マリー=オード・ミュライユ/作 河野万里子/訳
小学館
2024.07
ハル:おもしろかったんですけど⋯⋯物語に出てくる施設って、どうしてこう、悪い場所になっちゃうんだろ、というのがひっかかりました。入所させること自体が「悪」だというような。周囲の人、近所、社会でつながりながらお互いに支えあっていく輪のひとつに、仕事として介入してくれる相談員や社会福祉士や、施設があればいいのにと思うんです。施設に入れることは悪であり、愛がないという思い込みは危険をはらむのではないかと思います。
雪割草:少し長いと感じましたが、会話中心にも関わらず、読者を引き込んでいく力があって巧みだなと思いました。原書のタイトルはSimpleですが、日本語版のタイトルも同じように主人公シンプルが前に出てくるかたちでもよかったのではと思いました。中身がYAなのに、表紙がウサギの絵でかわいすぎるように感じました。シンプルとまわりの人たちが心を通わせ、シンプルを好きになっていくところはいいなと思いました。一方で、クレベールが何かあるとすぐ「兄には障碍があるんです!」と叫ぶところは個人的に少し嫌で、自分も含めてですが社会の方の理解が足りないことを痛感させられました。
ツミ:私もハルさんと同じように、施設の描写は古いなと思ったのですが、出版年が古いので仕方がないのかもしれませんね。いちばんいいと思ったのは、「シンプル」という原書のタイトルです。シンプルって、もちろんシンプルという意味のほかに知恵が足りないという意味もありますよね。物語のあとのほうでは「シンプルでいくのがいい」という文章もあり、大切なのはひとりの人間の生き方を周りの状況で縛ってはいけないというシンプルなこと、という主張をタイトルが示していると思いました。河野さんの翻訳もうまいですね。工夫されていて、登場人物がとても生き生きとしていると思いました。私は、人間がしっかり描けていれば作者の主義主張などなくてもいいと思うほうですが、この本も一人一人の人物像が見事に描けていますね。特に頑固爺のヴィルドゥデューさんがはりきって恋の指南をするところなどおもしろくて、やっぱりフランスの本だなあという感じ。アンデルセン賞を受賞した作家だけあって、物語の作り方はさすがだと思いました。最後にシンプルを助けたのが娼婦であったというところなど、じーんと胸に沁みました。ザハの耳の聞こえない妹とシンプルの友情もいいですね。ただ、これだけ厚いと、YAの読者が手にとってくれるかな。一般書として出版したほうが、読者が増えたかも。
きなこみみ:YAというよりも、おとなの本に近い印象でした。ルームシェアする同居人たちが皆おとなで、彼らの恋愛模様も描かれているせいかもしれません。障碍のある子どもが生まれると、夫が逃げて母親と子どもが残されることが多い、というのは日本だけではなくフランスでも同じなのだなと思います。そのママが死んでしまったあと、弟であるクレベールがシンプルの面倒を見ることになって、フランスの福祉制度のことがよくわからないんですが、この物語の中では、施設に入るか否かの2択で、在宅のまま活用できる福祉制度、たとえばヘルパーさんに来てもらったり、デイケアや福祉作業所のような所に行くとか、そういう選択肢はどうなっているのかなと思ったりしました。また、p190で、ソーシャル・サービスのバルドゥーさんがクレベールを訪ねてくるんですが、シンプルと直接会っているのに、彼に知的障碍があると気づかないのは不思議だなと思ったり。薬などで入居者を管理しようとするマリクロワという施設から、シンプルが簡単に抜け出だしてしまうのも、設定がちぐはぐで、作品中に携帯電話は出てくるんですが、設定や障碍の捉え方や社会的な支援のあり方としては少し前の時代なのかもしれないと思いました。実際にフランスでは20年ほど前に出版された本で、今の時代とのズレはあるのかもしれません。
とにかく弟のクレベールの負担が大きすぎて、そこが読んでいてつらいところです。彼の責任感が、p296にあるように、母の遺言から生まれている部分もある、というところが「きょうだい児」としてのつらさ、責任を無意識に兄弟に背負わせてしまう親の責任についても考えざるをえませんでした。自分もつらいのに、どうしてもシンプルを施設に入れたままにしていけない気持ちが、認知症の母の介護を抱える自分と重なって、理屈では割り切れない彼の思いに共感したり、複雑な気持ちになったりしながら読みました。
