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図書館がくれた宝物

『図書館がくれた宝物』表紙
『図書館がくれた宝物』
ケイト・アルバス/作 櫛田理絵/訳
徳間書店
2023.07

西山:すごくおもしろく一気に読んでしまいました。余談ですが、親戚の葬儀の行き帰りで読もうと持参していて、そこで初めて本を開いてびっくりしました。1行目が「お葬式の日なんてそもそも、楽しいものではない」って……。ちょうど「児童文学と子どもの権利」というテーマの研究会を控えているときだったので、戦争はなんと子どもの権利を侵害するものかとつくづく思いました。ただ、この作品は大前提として主人公兄弟にお金の心配がないので、そこの安定感がエンタメとして読んでしまっていい背景を保証しているように感じました。『小公女』もしっかり登場していましたが、それと重なる古典作品のようなテイストを感じながらの読書でした。イギリスの疎開というのも、リアルでシビアな現実だったと思うのですが、こういう風に伝えるのもありかなと思っています。

雪割草:私もおもしろく読みました。作者が本のもつ力を信じているのが伝わってきました。本がいくつも紹介されるので、読者が興味をもつきっかけになるかもしれないと思いました。ミュラーさんが差別を受けていたり、主人公らが疎開児童としていじめられたり、読者に考えさせるところは含みつつも、兄弟3人が仲が良いせいか、「戦争」という現実の厳しさはあまり感じられませんでした。途中から、これはきっとミュラーさんのところに落ち着くのだろうと予想できて、安心して読めました。月のたとえで、アンナとミュラーさんの発言が一致するのはやりすぎかな。『わたしがいどんだ戦い1939』や『わたしがいどんだ戦い1940』(どちらもキンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社)2019)のように、主人公が厳しい現実と向き合い、人に助けられながらそれを乗り越えていくといったことは描かれていないのは残念に思いました。

ニャニャンガ:ちょうど今読んでいる『アンナの戦争』(ヘレン・ピーターズ著 尾﨑愛子訳 偕成社)にもロンドンから疎開した子どもが登場するのですが、里親たちが預かる子どもを選んでいく様子はとてもシビアだと思いました。ただ、この子たちには資産があり、自分たちが信用できる保護者が見つかりさえすれば……という背景があるので、いわゆる疎開児童とは背景が少しちがいますね。作品全体としては、図書館のありがたみというかミュラーさんのありがたみをしみじみ感じました。そのミュラーさんは、夫がドイツ人であるために周囲から孤立している状況が『アンナの戦争』とも重なりよく伝わってきました。
ウィリアム、エドマンド、アンナの3兄弟がバランスよく、児童書の王道といった印象を受けました。本文とは関係ないのですが、作者のケイト・アルバスは謝辞を読むのが好きだとあとがきにあります。翻訳する側にとっては名前の読みを調べるのはたいへんなので、日本の読者も謝辞を読むのが好きなのか知りたくなりました。

オカリナ:謝辞は、人によっては取材の過程がわかっておもしろいのもありますが、関係者の名前だけが連ねてあるのは、日本の読者にとっては人物像もわからないので、つまらないですよね。ただ契約書ではそこも訳せとなっている場合もありますね。

ニャニャンガ:同じ綴りでも、出身によって読み方が違う場合もあるので判断が難しいです。

オカリナ:私も固有名詞発音辞典とかネットで固有名詞の発音を調べたりしますが、どうしてもわからないときは原著出版社とか著者に教えてもらいます。同じアルファベット表記の国の言葉に翻訳するときはそのままでいいのですが、日本語は発音を知らないとカタカナ表記ができないので不便ですよね。

アンヌ:ファンタジーっぽいのは、アメリカ人が書いたイギリスもののせいだろうかと、バーネットを頭に浮かベながら読みました。この主人公のきょうだいたちは莫大な資産を持つ大金持ちで、本当なら食費の心配などはしないでいいのがわかっているからです。エドマンドも菓子屋で買おうと思えばいくらでもお菓子を本当は買える身分なんだと思いながら読むと、この戦時下の苦労のリアリティが薄れてしまう気がしたのです。ただ、ウィリアムが最後に、自分はまだ12歳なんだと切れてしまうところ、長男はすべてに責任を持たされ弟たちは従うという典型的な描き方で終わらせなかったところはよかったと思います。とにかく疎開という親たちが過ごした時代の出来事を忘れてはならないと思いました。すべては戦争の一言で、繰り返されてしまうのですから。

きなこみみ:私はなかなか入り込めなくて、読むのに苦労していたんですけど、作品世界に名作たちの本の世界が重ねられているところを読んでいるうちに、だんだんおもしろくなって、途中から夢中で読みました。イギリスの戦争の物語としては、ウェストールがすごく好きなんです。ああいう厳しさからは遠いんですが、この作品はロンドンの都会育ちの子どもたちのお話なので、雰囲気は違って当たり前かと思います。冒頭でアンナが『メアリー・ポピンズ』を読んでいて、「アンナが今、そばにいてほしいのは、となりの長いすに座っている見知らぬおばあさんたちや、ほかのお客さんではなく、メアリー・ポピンズなのだった」というところを読んで、この作者が、本の力を信用しているのが伝わってきました。本読みとして、共感するところがとても多かった。疎開先でさんざんな目にあうのは、疎開物語はどうしてもそうなりますが、恐ろしいのはネズミ狩りのシーン。ネズミを次々に殺していく、ぞっとする残酷なところで、この物語には、直接的な戦争シーンはないんですが、ここは間接的にではありますが、戦争という暴力をちゃんと書こうとしているんだなと思ったんです。戦争の直接的な描写は、子どもたちにとっては怖すぎるので、こういうふうに戦争の恐ろしさを伝える工夫がされているんだな、と。この作品は小公女の世界が重ねあわされているので、最後はセーラみたいに、幸せになれるんだなと思って読めます。中学年の子たちが、安心感をもって読める。そこを、この作者は狙ってたんじゃないのかなと。ホッとするのは、物語として正解なんだと思うのです。
そして、血がつながってなくても、心でつながっている人たちが家族になる、というところがよかったです。ミュラーさんが村八分になって疎外されるのも、夫がドイツ人だから、という「血」の違いです。そして、最初に身を寄せた家も、おばさんは血の繋がった自分の子どもたちだけ、信用するんですね。いまの、イスラエルとパレスチナのことを考えても、血の違いや、人種の違いという属性で人間に線を引くのが、どんなに残酷で恐ろしいことを招くかがわかります。その属性を乗り越えるのが、「本」といいうものを通じて、というところが素敵です。「血」を信じている人たちと、ミュラーさんと3人の子どもたちのように、本と心でつながっている人たちの陣営、本を通じた世界へ子どもたちを招待する。そういう意味で素敵な作品だなと思います。

ANNE:物語はとてもおもしろく読ませていただきましたが、戦時中のエピソードとはいえネズミ退治の場面が苦しかったです。ミュラーさんのドイツ人の夫が音信不通になってしまった理由は書かれていませんが、きっと辛い状況があったのでしょうね。3人の子どもたちが幸せな結末を迎えることができて、ホッとしました。ミュラーさんが司書でよかった! 図書館は子どもたちに宝物をあげることができますね。

しじみ71個分:2時間くらいでサクサクと読めまして、とてもうまい物語だと思いました。図書館が背景に出てくる物語は、素晴らしい司書さんが登場することが多く、多少こそばゆいのですが、この物語のミュラーさんもとても魅力的な司書だと思います。また、ウィリアム、エドマンド、アンナのそれぞれのキャラクターが生き生きと、個性的に書き分けられていたところも魅力の一つで、ウィリアムが、厳しい疎開生活の中で弟妹の世話をするヤングケアラーとして苦労する姿にも共感できました。図書館の司書と、本が大好きな子どもたちが、心を通い合わせて、最後はハッピーエンドで家族になるという温かな展開にも安心感と安定感があります。
ただ、気になったのは、この子たちが遺産を持っているのを隠して、家族探しをしていた点です。もちろん、疎開が一番の目的ではありましたが、後見人が見つかりさえすれば遺産で不自由なく暮らせるというところに違和感を覚えました。この設定はどうしても必要だったのでしょうか。また、受入れ先の肉屋夫妻、寡婦のグリフィスさんの世帯では本を読む環境にはなく、本を読む、読めるというのは階級の問題かと思われたのも引っかかった点です。読書できるというのは、何かしらが恵まれているのかもしれないなと感じてしまいました。本や物語が辛いときにも心の支えになるというのは素晴らしいことで、それを推進する立場に私もあると思っていますが、物語を心の支えにできない人たちは苦しいままなんだろうかと、グリフィス家の描写を見て感じました。自分でもひねくれた読み方とは思いますが……。アンナが本を読んで、グリフィスさんの子どもたちがそれに聞き入る瞬間があったにも関わらず、結局本の価値がわからない子どもたちが本をビリビリに破ってしまいますが、そこに読める人と読めない人の間にギャップがあって、グリフィス一家が、本を読む教養がない人たちに見えてしまうのが悲しかったのかもしれません。
また、畑を荒らすネズミを駆除する仕事にウィリアムとエドマンドが出かけ、弟に辛い思いをさせないように、ウィリアムが頑張って2匹仕留めるという描写がありましたが、本当に困っている世帯は、どんなに嫌でも気持ちに蓋をして10匹、20匹取ってこないといけない状況に置かれているわけですよね。暴力、戦争についての考察もきちんとなされている箇所はとても優れていると思ったのですが、一方、そうせざるを得ない人たちが実際に存在していることについてどうとらえればいいのかがは、物語からはよく読み取れませんでした。なんというか、困難にある人たちとのギャップを埋める希望的な要素が見つからなかったのが、引っかかりのポイントかもしれません。あと、物語の中で良い物語を紹介したい作家の意図みたいなのも感じられて、図書館リストっぽいなと、思っちゃうところもありました……。
最後は、ミュラーさんに助けられるばかりではなく、エドワードの発案で学校に畑を作り、ミュラーさんと村の人たちの和解のきっかけをつくる場面が描かれますが、大人も子どもも助け合うという点で、作家の子どもたちの力への信頼が感じられてとてもよかったです。

wind24:お話がおもしろく、私も短時間で読めました。いろいろな出来事があっても引っかかりを持たずに読みましが、3人がいつも一緒にいられるのが良かったです。おばあさんの存在がちょっと謎で、ただただ子どもが嫌いで冷たい人なのか、自分が亡き後3人で生きていくために、わざと冷たくして自立心を身に付けさせようとしているのか、文面からは読み取れませんでした。この物語では、「図書館」の果たす役割が大きいです。戦時下のささくれた子どもたちの心を本との出会いで慰めるための場所であり、本を手渡す素敵な大人(ここではミュラーさん)がいる場所でもあります。
子どもたちは居場所を転々としていきますが、最初の肉屋の夫婦は慈善的な気持ちで預かるものの、実の子たちの意地悪がまるで絵にかいたように際立っています。しかしそれを知ってか知らずか、自分の子には盲目的です。貧しいグリフィスさんはお金ほしさに3人を預かりますが、自分の子たちの面倒を見させるだけでご飯もろくに与えません。そして、大好きな図書館のミュラーさんに引き取られることになり、ようやく幸せが訪れます。それまでモノクロの世界だったのが一気に色彩あふれる豊かな生活になっていきます。その後は多分養母になってくれるミュラーさんとの幸せな生活が待っていることでしょう。

オカリナ:古き良きイギリスの物語の伝統をくむ作品で、とてもおもしろかったです。私がいいなと思ったのは、3人きょうだいそれぞれの特徴や性格がうまく書かれているところです。長男はしっかり者、次男はきかん坊、末っ子の女の子はあまったれ、という点はステレオタイプに見えますけど、それぞれもっと人間が立ち上がってくるように描かれています。また意地悪な双子がいる肉屋さんですけど、お父さんのほうはp195などを読むと、おまけをしてくれたり、声をひそめて「この前のこと、本当にすまなかったな」と言ったりするので、かなりものがわかった人のよう。そういう細かい書き方にも好感が持てました。
この作家はアメリカ人ですけど、少し古い文体で書いたのではないかと推測します。たとえばp301には「読者のなかには、くつ下なんて、ずいぶん、ぱっとしない贈り物だと思う人もいるかもしれない」という文章がありますが、こんなふうに作者が顔を出したりするのも、一昔前の作品の特徴のように思います。また日本の読者が読むと、本が好きな人たちと、本を破ってトイレの紙に使ってしまう人に分かれるように思えるかもしれませんが、先程から出ているようにイギリスなので、階級がからんでくるかと思います。ピアーズ家は中流階級に属していて、この子たちを預かってくれるフォレスターさんやグリフィスさんはもっと貧しくて、特に戦時中は生活するだけで精一杯の労働者階級なのかと思います。グリフィスさんの家庭の描写は、ディケンズの作品を思い出させます。双子の意地悪も、「お高く留まりやがって」という中流以上の子に対する気持ちの表れでもあるのでしょう。ネズミ狩りの場面は中流階級の子供にとっては目の前で行われる大きな暴力ですが、日常的にネズミに食糧を荒らされて困っている貧しい人たちにとっては、退治するかしないかは死活問題でもあるわけです。
先程、この子たちはお金があるのだから何でも買えばいいじゃないか、という意見もありましたが、おそらく管理は保護者がすることになっていて、成人するまでは勝手に使うことはできない決まりになっているのかと思います。また中流以上の人たちは、子育てを乳母や家庭教師に任せることもあり、子どもや孫に対する自然な愛情も持たないで過ごす人もいます。なので、3人のおばあさんが愛情を持っていないのも、十分ありうることでしょう。

ネズミ:オカリナさんのお話をきいて、英文学に詳しい読書好きの人には、楽しめる点ところがたくさんあるのだなと、わかりました。登場人物の性格がみなはっきりしているので、読みやすさがありましたし、装画からも、幸せな結末が予想されて、安心して読めました。好きだったのは、最後に学校で菜園をつくることになるところです。ドイツ人の夫からミュラーさんが伝授されてきたことが生かされ、子どもたちもこの土地で受け入れていかれることを象徴する出来事をうまく描いていると思いました。

エーデルワイス:心がほかほかしてくるような物語でした。作者が絶賛していたイラストレーターのジェイン・ニューランドのカバーイラストが日本語版でも使われているのですね。図書館をテーマにした良いお話です。きょうだい3人、親がいなくて生きていくのは、戦争中でも現代であっても大変なことと思います。長男ウィリアムの重責を思うと切なくなります。優しいミュラーさんに出会い幸せになりますが、ミュラーさんが長い年月どんなに孤独だったかと想像します。
私が小学校低学年の時、『赤毛のアン』『小公女』など子ども向けに意訳された本を読んでいました。ウィリアムたちは原作どおりの文を読んでいたのでしょうか? だとしたらすごい!と思いました。特に9歳のアンナが読みこなしたとは! この物語に登場する本は名作ばかりですが、現在の子どもたちは読むのでしょうか? p181で、アンナがグリフィスさんの幼い子どもたち3人に『くまのプーさん』を読んであげる場面は、本の力を大いに感じることができます。本に接することのなかった子どもたちが、アンナの声から物語を感じ取り静かに聞き入り、ウィリアムとエドマンドも物語に浸るのですから。

ルパン:評判の良い本だし、実際とてもおもしろく読みました。3人のきょうだいが逆境にあっても助け合って生きていくところがとてもいいと思いました。ただ、日本の子どもが読んでどこまで状況を理解できるのかな、とは思いました。イギリスの階級社会のことやドイツを敵視する感情などが分からないと、どうしてミュラーさんの家に落ち着くまでにこんなに遠回りしなければならないんだろう、と不思議に思うかもしれません。

ハル:子どもの頃に読んだクラシカルな物語のような、ハラハラドキドキ感もあって、引き込まれて読みました。欲を言えば、急に視点が変わったり、人物の立ち位置が変わった?というところもあったり、ちょっとしたつまずきはありましたし、ミュラーさんの家は自給自足ができるように工夫されていたとはいえ、あまりにも素敵な暮らしで、少し出来過ぎな感じはしました。また、ミュラーさんの夫は、どうして手紙を返してくれなくなったのかも、はっきりとはしません。戦争でそれどころではなくなっただけなのか、何か意志があってのことなのか、気になりますが、ある意味リアルというか、実際、たとえ戦争がなくても、気持ちや時間のすれ違いって、そういうものだろうとも思います。とにかく、お兄ちゃんのウィリアムが健気で、ネズミ狩りの場面なんてほんとに泣けてしまいます。日本の子ども読者たちに、この子たちの健気さを読んでほしいという気持ちはないですが、物語を読みたくなる本、という意味で、ぜひこの本を読んでほしいなぁと思いました。

アカシア:エーデルワイスさんが、この子たちはダイジェスト版ではなく原作をそのまま読んでいるのかと疑問に思われていましたが、原作を読んでいると思います。日本でも私が子どものころは、小学館とか講談社から少年少女世界文学全集が出ていて、小さい活字のうえに2段組になっていてページ数も多かった。それを考えると、日本の子どもも今よりずっと多くの活字を読んでいたかもしれません。

(2023年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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雨にシュクラン

『雨にシュクラン』表紙
『雨にシュクラン』
こまつあやこ/著
講談社
2023.04

エーデルワイス:とてもおもしろく読みました。作者は毎回いろいろなテーマで書いていて、今回はアラビア書道なのですね。とても綺麗で、素敵です。アラビア文字を真似して私も書いてみましたが、なかなか難しいです。主人公のあかりの、弱冠15歳から16歳までの時間が描かれていますが、ジェットコースターのような人生です。結果的に1年遅れで別の高校を受験してもう一度高校生になるのですが主人公が悔いなく納得していることに読後感もさわやかです。
あかりが受験案内を見ているところに〈一浪以上の受け入れ可〉があり現役でなくても高校を受験できることに驚くシーンがありますが(pp168-169)、私の高校時代(地方都市)は結構浪人して公立高校へ入学することは珍しくなかったので、それこそ驚きました。

ネズミ:みなと違う道を選ぶことというテーマがとてもいいなと思いました。ちょっとしたきっかけや偶然で、新しい世界に出会っていくところが。ただ、憧れていた先輩からのひとこととはいえ、その先輩のひとことで高校をやめてしまうのは、強引に感じられましたが……。「こうしなくちゃいけない」と、既存の価値観にとらわれている、どちらかというと優等生の高校生の心をほどいて、励ましてくれる作品でしょうか。

オカリナ:楽しく読みました。いいなと思ったのはいろいろな形で多様性を示している点です。せっかく入った高校をやめて家で勉強しながら高卒資格を取る主人公も、ぬいぐるみのコレクションを持っていて家族の前で泣いてしまうお父さんも、ステレオタイプでない存在を示しているのがおもしろいと思いました。それからアラビア書道の難しさや楽しさがわかってくるのもいいですよね。残念だった点は、お父さんが何らかの理由で(理由は書かれてないですね)疲弊して会社を辞めることになったとき、どうしてお父さんの故郷に行くのか私にはよくわかりませんでした。お父さんの両親はもう死去していて家が残っているわけでもなく、幼馴染との付き合いもなさそう。都会より地方がいいというのはわかりますが、真歩がせっかく入った憧れの高校に片道2時間半もかかるような場所に引っ越すだけの意味はなさそうです。そこが物語の起点で、大きな意味をもってくるので、もう少しリアルな設定にしてほしかったなあ、と思いました。多文化を知るというのもテーマの一つですが、私もトルコには2度ほど行ったことがあるので、アラビア書道のほかはラマダンとポピュラーな食べものだけというのは、ないものねだりかもしれませんが、物足りなさも感じました。

wind24:おもしろく読みました。雨の多い日本ではピンとこない「約束は雲、実行は雨」という諺ですが、「実行することは稀なこと」の意として中近東の雨が降らない場所で生まれたというのは、お国柄がわかって興味深かったです。父親の鬱発症、高校中退、新しい生活で知り合う高齢者、イスラム教徒の新しい友だちと気になる男の子、そして目的を見つけて再度の高校入学、父親の再チャレンジなどなど、モチーフに事欠かない作品です。主人公の心の揺らぎがていねいに描かれていて共感できました。題名の「雨にシュクラン」のとおり、雨粒について2か所、印象的に書かれていました。

しじみ71個分:おもしろく読みました。アラビア書道というモチーフも目新しく、多文化理解への一つの入口になるだろうと思いました。また、気の優しいお父さんが鬱病になったために、引越しすることになり、そのために自分が努力して入った高校への通学を断念しますが、その父を疎ましく思ってしまう心情、トルコにルーツを持つ少年への淡い恋心などは細やかに描かれていたと思います。図書館の宅配ボランティアによる高齢者との出会いというのも魅力的な素材でした。その上で、私が気になったのは、どのモチーフも結構重みのある内容なのに、どれも掘り下げ方が一様な感じで、どこに一番伝えたいポイントがあったのか、わかりにくなってしまったのではないかというところです。そのためになんとなく総花的で物語の全体の印象が軽くなってしまったように感じ、そこが残念に思われました。

ANNE:とてもおもしろく読ませていただきました。作者のこまつあやこさんにお目にかかったことがあるのですが、とても魅力的で素敵な方です。こまつさんはデビュー作の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(講談社)でマレーシア語と短歌、『ポーチとノート』(講談社)では生理など、他の作家さんがあまり取り上げないようなテーマで作品を発表されています。今作も、アラビア書道という一般的ではない世界を、女子高生の視点から捉えて興味深い物語に仕上げていらっしゃるのが素晴らしいと思います。また、図書館の宅配ボランティアのエピソードなど、司書の経験がある作家さんならではの作品だなと思いました。次回作も楽しみです。

きなこみみ:とても楽しく読みました。アラビア書道を知らなかったので、文字の並びがとても美しくて、感動でした。新しいことを知るのは、ワクワクします。日本語とアラビア語ってあまり馴染みがないように見えて、書道のかな文字は、どこか通じるところがあるように思います。こういう新しい接点を見つけて、物語にされたこまつさんの着眼点がすばらしいなあと。主人公の真歩が、頑固に自分の意志を貫こうとする子なんですけど、普通というレールからはずれてしまうことで、見えてきたこととか、感じていることを素直に描いてあるのがいいと思うんです。p36で、「私、不登校に見えるのかな。それとも不良に見えるのかな。」とびくびくしてしまったり、中年のお父さんが無職で家にいることを恥ずかしく思ってしまう。そういう気持ちって、世間的な価値観をすりこまれて、毒されちゃってるっていうことですよね。だって、不登校は別に恥ずかしいことじゃないし、家にいるのがお母さんなら、恥ずかしいとも思わないはずなんだし。レールを外れてしまったから、自分のそういうところに気付かされるところがよかったかなと。その彼女が知らなかった文化と人に出会って、変わっていく過程が自然に描かれてるのがいいなと。p151で、「わかりたいと思う、アラビア書道のこと、トルコのこと。そして、千凪くんのことも。」ってあるんですが、「知りたい」という気持ちは、すべての扉を開く一歩だと思うんで、この気もちがまっすぐ書かれていることにいいなと思って共感しました。気になるところとしては、一人一人のキャラクターが薄いというか、千凪くんと怜来ちゃんにせっかく知り合っているんだけれど、人物としての彼らがあまり伝わってこない。真歩は千凪くんが好きになるんですが、カメラが得意な男の子、という以上の、内面のところまで書かれていたら、もっとこの体験が深みをもって伝わってきたかなと。でも、読みやすい分量ではありますし、読み慣れていない子もとっつきやすいし、表紙もポップで読みやすい作品だと思います。

アンヌ:この物語の前半はあまりに納得が行かなくて、私はかなり長距離通学だったので、勉強は車内でするとか、何か工夫できなかったのかなと思ったりしました。転校ではなく高認を受けることにするわけもよくわかりませんでした。でも、それはともかく、図書館ボランティアから後は、出てくる人たちも物語もとてもおもしろく、高校生ではないのに昼間道を歩く後ろめたさとか、逆に伶良と学校に縛られない友人同士になれるところとか、アラビア書道のおもしろさをキュイキュイという筆が滑る音で表しているところなど、とても魅力的で楽しく読みました。

ニャニャンガ:こまつあやこさんの作品は、『ハジメテヒラク』(講談社)以来ですが、前作同様、興味深く読みました。書道が好きな主人公の真歩が、アラビア文字に興味をもつという設定はユニークで、知らない文化に触れ視野が広がったように感じました。ただ、お父さんが会社に行けなくなり、地元の千葉へ転居したいせいで憧れの高校に通えなくなった主人公が、高校へ行かない選択をしたのは少々唐突な印象でしたし、1年生で高卒認定試験を受けようとするのは無謀ではないかしらと思ってしまいました。アラビア文字を知るせっかくの機会でしたが、説明を読んでも難しくて理解できなかったのが残念です。図書館の宝来さんがいい味を出していて好ましいですし、優しくてナイーブなお父さん、仕事バリバリのお母さんという設定はイマドキですね。

雪割草:読みやすかったです。アラビア書道という発想がおもしろいと思いました。日本の作品は学校が舞台になることが多いですが、学校以外の世界で、真歩、怜来、船島さん、宝来さんといった登場人物が関係しながら変わっていくのが描かれていていいなと思いました。それから、船島さんの金継ぎや雨の話があって、そのイメージが言葉とともに散りばめられていてきれいだなとも思いました。あとは個人的な好みですが、登場人物が漫画っぽく、文章の改行が多く感じました。

西山:すごく設定が盛りだくさんのわりに、さらさらと読めちゃって、これはいいとか悪いとかじゃないですけれど……。高校にいっていない16歳、お父さん像、ムスリムの問題とどれも、それを中心テーマとしてこってりと書かれても不思議ではない切り口ですが、話はどんどん進んでいく。でも、軽薄にはしゃいで目を引く事象としてそれらを消費しているという感じは受けません。ソフトに読ませてしまう、こういうのもありなんだなと、好感を持っています。ちょっと引っかかったのはp45で「#muslim」を主人公姉妹は読めちゃって「イスラム教徒」という意味を知っている。これは不自然でひっかかりました。あとp122で怜来ちゃんがラマダンの説明をしている中で「生理のときは断食できないの」と言っています。私は、トルコのイスラム教徒の話として、「しなくていい」と聞いていました。でも、個々に、他の日に自己判断で断食しているようだと聞きましたが、「できない」と「しなくていい」ではイスラム教のイメージがずいぶん変わってきます。「できない」だと、血の穢れを嫌うのだろうかと邪推してしまいます。「しなくていい」だと、信仰をあくまでも個々人のものとして考える緩やかなイメージです。ここはちょっと大きな問題かなと思います。

ハル:この本を読んだ同時期に、まはら三桃さんの『つる子さんからの奨学金』(偕成社)も読みました。それもまた、高校受験に対する新たな選択を示した本でした、いま、通信制の高校を選択する子が増えている、という記事も見ましたが、いろんな選択肢がある、ということを知るって、いいなぁと思います。この『雨にシュクラン』は、こまつあやこさんらしい作品で、言葉や文字にまつわる新しい世界をまた見せてくれたという点でも、とてもおもしろかったです。子どもはなにかと理不尽を背負わされがちですね。お父さんの事情で思いどおりの高校生活にはならなくて、主人公はつらかったと思うけれど、大人になっても理不尽なことや、自分ではどうにもできないことはたくさんあるし、そういうときに、いろんな選択肢を見つけられること、柔軟に考えられることは、自分を助ける大きな力になると思います。

ルパン:今回選書係です。いろいろなテーマが盛りだくさんに入っていて、読書会向きの1冊だと思って選びました。ちょうど、『とめはねっ!』(河合克敏 作 小学館)というマンガを読んだところで、書道ってドラマになるんだ~、って思ったところでしたし、トルコという国も旅の思い出があるので、いろいろな意味で親近感もわきました。多少ツッコミどころもあるものの、最後まで飽きさせないストーリー展開がいいし、高校をやめたときの疎外感などがとてもうまく描けていると思いました。今まであたりまえだと思っていたことから外れたとたんにいろんなことが見えてくる、そのプロセスがリアルに迫ってきました。

(2023年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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雪の日にライオンを見に行く

『雪の日にライオンを見に行く』表紙
『雪の日にライオンを見に行く』
志津栄子/作 くまおり純/絵
講談社
2023.01

きなこみみ:大阪が舞台の物語で、大阪者としては非常に親近感がわく物語でした。「居場所」ってなんだろう、というのがテーマですね。唯人という主人公の民族的なルーツである中国残留邦人の問題、金沢から転校してきて、大阪にも学校になじめなくて「ひとりぼっちで外国にいるみたい」というアズという女の子の心情、唯人の母が捨ててしまった故郷の人との繋がりなど、さまざまな奥行で「居場所をさがす」ということが語られるのがいいなと思いました。ふたりで天王寺動物園のライオンを見に行くシーンが、とくに好きなところ。天王寺動物園は、新世界のすぐ横にあって、独特な空気感のあるところです。雑踏のなかに、いきなり動物園があって、そこにいるライオンというのは、確かに場違いな感じがするなあと思いました。大阪は、在日の方たちがたくさん集まっておられる町もあり、様々なルーツの人たちが集まりやすいところだと思います。一方で、関西弁がキツい印象を与えたり、ニュアンスが通じにくかったりして、疎外感を与える一面もあるよなあと、この物語を読んで改めて感じたりもしました。この物語も、やはり言葉の力について考えさせられました。集団のなかでひとりぼっちだと思う唯人は、何をするにも自信がなくて、黙りがちになってしまう。自分たちを捨てた父親へのもやもやも胸にたまって、余計に重い。でも、同じような疎外感を抱えるアズと言葉を重ねるうちに、少しずつ自分が好きになるのが、いいなと。p165で、唯人が、母と本音で話しながら「なんやこれ、気持ちええ!」と思うところが、とてもよかった。自分の思いを言葉にしてみる。誰かと共有する。それが「胸のおくにチカっとあかりが灯る」場所をつくることにつながって、人との繋がりが、ふるさとで、居場所なんだというメッセージが温かいです。ふたりの担任のみのり先生が、距離をとって見守りつつ、要所要所でぴしっというべきことを押さえていい役割を果たしているのが印象的。唯人の背景は非常に深く書けていて、それが唯人という人物のなかで有機的に繋がっているのに対して、アズのこだわっている、母との関係が、もう少しリアルに見えていたら良かったなとも思いました。

花散里:表紙とタイトルを見た時に、私は読んでみたいとは思えませんでした。「ちゅうでん児童文学賞受賞作品」であるということからかもしれませんが、日本の児童文学作品を読んでいて常に感じることは、外国の作品と比べて、内容が軽いというか浅いように思っています。外国の作品は、海外の良い作品を選んで翻訳者、編集者の方々が日本に紹介してくださっているということもあるのかもしれませんが、子どもたちに手渡したいと思う作品が多いと感じています。
本作でもひとりひとりの登場人物の描かれ方に魅力が感じられないこと、ビリケンや通天閣、あべのハルカスなど、大阪の土地勘がないと分かりにくいということも含めて、設定もよくないと思いました。祖父が残留孤児という設定にも無理があり、唯人の父親の描かれ方も明確ではないと思います。母親が淡路島の家族と、どういう形で決別したのか、その母親が、「家族に見せびらかしに行くんや」という展開にも、どうして唯人と行ってみようかと思ったのかが安易すぎるように感じました。アズの存在、中国語、なわとび大会など、いろいろなことを盛り込みすぎていて、物語の展開の仕方も軽すぎて、不満に思いました。新しい作家たちの作品を紹介していくという点では、文学賞受賞作品の刊行ということもあるのかもしれませんが、文学的に、子どもたちに手渡せる作品であるのかどうかという考察はしてほしいと思います。

ルパン:私はすっと読んでしまって、まあまあおもしろいと思いました。全体の構成としてどうかというよりは、一個一個の場面に共感する子はけっこういるんじゃないかと思います。共感できないとしたら、アズが、まわりがせっかく仲良くしようとしているのにまったくこたえようとしないところ。それでも仲間に入れようとするこのクラスは、なかなかいいクラスですよね。ふつうだったら、イジメとか、少なくとも仲間外れにされたりすると思います。
施設に行ったときに、アズがおばあさんに話を合わせたことをからかう文香を、唯人がやっとの思いでたしなめたシーンは印象に残りました。あと、私は大阪に住んでいたことがあるんですが、いろんなルーツの人が今も肩を寄せ合って生きている感じがしました。東京やほかの地方にはない大阪のふところの深さとともに、そこで生きる人の苦しさを垣間見た気がしているので、ここに書かれている人たちの、自分たちのルーツを守りつつも、それでもやっぱり、日本で生まれて日本で育って、自分たちは何人なんだろうという感情は、ていねいに描けているのではないかと思いました。

シア:まずこの題名なんですが、雪の日にライオンを見に行ったのって、ほんのワンシーンなんですよね。ライオンが絡んでくるわけでもないのに、なんでこんな印象的な題名にしたんでしょう? どちらかというとビリケンの方にスポットが当たっていますよね。それでライオンはどうしたの? と読後に気になってしまいました。信じられないほどクラスのみんながやさしいのも気になりましたが、前の担任の先生のクラス運営がよほどよかったんでしょう。それに最近は少子化なのでクラスの人数も少なくて、子どもたちにゆとりがあるのかもしれません。とはいえ、なんだか老成していますよね。アズが登校しなくなったりしているのに、保護者が絡んでこないのもなんだかリアリティがありません。先生の描き方もなんだかしっくりこなくて、学級崩壊ポイントもいくつかあったのに何事もなく通り過ぎているので、どうにも上っ面だなあと思いながら読んでいました。最近の日本の児童文学はこういうほわっとした作品が多いように思います。ほわほわと上がり下がりもなく平坦に終わり、人間関係の解決や掘り下げなどもあまりしません。とにかく無難なんですよね。毒にも薬にもなりません。ティーンエイジャーなら、漫画の方がよほどおもしろいと思います。文体の関西弁は、おもしろいはおもしろいんですが、ほぼセリフなんですよね。なんだかなあという感じです。それに大人なら中国との関わりなどわかりますが、子どもが読んで理解できるのか疑問です。大阪のいじりといじめについての感覚の差は感じることができました。ちゅうでん児童文学賞で大賞を受賞していますが、どの辺が受賞ポイントなのか知りたいですね。

ニャニャンガ:中国残留法人の祖父を持つ唯人と転校生の女子アズとの交流を通した成長物語で、コンパクトで後味のいい作品だと私は思いました。関西弁で書かれているおかげで標準語よりきつくなく、読みやすく感じましたが、全体的にほわほわとした印象は否めません。深くはないのかもしれないけれど、ひとりぼっち同士のふたりが近づいていくの、よかったです。

