投稿者: sakuma

2023年04月 テーマ:人生はひみつに満ちている

日付 2023年4月18日
参加者 ネズミ、ヨシキリ、ルパン、花散里、すあま、アカシア、アンヌ、西山、サークルK、ニャニャンガ、ヒダマリ、雪割草、まめじか
テーマ 人生はひみつに満ちている

読んだ本:

(さらに…)

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『ひみつの犬』表紙

ひみつの犬

ヨシキリ:岩瀬さんの作品は、どれも人間がしっかり描けていますよね。それも、形容詞で表現するのではなく、黒い色にこだわる羽美、狭いところにはまる細田くん、時間割が好きなお姉ちゃん、子どもにビラ配りを頼む整体医の佐々村さん等々、具体的なことで人物をあらわしている。良いところも悪いところもあり、一風変わったところもあるという、一面的でない人間像が魅力的です。同じ作家の短編集『ジャングルジム』(ゴブリン書房)も、人間がしっかり描けているという点では同じですが、この作品は犬のトミオがどうなってしまうのかというサスペンスと、いったい佐々村さんとは何者なのかというミステリーで、最後まで読者をひっぱっていく。かなりページ数はありますが、小さい読者もしっかりついていけると思いました。また、トミオを守りたい一心の細田くんと、佐々村さんの正体を探りたい羽美の気持ちのすれちがいが描かれているところもおもしろかった。それにしても、人間の気持ちをしっかり分かって我慢しているトミオの姿が切ないですね。ラブラドール・レトリバー好きの私はじーんときました。

西山:すごい作品だと思いました。岩瀬さんは次々と新作を発表されるけれど、そのたびに新しい人間が出てきて、本当にすごいと思います。ちょっと常識からずれたような不思議な行動をとる大人と子ども。コミュニティって、こんなふうに不可解で、気に食わない人たちもいっぱいいるものだというのが、図式的でなく、人間のおもしろさとしてすくい取られていて本当に興味深かったです。「子どもの権利」という観点でも、「先生が怒ると生徒があやまる」(p3)とか、「もしかしたら大人に利用されているんじゃないか、と、子どもはいつも注意を払ってなきゃいけない」(p62)とか、随所ではっとさせられて、徹底して子どもの側に立っている作品だと思いました。

花散里:一つ一つの文章が読ませる内容ではある、というのが全体的な印象でした。登場人物、一人一人を実にうまく描いていると思います。細田君の犬など、はらはらさせられるところや、カイロプラクティックの箇所など。ほっとするところと、そうではないところのつなげ方も上手だと思いました。図書館員のお父さんがスマホを片手に川柳を作っているというところは、そういう見方をされているのかとも思いましたが…。読後感としては、大人は共感するけど、子どもはどんなふうに読むのかという点で、手渡し方が難しい本のようにも感じました。

ヒダマリ:とても魅力的な本でした。今まで読んだ岩瀬成子さんの作品のなかで、一番好きかもしれません。ものごとの善悪をシンプルに考える時期、自分もあったなぁ、と子ども時代を思い出させる本でした。それぞれの登場人物の心理がていねいに描かれています。主人公は思い込みが激しく、プライド高く、大人に対して疑いを持っています。強いキャラだけれど、揺れ動く。そのブレがとてもよく掴めました。また、細田くん、お姉さん、そしてお母さんも、さらに犬のトミオまで、それぞれの生きづらさが伝わってきました。犬がどうなっちゃうのか、脇山さんに見つかっちゃうのか、佐々村さんは、本当はどんな人なのか、椿カイロプラクティックを攻撃しているのはだれなのか、なぞが重なって、一気に読ませる工夫もありました。そういう引っ張る力が、他の岩瀬さんの作品よりも強かった気がします。1つだけ気になったのはp154「煮詰まる」という言葉が誤用されているところ。「二人とも煮詰まってるぞ。煮詰まっちゃいかん。ろくなことにならんよ、煮詰まると」。煮詰まるは、話し合いなどでじゅうぶん意見が出尽くして、そろそろ結論が出る、という意味合いが本当ですよね。お父さんが間違った意味合いで使っているにしても、フォローがないので、作者が誤用しているというふうにしか読めません。編集者、校閲が気づくべきだと思いました。

アカシア:子どものときに、こんなふうに子どもの感受性を子どもの視点で書ける人の作品を読みたかったなあ、と思います。羽美は黒いものばかりにこだわり、細田くんは狭い隙間にはさまるのが好き。どちらもちょっと変わっていますが、羽美については、担任がきっちりした人で小言ばかり言う描写があったりしますね。細田くんのほうは犬のトミオを飼っていることを秘密にしなくては、なんとかトミオの居場所を確保しなければ、といつも緊張している。子どもは、ちょっとしたことで他と同じ規格品にはなれないんですよね。羽美が、ササムラさんを疑ったり、証拠をつかまないとと焦ったり、探偵ごっこまがいのことをしたりするのは、この年齢ならではの正義感をもつ子どもらしいし、それよりトミオが心配な細野くんとの距離があいていくのもよくわかります。ただ、怪しい人物についての謎が、前にこの会でも取り上げたシヴォーン・ダウドの『ロンドン・アイの謎』のように解明されていくわけではなく、羽美の勘違いという結末になるので、そこを多くの子どもが読んでおもしろいかというと、そうでもないように思います。いろいろな人が出てきて、物語の本質からしてどの人も善悪では割り切れないので、くっきりしたイメージを持ちにくいですね。ただ、好きな子どもはとても好きだと思います。さっき、『春のウサギ』が岩瀬成子的とおっしゃった方がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。岩瀬さんの言葉には、ひとことで10か20の背景を思い起こさせるふくらみがあり、そこが『春のウサギ』とはかなり違うんじゃないかな。

ニャニャンガ:これまで読んだ岩瀬成子さんの作品の中で、いちばんおもしろく読んだのは大人目線だからでしょうか。犬を飼ってはいけないマンションで犬を飼っている状況にドキドキしながら読みました。細田くんのトミオを思う一途さがかわいかったです。この作品には大人のずるさや利己的な面が書かれている一方で、狭い世界で生きる羽美が、自分のものさしの短さに気づいてゴムのようにのばすことができたのがよかったなと思います。人にはさまざまな面がある(羽美の姉、羽美のお母さん、佐々村さんなど)のを学んだのではと思います。羽美が犯人探しに夢中になるあまり、細田君の犬のトミオの引き取り手探しがおろそかになるあたりは子どもらしく感じました。大道仏具店のおばあさんがトミオを引き取ってくれそうだなというのは薄々わかったものの、そこから椿マンションに引っ越せるとわかるまでは想像できませんでした。学校の先生の指導に違和感を覚えたり、正義感を通そうとしたりする羽美に共感しつつ、こだわりの強い子だなと思うのは自分にも似た面があるからかもしれません。

まめじか:大人の欺瞞にだまされまいと気をつけていたのに、それでも自分は見抜けなかったと、羽美がくやしさをおぼえる場面があります。そうやっていろんな経験を重ねる中で、羽美は自分をふりかえり、また周囲のことも少しずつ理解していきます。正義感から突っ走ってしまう羽美に対し、親は事なかれ主義の対応をしますが、子ども対大人の単純な構図にしていないのが、すばらしいなあと思いました。子どもにも大人にも、見えているものと見えていないものがあるんですよね。それがとてもよく描かれていますね。時間割をつくることで何かと戦っているようなお姉ちゃんは、子ども時代と自分を切り離そうとしているようで、羽美をとりまく人たちもそんなふうに、厚みのある人物として感じられました。

ネズミ:岩瀬さんの物語は、登場人物を一方的に決めつけないというのが徹底していると思いました。黒い服を着ている主人公とか、狭いところに入る細田君とか、奇妙に見えるけれど、だからといって特別視しないし、何かの型にはめたりもしない。分断しないから、読んでいると、こういう見方もあるなと、目をひらかされていきます。物語としても、犬がどうなるかというのと、左々村さんの謎があって、先にひっぱられていきますね。主人公の論理は、やや独善的にもなるのですが、それがまわりにも本人にも自然に伝わり、ゆるやかに本人が変わっていく書き方がみごとだと思いました。冒頭の先生との掃除の場面と、仏具屋のおばあさんのネコの場面に、呼応する場面が最後にあるのもいいですね。

ルパン:岩瀬成子は好きなんですけど、この作品はちょっとすっきりしませんでした。私の理解力が足りないのかもしれませんけど。まず、最後のほうでお姉ちゃんが突然饒舌になるところに違和感があったのと、あと、この子の「黒」へのこだわりや、細田君が狭いところにはさまりたがるところなども、おもしろいんだけど、それが何につながっているのかなあ、という不完全燃焼感がありました。佐々村さんはちょっといやな大人で、疑われたってしょうがないじゃない、と思ってしまいました。

雪割草:次が気になってどんどん読めました。羽美とお姉ちゃんとの会話など、この年代の子の心もようの描写が上手で、いつもすごいなと思います。佐々村さんは理解できなかったし、子どもの権利的にも批判されるべきだけれど、こういう大人はいると思うので、リアルに感じました。それから良い、悪いについても、役に立ちたいと思って相手を傷つけてしまったお姉ちゃんの話があって、それに対して羽美は、最初は自分のことばかり考えてやっていたことが、結果的に感謝されるなど、良い、悪いは見方によって変わるのだということが体験を通じて理解できました。岩瀬さんの動物へのまなざしも好きです。

アカシア:細田君は、犬のトミオのことがものすごく心配で、それが棘のように心に刺さっているんですね。それが、はさまるという行為につながっている部分もあるんだと私は思いました。羽美が黒い服を来ているのも、感受性が鋭くて、何かを棘として感じてるからじゃないかと思います。わけのわからない変わってる子を出してきてるというより、どの子にもありうることなんじゃないかな。細田君は、羽美が同じような棘を抱えていることを感じたから、ひみつの犬のことを話したんでしょうね。私は、『春のウサギ』よりこの作品のほうが、ずっと印象に強く残りました。

ヨシキリ:『春のうさぎ』には棘のようなものは書かれていないので、あまり印象に残らないのでは? ヘンクスは、子どもの本なので、そこまでは書かないと決めているのかも。

アカシア:ヘンクスには引っかかりが少ないっていうことですか。

ヨシキリ:子どもの読者には、ゴミを捨てるおばあさんや、佐々村さんのことを、「いやな人だな!」と思ってほしくないな。岩瀬さんも、そう思っているんじゃないかしら。まだ文学を読む力が育ってない子は、そういう感想になるのかもしれませんが。

西山:細田君がすきまにはさまる理由は、p75に出てきますよね。「ぼくは成長しているでしょ。(略)大きくなると入れなくなるんだよね。そして一度入れなくなったら二度と入れないの」って、子どもは子どものままでいられないという、成長とは何かを失っていくことでもあるという、深遠で切ないような真実がふいに突きつけられた気がしたところです。

ヨシキリ:「成長をたしかめる」というのは、細田くんがついたウソですね。細田くん自身も、うまく説明できないのでは? 自分の部屋や戸棚に閉じこもって、うずくまっているのではなく、真昼間に街なかではさまっている。実は私、この作品の中で一番気に入っているところです!

西山:はさまるとか、黒い服をいつも着てるなんていくところがおもしろいので、子どもはそういうところに惹かれて読めるかと思います。

アカシア:岩瀬さんは日本からのアンデルセン賞作家部門の候補ですが、翻訳が難しい作家かもしれません。余白とか行間を読み取るという部分がかなりあると思うので。

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エーデルワイス(メール参加):これまた主人公の石上羽美ちゃんの心の声がずっと聞こえる本でした。冒頭で担任の先生から注意される羽美ちゃん。p62「大人に利用される・・・・」もうこれだけ読んでいて心がめげそうになりました。5年生の羽美ちゃんは黒にこだわり、4年生の細田君は狭いところにはさまろうとする。二人とも相当のものです。飼ってはいけない家でなんとか犬と一緒にいたいと思う子どもの物語は、岩瀬さんにかかるとこのような独特な物語になるのですね。正しさを振りかざす脇山さん、綺麗好きで孤独な今井さん、時間割にこだわるお姉ちゃん、いつも疲れているお母さんなどなど大人がたくさんでて、善悪をひとくくりにできないことを伝えていますが、ちょっと教訓っぽい感じです。最後、犬のトミオと細田君が離れることなく、が幸せになれてとにかくよかった。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『春のウサギ』表紙

春のウサギ

雪割草:おもしろく読みました。「エピファニー」という言葉とその描写には、懐かしい児童文学のにおいを感じました。たとえばp72には、「一瞬」のなかに、アミーリアが自分という存在や世界との出会いを見出すさまが描かれています。それから、父の恋人のハナを通じて、アミーリアは、記憶にも残っていない母と向き合うことができます。ケイシーと恋愛もして、父を一人の人間としてみることができるようになります。オブライアンさんのような、寄り添ってくれる大人がいてよかったです。ときどき、ケイシーの発言は無神経に感じることはありました。原題は”sweeping up the heart”のところ、邦題はいいなと思いました。

ルパン:オブライエンさんは何歳なんだろう、というのが気になりました。70代のお友達をぞろぞろ連れてくるのでおばあさんなんだろうなと思って読んでいたのですが、p128に「結婚してすぐだんなさんが亡くなり、そのことがきっかけでオブライエンさんとアミーリアのお父さんとのきずなが強くなった」とあります。アミーリアのお母さんが亡くなったのはアミーリアが2歳のときで、アミーリアは今12歳か13歳。オブライエンさんの夫が「結婚してすぐ亡くなった」のが10年前ならオブライエンさんもお父さんと同年代ということになります。ところが、そうかと思うと最後のほうでアミーリアはオブライエンさんが死んでしまうことを心配している。いったい、この人は何歳でどういう人なんだろう、というのが引っかかります。それから、アミーリアは友だちから「変人」と呼ばれているけれど、どういうところがどのくらい変人なのかがわからず、ちょっとストレスでした。以上2点が気になりましたが、お話はおもしろかったです。

ネズミ:繊細なお話だなと思いました。お父さんが外に出かけるのが好きではなくて、どこにも行けない春休み。母親が亡くなってから立ち直れない父親が描かれていて、こういう父親像って日本の作品ではあまり見かけないけれど、前にこの読書会で読んだ作品にもあったので、海外では一定数あるのかなと思いました。陶芸教室の場面がよかったです。ただ、ときどきちょっとぴんとこない文章がありました。たとえば、p40からp41で、名前をつけて、どんな人物か考えて遊ぶところ。「なんて楽しいんだろう」とあるのですが、会話を読むと、そんなにおもしろいと思えなくて。状況はわかるのですが。

まめじか:子どもの頭の中で想像がどんどん広がっていき、それが現実と混ざってしまったり、茫漠とした不安やよるべなさを感じていて、これから続く人生の大きさに圧倒されていたりする感じは、よく伝わってきました。ただ、好みの作品かどうかというと、全体としてなんかぼんやりした雰囲気で、あまり印象に残らず…。

アンヌ:最後はすべてうまくいく、とてもほっとする物語だとは思うのですが、どうも私はこのお父さんが受け入れがたくて、納得がいきませんでした。「かわいそうにとみんながいう」ような家庭状況におかれていて、母が死んでから10年以上、旅行にも連れて行ってもらったことのいない小学生である主人公。そうなったのは、お父さんがずっと辛い思いをして動き出すこともできないからなんだと思っていたら、とっくに、自分自身は新しい恋をしていたという話になっていくので、あれれと思いました。オブライエンさんについても、実の祖母のように賢く主人公を愛し保護してくれているようだけれど、先ほどルパンさんがおっしゃったように、子供が欲しかったという記述から見ると、何か年齢的なずれがあるようで、ここら辺の関係も奇妙に思えて、主人公自身の物語に入り込めませんでした。

ニャニャンガ:ケヴィン・ヘンクスの読み物が大好きで、本作は翻訳された4冊目だと思います。刊行後すぐに読んだものの内容が思いだせず、今回読み直したところ、ヘンクスらしいナイーブな作品で新鮮に楽しめました。口数の少ないお父さんは存在感が薄いですが、お向かいに住むオブライエンさん、陶芸工房のルイーズさん、親が離婚間近のケイシーたちの、包み込まれるような愛に囲まれているアミーリアは幸せだと思いました。それでも、2歳で母親を失ったことはアミーリアにとっては欠けたピースのようにいつまでも埋まらない穴であり、埋めたいのだなと感じます。ケイシーの突飛な発想には少しハラハラしましたが、ふたりの距離が縮まり恋に発展するようすをほほえましく読みました。エピファニーと名付けた人が父親の交際相手でハナだったことは偶然の幸運といえるし、ちょっと出来過ぎとも思いました。読み始めではオブライエンさんの年齢がわからず、もしかして父親のことが好きなのかもと想像しましたが、詩のサークル仲間が70代ということからそれはないとわかりました。それでもアミーリアに無償の愛をささげ続けてきたオブライエンさんが、父親の再婚を機に疎遠になったとしたら、少しかわいそうな気もします。

アカシア:出てすぐに読んだのですが、タイトルのせいもあってか、どんな話だかぱっと思い出せませんでした。どんなウサギの話だったけと思ったりして。で、もう一度読んだのですが、いつもの原田さん訳の作品と違って、すっと入ってこないもどかしさがありました。もしかしたら、それは共訳のせいかもしれないですね。若い翻訳者を育てるという意味では共訳も必要なのかもしれませんが、私はもっとなんというか言霊みたいなものがあると思っていて、その作品のエッセンスをどうとらえるかは人によって微妙に違っているので、ばらばらの言霊が聞こえてきてしまうのかもしれません。子どもの言語感覚が分かる人に下訳をしてもらうという人もいますが、共訳の場合たいていは波長の違うちぐはぐなうねりを感じて、とまどいます。p66に「わたし、名字なしで名前だけの人が好き」とありますが、そういう人はめったにいないので、「名前だけのほうが好き」くらいでしょうかね。それと、冒頭で、オブライエンさんがアミーリアのことをしょっちゅう「かわいそうに」と言う、とありますが、本文では言ってないみたいだし、それですますような人にも思えないので、ちょっとひっかかりました。まあ、私が「かわいそう」って上から目線だと思っていて好きではないからかもしれませんが。でも、アミーリアの心情に沿って読めるところはたくさんあって、たとえば父親からこれまで声に出してほめられたことのなかったアミーリアが、ハナも呼んでの食事のとき、二人からほめられてうれしくなったり、そのあと自分の意見が否定されたと思って怒る気持ちなどは、寄り添って読めますね。

ヒダマリ: うーん、読んでいるときは先が気になるし、読後感もさわやかなのですが、あまり残らない作品でした。実は、1年半前に1度読んでいるんだけれど、今回、内容をすっかり忘れてしまっていました。印象が弱い理由を考えて、2つあるのではないかと思いました。1つは、主人公が恵まれていること。2歳のときにお母さんが亡くなって、お父さんは理解がない、ということが冒頭で強調されていますが、オブライエンさんは、おそらく実の母以上に優しく、常に理解してくれるし、途中から現れる父の交際相手のハナ・バーンズさんも理想的ないい人です。友人のケイシーは、元気づけてくれて、工房の先生も優しいんですよね。もう1つの理由は、主人公が常に受け身であること。内向きな性格でさびしい思いをしている、というのはわかるんですけど、自分から行動せず、常に与えられるものによって、少しずつ変わっています。特に気になったのは、ハナ・バーンズとの件が佳境にあるとき、一度たりともケイシーのことを思い出さないんですよね。この子の視野の狭さが浮き彫りになっているストーリーならいいのですが、頑張ってるいい子として描かれているので…物足りなさを感じました。

花散里:2021年に刊行されたときに最初に読みました。その時、評価が高い本だったと記憶していますが、今回、タイトルを聞いたときに物語がすぐに思い出せませんでした。読み直して、1章「かわいそうなわたし」から、お母さんが亡くなっていることなどを思い出しました。お父さんが前半ではオブライエンさん任せきりで、子育てに関心がないように描かれていますが、p165、後ろから5行目の文章「あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いていたこと。(中略)すぐに泣いてしまうから」が印象的でした。お父さんがうまく愛情表現できないのを、上手にオブライエンさんがカバーしてくれているということが全般的に良く伝わってきて、お父さんにとってもオブライエンさんが欠かせない存在であることも良く描かれていると思いました。アミーリア自身、友だちの作り方がうまくいっていないなかでケイシーと出会ったことなどが、子どもたちにも好感を持って読まれるのではないかと感じました。『春のウサギ』、このタイトルと表紙がそぐわないように感じました。子どもたちが読んでみようかなと本を手にするとき、タイトル、そして表紙の画は大事だと思います。どうして「春のウサギ」なのかなと。この物語を子どもたちに手渡すときの印象からすると、違ったほうが良かったのではないかと思っています。

西山:今回、岩瀬さんの作品と抱き合わせにして続けて読んだせいもあるでしょうが、すごく岩瀬成子的と思いながら読みました。大きな事件が起きるわけではなくて、筋は忘れてしまう気がしますが,読み返したら随所がおもしろくて、何度でも味わえそうです。人間観がやわらかくて好き。子どもの身体性を伴った、包まれている安心感というのが描かれていて、その温かさを新鮮に感じました。『春のウサギ』というタイトルは、全体を覆う温かなものに包まれた安心感にあっているのかもしれません。私も、最初はオブライエンさんと「教授」の関係が気になっていましたが、「教授」との恋愛感情があるとかないとか、そうじゃないんだなと思うに至りました。愛し合う男女がペアになって子どもを育てるという定型ではなく、お向かいのおばさんがこんなにアミーリアを無条件に受け止めてくれる、こういうあり方は新鮮でした。「教授」の不器用さはひどいとも思いましたが、p175の6行目ではっきり自覚されているように、アミーリア自身お父さんに似ています。おもしろい人間像を見せてもらったという感じです。「教授」の「あの子がおまえと遊ばなくなって、よかったと思っている。意地の悪い子だと思ってたんだ」(p177)というひとことなど、普通言うかそんなこと、とびっくりしましたが、そういう、馴染んだ人間観をこえてくるところがおもしろかったですね。

ヨシキリ:主人公の心の動きを繊細に描いた、温かくて、感じのいい物語だと思いました。ふと見かけただけ女の人を、実のお母さんであってほしいと思うアミーリアの心情は、両親が離婚寸前というケイシーに影響を受けているんでしょうね。お父さんはアミーリアを虐待しているわけではなく、鬱状態にあるだけだと思います。不器用な人なんですね。また、オブライエンさんも、アミーリアたちに無償で尽くしているのではなく、きちんとした雇用関係に基づいて働いていて、そのうえで春のようにアミーリアを包みこむ愛情は本物だと思いました。タイトルも表紙も、私は好きですね。こういう名前のカフェがあったら、入っちゃうかも。後漢の歴史家がのこした「養之如春(これを養うこと春の如し)」という言葉を思いだしました。春のように子どもをふんわりと見守るというのと、ウサギのように一歩前へ跳びだすという意味を兼ねているような感じがして…。原書のタイトルに使われているエミリー・ディキンスンの詩は、物語の結末とは違うような気がして、なかなかトリッキーなタイトルだと思いますので、そのまま訳しても読者に届くかどうか。まあ、私は子どものときに読んだ本でわからないことがあっても、大人になって「ああ、そうだったのか?」と思うことがよくあり、それはそれで読書の楽しみのひとつだと思いますが。訳書のタイトルのつけ方は、本当に難しい!いくら子どもが手に取りやすいからといって、「謎」とか「秘密」とかいう言葉をやたらにつけるのもどうかと思いますし…。

花散里:子どもたちが本を選ぶとき、タイトルは大きいと思います。

サークルK: 4月の課題本として3月半ばから読み始めたので、イースターの季節にぴったりのタイトルと表紙の緑色やウサギの絵に手に取った時から心が和みました。様々な表情のウサギたちは、アミーリアの作る粘土のウサギのことだったのだと読み始めてわかり、あらためて眺めることになりました。作中の表現で特に心に残ったのは、登場人物たちの「ふれあい」です。p28で友達になったケイシーが「2度ほど、自分の腕をアミーリアの腕を軽くかすらせた」とかp162-3ページでは「ハナの腕がアミーリアの肩に触れたが、やわらかな感触がびっくりするくらい心地よかった。」とか、p165「知ってる?あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いてたこと」など、さびしい心持をしているアミーリアに温かい人の手が何度も差し伸べられ、実際に「手当されている」ということがよくわかります。彼女は決して放っておかれているわけではなく、皆さんの感想にもあったように実はとても恵まれているのだと思えます。p112でオブライエンさんの手が「急にあわただしく動きはじめ」、「アミーリアの髪をなで、両肩をぎゅっとつかんだかと思うと、シャツについていたごみをはらいおとし、ほほにふれた」とあります。髪にふれるという行為は、p167にはハナが「なにも言わずにポケットに手を入れ、小さな青い玉のついたヘアゴムを取り出して(中略)ベッドの上ですわりなおすと、アミーリアの髪の毛をていねいにたばね、おだんごにまとめた」という形で再現されています。大人の小説だと、官能的な愛情表現につながるような行為ですが、親しいものがこのようにして子どもの髪をなでるという表現には独特の親密さや言葉にはしにくいながらも優しさや温かさが表現されていると感じました。続く最後の行、「きつすぎず、ゆるすぎず。ちょうどいい感じに」という表現は特に素敵でした。大人がべたべたと、あるいはずかずかと子どもの心に入ろうとしているのではないことがよくわかったからです。

すあま:このタイトルだとどんな話かわからないので、ブックトークなどで紹介しないと手に取りにくいかな、と思いました。夏休みの物語は多いけれど、春休みの話はあまりないかも。日本とは学校の学期の始まりや休みが違うからかもしれません。春であり、1999年という年であることに意味がありそう。アミーリアとケイシー、一人はお母さんが亡くなっていてお父さんしかいない、もう一人は両親が離婚しそうな状態で、どちらも家族についての悩みや痛みを抱えています。そこに家族ではないけれども、支えてくれる大人がいるというのをきちんと書かれているのがとてもよかったです。家ではない居場所があり、そこでは家族ではない人が自分を見守ってくれている。物語の最後、何もかも解決したわけではないけれど、アミーリアの成長が感じられて、この先いろんなことがうまくいきそうな予感を残していたので、読後感がよかったです。

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エーデルワイス(メール参加):時代設定は1999年。確かに携帯(ガラケー)もまだまだこれからでした。主人公のアミーリアは寡黙なお父さんとあまり意思に疎通がないようだけれど面倒をみてくれるオブライエンさんいて平和な日常をおくることができています、オブライエンさんの手作りマフィン、クッキー、ケーキ、アミーリアの通う陶芸教室などゆったり感満載ですね。両親の離婚問題で悩むケイシーとカフェに行くなんて。12歳なのにオシャレです。通りかかる人に勝手に名前をつけてその物語をつくる遊びは高度。二人とも成熟していると感じました。アミーリアのお母さんは亡くなっているはずなのに、見かけた女性をお母さんかもしれないと想像を膨らませるところはいじらしいです。その女性はお父さんの恋人でしたが、この本の続編が書かれるのかもと思ったりしました。アミーリアの心の軌跡が丁寧に書かれていると思ったし、装丁と挿絵はいかにも日本らしいと思いました。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2023年03月 テーマ:他者の靴をはいてみる

 

日付 2023年3月16日
参加者 ルパン、花散里、すあま、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、まめじか、西山、サークルK、マリオカート、雪割草
テーマ 他者の靴をはいてみる

読んだ本:

(さらに…)

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『笹森くんのスカート』表紙

笹森くんのスカート

すあま:さらっと読みやすかったので、小学校高学年くらいでも読みやすいだろうと思いました。1章ずつ主人公(語り手)が変わっていく手法に新しさは感じないけど、クラスのいろんな子の視点で描いていくのは嫌いじゃないので、よかったと思います。セリフなど、今の高校生という感じはよく出ているけれど、はやりの言葉や道具は賞味期限が短いので、時がたつと古さを感じてしまうことになるから難しいですね。テーマ的にも、今読んでもらえればいいということなのかもしれないけど。ストーリーについては、笹森君がスカートをはいたことで、周りのみんなが自分に引き付けていろいろと考え、それぞれの性格の違いが直接質問したりできなかったりする行動の違いに表れていたところはおもしろかったです。最後は、笹森君がスカートをはくことにした理由がわかり、ある意味解決したように思うので、この後はどうなるのか、スカートをはくのをやめるのかな、と気になりました。この学校は校則もゆるそうなので、ある程度レベルの高い学校なのかな。物語の設定なのでこれはこれとして、制服を選べるようにするくらいなら、私服にすればいいのに、というのが私の考えです。

ハリネズミ:笹森君(ひろ)のキャラが、理想的ないい人として描かれていますね。彼は、リアルな人物というより、まわりの人の思いを映す鏡的な存在なので、あえてそういう設定にしているのかもしれません。いろんな視点から描かれているので、中高生にも多様な考えがあるということが伝わると思います。高校生男子を主人公にした作品だと、たとえば川島誠とか昭和初期の男性作家の作品とか、性を描かないとおかしいくらいのスタンスで描かれたものもたくさんあって、それは逆に多様じゃないなと思っていたので、この作品に性的な要素がほとんど登場しないのが逆に新鮮でした。

コアラ:おもしろく読みました。装丁や文字の大きさが、高校生が主人公にしては幼いと思ったし、登場人物たちの恋愛も、高校生にしては幼く感じたので、どのくらいを読者対象にしているのかな、と思いました。さわやかなイケメンがスカートをはいてきた、とか、ぽっちゃりして外見にコンプレックスを持っている女の子が面食いで告白しまくっては振られるとか、ありがちな設定だけれど、ありがちだからこそ、さらっと読めてメッセージが伝わりやすい物語になっています。読みやすい中で、ところどころに、目が引っかかる、心に引っかかる言葉が挟まっていて、たとえばp28の後ろから3行目の「敗北感」とか、p39の終わりから3行目からの「傲慢」とか、さらっとしているだけじゃない成分が入っているのはいいと思いました。制服で、女子がスラックスをはいたり、男子がスカートをはいたりするのに、特段の理由がなくてもいい、自由に選べるようにすればいいんじゃないか、というようなメッセージが書かれていて、新鮮な感じはないけれど、こういうメッセージが増えれば、固定観念に縛られずにラクになる人も増えるかもしれないと思います。それから、今回の読書会のテーマが「他者の靴をはいてみる」ですが、この本はどんぴしゃりだと思いました。

マリオカート:多視点の物語で、それぞれの登場人物の事情や個性がよくわかり楽しく読めました。特に私は、「わかるわかる」を繰り返す倉内さんというキャラクターが興味深くて注目していました。あとは、つるまない女子の西原さんが、カラオケに強引に連れていかれる場面も好きです。p76「部屋にはタンバリンやマラカスもあり、ここは鳴らして盛り上げるべきなのかもと一瞬迷ったけど。スクールバッグを人質に取られている私がすることじゃないな」という文章から、西原さんって根はやさしくてユニークな子なんだなというのが伝わってきました。最後、笹森くん自身が登場し、スカートにした理由も納得できる展開だったのですが、お父さんとお母さんが妙に物分かりがよすぎる気がしました。あと、私が注目していた倉内さんが、最後の章にまったく登場しなかったのが残念です。ところでひとつお聞きしたいことがあります。p86の最後の行で、「「カッコいー」」と、カギかっこが二重になっていますよね。これは、2人が同時に言っているという表現で、児童文庫では当たり前になってますが、いわゆる普通の児童書でも、スタンダードになってきているんでしょうか?

コアラ:たまに見かけるようになりました。

ハリネズミ:私も見たことはありますが、そっちが多くなったということはないと思います。

マリオカート:エンタメ特有の表現かと思っていましたが、だんだん広がっているのかなぁ、と。

花散里:制服のことを取り上げていて、性的マイノリティがテーマである作品かと思いました。中・高校の図書館に勤務しているので、今の高校生のことを、しっかりと描けているのだろうかと感じながら読みました。スカートをはいた笹森君に対して、章ごとに変わる主人公が、どのように考えているのかという構成はおもしろいとは思いましたが、それぞれの登場人物を描き切れていないように感じました。p83「母親が二人いるの」というところなど、もっと踏み込んで書いてほしかったと思いました。登場人物は高校生ですが、グレードは中学生くらいからでも読めるような軽い感じがしました。

サークルK:『ロンドン・アイの謎』(シヴォーン・ダウド著 東京創元社)を先に読んで盛り上がってしまって、特別な感想が持てない状況になってしまいました。軽く読めるけれど,言葉の使い方が今風すぎてついていけないな、中高生とは話ができなくなっているかも、とあきらめにも似た気分になりました。笹森君はかっこいいし、中学生だったらおもしろく読んでしまうのかもしれませんが、軽さと内容の繊細さの微妙なライン上にある作品だと思いました。繊細な内容というのは細野さんの体形にまつわる「ルッキズム」、笹森君は単純にはいてみたかった“スカート”が象徴する「セクシャリティ」のカミングアウトのことです。もう少しそれぞれの心の内をしっかりした筆致で読みたい気持ちがしたし、確実なことが言えないところが中高生らしいのかもしれないし、悩ましいところです。中高生のアイドル的な存在の人の中にも最近では自分に正直に生きる、自分の嗜好/志向を表明する人が増えてきているようなので(例えばりゅうちぇるさん、ぺこさんのカップル等)、重たくならずに多様性の問題を考えるきっかけとするには手に取りやすい本だと思います。

雪割草:読みやすかったです。ひとつのことについて、違う人物の視点で語る構成で『ワンダー』(R・J・パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)を思い出しました。同じ外見のことでも、服と身体的なこととの違いのためか、『ワンダー』に比べて内容も軽く感じましたし、スカートをはくという行動は勇気がいったと思うし、もっと深いところを知りたくはなりました。でも、他人の目を意識する日本の若者のリアルさは伝わってきました。私も小学校に入ってすぐに、絵の具セットを買うので青を選んだら、全校の女子はみんな赤で、男子はみんな青だったのでいじめられたことがありました。ジェンダーレスな制服より、私服でいいのではと思ってしまいます。

西山:地元の図書館でずっと貸し出されていて,読み返せていません。手元に本がないので、具体的に話せなくてすみません。この作品、高校生が主人公の割に、造本が幼いという指摘がありましたが、中身としては、高校生だからこその物語だなと思い、そこがもっとも印象的だった所です。これが、中学生たちだったら、「ふつうじゃない」同級生に攻撃的に干渉してしまったのではないかと思うんです。『笹森くんのスカート』の高校生たちは、やはり、中学生とは違う「おとな」であって、違いを認めなければならないという価値観を持っています。ですから、排斥などしないけれど、でも確実にかき乱されている。そこが新鮮でとてもおもしろかったです。違いが攻撃される軋轢をドラマにして、「違ってもいいんだよ」というメッセージに行くのではなくて、いろんな人がいることは当たり前の前提なのだけれど、そこでどうしてもざわざわしてしまう自分の正直な現実をまず受け止める物語は、新しい切り口だと思います。

エーデルワイス:楽しく読みました。「ぼくもわかるよ 篠原智也」の章が好きです。思い込みの強い倉内さんが責められても仕方ないところを、それでも倉内さんのことを好きだと思う篠原君はいい子だと思いました。ただスカートをはいてみたかったと淡々と言ってのける笹森くんが、本当の理由が従妹のためだということが分かり、推測していなかったので新鮮でした。最後のバンド演奏でバンド名「スカーツ」で全員スカートをはいてのステージは素敵です。「きみなら話せる 西原文乃」の章には、二人の母、母親と同姓のパートナーの話がでてきます。『君色パレット(2)いつも側にいるあの人』(岩崎書店)の中にあった、いとうみくの「にじいろ」と同じ設定ですね。私の中高は普通の公立でしたが、北国のせいか女子はスカートのみということはなくスラックスをはいても全くかまいませんでした。また昔はそれほど服を買えなかったように思います。私など高校まで服を買ってもらえず母の手作りの洋服を着ていました。そういう意味では制服は、昔は必要だったのかもしれません。

アンヌ:去年の九月くらいに一度読んだのですが、LGBTQXに触れているようで触れていないような話で、最後に「笹森君がなぜスカートをはいたのか」という種明かしもされていないなと思って、がっかりしました。でも、こうやって皆さんのお話を聞いていると、主題はそこではないのですね。今回読み直してみると一応は、いとこの真緒が制服を選ぶには強制的なカミングアウトのような状況に追い込まれると知って不登校になった。その苦悩を知るために、あえてカミングアウトと誤解されるようなスカートをはいたのだと語られていました。でも、「スカーツ」の演奏を聴きに行った真緒は、突きつけられた自分自身への疑問や学校の体制への不満から、果たして自由になれるのかな?などと、いまだに思い悩んでいます。

ルパン:おもしろく読みました。残念なのは、最後の笹森君のところがほかの子のところほどおもしろくなかったこと。「笹森君」は、それまで、みんなの目からミステリアスに描かれていたので、最後まで出てこないほうがよかったかも。まあ、ないならないで文句を言われるだろうから仕方ないですが。出すなら思いっきりドラスティックな理由でスカートはいたか、逆に「え、それだけでそこまでやっちゃうの?」という肩透かしくらいならおもしろかったかな。中途半端に優等生な理由で、おもしろくなかったです。それならいっそ冒頭に出しちゃって、「たったそれだけのことなのにまわりがめちゃくちゃふりまわされる」というほうがよかったかも。

まめじか:笹盛くんは苦しんでいるいとこを見て、スカートをはくってどんな感じなんだろうと思って、はいてみるんですね。笹森くんがスカートをはく経緯が、少し軽いのではないかという意見もありましたが、私はこの軽やかさがいいと思いました。理解してあげなきゃって思いつめると、みんなが息苦しくなってしまうので。さわやか男子の笹森くん以外の登場人物も、眼鏡を取ったら美少女とか、声が高くて人気のある女の子とか、少女漫画っぽさが少し鼻につく感じはありました。

ハリネズミ:この作品はジャンルからするとエンタメだと思んです。LGBTQとか、友人関係の問題を深く追求しているわけではない。でも、エンタメでこういう作品が出ることがおもしろいし、とってもいいなあ、と思います。他者の立場になってみるためにちょっとやってみました、っていうのも新鮮でした。マイノリティの描き方にしても、深く考えるばかりじゃなくて、さりげなく出てくる作品も必要だと思っています。たとえば、椎野直弥さんの『僕は上手にしゃべれない』(ポプラ社)は吃音の中学生が主人公で、自分の悩みや困難や、それを乗り越えていく過程を語っていきます。つまり吃音の克服をメインテーマにしてその問題と正面から取り組んでいます。一方ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原田勝訳 岩波書店)も同じ年頃の吃音の少年が主人公ですが、吃音は作品の多様な要素の中の一つにすぎません。でも、伝わるものはあるし文学としてもすぐれています。LGBTQにしても、翻訳作品だとさらっと登場する場合が多いですよね。そのほうが多様な世の中をあたりまえに感じることができるような気もします。
それから制服なんですけど、最初は私も制服をジェンダーレスにするより撤廃したほうがいいと思ってたんですけど、貧困問題の側面から考えると、そうばかりも言えないような気がしています。制服だと「あいつ1週間同じ服着てるよね」と言われたりはしない、ということもあるかと。私自身は制服は大嫌いですけど。

雪割草:通っていた高校が旧制男子中学校だったので、男子だけ制服で女子は私服でした。でも、制服がほしいというニーズもあり、今は女子の制服もできたと聞いています。

すあま:経済状況との関わりでいうと、逆に制服が高いので私服にしてほしいとの声もあり、制服のリサイクルもあるそう。制服があって同じ格好をしている方が安心とか、おしゃれな制服で学校を選ぶというのもあり、制服はなくならないのかもしれません。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『魔導師の娘』表紙

魔導師の娘

イギリスのファンタジー。「クロニクル千古の闇」シリーズは完結したかと思っていたら、10年以上たって続巻が出ました。この7巻目では、表紙の絵は酒井駒子さんですが、中のイラストは原書の絵をそのまま使っています。また6巻目までとは体裁も少し変わりました。

今から6000年くらい前の、まだすべてを人の手で作り出さなければ暮らしていけなかった時代。ひとりでこっそり出ていったレンを追ってトラクは極北へと向かいます。いつの間にか、先を行くレンのそばにはナイギンいう若者が。レンはなぜ出ていったのか? ナイギンとは何者なのか? 愛するレンとトラクを引き裂いたのは誰なのか? 謎が次から次へと生まれ、それがどう解きほぐされていくのか、ハラハラします。ウルフの活躍にも胸がおどります。

舞台となる地に著者が足を運び、綿密に文献も調査して書いているので、大自然の描写や、その中で生き延びていく当時の人々の暮らしや考え方など、物語世界がリアルで入り込めます。(冬に読むと寒くなりますので、ストーブのそばか、こたつに入って読むことをお勧めします)

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:水野哲也さん)

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『わたしにまかせて』表紙

わたしにまかせて!〜アポロ13号をすくった数学者キャサリン・ジョンソン

アメリカの絵本。非白人や女性差別が色濃く残る時代、小さい時から数をかぞえるのが大好きだったキャサリンは、数学にかかわる仕事をしたいと思い、少しずつ夢を実現していきます。

やがてNASAで数学者として働くようになり、「アポロ13号」の燃料タンクが爆発事故を起こしたときは、必死で軌道を計算し直し、宇宙飛行士たちの奇跡の生還に貢献しました。映画「ドリーム」(原題Hidden Figures)の主人公になった人でもあり、その後オバマ大統領から勲章を授けられます。映画でも表現されていたように、当時キャサリンの活躍は隠れていたのですが、今ではNASAの二つの施設にキャサリン・ジョンソンの名前がついています。女の子をエンパワーする作品です。

(編集:二宮直子さん 装丁:藤本孝明さん、藤本有香さん)

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『いつかきっと』表紙

いつか きっと

アメリカの絵本。家の前には、みんながゴミをポイポイ捨てる場所がある。なんとかしたい。でも、みんなは「やってもむだだ」とか「かわりはしないさ」とか「そのうちなんとかなる」とか言う。でも、子どもたちは少しずつそこを花や野菜が育つ畑に変えていく。絵に描かれたストーリーはそう語っていますが、それだけではない広がりがあります。

アマンダ・ゴーマンは若き詩人。シングルマザーに育てられ、子どもの頃は発話障害に悩まされたがハーバード大学で社会学を専攻し、22歳の時にはバイデン大統領の就任式で自作の詩「わたしたちの登る丘」を朗唱し、世の中を声と言葉の力で変えていこうとしています。

クリスチャン・ロビンソンは、私が大好きな『おばあちゃんとバスにのって』でコールデコット賞銀賞にかがやいた画家です。

(編集:山浦真一さん 装丁:タカハシデザイン室)

 

<紹介記事>

・2023年11月19日 朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一さん)

「あいてが大きすぎる」と、みんなはいう。でも、とっても小さいものが大きいものをうごかすことだって、あるんだよ。──アマンダ・ゴーマン

どうしようもないことだとか、やってもむだだとか、そのうちなんとかなるとか、醒めたようにつぶやく人が多いと、米国の詩人はいう。でも、悲しいし怖いし腹も立つけど「どうしていいかわからない」ことに囲まれたら、すぐにあきらめずに、みなで力を合わせ少しでも押し返そうと。絵本『いつか きっと』(さくまゆみこ訳)から

 

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『ウサギのソロモン、へんしんする』表紙

ウサギのソロモン、へんしんする

以前『くぎになったソロモン」というタイトルで、セーラー出版から出ていた絵本ですが、翻訳が小さい子ども向けにやや簡略化されているように思い、新たに訳し直しました。翻訳も装丁も、いちいち原書出版社に送って了解を得なければならず、編集の方たちが大変でした。

今回またじっくりスタイグの絵を見ることになったのですが、ウサギやネコの表情など、簡単な線でありながら、とっても味わい深いと再認識。それにしても、ウサギのお父さんは家の中でもいつもスーツにネクタイ姿なんですよ。おもしろいですね。

(編集:高尾健士さん、小島範子さん  装丁:鳥井和昌さん)

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『パッチワーク』表紙

パッチワーク

編集部で考えてくれたオビの言葉は、「すべての子どもたちへのあたたかなエール」。

小さいときに、「男だから青が似合うよね」「ダンスをするためにうまれてきたんだね」「ボール競技が得意だね」「いつも上の空じゃないか」「やさしすぎるんじゃないの」なんて言われ続けたとしても、それにとらわれなくてもいいのです。この絵本は、「みんなと同じでなくてもいいんだよ。今のまんまが続くと思わなくてもいいんだよ」と、詩的な言葉とすてきな絵で語りかけています。

きみがもっている音は、ひとつじゃない。
きみは、いろいろな音をだせる。
きみは、シンフォニーなのだ。
きみが行った場所、出会った人たち、
感じてきたこと、
それがみんな、きみの音や色になる。
きみは、ブルーでピンクで、さびしくて、うれしい。
時とともに集まったさまざまなものが
ぬいあわさって、
きみというパッチワークができていく。

と、デ・ラ・ペーニャは言い、最後は

わたしたちは、みんな美しいのだから。

という言葉で終わります。

(編集:松原あやかさん 装丁:高橋デザイン事務所)

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『ギゾギゾ!』表紙

ギゾギゾ!〜ゾンゴぬまのものがたり

ガーナで出版された絵本です。

もともとはIBBYのオナーリスト(世界の優良図書リスト)でこの絵本を知って、「世界の子どもの本展」の出版クラブでのオープニングのときにお披露目し、その後も動画で紹介したりしたら、目をとめてくださった犀の工房の方から、翻訳を頼まれました。

カメとカニとクモが主人公の、環境汚染をなんとかしようとする物語です。ウィリアムソンさんが開いたワークショップの中で出てきた子どもたちのアイデアを活かしてお話ができ、子どもたちが作ったキャラクターをもとに絵が描かれています。近くに実際にあるゾンゴ沼をなんとかきれいにしたいという子どもたちの気持ちがよくあらわれています。巻末にはワークショップの写真も載っています。

犀の工房さんは、小さい会社のようですが、一所懸命に本づくりをなさっています。

(編集:賀来治さん)

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『ティーカップ』表紙

ティーカップ

オーストラリアの絵本で、移民・難民をテーマにしています。最後の文がないところがいちばん大事なところなので、そこをちゃんと見てもらえるとうれしいです。移民・難民の人たちは自分が生まれ育った場所の文化をもって新たな天地にやってくるということが象徴的に表現されています。移民が多く多様な文化を受容してきたオーストラリアならではの絵本でもあり、今の世界が直面している問題についても語っていると思います。

IBBYのオナーリストにオーストラリアから推薦されて掲載されていた絵本で、絵がとてもいいのです。ただ原著はマットコート紙なのに、日本語版は上質紙なので、ちょっとそこがもったいなかったかな。

(編集:田村由記子さん 装丁:神波みさとさん)

『ティーカップ』本文絵

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『ロンドン・アイの謎』表紙

ロンドン・アイの謎

エーデルワイス:作者がこの作品を発表してから2か月後に47歳で亡くなっていることにショックを受けました。ミステリーの犯人捜しが苦手な私は、読んでいて謎を解き明かすことができません。作者の独特な言い回しのせいか、なかなか読み進めませんでしたが、中盤から一気に読めました。読み終えてから、あそこにここにとヒントがあったのですね、と。主人公テッドの口癖「んんん」は原文でも「nnn」なのでしょうか?出番は少ないのですが私服の女性警部、ピアース警部が素敵です。グローおばさんとサリムのニューヨーク行き飛行機のチケットを待ってもらうなんて、良心的な飛行機会社ですね。サリムのパパがインド系、サリムの親友のマーカスの母がバングラデッシュ、父がアイルランド……というように他民族そして差別も描いています。サリムの行方不明事件の顛末は、日本でしたら親が世間から非難されそうですね。

西山:おもしろく読みました。いきなりの「序文」で「真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らずこの本のなかに書かれています」しかし、謎を解くのは「一度読んだだけでは至難の業でしょう」って、なんだ、いきなり読者への挑戦状か?! と思いまして、受けて立とうじゃないのと身構えて読み始めたのですが、そのうちそれも忘れて、ただおもしろく読んでいました。あ、でも、ロンドン・アイでサリムが乗り込んだはずのカプセルから降りてきた人の数は数えて、乗り込んだのと同じ21人であることは確認しましたけれど。“症候群”のテッドの感性と考え方から生まれるユーモアや、例えば人がかっこいいかどうかとか分からないテッドは「ぼくには、どの人もその人にしか見えない」(p25)というところなど、すてきな人間観として読めて、謎解きだけで引っ張られるわけではない、細部を楽しめる読書となりました。

雪割草:おもしろくて、先が気になってどんどん読み進めることができました。序文で、「テッドが真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らず本のなかに書かれています」とあったので、細部に注意したつもりでしたが、いろいろ気が付けず、仕掛けが見事だと思いました。また、ミステリーでありながらそれだけに終始せず、サリムが母とふたり暮らしだったり、父はインド系だったり、学校でいじめにあったり、社会的な背景などいろいろ描きこんでいるのもわかりました。それから、テッドは「症候群」と自分で言っていて、あとがきにはアスペルガー症候群と書かれていますが、その率直な観察視点で描かれるのも、ミステリーやこの作品に合っていると思いました。p33でテッドとサリムが会話しているのが描かれていますが、サリムはおとなっぽいというか、ミステリアスなところがあり、それも魅力的に思いました。

サークルK:ミステリーとしても子どもの成長物語としても、本当におもしろい内容でぐいぐいと引き込まれてしまいました。これぞ本を読む喜び!という感覚で、あまりのおもしろさに続編(ダウドが亡くなってしまったので原案のみで、本書の序文を書いたロビン・スティーブンスが本編を執筆した『グッゲンハイムの謎』)も一気に読んでしまいました。テッドが自閉症スペクトラム「症候群」であるために、家族の心配りがどうしても必要でそのしわ寄せを引き受ける「きょうだい児」の姉カット、母親の姉であるグロリアの家族の問題も盛り込まれて、現代のロウワーミドルクラスにあたるような一家の状況は一筋縄ではいかないのですが、お互いに文句を言いながらも温かい家庭であることが伝わってきました。そこにいとこの行方不明事件が勃発!これはおもしろくならないわけがありません。お互いに面倒くさいなと思いながらも姉弟が協力して、ひとつひとつ可能性をつぶしながら真実に近づいていく様子がていねいに描かれていました。ダウドご本人の作品がもう読めないのが残念でたまりません、もっともっと読みたかったです!

花散里:『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)など、40代で逝去してしまったシヴォーン・ダウドの作品はとても心に残っていたので、本作も注目して読みました。2022年に読んだ本の中で、特に印象深い作品でしたが、続編の『グッゲンハイムの謎』(シヴォーン・ダウド原案 ロビン・スティーヴンス著 東京創元社)もとてもおもしろく読みました。自閉スペクトラム症のテッドが鮮やかな推理で解決していくというミステリーで読み応えがありました。

マリオカート:ロンドンにはずいぶん長いこと行っていないので、このロンドン・アイのある風景を知らず、見てみたいなーと思いました。物語の途中まで、ミステリー的にそんなに絶賛されるほどの作品かな、と思っていたのですが、終盤で一気にたたみかけてくる展開に圧倒されました。主人公のキャラクターが秀逸ですよね。“症候群”の様子が、気象をモチーフにした本人のモノローグでよく伝わってきます。彼が何か言おうとしても、大人たちは聞いてくれない場面が多々あります。前回の読書会で読んだ本には、物理的に会話できない主人公が登場していました。今回の主人公も、言葉を発することはできるけれど実質大人に届いていないわけで、少し近いものを感じました。それでもあきらめない主人公が、最後はとてもカッコよくて、読み応えがありました。著者が早く亡くなられたのがとても残念です。

コアラ:おもしろかったです。自分で推理するつもりで読んでいきました。私も、サリムがそもそもロンドン・アイのカプセルに乗らなかったんじゃないかと最初のうちは思っていました。でも途中でその説が却下されたので、あとはいろいろな可能性を考えながら読みました。サリムがどこにいるか、ということでは、父親の家に行っているんじゃないかと思っていました。最後の解き明かしは、読者が本文中に明かされた手がかりだけでは推理できないことだったので、ミステリーとして素晴らしいというほどには感じなかったのですが、やっぱり子どもが活躍するというところで、おもしろかったです。気になったところと言えば、訳文がちょっと気持ち悪いところがありました。たとえばp27の後ろから8行目などですが、ストーリーに引き込まれてからは気にならなくなりました。印象に残ったのはp33からの「夜のおしゃべり」の場面。テッドは、グロリアおばさんや姉のカットからも、変てこな存在だとみなされていますが、サリムはテッドと同じティーンエイジャーの男の子同士として話をしていて、とてもいいなと思いました。あと、テッドがよく「んんん」と言いますが、その、唸っているという、言葉になっていないけれど、ちゃんと反応しているというのが、テッドらしさを表している表現に思えて、しかも字面が「んんん」ってなんだかかわいらしくて、やさしい気持ちで読むことができました。すごくプラスになっている翻訳というか表現だと思います。

ハリネズミ:ミステリー仕立てというだけでなく、人間模様がていねいに描かれているのがすばらしいですね。ダウドがすごい作家だということがそこからもよくわかります。アスペルガー症候群(とあとがきに書いてあります)をかかえ、ひとりで電車に乗ってこともなかったテッドが、その推理力で、いとこの命を助ける活躍をします。アスペルガー的な数へのこだわりや、決まった手順へのこだわり、ウソがつけないなどの特性を活かしながら、事件を解決していくところがいいなあと思いました。テッドの意見に家族が聞く耳を持たないときに、女性刑事がちゃんと話を聞いて解決に役立てるという設定もいいですね。人種のからむいじめの問題、アスペルガーの人が抱える問題、労働者階級の子どもの教育の問題なども描かれています。教育の部分は、バングラデッシュ人の母とアイルランド人の父を持つマーカスは、スクールカーストの最底辺にいるし、兄のクリスティは警備員の仕事もまじめにはやらず、いつもお金に困っていることなどから感じました。グローおばさん(グロリア)は、最初はとんでもない人かと思ったのですが、p224からの描写にはこうあります。「マーカスがドアへ向かおうとしたとき、グロリアおばさんが立ちあがった。/『マーカス』部屋は静まり返った。マーカスは立ち止まったけれど、振り返りはしなかった。/『聞いてちょうだい、マーカス。サリムの母親として言います。あなたは何も悪くないから』この一言でイメージを逆転させているんですね。見事だと思いました。

アンヌ:私は推理小説が好きで『名探偵カッレ君』(アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)や江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズで育ってきたので、おもしろいと評判だったこの本を選んでみました。読んでみたらおもしろくて2冊目の『グッケンハイムの謎』(ロビン・スティーヴンス著 シヴォーン・ダウド原案 越前敏弥訳 東京創元社)も読んでしまったのですが、やはりこちらの方が、主人公のテッドのASDについて、特性や苦悩がていねいに書いてあると思いました。インド系のサリムやその友達が受けている差別など、今のイギリス社会の状況もしっかり描かれていると思います。推理小説としては謎が二つもあり、特に後の方は時間との戦いというスリリングな要素もあって実に見事だと思いました。また、大人たちが誰も話を聞いてくれないのに、女性の警部に電話して問題が解決されるという展開は、警察への信頼感があって、古き良きミステリーのようなほっとする感じがありました。

まめじか:よくできているミステリーだと思いました。家族の目は発達障碍のあるテッドに向きがちで、そんな中、姉のカットが感じている思い、サリムを見つけようと奮闘する中で二人の心が近づいていく過程もていねいに描かれていますね。若干気になったのは、p67「ナースは女の人の仕事だけど、ぼくは男だ。ナースにはなれない」とか、p68「よくあるのとは逆で、女の人のほうが責任者だっていうことだ」など、ジェンダーバイアスを感じさせる部分です。この本では、女性の警部がとても好意的に描かれていますし、きっと作者にそういう意図はないのでしょうが、読んでいて引っかかってしまいました。この本が書かれたのは2007年なんですよね。今の児童書だったら、こういう書き方はしないと思います。そういうところは、日本語版を出すときに訳で工夫してもよかったかもしれません。

すあま:この著者の作品は以前『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)を読んだことがあります。生前発表された作品が少ないので、翻訳されたのがうれしいです。『ボグ・チャイルド』とは違う雰囲気ですが、ミステリーとしても楽しく読みました。登場人物がそれぞれ個性的で、どんな人なのかくっきりと描かれていました。主人公のテッドは発達障碍なんですが、読んでいてそれが才能や個性だと感じられるような描き方をされていたと思います。特に、お姉さんのカットは、テッドのような弟がいる姉の気持ちがよく伝わってきて、ていねいに描かれているな、と思いました。それから、テッドが仮説を立てて一つ一つ検証していくところは、調べ学習の進め方のようでもあり、おもしろかったです。

ルパン:おもしろかったです! ただ、謎解きの点でいうと、この主人公、いつもいろんなものの数を数えていて、サリムが観覧車に乗るときもちゃんと人数を数えてるんですよ。なのに、降りたときはわざとのように数えてない。それで、降りた人の数を足してみたら21人だったから、絶対変装だ、ってわかっちゃったんですよね。だから、推理小説としては私の勝ちだな、って思っちゃいました。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2023年02月 テーマ:頭の中でおきていること

日付 2023年2月14日
参加者 小方、ハル、アオジ、ルパン、ハリネズミ、アンヌ、コアラ、オカピ、しじみ71個分、西山、さららん、サークルK、ANNE、ニャニャンガ、サンマリノ、雪割草、(エーデルワイス)
テーマ 頭の中でおきていること

読んだ本:

(さらに…)

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『たぶんみんなは知らないこと』表紙

たぶんみんなは知らないこと

アンヌ:大変感動して読みました。作者が特別支援学校の先生ということも知り、心の中で生徒の言葉をずっと聞いていて書いたのだろうと思いました。物語の中で成長していく子どもの様子が見えてくるのは感動的です。けれど、すずもらん君もそれぞれ状態が悪くなる可能性も書かれています。そんな子どもたちがフェスタで披露する劇に対する親たちの思いや、子供の成長を促してフェスタで見せようとする先生たちの活動も胸に迫りました。みのり小学校とかなで特別支援学校との交流会の後の、男の子の手紙は理想的すぎると思いましたが、水族館で携帯電話に夢中になる父親の様子とか、バスの中のおばあさんとか、ダメな大人もしっかり描けているし、さらにそれぞれを救い上げているところも素晴らしいです。少し理想郷じみたこの支援学校ですが、すずが転校することも最初から描かれています。そして、少しずつ成長しているすずだから次の場所でも頑張れるだろうなという希望と共に読み終えられるところも、素晴らしいと思いました。

さららん:福田隆浩さんの本をはじめて読みました。「わたし」の語りで始まる文章が最初は読みにくく、例えばp10~11はオノマトペのオンパレード(ばらばらばら、びりびり、どんどん、くるくる、ぐるぐる、ぶるぶる、くねくね)で、うーんと立ち止まってしまいました。でも、主人公すずちゃんの独特の感覚は、きっとそういうふうにしか伝えられないんだと割り切って読み進むうちに、だんだんおもしろくなってきました。p64の、「ぺんぎんさん」を見ている「わたし」の現実と想像の折り重なり方など、うまいなあと唸りました。すずちゃんのふわふわした語りの中で「いったいなにが起こってるんだろう?」と読者を宙ぶらりんにさせ、連絡帳や学級通信、お兄ちゃんの辛口のブログで、出来事をきちっと補っていく構成が巧みです。「かなでフェスタ」では、子どもたちの発達と興味に合わせたおはなしを先生が考えて、大勢の人の前での発表につなげ、子どもたちが一歩先に踏み出せるようにするところなど実際の指導のための手引書のようでもありましたp125にはステージ配置図までついていたので、福田さんの勤務する特別支援学校で、これに似た発表があったのでしょうか。機会があれば確認してみたいです。

ニャニャンガ:しんやゆうこさんの表紙が、ふんわりしていていいなと思いました。実際の保護帽子は、残念ながらかわいい感じがしないので配慮されたのかもしれません。小学5年のすずちゃんの心のうちを描けるのは、特別支援学校勤務の作者ならではと感じ、子どもによりそった作品を作られていた絵本作家のかがくいひろしさんを思いだしました。すずちゃんをとりまく環境はリアルですし、複数の視点で書かれることで全体が見え、考えさせられました。障碍のある子が身近にいない、まったく知らない人に読んでもらうことで距離が縮まる可能性を感じます。

ハル:おばあさんが蝶の髪飾りをくれる場面、思い出しても泣けてきます。バスの中で急に後ろから髪の毛を引っ張られたら、驚きますよね。ただ、思わずどなってしまうまではあるとして、登場人物のひとりであるおばあさんに、ここまでひどいこと言わせなくてもいいじゃない、とも思いましたが、人間、カッとなったり、心に余裕がなかったり、追い詰められたりすると、想像以上にきつい言葉を吐いてしまうものですね。野間児童文芸賞の講評を読みましたが、「登場人物が並べて理解ある人々であることに、わたしは違和感を覚えた」「善意に支えられた世界」といった意見があり、確かに、良い人ばかりで、もしかしたら現実はもっと冷たいのかもしれませんが、読者である子どもたちに、善意だけを見せたらいけないんだろうか、とも思います。特に、普通学級の子供たちとの交流で、「お世話をする」「何かしてあげる」のではなく、いつもと同じように接する、という考え方は、読者にとってもなかなか得がたい発見になったのではないかと思います。

サークルK:当事者のすず、母親、その兄、支援学級のクラスメート、担任の先生、交流先の子どもたちなどの様々な視点からの語りによって一つの光景を作っているので、それぞれの文体に読み慣れるとわかりやすかったです。すずの周囲の人がみな、“良い人”(妹を持て余して時折意地悪をしてくる兄もブログでは妹への理解を吐露しており)で、温かい気持ちで読み進められました。しかし、すずにとって近しい人であるはずの父親だけが一人称の語りには登場せず、鈴鹿らも物語からも遠い存在に感じられました。経緯は不明ですが母親と離婚が決まり、すずと2人だけで水族館に行った時に、彼女を置いて誰かからの電話に出てしまう(しかも楽しそうに!)というエピソードに、それまで築いた家庭が彼にとって重く、それらから逃避したかったのではないかという気配を感じました。
交流先の子どもたちの作文に、すずを邪険にしてしまった反省文らしきものがありました(p55)が、その中の「[すずのような仲間をお世話するという意識を持たないように]もっとがんばりたい」という一節があり、子どもにそういう心持にさせてしまう社会の息苦しさを少し感じました。起承転結の求められる良い作文、先生に褒められる作文の最後の締めの言葉として「もっとがんばります」という言葉はとても都合の良い言葉と思えます。それだけに、p98~99の「…そんなことより早く家に帰ろうと思った。だからおれは妹と手をつなぎ、ゆっくりと歩いた。」という兄の言葉はとても意義深く読みました。矛盾する言葉が並んでいるように思われますが、本当に人に寄り添うということの難しさと行動はシンプルでよいのだという安心感が伝わりました。

雪割草:私もすずの擬態語の多用が気になって、最後の方になってやっと慣れる感じでした。でも、作者が特別支援学校の先生だけあって、連絡帳のやりとりや、かなでフェスタなどから学校の様子がよくわかりました。この作品は、どんな読者に向けて書いているのだろうかと正直わからなかったのですが、お兄ちゃんの視点が、読者が共感しやすいところなのかなと思いました。お兄ちゃんはブログを書いていて、p27では、もっと妹はひとりでできるはずなのにと愚痴っているけれど、p151では歩いているように見えるけれど、妹にとっては走っているのが兄だからわかると自信をもって言っているところなど、妹に対し反発しながらも、ちゃんと大事に思っているきょうだいの距離感をうまく描いていると思いました。中学の頃に読んでとても心に残っている『ぼくのお姉さん』(丘修三作 偕成社)のことをふと思い出しました。

ANNE:学級だよりの文面や、連絡帳の書き方など、現役の学校の先生ならではの世界観が随所に感じられました。主人公のすずちゃんの一人語りで淡々と描かれていますが、転倒用のヘッドギアを装着しているとか、オムツをしているなど、彼女の障碍がとても重いものだということが読み取れました。私の勤務している公共図書館にも、さまざまな障碍を持った方が来館されます。皆さん、それぞれお好きな本も違うし図書館での過ごし方もいろいろですが、自由にこの空間や時間を楽しんでいてくれると嬉しいなぁ。

しじみ71個分:読書量が少ないせいではありますが、自分が読んだ日本の子どもの本では、障碍のある子の一人称語りの物語を読んだことはなかったんで、すごい!と思って、大きなショックを受けたというか、感動しました。実際、福田さんは特別支援学校の先生だとのことで、そうでなければここまでは描けないのではないでしょうか。表現も見事、本当にうまいなと思うところが随所にありました。たとえば、p6に「でもこの帽子はとくべつの帽子。ふつうのお店とかにはきっと売ってない。病院の先生が頭のあちこちをなんどもはかって、……かぶってると、どんとぶつかってもごろんとひっくりかえっても、だいじょうぶなんだって」とこの部分だけで、すずちゃんにてんかんがあるらしいことがわかりますし、子どもの読者も転んだり倒れたりする子なんだと伝わるのではないでしょうか。また、おしゃべりができない、おむつをしているなどの描写から、かなり重度の障碍がある子どもなんですね。
本当に先生として細かく子どもたちを観察して、こういうときにいやと言うんだな、こういう勉強をいやだと思っているんだな、と反応をひとつひとつ見て記憶しているからこそ、その時々のすずちゃんの思いを代弁できるんだなぁと、ただ感心してしまいました。また、子どもの一人称語りの物語だと、その中に大人の気持ちを描きにくいように思うのですが、それを連絡帳やおたよりといった形にすることで、大人の気持ち、周囲の状況などをうまく説明して、不自然さがありません。これもすごくうまいし、とてもいいと思いました。
以前読んだ『家族セッション』(辻みゆき著 講談社)では、主人公のお母さんの一人称の語りをはさむことで、赤ちゃんの取り換え事件や病院の立場などを説明してしまったため、とても違和感がありました。それと比較すると、非常に自然に大人たちが子どもたちを思う気持ちが表されていると感じました。ランちゃんやリュウちゃんについても、どんな症名でどんな障碍で、ということを説明しなくても、行動からどんな障碍があるのか、どんな気持ちなのかが読み取れ、障碍のある子の気持ちをうまく描いていて本当に感動的です。バスの中で髪を引っ張られて、つい意地悪なことを言ってしまうおばあさんも再登場させて、すずちゃんを救う場面を設けることで、おそらく彼女自身の老いの辛さや孤独から、お兄ちゃんとすずちゃんに意地悪を言ってしまった、彼女自身も傷ついた存在だったんだと読者に想像させるのも優しいなぁと思いました。
ただ一点、惜しいのは、みのり小学校の5年生の男の子の反省文です。ちょっとあまりにも正しい、前向きなことばかり書かれていて、子どもの反省文らしさが欠けてしまったところが残念でした。作者が言いたいことを登場人物に書かせてしまったのかなと思います。ですが、この交流会の最後の場面で、ミヤ先生が「みんなはもっとソーゾーリョクを持ちましょうね」(p53)と話すところは素晴らしくて、先生が具体的に語った内容は少しも書かれていないけれど、想像力を持つってどういうこと?と考えさせる問題提起になっていると思います。障碍のある人たちばかりではなく、ありとあらゆる困難を抱える人たちと共に生きるには「想像力」を持って相手を思うことが必要なんだと端的に伝えてくれていると思います。すずちゃんの両親が離婚しているという設定も、実際に当事者の人たちや支援している人たちから話を聞いたところ、障碍のある子どものいる世帯では本当に離婚率が高いそうで、しかもかなり重度の場合も多いとのこと。こういった実情もおそらく現場の先生として見てこられたんだろうと、本当にリアルだなと思いました。

ルパン:私もこのお兄ちゃんがいいなと思いました。現実には障碍を抱えた子のきょうだいには重い課題があるのだと思いますし、「いい子すぎる」という意見もあるかと思いますが、同じ境遇の子が励まされ、そうでない子に少しでも理解が深まったらいいなと思います。それにp98に「すぐに根にもつうちの妹のことだから」とあるように、ちゃんとすずちゃんの性格というか、個性をちゃんとつかんでいて、こういうところは兄ならではだなと思います。ずっと以前ですが、NHKで、実際に脳性麻痺の子どもたちが演じるドラマがあって、アフレコでその子たちの気もちが語られるんですけど、それを見て、見かけだけで判断してはいけないことがよくわかりました。話せなくても、動けなくても、知能や感情はハンデのない人と同じだけあるということをそのとき初めて知りました。この本もそのような手がかりとなるといいなと思います。

サンマリノ:主人公の一人称のほか、家族、担任などいろんな視点から語られているので、物語を理解しやすかったです。特別支援学校勤務という著者のプロフィールから、実際にたくさんの経験をされているのだろうなと、説得力を感じました。でも逆に、だからこそ書きづらいこともあるのでは、と思います。交流する小学校の子たちが、よだれに対して嫌がる反応をするけれど、すぐに反省しますよね。その感じが、ちょっといい子過ぎる気がしたのです。が、教育の現場にいる人として、子どもを「悪意のある存在」としては描きづらいのではないかな、と思いました。あとは、ラストの部分がちょっと残念です。こういう子は、環境が変わって適応するのがすごく大変な気がするので、引っ越すところで終わっているのが消化不良でした。物語の2/3あたりで引っ越して、その先を見せてほしかったなと思います。

コアラ:優しい物語だと思いました。すずの目で捉えた世界と、それを補う大人やお兄ちゃんの文章のバランスがとてもよかったです。p105あたりから、かなでフェスタで行う劇について、リュウちゃんやすずが好きなものを登場させる『セッケンくんのぼうけん』を新しく作ったというところは、先生たちはすばらしいなと思いました。嫌なことを言われたおばあさんとも、最後に仲良くなれたし、みんないい人で、がんばりすぎず、できる範囲でやっている、というところも、優しい、癒しのある物語でした。障碍のある子どものことを、何をしでかすかわからない、とか、何を考えているかわからない、と関わりを避けるのではなく、こういうことを考えているのかも、と内面を想像してみる、という意味では、いい本だと思います。仕事で教育関係の雑誌に携わっているので、インクルーシブ教育システムというのはよく目にします。障碍のない子どもたちと特別支援学校の子どもたちが交流することは増えていくと思うので、子どもたちがこの本を読んで、相手のことを想像するといいなと思います。ただ、一人称で、すずに感情移入できるように書いてあるからこそ、私は、障碍のある人が本当にこんな風に考えているかわからないな、と用心してしまいます。科学や技術が進歩して、コミュニケーションが取りづらい人が何を考えてどういう感情を持っているか、直接知ることができるようになればいいなと、この本を読んで改めて思いました。

ハリネズミ:言葉が出せない子どもがどんなことを感じ、どんなことを考えているのかを書くのはとても難しいと思うのですが、この本は、いつもそういう子どもたちを間近に見ている人が一人称で代弁し、それに加え、親や教員からの連絡帳、お兄ちゃんのブログ、学級通信などを用いて立体的に表現しているので、状況がよくわかり、すずの気持ちも伝わってきます。この作家は、たくさん作品を書いておいでですが、障碍を持った子どもを主人公にしているのは、これだけでしょうか? そうだとすると、職業柄接しているだけでは書けない難しいテーマなのでしょうし、ずっと考えておられて作品にしたのかもしれませんね。
このお兄ちゃんにはすばらしいという声が多く出ていましたが、お兄ちゃんはp97でまず「役に立たなかったらだめなんだろうかって。生きていく意味がないのだろうかって」と自問します。ここで私は相模原の事件を思い出し、作者はあの犯人に反論したい気持ちも強かったのだろうなと思いました。でも、その後すぐに、p98で「妹が将来、人の役に立とうが立つまいがそんなことは関係ない。/妹がこれから、たくさんの人の世話になっていくかなんてそんなことも関係ない。/妹がこうやって、同じ世界に生きていることが自分にとっては大事なことなんだ。雨音をこわがったり、雨粒を手にうけて喜んだり、ときどき大声をあげたり、窓をたたいたり、空を見上げたり、首をかしげたり、息をすいこんだり、そんなことすべてがおれにとってはとても大事で大切なことなんだ」と思うのですが、ここは読者に考える暇をあたえず、やや性急に結論を出してしまっている気がして、ちょっと残念でした。その思いに至るまでのさまざまな葛藤は、丘修三さんの作品のほうがていねいに描いているかもしれません。この作品だと、読者もそうだな、と思うことはあっても、自分の体験として深く考えてみる機会は持てないかもしれません。書名は作品全体にかかっているのでしょうが、2度目に読んだときは、最後にすずが、誰にも知られずに「ばい、ばい」と言えるようになった部分が強く浮かび上がってきました。

西山:すっごくよかったです。すずたちの外から見た様子(たとえば耳を覆ったり、急に声をあげたり)に、こういう理由があるのかと教えてくれたのは、まさに物語の力だと思いました。発話に困難がある子どもを主人公にした作品としては、灰谷健次郎の『だれもしらない』(長谷川集平絵 あかね書房)を思い出しますが、今回、初めてそういう障碍を抱えた子どもに出逢った気がしました。『だれもしらない』は短い作品ですから、一概に比較はできないと思いますが、読み直して違いを考えてみたいと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』というタイトル自体『だれもしらない』を意識しているようにも見えますね。
それはともかく、この作品の多声的なところがとても良かったです。すず、兄、お母さん、離婚したお父さん、学校(先生)、そして、保護者同士のやりとりもあり、バスでトラブルになったおばあさんという同じコミュニティに住む他人をちゃんと登場させている。世界の膨らみがそこから生まれていたように思います。「子どもの権利」をテーマにイベントを企画していて勉強中なのですが、子どもにとって最善のことをするのが基本だけれど、「子どもにとって最善のこと」とは何か、それは子どもに聞かなければ分からないんですね。おとなの思惑を押しつけることではない。でも、自ら意見表明できる子ばかりではない。赤ちゃんの声も、すずのような子どもの声にも耳を傾けなくてはならない。そういうとき、こういう作品の意義が大きいのだなとしみじみ思いました。
気になったのは、好きな色とか、この子に選ばせていないことです。ヘッドギアの色について、すずは車の色とおそろいの赤で結局良かったと思っていますが、青が好きとも書いてあるんですね。父親とのお出かけの場面でのパンケーキも、すずが好きな方が用意されるわけだけれど。彼女が言葉で答えられないとしても、結局それを選ぶとしても「どっちがいい?」と問うステップが書かれたらよかったのにと思います。あと、作者が現場にいる方だから問題ないのでしょうけれど、劇でねずみたちがわっと出てくるサプライズ演出や照明がぴかぴかするのは、パニックを起こさないか、ちょっとヒヤヒヤしました。あと、らんちゃんの進行する病状は、丘修三さんの『ぼくのじんせい シゲルの場合』(ポプラ社)を思い出します。未読の方は、ぜひお読みください。長くなってごめんなさい。

オカピ:まわりの人が向ける思いが、その人を唯一無二の存在にするという、作者の姿勢を感じられたのはよかったです。ただ、障碍のある子もない子も、みんなががんばったり、一生懸命理解しあおうとしたりしている感じが、なんか教師目線の描写というか……。グスティという絵本作家は、「ぼくたちは天使じゃない」(未訳)という作品を描いていて、そこではダウン症のある子たちも決して天使などではなく、同じ子どもなんだという姿勢をはっきり打ち出しています。この本にはなんだか、大人が望む健気な子ども像を感じてしまいました。またペンギン王子と出会ってハッピーエンドという劇のお話は、今のジェンダーの視点からは問題があるのでは?

小方:帯に「おしゃべりができない」、カバー見返しに「みんなには聞こえないけど、大きな声をあげた」と書かれているにも関わらず、読み始めた最初のほうで、「クジラ号って呼んでいる」とか、本当に声で表現できているのかなと思ってしまいながら、読み進めていました。表紙の絵も、そうと感じられないけれど、たしかに帯に「重度の知的障がいのある小の女の子」とありましたね。すずちゃんの心の中で、こんな風にすずちゃんは言っているよ、という作者の虚構の世界なのだということに、皆さんのお話を聞いていて改めて気づきました。なので、すずちゃんに赤のヘルメットをつけてあげるのも、ペンギンのピンクの手袋を用意したのも、まわりがその子のことを特別に考えている「思い」なのですね。
先生を良く描く児童書が少ないのは残念です。でもこの先生たちはすごい。すずちゃんたちが成長を表現できるように、とことん考え直します。この結果として3人がかけがえのない成長を表現することができたのはとてもうれしかったです。ひとつ、お父さんが発表会の最後のシーンで、すずちゃんのことをずっと「あの子」と呼ぶのを、なんでかな?と思いました。普通なら、「すず、がんばったなあ」とか言うんじゃないかなと。

ルパン:遠くから見ているからじゃないかな。客席から舞台を見ているので。この距離だと自分でも言うかな、と思うので、違和感はありませんでした。

ハリネズミ:障碍を持っている子どもは、障害の種類によっても違い、また同じ障害でも個々に違って様々だと思うので、この作品を読めば知的障害についてわかるとか、こっちを読めば自閉症についてわかる、ということではないように思います。だからもっといろいろな作品がこれからも書かれるといいですよね。

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エーデルワイス(メール参加):特別支援学校勤務の作者ならではの内容でした。主人公のすずちゃん、すずちゃんのママ、すずちゃんのお兄ちゃんの目線。学校での様子。どれも説明し過ぎずに内容が素直に伝わってきました。すずちゃんや、同級生の嵐くんの身体的ことには胸が痛みました。すずちゃんのママの、医学は日々進歩しているから希望を持ちたいとの件はその通りと思いました。バスの中でいじわるしたおばあさんが、一人で外へ出かけて家に戻ることができなくなったすずちゃんを助けてくれます。あの時は悪かったね、と。説明はこれといってありませんが、おばあさんの境遇が分かるような気がします。タイトルですが、大抵の人が特別支援学校に通う子どもとたちについて知らないのだと思いました。何度か特別支援が学校へおはなし会に伺ったことがあります。コロナ禍になり事前の打ち合わせ訪問はできませんが、電話で先生と打ち合わせをして、一人一人の子どもたちの好みや様子を伺います。年齢問わず楽しめる内容を心がけています。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『チェスターとガス』表紙

チェスターとガス

小方:主人公が自分の気持ちを表現できない。そういう状況の物語をどんな風に描くんだろうと思って読みました。自閉症だったり、障碍があったりする子が身近にいる作者だから描けるのでしょうね。この物語は、チェスターの視点から語られます。なんとこの犬はテレパシーのようにガスなどと気持ちを伝えることができるという、おもしろい発想ですが違和感がなく読めました。むしろ夜外に出て、吠え声を返してくる犬より、人間を仲間に感じているところがおもしろいです。アメリカを発見したのはコロンブスではない、というような流れから、犬なんですが人間みたいな存在に読者が感じられるようにしているのがうまいですね。チェスターはガスを描く語り役ですが、チェスターもまた、いくら吠えても気持ちを交わすことができないという悲しみを抱えた存在です。チェスターもガスも、ボキャブラリーはあっても伝えられないというくだりがとても悲しいと感じました。

ハル:随所、随所で、泣けて泣けて仕方なかったです。ひとくくりに自閉症といっても、ひとそれぞれ違いがありますよね。『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール出版部)の著者の東田直樹さんは、著書の中で、壊れたロボットの操縦席にいるような感じなのだとおっしゃっていました。この物語の中でさえ、ガスの心の本当のところまではわかりませんが、障碍のあるなしにも関係なく、誰と接するときにも、思い込みを捨てて、想像力を持つことは大事だと改めて思いました。ラストの手前でペニーが、まるでアメリカのアニメ映画にありそうな雰囲気で、にわかに暗黒面に落ちたような雰囲気になったときは、ああ、こういう展開はいやだなぁと思いましたが、ペニーの気持ちにも寄り添えるようなラストでよかったです。子どもたちにもぜひ読んでほしい1冊でした。

アオジ:ガスに心のうちを語らせるのではなく、犬のチェスターから見た(感じた)ガスの姿を描いている点がユニークなんでしょうね。犬が語るという物語は、ほかにもたくさんありますが。私は、アメリカの学校の現場を目に見えるように描いているところが、いちばんおもしろかったし、勉強にもなりました。作品のために取材したのではなく、自閉症の子どもの親である作者の体験がもとになっているので、痛いほどよくわかりました。
ただ、ガスの両親をはじめ、登場人物がどちらかといえばシンプルに書かれているのに、ペニーさんだけが複雑。読みはじめたときに、言葉遣いが乱暴で、どういう人となのかなと思いましたが、ハルさんがおっしゃるように後半にいくにつれて「悪者感」が増してきて、この本の対象年齢の子どもには理解しがたいのかなと思うし、裏切られたような感じがするかも。また、後半でペニーさんの母親が、知っているはずもない「ガス」という名前を口にする場面は、いくらなんでもやりすぎかな
あと、犬が人間の役に立ちたいと思っているのは本当だし、チェスターのひたむきさには拍手をおくりたいけど、「断然イヌ派」の人間としては、もっと犬の体温を感じさせるような書き方はできなかったのかなと思いました。ひたすらガスの役に立ちたいと思っているチェスターの姿が、だんだん生きている犬ではなくアイボに思えてきて……。

ハリネズミ:私もおもしろく読んだのですが、引っかかったのは、ペニーの人物設定でした。言葉遣いがほかの人とは違うので、そこで特殊性を出そうとしているのかもしれませんが、普通に社会で仕事をして生活していながら、平気で人を騙そうとします。最初からそれを匂わせる書き方、訳し方をされているならともかく、ちょっと日本の子どもには人物像が伝わりにくいかと思いました。それと、犬のありようが、リアリティとはかなり離れていて、どこまでリアルな存在としてとらえればいいか戸惑いました。人間の心理を読むことはできても、人間と同じような思考はしないと思うので。犬と人間の結びつきを書いた本はいろいろありますが、この本はファンタジーとリアリティの境目がよくわからず、自然を超えたスーパードッグというふうに私は読みました。そうすると、今度はガスのほうのリアリティもどうなのだろうと思えてくるので、設定にもうひと工夫あるとよかったかな。

アンヌ:表紙がさみしいような水色の背景に、窓の外の鳥を見ているガスとその足元のチェスターの姿で、読後にこの絵の意味が分かる仕組みもあるのがいいなと思いました。ガスの状態を理解するまでとても時間がかかってしまい、今でも、てんかんの症状だと言葉が出てくるというのがよくわからないままです。この物語で印象に残ったのは、サラがガスには学校で教育を受ける権利があって学校側はそれに対応しなくてはならないと言うところです。どの子供にも人権があるのだという主張を感じます。ペニーについては、犬の訓練士のプロなのかどうか、よくわからない感じで、少し捉えどころがないですね。チェスターがペニーのママとテレパシーで通じ合うところや、ガスともテレパシーが働いてしまうところは、ちょっとファンタジーだと思いましたが、移民のマンマが言葉以外の方法で、身振りや感じでガスを理解するように、たぶん言語だけがこの世界の生き物のコミュニュケーションの全てではないのかもしれないとも思いました。

コアラ:とてもよかったです。ガスが少しずつ変化していくのが、チェスターの目を通して語られます。人間だったらもっと直接的なコミュニケーションになりそうなところですが、犬と人間だからこその寄り添い方、心の通わせ方が描かれていて、心温まる物語でした。食堂のマンマもよかったし、チェスターを介したアメリアとのコミュニケーションの場面、ガスの変化がとてもよかったです。p135の5行目から、初めてアメリアに手をのばすところ、それから、p257の最終行から、チェスターのベストの「仕事中です、さわらないで」という文字をかくして、いつでもさわっていいよと伝えようとしたところ。両方とも、アメリアと目を合わせなかったというところがとてもリアルで、目を合わせないけれども、手が内面を伝えている、というところが感動的でした。p215では、ガスが疲れたせいで言葉が出てくる、というように書かれていて、実際にそうであればいいのに、と思いネットで少し調べたのですが、現実はそんなに簡単に言葉が出るわけではないようです。それでも、著者あとがきを読むと、ストーリーのきっかけは全くのフィクションではないようだし、希望の持てる物語でした。自閉症でなくても、人との関わりに疲れた、というときでも心を癒してくれるような本だと思いました。ただ、p244の3行目あたり、犬の言葉をペニーのお母さんが聞き取ったというような場面は、ちょっとやりすぎかなと感じました。

しじみ71個分:優しくて、愛にあふれた物語でした。読み終わってほわほわとあったかい気持ちになりました。人と犬との関わりの深さや信頼がよく表現されていると思います。自閉症のガスがチェスターと出会って、少しずつ周囲とコミュニケーションができるようになっていくのと同時に、補助犬の試験に落第したチェスターはある意味、落ちこぼれともいえると思うのですが、ガスと出会って、ガスのパートナーになると決意して、仕事をがんばり、てんかん発作を起こしたガスの危機を救い、ガスのパートナーとして自信をつけ、家族としてなくてはならない存在になっていきます。そういう意味ではチェスターの成長物語でもありますね。すごく気持ちのいい物語でした。テレパシーでガスと会話できてしまうのは、確かにちょっと便利すぎかなとも思いますが、「こうだったらいいな」という気持ちで、作者が書いたんじゃないかなと思います。ただ、ちょっと、p132で、ガスのクラスメートのアメリアの名前が、誤植で「アメリカ」になっていたのは残念でした。あと、もう一か所、p133の6~7行目に「そのうちガスは口はしをつりあげた。僕の知るかぎり、ガスはこの顔をママにしか向けたことがない。笑顔だ」とありますが、ここは「ママ」ではなくて「マンマ」じゃないかと思ったのですが、どうでしょう? ガスが笑顔を人に対して見せるという記述は、p96の、ガスがマンマと笑顔でしゃべりあっているという箇所以外、見つけられなかったような気がするのですが……。

オカピ:チェスターもガスも感覚が過敏で、また自分の中にうずまく感情を他者に伝えられません。そんなチェスターとガスが、相通じるものを感じて心を通わせていくのはわかるのですが、p61でガスの声がチェスターに聞こえるのは、少し唐突に感じました。また、お祈りのポーズをするように、チェスターがガスに伝えたり、会ったばかりなのに、ペニーのお母さんと意思疎通できたりするのはなんだかテレパシーのようで、リアリティが感じられませんでした。人とうまく関係を築けないペニーにも、なんらかの特性があるようですね。もう少し魅力的な人物として描かれていたら、感情移入しやすかったような……。母犬が子犬といるのがつまらなそうだったというのは、ドライな親子関係でおもしろいなと思いました。

西山:たいへんおもしろく読みました。犬のチェスターを通して、ガスの「頭の中」が伝わらないもどかしさを追体験した感じです。食堂のマンマとの交流など、周りのおとながちゃんと見ていない。いつもスマホばかり見ているクーパー先生なんて、ちょっとダメすぎて本当にもどかしく思いました。ガスが怪我をさせられた件も連絡帳に書いただけだったり、ちょっとそのへんは非現実的ではないかと思います。チェスターの能力に関しては、非現実的だとひっかかってしまうことはなかったのですが。ペニーもなにか困難を抱えているらしいけれど、あまり伝わってこなくて共感しづらかったのは皆さんと同じです。

さららん:チェスターはガスの感情の変化や、てんかんの発作の匂い(「ガスの体から薬品みたいなにおいがしている。ガスがもえてしそうなにおい。」p212)まで察知します。以前読んだことのある『おいで、アラスカ!』(アンナ・ウォルツ作 野坂悦子訳 フレーベル館)のアラスカもてんかん犬の資質を持っていましたが、そちらは二人の人間の視点から交互に語られ、犬の内面は描かれなかったので、犬の感覚描写が私にはおもしろく感じられました。チェスターは弱点のせいで正式な補助犬にはなれなかったけれど、ほかの人には聞こえないガスの心の声が聞こえるようになります。障碍のあるガスはもちろんですが、学校で働く移民のマンマ、認知症のペニーのお母さんに至るまで、弱い立場のものたちへの愛情と、その可能性を信じる作者の目に揺るぎないものを感じました。p220で再登場するペニーがらみの意外な展開をのぞくと、ストーリーに起伏が少ないように感じられましたが、言葉数の少ないガスの変化や成長を、チェスターが読み取ることで読者に伝わるこの物語を子どもたちが読むとき、障碍のある友だちの心を想像する良いきっかけになりそうです。とはいえ、犬の一人称で書きとおすには、相当の苦労が必要だったと思います。

サークルK:人と犬とが補い合って一緒に想いを通わせようとする物語で読んでいて楽しかったです。ガスを取り巻く社会だけでなく、どうやら問題を抱えているらしいペニー、学校の問題など言葉が通じるからこそかえって相手を誤解したりわかってもらえないことに苦しんだりする場面が多いので、それを解決するために時々チェスターの声がガスに聞こえ(ているらしい)、ガスの声がチェスターに届いている(らしい)描写が盛り込まれているように感じました。そんな閉塞感に満ちた部分と、ファンタジーな解決の部分が物語の中心になる中でチェスターがガスのところに引き取られるまでの個所で、犬の母親、兄弟たちとのやり取りが(ここは全くのフィクションでしょうが)軽妙でおもしろかったです。母犬は心配性なチェスターに、訓練士の前では堂々とふるまうようにと有益なアドバイスをしてくれますが、そのうちに次々と生まれる仔犬のことや自分のことで頭がいっぱいなのか、チェスターのことにいつまでも心を向けなくなります(p15)。動物の本能的なふるまいに人間のような愛情を読み込みすぎず、あっさりとした犬の親子関係が逆に気が楽な面もあるのでこの最初の場面はとてもおもしろかったです。
ペニーのことを乱暴な口調や振舞いからはじめは女性とは思わずに読んでいましたが(「あたし」という訳がついていてもLGBTQの人なのだろうか、などとも)彼女の母親の病室にチェスターを連れて行ったときにようやくはっきり女性だとわかりました。

ANNE:チェスターを引き取って訓練するペニーがいい人なのか、そうではないのか、ずっとあいまいでしたが、最後にはきちんとチェスターをしつけてガスのもとに戻してくれたので安心しました。ペニーには、きっと別の犬が見つかると思います。犬が主人公の物語なので、2021年に出版されたセラピードッグの絵本、『いぬのせんせい』(ジェーン・グドール作 ジュリー・リッティ絵 ふしみみさを訳 グランまま社)を思い出しました。

ニャニャンガ:まめふくさんの表紙が、やわらかくてすてきですね。犬の視点で進行する本を訳したとき、犬が考えそうもないことや知るよしもないことを書いてしまうとリアリティを感じられないので、どのように犬らしさを出すかが難しかったのを思い出しました。本作はもう少し犬らしい感じがあってもよかったのではと思いました。

サンマリノ:あとがきに熱量があって、ちょっと泣きそうになりました。ハッピーエンドだし、いいお話です。ただ、非常に息苦しく感じました。犬のチェスターがあまりにも孤軍奮闘しているからです。サラやマルクや先生に考えていることを伝えられず、ガスとも最低限の会話しかできず、近所の犬たちとも交流しないまま、思いが溢れた状態でずっと過ごしています。自閉症の子も、同じような状況なのだということを説明するためなのだとしたら、非常に効果的だとは思うのですけども。できれば、となりの家の犬と、ちょこっと1日数分でもおしゃべりするとか、猫か鳥と雑談できるとか、ほんの少し安らげる場面があったら、と思いました。いいなぁと感じたのは、ガスには好きな大人マンマと、お気に入りの女の子アメリアがいるところ、そしてエドのようなイヤなやつに魅力を感じてしまう部分です。一方、気になったシーンもあります。p186で「ガスはおもしろい音が大好きだから、まわりでおもしろい音がしないときは、自分で音を立てる」と書いてありますが、p54では、「ぼくがほえたり、つめでカチカチ音を立てて部屋の外を通ったりすると、こわがる。音で耳が痛くなるんだ」と書いてあって、ちょっと矛盾するようにも思えてわかりづらかったです。あと、先生が数人でてきますが、描写が最低限すぎるので、特にクーパー先生の存在がイメージしづらいなと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』(福田隆浩著 講談社)とは逆に、先生があまりいい存在として描かれていないことが印象的でした。

雪割草:おもしろく読みました。でも、ガスの声をもっと聞きたかったという、もやもや感が残りました。作者が実際に母の立場だからというのもあると思いますが、ガスよりもサラの方が不安など気持ちの起伏の細かなところまで描かれていてよく伝わってきました。チェスターが犬らしくないという感想がありましたが、p163のカバーを洗わないでほしいなとつぶやいているところは、犬らしさが描かれているごく少ないひとつだと思います。それからペニーについては、チェスターをスターにしたいという欲があって、その時はチェスターの声が聞こえない。でも欲が消えると、不思議とチェスターの声が通じるようになる。確かにちょっとテレパシーの域かもしれないけれど、ペニーの母にはチェスターの声が届く。食堂のマンマには、ガスの思いが何となく通じている。そして、ガスとチェスターも通じあえる。思いが通じ合えるかどうかというのは、本当はみんなできるはずで、欲だったり不安だったり、他のことが邪魔をしているのかもしれませんねということを、ペニーを通じて描いているように、私は感じました。

ルパン:仕事で探知犬について調べたことがあって、犬の能力のすごさがわかっているので、かなりリアルに近い感じで読みました。また、犬の訓練所とか南極の犬ぞりのことなどについて書いた本によると、犬も人間のように感情とかプライドとかがすごくて驚かされます。飼い主の発作を事前に感知するというのも現実の事例としてかなりあるようです。これを読む子どもが、本当のことと思って読んでくれたらいいなと思います。みなさんから「やりすぎ」と言われるシーンも、私はけっこう心に残りました。

ハリネズミ:犬の能力が高いというのはその通りですが、なんでもできるわけではないですよね。たとえばp240の「可能性は低いけど、サラやマルクやガスが来ているかもしれない」とチェスターが思うところ。可能性の低さを犬が云々するなんてことは、ないんじゃないかな。p188にもチェスターが「ガスもぼくも口でちゃんとしゃべれないよね。心の中だけでしゃべっているんだ。まわりの人にはあんまり伝わらない。ていうか、ほかのだれにも伝わらない。会話の方法としてはあんまりよくないんだ」と思ったりします。これもおとなの人間なみの客観的な思考ですよね。

しじみ71個分:チェスターの言葉があまりにも人間っぽいというのは、実際に自閉症児の母である作者の視点が、サラの視点と、チェスターの視点の双方から描かれているからではないでしょうか。チェスターから語りかけ過ぎてガスが黙ってしまう様子などは、実際の母親としての作家の経験から生まれた表現のように思えました。なので、チェスターがやたら人間っぽいのはそういう理由かなと思ったり。あと、ペニーについてですが、ペニー自身もチェスターが最初の試験で落第したことで、犬の訓練士としての能力が低い、と否定された気になって、チェスターに文字を教え込んで特別な犬だと証明することで自分の価値を認めさせて自信を持ちたかったんだろうなぁと思いました。最後にチェスターはそんなペニーにも自信を与えて立ち直らせていますよね。あとでネットで調べましたが、アメリカでも日本でもドッグトレーナーには国家資格などなくて、ただ経験の積み重ねによるんだそうです。だからなおさら人からの評価が気になるという設定なのかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):とても好きな作品です。心がホカホカします。犬のチェスターの目線の物語。自閉症でてんかんの発作を起こすガス、ガスのママとパパの様子、犬の訓練士のペニーの性格がよく伝わってきます。フィクションなのに、ノンフィクションかと思われるほどチェスターとガスが心の中で会話しているのが当たり前のように思われ、他にもたくさん例があるのではと、思いました。犬って人間に尽くしてくれるのですね。チェスターが余りにも健気です。日本でも補助犬がもっと普及するといいなと思いました。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2023年01月 テーマ:子どもの目-相手の見えないところが見えたとき

日付 2023年1月12日
参加者 ハル、シア、花散里、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、まめじか、しふぉん、サークルK 、ANNE、伊万里(さららん、西山)
テーマ 子どもの目-相手の見えないところが見えたとき

読んだ本:

(さらに…)

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『君色パレット1』表紙

君色パレット(1)ちょっと気になるあの人

すあま:『マンチキンの夏』の後に読んだせいか、物足りなさを感じました。「日傘のきみ」は、設定はおもしろいと思ったけど、最後になぜ別の傘に乗り換えたのかわからないままで、もう少し長い話であればよかったのに、と思いました。「恋になった日」は、ノートでやりとりした相手が想像通りで、意外性がなかったのが残念でした。「Hello Blue! 」は、ファンタジーで、洋品店の男の子が実在の人物ではないのかと思って読んでいたら、そうじゃなかった。短編なので仕方ないけど、もうちょっと登場人物がしっかり描かれていれば共感して読めるのに、と思いました。多様性というテーマは、短編では語りつくせない難しさがあると思います。

アンヌ:「日傘の君」は、よくわかりませんでした。アリガトウと言ったのは傘なのか谷岡なのか、タピ岡でなくなったのは友情が芽生えたという意味と捉えていいのかどうかとか……。「親がいる」の状況は、実はもう現実にいろいろな家庭で起きている話だと思います。主人公と親の過去の関係が全然見えてこないので、ほんの一瞬を切り取ることで、コロナ下の物語としたのかなと思いました。「恋になった日」は王道の恋物語で、同じものを見るというところから恋は始まるという感じで、すみれ色のテレビ塔の伏線はなかなかうまいと思いました。「Hello Blue!」は完全にファンタジーとして読んだのですが、多様性という意味では一番うまく描かれていると思います。特に帽子の青を空や海の色として説明するところは、目が見えない人でも同じ世界にいて、その人が見えないからといって理解できないわけではないということを見事に語っています。服を拾ったり、強盗に服をあげたりするところも、現実にはあり得ないけれど、お伽話の世界につながっていくような心地よさがありました。

コアラ:4つの短編のどれも、心になにかしら引っかかりを作る感じで、よかったと思います。テレワークで、家で仕事をしている親を見る、というのは、子どもにとっては知らない親の一面を見るという意味で、新鮮な体験だろうなと思ったし、物に恋をするという人の存在を本当に受け入れたら、その物がただの物とは思えなくなる、というのも、リアリティを持って感じることができました。多様性というところではないけれど、「恋になった日」のp105『好きです。』とノートに書いて消す場面が、私はけっこう好きで、中学生の恋心がよく表れていると思ったし、消しゴムで消しても跡が残るところが、ノートに書くということの特性だと思いました。SNSで告白するとしたら、SNSならではの迷いとか言葉の使い方とかの描き方があると思うし、この物語では、ノートに書くという特性を生かしていてよかったと思います。ただ最後、両思いになったときにp113「カバンが、急にずしんと重く感じた。」というのは、ちょっと違うんじゃないか、別の締めくくり方をしてほしかったと思いました。イラストは、全体的に人物が大きく描かれていて、けっこう主張しているように感じました。4人別々の作者の短編集だけど、イラストのテイストが共通しているのが、短編集にまとまりを持たせていて、私はいいなと思いました。男の子なんだけど女の子にも見えるような描き方とか、決めつけない感じにも好感を持ちました。装丁には一言言いたい。図書館から借りてきた本は、背の部分がもう色が褪せてきています。ショッキングピンクは褪色しやすいので、残念に思いました。

まめじか:「日傘のきみ」は、登場人物が対物性愛者というのが新しいと思いましたが、タピ岡の心変わりの経緯がわからず、消化不良でした。「恋になった日」は、好きな人ができた主人公が、「たいせつなこと、考えてた」と言ったとき、友だちの琴子がさみしそうに笑いながら、それ以上なにも聞かないというのに、二人の関係性がうかがえました。「Hello Blue!」では、目の見えない主人公はたくさんのことに気づいていて、それに対し、男の人はスカートをはかないなど、固定観念のある母親には見えないものがあるというのがおもしろかったです。強盗が出てくるのは、ちょっと唐突では……。

サークルK:挿絵がかわいらしく、中学生が手に取りやすい厚さの本だと思います。「多様性を見つめる」という今の時代にふさわしいテーマがどのように語られているのかを楽しみに読みましたが、全体的にふわふわとした感じでとらえどころがないように感じられました。たとえば1作目「日傘のきみ」では、セクション1がポエムのような始まり方で、主人公の出自や両親、ふるさととの関係が紹介されているのに、セクション2以降それはあまり深く掘り下げられることなしに話が進行して、友達が「対物性愛者」であることの衝撃に関心がさらわれて行ってしまいます。2作目「親がいる。」は挿絵の幼さと内容のギャップに驚き、しっくり頭に入らないまま話が終わってしまいました。各掌編の終わりに1行コメントを置き、心に残ったことを読者に考えてもらうような呼びかけがあるのは、おもしろい試みでした。ただ余白が多すぎるのではないかなと少し気になりました。

しふぉん:「日傘のきみ」のタピ岡は、将来結婚したいとも思っていた日傘・キョウコさんの柄に〈イママデアリガトウ〉と彫りつけて、渚とよく会っていた場所にどうして捨てたんだろう? キョウコさんとの出会いがネットショッピングだったからなのかな? そして新しい相手・黒い日傘とはどうやって出会って、恋に落ちたんだろうか? よくわからないまま終わってしまいました。「恋になった日」は、なんだか懐かしい青春時代を思い起こさせてくれました。昔は、駅に伝言板があったり、いろいろな所で伝言ノートを見たような気がします。家庭科室の教卓の中におかれたノートの書き込み。相手がどんな人かもわからずに、書かれている言葉の中に、自分と共通する感性にふれる喜びが伝わってきました。そんな風に恋が芽生えた島本くんと星那がずっとうまくいくといいなあと願いました。「Hello Blue!」はどうしてこのタイトルなんだろう? Blueって元洋品店の子・国崎蒼のことなのかな? だとしたら上手いタイトルだなあって思いました。それとも話の中に、青いシャツ、裏地が青のフェルト帽、青いデニムのジャンバースカートと出てきてくるからなの? お話全体に、この蒼の優しさが溢れていました。莉紗が怒りに任せて公園の屑籠に捨ててしまったジャンバースカートを 拾って洗濯し、糊付けまでしてショウウィンドウに飾ったり、蒼は服が好きなんだろうなと思いました。自分に対してひどいことを言う強盗にまで、食パンや牛乳を出し、服も一式プレゼントして、心もお腹まで満たしてあげて……。そんな中学生がいたらすごいと思います。今は学校に行けてないみたいだけど、とてもいい子なので、服飾関係に進んだりして、蒼の未来が明るいものであればいいなと思いました。

ANNE:見返し用紙が透けていたり、余白が多かったりと、装丁が今風だと思いましたが、背表紙はすぐに抜けてしまう色合いなので、図書館員としては少し気を使うところです。オムニバス形式は私にはちょっと物足りない感じですが、子どもたちには読みやすくていいのかもしれませんね。ひこ・田中さんや魚住直子さんなど、ベテランの児童文学作家さんが、世相に合わせた作品を発表されているところがすごいと思いました。

花散里:中・高校の図書館に勤務していて、中学生が「3分間」や「5分間」で読めるようなシリーズ本を好んで読んでいるので、「ショートストーリー」と題した短編小説だったので関心を持って読みましたが、全体的にとても物足りなかったです。読み終わってから、しばらくするとどんな物語だったか記憶に残っていないような読後感でした。作者はそうそうたる方たちですが、こういう短編シリーズの依頼が来た時にどのように取り組まれているのかと思いました。本のタイトルは「読んでみたい」と思わせましたし、多様性を取り上げていて、テーマは斬新だと思いましたが、どの作品にも魅力は感じられませんでした。絵がどの作品も同じなのも受け入れられませんでした。図書館員として手渡したいと作品と、実際に好まれ、読まれている作品とのギャップについて改めて考えさせられました。

シア:非常に読みやすい本なので中学生の朝読書などにいいかもしません。絵も本の薄さもかなり中学生好みにしている感じがしました。色の褪せやすいショッキングピンクですが、書棚でも本屋でも目に入りやすいと思います。内容も薄めだし、退色したら捨てるくらいの消費物的な本だと思います。本の読めない子、嫌いな子がアクセスしやすい本だと思うので、不読者対策としてこういう軽めな本が出回るのは仕方のないことかもしれません。こういった本から入って、しっかりとしたものまで読めるような呼び水になればと思いますが、厳しい内容のものも多く、選ぶのは困難を極めます。さて、この本なんですが、1作目がかなり人を選ぶ話なので、ここでつまずく子どもが出そうです。なぜこれを1作目に持ってきてしまったのか……。対物性愛者の話は珍しいですが、タピ岡が日傘を捨てる心境に至った理由をテスト問題にしたら誰も答えられないと思います。でも、4作目の洋服で繋がる友達というのは良かったです。服というアイテムは多様性を表しやすいし。ただ、やけっぱちになっていたとはいえ、男のしたことは犯罪なので、そんな男に一番価格が高くなるワンセットをあげてしまうというのはなんだか釈然としませんでした。個人的には2作目が一番おもしろく読めました。コロナ禍を扱った物語は多いけれど、テレワークで両親の仕事をしている姿を垣間見て世界の広がりを感じるという観点の本はあまりなかったと思います。身近な人間の働いている姿を間近で見ることは、子どもの視野を広げるという意味でとても重要だと感じます。紛らわしかったのは、1作目のタピ岡と4作目の国崎蒼が挿絵も似ていることもあって同じに見えてしまったことです。日傘が好きなのは服屋さんだからかと妙な納得をしていたんですが、よく考えたら名前も違う別人で、作者も違いましたね。

伊万里:最近のアンソロジーは、テーマで勝負する方向が強くなっていて、その結果、極端というか過激というか、怖いお話を集めていたり、驚かせるような強めのテーマが多くなったりしています。そのなかで、このアンソロジーは、「ちょっと気になるあの人」という、ゆるめのテーマなのがいいなと思いました。戸森さんの作品は、非現実的にも思えますが、後から頭に絵が残る作品だなと感じました。ひこ・田中さんの作品は、コロナ禍のリアルを取り上げています。親の別の一面を見る展開が、地味ではありますが好きでした。魚住さんの作品も、童話とリアルの境目のようなところが興味深かったです。吉田さんの作品は、ほのぼのしてますが、島本くんをいったん否定して、けれどやっぱり島本くんだった、とわかったときに、サプライズ感のまったくないところが少し残念でした。

アカシア:「日傘のきみ」ではp26で「お前なんかよりも日傘の方がたよりになると、見限られたような気がした」という表現が出てくるのですが、この段階では主人公は谷岡に思い入れがあるように書かれていないので、「見限られた」という表現が浮いてしまっています。「親がいる」は暮らしの表面をなぞっているだけで、インサイトがもっとあればいいのにと思いました。「恋になった日」は、p95に「いびつな文字」とか「右上がりになるくせのある文字」と文章にはあるのにp94の挿絵はどちらも書体が同じ。こういうのって、入り込んで読んでいた読者を裏切ることになるので、もっとちゃんと考えて本造りをしてほしいです。島本くんを好きでも嫌いでもいいのですが、言ってみれば花占いのような短編を読まされて、読者の子どもは何かがわかったりするのでしょうか。クリシェに寄りかかっていて意外性がなくて、新しい世界は見えてきません。「Hello Blue」はちょっとおもしろいと思ったのですが、泥棒が出てこなくてもいいように思いました。短編は一面しか描けないとしても、もっとその奥がうかがえるような書き方だったらおもしろいと思うんです。でもこの本は、そうそうたる作家さんたちの良さも生かされていなくて、編集者の気配が感じられません。どれも文章や表現に緊張感がありません。さっき「不読者対策が必要」という声もあり、それはわかるのですが、ただ短い時間で読めるというだけでは、本のおもしろさを知って読者になっていくということにつながらないと思います。もっとちゃんと本をつくってほしいです。

エーデルワイス:1つのテーマで複数の作家が短篇を書くのは大変なことと思いました。また作家の力量がでますね。テーマに沿った内容はもちろん織り込みつつ、独自性をだすのですから。文学の香りもほしいです。『日傘のきみ』が好きです。『Hello Blue!』さすが魚住直子さんと思いました。「多様性」ということを子どもたちに知って読んでもらうには、このような本の作りは効果があると思いました。けれど子どもたちはゲーム、コミック、アニメなどから「多様性」がすでに浸透しているような気がしています。

ハル:戸森さんの「日傘のきみ」以外は、「多様性」のテーマに答えているのかどうか、ちょっとよくわかりませんでした。サブタイトルにはあっていますけどね。それで「日傘のきみ」は、さすが戸森さん、一歩先に進んでいるなぁと思ったし、文学としてはおもしろかったのですが、おそらく道徳的な狙いでつくられたこの企画としては、それに応えられているのかどうか……。愛していたキョウコさんの柄に文字を彫るのはありなのかなとか、この感覚も「◯◯性愛者」だとくくってしまってはいけなくて、人によって違うのかもしれません。対物性愛とか、動物性愛とか、小児性愛とか、どこまでが多様性なのかもちょっと考えてしまいますが、とにかく、共感できなくても理解はしようとする姿勢は、どんなケースにおいても必要なのかもしれません。

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さららん(メール参加):どの話も日常の中でほんの少し視点をずらすことで、まったく見えなかったことが見えてくるところが、マンチキンとつながると思いました。でも描き方は全く別。本の作りも、挿絵がたくさん入っていて、子どもたちが手に取りやすい工夫を感じました。本を返してしまって、また借りるのが間に合わなかったので、あまり細かく書けないのですが、戸森しるこさんの対物性愛者(と呼んでいいのか)のお話は、それほどいやらしさはなく、目の前にこんな人がいたらちょっとたじろぐけれど、これを読んでいたら、少し受け入れやすくなるかもしれない、と思いました。短編ならではの「落ち」を生かした書き方でしたね。どれも良かったのですが最後の魚住さんの「Hello Blue!」の男の子の話は、物語性で読ませます。『自分を生きるのは自分』という言葉はきっと子どもたちに届くと思います。

西山(メール参加):読んだことを忘れていました。全部読み始めたら思い出しましたけれど、また忘れそうです。

(2023年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『マンチキンの夏』表紙

マンチキンの夏

ハル:まだ途中までしか読めていなくてすみません。でも、うまくまとまりませんが、テーマにしても、書き方にしても、日本の作家さん書いたら、なかなかこうは仕上がらないだろうなという作品で、こういう本こそ、翻訳書として日本の読者に紹介する価値があるんだよなぁと思いました。どっちがいいというのではなくて、日本の作家さんに書いてもらったほうが読者に届くテーマもあるでしょうし、海外の作家さんでないと書けない作品もあるだろうな、ということです。(後日談です。全部読んでみても楽しかったですが、たしかに、ちょっと冗長で散漫に感じる部分もありました。でも、この先自分が、平均身長くらいまでは背がのびることを知って泣いた主人公の気持ちは、私は違和感なく読みました)

アカシア:いいなあと思ったところは、いろいろな意味で多様な人たちが登場してくるところ。オリーヴは茶色い肌で、大人だけどとても背が低いので、差別する人もいるけれど、堂々と生きています。そして主人公のジュリアは、このオリーヴをお手本にするのですね。ほかにも中国系のチャンさんや、イタリア系だろうジャンニなど、さまざまな背景の人たちが登場してきます。登場人物の紹介が最初にあるのは、翻訳物を敬遠する子どもも多い今、助けになると思います。細かいところでひっかかったのは、p93の「ギルバートとサリバン」はギルバート・オサリバンのことだと思うので、それがわかるような注があるとよかったですね。p173の「マンチキンのくつをはいてみた。ぴったりだ」は、p108でもはいてみてぴったりだということがわかっているので、違和感がありました。p232で、犬用のビーフジャーキーがしょっぱいとありますが、犬用のジャーキーは人間用のと違って味付けがされていないのが普通です。原文が間違っているのでしょうか。p250の「チャンさんがいただくなら」は日本語として違和感がありました。「チャンさんが召し上がるなら」じゃないかな。あと、原書の出版年が記されていないのも気になりました。それと、原題はShortですよね。Shortだと背が低いという意味はもちろんあるでしょうが、足りない、不足というニュアンスが強く出てきます。そう思って読むと、子どもなので社会のことがまだよくわかっていない主人公が、はじめてのことが多い大人の社会に接して、自分はまだ子どもでいろいろなことが不足していると思いながらも、子どもの視点で社会を観察しているというテーマがくっきりするのかと思いました。そこがこの本のキモだと思うのですが、どうでしょうか? 原文が饒舌体だとすると、ていねいに訳すことでリズムが失われているのかもしれません。

エーデルワイス:映画の脚本、監督などを手掛けている作者らしい作品と思いました。主人公のジュリアが愛犬ラモンの死を必死で乗り越えて成長していく姿、練習風景やリハーサル本番含め演劇の舞台は映像になります。オリーヴが魅力的です。最初にプロの役者、背が低い、おしゃれ・・・とだんだん様子が明らかになっていき、オリーブが黒髪、有色人種、低身長の女性だと分かりハッとしました。p131のオリーヴが黙って一緒にアイスクリームを食べながらジュリアの話を聴くシーンは素敵です。別れ際の「じゃあ明日ね」のオリーヴの一言で、ジュリアの悩みは吹っ切れているのですから。登場する大人はみんな子ども扱いせず、同じ次元で対応しているところがいいですね。うんちくや格言がやたら多くて後半ちょっと食傷気味でした。アカシアさんが仰るように訳のせいかもしれません。

伊万里:あまり積極的でなかった女の子が、ひと夏、大勢の人と出会って、大きく成長します。魅力的な大人がたくさん出てくるのが、この本のポイントだと思いました。後半で、大人たちの三角関係というか、恋愛の状況をいろいろ目撃して、子どもなりに解釈していくのも新鮮でした。お芝居を作り上げる過程が徹底的に描かれ、リアルに感じられるところもよかったです。ただ一人称なのが、一長一短な気がしました。主人公は、物事を決めつける傾向があって、それが覆されたときに成長します。なので、もともと傍若無人な発言が多いわけです。冒頭p14「脊髄が真っ二つに折れちゃったとしたら、一生歩けなくなるわけでしょ。」と語っていますが、これ、かなり無神経ですよね。あと、最後に、身長が162センチまで伸びることがわかった、というくだりも、なんとなく残念です。この物語を読んでいた低身長の子が、がっかりするのではないかと。低身長のままではダメだったのかな、とちょっと思いました。

シア:主人公がペットロスから立ち直っていく姿はとても良かったです。ただ、全体的に登場人物が身勝手な印象で話に入り込めませんでした。冒頭のジュリアの背丈に対する両親の会話でショックを受けてしまって、なんて空々しい家族なんだろうと嫌な気分になりました。おばあさんは千秋楽に来ないし、お母さんは仕事に夢中だし、読み終わってもどうにも希薄な家族関係に思えました。自分が愛されているのは感じつつも、そういう家庭のせいか自己肯定感が低いジュリアは、心の拠り所だったラモンを失って、その穴を埋めるかのようにショーン・バーに怖いほど心酔していきます。ジュリアはお父さんが言ってたことを実践し、大切な木彫りのラモンをショーン・バーにあげてしまうんですが、自分にとって大切なものでも相手にとっては違うと思うんですよね。ほんとにこの家族はろくなことを言いません。だいたい、ショーン・バーという男はかなりうさんくさいんですよ。木彫りの犬なんて誰にもらったかも忘れて捨てるんじゃないかと思います。もう少しエピソードがあれば違ったのかもしれませんが、私はショーン・バーはどうにも信用できませんでした。それから、チャンさんは空飛ぶサルの役がやりたいと言い出すんですが、それがチャンさんの人生にとってどういう意味なのかわからないので、ただのわがままにしか見えませんでした。しかも、大学生の卒業制作であるライオンの衣装を勝手に手直しするのはいかがなものかと。でもされた側の大学生は喜んでいて、不正がまかり通っていることに不満を覚えました。この大学生は自分のアートに対する気持ちとかないんでしょうか。それに、チャンさんの役のことを差別の話を持ち出すほど引っ張るから、てっきりオリーヴかジュリアが役を失うと思ったのにそのままというのは展開的にどうなんでしょうか。嫉妬の話はなんだったのかと。その気持ちを乗り越えるとかないんでしょうか。差別の話を無理やり入れたいだけだと思えました。そもそも、ブンブン飛んでいるのが大人ひとり分プラスされたら、安全面とか見栄え的に邪魔だと思うんですけど。演出のこと何も考えてないなって。やっぱりショーン・バーは信用ならないです。そして、ジュリア自身は自分の力ではないのにトントン拍子に進んでしまい、いびつな成功体験をしてしまったと思いました。自分は特別と思い込んで、弟やマンチキンの子など周りを見下すことは終始変わりませんでした。また、章ごとに入る挿絵が使いまわしでテンションが下がりました。ラストや表紙にも描かれているマンチキンの靴が文章と形状が異なるのも気になりました。つま先はポンポンではなく輪っかなはずです。こういうところはしっかり本文に合わせて欲しいと思います。それから、ジュリアがWikipediaの内容を引用するシーンがありますが、そもそもWikipediaは引用するものではないので、児童書で使わないでほしいです。と、終始イライラしながら読んだのですが、弟のランディだけは伸びやかに過ごしていると感じました。ジュリアと違って誰かに頼ったりしませんでした。自分でオーディションを望んで、自らの才能で役も親友も手に入れました。ランディこそが夏を満喫しました。ランディが真の主役ですね。

ANNE:ジュリアの一人称で語られることで、本人の気持ちがそのまま伝わってくるように思いました。死んでしまった愛犬ラモンの毛をスクラップブックに貼っているのは、いつか科学が発達してその毛のDNAから本物のラモンが作られるかもしれないからなのですが、p51「それって大きな夢だけど、小さな夢をたくさん見るよりよくない?」、苦手だったピアノのレッスンを辞めた時は、p25「刑務所の刑期を終えたときってこんな気持ち」など、彼女の独特の言い回しが、この本の魅力だと感じました。少女のひと夏の成長物語ですが、背景にある『オズの魔法使い』の世界観を知っていて読むのとそうでないのとでは、ずいぶん受け取り方も違うのではないかと思いました。

しふぉん:ひと夏で、子どもってこんなに大きく心が成長するんだなあと思わせてくれました。でも、それには日常とかけ離れた出来事や、素晴らしい大人との出会いは不可欠なんだろうなと思いました。オーラを放つ監督・ショーン・バーや、かつて多彩な芸術性で活躍したヤン・チャンさん、身長差別とたたかっているプロの歌手・ダンサーのオリーヴと関わりながら交流を深めていくうちに、ジュリアの内面が豊かに大きくなっていったのだと思います。初日が終わった後、劇評論家・ブロック・パットの酷評を目にした後、自分を失いそうになったジュリアに対して、弟のランディは「だんだんうまくなるよ」「そいつがどう思ったかなんて、どうして気にするの?」と意に介さない様子はどうしてなんだろうと考えました。ランディは、3人兄弟の末っ子で、みんなから愛情をたっぷり注がれていただろうし、何より人に誇れるものを持っているからなのかなあ? たとえば、甘い歌声とか、正確にメロディを歌い上げることができちゃうことか。自分に自信があるから人から何を言われても動じないのかもしれないなあって思いました。それに対してジュリアは、劣等感を持っている子ですよね。背が低いこと、音楽が苦手なことをとっても気にしています。ちょっと上の兄さんは何をしても許されるのに、自分は弟の面倒を見なきゃいけない。両親は自分のことをどう思っているのか、不安も感じていただろうなって思う。そんなことも、2人の反応の違いにつながっているのかなと思いました。それと、ジュリアのこの芝居にかける情熱の大きさも関係しているんだろうなと思います。また、ジュリアは言葉に対して鋭い感覚を持っている子だと感じました。p167「わたしには、耐えられない言葉がいっぱいある。(中略)そういう言葉は使わないようにしてる。なにがいいって、言いたいことを言う言い方はひとつだけじゃないってこと。だから、言葉って大事なんだと思う。それどころか、そのために言葉は発明されたのかも」とか。リーダーダンサーになって重責に押しつぶされそうな時、オリーヴがただ黙って一緒にアイスクリームを食べてくれた時に出てくるp131「話を聞いてもらうために、しゃべる必要はないのかもしれない。こんなにいろいろなことを語る沈黙は、はじめてだった」とか。ミトンおばあちゃんから聞いた言葉として出てくるp127「これ以上、重荷を背負うのは無理だね」、p153「人生は学びの連続だよ」、p215「その人がおもしろいかどうかは、背を見ればわかる」という言葉を自分が体験したことと結び合わせて思いだしたりしてるから。そして、あんなに嫌がっていた芝居に出たいと思ったのも、監督ショーン・バーの放った初日の言葉によってだったから……。

