原題:GOLDEN COMPASS by Philip Pullman, 1996(イギリス)
フィリップ・プルマン/著 大久保寛/訳 エリック・ローマン/絵
新潮社
1999.11
<版元語録>両親を事故で亡くし、オックスフォード大学寮に暮らすライラは、明るく活発な少女。連れ去られた友だちと、監禁されてしまった北極探検家のおじを救うべく、ライラは黄金の羅針盤をもって北極に旅立つ…。カーネギー賞受賞作。 *ガーディアン賞も受賞
注:時々勘違いをなさって怒りのメールを下さる方があるので、バオバブより一言申し上げます。『ハリー・ポッターと賢者の石』については、「つまらなくて最後まで読めなかった」一人を除き、ほかの参加者は最後までこの本を読み通したうえで感想や意見を述べています。「続きが読みたくない」と言っている「続き」は続編のことです。
裕:この2冊(『ハリー・ポッター』と『黄金の羅針盤』)は同時期に日本で発売されたファンタジーで、どちらもいろいろな意味で話題になってる本だけど、とても対照的な作品だと思うの。だから、2冊を比較しながら話を進めることにしない?
一同:賛成!
モモンガ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』は、期待ほどじゃなかったな。あちこちで、絶賛する記事を見ていたから、とても楽しみにしてたんだけど。日常生活の中に魔法があるってやっぱりおもしろいことだし、ハリーが魔法学校に入学するまでのあたり、導入部分はとても魅力的だと思ったの。でも、学校生活のドタバタで、ダレちゃって。なんだか主人公に魅力がないのよね。ハリーは欲のない純粋な子で、そんな性格が鼻につくこともあって、いじめられちゃうわけだけど、そういうのって大昔からあるパターンでしょ。ハリー自身には成長もないし、深みを感じられるキャラクターじゃないし。いうなれば、アニメの世界よね。ハグリットの存在も陳腐な感じ。体が大きくてちょっと怖そうなんだけど、実は心やさしい愛すべき人物っていかにもディズニーが好きそうなキャラクター。そのままディズニー映画に出てきそう。『ハリー・ポッター』がアニメとしたら、『黄金の羅針盤』は実写 ね。物語世界に奥行きがあるの。人物の描き方にしても全然違うでしょう。主人公ライラは欠点もあるんだけど、子どもらしくて生き生きしてる。ダイモンの存在も、とてもおもしろい。ダイモンは、守護天使のような存在なんだけど、それが動物の姿をしていて子どものうちは変身できるのに、大人になると姿が定まってしまうとか、人間の性格と動物の性格は密接な関係にあって、動物の姿はその人の性格を表すことにもなるんだけど、みんなが自分の望む姿のダイモンを手にいれられるわけではないとか、とてもよくできてておもしろかった。ひとつの状況を説明する場合の文章の表現がうまいので、出来事だけを追っていくのではなく、文章の表現を楽しむ喜びがある。『黄金の羅針盤』は3部作だということだけど、ぜひ続編が読みたい作品。『ハリー・ポッター』は、もう続編を読まなくてもいいかな。
ウォンバット:私は、どっちもイマイチだった。『黄金の羅針盤』はスケールが大きくて壮大なファンタジーだなあと思うけど、物語には最後まで入りこめなかった。なんだか、ダイモンの大切さが伝わってこなくて。動物の姿をしていて変身するなんて、たしかにおもしろいんだけどねえ。全体的におどろおどろしくて、暗い雰囲気なのもあんまり好きになれなかった理由かな。寒々しいんだもん。あと、ライラは大学の寮で本当の両親を知らずに育ってて、物語が進んでいくにつれて、自分の両親が誰なのか、そして彼らがいろいろな意味で対立していることを知るわけだけど、そういうことに対する葛藤がまるっきりないのも不自然な感じ。父母とか家族から解き放たれた存在なのかもしれないけど、でも、少しは何か感じそうなもんじゃない? 『ハリー・ポッター』は、つまらなくて最後まで読めなかった。誤植も多いし、ルビの不統一とかそんなことばかり気になっちゃって。
パブロ:誤植、ホント多いよねー。読みながらイライラした。23刷なのに、全然直してないんだね。書体をいろいろ変えてるのも、うるさくて嫌だな。
ウォンバット:そうそう! なんだか、おしつけがましいの!
ひるね:編集者は、そういうことが気になるのね。ねえ、ところでどこまで読んだの?
