ヤコブ・ヴェゲリウス『曲芸師ハリドン』
『曲芸師ハリドン』
原題:ESPERANZA by Jacob Wegelius
ヤコブ・ヴェゲリウス/作/絵 菱木晃子/訳
あすなろ書房
2007.08

版元語録:「他人を信用しないこと」を信条に生きてきた曲芸師の少年ハリドンは、たったひとりの友をさがしに、夜の街へととびだした-。スウェーデンからやってきた現代のおとぎばなし。

サンシャイン:ざっと読んだんですけれど、あんまり印象に残っていないんです。船長さんがいなくなったらどうしようという不安な感じがあって、そこに読者も入っていけたら、作品に入れたという感じになるのかなあ……でもちょっとしつこい感じがしました。最後は船長がハリドンに、捨てたりしないよ、という感じなんですかねえ。

ハリネズミ:これは、ストーリーラインだけで読ませる作品じゃないから。

サンシャイン:過去のことなどもいろいろと書いてあって……でも途中でちょっと飽きちゃいました。最後が嫌な感じでなく終わったのが良かったかな。犬とやりとりするというのは、前にもそういう本がありましたね。でもこの本では犬はあまり信用されていないようです。

メリーさん:変わった本だよ、と言われていたのでドキドキしながら読んだのですが、とってもいいお話でした。たった一晩のまるで夢のような物語。主人公のハリドンと船長とのあいだには、友情というか、親子の情のようなものが感じられました。二人はとても深い絆で結ばれているのだけれど、血がつながっていないから、不安になる。結果としては、ハリドンが船長を灯台で見つけ、文字通り「灯台もと暗し」だったのだけれど、町中を走り回ったことで、彼の気持ちが改めて認識できたような気がしました。

ハリネズミ:これは、一つ一つの場面や情景の雰囲気を味わう本だと思うんです。夜の闇の中でのハリドンの不安、小さな野良犬の不安、カジノの喧噪、あやしい犬捕りの暗躍などが、不思議な模様を織りなしています。これは、菱木さんの訳でないと読めない本かもしれませんね。この訳者だからこそ、そういう一つ一つのものが醸し出すムードがきちんと伝わってくるんだと思います。原作者が描いた絵と文章のバランスも絶妙で、本にさらに味が加わってますね。
船長がエスペランザ号に乗って行ってしまったと思って、ハリドンが悲嘆にくれ、犬は不安に怯えて進めなくなり、という絶望の場面の次は、灯台に入って船長を見つけてホッと安心する場面が来るでしょ。普通ならここで、再会の喜びの情景を書くところだけど、ハリドンは船長が楽しい時間を過ごしてのを邪魔したくないので、自分の気持ちをおさえる。このあたりもうまいし、無邪気な犬がいるせいで、心の揺れや本当の気持ちが会話の中からうかびあがる。内面のドラマですよね。船長も、何が起きたか直接はわからないけれど、帽子があったり犬がいたりで何となく察する、そのあたりがいい。最後に船長が犬にエスペランザという名前をつけようとしているけど、それは、この犬を引き取ろうという気持ちの表れなんでしょうね。そのあたりの訳も、とても上手。表立って何かが起こる話じゃないけど、とてもおもしろかった。中学生の課題図書ですけど、これ、中学生にわかるんでしょうか?

げた:たった一晩の出来事だけれど、船長とハリドンのこれまでの人生や生き方が、お話を通して見えてくるんですね。船長は一か所にとどまらず、常に夢を追っかけている人なんだなあと思います。犬とハリドンの関係なんですが、犬のしゃべる言葉はハリドンの気持ちを表しているんでしょうね。読者対象は中学生以上だとは思うんですが、船長を通して、人間の生き方の一つを子どもたちに見せているのだと思います。それと、日本の子どもたちの日常とは違う、一見緩やかだけれども、緊張感があって、縛られない日常を描いて見せてくれているんですよね。