サークルK:原題の「Short」が『マンチキンの夏』と具体的になり、劇中劇の「オズの魔法使い」のあらすじの説明されたページが始めについていることで、それを知っていても知らなくても、読者にとても親切だと感じました。主人公は自分の背が伸びないのではないか、ととても心配しています。ジュリアが劇中劇でマンチキンの役を与えられ、みんなで練習する喧噪の風景は、昔見たことのある大道芸やサーカスで活躍していた、まさに「マンチキン」の人たちを思い出させてくれました。映画『オズの魔法使い』でドロシーを演じたジュディ・ガーランドの栄光と悲劇を描いた『ジュディ:虹の彼方へ』を観たので、虚構の世界が作り出す癒しや、虚構の世界があることで少しずつ前向きになっていく主人公の姿に救われる思いでした。

まめじか:原書が出たときに読んで、そのときは小人症の話なのかと思って読みはじめたら、主人公のジュリアはこれから背がのびると告げられる場面があって驚きました。ジュリアがオリーヴに憧れるところはいいなあと思いましたし、芝居を通してものづくりの喜びを感じ、芸術にふれ、いろんなことを感じて、それをスクラップブックに残すというのはおもしろかったです。最後に「わたしは今年の夏、成長した」(p362)とあるのですが、成長物語として読むと少し物足りなくて……。ジュリアがオリーヴの恋愛模様など、大人の世界をのぞいて、それが成長だと思っているように感じたのです。大人の中に入りたがる子もいるので、リアルではあるのですが、「この一か月で、わたしはなぜか自分のことを大学生だと思いはじめていた」「ここにいるほかのマンチキンたちは、子どもだって」(p287)とあるように、お芝居をやっている同年代の子とは交わろうとしないんですよね。ジュリアは知らない言葉の意味を推測します。p286で、お芝居をはじめてずいぶんたつのに、「公演」の意味がわからなくて、それを「公園」だと思うのは、若干無理があるような。p232に、犬のビーフジャーキーがしょっぱいとありますが、犬用のジャーキーに塩気はないはずです。各章のはじめの絵は何パターンかあり、とてもすてきです。内容に合わせて変えているのか、ランダムなのかはわかりませんでした。

コアラ:おもしろく読みました。12歳の特別な夏を、一人称で語られる主人公ジュリアと一緒に体験することができました。ジュリアは少しひねくれているというか、言葉の捉え方が独特で、例えばp71「舞台の上にいると、しょっちゅう『背中に目をつけろ』って言われる。もちろん背中に目なんかついてない。そうじゃなくて、うしろをちゃんと見ろという意味だ」こういう表現がよく出てきます。それが、最後の部分に生きていて、p362「わたしは今年の夏、成長した。外側じゃなくて、内側が。そう、大切なのは内側の成長なのだ」ここが本当にいいと思いました。原題は「Short」。私も背が低いので、とても共感しながら読みました。子どもも、大人に比べると背が低いわけで、その背が低い時期の子どもに読んでほしいな、心の成長を、この本で一緒に味わってほしいなと思いました。それから、p266などに出てくる「スタン」は、ハリウッドの特殊メイクで有名なスタン・ウィンストンだと思うので、作者が登場させているのにびっくりしました。

アンヌ:以前読んだ『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーク著 三辺律子訳 小学館)の時もそうでしたが、この作者の物語の中で何かがうまくいきだすきっかけというのが、どうも納得がいかなくて苦手です。だから主人公の像がつかみにくく、例えば背が低いのが悩みのはずなのに、背が伸びると知って泣き出すところなどは、なんでこんな風に書くのだろうと思いました。ただ、ひと夏の劇団体験というのは実に魅力的な設定で楽しく読めました。今回大人はとてもよく書けていると思います。オリーヴの初々しい恋の模様や、ジャンニのくれた薔薇への扱いで、オリーヴがその恋を終わらせたとわかるところなど見事です。チャンさんもどういう人なのだろうと思っていたら、元プリマバレリーナで、なるほど最初から着地がうまかったわけだとわかるところや、ショーン・バーがケガで休んでいる間にそのすごさがわかるところなどは、うまいと思いました。

すあま:おもしろかったし、読んでよかったです。ずっと一人称で語られ、ジュリアのおしゃべりを聞き続けているようで途中でくたびれたけど、ジュリアの気持ちはリアルに感じられました。背が低いのがいやだったのが、しだいに受け入れられるようになって、今度は背が伸びると言われて逆にがっかりするところは、何となくわかる気がしました。大学生や大人たちと会話する中で、意味がわからない言葉が出てきたときに、自分なりに解釈しているところもおもしろかったです。自分も子どものとき、本を読んでいて意味がわからない言葉を勝手に解釈して、大人になってから思い違いに気づくことがあったことを思い出しました。タイトルについては、読み終わらないと意味がわからないので手に取りにくいんじゃないかな。『オズの魔法使い』は知っていても「マンチキン」と結びつかない人が多いと思うので。

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さららん(メール参加):細部まで行き届いた訳のおかげで、主人公のおもしろさが際立っていました。いろいろ経験した夏だったよねー。私自身、芝居を一度プロデュースしたことがあるので、なんだかひとごととは思えない部分がたくさん! ホリー・ゴールドバーグ・スローンは『世界を7で数えたら』の作者でしたね。饒舌な主人公の語りによるスピード感と、障害をむしろ恵みに変えてしまう書き方は一貫してます。子どもたちも出演する「オズの魔法使い」上演をめざすストーリーなので、最後はみんな舞台に立つんだろうな、という安心感があるけど、マンネリになっていないのは、脇役やエピソードが鮮明に描けているから。たとえば舞台監督のショーン・バー。p223で語られる演劇論には感動します。例えば「われわれは世の中に、自分やおたがいを別の目で見てくれと訴えているんだ」という言葉。読んでいるうちに、本音で子どもにぶつかるショーン・バーが、オズの魔法使いに見えてきました。それから、オリーブは主人公の憧れの人なんだけれど、例えばp222にオリーヴの立場が書いてある。つまり「背が低い」「有色人種」「女」のトリプルパンチ。その中でどう生きるかも見せてくれる。大人たちの恋愛のくだらなさまで主人公はしっかり見ている。大人と子どもの両方の見方を生かしうことでお芝居は大成功するし、この世界もずっと暮らしやすいところになるんだ、ということを実感させてくれた物語でした。一番好きなところはp165のこの文章です。「わたしはうれしくてさけんだ『そう、わたしは空飛ぶサル!』うしろの座席かランディが身をのりだして、なんでもないみたいに言った。『ぼくはマンチキン国の市長だよ』と」

西山(メール参加):たいへんおもしろく読みました。寒い中ですが、「マンチキンの夏」を過ごしたような充足感です。ジュリアの一人称がうるさく感じたり、奇をてらっているように感じたりということがなく、「子ども」の良さを思い出したというような印象を持ちました。芝居作りにのめり込んでいくどきどきとわくわく、愛犬を失った喪失感で一杯だった彼女の胸の内が、思いもしなかった新しい出来事(おもしろい、興味深いおとなたち)でいっぱいになっていく様が愉快でした。ジュリアの感覚になんども、こっそり吹き出しました。例えば『オズの魔法使い』の作者名を初めて知って「作家って腰が低い」って、想像を超えたリアクションでした(p186ページ後ろから3行目)。「異議あり」が「意義がある」かもしれない(p220L-7)など、原文はどうなっているんでしょうか。

(2023年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録

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2022年12月 テーマ:違和感を抱えて

 

日付 2022年12月13日
参加者 ネズミ、アンヌ、雪割草、ハル、エーデルワイス、マリオカート、シア、アカシア、ANNE、しじみ71個分、ルパン、西山、まめじか、
テーマ 違和感を抱えて

読んだ本:

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『この海を越えれば、わたしは』表紙

この海を越えれば、わたしは

ルパン:これもおもしろかったです。ハンセン病ということで、『あん』(ドリアン助川著 ポプラ社)を思い出しました。世界中で、ハンセン病患者はこういう扱いを受けていたんだなあ、と……。ところで、ミス・マギーはいったい何歳くらいなのでしょう。とてもいい人で、苦労をしてきたことはわかるのですが、年齢とか風貌とかがいっさいわからない。はじめはすごく年とった人をイメージしていたんですけど、それにしては元気がいいなあ、とか、オッシュのこと好きなのかなあ、とか。そもそもオッシュもどんな年齢・外見なのかわからなくてイメージできないし。あと、泥棒のミスター・ケンドルも、いったいどうしてペキニーズ島に宝があるとわかったのか、とか。ほかにもいくつか「あれ、これはどうなってるんだろう?」と思うところがちょこちょこあり、そういうストレスをところどころで感じながらも、とりあえずストーリーのおもしろさで最後まで一気に読んじゃいました。

しじみ71個分:最初、表紙の絵とタイトルを見て、難民を取り扱った作品かと思ってしまいました。タイトルが、海を越えた先に何かが展開するというような印象を与えてしまうような気がします。内容は、アイデンティティの問題だったので、「海を越える」んではないんじゃないかと思い、ちょっと違和感がありました。同じ著者の『その年、わたしは噓をおぼえた』(さ・え・ら書房)より、ずーーーーっとおもしろかったですし、内容もハンセン病とそれに対する差別という非常に重くて、大事なテーマを扱っている点は非常に挑戦的で評価できると思います。また、クロウ、オッシュ、マギーといった人物もそれぞれ大変魅力的で本当におもしろいんですが、なんだか、どうしてかわからないのですが、ローレン・ウォークの何かが好きじゃなくてモヤモヤしています……。何なのかもう少し考えたいです。登場人物の人柄もとてもよく描かれていますし、後半は特に冒険譚としてドキドキしながら読めるんですが、ハンセン病そのものについてはあまり深い掘り下げがなく、材料にしてしまったという印象がぬぐえないのと、ミスター・ケンドルが悪者としてとても小さくて、ちゃちい感じがしてしまいました。木から落っこちて終わりだなんて……。宝も最後はみんな配ってしまうというオチですが、たとえば、ケンドルに追い詰められたクロウが財宝を使って窮地を逃れ、ケンドルは財宝もろとも海に落ち、海の藻屑となるくらいの、ちょっと壮大なイメージの、もう少し、人の悪そうな終わり方でもよかったなあという印象です。ですが、クロウが自らの出自を知ってアイデンティティの揺らぎを乗り越え、島での3人の生活がもどり、オッシュとマギーの間のつつましやかな愛情や、クロウの成長が希望を感じさせてくれる結末になっていて、読み終わってさわやかな気持ちが残り、ホッと安心できました。

ANNE:テーマがハンセン病ということで、私もドリアン助川さんの『あん』を思い出しました。隔離されている人々の心の切なさがひしひしと感じられる反面、キャプテンクックの宝探しという冒険譚の一面もあり、いろいろな読み方ができる作品だと思いました。主人公の女の子の頬にあるという「羽」がうまくイメージできませんでした。

まめじか:ルビーの指輪とともに小舟で流された赤ん坊。その子が12歳になって、対岸の無人島で燃える火を見る場面は、色鮮やかで強いイメージを残します。海賊の宝をめぐる冒険物語と、偏見や差別のテーマがうまくからみあっていますね。ペニキース島は、さまざまな国からアメリカに来た、ハンセン病患者が送られた場所です。クロウの肌は浅黒く、またペニキース島から来たのではないかと、カティハンク島の住人からは疑われ、避けられています。それまでペニキース島に近寄ろうとしなかった人々が、宝があるかもしれないといううわさを聞いたとたん、島に行って宝を探すというのはリアリティがありました。人間の欲や身勝手さがあらわれていますね。「わたしがこの島のくらし以外のことに目をむけると、オッシュは月そのものになってしまい、必死にわたしを引き戻そうとする。まるで、わたしの体が血ではなく海でできているかのように」(p11)、「ヴァインヤード海峡とバザーズ湾が出会い、大あばれで危険なダンスをする場所」(p47)、「雨と海が自分だけのおしゃべりをするのを聞いていた」(p269)など、文章が詩的です。

マリオカート: 序盤は、主人公の名前もいっしょに住んでいる人の素性も、いろいろ曖昧でわかりづらかったけれど、p100を超すあたりから引き込まれて、最後までおもしろく読むことができました。ペニキース島が実在して、史実をベースに書かれていることもあり、物語に重みがあります。ハンセン病の物語ということで、皆さんと同様、ドリアン助川さんの『あん』を思い出しながら読みました。ただ、物語を盛り上げるための謎が解決されないまま終わってしまい、1つならともかく2つ疑問が残ったので納得いかない気持ちです。1つめは「お兄さんはどこにいるのか」。たまたま船で手を振り合った人が兄だった、というのも安直なので、別人とわかったのは悪くないと思います。ただ、もう1つの「ミスター・ケンドルが、なぜここまで執着して逃げずに何度も現れたのか」が明らかにならないまま終わったのは不満です。さっさと姿を消せば、逃げ切れる可能性はあったのに、どうしてここまでしつこくしたのでしょう。わたしは、途中から、もしかしてこの人こそが探していた兄だったのではないか、恵まれない幼少期の生活のためにこうなってしまって、でも妹と会えたことでこれから改心していくのではないか、とまで妄想してしまいました(笑)

エーデルワイス:若い時、北條民雄の『いのちの初夜』を読んで感銘を受けたことを思い出しました。それはハンセン病を患った本人が書いた大人の小説でしたので、今回ハンセン病を扱った児童書は初めて読みました。物語をおもしろくするためにいろいろエピソードを盛り込んでいて、風景も美しく、ロマンチックな印象です。映画になりそう。主人公のクロウは、今が幸せでも自分のルーツをどうしても知りたいと願う、その切実さがよく伝わってきました。

ハル:謎に導かれて最後まで読みましたけど、途中からどうも、特にセリフの硬さが気になって、つっかかってしまいました。なんだか文字から想像する映像に人物がうまくはまらないというか、字幕みたいな話し方だなぁと思って。日本語の問題かなとも思いましたが、もしかしたら、先ほどご意見があったように、登場人物の様子が細かく描かれていない、という点も関係があるのかもしれません。オッシュも、最初は高齢の男性を想像していましたけど、どうもマギーはオッシュのことが好きなようだし、まだ恋愛するくらいの若い……って、今のは失言! 別に高齢だから恋愛しないわけじゃないし、いくつだろうと関係ないですよね。すみません。話題を変えます。宗教観の違いなのか、お母さんが残してくれた宝を、手放さずに貧しい人にほどこさないことが愚かだ、という考え方に「世界名作劇場」っぽさを感じました。お母さんが残してくれたものをお金に換えて、自分のことに使ったっていいじゃないかと思うのですが。でも、そういったお説教くささというか、重たさもふくめて、読み応えのあるお話ではあったので、もうちょっと、読みやすかったらなあと思いました。

雪割草:内容はおもしろかったけれど、言葉やプロットなど、生意気ながら意見したくなるところがあって、以前図書館で借りたのだけれど、読み進められず返してしまいました。でも今回読み終えて、オッシュのクロウへの愛情やふたりの絆があたたかく描かれているところがよかったです。この作品では、名前が大きな役割を果たしていて、例えばp374には、オッシュは「お父さん」、クロウは「娘」という意味だと言っています。そして、クロウがお母さんからもらったものの一つが「かがやく海」という意味のモーガンという名前で、自分が何者かというアイデンティティにも関係しています。なので、この作品の原題に「かがやく海」という言葉が入っているのを、意味も含めて残した方がよかったようには、思いました。同じくp374の、「おまえのすることが、おまえになる」という日本語も、日本語だけで読むとよくわかりませんでした。私自身も恥ずかしながら、大学に入って、母校の先輩でもある神谷美恵子の展示をすることになってはじめて、ハンセン病のことを知りました。特に若い世代は知らない人も多いので、編集部からのコメントで少し触れていますが、日本でのハンセン病政策について、これを機に読者にも知ってもらえるよう、もう少し情報を含めてほしかったです。

アンヌ:表紙を見て想像していたものよりファンタジーっぽいお話でした。この宝物は母親の形見で、ドイツのユダヤ人迫害の時のように、実はハンセン氏病の患者のものを取り上げたのではないかと最初は思っていたのですが、違うようですね。宝探しとそれを狙う悪者との戦いというのは実に典型的な冒険ものですが、奇妙に心躍らないのはなぜかと思いながら読み終わりました。深い言葉をぼそりという東洋の仙人じみたオッシュとの奇妙につながらない会話とか、お兄さんのような船員さんとの会話とか、泥棒の正体とか、判然としないものがいろいろあったせいかもしれません。

アカシア:私はおもしろく読みました。p20に「オッシュと、オッシュの前にわたしにさわっただれかをのぞけばだけど、わたしにさわったこともある手はミス・マギーの手だけだった。わたしは、わたしにさわった手をいつも数えていた」という文章があるのですが、ここからクロウが避けられていることが実感として伝わってきました。ただ、クロウ自身も、島の全員が自分を避けているわけじゃない、と考え直す場面もあります。p292「たぶん、一人ずつ別々に、考えるべきなんだろうね」なんていうところです。で、なぜクロウは避けれているのか? どこから来たのか? ペニキース島で何があったのか? クロウの頬の羽のような形のあざはどういう意味を持っているのか、野生保護員は本物なのか、文字が消えかかった手紙は何を語っているのか、など謎がたくさん用意されていて、それを解いていく楽しみもありました。さっき、泥棒がドジなだけで終わっていいのか、という声がありましたが、もともと小者の泥棒なのだと思って読みました。テーマはハンセン病とか、アイデンティティとかいろいろ出ましたが、私は何よりオッシュとクロウとミス・マギーという、背負っている背景がまったく違う血のつながらない3人がひとつの家族になっていくという物語として読みました。そうすると、無駄な部分はなくて、どの箇所も必要なのだと思えました。翻訳で気になったのは、「ビスケット」という言葉がたくさん出てくるのですが、これはアメリカの話なのでスコーンとか丸パンくらいに訳していいんじゃないかな。p107の「眠ったりしたことがない」は、誰かの腕に抱かれて眠ったりしたことがない、という意味なのでしょうから、もう少しつながるように訳したほうがいいかも。p188の帆船のルビなど、誤植がいくつかありました。それから、さっきオッシュとミス・マギーの年齢が書かれていないという声がありましたが、書いてしまうと、じゃあ、この二人は付き合ってもいいよね、とか、あるいはもう恋愛なんかする年齢じゃないだろうと読者が思うかもしれないので、あえて書いてないのかもしれません。

西山:急ぎ読む必要のある本があったせいで、途中で一旦何日か読まない時間をはさんでしまったのですが、そのせいかもしれませんが、表紙とタイトルと最初の部分で得た印象と、続きを一気読みした読後の印象が乖離しています。一気に読み終えて感じたのは妙ななつかしさ。なんだろうこの感じ、と思ったら、たぶん小学生のときにあれこれ読んだ宝探し冒険物語のノリなんですね。ハラハラ・ドキドキ・ヒヤヒヤ。不完全な手紙、宝探し、宝の発見、悪漢の登場、追跡、危機一髪、危機からの解放……。表紙の雰囲気とタイトルはずいぶん違いますけど、そのイメージが残りました。ただ、お兄さんが見つかっていたら、完全にエンタメで終わっていたのですが、彼の行方が知れないのは、過去を断ちたいという彼の意志があったからではないかと考えると、ハンセン病患者への政策と差別のことを思い出させられて、そうだ、ただのドキドキ冒険小説ではなかったのだと我に返った感じでした。あと、島の荒々しくも素朴な暮らしぶりがおもしろかったです。野趣溢れるけれど、あれこれおいしそうでした。

シア:メモしながら読んでいたのですが、それが途中から先が気になってもどかしくなってくるくらい読ませる作品でした。訳文のせいなのかはわかりませんが、淡々とした文章がとても心地良かったです。p36の「十一月のような声だった」、p220の「そよ風が、軽くおじぎするように、吹きぬけていった」など、比喩表現がたくさん出てきますが、そのどれもが美しいものでした。今回に限らず、海外作品は日本の児童書と比べて全体的に大人っぽいものが多い気がしますが、p25「あるものを食べ、ないもののことは考えなかった」や、p46「『人が何かをどうしてするのか? そんなことより、自分自身のことに注意をはらったほうがいい。人のことは人のこと』」のように、時に真理だったり、心に重々しく響くことを書いてくれると感じます。主人公のクロウも、p138「でも、わたしの勘は違うと言っていた。そして、わたしはそれを信じることに決めた」と、非常に意志が強く、12歳にしては大人顔負けの貫禄です。話の内容は『あん』もですが、なんとなく『ハイジ』(ヨハンナ・シュピリ著 岩波書店)みたいだなあと思いながら読んでいました。オッシュが、クロウが離れていくことに怯えるところはおじいさんのようですし、ミス・マギーはロッテンマイヤーのような人かと思っていました。でも、物語後半にはミス・マギーの乙女チックなところが見え隠れしたり、二人がクロウを慈しんで育てていることが表れていて、とても心温まるお話でした。オッシュの過去の話が出てこなかったところも謎めいていて良かったと思います。自分のルーツを知らない人がそのことを気に病む物語はよくありますし、いろいろ見聞きしてきました。私はなんらかの事情で子どもを手放した本当の両親よりも、育ててくれた人の方がよっぽど大変だし、大切なのではないかと思っています。たいていの場合は物語もそこに帰結します。でも、p65の「『後ろを見はじめると、自分の行く先を見のがすかもしれない』自分がどこでいつだれから生まれたのか、正確に知っている人だから言えること」というクロウの一言で、オッシュの言うことはもちろん、クロウの思うことのどちらも腑に落ちました。自分の生まれが不確かな場合、その足元は私が思うよりも不安定なんですね。その苦しみは当事者じゃないと理解できません。ハンセン病になった人もそうですが、無理解が人をバラバラにすると思いました。コロナ禍という、今の世の中でも情報が錯綜したり、未だに論争が続いていたりします。そうやって伝播していく人の恐怖心が伝染病よりも恐ろしいと感じました。と、真面目なことを考えながらも、やっぱり私は島の自然に圧倒されました。満天の星空や、動物たちが自由に歩いている町中など、都会育ちの私にとっては全てが新鮮かつ非日常で楽しかったです。ただ、雨水タンクからの水を清潔と表現したり、服を乾かしただけなのに綺麗だとか、果てはノミがついているかもしれない猫と寝ているというのは……。今回のテーマの違和感をこういうところに抱えてしまいましたが、まさにこれが大自然の中での生活なんですよね。

(2022年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『セカイを科学せよ!』表紙

セカイを科学せよ!

ネズミ:ミックスルーツのことやステレオタイプからの解放など、意欲的なテーマだと思いました。ただ、いろいろなやり方でミジンコの写真を撮ろうといくところからはおもしろく読みましたが、中学生同士のやりとりにはしゃいだ感じがしたり、先生たちがあまりにもひどかったりというところは、ついていきにくかったです。こういうテーマなので、重くならないようにという配慮なのかもしれませんが。

アンヌ:生物の授業が好きだったので、題名といい目次といい、この物語はおもしろいぞと読み始めました。期待通り山口さんの虫好き度合いは普通ではなく魅力的でした。けれども、ミックスルーツの主人公が同調圧力につぶされそうな日本の中学生として、物語が始まっていくのは意外でした。梨々花の母親といい教頭といい、担任も校長も含めて、いい大人が全然出てこない物語でしたね。それだけに主人公たちの成長が気持ちよく読んでいけましたが……。ロシア語のことわざにもう少し解説があってもよかったのではないかと思いましたが、調べるといろいろおもしろくて、楽しむことができました。それから、お父さんがお兄さんに「ロシアには兵役があるぞ」という場面には、どきりとしました。

雪割草:学校の書き方が少しベタには感じましたが、虫という生きものをとりあげているのがおもしろかったです。敬語で話す山口さんや堅物な感じの校長先生は、キャラクターが漫画っぽいとは思いましたが、山口さんが風変わりな「好き」を貫く姿は、気持ちよかったです。自分の見方に固執して人のことを考えていない発言もあった山口さんが、パソコン班の人たちと一緒に研究に取り組んだり、と交流するうちに、相手の立場に立てるようになっていくのが、よく描かれていると思いました。それから、虫を気持ち悪いと言っていた子たちが、ちゃんと観察することで、案外かわいいじゃないと気が付くなど、「偏見」というものの見方について随所で描いているのも巧みだと思いました。

ハル:前回の『スクラッチ』(歌代朔作、あかね書房)と並んで、いま私のなかではトップクラスに好きな1冊です。今回のために読み直せなかった自分にがっかりするくらい好きです。p198で、「もしかして、お兄さん! 自分のことを外来種とか、外来種との雑種って思ってるんですか?」「違いますよっ」「人間は、同じひとつの『種』ですから」と山口さんが言うそのセリフを読んだときのわたしの高揚感! あの高揚感をいつも思い出します。人種とか、多様性とか、偏見とか、重たくなりがちなテーマだし、陰湿にもなりそうですが、それをここまで痛快に、そして読者の好奇心も焚き付けながら書き上げて、すばらしいなと思いました。もちろん、人間の社会は科学では割り切れないところもあるはずですが、「細胞が」とか「種が」とかで突破できるんじゃない? と思わせてくれるところが楽しかったです。

エーデルワイス:とっても楽しく読みました。表紙の絵が主人公たちの人間標本になっているところがおもしろいです。山口葉菜が何かと「ニマニマ笑う」表現がお気に入りです。
葉菜は虫女子ですが、小さい頃子どもはたいてい虫好きのように思います。ダンゴムシやミミズなどを触って。それがだんだん好きな子と嫌いな子に分かれてしまう。特に女の子は好きでも周りに併せて「虫キャー!」と、虫嫌いキャラになるのかもしれません。
ロシアの格言興味深いです。人間はホモ・サピエンス……の件は感動しました。

マリオカート: 昨年読みました。今回は再読できなかったので、当時書いた感想を話したいと思います。全体的にストーリー展開はユニークでおもしろく、引き込まれました。虫やマイナーな生物の話のなかに、人間のミックスルーツなどの話が組み合わされていますね。印象的な言葉が多く、ロシア語のよくわかるような、わからないようなことわざが、ちょいちょい入ってくるのも興味深かったです。ただ、敢えて言うと、物語の仕掛けを作ったときの力技な部分のしわ寄せが、全部、山口アビゲイル葉奈さんに行っている気がします。キャラとして、そんな子いるかなぁ、という若干の不自然さをまとっているように思いました。

まめじか:葉奈は生きものの分類にこだわっているわけですが、人間というのは、分類できない複雑さをもっています。それは、科学部のメンバーをはじめ登場人物のいろんな面が描かれることで、主人公のミハイルにも読者にもだんだんわかってきます。「人種」は社会的に創られた概念だという考え方もありますが、この本には、人間はみなホモ・サピエンス種なのだとはっきり書かれていますね。ちょっと気になったのは、実は研究発表はしなくてよくて、研究テーマさえ決めればよかったというオチです。校長はブツブツとつぶやくようなしゃべり方で、聞きとりにくかったと書いてあるものの、p148には「研究成果が出ることを期待しています」とあるので。ミハイルたちにはそういうふうに聞こえたということなのかもしれませんが、若干無理があるような。

シア:この本、とてもおもしろかったです。ラストの「他人の言うことにとらわれるな」というロシア語のことわざに全てが詰まっていると感じました。共感性というものが生活の軸になっている、今の子どもたちや社会をしっかりと表現していると思いました。ルーツに揺れる主人公たちの気持ちもていねいに描かれていて、第一印象が大事だとか、人は見た目が9割だとか言うイメージ先行型の考えを持っている人を柔軟にしてくれそうです。話の展開やキャラクターたち、そして読後感も良いので、中高生にぜひ読んでほしいと思います。JBBYのおすすめ本選定でほぼ満点を取った本というのもうなずけます。生徒たちがパソコンを使えないというのもリアルでした。今、学校で配布しているのもタブレットだし、保護者ですらスマホ中心の生活に移っているので、パソコンが家にない子もいるんですよね。小学校でパソコンの授業が必修化しましたが、若い教員やベテランでもパソコンが使えなかったりしますし、どうなることやら。それにしても、保護者にしても誰にしても、意見を言いやすい世の中になったと思います。ただ、それは意見というよりは言ってもいい相手に放つ言葉という感じがします。今の時代、共感を持たれやすい言葉を使うことが求められていて、ミハイルのように周りに合わせることが重要だと思う子が多くなりました。だから良いとは言えませんが、ミハイルの生き方は日本社会、こと学校では間違えていないし、梨々花がこんなにいろいろ言えるのは周りに受け入れられているからだと思います。でも、ミハイル本人の思いとは裏腹に今後彼は顔で受け入れられていきそうですね。理不尽が横行しがちな義務教育を乗り切れば、あとは顔面偏差値がものをいう世界でもありますから。何を言ったかではなく、誰が言ったかというところを重視されがちな世の中ですし。ユーリ兄ちゃんも日本にいればいいのになあ。個人的にすごく良かったのはp179の「俺たちは意味不明に張り切った」というところで、自分で決めた納得のいく目標が出来れば、この頃の子ってそれこそ意味不明に頑張れるんですよね。学校に限らず、そういう機会や選択肢を増やすことが大事だと思います。気になったのは蚊のところですね。p125で「誰かが、わざとはずしたんじゃなくて」と言っていますが、これはわざとと言えるのではないかと。根底に悪意が完全にないわけではないんじゃないかなって。悪意ある風評によって、「肝試し」「魔界」というマイナスな印象を持っているわけだし。それを否定せずにいること自体、悪意と言えるのではないでしょうか。そもそも忍び込むということ自体まずいですよね。謝ってすむとか、中1だからという風潮は良くないと思います。虫めがねを隠した子たちも含めて、軽い気持ちのいたずらがどういうことになるのか、ここで教師の出番のはずなのに何もフォローがないのが気になりました。嫌な教師や悪いことをした子たちが物語を展開するだけの道具になっていることが残念です。メグちゃんも新人だとしてもイライラするレベルです。それに生徒用(しかも科学部)のパソコンなのにノートパソコンで、しかも防犯用に固定もされていないなんて、この学校の危機管理はどうなっているのか問いたいくらいです。他にも部活動や教員関連で問題にしたい部分も散見されましたが、前回わりと散々言ったのでもういいかなって感じです。

アカシア:ユーモラスに問題を展開させていくという意味で『フラダン』(古内一絵著 小峰書店/小学館文庫)を思い出しながら読みました。あっちは高校生が主人公なので、もっと心理的には複雑なんですけど。おもしろくする工夫はいろいろあって、p11のミハイルが作ったチラシですが、不必要なアキがあったり、点が2つあったりなど、わざと間違いがあるままに出しています。p79の最後の文章とか、p122のボウフラのネットをはずして謝りにきた中1の男の子たちの描写とか、父親はこの人だと言って葉奈の母親がウィル・スミスの写真を見せるところだとか、笑える文章も随所にありました。ミハイルは考え方も話し方も日本的なんだけど、ところどころにロシア語のことわざがはさんであって、「あ、ミハイルのお母さんはロシア人だった。ダブルルーツの子だった」と思い起こさせてくれます。空気を読むことばかり気にして無難に世渡りしようと思っているミハイルに対し、空気を読むことに興味がない葉奈。両方外国ルーツも持つという共通項がありながら正反対の主人公を出しているのがおもしろいですねえ。そして、ステレオタイプに考える人たちと、それに反発するミックスルーツの人だけではなく、p110で「もっと深刻な悩みを持ってる人はいっぱいいるんじゃないかな。不治の病とか、親に虐待されてるとか、すんごい貧乏だとか」「こっちもいそがしいんだからさ。な、いちいち甘えんな」などと言ってしまう仁のようなキャラクターも出してくるので、読者も複合的な思考を迫られます。仁の存在はけっこう大きくて、その影響もあってミハイルも兄に対して「つらいのは自分だけみたいな顔しやがって。十八にもなって情けねーんだよ! 誰だって悩みのひとつやふたつくらいあるだろ。俺だってなー」(p194)という言葉をぶつけるわけですが、兄が本当に苦しげにギュッと拳を握りしめていることに気づいてハッとします。ここで、ミハイルは(そして読者も)さらに複雑な思考を獲得できそうです。山口葉奈の小動物についての蘊蓄も、ミジンコの心拍数をどう計測するかを考えていく過程も、おもしろかったですし、他者と合わせようとしない葉奈の存在そのものも、葉奈の発言も小気味よかったです。

ANNE:この会に初めて参加させていただきました。皆さんの感想が本当にそれぞれでおもしろいですね。私は2009年まで学校図書館にいましたが、当時の中学生はパソコンをもっと使いこなしていたイメージがあります。この十数年で子どもたちのIT環境もずいぶん変化してるんだなぁと改めて思いました。個性豊かな登場人物の中でも印象に残ったのは、主人公ミハイルの兄ユーリです。なかなか自分のアイディンティティを見いだせず、バイトもうまくいかない、いっそロシアに行って暮らそうかなどと考えているユーリの存在がこの物語の大きなキーワードになっているように思いました。ロシアで暮らしたいという長男に向かって母が言う「ロシアには徴兵制度があるのよ」という言葉が、現在の社会情勢とも相まって大変心に残りました。

しじみ71個分:この本はとてもおもしろかったのですが、残念なことに最初の出会いで失敗してしまいました。研究会の課題本になっていて、まだ読んでいないときに、先に人の意見を聞いてしまったんですね。なので、その印象が強くて…。多くの研究会参加者がおもしろいと言っていたのですが、葉菜の外見的な特徴で彼女のルーツについて表現しているという点で、こういった表現は既に海外では受け入れられないだろうという指摘もありました。なので、その印象に引きずられて読んでしまったかもしれません。でも、自分で読んでみたら、テーマも大変に挑戦的ですし、お話の内容もテンポも軽快で明るいですし読みやすく、やっぱり物語の作り方が非常にお上手だなと思いました。すべてのキャラクターも個性がはっきりしていてとっても読みやすいです。ただ、葉菜の「コーヒー色の肌」とか、「紅茶色」とか複数回出てくるので、キャラクターの紹介が既に終わっている段階だったら、肌の色についてはそんなに何回も記述しなくてもいいんじゃないかと思ったところはありました。また、アフリカにルーツのある人たちはバスケがうまいとか、そういったステレオタイプなイメージを破るために、あえて正反対の、虫好きの、運動が得意ではない人物を立ててきたおもしろさはあるのですが、それがある意味、逆にステレオタイプになっているかもしれないなとも、ちょっと感じてしまいました。ですが、後半にミハイルや葉菜のルーツの問題は置いておいて、生物班の存続のために、みんながミジンコの心拍数をどうやって計測するかについて、実験してトライアンドエラーを繰り返すあたりの場面はとても新鮮で、科学的な視点を持つことの重要性やおもしろさを伝えてくれましたし、葉菜のホモ・サピエンスについての考え方に表れているように、偏見とか先入観、思い込みといったものを科学的な視点で乗り越えていくこともできるんだと気づかせてくれ、読んで明るい希望も湧いてきました。

ルパン:おもしろく読みました。はじめ、「なんだ、部活ものか」という感じで、大仰なタイトルに合わないんじゃ、と思ったのですが、後半からぐいぐい来て、さいごはこのタイトルがぴたりとおさまりました。普通だったら腫れ物にさわるように避けてこられたようなテーマを正面から取り上げていて、すごいな、と思いました。しかも、誰も傷つけずにデリケートな問題に向かい合うことに成功している。「国際児童」「こじらせ系ハーフ」「コーヒー色の肌」、しまいには「北方領土をどっかの国からまもらなきゃ」まで言っちゃって、まさに「あっぱれ」です。

しじみ71個分:ネットで、バスケのオコエ桃仁花選手や、八村阿蓮選手が、日常的にTwitterなどで人種差別を受けているという記事を読んだり、自らのアイデンティティについて苦悩する八村選手の短編映画などを見たりしました。彼らに対して投げかけられた差別発言は目を覆うばかりの酷さです。この本は、そういった差別意識を乗り越える一つの方法を提示しているように思いますし、気持ちよく読んで、ミックスルーツ問題について考えるきっかけを得ることができると思うのですが、一方で、その前に、本当にひどい差別が社会に横行している事実や、差別で傷ついている人がいることを知らせる必要があるとも感じました。自分では気付かない差別意識が自分の中にあるのではないかと常に問いかけることを伝えてくれるような、そんな本もあったらいいなと思います。

アカシア:日本には差別がないと思っている人は多いんですけど、そんなことはないですよね。私は、若い時に反アパルトヘイト運動をやっていた方から、「子どもが好奇心をもって、アフリカ系の人の髪の毛にさわろうとしたりするのは差別ではない。それを差別だからとやめさせようとすると、見て見ないふりばかりするようになってしまう」と聞いて、なるほどと思ったことがあります。自戒を込めていうと、日本は、差別してないと思っている人でも、アフリカ系ならダンスがうまいだろうとか身体能力がすごいだろうなどとステレオタイプで見る場合が多いし、見て見ないふりの人も多いと思う。

西山:最後まで再読しきれなかったのですが、やっぱりおもしろかったです。「科学」の取り込み方が絶妙! 生きものの分類に対する興味とミックスルーツの自分の問題がかっちりはまっている。情緒的に「差別はいけません」「いじめはいけません」と説くより、よほど説得力があって、同調圧力のうっとうしい壁に風穴を開けてくれるのではないかと思います。課題図書にもなって、多くの中学生の手に取られることは喜ばしいと思いました。ボウフラのネットが外された事件も、山口さんの「よかった」「誰かが、わざとはずしたんじゃなくて」というつぶやきに、ミハイル同様「悪意というものがなかったことに救われた気持ち」(p125)になりました。この展開を結構大事なメッセージだと思っています。あと、ロシアのことわざがキュートですね。ロシアのウクライナ侵攻の前にこの作品が出ていてよかったと思います。ロシア人を、そういう文化を持っている人たちなんだ知っていることが、妙に重要になってしまったと感じています。

(2022年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年11月 テーマ:クラブ活動

 

日付 2022年11月17日
参加者 ネズミ、ハル、シア、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、まめじか、西山、さららん、サークルK、ニャニャンガ、アマリリス
テーマ クラブ活動

読んだ本:

(さらに…)

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『5番レーン』表紙

5番レーン

西山:本作りはきれいだけど、どうにも読みにくくて入って行けませんでした。冒頭の3行ですでにつまずいて……。「ナルは5番のスタート台にあがった。……ひとつだけちがったのは、ナルのレーンが5番じゃなかったということ」タイムが速い順に4番、5番なのかということがなんとなくわかって、なんとか理解はしましたが……。部活や学外のスポーツクラブの在り方が日本と全く違うのだなと、こういうことを知ることができるのが翻訳作品のおもしろさだなとは思いました。

コアラ:おもしろかったです。ただ、韓国のことをあまり知らなくて、いろいろわからないまま読み進めて、いろいろひっかかりながら、少しずつわかっていく、という感じで読みました。名前では、誰がどういう人なのかわからなくて、例えば、主人公のナルと仲のいいスンナムについては、p23で「オレが買った」とあったので、男子だったのかとようやくわかりました。年齢と学年についても、最初のほうで、小学校の水泳部でナルは小学6年生と出てきますが、p19の最後のほうで13歳となっています。日本でいうと中学1、2年生かと思いましたが、p44の中ほどの括弧で「(韓国は生まれたときを一歳とする数え年)」とあって、結局日本と同じ、小学6年生の12歳だとわかりました。これがわかるまで、年齢と学年はひっかかりになっていました。あと、小学校の水泳部とありますが、日本でイメージするような、ただの学校のクラブ活動でなく、オリンピックを目指す選手がお互い切磋琢磨するような、すごくハイレベルなところだとわかってきます。それから、水泳のこともよく知らなかったので、5番レーンの意味もよくわからないままでした。たぶん、4番レーンが予選で1位だった人、5番レーンが予選で2位だった人、ということなのかな、とは思いましたが、はっきりとは書いていなかったように思います。読み飛ばしてしまったかもしれません。それでも、いろいろわかってくると、すごくおもしろくなったし、p132の3行目の恋の始まりの表現など、すてきな表現がいくつもありました。ただ、どちらかというと大人びた表現のある物語なのに、絵がとても幼く感じられて、そこに違和感を感じました。絵が全部カラーで贅沢なつくりだし、きれいな本だとは思います。

アマリリス:ひたむきなスポーツ小説かと思ったら、ナルが水着を盗むシーンがあって、そっちの方へ行くのか! と度肝を抜かれました。そこからの展開は非常に読み応えがありました。幼馴染のスンナムが実はチョヒと付き合い始めていた、というオチもおもしろかったですね。チョヒが、もっとイヤな子なのかと思ったら意外と素敵なライバルとして描かれていたのが印象深かったです。子どもたちがそれぞれ、過去に盗んだものの話をして主人公を励ますのもよかったと思います。ただ文章自体は、ツッコミどころが多い気がしました。以前、すんみさんの別の翻訳を読んだときはスムーズに楽しめたので、今回の作品は原文に問題があるのでしょうか。特に気になったのは、三人称のブレ。ナルとテヨンの視点が、章ごと、段落ごとに入れ替わるぶんにはいいのですが、1行ごとにブレている場面がありました。あと、最初にチョヒの水着の描写があったとき、色は書いてなかったように思うのですが、途中から急に「ピンクの水着」と出てくるので、同じ水着の話をしているのか、遡って確認作業をしなくてはなりませんでした。午後の練習時間の長さもはっきりわかりづらいんですよね。放課後に練習を始めるけれど、毎日夕方6時に公園で月を見ることはできるなら、練習時間は短いのかしら、と気になりました。ところでカラーのイラストが文中にたくさんあるって素敵ですよね。これ、印刷のコストはかなり高いのではないでしょうか。

ニャニャンガ:当初は一部の挿絵を使う予定だったのが、すばらしい絵なので、すべての挿絵を使うために担当編集者が頑張られたと伺っています。

シア:冒頭の「テイク・ユア・マーク」の一文が真っ先に目に飛び込んできて、クールさにしびれました。訳さずにそのままなんですね。よく文章内でフルネームで呼ばれていますが、これはどういう意味合いなんでしょう? 日本やアメリカではフルネームはわりとネガティブな印象なので不思議でした。物語の内容以前に、国の教育レベルが全然違うことに衝撃を受けました。PISA調査でも結果は出ていましたが、日本は世界から完全に後れを取っていることを改めて突き付けられました。小学生のうちからこんな高度な特別チームで一生懸命練習をしていて、中学に入る前の時点でふるい落とされる……それが国全体でのレベルを上げるということなんでしょうね。p 221「国旗が描かれた名札」をつけるなど、強化選手でもないのに仰天なのですが、国を挙げて教育しているんだなと感じました。『スクラッチ』を読んでからこちらを読んだので、余計に日本の部活システムが子どもだましに思えました。部活なんかでお茶を濁しているのにオリンピックでメダルだなんて、日本は負けましたと言っているようなものです。日本でもプロを目指している子はそもそも部活には入らずに、地域のチームに所属しています。素人の教員(ほぼ無償)が指導する部活なんていります? 熱い思い出だけじゃ、世界と肩を並べる力になりませんよ。この作品に出てくるコーチは精神的な暑苦しさがなくて冷静でまさにプロです。揺れ動く子どもたちに余計な口出しもあまりしません。青少年育成のために運動をさせるなどという名目もありますが、世界を見据えるなら早急に考え直していただきたいです。部活動というものにメスを入れるために、学校関係者はぜひ『スクラッチ』とあわせて読んでほしいと思いました。とは言ったものの、小学生なのに古典的な恋愛模様を繰り広げていて、さすが韓ドラの国だと笑ってしまいました。挿絵はかわいらしいのに、トレンディドラマのようなシーンの数々に少々居心地が悪くなります。水着事件の際、一生を棒に振る覚悟で大騒ぎするような年齢相応の子どもなのに、色恋沙汰はレベルが高く、韓国は本当にいろいろ進んでいるなと思いました。

アカシア:こう来たか、と、私はまず本づくりに感動しました。新しい風が吹いてきた感じがします。絵やレイアウトもすばらしいです。韓国は、児童書に対しての国のバックアップがすごいんですよ。それで、こんなに勢いがあるんでしょうか。文章にはそんなにひっかかりませんでしたね。小学校6年生らしい子どもたちが登場して、その心理がとてもうまく書かれています。おとなは、出来心で盗ってしまったなら謝って早く返せばいいじゃないって思うけど、この年齢の子どもだから悩むんですね。恋愛も初々しい感じだし。p111に「だったらお姉ちゃんもいかせない、とアタシが水着をかくしたりしたから」は、みごとな伏線になっていますね。

サークルK:みなさんおっしゃっているように、たくさんの挿絵がとても素敵でページをめくるのが楽しかったです。全部カラーなんて贅沢ですよね。表紙をめくった見返しのところが水玉で(裏の見返しは緑色の水玉に変えてあって、おしゃれすぎます!)さわやかなソーダ水のようです。放課後の水泳部は決して甘いものではありませんが、友達との関係やほのかな恋心などが、重たくなりすぎず展開していくことを示してくれているみたいでした。私が特に気に入っているのは、ナルの姉ボドゥルです。水泳から飛び込みに競技変更した姉に対しナルは納得がいかず、ひどい言葉で姉をなじりますがそんな妹に対して素敵な言葉で今の自分の気持ちを語ります。「競技をやめたって世界は終わらない」(p192)、「あたしはやれることを全部やったから、もう心残りがないの……」(p193)、「水に落ちてるわけじゃないの。……自分で飛んでるの」(p194)、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてる事じゃなくて、飛んでることになるわけだから」(同)、これらの言葉はこの作品にとどまらず、手帳に書き留めておきたいくらいの珠玉の言葉と言えるでしょう。「飛び込み」は競技のひとつではありますが、いわゆる「飛び込み」は「死」を連想させる言葉にもなりえます。この本を手に取る子どもたちが、ボドゥルの前向きな「落ちてるんじゃなくて飛んでるんだ」という言葉に救われると良いなあとも思います。また、ナルの友だちテヤンが書く手紙(p 210)にある「僕はいつもナルの味方だよ。ナルが自分の味方になれないときでもね。わかった?」という言葉もこれ以上の励ましはないほどの温かい心のこもったもので(ラブレターと言ってしまっては陳腐な表現になってしまうので、あえてそうは言いたくないのですが)、落ち込んでいる人にはこんな言葉をかけてあげられる人になりたいものだ、と思いました。最後に、この本の中で扱われているテーマの一つに「成長期の子どもがはまり込むスポーツの弊害」もあるような気がします。最近読んだ平尾剛氏のコラムを思い起こしましたので以下をご参照ください。「勝つたびに『俺は特別だ』と思い込む…巨人・坂本勇人選手のような『非常識なスポーツバカ』が絶えないワケ」(PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/63326?page=1 2022年11月14日15:00)

アンヌ:まず挿絵が素晴らしいなと思いましたが、人物については線が柔らかすぎて、体形がスポーツマンというより、ふんにゃりして幼い気がしました。実は私は水泳部に少しだけいたことがあるので、主人公からプールのにおいがしたり、コーチが、p124で「一番遠くにある水を引っ張ってくると考えて」というところなど聞き覚えがある気がして、懐かしい気持ちがしました。p70のお姉さんがサイダーで飛び込みをたとえるところなど、想像できて美しいです。韓国と日本との部活の意味の違いとかに興味を持って読み進んでいたのですが、ナルが自分と勝ち負けだけにこだわっている子なので、だんだん飽きてきてしまいました。それでも、周囲の人々はみんな優しく、彼女を見守っていてくれるおかげで物語は進んでいきますが、もう一つ釈然としないまま、スポーツマンとして成長していこうというナルの意思が語られて終わったなあという感じでした。

ネズミ:私は最初からナルのキャラクターにひきつけられて読みました。水泳のことばかり考えていたナルが、テヤンが現れたことや、姉の変化などを通して少しずつ変わっていく微妙な心理が描かれていてとてもよかったです。はしばしの描き方もよかったです。p104の三日月を見るシーンで、「ああ、でも……月に行っても泳げる?」とナルが言い、テヤンが宇宙の知識を出してくるところ、それぞれの性格が会話の中にそれとなくにじみでています。p133の1行目「いいよ、いいね、どうしよう。このうちどれが、いまの気持ちにぴったりなのかがわからない」と思って、結局スタンプを送るなど、心の動きがうまく表現されているなと。

エーデルワイス:表紙、挿絵が水色と黄緑色を基調とした綺麗な本です。読む前にページをめくって楽しみました。以前リモートの「オランダを楽しむ会」に参加してオランダと日本の小学校教育の違いを丁寧に説明していただいて、どちらが良いとか悪いとかではない、というお話が心に残っていましたので、『5番レーン』を読んで、韓国と日本の教育や部活の違いを考えてしまいました。小学生のまだ体ができていないときに、過酷なトレーニングはどうなのだろうか? 英才教育も大事だけれども、仲間と共に楽しむ部活もいいのではないか? 全国のそんな部活の中から才能のある子たちが出てくるのでは? 世界的バレエコンクールで日本のバレリーナが毎年のように上位に入賞するのは、日本国内に大小たくさんのバレエ教室があるためと聞いたことがあります。子どもたちは楽しんでバレエレッスンしてその中から才能ある子が伸びてくるのだそうです。ナルたちがスマホでやりとりしていますが、日本の小学生はまだスマホは持てないと思うので(それともキッズ携帯?)、どうしても中学生のような設定の物語に思えます。11月15日付日経新聞に「お隣の韓国で、初の絵本が出版されたのは1980年代末。ソウル五輪のころ経済成長をとげ、言論や出版の自由が広がったのが背景だという。日韓の絵本を紹介する、千葉市美術館で開催中の展覧会で知った。大正期から100年超の日本とくらべ歴史の短さに驚く。」(春秋 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65984750V11C22A1MM8000/ 日本経済新聞 2022年11月15日2:00 ※会員限定記事)という記事がありました。韓国での児童書に対する手厚い保護については聞いたことがありますが、なるほどと思いました。

さららん:思うようなタイムを出せず、今までの地位から落ちたカン・ナルは、自分で自分を受け入れられない葛藤を抱えています。そんな閉塞感とは対照的な、透明感のある広々とした空間のある絵が、物語の風穴になっているのかもしれないと思いました。そして幼馴染で水泳部部長のスンナム、親友サラン、転校生で水泳部に入ってくるテヤンをはじめ、群像がよく描けています。焦っているカン・ナルと反対に、テヤンは前向きでマイペース。ナルの姉ボドゥルも、葛藤を経てきたはずなのに、とにかく明るい。ナルの母親も、自己実現のために子どもに何かをさせている親ではありません。そんな周囲の人々が重いテーマの救いになっています。p224で、ナルは苦しい秘密をチームメートに告白しますが、みんなが「とにかくごはんを食べよう」と誘ってくれるところなど典型的です。またテヤンが科学者になりたいと思っていたり、ナルとスンナムとテヤンが公園に1か月通って、月の観察をしたりする章があることで、水泳がテーマの物語に思いがけない奥行が出ています。泳ぐことと空中遊泳の類似など、宇宙への広がりを覚え、気持ちのよい部分だなあと思いました。気になったのは、視点のギアチェンジが時々ぎくしゃくするところです。テヤンと交互に話が進むのかと思いきや、主人公はやはりカン・ナル。ほぼカン・ナルの気持ちに寄り添って読めるのですが、ただその視点が大きく揺れることがあるのです。例えばずっとナルの心理に寄り添った描写だったのに、急に突き放すような「八年の友情に危機がおとずれた」(p45)」という客観描写があって……「八年の友情もこれで終わるのだろうか」と書いてあれば、ついていけたのですが。

ニャニャンガ:ご近所なのに、あまり知らない韓国の学校事情がわかり興味深く読みました。水泳部の女子エース、小6のカン・ナルの目を通して、本気で水泳をすることの厳しさが伝わってきます。ライバルの水着を盗んでしまう場面にはドキドキしましたが、きちんと始末をつけていさぎよかったです。挿絵が豊富にあるおかげで読み進められる読者もいるのではと思いました。

まめじか:物語全体をとおして、ナルは水の中でもがきながら、前へ前へと進もうとします。競泳から飛込に転向した姉が、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてることじゃなくて飛んでることになる」(p194)とナルに語るのが、心に響きました。ボーイフレンドのテヤンやチームメイトとの関わりもよく描かれていますし、あたたかみのある絵がいいですねえ。最後の行にある「見てろ」は、日本語で読むと少し強いというか、闘争心をストレートに感じました。

ハル:私は、何人かの方がおっしゃっていたような、大人っぽさは感じませんでした。恋愛も、初恋の初々しい範囲かなと思います。それに、大人の私でも、もし自分がライバルの水着をとってきちゃったとしたらと考えると、それをいろいろ言いつくろって自然に返せる自信はないなぁ。シューズとかラケットとかだったらまだ「間違えちゃった」でごまかせるかもしれないけれど。なので、ナルが「もう水泳もできないかもしれない」というくらいに追い詰められたのも理解できます。全体的にはいいお話だったけれど、デビュー作だからなのか、皆さんがおっしゃるように、読みにくいところはあって、もう少しブラッシュアップできそうだなと思いました。そもそも、4番レーンと5番レーンの説明ってありましたっけ? 予選でいちばん速い子が4番レーンを泳げるんですよね? たぶん。その説明は、必要だったと思います。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『スクラッチ』表紙

スクラッチ

まめじか:不要不急という言葉が押しつける我慢、大人が求めがちなものわかりのよさに、中学生が全力で抗う様子が頼もしく、気持ちよく読みました。災害やコロナなど、人生にはいろんなことがありますよね。思いがけないところから墨が降ってきて絵を汚されちゃったりもするし。でも、なんど闇が訪れても、光さす暁の瞬間は必ずあって、それはこの手でつくっていける、浮かびあがらせていけるというのに、ぐっときました。主人公たちが、ぜんぶ人になんとかしてもらおうとか、だれかのせいにするとかじゃないから、応援したくなるんですね。鈴音はディズニーランドに行こうとしている友人を非難したことで、それは帰省した姉を避ける近所の人と同じだと諭されて反省していましたが、そうやって自分のことを省みたり、千暁(かずあき)が絵を通して自分と向きあったりする様が、すがすがしかった。鈴音がすぐに泣いたり怒ったりして、生の感情をストレートに表せるのに対し、千暁はいつも冷静で、人との距離をはかりかねているようです。感情をむきだしにした鈴音の絵と、千暁が洪水のあと避難所で暗い感情を押し殺し、鮮やかなクレヨンで描いたタンポポの絵の対比が、見事だなあと。若干気になったのは、登場人物がみんないい人というのと、手の皮がむけるような過酷なトレーニングは、今の中学では行き過ぎた部活指導にあたり、指導として認められないのではないかということです。

シア:そういう指導の仕方は今の時代アウトですね。でも、残念なことにこういう学校がないとは言い切れないので、今後の部活動の在り方が問われますね。

まめじか:p. 3の「肌色」という言葉は、使わないほうがいいのでは……。「そんなキャラやったっけみのり?」(p 73)、「なんだそれふつうにひどい男じゃないかって思ったけれど」(p104)、「千暁みたいに頭よくないよどうせ」(p277)などは、読点がないのが少し気になりましたが、このほうが一気に読めて勢いが出るのかな。p191の千暁の章で「二宮(みのり)さん」とあるのは、千暁の心の声として「みのり」を括弧書きにしてるのか、それとも二宮さんがみのりのことだと、読者にわかるようにしているのか?

ハル:私はこの「(みのり)さん」の感じ、わかるなぁ。こういう子、いませんか? 親しみは感じているけれど、名前呼びするのは気後れするから、わざわざ括弧をつけて呼ぶ。ちょっと二次元的な表現なのかな。

ニャニャンガ:千暁にとって、この時点でまだ下の名前で呼ぶほどには打ち解けていない相手なので、括弧付けで名前を入れたのだと思いました。

まめじか:「べたべたとネットをくぐって」(p53)、「きゅっと僕を見た」(p104)、「きゅっと姿勢を正して」(p266)、「ペンギンのようにでべでべとかけて」(p149)、「雲が空をごんごん流れてきて」(p331)など、表現が独特ですね。「片手でわしっとつかんで」(p105)、「目元をにこにこさせて」(p109)などは日本語として正しいのかわかりませんが、そういうことを気にしすぎると、表現として窮屈になるのでしょうね。

アマリリス:一人称で書かれているので、この登場人物自身のボキャブラリーなのだと認識していました。だから、違和感なく読めましたよ。

ハル:久しぶりに、っていうと語弊があるかもしれませんが、久しぶりにいいYAを読んだなぁという読後感に浸りました。中学3年生の内面が、実際にそうなのか、本当のところはわからないけれど、表現されているこの子たちの心情や行動が、すべて真に迫っている、圧倒的なリアリティを感じました。体感をともなって想像したり、共感を覚えたりしながら読むことができました。もしかしたら、主人公たちと同世代の読者には、ちょっと長かったかなぁというのは少し気になりましたが、ぜひ、中学生、高校生に読んでもらいたい本です。

ニャニャンガ:とてもおもしろく、ほぼ一気読みでした。スカッと気持ちのいい青春物語という印象です。題名の「スクラッチ」の意味がわかってからは、さらに物語に入り込みました。じつは表紙の絵があまり好みでなかったために読んでいなかったので、今回みんなで読む本になってよかったです。翻訳作品にはない日本語の自由さを感じたので、翻訳者としてうらやましく思いました。p237「によによ笑う」、p247「す、っと、はっかのような空気が僕の肺に流れこむ」などの表現がとくに印象に残りました。またp255の絵を描くシーンにはドキドキしました。千暁が転校してきた理由や、その後、人と深くかかわりをもってこなかった理由などがわかり、鈴音と文菜、健斗との交流を経て少しずつ心がほぐれていくようすがよかったです。千暁の読み方がなかなか覚えられなかったけれど、千の暁という名前が物語とつながり、ぞくぞくしました。最後は、浸水被害の被災を乗りこえる家族の姿に感動しました。

エーデルワイス:とてもよかったです。今どきの中学生が、ため口で本音を語り、清々しい。コロナ禍になって3年ですが、子どもたちにとって1か月でも1日でもかけがえのない日々です。制限や我慢の連続の影響が今後どのようにでるのだろうかと心配です。主人公の鈴音、千暁たち中学生のいらだち、希望がストレートに伝わりました。印象的な場面はたくさんありますが、鈴音の中学生活での最後のバレーボールの試合終了後の場面は青春! でした。千暁が両親と美術館へ行った帰り、カップラーメンを食べたいと提案すると、いつも完璧に美味しい食事をつくる母が賛成して震災直後よく食べていた銘柄を言うところは、震災を体験して心に傷を負いながらそれを言葉にしてこなかった家族がようやく復活した素敵な場面だと思いました。

ネズミ:コロナ時代の中学生活を描いていて、もやもやのたまった感じがよく出ていると思いました。中学生同士のやりとりは、中学生は「あるある」という感じで読むのかもしれませんが、この会話がリアルなのか、戯画化や誇張があるのか、私には判断がつかず、ちょっとやかましく感じられて、途中はとばして読んだところも。あと、途中で説明的と感じられるところもありました。千暁は賢くて、自分で説明をつけていくだけかもしれませんが、p160の4行目で「この病気は仮病だと疑われて理解されにくいこともある、みたいなこともレポートされていたっけ、と思い出す」、p161の6行目「僕自身も親が、特にお母さんが小さい子どもに注意するようにいまだに口うるさいことにうんざりすることもあったけれど……」とか、この子の説明ではなく、物語でわからせてくれたらいいのになと。

アンヌ:よくこのコロナ下の現状と被災者の気持ちというのを描いてくれたなと思いました。きれいな絵を描くことで、母親の期待に添い、過去から目を背け自分を押し殺していた千暁が自分自身を取り戻し、真の創作衝動を取り戻す。それに対して、並行した主人公であるはずの鈴音は魅力的な個性なのに、狂言回し的役割なのが残念です。ただ、千暁の冷静さが、おもしろさを阻んでいる気がしました。あまりに自分や家族を冷静に分析しすぎで、中学生というより作者が顔を出して語っているのをずっと聞いているような気がしました。恋愛的要素を実に繊細に排除しているのも少し不思議でした。

アカシア:私はアンヌさんと違う風にとっていました。千暁はコミュニケーション障害を持っていることを自覚していて、一つ一つをピンダウンしていかないと次に進めないんだと思うんです。それで、友だちもできにくいので、親もそれを心配しているわけですよね。だから、必ずしも理想的な家族じゃないと思うんです。それと、最初ざっと読んだときは、美術の先生が男性だと思ってたんですが、もう一度ちゃんと読んだら、女性だったのにびっくり。全体に、生きのいい日本語ですよね。翻訳ではなかなかこういうわけにはいきませんね。このくらい自由な日本語で翻訳もできるといいんですけど。リアルにコミュニケーションを取った時、人は他者の立っているところに気づき、その人ならではの困難に気づき、自分をより客観的に見ることができるようになっていくんですね。最後の部分ですが、はじめは「私は行くんだ」ですが、次は「私たちは、行くんだ」になっているのが、象徴的ですね。好感をもって、おもしろく読みました。

シア:気になっていた本だったので今回読めてよかったです。スクラッチ技法も好きなので楽しく読めました。流行りの言葉遣いや物、時代を反映したフランクな一人称ものってすぐに古くなるので苦手で、最初は抵抗があったんですがリズムのよい文章でテンポよく読めました。ラストに天気が自分の気持ちに寄り添わないというのもよかったです。虹がかかるとか、心地よい風とか締めの定型みたいなものを壊してもらえてすっきりしました。そして田舎の広さに憧れました。お庭でバーベキューができるとか、家庭菜園というレベルではないものを毎日食べられるなんて羨ましい限りです。この作品では羽化に例えていましたが、中学生くらいは体も心もさまざまな変化が訪れる年齢ですよね。それを汲み取ったよい成長ストーリーになっていると思いました。今の学校生活や学生に求められるものというのは、理不尽ですが明確な正解があって、それをなぞっていけばなかなかよい生活が送れてしまえるんですよね。そういうことをわかっている子は優等生として優遇され、そのレールに乗れば社会でも無難に過ごせます。でもそのせいで、早くから一芸に秀でるということができません。それが今の日本が世界から一歩、もしくは何歩も遅れ気味になっている原因の一つかもしれないですよね……。という風に、子どもたちの成長の話に関してはとても興味深く読めましたが、教員に関しては世間一般ではまだまだアップデートがされていないと感じました。読んでいてもかなり負担が大きくて、千暁のお母さんが言っていたような「呪いをかけ」られている感じです。教員のプライベートを度外視した、“生徒に寄り添うよい先生”が全体を通して描かれているんです。生徒や保護者にとってはよいことだし、今の世間的にも受け入れられていることなんですが、そういうひとつひとつが現在の教員を追い詰めていると感じます。粉骨砕身、滅私奉公、一人の人間としてではなく“生徒優先の正しい教員として過ごすべき”と価値観を押し付けてきた結果が、今日の教員不足に繋がっていると痛感します。聖職と考えて個人的に行う分にはいいと思います。これもフィクションだし、いいと思います。けれどこれを教員の「正解」として求められてしまうのはかなり苦しいと感じました。

アマリリス:今回、自分のなかでは、まったくノーマークだった2作を読む機会をいただけてよかったです。『スクラッチ』は、非常におもしろいと思いました。最初は、ネット用語的なものを盛り込みすぎて、読みづらく感じたのですが、慣れてくると違和感なく、むしろ心地よく読めました。何年か後に古びてしまうことを恐れないで“今”を切り取っているところに覚悟を感じます。美術やバレーに携わる人の成長を描く青春小説としては、そんなに大きく新しい要素はないと思いますが、コロナ禍の閉塞感が再現されていて、今の子どもたちが親近感を持って読めるお話だなと思いました。表紙が、ぱっと見ただけで岡野賢介さんのイラストだとわかりますね。インパクトがすごい。ただ、読み終わってみると、千暁の絵のイメージと、表紙の絵があまりにも違うので、千暁の絵のタッチに近いものを見てみたかったな、という気もしました。あと、文章の細かい表現がいろいろよかったです。たとえばp195「ふつふつとした炭酸のような笑いが、あとからあとから、体の内側に湧き上がってくる」、p314「俺らが全部やったんスよ。仙ちゃんは漂ってただけ」などがユニークだと思いました。

西山:すっごくおもしろかったです。教員像、仙先生が女性なのがおもしろいと思っていた程度で、出てくる教師たちの働き方は気にせず読んでいましたが、確かにアップデートは大事ですね。抑え込まれた痛みを、痛みとして受け止めることの大切さが書かれていて、『フラダン』(古内一絵/作 小峰書店)を思い出しながら読みました。人物やエピソードがばらけずにきちんとつながっていて、読み終えるのを惜しいと思うほど楽しみました。出だしは、少々エキセントリックな感じが鼻についたのですが、p17の5行目で「マシだマシだと思いながらやり過ごすことは、何の意味があるんだろうな」と出てきたとき、一気にこの作品は信用できるというモードに入りました。「被災っていうのは、ずっと続いていくんだな」(p284、6行目)とか、共感できる価値観や感覚が随所に出てくるだけでなく、p305で鈴音の渾身の一撃が決まって勝つわけですけれど、ページをめくると「でも。これが勝負か? これで勝負決まったって言えるのか?」と続いていて、いろいろ制約はあったけど、やれることはやったよね、めでたしめでたしとまとめなかったところ、中学生たちの悔しさに徹頭徹尾寄り添っていて、本当によかったです。千暁と鈴音、仙先生と高瀬先生のことも恋バナにおとしこまないところもよかったです。読めてよかったです。

コアラ:おもしろく読みました。まず文体がいいと思いました。内容に合っています。内容が本当によくて、p267の最終行に、千暁が描いた絵のことを「2020年の、僕たちの姿だ」とありますが、この作品そのものが、2020年夏の中学生を、コロナ禍の暗闇から削り出すように描いています。最近毎年のように起こっている災害についても描かれていて、2020年という年の姿を作品として残してくれて、作者に「ありがとう」という気持ちでいっぱいになりました。ひとつ気になったのが、浴衣姿の鈴音が下駄を履いているところですが、最近は草履でなく下駄を履くんですね。

一同:浴衣は下駄ですかねえ。

シア:草履は履かないですね。足が痛いので下駄風サンダルなどで済ませることも多いです。

アカシア:この本、カバーをとると、表紙の絵はマスクをしてるんですよ。

シア:凝っていていいですね! 図書館の本なのでわからなかったです。カバーをとったらマスクもとれた、の方が仕掛けとしてはおもしろそうですが。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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平和な世界を願って 子どもの本にできること

「こどもの本」2023年3月号(日本児童図書出版協会)に「平和な世界を願って 子どもの本にできること」というエッセイを書きました。

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本さえ読めば平和が来るとは思わないが、平和につながる道を少しずつ作っていくことは、本にもできるのではないだろうか。私が訳した『子どもの本で平和をつくる』(キャシー・スティンソン文 マリー・ラフランス絵 小学館)には、イエラ・レップマンという女性が登場する。彼女はドイツ生まれのユダヤ人ジャーナリストで、ヒトラーが政権を握ると命の危険を感じて、子どもたちと一緒にイギリスに避難していた。

『子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと』(さくま訳)の表紙絵

戦後故郷に戻ったレップマンは、ドイツの子どもたちの窮状を目の当たりにして二〇の国に手紙を出した。それぞれの国のすぐれた子どもの本を送ってもらえないか、と依頼したのである。周囲からは、「戦争でドイツと戦った国々が本を送ってくれるはずがない」と批判されもしたが、幸い一九の国からは、すぐに児童書が送られてきた。でも、一か国からは、「私たちは二度もドイツに侵略されているので、残念ながらご希望にそうことはできません」という手紙が届いただけだった。

レップマンはそこであきらめずに、もう一度手紙を出した。「ドイツの子どもたちに新たな出発をさせてやりたいのです。他の国々から届いた本を見ることによって、子どもたちはお互いにつながっていると感じるでしょう。戦争がまた始まらないようにするには、それが一番ではないでしょうか」と書いて。

すると、その手紙を読んでレップマンの意図を理解したその国ベルギーからも、素晴らしい児童書のセットが届いたのだ。レップマンは、届いた本を国内巡回して子どもたちに見せ、ドイツ語に訳して読んでやり、それをもとにしてミュンヘンに国際児童図書館をつくった。そして、一九五三年には様々な国が子どもの本について話し合うための国際組織IBBY(国際児童図書評議会)も設立した。

現在の国際児童図書館

私が今会長を務めているJBBYも、一九七四年にIBBYの支部として発足し、「本、子ども、平和」をキーワードにし、ボランティアベースで多様な活動を行っている。詳しくはウェブサイトをご覧いただきたい。https://jbby.org

一九九八年に国際アンデルセン賞を受賞したアメリカの児童文学作家キャサリン・パターソンは、受賞スピーチの中で、「アメリカの図書館には自国で出版された本がすでにたくさん並んでいるせいか、外国からの翻訳作品も必要だということを忘れてしまいがちです。でも、私たちはアメリカの子どもたちに、イランや韓国・北朝鮮や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。つまりどの国の子どもたちとも仲良くなってもらわなくてはなりません。人は、自分の友だちが暮らしている国に害をあたえようとは思わなくなるからです」と語っている。

こうした人たちの言葉は、子どもの本が平和につながりうることを示唆している。

子どもの本にかかわる人の中には、子どもがおもしろがればそれでいい、と考える人もいる。楽しい、おもしろいというのは、子どもの本にとって不可欠な要素だと私も思う。立派なテーマを掲げた本でもおもしろく読めなければ、子どもの本としては失格だ。でも、「おもしろい」というのは、表面的なおもしろさだけではないだろう。読んですぐは、ゲラゲラ笑ったりするようなおもしろさを感じなくても、子どもの心の中に種として残り、その種が芽を出し花を咲かせることもある。そういう種を持ったような本をつくっていければ、と私は思う。種には、平和の種もあれば、好奇心の種もあり、生きるエネルギーを生み出したり、ちょっと一休みするすべを学んだりするための種もあるだろう。

また平和を生み出すためには、偉い人に言われればそのまま従うような人ではなく、自分の頭で考え、自分の心で感じ、しかも客観的に判断できる人を育てていくことが必要だ。そのための種をまくには、本をつくる側の私たちも、これからはどんな社会が望ましいのかを、考えておく必要があるだろう。

本が売れるというのはうれしいことだし、出版を続けるためには重要な要素でもある。でも、それだけを考えていると、どんどん子どもの本は種なしの、中身も味も薄い消耗品になってしまう。つくり手の側が利益だけではなく、子どもの中で育つ種があるかどうかの質を見分けられる「目きき」になることも、とても大事なことだと思う。

それともう一つ。「理想的なことばかり言っていても始まらない。現実は違うのだよ」と言う人がいるが、子どもの本にたずさわる者としては、あえて理想を口にすることも必要だと私は思っている。(さくまゆみこ)

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『ジャングルジム』表紙

ジャングルジム

『ジャングルジム』をおすすめします。

良太が風来坊のおじさんにだんだんひかれていく「黄色いひらひら」、すみれが姉をいじめた子に“ふくしゅう”しようとする「ジャングルジム」、一平が離婚した父との新たな暮らしと折り合いをつけようとする「リュック」、まみが病死した父のカバンの中にあった色鉛筆で父との思い出を描く「色えんぴつ」、春木がお試し同居にやってきたおじいちゃんを心配する「からあげ」の5編が入った短編集。
どの物語でも、その時々に子どもが感じたこと、考えたことがリアルに描写されている。それぞれの子どもの個性が浮かび上がるだけでなく、おとなについても、ちょっとした言葉でその人の生きてきた道を伝えている。上質の文学。小学校中学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年3月25日掲載)

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『草原が大好きダリアちゃん』表紙

草原が大好き ダリアちゃん

『草原が大好き ダリアちゃん』をおすすめします。

世界のさまざまな地域の文化を、そこで生きる子どもを主人公にして紹介する写真絵本シリーズの一冊。今回の主人公は、味噌っ歯の5歳の少女ダリアちゃん。冬はマイナス40度にもなるロシアのシベリアで、家族とトナカイたちに囲まれて暮らす。自然の中にあってほとんどが手づくりという日常の衣食住を伝える写真からは、8か月も雪におおわれている厳しさも、広い草原を走り回ったりベリーやキノコを摘んだりする楽しさも、そしてダリアちゃんの「ここが大好き」という思いも、伝わってくる。小学校低学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年2月25日掲載)

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『ガリバーのむすこ』表紙

ガリバーのむすこ

『ガリバーのむすこ』をおすすめします。

戦場となったアフガニスタンを出て難民になった少年オマールは、嵐の海でボートから投げ出され、意識を失う。やがてオマールは、自分は砂浜に寝ていて、まわりを小人たちが取り囲んでいることに気づく。そこは、かつてガリバーが訪れたリリパット国だった。オマールは「ガリバーのむすこ」と呼ばれ、小人たちと友だちになってお互いの言葉や文化を学びあい、愚かな戦争をやめさせる。巧みな語り口に引っ張られて一気に読めるし、考えるきっかけも提供してくれる。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2023年1月28日掲載)

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『おやすみなさいフランシス』表紙

おやすみなさいフランシス

『おやすみなさいフランシス』をおすすめします。

アナグマの子どもフランシスは、もう寝る時間と言われてベッドに入ってもちっとも眠くない。部屋の隅に何かいる? 天井のひびから何か出てくる? 窓の外で音がする? いちいち心配になって言いにいく娘に両親がていねいに対応してくれるのがいい。緑とグレーだけで描かれた、時代を超えるおやすみなさいの絵本。幼児から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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『ぼくたちはまだ出逢っていない』表紙

ぼくたちはまだ出逢っていない

『ぼくたちはまだ出逢っていない』をおすすめします。

英国人の父と日本人の母をもつ陸は学校で暴力的ないじめにあっている。母の再婚相手と暮らすことになった美雨は居場所を探して町をさまよう。樹(いつき)は生まれたとき穴があいていた腸の不調に今でも怯えている。不安を抱えたこの三人の中学生が、割れた瀬戸物を修復する金継ぎを通して触れ合い、時間をかけて美しい物を作り出す伝統工芸を知ることで新たな視野を獲得していく。中学生から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年11月26日掲載)

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『チャンス』表紙

チャンス〜はてしない戦争をのがれて

『チャンス〜はてしない戦争をのがれて』をおすすめします。

ポーランドに生まれアメリカで絵本作家になったシュルヴィッツは、幼い頃ワルシャワにあった家をドイツ軍の爆撃で失い、家族とともに旧ソ連国内、後にはヨーロッパを転々とさまよう。文章と絵からは、その旅が戦争、飢え、病、寒さ、迫害の連続で、死と隣り合わせだったことが伝わってくる。「おとうさんのちず」に描かれていた家族関係も詳細に語られているし、様々な困難を乗りこえてきたからこそ「よあけ」のようなさわやかで美しい絵本を描けるようになったことも、うかがい知れる。
思えば、ガアグ、センダック、レイ夫妻、八島太郎、そして彼のような海外にルーツをもつ画家が、アメリカの絵本の豊かな多様性を生み出してきたのだ。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年10月29日掲載)

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『長い長い夜』表紙

長い長い夜

『長い長い夜』をおすすめします。

「ぼく」は、雄カップルがあたためた卵からかえった子どものペンギン。一緒に旅をしているのは、角を狙う密猟者に家族も友だちも殺され、人間への復讐を決意している地球最後のシロサイ。シロサイは、子どもペンギンに父親たちの話をしてやり、守り、一緒に戦禍を生き延びていく。生命や愛について、さまざまなことを感じさせ、考えさせてくれる。最近の韓国の作品は本づくりも内容も面白いのが多いが、異種交流のこの寓話もその一つ。世界のサイ5種は、実際にどれも絶滅の危機に瀕している。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年8月27日掲載)

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『サリーのこけももつみ』表紙

サリーのこけももつみ

『サリーのこけももつみ』をおすすめします。

ここでこけももと言っているのは、ブルーベリーのこと。夏になり、お母さんと山にブルーベリーを摘みに行ったサリーは、途中で間違えてクマのお母さんについていってしまう。一方子グマはサリーのお母さんについていく。やがて気づいたお母さんたちはびっくり! 本文は一色刷りだが、子どもたちが大きなドラマを感じられるロングセラー絵本。4歳から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚』2022年7月30日掲載)

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『5番レーン』表紙

5番レーン

『5番レーン』をおすすめします。

小6の少女カン・ナルは、水泳部のエースと言われるもののライバルに負ける試合が続いて悔しくてたまらない。何か仕掛けがあるのかとライバルの水着を見ているうち盗んでしまったナルは、そこから自分の心の中の闇と向き合い、やり直そうとする。競泳をやめた姉のエピソードや、転校生テヤンとの初恋もからむ韓国の物語。夏向きのさわやかな挿絵もいい。小学校高学年から(さくま)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年7月30日掲載)

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『た』表紙

『た』をおすすめします。

表紙に大きな「た」の文字。開くと、最初が「たがやす」で、「たいへん」や「たわわにみのる」を経て、おしまいが「たべる」。出てくる言葉が全部「た」で始まるし、「た」は田にもつながっている。この絵本には、田畑を耕して世話をして取り入れて食べるまでの過程が凝縮されている。人々は、殺虫剤を使わないとやってくる虫や動物から作物を守るために「たたかう」し、収穫の祭りも大いに「たのしむ」。絵から生命のリズムが伝わり、エネルギーを感じとれる。3歳から(さくま)

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「草のふえをならしたら』表紙

草のふえをならしたら

『草のふえをならしたら』をおすすめします。

まこちゃんがブイブイッとネギのふえを鳴らしたら、ブタがひょっこり顔を出す。ともくんが笹の葉をビブーッと鳴らすと、タヌキがおしょうゆの注文をとりにくる。すみれ組の子どもたちは桜の花びらでぴーっぴーっ、たえちゃんはカラスノエンドウのさやでプピッ、あっちゃんはドングリのふえをほーっ……野原や森でつんだ草や実や葉っぱを鳴らすと何かが起こって、子どもたちはウサギやキツネやアオバズクやカエルたちと不思議な世界に入り込む。
草笛をじょうずに鳴らすには練習も必要。自然とうまく付き合うのも同じ。でも、こんなに楽しいことが起こるならやってみたいな、と思わせてくれる八つのお話に、ゆかいな絵もいっぱい入っているよ。小学校低学年から(さくまゆみこ)

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年5月28日掲載)

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子どもの本で平和はつくれる?

童心社が出しておいでの「母のひろば」2022年5月15日号に「子どもの本で平和はつくれる?」という原稿を書きました。

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『子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと』(さくま訳)の表紙絵昨年『子どもの本で平和をつくる』(小学館)という訳書を出した。この絵本には、IBBY(国際児童図書評議会)やミュンヘン国際児童図書館を創設したイエラ・レップマンという女性が登場する。レップマンはドイツに生まれたユダヤ人で、第二次大戦中はナチスの毒牙から逃れるため2人の子どもを連れて国外に避難していたが、戦後ドイツに戻って、子どもの本を通して平和を築いていこうと考えた。具体的には、まず世界の子どもの本を集めて展示会を開いたのだが、荒廃したドイツの子どもたちに文化の香りを伝えるだけではなく、本を通してほかの国の子どもたちと友だちになってもらえば、2度と戦争を起こしたりしなくなるのではないかという考えも、そこにはあった。

アメリカのキャサリン・パターソンも1998年に国際アンデルセン賞を受賞したとき、レップマンのこの考えに呼応して、「私たちはアメリカの子どもに、イランや韓国・北朝鮮や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。どの国の子どもとも仲良くなってもらわなくてはなりません。人は、友だちが暮らしている国に害をあたえようとは思わなくなるからです」とスピーチしている。

子どもの本にかかわる人の多くは、レップマンを知る知らないにかかわらず、子どもの本で儲ければそれでいいとは思っていないはずだ。本を通して子どもの居場所が少しでも心地よくなったり風通しがよくなったりすればいい、と思い、戦争ではなく平和を願っているはずだ。レップマンの意志を継承しているIBBYの支部は、ウクライナにもあるしロシアにもある。ロシアは、前回のIBBY大会(「子どもの本の世界大会」)の主催国でもあった。

それでもロシア軍のウクライナ侵攻のようなことが実際に起こって、多くの人々が犠牲になってしまう。常軌を逸した権力者の前では、人道主義など何の力ももたないように思える。「子どもの本で平和をつくる」など、夢のまた夢のファンタジーかもしれないという疑いも生じてくる。

でも、それでも……。そう、私たちは思い直す。地震国の海沿いに、外からの攻撃に対して無防備な原発をたくさん並べておいて、核共有とか敵基地攻撃とか言っている政治家のほうこそ、現実を見ずにエセファンタジーに酔っているのではないか、と。子どもの本をつくる立場にいる私たちに、絶望している暇はない。子どもにとってどういう社会が実現すればいいのかを、これからも考えながら本をつくっていきたい。(さくまゆみこ)

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ジル・ルイス『パップという名の犬』表紙

パップという名の犬

野良犬たちを主人公にしたイギリスのフィクションです。家庭の中に居場所がない少年にとって、唯一愛する存在だった雑種犬の子犬パップ。でも、少年が学校に行っている間に、捨てられてしまいます。そして、野良犬として生きていかなくてはならなくなったパップの試練が始まります。獣医として働いていた著者の観察眼や描写は、さすがと思わされます。野良犬それぞれの個性が立ち上がってくるように描かれていますし、犬たちの目を通して人間社会の歪みも見えてきます。パップのことだけではなく、無理矢理愛犬を奪われてしまった居場所のない少年の行く末も気になりますが、最後はハッピーエンドです。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:川島進さん)

◆2023年読書感想画中央コンクール指定図書

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〈訳者あとがき〉

本書は、イギリスで二〇二一年に出版されたA Street Dog Named Pupの翻訳です。

著者のジル・ルイスさんは、環境や動物と人間との関係を書き続けているイギリスの作家です。日本でも、すでに『ミサゴのくる谷』『白いイルカの浜辺』『紅のトキの空』(以上評論社)、『風がはこんだ物語』(あすなろ書房)が出版されています。

ルイスさんは、小さいころから草ぼうぼうの庭で、虫や鳥に親しんでいたそうです。そのつながりで獣医になり、その仕事にはやりがいを感じていたものの、今の時点で職業を選ぶとすれば、環境科学を勉強して野生動物を保護する活動をめざしたかもしれないと言っています。

またルイスさんは小さいころから物語を作るのは大好きだったのですが、学校では物語を楽しむよりは、文章の分析、文法、正しいつづりなどを注意されるあまり、物語から遠ざかっていたそうです。それが自分の子どもに本を読んでやっているうちにまた物語が好きになり、その後、大学院で創作を学び、『ミサゴのくる谷』 でデビューしました。

『ミサゴのくる谷』は、鳥のミサゴがスコットランドの少年とアフリカ・ガンビアの少女を結ぶ物語です。『白いイルカの浜辺』は、行方不明の母親と働く意欲を失った父親をもつ少女が、脳性麻痺の気むずかしい少年フィリクスといっしょに、傷ついた子イルカを母イルカのもとへもどそうと奮闘する物語で、持続可能な漁業についても考えさせられます。『紅のトキの空』は、心のバランスをくずした母親と発達のおそい弟を抱えたヤングケアラーの少女が、居場所をさがす物語で、ショウジョウトキなどの動物が象徴的に登場してきます。『風がはこんだ物語』は、小舟に乗った難民たちが、舟の上でバイオリンをひきながら少年が語る、モンゴルの白い馬と馬頭琴の話に勇気をもらうという物語です。どの作品でも、人間の心理と動物たちがからみあって、読ませる物語になっています。

そしてこの作品は、人間と動物のかかわりをていねいに描いている点や、弱い立場の者たちに著者が心を寄せて書いている点はほかの作品と同じですが、野生生物ではなく都会に暮らす野良犬たちを主人公にしているところが、ほかとは違います。

その野良犬たちですが、レックスは、闘犬として相手を殺すよう訓練されていました。ルイスさんによると、強く見せるために耳も切られているそうです。「おれは、社会ののけ者なんだよ。怪物みたいに戦うための犬なんだ。だけどよ、おれが知ってる本当の怪物は、人間だけだぜ」という言葉が辛辣ですね。サフィは、愛してくれた家族から盗まれて繁殖犬をやらされ、病気になったので捨てられました。レディ・フィフィは、セレブ気取りで流行の犬を購入した飼い主があきて捨てられました。レイナードは、キツネ狩りに役立たないので頭に銃弾を撃ち込まれて殺されかけました。イギリスでは実際にキツネ狩りが行われていますが、このように殺されるフォックスハウンドは年間三千ひきもいるそうです。マールは、かしこい犬なのにこの犬種の習性を理解していない飼い主に、手に余るとして捨てられました。クラウンは元気が良すぎて捨てられたのでしょう。また、フレンチに関してもルイスさんには特別な思いがあるようです。人間の都合でマズルが短くされたパグ、フレンチブルドッグ、ボストンテリア、ブルドッグなどの短頭種(鼻ぺちゃの犬たち)は、健康上いろいろ問題があるのですが、イギリスではかわいいとして大いに宣伝されるので飼う人も多いそうです。イギリスでは多くの獣医さんや動物保護団体が、宣伝広告に短頭種を使わないように申し入れているとのこと。「利益よりも健康を」とルイスさんは言っています。

コロナ禍でイギリスでもリモートワークになり、家で子犬を飼う人もふえたので子犬の盗難も二・五倍にふえたそうです。また、安易に飼い始めた人がめんどうになったり、通勤が再開すると犬の世話ができなくなったりして、捨てる犬も多くなったとのことです。こんなところにもコロナ禍の影響が出ているのかと驚きましたが、日本ではどうでしょうか。

さて、本書の挿絵ですが、ちょっと素人っぽいとか、素朴だと思われた方もいらっしゃるかもしれません。絵を描いたのは、作者のルイスさんご自身です。ルイスさんはもともと絵が好きで、絵も描きながら物語の構想を深めていくそうです。必要なことをいろいろと調べたうえで書き始めるのだけれど、とちゅうでいろいろな場面や登場するキャラクターを線画で描いてみるとのこと。文字で書くときとちがう頭の領域を使うので、いろいろなことを思いついたり、もっと深く物語に入りこめたりする、とルイスさんは語っています。よく見ると、たしかにいろいろな犬種の特徴や表情をよくご存知の、獣医さんならではの味が出ていますね。

子どものころに、何をどう感じ、どう思っていたかを今でもよくおぼえているというルイスさん、これからもおもしろい子どもの本を書いてくださることを期待したいと思います。

さくまゆみこ

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〈紹介記事〉

・「西日本新聞」(おすすめ読書館)2023.04.10

ジャーマンシェパードの雑種パップは生後数カ月の子犬。吠(ほ)え癖があるため人間に捨てられ、愛する少年と引き離されてしまう……。動物をテーマに物語をつむぎ続ける作家が、都会に暮らす野良犬たちの運命に思いをはせた児童書。「人間と犬との間には〈聖なる絆〉がある」という。それは本当なのだろうか。さくまゆみこ・訳。

・「朝日新聞」(子どもの本棚)

子犬のパップは、ある雨の夜、飼い主によって「しかばね横丁」に置き去りにされる。途方にくれるパップを助けてくれたのは野良犬のフレンチだった。フレンチは人間に捨てられた仲間たちと一緒にいて、パップもそこで暮らすことになる。群れで生きる犬たちを個性豊かに描いているところに、作者の動物たちへの深い愛を感じることができた。母犬が子犬に語りついできたという人間との「聖なる絆」はあるのか。またパップはどうなるのか、はらはらしながら読んだ。(ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん)

・大阪国際児童文学振興財団(動画):やすこぼんさんのご紹介です。

パップという名の犬(動画)

 

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2022年10月 テーマ:「記憶」を未来に伝えていくということ

日付 2022年10月20日
参加者 ハル、イヌタデ、花散里、すあま、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、オカピ、西山、ニャニャンガ、雪割草
テーマ 「記憶」を未来に伝えていくということ

読んだ本:

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『シリアからきたバレリーナ』表紙

シリアからきたバレリーナ

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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『パンに書かれた言葉』表紙

パンに書かれた言葉

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年09月 テーマ:反発と自立-親子って楽じゃない

 

日付 2022年09月20日
参加者 ハル、ルパン、アカシア、エーデルワイス、コアラ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、さららん、サークルK、雪割草、(末摘花)
テーマ 反発と自立-親子って楽じゃない

読んだ本:

(さらに…)

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『13枚のピンぼけ写真』表紙

13枚のピンボケ写真

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『タブレット・チルドレン』表紙

タブレット・チルドレン

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年08月 テーマ:「親ガチャ」からのスタート

日付 2022年8月17日
参加者 ネズミ、エーデルワイス、アンヌ、つるぼ、ハル、雪割草、シマリス、しじみ71個分、ルパン、まめじか、西山、ハリネズミ
テーマ 「親ガチャ」からのスタート

読んだ本:

(さらに…)

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『りぼんちゃん』表紙

りぼんちゃん

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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『ペイント』表紙

ペイント

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『チケとニジェール川』表紙

チケとニジェール川

現代アフリカ文学の父とも言われるアチェベが書いた児童文学で、アフリカ諸国ばかりではなく英米でも読みつがれています。少年の憧れと、夢を実現するための行動、勇気がもつ意味、などをテーマにすえ、ことわざ、昔話、食べものなど、ナイジェリアの文化も織り交ぜて書いています。冒険譚としても楽しめるでしょう。文体には、イボ人のストーリーテリングの伝統が生かされています。

 

〈訳者あとがき〉

本書は、1966年に南アフリカのケンブリッジ大学出版局支部から出版された子どもに向けた物語の翻訳です。

著者のチヌア・アチェベは1930年にナイジェリアに生まれたイボ人の作家・詩人で、イバダン大学で学び、一時は放送の仕事につき、1967年から1970年まで続いた内戦(イボの人たちが独立国を作ろうとしたビアフラ戦争)のときには、ビアフラ共和国の大使も務めました。

ナイジェリアは、西アフリカにある多民族国家で、2億人以上が暮らしています。国内に500を超える民族がいて、使われている言語の500以上と言われています。その中には、男性と女性で話す言語が全く違うウバン語などもあります。ヨーロッパ諸国が地図上でアフリカ大陸に線引きをして国境を定めたせいで、一つの国の中に多くの民族がいて、一つの民族が多くの国に分かれて暮らすという状態が生まれたのです。

17世紀から19世紀にはヨーロッパの商人が奴隷をつかまえて南北アメリカ大陸に送るための港がアフリカにたくさんでき、ナイジェリアの海岸は「奴隷海岸」と呼ばれていました。19世紀には奴隷貿易がイギリスによって禁止されたものの、ナイジェリアにあったいくつかの王国がイギリスによって滅ぼされ、ナイジェリアはイギリスの植民地になります。イギリスから独立したのは1960年ですが、その後ビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起こり、飢餓も問題になった長い戦いの後、ナイジェリアから独立してビアフラ共和国を作ろうとしたイボ人は敗北しました。

本書にも出てくるラゴスは海沿いにあるナイジェリア最大の都市で、1976年まではナイジェリアの首都でした。高層ビルや大きな銀行やスーパーマーケットなどが立ち並び、車の渋滞が起こるような近代都市です。今は首都が内陸部のアブジャに移りましたが、ラゴスはまだ経済・文化の中心地として知られています。

ニジェール川は、ギニアの高地に水源があり、マリ、ニジェール、ベナン、ナイジェリアと、いくつもの国を通ってギニア湾へと流れ込む全長4180キロメートルの大河です。また、チケが憧れたオニチャからアサバへニジェール川をわたるフェリーは、1965年には新しくできた橋にとってかわられています。

チヌア・アチェベは、口承文芸を下敷きにした小説を書いて、現代アフリカ文学の父とも呼ばれました。中でもおとな向けの傑作小説と言われる『崩れゆく絆』(1958)は、伝統的な文化や暮らしが、植民地支配によって壊されていく様子を描いた作品で、世界の50以上の言語に翻訳されて、有名になりました。日本でも、光文社古典新訳文庫で読むことができます。2007年にはアチェベの全業績に対して国際ブッカー賞が授与されています。

アチェベは、またハイネマン社が出していた「アフリカ作家シリーズ」で、独立後のアフリカで活躍しはじめたアフリカ人作家たちを世に送り出すことにも力を注ぎました。その後、アメリカ、イギリス、カナダ、南アフリカ、ナイジェリアなどの大学でアフリカ文学についても教えましたが、残念ながら2013年に死去しています。

アチェベは、子ども向けの物語をいくつか書いていますが、その中でもこの『チケとニジェール川』は、アフリカ各国ばかりでなくアメリカやイギリスでも出版され続けています。

主人公は、いなかの貧しい村に生まれた少年で、ニジェール川沿いにある大きな町で暮らすおじさんのところに寄宿することになり、まったく異なった環境でさまざまな体験をしながら成長していきます。アチェベは、自分の子どもたちが白人教師の多い学校でナイジェリアに根ざした文化や価値観を教わっていないのを心配して、この作品を書いたと言われています。

大きな川の向こうにわたって別の世界を見てみたいという子どもらしい憧れ、そのためにいろいろ工夫してはみるけれど、なかなかうまくいかないという焦り、ようやくフェリーに乗ることができた時の胸おどる気持ち、借りた自転車を壊してしまったときの当惑、どろぼうに遭遇したときの恐怖などが、生き生きとした筆で、とてもリアルに描かれています。

お話の筋立ては、少し昔ふうだし、書かれたのもずいぶん前のことですが、アチェベは、細かい描写でそれぞれの場面がうかびあがってくるように書いているので、日本の子どもたちにも主人公チケの気持ちがそのまま伝わるのではないでしょうか。また、ナイジェリアの屋台で売っている食べ物、お祭りのようす、学校のようす、家庭のようす、市場のようす、マネーダブラーや自転車修理工の存在なども目にうかぶように描かれています。ことわざが出てきたり、歌が出てきたり、サラおばさんの昔話が出てきたりするところには、ナイジェリアの口承文芸に大きな関心を寄せていたアチェベの作品の特徴が出ています。

私がアチェベの作品に出会ったのは、ナイジェリアを旅行しているときでした。ロンドンに住んでいたときに「アフリカ・ウーマン」という雑誌の編集長をしていたタイウォ・アジャイという女性に出会い、「ナイジェリアに行くならうちの親戚の家に泊まっていいよ」と言われて、出かけていったのです。飛行機を降りたナイジェリア北部のカノという町でキャンプをしているとき、WHOで働く日本人のお医者さまに会って、そのお家に何日か滞在させてもらいました。そのお医者さまの書斎に、アチェベの本が何冊か並んでいました。日本に帰ってから、アチェベの作品を何冊か取り寄せて読んだなかに、この『チケとニジェール川』もありました。

ちなみに、ナイジェリアでは、お話の舞台にもなっているオニチャにも行って、オニチャの大きな市場を歩いたり、ニジェール川を見たりしたこともあります。またラゴスにも行って大都市のにぎわいも体験しました。その時の楽しかったことなども思い出しながら、翻訳しました。

ナイジェリアの当時の暮らしは、日本の今の暮らしとはずいぶんかけ離れていますが、チケの気持ちは、日本の子どもたちにも「あ、同じだな」と思ってもらえるところがあるのではないかと思います。違うところ、同じところを楽しみながら読んでいただけたら幸いです。

編集を担当してくださった坂本久恵さんに感謝します。

さくまゆみこ

 

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『1400個のコヤスガイ』表紙

1400個のコヤスガイ〜西アフリカ・ヨルバ人の昔話

西アフリカに暮らすヨルバ人の昔話を、ナイジェリアに生まれ育ったフジャが再話しています。おもしろいお話が多いので、いつか日本の読者にも届けたいと思っていました。その後、「ふたご」の話には、ほかの地域にも同じような昔話があるなど、おもしろいことがわかってきました。どこの地域の人間も共通に持っている要素から同時発生的に同じような話が生まれてくるのか、それともおもしろい話はどんどんほかの地域にも伝わっていくのか、そのあたりもとても興味深いです。

〈目次〉

1400個のコヤスガイ
ネコとカメのレスリング
ヒョウとハリネズミ
オタマジャクジの悲しいお話
魔法のヤムイモ
天まで運んだお供え
カタツムリとヒョウ
ふたご
めんどりとタカ
エガとひなたち
ゾウとおんどり
152本のしっぽをもつ動物
キンキンとネコ
鳴らないタイコ
みなしごアジャオと魔法の小枝
かしこい犬
働いてはいけないアランテレ
雄牛とハエ
〈よそ者〉と〈旅の者〉
狩人オジョと魔法の笛
カエルの骨

 

〈訳者あとがき〉

本書の原題はFourteen Hundred Cowries: Traditional stories of the Yoruba。私が持っている原書はペーパーバックで、1967年にオックスフォード大学出版局イバダン支局から出版されています。イバダンは、ナイジェリア南西部の大きな都市です。この本は、たぶん私がロンドンに暮らしていたときに、アフリカ・ブック・センターで手に入れたのだと思います。いろいろな情報にあたってみると、ハードカバーは、それより前の1962年に出ているようです。本書はアメリカでも1971年にアン・ペロウスキーの序文と別の人の挿絵がついたものがのが出ていますし、ポーランド語版も出ています。

イギリスに植民地にされていたナイジェリアが独立したのは、1960年。それまでは学校教育でも、イギリスの学校で使われているようなものがそのまま使われていたといいます。独立後、ナイジェリアの子どもにはナイジェリアの文化や伝承を教えようということで、ナイジェリアの人が収集した昔話の本なども出るようになるのですが、本書はその先駆けとなりました。

私が持っている原書には、著者の情報や序文などもついていないのですが、アメリカ版やポーランド版によれば、著者のアバヨミ・フジャは1900年に生まれて、ナイジェリア最大の都市ラゴスで学校教育を受け、1938年に自分の民族であるヨルバ人の民話の収集を始めたようです。「ヨルバの人たちの間には、夜になると──月の明るい夜だとなおさらですが──子どもたちを集めてこうしたお話を語ってやる習慣がありました」とあり、また著者が語りを職業をするソコトという人から、お話をたくさん聞いたということも書いてあります。

ともあれ、著者のアバヨミ・フジャは、国際的に出版されている本がこの1冊のみで情報が少なく、翻訳権の処理が非常に困難でした。この「世界J文学館」の責任者である塚原伸郎さんが東奔西走してくださった結果、なんとか出せるようになったのです。

ヨルバ人というのは、ナイジェリア南西部のほか、ベナン、トーゴにも暮らしていて、ヨルバ語を話しています。著者のフジャは、ナイジェリア人です。

ナイジェリアは、西アフリカにある国で、アフリカ大陸の中では最も人口が多く、2億人以上が暮らしています。多民族国家で、一つのナイジェリアという国の中に500を超える民族が共存しています。ヨーロッパに植民地にされる前は、いろいろな王国が栄えていて、独自のすぐれた文化を持っていました。

多くのみなさんは、サッカーが強い国としてご存知かもしれません。ナショナルチームはスーパーイーグルスという名前で、オリンピックでも何度かメダルを取っています。

映画産業もさかんで、ナイジェリアの映画産業はノリウッド(ナイジェリアのハリウッドとという意味)で年間約2000本の映画が制作されています。音楽の分野でもアフロビーツのフェラ・クティやジュジュミュージックのキング・サニー・アデといった国際的なスターを生み出しています。また土や銅やブロンズで作った彫刻には、ほんとうにすばらしいものがあります。

食べ物についていえば、本書にも出てくるフーフーはイモをつぶして作るもので、ナイジェリアの人たちの主食の一つです。お米ではよくジョロフライスというものを作りますが、これは肉、タマネギ、トマト、スパイスなどを入れてたいたお料理です。ヤムイモは、根を食べるヤマノイモ科のイモで、ナイジェリアは世界一の産地です。コーラナッツは、コーラの木の種子で、カフェインを含むので、ナイジェリアではドライバーがよくかじっています。また儀式のときにも必ず出されるものです。初期のコカ・コーラの原料にはコーラナッツが使われていたといいます。味は苦味があり、ナイジェリアを旅行したときに何度も食べてみましたが、私はそうおいしいとは思いませんでした。でもいつもかじっていると、やみつきになるのかもしれません。飲み物では、本書にはひんぱんにヤシ酒が出てきますが、これはヤシの樹液を発酵させて作るお酒です。

本書には、ジュジュという言葉もよく登場しますが、ジュジュとは魔力のことでもあり、魔力がこめられた物のことも指します。「ネコとカメのレスリング」では、強力なジュジュを持っている者が勝利をおさめるし、「めんどりとタカ」では、タカにジュジュをもらっためんどりが敵に襲われなくなります。「働いてはいけないアランテレ」では、子のない夫婦が祈祷師のジュジュのおかげで娘を授かるし、「カエルの骨」では強力なジュジュを持つカエルをだれもが恐れています。

また歌や踊りも、力を持っているものです。「オタマジャクシの悲しいお話」では、オタマジャクシが即位式の前に酔っ払っておどりまくります。「男の子と魔法のヤムイモ」では、男の子が歌をうたうと、動物たちはうっとりと聞きほれて繰り返すようたのみ、やがてはその歌に合わせておどりだします。また「キンキンとネコ」では、キンキンがうたうと、畑が一瞬にして草ぼうぼうになってしまいます。また、「鳴らないタイコ」からは、儀式でタイコが重要な役割を果たしていたことがうかがえます。

本書のタイトルにもなっている最初の「1400個のコヤスガイ」はいわゆる「積み重ね歌」あるいは「積み上げ歌」と言われるものです。イギリスのマザーグースにある「これはジャックが建てた家」などが有名ですが、ヨルバ人に伝わるこの話はまた少し趣が違うのがおもしろいところです。また最後の「カエルの骨」では、カエルが人形につけたゴムの樹液で身動きがとれなくなりますが、これを読んで、アフリカ系アメリカ人の昔話にある「タールベイビー」を思い出す方もおいでだと思います。「タールベイビー」では、ウサギが人形に塗ったタールのせいで身動きがとれなくなっていました。アフリカのほかの地域にもいたずら者がねばねばしたもののせいで人形に貼り付いてしまう昔話があり、それが奴隷といっしょに海をわたってアメリカまで伝わっていたことがわかります。

「ふたご」の話は、タイウォ、ケヒンデというふたごが主人公でした。ヨルバ人のふたごには、伝統的にタイウォ(もともとの意味は、世界を味わう者)とケヒンデ(もともとの意味は、あとから来た者)という名前がついています。私が個人的に知っているタイウォさんは女性でしたが、やはりケヒンデさんというふたごがいました。

ナイジェリアやヨルバの人たちの文化に思いをはせながら、本書の昔話を楽しんでいただけると幸いです。

編集の坂本久恵さんにはお世話になりました。ありがとうございました。

さくまゆみこ

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『女たちの物語』表紙

女たちの物語〜アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話

国際アンデルセン賞作家のヴァージニア・ハミルトンは、母、おばなど親族の女たちからたくさん話を聞いて育ちました。そして自分でも、アフリカ系の女たちが登場するそうした話をまとめたいと思っていました。そして出した本書に載っているのは、動物が登場する昔話、ちょっと怖い伝説、ファンタジー、実話と種類はさまざまですが、どれも強く印象に残ります。ディロン夫妻の絵もすばらしいですよ。ハミルトン自身による解説と、なぜこの本を出すにいたったかというもう一つの物語もついています。

〈目次〉

◯女たちの動物の話

小さな女の子とバーラビー
リーナと大きなトラ
マリーと赤い魚
仲間を手に入れたミズ・ハティ

◯女たちのおとぎ話──妖精や魔女の話

ネコ皮かぶり
よいブランシュと、悪いローズと、おしゃべりする卵
メアリベルと人魚
光りかがやく妖精を見たベットおっかあ

◯女たちの超自然の話

ほう、ほう、ほほう
メイシーとブー・ハグ
ローナとネコ女
マリンディと小さな悪魔

◯女たちの暮らしぶりと伝説

最初、女と男は対等だった
ルエラとオウム
閉じこめられた人魚
アニー・クリスマス

◯女たちの実話

ミリー・エヴァンズ:プランテーション時代(ノースカロライナ)
レティス・ボイヤー(ノースカロライナ)
メアリ・ルー・ソーントン:わたしの家族(オハイオ)

 

〈訳者あとがき〉

本書をまとめたのは、アメリカの女性作家ヴァージニア・ハミルトンです。

ハミルトンは、1934年に生まれ(1936年という情報も出回っていますが、オフィシャルなウェブサイトには34年と書いてあります)オハイオ州南西部にある祖母の一族が持っていた農場で育ちました。子どものころは、著者あとがきにもあるように、家族や親族からたくさんの物語を聞いて育ちました。両親もすばらしい語り手で、アフリカ系の人々の歴史や文化を誇りをもって伝えてくれたと言います。祖父のレヴィ・ペリーは、幼い頃母親と一緒に売られた奴隷でしたが、1857年に母親の助けを借りてヴァージニア州からオハイオまでやって来て、自由人になった人です。レヴィを助けたのは、「自由への地下鉄道」という南部の奴隷を北部に逃がすための人間のネットワークでした。

ヴァージニア・ハミルトンは、1953年にはニューヨークに出て、博物館の受付やナイトクラブの歌手などをして生計を立てながら、作家になろうと努力していました。1960年には詩人のアーノルド・エイドフと結婚し、その後作家活動に専念するようになります。

作家としては、1967年に『わたしは女王を見たのか』(邦訳:鶴見俊輔 岩波書店)を発表して以来、41点の作品を出版しました。ジャンルは絵本、昔話、ミステリー、YA小説、伝記と多岐にわたっています。『ジュニア・ブラウンの惑星』(1971/邦訳:掛川恭子 岩波書店)でアメリカで最も権威あるニューベリー賞のオナーを受賞し、『偉大なるM.C.』(1974/邦訳:橋本福夫 岩波書店)で、ニューベリー賞とボストン・グローブ・ホーンブック賞と全米図書賞を受賞しました。ニューベリー賞の本賞をアフリカ系の作家が受賞したのは初めてのことでした。その後も、『マイゴーストアンクル』(1982/邦訳:島式子 原生林)でニューベリー賞オナーとコレッタ・スコット・キング賞とボストン・グローブ・ホーンブック賞、『人間だって空を飛べる〜アメリカ黒人民話集』(1985/邦訳:金関寿夫訳 福音館書店)と、本書『女たちの物語〜アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話』(1995)でコレッタ・スコット・キング賞と、数々の賞にかがやいています。

また1992年には、全業績が評価されて国際アンデルセン賞を受賞しています。これは世界で最も権威ある児童文学の作家・画家にあたえられる賞で、この賞をアフリカ系アメリカ人が受賞したのは初めてのことでした。さらに、1995年にはローラ・インガルス・ワイルダー賞を受賞しています。この賞はアメリカで作品を出版し、長年にわたって児童文学に多大な貢献をしてきた作家・画家にあたえられる賞ですが、ワイルダーの作品には人種差別的な表現が含まれていることから、名称が2018年に「児童文学遺産賞」へと変更されています。

ヴァージニア・ハミルトンは、アフリカ系アメリカ人の子どもたちを主人公にし、彼らが誇りをもって読めるようなフィクションを書くと同時に、アフリカ系の人たちの間に伝承されてきた昔話や伝説を、今の子どもたちに伝えることにも力を注ぎました。『人間だって空を飛べる』や本書は、その成果と言えるでしょう。

さらなる活躍を期待されていましたが、2002年に乳がんで死去しています。

アフリカ系アメリカ人の昔話といえば、ジョエル・チャンドラー・ハリスという白人のジャーナリストが南北戦争後に南部の黒人たちから話を聞き出して新聞に掲載し、後に本にまとめた『リーマスじいやの物語〜アメリカ黒人民話集』(1881)があります。当時ベストセラーになったこの民話集は、かつては奴隷だった「リーマスじいや」が、南部の黒人たちが使うだろうとハリスが考えた言葉遣いで、白人の子どもに語って聞かせるという体裁をとっていて、ブレアラビット(ウサギどん、ウサギ兄貴)など動物たちがいろいろ登場してきます。

私はイギリスの湖水地方で、ビアトリクス・ポターがこの本を読んで描いた絵というのを見たことがあります。ポターは、その影響もあってピーター・ラビットというちょっといたずらなウサギが登場する絵本を思いついたのかもしれません。ともあれ『リーマスじいやの物語』は、アメリカばかりでなくイギリスでも広く読まれていたようです。

本書にも、「バーラビー」と呼ばれるいたずら者のウサギが登場する話が載っています。ちなみにいたずら者のウサギは、アフリカの昔話とも深いかかわりがあります。アフリカではウサギ(ラビット)ではなくノウサギ(ヘア)として登場してきますが、アフリカ系アメリカ人の昔話とアフリカの昔話には、似たような話がたくさんあって、アフリカから連行された奴隷たちが、昔話もたずさえていき、それを文化として子どもたちに伝えていたことがよくわかります。

本書の挿絵をかいたレオ&ダイアン・ディロンは共同で絵を描き活躍していました。レオはブルックリンで、ダイアンはロサンジェルスで、ともに1933年に生まれ、1954年にニューヨーク市のデザイン学校で出会って結婚し、それ以来50年以上の間、一つのチームとして仕事をするようになりました。1976年と1977年に、『どうしてカは耳のそばでぶんぶんいうの?』(ヴェルナー・アールデマ文 邦訳:やぎたよしこ ほるぷ出版)と『絵本アフリカの人びと』(マスグローブ文 邦訳:西江雅之 偕成社)とで、アメリカで最もすぐれた絵本の画家にあたえられるコールデコット賞を受賞しています。本書の挿絵を見てもわかるように、アフリカ系の人たちを威厳と誇りをもった存在として描いているのが特徴の一つとして挙げられます。レオは、残念ながら2012年に死去しています。

本書には、アフリカ系アメリカ人の女性が登場する話が五つのジャンル別に全部で19編おさめられ、それに加え、著者自身の物語も入っています。シンデレラ物語もあれば、怪力の女性船頭についての伝説、バンパイアや魔女や人魚が登場する話や、神様やイエス・キリストが登場するものもあります。そして奴隷だった時代のことを語る実話も入っています。

原書では、一つ一つの話の最後に、ハミルトン自身による解説が入っていましたが、物語そのものとは対象になる読者も違うので、本書では後ろにまとめてあります。

アフリカの昔話と同様、一味ちがう趣をもった話が多いのですが、そこがおもしろいところだし、だからこそ印象に残る話も多いのではないかと私は思っています。ともあれ、ハミルトンが書いた「はじめに」にあるように、楽しく読んでいただければ幸いです。一つだけ言い添えておくと、本書は『女たちの物語』となっていますが、男性読者が読んでもおもしろいと私は思っています。

編集の坂本久恵さんに感謝いたします。

さくまゆみこ

 

 

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『アフリカン・マジック』表紙

アフリカン・マジック〜ネルソン・マンデラが選んだ昔話と物語

南アフリカの出版社が出した昔話と物語です。語り伝えられてきた昔話と、昔話をもとにした創作物語の両方が入っています。後ろの方にある「本書の物語について」というところには、一つ一つの物語の由来が書いてあります。

〈目次〉

1)怪鳥のふしぎな歌(タンザニア)
2)ネコはどうして家の中でくらすようになったのか(ジンバブウェ)
3)動物たちはどうやって草と水を手に入れたのか(南部アフリカ・サン人)
4)ライオン王のおくりもの(南部アフリカ・コイコイ人)
5)月のお使い(ナミビア)
6)ヘビの呪い(西アフリカ/ズールーランド)
7)怪物とフラカニャナの知恵くらべ(南部アフリカ・ングニ人)
8)サンカンビのあまい言葉(南部アフリカ・ヴェンダ人)
9)ノウサギとハイエナ(ボツワナ)
10)ライオンとノウサギとハイエナ(ケニア)
11)言うことを聞かなかったマディペツァネ(レソト)
12)川から来たカミヨ(トランスカイ)
13)クモとカラスとワニ(ナイジェリア)
14)ダンスに出かけたナティキ(南アフリカ・ナマクアランド)
15)ノウサギと木の精霊(南部アフリカ・コーサ人)
16)カマキリと月(南部アフリカ・サン人)
17)七つ頭のヘビ(南部アフリカ・コーサ人)
18)ノウサギの仕返し(ザンビア)向けと
19)オオカミの妃(南アフリカ・ケープのマレー人)
20)ファン・フンクスと悪魔(南アフリカ・ケープのオランダ人)
21)オオカミとジャッカルとバターのたる(南アフリカ・ケープのオランダ人)
22)雲の国のお姫様(エスワティニ)
23)水場を守るヘビ(中央アフリカ/ズールーランド)
24)アリとスルタンのむすめ(南アフリカ・ケープのマレー人)
25)王様の指輪
26)かしこいヘビ使い(モロッコ)
27)びんに閉じこめられたアスモデウス(南アフリカ・ケープのイギリス人)
28)美しい若者サクナカ(ジンバブウェ)
29)〈すべての子どもの母〉(マラウィ)
30)妹がほしかったピピディ(ボツワナ)
31)フェシト、市場へ行く(ウガンダ)
32)魔女と竜と異国の紳士(南アフリカ・ケープのイギリス人)

 

〈訳者あとがき〉

本書はもともと南アフリカの出版社が英語で出したもので、原著にはアフリカ人画家の挿絵が入っています。原書の書名は「マディバ・マジック」。マディバというのは、ネルソン・マンデラの氏族の名前だそうですが、南アフリカの人々がマンデラ元大統領を尊敬と親しみをこめて呼ぶ言葉です。私は2004年にケープタウンで子どもの本世界大会に参加したとき、ケープタウンの本屋さんで原書を見つけて購入し、いつか日本でも紹介したいと思っていました。

今回の『世界J文学館』についての企画を考える時、アフリカ地域から選ぶとしたら何がいいだろうと、いろいろ考えたました。アフリカといっても広い大陸で、教科書以外の子どもの本を出している国もいくつかあります。その中には日本と同じように、学校物語や家族の気持ちのすれ違いや初恋などを描いている作品もあります。でも、日本の今の子どもたちが読んでおもしろいと思えるかどうかが疑問でした。

アフリカ地域から日本の子どもたちへぜひ読んでほしいのは、やはり昔話が中心になるかもしれないと、私は思いました。そこで、まず候補に挙げたのが本書です。

長くヨーロッパの植民地にされていたアフリカ各国では、一九六〇年代に独立するまでは、学校でも、生徒たちはヨーロッパ人が書いた物語や詩を勉強していました。でも、それでは自分たちの文化がすたれてしまうし、アフリカで暮らす子どもたちのためにはならないと思って、作家たちは危機をいだきました。そして目を向けたのが、アフリカの伝統の中にある「声の文化」でした。アフリカには歴史的に文字の文化(読む・書くの文化)より声の文化(話す・聞く)のほうが豊かにありました。そこに自分たちの文化のルーツの一つがあると作家たちも考えたのです。なので、独立後にアフリカの人たちがまとめた子どもの本の中には昔話がたくさんあるし、昔話から発展した物語もあります。

本書は、マンデラさんが南アフリカで実現しようとした「虹の国」(人種差別をやめて、肌の色にかかわらず、みんなで協力してつくる国)の理想を、体現している本だとも言えます。南アフリカがアパルトヘイトという人種差別的な政治を行っていたとき、黒人たちの文化は無視されていました。でも、本書には、アフリカ大陸に最も古くから住んでいたサン、コイコイ、ナマ、今の南アフリカをになうズールー、ヴェンダ、コーサといった人たちの昔話ばかりでなく、オランダ系、イギリス系、アジア系の人たちに伝わる昔話も入っています。それに加え、タンザニア、ジンバブウェ、ナミビア、ボツワナ、ケニア、レソト、ナイジェリア、ザンビア、エスワティニ、モロッコ、マラウィ、ウガンダといった南アフリカ以外の国の昔話や創作物語も収められています。

再話・創作したのは、主に南アフリカに暮らす多様な人々ですが、そのうち私はチナ・ムショーペさんとジェイ・ヒールさんにはお目にかかって話したことがあります。チナさんは、コーサ人の母とズールー人の父の間に生まれ、女優、詩人、戯曲作家、ストーリーテラーとして世界で活躍しています。南アフリカが民主化するまでは、アパルトヘイトを廃止させようとする活動も行っていました。チナさんのストーリーテリングは日本でも、南アフリカでも聞きましたが、演劇の要素が入ったすばらしいものでした。ジェイさんは、ロンドンに生まれてオックスフォード大学で修士号まで取り、イギリスや南アフリカの学校で子どもたちを教え、その後子どもの本を書いたり、編集・出版したり、読書普及活動をしたりなさっていました。ケープタウンの子どもの本の世界大会のときにはIBBY南アフリカ支部の会長をしておいででした。今回この本を訳すにあたっていろいろと調べてみると、ジェイさんは昨年暮れに亡くなられていたことがわかりました。とてもまじめて→おもしろい方だったので残念です。

ここに集められたアフリカの昔話には、アフリカ全体の昔話の特徴もよくあらわれています。まず動物が登場する話が多いことにお気づきだと思います。アフリカの人は人間を主人公にして話すと、あとで角が立つので、擬人化した動物を登場されるといいます。アフリカの人たちは、知恵(時には悪知恵も)を使って、小さくて弱い動物が、大きくて強い動物を出しぬく話が大好きです。本書にもいたずら者のノウサギやカメが登場する話が、収められています。動物ではありませんが、怪物と知恵くらべをするフラカニャナや、サルたちをだますサンカンビも、知恵を使って生きのびたり、今ある秩序をひっくり返したりするいたずら者(トリックスター)の話です。ヘビが登場する話も三つ入っています。ほかに、動物と人間の両方が登場する話、魔力を持つ者や妖怪が登場する話などもあります。

また歌が入ってくるのも、アフリカの多くの昔話に見られる特徴です。チナさんのストーリーテリングも、最初は静かにお話を語ることから始まり、そのうちに歌や太鼓や踊りにつながっていきました。日本のストーリーテリングは声色も使わず、どちらかというと淡々と語っていきますが、アフリカのストーリーテリングはもっと演劇的な要素、ミュージカル的な要素が強いと言えるかもしれません。

グリム昔話や日本の昔話に親しんできた方たちの中には、意外な展開に驚かれたり、ちょっと残酷かと思われたり、いたずら者やだまし上手な存在が主人公になっていることに眉をひそめる方もおいでだと思います。しかし、昔話というのは、もともと暗い夜に燃える火を囲んで、日常とは切り離された別次元で起こる出来事が語られるのを聞いて楽しむものでした。欧米や日本では、語りの文化が弱くなり文字の文化が主流になったとき、子どもに聞かせるお話の中からトリックスターや残酷な要素は排除されてしまいました。でも、アフリカではまだその要素が残っているということかもしれません。そういう意味では、昔話の原型やダイナミズムを感じていただけるのではないかと思います。

本書を翻訳するにあたっては、編集の坂本久恵さんと塚原伸郎さん、ツワナ語の歌の意味を教えてくださった国際協力機構(JICA)ボツワナ支所と京都大学の高田明先生には特にお世話になりました。ありがとうございました。

アフリカの子どもたちが楽しんでいる昔話や創作物語を、日本の読者のみなさんも楽しんでいただけるとうれしいです。

さくまゆみこ

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『小学館世界J文学館』表紙

小学館世界J文学館

世界のおもしろい作品125点が電子書籍として読める本です。私は最初の企画段階から相談を受け、こんな作品を載せたらおもしろいのではないか、とか、こんな方に翻訳をお願いしたらいいのではないか、という提案をさせていただきました。

私が訳した作品は、以下のものが入っています。

・『女たちの物語~アフリカ系アメリカ人が語りつぐ民話と実話』ヴァージニア・ハミルトン編 レオ&ダイアン・ディロン絵 (アメリカ)
・『シャーロットのおくりもの』E.B.ホワイト著 ガース・ウィリアムズ絵 (アメリカ)
・『はみだしインディアンのホントにホントの物語』シャーマン・アレクシー著 エレン・フォーニー絵 (アメリカ)
・『1400個のコヤスガイ ~西アフリカ・ヨルバ人の昔話』アバヨミ・フジャ編 (ナイジェリア)
・『アフリカン・マジック! ~ネルソン・マンデラが選んだ昔話と物語』ネルソン・マンデラ編 (南アフリカ、アフリカ各地)
・『チケとニジェール川』チヌア・アチェベ著(ナイジェリア)

(編集チーフ:塚原伸郎さん)

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『わたしは反対!』表紙

わたしは反対〜社会をかえたアメリカ最高裁判事RBG(ルース・ベイダー・ギンズバーグ)

アメリカの絵本。かなり強いタイトルですが、長いものに巻かれたり、上の方々の言いなりになるのではなく、考えが違う場合は、はっきりそう言いましょう、という思いでつけています。

幼いころ、「犬とユダヤ人はおことわり」という立て札を見て、そのときの嫌な気持ちを忘れずにいました。そして、時代遅れの考え方や、不公平や、不平等や、弱者が虐げられたのを見ると、反対したり、意義を唱えたりしました。それは、最高裁の判事になっても変わりませんでした。

「ルース・ベイダー・ギンズバーグをもっと知るために」という後書きには、その生涯がもう少し詳しく書かれています。また編集の方で用意してくださった「RGBの生きた時代とアメリカの女性に関する主なできごと」という年表もついています。

原書には書き文字がついていて、それが日本語でうまく表現できるかどうか心配だったのですが、デザインの方がうまく処理してくださいました。

(編集:二宮直子さん デザイン:藤本孝明さん、藤本有香さん)

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デミ作『マリー・キュリー』表紙

マリー・キュリー

アメリカの絵本。二度もノーベル賞を受賞した女性科学者の伝記です。ポーランドのワルシャワに生まれ、フランスのソルボンヌ大学に学び、フランス人科学者のピエールと結婚し、二人の娘を育てながら研究に邁進したマリーですが、最近のアメリカの伝記絵本は、人間を偉人というよりひとりの人間として描こうとしているように思います。夫のピエールは放射性物質への被曝のせいで体が弱っていたせいもあり、通りを渡ろうとして馬車にひかれて亡くなります。マリーも、被曝障害で亡くなります。

「ラジウムから出る放射線は、病気の治療に役立つこともあれば、人を殺すこともあるのです。科学者たちは放射性物質をつかうときは体を保護するようになりました。しかし、長年のあいだ被曝しつづけていたマリーは、すでに健康をそこなっていました」と本書は述べています。また時計の文字盤などにラジウム入りの夜光塗料を塗る仕事をして健康をそこねた「ラジウム・ガールズ」についても言及しています。

こういうのを訳すときは、一応テキストを訳してしまってから、一般書の伝記を何冊か読みます。そして疑問のある部分を書き出して、さらに調べるようにしています。異論がいくつかあるときは、原書の文章を活かしますが、原書が大きく間違っていることもあるので、要注意です。

彼女についての最近の伝記は「マリ・キュリー」と書いてあるのが多いかもしれません。フランス風の現地音主義をとればマリになります。でも、現地音主義にこだわると、「マリ・キュリ」になります。それはちょっとおかしいかも、と編集の方と相談して、このようなタイトルになりました。

(編集:鈴木真紀さん 装丁:森枝雄司さん)

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2022年07月 テーマ:アウトローと友だちになる

日付 2022年7月19日
参加者 ネズミ、ルパン、花散里、アカシア、エーデルワイス、コアラ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、西山、さららん、ミズタマリ
テーマ アウトローと友だちになる

読んだ本:

(さらに…)

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『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙

サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと

ルパン:全般的にはおもしろかったのですが、シャロンの描かれ方がどうも…リブは、ほかのだれからも仕事をもらえないのに、シャロンだけが雇ってくれるんですよね。信頼もされていた。なのに、シャロンがずいぶん悪者みたいに描かれているのが違和感ありました。それから、この夫婦が離婚してしまうほど決定的な事件が、ジョージの怪我だったというのも「え?」という感じです。この父親と母親、責任のなすりあいして離婚してしまうわけですよね。ジョージはそのことでいっそう傷ついているのではないでしょうか。

ミズタマリ:正直、前半は間延びしているように思いましたが、読後感はとてもよかったです。犬との友情をはじめ、いろんな形の友情、人間関係が描かれています。ギズモ、つまり犬の一人称だと思っていた章が、最後まで読むと、ジョージとリブが書いたお話を分散して載せていたということがわかります。その仕掛けがとてもおもしろかったし、犬の一人称としては人間に寄り過ぎではないかという疑問も解決しました。気になるところはいくつかありました。まず、犬の腎機能の衰えなのですが、こんな急激に悪化するでしょうか。あと、p.123で、ローザは犬の毛のアレルギーなのだと言います。でも、正確には犬アレルギーは、皮脂などに含まれるたんぱく質由来のはずです。なので、ローザがいい加減なことを言う大人なのだというイメージが焼き付き、後半で誠実な人柄とわかって驚きました。また、p.133で、リブが「約束通り、来てくれたか」と言うシーンがあるのですが、これが男っぽくて、リブは女子だと思っていたけれど本当は男子だっけ、と遡って確認してしまいました。あともう1つ、p.331にギズモが語ることとして「ある種類の肉を買い忘れてしまった」とあるのですが、ある種類、という言葉が不自然に思えました。

西山:最初私はなかなかのっていけなかったんですが、p.81でシャロンがギズモにキスされて声をあげて笑う場面で、ああ、この人は本当に犬が好きな人なのだと好感をもって、やっと作品に入れた気がしたのです。ところがどうもそうじゃなかったということが早々に分かって、好きになれるポイントがなくて戸惑ったままでした。いじめっ子側にべったりになってしまったマットにしてもシャロンにしても、日本の創作だったらこれほど切り捨てなかったのではないか、もっとこまやかに彼らのことも嫌いになれない背景がちらりと書き込まれていたのではないかと思うと、そもそも読み方を変えなきゃいけなかったのかなと、テイストの違いを感じます。安楽死の提案には驚いて、不当な感じがしました。後半がばたばた。そこまでの長さと、後半のエンタメ的なドタバタの連続が不釣り合いに感じて、もっと薄くて、勢い良く展開する本でもよかったのに、と思ってしまいました。1つ質問です。リブの人種って、言葉上では書かれていませんが、表紙の絵で有色人種とわかります。あとp.155に肌の黒いリブが登場しますし、あえて言う必要はないとは思うんですけど、どうしてこういうことになっているのでしょう。

ルパン:p.232ページの挿絵、リブですよね? ここだけリブの肌が白いんですが。

アカシア:そこは私も違和感がありました。そこだけ白い肌で、あとはそうじゃないんですよね。

アンヌ:私は、ギズモの話す章をジョージが書いているとしばらく気づかず、漱石の『吾輩は猫である』の犬版だなあと思いながら読んでいました。リブがシャロンをだましたりけなしたりする場面でも、シャロンは実はリブの母親だから平気なんだろうと思ってしまいました。シャロンは解雇するとき恩着せがましいことを言っているけれど、きっと、リブはかなり劣悪な条件で働かされていたんだろうと思います。ジョージのパニック発作の原因が両親のけんかというのはもう一つすっきりしない説明だと思いつつ、とにかく、老犬の割には大活躍のギズモが楽しくて、ジョージの腕の中で眠る最後でほっとしました。私は『ヘリオット先生奮戦記』(ジェイムズ・ヘリオット著 大橋義之訳 早川文庫)が大好きで、あのシリーズでは、獣医である主人公が動物に苦痛を与えないための決断だとして安楽死を行う場面がいくつかあるのですが、今回はあまり必然性がないようで、それを迫る親たちの態度に疑問を感じました。ジョージはきちんと別れの儀式を組んでいるのですものね。

花散里:いじめられっこのジョージと愛犬ギズモの物語はおもしろさが伝わり、子どもたちもとても読みやすいのではないかと思いました。作者はイギリスの学校をまわって文芸創作のワークショップをしているので、子どもたちを見て作品づくりに生かしているのが伝わってくるようでした。後半に向かって、どんどん読ませる構成がとても上手だなと思いました。犬との触れ合いがよく書かれていて、表紙画とともに子どもたちが手に取りやすいのではないかと感じました。この作者の新しい作品、『ぼくたちのスープ運動』(渋谷弘子訳 評論社)も読んでほしいと思います。

まめじか:タイトルは「ギズモにさせてあげたい」となっていますが、丘に登るとか、有名になるとかは、主人公がしたいことですよね。飼い主目線というか、飼い主の思い出づくりのように感じてしまって……。p.59に、「このころから、ジョージは文字を書くのがあまり得意じゃなかった」とあるのですが、ジョージはディスレクシアなのでしょうか? お話はずっと書いているようなのですが。

花散里:パニック障害はあるんですよね。そういうところとつながっているのかな。

アカシア:ディスレクシアではないんじゃない? スペリングが苦手なのかも。

まめじか:p.98で、マットに対して「きみ」という二人称を使っていたり、「こっけい」(p.248)という言葉で表現していたり、13歳らしからぬ言葉づかいなのは、この子が周囲から浮いてるから?

