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荒野にヒバリを探して

『荒野にヒバリをさがして』表紙
『荒野にヒバリを探して』
アンソニー・マゴーワン/著  野口絵美/訳
徳間書店
2022.02

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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父さんが帰らない町で

『父さんが帰らない町で』表紙
『父さんが帰らない町で』
キース・グレイ/作 野沢佳織/訳 金子 恵/絵
徳間書店
2020

『父さんが帰らない町で』(読み物)をおすすめします。

12歳の少年ウェイドの父親は、戦争で出征したまま5年たっても戻ってこない。母親とウェイドと兄ジョーの貧しい一家は、金持ちの息子ケイレブのからかいやいじめの対象だ。そんな時、村にやってきた移動遊園地の「恐怖の館」に陳列されている「最後の兵士」を見て、ウェイドは父親と重ね合わせる。ところが、夜中にその「最後の兵士」が現れてジョーに何かをささやいたせいか、ジョーは、移動遊園地を手伝いながら父親を探し、自分も兵士になると言いだす。スリリングな展開で読ませる成長物語。

原作:イギリス/11歳から/戦争、兄弟

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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青いつばさ

『青いつばさ』表紙
『青いつばさ』
シェフ・アールツ/作 長山さき/訳
徳間書店
2021.09

ヤドカリ:映画でも本でも「ロードムービー的」なお話に弱いので、熱中して読みました。兄弟が移動していくなかで、主人公が考え、いろいろなことに気づいていくという構成が、よくできているなと思いました。最後のママの決断については、驚くと同時に、これでいいのかしら、とも思いましたが、この物語のなかでは、説得力のある終わり方だったように思います。物語をとおして「翼」や「飛翔」というモチーフが、効果的に使われていたことが印象的でした。読めてよかったです。

ルパン:おもしろくて一気に読んだのですが、気になるところが多すぎて入りこめない部分もありました。まず、ヤードランのことがそんなによくわかっているなら、翼をつけて一緒に高いところに登ったら危ない(そもそも登ること自体が危ないし)でしょうし、10メートルの高さから落とされて骨折だけですむというのもちょっとリアリティがない。奇跡的にそういうことがあったとしても、ギプスをつけて座った姿勢で長時間トラクターに乗って長旅をするなんて考えられない。私も足にギプスをつけたことがあるけれど、ずっと下におろしていたら鬱血してしまうので、読みながら気が気じゃなかったです。こんな大事件があったのに、弟の体よりもツルを野生に帰すことのほうを優先しているヤードラン、そのヤードランを愛情をもって受け入れてくれる施設があるのにまだ家庭においておく決断・・・あまりにもヤードラン・ファーストな気がして、ジョシュのこれからの人生はどうなるのかな、母親はどう考えているのかな、と思ってしまいました。

さららん:2回読み返してみました。作者はベルギーの人で、舞台もベルギーかオランダ、そのあたりか。スウェーデンやフランスにもツルを見にいったと「作者より」に書いてありますので、いろんな土地の要素が混じっているのかもしれません。ともあれジョシュとヤードランのロードムービーとして移り変わる景色が見え、どんどん読み進められました。ジョシュは障碍のあるヤードランを決して嫌わず、自分が守ってあげなくちゃと思い続けている。すごい愛の物語だと思います。11歳というジョシュの年齢の設定(思春期に入る直前?)も巧みですね。兄弟が暮らすのは、障碍のある子をそのまま受け入れる学校や社会があるところ、インクルーシブ教育の進んだ国という印象を受け、ツルの子どもを連れて2人が旅に出る、という設定はもちろん、ジョシュの心の動き、ヤードランの障碍の在り方も含めて、この物語は日本では絶対に書けないものを書いている、と思いました。ヤードランの通う施設の指導員ミカ、ママの再婚相手のムラットやヤスミンも温かい人たちなのですが、ヤードランは「兄弟はいっしょにいなきゃダメなんだ!」(p102)という考えに縛られています。思いこみに加えて、ヤードランはいろんな人の言葉を口移しのように話すタイプで、例えば「ごめんね、ごめんね、ごめんね」と何度も子どもっぽく謝ったあと、「……だぜ」という男っぽい口調になります。昔、パパとママがお芝居で歌っていた歌も丸ごと覚えています。荒っぽいようで、実は繊細なヤードランが初めて見えてきました。ミカの語調が少し変わっていて、最初は男っぽいように感じたのですが、あとで、女らしい口調になっています(p73「みんなに提案があるの」など)。この人物の造形はあえてトランスジェンダー的にしているかな、と思いましたが、どうでしょう?