コゲラ:中国残留邦人の家族という設定は、いままで児童文学で無かったような気がして(私が読んでいないだけかも!)、とても新鮮で、いいなと思いました大阪弁で書かれていることにも好感が持てました。ただ、私は関西で暮らしたことがないので、大阪弁=饒舌という感じがあって、唯人の内面とちょっと合わないような気もしました。おそらく偏見だろうと、反省してますけどね。タイトルは魅力的だと思って読みはじめ、なにかクライマックスのいいところで、効果的にライオンを見にいく場面が出てくるかなと期待していましたけど、途中でちょこっと出てきただけで、肩透かしをくらったような気分になりました。作者のなかでは、故郷を離れて大阪のど真ん中にいるライオンと主人公たちがリンクしているのだろうけど。
また、おじいちゃんが孤児になって、中国の親に引きとられたことを書いてある箇所を何度も読みかえしたけど、ここもずいぶんあっさり書いてありますね。どうして赤ちゃんだったおじいちゃんに名前を書いた手ぬぐいが結びつけられていたのかとか、戦争を知っている世代には胸に迫る場面だけど、今の子どもにはわかるかな? 作者が意識的に避けているのかな? あとがきの「この物語に登場する先生や子どもたちは、もはやおとぎ話の住人? いえいえ、子どもたちは今も昔も変わりません。どこまでもやさしく、大きな包容力を持っています」という断定的な言い方にも違和感を持ちました。ひょっとして深刻なことは書くまいというこだわりを、この作者は持っているんでしょうか?

wind24:5年生の1年間の出来事ですね。引っ込み思案の唯人と、心をひらかない転校生のアズを中心に子どもたちが成長していく姿が描かれています。小さないざこざはありますが、クラスの子たちが概ね素直でやさしく描かれています。現実はもっとシビアだろうと思います。子どもたちの世界はもっと冷たく時には残酷なのでは? そこは、作者のこうあってしいという願いなんでしょうか。
唯人の父親は早くに蒸発していますが、それでもなお、母親は父親の家族のなかで暮らし、蒸発した父親の悪口を全く言いません。人間が出来過ぎているのでは?と思いました。と同時に、大家族で子どもがそこに自分の居場所があり、安心して生活できることには好感を覚えました。クラスが大繩跳びで次第に団結していきますが、大繩のモチーフはありきたりなので新しさは感じませんでした。また唯人が5年の終わりでは180度変わり、好少年に描かれ過ぎではないかとも思いました。話の終盤で、アズと唯人に淡い初恋の気持ちが芽生えるのは、ほほえましいと思います。

エーデルワイス;図書館から借りたこの本は「ちゅうでん教育振興財団」の寄贈になっています。(他にも地域によって何件かの図書館で寄贈図書になっていました。)私は、好きな作品です。主人公唯人の心の軌跡をたどって読んでいるようで、唯人の心は苦しいなと思いました。いとこを頼りに生きていたけれど、いとことその家族がうらやましかったと気づくところには唯人の成長を感じました。p47の9行目「…唯人が感じているのはやさしさの孤独…」いじめもないクラスだけれどその中の孤独はよくわかります。唯人とアズ、結末は安心するような書き方でしたが、想像するにこの先二人はまだまだ大変でしょう。唯人はお父さんを中国で探し対峙しなくてはならないし、アズは淡路島のお母さんの実家を訪ねたら、そこで新たな問題が発生するでしょう。金沢のお父さんに残りたいと主張しても無理やり大阪まで連れてきて、自分の忘れられない初恋の話をするようなお母さんとも長く向き合わなければならないですし。『中国残留邦人』を扱っていますが、それ自体の問題より背景としている気がします。雪の日に動物園へ唯人と梓がライオンを見に行くシーンは心に残り、私はタイトルについてもなるほどと思いました。

サンザシ:自分に自身が持てない二人の子ども──父親が中国に帰ってしまい母と二人で暮らしている唯人と、周囲にとけこもうとしないアズ──が、おたがいだけは警戒せずに友だちになり、次の一歩を踏み出せるようになる姿が、ていねいに描かれていました。悪い人物は一人も出てこないし、悪意あるいじめっ子も一人も出てきません。それはいいのですが、アズがイマイチくっきり浮かび上がってきませんでした。こういう子がいてもいいのですが、もう少し内面を描いてほしかったし、唯人のおじいちゃんにも大きな葛藤があったはずですよね。先日、来日したシドニー・スミスさんが、「子どもの本は様々な感情を安心して体験できる場。それが将来実際に困難にぶつかったときに役に立つ」とおっしゃっていました。だとすれば、ほわほわの物語でも少しは役に立つのかな、と思いましたが、これならマンガのほうがいいという意見にも一理あると思います。

アンヌ:私も題名と内容が合わない気がしました。唯人については知らない世界が描かれていて物語もていねいに彼を追っている気がしますが、もう少し、アズについて書かれてもよかったのではないかと思います。ライオンももう少し、活躍してもよかったんじゃないかと。大阪独特のノリとツッコミの会話が描かれていますが、悪気のないものであるとしても、転校生にはつらいだろうと思います。同じ立場の子がこれを読んでホッとするかは疑問です。現実の小学校生活はこんなに忙しいのかもしれませんが、行事3つは多すぎる気がしました。

ハル:「そういうやつがおってもええ」っていうメッセージには、読者としてはだいぶ救われる思いもあるけれど、アズ本人が自分の性格を持て余しているので、「そういうやつがおってもええ」が、救いになるのかなぁ、どうかなぁ。著者は、現在は岐阜県にお住まいのようで、舞台とあった大阪とはどういうつながりがあるのかわからないけれど、金沢からきたアズがとても気取った話し方をしているような印象があり、そのあたりに大阪至上主義的なものも感じます。金沢の言葉遣いがこういうものなのか、関西の言葉以外はいわゆる標準語で書かれたのか、ちょっとよくわかりませんでした。

西山:私は好感を持てませんでした。ということでネガティブなコメントばかりになりますが……。タイトルはムード優先で思わせぶりに感じます。全体的に、設定の大渋滞。元号ばかりで、いつ、だれが何歳の時、それから何年というのもすんなり分からないし。大縄跳びは、地域により学校により違うと思いますが、男女別にする必要がわかりません。へなちょこ男子が、ちょっと生きづらさをかかえている女の子の前では急に立派になって、上から目線で振る舞うのは、それが唯人の成長として読めるのでしょうけれど、私は抵抗を感じました。アズのほうがよっぽどしっかりしているのに。バスの中のいじりのしつこさが耐え難く、それで唯人が立ちあがったのは展開としてはわかりますけれど、最終的に、悪気はないのだからこの大阪ノリを受け入れようよというベクトルを作品が持っている気がして、そこも抵抗を感じます。長縄跳びというところから、梨屋アリエさんの『ツー・ステップス!』(岩崎書店)の深さを思いだしたことでした。

コアラ:今回の選書係だったのですが、書店で見てよさそうだなと手に取って、読んでみてなかなかよかったので、選びました。今まで何度か読み返したのですが、どうしても一言でまとめられないという気がしています。作者は、やさしい世界を描きたかったのだと思います。現実というより、やさしさのほうに振った世界です。クラスを仕切る女の子がいて誰も逆らえないけれど、陰湿ないじめがあるわけではなく、クラスに馴染めない転校生のアズも除け者にしない、という「受け入れる」風土のあるクラス。やさしい環境だけれど、やさしさの中の孤独を唯人が自覚する場面があって、そのやさしさの中の孤独が、この作品の空気感になっていると思いました。登場人物の心情がよく描かれていて、どの人の思いもよくわかるなあと、私は共感しながら読みました。中国残留邦人だった祖父の思いや言葉が、唯人の中に根付いていくのも、世代を超えて受け継がれていくのがいいなと思いました。みなさんのお話を聞いていて、私は気づかなかったけれど、ああ、なるほどなと思えるものあったりして、いろいろな意見が聞けてよかったです。

コゲラ:お正月におじいちゃんの家で開口笑というお菓子を初めて食べた……という場面ですが、そんなにおいしいお菓子なら、どうして唯人はいままでごちそうしてもらえなかったんだろうと、ちょっとばかりひっかかりました!

(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ベアトリスの予言

『ベアトリスの予言』表紙
『ベアトリスの予言』
ケイト・ディカミロ/作 ソフィー・ブラッコール/絵 宮下嶺夫/訳
評論社
2023.04

ハル:最初から言いづらいのですが、もう、勇気を出して白状すると、p150くらいまで、何が書いてあるのか全然頭に入ってきませんでした。p150くらいからだんだんおもしろくなってきたけれど、開き直ると、そのあとも眠気との戦いでした。テーマはよくわかりますし、文字を覚えていく場面はわくわくしまし、きっと読む人が読めば良い本なんだと思いながらも……私の読書力の限界。「彼女」が繰り返し出てくるところや(母親のこともベアトリスは「彼女」と呼んでいましたし)、国王がベアトリスを呼ぶのは「あんた」でいいのかなぁ、とか、なんとなくキャラクターがつかみづらかったです。

アンヌ:ファンタジー世界の作りがとても雑な気がして、読みながら次々に疑問がわいきてしまいました。「悲しみの年代記」に書かれる予言はどうやって王室に伝わるのを一般市民は知るのか?女性が文字の読み書きができないと信じられてる国ならば、ベアトリスの母はどうやって文字を知ったか?人魚は何をしたくて外に出たか?等々です。でも、それと同時に、タリバン統治下で学校に行くことを禁じられたアフガニスタンの女の子たちはどうなってしまうのだろうと思わされたので、この物語に今の現実が反映されていると感じました。

サンザシ:物語はおもしろく、記憶を喪失していたベアトリス、頑固なヤギのアンスウェリカ、読み書きはできないが機転のきく素朴な少年ジャック・ドリー、森の中でクラス元の王エーレンガード(カノック)、修道院で予言の書を文字にしていたエディック修道士と、それぞれ違う立場、違う文化を背負っているキャラクターが、会ってすぐに勘が働いて親しくなるのもいいし、ベアトリスの人魚の物語が本編をなぞっていくのもいいですね。ただし翻訳は、彼、彼女、それ、きみ、といった不必要な代名詞が頻出するので、読みにくく、スムーズは物語の流れを阻んでいるように思いました。イラストもいいのに、残念ですね。それと、エディック修道士の一人称が、「ぼく」と「わたし」の2通りになっていました。

エーデルワイス;久しぶりの厚いファンタジーの本にわくわくして読みました。飾り文字、挿絵、装丁どれも素敵です。読みやすい文章だと思いましたが、教訓めいた言葉ばかりで嫌気がさしてきました。また内容をただただ長くしているだけではと思ってしまいました。もっと別の構成があるのでは?と、思いました。

wind24:短い章立てになっていてお話がブツブツ切れてしまう印象ですが、子どもたちの読書力を考え、読みやすくしているのでしょうか。物語としては印象的なモチーフが散りばめられていているので易しく読み進めることができると思います。ヤギのアンスウェリカが狂言回し的役割でお話の全体を通して重要な位置にあると思います。ベアトリスのいる世界と王国での出来事が同時進行的に書かれているのはおもしろいと思いますが、王国での内容が予言が中心で、予言に出てくる少女を捜しだすことに終始しているので途中で飽きてきました。国民は反抗せずに王室の命令に従うべき存在で黙々と働き税金を納め、命令がでれば戦場に赴く…今も世界中、政府と国民の関係性は似ている国が多いのでは? 特に発展途上国には多いと感じます。
おしまいに新たな国王の座にベアトリスの母が就きますが、話の中で母親の存在が感じられなかっただけに、いささか唐突に思えました。本来ベアトリスが王座に就く流れと思いますが、もう少し見分を広め経験を積むまでのつなぎともいえるでしょうか。
最後に一番大切なものは「愛」で締めくくられていますが、それまでの内容に愛を感じさせるものがありませんでしたので、水戸黄門の紋所のようで違和感を覚えました。

コゲラ:小学生のころの私が読んだら、おもしろくて夢中になって、何度でも読みかえしたと思います。昔話風の物語で、謎の少女ベアトリスが目的地に向かう途中で魅力的な仲間がどんどん増えていくところも、昔話の定番。ある日、とつぜん王位を捨てたカノックやジャック・ドリーもいいけれど、なんといってもヤギのアンスウェリカが最高ですね。読み終えたあとも、短い毛の生えた柔らかい耳や、石みたいに固い頭の手ざわりが残っています。そんな昔話のような物語のなかに、女の子の読み書きを禁じることの残酷さや、手に持つと振るわずにいられない剣とか、作者にいいたいこと、現代的なテーマがきちんと込められている。イラストも、もちろん素敵だし。ただ、「彼」「彼女」を執拗に使っているのは、訳者のなにかこだわりがあるのかな? 日本語は主語がなくても成立する言葉だし、そのほうがずっと自然なのに……。

ニャニャンガ:同じヤギを指すのでも、原書でsheとなっているところは「彼女」、goatとなっているところは「ヤギ」とそのまま訳されています。

サンザシ:機械的に訳語をおきかえている、ということですか?

ニャニャンガ:もしや編集されていないのではと思ってしまうほどでした。

サンザシ:こういう訳し方にこだわったというわけではないんでしょうね。

ニャニャンガ:編集者さんが、翻訳家の方にコメントしづらい状況にあったのでしょうか。

サンザシ:ベテランの翻訳者の方なので、編集者もおかしいと思っても強くは言えなかったのかもしれませんね。

コゲラ:私は、こうすべきだっていう、なにか特別な思いが翻訳者にあるんじゃないかって思ってしまったわけ。それが残念だなあと思いました。この本が大好きな子には余計に。でも本好きの子は、そういうところをすっとばして読むかもしれませんね。原文で読みたくなりました。

ニャニャンガ:ケイト・ディカミロも、ソフィー・ブラッコールも大好きなので私は原書を読んでいて、邦訳が出るのを楽しみにしていました。ところが、児童書なのに「彼」「彼女」が頻出し、対象年齢の読者にとってわかりにくのではと心配になりました。訳者あとがきに「日本のおさない読者に読みやすいように」とありますが、そうは思えずとても残念です。悔しいというのも変ですけど、もっとよい作品になっていたはずです。原書で読んだときは、登場人物がそれぞれ特徴的であり魅力的だったので、感情移入して読みましたし、物語にとても愛を感じました。ベアトリスの記憶がなかったときからはじまり、断片的な記憶がもどっていく過程で、大切なものは何かが伝わってくる、胸が熱くなるお話でした。日本語訳で読んで気づいた点としては、この国の王は世襲制ではないのですね。最後にアベラール家のベアトリスのお母さんが王になるのは少しだけ意外な気がしました。

シア:ニャニャンガさんのご指摘なんですが、話の途中でアベラール一家が城に住んでいる描写が出てくるので、公爵あたりの王に近い血筋なのかなと思いました。さて、この本は1ページ目から妙なんですよね。全部夢の中なのかなと思えるほど、安易で奇妙な世界なんです。ヤギのあたりのくだりなどギャグでしかありませんでした。文章は小さい子向けだと思います。訳者が「なるべく、すらすら読んでほしいという思いから」このようにしたみたいですが、なんとも古く、往年の児童文学を思い起こさせる雰囲気でした。ロアルド・ダールの訳を手掛けていたみたいですし、お年を召した方なんですね。その年代の書き方なのかもしれません。訳文の奇妙さもありますが、内容もどう読んでいいのかわかりませんでした。例えばベアトリスが正体を隠しているはずが突然名乗ったり、p94で「『わたしは絶対におそれない』ベアトリスはまた言いました」とありますが、その直後のp95で「しかし、彼女はおそれました」と、早々に前言撤回されたので、おそれるんかーい! と、お笑い芸人のようなツッコミをしてしまいました。関西風ツッコミを入れざるを得ない箇所が多い上に、とにかく古臭いんです。つまらないやり取りをする英語や道徳の教科書かというレベルで、おもしろくありません。なぜふいにギャグ調になるのかもわかりません。p128「その人はぐるりと宙をまわってからもどってきて着地し、そのまま横たわっていました。男でした」とあるんですが、ヤギに攻撃されて突然男がぐるりと宙をまわるという表現が読んでいてなんとも居心地が悪く、続けて「男でした」とぼそっと入ってくるところで思わず苦笑していました。p132「ジャック・ドリーは木の枝の上に立っていました。そのとなりにはベアトリス。木の根もとにはヤギと得体の知れない男。ジャック・ドリーは剣を手にしています。鳥たちがさえずっています」という風に、文章が台本みたいにたたみかけてくるんですよね。ちょっと読みにくいと感じました。登場人物たちも行動に矛盾点が多く、行動に一貫性がありません。ご都合主義な展開ばかりで読んでいてつらかったです。ラストで囚われていただけの母親が女王になるなど、もう噴飯ものです。p296「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」と締めくくっていますが、ハッピーエンド至上主義のディズニーだって、こんなに子どもだましではありません。こんな感じでモヤモヤしながらあとがきに入ったら、p299「主人公がすばらしい。この本のすべてがすばらしい。だれもがこの本を好きになってしまうだろう」(〈ニューヨークタイムズ・ブックレビュー〉)なんて書かれていたので、もうニューヨークタイムズのブックレビューは信じません。映画化されるとありましたがどうなることやら。オシャレな装丁やさしい絵は良かったです。そこが救いでした。

ルパン:みなさんのコメントのとおり、としか言いようがありません。発言の順番が最初の方だったら、今までのご意見、ぜんぶ私が言ったのに、という感じです。最後の「愛」も、ぎゃふんという感じでした。原書で読めばおもしろいというお話があったのですが、訳がうまくてもカバーしきれない部分はあったのでは
メインの登場人物のなかで、成長しているらしいのはエディック修道士でしょうか。主人公も、直感だけに頼って行動し、結局は都合よく助けられるので、どこがどう成長したのかわからない。王様だったカノックに至っては、ある日、突然お城を出て行って王冠を池に捨てちゃう。その理由もわからないし、無責任きわまりないですよね。ヤギも何者なのか。どうしてヤギがこんなヤギなのかも説明がない。いろんな人やいろんなもの、いろんな場面が次々現れるけれど、とりとめのない感じで、私はあまりおもしろいとは思いませんでした。

花散里:子どもたちに本を手渡す立場の者として、海外の優れた絵本、児童文学を翻訳者の方が選んで訳してくださり、編集者の方との協働により刊行してくださることによって、私たちは子どもたちに外国文学を手渡すことが出来るのだと思っています。より良い海外の作品を子どもたちに手渡したいと思います。本作は小学校高学年でも、読書力のない子には読みにくい作品だと感じました。登場人物、ひとりひとりはすごく魅力的で、特にヤギの行動について興味深く感じました。ファンタジーと言えるのかどうかと思いましたが、物語の展開がおもしろいのと、装丁、挿絵が素敵だと感じました。そういう意味からも、「この本、おもしろいよ」と手渡せるような、よい訳文で読みたかったと思いました。

雪割草:私は読みやすかいと思ったのですが、内容は正直よくわかりませんでした。読み終わって、よかったところを考えたときに、絵だけだと思ってしまいました。p296に「結局、重要なのは予言などではないということです」とありますが、この話自体が予言を軸に展開していて、登場人物らも予言に突き動かされていると思ったので、どうも腑に落ちませんでした。世界を変えるのは「愛」というメッセージも、心に入ってくるように描けているとは思えませんでした。人魚の物語もどう作用しているのでしょうか。この訳者の『マチルダは大天才』(評論社)は小学生のときに読んで好きでした。おとなになってから読み直していないのではっきりしたことは言えませんが、この作品では訳がとても気になりました。ヤギを「彼女」と訳されているのを読んだとき、読み間違えかと思って前後読み直しましたし、わざとなのだろうと理解していますが、たぶん意図した効果は子どもには伝わりづらく、人と同等に扱いたいのであれば、主語以外でどうにかした方がよかったのでは思いました。またp289にあるように、文末に「です」が多用されており、実況中継みたいで落ち着きませんでした。それから、4人が簡単にお城に侵入できたり、母は捕まっても殺されずにいたり、物語としても甘さ、ゆるさを感じました。

きなこみみ:まず、装丁が美しいことに惹かれました。見返しも表題紙も挿絵も、細かいところまで神経が行き届いていて、「本」への愛情がまず感じられます。物語は世界観が作りこまれたハイファンタジーというより、寓話のような物語で、タイトルと装丁を考えると、この本そのものが、予言書のような形でディカミロは書いたのではと思うんです。だから、物語としてはつじつまが合いにくかったり、わかりにくいところもあるんですが、今の時代への問いかけ、ジェンダーの問題を含め、この世界の暴力にどうやって立ち向かえばよいのか、という問いかけだと思います。印象的な場面がたくさんあって、たとえばベアトリスがヤギの片耳を握って眠っているシーンや、空が真っ青で光り輝いているときに、啓示が下りてくると感じられたりする、そういう詩のような場面やイメージを積み重ねることで、ディカミロは強いメッセージをこの物語に込めたかったのではないかな、と思いながら読みました。だから、みなさんのおっしゃるように、訳がもっと良ければ、全く違った物語になったんじゃないかなと残念です。
後書きを読むと、ディカミロは児童文学大使を務めていて、アメリカの児童文学会の重鎮としての役割を果たしてらっしゃるので、p88の「だれもが自由に読み書きし、さまざまな意見を発表する」ことへの抑圧に屈しないための励ましや、ひょっとしたら宣言みたいな気持ちもあったのではないかと思うのです。「女の子は読み書きしてはならない」という縛りは今も世界中にあって、他ならない自分の国の内閣も男の人ばっかりずらっと並んだ光景を見ると、ああ、私もこのベアトリスの世界に住んでいるんだなあと思ったりするんです。私はヤギのアンスウェリカがとても好きなんですが、ベアトリスとヤギの結びつきが、全く言葉を必要としない繋がりで、それがずっとこの物語の根底にある。それは体の温かさを通じた強い愛情です。そして、ベアトリス、ジャック・ドリ―、エディック修道士との関係も、絵や、口笛や、歌などの「美」で繋がった仲間たちと、支配的な暴力に向かい合う。そういう構図になっています。ジャック・ドリーが、人殺しの剣を手にしたとき、復讐の殺意が芽生えるところ。武器というものを手にしたときの人間の心の動きが描かれているところ。そこを、言葉の力で乗り越えるのが、強いメッセージだなと思います。ラストの「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」というところ、どうも評判が悪いのですが、そこまでのメッセージを訳文がちゃんと伝えられていたら、もっと違う感動があったのかもしれないです。

アンヌ:ニャニャンガさんにお伺いしたいのですが、原文はもっと韻を踏んでいるとか詩的な感じですか?

ニャンガニャンガ:韻を踏んでいた印象はないです。ディカミロは、子どもの頃にお父さんに暴力を振るわれていたそうなので、暴力に打ち勝つのは「愛だ」ということは伝えたかったのではないでしょうか。

アンヌ:確かに、エデイック修道士の頭の中に常に彼を否定する父親の声が響いていて、彼が生まれてからずっとDVを受けていて、父親が死んだ後もその影響を受けているのがわかりますね。

ニャニャンガ:それを乗り越えていくのを書きたかったのではと思います。ただ、昔話風の物語でありながら、セリフが今風な箇所があるのでアンバランスな印象を受けました。そのせいで余計読みづらいのではと思います。

サンザシ:原書どおりの直訳ではなくて、文章などは入れ替えて訳されていますね。そういうところには、工夫なさっているのでしょう。でも、イメージがくっきり浮かび上がってこなかったです。

コゲラ:原文は、現在形ですか?

サンザシ:アマゾンのサンプルを見ると、過去形のようです。

コアラ:私は選書係だったのですが、風刺を含んだファンタジーで、いろいろな解釈ができそうだと思って選びました。絵がすばらしいです。どういう時代でどういうタイプの物語なのか、絵が雄弁に物語っています。中世のヨーロッパを思わせる時代背景で、一般の人々は読み書きができなくて、p70の5行目に「村の人たちは、ジャック・ドリーに、古い物語を語ってほしいと頼みました」とあるように、物語を語って人々がそれを聞いて楽しむという文化がある設定になっています。この『ベアトリスの予言』も、ストーリーを先へ先へと進める展開になっていて、登場人物もストーリーのためだけに存在しているような書き方になっているところが、口承文芸のようだと思いました。言葉が重要な役割を果たしていて、p238あたりの場面ですが、ジャック・ドリーはベアトリスから文字を教わることで、無益な復讐をせずにすんだし、その後ベアトリス自身も、武器ではなく、物語を語ることで敵対する国王と対峙しました。p10の本文1行目に「この物語は、ある戦争の時代に起きたことです」とありますが、武力ではない、言葉の力、物語の力を感じることができた作品でした。p68で、ビブスピークおばばが、ジャック・ドリーに何度も自分の名前を言わせるところが、とても印象的でした。物語の展開が都合よすぎるのはどうかとも思いましたが、全体的に、美しさと、存在に対する肯定を感じる物語でした。

西山:私はとても楽しく読みました。ああ、おもしろかった、で特に言うことはない感じなんですけれど……。修道士を手玉に取るヤギがおもしろくて、冒頭から完全におとぎ話として読む構えができたので、細かいことは気にならなかったのだと思います。それでいて、今の戦争を思わせて、兵士の傷つき方、心の壊れ方が胸に迫りました。翻訳上の代名詞の件は私はそういう観点を知らなかったのですが、この作品の場合、あの乱暴で荒々しいヤギが「彼女」であること、つまり、女性であることを愉快に読んでいました。新しいタイプの戦争と平和を考えさせてくれる児童文学を読んだと感じています。

すあま:私は児童文学でもミステリーでも中世の修道院ものが好きなので、期待して読み始めたけれど、舞台としては物語の最初のところだけだったので残念でした。予言があって、そのとおりになっていくことを予想しながら読み進めました。途中で旅の仲間が増えていくのはおもしろいものの、キャラクターが次々と出てくるゲームのような感じもしました。登場人物がそれぞれに抱えている悲しみを、ベアトリスを救うことで癒していく物語。楽しいところもあるけれど、読んでいてつらいところもあり、特に兵士の懺悔をどうしてベアトリスに聞かせる必要があったのか、ちょっとひどいな、と思いました。読みながら、意味がわからないところにひっかかってしまい、子どもにも読みにくいように感じました。乱暴なヤギの活躍にも期待していたのに、途中からベアトリスを癒す役割になってしまい、もうちょっと暴れてほしかったかな。

(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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橋の上の子どもたち

『橋の上の子どもたち』表紙
『橋の上の子どもたち』
パドマ・ヴェンカトラマン/作 田中奈津子/訳
講談社
2020.11

ルパン:この作品は出版されてすぐに読みました。細かいところを忘れていたので、再読でもう1回。感動しました。ラクが最後に死んでしまうことは覚えていたので、それがわかっていて最初から読むと、いっそう切なくて。ひとりでも多くの子どもたちが助けられることを祈ってやみません。実は、ワールドビジョンという団体の活動で、インドの男の子のチャイルドサポーターを10年近くやっていたのですが、ここへきてインドの政策により突然シャットダウンされてしまい、お別れを言うことすらできませんでした。国内にこんなにたくさんのホームレスの子どもや児童労働の問題があるのに、外国の支援は受けないというのです。この子たちを救う国のシステムがあればいいのに、と思うのに、それどころか、何かしたいと思っても国がじゃまするんです。二重の意味で切ない思いでした。

さららん:父親の暴力から、障害のある姉さんのラクを守ろうと、ヴィジは家を出る決心をします。大人の目から見れば暴挙かもしれないけれど。案の定、ふたりは住むところにも食べるところにも困りますが、橋の上に住むアルルたちと出会い、なんとか生きるすべを見つけます。ラクは、ヴィジが思っていた以上に手先が器用で、ラクの作ったネックレスが売れて逆にヴィジたちが救われる場面もあります。そこに障害のある子の力を制限しているは、むしろ周囲の人間なのだ、という作者の視点を感じました。実際にあったエピソードをつなぎあわせて書かれたこの物語は、ラクが病気にかかり死んでしまうまでの過程も、罪悪感に苦しむヴィジの心の回復もていねいに描かれ、「前に進むことは、ラクを置いていっちゃうことではないって、やっとわかったの」(p249)という言葉に行きつきます。私は自分の経験も思い出し、この言葉が胸にしみました。作中では、子どもが子どもらしく描かれ、笑ってしまう箇所もありました。人物像は表層的かもしれませんが、人生経験の少ない子ども読者にとって、暴力や貧困と闘いながらインドで生きる日々のお話を先へ先へと読んでいくためには、人物はこのぐらいの軽さでちょうどよいように思えました。先日観たばかりの映画「ウーマン・トーキング 私たちの選択」(サラ・ポーリー監督)でも、村の男性たちから長い間性的暴行を受けてきた村の女性たちが、自分たちの尊厳を守るために議論を重ね、ある選択をします。家出をするというヴィジの選択は、自分たちの尊厳を守るための行為だったんだ、と重ねて思いました。本人はそう言葉にはしていないし、言葉にできるはずもないのですが。

サンザシ:JBBYで出している「おすすめ! 世界の子どもの本」でも、この本がおすすめされていましたね。南インドの貧困を描きながら希望も描かれているのがいいと思いました。でも、ちょっと主人公がいい子過ぎて、立体的に浮かび上がってきませんでした。アルルの人物像も同じです。これだと、キャラクターがリアルに感じられないので、子どもの読者が主人公に一体化してお話の中に入っていくのが難しいなと思ったんです。遠い国にかわいそうな子がいるという感想で終わってしまうような気がして。この父親も、なぜ暴力をふるうのかがよくわからないので、リアルには浮かび上がってきませんでした。登場キャラクターが、一定の役割を負わされているだけで立体的なリアルな存在に感じられないのが、私はとても残念でした。

ハル:冒頭で家庭内暴力の描写がけっこうきつかったので、ん? これは、小学生でも読めると見せかけて、本当はもうちょっと上の年齢向けの本なんじゃないの? 対象年齢、大丈夫? と疑ってしまいましたが、読み進めると、主人公たちと同じくらい年代の、小学高学年くらいから読んでほしい本だなと思いました。ハンディのあるお姉ちゃんラクを、しっかりものの妹ヴィジが助けているように見えて、ラクがいなかったら、ヴィジのサバイバルはもっともっと過酷なものになっていたかもしれませんね。ラクに助けられている部分はとても大きい。そういう点でも、遠い国の恵まれない子どもたちの話、と思わず、自分たちと同じ年ごろの子どもたちの物語として読んでもらえたらと思いました。

アンヌ:ヴィジが家出をするときに働けば何とかなると思っているのが、いかにもインドという国を表しているなと思いました。大勢の子供たちが働かされている社会なんだなと。さらに、ゴミの山の男のようないかにも裏社会につながりのある男だけではなく、バスの運転手として働く男も、家出少女と見ると捕まえて商品として売り飛ばそうと追いかけていることに衝撃を受けました。もちろん、日本社会でも少女たちを性的な商品として扱う人間がいますが……。男の子でも、ムトゥのように売られて強制労働させられる子供たちがいる社会なのだということにも、恐怖を覚えました。そんな中で、彼女たちを商品として見ない少年たちに会えたのは運がよかったと思います。いろいろな宗教がある国である割には、キリスト教色が強い作品だと思いました。ムトゥに比べてアルルの話す言葉はときたま牧師さんのようで、ちょっと不思議な感じもしました。後半のラクの死に傷ついたヴィジの心が回復するまでを実にゆっくりと書いてあるところはよかったなと思います。他の国とは違う時間の流れを感じました。最後にヴィジがDVを繰り返す父親を許して家に帰ったということにしないで、自分の道を選んだと作者が書いてくれたことが、これを読む読者のためにも、とてもうれしいです。

雪割草:この作品を選んだのは、日本の子どもたちは読んでどう思うだろうか、果たして興味をもって読めるだろうかと考えてしまうところがあり、みなさんの意見を聞いてみたいと思ったからでした。15年くらい前の学生の頃、インドの児童労働の被害にあった子どものための施設に行って泊めてもらい、子どもたちと一緒に過ごしたときのことを思い出しました。厳しい現実を生きている子どもたちのことは、ぜひ知ってもらいたいと思います。でも、学校で出前講座などをしてきて思うのは、興味をもってもらうには、小さなことでいいので、つながりを感じてもらえるような仕掛けが必要です。この作品は、子どもたちの食べものや暮らしぶりなど生活感がとてもリアルに描かれています。それから、信じるということが鍵になっています。でも、遠い国の話で終わらないようにする仕掛けが、もう少し必要かなとは思います。

花散里:刊行されたとき、父親からの虐待やインドの階級制度の中での子どもたちの様子に衝撃を受けて読みました。今回、読み返して、カースト制度の中で、障害を持った姉を持つ少女が、残虐な父親の暴力などから二人で家出をした後の生きざまがよく描かれていると感じました。私の勤務校では高1生が、アジアの国々に研修に行きますが、昨年、インドに行った生徒たちがカースト制度の中での自分たちと同世代の子どもたちについて動画を作成して報告していました。日本の子どもたちがインドなど、アジアの国々の実情を知ることは大事だと、本作を読んで思いました。障害を持った兄弟を描いた優れた作品はありますが、姉のラクに対するヴィジの思い、特にラクが亡くなってしまったことへの自責の念など、ていねいに描かれていると思います。登場人物、とくにアルルはキリスト教の教えとともによく描かれ過ぎではと思うところもありましたが、逆境の中でも手を差し伸べてくれている誰かがいるということがヴィジにとっては救われる存在だったのではないかと思いました。障害があるラクがビーズのネックレスを作るのが得意であることなどの表現も印象に残りました。インドという国を知っていくうえでの作品としても、子どもたちに手渡して行きたい作品だと思います。

シア:今回の本は夏休みだったせいか、なかなか借りられませんでした。「ふたりがいつまでもいっしょにいること。それは、あたしが信じていた数少ないことの一つだった。」(p6)とあったので、これは絶対に重たい内容の本だと思い、覚悟して読みました。物語のテーマがとてもわかりやすくかっちり作られているので、まさしく読書感想文用の本だと思いました。でもそのせいか、いい子や大人な子が多かったように思います。主人公のヴィジはとても大人すぎました。11歳で姉を連れて家出を決意するなど、そうそうできるものではないと思います。アルルも悟りすぎではないかと思うほどで、クリスチャンのよい面を描いているようにも感じました。とはいえ、子どもたちみんなはとても可愛らしく、台詞の一つ一つが愛らしかったです。家族を愛しているのが伝わってきます。小説では登場人物の死はイベントとして描かれやすいですが、この本はそうではなく残された人たちの心をていねいに描いていました。そこがリアルに感じました。現実によく起きていることだからなんでしょうね、胸が痛いです。だから余計に父親や母親についての追及もほしかったです。「父さんをも愛することができるようにね」(p246)とありますが、そこまでされても父親を愛さなければならないのでしょうか。インドだけでなく日本でも貧困家庭の問題はありますので、他人事ではないと思いました。ところで、この作品は食べ物や服などのインド特有の文化がおもしろいです。異文化を知ることができるのは海外児童文学ならではの魅力だと思います。最後に、題名なのですが「橋の上」でいいのでしょうか。読んでみると「橋の下」ではないかと思うのですが。

