日付 | 2023年09月09日 |
参加者 | ハル、シア、コゲラ、ルパン、花散里、すあま、サンザシ、エーデルワイス、きなこみみ、アンヌ、wind24、コアラ、西山、ニャニャンガ、雪割草 |
テーマ | 居場所をさがして |
読んだ本:
原題:THE BEATRYCE PROPHECY by Kate DiCamillo & Sophie Blackall,
ケイト・ディカミロ/作 ソフィー・ブラッコール/絵 宮下嶺夫/訳
評論社
2023.04
〈版元語録〉記憶をなくして修道院のヤギ小屋に倒れていたベアトリス。はたして彼女は偉大なる予言書に書かれた少女なのか? 限られた人しか読み書きが許されなかった時代に「言葉」で運命を切り開いていく少女と仲間たちの絆を描く物語。
志津栄子/作 くまおり純/絵
講談社
2023.01
〈版元語録〉残留邦人の祖父を持つ、唯人(ゆいと)。父は中国で生まれ、日本で家族をつくったが、唯人がおさないころに帰国してしまった。唯人は、何をするにも自信がなく、話すのも苦手。大事なことを自分で伝えられず、いとこの洋(よう)ちゃんにくっついて任せてしまう。洋ちゃんとクラスが離れた小学五年生の秋学期、クラスに転校生がやってくる。 クラスメイトがあれこれと話しかけても、転校生の生島梓(きじまあずさ)はそっけない返事ばかりして、クラスになじもうとしない。唯人はそんな梓に親近感を覚えるようになる。
ベアトリスの予言
原題:THE BEATRYCE PROPHECY by Kate DiCamillo & Sophie Blackall,
ケイト・ディカミロ/作 ソフィー・ブラッコール/絵 宮下嶺夫/訳
評論社
2023.04
〈版元語録〉記憶をなくして修道院のヤギ小屋に倒れていたベアトリス。はたして彼女は偉大なる予言書に書かれた少女なのか? 限られた人しか読み書きが許されなかった時代に「言葉」で運命を切り開いていく少女と仲間たちの絆を描く物語。
ハル:最初から言いづらいのですが、もう、勇気を出して白状すると、p150くらいまで、何が書いてあるのか全然頭に入ってきませんでした。p150くらいからだんだんおもしろくなってきたけれど、開き直ると、そのあとも眠気との戦いでした。テーマはよくわかりますし、文字を覚えていく場面はわくわくしまし、きっと読む人が読めば良い本なんだと思いながらも……私の読書力の限界。「彼女」が繰り返し出てくるところや(母親のこともベアトリスは「彼女」と呼んでいましたし)、国王がベアトリスを呼ぶのは「あんた」でいいのかなぁ、とか、なんとなくキャラクターがつかみづらかったです。
アンヌ:ファンタジー世界の作りがとても雑な気がして、読みながら次々に疑問がわいきてしまいました。「悲しみの年代記」に書かれる予言はどうやって王室に伝わるのを一般市民は知るのか?女性が文字の読み書きができないと信じられてる国ならば、ベアトリスの母はどうやって文字を知ったか?人魚は何をしたくて外に出たか?等々です。でも、それと同時に、タリバン統治下で学校に行くことを禁じられたアフガニスタンの女の子たちはどうなってしまうのだろうと思わされたので、この物語に今の現実が反映されていると感じました。
サンザシ:物語はおもしろく、記憶を喪失していたベアトリス、頑固なヤギのアンスウェリカ、読み書きはできないが機転のきく素朴な少年ジャック・ドリー、森の中でクラス元の王エーレンガード(カノック)、修道院で予言の書を文字にしていたエディック修道士と、それぞれ違う立場、違う文化を背負っているキャラクターが、会ってすぐに勘が働いて親しくなるのもいいし、ベアトリスの人魚の物語が本編をなぞっていくのもいいですね。ただし翻訳は、彼、彼女、それ、きみ、といった不必要な代名詞が頻出するので、読みにくく、スムーズは物語の流れを阻んでいるように思いました。イラストもいいのに、残念ですね。それと、エディック修道士の一人称が、「ぼく」と「わたし」の2通りになっていました。
エーデルワイス;久しぶりの厚いファンタジーの本にわくわくして読みました。飾り文字、挿絵、装丁どれも素敵です。読みやすい文章だと思いましたが、教訓めいた言葉ばかりで嫌気がさしてきました。また内容をただただ長くしているだけではと思ってしまいました。もっと別の構成があるのでは?と、思いました。