しじみ71個分:私はとてもおもしろく読みました。弟が兄のケアをするという設定は、韓国ドラマにもあります。お母さんに兄の面倒を見るように言われて、滅私奉公のように世話をするというのは、洋の東西を問わずテーマに取りあげられているのですね。物語の中に流れている感情が本当にやさしくて、いい話だなぁ、と思いました。弟のジョシュが兄のヤードランのことを本当に好きで、いやがりもせず、兄の性質を理解して献身的に世話をしますが、その兄のせいで大怪我をしてしまうというのはつらい。でも、愛情の裏付けがそこにあるので、つらくなく読めました。寝るときに落ちつけるように、息を合わせていく遊びを「呼吸の橋」と呼ぶのもとてもすてきだと思いました。離婚したお父さんがロシア人、お母さんの恋人がトルコ系ベルギー人などなど、家族関係が複雑だったり、国籍や人種の違う人がさまざま登場したりするのがごく自然にあたりまえのように描かれているのは、大変にヨーロッパっぽいなと思った点です。また、私もミカは最初男の人かと思い、ヤードランはゲイの要素も持っているのかなと勘違いもしたのですが、支援施設で働くしっかりした女性で、オオカミの入れ墨を入れているなんていうのもかっこよく、魅力的です。2人の南への冒険を黙って見守りながらついてくるところも、信頼がないとできないことだと思うのですが、ヨーロッパ式のなんというか、個を大事にする視点を感じました。日本だったらすぐ通報されて、連れもどされてしまうだろうなぁ。また、支援施設の名前が「空間」という名前なのも象徴的で、オープンな感じを与えるのもいいなと思いました。そういう文化的な背景の違うところをたくさん感じた物語です。2人は、ツルの子のスプリートを群れに戻すためにあてもなく南に向かいます。ゲーテの詩「ミニヨンの歌」に「君よ知るや南の国」と歌われるのはイタリアですが、この物語の中ではスペインですね。南というのは、ヨーロッパ北部の人にとっては、暖かくて豊かで幸せのあるところみたいな、特別な意味があるのですね。

コアラ:カバーの絵が、なんとなく昔の物語風に思えました。トラクターの絵というのがよくわからなくて、1920年代の車のように見えてしまいました。それで、読みはじめてみると、スマホが出てきて現代の話だったので、びっくりしました。さらさらっと読んでしまって、訳者あとがきのp226の「〈南〉は(磁石の南のことではなく)、いま自分がいる場所よりもっとよいどこかのことです」というところが、いちばん印象に残りました。そういう意味合いがあったんだなと。物語の中では、美しい場面はいろいろあったと思うのですが、ツルの子が糞まみれになる、という場面が強烈で、あまりきれいな印象をもてずに読み終わってしまいました。とにかく、最後に家族でまた暮らすことになってよかったと思いました。それから、私もミカが男性か女性かあやふやに感じました。フィンランドには、「ミカ」という男性がいますよね。登場した最初のほうでは、ミカ先生が男性だと思ってしまいました。

コマドリ:圧倒的な兄弟愛というか、どんなことがあろうともお互いのことが大好き、という気持ちが貫かれているのがよかったと思います。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花著 くもん出版)のほうも、兄弟がそういう絆で結ばれているので、共通しているところがあり、今回一緒に読めてよかったです。ツルがトラクターの後ろから飛んでくるシーンは映像を見ているようで好きでした。タイトルの「青いつばさ」が象徴的に使われており、ツルの翼と、お母さんの舞台衣装の青い翼が、どちらもヤードランにとっては大きな意味を持っています。またヤスミンが、壊れた翼を縫い合わせて再生させるのも、象徴的な感じがしました。表紙の絵は、たしかに古めかしい感じがしますね。兄弟の顔がリアルに描かれていますが、自分の想像とは違っていたので、ここまでリアルな顔ではないほうがいいように思いました。

雪割草:人への作者のあたたかなまなざしが感じられる作品で、ぐいぐい読ませる語りでした。母親がジョシュに甘えすぎかなと感じたのと、障碍をもった兄とその弟であるからかもしれませんが、兄弟の絆の強さに驚きました。ヤードランが、自分のせいで家族と離れ離れになってしまったツルのスプリートを、家族の元に連れていこうと躍起になるのが、父と母の離婚も自分のせいだと心の傷として負っていたからだったのだということが後半でわかり、胸に迫ってくるものがありました。気になった点としては、装丁がひと昔前のようで、伝えたいポイントがわからなかった(トラクターの絵は必要でしょうか?)のと、「大男」や「チビ」という訳語もイメージに合ってない気がして、古く感じられたのが残念でした。

花散里:障碍を持った兄とその弟という関係ですね。ヤングケアラーが今、いろいろととりあげられていますが、障碍をもつ兄弟がいるとき、親に何かあったときには兄弟に負担がかかっていくので、社会が保障していかなければならないということが言われています。そのあたりのことを考えさせられました。兄のことを「大男」という言い方は気になりました。母親と暮らすことになる新しい男性とその娘である女の子を受けいれて新しい家族を作っていくという感覚も新鮮で、こういう新しいスタイルの家族というのが児童文学の中でも描かれていくのかと感じました。