エーデルワイス:日本語の書名は原題とは違うので、翻訳はおもしろいですね。「死ぬまでにしたい10のこと」という映画 がありましが、それもどきでしょうか? 読んでいて想像する部分が多かったです。両親の離婚は、ジョージの事故がきっかけに過ぎず、前々より隙間風が吹いていたのかもしれないし、親友だったマットがこれでもかこれでもかといじめる理由が全くわかりませんでした。ジョージの何か言った一言が気に障ったのかな? それどもジョージが幼すぎたのでしょうか。p.339の12行目「この一瞬を生きるんだよ」はいいですね。雑種犬コンテストの賞金が400ポンド。1ポンドを164.35円に換算すると65,740円になります。確かにジョージにとって大金ですね。

ネズミ:非常にうまい構成の物語でさっと読めましたが、物足りなかったです。ゴールデンビーチに行くことで、めでたしめでたしのように見えるけれども、両親の離婚でパニック障害気味でひとりぼっちというジョージのかかえている問題も、ヤングケアラーとしてのリブの問題も、それで本質的に解決したわけではない気がして、後半は特に都合のよい展開が多く感じられました。エンタメと思いましたが、それにしては言葉が多く、よく読める読者じゃないと読みとおせそうにありませんし。でも、p.230の高い丘から町を見下ろすシーンは好きでした。視野を広げるのって大切だなと。ただ、気にかかったところがところどころにあって、たとえばp.48の「中華料理を注文した」。少し言葉を足さないと、バーベキューができなかったから出前を頼んだと、読者にわからないかもしれません。また、p.190の5行目など数箇所で「いつぶりだろう」は違和感がありました(参加者から「若者言葉だ」という発言あり)。あと、どうかなと思ったのは、ギズモの一人称の部分の文体。人間の年でいえば78歳の老犬なので、私はもっとおじいさんぽい口調になるかなと思ったのですが、書いているのは主にジョージなのでこれでいいのでしょうか。みなさんがどう思ったか、お聞きしたかったです。

アカシア:読む前にネットで梗概をを見たら、ドタバタって書いてあったで、ああ、ドタバタの話なんだなと思って読み始めました。ジャックは、中学生なのに昔のヒーローの衣装を着て犬にも着せて友達のパーティに行ったりするところを読むと、もしかすると発達がゆっくりなのかもしれません。そのジャックが、空気が読めなくて仲間はずれにされたり笑われたりするシリアスな場面と、老犬ギズモがやらかすドタバタな部分の落差はかなりあります。そこをどう評価するかは、人によって違うかと思うのですが、私は子どもの本として絶妙なミックス具合だと思いました。愛犬が高齢で体力もなくなったときに、死ぬまでに何をやりたいかを考えてリストを作り、一つ一つ実現していくというのも、いいですね。ギズモに何かをやらせてあげるというよりは、ギズモと自分で思い出をちゃんと作ろうということなんだと私は理解しました。医者も家族も安楽死を勧めたのに、それを拒否してもっとすばらしい最期を迎えさせてやれたところも好きでした。タイトルですけど、「9のこと」はすわりが悪いので「9つのこと」くらいでいいような。あと、ギズモがコンテストで優勝するとか、悪党を退治するなんていう部分は、ちょっとできすぎかもしれません。

しじみ71個分:前の選書当番のときに、なんとなくエンタメっぽいかと思ってやめた本でしたが、改めてちゃんと読んでみると案外おもしろかったです。犬の看取りの物語なのかと思えば、そこにちゃんと主人公の成長も重ねてあってよかったです。ジョージがみなさんのおっしゃるように、ちょっと発達に遅れのある子なのかなと思うほど、ちょっと幼くて、友だちのマットの心変わりに気付かず、いじめの対象になってしまいますが、ギズモと思い出作りをしながら過ごす中で、もう自分を大事にしない人は友だちでないと思えるようになり、たくましくなっていくのが心に残りました。リブもヤングケアラーで、貧困のせいでいじめられたりもしますが、ギズモの活躍のおかげで行政の支援が受けられるようになってホッとしました。物語の中では、子どもが大怪我をしたからといって離婚にまでなってしまうかなと思ったし、リブがギズモとコンテストに出ると言った時点で、本番にはリブは来ないなと読めてしまうのでありがちかなとも思いましたし、ギズモが強盗の急所にかみついて御用になるとかは、ちょっとご都合主義だなと思いましたが、最後にゴールデンビーチで夕陽を見ながら家族が和解する中ギズモが旅立つというシーンは、ちょっとぐっと来ました。痛快だったのは、ジョージとギズモが仮装してパーティーにいってみんなに笑われて帰るところ。マットの靴の中にギズモが糞をしてしまうのは最高に痛快でしたね。あと、タイトルが「ギズモにさせたい」というより、「ギズモとしたい」の方がしっくりきたんじゃないかなと後から思いました。

さららん:前半では、何度いじわるされてもまったくめげずに、かつては親友だったマットと仲直りできると信じて突き進むジョージに、どうしても共感できませんでした。現実に起きていることと、ジョージの認識の間に差がありすぎて……。「おいおい」と、つっこみを入れながら読んでいたのですが、ジョージには何か障害があって、人の感情を読み取るのが苦手な子なんだと思いなおすと、違う視野が開けてきますね。ともあれp.131で、ジョージがマットと決別する決心をしてくれて、ホッとしました。両親の離婚は自分のせいだと抱え込んでいる部分もあるジョージですが、一方で、なんとかなるさと前向きに行動するところが大きな長所です。リブに助けながら、ギズモが「死ぬまでにやっておきたいリスト」の項目を1つずつ実現させていく。そしてジョージはリブとの友情を深めるなかで、それまで知らなかったいろんなことに気づきはじめる。最後にギズモは死んでしまうけれど、全体として悲しくてたまらない物語にはなっていないところがいいな、と思いました。物語の終盤で、ギズモが泥棒に果敢に食らいついてやっつけるエピソードでは、瀕死のギズモにそんな体力が?と、つっこみを入れたくなりましたが、ともあれ死を迎える愛犬との暮らしをコミカルに明るく描いた、ユニークな物語です。細かい部分をあまり気にせずに読んでいければ、読者の子どもたちも「ギズモと知り合えたぼくは、よりよい人生を勇敢に送っていかなきゃ」(p.359)というジョージの言葉を素直に受け止められるでしょう。

アカシア:シャロンのキャラクター設定が揺れてるんじゃないか、という声がありましたが、最初は笑ってますけど、あとは「うすら笑い」となっているので、一応ちゃんと書いているかな、と思いました。今回のテーマは「アウトローと友だちになる」ですが、この作品でも『スネークダンス』でも、両方ともアウトローは女の子です。どちらも社会に反発を感じて、家族という点では大変なものを抱えていますが、この女の子のアウトローたちが男の子たちを成長させていき、それによって自分たちも少しずつ変わっていくという設定がおもしろいなと思いました。

まめじか:ジョージは「ウルトラボーイとワンダードッグ」のお話をずっと書いていて、そのことはギズモの章にも出てきます。最後にギズモの自伝をリブに見せる場面があるので、つまりそれは、ワンダードッグのお話とは別に、ギズモの自伝も書いていたということですよね?

アカシア:そういえば確かに、そこははっきりしませんね。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『スネークダンス』表紙

スネークダンス

アカシア:とてもおもしろく読みました。イタリアと日本の文化の違いに、人間の生き方を重ねているのがおもしろいですね。同じ建物に住むバスケ仲間には、日本人やイタリア人のほかにインド人、韓国人、スコットランド人などもいて多様なのもいいですね。個人的におもしろいな、と思う表現がいろいろありました。[数をかぞえる単位がヨーロッパは3桁ずつ、日本は4桁ずつ]というところは、そういえばそうだと再認識しましたし、[母語や母国語ではなく母校語がいちばんしっくりくる]とか[日本の男子中高生の一人称は「オレ」]、[大理石の国から、木とたたみの国に来たんだ][イギリスはイタリアより差別が厳しい]、[ローマでは美術館などは無料で入れる]などというところ、著者の視点で私も新たに文化を見直すことができました。著者がふだんイタリアに住んでいる方なので、編集のほうでもう少しアドバイスすればいいのにな、と思うところもありました。たとえばp.11の「もちろんさ。マッテオは日本のアニメ大好きだもんな」は、二人称ではなくマッテオと言っているところが日本的な会話になっていて、さすがと思ったのですが、p.7の「いらないってば。この悪魔め!」は翻訳調ですし、p.120の歩のセリフ「あんがと。あとであたしが取りに来る」は、日本語だと「取りに行く」になるんじゃないかな。それと、p.165の圭人の独白「まっぴらごめん」は、今の子は使わない言葉かもしれません。そうそう、圭人(けいと)という名前ですが、ヨーロッパだとKateが女性名なので男の子にはつけない名前かも。著者はあえてそうなさっているのかもしれませんが。今回のテーマで言うと、アウトローの歩を圭人が惹かれたり否定したりしてとても気がかりな存在になっていく、というのがおもしろいと思いました。

ネズミ:私もとてもおもしろかったです。まず、主人公に寄り添って読んでいけるのがうまいなと思いました。そして、タイトルと表紙を見てダンスの話かと思ったら、そうじゃなくて、ストーリーもどんどん思いがけない展開があって、思ってもみないところに連れていかれます。予想がついてしまう物語も多いなか、自然な形で予想を裏切ってくれて、楽しめました。同じ作者の『アドリブ』(あすなろ書房)は音楽でしたが、この本ではローマの建築や絵の蘊蓄が盛りこまれていて、多分作者が意識的にしているのだと思いますが、10代の読者に新しい世界を受け止めやすい形で差し出しているところも好感を持ちました。

エーデルワイス:表紙のイラストとカバーイラストが違っていてオシャレです。題名の『スネークダンス』とカバー絵で主人公の杏里圭人と山中歩が踊っているので、ダンスの話かと勘違いしました。法隆寺の話になるとは! 圭人が宮大工になろうと意思を固める展開に驚きました。作者が住んでいるイタリアならではの内容で、読みごたえがありました。かつてコロッセオでは公開処刑を行っていたものの、今は死刑を廃止しているイタリア。世界中のどこかで死刑が廃止されると、コロッセオでセレモニーが行われることを本文で初めて知り、感銘を受けました。杏里圭人(あんりけいと)の名前は西洋風ですが、日本に「杏里」という苗字があるのでしょうか? 作者がアンリ・マティスが好きなせい? 終盤、圭人の父親を引き逃げした犯人が逮捕され、圭人の心にやっと平穏をもたらしますが、歩の家庭問題は解決していません。歩を理解してくれるおばあちゃんと古き良き家屋に住んでいますが、愛情を全く感じられない父親、若い義母、母親。続編があるのでしょうか?

まめじか:最初のほうでローマの建築の話が続くのですが、それに十分なページを割いてていねいに描いているから、圭人が建築に興味をもち、やがて宮大工を目指すようになる過程にも説得力がありました。先ほど歩の家庭の問題が解決されないという話がありましたが、こういうふうに親が子どもを養育しようとしないことって、現実の世界にもたくさんありますよね。歩は父親とわかり合えず、圭人は父親をひき逃げ事故で亡くし、ままならない現実にそれぞれ直面している。そこでつぶれてしまうのでなく、人との出会いや、好きなことや夢を、前に進む力に変えていく。レジリエンスというか、逆境の中でもちこたえる力を、五重塔の耐震構造に重ね、スネークダンスという言葉で表現しているのが見事だなあと。日本の景観の問題や、イギリスの差別のことなど、長くイタリアに住んでいる作家の方ならではの視点ですね。視野の広さを感じました。

花散里:ローマの古代建築と東京・下町の建築などの対比の中で物語が展開していくので、とても関心を持って読みました。父親を交通事故で失い、日本に帰らざるをえないときの主人公の心の機微も伝わってきました。日本に帰国してからの歩との出会いも興味深く展開して行き、作品の構成も上手だと思いました。法隆寺や宮大工についてもよく調べられていて、法隆寺の心柱の考え方を「スネークダンス」に繋げているところなどが印象的で読後感がよく、日本の作品のなかでも読み応えがある1冊だと感じました。

コアラ:私もおもしろく読みました。前半にローマのことがたくさん書かれているのがよかったと思います。p.26の後ろから4行目、「数は何語で数える?」以降が特に興味深かったです。圭人が日本に来てからは、歩のしゃべり方に少し違和感がありましたが、アウトローだからこういうしゃべり方もアリかなと思えたら、圭人との会話がおもしろく感じられました。p.131からの「11 心柱ゆらゆらゆらり」の章は特におもしろくて、p.133の最後の歩の発言には、そうそう、とうなずいてしまいました。読んでいて、歩の考え方に染まってしまいそうな勢いがありました。p.216の8行目から10行目については、私も以前、揺れることによって揺れを吸収するという方法を知って衝撃を覚えたので、「背筋がゾゾッとした」というのはよくわかると思いました。この本を読んで初めてこういうことを知った子がいるとしたら、やっぱり驚きがあるのではないかと思います。最後もうまくまとめられていて、子どもにおすすめの本だと思いました。

ミズタマリ:冒頭にタバコを吸うシーンがあって、攻めている児童書だなと、いい意味で驚きました。イタリアの文化、日本との違いを知ることができ、異文化に触れられる作品です。イタリア以外に、イギリスや周辺国のことにも言及していて、興味深く読みました。ただ、説明的に感じられる部分もありました。建造物についての説明が続く場面では、興味を持てない子もいるのではないか、そういう子はページをめくる手が鈍らないか、と、ちょっと気になりました。2人の友情は魅力的だし、最終的に、主人公が希望を見つけて終わるので、読後感はとてもいいです。1箇所だけ気になったところがありました。p.93で、「外見の似た女の子同士がうなずきあう」という場面。主人公が「この二人の名前を覚えるのに苦労しそうだ。」となっています。でも、主人公は写真のような詳細なスケッチを得意にしているのですよね。一般の人が、似ている女子同士、区別がつかないと思っても、主人公はぱっと違いに気づく、というようなキャラクター設定に思えたので、ここは若干矛盾を感じました。

ルパン:いい本だとは思いますが、おもしろかったかどうかというと、ちょっと…。最初の部分に説明が多くて、おもしろくなるまでに時間がかかってしまいました。子どもの読者は最後まで読み通せるでしょうか。すてきだと思った言葉は、p.217の「名をのこさず匠をのこす」です。あと、歩が親元を離れているのに、制服を着なかったり悪いことをしたりして、遠くから親の気をひこうとしているところが何とも切ないと思いました。

アンヌ:前半がずっと美術館やイタリアの遺跡の話で長いけれど、私は言葉だけでここまで景色を表現できるのか、住んでいる人の視点からの案内は違うなとおもしろく読みました。イタリアで温かい人間関係を築いていて、イギリス社会の構造とかを友人を通して知っている圭人が、なぜ日本ではこんなに消極的な姿勢で目立つまいとしているのかは少し不思議でした。先ほど、まめじかさんおっしゃっていたように、この作品は今までの作品よりさらに人物の奥行きが深くなっていて、その点も素晴らしいと思います。例えば、死んだ父親像を生きていた時の思い出だけではなく、本当は絵を描きたかったのじゃないかと考えさせて、もう一つ掘り下げて描いているところとか、歩のおばあちゃんがケイトの嘘を見抜いていた場面で、あれ?と思っていたら、あとからこの人は実は塾の先生で、ただ者じゃない人だったとかわかるところとか、ですね。また、建物の構造も、授業で見学に行ったと聞いた形でうまく説明されていると思いました。それにしても、法隆寺の構造とスネークダンスがつながるとは意外でした。歩のペイントが、いたずら書きからシャッターペイントに変わり、町の人とつながりが出てくるところ、それによって圭人も変わっていって最後に大声で叫ぶところなど、読後感もよかったです。

アカシア:今、圭人がなぜそこまでびくびくして構えているのか、という疑問が出たのですが、日本の同調圧力はすごいし、日本人学校などでも「目立つとたたかれる」なんていうことを聞いてたからじゃないかな、と私は思いました。父親がいないし、帰国子女だしなど、マジョリティと違う部分を圭人は持っているので、たたかれることを警戒したんじゃないかな。それから、なんだかこの作品を弁護しているようですが、ミズタマリさんがおっしゃったp.93の2人の女の子違いがなんだかはっきりしない、という場面ですが、私は人物より建物に興味をひかれている圭人ならありかと思ったし、イタリアだと髪や目の色も、着てる服も、肌の色もみんなそれぞれ違うでしょうから、日本人が同じような外見で同じような意見を言うのを前にして圭人がそう思うのも当然のように思いました。

ミズタマリ:私もそれはそう思うんですけど、キャラクター設定としてどうかな、と思ったんです。

アカシア:歩が、好きなことは徹底的に追求するところとか、アウトローぶりを発揮するところがとてもおもしろかったです。圭人も最初は嫌がっていますが、影響を受けていきますよね。それに、たぶん歩は圭人が好きなんじゃないかと思いますが、圭人がそれに気づいてないところも、おもしろいな、と思いました。

ネズミ:親じゃなくても、わかってくれる人がいることを書いているのかなと思いました。おばあちゃんは後になって、面倒見のいい塾の先生だったことがわかって、わが子はエリート弁護士になったとしても、孫の成長を見守っている大人だというのが想像されますよね。

ネズミ:谷根千では古い建物を生かしながらやっていこうとしている建築家の人たちがいます。佐藤さんともその人たちとつながりがあるのかもしれないと思いました。

アカシア:建物も、観光地として売り出すところまでいかないと、どんどん壊されていきますね。もったいないです。古い建物をリフォームして住んでいる人が、耐震はどうなのかときいたら、昔の建物のほうがしっかりしているんじゃないか、と言っていました。

花散里:奈良の宮大工棟梁の西岡常一さんの本など読むと、日本の建築の良さがよくわかりますね。

さららん(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルなので、ダンスのお話かと思って読み始めたら、作品のモチーフは建築。しかも大地が揺れると心柱も動くという、法隆寺の心柱の仕組みから来ていることがわかりました。その意外性がおもしろく、またローマと東京の町の景色の違い、文化の保存に対する意識の違いやなど、蘊蓄もふくめて興味深く読めました。圭人は、日本の中学校では周囲と同化するために、一人称を「ぼく」から「おれ」に変えなくてはと考えます。イタリア語だけを使って生きていれば、存在しない気苦労ですよね。そんなふうに、イタリアから帰国したばかりの主人公のナマの感覚、違う視点を、読者が自然に共有できる作品だと思いました。日本への帰国後、できるだけ目立たないようにする圭人と、父親に反発してグラフィティを続ける歩は対照的な存在です。けれど、古い町並みへの愛情では共通していて、ふたりが友情をはぐくむ過程は王道の児童文学という感じ。歩の父親とその恋人の描き方は漫画的ですが、この作品のエンタテイメント性というか、軽快さを保証するためには、そのぐらいでちょうどよかったのかもしれません。最後に帯のことを少し。「芸術の都ローマで生まれ育ったアンリは」とありますが、主人公の名前は圭人(けいと)だったはず。確認したところ、p.88にフルネームの「杏里圭人」が初めて出てきました。「アンリ」は間違いではないけれど、読者にとってはやはり「ケイト」か「圭人」でしょう。

しじみ71個分(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルから、どういうところに話が落ちつくのか期待を持ちながら読み進めました。はじめはイタリアの観光案内みたいだなと思ったところもありましたが、日本とイタリアの間で主人公のアイデンティティの揺らぎを描くには必要だったんだろうなと後から思いました。最後まで読んでいって、やっと主人公の揺らぎを法隆寺の心柱の揺らぎに重ねて、揺らぎながらしっかりと立つという、柔軟な強さにつなげたんだなと腹落ちしました。主人公が将来の夢を見つけて希望を感じさせて終わり、読後感もさわやかです。圭人の将来を決めさせてしまう、宮大工さんがかっこいいですね。「わたしたちは名を残さず、匠を残す」(p.217)の言葉は胸に沁みました。p.218の「和」の解釈で、「つかず離れずの間合いの『離』を保つことが『和』の前提」というところなどは本当にそのとおりと思いました。おもしろかったのですが、ただ、歩の家族の問題は解消されないで途中で消えてしまったのがちょっと残念だったのと、圭人と歩の怒りはどこで消えてしまったのかという、なんとなく不完全燃焼感はありました。若者が怒りをもって立ちあがるということを伝えるのはとても大事だと思って読みましたが、それをどうやって自分たちで解消したり、解決したり、折り合いをつけていくのかという示唆がないままだったのが気になったのと、「抵抗と抗議のちがい」について掘り下げがもうちょっとあってもよかったのかなと思ったりもしました。

アカシア:この作品は13歳の少年の一人称なので、抵抗と抗議はどう違うかは書けないでしょうね。

しじみ71個分:なるほど。語り手の人称の視点は、読んだときには欠けていました。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年06月 テーマ:謎の研究

日付 2022年06月21日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、花散里、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、オカピ、西山、さららん、サークルK、マリナーズ、雪割草
テーマ 謎の研究

読んだ本:

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『博物館の少女』表紙

博物館の少女〜怪異研究事始め

すあま:とてもおもしろく読みました。古道具屋の娘のままでもよさそうだけど、博物館で働く、というところがユニークでした。実在の人と建物が出てくるところもよいと思います。シリーズ前提の1作目ということなのか、まだ明らかになっていないことがいろいろあります。タイトルはちょっと古くて、魅力のない感じがしましたが、あえて少女小説のタイトルに寄せたのでしょうか。サブタイトルと合わせれば興味をひかれるということなのかもしれません。主人公は13歳ですが、すでにかなりの知識をもっていて、ちゃんと目利きができる。古道具屋で仕事をおぼえるところも読みたかったです。付録があって、地図が載っているので、読む時の助けになると思いましたが、とじ込みではないので図書館の本だとなくなってしまうかもしれません。

しじみ71個分:最初にこの本を知ったのは新聞広告で、富安さんの10年越しの作品ということでとても興味を持ち、出てすぐに買いました。最初から最後まで、流れるようななめらかな文章で、ワクワクしたまま最後まで読み切りました。これは子ども向けの本なのかしら、と思うほどに枠を感じさせないおもしろさでした。個人的には、上野界隈で数年過ごした経験があるので、東京国立博物館の裏手の木々の鬱蒼とした感じなど、とてもリアルに感じることができ、怪異研究所はあの広い敷地のあの辺りなのかな?など想像も膨らみ、本当に、とてもおもしろく読みました。明治の上野界隈のノスタルジックで、少し怪しげな雰囲気は、『夢見る帝国図書館』(中島京子著、文藝春秋)にも共通するところがありますね。明治になって世の中が変わって、大阪から東京に出てきて、すべてにわくわくする感じがすごくよく伝わってきました。主人公の少女イカルがまた大変に魅力的で、大人を負かすほどの文物に関する知識や、鑑定のできる感性を持っていて、とてもお茶目な女の子で、主人公と一緒になって物語の中で冒険できました。どういう怪異がこのあとのシリーズで起こってくるのかがとても楽しみです。今回の物語も、黒手匣の紛失から隠れキリシタンと不老不死の島にまでぶっ飛んでしまうというのも、展開やスケールがとても大きくて、驚くやら楽しいやらで、物語のおもしろさを存分に堪能しました。この先は、まだ登場してきていない町田さんがどう物語の軸に関わって動いていくのかが楽しみでなりません。怪異研究でも、文物の鑑定でも、イカルちゃんがこれからどんな出来事に出会って、苦難を乗り越えて、どう成長していくのかが楽しみです!

コアラ:おもしろかったです。明治時代がよく作り込まれていて、今では使われなくなったものや事柄や言い回しも使われていて、その時代の物語として堪能できました。1回読んだだけですが、細かいところまで読み込んでいくと、もっとおもしろいかなと思いました。子どもには馴染みのない言葉も出てくるので、本をたくさん読んできた子どもで、子ども向けの本に飽き足らなくなったくらいの子にちょうどいいかなと感じました。

西山:すっごくおもしろかったです。この作品には大きな謎があるけれど、その興味にただひっぱられてページを繰るのではなくて、読んでいる間ずっと楽しかった。途中の景色、風物、主人公の発言や感性、ぜんぶおもしろかった。たとえばキリンの場面。初めて見るイカルの目を通したキリンの姿、それへの驚き、それだけでもおもしろいのですが、「イカルの知らない、どこか遠い国の草原で、この麒麟という動物たちが走ったり、歩いたり、草を食べたりしているのかと思うと、それだけで愉快になった」(p.34)と続くところで、なんてひろびろとした愉快な感性だろうとイカルのことがすっかり好きになりました。あと、女の子が働くことへのエールになっているところもうれしかったです。アキラが「男だからとか、女のくせにとか、つまらないことにこだわらず、どうすれば仕事がはかどるか考える頭」を持っている(p.96)というのもうれしかったし、「生まれて初めて、自分自身でかせいだ一円二十三銭だ。自分自身で働いて給金をもらったのだ。そう思うだけで胸がわくわくした」(p.340)というところから、これから広がる人生へのときめきで閉じるラストもよかったです。

ルパン:ごめんなさい、前評判もすごかったし、富安陽子さんだし、ということで期待しすぎたせいか、私は正直そこまでおもしろいという感じではなかったです。好みの問題だと思いますが。歴史的な背景と怪異現象とが中途半端にまざっている感じで、うまく波に乗れないまま終わっちゃいました。

マリナーズ: 非常にさわやかで、魅力的な本でした。大変な境遇にある女の子が、いきいきと前に向かって進んでいく、元気の出る作品です。特に前半3分の1は、新しい場所で冒険が始まり、いろいろな人たちとの出会いが続きます。楽しく読ませよう、という読者サービスが徹底していることに感嘆しました。もっとも、黒手匣が登場してからは、長く感じるところもありました。話の展開上、同じ場所に2度忍び込まなくてはいけないのはわかるのですが、何かを見つけるとすぐ足音が聞こえてくる、など、似たパターンの描写が多くて、若干ダレました。あと、文章で間取りを説明するのは難しいのだな、と感じます。どこかへ必死に逃げているのですが、建物全体の作りが把握できていないので、緊迫感を感じられないところもありました。読み終わってから別添の資料に気がつき、意外とシンプルな間取りだったのだなと思いました。最後まで来るとカタルシスがあるので、そのあたりの冗長な部分も必要なものだったのだ、と納得できます。おみつの存在が非常に印象深かったです。あと、細かいところですが、p.171の上野動物園の「ケンゴロウ」ってなんだろうと一瞬考えて、カンガルーか! と気づいたときは笑いました。

サークルK:とても楽しく読み進みました。登場人物がいきいきしているし、私も上野の博物館界隈はとっても好きなので。黒手匣の謎解きが、最後に凝縮されているので読む速度のピッチが上がりました。表紙の雰囲気も裏表紙とつながっていて、実は重要な登場人物もさりげなく書き込まれているところが、読後に「そうだったのか」と思わせてくれる粋な図らいに感じました。朝ドラのヒロインのように、主人公が周りの人の温かさに応援されて自分の境遇に負けずに成長していくというところが爽快でした。続編が待ち遠しいです!

花散里:私も『夢見る帝国図書館』を思い出させるようなおもしろさを感じました。上野の国立博物館から寛永寺辺りは好きな場所ですが、図書館で借りた本には付録の地図はなかったので、子どもたちには歴史的な設定など物語の雰囲気が想像しにくいのではないかと思いました。13歳で目利きの才があるというのも無理があるように感じました。アキラの存在などはもっと伏線があってもおもしろかったのではないかと思いました。物語の結末が分かってからの最後の章はなくても良いように思いましたが、富安さんの作品の中では個人的にはいちばん好きな作品だと感じました。

さららん:生まれ育った場所と作品舞台が近いせいで、タイトルを聞いたときから、この本を身近に感じていました。両親を失ったものの、よき人たちに囲まれ、父親から叩き込まれた審美眼で自分の力で人生を切り拓いていく主人公のイカル。トノサマ、アキラなど脇役の描写も巧みで、怪異研究所という設定や、事実を積み重ねながら黒手匣の謎を解明していく展開にもそそられます。親友となる川鍋暁斎の娘トヨも頼もしい存在で、続編では暁斎も活躍するのかなと、期待がふくらみます。実在の人物名(例えば博物館の初代館長の町田さんや、二代目館長田中さん)を物語に取り込んだうえで、架空の人物を存分に活躍させる構成はよくありますが、その人間関係やセリフに厚みがあり、引きこまれました。見事な日本語で紡がれた物語で、優れた書き手から十分なおもてなしを受けたという感じがします。

アカシア:黒手匣、明の正体、ロッシュやおみつの存在など、謎がたくさん用意してあって、それで引っ張るし、時代考証もちゃんとしてあるので、フィクションは苦手という子でもどんどん読めるんじゃないかと思いました。イカルは、西山さんもおっしゃっていたように、この時代にあっても積極的で勇気ある存在に描かれているのがいいですね。舞台が明治期の博物館というのも、「怪異」を研究する場所だというのも、おもしろい! ただp.247-248で、アキラが床の下で会話を聞いているだけなのに、「黒手匣があるとしたら、聖堂以外は考えられない」というのは、ちょっと無理があるかもしれません。1つ1一つの文章を味わいながら、極上の読書体験ができました。

アンヌ:とてもおもしろくて、続きが待ちきれないほどです。始まりの座敷の怪異現象のところなどは、よくある話なので少しがっかりしたのですが、そこに超能力者らしい前館長が絡んできて、おまじないをし、手を開かない工夫を母がしてくれたという記憶をたどるところが、新鮮でとても素敵でした。わたしも、しじみ71個分さんがおっしゃったように、前館長に早く会いたいです。黒手匣の怪異話もあまり意外性がなく、この事件に絡む神父は、1人にしておいた方がすっきり読める気もしました。でも、それよりなにより、この主人公が魅力的でした。道具屋の女も認めるほどの目利きで、独りで知らない江戸も歩く勇気がある。私の持論に「孤児はお屋敷の扉をたたく」というものがありまして、たった1人で知らない場所に行くから物語は始まると思うんです。そのお屋敷が博物館!これは最高の物語になるぞと思いました。イカルは沈黙を強いられる養家から古蔵に行き、様々なものの知識をペラペラしゃべりだします。このお喋りな女の子には見覚えがあるぞと思い出したのがモンゴメリの『赤毛のアン』でした。先ほど、すあまさんが「少女小説」のような題名と言われたのにも納得がいきます。そして、p.333で唐突に義姉妹の約束を交わすトヨはダイアナではないでしょうか?ダイアナのようにトヨもちょっと体の大きいふっくらした女の子でした。実は私はのちに河鍋暁翠になるこのトヨに興味があります。『がいなもん 松浦武四郎一代』(河治和香著、小学館)では松浦から話を聞かされる狂言回し役として登場しますし、去年の直木賞の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、文芸春秋)の主人公でもあります。この時代の女の子にしては父親の弟子として様々なところに出入りをし、自分1人でも仕事に出かけるトヨは、明治の東京をイカルに案内するのに最適な役なのだろうと思います。続編には、暁斎も出てくるのだろうかとか、稀代の収集家である松浦はどうだろうかとか、ワクワクしながらこの2人の活躍を楽しみにしています。

ネズミ:刊行されたすぐに手にとったのですが、まず登場人物が魅力的でした。たとえばイカルの人物像が、博物館に初めて入ったときの驚き、古道具屋に入ったシーンなどで、説明的な言葉を使わないでくっきり浮かびあがるといったふうに、随所の描き方がすばらしい。大人の存在感が希薄なことの多い日本の児童文学作品の中にあって、まわりを固めている大人の人物が立体的に描かれているのもすごいなあと思いました。フェミニズムとは書いていないけれど、物語全体が女の子を応援するものであり、男女や年齢、職業その他で人を差別しない意識が感じられます。富安さんは現代のお話も書いていますけれど、この物語は少し昔の時代に舞台を置くことで、登場人物を自由に遊ばせられたのかなと思います。もちろん時代考証のためにたくさんの資料にあたられたとは思いますが。イカルとアキラとトヨとトノサマなど、一部の名前にカタカナが使ってあるのは、ひらがなでも埋もれてしまうからでしょうか。音だけで響いてくる感じがよかったです。

雪割草:冒頭から物語の世界観に引き込まれました。道具屋だった父親の商いの様子を、主人公がよく見て自分なりの感性で受けとめていることがわかり、道具屋を知らない読者にも、空気感含めその場がよく伝わってくる描写でした。物語の時代への興味がかきたてられましたし、時代は違っても、不安やわくわくする気持ちなど主人公の心の動きに読者もよりそいながら味わうことができました。この年齢にしては能力がありすぎにも思いましたが、マニアックなところはよく、そういう好きなものがある子への応援のメッセージにもなると思いました。付録がついていたのを今の今まで気がつきませんでしたが、地図はいいものの、登場人物まで視覚化しなくてもいいかなと思いました。

オカピ:仕事ものであり、成長譚であり、ミステリーや怪奇小説の要素もあり、ほんとうにおもしろく読みました。作者がこの時代のことを詳細に調べて、自分のものにして書いているのもすごいのですが、なにより文体の美しさに魅了されました。所作をあらわす言葉ひとつとっても、香るような言葉が物語にぴったり。これはYAなので、難しめの言葉を使えたというのもあるかと思いますが。富安さんの渾身の作だと思いました。大阪弁がぽんぽんはいってくるのも、作品の勢いにつながっています。人の生と死について考えさせるラストもよかった。人知を超えた不思議もこの世にあるという、希望のある結末で、これは書き手の力だなあと。ちょっとわからなかったのは表紙の英語タイトル。”A Girl at the Museum” となっているのですが、これはイカルのことなのだから、”The Girl at the Museum ” のほうがしっくりくるように感じました。

アカシア:この時代のどこにでもいる少女、というニュアンスを出したかったのかもしれませんよ。

エーデルワイス:最初の構想では少年「アキラ」が主人公だったと聞いてびっくりしました。主人公が少女「イカル」でよかったと思います。表紙を見たとき一瞬、富安陽子さんは時代劇小説に移ったか?!と思いましたが、明治を舞台に実在の人物も盛り込み、本当におもしろく読みました。附属のリーフレットを見た時はわくわくしました。登場人物のイラストと紹介や上野界隈の地図など、この本を読む子どもたちにもよい導入と思います。続編が楽しみです。

シア:とってもおもしろかったです。人気が高いのもうなずけます。絵や装丁も凝っていて、偕成社さん力を入れているなと感じました。付録のおかげで裏表紙におみつがいることに気づきました。明治時代のレトロな感じがしゃれていて、関西とは違う異国情緒真っ盛りの上野の輝きをイカルの驚きで表現してくれています。イカルの目利き能力や好奇心旺盛な性格も楽しめました。目利き能力については、こういう環境で育っていたらそうなるんじゃないかなと思います。似たような時代物の『はなの街オペラ』(森川成美著、くもん出版)よりも想定年齢は高いので、幅広い年齢層が読めそうです。ただ、読書家にとって満足度の高い本なので、本にあまりなじみのない子で、とくに女の子だと、もしかしたら『紙の心』の方がおもしろいかもしれません。イカルの幼少期の体験などから見知った怪異が出てくるのかと思っていましたが、珍しい方面からの話だったので意外性が高かったですね。そのおかげで大人っぽい余韻の残る良い話になりました。日本書紀は知らなくとも、有名な玉手箱の話で子どもも納得できる展開になっていると思いました。中高生に人気のある漫画にも非時香果が出てくるので、知っている子はより親近感がわくのではないでしょうか。そして、実在している人物や場所が登場するので、そのことについて調べたり、その場所に行ってみたくなると思います。教養を得るきっかけになりますね。とくに上野博物館は社会科見学や地方だと修学旅行などで行くことが多いと思うので、児童文学として出してもらえてとても嬉しく思います。神田天主堂はカトリック教会だからレノーも神父と表記しているところも細かいですね。また、付録がよくできています。図書館側からするとこういう本から離れてしまう付録は面倒ですが、補足や博物館の敷地や地図などわかりやすく書いてあります。視覚的な図は文章だけでは追いつかない子どもの理解の助けになります。地方や上野を知らない子の支えにもなったと思います。カラーなのも良かったですね。話の内容だけではなく、文体がとにかく綺麗で、言葉遣いもそうですが立ち居振る舞いが古風で美しく、目をみはりました。奥ゆかしさを始めそういう表現が随所にあり、イカルの育ちの良さを思わせます。関西弁も滑らかでした。後半のアキラとの関係も慎ましくて、明治の女の子らしさが垣間見えて良かったです。そしてそういう表現ができる作家さんは貴重なので、ぜひ続編をと、期待しています。ただ、この時代考証がしっかりしているため、「新しくお仕えする者は、だれより早く仕事場におもむき、上役のお出ましをお待ちするのが筋ですからね。」(p.122)という部分に、日本の仕事に対する姿勢の歴史の古さを感じて、少し頭が痛くなりました。とはいえ、女性のイカルは低く見られているのでボランティアなのだろうかと思っていたので、お給料がもらえてほっとしました。ところで、ケンゴロウというのは、カンガルーの過去の和名かと思ったのですが、カンガルーの聞き間違いなのですね。

ハル:みなさんのご意見がうかがえてよかったなぁと、いつも以上に、今日はしみじみ思います。読みやすく、時代設定も好きで、わくわくしながら読みましたが、「おもしろかった」以上の感想を持てずにいましたし、一方では「児童書なのかな?」とも思っていましたが……『赤毛のアン』! そう言われてみると確かに、枠というのか、ある種の様式美的なものも感じますね。わぁ、すごく腑に落ちました。著者も意識していたのでしょうか。そんな観点で、もう1回読みたくなりました。ありがとうございました。

西山ところで、ちょっと気になったのは、p.262の「あったりまえのコンコンチキや!」というところ。「あったりまえのコンコンチキ」って、ちゃきちゃきの江戸っ子の口調のイメージがあるのですが……。

シア:確かに「こんこんちき」は関西では聞きませんね。そもそも、今の時代使っている人がいないのでなんとも言えませんが。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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『紙の心』表紙

紙の心

ハル:顔を合わせない相手と、文字だけのやりとりでどんどん盛り上がっていって、口では言えないようなことも、文字でなら言葉にできて……そういう初々しさというか、瑞々しさというのは、わかるなーと思いながらも、ちょっともう見てらんないような気持ちにもなり、序盤で「えー、まだこんなにページ残ってるのに、どうするの?」と思ったのが正直なところです。もう少し早めに物語が動きだしてほしかったです。だけど、「訳者あとがき」の情報によると、イタリアの中学生の支持を集めているということなので、同年代の子たちにしたら、飽きるなんてこともないのかなぁ。そして、ここまで我慢して読んだんだから、これはきっと、とんでもないホラーが待っているのだと期待しすぎてしまったのもあって、結末にも驚きを感じませんでした。主人公以外の子どもたちは、どうなったんでしょうね。

シア:非常におもしろかったです。表紙に原題を大きく入れていておしゃれだと思いました。絵もさわやかな感じで良かったです。内容はさわやかではありませんでしたが。もっと近未来の話だと思っていたのに現代なので驚きましたし、ありえそうな話なので余計に考えさせられました。海外ではロボトミーを元にした話は結構多いので、わりとトラウマなのかなと思いました。半分以降からは一気に読みましたが、もどかしい恋愛ものは苦手なので、序盤はかなりイライラしながら読みました。ユーナがダンに会おうと言い出したので、これはページをめくったら急展開して、やっと研究所の謎についての話になるんだなと思ったのに、やっぱり会えないなんて尻込みするユーナがめんどくさすぎです。チラ見せは上手いのですが焦らされるので、惚気はいいから早く研究所の謎を! と別の意味でハラハラしてしまいました。「ウイルスのせいで全人類が滅亡して、ぼくたちだけが生き残った、そんな映画の一部みたいだ」(p.42)とあり、世界は平和なのかと肩透かしをくらいました。研究所内に鏡がないこととか白い制服や謎の薬など、いろいろと怪しい要素はあったのですが、蓋を開けてみればそこまで大仰な話ではなくて、少々やりすぎな感じもしました。シャワーが10分だけとか、職員が急に乱暴な口調になったりするところは管理される怖さが表れていると思います。この本は書簡体なので2人のタイムラグのようなものが出るところはおもしろかったです。メールなどで展開しそうですが、場所が場所なので手紙というのが研究所の異様さが出ていて好きですね。ただ、偶数時と奇数時でやり取りし合うというのがよくわからなくて、1時間いたら会ってしまうじゃないかと思ったんですが、2人は図書館あまり利用しないんですかね……。それにしても、最近はいわゆる毒親の話が増えてきたように感じます。親の影響力や圧力が注目され始めたのは、親子の関係性や教育を見つめ直す良い機会だと思います。「涙の壺」という表現もとてもロマンチックですが、涙が流れるような状態にしなければいいのではないかとユーナのお父さんに問いたいです。また、若者にはスポーツをさせておけば良いという今の学校教育の甘さも指摘されているように感じて、この辺はもっと主張したいですね。室内で読書をしている子がいたって良いと思います。「ぼくは、本を読めばいろんな場所に行けるんだ、って言い返したかった」(p.85)というダンの台詞がこの本の真のハイライトだと思います。この本には有名な児童文学がたくさん出てくるので、まさに『紙の心』だと思いました。あとがきで各作品について説明してくれているので、子どもたちが興味を持ってくれると良いと思います。でも、メインとなる『プークが丘の妖精パック』は日本人になじみのない本なので、子どもならさらに厳しいのではないでしょうか。題名を読めるのかどうかも心配。『プーク“が”丘の妖精パック』などと読みそうで不安です。気になったのは、「それから、トン川は食いしん坊に」(p.34)という訳がよくわかりませんでした。豚でしょうか。トンカツ? こういうときに訳者の苦労が窺えます。それから、「傷跡は、インディアンが戦いの前に描いて、誇らしげに見せつける、戦いのしるしみたいなものだ」(p.227)とあるのですが、“インディアン”という言葉は今は使わないと思います。

エーデルワイス:おもしろく読みました。主人公たちが暮らす施設を想像しました。清潔だけど、無機質で同じような部屋を移動するのですね。迷いそうです。「××をダンより」のように、形式的な手紙のやり取りをしていますが、顔が見えないほど想像力が働いて心が燃えていくのかもしれないと思いました。そして今どきの若い人のSNSの恋のやりとりも同じようなことかもしれないと思いました。終盤、研究所が火事(放火)で焼けて施設にいた子どもたちが助かるのですが、子どもたちはどうなっていくのでしょう? 元の家に戻るの? ちゃんと生きていけるのでしょうか? 心配です。親にとって都合の良い子ども、デザイナー・ベイビーなど問題提起のお話と思いました。主要なダン、ユーナたち5人は友人同士で、名作の登場人物からつけた仮の名前で、施設では番号とアルファベットで呼ばれ、本名は最後まで明かされませんでした。あえて必要なかったのでしょうか? 5人は元気に幸せに生きていけそうで安心しましたが。

オカピ:管理された場所にいる主人公たちが、人を愛することで、その生活に物足りなさを感じるようになる過程が描かれていて、おもしろく読みました。記憶すること、文字に残しておくことについて考えさせます。何を忘れて、何をおぼえておきたいかが人をつくるのだなと。「興味津々な人よ」(p.16)、「興味津々なこと」(p.107)という言い方は、話し言葉としてなじまないというか、ちょっとしっくりきませんでした。

雪割草:読んでいて最初の方でうんざりしてしまい、途中で休憩しました。イタリアだから情熱的なのかな、精神的に辛い経験をした子たちだから、心の拠りどころをもとめているからなのかなとは思ったものの、お互いを求めすぎていて、ついていけませんでした。近未来のテーマで人間がなんでもコントロールしようとするところから、『泥』(ルイス・サッカー著、小学館)を思い浮かべました。この研究所では、辛い経験を忘れさせるための治療をしていますが、それに対して主人公らが、忘れる以外の方法で生き抜く方法があることに、気がついていくところはいいなと思いました。あとがきにイタリアの中学生に支持されているとありましたが、日本語訳では訳はしっかりしているのはわかるのですが、若い人には受けない文体・言葉遣いだと思いました。それから、手紙でやりとりしている設定ですが、やりとりがすごく頻繁で手紙によっては長文で、ほんとに手紙なの?と思ってしまいました。

ネズミ:秘密をさぐりだそうとし始める後半からは、それがフックになってどんどん読めたのですが、2人のやりとりが中心の前半は、内容の問題なのか、文体のせいなのか、途中であきて、投げ出しそうになりました。後半はひきこまれたものの、都合のよい展開が気になりました。たとえば、骨形成不全症のポルトスが走るなど、ありえないだろうとか、どこかに潜入する計画が、たいがいうまくいくとか。体裁としては、ダンとユーナの手紙の書体を変えてあったらもっと読みやすかったかと思ったのですが、この本はキンドルでも出ているので、電子版を出すにあたって、書体が限られていたのだろうかと思いました。

しじみ71個分:書体に変化を持たせられるのが紙の本だけなのであれば、紙の本ならではの魅力になりますのにね。

シア:『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著、岩波書店)では文字の色が変わっていましたね。

アカシア:紙の本ならではの工夫が、もう少しあってもよかったのにね。

アンヌ:書簡体小説は好きなので、それなりにおもしろく読み進んでいったのですが、いきなりp.14で「キスとハグを」と出てきたのでびっくりしました。これがただの挨拶なのが、外国小説という感じですよね。全体にSF的な設定が実に曖昧で、この研究所のセキュリティの甘さとか、最後に種明かしされた後も納得できないことが多いです。2人が実際に会わないところも、薬が効いているせいなのかと思ったりしたのですが、でも、それにしては男の子が3人いればやるような冒険に、あっさりダンは出かけたりしますよね。意志までが削られているわけではないらしいので、不思議です。最後まで行きついても、この5人がこれからどうなるのか、放火の罪に問われたりしないかとか、そのハッカーは大丈夫かとか、親との関係は何も解決してないままだとか、いろいろ後味が悪い思いが後を引いてしまい、読み返す意欲がわきませんでした。

アカシア:この本は時間的なリアリティがおかしいんじゃないですか? 手紙の交換で物語が進んで行きますが、1人が書いてから、休み時間にそれを図書館に持っていって本に挟む。それが偶数時だとすると、もう1人は、顔を合わせないために奇数時まで待ってから取りに行って、それから返事を書いて、次の奇数時の機会に図書館に行ってその返事をおく。そういうまだるっこしい方法でやりとりをしているので、たとえばp.115の最初の5つの文章はどれもユーナが書いたものですが、5つ目の文章を書くまでに、どんなに少なくとも9時間くらいはたっている計算になります。でもね、そういう計算だと成り立たないところがいっぱい出てきます。私は物語の構築を支えるリアリティにこだわる方なので、最初のときは途中で読む気がなくなって放り出してしまいました。それから、ダンたちは決死の覚悟で保管所に入ろうとするのですが、そこまでの展開では、保管所に何か重大な秘密があるというふうには読み取れなかったので、なぜそこまで?と思ってしまいました。全体としてすぐれた作品とは、残念ながら思えませんでした。

さららん:今回に関しては、訳者の文体と原文のスタイルが合わなかったのかな。私もみなさんと同じで、書簡体の形をとっているとはいえ、この世代の子たちの日常会話にリアリティがないように思えました。また研究所の中では、子どもたちの動きを阻止しようとする大きな敵は現れません。ダンたちに敵対心を燃やすカーという少年はいるけれど、それは体制側とは関係がない。戦う相手の顔が見えず、豆腐の中に手を埋めるような頼りなさを覚えました。でもひょっとすると、そこがおもしろさなのかも。色々な本の要素が出てくるところもいいし、あとがきも優れているけれど、ディストピアとしての物語に既視感があって、未知のものを解き明かす興奮がなかったのは残念です。

花散里:岩波のSTAMP BOOKSは出版されると期待して読むのですが、この作品が出版された2020年に読んだとき、書簡体で物語が進んで行き、今どきの中高生がどう読むのかなと思いながら読んだことを思い出しました。今回、読み直して、スマホに常に依存している日本の子どもたちが、図書室の本に挟んだ何通もの手紙のやり取りに対して、果たしてどう読むのかなと改めて感じました。前半の書簡体で続くストーリーは、今回も読みにくいと思いました。研究所の秘密が分かっていたということもありましたが、物語のおもしろさが感じられませんでした。巻末に本文に出てくる文学作品の紹介が入っていたり、図書室でのやり取りが舞台だったりしますが、読み返そうという作品ではないと思いました。

サークルK:手紙の部分のやり取りが長かったので、少しもどかしい思いをしながら物語を読み進めました。なぜこんなやり取りや状況に子どもたちが置かれているのだろう、という読み始めからの疑問が次第に解き明かされていくところは、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を思い起こしました。誰に恋しているのかも実際にはわからないのに、よくこんなに妄想をふくらませながら、手紙で情熱を傾けられるなあと苦笑する表現もありましたが、イタリアの中学生にとても人気があったというので、興味深く感じました。こうやって練習(!)して、愛情表現の達人になっていくのかしら、と。小さな世界に閉じ込められて、監視されたり、洗脳されたりするさまは残酷なディストピア小説のミニチュアのようで、『1984』(ジョージ・オーウェル著 早川書房他)をほうふつとさせましたし、39章で「ワールドニュースオンライン版」という記事を使って、状況が説明されている構成は、『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著、早川書房)の掘り起こされたカセットテープをめぐる研究者のレポートを思い出しました。物語を読んだ子どもたちがやがて上に挙げた大人の小説に巡り合った時、こんなイタリアの児童文学があったっけ、と逆照射されて思い出してもらえるかもしれません。

マリナーズ:お国柄の違いを感じながら読みました。日本で、中学生くらいの男女が同じように文通し合う物語だったら、こんなふうに恋の駆け引きっぽい言葉をやりとりして楽しむ感じにはなかなかならない気がします。実は、以前、1度読みかけたのですが、p.111あたりからの、お互いの容姿についてあれこれ想像し合うところでうんざりしてしまって、いったんやめたのでした。今回、読み通せてよかったです。後半に行くにつれて、主人公2人の苦しみや、ここに入るまでの経緯が明かされて行きますが、その明かし方が説明的なせいか、切実さがどうも伝わりにくいように思いました。でも、性格を変えることについて、身内が了承している、ということのせつなさ、やるせなさは感じました。自分のアイデンティティを考える、というテーマ自体はとてもよかったです。

ルパン:しょっぱなでつまずいたのは、このやりとり、イタリア語なのにどうして相手が男か女かがわかるんだろう、ということです。見知らぬ相手なのに、はじめから男女の区別がついているのって不思議でした。しかもすぐに恋に落ちるし。そのうえ、やたらに容姿の話が出てきますよね。相手がその子がどうかもわからないのに「赤毛の女の子が好きなんだ」なんて言ったり、デブだったり青白かったりしたらどうするの、みたいな文面もあるし。ヨランダが実際のポルトスを見て思いっきりけなす場面では本当に気が滅入ってしまいました。容姿に自信のない子がこれを読んだらどう思うんだろう。

アカシア:イタリア語だと形容詞などに女性形と男性形があるので、相手が男か女かはすぐわかるんじゃないかな。

西山:ほとんど言い尽くされている感じです(笑)。この研究所にどういう秘密があるのかという興味で読み進めましたけれど、先が知りたいだけでその場その場の描写とか、感覚とかを楽しむという読書の快楽はありませんでした。イタリアのお国柄というのもあるのかもしれませんが、こんなにすぐ男の子と女の子が恋愛感情で盛り上がり、延々それを読まされるのにうんざりしたというのが正直なところです。若い読者なら誰もが恋バナ展開にのめり込むかというと、そうでもないんじゃないかなと思っています。というのは、ジェンダー関連の授業で、何かの問題を男の子と女の子が一緒に取り組んで解決してきた物語で、最後の最後に性的な視線を差し込んで、「恋の始まり」みたいな展開にするのに出会うたびにがっかりするんだよねということを、おそるおそる話した回があったのですが、思いの外共感のコメントが多くて、恋愛テーマじゃないのに恋バナにするドラマとか多すぎるとか、子どもの頃仲のいい男女がからかわれることで気まずくなったとか、嫌な思いをしたとかそういう体験が続々とあがってきたのです。「10代は恋バナ好きにきまってる」という思い込みもそろそろ相対化した方がよいと思っていたところでこの作品を読むことになったので、否定的な感想になっています。あと、ユーナがどんどん受け身になっていって、つまらなくなっていったのが不満でした。本に手紙をはさむというユーナの魅力的な行動から始まったのに、ただただ、「待つ女」になってしまって……。ヨランダといっしょに研究所の秘密に迫っていけばよかったのに……。図書室の本を介した手紙のやりとりとは思えない、ラインのようなやりとりになってしまうところも興ざめでした。

コアラ:以前、本屋さんでこの本を見かけたときに、はじめのほうをちょっと読んで、いまいちかなと思ってすぐに棚に戻してしまったんですけれども、今回最後まで読んで、悪くはない本だと思いました。書簡体小説だと、お互い相手を騙すこともできるし、作者と読者の関係としても、作者は読者を騙すこともできるけれど、ダンもユーナも騙すことなく、お互い誠実で、作者と読者という関係でも作者から騙されることがなかったので、その点ではすっきりしてよかったと思います。研究所の謎とされたことが、少年少女たちの人間的な欠点の除去で、親の望み通りの人間に作り変えられてしまう、ということだったんですが、読んでいてそこに大きな衝撃はあまりありませんでした。そもそも、記憶を無くす薬を飲んでいる研究所というのが不気味で、そこがそもそもディストピアだなと思いました。訳者あとがきに、この本に出てくる本の紹介が書かれてあるのは、よかったと思います。

しじみ71個分:私も、みなさんが既に言われたのと同じように、前半の2人の手紙のやりとりがちょっとかったるいなと思い、読んでいて休憩をはさんでしまいました。また、ユーナかダンか、どっちがしゃべっているかわからなくなっちゃうところがあり、見た感じでパッと分かりやすい工夫があったらよかったなと思います。手紙のやりとりが頻繁すぎて、時間の経過もわかりにくい点がありました。ただ、著者はこういう書簡のやりとりで、心をかわし合うという形を描きたかったんだろうなと思います。頻繁すぎて、チャットのようではありましたが。作品を通じていいなと思ったのは、2人の書簡体の形をとりながら、過去の児童文学作品の紹介をしているところです。また、人と人とのコミュニケーションのツールとして本を使うという設定にも共感しました。『紙の心』というタイトルには、手紙に乗せた自分の心というだけではなくて、本を通じて交流するという意味もあったのかなとも思います。大人にとって都合の悪い、「いらない子ども」を除去してしまうっていうのは恐ろしいことで、本のテーマとしてとても重いと思ったのですが、結果が意外にソフトで、もう少し、ドラマチックな、誰かが死んだり、廃人にさせられてしまったりとか、おどろおどろしい展開があった方が、テーマがもっと生きて、物語も生き生きとしたのではないかなと思います。『私を離さないで』くらいのディストピアがあってもよかったかなと。また、表紙の絵を見ると、ガラス張りのとても近代的な建築物として描かれているのに、火事で燃えちゃうんだ、木造なんだ、というところはちょっと拍子抜けしてしまいました。建物が燃えただけで逃げられちゃうんだなというところは、少しあっさりしすぎていたかもしれません。前半の書簡体の恋愛部分が重くて、後半のスリリングな展開とのバランスがあまり取れていないのかもしれないと思いました。

すあま:読みながら、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 講談社)を思い出しました。忘れたい記憶をなくすことができる薬があったなら、犯罪被害者や虐待にあった人など、飲みたいと思う人がいるかもしれない。この物語では、さらにエスカレートして親の望む子どもに変える、という恐ろしい話になっています。逆に子どもが望む親にすることができたら、と思う人もいるのでは、とも思いました。現代の子どもが抱えている問題を解決することができる近未来の世界を描いているようで、実は大人にとって都合がよい、純粋無垢な子どもに変えようとする、時代を逆行するような話になっていきます。近未来の世界のようなのに、紙に書いて本にはさむという、古典的な文通の形をとっているのがおもしろいと思いました。メールやラインでコミュニケーションをとっている今の子どもたちにはかえって新鮮なのかなと。ラストはあっさりしていて、結局は親から逃げ出した、ということで終わったようで、ちょっと物足りない感じがしました。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年05月 テーマ:闇と光の境

日付 2022年05月24日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、すあま、アカシア、エーデルワイス、アンヌ、しじみ71個分、オカピ、西山、サークルK、マリナーラ、雪割草、ヒトデ
テーマ 闇と光の境

読んだ本:

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『荒野にヒバリをさがして』表紙

荒野にヒバリを探して

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『夜叉神川』表紙

夜叉神川

ネズミ:とてもおもしろかったです。人によっていろんなふうに読める作品だと思いました。悪意とか無関心とか憎悪とか嫉妬とか、どの話も負の感情を扱っているんですね。普段しちゃいけない、言っちゃいけないと言われている感情をうまく顕在化させて、善悪ということではなく考えさせてくれます。オーディションとかカードゲームとか沖縄旅行とか、今の子どもたちも興味をもちそうなことをきっかけにして、不思議なことに広げていくのがうまいなと思いました。情景の描き方が美しく、p.230あたりからの「果ての浜」の文章は特に魅力的でした。いろんな人にすすめたい作品です。

アンヌ:読んでいて一番怖かったのが、最初の「川釣り」です。霧の中の女の人みたいな怪異や川の主みたいな魚の化け物が出てきててんこ盛りなんだけれど、それよりも前半の心臓を取り出すのに夢中になっている辻君に感じる恐怖心の方が上でした。そのせいか、辻君の横暴な物言いや異常性格的な描写はなくてもいいような気もします。川の怪異が懲罰みたいな役割なのも少し残念な点です。「青い金魚鉢」は特殊な能力を持つ「物」に魅入られる話として読みましたが、家に閉じ込められていた昔の人と金魚鉢の能力の関係に説明がないのが残念でした。「鬼が森神社」は、p.100のアイドルを目指すリョウの魅力をちょっと百合的な描写で感覚的に描いているところなどとてもうまいと思うし、宝塚ファンの人たちの暴走のニュースなど昔から聞いたことがあるので、苺の行動もまあ、あるんだろうなと思いました。最後には呪いも解いたし、未来に向かって進もうとしている主人公が橋のところで語り掛ける描写もよかったし、なんといっても、鬼が情けない顔をしているラストがよかったです。「スノードロップ」は少年の心の中にある、他者の死を願う気持ちの変遷の話だから、これにはあまり興味を感じませんでした。私は怪談好きですが、幽霊は苦手です。怪談というのはこの世の物語で、この世には人間などの測り知れない世界もあるというのが魅力だと思っていますが、幽霊は人間とその死後の世界のことなので……。うらみはらさでおくべきやと化けて出るような、目的を持ってこの世に帰る幽霊ならともかく、自分たちが死んだと気づいていないような子どもの幽霊は、とてもつらい。だから最後の「果ての浜」は、戦争の悲劇や理不尽さを伝えている点は素晴らしいと思うし、さらにそこから徹底的に目をそらそうとする主人公もリアルでおもしろいと思うのですが、子どもたちの幽霊から弟を守ろうと戦うような感じのところは、受け入れがたい気がしました。

オカピ:これまでに読んだ安東さんの本の中で、いちばん好きでした。鬼神である夜叉はけして、まったくの悪というわけではなく、そうした善とも悪ともいえないような、人間の複雑な部分をとらえた作品です。欲とか暴力とか戦争とか、人の業の深さを思いました。どの話の中でも生と死のドラマが展開するのですが、一話一話がおもしろい。水源から河口に向かい、やがて海に出るという全体の構成もみごとでした。

アカシア:私も、安東さんの作品の中でいちばんおもしろかったです。人が、ふとしたときに見せる怖いものが、どんどん肥大化していくことを、とてもうまいストーリーテリングで表現していますね。さらに怖くする工夫もあるし、はぐらかしもあります。文章表現がとてもじょうずだと思いました。「鬼ケ守神社」の最後の一行は、実は鬼より人間のほうが怖いということを言っているようです。「スノードロップ」のp.158から最後にかけての「自分の命を自分で決めて悪いか?」をめぐるぼくと松井さんとのやりとりは、表面的ではなく深いところからの知恵が湧いてきているように思えて、道徳の教科書とは違ってひきつけられました。「果ての浜」では、子どもの自然な発想として、受験後につらい話をしないでほしいという気持ちをもつ岳が、弟をさがしているうちにトウキビ畑で昔の子どもたちの声を聞いたのがきっかけで、変わっていくのですが、その気持の変化に無理なく寄り添うことができました。p.231の「くりかえし蹴っていた山下の靴。あの靴を自分も履いていたのかもしれない。/今もずっとくりかえし、あの少年を蹴っているような気さえした」という部分は、沖縄の歴史を知らない子どもたちにもすんなり伝わるでしょうか?

シア:おどろおどろしい雰囲気でおもしろかったです。生徒にも気に入られるのではないでしょうか。本の厚みはないし、表紙もダークメルヘンで好まれそうです。オムニバス形式で人の心に棲む鬼を描いているんですが、形式のせいでばらけた感じがしました。最後の「果ての浜」が秀逸だったので、この話だけで書いても良かったかなと思いました。というのも、夜叉神川で繋げるのはいいにしても、夜叉神川の由来など川自体の話が出てこないなと思いまして。「果ての浜」では山下だけでなく、主人公の無関心さを鬼にしたのは良かったと思います。実際、戦争の話は悲惨だし関係ないからと嫌う子も多いし、昔のことや酷い話は自分には関係なくて、もっとハッピーな気持ちでいたいという今の若い世代の気持ちをよく表現していると感じました。愚痴やら暗い話は嫌がられるんですよね。生徒たちの好きなSNSでもとくに嫌われる行為です。でも、暗い気持ちになるようなことをしでかすのも大体この年齢が多いので、その矛盾をこの本はうまくついていると思いました。また、さんぴん茶の名前や味でツボるのはわかりますし、そういう意味でもこの作者は10代っぽさの表現が上手ですね。出てくる子は現代っ子や都会っ子なイメージを受けるのですが、全体的な田舎っぽさもうかがえます。例えばp.184に「女にまるめこまれ、きげんよく鼻歌を歌っている弟が情けない。」とあるのですが、ここは「大人にまるめこまれ」で良かったのではないかと思いました。1話目の辻くんはそういうキャラクターということで主人公から指摘もされていましたが、この岳くんの言葉は田舎の男女差別を思わせます。また、2話目の引きこもりの子の表現なのですが、琴ちゃんは「こだわりが強い」「変わっている」などと発達の問題を疑わせる部分はちょっとどうなのだろうと思いました。引きこもってしまうのは基本的に繊細な子が多いので、そういうことで良かったのではないでしょうか。琴ちゃんのお母さんも食前に害虫の話をするなど変人すぎると思います。そのせいで発達障がいの遺伝について考えてしまいます。それに、敏感な子を大なり小なりこういう状況に追い込む加害者がいけないのに、愛奈ちゃんは「おとなしめになった」というだけで事態の責任に関して何も気づけていません。1話目の「川釣り」のような物事の繋がりを考えた上での罪悪感が生まれないのではないかと思いました。3話目の主人公も改心しているのに、連作の繋がりに違和感を覚えました。違和感といえば、この本は助詞など文章に気になるところも散見されたので、児童書ですし編集者もとくに注意して見てほしいと思いました。p.215「ヌギリヌパ教室が楽しかった」「ヌギリヌバと呼ばれる岩かげに」など、パとバがどっちなのかわかりませんでした。

ハル:1話目で、グッときました。2話目の「青い金魚鉢」は、ちょっと私がつかみきれていないのですが、「末代まで」の怖さが印象に残っています。もしかしたら、強者への無自覚なあこがれもあるのかなぁ。……などなど、ときどき面食らうようなところもありつつ、川さながらに緩急つけながら全体のうねりを高めていって、最後に「果ての浜」に到達する構成が、もう、すごいなぁと思いました。読者、つまり子どもに寄せた書き方ではないのに、非常にこの不安定で繊細な時期の、今の子どもたちに寄り添っているように思え、なんというか、ほんとにグッときました。すごみを感じます。

マリナーラ:タイトルから、本格的なファンタジーかと思っていましたが、日常からちょっとはみ出た別の世界を描く物語で、個人的にはとても好みでした。人が一瞬垣間見せる悪意が、どのお話にも書かれていました。映像的で、ガラスの金魚鉢がゆがんで見える、というのも想像つくし、サトウキビ畑で姿が見えなくなる、というのもイメージが容易だし、その空間に浸らせてくれる物語だと思います。序盤の2話と3話は、夜叉神川をめぐる連作であることがすぐ掴めるように、川の名前が早めに出てきてわかりやすかったです。最後の戦争の話は、工夫を随所に感じました。そういう話は聞きたくないのだ、という主人公の気持ちに寄り添いながらも、戦時中の出来事に少しずつ引き込んでいきます。当時の波照間島、西表島のことは知らなかったので、勉強になりました。

雪割草:主人公の負の感情を超自然的な現象と結びつけて書いていて、おもしろいなと思いました。割と年配の作家さんなのにヤングな設定を描けていて、すごいなとも思いました。なかでも私は「スノードロップ」と「果ての浜」がよかったです。「スノードロップ」は、なぜ松井さんは怒ってばかりいるのかを、子どもの視点で無理なくときほぐして描いていると思いました。「果ての浜」では、まず戦争中の波照間のことを私は知りませんでしたし、その出来事を主人公らが知る方法も、奇妙だけれどリアルでなるほどと思いました。

ヒトデ:1話目の『川釣り』からひきこまれて読みました。辻くんの純粋な悪意みたいなものが本当に怖くて、でもそれが自分の身に引きつけられないものではない、というか。絶妙なバランスで書かれていました。2話目の「青い金魚鉢」も最後のきつねの伏線で、う~ん、さすがだな、という感じでした。4話目の「スノードロップ」、5話目の「果ての浜」は、1話~3話から少しテイストを変えて、闇の中から光へ進んでいく話という印象でした。とくに5話目の「果ての浜」では、主人公の「どうして戦争の話をきかなければならないのか」という問いに、物語のなかでしっかり答えを出しているところが、とってもいいなと思いました。

しじみ71個分:映画でも本でも、私は本当に怖いものが苦手で、1話目を読んで、やっぱり怖くなって後悔したのですが、読み進めるうちに本当に文章がうまいなぁとつくづく思わされ、読み通してしまいました。この本は「子ども向け」に分かりやすく書いてないし、大人向けといってもいいほどです。1話ごとに、表現や構成が練られていて、短い連作集なのに大変に読みごたえがありました。夜叉神川の上流から物語がスタートし、中流、下流へと流れていき、最後に「果ての浜」をもってきて、海に流れ込んでいくという構成にはうなりました。テーマを「光と闇の境」としたのは、各話で日常生活に生じた、ちょっとした亀裂から、登場人物の悪意が溢れて出てきてしまうのですが、その日常の中の善悪の紙一重な感じが、光と闇の世界の薄い境目のように思われたからです。各話で、悪意が吹き出していく人物がいろんな形で描かれ、そのまま「あっち側」に行ってしまいそうなところを、視点になっている主人公が、「こっちに戻っておいで」というように境目で止めてくれて、それが児童文学としての救いの部分なのかなと思いました。1話目の「川釣り」がいちばん怖かったです。魚の命を奪うことを楽しみ、残虐性が発展して、「ぼく」をも脅して楽しんでいた辻くんが、さらに恐ろしい人間になってしまいかねないところを川の神か山女魚の妖怪かに襲われ苦しむ姿を見て、「ぼく」が「クツクツクツ」と笑い、「ぼく」も喜んで闇を発露させるのですが、ここがいちばん怖かったです!「ぼく」は我に返って辻くんを助け、「清らかな流れを見ていたら、なぜだか祈るような気持ちになった」(p.41)、「そしてこの先、ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうかまもってほしい」(p.42)、という場面で終わります。残虐性は誰もが持っていて、あちらに行ってしまうか、こちらにいるかは紙一重だという恐ろしさを突き付けるとともに、それに自分で気づいた「ぼく」が境目で踏みとどまり、闇に落ちないように祈って終わるという、この展開の鮮やかさは素晴らしいと思いました。あとはやはり最後の「果ての浜」にやられました。この話では、善悪の境を突き破るのは、島にやってきた山下という青年教師で、突然、豹変し、日本刀で島民を脅して、波照間島から西表島に強制疎開させたため、西表島で病や飢えで島民がたくさん亡くなるという惨劇が起きます。でも、境目に立つ主人公の「おれ」は、残虐さに落ちた山下ではなく、西表に追いやられ、亡くなった子どもたちの魂に、ヤギの人形をあげることで浄化させ、連れて行かれそうになった弟を助けますが、海へと川が流れ込み、浄化されるという大きな構成になっていて素晴らしいと思いました。戦争という大きな悪意に、目を向けないこと自体が大きな悪だという強いメッセージを感じますし、そこに主人公が気付くところで、人間性への期待を持たせる物語だなと思います。

ルパン:とてもおもしろく読みました。最初の「川釣り」に出てくる、川の神なのか化け物なのかが言うセリフ、「命をとったら食べてやらなくちゃねえ」というのが名文句だと思いました。ただ、この人(神?)がこのあとも出てくるのかと思ったらこれっきりで、いったい何者だったのかが気になりました。「青い金魚鉢」は、愛奈さんが何の気づきもなく終わるのが消化不良。ちほちゃんの善意で救われてそれで終わり、本人は何の反省も成長もないまま。何の話なのかな、と、ちょっと首をかしげました。「鬼が守神社」は、p.126の「リョウがいない時のわたしたちには、話すことがほとんどなかった」というのが、女子の関係をよくつかんでいると思いました。「スノードロップ」はいちばん好きな話で、「松井さんが死んだらゴンに悪いです!」とさけぶ男の子に好感がもてました。「果ての浜」は…またそういうことを言う、と言われそうですが、この塾の先生たち、こんな南の果ての病院もないところに子どもたち連れて行っちゃって、何かあったらどうするんだろう、とか、この夫婦にまかせてそんな遠くに子ども行かせちゃう親とかが気になっちゃって、お話にすっぽり入ることができず。でも、こういう歴史を知ることができてよかった、と思いました。ちょうど『アジアの虐殺・弾圧痕を歩く』(藤田賀久著 えにし書房)という本を読んだところだったので、それもあって、自国や近隣の国の歴史の闇についてあまりにも無知だったと考えさせられました。

サークルK:どのエピソードにも畏敬の念という気持ちを子どもが感じられるような不思議な存在が表現された、興味深い作品でした。神様と化け物は紙一重の存在であるとか、川そのものも、普段のあそび場と同じ感覚でいると全く違う表情を見せる怖い場にもなりうるとか、二項対立には収まらない「何だかわからないけれど確かに存在しているもの」への畏れ多さが良く伝わりました。またp.16、p.36の血にまつわる表現はとてもエロティックで大人が読んでもぞくぞくっとしました。古いところでは、映画「禁じられた遊び」に描かれた子どもにも残虐性があることを思い起こすならば、子どもだからと言ってエロス(という言葉は知らなくても)がわからないはずはないのですよね。残虐性とエロスの表裏一体なところをこのような形で表現しているところはすばらしいと思います。これらは最後のエピソード「果ての浜」に出てくる「血の島」につながるのでしょうから、伏線としてもとても心に残りました。

西山:まず「川釣り」で、すごいところをお書きになったなと、いろんな意味でどきどきしました。以前、高校の国語の教材で釣りに関するあるエッセイの一部「姫(ヒメマス)殺しの快感」だったか、そういう表現がカットされていたのを思い出しました。釣りは自然との交歓でありつつ、でも、殺生は殺生。幼児期にどれだけ虫を殺したかが命を尊ぶことにつながるといった発言を目にしたことがありますが、命への興味が「殺す」という行為になっているとして、それが命を尊ぶことにどうつながるのか……。とっとと道徳的に無難な出口を目指すのではなく、すごく危ういところのぎりぎりを見せつけられて、「ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうか守ってほしい」(p.42)という祈りが深く刺さります。そして、作品を重ねて最後にまさか『ハテルマシキナ』が出てくるとは! この構成全体で光を見せていっていると思いました。余談ですが、「青い金魚鉢」で、皿海達哉の短編集『EE’症候群』(小峰書店 1998年)を思い出しました。先生が落ちこぼれの子どもを金魚に変えてしまうんです。こちらも怖いですよ。

エーデルワイス:最近好きな何名かの作家の短篇を読みましたが、長編でおもしろく読んでいた作家も、短篇は?と、思いました。短篇ならではの難しさがあるようです。それに比べ、この作家さんは本当にうまい!と思いました。「川釣り」は怖かったです。個人的には「青い金魚鉢」が好きです。情景が美しいと思いました。

すあま:私はこのタイプの話が苦手で、最初の話から読むのがつらかったです。怖さというよりも、悪意がむきだしなところや、最後に救いがあるのかと思ったら、あるような、ないようなところも、読みづらかったんです。「果ての浜」まできて、これを描きたかったのかなと思いました。夜叉神川をモチーフにしているので、出てくる子どもたちの間に何かつながりがあったらおもしろかったかもしれません。読み手を選ぶ話だと思うので、うまく手渡すことができれば、合う子もいるのかなと思いました。

しじみ71個分:この物語の中ではすべての登場人物が、改心するどうかはわからないまま、オープンエンドになっていますよね。で、主人公の子たちは人間の善性に対して祈るだけなんですよね。実際に、祈っても悪意から帰ってこられない人はいっぱいいるわけで、そこがオープンになって結末まで書かれていないところがミソだし、リアリティなんじゃないかなと思います。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年04月 テーマ:おいしそうなタイトルの本

日付 2022年4月19日
参加者 アンヌ、エーデルワイス、オカピ、カタマリ、サークルK、さららん、シア、しじみ71個分、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、ヒトデ、雪割草、ルパン
テーマ おいしそうなタイトルの本

読んだ本:

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『タフィー』表紙

タフィー

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『サンドイッチクラブ』表紙

サンドイッチクラブ

アンヌ:表紙も題名もおいしそうだったのに、残念ながらサンドは砂でした。それでがっかりしたせいか、おもしろく読めませんでした。特に勝田家の兄弟が苦手で、弟のアイネとハイネたちは傍若無人で、葉真(ヨーマ)もヒカルに「一生負け犬だ」なんて言う。彼の言動を「すがすがしいほど自己中心的」なんていう風に肯定的に感じられませんでした。砂像作家のシラベさんは、ホッとする人格で、最後に「きれいなのは砂が砕かれた地球の一部だからじゃないかな。ひと粒一粒にこの星の誕生から今日までの記憶が宿ってるんだ」(p.236)なんて、心に残ることを語ってくれて、砂は悪くないと思えました。物語の舞台は高級住宅地でしょうか? 500円のクロワッサンが飛ぶように売れて、2つの塾に通わせて私立校を受験させる親がいる安全な場所。そこに、シラベさんの海外での体験や現実の隣国のミサイル実験から、ヒカルの祖母の「戦争はまだ続いている」という言葉が現実として入り込んでくる。けれど、その戦争に関する意識がヒカルや珠子のなかで、どうなって行くのかわからないまま終わっている気がしました。

雪割草:あまりおもしろいとは思えませんでした。さわやかで、砂像というアイディアはおもしろかったけれど、キャラクター設定が漫画っぽい感じがしました。葉真が好きなことがわかっていて、それをやるんだと決めている姿は気持ちよく映りました。でも、家族みんなアーティストで、だから自分もアーティストになるんだという決め方にはなぜ?と思いました。それから、ヒカルがおばあちゃん子なのはわかるけれど、戦争のかぶれ方が極端だと思いました。最後までお母さんも登場せず、ヒカルはどんな家庭の子なんだろうと気になったので、もっと早く家族関係を描いてほしかったです。そして、主人公の珠子の心の整理を受験や塾で表現するのに違和感を覚えました。実際、今の子はこうした環境に置かれているのかもしれないけれど、いいとは思えませんでした。

エーデルワイス:前に読んだきり内容を忘れて慌てました。主人公の珠子とヒカルの対比がおもしろかったです。ヒカルはおばあちゃんの影響が大きくて、おばあちゃんの言葉に囚われているようで心配になりました。現代は塾が大きく存在を発揮して、塾は当たり前のこととして書かれているので、改めてそうなのかと思いました。小学校6年生女子の会話がまるで中高生のような会話に聞こえ、ずいぶん大人びていると感じました。砂の彫刻について知らなかったので、そこが新鮮でした。

ハリネズミ:ずいぶん前に読んだので印象が薄れているのですが、この本は小学校高学年の感想文の課題図書なんですね。私がおもしろいと思ったのは、見えているものだけで判断しないほうがいい、という考え方がずっと一貫しているところです。それと、著者が今の子どもと、歴史とか外の世界を結びつけようとしているのもいいな、と思いました。砂の彫刻については私も知らなかったので、へえ、そうなんだと思ったし、時間をかけてていねいに作ったものでも崩れてしまうとか崩してしまう、というところもおもしろいですね。ヒカルが戦争にここまでこだわるのは、もちろんおばあちゃんの影響もあるのでしょうが、私も少し疑問に思いました。キャラクターは、あえて少しずつデフォルメしているのだと思ったので、リアリティに対する違和感はあまりありませんでした。

さららん:タイトルのつけ方が秀逸で、読むまでは、ずっとサンドイッチの話だと思っていました。目次の言葉選びにも意外性があって、読者を惹きつけます。作者は、少しずつずらしながらイメージの関連性をつくるのがうまくて、例えば珠子がタマゴと呼ばれ、そのタマゴの持ってきたのが「ポンデケージョ」という丸いパン。そのパンも小道具として効果的に使われていますね。ヒカルの家の「漂白剤」の匂いも、ヒカルや祖母の潔癖さの象徴のように感覚に残りました。そして砂像づくりという、まったく知らないアートの世界を通して、子どもたちの成長を伝える点がとにかくユニーク。違う時間軸の中に生きるシラベさんと出会えたことが、人生の岐路にある子どもたちにとって、大きな意味をもちますよね。お金はあるけど、やりたいことがわからない珠子と、貧乏だけれど、頭がよくて、「大統領になったら、戦争のない世界を作りたい…(中略)…世界があたしを置きざりにするつもりなら、ダッシュして先頭に立ってやる」というほど、つっぱったヒカル。2人の立場もキャラクターは対照的で、この2人にちゃんと共感できれば、勝田葉真との砂像づくり対決の物語に夢中になれるはずなんですが、2人の切実さに私はいまひとつ、ついていけなかった。作者には、社会にまず伝えたいメッセージがあり、それに合うキャラクターを持ってきてドラマを作ったのではないかと感じてしまったんです。最後の頁のタマゴの思い、「変わらない景色の中で、砂はたえず動いている。毎日は同じことのくりかえしのようで、そうではないはず。見えない変化が積みかさなって、新しい自分になっていくはず。明日のわたしは今日のわたしじゃない」(p.237)は、少しまとめすぎに感じられ、お話全体の中でこのことを感じさせてほしかったです。このセリフは、ややテレビドラマ寄りだと思いました。

オカピ:塾と学校という、狭い世界で生きていた珠子は、新たな友だちと砂像彫刻に出会い、視野を広げていきます。シラベさんが海外で、銃弾や赤ちゃんのおしゃぶりを砂の中に見つけたという話を聞く場面では、近所の公園から、戦争や難民の問題につなげているのがいいなあと思いました。ペンギンの骨格を調べ、それを砂像づくりに生かすのは、それまでやらされていた勉強が、知りたいことに結びつく瞬間ですね。ヒカルが「ケンペー」という言葉をよく口にするのは、少し違和感がありました。もし今の時代に戦争が起きて、憲兵のような人たちが出てきたとしても、それはべつの名前になるだろうから。p143にあるように、ヒカルは「心だけ別の世界に行ってしまう」ということなのでしょうが。

ネズミ:中学受験や塾に行くのが前提になっている日常というのが、今の小学生にはあたり前のものなのかなと思いながら読み始めました。地方でもそうなのでしょうか。

エーデルワイス:東京とは違い、私が住んでいる地方では、私立中学受験がないわけではありませんが、少ないです。小学生は『くもん』に通っていますね。

ネズミ:そうなんですね。小学6年生にして進路選択を迫られるとこうなるのかもしれませんが、ヒカルや珠子の心持ちや人物像を私は今ひとつはっきりととらえられず、物語に入り込めませんでした。だからか、作者がいろんな問題意識を読者に投げかけているのは好感を持ちますが、やや全体にごつごつした印象というか、取って付けたような感じがしてしまいました。たとえば、p133の、マルタ島の赤ちゃんのおしゃぶりに始まる難民の説明とか。思いがけないところで私たちのすることは世界につながっているというのを、作者は示したかったのかもしれませんが。

ヒトデ:「砂像」というテーマに、著者のセンスが光っていると思いました。タイトルの付け方も魅力的で、著者ならではのものだと感じました。「現代の子どもたちに、戦争のことをどう伝えるか、どう考えてもらうか」という難しい課題に、ハムと祖母とのやりとりや日常に影を落とすように出てくる「ミサイル」という装置を使いながら、この物語ならではの方法でアプローチしているところがいいなと思いました。現代が過去とつながっていること、戦争が決して、断絶した「過去」の話ではなく、現代そして未来にも起こり得るものであることを伝えているところが、とってもいいと思いながら読みました。

カタマリ:初めて読んだときは、砂像の話に引き込まれつつ、要素がいろいろ盛り込まれ過ぎているため、少し散漫かなと思いました。今回再読したときは、散漫には感じず、とてもおもしろく読みました。砂像のはかなく消えてしまう、という特質が物語全体にいい味をもたらしています。登場人物の女の子たちの書き分けもうまいなと思いました。塾で女の子たちがわちゃわちゃ会話していても、誰かと誰かがごっちゃになることもなく、スムーズに読めました。敢えて1つ言うとすれば、砂像バトルが盛り上がりに欠けるんですよね。それは、大会などではなく、私的な勝負だからということもあるのですが、いちばんの理由は、主人公とヒカルは成長しているのに、ライバルの葉真が成長していないからではないかと考えました。最初からすごくできる人で、ずっと似たものを作り続けているんですよね。彼が壁を突き抜けてさらに成長するシーンがあると、主人公たちの頑張りも際立つのかなと思いました。

シア:砂像アーティストというのを知らなかったので、おもしろく読みました。受験期の子どもがストレスから別のものにハマるという話は多くありますが、この本は保護者が適度な距離を持って接している理想的な形だと思いました。そのため、主人公はそれを理解したうえでゆとりを持って自分の進路を考えることができました。現実ではなかなかこうはいきまません。実際、中学説明会の教師ひとりの面談で決めるというのは微妙ですしね。だからそういった意味でもフィクションな面が強いし、戦争や貧困などいろいろな問題も盛り込まれていましたが、どれもふわっとさせていて、なんとも小綺麗なまとめ方をしたなと思いました。まあ、そういうのは嫌いじゃないので、それはそれでありかなとは感じました。まるでサンドイッチの断面のような、作られた美しさではありますが。「サンドイッチクラブ」という題名も“サンド”と“砂”とひっかけていて、ここも上手くまとめていますね。

ルパン:これは、申し訳ないけれどおもしろいと思えませんでした。いろいろ盛り込まれているんですが、何もかも中途半端な感じで。砂像、中学受験、経済格差、ミサイル問題、友人関係……。唯一筋が1本通っているのは葉真かな。「教室の中でじっとしていられないから外に出て砂像をつくる。そして世界的なアーティストになる」という。でも、それも、誰かに何かを伝えたいとか、何かを主張したい、という感じではなくて、ただ有名になりたいだけみたいだし。それでも、よくわからない方向転換を繰り返すヒカルや珠子よりはましかな、という気がしました。葉真の弟たちもなぜふたごの設定なのかよくわからない。このお洒落な名前を出したかっただけかも、と思っちゃいました。ただ、砂像というのはいいモチーフだと思いました。検索したら、すばらしい砂像がたくさん出てきて、感心しました。砂像の迫力とはかなさの魅力をもっと物語の中で活かせたらよかったんじゃないかな、と思いました。

ハル:いろいろな要素がからまっていて、とてもおもしろかったけれど、すごく上手かといったらそうでもないような。ところどころで「どうしてこういう表現になるのかな?」と浮いてしまうような部分もあり、それは私の読み込みが足りないだけじゃなくて、書き込みも足りないんじゃないか……という感じがしました。印象に残っているのは、「世界にはばたくリーダーとなれ」なんてスローガンをかかげている学校の先生が、とてもいい大人だったこと。ヒカルのような子がいる一方で、珠子のように、将来の夢なんてわからない、という読者のことも、それでいいんだと包んでくれて、とても心強く思いました。もうひとつは、ヒカルのおばあさんは、実は戦争を体験していなかったというところ。隔世の感がある、と言うと語弊があるかもしれませんが、ぞくっときました。呪いのように残り続ける憎しみこそが、次の戦争の種になるんだということでしょうか。

西山:どうも腑に落ちない……。長江さんは他の作品でも戦争をめぐる題材を持ち込んで書かれていて、それ自体は賛成だし、題材の選び方も珍しかったりするし、そういう問題意識には共感するのですが、作品というまとまったイメージとして、捕まえ切れません。なんでだろう……。たとえば、ヒカルは最初アニメ的なエキセントリックな設定と感じたのですが、おばあちゃんの呪いに囚われていて、ミサイルへの異様なまでの危機感(危機感を持っていない方が「異様」とも言えると思いますが)とか、その辺がアンバランスで、どう読めばよいのかよくわかりません。ヒカルにさんざん戦争体験を語り聞かせていた祖母が実は戦後生まれだと知った後の、「たぶん、昔話として孫に戦争を語っても、伝わらないって思ったんじゃないかな。自分が体験したように話したほうが迫力でるでしょ」(p55、1行目)は、相当強烈な皮肉と平和の語り方に対する問題提起になっているけれど、この件はこれで放り出されているまま。戦争に怯えているヒカルの状態は病的と言って良いほどだと思いますが、それもほったらかされている。ヒカルは自分に敵対する言動に対する反撃として「ケンペー」を口にしますし、「そうだね。あたしたち、シャベルの使い方がうまいから防空棒を掘るときに重宝されるよ。ケンペーだって、あたしたちに一目おくにきまってる」(p142-143)ともあって、憲兵が味方みたいな位置付けなのも腑に落ちません。おばあちゃんは「戦争体験」どんなふうに伝えたんだろうと。すごくアグレッシブに問題提起しているんだろうけれど、つかみあぐねる感じです。絶妙な表紙絵ですし、ハムとタマゴで「サンドイッチクラブ」なのも楽しい仕掛けではありますが、おいしそうなサンドイッチの話でないことにがっかりする子どももいると思います。小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)が、全然「小説の書き方」の本じゃなかったことにがっかりした経験を思い出しました。

しじみ71個分:この本は再読ですが、料理に関する本かなとタイトルで手に取りましたので、「やられたな(笑)」と思った記憶があります。1回目に読んだときは、砂像を作る話だという以外は、あまり印象に残っていなかったのですが、JBBYのイベントで、長江さんのお話を伺い、こういうことを考えておられる作家さんだったのかと思い、今回、興味を持って改めて読み返しました。はじめて読んだときは、メッセージを伝える素材である砂像から世界が見えるということや、戦争のイメージを刷り込まれた子どもが登場するなどということはあまり記憶に残らなかったのですが、読み直すと、少し作家の考えやメッセージがストーリーから飛び出している感じを受けました。なので、背景やら、物語の彩りの部分を除けば、珠子という主人公の朗らかな女の子が、ヒカルと出会ってサンドアートを体験し、自分で自分のことを考えるようになり、孤独だったヒカルも友だちを得て、日常とのバランスを取り戻していく、というシンプルな友情の物語だな、という印象です。サンドアートはおもしろい着眼点だと思いますが、世界や戦争などの要素が、2人の少女たちの関係や心持ち、成長といった物語の柱に対して、それほど効果を生んでいないのかなという気もしました。表現はところどころ、とてもいいなと思いました。たとえば、ヒカリがライオンの砂像にまわし蹴りをくらわすところで、「ふりあげた足からビーチサンダルがぬげて、雨の中をロケットみたいに飛んでいく。」(p.42)とか、「光の粒子がまぶたをすりぬけて、星のように暗闇の中でチカチカとまたたいている。」(p.128)とか、体感的ですてきな表現がありました。美しい表現をされる作家さんなので、これからの作品にも期待しています。

サークルK:受験を控えた6年生女子のモヤモヤが言語化されていて、受験することがつらくなって逃避していく展開なのかと思いましたが、砂像をめぐる新しい友人たちとの出会いによって自分を見つめなおす機会が生まれていくという物語になっていたのだとわかりました。(ただ、夏休みをここまで使ってもう1度受験勉強生活に戻っても、時間的に間に合うのだろうか、やる気だけでは乗り切れないのではないのかという現実的な心配がありますが。)p.57ページのヒカルの独白は、2022年4月の現在に起きているウクライナでの戦争を踏まえれば、より一層重いものと受け止めました。ヒカルが、だからアメリカに行きたい、と短絡的に発想する所には、世界を救うために飛び出していく行先がやっぱり欧米が主体になってしまうのだな、と少々苦笑してしまいました。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2022年03月 テーマ:心に問いかけていくことは

日付 20227年03月22日
参加者 ハル、コゲラ、花散里、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、オカピ、キビタキ、サークルK、みずたまり、雪割草、ヤドカリ、(ネズミ))
テーマ 心に問いかけていくことは

読んだ本:

(さらに…)

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『家族セッション』表紙

家族セッション

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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『ラスト・フレンズ』表紙

ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間

しじみ71個分:ページを開いてみて、はじめからびっくりしました。作者の実体験にもとづくコメントや、「いのちの電話」の紹介などがあって、また、タイトルも「ラスト・フレンズ」なので、どんな展開になるのか、ちょっと不安を抱きながら読みました。ですが、物語を読み進めていくと、3人の女の子のキャラクターもきっちりと書き分けられ、それぞれの苦しみが、リアルに嫌というほど伝わってきて、3人にとても共感しました。自分が若い頃、非常に精神的に不安定だったことも思い出されてきました。最も共感してしまったのはミーリーンで、わたしはリストカットまではしませんでしたが、自己を否定するネガティブな言葉が頭を支配する感じや、大勢の中で非常に強い孤独を感じるあたりは、すりむけたところがヒリヒリするようで、読んでいていたたまれなかったです。でも、ティーンエイジャーだったら、実際に鬱だったり、性的虐待にあったり、障害があったりしなくても、3人のどこかに共感する点を見つけられるのではないでしょうか。
それから、編集の荻原さんに原文がどうだったか、おうかがいしたかったのですが、例えばオリヴィアの章では、段頭がわざわざずらしてあったり、ミーリーンについても現状の認識と頭の中のネガティブな言葉とでフォントが変えてあったり、見た目の行の配置でも心の状況が分かるようになっていますね。これも、緊迫感を醸し出してとてもよかったと思います。自殺幇助のサイト、メメントモリの存在も物語にじわじわと恐怖感を与えていて、インターネットの危険性も伝わりますね。途中までは3人が自殺してしまうのではないかとドキドキし、後半はメメントモリからの攻撃でスリリングな展開になり、結局最後までドキドキしながら読みました。大変におもしろかったです。

コゲラ:表紙を見て、ていねいな前書きやインフォメーションを読み、おっかなびっくり読みはじめました。3人の少女の性格や、置かれている状況がしっかり描かれていて、それだけにページをめくる手が、ともすれば止まりそうになりました。でも、3人そろって服を選ぶ場面から明るい兆しが見えてきて、ほっとしました。前半とうってかわって、後半は悪意のあるネットのサイトの所有者との闘いで、まさに手に汗にぎる展開。一気に読めました。
作者はもちろんのこと、編集者、訳者の細かい心遣いと熱意が感じられる、よい本だと思います。ただ、図書館や学校で子どもたちに手渡す立場にある方は、神経を使うだろうなと思いました。むしろ、読書会などグループで読むときの課題本としたら、とてもよいのではないでしょうか。先日のニュースで、自殺をしたい子をネットで誘って監禁した事件を報道していましたが、日本の10代にとっても他人事ではないので。p12で、主人公のひとりのカーラ言っていっていますが、「サマリア人協会=サマリタンズ」は日本の「いのちの電話」のことで、カーラがふざけていっているということが、日本の読者にはわかりづらいのでは?

雪割草:展開が気になり、引き込まれて読みました。作者のメッセージが冒頭にあることで、読者への配慮や届けたいという思いが伝わってきました。3人それぞれが、母親との関係によって前に進めるようになるのもよく描かれていて、思春期の読者には伝わるものがあると思いました。それからメメントモリというサイトですが、グループワークを通して自殺をやめさせるいいサイトなのかもしれない、と最初は思ったりしてしました。でも実際は違って、ネットの恐ろしさや世の中の悪意、その子どもたちへの影響を考えさせられました。長く、内容もセンシティブで、出版社にとっては挑戦だったのではと思いました。

エーデルワイス:表紙イラストの3人の少女たちの顔に目鼻口がありません。物語を読む前から少女たちの心情がすでに伝わってくるようです。本文の文字の配列が視覚的に変化して、ミーリーンの苦しい心の叫びが伝わり、つらくなりました。オリヴィアの性的虐待に母親が正面から向き合ってくれてほっとしました。こういう状況の子たちを大人がいち早く気づいて守ってほしいと願います。問題を抱えている子どもに即刻ソーシャルワーカーがつくところがすばらしいですね。最後にミーリーン、カーラ、オリヴィアの3人が、自殺サイトの罠にも負けず、生還できたことにほっとしました。

キビタキ:カバー前袖の文章と、物語の前に「いのちの電話」などのサイトの紹介があるので、ちょっと身がまえてしまいました。読者は高校生くらいだと思いますが、ここを見て読んでみようと思う子と、逆にちょっと引いてしまう子がいるのではないでしょうか。それぞれの少女の一人称で語られる章が入れ替わりで出てくるという構成が、最初は読みにくくて、3人のことを把握するのに少し時間がかかりました。それぞれの抱えている苦しみや心の叫びがうまく描かれていましたが、その分、読み進むのはとてもつらくて、途中でやめたくなりました。後半は、やっと気持ちをわかってくれる相手が見つかったことで3人が楽になっていくので、読んでいるほうも救われるのですが、そう思う間もなく急展開が待っていて、ハラハラし通しだったと思います。3人の主人公は16歳なので、同世代の読者には響く部分が多いのではないかと思いました。

アンヌ:最初に「いのちの電話」が提示されて自殺について書いてあるとわかるので、戦争が始まったという今の状況でこの物語を読み始めるのはきつく、その上事故による下半身まひ、鬱、性的虐待という状況が描かれるので、もうそこから進めなくなってしまいました。でも時間をおいて読み直し始めたら、それからは一気読みでした。3人はごく普通の仲よしのティーンエイジャーのような生活、チェア・ウォーカーになったカーラができるとは思っていなかったような生活を楽しみます。まず、ショッピングモールでお買い物をし、ランチをとる。ここで、普段はグッチを着ているというオリヴィアの言葉に階級を感じましたけれど、でも、彼女のように服を見立てるのが得意な友だちと買い物に行くとお互いが満足できて楽しいですよね。ランチではミーリーンに、ちゃんとしたハラルのお肉を食べさせる店を見つけてあげる。好奇心から宗教上の禁止事項は訊いてくるけれど、そこから先に踏み込んでくれない人たちとは違って、カーラは解決法を一緒に見つけてくれる。いつも遠慮しているミーリーンが気を使ってもらえて喜ぶところは、読んでいて楽しくなりました。それから、性的虐待を逃れてするジャンクフードだらけのパジャマパーティ。ここも楽しくて、このマイナスとプラスの場面構成は、とても動的でリズムがあるなと思いました。ミーリーンが母親に絵を描くことを認めてもらう場面では、現代のムスリム女性が子どもたちには自由に生きてほしいと思っていることも知ることができました。ただ、ここから先のサイトからの反撃などが出てくる場面はスリル満点ですが、少々つらく、まだ読み返す勇気が湧いていません。私の好きな場面は、カーラが救急車に乗せられるミーリーンにスカーフを巻いてあげ、その気持ちが救急隊員の女性にも伝わるところです。他者に想像力をもって接することの大切さを訴えかける見事な小説だと思いますが、実際に死の誘惑を感じている子どもに手渡すのには注意が必要だとも思います。

オカピ:今、日本で、子どもの自死はとても多いですよね。最近、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵 岩崎書店)という絵本の特集番組を見たのですが、「子どもの自死をテーマに児童書を出す上で、伝えたいのは “死なないで” ということだけど、それをそのままぶつけても届かない」と、編集者の方がおっしゃっていました。それをどうやって絵本とか、この本の場合はYAという作品にするのか、ということですよね。その番組で、「人間社会内孤独と自然宇宙内孤独がある」という谷川さんの言葉も印象的でした。私は中学のとき、「とくに悩みがあったわけじゃないけど、死にたいと思ったことは何度もある」と友人に言われて、驚いた記憶があります。いじめとか虐待とか、そうした具体的な理由がなくても、ふっと死に引きよせられることがあるんだなって。この『ラスト・フレンズ』では、鬱、性的虐待、父親の死に対する罪の意識など、死に向かう理由が示されていて、もちろんそういうケースもあるのですが。詩の形で書かれた本が今たくさん出ていて、この本でもオリヴィアの章はそうなっています。p115「ミーリーンが床からパソコンを拾って/いう」、p317「ミーリーンはぱっと顔を上げて、ちょっとだけ/ふら/ふら/歩いてから、いう」など原書通りの改行なのでしょうが、そのまま日本語の作品にするのはなかなか難しいのかなと。訳はp6の「ムリやり」「大っキラい」、p8「フツー」、p11「キツい」、p13「アガる」など、カタカナが多いのが古く感じられて、私にはちょっとしっくりきませんでした。地の文なんかは心の中で思っていることなので、今の言葉をそんなに使わなくてもいいような……。シリアスなテーマの本というのもあって、訳が少し浮いているように感じました。

みずたまり:近く感じる死を回避して、生きることに向かっていく少女たち、という大きな流れはとてもよくて、3人のやりとりを興味深く読みました。それぞれの背負っているものはとても重いけれど、友情があれば乗り越えられる、という力強さを感じました。ただ、自殺サイトのハッキングについて詳細が語られていなくて、カメラがいつも都合よく見たいものを撮影しているような気がしました。そのあたり、もう少し仔細に書いて納得させてもらいたかったです。あと、わたしは、3人が中盤で生きる決意をして、自殺サイトの正体を協力して暴いていく展開なのかと想像してしまいました。死と生に対して、よりポジティブに向かう方向を勝手に期待しすぎたので、ああ、そっちではないのね、と途中で軌道修正しながら読みました。

ハリネズミ:苦しい場面がずっと続くので途中で休み休み読みました。もう少しユーモラスなところとかがあると、休まず読み続けられたと思うんですけど。育った環境も文化も違う3人が自殺幇助サイトで知り合って、しだいに友情を結んでいくというストーリーですけど、こういうサイトは実際にありそうで怖いですね。そういう意味では、とても現代的な作品だと思います。性的虐待に関してですけど、この作品では、虐待をしていた男はすぐに逮捕されます。被害者の証言が重視されているということですよね。日本は伊藤詩織さんの件を見ても、まだまだ加害者に有利で残念です。下半身マヒのカーラが、過保護な母親をうるさいと思っていて、独りにしてほしいとあれだけ言っているのに、母親に恋人ができたのかといちいち気にして逆に母親の一挙一動に目を光らせるのは、ちょっと私の中では人物像が結びにくかったです。著者が一所懸命に書いているのは伝わってきましたが、あらかじめこういう流れで書こうという設計図があるせいか、ちょっと堅苦しさを感じました。もっと自然に登場人物が動いていくと、きっとユーモアも入ってくるのかもしれません。

サークルK:表紙の3人の肖像画を額縁に入れて図案化したものを、各章の名前の下に毎回入れている工夫がなされ、3人それぞれの事情を読むときに迷子にならずにすみました。冒頭に「いのちの電話」の案内などが書かれていることもあって身がまえる読者もいるかもしれませんけれど、あえて原題と異なる『ラスト・フレンズ』というタイトルになっているところに(ラストという語には動詞なら「続いていく」という意味もあるので)、これからも3人が友達関係を続けられるという希望を読める気がしました。作中の16歳の少女たちが巻き込まれている日常(たとえば自分と異なる宗教観や結婚観、人生観、罪悪感、性的虐待といったヘビーな内容)に想像力が追いつかないとしても、不気味な自殺幇助団体の「契約」に取り込まれていく様は、現代の日本でもうっかりWebをクリックして思わぬ犯罪に巻き込まれてしまう子どもたちへのリアルな警鐘となると思います。つらい展開のところもありましたが気がつくとぐいぐいと引き込まれて読んでしまいました。

ヤドカリ:読み終わったときに、読めてよかったと思えるような小説でした。著者の伝えたいという思いが強く出ていて、力のこもった作品だと思いました。3人のキャラクターそれぞれに、日本の読者もいろいろなポイントで共感できるのではないかと思います。母と娘の関係が大切な小説で、帯にいとうみくさんが言葉を寄せられているのも、それでなのかしら、と思ったりもしました。編集の面でも非常にていねいに配慮されているなと感じました。

コアラ:タイトル、特にサブタイトルの「最後の13日間」で手に取る人がいるのではないかと感じました。物語に入る前に、「いのちの電話」などの相談先が載っていて、この本を出版する上での気配りがされていると思いました。途中までは自殺に向かって準備を整えていくストーリだし、p5にあるように、よくない引き金を引いてしまわないとも限らない。最初に載せたら、読んでいる途中で気持ちが揺れても、相談先を思い出すことができるので、まず相談先を載せたというのは、とても配慮されていると思いました。カバーの人の絵が、版ズレしているようで、けっこう気になったのですが、p13で自殺サイトのデザインが「微妙にレイアウトがずれてるメニューバー」とあるので、そのイメージからきているのかなと考えたりもしました。性格も環境も全く違う女の子3人が自殺サイトのマッチングで出会います。最初の出会いのぎこちなさはよくあらわれていると思うし、それぞれのつらさも、読んでいて我が事のように迫ってきました。特に、ミーリーンの章の、太字のフォントで書かれている「カオス」の声は、こんな声がずっとしていたらたまらないというか、本当に死にたくなると思いました。p351のカオスの声に囲まれているようなレイアウトは、頭の中の状態、苦しさが、レイアウトでよくあらわれていると思いました。この物語では、自殺サイトで知り合った人や親が救いとなったけれど、現実の世界でも、苦しい状況では、友人や親からの救いを欲していると思うし、そういう生きることへの引きとめも心の底ではかすかに願って自殺サイトで人と知り合うことがあるかもしれない。でも現実では、小説のように心を打ち明けられる関係にはならず、お互いに死へと進んでしまうのかもしれない。そういうことを重く考えながら読みました。苦しんでいる人が、この本を読んで自分の気持ちを誰かに打ち明けられるようになればと思うし、周りの人も、苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるようになればいいなと思います。

花散里:この本が出版されたとき、3人の顔が描かれていない表紙画、「自殺」やSNSの問題などを取り上げていることが話題になっていたのですぐに読みました。そのときに本書が著者のデビュー作であり、自身の体験をもとに書かれた作品であるということで力作だと思いました。今回、読み返してみて、中盤までは自殺のサイトで知り合った3人が次第に自殺を思いとどまっていくところ、SNS利用の怖さや、仲よくなった3人の中での葛藤などをていねいに描いていて、とても構成がうまいと改めて感じました。ブリティッシュ・ムスリムの著者は自身と重ね合わせて、後半の追いつめられていくミーリーンをいちばん描きたかったのではないかと思いました。最後にカウンセラーの対応の上手さなど、生きることへ希望をもたせ、読後感がさわやかに感じました。自殺サイト、性的虐待などを取り上げている点で大人にも読んでほしい作品であり、YA世代にはぜひ読んでほしいと思います。

荻原(編集担当者):「サマリア人協会」や「ほっぺ」、そのほか、皆さまご指摘ありがとうございます。オリヴィアのパートは原書のレイアウトになるべく近づけてみています。なかなか同じようにはいかなかったですけれども。また、相談先のリスト(日本語版は国内の各団体にご協力いただきました)は、原書では巻末にありました。それを巻頭にもってくることで、入り口に壁をつくってしまった点も課題になりましたが、今この主人公たちと同じような苦しみを抱えている読者が、もし、途中で本を閉じてしまったら……と考えて、巻頭に載せました。この作品は、著者自身がティーンエイジャーだったときに読みたかった本だ、とのこと。著者が求めた本の力を私も信じて、日本の読者にも届けたいと思ったのではありますが、本当のところ、読者にどんな影響を与えてしまうのか、不安もありました。この作品を選んだそのほかの理由のひとつとして、死生観が信仰に反することに苦しむ、という心情は、日本ではあまり触れる機会がないのではないかと思ったこともあります。カバーイラストの画風と、作中に登場するサイトのレイアウトとの関連は……全然考えていませんでした(笑)。実は、編集担当として、はじめて自分で選んでオファーした作品で、ボリュームも考えずに買っちゃったので、なんとかページ数をおさえようと、文字もぎっちぎちですみません。訳者の代田さんの力を借りて、ようやく形にできたという感じです。皆さまのご意見を、今後の編集の課題にしてがんばります。今日はありがとうございました。

しじみ71個分:この物語で行頭がずらしてあったりするのは、詩的な表現というよりは、頭の中の思考が千々に乱れたり、自分で考えたことを自分で否定したり、心の中で瞬間瞬間に湧き上がる苦悶や葛藤、思考の乱れを視覚的に演出しているだけなんじゃないでしょうか? たとえば、オリヴィアの思ったことに取り消し線が引いてあるのは、自分で考えたことを自分で打ち消しているのを表現しているのだと思いましたし、3人で打ち解けているときは行頭が揃っているので心の落ち着きを表現しているのかなと思いました。

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ネズミ(メール参加):読み応えがありましたが、読むのはつらかったです。この子たちがどうなるのか気になって読み進めましたが、話し言葉で展開するとはいえ、ページ数も多く、読者を選ぶ、ある程度本好きな読者でないと読み通すのがきびしいかなと思いました。
3人それぞれのかかえている問題が重たく、当事者となる読者に手渡してよいか、ためらわれます。むしろ、まわりの大人に読んでほしい。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『わたしとあなたのものがたり』表紙

わたしとあなたのものがたり

アメリカの絵本。「クラスには、茶色いはだの子どもは、ひとりしかいなかった。それが、わたし」という文章で、この絵本は始まります。「学校で、奴隷制について勉強した時、みんなが、わたしをじっと見ているような気がしたものよ。奴隷たちが大農園で綿つみをさせられたことや、ほったて小屋にすんでいたことや、子どもたちが、ばらばらに売られていったことを先生がはなすと、わたしは消えてしまいたいとおもったわね」

アメリカの学校には、アフリカ系アメリカ人の歴史をふりかえるBlack History Monthが設けられています。アフリカから奴隷が連れて来られてプランテーションなどで強制労働をさせられ、奴隷解放宣言が出てからも差別され、公民権運動が起こり、少しずつ権利を獲得していった歴史を学ぶのです。過去の歴史を学ぶことによって未来をもっとよくしようという意味がそこにはあるのでしょう。でも、そんなとき、肩身の狭い思いをしていた子どもがいることには、私はこの絵本に出会うまでは気づいていませんでした。語り手の「わたし」は、白人の男の子に「リンカーン大統領がいなかったら、おまえはまだ、おれたちの奴隷だったんだぞ!」なんていく言葉を投げかけられたりもしています。

そんな「わたし」が、やはりクラスでたった一人の茶色い肌の娘に向かって、「あなたには、すがたをかくしたり、消えてしまいたいとおもったりしないでほしいの」「どうどうと立って、空高くはばたいていってほしいの。・・・だって、だいじなのは、ほかの人にどう見えるか、じゃなくて、鏡にうつった自分に『なにが見える?』って といかけてみることだから」と語りかけています。

(編集:相馬徹さん 装丁:森枝雄司さん)

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2022年02月 テーマ:12歳の冒険

日付 2022年02月18日
参加者 まめじか、ハル、アンヌ、エーデルワイス、雪割草、ルパン、ハリネズミ、ニンマリ、西山、コアラ、シア、さららん、サークルK(しじみ71個分)
テーマ 12歳の冒険

読んだ本:

(さらに…)

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『キケンな修学旅行』表紙

キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『ジークメーア』表紙

ジークメーア〜小箱の銀の狼

まめじか:子どものとき、斉藤さんの『ジーク 月のしずく日のしずく』(偕成社)がとても好きだったので、この本が出たときはわくわくして読みはじめました。斉藤さんはアーサー王伝説を子ども向けに書き直していらっしゃいますよね。この本では、アーサー王の要素を上手に入れていて、すらすら読み進めたのですが、作家の中にすでにあるものをパッチワークのようにつなげているというか。オリジナルの世界が立ちあがってこないように感じました。

ハル:これはシリーズものの1巻目ですよね? 最後まで読んで「やっぱり、1巻じゃ終わらないよね」と、がくっときたのですが、それでもやっぱり開幕感がありましたし、今月のもう1冊(『キケンな修学旅行』ほるぷ出版)と読み比べても、物語が豊かだなぁと思いました。セリフが少しかたく感じるところもありましたが、ジークメーアも少年とはいえ冷静で賢く、そもそも特異な存在ですし、読者とはやや距離のあるキャラクターなので、それはそれでいいのかもしれません。挿絵も独特の雰囲気がありますが、入れる位置は、あと少し後ろにしてー! と思う箇所もありました。たとえばp183の元海賊の男が再登場する場面。ハラハラしてページをめくって、先に挿絵が目に入って「あの海賊がいる」と思ったし(顔はちゃんと描き分けられているのです)、p229も箱を開ける前に狼の挿絵が目に入ってしまった。素直に文字だけを追っていればぴったりの場所に入っているので決して間違ってはいないのですが、できればちょっとずらしていただければありがたいです。しかし、つづくにしても、ラストはすごいですね。ショックとともに、続編を渇望させる、これも作戦でしょうか?