wind24:短い章立てになっていてお話がブツブツ切れてしまう印象ですが、子どもたちの読書力を考え、読みやすくしているのでしょうか。物語としては印象的なモチーフが散りばめられていているので易しく読み進めることができると思います。ヤギのアンスウェリカが狂言回し的役割でお話の全体を通して重要な位置にあると思います。ベアトリスのいる世界と王国での出来事が同時進行的に書かれているのはおもしろいと思いますが、王国での内容が予言が中心で、予言に出てくる少女を捜しだすことに終始しているので途中で飽きてきました。国民は反抗せずに王室の命令に従うべき存在で黙々と働き税金を納め、命令がでれば戦場に赴く…今も世界中、政府と国民の関係性は似ている国が多いのでは? 特に発展途上国には多いと感じます。
おしまいに新たな国王の座にベアトリスの母が就きますが、話の中で母親の存在が感じられなかっただけに、いささか唐突に思えました。本来ベアトリスが王座に就く流れと思いますが、もう少し見分を広め経験を積むまでのつなぎともいえるでしょうか。
最後に一番大切なものは「愛」で締めくくられていますが、それまでの内容に愛を感じさせるものがありませんでしたので、水戸黄門の紋所のようで違和感を覚えました。
コゲラ:小学生のころの私が読んだら、おもしろくて夢中になって、何度でも読みかえしたと思います。昔話風の物語で、謎の少女ベアトリスが目的地に向かう途中で魅力的な仲間がどんどん増えていくところも、昔話の定番。ある日、とつぜん王位を捨てたカノックやジャック・ドリーもいいけれど、なんといってもヤギのアンスウェリカが最高ですね。読み終えたあとも、短い毛の生えた柔らかい耳や、石みたいに固い頭の手ざわりが残っています。そんな昔話のような物語のなかに、女の子の読み書きを禁じることの残酷さや、手に持つと振るわずにいられない剣とか、作者にいいたいこと、現代的なテーマがきちんと込められている。イラストも、もちろん素敵だし。ただ、「彼」「彼女」を執拗に使っているのは、訳者のなにかこだわりがあるのかな? 日本語は主語がなくても成立する言葉だし、そのほうがずっと自然なのに……。
ニャニャンガ:同じヤギを指すのでも、原書でsheとなっているところは「彼女」、goatとなっているところは「ヤギ」とそのまま訳されています。
サンザシ:機械的に訳語をおきかえている、ということですか?
ニャニャンガ:もしや編集されていないのではと思ってしまうほどでした。
サンザシ:こういう訳し方にこだわったというわけではないんでしょうね。
ニャニャンガ:編集者さんが、翻訳家の方にコメントしづらい状況にあったのでしょうか。
サンザシ:ベテランの翻訳者の方なので、編集者もおかしいと思っても強くは言えなかったのかもしれませんね。
コゲラ:私は、こうすべきだっていう、なにか特別な思いが翻訳者にあるんじゃないかって思ってしまったわけ。それが残念だなあと思いました。この本が大好きな子には余計に。でも本好きの子は、そういうところをすっとばして読むかもしれませんね。原文で読みたくなりました。
ニャニャンガ:ケイト・ディカミロも、ソフィー・ブラッコールも大好きなので私は原書を読んでいて、邦訳が出るのを楽しみにしていました。ところが、児童書なのに「彼」「彼女」が頻出し、対象年齢の読者にとってわかりにくのではと心配になりました。訳者あとがきに「日本のおさない読者に読みやすいように」とありますが、そうは思えずとても残念です。悔しいというのも変ですけど、もっとよい作品になっていたはずです。原書で読んだときは、登場人物がそれぞれ特徴的であり魅力的だったので、感情移入して読みましたし、物語にとても愛を感じました。ベアトリスの記憶がなかったときからはじまり、断片的な記憶がもどっていく過程で、大切なものは何かが伝わってくる、胸が熱くなるお話でした。日本語訳で読んで気づいた点としては、この国の王は世襲制ではないのですね。最後にアベラール家のベアトリスのお母さんが王になるのは少しだけ意外な気がしました。
