。でも、必要があったので、しょうがないと思って読んだら、内容はかなりハードで、とても興味深い本だったので驚きました。表紙が内容にそぐわないのはちょっと損してるなぁと思います。お話はとても興味深くて、重要なテーマを扱っていると思います。主人公のセリフで自閉症と自閉的であることは違うと知りましたし、自閉スペクトラムの特性を持つアディを通して、音、光、触感、味覚などの刺激に弱い等、生活上の困難がよく分かりました。姉のキーディ、友だちのオードリーの存在、アディの精神的なタフさが物語に安定感をもたらしているので、執拗ないじめに遭うような場面でも信頼を持って読めました。見えにくく、理解されにくい発達障害には、周囲の理解が重要だということがよく分かるので、子どもたちに広く読まれ、知られるといいですね。キーディの描写からも鋭い痛みが伝わり、重み、厚みがあって胸にこたえました。普通(普通とは何だ?という疑問も当然浮かんできますが)と違うということで差別されたり偏見を持って見られたり、攻撃の対象にされたりするのはあってはならないことで、自閉スペクトラムの自分を魔女狩りに遭った魔女に例えられて処刑されていたかも、と言われるなんてのは、生きることを否定されているみたいでとても怖いですよね。先生の無理解やいじめの場面は読むと辛いですが、読む人がちゃんと考えるべきことを伝えてくれていると思います。最後に、魔女狩りにあった女性たちの慰霊碑を建てることができ、きちんとアディの自己実現がなされるという結末には救われる思いがしました。読んで本当によかった作品です。
エーデルワイス:自閉スペクトラムである主人公のアディが冷静に自分の症状を説明しているところが驚きでした。一つのことが気になると、もうそればかりで我慢できないとか。親友のオードリーに人から触られる(一部除いて)のが嫌なのでハグができないとか。(最後の方でオードリーと軽くハグするところが微笑ましい。)アディの双子の姉の一人キーディが大学で自分が自閉スペクトラムであることを隠しているところからは、ありのままでいられない苦しさが伝わってきます。11歳の時、教師から受けた精神的な暴力のせいでしょうか? 大学には診断書が提出されていないのでしょうか? ADHD(注意欠陥多動症)の講演会とその当事者の体験談を聴く機会があり、周囲の理解や助けで普通に生活できることを知りました。
5歳の孫(男の子)は自閉スペクトラムと診断されました。それまでは、集団に入れず、大声で喚いたり自分の興味のあることしかしないので、こども園ではお荷物敵存在でしたが、診断がつくことにより理解が進み、選任の保育士さんが一人ついて、こども園の生活が良くなりました。孫が、このアディの視覚、聴覚、感じ方など同じだと思い、私にとってはテキストのように読みました。とてもよかったです。
きなこみみ:おもしろく読みました。自閉スペクトラム症ということがとても具体的に描かれていて、サメになぞらえられていたり、子どもにも伝わりやすい、感覚として伝わりやすい例というか、それをたくさん挙げて説明されているなと思いながら読みました。自分と違う人を排除するっていうのは、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』(小学館/新潮文庫)も。あれは自閉スペクトラムではなかったですけれど、やっぱり自分と違うものを排除するっていうのが、テーマの一つだったと思うんで。魔女の歴史っていうものを踏まえて、過去と今とを繋いでいるっていう意味でも、とても良い本ではないかなと思いました。あと、アディに対して、加害を繰り返すいじめっ子って、さっきも出てましたけど、誇張されているとは思うんです。マーフィ先生も、こんな先生がいるのかと思うぐらい激しいですね。アディとキーディが自閉スペクトラムの自覚があるっていうことは、学校にもそれは伝わっているんだと思うんですけど、今の時代のイギリスでこの対応はあまりに酷いと思うんです。でも、そこから伝わってくるものを選択されたんですよね、きっとね。加害する側と被害を受ける側の区分けがはっきりしすぎてるかな、とは少し思いました。
