日付 2023年11月218日
参加者 きなこみみ、エーデルワイス、しじみ71個分、ハル、雪割草、wind24、ハリネズミ、花散里、マリンバ、ニャニャンガ、さららん、アンヌ
テーマ 正体を隠して生きる?

読んだ本:

学校の屋上で男子と女子が話をしている
『きみの話を聞かせてくれよ』
村上雅郁/作
フレーベル館
2023.04

〈版元語録〉吹き抜ける風が心をゆらす——ぼくらは自分のままでいたいだけ。そうあるように、ありたいだけ。7つの短編が連作に。軽やかに、でもたしかに、心に響く『ぼくら』の話。
『魔女だったかもしれないわたし』
原題:A KIND OF SPARK by Elle McNicoll, 2020
エル・マクニコル/作 櫛田理絵/訳
PHP研究所
2022.08

〈版元語録〉スコットランドの小さな村で、二人の姉と両親と共に暮らす自閉の少女・アディ。昔、「人とちがう」というだけで魔女の烙印を押され命を奪われた人々がいることを知ったアディは、その過ちの歴史を忘れぬよう村の委員会に慰霊碑を作ることを提案するのだが……。 「わたしも魔女にされていたかもしれない――」魔女として迫害されていた人たちのなかには、自分のような人が含まれていたのではないだろうか……? 先生や友だちからの偏見、自閉的な姉からの理解と、定型発達の姉との距離、人とのちがいを肯定的に捉える転校生との出会い……。「魔女狩り」という史実に絡めて多様性の大切さを訴えつつ、ニューロダイバーシティの見地から自閉の少女の葛藤と成長を描いた感動作。


きみの話を聞かせてくれよ

学校の屋上で男子と女子が話をしている
『きみの話を聞かせてくれよ』
村上雅郁/作
フレーベル館
2023.04

〈版元語録〉吹き抜ける風が心をゆらす——ぼくらは自分のままでいたいだけ。そうあるように、ありたいだけ。7つの短編が連作に。軽やかに、でもたしかに、心に響く『ぼくら』の話。

きなこみみ:人の心って、外に出ている部分はほんの氷山の一角なんですけど、でも、人はその無限さを覗くのがめんどうくさくて、簡単に目に見える部分で他者を分類したがるんですよね。そんな目に見えない小さな抑圧や暴力に対する静かな告発の物語だと思います。いちばん共感したところは、p229で梢恵が「これってさ、私が弱いせいなのかな、みんなは、平気なのかな。私が、私が出来損ないで、ほかの人が気にしないようなちいさなことできずつくような、ほんとうにどうしようもない人間だから―私が、悪いのかな」というセリフがあるんですけど、こういうセンシティブな部分を「弱さ」として恥ずかしいと思ったり、消化できないでいたりすることって、私自身、こんな年齢でもよくあって。パレスチナで、今、起きているジェノサイドのことを考えると、ものすごく鬱々としてしまうんですけど、一応大人だし、と思って、表向きなんにも感じてません、ていう顔して日常生活まわしてるんです。でも、そんな自分にまた傷ついて、という繰り返しをしてるんですよね。ひとりでこの世界に立ち向かうのは、とっても勇気がいって、特に日本人はそこが苦手なんですけど、そんなとき、連帯してくれるのは、やっぱり物語だなと思うんです。この物語は連作短編で、みんな一対一の関係で苦しんでるように思えるんですけど、実はこれはマジョリティと向き合う、「ひとり」の物語で、そのひとりを繋ぐ糸が、野良猫みたいな雰囲気の黒野くんで、細い糸が連帯になっていくんだなと思います。物語が作るそういう連帯って、他者と自分を考えるときの心の足場になってくれる、それも文学の役割だなって、思いました。

エーデルワイス:登場人物が多いので似顔絵を見て確かめながら読みました。しかし読み進めていくと、頭の中ではそれぞれ似顔絵とは別の顔が浮かびました。学園ものだけれど、学年、男女を超えた繊細さがあり、新鮮でした。黒野良輔君は「くろノラ」の生まれ変わりかと思うほど不思議な存在。こんな子がいてくれたらどんなにいいでしょう。轟虎之助君がウサギ王子の祇園寺羽紗さんにタルトタタンを作りに行くところがいいです。p83にスーパーで黒野君と轟君がりんごの紅玉を買うシーンにあれっ?と思いました。梅雨明けの6月下旬7月初めに東京のスーパーでは紅玉を売っているのでしょうか。岩手では10月初旬に紅玉が出ます。出荷期間が短く、毎年知り合いのりんご農家に頼んで箱で買い、秋の私はせっせとアップルパイを作っています。ですから不思議に思いました。