シア:ニャニャンガさんのご指摘なんですが、話の途中でアベラール一家が城に住んでいる描写が出てくるので、公爵あたりの王に近い血筋なのかなと思いました。さて、この本は1ページ目から妙なんですよね。全部夢の中なのかなと思えるほど、安易で奇妙な世界なんです。ヤギのあたりのくだりなどギャグでしかありませんでした。文章は小さい子向けだと思います。訳者が「なるべく、すらすら読んでほしいという思いから」このようにしたみたいですが、なんとも古く、往年の児童文学を思い起こさせる雰囲気でした。ロアルド・ダールの訳を手掛けていたみたいですし、お年を召した方なんですね。その年代の書き方なのかもしれません。訳文の奇妙さもありますが、内容もどう読んでいいのかわかりませんでした。例えばベアトリスが正体を隠しているはずが突然名乗ったり、p94で「『わたしは絶対におそれない』ベアトリスはまた言いました」とありますが、その直後のp95で「しかし、彼女はおそれました」と、早々に前言撤回されたので、おそれるんかーい! と、お笑い芸人のようなツッコミをしてしまいました。関西風ツッコミを入れざるを得ない箇所が多い上に、とにかく古臭いんです。つまらないやり取りをする英語や道徳の教科書かというレベルで、おもしろくありません。なぜふいにギャグ調になるのかもわかりません。p128「その人はぐるりと宙をまわってからもどってきて着地し、そのまま横たわっていました。男でした」とあるんですが、ヤギに攻撃されて突然男がぐるりと宙をまわるという表現が読んでいてなんとも居心地が悪く、続けて「男でした」とぼそっと入ってくるところで思わず苦笑していました。p132「ジャック・ドリーは木の枝の上に立っていました。そのとなりにはベアトリス。木の根もとにはヤギと得体の知れない男。ジャック・ドリーは剣を手にしています。鳥たちがさえずっています」という風に、文章が台本みたいにたたみかけてくるんですよね。ちょっと読みにくいと感じました。登場人物たちも行動に矛盾点が多く、行動に一貫性がありません。ご都合主義な展開ばかりで読んでいてつらかったです。ラストで囚われていただけの母親が女王になるなど、もう噴飯ものです。p296「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」と締めくくっていますが、ハッピーエンド至上主義のディズニーだって、こんなに子どもだましではありません。こんな感じでモヤモヤしながらあとがきに入ったら、p299「主人公がすばらしい。この本のすべてがすばらしい。だれもがこの本を好きになってしまうだろう」(〈ニューヨークタイムズ・ブックレビュー〉)なんて書かれていたので、もうニューヨークタイムズのブックレビューは信じません。映画化されるとありましたがどうなることやら。オシャレな装丁やさしい絵は良かったです。そこが救いでした。
ルパン:みなさんのコメントのとおり、としか言いようがありません。発言の順番が最初の方だったら、今までのご意見、ぜんぶ私が言ったのに、という感じです。最後の「愛」も、ぎゃふんという感じでした。原書で読めばおもしろいというお話があったのですが、訳がうまくてもカバーしきれない部分はあったのでは
メインの登場人物のなかで、成長しているらしいのはエディック修道士でしょうか。主人公も、直感だけに頼って行動し、結局は都合よく助けられるので、どこがどう成長したのかわからない。王様だったカノックに至っては、ある日、突然お城を出て行って王冠を池に捨てちゃう。その理由もわからないし、無責任きわまりないですよね。ヤギも何者なのか。どうしてヤギがこんなヤギなのかも説明がない。いろんな人やいろんなもの、いろんな場面が次々現れるけれど、とりとめのない感じで、私はあまりおもしろいとは思いませんでした。
花散里:子どもたちに本を手渡す立場の者として、海外の優れた絵本、児童文学を翻訳者の方が選んで訳してくださり、編集者の方との協働により刊行してくださることによって、私たちは子どもたちに外国文学を手渡すことが出来るのだと思っています。より良い海外の作品を子どもたちに手渡したいと思います。本作は小学校高学年でも、読書力のない子には読みにくい作品だと感じました。登場人物、ひとりひとりはすごく魅力的で、特にヤギの行動について興味深く感じました。ファンタジーと言えるのかどうかと思いましたが、物語の展開がおもしろいのと、装丁、挿絵が素敵だと感じました。そういう意味からも、「この本、おもしろいよ」と手渡せるような、よい訳文で読みたかったと思いました。