アンヌ:魔術と魔物がいる世界にマーリンとかが絡んでくる。そんな、よくあるファンタジー世界を新たに書きだすのに、相変わらず女性は魔女というか賢い女の占い師で、それ以外は宿屋のおかみさんしかいないんだなと、あまり期待せずに読み始めました。フランク王国とか、キリスト教の進行とか、歴史で習う前の小学生にはわからないことが多いのが気になりました。まあ、私自身、ローズマリー・サトクリフの物語で、イギリスにおけるローマ軍の侵略を知ったので、物語さえおもしろければ、そこらへんは理解できなくとも読めるとは思いますが。挿絵は独特で、例えばp15のイグナークの顔など、昔読んだ『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー編 新井皓士訳 岩波文庫)のギュスターヴ・ドレの絵のようなグロテスクさがあって、怖いもの見たさの興味がわきました。物語全体は何か盛り上がりに欠けるような気がするんですよね。続き物だとしても、第1巻を1つの世界として楽しめないといけないと思うのですが、もう少し読者が主人公に感情移入できるような場面がほしい気がします。最後の冒険場面でも、例えば魔物はあまり怖くないし、閉じ込められていた場所の謎解きとか、もっと書き込めないのかとも思いました。手に入った小箱の狼とかについての記述もあまりなくて終わってしまうし、ラストを盛り上げてこそ、次回に繰り広げられる世界への期待がわくのじゃないかと思いました。

エーデルワイス:斉藤洋はさすがうまいストーリーテラーだと思いました。おもしろく読みました。斉藤洋氏が20年ほど前に盛岡にいらしたことがあります。講演会場の小学校の体育館の舞台に立たれると、舞台の端から端ヘと左右何度も移動されながらお話している姿が思い出されました。ストーリーの中では、村に11歳以上の子どもがいない。この解明に続編を期待しています。キリスト教にも触れていますが、多神教の方が柔軟という印象を受けました。

雪割草:書き方や表現、トーンはどちらかといえば好きかなと思います。世界観があるし、小箱の中に狼などエンディングが不思議で、続きがあるなら読んでみたくなりました。ただ、世界観は少々ベタな感じで、登場するのが男性ばかりなので、続きでは女の人にも光を当てて描いてほしいです。人のあたたかさもちゃんと描かれていると思いました。

ルパン:急いで読んだからかもしれないんですけど、全然お話の世界に入っていかれないまま終わりました。長編の1巻だとは知らずに読んだので、ページが終わりかけていても全然クライマックスが来なくて、「え? だいじょうぶ?」と心配になりながら読み、最後は「あれ、これで終わり?」というキツネにつままれたような感じでした。おとなだから読み終わってから、「まあ、斉藤洋だし、『西遊記』みたいにこれから続くんだろう」と思いましたが、子どもはわからないんじゃないですか? いろいろ伏線みたいなことも散りばめられていますが(11歳以上の子どもがいない、とか)、そういったことの理由も明かされないままで、不完全燃焼でした。せめて「続く」とか書いてあげてほしい。

ハリネズミ:私はエンタメだと思って読みました。斉藤さんは、子どもがおもしろいと思う本はどんな本か、ということを調査し、研究してそのセオリーに則って書いている部分もあるように思います。1巻目なので山場はまだこの先にあるのでしょうね。一神教と自然神の対立などが描かれているのも、私はおもしろいと思いますが、今後その辺ももっと描かれてくるのでしょう。斉藤さんがどのように考えているのか、続編が楽しみです。

ニンマリ:佇まいがとても魅力的な小説ですね。イラストも素敵で、世界名作全集を想起させます。1巻はまだ序章で、これから物語が大きく展開していきそうですね。今のところジークメーアは母とランスの言うとおりに動き、受け身なので、主人公への感情移入はまだ薄いです。いつか、ジークメーアが自分の意思で羽ばたいたときに、魅力が高まるのでしょう。個人的には2巻は気になるけれど、とても待ち遠しいというほどではないです。その理由はやはりジークメーアの心情がわかりづらいところにあるかと思います。とても静かな物語なんですよね。ジークメーアに相棒のリスでもインコでも犬でも、何かいて、話しかけることで気持ちがわかったりとか、お茶目な一面が見えたりとかするとぐっと引き込まれるかと思うのですが……。そうするとエンタメになってしまって、この佇まいが台無しになるのかもしれませんね。

西山:斉藤洋って、こういう文章だったっけと驚きました。雑すぎやしないかと……。例えば、p100、半弓が手元にすでに城にあるというのは、ある種のギャグかと思ったくらいです。ふつう、そういうアイテムを1つ1つ手に入れていく冒険が展開されるのではないかと思ったのですが、あれもこれも「実は家にありましてん」という漫才台本になりそうと勝手に笑ってしまいました。ていねいに書かれた本を読みたいなぁというのが読了後一番に感じたことでした。

コアラ:装丁が、ヨーロッパの中世のファンタジーという感じでとてもいいと思います。挿絵も、ヨーロッパの昔話やファンタジーの挿絵っぽくて、よく見ると、左下にドイツ語で挿絵タイトルが書かれていて、右下には画家のイニシャルが入っているんですよね。凝っているなと思いました。ザクセンが舞台だから、ドイツ語で書かれているとそれっぽくていい感じだと思いました。中世のドイツを舞台に、アーサー王伝説を組み合わせたファンタジーで、その設定だけでもワクワクするし、途中まではおもしろく読みました。ただ、最後のほうで、なんだか煙に巻かれたような、すっきりしない、腑に落ちないような形になって、それが残念でした。「洞窟」というのが、大ムカデの口、あるいは腹の中、というのは、ちょっと納得できないし、それより何より、ランスはずっと、「小箱の銀の狼」というのは馬だと言っていたんですよね。p99の最終行からp100の1行目にかけて、「『小箱の銀の狼』という名の、たぶん馬が、どこかにいる」と言っています。ところが、p232の後ろから3行目「小箱を見た瞬間、わたしは、この中に狼がいると直感した。だから、さほどおどろきはしなかった」などと言っているんです。「馬」と言っていたのはどうなったんだと、すっきりしない感じが残りました。それ以外は、おもしろかったです。シリーズ物のようなので、続きが楽しみです。

ハリネズミ:このタイトルとサブタイトルは、続きがあることを想定させていますよね。

シア:オビに「新しい冒険の物語がはじまる」とありますし、偕成社のWebサイトにも「ジークメーア1」と題名の上に書いてあります。だから続くと思いたいのですが、この著者の『ルーディーボール エピソード1 シュタードの伯爵』(斉藤洋著 講談社)が2007年のエピソード1以降音沙汰なしなので、売れ行き次第なところがあるのでしょうか。この本を初めて見たときに、『ジーク 月のしずく日のしずく』の続きだと思いまして、『ジークⅡ ゴルドニア戦記』の2001年からの超ロングパスで続編を書くなんて、児童書界のアイザック・アシモフか! と喜んだのですが、全く違いました。しかし、挿絵も描いている人は違いますが『ジーク』に似ている感じがしますし、『テーオバルトの騎士道入門』(斉藤洋著 理論社)に「ランス」という名の従者が出てくるので、最近流行りのクロスオーバー作品かなと混乱しながら読みました。そのため、この本自体にはあまり大きな感動はありませんでした。最後の川の辺りの描写が読みにくいというか、いまいち想像しにくく、しかも肝心のラストも別にそこまで盛り上がらず、往年の輝きがなくなってきてしまっているようにも感じました。久しぶりに会った方がお爺さんになっていたような感覚です。個人的に大好きだった2シリーズと勘違いしたので、期待値が大きすぎました。とはいえ、最近はアーサー王伝説を知らない子どもが多いので、その辺りを知るのに良い本ではないかと思います。この方の本はどれもおもしろいですし、とくにファンタジーは最高にクールなので、中高生にも薦めやすい本です。p21、p22に「さほど」という言葉が集中的に3か所も出てくるのでここは訂正してほしいと思いました。

さららん:たとえば、洞窟の中に住む主人公は、満潮のときは泳いでいかないと外には出られません。そんなときのために、乾いた服を別の場所に用意しておく、といった描写などに、手触りのある世界を感じました。物語の構成はクラシックですが、マンネリとは思わなかったです。キリスト教、アーサー王伝説についての知識がちりばめられ、その中で登場人物たちもしっかり動いているように思えました。例えば新しい弓をもらった主人公は、古い弓をどう処理するのか。作者はそこまできちんと書いています。母親に対する深い信頼、ランスへの不信感などが、言葉というより、むしろ主人公の行動で表されているため臨場感があります。なお文章は、少し時代劇っぽい感じがありました。例えばp198「ジークメーアはそう思った」までで、心の変化を数行かけて説明したあと、「川で魚がはねた」と、突然短い風景描写を入れて、章を締めくくるあたりなどです。テレビドラマでもよく場面転換に使われる手ですが、作者はそこで、間を取りたいのかもしれませんね。

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しじみ71個分(メール参加):日本人作家による、ヨーロッパを舞台にした時代劇という点におもしろさを感じました。未読ですが、アーサー王物語シリーズを先に書いておられるので、そのスピンオフというところなのでしょうか。ジークメーアの暮らしぶりや能力を描き、続いて冒険物語がサクサクと展開していくので、するすると読めました。ですが、時代物の典型のような話運びなので、斬新さや深い感情移入などはなかったという印象です。まだシリーズ第1巻のせいもあるかとおもいます。何より一番気になったのは、話の終わりどころでした。えー、狼見つけただけで終わっちゃうの?という感じで、もう一つ狼との関わりを語る逸話が欲しかったなぁと思ってしまいました。振り返ると、そこまでにあまり盛り上がりが足りなかったということなのかな…すんごい大冒険をして、苦労して狼を得たという感じがあまりしなかったのでした。でも、とにかく第2巻以降に期待というところです。挿絵はとてもいいと思いました。ヨーロッパの古い銅版画をおもわせるようなイメージは好もしかったです。

(2022年02年18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『ダーシェンカ』表紙

ダーシェンカ 愛蔵版

『ダーシェンカ 愛蔵版』(NF)をおすすめします。

フォックステリアのダーシェンカが、「片手にひょいと載せられるほどの、白い小さなかたまりだった」時から、歩けるようになっても「足を一本見失ってしまい、四本であることをすわりなおして確認しなくてはならな」かったり、なんでもかんでも手当たり次第にかんでしまったり、おしっこの水たまりをあっちこっちに作ったりしながら成長していく過程を、味のある文章と、愛情あふれる写真と、ゆかいなイラストで描写した本。ヒトラーとナチスを痛烈に批判した作家の、日常生活や人となりを知るうえでもおもしろい。

原作:チェコ/13歳から/犬、ペット

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『ネコとなかよくなろうよ』表紙

ネコとなかよくなろうよ

『ネコとなかよくなろうよ』(NF絵本)をおすすめします。

ネコが飼いたいパトリックは、ネコのことならおまかせ、というキララおばさんのところへやってくる。そしてさまざまなネコの種類についての説明を聞き、古代エジプトから現代に至るまでの人びとの、ネコとのつき合い方の変遷を知り、ネコが登場する絵やお話について教えてもらい、ペットとして飼うための秘訣を話してもらう。自分もネコを飼っていた作者が、キララおばさんの姿を借りて、子どもに知っておいてほしいネコについての知識のあれこれを、楽しい絵とともにわかりやすく伝えている絵本。

原作:アメリカ/7歳から/ネコ、古代エジプト

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『父さんが帰らない町で』表紙

父さんが帰らない町で

『父さんが帰らない町で』(読み物)をおすすめします。

12歳の少年ウェイドの父親は、戦争で出征したまま5年たっても戻ってこない。母親とウェイドと兄ジョーの貧しい一家は、金持ちの息子ケイレブのからかいやいじめの対象だ。そんな時、村にやってきた移動遊園地の「恐怖の館」に陳列されている「最後の兵士」を見て、ウェイドは父親と重ね合わせる。ところが、夜中にその「最後の兵士」が現れてジョーに何かをささやいたせいか、ジョーは、移動遊園地を手伝いながら父親を探し、自分も兵士になると言いだす。スリリングな展開で読ませる成長物語。

原作:イギリス/11歳から/戦争、兄弟

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『〈死に森〉の白いオオカミ』表紙

〈死に森〉の白いオオカミ

『〈死に森〉の白いオオカミ』(読み物)をおすすめします。

村には、川向こうの森を丸裸にしてはいけない、という言い伝えがあったのに、人口が増えて農地が足りなくなると、男たちは向こう岸にわたり森を焼き払ってしまう。そこは〈死に森〉と呼ばれるようになり、村人たちを襲うオオカミが次々に現れる。リーダーの巨大な白いオオカミは森を守っていた魔物なのか? 子どものエゴルカが一部始終を見届け、村を救う。ロシアの伝承を下敷きにし、不思議な人びとも登場する、土の香りがする物語。自然と人間の関係を描いた象徴的な寓話としても読める。

原作:ロシア/11歳から/オオカミ、伝説、自然

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『オオカミの旅』表紙

オオカミの旅

『オオカミの旅』(読み物)をおすすめします。

親に守られ、兄弟と競い合いながら子ども時代を過ごしたオオカミのスウィフトは、別の群れに家族を殺されてひとりになってしまう。生存をかけてさまよう間に何度も危険な目にあうが、やがてとうとう自分の居場所を見いだして家族が持てるまでに成長する。ノンフィクションではないが、オオカミの生態をうかがい知ることができるし、巻末には物語のモデルになったオオカミの紹介や、シンリンオオカミの特徴についての説明もある。波乱に満ちたサバイバル物語としても、おもしろく読むことができる。

原作:アメリカ/11歳から/オオカミ、旅、 サバイバル

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『クリスマスの小屋』表紙

クリスマスの小屋〜アイルランドの妖精のおはなし

『クリスマスの小屋』(読み物)をおすすめします。

捨て子だったオーナは長じて働き者になったが、自分の家はなく家族はいない。飢饉に襲われたあるクリスマスイブのこと、年老いたオーナは、食べものは子どもたちに譲ろうと自分は死を覚悟し、丘に登る。すると小さな妖精たちがやってきて、小屋を建ててくれる。それからは、ホワイトクリスマスになるたび、その小屋が孤独な者、悲しみを抱えた者を受け入れてくれるようになったという。すぐれたストーリーテラーが、幼い頃に乳母から聞いた昔話を再話している。挿し絵も幻想的な雰囲気を伝えている。

原作:アメリカ/9歳から/クリスマス、妖精、昔話

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『ウサギとぼくのこまった毎日』表紙

ウサギとぼくのこまった毎日

『ウサギとぼくのこまった毎日』(読み物)をおすすめします。

先生から預かったウサギのユッキーのせいで、トミーの一家は大騒ぎ。俳優のお父さんが仕事をもらえそうだったのに、ユッキーが主役俳優のズボンにおしっこをひっかけてダメになったり、トミーがユッキーを散歩させていたら犬たちに囲まれてしまったり、庭でユッキーとお茶会をしていた妹が風邪をひいてしまったり……。でも、そのユッキーが逃げ出してトミーが必死で探し出したときから、一家にもなんだか運が向いてきた。厄介なウサギを抱えた少年と一家の日常を、ユーモアたっぷりに描く楽しい物語。

原作:イギリス/9歳から/ウサギ、ペット、 家族

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『せんそうがやってきた日』表紙

せんそうがやってきた日

『せんそうがやってきた日』(絵本)をおすすめします。

おだやかな日常の暮らしのなかに、戦争がやってきた。女の子はひとりで逃げる。そしてようやく難民キャンプにたどりつくが、そこにも戦争が追いかけてきて、女の子の心を占領してしまう。ふと窓の向こうを見るとそこは学校。女の子は入ろうとするが、いすがないと先生に拒絶されてしまう。ところが女の子が小屋で寝ていると、学校にいた子どもたちがいすを持ってきて、一緒に学校へ行こうと誘ってくれた。オリジナリティのある視点で、戦争が子どもの心身をむしばむ様子と、子どもたちが助け合う姿を伝えている。

原作:イギリス/7歳から/戦争、難民、学校、 友だち

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『ステラとカモメとプラスチック』表紙

ステラとカモメとプラスチック〜うみべのおそうじパーティー

『ステラとカモメとプラスチック』(絵本)をおすすめします。

おばあちゃんと海辺で暮らすステラは、カモメのミューと仲よしだ。ある日ミューの元気がないので獣医さんに診てもらうと、おなかにプラスチックが詰まっていることがわかった。ステラは、鳥や動物がプラスチックゴミの被害を受けないように、まわりの人に声をかけ、プラスチック包装をしているチョコレート会社に手紙を出し、みんなでおそうじパーティーをすることに。カモメを登場させることによって、小さな子どもにもプラスチックゴミの問題をわかりやすく伝えている。巻末に補足説明もある。

原作:イギリス/3歳から/海、プラスチック、カモメ、海浜清掃

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『ありがとう、アーモ!』表紙

ありがとう、アーモ!

『ありがとう、アーモ!』(絵本)をおすすめします。

アーモ(おばあちゃん)が作っている夕ごはんのシチューのにおいがあたりにただようと、トントンとドアをたたく音。やってきたのは男の子。つづいて、おまわりさん、ホットドッグ屋さんにタクシーの運転手さん、お医者さん、絵かきさん……しまいに市長さんまでやってきた。みんなにシチューをふるまったアーモのお鍋は、夕ごはんの時には空っぽに。でも、うれしいサプライズが待っていた。コラージュを用いた楽しい絵とお話が、近所同士の思いやりを伝えている。おまわりさんや市長さんが女性なのも新鮮。

原作:アメリカ/3歳から/シチュー、近所づきあい

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『戦場の秘密図書館』表紙

戦場の秘密図書館〜シリアに残された希望

『戦場の秘密図書館』(NF)をおすすめします。

内戦下のシリア南部にあるダラヤは、政府軍に完全封鎖されて激しい空爆を受け、食料や物資が不足していた。そのなかで、若者たちは破壊された家や瓦礫のなかから本を集めて地下に秘密図書館を作り、人びとの心に希望の灯を点していく。英国人ジャーナリストによるドキュメンタリーを、毎日新聞の記者が子ども向けに編集し訳している。内戦下にあるシリアの状況がリアルに伝わるだけでなく、本や図書館の本質的な役割とはなにかを考えさせてくれる。「頭や心にだって栄養が必要」という言葉がひびく。

原作:イギリス/8歳から/シリア 図書館 内戦 本

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『ミイラ学』表紙

ミイラ学〜エジプトのミイラ職人の秘密

『ミイラ学』(NF絵本)をおすすめします。

王室御用達のミイラ職人の一家を主人公にして、王妃の父イウヤの遺体をミイラにしていく様を、絵と文章で表現した絵本。どんな材料や器具が使われ、どのような手順でミイラに加工されていったか、葬儀はどのように行われたのか、などがとても具体的に紹介されている。後書きには、ミイラ学の歴史や、イウヤとその妻チュウヤのミイラ(写真もある)が発見されたときの様子などが記されていて、興味深い。発掘調査にかかわる技術画を専門にしていた著者の、古代エジプト風の絵も趣をそえている。

原作:アメリカ/8歳から/古代エジプト ミイラ 葬儀

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『プラスチック プラネット』表紙

プラスチックプラネット〜今、プラチックが地球をおおっている

『プラスチックプラネット』(NF絵本)をおすすめします。

身の回りに氾濫するプラスチック製品について考えてみようと呼びかける絵本。プラスチックとはなにか、プラスチックの利点と問題点、暮らしのなかでどう使われているか、どんなふうに普及してきたか、マイクロプラスチックやマイクロビーズについて、プラスチックゴミの野生生物や人体への影響などを、イラストや写真を交えてさまざまな観点から解説し、プラスチックごみがあふれる今、私たちになにができるかという具体的な案も提示している。見開きごとに1トピックになっていて、わかりやすい。

原作:イギリス/8歳から/プラスチック ごみ 地球

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

 

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『映画ってどうやってるくるの?』表紙

映画ってどうやってつくるの?

『映画ってどうやってつくるの?』(NF絵本)をおすすめします。

映画はどうやって制作されているのかを、子どもにもわかるように概説した絵本。まずモーション・キャプチャーという技法の紹介で読者を引きつけておいて、19世紀に写真が発明されると、今度はその写真を動かす方法が考案された歴史を伝えていく。撮影前から撮影後までの過程でどのような仕事をどのような人たちが担っているのか、アニメーション映画はどう作るのかなどについても述べられている。音作りやソーマトロープなどを体験してみるページや、考えてみることを促すページもあり、楽しみながら学べる。

原作:オランダ/8歳から/映画 撮影 アニメーション

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『飛ぶための百歩』表紙

飛ぶための百歩

『飛ぶための百歩』(読み物)をおすすめします。

5歳で失明したルーチョは、叔母に連れられてよく旅行やハイキングに出かけるが、コンプレックスも自尊心も人一倍強く、善意の援助を拒否して周囲とぶつかることも多い。一方、山小屋の娘のキアーラは、人づき合いが苦手だ。ある日一緒にワシの巣を見に行ったルーチョとキアーラは、密猟者からひなを守ろうとすることでぎこちなさがほぐれ、真の自分を見せ合えるようになる。居場所をうまく確保できない子どもたちの出会いと衝突、盲目の人が感じる世界、密猟者の問題など要素がいろいろあって、ぐんぐん読ませる。

原作:イタリア/12歳から/盲目 ワシ 山 密猟

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

 

 

 

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『ほんとうの願いがかなうとき』表紙

ほんとうの願いが かなうとき

『ほんとうの願いがかなうとき』(読み物)をおすすめします。

父親は拘置所、母親は育児放棄という環境で、何事にも自信が持てなくなっていた少女チャーリーは、姉とも離れ、母親の姉夫婦のところでしばらく暮らすことになる。最初はすべてが気に入らずすぐにカッとなっていたチャーリーだが、包容力のある伯母夫婦や転校先の学校で出会った忍耐強いハワードに助けられ、自分になついてくれた野良犬のウィッシュボーンの存在を支えにして変わっていく。孤独な少女がしだいに心を開き、心のありどころや居場所を見つけていくまでの様子がていねいに温かく描かれている。

原作:アメリカ/10歳から/犬 友だち 願い

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『この海を越えれば、わたしは』表紙

この海を越えれば、わたしは

『この海を越えれば、わたしは』(読み物)をおすすめします。

主人公のクロウは、赤ちゃんの時に流れ着いた島で、画家のオッシュに拾われ育てられている。しかし12歳になったクロウは、自分はどこから来たのか、なぜひとりで小舟に乗っていたのか、この島に住む人たちがなぜ自分を避けているのか、などを知りたいと思うようになる。身の回りの謎を解きながら自分のルーツをつきとめようとする少女の物語に、ハンセン病への偏見がからむ。世間から離れて生きようとするオッシュや、近所でひとり暮らしをするミス・マギーが、血縁の家族以上にクロウを思いやる姿が温かい。

原作:アメリカ/10歳から/ルーツ ハンセン病 非血縁の家族 海

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『希望の図書館』表紙

希望の図書館

『希望の図書館』(読み物)をおすすめします。

舞台は1946年のアメリカ。母親が死去した後、父親と南部のアラバマから北部のシカゴへ引っ越してきたアフリカ系の少年ラングストンは、学校では「南部のいなかもん」とバカにされ、いじめにもあう。そんなとき、誰もが自由に入れる公共図書館を見つけ、そこで自分と同名のアフリカ系の詩人ラングストン・ヒューズの作品に出会い、その生き方にも触れる。本を窓にして世界を知り、しだいに自分の居場所や心のよりどころを見つけていく少年の姿が生き生きと描かれている。随所でヒューズの詩が紹介されているのもいい。

原作:アメリカ/10歳から/図書館 名前 詩 いじめ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『ヤナギ通りのおばけやしき』表紙

ヤナギ通りのおばけやしき

『ヤナギ通りのおばけやしき』(読み物)をおすすめします。

ハロウィンの夜の楽しい物語。リリーとビリーは、小鬼に変装してお菓子をもらいに、ヤナギ通りの家をまわることにする。ところが誰も住んでいないはずの「おばけやしき」に明かりがついているではないか。ふたりがチャイムを鳴らすと、中から出てきたおじいさんが、子どもたちを招き入れ、手品を見せてくれる。そのうち他の家の子どもたちもやってきて、家の中はいっぱいに。やがて、子どもを探しにやってきた親たちも加わり、パーティが始まる。ふんだんに入っている絵にも味がある。

原作:アメリカ/6歳から/ハロウィン 手品 パーティ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『ねこと王さま』表紙

ねこと王さま

『ねこと王さま』(読み物)をおすすめします。

主人公の王さまは、友だちのネコと、12人の召使いと一緒に立派なお城に暮らしていた。ところがある日、火を吹くドラゴンのせいでお城が火事になり、召使いたちはやめていき、王さまも小さな家に引っ越すことに。王さまはひとりではなにもできないので、有能なネコにひとつひとつ教わって庶民の生活の知恵を身につけていく。王さまがロイヤルとかキングと名のついたものにこだわるのも、となりの人たちとの交流も、最後はコーラのボトルでドラゴンをやっつけるのもゆかい。文・絵ともにユーモアたっぷりな展開が楽しめる。

原作:イギリス/6歳から/王さま ネコ ドラゴン

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『ちいさなタグボートのバラード』表紙

ちいさなタグボートのバラード

『ちいさなタグボートのバラード』(絵本)をおすすめします。

ノーベル文学賞を受賞した詩人がソ連の児童向け雑誌に発表した詩を、国際アンデルセン賞を受けた画家が絵本に仕立てた作品。港で他の船の水先案内をしなければならないタグボートが主人公。外国から来る船を見て、どこか遠くへ行きたい願望はつのるものの、自分は港にとどまって役目を果たさなくてはならないという切ない思いをうたっている。絵の構図や場面ごとの変化、想像が豊かにはばたいていく展開に、画家の力量が発揮されている。中高生が読めば、もう一段深い味わい方もできるだろう。

原作:ロシア/8歳から/タグボート 海 あこがれ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

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『アンネのこと、すべて』表紙

アンネのこと、すべて

『アンネのこと、すべて』(NF)をおすすめします。

アンネは、ドイツに生まれたが、ヒトラーの脅威にさらされてオランダに移住する。そのオランダにもナチスの影が迫ってきて、隠れ家に身を潜める。しかし、2年後に見つかって強制収容所に連行され、命を落とす。そうした生涯を、写真とイラストをふんだんに使って紹介している。随所にはさまれたカラーのハーフページには、歴史的な事実や、隠れ家の見取り図や、オランダのナチについての解説など付随する情報が載っている。アンネの生涯は、世界じゅうで迫害されている子どもの象徴として記憶にとどめておきたい。

原作:オランダ/10歳から/アンネ・フランク ホロコースト 隠れ家

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『私はどこで生きていけばいいの?』表紙

私はどこで生きていけばいいの?

『私はどこで生きていけばいいの?』(NF写真絵本)をおすすめします。

世界の難民や避難民の子どもたちの望みや不安を、写真と簡潔な文章で紹介する絵本。写真は、国連難民高等弁務官事務所が提供するもので、クロアチア、ハンガリー、ルワンダ、レバノン、イラク、南スーダン、ヨルダン、ギリシャ、ミャンマー、ニジェールなどで撮影されている。「『こんにちは。ここで安心して暮らしてね』と、笑顔でむかえてくれる人がいますように。あなたもそのひとりでありますように。」という、最後の場面に添えられた言葉に、本書の意図が集約されている。

原作:カナダ/8歳から/難民 子ども 旅

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『しぜんのかたちせかいのかたち』表紙

しぜんのかたち せかいのかたち〜建築家フランク・ロイド・ライトのお話

『しぜんのかたち せかいのかたち』(NF絵本)をおすすめします。

ライトは、幼年時代に積み木で遊ぶことによって「形」の秘密に気づき、自然の中で過ごすことによって「形」の不思議に魅せられた。そして建築家となって、自然を切り離すのではなく自然に溶け込む建物をつくりだした。後年スキャンダルにも見舞われるが、この絵本では幼年時代・少年時代を描くことによってポジティブな面に光を当て、彼がどのような建築をめざしたかを、味わいの深い絵とともに提示している。作中に描かれた建築物が何かを説明するページもある。

原作:アメリカ/8歳から/建築 自然 形 伝記

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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M.G.ヘネシー『変化球男子』

変化球男子

『変化球男子』(読み物)をおすすめします。

シェーンは、女性の体をもって生まれたが自分は男性だと思い、男子として転校してきた今の学校では野球のピッチャーとして活躍している。だがある日、転校前は女子だったことがばれそうになる。シェーンを敵視するニコや、無理解な父親がつくる壁も厚い。でも親友のジョシュがいつも隣にいるし、母親は理解しようと努力してくれるし、トランスジェンダーの先輩アレハンドラは励ましてくれる。自分の存在に違和感を持つ子どもが、試練をのりこえていく様子が生き生きと描かれている。

原作:アメリカ/10歳から/野球 トランスジェンダー 親

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『ふたりママの家で』表紙

ふたりママの家で

『ふたりママの家で』(絵本)をおすすめします。

「わたし」の家は、ふつうとはちょっと違う。医者のミーマと救急救命士のマーミーというふたりの母親に、それぞれ肌の色が違う子どもが3 人。だれも血はつながっていないけれど楽しい家族だ。近所の人に家族の悪口を言われて子どもが脅えると、母親たちは「あの人は(中略)わからないものが怖いの」と話す。養女として迎えられ愛情たっぷりに育ててもらった「わたし」が、ふたりの母親と弟、妹と過ごしたすばらしい日々を語る。多様な家族の形を知るきっかけとなる作品。

原作:アメリカ/8歳から/家族 母親 養子

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『かあちゃんのジャガイモばたけ』表紙

かあちゃんのジャガイモばたけ

『かあちゃんのジャガイモばたけ』(絵本)をおすすめします。

戦争するふたつの国の境に住む母親は、ふたりの息子とジャガイモ畑を守るために高い塀を築き、日常の暮らしを続ける。ところが大きくなった息子たちは塀の外を知りたくなって出ていき、やがて兄は東の国の将軍に、弟は西の国の司令官になってしまう。そしてついに両国の軍隊は母親の畑にも攻め入るのだが、賢い母親はジャガイモを使って戦争をやめさせる。戦争と平和について考える種をくれる作品。1982 年に出た『じゃがいもかあさん』の、版元と訳者をかえたカラー版。

原作:アメリカ/8歳から/母親 戦争 平和

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『子ネコのスワン』表紙

子ネコのスワン

『子ネコのスワン』(絵本)をおすすめします。

ママや兄弟をなくしてひとりぼっちになった子ネコが、雨に打たれたり、犬にほえられたり、自転車にひかれそうになったり……。木に登っておりられなくなった後に施設に保護され、やがてかわいがってくれる一家に迎えられ、スワンという名前もつけてもらう。スワンは落ち着いた環境のなかで、好奇心いっぱいに歩き回り、家族とのつき合い方を学んでいく。幸せな終わり方にホッとできるし、スワンのさまざまな姿を描く絵もあたたかい。人間に置き換えて読むこともできる。

原作:アメリカ/6歳から/ネコ 家族 孤児

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『きのうをみつけたい!』表紙

きのうをみつけたい!

『きのうをみつけたい!』(絵本)をおすすめします。

昨日がとても楽しかったと思う男の子が、なんとかして昨日に戻りたいと考える。光より速く動けば昨日に戻れるのかな? でも、それにはどうしたらいい? 男の子がたずねると、おじいちゃんは自分の体験を話し、これからだって楽しい日は来るよ、と教えてくれる。そしてふたりで「きょうの ぼうけん」に出発する。タイムマシンやワームホールまで登場させる科学的な思考と並んで、絵にはふしぎな想像の世界のあれこれが描かれている。じっくりながめるだけでも楽しい。

原作:イギリス/6歳から/時間 祖父 楽しい記憶

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『このねこ、うちのねこ!』表紙

このねこ、うちのねこ!

『このねこ、うちのねこ!』(絵本)をおすすめします。

旅に出た白ネコが、とある村にたどりつく。そして、村の7 軒の家を次々に回って食べ物をもらい、家ごとに別の名前をつけられる。ある日、この村に役人がやってきて、ネズミ退治のためにどの家でもネコを飼うように法律で決まったと伝える。村人たちは口々に、うちは○○という名のネコを飼っていると言うのだが、役人はネコを見せろと迫る。困った村人たちは同じネコだとばれないように一計を案じて……。原書は1979 年刊だが、お話も絵もユーモラスで楽しい。

原作:アメリカ/3歳から/ネコ 計略 ユーモア 名前

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『カタカタカタ』表紙

カタカタカタ〜おばあちゃんのたからもの

『カタカタカタ』(絵本)をおすすめします。

女の子のおばあちゃんは、昔ながらの足踏みミシンでいろいろなものを作ってくれる。でもある日、女の子の劇の衣装を縫っているときにミシンが故障して、修理屋でも直せない。それでも、おばあちゃんは夜遅くまでかかって、手縫いで衣装を間に合わせてくれた。「ほんとうに すごいのは カタカタカタじゃなくて、おばあちゃんだったのね。」という言葉がいいし、壊れたミシンが、テーブルにリフォームされる最後にも納得できる。ユニークな絵と文で、おばあちゃんと女の子のあたたかい交流を伝えている。

原作:台湾/3歳から/ミシン 祖母 リフォーム

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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『マララのまほうのえんぴつ』表紙

マララのまほうのえんぴつ

『マララのまほうのえんぴつ』(NF絵本)をおすすめします。

誰かが声を上げないと、と感じたとき、パキスタンの少女マララは、「まって……、だれかじゃなくて、わたし?」と、ネットでの発信を始める。その後銃撃されて瀕死の重傷を負ったマララは、回復するとさらに歩みを進める。そして、小さいころ夢見ていた魔法の鉛筆は、自分の言葉と行動のなかにあるのだと確信する。ノーベル平和賞を受けたマララの本はたくさん出ているが、この絵本は彼女が自分の言葉で文章をつづっている。流れもスムーズでわかりやすい。

原作:アメリカ/6歳から/マララ、魔法、言葉、学ぶ権利

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『すごいね!みんなの通学路』表紙

すごいね! みんなの通学路

『すごいね! みんなの通学路』(NF写真絵本)をおすすめします。

他の国の子どもたちは、どんな道を通って学校に行くのかな? スクールバスに乗る子もいるけど、ボートや犬ぞりや、ロバとか牛に乗って通っている子もいるよ。ちゃんとした道や、ちゃんとした橋がないところを通っていく子もいるね。水を入れたたらいや机をかついで行く子もいる。国際慈善団体で働いてきた著者が、日本、フィリピン、カンボジア、中国、ミャンマー、ガーナ、ウガンダ、ハイチ、コロンビアなど、世界各地の通学する子どもたちを写真で紹介する絵本。

原作:カナダ/6歳から/学校 通学路 子ども 写真絵本

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『ゴードン・パークス』表紙

ゴードン・パークス

『ゴードン・パークス』(NF絵本)をおすすめします。

『ヴォーグ』や『ライフ』で活躍した黒人カメラマンを紹介する絵本。貧困や差別によって何度も希望を打ち砕かれそうになったゴードンは、逆境の中で貯めたお金で中古カメラを買い、人生を変えていく。カメラマンとしてだんだんに仕事が増えてきたある時、何を撮ってもいいと言われたゴードンは、差別を受けている側の人たちを次々に撮る。ビル清掃員のエラ・ワトソンが、アメリカの国旗とモップを背にほうきを持って立っている写真は、ゴードンの代表作のひとつだ。セピアを基調にした絵がいい。

原作:アメリカ/6歳から/カメラ、アメリカ、人種差別

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『ぼくたち負け組クラブ』表紙

ぼくたち負け組クラブ

『ぼくたち負け組クラブ』(読み物)をおすすめします。

6年生のアレックは、大の本好き。授業も聞かずに本を読むので、しょっちゅう先生に注意されている。放課後プログラムで、ひとりで好きな本を読むために「読書クラブ」を作ることにしたアレックは、誰も来ないように、わざと「負け組クラブ」という名をつけて登録。しかし、次々にメンバーが増え、思いがけないことが起こる。アレックは、いやでもさまざまな大人や子どもとかかわりを持つことになり、世界が開けていく。いろいろな本が登場するのも楽しい。

原作:アメリカ/10歳から/本、読書、放課後

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『テディが宝石を見つけるまで』表紙

テディが宝石を見つけるまで

『テディが宝石を見つけるまで』(読み物)をおすすめします。

吹雪の中で迷子になったふたりの子どもを見つけて助けたのは、テディという犬だった。テディは、人間の言葉が話せて、だれもいない家に住んでいる。言葉は、今はいない飼い主の、詩人のシルバンさんから習ったという。雪に閉ざされた家の中で、「きみは宝石を見つけるだろう」と言い残していなくなったシルバンさんについて、テディは語る。やがて道路が復旧し、テディは「宝石」を見つける。犬が語るという視点で描かれたユニークな物語。

原作:アメリカ/10歳から/犬 吹雪 子ども 詩

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『この本をかくして』表紙

この本をかくして

『この本をかくして』(絵本)をおすすめします。

町が空爆されて避難する途中で、ピーターが死ぬ間際の父親から託されたのは1冊の本。それは破壊された図書館から借りていた本で「金や銀より大事な宝だ」という。鉄の箱に入った本は重たくて、抱えて高い山を登るのは無理だ。ピーターはやがてその本を大木の根元に埋めて隠し、さらに先へと進む。移住先で大人になったピーターは、戦争が終わると大木の根元から本を掘り出し、故郷の町に戻って、新しく建てられた図書館にその本を置く。本や図書館について考えさせられる作品。

原作:オーストラリア/6歳から/本 図書館 戦争

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『ぽちっとあかいおともだち』表紙

ぽちっとあかいおともだち

『ぽちっとあかいおともだち』(絵本)をおすすめします。

シロクマの子ミキが雪原を走っていくと、むこうにぽちっと赤いものが……。近寄ってみると、それは赤いコートを着た女の子だった。ミキは、女の子と遊んだり、女の子がなくした手袋を探してあげたりして、一緒に楽しい時間を過ごす。やがて女の子はお母さんと出会い、ミキも母クマと出会うという幸せな終わり方がいい。マックロスキーの『サリーのこけももつみ』を思わせる展開だが、本書は白と赤と青を基調とした絵が印象的で、リズミカルな訳もいい。

原作:イギリス/3歳から/シロクマ 女の子 友だち

シロクマ 女の子 友だち

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『なずずこのっぺ?』表紙

なずずこのっぺ?

『なずずこのっぺ?』(絵本)をおすすめします。

春になって地面から顔を出した小さな緑の芽が、ずんずん伸びて、花を咲かせ、しおれ、枯れてなくなる、という四季の移り変わりにあわせて、さまざまな虫たちや自然のドラマが展開していく。絵を細かく見ていくと、季節の変化にしろ虫たちのやりとりにしろ、さまざまな発見があって楽しい。「昆虫語」の言葉は、声に出してみると、不思議なリズムがあってとても愉快。ひとつひとつの言葉の意味を考えてみるのもおもしろいし、絵も美しい。

原作:イギリス/3歳から/昆虫 四季 自然 ふしぎ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『あおのじかん』表紙

あおのじかん

『あおのじかん』(絵本)をおすすめします。

太陽が沈んでから夜がやってくるまでの「青の時間」には、青い色の生き物たちが、いっそう美しくなる。この絵本は、世界各地にいるアオカケス、アオガラ、モルフォチョウ、ヤグルマギク、ブルーモンキーといった、青い色の(あるいは青く見える)小鳥、獣、カエル、チョウチョウ、花、虫、水鳥などを、シンプルな言葉とともに次々に紹介していく。読者は、さまざまな色調の青い色を体験できる。最後は、夜の闇がすべてを包み込む場面で、生き物たちはシルエットになっている。

原作:フランス/3歳から/青 生き物 闇

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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『ダイエット幻想』表紙

ダイエット幻想~やせること、愛されること

『ダイエット幻想』(NF)をおすすめします。

やせるためのダイエット法はさまざまなものが喧伝されているが、本書は、それを非難したり批判したりするものではない。文化人類学者である著者は、女性が「やせた」とか「かわいい」とか思われたくてダイエットに励むという状況の裏側に何があるのかをさぐっていく。そこからは、女性に子どもっぽさを求める日本の社会、「選ばれる性」「愛される側」にとどまる女性、頭にためこんだ知識にとらわれて生きる力を失ってしまう現代人など、さまざまな問題点が浮き彫りになってくる。例も豊富でわかりやすい。

13歳から/ダイエット 愛 かわいさ 摂食障害

 

Diet Fantasies: Lose Weight, Be Loved

The world is full of diet methods that come and go. This book does not negate or critique them; rather, the author, a cultural anthropologist, considers why Japanese women are encouraged to diet, thinking that they want to “slim down” or “be cute.” What is behind this? Japanese society’s fixation on childlike women; the tendency to see women as passive, “chosen” (or not) or “loved” (or not); the loss of power to live when eating based on facts accumulated in one’s head. Many issues come up with plentiful examples, all presented in understandable text. (Sakuma)

  • text: Isono, Maho | illus. Harada, Arisa
  • Chikuma Shobo
  • 2019
  • 224 pages
  • 18×11
  • ISBN 9784480683618
  • Age 13 +

Diet, Love, Cuteness, Eating disorders

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『オランウータンに会いたい』表紙

オランウータンに会いたい

『オランウータンに会いたい』(NF)をおすすめします。

著者は、野生のオランウータンを調査・研究している学者。本書は、オランウータン研究者になった動機、ボルネオでの調査のやり方、オランウータンの生態、チンパンジーとは違う群れない生き方、絶滅の危機と私たちにできること、親子関係に見る人間やほかのサルとの違いといったことを、わかりやすい文章で伝えている。オランウータンについていろいろと知ることができるだけでなく、私たち日本人の暮らしとオランウータンが暮らす東南アジアの森が密接につながっていることにも目を向けさせてくれる。

11歳から/オランウータン ボルネオ ジャングル 絶滅危惧

 

I Want to Meet an Orangutan

Written by a Japanese scientist who studies wild orangutan, the text is very easy to follow. Readers learn what motivated the author to study orangutan, how she conducts fieldwork in Borneo, the ecology of orangutan, the fact that they are an endangered species, and what we can do to help them. The author also explores the differences between orangutan and chimpanzees, which live in groups, and differences in the parent-child relationships of orangutan as compared to humans and other ape species. Not only do we gain a deeper knowledge of orangutan, but we also learn how our own lifestyle is intricately connected to their habitat, the forests of southeast Asia. The author urges us to not only buy products that are good for us, but ones that are good for the environment of the whole planet. (Sakuma)

  • text: Kuze, Noko | illus. Akikusa, Ai
  • Akane Shobo
  • 2020
  • 188 pages
  • 22×16
  • ISBN 9784251073105
  • Age 11 +

Orangutan, Borneo, Jungle, Endangered species

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『わたしたちのカメムシずかん』表紙

わたしたちのカメムシずかん~やっかいものが宝ものになった話

『わたしたちのカメむしずかん』(NF絵本)をおすすめします。

カメムシは触ると臭いから嫌いという人も多い。ところが、この嫌われ者の虫に夢中になり、もっともっと知りたくなり、1年間に35種類も集めて自分たちでカメムシ図鑑まで作り、やがてカメムシは宝だと言うようになった子どもたちがいる。この絵本は、岩手県の山あいにある小さな小学校での実話に基づき、どうしてそんなことになったのかを楽しい絵とわかりやすい文章で紹介している。カメムシにはさまざまな種類があることもわかるし、カメムシはどうして臭いのか、どうして集まるのかについても、説明されている。

9歳から/カメムシ 図鑑 観察

 

Our Stink Bug Book

Stink bugs (shield bugs) are often seen as smelly pests, but in the town of Kuzumaki in northern Iwate prefecture, children got excited about them and wanted to know more. They gathered specimens of some 35 types over a year’s time, and they created an encyclopedia. Now they think the stink bugs are great! This picture book uses enjoyable illustrations and easy-to-understand text to tell us how the students’ project came about. The book also offers basic information about stink bugs, why they give off odors, and why they form groups. The backmatter offers space for readers to begin their own encyclopedias. (Sakuma)

  • text: Suzuki, Kaika | illus. Hata, Koshiro
  • Fukuinkan Shoten
  • 2020
  • 44 pages
  • 26×20
  • ISBN 9784834085525
  • Age 9 +

Stink bug, Encyclopedia, Observation

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『やとのいえ』表紙

やとのいえ

『やとのいえ』(NF絵本)をおすすめします。

石の十六羅漢さんが語るという体裁で、谷戸に建てられた一軒の農家と、それを取り巻く環境の、150年にわたる変化を伝えている絵本。水田や麦畑や林に囲まれていたかやぶき屋根の家は、今やモノレールやデパートやマンションやアパートに囲まれた瓦屋根の家に変わっている。農作業、子どもの遊び、お祭り、嫁入り、葬儀、開発の様子など人間の暮らしばかりでなく、ある時期までは野鳥や野生の動物も羅漢さんをしばしば訪れていたことも、ていねいな絵が伝えている。巻末には詳しい解説があって、モデルになった多摩丘陵の変遷もわかる。

9歳から/家 開発 都市化 十六羅漢

 

Yato Home

This picture book portrays 150 years in the life of a farmhouse in a yato area, with gently sloping hills and valleys. The book is narrated by stone statues of the sixteen arhats (disciples of the historical Buddha) that stand nearby. The farmhouse with thatched roof is first surrounded by rice paddies, fields, and forests; later, it becomes enclosed by a monorail, department store, and condominiums and apartment buildings. It is given a tiled roof. Planting and threshing processes, children’s play, festivals, weddings, funerals, and development are all depicted in detail. Until a certain period, wild birds and animals also visit the stone statues. The backmatter contains detailed explanations, including about the Tama Hills in southwest Tokyo/northeast Kanagawa, which served as the model for this book. (Sakuma)

  • text/illus. Yatsuo, Keiji | spv. Senni, Kei
  • Kaiseisha
  • 2020
  • 40 pages
  • 22×31
  • ISBN 9784034379004
  • Age 9 +

Home, Development, Urbanization, Sixteen arhats

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『虫のしわざ図鑑』表紙

虫のしわざ図鑑

『虫のしわざ図鑑』(NF)をおすすめします。

植物の葉や枝や実に、虫がかじった跡がないだろうか? 虫が生きるための活動の痕跡を本書では「虫のしわざ」と呼び、見た目から、あみあみ、かじかじ、すけすけ、てんてん、まきまきなど16種類に分類し、写真と文章で紹介している。たとえば葉に「あみあみ」模様を見つけたら、本書の写真と見くらべれば、何の虫が何をした跡かがわかる仕組み。また「しわざコレクション」として、卵や糞、脱け殻やクモの網などについてコラム風にまとめている。昆虫写真家ならではの、おもしろい切り口の図鑑。

9歳から/虫 葉 卵 糞

 

Enclopedia of Insect Signs and Works

Have insects left any chew marks on leaves, branches, or fruit near you? Have you seen eggs, nests, or galls? This book divides common signs of insect activity into sixteen fun types, such as “chew-through,” “see-through,” “wrap-wrap,” “tent,” and more, and presents the activity in photos and text. The book is made so that, for example, if children find a leaf with one of the designs shown, they can compare it to the book and find out which insect was at work. Objects such as eggs, dung, husks, spiderwebs, and cocoons are also introduced in column-like format. An encylopedia-picture book with a fresh approach, created by a specialist in insect photography. (Sakuma)

  • text/photos: Shinkai, Takashi
  • Shonen Shashin Shimbunsha
  • 2020
  • 160 pages
  • 21×19
  • ISBN 9784879816924
  • Age 9 +

Insects, Leaves, Eggs, Dung

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『タコとイカはどうちがう?』表紙

タコとイカはどうちがう?

『タコとイカはどうちがう?』(NF)をおすすめします。

食卓でもおなじみのタコとイカ。どちらも頭足類だけど、どこが似ていてどこが違うのだろう? この絵本では、両者がさまざまな角度から比較されている。足の数など見た目の違いから、獲物のとらえ方、スミの吐き方、すんでいる場所や活動の場所、敵から身を守る方法、体の色の変え方、子育ての仕方、赤ちゃんたちのサバイバル方法に至るまで、いろいろ比べて写真とイラストと文章で楽しく伝えている。長い腕をポケットにしまうイカがいるとか、タコは道をおぼえていて迷子にならないなど、びっくり知識も豊富。

9歳から/タコ イカ 海

 

What’s the Difference between Octopus and Squid?

Octopus and squid appear often on Japanese tables. Both are cephalopods (like heads on legs!) with soft bodies, but how are they different? This picture book compares them from several angles. From differences that we can see with our eyes (number of legs) to differences in how they catch prey and release ink, where they live, how they protect themselves from their enemies, how they change color, how they parent, and even how their babies survive, we get the full story in photos, illustrations, and text. Did you know that some squid can put their long arms in pockets? Or that an octopus can memorize routes and not get lost? Did you know that the squid and the octopus both have multiple hearts, big and small? Many surprising facts fill this book. (Sakuma)

  • text: Ikeda, Natsumi | photos: Minemizu, Ryo | spv. Sugimoto, Chikatoshi
  • Poplar
  • 2020
  • 32 pages
  • 22×29
  • ISBN 9784591163504
  • Age 9 +

Octopus, Squid, Ocean

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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長倉洋海『さがす』表紙

さがす

『さがす』(NF写真絵本)をおすすめします。

作者は、世界各地の子どもたちの写真を撮りながら、「人はなんのために生まれてきたのか」「自分の居場所はどこなのだろう」「生きる意味とは何なのだろう」と考え続けてきた。その答えを探して弾丸の飛び交うアフガニスタンやコソボ、極寒のグリーンランド、灼熱のアラビア半島など、さまざまな環境のなかでさまざまな生き方をしている人びとに出会ってきた。その旅路の果てに、「さがしていたものは、いま、自分の手の中にある」と語る。心にひびく写真と言葉を味わいながら、読者も一緒に考えることができる写真絵本。

9歳から/世界 幸せ 生きる意味

 

Search

Photojournalist Nagakura has taken photos of children the world over while asking, “Why were humans born?” “Where do we belong?” “What is the meaning in living?” He has asked these questions in places where bullets fly, such as Afghanistan and Kosovo; in a refugee camp in El Salvador; in Greenland with its extreme cold; and on the Arabian Peninsula with its scorching heat. He has met all kinds of people living in different ways in contrasting environments. Now, Nagakura says, what he was searching for is in his own hands. This picture book invites us to experience touching photos and text and to think together with the author. (Sakuma)

  • text/photos: Nagakura, Hiromi
  • Alice-kan
  • 2020
  • 40 pages
  • 26×20
  • ISBN 9784752009375
  • Age 9 +

World, Happiness, Meaning in life

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

 

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『恐竜学』表紙

恐竜学

『恐竜学』(NF)をおすすめします。

最新の情報に基づいて、恐竜のことを子どもたちにわかりやすく解説した本。まず地球の歴史と恐竜の関係について述べ、子どもたちに人気のティラノサウルスはどんな恐竜だったのかを描写し、化石からわかる恐竜同士の対決について語り、最新の恐竜研究でわかったことを説明し、鳥類と恐竜の関係や比較、恐竜が大量絶滅した原因などをさぐっていく。講演会の時などによく出る質問に真鍋博士が答える章も設けられている。絵や写真がふんだんにあって興味をひくし、子ども目線で本づくりされているのがいい。

9歳から/恐竜 化石 絶滅 地球

 

Science of Dinosaurs

Based on the latest information, the author, a paleontologist explains dinosaurs to children in an accessible way. The book begins with the history of the planet Earth and dinosaurs, then describes what Tyrannosaurus, a dinosaur popular with children, were like, what fossils can tell us about confrontations between Tyrannosaurus and other dinosaurs such as Triceratops, and what has been discovered through the most recent paleontological research. The author explores the relationship between birds and dinosaurs, comparing them, and also the reasons for the extinction of dinosaurs. One chapter is devoted to Dr. Manabe’s answers to questions he is frequently asked at events and lectures, such as how paleontology can be useful. The book is well-designed for children with illustrations and photos on every page to draw the eye and excite curiosity. (Sakuma)

  • text: Manabe, Makoto
  • Gakken Plus
  • 2020
  • 200 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784052051852
  • Age 9 +

Dinosaurs, Fossils, Extinction, Earth

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『りんごだんだん』表紙

りんごだんだん

『りんごだんだん』(NF写真絵本)をおすすめします。

最初は、ぴかぴかでつやつやの赤いリンゴの写真に、「りんご つるつる」という言葉がついている。その同じリンゴが、少しずつ変わっていき、しわしわになり、ぱんぱんになり、しなしなになり、ぐんにゃりとなり、やがて哀れな姿に。作者が1年近くの間リンゴを観察して記録した写真絵本。それぞれの写真には、ごく短い言葉がついているだけだが、生きているものは時間とともに否応なく変化していくこと、そして、それを糧にしてまた次の命が育っていくことなどが、リアルな写真から伝わってくる。

3歳から/リンゴ 腐敗 変化 命

 

Apple, Bit by Bit

A photo of a bright red apple appears with the text “Smooth Apple.” The same apple changes little by little over time, becoming wrinkly, swollen, soft, limp, and then bug-eaten. But is that the end? The author observed and photographed the same apple for about a year to create this picture book. Each photo has only brief words with no explanations, but the idea that all living things change, ultimately becoming nourishment for future life, comes across in the realistic photos. (Sakuma)

  • text/photos: Ogawa, Tadahiro
  • Asunaro Shobo
  • 2020
  • 36 pages
  • 20×21
  • ISBN 9784751529614
  • Age 3 +

Apple, Decay, Change, Life

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『団地のコトリ』表紙

団地のコトリ

『団地のコトリ』(読み物)をおすすめします。

母親とふたりで団地に暮らす中学生の美月(みづき)と、同じ団地の下の階にかくまわれている11歳の陽菜(ひな)の、ふたつの流れで物語は進む。陽菜の母親は、子連れで職業を点々としながら全国を放浪し、娘を学校にも行かせていなかったのだが、その母親が倒れて救急車で運ばれてからは陽菜は施設に入って学校にも通っていた。その後また公園で倒れて柴田老人に保護された母親は、施設に無断で陽菜を連れ出し親子で柴田老人の家に居候し、息をひそめるように隠れている。

しかしある日、柴田老人がスーパーでくも膜下出血を起こして病院に収容され、家にこもったきりの陽菜たちは食料がつきてしまう。やがて美月の前に「助けて」とやせ細った陽菜があらわれる。血を吐いた陽菜の母親が死去し、陽菜は施設に戻ることになる。美月は陽菜を妹のように感じる一方で、陽菜の瞳の暗さに脅えもする。そうかんたんではない状況だが、美月の母は、夏休みなどの一時里親を、柴田老人も、陽菜の経済的支援を、申し出る。

居所不明児童や独居老人を取り上げ、リアルなエピソードを積み重ね、人が人を思いやる気持ちに目を向けたYA小説。重苦しい場面も多いが、美月が飼っているおしゃべりインコがユーモラスで、救いになっている。

13歳から/居所不明児童 独居老人 思いやり

 

Little Bird of the Apartment Block

Mitsuki is a junior high student living with her mother in a large apartment complex. Hina is an 11-year-old being hidden from authorities with her mother, by a single elderly man living one floor below. This novel brings together Mitsuki and Hina’s two stories.

Hina’s mother had been drifting around the country, taking her daughter with her to various jobs and not sending her to school. After Hina’s mother collapsed at a train station and got taken away by ambulance, Hina was put in an institution and began to attend school. But after her mother collapsed again in a park and was taken in by the elderly man, Mr. Shibata, her mother nabbed Hina from the institution and brought her into hiding with her.

One day, Mr. Shibata suffers a subarachnoid hemorrhage while at the supermarket, loses consciousness, and is taken to hospital. Stuck in his apartment and unable to leave, Hina and her mother run out of food. Hina, reduced to skin and bones, appears in front of Mitsuki and says, “Help.” Hina had known about Mitsuki and had even nicknamed her Kotori-chan (Little Bird), because Mitsuki keeps a parakeet.

Hina’s mother coughs up blood and dies after being taken to hospital. Hina returns to the institution. Mitsuki now thinks of Hina as a younger sister, but at the same time, she is scared by the darkness she sees in Hina’s eyes. Knowing that helping Hina will not be simple, Mitsuki’s mother nonetheless agrees to foster her during vacations, and Mr. Shibata offers financial support.

This YA novel takes up issues lately pressing in Japan, as elsewhere: missing children and the isolated elderly. With realistic episodes, it turns our gaze toward people showing compassion to other people. It contains a number of heavy scenes, but the talking parakeet lends a saving humor. (Sakuma)

  • text: Yatsuka, Sumiko | illus. Nakamura, Yukihiro
  • Poplar
  • 2020
  • 208 pages
  • 20×13
  • ISBN 9784591167243
  • Age 13 +

Missing child, Elderly living alone, Compassion

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『イーブン』表紙

イーブン

『イーブン』(読み物)をおすすめします。

中1の美桜里(みおり)は、父親のDVが原因で両親が離婚し、スクールカウンセラーの母親と暮らしているが、友人との関係がうまくいかず不登校になっている。そんな折り、キッチンカーでカレーを売っている貴夫と、その助手をしている高校生だがやはり不登校の登夢(とむ)に出会う。

美桜里もキッチンカーを手伝ううちに、登夢の母親が、子どもをネグレクトしたあげくに犯罪の手先までやらせていたことや、今は貴夫が保護者がわりに登夢と暮らしていることなどを知る。一方両親の離婚について考え続ける美桜里は、母親とも父親とも対話を重ねるうちに、人間関係の複雑さに目を向けるようになる。いつしか恋心を抱くようになった登夢からもさまざまなことを学ぶなかで、美桜里は、親子にしろ男女にしろ夫婦にしろ、互いに尊重し合える対等(イーブン)な人間関係が重要だと気づき、それはどうすれば可能なのかをさぐっていく。やがて美桜里の父親は、自分も親から虐待されていたこと、言葉で表現するのが苦手で暴力や暴言に訴えてしまったことを初めて打ち明ける。弱点もさらけだして本音で語り合う関係があれば、そこから道がひらけていくことが示唆されている。自らも虐待体験を持つ著者が、子どもたちに寄り添って一緒に考えようとする作品。

13歳から/親の離婚 キッチンカー 虐待 DV

 

Even

Twelve-year old Miori’s parents divorced because of her father’s abuse, and Miori now lives with her mother, a school counselor. Miori has stopped going to school because of difficulties getting along with her friends. One day, she meets Takao, a man who runs a curry food truck, and his assistant, Tom, a high school student who, like Miori, is not going to school. When she begins helping Takao with his food truck, she learns that Tom’s mother not only neglected him as a child but used him to commit crimes and that he now lives with Takao, who has become his guardian. Meanwhile, Miori is constantly thinking about her parents’ divorce. Through conversations with her mother and father, she starts to see the complexity of human relationships. She also gains many insights through talking with Tom, with whom she is falling in love. During this process, she comes to realize that being on an equal or even footing is the key to good relationships, whether between parent and child, man and woman, or a couple, and begins exploring how to make such relationships possible.

One day, Miori’s father attends a meeting hosted by Miori’s mother about women’s rights. There he confides that he suffered abuse from his own parents and struck out both physically and verbally because he had trouble expressing himself in words. Gradually, Miori and Tom find the next step they can take.

Miori’s story gives us hope, demonstrating that it’s possible to find a way forward by sharing our weaknesses and speaking honestly about our shortcomings. The author, who was a victim of abuse herself, helps readers to explore this serious issue. (Sakuma)

  • text: Murakami, Shiiko | illus. Mamefuku
  • Shogakukan
  • 2020
  • 208 pages
  • 19×14
  • ISBN 9784092893016
  • Age 13 +

Divorce, Food truck, Abuse, Domestic violence

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『父さんと、母さんと、ぼく』表紙

父さんと、母さんと、ぼく〜ラビントットと空の魚 第五話

『父さんと、母さんと、ぼく〜ラビントットと空の魚』(読み物)をおすすめします。

「ラビントットと空の魚」シリーズの第5話で最終巻。舞台は異世界のトンカーナで、ここでは魚が空を飛び、鳥は地中を泳いでいる。主人公は、耳長族の少年ラビントットという漁師の息子で、自分も漁師になるつもりで修業するのだが、高いところが苦手なラビントットは親方のもとを逃げ出し、明け方だけ低空飛行するイワシをとって生計を立てることにする。

シリーズの第1話から第4話までは『鰹のたんぽぽ釣り』『そなえあればうれしいな』『くれない月のなぞ』『森ぬすっとの村』となっており、ラビントットは、さまざまな事件や、思いがけない出会いを経ながら否応なく冒険の旅を続けることになる。

この第5話では、ラビントットは故郷に帰る途中、イトマキエイに大勢が襲われたと聞き、急いで現場の月見山へ向かう。ラビントットは、騒動の原因となったイトマキエイの子どもを救い出した後、みんなの話を聞くうちに、月見山では昔、耳長族同士が戦った歴史があったことや、自分も生まれつき高所が嫌いだったわけではないこと、母さんの家族と父さんの間には深い溝があったことなど、いろいろなことを知る。自分のルーツや民族の歴史を知ったラビントットは、ちゃんとした漁師になるために自分の道を歩き始める。楽しく読めるファンタジー。

11歳から/異世界 漁師 ファンタジー

 

Dad, Mom, and Me

This is the fif th and final book in the series Rabintotto, the Fisherboy of the Sky. The setting is a parallel world called Tonkana, where fish fly through the sky, birds swim in the earth, and the inhabitants of the surface are not humans, but mysterious people. The main character is a fisherman’s son named Rabintotto, who hails from a long-eared clan and is apprenticing to become a fisherman himself one day. He is afraid of heights, however, and he runs away from his master. He decides to support himself by catching sardines, which move low in the sky only at dawn.

The first four volumes of this series are The Tuna’s Dandelion Fishing, Happy are the Prepared, Riddle of the Red Moon, and A Village of Forest Thieves. Throughout the series, Rabintotto goes through mishaps and surprise encounters on an unending, unchosen journey of adventures.

In this fifth volume, as Rabintotto is journeying toward his home, he hears that many have been threatened by spinetail devil rays, and he hurries to the scene: Tsukimi (Moon Viewing) Mountain. Rabintotto saves the spinetail devil ray child that caused the disturbance, and then he hears that long ago on this mountain, there was a history of long-eared tribes fighting. He also learns that his fear of heights was not innate, and that there has been a great gulf between his mother’s family and his father. Upon visiting his parents’ relatives, he is told that he can stay, but having learned his roots and history, Rabintotto vows to become a proper fisherman after all and sets out on a new journey.

This fantasy is fun to read, with illustrations that aptly convey Rabintotto’s world. (Sakuma)

  • text: Ochi, Noriko | illus. Nishizaka, Hiromi
  • Fukuinkan Shoten
  • 2020
  • 252 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784834085600
  • Age 11 +

Parallel world, Fisherman, Fantasy

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『ギフト、ぼくの場合』表紙

ギフト、ぼくの場合

『ギフト、ぼくの場合』(読み物)をおすすめします。

けなげな子どもが頑張って道を切りひらくという点では古典的だが、精一杯のことをしていても貧困から抜け出せず、公的なセーフティネットからも抜け落ちしてしまう家庭や子どもを描いているという点では、とても現代的な物語。

主人公の優太(ゆうた)は、小学校6年生。父親の不倫が原因で離婚した母親と、小2の妹と暮らしている。専業主婦だった母親はなかなか暮らしの手立てをつかめず、アルバイトをふたつ掛け持ちして働いている。

家族を大事にする優太だが、妹が盲腸炎にかかり手遅れで死去してしまい、貧困に輪をかけて辛い気持ちが増幅する。父親に対しては、自分たちを捨てたことを恨み、もらったギターをたたき壊し、絶縁したつもりになっているが、文化祭でギターを弾くはずの生徒が骨折したため、優太が代役を務めることになる。長いことギターには触っていなかったし、弾くと父親を思い出すので葛藤もあるが、弾くのが楽しいという経験を味わったことで、優太の前に新たな世界が開けていく。

優太の場合のギフトとは、絶対音感を持っていてメロディをすぐに再現できる才能でもあるが、母親が働くねじ工場の小西さん、文化祭のコンサートを指導するジョー先生、スクールカウンセラーの湯河原さんなどとの、あたたかい関係を引き寄せることのできる、真っすぐな人間性でもあるのだろう。

11歳から/ギター 貧困 母子家庭 職人

 

Gifted, In My Case

This story of a brave, honest child who forges his own path in the face of adversity is reminiscent of such classics as Burnett’s A Little Princess. But in its portrayal of children and families who cannot escape poverty and fall through the cracks in the public safety net, it is a very contemporary tale.

The main character, Yuta, is in sixth grade. He lives with his mother and his sister, who is in second grade. His mother, who divorced because of her husband’s infidelity, has never worked before and has a hard time making ends meet as she juggles her work at a screw factory with a part-time job at a convenience store.

Yuta cares deeply about his family, but the death of his younger sister due to delayed treatment for appendicitis and the family’s deepening poverty take an emotional toll. In his rage at his father for deserting them, Yuta destroys the guitar his father gave him in a symbolic act that severs their relationship. A student who is supposed to play the guitar at the school festival, however, breaks an arm, and Yuta is asked to fill in. Although he hasn’t touched a guitar for some time and doing so brings back painful memories of his father, he begins to see the world differently once he tastes again the joy of playing music.

Yuta’s gift is his musical ability. His perfect pitch allows him to reproduce a melody when he has only heard it once. But he is also gifted in his upright character and humanity, which attract the support and friendship of Mr. and Mrs. Konishi, who own the screw factory, Mr. Sawaguchi (commonly known as Joe), who directs music for the school festival concert, and Mrs. Yugawara, the school counselor. (Sakuma)

  • text: Imai, Kyoko
  • Shogakukan
  • 2020
  • 232 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784092893030
  • Age 11 +

Guitar, Poverty, Single-mother family, Craftsman

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

 

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『科学でナゾとき!わらう人体模型事件』表紙

科学でナゾとき!〜 わらう人体模型事件

『科学でナゾとき!〜 わらう人体模型事件』(読み物)をおすすめします。

科学の知識を盛り込んだ、学校が舞台の物語。6年生の彰吾は、自信過剰な児童会長。中学教師の父親が、小学校でも科学実験の指導をするために彰吾の学校にもやってくることに。父親を評価していない彰吾は、学校では家族関係を隠すようにと父親に釘を刺す。

ところが彰吾の学校では、次々に不思議な事件が起こる。最初は、理科実験室で人体模型がギャハハと笑ったという事件。生徒たちが脅えているのを知ると、彰吾の父親のキリン先生(背が高くポケットにキリンのぬいぐるみを入れている)は、みんなを公園に連れて行き、準備しておいたホースを使って、実験室の水道管が音を伝えたことを実証してみせる。

2つ目は、離島から来た転校生が海の夕陽を緑色に描いて、ヘンだと言われた事件。3つ目は、なくなったリップクリームが花壇に泥だらけで落ちていた事件。最後は、図書館においた人魚姫の人形が赤い涙を流す事件。どれもキリン先生が謎を解き明かし、光の波長や、液状化現象や、化学薬品のアルカリ性・酸性の問題など、事件の裏にある科学的事実を説明してくれる。彰吾も父親を見直す。科学知識が物語のなかに溶け込んでいて、おもしろく読める。

11歳から/学校 謎 科学 父と息子

 

Solving Riddles Through Science!

Set in a school, the story relates four episodes rich in scientific knowledge. Shogo, a cocky sixth-grader, is head of the children’s association. His father is a science teacher who teaches at many different schools, one of which is Shogo’s. But Shogo is embarrassed by his father’s clumsiness and begs him not to let anyone know they are related.

However, mysterious things are happening at Shogo’s school. First, the anatomical model in the science room bursts out laughing. When Shogo’s tall, lanky father, who carries a giraffe toy in his pocket and has been dubbed Professor Giraffe, hears that the children are frightened, he takes them to a park and uses a hose to show them that sound travel can long distances. It becomes clear that the sound of laughter must have traveled along an unused water pipe from another location.

The second mystery surrounds a transfer student from a distant island who is upset that his classmates laughed because he painted the sunset green. The third mystery involves a tube of lip gloss that disappears from the classroom and shows up in a flower bed. In the final episode, a mermaid doll in the school library weeps red tears. Professor Giraffe conducts experiments to solve each case, explaining the scientific facts behind them, such as light wavelength, liquefaction, and the alkalinity and acidity of chemicals. During this process, Shogo’s opinion of his father changes. The author expertly weaves scientific information into the story to make this a fascinating and informative read. (Sakuma)

  • text: Asada, Rin | illus. Sato, Odori | spv. Takayanagi, Yuichi
  • Kaiseisha
  • 2020
  • 208 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784036491407
  • Age 11 +

School, Mystery, Science, Father and son

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『あるひあるとき』表紙

あるひあるとき

『あるひあるとき』(絵本)をおすすめします。

旧満州(中国東北部)に暮らしていたひとりの女の子(わたし)が主人公。女の子は、父親が日本から買って帰ったお土産のこけしに、ハッコちゃんという名前をつけてかわいがっていた。女の子は友だちの家にも防空壕にも、どこにでもハッコちゃんを連れていった。しかし敗戦で日本への引き揚げが決まり、一家は家財道具や持ちものを処分しなくてはならなくなる。ハッコちゃんも燃やされる。子ども時代を大連で過ごした作者が平和への願いを込め、おとなたちの戦争の陰で幼い子が体験した深い悲しみを伝えている。

9歳から/こけし 戦争 引き揚げ

 

One Day, One Time

During the Second World War, Japan occupied northeastern China, which it named Manchuria. Many Japanese moved there as settlers. The main character in this story is a little girl who lives in Manchuria. Her favorite toy is a wooden kokeshi doll that her father brought back from Japan as a gift. She names the doll Haruko and takes it with her everywhere, even to her friend’s house and the air raid shelter. When Japan loses the war, however, the girl and her family have to sell or burn everything they own, and Haruko is thrown on the fire. The author, who lived as a child in Dalian in northeastern China during the war, imbues this book with her yearning for peace and reveals the deep sorrow that children experience
in the shadow of wars waged by grownups. (Sakuma)

  • text: Aman, Kimiko | illus. Sasameya, Yuki
  • Nora Shoten
  • 2020
  • 36 pages
  • 27×22
  • ISBN 9784905015543
  • Age 9 +

Kokeshi doll, War, Evacuation

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『ひょうたんとかえる』表紙

ひょうたんとかえる

『ひょうたんとかえる』(絵本)をおすすめします。

ひょうたんが、つるから「ぼっくりこ」と池に落ちると、蓮の葉の上に寝そべってのんびりしていたカエルが見つけて、「げっこりこ」ととびつく。重いのでひょうたんが沈むと、今度はカエルが背中にのせて運ぶ。単純なストーリーだが、「ぼっくりこ」と「げっこりこ」の繰り返しがおもしろく、最後は「それゆけ げっこりこげっこり ぼっくり ぼっくりこ」で終わる。もともとは作者が1932年に発表し、音楽つきでレコードまで出ていた詩だが、画家がゆかいな絵をつけたことによって、ユーモラスな絵本ができあがった。

3歳から/ひょうたん 池 カエル リズム

 

The Gourd and the Frog

When a gourd on a vine extending over a pond drops into the water—bokkuriko!—a frog that had been relaxing, stretched out on a lotus leaf, jumps onto it—gekkoriko! When the gourd sinks due to the frog’s weight, the frog carries the gourd on its back instead. It’s a simple story, but the onomatopoeia repeats, adding delight until the finale: “Go, go, gekkoriko, gekkori! Bokkuri, bokkuriko!” The basis is a 1932 poem by Saijo Yaso, a poet representative of the Taisho and Showa eras (1926-89), who released the poem with music on a record. The illustrator brings it
back to life as a humorous picture book with fun, enjoyable illustrations. (Sakuma)

  • text: Saijo, Yaso | illus. Tonouchi, Maho
  • Suzuki Shuppan
  • 2020
  • 24 pages
  • 22×21
  • ISBN 9784790254102
  • Age 3 +

Gourd, Pond, Frog, Rhythm

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『チンチラカと大男』表紙

チンチラカと大男〜ジョージアのむかしばなし

『チンチラカと大男』(絵本)をおすすめします。

知恵が回るので有名なチンチラカは、気まぐれな王様に、魔の山にすむ大男から黄金のつぼや、人間の言葉を話す黄金のパンドゥリ(楽器)を取ってくるように次々命じられる。チンチラカがそれに成功すると、今度は大男をつかまえてこいとの命令が。チンチラカは大男をなんとかだまして箱に入れて連れてくるのだが、王様が箱を開けてしまい、大男は王様や家来を飲み込んでしまう。怖いところもあるがハッピーエンドなのでご安心を。コーカサス地方にある国ジョージアの昔話に、ダイナミックで魅力的な絵がついている。

3歳から/知恵 大男 王様 ジョージア

 

Chinchiraka and the Giant

A folktale from Georgia in the Caucasus unfolds
in this dynamically illustrated picture book.
Chinchiraka, the youngest of three brothers known for his wisdom, is commanded by a moody king to snatch a golden vase from a giant who lives inside a magic mountain. When Chinchiraka succeeds, he is told to go take a golden panduri instrument that speaks human language. After that, he must go and catch the giant himself. Chinchiraka somehow tricks the giant into a box and catches him, but when the giant comes out of the box, he gobbles up the king and his servants! Scary parts are balanced by a happy ending, in which Chinchiraka becomes the king. (Sakuma)

  • text: Katayama, Fue | illus. Suzuki Koji
  • BL Shuppan
  • 2019
  • 32 pages
  • 29×22
  • ISBN 9784776409274
  • Age 3 +

Wisdom, Giant, King, Georgia

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『たいこ』表紙

たいこ

『たいこ』(絵本)をおすすめします。

太鼓がひとつ。「トン トン トトトン」とひとりがたたいていると、「なかまに いれて」と誰かがやってくる。ふたりで「トントン ポコポコ」とたたいていると、また誰かがやってくる。仲間が4人にふえて盛り上がっていると、「うるさいぞー ガオー」とワニがやってきて、みんな逃げてしまう。でも、ワニもちょっとたたいてみたところ、あらおもしろい。音を聞いて、さっきの仲間が徐々に戻ってくる。ひとりひとりの音が重なって、最後はみんなで「トン ポコ ペタ ボン ガオー ゴン」。太鼓を打つ楽しさが伝わってくる。

3歳から/たいこ リズム 仲間 楽しさ

 

Drum

When someone finds a drum and plays ton, ton, to-to-ton, someone else asks, “May I join you?” As the two play ton ton, poko poko together, a third and fourth ask to join. As they play with delight, an alligator grouches, “You’re too loud! Gaah!” and they all flee. But then the alligator sidles up to the drum, taps it, and finds out playing is fun! When the four hear the alligator playing, they gradually come back. Everyone’s rhythms join together: ton poko peta bon gaah gon! The rhythms and fun of taiko drumming spill forth. (Sakuma)

  • text/illus. Hikatsu, Tomomi
  • Fukuinkan Shoten
  • 2019
  • 24 pages
  • 22×21
  • ISBN 9784834085051
  • Age 3 +

Drum, Rhythm, Companionship, Fun

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2021」より)

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『虫ぎらいはなおるかな?』表紙

虫ぎらいは なおるかな?〜昆虫の達人に教えを乞う

『虫ぎらいは なおるかな?』(NF)をおすすめします。

チョウやセミにさえさわれないほど虫嫌いの著者が、それをなんとか克服しようと7 人の専門家に会いに行った記録。会ったのは、虫と子どもの関係を調査している教育学者、昆虫館の館長、生きもの観察や野遊びの達人、虫オブジェを制作しているアーティスト、害虫研究家、「こわい」の心理を研究する認知科学者、多摩動物公園の昆虫飼育員。著者の奮闘ぶりはほほえましいが、虫好きの人が熱く語れば語るほど引いてしまう場面などがユーモラスで、おもしろく読める。イラストも楽しい。

13歳から/昆虫 好き嫌い インタビュー

 

Learning to Love Bugs from the Experts

The author hates bugs, even butterflies and cicadas. In this book, she records her encounters with seven bug experts she visits in an attempt to overcome her aversion. She meets an expert in the field of education who is studying the relationship between children and bugs, the director of a bug museum, an expert on wildlife observation and outdoor play, an artist who makes clay bug objects, a scientist researching harmful insects, a cognitive scientist studying the psychology of fear, and a bug keeper at the Tama Zoo. With a humorous touch, the author describes how the experts’ enthusiasm sometimes has the opposite effect, turning her off bugs even further. Her persistent efforts to like bugs are endearing, and the illustrations make this a fun read. (Sakuma)

  • Text/Illus. Kanai, Maki
  • Rironsha
  • 2019
  • 160 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784652203095
  • Age 13 +

Bugs, Likes and dislikes

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『ギヴ・ミー・ア・チャンス』表紙

ギヴ・ミー・ア・チャンス〜犬と少年の 再出発

『ギヴ・ミー・ア・チャンス』(NF)をおすすめします。

2014 年、千葉県の八街少年院で、少年たちに保護犬を訓練してもらうプログラムが始まった。第1 期に参加する少年は3 名。捨てられたり手放されたりして保護された犬が3 匹。犬と少年は1 対1のペアになって3 か月の間授業を受け、一般家庭に犬を引き渡すための訓練を行う。本書は、その訓練の日々に密着し、犬と少年の間に信頼感が芽生え、心が通い合い、両者ともに変わっていく様子をいきいきと伝えている。犬の表情をうまくとらえた写真と、抑制のきいた文章が心にひびく。

13歳から/少年院 犬 訓練

 

Give Me a Chance

ーA Fresh Start for Dogs and Boys

In 2014, a program was started at Yachimata Reformatory in Chiba prefecture to have young inmates train rescued dogs. Three boys joined the program in the first phase, and were paired up with three abandoned dogs from a shelter. The program lasted for three months during which time the dogs were trained in order to be rehomed with ordinary families. This book closely documents the day to day process, vividly demonstrating how a sense of trust developed between the neglected or abused dogs and the delinquent juveniles as they began to understand each other, and together they began to change. Readers will be deeply moved by the photos capturing the dogs’ facial expressions and the neutral written account. (Sakuma)

  • Otsuka, Atsuko
  • Kodansha
  • 2018
  • 208 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784065130001
  • Age 13 +

Juvenile reformatory, Dogs, Training

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『ヒロシマ消えた家族』表紙

ヒロシマ 消えたかぞく

『ヒロシマ 消えたかぞく』(NF写真絵本)をおすすめします。

広島に暮らしていたある一家の記録を、一家の父親が撮りためていた写真をもとに構成し、日本語と英語の文章をつけている。理髪師の鈴木六郎は、妻の笑顔、子どもたちが元気で遊ぶようす、飼っていたネコや犬の何気ないしぐさなど、日常生活のひとこまひとこまを愛情たっぷりに撮影していた。しかし1945 年8月6日、原爆が広島を襲うと、一家全員の命がぷつっと絶たれる。作者は広島平和記念資料館でこれらの写真に出会って、一家をよみがえらせる一冊の作品にしあげた。いのちや平和について考えるきっかけになる写真絵本。

9歳から/広島 原爆 写真 家族

 

A Family in Hiroshima

ーTheir Vanished Dreams

Rokuro Suzuki, a barber who lived in Hiroshima, recorded the life of his family in photos near the end of World War II. Each photo captured their daily life with a loving touch: the smiling face of Suzuki’s wife, the laughter on his children’s faces as they played, and the innocent antics of their pet cats and dogs. On August 6, 1945, the entire family was wiped out by the atom bomb that fell on Hiroshima. When author Kazu Sashida first saw their photos in the Hiroshima Peace Museum, she was intrigued. Based on the photos and interviews with Suzuki’s relatives who saved the photos, Sashida brings the Suzuki family back to life. Suzuki’s photos and Sashida’s text, which is written in both Japanese and English, inspires readers to ponder such themes as life and peace. (Sakuma)

  • Text: Sashida, Kazu | Photos: Suzuki, Rokuro
  • Poplar
  • 2019
  • 40 pages
  • 23×23
  • ISBN 9784591163139
  • Age 9 +

Hiroshima, Atomic bomb

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『車いすの図鑑』表紙

車いすの図鑑

『車いすの図鑑』(NF)をおすすめします。

第1章「車いすを知ろう」では、車いすの構造や乗り方、どんな人たちが使うのかや、介助の仕方などを説明し、第2章「車いすとバリアフリー」では、町の中にあるさまざまなバリア、道路やトイレや乗りもののバリアフリーのくふう、福祉車両やUD タクシー、ユニバーサルデザイン、車いすスポーツ、補助犬などを紹介し、第3章「車いす図鑑」では、日常使われる車いすから、パラスポーツ用車いすまでさまざまな車いすを紹介している。バリアフリー社会を考えるきっかけになる。索引あり。

10歳から/車いす バリアフリー パラスポーツ

 

An Illustrated Reference of Wheelchairs

ーUnderstanding Accessibility

This book aims to make us think about universal accessibility through wheelchairs. Chapter 1, Guide to Wheelchairs, tells us about what they are, what kind of people use them, their structure and how to use them, and how to assist those using them. Chapter 2, Wheelchairs and Accessibility, is about the types of barriers that exist in cities, ways to make roads, toilets, and public transport accessible, assistive vehicles and UD (universal design) taxis, universal design, wheelchair sports, assistance dogs, and so forth. Chapter 3, Illustrated Wheelchair Reference, introduces various types of wheelchairs from those for daily use to those used for disabled sports. This book is an extremely useful way to introduce issues of accessibility. Index included. (Sakuma)

  • Ed. Takahashi, Gihei
  • Kinnohoshisha
  • 2018
  • 80 pages
  • 29×22
  • ISBN 9784323056586
  • Age 10 +

Wheelchairs, Accessibility

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『つらら』表紙

つらら〜みずと さむさと ちきゅうの ちから

『つらら』(NF写真絵本)をおすすめします。

つららの不思議に迫る写真絵本。寒い冬に見られるつららは、どんな場所にどうやってできるのか、どうして長くなるのか、どんなふうに姿を変えていくのかを、美しい写真を使ってわかりやすく説明している。春になっても探せばつららが見られることや、一年じゅうつららが見られる洞窟の存在や、地面から生えたタケノコのような氷があることも伝えている。巻末には、冷蔵庫でつららを作る実験を紹介し、タルヒ、スガなど日本各地からつららを指す言葉を集めて地図とともに掲載している。

6歳から/つらら 冬 方言

 

Icicles

ーWater, Cold, and the Power of the Earth

This picture book introduces the icicles we often see in a cold winter through stunning photographs. How are they formed? Why do they grow so long? Their changes in appearance are explained in simple terms using beautiful photographs. Readers are informed that there are places where we can still see icicles in spring, caves where they can be seen all year round, and sometimes ice sprouts up from the ground like bamboo shoots. There are several appendices, including instructions on how to conduct an experiment to grow icicles in the refrigerator using familiar items such as cup noodle containers, and a map showing the various names for icicles in different dialects around Japan. (Sakuma)

  • Text: Ijichi, Eishin | Photos: Hosojima, Masayo
  • Poplar
  • 2019
  • 36 pages
  • 21×26
  • ISBN 9784591161074
  • Age 6 +

Icicles, Winter

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

 

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吉野万理子『部長会議はじまります』

部長会議はじまります

『部長会議はじまります』(読み物)をおすすめします。

中高一貫教育の私立学校の中等部を舞台にした学園物語。第1 部は文化部の部長会議、第2 部は運動部の部長会議で、それぞれ各部の部長が一人称で語っていく設定になっている。

第1 部は、美術部が文化祭のために作ったジオラマがいたずらされた事件をめぐって展開する。登場するのは怒っている美術部の部長、怪しげな部活だと思われて悩んでいるオカルト研究部部長、いろいろなことに自信のない園芸部部長、ミス・パーフェクトといわれる華道部部長、恋をしている理科部部長。犯人はだれなのか? いじめがからんでいるのか? それとも恨みか? 会議は紛糾する。

第2 部は、解体されることになった第2 体育室を使っていた卓球部と和太鼓部にも、運動場やグラウンドの使用を認めるための会議。初めのうちはほとんどの部長が、自分の部が損にならないように立ち回ろうとするが、だんだんに解決策を見いだしていく。卓球部、バスケ部、バレー部、和太鼓部、サッカー部、野球部の各部長に、パラスポーツをやりたいという人工関節の生徒もからんで、意外な展開になっていく。

それぞれ個性的な各部長の語りが複合的に絡み合って、読者には出来事が立体的に見えてくる。また各人が、他者にはうかがい知れない悩みを抱えていることもわかってくる。楽しく読めて、読んだ後は、まわりの人にちょっぴりやさしくなれそうだ。

13歳から/部活動 学校生活 友情

 

The Captains’ Meeting Will Come to Order

This novel unfolds in a private middle school in Japan. Part 1 is a meeting of the student captains of culturerelated clubs, and Part 2 is a meeting of the student captains of sports clubs. The novel unfolds with each captain speaking in the first person. (School club activities in Japan happen after school, each led by a captain. If a problem occurs, club captains meet to discuss it.)

In Part 1, the art club’s diorama for a school festival has been vandalized. Participating in the culture club meeting are an angry art club captain, a discouraged occult research club captain, a less-than-confident gardening club captain, a Miss Perfect-like flower-arrangement club captain, and a deep-inlove cooking club captain. Who committed the crime? Did the vandalism stem from bullying? From a grudge? The captains’ opinions clash at first, but they eventually find an answer.

In Part 2, one of the gyms is being razed, so the table tennis and Japanese drumming clubs that used it need new spaces to practice. At first, the various sports captains try to defend their own clubs’ practice spots, but then they work toward a fix. The captains of table tennis, basketball, ballet, drumming, soccer, baseball and even ParaSports—a student with a prosthesis—find themselves in unexpected territory.

In this book, as various captains’ distinctive voices weave together, the reader starts to see the full picture. The reader also gathers that each captain faces struggles the others could never know. While entertaining to read, this book promises to make readers a bit kinder to others, too. (Sakuma)

  • Yoshino, Mariko
  • Asahi Gakusei Shimbun
  • 2019
  • 264 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784909064738
  • Age 13 +

School clubs, School life, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『キャプテンマークと銭湯と』表紙

キャプテンマークと銭湯と

『キャプテンマークと銭湯と』(読み物)をおすすめします。

今の子どもたちが夢中になるサッカーと、今は消えつつある銭湯をつなぐ物語。

サッカーのクラブチームに所属している中学生の周斗(しゅうと)は、ある日、キャプテンを新入りと交替させられ、友だちに心ない言葉を投げつけてチームメートから批判され、いら立ちがつのる。そんなとき、幼い頃祖父と通った銭湯の楽々湯を見つけ、入ってみた周斗は、かちかちになっていた心も体もほどけていくのを感じる。それからは何度も楽々湯に通って、そこが癒やしの場所になっていくと同時に、そこで出会う人びととの交流によって、周斗は新たな視野でものを見ることができるようにもなっていく。

楽々湯の常連には、地元のお年寄りも多いが、若いファンもいる。児童養護施設で育った左官屋の比呂(ひろ)は、いい親方に恵まれ、自分なりのベストを尽くそうと仕事をがんばっている。女子高校生で銭湯オタクのコナは、インスタグラムで銭湯の良さをアピールしている。

しかし、2 代にわたって77 年続いてきた楽々湯も、とうとう閉店することになった。店主の老夫婦には、薪での風呂たきが無理になったのだ。閉店の日、試合に勝利してわだかまりも解けたチームのメンバーは、常連たちと一緒に楽々湯につめかけるのだが、途中で停電に…。最後まで営業を支えようと奮闘する周斗たちに共感して読める。

13歳から/サッカー 銭湯 キャプテン 友情

 

Captain Mark and the Bathhouse

This interesting story links soccer, which is all the rage among children these days, and the public bathhouses that are now slowly disappearing.

Shuto, a junior high school student who belongs to the soccer club team, is shocked when he is replaced as captain by newcomer Daichi, and gets irritated when he is criticized by his team mates for saying cruel things to him. When he comes across the public bathhouse where he used to go with his late grandfather as a little boy, he decides to go in and feels his irritation melt away as he soaks in the hot water. After this he goes to the bathhouse regularly, and it not only becomes a place of healing for him, but he also begins to see things from a new perspective as he chats with the people he meets there. He comes to understand that even Daichi, who he used to resent for being able to do everything well, has a big problem of his own.

Most of the regular customers at the bathhouse are local elderly people, but there are also young people too. A plasterer called Hiro, who grew up in a children’s home, has been blessed with a good boss and does his best at work. Kona is a high school student obsessed with bathhouses, and she posts on Instagram about their attractions.

However, after 77 continuous years of business through two generations of ownership, the bathhouse is finally to close down. The old couple who run the place can no longer cope with burning the wood to heat the water. On closing day the entire soccer team, having won a game and with all the ill-feeling between them dispelled, all crowd into the bathhouse along with the regulars. But then there is a power cut . . . Readers are sure to sympathize with the efforts of Shuto and the others to support the business right until the end. (Sakuma)

  • Sato, Itsuko | Illus. Sato, Makiko
  • Kadokawa
  • 2019
  • 248 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784041077054
  • Age 13 +

Soccer, Public Baths, Captain, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『ゆかいな床井くん』表紙

ゆかいな床井くん

『ゆかいな床井くん』(読み物)をおすすめします。

6 年生になった暦(こよみ)の隣には、人気者の床井(とこい)君が座っている。クラスでいちばん背が低い床井君はウンコの話もするし下品だけど、クラスでいちばん背が高い暦のことを「いいなあ」と純粋にうらやましがる。そのおかげで、「巨人族」とか「デカ女」という悪口も影をひそめている。暦は、クラスの同調圧力に一応気を使って思ったことをはっきり言わないこともあるが、床井君は、自分の意見をはっきり言うし、どの人にもいいところがあることをよく見ている。そんな床井君に暦はしだいに好意を持つようになる。

全部で14 章あるが、1章ごとにひとつのエピソードが紹介されていく。性への関心が強まり教育実習生に「巨乳じゃん」と言ってしまうトーヤ、学校のトイレで生理になり困ってしまう小森さん、塾では普通に話すのに学校では言葉を発することができない鈴木さん、父親が失業し友だちに八つ当たりしてしまう勝田さんなど、クラスにはさまざまな生徒がいる。なにかが起こるたびに暦は考え、床井君の反応に感心し、違う見方ができるようになって次のステップを踏み出していく。

11歳から/学校 視点 ユーモア

 

Happy Tokoi

This novel vividly portrays a year in the class of two Japanese sixth-grade students: Koyomi, a girl, and Tokoi, a boy.

One episode unfolds per chapter. In one episode, a boy named Toya blurts out that a student teacher has large breasts. In another, a girl named Omori realizes in the school bathroom that she’s gotten her period and doesn’t know what to do. Another girl, Suzuki, can speak freely at cram school but struggles to speak at school. Katsuta’s father has lost his job and unfortunately takes his stress out on her, so she takes her stress out on her classmates. Many different stories fill the class.

For her part, Koyomi is the tallest student and has been called “Giant” and “Amazon Woman,” but the shortest student in the class, Tokoi, once expressed jealousy of her, saying, “I wish I could be tall.” Now, nobody makes fun of height. Koyomi often feels pressured by classmates but dislikes playing along with them; in contrast, Tokoi voices his thoughts freely and finds the good in everyone. Koyomi gradually comes to admire Tokoi; when something happens, she considers it, observes Tokoi’s reaction, and takes a step toward trying someone else’s point of view.

Humorously narrated and filled with the appeal of Tokoi, this book keeps readers turning pages and offers them the appeal of new viewpoints. Winner of the Noma Children’s Literature Prize. (Sakuma)

  • Tomori, Shiruko
  • Kodansha
  • 2018
  • 192 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784065139059
  • Age 11 +

School, Point of view, Humor

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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佐藤まどか『つくられた心』表紙

つくられた心

『つくられた心』(読み物)をおすすめします。

舞台は近未来。新設された「理想教育モデル校」では、スーパーセキュリティシステムが完備され、各クラスには監視役のガードロイドをまぎれこませて、カンニングやいじめや校内暴力を防止するという。これはカメラやマイクを内蔵した最新型のアンドロイドで、人間そっくりに作られ、人間と同レベルの知性を持ち、外見だけでなく性格の個性も備えてあるとのこと。

期待をもって転校してきた6 年生のミカは、席の近い鈴奈、お調子者の仁、フィリピン人の母親をもつジェイソンと仲よくなる。やがてクラスで、本来は禁止されている「ガードロイド探し」が始まると、ミカも疑心暗鬼になる。4人は、怪しいと思われる生徒の家に行ってみたり、マラソンをしても呼吸の乱れない生徒に探りを入れたりする。しかしそれより、もしかしてこの4人の中にガードロイドがいるのではないか? 友だちの笑顔はウソなのか? だれかにリモートコントロールされているのか? 本当は心なんてないのに、感情があるふりをしているのか? すべてが演技なのか? 疑念はふくらむ。

最後にガードロイド自身も自分の正体を知らされていないことが判明し、ガードロイドがだれかはわからないまま物語は終わる。だからこそよけいに、全員を監視する超管理体制ができあがった社会の不気味さが、読者にひしひしと伝わってくる。

11歳から/近未来 アンドロイド 疑念 友だち

 

Artificial Soul

The story is set in the near future. A newly established model school not only offers small classes and hightech facilities but also has a super security system to prevent cheating, bullying and violence. Each class has a guard-droid that looks and behaves just like one of the students, but is actually an android programmed with the same intelligence as a human and equipped with a built-in mike and camera through which the school can watch over the students. The androids each have their own personality and are indistinguishable from humans.

Mika comes to this new school with great expectations and makes friends with three students sitting near her. The students are forbidden to look for the guard-droid, but Mika’s class secretly tries to find out. Mika starts suspecting everyone. She and her group of friends visit the home of a girl who appears suspicious and closely observe a boy who never gets out of breath even when he runs a marathon.

But perhaps the guard-droid is really one of Mika’s friends. Are their smiles fake? Is one of them being operated by remote control and just pretending to have feelings? Is it all an act?

In the end, the students find out that even the guard-droid doesn’t know who the droid is, and its identity is never revealed. The author vividly conveys the frightening nature of a society in which everyone is watched and where it is impossible to tell the real from the fake. Artificial Soul warns us that the human mind could one day be subdued and controlled. (Sakuma)

  • Sato, Madoka | Illus. Urata, Kenji
  • Poplar
  • 2019
  • 176 pages
  • 20×13
  • ISBN 9784591162057
  • Age 11 +

Near Future, Android, Doubt

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)


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『ねこのこふじさん』表紙

ねこのこふじさん〜とねりこ通り三丁目

『ねこのこふじさん』(読み物)をおすすめします。

ネコのこふじは、働いていた広告会社で同僚から仲間はずれにされるようになり、退職して引きこもりになっていた。そんなこふじが、世界旅行に出かける祖母から、とねりこ通りの家の留守番をたのまれる。そして家賃がわりに「月に一度、その月らしい行事をする」という約束をさせられる。

仕方なく4月はお花見、5月は衣替え、6月は梅仕事、7月は七夕、8月は花火見物、9月はお月見、10 月は栗拾い、11 月は七五三、12 月はリース作り、1月はお正月料理、2月は豆まき、3月はひな祭り、と行事を行っていくうちに、こふじは、この町のさまざまな動物と出会い、交流するようになる。とねりこ通りに暮らす多様な動物たちの中には、帰国子女、独居老人、さびしさから暴力をふるう子などもいるが、お互いの欠点を補い合いながら暮らしている様子に、こふじも元気をもらう。そして1年たった頃には、いつしかこふじも、伝統的な織物を継承したいと意欲まんまんになっていた。

それぞれの月の行事については、ご近所に住むネズミのネズモリによる解説がつき、ネズモリ自身の物語も展開している。最後は、世界旅行から帰ってきた祖母を含め、物語の登場キャラクターが全員出てくるネズモリの結婚式の場面だ。絵もたくさんついた1章1話の楽しい物語。

11歳から/ネコ 行事 引きこもり 多様性

 

Kofuji the Cat

ーNumber 3 Ash Street

Kofuji the cat once worked very hard at an advertising company. When her coworkers began to treat her coldly, however, she quit her job. Now she stays at home, never leaving the house. One day, however, her grandmother asks her to take care of her house on Ash Street while she travels around the world. Instead of rent, she asks Kofuji to plan a monthly event, each one befitting the month in which it is held.

Although reluctant at first, Kofuji plans a picnic under the cherry blossoms in April, a seasonal change of clothing in May, plum juice-making in June, a star festival in July, fireworks in August, moon viewing in September, chestnut gathering in October, a festival for children aged three, five and seven in November, wreath making in December, making traditional New Year’s dishes in January, bean throwing in February, and a dolls’ festival in March. The neighbors on Toneriko Street are a diverse group of characters. There is a tapir who moved back from overseas and thinks she has to conform to fit in, a young fox who throws tantrums because she’s upset that her mother has a new fox cub, and an elderly monkey living on his own. Through her interactions with these different neighbors, Kofuji gradually perks up and by the end of the year, she has decided to start weaving traditional textiles.

Each monthly event is described by Nezumori, the postmouse who lives in the cupboard of her house. His own story also unfolds within this book, and the last scene is his wedding, which is attended by all the characters who have appeared, including Kofuji’s grandmother who has returned from her travels. With one story per chapter and plenty of illustrations, the book is easy and entertaining even for children unused to reading. (Sakuma)

  • Yamamoto, Kazuko | Illus. Ishikawa, Eriko
  • Alice-kan
  • 2019
  • 168 pages
  • 21×16
  • ISBN 9784752008934
  • Age 11 +

Cat, Event, Stay-at-home, Diversity

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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村中李衣『あららのはたけ』

あららのはたけ

『あららのはたけ』をおすすめします。

山口に引っ越した10 歳のえりと、横浜にとどまっている親友のエミが交換する手紙を通して物語が進行する。

えりは祖父に小さな畑をもらい、イチゴやハーブを育てることにする。そして、踏まれてもたくましく生きる雑草のことや、台風の前だといい加減にしか巣作りをしないクモのことや、桃の木についた毛虫が飛ばした毛に刺されて顔が腫れてしまったことなど、自然との触れ合いで感じたこと、考えたことをエミに書き送る。都会で育った子どもが田舎に行って新鮮な驚きをおぼえたり、感嘆したりしている様子が伝わってくる。

エミは、えりの手紙に触発されて調べたことや、今は自分の部屋に引きこもっている同級生のけんちゃんの消息を、えりに伝える。えりもエミも、幼なじみのけんちゃんのことを気にかけているからだ。

失敗の体験から学ぶことを大事にしているえりの祖父、まわりの空気を読まないで堂々としている転校生のまるも、けんちゃんをいじめたけれど内心は謝りたいと思っているカズキなど、脇役もしっかり描写されている。今の時代に、電話や電子メールではなく、手紙のやりとりによってふたりがつながりを深めていく様子は興味深いし、えりから届いた野菜の箱の中からカエルがぴょんと飛び出したことがきっかけで、けんちゃんに変化が訪れるという終わり方はすがすがしい。坪田譲治文学賞受賞作。

9歳から/畑 手紙 いじめ 自然

 

Garden of Wonder

This story unfolds through the letters exchanged between ten-year-old Eri, who has moved to Yamaguchi, and her friend Emi left behind in Yokohama. Through these letters we learn how Eri’s grandfather has given her a small patch of land where she grows strawberries and herbs. She writes all her thoughts to Emi, like how vigorously all the weeds grow even if you step on them; about a spider that only spins a temporary web when it senses a typhoon is about to hit; how her face swelled up when stung by hairs from caterpillars on the peach tree; and the feeling of being in contact with nature. The reader can appreciate the fresh amazement and wonder that a city-raised child feels upon moving to the countryside.

Emi tells Eri how she has studied about spiders and caterpillars thanks to her letters, and also about their classmate Kenji, who now won’t leave his bedroom. Kenji has been their friend since they were little, and they are both worried about him.

Other people in their lives include Eri’s grandfather, who emphasizes learning from experience and only tells her what to do after she has made a mistake; a new transfer pupil Marumo, who sticks to her own ways without realizing the pressures on her to change; and Kazuki, who bullied Kenji but deep down wants to apologize.

It is interesting to see how in this day and age Eri and Emi deepen their connection not by telephone or email, but by letters, and the story ends on a refreshing note when a frog jumps out of a box of vegetables that Eri sends Kenji, prompting him to step outside and begin to change. This book won the Joji Tsubota Prize. (Sakuma)

  • Muranaka, Rie | Illus. Ishikawa, Eriko
  • Kaiseisha
  • 2019
  • 216 pages
  • 21×16
  • ISBN 9784035309505
  • Age 9 +

Fields, Letters, Bullying, Nature

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『お正月がやってくる』表紙

お正月がやってくる

『お正月がやってくる』(NF絵本)をおすすめします。

都会に住むなおこさん一家三世代の、歳末から新年までのさまざまな習慣をわかりやすく描いている。年の瀬になると、なおこさんたちは酉の市に出かけて熊手を買う。浅草のガサ市で買った材料を使って玉飾りや招福飾りを作り、門松やしめ縄と一緒に近所の人に売る。それが終わると大掃除をして、おせち料理を作り、大晦日には年越しそばを食べて新年を迎える。家族の仕事は工務店だが、お正月には獅子舞もしながら近所を回る。都会での年越しや正月の伝統が楽しくわかる作品。

6歳から/正月 年越し 獅子舞

 

It’s New Year!

This picture book portrays traditional Japanese New Year customs. The protagonist is Naoko, who lives in a modern city where her husband manages a construction firm. As the year draws to a close, they buy a special lucky rake from a shrine fair, and then some materials for New Year decorations at Asakusa’s Gasa-ichi fair. They use these materials to make traditional decorations, which they sell to local people. When they’ve finished that, their family thoroughly cleans their house from top to bottom, she prepares the special New Year’s food, and on New Year’s Eve they eat buckwheat noodles as they see in the New Year. And once the New Year has started, in order to chase out bad luck, Naoko’s husband and others put on the Lion Mask and dance to the accompaniment of drums and flutes as they go around the neighbourhood wishing everyone a Happy New Year. (Sakuma)

  • Text/Illus. Akiyama, Tomoko
  • Poplar
  • 2018
  • 32 pages
  • 24×27
  • ISBN 9784591160657
  • Age 6 +

New Year, New Year’s Eve, Lion dance

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『まめつぶこぞうパトゥフェ』表紙

まめつぶこぞうパトゥフェ〜スペイン・カタルーニャの むかしばなし

『まめつぶこぞうパトゥフェ』(絵本)をおすすめします。

パトゥフェは、体は豆粒ぐらい小さいのに、なんでもやろうとする元気な男の子。お母さんにたのまれたおつかいも、踏みつぶされないように「パタン パティン パトン」と歌いながら歩いていき、ちゃんとなしとげる。ところが、お父さんにお弁当を届けに行こうとしてキャベツの葉の下で雨宿りしているとき、牛に飲み込まれてしまう。さあ、どうしよう。パトゥフェは牛のお腹の中でも歌って、お父さんとお母さんに居場所を知らせ、牛のおならとともに外に飛び出す。絵も文もゆかいで楽しい。

3歳から/昔話 牛 おなら おつかい

 

The Pea-sized Boy Patufet

ーA Folktale from Catalonia, Spain

Patufet is an active little boy who tries to do everything even though he is pea-sized. When his mother asks him to go and buy some saffron, he successfully fulfills his mission. To make sure no one steps on him, he sings “Patan, patine, paton” the whole way there. When he goes to take lunch to his father, however, it begins to rain. Patufet shelters under a cabbage leaf, but is swallowed by a cow that eats the cabbage. What does he do? The resourceful boy sings loudly inside the cow’s stomach so that his parents can find him and leaps out when the cow farts. The illustrations and text are fun and entertaining. (Sakuma)

  • Text: Uno, Kazumi | Illus. Sasameya, Yuki
  • BL Shuppan
  • 2018
  • 32 pages
  • 29×22
  • ISBN 9784776408628
  • Age 3 +

Folktale, Cow, Fart, Errand

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『へいわとせんそう』表紙

へいわとせんそう

『へいわとせんそう』(絵本)をおすすめします。

谷川は、戦時中に空襲に遭い焼死体をたくさん見た実体験を持つが、この絵本では残酷な体験を語ったり抽象的に平和を説いたりはしない。最初の見開きは「へいわのボク」「せんそうのボク」、次は「へいわのワタシ」「せんそうのワタシ」というふうに、短い言葉で平和時と戦争時の状況を対比させていく。絵はモノクロの線画で、どの場面もシンプルでわかりやすく幼児にも伝わるものがある。最後の見開きの「みかたのあかちゃん」「てきのあかちゃん」ではどちらもまったく同じ絵になっている。

3歳から/平和 戦争

 

Peace and War

As a teenager, the author was forced to flee from fire bombs during World War II, at which time he saw countless corpses. In this book, however, he neither shares those painful experiences nor talks about peace in abstract terms. Instead, he takes familiar things and actions that we take for granted and juxtaposes what they look like during a time of peace and a time of war. The book begins with a child (me at peace, me at war) and progresses through a father, a mother, a family, a tool of peace (a pencil) and a tool of war (a gun), as well as such things as a queue, a tree, the sea, a town, night, and a cloud. Except for the mushroom cloud rising from the atomic bomb, which is a photo, the pages are illustrated with simple black-and-white drawings. In the last spread, “a baby on our side” and “an enemy baby,” the pictures are identical. (Sakuma)

  • Text: Tanikawa, Shuntaro | Illus. Noritake
  • Bronze Publishing
  • 2019
  • 32 pages
  • 19×19
  • ISBN 9784893096579
  • Age 3 +

Peace, War

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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『あまがえるのかくれんぼ』表紙

あまがえるのかくれんぼ

『あまがえるのかくれんぼ』(絵本)をおすすめします。

アマガエルの子ども3 匹がかくれんぼをして遊んでいると、1匹の体がいつのまにか茶色っぽくなってしまう。洗ったりこすったりしても体の色はもどらない。どうしてだろう? そのとき突然空からサギが舞い降りてくる。こわい!でも、サギは気づかずに去っていく。アマガエルは、成長すると、体色が周囲の色に合わせて変化するようになるのだが、この絵本はそのことを、物語として伝えている。何年もアマガエルを飼育し観察してきた画家の絵はリアルで、あちこちに小動物を発見する楽しみもある。

4歳から/アマガエル 保護色 かくれんぽ

 

Little Frogs Play Hide-and-Seek

Three frog children are playing hide-and-seek in the grass, when all of a sudden one of them turns brown. The other two wash and scrub him, but his color remains stubbornly brown. They are wondering why when suddenly a heron swoops down from the sky. The shocked frogs freeze, and the heron moves away without noticing them. Through a fun story, this picture book informs the readers how as frogs grow, their bodies change color to blend in with their surroundings. The illustrator spent a number of years watching tree frogs breed, and her illustrations accurately capture the actions of the frogs. It is also fun discovering the other small creatures. (Sakuma)

  • Text: Tateno, Hiroshi | Illus. Kawashima, Haruko
  • Sekai Bunkasha
  • 2019
  • 24 pages
  • 27×24
  • ISBN 978441819- 8085
  • Age 4 +

Tree frogs, Camouflage, Hide-and-seek

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2020」より)

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ノウサギの家にいるのはだれだ?〜ケニア マサイにつたわるおはなし

ノウサギが外から戻ってくると家の中にはだれかがいる。だれだと問うと、そいつが「おれは強くて勇敢な戦士だぞ。サイを張り倒すことだって、ゾウを踏みつぶすことだって、ちょいのちょいだ」というので、ノウサギは怖くなって、ほかの動物に助けを求める。ジャッカル、ヒョウ、サイ、ゾウが助けにくるものの、みんな怖くなって逃げていく。最後にカエルがやってきて、とうとう中にいたものが最後にわかって、みんなで大笑い。

斎藤さんの絵がとてもいいので、見てください。
(編集:檀上聖子さん 装丁:中浜小織さん)

 

〈マサイの人たちに伝わる昔話〉(あとがき)

本書は、東アフリカに暮らすマサイの人たちに伝わる昔話で、勇敢な戦士であることが重んじられていたマサイの人たちの価値観が色濃く反映されているように思います。力の弱い者が家をのっとられて、ほかの動物に加勢を頼みます。加勢してくれる動物たちは、しだいに大きく強くなっていきますが、中から聞こえてくる大言壮語にみんな怖気づいてしまいます。偉そうに声を張り上げていた者の正体が最後にわかると、みんながびっくりする、という展開がとてもゆかいですね。

マサイの人たちは、ケニアとタンザニア北部に暮らしています。もともとは遊牧民ですが、今はあちこちに動物保護区や国立公園ができてしまい、自由に動き回ることができなくなっています。伝統的な文化や風習を重んじる人も多いのですが、なかには『ぼくはマサイ〜ライオンの大地で育つ』(さくま訳 さ・え・ら書房)の著者ジョゼフ・レマソライ・レクトンさんのように外国に留学して政治家になった人もいます。

マサイの昔話は、以前『ウサギのいえにいるのはだれだ?』(ヴェルナ・アールデマ文、レオ・ディロン&ダイアン・ディロン絵 やぎたよしこ訳 ほるぷ出版)という絵本が日本でも翻訳出版されていました。登場する動物たちはほぼ同じですが、マサイの人たちが上演する劇という形をとっていて、話そのものももう少し複雑なので、本書とは趣がずいぶん違います。本書のようなシンプルな昔話をもとにして、いろいろなバージョンが生まれてきたのだと思います。

同じような昔話は、ロシアにもあります。『きつねとうさぎ』(ユーリー・ノルシュテイン絵 フランチェスカ・ヤールブソワ絵 こじまひろこ訳 福音館書店)という絵本では、家をのっとられたのはウサギで、のっとったキツネを追い出そうとします。東アフリカとロシアではずいぶん離れているし、文化も違うのに、同じようなお話が伝わっているのは、おもしろいですね。

本書では斎藤隆夫さんが、東アフリカの風土や動物たちの特徴と魅力をじゅうぶんに生かした、とてもおもしろい絵を描いてくださいました。マサイの人たちが暮らすサバンナに行ったつもりで、お話を楽しんでいただければ幸いです。

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『ようこそ、難民』表紙

ようこそ、難民!〜100万人の難民がやってきたドイツで起こったこと

『ようこそ、難民!』(NF)をおすすめします。

本書は厳密には事実に基づく創作だが、事実の部分が多いのでここ(NF)に入れた。ドイツに永住した著者が、難民とはどのような人たちで、なぜ自分の国を逃げ出さなくてはならなくなったのか、ドイツはなぜ難民を多く受け入れたのか、感情や理想だけでは進まないという事実、文化の違いから来る誤解、イスラム教徒もそれぞれに違うこと、難民がドイツになじむために行われている教育などについてもわかってくる。多様な視点が登場するのがいい。

11歳から/難民 ドイツ 多文化共生

 

Refugees, Welcome!

―When a Million Refugees Arrived in Germany

This book is not non-fiction in the strictest sense, but much of it is real, which is why it is included here. The author, a Japanese woman in Freiburg, discusses refugees. What sort of people are refugees and why did they have to flee their countries? Why did Germany recently accept so many refugees? What actions were taken by German people against them? Why can’t reality be sustained by emotions and ideals alone? What misunderstandings arose from cultural differences? What are the differences between the various adherents of Islam, and what was done to help the refugees learn German? She tackles the issue from various perspectives, giving readers the opportunity to think for themselves. (Sakuma)

  • Imaizumi, Mineko
  • Godo Shuppan
  • 2018
  • 176 pages
  • 22×16
  • ISBN 978-4-7726-1339-2
  • Age 11 +

Refugees, Germany, Multicultural society

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『世界を救うパンの缶詰』表紙

世界を救うパンの缶詰

『世界を救うパンの缶詰』(NF)をおすすめします。

パン職人の秋元義彦さんは、1995年の阪神・淡路大震災をきっかけに、固い乾パンではなく、幼い子どもや老人でも食べられるパンの缶詰を作ろうと考え、さまざまな工夫や改良を重ね、試行錯誤をくり返したのちにとうとう完成させる。次に秋元さんは、賞味期限が近づいたパン缶を回収して、海外の被災地や飢餓地帯に送ることを思いつく。アイデアをひとつひとつ具体的に実現させてきたひとりの職人の考え方や、やり方を伝える感動的な読み物。

11歳から/パン 缶詰 職人 夢の実現

 

Saving the World With Canned Bread

This book is about a baker called Yoshihiko Akimoto. When the Kobe earthquake happened in 1995 and there was a need for nonperishable food, Mr. Akimoto hit upon the idea of canning bread that so that it would be soft enough for children and the elderly to eat. After trying many techniques and improvements, and much trial and error, he finally succeeded. Next Mr. Akimoto decided to recall unused canned bread that was approaching its expiry date, and send it to disaster and famine areas around the world through NGOs. This is a moving book about how one artisan dreamed of building a business that would benefit not just his local area but the world at large, and took the necessary steps to make his dream come true. (Sakuma)

  • Text: Suga, Seiko | Illus. Yamashita, Kohei
  • Holp Shuppan
  • 2017
  • 156 pages
  • 20×15
  • ISBN 978-4-593-53523-1
  • Age 11 +

Bread, Canned food, Artisans, Dreams

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『しあわせの牛乳』表紙

しあわせの牛乳〜牛もしあわせ!おれもしあわせ!