ただ、もう一ついいなと思ったのは、いじめを何も言わずに見ている人たちのことが、ちゃんと書かれているところです。p216で、アディの辞書がびりびりにされたことについて、「もしもだれかが、ジェンナの大切なものを取ろうとしたら、わたしなら止める。もしジェンナの悪口をいう人がいたら、わたしなら、だまれっていう。それが友だちってものだから。それが正しい人間がすることだから。でもジェンナは、ただつっ立ってみていた」ってアディが言うと、ジェンナが「わたしだけじゃない。みんなだってそうだよ」って言うんですね。みんなもそうだから、私は悪くない、っていうことをジェンナは言ってるんです。それに対して、アディは「オードリーは違ったよ。アリソン先生も」って、ぴしゃりと言い返します。傍観者になることは加害のひとつであるっていうことが、とてもしっかり書かれているので、この作者はそういうことについて、深く考えを張り巡らせておられるんだな、と。こないだ、朽木祥さんの講演会に言ってきて、そこで朽木さんが、「加害者になるな、被害者になるな、そして傍観者になるな」という言葉をあげてらっしゃいましたけど、その言葉がこの本を読みながらも、また、思い浮かびました。これはやっぱり、いろんな差別とかレイシズムの図式にもあてはまることなので、声を上げ続けるアディの強さが、子どもたちに伝わるといいなと思います。そして、殺されていった魔女たちの慰霊碑を作るっていうのは、過去を忘れずに、そこに向き合うっていうことなので、そこも良いと思うんです。過去と向き合わないと、実りある未来には進んでいけない。「われわれはすべて背中から未来へ入っていく」つまり、現在と過去を見る賢者だけが、未來を見ることができる、と『未来からの挨拶』(筑摩書房)で堀田善衛が言っていましたが、過去のつらい、悲しい魔女の記憶をきちんと持ちながら未来に進んでいこうとするこの物語には、とても大切なことが詰まっていると思います。
アンヌ:最初はファンタジーだと思って読み始めていたので、魔女への共感が慰霊碑の形になるとは思ってもみませんでした。定型発達とか自閉的という言葉の意味をこの物語の中から読み取るべきなのだろうけれど、やはり、わたしは最初のうちに注がほしかったと思います。ニナについては、親の言いつけを無視したりするところに、ヤングケアラー的な重圧を感じていたのだろうなと思いながら読みました。気になったのがp185でアディがマーフィ先生に算数の答えをカンニングしたと決めつけられていたことを、その時にはまだ来ていないキディが知っていて、p192で先生に言うところ。誰もまだそのことを口にしていないので、奇妙です。
ニャニャンガ:仮面をかぶって学校生活を送るアディの苦しさが胸にせまる内容でした。ニューロダイバーシティという言葉を知ったのは最近で、自閉症スペクトラムはなんとなく知っていたものの、こんなにもさまざまな状態の人がいるとは知りませんでした。作者自身が自閉スペクトラム症のため、表現がリアルで、アディとキーディの特性やしんどさがとても伝わってきます。アディに姉のキーディがいてくれてよかったのと同じように、キーディと双子のニナが、疎外感を感じるせいで反発しているようでいて、支えてくれる姿が愛おしかったです。ロンドンから来たオードリーは、閉鎖的な村社会とは対照的な存在で、アディを偏見で見ずに理解しようとする姿勢があり、理想的な友人の事例と感じました。この物語では、わかりやすい無理解者としてエリーとマーフィー先生が登場し、アディを苦しめ、残酷でつらかったです。また、自分のコンプレックスからエリーがアディをいじめるのは、親の問題もあり小さな村では今後が心配な気がします。また、現代の魔女的な存在であるミリアムを登場させたのは、うまい流れだと思いました。アディが自分を魔女と重ねで存在を否定されているように感じ、慰霊碑を作ることで昇華させようと活動するなかで成長し、それを影でミリアムが支援してくれたことは喜ばしいです。
気になるというか要望としては、スティミングについての説明のように、定型発達(ニューロティピカル)や作業療法など固有の言葉についてももう少し補足がほしかったです。可能であれば、あとがきか解説をつけてくれたら理解が深まったのではと思いました。
さららん;自分でメモしておいたことが、ほとんど全部出てしまったので、私なりに気がついたことを言います。たとえば、森の中を案内してくれたパターソンさんは、わかったようなことを、思い込みで言ってしまうタイプ。悪気はなくても相手を傷つけてしまうんです。そんなパターソンさんにまっすぐ切り返す主人公を見ていると、これまでの苦労がよくわかります。私もパターソンさんみたいにならないよう、注意しないと。また子どもと大人と対等に発言でき、村で殺された魔女たちを忘れないように記念碑を作りたいと、アディが提案できる委員会があることが、うらやましいと思いました。村の委員会の議長であるマッキントッシュさんは、なかなか手ごわい相手ですが、アディもめげずに工夫を重ねながら3回も提案するのです。