ルパン:ほんとうに橋の上です。たまに翻訳者もまちがえて「橋の下」なんて言ってますけど、廃墟になった橋の上に住んでいます。

wind 24:20日ほど前に読み、読み返しができなかったのでおぼろげな感想です。インドではカースト制度は70年も前に廃止されたにもかかわらず、未だに社会に深く入り込んでいて、抜け出せない貧富の差があります。この物語では、いちばん底辺にある「隷民」に生まれた姉妹が主な登場人物として出てきます。障がいのある子ラクの家族の中での扱いや、暴力でしか問題解決ができない生活能力のない父親、その夫に逆らえない無気力な母親。家庭の中が殺伐としていて家族の結びつきが希薄です。その中で姉を思いやるヴィジの言動が突出し過ぎる描かれ方だなあと、今となっては少し違和感を感じます。物語の構成はおもしろいのですが、登場人物の描き方が平たく、あまり魅力を感じませんでした。おしまいに父親がようやく登場しますが、天然なのか卑屈なのかよくわからない描き方なので、ここで登場させる意味があったのでしょうか。ヴィジが父親の言動から、母親が何度裏切られてもそのたびに父親を許してきたことが理解できたような気がする、とありましたが、果たして12歳くらいの少女がそんな気持ちに到達するのだろうかと共感できませんでした。日本の子どもたちに想像ができない部分や自分事としてとらえられない部分があると思うので、まずは背景を知ることからも、『みんなのチャンス ぼくと路上の4億人の子どもたち』(石井光太/作 少年写真新聞社)で、ヴィジたちのような子どもたちがいることを知ってほしいと思いました。先進国に住む私たちの人間活動がどんなふうに発展途上国の人たちに影響を及ぼしているかをも、こどもたちに伝えていきたいと思います。

エーデルワイス:訳がよくて読みやすい本でした。その日その日の食べ物を確保するところ、飢え、腐ったバナナを食べるところなどリアルに伝わってきました。p243でお父さんの暴力をどうしてお母さんが許してきたのか、11歳のヴィジが分かるところが凄い! その場で心から許しを請うているお父さんを一瞬許しそうになりますが、流されずに自分の未来へ邁進するヴィジの姿が清々しいラストでした。

すあま:同じ作者の『図書室からはじまる愛』(パドマ・ヴェンカトラマン/作 白水社)がとてもよかったので、期待して読みました。あとがきにも書かれていたように、インドの大変な状況にある子どもたちのことを知ってほしい、ということが前面に出ている本だなと思いました。最後は前向きな感じで終わるけれども、その後もまだ苦労は続いていく。続きを読んでみたい気もしました。読み終わってから少したってみると、何か物足りない、心に残らない感じがしたのが残念です。

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西山(メール参加):p7本文冒頭の「ラク、あなたはあたしの妹みたいに感じていたでしょ?」に始まる段落で、ラクを妹みたいに感じていたのは「あたし」自身でしょう?と思ってひっかかってしまい、冒頭から不信感を持ちながら読むことになってしまいました。あと、p9L8「「二百ルピー!」……ポケットに入れる前に落っことしそうになった」では、え?受けとっていたの?とつまづき、p25最後ではラクがあんなに大事にしていた人形マラパチ拾わないの?と気になり、その後ラクがいつマラパチがないとパニックを起こすかと心配して読み進めたのですが、言及はなく、それでいて最後の最後に現れた父親がマラパチそっくりの木の人形を持ってくることに不自然さを覚えました。
p66では、チャイ屋のおばさんの子どもの形見と言えるレインコートなのに、失っても、そのことには全く心を向けていない様子(防水シートとしてしか考えていない様子)には、非常に違和感を覚えました。これは、訳文の問題ではなく、私がウェットなだけでしょうか。
訳文の問題と、作品の問題と、単に異文化の問題と、それぞれだと思います。全体としては子どもの生存権という観点から、この作品がどこにどういう風に資することができるのか……。インドという「遅れた国」の、「昔」の話として日本の子どもに消費されるだけで終わらないためには何が必要なのか、そういうことを考えて行く材料にはなるでしょうか。

しじみ71個分(メール参加):インドで路上生活を送る子どもたちの姿を描く物語でしたが、支援活動に携わる作家さんだけに、描写がリアルで、胸に迫りました。暴力をふるう父親から、障害のある姉を連れて逃げ出し、路上生活をする少年たちに出会いますが、この少年たちのキャラクターも、物語の中でのそれぞれの役割も明確で、物語に優しさや深みを与えていたと思います。こんなよい子たちにたまたま会えたのは出来過ぎな気もしますが、彼らとの出会いがなくて、もっと厳しい状況を体験するような展開になっていたら、リアルかもしれないけど、辛すぎて読み進めにくくなったかもしれないですね。ラクがデング熱で死んでしまうのも、大人を信用せず、誤った情報を信じ込み、力を借りなかった子どもらしい未熟な判断のためで、とても悲しく切ないのですが、それも大人が子どもを大切にしない現実が子どもを追い詰めた結果なので、重たい課題として胸に刺さりました。おそらく、実際には、この物語よりずっと悲惨な現実があるのだと思います。この物語を読んだ子どもたちが、作中の子どもたちを可哀想だと思うだけでは「施し」の視点でしかないので、作者後書きにあるように、子どもを大切にする世界を作るにはどうすればいいのかをわが事として考え、さらに知っていこうとするように、手渡す大人が繋げていかないといけないなと思いました。
障害のある姉のラクが自分の痛みや苦しみよりも先に人のそれを思う気高さは、とても魅力的ですが、そこには少し障害者の聖人化のニュアンスを感じつつも、この物語の中ではとても美しく、深みを与える大事な要素になっていて、私はとてもよかったと思いました。

(2023年08月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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西の果ての白馬

『西の果ての白馬』表紙
『西の果ての白馬』
マイケル・モーパーゴ/作 ないとうふみこ/訳
徳間書店
2023.03

アオジ:わたしは第一作の「巨人のネックレス」をSinging for Mrs.Pettigrew: A Storymaker’s Journey(Walker Books, 2007)というモーパーゴの短編集で既に読んでいたんです。タイトルにある『発電所のねむるまち』(あかね書房、2012)や『モーツァルトはおことわり』(岩崎書店、2010)等、邦訳されている作品を含む優れた短編を作者の言葉と共に載せている、とても良い短編集で、未訳の魅力的な短編も6つほど入っています。でも、「巨人のネックレス」だけはモーパーゴらしくなくて、なぜこんなに悲しい短編を書いたのか不思議に思っていました。女の子が好きなことを一所けんめいにやった結果がこれ?と思って。作者も、「子どものころゼナー近くの浜辺でタカラガイを集めた思い出から書いた」と述べているだけです。この短編は絵本にもなっており、amazonでは好意的なレビューもありますが、子どもに薦めたくないという意見もあります。という訳で、最初から素直な気持ちでは読みすすめられなかったというのが正直なところです。それに、2話から5話までの主人公が地元の自然のなかで生きている子どもたちなのに、ネックレスのチェリーは避暑でここに来ていた女の子なんですね。それで余計に疎外感を感じたのかもしれません。
「アザラシと泳いだ少年」も寂しいお話ですが、「西の果ての白馬」と「ネコにミルク」はさすがモーパーゴらしい、よくできた短編だと思いました。
訳文もなめらかだと思いましたが、「巨人のネックレス」のp36で、チェリーが「あなた、(溺れかけたひとを)たくさん助けたのね」というと、幽霊が「まあね。何人か」という。そのさみしそうな声にチェリーの胸がしめつけられて……という箇所ですが、“Singing for Mrs.Pettigrew”では、「何人か」と幽霊がうなずき、「何人か」と繰りかえす、その声が悲しそうなので、チェリーが元気づけようと思って……となっています。幽霊のほうはチェリーが死んでいるとわかっているのに、チェリーは気がついておらず幽霊を元気づけようと思っている……こういうところは本当に上手だなと思ったのですが。でも、モーパーゴは同じ作品を絵本にしたり、短編集のなかの一話として発表したものと単行本にしたものでは、文章を増やすなどして変えたりしているので、この部分も短編集にするときに変えたのかもしれませんね。

シマリス:とても魅力的な短編集でした。悲しいお話と、ハッピーエンドのお話の混ざり具合がいいな、と感じました。冒頭に「巨人のネックレス」があることで、次以降の作品も、ハッピーエンドとは限らない、とドキドキしながら読めました。「アザラシと泳いだ少年」は、今の時代だと、新しい作品として書きづらいかもしれないなと思います。モーパーゴであり、古い作品だから、許容されたのかなぁ、と。1982年に刊行されたものが、なぜ今のタイミングなのか、裏話をお聞きしたい気もしました。順番に読んでくれ、と書いてあるけれど、最後のお話だけ最後に読んでくれ、じゃだめなんですかね? 1つめから4つめまでの短編は、そんなに順番に読む必然性を感じなかったのですが、何か見落としているのかしら……。コーンウォール地方には行ったことがなくて、ネットで検索しました。頭のなかで想像していた風景とほぼ同じものが出てきて、うれしくなりました。コーンウォール地方に行かれた方がいたら、お話をうかがいたいです。

アオジ:児童文学の舞台としては、古いですけれど、スーザン・クーパーの『コーンウォールの聖杯』(武内孝夫訳 学研プラス、2002)がありますね。子どもたちアーサー王伝説にまつわる古文書を発見することから物語が始まると記憶していますが。コーンウォールは、ペンザンス、セントアイブス、エクセターなど何度か滞在したことがありますが、とても魅力的なところです。浜辺を歩いていて普通にアザラシに遭遇したり、沖にイルカが海水浴客と競争して泳いでいたりするようなところです。英国では唯一といっていいくらい陽光に恵まれたところなので、画家がおおぜい住んでいると聞きました。セントアイブスは、特に芸術家の集まっていたところで、バーナード・リーチの工房や、バーバラ・ヘップワースのアトリエ、テート・セントアイブスなどもあります。ヴァージニア・ウルフは、子どものころ休暇で滞在したセントアイブスの灯台を頭に描いて『灯台へ』を書いたといわれていますが、白く輝くその灯台を見て、時の流れと距離の関係が腑に落ちた(ような気がした!)のを覚えています。

サンザシ:私は、ロンドンで下宿させてもらっていた人がコーンウォールに山小屋をもっていて、2回はそこに行かせてもらったのと、1回は、友達と旅行で行きました。印象的だったのは、ゲール語系のコーンウォールの言葉を教育でも取り入れようとしていて、道路標識等も英語との併記になっていたことです。都会と違って荒々しいとも言える自然があって、アーサー王にまつわる場所もたくさんありました。

ルパン:この本ですが、どれもおもしろかったですが、やっぱり「巨人のネックレス」の読後感がよくなかったかな。海にとりのこされたチェリーの絶望感がつたわってきて、自分まで悲しくなりました。死んでしまったというのも残酷だし、その前に親は何していたんだとかも思っちゃって。海に子どもひとり残して帰るな、とか、なかなかもどってこなかったらすぐに迎えに行かなきゃ、とか。だから、つぎの「西の果ての白馬」も、きっと「一年と一日」の約束を忘れてひどいことになるんだろうと心配していたら、ちゃんと覚えていてよかったなと思いました。「ネコにミルク」も。さいごに「ミス・マーニー」を読んで、ああ、チェリーが死んだのはお話のなか、という設定なんだな、と思ってちょっとホッとしました。

ハル:私も、特に最初のお話なんか、昔話独特の気持ち悪さみたいなものも感じますし、どうしてあえてこのお話を……という気持ちもありますけれど、やっぱり、マイケル・モーパーゴってすごいなぁと思いました。伝承の、物語としての稚拙さを自然におぎないながら、1冊全体でエンターテインメントとしてきれいにまとまっている感じがしました。佐竹美保さんのカバーイラストも、特に表4、裏表紙側のイラスト(これは……何かちょっとわからなかったけど)に、いつもに増した凄みを感じます。

西山:私もこの「巨人のネックレス」のラストはショックでした。この展開はまったく予測していなくて不意打ちという感じです。そして、とにかく順番通りに読んでいくと、「巨人のネックレス」から始まっていなかったら、他の作品をここまでひやひやドキドキしながら読まなかったろうと思いました。また、残念なことになるんじゃないか、こわいことになるんじゃないかと油断できませんでしたね。してやられたという感じです。ですから最初と最後は不動で後は入れ替わっても大丈夫なのかなと。「アザラシと泳いだ少年」は、たしかに異様で不穏なイメージも覆っているのですが、たとえばp103のアザラシがぬっとあらわれて見つめあう場面や、p114のアザラシの面談の場面など、目に浮かんで笑えてくるほど好きでした。他の作品でも、動物の描写がゆかいで、『やまの動物病院』とペアにしたのはこういうことか! と勝手に納得していました。「ネコにミルク」の最後「いま話したら、きっとおまえは信じるだろうが、大人になってそのお話がほんとうに大切になるとき、信じようとしなくなるかもしれない」という言葉がとても新鮮でした。こういう言い伝えに幼いときに触れてそれを信じることはよいこと、という価値観を持っていたことに気づかされました。それにしても、ノッカーはなんて気がいいんでしょうね。

サンザシ:どのお話もおもしろく読みました。最初の「巨人のネックレス」の主人公が死んでいるとわかるところはびっくりしましたが、嫌だとは思いませんでした。コーンウォールは、伝説や昔話がいっぱいある場所なので。たしか「ゼナーのチェリー」という伝説もあったかと。モーパーゴはそういうのを下敷きにしているのかもしれませんし、普通に私たちが考える死とは違う部分もあるかもしれません。鉱山にいる親子も、生きている人たちのすぐとなりにいて、生きている者たちを見守っているみたいだし。2つ目の話と4つ目の話は、やっぱりこの順番で読むべきでしょう。以前は妖精やこびとを信じて折り合いをつけるのが大事だと考えていた人たちもたくさんいたのに、時代が下ると、そういう人は希少になると言っているので。ストーリーテラーとしてのうまさということで言うと、モーパーゴは随所に本筋とは一見関係がないエピソードを入れて、それぞれの人の暮らしの片鱗を垣間見せ、短いストーリーの中でも人物をうまく浮かび上がらせています。「巨人のネックレス」でも、4人の兄たちとチェリーのやりとりなどを入れて、物語に深みを持たせています。「西の果ての白馬」では、ノッカーという妖精がもたらした幸運だけではなく、村人たちの心配りも書いて、ベルーナさんが働き者で信望も厚いということを浮かび上がらせています。また、ノッカーから借りた馬との別れがつらいことを、「ペガサスの背にまたがったまましばらくいっしょに海をながめた」という文章で表現しています。「アザラシと泳いだ少年」では、すでに話に出ていますが、アザラシに話しかけたりする場面を入れることで、ウィリアムの人となりをあらわし、読者が感情移入できるようにしています。「ネコのミルク」では、さっき西山さんもおっしゃいましたが、「いま話したら、きっとおまえは信じるだろうが、大人になってそのお話がほんとうに大切になる時、信じようとしなくなるかもしれない」(p152)という部分に、モーパーゴらしさを感じました。世の常識やステレオタイプを超えた知恵を子どもに伝えようとしているのかな、と。
全体をとおして、超自然的な要素が登場し、数や効率や論理では割り切れないものが確かにあること、それを畏敬する感覚を子どもにも伝えようとしているのだと感じました。
「最後の一編を読んだとき、すべてのつながりが明らかになる」と訳者あとがきにありますが、1回読んだだけでは「すべて」のつながりは、まだよくわかりませんでした。それと、「はじめに」には、「この本に書いたのは昔話ではない」という著者の言葉があるので、モーパーゴが書いたのだと思って読み始めると、最後は、どの話もミス・マーニーが書いたということになっていて、物語世界の中に矛盾が生じていると思ってしまいました。

アンヌ:私も最初の「巨人のネックレス」の少女の死にショックを受けたのですが、前書きに順番に読んでほしいとあり出版社の内容解説にも「順番に最後まで読むとこころあたたまる」とあったので、きっと最後には大どんでん返しがあってチェリーが生き返るんじゃないか、それならどういう話になるんだろうとあれこれ想像しながら読んでいったので、最後まで読んで、がっかりしてしまいました。「アザラシと泳いだ少年」は主人公が幸福になった話とも読めますが、『ケルト民話集』(フィオナ・マクラウド著 荒俣宏訳 ちくま文庫)の「神の裁き」にある、アザラシになってしまった男の恐ろしい民話が背後にあるようで、異界に行ってしまった少年の物語として心がひやりとしました。だから、ノームを救ったり友達になったりする楽しい「西の果ての白馬」についても、いつかはアニーが白馬に乗ったまま海に入って帰れなくなるんじゃないかとか心配しています。「ネコにミルク」のノームは本当に農民に親切で、同じ土地に住んでいる者同士として環境を保全していくという作者のメッセージを感じましたが、ちょっとノームが自分で説明しすぎとも思いました。「ミス・マーニー」では、ケイトがおもしろい子で楽しい物語でしたが、マーニーの異能もいつかまた社会の中で排除される時が来るだろうなと感じ、全体を読み終わっても心温まるとは言えない感じがしました。翻訳で気になったのがp144の「お牛」で、一瞬なぜ丁寧語なんだろうと思いました。ここは「牡牛」にふりがなでいいと思います。

繁内:モーパーゴは結構、テーマ性がいつも強い作家だと思って読むんですけど。この作品は、ケルト文化のファンタジー要素がもとになっているので、物語としての豊かさがとても感じられる連作短編になっていると思います。「巨人のネックレス」で、確かにチェリーが死んでしまうのは、もうほんとにかわいそうなんですけど、チェリーが遭難するシーンとかが、すごい迫力があるなと思って。どの短編もそうなんですが、1回目に読むのと2回目に読むのとでは、おもしろさが違いました。チェリーの物語も1回目に読んだときは、最後まで死んでると思わなかったんですけど、2回目に読むと、ある時点から幽霊になってしまっているという小さな伏線がいっぱい書かれていて、そういう伏線の張り方を2回目に読む楽しみがありました。確かにチェリーが死んでしまうのはとてもつらいことなんですけど、これが最初に書かれていることでコーンウォールという場所自体が、なんだか生と死のあわいっていうんですか、境界線上のような場所だということを提示する役割になっているのではと。チェリーが壁を上りながら、集めた貝を、どこに置いたのは捜索隊が壁の途中で見つけているから、そこまでは生きてる。でも、どこで死んでしまったのか、ほんとうは定かではない。チェリーという、読み手には身近な感じの女の子が、ふっと、生と死のあわいというか、神話の強い磁場みたいなところに取り込まれてしまうということが、この物語全体のひとつの大きな伏線になっているのではと思いながら読みました。「西の果ての白馬」は、タイトルになっているんですけど、典型的な、なんというか、妖精に贈り物をして、それを返してくれるという話なんですけど。ノッカーは土地の顕現するものというか。土地の表しているもののような気がして。自然の力といっしょに生きるということを象徴していることが2番目に書かれていて、それが4番目の「ネコにミルク」と対になっているというところが、やっぱり上手だなと思いました。
「ネコにミルク」で、除草剤、殺虫剤をまかないでほしいというところも、モーパーゴらしい。環境問題にすごく関心があると思うので。さっき、サンザシさんもおっしゃってましたけど、時代とともに、土地とのつながりが薄れてしまうという、モーパーゴのひとつの問いかけなんだろうなと思いました。p135で、土地は誰のものでもない、生きているあいだ、この土地を拝借しているだけなのだ、というところが、いろんな意味で心にしみました。モーバーゴは原発の問題も取り上げてるので、土地についても強い思いがあるんだなと。「アザラシと泳いだ少年」も、辛いお話なんですけど。人間の世界で生きづらいウィリアムが、アザラシの世界にいってしまうんですが、これはセルキー神話ですよね。アザラシの皮をかぶったらアザラシになって、脱いだら人間になるっていう。障がいのある者への深い差別感が描かれているのでは。多分、土地との繋がりが深くて、地元にずっと生きてる人たちが、繋がりが強い分、違う人に対しては排斥しがちになる、というところがうまく書かれていると思うんです。お父さんがウィリアムを見下す気持ちの底に、男らしさっていうのか、自分がウィリアムの姿を見るたびに、自分が男としても人間としてもダメな奴だと思い知らされるような気がしてあまり関わらないようになるって書かれてるんですが、なんかこう、男らしさとかって、人間界の神話じゃないですか。人間の世界の思い込みや神話にとらわれているうちに、息子をあっちの世界に追いやってしまう切なさがあるなって。
いろんなおとぎ話の中に今の社会に対する批判も、取り入れているのも、モーパーゴらしいです。最後の「ミス・マーニー」は、さっきサンザシさんが、ミス・マーニーとモーパーゴと、作者がふたりいるんじゃないかとおっしゃっていましたけど、ミス・マーニーは女の人なんですけど、モーパーゴの分身の分身のような気がして。モーパーゴが分身として、この地にやってきて、語った物語が、この連作短編なんじゃないかなっていう風に思いながら読みました。マーニーが心の目で見たこの村のことが、モーパーゴが自分の胸に住まわせている、この土地への思いが集まったものがマーニーであって、彼女に語らせてるけど、本当はモーパーゴが語っているというか。分身じゃないかなと思いました。全体として、人間の豊かさは何なんですか、という問いかけがあるように思いました。今の時代しか見ない人に対して、それは豊かじゃないんじゃないかっていう、神話とか土地の歴史とか、厚みとか、それを子どもたちにミス・マーニーが受け継いで語っていくというのは、過去から未来への受け継ぎじゃないかと思いながら読みました。

wind24:今回紹介していただかなかったら読まなかった書籍かもしれません。良い機会をいただきありがとうございます。みなさんが言われるように、生と死の境界線がなく、さまざまないのちが交差した世界観だと思いました。
私の友人がコーンウォールにも近い南部デボン州のダートムーア国立公園内でペンションを営んでおり、数日でしたが滞在する機会がありました。荒涼とした原野や湿地、少し行けば赤土の崖がそびえる海が広がっていて霧が発生しやすく、その雰囲気が奇々怪々としていて多くの妖精伝説や魔女伝説があるのも納得の風土でした。
「巨人のネックレス」は、私も最後の最後までチェリーは生きていると信じて読み進めましたので、あっ、そうなんだ、と。この世の人ではなくなったチェリーに驚いたとともに、残念な気持ちでした。映画「シックスセンス」を彷彿とさせ、日本人の死者の描き方とはちがうなぁと感じました。また鉱山で出会う炭鉱夫の幽霊の会話文が少し耳障りでしたので、訳者が違えばどのような文体にされるかのかと思ったりしました。
この本に限っては順番通りに読んでくれと何度か書かれていたので、どんなどんでん返しが待っているのだろうか、と期待しながら読みましたが、「ミス・マーニー」は案外拍子抜けする展開でした。でもp195、おしまいにマーニーがケイトに「時間がなくてまだ書いていない物語がある。ミス・マーニーという変わり者のおばあさんのおはなしさ」といったことが書かれていて、モーパーゴさんのストーリーテラーとしての優れた一面をみた思いです。
印象に残っているのは「ネコにミルク」で好き勝手をするトーマスに老人が言うセリフがあります。「土地はだれのものでもない。おまえさんのものでも、わしらのものでもない。わしらはただ、生きているあいだこの土地を拝借しているだけなのだ。そしてまたつぎの者にひきわたすんじゃよ」。(p134)これはネイティブ・アメリカンはじめ多くの先住民族に共通する考え方。SDGsにも通じるこの知恵を今一度掘り起こし、次の世代に引き継いでいきたいと思いました。

花散里:中等部高等部の学校図書館に勤務しています。国語の授業でなるべく長編小説を読んでほしいという取り組みがあり、長編小説になかなか手の届かない生徒たちに短編小説を手渡したいという依頼を受けました。日本の短編小説、古典から新刊本、外国文学からも選書を行い、この『西の果ての白馬』も選びました。教員が広い机に短編小説を面出しして、テーマごとに並べたのですが、この作品はタイトルや佐竹美保さんの表紙画が良かったのか、借りられていました。5編の短編集の中から、「西の果ての白馬」がタイトルに選ばれたのがよかったのかと思いました。本書が刊行されてすぐに読みましたが、今回、読み返して、「西の果ての白馬」と最後の「ミス・マーニー」が強く印象に残りました。特に「ミス・マーニー」にはモーパーゴの作品に対する思いが詰まっていると感じました。『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会発行)の編集を担当していますが、特集の「作品世界」に外国の作家として初めてモーパーゴを取り上げました(№431 2018年9・10月号)。その特集の中で、日本に翻訳されていない作品が多いということを記していただきました。本作も1982年の作品ですが、刊行されて本当によかったと思います。モーパーゴの作品には戦争を背景とした物語が多いのですが、本作のような妖精や幽霊など、昔話のおもしろさを描いたものも秀逸で、読み応えがあると思いました。「ネコにミルク」に書かれた 殺虫剤の使用についてなどを読んでいて、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著 新潮社他)第9章「死の川」で、DDT撒布でサケが大量に死んでしまったことなどを思い返しました。モーパーゴの伝えたいと思うこと、環境問題についてなども、どのように作品を子どもたちに手渡していくのかということも考えました。「アザラシと泳いだ少年」は、あまり印象に残っていなかったのですが、読み返してみて、いじめ、身体的な障害、海に入ったときに泳げるようになったことなど、「自分はアザラシに救われた」ということが、子どもたちに勇気を与えているのではないか、と感じました。外国の作品は、「知らない世界を知る」ということからも、子どもたちが読むことの意義は大きいと思います。本作の5編とも、子どもたちは心を寄せながら読めるのではないかと思います。短編の良さが詰まっている作品として、子どもたちに手渡して行きたいと思います。

雪割草:おもしろかったです。モーパーゴのストーリーテラーとしての巧みな語りに引き込まれました。それぞれのお話がゆるくつながっている、とモーパーゴのまえがきに書かれていたけれど、2、4、5話のつながり以外はよくわかりませんでした。個人的には、白馬やアザラシなど動物が出てくる話が好きでした。どのお話にも子どもが出てきて、おとなよりも自然に近い存在として描かれていると思いました。子どもたちは生きものへの愛情があって、心が通い合うさまがよく描かれていてよかったです。今の子どもも、こういうところに共感できたらいいなと思います。原書の初版は40年前のようですが、なんで今出したのか知りたいと思いました。土地に根ざした民話は、日本にもたくさんあると思うので、子ども向けによい作品が出たらいいなと思います。

コアラ:私も、原書は1982年刊行で40年前の本なので、どうして今出版したのかな、と思いました。でも、今読んでも、パソコンとかスマホとかテレビとか、時代をあらわすような「物」が出てこないので、古びることのない物語になっていると思います。全編にわたって、生き物に対する愛情や、自然を人間の支配下に置くのではなく共存するというような眼差しが感じられて、読んでいてやわらかい気持ちになりました。「はじめに」の最後に「順番どおりに読んでほしい」とあるので、どんな仕掛けが最後に待っているのかと楽しみにしていたのですが、ミス・マーニーのお話だった、というのは、ちょっと拍子抜けするものでした。p180で、ミス・マーニーがケイトに最初に話して聞かせた物語は、「巨人のネックレス」だけれど、翌日に話して聞かせた物語は、アザラシと少年の話で、この短編集では3番目になっています。話して聞かせた順番にはなっていないようなので、気になりました。結局「順番どおりに読んでほしい」というのはどういう意味なのか、自分なりにつながりを読み取っていきましたが、作者の意図がわかったかどうかいまいち自信がないままでした。でも、今みなさんのお話を聞いて、「巨人のネックレス」を最初にもってきたりとか、いろいろよく考えられているんだろうなと思いました。

さららん:「巨人のネックレス」、「西の果ての白馬」、「アザラシと泳いだ少年」……と、作者の言葉通り順番ごとに読み進むうち、体ごと、コーンウォールのゼナーの世界にもっていかれた印象がありました。なかでも印象が強かったのは、「巨人のネックレス」です。チェリーは死んでいるんだろうと途中でわかってきたけれど、私自身は嫌な感じというより、現実と伝承のあわいの、不思議な世界に投げ込まれた感じがしました。貝をつないで巨人のネックレスをつくる行為そのものに作者は象徴的な意味をこめたのかもしれない、そんなふうにも思えます――これからさまざまな話をつないでゼナーの自然(=巨人)に捧げる、というような。独特の地形や海の中から現れる不思議な存在がゼナーと言う未知の場所を形作り、陰影もふくめて、子どもの読者に出会ってほしい世界です。訳もこなれていて読みやすいのですが、「ネコにミルク」の章のp140「め牛」とp144「お牛」の表記で、おや?と思い、ここは「雌牛」「雄牛」にしてルビを振るなど別の選択肢もあったかも、と思いました。この章では、「牛たちが、じぶんの乳房をいきおくよく吸って乳を飲んでいたのだ」(p137)という描写がおもしろく、「ありえない!」と思いながら、牛の格好を想像して笑ってしまいました。調べないとわかりませんが、牛の乳の出が悪いとき、土地の人たちが言い合うお気に入りの冗談なのかもしません。人間にとっての悲劇をまえに、「ごぞんじのとおり、農場ではよくあることじゃ」(p145)と、しゃあしゃあといってのけるノッカーにはふてぶてしいユーモアさえあり、そんな細部にもモーパーゴのストーリーテラーとしての手腕を感じます。

しじみ71個分:モーバーゴは本当に物語がうまいなあと思います。今回も感服しました。前書きから話が進んでいくのは、『最後のオオカミ』(はらるい訳 文研出版)でも使われていた手法だと思います。その時は、モーパーゴと思しきマイケル・マクロードなる人物が孫娘にパソコンを教えてもらって家系について調べたら、ひいひいひいひいひいひいじいさんの回想録が見つかった、というところから物語を始めていますが、同じようにモーパーゴ自身のような人物を置いて、あたかも現実の問題から歴史や物語を紐解いていくようなスタイルが共通していると思います。それによって、読む人が現実のような現代の話から境界線や時代を緩やかに超えて、フィクションの世界に自然に没入していくことができるわけで、モーパーゴ自身を語り部として物語とフィクションをつないで行っているように思います。「巨人のネックレス」では、人の生き死にが、わりとそっけなく投げ出されている感じが、昔話や伝説の再話と同じような印象を与えます。遠野物語に共通しているようなところがあると思いました。昔話の中には、登場人物が死んでしまったのか、それとも行方不明になったのか、突き詰めて明確に描かず、不思議を不思議のまま残していく話もあります。この出だしの物語が、会話を現代調にすることで、リアリティを増しながら、昔話的世界にいきなり入って行かせる役割を果たしているように思いました。遠野もそうですが、このゼナーという土地も、おそらく厳しい自然との結びつきが強くて、こういう不思議な話がそこかしこに存在する場所なのではないかと思いました。厳しい自然とともに生きるところに、自然への怖れや敬意が生まれ、物語が残るというのは現代にも共通するものではないかなと思います。

(2023年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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あした、弁当を作る。

男の子が弁当を食べている絵の表紙画
『あした、弁当を作る。』
ひこ・田中/著
講談社
2023.03

すあま:読んだ後の率直な感想としては、おもしろくなかった。主人公と非常に古臭い考え方を持つ両親との会話が平行線でかみ合わないまま、ずっと続いていくのを読み続けるのが辛かったからです。大人対子どもの構図も日本の児童文学によくある感じで、もうちょっといい大人、ちゃんとした大人に登場してほしかった。主人公の友だちは、みんな主人公の気持ちや状況をわかってくれるけれど、それぞれの個性が見えないというか、だれがだれだか途中でわからなくなり、女の子たち3人は、3人いる必要があったのかな、と思いました。

さららん:しばらく前に読んだので、忘れているところもありますが、おもしろいなと思ったのは、主人公が、お弁当の冷凍食品の買い方や、おかずの作り方など、友だちのアドバイスでだんだんうまくなっていくところ。中学生の男の子の、身の丈にあった生活感に好感を持ちました。封建的な父親と、父親にいいなりの、子どもの世話を生きがいにしている母親の在り方はステレオタイプで、ひこさんがふだん描く両親の在り方と全くちがっています。私は、ひこさん的な、子どもを対等な存在として接する両親が大好きなんですが、この物語は自立がテーマなので、あえて古いタイプの両親を出したんじゃないかな。うちの両親も(ここまで露骨じゃないけれど)かなり封建的だったので、そんな中でどう主人公が自立していくか、応援するような気持ちで読みました。彼は決してめげずに、また自暴自棄にも陥らず、自分を保ってよく闘っていると思うし、この両親と共に暮らしていく以上、いくじがない闘いかもしれないけれど、弁当作りは(そして洗濯も)ずっと続けていくんでしょう。立ちはだかる「壁」にボールを投げては受け取り、投げては受け取りしながら、子どもは子どもなりに成長していく。これまでのひこさんの作品とは違うけれど、共感を覚える子はきっといると思うのです。

コアラ:まず、カバーの袖の文を読んで、あまりピンとこないな、と思いました。読み始めても共感できないままで、主人公のタツキの姿が全く立ち上がってこない。最後まで、どの登場人物も、体温のある生身の人間という感じがしませんでした。たとえば、p136〜p137のタツキとカホの会話。タツキが、母親に触られたくなかったこと、気持ちが悪かったことをカホに話し、「どうしてだろう」とカホに聞きます。カホが、お母さんから自立したいからだと指摘すると、「母親からの自立?」とタツキが驚きます。中1にもなって、子どもから大人になる時期に自分がいる、という発想をしていなかったタツキに、どうしても違和感があって、リアルさが感じられませんでした。親を疎ましく思う反抗期の感覚と、男女の役割分担の問題、子どもを支配する親の問題などが、書かれてはいるけれども、ストーリーになっていない感じがしました。ただ、最近の子どもはやさしいし、人を傷つけたくない、特に親を傷つけたくない、と思っている子が、そう思ったまま反抗期に突入したら、親を疎ましく思う感情と、傷つけたくないという気持ちとで、引き裂かれてつらいかもしれない、とは思いました。親に対する反発が芽生えてくる時期を、荒れる様子で描くのではなく、弁当を作ったり洗濯を自分でしたりするという、自立の方向で描く、というのは、アイディアとしてはおもしろいけれど、この作品については、物語として私はおもしろいとは思えませんでした。そのなかで、装丁のタイトルの書体は、うまく表しているなあと思いました。

ハル:ちょうど最近、何の記事だったか、「子どもの反抗期がなくなっている」という記事を読んで(親側に理解がありすぎて、子どもは反抗する理由がない、という内容でした)、ほんとかなぁとは思いながらも、そう言われてみると、児童文学の中でも、最近は「親子の絆」「きょうだいの絆」が強くて、会話も多くて愛があって、意見が食い違ったとしてもきちんと対話できる素直な子か、よっぽどひりひりする内容で、家族が崩壊していて達観している子かのどちらかで、いわゆる普通の家庭だけど、理由もなく親が嫌いで、話しかけられるといらっとくる、という子は見かけず、ほんとに反抗期ってないのかも? と思っていたところでした。なので、ある朝、いつものように母親に背中を触られたらぞくっときた、という描写に、きたー! とわくわくしたのですが、読み進めてみると、この家の親があまりに気持ち悪すぎて、残念でした。これは、逃げなきゃいけないやつ。もっと自然な、みんなが通る道(でもないのかもしれませんが)の反抗期を読みたかったです。もしかして、これは、反抗期じゃなくて、虐待を描いているのでしょうか?