しじみ71個分:前に読んだ同じ著者の『りぼんちゃん』(フレーベル館)より好感が持てました。登場人物がうまく書き分けられていると思いましたし、黒野君が狂言回しになって、友だちの間で話を聞くことで閉ざされた心の内を開いていって、問題を少しずつ明るい方向に向けていく連作短編でおもしろかったです。青春期のつらい気持ちは誰でも経験があると思うので、読めば共感できると思うし、苦しいときの参考にもできるのではないかと思いました。そういう意味では魅力的な本だと思います。タイトルのとおり、黒野君が人の話を聞きに行って、最終的に自分の心を見つめて、考えて、溝ができてしまった相手に向き合うよう促している。それぞれの人物の思いは胸を打つところがありました。否定されずに、人に聞いてもらいたい気持ちは誰でも皆あるんじゃないでしょうか。困っているときに、そういう機会が持てればいいと思いますし、対話の大切さが伝わると思いました。
ただ、ちょっと黒野君が大人っぽすぎるかなと思わなくもないです。私は死んだ猫のくろノラがお墓参りしたときに乗り移ったとか、そんな展開なのかと思ったくらいです。結局、普通の人間の少年でしたが、そうだとするとちょっと大人っぽすぎるかな。黒野君が等身大の14歳の少年だったらどうなっていたかなと思います。それと、ウサギ王子は特にですが、描かれている子どもたちの悩みがかなり極端だなと思われる点もありました。『りぼんちゃん』のときもそうでしたが、作者の言いたいことをそのまま登場人物に言わせるようなところがあって、どうしても大人の考えがにじみ出ています。それが気になるところではありますが、さわやかな話だし、子どもたちはおもしろいと思うのではないかなと思いました。

ハル:読者の声に耳を傾けよう、心に寄り添おう、としていることはよくわかるのですが、私は苦手でした。登場人物たちが生身な感じがしなくて、この物語の中に「この子たちは本当に存在しているの?」という疑問がわきました。私を型にはめないで! という感情は、もっと普遍的なものだと思っていたのですが、特別なケースとして描かれているような印象があって、それが共感できなかった理由かもしれません。それに、美術部って団体競技でもないのに、ひとりだけ真面目に描いてたからって、そんなんで浮きますか? 美術部の描き方に不満ありです。それから、人目につくところでタルトタタンが食べられないという理由も、どれだけ説明してくれてもよくわかりません。見た目にも、特に女性的も男性的もないようなお菓子じゃないですか。どうしてタルトタタンにしたんでしょう。音がおしゃれだからですか。と、いろいろ好き放題言ってしまいましたが、黒野くんが猫じゃなくて、そこはほっとしました。

雪割草:日本の作品は学園ものが多く好きではありませんが、先ほど意見が出ていたように登場人物の関係性がフラットで好感がもてました。章ごとに語り手、視点が変わるので、一つの物事に対していろんな見方ができておもしろく、次が読みたくなりました。読者にとっても、他の人の立場に立つ練習になり、よいかもしれません。でも後半の章になってくると、きれいすぎるというか、作者の理想が溢れていてついていけませんでした。黒野くんは、私も達観しすぎているかと思います。どの登場人物も自分に自信がなく、そうした自信のなさに黒野くんが「大丈夫。困ったことにはならない」と言ってあげる。そういう安心を子どもたちは必要としているというのは伝わってきました。

wind24:ティーンエイジャーの気持ちに入り込めないところも多々ありましたが、漫画の連載にしたら同じ年ごろの子どもたちの共感を得て、興味を持たれるのではないだろうかと思いながら読みました。黒野君、いそうでなかなかいない魅力的な性格。本当に中学生?と思うくらい含蓄深い言動に驚かされました。自分を振り返っても(半世紀前!?)少し背伸びして人生のこととかを語り合う友がいて、ありったけの言葉を駆使して言い負かそうとし合っていたことを懐かしく思い出しました。「ヘラクレイトスの川」の章では思春期の子を持つ親御さんに是非読んでもらいたいと思います。不登校の子どもの気持ちや寄り添うことの大切さ、結局は周りのアドバイスは本人にとっては圧でしかないということ。梢ちゃんの場合は兄の正樹の言動が救いになっていく。寄り添うという意味では最後の章の「くろノラ」がそうでした。いきなりの「です。ます。」調に戸惑いはありましたが、保健の三澄先生の語りかけということで納得。彼女もまた孤独を抱えながら中学生活を過ごしていたことが明かされます。そして、剣道部のウサは思うに自分の性に違和感を感じています。性自認が何であるかは明らかにされていませんが、今LGBTQのことが話題にできる時代になってきているので、もう少し突っ込んで書いてほしかったです。肯定的な書き方をすれば、救われる読者もいるのでは?