『しあわせの牛乳』(NF)をおすすめします。

岩手県の「なかほら牧場」では、115-19年中放牧されている牛が無農薬の野シバを食べ、自然に子どもを産み、山林と共生している。人間は子牛の飲み残した牛乳をもらう。牛の健康を犠牲にして効率を重視する「近代酪農」がほとんどのなか、経営者の中洞さんは、「しあわせに暮らす牛から、すこやかでおいしい牛乳を分けてもらうほうが、みんなうれしい」と信じ、困難を乗り越えて山地酪農の道を切りひらいた。信念を貫くすがすがしい生き方が感動的。

11歳から/牧場 牛乳 アニマル・ウェルフェア

 

Milk of Happiness

Japan’s first dairy farm to be animal welfare-certified is Nakahora Farm in Iwate Prefecture. This book tells of Mr. Nakahora’s struggles to reach this point. In his dairy operation, cows are let out to pasture year-round. They eat pesticide-free wild grasses, birth their calves naturally, and live in harmony with the mountains and the woods. People receive the milk left over from nursing their calves. In an age when “modern” methods call for sacrificing cows’ health to raise efficiency, Mr. Nakahora believes that “even if we cannot drink milk every day, it is better to receive rich, tasty milk from cows living happy lives. That makes everyone happy!” The way he lives out his ideals is very moving. (Sakuma)

  • Text: Sato,Kei | Photos: Yasuda, Natsuki
  • Poplar
  • 2018
  • 175 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-591-15813-5
  • Age 11 +

Ranching, Milk, Animal welfare

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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谷山彩子『文様えほん』

文様えほん

『文様えほん』(NF絵本)をおすすめします。

文様とは、「着るものや日用品、建物などを飾りつけるために描かれた模様」とのこと。文様は、縄文時代から土器や人形に描かれていたし、現代でもラーメン鉢や衣服に描かれている。文様のモチーフは、植物、動物、天体や自然などさまざまだし、線や図形を組みあわせた幾何学文様もある。本書は、こうした多種多様な文様を紹介するだけでなく、地図で世界各地の文様の違いや伝播を見せてくれる。文様について楽しく学べる絵本。巻末に文様用語集や豆知識もついている。

10歳から/模様 パターン 日本の伝統

 

The Pattern Picture Book

Patterns are the designs created to decorate clothes, articles in daily use, buildings, and so forth. In Japan, spatulas, bamboo sticks, shells, and nails have all been used to pattern pots and figurines since the Jomon period, and these days ramen bowls and clothes too. This book not only introduces Japanese patterns using various motifs of plants, animals, celestial bodies and nature, and geometrical patterns combining lines and figures, but it also includes a map to show differences with other patterns around the world and how some patterns of one region have spread to others. Along with illustrations, the book also includes a glossary of terms and useful information for readers to enjoy learning about the patterns. (Sakuma)

  • Text/Illus. Taniyama, Ayako
  • Asunaro Shobo
  • 2017
  • 48 pages
  • 21×22
  • ISBN 978-4-7515-2828-0
  • Age 10 +

Patterns, Motifs, Japanese tradition

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『デニムさん』表紙

デニムさん〜気仙沼・オイカワデニムが作る 復興のジーンズ

『デニムさん』(NF)をおすすめします。

東日本大震災からの復興を、縫製会社の社長・及川秀子さんの姿を通して描いた読み物。今は、高い技術で世界的に知られる「オイカワデニム」だが、夫の死や経済不況を乗り越えてようやく軌道に乗せたと思ったら、倉庫や自宅が大津波にさらわれてしまう。及川さんは高台にあった工場を臨時の避難所にし、その後も新たなアイデアを生かして復興の先頭に立ってきた。どんな時にも明るさを失わない及川さんに心を寄せながら震災を振り返ることができる。

10歳から/震災からの復興 女性 衣服

 

Ms. Denim

ーThe Jeans Produced by Oikawa Denim as a Symbol of Recovery

The city of Kesennuma, Miyagi Prefecture, sus- tained devastating loss in the 2011 Great East Japan Earthquake and Tsunami, as well as the terrible fire that followed. This book depicts the disaster and recovery through the eyes of a woman, Hideko Oikawa. Just when she had managed to get her jeans manufacturing business on course after losing her husband and going through a recession, the quake struck. She lost her warehouse and her house in the subsequent tsunami. Oikawa turned her factory into an evacuation site and became a leader in the recovery effort. Her new ideas and the resilience of Tohoku people have made Oikawa Denim an internationally respected brand. (Sakuma)

  • Text: Imazeki, Nobuko
  • Kosei Shuppansha
  • 2018
  • 128 pages
  • 22×16
  • ISBN 978-4-333-02780-4
  • Age 10 +

Earthquake recovery, Women, Apparel

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『まなぶ』表紙

まなぶ

『まなぶ』(NF 写真絵本)をおすすめします。

キューバ、アフガニスタン、ミクロネシア、アンゴラ、ウズベキスタン、スリランカ、そして日本など、世界各地の子どもや若者たちが、学校や家や高原や旅先で学んでいる姿をすばらしい写真で紹介し、「学ぶ」ことにはどんな意味があり、「学ぶ」ことでどんなふうに世界が開け、「学ぶ」ことで何が受け継がれ、「学ぶ」ことがいかに平和につながっていくかを伝えている。子どもたちの真剣な表情と、未来を見つめている笑顔が印象的。同じシリーズに『はたらく』と『いのる』がある。

6歳から/学習 学校 文化

 

Learning

This photo picture book includes striking photos of children and young adults from Japan, Cuba, Afghanistan, Micronesia, Angora, Uzbekistan, Sri Lanka, Cambodia and other places around the world as they learn, both at school and at home, on the high plains and while travelling. Through them we can see what it means to learn, how the world opens up when we learn, what we inherit when we learn, and how learning is linked to peace. It is hard to forget the serious faces of the children, and their smiling faces as they look to the future. The same photo book series includes the titles Working and Praying (published 2017). (Sakuma)

  • Text/Photos: Nagakura, Hiromi
  • Alice-kan
  • 2018
  • 40 pages
  • 26×20
  • ISBN 978-4-7520-0843-9
  • Age 6 +

Study, School, Culture

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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戸森しるこ『理科準備室のヴィーナス』

理科準備室のヴィーナス

『理科準備室のヴィーナス』(読み物)をおすすめします。

中学1年生の瞳は、母親とふたり暮らしで、学校では疎外感を感じている。そんな瞳は、保健室に居合わせた理科の教師・人見先生に手当をしてもらったことから、アウトロー的なこの先生に魅了されていく。人見先生は第二理科準備室で授業のない時間を過ごすことが多く、顔がヴィーナスに似ていて、シングルマザーで幼い子どももいるらしい。そのうち瞳は、一風変わった男子の正木君も人見先生に惹かれているのに気づく。正木君と瞳は、美人でやさしく、しかも危険な匂いのするこの先生を「たったひとりの、特別な、かわりのきかない存在」だと考えて、第二理科準備室に入り浸る。性別の違うふたりの生徒と先生の、微妙なバランスの上で揺れる三角関係だ。大きな事件が起こるわけではないが、憧れに胸を焦がし、細かく揺れ動く思春期前期の子どもの心の情景を見事に描いた作品。

12歳から/憧憬 教師 学校

 

The Venus of the Science Lab

Hitomi Yuuki is in the first year at junior high. She lives with her mother, and she hardly ever sees her father since her parents divorced. She feels alienated at school. After she is tripped up in the classroom and falls, she goes to the sickroom for first aid treatment and has a conversation with the science teacher Ms. Hitomi, who happens to be there at the time. She develops a crush on the young teacher, whose surname Hitomi sounds like her own first name. Ms. Hitomi often spends time when she doesn’t have classes in the #2 Science Lab, and her face resembles Botticelli’s Venus. She is thirty-one, considerably older than student Hitomi, and is a single mother with a young child. She openly flouts school rules, eating sweets in front of her pupils, and to Hitomi she is the most beautiful, kindest, and also the most dangerous person she has ever known.
One day, Hitomi notices another boy, Masaki, staring at Ms. Hitomi. Masaki and Hitomi start spending all their time in #2 Science Lab, and both desire the teacher in slightly different ways. Nevertheless, both of them feel that she is a special, unique, and irreplaceable person in their lives. The three-way relationship between the two pupils, boy and girl, and their teacher maintains a delicate and complex balance. In the end it breaks down, but by then Hitomi has begun to think of Masaki, who is eccentric and tends to take chances, as a kindred spirit. “He was necessary in order to get close to something out of reach,” she thought.
Nothing dramatic happens in this book, but it wonderfully portrays the fluctuating emotions of children in early adolescence being consumed by longing. (Sakuma)

  • Text: Tomori, Shiruko
  • Kodansha
  • 2017
  • 206 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-06-220634-1
  • Age 12 +

Aspirations, Teachers, School

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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濱野京子著『ドリーム・プロジェクト』PHP研究所

ドリーム・プロジェクト

『ドリーム・プロジェクト』(読み物)をおすすめします。

中学2年生の拓真の家には、祖父の勇が同居している。80歳になる勇は、ある日黙って家をでて、家族を心配させる。勇は、自分がもと住んでいた山あいの奥沢集落に向かおうとしていたのだ。勇がこの集落や、自宅だった古民家をなつかしんでいることに気づいた拓真は、古民家を修繕して、地域の人たちの憩いの場にしようと思い立つ。そこで友だちの協力もあおいで知恵をだしあい、必要な資金をクラウドファンディングで集めるプロジェクトを立ちあげる。拓真たちはフライヤーを作って配ったり、SNSで情報を拡散したり、地元の有力者に会いにいったりして努力を重ねる。160万円という目標の達成には多くの人の支援が必要になるが、果たして資金は集まるのだろうか? 楽しい読み物としてどきどきしながら読み進むうちに、クラウドファンディングの仕組みについても知識が深まる。

12歳から/クラウドファンディング インターネット 仲間

 

Dream Project

Takuma is in the second year at junior high. His grandfather Isamu has been living with him since losing his wife. Isamu is now 80, and when he leaves the house one day without saying anything, the family are worried about him. When they investigate, they discover that he has gone to the village in the mountains where he used to live. Realizing that Isamu is missing the village and his old house, which now lies empty, Takuma hits upon the idea of renovating the old wooden thatched house and making it into a center where local people can gather. He gains the support of some of his friends at school, and pooling their knowledge, they work together to set up a project to raise the necessary money through a crowdfunding campaign. They go to a crowdfunding company to explain their project, learn about the procedures, and receive advice, and then decide to go ahead with the project.
Takuma and his friends don’t just make the crowdfunding page, they work hard on the project doing things like making flyers to hand out at bus stops in the morning, spreading information via Twitter and Facebook, showing supporters from the city around, going to meet the former mayor who is a local figure of authority, and so forth. They need to get a lot of people to support them in order to meet their target of 1.6 million yen. Will they manage to raise the funds in the end? This entertaining and exciting read also deepens knowledge of the procedures of crowdfunding and how to participate in society. (Sakuma)

  • Text: Hamano, Kyoko
  • PHP Institute
  • 2017
  • 205 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-569-78777-0
  • Age 12 +

Crowdfunding, Internet, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『こんぴら狗』表紙

こんぴら狗

『こんぴら狗』(読み物)をおすすめします。

江戸時代、商店の娘・弥生に拾われて大きくなった犬のムツキは、ある日、江戸から讃岐(今の香川県)にある金比羅神社までお参りに出される。弥生の病気の治癒を祈願する家族の代理で参拝することになったのだ。ムツキは途中で、托鉢僧、にせ薬の行商人、芸者見習い、大工、盲目の少年など、さまざまな職業や年齢の人々に出会い、ひとときの間道連れになって旅をする。そして、川に落ちたり、雷鳴に驚いてやみくもに逃げ出して迷子になったり、姿のいい雌犬と出会って仲良くなったり、追いはぎに襲われた道連れを助けたり、といろいろな体験をしながら、金比羅神社までの往復をなしとげる。ムツキをかわいがっていた盲目の少年が、やがてムツキの子どもをもらうという終わり方にもホッとできる。たくさんの資料や文献にあたったうえで紡がれた、愛らしいリアルな物語。多くの賞を受賞している。

12歳から/犬 参拝 旅

 

Konpira Dog

This is an entertaining adventure novel with a dog as the protagonist, and is also historical fiction introducing the customs and lifestyle of Japanese people in the Edo period (1603-1868). The dog, Mutsuki, had been abandoned, but was rescued by Yayoi, the daughter of a wealthy merchant, and is now grown up. In this story he is sent on a pilgrimage from Edo (Tokyo) to a shrine in Sanuki (today’s Kagawa Prefecture in western Japan) dedicated to Konpira, the guardian deity of seafarers. He is being sent as the family’s representative to pray that Yayoi will recover from illness. He sets out carrying a bag around his neck containing a wooden slab engraved with his owner’s name and address, a monetary offering for the shrine, and enough money for buying food to last him the journey. He comes to be known as “Konpira Dog” and is looked after by travelers and other people he crosses paths with, so eventually he completes his mission and returns home safely.
On his travels, Mutsuki keeps the company of many people of different trades and ages, including a mendicant, a snake oil peddler, an apprentice geisha, and a carpenter. He also has many experiences on his pilgrimage, such as falling into the river, making friends with an attractive female dog, and saving a traveling companion from bandits. His last companion on the road is a woman who runs a kerosene wholesale business and whose young son Muneo is blind. The boy is later given Mutsuki’s puppy, providing a satisfying conclusion to the story. The author researched the subject thoroughly to make it into a creative yet realistic story. The book won the Sankei Children’s Publishing Award, the Association of Japanese Children’s Authors Award, and the Shogakukan Children’s Book Award. (Sakuma)

  • Text: Imai, Kyoko | Illus. Inunko
  • Kumon Shuppan
  • 2017
  • 344 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-7743-2707-5
  • Age 12 +

Dogs, Pilgrimage, Travel

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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魚住直子『いいたいことがあります!』表紙

いいたいことがあります!

『いいたいことがあります!』をおすすめします。

小学校6年生の陽菜子は、家事も勉強もちゃんとやれと口うるさくいう母親がうっとうしくて仕方がない。単身赴任中の父親はともかく、兄が家事を免除されているのも不公平だと思っている。ある日、陽菜子は不思議な女の子に出会い、その子が落としたらしい手帳を拾う。手帳には、「わたしは、親に支配されたくない。わたしは、わたしの道をいきたい」と書き付けてあった。何度か現れてアドバイスもしてくれる、あの不思議な女の子はいったい誰なのか? その謎を追いかけていくうちに陽菜子はしだいに強くなり、母親にも言い返せるようになる。最後に、不思議な女の子の謎がすべて解けたときには、陽菜子と母親の遠かった距離は近くなり、ふたりとも本来の自分の道を探す一歩を踏みだせるようになっていた。ファンタジー的要素も取り込んで現代の少女が置かれた状況を生き生きと伝える。

11歳から/母と娘 手帳 自分の道 家事の分担

 

I’ve Got Something to Say!

A story that with elements of fantasy portrays what life is like for girls in Japan. It is an entertaining read that has you wondering about a mysterious girl that the protagonist meets. Hinako is in her last year at elementary school and irritated at being constantly nagged by her mother to study and do housework. She feels it’s unfair that her brother is exempted from housework, as is her father on account of being posted to a job far away. Her mother believes it’s for the best to be strict with her, and Hinako cannot openly defy her. Thus their relationship quickly deteriorates as Hinako harbours counterveiling feelings of rebellion and guilt. And then Hinako meets a mysterious girl, who leaves behind a notebook in which it is written, “I don’t want to be controlled by my parents. I want to follow my own path.” Subsequently the girl turns up numerous times, and following her advice Hinako gradually becomes able to say the things she wants to say to her mother.
When her mother tells her off for playing hooky from the cram school, on the spur of the moment Hinako skips a mock exam and instead goes to her deceased grandmother’s old abandoned house. On the way there she again meets the mysterious girl, and they go into the house together. They are there talking together when Hinako’s Aunt Megumi (her mother’s sister) turns up and the mysterious girl vanishes. Her mother follows her aunt in, and as they talk things over they solve the mystery of the mysterious girl, clarifying her true identity. Hinako and her mother become closer as a result, and they are both able to take the first steps to seeking their own paths in life. The story depicts the difficulties between a girl in early adolescence and her mother. (Sakuma)

  • Text: Uozumi, Naoko | Illus. Nishimura, Tsuchika
  • Kaiseisha
  • 2018
  • 186 pages
  • 20×14
  • ISBN 978-4-03-727290-6
  • Age 11 +

Mothers and daughters, Notebooks, Housework

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『青がやってきた』表紙

青(はる)がやってきた

『青がやってきた』(読み物)をおすすめします。

青(ハル)は小学校5年生の男の子だが、父親が「ドリーム・サーカス」のマジシャン(ハルにいわせれば本物の魔法使い)で、サーカスが鹿児島、福岡、山口、大阪、千葉と興業先を転々とするたびに自分も転校し、行く先々でさまざまな子どもたちに出会う。勉強や容姿にコンプレックスをもつ子もいるし、給食の野菜が嫌いで食べられない子もいるし、かと思うと、自分のだといい張るおじいさんからサーカスの犬を取り返してくれる子もいる。宮城にいたときに津波で父親を失った子は、マジシャンの修業をしているなら、亡くなった父親をマジックでだしてくれとハルに迫る。多様な状況にいる5年生を描く短編集だが、ハルと出会ったのがきっかけで、どの子も最後には精神的な成長を見せる。一編ずつが短いなりにまとまっているので、読書慣れしていない子どもにも薦められる。

10歳から/転校 サーカス 不思議

 

Here Comes Haru!

This collection of short stories realistically portrays the daily lives, environments, and problems of elementary school fifth grade children in five regions of Japan. Haru, a circus boy who never spends much time in one school as his family is constantly on the move, plays a supporting role throughout the book. His father is a magician in the world-famous Dream Circus, and Haru makes new friends at every new school he attends. Mio, who lives in Kagoshima, is worried about being bad at studying, while Mai, who lives in Fukuoka, has a complex about her appearance and an awkward relationship with her best friend. In Yamaguchi, Haru catches straight A student Shu sneaking the vegetables from school lunch into a plastic bag to hide them, and in Osaka he asks Kazuki to help him get a circus dog back from the mean old man next door, while in Chiba Koki presses Haru to use magic to bring back his father who was swept away when the tsunami hit in Miyagi. The book ends with a conversation between Haru and his father in the car as the circus heads to its next location. The children Haru meets all grow psychologically, but is that because the eccentric new boy Haru placed a spell on them, or was it a natural result from having met him? The author leaves this point open to the reader’s imagination. Each of the stories ends on an upbeat note, making the reader feel positive, so it is recommended for children not generally fond of reading. (Sakuma)

  • Text: Mahara, Mito | Illus. Tanaka, Hirotaka
  • Kaiseisha
  • 2017
  • 214 pages
  • 19×13
  • ISBN 978-4-03-649050-9
  • Age 10 +

School transfers, Circuses, Magic

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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富安陽子文 山村浩二絵 『絵物語 古事記』偕成社

絵物語 古事記

『絵物語 古事記』(読み物)をおすすめします。

712年に成立した日本最古の歴史書といわれる「古事記」(3巻本)の中から、神話をとりあげた上巻を、人気作家が物語として再話し、国際的なアニメーション作家でもある画家が、楽しい絵をつけた作品。監修者は、「古事記」の研究者。イザナキとイザナミによる国生み、イザナキの黄泉の国訪問、天の岩屋、やまたのおろち、稲羽の白うさぎ、海幸彦と山幸彦など、日本でもおなじみの神話が紹介されている。富安は、現代作家ならではの視点で、それぞれの話に流れをつけ、わかりやすくてダイナミックな物語に仕上げている。各ページにイラストを入れている山村は、さまざまな神々をユーモラスかつ人間くさく描くことによって、読者の興味をひくことに成功している。後書きには、「古事記」が作られた経緯や、成立にかかわった人々についての解説が載っている。

8歳から/神話 不思議

 

Illustrated KOJIKI

The Stories of Japanese Gods and Goddesses

Dating back to AD 712, the Kojiki is said to be Japan’s oldest historical record. It describes Japan’s history from the foundation of the nation to the era of Empress Suiko in the 7th century. The first volume tells richly imaginative tales of the gods, while Volumes 2 and 3 record the imperial lineage and major events during each reign. In this book, a children’s author who has been nominated for the Andersen Award from Japan retells the stories of Volume 1, accompanied by entertaining illustrations by an internationally renowned animator. The supervisor is a scholar of the Kojiki.
Myths known by Japanese children are retold here, such as the story of how the god Izanaki and goddess Izanami used a magical spear to form the country out of chaos; the story of how after her death, Izanaki chased Izanami through the underworld; and stories of how the sun goddess Amaterasu was so disgusted by the bad behavior of her younger brother Susanoo that she hid herself in a cave, and how Susanoo slayed the eight-headed monster Yamata no Orochi after being banished from heaven, and how the god Oonamuji saved the white hare that had its fur ripped out after tricking the sharks, and about the quarrel between the god Hoderi, who lived off the bounty of the sea, and the god Hoori, who lived off the bounty of the mountain.
Tomiyasu retells these many myths from the perspective of a contemporary author, making them into highly readable, entertaining, and exciting tales. Yamamura’s illustrations appear on every page, with amusing and humanlike portrayals of the deities that successfully draw children in. An afterword introduces how the Kojiki came to be written and the people who were involved in producing it. (Sakuma)

  • Text: Tomiyasu, Yoko | Illus. Yamamura, Koji | Spv. Miura, Sukeyuki
  • Kaiseisha
  • 2017
  • 255 pages
  • 22×15
  • ISBN 978-4-03-744870-7
  • Age 8 +

Myths, Gods

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

 

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『手ぶくろを買いに』表紙

手ぶくろを買いに

『手ぶくろを買いに』(絵本)をおすすめします。

母狐は、雪で遊んで手が冷たくなった子狐に手袋を買ってやりたいと思うが、人間が怖い。そこで子狐の片方の前足を人間の手に変え、白銅貨をもたせて店に行かせる。子狐は違う前足を出してしまうが手袋を売ってもらえたので、人間はちっとも怖くなかったというのだが、母狐は「ほんとうに人間はいいものかしら」とくり返す。おなじみの童話に新たにつけた絵からは、寒々とした雪景色と対比するような狐母子の温かい愛情が伝わってくる。

7歳から/手袋 キツネ 冬 人間

 

Shopping for Mittens

Children’s author Niimi Nankichi (1913-1943) has been long loved by Japanese children, and his most popular work of all has been newly illustrated by a contemporary artist. When a fox cub’s front paws get cold as it plays in the snow, the mother fox turns one of the cub’s front paws into a child’s hand, gives it couple of coins, and sends it to the store. The fox cub holds out the wrong paw, but since the human sells it the glove anyway, it isn’t at all afraid. When it gets home, its mother also says, “I suppose it’s possible that humans really are good.” The illustrations capture the love between the mother fox and her cub amidst the snowy landscape. (Sakuma)

  • Text: Niimi, Nankichi | Illus. Doi, Kaya
  • Asunaro Shobo
  • 2018
  • 32 pages
  • 31×22
  • ISBN 978-4-7515-2837-2
  • Age 7 +

Mittens, Foxes, Winter, Humans

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『ぼんやきゅう』表紙

ぼんやきゅう

『ぼんやきゅう』(絵本)をおすすめします。

岩手県釜石市の鵜住居地区は海に面しているので、2011年の津波に襲われて大きな被害を受けた。そのせいで、人々は生活を立て直すだけで精一杯となり、戦後ずっとお盆の時期に開かれていた野球大会も中断されていた。2017年、野球大会を再開して地域を復興させようと父親たちが立ち上がる。現地でさまざまな人を取材した絵からも臨場感が伝わってくる。巻末には、この地区の盆野球の歴史と、復活への経緯が、写真とともに掲載されていて、応援したくなる。

6歳から/津波 お盆 野球 震災からの復興

 

The Obon Baseball Tournament

Being next to the sea, the district of Unosumai in Kamaishi, Iwate prefecture, was severely damaged by the tsunami in 2011. Because of that, the baseball tournament held during the summer Obon festival ever since the end of the war was also cancelled. Everybody was too busy getting back on their feet. In 2017, local fathers decided to revive the tournament in order to help the area recover. This picture book portrays the occasion from the children’s perspective. The artist went to the location to talk to various people, so the pictures make you feel as though you are actually there. At the end of the book, a history of the district’s Obon Baseball Tournament and how it was revived is included along with photos. (Sakuma)

  • Text: Sashida, Kazu | Illus. Hasegawa, Yoshifumi
  • Poplar
  • 2018
  • 40 pages
  • 28×23
  • ISBN 978-4-591-15904-0
  • Age 6 +

Tsunami, Obon, Baseball, Earthquake recovery

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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寮美千子文 小林敏也画『イオマンテ:めぐるいのちの贈り物』ロクリン社

イオマンテ〜めぐるいのちの贈り物

『イオマンテ』(絵本)をおすすめします。

アイヌに伝わる〈クマ送り〉の儀式をめぐる絵物語。主人公の少年は、父親が仕留めた母グマの子どもをかわいがり一緒に成長するが、やがて別れの日がやってくる。成長した子グマを神の国へ送る儀式が行われることになったからだ。詩的な文章とスクラッチ技法による美しい絵が、さまざまな感情の交錯する世界をうまく表現している。生命が軽視されることの多い今の時代に、「いのちのめぐみ」を受け取るとはどういうことかを伝えている。

6歳から/アイヌ(先住民) 生命 クマ

 

Iomante

ーThe Gift of the Cycle of Life

A picture book about the ritual held by the Ainu, indigenous people of Hokkaido, when bears were killed. The protagonist is a young boy who dotes on a bear cub after its mother was killed by his father. They grow up together, and the villagers, too, rear the bear carefully as a god. However, the day they must part finally arrives. It is time to hold the ritual to send the grown bear cub to the land of the gods. A range of emotions in the unique world of the Ainu is beautifully portrayed through poetical phrasing and powerful scratch art illustrations. In these times, when life is often treated lightly, this work shows what it means to accept its blessings. (Sakuma)

  • Text: Ryo, Michiko | Illus. Kobayashi, Toshiya
  • Rokurinsha
  • 2018
  • 68 pages
  • 26×19
  • ISBN 978-4-907542-566
  • Age 6 +

Ainu (Indigenous people), Life, Bears

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『巨人の花よめ』表紙

巨人の花よめ〜スウェーデン・サーメのむかしばなし

『巨人の花よめ』をおすすめします。

スウェーデンの少数民族に伝わる昔話の絵本。サーメ人の美しい娘チャルミが、山の恐ろしい巨人に結婚を迫られる。チャルミは知恵を働かせて巨人の手から逃れようとするが、なかなかうまくいかない。とうとう婚礼の宴が開かれ、巨人もお客も浮かれているすきに、テントの中に身代わりの丸太を置いて、チャルミは逃げ出す。そして川の氷に大きな穴を掘り、村人を困らせていた巨人を退治する。現地に取材した画家の絵がダイナミック。

5歳から/サーメ 巨人退治 知恵

 

The Bride of the Giant

A Swedish to Japanese translator retells the legends of the Saami people of Lapland in Sweden, and an artist provides wonderful illustrations researched on location. When a giant who lives in the mountains falls in love at first sight with a beautiful Saami girl, Charmie, she wracks her brains to find a way to escape from him but things don’t go well. Finally their wedding banquet is held, and she takes advantage of the giant and his guests making merry to dress a log in her bridal clothes and make her getaway. She digs a large hole in the ice on the river to exterminate the giant that had caused so many problems for the villagers. (Sakuma)

  • Text: Hishiki, Akirako | Illus. Hirasawa, Tomoko
  • BL Shuppan
  • 2018
  • 32 pages
  • 30×22
  • ISBN 978-4-7764-0836-9
  • Age 5 +

Saami, Giants, Wisdom

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『夏がきた』表紙

夏がきた

『夏がきた』(絵本)をおすすめします。

海辺の村の夏を描く作品。IBBYバリアフリー児童書にも選ばれている。夏休みになり、子どもが近所の子どもたちに「あーそーぼー!」と声をかけ、連れだって海辺へとやってくる。浜では、海の家の準備の真っ最中。子どもたちも手伝って、スイカやおにぎりをごちそうになる。すだれ、風鈴、麦茶、扇風機、麦わら帽子、うちわ、入道雲、夕立、アサガオの鉢、蚊取り線香、花火など、夏ならではの風物が描かれていて、ふんだんに夏を感じることができる。

5歳から/夏 海 遊び

 

Summer Is Here

This work unfolds in a Japanese seaside village. As
summer vacation begins, a child calls to neighbor children, “Hey, let’s play!” and they go to the beach together. Here, preparations are underway at a rest house (for changing clothes, taking breaks, and buying snacks). The children help with the chores and get watermelon slices and rice balls in return. Bamboo mats, wind chimes, barley tea, straw hats, fans…puffy clouds, a sudden shower, potted morning glories, mosquito coils, fireworks. This book exudes summer, which you can feel even without reading the text. Chosen as an IBBY Outstanding Book for Young People with Disabilities. (Sakuma)

  • Text/Illus. Hajiri, Toshikado
  • Asunaro Shobo
  • 2017
  • 32 pages
  • 24×26
  • ISBN 978-4-7515-2830-3
  • Age 5 +

Summer, Summer sounds, Beach rest houses

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2019」より)

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『犬が来る病院』表紙

犬が来る病院〜命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと

『犬が来る病院』(NF)をおすすめします。

聖路加国際病院の小児病棟の子どもたちを3年半にわたって取材したドキュメンタリー。日本で初めて小児病棟にセラピー犬を受け入れたこの病院で、犬の訪問活動はどうやって始まったのか、子どもたちの反応はどうだったのか、子どもたちが豊かな時間を過ごすための配慮がどう行われていたか、多くのスタッフがどう連携してトータルケアをめざしたのかなどについて述べられている。4人の子どもたちとその家族が、それぞれ病に直面して歩んだ軌跡も感動的。

12歳から/犬 セラピー 病院

 

The Hospital Where Dogs Visit

ーWhat the Children in Touch with Life Taught Us

A documentary book following children in the pediatric unit at Saint Luke’s International Hospital in Tokyo. Saint Luke’s is the first hospital in Japan to admit therapy dogs into the pediatric unit. The book looks at topics like how the visits by dogs started, how the children reacted, how care was taken to make the children’s time in hospital rich, and how many staff cooperated in the aim for total care. The book gives a moving account of four children (two passed away; two left hospital to find their own paths in life) and their families, whose progress they tracked as they dealt with their illnesses. (Sakuma)

  • Text: Otsuka, Atsuko
  • KADOKAWA
  • 2016
  • 224 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784041035085
  • Age 12 +

Therapy dogs, Hospital, Children

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『金さえあればいい?』表紙

お金さえあればいい?〜大人は知らない子どもは知りたい! 子どもと考える経済のはなし

『お金さえあればいい?』(NF)をおすすめします。

とてもわかりやすい文章とユーモアたっぷりのイラストで、お金や経済について学ぶ本。お金はなんのためにあるの? 経済とは本来どんなものなの? 今の日本経済に警鐘を鳴らす著者は、本当の経済は人と人が出会う場をつくるもので、そこからは幸せが生まれてこなくてはいけないという。利益ばかりを追い求めるような偽の経済活動を賢く見ぬいて、お金にふりまわされないで幸せになるためにはどうしたらいいか。それを本書は伝えている。

11歳から/経済 社会 お金 幸せ

 

All We Need Is Money?

ーA Tale of Economics to Think about with Young People

In easily understood language supported by humorous illustrations, this book teaches us about money and economics. What is the purpose of money? What is economics? The author, Noriko Hama, is a famous economist. She explains that true economics should be about creating spaces in which people can come together and that generate happiness. Unfortunately, economic activity today is increasingly focused on the pursuit of profit. She teaches how to discern such “false” economics and live a life that is not controlled by money and that will bring us happiness. (Sakuma)

  • Text: Hama, Noriko | Illus. Takabatake, Jun
  • Crayon House
  • 2017
  • 64 pages
  • 21×15
  • ISBN 9784861013195
  • Age 11 +

Money, Happiness, Economics

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『円周率の謎を追う』表紙

円周率の謎を追う〜江戸の天才数学者・関孝和の挑戦

『円周率の謎を追う〜江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(NF)をおすすめします。

関孝和の一生を、円周率を探る研究を核にして描いている。私たちが約3.14と学校で習う円周率も、関が学び始めた頃は3.16とされていた。それに疑問を感じて追求しようとする過程や、漢文から思いついて数式を表す方法を編み出すところなどがスリルに富んだ推理小説のように描かれている。同時に、この数学者が何かを一途に追求し消えない炎を持ち続けていたひとりの人間として浮かび上がってくるので、読み物としてもおもしろい。さまざまな文献を研究して書いた労作。

11歳から/数学 歴史 江戸時代 円周率 関孝和

 

Solving the Mystery of Pi

ーThe Genius Mathematician of Edo, Seki Takakazu

Portrays the life of Seki Takakazu, the master of Japanese mathematics known as wasan, with particular focus on his research on pi. We learn at school that pi is about 3.14, but when Seki started his studies it was thought to be 3.16. The process of working through the doubts he felt about this until he was convinced, and the way he devised a method to express numerical formulae based on Chinese kanbun writing is as thrilling as a mystery novel. This mathematician emerges as one human being who single-mindedly pursued something with unextinguished passion. Based on thorough research. (Sakuma)

  • Text: Narumi, Fu | Illus. Ino, Takayuki
  • Kumon Shuppan
  • 2016
  • 208 pages
  • 19×14
  • ISBN 9784774325521
  • Age 11 +

Mathematics, Edo period (1603-1868), Pi

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『世界中からいただきます!』表紙

世界中からいただきます!

『世界中からいただきます!』(NF)をおすすめします。

世界各地の普通の家に居候して、家族の素顔や、いつもの暮らしを見せてもらい、普通の食事を食べさせてもらう。そういうふうにして集めたモンゴル、カンボジア、タイ、ハンガリー、イエメン、モロッコなど14カ国の17家族の生き方が、食を中心に写真とともに紹介されている。楽しいレイアウトのおかげで、日本の読者にも親しみやすく読みやすくなっている。コラムでは、世界の主食や屋台やトイレ、日本から持っていって喜ばれたお土産なども紹介されている。

9歳から/ごはん 台所 料理 異文化理解

 

Eating the Globe!

A writer and photographer travel all over the world, staying in ordinary homes and observing families going about their daily lives, and eating the same food as their hosts. They introduce us to the food and lifestyles of seventeen families in fourteen countries, from Mongolia, Cambodia, and Thailand, to Hungary, Yemen, and Morocco. The fun layout features many photos of children preparing and eating food, making it approachable for young readers everywhere. We also learn about staple foods around the world, street stalls, and toilets, as well as what kind of Japanese souvenirs are most appreciated by the host families. (Sakuma)

  • Text: Nakayama, Shigeo | Photos: Sakaguchi, Katsumi
  • Kaiseisha
  • 2016
  • 128 pages
  • 21×18
  • ISBN 9784036450602
  • Age 9 +

Food, Kitchens, Cooking

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『干したから・・・』表紙

干したから・・・

『干したから・・・』(NF絵本)をおすすめします。

食を追求してきたカメラマンがつくった写真絵本。世界各地で見つけた乾燥食品を写真で示しながら、干すことによる食品の変化や、干すことの意味や目的を、わかりやすく説いている。野菜や果物や魚や肉や乳製品は、干すと水分がぬけて腐りにくくなり保存がきくようになるのだが、そこに子どもが興味をもてるよう構成や表現が工夫されている。めざし、梅干しなど乾燥食品を使った日本の典型的な食事や、野菜の簡単な干し方も紹介されている。

7歳から/食べ物 干物 自然 知恵

 

See What Happens When You Dry It Up

This is a picture book by a photographer on the theme of food. The author uses photos of dried foods found in many parts of the world to explain the changes that occur when foods are dried and the meaning and purpose of drying food. Drying removes the liquid from vegetables, fruits, fish, meat and milk products, preserving them so that they don’t go rotten, and the author use photos and text in ingenious ways to excite the reader’s curiosity and make this process easier to understand. The short appendix introduces examples of dried foods used in traditional Japanese cuisine and methods for drying vegetables and other foods that can be done at home. (Sakuma)

  • Text/Photos: Morieda, Takashi
  • Froebel-kan
  • 2016
  • 34 pages
  • 22×27
  • ISBN 9784577043714
  • Age 7 +

Food, Dried fish, Practical wisdom

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『わたり鳥』表紙

わたり鳥

『わたり鳥』(NF絵本)をおすすめします。

世界のわたり鳥113種の旅を描いたノンフィクション絵本。なぜ長距離を移動するのか、どんなルートがあるのか、どんなところにどんな巣をつくるのか、渡りの途中でどんな危険に遭遇するのか、何をたよりに移動するのかなどを、子どもにもわかる文章と興味深い絵で説明している。巻末には、本書に登場するわたり鳥44種それぞれの大きさや姿、巣の大きさ、卵の色や形、渡りのルート、繁殖地と冬期滞在地などを紹介する一覧と、「世界のわたり鳥地図」も掲載している。

5歳から/渡り鳥、環境

 

Migratory Birds

This non-fiction picture book describes the journey of migratory birds from around the world. An astounding number of birds travel long distances every year in search of food and a safe place to lay their eggs and raise their young. What routes do they travel? What kind of nests do they build and where? What dangers do they face on their journey? How do they find their way? The author, who is an expert on birds answers such questions as these in words and illustrations that children can easily grasp. (Sakuma)

  • Text/Illus. Suzuki, Mamoru
  • Doshinsha
  • 2017
  • 40 pages
  • 26×26
  • ISBN 9784494010004
  • Age 5 +

Migratory birds, Environment

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『フラダン』表紙

フラダン

『フラダン』(読み物)をおすすめします。

笑いながら読める青春小説だが、福島の原発事故をめぐる状況や、多様な人々とのぶつかりあいや交流なども書かれていて味わいが深い。工業高校に通う辻本穣は、水泳部をやめたとたん「フラダンス愛好会」に強引に勧誘される。しぶしぶいってみると、女子ばかり。ところが、シンガポールからのイケメン転校生、オッサンタイプの柔道部員、父親が東電に勤める軟弱男子も加入してくる。穣は男子チームを率いることになり、最初は嫌々だが、だんだんおもしろさもわかってきて、真剣になっていく。

15歳から/フラダンス 青春 震災 福島

 

Hula Boys

This is a laugh-out-loud youth novel, but its description of the circumstances surrounding the Fukushima nuclear disaster is thought-provoking. Yutaka, who attends a technical high school, leaves the swimming club only to be dragged into Hula Dance Club. When he grudgingly goes to take a look, he finds it full of girls. However, some other boys also join; Okihiko, a heart-throb type who has just moved from Singapore, Taiga, a geezer-type who also belongs to the judo club, and Kenichi, a weedy type whose dad works for TEPCO which is extremely unpopular in the wake of the nuclear disaster. Yutaka is put in charge of the boys team. (Sakuma)

  • Text: Furuuchi, Kazue
  • Komine Shoten
  • 2016
  • 290 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784338287104
  • Age 15 +

Hula dance, Fukushima, Friendship

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『こんとんじいちゃんの裏庭』表紙

こんとんじいちゃんの裏庭

『こんとんじいちゃんの裏庭』(読み物)をおすすめします。

リアルな状況を踏まえた男の子の成長物語だが、同時に現代ならではの冒険物語にもなっている。中学3年生の悠斗の祖父は、交通事故にあって入院し、意識が混濁したままになる。しかも悠斗の家族は、加害者から損害賠償を請求される。納得できない悠斗は、警察、保険会社、日弁連の法律センターなどを回って真相究明にのりだす。一方で、祖父のかわりに「裏庭」の果樹の世話も続ける。こうした過程を通して周囲の人々を一面的にしか見ていなかったことに気づいた悠斗は、多面的な視点を獲得して成長していく。

14歳から/認知症 家族 訴訟

 

Grandpa’s Back Garden

A realistic coming-of-age story about a 15-year-old boy, Yuto. One day, his grandfather, who showing signs of dementia, is run over as he cycles over a pedestrian crossing, and is taken to hospital where he remains in a state of semi-consciousness. On top of that, Yuto’s family receives a demand for compensation from the person who ran him over. Yuto is outraged and decides to try to clarify the truth. He goes to see the police, the insurance firm, and the law center. At the same time, he continues to care for his grandfather’s garden the way his grandfather taught him. In the process, he learns to see things from various points of view. (Sakuma)

  • Text: Murakami, Shiiko
  • Shogakukan
  • 2017
  • 256 pages
  • 19×13
  • ISBN 9784092897571
  • Age 14 +

Traffic accidents, Elderly people, Gardening

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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山本悦子『神隠しの教室』

神隠しの教室

『神隠しの教室』(読み物)をおすすめします。

ある日、5人の子どもたちが学校で行方不明になる。5人とは、いじめを受けていた加奈、ガイジンといわれているブラジル人のバネッサ、虐待されているみはる、情緒不安定の母親にネグレクトされている聖哉、そして単身赴任の父親と2年も会っていない亮太。みんな「どこかへ行ってしまいたい」と思っていた子どもたちだ。この子たちは、戻ってこられるのか? 戻るには何が必要なのか? 読者は謎にひかれて読み進むうちに、現代日本の子どもをとりまく社会にも目を向けることになる。野間児童文芸賞受賞作。

10歳から/いじめ ネグレクト ミステリー

 

The Hidden Classroom

A novel dealing with the problems that Japanese children these days have to deal with. One day, five children disappear from school: Kana, a girl who was being bullied; Vanessa, a Brazilian singled out for being a foreigner; Miharu, a girl who is abused by her mother’s lover; Seiya, a boy who is neglected by his emotionally unstable mother; and Ryota, a boy whose father has been away for work for two years. Will they be able to find their way back from their “parallel school”? What do they need to do in order to return? Noma Prize for Juvenile Literature.

  • Text: Yamamoto, Etsuko | Illus. Maruyama, Yuki
  • Doshinsha
  • 2016
  • 383 pages
  • 20×14
  • ISBN 9784494020492
  • Age 10 +

Bullying, Neglect, Mystery

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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藤重ヒカル著 飯野和好絵『日小見不思議草紙』

日小見不思議草紙

『日小見不思議草紙』(読み物)をおすすめします。

江戸時代を舞台にした5篇のファンタジー短編集。不思議な刀のおかげで鼻にタンポポが咲き、相手が笑ってしまうので戦わずして勝てる侍の話、野原で出会った不思議な女の子にすばらしい絵の具をもらって出世する絵描きの話、クマの助けを借りて一夜にして堰堤を築く話など、どれも短いなりにまとまりがよく、おもしろく読める。それぞれの短編の前後に江戸時代と現代を結びつける仕掛けもあり、虚実の境がわざとあいまいになっている。ユーモラスな味わいを支えている挿絵もいい。日本児童文学者協会新人賞受賞作。

10歳から/ファンタジー 江戸時代 変身

 

Hiomi’s Tales of Mysteries

A collection of five fantasy stories set in the Edo period. A samurai wins without fighting thanks to his magical sword, which makes dandelions bloom from his own nose resulting in laughter; an artist becomes successful after being given some amazing paints by a mysterious girl he met in a meadow; a dam is built to prevent the river from flooding, with help from some bears…all the stories are short, but well-constructed and fun to read. Each also has something that connects the Edo period with the present, and the border between fact and fiction is deliberately blurred. The illustrations add a humorous touch. Newcomer Prize of Japanese Association of Writers for Children. (Sakuma)

  • Text: Fujishige, Hikaru | Illus. Iino, Kazuyoshi
  • Kaiseisha
  • 2016
  • 231 pages
  • 22×16
  • ISBN 9784035404002
  • Age 10 +

Edo period (1603-1868), Humor, Fantasy

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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岩瀬成子『春くんのいる家』

春くんのいる家

『春くんのいる家』(読み物)をおすすめします。

新しい家族の形をテーマにしたフィクション。日向は、両親が離婚した後、母と一緒に祖父母の家で暮らしているが、そこに従兄の春も加わって一緒に暮らすことになった。春は、父親が病死し母親が再婚した結果、跡取りとして祖父母の養子になったのだ。新たな5人家族は、最初はぎくしゃくしていて、感情も行き違う。しかし、春が子ネコを拾ってきたことなどをきっかけに、徐々にみんなが寄り添いあい、新たなまとまりを作り出していく。その様子を感受性豊かな日向の一人称で描いている。

9歳から/家族 友だち ネコ

 

The House Where Haru Lives

A story about a new type of family. After Hinata’s parents divorce, she goes with her mother to live with her grandparents, but then her cousin Haru also comes to live with them. Haru’s father had died of an illness, and when his mother remarried, his grandparents adopted him as an heir. To begin with, relations in this new family of five are strained, as conflicting feelings and misunderstandings arise between them. However, after Haru picks up an abandoned kitten one day, they gradually draw closer together and create a new family unit. This process is sensitively portrayed from Hinata’s perspective.

  • Text: Iwase, Joko | Illus. Tsuboya, Reiko
  • Bunkeido
  • 2017
  • 104 pages
  • 22×16
  • ISBN 9784799901625

Adoption, Family, Divorce, Remarriage

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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角野栄子作 森環絵『靴屋のタスケさん』

靴屋のタスケさん

『靴屋のタスケさん』(読み物)をおすすめします。

職人の手仕事に興味をひかれる戦時下の幼い少女の気持ちをみずみずしく描いたフィクション。舞台は1942年の東京。小学校1年生の「わたし」が住む地域に、若い靴職人のタスケさんが店をだす。少女は放課後になると靴屋にいき、タスケさんのプロの仕事ぶりに見とれる。極度の近眼のため徴兵を免れていたタスケさんだったが、やがて戦況が悪化すると少女の前から姿を消す。兵隊にとられたのだ。おだやかな日常と、暴力的な戦争の対比がうかびあがる。

9歳から/戦争 友情 切なさ

 

Tasuke the Cobbler

This story is about a little girl who is drawn to an artisan’s handiwork during the war. The setting is Tokyo in 1942, and the author bases the story on her own wartime experiences. The first-person protagonist has just started school when a young cobbler called Tasuke opens a shop in her neighborhood. She is fascinated by his craft, and after school drops by his shop to watch him at work. Tasuke had escaped the draft on account of being nearsighted, but as the war progresses even he is called up to fight. Abruptly the girl is made aware of the contrast between her peaceful days and the violence of war. Her feelings are vividly portrayed throughout the story.

  • Text: Kadono, Eiko | Illus. Mori, Tamaki
  • Kaiseisha
  • 2017
  • 72 pages
  • 22×16
  • ISBN 9784035285205
  • Age 9 +

Shoes, Artisans, War

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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八百板洋子文 斎藤隆夫絵『猫魔ヶ岳の妖怪』

猫魔ヶ岳の妖怪〜福島の伝説

『猫魔ヶ岳の妖怪〜福島の伝説』(絵本)をおすすめします。

この絵本には、福島県各地に伝わる伝説「猫魔ケ岳の妖怪」「天にのぼった若者」「大杉とむすめ」「おいなりさまの田んぼ」の4話が入っている。原発事故前の福島は、自然豊かなとても美しい土地だった。この絵本に収められた伝説からもそうした地域の背景がうかがわれ、人間と動物や自然との結びつき、人間には計り知れない自然の力などが感じられる。再話は、ブルガリアと日本の民話の研究者・翻訳者。絵も、伝説の雰囲気をよく伝えている。

6歳から/伝説 福島

 

The Monster of Nekomagadake

ーLegends from Fukushima

This book contains four legends from Fukushima that have been passed down for generations: The Monster of Nekomagadake, The Youth Who Rose to the Heavens, The Great Cedar and the Young Maiden, and The Foxes’ Rice Paddy. Before the nuclear accident that occurred during the 2011 tsunami, Fukushima was a beautiful land, rich in nature and home to many organic farmers. From these legends, we can imagine that land, feel humankind’s relationship with living creatures and nature, and sense nature’s immeasurable power.

  • Retold: Yaoita, Yoko | Illus. Saito, Takao
  • Fukuinkan Shoten
  • 2017
  • 56 pages
  • ISBN 9784834083279
  • Age 6 +

Legends, Fukushima, Nature’s power

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『こうさぎとほしのどうくつ』表紙

こうさぎとほしのどうくつ

『こうさぎとほしのどうくつ』(絵本)をおすすめします。

4匹の子ウサギのきょうだいが、嵐を逃れるために洞窟に入りこみ、となりの子ウサギたちとも出会って、洞窟の中を探検する。そのうち、ランタンを落とし、真っ暗な中を子ウサギたちは洞窟の中の大広間にすべり落ちてしまう。ところがその大広間の天井には、星のような光がまたたいていて、子ウサギたちを洞窟の出口へと案内してくれた。最後は家にもどって一安心。子ウサギたちの驚き、不安、安堵、幸福感など心のうちを、顔の表情や変化に富む背景の色でうまく表現している。

5歳から/ウサギ 友だち 冒険

 

The Little Bunnies and the Star Cave

Four little bunnies run into a cave to escape a storm. There they meet their bunny neighbors and begin exploring the cave together. But one of them drops the lantern and in the darkness, they slide into a big cavern within the cave. The ceiling twinkles as though with stars. By this light, the bunnies find their way out of the cave and return home safely. The emotions they experience, such as surprise, anxiety, relief and happiness, are beautifully conveyed through their facial expressions as well as the richly varied background colors. (Sakuma)

  • Text: Watari, Mutsuko | Illus. Dekune, Iku
  • Nora Shoten
  • 2016
  • 40 pages
  • 26×21
  • ISBN 9784905015277
  • Age 5 +

Rabbits, Caves, Exploring, Friends

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本2018」より)

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『あめがふるふる』表紙

あめがふるふる

『あめがふるふる』をおすすめします。

雨の日に、ふたりだけで留守番をしている兄のネノと妹のキフが、窓の外をながめていると、フキの葉の傘をさしたカエル、たくさんのオタマジャクシ、くるくる回るカタツムリ、踊っている木や草や野菜などが次々にあらわれる。そして魚に誘われて向こうの世界にとびこんだ兄妹は、困っている小さな動物たちを笹舟をたくさん作ってのせていく。やがてお母さんが帰ってきて、子どもたちは現実に戻る。「あめがふるふるふるふる・・・」という言葉が効果的に使われ、力強い絵がファンタジー世界を楽しむ子どもをうまく表現した絵本。

5歳から/雨の日 冒険 思いやり

 

It Rains and It Pours

Neno and his younger sister Kifu are home alone on a rainy day. As they gaze out the window, they slip into a fantasy world. One by one strange things come into view: a frog with a butterbur leaf umbrella, a horde of tadpoles, snails spinning round and round, huge trees and vegetables. Dancing joyfully, Neno and Kifu weave boats from blades of bamboo grass to help little animals get through the rain. When their mother comes home, they return to reality. The playful wording and strong illustrations capture the children’s delight in the strange world they encounter. (Sakuma)

Text/Illus. Tashima, Seizo Froebell-kan 2017 32 pages 25×23 ISBN 9784577045190 Age 5 +
Rain; Staying home alone; Reality and fantasy

(JBBY「おすすめ!日本の子どもの本 2018」より)

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『真夜中のちいさなようせい』表紙

真夜中のちいさなようせい

『真夜中のちいさなようせい』をおすすめします。

韓国の画家による初めての絵本。作者は、病弱で寝ていることが多かった幼少時代に、ゆめうつつに妖精を見たことがあるという。そんな体験を基に 2 年という年月をかけて生まれた作品。
熱を出して寝ている男の子は、お母さんが看病に疲れてうたた寝をしている間に妖精に会う。目をさまして、その妖精がくれた指輪を見たお母さんも、忘れていた記憶を思い出し、少女に戻って息子や妖精たちと遊ぶ。勢いの良さで勝負するような絵本やマンガ風の絵本がもてはやされる時代にあって、伝統的な手法でていねいに細かく描かれたこのような絵本は貴重だし、ぬくもりも伝わって想像力がひろがる。文章には登場しない猫があちこちに顔を出しているのも楽しい。

(産経児童出版文化賞/翻訳作品賞選評 産経新聞2022年05月05日掲載)

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『なかよしの犬はどこ?』表紙

なかよしの犬はどこ?

『なかよしの犬はどこ?』をおすすめします。

知らない町に父親と引っ越してきたペニーは、庭にやってきた犬といっぱい遊んで寂しさを忘れる。どこの犬だろう? ペニーと父親は、買い物をしながら犬のことをたずねてまわる。こうして町の人たちと知り合いになったものの犬は結局見つからない。しょんぼり帰ってくると、お隣からあの犬と男の子がひょっこり顔を出した。寂しさを抱える子どもが友だちを得るという展開に共感できる絵本。町の人々の肌の色、ペニーのおもちゃ、父子家庭の有りようなどいろいろな意味でステレオタイプを打ち破っている絵も楽しい。
3歳から

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年04月30日掲載)

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『ニッキーとヴィエラ』表紙

ニッキーとヴィエラ〜ホロコーストの静かな英雄と救われた少女

『ニッキーとヴィエラ』をおすすめします。

第2次世界大戦直前、迫り来るナチスの魔手から子どもを救おうとした人たちがいた。イギリス人のニッキーもそのひとり。旧チェコスロバキアにいたユダヤ人の子どもを列車でイギリスへ逃がすために奔走した。10歳の少女ヴィエラは、家族と別れて列車に乗った669人のひとり。終戦後ニッキーは、自らの功績を語ることなく静かに暮らしていたが、2人は後に再会する。チェコで生まれ、自由を求めてアメリカに移住した作者は、これまでダーウィン、ガリレオなど勇気ある偉人について描いてきたが、今回は、良心に従って行動したほぼ無名の人物を取り上げてノンフィクション絵本に仕上げた。絵が語るものをじっくり見ていく楽しさもあるし、今の時代にも重なる。
小学校中学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年03月26日掲載)

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『シリアからきたバレリーナ』表紙

シリアからきたバレリーナ

『シリアからきたバレリーナ』をおすすめします。

11歳の少女アーヤは、内戦で故郷のシリアを離れ命からがら避難する途中、父親が行方不明になり母親は心身が衰弱してしまう。たどりついたイギリスでは、幼い弟の世話をしながら難民申請のために支援センターに通う日々。ある日音楽を耳にして吸い寄せられるように歩いていくと、そこはバレエ教室だった。アーヤは故郷でも夢中になっていたバレエをよりどころに、かつて難民だった先生にも支えられ、自分の居場所を見いだしていく。難民の少女の視点で紡がれた物語。
小学校高学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年02年26日掲載)

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『マイロのスケッチブック』表紙

マイロのスケッチブック

『マイロのスケッチブック』をおすすめします。

マイロは小さな男の子。お姉ちゃんと地下鉄に乗ると、ほかの乗客たちの暮らしを想像して絵に描いていく。でも、大金持ちのぼんぼんかと思った子が自分と同じ目的地に向かうのを見て、見かけと実際の現実は違うかもしれないと思い始める。さっき寂しい独り暮らしだと思ったおじさんには仲良し家族がいるのかも。ウェディングドレスのお姉さんの結婚相手は女の人かも。マイロたちが到着したのは刑務所。面会したお母さんにマイロが見せた絵は? 想像力が現実を変えることだってきっとあるよね。
小学校低学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2022年01年29日掲載)

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『火曜日のごちそうはヒキガエル』表紙

火曜日のごちそうはヒキガエル

『火曜日のごちそうはヒキガエル』をおすすめします。

冬は地面の下で過ごしているはずのヒキガエルのウォートンは、どうしてもおばさんにお菓子を届けようと外へ出てしまう。するとミミズクにつかまり、火曜日に誕生日を迎えるミミズクのごちそうにされることに。逃げ出せずにとうとうその日が来て万事休すとなったとき、不思議なことが次々に起こる。
小学校中学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年11月27日掲載)

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『こうさぎとおちばおくりのうた』表紙

こうさぎとおちばおくりのうた

『こうさぎとおちばおくりのうた』をおすすめします。

4ひきの子うさぎきょうだいが、祭りの花火の音に誘われて、落ち葉行列に参加したり、森に入って歌ったりはねたりするうちに、道に迷ってしまう。一面落ち葉に覆われた森は、様子が変わっていたからだ。助けてくれたのは、ブナの大木「ぶなじい」。冬になる前の美しくかがやく自然の中に入り込んで、子うさぎたちと一緒にささやかな冒険を楽しめる絵本。
5歳から

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年11月27日掲載)

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『ちいさなおじさんと大きな犬』表紙

ちいさなおじさんとおおきな犬

『ちいさなおじさんとおおきな犬』をおすすめします。

小さなおじさんは、みんなからいじめられてひとりぼっち。おじさんが友だち募集の貼り紙を出すと、大きな犬がやってきた。毎日ポケットにクッキーを入れて犬がくるのを待つうち、おじさんは犬と友だちになる。楽しく日々を過ごしているところへ、かわいい女の子が登場し、大きな犬と大の仲良しに。おじさんは、自分が仲間はずれになったと思いこみ、ひとり森をさまよう。スウェーデンの地味な色彩の絵本だが、ユーモラスな絵には味があり、幸せな結末に心がなごむ。
小学校中学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年10月30日掲載)

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2022年01月 テーマ:兄弟愛

日付 2022年1月18日
参加者 アンヌ、コアラ、コマドリ、さららん、しじみ71個分、オカリナ、ネズミ、花散里、ハル、まめじか、マリンゴ、ヤドカリ、雪割草、ルパン、西山、(エーデルワイス)
テーマ 兄弟愛

読んだ本:

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『青いつばさ』表紙

青いつばさ

ヤドカリ:映画でも本でも「ロードムービー的」なお話に弱いので、熱中して読みました。兄弟が移動していくなかで、主人公が考え、いろいろなことに気づいていくという構成が、よくできているなと思いました。最後のママの決断については、驚くと同時に、これでいいのかしら、とも思いましたが、この物語のなかでは、説得力のある終わり方だったように思います。物語をとおして「翼」や「飛翔」というモチーフが、効果的に使われていたことが印象的でした。読めてよかったです。

ルパン:おもしろくて一気に読んだのですが、気になるところが多すぎて入りこめない部分もありました。まず、ヤードランのことがそんなによくわかっているなら、翼をつけて一緒に高いところに登ったら危ない(そもそも登ること自体が危ないし)でしょうし、10メートルの高さから落とされて骨折だけですむというのもちょっとリアリティがない。奇跡的にそういうことがあったとしても、ギプスをつけて座った姿勢で長時間トラクターに乗って長旅をするなんて考えられない。私も足にギプスをつけたことがあるけれど、ずっと下におろしていたら鬱血してしまうので、読みながら気が気じゃなかったです。こんな大事件があったのに、弟の体よりもツルを野生に帰すことのほうを優先しているヤードラン、そのヤードランを愛情をもって受け入れてくれる施設があるのにまだ家庭においておく決断・・・あまりにもヤードラン・ファーストな気がして、ジョシュのこれからの人生はどうなるのかな、母親はどう考えているのかな、と思ってしまいました。

さららん:2回読み返してみました。作者はベルギーの人で、舞台もベルギーかオランダ、そのあたりか。スウェーデンやフランスにもツルを見にいったと「作者より」に書いてありますので、いろんな土地の要素が混じっているのかもしれません。ともあれジョシュとヤードランのロードムービーとして移り変わる景色が見え、どんどん読み進められました。ジョシュは障碍のあるヤードランを決して嫌わず、自分が守ってあげなくちゃと思い続けている。すごい愛の物語だと思います。11歳というジョシュの年齢の設定(思春期に入る直前?)も巧みですね。兄弟が暮らすのは、障碍のある子をそのまま受け入れる学校や社会があるところ、インクルーシブ教育の進んだ国という印象を受け、ツルの子どもを連れて2人が旅に出る、という設定はもちろん、ジョシュの心の動き、ヤードランの障碍の在り方も含めて、この物語は日本では絶対に書けないものを書いている、と思いました。ヤードランの通う施設の指導員ミカ、ママの再婚相手のムラットやヤスミンも温かい人たちなのですが、ヤードランは「兄弟はいっしょにいなきゃダメなんだ!」(p102)という考えに縛られています。思いこみに加えて、ヤードランはいろんな人の言葉を口移しのように話すタイプで、例えば「ごめんね、ごめんね、ごめんね」と何度も子どもっぽく謝ったあと、「……だぜ」という男っぽい口調になります。昔、パパとママがお芝居で歌っていた歌も丸ごと覚えています。荒っぽいようで、実は繊細なヤードランが初めて見えてきました。ミカの語調が少し変わっていて、最初は男っぽいように感じたのですが、あとで、女らしい口調になっています(p73「みんなに提案があるの」など)。この人物の造形はあえてトランスジェンダー的にしているかな、と思いましたが、どうでしょう?

しじみ71個分:私はとてもおもしろく読みました。弟が兄のケアをするという設定は、韓国ドラマにもあります。お母さんに兄の面倒を見るように言われて、滅私奉公のように世話をするというのは、洋の東西を問わずテーマに取りあげられているのですね。物語の中に流れている感情が本当にやさしくて、いい話だなぁ、と思いました。弟のジョシュが兄のヤードランのことを本当に好きで、いやがりもせず、兄の性質を理解して献身的に世話をしますが、その兄のせいで大怪我をしてしまうというのはつらい。でも、愛情の裏付けがそこにあるので、つらくなく読めました。寝るときに落ちつけるように、息を合わせていく遊びを「呼吸の橋」と呼ぶのもとてもすてきだと思いました。離婚したお父さんがロシア人、お母さんの恋人がトルコ系ベルギー人などなど、家族関係が複雑だったり、国籍や人種の違う人がさまざま登場したりするのがごく自然にあたりまえのように描かれているのは、大変にヨーロッパっぽいなと思った点です。また、私もミカは最初男の人かと思い、ヤードランはゲイの要素も持っているのかなと勘違いもしたのですが、支援施設で働くしっかりした女性で、オオカミの入れ墨を入れているなんていうのもかっこよく、魅力的です。2人の南への冒険を黙って見守りながらついてくるところも、信頼がないとできないことだと思うのですが、ヨーロッパ式のなんというか、個を大事にする視点を感じました。日本だったらすぐ通報されて、連れもどされてしまうだろうなぁ。また、支援施設の名前が「空間」という名前なのも象徴的で、オープンな感じを与えるのもいいなと思いました。そういう文化的な背景の違うところをたくさん感じた物語です。2人は、ツルの子のスプリートを群れに戻すためにあてもなく南に向かいます。ゲーテの詩「ミニヨンの歌」に「君よ知るや南の国」と歌われるのはイタリアですが、この物語の中ではスペインですね。南というのは、ヨーロッパ北部の人にとっては、暖かくて豊かで幸せのあるところみたいな、特別な意味があるのですね。

コアラ:カバーの絵が、なんとなく昔の物語風に思えました。トラクターの絵というのがよくわからなくて、1920年代の車のように見えてしまいました。それで、読みはじめてみると、スマホが出てきて現代の話だったので、びっくりしました。さらさらっと読んでしまって、訳者あとがきのp226の「〈南〉は(磁石の南のことではなく)、いま自分がいる場所よりもっとよいどこかのことです」というところが、いちばん印象に残りました。そういう意味合いがあったんだなと。物語の中では、美しい場面はいろいろあったと思うのですが、ツルの子が糞まみれになる、という場面が強烈で、あまりきれいな印象をもてずに読み終わってしまいました。とにかく、最後に家族でまた暮らすことになってよかったと思いました。それから、私もミカが男性か女性かあやふやに感じました。フィンランドには、「ミカ」という男性がいますよね。登場した最初のほうでは、ミカ先生が男性だと思ってしまいました。

コマドリ:圧倒的な兄弟愛というか、どんなことがあろうともお互いのことが大好き、という気持ちが貫かれているのがよかったと思います。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花著 くもん出版)のほうも、兄弟がそういう絆で結ばれているので、共通しているところがあり、今回一緒に読めてよかったです。ツルがトラクターの後ろから飛んでくるシーンは映像を見ているようで好きでした。タイトルの「青いつばさ」が象徴的に使われており、ツルの翼と、お母さんの舞台衣装の青い翼が、どちらもヤードランにとっては大きな意味を持っています。またヤスミンが、壊れた翼を縫い合わせて再生させるのも、象徴的な感じがしました。表紙の絵は、たしかに古めかしい感じがしますね。兄弟の顔がリアルに描かれていますが、自分の想像とは違っていたので、ここまでリアルな顔ではないほうがいいように思いました。

雪割草:人への作者のあたたかなまなざしが感じられる作品で、ぐいぐい読ませる語りでした。母親がジョシュに甘えすぎかなと感じたのと、障碍をもった兄とその弟であるからかもしれませんが、兄弟の絆の強さに驚きました。ヤードランが、自分のせいで家族と離れ離れになってしまったツルのスプリートを、家族の元に連れていこうと躍起になるのが、父と母の離婚も自分のせいだと心の傷として負っていたからだったのだということが後半でわかり、胸に迫ってくるものがありました。気になった点としては、装丁がひと昔前のようで、伝えたいポイントがわからなかった(トラクターの絵は必要でしょうか?)のと、「大男」や「チビ」という訳語もイメージに合ってない気がして、古く感じられたのが残念でした。

花散里:障碍を持った兄とその弟という関係ですね。ヤングケアラーが今、いろいろととりあげられていますが、障碍をもつ兄弟がいるとき、親に何かあったときには兄弟に負担がかかっていくので、社会が保障していかなければならないということが言われています。そのあたりのことを考えさせられました。兄のことを「大男」という言い方は気になりました。母親と暮らすことになる新しい男性とその娘である女の子を受けいれて新しい家族を作っていくという感覚も新鮮で、こういう新しいスタイルの家族というのが児童文学の中でも描かれていくのかと感じました。

ネズミ:おもしろく読みました。障碍のある兄弟をもつ子どもの視点から描かれている作品は多くないと思い、いろいろ考えさせられました。お母さんは、『背景パンクノットデッドさま』の母親と対照的で、どこまでも子どものことを思っていて、それでも見えていないこともある。10メートル上から落ちて足を折るだけですむとか、トラクターで公道を走るとか、外国の話だからそれもありかと思って、このテーマに目を向けることができる気がしました。この物語では、最後にヤードランは施設に行かず、家で暮らすことになるわけですが、私は、それが最良だと作者が言おうとしているのではなく、人にも条件にもよる難しい選択を当事者が迫られることを示唆し、読者に問題を投げかけているように思いました。

まめじか:ヤスミンは、兄弟が築いてきた親密な世界に入っていけないさびしさを感じていたと思います。そんなヤスが、ヤードランが壊した青い翼を直し、鉄塔の上にいるヤードランのもとに、はしご車に乗って届ける。あざやかなイメージが強く心に残りました。それまでジョシュがヤードランの世話をしていたのが、ジョシュが怪我をしたり、また2人で旅に出たりしたことで、ヤードランがジョシュの世話をするのも印象的です。p140でジョシュは、車椅子が置きっぱなしになっているのに、だれも心配して見にこないなんておかしいと感じるのですが、そんなふうに思える社会っていいなあと。ムラットとヤスミンはトルコ系だと後書きにありますが、本文には書いてないですよね。もし作者に確認してわかったことなら、それも後書きで説明したほうがいいのでは?

しじみ71個分:私は、ムラットという名前と、ヤスミンについて、p53に「黒い髪の毛と眉毛」とあったので、金髪碧眼ではないからアラブ系の人かなと思って読んでいました。

オカリナ:原書を読む子どもにとっては、名前でどういう人かのイメージがわくのだと思います。私はアラブ系の人かと思いましたが、日本の子どもの読者はわからないので、トルコ系の人だと後書きで書いてあるのはいいな、と思いました。異文化を背負っている人だということがわかれば多様な人たちの家族というイメージを、日本の子どもも持てるので。

まめじか:「大男」という呼びかけや、「空間」という場所の名前は、日本語で読むと、ちょっとぴんときませんでした。

ハル:私は、読んでいてとっても苦しかったです。障碍のある人の自立をどう考えるかという問題については、当事者でないとわからないことも多いでしょうし、口を出すのは気が引けるような思いもどうしてもあるのですが、それでも、「兄弟や家族は絶対に離れてはいけない」なんて、特に本人の強い希望として言われたら、とても苦しくなる人も、少なからずいるのではないかと思います。施設で、家族以外の人とも暮らせるようになることも、自立のひとつだと思いますし、施設で暮らすギヨムたちの家族に愛がなかったとも思いたくありません。ほとんど死人が出てもおかしくない状況ですし、2人に連れまわされたツルの子・スプリートが下痢をしてしまうのもいやでした。お母さんが「ヤードランのことはジョシュが見ていなきゃだめじゃない」といった態度なのもいやでした。ただ3か所、家族に愛があるところ、特に「呼吸の橋」はいいなと思いましたし、p65でムバサ先生がジョシュに「あなたのお兄さんはとても特別な人だけど、あなただってそうなんだからね」と言ったところ、p210でジョシュが「脚が治ったら、たとえヤードランがどんなにうらやましがっても、潜水クラブに通うことにしよう」と心に誓うところ、その3点だけが救いでした。

アンヌ:私も、ミカが、名前だけでは男性か女性かわかりませんでした。でも、ヤスミンがスカーフをかぶっている場面で、今の時代の女の子でスカーフをしているのはイスラム系なんだろうと気がついて。こんなふうに推理しながら読むところも、海外小説のおもしろさだと思います。実は、野生のツルが頭上で飛んでいるのを見て、なんて大きいのだろうと驚いたことがあるので、ギプスの足の上に雛とはいえ、ツルを抱いての道中は大変だろうなと思いました。いちばん驚いたのは、ママの決断です。それでも、ヤードランがママと2人でミュージカルを演じる箇所を読むと、ヤードランには、施設に入って農業をする以外の道や能力が、まだいろいろあるのかもしれない。それを見つけるためにも施設ではなく、家族で暮らすという道も必要なのだろうなと思いました。

マリンゴ: ツルの子どもが登場して、途中からその子を群れに返そうとするロードムービーになることもあって、非常に視覚的で美しい作品でした。障碍をもつ家族が登場する他の多くの本と違うのは、どれだけ愛情があっても、手に負えないほど体が大きくなり力も強くなってしまったとき、リスクが伴う、ということを描いている点だと思います。その解決法は難しくて、外部の専門的な団体に委ねるのが最もいいと思われますが、主人公ジョシュは違う選択をします。ハッピーエンドのように見えるけれど、ハッピーエンドではない。これからどうなるのか、続編を読みたくなる物語でした。特に胸に残った言葉は、p187の「自分の気持ちを話すのは、脱皮するようなものよ」です。一つ気になったのは、ツルの描写です。途中、ツルが車に乗ったり降りたりするシーンで、描写がなくて、今、ツルはどこで何をしているのか、と気になる部分が何か所かありました。もう少し描写が加えてあるとなおよかったかもしれません。

オカリナ:ハードな内容ですが、ツルの子スプリートがそれを和らげているし、トラクターに乗って南を目指すのが冒険物語になっていて、おもしろく読みました。ジョシュとヤードランとお母さんという一つの家族と、ムラッドとヤスミンというもう一つの家族が一つにまとまろうとしている、もともと誰もが不安定になっている時期に、ヤードランが青年期になって力も強くなり意図しなくても暴力の加害者になりうるようになって、さらに不安定になっているという設定です。なので、最後にみんなが一つの家族になっていこうという方向性で安定感を出しているのは、作品としては納得がいく結末なのだと思います。ただ、現実を考えると、ヤードランをどうすれば家族が幸せになるのか、というのは難しい問題だと思います。障碍を持っている子どものきょうだいというのは、丘修三さんの『ぼくのお姉さん』(偕成社)をはじめいろいろな作品で書かれていますが、たいていは世話係や我慢をさせられている方がどこかで切れて、障碍を持っている子にひどいことを言ったりしたりする。そこを乗り越えて次の段階にいくという姿を描いています。でも、この作品では、p143に、ジョシュがスケートボードをしている中学生を見て「一瞬、ぼくはいっしょにやりたくなった。ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみた……」と出てくるだけ。これって不自然じゃないか、と思ってしまいました。それと、障碍を持っている者は、愛情をもった家族が世話をするのがいちばん、という間違った印象を子どもの読者にあたえるのではないかという危惧も感じました。
細かいところでは、p187に「ヤードランにひどいことをしようとしていたママに、ぼくは猛烈に怒っている」とあるのですが、p184ではジョシュも、ヤードランは「空間」に行くのがいちばんいいと悟った後なので、文章の流れとしてあれ? と思ってしまいました。

西山:読み始めて最初に、『ぼくのお姉さん』、『トモ、ぼくは元気です』(香坂直著 講談社)を思い出して、障碍のあるきょうだいを持つ子どもの葛藤が出てくるのかなと思ったんですが、そうではありませんでしたね。冒険がはじまってスプリートを死なせちゃうんじゃないのか、とか、ひやひやしながら先へ先へと読み進めたわけですが、全体としてうーんどうなのかなと思わなくはないです。p23の「お兄ちゃんが困っていたら、助けてあげてね」と母親は言うわけですが、いいのかなこれは、と。この家族は、ヤングケアラーや共依存じゃないのと思いもしました。p143に「ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみたい……」と考えるシーンもあるにはあるのですが、そこだけで、こういう思いが主題となる日本の先の作品とは方向が違っています。ミカがすごくすてきだったから、最終的に施設におちつくんだろうなと思っていたのですが……。ただ、『ぼくのお姉さん』や『トモ、ぼくは元気です』の弟が障碍を持つ姉、兄を負担に感じるのは、周りのからかいやいじめがあったからで、オランダだとそういうことはないのかなと、社会全体の違い故かもとも思いました。あと、ヤードランがソーラーパネルの向きで南を知ったり、いろいろできてしまうのは、物語としてはおもしろいのですが、危うさを感じます。いろいろできない人だったらどうなのか、とても負担を与える症状をもっていたらどうなのか。それでも共に生きる姿を見たいと思います。

しじみ71個分:私は、それまでは、幼いジョシュに甘えて、主に家族だけでなんとかしようとしていたのが、ジョシュの大怪我や2人の南への逃避行という大事件をとおして、さらにもっと、みんなで助けあおうという方向に行くのだと漠然と感じていました。そう思ったのは、p184ページのミカの「うまくいかなかったのは、わたしたち全員の責任だよ」「たとえだれかがいやだと思っても、みんながお互いを守る天使なのよ。全員がね。」というせりふや、p217のお母さんの「ミカがきっとじょうずにたすけてくれるはずよ」というせりふがあるからです。具体的には方法は示されませんが、家族で暮らすという選択肢を大事にしつつ、もっとオープンに「空間」やミカ、ムラットやヤスミンほかたくさんの人の助けを借りて、自分たちの希望を実現していくんじゃないかなという期待をもって読みおわりました。日本だとどうしても、家族だけで頑張るような、閉鎖的な印象を受けがちですが、そうではないと思いたいですね。

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エーデルワイス(メール参加):障碍をもつ16歳ヤードランの面倒を見る弟の11歳のジョシュが主人公。ママがジョシュに兄『大男』の面倒を見てあげてなんて、なんてことだろうと、腹がたちましたが、兄弟愛の強さに胸を打たれました。ヤードランが魅力的。ツルの子スプリートを『南』にいる群れに帰そうとするトラクターでの冒険の旅も臨場感にあふれています。盛岡にツルではありませんが、白鳥が越冬する『高松の池』(湖のような大きさ)があり、たくさんの白鳥でにぎわっているので、ツルの集まる湖の様子が身近に感じられました。ママの恋人の娘のヤスミンの気持ちもよくわかりました。ママが最後に、ジョシュがヤードランの面倒をみてきたのだからと、もう何もしなくてよいというところにホッとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『拝啓パンクスノットデッドさま』表紙

拝啓パンクスノットデッドさま

オカリナ:とてもおもしろく読みました。今回は兄弟愛というテーマで、もちろんこの作品は晴己(はるみ)と右哉(みぎや)の兄弟が中心なのですが、私は非血縁の人のつながりを描いているという意味で新しさを感じました。2人の母親は、兄弟をネグレクトしていて家にもあまり帰ってこない。晴己は弟のめんどうも見ながら家事もやり高校へ通っているという設定です。母親は「あんたたちのせいで、こんな人生しか生きられなかったんだよ」というのが口癖で、晴己はそれだけは言われたくないと思っているし、弟にもどなったりしてはいけないと自制している。兄弟の父親がわりになっていたのは、まったく血のつながりのない「しんちゃん」という母親の昔の友達。晴己はそのうち血縁へのこだわりを捨てて、「親でなくてもだれかに大事にされていれば大丈夫なのではないか」と思い始める。p166「母親じゃなくたってよかったのか……。/少しだけ、あきらめがついたような気がした。/たとえこのまま離ればなれになってしまっても、右哉はきっとだいじょうぶだ。自分はじゅうぶん、右哉を大事にした」と。そして自分も周りの「しんちゃん」をはじめいろいろな人に大事にされていたことに気づきます。そのうえ、母親にいったん引き取られた右哉が家出して自分の前に姿をまた現したときは、p182「自分が右哉の世話をしているんじゃない。右哉が自分をかろうじて、いまの自分にしてくれているんだ」と認識を新たにします。血縁ではない人と人のつながりが、これからは大事になってくると、欧米の児童文学はかなり前から言ってきたわけですが、日本にもこうした点に焦点を当てて描いた作品が、しかも上質の作品が出てきたという点でとても感慨深かったです。この作品に勇気づけられる子どもも多いと思います。

マリンゴ: 石川宏知花さんは、もともと文章、構成とも抜群にうまい方です。この作品は、テーマが重いですが、文章の疾走感に引っ張られて自分も高揚していく感じがありました。私の興味はハードロックどまりで、パンクの世界はほぼ知らないのですが、知らないなりに心地よく読めました。主人公が、受け身のキャラクターでありながら、世界を広げていく様がユニークで、私も中学、高校時代に音楽をやりたかったな、と思ったほどです。随所にうまいなと思うところはあります。たとえばp126で、加藤さんを菊池さんだと思いこんでいたことがバレますが、p189で「ようやく菊池さんから加藤さんへの修正が完了した」となります。主人公の思いこみの強さや、2人の親しさの深まりなどがうまく伝わります。p218で、あっという間に失恋するところもおもしろかったです。ヤングケアラーの問題として読むと、物語の最初と最後で、状況が変わっていないことは気になります。ただ、実際に似たような立場の子が読んだとき、物語のなかだけで希望の持てる展開が起きるよりも、この終わり方がリアルなのではないかと思いました。

アンヌ:今は、こういう音楽小説を読むのに、YouTubeでその時代の映像まで見られるので、音楽を聴きながら読んでいけるのが楽しかったです。そういう意味で、新しい時代の小説だなと思いました。ガンガンに音楽をかけながら疾走感を持って読み進んでいけたのですが、少し気になったのは場面が変わったことがすぐにわからないかったところです。たとえばp68からp69の電話の場面からスタジオの場面に移るところなど、2回読めば気にならなくなるのですが、最初はひっかかりました。こわれた家族のために食事をつくったりするのが、女の子なら当たり前だとされてきたので、主人公が男の子だから物語となるのかなとも思いましたが、現実に同じ立場にいる子どもたちにとって救いになるかもしれませんね。主人公も弟も物語の中で成長していくので希望を感じます。また、主人公も泣きますが、しんちゃんが泣く場面が多い。そこで、男なら泣くなとか男泣きというような従来のジェンダー的な縛りがないのも、新しい男性像のようで、いいなと思いました。

ハル:以前にしじみ71個分さんがこの本を薦めてくださったときに、早速読んですっかりハマってしまいました。しじみ71個分さんが推薦コメントとして「パンクじゃなきゃダメなんだというのがよくわかる」とおっしゃっていたと思うのですが、まさにそのとおり。パンクについての主人公たちの思いや、メロコアじゃないんだよな、というところとか、登場人物の人間性についても、もう、いちいち共感の嵐。たとえわからない曲でも、音が頭に響いてくるようで、ワクワクしました。愛があふれている作品ですね。作者のパンク(に限定せず、題材そのものかも)への愛、そして作中人物への愛もあふれていますよね。今の中学生にかけてあげたい言葉、見せてあげたい景色、とか言うとこういうのも大きなお世話なんでしょうけど、それが、全部、全部、つまっているようで、読後は快哉の声をあげたくなるような、そんな気分でした。

まめじか:晴己にとってのパンクは、まわりの世界との交点というか、それがあるから社会とつながれて居場所ができたのだな、と。「アイ・フォウト・ザ・ロウ」の歌詞も、ラストのフェスの場面で雨の中演奏しながら、「寿命が半分になってもいいから、一秒でも長く、このままでいたい」と思うところなんかもそうですが、パンクって刹那的な要素もありますよね。でも、この本はそこで終わってなくて、世界への信頼にしっかりと根ざしていて、それが児童文学の描き方だと思いました。主人公は、自分をつなぎとめている存在に気づくんですよね。自分も右哉に支えられているとか、自分にとって必要だったのは母親でもなく父親でもなく、大人になりきれていないしんちゃんだったとか。自分のまわりにも可能性が広がっていると思う主人公の姿に、「手が届かなくても、月に手をのばせ」という、クラッシュのジョー・ストラマーの言葉を思いだしました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。同じ作家の『墓守りのレオ』(小学館)は、あまり得意じゃなかったのですが、こちらを読んでよかったです。大事にする人は親じゃなくてもいいということを言うp166、「自分だって、大事にされてきた。しんちゃんにも、万田ちゃんにも。母親じゃなくたって、自分を大事にしてくれるおとなはちゃんといた」というところが、心に残りました。説教くさくならずに、行き詰まっている中学生や高校生の視野を広げてくれそうです。バンドメンバーの羽田さん、園芸委員会で、ラップを歌う女の子など、脇役の登場人物に思いがけないところがあるのもいい。親が不在のこのような兄弟がいたら、現実には福祉行政によって施設に収容されるでしょうから、そうならないところはファンタジーですよね。勢いがあり、中高校生に薦めたい作品でした。

花散里:最初、このタイトルと表紙の装丁にひきつけられました。石川宏千花さんは「お面屋たまよし」シリーズ(講談社)など、これまでの作品から小学校高学年向けの本を書かれている人だと思っていました。ハードコアパンクなど、全く未知な音楽でしたが、晴己や右哉にとってパンクという音楽がかけがえのないものであることが伝わってきました。育児放棄のような母親との関係など、兄弟愛というより家族のありかたを描いた作品だと思いました。これまで児童文学にはタブーだったことが描かれるようになってきていると感じながら読みました。右哉が自分にとってどんな存在なのか晴己が気づいていくところなどを印象深く感じました。子どもの貧困が問題になっていますが、自分が生活費を稼がないといけないと考えながら生活をしている人たちがいることなど、YA世代に読んでほしい作品ですね。

雪割草:このジャンルの音楽には詳しくないのですが、ひきこまれる語りでした。タイトルも装丁もインパクトがあって、対象の読者が手にとってくれるのではと思います。大変な状況におかれた晴己にとって、音楽が、ここではないどこかに行ける、自分の居場所として描かれているのも、たとえそれが読者にとっては音楽でなくとも、共感を呼ぶのではと思いました。だめな母親との関係やその中での心の傷や悩み、右哉に生かされているという気づきなども、リアルに描かれていると思います。色々な困難に直面しながらも、自分はこの世界で生きていける、と晴己が世界への信頼や希望を自ら見つけていく姿も、よく伝わってきました。しんちゃんはおもしろい人で、その存在もいいなと思いました。ヤングケアラーという現代の問題も含まれていて、多くの人に読んでほしいです。

コマドリ:いろんな人物が登場するけれど、うまく特徴がとらえられていました。第一印象でこういう人だと思ったら、そうじゃないとだんだん気づいていくところもよく書けています。主人公が自分の状況を冷静に分析しながら物事に対処していく、冷めたような感じがよく出ていました。親ではない、信頼できる大人の存在も大きいですね。大人にも欠点や弱いところがあるところが描かれているのも良かったと思います。弟が、中2にしては子どもっぽいと感じましたが、これは晴己から見ると弟はいつまでも母に置き去りにされた小2の弟のままだからなのかな、と最後になって思いました。弟が歌をうたう場面はかっこいいんですけどね。歌詞のせりふになりそうな言葉を付箋に書いて柱にはっていくのはおもしろかったです。最後に晴己が小学校の同級生で「コミュ障」とあだ名されていた男子の姿を駅で見かけ、おしゃれな女子高校生と一緒に笑っている様子がごく普通の高校生らしい、と思ったあとに「オレたちは本当に、これからどんなふうにでも生きられるし、どこにでもいけるんだ」と書かれていて、希望が感じられるのがよかったと思います。一つ疑問だったのは、p37で田尾さんを紹介されたとき、「タオさん」のイントネーションからてっきり中国出身の人かと思った、というのですが、田尾さんのイントネーションって田にアクセント? 尾にアクセント? ちょっとわかりにくいと思いました。

コアラ:まずカバーが派手だな、というのが第一印象です。カバーの下の方の出版社名が斜めに配置されていますよね。デザイン的にタイトルなどが斜めになっていても、出版社名はまっすぐに配置されている本が多いので、これはおもしろいな、と思いました。カバーやタイトルで、これはパンクの本だとアピールしていて、中身もパンクの用語がいろいろ出てきますが、パンクを知らなくても意味合いがわかるように書かれています。私はパンクはあまりよく知らなかったのですが、知らなくても全然問題なく読めたし、“パンク、ちょっと聞いてみようかな”という気持ちになりました。p89からの、晴己がしんちゃんにバンドをやることを言ったときの、しんちゃんの反応が印象的でした。それまでの、保護者と保護される子ども、という関係性が変わった、という変化を感じた場面でした。物語は途中まで順調に進むのですが、後半になって、弟の右哉だけが母親に連れていかれます。ここで、主人公も読者も、一度どん底に落としておいて、その後、右哉が戻ってきて夢のステージで演奏する、という盛り上げ方。作者はうまいなと思いました。パンクを知らなくても楽しめる本だと思うので、お薦めです。

さららん:右哉と晴己の人物像も、目に浮かぶようだったけれど、私はしんちゃんという大人のリアリティに魅かれました。パンク好きで、昔好きだった女性の子どもの面倒をずっと見ているしんちゃんは、どこか成熟してないから、晴己がしんちゃんに相談なしにパンクのグループを集めていると聞くと怒りだす。しんちゃんより晴己のほうが大人、というか、大人にならざるをえないのでしょうね。たとえばp142に、自分たちを置いていった母親でも「きらいには、なれなかった。ただの一度も」という描写があります。ここには複雑な思いが描かれていて、母親を嫌うと、自分自身も否定してしまうような、危ういバランスの中で生きている。憎みぬいてもいいような母親を許しているのは、バイト先の花月園の店長もふくめ、晴己の状況を理解して支える周囲の大人たちがいるからだし、特に少々頼りないしんちゃんという他人の、底抜けの善意があるからだと思いました。貧困というテーマも、親子関係や大人と子どもの関係もステレオタイプが洗い流されていて、それがパンクという反抗の音楽を通して、力強く立ちあがってくる作品でした。この世界は捨てたもんじゃない、という希望が、素直に胸に落ちました。晴己が大人になったら、どんな人になるんだろう。右哉にはなにか障がいがあるように思えましたが、それもあえて名称を出さず、右哉は右哉なんだと、型にはめていないところがいいです。

しじみ71個分:とてもおもしろくて深い印象が残った本です。もう、大好きです。パンクについて詳細に書きこんであるのが、登場人物のありようと密接に結びついていて、人物像が際立って浮かびあがってきます。なので、人物をみな頭の中で映像として思い描けるんですね。頭の中で音楽も聞こえてきて、主人公の晴巳と右哉がどれほどパンクロックが好きで、なんでパンクじゃなきゃだめなのか、という必然性が随所に感じられました。これは、モチーフとしてパンクロックそのものについて、とても細かく描きこんであるからなんだろうと思いました。人物の根幹を定義するものになっているのですね。そこが素敵でした。2人の面倒をみてくれる、しんちゃんの人物像もとても魅力的です。2人の母親にぞっこんで、相手にされていないのに、2人の面倒を独身のまま見ているという不器用な優しさや、音楽をあきらめたと見せて、晴己がバンドを組むと知って、すねてしまうところとか、大人になり切れない大人のリアルな柔らかい部分を感じます。平気で右哉だけ連れていく母親も本当にひどくってリアルで。それがあるからこそ、晴己の受けたショックがどれほど大きく、しんどいことだったのかがまたザクっと胸に響いてきます。音楽を通じて、やさしい人々の関係や、晴己の成長がしっかり描かれているので、本当におもしろかったです。不器用な人物の代表格の、擬態でギターを持ち歩いていた海鳴も切なくてよかった。クライマックスの雨の中のライブの描写も本当に、読みながらドキドキ、ワクワクして、演奏が終わって晴巳といっしょにカタルシスを感じ、泣けました。本当に読んでよかった、おもしろかったです!

ルパン:とてもおもしろかったです。ひどい母親なんですが、晴己が右哉を支えているようでいて、実は精神的には右哉の存在が晴己を支えている、というところにぐっときました。子どもたちを世話することで好きな相手とつながっていたい「しんちゃん」の存在も大きいし、「あじさい祭り」や「コミュ障の尾身」のような細かいネタが最後にひとつに収斂するところもよかったです。パンクは全然知らないけれど、それでも楽しめる物語でした。「ワン・ツー・スリー・フォー!」の高速カウントが聞こえてくるようで。「菊池さんあらため加藤さん」がたくさん出すぎて逆にどっちがどっちかわからなりましたが、名前って1度インプットされるとなかなか修正できない、という経験、私にもあります。

コマドリ:晴己は成り行きで園芸部に入るけれど、パンクバンドの世界と正反対にあるような園芸部で自然に自分の場所を見つけていくのもおもしろいと思いました。

ヤドカリ(担当編集者):石川先生との打ち合わせの場で、「パンクロック」の話を書きたいというお話をいただいたことがきっかけになって生まれた物語でした。私からも「なにか音楽モノを」という話をするつもりでしたので、「ぜひ!」ということで動きだしました。どの登場人物たちにも、きちんと眼差しが向けられていること、好きなものがあれば大丈夫なんだよ!というメッセージが、行間からひしひしと伝わってくることが、この作品の魅力だと思っています。デザインの面でも、デザイナーの坂川さんが、一目で「パンクっぽい」と思えるとっても素敵な装幀にしてくださいました。よく見ると、晴己の足がタイトルの「デッド」を踏んでいたり……などなど、色々な遊びを入れてくださっているので探してみてください。ひとつ裏話をすると、ピンクではなく黄色のカバー案もあったのですが、それはそのまますぎる……ということで、現在のデザインになりました(笑)

コマドリ:パンクの曲がわりと古いものが出てきたり、ライブの観客にもおじさんたちがいたりするのですが、パンク好きの世代は幅広いのでしょうか? そういうのはいいなと思いました。

西山:何度か読んでいますが、ますますいい、という感じです。最も印象的なのは「誘われてなにかする分にはしかたがない」「だれかに誘われてすることだったらノーカウントだ、と考えてしまう傾向がある」(p34~35)晴己の感覚です。そういう風に、自らリミッターをかけて自分を守っている様子がほんとに、厳しくて胸に刺さります。ただ、今回、バイトについて「自分がそれを望んでするのはよくても、強制されるのはいやだった」(p220)という、ここはここで分かるし、今までひっかかったことはなかったのですが、前者の考え方と合わせてちゃんと考えると、晴己像はもっと深まるのかも知れないと感じています。あと、やはり、しんちゃん、海鳴のありかたがとてもおもしろく、世界を広げていると思います。間接的にしか出てこないけれど、保健室の先生「万田ちゃん」の存在もよいです。

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エーデルワイス(メール参加):読むのが苦しかったです。現在高校生の晴己がほとんど家に帰ってこない母親の代わりに小学生の時から弟の右哉の面倒をみて生活しています。最低限の生活費なのでアルバイトをしながら学業、家事をこなしています。しんちゃんという愛情もかけくれる支援者がいなかったらと思うとぞっとします。母親に対して過度な期待しない、後で苦しくなるからという、晴己の気持ちが嫌というほど伝わってきます。それでも兄弟は母親を慕っているというのも現実ですね。若者たちの群像劇と受け止め、最後がさわやかに希望の持てる終わり方でほっとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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わたしたちもジャックもガイもみんなホームレス〜 ふたつでひとつのマザーグースえほん

ホームレス,病気,飢饉,エイズなどの社会問題に目を向け,マザーグースの詩にのせて展開する,不思議な魅力のファンタジー絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ダチョウのくびはなぜながい? 〜 アフリカのむかしばなし

昔むかし,首の短いダチョウがワニに虫歯の治療をたのまれて……。ケニヤに伝わる昔話を,カルデコット賞に輝くコンビが絵本化。 (日本児童図書出版協会)

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白雪姫と七人の小人たち (改訂版)

有名なグリム童話の絵本決定版。画家のひたむきな努力が実をむすび,物語の雰囲気をよく伝えています。格調の高い作品です。 (日本児童図書出版協会)

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マーヤのやさいばたけ

自然とは親しい友だちのマーヤが,畑でいろいろな野菜をつくり,それを使って,お料理をしたり,パーティーを開いたりします。 (日本児童図書出版協会)

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せかいいち大きな女の子のものがたり

大きなアンジェリカは,村人を困らせていた大クマを退治します。木を削った薄い板にダイナッミックに描かれた,底抜けに愉快なお話。 (日本児童図書出版協会)

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マーヤの春・夏・秋・冬

マーヤは,四季それぞれに身の回りの鳥や木や花や虫を観察して,おもしろいことをたくさん発見する。絵も文も楽しい自然観察の本。 (日本児童図書出版協会)

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小さな魚(改訂版)

第2次大戦末期,荒れはてたイタリアを舞台に,孤児たちがたくましく生きていく姿を描く反戦文学の改訳新装版。 (日本児童図書出版協会)

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おじいちゃんとのクリスマス

祖母が死んでひとりになった祖父と、クリスマスをすごすためにプラハに来たトマス。ごちそうにするコイがかわいくなり「食べるのはイヤ」と思ったトマスを、祖父の温かい心がつつみます。(Bookデータベース)

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くまくんはなんでもしりたい!

1995-09好奇心いっぱいのかわいいくまくんと一緒に時間や数や色のことを勉強したり,まちがいさがしや反対さがしのクイズで遊ぶ絵本。 (日本児童図書出版協会)

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いちねんのりんご

丘の上のリンゴの木には,12色の実がなります。新しい月が来るたびに一つ実が落ちて割れ,雪だるま,お姫様へと変身します。 (日本児童図書出版協会)

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わたしのだいすきなふねは…

小さなボートから大きな海を渡っていく客船まで,様々な船を力強いダイナミックな絵で紹介。何度でも見たくなる楽しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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わたしのだいすきなどうぶつは…

犬,にわとり,馬,牛,ねこ,ぶた……。子どもたちがよく知っている動物たちを迫力満点のダイナミックな絵で表現した絵本。 (日本児童図書出版協会)

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顔のない男

女ばかりの家族の中で孤立し悩む14才の少年。夏の日,顔半分に火傷を負った男と出会い,現実を直視し愛を恐れずに生きることを知る。 (日本児童図書出版協会)

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もうおふろにはいるじかん?

おふろに入るのは,ちょっと苦手かな? でもオオカミの子が眠りにつくまでのお父さんとの楽しいやりとりを見れば,もう大丈夫! (日本児童図書出版協会)

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いいこってどんなこ?

小さなうさぎの男の子とお母さんとの間のやりとりで展開する絵本。不安を抱えた幼い子をあたたかく包みこむお母さんがすてき。 (日本児童図書出版協会)

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ラクソーとニムの家ねずみ

自分たちの巣をダムから守るため,ねずみたちはコンピュータを利用することに…。父の遺稿を娘が引き継いだ,シリーズ第2弾。 (日本児童図書出版協会)

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くつくつどんなくつ?

ボタンの靴,ひもの靴,ゴム長靴にスケート靴…。靴がいっぱい出てくる楽しい絵本。中でも一番いいのは何でしょう? (日本児童図書出版協会)

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やんちゃねこのセビー

やんちゃな子ねこのセビーが,初めてひとりで家の外に出て,いろいろな動物と出会いながら農場を見て回ります。穴あきミニ絵本。 (日本児童図書出版協会)

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セビーのぼうけん

遊び相手がほしい子ねこのセビーは,農場の動物たちを次々にたずね,そのたびにびっくりしたり怖くなったり。穴あきミニ絵本。 (日本児童図書出版協会)

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3びきのかわいいオオカミ

お話はちょうど『3びきのこぶた』の逆で,無邪気なオオカミが悪い大ブタにいじめられます。昔話をしのぐ,現代的な動物寓話。 (日本児童図書出版協会)

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パンはころころ〜ロシアのものがたり(改訂版)

ころんころんところがり出たパンは,いろいろな動物からねらわれますがうまく逃げるので大丈夫。得意になってキツネの鼻へ……。 (日本児童図書出版協会)

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星のふる夜に

国際的に名声の高い日本画家が,小鹿の一夜の冒険を美しく表現しました。文字のない,絵の力が強く語りかける絵本。 (日本児童図書出版協会)

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よるの森のひみつ 〜スイス南部の昔話より

南スイスの昔話をもとにした現代版「こぶとり」の物語絵本。動物や植物と仲良くすることの大切さを,美しい絵で表現しています。 (日本児童図書出版協会)

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氷河ねずみの毛皮

極北へ向かう夜汽車を舞台に,自然界における「とるもの,とられるもの」の関係を描いた物語。新進気鋭の画家による幻想的な絵本。 (日本児童図書出版協会)

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月の姫

竹から生まれ,天上界と地上界の間で揺れ動く姫の心情を,大胆な墨の色と勢いのある日本画で表現した,力強く美しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ロージー、はがぬける

ロージーの歯が抜けました。でも,ロージーは,歯の妖精にあげたくありません。子どもの成長をあたたかくとらえたシリーズ2作目。 (日本児童図書出版協会)

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ロージー、いえでをする

うさぎのロージーはママとお菓子をつくりたいのに,ママは弟のマットをかまってばかり。ロージーは家出をすることにしました。 (日本児童図書出版協会)

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ごちそうさまのなつ

野菜畑にはごちそうがいっぱい。天真爛漫なウサギの一家と人間の夫婦の知恵くらべ。ユーモアあふれる楽しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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モグラのイーニーがみつけたもの

まっ暗な深い穴の底に住むモグラの三姉妹。末のイーニーは,地面の上にすてきなものがあると聞き,それを探す冒険にでかけます。 (日本児童図書出版協会)

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おじいちゃんのはたけ

おじいちゃんのはたけには,いつも野菜や果物がいっぱい。はたけの作物を通して四季の移り変わりを鮮やかに描いた絵本です。 (日本児童図書出版協会)

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イングリッド・メンネン&ニキ・ダリー文 ニコラース・マリッツ絵『ぼくのアフリカ』

ぼくのアフリカ

南アフリカの反アパルトヘイト出版社の出した絵本の翻訳。男の子が自分の住んでいる街を紹介する。力強い絵が素晴しい。 (日本児童図書出版協会)

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もりのともだち

春になり,氷の家がとけてしまうと,きつねは野うさぎの家を占領してしまいました。それを聞いた森の動物たちは……。 (日本児童図書出版協会)

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妖精事典

ケルト圏を含む英国諸島や西欧に伝わる妖精約400種が登場。妖精や妖怪との遭遇体験など読んでおもしろい話がいっぱい。超自然的存在に魅せられた詩人や作家や研究者の評伝も豊富。伝承にあらわれる妖精との交際法や妖怪を避ける方法を紹介。(Bookデータベース)

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バタシー城の悪者たち

画学生サイモンの下宿先は,王の暗殺をたくらむ一味のすみかだった。大冒険のすえ,悪者たちをやっつけるゆかいな物語。 (日本児童図書出版協会)

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サンタのおまじない

けんちゃんに届いたプレゼントは,大嫌いな野菜のつめあわせ。でも,おまじないを唱えると,切り絵のマジックで野菜が変身! (日本児童図書出版協会)

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やさいをそだてよう

無農薬で生態系を大事にしながら野菜を作る,子供のための園芸書。生命をいつくしみ,身の回りの環境に目を向ける力を養います。 (日本児童図書出版協会)

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ねこのタビサ

猫から見ると,人間の暮らしはどんなふうに見えるでしょうか? 子猫のタビサが母猫になるまでを描く絵物語。猫好きの方へ。 (日本児童図書出版協会)

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じめんのしたのなかまたち

北風が吹きあれ,雪がふりしきる季節に,地面の下はどうなっているのでしょう? 冬ごもりする虫たちの暮らしを描いた美しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ちいさなおうさま

浜辺のお城に小さな王様が住んでいました。王様はひとりぼっちでさびしかったが、猫がきたり、隣人がふえたりして楽しくなる。メルヘン的な絵。 (日本図書館協会) ブラティスラヴァ世界絵本原画展グランプリ( 1987)受賞作。

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ぬすまれた湖

ダイドーが、またもやふしぎな事件に遭遇。湖をとりもどしてほしいと依頼してきたのはなんと1300歳になるアーサー王の王妃さま。小学校高学年からおとなまで。(Bookデータベース)

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ケティのはるかな旅

アメリカの西部開拓時代に生きた一人の少女ケティ。新しい土地へ移住する旅の程で様々な事件に出会いながらケティは成長する。 (日本児童図書出版協会)

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からすのかーさんへびたいじ

かのハクスリーの書いた唯一の子どもの本。からすの夫婦が,いつも卵を盗みにくるへびを退治するまでの愉快な絵物語。 (日本児童図書出版協会)

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おいしいものつくろう

料理は初めてという小さなお子さまにもかんたんに作れます。火も包丁も使わないおやつやジュースまで。 (日本児童図書出版協会)

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『にげだしたまじょ』表紙

にげだしたまじょ

777歳になる魔女のペタンコアンヨは、呪文に失敗しては、そのたびに自分の足が大きくなって、くさっていました。少女二キとのお話。 (日本図書館協会)

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うっかりまじょとちちんぷい

どじな魔女の見習いとなった,ちちんぷいは子供たちの味方をして,やがて天使になります。 (日本児童図書出版協会)

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ふふふんへへへんぽん! 〜 もっといいこときっとある

むく犬ジェニーは,何不自由のない暮らしに退屈し,”もっといいこと”をさがして旅に出ました。さてジェニーが見つけたものは? (日本児童図書出版協会)

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びっくりどうぶつえん

子どもたちの大好きなクイズや数あて,まちがいさがしなどがいっぱい載った動物絵本。動物の生態や姿なども知ることができます。 (日本児童図書出版協会)

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かみとあそぼう

1枚の紙とハサミとのり,動物やお面かわいい箱やとび出すカード43種類の紙工作を,型紙つきで紹介します。 (日本児童図書出版協会)

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ノアの箱船に乗ったのは?

『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟の話をもとにした長編小説。時代を古代エジプト第6王朝(約4000年前)の頃に設定し、ノアをはじめ登場人物は人間的に描かれている。 (日本図書館協会)

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遠い日の歌がきこえる

キャトリーナとトビー、ミランダはイギリス諸島の一つで休みをすごすことになった。島の中の冒険、浜辺に棲むアザラシたち等、自然を通して成長していく若者達を描く。 (日本図書館協会)

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サンゴしょうのひみつ

1982年にニュージーランド最優秀児童文学賞を受賞した小説。耳と口の不自由なジョナシはサンゴ礁で不思議な白い亀に出会う。少年と亀の間に芽生えた愛の物語。 (日本図書館協会)

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ふしぎなどうぶつえん

迷路,かくし絵,数あて,まちがいさがし……子どもたちの大好きな遊びやクイズがいっぱいの動物絵本です。 (日本児童図書出版協会)

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いい子になれっていわないで

ジャンは,勉強はできないし,お行儀も悪い。先生や親の期待する”いい子”からはほど遠い。でもジャンは,車が大好きだった。 (日本児童図書出版協会)

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セロひきのゴーシュ

おなじみの若き音楽家と動物たちの交流の物語を,「私もひとりのゴーシュだ」と言う司修が,思いをこめて描いた力作です。 (日本児童図書出版協会)

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ふしぎな子

ツヴェルガーのデビュー作。

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まよなかのパーティー〜ピアス短篇集

美しい自然を背景に,ゆれ動く子どもの心の情景を描き,現実と幻想の接点をさぐる,すばらしい短篇集。 (日本児童図書出版協会)

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鳴りひびく鐘の時代に

鐘の鳴りひびく北欧中世の暗い時代に,自分らしい生き方を探しもとめた若き王。生きることの意味を問いかけるファンタジー。 (日本児童図書出版協会)

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シュゼットとニコラ6〜あめふりつづき

一週間のお休みというのに、日曜日から土曜日まで雨ばかり。でも、オーケストラごっこをしたり、かくれんぼをしたり、かそうパーティをしたりします。 (日本図書館協会)

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七わのからす

かしこくて勇敢な女の子が,からすになった七人の兄さんたちを助けだすというグリムの有名な話に,美しい絵がつきました。 (日本児童図書出版協会)

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いっとうのいぎりすのおうし

にひきのにたものがえる、さんとうのさけのみとら、よんわのよくばりぺんぎん、ごひきのごきげんなわに、などで12までの数を数える。言葉遊びも含む。 (日本図書館協会)

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ことりのオデット

一羽の小鳥が、辻音楽師のおじいさんと仲よく一緒に暮らしていました。でも秋になると、小鳥は暖かい国へ飛んでいかなければなりません・・・。 (日本図書館協会)

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もしもまほうがつかえたら

ある日,屋根裏で見つかった本には,魔法の呪文が書いてありました。ジャックはこの本を使って大人への復讐を考えます。 (日本児童図書出版協会)

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なめとこ山のくま

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賢者のおくりもの

クリスマスのプレゼントを買いたくて,おたがいに自分のいちばん大切なものを手放してしまう若く貧しい夫婦の心を打つ愛の絵物語。 (日本児童図書出版協会)

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ウィルソン文 市川里美絵『メリークリスマス』さくまゆみこ訳 冨山房

メリークリスマス 〜 世界の子どものクリスマス

子どもたちが心待ちにしているクリスマスって一体何なのでしょう? 他の国では,どんなお祝いをしているのでしょう? (日本児童図書出版協会)

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ねずみのウーくん 〜いぬとねことねずみとくつやさんのおはなし

くつ屋さんのペットは,けんかばかりしている犬とネコ,それにネズミのウーくん。そこへネズミぎらいのおばさんがやってきた。 (日本児童図書出版協会)

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あかずきん

数々の絵本賞,美術賞にかがやくツヴェルガーが,グリムの世界の雰囲気をそのまま伝えます。赤ずきん絵本の決定版。 (日本児童図書出版協会)

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魔法の城

ジェラルド、ジミー、キャスリーンの3人の兄妹が道端のほら穴をみつけ、入って行くと、素晴らしい大庭園に出る。そしてそこでピンクの美しい服を着た少女をみつける・・・。 (日本図書館協会)

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わらべうた 下

「かごめ かごめ」「かってうれしい はないちもんめ」「ことしのぼたんはよいぼたん」「とおりゃんせ」など古くから人々に親しまれている歌に絵を添えて紹介。 (日本図書館協会)

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ばらになった王子

ドイツの古典的な物語に,数々の国際絵本賞に輝く新進画家が美しい絵をつけました。小学生から楽しめるファンタジックな物語絵本。 (日本児童図書出版協会)

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なにしてあそぶ?

幼い子どもたちの生活が描かれた絵本。なわとび,かけっこ,人形芝居…子どもたちの創造性豊かに生き生きと遊ぶ姿が楽しめます。 (日本児童図書出版協会)

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『シュゼットとニコラ〜ゆめのどうぶつえん』表紙

シュゼットとニコラ5〜ゆめのどうぶつえん

ジュゼットとニコラは動物園で見た動物たちそれぞれのふるさとを訪ね、そこで彼らがどんなふうにくらしているかを見る。 (日本図書館協会)

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キリスト物語

美しい絵と,ひびきの良い文章で,イエス・キリストの一生をわかりやすい物語にして紹介します。 (日本児童図書出版協会)

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わらべうた 上

日本の山河を背景にして生まれ,代々受けつがれてきた伝承わらべうたの中から,リズムと言葉のおもしろいものを選びました。 (日本児童図書出版協会)

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ひみつの白い石

黒い髪をひらひらさせている背の低いやせっぽちの少女フィアと、半年毎に引越す靴屋の甥のハンプス少年との間を行ったり来たりする不思議な石の物語。 (日本図書館協会)

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まよなかのだいどころ

真夜中に目をさましたミッキーは,パン焼き職人が働いている台所へ。そしてはじまるふしぎな世界…。センダック三大代表作の一つ。 (日本児童図書出版協会)

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りす女房

嵐で倒れた大木の下敷になったみどりの森の妖精を助けた豚飼いの男が、お礼にもらったリスの化身の女房と、意地悪な兄の妨害にもめげず幸せになる話。 (日本図書館協会)

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いちばんぼしみつけた〜こどものための詩集・2

フロスト、エリオットなどイギリスの詩人の、子ども向きの作品20編を、楽しい挿絵入りで収録。 (日本図書館協会)

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雪の下の巨人

悪の一味である大将軍と手下の革人間たちがイギリス東部を支配しようと襲って来た。ジョンクとビルとアーフの3人が魔法を使うエリザベスの助けを得て一味をやっつける話。 (日本図書館協会)

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しろひげパチリくろひげパチリ

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ちいさなちいさなえほんばこ

『ピエールとライオン』『アメリカワニです、こんにちわ』『チキンスープ・ライスいり』『ジョニーのかぞえうた』の豆本4冊セット

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ジョニーのかぞえうた

ゆうゆうとひとり暮らしをしていたジョニーのところへつぎつぎに招かれざるお客がやってくる。ゆかいなゆかいな数え歌絵本。 (日本児童図書出版協会)

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アメリカワニです、こんにちは〜 ABCのほん

アメリカワニの一家が,ABC…と順番にZまで,楽しくアルファベットを教える絵本。ワニの動作がゆかいで,ついひきこまれます。 (日本児童図書出版協会)

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くるみわり人形とねずみの王さま

有名なくるみわり人形の物語の全訳。クリスマスに贈られたくるみわり人形が,ねずみの軍勢と戦い,マリーをお菓子の国へと誘う。 (日本児童図書出版協会)

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森の子ヒューゴ ( 北国の虹ものがたり3)

規則にしばられるのが大きらいなヒューゴは,母の死や父の逮捕にも負けることなく,自由にのびのびと生きてゆきます。 (日本児童図書出版協会)

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ふたり

精密に描きこまれた石版画,リズミカルなことば,いろいろな工夫やしかけ……。ネコとネズミの”ふたり”の関係を描いた傑作。 (日本児童図書出版協会)

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『ママたちとパパたちと』表紙

ママたちとパパたちと

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アベラールどこへいく〜 ちょっとかわったカンガルーのおはなし2

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シュゼットとニコラ3〜きせつはめぐる

シュゼットと二コラの、春からクリスマスまでの生活や遊びの移りかわりを、写実的であたたかい絵によって描き出した絵本。 (日本図書館協会)

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シュゼットとニコラ4〜こどものサーカス

市川氏の考えた話の筋にもとづいて、矢川氏が新たに文を書いている。ジュゼットと二コラの住む村で「世界こどもサーカス」が合宿をする。サーカスの芸を紹介。 (日本図書館協会)

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チキンスープ・ライスいり 〜12のつきのほん

何よりもおいしいお米の入ったチキンスープを毎回登場させながら,1月から12月までの季節の移りかわりを表現した楽しい絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ピエールとライオン〜 ためになるおはなし

誰のいうこともきかないへそ曲がりのピエールが,大きなライオンに食べられてしまう! こわくてゆかいで”ためになる”絵本。 (日本児童図書出版協会)

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ヒューゴとジョセフィーン (北国の虹ものがたり・2)

スウェーデンの少女ジョセフィーンの、小学校の入学式からクリスマスまでの生活を、不思議な少年ヒューゴとのかかわりで描く。 (日本図書館協会)

型やぶりの少年ヒューゴと多感な少女ジョセフィーン。二人の”規格外”の子どもが,小学校に通うようになりました。 (日本児童図書出版協会)

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やまわらしきえた(わが西山風土記・冬)

シリーズの4巻目。

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ティムとサンタクロース

ティムとヘレンにポリーとサイモンが生まれました。雪の日ケーキの飾りになるサンタクロースを助けた親子は、楽しいクリスマスをすごします。 (日本図書館協会)

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ティムのおよめさん

はつかねずみのティムは、ヘレンと結婚しました。でも、ヘレンは、教会からでてきた花よめさんの美しいドレスを見てから、自分もドレスばかり作り始めます。 (日本図書館協会)

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ティムとめうしのおおさわぎ

はつかねずみのティムと、はりねずみのブラウンさんは、ミルクをもらいに農家へいきます。ねずみを見ておどろいた牝牛たちは大さわぎ・・・。 (日本図書館協会)

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チキチキバンバン〜まほうのくるま 1 ・2・3

1)孤独な発明家カラクタカスが50ポンドで買った中古のパラゴンパンサーが空を飛ぶ話。2)みち潮のため海中に沈みそうになったチキチキバンバンは、危機一髪のところで助かります。 (日本図書館協会)

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なだれだ!行け そうさく犬

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小さなジョセフィーン(北国の虹ものがたり・1)

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あさなゆうなに〜こどものための詩集・1

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こんこんさまよめいりいつじゃ(わが西山風土記・秋)

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忘れ川をこえた子どもたち

100年以上も昔の、リンゴの花咲く平和な村や、「忘れ川」に囲まれた北国の不思議な館を舞台に、幼い2人の子をめぐってくりひろげられる幻想的な物語。 (日本図書館協会)

スウェーデンの児童文学

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ティムとひこうせん

ティムが、はりねずみや、こまどりと力を合わせ、ひこうせんで、かやねずみを麦畑から救い出すお話。 (日本図書館協会)

 

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ティムといかだのきゅうじょたい

イギリスの絵本。

どぶねずみに捕えられたかえるのウィリーを探しながらのティムの冒険旅行。 (日本図書館協会)

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やまわらしだれや(わが西山風土記・夏)

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シュゼットとニコラ 2〜おつかいに

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さくま編訳『キバラカと魔法の馬』表紙

キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし

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あまがえるどこさいった(わが西山風土記・春)

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その他

◆1970年4月から1973年1月まで文化出版局編集部書籍編集課で、絵本の編集を担当していました。課長は『ヘビのクリクター』を訳された中野完二さんで、ちょうど文化出版局で絵本の出版を始めようとしていた頃。
H.A.レイの「じぶんでひらく絵本』シリーズ、長新太さんの「らいおん」シリーズや『ぼうし』や『しっぽ』、アーノルド・ローベルの絵本、太田大八さんの『のぼっちゃう』、石川重遠さんの『だれのぼーる』『かくれんぼ』『にじのくに』などの編集にかかわりました。

◆1979年5月から1998年9月までは冨山房編集部で、子どもの本を編集していました。
翻訳絵本、読み物、辞典などさまざまな子どもの本を担当していました。忘れないうちに思い出したものを書き出しました。若い人と一緒に作った本もあります。

 

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「2023年IBBYバリアフリー児童書」に日本から推薦した本

2月13日に「2023年IBBYバリアフリー図書」に日本から推薦する本を選ぶ選考会がありました。選考委員は、梨屋アリエさん(児童文学作家)、林左和子さん(静岡文化芸術大学教授)、村中李衣さん(児童文学者/ノートルダム清心女子大学教授)、山田真さん(小児科医)、そして私です。進行はいつも撹上久子さんがやってくださいます。
前は候補の本を並べて、一つずつ見ながら話し合っていたのですが、コロナでそれができなくなり、事前にそれぞれ見ておいてからオンラインで話し合うというかたちになりました。
この選考会は、いつもほかの委員の方々の意見をうかがって、なるほどと思うことが多々あるのですが、今回も「軽度障碍者を派遣で雇うことがいいことであるかのような書き方でいいのか」「パラリンピックの選手をこういうふうに描くと、障碍者にもっと努力しろというようなものではないか」「こういうふうに間の動きを描いてもらうと発達障碍の人たちにもわかりやすい」「これだと命を粗末にしているようにとられる」などなど、いろいろな意見が出てきました。
3時間の話し合いの結果、日本から推薦することにしたのは、次の作品です。
◆カテゴリー1:誰もがアクセスできる本
・『音にさわる-はるなつあきふゆをたのしむ「手」』広瀬浩二郎作  日比野尚子絵 偕成社
・『かける』はらぺこめがね作 佼成出版社
・『仕事に行ってきます① クッキーづくりの仕事 洋美さんの1日』(LLブック)季刊『コトノネ』編集部作 加藤友美子写真他 埼玉福祉会
・『どちらがおおい? かぞえるえほん』村山純子作 小学館
・『ふーってして』松田奈那子作 KADOKAWA
・『まどのむこうの くだもの なあに?』荒井真紀作 福音館書店
・『りんごだんだん』小川忠博作 あすなろ書房
◆カテゴリー2:障害がある子どもや人物を描いた本
・『全身マヒのALS議員 車いすで国会へ』舩後靖彦、加藤悦子、堀切リエ著 子どもの未来社
・『めねぎのうえんのガ・ガ・ガーン』多屋光孫作 合同出版
・『わたしが障害者じゃなくなる日』海老原宏美著 旬報社
2023バリアフリー児童書へJBBYが推薦した図書
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『スティーブン・ホーキング』(化学同人)表紙

スティーブン・ホーキング〜ブラックホールの謎に挑んだ科学者の物語

好奇心をもつことに焦点を当てた伝記絵本。体の自由が失われていっても、「どうして?」「なぜ?」と問いつづけた宇宙物理学者の誕生から死までを、すてきな絵と簡潔な文章で描いています。絵がとてもおもしろいです。

先日JBBYの「ノンフィクションの子どもの本を考える会」では、最近出版されている伝記について話し合いました。

かつては子どものための偉人伝がたくさん出て、よく売れていました。そのほとんどは偉さや、人並みはずれた頑張りや、克己心などを描いたものでした。なので、私はどうしても「わざとらしい」と思ってしまっていました。最近の伝記は少し違ってきているように思います(日本では旧態然とした偉人伝がまだたくさん出ていますが)。いわゆる「偉人」ではない人にも焦点を当てた伝記が出るようになりました。それに、偉さではなく弱点ももった人間として描こうとするようになってきたと思います。

ホーキングは「偉人」ではありますが、この絵本では、好奇心を中心にすえ、ホーキングのユーモアやお茶目な側面も描いています。そういう意味では「新しい伝記」の一冊かもしれません。

同名の伝記絵本を私はもう一冊約していて、それはこちらです。

(編集:浅井歩さん 装丁:吉田考宏さん)

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『スティーブン・ホーキング』(ほるぷ)表紙

スティーブン・ホーキング

小学校低学年から読めるようにと工夫された伝記絵本で、車椅子の宇宙物理学者として有名なホーキング博士の子ども時代から、難病にかかって絶望の縁においつめられたこと、そこから気を取り直して好奇心旺盛に何にでも挑戦するようになっていったこと、そして現代で最もすぐれた宇宙物理学者になったところまでを、親しみやすい絵で描いています。

このシリーズのコンセプトは、幼い頃に抱いた夢がどんなふうに将来につながっていったかを絵本で表現するということ。ほかには、マザー・テレサ(なかがわちひろ訳)、オードリー・ヘップバーン(三辺律子訳)、ココ・シャネル(実川元子訳)、キング牧師(原田勝訳)、マリー・キュリー(河野万里子訳)、ガンディー(竹中千春訳)、リンドグレーン(菱木晃子訳)、エメリン・パンクハースト(上野千鶴子訳)、マリア・モンテッソーリ(清水玲奈訳)があり、小学校の図書館に入れたらよさそうです。

本の翻訳は、つながっていることがあって、「ホーキング博士のスペースアドベンチャー」シリーズ(岩崎書店)を翻訳したことから、ホーキングの伝記絵本の翻訳依頼をいただいたのですが、ホーキングさんの伝記はもう1冊(『スティーブン・ホーキング〜ブラックホールの謎に挑んだ科学者の物語』キャスリーン・クラル&ポール・ブルワー文 ボリス・クリコフ絵 化学同人 2021.06)を訳しています。
(編集:細江幸世さん 装丁:森枝雄司さん)
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エミリー・ロッダ『彼の名はウォルター』表紙

彼の名はウォルター

ロッダさんの、シリーズではない単発の作品で、オーストラリア児童図書賞を(またもや!)受賞しています。テーマは歴史、多様性、ミステリー、権力に翻弄される若者といったところでしょうか。

学校の遠足で歴史的な町を訪れるはずだったのに、途中でバスが故障します。ほかの生徒たちはそこから歩いて目的地に向かいますが、コリン(転校生)、グレース(足の怪我で松葉杖をついている)、ルーカス(コンピュータ好き)、タラ(バスの中で鼻血を出した)の4人は、フィオーリ先生(イタリア系、遠足の責任者)と共に、その場でタクシーが来るのを待つことになります。

今にも嵐が来そうな天候です。バスを回収に来たレッカー車の運転手に、丘の上の古い館で待つといいと助言され、5人はひとまずその館に避難します。ところがタクシーは現れず、5人はその古い館で夜を明かすことに。コリンは、キッチンにおいてあった書き物机の秘密の引き出しに手作りの美しい本が入っていたのを見つけ、タラと一緒に読み始めます。その本の書名は『彼の名はウォルター』。

ところが、何者かがその本を読ませないようにしているらしく、不気味な館では不気味な現象が次々に起こります。この館では過去に何があったのか、その本にはどんな真実が書かれていたのか──見た目も性格もバラバラで友だちでさえなかった4人の子どもたちが、その謎を解き明かしていきます。

現在と過去を1冊の本で結びつけるロッダさんのストーリーテリングが、すばらしい! 館の不気味さと謎でグイグイ引っ張っていきます。

自分で持ち込んで出してもらった本ですが、原書が276ページ、日本語版が350ページ。ページ数が多いので、訳者あとがきはありません。

(編集:山浦真一さん 表紙イラスト:都築まゆ美さん 装丁:城所潤さん+大谷浩介さん)

 

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<紹介記事>

・「朝日新聞」(子どもの本棚)2022年03月26日掲載

週末の遠足でグロルステンという歴史的な町へ出かけた子どもたち。乗っていたミニバスが途中で故障し、フィオーリ先生と4人の生徒は田舎道で立ち往生し、丘のてっぺんにある2階建ての古い屋敷で一晩を過ごすことにした。屋敷の中にあった書き物机から、コリンは表紙に『彼の名はウォルター』と書かれた手書きの本を見つける。不安な夜をその本を読み合うことで切り抜けようとするが、物語の世界が現実に侵食してきて、いいようのない恐怖感に包まれていく。スリル満点のストーリー展開に身がすくむ思いがした。(エミリー・ロッダ著、さくまゆみこ訳、あすなろ書房、税込み1760円、小学校高学年から)【ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん】

 

<紹介映像>

・大阪国際児童文学振興財団 「本の海大冒険」土居安子さんによる紹介

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2021年12月 テーマ:非日常の経験

日付 2021年12月16日
参加者 ネズミ、ハル、シア、アカシア、アンヌ、さららん、マリトッツォ、雪割草、まめじか、西山、サークルK、(しじみ71個分、ニャニャンガ)
テーマ 非日常の経験

読んだ本:

(さらに…)

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『海を見た日』表紙

海を見た日

ハル:ここ何回か、里親と里子の家族のお話を読みましたが、今回はだめな里親というか、里親自身も成長していった点が新鮮でした。理想的ではないのかもしれませんが、それでいいようにも思うんですよね。「だめ」の程度にもよるとは思いますが、心が成熟した素晴らしい大人しか里親になれないというんじゃなくてね。p184の観覧車から海を見るシーンが印象的でした。「きっと世界は、そんなにひどいところじゃない」という1行には、励まされもするし、この子たちのこれまでの日々を思ってつらくもなります。

ネズミ:それぞれの声で語りながら、4人の里子や里親の様子がだんだんと見えていく構成、物語としての盛り上がりなど、非常によくできていて、おもしろく読みました。ただ、声をかえての一人称語りは、すぐには状況がつかみにくく、特に日本では、読者を選ぶだろうとも思いました。父親だけ国にかえされてしまった、エルサルバドルからきたヴィク。言葉が出ない、スペイン語圏出身のマーラの状況など、外国から来たということも、よくわからないかも。とてもいい作品だけれど難しそうだなと。

アンヌ:以前読んだ同じ著者の『変化球男子』(杉田七重訳 鈴木出版)では、作者が読者に伝えたい知識──ホルモン剤とか支援団体の存在とか──がかなり盛り込まれた作品でしたが、今回はあとがきに作者の「里親制度」についての思いが書かれてはいるのですが、表立ってはいません。物語も登場人物もおもしろくて、その中で、絶望させない、偏見を持たせないような感じで、里子のことを分からせてくれます。なんと言ってもヴィクの持つスパイ妄想がおもしろくて、夢中で読んでいると話がクエンティンをママに合わせようという「作戦遂行」に移っていき、気がつけば子どもたちがみんな揃って旅に出ていました。ナヴェイアの視点でイライラしながら進んでいく道中の途中で、子どもたちが思いがけず遊園地や海で「楽しむ」ということを知ったり、大声で笑いあったりする場面に行きつきます。クエンティンに母親の死という重要なことを知らせるのに、海辺で砂遊びをしながら話すというところでは、海の持つ力が見事に生かされていると思いました。家に帰った後、ヴィクもナヴェイアもミセス・Kもそれまでと変わっていて、気づかないまま肩の力が抜けている。家族として互いに肩を貸しあって、少しずつ楽になっているという終わり方には感心しました。

マリトッツォ: 読み終わってから、『変化球男子』の著者の方か、とびっくりしました。作風がまったく結びつかなかったです。この本は今回、課題本にしてもらってよかったと思っています。もし自分でたまたま手に取って読み始めていたら、途中、かなりしんどくてやめてしまっていたかもしれないからです。終盤で、ぱっと未来が開かれていくような、なかなか他の本では味わえない満足感があります。これは中盤までの閉塞感があってこそですね。里親を称賛するわけでもなく否定するわけでもない、このリアルさは、著者がこういう活動をしている方だからか、とあとがきを読んで深くうなずきました。クエンティンのような自閉症の子の一人称は、掴みづらいことが多いのですが、他の二人のパートで状況が説明されているのでわかりやすく、バランスが絶妙だと思いました。いろいろ好きな表現があります。たとえば細かいところですが、「足にまだ砂がついていて、シーツにも砂がこぼれてるのがうれしい。ビーチもぼくたちのことが好きになって、それで家までついてきたみたいだった」(p260)という部分、素敵ですよね。一つだけ戸惑ったのは、観覧車の部分です。え、安全バーが必要で何周もするの? と、驚きました。

さららん:里親のミセス・Kのもとで暮らす年齢も境遇も異なる4人の子どもが、1つの家族になっていくまでのお話です。数か月ぶりに読み直してみたのですが、いいものを読んだという印象は変わらず、4人それぞれの在り方がずっと心に残っています。自分も「お姉ちゃん」として育ったので、特にナヴェイアに心を寄せて読みました。しっかり者のいい子に見えますが、自分の未来の夢をかなえるために、ある意味打算的に手の焼ける年下の子たちの世話をしています。でも、クエンティンのママの病院へみんなで行くという1日の冒険を通して、ナヴェイアは大きく変わり、他の子の在り方をまるごと受け入れていくのです。みんなで観覧車に乗って初めて海を見る場面、そのあともう1度病院を抜け出して海にいく場面が、ほんとに効果的で、象徴的です。会話のなかで、4人の関係が少しずつ変化するのがわかり、互いにいたわりあえるようになっていきます。(最後はミセス・Kに対してまで!)自分のことで頭がいっぱいのクエンティンが、英語がほとんど話せないマーラと心を通わす場面など、とてもよかったです。ロードムービーのような展開のため、刻々と場所が移るにつれて感情や考えもゆれ動く、いってみれば「目に見える」物語なので、読者の記憶に深く残るような気がします。それまで英語をほとんど話さなかったマーラが、最後のほうで「まったくうちの家族ときたら」(p277)と首をふりふり言うところ、そこが実に自然で、マーラを抱きしめたくなりました。

雪割草:この作品は、里子の子どもたちを通して新しい家族のかたちを描いているのかなと、読んでみたいと思っていました。最初の印象は、ヴィクがうるさくて口調が老けているように感じました。でも、口調は父親を尊敬しているからでは、と言われて納得しましたし、2回目に読んだときは、ADHDの特徴がよく描かれていると思いました。作品全体を通じては、厳しい状況にある子どもたちが、海の美しさに圧倒されるシーンのように、世界を肯定できるような、希望をもてるような体験をすることや、仲間の存在が生きる力につながるということを、改めて感じることができました。また、原題にある「漂流者」や、「わたしたちは、ひとりでやっていかないといけないの……。」(p161)にあるように、子どもたちの心情もよく描かれていると思いました。私の友人や友人の親が里子を育てていますが、そういった家庭は日本では少ないと思うので、里親制度や、子どもを社会やコミュニティで育てるといった考え方が広まっていくといいなと思いました。「オナカスッキリ! ナヤミスッキリ!」(p180)は子どものセリフとして違和感がありました。

アカシア:これは、吊り広告の言葉をそのまま繰り返してるんじゃないですか?