ネズミ:おもしろく読みました。障碍のある兄弟をもつ子どもの視点から描かれている作品は多くないと思い、いろいろ考えさせられました。お母さんは、『背景パンクノットデッドさま』の母親と対照的で、どこまでも子どものことを思っていて、それでも見えていないこともある。10メートル上から落ちて足を折るだけですむとか、トラクターで公道を走るとか、外国の話だからそれもありかと思って、このテーマに目を向けることができる気がしました。この物語では、最後にヤードランは施設に行かず、家で暮らすことになるわけですが、私は、それが最良だと作者が言おうとしているのではなく、人にも条件にもよる難しい選択を当事者が迫られることを示唆し、読者に問題を投げかけているように思いました。

まめじか:ヤスミンは、兄弟が築いてきた親密な世界に入っていけないさびしさを感じていたと思います。そんなヤスが、ヤードランが壊した青い翼を直し、鉄塔の上にいるヤードランのもとに、はしご車に乗って届ける。あざやかなイメージが強く心に残りました。それまでジョシュがヤードランの世話をしていたのが、ジョシュが怪我をしたり、また2人で旅に出たりしたことで、ヤードランがジョシュの世話をするのも印象的です。p140でジョシュは、車椅子が置きっぱなしになっているのに、だれも心配して見にこないなんておかしいと感じるのですが、そんなふうに思える社会っていいなあと。ムラットとヤスミンはトルコ系だと後書きにありますが、本文には書いてないですよね。もし作者に確認してわかったことなら、それも後書きで説明したほうがいいのでは?

しじみ71個分:私は、ムラットという名前と、ヤスミンについて、p53に「黒い髪の毛と眉毛」とあったので、金髪碧眼ではないからアラブ系の人かなと思って読んでいました。

オカリナ:原書を読む子どもにとっては、名前でどういう人かのイメージがわくのだと思います。私はアラブ系の人かと思いましたが、日本の子どもの読者はわからないので、トルコ系の人だと後書きで書いてあるのはいいな、と思いました。異文化を背負っている人だということがわかれば多様な人たちの家族というイメージを、日本の子どもも持てるので。

まめじか:「大男」という呼びかけや、「空間」という場所の名前は、日本語で読むと、ちょっとぴんときませんでした。

ハル:私は、読んでいてとっても苦しかったです。障碍のある人の自立をどう考えるかという問題については、当事者でないとわからないことも多いでしょうし、口を出すのは気が引けるような思いもどうしてもあるのですが、それでも、「兄弟や家族は絶対に離れてはいけない」なんて、特に本人の強い希望として言われたら、とても苦しくなる人も、少なからずいるのではないかと思います。施設で、家族以外の人とも暮らせるようになることも、自立のひとつだと思いますし、施設で暮らすギヨムたちの家族に愛がなかったとも思いたくありません。ほとんど死人が出てもおかしくない状況ですし、2人に連れまわされたツルの子・スプリートが下痢をしてしまうのもいやでした。お母さんが「ヤードランのことはジョシュが見ていなきゃだめじゃない」といった態度なのもいやでした。ただ3か所、家族に愛があるところ、特に「呼吸の橋」はいいなと思いましたし、p65でムバサ先生がジョシュに「あなたのお兄さんはとても特別な人だけど、あなただってそうなんだからね」と言ったところ、p210でジョシュが「脚が治ったら、たとえヤードランがどんなにうらやましがっても、潜水クラブに通うことにしよう」と心に誓うところ、その3点だけが救いでした。

アンヌ:私も、ミカが、名前だけでは男性か女性かわかりませんでした。でも、ヤスミンがスカーフをかぶっている場面で、今の時代の女の子でスカーフをしているのはイスラム系なんだろうと気がついて。こんなふうに推理しながら読むところも、海外小説のおもしろさだと思います。実は、野生のツルが頭上で飛んでいるのを見て、なんて大きいのだろうと驚いたことがあるので、ギプスの足の上に雛とはいえ、ツルを抱いての道中は大変だろうなと思いました。いちばん驚いたのは、ママの決断です。それでも、ヤードランがママと2人でミュージカルを演じる箇所を読むと、ヤードランには、施設に入って農業をする以外の道や能力が、まだいろいろあるのかもしれない。それを見つけるためにも施設ではなく、家族で暮らすという道も必要なのだろうなと思いました。

マリンゴ: ツルの子どもが登場して、途中からその子を群れに返そうとするロードムービーになることもあって、非常に視覚的で美しい作品でした。障碍をもつ家族が登場する他の多くの本と違うのは、どれだけ愛情があっても、手に負えないほど体が大きくなり力も強くなってしまったとき、リスクが伴う、ということを描いている点だと思います。その解決法は難しくて、外部の専門的な団体に委ねるのが最もいいと思われますが、主人公ジョシュは違う選択をします。ハッピーエンドのように見えるけれど、ハッピーエンドではない。これからどうなるのか、続編を読みたくなる物語でした。特に胸に残った言葉は、p187の「自分の気持ちを話すのは、脱皮するようなものよ」です。一つ気になったのは、ツルの描写です。途中、ツルが車に乗ったり降りたりするシーンで、描写がなくて、今、ツルはどこで何をしているのか、と気になる部分が何か所かありました。もう少し描写が加えてあるとなおよかったかもしれません。

