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シンプルとウサギのパンパン

ぬいぐるみのウサギ
『シンプルとウサギのパンパン』
マリー=オード・ミュライユ/作  河野万里子/訳
小学館
2024.07

ハル:おもしろかったんですけど⋯⋯物語に出てくる施設って、どうしてこう、悪い場所になっちゃうんだろ、というのがひっかかりました。入所させること自体が「悪」だというような。周囲の人、近所、社会でつながりながらお互いに支えあっていく輪のひとつに、仕事として介入してくれる相談員や社会福祉士や、施設があればいいのにと思うんです。施設に入れることは悪であり、愛がないという思い込みは危険をはらむのではないかと思います。

雪割草:少し長いと感じましたが、会話中心にも関わらず、読者を引き込んでいく力があって巧みだなと思いました。原書のタイトルはSimpleですが、日本語版のタイトルも同じように主人公シンプルが前に出てくるかたちでもよかったのではと思いました。中身がYAなのに、表紙がウサギの絵でかわいすぎるように感じました。シンプルとまわりの人たちが心を通わせ、シンプルを好きになっていくところはいいなと思いました。一方で、クレベールが何かあるとすぐ「兄には障碍があるんです!」と叫ぶところは個人的に少し嫌で、自分も含めてですが社会の方の理解が足りないことを痛感させられました。

ツミ:私もハルさんと同じように、施設の描写は古いなと思ったのですが、出版年が古いので仕方がないのかもしれませんね。いちばんいいと思ったのは、「シンプル」という原書のタイトルです。シンプルって、もちろんシンプルという意味のほかに知恵が足りないという意味もありますよね。物語のあとのほうでは「シンプルでいくのがいい」という文章もあり、大切なのはひとりの人間の生き方を周りの状況で縛ってはいけないというシンプルなこと、という主張をタイトルが示していると思いました。河野さんの翻訳もうまいですね。工夫されていて、登場人物がとても生き生きとしていると思いました。私は、人間がしっかり描けていれば作者の主義主張などなくてもいいと思うほうですが、この本も一人一人の人物像が見事に描けていますね。特に頑固爺のヴィルドゥデューさんがはりきって恋の指南をするところなどおもしろくて、やっぱりフランスの本だなあという感じ。アンデルセン賞を受賞した作家だけあって、物語の作り方はさすがだと思いました。最後にシンプルを助けたのが娼婦であったというところなど、じーんと胸に沁みました。ザハの耳の聞こえない妹とシンプルの友情もいいですね。ただ、これだけ厚いと、YAの読者が手にとってくれるかな。一般書として出版したほうが、読者が増えたかも。

きなこみみ:YAというよりも、おとなの本に近い印象でした。ルームシェアする同居人たちが皆おとなで、彼らの恋愛模様も描かれているせいかもしれません。障碍のある子どもが生まれると、夫が逃げて母親と子どもが残されることが多い、というのは日本だけではなくフランスでも同じなのだなと思います。そのママが死んでしまったあと、弟であるクレベールがシンプルの面倒を見ることになって、フランスの福祉制度のことがよくわからないんですが、この物語の中では、施設に入るか否かの2択で、在宅のまま活用できる福祉制度、たとえばヘルパーさんに来てもらったり、デイケアや福祉作業所のような所に行くとか、そういう選択肢はどうなっているのかなと思ったりしました。また、p190で、ソーシャル・サービスのバルドゥーさんがクレベールを訪ねてくるんですが、シンプルと直接会っているのに、彼に知的障碍があると気づかないのは不思議だなと思ったり。薬などで入居者を管理しようとするマリクロワという施設から、シンプルが簡単に抜け出だしてしまうのも、設定がちぐはぐで、作品中に携帯電話は出てくるんですが、設定や障碍の捉え方や社会的な支援のあり方としては少し前の時代なのかもしれないと思いました。実際にフランスでは20年ほど前に出版された本で、今の時代とのズレはあるのかもしれません。
とにかく弟のクレベールの負担が大きすぎて、そこが読んでいてつらいところです。彼の責任感が、p296にあるように、母の遺言から生まれている部分もある、というところが「きょうだい児」としてのつらさ、責任を無意識に兄弟に背負わせてしまう親の責任についても考えざるをえませんでした。自分もつらいのに、どうしてもシンプルを施設に入れたままにしていけない気持ちが、認知症の母の介護を抱える自分と重なって、理屈では割り切れない彼の思いに共感したり、複雑な気持ちになったりしながら読みました。
その彼に、たまたまルームシェアしただけのエンゾやアリアが手を差しのべていくところ、またガールフレンドのザハの一家の温かさ、ザハの妹であるアミラと友だちになるところも素敵でした。クレベールがそのザハの家族にシンプルを預けてデートにいくのはどうかと思ったんですが、この物語の登場人物たちは皆それぞれにエゴイストで、自分勝手で、好き勝手に行動するのが魅力的だし、人間ってこんな風に生きてるんだよ、というありのままのところ、障碍を持っていたり、障碍のある兄弟がいたりすることと、個人が自由にふるまって生きることを、等価に描いてあるのが、この本の魅力だと思います。なかでも恋愛に非常に重きを置く、というか、男女の恋愛、アムールを大切にするのが、フランスっぽいんですが、エンゾのアリアに対するアプローチの仕方や、どんどん行けとけしかける管理人のおじいさんのアドバイスは、どうなんだろうと思っていたら、いきなりアリアがエンゾに首ったけになる展開にびっくりして。ただ、シンプルをうざがって、シェアハウスから出ようとする、医学生で男性という、社会的強者としてのエマニュエルではなくて、エンゾが愛の勝者になるのは、好ましかったと思います。訳者の河野さんも後書きで書いておられますが、シンプルの父親やエマニュエルと違って、シンプルに手を差しのべるのが、社会の周縁にいる人々だというのが、いいなと思います。「チョコレートドーナツ」(トラビス・ファイン監督、2012年)という、ドラアグクイーンが、ダウン症の子どもを愛する悲しい映画を思い出したりしました。

ルパン:こういう状況はリアルに考えたら、こんなにうまくいかないだろうなあと思うだけに、お話っていいなと思いました。お話だからこそ、こんなことがうまくいく。こういう世界を作れるお話の力ってすごいと思います。ただ現実をなぞるだけじゃなくて、すてきな世界を創ることで、読者に希望とか、幸福感を持たせられるのがお話の魅力だと改めて思いました。私もみなさんと同じで、ヴィルドゥデューさんがエンゾの恋愛相談にのって、楽しく生き生きしちゃうところが好きで、p206のあたり、人の恋愛に首をつっこんで生き生きしてきたのがおもしろかったです。
施設のマリクロワはシンプルにとって良くない場所、行かせるべきではないところ、という設定でしたが、p290-291で、マダム・バルドゥーがクレベールに語りかけるところでじんとしてきました。「あたくしたちはみんな、シンプルにいいことをしてやりたいんです。でもそれがあなたの犠牲のうえにしか成り立たないようでは、いけませんね」「あなたのは、若さゆえの理想主義です。…(中略)…あなたが考えるような向きあいかたが、非常に高い代償をともなうものであるのも知っています。いつかあなたも、結婚したい、子どもがほしいと思うようになるでしょう。そのときのことを考えてみて⋯⋯」「あたくしはあなたの力になれるよう、できるだけのことをしてきましたよ、クレベール。正しいことをしたつもりだったのだけど⋯⋯」これらのマダム・バルドゥーの言葉を読むと、この本には悪役はひとりもいない、と思えて読後感がよかったです。

ハリネズミ:私は「いい話」には疑いをもつタイプなので、この物語についても、ヤングケアラーであるクレベールから見たらどうなのだろうと、思ってしまいました。今はアパートをシェアしている人たちも好意的でうまくいっているとしても、クレベールはこの年代だとこれからいろいろな問題や悩みに遭遇し、大学に行ってそのうち結婚するということにもなるかもしれません。環境が変わっても、シンプルの責任をひとりで負っていくことができるのでしょうか。他の国のきょうだい児の物語だとイギリスのジル・ルイスが書いた『紅のトキの空』(さくまゆみこ訳 評論社)みたいに、手を差し伸べるちゃんとしたおとなが出てきたり、オランダのシェフ・アールツが書いた『青いつばさ』(長山さき訳 徳間書店)みたいに、家族の体制が整うまでとりあえず施設の力を頼ろうとしたりしています。施設を悪いものとして書いているのは、ほかの方たちもおっしゃるように20年前に書かれたせいでしょうか? でも当時だって、マリクロワ以外の場所もあったのではないかとか、施設以外になにかセイフティネットはないのかと、疑問に思いました。作家としても、ヤングケアラーにすべての責任を負わせる書き方でいいのでしょうか? といっても、作家の視点としては、若者の恋愛模様を描こうというほうが主なのかもしれません。アリアとエンゾとエマニュエルの三角関係、クレベールとベアトリスとザハの三角関係の間にシンプルのエピソードがはさまっている感じです。
この作家は、「知的障碍のある子どものお母さんにていねいな取材をおこなった」と訳者あとがきにありますが、それだけで書いたのだとしたら、高校生がおとなのシンプルの保護者になるとか、シェアアパートの人たちのシンプルに対する態度などを含め、リアリティがちょっと甘くなるのも仕方がないのかもしれません。

エーデルワイス:原作の発表が20年前の作品ですので、福祉もずいぶん変わっているように思いました。とにかくパリ! パリの香りがすると思いながら読みました。クレベールの高校生活も日本とは違います。発達障碍者が自宅か施設入居かというような二者選択は違うと思いました。例えば日本では、今はデイサービスも就労福祉施設などいろいろの選択があります。「しょうがい」の漢字を「障がい」と使うことは見ていましたが、作品の中では「障碍」と漢字を使っています。私は初めて目にしましたが、語源は仏教用語だそうです。物語は映画のシナリオを読んでいるようなテンポで、映像化されたらいっそうおもしろくなると思いました。「アホ」とか「あーらら、いけない言葉」がよくでてきますがフランス語だと、どんな感じかしら?と思ったりしました。

ニャニャンガ:フランスらしいエスプリと性に対してのオープンな描写にとまどいつつも、兄のシンプルといっしょに住みたいクレベールの複雑な気持ちが痛いほど伝わってきて、はじめのうちは読むのが苦しかったです(じつは2回、途中でやめていました)。その理由は文字の色だったかもしれません。くらはしれいさんの絵は物語にぴったりですし、ウサギのパンパンが悪さをしても憎めないのはこの絵のおかげかもしれません。
同居人たちとの生活が始まり、いろいろトラブルがありながらもシンプルやクレベールと家族のように接する様子がとてもよかったです。それに引き換え、父親の無責任なこと!に腹が立ちました。そして頑固なおじいさんヴィルデュドゥーさんとのかかわりはとてもよかったですし、クレベールがベアトリスに惹かれつつ、ザハ家族と親しくなりシンプルとザハの妹のアミラと仲良くなり、居場所ができたのも好ましく読みました。

さららん:ミュライユさんが国際アンデルセン賞作家賞を受賞したときの講演を覚えています。その中で「私は常識やタブーを打ち破る作品を書き続けてきた」と力強く語っていたのが印象的でした。この作品も、一見シンプルとクレベールをめぐるドタバタ喜劇に見えますが、障碍のある人=厄介者、という世間の偏見をくつがえし、トラブルメーカーのシンプルを、人間として実にチャーミングに、周囲に愛される存在として描いているところに好感が持てました。確かにマリクロワという施設は古めかしい感じがしますし、シンプルを拒絶する父親はサイテーの人物ですが、全体としては常識をひっくり返そうという作家の気概を感じます。エンタテイメントとして完成度が高く、恋愛が物語の要になっているところは皆さんがおっしゃる通り、いかにもフランス的ですね。「愛がすべて」というお国柄ですから恋愛は不可欠な要素、高校生のクレベールのトライアンドエラーの道筋としても読め、そう思うと、これはやはりYAらしい作品ではないかと私は思います。また以前、きょうだい児の弟を主人公にしたオランダの児童文学『青いつばさ』を読んだことを私も思い出し、この本との違いと共通点を比べてみたくなりました。物語には、セクシャルな表現やののしり言葉も散見されますが、おそらく原文のフランス語では、もっとどっさり入っていたのでは? 差別的にならないよう、そして読者がギョッとしないように、翻訳で巧みに料理してあって、読んで楽しい作品になっていました。

西山:今回のテーマから、「きょうだい児」の話なんだろうと思って読み始めたのだけれど、結局フランスのティーンエージャーの恋愛話でしたね。シンプルの性の話になるのかな、と思っていたら、これは弟くんの恋愛の話で、シンプルは狂言回し的にドタバタシーンの演出に使われてしまっているように感じるところもあり、ちょっと抵抗を感じました。障碍がテーマと思わなければ、そうでもなかったのかもしれないけれど⋯⋯。
p150に「男子の好きじゃないとこは、あたしたちをそういうふうにしか見てないってとこ。おしりとか、胸とか、自分がバラバラのパーツとしてしか存在してないみたいで。言いたいこと、わかる?」というベアトリスの言葉があって、よくぞ言ってくれた!と思いました。これまでたびたび、日本の児童文学に同様の視線が気になっていたところなんです。でもこの作品ではそれは大きな関心事ではなかったですね。ヴィルドゥデューさんの、古臭い恋愛指南と、今の感覚の違いがおもしろかったです。あと、ザハの家族のやりとりや,妹たちの様子に見られるムスリム像が新鮮でした。ただ、全体としては、福祉施設や関係者がこんなふうに作品に書かれてしまうと、しんどいなあという印象が強いです。

フキダマリ: おもしろかったです。シンプルの考え方とか、クレベールの苦労や思いとか、多角的に立ち上がってきて、読み応えありました。パンパンくんが要所要所でしゃべる構成がとてもユニークでしたし、シェアハウスに入ってから、さまざまな人間模様があっておもしろさが加速しました。伏線を緻密に張るタイプの小説ではないと油断していたので、ダストシュートが伏線だとわかったときは、びっくりしました。もっとも、日本とフランスの文化が違い過ぎて、おとなっぽい要素が多いですよね。2人の女子の間で迷うところは、日本だと完全に二股だけれど、パリが舞台だと許されてしまうというか(笑)。あと、おとながシンプルみたいな子とどう関わるかを描く場面が多いので、日本だと一般書で出した方がたくさんの人に届いたんじゃないか、とも思ったりしました。街の人々のシンプルへの態度がそれなりに辛辣で露骨ですが、20年前に刊行された本なので、今のフランスとはだいぶ違うんでしょうか。そのあたりも気になりました。

ツミ:西山さんがいうように、知的障碍のあるティーンエージャーの性の問題って、とっても難しいと思う。実際に、そういう悩みをお母さんから聞いたことがあります。だから、この物語はリアルな話ではなく、私は半ばファンタジーとして読みました。

サークルK: パンパンくんが生きているように、人間たちとの会話に入り込んでくる時、慣れないうちはスムーズに切り替えができずにいました。きょうだい児と呼ばれる関係には昨今理解が進められていますが、実際に児童文学に昇華された作品を読むのは初めてです。スヌーピーに出てくるライナスのあんしん毛布の様に、パンパンくんが主人公の力になってくれていることで、弟が1人で抱え込まなくても良いのは救いと希望があるのだなと思いました。

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しじみ71個分(メール参加): この本はとてもフランス的だと思って、興味深く読みました。まず、本当に個人主義が徹底しているんだなと思いました。お父さんが再婚して、兄弟の世話を放棄して悪びれないというのは、自分には自分の人生があると思えばこそできることなのかもと思いました。
それから、この物語がおもしろいなと思ったのは、シンプルと共に生きていくことで、みんなが幸せになっていく点です。エンゾとアリアの恋の仲介者もシンプルだし、クレベールがザハに対する自分の真摯な思いに気づくのもシンプルのおかげだし、シンプルは幸せを運んでくる使者のような位置づけになっています。
障碍者施設で虐待があることがほのめかされていることについては、私はあることなのではないかと考えました。障碍者施設が悪いという印象を与えかねないのは確かに心配ですが、日本でも障碍者施設での虐待の報告件数はたくさんあるので、フランスもゼロではないんじゃないでしょうか。
それと、クレベールがヤングケアラーとして兄の世話をひとりで抱え込んでしまうようにも見えますが、私は、共に暮らして、みんながシンプルを好きになり、シンプルに居場所ができたように読めました。公助でもなく、1人で抱え込む自助でもなく、コミュニティで支え合う共助の場ができたことに作者は力点を置きたかったんじゃないかと思いました。シンプルが幸せそうな姿を見て、クレベールが心から愛を感じる場面の描写が本当に美しいですし、シェアハウスのみんながだんだんシンプルを理解して、好きになっていく過程もとてもいいと思います。あと、とても面白いのがパンパンくんで、パンパンくんはシンプルのイマジナリー・フレンドのようにも見えますが、良くないことをしたいときは、パンパンくんにやらせるので、シンプルの正直な気持ちを代わりに発散する自分の片割れなのかもしれないなと思いました。
この作品は、悪くすると、知的障碍のある人を天使的な、無垢な存在として扱ってしまう危険性もはらんでいるような気がするのですが、パンパンくんがやりたい放題やってみんなに迷惑をかけることで、バランスが取れているように思えました。恋愛や性が若者の重要なテーマになっているというのも、フランス的なのかなとも思いましたが、日本でも同じかもしれないですね。長めの物語でしたが、いろいろなポイントでとてもおもしろかったので、割とすぐ読み終わりました!また、同じ作者の違う本も読んでみたいです。

(2024年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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死の森の犬たち

原発を背景にした雪の上を犬たちが走り回っている
『死の森の犬たち』 STAMP BOOKS

アンソニー・マゴーワン/作 尾崎愛子/訳
岩波書店
2024.03

ANNE:装丁を見て少し前の翻訳書のようなイメージを持ったのですが、2024年3月出版の作品でした。時代がどんどん流れていくドラマチックなストーリーに引き込まれましたが、犬たちの過酷な戦いのシーンなどは少し苦手でした。冒頭に理由は説明されていますが、地名を敢えてキエフと訳していることにやはり違和感が拭えませんでした。子どもたちに手渡す際は、ロシアのウクライナ侵攻についても触れるべきかと思いました。カテリーナをミーシャがアルファと認識する場面、もっと読んでいくとアルファが何を意味するかわかりますが、ちょっととまどいました。

ハル:カテリーナをアルファと呼ぶことについては、p249の少し前、p247に「あの生き物は、おれのアルファだ」と認識する場面がありましたね。

シマリス:非常に引き込まれて、読みました。チェルノブイリ周辺の森だという特殊性、そして犬とオオカミの習性の違いなど、読みどころはたくさんありました。ただ、終盤、怪物が出てきたところで、ここから突然ファンタジーになるのか?と、とまどいを覚えました。結局、怪物とは巨大なウナギのことだったのですが、このあたりから物語の構造がこれでいいのか、とちょっと引いた感じで読んでしまいました。特に納得がいかなかったのは、ミーシャをキエフに連れてくる場面です。ミーシャは、おじさんに面倒を見てもらって、過ごしています。そこでナターリヤが現れて、主人公の特権で犬を奪ってキエフに連れて行ってしまいます。かわいがっていたおじさんの気持ちとかまったく無視の展開に、ちょっと心が冷えました。チェルノブイリに翻弄されて、それでも生きてきた女の子と犬が最後に再び出会うという構造にしているのはわかるんですが。人間と動物の視点を交互に描いた物語は難しいなと思います。

ニャニャンガ:チェルノブイリ原発事故のあと、生きものたちがどのように暮らしていたかにとても興味を惹かれて読みました。別れ別れになった子犬のゾーヤと飼い主のナターシャが中心の物語と思いきや、犬たちの話が8割ほどだったのは予想外ではあったものの、原発の影響など知る由もない生きものたちの生存競争を興味深く読みました。ただ、こちらも五感に訴えてくるつらさがありました。そして人間の物語とちがい、動物たちがたくさん死んでしまうのが仕方ないとはいえかわいそうでした。それでもオオカミ犬ミーシャとブラタンの兄弟愛に強く心を動かされました。
作者から日本の読者へのメッセージで、「純粋な冒険物語」とあり、原発事故は
創作のきっかけではあってもテーマではないと知り、エンタメなのかなと少し残
念に思いました。

きなこみみ:生と死、出会いと別れ、冒険、闘い。物語の渦に巻き込まれ、気持ちよく引きずり込まれてしまいました。実は1度、冒頭のところだけ読んで、ナターシャとゾーヤの別れのシーンで挫折しかけたんです。チェルノブイリ原発の事故が起こったとき、ほぼ何が待っているのかわかってしまって、つらすぎて。チェルノブイリやフクシマの事故のとき、人間が避難したあとに置き去りにされた犬や猫たちのことが蘇りました。どうも、犬や猫がつらい思いをする物語が怖いんです。ナターシャの悲しみ、いつまでも埋まらない喪失の痛みが、まるで自分のもののように伝わってきました。
でも、ミーシャの物語がはじまってからは、読むのがやめられずに一気読みです。まず、構成がすばらしい。ナターシャ、ミーシャ、そしてカテリーナという3つの世界があるんですが、時系列をいきつ戻りつして語ることによって、少しずつ謎が解かれて、物語のドラマチックさが増しています。それぞれの、原発事故から始まった生きる闘いの記録なんですが、なかでも、ミーシャたち動物のたくましさ、生き抜こうとする強さ。オオカミと暮らした哲学者が、オオカミと人とは、生きている時間軸が違うと書いていました。(『哲学者とオオカミ : 愛・死・幸福についてのレッスン』(マーク・ローランズ 著 今泉みね子 訳 白水社)私たち人間は未来にとらわれ、いつも未来の準備に今を費やしてしまう。でも、動物たちは違って、どんな一瞬でも「生きる」ことに全力で、生き抜く闘いの一瞬にも喜びが爆発しているようで、ほれぼれします。数ある闘いのなかでも、コーカシアンシェパードといっしょに、父親オオカミの群れと戦うシーンには、かたずをのみました。
印象的なのは、強く賢いミーシャの横に、いつもブラタンという足の悪い弟がいること。犬という生き物が持つ愛情の強さを象徴するようなことだと思います。闘いから逃げたように見えたブラタンが、熊をみつけて戻ってきたとき、彼が真の意味でミーシャの分身だったのだと思いました。その得難い、犬一族の強い愛情を、ナターシャとゾーヤ、そしてカテリーナという、人間と束の間でも育んだことが、伏流水のようにゾーヤとミーシャのなかに生き続けて、そして、傷ついたままおとなになったナターシャを溶かした。その愛情が、次の世代の赤ちゃんへ、新しい愛情へと繋がっていくという、見事さを感じます。
原発事故、放射能汚染という取り返しのつかない巨大な破壊と痛みから、どう回復して生きてくかというテーマが、この作品の中に流れているのではと思いました。作者が、カテリーナの番外編を書きたいと思っていると後書きにありますが、私もとても読みたいです。森のなかで1人で生き抜いていた、パルチザンであったカテリーナの物語を読みたい。『炎628』(監督エレム・クリモフ 1985年公開)というパルチザンの少年が、話すのもためらわれるほど悲惨なものを見る映画がありますが、戦争の時代に、ウクライナに生きていたパルチザンは、まさに辛酸を舐める経験をしたと思うんです。だから、彼女にとってロシアの若い兵士をだまくらかすなんて、きっと簡単なことだったろうなと思ったり。そういう背景を想像するのも楽しい作品でした。

花散里:本が刊行されたときにすぐに読みました。この本を最初に手に取った時に、タイトルから、福島のことを思い出し、ストーリーが予測されるように感じ、巻頭の「歴史に関する覚え書き」からも手に取りにくいという感じもありました。原発事故が起きた時のナターシャの章から、放射能に侵されたチェルノブイリの森に置き去りにされたゾーヤの子、ミーシャのことになってしまい、最初、展開にとまどいも感じましたが、ミーシャが生きていくために様々な困難と闘っていくストーリーはとても読み応えがありました。
巻頭の「物語の舞台」に本書の表記について記されていますが、本書が日本で刊行されたとき、キエフのことはキーウと呼ばれたことや、ウクライナの戦争が始まっていたことなど、「あとがき」で、全く触れていないことに、疑問を感じました。巻末の「作者インタビュー」よりも、大切なのではとないかと思います。

雪割草:おもしろかったです。私は新潟の出身で、父がずっと柏崎刈羽原発反対の活動をしていてチェルノブイリにも事故後すぐに視察にいきました。子どもの頃は、そんな父から原発の事故が人の生活や人体にどんな影響を与えるのかわかりやすく伝えている本を薦められて、私たち兄弟は読んでいました。だから、原発事故の怖さはすっかり沁み込んでいて、福島の事故が起きたときは、私は若かったし一目散に東京から南へ避難したほどです。そんなこともあって、チェルノブイリの事故がどんなふうに描かれているんだろうと期待しながらこの作品を読みはじめましたが、チェルノブイリの事故は枠物語のようになっていて、メインの犬たちのストーリーにはそんなに表現されていないので少しがっかりしました。
けれども読み終えて、犬たちのストーリーに、繰り広げられる生き残るための死闘が、原発事故という人間がつくったものが招く死の理不尽さを浮き立たせていると感じました。犬たちのストーリーの細やかな描写は見事で、すっかり感情移入してしまったので、サルーキやブルタンに死が迫ってきたところは、つらくて仕方がありませんでした。犬たちの集団が、それぞれの犬に個性があって多様なところもいいなと思いました。カタリーナが住んでいるところは、映画「アレクセイと泉」を思い出しました。

しじみ71個分:私とてもおもしろかったです。マゴーワンは、前に読んだ『荒野にヒバリをさがして』(野口絵美訳 徳間書店)が、4巻シリーズの最終巻のみしか日本語になっていなかったからかもしれないですが、とてもおもしろかったのに、どこか食い足りなさを感じたので、今回はどうなんだろうというと思って読み始めました。自分自身、動物に人間の感情を重ねるような書き方はあまり好きじゃないので、最初は、犬同士の兄弟愛が人間っぽく書かれていたので、引っかかったのですが、読み進めるうちにそんなことは忘れてしまって、ミーシャに感情移入して読み、最後には感動してしまいました。
原発の事故によって、人間のいない危険な世界が生まれ、その中でさまざまな命がたくましく生きていく姿を描いて圧巻でした。野生動物たちが生き抜く世界は本当に過酷に情け容赦なく、食って食われてが描かれますが、迫力があって本当に魅力的でした。犬の20年くらいの一生でしょうか、それがとてつもなくドラマチックに、大河ドラマのように描かれていて、すばらしいなと思いました。また、ミーシャが年老いて命が消えていく場面も、体がどんどん軽くなって、命の根源に向かって走っていき、走馬灯のように美しいイメージが連ねられて、本当に美しかったですね。スーザン・バーレイの絵本『わすれられないおくりもの』(小川仁央訳 評論社)をちょっと思い出しました。1か所、p310に「空き地」がつつみこむというところの「空き地」って何だろうとわからなかったのですが、そんなことは構わず感動しました。
あと、「怪物」の章だけ、怪物の視点のような気がしたのですが、これはどんな意味があったのでしょう? それと、なんで最初からウナギだと言わなかったのかもよくわからなかったのですが、もしかして、マゴ―ワンはすごいサービス精神のある作家で、子どもたちをドキドキさせてやろうという気持ちでここは怪物にしたのかな?などと思いました。犬が狩りをするような荒々しい姿は日常的に見ることはないですが、マゴ―ワンも人の消えた世界で、死闘を繰り返しながら生き抜いていく命のたくましさに大いに惹かれたんじゃないでしょうか。本当におもしろかったです。

エーデルワイス:私も、とてもおもしろく読みました。最後の場面でミーシャ、ブラタン他仲間の犬たちが天国(と思われる)へと走る場面は、やはり犬の視点で描かれた『パップという名の犬』(ジル・ルイス作 さくまゆみこ訳 評論社)の最後の場面とよく似ています。少女ナターシャと別れた子犬のゾーヤがどのように生きていったのかだんだんわかってくる仕組みも巧みです。ゾーヤの子どもミーシャ物語からから始まるので。
犬たちが懸命に生き抜いていきますが、チェルノブイリ原発事故の影響が出ないかとハラハラして読み進めました。ゾーヤ、ミーシャ、ブラタンはオオカミの血が入っているサモエド犬。私自身犬は好きですが詳しくないので、犬の種類特徴についても書いてもらえたらよかったと思いました。オオカミとの戦いの助っ人にブラタンが馴染みの熊を誘導する場面は、ファンタジーだと思いました(ちょっと都合がよすぎる)。ミーシャの子孫が森でたくさん育っていると思うと感慨深いです。殻に閉じこもったままおとなになったナターシャが、ゾーヤの子ミーシャと巡り会って本当によかったと思いました。

ハル:今月の本は、「追体験」のインパクトが強かった2冊でした。この本は、最初は「あ、主人公はこっち? 犬?」というとまどいと同時に、ミーシャって誰? とか、犬になりきって人が書いてる⋯⋯とか、この世界に入り込むまでに時間がかかるかもしれませんが(私がそうでした)、子どもの読者のみなさんにもなんとかそこを乗り越えて、だんだん感情が動物の体に入り込んでいく感覚を楽しんでみてほしいです! 農場でのオオカミとの戦いの場面は、オールキャスト集結っていう感じで手に汗にぎる思いで読みました(「伝説の幽霊馬になった」ってどういう意味でしょう 笑)。死の迎え方、描き方も印象的でした。一生懸命生きたあとに死を迎えることは、恐ろしいことではないのかもしれないなと思わせてくれた本でもありました。

ハリネズミ:犬の視点で書かれているところは、いかにも犬の五感を通して見ているようで、おもしろかったです。チェルノブイリに置き去りにされたペットは、ほとんどが射殺されてしまったんですね。福島でも、置き去りにされた(そうせざるをえなかった)点は、チェルノブイリと同じですが、射殺はされなかったので、動物レスキューの人が入ったりしていて、そこが違いますね。人間が入れないところが動物・植物の天下になるという部分は、イ・オクベさんの『非武装地帯に春がくると』(おおたけきよみ訳 童心社)という絵本を思い出しました。
この物語では、ナターリアが原発事故の被害を受けただけではなく、人間に飼われていた動物たちも、野生化して生きざるを得なかったり、弱い者はすぐに命を落としたりして被害をこうむっています。作者は「おもしろい物語」を書こうと思ったと書いているかもしれませんが、生きとし生ける者がみんな被害を受けたということはちゃんと書いていると思います。ワディムさんのところも、いつ会いにきてもいいと言ってもらったので、私はそんなに気になりませんでした。私が唯一気になったのは、オオカミが悪役として登場するところです。オオカミは必要以上に殺したりはしないので、生態系の維持に役立っていたという説があり、だからオオカミを呼び戻して自然の循環を健全に保とうとしている人たちもいます。この本だと、オオカミがやたらに殺戮に走っているようで、それが気になりました。

きなこみみ:p232の、巨大なウナギのいる湖に降ってきた「石粒のようなもの」は、いったいなんだったのでしょう?

しじみ71個分:私は人間が撒いていた餌じゃないかと思ったのですが⋯⋯?

ニャニャンガ:養殖されていたウナギが、事故のせいで人がいなくなり野生化したのだと思います。

(2024年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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6days 遭難者たち

女子高生たちの遭難を伝える新聞記事
『6days 遭難者たち』
安田夏菜作
講談社
2024.05

エーデルワイス:新聞記事が出ている表紙にドキリとしました。ノンフィクションかと思いました。山岳をテーマにした児童書を読んだのは初めてのような気がします。冒頭の「冒険とは死を覚悟して、そして生きて帰ることである。」冒険家植村直巳さんの言葉は重いですね。槍ヶ岳、奥穂高、白馬に登った事を思い出しました。最近地元の岩手山で他県からきた成人男性が遭難しました。無事に救助されましたが、自己責任の重みを感じます。
主人公女子高校生3人が家庭の事情など乗り越えて成長いく物語で、ハラハラしながらおもしろく読みました。しかし装備が甘い!だから低い山でも遭難するのですが⋯⋯。p258の12行目「人間ちゃ不思議なもんでな、自分の弱さを受け入れたもんだけが、真に強うなれるがやちゃ」という坂本美玖のおじいちゃんの言葉がいいです。

しじみ71個分:とてもおもしろく読みました。少女たちが生きるか死ぬかの瀬戸際で、サバイブするという内容に、とてもドキドキしました。スリル満載でした。特に、美玖が一人で救助を求めに行って、滑落したところでは、もうどうなってしまうんだろうと本当に心配になりましたが、結果として、残った側も出ていった側も双方助かって本当に安心しました。
物語の序盤から、既に遭難フラグが立っていて、そんな軽装で行くなんてヤバいんじゃないの? 準備は足りてないし、携帯なんて電池切れるし、山奥なんて電波届かないし、計画していたルートを外れちゃうし、そこは少しモヤモヤしてしまいました。女子高生が遭難して、サバイブする状況を作り出さないといけなかったんだろうとは思うのですが、ちょっと設定の作り込みを感じました。
あと、もう1つ、女の子たちが遭難して、死にかけて、やっと生きたいという思いとか、生きている実感が湧いてくるわけですが、ここまでの危険を描かないと生きる実感を描けなかっただろうかという点は考えました。美玖たちが、本当に山に登りたくて登ったのではなく、心の鬱屈や家族との間にある不安の払拭のため、現実逃避のために山に登って遭難しますが、ある意味、生活の中に危険は転がっていますし、必ずしも山の遭難でなくてもよかったのかもしれないので、やはり著者が山をテーマに描くところからスタートした物語なのかなと感じたところはありました。そういう意味では、遭難させるために、少女たちがかなり抜かった子たちに描かれているような印象は残りました。キラキラのコンパクトも、占いのラッキーアイテムだから持っていくという出だしになっていましたが、自分がおとなだからかもしれないですが、反射光で自分たちの所在を知らせるのに使うよねと、最初からなんとなくネタばれしてしまうところもあるので、逆に物語の中で、亜里沙が気付いて実行するまで随分引っ張ったなぁという感もありました。
所々、ちょっとあれこれ考えはしましたが、物語としてはおもしろくスリリングで、休む間もなく一気に読み通しましたので、安田さんは本当にうまい、技術のある書き手さんだと実感させられた作品でした。

雪割草:ハラハラしながらも、引き込まれて読みました。遭難する3人の登場人物は、それぞれが心にもやもやを抱えていて、それが遭難にあって命が危険にさらされると、ありのまま姿が露呈してくる様がうまく描かれていると思いました。今の子どもたちは受験や学校生活で窮屈な思いをしていたり、子どもによっては家庭で苦しい状況におかれていたりすると思います。挫折も味わうこともあると思います。それでも、p258のおじいちゃんの言葉「自分の弱さを受け入れたもんだけが、真に強うなれるがやちゃ」は、この作品を読んで体験をすることで、伝わり、実感をもって感じられることがあるのではないかと思いました。

花散里:新聞記事が目に飛び込んでくるような表紙がすごいと思いました。安田さんの作品は『むこう岸』(講談社)など印象に残る作品が多く、本書も興味深く思いました。作品の中ほどで遭難してしまうので、「6days」というタイトルから、これから6日間、後半までどう進展していくのかハラハラしながら読みました。物語の展開、構成がうまいなと思いました。私自身、谷川岳の麓で育ち、沢めぐりに行ったときに、遭難者の石碑などを見ていたので、遭難事故の怖さを本作でどのように展開していくのかと思いながら読みました。登山部に入部していた美玖の登山に対しての考え方が甘いということ、美玖をリーダーとして頼りきっていた2人の遭難後の心情など、うまく表現していると感じました。後半、救助された美玖の入院先に、遭難中にスマホなくしたはずの亜里沙からグループトークが送られてきていたというのは、新しいスマホからとか、説明がなかったので、少し気にかかりました。

ハリネズミ:新しいスマホを手に入れたのでは?

きなこみみ:クラウドにバックアップさえしておけば、スマホはほぼ完全に、すぐ復元できるので、不自然ではないように思います。気軽なハイキングが、過酷な遭難に変わっていく様子、まるで坂道を転がり落ちるようなその過程が見事で、ぞっとするというか、ああ、これ、私もやりそう、と思いながら読みました。正常化バイアスって、無知が土台にあるなと痛感です。肝に銘じなければと、体がきかなくなりつつある私のような世代にも得るところの多い作品です。そして、今よく報じられている、闇バイトにいつのまにか取り込まれたりするのも、こういう感じなんじゃないかと。「闇バイトではありません」「簡単なお仕事」と書いてあるから大丈夫と信じたりするのも、ひとつは「知らない」ことからだと思うので。
ロシアの冬を狩りをしてすごす犬たちの物語『死の森の犬たち』(アンソニー・マゴーワン著 尾崎愛子訳 岩波書店)とともに読んで、人間が、都会にしろ、家族にしろ、共同体からはぐれてしまったときの脆弱さも胸に沁みました。自分の体ひとつで生きる動物たちと違って、私たちは丸腰では何もできない。成す術もない。自分が明日も明後日も、生きていられると思うことが不思議に思える時間を、この物語の中ですごして、読んだあと、彼女たちと同じく、しばらくふわふわしてしまう感覚になりました。生と死が、実は紙一重であること。ささやかな小さな間違いが遭難に繋がっていくこともそうですし、蛍光色の帽子、小さなコンパクトなど、生と死をわけるのが、まさにそんな小さなものだということも、命の奇跡や、今、ここにある、生きている不思議も感じさせます。
p95で、亜里沙が小鳥の死骸を見つけるシーンが、命のもろさを象徴するようで印象的でした。登山を自分でもされる安田さんの、山のシーンのうまさもさることながら、彼女たちが、それぞれに悩みや痛み、不安を抱えていて、「山に行きたい」という気持ちに至ったこと、その思いが、遭難の6日の間に、どんなふうに変わっていったのかが、ていねいに書かれているのがとてもよかったです。特に、由真という、「なんのなんの」と周りに言いながら、穏やかそうに見える彼女の内面が、実は孤独で、リストカットの体験もあること。JKという人を記号化する言葉が私はとっても嫌いですが、なんにも考えていない、気楽な女子高生、なんて存在なんて、この世の中には誰一人いないんですよね。
「脳内お花畑のレジャー客」が遭難、と彼女たちがSNSで叩かれることが最後に出てきますが、それもまた人間という複雑な存在を簡単に断罪したいという、ある意味正常化バイアスにも近いことだと思います。よく知らないことは、簡単に見える。それは、この3人もある意味同じではあって、お互いあまりよくわからないままだった3人が、「生きる」ことになんとか必死にしがみついて奮闘するうちに、お互いの内面にも、自分の、普段意識しない闇の部分にも深く向き合っていくところが読みどころだと思います。p203で、由真が、「もしもここを生き延びることができたなら、あたしはおとなになれる。おとなになれば、もっと自由に、いろんなことを選びとることができる。住む場所も、誰と住むかも、すべて自分で選びとれる」と強く思うところがとても好きなんですが、いろんな困難を必死で生き延びようとしている子どもたちへのエールにもなると思うんです。そんな彼女たちの覚醒が、美玖のじいちゃんのp258の言葉に、しかと結びついていくのも、良い結末でした。そして、非常にリアルに怖い物語なのに、読んだあとなぜか登山に行きたくなるんですね。安田さんの山に対する愛情が、そう思わせるのかも。

ニャニャンガ:まずは装丁に目が惹かれました。きっとこんなふうに遭難するのだろうなと予想しつつ、するすると読めました。とはいえ山の怖さは五感に訴える生々しさがあり、必ず助かるだろうという結末を頼りにしないと、なんともしんどかったです。極限状態に置かれたとき、3人が思いのほかしっかりしていることに頼もしさを感じて苦難を乗り越えられるだろうと望みを持てました。
個人的にはつい最近まで山を登る楽しさを理解できずにいたのですが、市内に
ある低山に初めて登ったときの爽快感がクセになりそれからつづけて何度か上りました。ただ少し間をあけて登ったときに実感したのが、ほんの数キロ体重が増えただけで体がしんどくなったことです。それを考えると由真もんは、若いとはいえかなり大変だったのではと想像しました。山登りには備えと心構えが大切ですね。とはいえ、ここまで極限でなくてはならないのかなとも……。

シマリス:装丁がセンセーショナルで、内容も気になり、発売後まもなく読みました。山登りの蘊蓄含め、面白い部分、初めて知ることはたくさんありましたし、ハラハラする展開で引き込まれました。ただ、とても感動した、同じ著者の『むこう岸』に比べると、物語の作りがシンプルかなと思いました。少女たちのそれぞれの事情が最初の章であっさり明かされる構成になっています。特に気になったのが美玖の部分。おじいちゃんに登山のことをしつこく言われて「バッカみたい」と言ったら、それが永遠の別れになります。非常に重い内容なのに、軽い感じの一人称で、「ごめんね、じいちゃん。ごめんね、じいちゃん。」(p17)なので、思考の浅い女の子に思えました。もちろん思慮深くないから、こういう事故に遭うわけなんですが、わたしの場合、そのせいでこの子に感情移入しづらくなってしまいました。すべてを冒頭にぺらぺらしゃべらせてしまわないで、どんな事情があるのかを小出しにして引っ張ったら、もっと引き込まれたんじゃないかと思いました。

ハル:登山と言えば、高尾山とか、奥多摩〜、筑波山〜、山頂でお弁当〜なんてハイキング感覚な私には、ぞっとくるほど身に沁みたし、恐怖が迫ってくる感覚に目が離せなくて一気に読み終えてしまいました。やっと電波が通じた! と思ったら、次々に通知が来て電源が落ちるところの絶望感は、いま思い出しても、指先が冷えてくるくらい(笑)。ハラハラ、ドキドキというだけじゃなくて、3人それぞれの内側に迫っていく物語としてのおもしろさにも引き込まれました。最後の、冨樫先生の記者会見の態度は世間でひと炎上しそうですけど、やっぱり、当事者じゃない人が、SNSやメディアで表面的に情報を受け取ったらまったく違うように見えるってこともあるよな⋯⋯と思いました。

ハリネズミ:おもしろかったです。私は若い頃はよく山に行っていました。さっき、しじみ71個分さんから、こんなふうに遭難するのがリアルかどうかという話が出ましたが、私はリアルだと思います。高い山だと、みんなそれなりに装備をきちんとして地図も持って登りますが、途中までロープウェーとかケーブルカーで登れるような山だと、パンプスとか、ノースリーブの人なんかもいたりします。ルートを外れさえしなければそれでもちゃんと帰れるのでしょうが、そういう人がルートをちょっと外れたりすると、同じようなことになるのかと。
地球の赤道より南の地域には、まだ成人儀礼というのが残っていたりしますよね。日本にも昔は近いものがあったと思うんですけど、おとなになるために子どもの自分を1度葬り、それから一人前のおとなとして再生するという儀礼です。この3人が体験したのは、まさにそれではないかと思いました。いわば臨死体験のようなことを経て、成長していきます。その成長の仕方も3人3様で、そこがまたいいなと思いました。また、いわゆる文明国だと、厳しい自然に対峙してサバイバルするという体験が普通はできないわけですけど、ああ、こんな状況だとその体験がありうるのかと思いました。

ANNE:山国信州に居住するものとして、身につまされながら読みました。イマドキの高校生たち、スマホ依存とまではいかなくても、電波が届かないところや充電が切れてしまったらもうどうしようもなくなってしまう様子が、大変リアルに描かれていると思いました。それぞれの女の子たちがいろいろな悩みを抱えながらも、懸命に前を向こうとしている姿に思わずエールを送りたくなりました。
私にとっての山は、登るものではなく見上げるものだなぁと改めて思った1冊です。

(2024年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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杉森くんを殺すには

制服を着ている主人公の少女
『杉森くんを殺すには』
長谷川まりる/著
くもん出版
2023.09

きなこみみ:長谷川まりるさんは、どん、と心に響く作品を書かれる方で、この作品もまずタイトルのインパクトがすごいです。そして、タイトルのインパクトは見掛け倒しではなくて、まず主人公のヒロが「杉森くんを殺すことにしたの」と宣言するんですから、これはもう続きを読まざるを得ないですよね。そしてうまいなと思うのは、人物同士の関係性を、少しずつ開示していくところ。ゆっくりとヒロという一人の人間と知り合うように、物語が進んでいくところだと思います。杉森くんのように、強いSOSを友達が出してきたときに、どうすればいいかわからないという経験は、多かれ少なかれ子どもたち誰もが経験することだと思うんです。「寄り添いましょう」とよく言われるが、深く傷ついた人がすがってくる状態で、うまく寄り添うなど、おとなでも難しいことです。でも、寄り添えなかったという後悔も、また深く人を傷つけます。そのトラウマから、少しずつ回復していく心の起伏が、ていねいに、それでいてテンポと歯切れのよい文体で綴られていて、重いテーマなのに最後まで読ませていくのは、すごい力量だと思います。
ヒロを支えているのは、まず、賢い距離感のお母さんと兄なんですけど、これが血の繋がった関係ではないということって、結構大事かもしれないなと。どうしても、血縁の母と娘だと、こうしていい距離感で見守ることはなかなか難しいように思うから。同時に、良子という新しい友人関係の描き方もとてもよくて、彼女が熊谷晋一郎さんがよくおっしゃる「自立とは、依存先を増やすこと」という言葉を紹介してくれるのも、とてもいいと思います。一人で生きていける人間なんていなくて、人にどう迷惑をかけながら、かけられながら生きていくのかって、これからおとなになっていく人たちには、とても大切な、一生かかって作っていく、セーフティネットだと思うんです。最後にあげてある心理学系の参考図書のリストもよくて、いい選書だなあと思いました。

しじみ71個分:衝撃的なタイトルでとても気になっていました。読んでみて思いましたが、とても内省的な物語ですね。「殺す」という言葉から、杉森くんの自死について内省を深めて、自分の関わりと自分の気持ちを整理していく展開になっていて、読んで切ない気持ちになりました。友人の自死をいかに自分の心の中に落とし込んでいくか、ですが、とてもつらい作業ですよね。杉森くんが自分のつらい気持ちをヒロにぶつけ、それを見ないようにしてしまったことで、彼女の自死に関わってしまったという自責の念に苦しんでいることが物語の過程でだんだん分かってきますが、15歳の若者が背負うにはあまりにも重たいことだと思います。思春期の子には大変なショックだと思いますし、高校ではそのことを知る人が少ないのがよかったのもよく分かります。
それでも、矢口くん、良子ちゃんという心を開ける友人がいたことで、読みながら安心しました。ミトさんも自分も杉森くんを助けてあげられなかったことについて胸を痛めていましたが、大学生だってそりゃ無理だと思います。よく福祉の分野だと、人に頼れるようになることが真の自立とよく聞きますが、専門の人やおとなに頼らないといけないし、おとなはそれを受け止めないといけないですよね。人に頼っていいということを若い人たちに知ってもらいたいし、私たち大人も子どもたちのSOSに気づけるようにアンテナを立てておかないといけないと痛感させられました。本当に繊細な作品だと思いますし、内省に伴ってさまざまな考察が盛り込まれていますが、いくつか、モヤモヤした点があり、そこは少し気になっています。うまく言語化できませんが……。

さららん:1枚ずつベールをはがすように読み進むうち、「杉森くん」の真実がわかり、そのつど驚きました。主人公ヒロの心のうちに分け入るような書き方に、思わず引き込まれました。「杉森くん」の本当の名前は百花ちゃん。でも杉森くんと呼んでほしいという設定にも作家の計算があります。「百花ちゃんを殺すには」ではあまりに生々しくべたべたしますが(設定上、そんなタイトルはありえませんが)、「杉森くん」という硬質の名前だと、その感じが消えるのが不思議です。言葉の響きが持つ力ですね。p120の「自分のなかの、相手のイメージ」という考え方には、ハッとさせられました。当たり前かもしれませんが、私たちはみなそのイメージを相手に生きていて、本当の他人の姿も、自分の姿も実はわからない。言語化されていないことを明確にしてもらえ、読者の子どもたちがこれから悩みを抱えたときに、状況を客観視するうえでこの考え方は役に立つと思いました。重いテーマなのに、ギャグが生き生きしていて、読みやすかったです。個人的にはヒロがお父さんに対して抱く気持ち(p34「古きよき昭和」って感じで、ファンタジーっぽいものを感じる)のところで、そんな「お父さんには、わたしたち現代っ子の複雑な心境が理解できないんだと思う」と言われて、『うーむ、なるほど』と思いました。

ジョウビタキ:物騒なタイトルですね! 途中で「殺す」と「杉森くん」の2語に騙されていたのがわかり、少々腹が立ったけれど、あとはスムーズに読めました。あざといタイトルですけれど、戦略的には成功しているのかも。文章が生き生きしていて、とてもうまいですね。ただ、今の子どもたちがしゃべっている生きのいい言葉で書くと、10年後、20年後には一気に鮮度が落ちて、ダサい作品になってしまう。これは、YAを翻訳する人たちにとっても悩みの種だと思いますけど。友だちに自死された子どもの心情を描いた作品って、そんなにないと思うんだけど、どうでしょう? グリーフケアの作品としては、アメリカのドリス・ブキャナン・スミス作『ブラックベリーの味』(石井慶子訳)が、アナフィラキシーショックで親友を失った少年の心情を描いた、とても良い物語ですが、小学生向けなので、この本ほど複雑な心境は描いていません。ちなみに、「ブラックベリー」はぬぷん児童書出版で出版されたもので、今は古書店でしか手に入りません。ぬぷんは、優れた児童文学の翻訳書をたくさん出しているので、手に入らなくなっているのは残念です。最後に臨床心理士の方のていねいな解説や、「困ったときの相談先リスト」があるなど、編集が行き届いていると思いました。

ニャニャンガ:書名のインパクトの強さから手にとりにくかったので、この機会に読めてよかったです。いい意味でマンガっぽいと感じました。それは、重いテーマをとても読みやすくしてあるからかもしれません。対象年齢の読者には敷居が低くなってよいのかもしれませんが、自死した友だちの命に対してのアプローチとしては、個人的には苦手に感じました。
主人公のヒロが杉森くんを助けられなかったつらさから、あえてこのような行動に出て立ち直ったのかもしれませんが……義兄のミトさんはすべての事情を知っていてヒロを心配しているだけに、冒頭のやりとりは疑問に思ってしまいました。
杉森くんと呼ぶことであえて男子だとミスリードする理由、そして杉森くんを殺さなくてはならない理由などにひっかかりを感じたのですが、あえてそうすることで読者に考えてほしかったったのでしょうか? 私の読みが足りないのかもしれません。巻末に解説があってよかったです。

雪割草:タイトルが衝撃的だったので、ドキドキしながら読みはじめました。この主人公のように、自殺した子のそばにいて残された子どもはきっとたくさんいると思います。私は特別な環境で育ったわけではありませんが、中高、大学で自殺した子がいました。だから、そういう子どもたちに、自立とは依存先を増やすこと、というメッセージとともに届いてほしい作品だと思いました。この作品は、主人公がなんで杉森くんを殺さなければならなかったのか、その理由をあげていくのですが、周りのあたたかい人たちに助けられながら、やっぱり杉森くんを好きだったことに気付かされます。そして、人に罪悪感を抱かせるくらい、杉森くんは大事な存在だったんだと気が付きます。罪悪感がなくなるわけでもなく、喪失感を感じたまま、それでも前を見て生きていく主人公の姿は無理なく描かれていると思いました。

エーデルワイス:タイトルが刺激的で、構成がみごとでぐいぐい読めました。杉森くんが実は女の子だということなど、いい意味で裏切られていくのがおもしろかったです。主人公のヒロが友人の杉森くんの死を受け入れられなく、助けられなかった罪悪感、苦悩が伝わってきました。そしてティーンの自死を食い止めるのは、同じ年の友人個人ではなく、みんなで、それもおとなが助けなくてはいけない、という終盤のメッセージがよかったです。ヒロのステップファミリーの様子、実母のヒロへの暴力などがさりげなく書かれていて興味深く思いました。ヒロに新しい友人、ボーイフレンドも出来そうで、明るい未来を感じた終わり方で安堵しました。

アカシア:テーマはおもしろいし、必要な本だとは思うのですが、ストーリー展開があざとすぎるように思いました。普通は、親友の死について自責の念にかられたとすると、自分自身に刃を向けると思うのですが、この本では「殺す」という行為に出ようとする。またミトさんも藤森くんが1週間前に死んだことはわかっていて、「殺す」が現実には成立しようがないと知っているのに、「全部終わったら、裁判所で理由を話さないといけない」とか「おまえが刑務所にぶちこまれても、世間でバッシングされても、おれは最後までおまえの見方だからな」なんて言っている。そこまで話を合わせるのは、主人公のヒロが認知に難がある子だからなのだろうと思ってしまいました。p10からの「杉森くんを殺す理由 その一」が高校生の考えとは思えなくて、小学生の理屈のようにしかとれなかったので、よけいです。というわけで、最初のほうでミスリードされてしまったので、私はうまく物語の中に入り込めず、構成がすばらしいとも思えませんでした。

ハル:なぜ杉森くんと呼ぶのかは、p59に理由が書いてありますね。それで、私は最初にこのタイトルを見たときに、『人間交差点』(矢島正雄原作 弘兼憲史作画 小学館)という漫画にあった、殺してもいない妻を殺したと言い張る夫のお話(深い愛ゆえのお話なんです)を思い出しましたが、それとは少し違いましたが、愛の物語には変わりありませんでした。とても好きな1冊で、いま再読していますが、結末がわかって読んでも、冒頭から切なくてしかたないし、ヒロの思いが痛いほど伝わってきます。殺したい理由というのは、全部、痛いながらも懐かしい、大事な思い出なんですよね。友達を助けられなかったという自分の後悔を、罪として、何の罪だと名前をつけて、断じてほしいという気持ちもあるし、杉森くんが自分を殺したことにならないように、私が殺してあげたいという気持ちもあるし、自分がそう思い込むことで楽になりたいからという気持ちもあるし、全部真実なんだと思います。こんなに困難な事態とからまって傷ついた心を、書き手として、おとなとして、ひとつずつすくいあげて、ほぐして、光のあるあたたかい方に導いてくれた。構成も、そしてデザインも、本当に見事だと思います。

ANNE:まず、タイトルに、え?どういうこと?となりました。杉森くんはもう亡くなっているのに「殺すことにした」とヒロから電話で聞いたミトさんの受け答えに、若い男の子がそんなに冷静に対処できるのかしら? と疑問にも思ったのですが、幼馴染を亡くしたヒロの心情に寄り添った行動だったのだなと理解しました。自傷・自死といったデリケートなテーマでありながら、現代の15歳のみずみずしい日常が描かれていて、思いがけずさわやかな読後感を持ちました。あとがきのメッセージが悩んでいる子どもたちに届くといいなぁ。

サークルK:タイトルが直球すぎるというか、きつくてこわいのではないかと感じます。友人の自死を止められなかった自分を責めていた主人公がなぜ、死者に鞭打つかのようにもう1度「殺す」作業をしつこく行わなければならないのか、なかなか理解できませんでした。ステップファミリーになった自分の家族、異母兄への淡い思慕と同級生からの告白、「杉森くん」が実は「百花ちゃん」という女の子であったことなど、種明かしはされていくのですが伏線がきれいに回収されるというより、盛りだくさんすぎて振り回されてしまいました。一人で悩みを抱えている人向きに物語の始まる前に、「巻末解説」への導きがなされていたので、ついそちらを読んでしまいましたが、ネタバレ的なことが書かれていて安心したのと、15回「殺す」という展開にはやはり少しこだわりが強すぎるのではないかという感想を持ちました。読んでいて、主人公のヒロよりも友人の良子さんの普通さが救いになりました。

花散里:長谷川まりるさんの作品は、学校図書館司書達の研究会などでも注目されていて、本作が昨年9月に刊行されてから特に話題に上がり、定例会などで取り上げられていました。タイトルが衝撃的なこと、表紙絵もインパクトがありましたが、表紙裏の「わたしは前から、あの子のことばかり考えていた」、そして文字の色を変えて、「だって友だちだったから」という文に、この作品のディテールが込められているように感じました。本文の冒頭から「殺す」という言葉が使われ、「殺す理由」を挙げていくことで物語を展開していくところなど、構成がうまいと思いました。血の繋がらない兄、ミトさんとのやり取りから、杉森くんが自死したときのヒロの受けた衝撃、自責の念、ヒロがどんな思いでいるかを慮り、なんとかヒロを守りたいというミトさんの思いが伝わってくるようで、文章もうまいと感じました。良子さん、男子高生たちのヒロを支えていく表現も見事で、ヒロが実母から暴力を受けていたこと、継母の関わり方、美術教師の存在など、登場人物の描かれ方もうまくて、ヒロが自責の念から立ち直っていく様子が上手に展開されている作品だと思いました。中高の図書館に勤務しているので生徒たちの日々の生活を見ていますが、図書館に居場所を求めて来ているのでないかと感じられる生徒もいます。巻末の臨床心理士の解説を読んで、改めて生徒たちに手渡して行きたい作品だと思いました。

アカシア:だとしても、社会的な制裁は絶対に受けようがないわけですよね。だとすると最初は自分の中の杉森くんを消そうとしたのでしょうか。

ハル:誰かに「見放したあなたが悪い」と断罪してほしい気持ちもあるんじゃないかなと思いました。単に「あなたは悪くない」で済まされたくないというか。

ニャニャンガ:杉森くんを殺すことにより少年院に入る前にやり残したことをやる流れになっていて、ジェットコースターに乗ったりパフェを作ったりするのは理解が難しかったです。

ハル:ミトさんも、それでヒロの気が済むのならと話を合わせたのかも。「やりのこしたことやっとけよ」の一言が、結果、ほかのことにも目を向けるきっかけにもなりましたね。

ジョウビタキ:主人公も自死するのではないかと恐れていて、それで、びくびくしながら話を合わせているのでは? 物語の最後のほうで、ミトさんも反省しているような話をしていなかったっけ?

花散里:ミトさんは杉森くんが自死した時、ヒロがどのような想いでいたか、離れて暮らしいていて心配だったのだと思います。ヒロを見守りたいという思いが、冒頭のすぐに電話に出てくれ、ワンコールで出たことに「どきっとした」と書かれていること、「もしもし?大丈夫か?」という電話の言葉からも、ヒロのことを心配していることが伝わってくると思いました。

しじみ71個分:「殺すことに決めた」というのは、自分が、杉森くんが苦しんでいたのを見殺しにしたと思っていて、遡って、どうして殺してもよかったのか、つまりは自死する必然性があったのかを考えて、原因を確かめるような、自分との関わりの中で彼女が自死を選ぶまでの過程を確認する作業のことなんでしょうかね。それで、やればやっていくほど、やっぱり彼女は死んじゃいけなかった、自分は友だったのだと整理がついて、それを受け止めることで、ヒロ自身が回復していく過程にもなっていますよね。でも、殺人を犯したら少年院に入るからと思って、やりたいことをやっておこうというのは、よくわかりませんでした。架空の設定に自分を置いて、思い込もうとしているみたいですが、これはどうしてなんでしょう?

ニャニャンガ:ヒロが自死をする象徴として書かれているのでしょうか?

しじみ71個分:気持ちの上の問題なんでしょうか。

アカシア:そこはやっぱりあざといんじゃないかな。

しじみ71個分:確かに……。自分がモヤモヤした理由が少し見えてきましたが、やっぱりとても技巧的なんですよね。仕掛けが幾重にもなされていて……。自分が見殺しにしたという行為を「殺す」という言葉に置き換えて使っているのだということは読んで行けばわかりますが、どうしても「殺す」という言葉を使わなければ書けなかったのかなぁというところは気になります。

さららん:今の子どもたちは、「コロス」とか、日常生活では気軽に使っているかも。

しじみ71個分:なんとなくですが、もしかして、自殺を逆の視点から見たら、他者が「殺す」になるという発想から、つまりは「殺す」という言葉から発想を得て物語を構成したのかなぁとも思えてきました。それと、気になるのは、ヒロの実母の暴力とか、ミトさんとの会話の中で出てくる「自分のなかの、相手のイメージ」から杉森くんとの関係性を考えるとか、物語の背景世界まで物語の中に入れ込んでしまっているようで、私も、物語に含まれる要素が盛りだくさん過ぎて、仕掛けに幻惑される感じが否めませんでした。

ジョウビタキ:タイトルはやっぱりあざとい感じがしますねぇ…

(2024年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ボンジュール、トゥール

フランスのトゥールの町並み
『ボンジュール、トゥール』
ハン・ユンソブ/著 キム・ジナ/絵 呉華順/訳
影書房
2024.02

花散里:最初に本書を手にしたとき良いタイトルだと思い、手に取ってみて、パリのことやロワール川を訪れたときのことを思い返しながら読み始め、韓国の作家による作品で、主人公が韓国の少年であるとわかり、何よりも韓国の画家による挿絵が美しいと思いました。文章にも魅了されながら読みましたが、韓国人の少年と北朝鮮出身の少年の交流から、物語の謎解きとして、北朝鮮人が日本国籍を取得したことなど描かれていますね。朝鮮半島の歴史についても記されている作品のなかで、「訳者あとがき」にも書かれているように、歴史的事実と反することが、フィクションでも設定的にどうなのかと違和感が残りました。

ANNE:ミステリ仕立てで、ドキドキしながら読みました。導入の部分で伊藤博文暗殺事件の実行犯である安重根の名前が出てきましたが、読み手の子どもに事件を含めたその時代背景をきちんと伝えることが必要だと思いました。日本人として生活しているトシの家族、お父さんは本当に北朝鮮のスパイだったのかはっきり書いていないので、少しモヤモヤが残った感じがします。トゥールという町は知らなかったので、タイトルだけではピンとこなかったのですが、鮮やかな挿絵のおかげでフランスの美しい景色が目前に浮かんでくるようでした。

ハル:物語としてはおもしろかったのですが、みなさんのご意見をうかがいたいなと思う本でした。というのは、私はトシを、日本人になりすまして(本当に日本に住んでいたのかどうかすらはっきりせず)フランスで工作活動をしている家族の子だ思って読んだのですが、訳者のあとがきで、それは「ありえない設定」とありますね。でも、不正に日本国籍を取得したことが実際に明らかになったケースも過去にあったようです。現在も決して「ありえない」ことはないと思います。訳者が本当に「ありえない設定」だと思っているなら思っているで、ありえないけど架空の物語だからいいでしょう、というのはないんじゃないかと思うし、本当はありえる話だけど、読者である子どもたちを不安にさせまいと「ありえない」と書いたとしたら、それはそれで、なぜそれを日本の子に読ませたいと思ったのかが謎です。また、いくら歴史背景があっても、暗殺者を英雄視する行為は、私には、子どもにそのまま手渡すのはまずいように思えます。もちろん、おとなならそれぞれに感じることはあると思いますけれども。韓国と北朝鮮の子どもたちの話はとても興味がありますが、子どもが読む本としては、この本はちょっとどうなのかなと私は思います。

ハリネズミ:私はおもしろく読みました。トシのお父さんは北朝鮮の工作員なので、家族が身分を隠しているのですよね。そうだとしたら、正規のルートではなく当然裏工作もやるのだと思います。訳者は後書きで「トシの家族は、日本で祖国北朝鮮の仕事をするために日本国籍を取得したという描写があります。いま現在の日本の法律では、それはありえないことかもしれません。ですがその部分は、それを聞いたボンジュがスパイ映画のワンシーンを思い浮かべたように、あくまでも架空のお話として受け止めてよいのではないでしょうか」と書いていますが、私は架空の話ではなく実際にあり得る設定なのではないかと思いました。この後書きは、私には解せないことが他にもあって、この作品を「エキゾチックな物語」と言っているのも、何をもってエキゾチックと言っているのか、ピンときませんでした。ボンジュとトシが仲良くなったのに別れなくてはならないというのは、たとえばパレスチナとイスラエルの子どもが会うという以上のしんどさがありますよね。日本もかかわっておとなが作り上げた政治体制ゆえの不条理で、切ないですね。
韓国の子どもが北朝鮮の正式名称も知らないし、事情もよくわかっていないということが書いてあって、そこは驚きました。この作品では引っ越した先でボンジュが机の横に書かれたハングルの「愛するわが祖国、愛するわが家族」「生きぬかなければ」と書いてあり、その謎解きが一つの流れになっていますが、北朝鮮についてほとんど知らないボンジュなのに、それほど引っ張られる言葉だったのでしょうか。日本の子どもにとっては、ちょっとわかりにくいかもしれません。p32には、ボンジュが秘密にしておきたいことをあえて探ろうとしないお母さんが出てきますが、韓国の親はみんなこんなに物わかりがいいのでしょうか? それともこの家族の特性なのでしょうか?
本作りですが、1ページ大のおもしろいカラーの挿し絵がたくさん入っていて、斬新だなと思いました。日本の出版社なら費用がかかりすぎると文句が出そうです。書名は韓国語だとなんというのでしょうか? 「ボンジュール、トゥール」という書名はこの内容からすると能天気だと思ったのですが。

エーデルワイス:フランスの風情ある町並みが美しいトゥールで、韓国人である主人公のボンジュのほかに中国人、日本人、アラブ系と多国籍の人々がいて、基本フランス語を話しているけれど、それぞれの言語が飛び交っているという様子が興味深かったです。韓国と日本の微妙さ、複雑な感情があり、韓国では日本に対して厳しい内容の授業などを行っているんだろうなと想像できました。主人公のトシが、本当は北朝鮮人だけれども、日本人のふりをしなければならないこと、一つのところに長く居住できないこと、父親と離れて暮らしていることなど、過酷な毎日を送っていますが、それでも北朝鮮は母国だと大切に思う気持ちなども描かれていて、複雑さが伝わってきました。
その中で、ボンジュとトシの心が通じ合い友情を育むところが素敵だと思います。2人は離ればなれになり、思いはあっても手紙のやりとりも出来ず、たぶん一生会うことはないだろうと思うと切なくなります。
p48ジに、「……きちんとした格好をしていくと日本人と思われ、安物を着ていたら中国人と思われるらしいわよ」とありますが、どんな格好が韓国人?というのがおもしろかったです。それから、表紙、挿絵が素晴らしいですね。挿絵もカラーで豪華な本でした。

雪割草:おもしろかったです。トシはなんで日本国籍をもっているのだろうと不思議に思っていましたが、みなさんの話を聞いて理解できました。私は新潟市の出身で、実家の近所には横田めぐみさんが拉致された現場があって、北朝鮮というと怖いイメージをもって育ちました。韓国の方は、小学校がソウルの学校と姉妹校で行き来があって、ハングルや歌、料理を習ったり、チマチョゴリを着たり、楽しかった思い出があります。子どもたちにとって、直接は出会いにくい北朝鮮の子と、本を通じて出会えるという意味で、この作品は貴重だと思いました。また、フランスを舞台にすることで、フランス人から見たら、韓国、北朝鮮、日本のどこの出身かは見た目だけではわからないことを前提に、アイデンティティの問題に迫る切り口は上手だと思いました。p209で、トシが主人公に手紙で書き残した「ボクのこと、友だちって言ってくれてありがとう」という言葉は、居場所のないトシと今の難民の子どもたちが重なり、胸の詰まる思いがしました。錦鯉は、新潟の小千谷が産地なので、詳しいのは工作員の可能性もあるかもとやはり思いました。

ニャニャンガ:フランスに住む韓国の少年ボンジュと北朝鮮出身のトシが友人になる物語はとても興味深く、ミステリ仕立ててぐいぐい読めました。ただ、地の文は12歳のボンジュにしてはおとなびている印象に対し、会話文では「~の」と話すアンバランスさが少し気になりました。ちなみに図書館ではヤングアダルトコーナーに分類されていました。挿絵が個性的で、特にp135の絵は、主人公の心情を表現していて迫力があり、日本にはない表現に感じました。
訳者あとがきに書かれている「仕事のために日本国籍を持っている北朝鮮人という設定がありえないことかもしれない」となると、物語すべてが絵空事のように感じてしまい、大事なことなのにと残念に思ってしまいました。

ジョウビタキ:優れた文学作品で、良いものを読んだなあと思いました。挿絵もすばらしく、特に主人公の帽子の赤がアクセントになっていてすてきですね。課題として選んでくださった方に感謝しています。主人公の無邪気な好奇心が、実は友だち一家を追いつめていく有様に、息のつまるような思いがしました。ミステリとしても、サスペンスドラマとしてもひきこまれ、一気に読みました。安重根を偉人としているのは、日本の読者にとってはショックかもしれないけれど、日本を一歩出たら、こんな風に捉えられていることもあると若い人たちが知るのは、とても良いことだと思います。
北朝鮮の正式名称を韓国の子どもが知らないというくだりが、わたしにもショックでした。物語の舞台をフランスにしたのも、成功していますね。美しくて、おだやかな風景のなかに潜んでいるトシたち一家の悲しみや恐怖が、一段と強く感じられます。韓国文学をそんなにたくさん読んだわけではないけれど、独特の明るい寂しさのようなものを、この作品でも感じました。ただ、あとがきにある「エキゾチック」もそうですが、トシ一家が日本国籍を持っているというのは「あくまでも架空のお話」という文章にもひっかかりました。どうしてこんな風に余計な一言をいってしまったのかなあ? みなさんの意見にもあったように、じゅうぶんにありうることだと思うし、あとがきのために子どもたちにこの本を手渡すのをためらうことがあったりしたら、本当に残念だと思います。

さららん:自分もフランスに一時住んでいたので、学校のことや近所の薄暗いカフェのこと、当日の思い出をたぐり寄せるように読みました。トゥールは、ドイツに近いアルザスのように木造建築が並んでいる町なのですね。雰囲気のある表紙の絵から惹きつけられました。そして先日読んだ『隣の国の人々と出会う』(斎藤真理子著 創元社)と重ね合わせて、同じ民族なのに不条理に線が引かれていることの、心の在り方を一層よく知ることができました。朝鮮の歴史のまた別の側面を描いた「かぞくのくに」(ヤン・ヨンヒ監督)などの映画も、思い出しました。日本という場にあると、視点がどうしても限られがちです。フランスという場を設定して、そこで韓国と北朝鮮籍の子が出会う物語はとても斬新でした。出身が日本でも、韓国でも、北朝鮮でもフランスの人の目には変わりがないように見えるし、トシの一家が日本を隠れ蓑に使っている点もあり得る話だと思います。話は変わりますが、1990年代、近所に住む韓国人の友人に、朝鮮族(中国籍)の人を紹介しようとして、きっぱり断られた経験があります。北朝鮮と繋がりがあるかもしれないから、と言われました。私が思っていたような生易しい関係ではなかった。結果的にボンジュはトシを追いつめてしまうけれど、普通なら出会えなかったふたり、大きな力に巻き込まれて分断された少年たちが、「本当の意味で出会うことができてよかった。「愛するわが祖国、愛するわが家族」という机の文字に、朝鮮の歴史がぎゅっと詰まっているようです。難しいところはあるかもしれませんが、身近な国をもう少し深く知るためにも、YAの世代にぜひ読んでもらいたい作品だと思いました。