雪割草:私は読みやすかいと思ったのですが、内容は正直よくわかりませんでした。読み終わって、よかったところを考えたときに、絵だけだと思ってしまいました。p296に「結局、重要なのは予言などではないということです」とありますが、この話自体が予言を軸に展開していて、登場人物らも予言に突き動かされていると思ったので、どうも腑に落ちませんでした。世界を変えるのは「愛」というメッセージも、心に入ってくるように描けているとは思えませんでした。人魚の物語もどう作用しているのでしょうか。この訳者の『マチルダは大天才』(評論社)は小学生のときに読んで好きでした。おとなになってから読み直していないのではっきりしたことは言えませんが、この作品では訳がとても気になりました。ヤギを「彼女」と訳されているのを読んだとき、読み間違えかと思って前後読み直しましたし、わざとなのだろうと理解していますが、たぶん意図した効果は子どもには伝わりづらく、人と同等に扱いたいのであれば、主語以外でどうにかした方がよかったのでは思いました。またp289にあるように、文末に「です」が多用されており、実況中継みたいで落ち着きませんでした。それから、4人が簡単にお城に侵入できたり、母は捕まっても殺されずにいたり、物語としても甘さ、ゆるさを感じました。
きなこみみ:まず、装丁が美しいことに惹かれました。見返しも表題紙も挿絵も、細かいところまで神経が行き届いていて、「本」への愛情がまず感じられます。物語は世界観が作りこまれたハイファンタジーというより、寓話のような物語で、タイトルと装丁を考えると、この本そのものが、予言書のような形でディカミロは書いたのではと思うんです。だから、物語としてはつじつまが合いにくかったり、わかりにくいところもあるんですが、今の時代への問いかけ、ジェンダーの問題を含め、この世界の暴力にどうやって立ち向かえばよいのか、という問いかけだと思います。印象的な場面がたくさんあって、たとえばベアトリスがヤギの片耳を握って眠っているシーンや、空が真っ青で光り輝いているときに、啓示が下りてくると感じられたりする、そういう詩のような場面やイメージを積み重ねることで、ディカミロは強いメッセージをこの物語に込めたかったのではないかな、と思いながら読みました。だから、みなさんのおっしゃるように、訳がもっと良ければ、全く違った物語になったんじゃないかなと残念です。
後書きを読むと、ディカミロは児童文学大使を務めていて、アメリカの児童文学会の重鎮としての役割を果たしてらっしゃるので、p88の「だれもが自由に読み書きし、さまざまな意見を発表する」ことへの抑圧に屈しないための励ましや、ひょっとしたら宣言みたいな気持ちもあったのではないかと思うのです。「女の子は読み書きしてはならない」という縛りは今も世界中にあって、他ならない自分の国の内閣も男の人ばっかりずらっと並んだ光景を見ると、ああ、私もこのベアトリスの世界に住んでいるんだなあと思ったりするんです。私はヤギのアンスウェリカがとても好きなんですが、ベアトリスとヤギの結びつきが、全く言葉を必要としない繋がりで、それがずっとこの物語の根底にある。それは体の温かさを通じた強い愛情です。そして、ベアトリス、ジャック・ドリ―、エディック修道士との関係も、絵や、口笛や、歌などの「美」で繋がった仲間たちと、支配的な暴力に向かい合う。そういう構図になっています。ジャック・ドリーが、人殺しの剣を手にしたとき、復讐の殺意が芽生えるところ。武器というものを手にしたときの人間の心の動きが描かれているところ。そこを、言葉の力で乗り越えるのが、強いメッセージだなと思います。ラストの「愛。そして愛を描くさまざまな物語。それらが世界を変えるのです」というところ、どうも評判が悪いのですが、そこまでのメッセージを訳文がちゃんと伝えられていたら、もっと違う感動があったのかもしれないです。
アンヌ:ニャニャンガさんにお伺いしたいのですが、原文はもっと韻を踏んでいるとか詩的な感じですか?
ニャンガニャンガ:韻を踏んでいた印象はないです。ディカミロは、子どもの頃にお父さんに暴力を振るわれていたそうなので、暴力に打ち勝つのは「愛だ」ということは伝えたかったのではないでしょうか。
アンヌ:確かに、エデイック修道士の頭の中に常に彼を否定する父親の声が響いていて、彼が生まれてからずっとDVを受けていて、父親が死んだ後もその影響を受けているのがわかりますね。
ニャニャンガ:それを乗り越えていくのを書きたかったのではと思います。ただ、昔話風の物語でありながら、セリフが今風な箇所があるのでアンバランスな印象を受けました。そのせいで余計読みづらいのではと思います。
サンザシ:原書どおりの直訳ではなくて、文章などは入れ替えて訳されていますね。そういうところには、工夫なさっているのでしょう。でも、イメージがくっきり浮かび上がってこなかったです。
コゲラ:原文は、現在形ですか?