オカリナ:ハードな内容ですが、ツルの子スプリートがそれを和らげているし、トラクターに乗って南を目指すのが冒険物語になっていて、おもしろく読みました。ジョシュとヤードランとお母さんという一つの家族と、ムラッドとヤスミンというもう一つの家族が一つにまとまろうとしている、もともと誰もが不安定になっている時期に、ヤードランが青年期になって力も強くなり意図しなくても暴力の加害者になりうるようになって、さらに不安定になっているという設定です。なので、最後にみんなが一つの家族になっていこうという方向性で安定感を出しているのは、作品としては納得がいく結末なのだと思います。ただ、現実を考えると、ヤードランをどうすれば家族が幸せになるのか、というのは難しい問題だと思います。障碍を持っている子どものきょうだいというのは、丘修三さんの『ぼくのお姉さん』(偕成社)をはじめいろいろな作品で書かれていますが、たいていは世話係や我慢をさせられている方がどこかで切れて、障碍を持っている子にひどいことを言ったりしたりする。そこを乗り越えて次の段階にいくという姿を描いています。でも、この作品では、p143に、ジョシュがスケートボードをしている中学生を見て「一瞬、ぼくはいっしょにやりたくなった。ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみた……」と出てくるだけ。これって不自然じゃないか、と思ってしまいました。それと、障碍を持っている者は、愛情をもった家族が世話をするのがいちばん、という間違った印象を子どもの読者にあたえるのではないかという危惧も感じました。
細かいところでは、p187に「ヤードランにひどいことをしようとしていたママに、ぼくは猛烈に怒っている」とあるのですが、p184ではジョシュも、ヤードランは「空間」に行くのがいちばんいいと悟った後なので、文章の流れとしてあれ? と思ってしまいました。

西山:読み始めて最初に、『ぼくのお姉さん』、『トモ、ぼくは元気です』(香坂直著 講談社)を思い出して、障碍のあるきょうだいを持つ子どもの葛藤が出てくるのかなと思ったんですが、そうではありませんでしたね。冒険がはじまってスプリートを死なせちゃうんじゃないのか、とか、ひやひやしながら先へ先へと読み進めたわけですが、全体としてうーんどうなのかなと思わなくはないです。p23の「お兄ちゃんが困っていたら、助けてあげてね」と母親は言うわけですが、いいのかなこれは、と。この家族は、ヤングケアラーや共依存じゃないのと思いもしました。p143に「ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみたい……」と考えるシーンもあるにはあるのですが、そこだけで、こういう思いが主題となる日本の先の作品とは方向が違っています。ミカがすごくすてきだったから、最終的に施設におちつくんだろうなと思っていたのですが……。ただ、『ぼくのお姉さん』や『トモ、ぼくは元気です』の弟が障碍を持つ姉、兄を負担に感じるのは、周りのからかいやいじめがあったからで、オランダだとそういうことはないのかなと、社会全体の違い故かもとも思いました。あと、ヤードランがソーラーパネルの向きで南を知ったり、いろいろできてしまうのは、物語としてはおもしろいのですが、危うさを感じます。いろいろできない人だったらどうなのか、とても負担を与える症状をもっていたらどうなのか。それでも共に生きる姿を見たいと思います。

しじみ71個分:私は、それまでは、幼いジョシュに甘えて、主に家族だけでなんとかしようとしていたのが、ジョシュの大怪我や2人の南への逃避行という大事件をとおして、さらにもっと、みんなで助けあおうという方向に行くのだと漠然と感じていました。そう思ったのは、p184ページのミカの「うまくいかなかったのは、わたしたち全員の責任だよ」「たとえだれかがいやだと思っても、みんながお互いを守る天使なのよ。全員がね。」というせりふや、p217のお母さんの「ミカがきっとじょうずにたすけてくれるはずよ」というせりふがあるからです。具体的には方法は示されませんが、家族で暮らすという選択肢を大事にしつつ、もっとオープンに「空間」やミカ、ムラットやヤスミンほかたくさんの人の助けを借りて、自分たちの希望を実現していくんじゃないかなという期待をもって読みおわりました。日本だとどうしても、家族だけで頑張るような、閉鎖的な印象を受けがちですが、そうではないと思いたいですね。

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エーデルワイス(メール参加):障碍をもつ16歳ヤードランの面倒を見る弟の11歳のジョシュが主人公。ママがジョシュに兄『大男』の面倒を見てあげてなんて、なんてことだろうと、腹がたちましたが、兄弟愛の強さに胸を打たれました。ヤードランが魅力的。ツルの子スプリートを『南』にいる群れに帰そうとするトラクターでの冒険の旅も臨場感にあふれています。盛岡にツルではありませんが、白鳥が越冬する『高松の池』(湖のような大きさ)があり、たくさんの白鳥でにぎわっているので、ツルの集まる湖の様子が身近に感じられました。ママの恋人の娘のヤスミンの気持ちもよくわかりました。ママが最後に、ジョシュがヤードランの面倒をみてきたのだからと、もう何もしなくてよいというところにホッとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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拝啓パンクスノットデッドさま