しじみ71個分:この本はさまざまな意味でとてもおもしろかったです。現代の韓国の人の感覚がとてもよくわかる作品だと思いました。フランスを舞台にしていることもありますが、現代韓国の人々の感覚がとてもインターナショナルで、その新しい感覚を作品の中にも持ち込んでいるようで、とてもグローバルな印象を受けました。日本人とは見えているものが違うかもと、うっすら思いました。ボンジュが北朝鮮のことをあまりよく知らなくて、トシに指摘される場面がありますが、今の若い子だとこのボンジュのような感覚なのかもしれず、逆にその点にリアルさを感じました。昔のおとなほど北朝鮮のこと知らないということは現代の若者だと実際にあるのかもしれません。ボンジュのセリフで、北朝鮮は独裁国家で、国民は貧しくて、というのがありますが、それは私たち日本人が報道を通して見聞きしている情報とほぼ同じようなもので、そういったステレオタイプな認識を、報道を通して知るくらいなのかもと思いました。北朝鮮の呼称については、私たちが日常的に「北朝鮮」と呼ぶように、韓国では「北韓」と呼ぶようですが、子どもだったら正式国名を知らないということもあり得ると思います。想像ですが、若い子たちは、徴兵されるまでは、祖国という概念を感じる機会が少ないのかなとも思いました。それか、祖国意識というのは、グローバルな暮らしの中では失われていくのかもしれないですね。逆に、トシやその家族は意識しながら生きていかざるを得ない。そこのギャップがまた物語の中で浮き彫りになっていく過程がおもしろいです。机に彫りこまれた「わが祖国」という言葉を見つける場面は、表現が非常に美しいと同時に、物語の仕掛けとしてとてもおもしろかったです。そのあと、ボンジュはその文字を書いた主を探し始め、その過程でトシとの関係が変化していきますが、その展開にドキドキしながら読みました。2人の間には、どうにもならないギャップや壁があったけれども友情を育み、友情が生まれた結果、離れ離れになってしまいますが、その結末の寂しさも含めて、とても美しい物語だと思いました。伊藤博文を暗殺した安重根が英雄、という点については、韓国史から見たらやっぱり英雄だと私は思います。韓国でならそれで当然だろうなと思います。日本が韓国で何をして、どのように思われているかについては、若い人たちも知っていてもいい、というか知るべきではないでしょうか。
韓国ドラマを見ても、時代物では必ず日本人は絶対に悪役です。そういう歴史教育を受けているといるのであれば、それが物語に出てくること自体当然で、そこに、違和感はありませんでした。若い人たちもたくさん韓国文化に触れる現在だからこそ、歴史上日本がやったことや、韓国の人たちの感情の根底には何があるかを認識して1度は悩んで、そのうえで楽しむ方がいいと私は思います。本当に様々な意味で心に残った作品でした。挿絵もデザインも造本もすばらしくかっこよくて、ああ、先を行かれちゃったなぁという気持ちになりました。

きなこみみ:繊細で、情景のひとつひとつに心が吸い寄せられていくような物語でした。読後もいろいろなことを考えたり、主人公のボンジュと一緒にフランスの空を眺めているような気持ちになったりしました。
作者は元々演劇の脚本家ということなんですが、うまいなと思うのが、冒頭の、机に書かれた「我が祖国」の言葉を見つけるシーン。光の演出のようで、とても引き込まれます。引っ越ししてきた夜に、この月の光の中で発見する言葉が胸に沁み込んだ少年の繊細さも素敵ですし、やはりこの月を見ながら書いただろう、書き手の気持ちも浮かび上がらせるようにも思いました。
フランスのトゥールという、異国が舞台であることで、ボンジュとトシ、2人の心の距離感や関係性がより鮮明になるんですが、そのことも、この冒頭のシーンと繋がっていて、ほんとにうまいなと。自国にいれば意識することのあまりない「祖国」という言葉や事情が、ボンジュとトシの間をむすびつけて、また引き離していく、その切なさを感じます。
グローバル世界と言われる反面、私たちは、どこにいても、ひとりひとりが、これまでの国の歴史と、今の政治状況と深く結びついている存在なんだということを、否応なく知らされてしまう。私ははじめ、トシは在日朝鮮人の一家なのかなと想像しながら読んでいました。でも、トシの抱える事情はもっと複雑で、そこに踏み込んでしまったボンジュは後悔するんですが、p189で「…自分のことを人に話せないっていうのは、隠れてくらしているようなものだろ」とトシがいっていて、いつも身を隠しているような気持ちで生きているトシにとって、何も隠さなくてよかったボンジュとの一瞬の交流は、とても大切な時間だっただろうと思うんです。そのせいで、もう会えなくなることも、もしかしたらトシはわかっていたのかもしれない。
でも、そうしたかったトシの気持ちもとても伝わってくる公園での2人のシーンが胸に沁みました。p164で、隣の国なのに、「朝鮮民主主義人民共和国」と言われて、最後までピンとこないボンジュに少し驚きました。こんなに、知らないんですね。同じ民族で、同じ半島に生きていても、フランス人とも、日本人とも普通に会えるのに、いちばん会うことのない人々が、地続きの隣に生きている人々なのだということに、この物語を読まないと気づきませんでした。そして、その事情に日本が深く関わっていることも、考えさせられます。
伊藤博文を暗殺した安重根のことが英雄として語られていますが、朝鮮半島の歴史と、そこに深く関与した日本の歴史を、こうして物語を通じて、日本以外の視点から眺めてみることも大切なことだと思います。歴史の深い闇をのぞかせながら、でも、心に残るのは、子どもたちが複雑な事情を抱えていても、お互いを友達として大切に思った瞬間があったこと。とても美しくて、どこか傷のように、あってよかったなと思う傷のように心に残る「文学」でした。

サークルK:ストーリーの展開する場所が、トゥールであるというところがまず絶妙でした。東京でもなく、パリでもなく、アジアや欧米の大都市ではない雰囲気が好きでした。ヨーロッパの小さな町の中で見かけるアジア人の「見られている」(それは時に、見張られているというニュアンスにもなってしまうので)外からの緊張感と、引っ越し先の家の中で偶然見つけた落書きの内からの緊張感がスリリングで、先をどんどん読みたくなる展開でした。日本人だと思ったトシが北朝鮮から来た男の子で、お父さんが工作員、おじさんは故郷では学者さんなのにトゥールでは一家でレストランをやっているという状況、ひっそりと身分を知られないように生きている家族の息苦しさや、苦悩が伝わるようでした。
日本では、北朝鮮はミサイルを飛ばす、拉致被害者の家族を苦しめ続けるというニュースを通じて知るばかりですが、このような物語を通じて、北朝鮮の一般家庭の苦しみにも想像力を働かせることができるなら、ぜひ中高生に手に取ってもらいたいと思いました。(お父さんが日本で工作員をしていたらしいということでは、やはり日本人としてはモヤモヤすることは否めませんが。)また挿絵がとてもモダンでおしゃれでした。表紙に描かれたハングルのタイトルと、このトゥールの街並みや石畳、通行人たちの洒脱なカラーの挿絵の取り合わせに、驚きました。(アジア系の垢ぬけなさがトゥールで浮いてしまうのでは?と思ったのは完全な偏見で、反省しました!)14章の小見出しのカラーがほかの章と違ってブラウン系の明るい活字になっているので、何か意味があるのかな、と思いましたが、これはどうやらプリントミス?のようですね(笑)。

しじみ71個分:あとがきの書きぶりについては、私も違和感がありました。北朝鮮の人が日本国内にいるということは実際あるんじゃないでしょうか。日本海から入ってくる人もあるでしょうし。北朝鮮から来た工作員については、「スリーパーセル」と呼ばれて、国会でも質問が取り上げられたりしているようです。翻訳した人が、なんの根拠も説明もなく、作品中の記述を否定したら、物語の印象が損なわれてしまうし、それはダメなんじゃないかなぁと思いました。

さららん:そういえば、トシの姿は、自分の正体が明かされたら、別の場所へと旅立たないといけない萩尾望都の漫画「ポーの一族」のアランにも、少し似ています(笑)。

花散里:p166、7行目「トシはなぜみんなの前で日本国籍をもつ北朝鮮人だと言わなかったのだろう」と書かれています。「北朝鮮人が日本国籍を取得できた」ことはないと思います。歴史を学んでいる中高生に、事実と反したものを進めて良いのか疑問に感じています。

ジョウビタキ:私は、ほかの方もおっしゃっているように、じゅうぶんありうることだと思うけど。

(2024年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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モノクロの街の夜明けに

若い男性と女性が色彩のない街の中にいる
『モノクロの街の夜明けに』
ルータ・セペティス/著 野沢佳織/訳
岩波書店
2023.09

ハル:ものすごくおもしろかった。難しそうだし、ボリュームもあるし、読み始めるのは勇気がいったけど、読み始めたら一気読み。現実にこういう世界があったのですし、誰が裏切っているのかわからない、この先がどうなるかわからないスリリングな展開を「おもしろい」というのは語弊があるかもしれないけれど、小説としても引き込まれましたし、知らなかったことを知ったという意味でも、読み終わってすぐに誰かにすすめたくなる1冊でした。国民が立ち上がっていく姿には深く感動しましたが、半面で、若い子には安全なところにいさせてあげたいという気持ちも抱きます。いつも己に恥じぬ生き方、なんて捨てて、とにかく生き延びてほしいと思います。いつかこうなる前に、おかしいと思ったらいつも声をあげていかなくては、意見をしっかりと口にしなければ、という焦燥感も覚えました。でも、やっぱり、いくら信じ難いほどの独裁者であれ、一方的な裁判ですぐに死刑が執行されたというのは、ほんの30年、40年前の話とは思えないなと改めて衝撃を受けます。クリスティアン自身も「こんな終わりかたで本当によかったのか?」(p361)と、とまどいを覚えていますが、当事者たちが感じたものとは違うかもしれないけれど、読者としても考えたい問いです。

ルパン:私も一気に読みました。以前、北朝鮮でスパイの疑いをかけられた一家の悲惨な運命をアニメーションで描いた映画を見たことがありますが、そのときと同じくらいショッキングでした。ヨーロッパでも独裁者の国で一般の人々が圧政を受け、盗聴や密告におびえながら極貧の生活をしていたことに衝撃を受けました。コマネチの亡命の数日後に独裁者チャウシェスクが斃されるという劇的な歴史のひとコマをオンタイムのニュースで見ていましたが、一般の人々が実際にどういう暮らしをしていたのかは全く知らなかったので、この作品を読んでよかったと思いましたし、若い世代にも読んでもらいたいと思いました。息もつかせぬ物語の展開でしたが、最後の最後に母親もまた密告者だったことを知るというショッキングな結末に、しばらく暗い気持ちを引きずってしまったほどでした。

花散里:ルータ・セペティスさんの作品は『灰色の地平線のかなたに』、『凍てつく海のむこうに』(野沢佳織訳 岩波書店)を読んでいたので、この本が刊行された時もすぐに読んで、衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。セペティスさんは父親がリトアニアからの亡命者で、先にあげた2作品も綿密な取材に基づいた歴史フィクションだったので、ルーマニアの独裁政治のなかで物語が繰り広げられていく本書も衝撃を受けながら一気に読みました。今回、再読だったので、ラストの家族の中での密告について、特に姉や母親の描かれ方など注視して読みました。祖父の薬を得たいがために密告者となること、その自責の念や、親友を密告者ではないかと疑ったこと、社会主義国家チャウシェスク政権下で秘密警察・セクリターテに監視され弾圧されて生きている人々の姿が恐怖とともに伝わってきました。電気も配給制の食料も乏しく、抑圧された日々の中での、女子高生リリアナ、アメリカ人外交官の息子との交流など、高校生としての主人公クリスティアンの姿も上手に描かれて行きますが、クリスティアンにとって祖父の存在が大きかったことがp77の言葉などから特に印象に残りました。ルーマニアの独裁政治などについて、巻末の参考資料とともに、ぜひ中高校生に知ってほしいと思う作品でした。読んでほしい作品として、勤務校で高校生に手渡しました。

アカシア:出てすぐに読み、私もみなさんにおすすめした本です。まず、膨大な資料を集め、現地で体験者の声もいろいろ聞いて、この物語を立体的につくりあげた作者の力量がすばらしいと思いました。あとがきを見ると、この時代のルーマニアでは、市民の1割は密告者に仕立て上げられていたとありますが、この家族は、反体制派のおじいちゃんがいるという弱みを握られて脅されたのでしょうか、結局母親、クリスティアン、姉のチチの3人もが密告者の役目を押し付けられます。盗聴や監視も日常茶飯事に行われ、間に挿入されている「情報提供者からの報告」とか「公式報告書」などを見ると、だれもいないと思っていた空間での一挙手一投足が全部筒抜けになっている。そういう環境では、だれもが疑心暗鬼になり、家族も恋人も親友も信じられなくなり、絶望的な孤独に陥るということが、とてもリアルに伝わってきました。
これは、1989年のルーマニアの話ですが、ルーマニア革命については、まだまだわかっていないこともあるようですね。でも、社会主義とか共産主義に関係なく、少数の権力者が情報を握って、支配しようとする社会では、どこでも起こりうることとして読みました。ちょっと気になったのは、表紙画が日本人みたいだな、ということと、「やばい」とか「ぶっちゃけ」という言葉が会話に出てくるのですが、時代に照らし合わせていいのか、と疑問に思いました。
あと、最後にクリスティアンがセクリターテだったラケットハンドを訪問して何かをたずねようとするわけですが、これは何をたずねようとしたのか、私にはよくわかりませんでした。こうじゃないか、と思った方がいたら、教えていただきたいと思った点です。

アンヌ:お姉さんのことだと思いました。p371にも「姉に関しては、答えの出ない疑問がいくつか残った」とありますし、姉の死に責任を感じている主人公は真実を知りたかったのだと思います。それにしても、元情報部員は自分を守るために武器を持っていただろうし、危険はないのかとかドキドキしながら読んでいたので、その先がないのには驚きました。

レジーナ:p371に、「姉に関しては、答えの出ない疑問がいくつも残った」とあるので、主人公がラケットハンドにききたかったのは、姉に関することかと思いました。

アカシア:実際に手を下したのは別の人ってこと? ダブルスパイ?

シマリス:センチメンタルに考えると、お姉さんのことを本当に好きだったのかを、ききたかったのかな?とか。

ルパン:これは作者にたずねてみたいところですね。

エーデルワイス:手元に本を置いたまま、重い内容と推測できるので、すぐには読めませんでした。ところが読み出すと止まらなくて一気に読みました。表紙のイラストは日本人の若者にしか見えませんでした。最初の方のページに、「TIME」と外国製たばこ「KENT」のイラストが描かれているのは物語の象徴のように思えます。それにしても「KENT」に大いなる賄賂の力があることに驚きです。一家に3人もの密告者を作る独裁国家。主人公クリスティアンのおじいさんの白血病がチェルノブイリによるのではなく、放射性物質を入れられたコーヒーを飲んだことによるものと分かって背筋が凍りました。その上おじいさんは滅多打ちされ殺されるのですから。お母さん、お姉さんのチチが密告者と分かりますが、心情などもう少し書いてもらえたらよかったと思いました。20年後、クリスティアンが英語教師に、恋人のリリアナが書店店主になったとありましたが、2人は結婚したのか気になります。最後、クリスティアンが元秘密警察のラケットハンドの家を訪ねたのは、国家の使命の仕事とはいえラケットハンド自身に葛藤はなかったのか、チチについてのこと、多くの密告者をどう思っていたのか、その情報をどのように反映させていたのか、多くの善良な市民が亡くなったことに罪悪感はないのか──もし少しでもラケットハンドが罪悪感を感じているなら、クリスティアンは救われるかもしれない──そのようなことをききたいのではと、想像しています。例え絶望的な答えが返ってきても、クリスティアンは決着をつけたいと思ったのでは?

ルパン:2人が結婚したのか気になるけれど、結婚していたらこういう書き方はしないのでは?

アカシア:そこは本質的な部分には関係ないので、書かなかったのでは? 結婚したとかしないとか書いてしまうと、そっちに目が奪われるか、それで終わってしまう読者もいそうです。

アンヌ:北朝鮮の拉致被害者の話を思い出しながら読みました。施設内にある家の中の会話も盗聴されていたと。ルーマニアでは、それが普通の国民生活の中でも行われていたのかと思い、自分の国なのに独裁者がいる限り自由になれないのだと知って震え上がりました。中国の文化大革命時の話なども思い出したり、祖父のコーヒーに入れられた放射性物質の話には、現実にあった毒殺事件などを思い出したりしました。クリスティアンとリリアナの恋の物語がなかったら、それと、クリスティアンがノートに書き付けていく詩がなかったら、読み続けられなかったと思います。それにしても、さっきも言いましたがラストが気になって、クリスティアンに「危ない! 気をつけて!」と声をかけたくなったりしたので、その先を知りたかったと思っています。

きなこみみ:緻密な取材に裏打ちされた重厚な作品で、一気に読みました。チャウシェスク政権が崩壊したときはテレビ報道などを見ていて、夫妻が贅沢な生活を送っていたことなどは知っていたんですけれど、実際の国民の暮らしの大変さをこの物語を読んで初めて実感しました。「密告」がどんなに人と人の関係を損ない、深い傷を残すかを知って恐ろしくなるほどでした。友人だけではなく、家族のなかに幾重にも密告という網が張り巡らされているのが恐ろしすぎます。「抑圧」の究極の状況、八方ふさがりの状況のなかで、それでも人間として誠実に生きたいともがくクリスティアンの心に打たれて、共に悩みながら読むことができたのもよかったです。団地の一室で秘密の映画上映が行われていたり、アメリカからのラジオ放送に耳を傾けたり、リリアナという女の子とドキドキする初恋を経験したりという、クリスティアンの若者らしい一面がしっかり描かれているので、どんな状況のなかにいても変わらない、普遍的な価値観も感じられて、そこも物語の厚みになっていると思います。
しかし、いちばん恐ろしいと思ったのは、最後まで読んで、なぜ物語のはじめに「草稿」と書かれていたのかがわかったときでした。20年以上かかっても、まだ真実にはたどり着かないということ。まだ、あのときの真実は明かされていないのだということ。だから、いい感じで終わる物語は実は決定稿ではなくて、これからずっと歴史は検証され続けていかねばならないんだということを示唆しているラストではないかと思います。戦争もそうですが、歴史の検証には長い時間と、検証し続ける努力と誠意が必要とされます。でも、そうすることでしか、未来の明るい扉は開かれない。この物語でも、クリスティアンの家族を監視する50人もの密告者がいたこと、その恐ろしい監視社会の解決されていない部分は、これからもずっと検証され、書き直されなければならないという問いかけが、冒頭の「草稿」という言葉とともに、この物語のエピローグに込められていたと思います。政治の暗部がすべて秘密裡に行われ、公開されないことは、ルーマニアだけの問題ではないと思います。今の日本社会にも、自分が思うことを自由に口にできない。政治の話が世間話としても忌み嫌われる風潮があります。今の若者たちにとって、タブーとされていることが、どんな抑圧から生まれているのか、この物語を読んで改めて気になりました。

ルパン:そういう意味では、まだ終わっていない物語なんですよね。世界のどこかで今も苦しんでいる国民がいるし、これからもどこかの国がそうなるかもしれないし。そう思うとほんとうに怖いですね。

しじみ71個分:ルータ・セペティスの3作はどれも本当に好きです。野沢佳織さんの訳のお力もありますが、硬めの文体も好きで、スピード感のある展開にスリル感があふれていて、厚めでもあっという間に読んでしまいました。まだ読みが足らなくて、分かりきらなかったところがたくさんあるので、もう1度しっかり読み直したいです。歴史的な事実に基づいて、ていねいな時代考証や調査を行い、ハードな物語を作り上げる力量には読むたびに感動を覚えます。歴史的な記述がしっかりしているというだけでなく、キャラクターの描き方もとても魅力的で、クリスティアンもリリアナもそこにいるのではないかと思わせられるほどのリアルさ、心情への肉薄を感じます。
セペティスは、リトアニアからの亡命者の父を持ち、アメリカで育つというバックグラウンドがある作者なので、場合によっては、無意識にでも社会主義国の在り方に厳しい見方を持っている可能性もありますが、現代史の闇に切り込んだ、とても貴重な力強い作品で、本当に感動しました。
この本を読んで、ものすごく怖いと思ったのは、密告と独裁の間の親和性が非常に高いところです。独裁政治の中で、一部の支配層が人々の生活の隅々にわたる情報を握り切ることで人をコントロールし、人を疑心暗鬼にし、連帯を不可能にし、恐怖で支配していくという仕組みが描かれてあり、本当に背筋が凍る思いでした。表面をとり繕いながらも、誰に本当の気持ちを打ち明けていいものかわからない孤独、投獄や拷問の恐怖、家を暖める燃料もなく、食べ物も配給しかなくいつもひもじいところまで追い詰められると、人は理性や希望を失って、その弱みを独裁、恐怖政治が突いてくる……。そんな風になったら自分はすぐ負けちゃうな、とても立ち向えないなと思わずにいられませんでした。
過去には、ソ連とソ連時代の東欧諸国、カンボジア、天安門事件など、共産主義と独裁政治が極端に結び付いた事例が多いので、過去の特別に恐ろしい事態を描いているようにも思われますが、でも実際は、アラブの春、チュニジアのジャスミン革命、香港の雨傘革命など、今も革命と呼ばれる市民の抗議は続いて起きていて、現代になっても何一つ解決されていないです。イスラエルとパレスチナ、ウクライナとロシアなど、戦争状態のところもありますし、いつまでも人権侵害が繰り返される世界で無力さに打ちのめされますが、それでもこのような本が出て、多くの若い人たちに世界を変えていく希望を伝えてくれることがとてもありがたいです。
本の中では、クリスティアンやおじいさんの気持ちを支えるものとして、西側のラジオ放送が重要な役割を果たします。自由国家からの情報発信は、西側の戦略でもあるけれど、自由主義国家の暮らしぶりに憧れをいだき、それが政権への疑念不満へとつながっていきますが、近年、中東やアジアで起こった民衆の蜂起を見ると同じような構造があったのではないかと思います。翻って考えると、情報戦略は正確な情報を流さないことを含めて、私たちの日常にも潜んでいることでもあるなと怖くなります。日常生活の中で、密告や投獄、拷問がないので、その点無意識に生きているけれど、本当にそうなのか、と考えるきっかけにもできそうです。私たちの個人情報はいろいろなところから、たくさん漏れていて、個人の特定は容易になされ得る状況です。私たちにとっても、この情報の掌握からの独裁というのは対岸の火事ではないと思うと本当に怖いです。
アメリカの作家が西側視点からでなく、真に中立的な立場で書くことができるのか、あるいは革命を目の当たりにしたルーマニアの当事者が書くことができるのかなど、考え始めると問題が深すぎて迷宮に入り込んでしまいます。なので、本当に何度も読み返して考えたい作品です。時間がかかると思いますが、参考文献も読みたいと思います。ああ、作品中に書かれていますが、コーヒーに放射性物質が混ぜられて、おじいさんが白血病みたいな病気にさせられたというくだりは本当に怖かったです。本当にこんなことがないように祈るばかりです……。

レジーナ:以前、セペティスが、「これまで十分に語られてこなかった物語や、隠された歴史を書くことに関心がある」「歴史は、過去の決断を検証する機会を与えてくれる。それは悲しみや痛みの記憶であったとしても、勇気や自由や希望を照らしだし、人間の精神がいかに素晴らしいかを教えてくれる」と語っているのを読んだことがあります。この作品もセペティスの他の作品も、これまであまり語られてこなかった歴史を描くことによって、そこに生きた人々の声をよみがえらせようとしているのを感じます。『凍てつく海のむこうに』も大変すばらしいのですが、日本では品切れなのが残念ですね。

西山:私にとっても1989年はついこの間の感覚です。天安門事件も同じ年ですね。これだけ近い時代の、テレビなどで知っていた史実の内側に入れたのは、やはり文学、物語の力 だと思います。アルゼンチンなどラテンアメリカの軍事独裁政権を題材にした映画を思い出しながら読みました。主人公のとまどいも書かれていますが(p361)、チャウシェスク夫妻の死刑執行があっという間だったことは、追随した人の責任や事の真相の追究がうやむやになって、その後の苦難の原因にもなったのではないかと思いました。ひとつ気になったのは、社会主義、共産主義という言葉の使い方。訳者あとがきでフォローされていますが、一党支配の独裁体制や情報統制と社会主義体制はイコールではないと思うので、若い読者がこれを読んで残る印象が、「社会主義」、「共産主義」、「共産党」は怖いというものだとちょっとまずいのではないかと懸念します。最近『その魔球に、まだ名前はない』(エレン・クレイジズ著 橋本恵訳 あすなろ出版)を読み返しました。1957年が舞台の作品ですが、ソ連のスプートニク打ち上げ成功に先を越されて開発を急ぐアメリカのロケット開発も言及されているんですね。そのなかで、主人公の父親がナチスのV2ロケットを開発したフォン・ブラウン博士と一緒に働いているという話題が出てきているんです。西側の闇も相当ありますよね。それを、この作品に入れたほうがいいということでは全くないのですが。

シマリス:読み終わって、これは本当に児童書なのか?と思ってしまいました。版元が岩波書店なだけに、一般書なのではないかと。文章が長いこと、内容が容赦ないことがその理由です。みなさんがおっしゃっていたように、わたしもルーマニアのことはリアルタイムで記憶しています。コマネチの亡命のことも覚えています。でも、これほどまでに一般市民が抑圧されていたとは! 文化的な生活を破壊されているのみならず、衣食住もままならないとは思いもよりませんでした。密告社会の恐ろしさを感じます。この著者の『凍てつく海のむこうに』『灰色の地平線のかなたに』を読んだときも思いましたが、綿密にいろいろ取材されていますよね。とても読み応えがありました。

雪割草:ルーマニアで起きたことについて全く知らなかったので、この作品を読めてよかったです。フィクションの力を改めて感じることができた作品でもありました。もちろん、証言には生の声だからこそのリアリティもありますが、フィクションは、主人公というひとりの人間を通じて、その視点で経験することで、他人の体験をきくのとは別のかたちでリアルに感じ考えることができるなと思いました。作品全体を通じ、密告をテーマに人への不信が描かれています。原題もI Must Betray You(わたしはあなたを裏切らなければならない)ですが、日本語版のタイトル『モノクロの街の夜明けに』は素敵なものの、密告の要素が抜け落ちてしまったように感じました。それから、主人公は生き延びますし、ある程度救いがありますが、お姉さんは本当に悲惨で胸が詰まる思いがしました。社会主義と共産主義の言葉の使い分けについて、あとがきにあったのはよかったです。最後のほうで主人公がラケットハンドを訪ねていって何をきこうとしているのかは、「事態は複雑で、数々の疑問が残り」とあとがきのp383に書かれているように、具体的にはわかりませんが、ききたいことがきっとたくさんあったのだろうと想像しました。原文はわかりませんが、p374の「答えを聞くときだ」の「答え」という表現がわかりにくくしているのかもしれません。

さららん:ちょうど今日読了しました。チャウシェスクの話はいろいろ聞いていたけれど、少年の目を通して、密告が当たり前のルーマニアに入り込んだ気持ちになったのは初めてで、文学の力を感じました。冗談ひとつ取っても 「ルーマニアの冬は世話なしだ……コートを着る手間がはぶけて、時間の節約になる。」(p131)というじいちゃんの言葉のあとに、「コートを着ないのは、家の中でもぬがないからだ」と説明があります。主観だけでなく、読者に対しての説明が自然で、途方にくれずに読み進められました。作家が徹底的な事実調査をふまえて書いた本ですから、さしはさまれる冗談も取材の賜物なのでしょう。密告書の日付を見ながら、若者の立ち上がる日が迫るのを刻々と感じ、その日ですべて終わるのかと思いきや、物語はまだ終わらず……拷問の方法や痛みの表現が具体的で、主人公とリリアンがひどい目に合うのがつらかったです。主人公は、月日を経たのち、ラケットハンドにまで会おうとします。それは少しでも現実に近づこうとした、作者の執念の表れのようにも思えました。

ルパン:確かに、こんな状況でもユーモアの心を忘れないというのはすごいことですね。

さららん:主人公の秘密のノートの存在は、アンネ・フランクの日記のようですね。主人公の文学的な才能は詩を読んでも明らかですが、そこにこの物語の救い、というか、希望を感じました。

レジーナ:この本は2023年に、カーネギー賞ショートリストの中から子どもたちが選ぶ Shadowers’ Choice Award に選ばれています。イギリスの子どもたちはきっと、いま起きているロシアとウクライナの戦争を念頭に、この本を読んでいるでしょうし、そうすると読者の読み方はどうしても、西側の視点になるのではないかと思いました。

アカシア:作家がどういう人生を送ってきたかは、それぞれ違うので、東欧にルーツをもちアメリカで作家活動をしているセペティスさんならではの視点が出ているのは、当然のことだと思います。でも私は、この作品に反共プロパガンダのような要素は感じませんでした。たぶんそれは誠実に人間を書こうとしているからでしょうね。

(2024年08年の「子どもの本で言いたい放題」より)

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体育がある

跳び箱に挑戦する子どもたち
『体育がある』
村中李衣/作 長野ヒデ子/絵
文研出版
2021

花散里:まず、タイトルがおもしろいと感じました。 主人公の気持ち、母親の描かれ方など、村中李衣さんの文章がうまいし、どのページにも長野ヒデ子さんの絵があるのがとてもいいですね。私自身、運動神経が鈍くて、小学生の時の跳び箱、鉄棒、徒競走など、いつも苦手だったので共感しながら読みました。自分のことを思い返しながら、弟が、運動神経が良いということに対しての主人公の気持ちなどにも、きっと共感して読む子がいるのではと思いました。給食が食べられなくてポケットに入れて、母親に怒られるという場面なども印象的で、低学年の子どもたちが、どんどん読み進らめる作品ではないかと感じました。

アリグモ:とてもユーモラスな本で楽しく読みました。主人公はいろいろ大変なんだけれども、後半、少しずつ光が見えてきているのがよかったです。お母さんが、主人公にとっての一つの大きな“壁”になっています。悪気はないけれど熱心過ぎて圧力をかけてしまう親。この部分には共感する子どもも多いのではないかと。だから、そういう子どもの読者は、主人公がそれを解決できるのか、できるとしたらどうやって解決するのか、というところに注目すると思うのですが、この本では「おばあちゃんのおかげ」になっています。結局、お母さんよりもさらに目上の大人しか解決できないのか、というふうに子どもが読み取りかねないですよね。そういう意味でちょっと閉塞感が残るかなとも思いました。

西山:跳び箱も鉄棒も走るのも、もう、ほんとに体育がつらかったのを生々しく思い出しました。この作品は、できないことのつらさ、恥ずかしさを書いているけれど、最終的には、がんばるのかぁとちょっとがっかりするような気持ちにもなりました。でも、できなくてもいいんだよ、がんばらなくてもいいんだよ、と寄り添うより、現在進行形の子どもにとっては、こちらの方が希望で励ましなのかもしれませんね。
みなさんおっしゃるように長野ヒデ子さんの絵も楽しくてどんどん読めるのだけど、相当ネガティブなものを孕んでいる作品ですよね。「こいつ勉強ばっかして体育はできないんだぞって、みんなかげで笑ってるにきまってるし……」(p14)と思ったり、久しぶりにやってきたばあばが「どうだい? かあちゃんは、ヒステリー出しよらんか?」(p100)と言うことから、ママのあまりのバイタリティーが単純に笑えるものではないこともはっきりします。明るくテンポよく展開して、子ども読者に負担をかけないけれど、複雑でやっかいなものを抱えていて、一筋縄ではいかない作品だな、ちゃんと読み込まねば、と思っています。

アカシア:長野さんの絵がいいですね。私は長野さんの絵の中でも、これは出色の出来栄えなんじゃないかと思います。これがあるから、シリアスにならずに読むことができます。体育が苦手な子の心情が、とてもうまく描かれています。でも、p38では、[「むちゃくちゃおそいよ。わたし、体育ぜえんぶだめだもん」って笑いながら答えた。/わたし、なんで笑ってるんだろ。口の横をふにゃふにゃさせて笑うなんて、ばっかじゃないの。こういうときの自分が、いやでいやでたまらない。]とあって、この子が自分の内面もちゃんと見つめることのできる子だということがわかります。作者の村中さんも、こういうお子さんだったのでしょうか? このお母さんについては、私もウザいなあと思いながら読んでいたのですが、今どきのお母さんの中には、こういう場合、スポーツ家庭教師を雇ったりしそうです。そう考えると、この人は自分で時間と労力を使って教えているし、おばあちゃんに叱られたらすぐ態度をあらためるわけですから、勘違いしていただけで、本当はいいお母さんなんですね。

ハル:ああ、いい本読んだなぁと思って。わたしも体育が苦手な子だったので(どうでもいいでしょうけど、走るのは早かったです!)、体育の時間のこのなんとも言えない寂しい気持ち、わかるなーと深く共感しながらも、読んでいて決していやな気持ちにはならない。ママがせっせと練習させてくるのも、あこにとったらつらかったと思いますが、読み手の私は、共感こそすれ「ママはひどい」とはならず、むしろ、ママのたくましさにほれぼれするし(ジャングルジムからもジャンプできるし、海水浴も教えられる!)、ああ、体育って、生きてく上で必要な授業だよなぁとまで思えてきました。あこが「わたし、だれにもバカにされてなんかいないよ」(p117)とはっきり言うところも、いいなぁと思います。体育って本来そういうもので、苦手な子がかわいそうとか、恥ずかしいとか、そういう次元じゃないんだなーと気づかされました。物語全体に愛があるし、表現も豊かで読んでいて楽しい。ばあばのメッセージも心にしみました。親にだって、言いたいことは言わなくちゃって、小さい読者の心にも届いてほしいです。

雪割草:楽しく読みました。タイトルもおもしろいですが、それぞれの章の小見出しも良くて、目次を眺めているだけで、主人公あこがどんなふうに成長していったのかが感じられました。
それから、長野さんの絵がとても味があって見入ってしまいました。挿絵ではなく、長野さんが語られることを自分の中に入れて、ご自身として表現されているのがよく分かりました。たとえば、p29の主人公あこのウォンウォン泣く姿や、p31の怪獣になったお母さん、それからp146から147の見開きで、あこがひよこから成長していく様子など、挙げればたくさんあります。p141の「息を吸ったり吐いたりするたびに、からだが新しくなる」という表現も、少しずつ前向きになるあこがよく描けていると思いました。「ぽいたろう」という名前もおもしろいですね。でも、あえて言えば、マット運動や跳び箱など、あこが不得意なことができない子はほかにもいるだろうと思うので、気持ちは分かりますが、ひとりぼっちでもないのではないかとは思いました。

きなこみみ:私も体育が嫌いで、跳び箱も、マット運動も、鉄棒も、水泳も、ダメでした。あこがママに言われてジャングルジムに登って泣くシーンがありますが、私もジャングルジムが怖くて怖くてしょうがなかった、その気持ちが生々しくよみがえって胸が苦しくなりました。村中さんの文章は独特のリズムがあって、切ないあこの内面が伝わってくるのに、同時に俯瞰して自分を見ているユーモアがあって、どんどん読めます。p29のそのジャングルジムのシーンで「できません、できません、できません。/ジャングルのどまんなかで泣いてみた/うぉ~、うぉ~。/ほえつづけるしかない。もう永久にこのジャングルで」とあこが泣くんですが、ジャングルジムの「ジャングル」という言葉から動物が連想されてのおもしろさと、ひとり恐怖で立ちすくんでいる感じが、長野さんの挿絵と一緒にとっても伝わってきます。文章が視覚的なんですよね。p41の走っても走ってもうまく進めないシーンで「そのうちもっともっと苦しくなって、からだがずんと重くなって、あぁこれ以上はムリ、と心がむこう側をあきらめちゃう」というところ、単に諦める、じゃなくて、「むこう側」という具体的な場所を表す言葉が入って、体で感じる実感がぐっと身近になります。この一言があるから、最後に、あこが毎朝走るようになって、絵美ちゃんに「空を見る」という秘訣も教えてもらって、「ようこそ、ようこそ、と雲といっしょに広がってる」(p147)世界に、むこう側に、ちょっと近づくというのが、素直に胸に入ってきます。とてもよく考え抜かれた文章だなと思いました。
それにしても、日本の体育の授業って楽しくないですねえ。子どもの頃はあんなに苦手だった体育も、大人になったら楽しさが分かるようになったんですが、子どもの頃はほんとに苦痛でしかなかったです。懲罰的というか、できる、できない、がみんなに分かってしまう。あこを追い込んでしまうママが、ばあばに怒られて、p115で「わたしがしっかりして、子どもたちをだれにもバカにされない子にちゃんと育てなきゃ」と心情を話すんですけど、この思いってママだけじゃなくって、私たちの社会全体に、遍く、広く、深く浸透して、多くの人を縛っている気がします。子どもたちにも、とても共感できる物語なので読んでほしいですけど、いろんな価値観に縛られてる大人にも読んでほしいなと思いました。

エーデルワイス:感想をお聞きしていると、本に関係のある人は体育が苦手なのかしら。うれしくなってきます。
私も体育が苦手です。跳び箱が跳べない。ドッジボールの球を受け取れない。ゴム跳びができない……。暗い小学生時代でした。体育も勉強もできる子がいて、スーパーな子と仰ぎ見たものです。長野ヒデ子さんのイラストがとてもいいです。わざと子どものような絵に崩しています。ところどころページ数が書いていないのはわざとでしょうか。p116の10行目、ばあばに言われてママが自分の思いを吐露して泣くところがいいです。あこちゃんをありのままに受け入れてくれるばあばの存在は嬉しいです。小学生だった頃の自分を思い出しながら、あこちゃんは賢い!と、楽しく読めました。

アカシア:あ、一般化されるとまずいのであえていいますが、私は体育苦手じゃなかったです。体を動かすのは好きでしたよー。それに、小学校の時、鉄棒でクラスでただ一人大車輪ができた同級生は、後に哲学を学んで、某大学の学長になりました。本が好き=スポーツが苦手とは言えないと思うけど。

しじみ71個分:私の小学校時代を追体験するような物語でした。私も体育が大の苦手で、本当に苦痛でした。なので、あこの体育がつらいという気持ちが本当にリアルに伝わってきました。自分も逆上がりもできなかったし、跳び箱もマット運動も、走るのも全部だめで、体育の時間はとても恥ずかしい、情けない気持ちがしたもので、その気持ち、よくわかるよーと、ずっとあこに寄り添って読み進めました。村中さんが子どもの気持ちを丹念に描いているので、あこの心の動きが手に取るようにわかります。あこの体育に対する葛藤には、お母さんとの関係も大きく影響しているのがつらいところですが、日頃から人の心をよくよく観察されている村中さんだからこその物語だと思いました。子どもの気持ちを受け止めないで強引に引っ張っていこうとするお母さんの姿には、自分にもこういうところがあったなぁと反省されられましたが、お母さんもがんばらなきゃいけない、子どもにもがんばらせないといけないと思っていたのは、考えると気の毒な、切ないことですよね。ばあばの登場によってお母さんがばあばの子どもに返って泣く場面では、大人も未熟な人間なんだ、子どもと一緒に成長途中だというメッセージが聞こえるようでぐっと来ました。「大人もだめじゃん」と公然と子どもに示すのはとても公平なことで、本当に村中さん、すごいと思います。
うちの母も体操部だかなんかで、小学生の頃は布団を敷いて、逆立ちやらでんぐり返しやら練習したこともあって、うわぁ、本当に自分のことみたいとずっと思って読んでいましたが、最後にあこちゃんが走るのが好きと分かって、「なんだ、走れるんじゃん」と置いてけぼりを食らった気がして少し寂しくなりましたが(笑)、新しい考え方ややり方を見つけることで、自分の苦手なこと、苦しいこと、つらいことを乗り越えていく可能性を示した終わりは本当に清々しく、開放感がありました。走ることではないけれど誰にも、違う何かの転換ポイントがあって、少しずつ成長していくのだろうと思えました。50m走ることそのものより、苦手意識のせいで走ることの手前で向こう側への到達を諦めてしまうという、あこの心の分析がありましたが、それを乗り越えていけるだろうという期待を、明るく自然に提示してくれています。本当に児童文学はすてきだと思える本でした。読めてよかったです!

アンヌ:久々に小説を読んだという気がして、見事な構成だと思いました。私も体育は不得意な上に、スポーツ万能な若い叔父や叔母に囲まれて育ったせいで、できないことがわかってもらえない状況が主人公とかぶりました。スポーツマンの人には、お母さんがジャングルジムから飛ぶように、怖いがスリルに変わる成功体験があり、できない子どもの恐怖が理解できないんだろうなと思いました。読んでいて、失敗して跳び箱に乗っかってしまった瞬間の感覚とか、鉄棒の匂いとかまざまざとよみがえってきました。物語の中の時間がゆっくりしていて、転校生の主人公がだんだんと周りの子と話すようになって、その中で疑問を持っていくという展開もいいなと思います。唐揚げを入れるポケットとか、犬に追いかけさせて50メートル走のタイムをあげるとか、笑ってしまう場面もあり、挿絵も楽しくて、読者が主人公と一緒にひたすら悲しくならないのもいい感じでした。海の場面での水に浮く感覚が違うとか、遠泳の後の疲労感とかの描かれかたも見事で、だからこそ家族に主人公の話を聞いてやってよと叫びたくなりました。
怪我の場面はつい親の気分で読んでしまっておばあさんの言葉が響きました。弟も役目としてうまく機能していると思います。自分はできる、だからできない人のことはわからない、わかってあげる必要もない、と思っていいのは幼い子どもだけなんだというのがよくわかります。主人公は走るようにはなるけれど、この物語の中ではまだ跳び箱も鉄棒もできないままで、問題を解決したとは書かれていません。だからこそ、今体育でつらい思いをしている子供たちにも手渡せるいい物語だと思います。

(2024年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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クロスオーバー

双子が登場するバスケットボールの1シーン
『クロスオーバー』 STAMP BOOKS

クワミ・アレグザンダー/作 原田勝/訳
岩波書店
2023

エーデルワイス:『タフィー』(サラ・クロッサン著 三辺律子訳 岩波書店)以来、横書きにも大分慣れた気がします。詩なので時々声に出して読んでみました。12歳双子の一人ジョシュ・ベルの苦悩や葛藤が痛いほど伝わってきました。バスケットの世界ですから最近話題の「スラムダンク」の映画を観ておけばよかったと思いました。近日再上映がありますので観たいと思います。生活を支えている中学校の教頭先生をしているお母さんが、成績、品行方正、良質な食べ物について言うことに対し、元バスケット花形選手だったお父さんは日常がすべてバスケットのこと。ジョシュとJB(ジョーダン・ベル)はなかなか大変と思いました。お父さんが現役時代に膝蓋腱炎の治療をせず引退。さらに心臓が悪いのに病院に行こうとしないことがどうしても理解できませんでした。

きなこみみ:私もバスケ気分を盛り上げようと、「スラムダンク」をネットで見たりしました。弾けて躍動する体のリズムやスポーツを表現するのに、「詩」はちょうどいいジャンルなのかもしれません。翻訳も手が込んでいて、原田勝さんはさすがだなと思いました。これまで、双子として不動のタッグを組んでいた兄弟の間に、ふとしたことでヒビが入って、片方に彼女ができたりして、溝が深くなっていくんですよね。その微妙な心の機微が、バスケシーンの躍動感とともに味わえるのは、アニメやなんかの映像作品に比べて視覚的には弱い文学としての強みだなあと思います。
兄弟の間にひびが入るきっかけである、ジョシュのドレッドヘアが切られてしまうシーンは胸が痛みました。ジョシュが髪を大事にしているのも知っているはずなのに、ドレッドヘアを切ってしまったり、テスト中にメモを回して、カンニングと思われてジョシュが怒られてしまうところとか、密に繋がっていた二人が離れていく、思春期の兄弟ならではの複雑なところ、家族の中で孤独を感じるところが自分の痛みのようで刺さりました。あと、あんなにお父さんの病気が悪化しているフラグが立っているのに、なんで病院に行けなかったのかというのが、最後まで疑問で……。意識を失ったところで、救急車とか呼ばないのかな、とか。アメリカの医療事情もあるのかもしれないですが、なんだかやきもきしました。頑として病院に行かないお父さんの意識の裏には、自分が強いといつも思いたいマッチョな思考があるのかもしれないとも思いますが。
でも、この躍動感のある作品が、バスケが国技のようなアメリカで、ブレイクしたのはわかる気がします。

雪割草:引き込まれて一気に読みました。子どもの頃、兄がバスケが好きで「スラムダンク」の全巻を持っていたので、それを読んだのを思い出しました。構成も、作品を一つの試合に見立てていて、おもしろいと思いました。詩の形式であることで、想像の余地があって余韻が感じられ、胸に迫ってくるような切なさが伝わってきました。作品全体を通じ、父の存在の大きさが描かれています。クロスオーバーの名手であった父。「クロスオーバー」という言葉は、タイトルでもあり、バスケの技の名前でもあり、なにかを超えていくという意味として、主人公ジョシュの成長も伝えていると思いました。

ハル:余韻の残るいい話でした。バスケットは全然わからないので、最初は「わー、これは困った」と注釈を読みながらなんとか読み繋いでいく感じで、ちょっときつかったのですが、だんだん絵が浮かぶようになってきて、後半になると試合の描写にもハラハラできました。バスケットに全然興味ない、という子でも、最初の何ページかを乗り越えて、ぜひ読み切ってほしいです。詩の形態の物語はこの数年で何冊か読みましたが、小説に比べたらまだまだなじみがないので、やっぱり抵抗は残るものの、躍動感やスピード感、主人公の不器用な心情を語るのにも、「詩」の形態の可塑性というか、いろんなことができ
るんだなぁという、それこそ「可能性」を感じました。最後のJBのフリースローは決まったのか決まらなかったのか、にくい終わり方です。

アカシア:私は原書を先に見ていたのですが、ラップとかヒップホップのノリを感じて、私にはとても翻訳は無理だと思っていました。なので、原田さんのすばらしい訳を見ても、最初は違和感がありました。また原書の本文のレイアウトはきれいにリズムを作っているのですが、日本語で見ると、違うリズムが聞こえてきてしまって、正直あまりきれいだとも思えませんでした。つまり、日本語版を作るのが、とても難しい本なのですね。ただ、ある時期まではとても仲が良くていつも一緒に行動していた双子のあいだに亀裂が生じ、それぞれの個性もくっきり現れるようになり、そのうち口もきかない状態になり、時間を経てまた仲直りしていく、という状況は、とてもよくわかりました。
アメリカでは映画化もされているようですね。アメリカでは賞もたくさんとり、よく売れた本で、本好きではない男の子も夢中になって読んでいると聞きますが、日本では年齢対象も上がってしまい、そのあたりはなかなか難しいですね。

西山:原書では、本文のレイアウトはどうなっているんですか?

アカシア:違和感のないデザインで、きれいなんです。

アリグモ:以前1回読んで、今回が再読になります。でも、内容をいろいろ忘れていました。最後に主人公が12歳だと知って、前回も多分びっくりしたと思うのですが、今回もまたびっくりしました。中学生とは書いてあるけれど、恋愛関係の部分のせいか、16~17歳くらいをイメージしてしまっていました。さて、本文ですが、詩を巧みに使った物語で、魅力的です。ある言葉の説明にまるごと詩を一つ使ったり、お母さんからのメールを並べる章があったり、いろいろな使い方をしています。気になったのは、病気の部分。お父さんは息子とバスケをやってダンクの瞬間に倒れて、結果的に亡くなる、というストーリーが先に決まっていて、説得力のある病気を探したのかなぁ、などと穿って考えてしまいました。伏線として、高血圧症で、おじいちゃんも同じ病気だった、などと説明はありますけれど、それにしても、プロのアスリートが心筋梗塞で39歳で亡くなるというのは、かなりレアケースのような…。ただ、そう感じるのは日本の医療の感覚で考えているからで、アメリカではそうとは限らないのかもしれませんが。

西山:基本的にスポーツは全方向的に興味がなくて、当然ルールも知りません。スポーツ物の作品はおもしろく読みますけれど、詩の形は、私は読むのはしんどいです。巻末の「訳者あとがき」で「文字で埋まった分厚い本を読むのが苦手な読者にも受け入れられ」とありますし、実際、多く読まれているとのことですが、余白を想像するのは結構難しい読書だと私は思うのですけれど……。でも、原文を声に出せばラップみたいでかっこいいのかな。ラジオドラマならかっこいいのかもなと思いました。遺伝性の病気を気遣ってお母さんが食べさせるヘルシー志向のメニューとかおもしろかったです。ジョシュの出場停止処分で、これは、学校が下した処分ではなかったと思いますが、これまで読んだアメリカの翻訳物で暴力行為やいじめに対する処分が結構厳しいなと感じたことを思い出しました。

アンヌ:スポーツは苦手だし、最初の1ページ目を見て果たしてこれを読めるだろうかと心配したのですが、気がつくと一気読みでした。詩ではあるけれど、読みやすかったしおもしろい試みの連続でした。言葉の例題を出したり、心の中の実況中継をしたりすることで主人公の気持ちや葛藤がわかっていくし、バスケットの規則や見所も理解できるようになるのはすごいと思いました。私は双子の物語で兄弟が同じ女の子を好きになるというパターンが嫌いなのですが、それ以前に二人の違いとかが書かれていたので、JBの恋も思春期での道が分かれる過程として読めました。だから、父親の死を前にした二人の行動の違いを周りも自然に受け入れていて、誰もその態度を責めない。日本のスポーツものなら兄弟一丸となってと書きそうなところですよね。父親が病院になぜ行かないかというお話が出ましたが、家が貧しかったり、日本のように自治体による健康診断がとかなかったりしたせいで医療に縁がなかったのかもしれません。救急車も有料だそうです。でも、スポーツ心臓と遺伝性の高血圧だとしても、もっと早く病院に行ってほしかったと思います。原文がラップ調だというのが反映していないことやp219の短歌が逆に整えられていないのはなぜだろうとか、詩を翻訳する難しさを感じますが、それでも、詩という形式が読む邪魔をせず、言葉が好きな主人公の独特の語りとして読める、とても魅力的な作品だと思います。

しじみ71個分:2014年刊の原書がニューベリー賞を受賞したというニュースを2015年くらいに読み、それ以来ずっと読みたいと思っていた本でした。受賞の評に、詩で書かれた物語という言葉があり、詩の形式で書かれた物語の存在を認識したのがその時だったと思います。バスケで詩ならラップ、リズムはヒップホップだろうと思ったのですが、いったいどんな本なのか、翻訳できるのかな、など思いを巡らせていましたが、ニュースから9年越しで、やっと読むことができました。訳者の原田さんに心からありがとうと言いたいですし、今回みなさんと一緒に読めてうれしいです。
で、読んでみた感想ですが、普通に詩を翻訳すること自体がとても難しいのに、英語のラップ、ヒップホップのリズムを日本語で表すのは難しいのかなぁと、まず思いました。訳文からリズムが聞こえてくるかというと、そこはちょっと期待と違ったかもしれない……。ですが、本のテーマになっている思春期の心や家族の問題という内容が生々しく迫ってきて、とてもおもしろくて一気に読んでしまいました。ジョシュは勉強もできるし、バスケの将来を嘱望されるような男の子なのに、どこか幼稚でバスケのことしか考えていなくて、でも双子の兄のJBに彼女ができてうらやましいし、JBがバスケより女の子に夢中なのも許せないし、やっかみやら何やらグチャグチャ、モヤモヤが高まっていく様子にはハラハラしました。高まったイライラが爆発して、とうとう危険なパスでJBに怪我をさせてしまう場面は読んで胸が苦しくなりました。加えて、尊敬するダ・マン(ただ一人の男という意味でいいんでしょうか?)と称されるほどのバスケ選手だった父親が病に倒れ、遂には亡くなってしまうことで砕けるジョシュの心模様は、読んでいて本当につらかったし、読み応えがありました。感情に迫るというのは詩の真骨頂というところでしょうか、胸に刺さりました。
それと、とても作者がうまいなぁと思うのは、普通の会話だけでブラックカルチャーが浮かび上がってきたところ。息子はカニエ・ウェスト、父はコルトレーンやらマイルス・デイビスなんて具合に自然に触れられていて、心憎い演出だと思いました。待って、読めて本当によかったです。原書はいったいどんな感じなのか見てみたいです~。
蛇足ですが、ネットでアメリカの中学生バスケの映像を見てみましたが、これは中学生ですか?という感じでした。それから、本の表紙ですが、私は原書のちょっと重い感じの絵がよかったなぁと思っています。最後に、「クロスオーバー」というタイトルですが、ディフェンスを左右に揺さぶるバスケの技の名称でもあり、向こう側へ越えていくなどの意味もあり、ちょっと奥深そうで気になります。続編も楽しみです。

花散里:STAMP BOOKSは出版されると読んでみたいと思う作品が多いのですが、この作品を手にしたとき、バスケットボールのことがまったく分からない上に、ジャズやラップなどの音楽についても余り知識がないので読みにくいと思いました。そして韻を踏んだ横書きの詩物語であること、活字の字体、字の大きさが大から小に変わったり、斜めだったりするのも読みにくいと感じました。「訳者あとがき」で「分厚い本を読むのが苦手な読者にも受け入れられ」っと、記されていることには、果たしてそうだろうかと疑問に感じました。
もうすぐ13歳の双子の兄弟の生活、女の子のことや両親について、日常のことなども、日本の中学生よりも年上のように感じられました。後半、父親が亡くなる場面、兄弟間の確執が解消されていくところは惹きつけられように読めましたが、日本のヤングアダルト世代に手渡すのには難しい作品かなと思いました。

アカシア:先ほど、原書のイメージはどうなのかというご質問がありましたが、かなり違うんですよね(原書の1ページを見せる)。

参加者:うわぁ、原書のイメージはやっぱり全然違いますね。レイアウトも似せているのに、ひらがなと漢字で表すとなんだか見た目が違ってしまいますね。うーん、普通の文章のレイアウトでよかったのかもしれないですね……
参加者:“moving & grooving” “popping and rocking”とか、sizzling、drizzlingとか、かなり韻を踏んでいますね。これで文にリズムが出るんでしょうね。すごいな。これは日本語にできないような気がします……

(2024年07月の「子どもの本で言いたい放題」より

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セントエルモの光〜久閑高校天文部の、春と夏

夜空を背景に男子高校生と女子高校生が立っている
『セントエルモの光〜久閑高校天文部の、春と夏』
天川栄人/作
講談社
2023

きなこみみ:全く天体に興味のなかったえるもが、嵐士という先輩と天文に惹かれていくのが、楽しくて読ませます。この物語は、えるもがSNSでいじめにあって、そのせいで東京から帰ってきて、その傷もあって、やはり他人との距離がうまく取れない。人との距離感がひとつのテーマで、それを「天体」という雄大でどこまでも奥の深い距離感のものと重ねることで、かえって人間が生身に鮮やかに、かつロマンチックに描けるという、とてもうまい構成の作品だと思います。そして、心にすっと入ってくる、素敵な文章がたくさんあって、たとえばp138、9行目の嵐士先輩のセリフ「だから星たちは、俺たちの喜びや悲しみなんか、知ったことじゃない。今日も明日も、どんな辛いことがあった日だって、いつもと同じように、けろりと輝いてる」、p139、7行目の、そのセリフに呼応するところ、でもだから、俺の気持ちは俺のものだ、俺だけのものだ…」というところなど、とってもいいなと思います。そんな嵐士先輩とえるもの、ほのかな恋と、距離感もいい。文章も読みやすい。気になるのは、主人公のえるもの像が、少し定まらないところ。この物語の魅力は、嵐士という天体オタクの魅力的な先輩が披露する、えるもという名前がセントエルモの光が由来なのでは、というエピソードや、天文のコアな知識が、うまく物語の構成とかみ合って披露されていくことで物語が動いたり、進行していくところだと思うんです。でも、語り手のえるものキャラと、その知性的な部分が、ずれているところがあって。p103で、エルモは衛星と惑星の違いもわからないのだけれど、p192では慣性の法則を思い出して語ったりしていて、どんどん賢いキャラに変わっていく感じでした。これは、えるもの隠れた部分が出てきた、成長した、ということなのかな? 最後の観望会のシーンはとても良かったのだけれども、花火まで付けたのは、ちょっとやりすぎかも(笑)すてきなシーンだけれど、地元の神社の花火大会を、こんなにきれいに皆が忘れていたというのは、少し出来すぎの匂いがしました。でも、とても楽しい作品なので、この続きも、読んでみようと思います。

マリュス:著者の天川栄人さんって、プロフィールを見るまで男性だと思い込んでいました。こういう中性的なお名前、いいですよね。さて、作品ですが、ラノベのキャラクター設定に、とても近いんですよね。主人公は、かわいくて、でも悩みを抱えているという、読者が共感しやすい女の子。そして、めちゃくちゃイケメンで変人の先輩。他の人には理解されないけど、主人公だけが先輩の心のうちを理解できる。それをやっかむ幼なじみの男子、というあたりも含め、王道ラノベだと思いました。でもラノベっぽいというのは、悪い意味ではないです。読者をひきつける工夫がなされているという意味で、いいと思いました。さらに会話がとても生き生きしていて、読むのが楽しい。また、天体や星座の話が、わかりやすく頭に入ってきます。星の描写や、比喩として使われる場面の文章も美しく、読みごたえがありました。若干引っかかったのは、古雪が捨てアカウントで中傷してくる部分です。古雪は親友で、かつ従姉妹なので、「最近のあなた、自分らしくないよ」と直接言える関係性だと思います。わざわざ匿名にする理由がわからない。物語の力が強いので、ついつい説得されて読んじゃうのですが、後からちょっと無理があるんじゃないかと感じました。

コゲラ:テンポよく、すらすら読めておもしろかった。文章も、話の運び方も、作者はとても上手ですね。登場人物もそれぞれキャラが立っていて、アニメを見ているようでした。星の話や、天文学の知識の数々もおもしろい。夜中に学校に行くとか、天体観測の合宿をするとか、読者はワクワクするのでは。「すれちがえる奇跡」とか中高生の好きそうな言葉も、あちこちに散りばめられていますね。秋冬編があるという話ですから、古雪が送った謎のDMのわけや、母さんが主人公に「えるも」という名前をつけた理由も出てくるのかも。

雪割草:登場人物が一辺倒で、漫画っぽいと思いました。「嘘つき」といったのが古雪だったという展開は全く予想外で、古雪はえるもと晴彦にやきもちをやいているのだと思っていました。SNSの問題は、今の子どもたちにとって大変だと思います。p85に、「ちょっとSNSを離れたからって切られるような関係って、友達って言えるの?」とあるように、SNSは手軽な分、人と人のつながりも、それだけだと希薄になってしまうように感じます。嵐は、気の毒な設定で、お母さんまで亡くならなくてもよかったのではと思ってしまいました。主人公の心の声が語りの部分にたくさん描かれていて、ハッシュタグが章ごとにあるのは今の読者向けかなと思いましたが、ハッシュタグはなくてもいい気はしました。

アンヌ:私は、なんだかこの物語一つでは収まり切れていない感じがして、いろいろ謎が解けないまま、ふわんと逃げられた気がして不満でした。なかなかかっこいいセリフを吐くお母さんがどういう人なのかとか、えるもの名前は本当はどこからつけられたのかとか。そういえば、古雪も珍しい名ですよね、古いという字を名前につけるというのも珍しいから、そういう一族なのかな?でも、まあもう続編が出ているので、(『アンドロメダの涙〜久閑野高校天文部の、秋と冬 』)そこでということなんでしょうね。おもしろい話ではあるけれど、あまり技術もなさそうな主人公たち3人が、嵐士の天文写真を選別して投稿したり、後半の観測会の設営をしたり、後半バタバタと話が進んでいくのにも、少々首をかしげました。ただ所々、例えばp156の章の終わりのように、たぶん明け方の月を見たら思い出すような美しい描写があって、そういう魅力のある文章もあるので、とにかく続きを読んで考えてみたいと思っています。

エーデルワイス:図書館に予約してなんとか読めました。次の予約が入っていますのですぐ返却しました。人気ですね。学校の屋上で徹夜で空を観て、星の観察。ロマンチックです。映画、アニメ化されそうです。おもしろくて読み応えがありました。最後の花火のシーンは出来過ぎの感じ。p151の「私は多分小雪を許さないが好き」は心に残りました。続編も読みたく思います。

アカシア:エンタメだと思って、楽しく読みました。私がいちばんいいな、と思ったのはSNSに対して「天体観察」を持ってきたところです。これまでも、スマホ中毒やSNSから切り離すために、電波の届かないところに行くとか、自然の中で様々な体験をするという物語はいくつかあったんですけど、この作品では対極にあるものとして天体観察を出してきている。夜空の天体を見るには暗くないとだめなので、ケイタイの明かりは必然的に邪魔になるし、言葉の通じない天体を観察することと、無駄なおしゃべりが行き交うsnsは、そういえば対極になるのだなあ、と。えるも、という名前についてご意見がありましたが、私はこのお母さんならちゃんと意味がわかってつけてもしらばっくれることがあるだろうし、本当にお母さんが知らないのだとしても、今はいないお父さんなる人がつけたのかもしれないと勝手に想像したので、引っかかったりはしませんでした。えるもは、おバカキャラかもしれませんが、本当におバカなのではなく、おバカという仮面をつけているのだとすれば、何かを悟ったときに大きく変わるというのは不自然だとは思いませんでした。

ハル:今月の2冊は、どちらも若々しいというかみずみずしい感じで、慣れるまで目がすべるような感じがあったことはありました。でも、どちらも、同年代の子たちが読んだら、共感できるところが大きいんじゃないかなと思います。「セントエルモ」は、とってもエモーショナルですね。登場人物たちのつらかった日々や、人とつながれたときの喜びに、胸が打たれましたし、とてもおもしろかったです。一方で、「嵐士」は、すごくかわっている人という設定のようですが、読む限りでは、漫画やアニメでは人気があるタイプの“ドライな先輩”というイメージで、それほど変わっているようにも思えなくて、あの疑惑で壁にはった写真をやぶかれるほど、そこまで嫌われるものだろうか、というのは不思議に思いました。表紙ではわかりにくいですが、容姿の特徴でいじめるという感覚が私には理解できないので、実際にこういったケースもあるんだろうと思うと胸が痛いです。

しじみ71個分:おもしろくサクサクと読みました。私自身は、主人公のえるもの造形にあまり共感を持てなかったのですが、いじめを受けてつらかったという過去と、高校生になってからの軽めのキャラとの間にあまり連続性が感じられなかったからかもしれません。それに、ハルピコがえるもを好きで、古雪はハルピコが好きで、でもえるもは気づかず、嵐士先輩が好きらしい、でも恋愛話としは展開なく宙ぶらりんのままというのが生煮えの感じで、お話がどっちに向かうのかなと引っかかったせいかもしれません。古雪が中学生のときSNSへの書き込みの犯人が自分だったと告白したのも、私の読みが浅すぎるのだとは思いますが、えるもとハルピコとのやり取りを見ての場面だったので、その点はちょっと気になりました。天体観測と孤独、宇宙と命といった大きな視点で人間性を見つめなおすような表現がところどころにあって、それには心が惹かれましたが、そういったキラリと光る深さにマッチしていない軽い部分も多く、全体的になめらかなつながりにやや欠けた印象を受けました。えるもが嵐士のお父さんのお店にいきなり飛び込んでいろいろ事情を知ってしまうのもかなぁという気もしました。その勢いがえるもの魅力でもあり、最後の方で天文部のために1年生が頑張るのも好ましい展開と思いましたが、どこかで読んだような印象があるなとも思いました。でも、青春物語としてさわやかなので、若い世代の気持ちをつかめる作家さんなんじゃないかなと思いました。

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ANNE(メール参加):おもしろく読みましたが、ちょっとご都合主義的な結末な気がしました。そんなにうまくいくかしら? 結局、「えるも」という主人公の女の子の名前の由来がよくわからなかったのと、晴彦と古雪の想いはどうなってしまったのかがモヤモヤしました。2作とも現代のSNS事情が背景にあって、私のようなおばさんにはちょっと理解しきれない部分があるのだろうと思いましたが、おばさんなりにアンテナを高くしておく必要があるかもしれませんね。

(2024年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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優等生サバイバル〜青春を生き抜く13の法則

教室の空間を黒い服を来た生徒たちが浮遊している
『優等生サバイバル〜青春を生き抜く13の法則』
ファン・ヨンミ/作、キム・イネ/訳
評論社
2023.07

サークルK:同じアジア圏の中でも 韓国の受験がかなり大変であるということは聞いたことがありましたが、実際にこのようなYA小説のかたちで読み、実情を知ることができてよかったです。首席で高校に入学してしまった主人公の入学直後からのさらなる勉強漬けの毎日には頭が下がります。正読室や塾などを使い分けて、ボランティアにも励み、そして恋愛も! 盛りだくさんな毎日ですよね。韓国では高校受験はなく、学区制で高校が決まるとのこと(『優等生サバイバル』からみる韓国高校生事情 翻訳者 キム・イネさん ×山下ちどりさん×評論社 (評論社) | 絵本ナビ)つまり本格的な受験勉強の環境に、クラス分けテスト以降さらされていくのですよね。同じように受験を意識する日本の小中学生には手に取りやすい作品で、共感をもって読めるのではないでしょうか。かつて息子が通学した男子の中高一貫校も、校内試験の結果はすべて順位表が保護者に配布され(それこそ入学式の翌々日くらいには春休みに出された課題の試験があり、中2最後の成績で中3からの特別クラスに選ばれるかどうかが決まるということが日常でした。中3と高1では毎学期の成績でそのクラスメートも入れ替わるというシステムだったので、ひとたびそのクラスには入れても安心はできず必死で勉強していたようです。けれどそれ以外は本人たちはいたってフツーでアイドルの話、ゲームの話、部活や自分の将来の話などをうまくやり取りしながら大事な友達を作っていく毎日を送っていました。この物語を読みながらそんなことを思い出しました。

しじみ71個分:まるでネットのドラマみたいだと思って、ドラマになった様子を思い浮かべながら読み進めました。場面場面がはっきり目に浮かぶような、映像的な描写で、翻訳もわかりやすく、全体的に非常に読みやすく、おもしろく読めました。作者の姿勢が一貫して、思春期の子どもたちの気持ちに寄り添っていて、勉強しないでおいていかれるしまう不安と同時に日常の息苦しさ、そんな中でも気の置けない仲間を見つけて楽しみを見つけていくバイタリティなどが、とてもリアルに描かれていたと思います。子どもたちへの視線が優しく、寄り添っているので、安心して気持ちよく読めました。主人公のジュノが好きになるユビンの生き方も一貫性、独自性があって、明るくたくましく、とても好感が持てました。心に残るすてきな言葉もありました。サークルのボナ先輩も厳しい家庭環境にありながら、自分の人生を自分のものにしようと頑張っており、彼女を好きなジュノの親友ゴヌも人柄がよく、このグループの仲間たちはそれぞれの個性もはっきりしており、読んでいて気持ちがよかったです。韓国社会の非情な厳しさが背景に描かれながらも、安心して読めたのは、作者の前向きな姿勢によるものだと思いました。YA世代の子たちも日本との違いや、共通する苦悩などを探しながら読めるのではないでしょうか。副題の「青春を生き抜く13の法則」は、もしかすると、今、はやりの韓国初のフェミニズム本や人生ハウツー本の雰囲気を真似をしているのかな、とかすかに思いました。

アカシア:日本も今は子どもの数が少なくなったので、受験競争も昔ほど熾烈ではなくなったと思いますが、韓国では今も、教育ママ、教育パパたちが子どものお尻をたたいて、少しでもいい学校に入れようとするという状態なのでしょうか。主人公のジュノは、それとは少し違って「天敵から逃げるために長くて強い脚を持っているシマウマのように、成績という武器がなかったら、ぼくは弱い相手を物色している子たちの標的になっていただろう」(p32)と考えて、いい成績を取ろうとがんばり、「自分の心がしたいと思うことよりも、優等生らしく、すべきことをして生きて」(p204)います。でも、親友のゴヌや、時事討論サークルで出会ったユビンやボナ先輩と付き合っていくうちに、少しずつ変わっていき、「だれかが決めた基準で流されている限り、ぼくは永遠に不安の奴隷として生き続ける以外にない。たとえどんな結果になろうとも、ぼくは運命の主導権を可能な限り自分で握るんだ」(p181)と言えるようになっていく。もっと大事なことがあるのではないかと気づいていく。その過程がリアルに描かれていると思いました。それと、優等生たちの中にもいろいろなタイプ、いろいろな人がいるということが書かれているのも、おもしろいと思いました。
ジュノの両親は、息子を競争に駆り立てようとはしないいい人たちですが、それでもお母さんは「洗濯するのが大変だったら宅配便で送ってきなさい」と、勉強第一に考えているのですね。p148に「本棚の音がいうるさい」とあるのですが、正読室には、それぞれの本棚が置かれているのでしょうか? それと、みんなから注目されているらしい美形のハリムは、優等生と付き合えば、変な興味や見下すような視線が減るから、という理由でジュノやビョンソをボーイフレンドにしようとするのですが、日本とは事情が違うせいか、そんな人がいるのか、そんなことがあるのか、と驚きました。

エーデルワイス:韓国の高校の「正読室」には驚きました。過去問、参考書を先輩から提示されたり、真剣に学んだりしている姿は大人びて大学生のようです。作者と訳者の表記を見ましたら、日本語のカタカナ、漢字、アルファベット、ハングル文字が並んでいて、新鮮でした。主人公のジュノをとりまく様々な子たち。読んだ子がこの本を自分と重なったりするのかもしれないと思いました。作者のファン・ヨンミが「優等生とは、誠実に自分の未来の準備をする…そう定義したい」と、言っていますが共感できます。

アンヌ:私はこの著者の前作『チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし』(吉原育子訳 金の星社)が、韓国のおいしいものがたくさん出てきて好きな作品だったので、今回も韓国の普段の食生活がわかる場面が出てくるかなと思いながら読み始めました。例えば朝御飯にアワビや鳥のおかゆを食べるのを初めて知ったのですが、離れて暮らすお母さんが作って冷凍して送ってくれたのを、主人公が朝解凍して食べる場面には、日本のご飯と同じだなと思い、楽しめました。よい高校に入っても順位順に使える設備が違う、その上、外部の塾や自習室に通ったりしなくてはならない。相当ハードな学生生活ですね。さらに、クラブ活動にボランティア。すべてが受験に優位に考えていかなくてはならない状況には驚きました。ジュノも大変だけれど、家族も大変な状況下にありながら、互いに理解し合っているのにホッとしました。それに対して優秀でお金持ちでも、親が一方的に進路を決めてしまう子どもたちもいて、そんな状況でも自分のしたいことを見いだせているボナ先輩と、子どもっぽいままで人を傷つけるビョンソの対比が見事だと思いました。韓国でのSNS事情を考えると、これも過酷ですね。変な噂を立てられたユビンは、前作『チェリーシュリンプ』の主人公のようにSNS上に自分の意思を表明して乗り越えるのだけれど、そういう強さを手に入れられなかったら、どうなるのだろうと思いました。気になったのは副題の「青春を生き抜く13の法則」ですが、たぶん原題にも英語の題名にもついていませんし、目次をそのまま法則と読み込むには無理があるような気がしました。

雪割草:読んでまず、韓国の高校生はこんなに夜遅くまで勉強をがんばっているのかと驚き、気の毒に思いました。p214に「境界もなければ序列もない……。私たちが大人になった時、そんな世界になっているかな?」とあって、高校生たちのこうした声に、胸が詰まる思いがしました。主人公は、両親から離れておじさんと暮らし、よくがんばっていると思いますし、物事を冷静に見て考える力があるなと感心しました。また、主人公を取り巻く人たちは、どこか問題を抱えていても、なぜそうなのか、背景がきちんと描かれているので、想像しやすかったです。韓国社会について一歩引いて、俯瞰的に見ることができ、社会の問題を考えることができる作品だと思いました。ハリム、ゴヌ、ユビン、ボナ先輩の友人関係もさわやかで、子どもたちも共感しやすいのではと思いました。おもしろかったです。

コゲラ:YAも含めて児童文学では、とかく優等生は白い目で見られがちですが、その優等生たちの群像を描いて、優等生リアルというのかな、それを丹念に書いているところがおもしろいと思いました。それにしても、韓国の高校生の実情というのは、すさまじいですね。成績上位の生徒だけが使える正読室、そのうえスタディルームに家庭教師……受験当日に入試試験場にバイクに乗せてもらってかけこむ受験生の様子が日本のテレビでも報じられることはありますが、これほどまでとは思いませんでした。韓国の社会構造を反映している教育事情だと思いますが、日本でも一部の受験重視の高校では、まだ同じような教育がなされているのかも。主人公をはじめとして、登場人物のひとりひとりが生き生きと描かれていて、すばらしいと思いました。特に、激流の外に身を置くことを決断したユビンが清々しくて、とても魅力的ですね。勉強の競争だけでなく、主人公たちの恋愛一歩手前の心の動きもていねいに描かれていて、まさに青春!という感じでした。
『チェリーシュリンプ』では、韓国の食べ物がどっさり出てきておもしろかったのですが、この作品にも食べ物は出てきますが、シジミバナの生垣とか、裏山に住む野良猫や伝説のタヌキなど、日本でもなじみのある光景が出てきて、とても身近に感じられました。日本と近いところもあり、違うところもある隣りの国の作品を、若い人たちにもっともっと読んでもらいたいと思いました。
大人の作品では、翻訳者の斎藤真理子さんたちの活躍もあり、韓国のすばらしい作品がどんどん紹介されていますが、児童文学の世界でもそうなってほしいと思いました。最後に一つだけ、p116の7行目に「プー太郎」という言葉がありますけど、これは確か「職についていない人」という意味だと思うので、大学を休学して入隊しているユビンのお兄ちゃんには当てはまらないのでは? 今では死語(あるいは差別語?)だと思っていたので、しばらくぶりにお目にかかってびっくり!