まめじか:いい作品なんだろうな、とは思ったのですが……。シビアなテーマの作品なのに、今ふうの軽い言葉がいっぱい入ってるのが浮いてるようで、二次元のキャラみたいに感じてしまいました。たとえばヴィクのせりふで、「当ててみ?」(p6)、「オタク、ちょっとヘンタイ趣味入ってます?」(p8)、「タルい」(p30)、「マジ、こわいんですけど」(p155)。一方で「世を忍ぶ」(p11)、「迷惑をこうむる」(p179)など、11歳にしては大人っぽい言葉づかいをするのが、どうもしっくりこなくて。そんな感じで読み進めたので、訳者あとがきの「この世界には、こんなにも、こんなにも素晴らしい子どもたちがいる」という最後の一文でひっかかってしまいました。もちろん、この本に出てくる子たちの状況はとても大変なものですが、そうした子はほかの本の中にも、現実にもいっぱいいるし。あと些末なことですが、マーラがホームレスの男の犬にチョコレートをやっていますが、チョコレートって、犬に絶対食べさせちゃいけないものの1つですよね。p3のクエンティンの語りで、「女の人はこまった顔になって」とあるのですが、アスペルガーのクエンティンは人の気持ちを読みとるのが難しいと思うので、どんな表情が悲しい顔なのか習ったからわかったということですよね。

アカシア:普通は、学習を経てわかるようになると言われていますよね。これまでの多くの作品は、ハンデを持っている子どもが1人という作品が多かったのですが、この作品は、ADHDとアスペルガーの子が登場し、マーラという小さな女の子も何らかの発達の遅れを抱えているのかもしれません。なので、書くのが難しいかと思ったのですが、年齢や性別や障碍も違うのでちゃんと書き分けられ、ひとりひとりが独立した存在に描かれているのがすごい、と思いました。ナヴェイアは、成績のいい子で、ハンデを持っているわけではないと思いますが、黒人なので生きにくさはやっぱり感じています。ナヴェイアがクェンティンを連れていこうとしたときに、白人の女の人に疑念をもたれる場面もありました。生きにくさをそれぞれ抱えている子どもたちだからこそ、お互いとを自分のことのように感じてわかり合えるのだと思いました。ナヴェイアが優等生の自分の殻を脱ぎ捨てて海辺でみんなで楽しもう、という場面は、とても印象的でした。この作品には助ける大人が出てこないので、子どもがお互いに助け合います。しかも、やっぱり問題を抱えている大人のミセスKに子どもたちが保護者的な視線を送っているのもおもしろいと思いました。4人でクエンティンのお母さんを探しにいこうというあたりからは、展開も速くなるのでハラハラしましたし、子どもたちの関係がだんだん密になっていくのもわかって、おもしろく読みました。わからなかったのは、さっきまめじかさんもおっしゃった犬にチョコレートをやるところ。それからp15にミセスKが「養母」として出てきますが、養子ではないので「里親」なのでは?

西山:一気に読みました。作者のあとがきで、現実のことがくわしく書かれてて、これがロサンゼルスの里親制度の抱える問題ということは明示されているわけですが、日本の読者が読んだときに、日本の里親制度にネガティブな印象をもたないかな、とちょっと危うく思いました。海を見た幸せな1日を経て、子どもたちの関係が親密に変化してからの様子に、『かさねちゃんにきいてみな』(有沢佳映作 講談社)を思い出しました。抱えている背景の深刻さは違うとはいえ、異年齢の子どもたちのその年齢らしさや、互いへの気遣いが重なって、状況が違っても普遍性を持っている子どもの本質的な部分を見せてもらえた気がします。(以下、言いそびれとその後考えたことです。クエンティンが他者の中でなんとかやっていけるように、お母さんがたくさんのアドバイスをして、クエンティンがことあるごとに、その言葉を思い出すことでパニックを回避している姿がとても印象的でした。読書会が終わって、つらつら思い返していて、こんなに彼を導いていたお母さんなのに、どうして自分の死を受け入れられるようにする手立てをしていなかったのかとふいに思い至りました。癌を予期できないとしても、いきなりの事故死ではないし、病気にならなくても、いずれ自分の方が先に死ぬのだという現実を、クエンティンが受け入れられるように用意することは最大のミッションなのではと。そう思うと、ちょっと冷めました。)

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ニャニャンガ(メール参加):クエンティン、ヴィクの視点ではじまるため、物語に入るのに少し時間がかかりましたが、ナヴェイアが登場して全体像が見えはじめ、さらにクエンティンのために旅に出たところかにはすっかり引き込まれていました。ミセスKが心を閉ざして子どもたちの世話をしないせいで、ナヴェイアが年下の子たちの面倒を引き受ける姿には胸をしめつけられます。ほかの3人の面倒をひとりでしていたナヴェイアが限界に達したとき、ヴィクが頼りになる存在になり、子どもたちの絆が強くなって、ほんとうによかったです。しらこさんによる表紙も、とてもいいと思いました。ロサンゼルスの里親制度をよく知る作者だからこそ書けた作品です。

しじみ71個分(メール参加): ロサンゼルスの里親制度の実態をリアルに描写していて、子どもたちの切実な実情を伝える本だと思いました。養育に欠ける子どもたちがたくさんいるために、里親にあまり向かないような状況の人のところにも里子が引き取られることがあるというのは、ロサンゼルスに特徴的な事象なのか、全米的な問題なのでしょうか。いずれにしても大変な状況だとまず思いました。最年長のナヴェイアが我慢を重ねて小さい里子たちの面倒を見て、大学に進学して自立することを願う姿はいじらしく、特にp95で、突然「涙が目に盛り上がってきた」という場面には共感して、こちらもウルウルしてしまいました。いろんなことに疲れてるんだろうなぁって思い……。ADHDのヴィクは頭の中に言葉があふれていて、うるさいですが、私には可愛らしく見えて、とても好きなキャラクターです。新入りのクエンティンがアスペルガーで、小さいマーラはスペイン語しか話さないという、それぞれ異なる難しさを抱えた子どもたちがどうなっていくのか、興味に引っ張られて最後まで読み通しました。海を初めて見たシーンは特に印象的で、困難にある子どもたちには子どもらしい家族とのあたたかな思い出や楽しい経験がない、あるいは奪われたりかもしれないということに気付かされて、胸がつまりました。クエンティンの母を探して旅をして、海と出合ったことが、4人の共通の喜びの経験となり、家族として結びついていくきっかけになっていて、そこはとてもうまい装置になっているなと思いました。失意のために、養母としての役目が果たせてこなかったミセスKが、最後に子どもたちのおかげで気力を取り戻し、立ち直るという結末も読後感がよかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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岩瀬成子『もうひとつの曲がり角』表紙

もうひとつの曲がり角

まめじか:英語を習わせるのも家を買うのも、子どものためだと言いながら、実は親の自己満足なんですよね。そうした大人の一方的な思いや、遠いのに自転車通学を許されない不条理な学校の仕組みの中で、朋もお兄ちゃんも窮屈な思いをしています。そして子どもの自我が目覚め、そういう大人の押しつけに反発すると、やれ反抗期だとかなんだとか言われてしまう。そんな中で言いたいことを言えない朋の気持ちが、「先生はいっぱい言葉をもっているのに、こっちにはなにもない」(p88)という語りにこめられていると感じました。朋はひとりの時間に日常のすき間にはいりこんで、そこで不思議なできごとを体験するわけですが、秘密をもつことが成長につながるのは、E.L.カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)にも通じます。曲がり角の先は別の道がつづいてる、ここ以外の世界もきっとあるというのを、こういう形で描けるなんて。作者の力量を感じる作品でした。

雪割草:今回の選書係だったのですが、最近読んだなかでとてもよかったので、選びました。まず、私は兄がいるのですが、兄とのやりとりの描写にリアリティがあり、親しみを感じました。しれっと妹に洗いものをさせたり、中学になって変わっていったり、兄も案外考えているんだなと感心させられたり、なんでも兄には話せたり。それから、この作品のように、日常の中でふと、異空間や異次元といった非日常にいくことのできる物語が好きで、子どもの頃から憧れていました。「心って、いつおとなになるの?」(p183)や「ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの……。」(p239)とあるように、オワリさんとその子ども時代のみっちゃんを通して、一人の人間のなかに子ども時代が生きつづけていることを感じることができました。また、このふたりをつなぐ存在として、センダンの木を登場させているのもいいなと思いました。ネギを背負った人など、ところどころユーモアがあるのも楽しかったです。ただ、表紙の女の子の絵は、私の想像とは違うと感じました。

アカシア:どんなふうに違ったんですか?

雪割草:本では、もうちょっとおてんばなイメージでした。

まめじか:私も、この子はもっとはっきりものを言える子だと思うので、イメージとは違いました。絵はおしとやかな感じがします。

アカシア:酒井さんの絵は、静的で内容から受ける印象より少し幼い感じがいつもしますね。だから人気があるのかもしれませんけど。

シア:私もイメージと異なって、酒井駒子さんの絵は大人好みになりすぎると思っています。YA辺りならいいのかもしれませんが。表紙から抑えめなのもあって、描写はていねいで良かったんですけれど、心は打たれませんでしたね。将来役に立つから、という言葉がそのとき限りの大人の言葉として扱われていて、悲しく思いました。みっちゃんがそろばん塾を辞めたその後がわかったりすると、大人の方便にも聞こえるような“将来役に立つ”という言葉の意味が生きてくると思うんです。お母さんに隠れて読んだ漫画はどうだったかとか、ダンスはどうなったのかとか、全然わからなくて。大人の言うなりになることと、自分で決めることの本当の違いがオワリさんの人生を通して見えなかったので、このタイムリープで学べるものや成長がなかった気がします。英語にしても、同音異義語の不思議とかいい視点を持っているのに、笑われるからと委縮して言えなくなっていてもったいないと思います。フォローしてくれない人たちがたまたまいただけで。アメリカ人なのに鷹揚に接しない先生も珍しいけど。心を開いたり勇気を出せば、耳を傾けたり足りない言葉をくみ取ってくれる大人もいるという役割をオワリさんがやってくれていないので、見えない将来に時間をかけたくない、で話が終わってしまっていて、結局オワリさんがロールモデルにならず、今回の経験は気持ちが若返ったオワリさんにしかメリットがなかったと思います。子どもが読んだらおもしろいんじゃないかな。「うん、でも、たぶん、わかってないと思うけど」(p250)と最後まで周りと壁を作って、大人と子どもの境界線をはっきりつけてしまう子どもの視点で書かれているので、「だよねぇ!」「わかるぅ!」と今を見ている子どもたちが共感できる作品にはなっていると思います。保護者が読めば気づきみたいなのは得られるかもしれません。気になったのは、なぜ主人公が元の時代に戻れなくなるとか、昔の時代に行けなくなったとかがわかるのかということです。つるバラが決め手なのでしょうか?

まめじか:私は、オワリさんの人生とか、習いごとが将来役にたったかどうかなんていうのは、この本にはなくていいのではないかと。主人公の朋が、今ここだけじゃない世界を知るというのが、この本のキモなので。

さららん:ふつうの家族、絵空事じゃない家族の中にある無数の違和感を、岩瀬さんはいつもうまくとらえています。大人も子どもも、そしてその関係も、ありきたりではありません。いま生きている人間が感じられるところ、そして子どもの反骨心が、岩瀬作品の魅力です。新しい家に引っ越したあと、願いをかなえたママはやけに張りきっているけれど、空回り気味。「わたし」やお兄ちゃんとの関係はもちろん、パパとの微妙にすれちがう関係も会話の中に巧みにとらえていて、「うちとおなじだ……」と驚きました。中学生になったばかりのお兄ちゃんは、コーヒーフロートを勝手に作ってひとりで飲んでいるのですが、そんなエピソードにも妙なリアリティがあります。でも現実の話だけで終わらず、オワリさんというおばあさんが朗読する物語の世界や、時間を超えて主人公が迷いこむ世界など、重層的にいろんな要素が入っていて、かなり凝った造りになってますね。「英語でなにかいおうとすると、普段自分の中にある日本語のいろんな言葉の意味がすうっとうすくなっていくような気がした」(p12)など、英語を学び始めたときのもどかしさを表現する言葉には膝を打ちました。「よりよいって、それはだれがきめるの? 人によって、それはちがうんじゃないの。そんなあいまいなもののために、いまの時間をただがまんして無駄にしろっていうの」(p221)と、主人公がパパにいうところでは大喝采。これが言えないがために、今の子どもたちは炸裂するくらい苦しんでいるんじゃないかと思うのです。「わたし」はほんとに頑張った! オワリさんとの出会い、まったく違う時間、違う角度から自分を見られことが、主人公の力になったのだと思いました。

マリトッツォ:安定の岩瀬成子さん作品という感じで、引き込まれて最後まで読みました。児童文学は、「続ける」「頑張る」「達成する」というテーマがどうしても多くなるので、大人から見て正当な理由がなくやめる状況に寄り添っているこの本は、子どもの味方だなと思います。また、一般的なタイムトラベルものだったら、なぜそこに行ってしまうのか、というロジックが明確でないと入り込めないのですが、この作品は描写がていねいなので、明確な説明がなくてもそんなに気になりませんでした。あと、主人公の「わたし」の一人称と、おばあさんの創作の文章がはっきりと違うので、そういうところにもリアルさを感じました。「わたし」の文章は、同じ言葉を重ねることが多くて、たとえば、「わたしはリモコンで部屋の明かりを消した。リモコンで部屋の明かりを消すのも、この家に来ておぼえたことの一つだった。」(p24)というふうに、重複が多いんですよね。この年頃の子の思考、表現を忠実に再現していると思います。なお先ほど、そろばん教室を辞めて、その結果どうなったのかが書かれてない、という話題が出ましたが、「そろばん塾を辞めても喫茶店の経営はちゃんとできた」ことが、もしかしたらひとつの答えなのかもと思いました。

アンヌ:今回はテーマが「非日常の経験」だったので、てっきりファンタジーだと思っていたのですが、p60まで読んでやっと異世界が現れるので、もしかすると異世界より現実界に比重がある物語なのかと気づきました。なんとなく『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)を思わせるタイムスリップ物なのですが、ファンタジーにある謎とき的要素は全然ないまま終わります。異世界で、犬を連れた男の子やいじめっ子をやっつけることができて自由にふるまえる自分に気づいて、そこで現実世界でも家族に自己主張できるようになるという話がていねいに語られていくのは魅力的でしたが、やはり私としては異世界の方に興味があったので、せっかく、みっちゃんに現実世界で会えても、主人公は相手が自分に気づくかとドキドキしたりしないし、みっちゃんであるオワリさんの方も気づかないままでいるのが、なんだか不思議な気がしました。どちらかというと、朗読している庭に入っていくときの方が、過去にタイムスリップするときよりドキドキ度が高かったり、オワリさんが作る話がおもしろくて謎があったりするので、この現実世界の方がおもしろい気もしました。最後は、主人公がこれからも、またオワリさんに会いに行こうと思っているところで終わるから、いつか、二人がお互いに気づくというか名乗りあう時が来るかもしれません。そんな風に、読者がいろいろ考えて、この物語が続いていく感じで終わるところがこの作品の魅力なのかもしれません。でも、ファンタジー好きの私にとっては、少々不満がある物語でした。

ネズミ:私はとてもおもしろかったです。英語塾をやめたいと言えるまでというのがストーリーの中心だと思います。こうなって、こうなったから、こうなったというふうに結果が差し出されて「はい、終わり」となる本もありますが、岩瀬さんの本は、この物語の前にも後にもお話が続いているのを、ここだけふっと切り取ったような印象があって、そこがほかの書き手と違うなと。曲がり角の向こうに、思いがけない世界があるすてきさ。p8で、マークス先生の言う「エイプウィル」が「四月」のことなんだとわかったあとに、「なんだあ、と思った。それから、疲れる、と思った。」とか、p250のお風呂に入りなさいと母親に言われたおにいちゃんが、「おれはあとで」と答えて、「わたしも」と、わたしがいうところなど、何気ない表現に日常や人となりが透けてみえます。こういう表現が物語を支えているのだと思います。

さららん:会話を「作ろう」とは思っていないのかも。登場人物が頭の中で、いつのまにか動き出して、勝手に話しているんでしょう。

ネズミ:この子が、大人にグサッとささるようなことを言うのも、そういうことなのかも。最後に、英語塾に行かないというのを言えてよかったです。

ハル:作家は皆さんそうだと思いますが、岩瀬さんの小説は、岩瀬さんにしか書けないものだということを特に強く感じます。なんてことなさそうな表現のひとつひとつが素晴らしい。p54で描かれている、お父さんとお母さんのけんかの、端で聞くとうんざりな感じとか、p100で犬をけしかけてきた高校生くらいの男の子に「YTっていうのはおぼえたからね!」とか。いかにもちょっと大人になりはじめた時期の子どもという感じ。p157は、朋がみっちゃんのいる世界は自分がいてはいけない世界だと気づきはじめる場面ですが、p156では「ばいばーい」って無邪気に手を振り合って、p157の3行目でいきなり「後ろはふりむかなかった。ふりむけなかった。ふりむいちゃいけない気がしていた」とくる。そこで読者は朋も気づいていたことを知ってぞっとするわけです。この1行が効いているなぁと思います。そして初読のときから何げに強く印象に残ったのは、作中作までおもしろい! というふうに、あげたらきりがないんですけど、子どもは将来のためでなく「今」を精一杯生きているんだと改めて思い出させてくれるところとか、物語の構成もテーマももちろんなのですが、技巧を楽しむという意味でも繰り返し読みたい1冊です。それから、先ほど、朋がタイムスリップした意味についてのご意見がありましたが、たとえば、みっちゃんが習わされていた「そろばん」だって、今の世界の朋にとったら、学校でちょっと習うくらいのもの。こんなこと言ったら反対意見もいただきそうですが(笑)、朋が習わされている「英語」だって、そのうち同時通訳機みたいなのがもっと優秀になって、いやいや勉強する必要なんてなくなるかもしれない。大人のいう「将来役にたつ」は案外あてにならないぞということを知っただけでも、タイプスリップさせた価値はあるんじゃないでしょうか。

アカシア:岩瀬さんは、言葉の使い方がほかの作家と質的に違いますよね。梨屋アリエさんの『エリーゼさんを探して』(講談社)という作品も、親にものが言えない子どもというテーマですが、梨屋さんのほうは、主人公がお母さんとはすべて「です・ます調」で会話しているという設定で、抑圧された状態を表しています。岩瀬さんの方は、子どもの気持ちをそのまま描いていくという書き方。岩瀬さんは、自分が子どもの時の気持ちを忘れてないんですね。このテーマは、思春期の子どもにとってはとても大きいのでしょうね。嫌なことはしなくてもいいというふうに子どもの背中を押してくれる本なんですね。岩瀬さんは今アンデルセン賞候補になっていますが、このおもしろさを100%楽しめるのは、日本の現代に生きている人たちかもしれないと思ったりもします。岩瀬さんの作品はストーリーラインだけで読ませるものとは違うので、翻訳するのはそう簡単じゃないでしょうね。日本語の堪能なとてもじょうずな翻訳者が岩瀬さんに乗り移ったみたいになって翻訳してくれるといいな。

まめじか:前提となる生活のこまごました背景を知らないと、ね。

サークルK(後から参加):とってもおもしろかったです、主人公と曲がり角の先にいるみつほさん/みっちゃんの関係が、まるで『トムは真夜中の庭で』のトムとハティの関係に似ているのかな、と思ったので。初めての環境に慣れていく子どものドキドキ感が伝わってきました。現代的な両親の期待に(違和感を感じながらも)応えようとしてもがく主人公の姿や、一足先に思春期になってあまり自分の気持ちを話さなくなっていくお兄ちゃんとの関係に、読者は共感できるのではないでしょうか。p30で、お母さんが(賃貸住宅ではない)初めての持ち家に愛着があって、たとえ不在であってもきれいにしておかないと「(台所が)ママに告げ口をするような気がした」という文章にハッとさせられました。人間が不在でも、その人が大事にしているものがその人本人に代わって、人間を見張っていると感じてしまうことは時々あるような気がするから、そういう表現はとても興味深かったです。大人が子どもの先回りをしてどんどんことを進めていくことへの批判――子どもが間違えたり傷ついたりする自由が奪われるべきではない――をこめた主人公の成長物語になっているように思いました。

西山(後から参加):以前読んだんですけど、再読しはじめて、ああこの路地の雰囲気知ってる、この景色見覚えある、この登場人物たちも知ってる・・・と思うのですが、初読時の感想も、ストーリーも思い出せません。自分の記憶の情けなさを棚に上げてなんですけれど、岩瀬成子の作品は、一言一言をおいしく味わう、そういう経験になっている気がします。たとえば、「わたしは塾に行く途中で、急に気が変わる予定だった。」(p30)などという一節がたまらなくおもしろい。そうやっておもしろく読んだのに、覚えていないと……。

アカシア:大テーマのある作品じゃないからですかね?

西山:岩瀬作品は、読書の快を感じる作品ですね。

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しじみ91個分(メール参加):新しい家に越してきて環境に慣れない主人公の朋が、ふと思い立って英語塾に行かずに小道の先の曲がり角を曲がったら過去の空間に行ってしまい、一人の女の子と出会うというお話ですが、嫌なことがあったり、くさくさしたりしたときに、ふっと「どこかに行っちゃいたいな」と思ってしまうときの、「どこか」の感じをありありと体験させられるような物語でした。読んで、子どもの頃、マンションの一室の自宅に帰るとき、いつもと違うの入口から入ったら、角度の加減で廊下の突き当りにあるはずの自宅が見えず、家がなくなったんじゃないかと怖くなった小学生のときの経験を思い出しました。朋が、朗読をするオワリさんと仲良くなって異空間に入り込み、みっちゃんという女の子と仲良くなりながらも、帰れなくなるんじゃないかとこわくなり、こちらの世界に戻ってくる感じは、日常の裂け目に入り込んでしまったときの、空恐ろしい不安をリアルに感じさせてくれ、ちょっと背中がぞわぞわしてしまいました。でも、朋が感じたその恐怖感は、逃避を選ばず、きちんと日常に向き合って行こうとする生命力の裏返しでもあるのかなと思って読みました。また、ほかの方もおっしゃっていることですが、全編を通して、『トムは真夜中の庭で』へのオマージュを感じました。モチーフになるのは双方1本の木で、あちらはイチイの木で、こちらはセンダンの木などと、さまざま両作品間の違いはありますが。過去の異空間にタイムスリップして、おばあさんの若い頃に出会うというしかけには共通するものを感じます。岩瀬さんの物語は、子どもの日常に生じたちょっとしたズレや断層から、日常がゆらいでいく様子を描いているように思うのですが、それを読むと心がざわざわします。でも、それが気持ちよくて、岩瀬さんの物語が好きなんだなぁと自分で思います。お兄ちゃんの晴太の思春期の親離れが進行していく様子も好ましく読みましたが、同時に賢いお兄ちゃんだなとも思いました。岩瀬さんのリアルな描写と、タイムスリップファンタジーとの組み合わせが大変におもしろかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年11月 テーマ:命を見つめる

日付 2021年11月17日
参加者 ネズミ、ハル、花散里、エーデルワイス、アンヌ、しじみ71個分、カピバラ、マリンゴ、雪割草、コアラ、西山、さららん、まめじか、ハリネズミ、アカシア、(ニャニャンガ)
テーマ 命を見つめる

読んだ本:

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『神さまの貨物』表紙

神さまの貨物

しじみ71個分:これを読んだのは3度目です。この作品は寓話の形を取りながら、背景としてユダヤ人の迫害とホロコーストの歴史的な事実を題材にとって描いています。ホロコーストの事実を訴える文学は多々ノンフィクションにありますが、ホロコーストを描きつつ、寓話として壮大な愛を描くというのはほかにないタイプの作品だと思います。最初に読んだときは、話がとてもハードで、硬質で、大きなテーマを持っているのに対して、翻訳の言葉がところどころ優しすぎるところがあるのではないかと、一瞬違和感を覚えました。そのときは、同様に寓話の形を取っている、『熊とにんげん』(チムニク著 上田真而子訳 徳間書店)を思い出していたのですが、上田さんの訳が、物語とあまりにも融合していたので、その幸福な感覚とつい比較してしまったのですね。ですが、2回目に読み直したときは、大劇作家による、ストレートでかつ壮大な愛の歌い上げが、物語の最後でドカンと胸に迫り、すごく感動しまして、翻訳云々生意気なことを考えたことを反省しました。特に好きなのは、きこりが、最初は赤ん坊を避けていたのに、おかみさんの導きで赤ん坊の胸に手を置いた瞬間に、愛を感じ始めるシーンです。また、きこりも、森に住む戦争で顔が崩れたおじさんも、おかみさんと赤ん坊のために命を擲ち、戦って死んでいくシーンは何度読んでも胸にぐっと迫ります。赤ん坊のお父さんがホロコーストを生き延びて、娘を見付けたけれど名乗らずに去っていくシーンも哀切です。赤ん坊は美しい少女に育ちますが、ソ連で生きていくことになるという未来が、本人にとって幸せなのかどうかは分からないというところにもまたひとつ仕掛けがあると思うのですが、結果はどうあれ、1つの命を守るためだけに、次々と命を投げ出すことになった人たちがあったかもしれない、という寓話に込められているのは、偶然によってでも繋がれていく命への畏敬の念と賛歌、愛なんだなぁと思い、作家自身の深い思いに圧倒されました。

花散里:私も今回読んだのは3回目ですが、改めて胸を打たれました。ホロコーストの作品はたくさん読んできましたが、心に残る1冊になりました。「むかしむかし…」とおとぎ話のように始まりますが、雪の中に貨物列車から投げられた赤ちゃんが、子どもがほしいと願い続ける、大きな暗い森に住む貧しいきこりのおかみさんに拾われていくという物語は、惹きつけられるような作品で、読んでいて重厚な印象が心に深く残っていきます。巻末の「エピローグ」と「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」は、最後にドシンと心に響き、この胸に迫る感じはなんだろうと考えさせられました。装丁もとても良いと思いました。歴史を伝えて行くためにも大事な作品かなと思いますが、内容を紹介して手渡していくことが大切ではないかと感じました。

コアラ:感動しました。この本も電車の中で読んでいたのですが、エピローグの最後、p149の「たとえどんなことがあっても、どんなことがなくても、その愛があればこそ、人間は、生きてゆける」のところで涙ぐみそうになってしまいました。でも、ちょっと冷静になって考えると、読者に読み取ってほしいことを、作者が最後に言ってしまっているというのは、どうなんだろうと。「愛だ」と一言で明かしてしまっているんですよね。ただ、そのエピローグを読んで、私は感動したわけだし、やっぱりこの形でいいんだろうとは思います。出だしは昔話風ですが、読んでいてすぐに、これはナチスの強制収容所に送る列車の話だとわかる。歴史を知っているからこそ、幼い命や、赤ちゃんを守ろうとする大人たちの思いとか幸福感とかが、美しく感じられました。やさしい言葉で書かれていて、子どもから大人まで幅広い読者層に訴える本だと思いました。ただし、私はひねくれた子どもだったので、寓話の形で書かれたこのような本を、子どもの私は、好んで手に取ることは、しなかったかもしれません。大人になって読んだからこそ感動したのだと思います。

カピバラ:今回2度目に読んでみたら、1度目に気づかなかったことに気づきました。p4の冒頭の文章です。「むかしむかし、大きな森に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた。おっと待って、これはペローの童話じゃないから大丈夫。出だしは『親指小僧』に似ているけれど、貧しくて子どもたちを食べさせられないからって、自分の子どもを棄てる親の話などではない。そんな話はたまらない」。ストーリーを知った上で読むと、すごいことが書いてあるなと、衝撃を受けました。そして結末がわかっているのに、ページをめくる手が止まらず、また最後まで引きこまれてしまいました。ひとつひとつの文章が、そっけないくらい短くて、客観的でありながら、登場人物の心情が読者に向かってどんどん迫ってくるような感じを覚えました。最後の著者の言葉「そう、ただ一つ存在に値するもの、それは、愛だ。」、このことを言うための物語だったんだな、と納得しました。いろんな立場の人が出てくるんだけれど、その行いがいいとか悪いとかは一切書いてないんですね。だからこそ、最後にこの言葉が生きてくるんだと思います。胸を打たれたのは、木こりが最初は赤ん坊を邪魔者扱いしていたのに、赤ん坊の肌に触れ、心臓の鼓動を感じてから一転してその命の輝きに心をうばわれる場面でした。これも最後の言葉に結びついているんだと思います。物語だけでも衝撃的なのに、エピローグを読んでさらに衝撃を受け、覚書を読んでもっと衝撃を受ける。そして訳者あとがきが静かに全体をまとめてくれる。1冊全体の構成がみごとにまとまった本だと感じました。

ハル:最初に読んだときには、戦争を伝えていく小説は、新しい形の段階に入っているんだなぁと思いました。ただ、胸に迫るし余韻が残る作品ではあるけれど、私はどうとらえて良いのかわからないというのがいまの正直なところです。戦争によってもたらされた小さな贈り物によって、木こりが愛を知っていく場面はほんとうに美しいのですが、その向こうには残酷な背景があって、「戦争によってもたらされた」なんていうことはあってはいけないと思うし、描かれていることは一貫してグロテスクでもあり。小さな贈り物を守るために斧をふるう場面は作品の中でも見せ所でもあるけれども、やっぱりそれが「斧でよい仕事をした」と言い切れるのかというのも苦しい。おかみさんや木こりや小さな女の子は、無垢ではあるけれど、人々の無知であることのかなしみも感じます。おかみさんが最後には神様を妄信はしなくなるのも印象的ではありましたけれども。この子の父親が列車から赤ん坊を投げ捨てたのは、この子を救ったのではなく、もうひとりを救うためでしたし……。一言に「泣ける」「心温まる」「美しい」では片づけられない作品だとは思います。

マリンゴ: ホロコーストを描いた物語は、いかに残酷であったか、という描写に重きを置かれることが多いと思います。そのなかでこの本はおとぎ話のような語り口で、残酷な描写を最小限にして、本質的な部分を抽出しています。作者の祈りのようなものが、伝わってきました。ホロコーストのことをよく知っている大人と、ほとんど知識のない子どもとでは、だいぶ読んだ印象が変わってくるのではないかという気がして、子どもの反応も聞いてみたいなぁと思いました。細かいところですが、p77の「まっ黒な胆汁をペッと吐いた」の部分、黒い胆汁を吐くことがあるのか、と調べたのですが、そういう事例があまり見当たらず、気になりました。

雪割草:胸に迫ってくると同時に、美しい情景の浮かんでくる作品だなと思いました。ホロコーストという酷すぎる状況の中で、生と死、子どもを愛しむ気持ち、希望を上手に浮かび上がらせているなと思いました。おかみさんの揺るぎなさだったり、貧しいきこりが「人でなしにも心がある」と仲間の前で叫ぶまでに変わったり、顔のつぶれた男の心の美しさだったり、人間味がよく描かれているとも思いました。運命のような偶然のようなめぐり合わせとしての構造は人間の人生ってこんなものかなと、本質的なところをついているように感じました。ただ、たまに展開が急だと感じたり、時代背景を知っているからわかる部分も多く、ホロコーストを知らない子ども向けではないかな、どう感じるかなと気になりました。

ネズミ:読むのは2回目でした。とてもよくできたお話でしたが、『三つ編み』(レティシア・コロンバニ著 齋藤可津子訳 早川書房)を読んだときと同様、作為や感動させるための仕掛けを感じてしまい、手放しに深く感銘をおぼえるということはありませんでした。きっと私がひねくれた読者なのだと思います。絶対悪としてのナチスを描いた作品はもう無数にあります。ファシズムと抵抗した人々という構図を示すだけの作品で、ヨーロッパの悲劇ばかりに私たちの目を向けさせることはないだろうという気持ちもあって。大人が読んだら時代背景がわかりますが、何も知らない子どもに読ませるのはどうかなと思いました。

アカシア:ある司書の方が、この本を読んだけど何言ってるかよくわからないとおっしゃっていたのですが、読んでみると、私自身はわかりにくくはなかったし、深いものがあるとも感じました。ただその司書の方がなぜそうおっしゃっていたのかも、わかるような気がしました。たぶんいい意味でも悪い意味でもフランス的なのではないでしょうか。最初に親指小僧が出てきますが、英米の作家ならこういう書き方はせずに、もっと一直線に書いていきます。フランスの作品は斜に構えて書く場合が多いと思うのですが、これもその一つだなあ、と感じてしまったのです。「子どもの本なのにそんなに斜めから書かなくてもいいじゃないか」と思う人はけっこういるんじゃないかな。まあ、この本は、子どもじゃなくて大人向きに出ているのかもしれません。味付けが一風変わっている作品なので逆にひと目を引くし、だからこそこの作品もよく売れているのではないでしょうか。こういう作品もあることは、とてもいいと思いますが、たぶんホロコーストを知らないと、フランス風の斜めの味付けが前面に来てしまって、嫌な感じがしてしまうのかもしれません。ちょっとひねった書き方がおもしろいと思う大人のほうが、この作品はより深く理解できるようにも思います。この作品は1つの命を救うためにほかのいくつもの命が消えていくという大変な状況の話でもあるので、ネズミさんと同じように私も、それを斜めから巧みすぎる技法で書いていることにちょっと抵抗がありました。でも、そこに惹かれる人も多いようなのでこれでいいのかもしれません。

エーデルワイス:みなさんも何度か読み直していらっしゃるのですね。読み直すことは大事ですね。この『神さまの貨物』を1回目に読んだとき、歴史的なこと、後世に伝えていくべき大切な内容と理解できるのですが、どうにも好きになれませんでした。何度か読み直して、戯曲として読めばよいのだとなんとか納得しました。アカシアさんの「フランス文学」の特徴、「斜めにみている世界」、をお聞きして、ようやく胸のつかえが降りたようです。最後に生き延びた女の子が旧ソ連の「ピオネール」として国の機関誌の表紙を飾る。その写真を見た医師になった父親が会いたいと手紙を書いた。その後会えたかどうだか分からない。で終わっていて、すっきりしません。第二次世界大戦後の米ソの混沌とした世界を提示したのでしょうか。

アンヌ:1度図書館でこの本を借り出して読もうとしたとき、どうしても読み切れなかったので、今回やっと読めました。お伽話を読んでいるつもりが、少し進むと現実に頬を叩かれる、というような構造のせいで読めなかった気がします。それでも、きこりが赤ん坊を愛さずにいられない瞬間は実に美しく心が温まる思いがしました。父親が娘に名乗らない場面は謎でしたが、エピローグや覚書が続く中で、収容所で亡くなった双子の家族が現実にいたことを知り、もし自分が父親だったら、こんな風に娘の命を助けられたなら僕は何もいらないと祈り夢見ただろうなと思いました。権力がデマで人心を惑わすことへの警告とか、旧ソ連の体制の欺瞞性とか様々な啓発に満ちた物語でもありますが、子供たちにどう手渡せばいいのかわからず、かなりの註や説明が必要になるのではないかと思っています。

西山:はじめてだったんですけど、一気読みでした。すごく興味深かったです。やはりユダヤ人が移送列車から赤ん坊を助けようと投げ出す絵本『エリカ 奇跡の命』(ルース・バンダー・ジー著 ロベルト・インノチェンティ絵 柳田邦男訳 講談社)をすぐに思い浮かべました。しかし、こういう形があるかと驚きました。今の子どもたちにとっては、すでに「歴史」である戦争ですから、昔話のような書かれ方をしてもいいと思います。一方で、抽象化した戦争ではなく、やっぱり事実っていうものを伝える必要もあると思うので、この方法、どうするんだろうと思いながら読み進めてきて、「エピローグ」で「ほんとうにあった話? いやぜんぜん」だなんて人を食ったようなことが書かれていて、しかも、それに続けて「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」が来る。年月日と地名と固有名詞の箇条書きのようなこの部分を読むと、私が子どものころこの作品に出会っていたら、虚構もなにも、まるごと、書かれていることは全てほんとだったんだ!と思った気がします。著者の祖父が出てくるのですから。そういう手があったかと驚いたのですけれど、これがいいのか悪いのか、どう考えればよいのかよく分かりません。新鮮だと思ったのは、木こりが自分のやっていることを知っていたという点です。おかみさんの無知ぶりから、木こりも、何も知らず作業にかり出されているのかと思っていたら、十分差別意識をもっている。これは、なかなか厳しい指摘で衝撃でした。生き延びた赤ん坊が長じてソ連の機関誌の表紙を飾るというのも、なかなか皮肉な感じで、そういう展開もはじめて読みました。

さららん:ホロコーストは書きつくされているように思えるけれど、そうか、この手があったか、と私も思いました。昔話のような世界と厳しい現実が1章ごと交代で現れるこの作品を書いたのは、きっと手練れの作家だと思ったら、やっぱりそうでした。短い章をつないでいく言葉が硬質で、寓話の言葉と小説の言葉を巧みに混ぜています。硬質の訳がまたいいですよね。1回目に読んだときは、強烈な後半部分にショックを受けました。木こりの夫婦が女の子の命を救い、愛情をもって育て始めたという話の前半に対して、その木こりが斧で仲間たちを殺すし、情け深い森の男もあっけなく銃で打ち殺されるし、なんて血まみれで残酷な話だろうと、思ったんです。でも2回目に読んだときは、そこはあまり気になりませんでした。エピローグには、この話が作り話だったとわざわざ断りがあり、せっかく読んだものが無に帰すようでしたが、「ただ一つ存在に値するもの――(中略)それは、愛だ。」の締めくくりで、やられちゃいました。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話のように最後に教訓をつけるふりをしたかと思うと、「覚え書き」まで加えて、現実に起きたホロコーストの記録の一部を伝えている。作者は、文学のジャンルを超える実験を試みたんでしょう。この本の意味がまったくわからない子どもも多いと思います。でも、ひと握りの子どもたちには、忘れられぬ印象を残す作品かもしれません。ここに描かれていたことはいったいなんだったのか?と。

まめじか:収容所の中で起きていることも理解していない素朴な村人のおかみさんは、「列車の神さま」が赤ちゃんを授けてくれたのだと信じています。しかしやがて「列車の神さま」のおかげではなく、雪の中に赤ちゃんを投げた手や、その子を守った人たちの力で赤ちゃんは生きのびたのだと思い至ります。作品にこめられた人間への信頼を感じます。収容所にいる父親の心に希望が生まれ、たとえ当の本人がそれを笑ったり、涙でぬらしたりしても、その芽はのびつづけたという箇所なんかもそうですよね。木こりが赤ちゃんに手をあげようとする場面では、体がふれたときに2人の心臓が響きあい、そのとき木こりは恐怖をおぼえます。いとしいという感情がわきあがってくるのに抵抗しようとするのですが、愛情とかいとしいとか、そういう直接的な言葉をつかわずに表現しているのがすばらしいですね。またおかみさんが赤ちゃんのことを、「わたしの生きがい」ととっさに言うのですが、そんなちょっとしたせりふが真実をあらわしていると思いました。

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ニャニャンガ(メール参加):読みはじめてすぐに、『エリカ 奇跡のいのち』(講談社)の話だと気づき、子どもに伝えるには絵本の方を勧めたいと思いました。この本は、ポプラ社から出ていますが、2021年の本屋大賞、翻訳小説部門 第2位だとすると、大人向けでしょうか。大人向けに感じた理由は、p.25 ひどいことのルビにポグロム、p.135人間性にユマニテとだけあるのは若い読者には親切でないと思ったからです。文章が頭に入らない部分は私の読む力が足りないのだろうと思ったのですが、翻訳についてAmazonレビューに細かい指摘があり驚きました。
https://www.amazon.co.jp//dp/4591166635
フランス語はわからないので翻訳に関してはなんとも言えませんが…名のある方の訳でもあり、有名になると細かくチェックされるのかなと怖くもなりました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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花形みつる『徳次郎とボク』表紙

徳次郎とボク

アンヌ:児童書というよりすべての世代でそれぞれ共感を持って読まれる本だと思いました。祖父の病院嫌いの場面とか、介護について姉妹でもめる場面とか、今の現実を映していると思います。最初作者が男性だと思っていたので、長女のケイコおばさんの描き方はひどい、介護を担う人の苦労はわかっているのか等と思ったのですが、作者のインタビュウを読んで女性だと知ってからもう一度読みなおしました。主人公の語り口が実におもしろく、p91 の「決まりかな、とボクは思った……決まったな、とボクは思った」とか、p148 の「お母さんの忍耐の結界にはられたお札は今にもはがれ落ちそう」とか、独特の魅力を持つ書き手だなと思いました。主人公が成長しながら死に向かう祖父の気持ちを理解していくという物語よりも、つい介護問題の方に目が行ってしまう世代なので、祖父と3人の息子だったら、こんな風に尊厳を守られたのだろうかとか考え込んでしまいました。

エーデルワイス:「花形みつる」というと『巨人の星』(梶原一騎原作 川崎のぼる作画 週刊少年マガジンコミックス)を思い出し、作者が女性と聞いて驚いています。おじいちゃんと孫の交流を描いていますが、介護をリアルに描いていて、児童書で「介護」を具体的に描いた画期的な内容だと思いました。作者の体験が盛り込まれていたのですね。私事ですが義父母を介護中なので、孫よりも介護する徳治郎さんの娘たちの気持ちに寄り添ってしまいました。97歳になる私の義父も意思が固く、耳は遠くて徳治郎さんとそっくりなんです。徳治郎さんは寝たきりになりますが、最後まで頭はしっかりしていました。世の中たくさんの人が認知症を患っています。今度は的確に認知症を扱った児童書を読みたく思いました。

アカシア:この作品は、子どもの視点で徳次郎をくっきりと浮かび上がらせるのが、とてもうまいなあと思いました。作者は実体験に基づいて描いているのでしょうが、ボクが途中で徳次郎のところに行くより友達と遊ぶほうがおもしろいなと思ったり、母親のきょうだいの言い合いにうんざりしたり、徳次郎の歩く速度が遅くなったのを見て祖父の体力の衰えに気づいたり、などという描写がとてもリアルです。脇役の使い方もうまいですね。エリカちゃんも問題を抱えながらも長所を持った子として立体的に描かれているし、犬のシロは来訪者にぎゃんぎゃん吠えるのに、いつのまにかおじいちゃんの枕元にすわっているし……。最後のほうにヨシオさんという人が出てきて、徳次郎の戦争体験を親族は初めて知るのですが、その出し方も秀逸。死がテーマなのでシリアスですが、文章の随所にユーモアがあるのもいいですね。同じように耳の聞こえない隣の畑のおじいさんとのとんちんかんな会話なんか、想像すると笑えます。この本が産経児童出版文化賞の大賞を取ったときの記事を読むと、徳次郎のモデルは花形さんのお父さんで、お父さんの子ども時代の話がとてもおもしろかったので、それを書こうと思ったのが作品が生まれたきっかけだと語っておいでです。

ネズミ:とてもおもしろかったです。特によかったのは文体で、それぞれの登場人物のせりふや書き分け、特におじいちゃんの口調が巧みで、翻訳ではなかなかできないことだと思いました。高齢者が増えていて、介護と尊厳は大きな問題です。体の不具合をなおすことに熱心になって、クオリティオブライフが後になるというのはよくあることですよね。P.208の1行目に「あのとき、ボクは、わかってしまったんだ、お祖父ちゃんがなにを望んでいるのか。お祖父ちゃんの望みは、自分のやり方で死んでいきたい。多分そういうことなんだ」という言葉があります。また、だれにでもその人なりの人生があるということが見えてくるのが、いいなあと思いました。

雪割草:大変よかったです。読んでいて、懐かしい気持ちになったり、じんわり温かくなったり、電車の中で読んだので泣きませんでしたが、泣きそうになる場面がたくさんあり、いろいろ感じることができる作品でした。おじいちゃんではなく徳治郎としているタイトルからも、ボクがおじいちゃんと一人の人間として出会っているのだと思いました。ボクがおじいちゃんのことをよく観察して、寄り添い慕っているのが本当に見事に描かれていて、こんなふうによく観察して寄り添う力は大切で、ぜひ子どもたちに読んでもらいたいし、おとなにとっても味わい深いと思います。所々、クスッと笑えるところがあったり、親しみがわくところもあったりするもよかったです。特にp60の鳥の巣の場面では、鳥の巣の美しさがわからないいとこたちに向かって「こいつらバカじゃないか」というボクの心の中のつぶやきに、なんだかこう思ったことあったなと妙に共感してしまいました。私は子どもの頃、両親や兄弟、祖父母や曾祖父母と暮らしていて、曾祖父母が老衰のため自宅で亡くなるのを見ました。今は家族で死を看取ることが少なくなっているので、身近な暮らしの中での死を描いているのもとてもよいなと思いました。

マリンゴ: この本は1年以上前に読んでいたので、今回が2度目の読書になりましたが、1回目と2回目で印象がかなり変わった本でした。大前提として、とても読み応えのある本で、人が生きて死ぬリアルが伝わってきますし、3姉妹や姪っ子のエリカちゃんなど、脇のキャラクターも魅力的です。あと、横須賀は多少土地勘があるので、急勾配の坂とか山の上にある畑だとか、そういう風景も目に浮かびました。特に前半、自然の中で虫をつかまえたりおじいちゃんの子どものころの話を聞いたり、そんな場面が鮮やかでした。タマムシが、小道具としてラストに再び登場するのも素敵ですよね。ただ、1回目は、自分が子どもの頃だったらどんなふうに受け止めたか、という視点を持ちながら読んだので、この本に描かれている死への道のりがリアルすぎて、ここまでまだ知りたくなかった、という気持ちになるのでは、と思ったのでした。昨日2度目に読んだときは、その記憶を持って読んだせいで逆に、いやいや素晴らしいじゃないか、死に方の一つの理想じゃないか、と感じました。周りであわてふためきながらも何とかしようとしている大人たちも含めて、みんなが精一杯生きているのもいいですよね。でも、それはわたしが大人として、身近な人の死を経験した後で読んでいるからではないかとも思ったのです。この本の初読と同じ頃に読んだ『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』‎(椰月美智子著 小峰書店)のほうが、児童書としての死との距離感はちょうどいいかも、と感じたのでした。

ハル:ひとが生きて死んでいくさまをおかしみとかなしみをまじえて愛情深く描いた、ありそうでなかった児童文学作品で、わかったような言い方で恐縮ですが、初めて読んだときに、「これぞ文学!」と思いました。おじいちゃんの死が迫る終盤で、「ちっせぇとき」のお月見の話が入ってくるところや、作品の中でのおじいちゃんの最後のセリフが「あくしゅ、してくれ」なところがなんとも美しくて、素晴らしいなぁと思いました。と同時に、版元の理論社は「おとながこどもにかえる本」の位置付けでこの本を出しているのだと思うのですが、まさに、大人が読みたい児童文学なんだと思います。現在中学生のボクの目線がだいぶ大人ですし。だけど、「こども」世代にも、ぜひ、このわめきちらす頑固者のおじいちゃんの魅力や、それをとりまくおばさんたちの愛を想像できるような年頃になったら、ぜひ読んでほしいと思います。

カピバラ:『おじいちゃんとの最後の旅』(ウルフ・スタルク著 キティ・クローザー絵 菱木晃子訳 徳間書店)のおじいちゃんと孫の関係にどこか似ているなと思いました。どちらも頑固でへそ曲がりで、周囲に迷惑をかけることもあるけれども、孫にとっては信頼できるおじいちゃん、大好きなおじいちゃんでもあるわけです。徹底して孫から見たおじいちゃんを描くことで、おじいちゃんの人生を浮き彫にする描き方も似ているなあと思いました。子どもの視点から書かれているという点で、これは子どもにぜひ読んでほしい、子どもの文学として位置づけたいと思います。徳治郎がボクに語る昔の悪ガキぶりが生き生きとしておもしろく、戦争体験もありつつ家族の歴史が伝わってきました。3人の娘たちの会話もリアリティがあって、おもしろかったです。最後に別れのときがくるけれども、ボクにとってはおじいちゃんの人生を肯定して終わることができて、さわやかな余韻が残りました。

コアラ:電車の中でサラサラと読んでしまって、あまり興味をひかれないまま読み終わってしまいました。最初のほうで、竹とんぼが出てきたし、p23で「黒い固定電話」が出てきたので、1970年代くらいかなと思っていたのですが、p75では携帯電話が出てくる。そうすると2000年代くらいになりそうですが、それにしては時代的にしっくりこない気がして、そういうこともあって物語に入れなかったのかもしれません。大人の目で読めば、カピバラさんがおっしゃっていたように、大人同士の会話はリアリティがあっておもしろいなと思ったし、主人公の男の子が祖父の死を見つめるのは大切な物語だと思うんですけれど、心が動かされないまま読んでしまいました。

花散里:徳治郎おじいちゃんのことが印象深く残っていたので、ウルフ・スタルクの『おじいちゃんとの最後の旅』が出版されたとき、この『徳治郎とボク』みたいだと思いました。今回読み直して、改めてとても良い作品だと感じました。孫の視線から見たお祖父ちゃんがとてもよく描かれていて、ボクが成長していくとともに、お祖父ちゃんに対する見方が変わっていくところが伝わってきます。母親と離婚した父親への思いが、お祖父ちゃんの子ども時代とも重なって描かれているのも印象深く思いました。お祖父ちゃんと畑に行くときの様子、昆虫、植物のことなど自然の描き方や、登場人物の描き方も見事だと感じました。言葉の表現の仕方など日本の児童文学のなかで花形さんの作品が好きですが、特に子どもたちに読んでほしい1冊だと思いました。海外の作品で1991年に刊行された『リトルトリー』(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーく)も環境、家族の絆、人間関係などが描かれた作品ですが、この本と一緒に紹介して前出の『おじいちゃんとの最後の旅』などとともに勧めたいと思います。

しじみ71個分:これを読んだのは2回目です。1回目もすごくいいなと思って、2回目もやはりよかったです。私は生まれたときには既に祖父は2人ともいなくて、祖父のリアルな存在感がまったくないんですね。なので、この徳治郎とボクの関係は私にとっては、とてもすてきで、こんな関係が持てたらいいなと、ちょっと仮想おじいちゃんを頭に描きつつ読みました。自分の父は9人兄弟の末っ子ですし、母方の祖母が大正12年生まれなもので、なんとなくいろいろ自分の状況を重ねて読んでしまいました。ウルフ・スタルクの『おじいちゃんの最後の旅』でも感じたのですが、親子とは違って、微妙な距離感がある、おじいちゃんと孫という関係がこれだけすてきなストーリーを生み出せるのだなぁとしみじみ思いました。親は近すぎて重たくなるのかな。昨今、子どもに、身近な人の生き死にを見せられるのは、祖父母しかないのかなと思いますので、万人にとって共感できる話なんじゃないかと感じました。孫がおじいちゃんを観察して、大変に人間くさく、魅力的に描いていますよね(親だとただ面倒なのだろうと思います 笑)。徳治郎が、自分が生きたいように生き、死にたいように死んでいくという、人間の尊厳を貫き通す姿は魅力的だし、そんなふうに私も残りの人生を歩みたいと思わされました。大人が読んで胸に沁みるのはもちろん、決して子どもに読めなくはないと思います。リアルな死を描きつつ、とてもいい話で、私の好きな本です。人間の死は生前の人間関係に負っているのだということが描かれているのも、重要なポイントだと思いました。

西山:おもしろくは読んだんですけど、けっこう出だしでひっかかってしまいました。80に近いお祖父さんの孫が幼稚園児という年齢でひっかかったり、例えば、p27最後の段落で、「ササゲもみっしり実っていた」と野菜に詳しかったり、「畑は,荒々しいジャングルに出現した勤勉に手入れされた小さな庭園のようだった」とたとえたりというのが、「ボク」がいつの時点から回想しているのか、幼稚園時代を回想しているけれど、かといっておとなの口調ではないし、いったいいくつの子だ?と気になってしまったのでした。先月の、ウルフ・スタルクと読み比べるのもおもしろいと思いましたけれど、身体的に弱っていくことにあらがっている人の最終ステージを淡々と記録した、というそれ以上でもそれ以下でもないというふうに読み終えました。

さららん:おじいちゃんはできることは少しでも自分でやろうとし、気に入らないことには癇癪を起こします。その理由を考え続けたボクが、おじいちゃんは「自分のやり方で、死んでいきたいんだ」と悟るところがとてもいいと思いました。文章も全体に抑制が効いています。例えば、おじいちゃんが死んだ場面でも、死んだとは書いていない。「こうしてぼくは『冒険』を手に入れ、お母さんは『安心』を買いに走った。」(p74)など、切り取り方も巧みです。この作品の良い点は、老いること、死ぬことを、できるだけ具体的に書いてあり、単に孫とおじいちゃんの良い話にはなっていないところ。死に向かう過程をひとつずつ重ねるように描いていて、実際の「死」に触れる体験の少ない子どもたちにとって、学びの多い作品だと思いました。ただ前回の『おじいちゃんとの最後の旅』に比べると、ユーモアやひねりに欠け、エピソードの組み立てが立体的でない気がします。p196で、おじいちゃんが兵役についていたこと、さらに上官に盾ついて、リンチにあったことがヨシオさんによって明かされます。それは家族にとって意外な事実で、権威や押しつけに対するおじいちゃんの反発の根っこであったことが、明らかになるのです。おじいちゃんを理解するうえで大事な要素なので、具体的にどうして盾をついたか、私は書いてほしかった。そこが気になって、クライマックスに気持ちがついていかず、説得力がやや弱いように思えました。作家はあえて書かなかったのかもしれませんが。

まめじか:お祖父ちゃんが畑まで行くのにひと休みするようになるとか、歩くのが遅くなるとか、そういう日常の場面を重ねて、老いることや人生の終わりを迎えることがていねいに描かれています。歳をとって人の手を借りることが増えていくお祖父ちゃんが、主人公やエリカちゃんの心を救う存在になっているのがとてもいいですね。

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ニャニャンガ(メール参加):孫とおじいちゃんの交流を描く物語なので、好みの作品でした。徳次郎じいちゃんが、畑仕事が趣味の自分の父親と重なるところが多く、共感しながら読みました。昔の話をするおじいちゃん、大好きです。父は今年89歳で、わたしはたまにしか帰省せず会っていなかったのですが、父が数年前に大病をして入院お見舞いのため数日通ってつきっきりで話をしたときのことが懐かしくなりました。口の悪さにかけては、徳次郎は『おじいちゃんとの最後の旅』のおじいちゃんに負けず劣らずだと思いました。3人姉妹による介護分担での攻防や、長女の娘エリカちゃんの変化、徳次郎おじいちゃんが弱っていくようすなど、身につまされるようにリアルで読み応えがありました。主人公の語り口について、後半は違和感なく読みましたが、4歳からスタートするにしては大人っぽい語り口なのは仕方ないのでしょうか(わたしは4歳のときの記憶はおぼろげなので少しひっかかりました)。両親が離婚したのに、父親が直接登場する場面がないのは気になりました。唯一登場するのはp62の離婚後の面会日。主人公にとって父親はそれほど薄い存在だったのかと考えてしまいました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年10月 テーマ:嘘について考える

日付 2021年10月12日
参加者 ネズミ、ハル、シア、ルパン、すあま、ハリネズミ、アンヌ、しじみ71個分、まめじか、さららん、カピバラ、サークルK、ニャニャンガ、マリンゴ、雪割草
テーマ 嘘について考える

読んだ本:

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『大林くんへの手紙』表紙

大林くんへの手紙

まめじか:p7でカレンダーを机に置いて、「ノートだけ机に置くより、ずっとかわいい」というところでまず、「かわいい」という表現でいいのかなと思いました。宮子が大林くんの手紙にひとこと「小さい!」と書くのもそうですが、全体的に言葉足らずの印象です。p22で先生が宮子に学級委員の仕事を手伝わせるのも唐突だし、突然訪ねてきたクラスメイトを前に、大林くんのお母さんが平身低頭で謝るのも理解できなかった。人物像や行動が不自然で入りこめませんでした。「~だもの」「~よ」「~わね」というフェミニンな言葉づかいや「あの馬鹿」なんていうせりふも、小学校高学年の子どもにはそぐわない感じがします。また、小学6年生の子が友だちのことを思い描いたとき、「体は細くて胸はないけれど」(p 64)っていうふうになるでしょうか。文香のお母さんは不登校について「たくさん休むといろいろとめんどうなことになる」「なぜたくさん休んでいたのか、何度も説明しないといけなくなる」「役に立たない人間だと区別されるかもしれない」(p107)と言うのですが、あまりにも乱暴な説明にとまどいました。

シア:私も話に入りこめませんでした。テンポが全体的に緩慢で、どこか漫画的でした。そのせいで悪くするとギャグ寄りになってしまう場面もあって、私は卯沙ちゃんの言葉や態度などのちぐはぐさに失笑してしまうこともありました。どこをとってもドロドロしそうな展開なのにしていなくて、あっさりしています。これが現代的で、現代の小学生なのでしょうか? それなのに、先生はいつも役立たずのテンプレで描かれているので悲しいです。気になったのは、大林君のメールアドレスは了解を得て回しているのかというところ。このネットリテラシーはいただけません。それに、空いている席には誰が座ってもいいんですよね。単なる便宜上のもの。移動教室とかクラブ活動もありますし。すべてをていねいに使えばいいんです。マーキングしたい日本人の感覚だなと思いました。ウルフ・スタルクの本を先に読んだので、すべてが狭く感じました。日本的というべきなのでしょうか。最後にツッコミたいところがあって、p172「携帯を開き」とあるんですよね。スマホじゃないのかと。パカパカケータイなのかと。小学生だからなんですかね。

カピバラ:自分の本心を作文に書くことができない主人公の気持ちが正直につづられているから部分部分には共感する子もいるのかもしれませんが、物語としては一向に先に進まないのがもどかしかったです。結局、手紙もメールも書けないまま終わるという結末は中途半端で、大林くんが何を感じ、どうして学校へ来ないのかわからないし、物足りなさを感じました。宮子、中谷くん、卯沙の描き方ももう一つつっこんでほしかった。最初にクラス全員に大林君への手紙を書かせ、全員で家に届けるなんてこと、本当にやっている学校があるのでしょうか。私はここでまず引いてしまいました。大林君とお母さんの態度も後味が悪いです。歴史好きのお母さんとの会話は、おもしろくしようとしているのだろうけど、効果がないし、違和感がありました。

ハリネズミ:感想文や手紙でついつい思ってもいないことを書いてしまうことはあるし、文香が大林君の席にすわって考えてみるという展開はいいかもしれませんが、物語の流れから見て不自然なところが随所にあって、入り込めませんでした。たとえば、宮子がまわりを巻き込む押しの強い性格だとわかっているのに、文香が大林君のメアドを渡してしまうところとか、大林君の席にだれかが荷物をおいているのを見とがめて文香は自分が席にすわりつづけるわけですが、ほかの生徒が荷物をおくより、ほかの生徒がすわってしまうほうが大林君の存在を無視してしまうことになるような気もします。しかも文香はp129で中谷君が文香の席に座っているのを見ると、「他人(ひと)の席に平気で座るなんて」と文句のような言葉をつぶやくのは変。それと、最後の場面が唐突で、ただ情緒的な言葉でまとめたようで気持ちが悪かったです。物語世界がもう少しちゃんとつくってあれば、いい作品になったかもしれませんが。

マリンゴ:発売されて間もないころに、話題になっていたので読んだ記憶があります。そのときは、いい作品だけれどそんなに尾を引かないないなぁ、と思っていました。学校生活っていろんなことがあるけれど、物語があまりに「大林くん」と「手紙」に集約されている印象だったからです。今回、再読したときのほうが、おもしろく読めました。主人公は、ちょっとADD(注意欠陥障害)気味なのか、部屋の整理整頓ができない子で、周りの人はどうなのかあまり気にしていません。でも終盤、人の部屋はどうなのだろう、と関心を持つようになるなど、視野がゆっくり広がっていく感じがいいと思いました。ただ、これは好みの問題かもしれませんが、最終章の六章がまるごとなくていいのではないでしょうか。五章から、時がほとんど進んでないので、そこで終わっている方が、余韻を残したのではないかと思います。あるいは、六章を入れるなら、何カ月かあとに飛ぶとか、そのくらい話が展開したほうがいいような気がしました。

しじみ71個分:読んでなんだかイライラしてしまいました。学校のクラスのとらえ方が古くさいなぁと思いまして……。不登校の子に対してみんなで手紙を書くことを強制して、みんなで届けにいくなんて、ひと昔まえの教室運営ではないかなと……自分の子どものときの話を思い出してしまいました。先生に大林君へ手紙を書くことを強制されるのも不快でしたし、リーダー格の女子の宮子に強制させられるのも、読んでいて本当に嫌でした。宮子から「小さい」とか言われて、一方的に、こうあってほしい大林くん像を押しつけられるというのもいい迷惑だなと感じてしまい、物語の後半で宮子が少しいい子に見えてきた、という表現もあったのですが、ぜんぜんそのように寄り添った気持ちにはなれませんでした。唯一、共感できるとすれば、主人公の子が思ってないことを書けないというのは正直だと思ったことですが、その先の展開がなく、大林君の席に座って、大林君の椅子の傾きを感じ、彼が見ていたものを見る努力をするというのは、わかるような、わからないようなで……。断絶も含め、不在の人への思いや働きかけがあってこそ、読者の心が動く何かが生まれるのではないかと思いました。主人公の中で、不在の人への気持ちや思いがどう深まっていったのか、まったくわからなかったんです。大林くんが禁じられた屋上に上がって、しかられたけれど、なぜ一人だけ反省文を書けなかったのか、という点をきっかけにもっと大林君の物語を深められたのではないかと思うし、彼のお母さんが必要以上に自己肯定感が低いことにも背景があるはずなのに、それがまったく描かれていなくて、もやもやしたままです。結局、椅子に座ることも、手紙を書くことも、彼の気持ちには迫らず、自分たちの自己満足でしかないのではないかと思えてしまいました。『12歳で死んだあの子は』(西田俊也著 徳間書店 2019)にも感じたのですが、亡くなった子のお墓参りをすることに終始して、その人の不在が訴えかけてこなかった点に共通したものを感じ、思い出してしまいました。人の不在に対する心の動きがないと、物語が成立しないんじゃないのかなぁ……。

すあま:主人公は、感想文や反省文と同じように、手紙も嘘を書いていいと思って、きれいな文章の手紙を書く。先生がいいって言ったので正解だと思ったけれど、そのあとでほかの人の手紙を見て、ハッとする。手紙は相手に気持ちを伝えるものだから嘘ではだめだ、ということに気づいたことから物語が展開していくのだと思ったのですが、うまくいっていないように思いました。共感できる登場人物がいないことや細かい描写がちょっとうるさく感じられることなどで、読みづらく感じました。会話の間に頭の中で考えていることが入っているのもわかりにくかったです。登場する大人である先生や親がきちんと描かれていない大人不在の物語で、今回読んだスタルクの本とは対照的でした。あまりおもしろさが感じられませんでした。

サークルK:p47で「いつかちゃんとした手紙」を書く、と書いた文香の「最後の手紙」がp170で「板、ぴったりでした!」で落ちがつく、という展開に肩すかしをくった、というか愕然としてしまいました。もうちょっと、何か言葉はないのかな。ショートメールなどのやり取りになれているイマドキの子どもたちは、短ければ短い方が心に響くと思っているのかしら、ととまどいました。そしてこの物語が今を生きる小学校高学年の子どもたちに「あるある、だよね」という形で受け入れられているのだとしたら、小学校の現場の寒々しさというか、子どもたちがとても気を使って毎日を送っている息苦しさを思ってつらくなりました。これからを生きる子どもたちがもっと言葉を豊かに紡ぐことができるようになってほしいなあ、と願いながら読みつづけるしかありませんでした。

ハル:今、サークルKさんの意見を聞いて、ハッとしたのですが、確かに私はこの本を、今の子がどう読むかという視点では読めていなかったです。それに、2017年の刊行から少し時間が経っていますので、もしかしたら当時は画期的なテーマだったのかも知れず、あくまで2021年11月現在の感想になってしまうことも、考慮しなければいけないとも思います。そう先に断りつつも、これはいったい、いつの時代の、誰の話なんだと思うような、アップデートされていない感じが、私は受け入れられませんでした。仮にこれがノンフィクションだったとして、すべてが実際にあったことだったとしても、それを描き出して「大人ってほんといやよね」「先生って全然わかってないよね」「同調圧力、ほんといやね」で終わるのではなく、じゃあどう変えていこう、どうしたら未来が変わるだろう、というところまで感じさせてほしかったです。ただ、不登校になる理由が明確でないというのは、現実の世界でも往々にしてあることだとは思います。

ネズミ:正直な気持ちを書けない主人公というテーマはいいなあと思いましたが、物語は残念ながらあまり楽しめませんでした。p15で大林くんのお母さんが、パート先で自分の息子が学校であったことを話すところで、こんなことあるのかなと思ってしまって。不登校のことが、p108で「学校に行かないのはとんでもないことらしいのはわかった」と書かれたあと、それ以上に深まらないのも、物足りませんでした。閉塞的な息苦しさを超える、新たな気づきや共感がもっとあったらと思いました。

ニャニャンガ:主人公の文香が嘘を書きたくないという点には共感しましたが、全体的にどうかといえば共感できませんでした。気になったのは、大林くんが不登校になった本当の理由が明かされない点です。また、担任の先生の行動が怖かったです。立ち入り禁止のところに入ったくらいで反省文を書かされ、学校に行かなくなった大林くんの心の傷を理解しているのだろうかと思うほど、子どもたちに無言の圧力をかけ、無神経な行動をとるなど既視感がありました。クラスのみんなで不登校の生徒に手紙を書くとか、宮子を教師の「使える子」として学級運営をしているのは、わが子が小学生だったときと重なったのでリアルだと思います。でも、大林くんのお母さんは謝りすぎ、文香のお母さんはマイペース、友だちの卯沙はふわっとしているようでしっかりしているなど、マンガのようにキャラ立てしようとしているのかなと感じました。

さららん:この作者は言葉にすると壊れてしまう感覚を、書こうとしたのかなあと思いました。主人公は、最後まで手紙を書かず、読者としてはもどかしい感じ。そして大林くんの気持ちが主人公に少し伝わるのは、親友を通しての伝言と間接的なメールの画面だけ。主人公は大林君の席にすわって、その気持ちを想像する毎日なのですが、そんな主人公を大林くんはちょっと意識していて、最後のほうで「板」をくれます。椅子の傾きを調整するために。関係性に踏みこまないで人物を描いているから劇的な展開もなく、開けられた容器に、読者が「大林君はどう感じているんだろう」「どんな子なんだろう」「なぜ学校を休んでいるんだろう?」と自分の想像で埋めるほかない物語でした。そこには空白があって、書きこみが足りないといえばそれまでなんだけれど、今の子どもたちの感覚に通じる部分があるのかも……そういう意味では現代的なんでしょうか? 友だち同士のコミュニケーションが取れているような、いないような関係は理解できませんが、代わりに物の手触りをていねいに書いている点がおもしろかったです。

ンヌ:読みながら、事件と事件との間に物語としてのつながりがなく、読者が詩や和歌を読むときのように、間を埋めながら読んでいく作品のような気がしていました。実に繊細な感じで。だから、具体的なイメージがうまくわいてこない部分も多く、ハンカチが選べなくて2枚差し出す意味とかは、うまく読み取れませんでした。手紙を書き直すというのはわかるのですが、やっと本当の手紙が書けたのに、それを出す前に中谷君と大林君とのメールのやり取りが始まってしまうという第六章は、先ほどマリンゴさんからもご指摘があったのですが、時間の経過が速すぎる気がして奇妙な感じがしました。歴史おたくの文香の母親は、ユーモアとして描かれているのでしょうが、p107で不登校について「何度も説明しなければいけなくなる」は親の立場の説明だとしても、「役に立たない人間として区別される」という発言をするのには疑問を持ちました。

ルパン:私は今回の選書係だったのですが、この本はある意味傑作だと思って選びました。たしかに小学生としてはおとなびた感があり、中学が舞台のほうがよかったなと思いますが、ものすごくリアリティを感じます。みんな、もやもやしていて、方向性なんてないんですよ。定着して方向がつけられた学校制度の中に閉じこめられた子どもたちの現実です。そして大人たちの現実でもある。子どもが不登校になって、どうしたらいいかわからない自信のない親。自分がどうして学校に行かれなく(行かなく)なったのか自分でもわからない子ども。感想文や手紙を書けと言われてどうしたらいいかわからない友だち。旧態依然の価値観をもち、マニュアルに頼る自信のない(あるいはありすぎる)先生たち。この中の登場人物に似た人たち、私のまわりにはたくさんいます。物語の中で不登校の理由がはっきりしたり、それを解決できる大人がいたりしたら、そっちのほうがよっぽど非現実的です。「個人の自由」や「個性の大切さ」を声高に言いながら、足並みをそろえることを強いる「学校」という社会の中でみんな困っている、という現実をあぶり出した作品だと思っています。みんなが先生に言われて書いた手紙の中で、大林君は主人公の手紙だけに反応した。それを知った主人公は何か自分ができることはないかと模索した。ここで二人はちゃんと繋がりました。答えがなくてもいいじゃないですか。りっぱな大人が出てきて解決しなくてもいいじゃないですか。現実ではむしろそんな大人が都合よく出てきてくれることのほうが少ない。この主人公は何もしなかったわけでも何もできなかったわけでもない。私は「理想の大人や理想の子どもが描けていない」と思う人こそ「大人目線」なのだと思います。もやもやして困っている子どもたちはきっと共感し、「こんな自分でも、できることをさがしていいのかもしれない」と一歩、いや、半歩でも踏み出せるかな、と背中を押されるはず。文章の細かいところで課題はあるかもしれませんが、今回はそういう理由で選びました。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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ウルフ・スタルク『おじいちゃんとの最後の旅』表紙

おじいちゃんとの最後の旅

アンヌ:私はおじいちゃん子だったので、主人公と祖父が性格の一致を喜ぶ場面には、心がギュッとつかまれました。船の中で、手と手を重ね合わせるところとかを読んで、相手の温かさを感じるだけで幸せな気分になる感じとか、いろいろ思い出してしまいました。題名からわかるように、この物語は祖父が妻の死を受け入れ、自分の死も受け入れていく物語であり、主人公が祖父の死を受け入れていく過程が描かれています。でも、ユーモアたっぷりの物語で、その中にスウェーデンの典型的な食べ物、ミートボール、シナモンロール、コケモモのジャム等が姿を現し、その食べ物にも一つ一つ意味があって、おいしそうで温かくて魅力的な物語となっています。アダムという頼りがいがある大人が出てきて、p131で祖父を病院から連れ出した自分を責める主人公を、おじいさんはああいう人だろうとなだめてくれるところでは、たとえ老人でも病人でも障碍者でも人権があるということを教えてくれます。嘘が嘘を呼ぶ苦い味も12章の「カンペキなうそ」でしっかり描かれていて、実に見事な物語だと思いました。キティ・クローザーの挿絵も一目見た時からあまりに魅力的で、目が離せませんでした。

ニャニャンガ:ウルフ・スタルクは好きな作家なので、刊行後まもなく読んだので再読です。スタルク最後の作品ということで読む前から胸が熱くなりました。おじいちゃんと孫、人生の悲哀をテーマにしたスタルク作品は最高です。ただ今回は、おじいちゃんがあまりに口が悪くて偏屈だったので、物語世界に入るのに少し時間がかかりました。島から帰ってきたあと、天国で妻と再会するときのために言葉遣いを直そうと努力するおじいちゃんが大好きです。ただひとつ残念なのは、キティ・クローザーの挿絵をスタルクさんが見られなかったことです。対象年齢の読者がどのように読むのかを知りたいと思い「読書メーター」を見てみたところ、勤務校の男子生徒にすすめられたという書きこみを見つけ、きちんと届いているんだなとうれしくなりました。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。はじめから、おじいちゃんが死んじゃうんだなとわかるのですが、それでも読者を思いがけないところまで連れていってくれます。ストーリーや人物に無理がなく整合性があって、ほころびがない、完成度の高い作品だと思いました。改めていいなと思ったのは、この本に出てくる人たちが、誰ひとりとして、いい人になろうとしないところ。こうじゃなきゃいけない、というような道徳や偽善がない。看護師さんも、おじいちゃんが患者だというのに悪口を平気で言うんですね。日本の子どもの本とは、人間の描き方がずいぶん違うと感じました。

ハル:皆さんの感想を聞いていて、思い出し泣きしそうです。本を閉じてからしばらく泣いてしまったのですが、もしかしたらこんな体験は初めてかも。私は小さいころ、おじいちゃんのことがあんまり好きじゃなかったので、子どものころにこの本を読みたかったなぁと思います。子ども時代に読んでいたら、愛する人を失うという体験を、この本で初めて覚えたのかもしれませんね。登場人物、ユーモアもたっぷりの表現、イラスト、訳文……そういった全部、この本のすべてに愛があふれている感じがします。そして今度、北欧を旅することがあったら、お皿に添えられたコケモモのジャムも大事に食べようと思いました(以前に旅したときは、なんでおかずにジャムがのっているのかよくわからなくて、よけちゃったので)。

雪割草:あたたかくて素敵な作品だなと思いました。おじいちゃんは、古風で怒ってばかりですが、人間味あふれる描写で、「訳者あとがき」にもあるように、作者の、おじいちゃんのことが大好きという気持ちが伝わってきました。それから、「死」の描き方もいいなと思いました。カラスがオジロワシになって飛んでいくラストシーンへ向かって、p149にはウルフの見えないものへの気づきが書かれていますが、子どもの等身大の体験に近く感じました。ほかには、ウルフとおじいちゃん、ウルフとお父さんの関係が、p59にあるように世代の違いだけでなく、一人ひとりの違いとして描かれているのもよかったです。人生のはじめの方にいるウルフと人生の終わりの方にいるおじいちゃんの交流が、味わい深かったです。

マリンゴ:タイトルから、重い展開をイメージして、今まで敬遠していたのですが、想像とは違ってとてもハートフルで、楽しい部分もある物語でした。「嘘」が出てくるお話って、それがバレたらどうしよう、とハラハラする流れが一般的だと思いますが、この作品は、嘘を言うことを楽しむ少年が主人公で、ピンチに陥っても、仲間のアダムがすらすらと嘘をつくなど、嘘を肯定する展開がおもしろかったです。お父さんの前で、おじいちゃんとの冒険の事実を主人公がぶちまけると、お父さんがまったく信じてくれない、という場面が印象的でした。p126「合宿でなにがあったか、話してみなさい」と言われて、「……寝袋の中にゲロを吐いた子がいた」と答える場面はユーモラスで、笑ってしまいました。事実がすべて正義とは限らない、と考える作者の想いが伝わってきます。大きなことではないのですが、唯一引っかかったのは、p114からp115にかけて、アダムが卓球の試合ですぐに負けた話をしたあとの主人公のコメントです。「すぐに負けて、よかった」「ビリだっていったほうが、うけがいいでしょ」「負けた人のことは、みんな、かわいそうだと思うよね。で、ふだんよりやさしくしてくれる」などと続くのですが、これが、物語の流れのなかで若干唐突なので、後の伏線かと思ったらそうでもなく、少しとまどいました。

ハリネズミ:p114からのところは、ウルフの人となりをあらわしている表現だと思って読みました。融通のきくちょっとちゃっかりした性格の子なんじゃないかな。ウルフ・スタルクは角野さんと同じ時期に国際アンデルセン賞候補だったんですけど、選考期間の間に亡くなられたので、候補から除外ということになってしまいました。さっき、ハルさんが泣いたっておっしゃったのですが、私は、あっちこっちで笑いもしました。しみじみさせながら笑わせもする作品って、すごいです。文章にも絵にもあちこちにユーモアがちりばめられています。たとえば、汗臭い女の人に寄っていくっていうエピソード+p20の絵で、私は噴いてしまいました。子どもらしい視点も随所にあります。たとえばp10「ぼくは、まえからずっと、おじいちゃんが怒りだすときが好きだった。その場にいると、ものすごくドキドキする」とか、お父さんに「わたしの目を見ろ」と言われて、p122「ぼくは見なかった。パパの眉毛を見ていた。目でも眉毛でも、パパにはわからない」とか。p130で、パン屋の店に入って「店の中に入ると、あたたかくて、うす暗くて、いいにおいがして、ぼくはからだがふるえた」とか。スタルクには、上から目線や猫なで声がまったくない。あと、短い文章の中で、じつに的確に表現しています。たとえばp72「ぼくがジャムの瓶を持ってもどると、おじいちゃんはしばらくのあいだ、その手書きの文字をじっと見つめていた。それからふたをあけ、パラフィン紙の封をナイフでそっとはがした」というところですけど、あれだけ罵詈雑言を連発していたおじいちゃんが、おばあちゃんの作ったコケモモのジャムには万感の思いを抱いていたことが伝わってきます。それと、どのキャラクターにも奥行きがある。下手な作品だとお父さんを悪者にしてしまうところですが、お父さんも、p146のお菓子を買ってくるくだりや、そのとなりの絵を見ると、ただの堅物ではないことがわかりますよね。最後のカラスとオジロワシのところも伏線がちゃんとあるし。キティ・クローザーの絵も、ほかのにも増してすばらしいので、スタルクを敬愛していたことが伝わってきます。

カピバラ:私もスタルクは大好きな作家なんですけど、大好きなスタルクの最後の作品だというさびしさと、おじいちゃんの最後の旅という悲しさとが重なって、なんともいえないしみじみとした読後感にひたった一冊でした。スタルクの持ち味はユーモアとペーソスだと思いますが、それが十分に味わえる作品だったと思います。時代も国も違うのに、こんなに親しみを感じる人が出てくる本っていうのは少ないものですが、先ほど「登場人物がみなほかの人に自分を良く見せようとしない人たちだ」という感想がありましたが、なるほどと腑に落ちました。何度も何度も繰り返し読みたい作品です。

まめじか:登場人物が人として立ち上がってきて、この人たちはページの向こうにちゃんといると感じられました。主人公のウルフはおじいちゃんのことをよく理解していて、たとえば「死んだ人を愛しつづけることって、できる?」(p60)ときいたときに「だまれ、ガキのくせに!」なんて言われても、それは「できる」という意味だとちゃんとわかってる。わざと汚い言葉を言わせて、その罰として薬を飲ませるのも、おじいちゃんへの想いが伝わってきます。ウルフは人生がはじまったばかりの子どもで、一方おじいちゃんは人生を終えようとしている。夢と現実の境があいまいになって、おばあちゃんとかオジロワシとか、そこにはいないはずのものが見えるようになったおじいちゃんの目に映るものを、ウルフはときどき感じながら最後の時間をともに過ごして、やがておじいちゃんは船のエンジン音のようないびきをたてて向こう側の世界へと出航していく。たった2日間の冒険が、主人公の心にかけがえのないものを残したのですね。冒頭に出てくる紅葉した葉は、次の世代に命をつないでいくことを思わせるし、コケモモのジャムは生きることそのものというか、人生という大きなものを日常のささやかなものにぎゅっとこめるように描いていて、そういうのも見事だなあと。おじいちゃんが弱っていく姿を見たくなくて病院に来たがらないお父さんの描写には、リアリティがありました。あと、ウルフがバスの中で、汗のにおいがうつるようにおばさんにくっつく場面なんか、ユーモアがあっていいですね。挿絵も物語にとてもよく合っています。キティ・クローザーは現実と想像が入り混じった世界を鮮やかに描き出す画家で、私はとても好きです。死をテーマに扱った作品も多いですね。

さららん:しばらく前に読みましたが、ほんとに短いけど、どこもかしこもおかしいような切ないような、魅力的なお話でした。おばあちゃんのお葬式のときに、汚い言葉を吐いてしまったおじいちゃんは、天国でおばあちゃんと再会するときのために、これからはきれいな言葉をしゃべれるようにがんばろう、と決意します。そんなところに、おじいちゃんがおばあちゃんに伝えきれなかった、深い愛を感じました。そして、この本はあえて直訳風にした翻訳の仕方がすごくおもしろくて! p44の「かわりに息子と、とてつもなく愉快なわたしのおいがまいります」とか、下手にやったら目も当てられない表現ですが、それがものすごく笑えるんです。これは菱木さんのマジックかなあ。シナモンロールはよく食べるけれど、カルダモンロールは食べたことないので、食べてみたいです。おじいちゃんが静かにいびきをかきはじめた場面では、涙が出そうになりました。

サークルK:読書会に参加させていただくようになっていちばん涙を流した作品でした。タイトルがすでに物語るように、主人公のおじいちゃんの死に向かっていくお話ではありますが、悲壮感がなく「命がゆっくりと尽きていくときの時間」ということを作者が尊厳をもって温かい言葉で語ってくれていて、素晴らしかったです。その素晴らしさを翻訳と挿絵がさらに引き立てていました。p61のおじいちゃんと孫がまったく同じポーズで船室の椅子に座っているところはユーモラスで思わず笑みがこぼれましたし、p159の挿絵で孫の男の子がおじいちゃんの大きな手を握りながら最後の時を過ごしている様子には、胸を打たれました。ベッドサイドテーブルにおばあちゃんの写真とほんの少しだけ残ったコケモモのジャムの瓶が置かれていることが描かれていたからです。大好きな妻の作ったコケモモのジャムはおじいちゃんの生きるエネルギーそのものになっていたはずなので、挿絵に空っぽの瓶ではなく、ほんの少しジャムが残された瓶が描かれたことによって、おじいちゃんが明日もまた生きておばあちゃんのジャムを食べたいと思っていたのかもしれない、という希望のようなものが感じられました。p90で示唆されていた「オジロワシ」にp161で見事に姿を変えたおじいちゃんの最期は悲しみに満ちたものでなく誇り高いものであったのだなあ、としみじみ感じ入りました。

すあま:最後に登場人物が死んでしまうことがわかっている話は子どものころからあまり読みたくないのですが、スタルクなら絶対おもしろいだろうと思って読みました。ウルフが両親をだましておじいちゃんを連れ出すところは、途中で見つからないか、おじいちゃんは具合が悪くならないかと、ハラハラする冒険物語を読んでいるようでした。アダムがいたのも大きかった。家族じゃないけど助けてくれる大人が出てくる物語はいいですね。出てくる大人がちゃんと描かれているし、アダムも魅力的な大人で、おじいちゃんとわかりあえている感じもよかったです。日本でも、子ども向けに老いや死、認知症をテーマにした本がいっぱい出ているけれど、ウルフ・スタルクにかなう人はいません。泣かせる、感動するだけでなく、やっぱり笑えて楽しいところもあるのが良いと思います。ウルフはいい子だけど、それだけじゃなくて嘘もつくし、個性豊かで生き生きしている。おじいちゃんが亡くなってしまうのも自然に描かれていて、いいなと思いました。死を描いていると、怖かったり悲しすぎたりするものも多くて、そういう話が苦手な子にも読みやすくて受け入れやすい話だと思いました。来日されたとき講演会でお話をうかがったのですが、物語のウルフに会ったようで、とても楽しい時間でした。訳については、汚い言葉を話す人たちを、キャラクターが伝わるように訳すのは難しいのではないかと思いましたが、すばらしい翻訳でした。

シア:『うそつきの天才』(ウルフ・スタルク著 はたこうしろう絵 菱木晃子訳 小峰書店 1996)という本が大好きでしたので、ウルフ・スタルクだ! と思いながら読みました。「最後の旅」という題名を見て、また題名ネタバレをしている……とガッカリしたのですが、結果的にかなり泣かされました。日本版はこの手の題名多いので、なんとかしてください! おじいちゃんの汚い言葉がかえって生き生きしていて、本当におばあちゃんを愛していたんだなというのも伝わりましたし、変わっている人なんですがとても素敵な人だと思えました。こんな人生いいなと思いながら読みました。子どもに是非読んでほしい本です。挿絵は色鉛筆ですかね、きれいな色合いでした。小学生くらいから読むのにいいと思います。夜に読んだので、シナモンロールとかコケモモのジャムなど、誘惑にかられる1冊でした。

しじみ71個分:読んでもうとにかく感動しました。短い物語の中で、どうして人間関係がここまで書けるんだろうと驚くばかりです。詳細な説明は書いていないのに、おじいちゃんとの関係ばかりか、お父さんとウルフ少年との関係など、全部わかってしまうんですね。キティ・クローザーの絵もすばらしくて、最後のおじいちゃんとおばあちゃんの二人がよりそっている後ろ姿の絵を見て、涙腺崩壊しました……。アダムも看護師さんたちも脇役ながら、人がらがみっちりと描きこまれていて、とても魅力的です。著者はキティ・クローザーの絵を見ることなく、出来上がった本を手に取ることなく、亡くなられたとのことですが、自分が老境にあって、おじいちゃんのことをどういう心境で書かれたのかなと思うと、また泣けてきます。汚い言葉を使うけれども愛情深い人で、短い言葉や行動の中におばあちゃんへの愛情があふれていますね。病院を抜け出して島にわたる際におばあちゃんの姿を見たり、おばあちゃんの腰かけていた椅子に座って窓の外を眺めたり、と不在の人を見る、またその人の見ていたものを見ようとするという行為が、不在の人を思う深さを直接的な言葉でなく語っているところに、ウルフ・スタルクのすごさを感じました。それから、ウルフ少年の嘘も、自分の苦しまぎれの保身とか自分勝手とかではなく、おじいちゃんを楽しませるためで、自分の力で考え、アイディアで難局を切り抜けていくという、この物語に代表されるような、西欧の活力ある子ども像は大変に魅力的ですし、そういう物語が日本のお話でも描かれていくといいなと思いました。

さららん:キティ・クローザーが日本に来たとき、お話ししたことがあるんです。そのとき、日本で何をしたいですか? ときいたら、島に渡りたいと言ってました。このスタルクの本の中に出てくる多島海の風景は、ベルギーとスウェーデンの両方を行き来して育ったキティの原風景でもあるんだ、と思いました。

ニャニャンガ:原書の表紙では、おじいちゃんの足元にタイトルが入っていますが、邦訳では上に移動していますね。空の部分が原書の倍くらいになっていますが、どうやってつけ足したのかなと思いました。

ハリネズミ:日本語版には帯がついているから、タイトルを上にしたのでしょうね。原画が大きかったのかもしれないし、コンピュータ処理で空の部分を伸ばしたのかもしれません。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年9月 テーマ:音楽

日付 2021年09月14日
参加者 ネズミ、まめじか、アンヌ、雪割草、アカシア、西山、さららん、虎杖、ハル、コアラ、カピバラ、マリンゴ、ヒトデ、しじみ71個分
テーマ 音楽

読んだ本:

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『わたしが鳥になる日』表紙

わたしが鳥になる日

ヒトデ:物語のカギとなるビートルズの曲や、ロバート・フロストの詩など、モチーフの入れ方が、とても巧みだなと思って読みました。嫌味なく物語にはまっているというか。こういうのが読めるから、やっぱり翻訳文学っていいなと思いました。「鳥」というモチーフも新鮮でしたし、物語にしっかりハマっていてよかったです。

雪割草:すてきな作品だと思いました。「エリナー・リグビー」がテーマ曲として描かれていますが、知らなかったので調べて聴きました。それで、登校時にエリナーが歌っているこの曲が、悲しい歌詞とメロディーだったことを知り、エリナーのキャラクターをより深く味わうことができました。あとがきにもあるように文章は詩的で、また色でさまざまに表現するところも好きでした。主人公は、自分は鳥だと思っていて、鳥になれば自由になれるのだと、自分の物語(日記)を持ち歩いていますが、ミミズを食べるシーンなどはやりすぎではないか、読者はついていけないのではないかと思いました。ただ、それだけ主人公の傷も深いのだとも思いました。そして、エリナーは献身的で素晴らしい人物だと思いましたが、素晴らしすぎるのではないかと思いました。

カピバラ:デセンバーには、一つ一つの物事がどう見えているのかを、時に詩的な表現を使ってていねいに綴っているのがよかったです。ただストーリーを追うのではなく、一人の少女のものの見方や感受性を共に味わう、といった読書の楽しみがありました。またすべての事柄を鳥の生態や習性と結びつけて考えるのが新鮮でおもしろかったです。オリジナリティがありますね。周りの人々を鳥になぞらえて表現するのもデセンバーならではの見方でおもしろいです。いろいろな辛い体験をしているので、最初はもっと年齢が上の子のような印象でしたが、まだ11歳なんですよね。11歳の身に余るつらい体験を重ねてきたから、自分は鳥なんだと思い込もうとするところが痛ましいです。やっと出会ったエリナーの押しつけがましくない愛情や、シェリルリンのストレートな友情に救われるところはほっとします。あと、意外にソーシャルワーカーのエイドリアンが最後に涙するところは、感動しちゃいました。ずっと見守ってきたんですものね。エリナーが傷ついた鳥を保護して自然に帰す仕事をしているのが象徴的に描かれていると思いました。

さららん:もうすぐ鳥になれると信じ、そのたびに木から落ちて傷つくデセンバー。妄想とか精神障害ではなく、想像を現実とごっちゃにできる、ぎりぎりの年齢として11歳の主人公を設定したのは、正解だったと思います。何が起きているのか見当もつかぬまま読み始めましたが、カウンセラーとの会話を通して、デセンバーが、自分の行動が人から変だと思われることをちゃんと理解している子だと知りました。デセンバーは自分の行動や感じ方を説明するとき、様々な鳥の例を具体的にあげます。その表現がおもしろく、独特な言葉の用法で、ここにしかない世界が作られています。ブルー、ピンクなどの色彩が象徴的に使われ、音楽も聞こえてきました。里親エリナーとデセンバーの気持ちが通じ合うにつれ、エリナーへの共感が増し、飛ぶたびに傷つくデセンバーの姿に、もうこれ以上自傷行為は繰り返さないで!と願う気持ちになりました。大切な友人になるトランスジェンダーのシェリルリンの存在によって、現代に生きる子どもの物語としての厚さが増しています。デセンバーのために、なんとか居場所を探そうとするソーシャルワーカー、エイドリアンの描き方も好ましく、新鮮でした。

まめじか:デセンバーは聡明な面を見せる一方で、空を飛べると思っていたり、自分も剥製にされると思ったりするようなところもあり、そうしたアンバランスな内面がよく描かれていると思いました。ここから飛び立ちたい、自分の居場所を見つけたいという強い思いは、「ある場所に属している」というアカオノスリの学名に呼応し、また渡り鳥の帰巣本能にも重ねられています。餌のネズミをていねいに扱うエリナーを見て、ネズミの運命がわかっているから優しくするのか、自分のことも過去を知っているから優しくするのかと考える場面など、心の動きが繊細に表されています。校長室までデセンバーにつきそってきたシュリルリンが、「あなたはどうしてここにいるの?」と聞かれて、「心のささえになるためです」と答えるのですが、シュリルリンやエリナーやエイドリアンがデセンバーの心に寄り添う姿には胸が熱くなりました。

しじみ71個分:今回の選書係としてこの本を選んだきっかけは、図書館の書棚に並んでいるのを見て、表紙の装丁が素敵だなと思って手に取ったのでした。読んで本当に良かったと思います。前回読んだ『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス著 千葉茂樹訳 あすなろ書房)と内容は似ていて、家族がいなくて里親を転々とし、最後に家族を得るという点は共通しています。スーパー・ノヴァでは主人公は自閉症で、求めているのは最愛の姉でしたが、この本は失われた母親で、その母親が主人公を虐待して大怪我を負わせていなくなるというより厳しい内容でした。里親になるエリナーの名前の由来は、The BeatlesのEleanor Rigbyで、その歌の寂しい雰囲気が物語を通底していると思い、イメージが広がりました。とても切ない歌詞で、教会で結婚式でまかれる米を拾う老婆エリナー・リグビーをはじめ、すべての孤独な人々を歌っていますが、この寂しさを極めたような歌が物語のカラーになっていると思います。里親になるエリナーが娘を亡くし孤独を抱えた人であり、デセンバーも孤独で、孤独な人同士が探り合い、最後に寄り添うというイメージは美しいと思いました。デセンバーが鳥になって飛ぶことに取り憑かれているのも、そういうふうに思わざるを得ないほどに追い込まれた、11歳の体につまった悲しい思いであって、自分を虐待した人でも母と思って慕う姿は読んでいてもつらかったです。お母さんも連れ合いを亡くして精神的に不安定で、それゆえにネグレクトと虐待をしてしまった、ある意味支援の手の足りない人だったのも切ないです。文章が詩的で美しく、言葉からのイメージをたくさん受け取れた物語でした。

アンヌ:最初は本当に「鳥になる」物語かと思っていたのですが、これは飛ぶ話ではなく繰り返し木から落ちる話で、何度も自殺未遂を見させられているようで、読み進めるのが苦痛でした。種しか食べない偏食を自分に課しているデセンバーに、アイスクリームを山盛り食べさせてくれるエイドリアンとか、ゆったり構えて無理強いをしないエリナーとか、まっすぐに友情を示してくれるシェルリリンとか、良い人たちとの出会いがあるけれど、その裏に母親の虐待の事実が少しずつ現れたり、学校のいじめが描かれたりする。その構成は本当に見事だと思うけれど、読んでいてつらいものがあって、後半を読み進めながら、ここでもう一押し誤解があってそれから木から落ちるのかと思うと、つらいなあ、長すぎるなと感じました。詩的表現が心を打つ場面も多いので優れた作品だとは思いますが、読み進められる年齢層はどれくらいなのでしょうか?

アカシア:今日読んだ作品で比べると『いちご×ロック』(黒川裕子著 講談社)が図式的だったのに対して、これは個性をきちんと描き出していると思いました。文学って、こういうもんなんじゃないかな、と。読んでいてたしかにつらいですが、こういう子どもがいるというのは確かなので読んで心を寄せたいと、私は思います。木に登って飛ぼうとするのはこの子の無意識の自傷行為だと思ったし、最後で自分は人間だと何度も自分に言い聞かせているところで、それだけこの子の心の傷が深かったのだと思い至りました。欲を言うと、新人ならではの部分もなきにしもあらずです。たとえば冒頭はどういう状況かつかみにくいし、p54で「剥製にされるんじゃないか」と主人公が本気で思うところで、私はついていけなくて、最初に読んだ時はそこでやめてしまいました。今回もう一度読んだら、作品の深さもわかってきたのですが。それと、里親のエリナーが出来すぎですよね。つらい子どもを受け容れるには、こんなにすばらしい人じゃないとだめなのかと思ってしまいます。

虎杖:同じ訳者による『スーパー・ノヴァ』に設定が良く似てるなと私も思いました。千葉茂樹さん、同じ時期に訳されたのなら大変だったろうなと思ったり、さすがだなと感心したり……。ただ、『スーパー・ノヴァ』の主人公は、お姉ちゃんにとても愛されていたという経験があるのに、この作品のデセンバーにはそれがない。愛されなかったことをナシにしようとおそらく無意識に思いつめたことが、「自分は鳥になる」という思いにつながる。そこのところがなんとも悲惨ですね。作者のあとがきには、実際にいろいろな人に話を聞いたと書いてありますが、このデセンバーもモデルがいたのかなと推察しました。それにしても、色彩にあふれた詩のような文章が素晴らしい。パンプキン畑の描写が特に美しい映画を見ているようで印象に残りました。ただ、エリナーはちょっと出来すぎというか、作りすぎというか……。『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)のように、守られている子どもと守っている人が、お互いに影響しあいながら変わっていく様子が見たかったなという気がしました。『スーパー・ノヴァ』の表紙も好きだったけど、この本の表紙もすてきですね!

ハル:私も雪割草さんと同じで、「エリナー・リグビー」がタイトルでピンとこず、読み終わってから調べて「ああこれかぁ!」と思ったので、先に調べてから続きを読めばよかったです。これは失敗でした。作品全体としては、実はちょっとトラウマになりそうなくらい陰鬱な部分もある作品ですよね。たとえば、いじめっ子に追い詰められてミミズを食べる場面とか、繰り返し木から飛び降りる場面とか。それでも、構成力や表現力、人物の魅力で、ぐっと物語に引き込む力をもった作品で、読後はいいお話を読めたという深い満足感がありました。YAとしては、やや読解力を必要とするタイプの作品かなぁと思います。

ネズミ:いい物語を読んだという満足感がありました。心にしみるお話です。鳥がこの子にとっての鎧であり、逃げ場だったのだろうなと思って、胸が痛くなりました。表現のひとつひとつがとても繊細だと思いました。「わたし」が「わたしたち」に変化していくことに象徴されているものがあったり。11歳にしては、全体に大人っぽい感じがしますが、p143からの魔法の杖で遊ぶ場面は、シェリルリンといることから子どもっぽい部分が引き出されているのか、とても印象的でした。タイトルは感じがいいですが、ミスリードしないかなとも思いました。「鳥になる」のが目標なのかと思って読み進めてしまったのですが、そうではなかったので。原題のExtraordinary Birdsというのは、訳すのが難しそうですね。作者の〈謝辞〉に「中級学年むきの作品を書くべき」と言われたとありますが、日本の子どもが読むなら、この作品は中学年より高学年ですよね。

アカシア:日本ではページ数が多いだけで、高学年向けとかYAになってしまうのではないでしょうか。

カピバラ:翻訳もののほうが、設定になじみが薄い分、グレードが高くなるのかもしれませんね。

マリンゴ: 非常に魅力的な本でした。デセンバーが、エリナーのもとに来て、信頼関係を結んでいく物語なのだろうなと、序盤で容易に想像つくのですが、それでも、複数の不安定な要素があって、どういうふうに着地するのか、と引き込まれました。冒頭だけは読みづらくて、数ページ読んでから、人間じゃなくて鳥が主人公の物語なのかな、といったん最初まで戻って読み直してしまいました(笑)。鳥にまつわるさまざまな蘊蓄が随所にあふれていておもしろく、また鳥の一生と人間の人生を重ねている部分なども、説得力があってよかったです。特にp130に出てくるシャカイハタオリという、世界で一番大きな巣をつくる鳥が気になって、調べました。なぜかミサワホームのホームページにくわしい情報が出ていましたよ。デセンバーは、8歳か9歳くらいの幼さを見せるときと、12歳以上の知性を見せるときと、ばらつきがありました。それは、デセンバーのPTSDの深刻さを意図的に見せているのだろうな、というふうに受け止めました。敢えて言えば、エリナーの人柄があまりに優れていて忍耐強いので、デセンバーのような子の信頼を得るためには、里親はここまで頑張らなければならないのか、とちょっとしんどさもありました。なお細かいことですが、「リーキ」という食べ物が登場しますけれど、この呼び方はあまり日本ではなじみがない気がします。ニラネギ、もしくはポロネギと訳してもらったほうが、イメージが湧きやすいかなと思いました。

西山:最初は読みにくかったですね。だんだん加速していって後半は途中で止められなかったのですが、それは、デセンバーに何が起こったのか、その不幸な過去を知りたいという興味で読み進めていて、我ながら、それはちょっといやしい読み方だなと思っています。読みにくかったのは、例えば、鳥が好きなのだったら、ヒメコンドルが不細工だと言ったりする(p38)のかなとか、デセンバーという少女の像が一本に結べず、ついていきにくかったからかと思います。過去の過酷な体験が原因で、彼女の感情面の振幅が激しいのかとも理解しますが、それが読みにくさになっていたかなと。ソーシャルワーカーのエイドリアンが好きでした。デセンバーが彼の心遣いをしっかり受け取っているから、それが読み手に伝わったのだと思います。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『いちご×ロック』表紙

いちご×ロック

ネズミ:非常に勢いのある作品だなと思いました。思った高校に行けなかったこと、母との関係、父親の事件への戸惑い、よくできた姉への劣等感など、いろんな要素がからんでいます。高校生のさまざまな要素を盛り込もうとしているんだなと好感を持ちました。ただ、私の好みの問題かもしれませんが、その勢いについていけない部分もあったかな。特に、ひっかかったのは父親の事件をめぐるやりとりは、すっきり解消せず、消化不良感が残りました。

虎杖:エアギターというのは、テレビでコンテストの風景を見たことがあったけど詳しくは知らなかったので、おもしろいなと思いました。楽器を弾けなくてもできるというのがいいですね。でも、人前で演奏するには、楽器を弾くより勇気がいるかも。濱野京子作『フュージョン』(講談社)を読んだときも、ダブルダッチとか縄跳びの技を知ることができておもしろかったのを思いだしました。文章は軽くて、すらすら読めるし、登場人物もマンガチックだから、中学生は手に取りやすいかな(高校生となると、疑問だけど)。ひっかかったのは、主人公の苺の設定で、受験の失敗で暗くなってる優等生が、たとえモノローグでも、こんな風に話すかなということ。それに、成績が251人中25番で落ち込んでいるらしいけど、ここまで読んだら251人中224人の読者はカチンときて読みたくなくなるかも。お父さんが痴漢で捕まったという事件は、十代の子にとっては大変なことだと思うけど、結局やってたのか、どうなのか曖昧なまま終わりますよね。これって、絶対やってるよね。冤罪だったら、最初から猛烈に怒るだろうし、闘おうとするだろうから。作者も、そのへんのところは気になっているとみえて「このひとは、嘘をいっているかもしれない」なんて主人公に言わせている。いっそのこと、本当にやったという設定にすればおもしろい展開になったのかもしれないのに。変な言い方かもしれないけれど、作者の覚悟が足りないなって気がしました。当然いるだろう被害者(あるいは、被害を訴えた人)のことも、この主人公はまったく考えていないんだよね。実際に痴漢の被害にあった中高生が読んだら、カチンどころじゃなくて猛烈に怒るだろうなと思いました。

アカシア:私はあまりおもしろく読めませんでした。シオンの父親は韓国人なのですが、その設定がうまく生かされていませんね。ただのどうしようもない父親というだけで、それならわざわざこういう設定にする必要がなかったのでは。父親が痴漢を疑われるのですが、もし無実なら最初から家族にはっきりそう言うだろうと私は思ったんですね。最後の娘との和解の場面になって初めて言うなんて、リアリティがないように思います。また娘のほうも高一でそう父親と親しくなければ、父親が痴漢の疑いをかけられたくらいで、これまでとまったく違う人間になろうとするくらいまでぶっ飛ぶこともないように思います。いろんな意味で、文学というよりマンガのストーリーじゃないでしょうか。またエアギターやエアバンドについては、おもしろさを文章で伝えるのは難しいかもしれないですが、この作品からは私はおもしろさを感じられませんでした。出てくるキャラクターも図式的で、魅力を感じるところまで行きませんでした。

アンヌ:一度読んだだけでは、最後がどうなっているのか分からなくて読み返しました。一つ一つの場面では完結しているのだけれど、物語として納得がいくような流れ方をしていないなと思いました。ロクは魅力的だけれど、たぶん難病ものなんだろうなと予感がしてしまって、もう少し別の設定はないのかなと思います。実は裏表紙にUGの絵があったので、最後には出て来てかっこよく弾いてくれると期待していたので、出番がなくて残念でした。

コアラ:おもしろく読みました。ただ、最後のページが、何を言っているか全然分かりませんでした。最後のページの4行目、「さあ、わたしの十五秒はどこにある?」って書いてあるのですが、〈EIGHTY-FOUR〉のパフォーマンスを力いっぱいやり終えたばかりでしょう。「どこにある?」って、これから探すように書かれていて意味が分からない。最後がうまく締めくくれたら、もっと後味がよかったのにと残念でした。全体としては、表現はいろいろおもしろいと思うところがあって、表現に引っ張られて読んだ感じです。エアギターを取り上げているのも、おもしろいと思いました。高校生ならリアルギターもできる年齢ですが、あえてリアルではなくエアギターというところで、リアルな世界での姿とのギャップや、リアルでは出しづらい反抗心とかを描きたかったのかな、とも思いましたし、人目を気にしないでやりたいことをやってみろ、とか、そういうことを描きたかったのかなと思いました。シオンくんが最後にエアドラムを叩く場面は、おお、やるなあ、と思いました。エアだから表現できることって確かにありそうだなという気がします。読み終わってから、YouTubeでTHE STRYPESの〈EIGHTY-FOUR〉を聴いたんですが、この曲を知っていれば、この物語に流れるエネルギーみたいなものをもっと感じられたかなと思います。エアであれ、ロックをやる若者を描いているんですが、文体としてはロック感がなくて、優等生的という感じを受けました。そこが作品としては残念かなと思います。

まめじか:ラストの「わたしの十五秒はどこにある」は、今弾いた曲ではなく、人生の十五秒という意味では? 音楽というのは本来、ほとぼしるような感情の発露なのだということが、エアギターというものに表されていると思いました。自分の思いをぶつけて、自由に表現するというか。一度失敗したらぜんぶだめなのかと、ロクは苺に言うのですが、それは苺が志望校に落ちたことやシオンにふられたこと、父親の痴漢疑惑やUGのアルコール依存症などにつながります。価値観を押しつけ、決めつけてくる大人に対し、苺が自分にとっての真実を見つける物語ですね。ロクが病弱だという設定は、吉本ばななの『TUGUMI』(中央公論社)に重なります。病弱だけど強い魂をもった少女に男の子が思いを寄せ、それを主人公が見守る構図だなあと。

カピバラ:いろんなモヤモヤをかかえた高校生がエアバンドに出会って解放されていく感じがよかったし、高校生らしい比喩とか心の中での突っこみがおもしろいと思いました。でもこの人の描写があまりにも説明的で、新しい人物が出てくるたびに、どういう髪型でどういう服でと、あたかもマンガの絵を上から順に説明するように書かれているんですよね。新しい場所に行くたびに、場所の説明も事細かに書いてあって、ちょっと疲れると思いました。それだったらマンガを読んだほうがいいんじゃないかな。文章を読んでいろいろ想像するような楽しみっていうのがあまりないのが残念です。見た目だけを解説しなくても、雰囲気や性格は伝わると思います。それが文学なので。

雪割草:読みやすかったです。外国籍の背景やいろんな家族のかたちをとり入れていたり、消しゴムのかすに自分を例えている主人公が、エアギターを通して自分を出していく変化を描いていたりするのはいいと思いました。ただ、恋愛模様の描き方や登場人物の設定が表面的なところなど、コミックチックだと感じました。例えば、UG(ロクとシオンの祖父)はヒッピーっぽく、一風変わっていておもしろそうな人物ですが、ダメな感じにしか描けていないのが残念でした。裏表紙の絵の描かれ方も風格がなくてびっくりしました。人生の先輩の年齢の人なので、もっと深みがあって学べるところがあるはずなのに、もったいないと思いました。

ヒトデ:「音楽系」の児童文学が好きなので、今回、推薦させていただきました。「音楽」「バンド」を書いたものではあるんですけど、「エア」というのが、個人的におもしろかったです。「エア」だからこそ、現実の部分をこえて、表現することができる。その着眼点は、この作者ならではのものだと思いました。キャラクターの造形など、マンガ的ではあるんですが、こういった形だからこそ読める読者もいるんじゃないかなと。好みもあるとは思うのですが、ハマる読者はいると思います。私はハマりました(笑)。勢いが楽しいです。

ハル:最後まで一気に突っ走っていくような、疾走感が心地よい作品で、いいねぇ、青春だねぇと、勢いよく読みました。とか言いながら、対象読者よりもだいぶ歳上の私にしたら、途中「ちょっと長い……」と思ったのも正直なところです。でも、青春ってこういうことなのかもねと思います。傍から見たらダサくて全然いけてなくても、何かに熱くなれた時間が、いつか大きな財産になると思うので、読者が何かしら影響を受けて、何かに夢中になってみたい!と思えたら、それはいいことなんじゃないかなと思いました。苺のママと流歌さんがすぐに友達になっているのは意外でしたけど。

しじみ71個分:私は、ああ、青春の爆発だなと思って、その点は好もしく思って読みました。心の中に言い出せないモヤモヤがいっぱい詰まってて、いつも怒りか何かわからないものを抱えていたなぁ、とか自分の若い頃が思い出されました(笑)。制服に口紅でバツを書くなんていう気持ちはとてもよく分かりましたね。苺は受験に失敗したりとか、父親が痴漢の容疑者だったりとか、事件はあったけど割と普通で、ほかの人物は父親の国籍が違うとか、病気を抱えてるとか、それなりの背景があるのに深掘りされないので、苺の視点から見た普通の子の鬱屈は分かるんだけれども、その対比となる部分がない感じがします。エアギターもおもしろいとは思ったんですけど、もうちょっと魅力的にエアギターを書いてほしかったなぁと思いました。そこまでエアギターに入り込む必然性、どうしてエアギターじゃなきゃだめなのか、というところまでは感じませんでした。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花、くもん出版)は、ネグレクト、ヤングケアラーといった重いテーマを背景にしつつ、パンクへの愛がこれでもかというくらいに描かれていて、なぜパンクなのか、パンクでなければダメなんだという点がとても心にしみて、ぐっと入り込めたんですね。主人公が好きなものは書き込んである方が気持ちに寄り添えるし、設定に入り込めるなと感じました。それと、UGの造形がちょっと物足りないかなと。千葉にはジャガーさんという伝説のヘビメタロッカーがいて、読みながらそういうロックなおじいさんを想像していたんですけど、わりとすぐにUGがエアギターを教えてくれて軽い感じがしたし、ロッカーというよりわがままなおじいさんにしか見えなくて、物足りなさはありました。あとで、The Strypes見ましたが、ちょっと物語のエアギターと結びつかなかったな…残念…。

西山:率直に言ってしまうと、わたしはあんまり好きじゃなかったです。まず、苺が高校生に思えなくて。もちろん、1年生だし、16歳とあるので、実際のところはそんなものかもしれませんが……子どもの本の世界でこんなふうな造形は中学生として読み慣れてきたので違和感があるのかもしれませんが……。作者は、存在しないギターを弾いて見せるエアギターを、映像ではなく言葉で描写するという、「見えない」を二重にして書くこと自体がチャレンジというか、おもしろかったのではないかと勝手に思っています。でも、読者としてそれを楽しむという風にはならなかったわけです。ちょこちょこひっかかりが多くて……。たとえばp76の最後の行で、シオンくんのお父さんが離婚して出ていったことを「クラスメートだけど、そんな話きいたことなかった」とあるけれど、そりゃそうでしょと思います。どんな親しい子だってめったにそんな話はしないし、苺はクラスの中で壁を作って閉じこもっているし、なおのことそうでしょうと。お姉ちゃんに対して屈折していて内心反発していて、心中「夏みかん」と呼んでいるというのもピンとこない。憂さを晴らすためなら違う言葉じゃないかなとか。ラストは説教臭く感じてしまいました。例えば、カラコン外して「素のままの自分」という感覚は大人好みの気がしたのでした。

マリンゴ: 黒川さんの本は、取り上げられる素材がバラエティに富んでいて、次は何かと興味深く読んでいます。『奏のフォルテ』(講談社)はクラシック音楽でしたが、今回はロックですね。いろんな要素が詰め込まれていて、高校生の主人公が混乱してもがきながら、どうにか前へ進んでいく様子が描かれています。いいなと思ったフレーズはp184「百まで生きるより、ずっとかっけー十五秒もあるよ」です。ただ、ストーリーとディテールにそれぞれ気になるところがありました。まずストーリーについてです。父が「自分はやってない」と最後の最後で語るのですが、本当にやってなかったら、引きこもったりとか帰宅したときに謝ったりだとか、そういう言動にならないのではないでしょうか。これは主人公と父が理解し合うシーンを最後に持ってきたいから、敢えて事実を伏せて引っ張っているように思えるんですけども、そのせいで逆にリアリティから離れた気がします。また、ディテールですが、都会の女子高生の一人称のわりに、そういう子のボキャブラリーとは思えない比喩が多くて気になりました。たとえば、p10の「水田の稲の高さくらいは跳んだだろう」とありますが、都会暮らしの女子高生がぱっと思いつく言葉として、「水田の稲」は違和感がありました。もう一つ挙げるなら、p28の「おでんの鮮度でたとえるなら、三日目夕方のはんぺんだ」。16歳の主人公がおでんを食べるとすると、主に家庭でだと思うのですが、お母さんはp104で「潔癖性の気のある」と書かれていて、おでんを三日出すキャラクターとは違いそうです。そうすると、三日目夕方のはんぺんをどこで見たのかな、と。見たことないのであれば、大人ならともかく女子高生が「イメージ」だけでこういう比喩を出すのは少し不自然かなと思いました。三人称で書かれていれば、さらりと読めた気がします。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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子どもの本に見る新しい家族⑫ もっと多様性を!

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑫

もっと多様性を!