『拝啓パンクスノットデッドさま』表紙
『拝啓パンクスノットデッドさま』
石川宏千花/作
くもん出版
2020.10

オカリナ:とてもおもしろく読みました。今回は兄弟愛というテーマで、もちろんこの作品は晴己(はるみ)と右哉(みぎや)の兄弟が中心なのですが、私は非血縁の人のつながりを描いているという意味で新しさを感じました。2人の母親は、兄弟をネグレクトしていて家にもあまり帰ってこない。晴己は弟のめんどうも見ながら家事もやり高校へ通っているという設定です。母親は「あんたたちのせいで、こんな人生しか生きられなかったんだよ」というのが口癖で、晴己はそれだけは言われたくないと思っているし、弟にもどなったりしてはいけないと自制している。兄弟の父親がわりになっていたのは、まったく血のつながりのない「しんちゃん」という母親の昔の友達。晴己はそのうち血縁へのこだわりを捨てて、「親でなくてもだれかに大事にされていれば大丈夫なのではないか」と思い始める。p166「母親じゃなくたってよかったのか……。/少しだけ、あきらめがついたような気がした。/たとえこのまま離ればなれになってしまっても、右哉はきっとだいじょうぶだ。自分はじゅうぶん、右哉を大事にした」と。そして自分も周りの「しんちゃん」をはじめいろいろな人に大事にされていたことに気づきます。そのうえ、母親にいったん引き取られた右哉が家出して自分の前に姿をまた現したときは、p182「自分が右哉の世話をしているんじゃない。右哉が自分をかろうじて、いまの自分にしてくれているんだ」と認識を新たにします。血縁ではない人と人のつながりが、これからは大事になってくると、欧米の児童文学はかなり前から言ってきたわけですが、日本にもこうした点に焦点を当てて描いた作品が、しかも上質の作品が出てきたという点でとても感慨深かったです。この作品に勇気づけられる子どもも多いと思います。

マリンゴ: 石川宏知花さんは、もともと文章、構成とも抜群にうまい方です。この作品は、テーマが重いですが、文章の疾走感に引っ張られて自分も高揚していく感じがありました。私の興味はハードロックどまりで、パンクの世界はほぼ知らないのですが、知らないなりに心地よく読めました。主人公が、受け身のキャラクターでありながら、世界を広げていく様がユニークで、私も中学、高校時代に音楽をやりたかったな、と思ったほどです。随所にうまいなと思うところはあります。たとえばp126で、加藤さんを菊池さんだと思いこんでいたことがバレますが、p189で「ようやく菊池さんから加藤さんへの修正が完了した」となります。主人公の思いこみの強さや、2人の親しさの深まりなどがうまく伝わります。p218で、あっという間に失恋するところもおもしろかったです。ヤングケアラーの問題として読むと、物語の最初と最後で、状況が変わっていないことは気になります。ただ、実際に似たような立場の子が読んだとき、物語のなかだけで希望の持てる展開が起きるよりも、この終わり方がリアルなのではないかと思いました。

アンヌ:今は、こういう音楽小説を読むのに、YouTubeでその時代の映像まで見られるので、音楽を聴きながら読んでいけるのが楽しかったです。そういう意味で、新しい時代の小説だなと思いました。ガンガンに音楽をかけながら疾走感を持って読み進んでいけたのですが、少し気になったのは場面が変わったことがすぐにわからないかったところです。たとえばp68からp69の電話の場面からスタジオの場面に移るところなど、2回読めば気にならなくなるのですが、最初はひっかかりました。こわれた家族のために食事をつくったりするのが、女の子なら当たり前だとされてきたので、主人公が男の子だから物語となるのかなとも思いましたが、現実に同じ立場にいる子どもたちにとって救いになるかもしれませんね。主人公も弟も物語の中で成長していくので希望を感じます。また、主人公も泣きますが、しんちゃんが泣く場面が多い。そこで、男なら泣くなとか男泣きというような従来のジェンダー的な縛りがないのも、新しい男性像のようで、いいなと思いました。

ハル:以前にしじみ71個分さんがこの本を薦めてくださったときに、早速読んですっかりハマってしまいました。しじみ71個分さんが推薦コメントとして「パンクじゃなきゃダメなんだというのがよくわかる」とおっしゃっていたと思うのですが、まさにそのとおり。パンクについての主人公たちの思いや、メロコアじゃないんだよな、というところとか、登場人物の人間性についても、もう、いちいち共感の嵐。たとえわからない曲でも、音が頭に響いてくるようで、ワクワクしました。愛があふれている作品ですね。作者のパンク(に限定せず、題材そのものかも)への愛、そして作中人物への愛もあふれていますよね。今の中学生にかけてあげたい言葉、見せてあげたい景色、とか言うとこういうのも大きなお世話なんでしょうけど、それが、全部、全部、つまっているようで、読後は快哉の声をあげたくなるような、そんな気分でした。