マリュス:惹き込まれて、一気に読めた作品でした。韓国ならではのエリート高校、受験システムなどが新鮮でした。すさまじい閉塞感が伝わってきました。主要登場人物が、ゴヌを除いて、ヴィジュアルよし、頭よし、人気ある、という設定ばかりで、最初は食傷気味でした。でも、それぞれに抱えている悩みが伝わってきたので、好意的に読めました。最後が、ベターエンドにはなっているけれど、すかっとした読後感ではなく、閉塞感をひきずっています。けれど、時間がたてばたつほど、そのリアルさがいいのかも、と感じられるようになってきました。一つ気になるのは、サブタイトルの「青春を生き抜く13の法則」です。これ、原題にはないですよね? さっきアンヌさんもおっしゃってましたが、法則というわりに、ゆるいし、若者が読んで指針になる内容でもないし、単なる「惹句」な気がしちゃいました。

きなこみみ:軽いタッチで書かれていて読みやすいですが、「サバイバル」という言葉どおりの、なかなかハードな環境にいる若者たちの物語でした。毎日、ほぼ寝る暇もないほどの勉強に、ボランティアに、部活動。その上、塾に家庭教師。放課後、正読室という、特別な部屋で勉強する権利を学年に30人だけ与えるとか、見事なまでのヒエラルキー競争だなと思います。p96の3行目「走ってる馬にムチを打つみたいに、『もっと、もっとだ、もっと、もっと走れ、死ぬまで、努力のもっと上の努力をして一番になれ』と攻め立てていたら、死ぬまで幸せになんてなれないんじゃないだろうか」とありますが、こういう息苦しさは、YA世代なら皆感じているだろうなと思いながら読みました。
今、日本でも小学校の高学年から、将来就きたい職業を決めて努力しろ、なんて言われますけど、そんなことばかりだと今を楽しむことができなくなるんじゃないかなと思うんです。そういう競争システムに自分の意志とは関係なく放り込まれていく、そうした構造は、いろんな価値観や制度、大人の思惑などががっちりと組み合ってできているもので、子どもたちが疑問に思っても簡単に覆せるものではないんですけど、そのなかで、なんとか自分らしさや、押し付けられた生き方ではない場所を探そうとする若者たちの姿が、けなげで読ませます。p181の3行目、「だれかが決めた基準で流されている限り、ぼくは永遠に不安の奴隷として生き続ける以外にない。たとえどんな結果になろうとも、ぼくは運命の主導権を可能な限り自分で握るんだ」というジュノの言葉が切なくて頼もしいです。若い、ということはとにかく不安なことだらけなんだけれど、その不安が若者たちを縛っていて、とにかく、内申書がついてまわるせいで、元気で明るく、良い若者で居続けないと内申点も付かない、というシステムへのストレスが、SNSでの個人攻撃や噂話、陰口になっているのがリアルでした。芸能人みたいにきれいなハリムも、実は拒食症を患っていたことがあって、死ぬほどダイエットすることを「プロアナ」という言い方をするのを初めて知りましたが、そんな若者の生きづらさを誰しもが抱えていること、社会的な背景も含めて俯瞰できるように書かれていて、そのなかで、ジュノと仲間たち、とくに自分の生き方を貫こうとするユビンとの交流が爽やかでした。読後感も良い1冊だったと思います。

ハル:現代版『車輪の下』だ、と思いながら読みました。高校生の悩みの中で「勉強についていけない」とか「受験の不安」だって大きいはず。だけど、勉強についていけなくて悩むとか、追い込まれていく姿を取り扱った小説は、ありそうでなかったように思うので、「韓国の子はすごいなー」なのか、「日本の子もきっとそうなんだろうなー」なのかわかりませんが、新鮮な感じはしました。結末が『車輪の下』にならずにすんだのは、友情があったから。友だちはたくさんいる必要はないし、いま友だちがいないことを悲観することはないけれど、今月のもう1冊の本『セントエルモの光』(天川栄人著 講談社)同様、やっぱり、人とつながろうとすることは大事というか、人を理解しよう、つながろう、と心がけることは大切だと思います。

コゲラ:日本でも、高校生が学校の指示でボランティアをする制度があるのかしら?

しじみ71個分:日本にもあります。

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ANNE(メール参加):読み終わってまず、韓国の高校生って、ほんとに大変!! と思いました。日本よりも、もっと学歴が重要視されるという話は聞いていましたが、高校1年生のジュノの日常は、想像を絶するものがありました。
学業だけではなく、友人・恋愛・家族など、さまざまな問題を抱えながら、ジュノが自分のあるべき姿を模索していく様子に、エールを送りたいと思います。韓国の人名に慣れていないので、登場人物の男女の区別が付きにくく、ちょっと混乱しました。ジュノのお母さんのアワビ粥、食べてみたいです。

さららん(メール参加):念願の受験校にトップの成績で合格してしまったジュノの、一人称で伝えられる高校生活は、明るく語られるものの、競争から蹴落とされるという不安でいっぱいです。短い会話でスピーディーに進む展開のなかに、韓国の高校生の本音が見えかくれし、アワビがゆが、ご馳走だということもわかりました。ハリムのキャラクターは謎でしたが、自分を守るために成績のいい男の子とつきあおうとしていたのですね。ジュノと、ゴヌと、ユビンの、つっこんだり、つっこまれたりの会話や、サッカー観戦、サークル活動、裏山で食べるパン、ネコのエサやりなど、勉強以外の要素がさしはさまれ、現実の重苦しさの救いになっています。p187で語られるジュノの気持ち「たとえどんな結果になろうとも、ぼくは運命の主導権を可能な限り自分で握るんだ」とか、p279に、ユビンがいう「自由の海」―私たちそれぞれがちゃんと生きていれば必ずまた出会える場所、境界線も序列もない海―というような観念は魅力的です。子どもたちのいちばんの重荷は、ボナ先輩の場合でも、ビョンソの場合でも、親の身勝手な期待で、ジュノはその点、両親や叔父さんに恵まれていると感じました。さらっと読めて、ちょっと元気が出てくる清涼剤のような1冊ではないかと思います。ユビンとジュノとの関係が、友情以上恋愛未満で、終わっているところにも好感がもてました。
ところで読み終わったあと、13の章題になっている13の法則を確認しました。<7.敗北にもくじけないこと>、とか、<8.目の前にあることを、「ただやる」ってこと>はいかにも法則らしいのですが、<9.メニューが今ひとつの時はパスすること>はあれれっ?という感じ。本文を読み返して章題としては理解できたのですが、法則としてはすこし腑に落ちない感じがしました。少なくとも、p158のうしろから2行目で、「外で食べない」を、「パスして、外で食べない」とするなど、本文とつながりを持たせたほうが親切だったかもしれませんね。

(2024年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ブックキャット〜ネコのないしょの仕事!

戦時下の空を背景にした黒猫と子猫
『ブックキャット〜ネコのないしょの仕事!』
ポリー・フェイバー/作 クララ・ヴリアミー/絵 長友恵子/訳
徳間書店
2023

ANNE:不勉強で、フェイバー・アンド・フェイバー社や詩人のT・S・エリオットのことをよく知りませんでしたが、興味深く読みました。猫が創作の手伝いをするという展開が新鮮でした。日本でも漱石を始め作家と猫の関係は密接な気がするので、やはり相性がいいのでしょうか? わが家のおとぼけ犬に、この猫さんたちの爪の垢を煎じて飲ませたいと思いました。

ハル:こんなにかわいいのに、どうしてでしょう。2回読みましたが、それほどおもしろくは感じなかったです。中盤からちょっと浅いというか、雑というか。ロンドンの子猫たちをブックキャットに仕上げていくところなんて、実は唐突じゃないですか? コメディ部分なので勢いはあって良いのですが、モーガンはそれまで、偶然にエリオットさんの原稿を踏んづけて手助けしたことはありましたし、フェイバー社にやってくる作家たちにかわいがってもらったり、おやつをもらったらはげましたりはしていましたが、あとで子猫たちに教えるような深い付き合いをしていたわけじゃないし、モーガン自体はインクのにおいが好きなだけで、原稿を読んではいないので、なんかちょっと、そのあたりの詰めの甘さというか、力技感に引いちゃうのかなぁ。絵はかわいいし、フェイバー・アンド・フェイバーっていい会社なんだな、というのはとても印象に残りました。

雪割草:楽しく読みました。特に絵がよくて、それぞれの猫の個性まで描いていて見入ってしまいました。作家がメモを片手に髪がボサボサな感じもリアルだと思いました。ブックキャットというタイトルから、本屋さんの話かなと読みはじめましたが、出版社で作家を助けていた実在の猫のモデルがいるというので興味深く感じました。ただ、子どもよりも、書く仕事をしているおとなの読者の方が共感できるところが多いかなとは思いました。p108に「この計画実行の初日に、ぜんぶで八ぴきが旅立っていきました。かんしゃく持ちの年取った作家のところには、子ネコを二ひき送りました。そして、その二ひきの冒険好きな妹は、一ぴきで海ぞいに住むおしゃれな女の作家のところへやりました」というところがあるのですが、「その二ひきの冒険好きな妹」というところ、「妹」に「その二ひき」と「冒険好き」がかかっていると読まなければならないのですが、私は「その二ひき」が「冒険好きな妹」だといっているのだと思って混乱してしまいました。よく考えれば、そうであれば「妹たち」となるはずですし、誰の妹だか不明なのですが、日本語で修飾語を連ねて使うのはわかりにくいなと思いました。

アオジ:イラストも物語も、とてもかわいい、楽しい本ですね。子どもたちは、大好きだと思います。長田弘さんの『本を愛しなさい』(みすず書房)には、ヴァージニア・ウルフと夫のレナード・ウルフが始めた出版社、ホガース・プレスにいた犬と、シャーウッド・アンダースンの新聞社にいた子ネコのネリーの話が出てきて、どちらも深い、しみじみとした話ですけど、そういう心に染みるような味わいは感じられず、来年になったら忘れてしまいそう。でも、子どもたちには、すぐに忘れてしまっても、楽しい本をむさぼるように読んでもらいたいと思います。おかあさんネコが死んでしまったり、爆撃を受けたり、疎開しなければならなかったりするのですが、妙に明るいですね。マイケル・モーパーゴが編んだ“War stories of conflict”( Macmillan Children’s Books/2005)というアンソロジーを読んだことがありますが、概して、悲惨な出来事を書いても、トンネルの向こうに光がさしているような、なにか明るいものを感じたんですね。戦勝国と日本の違いなのかな。

アカシア:猫好きの人にとっては、とても楽しいお話なのではないでしょうか。ブックキャットという名前もおもしろいし。p92に、「原稿がよくないと思ったら、ツメでやぶる、歯でかみちぎる、よごれた足でふむ、といった仕事です。/ぎゃくに、おもしろい原稿がゴミ箱に捨てられていたら、取りだして、作家にもどします」とあるので、モーガンは内容がわかっているという設定かと思っていたら、p113に「モーガンも、本は大好きでした。──でも、本をながめることと、そのにおいがすきなだけでした。じっさいに自分で読もうと思ったことなどありません」とあったので、びっくり。まあ、それも含めて、ユーモラスだと思えばいいのかも知れませんけど。私はp75の「モーガンおじちゃん、あたしの命をすくってくれて、ありがとう。おじちゃんと、ここの本のおかげだね」の最後の一文がよくわかりませんでした。本のおかげというのが出てきていないので。

きなこみみ:かわいい本で、装丁と挿絵のセンスがとてもよいなと思います。猫たちの生き生きした姿が楽しくて、物語にどんどん入り込めます。楽しい挿絵のなかで切なかったのは、p30の母と妹を爆弾に吹き飛ばされたときのモーガンの顔。今、あちこちで爆撃の下で孤児になってしまった子どもたちがたくさんいることを連想してしまいます。この物語のテーマのひとつが「飢え」であることも、戦争の実相と繋がっていると思うのですが、登場人物が猫たちであることがクッションとなって、子どもたちも戦争の物語として受け入れやすいと思うのです。猫というのは、そういう意味でとても物語にしやすい得難い生き物だなと思います。P78の子猫たちの集団疎開も、実際に行われた都会から田舎への子どもたちの疎開がベースになっていると思うのですが、切ないのにどこかユーモラスな味が出ているのがいいなと。p81で、子猫たちがあちこちに隠れるシーンなど、想像するだけでかわいいです。しかし、なんといっても心惹かれるのは、ブックキャットの仕事のおもしろさ。p94の書けない作家の励まし方なども、作家の実体験がにじんでクスリとさせます。この勉強の甲斐あって、子猫たちはそれぞれ行き先が見つかるのですが、ここにイギリスの余裕を感じてしまいます。日本なら、こっそり猫にあげる食料もないだろうし、戦時中愛玩動物を飼うのを禁止して、犬猫たちをたくさん殺してしまったりしたことを思い出しました。ユーモアというのは、余裕から生まれるんだなと思いました。

アンヌ:おもしろい本だとは思うのですが、なんだか作者の家業として語り継がれてきた物語を読まされている気がしていて、有名な一族なんでしょうが、知らない身としてはピンとこないところがありました。私も、モーガンがブックキャットになるためのしつけを子猫たちにしていたのに、その後で、実はモーガンは本が読めないという話が出て来たのには驚きました。そうなると全体に矛盾してこないでしょうか? ただ、現実にブック・キャットはいるような気もします。以前読んだ『ザ・ウイスキー・キャット』(C.W. ニコル著 松田銑訳 河出書房新社)のように働く猫は現実にいるので、本当に猫が図書館を守ったり、作家の手助けをしているのだろうなと考えるのは楽しいことだと思います。

しじみ71個分:おもしろく読みました。猫好きの、猫好きのための猫好きによる本だなと心の底から思いました。読めば読むほど、翻訳の長友さんのお顔と猫さんのお姿が浮かんできて、愉快でした。お話自体は読んでみて、いろいろ思うことがありました。一つは、イギリスで戦争を見る目が日本とはちょっと違うかなというところでした。戦争中でもチャリティバザーがあったり、ちょっと雰囲気が明るいというか、この物語からは、あまり戦争の悲惨さを感じられませんでした。もしかして、戦争を背景にする必然性はなかったのかなとか、T・S・エリオットとか実在の人物を登場させるのに背景として必要だったのかなとか、いろいろ思いましたが、戦争を伝えることが主眼の物語ではないのかもしれないと思いました。後半のブックキャットの養成などは、とてもおもしろいです。猫はやりたいようにやっているだけなのに、作家が猫の行動に勝手に意味を見出しているだけなのですが(笑)。でも、本当に作家とネコとの相性が良くて、猫のおかげでいい作品が生まれることも実際にあったかもしれないですよね。作家のおじいさんがフェイバー・アンド・フェイバー社を経営していたということなので、どなたかもおっしゃっていましたが、家族の中で語り継がれている話が元にあったのかもしれないですね。ちょっとだけ気になったところもあって、一つ目はp79の「ネコパンチ」ということばです。確かに何を指すのかとても分かりやすいですが、とても現代的な日本語だなと思って、読んでいる物語世界からこっちの世界に戻って来ちゃうなと思いました。あと、私もp75で、ルールーが助かったのがモーガンおじちゃんのおかげなのは分かりましたが、なんでここの本のおかげだったのかはよくわかりませんでした。

アカシア:私は「ネコパンチ」が現代語だとは思いませんでした。ずいぶん昔からある言葉じゃないかな。エリオットまで遡れるかどうかはわかりませんが。

ニャニャンガ:p55に、本が入った段ボール箱がたくさんあるという文章があるので、本が入っていて潰れなかった段ボール箱のなかに逃げ込んだおかげで助かったということかなと思います。

しじみ71個分:そうだったんですね! 読み飛ばしていました。ありがとうございました。あとは、ちょっとおもしろいのが、p106で作家が「顔をこわばらせて」と書いてあるのですが、挿絵はにこにこしていて、顔がこわばっていないのもちょっとハテナ?と思いました。子どもたちの訓練を始めるにあたって、p84のところで、暴れる子猫たちのことがばれないように、自分が騒ぎを起こして目くらましをしますが、子どもたちの暴れっぷりがあまり書かれていないので、何でモーガンがそんなに疲れているんだろう?とは思ってしまいました。何か、ちょっとどこかがはしょられている感がありました。でも、軽めに楽しく、おもしろく読めるいい本だと思います。

さららん:『ブックキャット』というタイトルに魅かれて、ずっと読みたかった本です。ひとりの猫好きとして手に取り、読みながら、自分の中に分裂した2つの読み方があるのに気がつきました。「これはおもしろい!」と思う自分がいる一方で、「いやいや、猫は絶対、人のために働かないぞ」と考えている自分もいたのです。ここにいるのは本物の猫ではない、お芝居みたいに書かれた作品だと考えて読めばいいのだと、頭の中のスイッチを入れ直しました。爆弾が落ちた後の猫の姿を描いた灰色のページ(p70~71)をはじめ、この物語は戦争の現実を子どもたちにわかりやすい形で伝えています。戦争中は猫も悲惨な思いをしたんだと、少し距離をおいて受け止められるからです。p118の挿絵はしっぽとしっぽが絡み合った、とてもいい絵で、見ているだけで幸せな気持ちになれますが、少し惑わされました。ネコのモーガンはルールーと結ばれたんだ!と、私は思ってしまいました。

コアラ:まず、絵がかわいいと思いました。どのページの猫もかわいくて癒されました。猫好きにとっては、猫が何かやったら、それだけでかわいいものです。猫が本のページの上に足を置いたら、そのしぐさから人間の方が気付きを得る。それを、猫が人間に気付かせている、猫が分かってやっている、ということにするわけですが、そういう世界は子どもと親和性があると思います。子どもが楽しめる本だと思いました。最初に、著者の祖父がフェイバー・アンド・フェイバー社の経営者で、そこでエリオットが働いていて、猫が玄関で来客を迎えていた、ということが書かれていて、もうそれだけでワクワクしました。作家が編集者に会う前と後が描かれているところは、誇張されていておもしろかったです。最後のp133で、猫が「THE END」とタイプライターを打つところは、小学校中学年くらいの読者は分かるかな、ちょっと難しいかなと思いました。訳者あとがきを読んでも、ご自分のブックキャットのお話が書かれていて、猫を飼っていていろいろな場面で助けられているという方々はいっぱいいるんだろうなと思いました。

スーパーマリオ:非常にかわいらしい物語だなぁと思いました。戦争で深刻な場面も出てくるのに、それでもかわいらしいというイメージ。ネコの行動は細かいところまでなかなかリアルです。小学生の子が怖がらずに読めるいい本ですね。戦争の全体的な流れはわからないのですが、断片的に戦況の変化が伝わってきます。最後、アメリカから来たネコが「アイゼンハワー」という名前のところ、ちょっと引っかかってしまって、ラストのいい文章がなかなか頭に入ってこなくなりました。イギリス、アメリカの子どもたちなら、むしろ笑うところなのかしら。

アカシア:p75についてはニャニャンガさんが教えてくださいましたが、ルールーがとびこんだ段ボールには、本も入っていたので、漆喰の飾りが落ちてきたときにつぶされずにすんだ、っていうことなんですね。そこはそう書いておいてもらったほうがよかったかも。あと、p136の「ミーブ」は「メーブ」の誤植ですね。

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エーデルワイス(あとから追加):イラストがふんだんにあり、絵を見ているだけで楽しく、物語が伝わってきました。前半は白黒の映像にナレーターが語っている感じが、中盤からカラーに変わって生き生きしたような印象です。黒ネコのモーガンを中心にネコたちが活躍して、第二次世界大戦中のロンドンなのに明るく感じられました。
全体的にさらりとした展開なので、ブックキャットの仕事のエピソードを、も少し具体的に書いてほしいように思いました。
私の知っているネコのエピソードです。小春日和の気持ちのいい午後、私の母が背の高い草原を通りかかると、何やらゴニョゴニョと声がします。草の間からそうっとのぞいてみると、7、8匹のネコが頭を真ん中の一転に寄せて丸く仰向けにお腹を出して寝ていたそうです。
なんと無防備な姿!「いい天気ですなあ」なんて、世間話でもしていたのでしょうか。あんまりおかくて母が笑い出すと、ネコたちはたちまち風のように散っていなくなってしまったそうです。昔は家ネコも自由に外出して家に戻っていたように思います。
ノラネコや家ネコたち、一緒に定期的に集会を開いていたのでしょう。

(2024年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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アリババの猫がきいている

世界の民芸品に囲まれたペルシアネコ
『アリババの猫がきいている』
新藤悦子/作 佐竹美保/絵
ポプラ社
2020

エーデルワイス:おもしろく読みました。「難民」がテーマなんですけど、「難民とは」と声高に言わなくて、その内容に好感を持ちました。ペルシャ猫のシャイフと世界の民芸品との会話など自然で新鮮でした。p37の8行目に、「かしこい猫は人の心をかんたんにつかんでしまいます。」とか、p63の3行目「人間は言葉で遊ぶくせがあります。」、p64の6行目、「…猫も人間もわがままでなくちゃ」など、心に染みてくる言葉がたくさんあります。「ひらけごま」の亭主石塚さんのレモネードがよくでてきますが、先日香川産の有機レモンで作ったレモネードを友人にごちそうになりました。とっても美味しくて、厚切りのレモンの皮をバリバリ食べました。その味を思い出しました。「こどもの本」(024年6月号 日本児童出版協会)掲載の三辺律子さんのエッセイに引用されていた東京大学教授の梶谷真司氏の哲学対話についての言葉「理論だけで考えていると、平等や対等になろう、差別をなくそう、異質なものを受け入れよう、相互理解や相互承認、寛容さが大事だ、そのため対話が必要だ、など、いろんなことが言われます。けれども、それらは単なるお題目ですが、具体的にどうすればそういうことができるのか分からないままです。それでみんなで努力したり我慢して、結局うまくいかないことが多い。でも哲学対話をしていると、なぜそういうことができないのか、どうすればそれができるのか実感としてよく分かるようになります」が、本書の物語と重なりました。

アンヌ:以前読書会で別の本を読んだときに「移民の物語にはいい人しか出てこない」という指摘がありましたが、最初に読んだときは、いい人ばかりで生ぬるい物語だなと思いました。でもp25で石塚さんが集めてきたおしゃべりする物たちが、「モノ」とカタカナで書かれているのに気づいて、この物語は、人間ではなく物が語る方が主な主題なのだと思って読み直しました。伝統工芸品の中にあるその国の歴史と文化、そして戦争や政治的状況などがモノたちの言葉で語られるファンタジーというのは珍しくておもしろいと思います。ただ、最後のあとがきに出てきた地図が、とても簡略な絵だったのが残念です。読者の子どもたちも、最初にしっかりした地図があれば、このモノたちが生まれ、やってきたいろいろな国への知識が深められたと思います。

きなこみみ:登場する猫も、人も、タイルばあやや、ひも姉さんというモノたちも、とても魅力的です。佐竹美保さんの挿画の力もあるんだと思いますが、キャラクターの姿が明確に頭に浮かんできます。イラン・イラク戦争が1980年からなので、アリババはその頃に亡命したのかな、とか、その時のことをいろいろ想像しながら読みました。猫のシャイフと、どこか飄々とした店主の石塚さんが世界中から持ってきたモノたちとがおしゃべりするのを聞くのがとても楽しい。楽しみながら、自然にイラン、アフガニスタン、ペルーなどの文化と人の物語に触れていく試みがとてもいいなと思います。旅から旅に、あまり物を持たず、ひとりを貫いてきたアリババさんが、なぜそうしてこなければならなかったのかを思うと切ないんですが、石塚さんが集めてくるものたちは、そんなふうに否応なしに故郷との繋がりを断たれてしまう人たちの思いを語っているようです。
私は民博(国立民族学博物館)の近くに住んでいて、ときどき展示を見にいったりして長い時間を過ごしてしまうのですが、その時間とおなじような厚みを、この物語にも感じました。日系ペルー人のタケルと、イランからきたナグメという、日本以外の国のルーツをもつ子どもたちが出てきたのも、良いと思います。「外国にルーツをもつ子どもたちの『ルーツ』とは、『ルーツ』(roots)と『ルート』(routes)の両側面がある」(「超多様性を生きる子どもたち(特集 〈子ども〉を考える)」原めぐみ『現代思想』52巻5号/2024年4月)という考え方を最近知ったのですが、共通の歴史や祖先を持つという過去と、変遷を経てここにたどりつき、そしてこれからたどっていく子どもたちの未来という、ふたつの道筋が、この物語にはあるなと思うのです。これは、子どもの本のすてきなところだと思います。
少し気になったのは。p156のナスリーンのエピソード。「あたし、ブルカおばけになりたくない」というセリフに、考えこんでしまいました。女性への時代遅れな蔑視や自由の制限、学問の自由を奪う、という政策は確かに非難されるべきことではありますが、一方でブルカはイスラムの女性たちにとって、ひとつのアイデンティティという一面もあるのではないかなと。女性にたいする圧政をブルカに象徴させてしまうことで、ブルカやイスラムへの一元的な嫌悪などに繋がらないかと少し心配になりました。アフガンで水路を開いた中村哲氏が、敬意をもって、イスラムの教会も作っていたことを思い出します。でも、好きなところもたくさんあって、p147の「ジャングルの子どもは自分の考えをちゃんと先生に伝えて、先生はちがう考えをちゃんと認めた。すごいことです」というところ、p181で、野良猫の三毛が、シャイフに「あなたのこと、中庭の外にも出られなくて気の毒に思ってたけど、それなら、ちっとも気の毒じゃないわ」「ここにいながらにして世界旅行をしてるようなもの」というところが、とても好きです。ここではない扉をひらいて、違うことを認め合って、どんな遠くにも時間と空間を超えてとんでゆけるという物語の醍醐味がつまっているからです。

アカシア:私もきなこみみさんと同じで、ブルカは女性を束縛するものときめつけてしまっていいものか、タリバン=悪と決めつけてしまっていいものか、と疑問を持ちました。
全体としては、世界の民芸品に話をさせ、猫がそれを聞くという設定はこれまで見たことがなかったので、おもしろかったです。タイルばあやの話の中に出てきたアリぼうやが、アリババだったと最後にわかる(おとなの読者はすぐに推測できるかもしれませんが)など、物語に工夫もされています。最後にハチの巣として実際に使われたらよかったのに、とそこはちょっと残念でした。
物語の随所に、作者の考え方や、文化の多様性の視点が登場しているのにも、好感をもちました。p30の「イスラム教を重んじるバザール商人は、お金はためるものではなく流れるもの、と考えています。水がたまるとよどむように、お金がひとところにたまると世の中がよどむ、というのです」とか、p119の「人間が大変なのは、言葉だけじゃありません。たとえば、ひも姉さんが話していた国境線。なにもないところに線引きして、こっちからあっちへ勝手にいってはいけないことにするなんて、わざわざ世界を不便にしているとしか思えません」なんていうところですね。そして、民芸品が語る来歴から、それを作ったり、そこに思いをこめた人たちの物語が伝わるのも、すてきです。あとがきにもあるように、難民とか戦争を正面から取り上げるのではなく、物語を聞いて想像を広げていくことによって世界とつながれるようになっているのですね。年齢も状況も多様な人たちが登場しているのも、とてもよかったです。

ニャニャンガ:とても好きになった作品ですが、手にした時のずっしり感と、タイトルにあまり惹かれず、すぐ読む気にはなれませんでした。もうひとつ残念な点としては、世界地図はあとがきではなく、できれば登場人物紹介のあたりにあると読む手助けになると思いました。私もなのですが、本文を読みながら民芸品がやってきた場所がわかっていた方が物語により入りこめた気がします。とはいえ読み始めたとたん、世界情勢や民芸品がやってきた理由が詳しく書かれていて読みでがありました。民芸品たちが希望したとおりの幸せになるために、猫のシャイフが導いてあげる設定や、登場人物の物語もよかったです。佐竹さんの絵がとても物語に合っていて、読む楽しさが増えました。とくにピラフの場面はおいしそうでした!

アオジ:とてもおもしろい物語で、楽しく読みました。アリババと千夜一夜物語をかけているんですね。日本に渡ってきた、高価な品物ではない日常の道具に語らせるという趣向がいいですね。ラクダの頭飾りにするひもの話が、特に印象に残りました。近所のじゅうたんのお店に、探しにいってみようかしら。
移民や難民の話というと、とかくつらくて悲惨なものになりがちですが、この本なら子どもたちがすっと物語に入りやすく、最後まで読めるのではないかと思います。クラスにいる外国から来た友だちを、日本とは異なった、豊かな文化のなかで育ってきた存在とあらためて見つめなおし、もっと知りたい、もっと理解したいという気持ちが芽生えれば、難民に門戸を閉ざしがちの日本も少しずつ変わっていくのではないかと思いました。私自身、知らなかったことがたくさん出てきて、わくわくしながら読みました。
ブルカについては、私もちょっとひっかかりました。あくまでも強制するのが悪いのであって、ブルカそのものは、見かけではなく内側から神と向き会わなければいけないというイスラム教の教えにもとづいているのと同時に、砂や、きびしい日光から身を守るという実用的な側面もあり、大切にしている人たちもいるということを忘れてはいけないと思います。
ちなみに、アマゾンの古代魚ピラルクは、靴べらにできるほど大きな鱗をしていて、ピラルクの皮のハンドバッグが人気なんだとか。もちろん、ワシントン条約で捕獲が規制されているそうだけど。それから、p73の7行目にある「青いタイルくん」は「青いグラスくん」の間違いですね。(第2刷では訂正されています)

雪割草:最初は、おじさんが主人公?と思いましたが、さまざまなモノが登場し、「ひらけごま」には世代もいろいろな人が集まり、難民をテーマにしながら、楽しく読める作品だと思いました。モノの語りはそれぞれユニークで、たとえばヘラートグラスはその美しさだけでなく、戦争で奪われたものについても語っていて、子どもたちにぜひ伝えたいと思いました。中東地域は行ったことがないのですが、バザールの空気感もよく伝わってきました。モノの語りがメインですが、もう少し人のバックグラウンドの大変な面が語られてもよかったかなと思います。先ほど、地図が詳しく書かれていなくてわかりにくいという話がありましてが、もしかしたら意図的に国境を引いていないのかもと思いました。

ハル:視野が広くて、愛にあふれていて、とってもおもしろかったです。どのページか忘れてしまいましたが「幸運には運び手がいる」というのも印象に残りました。せっかくおもしろいので、子どもたちにたくさん読んでほしいと思うと、ちょっと長いでしょうか。あと、余計なお世話ですが、タイトルがちょっと凝りすぎでしょうか。それぞれの物たちの身の上話こそ読ませどころなんだと思うのですが、そこが逆に長いと感じてしまいました。ところで、p15には、シャリフは人間でいうと7歳といった記述がありましたが、この、動物の年齢を「人間でいうと」というのがよくわからないんです。どうして人間の年齢に換算するんでしょう。それから、これはもちろん、それぞれの考え方でいいのであって、否定するものではないのですが、「国境はいらない」というのは確かに素敵に聞こえますが、社会を形成する上ではやっぱり国境は必要で、国境があることが問題なんじゃなくて、諍いを起こすことが問題なんだと私は思います。動物だって群れをつくりますし、猫も、自然のままだったら、縄張りはあったんじゃないかなぁ。
それから、きなこみみさんがおっしゃった「ブルカおばけ」のところは、わたしもちょっとひっかかりました。外から見たら問題があるように見えますし、宗教を選択する自由がないことも恐ろしいですが、「おばけ」と言っていいのかどうかはなんとも……。

ANNE:もともとファンタジーは大好きなので、とても楽しく読みました。ところどころ現代の子どもたちに通じるかしら?という言い回しが出てきて、たとえばp26の7行目、「イキなのかヤワなのか」というところなど、私のような年代のものにはそれも魅力的でした。
また、p63の3行目からの「人間は言葉で遊ぶくせがあります。言葉をおもちゃにして、なにが楽しいのでしょう」という文章に、ドキッとしました。佐竹美保さんのイラストも含め、随所に印象的な言葉がちりばめられたすてきな物語です。ぜひ、子どもたちに手に取ってほしいと思います。

コアラ:今回私は選書係だったのですが、ずっと読みたいと思っていたこの本を、さららんさんの推薦でやっと読むことができました。おもしろかったです。アリババとか「ひらけごま」とか、異国的で不思議なことが起こりそうなネーミングがいいなと思いました。モノたちの物語が、とても具体的で目に浮かぶようで、行ったこともないのに異国を旅したような気分になりました。タイルばあやの願いを伝えたアリぼうやが、実はアリババだったとか、伏線が回収されるのもおもしろかったです。モノが語るこの形式だと続編もありそうだと思いました。この本を読んだあとでペルシャ猫を見たら、シャイフだと思ってしまいそうです。ぺぺとるりの結婚のお祝いのごちそうで出てくる「ひらけごま」のピラフは、サプライズ感があっておもしろいと思いました。あと、佐竹美保さんの絵も、p17の絵はユーモラスだし、よかったです。

しじみ71個分:タイトルから、中東を舞台にした歴史ファンタジーのような作品かと思い、なかなか手が伸ばせなかったのですが、読んだら日本の現代物でした。タイトルが内容より重々しくて損をしているかもしれないですね。読んでみたらとてもおもしろかったです。バザール商人の考え方として紹介されている、お金はためるのではなく流れるものとか、貧しい人に与えよ、お金も情報も物も流れて、世の中が活気づくというイスラム教の教えや、アラブの地方の暮らしや文化がさらりと紹介されていて、興味深かったです。イスラム教というと、どうも9.11以降、テロや何かと結び付けられたこともあって、日本では良くないイメージでとらえられているような気もしますが、この本はアラブ世界の深くて豊かな文化があることを伝えてくれて、固まりがちな思い込みを易しい語り口でほぐしてくれるところがとても良いと思いました。
アリババの猫のシャイフは、1週間のあいだ、世界の民芸品を売る石塚さんのところに預けられますが、夜な夜なモノが語ります。モノに言葉を与えてしゃべらせるのは、当事者をそのまま描くのではなく、モノを間に挟んで少し距離感のある第三者の視点で語られるので、物語として穏やかに伝わるような気がします。夜に語るというと、『千夜一夜物語』や、シリア出身のラフィク・シャミの『夜の語り部』(松永美穂訳 西村書店)を思い出しますが、夜に詩や物語を語る文化があるのでしょうね。登場人物もほぼみな優しくて、温かくて、読後感がとても良いです。異文化に対する興味をやさしく喚起する新藤さんは、とてもうまい書き手ですね。
「青いガラスくんのはなし」でブルカが否定的に描かれている点については、私は逆に新藤さんがアフガンから逃げてきた人に実際に話を聞いていり、インタビューしたりしたのに基づいているのではないかと思いました。タリバン政権下で少しずつ女性たちの生活が締め付けられて行く当事者の受け止め方がよく分かると思いました。当事者に話を聞いたらこうなるのかなと思ったので。いちばん、かわいそうなのはアリババさんかなと。最初と最後にだけ登場してきて、ひとりで寂しく出張に行って来て、その間、シャイフはモノや人と交流していて。アリぼうやがアリババだとわかって話の深い伏線が回収されますが、その間は出番がなくて寂しかっただろうなと思います。アリババさんの詳細はこれから掘ればまだたくさん出て来そうなので、もしや続編があるのかなと気になりました。あと、「タイルばあや」の言葉はちょっと気になりました。「ばあや」という言葉は、働いてくれる使用人のおばあさんを、世話される子どもが呼ぶときに使う言葉のような気がしたので…… なぜ「ばあさん」「おばあさん」ではなく「ばあや」にしたのかちょっと不思議に思いました。

さららん:今回、この本を選ぶにあたり、もう1度読み直してみました。楽しい物語だった、新藤さんは上手な書き手だ、という以前の印象が漠然と残っていたのですが、主人公のアリババがシャイフを見たとたん、「記憶の封印が解かれ」(p10)、シャイフのおかげで具体的な記憶を取り戻す物語(p212-213)だったと気がつきました。枠物語の構造をもう少し鮮明にして、感動を盛り上げることもできたとは思うのですが、このさりげなさが作家の持ち味なんだと思います。私の知り合いに、ベトナム戦争後、フランス人家族に引き取られたベトナム人の姉妹がいて、「家庭の中ではベトナム語は禁止」といわれたそうです。その子たちがベトナム語を使えたら、過去とのつながりを保てただろうに……と、思い出すたび切なくなります。「両親につれられて外国にいったアリぼうやは、知らない人たち、きいたこともない言葉の中で、いつもあの猫に会いたかった」(p11)という一文から察するに、アリババも自分の故郷とその言葉を奪われた人物で、そう思うと、やはり少し切なくなります。
そして、この物語の重要なテーマは「コミュニケーションの復活」ではないのかと思うのです。シャイフと出会うことで、アリババは失われた故郷とのつながりを思い出す。モノと人のコミュケーションは阻まれているけれど、聞き手のシャイフが登場したことで、モノの見てきたことや気持ちが読者に伝わる。そのシャイフの働きで、石塚さんたちも、モノたちの願いを結果的にかなえることになる。阻まれていたコミュニケーションを復活させる役割を持たされたシャイフの存在が、私には興味深かったです。作家はシャイフを通して、モノと人のつながりや幸せを、少しでもよみがえらせたかったのでしょう。モノの声は私たちには聞こえないし、見ただけではわからない。声を聞くには、その物が生まれた背景や歴史を知る必要があります。作家は、「タイルばあや」や「ひも姉さん」の由来を知り、歴史を調べ、聞こえない声に耳を傾けるおもしろさに自分でも夢中になって、空想を広げ、物語に仕立てていったのかもしれません。ふだんなら聞こえない声を聞くことで、この世界が全く変わって見える。単に言語が伝わる、伝わらないだけではない、本質的なコミュニケーションの喜びは、実はそんなところにあるような気がします。手触りのあるモノを通して、イスラム世界やアマゾンの日常を重層的に感じてもらえる本です。難民という言葉で括られる人たちの暮らしに思いを馳せる意味でも、子どもたちに今読んでもらえたら、と思います。

スーパーマリオ:以前、『イスタンブルで猫さがし』(新藤悦子著 丹地陽子絵 ポプラ社)を読んだことを思い出しながら、読了しました。中東に強い新藤悦子さんならではの作品で、すてきだなと思いました。人間の少年少女が主人公ではないところもおもしろいですし、冒頭、「東京のタワマン」に住む「アリババ」という「学者」など、意外な組み合わせの連続に引き込まれました。ラクダのひもとかミツバチの巣箱のふたとか、日本の日常にないものが、生い立ちを語っていくところにも惹き込まれました。ただ、中盤あたりから終盤まで、ちょっと中だるみしてしまったようにも思います。モノが語る物語は、哀しみとかやるせなさとかが薄いせいでしょうか。人間だったら大変な旅なわけですが、淡白に感じてしまった部分もありました。あと、冒頭ですけれど、時間が立て続けに2回遡ります。現在から3ヶ月前、そこからさらに、「忘れていた遠いむかし」へ。小学生向けの児童書では、時間があまり遡らないほうが読みやすいと以前聞いたことがあるので、せめて遡るのは1回にして、構成をうまく組み替えることで読みやすくできないかなぁ、などと考えました。アリババと再会したときに、ネコが必ずしも喜んでくれない、キゲンが悪い感じなのは、ネコ好きとしてはリアルに感じられておもしろかったです。

(2024年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ホワイトバード

二人の子どもが白い鳥を見上げている
『ホワイトバード』
R・J・パラシオ&エリカ・S・パール/著 中井はるの訳 
ほるぷ出版
2023.11

花散里:『ワンダー』(R.J.パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)のいじめっ子が主人公、ということで読んでみたいと思いました。巻頭の「現在」で、「あまりいい理由」でなく転校したこと、「いじめた側」であったことが書かれています。そのことを正直に話したら、フランスにいるおばあちゃんが、真剣に聞いてくれて、「いい再出発できるよ」と励ましてくれたことが、まず心に残りました。いじめる側である加害者も、ある意味、成育歴のなかで「被害者」だったのではないかということで。おばあちゃんに子どもだった頃のこと、戦争があったことを聞いていくという、ストーリー展開は、『ワンダー』とは違った物語だと思いながら読みました。
ホロコーストをテーマにした作品は多いですが、中高生にはなかなか手に取られず、書架に面出しして紹介文などとともに展示していますが、読まれていないのが現状です。おばあちゃんの体験を聞いていくということが、平和な世の中を築いていくということに対して、過去の問題を知っていかなくてはならないということに繋がっていると思います。巻末の「用語解説」を載せていることも、過去の悲惨な出来事が子どもたちに伝わるのではないかと思いました。エピローグの「忘れてほしくない」という思いを伝えるために、『ワンダー』とともに並べて、子どもたちに読んでほしいと思いました。

ハル:もとがグラフィックノベルだったというので、なるほど、と腑に落ちましたが、やっぱり、コミックや映画と小説とでは、視点の置き方が違うし、アプローチの仕方が違うから、この本はコミックの手法をそのまま小説に落とし込んだようで、違和感がありました。終盤の鳥の目になって真実を見るところとか、特に。もともとの原文もそうなんだと思いますが、わかりにくいところがあったり(たとえば、お父さんがぐるぐる回して空に放ってくれるところは、いわゆる「たかいたかい」なのかなと思いましたけど、ほんとに投げてるみたいだし、「痛くないようになげてくれる」って書いてあったけど、手を放してどうやって痛くないように投げるのか、文字ではよくわかりませんでした)、訳文もこまかいところでちょこちょこつっかかってしまいました。特に、エピローグで、電話を切ったあとも主語が「おばあちゃん」になってるのは、これは、誰がどこから見てるんだ?? あとは、細かいところですが、物置に隠れているのに、みんなしょっちゅう「さけぶ」ので、大丈夫なのかとハラハラしました。

アカシア:ノベライズしたことで不自然になってしまっているところがあるように思いました。たとえば、ヴィンセントがオオカミに食われて死ぬところはあっけないし、ナチスだと思っていた隣人のラフルールさんとサラが一緒にいるのを見て、ボミエ一家が別に驚きもしないところなど、不自然です。それに、ボミエ一家が人間というより聖人として描かれているので、全体にリアリティが薄いように思いました。こういう話を読んで泣きたいと思っている人にはいいかもしれないけど。p287に「さあ、約束しておくれ、いとしい男の子。世界に忘れさせないって。正義に反する行いを見たら戦うって、声をあげるって、おばあちゃんに約束して、ジュリアン」というサラの言葉があるのですが、サラは自分は完全に正義の方に立っていて、孫息子にも戦えと迫っているわけです。たしかにホロコーストは正義に反する悪だし、子々孫々戦えと言いたい気持ちはわかりますが、これが2022年に書かれた作品だと考えると、たとえばイスラエルのパレスチナに対する暴力はどうなんだ、と言いたくなります。そういう点には目をつぶって、自分たちの被害だけを言い募る作品が、ハリウッド映画にも児童文学にも山のようにあります。アメリカでそういう作品が山のように出ることについては、そしてそれが日本で山のように翻訳出版されることに関しては、パレスチナに対してイスラエルが行っていることを正当化したり、そこから目をそらす結果になっていはしないか、と危惧しています。また、日本の人たちの目を日本の戦争犯罪からホロコーストというナチスの犯罪へとそらす結果にもなっているかもしれません。私は、そういう意味でも、また作品の完成度からいっても、これを子どもに与えようとは思いませんでした。

雪割草:読み応えがあって引き込まれました。なんで、『ワンダー』のいじめっ子を主人公にしたんだろうと考えました。あのいじめっ子が、おばあちゃんの話をこんな真摯に聞くのだろうかと意外に思いました。これは私の偏見かもしれません。おばあちゃんがユダヤ人ということは、ユダヤの血が入っている子が誰かをいじめたという事実によって、今の情勢を暗示したかったのでしょうか。わかりません。『ワンダー』と共通しているなと思ったのは、ハンサムな子が最後、オオカミに顔をズタズタにされてしまいますが、見た目よりも見えないもの、心の美しさを描きたかったのかなと思いました。でも、ヴィヴィアンは素晴らしすぎますね。隣の家同士、それぞれユダヤ人をかくまいながら、お互いを疑っていて、親ナチだと思っているところはリアルだと思いました。タイトルからも作者の平和への願いを感じますが、主人公の隠れ家での暮らしがていねいに描かれることで、何が奪われたのか、平和とはなにかについて考えさせる作品だと思いました。ノベライズ版のせいかもしれませんが、ジュリアンのもとへサラが鳥になって飛んでいく場面は、いきなりファンタジックになって驚きました。

アンヌ:同じおばあさんの物語を『ワンダー』の続きの『もうひとつのワンダー』で読んでいて、そのときはとても美しい物語だと感動したのに、今回はそうでもなかったので、なぜだろうと思っていました。みなさんのお話を聞いて、絵では説明できるところが文章化されていない、フィクションと事実の入り交じり具合がおかしいのかと少し納得しました。ユダヤ人を迫害したのはドイツ人だけではなく、ロシアや周辺国でも起きていたこと、フランス人もそこに加担したこと等については、最近は児童書でも書かれてきました。でも、今回この物語を読みながら、ユダヤ人だけが迫害されたのではなく、精神を病んだ人や身体障がい者なども、迫害されていたのだということも伝えていかなければならないと思いました。まだ十代の子供に過ぎないヴィンセントが民兵に志願して、人間を狩ること人を殺すことに快楽を感じている場面には恐怖を感じました。オオカミが出てきてファンタジー的に解決されていますが、戦時下では人を殺すのが正しとされることの異常さが描かれている場面でもあります。現在ハマスを抹殺するという目的のために避難民の人権を奪い、多くの子どもたちの死を招いているイスラエル政府の姿勢を見ると、この物語をユダヤ人迫害の物語としてだけ読むのではなく、戦争というもの異常さ、怖さを伝える物語として読んでいかなくてはならないと思うのです。

エーデルワイス:いとしい男の子=モン・シェール、いとしい女の子―マ・シェリー、わたしのお嬢さん=マ・プティット、これらの呼びかけから会話が始まると心がほかほかしてきます。サラがジュリアンに助けられ、(p82)下水道を歩いて逃げるシーンは映画のシーンのようでドキドキしました。最後の用語解説を読んで、作者は史実を参考に(「アンネの日記」など)書いたことが分かりました。読書会の中で、コミックとグラフィックノベルの違いを説明していただき感謝です。『ホワイトバード』のグラフィックノベル版を読みたいと思いました。翻訳本が出るといいですね。

西山:私も、現在進行中のイスラエルによるガザ攻撃を思うと複雑な思いでした。ホロコーストを取り上げた作品は児童文学に限らずたくさんあって、それが、皮肉なことに「これから凄惨なことが起きるぞ起きるぞ」と、そのドキドキをエンターテインメントとして消費できてしまうという問題を聞いたことがあります。この作品では、おばあちゃんになったサラが語っているのだから、彼女が生き延びるのは分かっています。まぁ、それは、子ども読者に安心を保障するやり方で,アリだとは思っています。ただ、それだけでなく、彼女のスケッチブックが、ジュリアンの連行原因ではないというのが免罪符になっていて、読者が安心して泣いて読んでいればいい,という作りになってしまっているのではないかと、大変気になります。例えば『ジャック・デロシュの日記』(ジャン・モラ作 横川晶子訳 岩崎書店)のように、読者をも追い詰めるような作品と比べて、こちらは、作品を消費した、という感じがして、すっきりしません。ヴィシー政権の過剰適応というか、フランスが背負う黒歴史は書かれてしかるべきと思います。『サラの鍵』(タチアナ・ド ロネ著 高見浩訳 新潮社)は、私は映画しか観ていないのですが、あれもヴェルディヴ事件が扱われていましたよね。サラだし、思い出さずにはいられませんでした。あと、この家族の家庭内教育はどうなっているのだと思いますね。息子にも孫にもジュリアンという名前をつけたサラおばあちゃんの家族で、どうして、いじめっ子(というと生ぬるいですが)ジュリアンを生んでしまったのか。あとから構想された続編だからそういう齟齬も出たのかなとは思いますが、人間の描き方としてどうなのかとは思います。あと、超現実的なところは、お母さんの死や、ジュリアンの死をサラに受け入れさせる役割を果たしていて、それも気になりました。結局、胸が張り裂けそうな悲しみや後悔が回避されていて、それ故に子ども読者にとってよいという考え方もあると思いますが、私は肯定的に受け取れずにいます。

シマリス:とても惹き込まれる物語で、私は仕事そっちのけで一気に読んでしまいました。以前、「今の子どもたちはハッピーエンドとわかっていないと怖がって読めない」という話が出ましたけれど、この本は、おばあちゃんが語っているおかげで、少女は生き残ったんだ、と先に知ることができて、安心して読める本だと思いました。フランスのこの地域における憲兵と民兵の違いなども興味深かったです。ただ、気になることが3つありました。まず、少女がジュリアンの死を知る場面です。鳥になってその現場へ行く妄想なわけですが、それを少女は事実だと確信を持ちすぎてますよね。おばあちゃんが語り手なので、それでいいといえばいいのですが、そこに至るまでの場面がずっとリアルなテイストで紡がれているので、いきなりファンタジックな要素というか、トーンが変わってしまうことに戸惑いがありました。2つめは、少女がジュリアンを好きになっていく部分です。こういう閉鎖的な状況だったら、誰でもこうなる可能性はあるのではないかと。だから、戦争が終わって解放されてから、彼女がジュリアンとずっと一緒に居続けるのか、どんな選択をするのか、そこが大事だなと思っていたら、ジュリアンは死んで、美化されるわけですよね。ちょっとずるいなと思ってしまいました。3つめは、p260のあたり、ヴィヴィアンが家に帰ってきて、納屋から脱出してラフルールさんに保護されている少女を見る場面ですけれど。この時点でヴィヴィアンはラフルールさんのことをナチスの味方だと思っているはずですよね。ラフルールさんに見つかってしまった!と焦るなど、ひと悶着あるはずなのに、何もなく話が進んでいるところが不思議でした。あとは余談で翻訳の部分ですけども、p198の8行目、「けったいな時間」という表現が気になりました。けったいな、は方言ですよね。ここで急に方言を使う理由がわからなかったので、ちょっと引っかかりました。

wind24 : ナチス政権ホロコーストの中、物語はフィクションですが、史実を交えた進め方はドキュメンタリーを観ているようでもありました。映像が目に浮かびましたが映画化されるそうでうね。サラがジュリアン家族にかくまわれ、隠れ家に潜み、ジュリアンと淡い恋中になっていくのは、アンネ・フランクの生活を彷彿とさせました。当時ユダヤ人を逃がすために奔走した市井の人たちがたくさんいたことも思います。「白い鳥」ホワイトバードの存在が物語りにファンタジー性を添えています。サラが小さな時にお父さんとやっていたお気に入りの遊びがあり、お父さんに「小鳥ちゃん」と言われていたことがもとになっています。いろいろな場面でホワイトバードが現れ危険を知らせたり、また幸せな気持ちになったりとサラの心を代弁しているかのようです。
おばあちゃんになったサラがジュリアンの名前を引き継ぐ孫のジュリアンとの会話で現在と過去を繋いでいく物語りの進め方もメリハリがあってよかったです。二度と過ちをおかさないために、起きたことを知り、語り継いでいくことが大切とのメッセージを受け取りました、中高生に是非勧めたいと思います。

アカシア:コミックとグラフィックノベルは違います。グラフィックノベルのほうは、ノベルという言葉がついていることからもわかるように、物語・小説になっています。パラシオの緻密な書き方とこのノベライズ版にはかなりの差があるように思いました。Amazonでグラフィックノベルの方のサンプル(パラシオが絵も描いている)を見てみましたが、そっちを出したほうがよかったのでは?

シマリス:日本でグラフィックノベルというと、どういう作品が該当するのでしょうか?

アカシア:JBBYでもバリアフリー図書に今回からグラフィックノベルも含むとあったので、詠里さんの『僕らには僕らの言葉がある』(KADOKAWA)というグラフィックノベルを推薦し、IBBYにも選定されています。これは高校生球児が主人公で、耳の聞こえないピッチャーと耳の聞こえるキャッチャーがバッテリー組んでお互いの距離を近づけていく物語ですね。ほかには、『THIS ONE SUMMER ディス・ワン・サマー』(マリコ・タマキ作 ジリアン・タマキ絵 三辺律子訳 岩波書店)というアメリカのグラフィックノベルもJBBYの「おすすめ! 世界の子どもの本」で紹介しています。こっちは、子どもと大人の狭間にいる思春期の少女がひと夏の間に感じたさまざまな思いを、グラフィックノベルならではの手法で絶妙に表現しています。

雪割草:パレスチナやガザについてフィクションの作品がないのは、私もとても残念に思います。

アカシア:空襲や飢えなどもろに暴力にさらされている中では、当事者が、特にノンフィクションを書くのは難しいでしょうね。事実をきちんと調べたりする余裕がないでしょうし。パレスチナの詩の本は出ていますね。日本ではホロコーストの物語が夏になるとたくさん出ますが、それが現在のイスラエル政府の態度の免罪符になってしまっているような気もします。読者も、あれだけひどいことをされたと知ってユダヤ人への同情は生まれはしても、そんな人たちがガザの一般市民や子どもたちを虐殺していることは知らないですませている。ネタニヤフやイスラエル政府は、「ホロコースト犠牲者の国」というイメージを国内外で宣伝して自国の利益につなげることには熱心でも、そこから自分たちも学ぶべき教訓だとは思っていない。だからホロコースト同様のジェノサイドをパレスチナに対して行おうとしている。子どもの本は、もっとパレスチナの声を今は伝えるべきだと私は思っています。

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さららん(メール参加):孫のジュリアンと、80歳を過ぎてパリでひとり暮らしするおばあちゃんの電話を通して、ヴィッシー政権時代の、フランスに住んでいたユダヤ人家族の歴史を知ることができました。あの時代のフランスで、ひとりかくまわれて、命を助けられた少女の物語はあまり読んだことがなかったので、新鮮でした。ブルーベルに象徴される自然の美しさ、それと対照的な人間の非情さ。特に学校に憲兵がやってきて、ユダヤ人の子どもたちを連れ去る場面で、サラがひとり隠れる場面、ヴィンセントが銃を乱射する場面には映画のような緊迫感がありました。
夢見がちで、自己中心的なサラは、ポリオで片足が不自由なジュリアンを見下していたのですが、その一家に命を救われ、ものの見方が大きく変わっていきます。少女の成長物語でもあれば、ジュリアンとの淡い初恋の物語でもあり、アンネ・フランクとペーターのやりとりを思い出しました。
p132の「ナチスは私から多くのものを奪ったけれど、空や鳥を盗むことはできなかった。…わたしの想像力をこわすことなんてできない」という言葉が印象的です。
いっぽうで、「ただ見たばかりの夢から、もう美しママンに会えないのだと知ったのだ」(p106)とか、ヴィンセントに殺されそうになったとき、森のオオカミが現れてサラを救うところ、ジュリアンの死を白い鳥になって目撃するところなど、超現実的な要素が多く、それをどう受け止めたらいいのか、やや戸惑いを覚えました。p266の「現在」の章で、おばあちゃんは白い鳥と一体化して、ニューヨークにとび、孫のジュリアンが平和行進に参加する様子を見ます。タイトルにもなっている、ホワイトバード=白い鳥の存在を実感あるものとして信じられるかどうか……私は少し作り物のように見え、予定調和的な部分に物足りなさを覚えました。
作者は、差別と偏見の歴史を忘れないでほしい、忘れたときにホロコーストはまた繰り返される、という強い思いがあったはずです。詳しい用語解説にも、今の子どもたちに理解してほしいというメッセージを感じます。ただ、あれほど『ワンダー』でひどいことをした孫のジュリアンが、おばあちゃんの話に心を動かされ、おばあちゃんに正義のために戦うと約束するところにあまり感動しませんでした。できればジュリアン自身が変わっていくところを、もう少し具体的なエピソードで肉付けして、描いてほしかったです。

(2024年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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マリはすてきじゃない魔女

ポチャッとした女の子がお菓子を食べながら黒猫と一緒にほうきで空を飛んでいる
『マリはすてきじゃない魔女』
柚木麻子/作 坂口友佳子/絵
エトセトラブックス
2023.12

エーデルワイス:柚木麻子さんは好きな作家なので期待して読みましたが、魔女の設定のおもしろさが今ひとつ伝わってきませんでした。伝えたい熱量を感じますが、内容を詰め込み過ぎているように思います。

アンヌ:主人公のマリはすごい魔法の力を持っているけれど、それを自分のためにしか使わない女の子です。でも、友達からはおもしろがられている。思わずリンドグレーンのピッピを思い浮かべました。子どもはそれでいいんだと作者は思っているのが題名からも伝わってくるのですが、その割に主人公の影が薄い気がします。物語の舞台や魔女たちの闘争の説明に重心が傾いているせいかもしれません。読み始めてすぐ思い浮かべたのが『バルーン・タウンの殺人 』(松尾由美著 ハヤカワ文庫)です。近未来の設定で人工子宮が普及して自然出産がなくなった世界を描いています。こちらの物語でもトランスジェンダーや同性婚、いじめ問題という現在の重要な問題が解決してしまっている近未来ということで話が進みます。でも、どう解決されたかは物語として書かれていません。その中でマリの母親夫婦や祖母の魔女たちの葛藤や、石の花と戦いという大人の話が物語の中心になっていきます。
物語はおもしろいけれど、もっと魔女と普通の人の生活が入り交じっている普段の生活が描かれていれば、同じリンドグレーンでも『やかまし村の子どもたち』(石井登志子他訳 岩波書店)のように、何度もそこに立ち戻りたい物語になるのにと残念に感じました。私はこの作者の本をとてもおもしろく読んでいて、過剰なほど食べ物がたくさん出てくるところもパワーのある文章も好きなので、今回はもう少し整理がつく形にするとか、続き物にするとか、編集のしようによっては児童書としてのおもしろさを出せたのではないかと思って残念です。でも、今後に期待したいです。

雪割草:楽しく読めましたが、おすすめはしないかなという作品でした。多様性を描いていたり、魔女になりそこなったユキさんにもちゃんと光を当てていたりするのはよかったと思います。でも、どの登場人物にも共感したり惹かれたりはしませんでした。マリは自由奔放すぎるし、モモおばあさんの「おせっかいの魔女」がどんな感じだったのかもわからなかったし、マンデリンのお城も私利私欲を満たすためのように見えました。型にはまった生き方ではなく自由でいいんだよ、というメッセージを伝えたいのかもしれないけれども、あまり説得力がありませんでした。作者は魔女の物語が大好きだったと書いていますが、魔女という設定がどのように生かされているのか、よくわかりませんでした。

アカシア:マリが自由奔放で自分も気持ちを満たすことばかり考えていたり、ナメクジがゲロを吐く歌をうたったりする。それは別にいいんですけど、それ以前にマリが魅力的な子どもだっていう描写がないので、共感しにくかったです。また魔女と人間が共生しているこの世界の成り立ちを、マリとスジとレイが、魔女歴史記念館を見学するというかたちで言葉ですべて説明しているのは、どうなんでしょうか? p121には「マデリンがお城にかくまってるよ」というセリフがあるのですが、今現在は目の前の外にモモがいるので「マデリンがお城にかくまってたんだ」と過去形にしないと変かな? 他者のことをいつも考えているより自分の気持を大切にしよう、とか、多様性を尊重しようというテーマはすてきですし、トランスジェンダーやレズビアンや韓国系の人物を登場させているのもすてきですが、物語のつくりがイマイチかと。あと私が解せなかったのは、石の花を枯らすために、魔法で出した塩をわざわざ水で溶かしてそれを石の花にかぶせたびんの中に入れ、そこに風を送って水分を蒸発させるという方法を使うわけですが、塩で植物は枯れるという話も出てくるので、それだったらそこに大量にある塩をそのままびんの中に入れればいいのでは? と思ってしまいました。ドタバタを楽しむ子もいると思いますが、物語世界のリアリティもうちょっと練っていけばもっとおもしろい話になったのに、と残念でした。

ハル:情報が多すぎて、読んでいて息切れしてしまいました。ママがふたりいて、マリはすてきじゃなくて、そのまんまで全然かまわないんですけど、やっぱり、この子はどうやってふたりの子どもになったのかというのは、避けて通れない部分というか、触れられていてもよかったのではと思います。「ユキさんゆずりの茶色の目」とあるので、ユキさんが生物学上の母親ではあるでしょう。こみいった話になるんだったら「マリはユキさんとグウェンからちゃんとそのあたりの話はちゃんと聞いている」とかでもいいと思うんですが、何かしら、ふーん、そうなんだねと思わせる一文がほしかったです。あと、p120で「グウェンダリンはわるくない」って言いますけど、その仕事を職業として選んでいるのはグウェンダリンで、ストレスを物にあたって、悪くないことはないでしょう、と思いました。

wind24:図書館で子どもたちによく借りられている人気の本です。表紙のマリはもぐもぐとお菓子を食べている太めの女の子で「すてき」とは言えないけれど、題名にある「すてき」はそんな意味ではなかったようです。「いい子」であることを求められる読者のこどもたちには、自分のやりたいことを貫くマリは魅力的で共感できます。物語の中にはすてきさを求められてそれにこたえようとして疲れるグウェンダリンママや魔女として劣等感を持ち続けているユキさんママなど、いろんなキャラクターが登場するところも、おもしろいと思いました。この本のなかではLGBTQもすっかり受け入れられていて、問題になっていた過去を振り返ったり、人々が生きやすい社会になっていることがさりげなく描かれていて興味深かったです。やや唐突さはありますが、いろんなことをテーマとして盛り込みたかったのかもしれません。奇想天外なモチーフが随所にあり、物語ならではの楽しさを子どもたちは味わえると思います。

シマリス:柚木麻子さんの一般書が好きで、いろいろ読んでます。でも子ども向けの本を出されたのを知らなかったので、今回、選書していただけてよかったなぁと思いました。とてもおもしろかったです。登場人物がたくさんいるのですが、それぞれが印象的な言葉で書かれているので、あの子はああいう子だったねと思い出しながら読むことができました。そして盛り込んでいる要素も多いですね。最初、一風変わったマリという魔女の子が成長していくような物語かと思ったのですが、そうではなくて、魔女と人間の関わり方だとか、世界の在り方を考え直す、というけっこう大きな視野のお話でした。あえて言えば、冒頭で一気に登場人物が出てきて、若干おののくというか、把握しきれないんじゃないかと不安になるので、もう少し小出しにしてもらったほうがいいのかも。意外と子どもはへっちゃらで読むかもしれませんが。

(2024年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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なりたいわたし

色とりどりのランドセルを背負った女の子たちが絵を見ている
『なりたいわたし』
村上しいこ/作 北澤平祐/絵
フレーベル館
2022

アマリリス:最初のうちは、小さくてややこしい人間関係だな、と思って読んでいたのですが、どんどん引き込まれていき、余韻が残りました。自分が子どもの頃のことを思い出しちゃったりして。わたしは誰かが去っていくのが苦手なタイプの子どもだったので、この子はとても頑張っているな、最終的に前向きになって、えらいなと思いました。ただ、同時に、終盤の展開がちょっと急かなという気もします。わたしの見落としかもしれませんが、前半に伏線が見当たらなかったので、この子は年下の子ともうまく人間関係が築けないのだと思っていたんです。こんなに慕われているとは意外でした。

サークルK:さびしんぼうの女の子が友達とどううまくやっていったらいいのか、戸惑いながら自分を見つけていくお話でサクサク読んでいけました。何と言っても北澤平祐さんの挿絵というところが素敵です! 活字も大きくて読みやすく、3年生の女の子たちってこんな感じなんだなって教えてくれるお話です。ただ千愛(ちなる)がもどかしいほどまごまごしている様子に、そんなに気を遣わなくてもいいのよと声をかけてあげたくなりました。まだ生まれて8年かそこらでこんなに気を遣って会話しなければいけないのはかわいそうだなって。名前が今風でふり仮名なしでは絶対読めない子たちばかりでしたがキャラクターの名づけも作家さんは大変だなと思いました。

ANNE:主人公は千愛ちゃん。仲良しのお友達は愛空(あいら)ちゃん・風翔(ふうか)ちゃん・麻央(まお)ちゃん。近ごろの子どもたちのお名前にちょっとビックリです。全てにルビが振ってありましたがちょっと読み難いと思いました。もう少し普通(?)の名前でもよかったかなと。逆に低学年の子たちの名前が全部ひらがなだったのは、何か意図されてるのかな? 作者の村上しいこさんの『うたうとは小さないのちひろいあげ』(講談社)から始まる短歌小説がとても好きで、YAからおとな向けのものはいろいろ読んできましたが、中学年向けのものは初めてでとても新鮮でした。私が勤務する図書館では「日曜日」シリーズも人気なので、続けて読んでみたいと思いました。

西山:すごく好き。おもしろかったです。このグレードで子どもの心理に寄り添った物語は貴重だと思います。このぐらいの年頃のリアルってこうなのだろうと思いながら読みました。千愛はほんとにめんどくさい。心の中ではいろいろな語彙で自己分析ができたりするけれど、コミュニケーションが本当にへたくそです。どうしてこの子はこんなに自己評価が低いんだろう、親には特に問題はなさそうだけど……と思ったのですが、他の3人とはちがってこの子のすごく幼い部分は、育ちのでこぼことしてあるのだろうと受けとりました。例えばp86からp88ページにかけて、千愛がまっすぐ駐車場に向かうか、4人の待ち合わせ場所の図書室前に行くか迷いながらも決断する場面など、大人からしたら大したことがないことも、千愛にとってほんとに一大事なのだと伝わってきました。子ども読者に共感されて読まれるのだろうと思います。
2年生の子から「千愛ちゃんて、かわいそうだよね」(p61)と言われるところ、あれはきつかったですね。低学年の子どももああいう人間観察はしているということなども子ども観が深まる刺激を感じました。鋭かったり、ほんとに幼かったりするでこぼこがおもしろいと思います。あと、表紙のランドセルの色が素敵ですね。現在の話なのに、表紙や挿絵が女の子が赤、男の子が黒というランドセルが描かれている本を見ると、がっかりするのですが、これはいい。おずおずと立っている千愛の赤いランドセルや服装も絶妙、物語にぴったり合ったいい絵だなと思います。

コアラ:タイトルからは、「なりたいわたし」という憧れの自分の像が高いところにあって、それとのギャップのような物語をイメージしていましたが、全然違っていて、思いがけない展開でした。主人公の女の子が、自分の頭で「なりたいわたし」を考えるところがとてもいいと思いました。p85の後ろから2行目の「まずできることといえば、みんなでいっしょに車に向かおうって、決めてあるのを、なくすこと」というのは、「なりたいわたし」を憧れの姿として考えるのでなく、身近なところから第一歩を始めるということで、それがすごくいいと思いました。それから、その前の部分ですが、後ろから4行目の「自分をしばっていることから、自分を自由にしてあげなくてはいけないと、そう思った」というのは、大人にも有効なことで、それを小学校中学年向けの子どもの本で書いているというのは、作者は、子どもの読者の読む力というものをすごく信頼しているんだなと思いました。ただ、主人公の女の子をうとましく思っているように扱っていた愛空ちゃんが、途中からなんとなく「いい子」になっちゃって、最後は「千愛のことがうらやましくて」とか言い出すのは、ちょっと都合よく作ってしまっているかな、という気がしました。

アカシア:私が小学校のころは、友だちと連れ立ってトイレに行く子はそんなにいなかったと思うし、私もひとりで行っていました。でも、こういう子はいると思うし、この年代の子どもたちのすれ違いや憧れや思いが、ちゃんと伝わってくる作品ですね。憧れの人物と同じようにするのではなく、自分は自分として考えるようになるまでのプロセスがちゃんと描かれているのがすばらしいと思います。学童クラブは東京だと親のお迎えはないと思いますが、ここはあるんですね。

花散里:村上しいこさんの作品では『うたうとは小さないのちひろいあげ』がとても印象深く残っています。中学年向けの本作品では、主人公たちが小学3年生なのだろうかと思う場面が多く、読み難い名前、経済格差を感じさせる場面の描き方などとともに違和感を覚えながら読みました。愛空ちゃんの学童の先生に対する言い方なども気にかかりました。前半と後半、最後の展開の変わりよう、ラストのところがうまく行き過ぎていて、中学年の子どもたちはどのように読むのだろうかと思い、秀作の多いYA作品と比べて読後感があまりよくありませんでした。

ハル:私は感動しました。読みながらずっと苦しかったけれど、思い返せば主人公たちと同じくらいの3年生……はもしかしたらちょっと早かったかもしれませんが(設定が4年生でもよかったのかも?)、4年生、5年生くらいになると、世の中のことや自分の心の複雑さに対応しきれなくて、いつももやもや、もやもやしてたなぁという共感を覚えました。千愛の味方になって読みながらも、ほかの3人の子たちが決して意地悪なばかりではないことは、セリフのはしばしや行動から感じられて、4人それぞれの性格やその背景とのつながりにも矛盾を感じません。とてもていねいに描かれた作品だと思いました。p40の「おとなのいやなにおい」はドキッとしました。こういった絶妙な表現もいいです。この物語に共感し、はげまされる読者は多いと思います。

雪割草:個人的にはこういう狭い人間関係のなかでの話は得意ではないのですが、子どもの視点に立って、こんなに細かなところまで気持ちに寄り添って表現できるのがすごいなと感銘を受けました。特によかったのは、主人公の「なりたいわたし」というのは、他の3人のようにアナウンサーやモデルなどわかりやすい夢ではなく、私であるところから少しずつ変わっていこうとするところで、その姿勢に好感をもちました。愛空ちゃんが千愛のことをうらやましく思っていたから、いつも怒っているような態度をとっていたというのも、親との関係のことも描いていてリアルだと思いました。今の子は、3年生で習いごとと将来を結びつけて考えるのだとしたら大変だなとも思いました。

ルパン:心理描写よりも、情景描写がリアルだと思いました。4人の仲間なのに3人掛けの席にすわるとき、いつも自分だけが違う机になってしまうこと、待ち合わせの場所に行ってもみんながいないこと、そういう時のせつなさはひしひしと伝わってきます。でも、心理描写はくわしすぎて、3年生の子どもらしくない。地の文でよけいなことを言いすぎる気がします。わざわざ解説しなくても、エピソードだけで十分たくさん伝わるのに、と。ただ、3年生の子どもが読むときは、むずかしいところは飛ばして読むだろうから、子どもにとってはそういう説明描写はあってもなくても同じなのかもしれません。

アカシア:さっきコアラさんから、愛空ちゃんがなんとなくいい子になってしまうのに違和感があったとおっしゃいましたが、愛空は、もともと意地悪な子という設定ではなく、意地悪をしたりするのも、千愛が何でも一緒にしたがるのをうざったいと思ってるからだと思うんです。それが学童が終わるときになって、本来の素直な気持ちが出てくるのでは? 村上しいこさんは子どもの心理については、とてもリアルな視点を持って書いておられるのだと思います。

(2024年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ブラックバードの歌

緑色の卵が入った巣の縁に鳥がとまっている
『ブラックバードの歌』
カチャ・ベーレン/作 千葉茂樹/訳 鈴木まもる/絵
あすなろ書房
2023

ハル:なかなか重たい展開でしたし(けがの話もちょっと怖いし)、短いお話ではありましたが、力強いなと思いました。モチーフとして、ブラックバードであることにちゃんと意味があるのがすごくいいなと思いました。だからこそ、この鳥の描写も生きてくるし、そのときの様子や音色も脳裏に広がっていくようで、共感しながら読むことができました。主人公と似た境遇、同じ体験をする読者は少ないとしても、子どもだろうとおとなだろうと、生きていればいくつもの壁にぶちあたるでしょうから、そういうときは、本能によって生きている自然や動物たちの物語に目を向けるのもいいですよね。