これまで11回にわたって、子どもの本に新しい家族がどう描かれてきたかをみてきた。子どもにとって最も身近な環境である家族・家庭を通して、子どもの本をとらえ直してみたいと思ったからである。日本ではまだ家族というと血のつながりが前提だと思い込んでいる人が多い。そして父親はたくましく外で働き、母親はパートくらいはするにせよ家で家事や育児にいそしみ、子どもは思春期には多少の揺れがあったとしても最終的にはしかるべき企業に職を得る─それが安泰な暮らしの基盤であり、家族の理想像だと考えている人もたくさんいる。そこからは、親の離婚再婚は身勝手だと責める目や、単親家庭や里子や養子は特殊な、かわいそうな存在だという視点も生まれる。

子どもの本の編集者の中にも、そうした従来型の家族の理想像を提示することが肝要だと考えたり、日本の平均的な家庭・家族の有り様を描くのが大事だと考えている人が少なからずいる。そこからはずれた状況やマイノリティの人々を描いた本は読んでもらえないし売れないと思っていたりもする。

先日ある若い絵本作家から、子どもがたくさんいる絵を描いたとき、左利きの子どもを一人混ぜておいたら、左利きは描かないでほしいと編集者から言われたという話を聞いた。これは極瑞な例だとしても、そういう風土の中では、ただ今現在自分がいる小さな(いじましい)社会の中でのマジョリティに沿った価値観しか提示されない。女性の役割にしても、一時は編集者たちが討議を重ねて、ジェンダー的にずいぶん考慮された絵本も出版されていたが、最近はそれも少ない。

 

マイノリティの提示にも意味がある

しかし私は、子どもの本がマイノリティを提示していったり、読者がマイノリティの視点を学んでいったりすることも大事だと考えている。そうしないと、子ども社会のなかでも同調圧力がさらに強くなり、なんらかの点で自分は多数とはちょっと違うと思っている子どもたちが「自分は自分のままでもいい」と思えなくなってしまうだろう。ひいては、他者が何を考え、何を感じているのかを想像する力も弱くなってしまうだろう。

日本の子どもの自己肯定感は、諸外国と比べてきわめて低いという。(古荘純一著『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』光文社新書)。平昌オリンピックに出場した選手たちからは「自分を信じて」という言葉がよく出たが、自分を信じることができない子どもたちが日本にはたくさんいる。日本ではまた、場の「空気を読んで」、「みんなと合わせる」ことも奨励される。そういう考え方に沿えば、左利きや、LCBTQや、単親家庭をはじめとするマイノリティは特殊なのであって、「みんなと合わせる」ことができない人たちだということになってしまう。

でも、実際は子どもたちの多くが、自分はマジョリティとは違うところがある、とか、どこかで無理をしないとみんなに合わせられない、と感じているのではないだろうか。それなのに、マジョリティに合わせることをよしとする画一的な考え方を親や教師が事あるごとに提示し、本でも見せていたら、子どもの自尊感情が低いままになってしまうのも当然ではないだろうか。

 

◆日本と欧米の作品を比べてみると

ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙家族や家庭にしても、これまで見てきたようにアメリカやイギリスでは、ずいぶん前から多様な家庭が作品の中に登場していたのに対して、日本の作品の多くは、ごく最近までマジョリティを取り上げることを当然と考え、いわゆる問題小説の中にしかマイノリティは登場してこなかった。

ついでに言うと、それは家族像ばかりではない。ほかのマイノリティにしても同じである。

一例をあげると、アメリカの作家ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原著 2013/原田勝訳 岩波書店 2016)と、椎野直弥著『僕は上手にしゃべれない』は、どちらも吃音をもつ少年を主人公にした中学生向きのフィクション『僕は上手にしゃべれない』表紙で、どちらの著者も自分が吃音で悩んだ体験をもっている。しかし、『ペーパーボーイ』においては、吃音は作品を構成するいくつかの要素の一つにすぎない。一方『僕は上手にしゃべれない』の方は、主人公の吃音の克服が最大のテーマとなっている。日本のこの作品では主人公が「他者と違う」点が前面に出ているが、アメリカの『ベーパーボーイ』では、他者と違っているのは主人公だけではない。じつに個性的で多様な人物たちが主人公を取り巻いている。

日本の児童文学作家は、マイノリティを取り上げるときはそれなりの覚悟をして、それをメインテーマにして作品を書くことが多いのに対し、欧米では、マイノリティは多様な登場人物の一人として、さりげなく登場してくることも多い。

『ジェリーフィッシュ・ノート』表紙たとえばアメリカの件家アリ・ベンジャミンが書いた『ジェリーフィッシュ・ノート』(原著 2015/田中奈津子訳 講談社 2017)の主人公スージーの兄アーロンはゲイだが、「兄さんのボーイフレンドのロッコ」という言葉がちらっと出てくるだけなので、気づかずにスルーしてしまう読者もいるだろう。また、スウェーデンの作家アンナレーナ・ヘードマンが書いた『のんびり村は大きわぎ!』(原著 2010/菱木晃子訳 徳間書店 2010)の主人公アッベ(10歳)は、生後3か月のときスリランカからスウェーデンに養女としてやってきた。その後養親が離婚してアッベは養母と暮らしているのだが、この物語がメインに描いているのはそこではなく、子どもたちが村の人たちをまきこんでギネス世界記録に挑戦する様子である。養女であったり、親が離婚していたりする部分は、物語の背景として登場するだけだ。

アンナレーナ・ヘードマン『のんびり村は大さわぎ!』表紙といってもスウェーデンの子どもの本が、すべてそのようなあっけらかんとしたトーンで描かれているわけではない。この連載の3回目でも触れた絵本『パパはジョニーっていうんだ』(原著 2002/ボー・R.ホルムベルイ文 エヴァ・エリクソン絵 菱木晃子訳 BL出版 2004)は、親が離婚して母と二人暮らしの少年が久しぶりに父親と会う話だが、一緒に暮らせない父と息子のやるせなさを漂わせていた。

またスウェーデンの第一線で活躍していた作家ウルフ・スタルク(昨年6月に72歳で死去)の『シロクマたちのダンス』(原著 1986/菱木晃子訳 佑学社 1994、偕成社 1996)は、かなリシリアスなトーンで、別居した両親の間で揺れ動きながら自分を見いだしていく少年の気持ちを描いていた。スタルクが、少し前の作品(たとえばアメリカのジュディ・ブルームが書いた『カレンの日記』や、ドイツのベーター・ヘルトリングが書いた『屋根にのるレーナ』)と違って、離婚する親に非難がましい目を向けていないことにも注目しておきたい。

 

◆それぞれのお国事情はあるけれど

もちろん子どもの本も、それぞれの国の事情を反映している。英米にしろスウェーデンにしろ、親の離婚や再婚、単親家庭、養子、里子などは日本と比べてずっと多い。だからそうした多様な家庭が作品に描かれるという側面ももちろんある。しかし 英米や北欧の絵本や児童文学が「多様性」を重視するのは、それだけが理由だとも思えない。多数派からの距離や違和感を感じている子どもたちに、多様な価値観や多様な存在のあり方を提示することによって「少数派でもだいじょうぶだよ。どんな状況のどんな子どもだって生きていてほしい」というメッセージを送っているのではないだろうか。

私の孫の一人が通っている幼稚園では、母の日にはお母さんの絵を、父の日にはお父さんの絵を子どもに描かせる。「お母さんのいない子は、おばあさんの絵でもおばさんの絵でもいい」などの配慮もあるらしいのだが、配慮があったとしても、単親家庭や養護施設で幕らしている子は疎外感を持つことだろう。といっても、今は保育国、幼稚園、小学校の多くは、家庭の多様化をかんがみて、母の日や父の日の行事をしなくなっているらしいが、差し障りがあるからやらない、というだけでいいのか、という疑問も感じる。

先日目にしたBBCニュースでは、母の日、父の日ではなく「家族ウィーク」を設けたイギリスのある幼稚園が紹介されていた。子どもたちがそれぞれ固有の自分の家族を絵に描き、どんな時に家族といて楽しいと思うか、うれしいと思うかを話すというものらしい。先生たちは、最初から多様な家族像をしっかり認めたうえで、子どもたちが「これも家族」「あれも家族」「それも家族」と自然に思えてくるように指導していた。

 

◆子どもは新たな未来をつくる存在

子どもは新たな未来をつくる存在だ。教師や親や権力者の言いなりになるより、自分の心で感じ、自分の頭で考えて、今よりいい未来をつくっていってほしい。

どんな子どもの本を書くか、出すかは、そこにつながっている。子どもの本にかかわる人たちは、世界は動いていることを認識し、どんな社会に子どもをおいたらいいのか、ということも考えてみてほしい。

家族ひとつを考えても、血のつながりとか、従来型の家族像にばかりとらわれてしまうと、新たな未来にはつながらない。昨年厚生労働省は「新しい社会的養育ビジョン」を打ち出して、里親や養親の数を増やそうとしている。それについても、子どもの本の作り手は考えてみてほしい。そして、子どもたちが未来を考えるときに参照できるような多様な価値観や多様な選択肢を、子どもの本でも示しておいてほしい。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年4月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑪ 「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑪

「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか

日本では、まだまだ血縁が大事、実の親がいちばんという神話が威力を発揮している。そのせいか養子や里子はこれまで日本の児童文学にそう多くは登場してこなかった。このテーマはまだ多くの日本の児童文学作家の視野には人ってきていないと言ってもいいのかもしれない。最近になってようやく、連載⑦でとりあげた戸森しるこの『十一月のマーブル』(講談社)のように、「外から来た子ども」がぽつぽつと描かれるようになってきてはいるが、養子や里子を正面からとりあげた、文学的にもすぐれた作品となると、まだまだ数は少ない。

 

◆親族が親代わりになって子どもを引き取る場合

『よるの美容院』表紙たとえば市川朔久子の『よるの美容院』(講談社 2012)では、ある事件をきっかけに声を失い、筆談でコミュニケーションをとる12歳のまゆ子が、美容院を経営する遠縁の「ナオコ先生」に預けられて、開店前の準備などを手伝っている。まゆ子の母親はまゆ子に愛情を抱いていないわけではないのだが、「こんなに一生懸命やってるのに、なにがいけないの。いったいなにが不満なの」とか「お母さんを困らせるためにわざとやってるんでしょ」などと口走ってしまう。おっとりゆったりかまえているナオコ先生とは逆のタイプとして描かれている。

講談社児童文学新人賞を受賞したこの作品では、ナオコ先生が、毎週月曜の夜、まゆ子の髪をあたたかくやさしい手でていねいに洗ってくれる場面が印象に残る。

まゆ子はゆったりと力を抜いて、ナオコ先生の指先に頭をあずける。
ナオコ先生の手は、とても温かい。ぽかぽかした指先できわられていると、かちんとかじかんで冷たくなっていた頭の皮が、ふわっととけていく。

頭皮だけではなく、かじかんでいたまゆ子の心までゆるゆるとほどけていく。まゆ子は半年たらずの滞在を経てやがて親のもとへ帰るので、養子や里子になったわけではない。しかし、実の親ではできないこともあるということをこの作品は見せてくれている。

岩瀬成子『春くんのいる家』表紙

岩瀬成子の『春くんのいる家』(文溪堂 2017)は、祖父母の家に身を寄せる二人の子どもを描いている。一人は、親が離婚して母と一緒にやってきた小学校4年生の日向であり、もう一人は、父親が病死し母親が再婚したあと、祖父が「たったひとりの跡取りなんだ。こっちにわたしてくれ」と言って養子にした中学2年生の春。日向と春はいとこ同士であるとはいえ、年齢も性別も違うのですぐに打ち解けるということにはならない。

陶器の店を経営している祖父は、「今からは、このみんなが斉木の家族だからね」と言うのだが、そう言われるだけですんなりと家族になれるわけでもない。そのあたりの日向や春の心の揺らぎを岩瀬はみごとに描写していく。

日本的だと思ったのは、日向が離婚の理由をたずねても、母親が語らない点だ。

パパとママがなぜ離婚することになったのか、わたしには、今もわからない。「どうしてなの?」と、わたしはママにたずねた。ママがわたしにはじめて「パバとはベつべつに暮らすことになったから、わたしと日向は、これからはおじいちゃんの家で暮らすのよ」といったとき。
ママは、「さあね、どうしてだろ」といった。そして大きい息をひとつついた。少しして、「そういうことになったのよ」といった。

欧米の親は、離婚の理由を子どもにも伝えることが多いが、今のところ同じような状況にある日本の親の大半が、日向の母親と同じような対応をするのではないだろうか。もしかしたら、この母親は自分でも明確に離婚理由を意識化してはいないのかもしれない。欧米人が、たいていは明確に意識化しないと大事な局面で次の一歩を踏み出すことができないのに対して、日本人は「なんとなく」の気持ちが積みかさなってある地点までたどりつくこともありそうだ。ただし、この母親は、現状をよく見ているらしく、春くんが子ネコを拾ってきて祖父が嫌な顔をして飼うのに反対していると、きっぱりと言う。

「ネコ、飼おう」と、いきなりママがいった。きっぱりした声だった。「うちは今、なんていうか、たいへんなときじゃないの。今までべつべつに生活していた人間がこうやってあつまって、なんとか家族になろうとしているのよ。つまり、たいへんなときであるわけよ。でしょう? この際だから、ね、ネコも飼いましょう。みんなでいっしょに家族になればいいんじゃないのかな」

その後、母親は涙ぐむのだが、母親がこの時言ってくれたとおり、子ネコの世話を通して日向と春の距離が近づき、こんな会話が出るようになる。

「この子、この家を好きになるかなあ?」
「きっとなるよ。日向ちゃんはどう? この家、好きになった?」
「うん。好きになったよ。だってしょうがないじゃん」と、わたしはいった。
「日向ちゃん、意外に大人だね」と、春くんはいった。
「春くんは?」
「ぼくも意外に大人だよ」と、春くんはいった。

そして日向は

階段をあがっていきながら、春くんがきてくれてよかったなあ、と思った。それからネコも。きてくれてよかつた。

と、そんなふうに思えるようになるのである。

欧米の作品のように、問題や葛藤がくっきり提示され、それが解決されて物語が終わるというわけではない。ただ、子どもの気持ちを内側から描いていく岩瀬は、日向の気持ちがリラックスしてきていることを次のように表現している。

なぜだか理由がはっきりわからないのにわらってしまうことってあるんだ、と思った。気もちの底のほうがゆるくなって、うれしいような、楽しみなような、おもしろいような、いろんな気もちがごちゃごちゃとまじりあっていて、それはうまく言葉ではいえないけれど、安心するような気もちだった。

 

◆特殊な状況での新しい家族

『岬のマヨイガ』表紙柏葉幸子が野間児童文芸賞を受賞した『岬のマヨイガ』(講談社 2015)では、震災をきっかけに、血のつながらない3人の女性が出会って一つの家族をつくろうとする。3人のうちの一人は、萌花という少女。両親を亡くして、これまで会ったこともない親戚にひきとられることになっているのだが、この子も、『よるの美容院』のまゆ子と同じように口がきけなくなっている。もう一人は、暴力をふるう夫から逃れて家を出て、萌花と同じ電中に乗り合わせていたゆりえ。この二人が、狐崎という駅で電車を確りた後に大地震と津波にあい、中学の体育館に避難する。そこで、出会ったのが不思議な老女キワさんだ。この作品には 「遠野物語」を思わせるようなカッパや妖怪も登場して、ファンタジーとリアリズムが融合した展開になっていくのだが、「家族」という視点から見てみると、まったく血縁関係にない3人が、たまたま出会って過去を清算し、名前も変えて家族をつくる姿が描かれているという意味で、おもしろい。最後にゆりえとキワさんは、こんなふうに言う。ひよりというのは、萌花の新しい名前である。

「私、逃げるのはやめました。夫ときちんと話し合って離婚します。ひよりの伯父さんも、どうなっているのかさがしだして、ひよりといっしょに暮らせるようにたのんでみます」(結になったゆりえの言葉)

「ひよりも結さんも 私の家族だ。ひよりが鳥舞を舞うところも見たい。ひよりが中学生になるところも、高校生や大学生になるところも、きれいな娘さんになるところも見たいね。ひよりや結さんが、狐崎をはなれたいと思う時まで、ここにいるよ」(キワさんの言葉)

 

ファンタジーにおける新しい家族

上橋菜穂子『鹿の王・上』表紙上橋菜穂子の「守り人」シリーズの主人公で女用心棒のバルサは、殺された父親カルナの親友ジグロに育てられ、短槍の達人ジグロからその術を学ぶ。ジグロは、バルサの命を守るために職も名誉も捨てて、養い子であるバルサが一人でも生きていけるよう、愛を持ちながらも厳しく仕込む。バルサは、ジグロの養女という設定になっている。

また、上橋の『鹿の王』の主人公ヴァンは、奴隷として働かされていたアカファ岩塩鉱から逃れた際、もう一人の生き残りだった幼女ユナを発見して、置いて行くことができずに一緒に連れていく。また、ヴァンの追跡を依頼されたサエは、逃亡奴隷の追跡をなりわいとするマルジの娘で、一度結婚したが出戻り、今は父親と同じ仕事をしている。このサエが、しだいにヴァンという存在にひかれていく様子も描かれている。最後は、黒狼熱が人々の町に広がらないように犬を連れてひとり森の奥へと消えて行ったヴァンを、サエとユナがトマ(オキの民)、智陀(移住民)と共に飛鹿に乗って迫いかけるという展開になっている。ヴァンとユナとサエが今後ひとつの家族を形成していくかどうかは描かれていないが、上橋はこう書いている。

オキの民と移住民の若者、沼地の民の娘とモルファの女は、家族のように寄り添って、深い森の奥へ消えていった。

血のつながらない、文化や風習も異なる者たちが一つの家族をつくろうとしているイメージが、頭の中にうかんできたのは、私だけだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年3月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑩ 「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑩

「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか

イギリスでは、親と一緒に暮らせない子どもは里親や養親の家庭で養育されることが望ましい、とされてはいたものの、最近は養護が必要な子どもの数が増加する一方で、里親や養親は不足していると言われている。そんな背景もあって、かなり早い時期から養子や里子が児童文学にも登場していた。

 

『アンモナイトの谷』の場合

『アンモナイトの谷』表紙バーリー・ドハティのYA小説『アンモナイトの谷』 (後に改題して『蛇の石 秘密の谷』 原著 1996/中川千尋訳 新潮社 1997)の主人公は、15歳のジェームズ。赤ちゃんのときに生母に置き去りにされ、今は養子として暮らしている。客観的に見るといい養親でも、思春期で反抗的になっているジェームズは、養父を必要以上に責めたり、養母にも「ほんとの息子じゃないからね」と言い放ったりする。そして、ある日、養親には内精で生母を捜す旅に出る。紆余曲折を経てジェームズはようやく生母に会えるのだが、その出会いは、想像していたのとは違っていた。生母とジェームズは、会話らしい会話をしない。ぎゅっと抱き合ったりもしない。生母は「幸せなの?」ときき、ジェームズがうなずくと「そう。よかった」と言うだけだ。戻っていく生母を見送る場面は、こう書かれている。

永遠に心に焼きつけておこうとするみたいに、その人は、じっとぼくを見た。その視線に、ぼくは耐えられなくなった。しゃがみこんでアンモナイトをスポーツバッグにしまい、そして立ちあがったとき、その人はもうそこにはいなかった。
夫と、子どもたちといっしょに、ゆっくりと家への道を歩いていた。ぼくは追いかけなかった。そんなことしたくなかった。あの人には家族がある。ぼくにだって。

その後でジェームズはこう考える。

でもとにかく、やろうと思ってたことはやった。お母さんを見つけたんだから。ほんとうに会って、話までした。いまでは ぼくを産んでくれた人がどんな人なのか、ちゃんと知ってる。
それにもうひとつ、おもしろい変化が起きた。あの人のことを、ほんとうのお母さんだとは思わなくなった。うちにいる母さんが、ぼくのほんとうの母親だ。早く母さんに会いたい。

15歳というのは、養子であろうと実子であろうと自分の来し方を確認し、未来に向けてふたたび歩きだす年齢である。ジェームズも生母の存在を確認できたことで満足し、自ら養親を選びとり、こんな手紙を書く。

母さんと父さんヘ

ぼくはいままで、行くはずじゃない場所にいました。生まれた場所を見つけ、母親にも会ったら、なぜぼくを手放したのか、わかりました。あの人といっしょに暮らせないのはわかってます。ただ、会ってみたかっただけです。会ってよかった。いまの家に帰れるのが、とってもうれしい。

愛をこめて  ジェームズ

 

◆ 『おやすみなさいトムさん」の場合

『おやすみなさいトムさん』表紙ガーディアン質を受賞したミシェル・マゴリアンの『おやすみなさいトムさん』(原著 1981/中村妙子訳 評論社 1991)の舞台は第二次大戦下のリトル・ウィアウォルドというイギリスの小さな村。主人公は、空襲を避けてロンドンから疎開してきたた9歳のウィルと、しぶしぶこの子を預かるトムというおじいさん。トムは、妻子を病気で亡くして以来、人付き合いが悪く村人たちから偏屈だと思われている。ウィルは体中に母親から折檻を受けた痕があり、トムからも折檻を受けるのではないかとおびえている。おまけに虐待のせいで体の発達も遅れ、文字の読み書きもできない。

トムは、40年間続いてきた規則正しい日課が崩れることにいらだったり途方に暮れたりしながらも、ウィルの世話を焼き、村人とのつき合いも復活させていく。二人はだんだんに距離を縮めて親しくなり、おたがいにとってかけがえのない存在になっていく。

生母によって呪縛されていたウィルの心身は白由になり、いろいろな力がわき出てくる。ところがそんなある日、母親から、病気なので帰ってきてもらいたいという手紙が届く。ウィルは、半分は期待をもち、母親と抱き会う場面などを想像しているのだが、久しぶりで会った母親は、息子の笑顔にぎょっとし、自分の権威がおびやかされたと感じる。

この生母は、「やさしい」「包み込む」「あたたかい」などという一般的な母親のイメージからは正反対のところにいる。ウィルはまた母親の虐待に直面することになる。生母は人種的偏見にも満ち満ちていて、ウィルが疎開先で親友になったのがユダヤ人だと知ると、息子をさんざんに重たい物で殴り、階段の下にとじこめる。

一瞬彼は いっそリトル・ウィアウォルドに行かなければよかったと思った。そうしたら母さんのことをいい人だと思っていられただろうに。ほかの人と比べようがなかったろうから。絶望感の怒濤が身のうちに荒れ狂い、彼はこの新しい目覚めを呪った。

一方トムのほうは ウィルが悲惨な状態に逆戻りしたことを知るよしもなかったのだが、ある時、夢でウィルの悲鳴を聞く。そして心配で居ても立ってもいられなくなり、ロンドン行きの汽車に飛び乗る。そしてようやくたどりついた家で、ドアを破って入ったときに見たものは、とんでもない光景だった。ウィルは傷だらけで鋼鉄製の管に縛り付けられ、自分の糞尿の中に放心したようにすわっており、両手に何やら小さなものを抱えていたのだ。抱えていたのは、とっくに落命していた赤ん坊だった。母親は失踪し、ウィルは赤ん坊と共に遺棄されていたのだ。

トムに救い出されたウィルは、ふたたびトムと暮らし始めて、徐々に人間性を回復し、生きる方へと視線を向けることができるようになる。その後だいぶんたって母親が自殺したことを聞くのだが、そのころにはまた健康な子どもらしさを取り戻し、こんなふうに思えるようになっている。

生きていたくないなんて――そんなことを考える者が本当にいるんだろうか。したいことが限りなくある毎日。雨の夜、風の日、海の大波、月の満ちかけ、読みたい本、描きたい絵、聞きたい音楽。

やがでトムはウィルを正式に養子に迎えることにする。それを知ったウィルは大喜びし、二人は手を取りあって歓声を上げながら部屋中をおどりまわる。ウィルがトムのことを初めて「父さん」と呼んだ場面は感動的であり、これからの二人の生活を祝福するように描かれている。

ウィルが眠りに落ちた後、トムも床に入ったが、ウィルの言葉の意味がこのときはじめて胸のうちに沈んだ。
「あいつ、わしを『父さん』と呼んだ」と彼はしゃがれ声でつぶやいた。「父さんと」
胸がつぶれるほど幸せな気持ちで、トムは声を抑えて泣いた。涙がさんさんと頬を伝っていた。

キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

 

同じ時代のイギリスで同じように母親に膚待されて、疎開先で人付き合いの悪い大人に引き取られた子どもを描いた作品に『わたしがいどんだ戦い1939年』(原著 2015/キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社 2017)がある。ブラッドリーはアメリカの作家たが、どちらにも共通しているのは、虐待する生母と、人間的な養親との対比であり、養親のもとで人間性を開花させていく子どもである。(現在続編の『わたしがいどんだ戦い1940年』も出版されている。)

 

「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの場合

ジャクリーン・ウィルソン『おとぎ話はだいきらい』表紙イギリスの大人気作家ジャクリーン・ウィルソンは、困難を抱えた子どもたちを作品に多く登場させ、その子たちに寄り添う書き方をしてきたが、中でも「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの3冊は、イギリスでは里親や里子のためのガイドブックにも登場している。

10歳のトレイシー・ビーカーは、1巻目の『おとぎ話はだいきらい』(原著 1991/稲岡和美訳 偕成社 2000)では養護施設にいるのだが、前に取り上げた『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン著 岡本浜絵訳 偕成社)のギリー同様 生母をどこまでも理想化している。また、すでに傷ついている自分を守るために暴力をふるったり悪態をついたりが日常茶飯事で「扱いにくい子」というレッテルを貼られている。

ところが、施設に取材に来た女性作家カムになつき、生母が迎えにくるまでの間、里子にしてほしいとカムにねだる。最初カムは絶対にダメだと断っていたのだが、だんだんに二人の距離が近づき、3巻目の『わが家がいちばん』(原著 2000/小竹由美子訳 偕成社2010)では、トレイシーは、里親研修を終えたカムの養子になっている。そこへ『わが家がいちばん』表紙生母があらわれて娘を引き取ると言い出すのだが、生母は買った物を娘にプレゼントするだけで「子を育てる」とはどういうことかがわかっていない。酒と男で回っていたような暮らしを断念するつもりもない。ある意味、気の毒な人である。

生母の家を飛び出したトレイシーは、しばらく空き家で時間を過ごすが、やがで「家」に帰りたくなる。ここでトレイシーが「家」と言っているのは、カムの家である。

そしてカムのところに戻ったトレイシーは、生母のことも客観的に見られるようになって、こう言う。

「ママって、おもしろいときもあるし。自分の服をあたしに着せて、おしゃれさせてくれてね、すごく楽しかったんだよ。だけど、あきちゃうんだ。あたしにもあきちゃった」

トレイシーも、『アンモナイトの谷』のジェームズと同じように、モノより愛情を自分に注いでくれていた里親を、物語の最後で自ら選びとるのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年2月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑨ 「外から来た子ども」をアメリカの児童文学はどう描いてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑨

「外から来た子ども」をアメリカの児童文学はどう描いてきたか

「外から来た子ども」とは、非血縁の子ども(養子、里子)のことである。前回は絵本でどう描かれてきたかを見たので、今回はアメリカの児童文学読み物でどう描かれてきたかを見てみたい。

 

『ガラスの家族』の場合

『ガラスの家族』表紙全米図普賞を受賞したキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(原著 1978/岡本浜江訳 偕成社 1984)は、11歳の女の子ギリーが主人公である。生母コートニーに実際は捨てられた状態のギリーなのだが、生母の写真と、写真の隅に書かれた「いつも愛しています」という言葉にしがみついて生きている。生母はそばにいないので、どこまでも理想化することが可能なのだ。

何度も里親をたらい回しにされたギリーが、今回頂けられた里親は、メイム・トロッターという「カバみたいな女性」で、その家には発達障碍をもっているらしいウィリアム=アーネストという別の里子もいる.おまけに夕食を食べに来るランドルフさんは盲目の黒人だ。ギリーはこの家を「はきだめ」だと思う。だれからも安定した愛を受けたことのないギリーは、「とんかりすぎの鉛筆みたいな気分」で、学校でも家でもすべてにつっかかり、自分の強さを誇示しようとする。そして、自分を理解してくれそうな人が出てくると、逆に讐戒心を抱く。

ギリーがこうなったのは 都合のいいときは甘やかし、都合が悪くなると捨てたこれまでの里親との体験がトラウマになっているせいでもある。

ギリーは、やがでトロッターさんとランドルフさんのお金を盗み、一人で生母に会いにいこうとする。ところが長距離バスのキップ売り場で疑われて、保護者に連絡が行く。駆けつけたトロッターさんには、ギリーがお金を盗んだこともお見通しだが、警官がギリーを一晩とめおこうかときくと、断固として言い返す。

「たとえ一分だって、このわたしが自分の子を留置場へいれられると思うのかい?」

トロッターさんは、福祉事務所のケースワーカーとも渡り合い、ギリーを引きつづき家におき、しかも盗みの件には厳しく対処し、なくなった分は働いて返すように言いつけてバイト料金リストを提示する。ベテランの里親として、どう対応すればいいかをよく知っているのである。

ギリーの気持ちはしだいに前向きになるのだが、それを可能にしたのは、トロッターさんならどこまでも守ってくれるという安心感を得たことに加えて、自分が必要とされる存在だと感じたことも大きい。ランドルフさん、トロッターさん、ウィリアム=アーネストの3人ともがインフルエンザにかかってギリーが看病でへとヘとになっているところへ、今まで存在さえ知らなかった祖母があらわれて、「すぐにここからつれだしてあげる」と言う。そのときギリーはこう思う。

だれもあたしをここからつれだしたり、できるものか。だれもが、これほどあたしを必要としているときに。

トロッターさんに心を許し、周囲の人たちともようやく心を通わせ始めたギリーは、しかしながら法的にこの祖母と暮らさざるを得なくなる。しぶしぶ祖母の家に引っ越したギリーは、クリスマスに生母とも再会するのだが、

コートニーがギリーをだきしめた。大きなバッグを胸やおなかにおしつけたままで

ずいぶんと久しぶりに出会った憧れの生母とギリーの間には、大きなバッグがはさまっていた、というこの描写からは、娘の気持ちをかえりみることなく、おざなりに抱くことしかしない生母のありよう示している。ギリーはようやく、生母のことは見切らなくてはならないと悟る。

 コートニーは 自分からすすんできたのではなかったのだ。おばあちゃまがお金をだして、こさせたのだ。だから長くいるつもりもない。ギリーをつれて帰るつもりもないのだ。写真のすみにあった「いつも愛しています」は、うそだったのだ。ギリーはこのいまいましいうそのために、一生を棒にふってしまった。
「あたし、トイレにいってくる」
ギリーはおばあちゃまにいった。ふたりがついてきませんようにと祈った。なぜならまっさきにしたいことは吐くことで、第二は逃げだすことだった。(偕成社文庫版より)

現実に直面して逃げたくなったギリーは、トロッターさんに電話をして「帰りたい」と一度は言ってみるものの、ベテラン里親との心を開いた対話から、祖母も自分を必要としていることを理解して、祖母の家で暮らす決心をする。

訳者あとがきによれば、著者のパターソンは、実生活でも実子二人のほかに養子二人を育て、カンボジアからの里子二人の世話もしていた。里子たちが言うことを聞かないとき、ついかっとなって、どうぜ一時のことだからと思う自分がいたことを後悔し、「せめて本の中では、里子に世界最高の里親をあたえたい」と、 トロッターさんという理想の里親像を造形したという。

 

◆ 『メイおばちゃんの庭』の場合

『メイおばちゃんの庭』表紙ニューベリー賞とホーンブック賞をとったシンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(原著 1992/斎藤倫子訳 あかね書房 1993)の主人公は、母親と死別して孤児になり、やはり親戚をたらい回しにされた少女サマーで、今回の里親は、高齢のオブおじちゃんとメイおばちゃん。ギリーと境遇は似ているが、大きく違うのは、サマーには自分が愛情を受けた記憶がおぼろげながらあることだ。

 ある晩、台所で亜麻色の長い髪をあんでるおばちゃんにおじちゃんが手をかしてるところを初めてみたとき、あたしは、森にかけこんでわんわん泣いてしまいたいような気分になった。悲しかったからじゃない。しあわせな気持ちでいっぱいになったからだ。
きっとあたしも あんなふうに愛されてたんだと思う。よくおぼえてないけど、ぜったいにそうだ。だってそうでなかったら あの晩おじちゃんとおばちゃんをみて、ふたりの深い愛情に気つくはずがないもの。
(中略)かあさんは自分がもうすぐ死ぬってわかってて、ほかのどのおかあさんよりもしっかりとあたしを抱いて、たっぶり愛情をそそぎこんでくれたにちがいない。いつかあたしか愛というものをみたり感じたりしたときに、それが愛だってわかるように。

そして、この二人のところに来たことを、当時6歳のサマーは心から喜び、

「ここで過ごした最初の晩は、あたしの人生で、いちばん天国に近い日だった」
「ようやく自分のうちにたどりついた」

と感じている.

しかし、メイおばちゃんはやがて亡くなり、意気消沈したオブおじちゃんを今度はサマーが励ます側にまわる。

この2作は、子どもにとっては食べ物と同じくらい、愛された記憶が必要だということを伝えている。そして、愛をもたらすのは血縁者とは限らず、肉親がかえって加害者になって子どもを苦しめる例もあること、愛とは抽象的な観念なのではなく相手が何を求めているかを察して手をかけ心をかけることだということを語っている。

 

『アラスカの小さな家族』の場合

『アラスカの小さな家族』表紙スコット・オデール賞を受賞したカークパトリツク・ヒルの『アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー』(原書 2013/レウィン・ファム絵 田中奈津子訳 講談社 2015)は、養女ボーが主人公である。ボーは、〈楽しみ女〉のミリーが産んだ子で、育てられないから孤児院に入れてほしいと言ってアービッドの手に渡された。それ以来ボーは、二人の父親に育てられている。アービッドは、ゴールドラッシュのときにスウェーデンからやってきた。もう一人の父親はジャックで、アメリカ南部出身の黒人だ。二人とも大男の鍛冶屋である。ボーは、前回触れた絵本『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』の女の子と同じで 自分が二人の娘になったいきさつを何度でも聞いて楽しむ。この作品では、アービッドとジャックがどんな関係にあるのかについては語られていないが、ジャックには昔結婚しようと思った女性がいたことが会話に出てくるので、同性愛カップルと決めつけることはできない。

ともあれボーは非血縁の二人の父親や先住民のエスキモーを含めた多様な民族の混じり合う社会で、みんなに見守られて育っている。家ではアービッドが裁縫、ジャックが料理を担当し、日常生活には全く困らないが、女の子の育て方についてはまわりの人からアドバイスをもらっている。二人の父親は、時に父性的な要素、時に母性的な要素を発揮して娘を大事に育てており、ボーは日々の暮らしに満足している。

ある日、ボーは言葉を話さない小さな男の子に出会う。この子は、死んでいる自分の父親のそばにすわりこんでいるところを見つけられたのた。やがでわかったのは、この子の名前はグラフトンだということ、子だくさんの叔母は孤児院に預けてほしいと願っているということだった。ボーは グラフトンも養子にしてほしいと父親たちに頼む。二人の父親の決定をグラフトンに伝える場面は、こう書かれている.

 グラフトンの目はまん丸くなりました。
ボーはこれ以上だまっていられません。
「ジャックがあんたの父さんになって、アービッドもあんたの父さんになって あたしはあんたの姉さんになるの!」
「グラフトンはわしらの息子になるんだよ」と、アービッドがいいました。
グラフトンはひっそりほほえんで、靴下をはいた足を見つめました。
「今の話、わかったと思うかい?」ジャックが心配そうにボーにたずねました。
「この子がこんなふうににこっとするのは、うれしいときだけなの」と ボー。

ボーがグラフトンの気持ちをよくわかっていることと 父親たちも家族がふえるのを楽しみにしていることが伝わつてくる。

4人家族のだれ一人として血がつながっているわけではないのだが、この作品は全体が日常の楽しさにあふれており、この4人でこれからもあたたかい家庭を作っていくだろうことが予測できる。この作品ではボーはまだ小さいが、続編もあるということなので ボーが成長して反抗期になったらこの父親たちはどうするのか、興味深いところである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年1月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑧ 「外から来た子ども」を絵本はどう描いてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑧

「外から来た子ども」を絵本はどう描いてきたか

前回は、非血縁の親がどう描かれているかについて書いた。次は、非血縁の子ども(養子、里子)がどう描かれてきたかについて考察してみたい。養父、養母、里親を取り上げた作品と、養子、里子を取り上げた作品は、いわばコインの両面なので、ある意味では前回のテーマと重なる部分もある。

 

『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』の場合

『ねぇねぇ、もういちどききたいな-わたしがうまれたよるのこと』表紙アメリカで20年以上前に出た絵本『ねぇねぇ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと』(原著 1996/ジェイミー・リー・カーティス作 ローラ・コーネル絵 坂上香訳 偕成社 1998)は、アメリカでも日本でもいまだに読みつがれている。作者は、自身も二人の養子を迎えた女優である。この絵本は、自分の写真アルバムを抱えた女の子が、「ねぇねえ、もういちどききたいな わたしがうまれたよるのこと」と両親にせがんでいる場面から始まる。しかし、次の見開きでは、パパとママと犬が一つのダブルベツドで寝ていると、真夜中に電話が鳴って、「わたし」の誕生を告げられたことがわかる。パパもママも、遠くのだれかから赤ちゃんの誕生を知らされるのだ。読者はおやっと思うかもしれない。

知らせを受けたママとパパは、ベビー用品のつまったカバンを持って、飛行機で赤ちゃんを迎えにいく。絵本はさらに、生母が若すぎて世話ができないので、女の子が養子になったことを語っていく。この子が書いた絵入りの家系図によると、親として「パパ」と「ママ」のほかに、「うんでくれたママ」と「うんでくれたパパ」(こちらは語として今ひとつ落ち着かないが)が描かれている。絵本はさらに、養親が初めて赤ちゃんに対面して思わず笑顔になったこと、ママが赤ちゃんを抱いたときうれしくて泣きだしたこと、お人形さんみたいに大事に抱きかかえて帰ったことなど、養親がこの子をどんなに大事にしてきたかが、ゆかいな絵と文章で表現されている。

養子にしろ実子にしろ、愛されている実感がない子どもは、自分の誕生時のことを親に何度も聞きたいとは思わないだろう。本当の愛は甘ったるいものではないから、叱られたりしてしょぼんとすることもある。そんなとき、幸せな出発点を再確認したいと思うのは、いかにも子どもらしいのではないだろうか。

 

『たからものはなあに?』の場合

『たからものはなあに?』表紙それから10年以上たって、2009年に日本でも『たからものはなあに?』(あいだひさ作 たかばやしまり絵 偕成社)が出た。作者は、自分も特別養子縁組をした子どもを育てている。この絵本に登場するのは二組の家族で、たくやは母親のお腹から生まれ、なつかは赤ちゃんの家からやって来た。なつかの養親は、赤ちやんの家に何度も会いにいき、それから家に迎え入れる。たくやがママのお腹の中で大きくなったのに対して、なつかは言う。

 「じゃあ、なつかは ママと パパの こころのなかで どんどん おおきくなったんだね!」

作者は後書きで、

結婚前から、実子の有無にかかわらず養子を迎えたいと考えていた私たち夫婦は、『子どもをもつ最後の手段』とでもいうような、日本での養子の考え方に驚いたものです。(中略)里親や特別養子縁組に限らず、家族の始まり方はさまざまであってよいと思います。そしてどんな始まり方でも、互いを心から思いやり、愛し合って築き上げてこそ家族だと信じています。

と語っている。血縁重視の傾向が強い日本の現状を変えていきたいという意図がこの絵本にはあり、作品からもその意図がくみとれる。

 

『ママとパパをさがしにいくの』の場合

『ママとパパをさがしにいくの』表紙ホリー・ケラーの『ママとパパをさがしにいくの』(原著 1991/末吉暁子訳 BL出版 2000)は、アメリカの書評誌ホーンブックが優秀作品として選んだ絵本で、動物を主人公にしている。最初の場面では、トラのママがヒョウの子どもホラスを寝かしつけながら、こう話す。

「あなたに このうちに きてもらったのは、小さな あかちゃんだったときよ。
なぜって、あなたには さいしょの かぞくが いなくなってしまって、
あたらしい かぞくが ひつようだったから。あなたの からだのもようは
すてきだったわ。ぜひ、うちの子に なってもらおうと おもったの」

しかし、ホラスはママの話が終わる前にいつも眠ってしまう。ホラスは幸せに暮らしてはいるのだが、体の色や模様が家族と違うことは気になる。そこである日、本当の家族を探しに出かける。そして、とうとうヒョウの一家を見つけ、そこに仲間入りして子どもたちと楽しく遊ぶ。しかしそのうちホラスは、育てのパパとママを思い出し、ヒョウの家族の誘いを断って、「ぼく、もうおうちへかえりたいの」と言う。「おうち」とは、養親の家のことである。そしてその夜、いつもの話を養母が繰り返すのを今度は最後まで聞いて、トラの両親を自分の本当のママとパパとして自ら選びとるのだ。

 

『タンタンタンゴはパパふたり』の場合

『タンタンタンゴはパパふたり』表紙ジャステイン・リチャードソンとピーター・パーネルが文を書き、ヘンリー・コールが絵をつけた『タンタンタンゴはパパふたり』(原著 2005/尾辻かな子・前田和男訳 ポット出版 2008)は、アメリカ図書館協会が優良図書に選んだ絵本。ニューヨーク市マンハッタンにあるセントラル・パーク動物園にいるペンギンの実話を基に作られた。いつも一緒にいる雄ペンギンのロイとシロは、ある日、卵形の石をあたため始める。その様子を見ていた飼育員が、他のペンギンが遺棄した卵を2羽の巣においてやると、今度はそれを交替であたためる。その卵からかえったひなは、タンゴと名づけられる。この3羽がいい家族であることは、絵からも感じられる。この絵本は、男性カップルが養子を迎える話というふうにも解釈できるが、非血縁者が家族をつくる絵本としてここに入れておきたい。

 

『おとうちゃんとぼく』の場合

『おとうちゃんとぼく』表紙にしかわおさむの『おとうちゃんとぼく』(2012)も、作者の制作意図は別として、養子の絵本と考えることも可能だ。

「おとうちゃん」の名前はノラさん。犬だが擬人化されてズボンをはき二本足で歩いているノラさんは、子どものころ、人間のおばあさんに引き取られ、世話をしてもらうかわりに、おばあさんを手伝ったり、夜はどろぼうや怖いものが来ないように見張ったりしている。やがて大人になったノラさんは、小さな捨てネコに出会う。この絵本で「ぼく」と言っているのは、この子ネコだ。子ネコを連れ帰ったノラさんは、おばあさんに「おいら こんやから このこの おとうちゃんに なります!」と堂々と宣言し、敷地に小さな家を建ててもらって自立する。そして子ネコにご飯を食べさせたり、おしめを替えたり、遊んでやったりして育てる。

ある日、子ネコを従えてパトロール中のノラさんは、どろぼうをつかまえたのはいいが、自分もケガをして入院する羽目になる。「ぼく」は心配で、ずっとノラさんに付き添う。やがて元気になったノラさんに、人間の女性が言う。「そのぼうや あなたの 子どもじゃ ないでしょ? ちゃんと おやを さがして かえしなさいよ」と。ノラさんは怒って、その女性の服にかみついてしまい、パトロール隊の隊長に叱られる。しょんぼりしているノラさんに、子ネコは言うのである。

「ぼくの おとうちゃんは おとうちゃんの ほかに どこにも いないよ!」

 

『おとうとがやってきた!』の場合

『おとうとがやってきた』表紙イギリスの絵本『おとうとがやってきた!』(原著 1993/ティー・シャールマン作 もとしたいずみ訳 偕成社 1996)は、弟ができた姉ドーラの話だが、その弟が養子であるところが他と違う。イギリスではこの年代でも養子縁組は珍しいことではなかったようで、最初の場面でドーラは、養子の弟がやってくることを

「おとうとはね、あかちゃんじゃないの。それに ほんとのおとうとでも ないのよ。そのこ、パパもママも いないんだって。それで うちのかぞくになるんだ。あたしの おとうとよ。えへ、『サーシャ』って なまえなんだよ」

と学校で自慢して、友だちをうらやましがらせている。

でも、実際に一緒に暮らすようになってみるとサーシャは、ドーラが完成しようとしていたパズルをめちゃめちゃにしたり、ドーラが大事にしているくまさんをお風呂につけてしまったり、せっかく描いた絵をぐしゃぐしゃにしたりするので、ドーラは「もう おとうとなんか、いらないっ!」と言ってしまう。それでも、サーシャが留守にすると、さびしくなる。

このあたりのストーリー展開は、実のきょうだいの場合とそう違わない。違うのは、サーシャの場合は赤ん坊時代がなくてすぐにいたずらを始めるところくらいだろうか。最後はやっぱリドーラが、弟に絵の具をべったりつけられながらも、「うちに きてくれて うれしいよ、サーシャ!」と言う場面で、裏表紙には、ドーラが笑顔のサーシャも入れて描いた家族の絵が載っている。

 

ここで取り上げたどの絵本にも、非血縁の子どもたちが、あたたかく迎えられ、愛をあびて育っている様子が描かれている。養子や里子だから、実子より大きな愛でつつまれている、などということは、もちろん言えない。ただ、実の親が子どもを虐待したり殺害したりする事件を目にすると、私たち日本人も、非血縁の親子関係をオプションとして視野にいれる必要が出てきているのではないかと私は思う。

そういう意味では、養子や里子が出てくる作品に子どもたちが親しむ状況をつくることには、大きな意味があると言えよう。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年12月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族⑦ 「外から来た親」はどう描かれてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑦

「外から来た親」はどう描かれてきたか

 

「外から来た」とは、非血縁という意味である。日本人の多くは、家族は何よりも血縁が大事だと思いがちだ。子どもの本にも、そうした家族観が反映されている場合が多い。しかし、英米の児童文学の作家たちは、そうした家族観がとりこぼしてしまう子どもたちがいることに、かなり早い時期から気づいていたように思う。たとえばアメリカのシャクリーン・ウッドソンは1994年に『レーナ』(さくまゆみこ訳 理論社 1998/連載の第6回でも取り上げている)の中で、父親から性的虐待を受けているレーナに

「血のつながりなんて、事故みたいなもんだよ。親族は血がつながっているんだから愛さなくちゃいけないって、みんな言うけどさ」(p110)

と言わせているし、イギリスのアン・ファインは、血のつながらない多様な家族が登場する『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社 2000)という作品を1995年に発表している。日本では、それから20年以上たった2016年に、市川朔久子が『小やぎのかんむり』(講談社)で「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない」という台詞をタケじいに語らせて、追い詰められていた主人公を救った(連載の第4回を参照)。

今回は、子どもの本に描かれる血のつながらない親、つまり継父や継母を取り上げてみたい。

 

◆昔話の影響?

グリム昔話では、「シンデレラ」にしろ「白雪姫」にしろ「ヘンゼルとグレーテル」にしろ、継母は、子どもをいじめたり、亡き者にしようとする悪い存在として描かれている。ただし、グリム昔話の初版では継母ではなく母(実母)という言葉が使われていた。昔話に登場するのは、もともとシンボルや象徴としての存在で、現実をそのまま語っているわけではないからそれでもいいのだが、グリム兄弟は、虐待するのが実母では、いくら物語でも子どもたちが悪夢にうなされるかもしれないと考えて、継母に変えたのである。

日本の昔話にも、「米福粟福」「落窪物語」「鉢かづき」「手なし娘」のように、継母が子どもをいじめる話がたくさん伝わっているし、スラブの昔話「12のつきのおくりもの」(マルシャークの『森は生きている』でも有名)も、ロシアの昔話「バーバ・ヤガー」も、ネパールの昔話「プンクマインチャ」も、子どもが継母に虐待される話で、絵本にもなっている。

私たちが、血のつながりのない継母や継父に、好感を持ちにくくなっている理由の一端には、こうした昔話の影響もあるのかもしれない。

しかし、児童文学作品の場合は、どうだろう? たしかに非血縁の親が子どもを理解しない存在として登場する場合もあるが、継父や継母=意地悪(ちなみに昔話には継母はよく登場するが継父が登場することは少ない)というステレオタイプを突き崩すような秀作もいくつも書かれている。

たとえばパトリシア・マクラクランの『のっぽのサラ』(原著 1985)は、子どもたちが、継母(候補)と心を通わせていく物語だが、これについては連載の第1回に書いたので、そちらをご覧いただきたい。

 

◆『800番への旅』の父親

カニグズバーグ『800番への旅』表紙アメリカの作家E.L.カニグズバーグが書いた『800番への旅』(原著 1982/岡本浜江訳 佑学社 1987、小島希里・他訳 岩波書店 2000・2005)の主人公マックス(愛称ボー)の両親は離婚している。マックスは母親と暮らしているのだが、母親が再婚することになり、そのハネムーンの間息子は父親のウッディに預けられる。父親は各地をまわり、お客をラクダに乗せてお金を稼いでいる。きちんとした生活が好きで上昇志向もある母親の影響もあり、最初のうちマックスは久しぶりに会った父親を批判的にながめ、周囲の一風変わった人たちのことも冷ややかに見ている。しかし、徐々にマックスも父親のよさを理解し、社会から外れた人たちのたくましい生き方に触れて成長していく。

ところがこの作品には、物語の最後の方に読者をあっと言わせる展開が用意されている。ある女性がマックスに、「(ウッディは)あんたのことも、まるで自分のほんとの息子みたいに愛しちゃったのね」と口をすべらせるのだ。問いただしたマックスは、ウッディが実父ではなかったという事実を知って衝撃を受け、狼狽し、困惑し、どういう態度をとればいいのかと思い悩む。しかし間もなく「ただ、ウッディの息子ボーであることを楽しめばいい」と考え直す。最後の場面では、帰宅するマックスをウッディが車で飛行場まで送っていく。

 それからおしりをすべらせて ウッディに近づいた。ウッディはハンドルを持った片手を放して、ぼくをひき寄せた。
ぼくは空港に着くまでのあいだ、じっとよりかかっていた。

この場面からは、マックスの血のつながりなどを超えたウッディヘの信頼と愛情が感じられる。実母が息子を置いて旅に出てしまったことを考えると、象徴的な場面でもある。ちなみに、800番とはアメリカの無料通話の番号で、ここではウッディの周囲にいる無名の人たちをさしているようだ。

 

◆『ベーパーボーイ」の父親

ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙同じくアメリカの作家ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原著 2013/原田勝訳 岩波書店 2016)にも 血のつながらない父親が登場する。舞台は1995年のメンフィス。吃音を抱え、周囲とのコミュニケーションがうまくない主人公ヴィクターは、夏休みの間友だちのかわりに新聞配達をすることになり、配達先できまざまな人に出会って世界を広げ成長していくというのがメインストーリーである。そこに、自分の出生証明書の父親の欄に「不明」と書いてあるのを見てしまったヴィクターが、思い悩むというわき筋が入ってくる。

どうしてもわからないことがひとつある。だれかよその男の人とお母さんのあいだにぼくが生まれたのだとしたらなぜぼくはお母さんよりお父さんといるほうが好きなんだろう? ばくはお母さんと話すよりお父さんと話すほうがずっと好きだ。お父さんはぼくがひどくどもることを全然気にしていないように見える。(p119)

ちなみに、ヴィクターは話す時は吃音を防ぐために息継ぎをしょっちゅうするのだが、それとは対照的に、文章は息継ぎのカンマなしで書くため、訳文も読点なしになっている。

また 出張から帰ってきた継父とキャッチボールをしている場面では、ヴィクターは、こう考えるようになる。

出生証明書の父親欄は「不明」だったかもしれないがぼくから見れば今こうしてワイシャツ姿でネクタイの先をボタンのあいだに突っこんでキャッチボールをしてくれている背の高い男の人こそが父親だ。びかぴかだったお父さんの革靴は花壇に入ったボールを拾ったものだから泥だらけになった。この人はいつだってぼくのためにこの世のほとんどどんなことでもする気でいる。でもよく考えてみるとそう思わなきゃならない義務なんてない。(p268)

物語の最後では、ヴィクターは「お父さんとお母さんにぼくが生まれてきたいきさつがどうであれ二人の子どもでいられてうれしい」(p278)とはっきり述べている。家族にとっていちばん大事なのは、血のつながりではなく、一緒に過ごす時間の質だという価値観が、この作品には明確に表現されている。

 

『十一月のマーブル』が伝える血縁と非血縁

『十一月のマーブル』表紙戸森しるこの作品はどれも(今のところ、表題作のほかに『ぼくたちのリアル』と『理科準備室のヴィーナス』)、生きることは複雑であり、だからこそおもしろいということを伝えている。デビュー作の『十一月のマーブル』(講談社 2016)は、6年生の主人公波楽(はら)と、自分の性に違和感を持つ親友レンの間に通う繊細な愛の物語とも言えるが、その一方で非血縁の家族の物語でもある。

波楽は、「かあさん」とは血がつながっていないことを最初から承知していて、自分が産んだ娘と波楽を差別しない継母に尊敬の念さえ抱いている。しかし、生母の再婚相手の井浦凪と出会ったことから、波楽は「とうさん」とも血はつながっていなかったという事実に気づいてしまう。妹を含めた一家4人のなかで、波楽だけが血のつながらない家族なのである。波楽は悩みながらも、自分を生まれた時から育ててくれた「とうさん」と、4歳から育ててくれた継母を自ら親として選びとり、自分と顔がそっくりの凪には「凪さんのこと、すごく好きだ」と言いつつ、こうも言う。

「ほんとうの父親がだれかなんて、ぼくにはもうどうでもいいことなんだ。だってぼくのとうさんは、柴田航太郎ひとりだけだから」

波楽は、血縁より、一緒に過ごした時間が長く、自分を愛してくれている非血縁の家族を選びとり(ちなみに生母は亡くなっている)、継母には思い切って「弟はほしくない」と、これまでは言えなかったわがままも言うようになる。その場面では、血縁へのこだわりが逆の意味で顔を出しているのもおもしろいところだ。

ぼくは今でもかあさんをひとりじめしたいって思ってる。血がつながっていないぶんだけ、よけいに気持ちがつながっていなきゃって、どうしても思ってしまう。
血のつながりが関係ないなんて そんなのうそだ。(p169)

血縁へのこだわりが顔を出すもう一つの場面は 航太郎が(妻を略奪した)凪と縁を切らなかった理由について、凪が波楽に語るところである。凪は、いずれ「血のつながりのある相手が、どうしても必要になることもある。たとえばきみが重い病気にかかったとき、ぼくがきみにしてやれることがあるかもしれない」からだろうと推測している。このひと言で、航太郎の波楽に対する愛と、それを察することができる凪の優しさの両方を、うまく表現しているのが見事だ。

ほかにも継母、経父が登場する作品はあるが、ここに取り上げた作家たちの家族観に、私は共鳴している。家族は血縁で縛るものではなく、一緒に過ごす時間の豊かさを大事にするほうがいいと思うからである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年11月号掲載)

 

 

 

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子どもの本に見る新しい家族⑥ 父子家庭はどう描かれてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑥

父子家庭はどう描かれてきたか

 

先月は母子家庭を取り上げたので、今月は父子家庭が描かれた作品を取り上げてみたい。

 

絵本の場合

『パパと10にんのこども』表紙フランスの絵本『パパと10にんのこども』(原著 1997/ベネディクト・ゲッティエール作 那須田淳訳 ひくまの出版 2000)では、バパが家事と10人の子どもの世話を一手に引き受けており、子どもたちを学校に連れていったあとは、自分も会社に行く。仕事から帰ってくると10人をお風呂に入れ、ご飯を作って食べさせ、歯磨きをさせ、お話を開かせ、キスをして「あ―あ、くたびれた」と言う。パパは、たまにはひとりになりたいと、夜中にこっそり船をつくって、おばあさんに子どもの世話をたのみ、海に出てつかの間の休暇を楽しむ。そして10日も眠り続けた後に戻って来る。そして今度はその船に10人の子どもを乗せて、もっと大きな冒険の旅に出るのである。リアルな父子家庭というよりは、寓話的な絵本といえよう。

『おやすみアルフォンス』表紙スウェーデンの絵本『おやすみアルフォンス!』(原著 1973/グニッラ・ベリィストロム作 やまのうちきよこ訳 偕成社 1981)も、父子家庭を描いた古典的な絵本。4歳のアルフォンスは夜なかなか眠れずに、何度もパパを呼ぶ。やさしいパパはそのたびに アルフォンスにお話をしてやったり、歯ブラシやジュースを持ってきたり、ジュースをこぼしたシーツをとりかえたり、おまるを持ってきたりと大奮闘。しかしパパは、ぬいぐるみを探しにいった時に、とうとう疲れて眠り込んでしまう。父子家庭を取り上げたどちらの絵本も パパの大奮聞とそれによる疲労を描いている。アルフォンスの絵本には続編(『パパ、ちょっとまって!』『アルフォンスのヘリコプター』『ひみつのともだちモルガン』)もあり、スウェーデンではだれでも知っている人気シリーズになっている。

イギリスの作家に日本で絵をつけた絵本『おかあさんどこいったの?』(原著 2011/レベッカ・コップ作 おーなり由子訳 ポプラ社 2014)と、ひぐちともこの『4こうねんのぼく』(そうえん社 2005)は、どちらも母親の死去による父子家庭を描いている。『おかあさんどこいったの?』に登場するまだ幼い少年は、死を理解できずに、母親を捜したり、腹を立てたり、自分のせいでいなくなったのかと思ったり、ほかの子をうらやましがったりする。『4こうねんのぼく』に登場する少年は、高速瞬間移動型ロケットを発明して、4光年前の地球を見ると亡くなった母親が見えるのではないかと考える。子どもが喪失感を抱えているのはどちらも同じだが、乗り越えていく段階も描かれる『おかあさんどこいったの?』の方が絵本としての出来はいい。ただし、どちらも母親を、家事の担い子としか描いていない点が残念だ。

『おかあさんどこいったの?』と『4こうねんのぼく』の表紙

イギリスの国際アンデルセン賞4家アントニー(アンソニー)・ブラウンの絵本『すきですゴリラ』(原著 1983/山下明生訳 あかね書房 1985)に描かれる父子家庭では、父親が多忙で娘ハナになかなか注意を向けない。朝食の席でも親子の間を父親の新聞が壁となって隔てている。父親はハナが登校する前に出勤し、夜は家でも仕事をするので 娘が話しかけようとしてもいつも「いそがしいから、いまはだめ」と言う。ハナが暗い部屋の隅で、テレビを見ながらひとりで食事『すきですゴリラ』表紙をしている場面や、べッドの端の格子細工のせいで、寝ているハナが檻に閉じこめられているように見える場面もあり、絵からもハナの孤独感がひしひしと伝わってくる。ゴリラが大好きなハナは 誕生日にゴリラがはしいと父親にねだるが 夜中に目をさまして見つけたのは、ちっぽけな箱に入ったゴリラのぬいぐるみ。でも、そのゴリラがぐんぐんと大きくなり、ハナを動物園や映画館やレストランに連れていってくれ、一緒にダンスも踊ってくれる。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだ、とハナは思う。

この絵本がすばらしいのは、最後の場面である。夜の間のできごとを父親にも教えてあげようとハナが階段を駆け下りると、テーブルの上には他にもいくつか誕生日プレゼントが置いてあり、ゴリラの絵がついたバースデーカードも用意されている。そして父親が言うのである。「これから どうぶつえんに いくなんて、どうかな?」(日本語版では、これが父親の台詞だということがわかりにくいので、娘からの提案だと思う読者もいるかもしれない)。ふだんは忙しい父親がこの日だけはなんとしても娘を楽しませようと張り切っている様子が伝わってくる。

 

読み物の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』表紙(さくまゆみこ訳 理論社)読み物に描かれる父子家庭の父親は概して頼りない。アメリカの国際アンデルセン賞受賞作家ジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)には、二つの父子家庭が登場する。一つは、アフリカ系のマリー(12歳)の家庭で、母親は失踪しており、父親は大学の教員で裕福でもある。もう一つは、白人のレーナの家庭である。父親は臨時雇いをしており、母親はガンで亡くなっている。プアホワイトの父親はレーナとその妹のディオンに性的な虐待を行っている。レーナとマリーは母親不在という共通項で友だちになり、レーナはだれにも言えないでいた父親からの虐待についてマリーにだけ打ち明ける。最初はレーナが「(父親が)愛しすぎている」という言葉で表現するので、父親にもっと抱きしめてもらいたいと思っているマリーには理解できない。

思春期の娘をもつ点では同じだが、マリーの父親は娘との身体的な接触を必要以上に避け、レーナの父親は娘を死んだ妻がわりに性的な対象としている.ウッドソンが従来型の白人・黒人家庭とは逆にこの二つの家庭を描いていることにも注目しておきたい。

 

ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』表紙(さくまゆみこ訳 評論社)イギリスの作家ジル・ルイスによる『白いイルカの浜辺』(原著 2012/さくまゆみこ訳 評論社 2015)では、主人公の少女カラの母親は環境活動家で、ソロモン諸島に調査に出かけたまま行方不明になっている。難読症をもつ父親は、妻の不在という現実を受け容れることがなかなかできず、仕事もうまくいっていない。カラ自身も難読症で学校にとけこめず 自分を閉ざす傾向にあるのだが、脳性麻痺の少年と友だちになることから、少しずつ未来に目を向けることができるようになる。カラの、父親に対する信頼感は途中で揺らぐが、最後は二人で母親の死を受け入れ、次の一歩を踏み出す。

私は父さんにもたれかかり、海を見わたした。外海はおだやかで波もほとんど立っていない。トルコ石のように青い。波打ち際には小さな波がよせている。
「二人で新しい舟をつくろうな、カラ」父さんが言って涙をぬぐった。「おまえと私で、舟をつくってセーリングに出よう」
私は父さんの手をにぎって、目を閉じた。(p287)

 

アン・M・マーティン『レイン』表紙

アメリカの作品『レイン』(原著 2014/アン・M・マーティン著 西本かおる訳 小峰書店 2016)の主人公であり、語り手でもあるローズは、アスペルガー症候群を抱えていてクラスにもなじめず、同音異義語にこだわっている。母親は病死しており、父親は娘を愛していないわけではないが不器用だし、娘の特異性をちゃんと理解していない。最後にはこの父親はローズとも気の合う弟のウェルドンに娘を託す決心をする。理解のないひどい父親だと非難する読者もいるだろうが、著者は娘を手放す場面で父親をこんなふうに描いている。

「さあ 行け」バパはそう言ってから、ほんの一瞬、わたしを抱きしめた。もうずいぶん前から、抱きしめられたことなんてなかった。ほほがふれたとき、パパのはほがぬれているのを感じた。パパはすぐに体を離して前を向いた。あごがぶるぶるふるえている。(p224)

またウェルドンにも、兄であるローズの父親について

「きみのパパはいつも正しかったわけじゃないけど、いつだってきみのことを大事に思ってたんだよ」
「たぶん、ローズはぼくと暮らすほうが幸せだと思ったんだろうな」

と、言わせている。それもあって、私には父と娘の別れの場面が非常に切なく思え、辛いなからも正しい選択をしたこの父親はそれなりに見事だと思うのである。

 

『世界がぼくを笑っても』表紙日本で父子家庭を描いた作品といえば多くの人が思い浮かべるのは、今江祥智の『優しさごっこ』(理論社1977)だろうが、ここでは『世界がぼくを笑っても』(笹生陽子著 講談社 2009)を取り上げたい。頼りない教員と中学生をめぐる物語が、生徒同士のネットのやりとりも交えなから北村ハルトの一人称で描かれている作品だ。ハルトは、8歳の時「うちにもサンタさん来てくれるかな」と父親にきくが、父親はサンタのネット予約に必要だと言って息子に500円を出させ、馬券を買ってすってしまう。ハルトが2歳の時に母親は家出をし、その後離婚しているのだが、教師が家庭訪問に来ると、父親は「中学2年生にもなって、みんなと仲良くできないようじゃ、天国にいるおがあさんにも申しわけが立たんぞ、まじで」などとほざいて、妻を死んだことにしてしまう。ハルトは、久しぶりに母親に会った時、ここぞとばかりに父親のことを悪く言う。

「子どものころは、ずいぶんとひどい目にあいましたけど。いえ、なぐられたりはしてません。なんていうかこう、精神的な意味での虐待みたいなものが、たびたびあったりなかったり。もちろん、いまは昔とちがって、やられたらやり返してます。親父もそろそろ年なんで、あと少しでオレの天下です」

ハルトは父親をクソ親父とののしりながらも、心底憎んでいるわけでもないらしいのが、作品からは伝わってくる。『優しさごっこ』の父親とは対照的な、子どもにまったく気を遣わない父親ではあるが、そんな父親にも人間としては愛すべき側面があることを、成長したハルトはすでに認識しているのだろう。

ちなみに、今回取り上げた父子家庭を描いているのは、アンソニー・ブラウンと今江祥智以外はすべて女性である。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年10月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族⑤ 母子家庭のがんばるお母さん

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑤

母子家庭のがんばるお母さん

 

ひとり親家庭を描いた作品も最近では多くなってきた。その中でも、今回は母子家庭が登場する作品を見てみたい。何度も操り返すようだが、私が読んでおもしろく心にも残った作品を取り上げる。

 

絵本の場合

『かあさんのいす』表紙コルデコット賞銀賛を受賞したアメリカの絵本『かあさんのいす』(原著 1982/ベラ・B.ウィリアムズ作・絵 佐野洋子訳 あかね書房 1984)では、祖母、母、娘(ローザ)の女3人家族が、大きなびんに小銭を貯めている。ウェイトレスとして働き疲れて帰って来る母親のために、すてきな椅子を買うための貯金である。一家がそれまで住んでいた家は家財ごと火事で丸焼けになってしまっている。とうとうお金が貯まると、3人はバラの模様がついたビロード地の椅子を見つけて買い、幸せと満足感にひたる。この絵本の母親には悲愴なところもなく、近所にもこの一家を応援しようという人々が大勢いるのが、心強い。

『かあさんのいす』続編表紙続編の『ほんとにほんとにほしいもの』(原著 1983/あかね書房 1998)では、ローザが自分の誕生日に、どれにしようかとさんざん迷ったあげく、びんに貯めたお金でアコーディオンを買ってもらう。シリーズ3作目の『うたいましょうおどりましょう』(原著 1984/あかね書房 1999)では、病気の祖母を励ますために、ローザが肌の色の様々な友だちと楽団をつくって演奏し、空っぽだったびんにまた演奏の謝金を入れることができる。『ほんとにほんとに〜』では、母と子で鏡を見て百面相ごっこをする場画もあるし、どの店でもいったん買うと決めたものを土壇場でやめるというローザに対して、母親はいらだったり怒ったりすることなく笑い出す。

シリーズの3作をとおして、この労働者階級の3人家族がどんなにお互いを愛し合っているか、毎日を楽しんでいるかが伝わってくる。ウィリアムズは、東欧からの移民の親から生まれ、子どもの時に父親不在の期間を体験し(刑務所に入れられていたのではないかと、後にウィリアムズは推測している)、自らも離婚しているが、そうした体験から生まれたこの3冊の絵本が明るくて楽しいのは印象的である。

 

ジャクリーン・ウッドソン『かあさんをまつふゆ』表紙(さくまゆみこ訳)

同じくコルデコット賞銀賞のアメリカの絵本『かあさんをまつふゆ』(原著 2004/ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2009)にも祖母、母、娘の女3人家族が描かれているが、戦時中ということもあって絵もそう明るくはない。母親は娘のエイダ・ルースに確かな愛の言葉を残して、シカゴに出稼ぎに行く。エイダ・ルースは何度も手紙を送るが、母親からは手紙もお金も届かない。そんなとき、小さな迷い猫がやってきて家に住み着くことになり、この猫を媒介にして祖母と孫娘の気持ちの揺れや時間の経過が表現される。孫娘にとっては寂しい時間が流れるが、それだけではなく広い視野をもつ祖母から教わることもある。最後の場面には言葉がないが、確かな足取りで家に向かっている母親の後ろ姿が描かれている。

 

『アンナの赤いオーバー』表紙戦後のアメリカの母子家庭を描いた『アンナの赤いオーバー』(原著 1986/ハリエット・ジィーフェルト文 アニタ・ローベル絵 松川真弓訳 評論社 1990)では、母親が金時計やネックレスやティーポットなど大事なものを一つずつ代金がわりに手渡して、ヒツジの毛を刈ってもらうところから始め、1年かかって娘にすてきなオーバーを調達する。そのちょっと大きめのオーバーには、母親の愛情と時間がたっぷりこめられていることが伝わってくる。また、既製品をただ購入するのとは違って、さまざまな人々の時間と手と心がかかわって一着の衣服が出来上がって行く様子もわかる。

 

『おかあさん、げんきですか。』表紙日本絵本賞大賞を受けた『おかあさん、げんきですか。』(後藤竜二文 武田美穂絵 ポプラ社 2006)に登場するのも母子家庭で、母の日に小学校4年生の息子が学校で書いた手紙が絵本になっている。「わかった?」と何度も言わないでほしいとか、部屋を勝手に片付けないでほしい、というのがその内容なのだが、その手紙の文章からこの子の母親に対する愛情と成長がはっきりわかり、ユーモアもたっぷりで、何度読んでもあきない。最後のページは、お母さんがこの息子の手紙を読んでいる場面で、それまでのマンガっぽいちょっと怖いお母さんと違ってリアルなお母さんが登場している。

 

どの作品も、母子家庭の大変さを売り物にすることなく、それはそれとして母子の愛情が豊かに描かれているのがいい。

 

読み物の場合

『怪物はささやく』表紙映画が公開されて話題になった『怪物はささやく』(原著 2011/シヴォーン・ダウド原案 パトリック・ネス著 池田真紀子訳 あすなろ書房 2011)の主人公コナー(13歳)も母親と二人で暮らしているのだが、ガンにかかった母親は自分の余命が長くないことを感じている。その不安が息子に伝わるのか、コナーの前にイチイの木の姿をとる怪物があらわれる。この怪物が、コナーの潜在意識を表に引き出す役目を果たす。それによって死ばかりを見つめていたコナーはようやく生の方向にも目を向け、母の死をのりこえて進むことができるようになる。この作品の場合、コナーは母との愛着関係が強く、頼りない父親にも意地悪な祖母にもすがることができないと思っているので、よけいに孤立感が深く、不安や恐怖も強い。シヴォーン・ダウドはイギリスの女性作家で、自らもガンに冒されて2007年に死去し、その遺稿をアメリカ生まれのネスが完成させてカーネギー賞を受賞した。

 

『レモネードを作ろう』表紙次に家庭小説の伝統があるアメリカの二人の作家を取り上げる。ヴァージニア・ユウワー・ウルフのゴールデン・カイト賞を受けた『レモネードを作ろう』(原著 1993/こだまともこ訳 徳間書店 1999)には二組の母子家庭が登場する。一つは、14歳のラヴォーンの家庭。父親は死去して母親が働いて家計を支えている。ラヴォーンは貧困から抜け出すために大学に行こうと、ベビーシッターをしてお金を貯めようと考える。シッターを頼んできたのはジョリーという17歳のシングルマザー。幼い子二人を抱えているが、路上で暮らしていた経験も持ち、子どもの父親はわからない。ジョリーは安い賃金で働いているが、雇い主のセクハラにあって仕事も辞めざるを得なくなる。しっかりと将来を見すえているラヴォーンと、母親らしくなく、生きる術もわからずにいる極貧のジョリー。この二人のティーンエージャーは、最初は仕方なく付き合うのだが、やがでラヴォーンはジョリーから母親の強さを学び、ジョリーは自立するためにラヴォーンの手を借りることになる。最近アメリカでは韻文のような文章で書かれたYA小説が多く出ているが、これはその先駆けでもある。

『ジョージと秘密のメリッサ』表紙ジョージと秘密のメリッサ』(原著 2015/アレックス・ジーノ著 島村浩子訳 偕成社 2016)の主人公ジョージ(小4)も母子家庭で、母親と兄と一緒に暮らしている。ジーノは、トランスジェンダーの作家で、ジョージも見た目は男の子だが、内面は女の子という設定になっており、母親にその部分をわかってもらいたいとは思いながら、打ち明けられずに苦しむ。以下は、ジョージがようやく打ち明けたときの母子のやりとりである。

「・・・でも世の中はふつうとちがう人にやさしいとはかぎらない。ママはとにかく、あなたに必要以上に苦しい道を歩んでほしくないの」
「男の子のふりをするのはほんとうに苦しいんだ」
ママは何度かまばたきをした。
もう一度目をひらいたとき、涙がひとつぶ、ほおをつたい落ちた。
「つらかったわね、ジージー。わかってあげられなくて、ほんとうにごめん」
ママはジョージをひきよせると、ぎゅっとだきしめた。(P188-189)

親が一人しかいないという不都合をすでに子どもに背負わせている母親は、それ以上の負担を避けるほうが世の中をうまく渡っていけると考えていた。しかし、子どもが思い切って打ち明けると、すぐにその隣に立つ道を選択しているのは見事である。ジョージを真っ先に理解する友だちのケリーも、父子家庭の女の子である。自分もなんらかの社会的ハンデを持っている人のほうが、他者に寄り添う共感力が強いと著著は考えているのかもしれない。

 

岩瀬成子も、よく母子家庭を登場させるが、その中身は作品によって違う。たとえば『ぼくが弟にしたこと』(理論社 2015)に登場するのは男の子二人と母という家庭で、母親は老人ホームで働いていて、帰宅して夕飯の支度をしてからまた週4日はコンビニの夜勤に出かけていく。別れた夫は暴力をふるう男で、離婚の理由については「あのまま家族でいると、それぞれのいいところが失われてしまうような気がしたから」と母は子どもに説明し、「逃げたんじゃない。3人で新しく出発したんだよ」と言っている。世間体をとりつくろうことなく、必要なことは子どもにきちんと話し、仕事も子育てもなみなみならぬ努力でがんばっている。そのため息子たちも、心に波風が立つことはあっても、父親がいたときよりは今の方が安心という気持ちも持っている。

岩瀬成子の3作 表紙

同じように低賃金の仕事を掛け持ちしている『マルの背中』(岩瀬成子著 講談社 2016)の母親は、娘との二人暮らしだが、夜帰ってこなかったり、娘の亜澄に「死のうか」と不用意に言ったりする。亜澄は、父親にも弟にも会えない寂しさがあり、心の中にはもっと強い波風が立っている。

だれにもいえない』(岩瀬成子著 毎日新聞社 2011)の千春の家族も母子家庭だが、一緒に幕らしている叔母が、千春のことをよくわかっていて、母親より近い距離からアドバイスしたりする。岩瀬が書く物語は、外側の事件より子どもの内面に重きを置いている。そんな子どもたちの心のひだを「育てている」のは、孤独な時間なのかもしれない。そういう意味では、子どもに目を光らせる親の数が少ないというのも、あながち悪いことではないのかもしれない。

 

2016年の国民生活基礎調査を見ると、日本では、ひとり親世帯の就労率は世界的に見ても高いのに、貧困率は実に50パーセントを超えていて、主要国最悪のレベルにある。なので、岩瀬が書くように、日本の母子家庭の母親は安い賃金の社事を掛け持ちしなくては生活が成り立たず、ベラ・ウィリアムズの描く母親のような心の余裕もなかなか持てない場合が多いのではないだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年9月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族④ 問題を抱える親、大人になれない親

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族④

問題を抱える親、大人になれない親

 

日本の親子関係は、血のつながりが他の国以上に重視されているように思われる。血を分けた親が子どもを育てるのも、子どもが実の親を敬うのも当然のことであり、そうでない場合は、白い眼で見られたりする。しかし、そうしたステレオタイプな考え方が、子どもをかんじがらめにしてしまうこともある。

評論家の芹沢俊介氏によれば、親になるには2度の覚悟が必要だという。最初は子どもが生まれた時の「生物学的な親として」、そして次は「何があっても受け止めるという〈受け止め手〉として」。いくら血がつながっていてもその覚悟ができなければ、子どもの存在は危うくなってしまう。

今回は、絵本や児童文学に登場する困った親について考えてみたい。断っておくが、私はケーススタディとして作品を取り上げているのではない。すぐれた文学作品を通して子どもたちが社会へも目を向け、さまざまな立場にある子どもたちと手をつなぐことができるようになってくれれば、と思うのである。また私が読んておもしろかった作品だけを勝手に紹介している点もお許しいただきたい。

 

自分で自分を救えない親の場合

『パパと怒り鬼』表紙ノルウェーの絵本『パパと怒り鬼〜話してごらん、だれかに』(原著 2003/グロー・ダーレ作 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり&青木順子訳 ひさかたチャイルド 2011)には、家族を愛していないわけではないのに虐待し、暴力をふるう父親が登場する。主人公の男の子ボイは、いつも父親の一挙手一投足をうかがっており、身体的にも極度に緊張している。そして、父親が怒り鬼に支配されてしまうと、

ぼくのせいかもしれない。もっといい子になるよ。もっとお利口になるよ。どんなことでもするよ。ごめんなさい、ゆるしてよ、パパ

と思うのが、切ない。怒り鬼の炎を消すことはだれにもできず、家族は荒れ狂う父親の暴力に耐えるしかない。嵐が過ぎ去ると、父親は泣きなから、もう2度と暴力はふるわないし、いい父親になると約束するのだが、その約束は守られたことがない。母親は、家族が壊れそうになっていることを、ひた隠しにし、幸せ家族を偽装する。

最後はボイが思い切って王さまに手紙を書いた結果、父親の治療の道が開けるという展開だが、その部分はノルウェーならではのことだとしても、こういう状況に陥った子どもの気持ちを、この絵本はリアルに表現している。

『ノックノック:みらいをひらくドア』表紙(さくまゆみこ訳 光村教育図書)アメリカの絵本『ノックノック〜みらいをひらくドア』(原著 2013/ダニエル・ビーティー文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書 2015)の表紙には、息子を抱き上げた父親の背中が描かれている。実体験に基づいて作られた絵本なので、この息子は作者のビーティーで、抱いているのは実の父親である。父親はイクメンで、幼い息子をかわいがっていたが、息子が3歳の時に投獄される。息子の心には大好きな父親の不在という穴がぽっかりあいてしまう。ただ、この父親は変わらず息子を愛していて、ある日メッセージを送ってくる。それをもらって自分なりの道を見いだした著者が、幸せな家庭を築いているらしいことが後半部分からうかがえるのがいい。この絵本を作ったのは、投獄だけでなく、離婚や死などさまざまな事情で親の不在を体験している子どもたちに寄り添おうとしてのことだとビーティーは述べている。

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙イギリスの読み物『タトゥーママ』(原著 1999/ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社 2004)については、この連載の第1回でも触れた。マリゴールドという名の母親は、「ろくに働きもせずに生活保護のお金で暮らし、飲んだくれたり男をひっぱりこんだりする、精神状態の不安定なタトゥーだらけの未婚の母」(訳者あとがきより)で、親の覚悟をもって子どもに接することができない。父親の違う二人の娘(スターとドルフィン)は、家出をしたり、反発を感じたり、もうやってらいれないと思ったりする。しかし世間的にはできそこないの母親ではあっても、娘たちは母親の愛情を確信し、下の娘ドルフィンは最後にこう述べるのだ。

わたしは、マリゴールドを見つめた。わたしのタトゥーのあるお母さんを。マリゴールドはほんとうに、わたしとスターを愛しているんだ。わたしたちにはそれぞれのお父さんがいて、これからも顔を見せるかもしれないし、見せないかもしれない――でも、わたしたちにはいつもお母さんが、マリゴールドがいる。頭がおかしくても、いいお母さんじゃなくても、かまわない。マリゴールドはわたしたちのものだし、わたしたちはマリゴールドのものだ。わたしたちは三人家族。マリゴールドとスターとドルフィンなんだ。

ひとい母親なのに、娘からこう思われるのは不思議だと思う人もいるだろう。しかし、なるほどと読者を納得させるだけの筆力をウィルソンは持っているのである。

以上見てきたように、ダメ親でも子ともを愛している場合や、本人の力でもとうにもならない弱点を抱えている場合は、作著も親を糾弾したり、むやみに突き放すことはしないようだ。

 

覚悟ができない親からダメージを受ける子ども

 次に、親になる覚悟ができなかった親と、それによつて大きなダメーンを受けてしまう子どもを描いた作品を見てみよう。

アン・ファイン『チューリップタッチ』表紙イギリスの読み物『チューリップタッチ』(原著 1996/アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 2004)は、子どもの内面で起こる大きなドラマをとでもリアルに描いた傑作だ。語り手のナタリー(小学校高学年〜中学1年生)は、親が忙しくてなかなか目を向けてもらえない間に、近所の少女チューリップと仲良くなる。チューリップは嘘つきだし行動は破壊的だ。でも、それが何ものにもとらわれない個性やスリリングな創造性にも見えて、ナタリーはひきつけられる。

チューリップの父親も〈怒り鬼〉に支配されているのか、「突然、狂ったようにおこって、その怒りをチューリップにぶつける」し、母視は「いつもびくびくしていて、何も気づかないふりをしている」。父親は、身体的な暴力のほかに、子猫殺しをチューリップに命じるなど心理的な暴力もふるっている。その影響か、学校でチューリップが描く絵には、

憤怒と軽蔑がこもり、紙の上には暴力の渦があった。どこもかしこも暗く猛り狂っていて、見ている者を飲みこみ、引きずりまわさずにはおかない力があった。

それでも、ナタリーにはチューリップが必要だった。自分も心に空洞を抱えるナタリーはこう思っている。

あたしがなんの問題も起こさず、大人の言いつけを守り、いい子でいるあいだに、チューリップがあたしの秘密の命を生きていた。あたしが机の前におとなしく座っている、と先生の目に映っているときに、別のあたしはチューリップといっしょに丘にいて、はかの子たちが行列して教室を出入りするのをながめていた。(中略)ママが(弟の)ジュリアスを探して、あたしには目もくれずに通りすぎるときに、あたしの中には、チューリップもかなわないほど激しく怒り狂う、別のあたしがいた。

近所の人たちもチューリップに居場所がないことはわかっているが、打つ手がない。チューリップの中で鬱屈した怒りや不安は、どんとんふくれあがっていく。

アン・ファインはナタリーの目に映ったものを通して物語を進めて行くが、明らかにチューリップに寄り添って書いている。そしてダメ親が不安と恐怖の渦巻きのような環境しか子どもに提供できない場合、子どもは底知れぬダメージを受けてしまうことや、周りの「いい人たち」がその子を落ちこぼしていく様子を冷徹な目で描いている。

また、子どもがいくらダメージを受けていても、実の親がいる以上、他者が救いの手を差し伸べるのは至難の業だということも、ここには描かれている。

『小やぎのかんむり』表紙小学館児童出版文化賞をとった市川朔久子の『小やぎのかんむり』(講談社 2016)にも、チューリップの親と同じような親が登場するが、アン・ファインが心の奥深くまで探るような書き方をしているのに比べると、そこまで深くは描かず、読者の想像にゆだねる書き方をしている。ある意味でこうした書き方は、日本の児童文学の特徴の一つかもしれない。

中3の夏芽は、夏休みに山寺のサマーキャンプに行き、それまで周辺にはいなかった人々と触れあううちに、壊れかけていた自分を取り戻していく。夏芽の父親も、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるう自分勝手なダメ親である。そのせいで夏芽は摂食障害に陥っているし、父親に殺意まで抱いたことで強い罪悪感をもっている。しかし、山寺の住職のタケじいは夏芽に言うのである。

「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でもそれ以下でもない。(中略)愛とか絆とか、そこに意味を持たせようとするから、なんだかおかしなことになる。――そんなもの、運がよければあとから出てくるもんだ。ないものをあると仮定するからゆがむ。苦しむ。はじめからありはしないのに」

そして、夏芽は悪くない、と断定したうえで、こうも言う。

「(父親を)『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」

紋切り型の常識的な愛情論をふりかざす人たちを、タケじいは、すばっと切り捨てている。

ほかにも、たとえばノルウェーのトールモー・ハウゲンは『夜の鳥』(原著 1975/山口卓文訳 河出書房新社 2003)で心の病を患う父親と、そのせいで大きな不安にさいなまれる息子を描いているし、梨屋アリエの『スリースターズ』(講談社 2007)の3人の少女たちの背景には、それぞれとんでもない(でも、その辺にいそうな)親が存在している。また、いとうみくは『カーネーション』(くもん出版 2017)で、実の娘をどうしても愛せない母親とその娘の葛藤を描いている。

血のつながった親が愛情たっぷりに子どもを育てることができれば、それに越したことはないのだろうが、それが不可能な場合はどうしたらいいのか、そういう子どもにはどう寄り添えばいいのかを、作家たちは考えているのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年8月号掲載)

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子どもの本に見る新しい家族③ 親の離婚や再婚はどう描かれてきたか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族③ 

親の離婚や再婚はどう描かれてきたか

 

絵本では

絵本でも、このテーマを扱ったすぐれた作品が何点か出ている。

『パパのカノジョは』表紙パパのカノジョは』(原著 1998/ジャニス・レヴィ作 クリス・モンロー絵 もん訳 岩崎書店 2002)は、アメリカの絵本。主人公の「あたし」は、父親が今つきあっているカノジョが最初は全然気に入らなくて、「すっごくカッコわるい」と思っている。それでも父親は、交際を娘に隠そうとせず、カノジョとピクニックに行く時もカノジョの家に食事に呼ばれた時も娘を連れていく。そのうち「あたし」の心境に変化が訪れ、パパのカノジョは

「あたしのはなしを テレビをけしてきいてくれる。ひみつはひみつにしといてくれる」

「あたしのものをガラクタっていわないし、かってにさわらない」

「あたしのきげんがわるいとき むりやり わらわそうとしたり、質問ぜめにしたりしない。そう、ただ しずかにしといてくれる」

と、評価を徐々に上げていく。そして、最後は、

「パパのカノジョの ほんとのなまえはエリザベス。いまんとこ、ちょっといいセンいってるかもね」

という言葉で終わる。「あたし」は、カノジョの名前をちゃんと出して客観的な評価ができるようになったのである。

『パパはジョニーっていうんだ』表紙スウェーデンの『パパはジョニーっていうんだ』(原著 2002/ボー・R. ホルムベルイ作 エヴァ・エリクソン絵 ひしきあきらこ訳 BL出版 2004)は、親の離婚で母親と暮らしている少年ティムが、父親と会う1日を描いているが、雰囲気はもう少し重たい。父親と母親の仲は悪いらしく、顔を合わせることなくティムを駅に置いていく。全体を通して絵が暗めの色調なのも、この絵本にさびしいトーンをあたえている。

ティムは久しぶりに父親と会えたのがうれしくて、ホットドッグ屋のおばさん、映画館のキップ切りのおじさんと、会う人ごとに、この人は自分のパパで、ジョニーという名前だと紹介する。やがて父親は、発車前の帰りの電車にティムを連れて入り、乗客たちに向かって声を張り上げる。

「この子は、ぼくの息子です。最高にいい息子です。ティムっていうんです!」

と。最後の場面には、言葉はついていない。絵には、楽しかった1日の思い出と、父親が去った駅でお迎えを待っていたさびしさの両方をかかえたティムの小さい肩に、母親がやさしく手をおいている後ろ姿が描かれている。

 

◆親の離婚に揺れる子ども、考える子ども

『カレンの日記』表紙次に、読み物を何点かとりあげる。アメリカの人気作家ジュディ・ブルームは、かなり早い時期に『カレンの日記』(原著 1972/長田敏子訳 偕成社 1977)を書いている。描かれるのは、けんかばかりしている両親に子どもが3人という家庭。カレンは12歳になる真ん中の娘で、秘密の日記に、自分の気持ちや家庭のことを書き綴っている。そのうち両親が別居すると聞いたカレンは、

「離婚なんて! まさか、離婚なんて、しないでしょ!」

と叫んで泣きだしてしまう。 カレンは不安になるが、友だちに話したくても、話すと恐れていることが現実になるような気がして話せない。両親の仲を元どおりにしたいと思って様々なことを試みるが、何をやってもうまくいかず、しまいには「べつにこの世の終わりじゃないんだから」(原題)とあきらめるしかない。これは、親を保護者としてではなく、ひとりひとりの人間として見ることができるようになっていく子どもの物語でもある。

アン・ファイン『ぎょろ目のジェラルド』表紙イギリスでは、アン・ファインが『ぎょろ目のジェラルド』(原著 1989/岡本浜江訳 講談社1991)を書いて、カーネギー賞とガーディアン賞をダブル受賞した。キティは、母親が再婚しようとする相手ジェラルドを最初は憎悪しているが、反核デモで母親が逮捕された後の対応からジェラルドに一目置くようになり、やがてけんかした母親とジエラルドを仲直りさせたりもする。

ドイツのペーター・ヘルトリングによる『屋根にのるレーナ』(原著 1993/上田真而子訳 偕成社 1997)は、レーナが、けんかばかりしている両親の注意をひきたくて、菜園のあずまやの屋根の上に危なっかしく立っている場面から始まる。

パプとマムがけんかしはじめると、どっちもおんなじほどいやになる。……どっちも好きでいたいのに、二人はそうさせてくれない

ヘルトリング『屋根にのるレーナ』表紙とレーナは思い、親友のリーケに、両親が離婚しそうだと打ち明ける。すると、すでに離婚した母親と暮らすリーケは、

「母さん、変わったもん。ともだちがいっぱいいるの、女のともだち。みんなでよぐあつまって、 一人で子どもを育てるのはどんなぐあいかって議論してる。弁護士さんや心理学者を招待することもあるわ」

と話してくれる。リーケの母親のまわりにはシングルマザーのコミュニティができていて、そこで助け合ったり考えたりしているのだ。

レーナが親友に悩みを話せる点、同じ状況の女たちが話し合う場がある点、そして子どもがただ嘆いたり悩んだりするのではなく、自分たちのことも考えろと裁判所でも親に要求する点が、これまでの作品とは違う点である。

ひこ・田中『お引越し』表紙日本では、松谷みよ子の「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズが、親の離婚を早くに扱ったすぐれた作品として挙げられるが、ひこ・田中の『お引越し』(福武書店 1990、福音館書店 2013)は、小学6年生のレンコが、両親の離婚前提の別居と向き合う姿を描いている。物語の冒頭で、父親の荷物を引っ越し先に運ぶトラックの荷台でレンコが知人のワコさんとおしゃべりをする。関西弁でのはずむような会話が続くこともあり、表向きはレンコが悩んだり落ち込んだりしている様子は感じられない。わざと明るくふるまっているのだろう。それでも内心は揺れていることが伝わってくる。レンコにとって、もちろん親の離婚がショックでないわけはなく、ひとりでいるときには、こんなふうにも考える。

「父親っていうのがいない生活」ってかあさんから言われると、おふとんを急にはがされたみたくで、私一人だけパンツがもうはけなくなったみたくで、ガッコから帰ってきたら私の部屋がなくなってたみたくで、百点のつもりが零点だったみたくで、寒かった。

この作品では、母親とレンコが二人の暮らしをどうやっていくかを親子で相談して決めている。それが堅苦しくなったり、妙に深刻になったりしないのは、テンポのよい会話によるところも大きいだろう。

 

◆親の再婚をめぐる物語

『バイバイわたしのおうち』表紙イギリスの人気作家ジャクリーン・ウィルソンの『バイバイわたしのおうち』(原著 1992/小竹由美子訳 偕成社 2000)は、10歳の少女アンデイーが主人公。両親は離婚してそれぞれ再婚している。アンディーはスーツケース一つを抱えて1週間ごとに母親の家庭、父親の家庭を渡り歩かなくてはならないうえ、親の再婚相手だけでなく、その連れ子たちとも折り合っていかなくてはならない。両親ともアンディーを愛していると口では言いながら、日々の暮らしに追われて娘の窮状を深く考えることがないダメ親である。

ウィルソンが多くの作品で取り上げる家庭の状況はシリアスだが(たとえば、ゴミ箱に捨てられていた子ども、孤児院でだれかが引き取ってくれるのを待っている子ども、精神的に不安定な親をもつ子ども、など)、ストーリーテラーとしての手腕と、抜群のユーモアのセンスによって子どもの読者を魅了し、ベストセラー作家になっている。またこの作品には、親以上にアンディーのことを親身になって考えてくれる老夫婦ピーターズさんが登場する。血のつながった親ができない子どもの心の居場所作りを、他人であるピーターズさんがやってくれる点にも注目しておきたい。

ウルフ・スタルク『シロクマたちのダンス』表紙スウェーデンのウルフ・スタルクの『シロクマたちのダンス』(原著 1986/菱木晃子訳 佑学社 1994、偕成社 1994)では、家族が集まってクリスマスのお祝いをしている時に、母親が別の男性の子どもをお腹に宿していることがバレて、楽しいひとときが暗転する。ひとり息子のラッセは母親と暮らすことになるが、母親の再婚相手は歯医者のトシュテンソンで、ラッセより年上の娘がいる。トシュテンソンは、ラッセを品行方正な優等生にしてみせると意気込み、ラッセはメガネをつくってもらい、きちんとした服を買ってもらい、ヘアスタイルも整えてもらう。学校の成績も上がってくる。ラッセも最初は、晴れがましい気持ちになったりもする。しかしトシュテンソンが「自然界は戦場だ。強い者にだけチャンスがある。他人を負かした者しか生きのこれない」と考えている人物だということを、ラッセは間もなく見抜く。そしてトシュテンソン好みのラッセは自分ではないと思うようになる。そこで決意して書き置きを残す。

「ぼくはとうさんのところへ引っ越します。(中略)ぼくは、ぼく以外のだれにもなれないということなのです。そして自分がだれなのかは、自分で見つけなければいけないのです」

スタルクは、親の離婚や再婚について非難がましいことは書かない。世界一離婚が多いというスウェーデンの事情もあるのか、それはそれで致し方のないことだとして、次の段階をどう踏み出したらいいかを子どもに寄り添って考えている。ラッセは母親のことも父親のことも大好きなのだが、もとのさやにおさめようとは最初から思わない。母親のもとを去る決心をしたラッセは

かあさんの手をぎゅっとにぎりかえした。かあさんのことが大好きで、すべてのことが悲しいという気持ちをつたえたくて。

そして最後の文章はこうなっている。

車はゆっくりとソッケン通りをいき、それから南へむかう。
ぼくはとうさんの右腕を首にからませてすわっている。
ぼくたちはおしだまったまま、車を走らせる。
どこへいくかは、とうさんもぼくも知らない。

ラッセと、無口で不器用でシロクマのようなお父さんは、この先どうなるかは確信がもてないながらも、静かに再会の喜びを味わっているのだ。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年7月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族② 母親は家出する

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族② 

母親は家出する

 

子どもの家出は子どもの本のテーマの一つだが、親の家出が描かれる絵本や児童文学はそう多くはない。母親の家出や蒸発となるともっと数は少ない。それでも、そうした作品は考えさせられる点をいくつも含んでいる。

 

◆ 『おんぶはこりごり』の場合

アンソニー・ブラウン『おんぶはこりごり』表紙イギリスの絵本作家アンソニー・ブラウンの『おんぶはこりごり』(原著 1986/藤本朝巳訳 平凡社 2005)に登場するのはピゴット(Piggot)さん一家。この名前は、原書タイトルのPiggybookにも関連している。

この一家は大きな家に住み、父親はパリッとしたストライプのスーツを着て、胸ポケットには蝶ネクタイとおそろいのポケツトチーフをさしている。「だいじな仕事」をしている偉い人らしい。息子たちも胸にワッペンのついた制服を着ており、「だいじな学校」に通っている。しかし母親の方は、夫と息子の世話に明け暮れているうえ、外に働きに出てもいる。

みんながでかけたあと、ママはあさごはんのあとかたづけをして…… ベッドをなおし…… どの部屋にも、そうじきをかけ…… それから、やつと仕事に出かけます。」「みんながゆうごはんをすませると、ママは、おさらをあらい……せんたくをして…… アイロンをかけて…… それから、あさごはんのよういもします。

といった具合。男たち3人は、こんなふうに毎日世話をしてもらうのに慣れてしまっている。

ところがある日、男たちが帰ってくると母親がいなかった。「ぶたさんたちの おせわは もうこりごり!」(原文はYou are pigs.なので、もっと強烈だ)という書き置きを残して家出したのである。

さあ、それからが大変! 父親と息子たちは慣れない家事に取り組むが、できた食事はひどい味だし、家の中はすぐにブタ小屋のようになってしまう。

(ついでに一言。今、原書と日本語版を照らし合わせていて、少し間違いがあることに気づいた。日本語で「はじめて、おさらをあらいました。はじめて、せんたくをしました。まもなく、家は、ぶたごやのようになりました」となっているところは、原書では「一度もお皿を洗わなかったし、一度も洗濯をしなかったので、まもなく〜」という文脈になつている。)

さて、しまいに料理の材料もなくなり、食べ物のかけらでも落ちてはいないかと男たちが部屋をはいずりまわって探しているところへ、母親が帰ってくる。そこで、父親と息子たちは心を入れ替えて家事を分担するようになり、家庭には微笑みが戻ってくる。

この絵本では、絵もさまざまなことを語っている。まずこの母親だが、最後の2ページになるまでは表情がまったく描かれていない。夫からは、名前ではなくold girlなどと呼ばれ、個人としての人格を認められていない状態に置かれていることを表しているのだろう。

英語ではおんぶのことをpiggybackという。原著の書名はそれにちなんでいるのだが、ともあれ、ページが進むにつれて、父親や息子たち、そして家のいろいろなものが徐々にブタ(piggy)に変わっていく。どこがどう変わったかを見つけるのもおもしろい。

日本には、この絵本の母親のように家事も育児もほとんど一手に引き受けながら、外で仕事もしている女性はイギリスよりずっと多いはずだ。

 

『ざわめきやまない』の場合

高田桂子『ざわめきやまない』表紙 『おんぶはこりごり』と同じ頃に出版された高田桂子の『ざわめきやまない』(理論社 1989) に登場する中3の里子の母親は、下の子を亡くし精神的に不安定になつているのに、単身赴任の夫は仕事だけが生き甲斐でちゃんと向き合ってくれない。里子の祖母はこう言う。

 「なんぼ仕事が生きがい言うたかて、子どもが病気になりでもしたらやめな仕方おへん。看病かて女の仕事やし、家にお年寄りがいてはったら、その世話かて女の仕事やし。一、二年ごとのだんさんの転勤にも馴れなあかん。だんさんのうしろで、引越しの荷造りしたり、家をさがすのも女の勤めやし。単身赴任かて、今では常識や。しっかり留守も守れへんでどないする。子どもを亡くさはったお人かて、ようけいてはる……」

それで、母親はポキンと気持ちが折れたのか「時間をください 三カ月/必ず帰ります/許して 里子」という書き置きを残して家出するのである。期限つきだし、自分の母親に連絡して子どもの面倒をみてくれと頼み、単身赴任の夫にも伝えたうえで、だ。『おんぶはこりごり』と比較すると、イギリスと日本の社会の違いが如実にあらわれていることがわかる。こちらの母親はずいぶんと低姿勢だし、帰ってからもしょっちゅう謝っている。

2012年に国際社会調査プログラム(ISSP)が実施した「家族と性役割に関する意識調査」によれば、配偶者がいて18歳未満の子がいる男女が家事にかける週固半均時間は、日本だと男性が12.0時間、女性は53.7時間。日本男性の家事分担率はたったの18.3%で世界一低いと言われている(ちなみにイギリスは34.8%)。政府がいくら「すべての女性が輝く社会づくり」などと言っても、夫が家事をしない(夫の意識の問題もあるが、長時間労働の影響も大きい)、子どもが保育園に入れない、ではまったくの絵に描いた餅でしかない。

 

◆ 『レーナ』の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』さくまゆみこ訳

全米図書賞やいくつものニューベリー賞銀賞を受賞するなど現在アメリカの第一線で活躍しているジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)にも、家出した母親が登場する。語り手の少女マリーの母親は、マリーが10歳のときに家も国も出て、旅先から娘のマリーに絵ハガキを送ってくる。マリーは、家出前の母親が蛇口から水をジャージャー流して声が聞こえないようにして泣いていたことにも、その後父親が同じように時々泣いていることにも気づいている。マリーは母親に宛てて手紙を書くが母親が定まった住所を持っていないので、結局出せないままになっている。

この母親の家出の理由は、父親に言わせればこうである。

「おまえの母さんは、外に出ていって、さがしているんだよ。自分が幸せだって……感じられる……場所をな」「ほかの所へ行かなくちゃならない人もいるんだよ。生きるためにな」(p69)

「母さんはこわくなったんだ。生きることをじゅうぶんにしないままに死んでしまうんじゃないかってな」(p70)

狭い場所に閉じ込められていた母親が、いわば自分探しをするために家を出る。それは、「母親という役割」からしか女性を見ない人にとっては、とんでもない話だろう。しかし、当の母親にとっては生きるか死ぬかの問題なのだとウッドソンは言う。

ジャクリーン・ウッドソン『あなたはそっとやってくる』さくまゆみこ訳

しかしこの作家は、母親の視点だけから見ているわけではない。『あなたはそっとやってくる』(原著 1998/さくまゆみこ訳 あすなろ書房 2008)の主人公エリーの母親は2度も家出をしたことがあるのだが、エリーは母親が戻ってきても長いこと口をきかない。そしてそれは、

「間違ったことを言ったら、また家出をしてしまうのではないかとびくびくしていたからです」(p29)

「最初のときだってなんとかやったんだから、自分が乗りこえられるのはもうわかってるのよ。でも、その一方で、みんなそのうちいなくなってしまうんだって思ってる自分もいるの」(p139)

と、エリーに言わせている。不安を感じる子どもと、それでも家を出ざるを得ない母親の間の溝はなかなか埋まらないのである。

ちなみに、ウッドソンのこの2作の大きなテーマは肌の色が異なる子どもたちの間の友情、愛情と別れであり、母親の家出は背景の一つとして描かれているにすぎない。

 

『紙コップのオリオン』の場合

市川朔久子『紙コップのオリオン』表紙市川朔久子の『紙コップのオリオン』(講談社 2013) にも大きなテーマとは別に(というか大きなテーマを構成する要素の一つとして)、家出した母親が登場する。語り手である中2の橘論里の母親は、ある日、意味のよくわからないメモを残して家出する。論里に言わせると

信じられないことに、母さんはカメラひとつを抱えて気ままな写真撮影の旅に出かけてしまったらしい。行き先も期間も決めない無計画旅行だった。いつか行ってみたいと、ずっと願いながら叶わずにいたことを、とうとう実行してみたのだという。まったく、あきれて言葉も出ない。

母親は、日本のあちこちで撮った写真をブログに載せて、

「十月なのに、もう寒いです! でも、食べ物がさらにおいしくなつてきました。ほっけ、うまい! イクラ、うまい!」

などという能天気なコメントを書いている。『ざわめきやまない』や『レーナ』の家出した母親と比べると、段違いにお気楽なのだが、論里の継父は家族思いの底抜けにいい人であり、「(妻に)試されてるんじゃないかと思うんだ」(p155)と述べている。何を試されているのかはこの部分には書かれていないのだが、別の箇所を見ると、母親には以前健康診断の際気になることがあって、それ以来、継父一人でも子どもをちゃんと育てられるかを試している、というようにとれる。それだけでは理由が弱いと作家が思ったかどうかはわからないが、この母親には前からちょっと変わったところがあったという設定になっている。

最初は「いい気なもんだ」と論里は腹を立てているのだが、母親の帰宅後は「半年以上留守だったにもかかわらず、ぼくたちは母さんのいる生活にあっという間に慣れ」「今のぼくには、家族のそれぞれが、前よりもくっきりとして見える」ようになる。どうしようもないことに関しては、子どもはかくも寛容なのである。

それにしても、日本にはまだこうした母親に不寛容な大人はたくさんいそうである。しかも教育勅語などをよしとする政治家が多ければ、さらに増えるだろう。しかし、母親を無責任と非難するだけでは、何も解決しないのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年6月号掲載)

 

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子どもの本に見る新しい家族① 今、子どもの本は家族をどう描いているのか

日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族① 

今、子どもの本は家族をどう描いているのか

 

多様性と国際化

子どもたちには本を通して、なるべくたくさんの多様な価値観に触れてほしいと、特に今、私は思っている。そして本を通して、なるべくたくさんの地域の子どもたちと友だちになっておいてほしいと考えている。それが、これからの社会をになう子どもたちの「国際化」につながることだと思うからだ。外国語がネイティブのように話せたところで、相手の存在の背景にある文化や価値観が理解できなくては、真の意味での国際人にはなれない。それに、多様な価値観に触れておけば、うっかりお粗末な為政者の口車にのって他の国を敵視してしまうことへの備えにもなるだろう。

私が絵本や児童文学が家族をどう描いているかに関心を寄せるきっかけとなつたのは、スーザン・クークリンの『家族』(Families)という米国のノンフイクション写真絵本だった。初版は2006年だが、米国ではいまだに版を重ねている。日本語訳は出ていない。

FAMILIES 表紙

この写真絵本が取り上げているのは、15の多様な家族である。おもて表紙に写っている家族は、肌の色の白い母親と褐色の父親と、その中間のように見える肌の色の子どもたちだ。うら表紙には、アメリカ人の父親と日本人の母親と、ムサシ、オサムという子ども二人の家族。どっちの家族もにこにこと楽しそうだ。表紙の家族のほかに、ひとりっ子の家族、子だくさんの家族、親が離婚・再婚した家族、父親二人の家族、母親二人の家族、障碍者のいる家族、ふたごのいる家族、実子のほかに養子もいる家族、独身女性が養子を迎えた家族などが登場する。肌の色も、宗教も、文化もさまざまだが、どれもアメリカの家族である。著者の後書きを見ると、ここに登場するどの子も「愛されていて、安心できる居場所がある」と感じているとのことだし、写真でもそれぞれの家族があたたかい雰囲気をかもしだしている。写真絵本なので、子どもも一目瞭然に多様性が理解できるだろう。日本でも、地域によっては外国籍の親をもつ子どもが増えているが、多様であっていいということを伝える本はまだまだ少ない。

 

キャサリン・パターソンのスピーチ

キャサリン・パターソンは、ニューベリー賞2回、全米図書賞2回をふくむ数々の賞を受賞した米国のベテラン作家だが、1998年に国際アンデルセン賞を受賞したときのスピーチで、こんなことを言っている。

「米国の図書館には自国で出版された本がすでにたくさん並んでいるせいか、外国からの翻訳作品も必要だということを忘れてしまいがちです。でも、私たちは米国の子どもたちに本を通して、イランや朝鮮半島や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。どの国の子どもたちとも仲良くなってもらうために。人は、自分の友だちが暮らしている国には危害を加えようとは思わなくなるからです」

中国に生まれて日本軍の侵略を体験し、後には日本にも住んだことのあるパターソンは、多様な文化を知ることの重要性を人並み以上に強く感じていたのだろう。

米国は、児童書に占める翻訳作品の点数が非常に少ない(新刊点数の2%くらい)。パターソンは、このままではいずれトランプのような人間が権力の座について大変なことになると当時から思っていたのかもしれない。

この連載では、子どもにとっていちばんの環境である家族を取り上げた絵本や児童文学を紹介し、昨今の作品がステレオタイプから離れた新たな家族像をどう描いてきたかを見ていきたい。近年のファンタジーの中にもたとえば「ライラの冒険シリーズ」(フィリップ・プルマン)のライラの家族のように、従来型の家族像とはまったく違う(もっと言えば家族とは思えない)家族が登場する作品もあるが、ここでは主にリアリズムの作品を取り上げて考えてみたい。ただし、取り上げるのはメッセージが前面に出ている作品ではなく、文学的にも評価されている作品としたい。

 

理想の家族像?

ローラ・インガルス・ワイルダーが『大きな森の小さな家』をはじめとする自伝的シリーズの中で描いたような家族が理想だと考えている人は、日本にも結構いる。父親は外敵から家族を守りつつ土地を開墾して家を建て、母親は家事育児にいそしみ、一家の主が決めた計画に内心では不服だとしても従う。子どもたちは助け合い、親の言うことを基本的には守り、ほぼ自給自足の生活の中で家族が強い絆で結ばれている――そんな家族だ。

『大きな森の小さな家』表紙
『大きな森の小さな家』恩地三保子訳 福音館書店

ワイルダーは60歳を過ぎてから、作家の娘ローズに勧められて書き始めたので、なつかしい日々を思いだして懐古的に語っている。そのおかげで、苦労も楽しい思い出話になっているように私には思える。

それはそれとして、今も、ローラの家族のようなかたちは可能かというと、それはなかなか難しいのではないだろうか。アメリカで西部開拓時代に安住の地を求めて移動していく人たちには、外に野生動物や先住民などの脅威があった。そして、子どもがさまざまなメディアに触れる機会もないため、生活面だけでなく情報面でも子どもは親に頼るしかなかった。親という窓を通して世の中を見ていたのである。また、子どもは、すぐれた生活の技術をもつ親を間近に見て尊敬の念を抱いていた。同じような条件下にない現代社会で、このような家族のありようは難しいと言わざるをえないだろう。今、必要なのはもっと違う家族像だと私は感じている。

 

『のっぼのサラ」と非血縁の家族

パトリシア・マクラクラン『のっぽのサラ』表紙私が新たな家族像を描いているとして最初に感銘を受けた児童文学作品は、パトリシア・マクラクランのニューベリー賞受賞作『のっぼのサラ』(原書 1985/金原瑞人訳 福武書店 1987、徳間書店 2003)だった。母親が病死して父親と一緒に暮らす子どもたちが、継母(候補)のサラと心を通わせていく物語である。語り手である姉のアンナと弟のケイレブは、母親が死去して以来、家庭に歌がなくなってしまったと感じている。農業を営む父親が新聞に後妻募集の広告を出す(これは米国ではよくあることらしく、ほかの児童文学にも登場する)と、サラという女性が応募してくる。サラは、メイン州の海辺で兄と暮らしていたのだが、兄が結婚することになったので、その家を出る必要が出てきたのだ。手紙のやりとりの後サラが一家に会いにくることになり、二人の子どもたちは胸をおどらせると同時に気をもむ。

継母というのは、昔話では悪役を演じることが多く、創作作品でも子どもを理解しない存在として描かれることがよくある。しかし、ここでアンナとケイレブが案じているのは、「サラが意地悪だったらどうしよう」ではなく、「サラがここを気に入ってくれなかったらどうしよう」なのである。「継母=意地悪」というステレオタイプは、この物語には存在しない。

もちろん生後すぐに生母が亡くなって思い出を持たないケイレブと、生母の思い出を持っているアンナとでは、サラに対する思いも少し違う。アンナの複雑な思いは、以下のような独自にあらわれている。

パパはなにもいわずに、サラの腰に腕をまわして、だきよせました。パパのあごの下にサラの髪があります。わたしは目をとじました。ふいに、ママとパパがこんなふうに立っていたのを思い出したのです。ママはサラより背が低くて、金色の髪をパパの肩に押しつけていました。そっと目をあけてみると、ママのかわりにサラが立っていました。ケイレブはわたしを見て、にこにこ笑っていました。これ以上うれしい顔はないというくらい、にこにこしていました。(徳間版 p113)

サラは自立心もしっかりと持っていて、馬車の御し方も習ってひとりで町へ出かけていく。子どもたちは、サラが出ていってもう戻らないのではないかと本気で心配する。しかし夜になって戻ってきたサラは、「いつだって前の家は恋しいけど、あなたたちに会えないほうが、もっとさびしい」と言って、この一家との結びつきを強めていくのだ。

 

『タトゥーママ』に見るダメ親

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙『のっぽのサラ』は、血がつながっていない親と子どもが心を通わせて親子の結びつきを深めていく物語だが、その一方で血のつながった親が親としての役割を果たせない姿を描いた作品もある。ダメ親に対する保護者役としての子どもが児童文学に登場するのは、もちろん近年になってからである。英国でチルドレンズ・ローリエト(児童書のすぐれた作家に授与される称号。子どもの本の普及のためにも働く)を務めたジャクリーン・ウィルソンは『タトゥ―ママ』(原書 1999/小竹由美子訳 偕成社 2004)でガーディアン賞を受賞した。この作品に登場する母親マリゴールドは、精神不安定で、生活保護のお金が入るとすぐタトゥー屋にとんでいって自分の体にタトゥーを入れてしまう。語り手の10歳のドルフィンは、異父姉のスターに頼って暮らしている。マリゴールドは、子どもに安心できる居場所もつくってやれないし、衣食住もおろそかにするし、客観的に見ればまったくのダメ親である。しかし著者のウィルソンは、そのマリゴールドがどこかいとおしい存在であるという描き方をしている。それは、ダメ親ではあっても、マリゴールドの愛を子どもたちが疑っていないからだろう。

 

子どもでいる時間

ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳

同じく英国の女性作家ジル・ルイスの『紅のトキの空』(原書 2014/さくまゆみこ訳 評論社2016)にも、母親と弟に対して保護者の役割をけんめいに果たそうとしている少女が登場する。12歳のスカーレットは、精神的に不安定な母親のようすを見つつ、アスペルガーの異父弟レッドの世話もしなくてはならない。スカーレットはそれを苦痛に思うのではなく、自分がしっかりしないと愛する家族がばらばらになってしまうと危惧して頑張っている。著者のルイスは、このことを美談に終わらせず、子どもには子どもでいる時間が必要だという視点から物語を進めていき、最後にはなかなかすばらしい解決策を用意している。

 

 

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年5月号掲載)

 

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田島征三『つかまえた』表紙

つかまえた

『つかまえた』をおすすめします。

川でやっと大きな魚をつかまえた少年が、しばらくしてその魚が死にかけているのに気づき、今度はその魚を生かそうと奮闘する姿を描いた絵本。少年の心の動きや、少年と魚の命が呼応する様が生き生きと表現されている。

「手の中で ぬるぬる/にぎると ぐりぐり/いのちが あばれる」といった実感を伴う言葉と、ぐいぐい勢いよく描かれた絵とがあいまって、この少年と魚の命の輝きが伝わってくる。昔の子どもが日常の暮らしの中で体験したことを、今の子どもはすぐれた絵本でまず体験してみることも必要なのかもしれない。

生と死や命といったテーマを、抽象的な概念ではなく、子どもにも共感できる具体的なものとして提示しているのがすばらしい。

(産経新聞「産経児童出版文化賞:美術賞講評」2021年5月5日掲載)

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『やとのいえ』表紙

やとのいえ

『やとのいえ』をおすすめします。

多摩丘陵の谷戸に建てられた一軒のかやぶき屋根の農家と、その周辺の環境の変化を見つめた絵本。1868年から約150年間の変遷を、ていねいな絵とわかりやすい文章で表現している。最初は、この農家の周辺は雑木林や畑や田んぼで、人々は農業や炭焼き、養蚕やカゴ作りなどをして暮らしている。子どもたちは空き地や川で遊び、家畜ばかりでなく野生の生き物とも触れあっている。ところが、1970年代に入ると開発の波が押し寄せ、あっという間に森林が伐採され、舗装道路や団地や分譲住宅ができ、鉄道やモノレールが通る。やがて古くなったこの農家も壊されて、瓦屋根の住宅に建て替えられる。

環境の変化の歴史と同時に、季節ごとの農作業、婚礼や葬儀、お祭りなども描かれ、その時々の人々の暮らしぶりもわかる。変化していくものとは対照的に、この家の庭の隅にはずっと変わらず石造りの十六羅漢さんが置かれているのもおもしろい。

巻末にはそれぞれの場面に描かれているものについての詳細な説明があり、絵と対比しながら読むとまた新たな発見がある。

(産経新聞「産経児童出版文化賞:大賞講評」2021年5月5日掲載)

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『この世界からサイがいなくなってしまう』表紙

この世界からサイがいなくなってしまう〜アフリカでサイを守る人たち

『この世界からサイがいなくなってしまう〜アフリカでサイを守る人たち』をおすすめします。

私はケニアの自然公園で、銃を持ったレンジャーがサイのグループから少し距離を保ってついて回っているのを見たことがある。密猟で角がねらわれるサイは、あと20年で絶滅してしまうかもしれないという。だから守る方も必死なのだ。本書は、南アフリカの人々がどんなふうにサイを保護しようとしているか、孤児になったサイの子どもたちをどう育てているか、なぜ密猟者がはびこるのか、女性だけのレンジャー隊の活躍ぶりなどを、生き生きとした文章でわかりやすく伝え、地球は人間だけのものではないこと、さまざまな種が支え合って生きていることに目を向けさせてくれる。アフリカを知るうえでも、おもしろく読めるノンフィクション。
小学4年生から。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年8月28日掲載)

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スズキコージ『?あつさのせい?』表紙

?あつさのせい?