スズメ:私は、とっても面白い作品だと思いました。さすがひこさん、上手いなあと。子どもたちの会話も生き生きしているし、「後ろ向きに歩く」っていうのがたびたび出てきて、そうそう、大人ってぜったい後ろ向きに歩かないけど、子どものころはそうだったなあと思いだしました。この登校のときにいっしょになる3人の友だちが、「マクベス」の3人の魔女みたいに、良いアクセントになっていて、それでいて魔女たちと違って、ちゃんと意味のある言葉を吐いて狂言回しの役目も果たしている。見事だなあと思いました。それでいて、子どもたちの姿かたちや服装などは詳しく描写せずに、お弁当の中身や、主人公の家の父親がいるときは7品、8品の豪華版、母と子だけのときは2品の食事は、目に見えるようにくっきりと詳しく描いている。こういうところも上手いと思いました。 ただ、作者の考えがあるのだろうとは思いましたが、主人公の親が「いつの時代のひと?」と思うほど古めかしいのが気になりました。読者のなかには、おもしろく読んだあとで「うちの親は、これほどじゃないよ」とか、「お弁当作りがお母さんの楽しみなんだから、奪うこともないんじゃない?」という感想をいだくだけで終わりになってしまう人がいるんじゃないかな。物語のなかには、作者が「こういう世界を作ったから、見にきて!」と誘いこむ作品と、「これ、どう思う?」と読者に問いかける作品があると思うけど、これは後者だと思うんですね。だから、ぜひグループで読んで、いろんな感想を出しあって、いろんなことに気づいてほしいと思いました。

オカリナ:おもしろく読めるし、時系列が一直線なのでわかりやすいといえばわかりやすいのですが、ワンテーマでこれだけ一直線に長々とていねいに書かれると、途中で飽きる読者も出てくるかも。たとえば『住所、不定』(スーザン・ニールセン作 長友恵子訳 岩波書店)では、なんだかわからないところから始まって、それが徐々にときほぐされていく、読ませる構成になっています。そういう工夫はあえてしていないのでしょうか。この作品では、親にかわいがられて、それに甘んじていた少年が、それを不気味だと思うようになる過程もていねいに描かれています。ただ、暮らしという観点から見ると、家事をやるとしても深くは考えずにただやってきた男性が書いたものという気がどうしても少ししてしまいました。たとえば冷凍食品は、味がどうこうという前に、農薬、添加物などの問題もあるし、この本では、洗濯も白物と色物をわけていないのはともかく、洗剤、柔軟剤、漂白剤を当然のように使っています。どうせ書くなら、そのあたりをも作者が意識を広げたうえで書いてほしかったなあ、と思ってしまったんですね。それと、お弁当は、アメリカとかヨーロッパだと、パンにハムをはさむとかピーナツバターをはさむとかして、あとはリンゴなどですます、簡単なランチボックスが多いですよね。日本は、きちんとかわいく作りすぎているかも。タツキにも、まったく違うものを作るという発想はないんですよね。

しじみ71個分:好きか嫌いかというと、そんなに好きなタイプの物語ではないですけれど、読んで本当におもしろいと思いました。母親にさわられて、体がゾクッと気持ち悪さを感じてしまう、というところなどは、私にとっては「気持ちわるっ!」とてもリアルに感じられて、「わー、ひこさん、すごい!!」と思いました。なんで、そんな気持ち悪いお母さん像が描かれているのかと思っているうちに、もっと気持ち悪いお父さん像がさらに描かれて、これまたすごいことになって、心臓に悪いなぁと思いながら読みました。この家族は既に内面的には崩壊しているし、お母さんもアイデンティティを見失って、夫と息子に依存して生きているわけですよね。なので、弁当を自分で作るというのは、母の弁当に象徴される支配を脱却して、生きるための闘いなんだろうと私は受け止めて読みました。弁当を自分で作る、自分で自分のものを洗濯すると宣言してからの、主人公龍樹の闘いというのが、ほんとすごくて、家庭内でネチネチネチネチと交わされる会話がすごい!もー、ホントにひこさんすごいと思いました。もうちょっと若い人の観点でこの物語を作ったら、父親は暴力をふるうだろうし、子どももバットを持ち出して、家庭が崩壊していく様子を描きそうなものですが、微妙な心の機微をずーっと追って、少年の自立を描いていくこの作品は、そういうのとは一線を画していると思います。それと、この物語を読み終わって、あ、親のことを嫌いでもいいんだ、ずっと好きていなくていいんだと、許されたような解放感を覚えました。両親たちを恨み、亡き者としなくても、嫌いなら嫌いなままで、なんとなく生きていくっていうのもありなんだと。これは、けっこう、多くの子どもたちの救いになるんじゃないかなと思います。親から解放される術として、弁当をつくり、洗濯をして、静かに抵抗するというのは、けっこうすごいことだし、やりきって偉いですよね。母親からも最後には「手際がよくなった」などと認める発言を引き出すまでになっています。お友だちがコントみたいに出てくるのも、場面展開としていいなと思いますし、友だちが繰り返し出てきては、「後ろ向いて歩くのはやめなよ」とか、友だちと幼馴染の定義とか、同じような発言や行動を重ねていくあたりは、コントのような、定番の安心感を生んでいます。人物を絞り込んでデフォルメして、生活のリアルから少し離れた感を出しつつ、内面描写に凝縮していく展開は、濃密に煮込んだ舞台や戯曲のようだと感じました。

きなこみみ:この作品は、とても身につまされて読みました。『住所、不定』よりも、こっちのほうが私にはリアルっていうか。このお父さんとお母さん、確かにとっても気持ち悪いんですけど、このお母さんの気持ち悪さは私も自分のなかに持っているし、他人事ではない感じなんです。デフォルメはされているんですけど、家父長制の権化のようなお父さんと、その価値観を内面化しているお母さん。でも家父長制の病理って、まだ日本の中にはすごく根強くあるし、日常に深く深く食い込んでいると思うんです。一見何も問題ないように見えている家庭のなかのレイシズムとか家父長制の暴力的なところとか、初めに主人公のタツキがぞくっとする感覚って、言葉にはならなくても、子どもの鋭い感受性がそれを感じたんじゃないかなと。この子は、あれ、おかしいな、と思う自分の中の感覚を見据えて、体で感じた違和感と向かい合って、なんとか言語化しようとします。この作品は、「家父長制」という言葉も、「フェミニズム」という言葉も使わないで、日常のなかに、おかしいことこんなにあるよね、と見せてくれる。p202で、タツキの友だちが、「弁当を作る男子は変わっていて、女子は普通だと思っているんだよ。多くの男子はそうだよ」と気づくシーンがあるんです。これは無意識のマイクロアグレッション、日常に埋め込まれている無自覚な差別です。これは、家庭もそうだし、社会にも、もしかしたら都会よりも地方にいくほど、それは非常に強く残っているかもしれません。この物語はそういうものを、可視化したものだなと、ひこさんの非常に野心的な作品だと思いながら読みました。この家庭がどこか嘘っぽいのは、母親っていう役割、父親っていう役割、子どもっていう役割を、ずっと演じ続けてきたせいかなと思います。p15で、「鏡に映っている自分の顔を見たとき、どんな表情をすればいいか困ってしまうのだ。無表情でいればいいのだろうけれど、それではいけないような気持ちになってしまう」とあるのは、そういうことなんじゃないかなと。タツキの両親に、全く言葉が通じない感じって、日本の今の政府に似ているように思うんです。父親が、タツキが弁当作りをやめないなら、小遣いをとめる、というんですね。これって、マイナカードを使わない自治体は交付金も減らしちゃいますよ、保険証も廃止しちゃいますよ、使わない人は診療費高くなるからね~、っていうのと一緒の発想やん、と思っちゃいました。あなたたちこういうもん、こういう病理持っているでしょと、日本人につきつけられてるように思って、変な話、ちょっと興奮しながら読みました。

雪割草:率直にいってお母さんが怖く、お父さんは亭主関白で、「ぼく」も自立と言いながら母親にあまり強く言えなく中途半端で、なかなか入り込めませんでした。自分で洗濯するといっても洗濯機を使うわけで、お弁当を作るにも冷凍食品、家族が少ないのに自分だけ好きにするのはわがままに思えてしまいました。洗濯に洗剤、漂白剤、柔軟剤を使うのは、人にも環境にも悪く、当たり前のように書かないでほしかったです。ジェンダーや家族の問題を描きたくて、そのアイディアからはじまったのかなと思うほど、作品の印象がそのテーマに引っ張られました。子どもたちが、女と男に対する常識についてやりとりするところも、理屈っぽく感じました。よかったところをあげるなら、子どもも意見してよいことをはっきり書いているところです。敢えての設定だとしても、この親は私と同年代なわけで、こんな親はいるだろうか、古いのではと思いました。

アンヌ:おいしいお弁当を作る話かと思って読み始めたら、全然違うお話でした。親の作るお弁当が嫌ならば、まずは最低限の空腹を満たすために梅干し入りのおにぎりを握って家を飛び出すとかすると思うのですが、この物語では冷凍食品を組み合わせて母親が作るような「おかず入りのお弁当」を作って見せます。なんだか、お弁当がとても象徴的で、空腹を満たすものではないことに気味の悪さを感じました。しかも、そのお弁当に入れるご飯は自分で炊くわけではないし、家にある材料や調味料は使う。自立的な行為としては中途半端だと思います。さらに、母親の作るお菓子はとてもおいしそうなのに、母親の人間性を表す小道具として扱われていたりして、食べ物への嫌悪感が強くて、読み続けるのがつらい気分がしました。けれども後半、一方的な会話ではありますが、親と話すことで、タツキは父親を意地悪している子供みたいだとか、母親は自分をいつまでも小さい子供にしておきたいんだとか判断していき、自立したい自分というものをしっかり自覚することができるようになるので、ほっとしました。

まめじか:ジェンダーステレオタイプや不均衡について考えさせる作品として、おもしろく読みました。こんなにはっきり見える形ではないとしても、日本の社会の中に根強くあることだと思うので。主人公が母親に背中をふれられてゾクッとしたり、母親のつくったお弁当をプレッシャーに感じて気分が悪くなったり、母親と話すネタをためていたりするのがリアルでした。ひこさんの作品は、ものわかりのいい、友だちのような親がよく出てきますが、この作品はそうではないのがこれまでとは違いますね。親の描写については、極端だという意見も先ほどありましたが、これまで親の支配下にあった主人公がそこからぬけだそうとする過程を描く上で、必要な設定ではないかと思います。経済力で家族をコントロールしようとする父親の横暴さ、父親に従うことに甘んじている母親のずるさに気づきながら、自分はどんな大人になりたいかと考える主人公がたのもしく感じられました。

ANNE:ひこ・田中さんの作品は、小学生の男の子の初恋と性に関する戸惑いをテーマにした『ごめん』が印象に残っているのですが、このお話はまた違った味わいでおもしろく読みました。中学1年生の男の子の親離れのきっかけは「お弁当」ですが、私が住んでいる地域では中学生が毎日お弁当を持っていくという状況がまずないので、そこをうまく思い浮かべられませんでした。「男は仕事、女は家庭」というお父さんと、家族の世話をすることが生きがいのようなお母さんが、あまりにもステレオタイプ過ぎて少し違和感もありました。子どものおやつにシューを焼いて、食べる分だけクリームを詰めてくれるお母さんなんて実際にいるのかしら?お母さんに「今日、学校はどうだった?」と聞かれたときのために、学校でのエピソードが複数あった日は一つだけ話してあとはストックしておくという技にもちょっと笑えました。毎日一緒に登校する友人たちとの会話や、隣の席の女の子とのやり取りなどが少し理屈っぽいなとも思ったのですが、読後感はとても良かったです。

マリーナ:専業主婦で、子どもの世話に全力を尽くすお母さん、というのが、今の児童書では少なくなってきているので、新鮮でした。思春期の男の子の心情がとてもよくわかって、ああ、なるほど、と思うことが多かったです。一つだけ気になったのは、地の文の父、母の表現が「父親、母親」に統一されていたことです。友だちとの会話も、ほとんどそうだったかと思います。でも、「お父さん」「父さん」「親父」「父」などいろんな表現があると思うので、全部が同じというのは、若干違和感がありました。主人公も、自立に目覚めるまでは、「お母さん」などの言い方でもよかったんじゃないかと。

ニャニャンガ:興味深く読んだものの、母親が中学1年生の息子にべったりなのを気持ち悪く感じてしまいました。主人公のタツキが母親に触れられるのを嫌がるようになったのは自然な流れだと思いますが、個人差はあれど中学生というのは少し遅いように感じました。それだけタツキは箱入り息子だったのかもしれません。ただ物語は、タツキの視点で語られているので、もしかしたら母親はひとりのときは自分の趣味などを楽しんでいるのかもしれないと想像してみたのですが無理があるでしょうか。父親が言葉で息子を追い詰める感じは、『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の父親を思い出すほど怖かったです。両親の反対を押し切り自分で考え行動していくタツキには成長を感じました。

ネズミ:これまでのひこさんの作品は、いつも今ふうの両親だったので、この作品を読んだときまず、めずらしいなと思いました。主人公は内心穏やかではないのに、表面的には親の言うことにうなずいて、波風を立てない態度をとるのですが、そのたびに「ぼくは最低の人間かもしれない」「父親を軽蔑した。軽蔑する自分が怖かった」というふうに、身を削られていくんですね。管理され、支配下におかれている人間が、いかに身を削られ、発言できなくなっていくかが如実に描かれ、すごいと思いました。それでも、お弁当を作らずにいられない。タツキが、自分に対してと父親に対してとで違うことをいう母親や、前の発言と食い違う論理で叱る父親の矛盾を、しつこいほど追求していくのを読んで、大人だっておかしいところがあるし「ノー」と声をあげてもいいんだよ、男だって料理したって洗濯したっておかしくないよと、作者が読者を励ましているように感じられました。

オカリナ:この両親は、ひどすぎますよね。だから、読んだ子どもは、逆にうちはここまでじゃないといって、そこで考えをストップしてしまうこともありそうです。

しじみ71個分:確かに、家父長独裁で専業主婦なんていうのは全く今風ではないと思いますが、逆に今風な理解のある、進歩的な親ばかりを描いていたら、今、実際に子どもたちが被害者になる事件が多発しているわけで、その今の闇みたいなものを描けないんじゃないでしょうか。

オカリナ:今風のだめな親を描いた作品もたくさんあるので、ここまで古くさくしなくてもよかったんじゃないかな。親に異議を申し立てるという点では、『小やぎのかんむり』(市川朔久子著 講談社)や『いいたいことがあります!』(魚住直子著 偕成社)が、おもしろかったです。

しじみ71個分:私が思ったのは、この家族は、前回読んだ『ベランダのあの子』(四月猫あらし著 小峰書店2020.10)の手前の状態なんだろうなということです。父親の発言も支配的でひどいし、父親のいないところでは悪口をいうくせに、本人の前では追随する母親も共依存状態で、責められる息子を救うよりも自分に累が及ばないことを優先しているし、親を肯定できない自分が悪いのではないかと自己肯定感が失われつつあって、すでにソフト虐待状態ですよね。痛ましい事件も起こっていますが、虐待の実態にはさまざまグラデーションがあるとも思いますし、その背景に煮詰まった家族関係による苦悩があるかもしれない、と想像してもらえるのではないでしょうか。

オカリナ:極端すぎて、自分のことと思えないってことはないんですか?

アンヌ:極端なものを読むことによって、似たような気配を感じるきっかけにはなるかもしれません。

オカリナ:自分にもかかわることとしてリアルに感じるといいんですけど、パロディだと思われてしまうかも。

きなこみみ:この物語を、パロディじゃんって感じる子は、この物語を必要としていないのかもしれないんですけど…お父さんが投げかけてくる、こういうゴリ押しの理不尽さって、誰でも人生のどこかで出会うと思うんです。だから、お父さんのやり方に、どこがおかしいのか、どうして違和感を覚えるのか、ぐるぐる自分の頭で考えるタツキの言葉って、そんな理不尽さに遭遇してしまったときのサンプルパターンというか…あ、あのとき、こんな理不尽なこと言ってくる大人のこと書いたお話あったなって、いつか、ふっと思い出せるかもしれないなと思って。日常のなかで、うまく言葉にできない、でも、もやっとすることを可視化するのは子どもの物語の一つの役割だと思うんですよね。自分の家庭以外のことって、案外わからないものなんで、この物語の家庭は確かに極端だけど、これを必要としている子はたくさんいて、その子たちが読むことで解放される面があるのでは。

オカリナ:なるほど。

しじみ71個分:私も、この本を読み終わったあと、正直、解放感を感じました。別に、親と特別仲が悪いとか、そいういうわけではないのですが、自分でも自覚しないうちに、親を大切に思わないといけない、親を悪く思ってはいけないというような価値観がやはりどこかに埋め込まれているんじゃないか、だから解放感を感じたのかなと思いました。そう考えてみると、そういうふうに知らず知らずのうちに思い込まされているのは、決して私だけじゃないのではないかとも思います。

ニャニャンガ:とはいっても、今の中学生の親世代で、こういう人たちはめずらしいのでは?

きなこみみ:学校って、今も古い価値観が結構根強く残っていますし。道徳の教科書も、「父母や祖父母を敬愛すること」が求められたりするんで、どの子も無関係じゃないようにも思ったりします。

(2023年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

Comment

ベランダのあの子

『ベランダのあの子』表紙
『ベランダのあの子』
四月猫あらし/著
小学館
2022.10

ハル虐待については、小学高学年といわず、もっと小さい子たちも直面する大きな問題だし、人知れず耐えていたり、洗脳状態にあったりということもあると思うので、あなたが、または、あなたの友だちが受けているそれは虐待ですよ、と伝えることはとても大事なことだと思います。だから、児童書のテーマとしては、文句はないというより、大賛成なのですが、小学高学年向けなら、もしかしたら違う書き方ができたのではないかという思いがあります。主人公を支える友人も、キャラクターとしてその役割を果たさせるために老成した子どもになりましたし、いつも駄洒落を言っている教師も、子どもたちに真摯に向き合うこと=友だち感覚で気軽に付き合うことと履き違えているようで、ステレオタイプというか。リアルなのかもしれませんが、必ずしもリアルなことが良い小説ではないと思いますし、保健室は安全地帯であってほしかったなぁとも思いました。

オマリー著者はとても筆力のある方で、物語がどうなるのだろうと、引き込まれながら一気に読みました。主人公が追い詰められていく心情、ベランダの子を見て揺れる思いなど、よく伝わってきます。どうにもならないときに、友情が救いになるという展開にも共感できます。ただ、その上で思うのは、この本は果たして児童書なんだろうか、ということです。著者は、どんな子どもに向けて、書いているのだろう、と疑問に思いました。同じような境遇の子ども? あるいは周りにそういう子がいるかもしれない子たち? 同じような境遇の子は、そこに至るまでにしんどくて読み切れないのではないか、と心配になります。大人の方が、この本のメッセージをまっすぐ受け止められるかもと感じました。

コアラカバーの袖の言葉がいいと思いました。いちばん読んでほしいと思う、主人公と同じ境遇の子が見たとしたら、共感というか、自分に関係のある本だと感じる言葉ではないかと思います。主人公の颯が父親から暴力を受けるだけでなく、颯自身の中にも暴力性が蓄積されて爆発するようになるのが怖かったです。ベランダの女の子を見ても、最初は、罰を受けて当然、というような考え方をしていて、読んでいてぞっとしましたが、それは、父親の価値観が刷り込まれていったからだと思いました。父親は、物理的な暴力だけでなく、論理を振りかざしていて、それは歪んだ論理だけれど、母親も見て見ぬふりをするし、誰も「それは間違っている」と言わないから、父親が振りかざす間違った論理が颯にも刷り込まれていく。それがいちばん怖いと思いました。颯は、もやもやとするけれど、それを覆すような論理は持てないでいます。だから、理という友達がいるということが、本当に救いになっていると思いました。理はすごく良いことを言っていて、p114の1行目の「殴られてもいい人間なんて、いないってこと」とか、p145の最後から2行目の「自分だけは最後まで自分の味方でいろ」とかが、読者にとっても救いになると良いと思いました。この物語では、颯がベランダの女の子を助けることによって、人に打ち明けるという行動に出ることができましたが、実際には、人に打ち明けられるようなきっかけもなく、ひたすら我慢して辛い思いをしている子もいるかもしれません。『ベランダのあの子』というタイトルは、ベランダの女の子の意味だと思いますが、ベランダに置き去りにされているような子どもを、周りの人が「ベランダのあの子」として気がつかなければいけないのではないか、という気もしました。見過ごしてはならない、という意味では、大人が読むべき本かもしれないと思いました。

しじみ71個分とてもリアリティのある物語で、あっという間に読んでしまい、衝撃を受けました。これは子どもが読む児童文学なのだろうか、と思ってしまいました。紹介に、スマホで書かれたと書いてありますが、確かにケータイ小説に通じる雰囲気があるように感じました。同人に参加されている作家さんだから、普段は机に向かって書いておられるのが、この物語はあえてスマホで書かれたのではないかなとも思いました。何というのか、机で推敲するのとは違う、スピード感や切迫感があって……。とにかく一人称の気持ちを全て吐き出す感が文章から伝わってきました。
著者に表現力、筆力がとてもあるので、読んで痛みを感じるほどリアルだし、胸をえぐる表現もありました。父親から暴力をふるわれたときの身体の表現がとにかくリアルで、本当に経験をした人でないとここまで書けないのではないかとすら思いました。ただ、虐待を受ける痛みが、ここまでリアル過ぎると、どう読んでいいかわからず……子どもたちにどうやって手渡すかなと……。YA世代以上のほうがこの物語は意味もあるし、向いているんじゃないかなとも思います。
暴力を受け続けたことで自己肯定感が失われ、自分の中に暴力が生まれる過程も、虐待される方が悪い、と虐待が正当化されて再生産されていく過程も描かれていることもとても重要だと思いました。ハワイで射撃場に行って、銃を撃つときに標的に父親の顔が浮かぶというシーンもゾッとしました。それから、p130に、主人公が身体の痛みから、混乱し屈辱感にさいなまれるという場面も、衝撃を受けるくらいに共感してしまい、辛くなりました。最後には、理解してくれる大人が救済してくれて、支配されていた母親もやっと父親から離れることができるという結末で、解決方法も描かれるので、その点は良かったですが、それまでの主人公の経験した痛みや苦しみ、絶望感が重たすぎて、希望のある終わり方にはなっていないかもしれません。ですが、著者に力があることは間違いないので、次回作以降、この作家さんが何を書くのかとても楽しみです。
ひとつだけ、イチャモンを付けたいのですが、ベランダの籠に閉じ込められた女の子を助けに行くのに、4階のベランダの手すりに乗って隣の家に入るというのはちょっと無茶ではないかと思いました。集合住宅は、家と家の境が蹴り破れるようになっていて、緊急時には避難できるようになっているはずで、何も小学生にベランダを渡らせるような危ない真似をさせなくても良かったのではないかと思いました。主人公を危険な目にあわせることで、ベランダの女の子と自分を重ねて、生死の境目を心が行き来する様子を書きたかったのかなとも思うのですが、大人(隣のおばあさん)が側にいる設定なら、現実的にベランダの仕切りを壊して女の子を救出すべきだったのではないかと思いました。話は逸れますが、虐待をテーマとして、「痛み」がリアルに描かれている点で、桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見書房 2004)と共通する点があるなと思いました。

きなこみみ暴力表現が真に迫っていて、読み出したら止まらなかったです。怖いんだけれど最後まで読まずにいられない。暴力をふるい続けるお父さんとそれを見ないふりをするお母さん、特にお父さんの描写が、こういうDVをする人の見事な典型で、きっと取材したり、いろんな本を読んだりして書かれたのではないかなあと思いました。お父さんが子どもに暴力をふるっておきながら、最後にはそれが子ども自身の責任と選択であるように話を持っていくんですね。虐待がばれないように、身体検査の日に学校をさぼらせて家族で釣りに行くんですが、そういう時も、休むか休まないか、おまえが選んでいいんだよ、と言いながら、子どもには選択肢がないように追い詰めるんです。そういうDV、家庭の中の暴力の描き方が見事でした。でも、それだけに、かえってひとりひとりの人たちが像を結ばなかったというか。全員じゃないですけれど、周りの人たちが人間として像を結ばなかったというのがありました。それって、この子の家庭での閉塞感をそういうふうに表して書いていたのかな、とも思うんですけど、暴力をすごく突っ込んで書こうとしたあまり、暴力を書くことに力点がいってしまったようにも思ったり。物語を読むというより、DVの解説書を読むように読んでしまったというところがありました。

ネズミ親の虐待という意欲的なテーマだと思いましたが、とても後味が悪かったです。テーマがテーマなので、嫌な気持ちになるというのは、描き方がうまいということかもしれませんが、読み進めるのが辛かったです。文章は、説明的に感じる文章が多めかなという気がしました。また、違和感のある表現がちらほらありました。たとえば、p51「それはあんまり見事で潔かった。」の「潔かった」とか。世代の差のせいでしょうか。ともかく辛い内容なので、どんなふうに子どもに手渡せるのかなと思いました。

アンヌ昨日やっと手に入って一気読みして、すごいなあ、うまいなあと思いました。けれども、一種のホラー小説のような物語だなとも感じました。作者は父親の壮絶な暴力だけではなく、主人公が母親や教師からも見捨てられたと感じた場面を描いています。さらにハワイの射撃場の場面で、主人公に自分の中にある暴力への衝動を見させて、自分自身への不信にとらわれる様子も描く。その出口のない状況を打ち破って、檻に閉じ込められた女の子を必死の思いで助け、友人と信頼し合える関係を築けて先へ進もうとしたところで、保健の先生の無理解に出合わせる。これではもう窓から飛び出すしかないじゃないか、と主人公と同化して読んでいると思えてきてしまって、この暗澹たる気持ちは、その後の救いの物語よりインパクトがありました。父親が離婚に同意していないことなど読んでいくと、現在の共同親権問題や養育費の未払いの実情など思い浮かべて辛くなります。ただ、怖くて辛い物語でも、最後に福祉につながる道があるということを語っているので、こういう問題提起的な物語も必要とされる時期なのだと思いました。

雪割草大人だから読みすすめられましたが、自分が子どもだったら最後まで読めただろうか、どういう子どもに手渡せるのだろうか、と考えてしまいました。最後の方の自分の気持ちを吐露する部分を読んだときは、あまりにリアルで、作者自身が経験したことなのだろうと思いました。同じような境遇の子どもや大人にもひびくのだろうと思います。岩木先生の対応は素晴らしいですが、学校で働いていたことがあるので、先生がここまでできるかなと疑問には思ってしまいました。大手商社に勤める父親と、逆らえない母親、家族旅行はハワイというのは、ステレオタイプで古く感じました。それから、今日の2冊を並べてみると表紙も対照的で、こちらの作品の閉じ込められた子どもは、自分の気持ちを表現することが難しい、今の日本の子どもらしいとも感じました。

アカシア:颯が、ここまで父親をかばったり、自分を徹底的に責めるのは、リアルなことだと思ったのですが、読んでいて胸が痛くなりました。こういう状況にある子どもって、自分と同じような子を目の当たりにしないと、自分のことを客観的に見たり、親を非難したりできないんですね。たしかに人間については、颯のことしか書いてなくて、あとは背景になっていますね。私も、担任の先生がつまらないダジャレを飛ばすのは嫌だなと思っていたのですが、最後まで読んで、ああ、先生という権威をつまらないダジャレによってすべて捨て去って、生徒との間の敷居を低くしてるんだな、と思いました。こういう本は、紹介だけして、そっとどこかに置いておけば、必要な子は読んでヒントを得るというものかな、と思うんですけど、この表紙だと読みたいという気にならないかも。

しじみ71個分私は、ダジャレ先生が意外といい味出しているなと思って、割と好きでした……。

ニャニャンガ暴力シーンがリアルな表現だったので、辛い辛いと思いながら読みました。そして子どもに手渡す作品なのだろうかと考えてしまいました。
颯に対する父親の行動が異常すぎて理解できませんでしたが、世間で起きている事件を見るとあり得ない話ではないのだろうと想像しました。ここまでひどくないにしても、父親の機嫌を見ながら生活する母子は少なからず存在するのでしょう。経済的自立ができないせいで母親が子どもを守れないのは、ほかに手だてがなかったのか考えてしまいました。親友の理がいなかったらどうなっていたのか、というか友だちにより救われて良かったです。ベランダのあの子が主人公自身だと気づいていながら否定したい気持ちがいやというほど胸に迫りました。

花散里最初にこの表紙を見たとき、タイトルからしてもそうでしたが。嫌な表紙画だと感じて、書架で面出しにしたくない本だと思いました。この作者のプロフィールを見ると、元学校図書館司書とありますが、子どもたちに本を薦める立場にいた人がこの作品を書いたのだろうかと複雑な思いが残りました。「春休みが嫌いだ」という主人公の言葉、学校の方が家より良いということが作品の内容に繋がっていくのですが、そうではない子どもたちの方が多いということを踏まえたうえでの描かれ方なのかと……。先生の描き方も気になった箇所が多く、父親から縄跳びの紐で殴られた後の両親への対処や、後半、学校の先生の誰かに相談しようとして向かった時の保健の先生の対応には疑問を感じました。保健室は子どもの逃げ場でもあるのに、こういうふうに描いてしまうのはどうなのだろうかと思いました。プロフィールのところに、「スマホで書いた」とありますが、なんのために記載したかったのかと感じました。虐待やDVのことをテーマにした作品だと思いますが、虐待をする人は子ども時代に虐待を受けてきた人が多いこと、虐待を受けている子どもは虐待する親を庇うことが多いと言われています。本作では虐待の描き方がリアルで、加えてDVの描き方、さらにベランダの子は小さい子だと描かれ、食べ物を与えられていないことを含ませているようで、子どもたちに読ませたいとは到底思えませんでした。読むのは大人では、と。颯が女の子に暴力を振るいそうになるとき、自分も父親と同じなのではないかというところなど、読んでいて辛いところが多く、後味が良くない読後感で、子どもたちに薦めたいとは思えませんでした。

オカピ真に迫る描写で、リアリティに圧倒されました。書きたいテーマがしっかりとある本です。解決策がきちんと示されているのがいいと思いました。虐待の問題を描いた作品はいろいろありますが、そうした本を手にとる中学生は「泣ける本」「感動する本」ばかり求めることもあり、そんな状況を見ていると、感情だけで読むことの危うさを感じます。岩瀬成子さんの『ぼくが弟にしたこと』(理論社 2015)も、主人公は父親から虐待を受けていて、暴力性を弟に向けてしまったときのことが描かれていましたが、作者の人間理解の深さを感じる作品でした。『ベランダのあの子』は、主人公以外の登場人物がいまひとつ立ちあがってこない感じがしたのと、ところどころ文章に引っかかってしまいました。「興味本位の話で盛り上がって終わるだけじゃないか」(p96)などは、小学6年生の言葉には感じられず、「パパもお祭り自体は嫌いじゃないみたいだったけど、それでも塾を休んでもいいかなんて聞くのはばかげたことに思えた」(p82)というのも説明的だと感じました。

しじみ71個分みんながみんな、最初から岩瀬さんみたいにはなれないですよね(笑)。

オカピさきほど表紙の話が出ましたが、どこがよくないと思われたのですか。

アカシア:いえ、読みたくなる表紙じゃないなと私は思ったんです。

サークルK:p22にある「認めてもらえたらこの家にいてもいいんだ。」という颯のいう言葉にハッとさせられました。子供の「居場所」と一口に言っても、「学校」が辛い子もいれば、「家」が辛い子もいることを考えなければならないのですね。子どもたちの閉塞感をぱあっと放てるのはいったいどんなところなのでしょう。
みなさんの感想をうかがって、主役が登場人物なのではなく、「虐待」そのものになっているという指摘に共感しました。あまりに辛いシチュエーションに、果たして読者である子どもたちはついていけるのか、という疑問ももっともだと思います。興味本位で読むことのできない問題だからこそ、子どもの受けとめ方が気になるところです。

アカシア:絵本でも『パパと怒り鬼〜話してごらん、だれかに』(グロー・ダーレ作 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり&青木順子訳 ひさかたチャイルド)というのがありましたね。あれも、父親がふとしたことで怒り鬼にとりつかれたように暴力をふるい、母親もすてきな家族を演じたいせいかたよりにならない。そんな、いつもびくびくする状況におかれた子どもを描いていました。でも、自分では解決できなくて、王様に手紙を書いてようやく解決法が見えてくるという結末でしたね。日本だと王様に手紙を書くという手段は使えないから、どうすればいいのかな、と思っていましたが。

(2023年5月29日の「子どもの本で言いたい放題」より)

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わたしのアメリカンドリーム

『わたしのアメリカンドリーム』表紙
『わたしのアメリカンドリーム』
ケリー・ヤン/著 田中奈津子/訳
講談社
2022.01

きなこみ:貧しい移民の一家が、自分の手でモーテルという居場所をつかむまでの、まさにアメリカンドリームなんですが、これは「多くの人々の力を借りて成功する」という新しい形のアメリカンドリームではないかと思います。アメリカが階級社会であることや、アフリカ系やアジア系の人々へのレイシズムもきちんと描きこまれていながら、それでも他者と少しずつ連帯していく強さがあるんじゃないでしょうか。その連帯の鍵が「言葉」と「手紙」であることがとてもいいと思いました。p87に、「あなたは白人の子たちみたいに、英語はうまくなれないの。だって英語はその子たちの言葉なんだもの」とママが言うシーンがあるんです。この言葉は、私のように英語が苦手な人間にはとっても刺さるんですが、この物語には、ネイティブのようにはなれなくとも、言葉はいつも開かれているんだなということが書かれています。私たちは言葉でできていて、伝え合うことができるという希望が詰め込まれている一冊だと思います。子どもたちへの励ましをとても感じる本でした。

ネズミ:とても面白く読みました。移民、難民という立場の人たちは日本にもいます。留学など、自分の意思で外国に行くのと、移民、難民の大きな違いは、もとの国にやすやすと帰れないことだと思います。そういう立場の人びとの望郷の念と、簡単に片付けられない複雑な感情、一言では言えない苦難などが非常によく伝わってくる作品だと思いました。健康保険に入れない問題は、在留許可が下りていない在日外国人にも通じることです。この作品では、中国人だけでなく、ヒスパニックのルーペ、黒人のハンクさんなど、人種差別を体感しているほかの人たちも出てきます。アメリカのことというよりも、日本にいるさまざまな国から来た外国人のことを想像するために、読まれるといいなと思いました。アメリカ的だと思ったのは、お金のことが細かく書かれているところ。古くはベバリイ・クリアリーの「ヘンリーくん」シリーズ(松岡享子訳 学研プラス)にも、小遣い稼ぎが描かれていましたが、日本の作品では金銭的なことはあまり具体的に書かれないのではないかなと。ハッピーエンドは希望だと思いました。