アカシア:私はひねくれているせいか、あざとい物語だと思ってしまいました。交通事故にあった主人公のアニーは、骨折はリハビリすればよくなると言われているのに、いじけて母親をうらんでいます。私はまずそこに共感できなかったんです。もっとひどい状況に置かれた子はたくさんいるのに、と。野生の存在であるブラックバードに人間が餌や巣の材料を持っていったりすることが肯定的に書かれていることにも疑問を感じました。また、p76には「守ってあげられなくてごめん」という言葉が出てくるんですが、それも単なる自己中心的なセリフのように感じました。アニーは立ち直るためのきっかけとして、もっと大きなショックが必要なのだと思いますが、そこにブラックバードの悲劇をもってきているのも嫌でした。ブラックバードの生態についていろいろ書かれていて、最初は歌がへただけどだんだんじょうずになってシンフォニーを完成させていく、なんていう部分はおもしろかったんですけどね。

花散里:私はとてもよい作品だと思いました。前半は交通事故でフルートが吹けなくなった少女の母親に対する思い、リハビリをする気にならないことなど、よく分からなくて読み難かったのですが、少年ノアと出会い、秘密の世界を見つけ、ブラックバードの世話をするうちに、指のリハビリや音楽に前向きになっていくところなどだんだんと惹きこまれ、ブラックバードとともに音楽を歌い上げていく姿が描かれていく後半はとても読み応えがありました。訳者の千葉茂樹さんが「あとがき」に書かれていたビートルズの名曲「ブラックバード」や、ブラックバードの鳴き声もYouTubeで聞くことができました。訳者念願の鈴木まもるさんの挿絵もとてもよいと思いました。挫折を克服し、夢に向かっていく構成は読後感もよく、子どもたちに薦めたいと思う作品でした。

サークルK:事故でけがをして夢を絶たれたと思い込んだ少女が再生していくお話と言ってしまえばそれまでなのですが、おもしろく読みました。その理由として1~33章までの各章がコンパクトにまとまっていて挿絵がシンプルながらとても的を射ていると感じられたからです。散文なのに詩のように短い文章が連なっていて流れるように読み進められました。ブラックバードの悲劇はこのお話の中核ですが、映画やミュージカルにもなった『ヒストリーボーイズ』の「バイバイ ブラックバード」という歌を思い出しました。

ANNE:まず、表紙の美しさに目を惹かれました。リアルな鳥の巣、その中に産みつけられた小さな青い卵。これはもしかしたらと、奥付を確認したら思った通り。絵本作家で鳥の巣の研究家としても知られる鈴木まもるさんのイラストでした。文中の挿絵も、物語とよく合っていて楽しめました。一章ごとの文章量がとても少なく、ちょっと散文詩を読んでいるように感じる章もありました。児童文学ではあまり読んだことのない書き方で、新鮮に感じました。

アマリリス:とてもよかったです。最近増えている詩の形式の物語に近い気がしました。短い描写でも、広がりがあります。もっとも、主人公が何に不満を持っているのか、なぜリハビリをしないのか、終盤まで明かされず、「どうして?」という思いがつきまとってしまいました。三人称だったら、その感覚が薄れたと思うのですが、一人称なだけに、主人公に感情移入できないもどかしさがありました。あと、最後に受験の曲を発表する場面、主人公が「タイトルは『バードソング』」と言います。原文だと小説の題名も「BIRDSONG」なので、曲名と題名がカチッと一致してかっこよく終わるのですが、翻訳では『ブラックバードの歌』なので、一致しないところが残念でした。

雪割草:はじめて読んで、なんて見事なんだろうと感動しました。水面にきれいな色の水彩絵の具をポトンと落としたのを眺めているような、そんな気持ちになりました。言葉の世界でありながら、色と音が心の目と耳で感じられて、鮮やかに描くことができました。これを読んだ読者は、ひとりで完璧である必要はなく、助けてくれる人や生きものがいるし、自分も誰かの力になれる、それが生きていくことと思えると思います。この作家のファンになり、いくつか作品を読みましたが、日本語版が出版された『わたしの名前はオクトーバー』(こだまともこ訳 評論社)が一番好きです。この作家が描く大人は、激しくなく好感がもてますし安心して読めます。みなさんと意見が違って恐縮なのですが、この表紙は昔の作品と勘違いされてしまう古風な雰囲気なのが、今の子には手にとってもらいにくいと思いますし、もったいないと思いました。

ルパン:おもしろかったんですけど、主人公より、母親のほうに感情移入してしまいました。親が自分のせいで子どもの才能をつぶすことになったらどんなにつらいだろうかと。でも、いつまでも被害者意識をふりかざしたり、理学療法士のルカが「リハビリをすればよくなる」と言っているのに努力をしなかったりするアニーにだんだんイライラしてきて、自分がこの子の母親だったら「いいかげんにしろ」というだろうな、と思っちゃいました。でも、最後に、アニーが音楽学校に行くためではなく、自分のためとブラックバードのためだけにフルートを吹く場面はすばらしく、すとんと腑に落ちました。

コアラ:とても素敵な話でした。最初の1行で胸をつかまれたし、美しい表現が随所に出てきてとてもよかったです。p5の「わたしには、フルートの音を目で見ることができた。音がまわりの世界に色をつけていくのも見えた」というのは、美しい比喩として読むこともできるし、共感覚の世界を描いているとも読めると思いました。つらい経験から一歩踏み出す様子がていねいに描かれていて、勇気を与える本だと思います。なかなか一歩が踏み出せずにいる人にはぜひ読んでもらいたいですね。挿絵はちょっとひっかかるところがあって、p27はベランダから外の公園を見ている絵ですが、p25の最終行に、部屋は15階とあります。15階から下を見たら、もっとずっと小さく見えているはず。ただ、カバーの鳥と鳥の巣の絵はとても魅力的で、訳者あとがきには、挿絵の鈴木まもるさんは「鳥の巣の研究家」とあるので、そういう研究分野があるのかと知りました。あと、訳者あとがきにもありましたが、ビートルズの曲や、ブラックバードの鳴き声をYouTubeで聞いてみました。メロディを口笛で吹いているようにとても美しい鳴き声でした。

西山:短さにびっくりというのがいちばんの感想です。こってりとした重くて長い作品になりそうな内容なのに。かといって、特段物語を急いでいる感じはしなかったし、むしろゆったりした印象が残ったので、おもしろい本だなと思いました。話は違いますが、鈴木まもるさんの去年出されたノンフィクション『ニワシドリのひみつをもとめて』(理論社)もおもしろかったですね。

ハル:先ほどのアカシアさんのご意見にあったように、野生の鳥に人が手を出していいのかという点は、ほんとにそうだなぁと思いました。勝手に「都会にまぎれこんでしまった弱い存在」かのように読んでしまいましたが、鳥がけがをしていたわけじゃないし、ブラックバードはロンドンの公園に普通にいる鳥なんだと思いますし、手を出す必要はないですよね。

アカシア:そこがセンチメンタルに書かれているような気がして、野生の鳥に対して失礼なんじゃないかと私は思ったのでした。

ハル:なにも手を出さなくても、観察しているだけでもお話は展開できたかもしれませんよね。

花散里:作者カチャ・ベーレン『わたしの名前はオクトーバー』を読んだばかりで、本作でも鳥のことなど、とてもよく調べて描かれているのかと思いました。

アカシア:私もその作品は好きなのですが、そっちでは、フクロウを野に放せない理由がありましたよね。そこがこの作品とは違うように思います。

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しじみ71個分(メール参加):物語から浮かぶ音のイメージがとても美しいと思いました。けがをした子どもが目標に向かって立ち直っていくというストーリー自体はかなり典型的なもので新鮮味はないという印象ですが、主人公のアニーの心情に絞り込んで、登場人物の書き込みもおそらく必要最小限にして、最後の希望の結末に向かって、まっすぐに筋が進み、短い間に完結するのでとても読みやすい形になっていると思います。著者が、自閉症の子どもたちへの物語の影響を研究したと紹介にありましたのでその点も意識して書かれたのかもしれないと思いました。また、描かれている内容は、事故をきっかけに、自分の内側に閉じこもっていた少女が、歌を失ったブラックバードに寄り添って音楽を取り戻す手伝いをしていくうちに、自分も癒されていき、希望に向かっていくというもので、共感や寄り添いをテーマにしていると思いました。コミュニケーションを苦手とすることが多い自閉症の子どもたちに伝えたい気持ちも込められているのかとも思います。鈴木まもるさんの絵も優しい味わいです。普通に読むとあっさりしすぎとか、物足りないとか思ってしまうかもしれませんが、言葉も美しいですし、画像を頭に浮かべやすいですし、共に読み合う読書に向いているのではないかと思います。読み終わったあと、Youtubeでブラックバードの声を聞いてみました。とてものびやかで美しくて、いつまでも聞いていたい感じでした。

(2024年03年の「子どもの本で言いたい放題」より)

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エツコさん

あんみつの器の上に小さくなったおばあさんが腰掛けている
『エツコさん』
昼田弥子/作  光用千春/絵
アリス館
2022.12

Wind24 : 短い章立てで、エツコさんと関わりを持つ人たちとの交流が描かれていて読みやすかったです。エツコさんにはそんな意図がなくても、出会った子どもたちが幸せな気持ちになり、前向きな行動や考えを持っていきます。エツコマジックと言ってもいいでしょうか。読み進めていくと、エツコさんが認知症であることが分かっていきますが、自分が自分でなくなる、どこにいるかもわからなくなってしまうなど、認知症の症状がリアルに書かれています。きっと寂しいし、怖い思いをする状態にあるのでしょう。またそんなエツコさんを不安の中にいながらも支え続ける娘の有子さん や孫の真名ちゃんの気持ちも、ていねいに描かれていると思いました。

さららん:認知症のエツコさん自身の体験を内側から描くと同時に、子どもたちの見るエツコさんを外側からもふんわりと描いています。ファンタジーではないのに、どこかファンタジックな感じのする作品ですね。例えば1章では、エツコさんのあとを歩いているうちに、この章の主人公、樹(たつき)の時空はふっとワープしてしまいます。ただ描写が粗いように思えるところもあり、それを読者が想像を広げるための間としてとらえるべきか、迷うところでした。あまり細かいことまで書かないで想像にまかせる、マンガっぽい文章なのでしょうか。「明里がなんとなくいってみたら、日菜はオバケでもみたような顔をしてかたまった」(p64)など、見えたものを書いている印象がありました。2章の中の「でも、まあ、宿題は火みたいにあぶなくないから、だいじょうぶかな」(p43)というセリフが、大人の私には言葉足らずのように思えましたが、子どもにとっては自然な日本語なのかも。3章の中で、航平の夢の中に出てくる男の人(エツコさんの亡くなった夫さん)と、あとで出てくる「メガネをかけた男の人」(p75)は同一人物なのか別人なのか、初めのうちわかりづらく、ぜいたくをいえば描写で少し補っておいてほしかったです。p189で、真名がおばあちゃん(エツコさん)との最初の思い出は忘れていても、「ひょっとして、このあったかい気持ちが、わたしの人生で最初の記憶なのかな」と感じる場面、懐かしい温かさとして思い出すところがとても好きです。認知症であっても、なくても、ありのままに人を受け入れることを伝える、気持ちのよい終わり方でした。

ルパン:しばらく前に読んだので、細かいところは忘れてしまったんですが、エツコさんは小学校の先生だったんですよね。退職した教員はいちばん認知症になりやすいんだそうです。そこはリアルだなあ、と思いました。

コゲラ:申し訳ないのですが、今回のテーマをすっかり忘れ(忘れること、忘れないことがテーマだったのに!)、まっさらな状態で読みはじめたので、とても難しい本でした。最初の「迷子」では樹という男の子が引っ越し先で道に迷い、認知症だといわれているエツコさんに従って歩いているうちに、前に住んでいた町の公園や、けんか別れした友だちのアパートが目の前に現れる……これはもう、超能力とまでは言わないまでも、エツコさんの不思議な力を扱った物語に違いないと、しょっぱなからミスリードされたわけです。でも、つぎの章の「雨やどり」では、小学校の教師だった記憶の中にいるエツコさんが、妹に算数を教えるのを、語り手の明里が見守っているうちに、エツ子さんが若い教師の姿に戻っていくというもので、認知症でなくても昔のことを生き生きと語っている人を見ていると、そのころの姿がまぶたに浮かんでくるということはよくあるので、不思議とかファンタジーとか言えるようなものではない。「ん?」と思いました。ところが、次の「お守り」では、エツコさんのお守りを拾った航平が、お守りに入っている写真を見てもいないのに、写真そのもののエツコさんの亡き夫が夢に現れる。やっぱり、これは不思議な話なのかなと思いつつ、「きいろい山」を読みました。これは、この本のなかではとても良くできている話で、友だちもおらず、父親に暴力をふるわれているユウトの心情が胸に迫りましたし、公園に落ちていたオオノさんを思わせるオオカミのぬいぐるみを、エツ子さんに「お友だちでしょ」といわれたことがキイとなって、ショックを受けたために抜けおちていた記憶がよみがえるというストーリーも感動的です(いささかセンチメンタルではありますが)。でも、大人の目から見ると、これってけっこう怖い話ではないのかな。ユウトが俳句と口にしたとたんに、山頭火の句が出てくるオオノさん。山頭火のことを良く知っているわけではないのですが、たしか幼いころに自死をとげた母親を目撃し、弟も同様に死を選び、自身もそういう衝動にかられることがあったと読んだことがあります。もし雨が降らず、ユウトが親も知らないまま一緒に山に行ったら……などと、余計なことを考えてしまいました。そして、最後の「エツコさん」と「記憶」の章になって、やっと「忘れること、忘れないこと」がテーマの作品だと気づいたわけです。というわけで、私にとってはテーマや内容以前に、物語の作り方、組み立て方について考えさせられた本でした。中村さんの家から男の人が出てくる場面で、私も野坂さんと同じように、ちょっと迷いましたが、野坂さんのマンガみたいな文章という言葉を聞いて、なるほどと思いました。

ハル:5章のp154あたり、窓辺のイスにすわってじっとしている夕暮れに、だんだん霧がかかっていくように過去と現在があいまいになって、その霧がだんだん晴れていって「自分のりんかくをとりもどす」(p157)、といった描写に真に迫っているものを感じ、リアルに想像できて怖くなりました。でも、認知症でなくても、いまも誰しもが何かを忘れたり、記憶にふたをしたり、書き換えたりしながら生きているのだから、何も怖がることはない、寂しがることもない、とも思わせてくれる力のある作品です。ただ、読みながら、これは児童文学なのかな? という思いも……。純文学的というか、大人だから味わえる本なんじゃないかなぁと思ったり、子どもに向けた書き方ではないのかなと思ったり。まだ、どこかそう思う気持ちもあるのですが、認知症になったおばあちゃんが、いろんなことを忘れてしまうことと、私たち(子どもたち)が小さい頃の記憶をなくしていることと、何がかわるんだろう、というところにお話をもってきたことで、児童書として成立したのかなぁ……。なんて。よくわかっていませんが。

アカシア:ファンタジーではなくリアリスティック・フィクションなんだけど、なんか不思議な空間に入り込んじゃう体験を描いていますね。『メアリー・ポピンズ』みたいに大人がそこへ連れていくのではなく、認知症のエツコさんをきっかけにして子どもはそこへ入り込んでいく。「お守り」では、全然会ったこともない人の夢を見ますが、現実ではありえないですよね。この本では現実と不思議な世界の境はどうなっているのでしょう。わざとあいまいにしているのかもしれません。「きいろいやま」はユウトの日記の1ページが白紙になる。それがどういうことなのか、意味がよくわかりませんでした。空白にした理由はどこにあったんでしょう。エツコさんは認知症で、現実の世界から抜け出してしまうことがあるけれど、エツコさんだけでなく、だれにでもそういうことってあるよね、という書き方には、とても好感が持てました。それから、作品の中にエツコさんの元先生らしさのようなものがちゃんと描かれているので、リアルに人物が立ち上がってきました。本書では、認知症を気の毒な人という視点で見るのではなく、周りの人たちもあたたかく見ているのがすてきでした。

雪割草:この作品を読んで、昔、中学生の頃に読んだ『わたしを置いていかないで』(I・スコーテ作 今井冬美訳 金の星社)を思い出しました。細かいことは覚えていないのですが、心に残っている1冊で、主人公の女の子が、アルツハイマー病の父親への喪失感を抱えながら、少しずつ前を向いていく話だったと思います。今回の作品は割と軽く、ユーモアがあり、周りの人もエツコさんが好きであたたかく見守っていて、認知症へのこういう描き方もいいなと思いました。視点が章ごとに変わるせいか、全体としてふわっとした印象になってしまっているように感じ、もう少し全体を貫くものがあってもよかったように感じました。私も、なぜ「きいろいやま」の章を入れたのか、その意図がよくわかりませんでした。「忘れること」について、認知症や幼児期健忘とならべて、ショックで忘れてしまうことの例でしょうか。それでも子どもにとっては、そう身近には起きない衝撃的な出来事に感じます。汚れたぬいぐるみもよくわかりませんでした。

エーデルワイス:とても読みやすかったです。私の文庫で小学4年生の女の子が、「認知症」についての授業を受けたことを話してくれました。老人施設の職員と教師が寸劇をして認知症について分かりやすく説明したそうです。小学校でも認知症について学ぶようになったのですね。この作品は認知症を扱った文学的作品だと思いました。「きいろいやま」が話題でしたが、私は6編どれも印象的でした。p98の、航平が真名ちゃんの家にいった場面で、「中村さんが」と航平が言っているのですが、エツコさんのことなのかと思い、読み返すうちに、真名ちゃんのことを言っているのだと気づきました。そのところが分かりにくいと思いました。

ANNE:リアルな物語の中に空想の世界が入ってくるのですが、これはファンタジーということではなく、子どもの心のなかに確かに存在する世界を表しているのですね。6つの短編中、「きいろいやま」はお父さんのDVが背景にあり、読んでいてつらかったです。認知症のエツコさんを、町の人々があたたかく見守っている様子にほっこりしました。エツコさんはきっとすてきな先生だったのでしょうね。

マリオネット:とても余韻が残る本でした。1章が謎めいていて若干つかみづらいですが、徐々に、認知症のエツコさんがクローズアップされていきます。エツコさんの側から見た世界と、孫から見たエツコさん、そして外部の人から見たエツコさん、とさまざまな角度からストーリーができているところがとてもいいと思いました。「忘れる」ということが、認知症の人だけではなくて、子どもにだってあること、そして忘れていても、それはちゃんとあったことなのだ、とわかる――そのあたりのメッセージが素敵だと思いました。なお、1章にタコが出てきますけど、同じ作者の『あさって町のフミオくん』(ブロンズ新社)にもタコが出てきたんですよね。タコが作者にとっては大切なアイテムなのでしょうか。

しじみ71個分:この本を読み終わって、「やられたなー、いい本だなー」と思いました。これまで自分が読んだ、認知症の高齢者と子どもとの触れ合いを描いた作品には、あきらめというか、寂しさを感じる悲しい作品が多くて、失われゆくものに対する気持ちが中心の話になりがちだなと感じていたところがあります。でも、この作品は、エツコさんがそれまでに生きてきた人生や元気だったときの人となりが、認知症になった後も、町の人の対応や、出会った子どもたちの反応などから読み取れます。エツコさんが学校の先生時代にどんなにまじめで優しいいい先生だったかが、それぞれのエピソードの端々から感じられました。以前にお医者さんの話を聞きましたが、認知症になったから不幸なのではなく、認知症になってもその人の尊厳が大事にされていれば、幸福な人生の最後を迎えることもできるのだそうです。介護が辛いのも、元気だった頃の家族や周囲との関係性が、病気になった後の日々を方向付けるのだということで、読みながら、そのお話を思い出しました。
町の人たちは、お世話になったエツコさんのことをよく覚えています。たとえ老いていっても人の尊厳が大事にされているという、物語の端々に滲む優しさに、ぐっと来てしまいました。エツコさんは娘にも娘の夫にも、亡くなった夫にも、孫にも愛されていて、温かな愛情がすみずみまで描かれているところがとてもいいと思いました。また、非常におもしろいと思ったのは、物語の構造がとても凝っていて、章ごとに、小学生の子どもたちがエツコさんに出会って、道に迷う、現実と非現実のあわいが曖昧になってくる、時間が逆行するなど、認知症の症状として言われるような状況を、小学生たちが逆転して体験し、そこから心の中に引っかかっていたことを思い出すというところでした。「あんみつ」の章以外、エツコさんはきっかけづくりの媒介者の役割を果たしていて、子どもたちがエツコさんの体験を追体験することで、自分の心と対話するという形になっています。とても素晴らしい着眼点だと思い、うなりました。また、この本の中では、「きいろいやま」が気に入っています。父親から殴られているユウトくんが、唯一、友情を感じるのがオオノさんなんですね。自分以外の人がそのオオノさんを「不審者」扱いすることで、どれほどユウトくんは傷ついたかを思うと泣けてきます。ずっと、お話に出てくる「ぬいぐるみ」は一体なんだろうと思って考えていましたが、犬にも見える、オオカミにも見えるボロボロのそれは、オオノさんの象徴、ユウトから見るオオノさんと、ほかの人が見るオオノさんだったのかもしれないですね。ボロボロで見捨てられたぬいぐるみを、エツコさんが「ともだちでしょう?」とユウトに一所懸命に手渡そうとしたことで、ユウトはオオノさんを友だちだと思っていたことを自覚し、オオノさんの死を受けとめられるようになります。オオノさんと山にいくはずだった日の日記が白紙になって読めないという表現は、ちょっと分かりにくかったかもしれないけれど、ショックのあまり記憶障害を起こしたり、認知を無意識に拒否したりしたのかもしれないなとも思いました。哀しさをはらんだいいお話だったと思います。最後の「記憶」の章では、孫の真名の「忘れてしまったとしても、経験したことはなくならない」という言葉にはまた泣かされそうになりました。著者が、四日市のメリーゴーランドの増田さんが主宰する「童話塾」出身と知り、ますますやられたなぁと感服した次第です。私にとってはとてもおもしろい作品でした。私は表紙の絵もわりと好きです。

花散里:認知症のエツ子さんと6章それぞれに登場する子どもたちの物語が、表紙絵、目次の文字、挿絵、裏表紙の絵とも重なり、どの章も全然、入り込めず、関心を持って読めませんでした。認知症ということをどのようにして文学として子どもたちに伝えていくか。登場人物が入れ替わっていくなかで、どのような表現でエツコさん(章によって「中村さん」という表現になり)を取り上げていくのか、ということ、さらに文体の問題、会話形式で、「—」、「……」が多用されていることなどが気にかかり、児童文学として作品を創っていくということ自体、欠けているのではないかと感じました。本書を読んで、改めて外国の児童文学と比較して、日本の児童文学をどのように手渡していくのかを考えました。

きなこみみ:認知症のエツコさんを中心に物語が展開するんですが、エツコさんという一人の老人を、さまざまな距離感で描いてあることに惹かれました。ここ数年、認知症をテーマにした物語は増えていると思いますが、どちらかというと、認知症の人を、こんな風に理解しましょう、みたいな教科書的なスタンスが多いように思います。でも、この物語に登場する人たちは、エツコさんへの距離をことさらに詰めようとはしていなくて、ひとりの人間のなかに、様々な記憶や時間軸が積み重なっていること、ランダムに自分のなかの、様々な時間があふれてくる瞬間の不思議さを、ごく自然に受け入れて描いてあることに、しみじみとしました。私にも認知症の母がいて、日々イライラしたり、振り回されてしまったりするわけですが、それでもここまでが認知症で、ここからがそうではない、という線引きなどできない感じが常にしています。
記憶や時間軸が入れ替わったり、失われたりするのは、老人だけではない。例えば、ひとつめの「迷子」も、ずっと引っ越しのときの友だちとのいざこざが忘れられなくて、あの日の友だちの冷たい眼差しが心にひっかかったまま、胸にしこりを抱えていた樹という少年にとって、その痛みの記憶は結び目のように消化できないものとして詰まってる。それが、公園、というきっかけで噴き出すんです。また、皆さんもおっしゃっていますが、印象的なのが「きいろいやま」で、家庭で、理解しあえない父親と暮らす寂しさや居場所を抱えたユウトにとって、ホームレスのオオノさんとの時間はとても大切なものだった。でも、そのオオノさんが死んでしまったことを、多分ユウトは受け入れられなかった。だから、その記憶を消してしまったんです。人間は、消したい記憶を、心の奥底にぎゅっと隠してしまうことがある。でも、つらい記憶は消化できずに、また蘇る。それが、この日記の文字が失われたり、現れたりする秘密に関係してるんじゃないかなと。勝手に日記を読んだりする両親のいやらしさにうんざりしますが、p123で、父親が「おれがなぐったのも、まあ、わるかった」と言うんですけど、どういう経緯で、だれを殴ったのか、はっきりとは書かれていない。ユウトを殴ったと思うのですが、もしかしたら、二人で出かけようとしたときに、オオノさんを殴ったりしたのかも、と深読みしたりしました。公園に横たわっていたぬいぐるみ、ぼろぼろのぬいぐるみが、傷ついたユウトの心のようで、やはり居場所がなくて死んでしまったオオノさんのようで、とても切ない。そのぬいぐるみを、そっとぬぐって綺麗にするエツコさんのいたわりや、優しさが、柔らかい光になって見える味わい深い短編だと思います。最後の「記憶」で、真名がエツコさんとパンを食べながら、胸の奥がポカポカしてくるシーンがあるんですが、「きいろいやま」の、ぬいぐるみのシーンとここは、呼応している、繋がっているように思います。エツコさんのいたわりや優しさが、この短編集のなかで貫かれていることへの回答なのかな、と。派手なところはないんですけど、日常のなかに埋もれている記憶を、そっと掬い取るような味わいを堪能しました。

ニャニャンガ:みなさんのお話を伺ううちに、こんなにいろいろ意見が分かれるとはと、興味深かったです。『エツコさん』は、子どもの本の店主さんにすすめられたのですが、読めば読むほど作品に引き込まれました。認知症のためにいろいろ忘れてしまうエツコさんを軸に、心に小さな棘がささった子どもたちのお話は、ほほえましいような悲しいような……子どもたちに読んでほしいと強く思いました。エツコさんが忘れても、子どもたちの思い出のなかに、エツコさんとの思い出が引き継がれていくのだろうと思います。
何人かの方が気になった読みにくさに関してですが、日本語としては正しくない部分もありますが、物語の語り手の子どもそれぞれの視点なのでそういうものとして、読みづらさは感じませんでした。
とくに好きなのは「きいろいやま」で、白紙に見えた日記帳に文字が見えたときはドキドキしました。オオノさんがいい人でよかったです。あまりにショックな出来事に記憶を封印していたのだろうと思います。カバーをめくると、クリームパンとあんパンが描いてあるのが個人的にはツボでした。このクリームとあんパンは、最後の物語とリンクしているのでじんとします。

さららん:お話に絵がすごく合っていると思いました。この絵が苦手な方も多かったようですが、私はこの絵が、物語の魅力をいっそう引き出しているように感じました。

アカシア:「きいろいやま」の日記が白紙になるところは、ニャニャンガさん、きなこみみさん、しじみ71個分さんのご意見を聞いて、ああ、なるほどと納得がいきました。ほかの方がどう読んだかを聞くと、自分では気づかなかったところがわかって、読みを深めることができるので、この会はありがたいです。

(2024年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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トロリーナとペルラ

木陰の草原で、子どもたちや動物たちが遊んでいる
『トロリーナとペルラ』
ドナテッラ・ヅィリオット/作  長野 徹/訳  北澤平祐/絵
岩波書店
2022.12

ANNE:いわゆる「取り替え子」がテーマのお話でしたが、ちょっと珍しいストーリーだったと思います。川のほとりに暮らす人々のことを表す「野暮らし族」という名称になかなかなじめず、物語の世界に入るのに少し時間がかかりました。まったくタイプの違う二人のお姫様の対比はとてもおもしろかったのですが、結末で二人がすんなりと入れ替わり、元々の社会で暮らしていく過程がとてもあっさりと描かれていて、ちょっと物足りない感じがしました。「野暮らし族」の人たちの暮らしぶりが、「借りぐらしのアリエッティ」の世界観に近いような気もしました。

エーデルワイス:表紙を見た瞬間に、見覚えがありました。挿絵の北澤平祐氏は、絵本や挿絵で見かけていました。今回の絵は日本的なイメージで、合わない感じがしました。優しい内容なのになかなか入り込めなくて、しばらく読み進めてようやくおもしろさがわかってきました。「日本製の義足」(p102)の言葉に日本は技術が高いのだと、誇らしく思いました。

雪割草:楽しく読みました。果物で首飾りを作るなど、子どもがやってみたい、わくわくする夢を描いているのがよかったです。もちろんお話がおもしろくなければ読みませんが、子どもの本では社会的な価値観も大事にした方がよいと思います。たとえば、トロリーナとペルラそれぞれが、野暮らし族と都会暮らしの人たちの性質を生まれながら引き継いでいて、それが好みにまで反映されていたり、読み書きを習得する能力はペルラの方が優れていたりと、こんなに環境に影響されず育つかな、一つの種族で均一になるのかなという疑問をもちました。野暮らし族も人間として描かれているので、ともすると差別的とまでは言わないけれど、偏った見方を助長してしまう恐れがあると思います。「取り替え子」の話ということですが、元の家族に戻って幸せというエンディングは、多様な家族のあり方が受け入れられている現在の価値観にも、合わないと感じました。

アカシア:出てすぐ読んだのですが、イタリアの児童文学に慣れていないせいか、あまり心に残りませんでした。今回読み直す時間がなかったので、皆さんの発言をうかがって思い出しているところです。何かあったら、あとでまた感想を言わせてください。

ハル:なんかこう、お話がふわふわしていて、タッポとかツィットとか、似たような名前も次々に出てきて、途中で、いま誰の話だっけ? とわからなくなってしまいました。いろいろと示唆に富んだお話だとは思うのですが、その割に「インディアンごっこをするふりをして、しばりつけてしまおう」(p47)といったような言葉はそのまま残っているから、後半の精神疾患の人たちが登場する場面も、そのままコメディとして扱っている感じがして、いまこの本を刊行するのはちょっと勇気がいるなというか、思い切ったなーという感じがしました。生きとし生けるもの、すべての命は尊いですが、だからといって、ゴキブリをかわいがってみたり、鳥に「虫をつかまえようとするのはよしなさい」(p40)といってみたり、自然の摂理や何かを犠牲にして生きていくことを否定するのは、生命の否定なんじゃないかと思います。まぁ、それは個人的な意見としても、原書は四半世紀以上も前に発表された作品だということですが、今もまったく古びない、とは言えないんじゃないかなと思います。アップデートされていない点に目がいってしまいました。

コゲラ:チェンジリングの伝承をベースにした物語ですね。モーリス・センダックの『まどのそとのそのまたむこう』(現在は『父さんが帰る日まで』アーサー・ビナード訳 偕成社)もそうで、大江健三郎が小説『取り替え子』(講談社文庫)の最終章「終章 モーリス・センダックの絵本」で同作とチェンジリングについて書いており、かなり前に読んだのに今でも胸に残っています。
それはともかく、歴史的には「取り替え子」は、障がいを持って生まれた赤ちゃんをそのように思ってしまった、あるいは処遇してしまったというような痛ましい側面もあるようですが、この『トロリーナとぺルラ』は、とにかく楽しくて、私が子どもだったら、時間を忘れて読みふけってしまうのではないかと思いました。翻訳の力もあると思いますが、野暮らし族の暮らし方が、とても魅力的です。作者の豊かな想像力が素晴らしい! ただ、取り替えられた赤ちゃんが、それぞれの親たちの属性を持っているのが不思議でしたが、寓話ということですから、これはOKなのかも。
気になった点が、二つだけあります。野暮らし族はトロルだといっていますが、髪や肌が黒いところから、どこかロマの人たちを思わせるところがあって、そういう暮らし方や考え方が違う人たちでも、排斥したり、戦ったりしないで自分たちの仲間に入れてあげようよという寓意はいいのですが、どこか白人の「上から目線」で書かれているような気がしました。二つめは、精神科病院から追い出される人たちのくだりで、訳者あとがきによると当時のイタリアで話題を呼んだ解放医療のことをいっているとのことですが、日本の子どもたちには理解できないのでは?

ルパン:スミマセン、わたしはまったくおもしろくなかったです。半分くらい読んだところで、これは寓話か風刺のつもりなんだろうな、ということに気づきましたが、それでも、何が言いたいのかよくわからないまま終わりました。あとがきによると、初版は1984年の作品ですよね。40年前。お姫さまは白い肌で金髪がいい、とか、今の時代にこれを出版する意味って、どこにあるんだろうと思います。批判精神があるのだとは思いますが、大人には理解できでも、子どもにはどうなのかな。ヨーロッパの「取り替え子」の民間伝承も、日本の子どもは知らないし、ひっかかるところの多い作品でした。

さららん:読み始めてすぐに、子どもの頃の愛読書『カテリーナのふしぎな旅』(エルサ・モランテ作/画 安藤美紀夫訳 学研)を思い出しました。段ボールの家に住むカテリーナとそのお人形が主人公の、とりとめない物語なのですが、それと共通するイタリアの空気を感じました。
『トロリーナとペルナ』は、社会風刺を含む寓話をどう受け止めるか、評価が分かれるところだと思います。最初に気になったのは、野暮らし族が「さらさらした金髪」のお姫様をほしがっていたところで、これでいいのかなあ?と思いました。野暮らし族のお姫様になったペルラは、赤ん坊のとき取り替えられた人間の子どもですが、プードルをほしがったり、字を書いたり、前の世界のことを知っているのが私も不思議でした。野暮らし族が保健所の犬小屋でプードルを見つける場面で、「処分されるだの、殺されるだの、そんな話はでたらめさ。そんなひどいことをする人間なんていないよ」(p28)というセリフが出てきます。かなりきつい皮肉で、読者の年齢によって解釈に差が出てくるところ。ヨーロッパでは、子どもの頃からこうやって風刺の伝統に鍛えられているんでしょうか。ちなみに呼称が話の中でいきなり変わると、ついていくのが大変です。(対象年齢層の子どもたちには、なおさらです)。「アルバ夫人」「フィオリーナ女王」が、途中で急に「お母さん」に変わったので、イメージが混乱しました。同じ建物を指しているのに「古い町の古びたマンション」(p32)が「都会のマンション」(p100)なのも同様です。犬の話やサーカスの話、精神病院の話など、いろんな要素が盛り込まれているのに、全体がからまりあって大きく動き出さないところが少し残念でした。

Wind24:イタリアを舞台にし、「取り替え子」をモチーフにしたお話です。ヨーロッパには妖精やトロルが自分の子と人間の子を取り替える昔話が多くありますが、イタリアのお話は初めてでした。イギリスの昔話では人間対トロルの対決で緊迫感がありスリル満点の場合もありますが、国民性の違いでしょうか、内容も印象も随分ちがうなぁと思いました。
人間の子ぺルラとトロルの子トロリーナが取り替えられますが、成長とともにもともと持っている性質や考え方が色濃くでてきて、お互い環境に馴染めないところなどおもしろかったです。随所にユーモアがあり風刺が効いているところも、クスクスニヤニヤしながら楽しく読み進めました。おしまいに「取り替え子」だとわかり、それぞれ元の鞘に納まりますが、その後も交流があったり、元の生活を懐かしんだり、身に着いた習慣が出てきたりするのがおかしかったです。日本の子どもたちには「取り替え子」の概念がないのでお話に入りにくいところがあるかもしれません。

ニャニャンガ:「取り替え子」の話ではあるものの、表紙や挿絵を含め、大らかでゆるい感じがおもしろかったです。トロリーナとぺルラそれぞれが、環境がちがうのに自分が生まれもった特性を持ちつづけているのは少し不思議な感じがしました。野暮らし族たちはぺルラの影響で近代化された生活になじんで幸せだったのでしょうか。

きなこみみ:私は、どうも風変りな物語に惹かれる傾向があって、この物語のわけのわからなさというか、頭を揺さぶってくる感じに、なんだろうと興味を惹かれたんです。この物語の趣向は、ファンタジーによくある「取り替え子」なんですが、妖精と人間の物語というよりは、人種やルッキズムへの眼差しが強い仕上がりで、それもまたわかりやすい図式というより、ちょっと痛いところ、ギリギリのところを突いてくる感じに、価値観が翻弄されます。
アメリカやイギリスの、良き児童文学という感じとは異質なんですね。まず、野暮らし族の暮らしって、ごみを拾ってたりして、どう考えてもあまりいい感じではないのですけど、彼らの拾っているのは人間が出しているもので、それを知らん顔してきれいに暮らしているつもりって、なんだろうね、とも思えたりする。先進国と言われる国に住んでいる人が出した大量のプラゴミを引き受けているのは、違う国の人たちだったりすることを思い出してしまうんです。
ところが、当の野暮らし族があこがれているのは、金髪のほっそりした人間で、その価値観はどこで刷り込まれているんだろうね、と思ったり。野暮らし族の人たちの美的感覚は、人間と違うらしいのに、金髪への憧れは変わらないのは変だと思うんですけど、翻って考えると、私たち日本人が読むおしゃれな雑誌の広告、ファッションや美容のそれには、北欧系の風貌の人たちが溢れているわけで、そんなことも思い出してチクリとします。巷には、整形の広告がガンガン溢れていて、鼻ぺちゃ丸顔をどうすっきりさせるか、という圧力にも満ち溢れているのは、実は変なことだけど、見過ごしてしまったりする。p22で、ぺルラが、グレイのプードルをほしいというところがありますけれど、純血種や、決まった毛色の動物がもてはやされたりすることと、優性思想って、どこか繋がってるのかもしれない。人間ならそんなことおかしいと当然思うのに、猫や犬なら、この種類で、この毛並みの子がほしい、って平気で言っちゃうのは、どうなんだろう、とか。こつん、こつん、とぶつかる要素が多くて、心にざらっと触れてくる。このあいだ、『哀れなるものたち』という映画を見てきて、子どもの奔放さというか、モノの見方が照らし出すものに翻弄され、刺激的な内容にこれまた頭を揺さぶられてきたのです。こういう、わかりにくいというか、一味違った物語も、あってもよいかも、と思って、この物語を皆様がどうお読みになるか聞いてみたかったのです。

花散里:イタリアには子どもを取り替えてしまうという寓話が多いと、長野徹さんが「訳者あとがき」に書かれており、イタリアの寓話を日本の子どもたちへ伝える、という児童文学なのかと思いながら、読みました。「野暮らし族」の色黒、ぽっちゃり、小さい子と金髪で色白、ほっそりした子。赤ちゃんの時に取り替えられて、それぞれの世界で成長していく二人の女の子が、周りに登場するユニークなキャラクターたちとともに描かれています。楽しく読める物語だとは思いましたが、装丁、文字の大きさなど中級向けに作られていることから考えると、登場人物に似たような名前が、けっこう多く出てくることや、ラストは元の家族に戻るということが、すんなり子どもたちに受け入れられるのかと疑問に感じました。「取り替え子」についてなど、設定が分かりにくく、大人は背景が理解できるから入っていけるところはあると思いますが、子どもたちはどう読むのでしょうか。物語全体を通して、引っかかるところが多かったので、日本の小学校中級の子どもたちには読みにくいのではないかと感じました。

マリオネット:金髪で色の白い人がいいとされていて、対する野暮らし族は、肌が黒めで髪がちぢれていて、という前提を読んで、今の時代にフィットしていない気がするけど大丈夫かしら?と心配になりました。読み進めると、野暮らし族がとても魅力的に描かれているし、エピソードもおもしろいのですが、やっぱり喉に刺さった小骨のように、最後まで引っかかりました。昔に書かれた本は、もちろんそのまま味わい深い古典として存在していてほしいんですけど、あえて今、わざわざ翻訳する必要がある本なのかあ、と。もっとも、あとがきを読むと、翻訳の長野さんの並々ならぬ思いは、伝わってきました。あと、文中のイラストはほんわかしていていいんですけど、装丁のインパクトが弱いと思いました。特に背表紙。図書館の棚の同じ場所を3回探してやっと見つけました。2年前の本なのに、背表紙が色あせて見えますよね。もったいないなと思いました。

しじみ71個分:最初、読んでみて、色黒で背が低くて、ぽっちゃりという身体的特徴のある「野暮らし族」の人たちについての表現がこれでいいんだろか、なんでこんなふうにわざわざ書いているのかと引っかかりました。「あとがき」を読んで、トロリーナというのは、トロルの女の子のことだったのかと、やっと分かって得心した感じです。都会生まれの子は、アシ原の暮らしの中でたくましく育って行くし、動物の声が聞けるトロルの子は都会に感化されていきますが、取り替えられたことでお互いの暮らしに影響を受けていくさまを描いているのはとてもユニークだと思いました。イタリアらしくて、とてもおもしろいなと思ったのが、精神病院から入院していた人がみんな出てくるところです。その人たちが、ペルラの教育によって都会化していった野暮らし族のかわりに、新しい野暮らし族になって自由に生きていくというオチは、実際に、1980年代に精神病院を解体して、地域コミュニティで受入れを進めていったイタリアの実際の話を元にしているのだと思いましたが、ある意味、きついブラックユーモアにも読めました。
野暮らし族の外見的特徴の描き方や、見た目のために子どもを取り替えてしまうというところも、あまり日本では見ない、不思議な、おもしろい話だと思いました。ただ、読んでいる間は、トロルという前提が頭に浮かばなかったので、野暮らし族については、違う文化を生きる人たちというよりは、いろいろできない人たち、汚い人たちという描写にも読めてしまったので、もしかしたら原作そのものがそういうスレスレの危険性を孕んでいたのかもしれませんが、もうちょっと訳に工夫があれば、現代的になったのかもしれないなとも想像しました。内容は社会風刺がピリリと効いていて、とてもイタリアらしいのだけど、挿絵のせいか、どうにもイタリアっぽさをあまり感じられないところもあって、どう考えて読んだらいいのか分からない本でした。そういう意味で、とてもユニークでおもしろかったです。

(2024年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ふしぎ草紙〜あやしくもふしぎな八つの物語

夜空に月と雲、いくつもの黒い影が浮かんでいる
『ふしぎ草紙〜あやしくもふしぎな八つの物語』
富安陽子/作 山村浩二/絵
小学館
2023.04

キマリテ: 最初の2つのお話にあまり引き込まれなくて、よくある物語のパロディーな感じがして大丈夫かなと思ったら、残りの6つが面白かったのでホッとしました。順番、これでよかったのか、あるいは、大して怖くない話が序盤にあるのがいいのかしら? 小学2年生の女の子が主人公のお話がある一方で、大人の物語もあって、バリエーション豊かなのが面白かったです。漢字が多めですが、ターゲットは中学年以上という感じでしょうか? 全体的に自然への畏怖や他の生きものとのかかわりのお話が多くて、余韻が残りました。ひとつ気になったのが、p116「ごくりと息をのみました」という表現です。ごくりとつばを飲むか、ハッと息をのむ、ならわかるのですが、これはわざとなのか、見落としなのかどちらなんでしょうね。

ANNE:あまり読んだことがない毛色の変わったお話が並んでいました。アンソロジーは好きなので楽しめました。恥ずかしながら不勉強で「草紙」と「草子」のちがいを知りませんでしたので、「草紙」をまずイメージしてしまいました。ストーリーに関係ないのですが、スズカケノキやすずかけ台という地名がいくつかの作品に登場して、あまんきみこさんの「すずかけ通り三丁目」(『車のいろは空のいろ』 ポプラ社所収)を思い出しました。挿絵の山村浩二さんは絵本作家としても著名な方ですが、この物語の雰囲気にぴったり合ったイラストで、ぞわぞわっとした恐怖感が増してくるように思いました。

花散里:富安さんはやはり上手だなあ~と思いながら、読みました。最初の章から、どんどん引き込まれて「えっ!象?」っと、いう感じで…。「あやしくもふしぎな」8つの章、どれも物語の展開が巧みで、次の章は、どんな怖いストーリーが、っと、ぞくぞくしながらも、先が読みたくなるようでした。怖い話が好きな子どもたちだけでなく、どの子どもたちにも読みやすい作品なのではないかと思いました。表紙も、挿絵も、山村さんの絵がいいですね。

かはやぎ:最初は、ちょっとゾクッとするお話なのに、どんどん怖いお話になっていきますね。最初のピアノのお話は、哀しさの漂う、いい物語で、学校を舞台にしていることから読者がすっとこの本に入っていける、見事な構成になっていると思いました。「注文の多い料理店」を思わせる「猫谷」など、名作へのオマージュのような話もいくつかありますね。
月影を掬うおばあちゃんの話を読んで、エイキンの「からしつぼのなかの月光」(『心の宝箱にしまう15のファンタジー』所収 ジョーン・エイキン 著 三辺律子 訳 竹書房)の月夜に孫娘と不思議な問答をするおばあちゃんを思いだしました。私がいちばん怖かったは「魔女の家」で、特に人形のイラストが恐ろしい。「その人形、ずっと持っていないほうがいいよ!」と、思わず主人公に言いたくなりました。恐ろしい反面、認知症のお年寄りの心のなかに入っていくところがユニークだし、作者の温かい心を感じられてよかったです。
この本を手にとる読者は、いままで起承転結のある、きちっとした物語に親しんできたと思いますが、オープンエンデッドというか「めでたし、めでたし」で終わらない物語の形を学校の怪談みたいな安手な話でなく、こういう上質な文学で知るのはとても良いことだと思います。詩人の長田弘さんが『読書からはじまる』(ちくま文庫)のなかで述べているように、本が培ってきた文化は、書かれていないことを想像する力ですから。

アンヌ:怪談や幻想文学というものは、推理小説のように大抵いったん謎の解き明かしがあるけれど、読者が主人公のその後について悩んだり、つい続きを考えたり、あれ変だなという不安感を覚えるものだと思っています。だから、この短編集も最初はホッとできる感じで始まって、だんだん怖くなっていくのだろうなと思いながら読みました。例えば最初の「ピアノ」は、怪談のお決まりの不穏な音で始まるのだけれど、美しい音楽が出てくることで恐怖が薄まります。ましてや、象が調律してほしい音を引いているという謎解きで、ますます解決したような気になってしまう。けれど、象牙の鍵盤という残酷な仕組みを考えると、象は、歯痛のような痛みを感じていたのではないかと想像してしまいます。「霧の町」は、百鬼夜行に出会う話だけれど、ちょっと怪談になりきらない。ボールも戻ってくるし。でも、霧の怖さと魅力を感じます。「猫谷」になるとちょっと怪談度が進む感じで、読者は危ないよ危ないよと異常性に気づいているのに、主人公は気にせずどんどん進んでいくところなど、先ほどかはやぎさんもおっしゃったように『注文の多い料理店』を思い浮かべました。でも、どちらかというと異界のものを食べてはいけないという、ローマ神話のプロセルピナのザクロや、日本神話の 黄泉竈食(よもつへぐい)のような感じですね。ホットケーキの描写が見事で、添えられたジャムの正体を知っても、後味が悪いどころか実においしそうでした。「月の音」は実にきれいな話でした。月をすくった池には月がいなくなるというところが、不思議な出来事にリアリティーを与えている感じがします。都会を離れて一度は月の音を聞いてみたいと思いました。「魚玉」は、少し物足りない。荘子の「胡蝶の夢」(『荘子 全現代語訳(上)』所収 講談社学術文庫)のような感じの魚バージョンですが、魚の吐き出すものというところがグロテスクで、今後、焼き魚の目玉を見るたびに思い出してしまいそうで、ゾクッとします。「魔女の家」は後半の謎解きがなんというか切ない物語だけれど、人形をもらっちゃって大丈夫なのかと読者が読後悩む仕組みが、いかにも、怪談という感じになってきています。「よろず池」は、天女かもしれないお母さんとか、天女の子かもしれないコースケがちっともこの世ならぬ感じに書かれていないのが物足りないというか残念。コースケを女の子にしたらもう少し切ない感じになったかもなどと思いました。「藤棚」はもう、まさしく怪談という感じです。不思議な尼さんが現れて「お母さんの命がつきないようにしてあげますよ」というのを読んでよかったと思いつつ、つきない命って危険じゃないかなと思いながら読み進むと、「話してはいけない」という禁忌を掛けられているのにお父さんは話してしまっているんだと読者は気づく。そこで、むすめが「誰にもしゃべっちゃだめ……」というので、娘に猫か尼が憑依したんだとぞっとする感じを受けて物語が終わる。さらに最後に「お母さん」であるおばあちゃんの死が描かれて、よかったなとホッとすると同時に、いやいいのかと愕然とするという二重の仕組みになっていて見事です。でも、もしいちばん好きなのは何かと聞かれたら「月の音」です。次の日、水をまいた畑から月のかけらを拾ってにっこり微笑むおばあさんの顔が見えてくるような気がします。

ハル:うー。ちょっと申し上げにくいのですが、私は、すごく面白かったかというとそうでもなく、ちょっと入り込めなかったです。なんででしょう。どこがというわけではないのですが、読点の位置が気になったり……あ、ここに点を打つんだな、みたいなのとか、ん? とつっかかるところもあったりして、これは読解力の問題かもしれませんが、目がすべってしまいました。「こうきたか」という斜め上の展開もあって、民話や昔話とは異なる厚みは感じましたが、なんというか、心をつかまれるものがなかったなと、私は思いました。挿し絵はとても素敵でした。

西山:さらぁっと読んでしまいました。私も「月の音」がいちばん好きでした。視覚的にも聴覚的にも、清澄なイメージがとても素敵でした。「よらず池」、たんすの引き出しにぼんやり光る布が見つかったとき、ああ天女の羽衣、と思いましたけれど、今の子はどのぐらい羽衣伝説を知っているのかなと思いました。最近、昔話や神話、伝説などをあまり知らないという学生も多いようだと気づくこともあって、今回の作品に限らず、さまざまなファンタジー作品を味わう土台としても、幼少期にたくさんの伝承文芸に触れたほうがいいんじゃないかという気がしています。

エーデルワイス:この本は絵本ではありませんが、挿絵が多くて絵も重要な役割を担っていると思いました。印象に残った言葉は、「魚玉」のp101で「…うそは、自分のためにつくもの。ホラは、人を楽しませるために吹くものだからね」とか、「魔女の家」のp144で「魔女は、町の子どもをカラスに変えていたのではなくて、このお人形を人間の子どもに変える魔法をかけていたんだな…」です。ユタカ、アリサ(人形)、トオル、コースケと、子どもの名前がカタカナなのはなぜでしょう? 「よろず池」は、羽衣伝説を思わせますが、コースケのお母さんは羽衣伝説に思わせて、実は失踪したのではと、深読みしてしまいました。コースケも良い男の子とは思えませんでした。

アカシア:どの短編も作品世界のリアリティがしっかりできていますね。私は、この作品は怪談話ではないと思っているのですが、怖くしようと思えばいくらでも怖くできるところを あえてセーブして不思議を残す作品にしているのだ思いました。
「ピアノ」で象が出てくるところで、大人の本だったらここは象じゃないな、と思いました。この象の登場で恐怖がマイルドになっています。「霧の町」 もホラーではなく、ちょっと怖いけど不思議な物語です。日常の隙間に垣間見える不思議を描いているところが、マーガレット・マーヒーの『魔法使いのチョコレートケーキ』(石井桃子訳 福音館書店)を思い出しました。「猫谷」では、私も『注文の多い料理店』を思い出しました。でも矢島さんは猫梨を食べたのに猫に変わらずにすんだのはなぜ? 「月の音」は、きれいなイメージの奥に、都会の明るさは想像力にはマイナスになることを匂わせています。「魚玉」だけは、第三者から聞いた話になっています。その話をしているのもホラ吹きと呼ばれているおじさんなので、虚実の境があいまいになっている。「魔女の家」は、ちょっと恐ろしくて、p123で「さ、こっちへおいで」というところでヘンゼルとグレーテルを思い出して怖くなりました。「よらず池」は羽衣伝説を下敷きにしているとは思いますが、伝説を知らなくても、p175からp176にかけてかなりていねいな説明があるので、子どもにもわかると思います。読者の子どもは、お母さんが蒸発したのか、それとも天に帰ったのかわからずに、逆に想像力をふくらますことができるようにも思います。「藤棚」は、猫が自分の娘なのか、という怖さと、秘密を話してしまったので死を迎えるという怖さの両方がありました。
子ども時代の私は、こういうちょっと怖い話とか不思議な話がいつまでも心に残り、そこからいろいろな想像をめぐらせていたものでした。なので、ただ怖がらせるための物語ではなく、こういう作品がもっとあるといいな、と思っています。

しじみ71個分:これは職場でも選書の候補になったのですが、怪談にしてはゾッとしない、何か中途半端な印象ということで購入しないことになった本でした。でも、タイトルは『あやしくもふしぎな物語』なので、別に怖くなくてもいいのにと思ったので、みなさんのご意見を聞きたいと思って選書させてもらいました。短編集の形になっていますが、どの話も、日常の中に見えるちょっとした怖さ、あれっ?と普段の生活の中からエアポケットに入ってしまったような、ふだん見えないものが見えてしまったようなゾクッとする感覚を描いていて、とても面白かったです。短編集ということで、『夜叉神川』(安東みきえ 著 講談社)をつい思い出して比較してしまいますが、『夜叉神川』で日常の中でふと垣間見えたのが人の悪意であるという点が違っていると思いました。あっちは、読んでいて、実は怖くて怖くてたまりませんでした。ですが、この『ふしぎ草子』は、不思議さの先に優しさや温かみが感じられました。象の幽霊が音楽室でピアノを弾くというのは大変シュールですが、象が鼻でピアノをポロンポロンと鳴らす姿に、かわいらしさや愛おしさを感じました。「月の音」では、おばあちゃんと一緒にした不思議な体験が描かれていますし、「魚玉」では、おじさんに聞いた話 というようになっていて、富安さんご自身が子どもの頃に、おばあちゃんや親戚のおじさんに、ちょっと怖い話を聞いた体験が反映されているのではないかと思いました。「人をだますのがうそ、人を楽しませるのがホラ」という茶目っ気も感じられるような気もします。盤石な日常に、非日常がちょっと顔を出したときの怖さというのは、ある意味、誰しもが感じることなのではないかなと思いました。「魔女の家」は人形が仲介する物語で、認知症のおばあちゃんの世界に入ってしまうのですが、これは出られなくなっちゃったらどうしようと思って、ちょっと怖くなりました。視点を変えるとゾクッとするかもしれない、日常をひっくり返してみるような感覚が全編から伝わって面白かったです。「よらず池」は少年たちが光る布を見つけたあと、友だちのお母さんが失踪する話ですが、羽衣を見つけられたお母さんが、天女に戻って天に帰ったのかもしれないし、実は昔キャバクラとかで働いていたときのきらびやかな服が出てきて、お父さんとは嫌々結婚したので、いいきっかけになって、とうとう家を出たのかもしれないですし、真実はまったく分からないわけで、どうとでも読み取れますよね。理由や原因が分からないことが起きるというのはままあることと思います。そういった日常の怖さを、奥底に人の温かさやユーモアをしのばせて書いてあるのが本当に面白くて、素晴らしいと思いました。

ルパン:わたしは正直言ってこの本はおもしろくなかったです。でも、みなさんの楽しい感想が聞けたので、今日参加してよかったなと思いました。 ところで、p33に2か所出てくる「見回わす」、p51に2か所出てくる「回わったり」の「わ」は要らないのではないでしょうか?

きなこみみ:自分のすぐ背後にあるような、不思議な怪しい世界。こういうのを書かせたら、富安さんほど上手い人はいないんじゃないか。五感に訴えてくる文章の構成がすごいなあと思います。デジャブのような、誰しも体験があることを手掛かりに、ふっと物語に引きずり込んでいく。例えば、「猫谷」。ナビにぽつんと表示される温泉って、いかにもありそう。そこで出されるホットケーキの、これまた美味しそうな音に触感。うっとりしたところに、「猫梨」なんていう、不協和音がぽおんと放り込まれて、気が付いたら食べてしまって引き返せない。
その次の「月の音」も、たらいに月を掬い取る、という、これ、多分、月を、たらいに水を張ったのに映して和歌を詠んだりしたことがベースになっていると思うんですが、月をひしゃくでぱりぱりと割る、というのが非常に五感に訴えてくるんですね。また、それを畑にまく。ジブリのトトロのシーンなんかも連想させます。そういう、馴染みがあったり、国民的な記憶から、うまく物語を引っ張り出して、自分のものにしている感じが、まさに自分の隣にある怪しさ、という不思議な快感、なつかしさも感じさせる面白さに繋がっているんだと思います。ぞくっとするんだけれど、この恐怖は、人間が作り出す恐怖とはずいぶん肌合いが違って、人間の傲慢とか、やりすぎとか、思い上がりを制御してくれるような、優しさにも思えてくる。それは、今の世界があまりに恐ろしすぎるからでしょうか。自分の立っている足元って、そんなに確かなものですか?この世界のもろさを、知ってますか?って、そっと背中をひっぱるように教えてくれているようです。

(2024年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ぼくの弱虫をなおすには

トレーラーハウスに住む金髪の男の子と、茶色い肌の女の子が話している
『ぼくの弱虫をなおすには』
K・L・ゴーイング/作 久保陽子/訳  早川世詩男/絵
徳間書店
2021.07

きなこみみ:恐ろしいいじめっ子と同じ校舎になるのが怖くて、5年生になりたくない弱虫の男の子の話で、同じようにものすごく弱虫だった私は非常に共感しながら読んでいったんですけど、どんどん深い人種差別の話になっていって、いい意味で思いがけない読書になりました。設定が1976年なんですね。ベトナム戦争が終結して、アメリカの敗戦が決まった年で、ある意味、アメリカが、富と強さに満ち溢れていた時代の曲がり角。「強さ」への絶対的な信頼の曲がり角、ともいえるのかもしれないと思いながら読みました。
ゲイブリエルは、ありとあらゆるものが怖くって、フリータのことを、とても強い子だと思っているのだけれど、白人なので、黒人であるフリータが抱えている恐怖には気づかないんですね。でも、物語が進んでいくうちに、フリータの抱えている恐怖のほうが巨大で、ちょっとやそっとで覆らないものだとわかってくるんです。印象的なのはp125の、ゲイブリエルが、恐怖で勢いあまってムカデを踏みにじって殺してしまうところ。軍事力の強化が、どこまで行っても終わらない、イタチごっこになるように、強さというものって、弱さとか恐怖と深く結びついていて、それが人間の古い脳が起こす反応とも結びつく、厄介なものなんだなと思ったりしました。はじめは怖がっていたクモには、名前をつけて飼っているうちに、エサになるコオロギなんかもつかまえてやったりするシーンがあるように、怖くなくなっていくんです。苦手だったフリータのお兄ちゃんのテランスも、遊んでもらったり、言葉を交わすようになったりして、怖くなくなります。「知る」ということと恐怖には強い関係があるんですね。ゲイブリエルは、差別のことを知るたびに、自分の弱さと向き合えるようになります。強さとは誰かを屈服させることではなくて、パパとフリーダのお父さんのように、お互いの弱さや不安を共有して、ネットワークを構築していくしなやかさのことなんだということが、とてもよく伝わってきて読後感も爽やかでした。

エーデルワイス:表紙の絵が好きです。そのイメージで読み進めていくといい意味で裏切られました。主人公のゲイブリエルの弱さ克服、いじめからの脱却のお話かと思っていると、ガブリエルが頼りにしている、いつも助けてくれる親友の女の子フリータの黒人差別の話になっていくところが見事です。p112、11行目のフリータのママの台詞「何やっているのかしら。知らない方がよさそうね」とありますが、二人のことを見守るフリータのママが素敵です。同様にガブリエルのママも素敵。フリータは人の善意を信じ、いじめっ子のデュークの父親に会いに行きますが、差別主義者の大人が子どもに対して「KKK」(クー・クラックス・クラン)で脅かすシーンには胸が痛くなります。人間同士が理解し合えないことや、大の大人が子どもをいともたやすく傷つけることにいったいどうしたら良いのだろうと。p243でガブリエルが「デュークとフランキーのことを考えた。二人のことはもうこわくないし、おこる気持ちにもならない。それに、かわいそうだとも思わない」と、言い切るところがよくて、読後感がいいです。

西山:ゲイブリエルが幼すぎるように感じて最初は乗れなかったのですが、まさか、黒人差別がこのように出てくるとは、びっくりしました。読めてよかった1冊でした。ゲイブリエルが「ぼくがテランスと話してみたみたいに、フリータもデュークのお父さんと話してみたほうがいいんじゃないかな。」(p174)という提案には、二重の意味でひやひやしました。話してみることの危険性と、もし「話してみればわかり合える」という展開になったら甘くていやだなと……。パトリシア・ポラッコの『ふたりママの家で』(中川亜紀子 訳 サウザンブックス社)にも、決して理解を示さない隣人が出てきますが、KKKでは次元が違うとは言え、わかりあえない他者の存在を突きつけたるところはすごいと思っています。p206の「わたしがこれまでに学んだのは、人はだれも立ち向かってこないとわかると、どんなことでもするようになるということです。しかし相手が束になって立ち向かってきたら、何もできなくなるんですよ」というフリータのお父さんのことばなど、心に留めたい大事なメッセージだと思います。ところで、「みみずをくわせる」いじめが、以前も何かで出てきましたよね。また出てびっくりです。翻訳作品で、生徒間の暴力などいじめに対する処罰の厳しさに日本との違いを感じたことが何度かあるのですが、これは1976年という時代もあるのでしょうか。

ハル:最近読んだ、人種差別を考えさせてくれる本の中で、いちばんストレートにおもしろかったです。どれだけ差別が怖いか、悲しいかを素直に想像できました。と、前置きした上で。最初は、こわいものリストを作って、頼もしい親友の力を借りながら克服していこうという、ひと夏の大冒険がはじまる予感にわくわくしたのですが、途中まではどうも目がすべりがちでした。どうして1976年の設定にしたんだろう、どうして1976年の話をいま読ませたいんだろう、最近のことのようでいて50年近く前の話なので、家のつくりとか文化のこととか、わかるようなわからないようなところも多くて、ちょっとつっかえちゃうんだよなーと思いながら読み進め、後半になったら合点がいったという感じでした。たとえば出だしに「これはぼくの子どものころの話で」とか、ちょっと回想風にしてくれたら、時代のことも気にならずに入れたのかなぁ? ちょっともったいない感じがしました。

ルパン:一気に読みました。実在の政治家や政党の名まえが出てくるところがすごいなと思います。日本の児童文学作品ではまずありえないだろう、と。ただ、ジミー・カーターのことを書きたかったのかもしれませんが、なぜ1970年代の話にしてしまったんだろう、というところが惜しまれます。KKKの恐ろしさなども、あとがきには「今もいる」とありますが、この作品だけ読んだ子は「これは50年前の話で、今のことではない」と思うのではないでしょうか。せっかくここまで書き込むのであれば、舞台を現代にして、もっと身近な問題としてとらえられたほうがよかったのではないか、と、もったいなく思います。このお話のなかで、いちばんよかったのは、ゲイブリエルの「こわいもの」のひとつであったフリータのお兄さんのテランスが、「自分で台無しにするなよ」と、フリータの「わたしがこわいもの」リストをゲイブリエルに渡すシーンです。

アンヌ:なかなかつらい年の始まりの中、ここ以外のどこかに行ける海外文学を読むのはとても楽しいことでした。この物語には、いかにもアメリカ南部らしい楽しさがあります。例えば、p58の「どんな暑さにもへこたれないオクラの実」というたとえ方。オクラは南部料理のガンボには欠かせない野菜ですよね。p100の木に登ってペカンの実を割るところも、なっている実をそのまま食べられるとは知らなかったので、うらやましい。p104やp155のフリータのママが作る南部料理も想像するだけでおいしそうだけれど、作者がメニュウをゲイブリエルの家だと3品、フリータの家だと10品と書いていて、二つの家の経済的格差を示しているのには少々喉に詰まる思いもしました。そして、注も豊富でわかりやすい。例えばp177のチェリーパイ。これが独立記念日の定番デザートなのを初めて知りました。怖い物リストに「ワニ」があるところや、「サルオガセモドキ」なんて植物が出てくるところも、アメリカ南部らしい情景だなと楽しめました。子どもたちもp114で、アメリカでは6月1日にはもう夏休みが始まっているのだということを知って驚くだろうと思いました。ゲイブリエルの両親は貧しいけれど愛し合っているし、父親は図鑑を持っていたりして向上心がある人で、「ニガー」発言に対してきちんと意見を言う。変わりつつある時代というのは、こういう一般市民が増えていったからなのだと思えました。けれど同時に、KKK団という今に続く差別し暴力を振るう人々もいて、さらに、ブラックパンサーのように彼らと戦う人々がいることも書かれています。KKKの白頭巾のように、顔を隠すことで恐怖を与えるヘイト行為の卑怯さを、暴力ではなく集会という形で表にさらしていく行動には希望を感じました。また、p162の「抑圧」という言葉が語られる章では、ゲイブリエルは最初その言葉の意味を軽いものだと思っていたんです。でも、「抑圧」とは、「だれかを無理やりおさえつけることだ」と聞いて、自分の父親から聞いた、ジミー・カーターが白人市民会議に、人種差別を続ける仲間に入れ、そうでないと倒産させると脅された話を、思い出すんです。そして、ジミー・カーターの辛さを、フリータたち黒人の側から置き換える、「まわりは敵だらけでどんな気持ちだったんだろう」という想像をして、その言葉の真の意味を捉えて、フリータの家族との連帯感が生まれます。ここで、この物語はゲイブリエルが怖さを克服するだけではなく、人間として成長していく話なんだと感じることができました。ちょっと愛という言葉で最後をまとめすぎたのは、いかにもアメリカ文学という感じで答えを言い過ぎ的な感じもしなくはないけれど、これはこれでいい物語だと思いました。

かはやぎ:最初は、弱虫をなおすために怖いものリストを作るという読者に身近な話題から入って、だんだん深くて重い、現実の怖い話に導いていくという構成が見事だと思いました。早川世詩男さんの明るい表紙も、「おもしろそうな話だな」と手に取りやすくて、とてもいいですね。ジミー・カーターなど実名をあげて、それほど遠くない、現実に起こったことを書いているところに、ある意味ショックを受けました。今の日本には、とてもここまで掘りさげた作品はないのでは? 出版社の意向や、身近なことを書きたいという作家の方たちの考え方もあるのかもしれませんが、ひとつには、日本が歴史を大切にしない国だから、児童文学として思いきってかけないのでは? 関東大震災のときの朝鮮人虐殺についても、官房長官は公文書が無いから事実かどうかわからないという趣旨のことをいうし、ジャーナリストたちが日米関係のことについて調べるときに、日本に資料がないからアメリカの公文書館で調べるというような情けない話も聞くし……。
表紙もふくめたイラストや丁寧な訳注など、とても神経の行き届いた編集だと感心しました。大人の私も、あらためて勉強させてもらいました。

花散里:黒人問題を取り上げた本としては『オール★アメリカン★ボーイズ』(ジェイソン・レノルズとブレンダン・カイリー著 中野怜奈訳 偕成社)など良いYA作品がありますが、この本は黒人問題や人種差別、アメリカの政治についてなど、文中に注がしっかりと入っていて小学生にも理解ができるように書かれているので、小学校高学年から読めると思いました。
主人公ゲイブリエルが受けるいじめ、いじめっ子の上級生デュークの父親が、親友の黒人の女の子フリータを「ニガー」と呼ぶなど、黒人差別について、そしてトレーラーハウスが集合する地域での生活についてなど、貧困、経済格差や、社会的背景も描かれていて、特にデュークの住むトレーラーなど、日本の子どもたちが知らない世界なのではないかと思いました。外国文学を読んで異文化を知るということにも繋がっていくように感じます。いじめを取り上げている章では、フリータの関り方などに希望が感じられて、読後感が良かったです。表紙はどうかと思いましたが、本文中の挿絵が良いと思いました。いろいろな問題を克服していく成長が描かれていて、子どもたちに薦めたい本だと思いました。

ANNE:主人公が住んでいるトレーラーハウスというものに馴染みがないので、うまくイメージできませんでした。キャンピングカーのように実際に走るものではないのでしょうか? ゲイブリエルがずっと5年生にならないと言い張っていて、本当に進級しないという選択肢があるような書き方だったので、アメリカでは本人の意思で留年するなんてこともありなのかしらと思いましたが、そんなことはないですよね? ゲイブリエルが受けるいじめの情景がさらっと描かれていますが、ミミズを食べさせられるなど本当にひどい目にあわされていて、心が苦しくなりました。ゲイブリエルを含め周囲の登場人物も成長しているので、「ぼく」だけではなく、みんなの弱虫がなおっていくようなイメージも持ちました。
早川さんの挿絵が本当にお上手で、物語とは別に楽しんで拝見しました。中でもニクソン元大統領の絵が、ちょっと笑ってしまうくらいそっくりでした。

アカシア:同じ著者の『ビッグTと呼んでくれ』(浅尾敦則訳 徳間書店)を読んだ時に、なんとなく男性が書いている本だと思いこんでいました。なので、長靴下のピッピタイプのフリータという少女が出てきたとき、男性の作家が女の子をエンパワーする本を書いているのは珍しいな、と思ったんです。でも、じつは女性作家でしたね。フリータが最初に登場する場面では、黒人だと定義するのではなく、顔についたチョコクッキーのくずが目立たない、という表現をしてるんですね。そこもいいなあ、と思いました。アフリカ系の強くてたくましくて大柄な女の子と、弱々しい白人のいじめられっこの男の子が親友になるという設定は、日常生活の中ではそうそうないのかと思いますが、それを敢えて出しているところにステレオタイプを壊そうという作者の意図を感じます。ゲイブリエルは、いじめの終わらせ方が分からなくて、「世界中のお金を集めて二人にわたすくらいしかないよ」と最初は正面から立ち向かう気がまったくないんですね。それが、フリータとの交流の中でどんどん視野が広がっていくのが面白かったです。なぜこの時代を舞台にしたのかというと、ジミー・カーターを登場させるためかもしれません。語り手のゲイブリエルも、人種差別に反対するスピーチをしようとどきどきしているお父さんも白人で、著者も白人だとすると、人種差別的な「白人市民会議」に町でただ一人入らなかったカーターは、勇気をくれる存在として欠かせない人物かと思いました。結果として白人の中の多様性を描いていることにもなります。
ゲイブリエルのお父さんはブルーカラーで貧しい人ですが、子どもにわかりやすく政治の話をしていることに感銘を受けました。日本の出版社の中には政治は児童文学でとりあげないように新人作家を指導している社もありますが、それって、政治に無関心な人が多くなる一つの要因かもしれません。英語圏ではいろいろな形で作品の中に政治あるいは政治への関与が出てきます。要は書き方だと思うんですよね。このお父さんの人柄は、KKKを引き合いに出して脅されたフリータを抱きしめて涙を流しながら「いい子、いい子」とささやき続けるんですね。すてきな人ですよね。
フリータが、いじめっこの住むトレーラーハウスを覗きに行くところなど、勇気があるとも言えますが、危険じゃないのかな、と心配にもなりました。前回のこの会で話に出たエメット・ティルより時代は後ですが、黒人が理不尽に殺される事件はその後も次々に起こっているので。フリータのお兄さんが自分の身を守るためにボクシングの練習をしたり、ブラック・パンサーに憧れたりするのはよくわかります。先ほどトレーラーハウスについての疑問が出ましたが、英語圏のほかの作品にも比較的貧しい人たちが住む家としてよく登場してきます。表紙の絵ではタイヤを外しています(裏表紙にタイヤが描かれている)が、タイヤをつければ移動もできるのかと思います。