まめじか:晴己にとってのパンクは、まわりの世界との交点というか、それがあるから社会とつながれて居場所ができたのだな、と。「アイ・フォウト・ザ・ロウ」の歌詞も、ラストのフェスの場面で雨の中演奏しながら、「寿命が半分になってもいいから、一秒でも長く、このままでいたい」と思うところなんかもそうですが、パンクって刹那的な要素もありますよね。でも、この本はそこで終わってなくて、世界への信頼にしっかりと根ざしていて、それが児童文学の描き方だと思いました。主人公は、自分をつなぎとめている存在に気づくんですよね。自分も右哉に支えられているとか、自分にとって必要だったのは母親でもなく父親でもなく、大人になりきれていないしんちゃんだったとか。自分のまわりにも可能性が広がっていると思う主人公の姿に、「手が届かなくても、月に手をのばせ」という、クラッシュのジョー・ストラマーの言葉を思いだしました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。同じ作家の『墓守りのレオ』(小学館)は、あまり得意じゃなかったのですが、こちらを読んでよかったです。大事にする人は親じゃなくてもいいということを言うp166、「自分だって、大事にされてきた。しんちゃんにも、万田ちゃんにも。母親じゃなくたって、自分を大事にしてくれるおとなはちゃんといた」というところが、心に残りました。説教くさくならずに、行き詰まっている中学生や高校生の視野を広げてくれそうです。バンドメンバーの羽田さん、園芸委員会で、ラップを歌う女の子など、脇役の登場人物に思いがけないところがあるのもいい。親が不在のこのような兄弟がいたら、現実には福祉行政によって施設に収容されるでしょうから、そうならないところはファンタジーですよね。勢いがあり、中高校生に薦めたい作品でした。

花散里:最初、このタイトルと表紙の装丁にひきつけられました。石川宏千花さんは「お面屋たまよし」シリーズ(講談社)など、これまでの作品から小学校高学年向けの本を書かれている人だと思っていました。ハードコアパンクなど、全く未知な音楽でしたが、晴己や右哉にとってパンクという音楽がかけがえのないものであることが伝わってきました。育児放棄のような母親との関係など、兄弟愛というより家族のありかたを描いた作品だと思いました。これまで児童文学にはタブーだったことが描かれるようになってきていると感じながら読みました。右哉が自分にとってどんな存在なのか晴己が気づいていくところなどを印象深く感じました。子どもの貧困が問題になっていますが、自分が生活費を稼がないといけないと考えながら生活をしている人たちがいることなど、YA世代に読んでほしい作品ですね。

雪割草:このジャンルの音楽には詳しくないのですが、ひきこまれる語りでした。タイトルも装丁もインパクトがあって、対象の読者が手にとってくれるのではと思います。大変な状況におかれた晴己にとって、音楽が、ここではないどこかに行ける、自分の居場所として描かれているのも、たとえそれが読者にとっては音楽でなくとも、共感を呼ぶのではと思いました。だめな母親との関係やその中での心の傷や悩み、右哉に生かされているという気づきなども、リアルに描かれていると思います。色々な困難に直面しながらも、自分はこの世界で生きていける、と晴己が世界への信頼や希望を自ら見つけていく姿も、よく伝わってきました。しんちゃんはおもしろい人で、その存在もいいなと思いました。ヤングケアラーという現代の問題も含まれていて、多くの人に読んでほしいです。

コマドリ:いろんな人物が登場するけれど、うまく特徴がとらえられていました。第一印象でこういう人だと思ったら、そうじゃないとだんだん気づいていくところもよく書けています。主人公が自分の状況を冷静に分析しながら物事に対処していく、冷めたような感じがよく出ていました。親ではない、信頼できる大人の存在も大きいですね。大人にも欠点や弱いところがあるところが描かれているのも良かったと思います。弟が、中2にしては子どもっぽいと感じましたが、これは晴己から見ると弟はいつまでも母に置き去りにされた小2の弟のままだからなのかな、と最後になって思いました。弟が歌をうたう場面はかっこいいんですけどね。歌詞のせりふになりそうな言葉を付箋に書いて柱にはっていくのはおもしろかったです。最後に晴己が小学校の同級生で「コミュ障」とあだ名されていた男子の姿を駅で見かけ、おしゃれな女子高校生と一緒に笑っている様子がごく普通の高校生らしい、と思ったあとに「オレたちは本当に、これからどんなふうにでも生きられるし、どこにでもいけるんだ」と書かれていて、希望が感じられるのがよかったと思います。一つ疑問だったのは、p37で田尾さんを紹介されたとき、「タオさん」のイントネーションからてっきり中国出身の人かと思った、というのですが、田尾さんのイントネーションって田にアクセント? 尾にアクセント? ちょっとわかりにくいと思いました。