ハリネズミ:私はこの本は好きです。飄飄とした黒野君を狂言回しにして、6人の生徒と養護教諭が一人称で語っていく連作短編集で、それぞれの短編がかかわりあっているおもしろさがあります。私がいいなあと思って新鮮に感じたのは、たとえば兄に「人がなんと言おうと関係ない。自分の道を行けよ」と言われた轟虎之助が、p97で「少なくともぼくは、だれかに『人がなんて言おうと関係ない』なんて、言えない。/人になにかを言われることは、つらい。/自分の道を歩いているだけで、その道に勝手な名前をつけられるのは、歩き方に文句をつけられるのは、どんなに好意的でも笑われるのは、ほんとうにつらい」と心のうちを明かすところや、p230で兄に「変わらなくてもいいよ。梢恵はそのままで、いいよ」と言われた柏木梢恵がp230で「いいじゃん。お兄ちゃんは。強いからそういうことが言えるんだよ。きずつかないから。きずついても、ちゃんと立ちあがれるから。私には無理なんだよ。苦しくて、つらくて、変わりたいけれど、変わるのも苦しくて、どうしようもないんだよ……!」「変わらなくていいだなんて! じゃあ、ずっと、ずっと苦しめって言うの?」と反論するところ。「他人の意見なんか気にしなくていいんだ」とか、「変わらなくてそのままでいいんだ」とかは、子どもに関わる人や児童文学が伝えがちなメッセージですよね。でも、そう言われて逆につらくなる子どもたちがいるんだということがリアルに伝わってきました。
それから、冒頭にある「クラスになじめなかったり、大切な人とすれちがってしまったり、だれにも理解されずに、ひとりぼっちでとほうにくれている(中略)そういう子って、きっとこの世界にたくさんいるんだと思います。助けてあげてください。私に、そうしてくれたみたいに」と養護教諭の西島先生がネコ(くろノラ)に言っている言葉が全体のテーマのように掲げてあるので、黒野君はそのネコの役目を引き継いだかに見えるわけですが、最後の章で黒野君はp324「くろノラは、だれかを助けてやろうとか、そんなこと、ぜんぜん思っていなかったって。ただただ、おもしろかったんですよ。この学校に通ったいろいろな子たちと関わるのが」と言い、自分も助けようと思ったわけではなく、楽しいからいろいろな友だちと関わってきた、って言うんですね。ネコが乗り移ったわけでもなく、先生の願いやネコの遺志をついだわけでもなく、自分が楽しいから、というところが、いいなあ。
4つ目のエピソードでは、男子たちのいたずらがあまりにも稚すぎて笑ってしまうんですが、それが最後に登場するウサギ王子と小畑玲衣の仲直りの場面の伏線になっているんですね。

花散里:一人ひとりの人物の描き方、友情についてなどがしっかりと描かれていなくて、物語に入れず、どの章も私はおもしろく読めませんでした。登場人物の心の機微などをていねいに描いてほしいと思いました。くろノラの存在、三澄先生を絡めてのストーリー展開、構成もどうなのかと思いました。私は中・高の学校図書館に勤務しており、国語科の教員と協働で生徒たちに本を読んでほしいと、様々な取り組みをしています。読み応えのある外国の児童文学のような良い作品を常に手渡したいと思っています。日本の児童文学からも読みごたえのある作品と出合いたいと思いながら、読んだ作品でした。

マリンバ: これまで、2人の主人公の話を書くことの多かった著者が、短編連作に挑戦している“意欲作”だと思います。物語が複雑に絡まり合って、おもしろく読めました。ただ、人は増えても、みんなメンタルに不安を抱えている繊細な人たちで、ふり返ったときに、どの子もちょっと似ている気がしました。5章の柏木正樹くんなどガサツな登場人物も、最終的には繊細な相手を理解する、という展開になっていて、ガサツな人がガサツなまま繊細な人とふれあうのは、著者としては否定的なのかなと思いました。あと、たとえばp228「だけど、私、かなしかった……そして、こわくなった」というように、かなしい、こわい、楽しい、といった言葉が頻繁に登場するのが、やや安易な気もしました。ただ、子どもたちにとても好まれているようなので、こういうストレートで徹底的に心理描写を描くものが、今の子には伝わりやすいのかなとも思います。

ニャニャンガ:読みはじめは登場人物を把握できず、登場人物紹介を何度も見ながら確認する手間がありましたが、それを乗りこえる価値がある作品だと思いました。これだけ主要な登場人物が多い作品はめずらしい気もしますが、作者がきちんとまとめあげていてすごいです。わたしが好きなのはエピソード2の「タルトタタンの作り方」です。あのときの祇園寺先輩が語ったコンプレックスが後半で生きてくるあたりが好きです。本作の登場人物もほんとうの自分を出せないでいる子が多く、今回のテーマである「正体を隠して生きる?」につながりました。ただ、轟くんが何度も「ちいさく笑う」などと「ちいさく」を多用するのは自分が小さいからなのかと思ってしまいました。

ハリネズミ:さっき、ハルさんからは羽紗がタルトタタンにそれほどまでにこだわるのが理解できないとか、エーデルワイスさんからはこの時期に紅玉が手に入るのか、いう話がありましたが、そのあたりはどうですか?