しじみ71個分:第一印象では、早川さんの表紙の絵がとてもいいなと思いました。この本には、友情や家族の問題が、とても温かな視点で、やさしいことばで書かれているので、アメリカの歴史を知らない子でも、中学年くらいであれば届くのではないかなと思いました。先月の読書会で取り上げた『ゴースト・ボーイズ』(ジュエル・パーカー・ローズ 著 武富博子 訳 評論社)では、いまだになくならない人種差別の問題を、1955年に起きたエメット・ティル殺害事件から説き起こした、非常につらい物語でしたが、あの事件をきっかけにアメリカ社会が変わり始めたわけで、その変わり目の1970年代が社会背景として描かれている点に、とても興味を持ちました。白人、黒人の別なく、差別に違和感を持つ人がいる時代になったということで、ジミー・カーターの存在が大きく関わっていたということも全く知らなかったので、大きな学びがありました。差別の問題はさまざまな形で伝えなければならない問題であって、子どもたちのハートにどう落とし込むかは極めて難しいことだと思うのですが、この本は少年が恐怖を乗り越えるという自分事を解決していくなかで、友だちのこと、社会のことに気付いていくという構成になっていて、非常に巧みでいい本だと思いました。黒人のフリータの家は裕福で、白人のゲイブリエルの家は貧しいというように、経済的な面では過去と比較して、逆転構造で描かれていますが、フリータは人種差別によって苦しめられるという設定も効果的だと思います。フリータとの友情や家族の愛情に励まされて、ゲイブリエルが実態を知っていくことで怖い物への対処を知り、恐怖を乗り越えて変わっていくというこの展開は、恐怖をどう理解するか、乗り越えていくかを子どもに伝えるのにとてもいいなと思いました。子どもの成長をストレートに喜ぶ、子どもへの応援の物語だと思います。教科書的かもしれないと思わないでもないですが、「正しい」物語、正論を正論としてきちんと伝えていくというアメリカの姿勢が感じられて、好きです。こういった正論の物語を踏まえて、次の複雑なステップに踏み出していけるのではないかなと思いました。

キマリテ: アメリカの人種差別をテーマにした小説って、マーティン・ルーサー・キングの時代、もしくはそれ以前、あるいは逆にごく最近の年代のものが多いと思うのですが、この話は70年代で新鮮でした。ジミー・カーターは、子どもの頃、漠然と好感を持っていた大統領だったので懐かしかったです。KKKがどんな残虐なことをやったか、具体的な表現はないのに、恐ろしさがよく伝わってきて、秀逸だと思いました。また、人種差別ということを別にしても、苦手なもの、怖いものがある子どもに、親近感を持って読まれる小説ではないでしょうか? 序盤にリストの38項目の一覧が表示されないことが不満で、もしかしてラストにあるのかもしれない、と期待していたらそのとおりになって嬉しかったです。また、クモのジミーにエサをあげる場面がないので、ちゃんと世話をしているのか、生きている虫をあげるなんてことが弱虫のゲイブリエルくんにできるのか?と思ったら、p223で「ジミーの夕飯用にコオロギをさがしていた」と出ていて、安心しました(笑)。敢えて言えば、物語の終盤、ゲイブリエルがどんどんたくましくなってきている気がしたので、p214あたりでやっぱり5年生にならないと主張しているところで若干ずっこけたというか、もう少し本人がそう感じる背景を説明してほしかったかな、と思いました。

アカシア:訳ではp205に「うちの主人」という言葉が出てきます。たぶん多くの翻訳者が今は「うちの夫」と訳すと思うんですけどね。もちろんhusbandをすべて夫と置き換えることはできませんが、ここはできるんじゃないかな。訳語も、やっぱりどんな社会にしていきたいのかということも考えながら選んだほうがいいと思うんですよね。それから、さっきp243の「愛してくれる人がいれば、何もこわくない」というところをお定まりの結論とおっしゃった方がありましたが、これは小学生のゲイブリエルの思いであって、おとなのお父さんはp203で「KKKの存在を消すことはできない。人が恐怖を感じるものの中には、克服できない、打つ手のないものもあるんじゃないでしょうか」と言ったりもしていて、もっと胸中は複雑なんだと思います。社会制度と関わる部分もあるし。だとすると、訳者あとがきでp250「人種をはじめとした、おたがいの『ちがい』によるわだかまりは、心のもちようで、なくしていけると言えるのではないでしょうか」という訳者のあとがきは、すばらしいけどちょっと安易で気になりました。

しじみ71個分:私も最後にひとこと付けたしたいです。たしかに簡単に克服できない問題もありますが、投げ出さずに考え続けることが大事ということが伝わればいいのではないかなと思います。文中に、投げ出さないのがぼくの誠実さだという、ゲイブリエルのことばがありますが、私はこのセリフが好きです。難しい物事への向き合い方をとてもよく言い表していて、本当に大事なことだと思いました。

(2024年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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にわか魔女のタマユラさん

普段着の魔女が黒猫といっしょにホウキに乗って空を飛んでいる
『にわか魔女のタマユラさん』
伊藤充子/作 なかしまひろみ/絵
偕成社
2022.10

シマリス:ほんわか、ユーモラスな場面が随所にある楽しい物語でした。特に、タマユラさんをハトだと思い込んでしまうカレー屋の店主さんがかわいかったです。これは、「おみせやさんシリーズ」の1冊なのですね。このシリーズを他にも読んでみたいと思いました。ただ、余計なツッコミかもしれませんが、ネコにミネストローネを飲ませるのは、現実世界ではやってはいけないことなんですよね。ミネストローネには通常タマネギが入っていますが、ネコはタマネギ中毒で大変なことになってしまいます。だったら、ネコがエサには見向きもせず自分からミネストローネを飲んじゃう、というようなファンタジックな展開にしたらよかったのにと思いました。

 ニャニャンガ:喫茶店が舞台でおいしいものが出てくるし、不思議なようすもあり、安心して読める楽しい作品ですね。子ども楽しい読書体験ができるんだろうなと想像しました。ただ、それ以上でもそれ以下でもないなという印象です。

ルパン:楽しく読みました。今回みんなで読んだもう1冊がとても重くてつらいお話だったので、バランス的にもよかったです。主人公はどうして「タマユラ」さんっていう名前なんでしょうね。

きなこみみ:「たまゆら」って辞書でひくと「幾つかの球が触れ合って出すかすかな音の形容だと解釈されている。」「(振り返って思い起こせば)その状態が、ほんの短い間の、はかないものであること。わずかな時間の意味」(新明解国語辞典)とあります。古文の用例で使われていることが多いです。

アカシア:私が調べた中には、「魂が揺れる」というのもありましたよ。

さららん:安定したお話づくりだなって、思いました。名付けによって、魔法が使えるようになるのも定番で、中学年の子どもたちが楽しく読める本なのだと思います。ただすごく新しい感じはしなくて。描写が何か所か、少し粗いように感じました。例えばp12で、「ポン、ポン、ポン、ポン」と、何かがカバンから飛び出すのですが、鍋とほうきと、植物と猫がポンポンという擬音で出てくるかなあ。挿絵のおかげで、状況はよくわかるようになっていますが。またp138で、タマユラさんは野バラのしげみに落ちて、トゲのせいで傷だらけになりますが、ここもトゲの出し方がちょっと唐突な気がします。実はいちばん考えこんでしまったのが「バタチキカリ」の章。ハトがタマユラさんのお店にやってきて、バタチキカリを食べたがっているおじいさんの話をします。そして、タマユラらさんがまずそのバターチキンカレーを作るのですが……ハトも鳥ですよね? 鳥が鶏のカレーのことを知らせにくるかなあ……豆のカレーじゃ、だめだったんでしょうか。ハトが食べられることはないと思うのですが、妄想に悩まされました。

ネズミ:さらっと読みました。3、4年生の読み物としては、こんなふうに明るく楽しそうなものが喜ばれるのかなと。クラゲの章で、探している女の子の家がすぐ近くだったり、ヨルさんをさがしにいく章で、落ちたところですぐにヨルさんに会えたり、都合よくいくところがポツポツありましたが、そういうものなのかと思いながら。ただ、表紙の絵で、カバンの口があいているのは、よいのかなと疑問でした。あいていても物は入るのだろうかと気になりました。奥付の絵では閉まっています。

しじみ71個分:楽しいほんわかしたお話で、読みやすかったです。ジェンダー的に問題ありの感想だと自分でも思いますが、表紙も柔らかい色彩で、「小学生の女の子たちが喜びそうな感じ」じゃない?と、つい思ってしまいました。「ふしぎすてき」というタマユラさんの決まり文句もちょっとかわいいですし、猫やてんとう虫、おまけにほうきやカバンまで、にわか魔法で会話できるようになり、それで問題解決していくというのもいいです。また、タマユラさんが、「わたしは魔女のものをあずかっているだけのおばさんです」とおばさん宣言するのも親近感がわきます。ヨルさんが帰ってきて少女になってパンケーキ屋さんを手伝うのも明るい終わり方でいいですね。楽しいなあと思って終わりました。はい、そんな感じです。

雪割草:楽しく読みました。ただ、子どもの読者が親しめるかどうかは少し疑問です。私も小学生のとき、「わかったさん」や「こまったさん」のシリーズを好きで読んでいましたが、メアリー・ポピンズのようなバッグを持って、ジジのような黒猫がいて、たまゆらさんは30代でしょうか、喫茶店も昭和っぽく、子どもの読者にとってはおばさんに感じるかもしれないと思います。ノバラの上に落ちる場面は、大変なことになっちゃったと思いましたが、大丈夫だったようで驚きました。

きなこみみ:さらっと読みやすい作品で、タマユラさんが、黒猫だけではなくて、道具にも、カラスやハトにも名前をつけて友だちになっていって、それぞれに居場所ができるっていうのが物語のいいところかなと思って読みました。いちばん好きなところは、タマユラさんがいろんな動物たちと友だちになるんですけど、使い魔のネコですらしばらない。ヨルさんは、魔女らしく、魔女として、というところにこだわって、自分をそのなかに閉じ込めていたように思うんですが、最後にそんな思い込みから解放されるのもいい感じです。気になったのは、クラゲを水ごとカバンに入れて運ぶところがあるんですが、海水をそのままカバンに入れたら、臭いし、あとが大変なことになるんでは、と思ったところと、タマユラさんは、ヨルさんに魔力を分けてもらったんですよね。それで動物やいろんなものたちとも話が出来るようになったのに、ヨルさんはそんなタマユラさんがうらやましい、と思うんです。ヨルさんは、自分の魔法では動物たちと話せなかったのかなと、その設定が気になりました。でも、子どもたちも楽しめる楽しい作品だと思います。

アンヌ:私も、黒カバンはメアリー・ポピンズの絨毯のカバンに似てるなとか、名前が支配するという考えは、日本の平安時代やル・グィンの「名前の掟」(『風の十二方位』ハヤカワ文庫)とかにもあるなあ等と、最初はあれこれ難癖をつけながら読んでいたのですが、昭和の喫茶店のようにお茶とお菓子をサービスしてくれたり、おいしいカレーの作り方を鍋が覚えていてくれたり、この物語の世界は居心地がいいので深く考えないで楽しく読んでいきました。ただ、なんというか大団円というか、最後にもう少し一種の謎解きのような盛り上がりがほしかったな。ヨルさんがいきなり少女になって現れるのなら、その正体とか、どうして魔女になったのかとか、何か納得のいく説明で終わってほしかったと思います。

wind24 : お話の中に出てくるモチーフは身近にあるものばかりなので、子どもたちも読みやすいのだろうと思います。魔女のヨルさんの道具を受け継いだタマユラさんがそれぞれの道具に名前をつけると道具が魔力を持つところは、昔話の中でも魔力のある登場人物の名前を当てるとお話が展開するパターンがあるので興味深いと思いました。おしまいのところでおばあさんと思っていたヨルさんが若い女の子で登場しますが、それには疑問が残りました。かわいいおばあさんで登場してほしかったな。全体を通して、道具に頼ってお話が進む印象があり、何をテーマにしているのか、子どもに何を伝えたいのかが掴めませんでした。

きなこみみ:だれを対象にしたのかわからないというのはどういうことか、もうちょっとくわしく教えてもらっていいですか?

Wind24:タマユラさんは30台後半の大人ですよね。それで、子どもが気持ちをよせられるんだろうかと疑問に感じたんです。

アカシア:たしかに楽しいお話で、私もさらっと読んだのですが、佳作ではあるけれど傑作とは言えないかと。お話にあまりオリジナリティがないという点と、文章がありふれていて、「立っていない」という点が残念です。それと、ご都合主義(子どもだまし)的な箇所もいくつか見受けられました。たとえばマサラさんですが、いつも通っていたカレーの店のマスターで外国ルーツの人なら、おぼえているのではないかと思いました。それに車椅子だったのに、急にしゃきっと立ってカレーを作り始めたりします。ヨルさんの存在も今ひとつよくわからない。物語世界がもう少しきちんと構築されていたらよかったのにね。子どもに楽しいのはいいですが、作る方はもう少しきちんと作ってほしいです。

ハル:私もみなさんにうかがいたいと思っていたんです! ハトがバタチキカレ(バターチキンカレー)というところ。こういった、動物と会話ができる系の物語の中の食事に、動物、特に同じ種類の肉が出てくるのは、なんというか、アリなものですか? そのほかは、全体的にホッにわかとするお話で面白かったのですけれど、いまどき、魔女=腰の曲がったおばあちゃんというのがお決まりのように描かれているのはどうなんだろうと思いましたし(読者は魔法少女系のお話にもいっぱい触れているでしょうから)、ラストでその正体は若い娘さんだったとなったらなったで、なんでおばあさんのままじゃダメなの?と思うし、天邪鬼のようですが、どういう意図でそういう設定にしたのかな?と不思議に思いました。

エーデルワイス:サークルKさんが、安房直子に師事した作者だと教えてくださり、安房直子ファンとしては読む前から興味を持ちました。タマユラさんの名前も古風で好きです。植物の名前や木、モッコウバラ、クスノキと具体的に固有名詞を出すところ、キンツバ、オハギなど子どもたちが具体的に名前を知るきっかけになるだろうと思われ、好感が持てます。

サークルK: この本を選んだのは安房直子さんのお弟子さんということで興味がわいたことと、もう1冊の『ゴースト・ボーイズ』があまりにつらい内容なので、両方を読んだら気持ちのバランスを取ってもらえるのではないかと思ったからです。物語そのものはかわいらしい挿絵に助けられているところが大いにあり、古風なタマユラさんや相棒の黒猫キンツバ、カラスのオハギがほんわかとページに登場するたびに心が明るく温かくなりました。
バランスをとるという気持ちが先に立ち、テーマ「生きている人にしかこの世界を良くすることはできない?」を後からやや苦し紛れに考えたので、メンバーのみなさんから質問が出たのは無理もなかったかもしれません。「生きている人にしかこの世界を良くすることはできない」(『ゴースト・ボーイズ』p226)をそのまま引用しました。今生きている私たちがお互いへの「怖さ」を乗り越えて、「怖さ」をなくすことができないにしても問答無用の身勝手さで相手の命を奪うようなことを決してしてはならない、という警句にうなずくのもさることながら、本書に登場するような言葉を持たない動植物や無生物の台所道具たちがタマユラさんの力になり、身の回りの困りごとを解決していくというありえっこないファンタジーにひそむ救いも見過ごせないのではないかと思います。自分の力ではどうすることもできない災害などにあった場合、ふだんから使いなれている道具や目に入る植物や動物たちが心を落ち着かせて和ませてくれるという時間はあると思います。今回のテーマにはそんな気持ちを込めました。

(2023年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ゴースト・ボーイズ〜ぼくが十二歳で死んだわけ

『ゴースト・ボーイズ〜ぼくが十二歳で死んだわけ』
ジュエル・パーカー・ローズ/作 武富博子/訳
評論社
2021.04

ハル:胸の痛くなる事件で、読んでいて心臓がばくばくしましたし、つらかったです。おばあちゃんがカルロスを憎まなかったところが、とても大きいと思います。もちろん、「お前がそんなものを渡さなければ!」と一瞬憎んだとしても、責められないですが、そこを乗り越えていけたところに希望を感じました。「最後の言葉」の「証人となれ」は、作者あとがきを読むまでは、わかるような、わからないような……? あと、大事なことだというのはわかるのですが、巻末の「参考となる質問」は、言葉は悪いですが正直、だいぶ圧が強いというか、疲労感がわいてしまったというか、若い読者にとってもかえって読後の気勢を削がれてしまうように思いました。

アカシア:最初に読んだときは、誰のセリフかな、と頭をひねる箇所があったり、ニュアンスが良くわからない箇所があったりして、そこが気になったし、巻末に質問があるのも気になって、これは結局文学ではなく、教育的な意味の強い啓蒙の書だなあと思ってしまいました。
誰のセリフがよくわからない箇所については、おそらく編集方針のせいで、会話のサンドイッチ方式のところが(たとえば[「A 」と、トムは言った。「B」]となっている外国語ではよくある書き方では、AもBもトムのセリフなのですが、本書の日本語ではこれが3つに改行されている)ネックになっていると思いました。改行を多くするのはいいのですが、だとすると訳でもわかるように言葉を足さないとまずいのではないかと思います。ニュアンスがよくわからなかったのは、p82の「やっちゃだめ」p92の「それ以上言うな」p117の5−6行目、p142の「真実が感情だった場合、どっちも真実になるんだろうか」などです。p93の「緊急支援もしてる」は「緊急支援も受けてる」かなあ、と思ったり、p172の「それではまにあわなかった」は文脈的には「それでもまにあわなかった」かなあと思ったりもしました。
ただ、今回もう一度読んでみると、最後の「参考となる質問」さえなければ、BLM(ブラック・ライブズ・マター)の問題を、生きている側と死んでいる側の両方から見た骨太の文学とも言えると思いました。著者もアフリカ系の女性で、やむにやまれぬ思いで書かれたのかもしれませんね。

wind24:BLMの問題を正面から取り上げ、その中から生まれた物語ですね。友人から借りたおもちゃの拳銃を手にして遊んでいたジェロームが白人の警官にいきなり発砲され殺されてしまいます。その後ゴーストになった彼がこれまで殺されてきた黒人のゴースト少年たちと一緒にさまよいながら、人種差別の現状を変えようと、彼らが見える人たちに働きかける設定が面白いと思いました。ジェロームに発砲した白人警官は善良な人だと思います。それは彼の娘セアラが繊細で気持ちの優しい子に育っていることや親子関係からも推測できます。しかし同時に根強い黒人への偏見を持っていることも分かります。倒れたジェーロムに対して人命救助をせず、その場へ置き去りにしたのは黒人の命を軽んじているからだろうかと思いました。また人種差別からくる発砲の後ろめたさがあったのでしょうか。
p202、p205、p207に「怖い」という言葉が連発して出てきますが、これは白人が黒人を怖がっていると取れるところが興味深いことでした。p195でジェロームの友人におばあちゃんがかけた言葉「…おこってしまった間違いは、とりかえしがつかない。正しくやりなおせるように、がんばるしかないんだよ。だれもがね」に救われる思いがしました。

アンヌ:見事な出来の本だと思うのですが、私も読み進めるのがつらくて。おばあさんが、無事学校から帰ってきてほしいと言う言葉とこれから起こることを思うと。でも、セアラが出てからは、ちょっとホッとして読んでいけました。この話では幽霊の言葉を聞ける人がそれぞれの時代にいたという設定ですが、どの時代にも死者の声なき声を聞いて異議を唱える人がいたということを、セアラを通して書いているのだと思います。ただ先ほど、アカシアさんがおっしゃったように、最後の問答集のせいで、教育者が教育目的で書いている感じがしてしまいました。ここまで著者の意図が書かれているものは、ない方がいいと思います。幽霊たちの世界という物語としての面白さが、興ざめになってしまう感じです。

きなこみみ:とてもつらかったけれど、目をそむけてはいけない物語だとも思いました。『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ〜あなたがくれた憎しみ』(アンジー・トーマス 作, 服部理佳 訳 岩崎書店)『キャラメル色のわたし』(シャロン・M・ドレイパー 作 横山和江 訳 鈴木出版)など、警官による黒人の若者への発砲事件をテーマにした物語はいろいろあるけれども、まさに真正面からこのテーマに取り組んだ作品だと思います。子どもたちとテキストとして読むのにいいと思います。主人公のジェロームをゴーストにしたのは、この問題が長い長い黒人差別の歴史の上にあること、いまだにそのレイシズムを克服できない怒りからだと思うのですけれど、p178の、ゴースト少年たちが皆で、「不公平だ。まだ死にたくなかった。はやすぎた」と叫ぶシーンに胸が詰まります。しかし、この物語は告発だけではなくって、警官の娘・セアラの視点を入れてあるんですね。ひとつの事件を多角的にとらえることで、どんな立場にいる人も、自分の問題として考えるっていうことができるように構成してあるのも、よく考え抜かれているなあと思うんです。
この作品は、現在と過去が入れ子になっていて、昔の南部の差別の実話も描かれているんですが、エメット・ティルが、白人の女性の手に直接硬貨を乗せた、あれだけのことで、あんなに酷い殺され方をするところが非常にショッキングでした。怖すぎます。ただ、『キャラメル色の私』は、主人公の少女がとっても魅力的で、物語として作品に引き込まれたんですけど、まあ、始めに主人公が死んでしまうのもあるんですが、物語にうまく入り込めない部分もありました。結末とテーマが最初に与えられてしまうことに、子どもたちがどこまで耐え抜けるかな?という気もしたり。最後の問答集が、みなさんもおっしゃるように圧が高いこともあって、物語のテーマが、物語を読む面白さを上回る感じを与えてしまう気もします。でも、レイシズムは他人事では決してない、まさに、今考えるべき自分たちの問題で、そう言う意味ではとても大切な作品だと思います。

雪割草:いくら読み進めても、作品に入りこめませんでした。会話が多く描写は現在形で、ひとつの文が短く、つながっていなくて、台本を読んでいるように感じました。訳も気になるところ、わかりにくいところが多々ありました。例えば、p89では「人種バイアス」という言葉を使っていますが、あとがきのp232で「人種的偏見とは何でしょうか(八九ページ)」と別の言葉で同じ箇所を指摘しているのは、わかりにくいと思いました。p93の「冬の暖房代の緊急支援もしてる」は「支援を受けている」の間違いだと思うので、重版があれば直した方がよいと思います。p91の「ふたりとも」の使い方やp211の「どっちの家族も」はどの家族か明確でなく、他にも主語が抜けすぎているように感じました。それから、セアラは優等生すぎるのでは? アイディアは面白いと思いましたが。

しじみ71個分:BLMを扱った本としては、本当にド直球で、胸をえぐるような内容でしたが、私は非常に重要な本だと思って受け止めました。構成も練られていて、読みごたえがありました。12歳の少年ジェロームが殺されて幽霊になったところから始まる物語なので、重たくて、非常につらかったです。私は、この本を読むまでエメット・ティルの事件を知りませんでしたが、少しネットで調べてみただけでも、エメットがむごたらしく惨殺された事件が大きく全米を揺るがし、公民権運動を推進する原動力にもなったということが分かりました。この物語の中でも、幽霊のエメットは黒人差別、黒人への暴力の象徴として描かれていて、重要なポイントになっていると思います。また、白人の女の子セアラが、警官の父が、ジェロームを殺害した事実に向き合い、父の心を変えていくところは、本当にそうあってほしいと思わされました。
作者の書いた「生きている人しか世の中を変えられない。」というメッセージは大変に重要だと思います。また、そもそも学校でのいじめがなければ、ジェロームは死なないですんだ訳で、憎しみの連鎖の芽を小さなうちに摘むということも大事なんではないかと感じました。私も、短い会話の言葉が続くところはちょっと良く分からなくなってしまって、所々誰が何を言っているのか混乱してしまいました。そのために読みが妨げられてしまったので、もう少し翻訳の工夫で分かりやすくできたのではないかなと思いました。ですが、本から伝わるメッセージはとてもパンチが効いていて、ド直球なので、若い人が読んでも分かると思いますし、ぜひ読んでもらいたいと思いました。あと、巻末に付された16の質問は、けっこう難しくて、これを授業で質問されたらすごく困るなと思ってしまったので、なくてもよかったなと思いました。

ネズミ:知らなくてもよいとは思わないのですが、アメリカの読者にはよくても、日本の読者には理解しにくい作品だと思いました。物語のいちばんの鍵になる、おもちゃの銃を持っていたことがこのような事故につながるというのが、銃社会ではない日本の読者にはピンとこないのでは? 死んだ僕と生きている僕が、交互に出てくるというつくりは、おもしろいと思いましたが。読者を選ぶ作品だと思い、誰にでもすすめるのは難しいかなと。

さららん:BLMに関する本を読んだり、情報を得たりしてきた大人には、この本を読み始める基礎知識があります。さほど長くない文章量の中で巧みに構成された、読み応えのある物語でした。ただ最初の1冊として、アメリカの問題をあまり知らない日本の子どもたちに広く薦めるのは、やはり少し難しいように思えます。物語を読みこなす前に、複雑な現実がつらくなってしまうかもしれません。死んでしまったジェローム(ぼく)を主人公に、歴史的にも知られたエメット・ティルを始め、これまで差別や偏見により殺された少年たちを「ゴースト・ボーイズ」というひとつのグループにして、これから生きる人たちのより良い未来につなげようとした点が面白く、ありそうでなかったストーリーだと思いました。p67で、加害者の警官の娘セアラが、死んでしまったジェロームに「きのどくに」と声をかける部分は、ほかに訳しようがなかったのかもしれませんが、少し軽く感じられました。学校でいじめられていたジェロームが、死んだあとセアラに対して少しいじめっこのような態度を取ってしまい、それを自分でも意識しているところになどに、人間関係を固定的なものでなく、相対化しようとする作者の視点を感じます。そのことは、最後にセアラが父親と和解する場面(p210)を用意し、そして「これが見たかった。聞きたかった。セアラと父親の両方から」とゴーストのジェロームに言わせる場面にもつながり、単純な善悪に終結させず、憎悪や怒りを越えたところまで考えさせる作者の姿勢が読み取れました。

ルパン:この作品には、みなさんおっしゃるとおりツッコミどころはたくさんあるんですが(わたしも、「ゴースト」になった主人公が「消え」ているときはどうしているんだろう、とか不思議に思いましたが)、こういう物語を日本の子どもたちに紹介するのはとても意義のあることだと思います。日本にいては書けないことであり、このような物語を通しででないとなかなか知る機会もないことだからです。それが翻訳児童文学の使命だとも言えます。登場する犠牲者たちが、主人公ジェロームを除いてみな実在の黒人の子どもであったことが本当につらく、重いことだと思いました。
この作品は、ただの「横暴な白人警官と虐げられた黒人の犠牲者」というステレオタイプに終わらず、白人警官も玩具の銃を持った子どもを体格のいいおとなのギャングと見間違えるほど恐れていたこと、差別されている黒人同士の中にもまた差別やいじめがあること、などが立体的に描かれていて、いろいろ考えさせられました。

ニャニャンガ:日本で刊行する意義のある本だと思いました。残念ながら物語に入り込みにくかった理由は、みなさんの感想をうかがっているうちにわかってきました。本文後にある「質問」は原書にはあったのかもしれませんが、教育的に感じてしまうので邦訳では入れないほうが作品としてよかったと思います。

エーデルワイス:今回の本はサークルKさんと選びました。今回の2冊はあまりにも違いますが、サークルKさんがとてもよいテーマを考えてくださり感謝しています。
「ゴーストボーイ」の表紙を見た瞬間に内容が分かりましたから、本当に読み進めるのがつらかったです。きちんと読み進め、現実の問題として作品と向き合えました。冒頭でおばあさんが毎朝学校に行く前のジェロームに「無事に帰って…」と言うところは、本当に命がけの毎日が伝わってきて心が震えました。最後の質問コーナーは興ざめでしたが、読書感想文のためかもと思ったりしました。この本の中でゴーストボーイとして出てくる1955年白人にリンチされ殺害された14歳の黒人少年エネット・ティルの映画「ティル」が公開中です。観るのには覚悟がいりますが、見ようと思っています。

サークルK:今回は選書の担当でしたが、この本を選ぶのはとても心が重くなり勇気が必要でした。それでも、現実の世界で起こっているBLM問題を児童文学作品として提起しているこの本は重要な1冊になるだろうと思われました。テキストの形式として、最後に国語の教科書のように設問が付いているのは、このような題材の本の場合、クラスで話し合ったりするときに有益だろうと思います。読んですぐはなかなか考えがまとめにくい作品だろうと思うので、このような設問をきっかけに(もちろん全部答える必要はないし、正解を求めるというより、どんなことを感じるかを共有できる場を提供する材料として)素直に感想を話し合えればよいと思いました。教育者でもある作家ということで、物語の展開が道徳的になりすぎるのではないかと心配しましたが、私にはあまりそれは感じられなかったです。
作品そのもので特に心に残ったのは、「黒人が怖い」というセアラの父親と「学校へ行くのが怖い」と言ったカルロスのそれぞれの思いです。白人で警官というアメリカ社会で権力を握っている立場の大人が、犯人を「大人だと思った」(p139)とか「(背中から撃ったにもかかわらず、ジェロームが前から)襲撃してくるようだった」(p140)といった虚偽の証言をして保身に走るところは、「怖い」という原初的な感覚がこんなにも人を縛り、先制的な攻撃を仕掛ける口実となってしまうのだとあらためて身が震えました。亡くなったジェロームの友人カルロスも「学校へ行く(=白人にいじめられに行く)のが怖かった」(p187)と胸中を父親に吐露します。お互いのことを「怖い」存在だと思っているうちは、頭ではいけないことだとわかっていても拒絶反応は止められない、怖さを乗り越えられないとしてもそこからどういう一歩を踏み出すのか、ということを突き付けてくる重たさがありました。

シマリス: 黒人が白人に撃たれて亡くなる事件は後を絶たないですし、非常に大事な重いテーマを取り上げていると思います。ただ、他にもこういう作品は今、いくつも出てきているなかで、この本は、イチオシしたいものにはならないというか……ちょっとどうなんだろう、と思う部分がありました。まず、幽霊がどういうふうに見えるのか、ルールがはっきりしていないですよね。セアラは幽霊が見える、おばあちゃんは見えないけど感じる、というように、ルールがばらばらでごちゃついている気がします。あと、先輩幽霊のエメットの他は「ゴースト・ボーイズ」とくくられて、肌の色の問題にかかわる幽霊ばかり。他の幽霊は? 世界観全体がよくわかりませんでした。生きているぼくと死んでいるぼくが交互に語るのはいいと思うのですが、一番最後、p220の「生きているぼく」の章はまったく必要ないのではないでしょうか。既にそれ以前に語られていることを、改めて書かなくても、と。それからp106「悲しみにはにおいがあることにも気づいてしまう。かびたクローゼットのなかで、食べ物が腐ってウジ虫がわいてるようなにおい」という表現には共感できなかったです。悲しみって、つらいものだけれど、そんなに拒絶するような悪い感情ではないという気がして……。

さららん:p226の締めくくりとして、「平和を」の一言があり、その言葉に「ピースアウト」とルビが振ってあります。古いスラングで「あばよ」「じゃあね」のような意味なので、英語圏の読者はそのダブルミーニングにニヤッとし、苦いユーモアを感じるところでしょう。日本人の私たちは、ひたすらまじめに重く読んでしまいがちですが、向こうのティーンエージャーには、違う受け止められ方をしているのかもしれません。

アカシア:ジェロームより前に死んだ少年のゴーストの中のひとりは、読んでいるうちにエメット・ティルだとわかります。14歳の時に白人のリンチによって無惨な殺され方をしたエメット・ティルは、アメリカでは多くの人が知る存在で、彼のお母さんはあえて棺を開いて、めちゃめちゃにされた息子の遺体を葬儀の参列者に見せたといいます。ボブ・ディランもこの非道な事件を取り上げて「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」という歌を作って歌っています。

しじみ71個分:私も一言、いいたいです。たった14歳の少年に、白人の大人の男性がよってたかって、暴力をふるい、信じられないほどのむごたらしい方法で惨殺した事件が本当にあったということがとにかく衝撃でした。エメットは吃音のせいでうまく言葉が出ないこともあり、白人女性に口笛を吹いてちょっかいを出したというのは全くの濡れ衣だったとあります。なのに、子どもを複数の人間で徹底的に痛めつけ、体を無残に損壊し、殺害するなどということがどうしてできるのか。それは人間性を失っていないとできないことではないでしょうか。そういうことが、本当にあったと伝えていくことは必要だと強く思いました。そしていまだに差別は社会に生きていて、変わってはいないということ、人がこんなにも残酷になれるということを私たちは知っておくべきだと今、思っています。

きなこみみ:エメット・ティルの言葉の発音の仕方が暴力の引き金になったことが書かれているんですけど、関東大震災の朝鮮人虐殺のときも、「アイウエオ」とかいろんな単語を言わせて、うまく発音できない人を虐殺したりしてますよね。他にも、レバノン内戦の際に、マロン派の民兵がパレスチナ人を区別するために使うのは「パンドゥーラ(トマト)」という言葉だ、ということを、岡真理さんが『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房)で書いておられました。暴力って、違う場所で行われていても、どこか似通っているんですよね。世界中のどこを切り取っても、構造的な暴力がある。そこのところを、考えてみるきっかけにもなりますね。

(2023年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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皮はぐ者

ダークの肩に、ワタリガラス・アークがとまっている
『皮はぐ者』 クロニクル千古の闇・8

ミシェル・ペイヴァー/著 さくまゆみこ/訳 ジェフ・テイラー/挿絵 酒井駒子/装画
評論社
2024.08

イギリスのファンタジー。「クロニクル千古の闇」シリーズの8巻目です。トラクやレンやウルフが暮らす森に、巨大なカミナリ星(隕石)が落ちて、森のほとんどが消失してしまいます。森に暮らす民の多くが命を落としたり、大きなケガをしたりしています。生き残った人々は集まってフィン=ケディンをリーダーと定め、なんとか困難を乗り越えようとしています。

そんなとき、人の皮をはぐ恐ろしい者が出没しているという噂が流れます。トラクとレンは森をよみがえらせるための儀式を「歩き屋」から教わり、その儀式を行うための旅に出ます。「皮はがし」という魔物はいったい何なのか? 7巻で登場した「氷の悪霊」がさらに恐ろしい存在になっていますし、ダークとウルフの活躍も見ものです。

舞台は今から6000年くらい前の石器時代。ペイヴァーさんは時代考証を綿密になさるので、すべてを自分の手で作る人々の暮らしが、とてもリアルに描かれています。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:水野哲也さん)

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図書館がくれた宝物

『図書館がくれた宝物』表紙
『図書館がくれた宝物』
ケイト・アルバス/作 櫛田理絵/訳
徳間書店
2023.07

西山:すごくおもしろく一気に読んでしまいました。余談ですが、親戚の葬儀の行き帰りで読もうと持参していて、そこで初めて本を開いてびっくりしました。1行目が「お葬式の日なんてそもそも、楽しいものではない」って……。ちょうど「児童文学と子どもの権利」というテーマの研究会を控えているときだったので、戦争はなんと子どもの権利を侵害するものかとつくづく思いました。ただ、この作品は大前提として主人公兄弟にお金の心配がないので、そこの安定感がエンタメとして読んでしまっていい背景を保証しているように感じました。『小公女』もしっかり登場していましたが、それと重なる古典作品のようなテイストを感じながらの読書でした。イギリスの疎開というのも、リアルでシビアな現実だったと思うのですが、こういう風に伝えるのもありかなと思っています。

雪割草:私もおもしろく読みました。作者が本のもつ力を信じているのが伝わってきました。本がいくつも紹介されるので、読者が興味をもつきっかけになるかもしれないと思いました。ミュラーさんが差別を受けていたり、主人公らが疎開児童としていじめられたり、読者に考えさせるところは含みつつも、兄弟3人が仲が良いせいか、「戦争」という現実の厳しさはあまり感じられませんでした。途中から、これはきっとミュラーさんのところに落ち着くのだろうと予想できて、安心して読めました。月のたとえで、アンナとミュラーさんの発言が一致するのはやりすぎかな。『わたしがいどんだ戦い1939』や『わたしがいどんだ戦い1940』(どちらもキンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社)2019)のように、主人公が厳しい現実と向き合い、人に助けられながらそれを乗り越えていくといったことは描かれていないのは残念に思いました。

ニャニャンガ:ちょうど今読んでいる『アンナの戦争』(ヘレン・ピーターズ著 尾﨑愛子訳 偕成社)にもロンドンから疎開した子どもが登場するのですが、里親たちが預かる子どもを選んでいく様子はとてもシビアだと思いました。ただ、この子たちには資産があり、自分たちが信用できる保護者が見つかりさえすれば……という背景があるので、いわゆる疎開児童とは背景が少しちがいますね。作品全体としては、図書館のありがたみというかミュラーさんのありがたみをしみじみ感じました。そのミュラーさんは、夫がドイツ人であるために周囲から孤立している状況が『アンナの戦争』とも重なりよく伝わってきました。
ウィリアム、エドマンド、アンナの3兄弟がバランスよく、児童書の王道といった印象を受けました。本文とは関係ないのですが、作者のケイト・アルバスは謝辞を読むのが好きだとあとがきにあります。翻訳する側にとっては名前の読みを調べるのはたいへんなので、日本の読者も謝辞を読むのが好きなのか知りたくなりました。

オカリナ:謝辞は、人によっては取材の過程がわかっておもしろいのもありますが、関係者の名前だけが連ねてあるのは、日本の読者にとっては人物像もわからないので、つまらないですよね。ただ契約書ではそこも訳せとなっている場合もありますね。

ニャニャンガ:同じ綴りでも、出身によって読み方が違う場合もあるので判断が難しいです。

オカリナ:私も固有名詞発音辞典とかネットで固有名詞の発音を調べたりしますが、どうしてもわからないときは原著出版社とか著者に教えてもらいます。同じアルファベット表記の国の言葉に翻訳するときはそのままでいいのですが、日本語は発音を知らないとカタカナ表記ができないので不便ですよね。

アンヌ:ファンタジーっぽいのは、アメリカ人が書いたイギリスもののせいだろうかと、バーネットを頭に浮かベながら読みました。この主人公のきょうだいたちは莫大な資産を持つ大金持ちで、本当なら食費の心配などはしないでいいのがわかっているからです。エドマンドも菓子屋で買おうと思えばいくらでもお菓子を本当は買える身分なんだと思いながら読むと、この戦時下の苦労のリアリティが薄れてしまう気がしたのです。ただ、ウィリアムが最後に、自分はまだ12歳なんだと切れてしまうところ、長男はすべてに責任を持たされ弟たちは従うという典型的な描き方で終わらせなかったところはよかったと思います。とにかく疎開という親たちが過ごした時代の出来事を忘れてはならないと思いました。すべては戦争の一言で、繰り返されてしまうのですから。

きなこみみ:私はなかなか入り込めなくて、読むのに苦労していたんですけど、作品世界に名作たちの本の世界が重ねられているところを読んでいるうちに、だんだんおもしろくなって、途中から夢中で読みました。イギリスの戦争の物語としては、ウェストールがすごく好きなんです。ああいう厳しさからは遠いんですが、この作品はロンドンの都会育ちの子どもたちのお話なので、雰囲気は違って当たり前かと思います。冒頭でアンナが『メアリー・ポピンズ』を読んでいて、「アンナが今、そばにいてほしいのは、となりの長いすに座っている見知らぬおばあさんたちや、ほかのお客さんではなく、メアリー・ポピンズなのだった」というところを読んで、この作者が、本の力を信用しているのが伝わってきました。本読みとして、共感するところがとても多かった。疎開先でさんざんな目にあうのは、疎開物語はどうしてもそうなりますが、恐ろしいのはネズミ狩りのシーン。ネズミを次々に殺していく、ぞっとする残酷なところで、この物語には、直接的な戦争シーンはないんですが、ここは間接的にではありますが、戦争という暴力をちゃんと書こうとしているんだなと思ったんです。戦争の直接的な描写は、子どもたちにとっては怖すぎるので、こういうふうに戦争の恐ろしさを伝える工夫がされているんだな、と。この作品は小公女の世界が重ねあわされているので、最後はセーラみたいに、幸せになれるんだなと思って読めます。中学年の子たちが、安心感をもって読める。そこを、この作者は狙ってたんじゃないのかなと。ホッとするのは、物語として正解なんだと思うのです。
そして、血がつながってなくても、心でつながっている人たちが家族になる、というところがよかったです。ミュラーさんが村八分になって疎外されるのも、夫がドイツ人だから、という「血」の違いです。そして、最初に身を寄せた家も、おばさんは血の繋がった自分の子どもたちだけ、信用するんですね。いまの、イスラエルとパレスチナのことを考えても、血の違いや、人種の違いという属性で人間に線を引くのが、どんなに残酷で恐ろしいことを招くかがわかります。その属性を乗り越えるのが、「本」といいうものを通じて、というところが素敵です。「血」を信じている人たちと、ミュラーさんと3人の子どもたちのように、本と心でつながっている人たちの陣営、本を通じた世界へ子どもたちを招待する。そういう意味で素敵な作品だなと思います。

ANNE:物語はとてもおもしろく読ませていただきましたが、戦時中のエピソードとはいえネズミ退治の場面が苦しかったです。ミュラーさんのドイツ人の夫が音信不通になってしまった理由は書かれていませんが、きっと辛い状況があったのでしょうね。3人の子どもたちが幸せな結末を迎えることができて、ホッとしました。ミュラーさんが司書でよかった! 図書館は子どもたちに宝物をあげることができますね。

しじみ71個分:2時間くらいでサクサクと読めまして、とてもうまい物語だと思いました。図書館が背景に出てくる物語は、素晴らしい司書さんが登場することが多く、多少こそばゆいのですが、この物語のミュラーさんもとても魅力的な司書だと思います。また、ウィリアム、エドマンド、アンナのそれぞれのキャラクターが生き生きと、個性的に書き分けられていたところも魅力の一つで、ウィリアムが、厳しい疎開生活の中で弟妹の世話をするヤングケアラーとして苦労する姿にも共感できました。図書館の司書と、本が大好きな子どもたちが、心を通い合わせて、最後はハッピーエンドで家族になるという温かな展開にも安心感と安定感があります。
ただ、気になったのは、この子たちが遺産を持っているのを隠して、家族探しをしていた点です。もちろん、疎開が一番の目的ではありましたが、後見人が見つかりさえすれば遺産で不自由なく暮らせるというところに違和感を覚えました。この設定はどうしても必要だったのでしょうか。また、受入れ先の肉屋夫妻、寡婦のグリフィスさんの世帯では本を読む環境にはなく、本を読む、読めるというのは階級の問題かと思われたのも引っかかった点です。読書できるというのは、何かしらが恵まれているのかもしれないなと感じてしまいました。本や物語が辛いときにも心の支えになるというのは素晴らしいことで、それを推進する立場に私もあると思っていますが、物語を心の支えにできない人たちは苦しいままなんだろうかと、グリフィス家の描写を見て感じました。自分でもひねくれた読み方とは思いますが……。アンナが本を読んで、グリフィスさんの子どもたちがそれに聞き入る瞬間があったにも関わらず、結局本の価値がわからない子どもたちが本をビリビリに破ってしまいますが、そこに読める人と読めない人の間にギャップがあって、グリフィス一家が、本を読む教養がない人たちに見えてしまうのが悲しかったのかもしれません。
また、畑を荒らすネズミを駆除する仕事にウィリアムとエドマンドが出かけ、弟に辛い思いをさせないように、ウィリアムが頑張って2匹仕留めるという描写がありましたが、本当に困っている世帯は、どんなに嫌でも気持ちに蓋をして10匹、20匹取ってこないといけない状況に置かれているわけですよね。暴力、戦争についての考察もきちんとなされている箇所はとても優れていると思ったのですが、一方、そうせざるを得ない人たちが実際に存在していることについてどうとらえればいいのかがは、物語からはよく読み取れませんでした。なんというか、困難にある人たちとのギャップを埋める希望的な要素が見つからなかったのが、引っかかりのポイントかもしれません。あと、物語の中で良い物語を紹介したい作家の意図みたいなのも感じられて、図書館リストっぽいなと、思っちゃうところもありました……。
最後は、ミュラーさんに助けられるばかりではなく、エドワードの発案で学校に畑を作り、ミュラーさんと村の人たちの和解のきっかけをつくる場面が描かれますが、大人も子どもも助け合うという点で、作家の子どもたちの力への信頼が感じられてとてもよかったです。

wind24:お話がおもしろく、私も短時間で読めました。いろいろな出来事があっても引っかかりを持たずに読みましが、3人がいつも一緒にいられるのが良かったです。おばあさんの存在がちょっと謎で、ただただ子どもが嫌いで冷たい人なのか、自分が亡き後3人で生きていくために、わざと冷たくして自立心を身に付けさせようとしているのか、文面からは読み取れませんでした。この物語では、「図書館」の果たす役割が大きいです。戦時下のささくれた子どもたちの心を本との出会いで慰めるための場所であり、本を手渡す素敵な大人(ここではミュラーさん)がいる場所でもあります。
子どもたちは居場所を転々としていきますが、最初の肉屋の夫婦は慈善的な気持ちで預かるものの、実の子たちの意地悪がまるで絵にかいたように際立っています。しかしそれを知ってか知らずか、自分の子には盲目的です。貧しいグリフィスさんはお金ほしさに3人を預かりますが、自分の子たちの面倒を見させるだけでご飯もろくに与えません。そして、大好きな図書館のミュラーさんに引き取られることになり、ようやく幸せが訪れます。それまでモノクロの世界だったのが一気に色彩あふれる豊かな生活になっていきます。その後は多分養母になってくれるミュラーさんとの幸せな生活が待っていることでしょう。

オカリナ:古き良きイギリスの物語の伝統をくむ作品で、とてもおもしろかったです。私がいいなと思ったのは、3人きょうだいそれぞれの特徴や性格がうまく書かれているところです。長男はしっかり者、次男はきかん坊、末っ子の女の子はあまったれ、という点はステレオタイプに見えますけど、それぞれもっと人間が立ち上がってくるように描かれています。また意地悪な双子がいる肉屋さんですけど、お父さんのほうはp195などを読むと、おまけをしてくれたり、声をひそめて「この前のこと、本当にすまなかったな」と言ったりするので、かなりものがわかった人のよう。そういう細かい書き方にも好感が持てました。
この作家はアメリカ人ですけど、少し古い文体で書いたのではないかと推測します。たとえばp301には「読者のなかには、くつ下なんて、ずいぶん、ぱっとしない贈り物だと思う人もいるかもしれない」という文章がありますが、こんなふうに作者が顔を出したりするのも、一昔前の作品の特徴のように思います。また日本の読者が読むと、本が好きな人たちと、本を破ってトイレの紙に使ってしまう人に分かれるように思えるかもしれませんが、先程から出ているようにイギリスなので、階級がからんでくるかと思います。ピアーズ家は中流階級に属していて、この子たちを預かってくれるフォレスターさんやグリフィスさんはもっと貧しくて、特に戦時中は生活するだけで精一杯の労働者階級なのかと思います。グリフィスさんの家庭の描写は、ディケンズの作品を思い出させます。双子の意地悪も、「お高く留まりやがって」という中流以上の子に対する気持ちの表れでもあるのでしょう。ネズミ狩りの場面は中流階級の子供にとっては目の前で行われる大きな暴力ですが、日常的にネズミに食糧を荒らされて困っている貧しい人たちにとっては、退治するかしないかは死活問題でもあるわけです。
先程、この子たちはお金があるのだから何でも買えばいいじゃないか、という意見もありましたが、おそらく管理は保護者がすることになっていて、成人するまでは勝手に使うことはできない決まりになっているのかと思います。また中流以上の人たちは、子育てを乳母や家庭教師に任せることもあり、子どもや孫に対する自然な愛情も持たないで過ごす人もいます。なので、3人のおばあさんが愛情を持っていないのも、十分ありうることでしょう。

ネズミ:オカリナさんのお話をきいて、英文学に詳しい読書好きの人には、楽しめる点ところがたくさんあるのだなと、わかりました。登場人物の性格がみなはっきりしているので、読みやすさがありましたし、装画からも、幸せな結末が予想されて、安心して読めました。好きだったのは、最後に学校で菜園をつくることになるところです。ドイツ人の夫からミュラーさんが伝授されてきたことが生かされ、子どもたちもこの土地で受け入れていかれることを象徴する出来事をうまく描いていると思いました。

エーデルワイス:心がほかほかしてくるような物語でした。作者が絶賛していたイラストレーターのジェイン・ニューランドのカバーイラストが日本語版でも使われているのですね。図書館をテーマにした良いお話です。きょうだい3人、親がいなくて生きていくのは、戦争中でも現代であっても大変なことと思います。長男ウィリアムの重責を思うと切なくなります。優しいミュラーさんに出会い幸せになりますが、ミュラーさんが長い年月どんなに孤独だったかと想像します。
私が小学校低学年の時、『赤毛のアン』『小公女』など子ども向けに意訳された本を読んでいました。ウィリアムたちは原作どおりの文を読んでいたのでしょうか? だとしたらすごい!と思いました。特に9歳のアンナが読みこなしたとは! この物語に登場する本は名作ばかりですが、現在の子どもたちは読むのでしょうか? p181で、アンナがグリフィスさんの幼い子どもたち3人に『くまのプーさん』を読んであげる場面は、本の力を大いに感じることができます。本に接することのなかった子どもたちが、アンナの声から物語を感じ取り静かに聞き入り、ウィリアムとエドマンドも物語に浸るのですから。

ルパン:評判の良い本だし、実際とてもおもしろく読みました。3人のきょうだいが逆境にあっても助け合って生きていくところがとてもいいと思いました。ただ、日本の子どもが読んでどこまで状況を理解できるのかな、とは思いました。イギリスの階級社会のことやドイツを敵視する感情などが分からないと、どうしてミュラーさんの家に落ち着くまでにこんなに遠回りしなければならないんだろう、と不思議に思うかもしれません。

ハル:子どもの頃に読んだクラシカルな物語のような、ハラハラドキドキ感もあって、引き込まれて読みました。欲を言えば、急に視点が変わったり、人物の立ち位置が変わった?というところもあったり、ちょっとしたつまずきはありましたし、ミュラーさんの家は自給自足ができるように工夫されていたとはいえ、あまりにも素敵な暮らしで、少し出来過ぎな感じはしました。また、ミュラーさんの夫は、どうして手紙を返してくれなくなったのかも、はっきりとはしません。戦争でそれどころではなくなっただけなのか、何か意志があってのことなのか、気になりますが、ある意味リアルというか、実際、たとえ戦争がなくても、気持ちや時間のすれ違いって、そういうものだろうとも思います。とにかく、お兄ちゃんのウィリアムが健気で、ネズミ狩りの場面なんてほんとに泣けてしまいます。日本の子ども読者たちに、この子たちの健気さを読んでほしいという気持ちはないですが、物語を読みたくなる本、という意味で、ぜひこの本を読んでほしいなぁと思いました。

アカシア:エーデルワイスさんが、この子たちはダイジェスト版ではなく原作をそのまま読んでいるのかと疑問に思われていましたが、原作を読んでいると思います。日本でも私が子どものころは、小学館とか講談社から少年少女世界文学全集が出ていて、小さい活字のうえに2段組になっていてページ数も多かった。それを考えると、日本の子どもも今よりずっと多くの活字を読んでいたかもしれません。

(2023年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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雨にシュクラン

『雨にシュクラン』表紙
『雨にシュクラン』
こまつあやこ/著
講談社
2023.04

エーデルワイス:とてもおもしろく読みました。作者は毎回いろいろなテーマで書いていて、今回はアラビア書道なのですね。とても綺麗で、素敵です。アラビア文字を真似して私も書いてみましたが、なかなか難しいです。主人公のあかりの、弱冠15歳から16歳までの時間が描かれていますが、ジェットコースターのような人生です。結果的に1年遅れで別の高校を受験してもう一度高校生になるのですが主人公が悔いなく納得していることに読後感もさわやかです。
あかりが受験案内を見ているところに〈一浪以上の受け入れ可〉があり現役でなくても高校を受験できることに驚くシーンがありますが(pp168-169)、私の高校時代(地方都市)は結構浪人して公立高校へ入学することは珍しくなかったので、それこそ驚きました。

ネズミ:みなと違う道を選ぶことというテーマがとてもいいなと思いました。ちょっとしたきっかけや偶然で、新しい世界に出会っていくところが。ただ、憧れていた先輩からのひとこととはいえ、その先輩のひとことで高校をやめてしまうのは、強引に感じられましたが……。「こうしなくちゃいけない」と、既存の価値観にとらわれている、どちらかというと優等生の高校生の心をほどいて、励ましてくれる作品でしょうか。

オカリナ:楽しく読みました。いいなと思ったのはいろいろな形で多様性を示している点です。せっかく入った高校をやめて家で勉強しながら高卒資格を取る主人公も、ぬいぐるみのコレクションを持っていて家族の前で泣いてしまうお父さんも、ステレオタイプでない存在を示しているのがおもしろいと思いました。それからアラビア書道の難しさや楽しさがわかってくるのもいいですよね。残念だった点は、お父さんが何らかの理由で(理由は書かれてないですね)疲弊して会社を辞めることになったとき、どうしてお父さんの故郷に行くのか私にはよくわかりませんでした。お父さんの両親はもう死去していて家が残っているわけでもなく、幼馴染との付き合いもなさそう。都会より地方がいいというのはわかりますが、真歩がせっかく入った憧れの高校に片道2時間半もかかるような場所に引っ越すだけの意味はなさそうです。そこが物語の起点で、大きな意味をもってくるので、もう少しリアルな設定にしてほしかったなあ、と思いました。多文化を知るというのもテーマの一つですが、私もトルコには2度ほど行ったことがあるので、アラビア書道のほかはラマダンとポピュラーな食べものだけというのは、ないものねだりかもしれませんが、物足りなさも感じました。

wind24:おもしろく読みました。雨の多い日本ではピンとこない「約束は雲、実行は雨」という諺ですが、「実行することは稀なこと」の意として中近東の雨が降らない場所で生まれたというのは、お国柄がわかって興味深かったです。父親の鬱発症、高校中退、新しい生活で知り合う高齢者、イスラム教徒の新しい友だちと気になる男の子、そして目的を見つけて再度の高校入学、父親の再チャレンジなどなど、モチーフに事欠かない作品です。主人公の心の揺らぎがていねいに描かれていて共感できました。題名の「雨にシュクラン」のとおり、雨粒について2か所、印象的に書かれていました。

しじみ71個分:おもしろく読みました。アラビア書道というモチーフも目新しく、多文化理解への一つの入口になるだろうと思いました。また、気の優しいお父さんが鬱病になったために、引越しすることになり、そのために自分が努力して入った高校への通学を断念しますが、その父を疎ましく思ってしまう心情、トルコにルーツを持つ少年への淡い恋心などは細やかに描かれていたと思います。図書館の宅配ボランティアによる高齢者との出会いというのも魅力的な素材でした。その上で、私が気になったのは、どのモチーフも結構重みのある内容なのに、どれも掘り下げ方が一様な感じで、どこに一番伝えたいポイントがあったのか、わかりにくなってしまったのではないかというところです。そのためになんとなく総花的で物語の全体の印象が軽くなってしまったように感じ、そこが残念に思われました。

ANNE:とてもおもしろく読ませていただきました。作者のこまつあやこさんにお目にかかったことがあるのですが、とても魅力的で素敵な方です。こまつさんはデビュー作の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(講談社)でマレーシア語と短歌、『ポーチとノート』(講談社)では生理など、他の作家さんがあまり取り上げないようなテーマで作品を発表されています。今作も、アラビア書道という一般的ではない世界を、女子高生の視点から捉えて興味深い物語に仕上げていらっしゃるのが素晴らしいと思います。また、図書館の宅配ボランティアのエピソードなど、司書の経験がある作家さんならではの作品だなと思いました。次回作も楽しみです。

きなこみみ:とても楽しく読みました。アラビア書道を知らなかったので、文字の並びがとても美しくて、感動でした。新しいことを知るのは、ワクワクします。日本語とアラビア語ってあまり馴染みがないように見えて、書道のかな文字は、どこか通じるところがあるように思います。こういう新しい接点を見つけて、物語にされたこまつさんの着眼点がすばらしいなあと。主人公の真歩が、頑固に自分の意志を貫こうとする子なんですけど、普通というレールからはずれてしまうことで、見えてきたこととか、感じていることを素直に描いてあるのがいいと思うんです。p36で、「私、不登校に見えるのかな。それとも不良に見えるのかな。」とびくびくしてしまったり、中年のお父さんが無職で家にいることを恥ずかしく思ってしまう。そういう気持ちって、世間的な価値観をすりこまれて、毒されちゃってるっていうことですよね。だって、不登校は別に恥ずかしいことじゃないし、家にいるのがお母さんなら、恥ずかしいとも思わないはずなんだし。レールを外れてしまったから、自分のそういうところに気付かされるところがよかったかなと。その彼女が知らなかった文化と人に出会って、変わっていく過程が自然に描かれてるのがいいなと。p151で、「わかりたいと思う、アラビア書道のこと、トルコのこと。そして、千凪くんのことも。」ってあるんですが、「知りたい」という気持ちは、すべての扉を開く一歩だと思うんで、この気もちがまっすぐ書かれていることにいいなと思って共感しました。気になるところとしては、一人一人のキャラクターが薄いというか、千凪くんと怜来ちゃんにせっかく知り合っているんだけれど、人物としての彼らがあまり伝わってこない。真歩は千凪くんが好きになるんですが、カメラが得意な男の子、という以上の、内面のところまで書かれていたら、もっとこの体験が深みをもって伝わってきたかなと。でも、読みやすい分量ではありますし、読み慣れていない子もとっつきやすいし、表紙もポップで読みやすい作品だと思います。

アンヌ:この物語の前半はあまりに納得が行かなくて、私はかなり長距離通学だったので、勉強は車内でするとか、何か工夫できなかったのかなと思ったりしました。転校ではなく高認を受けることにするわけもよくわかりませんでした。でも、それはともかく、図書館ボランティアから後は、出てくる人たちも物語もとてもおもしろく、高校生ではないのに昼間道を歩く後ろめたさとか、逆に伶良と学校に縛られない友人同士になれるところとか、アラビア書道のおもしろさをキュイキュイという筆が滑る音で表しているところなど、とても魅力的で楽しく読みました。

ニャニャンガ:こまつあやこさんの作品は、『ハジメテヒラク』(講談社)以来ですが、前作同様、興味深く読みました。書道が好きな主人公の真歩が、アラビア文字に興味をもつという設定はユニークで、知らない文化に触れ視野が広がったように感じました。ただ、お父さんが会社に行けなくなり、地元の千葉へ転居したいせいで憧れの高校に通えなくなった主人公が、高校へ行かない選択をしたのは少々唐突な印象でしたし、1年生で高卒認定試験を受けようとするのは無謀ではないかしらと思ってしまいました。アラビア文字を知るせっかくの機会でしたが、説明を読んでも難しくて理解できなかったのが残念です。図書館の宝来さんがいい味を出していて好ましいですし、優しくてナイーブなお父さん、仕事バリバリのお母さんという設定はイマドキですね。

雪割草:読みやすかったです。アラビア書道という発想がおもしろいと思いました。日本の作品は学校が舞台になることが多いですが、学校以外の世界で、真歩、怜来、船島さん、宝来さんといった登場人物が関係しながら変わっていくのが描かれていていいなと思いました。それから、船島さんの金継ぎや雨の話があって、そのイメージが言葉とともに散りばめられていてきれいだなとも思いました。あとは個人的な好みですが、登場人物が漫画っぽく、文章の改行が多く感じました。

西山:すごく設定が盛りだくさんのわりに、さらさらと読めちゃって、これはいいとか悪いとかじゃないですけれど……。高校にいっていない16歳、お父さん像、ムスリムの問題とどれも、それを中心テーマとしてこってりと書かれても不思議ではない切り口ですが、話はどんどん進んでいく。でも、軽薄にはしゃいで目を引く事象としてそれらを消費しているという感じは受けません。ソフトに読ませてしまう、こういうのもありなんだなと、好感を持っています。ちょっと引っかかったのはp45で「#muslim」を主人公姉妹は読めちゃって「イスラム教徒」という意味を知っている。これは不自然でひっかかりました。あとp122で怜来ちゃんがラマダンの説明をしている中で「生理のときは断食できないの」と言っています。私は、トルコのイスラム教徒の話として、「しなくていい」と聞いていました。でも、個々に、他の日に自己判断で断食しているようだと聞きましたが、「できない」と「しなくていい」ではイスラム教のイメージがずいぶん変わってきます。「できない」だと、血の穢れを嫌うのだろうかと邪推してしまいます。「しなくていい」だと、信仰をあくまでも個々人のものとして考える緩やかなイメージです。ここはちょっと大きな問題かなと思います。

ハル:この本を読んだ同時期に、まはら三桃さんの『つる子さんからの奨学金』(偕成社)も読みました。それもまた、高校受験に対する新たな選択を示した本でした、いま、通信制の高校を選択する子が増えている、という記事も見ましたが、いろんな選択肢がある、ということを知るって、いいなぁと思います。この『雨にシュクラン』は、こまつあやこさんらしい作品で、言葉や文字にまつわる新しい世界をまた見せてくれたという点でも、とてもおもしろかったです。子どもはなにかと理不尽を背負わされがちですね。お父さんの事情で思いどおりの高校生活にはならなくて、主人公はつらかったと思うけれど、大人になっても理不尽なことや、自分ではどうにもできないことはたくさんあるし、そういうときに、いろんな選択肢を見つけられること、柔軟に考えられることは、自分を助ける大きな力になると思います。

ルパン:今回選書係です。いろいろなテーマが盛りだくさんに入っていて、読書会向きの1冊だと思って選びました。ちょうど、『とめはねっ!』(河合克敏 作 小学館)というマンガを読んだところで、書道ってドラマになるんだ~、って思ったところでしたし、トルコという国も旅の思い出があるので、いろいろな意味で親近感もわきました。多少ツッコミどころもあるものの、最後まで飽きさせないストーリー展開がいいし、高校をやめたときの疎外感などがとてもうまく描けていると思いました。今まであたりまえだと思っていたことから外れたとたんにいろんなことが見えてくる、そのプロセスがリアルに迫ってきました。

(2023年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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雪の日にライオンを見に行く

『雪の日にライオンを見に行く』表紙
『雪の日にライオンを見に行く』
志津栄子/作 くまおり純/絵
講談社
2023.01

きなこみみ:大阪が舞台の物語で、大阪者としては非常に親近感がわく物語でした。「居場所」ってなんだろう、というのがテーマですね。唯人という主人公の民族的なルーツである中国残留邦人の問題、金沢から転校してきて、大阪にも学校になじめなくて「ひとりぼっちで外国にいるみたい」というアズという女の子の心情、唯人の母が捨ててしまった故郷の人との繋がりなど、さまざまな奥行で「居場所をさがす」ということが語られるのがいいなと思いました。ふたりで天王寺動物園のライオンを見に行くシーンが、とくに好きなところ。天王寺動物園は、新世界のすぐ横にあって、独特な空気感のあるところです。雑踏のなかに、いきなり動物園があって、そこにいるライオンというのは、確かに場違いな感じがするなあと思いました。大阪は、在日の方たちがたくさん集まっておられる町もあり、様々なルーツの人たちが集まりやすいところだと思います。一方で、関西弁がキツい印象を与えたり、ニュアンスが通じにくかったりして、疎外感を与える一面もあるよなあと、この物語を読んで改めて感じたりもしました。この物語も、やはり言葉の力について考えさせられました。集団のなかでひとりぼっちだと思う唯人は、何をするにも自信がなくて、黙りがちになってしまう。自分たちを捨てた父親へのもやもやも胸にたまって、余計に重い。でも、同じような疎外感を抱えるアズと言葉を重ねるうちに、少しずつ自分が好きになるのが、いいなと。p165で、唯人が、母と本音で話しながら「なんやこれ、気持ちええ!」と思うところが、とてもよかった。自分の思いを言葉にしてみる。誰かと共有する。それが「胸のおくにチカっとあかりが灯る」場所をつくることにつながって、人との繋がりが、ふるさとで、居場所なんだというメッセージが温かいです。ふたりの担任のみのり先生が、距離をとって見守りつつ、要所要所でぴしっというべきことを押さえていい役割を果たしているのが印象的。唯人の背景は非常に深く書けていて、それが唯人という人物のなかで有機的に繋がっているのに対して、アズのこだわっている、母との関係が、もう少しリアルに見えていたら良かったなとも思いました。

花散里:表紙とタイトルを見た時に、私は読んでみたいとは思えませんでした。「ちゅうでん児童文学賞受賞作品」であるということからかもしれませんが、日本の児童文学作品を読んでいて常に感じることは、外国の作品と比べて、内容が軽いというか浅いように思っています。外国の作品は、海外の良い作品を選んで翻訳者、編集者の方々が日本に紹介してくださっているということもあるのかもしれませんが、子どもたちに手渡したいと思う作品が多いと感じています。
本作でもひとりひとりの登場人物の描かれ方に魅力が感じられないこと、ビリケンや通天閣、あべのハルカスなど、大阪の土地勘がないと分かりにくいということも含めて、設定もよくないと思いました。祖父が残留孤児という設定にも無理があり、唯人の父親の描かれ方も明確ではないと思います。母親が淡路島の家族と、どういう形で決別したのか、その母親が、「家族に見せびらかしに行くんや」という展開にも、どうして唯人と行ってみようかと思ったのかが安易すぎるように感じました。アズの存在、中国語、なわとび大会など、いろいろなことを盛り込みすぎていて、物語の展開の仕方も軽すぎて、不満に思いました。新しい作家たちの作品を紹介していくという点では、文学賞受賞作品の刊行ということもあるのかもしれませんが、文学的に、子どもたちに手渡せる作品であるのかどうかという考察はしてほしいと思います。

ルパン:私はすっと読んでしまって、まあまあおもしろいと思いました。全体の構成としてどうかというよりは、一個一個の場面に共感する子はけっこういるんじゃないかと思います。共感できないとしたら、アズが、まわりがせっかく仲良くしようとしているのにまったくこたえようとしないところ。それでも仲間に入れようとするこのクラスは、なかなかいいクラスですよね。ふつうだったら、イジメとか、少なくとも仲間外れにされたりすると思います。
施設に行ったときに、アズがおばあさんに話を合わせたことをからかう文香を、唯人がやっとの思いでたしなめたシーンは印象に残りました。あと、私は大阪に住んでいたことがあるんですが、いろんなルーツの人が今も肩を寄せ合って生きている感じがしました。東京やほかの地方にはない大阪のふところの深さとともに、そこで生きる人の苦しさを垣間見た気がしているので、ここに書かれている人たちの、自分たちのルーツを守りつつも、それでもやっぱり、日本で生まれて日本で育って、自分たちは何人なんだろうという感情は、ていねいに描けているのではないかと思いました。

シア:まずこの題名なんですが、雪の日にライオンを見に行ったのって、ほんのワンシーンなんですよね。ライオンが絡んでくるわけでもないのに、なんでこんな印象的な題名にしたんでしょう? どちらかというとビリケンの方にスポットが当たっていますよね。それでライオンはどうしたの? と読後に気になってしまいました。信じられないほどクラスのみんながやさしいのも気になりましたが、前の担任の先生のクラス運営がよほどよかったんでしょう。それに最近は少子化なのでクラスの人数も少なくて、子どもたちにゆとりがあるのかもしれません。とはいえ、なんだか老成していますよね。アズが登校しなくなったりしているのに、保護者が絡んでこないのもなんだかリアリティがありません。先生の描き方もなんだかしっくりこなくて、学級崩壊ポイントもいくつかあったのに何事もなく通り過ぎているので、どうにも上っ面だなあと思いながら読んでいました。最近の日本の児童文学はこういうほわっとした作品が多いように思います。ほわほわと上がり下がりもなく平坦に終わり、人間関係の解決や掘り下げなどもあまりしません。とにかく無難なんですよね。毒にも薬にもなりません。ティーンエイジャーなら、漫画の方がよほどおもしろいと思います。文体の関西弁は、おもしろいはおもしろいんですが、ほぼセリフなんですよね。なんだかなあという感じです。それに大人なら中国との関わりなどわかりますが、子どもが読んで理解できるのか疑問です。大阪のいじりといじめについての感覚の差は感じることができました。ちゅうでん児童文学賞で大賞を受賞していますが、どの辺が受賞ポイントなのか知りたいですね。

ニャニャンガ:中国残留法人の祖父を持つ唯人と転校生の女子アズとの交流を通した成長物語で、コンパクトで後味のいい作品だと私は思いました。関西弁で書かれているおかげで標準語よりきつくなく、読みやすく感じましたが、全体的にほわほわとした印象は否めません。深くはないのかもしれないけれど、ひとりぼっち同士のふたりが近づいていくの、よかったです。

コゲラ:中国残留邦人の家族という設定は、いままで児童文学で無かったような気がして(私が読んでいないだけかも!)、とても新鮮で、いいなと思いました大阪弁で書かれていることにも好感が持てました。ただ、私は関西で暮らしたことがないので、大阪弁=饒舌という感じがあって、唯人の内面とちょっと合わないような気もしました。おそらく偏見だろうと、反省してますけどね。タイトルは魅力的だと思って読みはじめ、なにかクライマックスのいいところで、効果的にライオンを見にいく場面が出てくるかなと期待していましたけど、途中でちょこっと出てきただけで、肩透かしをくらったような気分になりました。作者のなかでは、故郷を離れて大阪のど真ん中にいるライオンと主人公たちがリンクしているのだろうけど。
また、おじいちゃんが孤児になって、中国の親に引きとられたことを書いてある箇所を何度も読みかえしたけど、ここもずいぶんあっさり書いてありますね。どうして赤ちゃんだったおじいちゃんに名前を書いた手ぬぐいが結びつけられていたのかとか、戦争を知っている世代には胸に迫る場面だけど、今の子どもにはわかるかな? 作者が意識的に避けているのかな? あとがきの「この物語に登場する先生や子どもたちは、もはやおとぎ話の住人? いえいえ、子どもたちは今も昔も変わりません。どこまでもやさしく、大きな包容力を持っています」という断定的な言い方にも違和感を持ちました。ひょっとして深刻なことは書くまいというこだわりを、この作者は持っているんでしょうか?

wind24:5年生の1年間の出来事ですね。引っ込み思案の唯人と、心をひらかない転校生のアズを中心に子どもたちが成長していく姿が描かれています。小さないざこざはありますが、クラスの子たちが概ね素直でやさしく描かれています。現実はもっとシビアだろうと思います。子どもたちの世界はもっと冷たく時には残酷なのでは? そこは、作者のこうあってしいという願いなんでしょうか。
唯人の父親は早くに蒸発していますが、それでもなお、母親は父親の家族のなかで暮らし、蒸発した父親の悪口を全く言いません。人間が出来過ぎているのでは?と思いました。と同時に、大家族で子どもがそこに自分の居場所があり、安心して生活できることには好感を覚えました。クラスが大繩跳びで次第に団結していきますが、大繩のモチーフはありきたりなので新しさは感じませんでした。また唯人が5年の終わりでは180度変わり、好少年に描かれ過ぎではないかとも思いました。話の終盤で、アズと唯人に淡い初恋の気持ちが芽生えるのは、ほほえましいと思います。

エーデルワイス;図書館から借りたこの本は「ちゅうでん教育振興財団」の寄贈になっています。(他にも地域によって何件かの図書館で寄贈図書になっていました。)私は、好きな作品です。主人公唯人の心の軌跡をたどって読んでいるようで、唯人の心は苦しいなと思いました。いとこを頼りに生きていたけれど、いとことその家族がうらやましかったと気づくところには唯人の成長を感じました。p47の9行目「…唯人が感じているのはやさしさの孤独…」いじめもないクラスだけれどその中の孤独はよくわかります。唯人とアズ、結末は安心するような書き方でしたが、想像するにこの先二人はまだまだ大変でしょう。唯人はお父さんを中国で探し対峙しなくてはならないし、アズは淡路島のお母さんの実家を訪ねたら、そこで新たな問題が発生するでしょう。金沢のお父さんに残りたいと主張しても無理やり大阪まで連れてきて、自分の忘れられない初恋の話をするようなお母さんとも長く向き合わなければならないですし。『中国残留邦人』を扱っていますが、それ自体の問題より背景としている気がします。雪の日に動物園へ唯人と梓がライオンを見に行くシーンは心に残り、私はタイトルについてもなるほどと思いました。

サンザシ:自分に自身が持てない二人の子ども──父親が中国に帰ってしまい母と二人で暮らしている唯人と、周囲にとけこもうとしないアズ──が、おたがいだけは警戒せずに友だちになり、次の一歩を踏み出せるようになる姿が、ていねいに描かれていました。悪い人物は一人も出てこないし、悪意あるいじめっ子も一人も出てきません。それはいいのですが、アズがイマイチくっきり浮かび上がってきませんでした。こういう子がいてもいいのですが、もう少し内面を描いてほしかったし、唯人のおじいちゃんにも大きな葛藤があったはずですよね。先日、来日したシドニー・スミスさんが、「子どもの本は様々な感情を安心して体験できる場。それが将来実際に困難にぶつかったときに役に立つ」とおっしゃっていました。だとすれば、ほわほわの物語でも少しは役に立つのかな、と思いましたが、これならマンガのほうがいいという意見にも一理あると思います。

アンヌ:私も題名と内容が合わない気がしました。唯人については知らない世界が描かれていて物語もていねいに彼を追っている気がしますが、もう少し、アズについて書かれてもよかったのではないかと思います。ライオンももう少し、活躍してもよかったんじゃないかと。大阪独特のノリとツッコミの会話が描かれていますが、悪気のないものであるとしても、転校生にはつらいだろうと思います。同じ立場の子がこれを読んでホッとするかは疑問です。現実の小学校生活はこんなに忙しいのかもしれませんが、行事3つは多すぎる気がしました。

ハル:「そういうやつがおってもええ」っていうメッセージには、読者としてはだいぶ救われる思いもあるけれど、アズ本人が自分の性格を持て余しているので、「そういうやつがおってもええ」が、救いになるのかなぁ、どうかなぁ。著者は、現在は岐阜県にお住まいのようで、舞台とあった大阪とはどういうつながりがあるのかわからないけれど、金沢からきたアズがとても気取った話し方をしているような印象があり、そのあたりに大阪至上主義的なものも感じます。金沢の言葉遣いがこういうものなのか、関西の言葉以外はいわゆる標準語で書かれたのか、ちょっとよくわかりませんでした。

西山:私は好感を持てませんでした。ということでネガティブなコメントばかりになりますが……。タイトルはムード優先で思わせぶりに感じます。全体的に、設定の大渋滞。元号ばかりで、いつ、だれが何歳の時、それから何年というのもすんなり分からないし。大縄跳びは、地域により学校により違うと思いますが、男女別にする必要がわかりません。へなちょこ男子が、ちょっと生きづらさをかかえている女の子の前では急に立派になって、上から目線で振る舞うのは、それが唯人の成長として読めるのでしょうけれど、私は抵抗を感じました。アズのほうがよっぽどしっかりしているのに。バスの中のいじりのしつこさが耐え難く、それで唯人が立ちあがったのは展開としてはわかりますけれど、最終的に、悪気はないのだからこの大阪ノリを受け入れようよというベクトルを作品が持っている気がして、そこも抵抗を感じます。長縄跳びというところから、梨屋アリエさんの『ツー・ステップス!』(岩崎書店)の深さを思いだしたことでした。

コアラ:今回の選書係だったのですが、書店で見てよさそうだなと手に取って、読んでみてなかなかよかったので、選びました。今まで何度か読み返したのですが、どうしても一言でまとめられないという気がしています。作者は、やさしい世界を描きたかったのだと思います。現実というより、やさしさのほうに振った世界です。クラスを仕切る女の子がいて誰も逆らえないけれど、陰湿ないじめがあるわけではなく、クラスに馴染めない転校生のアズも除け者にしない、という「受け入れる」風土のあるクラス。やさしい環境だけれど、やさしさの中の孤独を唯人が自覚する場面があって、そのやさしさの中の孤独が、この作品の空気感になっていると思いました。登場人物の心情がよく描かれていて、どの人の思いもよくわかるなあと、私は共感しながら読みました。中国残留邦人だった祖父の思いや言葉が、唯人の中に根付いていくのも、世代を超えて受け継がれていくのがいいなと思いました。みなさんのお話を聞いていて、私は気づかなかったけれど、ああ、なるほどなと思えるものあったりして、いろいろな意見が聞けてよかったです。

コゲラ:お正月におじいちゃんの家で開口笑というお菓子を初めて食べた……という場面ですが、そんなにおいしいお菓子なら、どうして唯人はいままでごちそうしてもらえなかったんだろうと、ちょっとばかりひっかかりました!