その彼に、たまたまルームシェアしただけのエンゾやアリアが手を差しのべていくところ、またガールフレンドのザハの一家の温かさ、ザハの妹であるアミラと友だちになるところも素敵でした。クレベールがそのザハの家族にシンプルを預けてデートにいくのはどうかと思ったんですが、この物語の登場人物たちは皆それぞれにエゴイストで、自分勝手で、好き勝手に行動するのが魅力的だし、人間ってこんな風に生きてるんだよ、というありのままのところ、障碍を持っていたり、障碍のある兄弟がいたりすることと、個人が自由にふるまって生きることを、等価に描いてあるのが、この本の魅力だと思います。なかでも恋愛に非常に重きを置く、というか、男女の恋愛、アムールを大切にするのが、フランスっぽいんですが、エンゾのアリアに対するアプローチの仕方や、どんどん行けとけしかける管理人のおじいさんのアドバイスは、どうなんだろうと思っていたら、いきなりアリアがエンゾに首ったけになる展開にびっくりして。ただ、シンプルをうざがって、シェアハウスから出ようとする、医学生で男性という、社会的強者としてのエマニュエルではなくて、エンゾが愛の勝者になるのは、好ましかったと思います。訳者の河野さんも後書きで書いておられますが、シンプルの父親やエマニュエルと違って、シンプルに手を差しのべるのが、社会の周縁にいる人々だというのが、いいなと思います。「チョコレートドーナツ」(トラビス・ファイン監督、2012年)という、ドラアグクイーンが、ダウン症の子どもを愛する悲しい映画を思い出したりしました。
ルパン:こういう状況はリアルに考えたら、こんなにうまくいかないだろうなあと思うだけに、お話っていいなと思いました。お話だからこそ、こんなことがうまくいく。こういう世界を作れるお話の力ってすごいと思います。ただ現実をなぞるだけじゃなくて、すてきな世界を創ることで、読者に希望とか、幸福感を持たせられるのがお話の魅力だと改めて思いました。私もみなさんと同じで、ヴィルドゥデューさんがエンゾの恋愛相談にのって、楽しく生き生きしちゃうところが好きで、p206のあたり、人の恋愛に首をつっこんで生き生きしてきたのがおもしろかったです。
施設のマリクロワはシンプルにとって良くない場所、行かせるべきではないところ、という設定でしたが、p290-291で、マダム・バルドゥーがクレベールに語りかけるところでじんとしてきました。「あたくしたちはみんな、シンプルにいいことをしてやりたいんです。でもそれがあなたの犠牲のうえにしか成り立たないようでは、いけませんね」「あなたのは、若さゆえの理想主義です。…(中略)…あなたが考えるような向きあいかたが、非常に高い代償をともなうものであるのも知っています。いつかあなたも、結婚したい、子どもがほしいと思うようになるでしょう。そのときのことを考えてみて⋯⋯」「あたくしはあなたの力になれるよう、できるだけのことをしてきましたよ、クレベール。正しいことをしたつもりだったのだけど⋯⋯」これらのマダム・バルドゥーの言葉を読むと、この本には悪役はひとりもいない、と思えて読後感がよかったです。
ハリネズミ:私は「いい話」には疑いをもつタイプなので、この物語についても、ヤングケアラーであるクレベールから見たらどうなのだろうと、思ってしまいました。今はアパートをシェアしている人たちも好意的でうまくいっているとしても、クレベールはこの年代だとこれからいろいろな問題や悩みに遭遇し、大学に行ってそのうち結婚するということにもなるかもしれません。環境が変わっても、シンプルの責任をひとりで負っていくことができるのでしょうか。他の国のきょうだい児の物語だとイギリスのジル・ルイスが書いた『紅のトキの空』(さくまゆみこ訳 評論社)みたいに、手を差し伸べるちゃんとしたおとなが出てきたり、オランダのシェフ・アールツが書いた『青いつばさ』(長山さき訳 徳間書店)みたいに、家族の体制が整うまでとりあえず施設の力を頼ろうとしたりしています。施設を悪いものとして書いているのは、ほかの方たちもおっしゃるように20年前に書かれたせいでしょうか? でも当時だって、マリクロワ以外の場所もあったのではないかとか、施設以外になにかセイフティネットはないのかと、疑問に思いました。作家としても、ヤングケアラーにすべての責任を負わせる書き方でいいのでしょうか? といっても、作家の視点としては、若者の恋愛模様を描こうというほうが主なのかもしれません。アリアとエンゾとエマニュエルの三角関係、クレベールとベアトリスとザハの三角関係の間にシンプルのエピソードがはさまっている感じです。