ニャニャンガ:リンゴは一般的に6月から8月まで手に入りずらく、紅玉はもっと季節が限られていると思います。

ハリネズミ:タルトタタンって、別に女子っぽいお菓子でもないんじゃないか、という意見もありましたが。

マリンバ: タルトタタンというケーキの名前は、けっこう小説に使われている気がします。たとえば、一般書になりますが、近藤史恵さんの『タルト・タタンの夢』(東京創元社)や、中島京子さんの『樽とタタン』(新潮社)が頭に浮かびました。

ニャニャンガ:祇園寺先輩の性自認についてですが、この物語では女子として読みました。性自認というより、クラスメートや後輩たちから見られているイメージを崩さないためではないでしょうか?

さららん:7つの章はそれぞれモチーフもメインキャラクターも異なり、一見、断片的のようなんですが、登場人物が絡み合い、かなり凝った構成だと思いました。最後に羽紗はなぜタルトタタンにこだわるのか?という大きな謎が解決し、二人の少女の小学校時代からの行き違いが解けるところも気持ちよかったです。だれにもプライドやこだわりがあって、それがちょっとしたすれ違いで、友だちとの間に亀裂を作ります。でも違う視点から、さりげなく言葉をかける黒野くんの存在によって、みんなの小さな誤解やわだかまりが溶けていくんです。たとえ小さな悩みに見えても、子どもにとって人間関係は大きな悩み。自分のさりげなく発した言葉が相手をどんなに傷つけたかを知り、そこからどう立ち直るかを、対話を通して丹念に描いている。「あなたは二度と同じ川に入れない。二度目に入ったときは、一度目とはちがう水が流れているから」という意味を持つ「ヘラクレイトスの川」という言葉は、不登校になった子どもたちにそのまま伝えたい、と思いました。小さかったとき、立ち止まって歩き出した自分は、そのまま歩き続けた自分とは違う自分なんじゃないかと思って、友だちにそう話したら、バカか、という目で見られましたが……。トリックスターの黒野くんは、もしかしたらファンタジー的な存在かと危惧したのですが、最終章、「くろノラの物語」のところで、彼がどうしてそんな子になったのか、エピソードが挿入されます。黒野くんが地に足のついた存在になって、よかった! わかったようなことを言わないで、相手の言葉にただ耳を傾ける姿勢は、作者が児童館に勤務する中で身につけた姿勢なのでしょう。そのことにより相手も、自分のほんとの気持ちに気づくようになるんですね。

(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)


魔女だったかもしれないわたし

『魔女だったかもしれないわたし』
原題:A KIND OF SPARK by Elle McNicoll, 2020
エル・マクニコル/作 櫛田理絵/訳
PHP研究所
2022.08

〈版元語録〉スコットランドの小さな村で、二人の姉と両親と共に暮らす自閉の少女・アディ。昔、「人とちがう」というだけで魔女の烙印を押され命を奪われた人々がいることを知ったアディは、その過ちの歴史を忘れぬよう村の委員会に慰霊碑を作ることを提案するのだが……。 「わたしも魔女にされていたかもしれない――」魔女として迫害されていた人たちのなかには、自分のような人が含まれていたのではないだろうか……? 先生や友だちからの偏見、自閉的な姉からの理解と、定型発達の姉との距離、人とのちがいを肯定的に捉える転校生との出会い……。「魔女狩り」という史実に絡めて多様性の大切さを訴えつつ、ニューロダイバーシティの見地から自閉の少女の葛藤と成長を描いた感動作。

マリンバ:とても読み応えがありました。主人公が、視覚的にものを見る、ということを言葉で表現するのはとても難しいと思うのですが、それがうまくいっています。作者自身が自閉スペクトラム症と診断された、と知って納得です。あと、魔女裁判のことを調べるのに熱中していること、サメが好きであること、すべてに理由があって、無駄のない構成になっていると思いました。クライマックスも、終わり方も、よかったです。エミリーの弱点を知って、それを仕返しにクラスのみんなに伝えるような展開になるのでは、と心配しましたが、杞憂でほっとしました。今、日本でも発達障害のグレーゾーンがよく話題になります。そういうことに悩む人たちにも届けたい作品だと思いました。ただ1つ気になるのは装丁です。インパクトがなくて、物語の強さと合っていない気がしました。