(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ベアトリスの予言

『ベアトリスの予言』表紙
『ベアトリスの予言』
ケイト・ディカミロ/作 ソフィー・ブラッコール/絵 宮下嶺夫/訳
評論社
2023.04

ハル:最初から言いづらいのですが、もう、勇気を出して白状すると、p150くらいまで、何が書いてあるのか全然頭に入ってきませんでした。p150くらいからだんだんおもしろくなってきたけれど、開き直ると、そのあとも眠気との戦いでした。テーマはよくわかりますし、文字を覚えていく場面はわくわくしまし、きっと読む人が読めば良い本なんだと思いながらも……私の読書力の限界。「彼女」が繰り返し出てくるところや(母親のこともベアトリスは「彼女」と呼んでいましたし)、国王がベアトリスを呼ぶのは「あんた」でいいのかなぁ、とか、なんとなくキャラクターがつかみづらかったです。

アンヌ:ファンタジー世界の作りがとても雑な気がして、読みながら次々に疑問がわいきてしまいました。「悲しみの年代記」に書かれる予言はどうやって王室に伝わるのを一般市民は知るのか?女性が文字の読み書きができないと信じられてる国ならば、ベアトリスの母はどうやって文字を知ったか?人魚は何をしたくて外に出たか?等々です。でも、それと同時に、タリバン統治下で学校に行くことを禁じられたアフガニスタンの女の子たちはどうなってしまうのだろうと思わされたので、この物語に今の現実が反映されていると感じました。

サンザシ:物語はおもしろく、記憶を喪失していたベアトリス、頑固なヤギのアンスウェリカ、読み書きはできないが機転のきく素朴な少年ジャック・ドリー、森の中でクラス元の王エーレンガード(カノック)、修道院で予言の書を文字にしていたエディック修道士と、それぞれ違う立場、違う文化を背負っているキャラクターが、会ってすぐに勘が働いて親しくなるのもいいし、ベアトリスの人魚の物語が本編をなぞっていくのもいいですね。ただし翻訳は、彼、彼女、それ、きみ、といった不必要な代名詞が頻出するので、読みにくく、スムーズは物語の流れを阻んでいるように思いました。イラストもいいのに、残念ですね。それと、エディック修道士の一人称が、「ぼく」と「わたし」の2通りになっていました。

エーデルワイス;久しぶりの厚いファンタジーの本にわくわくして読みました。飾り文字、挿絵、装丁どれも素敵です。読みやすい文章だと思いましたが、教訓めいた言葉ばかりで嫌気がさしてきました。また内容をただただ長くしているだけではと思ってしまいました。もっと別の構成があるのでは?と、思いました。

wind24:短い章立てになっていてお話がブツブツ切れてしまう印象ですが、子どもたちの読書力を考え、読みやすくしているのでしょうか。物語としては印象的なモチーフが散りばめられていているので易しく読み進めることができると思います。ヤギのアンスウェリカが狂言回し的役割でお話の全体を通して重要な位置にあると思います。ベアトリスのいる世界と王国での出来事が同時進行的に書かれているのはおもしろいと思いますが、王国での内容が予言が中心で、予言に出てくる少女を捜しだすことに終始しているので途中で飽きてきました。国民は反抗せずに王室の命令に従うべき存在で黙々と働き税金を納め、命令がでれば戦場に赴く…今も世界中、政府と国民の関係性は似ている国が多いのでは? 特に発展途上国には多いと感じます。
おしまいに新たな国王の座にベアトリスの母が就きますが、話の中で母親の存在が感じられなかっただけに、いささか唐突に思えました。本来ベアトリスが王座に就く流れと思いますが、もう少し見分を広め経験を積むまでのつなぎともいえるでしょうか。
最後に一番大切なものは「愛」で締めくくられていますが、それまでの内容に愛を感じさせるものがありませんでしたので、水戸黄門の紋所のようで違和感を覚えました。

コゲラ:小学生のころの私が読んだら、おもしろくて夢中になって、何度でも読みかえしたと思います。昔話風の物語で、謎の少女ベアトリスが目的地に向かう途中で魅力的な仲間がどんどん増えていくところも、昔話の定番。ある日、とつぜん王位を捨てたカノックやジャック・ドリーもいいけれど、なんといってもヤギのアンスウェリカが最高ですね。読み終えたあとも、短い毛の生えた柔らかい耳や、石みたいに固い頭の手ざわりが残っています。そんな昔話のような物語のなかに、女の子の読み書きを禁じることの残酷さや、手に持つと振るわずにいられない剣とか、作者にいいたいこと、現代的なテーマがきちんと込められている。イラストも、もちろん素敵だし。ただ、「彼」「彼女」を執拗に使っているのは、訳者のなにかこだわりがあるのかな? 日本語は主語がなくても成立する言葉だし、そのほうがずっと自然なのに……。

ニャニャンガ:同じヤギを指すのでも、原書でsheとなっているところは「彼女」、goatとなっているところは「ヤギ」とそのまま訳されています。

サンザシ:機械的に訳語をおきかえている、ということですか?

ニャニャンガ:もしや編集されていないのではと思ってしまうほどでした。

サンザシ:こういう訳し方にこだわったというわけではないんでしょうね。

ニャニャンガ:編集者さんが、翻訳家の方にコメントしづらい状況にあったのでしょうか。

サンザシ:ベテランの翻訳者の方なので、編集者もおかしいと思っても強くは言えなかったのかもしれませんね。

コゲラ:私は、こうすべきだっていう、なにか特別な思いが翻訳者にあるんじゃないかって思ってしまったわけ。それが残念だなあと思いました。この本が大好きな子には余計に。でも本好きの子は、そういうところをすっとばして読むかもしれませんね。原文で読みたくなりました。

ニャニャンガ:ケイト・ディカミロも、ソフィー・ブラッコールも大好きなので私は原書を読んでいて、邦訳が出るのを楽しみにしていました。ところが、児童書なのに「彼」「彼女」が頻出し、対象年齢の読者にとってわかりにくのではと心配になりました。訳者あとがきに「日本のおさない読者に読みやすいように」とありますが、そうは思えずとても残念です。悔しいというのも変ですけど、もっとよい作品になっていたはずです。原書で読んだときは、登場人物がそれぞれ特徴的であり魅力的だったので、感情移入して読みましたし、物語にとても愛を感じました。ベアトリスの記憶がなかったときからはじまり、断片的な記憶がもどっていく過程で、大切なものは何かが伝わってくる、胸が熱くなるお話でした。日本語訳で読んで気づいた点としては、この国の王は世襲制ではないのですね。最後にアベラール家のベアトリスのお母さんが王になるのは少しだけ意外な気がしました。

シア:ニャニャンガさんのご指摘なんですが、話の途中でアベラール一家が城に住んでいる描写が出てくるので、公爵あたりの王に近い血筋なのかなと思いました。さて、この本は1ページ目から妙なんですよね。全部夢の中なのかなと思えるほど、安易で奇妙な世界なんです。ヤギのあたりのくだりなどギャグでしかありませんでした。文章は小さい子向けだと思います。訳者が「なるべく、すらすら読んでほしいという思いから」このようにしたみたいですが、なんとも古く、往年の児童文学を思い起こさせる雰囲気でした。ロアルド・ダールの訳を手掛けていたみたいですし、お年を召した方なんですね。その年代の書き方なのかもしれません。訳文の奇妙さもありますが、内容もどう読んでいいのかわかりませんでした。例えばベアトリスが正体を隠しているはずが突然名乗ったり、p94で「『わたしは絶対におそれない』ベアトリスはまた言いました」とありますが、その直後のp95で「しかし、彼女はおそれました」と、早々に前言撤回されたので、おそれるんかーい! と、お笑い芸人のようなツッコミをしてしまいました。関西風ツッコミを入れざるを得ない箇所が多い上に、とにかく古臭いんです。つまらないやり取りをする英語や道徳の教科書かというレベルで、おもしろくありません。なぜふいにギャグ調になるのかもわかりません。p128「その人はぐるりと宙をまわってからもどってきて着地し、そのまま横たわっていました。男でした」とあるんですが、ヤギに攻撃されて突然男がぐるりと宙をまわるという表現が読んでいてなんとも居心地が悪く、続けて「男でした」とぼそっと入ってくるところで思わず苦笑していました。p132「ジャック・ドリーは木の枝の上に立っていました。そのとなりにはベアトリス。木の根もとにはヤギと得体の知れない男。ジャック・ドリーは剣を手にしています。鳥たちがさえずっています」という風に、文章が台本みたいにたたみかけてくるんですよね。ちょっと読みにくいと感じました。登場人物たちも行動に矛盾点が多く、行動に一貫性がありません。ご都合主義な展開ばかりで読んでいてつらかったです。ラストで囚われていただけの母親が女王になるなど、もう噴飯ものです。p296「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」と締めくくっていますが、ハッピーエンド至上主義のディズニーだって、こんなに子どもだましではありません。こんな感じでモヤモヤしながらあとがきに入ったら、p299「主人公がすばらしい。この本のすべてがすばらしい。だれもがこの本を好きになってしまうだろう」(〈ニューヨークタイムズ・ブックレビュー〉)なんて書かれていたので、もうニューヨークタイムズのブックレビューは信じません。映画化されるとありましたがどうなることやら。オシャレな装丁やさしい絵は良かったです。そこが救いでした。

ルパン:みなさんのコメントのとおり、としか言いようがありません。発言の順番が最初の方だったら、今までのご意見、ぜんぶ私が言ったのに、という感じです。最後の「愛」も、ぎゃふんという感じでした。原書で読めばおもしろいというお話があったのですが、訳がうまくてもカバーしきれない部分はあったのでは
メインの登場人物のなかで、成長しているらしいのはエディック修道士でしょうか。主人公も、直感だけに頼って行動し、結局は都合よく助けられるので、どこがどう成長したのかわからない。王様だったカノックに至っては、ある日、突然お城を出て行って王冠を池に捨てちゃう。その理由もわからないし、無責任きわまりないですよね。ヤギも何者なのか。どうしてヤギがこんなヤギなのかも説明がない。いろんな人やいろんなもの、いろんな場面が次々現れるけれど、とりとめのない感じで、私はあまりおもしろいとは思いませんでした。

花散里:子どもたちに本を手渡す立場の者として、海外の優れた絵本、児童文学を翻訳者の方が選んで訳してくださり、編集者の方との協働により刊行してくださることによって、私たちは子どもたちに外国文学を手渡すことが出来るのだと思っています。より良い海外の作品を子どもたちに手渡したいと思います。本作は小学校高学年でも、読書力のない子には読みにくい作品だと感じました。登場人物、ひとりひとりはすごく魅力的で、特にヤギの行動について興味深く感じました。ファンタジーと言えるのかどうかと思いましたが、物語の展開がおもしろいのと、装丁、挿絵が素敵だと感じました。そういう意味からも、「この本、おもしろいよ」と手渡せるような、よい訳文で読みたかったと思いました。

雪割草:私は読みやすかいと思ったのですが、内容は正直よくわかりませんでした。読み終わって、よかったところを考えたときに、絵だけだと思ってしまいました。p296に「結局、重要なのは予言などではないということです」とありますが、この話自体が予言を軸に展開していて、登場人物らも予言に突き動かされていると思ったので、どうも腑に落ちませんでした。世界を変えるのは「愛」というメッセージも、心に入ってくるように描けているとは思えませんでした。人魚の物語もどう作用しているのでしょうか。この訳者の『マチルダは大天才』(評論社)は小学生のときに読んで好きでした。おとなになってから読み直していないのではっきりしたことは言えませんが、この作品では訳がとても気になりました。ヤギを「彼女」と訳されているのを読んだとき、読み間違えかと思って前後読み直しましたし、わざとなのだろうと理解していますが、たぶん意図した効果は子どもには伝わりづらく、人と同等に扱いたいのであれば、主語以外でどうにかした方がよかったのでは思いました。またp289にあるように、文末に「です」が多用されており、実況中継みたいで落ち着きませんでした。それから、4人が簡単にお城に侵入できたり、母は捕まっても殺されずにいたり、物語としても甘さ、ゆるさを感じました。

きなこみみ:まず、装丁が美しいことに惹かれました。見返しも表題紙も挿絵も、細かいところまで神経が行き届いていて、「本」への愛情がまず感じられます。物語は世界観が作りこまれたハイファンタジーというより、寓話のような物語で、タイトルと装丁を考えると、この本そのものが、予言書のような形でディカミロは書いたのではと思うんです。だから、物語としてはつじつまが合いにくかったり、わかりにくいところもあるんですが、今の時代への問いかけ、ジェンダーの問題を含め、この世界の暴力にどうやって立ち向かえばよいのか、という問いかけだと思います。印象的な場面がたくさんあって、たとえばベアトリスがヤギの片耳を握って眠っているシーンや、空が真っ青で光り輝いているときに、啓示が下りてくると感じられたりする、そういう詩のような場面やイメージを積み重ねることで、ディカミロは強いメッセージをこの物語に込めたかったのではないかな、と思いながら読みました。だから、みなさんのおっしゃるように、訳がもっと良ければ、全く違った物語になったんじゃないかなと残念です。
後書きを読むと、ディカミロは児童文学大使を務めていて、アメリカの児童文学会の重鎮としての役割を果たしてらっしゃるので、p88の「だれもが自由に読み書きし、さまざまな意見を発表する」ことへの抑圧に屈しないための励ましや、ひょっとしたら宣言みたいな気持ちもあったのではないかと思うのです。「女の子は読み書きしてはならない」という縛りは今も世界中にあって、他ならない自分の国の内閣も男の人ばっかりずらっと並んだ光景を見ると、ああ、私もこのベアトリスの世界に住んでいるんだなあと思ったりするんです。私はヤギのアンスウェリカがとても好きなんですが、ベアトリスとヤギの結びつきが、全く言葉を必要としない繋がりで、それがずっとこの物語の根底にある。それは体の温かさを通じた強い愛情です。そして、ベアトリス、ジャック・ドリ―、エディック修道士との関係も、絵や、口笛や、歌などの「美」で繋がった仲間たちと、支配的な暴力に向かい合う。そういう構図になっています。ジャック・ドリーが、人殺しの剣を手にしたとき、復讐の殺意が芽生えるところ。武器というものを手にしたときの人間の心の動きが描かれているところ。そこを、言葉の力で乗り越えるのが、強いメッセージだなと思います。ラストの「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」というところ、どうも評判が悪いのですが、そこまでのメッセージを訳文がちゃんと伝えられていたら、もっと違う感動があったのかもしれないです。

アンヌ:ニャニャンガさんにお伺いしたいのですが、原文はもっと韻を踏んでいるとか詩的な感じですか?

ニャンガニャンガ:韻を踏んでいた印象はないです。ディカミロは、子どもの頃にお父さんに暴力を振るわれていたそうなので、暴力に打ち勝つのは「愛だ」ということは伝えたかったのではないでしょうか。

アンヌ:確かに、エデイック修道士の頭の中に常に彼を否定する父親の声が響いていて、彼が生まれてからずっとDVを受けていて、父親が死んだ後もその影響を受けているのがわかりますね。

ニャニャンガ:それを乗り越えていくのを書きたかったのではと思います。ただ、昔話風の物語でありながら、セリフが今風な箇所があるのでアンバランスな印象を受けました。そのせいで余計読みづらいのではと思います。

サンザシ:原書どおりの直訳ではなくて、文章などは入れ替えて訳されていますね。そういうところには、工夫なさっているのでしょう。でも、イメージがくっきり浮かび上がってこなかったです。

コゲラ:原文は、現在形ですか?

サンザシ:アマゾンのサンプルを見ると、過去形のようです。

コアラ:私は選書係だったのですが、風刺を含んだファンタジーで、いろいろな解釈ができそうだと思って選びました。絵がすばらしいです。どういう時代でどういうタイプの物語なのか、絵が雄弁に物語っています。中世のヨーロッパを思わせる時代背景で、一般の人々は読み書きができなくて、p70の5行目に「村の人たちは、ジャック・ドリーに、古い物語を語ってほしいと頼みました」とあるように、物語を語って人々がそれを聞いて楽しむという文化がある設定になっています。この『ベアトリスの予言』も、ストーリーを先へ先へと進める展開になっていて、登場人物もストーリーのためだけに存在しているような書き方になっているところが、口承文芸のようだと思いました。言葉が重要な役割を果たしていて、p238あたりの場面ですが、ジャック・ドリーはベアトリスから文字を教わることで、無益な復讐をせずにすんだし、その後ベアトリス自身も、武器ではなく、物語を語ることで敵対する国王と対峙しました。p10の本文1行目に「この物語は、ある戦争の時代に起きたことです」とありますが、武力ではない、言葉の力、物語の力を感じることができた作品でした。p68で、ビブスピークおばばが、ジャック・ドリーに何度も自分の名前を言わせるところが、とても印象的でした。物語の展開が都合よすぎるのはどうかとも思いましたが、全体的に、美しさと、存在に対する肯定を感じる物語でした。

西山:私はとても楽しく読みました。ああ、おもしろかった、で特に言うことはない感じなんですけれど……。修道士を手玉に取るヤギがおもしろくて、冒頭から完全におとぎ話として読む構えができたので、細かいことは気にならなかったのだと思います。それでいて、今の戦争を思わせて、兵士の傷つき方、心の壊れ方が胸に迫りました。翻訳上の代名詞の件は私はそういう観点を知らなかったのですが、この作品の場合、あの乱暴で荒々しいヤギが「彼女」であること、つまり、女性であることを愉快に読んでいました。新しいタイプの戦争と平和を考えさせてくれる児童文学を読んだと感じています。

すあま:私は児童文学でもミステリーでも中世の修道院ものが好きなので、期待して読み始めたけれど、舞台としては物語の最初のところだけだったので残念でした。予言があって、そのとおりになっていくことを予想しながら読み進めました。途中で旅の仲間が増えていくのはおもしろいものの、キャラクターが次々と出てくるゲームのような感じもしました。登場人物がそれぞれに抱えている悲しみを、ベアトリスを救うことで癒していく物語。楽しいところもあるけれど、読んでいてつらいところもあり、特に兵士の懺悔をどうしてベアトリスに聞かせる必要があったのか、ちょっとひどいな、と思いました。読みながら、意味がわからないところにひっかかってしまい、子どもにも読みにくいように感じました。乱暴なヤギの活躍にも期待していたのに、途中からベアトリスを癒す役割になってしまい、もうちょっと暴れてほしかったかな。

(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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橋の上の子どもたち

『橋の上の子どもたち』表紙
『橋の上の子どもたち』
パドマ・ヴェンカトラマン/作 田中奈津子/訳
講談社
2020.11

ルパン:この作品は出版されてすぐに読みました。細かいところを忘れていたので、再読でもう1回。感動しました。ラクが最後に死んでしまうことは覚えていたので、それがわかっていて最初から読むと、いっそう切なくて。ひとりでも多くの子どもたちが助けられることを祈ってやみません。実は、ワールドビジョンという団体の活動で、インドの男の子のチャイルドサポーターを10年近くやっていたのですが、ここへきてインドの政策により突然シャットダウンされてしまい、お別れを言うことすらできませんでした。国内にこんなにたくさんのホームレスの子どもや児童労働の問題があるのに、外国の支援は受けないというのです。この子たちを救う国のシステムがあればいいのに、と思うのに、それどころか、何かしたいと思っても国がじゃまするんです。二重の意味で切ない思いでした。

さららん:父親の暴力から、障害のある姉さんのラクを守ろうと、ヴィジは家を出る決心をします。大人の目から見れば暴挙かもしれないけれど。案の定、ふたりは住むところにも食べるところにも困りますが、橋の上に住むアルルたちと出会い、なんとか生きるすべを見つけます。ラクは、ヴィジが思っていた以上に手先が器用で、ラクの作ったネックレスが売れて逆にヴィジたちが救われる場面もあります。そこに障害のある子の力を制限しているは、むしろ周囲の人間なのだ、という作者の視点を感じました。実際にあったエピソードをつなぎあわせて書かれたこの物語は、ラクが病気にかかり死んでしまうまでの過程も、罪悪感に苦しむヴィジの心の回復もていねいに描かれ、「前に進むことは、ラクを置いていっちゃうことではないって、やっとわかったの」(p249)という言葉に行きつきます。私は自分の経験も思い出し、この言葉が胸にしみました。作中では、子どもが子どもらしく描かれ、笑ってしまう箇所もありました。人物像は表層的かもしれませんが、人生経験の少ない子ども読者にとって、暴力や貧困と闘いながらインドで生きる日々のお話を先へ先へと読んでいくためには、人物はこのぐらいの軽さでちょうどよいように思えました。先日観たばかりの映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」(サラ・ポーリー監督)でも、村の男性たちから長い間性的暴行を受けてきた村の女性たちが、自分たちの尊厳を守るために議論を重ね、ある選択をします。家出をするというヴィジの選択は、自分たちの尊厳を守るための行為だったんだ、と重ねて思いました。本人はそう言葉にはしていないし、言葉にできるはずもないのですが。

サンザシ:JBBYで出している「おすすめ! 世界の子どもの本」でも、この本がおすすめされていましたね。南インドの貧困を描きながら希望も描かれているのがいいと思いました。でも、ちょっと主人公がいい子過ぎて、立体的に浮かび上がってきませんでした。アルルの人物像も同じです。これだと、キャラクターがリアルに感じられないので、子どもの読者が主人公に一体化してお話の中に入っていくのが難しいなと思ったんです。遠い国にかわいそうな子がいるという感想で終わってしまうような気がして。この父親も、なぜ暴力をふるうのかがよくわからないので、リアルには浮かび上がってきませんでした。登場キャラクターが、一定の役割を負わされているだけで立体的なリアルな存在に感じられないのが、私はとても残念でした。

ハル:冒頭で家庭内暴力の描写がけっこうきつかったので、ん? これは、小学生でも読めると見せかけて、本当はもうちょっと上の年齢向けの本なんじゃないの? 対象年齢、大丈夫? と疑ってしまいましたが、読み進めると、主人公たちと同じくらい年代の、小学高学年くらいから読んでほしい本だなと思いました。ハンディのあるお姉ちゃんラクを、しっかりものの妹ヴィジが助けているように見えて、ラクがいなかったら、ヴィジのサバイバルはもっともっと過酷なものになっていたかもしれませんね。ラクに助けられている部分はとても大きい。そういう点でも、遠い国の恵まれない子どもたちの話、と思わず、自分たちと同じ年ごろの子どもたちの物語として読んでもらえたらと思いました。

アンヌ:ヴィジが家出をするときに働けば何とかなると思っているのが、いかにもインドという国を表しているなと思いました。大勢の子供たちが働かされている社会なんだなと。さらに、ゴミの山の男のようないかにも裏社会につながりのある男だけではなく、バスの運転手として働く男も、家出少女と見ると捕まえて商品として売り飛ばそうと追いかけていることに衝撃を受けました。もちろん、日本社会でも少女たちを性的な商品として扱う人間がいますが……。男の子でも、ムトゥのように売られて強制労働させられる子供たちがいる社会なのだということにも、恐怖を覚えました。そんな中で、彼女たちを商品として見ない少年たちに会えたのは運がよかったと思います。いろいろな宗教がある国である割には、キリスト教色が強い作品だと思いました。ムトゥに比べてアルルの話す言葉はときたま牧師さんのようで、ちょっと不思議な感じもしました。後半のラクの死に傷ついたヴィジの心が回復するまでを実にゆっくりと書いてあるところはよかったなと思います。他の国とは違う時間の流れを感じました。最後にヴィジがDVを繰り返す父親を許して家に帰ったということにしないで、自分の道を選んだと作者が書いてくれたことが、これを読む読者のためにも、とてもうれしいです。

雪割草:この作品を選んだのは、日本の子どもたちは読んでどう思うだろうか、果たして興味をもって読めるだろうかと考えてしまうところがあり、みなさんの意見を聞いてみたいと思ったからでした。15年くらい前の学生の頃、インドの児童労働の被害にあった子どものための施設に行って泊めてもらい、子どもたちと一緒に過ごしたときのことを思い出しました。厳しい現実を生きている子どもたちのことは、ぜひ知ってもらいたいと思います。でも、学校で出前講座などをしてきて思うのは、興味をもってもらうには、小さなことでいいので、つながりを感じてもらえるような仕掛けが必要です。この作品は、子どもたちの食べものや暮らしぶりなど生活感がとてもリアルに描かれています。それから、信じるということが鍵になっています。でも、遠い国の話で終わらないようにする仕掛けが、もう少し必要かなとは思います。

花散里:刊行されたとき、父親からの虐待やインドの階級制度の中での子どもたちの様子に衝撃を受けて読みました。今回、読み返して、カースト制度の中で、障害を持った姉を持つ少女が、残虐な父親の暴力などから二人で家出をした後の生きざまがよく描かれていると感じました。私の勤務校では高1生が、アジアの国々に研修に行きますが、昨年、インドに行った生徒たちがカースト制度の中での自分たちと同世代の子どもたちについて動画を作成して報告していました。日本の子どもたちがインドなど、アジアの国々の実情を知ることは大事だと、本作を読んで思いました。障害を持った兄弟を描いた優れた作品はありますが、姉のラクに対するヴィジの思い、特にラクが亡くなってしまったことへの自責の念など、ていねいに描かれていると思います。登場人物、とくにアルルはキリスト教の教えとともによく描かれ過ぎではと思うところもありましたが、逆境の中でも手を差し伸べてくれている誰かがいるということがヴィジにとっては救われる存在だったのではないかと思いました。障害があるラクがビーズのネックレスを作るのが得意であることなどの表現も印象に残りました。インドという国を知っていくうえでの作品としても、子どもたちに手渡して行きたい作品だと思います。

シア:今回の本は夏休みだったせいか、なかなか借りられませんでした。「ふたりがいつまでもいっしょにいること。それは、あたしが信じていた数少ないことの一つだった。」(p6)とあったので、これは絶対に重たい内容の本だと思い、覚悟して読みました。物語のテーマがとてもわかりやすくかっちり作られているので、まさしく読書感想文用の本だと思いました。でもそのせいか、いい子や大人な子が多かったように思います。主人公のヴィジはとても大人すぎました。11歳で姉を連れて家出を決意するなど、そうそうできるものではないと思います。アルルも悟りすぎではないかと思うほどで、クリスチャンのよい面を描いているようにも感じました。とはいえ、子どもたちみんなはとても可愛らしく、台詞の一つ一つが愛らしかったです。家族を愛しているのが伝わってきます。小説では登場人物の死はイベントとして描かれやすいですが、この本はそうではなく残された人たちの心をていねいに描いていました。そこがリアルに感じました。現実によく起きていることだからなんでしょうね、胸が痛いです。だから余計に父親や母親についての追及もほしかったです。「父さんをも愛することができるようにね」(p246)とありますが、そこまでされても父親を愛さなければならないのでしょうか。インドだけでなく日本でも貧困家庭の問題はありますので、他人事ではないと思いました。ところで、この作品は食べ物や服などのインド特有の文化がおもしろいです。異文化を知ることができるのは海外児童文学ならではの魅力だと思います。最後に、題名なのですが「橋の上」でいいのでしょうか。読んでみると「橋の下」ではないかと思うのですが。

ルパン:ほんとうに橋の上です。たまに翻訳者もまちがえて「橋の下」なんて言ってますけど、廃墟になった橋の上に住んでいます。

wind 24:20日ほど前に読み、読み返しができなかったのでおぼろげな感想です。インドではカースト制度は70年も前に廃止されたにもかかわらず、未だに社会に深く入り込んでいて、抜け出せない貧富の差があります。この物語では、いちばん底辺にある「隷民」に生まれた姉妹が主な登場人物として出てきます。障がいのある子ラクの家族の中での扱いや、暴力でしか問題解決ができない生活能力のない父親、その夫に逆らえない無気力な母親。家庭の中が殺伐としていて家族の結びつきが希薄です。その中で姉を思いやるヴィジの言動が突出し過ぎる描かれ方だなあと、今となっては少し違和感を感じます。物語の構成はおもしろいのですが、登場人物の描き方が平たく、あまり魅力を感じませんでした。おしまいに父親がようやく登場しますが、天然なのか卑屈なのかよくわからない描き方なので、ここで登場させる意味があったのでしょうか。ヴィジが父親の言動から、母親が何度裏切られてもそのたびに父親を許してきたことが理解できたような気がする、とありましたが、果たして12歳くらいの少女がそんな気持ちに到達するのだろうかと共感できませんでした。日本の子どもたちに想像ができない部分や自分事としてとらえられない部分があると思うので、まずは背景を知ることからも、『みんなのチャンス ぼくと路上の4億人の子どもたち』(石井光太/作 少年写真新聞社)で、ヴィジたちのような子どもたちがいることを知ってほしいと思いました。先進国に住む私たちの人間活動がどんなふうに発展途上国の人たちに影響を及ぼしているかをも、こどもたちに伝えていきたいと思います。

エーデルワイス:訳がよくて読みやすい本でした。その日その日の食べ物を確保するところ、飢え、腐ったバナナを食べるところなどリアルに伝わってきました。p243でお父さんの暴力をどうしてお母さんが許してきたのか、11歳のヴィジが分かるところが凄い! その場で心から許しを請うているお父さんを一瞬許しそうになりますが、流されずに自分の未来へ邁進するヴィジの姿が清々しいラストでした。

すあま:同じ作者の『図書室からはじまる愛』(パドマ・ヴェンカトラマン/作 白水社)がとてもよかったので、期待して読みました。あとがきにも書かれていたように、インドの大変な状況にある子どもたちのことを知ってほしい、ということが前面に出ている本だなと思いました。最後は前向きな感じで終わるけれども、その後もまだ苦労は続いていく。続きを読んでみたい気もしました。読み終わってから少したってみると、何か物足りない、心に残らない感じがしたのが残念です。

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西山(メール参加):p7本文冒頭の「ラク、あなたはあたしの妹みたいに感じていたでしょ?」に始まる段落で、ラクを妹みたいに感じていたのは「あたし」自身でしょう?と思ってひっかかってしまい、冒頭から不信感を持ちながら読むことになってしまいました。あと、p9L8「「二百ルピー!」……ポケットに入れる前に落っことしそうになった」では、え?受けとっていたの?とつまづき、p25最後ではラクがあんなに大事にしていた人形マラパチ拾わないの?と気になり、その後ラクがいつマラパチがないとパニックを起こすかと心配して読み進めたのですが、言及はなく、それでいて最後の最後に現れた父親がマラパチそっくりの木の人形を持ってくることに不自然さを覚えました。
p66では、チャイ屋のおばさんの子どもの形見と言えるレインコートなのに、失っても、そのことには全く心を向けていない様子(防水シートとしてしか考えていない様子)には、非常に違和感を覚えました。これは、訳文の問題ではなく、私がウェットなだけでしょうか。
訳文の問題と、作品の問題と、単に異文化の問題と、それぞれだと思います。全体としては子どもの生存権という観点から、この作品がどこにどういう風に資することができるのか……。インドという「遅れた国」の、「昔」の話として日本の子どもに消費されるだけで終わらないためには何が必要なのか、そういうことを考えて行く材料にはなるでしょうか。

しじみ71個分(メール参加):インドで路上生活を送る子どもたちの姿を描く物語でしたが、支援活動に携わる作家さんだけに、描写がリアルで、胸に迫りました。暴力をふるう父親から、障害のある姉を連れて逃げ出し、路上生活をする少年たちに出会いますが、この少年たちのキャラクターも、物語の中でのそれぞれの役割も明確で、物語に優しさや深みを与えていたと思います。こんなよい子たちにたまたま会えたのは出来過ぎな気もしますが、彼らとの出会いがなくて、もっと厳しい状況を体験するような展開になっていたら、リアルかもしれないけど、辛すぎて読み進めにくくなったかもしれないですね。ラクがデング熱で死んでしまうのも、大人を信用せず、誤った情報を信じ込み、力を借りなかった子どもらしい未熟な判断のためで、とても悲しく切ないのですが、それも大人が子どもを大切にしない現実が子どもを追い詰めた結果なので、重たい課題として胸に刺さりました。おそらく、実際には、この物語よりずっと悲惨な現実があるのだと思います。この物語を読んだ子どもたちが、作中の子どもたちを可哀想だと思うだけでは「施し」の視点でしかないので、作者後書きにあるように、子どもを大切にする世界を作るにはどうすればいいのかをわが事として考え、さらに知っていこうとするように、手渡す大人が繋げていかないといけないなと思いました。
障害のある姉のラクが自分の痛みや苦しみよりも先に人のそれを思う気高さは、とても魅力的ですが、そこには少し障害者の聖人化のニュアンスを感じつつも、この物語の中ではとても美しく、深みを与える大事な要素になっていて、私はとてもよかったと思いました。

(2023年08月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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西の果ての白馬

『西の果ての白馬』表紙
『西の果ての白馬』
マイケル・モーパーゴ/作 ないとうふみこ/訳
徳間書店
2023.03

アオジ:わたしは第一作の「巨人のネックレス」をSinging for Mrs.Pettigrew: A Storymaker’s Journey(Walker Books, 2007)というモーパーゴの短編集で既に読んでいたんです。タイトルにある『発電所のねむるまち』(あかね書房、2012)や『モーツァルトはおことわり』(岩崎書店、2010)等、邦訳されている作品を含む優れた短編を作者の言葉と共に載せている、とても良い短編集で、未訳の魅力的な短編も6つほど入っています。でも、「巨人のネックレス」だけはモーパーゴらしくなくて、なぜこんなに悲しい短編を書いたのか不思議に思っていました。女の子が好きなことを一所けんめいにやった結果がこれ?と思って。作者も、「子どものころゼナー近くの浜辺でタカラガイを集めた思い出から書いた」と述べているだけです。この短編は絵本にもなっており、amazonでは好意的なレビューもありますが、子どもに薦めたくないという意見もあります。という訳で、最初から素直な気持ちでは読みすすめられなかったというのが正直なところです。それに、2話から5話までの主人公が地元の自然のなかで生きている子どもたちなのに、ネックレスのチェリーは避暑でここに来ていた女の子なんですね。それで余計に疎外感を感じたのかもしれません。
「アザラシと泳いだ少年」も寂しいお話ですが、「西の果ての白馬」と「ネコにミルク」はさすがモーパーゴらしい、よくできた短編だと思いました。
訳文もなめらかだと思いましたが、「巨人のネックレス」のp36で、チェリーが「あなた、(溺れかけたひとを)たくさん助けたのね」というと、幽霊が「まあね。何人か」という。そのさみしそうな声にチェリーの胸がしめつけられて……という箇所ですが、“Singing for Mrs.Pettigrew”では、「何人か」と幽霊がうなずき、「何人か」と繰りかえす、その声が悲しそうなので、チェリーが元気づけようと思って……となっています。幽霊のほうはチェリーが死んでいるとわかっているのに、チェリーは気がついておらず幽霊を元気づけようと思っている……こういうところは本当に上手だなと思ったのですが。でも、モーパーゴは同じ作品を絵本にしたり、短編集のなかの一話として発表したものと単行本にしたものでは、文章を増やすなどして変えたりしているので、この部分も短編集にするときに変えたのかもしれませんね。

シマリス:とても魅力的な短編集でした。悲しいお話と、ハッピーエンドのお話の混ざり具合がいいな、と感じました。冒頭に「巨人のネックレス」があることで、次以降の作品も、ハッピーエンドとは限らない、とドキドキしながら読めました。「アザラシと泳いだ少年」は、今の時代だと、新しい作品として書きづらいかもしれないなと思います。モーパーゴであり、古い作品だから、許容されたのかなぁ、と。1982年に刊行されたものが、なぜ今のタイミングなのか、裏話をお聞きしたい気もしました。順番に読んでくれ、と書いてあるけれど、最後のお話だけ最後に読んでくれ、じゃだめなんですかね? 1つめから4つめまでの短編は、そんなに順番に読む必然性を感じなかったのですが、何か見落としているのかしら……。コーンウォール地方には行ったことがなくて、ネットで検索しました。頭のなかで想像していた風景とほぼ同じものが出てきて、うれしくなりました。コーンウォール地方に行かれた方がいたら、お話をうかがいたいです。

アオジ:児童文学の舞台としては、古いですけれど、スーザン・クーパーの『コーンウォールの聖杯』(武内孝夫訳 学研プラス、2002)がありますね。子どもたちアーサー王伝説にまつわる古文書を発見することから物語が始まると記憶していますが。コーンウォールは、ペンザンス、セントアイブス、エクセターなど何度か滞在したことがありますが、とても魅力的なところです。浜辺を歩いていて普通にアザラシに遭遇したり、沖にイルカが海水浴客と競争して泳いでいたりするようなところです。英国では唯一といっていいくらい陽光に恵まれたところなので、画家がおおぜい住んでいると聞きました。セントアイブスは、特に芸術家の集まっていたところで、バーナード・リーチの工房や、バーバラ・ヘップワースのアトリエ、テート・セントアイブスなどもあります。ヴァージニア・ウルフは、子どものころ休暇で滞在したセントアイブスの灯台を頭に描いて『灯台へ』を書いたといわれていますが、白く輝くその灯台を見て、時の流れと距離の関係が腑に落ちた(ような気がした!)のを覚えています。

サンザシ:私は、ロンドンで下宿させてもらっていた人がコーンウォールに山小屋をもっていて、2回はそこに行かせてもらったのと、1回は、友達と旅行で行きました。印象的だったのは、ゲール語系のコーンウォールの言葉を教育でも取り入れようとしていて、道路標識等も英語との併記になっていたことです。都会と違って荒々しいとも言える自然があって、アーサー王にまつわる場所もたくさんありました。

ルパン:この本ですが、どれもおもしろかったですが、やっぱり「巨人のネックレス」の読後感がよくなかったかな。海にとりのこされたチェリーの絶望感がつたわってきて、自分まで悲しくなりました。死んでしまったというのも残酷だし、その前に親は何していたんだとかも思っちゃって。海に子どもひとり残して帰るな、とか、なかなかもどってこなかったらすぐに迎えに行かなきゃ、とか。だから、つぎの「西の果ての白馬」も、きっと「一年と一日」の約束を忘れてひどいことになるんだろうと心配していたら、ちゃんと覚えていてよかったなと思いました。「ネコにミルク」も。さいごに「ミス・マーニー」を読んで、ああ、チェリーが死んだのはお話のなか、という設定なんだな、と思ってちょっとホッとしました。

ハル:私も、特に最初のお話なんか、昔話独特の気持ち悪さみたいなものも感じますし、どうしてあえてこのお話を……という気持ちもありますけれど、やっぱり、マイケル・モーパーゴってすごいなぁと思いました。伝承の、物語としての稚拙さを自然におぎないながら、1冊全体でエンターテインメントとしてきれいにまとまっている感じがしました。佐竹美保さんのカバーイラストも、特に表4、裏表紙側のイラスト(これは……何かちょっとわからなかったけど)に、いつもに増した凄みを感じます。

西山:私もこの「巨人のネックレス」のラストはショックでした。この展開はまったく予測していなくて不意打ちという感じです。そして、とにかく順番通りに読んでいくと、「巨人のネックレス」から始まっていなかったら、他の作品をここまでひやひやドキドキしながら読まなかったろうと思いました。また、残念なことになるんじゃないか、こわいことになるんじゃないかと油断できませんでしたね。してやられたという感じです。ですから最初と最後は不動で後は入れ替わっても大丈夫なのかなと。「アザラシと泳いだ少年」は、たしかに異様で不穏なイメージも覆っているのですが、たとえばp103のアザラシがぬっとあらわれて見つめあう場面や、p114のアザラシの面談の場面など、目に浮かんで笑えてくるほど好きでした。他の作品でも、動物の描写がゆかいで、『やまの動物病院』とペアにしたのはこういうことか! と勝手に納得していました。「ネコにミルク」の最後「いま話したら、きっとおまえは信じるだろうが、大人になってそのお話がほんとうに大切になるとき、信じようとしなくなるかもしれない」という言葉がとても新鮮でした。こういう言い伝えに幼いときに触れてそれを信じることはよいこと、という価値観を持っていたことに気づかされました。それにしても、ノッカーはなんて気がいいんでしょうね。

サンザシ:どのお話もおもしろく読みました。最初の「巨人のネックレス」の主人公が死んでいるとわかるところはびっくりしましたが、嫌だとは思いませんでした。コーンウォールは、伝説や昔話がいっぱいある場所なので。たしか「ゼナーのチェリー」という伝説もあったかと。モーパーゴはそういうのを下敷きにしているのかもしれませんし、普通に私たちが考える死とは違う部分もあるかもしれません。鉱山にいる親子も、生きている人たちのすぐとなりにいて、生きている者たちを見守っているみたいだし。2つ目の話と4つ目の話は、やっぱりこの順番で読むべきでしょう。以前は妖精やこびとを信じて折り合いをつけるのが大事だと考えていた人たちもたくさんいたのに、時代が下ると、そういう人は希少になると言っているので。ストーリーテラーとしてのうまさということで言うと、モーパーゴは随所に本筋とは一見関係がないエピソードを入れて、それぞれの人の暮らしの片鱗を垣間見せ、短いストーリーの中でも人物をうまく浮かび上がらせています。「巨人のネックレス」でも、4人の兄たちとチェリーのやりとりなどを入れて、物語に深みを持たせています。「西の果ての白馬」では、ノッカーという妖精がもたらした幸運だけではなく、村人たちの心配りも書いて、ベルーナさんが働き者で信望も厚いということを浮かび上がらせています。また、ノッカーから借りた馬との別れがつらいことを、「ペガサスの背にまたがったまましばらくいっしょに海をながめた」という文章で表現しています。「アザラシと泳いだ少年」では、すでに話に出ていますが、アザラシに話しかけたりする場面を入れることで、ウィリアムの人となりをあらわし、読者が感情移入できるようにしています。「ネコのミルク」では、さっき西山さんもおっしゃいましたが、「いま話したら、きっとおまえは信じるだろうが、大人になってそのお話がほんとうに大切になる時、信じようとしなくなるかもしれない」(p152)という部分に、モーパーゴらしさを感じました。世の常識やステレオタイプを超えた知恵を子どもに伝えようとしているのかな、と。
全体をとおして、超自然的な要素が登場し、数や効率や論理では割り切れないものが確かにあること、それを畏敬する感覚を子どもにも伝えようとしているのだと感じました。
「最後の一編を読んだとき、すべてのつながりが明らかになる」と訳者あとがきにありますが、1回読んだだけでは「すべて」のつながりは、まだよくわかりませんでした。それと、「はじめに」には、「この本に書いたのは昔話ではない」という著者の言葉があるので、モーパーゴが書いたのだと思って読み始めると、最後は、どの話もミス・マーニーが書いたということになっていて、物語世界の中に矛盾が生じていると思ってしまいました。

アンヌ:私も最初の「巨人のネックレス」の少女の死にショックを受けたのですが、前書きに順番に読んでほしいとあり出版社の内容解説にも「順番に最後まで読むとこころあたたまる」とあったので、きっと最後には大どんでん返しがあってチェリーが生き返るんじゃないか、それならどういう話になるんだろうとあれこれ想像しながら読んでいったので、最後まで読んで、がっかりしてしまいました。「アザラシと泳いだ少年」は主人公が幸福になった話とも読めますが、『ケルト民話集』(フィオナ・マクラウド著 荒俣宏訳 ちくま文庫)の「神の裁き」にある、アザラシになってしまった男の恐ろしい民話が背後にあるようで、異界に行ってしまった少年の物語として心がひやりとしました。だから、ノームを救ったり友達になったりする楽しい「西の果ての白馬」についても、いつかはアニーが白馬に乗ったまま海に入って帰れなくなるんじゃないかとか心配しています。「ネコにミルク」のノームは本当に農民に親切で、同じ土地に住んでいる者同士として環境を保全していくという作者のメッセージを感じましたが、ちょっとノームが自分で説明しすぎとも思いました。「ミス・マーニー」では、ケイトがおもしろい子で楽しい物語でしたが、マーニーの異能もいつかまた社会の中で排除される時が来るだろうなと感じ、全体を読み終わっても心温まるとは言えない感じがしました。翻訳で気になったのがp144の「お牛」で、一瞬なぜ丁寧語なんだろうと思いました。ここは「牡牛」にふりがなでいいと思います。

繁内:モーパーゴは結構、テーマ性がいつも強い作家だと思って読むんですけど。この作品は、ケルト文化のファンタジー要素がもとになっているので、物語としての豊かさがとても感じられる連作短編になっていると思います。「巨人のネックレス」で、確かにチェリーが死んでしまうのは、もうほんとにかわいそうなんですけど、チェリーが遭難するシーンとかが、すごい迫力があるなと思って。どの短編もそうなんですが、1回目に読むのと2回目に読むのとでは、おもしろさが違いました。チェリーの物語も1回目に読んだときは、最後まで死んでると思わなかったんですけど、2回目に読むと、ある時点から幽霊になってしまっているという小さな伏線がいっぱい書かれていて、そういう伏線の張り方を2回目に読む楽しみがありました。確かにチェリーが死んでしまうのはとてもつらいことなんですけど、これが最初に書かれていることでコーンウォールという場所自体が、なんだか生と死のあわいっていうんですか、境界線上のような場所だということを提示する役割になっているのではと。チェリーが壁を上りながら、集めた貝を、どこに置いたのは捜索隊が壁の途中で見つけているから、そこまでは生きてる。でも、どこで死んでしまったのか、ほんとうは定かではない。チェリーという、読み手には身近な感じの女の子が、ふっと、生と死のあわいというか、神話の強い磁場みたいなところに取り込まれてしまうということが、この物語全体のひとつの大きな伏線になっているのではと思いながら読みました。「西の果ての白馬」は、タイトルになっているんですけど、典型的な、なんというか、妖精に贈り物をして、それを返してくれるという話なんですけど。ノッカーは土地の顕現するものというか。土地の表しているもののような気がして。自然の力といっしょに生きるということを象徴していることが2番目に書かれていて、それが4番目の「ネコにミルク」と対になっているというところが、やっぱり上手だなと思いました。
「ネコにミルク」で、除草剤、殺虫剤をまかないでほしいというところも、モーパーゴらしい。環境問題にすごく関心があると思うので。さっき、サンザシさんもおっしゃってましたけど、時代とともに、土地とのつながりが薄れてしまうという、モーパーゴのひとつの問いかけなんだろうなと思いました。p135で、土地は誰のものでもない、生きているあいだ、この土地を拝借しているだけなのだ、というところが、いろんな意味で心にしみました。モーバーゴは原発の問題も取り上げてるので、土地についても強い思いがあるんだなと。「アザラシと泳いだ少年」も、辛いお話なんですけど。人間の世界で生きづらいウィリアムが、アザラシの世界にいってしまうんですが、これはセルキー神話ですよね。アザラシの皮をかぶったらアザラシになって、脱いだら人間になるっていう。障がいのある者への深い差別感が描かれているのでは。多分、土地との繋がりが深くて、地元にずっと生きてる人たちが、繋がりが強い分、違う人に対しては排斥しがちになる、というところがうまく書かれていると思うんです。お父さんがウィリアムを見下す気持ちの底に、男らしさっていうのか、自分がウィリアムの姿を見るたびに、自分が男としても人間としてもダメな奴だと思い知らされるような気がしてあまり関わらないようになるって書かれてるんですが、なんかこう、男らしさとかって、人間界の神話じゃないですか。人間の世界の思い込みや神話にとらわれているうちに、息子をあっちの世界に追いやってしまう切なさがあるなって。
いろんなおとぎ話の中に今の社会に対する批判も、取り入れているのも、モーパーゴらしいです。最後の「ミス・マーニー」は、さっきサンザシさんが、ミス・マーニーとモーパーゴと、作者がふたりいるんじゃないかとおっしゃっていましたけど、ミス・マーニーは女の人なんですけど、モーパーゴの分身の分身のような気がして。モーパーゴが分身として、この地にやってきて、語った物語が、この連作短編なんじゃないかなっていう風に思いながら読みました。マーニーが心の目で見たこの村のことが、モーパーゴが自分の胸に住まわせている、この土地への思いが集まったものがマーニーであって、彼女に語らせてるけど、本当はモーパーゴが語っているというか。分身じゃないかなと思いました。全体として、人間の豊かさは何なんですか、という問いかけがあるように思いました。今の時代しか見ない人に対して、それは豊かじゃないんじゃないかっていう、神話とか土地の歴史とか、厚みとか、それを子どもたちにミス・マーニーが受け継いで語っていくというのは、過去から未来への受け継ぎじゃないかと思いながら読みました。

wind24:今回紹介していただかなかったら読まなかった書籍かもしれません。良い機会をいただきありがとうございます。みなさんが言われるように、生と死の境界線がなく、さまざまないのちが交差した世界観だと思いました。
私の友人がコーンウォールにも近い南部デボン州のダートムーア国立公園内でペンションを営んでおり、数日でしたが滞在する機会がありました。荒涼とした原野や湿地、少し行けば赤土の崖がそびえる海が広がっていて霧が発生しやすく、その雰囲気が奇々怪々としていて多くの妖精伝説や魔女伝説があるのも納得の風土でした。
「巨人のネックレス」は、私も最後の最後までチェリーは生きていると信じて読み進めましたので、あっ、そうなんだ、と。この世の人ではなくなったチェリーに驚いたとともに、残念な気持ちでした。映画「シックスセンス」を彷彿とさせ、日本人の死者の描き方とはちがうなぁと感じました。また鉱山で出会う炭鉱夫の幽霊の会話文が少し耳障りでしたので、訳者が違えばどのような文体にされるかのかと思ったりしました。
この本に限っては順番通りに読んでくれと何度か書かれていたので、どんなどんでん返しが待っているのだろうか、と期待しながら読みましたが、「ミス・マーニー」は案外拍子抜けする展開でした。でもp195、おしまいにマーニーがケイトに「時間がなくてまだ書いていない物語がある。ミス・マーニーという変わり者のおばあさんのおはなしさ」といったことが書かれていて、モーパーゴさんのストーリーテラーとしての優れた一面をみた思いです。
印象に残っているのは「ネコにミルク」で好き勝手をするトーマスに老人が言うセリフがあります。「土地はだれのものでもない。おまえさんのものでも、わしらのものでもない。わしらはただ、生きているあいだこの土地を拝借しているだけなのだ。そしてまたつぎの者にひきわたすんじゃよ」。(p134)これはネイティブ・アメリカンはじめ多くの先住民族に共通する考え方。SDGsにも通じるこの知恵を今一度掘り起こし、次の世代に引き継いでいきたいと思いました。

花散里:中等部高等部の学校図書館に勤務しています。国語の授業でなるべく長編小説を読んでほしいという取り組みがあり、長編小説になかなか手の届かない生徒たちに短編小説を手渡したいという依頼を受けました。日本の短編小説、古典から新刊本、外国文学からも選書を行い、この『西の果ての白馬』も選びました。教員が広い机に短編小説を面出しして、テーマごとに並べたのですが、この作品はタイトルや佐竹美保さんの表紙画が良かったのか、借りられていました。5編の短編集の中から、「西の果ての白馬」がタイトルに選ばれたのがよかったのかと思いました。本書が刊行されてすぐに読みましたが、今回、読み返して、「西の果ての白馬」と最後の「ミス・マーニー」が強く印象に残りました。特に「ミス・マーニー」にはモーパーゴの作品に対する思いが詰まっていると感じました。『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会発行)の編集を担当していますが、特集の「作品世界」に外国の作家として初めてモーパーゴを取り上げました(№431 2018年9・10月号)。その特集の中で、日本に翻訳されていない作品が多いということを記していただきました。本作も1982年の作品ですが、刊行されて本当によかったと思います。モーパーゴの作品には戦争を背景とした物語が多いのですが、本作のような妖精や幽霊など、昔話のおもしろさを描いたものも秀逸で、読み応えがあると思いました。「ネコにミルク」に書かれた 殺虫剤の使用についてなどを読んでいて、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著 新潮社他)第9章「死の川」で、DDT撒布でサケが大量に死んでしまったことなどを思い返しました。モーパーゴの伝えたいと思うこと、環境問題についてなども、どのように作品を子どもたちに手渡していくのかということも考えました。「アザラシと泳いだ少年」は、あまり印象に残っていなかったのですが、読み返してみて、いじめ、身体的な障害、海に入ったときに泳げるようになったことなど、「自分はアザラシに救われた」ということが、子どもたちに勇気を与えているのではないか、と感じました。外国の作品は、「知らない世界を知る」ということからも、子どもたちが読むことの意義は大きいと思います。本作の5編とも、子どもたちは心を寄せながら読めるのではないかと思います。短編の良さが詰まっている作品として、子どもたちに手渡して行きたいと思います。

雪割草:おもしろかったです。モーパーゴのストーリーテラーとしての巧みな語りに引き込まれました。それぞれのお話がゆるくつながっている、とモーパーゴのまえがきに書かれていたけれど、2、4、5話のつながり以外はよくわかりませんでした。個人的には、白馬やアザラシなど動物が出てくる話が好きでした。どのお話にも子どもが出てきて、おとなよりも自然に近い存在として描かれていると思いました。子どもたちは生きものへの愛情があって、心が通い合うさまがよく描かれていてよかったです。今の子どもも、こういうところに共感できたらいいなと思います。原書の初版は40年前のようですが、なんで今出したのか知りたいと思いました。土地に根ざした民話は、日本にもたくさんあると思うので、子ども向けによい作品が出たらいいなと思います。

コアラ:私も、原書は1982年刊行で40年前の本なので、どうして今出版したのかな、と思いました。でも、今読んでも、パソコンとかスマホとかテレビとか、時代をあらわすような「物」が出てこないので、古びることのない物語になっていると思います。全編にわたって、生き物に対する愛情や、自然を人間の支配下に置くのではなく共存するというような眼差しが感じられて、読んでいてやわらかい気持ちになりました。「はじめに」の最後に「順番どおりに読んでほしい」とあるので、どんな仕掛けが最後に待っているのかと楽しみにしていたのですが、ミス・マーニーのお話だった、というのは、ちょっと拍子抜けするものでした。p180で、ミス・マーニーがケイトに最初に話して聞かせた物語は、「巨人のネックレス」だけれど、翌日に話して聞かせた物語は、アザラシと少年の話で、この短編集では3番目になっています。話して聞かせた順番にはなっていないようなので、気になりました。結局「順番どおりに読んでほしい」というのはどういう意味なのか、自分なりにつながりを読み取っていきましたが、作者の意図がわかったかどうかいまいち自信がないままでした。でも、今みなさんのお話を聞いて、「巨人のネックレス」を最初にもってきたりとか、いろいろよく考えられているんだろうなと思いました。

さららん:「巨人のネックレス」、「西の果ての白馬」、「アザラシと泳いだ少年」……と、作者の言葉通り順番ごとに読み進むうち、体ごと、コーンウォールのゼナーの世界にもっていかれた印象がありました。なかでも印象が強かったのは、「巨人のネックレス」です。チェリーは死んでいるんだろうと途中でわかってきたけれど、私自身は嫌な感じというより、現実と伝承のあわいの、不思議な世界に投げ込まれた感じがしました。貝をつないで巨人のネックレスをつくる行為そのものに作者は象徴的な意味をこめたのかもしれない、そんなふうにも思えます――これからさまざまな話をつないでゼナーの自然(=巨人)に捧げる、というような。独特の地形や海の中から現れる不思議な存在がゼナーと言う未知の場所を形作り、陰影もふくめて、子どもの読者に出会ってほしい世界です。訳もこなれていて読みやすいのですが、「ネコにミルク」の章のp140「め牛」とp144「お牛」の表記で、おや?と思い、ここは「雌牛」「雄牛」にしてルビを振るなど別の選択肢もあったかも、と思いました。この章では、「牛たちが、じぶんの乳房をいきおくよく吸って乳を飲んでいたのだ」(p137)という描写がおもしろく、「ありえない!」と思いながら、牛の格好を想像して笑ってしまいました。調べないとわかりませんが、牛の乳の出が悪いとき、土地の人たちが言い合うお気に入りの冗談なのかもしません。人間にとっての悲劇をまえに、「ごぞんじのとおり、農場ではよくあることじゃ」(p145)と、しゃあしゃあといってのけるノッカーにはふてぶてしいユーモアさえあり、そんな細部にもモーパーゴのストーリーテラーとしての手腕を感じます。

しじみ71個分:モーバーゴは本当に物語がうまいなあと思います。今回も感服しました。前書きから話が進んでいくのは、『最後のオオカミ』(はらるい訳 文研出版)でも使われていた手法だと思います。その時は、モーパーゴと思しきマイケル・マクロードなる人物が孫娘にパソコンを教えてもらって家系について調べたら、ひいひいひいひいひいひいじいさんの回想録が見つかった、というところから物語を始めていますが、同じようにモーパーゴ自身のような人物を置いて、あたかも現実の問題から歴史や物語を紐解いていくようなスタイルが共通していると思います。それによって、読む人が現実のような現代の話から境界線や時代を緩やかに超えて、フィクションの世界に自然に没入していくことができるわけで、モーパーゴ自身を語り部として物語とフィクションをつないで行っているように思います。「巨人のネックレス」では、人の生き死にが、わりとそっけなく投げ出されている感じが、昔話や伝説の再話と同じような印象を与えます。遠野物語に共通しているようなところがあると思いました。昔話の中には、登場人物が死んでしまったのか、それとも行方不明になったのか、突き詰めて明確に描かず、不思議を不思議のまま残していく話もあります。この出だしの物語が、会話を現代調にすることで、リアリティを増しながら、昔話的世界にいきなり入って行かせる役割を果たしているように思いました。遠野もそうですが、このゼナーという土地も、おそらく厳しい自然との結びつきが強くて、こういう不思議な話がそこかしこに存在する場所なのではないかと思いました。厳しい自然とともに生きるところに、自然への怖れや敬意が生まれ、物語が残るというのは現代にも共通するものではないかなと思います。

(2023年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

Comment

あした、弁当を作る。

男の子が弁当を食べている絵の表紙画
『あした、弁当を作る。』
ひこ・田中/著
講談社
2023.03

すあま:読んだ後の率直な感想としては、おもしろくなかった。主人公と非常に古臭い考え方を持つ両親との会話が平行線でかみ合わないまま、ずっと続いていくのを読み続けるのが辛かったからです。大人対子どもの構図も日本の児童文学によくある感じで、もうちょっといい大人、ちゃんとした大人に登場してほしかった。主人公の友だちは、みんな主人公の気持ちや状況をわかってくれるけれど、それぞれの個性が見えないというか、だれがだれだか途中でわからなくなり、女の子たち3人は、3人いる必要があったのかな、と思いました。

さららん:しばらく前に読んだので、忘れているところもありますが、おもしろいなと思ったのは、主人公が、お弁当の冷凍食品の買い方や、おかずの作り方など、友だちのアドバイスでだんだんうまくなっていくところ。中学生の男の子の、身の丈にあった生活感に好感を持ちました。封建的な父親と、父親にいいなりの、子どもの世話を生きがいにしている母親の在り方はステレオタイプで、ひこさんがふだん描く両親の在り方と全くちがっています。私は、ひこさん的な、子どもを対等な存在として接する両親が大好きなんですが、この物語は自立がテーマなので、あえて古いタイプの両親を出したんじゃないかな。うちの両親も(ここまで露骨じゃないけれど)かなり封建的だったので、そんな中でどう主人公が自立していくか、応援するような気持ちで読みました。彼は決してめげずに、また自暴自棄にも陥らず、自分を保ってよく闘っていると思うし、この両親と共に暮らしていく以上、いくじがない闘いかもしれないけれど、弁当作りは(そして洗濯も)ずっと続けていくんでしょう。立ちはだかる「壁」にボールを投げては受け取り、投げては受け取りしながら、子どもは子どもなりに成長していく。これまでのひこさんの作品とは違うけれど、共感を覚える子はきっといると思うのです。

コアラ:まず、カバーの袖の文を読んで、あまりピンとこないな、と思いました。読み始めても共感できないままで、主人公のタツキの姿が全く立ち上がってこない。最後まで、どの登場人物も、体温のある生身の人間という感じがしませんでした。たとえば、p136〜p137のタツキとカホの会話。タツキが、母親に触られたくなかったこと、気持ちが悪かったことをカホに話し、「どうしてだろう」とカホに聞きます。カホが、お母さんから自立したいからだと指摘すると、「母親からの自立?」とタツキが驚きます。中1にもなって、子どもから大人になる時期に自分がいる、という発想をしていなかったタツキに、どうしても違和感があって、リアルさが感じられませんでした。親を疎ましく思う反抗期の感覚と、男女の役割分担の問題、子どもを支配する親の問題などが、書かれてはいるけれども、ストーリーになっていない感じがしました。ただ、最近の子どもはやさしいし、人を傷つけたくない、特に親を傷つけたくない、と思っている子が、そう思ったまま反抗期に突入したら、親を疎ましく思う感情と、傷つけたくないという気持ちとで、引き裂かれてつらいかもしれない、とは思いました。親に対する反発が芽生えてくる時期を、荒れる様子で描くのではなく、弁当を作ったり洗濯を自分でしたりするという、自立の方向で描く、というのは、アイディアとしてはおもしろいけれど、この作品については、物語として私はおもしろいとは思えませんでした。そのなかで、装丁のタイトルの書体は、うまく表しているなあと思いました。

ハル:ちょうど最近、何の記事だったか、「子どもの反抗期がなくなっている」という記事を読んで(親側に理解がありすぎて、子どもは反抗する理由がない、という内容でした)、ほんとかなぁとは思いながらも、そう言われてみると、児童文学の中でも、最近は「親子の絆」「きょうだいの絆」が強くて、会話も多くて愛があって、意見が食い違ったとしてもきちんと対話できる素直な子か、よっぽどひりひりする内容で、家族が崩壊していて達観している子かのどちらかで、いわゆる普通の家庭だけど、理由もなく親が嫌いで、話しかけられるといらっとくる、という子は見かけず、ほんとに反抗期ってないのかも? と思っていたところでした。なので、ある朝、いつものように母親に背中を触られたらぞくっときた、という描写に、きたー! とわくわくしたのですが、読み進めてみると、この家の親があまりに気持ち悪すぎて、残念でした。これは、逃げなきゃいけないやつ。もっと自然な、みんなが通る道(でもないのかもしれませんが)の反抗期を読みたかったです。もしかして、これは、反抗期じゃなくて、虐待を描いているのでしょうか?