サンザシ:アマゾンのサンプルを見ると、過去形のようです。
コアラ:私は選書係だったのですが、風刺を含んだファンタジーで、いろいろな解釈ができそうだと思って選びました。絵がすばらしいです。どういう時代でどういうタイプの物語なのか、絵が雄弁に物語っています。中世のヨーロッパを思わせる時代背景で、一般の人々は読み書きができなくて、p70の5行目に「村の人たちは、ジャック・ドリーに、古い物語を語ってほしいと頼みました」とあるように、物語を語って人々がそれを聞いて楽しむという文化がある設定になっています。この『ベアトリスの予言』も、ストーリーを先へ先へと進める展開になっていて、登場人物もストーリーのためだけに存在しているような書き方になっているところが、口承文芸のようだと思いました。言葉が重要な役割を果たしていて、p238あたりの場面ですが、ジャック・ドリーはベアトリスから文字を教わることで、無益な復讐をせずにすんだし、その後ベアトリス自身も、武器ではなく、物語を語ることで敵対する国王と対峙しました。p10の本文1行目に「この物語は、ある戦争の時代に起きたことです」とありますが、武力ではない、言葉の力、物語の力を感じることができた作品でした。p68で、ビブスピークおばばが、ジャック・ドリーに何度も自分の名前を言わせるところが、とても印象的でした。物語の展開が都合よすぎるのはどうかとも思いましたが、全体的に、美しさと、存在に対する肯定を感じる物語でした。
西山:私はとても楽しく読みました。ああ、おもしろかった、で特に言うことはない感じなんですけれど……。修道士を手玉に取るヤギがおもしろくて、冒頭から完全におとぎ話として読む構えができたので、細かいことは気にならなかったのだと思います。それでいて、今の戦争を思わせて、兵士の傷つき方、心の壊れ方が胸に迫りました。翻訳上の代名詞の件は私はそういう観点を知らなかったのですが、この作品の場合、あの乱暴で荒々しいヤギが「彼女」であること、つまり、女性であることを愉快に読んでいました。新しいタイプの戦争と平和を考えさせてくれる児童文学を読んだと感じています。
すあま:私は児童文学でもミステリーでも中世の修道院ものが好きなので、期待して読み始めたけれど、舞台としては物語の最初のところだけだったので残念でした。予言があって、そのとおりになっていくことを予想しながら読み進めました。途中で旅の仲間が増えていくのはおもしろいものの、キャラクターが次々と出てくるゲームのような感じもしました。登場人物がそれぞれに抱えている悲しみを、ベアトリスを救うことで癒していく物語。楽しいところもあるけれど、読んでいてつらいところもあり、特に兵士の懺悔をどうしてベアトリスに聞かせる必要があったのか、ちょっとひどいな、と思いました。読みながら、意味がわからないところにひっかかってしまい、子どもにも読みにくいように感じました。乱暴なヤギの活躍にも期待していたのに、途中からベアトリスを癒す役割になってしまい、もうちょっと暴れてほしかったかな。
(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)
雪の日にライオンを見に行く
志津栄子/作 くまおり純/絵
講談社
2023.01
〈版元語録〉残留邦人の祖父を持つ、唯人(ゆいと)。父は中国で生まれ、日本で家族をつくったが、唯人がおさないころに帰国してしまった。唯人は、何をするにも自信がなく、話すのも苦手。大事なことを自分で伝えられず、いとこの洋(よう)ちゃんにくっついて任せてしまう。洋ちゃんとクラスが離れた小学五年生の秋学期、クラスに転校生がやってくる。 クラスメイトがあれこれと話しかけても、転校生の生島梓(きじまあずさ)はそっけない返事ばかりして、クラスになじもうとしない。唯人はそんな梓に親近感を覚えるようになる。
きなこみみ:大阪が舞台の物語で、大阪者としては非常に親近感がわく物語でした。「居場所」ってなんだろう、というのがテーマですね。唯人という主人公の民族的なルーツである中国残留邦人の問題、金沢から転校してきて、大阪にも学校になじめなくて「ひとりぼっちで外国にいるみたい」というアズという女の子の心情、唯人の母が捨ててしまった故郷の人との繋がりなど、さまざまな奥行で「居場所をさがす」ということが語られるのがいいなと思いました。ふたりで天王寺動物園のライオンを見に行くシーンが、とくに好きなところ。天王寺動物園は、新世界のすぐ横にあって、独特な空気感のあるところです。雑踏のなかに、いきなり動物園があって、そこにいるライオンというのは、確かに場違いな感じがするなあと思いました。大阪は、在日の方たちがたくさん集まっておられる町もあり、様々なルーツの人たちが集まりやすいところだと思います。