花散里:表紙から受けたイメージと作品の内容がかなり違うと私も感じました。読んでみると、登場人物、一人ひとりがしっかり描かれていて読み応えのある作品でした。今、特別支援学校で読み聞かせをしています。以前には公立小学校の特別支援学級で13年間、読み聞かせをしていました。通常学級にも支援が必要な子どもたちがいましたが、その頃は、「自閉症の子ども」という言い方をしていたと思うので、本作で、自閉症ではなく、「自閉的」というところや、スティミング(自己刺激行動)についてなど、いろいろと学ばせてもらったという思いでした。主人公、その双子の姉、キーディとのやりとり、ニナとの後半での会話などが印象的で作品全体の構成が良くて、主人公、家族、友だちなど周りの人々、特に図書室のアリソン先生、魔女の慰霊碑建立に資金提供してくれたというミリアムなどがしっかりと描かれていると思いました。全体的に人と人との関りについての描かれ方が印象に残りました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。自閉的な人は、それぞれずいぶん多様なんだと思いますけど、感覚過敏だったり、人の表情をうまく読み取れなかったり、騒音や接触が苦手だったり、共感力が強くなりすぎることがあったりと、アディのような人がどんなところで苦労しているのかが、リアルに伝わってきました。呪われた子とか、現代の悲劇とか、知恵おくれなどという周囲の偏見に対しても、病気なのではなく他の人とは認知の仕方が違うのだということが、はっきり書かれていました。それだけではなく、物語としてもおもしろかったです。ほかの登場人物も、リアルに浮かび上がってきました。マーフィ先生だけは、こんなにひどい人が本当にいるのかと思ったんですけど、著者が自分の体験の中でこんなふうに差別されたことがあったのかもしれませんね。アディの家族がみんなでアディを支えているところも、最近の作品の中では逆に新鮮でした。

雪割草:障がいのある子に対する偏見について、魔女裁判の例を重ねて描くというアイディアがおもしろいと思いました。自閉症についてよく知らなかったので勉強にもなりました。それからアディが魅力的だと思いました。物事への洞察力があり、思いやりもあって謙虚。周りの人を動かす力もあることに納得しました。エディンバラの郊外が舞台になっていて、留学していたので懐かしく思います。よくわからなかったのは、ミリアムだけさん付けではなく呼び捨てなこと。有名人だからでしょうか。この作品はBBCの実写版になっていて、オードリーが褐色の肌の子でした。作品のなかでは、黒い目で黒い髪でロンドンから来たためだと思いますがアクセントが村の人と違うとだけありました。それから、牛の目が毛の下に隠れているといった記述がありましたが、ふさふさの毛のハイランドの牛だと思います。なので、ただ「牛」ではなく日本の牛と違うことを明記した方がよかったと思うし、表紙の牛は違いますね。私も表紙自体が作品の内容と合っていないと思いますが、牛もちゃんと描いてほしかったです。

ハリネズミ:この本の中ではオードリーの肌の色は描写されていないんですけど、映画とか絵本にする場合は、登場人物を多様にしないといけないんでしょうね。

wind24:とてもおもしろく読みました。3姉妹を中心に話が進みますが、自閉症の長女と自閉的傾向のある三女。通常発達の次女はその板挟みで無関心を装うしかなく辛く孤独を抱えた立場であったでしょう。中世は魔女としてたくさんの女性たちが殺されました。その中には自閉症やアスペルガーなど、今で言う発達障がいの方も多くいたのではないかと思います。人は自分と違うものを排除しようとする傾向があります。キーディやアデラインはその時代に生まれていたら魔女として死刑になっていたかもしれません。アデラインはそのことを他人事ではなく自分の事として感じています。このジェニパーで魔女として殺された人たちの慰霊碑を立てるのはアデラインが前に進むためにはどうしても成し遂げなければならなかったことです。町を巻き込み、反対派を説得し、理解者や協力者を得ていく、アデラインの不屈な精神力が素晴らしい。p139でマッキントッシュさんに「自閉症の子」と言われたアデラインが言い返す言葉が印象的です。「私は自閉的な人間というだけで、病気などではありません!」
子どもたちを見守り続ける両親、和解し絆を深めるニナとの関係性。そしていちばんの理解者キーディ。そんな家族に囲まれたアデラインだからこそ、自分の意思をつらぬき、道を切り開いていくことができるだろう、これからも、と思いました。