スズメ:私は、とっても面白い作品だと思いました。さすがひこさん、上手いなあと。子どもたちの会話も生き生きしているし、「後ろ向きに歩く」っていうのがたびたび出てきて、そうそう、大人ってぜったい後ろ向きに歩かないけど、子どものころはそうだったなあと思いだしました。この登校のときにいっしょになる3人の友だちが、「マクベス」の3人の魔女みたいに、良いアクセントになっていて、それでいて魔女たちと違って、ちゃんと意味のある言葉を吐いて狂言回しの役目も果たしている。見事だなあと思いました。それでいて、子どもたちの姿かたちや服装などは詳しく描写せずに、お弁当の中身や、主人公の家の父親がいるときは7品、8品の豪華版、母と子だけのときは2品の食事は、目に見えるようにくっきりと詳しく描いている。こういうところも上手いと思いました。 ただ、作者の考えがあるのだろうとは思いましたが、主人公の親が「いつの時代のひと?」と思うほど古めかしいのが気になりました。読者のなかには、おもしろく読んだあとで「うちの親は、これほどじゃないよ」とか、「お弁当作りがお母さんの楽しみなんだから、奪うこともないんじゃない?」という感想をいだくだけで終わりになってしまう人がいるんじゃないかな。物語のなかには、作者が「こういう世界を作ったから、見にきて!」と誘いこむ作品と、「これ、どう思う?」と読者に問いかける作品があると思うけど、これは後者だと思うんですね。だから、ぜひグループで読んで、いろんな感想を出しあって、いろんなことに気づいてほしいと思いました。

オカリナ:おもしろく読めるし、時系列が一直線なのでわかりやすいといえばわかりやすいのですが、ワンテーマでこれだけ一直線に長々とていねいに書かれると、途中で飽きる読者も出てくるかも。たとえば『住所、不定』(スーザン・ニールセン作 長友恵子訳 岩波書店)では、なんだかわからないところから始まって、それが徐々にときほぐされていく、読ませる構成になっています。そういう工夫はあえてしていないのでしょうか。この作品では、親にかわいがられて、それに甘んじていた少年が、それを不気味だと思うようになる過程もていねいに描かれています。ただ、暮らしという観点から見ると、家事をやるとしても深くは考えずにただやってきた男性が書いたものという気がどうしても少ししてしまいました。たとえば冷凍食品は、味がどうこうという前に、農薬、添加物などの問題もあるし、この本では、洗濯も白物と色物をわけていないのはともかく、洗剤、柔軟剤、漂白剤を当然のように使っています。どうせ書くなら、そのあたりをも作者が意識を広げたうえで書いてほしかったなあ、と思ってしまったんですね。それと、お弁当は、アメリカとかヨーロッパだと、パンにハムをはさむとかピーナツバターをはさむとかして、あとはリンゴなどですます、簡単なランチボックスが多いですよね。日本は、きちんとかわいく作りすぎているかも。タツキにも、まったく違うものを作るという発想はないんですよね。

しじみ71個分:好きか嫌いかというと、そんなに好きなタイプの物語ではないですけれど、読んで本当におもしろいと思いました。母親にさわられて、体がゾクッと気持ち悪さを感じてしまう、というところなどは、私にとっては「気持ちわるっ!」とてもリアルに感じられて、「わー、ひこさん、すごい!!」と思いました。なんで、そんな気持ち悪いお母さん像が描かれているのかと思っているうちに、もっと気持ち悪いお父さん像がさらに描かれて、これまたすごいことになって、心臓に悪いなぁと思いながら読みました。この家族は既に内面的には崩壊しているし、お母さんもアイデンティティを見失って、夫と息子に依存して生きているわけですよね。なので、弁当を自分で作るというのは、母の弁当に象徴される支配を脱却して、生きるための闘いなんだろうと私は受け止めて読みました。弁当を自分で作る、自分で自分のものを洗濯すると宣言してからの、主人公龍樹の闘いというのが、ほんとすごくて、家庭内でネチネチネチネチと交わされる会話がすごい!もー、ホントにひこさんすごいと思いました。もうちょっと若い人の観点でこの物語を作ったら、父親は暴力をふるうだろうし、子どももバットを持ち出して、家庭が崩壊していく様子を描きそうなものですが、微妙な心の機微をずーっと追って、少年の自立を描いていくこの作品は、そういうのとは一線を画していると思います。それと、この物語を読み終わって、あ、親のことを嫌いでもいいんだ、ずっと好きていなくていいんだと、許されたような解放感を覚えました。両親たちを恨み、亡き者としなくても、嫌いなら嫌いなままで、なんとなく生きていくっていうのもありなんだと。これは、けっこう、多くの子どもたちの救いになるんじゃないかなと思います。親から解放される術として、弁当をつくり、洗濯をして、静かに抵抗するというのは、けっこうすごいことだし、やりきって偉いですよね。母親からも最後には「手際がよくなった」などと認める発言を引き出すまでになっています。お友だちがコントみたいに出てくるのも、場面展開としていいなと思いますし、友だちが繰り返し出てきては、「後ろ向いて歩くのはやめなよ」とか、友だちと幼馴染の定義とか、同じような発言や行動を重ねていくあたりは、コントのような、定番の安心感を生んでいます。人物を絞り込んでデフォルメして、生活のリアルから少し離れた感を出しつつ、内面描写に凝縮していく展開は、濃密に煮込んだ舞台や戯曲のようだと感じました。

きなこみみ:この作品は、とても身につまされて読みました。『住所、不定』よりも、こっちのほうが私にはリアルっていうか。このお父さんとお母さん、確かにとっても気持ち悪いんですけど、このお母さんの気持ち悪さは私も自分のなかに持っているし、他人事ではない感じなんです。デフォルメはされているんですけど、家父長制の権化のようなお父さんと、その価値観を内面化しているお母さん。でも家父長制の病理って、まだ日本の中にはすごく根強くあるし、日常に深く深く食い込んでいると思うんです。一見何も問題ないように見えている家庭のなかのレイシズムとか家父長制の暴力的なところとか、初めに主人公のタツキがぞくっとする感覚って、言葉にはならなくても、子どもの鋭い感受性がそれを感じたんじゃないかなと。この子は、あれ、おかしいな、と思う自分の中の感覚を見据えて、体で感じた違和感と向かい合って、なんとか言語化しようとします。この作品は、「家父長制」という言葉も、「フェミニズム」という言葉も使わないで、日常のなかに、おかしいことこんなにあるよね、と見せてくれる。p202で、タツキの友だちが、「弁当を作る男子は変わっていて、女子は普通だと思っているんだよ。多くの男子はそうだよ」と気づくシーンがあるんです。これは無意識のマイクロアグレッション、日常に埋め込まれている無自覚な差別です。これは、家庭もそうだし、社会にも、もしかしたら都会よりも地方にいくほど、それは非常に強く残っているかもしれません。この物語はそういうものを、可視化したものだなと、ひこさんの非常に野心的な作品だと思いながら読みました。この家庭がどこか嘘っぽいのは、母親っていう役割、父親っていう役割、子どもっていう役割を、ずっと演じ続けてきたせいかなと思います。p15で、「鏡に映っている自分の顔を見たとき、どんな表情をすればいいか困ってしまうのだ。無表情でいればいいのだろうけれど、それではいけないような気持ちになってしまう」とあるのは、そういうことなんじゃないかなと。タツキの両親に、全く言葉が通じない感じって、日本の今の政府に似ているように思うんです。父親が、タツキが弁当作りをやめないなら、小遣いをとめる、というんですね。これって、マイナカードを使わない自治体は交付金も減らしちゃいますよ、保険証も廃止しちゃいますよ、使わない人は診療費高くなるからね~、っていうのと一緒の発想やん、と思っちゃいました。あなたたちこういうもん、こういう病理持っているでしょと、日本人につきつけられてるように思って、変な話、ちょっと興奮しながら読みました。

雪割草:率直にいってお母さんが怖く、お父さんは亭主関白で、「ぼく」も自立と言いながら母親にあまり強く言えなく中途半端で、なかなか入り込めませんでした。自分で洗濯するといっても洗濯機を使うわけで、お弁当を作るにも冷凍食品、家族が少ないのに自分だけ好きにするのはわがままに思えてしまいました。洗濯に洗剤、漂白剤、柔軟剤を使うのは、人にも環境にも悪く、当たり前のように書かないでほしかったです。ジェンダーや家族の問題を描きたくて、そのアイディアからはじまったのかなと思うほど、作品の印象がそのテーマに引っ張られました。子どもたちが、女と男に対する常識についてやりとりするところも、理屈っぽく感じました。よかったところをあげるなら、子どもも意見してよいことをはっきり書いているところです。敢えての設定だとしても、この親は私と同年代なわけで、こんな親はいるだろうか、古いのではと思いました。

アンヌ:おいしいお弁当を作る話かと思って読み始めたら、全然違うお話でした。親の作るお弁当が嫌ならば、まずは最低限の空腹を満たすために梅干し入りのおにぎりを握って家を飛び出すとかすると思うのですが、この物語では冷凍食品を組み合わせて母親が作るような「おかず入りのお弁当」を作って見せます。なんだか、お弁当がとても象徴的で、空腹を満たすものではないことに気味の悪さを感じました。しかも、そのお弁当に入れるご飯は自分で炊くわけではないし、家にある材料や調味料は使う。自立的な行為としては中途半端だと思います。さらに、母親の作るお菓子はとてもおいしそうなのに、母親の人間性を表す小道具として扱われていたりして、食べ物への嫌悪感が強くて、読み続けるのがつらい気分がしました。けれども後半、一方的な会話ではありますが、親と話すことで、タツキは父親を意地悪している子供みたいだとか、母親は自分をいつまでも小さい子供にしておきたいんだとか判断していき、自立したい自分というものをしっかり自覚することができるようになるので、ほっとしました。

まめじか:ジェンダーステレオタイプや不均衡について考えさせる作品として、おもしろく読みました。こんなにはっきり見える形ではないとしても、日本の社会の中に根強くあることだと思うので。主人公が母親に背中をふれられてゾクッとしたり、母親のつくったお弁当をプレッシャーに感じて気分が悪くなったり、母親と話すネタをためていたりするのがリアルでした。ひこさんの作品は、ものわかりのいい、友だちのような親がよく出てきますが、この作品はそうではないのがこれまでとは違いますね。親の描写については、極端だという意見も先ほどありましたが、これまで親の支配下にあった主人公がそこからぬけだそうとする過程を描く上で、必要な設定ではないかと思います。経済力で家族をコントロールしようとする父親の横暴さ、父親に従うことに甘んじている母親のずるさに気づきながら、自分はどんな大人になりたいかと考える主人公がたのもしく感じられました。

ANNE:ひこ・田中さんの作品は、小学生の男の子の初恋と性に関する戸惑いをテーマにした『ごめん』が印象に残っているのですが、このお話はまた違った味わいでおもしろく読みました。中学1年生の男の子の親離れのきっかけは「お弁当」ですが、私が住んでいる地域では中学生が毎日お弁当を持っていくという状況がまずないので、そこをうまく思い浮かべられませんでした。「男は仕事、女は家庭」というお父さんと、家族の世話をすることが生きがいのようなお母さんが、あまりにもステレオタイプ過ぎて少し違和感もありました。子どものおやつにシューを焼いて、食べる分だけクリームを詰めてくれるお母さんなんて実際にいるのかしら?お母さんに「今日、学校はどうだった?」と聞かれたときのために、学校でのエピソードが複数あった日は一つだけ話してあとはストックしておくという技にもちょっと笑えました。毎日一緒に登校する友人たちとの会話や、隣の席の女の子とのやり取りなどが少し理屈っぽいなとも思ったのですが、読後感はとても良かったです。

マリーナ:専業主婦で、子どもの世話に全力を尽くすお母さん、というのが、今の児童書では少なくなってきているので、新鮮でした。思春期の男の子の心情がとてもよくわかって、ああ、なるほど、と思うことが多かったです。一つだけ気になったのは、地の文の父、母の表現が「父親、母親」に統一されていたことです。友だちとの会話も、ほとんどそうだったかと思います。でも、「お父さん」「父さん」「親父」「父」などいろんな表現があると思うので、全部が同じというのは、若干違和感がありました。主人公も、自立に目覚めるまでは、「お母さん」などの言い方でもよかったんじゃないかと。

ニャニャンガ:興味深く読んだものの、母親が中学1年生の息子にべったりなのを気持ち悪く感じてしまいました。主人公のタツキが母親に触れられるのを嫌がるようになったのは自然な流れだと思いますが、個人差はあれど中学生というのは少し遅いように感じました。それだけタツキは箱入り息子だったのかもしれません。ただ物語は、タツキの視点で語られているので、もしかしたら母親はひとりのときは自分の趣味などを楽しんでいるのかもしれないと想像してみたのですが無理があるでしょうか。父親が言葉で息子を追い詰める感じは、『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の父親を思い出すほど怖かったです。両親の反対を押し切り自分で考え行動していくタツキには成長を感じました。

ネズミ:これまでのひこさんの作品は、いつも今ふうの両親だったので、この作品を読んだときまず、めずらしいなと思いました。主人公は内心穏やかではないのに、表面的には親の言うことにうなずいて、波風を立てない態度をとるのですが、そのたびに「ぼくは最低の人間かもしれない」「父親を軽蔑した。軽蔑する自分が怖かった」というふうに、身を削られていくんですね。管理され、支配下におかれている人間が、いかに身を削られ、発言できなくなっていくかが如実に描かれ、すごいと思いました。それでも、お弁当を作らずにいられない。タツキが、自分に対してと父親に対してとで違うことをいう母親や、前の発言と食い違う論理で叱る父親の矛盾を、しつこいほど追求していくのを読んで、大人だっておかしいところがあるし「ノー」と声をあげてもいいんだよ、男だって料理したって洗濯したっておかしくないよと、作者が読者を励ましているように感じられました。

オカリナ:この両親は、ひどすぎますよね。だから、読んだ子どもは、逆にうちはここまでじゃないといって、そこで考えをストップしてしまうこともありそうです。

しじみ71個分:確かに、家父長独裁で専業主婦なんていうのは全く今風ではないと思いますが、逆に今風な理解のある、進歩的な親ばかりを描いていたら、今、実際に子どもたちが被害者になる事件が多発しているわけで、その今の闇みたいなものを描けないんじゃないでしょうか。

オカリナ:今風のだめな親を描いた作品もたくさんあるので、ここまで古くさくしなくてもよかったんじゃないかな。親に異議を申し立てるという点では、『小やぎのかんむり』(市川朔久子著 講談社)や『いいたいことがあります!』(魚住直子著 偕成社)が、おもしろかったです。

しじみ71個分:私が思ったのは、この家族は、前回読んだ『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の手前の状態なんだろうなということです。父親の発言も支配的でひどいし、父親のいないところでは悪口をいうくせに、本人の前では追随する母親も共依存状態で、責められる息子を救うよりも自分に累が及ばないことを優先しているし、親を肯定できない自分が悪いのではないかと自己肯定感が失われつつあって、すでにソフト虐待状態ですよね。痛ましい事件も起こっていますが、虐待の実態にはさまざまグラデーションがあるとも思いますし、その背景に煮詰まった家族関係による苦悩があるかもしれない、と想像してもらえるのではないでしょうか。

オカリナ:極端すぎて、自分のことと思えないってことはないんですか?

アンヌ:極端なものを読むことによって、似たような気配を感じるきっかけにはなるかもしれません。

オカリナ:自分にもかかわることとしてリアルに感じるといいんですけど、パロディだと思われてしまうかも。

きなこみみ:この物語を、パロディじゃんって感じる子は、この物語を必要としていないのかもしれないんですけど…お父さんが投げかけてくる、こういうゴリ押しの理不尽さって、誰でも人生のどこかで出会うと思うんです。だから、お父さんのやり方に、どこがおかしいのか、どうして違和感を覚えるのか、ぐるぐる自分の頭で考えるタツキの言葉って、そんな理不尽さに遭遇してしまったときのサンプルパターンというか…あ、あのとき、こんな理不尽なこと言ってくる大人のこと書いたお話あったなって、いつか、ふっと思い出せるかもしれないなと思って。日常のなかで、うまく言葉にできない、でも、もやっとすることを可視化するのは子どもの物語の一つの役割だと思うんですよね。自分の家庭以外のことって、案外わからないものなんで、この物語の家庭は確かに極端だけど、これを必要としている子はたくさんいて、その子たちが読むことで解放される面があるのでは。

オカリナ:なるほど。

しじみ71個分:私も、この本を読み終わったあと、正直、解放感を感じました。別に、親と特別仲が悪いとか、そいういうわけではないのですが、自分でも自覚しないうちに、親を大切に思わないといけない、親を悪く思ってはいけないというような価値観がやはりどこかに埋め込まれているんじゃないか、だから解放感を感じたのかなと思いました。そう考えてみると、そういうふうに知らず知らずのうちに思い込まされているのは、決して私だけじゃないのではないかとも思います。

ニャニャンガ:とはいっても、今の中学生の親世代で、こういう人たちはめずらしいのでは?

きなこみみ:学校って、今も古い価値観が結構根強く残っていますし。道徳の教科書も、「父母や祖父母を敬愛すること」が求められたりするんで、どの子も無関係じゃないようにも思ったりします。

(2023年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ベランダのあの子

『ベランダのあの子』表紙
『ベランダのあの子』
四月猫あらし/著
小学館
2022.10

ハル虐待については、小学高学年といわず、もっと小さい子たちも直面する大きな問題だし、人知れず耐えていたり、洗脳状態にあったりということもあると思うので、あなたが、または、あなたの友だちが受けているそれは虐待ですよ、と伝えることはとても大事なことだと思います。だから、児童書のテーマとしては、文句はないというより、大賛成なのですが、小学高学年向けなら、もしかしたら違う書き方ができたのではないかという思いがあります。主人公を支える友人も、キャラクターとしてその役割を果たさせるために老成した子どもになりましたし、いつも駄洒落を言っている教師も、子どもたちに真摯に向き合うこと=友だち感覚で気軽に付き合うことと履き違えているようで、ステレオタイプというか。リアルなのかもしれませんが、必ずしもリアルなことが良い小説ではないと思いますし、保健室は安全地帯であってほしかったなぁとも思いました。

オマリー著者はとても筆力のある方で、物語がどうなるのだろうと、引き込まれながら一気に読みました。主人公が追い詰められていく心情、ベランダの子を見て揺れる思いなど、よく伝わってきます。どうにもならないときに、友情が救いになるという展開にも共感できます。ただ、その上で思うのは、この本は果たして児童書なんだろうか、ということです。著者は、どんな子どもに向けて、書いているのだろう、と疑問に思いました。同じような境遇の子ども? あるいは周りにそういう子がいるかもしれない子たち? 同じような境遇の子は、そこに至るまでにしんどくて読み切れないのではないか、と心配になります。大人の方が、この本のメッセージをまっすぐ受け止められるかもと感じました。

コアラカバーの袖の言葉がいいと思いました。いちばん読んでほしいと思う、主人公と同じ境遇の子が見たとしたら、共感というか、自分に関係のある本だと感じる言葉ではないかと思います。主人公の颯が父親から暴力を受けるだけでなく、颯自身の中にも暴力性が蓄積されて爆発するようになるのが怖かったです。ベランダの女の子を見ても、最初は、罰を受けて当然、というような考え方をしていて、読んでいてぞっとしましたが、それは、父親の価値観が刷り込まれていったからだと思いました。父親は、物理的な暴力だけでなく、論理を振りかざしていて、それは歪んだ論理だけれど、母親も見て見ぬふりをするし、誰も「それは間違っている」と言わないから、父親が振りかざす間違った論理が颯にも刷り込まれていく。それがいちばん怖いと思いました。颯は、もやもやとするけれど、それを覆すような論理は持てないでいます。だから、理という友達がいるということが、本当に救いになっていると思いました。理はすごく良いことを言っていて、p114の1行目の「殴られてもいい人間なんて、いないってこと」とか、p145の最後から2行目の「自分だけは最後まで自分の味方でいろ」とかが、読者にとっても救いになると良いと思いました。この物語では、颯がベランダの女の子を助けることによって、人に打ち明けるという行動に出ることができましたが、実際には、人に打ち明けられるようなきっかけもなく、ひたすら我慢して辛い思いをしている子もいるかもしれません。『ベランダのあの子』というタイトルは、ベランダの女の子の意味だと思いますが、ベランダに置き去りにされているような子どもを、周りの人が「ベランダのあの子」として気がつかなければいけないのではないか、という気もしました。見過ごしてはならない、という意味では、大人が読むべき本かもしれないと思いました。

しじみ71個分とてもリアリティのある物語で、あっという間に読んでしまい、衝撃を受けました。これは子どもが読む児童文学なのだろうか、と思ってしまいました。紹介に、スマホで書かれたと書いてありますが、確かにケータイ小説に通じる雰囲気があるように感じました。同人に参加されている作家さんだから、普段は机に向かって書いておられるのが、この物語はあえてスマホで書かれたのではないかなとも思いました。何というのか、机で推敲するのとは違う、スピード感や切迫感があって……。とにかく一人称の気持ちを全て吐き出す感が文章から伝わってきました。
著者に表現力、筆力がとてもあるので、読んで痛みを感じるほどリアルだし、胸をえぐる表現もありました。父親から暴力をふるわれたときの身体の表現がとにかくリアルで、本当に経験をした人でないとここまで書けないのではないかとすら思いました。ただ、虐待を受ける痛みが、ここまでリアル過ぎると、どう読んでいいかわからず……子どもたちにどうやって手渡すかなと……。YA世代以上のほうがこの物語は意味もあるし、向いているんじゃないかなとも思います。
暴力を受け続けたことで自己肯定感が失われ、自分の中に暴力が生まれる過程も、虐待される方が悪い、と虐待が正当化されて再生産されていく過程も描かれていることもとても重要だと思いました。ハワイで射撃場に行って、銃を撃つときに標的に父親の顔が浮かぶというシーンもゾッとしました。それから、p130に、主人公が身体の痛みから、混乱し屈辱感にさいなまれるという場面も、衝撃を受けるくらいに共感してしまい、辛くなりました。最後には、理解してくれる大人が救済してくれて、支配されていた母親もやっと父親から離れることができるという結末で、解決方法も描かれるので、その点は良かったですが、それまでの主人公の経験した痛みや苦しみ、絶望感が重たすぎて、希望のある終わり方にはなっていないかもしれません。ですが、著者に力があることは間違いないので、次回作以降、この作家さんが何を書くのかとても楽しみです。
ひとつだけ、イチャモンを付けたいのですが、ベランダの籠に閉じ込められた女の子を助けに行くのに、4階のベランダの手すりに乗って隣の家に入るというのはちょっと無茶ではないかと思いました。集合住宅は、家と家の境が蹴り破れるようになっていて、緊急時には避難できるようになっているはずで、何も小学生にベランダを渡らせるような危ない真似をさせなくても良かったのではないかと思いました。主人公を危険な目にあわせることで、ベランダの女の子と自分を重ねて、生死の境目を心が行き来する様子を書きたかったのかなとも思うのですが、大人(隣のおばあさん)が側にいる設定なら、現実的にベランダの仕切りを壊して女の子を救出すべきだったのではないかと思いました。話は逸れますが、虐待をテーマとして、「痛み」がリアルに描かれている点で、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見書房 2004)と共通する点があるなと思いました。

きなこみみ暴力表現が真に迫っていて、読み出したら止まらなかったです。怖いんだけれど最後まで読まずにいられない。暴力をふるい続けるお父さんとそれを見ないふりをするお母さん、特にお父さんの描写が、こういうDVをする人の見事な典型で、きっと取材したり、いろんな本を読んだりして書かれたのではないかなあと思いました。お父さんが子どもに暴力をふるっておきながら、最後にはそれが子ども自身の責任と選択であるように話を持っていくんですね。虐待がばれないように、身体検査の日に学校をさぼらせて家族で釣りに行くんですが、そういう時も、休むか休まないか、おまえが選んでいいんだよ、と言いながら、子どもには選択肢がないように追い詰めるんです。そういうDV、家庭の中の暴力の描き方が見事でした。でも、それだけに、かえってひとりひとりの人たちが像を結ばなかったというか。全員じゃないですけれど、周りの人たちが人間として像を結ばなかったというのがありました。それって、この子の家庭での閉塞感をそういうふうに表して書いていたのかな、とも思うんですけど、暴力をすごく突っ込んで書こうとしたあまり、暴力を書くことに力点がいってしまったようにも思ったり。物語を読むというより、DVの解説書を読むように読んでしまったというところがありました。

ネズミ親の虐待という意欲的なテーマだと思いましたが、とても後味が悪かったです。テーマがテーマなので、嫌な気持ちになるというのは、描き方がうまいということかもしれませんが、読み進めるのが辛かったです。文章は、説明的に感じる文章が多めかなという気がしました。また、違和感のある表現がちらほらありました。たとえば、p51「それはあんまり見事で潔かった。」の「潔かった」とか。世代の差のせいでしょうか。ともかく辛い内容なので、どんなふうに子どもに手渡せるのかなと思いました。

アンヌ昨日やっと手に入って一気読みして、すごいなあ、うまいなあと思いました。けれども、一種のホラー小説のような物語だなとも感じました。作者は父親の壮絶な暴力だけではなく、主人公が母親や教師からも見捨てられたと感じた場面を描いています。さらにハワイの射撃場の場面で、主人公に自分の中にある暴力への衝動を見させて、自分自身への不信にとらわれる様子も描く。その出口のない状況を打ち破って、檻に閉じ込められた女の子を必死の思いで助け、友人と信頼し合える関係を築けて先へ進もうとしたところで、保健の先生の無理解に出合わせる。これではもう窓から飛び出すしかないじゃないか、と主人公と同化して読んでいると思えてきてしまって、この暗澹たる気持ちは、その後の救いの物語よりインパクトがありました。父親が離婚に同意していないことなど読んでいくと、現在の共同親権問題や養育費の未払いの実情など思い浮かべて辛くなります。ただ、怖くて辛い物語でも、最後に福祉につながる道があるということを語っているので、こういう問題提起的な物語も必要とされる時期なのだと思いました。

雪割草大人だから読みすすめられましたが、自分が子どもだったら最後まで読めただろうか、どういう子どもに手渡せるのだろうか、と考えてしまいました。最後の方の自分の気持ちを吐露する部分を読んだときは、あまりにリアルで、作者自身が経験したことなのだろうと思いました。同じような境遇の子どもや大人にもひびくのだろうと思います。岩木先生の対応は素晴らしいですが、学校で働いていたことがあるので、先生がここまでできるかなと疑問には思ってしまいました。大手商社に勤める父親と、逆らえない母親、家族旅行はハワイというのは、ステレオタイプで古く感じました。それから、今日の2冊を並べてみると表紙も対照的で、こちらの作品の閉じ込められた子どもは、自分の気持ちを表現することが難しい、今の日本の子どもらしいとも感じました。

アカシア:颯が、ここまで父親をかばったり、自分を徹底的に責めるのは、リアルなことだと思ったのですが、読んでいて胸が痛くなりました。こういう状況にある子どもって、自分と同じような子を目の当たりにしないと、自分のことを客観的に見たり、親を非難したりできないんですね。たしかに人間については、颯のことしか書いてなくて、あとは背景になっていますね。私も、担任の先生がつまらないダジャレを飛ばすのは嫌だなと思っていたのですが、最後まで読んで、ああ、先生という権威をつまらないダジャレによってすべて捨て去って、生徒との間の敷居を低くしてるんだな、と思いました。こういう本は、紹介だけして、そっとどこかに置いておけば、必要な子は読んでヒントを得るというものかな、と思うんですけど、この表紙だと読みたいという気にならないかも。

しじみ71個分私は、ダジャレ先生が意外といい味出しているなと思って、割と好きでした……。

ニャニャンガ暴力シーンがリアルな表現だったので、辛い辛いと思いながら読みました。そして子どもに手渡す作品なのだろうかと考えてしまいました。
颯に対する父親の行動が異常すぎて理解できませんでしたが、世間で起きている事件を見るとあり得ない話ではないのだろうと想像しました。ここまでひどくないにしても、父親の機嫌を見ながら生活する母子は少なからず存在するのでしょう。経済的自立ができないせいで母親が子どもを守れないのは、ほかに手だてがなかったのか考えてしまいました。親友の理がいなかったらどうなっていたのか、というか友だちにより救われて良かったです。ベランダのあの子が主人公自身だと気づいていながら否定したい気持ちがいやというほど胸に迫りました。

花散里最初にこの表紙を見たとき、タイトルからしてもそうでしたが。嫌な表紙画だと感じて、書架で面出しにしたくない本だと思いました。この作者のプロフィールを見ると、元学校図書館司書とありますが、子どもたちに本を薦める立場にいた人がこの作品を書いたのだろうかと複雑な思いが残りました。「春休みが嫌いだ」という主人公の言葉、学校の方が家より良いということが作品の内容に繋がっていくのですが、そうではない子どもたちの方が多いということを踏まえたうえでの描かれ方なのかと……。先生の描き方も気になった箇所が多く、父親から縄跳びの紐で殴られた後の両親への対処や、後半、学校の先生の誰かに相談しようとして向かった時の保健の先生の対応には疑問を感じました。保健室は子どもの逃げ場でもあるのに、こういうふうに描いてしまうのはどうなのだろうかと思いました。プロフィールのところに、「スマホで書いた」とありますが、なんのために記載したかったのかと感じました。虐待やDVのことをテーマにした作品だと思いますが、虐待をする人は子ども時代に虐待を受けてきた人が多いこと、虐待を受けている子どもは虐待する親を庇うことが多いと言われています。本作では虐待の描き方がリアルで、加えてDVの描き方、さらにベランダの子は小さい子だと描かれ、食べ物を与えられていないことを含ませているようで、子どもたちに読ませたいとは到底思えませんでした。読むのは大人では、と。颯が女の子に暴力を振るいそうになるとき、自分も父親と同じなのではないかというところなど、読んでいて辛いところが多く、後味が良くない読後感で、子どもたちに薦めたいとは思えませんでした。

オカピ真に迫る描写で、リアリティに圧倒されました。書きたいテーマがしっかりとある本です。解決策がきちんと示されているのがいいと思いました。虐待の問題を描いた作品はいろいろありますが、そうした本を手にとる中学生は「泣ける本」「感動する本」ばかり求めることもあり、そんな状況を見ていると、感情だけで読むことの危うさを感じます。岩瀬成子さんの『ぼくが弟にしたこと』(理論社 2015)も、主人公は父親から虐待を受けていて、暴力性を弟に向けてしまったときのことが描かれていましたが、作者の人間理解の深さを感じる作品でした。『ベランダのあの子』は、主人公以外の登場人物がいまひとつ立ちあがってこない感じがしたのと、ところどころ文章に引っかかってしまいました。「興味本位の話で盛り上がって終わるだけじゃないか」(p96)などは、小学6年生の言葉には感じられず、「パパもお祭り自体は嫌いじゃないみたいだったけど、それでも塾を休んでもいいかなんて聞くのはばかげたことに思えた」(p82)というのも説明的だと感じました。

しじみ71個分みんながみんな、最初から岩瀬さんみたいにはなれないですよね(笑)。

オカピさきほど表紙の話が出ましたが、どこがよくないと思われたのですか。

アカシア:いえ、読みたくなる表紙じゃないなと私は思ったんです。

サークルK:p22にある「認めてもらえたらこの家にいてもいいんだ。」という颯のいう言葉にハッとさせられました。子供の「居場所」と一口に言っても、「学校」が辛い子もいれば、「家」が辛い子もいることを考えなければならないのですね。子どもたちの閉塞感をぱあっと放てるのはいったいどんなところなのでしょう。
みなさんの感想をうかがって、主役が登場人物なのではなく、「虐待」そのものになっているという指摘に共感しました。あまりに辛いシチュエーションに、果たして読者である子どもたちはついていけるのか、という疑問ももっともだと思います。興味本位で読むことのできない問題だからこそ、子どもの受けとめ方が気になるところです。

アカシア:絵本でも『パパと怒り鬼〜話してごらん、だれかに』(グロー・ダーレ作 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり&青木順子訳 ひさかたチャイルド)というのがありましたね。あれも、父親がふとしたことで怒り鬼にとりつかれたように暴力をふるい、母親もすてきな家族を演じたいせいかたよりにならない。そんな、いつもびくびくする状況におかれた子どもを描いていました。でも、自分では解決できなくて、王様に手紙を書いてようやく解決法が見えてくるという結末でしたね。日本だと王様に手紙を書くという手段は使えないから、どうすればいいのかな、と思っていましたが。

(2023年5月29日の「子どもの本で言いたい放題」より)

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わたしのアメリカンドリーム

『わたしのアメリカンドリーム』表紙
『わたしのアメリカンドリーム』
ケリー・ヤン/著 田中奈津子/訳
講談社
2022.01

きなこみ:貧しい移民の一家が、自分の手でモーテルという居場所をつかむまでの、まさにアメリカンドリームなんですが、これは「多くの人々の力を借りて成功する」という新しい形のアメリカンドリームではないかと思います。アメリカが階級社会であることや、アフリカ系やアジア系の人々へのレイシズムもきちんと描きこまれていながら、それでも他者と少しずつ連帯していく強さがあるんじゃないでしょうか。その連帯の鍵が「言葉」と「手紙」であることがとてもいいと思いました。p87に、「あなたは白人の子たちみたいに、英語はうまくなれないの。だって英語はその子たちの言葉なんだもの」とママが言うシーンがあるんです。この言葉は、私のように英語が苦手な人間にはとっても刺さるんですが、この物語には、ネイティブのようにはなれなくとも、言葉はいつも開かれているんだなということが書かれています。私たちは言葉でできていて、伝え合うことができるという希望が詰め込まれている一冊だと思います。子どもたちへの励ましをとても感じる本でした。

ネズミ:とても面白く読みました。移民、難民という立場の人たちは日本にもいます。留学など、自分の意思で外国に行くのと、移民、難民の大きな違いは、もとの国にやすやすと帰れないことだと思います。そういう立場の人びとの望郷の念と、簡単に片付けられない複雑な感情、一言では言えない苦難などが非常によく伝わってくる作品だと思いました。健康保険に入れない問題は、在留許可が下りていない在日外国人にも通じることです。この作品では、中国人だけでなく、ヒスパニックのルーペ、黒人のハンクさんなど、人種差別を体感しているほかの人たちも出てきます。アメリカのことというよりも、日本にいるさまざまな国から来た外国人のことを想像するために、読まれるといいなと思いました。アメリカ的だと思ったのは、お金のことが細かく書かれているところ。古くはベバリイ・クリアリーの「ヘンリーくん」シリーズ(松岡享子訳 学研プラス)にも、小遣い稼ぎが描かれていましたが、日本の作品では金銭的なことはあまり具体的に書かれないのではないかなと。ハッピーエンドは希望だと思いました。

アンヌ:とても面白い物語で、移民への迫害や黒人差別のことなどが描かれていて、さらに主人公がその状況を手紙で、言葉で、変えていく様子は実に読み応えがあり痛快でした。ただ、言葉を訂正しながら書いていた手紙より後半のきちんと書かれた手紙や作文コンクールの文章がつまらなかったりするのは、どうしてなんだろうと思いました。お金の事とかきちんと書かれているのに、最後の投資話の話があいまいで、契約に弁護士が必要なら、こちらも会計士とかきちんとした書類がいるんじゃないかとか、最後の方は心配してしまいました。

雪割草:移民の人たちの生活の過酷さを描きながらも、モーテルの定住者、移民の友だち、たずねてくる中国人などいろんな人たちが登場し、ユーモアがあって、そこに人のあたたかさも感じられて、楽しく読むことができました。作者は子どもの頃、この主人公と同じようにモーテルの管理人をしている親のもとで育ったと書いてありましたが、作者が体験として知っているから描けるリアルさが、この作品の強みだと感じました。作文コンクールではなく、モーテルをみんなで買うという部分は、本当にあり得るか疑問ではありましたが、エンディングには好感が持てました。

アカシア:おもしろく読みました。ミアが魅力的な少女として描かれているので、ひきこまれて一気に読めました。中国系の人たちばかりでなく、ほかの人たちに対する差別も、ミアの体験を通して描かれているのがいいですね。前半で、高利貸しにお金を借りて返せなくなる人、車を盗まれたと言って保険金をだましとる人、契約を途中で勝手に変更する人、決めつける教師など、さまざまな困った人が出てくるので、最後でトントン拍子に何もかもがうまくいくのは、ちょっと出来すぎ感がありました。みんなからお金を集めて買っても、その後もいろいろ大変だろうな、と思ったりして。家族を大事にしているところは、中国人らしいですね。

ニャニャンガ:女の子が困難を乗り越える物語が好きということもあり、本作も好みでした。1993年当時の中国からアメリカに渡った移民の様子がよく分かるとともに、日々の暮らしに苦労する姿が切なかったです。中国に残った親戚が裕福になったのに、金銭面で助けてくれなかったのは冷たいと思いました。ミアはとても頭のいい子で、アイディアを考え、すぐ実行に移すのは作者自身と同じだったのだろうと想像しました。黒人のハンクがひどい人種差別を受けているのは、本当に腹立たしかったです。
中国人らしさが表現されていると感じるエピソードとして、ブランドのお店の袋を喜んで拾うお母さん(p.157)、レストランで、だれが払うかで取っ組み合いのけんかになる(p.166)、「自分が食べる米の量を忘れるな」(p.228)がありました。みんなに投資してもらうことで解決する方法について、配当金はどうやって支払うのか、計算方法や契約の内容について触れていないのが気になり少し残念でした。

花散里:とても関心を持って読みました。中国からの移民の問題、ミアがモーテルのフロントで体験すること、経済感覚に長けているとか、日本の児童文学では描かれないようなことが作品に盛り込まれていると感じました。表紙画は、表裏、広げてみたときに物語の内容が描かれているようでとても良いと思いました。モーテルの所有者、ヤオさんに対して不満は満載なのに、管理人として働かざるを得ない両親。お金がないのに、そんな中でも父親たちは中国の人を匿ったりするところ、モーテルに集う登場人物たちが心に残りました。作者の実体験を基に描かれた「アメリカンドリーム」、日本の子どもたちに手渡して行きたい作品だと思いました。

オカピ:算数が得意だと思われがちだという、中国系の人へのステレオタイプな見方、黒人に対する差別、医療保険の問題など、いろんな要素が盛りこまれていて、面白く読みました。お金がないときにクーポン券で支払うなど、ところどころにユーモアがあるのも良かったです。ミアは作文コンテストで優勝できると本気で思っていて、そこはちょっとついていけず……。モーテルの住人の中で、ビリー・ボブさんがどういう人物なのかいまひとつわからなかったです。また、いとこのシェンが女の子だと思って読んでいたら、p137あたりで男の子だと分かったりして、もう少し早く人物像を知りたかったな、と思いました。アメリカの本だなあと思ったのは、「あんなふうに撃墜されちゃ、そのあとにやさしくしようなんて無理でしょ。核武装するだけだ」(p101)という表現です。「核武装」という言葉に引っかかってしまいました。ここは、例えている箇所で、言葉は変えられると思うので、そうしたほうが良かったのではないかと。

サークルK:子どもに分かりやすく、けれどリアルな移民の暮らしと差別が描かれているところが良かったです。ホテルではなくモーテルが舞台。日本の子どもたちはモーテルにはあまりなじみがないと思います(民宿とも違うし、最近は修学旅行でもきれいなホテルが好まれると聞いたことがあります)。いろいろな状況の人が滞在している雑駁感がこのお話の雰囲気に合っていました。
モーテルの主、ヤオさんは徹底的に悪人として描かれていましたが、中国系の成功した移民の仲間の頂点(少なくともこの物語の中では権力者なので)に立つ裏には、おそらく白人社会で大変な差別と屈辱を味わってきてここまでになったはずなので、その哀しみや弱さ、屈折についても考えさせられました。
最近の日本では、弱者が必ずしも弱者に寄り添わずに、自分よりもさらに弱い立場の人をいじめたり、叩いたりすることが問題となっています。ヤオさんが、自分がされたことを同胞に仕返ししているのではないだろうか、と気になり、なお一層ミアたちの仲間を応援する気持ちで読みました。

ハル:実はまだ100ページくらいしか読めていないのですが、とても面白く読んでいます。ユーモアもあって、ああ、こういうふうに書いてくれたら(訳してくれたら)、日本の子たちも、物語を楽しみながら、移民や人種問題についてより親身に感じることができるんだろうなぁと思いました。大きな夢を抱いてアメリカに渡ったこの一家から労働力を搾取するのが、同胞の移民だという設定も上手だなと思います。これが、アメリカ人から搾取されるのだったら、読み手のしんどさがまた違っていたように思います。(後日談:読了しました。思っていたよりも過酷でした。作文コンクールの結果について、本人はいいとして、大人たちの反応はちょっと贔屓目がすぎましたかね。でも、面白かったです)

オマリー: 今日みんなで読む2冊はどちらも、前から気になっていたけれど読んでなかった本で、今回読む機会をいただけて良かったなと思います。この本は、素晴らしいですね。中国からの移民であるミアがモーテル経営の手伝いで頑張る姿の中に、さまざまな問題を織り込んでいます。人種問題にしても、アジア系だけではなく黒人、メキシコなど複数の視点がありますし、経済的な問題についても、どうして貧困が起きるのかという構造的なところから提示しています。難しく説明せずに、子どもにも分かりやすいように腐心しているところもいいですね。主人公のミアが、10歳にしてこれだけ活発にアイディアを生み出し、経営に加わっているのが、普通ならリアリティがないと言いたくなるところですが、著者のプロフィールに、同じことが書いてあって、さらに13歳で大学に入学したと記されているので、自分の体験をもとにしているんだろうなぁ、と。この著者自身の生い立ちも気になるところです。続編が原書では5巻まで出ているようで、ぜひ読みたいなと思いましたが、今のところ続巻が出る予定はないみたいで、残念です。で、それを調べているときに気づきましたが、この原書は8歳から12歳をターゲットにしているようですね。日本の感覚だと、この分厚さならYAだから、びっくりしました。

コアラ:面白く読みました。カバーの絵が、真っ青なカリフォルニアの空の下、プールサイドで日光浴をして大きなハンバーガーがあって、と、私がイメージするアメリカンドリームそのもの。ですが、主人公が中国からの移民ということで、自由に対する考え方や思いは、日本人の私とは違う特別なものがあると感じました。p221には、文化大革命のことと両親の思いが書いてありますが、日本と異なる、中国系移民ならではのものが感じられて、興味深かったです。同じ中国系なのに、ヤオさんからひどい扱いを受けますが、日本では同胞からひどい扱いを受けるような書き方はあまりしないのではないでしょうか。これも、中国系ならではなのかなと思いました。もちろん日本と共通する、みんなが憧れるアメリカンドリームというものも描かれていて、それは、実力で勝ち取らないといけないものでもあります。ミアが手紙を書くことを重ねることで英語力をアップしていって、モーテルの作文コンテストでは落選したけれども、ヤオさんからモーテルを購入するための賛同者を集めることができたし、努力して実力をつけていく姿が良かったです。ミアがいろんな、言わばウソの手紙を書いていったように、圧倒的な不公平の前では、正攻法だけでは解決できない、というのも、アメリカの実情を表しているように思いました。仲間をつくって人脈を広げることも大切だし、ヤオさんが都合よくモーテルを売りに出したように、運も必要ですよね。まさにアメリカンドリームを描いた、清々しい本でした。ただ、アメリカでの成功を夢見る、というのは、今の日本では、あまり時代の流れではないかもしれません。だからこそ、違う世界がある、というのを子どもが感じてくれればいいなと思いました。

しじみ71個分:とても前向きな、明るい物語で、楽しく読みました。生活のために家族でモーテル経営をしますが、モーテルの人間模様や学校生活など、日常を描く中で、アメリカに根強くある黒人の人たちに対する人種差別や、移民の貧困の問題、それだけでなく中国の発言や思想の自由のなさなど、社会問題に自然に、主人公ミアの関心が向いて、気づくようになっていくという、物語のつくりがとてもうまいなと思いました。また、ミアが困難にぶち当たって、その解決法を考えて実践する姿を読者に見せてくれるので、そういった点からも、子どもたちに読んでもらいたい本だと思いました。生き生きとしたミアは人物としてとても魅力があるのですが、著者紹介を読むと、作者自身が天才少女で、飛び級で有名大学に行くような人なので、著者の姿や実体験が多少投影されているのかもしれませんが、ちょっと諸々うまく行き過ぎな点もあるような気がします。しかし、モーテルの住人や友だちなど、まわりの人を家族のように大事にして、気持ちを通わせ、連帯していき、問題を解決するという話の流れには希望を感じましたし、大事なことだと思いました。
一つだけ、意地悪なモーテルのオーナー、ヤオさんが、英会話がうまくないのを、割とステレオタイプな「日本語が下手な中国人」のように翻訳して表現されていた点が少し気になりました。どう日本語にするかは確かに難しいだろうなと思うのですが、ちょっと引っかかりました。

(2023年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ひみつの犬

『ひみつの犬』表紙
『ひみつの犬』
岩瀬成子/著
岩崎書店
2022.10

ヨシキリ:岩瀬さんの作品は、どれも人間がしっかり描けていますよね。それも、形容詞で表現するのではなく、黒い色にこだわる羽美、狭いところにはまる細田くん、時間割が好きなお姉ちゃん、子どもにビラ配りを頼む整体医の佐々村さん等々、具体的なことで人物をあらわしている。良いところも悪いところもあり、一風変わったところもあるという、一面的でない人間像が魅力的です。同じ作家の短編集『ジャングルジム』(ゴブリン書房)も、人間がしっかり描けているという点では同じですが、この作品は犬のトミオがどうなってしまうのかというサスペンスと、いったい佐々村さんとは何者なのかというミステリーで、最後まで読者をひっぱっていく。かなりページ数はありますが、小さい読者もしっかりついていけると思いました。また、トミオを守りたい一心の細田くんと、佐々村さんの正体を探りたい羽美の気持ちのすれちがいが描かれているところもおもしろかった。それにしても、人間の気持ちをしっかり分かって我慢しているトミオの姿が切ないですね。ラブラドール・レトリバー好きの私はじーんときました。

西山:すごい作品だと思いました。岩瀬さんは次々と新作を発表されるけれど、そのたびに新しい人間が出てきて、本当にすごいと思います。ちょっと常識からずれたような不思議な行動をとる大人と子ども。コミュニティって、こんなふうに不可解で、気に食わない人たちもいっぱいいるものだというのが、図式的でなく、人間のおもしろさとしてすくい取られていて本当に興味深かったです。「子どもの権利」という観点でも、「先生が怒ると生徒があやまる」(p3)とか、「もしかしたら大人に利用されているんじゃないか、と、子どもはいつも注意を払ってなきゃいけない」(p62)とか、随所ではっとさせられて、徹底して子どもの側に立っている作品だと思いました。

花散里:一つ一つの文章が読ませる内容ではある、というのが全体的な印象でした。登場人物、一人一人を実にうまく描いていると思います。細田君の犬など、はらはらさせられるところや、カイロプラクティックの箇所など。ほっとするところと、そうではないところのつなげ方も上手だと思いました。図書館員のお父さんがスマホを片手に川柳を作っているというところは、そういう見方をされているのかとも思いましたが…。読後感としては、大人は共感するけど、子どもはどんなふうに読むのかという点で、手渡し方が難しい本のようにも感じました。

ヒダマリ:とても魅力的な本でした。今まで読んだ岩瀬成子さんの作品のなかで、一番好きかもしれません。ものごとの善悪をシンプルに考える時期、自分もあったなぁ、と子ども時代を思い出させる本でした。それぞれの登場人物の心理がていねいに描かれています。主人公は思い込みが激しく、プライド高く、大人に対して疑いを持っています。強いキャラだけれど、揺れ動く。そのブレがとてもよく掴めました。また、細田くん、お姉さん、そしてお母さんも、さらに犬のトミオまで、それぞれの生きづらさが伝わってきました。犬がどうなっちゃうのか、脇山さんに見つかっちゃうのか、佐々村さんは、本当はどんな人なのか、椿カイロプラクティックを攻撃しているのはだれなのか、なぞが重なって、一気に読ませる工夫もありました。そういう引っ張る力が、他の岩瀬さんの作品よりも強かった気がします。1つだけ気になったのはp154「煮詰まる」という言葉が誤用されているところ。「二人とも煮詰まってるぞ。煮詰まっちゃいかん。ろくなことにならんよ、煮詰まると」。煮詰まるは、話し合いなどでじゅうぶん意見が出尽くして、そろそろ結論が出る、という意味合いが本当ですよね。お父さんが間違った意味合いで使っているにしても、フォローがないので、作者が誤用しているというふうにしか読めません。編集者、校閲が気づくべきだと思いました。

アカシア:子どものときに、こんなふうに子どもの感受性を子どもの視点で書ける人の作品を読みたかったなあ、と思います。羽美は黒いものばかりにこだわり、細田くんは狭い隙間にはさまるのが好き。どちらもちょっと変わっていますが、羽美については、担任がきっちりした人で小言ばかり言う描写があったりしますね。細田くんのほうは犬のトミオを飼っていることを秘密にしなくては、なんとかトミオの居場所を確保しなければ、といつも緊張している。子どもは、ちょっとしたことで他と同じ規格品にはなれないんですよね。羽美が、ササムラさんを疑ったり、証拠をつかまないとと焦ったり、探偵ごっこまがいのことをしたりするのは、この年齢ならではの正義感をもつ子どもらしいし、それよりトミオが心配な細野くんとの距離があいていくのもよくわかります。ただ、怪しい人物についての謎が、前にこの会でも取り上げたシヴォーン・ダウドの『ロンドン・アイの謎』のように解明されていくわけではなく、羽美の勘違いという結末になるので、そこを多くの子どもが読んでおもしろいかというと、そうでもないように思います。いろいろな人が出てきて、物語の本質からしてどの人も善悪では割り切れないので、くっきりしたイメージを持ちにくいですね。ただ、好きな子どもはとても好きだと思います。さっき、『春のウサギ』が岩瀬成子的とおっしゃった方がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。岩瀬さんの言葉には、ひとことで10か20の背景を思い起こさせるふくらみがあり、そこが『春のウサギ』とはかなり違うんじゃないかな。

ニャニャンガ:これまで読んだ岩瀬成子さんの作品の中で、いちばんおもしろく読んだのは大人目線だからでしょうか。犬を飼ってはいけないマンションで犬を飼っている状況にドキドキしながら読みました。細田くんのトミオを思う一途さがかわいかったです。この作品には大人のずるさや利己的な面が書かれている一方で、狭い世界で生きる羽美が、自分のものさしの短さに気づいてゴムのようにのばすことができたのがよかったなと思います。人にはさまざまな面がある(羽美の姉、羽美のお母さん、佐々村さんなど)のを学んだのではと思います。羽美が犯人探しに夢中になるあまり、細田君の犬のトミオの引き取り手探しがおろそかになるあたりは子どもらしく感じました。大道仏具店のおばあさんがトミオを引き取ってくれそうだなというのは薄々わかったものの、そこから椿マンションに引っ越せるとわかるまでは想像できませんでした。学校の先生の指導に違和感を覚えたり、正義感を通そうとしたりする羽美に共感しつつ、こだわりの強い子だなと思うのは自分にも似た面があるからかもしれません。

まめじか:大人の欺瞞にだまされまいと気をつけていたのに、それでも自分は見抜けなかったと、羽美がくやしさをおぼえる場面があります。そうやっていろんな経験を重ねる中で、羽美は自分をふりかえり、また周囲のことも少しずつ理解していきます。正義感から突っ走ってしまう羽美に対し、親は事なかれ主義の対応をしますが、子ども対大人の単純な構図にしていないのが、すばらしいなあと思いました。子どもにも大人にも、見えているものと見えていないものがあるんですよね。それがとてもよく描かれていますね。時間割をつくることで何かと戦っているようなお姉ちゃんは、子ども時代と自分を切り離そうとしているようで、羽美をとりまく人たちもそんなふうに、厚みのある人物として感じられました。

ネズミ:岩瀬さんの物語は、登場人物を一方的に決めつけないというのが徹底していると思いました。黒い服を着ている主人公とか、狭いところに入る細田君とか、奇妙に見えるけれど、だからといって特別視しないし、何かの型にはめたりもしない。分断しないから、読んでいると、こういう見方もあるなと、目をひらかされていきます。物語としても、犬がどうなるかというのと、左々村さんの謎があって、先にひっぱられていきますね。主人公の論理は、やや独善的にもなるのですが、それがまわりにも本人にも自然に伝わり、ゆるやかに本人が変わっていく書き方がみごとだと思いました。冒頭の先生との掃除の場面と、仏具屋のおばあさんのネコの場面に、呼応する場面が最後にあるのもいいですね。

ルパン:岩瀬成子は好きなんですけど、この作品はちょっとすっきりしませんでした。私の理解力が足りないのかもしれませんけど。まず、最後のほうでお姉ちゃんが突然饒舌になるところに違和感があったのと、あと、この子の「黒」へのこだわりや、細田君が狭いところにはさまりたがるところなども、おもしろいんだけど、それが何につながっているのかなあ、という不完全燃焼感がありました。佐々村さんはちょっといやな大人で、疑われたってしょうがないじゃない、と思ってしまいました。

雪割草:次が気になってどんどん読めました。羽美とお姉ちゃんとの会話など、この年代の子の心もようの描写が上手で、いつもすごいなと思います。佐々村さんは理解できなかったし、子どもの権利的にも批判されるべきだけれど、こういう大人はいると思うので、リアルに感じました。それから良い、悪いについても、役に立ちたいと思って相手を傷つけてしまったお姉ちゃんの話があって、それに対して羽美は、最初は自分のことばかり考えてやっていたことが、結果的に感謝されるなど、良い、悪いは見方によって変わるのだということが体験を通じて理解できました。岩瀬さんの動物へのまなざしも好きです。

アカシア:細田君は、犬のトミオのことがものすごく心配で、それが棘のように心に刺さっているんですね。それが、はさまるという行為につながっている部分もあるんだと私は思いました。羽美が黒い服を来ているのも、感受性が鋭くて、何かを棘として感じてるからじゃないかと思います。わけのわからない変わってる子を出してきてるというより、どの子にもありうることなんじゃないかな。細田君は、羽美が同じような棘を抱えていることを感じたから、ひみつの犬のことを話したんでしょうね。私は、『春のウサギ』よりこの作品のほうが、ずっと印象に強く残りました。

ヨシキリ:『春のうさぎ』には棘のようなものは書かれていないので、あまり印象に残らないのでは? ヘンクスは、子どもの本なので、そこまでは書かないと決めているのかも。

アカシア:ヘンクスには引っかかりが少ないっていうことですか。

ヨシキリ:子どもの読者には、ゴミを捨てるおばあさんや、佐々村さんのことを、「いやな人だな!」と思ってほしくないな。岩瀬さんも、そう思っているんじゃないかしら。まだ文学を読む力が育ってない子は、そういう感想になるのかもしれませんが。

西山:細田君がすきまにはさまる理由は、p75に出てきますよね。「ぼくは成長しているでしょ。(略)大きくなると入れなくなるんだよね。そして一度入れなくなったら二度と入れないの」って、子どもは子どものままでいられないという、成長とは何かを失っていくことでもあるという、深遠で切ないような真実がふいに突きつけられた気がしたところです。

ヨシキリ:「成長をたしかめる」というのは、細田くんがついたウソですね。細田くん自身も、うまく説明できないのでは? 自分の部屋や戸棚に閉じこもって、うずくまっているのではなく、真昼間に街なかではさまっている。実は私、この作品の中で一番気に入っているところです!

西山:はさまるとか、黒い服をいつも着てるなんていくところがおもしろいので、子どもはそういうところに惹かれて読めるかと思います。

アカシア:岩瀬さんは日本からのアンデルセン賞作家部門の候補ですが、翻訳が難しい作家かもしれません。余白とか行間を読み取るという部分がかなりあると思うので。

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エーデルワイス(メール参加):これまた主人公の石上羽美ちゃんの心の声がずっと聞こえる本でした。冒頭で担任の先生から注意される羽美ちゃん。p62「大人に利用される・・・・」もうこれだけ読んでいて心がめげそうになりました。5年生の羽美ちゃんは黒にこだわり、4年生の細田君は狭いところにはさまろうとする。二人とも相当のものです。飼ってはいけない家でなんとか犬と一緒にいたいと思う子どもの物語は、岩瀬さんにかかるとこのような独特な物語になるのですね。正しさを振りかざす脇山さん、綺麗好きで孤独な今井さん、時間割にこだわるお姉ちゃん、いつも疲れているお母さんなどなど大人がたくさんでて、善悪をひとくくりにできないことを伝えていますが、ちょっと教訓っぽい感じです。最後、犬のトミオと細田君が離れることなく、が幸せになれてとにかくよかった。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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春のウサギ

『春のウサギ』表紙
『春のウサギ』
ケヴィン・ヘンクス/著 大澤聡子・原田勝/訳
小学館
2021.04

雪割草:おもしろく読みました。「エピファニー」という言葉とその描写には、懐かしい児童文学のにおいを感じました。たとえばp72には、「一瞬」のなかに、アミーリアが自分という存在や世界との出会いを見出すさまが描かれています。それから、父の恋人のハナを通じて、アミーリアは、記憶にも残っていない母と向き合うことができます。ケイシーと恋愛もして、父を一人の人間としてみることができるようになります。オブライアンさんのような、寄り添ってくれる大人がいてよかったです。ときどき、ケイシーの発言は無神経に感じることはありました。原題は”sweeping up the heart”のところ、邦題はいいなと思いました。

ルパン:オブライエンさんは何歳なんだろう、というのが気になりました。70代のお友達をぞろぞろ連れてくるのでおばあさんなんだろうなと思って読んでいたのですが、p128に「結婚してすぐだんなさんが亡くなり、そのことがきっかけでオブライエンさんとアミーリアのお父さんとのきずなが強くなった」とあります。アミーリアのお母さんが亡くなったのはアミーリアが2歳のときで、アミーリアは今12歳か13歳。オブライエンさんの夫が「結婚してすぐ亡くなった」のが10年前ならオブライエンさんもお父さんと同年代ということになります。ところが、そうかと思うと最後のほうでアミーリアはオブライエンさんが死んでしまうことを心配している。いったい、この人は何歳でどういう人なんだろう、というのが引っかかります。それから、アミーリアは友だちから「変人」と呼ばれているけれど、どういうところがどのくらい変人なのかがわからず、ちょっとストレスでした。以上2点が気になりましたが、お話はおもしろかったです。

ネズミ:繊細なお話だなと思いました。お父さんが外に出かけるのが好きではなくて、どこにも行けない春休み。母親が亡くなってから立ち直れない父親が描かれていて、こういう父親像って日本の作品ではあまり見かけないけれど、前にこの読書会で読んだ作品にもあったので、海外では一定数あるのかなと思いました。陶芸教室の場面がよかったです。ただ、ときどきちょっとぴんとこない文章がありました。たとえば、p40からp41で、名前をつけて、どんな人物か考えて遊ぶところ。「なんて楽しいんだろう」とあるのですが、会話を読むと、そんなにおもしろいと思えなくて。状況はわかるのですが。

まめじか:子どもの頭の中で想像がどんどん広がっていき、それが現実と混ざってしまったり、茫漠とした不安やよるべなさを感じていて、これから続く人生の大きさに圧倒されていたりする感じは、よく伝わってきました。ただ、好みの作品かどうかというと、全体としてなんかぼんやりした雰囲気で、あまり印象に残らず…。

アンヌ:最後はすべてうまくいく、とてもほっとする物語だとは思うのですが、どうも私はこのお父さんが受け入れがたくて、納得がいきませんでした。「かわいそうにとみんながいう」ような家庭状況におかれていて、母が死んでから10年以上、旅行にも連れて行ってもらったことのいない小学生である主人公。そうなったのは、お父さんがずっと辛い思いをして動き出すこともできないからなんだと思っていたら、とっくに、自分自身は新しい恋をしていたという話になっていくので、あれれと思いました。オブライエンさんについても、実の祖母のように賢く主人公を愛し保護してくれているようだけれど、先ほどルパンさんがおっしゃったように、子供が欲しかったという記述から見ると、何か年齢的なずれがあるようで、ここら辺の関係も奇妙に思えて、主人公自身の物語に入り込めませんでした。

ニャニャンガ:ケヴィン・ヘンクスの読み物が大好きで、本作は翻訳された4冊目だと思います。刊行後すぐに読んだものの内容が思いだせず、今回読み直したところ、ヘンクスらしいナイーブな作品で新鮮に楽しめました。口数の少ないお父さんは存在感が薄いですが、お向かいに住むオブライエンさん、陶芸工房のルイーズさん、親が離婚間近のケイシーたちの、包み込まれるような愛に囲まれているアミーリアは幸せだと思いました。それでも、2歳で母親を失ったことはアミーリアにとっては欠けたピースのようにいつまでも埋まらない穴であり、埋めたいのだなと感じます。ケイシーの突飛な発想には少しハラハラしましたが、ふたりの距離が縮まり恋に発展するようすをほほえましく読みました。エピファニーと名付けた人が父親の交際相手でハナだったことは偶然の幸運といえるし、ちょっと出来過ぎとも思いました。読み始めではオブライエンさんの年齢がわからず、もしかして父親のことが好きなのかもと想像しましたが、詩のサークル仲間が70代ということからそれはないとわかりました。それでもアミーリアに無償の愛をささげ続けてきたオブライエンさんが、父親の再婚を機に疎遠になったとしたら、少しかわいそうな気もします。

アカシア:出てすぐに読んだのですが、タイトルのせいもあってか、どんな話だかぱっと思い出せませんでした。どんなウサギの話だったけと思ったりして。で、もう一度読んだのですが、いつもの原田さん訳の作品と違って、すっと入ってこないもどかしさがありました。もしかしたら、それは共訳のせいかもしれないですね。若い翻訳者を育てるという意味では共訳も必要なのかもしれませんが、私はもっとなんというか言霊みたいなものがあると思っていて、その作品のエッセンスをどうとらえるかは人によって微妙に違っているので、ばらばらの言霊が聞こえてきてしまうのかもしれません。子どもの言語感覚が分かる人に下訳をしてもらうという人もいますが、共訳の場合たいていは波長の違うちぐはぐなうねりを感じて、とまどいます。p66に「わたし、名字なしで名前だけの人が好き」とありますが、そういう人はめったにいないので、「名前だけのほうが好き」くらいでしょうかね。それと、冒頭で、オブライエンさんがアミーリアのことをしょっちゅう「かわいそうに」と言う、とありますが、本文では言ってないみたいだし、それですますような人にも思えないので、ちょっとひっかかりました。まあ、私が「かわいそう」って上から目線だと思っていて好きではないからかもしれませんが。でも、アミーリアの心情に沿って読めるところはたくさんあって、たとえば父親からこれまで声に出してほめられたことのなかったアミーリアが、ハナも呼んでの食事のとき、二人からほめられてうれしくなったり、そのあと自分の意見が否定されたと思って怒る気持ちなどは、寄り添って読めますね。

ヒダマリ: うーん、読んでいるときは先が気になるし、読後感もさわやかなのですが、あまり残らない作品でした。実は、1年半前に1度読んでいるんだけれど、今回、内容をすっかり忘れてしまっていました。印象が弱い理由を考えて、2つあるのではないかと思いました。1つは、主人公が恵まれていること。2歳のときにお母さんが亡くなって、お父さんは理解がない、ということが冒頭で強調されていますが、オブライエンさんは、おそらく実の母以上に優しく、常に理解してくれるし、途中から現れる父の交際相手のハナ・バーンズさんも理想的ないい人です。友人のケイシーは、元気づけてくれて、工房の先生も優しいんですよね。もう1つの理由は、主人公が常に受け身であること。内向きな性格でさびしい思いをしている、というのはわかるんですけど、自分から行動せず、常に与えられるものによって、少しずつ変わっています。特に気になったのは、ハナ・バーンズとの件が佳境にあるとき、一度たりともケイシーのことを思い出さないんですよね。この子の視野の狭さが浮き彫りになっているストーリーならいいのですが、頑張ってるいい子として描かれているので…物足りなさを感じました。

花散里:2021年に刊行されたときに最初に読みました。その時、評価が高い本だったと記憶していますが、今回、タイトルを聞いたときに物語がすぐに思い出せませんでした。読み直して、1章「かわいそうなわたし」から、お母さんが亡くなっていることなどを思い出しました。お父さんが前半ではオブライエンさん任せきりで、子育てに関心がないように描かれていますが、p165、後ろから5行目の文章「あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いていたこと。(中略)すぐに泣いてしまうから」が印象的でした。お父さんがうまく愛情表現できないのを、上手にオブライエンさんがカバーしてくれているということが全般的に良く伝わってきて、お父さんにとってもオブライエンさんが欠かせない存在であることも良く描かれていると思いました。アミーリア自身、友だちの作り方がうまくいっていないなかでケイシーと出会ったことなどが、子どもたちにも好感を持って読まれるのではないかと感じました。『春のウサギ』、このタイトルと表紙がそぐわないように感じました。子どもたちが読んでみようかなと本を手にするとき、タイトル、そして表紙の画は大事だと思います。どうして「春のウサギ」なのかなと。この物語を子どもたちに手渡すときの印象からすると、違ったほうが良かったのではないかと思っています。

西山:今回、岩瀬さんの作品と抱き合わせにして続けて読んだせいもあるでしょうが、すごく岩瀬成子的と思いながら読みました。大きな事件が起きるわけではなくて、筋は忘れてしまう気がしますが,読み返したら随所がおもしろくて、何度でも味わえそうです。人間観がやわらかくて好き。子どもの身体性を伴った、包まれている安心感というのが描かれていて、その温かさを新鮮に感じました。『春のウサギ』というタイトルは、全体を覆う温かなものに包まれた安心感にあっているのかもしれません。私も、最初はオブライエンさんと「教授」の関係が気になっていましたが、「教授」との恋愛感情があるとかないとか、そうじゃないんだなと思うに至りました。愛し合う男女がペアになって子どもを育てるという定型ではなく、お向かいのおばさんがこんなにアミーリアを無条件に受け止めてくれる、こういうあり方は新鮮でした。「教授」の不器用さはひどいとも思いましたが、p175の6行目ではっきり自覚されているように、アミーリア自身お父さんに似ています。おもしろい人間像を見せてもらったという感じです。「教授」の「あの子がおまえと遊ばなくなって、よかったと思っている。意地の悪い子だと思ってたんだ」(p177)というひとことなど、普通言うかそんなこと、とびっくりしましたが、そういう、馴染んだ人間観をこえてくるところがおもしろかったですね。

ヨシキリ:主人公の心の動きを繊細に描いた、温かくて、感じのいい物語だと思いました。ふと見かけただけ女の人を、実のお母さんであってほしいと思うアミーリアの心情は、両親が離婚寸前というケイシーに影響を受けているんでしょうね。お父さんはアミーリアを虐待しているわけではなく、鬱状態にあるだけだと思います。不器用な人なんですね。また、オブライエンさんも、アミーリアたちに無償で尽くしているのではなく、きちんとした雇用関係に基づいて働いていて、そのうえで春のようにアミーリアを包みこむ愛情は本物だと思いました。タイトルも表紙も、私は好きですね。こういう名前のカフェがあったら、入っちゃうかも。後漢の歴史家がのこした「養之如春(これを養うこと春の如し)」という言葉を思いだしました。春のように子どもをふんわりと見守るというのと、ウサギのように一歩前へ跳びだすという意味を兼ねているような感じがして…。原書のタイトルに使われているエミリー・ディキンスンの詩は、物語の結末とは違うような気がして、なかなかトリッキーなタイトルだと思いますので、そのまま訳しても読者に届くかどうか。まあ、私は子どものときに読んだ本でわからないことがあっても、大人になって「ああ、そうだったのか?」と思うことがよくあり、それはそれで読書の楽しみのひとつだと思いますが。訳書のタイトルのつけ方は、本当に難しい!いくら子どもが手に取りやすいからといって、「謎」とか「秘密」とかいう言葉をやたらにつけるのもどうかと思いますし…。

花散里:子どもたちが本を選ぶとき、タイトルは大きいと思います。

サークルK: 4月の課題本として3月半ばから読み始めたので、イースターの季節にぴったりのタイトルと表紙の緑色やウサギの絵に手に取った時から心が和みました。様々な表情のウサギたちは、アミーリアの作る粘土のウサギのことだったのだと読み始めてわかり、あらためて眺めることになりました。作中の表現で特に心に残ったのは、登場人物たちの「ふれあい」です。p28で友達になったケイシーが「2度ほど、自分の腕をアミーリアの腕を軽くかすらせた」とかp162-3ページでは「ハナの腕がアミーリアの肩に触れたが、やわらかな感触がびっくりするくらい心地よかった。」とか、p165「知ってる?あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いてたこと」など、さびしい心持をしているアミーリアに温かい人の手が何度も差し伸べられ、実際に「手当されている」ということがよくわかります。彼女は決して放っておかれているわけではなく、皆さんの感想にもあったように実はとても恵まれているのだと思えます。p112でオブライエンさんの手が「急にあわただしく動きはじめ」、「アミーリアの髪をなで、両肩をぎゅっとつかんだかと思うと、シャツについていたごみをはらいおとし、ほほにふれた」とあります。髪にふれるという行為は、p167にはハナが「なにも言わずにポケットに手を入れ、小さな青い玉のついたヘアゴムを取り出して(中略)ベッドの上ですわりなおすと、アミーリアの髪の毛をていねいにたばね、おだんごにまとめた」という形で再現されています。大人の小説だと、官能的な愛情表現につながるような行為ですが、親しいものがこのようにして子どもの髪をなでるという表現には独特の親密さや言葉にはしにくいながらも優しさや温かさが表現されていると感じました。続く最後の行、「きつすぎず、ゆるすぎず。ちょうどいい感じに」という表現は特に素敵でした。大人がべたべたと、あるいはずかずかと子どもの心に入ろうとしているのではないことがよくわかったからです。

すあま:このタイトルだとどんな話かわからないので、ブックトークなどで紹介しないと手に取りにくいかな、と思いました。夏休みの物語は多いけれど、春休みの話はあまりないかも。日本とは学校の学期の始まりや休みが違うからかもしれません。春であり、1999年という年であることに意味がありそう。アミーリアとケイシー、一人はお母さんが亡くなっていてお父さんしかいない、もう一人は両親が離婚しそうな状態で、どちらも家族についての悩みや痛みを抱えています。そこに家族ではないけれども、支えてくれる大人がいるというのをきちんと書かれているのがとてもよかったです。家ではない居場所があり、そこでは家族ではない人が自分を見守ってくれている。物語の最後、何もかも解決したわけではないけれど、アミーリアの成長が感じられて、この先いろんなことがうまくいきそうな予感を残していたので、読後感がよかったです。

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エーデルワイス(メール参加):時代設定は1999年。確かに携帯(ガラケー)もまだまだこれからでした。主人公のアミーリアは寡黙なお父さんとあまり意思に疎通がないようだけれど面倒をみてくれるオブライエンさんいて平和な日常をおくることができています、オブライエンさんの手作りマフィン、クッキー、ケーキ、アミーリアの通う陶芸教室などゆったり感満載ですね。両親の離婚問題で悩むケイシーとカフェに行くなんて。12歳なのにオシャレです。通りかかる人に勝手に名前をつけてその物語をつくる遊びは高度。二人とも成熟していると感じました。アミーリアのお母さんは亡くなっているはずなのに、見かけた女性をお母さんかもしれないと想像を膨らませるところはいじらしいです。その女性はお父さんの恋人でしたが、この本の続編が書かれるのかもと思ったりしました。アミーリアの心の軌跡が丁寧に書かれていると思ったし、装丁と挿絵はいかにも日本らしいと思いました。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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魔女だったかもしれないわたし

『魔女だったかもしれないわたし』
エル・マクニコル/作 櫛田理絵/訳
PHP研究所
2022.08

マリンバ:とても読み応えがありました。主人公が、視覚的にものを見る、ということを言葉で表現するのはとても難しいと思うのですが、それがうまくいっています。作者自身が自閉スペクトラム症と診断された、と知って納得です。あと、魔女裁判のことを調べるのに熱中していること、サメが好きであること、すべてに理由があって、無駄のない構成になっていると思いました。クライマックスも、終わり方も、よかったです。エミリーの弱点を知って、それを仕返しにクラスのみんなに伝えるような展開になるのでは、と心配しましたが、杞憂でほっとしました。今、日本でも発達障害のグレーゾーンがよく話題になります。そういうことに悩む人たちにも届けたい作品だと思いました。ただ1つ気になるのは装丁です。インパクトがなくて、物語の強さと合っていない気がしました。

花散里:表紙から受けたイメージと作品の内容がかなり違うと私も感じました。読んでみると、登場人物、一人ひとりがしっかり描かれていて読み応えのある作品でした。今、特別支援学校で読み聞かせをしています。以前には公立小学校の特別支援学級で13年間、読み聞かせをしていました。通常学級にも支援が必要な子どもたちがいましたが、その頃は、「自閉症の子ども」という言い方をしていたと思うので、本作で、自閉症ではなく、「自閉的」というところや、スティミング(自己刺激行動)についてなど、いろいろと学ばせてもらったという思いでした。主人公、その双子の姉、キーディとのやりとり、ニナとの後半での会話などが印象的で作品全体の構成が良くて、主人公、家族、友だちなど周りの人々、特に図書室のアリソン先生、魔女の慰霊碑建立に資金提供してくれたというミリアムなどがしっかりと描かれていると思いました。全体的に人と人との関りについての描かれ方が印象に残りました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。自閉的な人は、それぞれずいぶん多様なんだと思いますけど、感覚過敏だったり、人の表情をうまく読み取れなかったり、騒音や接触が苦手だったり、共感力が強くなりすぎることがあったりと、アディのような人がどんなところで苦労しているのかが、リアルに伝わってきました。呪われた子とか、現代の悲劇とか、知恵おくれなどという周囲の偏見に対しても、病気なのではなく他の人とは認知の仕方が違うのだということが、はっきり書かれていました。それだけではなく、物語としてもおもしろかったです。ほかの登場人物も、リアルに浮かび上がってきました。マーフィ先生だけは、こんなにひどい人が本当にいるのかと思ったんですけど、著者が自分の体験の中でこんなふうに差別されたことがあったのかもしれませんね。アディの家族がみんなでアディを支えているところも、最近の作品の中では逆に新鮮でした。

雪割草:障がいのある子に対する偏見について、魔女裁判の例を重ねて描くというアイディアがおもしろいと思いました。自閉症についてよく知らなかったので勉強にもなりました。それからアディが魅力的だと思いました。物事への洞察力があり、思いやりもあって謙虚。周りの人を動かす力もあることに納得しました。エディンバラの郊外が舞台になっていて、留学していたので懐かしく思います。よくわからなかったのは、ミリアムだけさん付けではなく呼び捨てなこと。有名人だからでしょうか。この作品はBBCの実写版になっていて、オードリーが褐色の肌の子でした。作品のなかでは、黒い目で黒い髪でロンドンから来たためだと思いますがアクセントが村の人と違うとだけありました。それから、牛の目が毛の下に隠れているといった記述がありましたが、ふさふさの毛のハイランドの牛だと思います。なので、ただ「牛」ではなく日本の牛と違うことを明記した方がよかったと思うし、表紙の牛は違いますね。私も表紙自体が作品の内容と合っていないと思いますが、牛もちゃんと描いてほしかったです。

ハリネズミ:この本の中ではオードリーの肌の色は描写されていないんですけど、映画とか絵本にする場合は、登場人物を多様にしないといけないんでしょうね。

wind24:とてもおもしろく読みました。3姉妹を中心に話が進みますが、自閉症の長女と自閉的傾向のある三女。通常発達の次女はその板挟みで無関心を装うしかなく辛く孤独を抱えた立場であったでしょう。中世は魔女としてたくさんの女性たちが殺されました。その中には自閉症やアスペルガーなど、今で言う発達障がいの方も多くいたのではないかと思います。人は自分と違うものを排除しようとする傾向があります。キーディやアデラインはその時代に生まれていたら魔女として死刑になっていたかもしれません。アデラインはそのことを他人事ではなく自分の事として感じています。このジェニパーで魔女として殺された人たちの慰霊碑を立てるのはアデラインが前に進むためにはどうしても成し遂げなければならなかったことです。町を巻き込み、反対派を説得し、理解者や協力者を得ていく、アデラインの不屈な精神力が素晴らしい。p139でマッキントッシュさんに「自閉症の子」と言われたアデラインが言い返す言葉が印象的です。「私は自閉的な人間というだけで、病気などではありません!」
子どもたちを見守り続ける両親、和解し絆を深めるニナとの関係性。そしていちばんの理解者キーディ。そんな家族に囲まれたアデラインだからこそ、自分の意思をつらぬき、道を切り開いていくことができるだろう、これからも、と思いました。

ハル:とてもおもしろかったです。魔女裁判をこういう視点で考えたことがなかったので、根本に潜む恐ろしさに改めて気づかされました。キーディも素敵でしたが、ニナの存在も大きいですね。自閉的なキーディとアディの間で、定型発達のニナにだっていろんな思いがある。それぞれに自分を置き換えながら読むことができる1冊でした。

ハリネズミ:表紙をどうするのかは難しいところですね。シリアスなテーマだからシリアスな絵にしたら、誰も手に取らないかもしれないですもの。それにしても、この表紙はちょっと違いますね。