小麦:私は好きでした。一晩のうちにいろいろなことが起こる夜のお話っていうのがまず好き。あとは北欧のものって映画もそうですけど、どこか暗さや孤独を抱えているようなものが多くて、そこが味わい深いと思います。この作品の登場人物も、みなそれぞれに傷ついていたり、挫折してたりして、孤独と向き合ってます。しかもそれをことさらに主張したりせず、じっとわきまえて生きている感じがいいと思うんです。船長にしても、今回はハリドンのもとに帰ったけど、いつかふらっといなくなってしまいそうな感じもします。全体的に常に不安や孤独の気配が漂っていて、だからこそラストのあったかさが生きてくるんだと思います。ただ、雰囲気で読ませるタイプの本なので、これで読書感想文を書かせるのはちょっと酷じゃないかなぁ? 感じたことを言葉にするまでに、時間がかかる本だと思うので。

いずる:幼い頃、夜中に「親が突然いなくなってしまったらどうしよう」と不安に襲われていたことを思い出しました。この本は、子どもが感じる、身近な人がいなくなることへの不安に通じている気がします。それと、ここには名前の問題があると思います。まず、前半に、犬がハリドンに名前を尋ねる勇気がないという描写が出てきます。名前を尋ねられないというのは距離が離れているということです。それが、最後の場面で船長が犬に名前を与えるという場面に繋がっていきます。ここで名前を与えられるのは個人として認められたということで、船長やハリドンとの距離が近くなっていることを表現していると思います。ただ、〈船長〉はずっと通り名のままで名前が出てこないのですが、これがどういう意味なのか、よくわかりませんでした。

みっけ:雰囲気のあるおもしろい本だなあと思いながら読んだのですが、中学校の課題図書だということがわかって、はて、これって子ども向きの本なんだろうか、とひっかかり始めました。それからしばらく、この本から受けた印象を頭の中で転がしていたら、ある日ふと気がついたんです。この不安な感覚やアンバランスな感覚(カジノでハリドンが出会う人々などの不気味さや異様さ)って、子どもの感覚なんじゃないだろうか、なにかの時に親とはぐれたり、自分が眠っている間に親がどこかに出かけてしまったのに気がついたときの子どもの不安と同じなんじゃないかなって。そういう時には、たとえ親子の関係に満足している子どもでも、ひょっとしたら自分は置いてきぼりを食ったのかもしれないと思って不安になることがある。私自身がそういう気持ちと無縁でなかったので、そうか、これって子どもの感じ方なんだなあと思って、だったらやっぱり子どもの本なんだ、と思いました。この作者は決して、子ども時代に感じたことをノスタルジックに書いているわけではないし。夜になると、そこいら中の物がおっかなく見えたりするのも、子どもならよくあることですよね。
もう一つ、この本は、ひ弱でちっこい野良犬とハリドンの関係や、船長さんとハリドンの関係がべたっとしていないのがいいなあと思いました。ハリドンが必死になって船長さんを探し歩き、でも灯台で船長が話し込んでいるのがわかると、船長の邪魔をしないように、そっと自分だけ家に戻る。その辺りがなんというか切ない。べたな親子関係であれば、自分の中で渦巻いた感情をそのまま相手にぶつけることにもなるんだけれど、ここでそうならないのは、やはり血のつながりのような本能的な結びつきがないから、なんでしょうか。まあ、自分の感情をそのまま相手にぶつけられるような関係も、子どもにとっては大切だと思うけれど、でもこの手の配慮は、血のつながりのある親子の場合でも、しますよね。
たった一晩の出来事にすぎないし、しかも表向きは何事もなかったかのように終わるんだけど、でもそこにお互いの過去のことや、異様な人、奇妙な人が絡んできて、ハリドンの気持ちが激しく動き、船長とハリドンの関係は確実に変わる。実際にこういうふうにして人間の関係はできていくんだろうなあと思うし、そういう微妙なところを、とてもうまく書いていますね。
(ここでひとしきり、北欧の作品ってどうなんだろう、という北欧談義)

ハリネズミ:これって、何気ないようだけれど、訳がとてもうまいですよね。

げた:訳がうまいというのは、どんなところかな?

ハリネズミ:たとえばウフル・スタルクはいろいろな人が訳しているんですが、菱木さんの訳を読んだあと、他の人の訳を読むと、本当の味わいがそこなわれているような気がして不満を感じてしまうんです。菱木さんは必要最低限の言葉できちんと雰囲気を伝えることができるんでしょうね。擬態語や擬音語もうまく使ってるし、ひっかからないで読めます。一例ですが、p39には「このぶんでは雪になるだろう」という文があります。普通の訳者だと「このぶんでは」なんていう表現はなかなか出てこないんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年6月の記録)