アンヌ:とても面白い物語で、移民への迫害や黒人差別のことなどが描かれていて、さらに主人公がその状況を手紙で、言葉で、変えていく様子は実に読み応えがあり痛快でした。ただ、言葉を訂正しながら書いていた手紙より後半のきちんと書かれた手紙や作文コンクールの文章がつまらなかったりするのは、どうしてなんだろうと思いました。お金の事とかきちんと書かれているのに、最後の投資話の話があいまいで、契約に弁護士が必要なら、こちらも会計士とかきちんとした書類がいるんじゃないかとか、最後の方は心配してしまいました。

雪割草:移民の人たちの生活の過酷さを描きながらも、モーテルの定住者、移民の友だち、たずねてくる中国人などいろんな人たちが登場し、ユーモアがあって、そこに人のあたたかさも感じられて、楽しく読むことができました。作者は子どもの頃、この主人公と同じようにモーテルの管理人をしている親のもとで育ったと書いてありましたが、作者が体験として知っているから描けるリアルさが、この作品の強みだと感じました。作文コンクールではなく、モーテルをみんなで買うという部分は、本当にあり得るか疑問ではありましたが、エンディングには好感が持てました。

アカシア:おもしろく読みました。ミアが魅力的な少女として描かれているので、ひきこまれて一気に読めました。中国系の人たちばかりでなく、ほかの人たちに対する差別も、ミアの体験を通して描かれているのがいいですね。前半で、高利貸しにお金を借りて返せなくなる人、車を盗まれたと言って保険金をだましとる人、契約を途中で勝手に変更する人、決めつける教師など、さまざまな困った人が出てくるので、最後でトントン拍子に何もかもがうまくいくのは、ちょっと出来すぎ感がありました。みんなからお金を集めて買っても、その後もいろいろ大変だろうな、と思ったりして。家族を大事にしているところは、中国人らしいですね。

ニャニャンガ:女の子が困難を乗り越える物語が好きということもあり、本作も好みでした。1993年当時の中国からアメリカに渡った移民の様子がよく分かるとともに、日々の暮らしに苦労する姿が切なかったです。中国に残った親戚が裕福になったのに、金銭面で助けてくれなかったのは冷たいと思いました。ミアはとても頭のいい子で、アイディアを考え、すぐ実行に移すのは作者自身と同じだったのだろうと想像しました。黒人のハンクがひどい人種差別を受けているのは、本当に腹立たしかったです。
中国人らしさが表現されていると感じるエピソードとして、ブランドのお店の袋を喜んで拾うお母さん(p.157)、レストランで、だれが払うかで取っ組み合いのけんかになる(p.166)、「自分が食べる米の量を忘れるな」(p.228)がありました。みんなに投資してもらうことで解決する方法について、配当金はどうやって支払うのか、計算方法や契約の内容について触れていないのが気になり少し残念でした。

花散里:とても関心を持って読みました。中国からの移民の問題、ミアがモーテルのフロントで体験すること、経済感覚に長けているとか、日本の児童文学では描かれないようなことが作品に盛り込まれていると感じました。表紙画は、表裏、広げてみたときに物語の内容が描かれているようでとても良いと思いました。モーテルの所有者、ヤオさんに対して不満は満載なのに、管理人として働かざるを得ない両親。お金がないのに、そんな中でも父親たちは中国の人を匿ったりするところ、モーテルに集う登場人物たちが心に残りました。作者の実体験を基に描かれた「アメリカンドリーム」、日本の子どもたちに手渡して行きたい作品だと思いました。

オカピ:算数が得意だと思われがちだという、中国系の人へのステレオタイプな見方、黒人に対する差別、医療保険の問題など、いろんな要素が盛りこまれていて、面白く読みました。お金がないときにクーポン券で支払うなど、ところどころにユーモアがあるのも良かったです。ミアは作文コンテストで優勝できると本気で思っていて、そこはちょっとついていけず……。モーテルの住人の中で、ビリー・ボブさんがどういう人物なのかいまひとつわからなかったです。また、いとこのシェンが女の子だと思って読んでいたら、p137あたりで男の子だと分かったりして、もう少し早く人物像を知りたかったな、と思いました。アメリカの本だなあと思ったのは、「あんなふうに撃墜されちゃ、そのあとにやさしくしようなんて無理でしょ。核武装するだけだ」(p101)という表現です。「核武装」という言葉に引っかかってしまいました。ここは、例えている箇所で、言葉は変えられると思うので、そうしたほうが良かったのではないかと。

サークルK:子どもに分かりやすく、けれどリアルな移民の暮らしと差別が描かれているところが良かったです。ホテルではなくモーテルが舞台。日本の子どもたちはモーテルにはあまりなじみがないと思います(民宿とも違うし、最近は修学旅行でもきれいなホテルが好まれると聞いたことがあります)。いろいろな状況の人が滞在している雑駁感がこのお話の雰囲気に合っていました。
モーテルの主、ヤオさんは徹底的に悪人として描かれていましたが、中国系の成功した移民の仲間の頂点(少なくともこの物語の中では権力者なので)に立つ裏には、おそらく白人社会で大変な差別と屈辱を味わってきてここまでになったはずなので、その哀しみや弱さ、屈折についても考えさせられました。
最近の日本では、弱者が必ずしも弱者に寄り添わずに、自分よりもさらに弱い立場の人をいじめたり、叩いたりすることが問題となっています。ヤオさんが、自分がされたことを同胞に仕返ししているのではないだろうか、と気になり、なお一層ミアたちの仲間を応援する気持ちで読みました。

ハル:実はまだ100ページくらいしか読めていないのですが、とても面白く読んでいます。ユーモアもあって、ああ、こういうふうに書いてくれたら(訳してくれたら)、日本の子たちも、物語を楽しみながら、移民や人種問題についてより親身に感じることができるんだろうなぁと思いました。大きな夢を抱いてアメリカに渡ったこの一家から労働力を搾取するのが、同胞の移民だという設定も上手だなと思います。これが、アメリカ人から搾取されるのだったら、読み手のしんどさがまた違っていたように思います。(後日談:読了しました。思っていたよりも過酷でした。作文コンクールの結果について、本人はいいとして、大人たちの反応はちょっと贔屓目がすぎましたかね。でも、面白かったです)

オマリー: 今日みんなで読む2冊はどちらも、前から気になっていたけれど読んでなかった本で、今回読む機会をいただけて良かったなと思います。この本は、素晴らしいですね。中国からの移民であるミアがモーテル経営の手伝いで頑張る姿の中に、さまざまな問題を織り込んでいます。人種問題にしても、アジア系だけではなく黒人、メキシコなど複数の視点がありますし、経済的な問題についても、どうして貧困が起きるのかという構造的なところから提示しています。難しく説明せずに、子どもにも分かりやすいように腐心しているところもいいですね。主人公のミアが、10歳にしてこれだけ活発にアイディアを生み出し、経営に加わっているのが、普通ならリアリティがないと言いたくなるところですが、著者のプロフィールに、同じことが書いてあって、さらに13歳で大学に入学したと記されているので、自分の体験をもとにしているんだろうなぁ、と。この著者自身の生い立ちも気になるところです。続編が原書では5巻まで出ているようで、ぜひ読みたいなと思いましたが、今のところ続巻が出る予定はないみたいで、残念です。で、それを調べているときに気づきましたが、この原書は8歳から12歳をターゲットにしているようですね。日本の感覚だと、この分厚さならYAだから、びっくりしました。

コアラ:面白く読みました。カバーの絵が、真っ青なカリフォルニアの空の下、プールサイドで日光浴をして大きなハンバーガーがあって、と、私がイメージするアメリカンドリームそのもの。ですが、主人公が中国からの移民ということで、自由に対する考え方や思いは、日本人の私とは違う特別なものがあると感じました。p221には、文化大革命のことと両親の思いが書いてありますが、日本と異なる、中国系移民ならではのものが感じられて、興味深かったです。同じ中国系なのに、ヤオさんからひどい扱いを受けますが、日本では同胞からひどい扱いを受けるような書き方はあまりしないのではないでしょうか。これも、中国系ならではなのかなと思いました。もちろん日本と共通する、みんなが憧れるアメリカンドリームというものも描かれていて、それは、実力で勝ち取らないといけないものでもあります。ミアが手紙を書くことを重ねることで英語力をアップしていって、モーテルの作文コンテストでは落選したけれども、ヤオさんからモーテルを購入するための賛同者を集めることができたし、努力して実力をつけていく姿が良かったです。ミアがいろんな、言わばウソの手紙を書いていったように、圧倒的な不公平の前では、正攻法だけでは解決できない、というのも、アメリカの実情を表しているように思いました。仲間をつくって人脈を広げることも大切だし、ヤオさんが都合よくモーテルを売りに出したように、運も必要ですよね。まさにアメリカンドリームを描いた、清々しい本でした。ただ、アメリカでの成功を夢見る、というのは、今の日本では、あまり時代の流れではないかもしれません。だからこそ、違う世界がある、というのを子どもが感じてくれればいいなと思いました。

しじみ71個分:とても前向きな、明るい物語で、楽しく読みました。生活のために家族でモーテル経営をしますが、モーテルの人間模様や学校生活など、日常を描く中で、アメリカに根強くある黒人の人たちに対する人種差別や、移民の貧困の問題、それだけでなく中国の発言や思想の自由のなさなど、社会問題に自然に、主人公ミアの関心が向いて、気づくようになっていくという、物語のつくりがとてもうまいなと思いました。また、ミアが困難にぶち当たって、その解決法を考えて実践する姿を読者に見せてくれるので、そういった点からも、子どもたちに読んでもらいたい本だと思いました。生き生きとしたミアは人物としてとても魅力があるのですが、著者紹介を読むと、作者自身が天才少女で、飛び級で有名大学に行くような人なので、著者の姿や実体験が多少投影されているのかもしれませんが、ちょっと諸々うまく行き過ぎな点もあるような気がします。しかし、モーテルの住人や友だちなど、まわりの人を家族のように大事にして、気持ちを通わせ、連帯していき、問題を解決するという話の流れには希望を感じましたし、大事なことだと思いました。
一つだけ、意地悪なモーテルのオーナー、ヤオさんが、英会話がうまくないのを、割とステレオタイプな「日本語が下手な中国人」のように翻訳して表現されていた点が少し気になりました。どう日本語にするかは確かに難しいだろうなと思うのですが、ちょっと引っかかりました。

(2023年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ひみつの犬

『ひみつの犬』表紙
『ひみつの犬』
岩瀬成子/著
岩崎書店
2022.10

ヨシキリ:岩瀬さんの作品は、どれも人間がしっかり描けていますよね。それも、形容詞で表現するのではなく、黒い色にこだわる羽美、狭いところにはまる細田くん、時間割が好きなお姉ちゃん、子どもにビラ配りを頼む整体医の佐々村さん等々、具体的なことで人物をあらわしている。良いところも悪いところもあり、一風変わったところもあるという、一面的でない人間像が魅力的です。同じ作家の短編集『ジャングルジム』(ゴブリン書房)も、人間がしっかり描けているという点では同じですが、この作品は犬のトミオがどうなってしまうのかというサスペンスと、いったい佐々村さんとは何者なのかというミステリーで、最後まで読者をひっぱっていく。かなりページ数はありますが、小さい読者もしっかりついていけると思いました。また、トミオを守りたい一心の細田くんと、佐々村さんの正体を探りたい羽美の気持ちのすれちがいが描かれているところもおもしろかった。それにしても、人間の気持ちをしっかり分かって我慢しているトミオの姿が切ないですね。ラブラドール・レトリバー好きの私はじーんときました。

西山:すごい作品だと思いました。岩瀬さんは次々と新作を発表されるけれど、そのたびに新しい人間が出てきて、本当にすごいと思います。ちょっと常識からずれたような不思議な行動をとる大人と子ども。コミュニティって、こんなふうに不可解で、気に食わない人たちもいっぱいいるものだというのが、図式的でなく、人間のおもしろさとしてすくい取られていて本当に興味深かったです。「子どもの権利」という観点でも、「先生が怒ると生徒があやまる」(p3)とか、「もしかしたら大人に利用されているんじゃないか、と、子どもはいつも注意を払ってなきゃいけない」(p62)とか、随所ではっとさせられて、徹底して子どもの側に立っている作品だと思いました。

花散里:一つ一つの文章が読ませる内容ではある、というのが全体的な印象でした。登場人物、一人一人を実にうまく描いていると思います。細田君の犬など、はらはらさせられるところや、カイロプラクティックの箇所など。ほっとするところと、そうではないところのつなげ方も上手だと思いました。図書館員のお父さんがスマホを片手に川柳を作っているというところは、そういう見方をされているのかとも思いましたが…。読後感としては、大人は共感するけど、子どもはどんなふうに読むのかという点で、手渡し方が難しい本のようにも感じました。

ヒダマリ:とても魅力的な本でした。今まで読んだ岩瀬成子さんの作品のなかで、一番好きかもしれません。ものごとの善悪をシンプルに考える時期、自分もあったなぁ、と子ども時代を思い出させる本でした。それぞれの登場人物の心理がていねいに描かれています。主人公は思い込みが激しく、プライド高く、大人に対して疑いを持っています。強いキャラだけれど、揺れ動く。そのブレがとてもよく掴めました。また、細田くん、お姉さん、そしてお母さんも、さらに犬のトミオまで、それぞれの生きづらさが伝わってきました。犬がどうなっちゃうのか、脇山さんに見つかっちゃうのか、佐々村さんは、本当はどんな人なのか、椿カイロプラクティックを攻撃しているのはだれなのか、なぞが重なって、一気に読ませる工夫もありました。そういう引っ張る力が、他の岩瀬さんの作品よりも強かった気がします。1つだけ気になったのはp154「煮詰まる」という言葉が誤用されているところ。「二人とも煮詰まってるぞ。煮詰まっちゃいかん。ろくなことにならんよ、煮詰まると」。煮詰まるは、話し合いなどでじゅうぶん意見が出尽くして、そろそろ結論が出る、という意味合いが本当ですよね。お父さんが間違った意味合いで使っているにしても、フォローがないので、作者が誤用しているというふうにしか読めません。編集者、校閲が気づくべきだと思いました。

アカシア:子どものときに、こんなふうに子どもの感受性を子どもの視点で書ける人の作品を読みたかったなあ、と思います。羽美は黒いものばかりにこだわり、細田くんは狭い隙間にはさまるのが好き。どちらもちょっと変わっていますが、羽美については、担任がきっちりした人で小言ばかり言う描写があったりしますね。細田くんのほうは犬のトミオを飼っていることを秘密にしなくては、なんとかトミオの居場所を確保しなければ、といつも緊張している。子どもは、ちょっとしたことで他と同じ規格品にはなれないんですよね。羽美が、ササムラさんを疑ったり、証拠をつかまないとと焦ったり、探偵ごっこまがいのことをしたりするのは、この年齢ならではの正義感をもつ子どもらしいし、それよりトミオが心配な細野くんとの距離があいていくのもよくわかります。ただ、怪しい人物についての謎が、前にこの会でも取り上げたシヴォーン・ダウドの『ロンドン・アイの謎』のように解明されていくわけではなく、羽美の勘違いという結末になるので、そこを多くの子どもが読んでおもしろいかというと、そうでもないように思います。いろいろな人が出てきて、物語の本質からしてどの人も善悪では割り切れないので、くっきりしたイメージを持ちにくいですね。ただ、好きな子どもはとても好きだと思います。さっき、『春のウサギ』が岩瀬成子的とおっしゃった方がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。岩瀬さんの言葉には、ひとことで10か20の背景を思い起こさせるふくらみがあり、そこが『春のウサギ』とはかなり違うんじゃないかな。

ニャニャンガ:これまで読んだ岩瀬成子さんの作品の中で、いちばんおもしろく読んだのは大人目線だからでしょうか。犬を飼ってはいけないマンションで犬を飼っている状況にドキドキしながら読みました。細田くんのトミオを思う一途さがかわいかったです。この作品には大人のずるさや利己的な面が書かれている一方で、狭い世界で生きる羽美が、自分のものさしの短さに気づいてゴムのようにのばすことができたのがよかったなと思います。人にはさまざまな面がある(羽美の姉、羽美のお母さん、佐々村さんなど)のを学んだのではと思います。羽美が犯人探しに夢中になるあまり、細田君の犬のトミオの引き取り手探しがおろそかになるあたりは子どもらしく感じました。大道仏具店のおばあさんがトミオを引き取ってくれそうだなというのは薄々わかったものの、そこから椿マンションに引っ越せるとわかるまでは想像できませんでした。学校の先生の指導に違和感を覚えたり、正義感を通そうとしたりする羽美に共感しつつ、こだわりの強い子だなと思うのは自分にも似た面があるからかもしれません。

まめじか:大人の欺瞞にだまされまいと気をつけていたのに、それでも自分は見抜けなかったと、羽美がくやしさをおぼえる場面があります。そうやっていろんな経験を重ねる中で、羽美は自分をふりかえり、また周囲のことも少しずつ理解していきます。正義感から突っ走ってしまう羽美に対し、親は事なかれ主義の対応をしますが、子ども対大人の単純な構図にしていないのが、すばらしいなあと思いました。子どもにも大人にも、見えているものと見えていないものがあるんですよね。それがとてもよく描かれていますね。時間割をつくることで何かと戦っているようなお姉ちゃんは、子ども時代と自分を切り離そうとしているようで、羽美をとりまく人たちもそんなふうに、厚みのある人物として感じられました。

ネズミ:岩瀬さんの物語は、登場人物を一方的に決めつけないというのが徹底していると思いました。黒い服を着ている主人公とか、狭いところに入る細田君とか、奇妙に見えるけれど、だからといって特別視しないし、何かの型にはめたりもしない。分断しないから、読んでいると、こういう見方もあるなと、目をひらかされていきます。物語としても、犬がどうなるかというのと、左々村さんの謎があって、先にひっぱられていきますね。主人公の論理は、やや独善的にもなるのですが、それがまわりにも本人にも自然に伝わり、ゆるやかに本人が変わっていく書き方がみごとだと思いました。冒頭の先生との掃除の場面と、仏具屋のおばあさんのネコの場面に、呼応する場面が最後にあるのもいいですね。

ルパン:岩瀬成子は好きなんですけど、この作品はちょっとすっきりしませんでした。私の理解力が足りないのかもしれませんけど。まず、最後のほうでお姉ちゃんが突然饒舌になるところに違和感があったのと、あと、この子の「黒」へのこだわりや、細田君が狭いところにはさまりたがるところなども、おもしろいんだけど、それが何につながっているのかなあ、という不完全燃焼感がありました。佐々村さんはちょっといやな大人で、疑われたってしょうがないじゃない、と思ってしまいました。

雪割草:次が気になってどんどん読めました。羽美とお姉ちゃんとの会話など、この年代の子の心もようの描写が上手で、いつもすごいなと思います。佐々村さんは理解できなかったし、子どもの権利的にも批判されるべきだけれど、こういう大人はいると思うので、リアルに感じました。それから良い、悪いについても、役に立ちたいと思って相手を傷つけてしまったお姉ちゃんの話があって、それに対して羽美は、最初は自分のことばかり考えてやっていたことが、結果的に感謝されるなど、良い、悪いは見方によって変わるのだということが体験を通じて理解できました。岩瀬さんの動物へのまなざしも好きです。

アカシア:細田君は、犬のトミオのことがものすごく心配で、それが棘のように心に刺さっているんですね。それが、はさまるという行為につながっている部分もあるんだと私は思いました。羽美が黒い服を来ているのも、感受性が鋭くて、何かを棘として感じてるからじゃないかと思います。わけのわからない変わってる子を出してきてるというより、どの子にもありうることなんじゃないかな。細田君は、羽美が同じような棘を抱えていることを感じたから、ひみつの犬のことを話したんでしょうね。私は、『春のウサギ』よりこの作品のほうが、ずっと印象に強く残りました。

ヨシキリ:『春のうさぎ』には棘のようなものは書かれていないので、あまり印象に残らないのでは? ヘンクスは、子どもの本なので、そこまでは書かないと決めているのかも。

アカシア:ヘンクスには引っかかりが少ないっていうことですか。

ヨシキリ:子どもの読者には、ゴミを捨てるおばあさんや、佐々村さんのことを、「いやな人だな!」と思ってほしくないな。岩瀬さんも、そう思っているんじゃないかしら。まだ文学を読む力が育ってない子は、そういう感想になるのかもしれませんが。

西山:細田君がすきまにはさまる理由は、p75に出てきますよね。「ぼくは成長しているでしょ。(略)大きくなると入れなくなるんだよね。そして一度入れなくなったら二度と入れないの」って、子どもは子どものままでいられないという、成長とは何かを失っていくことでもあるという、深遠で切ないような真実がふいに突きつけられた気がしたところです。

ヨシキリ:「成長をたしかめる」というのは、細田くんがついたウソですね。細田くん自身も、うまく説明できないのでは? 自分の部屋や戸棚に閉じこもって、うずくまっているのではなく、真昼間に街なかではさまっている。実は私、この作品の中で一番気に入っているところです!

西山:はさまるとか、黒い服をいつも着てるなんていくところがおもしろいので、子どもはそういうところに惹かれて読めるかと思います。

アカシア:岩瀬さんは日本からのアンデルセン賞作家部門の候補ですが、翻訳が難しい作家かもしれません。余白とか行間を読み取るという部分がかなりあると思うので。

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エーデルワイス(メール参加):これまた主人公の石上羽美ちゃんの心の声がずっと聞こえる本でした。冒頭で担任の先生から注意される羽美ちゃん。p62「大人に利用される・・・・」もうこれだけ読んでいて心がめげそうになりました。5年生の羽美ちゃんは黒にこだわり、4年生の細田君は狭いところにはさまろうとする。二人とも相当のものです。飼ってはいけない家でなんとか犬と一緒にいたいと思う子どもの物語は、岩瀬さんにかかるとこのような独特な物語になるのですね。正しさを振りかざす脇山さん、綺麗好きで孤独な今井さん、時間割にこだわるお姉ちゃん、いつも疲れているお母さんなどなど大人がたくさんでて、善悪をひとくくりにできないことを伝えていますが、ちょっと教訓っぽい感じです。最後、犬のトミオと細田君が離れることなく、が幸せになれてとにかくよかった。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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春のウサギ

『春のウサギ』表紙
『春のウサギ』
ケヴィン・ヘンクス/著 大澤聡子・原田勝/訳
小学館
2021.04

雪割草:おもしろく読みました。「エピファニー」という言葉とその描写には、懐かしい児童文学のにおいを感じました。たとえばp72には、「一瞬」のなかに、アミーリアが自分という存在や世界との出会いを見出すさまが描かれています。それから、父の恋人のハナを通じて、アミーリアは、記憶にも残っていない母と向き合うことができます。ケイシーと恋愛もして、父を一人の人間としてみることができるようになります。オブライアンさんのような、寄り添ってくれる大人がいてよかったです。ときどき、ケイシーの発言は無神経に感じることはありました。原題は”sweeping up the heart”のところ、邦題はいいなと思いました。

ルパン:オブライエンさんは何歳なんだろう、というのが気になりました。70代のお友達をぞろぞろ連れてくるのでおばあさんなんだろうなと思って読んでいたのですが、p128に「結婚してすぐだんなさんが亡くなり、そのことがきっかけでオブライエンさんとアミーリアのお父さんとのきずなが強くなった」とあります。アミーリアのお母さんが亡くなったのはアミーリアが2歳のときで、アミーリアは今12歳か13歳。オブライエンさんの夫が「結婚してすぐ亡くなった」のが10年前ならオブライエンさんもお父さんと同年代ということになります。ところが、そうかと思うと最後のほうでアミーリアはオブライエンさんが死んでしまうことを心配している。いったい、この人は何歳でどういう人なんだろう、というのが引っかかります。それから、アミーリアは友だちから「変人」と呼ばれているけれど、どういうところがどのくらい変人なのかがわからず、ちょっとストレスでした。以上2点が気になりましたが、お話はおもしろかったです。

ネズミ:繊細なお話だなと思いました。お父さんが外に出かけるのが好きではなくて、どこにも行けない春休み。母親が亡くなってから立ち直れない父親が描かれていて、こういう父親像って日本の作品ではあまり見かけないけれど、前にこの読書会で読んだ作品にもあったので、海外では一定数あるのかなと思いました。陶芸教室の場面がよかったです。ただ、ときどきちょっとぴんとこない文章がありました。たとえば、p40からp41で、名前をつけて、どんな人物か考えて遊ぶところ。「なんて楽しいんだろう」とあるのですが、会話を読むと、そんなにおもしろいと思えなくて。状況はわかるのですが。

まめじか:子どもの頭の中で想像がどんどん広がっていき、それが現実と混ざってしまったり、茫漠とした不安やよるべなさを感じていて、これから続く人生の大きさに圧倒されていたりする感じは、よく伝わってきました。ただ、好みの作品かどうかというと、全体としてなんかぼんやりした雰囲気で、あまり印象に残らず…。

アンヌ:最後はすべてうまくいく、とてもほっとする物語だとは思うのですが、どうも私はこのお父さんが受け入れがたくて、納得がいきませんでした。「かわいそうにとみんながいう」ような家庭状況におかれていて、母が死んでから10年以上、旅行にも連れて行ってもらったことのいない小学生である主人公。そうなったのは、お父さんがずっと辛い思いをして動き出すこともできないからなんだと思っていたら、とっくに、自分自身は新しい恋をしていたという話になっていくので、あれれと思いました。オブライエンさんについても、実の祖母のように賢く主人公を愛し保護してくれているようだけれど、先ほどルパンさんがおっしゃったように、子供が欲しかったという記述から見ると、何か年齢的なずれがあるようで、ここら辺の関係も奇妙に思えて、主人公自身の物語に入り込めませんでした。

ニャニャンガ:ケヴィン・ヘンクスの読み物が大好きで、本作は翻訳された4冊目だと思います。刊行後すぐに読んだものの内容が思いだせず、今回読み直したところ、ヘンクスらしいナイーブな作品で新鮮に楽しめました。口数の少ないお父さんは存在感が薄いですが、お向かいに住むオブライエンさん、陶芸工房のルイーズさん、親が離婚間近のケイシーたちの、包み込まれるような愛に囲まれているアミーリアは幸せだと思いました。それでも、2歳で母親を失ったことはアミーリアにとっては欠けたピースのようにいつまでも埋まらない穴であり、埋めたいのだなと感じます。ケイシーの突飛な発想には少しハラハラしましたが、ふたりの距離が縮まり恋に発展するようすをほほえましく読みました。エピファニーと名付けた人が父親の交際相手でハナだったことは偶然の幸運といえるし、ちょっと出来過ぎとも思いました。読み始めではオブライエンさんの年齢がわからず、もしかして父親のことが好きなのかもと想像しましたが、詩のサークル仲間が70代ということからそれはないとわかりました。それでもアミーリアに無償の愛をささげ続けてきたオブライエンさんが、父親の再婚を機に疎遠になったとしたら、少しかわいそうな気もします。

アカシア:出てすぐに読んだのですが、タイトルのせいもあってか、どんな話だかぱっと思い出せませんでした。どんなウサギの話だったけと思ったりして。で、もう一度読んだのですが、いつもの原田さん訳の作品と違って、すっと入ってこないもどかしさがありました。もしかしたら、それは共訳のせいかもしれないですね。若い翻訳者を育てるという意味では共訳も必要なのかもしれませんが、私はもっとなんというか言霊みたいなものがあると思っていて、その作品のエッセンスをどうとらえるかは人によって微妙に違っているので、ばらばらの言霊が聞こえてきてしまうのかもしれません。子どもの言語感覚が分かる人に下訳をしてもらうという人もいますが、共訳の場合たいていは波長の違うちぐはぐなうねりを感じて、とまどいます。p66に「わたし、名字なしで名前だけの人が好き」とありますが、そういう人はめったにいないので、「名前だけのほうが好き」くらいでしょうかね。それと、冒頭で、オブライエンさんがアミーリアのことをしょっちゅう「かわいそうに」と言う、とありますが、本文では言ってないみたいだし、それですますような人にも思えないので、ちょっとひっかかりました。まあ、私が「かわいそう」って上から目線だと思っていて好きではないからかもしれませんが。でも、アミーリアの心情に沿って読めるところはたくさんあって、たとえば父親からこれまで声に出してほめられたことのなかったアミーリアが、ハナも呼んでの食事のとき、二人からほめられてうれしくなったり、そのあと自分の意見が否定されたと思って怒る気持ちなどは、寄り添って読めますね。

ヒダマリ: うーん、読んでいるときは先が気になるし、読後感もさわやかなのですが、あまり残らない作品でした。実は、1年半前に1度読んでいるんだけれど、今回、内容をすっかり忘れてしまっていました。印象が弱い理由を考えて、2つあるのではないかと思いました。1つは、主人公が恵まれていること。2歳のときにお母さんが亡くなって、お父さんは理解がない、ということが冒頭で強調されていますが、オブライエンさんは、おそらく実の母以上に優しく、常に理解してくれるし、途中から現れる父の交際相手のハナ・バーンズさんも理想的ないい人です。友人のケイシーは、元気づけてくれて、工房の先生も優しいんですよね。もう1つの理由は、主人公が常に受け身であること。内向きな性格でさびしい思いをしている、というのはわかるんですけど、自分から行動せず、常に与えられるものによって、少しずつ変わっています。特に気になったのは、ハナ・バーンズとの件が佳境にあるとき、一度たりともケイシーのことを思い出さないんですよね。この子の視野の狭さが浮き彫りになっているストーリーならいいのですが、頑張ってるいい子として描かれているので…物足りなさを感じました。

花散里:2021年に刊行されたときに最初に読みました。その時、評価が高い本だったと記憶していますが、今回、タイトルを聞いたときに物語がすぐに思い出せませんでした。読み直して、1章「かわいそうなわたし」から、お母さんが亡くなっていることなどを思い出しました。お父さんが前半ではオブライエンさん任せきりで、子育てに関心がないように描かれていますが、p165、後ろから5行目の文章「あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いていたこと。(中略)すぐに泣いてしまうから」が印象的でした。お父さんがうまく愛情表現できないのを、上手にオブライエンさんがカバーしてくれているということが全般的に良く伝わってきて、お父さんにとってもオブライエンさんが欠かせない存在であることも良く描かれていると思いました。アミーリア自身、友だちの作り方がうまくいっていないなかでケイシーと出会ったことなどが、子どもたちにも好感を持って読まれるのではないかと感じました。『春のウサギ』、このタイトルと表紙がそぐわないように感じました。子どもたちが読んでみようかなと本を手にするとき、タイトル、そして表紙の画は大事だと思います。どうして「春のウサギ」なのかなと。この物語を子どもたちに手渡すときの印象からすると、違ったほうが良かったのではないかと思っています。

西山:今回、岩瀬さんの作品と抱き合わせにして続けて読んだせいもあるでしょうが、すごく岩瀬成子的と思いながら読みました。大きな事件が起きるわけではなくて、筋は忘れてしまう気がしますが,読み返したら随所がおもしろくて、何度でも味わえそうです。人間観がやわらかくて好き。子どもの身体性を伴った、包まれている安心感というのが描かれていて、その温かさを新鮮に感じました。『春のウサギ』というタイトルは、全体を覆う温かなものに包まれた安心感にあっているのかもしれません。私も、最初はオブライエンさんと「教授」の関係が気になっていましたが、「教授」との恋愛感情があるとかないとか、そうじゃないんだなと思うに至りました。愛し合う男女がペアになって子どもを育てるという定型ではなく、お向かいのおばさんがこんなにアミーリアを無条件に受け止めてくれる、こういうあり方は新鮮でした。「教授」の不器用さはひどいとも思いましたが、p175の6行目ではっきり自覚されているように、アミーリア自身お父さんに似ています。おもしろい人間像を見せてもらったという感じです。「教授」の「あの子がおまえと遊ばなくなって、よかったと思っている。意地の悪い子だと思ってたんだ」(p177)というひとことなど、普通言うかそんなこと、とびっくりしましたが、そういう、馴染んだ人間観をこえてくるところがおもしろかったですね。

ヨシキリ:主人公の心の動きを繊細に描いた、温かくて、感じのいい物語だと思いました。ふと見かけただけ女の人を、実のお母さんであってほしいと思うアミーリアの心情は、両親が離婚寸前というケイシーに影響を受けているんでしょうね。お父さんはアミーリアを虐待しているわけではなく、鬱状態にあるだけだと思います。不器用な人なんですね。また、オブライエンさんも、アミーリアたちに無償で尽くしているのではなく、きちんとした雇用関係に基づいて働いていて、そのうえで春のようにアミーリアを包みこむ愛情は本物だと思いました。タイトルも表紙も、私は好きですね。こういう名前のカフェがあったら、入っちゃうかも。後漢の歴史家がのこした「養之如春(これを養うこと春の如し)」という言葉を思いだしました。春のように子どもをふんわりと見守るというのと、ウサギのように一歩前へ跳びだすという意味を兼ねているような感じがして…。原書のタイトルに使われているエミリー・ディキンスンの詩は、物語の結末とは違うような気がして、なかなかトリッキーなタイトルだと思いますので、そのまま訳しても読者に届くかどうか。まあ、私は子どものときに読んだ本でわからないことがあっても、大人になって「ああ、そうだったのか?」と思うことがよくあり、それはそれで読書の楽しみのひとつだと思いますが。訳書のタイトルのつけ方は、本当に難しい!いくら子どもが手に取りやすいからといって、「謎」とか「秘密」とかいう言葉をやたらにつけるのもどうかと思いますし…。

花散里:子どもたちが本を選ぶとき、タイトルは大きいと思います。

サークルK: 4月の課題本として3月半ばから読み始めたので、イースターの季節にぴったりのタイトルと表紙の緑色やウサギの絵に手に取った時から心が和みました。様々な表情のウサギたちは、アミーリアの作る粘土のウサギのことだったのだと読み始めてわかり、あらためて眺めることになりました。作中の表現で特に心に残ったのは、登場人物たちの「ふれあい」です。p28で友達になったケイシーが「2度ほど、自分の腕をアミーリアの腕を軽くかすらせた」とかp162-3ページでは「ハナの腕がアミーリアの肩に触れたが、やわらかな感触がびっくりするくらい心地よかった。」とか、p165「知ってる?あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いてたこと」など、さびしい心持をしているアミーリアに温かい人の手が何度も差し伸べられ、実際に「手当されている」ということがよくわかります。彼女は決して放っておかれているわけではなく、皆さんの感想にもあったように実はとても恵まれているのだと思えます。p112でオブライエンさんの手が「急にあわただしく動きはじめ」、「アミーリアの髪をなで、両肩をぎゅっとつかんだかと思うと、シャツについていたごみをはらいおとし、ほほにふれた」とあります。髪にふれるという行為は、p167にはハナが「なにも言わずにポケットに手を入れ、小さな青い玉のついたヘアゴムを取り出して(中略)ベッドの上ですわりなおすと、アミーリアの髪の毛をていねいにたばね、おだんごにまとめた」という形で再現されています。大人の小説だと、官能的な愛情表現につながるような行為ですが、親しいものがこのようにして子どもの髪をなでるという表現には独特の親密さや言葉にはしにくいながらも優しさや温かさが表現されていると感じました。続く最後の行、「きつすぎず、ゆるすぎず。ちょうどいい感じに」という表現は特に素敵でした。大人がべたべたと、あるいはずかずかと子どもの心に入ろうとしているのではないことがよくわかったからです。