一方で、関西弁がキツい印象を与えたり、ニュアンスが通じにくかったりして、疎外感を与える一面もあるよなあと、この物語を読んで改めて感じたりもしました。この物語も、やはり言葉の力について考えさせられました。集団のなかでひとりぼっちだと思う唯人は、何をするにも自信がなくて、黙りがちになってしまう。自分たちを捨てた父親へのもやもやも胸にたまって、余計に重い。でも、同じような疎外感を抱えるアズと言葉を重ねるうちに、少しずつ自分が好きになるのが、いいなと。p165で、唯人が、母と本音で話しながら「なんやこれ、気持ちええ!」と思うところが、とてもよかった。自分の思いを言葉にしてみる。誰かと共有する。それが「胸のおくにチカっとあかりが灯る」場所をつくることにつながって、人との繋がりが、ふるさとで、居場所なんだというメッセージが温かいです。ふたりの担任のみのり先生が、距離をとって見守りつつ、要所要所でぴしっというべきことを押さえていい役割を果たしているのが印象的。唯人の背景は非常に深く書けていて、それが唯人という人物のなかで有機的に繋がっているのに対して、アズのこだわっている、母との関係が、もう少しリアルに見えていたら良かったなとも思いました。
花散里:表紙とタイトルを見た時に、私は読んでみたいとは思えませんでした。「ちゅうでん児童文学賞受賞作品」であるということからかもしれませんが、日本の児童文学作品を読んでいて常に感じることは、外国の作品と比べて、内容が軽いというか浅いように思っています。外国の作品は、海外の良い作品を選んで翻訳者、編集者の方々が日本に紹介してくださっているということもあるのかもしれませんが、子どもたちに手渡したいと思う作品が多いと感じています。
本作でもひとりひとりの登場人物の描かれ方に魅力が感じられないこと、ビリケンや通天閣、あべのハルカスなど、大阪の土地勘がないと分かりにくいということも含めて、設定もよくないと思いました。祖父が残留孤児という設定にも無理があり、唯人の父親の描かれ方も明確ではないと思います。母親が淡路島の家族と、どういう形で決別したのか、その母親が、「家族に見せびらかしに行くんや」という展開にも、どうして唯人と行ってみようかと思ったのかが安易すぎるように感じました。アズの存在、中国語、なわとび大会など、いろいろなことを盛り込みすぎていて、物語の展開の仕方も軽すぎて、不満に思いました。新しい作家たちの作品を紹介していくという点では、文学賞受賞作品の刊行ということもあるのかもしれませんが、文学的に、子どもたちに手渡せる作品であるのかどうかという考察はしてほしいと思います。
ルパン:私はすっと読んでしまって、まあまあおもしろいと思いました。全体の構成としてどうかというよりは、一個一個の場面に共感する子はけっこういるんじゃないかと思います。共感できないとしたら、アズが、まわりがせっかく仲良くしようとしているのにまったくこたえようとしないところ。それでも仲間に入れようとするこのクラスは、なかなかいいクラスですよね。ふつうだったら、イジメとか、少なくとも仲間外れにされたりすると思います。
施設に行ったときに、アズがおばあさんに話を合わせたことをからかう文香を、唯人がやっとの思いでたしなめたシーンは印象に残りました。あと、私は大阪に住んでいたことがあるんですが、いろんなルーツの人が今も肩を寄せ合って生きている感じがしました。東京やほかの地方にはない大阪のふところの深さとともに、そこで生きる人の苦しさを垣間見た気がしているので、ここに書かれている人たちの、自分たちのルーツを守りつつも、それでもやっぱり、日本で生まれて日本で育って、自分たちは何人なんだろうという感情は、ていねいに描けているのではないかと思いました。
シア:まずこの題名なんですが、雪の日にライオンを見に行ったのって、ほんのワンシーンなんですよね。ライオンが絡んでくるわけでもないのに、なんでこんな印象的な題名にしたんでしょう? どちらかというとビリケンの方にスポットが当たっていますよね。それでライオンはどうしたの? と読後に気になってしまいました。信じられないほどクラスのみんながやさしいのも気になりましたが、前の担任の先生のクラス運営がよほどよかったんでしょう。それに最近は少子化なのでクラスの人数も少なくて、子どもたちにゆとりがあるのかもしれません。とはいえ、なんだか老成していますよね。アズが登校しなくなったりしているのに、保護者が絡んでこないのもなんだかリアリティがありません。先生の描き方もなんだかしっくりこなくて、学級崩壊ポイントもいくつかあったのに何事もなく通り過ぎているので、どうにも上っ面だなあと思いながら読んでいました。最近の日本の児童文学はこういうほわっとした作品が多いように思います。ほわほわと上がり下がりもなく平坦に終わり、人間関係の解決や掘り下げなどもあまりしません。とにかく無難なんですよね。毒にも薬にもなりません。ティーンエイジャーなら、漫画の方がよほどおもしろいと思います。文体の関西弁は、おもしろいはおもしろいんですが、ほぼセリフなんですよね。なんだかなあという感じです。それに大人なら中国との関わりなどわかりますが、子どもが読んで理解できるのか疑問です。大阪のいじりといじめについての感覚の差は感じることができました。ちゅうでん児童文学賞で大賞を受賞していますが、どの辺が受賞ポイントなのか知りたいですね。