コアラ:まずカバーが派手だな、というのが第一印象です。カバーの下の方の出版社名が斜めに配置されていますよね。デザイン的にタイトルなどが斜めになっていても、出版社名はまっすぐに配置されている本が多いので、これはおもしろいな、と思いました。カバーやタイトルで、これはパンクの本だとアピールしていて、中身もパンクの用語がいろいろ出てきますが、パンクを知らなくても意味合いがわかるように書かれています。私はパンクはあまりよく知らなかったのですが、知らなくても全然問題なく読めたし、“パンク、ちょっと聞いてみようかな”という気持ちになりました。p89からの、晴己がしんちゃんにバンドをやることを言ったときの、しんちゃんの反応が印象的でした。それまでの、保護者と保護される子ども、という関係性が変わった、という変化を感じた場面でした。物語は途中まで順調に進むのですが、後半になって、弟の右哉だけが母親に連れていかれます。ここで、主人公も読者も、一度どん底に落としておいて、その後、右哉が戻ってきて夢のステージで演奏する、という盛り上げ方。作者はうまいなと思いました。パンクを知らなくても楽しめる本だと思うので、お薦めです。

さららん:右哉と晴己の人物像も、目に浮かぶようだったけれど、私はしんちゃんという大人のリアリティに魅かれました。パンク好きで、昔好きだった女性の子どもの面倒をずっと見ているしんちゃんは、どこか成熟してないから、晴己がしんちゃんに相談なしにパンクのグループを集めていると聞くと怒りだす。しんちゃんより晴己のほうが大人、というか、大人にならざるをえないのでしょうね。たとえばp142に、自分たちを置いていった母親でも「きらいには、なれなかった。ただの一度も」という描写があります。ここには複雑な思いが描かれていて、母親を嫌うと、自分自身も否定してしまうような、危ういバランスの中で生きている。憎みぬいてもいいような母親を許しているのは、バイト先の花月園の店長もふくめ、晴己の状況を理解して支える周囲の大人たちがいるからだし、特に少々頼りないしんちゃんという他人の、底抜けの善意があるからだと思いました。貧困というテーマも、親子関係や大人と子どもの関係もステレオタイプが洗い流されていて、それがパンクという反抗の音楽を通して、力強く立ちあがってくる作品でした。この世界は捨てたもんじゃない、という希望が、素直に胸に落ちました。晴己が大人になったら、どんな人になるんだろう。右哉にはなにか障がいがあるように思えましたが、それもあえて名称を出さず、右哉は右哉なんだと、型にはめていないところがいいです。

しじみ71個分:とてもおもしろくて深い印象が残った本です。もう、大好きです。パンクについて詳細に書きこんであるのが、登場人物のありようと密接に結びついていて、人物像が際立って浮かびあがってきます。なので、人物をみな頭の中で映像として思い描けるんですね。頭の中で音楽も聞こえてきて、主人公の晴巳と右哉がどれほどパンクロックが好きで、なんでパンクじゃなきゃだめなのか、という必然性が随所に感じられました。これは、モチーフとしてパンクロックそのものについて、とても細かく描きこんであるからなんだろうと思いました。人物の根幹を定義するものになっているのですね。そこが素敵でした。2人の面倒をみてくれる、しんちゃんの人物像もとても魅力的です。2人の母親にぞっこんで、相手にされていないのに、2人の面倒を独身のまま見ているという不器用な優しさや、音楽をあきらめたと見せて、晴己がバンドを組むと知って、すねてしまうところとか、大人になり切れない大人のリアルな柔らかい部分を感じます。平気で右哉だけ連れていく母親も本当にひどくってリアルで。それがあるからこそ、晴己の受けたショックがどれほど大きく、しんどいことだったのかがまたザクっと胸に響いてきます。音楽を通じて、やさしい人々の関係や、晴己の成長がしっかり描かれているので、本当におもしろかったです。不器用な人物の代表格の、擬態でギターを持ち歩いていた海鳴も切なくてよかった。クライマックスの雨の中のライブの描写も本当に、読みながらドキドキ、ワクワクして、演奏が終わって晴巳といっしょにカタルシスを感じ、泣けました。本当に読んでよかった、おもしろかったです!

ルパン:とてもおもしろかったです。ひどい母親なんですが、晴己が右哉を支えているようでいて、実は精神的には右哉の存在が晴己を支えている、というところにぐっときました。子どもたちを世話することで好きな相手とつながっていたい「しんちゃん」の存在も大きいし、「あじさい祭り」や「コミュ障の尾身」のような細かいネタが最後にひとつに収斂するところもよかったです。パンクは全然知らないけれど、それでも楽しめる物語でした。「ワン・ツー・スリー・フォー!」の高速カウントが聞こえてくるようで。「菊池さんあらため加藤さん」がたくさん出すぎて逆にどっちがどっちかわからなりましたが、名前って1度インプットされるとなかなか修正できない、という経験、私にもあります。