この作家は、「知的障碍のある子どものお母さんにていねいな取材をおこなった」と訳者あとがきにありますが、それだけで書いたのだとしたら、高校生がおとなのシンプルの保護者になるとか、シェアアパートの人たちのシンプルに対する態度などを含め、リアリティがちょっと甘くなるのも仕方がないのかもしれません。
エーデルワイス:原作の発表が20年前の作品ですので、福祉もずいぶん変わっているように思いました。とにかくパリ! パリの香りがすると思いながら読みました。クレベールの高校生活も日本とは違います。発達障碍者が自宅か施設入居かというような二者選択は違うと思いました。例えば日本では、今はデイサービスも就労福祉施設などいろいろの選択があります。「しょうがい」の漢字を「障がい」と使うことは見ていましたが、作品の中では「障碍」と漢字を使っています。私は初めて目にしましたが、語源は仏教用語だそうです。物語は映画のシナリオを読んでいるようなテンポで、映像化されたらいっそうおもしろくなると思いました。「アホ」とか「あーらら、いけない言葉」がよくでてきますがフランス語だと、どんな感じかしら?と思ったりしました。
ニャニャンガ:フランスらしいエスプリと性に対してのオープンな描写にとまどいつつも、兄のシンプルといっしょに住みたいクレベールの複雑な気持ちが痛いほど伝わってきて、はじめのうちは読むのが苦しかったです(じつは2回、途中でやめていました)。その理由は文字の色だったかもしれません。くらはしれいさんの絵は物語にぴったりですし、ウサギのパンパンが悪さをしても憎めないのはこの絵のおかげかもしれません。
同居人たちとの生活が始まり、いろいろトラブルがありながらもシンプルやクレベールと家族のように接する様子がとてもよかったです。それに引き換え、父親の無責任なこと!に腹が立ちました。そして頑固なおじいさんヴィルデュドゥーさんとのかかわりはとてもよかったですし、クレベールがベアトリスに惹かれつつ、ザハ家族と親しくなりシンプルとザハの妹のアミラと仲良くなり、居場所ができたのも好ましく読みました。
さららん:ミュライユさんが国際アンデルセン賞作家賞を受賞したときの講演を覚えています。その中で「私は常識やタブーを打ち破る作品を書き続けてきた」と力強く語っていたのが印象的でした。この作品も、一見シンプルとクレベールをめぐるドタバタ喜劇に見えますが、障碍のある人=厄介者、という世間の偏見をくつがえし、トラブルメーカーのシンプルを、人間として実にチャーミングに、周囲に愛される存在として描いているところに好感が持てました。確かにマリクロワという施設は古めかしい感じがしますし、シンプルを拒絶する父親はサイテーの人物ですが、全体としては常識をひっくり返そうという作家の気概を感じます。エンタテイメントとして完成度が高く、恋愛が物語の要になっているところは皆さんがおっしゃる通り、いかにもフランス的ですね。「愛がすべて」というお国柄ですから恋愛は不可欠な要素、高校生のクレベールのトライアンドエラーの道筋としても読め、そう思うと、これはやはりYAらしい作品ではないかと私は思います。また以前、きょうだい児の弟を主人公にしたオランダの児童文学『青いつばさ』を読んだことを私も思い出し、この本との違いと共通点を比べてみたくなりました。物語には、セクシャルな表現やののしり言葉も散見されますが、おそらく原文のフランス語では、もっとどっさり入っていたのでは? 差別的にならないよう、そして読者がギョッとしないように、翻訳で巧みに料理してあって、読んで楽しい作品になっていました。
西山:今回のテーマから、「きょうだい児」の話なんだろうと思って読み始めたのだけれど、結局フランスのティーンエージャーの恋愛話でしたね。シンプルの性の話になるのかな、と思っていたら、これは弟くんの恋愛の話で、シンプルは狂言回し的にドタバタシーンの演出に使われてしまっているように感じるところもあり、ちょっと抵抗を感じました。障碍がテーマと思わなければ、そうでもなかったのかもしれないけれど⋯⋯。
p150に「男子の好きじゃないとこは、あたしたちをそういうふうにしか見てないってとこ。おしりとか、胸とか、自分がバラバラのパーツとしてしか存在してないみたいで。言いたいこと、わかる?」というベアトリスの言葉があって、よくぞ言ってくれた!と思いました。これまでたびたび、日本の児童文学に同様の視線が気になっていたところなんです。でもこの作品ではそれは大きな関心事ではなかったですね。ヴィルドゥデューさんの、古臭い恋愛指南と、今の感覚の違いがおもしろかったです。あと、ザハの家族のやりとりや,妹たちの様子に見られるムスリム像が新鮮でした。ただ、全体としては、福祉施設や関係者がこんなふうに作品に書かれてしまうと、しんどいなあという印象が強いです。