ニャニャンガ:中国残留法人の祖父を持つ唯人と転校生の女子アズとの交流を通した成長物語で、コンパクトで後味のいい作品だと私は思いました。関西弁で書かれているおかげで標準語よりきつくなく、読みやすく感じましたが、全体的にほわほわとした印象は否めません。深くはないのかもしれないけれど、ひとりぼっち同士のふたりが近づいていくの、よかったです。
コゲラ:中国残留邦人の家族という設定は、いままで児童文学で無かったような気がして(私が読んでいないだけかも!)、とても新鮮で、いいなと思いました大阪弁で書かれていることにも好感が持てました。ただ、私は関西で暮らしたことがないので、大阪弁=饒舌という感じがあって、唯人の内面とちょっと合わないような気もしました。おそらく偏見だろうと、反省してますけどね。タイトルは魅力的だと思って読みはじめ、なにかクライマックスのいいところで、効果的にライオンを見にいく場面が出てくるかなと期待していましたけど、途中でちょこっと出てきただけで、肩透かしをくらったような気分になりました。作者のなかでは、故郷を離れて大阪のど真ん中にいるライオンと主人公たちがリンクしているのだろうけど。
また、おじいちゃんが孤児になって、中国の親に引きとられたことを書いてある箇所を何度も読みかえしたけど、ここもずいぶんあっさり書いてありますね。どうして赤ちゃんだったおじいちゃんに名前を書いた手ぬぐいが結びつけられていたのかとか、戦争を知っている世代には胸に迫る場面だけど、今の子どもにはわかるかな? 作者が意識的に避けているのかな? あとがきの「この物語に登場する先生や子どもたちは、もはやおとぎ話の住人? いえいえ、子どもたちは今も昔も変わりません。どこまでもやさしく、大きな包容力を持っています」という断定的な言い方にも違和感を持ちました。ひょっとして深刻なことは書くまいというこだわりを、この作者は持っているんでしょうか?
wind24:5年生の1年間の出来事ですね。引っ込み思案の唯人と、心をひらかない転校生のアズを中心に子どもたちが成長していく姿が描かれています。小さないざこざはありますが、クラスの子たちが概ね素直でやさしく描かれています。現実はもっとシビアだろうと思います。子どもたちの世界はもっと冷たく時には残酷なのでは? そこは、作者のこうあってしいという願いなんでしょうか。
唯人の父親は早くに蒸発していますが、それでもなお、母親は父親の家族のなかで暮らし、蒸発した父親の悪口を全く言いません。人間が出来過ぎているのでは?と思いました。と同時に、大家族で子どもがそこに自分の居場所があり、安心して生活できることには好感を覚えました。クラスが大繩跳びで次第に団結していきますが、大繩のモチーフはありきたりなので新しさは感じませんでした。また唯人が5年の終わりでは180度変わり、好少年に描かれ過ぎではないかとも思いました。話の終盤で、アズと唯人に淡い初恋の気持ちが芽生えるのは、ほほえましいと思います。
エーデルワイス;図書館から借りたこの本は「ちゅうでん教育振興財団」の寄贈になっています。(他にも地域によって何件かの図書館で寄贈図書になっていました。)私は、好きな作品です。主人公唯人の心の軌跡をたどって読んでいるようで、唯人の心は苦しいなと思いました。いとこを頼りに生きていたけれど、いとことその家族がうらやましかったと気づくところには唯人の成長を感じました。p47の9行目「…唯人が感じているのはやさしさの孤独…」いじめもないクラスだけれどその中の孤独はよくわかります。唯人とアズ、結末は安心するような書き方でしたが、想像するにこの先二人はまだまだ大変でしょう。唯人はお父さんを中国で探し対峙しなくてはならないし、アズは淡路島のお母さんの実家を訪ねたら、そこで新たな問題が発生するでしょう。金沢のお父さんに残りたいと主張しても無理やり大阪まで連れてきて、自分の忘れられない初恋の話をするようなお母さんとも長く向き合わなければならないですし。『中国残留邦人』を扱っていますが、それ自体の問題より背景としている気がします。雪の日に動物園へ唯人と梓がライオンを見に行くシーンは心に残り、私はタイトルについてもなるほどと思いました。