その粘り強さは見習わなくては! アディにいろいろなことを教えてくれる姉キーディが語った言葉――「みんなが求めているのは事実じゃない(中略)みんなが聞きたいのは物語なんだ。だから一部始終を語らなきゃ」(p174)を聞いて、人を動かす力を持つ物語とはなんなのか考えさせられました。さらにキーディが言った「いいことと正しいことは違う」(p176)という言葉にはハッとさせられ、小学校高学年の読者にそれを伝えておくのは、これからの価値基準を作るうえでとても大事だと思うのです。いわゆる「歴史」を、自分自身でホントにそうなのか?と問い直すきっかけにもなります。過ちを繰り返さないために歴史を学んでいるはずなのに、私たちは少しも前進せず、同じ過ちをしています。女の子の小さな訴えが、そんな大きな歴史にも、この世界全体の在り方にもつながる、読み応えのある物語でした。
ハリネズミ:自閉症という言葉は今は使われなくなったんですか? この本の中では病気じゃない、と言っているので「症」という語は適切ではないのかな、と思ったのですが。
ニャニャンガ:見える障害と見えない障害があり、見えない障害は本人が申告したくない場合もあるため、支援を受けることの難しさがあるのではと思います。アディは自分で認知しているのに、周囲の理解が得られないのは問題だと思いました。
ハリネズミ:日本では、診断がつくと補助の先生がつくので楽になるけれど、親に診断を進めても、うちはいいという方も多いと聞きます。そのあたりは難しいところですね。
エーデルワイス:就学前そのお子さんの診断によって、普通学級、特別支援学級、特別支援学校へと分かれていくようです。私の文庫の近くに「放課後デイサービス」があります。契約を結んだ子どもたちの学校(小、中、高)へ、デイサービス職員が車で直接迎えに行き、放課後を過ごし(宿題をしたり遊んだり)、終了後にそれぞれの家まで送るシステムです。保護者にとってありがたいことだと思います。文庫にその子どもたちが本を読みに来てくれます。絵本やストーリーテリングも聴いてくれます。
しじみ71個分:放課後デイサービスは、私の地元でもとても増えています。発達障害の診断がつかないと使えない施設ですが、増えていることには何らかの意味があるんだろうと思います。日本の学校では、統合教育よりも分離教育の方が多いと思いますが、先生が多忙な上に、何しろ1クラスの子どもの人数が多すぎるのだと思います。先生の手も回りませんし、子どもに目が行き届かないです。それでは統合教育は進まないと思います。保育の現場でも同様で、先生1人に対する子どもの数が多すぎて子どもたち一人ひとりに目が届くような保育は難しい現状です。発達障害の診断がついてやっと先生の加配がなされるので、障害のある子どもを受け入れるには、診断がつかないと現場が回りません。保育園側から診断を受けてみたら、と保護者に伝えるには慎重にコミュニケーションを取らないと難しく、保護者自身も育てにくさやつらさを感じているのだと思いますが、なかなか言い出せるものではないと聞きました。でも、1回診断を受けて専門家のサポートを受け始めると保護者も保育園側もみんな楽になります。
とにかく日本では、障害を受容する環境が整っていないと思います。アメリカの図書館界では、自閉症の子どもを図書館に受け入れるためのツールキットも公開されていて、司書がトレーニングを受けることで、自閉症の子どもたちを含め、情報や教育、図書館にアクセスしにくい障壁をなくしていくという運動も進んでいます。自閉症の子がはねたり、声を出したりすると、周りの利用者からうるさいと言われ、図書館側も迷惑がるというようなことが往々にしてありますが、そういった気持ちのバリアをなくして、物理的な環境も改善していくことが大事だという学びを共有していっているんですね。物語の中でも大学の環境が整っていないためにキーディが大変な辛さを経験する場面がありますが、多様な脳の特性のある人を受け入れる環境改善と理解の促進への取組は日本でも早急に進めていくべきだと感じています。
ハリネズミ:障碍者というのは、その人に障害があるのではなく、社会の側がその人が暮らして行くときに障害になっているのだと聞きました。気の毒だとか親切に、とかいうことではなく、社会のほうをもっと整備していかないと、ということですよね。
しじみ71個分:日本の図書館でも「世界自閉症啓発デー」に合わせた展示を行うなど、自閉症に関する学びを深めつつありますので、これから少しずつ改善されていくのかなと思っています。
(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)