フキダマリ: おもしろかったです。シンプルの考え方とか、クレベールの苦労や思いとか、多角的に立ち上がってきて、読み応えありました。パンパンくんが要所要所でしゃべる構成がとてもユニークでしたし、シェアハウスに入ってから、さまざまな人間模様があっておもしろさが加速しました。伏線を緻密に張るタイプの小説ではないと油断していたので、ダストシュートが伏線だとわかったときは、びっくりしました。もっとも、日本とフランスの文化が違い過ぎて、おとなっぽい要素が多いですよね。2人の女子の間で迷うところは、日本だと完全に二股だけれど、パリが舞台だと許されてしまうというか(笑)。あと、おとながシンプルみたいな子とどう関わるかを描く場面が多いので、日本だと一般書で出した方がたくさんの人に届いたんじゃないか、とも思ったりしました。街の人々のシンプルへの態度がそれなりに辛辣で露骨ですが、20年前に刊行された本なので、今のフランスとはだいぶ違うんでしょうか。そのあたりも気になりました。
ツミ:西山さんがいうように、知的障碍のあるティーンエージャーの性の問題って、とっても難しいと思う。実際に、そういう悩みをお母さんから聞いたことがあります。だから、この物語はリアルな話ではなく、私は半ばファンタジーとして読みました。
サークルK: パンパンくんが生きているように、人間たちとの会話に入り込んでくる時、慣れないうちはスムーズに切り替えができずにいました。きょうだい児と呼ばれる関係には昨今理解が進められていますが、実際に児童文学に昇華された作品を読むのは初めてです。スヌーピーに出てくるライナスのあんしん毛布の様に、パンパンくんが主人公の力になってくれていることで、弟が1人で抱え込まなくても良いのは救いと希望があるのだなと思いました。
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しじみ71個分(メール参加): この本はとてもフランス的だと思って、興味深く読みました。まず、本当に個人主義が徹底しているんだなと思いました。お父さんが再婚して、兄弟の世話を放棄して悪びれないというのは、自分には自分の人生があると思えばこそできることなのかもと思いました。
それから、この物語がおもしろいなと思ったのは、シンプルと共に生きていくことで、みんなが幸せになっていく点です。エンゾとアリアの恋の仲介者もシンプルだし、クレベールがザハに対する自分の真摯な思いに気づくのもシンプルのおかげだし、シンプルは幸せを運んでくる使者のような位置づけになっています。
障碍者施設で虐待があることがほのめかされていることについては、私はあることなのではないかと考えました。障碍者施設が悪いという印象を与えかねないのは確かに心配ですが、日本でも障碍者施設での虐待の報告件数はたくさんあるので、フランスもゼロではないんじゃないでしょうか。
それと、クレベールがヤングケアラーとして兄の世話をひとりで抱え込んでしまうようにも見えますが、私は、共に暮らして、みんながシンプルを好きになり、シンプルに居場所ができたように読めました。公助でもなく、1人で抱え込む自助でもなく、コミュニティで支え合う共助の場ができたことに作者は力点を置きたかったんじゃないかと思いました。シンプルが幸せそうな姿を見て、クレベールが心から愛を感じる場面の描写が本当に美しいですし、シェアハウスのみんながだんだんシンプルを理解して、好きになっていく過程もとてもいいと思います。あと、とても面白いのがパンパンくんで、パンパンくんはシンプルのイマジナリー・フレンドのようにも見えますが、良くないことをしたいときは、パンパンくんにやらせるので、シンプルの正直な気持ちを代わりに発散する自分の片割れなのかもしれないなと思いました。
この作品は、悪くすると、知的障碍のある人を天使的な、無垢な存在として扱ってしまう危険性もはらんでいるような気がするのですが、パンパンくんがやりたい放題やってみんなに迷惑をかけることで、バランスが取れているように思えました。恋愛や性が若者の重要なテーマになっているというのも、フランス的なのかなとも思いましたが、日本でも同じかもしれないですね。長めの物語でしたが、いろいろなポイントでとてもおもしろかったので、割とすぐ読み終わりました!また、同じ作者の違う本も読んでみたいです。
(2024年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)