ハル:とてもおもしろかったです。魔女裁判をこういう視点で考えたことがなかったので、根本に潜む恐ろしさに改めて気づかされました。キーディも素敵でしたが、ニナの存在も大きいですね。自閉的なキーディとアディの間で、定型発達のニナにだっていろんな思いがある。それぞれに自分を置き換えながら読むことができる1冊でした。

ハリネズミ:表紙をどうするのかは難しいところですね。シリアスなテーマだからシリアスな絵にしたら、誰も手に取らないかもしれないですもの。それにしても、この表紙はちょっと違いますね。

しじみ71個分:前に1度読んだきりなので再読しようと思ったら、図書館で予約が8人待ちになっていて、かないませんでした。図書館の開架にあったのですが表紙がふんわりしすぎて魅力的に見えず、最初は手に取って読もうとは思いませんでした。でも、必要があったので、しょうがないと思って読んだら、内容はかなりハードで、とても興味深い本だったので驚きました。表紙が内容にそぐわないのはちょっと損してるなぁと思います。お話はとても興味深くて、重要なテーマを扱っていると思います。主人公のセリフで自閉症と自閉的であることは違うと知りましたし、自閉スペクトラムの特性を持つアディを通して、音、光、触感、味覚などの刺激に弱い等、生活上の困難がよく分かりました。姉のキーディ、友だちのオードリーの存在、アディの精神的なタフさが物語に安定感をもたらしているので、執拗ないじめに遭うような場面でも信頼を持って読めました。見えにくく、理解されにくい発達障害には、周囲の理解が重要だということがよく分かるので、子どもたちに広く読まれ、知られるといいですね。キーディの描写からも鋭い痛みが伝わり、重み、厚みがあって胸にこたえました。普通(普通とは何だ?という疑問も当然浮かんできますが)と違うということで差別されたり偏見を持って見られたり、攻撃の対象にされたりするのはあってはならないことで、自閉スペクトラムの自分を魔女狩りに遭った魔女に例えられて処刑されていたかも、と言われるなんてのは、生きることを否定されているみたいでとても怖いですよね。先生の無理解やいじめの場面は読むと辛いですが、読む人がちゃんと考えるべきことを伝えてくれていると思います。最後に、魔女狩りにあった女性たちの慰霊碑を建てることができ、きちんとアディの自己実現がなされるという結末には救われる思いがしました。読んで本当によかった作品です。

エーデルワイス:自閉スペクトラムである主人公のアディが冷静に自分の症状を説明しているところが驚きでした。一つのことが気になると、もうそればかりで我慢できないとか。親友のオードリーに人から触られる(一部除いて)のが嫌なのでハグができないとか。(最後の方でオードリーと軽くハグするところが微笑ましい。)アディの双子の姉の一人キーディが大学で自分が自閉スペクトラムであることを隠しているところからは、ありのままでいられない苦しさが伝わってきます。11歳の時、教師から受けた精神的な暴力のせいでしょうか? 大学には診断書が提出されていないのでしょうか? ADHD(注意欠陥多動症)の講演会とその当事者の体験談を聴く機会があり、周囲の理解や助けで普通に生活できることを知りました。
5歳の孫(男の子)は自閉スペクトラムと診断されました。それまでは、集団に入れず、大声で喚いたり自分の興味のあることしかしないので、こども園ではお荷物敵存在でしたが、診断がつくことにより理解が進み、選任の保育士さんが一人ついて、こども園の生活が良くなりました。孫が、このアディの視覚、聴覚、感じ方など同じだと思い、私にとってはテキストのように読みました。とてもよかったです。