すあま:このタイトルだとどんな話かわからないので、ブックトークなどで紹介しないと手に取りにくいかな、と思いました。夏休みの物語は多いけれど、春休みの話はあまりないかも。日本とは学校の学期の始まりや休みが違うからかもしれません。春であり、1999年という年であることに意味がありそう。アミーリアとケイシー、一人はお母さんが亡くなっていてお父さんしかいない、もう一人は両親が離婚しそうな状態で、どちらも家族についての悩みや痛みを抱えています。そこに家族ではないけれども、支えてくれる大人がいるというのをきちんと書かれているのがとてもよかったです。家ではない居場所があり、そこでは家族ではない人が自分を見守ってくれている。物語の最後、何もかも解決したわけではないけれど、アミーリアの成長が感じられて、この先いろんなことがうまくいきそうな予感を残していたので、読後感がよかったです。

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エーデルワイス(メール参加):時代設定は1999年。確かに携帯(ガラケー)もまだまだこれからでした。主人公のアミーリアは寡黙なお父さんとあまり意思に疎通がないようだけれど面倒をみてくれるオブライエンさんいて平和な日常をおくることができています、オブライエンさんの手作りマフィン、クッキー、ケーキ、アミーリアの通う陶芸教室などゆったり感満載ですね。両親の離婚問題で悩むケイシーとカフェに行くなんて。12歳なのにオシャレです。通りかかる人に勝手に名前をつけてその物語をつくる遊びは高度。二人とも成熟していると感じました。アミーリアのお母さんは亡くなっているはずなのに、見かけた女性をお母さんかもしれないと想像を膨らませるところはいじらしいです。その女性はお父さんの恋人でしたが、この本の続編が書かれるのかもと思ったりしました。アミーリアの心の軌跡が丁寧に書かれていると思ったし、装丁と挿絵はいかにも日本らしいと思いました。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ロンドン・アイの謎

『ロンドン・アイの謎』表紙
『ロンドン・アイの謎』
シヴォーン・ダウド/著 越前敏弥/訳
東京創元社
2022.07

エーデルワイス:作者がこの作品を発表してから2か月後に47歳で亡くなっていることにショックを受けました。ミステリーの犯人捜しが苦手な私は、読んでいて謎を解き明かすことができません。作者の独特な言い回しのせいか、なかなか読み進めませんでしたが、中盤から一気に読めました。読み終えてから、あそこにここにとヒントがあったのですね、と。主人公テッドの口癖「んんん」は原文でも「nnn」なのでしょうか?出番は少ないのですが私服の女性警部、ピアース警部が素敵です。グローおばさんとサリムのニューヨーク行き飛行機のチケットを待ってもらうなんて、良心的な飛行機会社ですね。サリムのパパがインド系、サリムの親友のマーカスの母がバングラデッシュ、父がアイルランド……というように他民族そして差別も描いています。サリムの行方不明事件の顛末は、日本でしたら親が世間から非難されそうですね。

西山:おもしろく読みました。いきなりの「序文」で「真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らずこの本のなかに書かれています」しかし、謎を解くのは「一度読んだだけでは至難の業でしょう」って、なんだ、いきなり読者への挑戦状か?! と思いまして、受けて立とうじゃないのと身構えて読み始めたのですが、そのうちそれも忘れて、ただおもしろく読んでいました。あ、でも、ロンドン・アイでサリムが乗り込んだはずのカプセルから降りてきた人の数は数えて、乗り込んだのと同じ21人であることは確認しましたけれど。“症候群”のテッドの感性と考え方から生まれるユーモアや、例えば人がかっこいいかどうかとか分からないテッドは「ぼくには、どの人もその人にしか見えない」(p25)というところなど、すてきな人間観として読めて、謎解きだけで引っ張られるわけではない、細部を楽しめる読書となりました。

雪割草:おもしろくて、先が気になってどんどん読み進めることができました。序文で、「テッドが真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らず本のなかに書かれています」とあったので、細部に注意したつもりでしたが、いろいろ気が付けず、仕掛けが見事だと思いました。また、ミステリーでありながらそれだけに終始せず、サリムが母とふたり暮らしだったり、父はインド系だったり、学校でいじめにあったり、社会的な背景などいろいろ描きこんでいるのもわかりました。それから、テッドは「症候群」と自分で言っていて、あとがきにはアスペルガー症候群と書かれていますが、その率直な観察視点で描かれるのも、ミステリーやこの作品に合っていると思いました。p33でテッドとサリムが会話しているのが描かれていますが、サリムはおとなっぽいというか、ミステリアスなところがあり、それも魅力的に思いました。

サークルK:ミステリーとしても子どもの成長物語としても、本当におもしろい内容でぐいぐいと引き込まれてしまいました。これぞ本を読む喜び!という感覚で、あまりのおもしろさに続編(ダウドが亡くなってしまったので原案のみで、本書の序文を書いたロビン・スティーブンスが本編を執筆した『グッゲンハイムの謎』)も一気に読んでしまいました。テッドが自閉症スペクトラム「症候群」であるために、家族の心配りがどうしても必要でそのしわ寄せを引き受ける「きょうだい児」の姉カット、母親の姉であるグロリアの家族の問題も盛り込まれて、現代のロウワーミドルクラスにあたるような一家の状況は一筋縄ではいかないのですが、お互いに文句を言いながらも温かい家庭であることが伝わってきました。そこにいとこの行方不明事件が勃発!これはおもしろくならないわけがありません。お互いに面倒くさいなと思いながらも姉弟が協力して、ひとつひとつ可能性をつぶしながら真実に近づいていく様子がていねいに描かれていました。ダウドご本人の作品がもう読めないのが残念でたまりません、もっともっと読みたかったです!

花散里:『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)など、40代で逝去してしまったシヴォーン・ダウドの作品はとても心に残っていたので、本作も注目して読みました。2022年に読んだ本の中で、特に印象深い作品でしたが、続編の『グッゲンハイムの謎』(シヴォーン・ダウド原案 ロビン・スティーヴンス著 東京創元社)もとてもおもしろく読みました。自閉スペクトラム症のテッドが鮮やかな推理で解決していくというミステリーで読み応えがありました。

マリオカート:ロンドンにはずいぶん長いこと行っていないので、このロンドン・アイのある風景を知らず、見てみたいなーと思いました。物語の途中まで、ミステリー的にそんなに絶賛されるほどの作品かな、と思っていたのですが、終盤で一気にたたみかけてくる展開に圧倒されました。主人公のキャラクターが秀逸ですよね。“症候群”の様子が、気象をモチーフにした本人のモノローグでよく伝わってきます。彼が何か言おうとしても、大人たちは聞いてくれない場面が多々あります。前回の読書会で読んだ本には、物理的に会話できない主人公が登場していました。今回の主人公も、言葉を発することはできるけれど実質大人に届いていないわけで、少し近いものを感じました。それでもあきらめない主人公が、最後はとてもカッコよくて、読み応えがありました。著者が早く亡くなられたのがとても残念です。

コアラ:おもしろかったです。自分で推理するつもりで読んでいきました。私も、サリムがそもそもロンドン・アイのカプセルに乗らなかったんじゃないかと最初のうちは思っていました。でも途中でその説が却下されたので、あとはいろいろな可能性を考えながら読みました。サリムがどこにいるか、ということでは、父親の家に行っているんじゃないかと思っていました。最後の解き明かしは、読者が本文中に明かされた手がかりだけでは推理できないことだったので、ミステリーとして素晴らしいというほどには感じなかったのですが、やっぱり子どもが活躍するというところで、おもしろかったです。気になったところと言えば、訳文がちょっと気持ち悪いところがありました。たとえばp27の後ろから8行目などですが、ストーリーに引き込まれてからは気にならなくなりました。印象に残ったのはp33からの「夜のおしゃべり」の場面。テッドは、グロリアおばさんや姉のカットからも、変てこな存在だとみなされていますが、サリムはテッドと同じティーンエイジャーの男の子同士として話をしていて、とてもいいなと思いました。あと、テッドがよく「んんん」と言いますが、その、唸っているという、言葉になっていないけれど、ちゃんと反応しているというのが、テッドらしさを表している表現に思えて、しかも字面が「んんん」ってなんだかかわいらしくて、やさしい気持ちで読むことができました。すごくプラスになっている翻訳というか表現だと思います。

ハリネズミ:ミステリー仕立てというだけでなく、人間模様がていねいに描かれているのがすばらしいですね。ダウドがすごい作家だということがそこからもよくわかります。アスペルガー症候群(とあとがきに書いてあります)をかかえ、ひとりで電車に乗ってこともなかったテッドが、その推理力で、いとこの命を助ける活躍をします。アスペルガー的な数へのこだわりや、決まった手順へのこだわり、ウソがつけないなどの特性を活かしながら、事件を解決していくところがいいなあと思いました。テッドの意見に家族が聞く耳を持たないときに、女性刑事がちゃんと話を聞いて解決に役立てるという設定もいいですね。人種のからむいじめの問題、アスペルガーの人が抱える問題、労働者階級の子どもの教育の問題なども描かれています。教育の部分は、バングラデッシュ人の母とアイルランド人の父を持つマーカスは、スクールカーストの最底辺にいるし、兄のクリスティは警備員の仕事もまじめにはやらず、いつもお金に困っていることなどから感じました。グローおばさん(グロリア)は、最初はとんでもない人かと思ったのですが、p224からの描写にはこうあります。「マーカスがドアへ向かおうとしたとき、グロリアおばさんが立ちあがった。/『マーカス』部屋は静まり返った。マーカスは立ち止まったけれど、振り返りはしなかった。/『聞いてちょうだい、マーカス。サリムの母親として言います。あなたは何も悪くないから』この一言でイメージを逆転させているんですね。見事だと思いました。

アンヌ:私は推理小説が好きで『名探偵カッレ君』(アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)や江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズで育ってきたので、おもしろいと評判だったこの本を選んでみました。読んでみたらおもしろくて2冊目の『グッケンハイムの謎』(ロビン・スティーヴンス著 シヴォーン・ダウド原案 越前敏弥訳 東京創元社)も読んでしまったのですが、やはりこちらの方が、主人公のテッドのASDについて、特性や苦悩がていねいに書いてあると思いました。インド系のサリムやその友達が受けている差別など、今のイギリス社会の状況もしっかり描かれていると思います。推理小説としては謎が二つもあり、特に後の方は時間との戦いというスリリングな要素もあって実に見事だと思いました。また、大人たちが誰も話を聞いてくれないのに、女性の警部に電話して問題が解決されるという展開は、警察への信頼感があって、古き良きミステリーのようなほっとする感じがありました。

まめじか:よくできているミステリーだと思いました。家族の目は発達障碍のあるテッドに向きがちで、そんな中、姉のカットが感じている思い、サリムを見つけようと奮闘する中で二人の心が近づいていく過程もていねいに描かれていますね。若干気になったのは、p67「ナースは女の人の仕事だけど、ぼくは男だ。ナースにはなれない」とか、p68「よくあるのとは逆で、女の人のほうが責任者だっていうことだ」など、ジェンダーバイアスを感じさせる部分です。この本では、女性の警部がとても好意的に描かれていますし、きっと作者にそういう意図はないのでしょうが、読んでいて引っかかってしまいました。この本が書かれたのは2007年なんですよね。今の児童書だったら、こういう書き方はしないと思います。そういうところは、日本語版を出すときに訳で工夫してもよかったかもしれません。

すあま:この著者の作品は以前『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)を読んだことがあります。生前発表された作品が少ないので、翻訳されたのがうれしいです。『ボグ・チャイルド』とは違う雰囲気ですが、ミステリーとしても楽しく読みました。登場人物がそれぞれ個性的で、どんな人なのかくっきりと描かれていました。主人公のテッドは発達障碍なんですが、読んでいてそれが才能や個性だと感じられるような描き方をされていたと思います。特に、お姉さんのカットは、テッドのような弟がいる姉の気持ちがよく伝わってきて、ていねいに描かれているな、と思いました。それから、テッドが仮説を立てて一つ一つ検証していくところは、調べ学習の進め方のようでもあり、おもしろかったです。

ルパン:おもしろかったです! ただ、謎解きの点でいうと、この主人公、いつもいろんなものの数を数えていて、サリムが観覧車に乗るときもちゃんと人数を数えてるんですよ。なのに、降りたときはわざとのように数えてない。それで、降りた人の数を足してみたら21人だったから、絶対変装だ、ってわかっちゃったんですよね。だから、推理小説としては私の勝ちだな、って思っちゃいました。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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チェスターとガス

『チェスターとガス』表紙
『チェスターとガス』
ケイミー・マガヴァン/作 西本かおる/訳
小峰書店
2021.09

小方:主人公が自分の気持ちを表現できない。そういう状況の物語をどんな風に描くんだろうと思って読みました。自閉症だったり、障碍があったりする子が身近にいる作者だから描けるのでしょうね。この物語は、チェスターの視点から語られます。なんとこの犬はテレパシーのようにガスなどと気持ちを伝えることができるという、おもしろい発想ですが違和感がなく読めました。むしろ夜外に出て、吠え声を返してくる犬より、人間を仲間に感じているところがおもしろいです。アメリカを発見したのはコロンブスではない、というような流れから、犬なんですが人間みたいな存在に読者が感じられるようにしているのがうまいですね。チェスターはガスを描く語り役ですが、チェスターもまた、いくら吠えても気持ちを交わすことができないという悲しみを抱えた存在です。チェスターもガスも、ボキャブラリーはあっても伝えられないというくだりがとても悲しいと感じました。

ハル:随所、随所で、泣けて泣けて仕方なかったです。ひとくくりに自閉症といっても、ひとそれぞれ違いがありますよね。『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール出版部)の著者の東田直樹さんは、著書の中で、壊れたロボットの操縦席にいるような感じなのだとおっしゃっていました。この物語の中でさえ、ガスの心の本当のところまではわかりませんが、障碍のあるなしにも関係なく、誰と接するときにも、思い込みを捨てて、想像力を持つことは大事だと改めて思いました。ラストの手前でペニーが、まるでアメリカのアニメ映画にありそうな雰囲気で、にわかに暗黒面に落ちたような雰囲気になったときは、ああ、こういう展開はいやだなぁと思いましたが、ペニーの気持ちにも寄り添えるようなラストでよかったです。子どもたちにもぜひ読んでほしい1冊でした。

アオジ:ガスに心のうちを語らせるのではなく、犬のチェスターから見た(感じた)ガスの姿を描いている点がユニークなんでしょうね。犬が語るという物語は、ほかにもたくさんありますが。私は、アメリカの学校の現場を目に見えるように描いているところが、いちばんおもしろかったし、勉強にもなりました。作品のために取材したのではなく、自閉症の子どもの親である作者の体験がもとになっているので、痛いほどよくわかりました。
ただ、ガスの両親をはじめ、登場人物がどちらかといえばシンプルに書かれているのに、ペニーさんだけが複雑。読みはじめたときに、言葉遣いが乱暴で、どういう人となのかなと思いましたが、ハルさんがおっしゃるように後半にいくにつれて「悪者感」が増してきて、この本の対象年齢の子どもには理解しがたいのかなと思うし、裏切られたような感じがするかも。また、後半でペニーさんの母親が、知っているはずもない「ガス」という名前を口にする場面は、いくらなんでもやりすぎかな
あと、犬が人間の役に立ちたいと思っているのは本当だし、チェスターのひたむきさには拍手をおくりたいけど、「断然イヌ派」の人間としては、もっと犬の体温を感じさせるような書き方はできなかったのかなと思いました。ひたすらガスの役に立ちたいと思っているチェスターの姿が、だんだん生きている犬ではなくアイボに思えてきて……。

ハリネズミ:私もおもしろく読んだのですが、引っかかったのは、ペニーの人物設定でした。言葉遣いがほかの人とは違うので、そこで特殊性を出そうとしているのかもしれませんが、普通に社会で仕事をして生活していながら、平気で人を騙そうとします。最初からそれを匂わせる書き方、訳し方をされているならともかく、ちょっと日本の子どもには人物像が伝わりにくいかと思いました。それと、犬のありようが、リアリティとはかなり離れていて、どこまでリアルな存在としてとらえればいいか戸惑いました。人間の心理を読むことはできても、人間と同じような思考はしないと思うので。犬と人間の結びつきを書いた本はいろいろありますが、この本はファンタジーとリアリティの境目がよくわからず、自然を超えたスーパードッグというふうに私は読みました。そうすると、今度はガスのほうのリアリティもどうなのだろうと思えてくるので、設定にもうひと工夫あるとよかったかな。

アンヌ:表紙がさみしいような水色の背景に、窓の外の鳥を見ているガスとその足元のチェスターの姿で、読後にこの絵の意味が分かる仕組みもあるのがいいなと思いました。ガスの状態を理解するまでとても時間がかかってしまい、今でも、てんかんの症状だと言葉が出てくるというのがよくわからないままです。この物語で印象に残ったのは、サラがガスには学校で教育を受ける権利があって学校側はそれに対応しなくてはならないと言うところです。どの子供にも人権があるのだという主張を感じます。ペニーについては、犬の訓練士のプロなのかどうか、よくわからない感じで、少し捉えどころがないですね。チェスターがペニーのママとテレパシーで通じ合うところや、ガスともテレパシーが働いてしまうところは、ちょっとファンタジーだと思いましたが、移民のマンマが言葉以外の方法で、身振りや感じでガスを理解するように、たぶん言語だけがこの世界の生き物のコミュニュケーションの全てではないのかもしれないとも思いました。

コアラ:とてもよかったです。ガスが少しずつ変化していくのが、チェスターの目を通して語られます。人間だったらもっと直接的なコミュニケーションになりそうなところですが、犬と人間だからこその寄り添い方、心の通わせ方が描かれていて、心温まる物語でした。食堂のマンマもよかったし、チェスターを介したアメリアとのコミュニケーションの場面、ガスの変化がとてもよかったです。p135の5行目から、初めてアメリアに手をのばすところ、それから、p257の最終行から、チェスターのベストの「仕事中です、さわらないで」という文字をかくして、いつでもさわっていいよと伝えようとしたところ。両方とも、アメリアと目を合わせなかったというところがとてもリアルで、目を合わせないけれども、手が内面を伝えている、というところが感動的でした。p215では、ガスが疲れたせいで言葉が出てくる、というように書かれていて、実際にそうであればいいのに、と思いネットで少し調べたのですが、現実はそんなに簡単に言葉が出るわけではないようです。それでも、著者あとがきを読むと、ストーリーのきっかけは全くのフィクションではないようだし、希望の持てる物語でした。自閉症でなくても、人との関わりに疲れた、というときでも心を癒してくれるような本だと思いました。ただ、p244の3行目あたり、犬の言葉をペニーのお母さんが聞き取ったというような場面は、ちょっとやりすぎかなと感じました。

しじみ71個分:優しくて、愛にあふれた物語でした。読み終わってほわほわとあったかい気持ちになりました。人と犬との関わりの深さや信頼がよく表現されていると思います。自閉症のガスがチェスターと出会って、少しずつ周囲とコミュニケーションができるようになっていくのと同時に、補助犬の試験に落第したチェスターはある意味、落ちこぼれともいえると思うのですが、ガスと出会って、ガスのパートナーになると決意して、仕事をがんばり、てんかん発作を起こしたガスの危機を救い、ガスのパートナーとして自信をつけ、家族としてなくてはならない存在になっていきます。そういう意味ではチェスターの成長物語でもありますね。すごく気持ちのいい物語でした。テレパシーでガスと会話できてしまうのは、確かにちょっと便利すぎかなとも思いますが、「こうだったらいいな」という気持ちで、作者が書いたんじゃないかなと思います。ただ、ちょっと、p132で、ガスのクラスメートのアメリアの名前が、誤植で「アメリカ」になっていたのは残念でした。あと、もう一か所、p133の6~7行目に「そのうちガスは口はしをつりあげた。僕の知るかぎり、ガスはこの顔をママにしか向けたことがない。笑顔だ」とありますが、ここは「ママ」ではなくて「マンマ」じゃないかと思ったのですが、どうでしょう? ガスが笑顔を人に対して見せるという記述は、p96の、ガスがマンマと笑顔でしゃべりあっているという箇所以外、見つけられなかったような気がするのですが……。

オカピ:チェスターもガスも感覚が過敏で、また自分の中にうずまく感情を他者に伝えられません。そんなチェスターとガスが、相通じるものを感じて心を通わせていくのはわかるのですが、p61でガスの声がチェスターに聞こえるのは、少し唐突に感じました。また、お祈りのポーズをするように、チェスターがガスに伝えたり、会ったばかりなのに、ペニーのお母さんと意思疎通できたりするのはなんだかテレパシーのようで、リアリティが感じられませんでした。人とうまく関係を築けないペニーにも、なんらかの特性があるようですね。もう少し魅力的な人物として描かれていたら、感情移入しやすかったような……。母犬が子犬といるのがつまらなそうだったというのは、ドライな親子関係でおもしろいなと思いました。

西山:たいへんおもしろく読みました。犬のチェスターを通して、ガスの「頭の中」が伝わらないもどかしさを追体験した感じです。食堂のマンマとの交流など、周りのおとながちゃんと見ていない。いつもスマホばかり見ているクーパー先生なんて、ちょっとダメすぎて本当にもどかしく思いました。ガスが怪我をさせられた件も連絡帳に書いただけだったり、ちょっとそのへんは非現実的ではないかと思います。チェスターの能力に関しては、非現実的だとひっかかってしまうことはなかったのですが。ペニーもなにか困難を抱えているらしいけれど、あまり伝わってこなくて共感しづらかったのは皆さんと同じです。

さららん:チェスターはガスの感情の変化や、てんかんの発作の匂い(「ガスの体から薬品みたいなにおいがしている。ガスがもえてしそうなにおい。」p212)まで察知します。以前読んだことのある『おいで、アラスカ!』(アンナ・ウォルツ作 野坂悦子訳 フレーベル館)のアラスカもてんかん犬の資質を持っていましたが、そちらは二人の人間の視点から交互に語られ、犬の内面は描かれなかったので、犬の感覚描写が私にはおもしろく感じられました。チェスターは弱点のせいで正式な補助犬にはなれなかったけれど、ほかの人には聞こえないガスの心の声が聞こえるようになります。障碍のあるガスはもちろんですが、学校で働く移民のマンマ、認知症のペニーのお母さんに至るまで、弱い立場のものたちへの愛情と、その可能性を信じる作者の目に揺るぎないものを感じました。p220で再登場するペニーがらみの意外な展開をのぞくと、ストーリーに起伏が少ないように感じられましたが、言葉数の少ないガスの変化や成長を、チェスターが読み取ることで読者に伝わるこの物語を子どもたちが読むとき、障碍のある友だちの心を想像する良いきっかけになりそうです。とはいえ、犬の一人称で書きとおすには、相当の苦労が必要だったと思います。

サークルK:人と犬とが補い合って一緒に想いを通わせようとする物語で読んでいて楽しかったです。ガスを取り巻く社会だけでなく、どうやら問題を抱えているらしいペニー、学校の問題など言葉が通じるからこそかえって相手を誤解したりわかってもらえないことに苦しんだりする場面が多いので、それを解決するために時々チェスターの声がガスに聞こえ(ているらしい)、ガスの声がチェスターに届いている(らしい)描写が盛り込まれているように感じました。そんな閉塞感に満ちた部分と、ファンタジーな解決の部分が物語の中心になる中でチェスターがガスのところに引き取られるまでの個所で、犬の母親、兄弟たちとのやり取りが(ここは全くのフィクションでしょうが)軽妙でおもしろかったです。母犬は心配性なチェスターに、訓練士の前では堂々とふるまうようにと有益なアドバイスをしてくれますが、そのうちに次々と生まれる仔犬のことや自分のことで頭がいっぱいなのか、チェスターのことにいつまでも心を向けなくなります(p15)。動物の本能的なふるまいに人間のような愛情を読み込みすぎず、あっさりとした犬の親子関係が逆に気が楽な面もあるのでこの最初の場面はとてもおもしろかったです。
ペニーのことを乱暴な口調や振舞いからはじめは女性とは思わずに読んでいましたが(「あたし」という訳がついていてもLGBTQの人なのだろうか、などとも)彼女の母親の病室にチェスターを連れて行ったときにようやくはっきり女性だとわかりました。

ANNE:チェスターを引き取って訓練するペニーがいい人なのか、そうではないのか、ずっとあいまいでしたが、最後にはきちんとチェスターをしつけてガスのもとに戻してくれたので安心しました。ペニーには、きっと別の犬が見つかると思います。犬が主人公の物語なので、2021年に出版されたセラピードッグの絵本、『いぬのせんせい』(ジェーン・グドール作 ジュリー・リッティ絵 ふしみみさを訳 グランまま社)を思い出しました。

ニャニャンガ:まめふくさんの表紙が、やわらかくてすてきですね。犬の視点で進行する本を訳したとき、犬が考えそうもないことや知るよしもないことを書いてしまうとリアリティを感じられないので、どのように犬らしさを出すかが難しかったのを思い出しました。本作はもう少し犬らしい感じがあってもよかったのではと思いました。

サンマリノ:あとがきに熱量があって、ちょっと泣きそうになりました。ハッピーエンドだし、いいお話です。ただ、非常に息苦しく感じました。犬のチェスターがあまりにも孤軍奮闘しているからです。サラやマルクや先生に考えていることを伝えられず、ガスとも最低限の会話しかできず、近所の犬たちとも交流しないまま、思いが溢れた状態でずっと過ごしています。自閉症の子も、同じような状況なのだということを説明するためなのだとしたら、非常に効果的だとは思うのですけども。できれば、となりの家の犬と、ちょこっと1日数分でもおしゃべりするとか、猫か鳥と雑談できるとか、ほんの少し安らげる場面があったら、と思いました。いいなぁと感じたのは、ガスには好きな大人マンマと、お気に入りの女の子アメリアがいるところ、そしてエドのようなイヤなやつに魅力を感じてしまう部分です。一方、気になったシーンもあります。p186で「ガスはおもしろい音が大好きだから、まわりでおもしろい音がしないときは、自分で音を立てる」と書いてありますが、p54では、「ぼくがほえたり、つめでカチカチ音を立てて部屋の外を通ったりすると、こわがる。音で耳が痛くなるんだ」と書いてあって、ちょっと矛盾するようにも思えてわかりづらかったです。あと、先生が数人でてきますが、描写が最低限すぎるので、特にクーパー先生の存在がイメージしづらいなと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』(福田隆浩著 講談社)とは逆に、先生があまりいい存在として描かれていないことが印象的でした。

雪割草:おもしろく読みました。でも、ガスの声をもっと聞きたかったという、もやもや感が残りました。作者が実際に母の立場だからというのもあると思いますが、ガスよりもサラの方が不安など気持ちの起伏の細かなところまで描かれていてよく伝わってきました。チェスターが犬らしくないという感想がありましたが、p163のカバーを洗わないでほしいなとつぶやいているところは、犬らしさが描かれているごく少ないひとつだと思います。それからペニーについては、チェスターをスターにしたいという欲があって、その時はチェスターの声が聞こえない。でも欲が消えると、不思議とチェスターの声が通じるようになる。確かにちょっとテレパシーの域かもしれないけれど、ペニーの母にはチェスターの声が届く。食堂のマンマには、ガスの思いが何となく通じている。そして、ガスとチェスターも通じあえる。思いが通じ合えるかどうかというのは、本当はみんなできるはずで、欲だったり不安だったり、他のことが邪魔をしているのかもしれませんねということを、ペニーを通じて描いているように、私は感じました。

ルパン:仕事で探知犬について調べたことがあって、犬の能力のすごさがわかっているので、かなりリアルに近い感じで読みました。また、犬の訓練所とか南極の犬ぞりのことなどについて書いた本によると、犬も人間のように感情とかプライドとかがすごくて驚かされます。飼い主の発作を事前に感知するというのも現実の事例としてかなりあるようです。これを読む子どもが、本当のことと思って読んでくれたらいいなと思います。みなさんから「やりすぎ」と言われるシーンも、私はけっこう心に残りました。

ハリネズミ:犬の能力が高いというのはその通りですが、なんでもできるわけではないですよね。たとえばp240の「可能性は低いけど、サラやマルクやガスが来ているかもしれない」とチェスターが思うところ。可能性の低さを犬が云々するなんてことは、ないんじゃないかな。p188にもチェスターが「ガスもぼくも口でちゃんとしゃべれないよね。心の中だけでしゃべっているんだ。まわりの人にはあんまり伝わらない。ていうか、ほかのだれにも伝わらない。会話の方法としてはあんまりよくないんだ」と思ったりします。これもおとなの人間なみの客観的な思考ですよね。

しじみ71個分:チェスターの言葉があまりにも人間っぽいというのは、実際に自閉症児の母である作者の視点が、サラの視点と、チェスターの視点の双方から描かれているからではないでしょうか。チェスターから語りかけ過ぎてガスが黙ってしまう様子などは、実際の母親としての作家の経験から生まれた表現のように思えました。なので、チェスターがやたら人間っぽいのはそういう理由かなと思ったり。あと、ペニーについてですが、ペニー自身もチェスターが最初の試験で落第したことで、犬の訓練士としての能力が低い、と否定された気になって、チェスターに文字を教え込んで特別な犬だと証明することで自分の価値を認めさせて自信を持ちたかったんだろうなぁと思いました。最後にチェスターはそんなペニーにも自信を与えて立ち直らせていますよね。あとでネットで調べましたが、アメリカでも日本でもドッグトレーナーには国家資格などなくて、ただ経験の積み重ねによるんだそうです。だからなおさら人からの評価が気になるという設定なのかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):とても好きな作品です。心がホカホカします。犬のチェスターの目線の物語。自閉症でてんかんの発作を起こすガス、ガスのママとパパの様子、犬の訓練士のペニーの性格がよく伝わってきます。フィクションなのに、ノンフィクションかと思われるほどチェスターとガスが心の中で会話しているのが当たり前のように思われ、他にもたくさん例があるのではと、思いました。犬って人間に尽くしてくれるのですね。チェスターが余りにも健気です。日本でも補助犬がもっと普及するといいなと思いました。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジャングルジム

『ジャングルジム』表紙
『ジャングルジム』
岩瀬成子/作 網中いづる/絵
ゴブリン書房
2022.12

『ジャングルジム』をおすすめします。

良太が風来坊のおじさんにだんだんひかれていく「黄色いひらひら」、すみれが姉をいじめた子に“ふくしゅう”しようとする「ジャングルジム」、一平が離婚した父との新たな暮らしと折り合いをつけようとする「リュック」、まみが病死した父のカバンの中にあった色鉛筆で父との思い出を描く「色えんぴつ」、春木がお試し同居にやってきたおじいちゃんを心配する「からあげ」の5編が入った短編集。
どの物語でも、その時々に子どもが感じたこと、考えたことがリアルに描写されている。それぞれの子どもの個性が浮かび上がるだけでなく、おとなについても、ちょっとした言葉でその人の生きてきた道を伝えている。上質の文学。小学校中学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年3月25日掲載)

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ぼくたちはまだ出逢っていない

『ぼくたちはまだ出逢っていない』表紙
『ぼくたちはまだ出逢っていない』
八束澄子/作
ポプラ社
2022.10

『ぼくたちはまだ出逢っていない』をおすすめします。

英国人の父と日本人の母をもつ陸は学校で暴力的ないじめにあっている。母の再婚相手と暮らすことになった美雨は居場所を探して町をさまよう。樹(いつき)は生まれたとき穴があいていた腸の不調に今でも怯えている。不安を抱えたこの三人の中学生が、割れた瀬戸物を修復する金継ぎを通して触れ合い、時間をかけて美しい物を作り出す伝統工芸を知ることで新たな視野を獲得していく。中学生から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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シリアからきたバレリーナ

『シリアからきたバレリーナ』表紙
『シリアからきたバレリーナ』
キャサリン・ブルートン/著 尾崎愛子/訳 平澤朋子/絵
偕成社
2022.02

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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パンに書かれた言葉

『パンに書かれた言葉』表紙
『パンに書かれた言葉』
朽木祥/著
小学館
2022.06

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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13枚のピンボケ写真

『13枚のピンぼけ写真』表紙
『13枚のピンボケ写真』
キアラ・カルミナーティ/作 関口英子/訳
岩波書店
2022.03

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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タブレット・チルドレン

『タブレット・チルドレン』表紙
『タブレット・チルドレン』
村上しいこ/作
さ・え・ら書房
2022.02

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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りぼんちゃん

『りぼんちゃん』表紙
『りぼんちゃん』
村上雅郁/著
フレーベル館
2021.07

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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ペイント

『ペイント』表紙
『ペイント』
イ・ヒヨン/著 小山内園子/訳
イースト・プレス
2021.11

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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パップという名の犬

ジル・ルイス『パップという名の犬』表紙
『パップという名の犬』
ジル・ルイス/著 さくまゆみこ/訳
評論社
2023.01

野良犬たちを主人公にしたイギリスのフィクションです。家庭の中に居場所がない少年にとって、唯一愛する存在だった雑種犬の子犬パップ。でも、少年が学校に行っている間に、捨てられてしまいます。そして、野良犬として生きていかなくてはならなくなったパップの試練が始まります。獣医として働いていた著者の観察眼や描写は、さすがと思わされます。野良犬それぞれの個性が立ち上がってくるように描かれていますし、犬たちの目を通して人間社会の歪みも見えてきます。パップのことだけではなく、無理矢理愛犬を奪われてしまった居場所のない少年の行く末も気になりますが、最後はハッピーエンドです。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:川島進さん)

◆2023年読書感想画中央コンクール指定図書

***

〈訳者あとがき〉

本書は、イギリスで二〇二一年に出版されたA Street Dog Named Pupの翻訳です。

著者のジル・ルイスさんは、環境や動物と人間との関係を書き続けているイギリスの作家です。日本でも、すでに『ミサゴのくる谷』『白いイルカの浜辺』『紅のトキの空』(以上評論社)、『風がはこんだ物語』(あすなろ書房)が出版されています。

ルイスさんは、小さいころから草ぼうぼうの庭で、虫や鳥に親しんでいたそうです。そのつながりで獣医になり、その仕事にはやりがいを感じていたものの、今の時点で職業を選ぶとすれば、環境科学を勉強して野生動物を保護する活動をめざしたかもしれないと言っています。

またルイスさんは小さいころから物語を作るのは大好きだったのですが、学校では物語を楽しむよりは、文章の分析、文法、正しいつづりなどを注意されるあまり、物語から遠ざかっていたそうです。それが自分の子どもに本を読んでやっているうちにまた物語が好きになり、その後、大学院で創作を学び、『ミサゴのくる谷』 でデビューしました。