コマドリ:晴己は成り行きで園芸部に入るけれど、パンクバンドの世界と正反対にあるような園芸部で自然に自分の場所を見つけていくのもおもしろいと思いました。

ヤドカリ(担当編集者):石川先生との打ち合わせの場で、「パンクロック」の話を書きたいというお話をいただいたことがきっかけになって生まれた物語でした。私からも「なにか音楽モノを」という話をするつもりでしたので、「ぜひ!」ということで動きだしました。どの登場人物たちにも、きちんと眼差しが向けられていること、好きなものがあれば大丈夫なんだよ!というメッセージが、行間からひしひしと伝わってくることが、この作品の魅力だと思っています。デザインの面でも、デザイナーの坂川さんが、一目で「パンクっぽい」と思えるとっても素敵な装幀にしてくださいました。よく見ると、晴己の足がタイトルの「デッド」を踏んでいたり……などなど、色々な遊びを入れてくださっているので探してみてください。ひとつ裏話をすると、ピンクではなく黄色のカバー案もあったのですが、それはそのまますぎる……ということで、現在のデザインになりました(笑)

コマドリ:パンクの曲がわりと古いものが出てきたり、ライブの観客にもおじさんたちがいたりするのですが、パンク好きの世代は幅広いのでしょうか? そういうのはいいなと思いました。

西山:何度か読んでいますが、ますますいい、という感じです。最も印象的なのは「誘われてなにかする分にはしかたがない」「だれかに誘われてすることだったらノーカウントだ、と考えてしまう傾向がある」(p34~35)晴己の感覚です。そういう風に、自らリミッターをかけて自分を守っている様子がほんとに、厳しくて胸に刺さります。ただ、今回、バイトについて「自分がそれを望んでするのはよくても、強制されるのはいやだった」(p220)という、ここはここで分かるし、今までひっかかったことはなかったのですが、前者の考え方と合わせてちゃんと考えると、晴己像はもっと深まるのかも知れないと感じています。あと、やはり、しんちゃん、海鳴のありかたがとてもおもしろく、世界を広げていると思います。間接的にしか出てこないけれど、保健室の先生「万田ちゃん」の存在もよいです。

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エーデルワイス(メール参加):読むのが苦しかったです。現在高校生の晴己がほとんど家に帰ってこない母親の代わりに小学生の時から弟の右哉の面倒をみて生活しています。最低限の生活費なのでアルバイトをしながら学業、家事をこなしています。しんちゃんという愛情もかけくれる支援者がいなかったらと思うとぞっとします。母親に対して過度な期待しない、後で苦しくなるからという、晴己の気持ちが嫌というほど伝わってきます。それでも兄弟は母親を慕っているというのも現実ですね。若者たちの群像劇と受け止め、最後がさわやかに希望の持てる終わり方でほっとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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路上のストライカー

マイケル・ウィリアムズ『路上のストライカー』さくまゆみこ訳
『路上のストライカー』
マイケル・ウィリアムズ著 さくまゆみこ訳
岩波書店
2013.12

南アフリカのフィクション。故郷のジンバブエの村で家族や友人を虐殺されたデオは、障碍を持つ兄のイノセントと一緒に逃げて、なんとか南アフリカにたどりつきます。でも、そこで遭遇したのは、外国人憎悪に駆られた人たちのヘイトスピーチと暴力。失意の底にあってシンナーに溺れていたデオを救ったのは、ホームレスのためのサッカーでした。ホームレス・ワールドカップという国際大会があるのを、私はこの本で知りました。切ないけど、勇気をもらえる作品です。著者は南アフリカ人。
(編集:須藤建さん)

*カーカスレビュー・ベストブック、ALAベスト・フィクション・ブック
*青少年読書感想文全国コンクールの課題図書(高校生)


ミラクルズ ボーイズ

ジャクリーン・ウッドソン『ミラクルズボーイズ』さくまゆみこ訳
『ミラクルズ ボーイズ』
ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳
理論社
2002.11

アメリカのフィクション。ニューヨークのハーレムで、三人の兄弟が生き抜いていく物語です。兄弟の父はアフリカ系アメリカ人で、池で溺れそうになった白人女性を助けて低体温症になり、命を落としてしまいます。兄弟の母はプエルトリコ人で、病気で亡くなります。残された息子たちは、それぞれがトラウマを抱えながら、なんとか三人で生きていこうとします。
(絵:沢田としきさん 装丁:高橋雅之さん 編集:小宮山民人さん、奥田知子さん)

*コレッタ・スコット・キング賞受賞


ぺちゃんこスタンレー

ジェフ・ブラウン文 トミー・ウンゲラー絵『ぺちゃんこスタンレー』さくまゆみこ訳
『ぺちゃんこスタンレー』
ジェフ・ブラウン著 トミ・ウンゲラー絵 さくまゆみこ訳
あすなろ書房
1998.12

ユーモアたっぷりの物語。ある日、目が覚めるとスタンレーは厚さ1.3センチのぺちゃんこになってしまっていました。さあ、どうする? でも、スタンレーはその薄さでなければできないことを次々にやっていくのです。そのあたりが、とても楽しい。昔イギリスにいたとき、下宿先の子どもたち3人に読んであげると、年齢もちがう3人が3人ともげらげら笑いながら大喜びした絵物語。ウンゲラーの絵もとっても味があっておもしろいんです。いくつか出版社に持ち込んだけど断られて、やっとあすなろで出してくれました。でも、もう何度も刷を重ねています。
(編集:山浦真一さん)