きなこみみ:おもしろく読みました。自閉スペクトラム症ということがとても具体的に描かれていて、サメになぞらえられていたり、子どもにも伝わりやすい、感覚として伝わりやすい例というか、それをたくさん挙げて説明されているなと思いながら読みました。自分と違う人を排除するっていうのは、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』(小学館/新潮文庫)も。あれは自閉スペクトラムではなかったですけれど、やっぱり自分と違うものを排除するっていうのが、テーマの一つだったと思うんで。魔女の歴史っていうものを踏まえて、過去と今とを繋いでいるっていう意味でも、とても良い本ではないかなと思いました。あと、アディに対して、加害を繰り返すいじめっ子って、さっきも出てましたけど、誇張されているとは思うんです。マーフィ先生も、こんな先生がいるのかと思うぐらい激しいですね。アディとキーディが自閉スペクトラムの自覚があるっていうことは、学校にもそれは伝わっているんだと思うんですけど、今の時代のイギリスでこの対応はあまりに酷いと思うんです。でも、そこから伝わってくるものを選択されたんですよね、きっとね。加害する側と被害を受ける側の区分けがはっきりしすぎてるかな、とは少し思いました。
ただ、もう一ついいなと思ったのは、いじめを何も言わずに見ている人たちのことが、ちゃんと書かれているところです。p216で、アディの辞書がびりびりにされたことについて、「もしもだれかが、ジェンナの大切なものを取ろうとしたら、わたしなら止める。もしジェンナの悪口をいう人がいたら、わたしなら、だまれっていう。それが友だちってものだから。それが正しい人間がすることだから。でもジェンナは、ただつっ立ってみていた」ってアディが言うと、ジェンナが「わたしだけじゃない。みんなだってそうだよ」って言うんですね。みんなもそうだから、私は悪くない、っていうことをジェンナは言ってるんです。それに対して、アディは「オードリーは違ったよ。アリソン先生も」って、ぴしゃりと言い返します。傍観者になることは加害のひとつであるっていうことが、とてもしっかり書かれているので、この作者はそういうことについて、深く考えを張り巡らせておられるんだな、と。こないだ、朽木祥さんの講演会に言ってきて、そこで朽木さんが、「加害者になるな、被害者になるな、そして傍観者になるな」という言葉をあげてらっしゃいましたけど、その言葉がこの本を読みながらも、また、思い浮かびました。これはやっぱり、いろんな差別とかレイシズムの図式にもあてはまることなので、声を上げ続けるアディの強さが、子どもたちに伝わるといいなと思います。そして、殺されていった魔女たちの慰霊碑を作るっていうのは、過去を忘れずに、そこに向き合うっていうことなので、そこも良いと思うんです。過去と向き合わないと、実りある未来には進んでいけない。「われわれはすべて背中から未来へ入っていく」つまり、現在と過去を見る賢者だけが、未來を見ることができる、と『未来からの挨拶』(筑摩書房)で堀田善衛が言っていましたが、過去のつらい、悲しい魔女の記憶をきちんと持ちながら未来に進んでいこうとするこの物語には、とても大切なことが詰まっていると思います。

アンヌ:最初はファンタジーだと思って読み始めていたので、魔女への共感が慰霊碑の形になるとは思ってもみませんでした。定型発達とか自閉的という言葉の意味をこの物語の中から読み取るべきなのだろうけれど、やはり、わたしは最初のうちに注がほしかったと思います。ニナについては、親の言いつけを無視したりするところに、ヤングケアラー的な重圧を感じていたのだろうなと思いながら読みました。気になったのがp185でアディがマーフィ先生に算数の答えをカンニングしたと決めつけられていたことを、その時にはまだ来ていないキディが知っていて、p192で先生に言うところ。誰もまだそのことを口にしていないので、奇妙です。

ニャニャンガ:仮面をかぶって学校生活を送るアディの苦しさが胸にせまる内容でした。ニューロダイバーシティという言葉を知ったのは最近で、自閉症スペクトラムはなんとなく知っていたものの、こんなにもさまざまな状態の人がいるとは知りませんでした。作者自身が自閉スペクトラム症のため、表現がリアルで、アディとキーディの特性やしんどさがとても伝わってきます。アディに姉のキーディがいてくれてよかったのと同じように、キーディと双子のニナが、疎外感を感じるせいで反発しているようでいて、支えてくれる姿が愛おしかったです。ロンドンから来たオードリーは、閉鎖的な村社会とは対照的な存在で、アディを偏見で見ずに理解しようとする姿勢があり、理想的な友人の事例と感じました。この物語では、わかりやすい無理解者としてエリーとマーフィー先生が登場し、アディを苦しめ、残酷でつらかったです。また、自分のコンプレックスからエリーがアディをいじめるのは、親の問題もあり小さな村では今後が心配な気がします。また、現代の魔女的な存在であるミリアムを登場させたのは、うまい流れだと思いました。アディが自分を魔女と重ねで存在を否定されているように感じ、慰霊碑を作ることで昇華させようと活動するなかで成長し、それを影でミリアムが支援してくれたことは喜ばしいです。
気になるというか要望としては、スティミングについての説明のように、定型発達(ニューロティピカル)や作業療法など固有の言葉についてももう少し補足がほしかったです。可能であれば、あとがきか解説をつけてくれたら理解が深まったのではと思いました。