『ミサゴのくる谷』は、鳥のミサゴがスコットランドの少年とアフリカ・ガンビアの少女を結ぶ物語です。『白いイルカの浜辺』は、行方不明の母親と働く意欲を失った父親をもつ少女が、脳性麻痺の気むずかしい少年フィリクスといっしょに、傷ついた子イルカを母イルカのもとへもどそうと奮闘する物語で、持続可能な漁業についても考えさせられます。『紅のトキの空』は、心のバランスをくずした母親と発達のおそい弟を抱えたヤングケアラーの少女が、居場所をさがす物語で、ショウジョウトキなどの動物が象徴的に登場してきます。『風がはこんだ物語』は、小舟に乗った難民たちが、舟の上でバイオリンをひきながら少年が語る、モンゴルの白い馬と馬頭琴の話に勇気をもらうという物語です。どの作品でも、人間の心理と動物たちがからみあって、読ませる物語になっています。

そしてこの作品は、人間と動物のかかわりをていねいに描いている点や、弱い立場の者たちに著者が心を寄せて書いている点はほかの作品と同じですが、野生生物ではなく都会に暮らす野良犬たちを主人公にしているところが、ほかとは違います。

その野良犬たちですが、レックスは、闘犬として相手を殺すよう訓練されていました。ルイスさんによると、強く見せるために耳も切られているそうです。「おれは、社会ののけ者なんだよ。怪物みたいに戦うための犬なんだ。だけどよ、おれが知ってる本当の怪物は、人間だけだぜ」という言葉が辛辣ですね。サフィは、愛してくれた家族から盗まれて繁殖犬をやらされ、病気になったので捨てられました。レディ・フィフィは、セレブ気取りで流行の犬を購入した飼い主があきて捨てられました。レイナードは、キツネ狩りに役立たないので頭に銃弾を撃ち込まれて殺されかけました。イギリスでは実際にキツネ狩りが行われていますが、このように殺されるフォックスハウンドは年間三千ひきもいるそうです。マールは、かしこい犬なのにこの犬種の習性を理解していない飼い主に、手に余るとして捨てられました。クラウンは元気が良すぎて捨てられたのでしょう。また、フレンチに関してもルイスさんには特別な思いがあるようです。人間の都合でマズルが短くされたパグ、フレンチブルドッグ、ボストンテリア、ブルドッグなどの短頭種(鼻ぺちゃの犬たち)は、健康上いろいろ問題があるのですが、イギリスではかわいいとして大いに宣伝されるので飼う人も多いそうです。イギリスでは多くの獣医さんや動物保護団体が、宣伝広告に短頭種を使わないように申し入れているとのこと。「利益よりも健康を」とルイスさんは言っています。

コロナ禍でイギリスでもリモートワークになり、家で子犬を飼う人もふえたので子犬の盗難も二・五倍にふえたそうです。また、安易に飼い始めた人がめんどうになったり、通勤が再開すると犬の世話ができなくなったりして、捨てる犬も多くなったとのことです。こんなところにもコロナ禍の影響が出ているのかと驚きましたが、日本ではどうでしょうか。

さて、本書の挿絵ですが、ちょっと素人っぽいとか、素朴だと思われた方もいらっしゃるかもしれません。絵を描いたのは、作者のルイスさんご自身です。ルイスさんはもともと絵が好きで、絵も描きながら物語の構想を深めていくそうです。必要なことをいろいろと調べたうえで書き始めるのだけれど、とちゅうでいろいろな場面や登場するキャラクターを線画で描いてみるとのこと。文字で書くときとちがう頭の領域を使うので、いろいろなことを思いついたり、もっと深く物語に入りこめたりする、とルイスさんは語っています。よく見ると、たしかにいろいろな犬種の特徴や表情をよくご存知の、獣医さんならではの味が出ていますね。

子どものころに、何をどう感じ、どう思っていたかを今でもよくおぼえているというルイスさん、これからもおもしろい子どもの本を書いてくださることを期待したいと思います。

さくまゆみこ

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〈紹介記事〉

・「西日本新聞」(おすすめ読書館)2023.04.10

ジャーマンシェパードの雑種パップは生後数カ月の子犬。吠(ほ)え癖があるため人間に捨てられ、愛する少年と引き離されてしまう……。動物をテーマに物語をつむぎ続ける作家が、都会に暮らす野良犬たちの運命に思いをはせた児童書。「人間と犬との間には〈聖なる絆〉がある」という。それは本当なのだろうか。さくまゆみこ・訳。

・「朝日新聞」(子どもの本棚)

子犬のパップは、ある雨の夜、飼い主によって「しかばね横丁」に置き去りにされる。途方にくれるパップを助けてくれたのは野良犬のフレンチだった。フレンチは人間に捨てられた仲間たちと一緒にいて、パップもそこで暮らすことになる。群れで生きる犬たちを個性豊かに描いているところに、作者の動物たちへの深い愛を感じることができた。母犬が子犬に語りついできたという人間との「聖なる絆」はあるのか。またパップはどうなるのか、はらはらしながら読んだ。(ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん)

・大阪国際児童文学振興財団(動画):やすこぼんさんのご紹介です。

パップという名の犬(動画)

 

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チケとニジェール川

『チケとニジェール川』表紙
『チケとニジェール川』 小学館世界J文学館

チヌア・アチェベ/作 さくまゆみこ/訳 中村俊貴/絵
小学館
2022.12

現代アフリカ文学の父とも言われるアチェベが書いた児童文学で、アフリカ諸国ばかりではなく英米でも読みつがれています。少年の憧れと、夢を実現するための行動、勇気がもつ意味、などをテーマにすえ、ことわざ、昔話、食べものなど、ナイジェリアの文化も織り交ぜて書いています。冒険譚としても楽しめるでしょう。文体には、イボ人のストーリーテリングの伝統が生かされています。

 

〈訳者あとがき〉

本書は、1966年に南アフリカのケンブリッジ大学出版局支部から出版された子どもに向けた物語の翻訳です。

著者のチヌア・アチェベは1930年にナイジェリアに生まれたイボ人の作家・詩人で、イバダン大学で学び、一時は放送の仕事につき、1967年から1970年まで続いた内戦(イボの人たちが独立国を作ろうとしたビアフラ戦争)のときには、ビアフラ共和国の大使も務めました。

ナイジェリアは、西アフリカにある多民族国家で、2億人以上が暮らしています。国内に500を超える民族がいて、使われている言語の500以上と言われています。その中には、男性と女性で話す言語が全く違うウバン語などもあります。ヨーロッパ諸国が地図上でアフリカ大陸に線引きをして国境を定めたせいで、一つの国の中に多くの民族がいて、一つの民族が多くの国に分かれて暮らすという状態が生まれたのです。

17世紀から19世紀にはヨーロッパの商人が奴隷をつかまえて南北アメリカ大陸に送るための港がアフリカにたくさんでき、ナイジェリアの海岸は「奴隷海岸」と呼ばれていました。19世紀には奴隷貿易がイギリスによって禁止されたものの、ナイジェリアにあったいくつかの王国がイギリスによって滅ぼされ、ナイジェリアはイギリスの植民地になります。イギリスから独立したのは1960年ですが、その後ビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起こり、飢餓も問題になった長い戦いの後、ナイジェリアから独立してビアフラ共和国を作ろうとしたイボ人は敗北しました。

本書にも出てくるラゴスは海沿いにあるナイジェリア最大の都市で、1976年まではナイジェリアの首都でした。高層ビルや大きな銀行やスーパーマーケットなどが立ち並び、車の渋滞が起こるような近代都市です。今は首都が内陸部のアブジャに移りましたが、ラゴスはまだ経済・文化の中心地として知られています。

ニジェール川は、ギニアの高地に水源があり、マリ、ニジェール、ベナン、ナイジェリアと、いくつもの国を通ってギニア湾へと流れ込む全長4180キロメートルの大河です。また、チケが憧れたオニチャからアサバへニジェール川をわたるフェリーは、1965年には新しくできた橋にとってかわられています。

チヌア・アチェベは、口承文芸を下敷きにした小説を書いて、現代アフリカ文学の父とも呼ばれました。中でもおとな向けの傑作小説と言われる『崩れゆく絆』(1958)は、伝統的な文化や暮らしが、植民地支配によって壊されていく様子を描いた作品で、世界の50以上の言語に翻訳されて、有名になりました。日本でも、光文社古典新訳文庫で読むことができます。2007年にはアチェベの全業績に対して国際ブッカー賞が授与されています。

アチェベは、またハイネマン社が出していた「アフリカ作家シリーズ」で、独立後のアフリカで活躍しはじめたアフリカ人作家たちを世に送り出すことにも力を注ぎました。その後、アメリカ、イギリス、カナダ、南アフリカ、ナイジェリアなどの大学でアフリカ文学についても教えましたが、残念ながら2013年に死去しています。

アチェベは、子ども向けの物語をいくつか書いていますが、その中でもこの『チケとニジェール川』は、アフリカ各国ばかりでなくアメリカやイギリスでも出版され続けています。

主人公は、いなかの貧しい村に生まれた少年で、ニジェール川沿いにある大きな町で暮らすおじさんのところに寄宿することになり、まったく異なった環境でさまざまな体験をしながら成長していきます。アチェベは、自分の子どもたちが白人教師の多い学校でナイジェリアに根ざした文化や価値観を教わっていないのを心配して、この作品を書いたと言われています。

大きな川の向こうにわたって別の世界を見てみたいという子どもらしい憧れ、そのためにいろいろ工夫してはみるけれど、なかなかうまくいかないという焦り、ようやくフェリーに乗ることができた時の胸おどる気持ち、借りた自転車を壊してしまったときの当惑、どろぼうに遭遇したときの恐怖などが、生き生きとした筆で、とてもリアルに描かれています。

お話の筋立ては、少し昔ふうだし、書かれたのもずいぶん前のことですが、アチェベは、細かい描写でそれぞれの場面がうかびあがってくるように書いているので、日本の子どもたちにも主人公チケの気持ちがそのまま伝わるのではないでしょうか。また、ナイジェリアの屋台で売っている食べ物、お祭りのようす、学校のようす、家庭のようす、市場のようす、マネーダブラーや自転車修理工の存在なども目にうかぶように描かれています。ことわざが出てきたり、歌が出てきたり、サラおばさんの昔話が出てきたりするところには、ナイジェリアの口承文芸に大きな関心を寄せていたアチェベの作品の特徴が出ています。

私がアチェベの作品に出会ったのは、ナイジェリアを旅行しているときでした。ロンドンに住んでいたときに「アフリカ・ウーマン」という雑誌の編集長をしていたタイウォ・アジャイという女性に出会い、「ナイジェリアに行くならうちの親戚の家に泊まっていいよ」と言われて、出かけていったのです。飛行機を降りたナイジェリア北部のカノという町でキャンプをしているとき、WHOで働く日本人のお医者さまに会って、そのお家に何日か滞在させてもらいました。そのお医者さまの書斎に、アチェベの本が何冊か並んでいました。日本に帰ってから、アチェベの作品を何冊か取り寄せて読んだなかに、この『チケとニジェール川』もありました。

ちなみに、ナイジェリアでは、お話の舞台にもなっているオニチャにも行って、オニチャの大きな市場を歩いたり、ニジェール川を見たりしたこともあります。またラゴスにも行って大都市のにぎわいも体験しました。その時の楽しかったことなども思い出しながら、翻訳しました。

ナイジェリアの当時の暮らしは、日本の今の暮らしとはずいぶんかけ離れていますが、チケの気持ちは、日本の子どもたちにも「あ、同じだな」と思ってもらえるところがあるのではないかと思います。違うところ、同じところを楽しみながら読んでいただけたら幸いです。

編集を担当してくださった坂本久恵さんに感謝します。

さくまゆみこ

 

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家族セッション

『家族セッション』表紙
『家族セッション』
辻みゆき/作
講談社
2021.07

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

『キケンな修学旅行』表紙
『キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!』
ジェニファー・キリック/著 橋本恵/訳
ほるぷ出版
2021.07

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジークメーア〜小箱の銀の狼

『ジークメーア』表紙
『ジークメーア〜小箱の銀の狼』
斉藤洋/著
偕成社
2021.09

まめじか:子どものとき、斉藤さんの『ジーク 月のしずく日のしずく』(偕成社)がとても好きだったので、この本が出たときはわくわくして読みはじめました。斉藤さんはアーサー王伝説を子ども向けに書き直していらっしゃいますよね。この本では、アーサー王の要素を上手に入れていて、すらすら読み進めたのですが、作家の中にすでにあるものをパッチワークのようにつなげているというか。オリジナルの世界が立ちあがってこないように感じました。

ハル:これはシリーズものの1巻目ですよね? 最後まで読んで「やっぱり、1巻じゃ終わらないよね」と、がくっときたのですが、それでもやっぱり開幕感がありましたし、今月のもう1冊(『キケンな修学旅行』ほるぷ出版)と読み比べても、物語が豊かだなぁと思いました。セリフが少しかたく感じるところもありましたが、ジークメーアも少年とはいえ冷静で賢く、そもそも特異な存在ですし、読者とはやや距離のあるキャラクターなので、それはそれでいいのかもしれません。挿絵も独特の雰囲気がありますが、入れる位置は、あと少し後ろにしてー! と思う箇所もありました。たとえばp183の元海賊の男が再登場する場面。ハラハラしてページをめくって、先に挿絵が目に入って「あの海賊がいる」と思ったし(顔はちゃんと描き分けられているのです)、p229も箱を開ける前に狼の挿絵が目に入ってしまった。素直に文字だけを追っていればぴったりの場所に入っているので決して間違ってはいないのですが、できればちょっとずらしていただければありがたいです。しかし、つづくにしても、ラストはすごいですね。ショックとともに、続編を渇望させる、これも作戦でしょうか?

アンヌ:魔術と魔物がいる世界にマーリンとかが絡んでくる。そんな、よくあるファンタジー世界を新たに書きだすのに、相変わらず女性は魔女というか賢い女の占い師で、それ以外は宿屋のおかみさんしかいないんだなと、あまり期待せずに読み始めました。フランク王国とか、キリスト教の進行とか、歴史で習う前の小学生にはわからないことが多いのが気になりました。まあ、私自身、ローズマリー・サトクリフの物語で、イギリスにおけるローマ軍の侵略を知ったので、物語さえおもしろければ、そこらへんは理解できなくとも読めるとは思いますが。挿絵は独特で、例えばp15のイグナークの顔など、昔読んだ『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー編 新井皓士訳 岩波文庫)のギュスターヴ・ドレの絵のようなグロテスクさがあって、怖いもの見たさの興味がわきました。物語全体は何か盛り上がりに欠けるような気がするんですよね。続き物だとしても、第1巻を1つの世界として楽しめないといけないと思うのですが、もう少し読者が主人公に感情移入できるような場面がほしい気がします。最後の冒険場面でも、例えば魔物はあまり怖くないし、閉じ込められていた場所の謎解きとか、もっと書き込めないのかとも思いました。手に入った小箱の狼とかについての記述もあまりなくて終わってしまうし、ラストを盛り上げてこそ、次回に繰り広げられる世界への期待がわくのじゃないかと思いました。

エーデルワイス:斉藤洋はさすがうまいストーリーテラーだと思いました。おもしろく読みました。斉藤洋氏が20年ほど前に盛岡にいらしたことがあります。講演会場の小学校の体育館の舞台に立たれると、舞台の端から端ヘと左右何度も移動されながらお話している姿が思い出されました。ストーリーの中では、村に11歳以上の子どもがいない。この解明に続編を期待しています。キリスト教にも触れていますが、多神教の方が柔軟という印象を受けました。

雪割草:書き方や表現、トーンはどちらかといえば好きかなと思います。世界観があるし、小箱の中に狼などエンディングが不思議で、続きがあるなら読んでみたくなりました。ただ、世界観は少々ベタな感じで、登場するのが男性ばかりなので、続きでは女の人にも光を当てて描いてほしいです。人のあたたかさもちゃんと描かれていると思いました。

ルパン:急いで読んだからかもしれないんですけど、全然お話の世界に入っていかれないまま終わりました。長編の1巻だとは知らずに読んだので、ページが終わりかけていても全然クライマックスが来なくて、「え? だいじょうぶ?」と心配になりながら読み、最後は「あれ、これで終わり?」というキツネにつままれたような感じでした。おとなだから読み終わってから、「まあ、斉藤洋だし、『西遊記』みたいにこれから続くんだろう」と思いましたが、子どもはわからないんじゃないですか? いろいろ伏線みたいなことも散りばめられていますが(11歳以上の子どもがいない、とか)、そういったことの理由も明かされないままで、不完全燃焼でした。せめて「続く」とか書いてあげてほしい。

ハリネズミ:私はエンタメだと思って読みました。斉藤さんは、子どもがおもしろいと思う本はどんな本か、ということを調査し、研究してそのセオリーに則って書いている部分もあるように思います。1巻目なので山場はまだこの先にあるのでしょうね。一神教と自然神の対立などが描かれているのも、私はおもしろいと思いますが、今後その辺ももっと描かれてくるのでしょう。斉藤さんがどのように考えているのか、続編が楽しみです。

ニンマリ:佇まいがとても魅力的な小説ですね。イラストも素敵で、世界名作全集を想起させます。1巻はまだ序章で、これから物語が大きく展開していきそうですね。今のところジークメーアは母とランスの言うとおりに動き、受け身なので、主人公への感情移入はまだ薄いです。いつか、ジークメーアが自分の意思で羽ばたいたときに、魅力が高まるのでしょう。個人的には2巻は気になるけれど、とても待ち遠しいというほどではないです。その理由はやはりジークメーアの心情がわかりづらいところにあるかと思います。とても静かな物語なんですよね。ジークメーアに相棒のリスでもインコでも犬でも、何かいて、話しかけることで気持ちがわかったりとか、お茶目な一面が見えたりとかするとぐっと引き込まれるかと思うのですが……。そうするとエンタメになってしまって、この佇まいが台無しになるのかもしれませんね。

西山:斉藤洋って、こういう文章だったっけと驚きました。雑すぎやしないかと……。例えば、p100、半弓が手元にすでに城にあるというのは、ある種のギャグかと思ったくらいです。ふつう、そういうアイテムを1つ1つ手に入れていく冒険が展開されるのではないかと思ったのですが、あれもこれも「実は家にありましてん」という漫才台本になりそうと勝手に笑ってしまいました。ていねいに書かれた本を読みたいなぁというのが読了後一番に感じたことでした。

コアラ:装丁が、ヨーロッパの中世のファンタジーという感じでとてもいいと思います。挿絵も、ヨーロッパの昔話やファンタジーの挿絵っぽくて、よく見ると、左下にドイツ語で挿絵タイトルが書かれていて、右下には画家のイニシャルが入っているんですよね。凝っているなと思いました。ザクセンが舞台だから、ドイツ語で書かれているとそれっぽくていい感じだと思いました。中世のドイツを舞台に、アーサー王伝説を組み合わせたファンタジーで、その設定だけでもワクワクするし、途中まではおもしろく読みました。ただ、最後のほうで、なんだか煙に巻かれたような、すっきりしない、腑に落ちないような形になって、それが残念でした。「洞窟」というのが、大ムカデの口、あるいは腹の中、というのは、ちょっと納得できないし、それより何より、ランスはずっと、「小箱の銀の狼」というのは馬だと言っていたんですよね。p99の最終行からp100の1行目にかけて、「『小箱の銀の狼』という名の、たぶん馬が、どこかにいる」と言っています。ところが、p232の後ろから3行目「小箱を見た瞬間、わたしは、この中に狼がいると直感した。だから、さほどおどろきはしなかった」などと言っているんです。「馬」と言っていたのはどうなったんだと、すっきりしない感じが残りました。それ以外は、おもしろかったです。シリーズ物のようなので、続きが楽しみです。

ハリネズミ:このタイトルとサブタイトルは、続きがあることを想定させていますよね。

シア:オビに「新しい冒険の物語がはじまる」とありますし、偕成社のWebサイトにも「ジークメーア1」と題名の上に書いてあります。だから続くと思いたいのですが、この著者の『ルーディーボール エピソード1 シュタードの伯爵』(斉藤洋著 講談社)が2007年のエピソード1以降音沙汰なしなので、売れ行き次第なところがあるのでしょうか。この本を初めて見たときに、『ジーク 月のしずく日のしずく』の続きだと思いまして、『ジークⅡ ゴルドニア戦記』の2001年からの超ロングパスで続編を書くなんて、児童書界のアイザック・アシモフか! と喜んだのですが、全く違いました。しかし、挿絵も描いている人は違いますが『ジーク』に似ている感じがしますし、『テーオバルトの騎士道入門』(斉藤洋著 理論社)に「ランス」という名の従者が出てくるので、最近流行りのクロスオーバー作品かなと混乱しながら読みました。そのため、この本自体にはあまり大きな感動はありませんでした。最後の川の辺りの描写が読みにくいというか、いまいち想像しにくく、しかも肝心のラストも別にそこまで盛り上がらず、往年の輝きがなくなってきてしまっているようにも感じました。久しぶりに会った方がお爺さんになっていたような感覚です。個人的に大好きだった2シリーズと勘違いしたので、期待値が大きすぎました。とはいえ、最近はアーサー王伝説を知らない子どもが多いので、その辺りを知るのに良い本ではないかと思います。この方の本はどれもおもしろいですし、とくにファンタジーは最高にクールなので、中高生にも薦めやすい本です。p21、p22に「さほど」という言葉が集中的に3か所も出てくるのでここは訂正してほしいと思いました。

さららん:たとえば、洞窟の中に住む主人公は、満潮のときは泳いでいかないと外には出られません。そんなときのために、乾いた服を別の場所に用意しておく、といった描写などに、手触りのある世界を感じました。物語の構成はクラシックですが、マンネリとは思わなかったです。キリスト教、アーサー王伝説についての知識がちりばめられ、その中で登場人物たちもしっかり動いているように思えました。例えば新しい弓をもらった主人公は、古い弓をどう処理するのか。作者はそこまできちんと書いています。母親に対する深い信頼、ランスへの不信感などが、言葉というより、むしろ主人公の行動で表されているため臨場感があります。なお文章は、少し時代劇っぽい感じがありました。例えばp198「ジークメーアはそう思った」までで、心の変化を数行かけて説明したあと、「川で魚がはねた」と、突然短い風景描写を入れて、章を締めくくるあたりなどです。テレビドラマでもよく場面転換に使われる手ですが、作者はそこで、間を取りたいのかもしれませんね。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

しじみ71個分(メール参加):日本人作家による、ヨーロッパを舞台にした時代劇という点におもしろさを感じました。未読ですが、アーサー王物語シリーズを先に書いておられるので、そのスピンオフというところなのでしょうか。ジークメーアの暮らしぶりや能力を描き、続いて冒険物語がサクサクと展開していくので、するすると読めました。ですが、時代物の典型のような話運びなので、斬新さや深い感情移入などはなかったという印象です。まだシリーズ第1巻のせいもあるかとおもいます。何より一番気になったのは、話の終わりどころでした。えー、狼見つけただけで終わっちゃうの?という感じで、もう一つ狼との関わりを語る逸話が欲しかったなぁと思ってしまいました。振り返ると、そこまでにあまり盛り上がりが足りなかったということなのかな…すんごい大冒険をして、苦労して狼を得たという感じがあまりしなかったのでした。でも、とにかく第2巻以降に期待というところです。挿絵はとてもいいと思いました。ヨーロッパの古い銅版画をおもわせるようなイメージは好もしかったです。

(2022年02年18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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父さんが帰らない町で

『父さんが帰らない町で』表紙
『父さんが帰らない町で』
キース・グレイ/作 野沢佳織/訳 金子 恵/絵
徳間書店
2020

『父さんが帰らない町で』(読み物)をおすすめします。

12歳の少年ウェイドの父親は、戦争で出征したまま5年たっても戻ってこない。母親とウェイドと兄ジョーの貧しい一家は、金持ちの息子ケイレブのからかいやいじめの対象だ。そんな時、村にやってきた移動遊園地の「恐怖の館」に陳列されている「最後の兵士」を見て、ウェイドは父親と重ね合わせる。ところが、夜中にその「最後の兵士」が現れてジョーに何かをささやいたせいか、ジョーは、移動遊園地を手伝いながら父親を探し、自分も兵士になると言いだす。スリリングな展開で読ませる成長物語。

原作:イギリス/11歳から/戦争、兄弟

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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〈死に森〉の白いオオカミ

『〈死に森〉の白いオオカミ』表紙
『〈死に森〉の白いオオカミ』
グリゴーリー・ディーコフ/作 ディム・レシコフ/絵 相場 妙/訳
徳間書店
2019

『〈死に森〉の白いオオカミ』(読み物)をおすすめします。

村には、川向こうの森を丸裸にしてはいけない、という言い伝えがあったのに、人口が増えて農地が足りなくなると、男たちは向こう岸にわたり森を焼き払ってしまう。そこは〈死に森〉と呼ばれるようになり、村人たちを襲うオオカミが次々に現れる。リーダーの巨大な白いオオカミは森を守っていた魔物なのか? 子どものエゴルカが一部始終を見届け、村を救う。ロシアの伝承を下敷きにし、不思議な人びとも登場する、土の香りがする物語。自然と人間の関係を描いた象徴的な寓話としても読める。

原作:ロシア/11歳から/オオカミ、伝説、自然

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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オオカミの旅

『オオカミの旅』表紙
『オオカミの旅』
ロザンヌ・パリー/作 モニカ・アルミーニョ/絵 伊達 淳/訳
あかね書房
2020

『オオカミの旅』(読み物)をおすすめします。

親に守られ、兄弟と競い合いながら子ども時代を過ごしたオオカミのスウィフトは、別の群れに家族を殺されてひとりになってしまう。生存をかけてさまよう間に何度も危険な目にあうが、やがてとうとう自分の居場所を見いだして家族が持てるまでに成長する。ノンフィクションではないが、オオカミの生態をうかがい知ることができるし、巻末には物語のモデルになったオオカミの紹介や、シンリンオオカミの特徴についての説明もある。波乱に満ちたサバイバル物語としても、おもしろく読むことができる。

原作:アメリカ/11歳から/オオカミ、旅、 サバイバル

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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ウサギとぼくのこまった毎日

『ウサギとぼくのこまった毎日』表紙
『ウサギとぼくのこまった毎日』
ジュディス・カー/作・絵 こだまともこ/訳
徳間書店
2020

『ウサギとぼくのこまった毎日』(読み物)をおすすめします。

先生から預かったウサギのユッキーのせいで、トミーの一家は大騒ぎ。俳優のお父さんが仕事をもらえそうだったのに、ユッキーが主役俳優のズボンにおしっこをひっかけてダメになったり、トミーがユッキーを散歩させていたら犬たちに囲まれてしまったり、庭でユッキーとお茶会をしていた妹が風邪をひいてしまったり……。でも、そのユッキーが逃げ出してトミーが必死で探し出したときから、一家にもなんだか運が向いてきた。厄介なウサギを抱えた少年と一家の日常を、ユーモアたっぷりに描く楽しい物語。

原作:イギリス/9歳から/ウサギ、ペット、 家族

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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飛ぶための百歩

『飛ぶための百歩』表紙
『飛ぶための百歩』
ジュゼッペ・フェスタ/作 杉本あり/訳
岩崎書店
2019

『飛ぶための百歩』(読み物)をおすすめします。

5歳で失明したルーチョは、叔母に連れられてよく旅行やハイキングに出かけるが、コンプレックスも自尊心も人一倍強く、善意の援助を拒否して周囲とぶつかることも多い。一方、山小屋の娘のキアーラは、人づき合いが苦手だ。ある日一緒にワシの巣を見に行ったルーチョとキアーラは、密猟者からひなを守ろうとすることでぎこちなさがほぐれ、真の自分を見せ合えるようになる。居場所をうまく確保できない子どもたちの出会いと衝突、盲目の人が感じる世界、密猟者の問題など要素がいろいろあって、ぐんぐん読ませる。

原作:イタリア/12歳から/盲目 ワシ 山 密猟

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

 

 

 

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ほんとうの願いが かなうとき

『ほんとうの願いがかなうとき』表紙
『ほんとうの願いが かなうとき』
バーバラ・オコーナー/著 中野怜奈/訳
偕成社
2019

『ほんとうの願いがかなうとき』(読み物)をおすすめします。

父親は拘置所、母親は育児放棄という環境で、何事にも自信が持てなくなっていた少女チャーリーは、姉とも離れ、母親の姉夫婦のところでしばらく暮らすことになる。最初はすべてが気に入らずすぐにカッとなっていたチャーリーだが、包容力のある伯母夫婦や転校先の学校で出会った忍耐強いハワードに助けられ、自分になついてくれた野良犬のウィッシュボーンの存在を支えにして変わっていく。孤独な少女がしだいに心を開き、心のありどころや居場所を見つけていくまでの様子がていねいに温かく描かれている。

原作:アメリカ/10歳から/犬 友だち 願い

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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この海を越えれば、わたしは

『この海を越えれば、わたしは』表紙
『この海を越えれば、わたしは』
ローレン・ウォーク/作 中井はるの・中井川玲子/訳
さ・え・ら書房
2019

『この海を越えれば、わたしは』(読み物)をおすすめします。

主人公のクロウは、赤ちゃんの時に流れ着いた島で、画家のオッシュに拾われ育てられている。しかし12歳になったクロウは、自分はどこから来たのか、なぜひとりで小舟に乗っていたのか、この島に住む人たちがなぜ自分を避けているのか、などを知りたいと思うようになる。身の回りの謎を解きながら自分のルーツをつきとめようとする少女の物語に、ハンセン病への偏見がからむ。世間から離れて生きようとするオッシュや、近所でひとり暮らしをするミス・マギーが、血縁の家族以上にクロウを思いやる姿が温かい。

原作:アメリカ/10歳から/ルーツ ハンセン病 非血縁の家族 海

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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希望の図書館

『希望の図書館』表紙
『希望の図書館』
リサ・クライン・ランサム/作 松浦直美/訳
ポプラ社
2019

『希望の図書館』(読み物)をおすすめします。

舞台は1946年のアメリカ。母親が死去した後、父親と南部のアラバマから北部のシカゴへ引っ越してきたアフリカ系の少年ラングストンは、学校では「南部のいなかもん」とバカにされ、いじめにもあう。そんなとき、誰もが自由に入れる公共図書館を見つけ、そこで自分と同名のアフリカ系の詩人ラングストン・ヒューズの作品に出会い、その生き方にも触れる。本を窓にして世界を知り、しだいに自分の居場所や心のよりどころを見つけていく少年の姿が生き生きと描かれている。随所でヒューズの詩が紹介されているのもいい。

原作:アメリカ/10歳から/図書館 名前 詩 いじめ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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変化球男子

M.G.ヘネシー『変化球男子』
『変化球男子』
M ・G ・ヘネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2018

『変化球男子』(読み物)をおすすめします。

シェーンは、女性の体をもって生まれたが自分は男性だと思い、男子として転校してきた今の学校では野球のピッチャーとして活躍している。だがある日、転校前は女子だったことがばれそうになる。シェーンを敵視するニコや、無理解な父親がつくる壁も厚い。でも親友のジョシュがいつも隣にいるし、母親は理解しようと努力してくれるし、トランスジェンダーの先輩アレハンドラは励ましてくれる。自分の存在に違和感を持つ子どもが、試練をのりこえていく様子が生き生きと描かれている。

原作:アメリカ/10歳から/野球 トランスジェンダー 親

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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ぼくたち負け組クラブ

『ぼくたち負け組クラブ』表紙
『ぼくたち負け組クラブ』
アンドリュー・クレメンツ/著 田中奈津子/訳
講談社
2017

『ぼくたち負け組クラブ』(読み物)をおすすめします。

6年生のアレックは、大の本好き。授業も聞かずに本を読むので、しょっちゅう先生に注意されている。放課後プログラムで、ひとりで好きな本を読むために「読書クラブ」を作ることにしたアレックは、誰も来ないように、わざと「負け組クラブ」という名をつけて登録。しかし、次々にメンバーが増え、思いがけないことが起こる。アレックは、いやでもさまざまな大人や子どもとかかわりを持つことになり、世界が開けていく。いろいろな本が登場するのも楽しい。

原作:アメリカ/10歳から/本、読書、放課後

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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テディが宝石を見つけるまで

『テディが宝石を見つけるまで』表紙
『テディが宝石を見つけるまで』
パトリシア・マクラクラン/著 こだまともこ/訳
あすなろ書房
2017

『テディが宝石を見つけるまで』(読み物)をおすすめします。

吹雪の中で迷子になったふたりの子どもを見つけて助けたのは、テディという犬だった。テディは、人間の言葉が話せて、だれもいない家に住んでいる。言葉は、今はいない飼い主の、詩人のシルバンさんから習ったという。雪に閉ざされた家の中で、「きみは宝石を見つけるだろう」と言い残していなくなったシルバンさんについて、テディは語る。やがて道路が復旧し、テディは「宝石」を見つける。犬が語るという視点で描かれたユニークな物語。

原作:アメリカ/10歳から/犬 吹雪 子ども 詩

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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団地のコトリ

『団地のコトリ』表紙
『団地のコトリ』
八束澄子/著 中村至宏/画
ポプラ社
2020

『団地のコトリ』(読み物)をおすすめします。

母親とふたりで団地に暮らす中学生の美月(みづき)と、同じ団地の下の階にかくまわれている11歳の陽菜(ひな)の、ふたつの流れで物語は進む。陽菜の母親は、子連れで職業を点々としながら全国を放浪し、娘を学校にも行かせていなかったのだが、その母親が倒れて救急車で運ばれてからは陽菜は施設に入って学校にも通っていた。その後また公園で倒れて柴田老人に保護された母親は、施設に無断で陽菜を連れ出し親子で柴田老人の家に居候し、息をひそめるように隠れている。

しかしある日、柴田老人がスーパーでくも膜下出血を起こして病院に収容され、家にこもったきりの陽菜たちは食料がつきてしまう。やがて美月の前に「助けて」とやせ細った陽菜があらわれる。血を吐いた陽菜の母親が死去し、陽菜は施設に戻ることになる。美月は陽菜を妹のように感じる一方で、陽菜の瞳の暗さに脅えもする。そうかんたんではない状況だが、美月の母は、夏休みなどの一時里親を、柴田老人も、陽菜の経済的支援を、申し出る。

居所不明児童や独居老人を取り上げ、リアルなエピソードを積み重ね、人が人を思いやる気持ちに目を向けたYA小説。重苦しい場面も多いが、美月が飼っているおしゃべりインコがユーモラスで、救いになっている。

13歳から/居所不明児童 独居老人 思いやり

 

Little Bird of the Apartment Block

Mitsuki is a junior high student living with her mother in a large apartment complex. Hina is an 11-year-old being hidden from authorities with her mother, by a single elderly man living one floor below. This novel brings together Mitsuki and Hina’s two stories.