ウォンバット:魔法学校に入学するあたりかな。それまではなんとか我慢して読んでたんだけど、やっぱり学校生活に入ったら、おもしろくなくて、力つきたって感じ。総括してみると、「久しぶりに厚い本を読んだなあ」っていう印象。だって『黄金の羅針盤』は528ページ、厚さ 3.5センチ。『ハリー・ポッター』は 464ページ、厚さ3センチよ!
裕:この2冊は、系統も読者層もまるっきりちがう作品よね。『ハリー・ポッター』は、さっきも話が出たけれど、アニメ的。主人公や、それをとりまく人のキャラクターの描写が弱くて、みんな、まさにディズニーキャラクター・タイプ。派手な小道具を使ってチャンバラをしてるだけで、「スターウォーズ・エピソード1」みたい。ファンタジーのおもしろさに徹しているだけ。作者が物語にふみこんでなくて、ファンタジーがアイディアの一部でしかないの。だから結果的にドタバタで終わっちゃってるんじゃない? アイディアはいいのに、残念だわ。なにか伝えたいこと・・・たとえば主人公の成長とかね、そういうことを伝えるためにファンタジーという形式を選んだというのがイギリスの伝統的なファンタジーだと思うんだけど、そういうのとは根本的に違うと思う。
いっぽう『黄金の羅針盤』は、イギリスの伝統的ファンタジーの流れをくんだ作品。伝統的なもののなかに、現代的なものをうまく織り込んでて、イギリスファンタジーの良さを感じる。プルマンは、イギリスの伝統的ファンタジーをよく理解していて、あえてそれを壊そうとしてるんだと思う。そうそう、彼は「壊す」ことを意識してるポストモダンの作家。最新情報では、この作品は3部作じゃなくて4部作にする予定らしいんだけど4作目で「壊す」ために、3作目まではしっかりした世界を構築したいって言ってた。彼の意識は児童文学作家というより、大人向けの作品を書いている作家と同じ。描写力もたしかで、ていねいに描き込んでいるから、作品が長くなるわけだわーと思うけど、オックスフォードのハイテーブルのおごそかな感じとか、とてもよく伝わってくる。そこにミステリーもうまく使っているから、読者はぐいぐいひきこまれるよね。ところで、この本の帯、強烈じゃない?
ひるね:表1側は「『指輪物語』『ナルニア国物語』『はてしない物語』に熱中したすべての人に」ってコピーが入ってて、背は「今世紀最大の冒険ファンタジー」となってるんだけど、これ、プルマンが知ったら怒っちゃうと思うわ。だって、彼ははっきり『ナルニア』を批判しているのに、その『ナルニア』といっしょにされてるなんてねえ。日本語が読めなくてよかったね。
ねねこ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』しか読めなかったけど、楽しめなかった。緊張感が持続していかなくて。作者が何を目的に、というか、何を解決しようとしているのか、わからなかった。思索、哲学の深みがないし、人間造形にも魅力が感じられない。この作品を楽しめる人が確実にいるらしいというのは、どういうこと? って考えこんじゃった。深いものを表現するための装置としてのファンタジーではないという気がするのよね。どこかに重いメッセージを求めてしまう、自分の読書姿勢がまちがっているのかな、なんて悩んじゃいました。柏葉幸子さんの世界と近いけど、彼女のほうが、もうちょっとこだわりのあるテーマが見え隠れしてると思う。エンターテイメントと思って割り切れれば、いいんだろうけど。それにしても、朝日新聞はどうしてあんなにほめるのかしら。何回もとりあげたりして、ちょっと異常よね。あの「天声人語」(2000.2.13)は、ひどかったね。
一同:ほんとほんと!