しじみ71個分:前に1度読んだきりなので再読しようと思ったら、図書館で予約が8人待ちになっていて、かないませんでした。図書館の開架にあったのですが表紙がふんわりしすぎて魅力的に見えず、最初は手に取って読もうとは思いませんでした。でも、必要があったので、しょうがないと思って読んだら、内容はかなりハードで、とても興味深い本だったので驚きました。表紙が内容にそぐわないのはちょっと損してるなぁと思います。お話はとても興味深くて、重要なテーマを扱っていると思います。主人公のセリフで自閉症と自閉的であることは違うと知りましたし、自閉スペクトラムの特性を持つアディを通して、音、光、触感、味覚などの刺激に弱い等、生活上の困難がよく分かりました。姉のキーディ、友だちのオードリーの存在、アディの精神的なタフさが物語に安定感をもたらしているので、執拗ないじめに遭うような場面でも信頼を持って読めました。見えにくく、理解されにくい発達障害には、周囲の理解が重要だということがよく分かるので、子どもたちに広く読まれ、知られるといいですね。キーディの描写からも鋭い痛みが伝わり、重み、厚みがあって胸にこたえました。普通(普通とは何だ?という疑問も当然浮かんできますが)と違うということで差別されたり偏見を持って見られたり、攻撃の対象にされたりするのはあってはならないことで、自閉スペクトラムの自分を魔女狩りに遭った魔女に例えられて処刑されていたかも、と言われるなんてのは、生きることを否定されているみたいでとても怖いですよね。先生の無理解やいじめの場面は読むと辛いですが、読む人がちゃんと考えるべきことを伝えてくれていると思います。最後に、魔女狩りにあった女性たちの慰霊碑を建てることができ、きちんとアディの自己実現がなされるという結末には救われる思いがしました。読んで本当によかった作品です。

エーデルワイス:自閉スペクトラムである主人公のアディが冷静に自分の症状を説明しているところが驚きでした。一つのことが気になると、もうそればかりで我慢できないとか。親友のオードリーに人から触られる(一部除いて)のが嫌なのでハグができないとか。(最後の方でオードリーと軽くハグするところが微笑ましい。)アディの双子の姉の一人キーディが大学で自分が自閉スペクトラムであることを隠しているところからは、ありのままでいられない苦しさが伝わってきます。11歳の時、教師から受けた精神的な暴力のせいでしょうか? 大学には診断書が提出されていないのでしょうか? ADHD(注意欠陥多動症)の講演会とその当事者の体験談を聴く機会があり、周囲の理解や助けで普通に生活できることを知りました。
5歳の孫(男の子)は自閉スペクトラムと診断されました。それまでは、集団に入れず、大声で喚いたり自分の興味のあることしかしないので、こども園ではお荷物敵存在でしたが、診断がつくことにより理解が進み、選任の保育士さんが一人ついて、こども園の生活が良くなりました。孫が、このアディの視覚、聴覚、感じ方など同じだと思い、私にとってはテキストのように読みました。とてもよかったです。

きなこみみ:おもしろく読みました。自閉スペクトラム症ということがとても具体的に描かれていて、サメになぞらえられていたり、子どもにも伝わりやすい、感覚として伝わりやすい例というか、それをたくさん挙げて説明されているなと思いながら読みました。自分と違う人を排除するっていうのは、梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』(小学館/新潮文庫)も。あれは自閉スペクトラムではなかったですけれど、やっぱり自分と違うものを排除するっていうのが、テーマの一つだったと思うんで。魔女の歴史っていうものを踏まえて、過去と今とを繋いでいるっていう意味でも、とても良い本ではないかなと思いました。あと、アディに対して、加害を繰り返すいじめっ子って、さっきも出てましたけど、誇張されているとは思うんです。マーフィ先生も、こんな先生がいるのかと思うぐらい激しいですね。アディとキーディが自閉スペクトラムの自覚があるっていうことは、学校にもそれは伝わっているんだと思うんですけど、今の時代のイギリスでこの対応はあまりに酷いと思うんです。でも、そこから伝わってくるものを選択されたんですよね、きっとね。加害する側と被害を受ける側の区分けがはっきりしすぎてるかな、とは少し思いました。
ただ、もう一ついいなと思ったのは、いじめを何も言わずに見ている人たちのことが、ちゃんと書かれているところです。p216で、アディの辞書がびりびりにされたことについて、「もしもだれかが、ジェンナの大切なものを取ろうとしたら、わたしなら止める。もしジェンナの悪口をいう人がいたら、わたしなら、だまれっていう。それが友だちってものだから。それが正しい人間がすることだから。でもジェンナは、ただつっ立ってみていた」ってアディが言うと、ジェンナが「わたしだけじゃない。みんなだってそうだよ」って言うんですね。みんなもそうだから、私は悪くない、っていうことをジェンナは言ってるんです。それに対して、アディは「オードリーは違ったよ。アリソン先生も」って、ぴしゃりと言い返します。傍観者になることは加害のひとつであるっていうことが、とてもしっかり書かれているので、この作者はそういうことについて、深く考えを張り巡らせておられるんだな、と。こないだ、朽木祥さんの講演会に言ってきて、そこで朽木さんが、「加害者になるな、被害者になるな、そして傍観者になるな」という言葉をあげてらっしゃいましたけど、その言葉がこの本を読みながらも、また、思い浮かびました。これはやっぱり、いろんな差別とかレイシズムの図式にもあてはまることなので、声を上げ続けるアディの強さが、子どもたちに伝わるといいなと思います。そして、殺されていった魔女たちの慰霊碑を作るっていうのは、過去を忘れずに、そこに向き合うっていうことなので、そこも良いと思うんです。過去と向き合わないと、実りある未来には進んでいけない。「われわれはすべて背中から未来へ入っていく」つまり、現在と過去を見る賢者だけが、未來を見ることができる、と『未来からの挨拶』(筑摩書房)で堀田善衛が言っていましたが、過去のつらい、悲しい魔女の記憶をきちんと持ちながら未来に進んでいこうとするこの物語には、とても大切なことが詰まっていると思います。

アンヌ:最初はファンタジーだと思って読み始めていたので、魔女への共感が慰霊碑の形になるとは思ってもみませんでした。定型発達とか自閉的という言葉の意味をこの物語の中から読み取るべきなのだろうけれど、やはり、わたしは最初のうちに注がほしかったと思います。ニナについては、親の言いつけを無視したりするところに、ヤングケアラー的な重圧を感じていたのだろうなと思いながら読みました。気になったのがp185でアディがマーフィ先生に算数の答えをカンニングしたと決めつけられていたことを、その時にはまだ来ていないキディが知っていて、p192で先生に言うところ。誰もまだそのことを口にしていないので、奇妙です。

ニャニャンガ:仮面をかぶって学校生活を送るアディの苦しさが胸にせまる内容でした。ニューロダイバーシティという言葉を知ったのは最近で、自閉症スペクトラムはなんとなく知っていたものの、こんなにもさまざまな状態の人がいるとは知りませんでした。作者自身が自閉スペクトラム症のため、表現がリアルで、アディとキーディの特性やしんどさがとても伝わってきます。アディに姉のキーディがいてくれてよかったのと同じように、キーディと双子のニナが、疎外感を感じるせいで反発しているようでいて、支えてくれる姿が愛おしかったです。ロンドンから来たオードリーは、閉鎖的な村社会とは対照的な存在で、アディを偏見で見ずに理解しようとする姿勢があり、理想的な友人の事例と感じました。この物語では、わかりやすい無理解者としてエリーとマーフィー先生が登場し、アディを苦しめ、残酷でつらかったです。また、自分のコンプレックスからエリーがアディをいじめるのは、親の問題もあり小さな村では今後が心配な気がします。また、現代の魔女的な存在であるミリアムを登場させたのは、うまい流れだと思いました。アディが自分を魔女と重ねで存在を否定されているように感じ、慰霊碑を作ることで昇華させようと活動するなかで成長し、それを影でミリアムが支援してくれたことは喜ばしいです。
気になるというか要望としては、スティミングについての説明のように、定型発達(ニューロティピカル)や作業療法など固有の言葉についてももう少し補足がほしかったです。可能であれば、あとがきか解説をつけてくれたら理解が深まったのではと思いました。

さららん;自分でメモしておいたことが、ほとんど全部出てしまったので、私なりに気がついたことを言います。たとえば、森の中を案内してくれたパターソンさんは、わかったようなことを、思い込みで言ってしまうタイプ。悪気はなくても相手を傷つけてしまうんです。そんなパターソンさんにまっすぐ切り返す主人公を見ていると、これまでの苦労がよくわかります。私もパターソンさんみたいにならないよう、注意しないと。また子どもと大人と対等に発言でき、村で殺された魔女たちを忘れないように記念碑を作りたいと、アディが提案できる委員会があることが、うらやましいと思いました。村の委員会の議長であるマッキントッシュさんは、なかなか手ごわい相手ですが、アディもめげずに工夫を重ねながら3回も提案するのです。その粘り強さは見習わなくては! アディにいろいろなことを教えてくれる姉キーディが語った言葉――「みんなが求めているのは事実じゃない(中略)みんなが聞きたいのは物語なんだ。だから一部始終を語らなきゃ」(p174)を聞いて、人を動かす力を持つ物語とはなんなのか考えさせられました。さらにキーディが言った「いいことと正しいことは違う」(p176)という言葉にはハッとさせられ、小学校高学年の読者にそれを伝えておくのは、これからの価値基準を作るうえでとても大事だと思うのです。いわゆる「歴史」を、自分自身でホントにそうなのか?と問い直すきっかけにもなります。過ちを繰り返さないために歴史を学んでいるはずなのに、私たちは少しも前進せず、同じ過ちをしています。女の子の小さな訴えが、そんな大きな歴史にも、この世界全体の在り方にもつながる、読み応えのある物語でした。

ハリネズミ:自閉症という言葉は今は使われなくなったんですか? この本の中では病気じゃない、と言っているので「症」という語は適切ではないのかな、と思ったのですが。

ニャニャンガ:見える障害と見えない障害があり、見えない障害は本人が申告したくない場合もあるため、支援を受けることの難しさがあるのではと思います。アディは自分で認知しているのに、周囲の理解が得られないのは問題だと思いました。

ハリネズミ:日本では、診断がつくと補助の先生がつくので楽になるけれど、親に診断を進めても、うちはいいという方も多いと聞きます。そのあたりは難しいところですね。

エーデルワイス:就学前そのお子さんの診断によって、普通学級、特別支援学級、特別支援学校へと分かれていくようです。私の文庫の近くに「放課後デイサービス」があります。契約を結んだ子どもたちの学校(小、中、高)へ、デイサービス職員が車で直接迎えに行き、放課後を過ごし(宿題をしたり遊んだり)、終了後にそれぞれの家まで送るシステムです。保護者にとってありがたいことだと思います。文庫にその子どもたちが本を読みに来てくれます。絵本やストーリーテリングも聴いてくれます。

しじみ71個分:放課後デイサービスは、私の地元でもとても増えています。発達障害の診断がつかないと使えない施設ですが、増えていることには何らかの意味があるんだろうと思います。日本の学校では、統合教育よりも分離教育の方が多いと思いますが、先生が多忙な上に、何しろ1クラスの子どもの人数が多すぎるのだと思います。先生の手も回りませんし、子どもに目が行き届かないです。それでは統合教育は進まないと思います。保育の現場でも同様で、先生1人に対する子どもの数が多すぎて子どもたち一人ひとりに目が届くような保育は難しい現状です。発達障害の診断がついてやっと先生の加配がなされるので、障害のある子どもを受け入れるには、診断がつかないと現場が回りません。保育園側から診断を受けてみたら、と保護者に伝えるには慎重にコミュニケーションを取らないと難しく、保護者自身も育てにくさやつらさを感じているのだと思いますが、なかなか言い出せるものではないと聞きました。でも、1回診断を受けて専門家のサポートを受け始めると保護者も保育園側もみんな楽になります。
とにかく日本では、障害を受容する環境が整っていないと思います。アメリカの図書館界では、自閉症の子どもを図書館に受け入れるためのツールキットも公開されていて、司書がトレーニングを受けることで、自閉症の子どもたちを含め、情報や教育、図書館にアクセスしにくい障壁をなくしていくという運動も進んでいます。自閉症の子がはねたり、声を出したりすると、周りの利用者からうるさいと言われ、図書館側も迷惑がるというようなことが往々にしてありますが、そういった気持ちのバリアをなくして、物理的な環境も改善していくことが大事だという学びを共有していっているんですね。物語の中でも大学の環境が整っていないためにキーディが大変な辛さを経験する場面がありますが、多様な脳の特性のある人を受け入れる環境改善と理解の促進への取組は日本でも早急に進めていくべきだと感じています。

ハリネズミ:障碍者というのは、その人に障害があるのではなく、社会の側がその人が暮らして行くときに障害になっているのだと聞きました。気の毒だとか親切に、とかいうことではなく、社会のほうをもっと整備していかないと、ということですよね。

しじみ71個分:日本の図書館でも「世界自閉症啓発デー」に合わせた展示を行うなど、自閉症に関する学びを深めつつありますので、これから少しずつ改善されていくのかなと思っています。

(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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きみの話を聞かせてくれよ

学校の屋上で男子と女子が話をしている
『きみの話を聞かせてくれよ』
村上雅郁/作
フレーベル館
2023.04

きなこみみ:人の心って、外に出ている部分はほんの氷山の一角なんですけど、でも、人はその無限さを覗くのがめんどうくさくて、簡単に目に見える部分で他者を分類したがるんですよね。そんな目に見えない小さな抑圧や暴力に対する静かな告発の物語だと思います。いちばん共感したところは、p229で梢恵が「これってさ、私が弱いせいなのかな、みんなは、平気なのかな。私が、私が出来損ないで、ほかの人が気にしないようなちいさなことできずつくような、ほんとうにどうしようもない人間だから―私が、悪いのかな」というセリフがあるんですけど、こういうセンシティブな部分を「弱さ」として恥ずかしいと思ったり、消化できないでいたりすることって、私自身、こんな年齢でもよくあって。パレスチナで、今、起きているジェノサイドのことを考えると、ものすごく鬱々としてしまうんですけど、一応大人だし、と思って、表向きなんにも感じてません、ていう顔して日常生活まわしてるんです。でも、そんな自分にまた傷ついて、という繰り返しをしてるんですよね。ひとりでこの世界に立ち向かうのは、とっても勇気がいって、特に日本人はそこが苦手なんですけど、そんなとき、連帯してくれるのは、やっぱり物語だなと思うんです。この物語は連作短編で、みんな一対一の関係で苦しんでるように思えるんですけど、実はこれはマジョリティと向き合う、「ひとり」の物語で、そのひとりを繋ぐ糸が、野良猫みたいな雰囲気の黒野くんで、細い糸が連帯になっていくんだなと思います。物語が作るそういう連帯って、他者と自分を考えるときの心の足場になってくれる、それも文学の役割だなって、思いました。

エーデルワイス:登場人物が多いので似顔絵を見て確かめながら読みました。しかし読み進めていくと、頭の中ではそれぞれ似顔絵とは別の顔が浮かびました。学園ものだけれど、学年、男女を超えた繊細さがあり、新鮮でした。黒野良輔君は「くろノラ」の生まれ変わりかと思うほど不思議な存在。こんな子がいてくれたらどんなにいいでしょう。轟虎之助君がウサギ王子の祇園寺羽紗さんにタルトタタンを作りに行くところがいいです。p83にスーパーで黒野君と轟君がりんごの紅玉を買うシーンにあれっ?と思いました。梅雨明けの6月下旬7月初めに東京のスーパーでは紅玉を売っているのでしょうか。岩手では10月初旬に紅玉が出ます。出荷期間が短く、毎年知り合いのりんご農家に頼んで箱で買い、秋の私はせっせとアップルパイを作っています。ですから不思議に思いました。

しじみ71個分:前に読んだ同じ著者の『りぼんちゃん』(フレーベル館)より好感が持てました。登場人物がうまく書き分けられていると思いましたし、黒野君が狂言回しになって、友だちの間で話を聞くことで閉ざされた心の内を開いていって、問題を少しずつ明るい方向に向けていく連作短編でおもしろかったです。青春期のつらい気持ちは誰でも経験があると思うので、読めば共感できると思うし、苦しいときの参考にもできるのではないかと思いました。そういう意味では魅力的な本だと思います。タイトルのとおり、黒野君が人の話を聞きに行って、最終的に自分の心を見つめて、考えて、溝ができてしまった相手に向き合うよう促している。それぞれの人物の思いは胸を打つところがありました。否定されずに、人に聞いてもらいたい気持ちは誰でも皆あるんじゃないでしょうか。困っているときに、そういう機会が持てればいいと思いますし、対話の大切さが伝わると思いました。
ただ、ちょっと黒野君が大人っぽすぎるかなと思わなくもないです。私は死んだ猫のくろノラがお墓参りしたときに乗り移ったとか、そんな展開なのかと思ったくらいです。結局、普通の人間の少年でしたが、そうだとするとちょっと大人っぽすぎるかな。黒野君が等身大の14歳の少年だったらどうなっていたかなと思います。それと、ウサギ王子は特にですが、描かれている子どもたちの悩みがかなり極端だなと思われる点もありました。『りぼんちゃん』のときもそうでしたが、作者の言いたいことをそのまま登場人物に言わせるようなところがあって、どうしても大人の考えがにじみ出ています。それが気になるところではありますが、さわやかな話だし、子どもたちはおもしろいと思うのではないかなと思いました。

ハル:読者の声に耳を傾けよう、心に寄り添おう、としていることはよくわかるのですが、私は苦手でした。登場人物たちが生身な感じがしなくて、この物語の中に「この子たちは本当に存在しているの?」という疑問がわきました。私を型にはめないで! という感情は、もっと普遍的なものだと思っていたのですが、特別なケースとして描かれているような印象があって、それが共感できなかった理由かもしれません。それに、美術部って団体競技でもないのに、ひとりだけ真面目に描いてたからって、そんなんで浮きますか? 美術部の描き方に不満ありです。それから、人目につくところでタルトタタンが食べられないという理由も、どれだけ説明してくれてもよくわかりません。見た目にも、特に女性的も男性的もないようなお菓子じゃないですか。どうしてタルトタタンにしたんでしょう。音がおしゃれだからですか。と、いろいろ好き放題言ってしまいましたが、黒野くんが猫じゃなくて、そこはほっとしました。

雪割草:日本の作品は学園ものが多く好きではありませんが、先ほど意見が出ていたように登場人物の関係性がフラットで好感がもてました。章ごとに語り手、視点が変わるので、一つの物事に対していろんな見方ができておもしろく、次が読みたくなりました。読者にとっても、他の人の立場に立つ練習になり、よいかもしれません。でも後半の章になってくると、きれいすぎるというか、作者の理想が溢れていてついていけませんでした。黒野くんは、私も達観しすぎているかと思います。どの登場人物も自分に自信がなく、そうした自信のなさに黒野くんが「大丈夫。困ったことにはならない」と言ってあげる。そういう安心を子どもたちは必要としているというのは伝わってきました。

wind24:ティーンエイジャーの気持ちに入り込めないところも多々ありましたが、漫画の連載にしたら同じ年ごろの子どもたちの共感を得て、興味を持たれるのではないだろうかと思いながら読みました。黒野君、いそうでなかなかいない魅力的な性格。本当に中学生?と思うくらい含蓄深い言動に驚かされました。自分を振り返っても(半世紀前!?)少し背伸びして人生のこととかを語り合う友がいて、ありったけの言葉を駆使して言い負かそうとし合っていたことを懐かしく思い出しました。「ヘラクレイトスの川」の章では思春期の子を持つ親御さんに是非読んでもらいたいと思います。不登校の子どもの気持ちや寄り添うことの大切さ、結局は周りのアドバイスは本人にとっては圧でしかないということ。梢ちゃんの場合は兄の正樹の言動が救いになっていく。寄り添うという意味では最後の章の「くろノラ」がそうでした。いきなりの「です。ます。」調に戸惑いはありましたが、保健の三澄先生の語りかけということで納得。彼女もまた孤独を抱えながら中学生活を過ごしていたことが明かされます。そして、剣道部のウサは思うに自分の性に違和感を感じています。性自認が何であるかは明らかにされていませんが、今LGBTQのことが話題にできる時代になってきているので、もう少し突っ込んで書いてほしかったです。肯定的な書き方をすれば、救われる読者もいるのでは?

ハリネズミ:私はこの本は好きです。飄飄とした黒野君を狂言回しにして、6人の生徒と養護教諭が一人称で語っていく連作短編集で、それぞれの短編がかかわりあっているおもしろさがあります。私がいいなあと思って新鮮に感じたのは、たとえば兄に「人がなんと言おうと関係ない。自分の道を行けよ」と言われた轟虎之助が、p97で「少なくともぼくは、だれかに『人がなんて言おうと関係ない』なんて、言えない。/人になにかを言われることは、つらい。/自分の道を歩いているだけで、その道に勝手な名前をつけられるのは、歩き方に文句をつけられるのは、どんなに好意的でも笑われるのは、ほんとうにつらい」と心のうちを明かすところや、p230で兄に「変わらなくてもいいよ。梢恵はそのままで、いいよ」と言われた柏木梢恵がp230で「いいじゃん。お兄ちゃんは。強いからそういうことが言えるんだよ。きずつかないから。きずついても、ちゃんと立ちあがれるから。私には無理なんだよ。苦しくて、つらくて、変わりたいけれど、変わるのも苦しくて、どうしようもないんだよ……!」「変わらなくていいだなんて! じゃあ、ずっと、ずっと苦しめって言うの?」と反論するところ。「他人の意見なんか気にしなくていいんだ」とか、「変わらなくてそのままでいいんだ」とかは、子どもに関わる人や児童文学が伝えがちなメッセージですよね。でも、そう言われて逆につらくなる子どもたちがいるんだということがリアルに伝わってきました。
それから、冒頭にある「クラスになじめなかったり、大切な人とすれちがってしまったり、だれにも理解されずに、ひとりぼっちでとほうにくれている(中略)そういう子って、きっとこの世界にたくさんいるんだと思います。助けてあげてください。私に、そうしてくれたみたいに」と養護教諭の西島先生がネコ(くろノラ)に言っている言葉が全体のテーマのように掲げてあるので、黒野君はそのネコの役目を引き継いだかに見えるわけですが、最後の章で黒野君はp324「くろノラは、だれかを助けてやろうとか、そんなこと、ぜんぜん思っていなかったって。ただただ、おもしろかったんですよ。この学校に通ったいろいろな子たちと関わるのが」と言い、自分も助けようと思ったわけではなく、楽しいからいろいろな友だちと関わってきた、って言うんですね。ネコが乗り移ったわけでもなく、先生の願いやネコの遺志をついだわけでもなく、自分が楽しいから、というところが、いいなあ。
4つ目のエピソードでは、男子たちのいたずらがあまりにも稚すぎて笑ってしまうんですが、それが最後に登場するウサギ王子と小畑玲衣の仲直りの場面の伏線になっているんですね。

花散里:一人ひとりの人物の描き方、友情についてなどがしっかりと描かれていなくて、物語に入れず、どの章も私はおもしろく読めませんでした。登場人物の心の機微などをていねいに描いてほしいと思いました。くろノラの存在、三澄先生を絡めてのストーリー展開、構成もどうなのかと思いました。私は中・高の学校図書館に勤務しており、国語科の教員と協働で生徒たちに本を読んでほしいと、様々な取り組みをしています。読み応えのある外国の児童文学のような良い作品を常に手渡したいと思っています。日本の児童文学からも読みごたえのある作品と出合いたいと思いながら、読んだ作品でした。

マリンバ: これまで、2人の主人公の話を書くことの多かった著者が、短編連作に挑戦している“意欲作”だと思います。物語が複雑に絡まり合って、おもしろく読めました。ただ、人は増えても、みんなメンタルに不安を抱えている繊細な人たちで、ふり返ったときに、どの子もちょっと似ている気がしました。5章の柏木正樹くんなどガサツな登場人物も、最終的には繊細な相手を理解する、という展開になっていて、ガサツな人がガサツなまま繊細な人とふれあうのは、著者としては否定的なのかなと思いました。あと、たとえばp228「だけど、私、かなしかった……そして、こわくなった」というように、かなしい、こわい、楽しい、といった言葉が頻繁に登場するのが、やや安易な気もしました。ただ、子どもたちにとても好まれているようなので、こういうストレートで徹底的に心理描写を描くものが、今の子には伝わりやすいのかなとも思います。

ニャニャンガ:読みはじめは登場人物を把握できず、登場人物紹介を何度も見ながら確認する手間がありましたが、それを乗りこえる価値がある作品だと思いました。これだけ主要な登場人物が多い作品はめずらしい気もしますが、作者がきちんとまとめあげていてすごいです。わたしが好きなのはエピソード2の「タルトタタンの作り方」です。あのときの祇園寺先輩が語ったコンプレックスが後半で生きてくるあたりが好きです。本作の登場人物もほんとうの自分を出せないでいる子が多く、今回のテーマである「正体を隠して生きる?」につながりました。ただ、轟くんが何度も「ちいさく笑う」などと「ちいさく」を多用するのは自分が小さいからなのかと思ってしまいました。

ハリネズミ:さっき、ハルさんからは羽紗がタルトタタンにそれほどまでにこだわるのが理解できないとか、エーデルワイスさんからはこの時期に紅玉が手に入るのか、いう話がありましたが、そのあたりはどうですか?

ニャニャンガ:リンゴは一般的に6月から8月まで手に入りずらく、紅玉はもっと季節が限られていると思います。

ハリネズミ:タルトタタンって、別に女子っぽいお菓子でもないんじゃないか、という意見もありましたが。

マリンバ: タルトタタンというケーキの名前は、けっこう小説に使われている気がします。たとえば、一般書になりますが、近藤史恵さんの『タルト・タタンの夢』(東京創元社)や、中島京子さんの『樽とタタン』(新潮社)が頭に浮かびました。

ニャニャンガ:祇園寺先輩の性自認についてですが、この物語では女子として読みました。性自認というより、クラスメートや後輩たちから見られているイメージを崩さないためではないでしょうか?

さららん:7つの章はそれぞれモチーフもメインキャラクターも異なり、一見、断片的のようなんですが、登場人物が絡み合い、かなり凝った構成だと思いました。最後に羽紗はなぜタルトタタンにこだわるのか?という大きな謎が解決し、二人の少女の小学校時代からの行き違いが解けるところも気持ちよかったです。だれにもプライドやこだわりがあって、それがちょっとしたすれ違いで、友だちとの間に亀裂を作ります。でも違う視点から、さりげなく言葉をかける黒野くんの存在によって、みんなの小さな誤解やわだかまりが溶けていくんです。たとえ小さな悩みに見えても、子どもにとって人間関係は大きな悩み。自分のさりげなく発した言葉が相手をどんなに傷つけたかを知り、そこからどう立ち直るかを、対話を通して丹念に描いている。「あなたは二度と同じ川に入れない。二度目に入ったときは、一度目とはちがう水が流れているから」という意味を持つ「ヘラクレイトスの川」という言葉は、不登校になった子どもたちにそのまま伝えたい、と思いました。小さかったとき、立ち止まって歩き出した自分は、そのまま歩き続けた自分とは違う自分なんじゃないかと思って、友だちにそう話したら、バカか、という目で見られましたが……。トリックスターの黒野くんは、もしかしたらファンタジー的な存在かと危惧したのですが、最終章、「くろノラの物語」のところで、彼がどうしてそんな子になったのか、エピソードが挿入されます。黒野くんが地に足のついた存在になって、よかった! わかったようなことを言わないで、相手の言葉にただ耳を傾ける姿勢は、作者が児童館に勤務する中で身につけた姿勢なのでしょう。そのことにより相手も、自分のほんとの気持ちに気づくようになるんですね。

(2023年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ロンドン・アイの謎

『ロンドン・アイの謎』表紙
『ロンドン・アイの謎』
シヴォーン・ダウド/著 越前敏弥/訳
東京創元社
2022.07

エーデルワイス:作者がこの作品を発表してから2か月後に47歳で亡くなっていることにショックを受けました。ミステリーの犯人捜しが苦手な私は、読んでいて謎を解き明かすことができません。作者の独特な言い回しのせいか、なかなか読み進めませんでしたが、中盤から一気に読めました。読み終えてから、あそこにここにとヒントがあったのですね、と。主人公テッドの口癖「んんん」は原文でも「nnn」なのでしょうか?出番は少ないのですが私服の女性警部、ピアース警部が素敵です。グローおばさんとサリムのニューヨーク行き飛行機のチケットを待ってもらうなんて、良心的な飛行機会社ですね。サリムのパパがインド系、サリムの親友のマーカスの母がバングラデッシュ、父がアイルランド……というように他民族そして差別も描いています。サリムの行方不明事件の顛末は、日本でしたら親が世間から非難されそうですね。

西山:おもしろく読みました。いきなりの「序文」で「真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らずこの本のなかに書かれています」しかし、謎を解くのは「一度読んだだけでは至難の業でしょう」って、なんだ、いきなり読者への挑戦状か?! と思いまして、受けて立とうじゃないのと身構えて読み始めたのですが、そのうちそれも忘れて、ただおもしろく読んでいました。あ、でも、ロンドン・アイでサリムが乗り込んだはずのカプセルから降りてきた人の数は数えて、乗り込んだのと同じ21人であることは確認しましたけれど。“症候群”のテッドの感性と考え方から生まれるユーモアや、例えば人がかっこいいかどうかとか分からないテッドは「ぼくには、どの人もその人にしか見えない」(p25)というところなど、すてきな人間観として読めて、謎解きだけで引っ張られるわけではない、細部を楽しめる読書となりました。

雪割草:おもしろくて、先が気になってどんどん読み進めることができました。序文で、「テッドが真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らず本のなかに書かれています」とあったので、細部に注意したつもりでしたが、いろいろ気が付けず、仕掛けが見事だと思いました。また、ミステリーでありながらそれだけに終始せず、サリムが母とふたり暮らしだったり、父はインド系だったり、学校でいじめにあったり、社会的な背景などいろいろ描きこんでいるのもわかりました。それから、テッドは「症候群」と自分で言っていて、あとがきにはアスペルガー症候群と書かれていますが、その率直な観察視点で描かれるのも、ミステリーやこの作品に合っていると思いました。p33でテッドとサリムが会話しているのが描かれていますが、サリムはおとなっぽいというか、ミステリアスなところがあり、それも魅力的に思いました。

サークルK:ミステリーとしても子どもの成長物語としても、本当におもしろい内容でぐいぐいと引き込まれてしまいました。これぞ本を読む喜び!という感覚で、あまりのおもしろさに続編(ダウドが亡くなってしまったので原案のみで、本書の序文を書いたロビン・スティーブンスが本編を執筆した『グッゲンハイムの謎』)も一気に読んでしまいました。テッドが自閉症スペクトラム「症候群」であるために、家族の心配りがどうしても必要でそのしわ寄せを引き受ける「きょうだい児」の姉カット、母親の姉であるグロリアの家族の問題も盛り込まれて、現代のロウワーミドルクラスにあたるような一家の状況は一筋縄ではいかないのですが、お互いに文句を言いながらも温かい家庭であることが伝わってきました。そこにいとこの行方不明事件が勃発!これはおもしろくならないわけがありません。お互いに面倒くさいなと思いながらも姉弟が協力して、ひとつひとつ可能性をつぶしながら真実に近づいていく様子がていねいに描かれていました。ダウドご本人の作品がもう読めないのが残念でたまりません、もっともっと読みたかったです!

花散里:『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)など、40代で逝去してしまったシヴォーン・ダウドの作品はとても心に残っていたので、本作も注目して読みました。2022年に読んだ本の中で、特に印象深い作品でしたが、続編の『グッゲンハイムの謎』(シヴォーン・ダウド原案 ロビン・スティーヴンス著 東京創元社)もとてもおもしろく読みました。自閉スペクトラム症のテッドが鮮やかな推理で解決していくというミステリーで読み応えがありました。

マリオカート:ロンドンにはずいぶん長いこと行っていないので、このロンドン・アイのある風景を知らず、見てみたいなーと思いました。物語の途中まで、ミステリー的にそんなに絶賛されるほどの作品かな、と思っていたのですが、終盤で一気にたたみかけてくる展開に圧倒されました。主人公のキャラクターが秀逸ですよね。“症候群”の様子が、気象をモチーフにした本人のモノローグでよく伝わってきます。彼が何か言おうとしても、大人たちは聞いてくれない場面が多々あります。前回の読書会で読んだ本には、物理的に会話できない主人公が登場していました。今回の主人公も、言葉を発することはできるけれど実質大人に届いていないわけで、少し近いものを感じました。それでもあきらめない主人公が、最後はとてもカッコよくて、読み応えがありました。著者が早く亡くなられたのがとても残念です。

コアラ:おもしろかったです。自分で推理するつもりで読んでいきました。私も、サリムがそもそもロンドン・アイのカプセルに乗らなかったんじゃないかと最初のうちは思っていました。でも途中でその説が却下されたので、あとはいろいろな可能性を考えながら読みました。サリムがどこにいるか、ということでは、父親の家に行っているんじゃないかと思っていました。最後の解き明かしは、読者が本文中に明かされた手がかりだけでは推理できないことだったので、ミステリーとして素晴らしいというほどには感じなかったのですが、やっぱり子どもが活躍するというところで、おもしろかったです。気になったところと言えば、訳文がちょっと気持ち悪いところがありました。たとえばp27の後ろから8行目などですが、ストーリーに引き込まれてからは気にならなくなりました。印象に残ったのはp33からの「夜のおしゃべり」の場面。テッドは、グロリアおばさんや姉のカットからも、変てこな存在だとみなされていますが、サリムはテッドと同じティーンエイジャーの男の子同士として話をしていて、とてもいいなと思いました。あと、テッドがよく「んんん」と言いますが、その、唸っているという、言葉になっていないけれど、ちゃんと反応しているというのが、テッドらしさを表している表現に思えて、しかも字面が「んんん」ってなんだかかわいらしくて、やさしい気持ちで読むことができました。すごくプラスになっている翻訳というか表現だと思います。

ハリネズミ:ミステリー仕立てというだけでなく、人間模様がていねいに描かれているのがすばらしいですね。ダウドがすごい作家だということがそこからもよくわかります。アスペルガー症候群(とあとがきに書いてあります)をかかえ、ひとりで電車に乗ってこともなかったテッドが、その推理力で、いとこの命を助ける活躍をします。アスペルガー的な数へのこだわりや、決まった手順へのこだわり、ウソがつけないなどの特性を活かしながら、事件を解決していくところがいいなあと思いました。テッドの意見に家族が聞く耳を持たないときに、女性刑事がちゃんと話を聞いて解決に役立てるという設定もいいですね。人種のからむいじめの問題、アスペルガーの人が抱える問題、労働者階級の子どもの教育の問題なども描かれています。教育の部分は、バングラデッシュ人の母とアイルランド人の父を持つマーカスは、スクールカーストの最底辺にいるし、兄のクリスティは警備員の仕事もまじめにはやらず、いつもお金に困っていることなどから感じました。グローおばさん(グロリア)は、最初はとんでもない人かと思ったのですが、p224からの描写にはこうあります。「マーカスがドアへ向かおうとしたとき、グロリアおばさんが立ちあがった。/『マーカス』部屋は静まり返った。マーカスは立ち止まったけれど、振り返りはしなかった。/『聞いてちょうだい、マーカス。サリムの母親として言います。あなたは何も悪くないから』この一言でイメージを逆転させているんですね。見事だと思いました。

アンヌ:私は推理小説が好きで『名探偵カッレ君』(アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)や江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズで育ってきたので、おもしろいと評判だったこの本を選んでみました。読んでみたらおもしろくて2冊目の『グッケンハイムの謎』(ロビン・スティーヴンス著 シヴォーン・ダウド原案 越前敏弥訳 東京創元社)も読んでしまったのですが、やはりこちらの方が、主人公のテッドのASDについて、特性や苦悩がていねいに書いてあると思いました。インド系のサリムやその友達が受けている差別など、今のイギリス社会の状況もしっかり描かれていると思います。推理小説としては謎が二つもあり、特に後の方は時間との戦いというスリリングな要素もあって実に見事だと思いました。また、大人たちが誰も話を聞いてくれないのに、女性の警部に電話して問題が解決されるという展開は、警察への信頼感があって、古き良きミステリーのようなほっとする感じがありました。

まめじか:よくできているミステリーだと思いました。家族の目は発達障碍のあるテッドに向きがちで、そんな中、姉のカットが感じている思い、サリムを見つけようと奮闘する中で二人の心が近づいていく過程もていねいに描かれていますね。若干気になったのは、p67「ナースは女の人の仕事だけど、ぼくは男だ。ナースにはなれない」とか、p68「よくあるのとは逆で、女の人のほうが責任者だっていうことだ」など、ジェンダーバイアスを感じさせる部分です。この本では、女性の警部がとても好意的に描かれていますし、きっと作者にそういう意図はないのでしょうが、読んでいて引っかかってしまいました。この本が書かれたのは2007年なんですよね。今の児童書だったら、こういう書き方はしないと思います。そういうところは、日本語版を出すときに訳で工夫してもよかったかもしれません。

すあま:この著者の作品は以前『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)を読んだことがあります。生前発表された作品が少ないので、翻訳されたのがうれしいです。『ボグ・チャイルド』とは違う雰囲気ですが、ミステリーとしても楽しく読みました。登場人物がそれぞれ個性的で、どんな人なのかくっきりと描かれていました。主人公のテッドは発達障碍なんですが、読んでいてそれが才能や個性だと感じられるような描き方をされていたと思います。特に、お姉さんのカットは、テッドのような弟がいる姉の気持ちがよく伝わってきて、ていねいに描かれているな、と思いました。それから、テッドが仮説を立てて一つ一つ検証していくところは、調べ学習の進め方のようでもあり、おもしろかったです。

ルパン:おもしろかったです! ただ、謎解きの点でいうと、この主人公、いつもいろんなものの数を数えていて、サリムが観覧車に乗るときもちゃんと人数を数えてるんですよ。なのに、降りたときはわざとのように数えてない。それで、降りた人の数を足してみたら21人だったから、絶対変装だ、ってわかっちゃったんですよね。だから、推理小説としては私の勝ちだな、って思っちゃいました。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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チェスターとガス

『チェスターとガス』表紙
『チェスターとガス』
ケイミー・マガヴァン/作 西本かおる/訳
小峰書店
2021.09

小方:主人公が自分の気持ちを表現できない。そういう状況の物語をどんな風に描くんだろうと思って読みました。自閉症だったり、障碍があったりする子が身近にいる作者だから描けるのでしょうね。この物語は、チェスターの視点から語られます。なんとこの犬はテレパシーのようにガスなどと気持ちを伝えることができるという、おもしろい発想ですが違和感がなく読めました。むしろ夜外に出て、吠え声を返してくる犬より、人間を仲間に感じているところがおもしろいです。アメリカを発見したのはコロンブスではない、というような流れから、犬なんですが人間みたいな存在に読者が感じられるようにしているのがうまいですね。チェスターはガスを描く語り役ですが、チェスターもまた、いくら吠えても気持ちを交わすことができないという悲しみを抱えた存在です。チェスターもガスも、ボキャブラリーはあっても伝えられないというくだりがとても悲しいと感じました。

ハル:随所、随所で、泣けて泣けて仕方なかったです。ひとくくりに自閉症といっても、ひとそれぞれ違いがありますよね。『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール出版部)の著者の東田直樹さんは、著書の中で、壊れたロボットの操縦席にいるような感じなのだとおっしゃっていました。この物語の中でさえ、ガスの心の本当のところまではわかりませんが、障碍のあるなしにも関係なく、誰と接するときにも、思い込みを捨てて、想像力を持つことは大事だと改めて思いました。ラストの手前でペニーが、まるでアメリカのアニメ映画にありそうな雰囲気で、にわかに暗黒面に落ちたような雰囲気になったときは、ああ、こういう展開はいやだなぁと思いましたが、ペニーの気持ちにも寄り添えるようなラストでよかったです。子どもたちにもぜひ読んでほしい1冊でした。

アオジ:ガスに心のうちを語らせるのではなく、犬のチェスターから見た(感じた)ガスの姿を描いている点がユニークなんでしょうね。犬が語るという物語は、ほかにもたくさんありますが。私は、アメリカの学校の現場を目に見えるように描いているところが、いちばんおもしろかったし、勉強にもなりました。作品のために取材したのではなく、自閉症の子どもの親である作者の体験がもとになっているので、痛いほどよくわかりました。
ただ、ガスの両親をはじめ、登場人物がどちらかといえばシンプルに書かれているのに、ペニーさんだけが複雑。読みはじめたときに、言葉遣いが乱暴で、どういう人となのかなと思いましたが、ハルさんがおっしゃるように後半にいくにつれて「悪者感」が増してきて、この本の対象年齢の子どもには理解しがたいのかなと思うし、裏切られたような感じがするかも。また、後半でペニーさんの母親が、知っているはずもない「ガス」という名前を口にする場面は、いくらなんでもやりすぎかな
あと、犬が人間の役に立ちたいと思っているのは本当だし、チェスターのひたむきさには拍手をおくりたいけど、「断然イヌ派」の人間としては、もっと犬の体温を感じさせるような書き方はできなかったのかなと思いました。ひたすらガスの役に立ちたいと思っているチェスターの姿が、だんだん生きている犬ではなくアイボに思えてきて……。

ハリネズミ:私もおもしろく読んだのですが、引っかかったのは、ペニーの人物設定でした。言葉遣いがほかの人とは違うので、そこで特殊性を出そうとしているのかもしれませんが、普通に社会で仕事をして生活していながら、平気で人を騙そうとします。最初からそれを匂わせる書き方、訳し方をされているならともかく、ちょっと日本の子どもには人物像が伝わりにくいかと思いました。それと、犬のありようが、リアリティとはかなり離れていて、どこまでリアルな存在としてとらえればいいか戸惑いました。人間の心理を読むことはできても、人間と同じような思考はしないと思うので。犬と人間の結びつきを書いた本はいろいろありますが、この本はファンタジーとリアリティの境目がよくわからず、自然を超えたスーパードッグというふうに私は読みました。そうすると、今度はガスのほうのリアリティもどうなのだろうと思えてくるので、設定にもうひと工夫あるとよかったかな。

アンヌ:表紙がさみしいような水色の背景に、窓の外の鳥を見ているガスとその足元のチェスターの姿で、読後にこの絵の意味が分かる仕組みもあるのがいいなと思いました。ガスの状態を理解するまでとても時間がかかってしまい、今でも、てんかんの症状だと言葉が出てくるというのがよくわからないままです。この物語で印象に残ったのは、サラがガスには学校で教育を受ける権利があって学校側はそれに対応しなくてはならないと言うところです。どの子供にも人権があるのだという主張を感じます。ペニーについては、犬の訓練士のプロなのかどうか、よくわからない感じで、少し捉えどころがないですね。チェスターがペニーのママとテレパシーで通じ合うところや、ガスともテレパシーが働いてしまうところは、ちょっとファンタジーだと思いましたが、移民のマンマが言葉以外の方法で、身振りや感じでガスを理解するように、たぶん言語だけがこの世界の生き物のコミュニュケーションの全てではないのかもしれないとも思いました。

コアラ:とてもよかったです。ガスが少しずつ変化していくのが、チェスターの目を通して語られます。人間だったらもっと直接的なコミュニケーションになりそうなところですが、犬と人間だからこその寄り添い方、心の通わせ方が描かれていて、心温まる物語でした。食堂のマンマもよかったし、チェスターを介したアメリアとのコミュニケーションの場面、ガスの変化がとてもよかったです。p135の5行目から、初めてアメリアに手をのばすところ、それから、p257の最終行から、チェスターのベストの「仕事中です、さわらないで」という文字をかくして、いつでもさわっていいよと伝えようとしたところ。両方とも、アメリアと目を合わせなかったというところがとてもリアルで、目を合わせないけれども、手が内面を伝えている、というところが感動的でした。p215では、ガスが疲れたせいで言葉が出てくる、というように書かれていて、実際にそうであればいいのに、と思いネットで少し調べたのですが、現実はそんなに簡単に言葉が出るわけではないようです。それでも、著者あとがきを読むと、ストーリーのきっかけは全くのフィクションではないようだし、希望の持てる物語でした。自閉症でなくても、人との関わりに疲れた、というときでも心を癒してくれるような本だと思いました。ただ、p244の3行目あたり、犬の言葉をペニーのお母さんが聞き取ったというような場面は、ちょっとやりすぎかなと感じました。

しじみ71個分:優しくて、愛にあふれた物語でした。読み終わってほわほわとあったかい気持ちになりました。人と犬との関わりの深さや信頼がよく表現されていると思います。自閉症のガスがチェスターと出会って、少しずつ周囲とコミュニケーションができるようになっていくのと同時に、補助犬の試験に落第したチェスターはある意味、落ちこぼれともいえると思うのですが、ガスと出会って、ガスのパートナーになると決意して、仕事をがんばり、てんかん発作を起こしたガスの危機を救い、ガスのパートナーとして自信をつけ、家族としてなくてはならない存在になっていきます。そういう意味ではチェスターの成長物語でもありますね。すごく気持ちのいい物語でした。テレパシーでガスと会話できてしまうのは、確かにちょっと便利すぎかなとも思いますが、「こうだったらいいな」という気持ちで、作者が書いたんじゃないかなと思います。ただ、ちょっと、p132で、ガスのクラスメートのアメリアの名前が、誤植で「アメリカ」になっていたのは残念でした。あと、もう一か所、p133の6~7行目に「そのうちガスは口はしをつりあげた。僕の知るかぎり、ガスはこの顔をママにしか向けたことがない。笑顔だ」とありますが、ここは「ママ」ではなくて「マンマ」じゃないかと思ったのですが、どうでしょう? ガスが笑顔を人に対して見せるという記述は、p96の、ガスがマンマと笑顔でしゃべりあっているという箇所以外、見つけられなかったような気がするのですが……。

オカピ:チェスターもガスも感覚が過敏で、また自分の中にうずまく感情を他者に伝えられません。そんなチェスターとガスが、相通じるものを感じて心を通わせていくのはわかるのですが、p61でガスの声がチェスターに聞こえるのは、少し唐突に感じました。また、お祈りのポーズをするように、チェスターがガスに伝えたり、会ったばかりなのに、ペニーのお母さんと意思疎通できたりするのはなんだかテレパシーのようで、リアリティが感じられませんでした。人とうまく関係を築けないペニーにも、なんらかの特性があるようですね。もう少し魅力的な人物として描かれていたら、感情移入しやすかったような……。母犬が子犬といるのがつまらなそうだったというのは、ドライな親子関係でおもしろいなと思いました。

西山:たいへんおもしろく読みました。犬のチェスターを通して、ガスの「頭の中」が伝わらないもどかしさを追体験した感じです。食堂のマンマとの交流など、周りのおとながちゃんと見ていない。いつもスマホばかり見ているクーパー先生なんて、ちょっとダメすぎて本当にもどかしく思いました。ガスが怪我をさせられた件も連絡帳に書いただけだったり、ちょっとそのへんは非現実的ではないかと思います。チェスターの能力に関しては、非現実的だとひっかかってしまうことはなかったのですが。ペニーもなにか困難を抱えているらしいけれど、あまり伝わってこなくて共感しづらかったのは皆さんと同じです。

さららん:チェスターはガスの感情の変化や、てんかんの発作の匂い(「ガスの体から薬品みたいなにおいがしている。ガスがもえてしそうなにおい。」p212)まで察知します。以前読んだことのある『おいで、アラスカ!』(アンナ・ウォルツ作 野坂悦子訳 フレーベル館)のアラスカもてんかん犬の資質を持っていましたが、そちらは二人の人間の視点から交互に語られ、犬の内面は描かれなかったので、犬の感覚描写が私にはおもしろく感じられました。チェスターは弱点のせいで正式な補助犬にはなれなかったけれど、ほかの人には聞こえないガスの心の声が聞こえるようになります。障碍のあるガスはもちろんですが、学校で働く移民のマンマ、認知症のペニーのお母さんに至るまで、弱い立場のものたちへの愛情と、その可能性を信じる作者の目に揺るぎないものを感じました。p220で再登場するペニーがらみの意外な展開をのぞくと、ストーリーに起伏が少ないように感じられましたが、言葉数の少ないガスの変化や成長を、チェスターが読み取ることで読者に伝わるこの物語を子どもたちが読むとき、障碍のある友だちの心を想像する良いきっかけになりそうです。とはいえ、犬の一人称で書きとおすには、相当の苦労が必要だったと思います。

サークルK:人と犬とが補い合って一緒に想いを通わせようとする物語で読んでいて楽しかったです。ガスを取り巻く社会だけでなく、どうやら問題を抱えているらしいペニー、学校の問題など言葉が通じるからこそかえって相手を誤解したりわかってもらえないことに苦しんだりする場面が多いので、それを解決するために時々チェスターの声がガスに聞こえ(ているらしい)、ガスの声がチェスターに届いている(らしい)描写が盛り込まれているように感じました。そんな閉塞感に満ちた部分と、ファンタジーな解決の部分が物語の中心になる中でチェスターがガスのところに引き取られるまでの個所で、犬の母親、兄弟たちとのやり取りが(ここは全くのフィクションでしょうが)軽妙でおもしろかったです。母犬は心配性なチェスターに、訓練士の前では堂々とふるまうようにと有益なアドバイスをしてくれますが、そのうちに次々と生まれる仔犬のことや自分のことで頭がいっぱいなのか、チェスターのことにいつまでも心を向けなくなります(p15)。動物の本能的なふるまいに人間のような愛情を読み込みすぎず、あっさりとした犬の親子関係が逆に気が楽な面もあるのでこの最初の場面はとてもおもしろかったです。
ペニーのことを乱暴な口調や振舞いからはじめは女性とは思わずに読んでいましたが(「あたし」という訳がついていてもLGBTQの人なのだろうか、などとも)彼女の母親の病室にチェスターを連れて行ったときにようやくはっきり女性だとわかりました。

ANNE:チェスターを引き取って訓練するペニーがいい人なのか、そうではないのか、ずっとあいまいでしたが、最後にはきちんとチェスターをしつけてガスのもとに戻してくれたので安心しました。ペニーには、きっと別の犬が見つかると思います。犬が主人公の物語なので、2021年に出版されたセラピードッグの絵本、『いぬのせんせい』(ジェーン・グドール作 ジュリー・リッティ絵 ふしみみさを訳 グランまま社)を思い出しました。

ニャニャンガ:まめふくさんの表紙が、やわらかくてすてきですね。犬の視点で進行する本を訳したとき、犬が考えそうもないことや知るよしもないことを書いてしまうとリアリティを感じられないので、どのように犬らしさを出すかが難しかったのを思い出しました。本作はもう少し犬らしい感じがあってもよかったのではと思いました。

サンマリノ:あとがきに熱量があって、ちょっと泣きそうになりました。ハッピーエンドだし、いいお話です。ただ、非常に息苦しく感じました。犬のチェスターがあまりにも孤軍奮闘しているからです。サラやマルクや先生に考えていることを伝えられず、ガスとも最低限の会話しかできず、近所の犬たちとも交流しないまま、思いが溢れた状態でずっと過ごしています。自閉症の子も、同じような状況なのだということを説明するためなのだとしたら、非常に効果的だとは思うのですけども。できれば、となりの家の犬と、ちょこっと1日数分でもおしゃべりするとか、猫か鳥と雑談できるとか、ほんの少し安らげる場面があったら、と思いました。いいなぁと感じたのは、ガスには好きな大人マンマと、お気に入りの女の子アメリアがいるところ、そしてエドのようなイヤなやつに魅力を感じてしまう部分です。一方、気になったシーンもあります。p186で「ガスはおもしろい音が大好きだから、まわりでおもしろい音がしないときは、自分で音を立てる」と書いてありますが、p54では、「ぼくがほえたり、つめでカチカチ音を立てて部屋の外を通ったりすると、こわがる。音で耳が痛くなるんだ」と書いてあって、ちょっと矛盾するようにも思えてわかりづらかったです。あと、先生が数人でてきますが、描写が最低限すぎるので、特にクーパー先生の存在がイメージしづらいなと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』(福田隆浩著 講談社)とは逆に、先生があまりいい存在として描かれていないことが印象的でした。

雪割草:おもしろく読みました。でも、ガスの声をもっと聞きたかったという、もやもや感が残りました。作者が実際に母の立場だからというのもあると思いますが、ガスよりもサラの方が不安など気持ちの起伏の細かなところまで描かれていてよく伝わってきました。チェスターが犬らしくないという感想がありましたが、p163のカバーを洗わないでほしいなとつぶやいているところは、犬らしさが描かれているごく少ないひとつだと思います。それからペニーについては、チェスターをスターにしたいという欲があって、その時はチェスターの声が聞こえない。でも欲が消えると、不思議とチェスターの声が通じるようになる。確かにちょっとテレパシーの域かもしれないけれど、ペニーの母にはチェスターの声が届く。食堂のマンマには、ガスの思いが何となく通じている。そして、ガスとチェスターも通じあえる。思いが通じ合えるかどうかというのは、本当はみんなできるはずで、欲だったり不安だったり、他のことが邪魔をしているのかもしれませんねということを、ペニーを通じて描いているように、私は感じました。

ルパン:仕事で探知犬について調べたことがあって、犬の能力のすごさがわかっているので、かなりリアルに近い感じで読みました。また、犬の訓練所とか南極の犬ぞりのことなどについて書いた本によると、犬も人間のように感情とかプライドとかがすごくて驚かされます。飼い主の発作を事前に感知するというのも現実の事例としてかなりあるようです。これを読む子どもが、本当のことと思って読んでくれたらいいなと思います。みなさんから「やりすぎ」と言われるシーンも、私はけっこう心に残りました。

ハリネズミ:犬の能力が高いというのはその通りですが、なんでもできるわけではないですよね。たとえばp240の「可能性は低いけど、サラやマルクやガスが来ているかもしれない」とチェスターが思うところ。可能性の低さを犬が云々するなんてことは、ないんじゃないかな。p188にもチェスターが「ガスもぼくも口でちゃんとしゃべれないよね。心の中だけでしゃべっているんだ。まわりの人にはあんまり伝わらない。ていうか、ほかのだれにも伝わらない。会話の方法としてはあんまりよくないんだ」と思ったりします。これもおとなの人間なみの客観的な思考ですよね。

しじみ71個分:チェスターの言葉があまりにも人間っぽいというのは、実際に自閉症児の母である作者の視点が、サラの視点と、チェスターの視点の双方から描かれているからではないでしょうか。チェスターから語りかけ過ぎてガスが黙ってしまう様子などは、実際の母親としての作家の経験から生まれた表現のように思えました。なので、チェスターがやたら人間っぽいのはそういう理由かなと思ったり。あと、ペニーについてですが、ペニー自身もチェスターが最初の試験で落第したことで、犬の訓練士としての能力が低い、と否定された気になって、チェスターに文字を教え込んで特別な犬だと証明することで自分の価値を認めさせて自信を持ちたかったんだろうなぁと思いました。最後にチェスターはそんなペニーにも自信を与えて立ち直らせていますよね。あとでネットで調べましたが、アメリカでも日本でもドッグトレーナーには国家資格などなくて、ただ経験の積み重ねによるんだそうです。だからなおさら人からの評価が気になるという設定なのかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):とても好きな作品です。心がホカホカします。犬のチェスターの目線の物語。自閉症でてんかんの発作を起こすガス、ガスのママとパパの様子、犬の訓練士のペニーの性格がよく伝わってきます。フィクションなのに、ノンフィクションかと思われるほどチェスターとガスが心の中で会話しているのが当たり前のように思われ、他にもたくさん例があるのではと、思いました。犬って人間に尽くしてくれるのですね。チェスターが余りにも健気です。日本でも補助犬がもっと普及するといいなと思いました。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジャングルジム

『ジャングルジム』表紙
『ジャングルジム』
岩瀬成子/作 網中いづる/絵
ゴブリン書房
2022.12

『ジャングルジム』をおすすめします。

良太が風来坊のおじさんにだんだんひかれていく「黄色いひらひら」、すみれが姉をいじめた子に“ふくしゅう”しようとする「ジャングルジム」、一平が離婚した父との新たな暮らしと折り合いをつけようとする「リュック」、まみが病死した父のカバンの中にあった色鉛筆で父との思い出を描く「色えんぴつ」、春木がお試し同居にやってきたおじいちゃんを心配する「からあげ」の5編が入った短編集。
どの物語でも、その時々に子どもが感じたこと、考えたことがリアルに描写されている。それぞれの子どもの個性が浮かび上がるだけでなく、おとなについても、ちょっとした言葉でその人の生きてきた道を伝えている。上質の文学。小学校中学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年3月25日掲載)

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ぼくたちはまだ出逢っていない

『ぼくたちはまだ出逢っていない』表紙
『ぼくたちはまだ出逢っていない』
八束澄子/作
ポプラ社
2022.10

『ぼくたちはまだ出逢っていない』をおすすめします。

英国人の父と日本人の母をもつ陸は学校で暴力的ないじめにあっている。母の再婚相手と暮らすことになった美雨は居場所を探して町をさまよう。樹(いつき)は生まれたとき穴があいていた腸の不調に今でも怯えている。不安を抱えたこの三人の中学生が、割れた瀬戸物を修復する金継ぎを通して触れ合い、時間をかけて美しい物を作り出す伝統工芸を知ることで新たな視野を獲得していく。中学生から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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シリアからきたバレリーナ

『シリアからきたバレリーナ』表紙
『シリアからきたバレリーナ』
キャサリン・ブルートン/著 尾崎愛子/訳 平澤朋子/絵
偕成社
2022.02

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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パンに書かれた言葉

『パンに書かれた言葉』表紙
『パンに書かれた言葉』
朽木祥/著
小学館
2022.06

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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13枚のピンボケ写真

『13枚のピンぼけ写真』表紙
『13枚のピンボケ写真』
キアラ・カルミナーティ/作 関口英子/訳
岩波書店
2022.03

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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タブレット・チルドレン

『タブレット・チルドレン』表紙
『タブレット・チルドレン』
村上しいこ/作
さ・え・ら書房
2022.02

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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りぼんちゃん

『りぼんちゃん』表紙
『りぼんちゃん』
村上雅郁/著
フレーベル館
2021.07

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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ペイント

『ペイント』表紙
『ペイント』
イ・ヒヨン/著 小山内園子/訳
イースト・プレス
2021.11

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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パップという名の犬

ジル・ルイス『パップという名の犬』表紙
『パップという名の犬』
ジル・ルイス/著 さくまゆみこ/訳
評論社
2023.01

野良犬たちを主人公にしたイギリスのフィクションです。家庭の中に居場所がない少年にとって、唯一愛する存在だった雑種犬の子犬パップ。でも、少年が学校に行っている間に、捨てられてしまいます。そして、野良犬として生きていかなくてはならなくなったパップの試練が始まります。獣医として働いていた著者の観察眼や描写は、さすがと思わされます。野良犬それぞれの個性が立ち上がってくるように描かれていますし、犬たちの目を通して人間社会の歪みも見えてきます。パップのことだけではなく、無理矢理愛犬を奪われてしまった居場所のない少年の行く末も気になりますが、最後はハッピーエンドです。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:川島進さん)

◆2023年読書感想画中央コンクール指定図書

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〈訳者あとがき〉

本書は、イギリスで二〇二一年に出版されたA Street Dog Named Pupの翻訳です。

著者のジル・ルイスさんは、環境や動物と人間との関係を書き続けているイギリスの作家です。日本でも、すでに『ミサゴのくる谷』『白いイルカの浜辺』『紅のトキの空』(以上評論社)、『風がはこんだ物語』(あすなろ書房)が出版されています。

ルイスさんは、小さいころから草ぼうぼうの庭で、虫や鳥に親しんでいたそうです。そのつながりで獣医になり、その仕事にはやりがいを感じていたものの、今の時点で職業を選ぶとすれば、環境科学を勉強して野生動物を保護する活動をめざしたかもしれないと言っています。

またルイスさんは小さいころから物語を作るのは大好きだったのですが、学校では物語を楽しむよりは、文章の分析、文法、正しいつづりなどを注意されるあまり、物語から遠ざかっていたそうです。それが自分の子どもに本を読んでやっているうちにまた物語が好きになり、その後、大学院で創作を学び、『ミサゴのくる谷』 でデビューしました。

『ミサゴのくる谷』は、鳥のミサゴがスコットランドの少年とアフリカ・ガンビアの少女を結ぶ物語です。『白いイルカの浜辺』は、行方不明の母親と働く意欲を失った父親をもつ少女が、脳性麻痺の気むずかしい少年フィリクスといっしょに、傷ついた子イルカを母イルカのもとへもどそうと奮闘する物語で、持続可能な漁業についても考えさせられます。『紅のトキの空』は、心のバランスをくずした母親と発達のおそい弟を抱えたヤングケアラーの少女が、居場所をさがす物語で、ショウジョウトキなどの動物が象徴的に登場してきます。『風がはこんだ物語』は、小舟に乗った難民たちが、舟の上でバイオリンをひきながら少年が語る、モンゴルの白い馬と馬頭琴の話に勇気をもらうという物語です。どの作品でも、人間の心理と動物たちがからみあって、読ませる物語になっています。

そしてこの作品は、人間と動物のかかわりをていねいに描いている点や、弱い立場の者たちに著者が心を寄せて書いている点はほかの作品と同じですが、野生生物ではなく都会に暮らす野良犬たちを主人公にしているところが、ほかとは違います。

その野良犬たちですが、レックスは、闘犬として相手を殺すよう訓練されていました。ルイスさんによると、強く見せるために耳も切られているそうです。「おれは、社会ののけ者なんだよ。怪物みたいに戦うための犬なんだ。だけどよ、おれが知ってる本当の怪物は、人間だけだぜ」という言葉が辛辣ですね。サフィは、愛してくれた家族から盗まれて繁殖犬をやらされ、病気になったので捨てられました。レディ・フィフィは、セレブ気取りで流行の犬を購入した飼い主があきて捨てられました。レイナードは、キツネ狩りに役立たないので頭に銃弾を撃ち込まれて殺されかけました。イギリスでは実際にキツネ狩りが行われていますが、このように殺されるフォックスハウンドは年間三千ひきもいるそうです。マールは、かしこい犬なのにこの犬種の習性を理解していない飼い主に、手に余るとして捨てられました。クラウンは元気が良すぎて捨てられたのでしょう。また、フレンチに関してもルイスさんには特別な思いがあるようです。人間の都合でマズルが短くされたパグ、フレンチブルドッグ、ボストンテリア、ブルドッグなどの短頭種(鼻ぺちゃの犬たち)は、健康上いろいろ問題があるのですが、イギリスではかわいいとして大いに宣伝されるので飼う人も多いそうです。イギリスでは多くの獣医さんや動物保護団体が、宣伝広告に短頭種を使わないように申し入れているとのこと。「利益よりも健康を」とルイスさんは言っています。

コロナ禍でイギリスでもリモートワークになり、家で子犬を飼う人もふえたので子犬の盗難も二・五倍にふえたそうです。また、安易に飼い始めた人がめんどうになったり、通勤が再開すると犬の世話ができなくなったりして、捨てる犬も多くなったとのことです。こんなところにもコロナ禍の影響が出ているのかと驚きましたが、日本ではどうでしょうか。

さて、本書の挿絵ですが、ちょっと素人っぽいとか、素朴だと思われた方もいらっしゃるかもしれません。絵を描いたのは、作者のルイスさんご自身です。ルイスさんはもともと絵が好きで、絵も描きながら物語の構想を深めていくそうです。必要なことをいろいろと調べたうえで書き始めるのだけれど、とちゅうでいろいろな場面や登場するキャラクターを線画で描いてみるとのこと。文字で書くときとちがう頭の領域を使うので、いろいろなことを思いついたり、もっと深く物語に入りこめたりする、とルイスさんは語っています。よく見ると、たしかにいろいろな犬種の特徴や表情をよくご存知の、獣医さんならではの味が出ていますね。

子どものころに、何をどう感じ、どう思っていたかを今でもよくおぼえているというルイスさん、これからもおもしろい子どもの本を書いてくださることを期待したいと思います。

さくまゆみこ

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〈紹介記事〉

・「西日本新聞」(おすすめ読書館)2023.04.10

ジャーマンシェパードの雑種パップは生後数カ月の子犬。吠(ほ)え癖があるため人間に捨てられ、愛する少年と引き離されてしまう……。動物をテーマに物語をつむぎ続ける作家が、都会に暮らす野良犬たちの運命に思いをはせた児童書。「人間と犬との間には〈聖なる絆〉がある」という。それは本当なのだろうか。さくまゆみこ・訳。

・「朝日新聞」(子どもの本棚)

子犬のパップは、ある雨の夜、飼い主によって「しかばね横丁」に置き去りにされる。途方にくれるパップを助けてくれたのは野良犬のフレンチだった。フレンチは人間に捨てられた仲間たちと一緒にいて、パップもそこで暮らすことになる。群れで生きる犬たちを個性豊かに描いているところに、作者の動物たちへの深い愛を感じることができた。母犬が子犬に語りついできたという人間との「聖なる絆」はあるのか。またパップはどうなるのか、はらはらしながら読んだ。(ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん)

・大阪国際児童文学振興財団(動画):やすこぼんさんのご紹介です。

パップという名の犬(動画)

 

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チケとニジェール川

『チケとニジェール川』表紙
『チケとニジェール川』 小学館世界J文学館

チヌア・アチェベ/作 さくまゆみこ/訳 中村俊貴/絵
小学館
2022.12

現代アフリカ文学の父とも言われるアチェベが書いた児童文学で、アフリカ諸国ばかりではなく英米でも読みつがれています。少年の憧れと、夢を実現するための行動、勇気がもつ意味、などをテーマにすえ、ことわざ、昔話、食べものなど、ナイジェリアの文化も織り交ぜて書いています。冒険譚としても楽しめるでしょう。文体には、イボ人のストーリーテリングの伝統が生かされています。

 

〈訳者あとがき〉

本書は、1966年に南アフリカのケンブリッジ大学出版局支部から出版された子どもに向けた物語の翻訳です。

著者のチヌア・アチェベは1930年にナイジェリアに生まれたイボ人の作家・詩人で、イバダン大学で学び、一時は放送の仕事につき、1967年から1970年まで続いた内戦(イボの人たちが独立国を作ろうとしたビアフラ戦争)のときには、ビアフラ共和国の大使も務めました。

ナイジェリアは、西アフリカにある多民族国家で、2億人以上が暮らしています。国内に500を超える民族がいて、使われている言語の500以上と言われています。その中には、男性と女性で話す言語が全く違うウバン語などもあります。ヨーロッパ諸国が地図上でアフリカ大陸に線引きをして国境を定めたせいで、一つの国の中に多くの民族がいて、一つの民族が多くの国に分かれて暮らすという状態が生まれたのです。

17世紀から19世紀にはヨーロッパの商人が奴隷をつかまえて南北アメリカ大陸に送るための港がアフリカにたくさんでき、ナイジェリアの海岸は「奴隷海岸」と呼ばれていました。19世紀には奴隷貿易がイギリスによって禁止されたものの、ナイジェリアにあったいくつかの王国がイギリスによって滅ぼされ、ナイジェリアはイギリスの植民地になります。イギリスから独立したのは1960年ですが、その後ビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起こり、飢餓も問題になった長い戦いの後、ナイジェリアから独立してビアフラ共和国を作ろうとしたイボ人は敗北しました。

本書にも出てくるラゴスは海沿いにあるナイジェリア最大の都市で、1976年まではナイジェリアの首都でした。高層ビルや大きな銀行やスーパーマーケットなどが立ち並び、車の渋滞が起こるような近代都市です。今は首都が内陸部のアブジャに移りましたが、ラゴスはまだ経済・文化の中心地として知られています。

ニジェール川は、ギニアの高地に水源があり、マリ、ニジェール、ベナン、ナイジェリアと、いくつもの国を通ってギニア湾へと流れ込む全長4180キロメートルの大河です。また、チケが憧れたオニチャからアサバへニジェール川をわたるフェリーは、1965年には新しくできた橋にとってかわられています。

チヌア・アチェベは、口承文芸を下敷きにした小説を書いて、現代アフリカ文学の父とも呼ばれました。中でもおとな向けの傑作小説と言われる『崩れゆく絆』(1958)は、伝統的な文化や暮らしが、植民地支配によって壊されていく様子を描いた作品で、世界の50以上の言語に翻訳されて、有名になりました。日本でも、光文社古典新訳文庫で読むことができます。2007年にはアチェベの全業績に対して国際ブッカー賞が授与されています。

アチェベは、またハイネマン社が出していた「アフリカ作家シリーズ」で、独立後のアフリカで活躍しはじめたアフリカ人作家たちを世に送り出すことにも力を注ぎました。その後、アメリカ、イギリス、カナダ、南アフリカ、ナイジェリアなどの大学でアフリカ文学についても教えましたが、残念ながら2013年に死去しています。

アチェベは、子ども向けの物語をいくつか書いていますが、その中でもこの『チケとニジェール川』は、アフリカ各国ばかりでなくアメリカやイギリスでも出版され続けています。

主人公は、いなかの貧しい村に生まれた少年で、ニジェール川沿いにある大きな町で暮らすおじさんのところに寄宿することになり、まったく異なった環境でさまざまな体験をしながら成長していきます。アチェベは、自分の子どもたちが白人教師の多い学校でナイジェリアに根ざした文化や価値観を教わっていないのを心配して、この作品を書いたと言われています。

大きな川の向こうにわたって別の世界を見てみたいという子どもらしい憧れ、そのためにいろいろ工夫してはみるけれど、なかなかうまくいかないという焦り、ようやくフェリーに乗ることができた時の胸おどる気持ち、借りた自転車を壊してしまったときの当惑、どろぼうに遭遇したときの恐怖などが、生き生きとした筆で、とてもリアルに描かれています。

お話の筋立ては、少し昔ふうだし、書かれたのもずいぶん前のことですが、アチェベは、細かい描写でそれぞれの場面がうかびあがってくるように書いているので、日本の子どもたちにも主人公チケの気持ちがそのまま伝わるのではないでしょうか。また、ナイジェリアの屋台で売っている食べ物、お祭りのようす、学校のようす、家庭のようす、市場のようす、マネーダブラーや自転車修理工の存在なども目にうかぶように描かれています。ことわざが出てきたり、歌が出てきたり、サラおばさんの昔話が出てきたりするところには、ナイジェリアの口承文芸に大きな関心を寄せていたアチェベの作品の特徴が出ています。

私がアチェベの作品に出会ったのは、ナイジェリアを旅行しているときでした。ロンドンに住んでいたときに「アフリカ・ウーマン」という雑誌の編集長をしていたタイウォ・アジャイという女性に出会い、「ナイジェリアに行くならうちの親戚の家に泊まっていいよ」と言われて、出かけていったのです。飛行機を降りたナイジェリア北部のカノという町でキャンプをしているとき、WHOで働く日本人のお医者さまに会って、そのお家に何日か滞在させてもらいました。そのお医者さまの書斎に、アチェベの本が何冊か並んでいました。日本に帰ってから、アチェベの作品を何冊か取り寄せて読んだなかに、この『チケとニジェール川』もありました。

ちなみに、ナイジェリアでは、お話の舞台にもなっているオニチャにも行って、オニチャの大きな市場を歩いたり、ニジェール川を見たりしたこともあります。またラゴスにも行って大都市のにぎわいも体験しました。その時の楽しかったことなども思い出しながら、翻訳しました。

ナイジェリアの当時の暮らしは、日本の今の暮らしとはずいぶんかけ離れていますが、チケの気持ちは、日本の子どもたちにも「あ、同じだな」と思ってもらえるところがあるのではないかと思います。違うところ、同じところを楽しみながら読んでいただけたら幸いです。

編集を担当してくださった坂本久恵さんに感謝します。

さくまゆみこ

 

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家族セッション

『家族セッション』表紙
『家族セッション』
辻みゆき/作
講談社
2021.07

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

『キケンな修学旅行』表紙
『キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!』
ジェニファー・キリック/著 橋本恵/訳
ほるぷ出版
2021.07

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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