サンザシ:自分に自身が持てない二人の子ども──父親が中国に帰ってしまい母と二人で暮らしている唯人と、周囲にとけこもうとしないアズ──が、おたがいだけは警戒せずに友だちになり、次の一歩を踏み出せるようになる姿が、ていねいに描かれていました。悪い人物は一人も出てこないし、悪意あるいじめっ子も一人も出てきません。それはいいのですが、アズがイマイチくっきり浮かび上がってきませんでした。こういう子がいてもいいのですが、もう少し内面を描いてほしかったし、唯人のおじいちゃんにも大きな葛藤があったはずですよね。先日、来日したシドニー・スミスさんが、「子どもの本は様々な感情を安心して体験できる場。それが将来実際に困難にぶつかったときに役に立つ」とおっしゃっていました。だとすれば、ほわほわの物語でも少しは役に立つのかな、と思いましたが、これならマンガのほうがいいという意見にも一理あると思います。
アンヌ:私も題名と内容が合わない気がしました。唯人については知らない世界が描かれていて物語もていねいに彼を追っている気がしますが、もう少し、アズについて書かれてもよかったのではないかと思います。ライオンももう少し、活躍してもよかったんじゃないかと。大阪独特のノリとツッコミの会話が描かれていますが、悪気のないものであるとしても、転校生にはつらいだろうと思います。同じ立場の子がこれを読んでホッとするかは疑問です。現実の小学校生活はこんなに忙しいのかもしれませんが、行事3つは多すぎる気がしました。
ハル:「そういうやつがおってもええ」っていうメッセージには、読者としてはだいぶ救われる思いもあるけれど、アズ本人が自分の性格を持て余しているので、「そういうやつがおってもええ」が、救いになるのかなぁ、どうかなぁ。著者は、現在は岐阜県にお住まいのようで、舞台とあった大阪とはどういうつながりがあるのかわからないけれど、金沢からきたアズがとても気取った話し方をしているような印象があり、そのあたりに大阪至上主義的なものも感じます。金沢の言葉遣いがこういうものなのか、関西の言葉以外はいわゆる標準語で書かれたのか、ちょっとよくわかりませんでした。
西山:私は好感を持てませんでした。ということでネガティブなコメントばかりになりますが……。タイトルはムード優先で思わせぶりに感じます。全体的に、設定の大渋滞。元号ばかりで、いつ、だれが何歳の時、それから何年というのもすんなり分からないし。大縄跳びは、地域により学校により違うと思いますが、男女別にする必要がわかりません。へなちょこ男子が、ちょっと生きづらさをかかえている女の子の前では急に立派になって、上から目線で振る舞うのは、それが唯人の成長として読めるのでしょうけれど、私は抵抗を感じました。アズのほうがよっぽどしっかりしているのに。バスの中のいじりのしつこさが耐え難く、それで唯人が立ちあがったのは展開としてはわかりますけれど、最終的に、悪気はないのだからこの大阪ノリを受け入れようよというベクトルを作品が持っている気がして、そこも抵抗を感じます。長縄跳びというところから、梨屋アリエさんの『ツー・ステップス!』(岩崎書店)の深さを思いだしたことでした。
コアラ:今回の選書係だったのですが、書店で見てよさそうだなと手に取って、読んでみてなかなかよかったので、選びました。今まで何度か読み返したのですが、どうしても一言でまとめられないという気がしています。作者は、やさしい世界を描きたかったのだと思います。現実というより、やさしさのほうに振った世界です。クラスを仕切る女の子がいて誰も逆らえないけれど、陰湿ないじめがあるわけではなく、クラスに馴染めない転校生のアズも除け者にしない、という「受け入れる」風土のあるクラス。やさしい環境だけれど、やさしさの中の孤独を唯人が自覚する場面があって、そのやさしさの中の孤独が、この作品の空気感になっていると思いました。登場人物の心情がよく描かれていて、どの人の思いもよくわかるなあと、私は共感しながら読みました。中国残留邦人だった祖父の思いや言葉が、唯人の中に根付いていくのも、世代を超えて受け継がれていくのがいいなと思いました。みなさんのお話を聞いていて、私は気づかなかったけれど、ああ、なるほどなと思えるものあったりして、いろいろな意見が聞けてよかったです。
コゲラ:お正月におじいちゃんの家で開口笑というお菓子を初めて食べた……という場面ですが、そんなにおいしいお菓子なら、どうして唯人はいままでごちそうしてもらえなかったんだろうと、ちょっとばかりひっかかりました!
(2023年09月の「子どもの本で言いたい放題」より)