オカリナ:でもさ、そろそろ批判が出てくるころなんじゃないの? 『ハリー・ポッターと賢者の石』も『黄金の羅針盤』も同時期にイギリスで出版されて、どこの出版社もねらってたんだけど、版権がすごーく高くて、結局2冊とも子どもの本専門ではない出版社から、一般向けに出版されたわけでしょ。それで『ハリー・ポッター』は宣伝も上手で、メディアも利用してブームになったのね。マスコミの功罪は、大きいよね。私は『ハリー・ポッター』は、「本嫌いの子にも本好きになってもらう」ところに出版の意義があると思うの。英語圏でもドイツでも、そういう読まれ方して、それで大きな話題になったのよね。ドタバタだっていいじゃない!? おもしろければ。その本その本で、果たすべき役割が違ってていいと思うから。でもねえ、この本づくりでは、その魅力も伝わらないよ。本嫌いが本好きになるような本づくりをしてほしかった。このブームも裏を返せば、ファンタジー慣れしていないおじさんたちが、喜んでるってことじゃないの? だって、物語は、伝統的イギリスファンタジーからしたら「なにこれ?」って感じでしょ。これだったら『ズッコケ三人組』(那須正幹著、ポプラ社)のほうがおもしろいと思うもの。要素があれば、ひっぱっていけるのに、もったいないよね。ほんと残念。
『黄金の羅針盤』は、表紙を見て期待しました。そして、読みました。でも、私はちょっとがっかり・・・。理知的な作家だから、実に緻密に世界が構築されてて、こことここがこうつながってなんて、整合性はすばらしいけれど、作品してはおもしろいと思えなかった。プルマンがオックスフォードや教会に敵対してて、C.S.ルイスを批判してるのは、作品からもよくわかるけど、これなら「ナルニア国物語」(岩波書店)のほうが、おもしろいと思う。頭は惹きつけられるけど、心は惹きつけられないっていうのかな。ポストモダンの作家だっていうことだけど、なんかていねいに訳しすぎてて、それにも惹きつけられなかったのよね。ポストモダンも、作者の意識としてはいいけど、子どもには魅力ないんじゃない? 父母の人物像も人間としての造形が感じられなくて「どうして?」って感じ。これじゃ、ゲームのキャラじゃない? ダイモンとか白熊はおもしろかったけど。白熊のイメージは、スーザン・プライスの『ゴースト・ドラム』(ベネッセ)あたりからきてるのかな。
裕:そういえば、イギリスでは教育制度の改革があって、エリート向けじゃない小説が必要とされてるって、何かで読んだわ。『ハリー・ポッター』は、そういう意味でも出現を待たれていた作品なのかも。
モモンガ:さっき、ハリーが魔法学校に入るまではおもしろいけど、その後はおもしろくないって言ったけど、イギリスの子にとってはおもしろいらしいわよ。学校の寮の雰囲気とか、懐かしいんだって。でも、大人が必要以上にもてはやすのは、おかしいよね。
パブロ:そうだよ。どうして大人が『ハリー・ポッター』をもてはやすんだろう。ぼくは、続きはもう全然読みたくないな。俗悪なもので何かを乗り越えるってこともあるから、それもまたいいし、それに、誤植とかあれだけの読みづらさを「仕掛けてる」のに、読み終える人がいるってのは、読書力の回復といえるかもしれない。キャラクターの造形が弱いのも、読むほうにしてみれば気楽だし、小道具には駄菓子屋っぽい楽しみもある。ドタバタだってちょっとずつ仕掛けてるから、小刻みな刺激が心地よいってこともあるだろうし、そんな欠点がそのまま受け入れられて、ポピュラリティーにつながっているのかもしれんけど。こんなにもてはやすに値するもんかねえ。寮でのできごとも、みみっちいよね。なんだか不思議なことが起こりそうな感じがしないんだよ。ハリーもヤなやつだし。あと、重箱のスミになっちゃうけど、小道具にも責任をもってほしい。だいたいクィディッチってゲーム、納得いかないよな。見てておもしろいワケ? と、きいてみたい。9と4分の3番線にしても、見かけ倒し。あちらの世界とこちらの世界をつなぐ大切なところなのに、あれはないよねー。
『黄金の羅針盤』はおもしろかったな。続きが読みたい。でも、実は父母だったとかさ、屈折が多くて気持ちがくしゃくしゃとなるよね。ダイモンは、変化していたのがいつしか一つの姿に定まるってことだけど、「成長」と「大人になること」の両面を描いてるのかなと思った。ちょっと露骨な感じがするけど、それもまた快く読める。「幼さに自覚的になることが成長だ」って谷川俊太郎が言ってたのが、印象的だったんだけど、でもそれは、おもしろさとはまた別の問題。それにしても、「寒い」物語だね。しんしんと身体が冷えてる感じがよく描けてる。