Hina’s mother had been drifting around the country, taking her daughter with her to various jobs and not sending her to school. After Hina’s mother collapsed at a train station and got taken away by ambulance, Hina was put in an institution and began to attend school. But after her mother collapsed again in a park and was taken in by the elderly man, Mr. Shibata, her mother nabbed Hina from the institution and brought her into hiding with her.

One day, Mr. Shibata suffers a subarachnoid hemorrhage while at the supermarket, loses consciousness, and is taken to hospital. Stuck in his apartment and unable to leave, Hina and her mother run out of food. Hina, reduced to skin and bones, appears in front of Mitsuki and says, “Help.” Hina had known about Mitsuki and had even nicknamed her Kotori-chan (Little Bird), because Mitsuki keeps a parakeet.

Hina’s mother coughs up blood and dies after being taken to hospital. Hina returns to the institution. Mitsuki now thinks of Hina as a younger sister, but at the same time, she is scared by the darkness she sees in Hina’s eyes. Knowing that helping Hina will not be simple, Mitsuki’s mother nonetheless agrees to foster her during vacations, and Mr. Shibata offers financial support.

This YA novel takes up issues lately pressing in Japan, as elsewhere: missing children and the isolated elderly. With realistic episodes, it turns our gaze toward people showing compassion to other people. It contains a number of heavy scenes, but the talking parakeet lends a saving humor. (Sakuma)

  • text: Yatsuka, Sumiko | illus. Nakamura, Yukihiro
  • Poplar
  • 2020
  • 208 pages
  • 20×13
  • ISBN 9784591167243
  • Age 13 +

Missing child, Elderly living alone, Compassion

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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イーブン

『イーブン』表紙
『イーブン』
村上しいこ/作 まめふく/画
小学館
2020

『イーブン』(読み物)をおすすめします。

中1の美桜里(みおり)は、父親のDVが原因で両親が離婚し、スクールカウンセラーの母親と暮らしているが、友人との関係がうまくいかず不登校になっている。そんな折り、キッチンカーでカレーを売っている貴夫と、その助手をしている高校生だがやはり不登校の登夢(とむ)に出会う。

美桜里もキッチンカーを手伝ううちに、登夢の母親が、子どもをネグレクトしたあげくに犯罪の手先までやらせていたことや、今は貴夫が保護者がわりに登夢と暮らしていることなどを知る。一方両親の離婚について考え続ける美桜里は、母親とも父親とも対話を重ねるうちに、人間関係の複雑さに目を向けるようになる。いつしか恋心を抱くようになった登夢からもさまざまなことを学ぶなかで、美桜里は、親子にしろ男女にしろ夫婦にしろ、互いに尊重し合える対等(イーブン)な人間関係が重要だと気づき、それはどうすれば可能なのかをさぐっていく。やがて美桜里の父親は、自分も親から虐待されていたこと、言葉で表現するのが苦手で暴力や暴言に訴えてしまったことを初めて打ち明ける。弱点もさらけだして本音で語り合う関係があれば、そこから道がひらけていくことが示唆されている。自らも虐待体験を持つ著者が、子どもたちに寄り添って一緒に考えようとする作品。

13歳から/親の離婚 キッチンカー 虐待 DV

 

Even

Twelve-year old Miori’s parents divorced because of her father’s abuse, and Miori now lives with her mother, a school counselor. Miori has stopped going to school because of difficulties getting along with her friends. One day, she meets Takao, a man who runs a curry food truck, and his assistant, Tom, a high school student who, like Miori, is not going to school. When she begins helping Takao with his food truck, she learns that Tom’s mother not only neglected him as a child but used him to commit crimes and that he now lives with Takao, who has become his guardian. Meanwhile, Miori is constantly thinking about her parents’ divorce. Through conversations with her mother and father, she starts to see the complexity of human relationships. She also gains many insights through talking with Tom, with whom she is falling in love. During this process, she comes to realize that being on an equal or even footing is the key to good relationships, whether between parent and child, man and woman, or a couple, and begins exploring how to make such relationships possible.

One day, Miori’s father attends a meeting hosted by Miori’s mother about women’s rights. There he confides that he suffered abuse from his own parents and struck out both physically and verbally because he had trouble expressing himself in words. Gradually, Miori and Tom find the next step they can take.

Miori’s story gives us hope, demonstrating that it’s possible to find a way forward by sharing our weaknesses and speaking honestly about our shortcomings. The author, who was a victim of abuse herself, helps readers to explore this serious issue. (Sakuma)

  • text: Murakami, Shiiko | illus. Mamefuku
  • Shogakukan
  • 2020
  • 208 pages
  • 19×14
  • ISBN 9784092893016
  • Age 13 +

Divorce, Food truck, Abuse, Domestic violence

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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ギフト、ぼくの場合

『ギフト、ぼくの場合』表紙
『ギフト、ぼくの場合』
今井恭子/作
小学館
2020

『ギフト、ぼくの場合』(読み物)をおすすめします。

けなげな子どもが頑張って道を切りひらくという点では古典的だが、精一杯のことをしていても貧困から抜け出せず、公的なセーフティネットからも抜け落ちしてしまう家庭や子どもを描いているという点では、とても現代的な物語。

主人公の優太(ゆうた)は、小学校6年生。父親の不倫が原因で離婚した母親と、小2の妹と暮らしている。専業主婦だった母親はなかなか暮らしの手立てをつかめず、アルバイトをふたつ掛け持ちして働いている。

家族を大事にする優太だが、妹が盲腸炎にかかり手遅れで死去してしまい、貧困に輪をかけて辛い気持ちが増幅する。父親に対しては、自分たちを捨てたことを恨み、もらったギターをたたき壊し、絶縁したつもりになっているが、文化祭でギターを弾くはずの生徒が骨折したため、優太が代役を務めることになる。長いことギターには触っていなかったし、弾くと父親を思い出すので葛藤もあるが、弾くのが楽しいという経験を味わったことで、優太の前に新たな世界が開けていく。

優太の場合のギフトとは、絶対音感を持っていてメロディをすぐに再現できる才能でもあるが、母親が働くねじ工場の小西さん、文化祭のコンサートを指導するジョー先生、スクールカウンセラーの湯河原さんなどとの、あたたかい関係を引き寄せることのできる、真っすぐな人間性でもあるのだろう。

11歳から/ギター 貧困 母子家庭 職人

 

Gifted, In My Case

This story of a brave, honest child who forges his own path in the face of adversity is reminiscent of such classics as Burnett’s A Little Princess. But in its portrayal of children and families who cannot escape poverty and fall through the cracks in the public safety net, it is a very contemporary tale.

The main character, Yuta, is in sixth grade. He lives with his mother and his sister, who is in second grade. His mother, who divorced because of her husband’s infidelity, has never worked before and has a hard time making ends meet as she juggles her work at a screw factory with a part-time job at a convenience store.

Yuta cares deeply about his family, but the death of his younger sister due to delayed treatment for appendicitis and the family’s deepening poverty take an emotional toll. In his rage at his father for deserting them, Yuta destroys the guitar his father gave him in a symbolic act that severs their relationship. A student who is supposed to play the guitar at the school festival, however, breaks an arm, and Yuta is asked to fill in. Although he hasn’t touched a guitar for some time and doing so brings back painful memories of his father, he begins to see the world differently once he tastes again the joy of playing music.

Yuta’s gift is his musical ability. His perfect pitch allows him to reproduce a melody when he has only heard it once. But he is also gifted in his upright character and humanity, which attract the support and friendship of Mr. and Mrs. Konishi, who own the screw factory, Mr. Sawaguchi (commonly known as Joe), who directs music for the school festival concert, and Mrs. Yugawara, the school counselor. (Sakuma)

  • text: Imai, Kyoko
  • Shogakukan
  • 2020
  • 232 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784092893030
  • Age 11 +

Guitar, Poverty, Single-mother family, Craftsman

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

 

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科学でナゾとき!〜 わらう人体模型事件

『科学でナゾとき!わらう人体模型事件』表紙
『科学でナゾとき!〜 わらう人体模型事件』
あさだりん/作 佐藤おどり/絵 高柳雄一/監修
偕成社
2020

『科学でナゾとき!〜 わらう人体模型事件』(読み物)をおすすめします。

科学の知識を盛り込んだ、学校が舞台の物語。6年生の彰吾は、自信過剰な児童会長。中学教師の父親が、小学校でも科学実験の指導をするために彰吾の学校にもやってくることに。父親を評価していない彰吾は、学校では家族関係を隠すようにと父親に釘を刺す。

ところが彰吾の学校では、次々に不思議な事件が起こる。最初は、理科実験室で人体模型がギャハハと笑ったという事件。生徒たちが脅えているのを知ると、彰吾の父親のキリン先生(背が高くポケットにキリンのぬいぐるみを入れている)は、みんなを公園に連れて行き、準備しておいたホースを使って、実験室の水道管が音を伝えたことを実証してみせる。

2つ目は、離島から来た転校生が海の夕陽を緑色に描いて、ヘンだと言われた事件。3つ目は、なくなったリップクリームが花壇に泥だらけで落ちていた事件。最後は、図書館においた人魚姫の人形が赤い涙を流す事件。どれもキリン先生が謎を解き明かし、光の波長や、液状化現象や、化学薬品のアルカリ性・酸性の問題など、事件の裏にある科学的事実を説明してくれる。彰吾も父親を見直す。科学知識が物語のなかに溶け込んでいて、おもしろく読める。

11歳から/学校 謎 科学 父と息子

 

Solving Riddles Through Science!

Set in a school, the story relates four episodes rich in scientific knowledge. Shogo, a cocky sixth-grader, is head of the children’s association. His father is a science teacher who teaches at many different schools, one of which is Shogo’s. But Shogo is embarrassed by his father’s clumsiness and begs him not to let anyone know they are related.

However, mysterious things are happening at Shogo’s school. First, the anatomical model in the science room bursts out laughing. When Shogo’s tall, lanky father, who carries a giraffe toy in his pocket and has been dubbed Professor Giraffe, hears that the children are frightened, he takes them to a park and uses a hose to show them that sound travel can long distances. It becomes clear that the sound of laughter must have traveled along an unused water pipe from another location.

The second mystery surrounds a transfer student from a distant island who is upset that his classmates laughed because he painted the sunset green. The third mystery involves a tube of lip gloss that disappears from the classroom and shows up in a flower bed. In the final episode, a mermaid doll in the school library weeps red tears. Professor Giraffe conducts experiments to solve each case, explaining the scientific facts behind them, such as light wavelength, liquefaction, and the alkalinity and acidity of chemicals. During this process, Shogo’s opinion of his father changes. The author expertly weaves scientific information into the story to make this a fascinating and informative read. (Sakuma)

  • text: Asada, Rin | illus. Sato, Odori | spv. Takayanagi, Yuichi
  • Kaiseisha
  • 2020
  • 208 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784036491407
  • Age 11 +

School, Mystery, Science, Father and son

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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車いすの図鑑

『車いすの図鑑』表紙
『車いすの図鑑』
高橋儀平/監修
金の星社
2018

『車いすの図鑑』(NF)をおすすめします。

第1章「車いすを知ろう」では、車いすの構造や乗り方、どんな人たちが使うのかや、介助の仕方などを説明し、第2章「車いすとバリアフリー」では、町の中にあるさまざまなバリア、道路やトイレや乗りもののバリアフリーのくふう、福祉車両やUD タクシー、ユニバーサルデザイン、車いすスポーツ、補助犬などを紹介し、第3章「車いす図鑑」では、日常使われる車いすから、パラスポーツ用車いすまでさまざまな車いすを紹介している。バリアフリー社会を考えるきっかけになる。索引あり。

10歳から/車いす バリアフリー パラスポーツ

 

An Illustrated Reference of Wheelchairs

ーUnderstanding Accessibility

This book aims to make us think about universal accessibility through wheelchairs. Chapter 1, Guide to Wheelchairs, tells us about what they are, what kind of people use them, their structure and how to use them, and how to assist those using them. Chapter 2, Wheelchairs and Accessibility, is about the types of barriers that exist in cities, ways to make roads, toilets, and public transport accessible, assistive vehicles and UD (universal design) taxis, universal design, wheelchair sports, assistance dogs, and so forth. Chapter 3, Illustrated Wheelchair Reference, introduces various types of wheelchairs from those for daily use to those used for disabled sports. This book is an extremely useful way to introduce issues of accessibility. Index included. (Sakuma)

  • Ed. Takahashi, Gihei
  • Kinnohoshisha
  • 2018
  • 80 pages
  • 29×22
  • ISBN 9784323056586
  • Age 10 +

Wheelchairs, Accessibility

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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部長会議はじまります

吉野万理子『部長会議はじまります』
『部長会議はじまります』
吉野万理子/著
朝日学生新聞社
2019

『部長会議はじまります』(読み物)をおすすめします。

中高一貫教育の私立学校の中等部を舞台にした学園物語。第1 部は文化部の部長会議、第2 部は運動部の部長会議で、それぞれ各部の部長が一人称で語っていく設定になっている。

第1 部は、美術部が文化祭のために作ったジオラマがいたずらされた事件をめぐって展開する。登場するのは怒っている美術部の部長、怪しげな部活だと思われて悩んでいるオカルト研究部部長、いろいろなことに自信のない園芸部部長、ミス・パーフェクトといわれる華道部部長、恋をしている理科部部長。犯人はだれなのか? いじめがからんでいるのか? それとも恨みか? 会議は紛糾する。

第2 部は、解体されることになった第2 体育室を使っていた卓球部と和太鼓部にも、運動場やグラウンドの使用を認めるための会議。初めのうちはほとんどの部長が、自分の部が損にならないように立ち回ろうとするが、だんだんに解決策を見いだしていく。卓球部、バスケ部、バレー部、和太鼓部、サッカー部、野球部の各部長に、パラスポーツをやりたいという人工関節の生徒もからんで、意外な展開になっていく。

それぞれ個性的な各部長の語りが複合的に絡み合って、読者には出来事が立体的に見えてくる。また各人が、他者にはうかがい知れない悩みを抱えていることもわかってくる。楽しく読めて、読んだ後は、まわりの人にちょっぴりやさしくなれそうだ。

13歳から/部活動 学校生活 友情

 

The Captains’ Meeting Will Come to Order

This novel unfolds in a private middle school in Japan. Part 1 is a meeting of the student captains of culturerelated clubs, and Part 2 is a meeting of the student captains of sports clubs. The novel unfolds with each captain speaking in the first person. (School club activities in Japan happen after school, each led by a captain. If a problem occurs, club captains meet to discuss it.)

In Part 1, the art club’s diorama for a school festival has been vandalized. Participating in the culture club meeting are an angry art club captain, a discouraged occult research club captain, a less-than-confident gardening club captain, a Miss Perfect-like flower-arrangement club captain, and a deep-inlove cooking club captain. Who committed the crime? Did the vandalism stem from bullying? From a grudge? The captains’ opinions clash at first, but they eventually find an answer.

In Part 2, one of the gyms is being razed, so the table tennis and Japanese drumming clubs that used it need new spaces to practice. At first, the various sports captains try to defend their own clubs’ practice spots, but then they work toward a fix. The captains of table tennis, basketball, ballet, drumming, soccer, baseball and even ParaSports—a student with a prosthesis—find themselves in unexpected territory.

In this book, as various captains’ distinctive voices weave together, the reader starts to see the full picture. The reader also gathers that each captain faces struggles the others could never know. While entertaining to read, this book promises to make readers a bit kinder to others, too. (Sakuma)

  • Yoshino, Mariko
  • Asahi Gakusei Shimbun
  • 2019
  • 264 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784909064738
  • Age 13 +

School clubs, School life, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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キャプテンマークと銭湯と

『キャプテンマークと銭湯と』表紙
『キャプテンマークと銭湯と』
佐藤いつ子/作 佐藤真紀子/絵
KADOKAWA
2019

『キャプテンマークと銭湯と』(読み物)をおすすめします。

今の子どもたちが夢中になるサッカーと、今は消えつつある銭湯をつなぐ物語。

サッカーのクラブチームに所属している中学生の周斗(しゅうと)は、ある日、キャプテンを新入りと交替させられ、友だちに心ない言葉を投げつけてチームメートから批判され、いら立ちがつのる。そんなとき、幼い頃祖父と通った銭湯の楽々湯を見つけ、入ってみた周斗は、かちかちになっていた心も体もほどけていくのを感じる。それからは何度も楽々湯に通って、そこが癒やしの場所になっていくと同時に、そこで出会う人びととの交流によって、周斗は新たな視野でものを見ることができるようにもなっていく。

楽々湯の常連には、地元のお年寄りも多いが、若いファンもいる。児童養護施設で育った左官屋の比呂(ひろ)は、いい親方に恵まれ、自分なりのベストを尽くそうと仕事をがんばっている。女子高校生で銭湯オタクのコナは、インスタグラムで銭湯の良さをアピールしている。

しかし、2 代にわたって77 年続いてきた楽々湯も、とうとう閉店することになった。店主の老夫婦には、薪での風呂たきが無理になったのだ。閉店の日、試合に勝利してわだかまりも解けたチームのメンバーは、常連たちと一緒に楽々湯につめかけるのだが、途中で停電に…。最後まで営業を支えようと奮闘する周斗たちに共感して読める。

13歳から/サッカー 銭湯 キャプテン 友情

 

Captain Mark and the Bathhouse

This interesting story links soccer, which is all the rage among children these days, and the public bathhouses that are now slowly disappearing.

Shuto, a junior high school student who belongs to the soccer club team, is shocked when he is replaced as captain by newcomer Daichi, and gets irritated when he is criticized by his team mates for saying cruel things to him. When he comes across the public bathhouse where he used to go with his late grandfather as a little boy, he decides to go in and feels his irritation melt away as he soaks in the hot water. After this he goes to the bathhouse regularly, and it not only becomes a place of healing for him, but he also begins to see things from a new perspective as he chats with the people he meets there. He comes to understand that even Daichi, who he used to resent for being able to do everything well, has a big problem of his own.

Most of the regular customers at the bathhouse are local elderly people, but there are also young people too. A plasterer called Hiro, who grew up in a children’s home, has been blessed with a good boss and does his best at work. Kona is a high school student obsessed with bathhouses, and she posts on Instagram about their attractions.

However, after 77 continuous years of business through two generations of ownership, the bathhouse is finally to close down. The old couple who run the place can no longer cope with burning the wood to heat the water. On closing day the entire soccer team, having won a game and with all the ill-feeling between them dispelled, all crowd into the bathhouse along with the regulars. But then there is a power cut . . . Readers are sure to sympathize with the efforts of Shuto and the others to support the business right until the end. (Sakuma)

  • Sato, Itsuko | Illus. Sato, Makiko
  • Kadokawa
  • 2019
  • 248 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784041077054
  • Age 13 +

Soccer, Public Baths, Captain, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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ゆかいな床井くん

『ゆかいな床井くん』表紙
『ゆかいな床井くん』
戸森しるこ/著
講談社
2018

『ゆかいな床井くん』(読み物)をおすすめします。

6 年生になった暦(こよみ)の隣には、人気者の床井(とこい)君が座っている。クラスでいちばん背が低い床井君はウンコの話もするし下品だけど、クラスでいちばん背が高い暦のことを「いいなあ」と純粋にうらやましがる。そのおかげで、「巨人族」とか「デカ女」という悪口も影をひそめている。暦は、クラスの同調圧力に一応気を使って思ったことをはっきり言わないこともあるが、床井君は、自分の意見をはっきり言うし、どの人にもいいところがあることをよく見ている。そんな床井君に暦はしだいに好意を持つようになる。

全部で14 章あるが、1章ごとにひとつのエピソードが紹介されていく。性への関心が強まり教育実習生に「巨乳じゃん」と言ってしまうトーヤ、学校のトイレで生理になり困ってしまう小森さん、塾では普通に話すのに学校では言葉を発することができない鈴木さん、父親が失業し友だちに八つ当たりしてしまう勝田さんなど、クラスにはさまざまな生徒がいる。なにかが起こるたびに暦は考え、床井君の反応に感心し、違う見方ができるようになって次のステップを踏み出していく。

11歳から/学校 視点 ユーモア

 

Happy Tokoi

This novel vividly portrays a year in the class of two Japanese sixth-grade students: Koyomi, a girl, and Tokoi, a boy.

One episode unfolds per chapter. In one episode, a boy named Toya blurts out that a student teacher has large breasts. In another, a girl named Omori realizes in the school bathroom that she’s gotten her period and doesn’t know what to do. Another girl, Suzuki, can speak freely at cram school but struggles to speak at school. Katsuta’s father has lost his job and unfortunately takes his stress out on her, so she takes her stress out on her classmates. Many different stories fill the class.

For her part, Koyomi is the tallest student and has been called “Giant” and “Amazon Woman,” but the shortest student in the class, Tokoi, once expressed jealousy of her, saying, “I wish I could be tall.” Now, nobody makes fun of height. Koyomi often feels pressured by classmates but dislikes playing along with them; in contrast, Tokoi voices his thoughts freely and finds the good in everyone. Koyomi gradually comes to admire Tokoi; when something happens, she considers it, observes Tokoi’s reaction, and takes a step toward trying someone else’s point of view.

Humorously narrated and filled with the appeal of Tokoi, this book keeps readers turning pages and offers them the appeal of new viewpoints. Winner of the Noma Children’s Literature Prize. (Sakuma)

  • Tomori, Shiruko
  • Kodansha
  • 2018
  • 192 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784065139059
  • Age 11 +

School, Point of view, Humor

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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つくられた心

佐藤まどか『つくられた心』表紙
『つくられた心』
佐藤まどか/作 浦田健二/絵
ポプラ社
2019

『つくられた心』(読み物)をおすすめします。

舞台は近未来。新設された「理想教育モデル校」では、スーパーセキュリティシステムが完備され、各クラスには監視役のガードロイドをまぎれこませて、カンニングやいじめや校内暴力を防止するという。これはカメラやマイクを内蔵した最新型のアンドロイドで、人間そっくりに作られ、人間と同レベルの知性を持ち、外見だけでなく性格の個性も備えてあるとのこと。

期待をもって転校してきた6 年生のミカは、席の近い鈴奈、お調子者の仁、フィリピン人の母親をもつジェイソンと仲よくなる。やがてクラスで、本来は禁止されている「ガードロイド探し」が始まると、ミカも疑心暗鬼になる。4人は、怪しいと思われる生徒の家に行ってみたり、マラソンをしても呼吸の乱れない生徒に探りを入れたりする。しかしそれより、もしかしてこの4人の中にガードロイドがいるのではないか? 友だちの笑顔はウソなのか? だれかにリモートコントロールされているのか? 本当は心なんてないのに、感情があるふりをしているのか? すべてが演技なのか? 疑念はふくらむ。

最後にガードロイド自身も自分の正体を知らされていないことが判明し、ガードロイドがだれかはわからないまま物語は終わる。だからこそよけいに、全員を監視する超管理体制ができあがった社会の不気味さが、読者にひしひしと伝わってくる。

11歳から/近未来 アンドロイド 疑念 友だち

 

Artificial Soul

The story is set in the near future. A newly established model school not only offers small classes and hightech facilities but also has a super security system to prevent cheating, bullying and violence. Each class has a guard-droid that looks and behaves just like one of the students, but is actually an android programmed with the same intelligence as a human and equipped with a built-in mike and camera through which the school can watch over the students. The androids each have their own personality and are indistinguishable from humans.

Mika comes to this new school with great expectations and makes friends with three students sitting near her. The students are forbidden to look for the guard-droid, but Mika’s class secretly tries to find out. Mika starts suspecting everyone. She and her group of friends visit the home of a girl who appears suspicious and closely observe a boy who never gets out of breath even when he runs a marathon.

But perhaps the guard-droid is really one of Mika’s friends. Are their smiles fake? Is one of them being operated by remote control and just pretending to have feelings? Is it all an act?

In the end, the students find out that even the guard-droid doesn’t know who the droid is, and its identity is never revealed. The author vividly conveys the frightening nature of a society in which everyone is watched and where it is impossible to tell the real from the fake. Artificial Soul warns us that the human mind could one day be subdued and controlled. (Sakuma)

  • Sato, Madoka | Illus. Urata, Kenji
  • Poplar
  • 2019
  • 176 pages
  • 20×13
  • ISBN 9784591162057
  • Age 11 +

Near Future, Android, Doubt

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)


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ねこのこふじさん〜とねりこ通り三丁目

『ねこのこふじさん』表紙
『ねこのこふじさん〜とねりこ通り三丁目』
山本和子/作 石川えりこ/絵
アリス館
2019

『ねこのこふじさん』(読み物)をおすすめします。

ネコのこふじは、働いていた広告会社で同僚から仲間はずれにされるようになり、退職して引きこもりになっていた。そんなこふじが、世界旅行に出かける祖母から、とねりこ通りの家の留守番をたのまれる。そして家賃がわりに「月に一度、その月らしい行事をする」という約束をさせられる。

仕方なく4月はお花見、5月は衣替え、6月は梅仕事、7月は七夕、8月は花火見物、9月はお月見、10 月は栗拾い、11 月は七五三、12 月はリース作り、1月はお正月料理、2月は豆まき、3月はひな祭り、と行事を行っていくうちに、こふじは、この町のさまざまな動物と出会い、交流するようになる。とねりこ通りに暮らす多様な動物たちの中には、帰国子女、独居老人、さびしさから暴力をふるう子などもいるが、お互いの欠点を補い合いながら暮らしている様子に、こふじも元気をもらう。そして1年たった頃には、いつしかこふじも、伝統的な織物を継承したいと意欲まんまんになっていた。

それぞれの月の行事については、ご近所に住むネズミのネズモリによる解説がつき、ネズモリ自身の物語も展開している。最後は、世界旅行から帰ってきた祖母を含め、物語の登場キャラクターが全員出てくるネズモリの結婚式の場面だ。絵もたくさんついた1章1話の楽しい物語。

11歳から/ネコ 行事 引きこもり 多様性

 

Kofuji the Cat

ーNumber 3 Ash Street

Kofuji the cat once worked very hard at an advertising company. When her coworkers began to treat her coldly, however, she quit her job. Now she stays at home, never leaving the house. One day, however, her grandmother asks her to take care of her house on Ash Street while she travels around the world. Instead of rent, she asks Kofuji to plan a monthly event, each one befitting the month in which it is held.

Although reluctant at first, Kofuji plans a picnic under the cherry blossoms in April, a seasonal change of clothing in May, plum juice-making in June, a star festival in July, fireworks in August, moon viewing in September, chestnut gathering in October, a festival for children aged three, five and seven in November, wreath making in December, making traditional New Year’s dishes in January, bean throwing in February, and a dolls’ festival in March. The neighbors on Toneriko Street are a diverse group of characters. There is a tapir who moved back from overseas and thinks she has to conform to fit in, a young fox who throws tantrums because she’s upset that her mother has a new fox cub, and an elderly monkey living on his own. Through her interactions with these different neighbors, Kofuji gradually perks up and by the end of the year, she has decided to start weaving traditional textiles.

Each monthly event is described by Nezumori, the postmouse who lives in the cupboard of her house. His own story also unfolds within this book, and the last scene is his wedding, which is attended by all the characters who have appeared, including Kofuji’s grandmother who has returned from her travels. With one story per chapter and plenty of illustrations, the book is easy and entertaining even for children unused to reading. (Sakuma)

  • Yamamoto, Kazuko | Illus. Ishikawa, Eriko
  • Alice-kan
  • 2019
  • 168 pages
  • 21×16
  • ISBN 9784752008934
  • Age 11 +

Cat, Event, Stay-at-home, Diversity

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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あららのはたけ

村中李衣『あららのはたけ』
『あららのはたけ』
村中李衣/作 石川えりこ/絵
偕成社
2019

『あららのはたけ』をおすすめします。

山口に引っ越した10 歳のえりと、横浜にとどまっている親友のエミが交換する手紙を通して物語が進行する。

えりは祖父に小さな畑をもらい、イチゴやハーブを育てることにする。そして、踏まれてもたくましく生きる雑草のことや、台風の前だといい加減にしか巣作りをしないクモのことや、桃の木についた毛虫が飛ばした毛に刺されて顔が腫れてしまったことなど、自然との触れ合いで感じたこと、考えたことをエミに書き送る。都会で育った子どもが田舎に行って新鮮な驚きをおぼえたり、感嘆したりしている様子が伝わってくる。

エミは、えりの手紙に触発されて調べたことや、今は自分の部屋に引きこもっている同級生のけんちゃんの消息を、えりに伝える。えりもエミも、幼なじみのけんちゃんのことを気にかけているからだ。

失敗の体験から学ぶことを大事にしているえりの祖父、まわりの空気を読まないで堂々としている転校生のまるも、けんちゃんをいじめたけれど内心は謝りたいと思っているカズキなど、脇役もしっかり描写されている。今の時代に、電話や電子メールではなく、手紙のやりとりによってふたりがつながりを深めていく様子は興味深いし、えりから届いた野菜の箱の中からカエルがぴょんと飛び出したことがきっかけで、けんちゃんに変化が訪れるという終わり方はすがすがしい。坪田譲治文学賞受賞作。

9歳から/畑 手紙 いじめ 自然

 

Garden of Wonder

This story unfolds through the letters exchanged between ten-year-old Eri, who has moved to Yamaguchi, and her friend Emi left behind in Yokohama. Through these letters we learn how Eri’s grandfather has given her a small patch of land where she grows strawberries and herbs. She writes all her thoughts to Emi, like how vigorously all the weeds grow even if you step on them; about a spider that only spins a temporary web when it senses a typhoon is about to hit; how her face swelled up when stung by hairs from caterpillars on the peach tree; and the feeling of being in contact with nature. The reader can appreciate the fresh amazement and wonder that a city-raised child feels upon moving to the countryside.

Emi tells Eri how she has studied about spiders and caterpillars thanks to her letters, and also about their classmate Kenji, who now won’t leave his bedroom. Kenji has been their friend since they were little, and they are both worried about him.

Other people in their lives include Eri’s grandfather, who emphasizes learning from experience and only tells her what to do after she has made a mistake; a new transfer pupil Marumo, who sticks to her own ways without realizing the pressures on her to change; and Kazuki, who bullied Kenji but deep down wants to apologize.

It is interesting to see how in this day and age Eri and Emi deepen their connection not by telephone or email, but by letters, and the story ends on a refreshing note when a frog jumps out of a box of vegetables that Eri sends Kenji, prompting him to step outside and begin to change. This book won the Joji Tsubota Prize. (Sakuma)

  • Muranaka, Rie | Illus. Ishikawa, Eriko
  • Kaiseisha
  • 2019
  • 216 pages
  • 21×16
  • ISBN 9784035309505
  • Age 9 +

Fields, Letters, Bullying, Nature

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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ようこそ、難民!〜100万人の難民がやってきたドイツで起こったこと

『ようこそ、難民』表紙
『ようこそ、難民!〜100万人の難民がやってきたドイツで起こったこと』
今泉みね子/著
合同出版
2018

『ようこそ、難民!』(NF)をおすすめします。

本書は厳密には事実に基づく創作だが、事実の部分が多いのでここ(NF)に入れた。ドイツに永住した著者が、難民とはどのような人たちで、なぜ自分の国を逃げ出さなくてはならなくなったのか、ドイツはなぜ難民を多く受け入れたのか、感情や理想だけでは進まないという事実、文化の違いから来る誤解、イスラム教徒もそれぞれに違うこと、難民がドイツになじむために行われている教育などについてもわかってくる。多様な視点が登場するのがいい。

11歳から/難民 ドイツ 多文化共生

 

Refugees, Welcome!

―When a Million Refugees Arrived in Germany

This book is not non-fiction in the strictest sense, but much of it is real, which is why it is included here. The author, a Japanese woman in Freiburg, discusses refugees. What sort of people are refugees and why did they have to flee their countries? Why did Germany recently accept so many refugees? What actions were taken by German people against them? Why can’t reality be sustained by emotions and ideals alone? What misunderstandings arose from cultural differences? What are the differences between the various adherents of Islam, and what was done to help the refugees learn German? She tackles the issue from various perspectives, giving readers the opportunity to think for themselves. (Sakuma)

  • Imaizumi, Mineko
  • Godo Shuppan
  • 2018
  • 176 pages
  • 22×16
  • ISBN 978-4-7726-1339-2
  • Age 11 +

Refugees, Germany, Multicultural society

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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理科準備室のヴィーナス

戸森しるこ『理科準備室のヴィーナス』
『理科準備室のヴィーナス』
戸森しるこ/著
講談社
2017

『理科準備室のヴィーナス』(読み物)をおすすめします。

中学1年生の瞳は、母親とふたり暮らしで、学校では疎外感を感じている。そんな瞳は、保健室に居合わせた理科の教師・人見先生に手当をしてもらったことから、アウトロー的なこの先生に魅了されていく。人見先生は第二理科準備室で授業のない時間を過ごすことが多く、顔がヴィーナスに似ていて、シングルマザーで幼い子どももいるらしい。そのうち瞳は、一風変わった男子の正木君も人見先生に惹かれているのに気づく。正木君と瞳は、美人でやさしく、しかも危険な匂いのするこの先生を「たったひとりの、特別な、かわりのきかない存在」だと考えて、第二理科準備室に入り浸る。性別の違うふたりの生徒と先生の、微妙なバランスの上で揺れる三角関係だ。大きな事件が起こるわけではないが、憧れに胸を焦がし、細かく揺れ動く思春期前期の子どもの心の情景を見事に描いた作品。

12歳から/憧憬 教師 学校

 

The Venus of the Science Lab

Hitomi Yuuki is in the first year at junior high. She lives with her mother, and she hardly ever sees her father since her parents divorced. She feels alienated at school. After she is tripped up in the classroom and falls, she goes to the sickroom for first aid treatment and has a conversation with the science teacher Ms. Hitomi, who happens to be there at the time. She develops a crush on the young teacher, whose surname Hitomi sounds like her own first name. Ms. Hitomi often spends time when she doesn’t have classes in the #2 Science Lab, and her face resembles Botticelli’s Venus. She is thirty-one, considerably older than student Hitomi, and is a single mother with a young child. She openly flouts school rules, eating sweets in front of her pupils, and to Hitomi she is the most beautiful, kindest, and also the most dangerous person she has ever known.
One day, Hitomi notices another boy, Masaki, staring at Ms. Hitomi. Masaki and Hitomi start spending all their time in #2 Science Lab, and both desire the teacher in slightly different ways. Nevertheless, both of them feel that she is a special, unique, and irreplaceable person in their lives. The three-way relationship between the two pupils, boy and girl, and their teacher maintains a delicate and complex balance. In the end it breaks down, but by then Hitomi has begun to think of Masaki, who is eccentric and tends to take chances, as a kindred spirit. “He was necessary in order to get close to something out of reach,” she thought.
Nothing dramatic happens in this book, but it wonderfully portrays the fluctuating emotions of children in early adolescence being consumed by longing. (Sakuma)

  • Text: Tomori, Shiruko
  • Kodansha
  • 2017
  • 206 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-06-220634-1
  • Age 12 +

Aspirations, Teachers, School

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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