さららん;自分でメモしておいたことが、ほとんど全部出てしまったので、私なりに気がついたことを言います。たとえば、森の中を案内してくれたパターソンさんは、わかったようなことを、思い込みで言ってしまうタイプ。悪気はなくても相手を傷つけてしまうんです。そんなパターソンさんにまっすぐ切り返す主人公を見ていると、これまでの苦労がよくわかります。私もパターソンさんみたいにならないよう、注意しないと。また子どもと大人と対等に発言でき、村で殺された魔女たちを忘れないように記念碑を作りたいと、アディが提案できる委員会があることが、うらやましいと思いました。村の委員会の議長であるマッキントッシュさんは、なかなか手ごわい相手ですが、アディもめげずに工夫を重ねながら3回も提案するのです。その粘り強さは見習わなくては! アディにいろいろなことを教えてくれる姉キーディが語った言葉――「みんなが求めているのは事実じゃない(中略)みんなが聞きたいのは物語なんだ。だから一部始終を語らなきゃ」(p174)を聞いて、人を動かす力を持つ物語とはなんなのか考えさせられました。さらにキーディが言った「いいことと正しいことは違う」(p176)という言葉にはハッとさせられ、小学校高学年の読者にそれを伝えておくのは、これからの価値基準を作るうえでとても大事だと思うのです。いわゆる「歴史」を、自分自身でホントにそうなのか?と問い直すきっかけにもなります。過ちを繰り返さないために歴史を学んでいるはずなのに、私たちは少しも前進せず、同じ過ちをしています。女の子の小さな訴えが、そんな大きな歴史にも、この世界全体の在り方にもつながる、読み応えのある物語でした。

ハリネズミ:自閉症という言葉は今は使われなくなったんですか? この本の中では病気じゃない、と言っているので「症」という語は適切ではないのかな、と思ったのですが。

ニャニャンガ:見える障害と見えない障害があり、見えない障害は本人が申告したくない場合もあるため、支援を受けることの難しさがあるのではと思います。アディは自分で認知しているのに、周囲の理解が得られないのは問題だと思いました。

ハリネズミ:日本では、診断がつくと補助の先生がつくので楽になるけれど、親に診断を進めても、うちはいいという方も多いと聞きます。そのあたりは難しいところですね。

エーデルワイス:就学前そのお子さんの診断によって、普通学級、特別支援学級、特別支援学校へと分かれていくようです。私の文庫の近くに「放課後デイサービス」があります。契約を結んだ子どもたちの学校(小、中、高)へ、デイサービス職員が車で直接迎えに行き、放課後を過ごし(宿題をしたり遊んだり)、終了後にそれぞれの家まで送るシステムです。保護者にとってありがたいことだと思います。文庫にその子どもたちが本を読みに来てくれます。絵本やストーリーテリングも聴いてくれます。

しじみ71個分:放課後デイサービスは、私の地元でもとても増えています。発達障害の診断がつかないと使えない施設ですが、増えていることには何らかの意味があるんだろうと思います。日本の学校では、統合教育よりも分離教育の方が多いと思いますが、先生が多忙な上に、何しろ1クラスの子どもの人数が多すぎるのだと思います。先生の手も回りませんし、子どもに目が行き届かないです。それでは統合教育は進まないと思います。保育の現場でも同様で、先生1人に対する子どもの数が多すぎて子どもたち一人ひとりに目が届くような保育は難しい現状です。発達障害の診断がついてやっと先生の加配がなされるので、障害のある子どもを受け入れるには、診断がつかないと現場が回りません。保育園側から診断を受けてみたら、と保護者に伝えるには慎重にコミュニケーションを取らないと難しく、保護者自身も育てにくさやつらさを感じているのだと思いますが、なかなか言い出せるものではないと聞きました。でも、1回診断を受けて専門家のサポートを受け始めると保護者も保育園側もみんな楽になります。
とにかく日本では、障害を受容する環境が整っていないと思います。アメリカの図書館界では、自閉症の子どもを図書館に受け入れるためのツールキットも公開されていて、司書がトレーニングを受けることで、自閉症の子どもたちを含め、情報や教育、図書館にアクセスしにくい障壁をなくしていくという運動も進んでいます。自閉症の子がはねたり、声を出したりすると、周りの利用者からうるさいと言われ、図書館側も迷惑がるというようなことが往々にしてありますが、そういった気持ちのバリアをなくして、物理的な環境も改善していくことが大事だという学びを共有していっているんですね。物語の中でも大学の環境が整っていないためにキーディが大変な辛さを経験する場面がありますが、多様な脳の特性のある人を受け入れる環境改善と理解の促進への取組は日本でも早急に進めていくべきだと感じています。

ハリネズミ:障碍者というのは、その人に障害があるのではなく、社会の側がその人が暮らして行くときに障害になっているのだと聞きました。気の毒だとか親切に、とかいうことではなく、社会のほうをもっと整備していかないと、ということですよね。

しじみ71個分:日本の図書館でも「世界自閉症啓発デー」に合わせた展示を行うなど、自閉症に関する学びを深めつつありますので、これから少しずつ改善されていくのかなと思っています。

(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)