ひるね:ほんと、この冷たさはなんなんでしょうね。まさにプルマン・ワールドというべき作品。翻訳はたいへんだったと思うわ。彼は劇画、漫画好きなのよね。そういうものから影響を受けてるでしょう。この前の作品Ruby in the Smokeとか Clockwork(『時計はとまらない』偕成社)もよかった。ロジャーはいい子なのに、死んじゃって気の毒。もうちょっとなんとかできなかったのかって気もするけど。プルマン自身、『ハリー・ポッター』ほど売れないのを残念に思ってると思うな。『ハリー・ポッター』も、そろそろ反論が出はじめたみたいよ。フェミニストの中には、男の子ばかり活躍するって怒ってる人もいる。女の子の描き方がステレオタイプだって。ハーマイオニーも魅力がないし、他の女の子は、たとえばトロルが出てきたときも、かくれて涙をこぼしてるだけとかね。その点プルマンは『黄金の羅針盤』の主人公の女の子ライラも魅力的だし、前の3作もみんな女の子が主人公で気持ちがいい。『ハリー・ポッター』がなんで売れてるのか考えてみたんだけど、理由6つほど思いあたったの。ジェットコースターのようなストーリー展開、ステレオタイプで、わかりやすいキャラクター、トロルとか、おなじみのものが登場する、作者ローリングが劇的に現れたこと、言葉遊びのおもしろさ(日本語版では、それは生かされてないけど)、静山社ストーリー(夫の死で意気消沈してたところ、この作品に出会って感動。ローリングに直接アタックして、小さな出版社なのに版権を獲得したという美談)という6つ。
私は、原書を98年の夏の終わりか、秋のはじめごろに読んだのね。訳者の松岡佑子さんより早かったと思う。3冊3ポンドかなにかで、セールだったのよ。それで買ったんだけど、おもしろくて一気に読んじゃったの。で、もう一度読まなきゃなと思ったんだけど、2度読む気にはならなかった。トールキンの『ホビットの冒険』(岩波書店)とか、ル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)は、いいなあと思うところがあって、また読みたいなっていう気持ちになるんだけど、『ハリー・ポッター』には、そういう気持ちはわいてこなかった。たとえば『ゲド戦記』には、いくつも印象的な文章が出てきて、それぞれの1行こそが『ゲド戦記』の生命というか、とても大切な部分でしょ。この1行が読みたくて、もう1度読みたいなって気持ちになる。でもね、『ハリー・ポッター』には、「この1行」がないの。「おもしろさの質」について考えさせられた。「おもしろければ、それでいいの?」と思うのよね。『ハリー・ポッター』を出版する意味って、私もオカリナさんと同じで、「本嫌いの子を本好きにする」だと思うんだけど、それが現実にはうまくいっているのかどうかというところに、今、興味があるな。日本のマスコミは、こぞってたいへんな持ち上げようだったけど、そろそろ目をさましてほしいな。だって『ハリー・ポッター』よりおもしろいファンタジーって、たくさんあると思わない? この本のファンタジーは、借りものなのよ。絶賛はもういいから、「日本の児童文学にどんなインパクトを与えたのか」「子どもに確実に手渡されているかどうか」を、追及してほしい。この本、日本では大人向けに出版されたわけだけど、私はそのことに憤りを感じているの。もともとは子ども向けの本なんだから。こないだの「天声人語」(2000.2.13)だって、「名訳である」なんてやたらに持ち上げて宣伝に一役買うようなことはしないで、もっとちがう面をとりあげてほしかった。
愁童:さっきも出たけど、天声人語はほんとひどかったね。全然読まないで書いてるんじゃないの?
ひるね:『ハリー・ポッター』の翻訳は、いろんな人がつつきまわしてるのがよくないと思う。明らかに一人の人が一貫して訳してないから、ふつう翻訳って後半のほうがよくなるものなのに、この本は後半がいいかげん。『黄金の羅針盤』の訳も、子どもの会話に「彼」「彼女」なんて出てきて、子どもがそんなふうに話すかしらなんて初めのうち思ったけど、聞きづらくても味わいがある方言といっしょで、物語世界に入りこんでいくうちに、ごつごつした訳がだんだん気にならなくなったもの。
愁童:ぼくは『黄金の羅針盤』は読んでないんだけど、『ハリー・ポッター』の翻訳はたしかにいいとは思えなかった。『ハリー・ポッター』は、猫が地図を見てるとか導入はよかったから、これはおもしろそうだぞと思ったんだけど、読んでみたら詐欺みたいなもんだったね。これはさ、「創作」というより「構成・編集」。今まで読んできたファンタジーの集大成って感じ。イメージをつくる喜びが全然ない。こういうのが今の若い人には喜ばれるのかな。インターネットなんか見てても、小学校の先生で30代の女の人が、こないだここで読んだ『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)について書いてて「うまい。とってもおもしろかった」って推薦してたんだけど、その同じ人が「『ハリー・ポッター』はスゴイ!ここ10年で一番おもしろい作品だった」って大絶賛なんだよ。今の30代にはウケるのかなあ。
ウォンバット:私、30代だけど、ウケませんでしたよ。
愁童:まあ、人によるってことだろうけどさ。この作品はきれいなCGみたいなもので、油絵のような奥行きはないけど、CGのほうが好きって人もいるってことじゃない?
(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)