『?あつさのせい?』をおすすめします。

ここは、暑い盛りの動物の町。暑いと頭がきちんと働かないので、うっかりもぼんやりもしょっちゅう起こる。馬は駅のベンチに帽子を忘れ、その帽子を拾ったキツネは駅のトイレにかごを忘れ、そのかごを拾ったブタは銭湯でシャンプーを忘れ・・・と連鎖はずっと続いていく。暑さに負けていない力強い絵が、動物たちそれぞれのクスッと笑えるユーモラスな姿を伝えている。
5歳から。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年7月31日掲載)

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『月にトンジル』表紙

月にトンジル

『月にトンジル』をおすすめします。

小6の徹は幼稚園から仲良しの4人グループ「テツヨン」は永遠だと信じていた。ところが、いつも明るい大樹の引っ越しを機に関係がぎくしゃくし始める。テツヨンは解散か? 徹は悩む。けれどもやがて、成長には苦さもついて回ること、人には表に見せない面もあることに気づき、徹も自分の一歩を踏み出す。徹の祖父の言葉から取った書名の意味は、本を読むとわかるよ。
小学校高学年から。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年7月31日掲載)

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『帰れ野生のロボット』表紙

帰れ 野生のロボット

『帰れ 野生のロボット』をおすすめします。

ロボットのロズは、無人島までやってきた追っ手に破壊されて人間社会に連行され、工場で修理される。その後ロズは普通のロボットを装って農場で働きながら、仲間の野生動物たちのもとへ帰るチャンスをうかがう。人間の子どもたちや養子のガンにも助けられてなんとか農場を脱出してからも、次々と困難に襲われる。ロズは無人島に帰れるのか? 擬人化されたロボットの冒険譚としておもしろく、近未来の人間についても考えさせられる。『野生のロボット』の続篇だが、これ1冊でもじゅうぶん楽しめる。
小学校中学年から。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年6月26日掲載)

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『ヴォドニークの水の館』表紙

ヴォドニークの水の館 〜チェコのむかしばなし

『ヴォドニークの水の館』をおすすめします。

チェコ語の翻訳者が再話し、スロバキア在住の画家が絵をつけた昔話絵本。貧しさに希望を失って川に身を投げようとした娘が水の魔物ヴォドニークにさらわれ、水中の館を掃除することになる。娘はやがて、館にたくさんあるつぼの中に溺れた人たちの魂がとらわれていることに気づき、その魂をすべて解放し、自分も逃げて地上にもどる。女の子の冒険物語としても楽しめるし、緑色でカッパにも似たヴォドニークが不思議で、いろいろ工夫のある幻想的な絵もすばらしい。
小学校低学年から

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年4月24日掲載)

チェコ語の翻訳者が再話し、スロバキア在住の画家が絵をつけた昔話絵本。貧しさのあまり身投げしようとした娘が、ヴォドニークという水の魔物にさらわれて水中の館で働かされる。娘はやがて館を脱出し、囚われていた他の魂も解放して生の世界に帰っていく。生と死と再生の物語ともとれるこの絵本では、窓からのぞく娘の目の前を魚が泳いでいる表紙がまず読者の目を引くが、絵は場面展開の仕方も周到に考えられ、娘の姿も、水中の館にいるときは静、行動を起こして陸に上がるときは動と、描き分けられている。
視点や色彩の変化の付け方、チェコらしい刺繍の服やつぼの模様といった細部にも十分に目配りがされ、昔話の世界を見事に伝えている。

(産経児童出版文化賞/美術賞選評 産経新聞2022年05月05日掲載)

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『きみのいた森で』表紙

きみのいた森で

『きみのいた森で』をおすすめします。

親しかった祖父を亡くした孤独な少年スチューイは、最近引っ越して来た同い年の少女エリーと仲良くなり、よく森の中の秘密の場所で話をするようになる。2人ともお気に入りのその場所では、時々不思議な現象が起こるのだが、ある日スチューイの目の前でエリーの姿が薄れ、ふっと消えてしまう。一方エリーの世界からはスチューイが消えていた。なぜそんなことになったのか? 分離した世界を元に戻すにはどうしたらいいのか? 謎にひかれてどんどん読めるミステリー。
小学校高学年から。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年3月27日掲載)

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2021年07月 テーマ:いろんな家族のかたち

日付 2021年07月20日(オンライン)
参加者 ネズミ、ハル、虎杖、ルパン、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、コアラ、しじみ71個分、さららん、カピパラ、ニャニャンガ、マリンゴ、雪割草、ヒトデ、まめじか、(鏡文字)
テーマ いろんな家族のかたち

読んだ本:

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岩瀬成子『おとうさんのかお』表紙

おとうさんのかお

マリンゴ: 自分の子どもの頃の記憶が引っ張り出されるような作品でした。小さいことの連続なのですが、環境になじめなかったり、期待して裏切られた気になったり、想像をふくらませて変なことやったり、年の近い子と、いわゆる仲良しこよしじゃないけれど、独特の関係を持ったり、そんなことを思い出させてくれるような、生活感のある物語だと思いました。小学生の子が「あのねあのね」と言ってきて、その話を聞いているような感覚ですね。ストーリーはじきに忘れてしまうだろうけれど、また読み返したくなる気がしています。

ニャニャンガ:ほんものの小学3年生の子どもが書いた作文のように感じながら読みました。主人公の利里の視点で描かれているので、そのまま受け止めようと思ったものの、雪ちゃんの友だちが石で、その石に書いたのがマジックではなく絵の具でなければならない理由を知りたかったです。また、母子家庭という設定から背景を考えていたのですが、よい友だちとして終わったので、勘ぐりすぎでした。余談ですが、娘(成人です)に概要を伝えて主人公の年齢を聞いたところ小学3年生と答えたので、中学年のありようを的確にとらえる作者はすごいと思いました。

カピバラ:小3から小4くらいの女子を主人公にしているのがこのところあまりなかったのでそこがまずおもしろかったです。この年代の女子は、自分で結構いろんなことを考える力があるし、大人の言動に敏感なところがありますよね。お父さんは、突然やってきた娘を楽しませようと、無理して仕事を調整して、アスレチック公園や花見に連れていこうとしたり、本を買ってくれたりするけれど、利里はお父さんの思い通りには楽しめないんですね。それどころかお父さんときたら、留守中に部屋を片づけてあげたのに気づかないし、「本はね、さいごまで読まなきゃだめだよ。集中力と根気をやしなうことはだいじだよ」(p44)とか、「おいおい、きょうだいなかよくしなきゃだめだよ」(p44)、「花を見たらきれいだなあって思える心がそだってくれればなって、おとうさんは思うんだよ」(p67)とか、つまらないことしか言わず、利理の気持ちとは随分ずれているのが、よくありそうな感じで、おもしろいと思いました。公園で偶然出会った雪は石に顔を書いて友だちにしている変わった子ですが、利里とはすぐに仲良くなります。随分大人っぽい考え方もするのに、石の人形が本当に生きているみたいに感じて夢中で遊ぶところは、とても子どもらしい。小3でも、まだごっこ遊びを真剣にやったりするので、そういったギャップもよく描けています。ナイーブで傷つきやすいところもあるけれど、ちょっとしたことで気分が変わり、楽しく過ごすこともできる、そんな年頃の主人公が生き生きと感じられました。特に大きな出来事もないし、結末らしい結末もないのですが、日常の細かいところを淡々と描いて共感を得るタイプの作品で、岩瀬さんらしい世界観だと思いました。

雪割草:お父さんが前半うるさくて主人公の気持ちに共感でき、お父さんの描き方がある意味上手だと思いました。お父さんの睨んだような顔を描き直しておどけた感じにすると、お父さんが後半良いところもある感じがしてきて、切り返しがうまいなとも思いました。こういうちょっとしたことが日常に影響を与えたり、自分が変わることで何かできたりすることはあるのだろうなと改めて思いました。

さららん:利里の気持ちになりきって読み終えました。すこーしいろんなことがわかってきて、大人のイヤなところが気になる子どもの目線から見えるお父さんを、実に的確に描いています。たとえば単身赴任の自分の家に泊まりにきた利里に、お父さんこう言います。「・・・会社を休まなきゃいけなくなっただろ。それは会社のほかの人にめいわくをかけることにもなるんだよ。そういうことも、だんだんわかるようにならなきゃだめだ」(p46-47)。利里が泊まることを許した時点で、お父さんは腹をくくらなきゃいけないのに・・・子どもへの甘えを感じます。「利里はこうならなくちゃだめだ」と言える親の立場を使って、子どもに理解を強要しているようです。そんなおかしなことをしている大人に、利里は「しーらない」といえる子で、ほんとによかった。利里は正しい、と思いました。大人って変だな、と思いはじめた利里と同じ世代の読者は、うんうん!と思うでしょう。大人と子どもが少し視点を変えあうことで、お互いが違って見える。そんなテーマと、雪ちゃんという友だちの存在もしっかり結びついています。子育てに関して近視眼的だったお父さんが、かつて自分の言った言葉を、利里の口から聞くことで、自分が何を考えていたかふたたび気づかされる、という結末も、大人と子どもの関係の相互性がくっきり浮かび上がっていて、いいなと思いました。

ネズミ:おもしろかったです。子どものころ私は、日本の児童文学を読むと、「うそ」「こんな楽しいことばかりのわけがない」と思うことが多かったのですが、この作品ならリアルに感じただろうと思います。カバー袖に、(お父さんが)「やたらと口うるさくて、うんざりしてくる」と書いているのですが、本文で利里は、肩に手をのせられたとき「わたしはその手をはらいのけました」「ふーんだ、とわたしは思いました」「あーあ、と思いました」などと言うだけで、「うんざり」とは言っていないんですね。あいまいなまま描いてあるのを、こんなふうにまとめるのはどうかなと思いました。何もかもいいことばかりじゃないけれど家族は家族でいいこともある、と自然に思わせてくれる作品で、いいなあと思いました。

虎杖:岩瀬さんの作品はとても好きなのですが、描くのに難しい年頃の子どもたちのことを、こんなふうに生き生きと、リアルに描けるなんてすばらしいと思いました。単にあたたかいとか、ほのぼのとした物語というのではなく、岩瀬さんの作品には、なんというか頭の上がすうすうしているような寂しさというか、奥深いものを感じています。特に利里ちゃんと雪ちゃんが公園で初めて出会うときの会話がいいですね。子どもっぽいところが十分に残っているのに、自分ではまったくそう思っていない年頃の理屈とか感情がよく描かれていると思いました。雪ちゃんが石ころを集めて、友だちにしているっていうのも。子どもに石ころは付き物って、私は思っているんだけど! お父さんについては、私はそれほど嫌な感じは持ちませんでした。いいお父さんになりたくって、悪戦苦闘しているっていうか、じたばたしているっていうか。最後に、自分が言ったのに忘れていた言葉を娘に言われて、ふたりの気持ちが通じ合う場面もいいですね。「子どもは大人の父である」という、ワーズワースの詩を思いだしました。

まめじか:親という存在を1歩離れたところでとらえはじめるのが、10歳くらいなのではないかと思います。そうしたことを考えると、父親の絵をなかなかうまく描けず、その後部屋に貼った絵がにらんでいるように感じるのは象徴的だと思いました。この本の主人公は父親と離れて暮らしていることもあり、なんとなくお互いぎこちなくなってしまっているのですが、そんな2人があらためて関係を結びなおす過程がたくみに描かれています。利里が部屋を掃除したことには気づかないくせに、「利里にはよく気がつく人になってもらいたい」と言ったり、かわいらしい絵本を押しつけてきたりする父親には、大人の身勝手さがよく表れています。この子は昔、自転車の練習中に「遠くを見ろ」とお父さんから言われたことをふと思い出します。そんなふうに、大人が子どもを支えるようなことを何気なく言って、それがずっと子どもの頭の片隅に残っているのもリアリティがあると思いました。石に顔を描くのはユニークでいいですねえ。石の友だちをつくるのも、父親の絵を描くのも、自分が感じたこと、考えたことを大切にすることでは。そして利里はその価値を知っていくのですよね。

アンヌ:内容紹介に「不器用な父と娘の愛情物語」と書いてあったんですが、どうも父親の勝手な思い入れとか押し付けとかが気になってしまいました。お兄ちゃんが好きそうなアスレチックに連れて行こうとしたり、女の子はこういうものと思い込んでいるような本を買ったり、洗濯物を入れるくらい気を利かしてほしいと言ったり、一緒に暮らしているのに娘のことを全然見ていない。あげくに、桜の花の美しさのわかる人間になれとか。ここまで書かれると最後の「どこまでも考えつづける」とかの長いセリフを素直に受け取ることはできなくなってしまいます。主人公の利里の話はおもしろいのになあと残念に思いました。

ハリネズミ:岩瀬さんの本はどれも好きで、日本からの今の国際アンデルセン賞候補にもなっておいでなのですが、この本、外国語に翻訳するの、きっと難しいですね。この子の心情にぴったり寄り添って訳していくのには、相当な腕前が必要かと思います。それに、物語の焦点がどこにあるのかも、わかりにくいし。岩瀬さんの作品は1+1=2といった式からはずれたりこぼれたりする繊細な部分がおもしろいと思うので。お父さんと娘の利里ちゃんの間には気持ちの行き違いがあって、それが徐々にほどけていく様子が描かれています。昔、自転車の乗り方を教えてくれたときのお父さんの言葉が、ほどけていくきっかけになるんですけど、「目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ」とか、「利里、遠くまで行くんだよ」「おとうさんも、遠くまで行きたいと思うよ」なんていう言葉ですね。利里がそれを思い出し、お父さんもその時の気持ちを思い出して、ああ、忘れてたなあと思ってそこから関係が変わっていく。ここは、うまいと思ったし、いいなあと思いました。ただ、p92あたりで、お父さんが道徳の教科書のようなことを言っているのは、どうなんでしょうか? 教育ママらしい母親をもつ雪ちゃんは、将来何になりたいかと聞かれて、「郵便局強盗」と言います。雪ちゃんが石をイマジナリーフレンドにして遊んでいるのも、即物的な世界を押しつけてくる母親に無意識のうちに抵抗しているのかもしれないですね。それと、オビに「近づきすぎると見えなくなる」って書いてあるんですけど、これはいいんでしょうか? 本質をとりこぼして的を射てないような気がしますが。あと、表紙ももう少しなんとかならなかったでしょうか?

ハル:お父さんの長台詞は、もしかしたらお父さんが、ここでもズレてる、ってことを表しているのかなと思いました(笑)。素直に読むべきか、おもしろがってしまっていいのか、ちょっと迷います。

まめじか:やっぱりちょっと口うるさくて、言うことが教訓くさい。急に変わらないところもリアルだなと。

ハル:はじめて岩瀬成子さんの作品を読んだときは、好きだなぁと思いながら、でも、読者は子どもじゃなくて、児童文学が好きな大人かな? なんて思っていました。もしその時の私がこの本のオビ文を書いたら、こういう感じになっていたと思います。でも、岩瀬さんの作品は、読めば読むほど、主人公と同じ年齢くらいの小さい人たちにこそ、ぜひ読んでほしいと思うようになりました。今回の『おとうさんのかお』も、わかるー!!! というくらい、思い出の中の自分との共感が半端ないです。作者はどうしてこんなに鮮明に覚えているの⁉ と驚いてしまうくらいです。このお父さんと利里のすれ違い、お父さんにそんなこと言ってほしいんじゃないんだよな、とか、そうじゃないんだけどなっていらいらする気持ちが、私もそうだった‼ と、ほんとはそんな経験なんてなかったとしても錯覚してしまうほどリアルに響きます。お父さんと娘なんて、もうまったくすれ違っているようなんだけど、ラストで、お父さんは自分が過去に娘に言った言葉に、自分ではげまされて、ふっと肩の力がぬける。娘もお父さんの言葉やそのときの思い出にふっと心がやわらぐ。とてもいいラストですね。何が大きく変わるわけではないけれど、家族ってこんなふうに近づいたり離れたりしながら、子どもも大人も成長していくんだなぁと思いました。

コアラ:お父さんと利里の会話が、大人と子どもの立場を本当によく表しているなあと、どちらの気持ちもよく分かって、おもしろかったです。皆さんもおっしゃっていましたが、p42からの「しーらない」の章は、お父さんは大人の立場でものを言っているし、利里は子どもの立場で考えていて、それがよく表れていました。私が特に好きだったのは、p46の利里の「おにいちゃんがわるいの」というセリブでした。私には姉がいて、よく「おねえちゃんががわるいの」と言っていたので、利里にすごく共感しました。あと、p90あたりもいいなと思った場面です。子どもは、親の言ったことを後々までよく覚えていて、親にそれを伝えることで、親も昔の自分を思い出すことができる。そういうのっていいなと思いました。ただ、この本で一番気になったのは、カギカッコが字下げになっていないことです。字下げされていない、ということでは統一されているんですが、たとえば、p9の1行アキの後の、「木にのぼっちゃいけないのよ」とか「ほら、ここに書いてあるでしょ」というところのカギカッコが字下げされていなくて、とても違和感がありました。字下げしていないのはどうしてなのかなと気になりました。

ルパン:私はこの本は、あんまり印象に残らなかったんです。岩瀬成子さんに期待しすぎたのかもしれないし、大人目線で読んでしまったからかもしれません。はじめ、雪ちゃんがリアルじゃないって思っていました。おばけか宇宙人か何か異世界の子だって。ふつうに隣の子でしたね。私も石ではないけれど何かに名まえつけてかわいがってたり、心の中で自転車とかと話したりしていましたが、そのことを人には言わなかったなあ。雪ちゃんと利里は初対面の日からうまく共有できてよかったな、と思いました。

しじみ71個分:読み終わって、本当に「岩瀬さんになりたい!」って思いました。この家族の中には、誰も変わった人がいなくて、お父さんが単身赴任しているっていう事情だけで、どうしてこんな物語を書けるんだろうって、もう本当に衝撃です。お父さんが単身赴任で離れて暮らしていることから、お父さんとほかの家族との間にちょっとしたずれが生じたり、かみあわなくなったりする。子どもの期待と現実のずれが生じてしまうのだけれど、同時に、自転車の練習のエピソードを思い出して「遠くを見る」ことについて語りあったり、ちょっとした宝物のような瞬間も見つけたり。だけど、きっとそれもまた、日常に埋もれたり、見えなくなったりするのだろう、という家族の間の機微が、子どもの気持ちに立って、子どもの視点から非常にリアルに書けているのがすごいです。3月のJBBYの講演のときに「子どものときのことをおぼえている」って岩瀬さんがおっしゃっていたのが印象的でしたが、それがこんな表現になるんだなぁと改めて思い知ったというか、衝撃的でした。最後の最後で「おとうさんのところに行ってよかったなと思いました」なんて、本当に絵日記の終わりみたいにサクッと落としちゃうんだというのも「ヤラレタ!」という感じでした。本当におもしろかったです。

エーデルワイス:単身赴任中の普通のお父さんと娘の一コマ。大きな事件はないけれどその時々で思うこと、モヤモヤを描いているようです。幼い子どもでも普段から家族以外の誰かに心のうちを話せたらいいと思います。私の文庫に1年生から来ている女の子がいて、よくいろんなことを話していましたが4年生なってあまり話さなくなりました。いろいろな日常があって、思うことを話して、そして少しずつ大人になっていくのかな・・・と思いました。

ヒトデ:子どもの心情の描き方の巧みさが、さすが岩瀬さん、というべき作品でした。子どものころに感じたいろいろな心情、おとなになるにつれて忘れてしまうあれこれを、思い出してしまうような、そんな作品でした。お父さんが、どうしても好きになれないキャラクターだったので、最後の「自転車のエピソード」で、いい感じにまとめなくてもいいのにな・・・という気がしました。表紙は、これがベストだったのかは、やや疑問です。

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鏡文字(メール参加):岩瀬さんの作品を読んでいつもすごいなと思うのは、語りの目の位置です。作家というのはおおむね大人なので、どうしても目の位置が上にある状態で書いていると感じる(善し悪しではなく)のですが、岩瀬さんは子どもとフラットだな、と感じることが多いです。この作品もそうで、なかなかこういうふうには書けないと思います。それはキャラ設定(こういう言い方が岩瀬作品には馴染まないのですが)でもそうで、利里のある意味利己的な感じがおもしろかったです。少しの変化は描かれているのですが、家族との間でも疎通が深まったりしているわけでもないところがリアルでした。私の感覚としては、もうすぐ4年生という年齢の割に、少女たちは幼く感じました。(おまけ)挿絵で見る利里の絵は初めからうまいなあと思いました(画家さんが描いているからある意味当たり前ですが…)

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『スーパー・ノヴァ』表紙

スーパー・ノヴァ

まめじか:本当に好きな本です。いい本をいい訳で読める幸せを感じました。周囲からなかなか理解されない状況が、酸素がなくて息苦しく、静謐で孤独な宇宙空間に重ねられています。里親の家から脱出したい気持ちがチャレンジャー号の打ち上げにつなげられていたり、ノヴァが母親のもとから連れ出されるとき心の中でカウントダウンをしたり、そうした描写もうまいな、と。この本の大きな魅力の1つは、一貫してノヴァの視点で描かれていることです。感覚が鋭いノヴァが抱えている生きづらさ、妙を得たあだ名をつけるような聡明さも十分に伝わってきました。ブリジットがいない中で自分は楽しいと思っていいのか、新しい家族と幸せになっていいのか悩むなど、ノヴァが胸の内で感じていることには普遍性があり、多くの人が共感できるのでは。1か所、p77の「色のときとおなじことをするから」で、「色のとき」というのがなにを指しているのか、わかりませんでした。

虎杖:とてもおもしろく読みました。三人称とモノローグが交互に出てくる構成が、秀逸ですね。それにしても、これだけの知性の持ち主である主人公が、自分の思いを周囲に伝えられない悲しさと悔しさは、想像を絶すると思いました。帰ってこないブリジットと、宇宙船の打ち上げの日が刻々と迫るスリリングな展開も素晴らしい。チャレンジャー号のことは、アメリカの子どもたちはよく知っていると思うけれど、日本の読者はどんなふうに読んでいくのか、ぜひとも知りたいと思いました。表紙は、私は好きです。違う表紙だったら、本全体の印象がずいぶん違ってくるでしょうね。

ネズミ:とてもおもしろかったです。虎杖さんがおっしゃるように、三人称とモノローグを組み合わせた構成がみごとだと思いました。モノローグの部分が、実は落書きのようにしか見えない字で書かれているというのが途中でわかって、衝撃を受けました。ほかの人には見えない豊かな内面の見せ方がうまい。一方で、読者を選ぶというのか、ある程度読書慣れしている子どもでないと読みにくいかなという気もしました。表紙のかわいらしさにひかれて手にとるとギャップがありそう。アメリカの子どもにとっては、宇宙開発とかチャレンジャーなどに親近感を持つのかもしれませんが、日本の子どもだとそれほどでもないのかなというのもあって、間に立つ図書館員などがうまく手渡してほしいです。

さららん:冒頭からブリジットの不在を知らされて、なにか大変なことが起きているのがわかりましたが、ノヴァの里親のあたたかさが救いとなり、安心して読み進められました。チャレンジャーのカウントダウンへまっすぐに向かう現実の時間と、三人称の過去の描写、ノヴァの手紙を通して思い出を語る部分がうまく絡まりあっているのは、回想への入り方が巧みだからでしょう。ノヴァは「考える」子どもで、手紙には整理された文章が書かれています。けれども、ほかの人の目にはただの落書きにしか見えない、という状況はすごくおもしろいフィクションの作り方ですが、理解するには相当の読解力が必要です。p254~256はゴシック体なので、ブリジットへの手紙という前提ですが、実際には現実の緊迫する時間を書いているので、ここは普通の書体で地の文にしてもよかったのでは、と思いました。

雪割草:とてもいい作品だなと思いました。言葉によらないコミュニケーションの深みを感じることができました。「ムン」という言葉1つをとってもいろんな意味があり、この言葉の響きも気に入ってしまいました。ノヴァというキャラクターも、ユーモアがあり想像力もあり、親しみがもてました。それから作者のモチーフの使い方も上手だと思いました。宇宙への1歩と里親からの脱出、チェレンジャーの事故とブリジットの事故、それでも諦めない宇宙計画と生き続けるノヴァ。生還し、スーパー・ノヴァからノヴァとして生き続ける描き方も巧みだと思いました。少し気になった点としては、後半の展開が早く感じられ、前半とテンポに差があるかなというのと、原書のタイトルがデヴィット・ボウイの歌詞から引用していると思うのですが、‘planet earth is blue’の後に続く言葉の、人間の限界を示唆する含みが、タイトルを変えることで消えてしまわないかということです。答えは出ていないのですが考えています。

カピバラ:同じ訳者による『ピーティ』(ベン・マイケルセン作 鈴木出版)を思い出しました。脳性麻痺で重度の知的障碍と他者から思われている主人公の豊かな内面世界を描いた作品です。『スーパー・ノヴァ』も、ノヴァの一人称部分を読むことによって、自閉症といわれる人たちがどんな世界にいるのかについて理解を深められる本でした。言葉がわからないと思われて、簡単な言葉をゆっくり話しかけられたり、幼児向けの絵本を使われたりすることの辛さ。字が読めるし、書けるのに、理解されない辛さ。パニックを起こすことを、フランシーンは「メルトダウン」と表現していますが、どうしてそういう状態になるのか、ノヴァの一人称部分を読むとよくわかりました。父も母も亡くし、ついには最愛の姉まで亡くしたことが最後にわかるのはとても辛いですが、里親のビリーとフランシーンの愛情のこもった態度に救われます。特に娘のジョーニーは、今後ノヴァにとってブリジットの穴を埋めてくれる存在になるだろうという希望がもててホッとしました。またこの作品はやはり時代性が色濃く、チャレンジャーの打ち上げや、デビット・ボウイの歌や、ドクター・スースの絵本など、80年代の雰囲気が出ています。障碍者への理解やソーシャルワーカーの姿勢が、今から見るとずいぶん遅れているのもこの時代だからこそと思います。その点、今の日本の子どもたちには最初のうちピンとこないのではないかなと、ちょっと心配しました。タイトルと表紙の絵からイメージしていたのとは全く違う内容でした。

ニャニャンガ:自閉症の人たちのことが自然にわかる良本だと思います。ノヴァをいとおしく感じ、感情移入して読みました。里親家族がいい人たちで、本当によかったです。スペースシャトル・チャレンジャー号の発射のカウントダウンとともに、ブリジットがノヴァの前から姿を消した理由にたどりつくまでを、読者が予想しながら読み進めるのがつらいです。私はあまりにつらくて結末を先に読んでしまいました。子どもがどのように読むのか知りたいです。とくに好きな場面は、p240から241にかけての、ノヴァが自分から同じクラスのマーゴットの手をにぎる場面で、ノヴァがさらにいとおしくなりました。

マリンゴ: 障害をもつ子のお話は、何かができるようになっていく、あるいはできることを周りが気づいていくという物語が多いと思います。でも、この作品は真逆で、何かを失うことを自覚する場面がクライマックスになっています。そのため、とてもひりひりするけれど、引き込まれました。チャレンジャーの事故の当日、主人公が「姉ブリジットはもういない」と気づく、という構成なのだろうと予想はできます。でも、打ち上げまでのカウントダウン、という形でストーリーが進んでいくので、緊張感がありました。日本の小学生の場合、チャレンジャーのことを知らない子も多いですよね。そうすると、事故の描写のところで、え?と驚いて、史実を調べたりするのかな、と思いました。

コアラ:私は大泣きしました。p179の、ノヴァがブリジットのカードを胸に抱いてふるえるところとか、ノヴァは自分の感情を言葉にして出すことができないから、体にあらわれるんですよね。読んでいて本当に胸にせまってきて、ブリジットがいなくなってノヴァがどんなにつらいだろうと、涙が止まりませんでした。ノヴァがブリジットの十字架のところに行く場面のp286も、涙なしでは読めませんでした。この本を読み始めるときに、カバーの袖の部分を読んだのですが、「スペースシャトル・チャレンジャーの打ち上げを心待ちにしていた」とあって、私も皆さんと同じように、チャレンジャーの爆発事故のことを覚えていたので、この本のどこかで悲劇が起こる、ということが初めから分かっていた状態で、読んでいてずっと気持ちが重かったんです。それに、タイトルが「スーパー・ノヴァ」なので、この子が超新星のように爆発するんじゃないかと、本当に心配していたのですが、この子は生き延びて、いい家族にも巡り合ったので、それだけはホッとしました。チャレンジャーの事故を知らない今の子どもが読んだら、また別の読み方をするかもしれません。あとがきを読むと、著者はアスペルガー症候群かもしれないと診断されたということですが、ノヴァの圧倒的な存在感というかリアリティは、当事者としての感覚からくるのかもしれないと思いました。自閉症スペクトラム障碍のことを知る上でも、いろんな人に読んでもらいたいです。

ハル:この本の好きなところ、心に残ったところはたくさんありますが、ひとつは表現力です。ノヴァが初めてプラネタリウムを見たときの感動や、初めて想像の宇宙に飛び出した、その平穏な世界、安心感が、真正面から迫ってくる感じ。ノヴァの空想の宇宙の真ん中に自分がいるような、表現がサラウンドで迫ってくるような感覚がありました。これは、原文はもちろん、きっと翻訳の力もとても大きいのだと思います。そして、自閉症(だと思いますが)や障碍のある子のことをもっと知りたいと思わせてくれるところも良い点ですが、私にとっては、里親や養子について考えさせてくれたという点も大きかったです。p108のラスト、ノヴァが姉のブリジットから自分の名前の由来を聞いた場面ですが、「自分がスーパーなんだって知ってからは、もうあんまりこわいものはなかった」という一文が心に残りました。障碍のありなしもどんな家庭に生まれたかも関係なく、人生は何があるかわかりません。突然ひとりぼっちになるかもしれない。けれども、特に子どものころに、特定の誰かに守られ、愛されていた記憶、自分が誰かのスーパーだった記憶があるということは、きっと大きな助けになるんだと思いました。もちろん、施設に携わる方たちは精一杯に子どもたちを見守っているのだと思いますが、やはり、子どもには愛情のある家庭が必要なんだと思うようになりました。

ハリネズミ:著者が自分も広範で多様な感覚障碍と言われていたという体験に重ねて書いているせいか、リアルで、ノヴァに感情移入して読めました。日本でも、今は施設より里親を奨励するようになっていると聞いています。この物語に登場する里親のフランシーンとビリーは白人と黒人のカップルですが、そういう設定もいいですし、その娘のジョーニーもノヴァをあたたかく受け容れてくれる。真剣に理解しようとしてくれる人が少数いるだけでも、ノヴァのような子どもが強くなれるということを示しているのだと思いました。お姉さんのブリジットは、学校の成績もよく、ノヴァやお母さんの世話をし、まわりの偏見と闘い、しかも妹の分まで背負って里親との諍いや、里親への期待や、失望にもてあそばれてきた存在です。それなのに、ろくでなしのボーイフレンドにふらふらと休息の場所を求めてしまったのですが、それはそれでリアルなのかもしれません。先ほどチャレンジャー事故を知らない日本の子どもにとってどうなのか、という疑問も出ましたが、私は、知らなくても読めるのではないかと思います。ノヴァがいろいろな人からお姉さんは亡くなったと聞いても、どうしても現実のこととして向き合うことができない。でも、ノヴァもチャレンジャー事故によって「死」と直面し、人は死ぬ存在だということを受け容れられるようになっていくというストーリーなので、爆発事故をあらかじめ知らなくても、物語にはついていけるんじゃないでしょうか。また先ほどから出ていますが、ノヴァが、スーパーなんだと聞かされて育ったのは自信をもつうえで大きいと思います。でもスーパー・ノヴァだったら超新星爆発を起こして終わるのですが、最後のところで、自分はスーパー・ノヴァじゃなくてノヴァだ、というふうに思うところがあります。そう思って生きのびていくという点も、とてもいいと思いました。それと、チャレンジャーの事故で亡くなった教師の地元では、子どもたちもみんな学校のテレビでリアルタイムの実況を見ていたんだとわかって、子どもたちのショックの大きさが並大抵ではなかったのだと知りました。

アンヌ:この本を読む直前に、脳梗塞で失語症にかかった人の記事を週刊誌で読んでいたので、相手が言う言葉も自分で話したい言葉もわかっているのに、それを話せないノヴァのもどかしさやつらさが、いつ大人の自分にも起こるかもしれなという思いがしてドキドキしながら読みました。ブリジットへの手紙で、これまでの経過とブリジットがいない絶望感がわかっていきます。それでも、特別支援学級での友人や高校生のボランティアとのコミュニュケーションが少しずつ取れていき、最後には、里親にも文字が書けることにも気づいてもらえるようになる。よかったとホッとしたところで、チャレンジャー号の爆発事故が起こり、ブリジットの事故の記憶が同時に蘇るところは圧巻でした。それでも、爆発後も生き残る白色矮星ノヴァという終わり方は静かで詩的で、ノヴァという一人の人間の力を感じられて読み終えることができました。

ヒトデ:はじめは、どうしてデヴィッド・ボウイのこの曲を使ったのかわからなかったのですが、読み進めていくうちに、曲のもつ「よるべなさ」のようなものが、ノヴァの状況とリンクしてきて、物語を象徴する1曲として使われることに、説得力を感じました。物語の最後に光の見える、巧みな作品だと思いました。「チャレンジャー」のエピソードは、おとなの読者でしたら、知っている話ですが、子どもたちは、これをどう読んでいくのか、気になりました。描かれているモチーフが、どれも好きな作品でした。

エーデルワイス:はじめ、映画の「スーパーノヴァ」と同じ話かと思いましたが違いました。表紙の絵と内容がこれまた違いました。読み進めていくうち主人公のノヴァの気持ちがズンズン伝わってきて、息苦しくなりました。最近認知症本人の視点から描いた「ファーザー」を観ましたが、発達障碍をもつ本人から見た世界を描いたのだとすると、映画のシナリオのように読めばよいのかと思いました。ラストはデビッド・ボウイの歌で締めくくられたなら決定的。ノヴァを母親のように守り育てたお姉さんにとても惹かれます。

しじみ71個分:今日は奇しくもアポロの月面着陸の日でしたね。図書館関係でも、欧米では自閉症への意識が高いです。自閉症の子ども専用の図書館利用日を設けるなど、さまざまな自閉症の子たちと本を結ぶ活動をしています。イギリスの司書さんが東田直樹の『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール出版部, 2007)を挙げて自閉症の人の内面がよくわかる本として紹介していたことも印象的でした。それくらい、自閉症の人たちの内面を言語化するのは非常に難しいことなのだろうと思います。それをものすごく丁寧に描きこんでいるところに惹かれました。話せないために重い知的障害があると思われている主人公の葛藤から、おはなし会で、特別支援学校関係者から、2歳くらいの知能だから赤ちゃん絵本を読んでください、と言われた事例を思い出し、ますます悩ましさが深まりました。外見と内面のギャップを周囲の人がどう理解するのか・・・。とても素晴らしい視点を与えてくれた本でした。1つ気になったのは、こういった自閉症やアスペルガー、ディスレクシアなど障碍のある子どもを主人公とする物語の傾向として、外見からは分かりにくかったり、コミュニケーションが取れなかったりするけれど、みんないつも内面が賢くて、理解のある大人の助けを得てさまざまな問題を乗り越えていくというパターンが多いことです。自閉症の場合、重度の知的障碍がある場合ももちろんあると思うし、実際はいろんな子たちがいると思うので、そこはちょっと気になるところです。スーパー・ノヴァについては、ネットの辞書で、大質量の恒星が一生の最後に一気に収縮して大爆発を起こす場合と、主星が伴星から移ってきったガスの重さに耐え切れずに大爆発を起こす場合があると書かれていましたが、ノヴァが影のようにいつも一緒で、頑張り続けたブリジットがはじけてしまい、結果事故死するというストーリーなので、スーパー・ノヴァはブリジット、ノヴァは生き続けるノヴァを象徴しているのかなと思いました。また、ちょっといい加減な引用ですが、スーパー・ノヴァは、爆発した後に水素より重い元素を放出して、それが新しい星の元になるというようなネットの説明もあり、ブリジットの事故がきっかけで、ノヴァが里親と出会い、新しい家族が始まるという結末もスーパー・ノヴァはブリジットを象徴しているようです。通奏低音になっているデヴィッド・ボウイのSpace Oddityの歌詞も不穏じゃないですか。これもブリジットを象徴しているのかなぁとか思ったり。いろいろ考えさせられる要素の多い本でした。

ハリネズミ:ノヴァのお母さんはどうなっているんでしたっけ? 亡くなっているのかもしれないし、施設に入っているのかもしれない。書いてないので、子どもの読者は気になるんじゃないでしょうか。

まめじか:施設にいたら「いたむ」という言葉は使わないから、亡くなっているんじゃないかな。

ハル:私は、お母さんは亡くなっていると思っていました。p85の最後から始まる場面で、ブリジットは里親から「養子にならないか」と言われることを期待しています。もしお母さんが生きていたら、里親と「ほんものの家族」になりたいとは思わなそうですし、アメリカの法律はわかりませんが、お母さんが2人を手放さないんじゃないかなと思います。

ハリネズミ:ああ、たしかに。なるほど。

ニャニャンガ:ところで、この作品は謝辞が長いですが、基本的にすべて訳さないといけないのでしょうか? 大量の個人名は、日本の読者に必要な情報なのかなと思うことがあります。今、訳している作品も謝辞に人名が多いので伺いたくなりました。

ハリネズミ:本によって違うと思います。省いてもいいと著者や原著出版社が言う場合もあるし、契約によってはすべて載せなければいけない場合もあります。

ルパン(遅れて参加):ブリジットがかわいそうでなりませんでした。ノヴァのよき理解者で、優しい心の持ち主なのに。生まれてきた親によって人生がこんなに大きく変わってしまうなんて。ノヴァにはブリジットの分も幸せになってもらいたいです。ブリジットもいっしょにビリーとフランシーンの子どもになれたらよかったのに。「ときには、約束をまもれないこともある」「ときには、宇宙飛行士も星に手がとどかないこともある」ということばに涙が出ました。子どもがみな幸せに過ごせる世界にしていかないと、と思いました。

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ホーキング『宇宙への扉をあけよう』(さくま訳)の表紙

宇宙への扉をあけよう(ホーキング博士の宇宙ノンフィクション)

この本は、これまでに出ていたシリーズ6巻分の科学コラムやエッセイを集めて加筆し、新たなエッセイも加えて作られたものです。このシリーズの本当の最終刊、だと思います。ブラックホールなど最新の画像も入っています。

オビに言葉を寄せてくれた村木風海さんは、小学校4年生のときにおじいさんに『宇宙への秘密の鍵』をもらい、それをきっかけにサイエンティストになったのだそうです。そうか、もうそんなに長いことこのシリーズは続いているのか、と感慨深いものがあります。

原著の細かいところにいろいろ間違いがあり、佐藤先生にうかがいながらチェックしていきました。製本は、本の開きがとてもいいコデックス装になっています。

(編集:松岡由紀さん 装丁:坂川事務所)

 

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『オノモロンボンガ〜アフリカ南部のむかしばなし』(さくま訳)の表紙

オノモロンボンガ〜アフリカ南部のむかしばなし

まだこの世界が若かった頃、動物たちは川のほとりでみんな仲良く暮らしていましたが、やがて飢饉に襲われて食べるものがなくなってしまいます。そんなときカメがおいしい実がたくさんなる木の夢を見て、人間のおばあさんをたずね、その木が本当にあって、木の名前を当てると実をもらえると知り、その名が「オノモロンボンガ」だと聞いて、そこまで歩いて行く決心をします。途中で出会ったさまざまな動物がカメより自分のほうが足が速いし賢いと主張して自分こそ一番乗りしようと走って行きますが、みんな何かの拍子に木の名前を忘れてしまい、うまくいきません。

みんなが飢えている時にあらわれる魔法の木の名前をあてる、というモチーフの昔話はアフリカの各地にあり、これもその1つで、原著はフランスで出版されました。私はこれまでに類話の絵本を『ごちそうの木〜タンザニアのむかしばなし』(ジョン・キラカ再話 西村書店)、『ふしぎなボジャビの木』(ダイアン・ホフマイアー再話 ピート・フロブラー絵 光村教育図書)と、2冊訳していて、これが3冊目です。比べてみるのもおもしろいです。

ジョン・キラカさんが来日したときに『ごちそうの木』について話をうかがったのですが、キラカさんはほかの地域にも同じような昔話があることは知らず、自分が直接村で聞き取ったタンザニアの昔話を絵本にしたのだとおっしゃっていました。

(編集:鈴木真紀さん 装丁:城所潤さん+館林三恵さん)

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〈紹介記事〉

・「朝日小学生新聞」2021年12月2日

『オノモロンボンガ』朝小書評

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ジャクリーン・ウッドソン『わたしは夢を見つづける』(さくま訳)の表紙

わたしは夢を見つづける

国際アンデルセン賞、アストリッド・リンドグレーン賞を受賞したウッドソンが自分が生まれて、南部の祖父母の家とニューヨークの母のアパートを行ったり来たりしながら少女時代を過ごし、やがて文字や文章に興味をもって作家をめざすようになるまでの反省を散文詩で描いています。

これを訳すのは結構大変でした。詩のリズムを活かしながら意味が通って行くようにしなければならなかったし、そのままではわかりにくい言葉に注を入れなくてはならなかったし、詩らしい形を整えなくてはならなかったからです。

利発で成績もよい姉オデラの陰で読み書きもうまくできなくて劣等感を感じていたこと、おとなしい兄のホープが歌の才能に恵まれていたのを知り、自分にも隠れた才能があるのかと不安になったこと、肌の色も目の色も自分たちとは違う弟のローマンに最初は違和感を持つけれどやがて弟として大事に思うようになること、大好きだった祖父や、エホバの証人の信者だった祖母のこと、いつも陽気なロバートおじさんが逮捕されて収監され、刑務所に面会に行ったときのことなど、家族のこともたくさん書かれています。

それに加え、ブラックパンサー党やアンジェラ・デイヴィス、キング牧師、マルコムXなども登場し、当時のアフリカ系の人たちがどう考えていたのか、それを子どもの目がどうとらえていたのかをうかがい知ることもできます。

(編集:喜入今日子さん 装丁:アルビレオ イラスト:MARUU)

*全米図書賞受賞
*ニューベリー賞オナー受賞
*コレッタ・スコット・キング賞作家賞受賞
*E.B.ホワイト賞受賞

 

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〈訳者あとがき〉

本書は、2014年に出版され、全米図書賞、ニューベリー賞オナー、コレッタ・スコット・キング賞、E.B.ホワイト賞など、アメリカの主要な児童文学賞を総なめにしたジャクリーン・ウッドソンのbrown girl dreamingの翻訳です。

ウッドソンは、2015年から2017年までアメリカの「若い人たちのための桂冠詩人」を、2018年から2019年にはアメリカの児童文学大使をつとめています。また2018年にアストリッド・リンドグレーン記念文学賞、2020年に国際アンデルセン賞作家賞を受賞しているので、まさに現代のアメリカの児童文学界を第一線で牽引している作家といってもいいでしょう。

本書はそんなウッドソンの代表作の一つで、オバマ元アメリカ大統領も、アメリカの人種問題を理解するために本書をすすめています。

最近アメリカでは、詩の形式で書かれた物語がたくさん出版されていますが、本書も散文詩で書かれています。それについてウッドソンは「普通の文章で書けば、時系列や因果関係や起承転結をはっきりさせないといけないけれど、これは頭に浮かんでくる思い出を書きとめたものなので、こういう形式がふさわしいと思ったのです」と語っています。

1963年にオハイオ州コロンバスに生まれたウッドソンは、若くして離婚した母親といっしょに、母親の実家があるサウスカロライナ州グリーンビルと、母親が引っ越した先のニューヨーク市ブルックリンを行ったり来たりしながら育ちます。本書はそんなウッドソンの半生記と言えますが、ウッドソンが幼いころから文字や言葉に興味をもっていたこと、それでも読んだり書いたりすることがうまくできずに優等生の姉にコンプレックスを抱いていたこと、先生に励まされて自分の才能に気づいて行くところなどもリリカルに語られており、彼女が作家になっていく道のりを垣間見ることができます。祖父母、父母、きょうだいなど家族のことも、ひとりひとりのイメージがくっきりとうかぶように描かれているのが、おもしろいところです。

また祖父母のいるサウスカロライナにまだ残っていた人種差別についても、キング牧師、マルコムX、アンジェラ・デイヴィスといった先輩たちの公民権運動やフェミニズム運動から受けた影響についても、子どもの視点から描写されているので、BSM(ブラックライブズマター)の背景についてもわかっていただけるのではないかと思います。

詩の翻訳はむずかしく、さまざまに迷いながら訳しましたが、若いみなさんに楽しんでいただければ幸いです。

 2021年7月 さくまゆみこ

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『子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと』(さくま訳)の表紙絵

子どもの本で平和をつくる〜イエラ・レップマンの目ざしたこと

ナチス政権下のドイツから国外に避難していたユダヤ人のイェラ・レップマンは、戦後ドイツにもどり、荒廃と貧困の中で育つ子どもたちを目の当たりにして、本をとおして夢や希望を提供しようと考えます。そして20の国に手紙を書いて、子どもの本を送ってくださいと頼み、それをもとにドイツ各地で図書展を開き、子どもが各国の本に接することができるようにします。やってきた子どもたちにレップマンは、送られて来た本をその場でドイツ語に訳して読んで聞かせます。

送本を依頼された国の中には、ベルギーのように、2度も攻め込んできたドイツに本など送れない、として断る国もありました。レップマンはめげずにもう1度、「ドイツの子どもたちに、あらたな出発をさせてやりたいのです。ほかの国ぐにから届いた本を見ることによって、子どもたちはお互いにつながっていると感じるでしょう。戦争が、また始まらないようにするには、それがいちばんではないでしょうか」と、書いた手紙を送ります。すると、ベルギーからも子どもの本が送られてきたのでした。

この絵本は、小さなドイツ人の女の子アンネリーゼとその弟ペーターが、その図書展でレップマンやいろいろな本に出会い、どんなふうに心を豊かにしていったかを中心に表現しています。想像力がはばたいている場面では、花のモチーフが絵に描かれています。

巻末には、イエラ・レップマンの紹介と、彼女が始めたIBBY(国際児童図書評議会)や、世界初の国際子ども図書館の説明があります。ミュンヘンの国際児童図書館は、市内にあった昔の建物から移って、今は郊外のブルーテンブルク城にあります。私はそのどちらにも訪れたことがあります。

(編集:喜入今日子さん 装丁:城所潤さん+館林三恵さん)

*全国学校図書館評議会 「えほん50」2022選定

SLA「えほん50」2022選定

 

<紹介記事>

・2021年9月21日の朝日新聞。原稿を書いてくださったのは記者の松本紗知さん。

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IBBYは、子どもの本に関わる人々を結ぶ世界的ネットワークで、スイスのバーゼルに本部がある。約80の国と地域が加盟していて、子どもの本を通した国際理解の促進や、良質な本を届けるための活動を行ってきた。そのIBBYや、世界で初めての国際児童図書館(ミュンヘン国際児童図書館)を創設した一人の女性イエラ・レップマンを題材にした絵本「子どもの本で平和をつくる 〜イエラ・レップマンの目ざしたこと〜』が、小学館から7月に出版された。

レップマンは、子どもの本が人々の心の架け橋になると信じ、第2次世界大戦後間もないドイツで、世界各国から送ってもらった子どもの本による図書展を開いた。この図書展の開催が、49年の国際児童図書館、53年のIBBYの設立へとつながっていった。

絵本は、弟と図書展を訪れた少女が主人公のフィクションで、姉弟の姿を通して、本が与えてくれる希望や力を描いている。翻訳したさくまゆみこさんは、「単なる理想ではなく、『子どもの本で平和をつくる』ことを,本当に目ざして行動した人がいたことが、具体的に描かれている」と話す。巻末には、レップマンに関する解説もある。

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2021年06月 テーマ:動物の化身に導かれて

日付 2021年6月22日(オンライン)
参加者 ハル、シア、ハリネズミ、エーデルワイス、アンヌ、まめじか、西山、さららん、カピバラ、ニャニャンガ、サークルK、マリンゴ、雪割草、しじみ71個分、ルパン
テーマ 動物の化身に導かれて

読んだ本:

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『イルカと少年の歌』表紙

イルカと少年の歌〜海を守りたい

マリンゴ: プラスチックの海洋ゴミの問題という、堅いテーマを、イルカの妖精にまつわるアイデアでくるんでいます。その世界観に、力技で読者を引っぱり込んでいる気もしますが、学校の仲間がフィンの変貌ぶりに驚く場面に心情を重ねられるので、違和感なく読めました。気になるのは、イルカや海中の描写が最低限しかないことですね。私の友人にドルフィンスイムをやる人がいるので、動画などいろいろ見せてもらったことがあります。その動画の迫力を思うと、イルカが目の前に迫ってきたり、仲間として一緒に泳いだりするリアルさに欠けている気がします。さらに、なぜ1頭のイルカとだけ友達になるのかもよくわかりませんでした。スーパーのイベントで風船をいよいよ飛ばす、という場面で、南京錠という小道具が生きてくるのは意外でした。最後の最後で偶然によって解決するというのは、若干肩透かしをくらった感じになりましたが、ステレオタイプな展開になるよりも、いっそいいのかな……とも考えました。

ニャニャンガ:テーマありきという印象を持ってしまったので、読者が純粋に物語を楽しめるのかなと思いました。それでも後半、風船が飛ばされるのを子どもたちがどうやって阻止するのかが気になり、読むスピードが増しました。挿絵のピーター・ベイリーの絵が昔話風なのに対し、現代が舞台の物語でファンタジー要素がからむ物語とのアンバランスさが残念でした。自戒を込めて訳文に対してコメントしますと……p32のほか全体的に読点が多いこと、主人公のお父さんの表記が段落内で不統一なのが気になりました。初出はミスター・マクフィー、ほかの場面ではフィンのお父さん、フィン目線ならお父さんなどにしてはと思います。p105で、フィンの視点で語られている段落内で「~イルカのなだめ方を心得ているらしい。やさしく~」が第三者の視点なので混乱しました。

雪割草:エディンバラにいた時にスカイ島に行ったことがあり、こじんまりした北の離島の雰囲気が似ていて懐かしくなりました。子どもたちが自ら行動して、偶然もあるけれどやり遂げるまでを描いているのはよいと思いました。でも、後半に出てくる二人組の男やサッカー選手など、登場人物のセリフがプツプツ切れていたり、不自然に感じるところが多々ありました。言葉のせいか、絵のせいか、作品の雰囲気がひと昔前の感じがしました。そして、セルキー伝説をもとにしているとあとがきにありましたが、それならばそうした要素をもっと取り入れるべきだと思いました。

アンヌ:まず、この副題は何だろう?と思いました。いきなり主題を手渡された感じです。最初のうちは、『月のケーキ』(ジョーン・エイキン著 三辺 律子訳 東京創元社刊)を思い出すようなさびれた漁村が挿絵でも描かれていて、ファンタジーの舞台として魅力を感じながら冒頭の詩に思いをはせていたのですが、どうも違ったようです。なんだか、ファンタジーが道具として利用されているような気がする物語でした。出てくる子どもたちは現代の子どもたちで、パソコンやスマホを使い、サッカー選手がスターで、環境問題も知っている。だから、このフィンの変身が全然説得力がない。いじめにあって海に落とされて、泳いでみたら泳げた。気が付いたら海と一体化した気分になっていた。イルカと遊んだ。風船を飲んだイルカが助けられなくて悲しい。これくらいは伝説や魔法がなくてもできることだと思います。さらに気になるのが、もう秘密がなくなったと言って、いきなり育児放棄をやめる父親のことです。彼だけはフィンと同じように伝説の中を生き、さらにフィンの母親殺しでもあるんだから、いっそこのまま身を持ち崩していても不思議ではないのに、妙に中途半端に救済されている感じです。後半のサッカー選手との絡みをワクワクする展開と言えば言えるけれど、そういう物語として終わらせるのなら、ますます伝説は必要ないと思えてきて、ファンタジー好きとしては納得がいかない感じでした。

エーデルワイス:アザラシ伝説の語りを聴いたことがあります。日本の羽衣伝説と似ています。挿絵は好きです。ファンタジーとしての物語と考えると、この挿絵は合っているのかもしれません。ですが、物語は海の環境問題とアザラシ伝説を無理やり組み合わせたようで、しっくりきません。主人公のフィンがイルカの乙女と漁師の間に生まれた子どもにしなくてもよかったのではと思いました。設定は別にいろいろと考えられます。p94の1行目から「わたしを見てよ。わたしのお母さんはアフリカ人。この村の人たちから見れば、これはすごく変わっているのよ。」……多種多様なお互いを認め合うシーンのようで好きです。余談ですが作家は素敵な挿絵をつけてもらえて(『きつねの橋』も)羨ましいと思いました。

ハリネズミ:私は、社会や子どもを取り巻く問題をテーマにして書く本は、とくべつおもしろく書かないといけないと思っています。そう考えると、この作品は、プラスチックの海洋汚染というテーマばかりが前面に出てしまい、キャラが立っていないもどかしさがありました。また訳も、あちこちに穴があってすらすら読めない。編集の点でも、もっと工夫する余地がある、という残念な本でした。私は、せっかく子どもが考えるよすがになるような本が、いい加減に出されていると、大変辛口な感想になってしまいます。
まず編集の点ですが、会話が原文どおりのサンドイッチ方式([ 「A」○○は言った。「B」] という形。AとBは同一人物の言葉)に訳されていて、しかもそれが日本語版では3行に改行されているので、何人もで会話している場面だと、誰の発言だかわからなくなります。たとえばp172の「そのとおり! まさにそういうこと」って、誰の台詞でしょう? また、挿し絵はピーター・ベイリーという昔から活躍している画家ですが、日本語版にはその名前がない。
つぎに原著の問題だと思いますが、海洋汚染といっても、イルカと風船に特化された話になっています。風船は毎日は飛ばさないと思いますが、ペットボトルやレジ袋などは毎日使い捨てにしている人がいるので、そっちの方が大きな問題かもしれない。入り口は風船でも、読者をもう少し大きな問題へと誘う書き方のほうがよかったのではないかと思いました。また、ほかの方もおっしゃっていますが、伝説と現実問題がうまく融合していない。それと、ジャスが防波堤から落ちる場面ですが、結構な高さがあるらしいのに、水深は浅いとあり、それなら溺れないのはいいとしても逆に首の骨を折るんじゃないかと心配になりました。挿し絵が少し昔風なのはいいとしても、ジャスがアフリカ系、アミールはパキスタン系なので、肌の色は白くない。でも、挿し絵からはそれがわからない。英語圏の人は名前から、ルーツを推測することができますが、日本の子どもにはそれができないので、肌の色の違いは絵からもわかるようになっている方がいいと思いました。
最後に翻訳の問題です。最初に出てくるドギーですが、ドギーって犬のことなので変だなあと思ってアマゾンで原書のLook insideを見てみました。するとDougieだったので、それなら「ダギー」だな、と。それからp9のチャーリーの台詞が「父ちゃんが家のちっちゃい舟で」と訳されているのですが、原文はin my own wee boat。家の舟ではなく、チャーリーはペギー・スー号という小型のヨットをもらっていて、それのことですよね。後でそのヨットで子どもたちが海に出る場面が出てくるので、それの伏線になっている。ほかにも、p32には、「フィンはひとりでいてもへいっちゃらなので」という訳がありますが、前の場面ではフィンは友だちがほしいと思っているわけだし、それで誕生日のパーティものぞき見しているわけですから「へいちゃらを装っているので」などの訳にしないとまずいし、p284の「言葉をかける前に」は、「答える前に」なんじゃないか、など随所に引っかかって、スムーズに読み進むことができませんでした。

ハル:ファンタジーとリアルが融合した構成自体を否定するつもりはないのですが、この作品に関してはちょっと、どう読んだらよいのかというとまどいがありました。イルカの妖精だったお母さんの死についても、どうとらえて良いのかわからない。お母さんが海に向かった理由も、歌の内容とはどうも違うようですし、作者は漁そのものを否定的にとらえている可能性もあるけれども、これが、イルカ漁やクジラ漁に限定してのことだったら、さまざま意見はあるだろうとは思います。それよりも、プラスチックごみは今現在、関心が高い事柄だと思うのですが、風船を飛ばすことの是非については、既にだいぶ認知されていることだと私は思っていました。なので、子どもはともかく、大人もそのことを知らないということは、このお話は30年前とか、少し前の時代の設定なのかな? でも読んでいくと、やっぱり現代の話だよなぁ……と、その点がいちばんひっかかりました。スコットランドがどうかは置いておいて、舞台は「片すみのとても小さな村」(p7)ということなので、もしかしたら、そういった情報が少ない土地ゆえの認識のズレ、ということもあるのかもしれませんが、ちょっとよくわかりません。フィンが、自分のもつパワーを知ったあとで、確かに切羽詰まった場面ではあるのですが、「ちがうよ、バカ」(p142)とか、「ばかじゃない?」(p260)とか、急に言葉がきつくなっていることにも戸惑いました。フィンを見直した友だちの、手のひらを返したような態度もしっくりきません。全体的には、悪者と良い者をはっきり決めて描くタイプの、子ども向け映画のような作品だと思いました。主人公たちと同じ年ごろの読者にとっては、わかりやすく、義憤というか、強い問題意識を芽生えさせるお話なのかもしれず、これはこれで良いのかもしれませんが、どうかなぁ……。

西山:伝説の詩からはじまるので、抒情的な世界を期待して読み始めたのですが、あっという間に伝説はそっちのけで現実の話だけになってしまって、ちぐはぐな印象を受けました。ファンタジー部分を全部削って、長さもずっと短く、子どもたちがおとなを「ぎゃふん」と言わせる小学校中学年ぐらい向け作品にしてしまったほうがよほど納得できます。タイトルもThe Song of a Dolphin Boy なのに、「イルカと少年の歌」でいいの?と思ったのですが……。でも、歌も、ドルフィンボーイも単なるつかみの設定だけのようだから、どちらにせよ大差ないとも言えますが。「イルカくん」(p62)には、びっくりするほど違和感を感じて、え?いつから「イルカくん」呼ばわり?と思い、読み直してしまいました。サッカー選手がちんぴらの暴力を止めるときの「がまんがならないことのひとつが、いじめだ」(p250)と言うセリフにも同様の軽薄な幼さを感じました。

まめじか:p188で、子どもたちが環境保護の運動をしようとしていると知ったら、大人はきっと応援してくれるはずだという箇所は、社会の問題や政治から子どもを遠ざけないあり方が透けて見えて、好意的に読みました。訳文については、三人称の文体の中に一人称が入るときの接続がうまくいってないのか、ぎこちない印象を受けました。現代の話なのに「きまってら」(p9)、「不公平ったらありゃしない」(p121)、「お食べ」(p162)、「へんちくりんだ」(p220)、「わしら」(p250)など、昔の児童文学に出てくるような言葉づかいも気になったし、「ドギーにはふさわしくない」(p8)、「スリッパでひっぱたいてやる、まちがいなく」(p66)、「ここはほんとにすばらしい」(p89ページ)、「家にいてくれなくちゃ!」(p107)などは原文をそのまま訳したようで、もっと磨けたのでは。一番ひっかかったのはp94の「アフリカ人」。エチオピアのルーツをもつジャスのことですが、大雑把にひとくくりにするような言葉にとまどいました。

サークルK:プラスチックごみという公害問題をあまり道徳臭くならないように、イルカと人間から生まれた男の子フィンの日常に託して描こうとしたのだろうと感じました。子どもたちの日常のなかには、仲間外れと和解、友達への尊敬、家族の交流も含まれますが、私はストロムヘッドという架空の漁村にいる、様々な親子の描き分けに魅かれました。母親を亡くしたフィンと愛妻を失った漁師のマクフィー氏、2人の子どもたちを溺愛するラム夫人、複雑なルーツを持つジャスとジェイミソン教授という親子関係など様々でおもしろかったです。ストロムヘッドの村の様子がわかる挿絵はノスタルジックで良かったのですが、登場人物のルーツのわかるような書き込みが少なく残念でした。

シア:ルーツや自分探しのファンタジー小説かと思ってワクワクしたんですが、いつの間にか頑張る環境保護少年団な展開になってしまい、ああ、これいつもの海外児童文学だとガッカリしてしまいました。イルカのお母さんという設定は素敵だったので、もっと生かすか、いっそなくすかしてほしかったですね。フィンは陸と海の架け橋的な存在になるのではなく、イルカのことしか頭にない少年になっています。「海を守りたい」という力強い副題を日本版はつけていますが、完全に「イルカを守りたい」でした。どちらかというとイルカとの交流よりも友達との交流がメインでしたし。フィンがやっと泳ぎ出してからなかなかドキドキしながら読んでいたんですけど、p60まできたところでイルカの挿絵があったので変身のネタバレされた! と思ったんですが、フィンは変身しておらず、そのことも加えて肩透かしを食らいました。p142でフィンは「体が引っ張られるような気がした」とあるんですが、その後は何も触れられることもなく、半分イルカであることの必然性が後半は皆無です。海の大切さについても、プラスチックごみの問題についても今話題になっているのでそれを書きたいのもわかるんですが、なんともテンプレ気味で、全てにおいて消化不良でした。

ルパン:正直、おもしろくなかったです。全体的に訳文が読みにくかったし、フィンが泳げるようになるところも、イルカが漁師と結婚するところも、唐突すぎてなんだか話に入り込めなかったし。

さららん:ファンタジーの設定のなかに、環境問題を取り上げた意欲作だとは感じました。背景の異なる子どもたちが、力を合わせて、環境を守るために行動をはじめるところは好感が持て、昔ながらの児童文学を読む楽しさがありました。ただ前半で何か所か、疑問を感じるところもあって……。ひとつは、海に落ちたフィンを見つけられないまま、子どもたちがあきらめて家に帰ってしまうところ(p52)。大人の助けをなぜ呼ばなかったのか?と疑問でした。もうひとつはp78で、息子に対して謝罪しつつ、母親の秘密を告白する父さんの心理の変化の早さです。作者はお話をどんどん先に進めたかったのでしょうね。

カピバラ:セルキー伝説はとても魅力的な題材なので、イルカと猟師の間に生まれた子どもというファンタジーの要素が取り入れられているのはいいなあと思ったのですが、ファンタジーよりも海洋プラスチック問題のほうが、著者の言いたかったことのようです。とまどった方が多かったようですが、私はおもしろいところもあったと思っていて、最初は仲間外れにされていた少年が、次第にまわりの子どもたちもまきこんで、環境問題に目を向けていくところや、親と子が一緒に取り組んでいく様子はおもしろかったと思います。

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『きつねの橋』表紙

きつねの橋

まめじか: 貞道がキツネの葉月を助ける一方、葉月は大極殿のもののけを追いはらって貞道を救い、また斎院の姫のためになんとか扇を手に入れようとします。人と妖狐が境を越えて助け、助けられる古の世界のおおらかさ、そこに生きる者たちの懐の深さがいきいきと描かれていますね。手柄をたてたいと思いつつも損得考えずに行動し、義理堅くもある、若い三人の仲間関係もほほえましく読みました。

ハル:やっぱり、鬼や、人を化かすキツネがいた時代の物語には、ロマンを感じますね。このお話そのものもおもしろかったですし、カバーも挿絵も本当にお見事で、目でも楽しめました。読者対象は「小学高学年」になっているようですが、実際、5~6年生でどのくらい楽しめるものなんでしょうね。中学で『今昔物語』を習うころになったら、より楽しく読めるのかも? ほんとうのところはどうなんでしょう。とっても知りたいです。

ハリネズミ:エンタメとしておもしろく読みました。ただキツネというと、どうしても『孤笛のかなた』(上橋菜穂子著 理論社/新潮文庫)を思い出してしまうのですが、あっちはキツネの哀しさなども浮かびあがるように描かれていたのに、こっちの作品は3人の若者が大盗賊をとらえるのに策略をめぐらせ、キツネの力も借りるという設定で、深みはあまり感じませんでした。リアリティに疑問な点もいくつかありました。牛車の乗り心地の悪さなどは読んでいてなるほどと思ったのですが、当時牛車というのは身分の高い者しか乗れなかったのに、身分が高くない若者が君主の息子の牛車にためらいもなく乗ってしまうという設定。また上橋さんには人間とキツネは異種であるという視点が強くありましたが、これはそうでもない。それから、そもそもキツネの葉月はどうして斎院のお姫さまを可哀想に思ったのか、というのが、描かれてはいませんでした。当時は、庶民の中にもっともっと可哀想な子はいっぱいいたと思うし、キツネは神社につきものと言っても、斎院がいるのは賀茂神社で稲荷神社ではないのに。まあ、そんなことはさておいて、エンタメとして読めばいいのだと思いますが。

エーデルワイス:キツネの出てくる物語は好きです。これは時代を超えた青春ものと思いました。「麦縄(むぎなわ)」(p137 10行目、小麦粉と米粉をねって棒状にしたもの)が出てきて、当時から小麦粉があったのかと驚きました。(後日調べたら前弥生時代中期頃から日本で稲作と共に小麦粉は栽培されていたとか。)作者は貞道と葉月(人間とキツネ)の関係をもっと描きたいのでは? 続編がありそうで、楽しみです。

アンヌ:始めに貞道って誰だろうと調べてみたら、子どもの時から大好きだった『今昔物語』の牛車で酔う話に出てくる貞道で、<頼光の郎党共紫野に物見たる語>の季武、公時の3人が活躍する話なんだ、と思ってワクワクしました。『今昔物語』に出てくる女性は大声で笑ったり自分自身の足で出歩いたりしていて、他の物語のお姫様とは違う姿で登場します。ここでは葉月はキツネではありますが、『枕草子』の清少納言が定子に仕えたように、斎院に仕えて働くことに喜びを感じているようです。女房や女官や下働きの女性に化けたりする姿も、この時代の働く女性を映しているようです。五の君の姉上が斎院の扇や衣装をあつらえることに夢中になる様子に、この時代のお姫様は実はお針も使えなくちゃいけないんだということも思い出しました。ちょうど『御堂関白記』の周辺を調べていて、馬を献上することの重要性や、道長が物の怪を自身で調伏したことを知ったところなので、この作品の頼光や頼信と多田の領地の話や、鬼に対峙する五の君の姿には納得がいきました。『今昔物語』には盗賊の話が多くありますが。その中のスターと言えば袴垂。うまくキツネの話<高陽川のきつね女と変じて馬の尻にのりし語>と合わせて楽しい物語になったと思います。できれば続編で、鬼か酒呑童子が出てくる物語も読んでみたいと思っています。

雪割草:別の時代を舞台にした作品が好きなので楽しく読みました。人と動物という異なるもの境を超えて描いているのもいいと思いました。でも、当時の暮らしならではの言葉がたくさん出てきて、対象年齢の子どもはうまく想像できるのかなと疑問でした。聞いたことがあるものもいくつかありましたが、調べてやっとわかるものの方が多かったくらいです。地図や、「侍所」がどこにあるのかなど住まいの配置図がほしくなりました。この作品はすぐ映像になりそうだけれど、言葉で感じさせる世界が弱いなと思いました。

ニャニャンガ:恥ずかしながら物語が書かれた背景を知らないため、新鮮に感じるとともに、物語に入るのに時間がかかりました。貞道がキツネの葉月に出会い心を通わせて互いに助け合う点に集中することで物語に入れました。佐竹美保さんの絵が大好きなので楽しめました。「階(きざはし)」「渡殿(わたどの)」「殿舎(でんしゃ)」「蔀戸(しとみど)」など、なじみのない言葉にたびたび出くわしたので、注がほしくなりました。本文前に略図や周辺図があるので、同じように解説図があれば読む助けになったと思います。会話がわりとくだけた感じだったのが読みやすさに通じる一方、地の文とのアンバランスさを若干感じてしまいました。

マリンゴ: とても引き込まれる本でした。時代背景やこの物語の設定をうまく説明しながら、ストーリーに引っ張り込んでくれていると思いました。1つだけ気になったのは、五の君が大極殿に侵入したシーンです。キツネの葉月に会った後で、得体のしれない影に襲われるので、葉月に化かされているのかと思って気軽に読んでいたら、そうではなくて鬼のしわざ、と後でわかります。緊張感が薄れてもったいないなと思いました。ついでに言うと、終盤のクライマックスに至るところでは、おとりと本物の話がいくつも出てくるので、交錯してちょっと紛らわしかったです。動物としてのキツネの生態の描写がほとんどなかったのに、そこがまったく気にならなかったのは、「キツネが人を化かす」ということについて、日本人の共通認識があるからかなと思いました。外国語に翻訳されるときは、説明や注釈がかなり必要になるのかもしれません。

サークルK:最近の読書会では、いじめや青少年期に悩む子どもたちが主人公のお話を読む機会が多かったので、登場人物の冒険を共有しながら爽快な物語展開を楽しむことが出来ました。端正な挿絵も美しく、物語にぴったりです。貞道とキツネの葉月の出会いに始まり、五の君と鬼の遭遇や斎院の美しい扇をめぐる怪盗袴垂との戦いなどのエピソードが次々に繰り出されて宮部みゆきさんの時代物の作品を思い出しました。因縁のできた袴垂や、陰陽師にまたもや都への出入りを禁じられた葉月について、それでもまだ決着のついていないエピソードもあったので、これから続編が発表されるのであれば楽しみに待ちたいと思います。

西山:同じ年にでた『もえぎ草子』(久保田香里、くもん出版)と比べると、なんだか物足りないというのが、以前読んだときの印象でした。再読して、さらさら読めてしまうことが強みでもあるかもしれないけれど、平安時代にどっぷりつかりたいと思うと物足りなさになるなと思いました。例えば、3人が公友の家でくつろいでいるp137のシーンなど、アニメか何かで見たことあるような印象を受けます。繰り返しになりますが、それを敷居を低くしている利点と取るか、濃厚な物語世界を削ぐ欠点と取るか、分かれるところだと思います。

しじみ71個分:帰りの電車の中だけでツルツルッと読めてしまいました。歴史物としてはとてもおもしろかったのですが、貞道の人物像やキツネの葉月の内面が見えてはこなかったので、読んで深く感動するようなことはありませんでした。また、ルビはふってありましたが、子どもどころか、大人の自分でもわからない難しい言葉も多くて、説明や注がほしかったなとは思います。歴史好きな子たちが知らないことを楽しんで調べつつ読むような物語なのかな、と思いました。

カピパラ:今回は課題本を選ぶ係だったのですが、リアルな現代ものは最近ちょっと辛いものが多いので、純粋に物語を楽しめるような作品を読みたいなと思って探したところ、この表紙の絵と帯の文句がとても魅力的でこれに決めました。上橋さんの『鼓笛のかなた』のような話なのかな、と期待して読みました。一条大路を進む牛車とか、侍所での郎党たちの様子とか、内裏の御簾の奥にあかりが灯り、姫君や女房たちの姿が浮かんでいる情景とか、そういった舞台装置や装束の描写が多く、平安朝の雰囲気が味わえます。時代背景は平安だけれども、頼光に仕える若者たちの熱い青春物語といった雰囲気があります。会話が現代風なのは、厳密にいえば突っ込みどころですが、等身大の若者の気持ちが伝わるので、あまり難しく考えずに楽しめばよいと思いました。時代物は小学高学年にはわかりにくいという意見がありましたが、小学生でも漫画で昔の時代にタイムスリップする話などが人気なので、結構楽しめると思います。

さららん:最後まですっと読めました。主人公の平貞通と、親友で弓の名手の季武、大柄で人のいい公友の三人組の描かれ方が気持ちよく、心理的深さはなくても、活劇の登場人物としてちょうどよく感じました。平貞通はただがむしゃらなのではなく、主君たるべきものについて、考えることもあります。きつねの葉月に対する感情も、最初は人を化かす狐に対する警戒心が感じられましたが、葉月の斎宮に対する思いやりにほだされ、少しずつ、変化していくのがわかります。「まずはためしてみる。だめならほかのどこでもいってやる。西でも東でも、北でも南でも」(p213)という貞通の言葉に、葉月に対する深い理解と愛情が感じられました。体制の中で差別される弱いものを守ろうとする姿勢、共に行こうとする姿勢が自然体でいいな、と思いました。

シア:大変おもしろかったです。さすが時代物がお得意な久保田さんの作品という感じでした。頼光が主君というところでテンションが上がり、これはアクションものに違いないと確信し、楽しく読めました。頼光四天王が登場しているし、髭切も盗られたままなのでシリーズ化する気なのかなと期待しています。牛車の乗り心地までは考えたことがなかったので笑ってしまったりもしました。ただ、調度品が名前だけでは古典を習う中学生以上じゃないとわからないと思うので、巻頭の地図みたいに解説や絵があると良かったかもしれません。それから、ラストシーンで葉月は人間の姿にもかかわらずしっぽが出てしまうのですが、挿絵ではしっぽではなく耳が描かれていました。構図的に描きにくかったのでしょうか?耳についての表現は文章中になかったので、少し混乱しました。また、「そういう間柄だからこそ、姉君は手を差し伸べられるのだ。立場を競い合っているといっても、べつに相手を蹴おとしたいわけじゃない。けれど、家の隆盛はうつっていく。むかしはときめいていた家が、主をなくしてさみしくなる。それを姉君はかなしいと思われるんだ。」(p133)という五の君の台詞ですが、こんな綺麗事を言っているけどこれが後の満月オジサンなのかって感じですね。そしてこの姉君は詮子のことだと思われますから(彼女はかなり政治に介入して中宮定子を追い落としたのは有名な話なので)、いや、蹴おとしてるよね!と突っ込みを入れたくなりました。いくら子ども向けの本とはいえ、美化しすぎではないかと思います。久保田さんの作品の『もえぎ草子』では清少納言がかなりキツい性格に描かれていたので、もしかしたら久保田さんは式部派なのかもしれないと思いました。

しじみ71個分:源頼光というし、四天王も出てくるので大江山の鬼退治とかの華やかなエピソードが語られるのかと思ったら、割と地味な話の連続だったので、拍子抜けしたところがあったのかもしれません。ですが、終わり方を見ると、確かに続きがありそうな感じですね。そうすると、この先に貞道たちが試練を超えて強くなっていくような、盛り上がる話が出てくるのかもしれませんね。

ルパン:これはおもしろかったです。p14の4行目で「貞道は立ちあがった」とあり、8行目でまた「貞道は立ちあがった」とありますが、そのあいだにいつ座ったのかな?

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年05月 テーマ:中学女子あるある? それぞれの国での「乗り越え方」

 

日付 2021年05月21日(オンライン)
参加者 ネズミ、けろけろ、ハル、イタドリ、ルパン、アンヌ、コアラ、まめじか、西山、さららん、カピバラ、ニャニャンガ、マリンゴ、雪割草、ヒトデ、アカシア、(エーデルワイス、鏡文字、しじみ71個分)
テーマ 中学女子あるある? それぞれの国での「乗り越え方」

読んだ本:

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『チェリーシュリンプ』表紙

チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし

まめじか:日本の中学生が読んだら、お隣の国でも同じようなことで悩んでいるのだとわかって親近感をおぼえると思うので、それはとてもいいと思いました。ただ、ここで描かれている友人関係の摩擦やモヤモヤした思いは日本にもあるので、日本の物語の韓国版という感じ。韓国の街の様子や食べ物が描かれているのはおもしろかったのですが。一読者としては、翻訳ものだったら、日本では書かれないような、違う景色が見られるような作品を読みたいなと思います。たとえば絵本の『ヒキガエルがいく』(パク・ジォンチェ作 申明浩・広松由希子訳 岩波書店)は、カエルたちが行進する姿に普遍的なものを感じますが、その一方で、作品の背景にはセウォル号の事件で真実が解明されていないことへの憤りがありますよね。p158で「バスの中でのことがずっとひっかかっていた」とあるのですが、話し続けるヘガンに冷たい態度をとったダヒョンは、そのことをそんなに気にしていたのですか? 数ページ前ではそんな様子はあまり感じなかったので。

けろけろ:p155で、イヤフォンをはめて、ヘガンの話を拒絶してしまったことを言っているのでは?

西山:韓国の絵本はたくさん出版されていますが、読み物はめずらしいなと思って手に取り、大変興味深かったので、この会で取り上げようと思いました。韓国でも、こんなに同調圧力が強いのかと、同じであることにまずびっくりしました。同時に、友だち関係で神経をすり減らしている10代は日本の創作で見なれているものの、悪口などここまであからさまに描かれていないと思い、違いにも驚き、とても興味深かったです。あと、とにかく、食べ物がよく出てきて、いちいちおいしそう。これが、けっこうな魅力となっていますね。文化の違いを最も感じたのが、やけに簡単に物をあげることです。誕生日とか何かの理由もなくプレゼントなんかしようとして、きっと拒絶されるぞと思いながら読み進めると、相手はすんなり喜んで受け取ってしまう。贈り物の考え方が違うのでしょうか。韓国文化に詳しい方がいたら教えてほしいと思いました。韓国のイメージがアップデートされた感じでおもしろかったですね。

カピバラ:韓国の中学生の日常を描いた物語は初めて読んだので新鮮でした。最初は人物名が男子か女子かすぐにわからないので読みにくかったけど、それぞれの描き方がうまく個性を表現しているのですぐに慣れて物語に入り込めました。仲良しグループに入る、つるむ、違和感を感じる、はずれる、という関係性がうまく描けていたと思います。日本の中学生女子にも「あるある」なことが多く、読者は共感を持つと思います。でも、人をけなす言葉がずいぶんときつく、はっきりしているのは韓国だからでしょうか。主人公が、自分の気持ちを素直に表現していて、友だち関係から複雑な心境に陥ってしまい、そこからなかなか抜け出せなかったり、逆にちょっとしたきっかけで妙に単純に立ち直ったりするところなど、この年頃の女の子の心理が手に取るようにわかります。どの子にも友だちに見せる表面の顔と、裏の顔があることが描かれていて、人の言葉に左右されずに自分で本当の姿を見極めることが大切だということが、読者にも伝わると思います。韓国の食べ物がいろいろ出てくるのが興味深かったし、コスメショップでいろいろ買い物するのも韓国らしいのかなと思いました。中学生だけでコスメや洋服を買いに行ったり、しょっちゅう食べ物屋で食べたりするんですね。文章にはいいなあと思う表現が随所にありました。「ものすごく楽しみで、通りに飛びだしていって拡声器でお知らせしないといけないくらいだ。」「その日以来、幸せウイルスのアプリが体にインストールされたみたいだった。」(p99)、「地球はわたしを攻撃する方向に自転しているようだった。」(p200)とか。この本も、読者は女子だけなのかな? 副題に「わたしは、わたし」が付くと女子しか手を伸ばさないのではないかと気になりました。女子は主人公が男子の本でも読むけれど、逆はあまりないようなので、もっと読んでほしいからです。

アカシア:前半はダヒョンが使い走りをさせられているのに、どこまでも合わせよう合わせようとしているという状態にいらいらして、早くなんとかしなさいよ、と言いたくなりました。でも日本と同じように韓国にも同調圧力やいじめがあることはよくわかりました。後半ウンユと知り合いになって、自分は自分らしくと思い始めてからは、周りの人々のことも、表面と実際はかなり違うということがわかっていく。そういうところはとてもおもしろく読んだのですが、前半がもう少し短くてもいいように思いました。食べ物がたくさん出てくるのもおもしろかったです。ただ、これは読者である私の問題なのですが、ここで初めて見る名前がいっぱい出て来て、すぐにイメージがわきにくかったんです。たとえば同じ名前の人を知っていれば、それを思い出して、同じでなくてもイメージがしやすいんですけど、女性名か男性名かもわからず、古い名前かキラキラネームかもわからないので、とまどいました。欧米の名前だと読み慣れているからそうでもない、ということを考えると、いかに自分が韓国の作品を読んでこなかったか、ということですね。それから最初のコピーライト表示ですが、書名が英語で書いてあってハングルでないのはどうしてなんでしょう?

コアラ:おもしろく読みました。グループ内での立場とか、そういうところは日本も韓国も変わらないんだなと思いました。ダヒョンの恋心がかわいかったです。印象に残ったのは、p190の6行目から、「わたしたちはみんな木と同じように独りぼっちなの。いい友だちなら、お互いに日差しになって、風になってあげればいい。自立した木としてちゃんと育つように、お互いに助け合う存在。」これはとてもいいと思いました。私が中学生なら、メモ帳にメモして持ち歩きたくなるいい言葉です。この木のたとえは、ダヒョンがチェリーシュリンプのブログに書くところでも出てきます。ページで言うとp206以降ですが、このあたりはどれもメモしたくなるくらい、いい言葉がありました。それから、この本に出てくる大人が、ちゃんと大人として存在しているのもいいと思いました。子どもにしっかりしたアドバイスをしているのが印象的でした。あと、ヘガンの口癖の「ヤバい」という言葉ですが、韓国語ではどういう意味の言葉なんだろうと興味を持ちました。

マリンゴ: とても魅力的な本でした。思春期の子たちのぐちゃぐちゃした人間関係、大好物です(笑)。特にいいなと思ったのは、ヒロインのダヒョンのウザい部分が書き込まれているところですね。とてもいい子なのにわけもなく嫌われる、のではなくて、ああ、こういう子はたしかに疎まれるかもしれないな・・・と思わせる部分をしっかり描いています。たとえば仲間に好かれるために積極的に悪口を言うところ、しゃべりだしたら止まらなくなるところなど、リアルです。日本が舞台ならば、少しユーモアを入れ込まないと、しんどい物語ですけれど、よその国のお話として距離を置いて読めるから、重苦しくても楽しめました。韓国の子たちのおやつ事情、食生活などもいろいろわかってよかったです。終盤、オトナがいいことをいろいろ言っていて、その言葉が印象に残りました。「世の中の人全員に好かれるのは不可能」(p188)、「憶えていてあげること、それが愛」(p193)などです。最近、一般書の韓国文学をちょくちょく読んでいます。チョン・セランなどがとても好きです。この本にも出会えてよかったと思っています。

ルパン:韓国の名前がなんだか耳に心地よかったし、翻訳ものといえば欧米の名前、という感覚があるからか、とてもエキゾチックに感じました。それにしても、実によく食べ物が出てきます。これと化粧品ネタがなかったら、このまま日本を舞台に置き換えてもいいくらい、日本の中学生と通じるところがあり、共感がもたれるのではないかと思いました。この読書会、リモートになって遠方や地方の方も参加できてよかったな、と思っているのですが、唯一対面でなくて残念なのが、みんなでおやつを食べられないこと。いつもアンヌさんが課題本にちなんだおやつを差し入れてくださっていたので、今回もし対面だったら何を買ってきてくれたかなあ、なんて想像しながら読んでました。

イタドリ:これから韓国の作品が、絵本だけでなく、どんどん紹介されていくんでしょうね。みなさんがおっしゃるように、食べ物のことやコスメのことだけでなく、子どもたちの暮らしの様子がわかるようになるので、楽しみにしています。『ハジメテヒラク』(こまつあやこ著 講談社)は、自分が一歩外に出て実況することで、物事を客観的に見られるようになるし、この本の主人公も新しい友だちを得ることで、人間関係を新しい視点から見ることができるようになる・・・テーマは、似通っていますね。ただ、日本の作品には母親を厳しい目で否定的に描いたものが多いような気がするんですが、この本のお母さんは、なかなかいいですね! こういうお母さんに育てられても、ウジウジしちゃうのかな?

ヒトデ:なによりも出てくる食べ物の描写がおいしそうで、「胃袋」に響く小説でした。韓国の小説は、一般書でも何冊か読みましたが、どれも「身体的な描写」にハッとさせられることが多かったように思います。この物語も、そうした意味でとても「身体的な(内臓的な)」小説だと感じました。大変な状況にあっても「食べる」ことで、主人公の身体にエネルギーが通って、物語が進んでいくような、そんな印象を持ちました。物語のなかに描かれている「高校入試」のシステムが複雑なのにも驚きました。アラムとの「落としどころ」は、読む人によって意見が分かれるのかもしれないなと思いつつ、私は好きな終わり方でした。

雪割草:とてもよかったです。登場人物が、家族やその子が置かれている環境とともによく描かれていると思いました。主人公や友だちのウンユが変わろうとする姿もていねいに書かれ、リアルに感じました。読んだ後に心に残る言葉のある作品が好きですが、この作品はまさにそうで、木や風を使った表現の箇所がよかったです。おとなの存在、おとなの視点が、作品でよく作用しているとも感じました。タイトルのチェリーシュリンプという生きものを知らなかったので調べてみました。日本では見慣れないこの生きものは、主人公がブログのタイトルに使って説明している以上の意味が韓国で何かあるのか、少し気になりました。

けろけろ:韓国料理がとてもたくさん出てきて、主人公たちがそれをエネルギーにしている感じがおもしろいですね。帯の表4側に作者の日本の読者へのメッセージがありますが、作者は日本の作品を読むときに、その街並みや食べ物をとても楽しんでいたようで、韓国の話を書くときに、それを意識して書こうとしていたんだなと思いました。友人関係がすべてというこの世代に、国を超えてエールを送っている感じに、とてもじんと来ました。韓国の女子のいじめが、日本とあまりにも似ているのに驚きました。ただ、翻訳ものであることが、いい距離感を生んでいて、日本の作品だとリアルすぎるところが少し薄まって読めるんですね。私の好きなシーンは、主人公のダヒョンがウンユに、亡くなった父親について話すところ。ふたりの関係がしっかりと結びついていくのが、視線などでうまく描かれているなと思いました。SNSのいじめって、残酷ですね~。文字の会話が続いていくなかで、そこで発言していない子がいることにみんな気づいているのに知らんふりしている。透明人間みたいになってしまう。日本でも、こんなシーンがきっとあるんだろうな、と思うと、胸が痛みます。魚住直子さんの作品も韓国で人気ですが、なにか通じるものを感じました。

ハル:「ザ・中学生あるある!」という感じで、実際にこういう経験をしたかどうかはおいておいても、主人公の心情表現は、まるで中学生、高校生のときの自分の日記を読み返しているようなリアルさを感じました。「私の日記か」というのはつまり、リアルなだけに、浅く散らかっているというか、文章が上滑りしていく感じもあり、「ときどきこういう、リアルなんだけどどこか軽くなってしまう小説ってあるよなぁ」と思いながら読んでいたのですが、後半の10章あたりでぐっと引き込まれて、主人公が書き溜めていたブログを公開したところで、ああいいなぁ、と思いました。特に主人公たちと同世代の読者たちは、身近な解決策やヒントをもらったような、勇気づけられた気持ちになるのではないでしょうか。ただ、結局、チェリーシュリンプは特にキーとして登場するわけでもないし、全体的にすごくよくまとまっているかというとそうでもないようにも感じましたが、良い作品だと思います。「日本の小説を読むのと変わりがないんじゃない?」というと、そうでもなくて、やっぱり、日本と似ているようで違う文化もおもしろく、韓国の子は買い食いの習慣があるんですね、いろんな食べ物が出てきておいしそうでした。

ネズミ:主人公が、学校での人間関係を克服して、ブログを公開できるようになるまでの成長を描くというテーマはいいですが、『ハジメテヒラク』と同じで、こちらも読むのが苦しかったです。同調圧力がどうにも苦手で。苦しいのは、それだけ真に迫っているからでしょうね。そんなことがあるの?と、驚くようなことが次々あってもどうにか読み進められるのは、舞台が日本ではなく韓国だとわかっているからでしょうか。

ニャニャンガ:『きらめく拍手の音』(イギラ・ボル著 矢澤浩子訳、リトル・モア)、『82年生まれ、キム・ジオン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳、筑摩書房)などの一般向け韓国作品は読んだことがありますが、子ども向けの韓国作品ははじめて読みました。本作では韓国の様子がわかり興味深かったです。ただ、特定の子を嫌った理由が冒頭の人物紹介に書いてあったのはネタバレではないかなと感じました。韓国の大気汚染がひどいことは本書を通して知りました。聞きおぼえのある食べものが多く登場しますが、キムパグはキンパのほうが一般的かもしれません。「目がふっと震える」(p135)はすてきな表現と思った一方で、「バスが無表情」(p195)という表現には引っかかりました。「アナジュセヨ」(ハグしてください)の勘違いのくだりについては、最初に出てきたところで詳しく書いてくれたらわかりやすかったです。まじめ虫という表現は、『82年生まれ、キム・ジオン』のママ虫を思いだして韓国特有の表現なのかなと思いました。

さららん:登場人物たちがみんな食べることに執着しているのがおもしろく、私もそこにバイタリティを感じます。特に主人公は、仲良しグループに気を使い続け、次第にハブられていきますが、これだけ食べることが好きなら、この子はきっと負けない!と感じられ、そのおかげで読み進めることができました。友だち同士言葉で激しく言い合い、傷つけあうところも描かれ、陰湿な場面もありますが、主人公は自分の意志で、仲良しグループのトークルームを抜けることを選びます。クラシック好きなことも隠していたけれど、自分が選んだものを肯定し、表に出していける環境をだんだんに作っていきます。このぐらいタフで楽観的でありたいと願う読者は、韓国はもちろん、日本にもたくさんいるかもしれない。また江南からの転校生は優秀だという妬みや、うどん屋でクラシックをかけるのはヘンだ、といったものの見方に、日本よりさらに階級化された社会を感じました。

アンヌ:最初はいじめの話だと、いやいや読みだしたのですが、おいしそうな食べ物が次々と出てくるので、読んでいて楽しくなってきました。つらい思いをしている主人公の話で、どうもおなかも弱いらしいので、まさかこんなにおいしそうな話になるとはと意外でした。作者がこんな風に食べる場面がたくさん出しているのは、子供の生命力を読者に感じさせるためではないかと思います。それにしても、中学生や高校生の頃って、本当に嫌になるほどおなかがすいていたなと思い出します。私は食べ物で本を読み解く主義なので、試しに数えてみたら食べ物が出てくる場面は28場面。食べ物は全部で60品目以上ありました。そのうちダブっているものや中華街の食べ物や日本でも手に入る食べ物を抜いたら、24品目が韓国固有の食べ物でした。まずいとされるのはハンバーグ屋のハンバーグと飲み物だけというのもおもしろいところです。また、先ほどご指摘があったように、同じページ内に注がついていて、どういう食べ物かすぐわかるのも魅力でした。作者と翻訳者の、韓国を紹介したいという気持ちが感じられるところです。今、日本の若い人が夢中の韓国コスメの話も楽しく、こんなに若い時からお化粧品を買うんだなとか、p194のコスメ屋さんに4人で行く場面で、お父さんにも乳液をプレゼントするんだとか、韓国では父母の日というのがあるんだとかいうことを知りました。知らない生活習慣や韓国のおいしそうなものが出てきて、外国文学を読む楽しさを堪能しました。ダヒョンがこんなにつらい生活の中でも自分を見失わなかったのは、やはりブログという形で一度言葉にして心の中のものを外に出して、自分の好きなもの、自分を形作っているものを見つめていたからだろうと思います。課題をこなすために集まったグループのうち、3人が将来は記者になりたいと言っていて、作者は言葉が好きな人間を応援しているとも感じました。ダヒョンもウンユも言葉を知っている子だなと思います。p190のウンユの言葉で始まる木と風のたとえは実に詩的で、さらに、ダヒョンのブログの中でそのとらえ方が変わっていくところも、ダヒョンの成長が感じられていいなあと思いました。それぞれつらい別れを知っているからこその言葉だと思いました。私はいじめっ子にもいじめるわけがあるという擁護はあまり好きではありません。作者はアラムがウンユにまとわりついてうまくいかなかったことや、つらい境遇にあることを最後の方に記しています。だからといって関係をどうにかするということではなく、アラムが困っているのを察したダヒョンがポーチを机の上に置いて、そのことを相手がどう思ってもいいと立ち去るところは、実に爽快感があってよい終わり方だと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):女の子特有のグループでのいじめの問題は韓国も日本も同じようです。ほとどの子が塾に行っていることや、音楽、映画、恋心も。コスメの浸透にはちょっと驚き、韓国の美味しそうな食べ物がでてくるのは楽ししかったです。ページ内に小さく注釈があるのはいいですね。「大気汚染注意報」も驚き。マスクを付けて登校とは。最初に登場人物の名前の一覧があるのは助かりました。韓国の名前に馴染みがなく、途中で誰か分からなくなり時々確かめながら読みました。ボス的な女の子のアラムが実は寂しい家庭環境にあることを知った主人公のダヒョンが、アラムの席に整理用品をそっと置くラストは爽やかです。コミュニティ新聞つくりグループの4人中3人が将来は物を書く人になりたいというのは作者の投影でしょうか。

しじみ71個分(メール参加):中学生女子の「あるある」な物語で、自分が中学生のときのことを思い出しました。中学生のあたりは、まだ自我の確立なんて全然できていないし、自分が何者かもまったく分からない時期で、自分の周りの小さな世界に所属したくても、どうしてか世界と自分とが、食い違ってしまう、自分は周りと何か違う、息苦しいと気づき始める頃なのだろうと思います。誰でもこんなことあるよね、と思わせてくれる物語で、チェリーシュリンプに象徴される、自分らしさを大事にすることの気づきを得て終わってくれたので、読み終わってスカッとしました。中学生女子の間の同調圧力の理屈の無さ、未熟さ、想像力の欠如から、なぜか自然に誰かを無視したり、仲間外れにする仕組みがリアルに描かれていると思います。理由が分からないけど、友だちが嫌っているから私も嫌いと思い込むとか、空気を読んだつもりで悪口を言ってしまうとか、なんて馬鹿馬鹿しいことかと思いますが、結構、大人でもあるなと居心地の悪さも感じさせてくれました。また、韓国の中学生のコスメ事情など、関心事も細かく描かれて、とても興味深かったです。また、とてもおもしろいなと思ったのは、結構、ウジウジした内容なのに、主人公のキャラクターのおかげか、物語が湿っぽくなく、カラッとドライな印象のあることでした。日本の物語だともう少しじめっと湿っぽくなるかもしれません。そのドライさは、主人公の思考や受け止めに表れる芯の強さや朗らかさから来るのかなと思ったのですが、書き方の客観性かもしれないですし、そこに作者の気持ちや意図ががあるようにも思いました。

鏡文字(メール参加):登場人物紹介で、ある程度の筋が見えた感じで、どう物語を決着させるかという興味で読み進めました。ラストのシーンはなかなかいいのではないかと思いました。韓国でも今時の中学生はいろいろ大変なんだな、とも。学校生活など、日本の子どもにとってもさほど違和感がないように感じました。その分、あまり新味もなかったかも。ベトナム戦争のことなどがチラッと出てきて、やや唐突な印象。本筋にからまないことで出てくるのはいいのですが、あとほんの少しだけ踏み込んでいいような気がしました。p216で母親が語る「生きていれば、疎遠になったり、思いもよらない時期にまた会ったりするの。人間関係なんて、みんなそういうものじゃないかしら」という言葉は、子どもがどう受け止めるかはともかく、大人としては多いに納得です。翻訳物は、書かれた背景など、訳者のあとがきを読むのが好きなので、それがないのが残念でした。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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こまつあやこ『ハジメテヒラク』表紙

ハジメテヒラク

アンヌ:とてもおもしろかったけれど、わかりにくかった点が1つあります。脳内実況と現実の実況の違いについてなんです。二重カギ括弧で濃い文字が脳内実況、カギ括弧で濃い文字が現実の実況、と気づくまでに時間がかかりました。声に出して実況しているところは、普通の会話と同じ文字にしておいて二重カギ括弧でくくれば、十分通じたのではないかと思います。主人公は他人の恋心や秘密を勝手に話してはいけないということが、ある意味最後までわかっていないようで、それを主人公の個性としてとらえていいのかどうか気にかかるところです。小学生のうちは、ついうっかりということですむのですが。でも、そんなことはどうでもいいくらい元気な気分で読み終えられたのは、このコロナ禍の中、大声で叫べないことが増えていて、例え脳内でも読みながら叫んでいて気持ちよかったからもしれません。競馬の実況中継が絶叫系だからでしょうか。華道部のところの二十四節気は何となく知っていたのですが、七十二候の話はよく知らなかったので、いろいろ調べるきっかけになっておもしろ読めました。

さららん:主人公の一人称の語りに、「おーっとどうする」のような、つっこみも交えた三人称的実況が入り、おもしろい効果をあげていますね。次章への好奇心をそそる章の切り方も上手です。心情を風景に投影した描写、例えば「家庭科実習室の壁紙が貼り替えられたように、白くまぶしく見えた」(p131)も、わざとらしさがなく好感がもてました。仲間外れ、ジェンダー、差別といったモチーフが重くなりすぎずに編み込まれ、いやだった自分を変えたい、という主人公の願いも、自分らしさを否定せずに実現させることができて、よかったと思います。文化祭での生け花の実況中継をやめたいと思いはじめる主人公を、無理強いせず、あえて後ろに引いて待つ姿勢の野山先生(p149)に、大人のあるべき姿を感じました。

ニャニャンガ:クラスの人たちを実況中継することで孤立感を紛らわせる発想は、斬新です。友だちから浮きたくなくて目立たないようにしている主人公に、共感する子どもたちが多いだろうと思いました。学生時代の私は孤立するのがいやで無難に受け流した記憶がありますが、今では「浮いていてなにが悪い」と思うので、主人公もその結論に達したのがよかったです。1つだけ気になったのは、頭の中で考えるだけでも、するっと実況中継できるようになるのかしらという点です。もともと才能があったのかもしれませんが、私には無理だと感じました。

ネズミ:私は、友だちづきあいや部活を中心においた本は苦手なんですよね。学校生活で、友だちや部活ありきと思いたくないという気持ちがあって。でも、実況によって自分を客観視していくというのは、目のつけどころがおもしろいと思いました。人のことをよく見ることにもつながっていくので。生け花部を通して、まわりの先輩や同級生のことを知っていくというのはよかったし、作者が成長物語としていろんなテーマを盛り込もうとしているのも好感が持てました。

ハル:まさに今回のテーマの「中学生あるある」という言葉がぴったりの本ですね。2回読みましたが、やっぱり楽しいし、おもしろかったです。なぜか著者の姿が浮かんでしまうのですが、デビュー作の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(講談社)と同じく、とても楽しんで書いているなぁという感じがします。物語から得るメッセージもさまざまありますが、言葉のおもしろさも感じさせてくれるのが、こまつさんの作品の好きなところです。1点だけ、最初に読んだときも思いましたが、肝心の、文化祭の実況が、実況としてはあまり上手じゃないというか、言いたいことが前面に出てくるとリズムが普通になってしまって、実況口調がうすれてしまったのは、読んでいてちょっとひっかかりました。といっても、ほとんど影響ないぐらいのつまずきでしたけど。読後感がさわやかで、心が落ち着くし、ぜひ中学生に読んでほしいです。あ、もう1点ありました。巻末に「『立冬』の『山茶始開』は、ふつう『つばきはじめてひらく』と読みますが、この『つばき』はツバキ科の山茶花(さざんか)のことなので、『サザンカはじめて開く』といたしました」という断り書きがありましたが、これはどうしてツバキのままじゃいけなかったんでしょう?

イタドリ:普通、椿は冬から春にかけて咲くけれど、文化祭のある秋に咲くのは山茶花だからでは?

アンヌ:p198で部長が活けるのが山茶花だからでは?

ハル:なるほど! ありがとうございました。

けろけろ:こまつあやこさんは、力のある、これからの作品が楽しみな作家さんだなと思って、今回選書させていただきました。先日も、児童文学者協会の新人賞を取られましたね。小学校高学年で、自分の失言から仲間外れになって、中学になっても踏み出せずにいる主人公。仲間外れになったときに、「実況中継をしたらいいんじゃない」というアドバイスをされるというところがおもしろいですね。人間関係の外にいったん出るというのは、的確なアドバイスだったかもしれないと思います。中学で、うっかり入った華道部の部員の個性がうまく描けてますね~。特に私の推しは、城先輩。絶対いなさそうな人物だけど、描けちゃうのがフィクションのいいところですよね。私も華道を教わっているのですが、枝を切り落として姿を見つける感じとか、枝はひとつとして同じものがないなど、テツガク的なところがあり考えさせられます。お花をいけるシーンが伏線としてもう少し入ってもいいのかなと思いました。カオ先輩の進路の問題、マイちゃんの出身の問題など、結構盛りだくさんなのですが、バランスを考えたら、枝をもう少し切ってもよかったのではないかと思いました。

雪割草:全体としては、おもしろく読みました。特に、「実況」という語りの手法は、新鮮でした。生け花ショーの実況をするのに、生け花部の部員それぞれを観察するなど、「実況」が一人ひとりを知ろうとする切り口になったり、生け花ショーなので、お花を使ってそれぞれの個性を表現しながら実況したり。でも作品の最初の方は、「実況」がうるさいと感じてしまいました。それから、マイちゃんのお母さんがベトナムの出身であるなど、外国にルーツのある子どもを登場させているのもよかったです。友だちとの関係のところは、仲よしグループのような関係が苦手だったので、実感というより大変だなと思って読みましたが、主人公が、友だち関係のなかで負ったトラウマを乗り越えようと挑む姿は、同年代の読者の共感をよぶだろうと感じました。生け花のことはわかりませんが、日本の伝統文化でもあるし、もう少し踏み込んで描きこんでほしかったと思いました。

ヒトデ:今回の課題になった『ハジメテヒラク』と『チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし』、舞台になる国はちがいますが、どちらも中学生たちの「友人関係」を描いた物語として読みました。はじめは、「脳内実況」に少し乗れないところもありましたが、p20を越えたあたりからグイグイ読み進めることができるようになりました。何よりもまず「実況」という装置が発明だと思いました。地の文と同じ「描写」をおこなっていても、それがより深まっていくというか・・・これまでに読んだことのない「読み口」の文章でした。物語の運びは定石通りではありますが、「人間関係を生け花にたとえていくこと」や「クラスの外で居場所を作ることの大切さを描いている」など、良い所がたくさんあった物語でした。城先輩の恋がむくわれなかったのは、少々残念でしたが(笑)

イタドリ:私もアンヌさんとおなじように、脳内実況しているところと実際にしゃべっているところが同じ活字なので、わかりにくいと思いました。内容についていえば、私が子どもの本を読んだときの感想って、おおざっぱにいえば3つに分かれるんですね。①『彼方の光』のように、「ぜったい読んだほうがいいよ」と、子どもに熱烈に押しつけたい(?)本 ②「なにかおもしろい本ないかなあ」といわれたときに、「これ、読んでみたら」と手渡したい本 ➂「ちょっとやめといたら」と言いたくなる本。これは、②の本かな。さわやかで、明るくて、楽しく読める作品だと思います。生け花については、もうちょっと掘り下げて書いてもいいかなと思ったし、いとこのお姉さんが、最初と最後だけちょこっと出てきて、主人公のヒーローというには、あっさりしすぎてるかな。その軽さが読みやすさに通じるのかもしれないけど。

ルパン:私は何回か競馬場に行ったことがあるのですが、あの馬たちの疾走の迫力に取り憑かれる人がいるのはわかる気がします。地鳴りのような馬の駆ける音とともに観客の歓声と怒号が鳴り響くあの雰囲気をことばで伝える実況放送はすごいと思います。なので、競馬放送の話になるのかな、と思ったら生け花部、というのはちょっと驚きでした。はじめはなかなか入っていかれませんでした。ストーリーはよかったのですが、私は主人公のあみちゃんに、正直あまり感情移入できませんでした。小学校のときにクラスの輪から外れたいきさつも、もう少し同情させてくれるシチュエーションだったらよかったな。というわけで、自分で好きで手元に置きたいという本ではなかったのですが、これを文庫に置いて、悩める年ごろの小中学生に手渡すにはいい作品だと思います。勇気づけられる子もいるかもしれないから。この作者の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』はとてもよかったので、またほかの作品が出たら読んでみたいです。

マリンゴ: 地の文、心の声の実況、会話をうまく重ね合わせていて、新しさがありますね。最後、たたみかけるように感動を連鎖させてクライマックスを作っているところも、本当にうまいと思いました。文化祭当日、大事な実況がぐだぐだになっていくのも、テンパっている感じが伝わってきてリアリティがありました。相手のことを知ると見方が変わり、いじめ突破の一歩にもなる、とエールを送っているのもいいと思います。先ほど、生け花の描写が物足りないという意見がありましたが、これ以上深く踏み込むと、どこの流派かを描かざるを得ないことになります。流派を選ばずに、ある程度、お花のことをちゃんと表現しているという点でも、この作品は巧みだと思いました。また、七十二候の入り方もおもしろく、知らなかったことを教えてもらえました。

コアラ:タイトルではどういう話かまったくわからなくて、カバー袖を見ると、実況の言葉だったので、放送に関する部活の話かと思ったんです。ところが、本文はバスケ部のマネージャーの話で始まり、仲間はずれのことが語られ、いじめの話かと思ったら、突然競馬場に連れていかれるし、バラバラで話が見えなくて、この本は興味が持てないかもしれないなと、ちょっと投げ出したくなりました。それでも、部活で生け花というのは新鮮で、主人公の行動にハラハラさせられながら、飽きずにおもしろく読み終えました。生け花の実況、というのは、私もおもしろい発想だと思います。実況というとスポーツの絶叫を思い浮かべますが、将棋のテレビ放送では実況のように解説していますし、静かで表に出ないものにこそ実況というのはアリだと、この本を読んで思いました。マイちゃんがベトナム人のハーフというのも、物語を奥行きのあるものにしていますよね。それから、主人公の「あみ」の欠点というか、人の代わりに告白してしまうクセが、結局治らなかったのが、私はおもしろいと思いました。欠点を直すことが成長、ではなくて、生け花に出会って人を見る目が変わって世界が広がったことで成長する姿を描いていると思います。中学女子にぜひ読んでほしいですね。

アカシア:職業や部活を取り上げた作品はけっこうあるけど、これはその隙間をついていますね。実況アナと生け花ですもんね。実況っていっても、種類はいろいろあると思いますけど、これは古いけど古舘一朗のプロレス実況みたいなノリ。そこが笑えました。居心地の悪い現実に、突拍子もない実況で切りこんでいく感じが爽快でした。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』にも、マレーシアからの帰国子女が登場していましたが、ここにもベトナムからやってきた口数の少ない少女が出てきます。この作家さんには何らかの志があって、意識して出しているのだと思います。内容は、リアルな物語と言うよりは、マンガ風というかエンタメ的なおもしろさ。私はこの部長がそれほど魅力的な人物には思えなかったせいか、あみがその恋を応援しようとして頑張る下りも、ちょっと白けてしまったし、早月がどこかへ引っ越して音信不通という設定にもリアル物なら無理があると思いました。中学生くらいの年齢だと同調圧力を必要以上に意識してしまうので、共感を呼ぶ作品だと思います。

カピバラ:ひとり実況の形で見たこと感じたことを語っていく部分になると急に生き生きとしておもしろかったです。テンポがよくてどんどん読めました。友だちづきあいにいろいろ悩みはあっても、自分なりに考えながら少しずつ前に進んでいくところに好感がもてました。友だち、先生、親など、それぞれの描写はそれほど深くないけど、特徴をとらえていて人物像が浮かび上がってきました。現代の子どもたちの学校生活を扱った物語って、最近は特にひりひりとつらいものが多いんですけど、この本はそこまで深刻ではなく、気楽に読めて楽しめるし、この薄さもいいですよね、ちょっと読んでごらんってすすめるのにちょうどいい。お母さんがベトナム人の女の子が出てきますが、それがわかってからも、違和感なく同じように接するところもよかったです。タイトルはなんのことかなと興味をひくのでいいと思いますが、表紙のデザインはどう見ても女子向きで、男子は手にとらない感じなのが残念です。男子も登場するし、男子にも読んでもらいたいのに。

西山:表紙がすごくきれいでいいと思っていたのですけれど、「女の子向けの本」の顔になってしまうことのマイナス面もあるのですね。実は・・・こんなに個性がある、特徴的なことがいっぱいでてくるわりには、前に読んで、内容をすっかり忘れていました。言い訳的にいえば、盛りだくさんで、私にとってこの作品が1つの像を結んでいなかったのかなと思います。実況が心の声でもあるんだけども、隠している自分の本音とかいうのではなく(ふと思い出したのは、『ぎりぎりトライアングル』(花形みつる著 浜田桂子絵 講談社)です。おどおどした主人公コタニの内面の声が、がらっとイメージの違う歯切れのいいツッコミ満載だったのとおもしろさでは共通しつつ、質は違うなと)、自分事を他人事にしてしまうというのが、つらい子どもにとってはすごい提案なのかなと思います。「脳内実況してみると、まるで人ごとのようにこの状況に何だか少し笑えてしまった」(p51)とあるように。 人ごとにしちゃうっていうところで、そこに救われる子どもの実情を思うと、闇は深いなという気がします。競馬といえば、『草の上で愛を』(陣崎草子著 講談社)は、広々とした競馬場の空気みたいな印象が残っています。そういうのがなかったかなぁ。

まめじか:この本では、友だち関係にとらわれていた主人公が実況によって、いったん自分を外に置いて、客観的に見られるようになっていきます。友人との距離感がつかめず、自意識にふりまわされていた子が、余分な枝葉を取り払うように心を整えていく過程に好感がもてました。ジェンダーのステレオタイプを破るような男子の華道部部長、ベトナムにルーツのある同級生など、多様な登場人物が出てくるのもよかったな。中学生が手に取りそうで、しかも品のある表紙がすてきですね。後ろのカバー袖に小さく描かれているのはなんでしょうか。スポイト?

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鏡文字(メール参加):意識的に外国ルーツの子を登場させていることに好感が持てました。着眼点がおもしろいし、するすると読めました。ちょっとマンガチックかな、という気もしましたが。けっこう長い間、なぜ従姉に連絡しなかったのかが謎です。

エーデルワイス(メール参加):以前の課題で読んだ『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』が印象に残っていて、今回もよかったです。さわやかで。それこそ胸がキュンキュンしました。『ハジメテヒラク』は華道からきたタイトルなのですね。花を生ける様子に実況をつけるなんて、おもしろいです!中高の部活ですから流派は出ませんでしたが、華道には池坊、小原流など、伝統と子弟制度があり面倒だと思っていました。この物語の華道の様子は自由でいいなと思いました。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』ではマレーシアの帰国子女。今回はベトナムにルーツのあるマイちゃんが登場。アジアが身近に感じられます。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年04月 テーマ:人の痛みに思いを寄せる

日付 2021年4月20日(オンライン)
参加者 アンヌ、エーデルワイス、カピバラ、サークルK、さららん、しじみ71個分、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、まめじか、ルパン、(鏡文字)
テーマ 人の痛みに思いを寄せる

読んだ本:

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『ワタシゴト』表紙

ワタシゴト〜 14歳のひろしま

ネズミ:前に同じ作者の『3+6の夏』(汐文社)を読んで、これも意欲的な作品だとは思ったのですが、私はうまく入れませんでした。それぞれの物語で、今の現実の中でいろんな問題を抱えている子どもが中心になって展開するのですが、現実の問題は解決されないまま。どれもがハードで重い問題なので、苦しくなったのかもしれません。あえてこういう描き方をしているとは思ったのですが。

サークルK:本の扉を開けると、タイトルについて掛詞(私のこと、記憶を手渡すこと)になっているという説明がなされ、手に取った子どもたち、まさに14歳くらいの人たちが読むときには、大きなヒントになることが書いてあるのだろうと思いました。1つ1つ読み進めるごとに、パズルがはまっていくように登場人物と彼らをめぐる出来事が明かされ、よく練られたお話だなと思いました。とくに「ワンピース」は、展示されているワンピースからの声がみさきだけに聞こえてきますが、その声がすべてひらがなで、句点もない独白になっているところ、そしてその内容が素朴で温かくて、最も心を打たれました。ただし、全体に思春期の子どもが抱えている問題がてんこもりのように詰めこまれている感じなので、よく言えばすべて装備されているけれど、すきがないというか、かっちりしすぎている印象があって。いいお話の連作だとは思ったけれども、もうちょっと遊びがあって、読者が想像できる余地を残しておいてくれてもいいのかなというふうに読みました。

西山:まずは、タイトルに、なんと絶妙な!と感心した作品です。戦争に限らず、体験者と非体験者をどうつなぐか─それが大きなテーマだと思うのですが、それが「ワタシゴト」という言葉で、要点を押さえている。5話のうち最初の3話は、今までもあった構造だと思うんです。現代の子どもの今の生活や抱えている問題が、何らかの物やことを通して、戦争体験と重なってつながるという構造。後ろの2話は新しいと思いました。感情的に迫っていくという仕立て方じゃなく、石に対する知的好奇心で被爆瓦にせまっていく。教師たちも一緒に動いていくし、風通しの良い刺激的な作品でした。最終話は、わかっていない子どもにわかっている大人が伝える、という関係に一石を投じていて新鮮でした。子どもの方がよっぽどわかっている場合があるとか、辛すぎて向き合えないことがあるとかいったことは、「伝えたい大人」は頭の隅に置いておいた方がよいと思っています。

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。戦争や原爆を伝える児童書として、これまでの作品とはひと味違うと感じました。子どもたちが頭で知るのではなく、自分の実感を通して追体験するというコンセプトがいいなあ、と。現実の問題が解決しないという声もありましたが、そこがテーマじゃないですよね。たとえば最初の「弁当箱」だと、母親が嫌味を言いながら渡した弁当箱を俊介が払いのけると、弁当箱は下に落ちてしまう。その俊介が被爆資料の黒こげの弁当箱を見て、時間がたってまっ黒にアリがたかっていた自分の弁当箱とその黒こげの弁当箱の両方を頭に思い浮かべる。よくあるタイプの日本の児童文学だと、そこで母親をババア呼ばわりして弁当を無駄にしたことを俊介が反省したりするわけですよね。でも、この作品はそうじゃない。「くそっ、あの日、弁当箱を抱いて骨になったあいつは、どんなやつだった?」(p27)とそっちへ想像をもっていく。そっちへ視野が広がる。ここがすごいところじゃないでしょうか。アーサー・ビナードが『さがしています』(岡倉禎志/写真 童心社)という絵本でやろうとしたことを、これは物語でやろうとしている。戦争や原爆を今の子どもに伝えるのに教訓や説教や脅しじゃなく、とてもいいバランスでこの物語はできている。それに、先生たちがちゃんと大人に描かれているのにも好感を持ちました。赤田さんの後書きに「『ひろしま』には絶望や悲しみだけでなく、人を惹きつける力のようなものがあると、私はこのとき思いました。学校の日常生活ではけっして掬いあげることのできないものが、『ひろしま』にはあるのだなあと思ったのです」(p121)とありますが、私はこの後書きが物語を裏から支えていると思いました。

ルパン:これは、傑作だと思いました。そして、どのお話にもそれぞれにドキッとする言葉がありました。たとえば石のところでは、「あの熱で人も焼かれたのよ」とか、ワンピースのところでは「レースがやけなくてよかった」とか、靴のところでは、「口うるさい妹へのおみやげゲット」とか。中学生の心情が自然体で書かれていると思いました。こういうテーマの作品だと、まじめすぎてひいちゃうことがあるんですけど、これはそれぞれ物語として独立しているので、子どもたちにも自然に手渡せると思います。原爆を目撃していない作家が、新しい形で語り部になっていくんじゃないかと思いました。あと、赤田先生のあとがきは、私はけっこう好きです。「花買って来いよ」と言った男子中学生のエピソードとか、ぐっときました。

まめじか:今の子どもたちの内面と過去の戦争を、原爆の遺品をとおしてつなげる手法がすばらしいと思いました。資料館に入った俊介が「腹を立てながらも、前に進むしかなかった。ここを出るためには、ともかく前へ」と思いながら歩くのを、つらい環境の家を出たい気持ちと重ね、お弁当がなくてカレーパンを食べているのをからかわれたときの思いを「怒りはカレーの味がした」と表すなど、描写が見事です。亡くなった人たちがたしかに存在していたのを感じ、戦争や原爆を自分の問題としてとらえられるようになる過程がよく表されています。黒田先生が「考えていることがみんな同じなんて、ありえない。正解なんて、どこにもない」と思うのも、ひとりひとり受け止め方やその深度が違うことを認めているようで好感がもてました。高校のとき、平和記念公園の慰霊碑の前ではしゃいで写真を撮るクラスメイトを見て、「たくさんの人が亡くなった場所なのに」と言って怒っていた友人がいて、そのときはその気持ちが十分に理解できなかったのをふと思い出しました。中澤さんと赤田さんとの出会いがあって、このような作品が生まれたのはわかるのですが、最後の「私のひろしま修学旅行」は作品の中で浮いているというか・・・。内容はいいのですけど、新聞記事か副読本を読んでいるみたいで。知らない先生が突然出てきた印象です。赤田さんについては、中澤さんがあとがきの中で書けばよかったのではないかと。

カピバラ:原爆資料館に展示された遺品を見たことで、今の中学生が自分の抱えている問題とつなげて考えるという構造がうまいと思いました。過去の出来事と切り離すのではなくて、当時の同世代の子どもが何を感じたかを今につなげることで、何かが生まれることを期待する、著者の希望が伝わってきます。まさに、追体験ですよね。1話ずつがとても短いけれど、会話をうまく使って印象に残る光景を切り取っていく書き方は印象的なのですが、短いだけにちょっと乱暴な描き方だと思うところもありました。短編連作は読みやすいし、今の子どもたちには、どの話かに共感できる部分があるだろうと思います。

エーデルワイス:『ワタシゴト』のタイトルが新鮮で、ささめやゆきのイラスト、表紙、背表紙、タイトル文字がおしゃれでセンスがよく、好きです。この本の出版社の汐文社は『はだしのゲン』(中沢啓治/著)のように、平和を考える本を出しているのですね。5話のうち、「いし」「ごめんなさい」は共感できました。他の話は、子どもの抱える問題と戦争を考えることを無理やり押しこめた感じが否めないように私には思えました。子どもの本は目に見えるところで解決策を提示してほしいと思っています。

ハル:この本も、タイトルどおり、戦争を自分のこととしてとらえさせてくれる作品です。もう少し幼い子に向けた本なのかなと思って読みはじめたら、1話目の出だしからなかなか衝撃的で、ぐっと心をつかまれました。5つある物語は、中には私の中で少し消化不良というか、共感までいかないものもありましたが、「いし」がいちばん好きでした。平和記念資料館をつくった長岡省吾さんのことを彷彿とさせるようなお話で(長岡省吾さんについて書かれたノンフィクション『ヒロシマをのこす』佐藤真澄著/汐文社 もおすすめです)。最後の「わかっています」の重みが、ずんと心に響きます。人それぞれの感じ方、表現の仕方があってよくて、この子はこの子なりに「わかっている」んですよね。小説はここで終わっていますが、きっと、その場にいた子どもたちも本当に絶句するほど、重みをもって響いた一言だったんだと信じたいです。1話、1話、とても余韻の残る作品だったので、巻末の「後付」があれこれあって、ちょっと、饒舌すぎたかなぁ、もうちょっと余韻を味わいたかったなぁという感じもしました。

しじみ71個分:私はたくさん読んだ中から選ぶということができないので、選書担当として、タイトルから当たりをつけて読むしかないのですが、この本は薄いし、『ワタシゴト』というタイトルは、人の痛みを自分事として考えることだろうから、分かりやすすぎるかなと思ったものの、ささめやゆきさんの表紙絵で手に取って読んでみました。読んで「すっごい本だな!!」と思いました。全て、修学旅行で中学生たちが広島の平和記念資料館で亡くなった人たちの遺品を見て、その人たちに思いを寄せ、痛みを感じ、自分にフィードバックして考えるという内容になっている短編集です。短編はシーンをどれだけ鮮やかに切り取るかが命だと思うのですが、すべてが鮮やかでした。すっごくおもしろいなと思ったのは、児童文学の役割そのものを書いているということです。子どもの体験に言葉を与え、誰かが書いた言葉を通して子どもたちが追体験するのが児童文学の一つの機能だと思うのですが、子どもたちが広島の遺品で故人の思いや痛みを追体験したのを、さらに追体験するという構造で書いているところに新鮮なおもしろさを感じました。遺品のバックグラウンドを想像し、自分の中にある言葉にできないもやもやとしたものと照らし合わせて考えるという営みといいましょうか。また、「いし」の章はとくにおもしろかったです。恐らくアスペルガー等の障がいのために、人とのコミュニケーションが苦手な子が、瓦を焼く実験を行い、瓦が溶けるのを見て、どれくらいの高温で人々が焼かれたのかを理解するというアプローチには、斬新さを感じました。追体験させ、語り継ぐという児童文学の役割を正面から考え、書かれた作品だと思いました。でも、何人かがおっしゃったように、たしかに巻末の先生の文章はそんなに長くなくてもよかったかなという気はしました。

マリンゴ: 人よりも「モノ」を切り口に、戦争に対して自分なりの共感、共鳴をしていくところが、非常に新鮮でした。とはいえ、第1話は人物造形がつかみづらくて、読むのに苦戦しました。この主人公の男の子の友だちが出てこないので、それなりに友だちがいるタイプの子なのか、孤高の子なのか、あるいは男子にも疎んじられているような子なのか、そのあたりがよくわかりませんでした。第2話でようやく、この物語の魅力に気づいた次第です。なお、1、2、3話は、自分の持ち物の記憶と、現地で見たものの記憶を照らし合わせるという同じ構造になっているので、違うアプローチの作品を挟みこんでもいいのに、と思いました。タイトルの『ワタシゴト』はとてもいいと思います。戦争を、現代の自分のことに結び付けて考えられるお話はなかなかないのですが、それが伝わるタイトルだと思いました。

さららん:私も『さがしています』を思い出しました。原爆と修学旅行に行った子どもたちを結びつける物の印象が、とにかく鮮明でした。たとえば「くつ」の章で、雪人は優等生の印象を壊そうと、ハイカットのカラフルのスニーカーを履きます。それが黒づくめのおばあさんに「その靴はええね。千羽鶴の柄は、ここを歩くのにぴったりじゃ。やさしく歩くのに、ちょうどええ」と言われたり。思春期にある子どもたちの反抗心や悩みと、広島で見る物、触れる物がどの話でも意外な結びつきを見せるのがおもしろかったです。「ワンピース」の中の、えんじ色のレースの襟のエピソードは、それが声として聞こえてきたりします。物語のそれぞれに埋めこまれた場面の印象が強く残れば、その「塊」を頼りにストーリーを思い出せるんじゃないかと思うのです。五感を通して、子どもたちの記憶に残りやすい物語じゃないでしょうか。新しい取り組みの1冊って感じがします。

アンヌ:私はこの物語の現代と過去がうまくつながらなくて、みなさんがどう読んだのかを聞いて、なるほどなと思っているところです。最初の「弁当箱」で、凛子たちがお弁当の中身を再現した話とその味わいから、作った母親の気持ちにまで至るというところと、俊介が投げ捨てたお弁当に自分の嫌いなおかず以外の何かが入っていたのではないかと思うところには感じ入ったのですが、間の凛子の母親のエピソード等が多すぎて、物語の行方がすぐにわからなくなったのかも。「いし」はおもしろかったのですが、最後の一言にどれほど真実味があるのかと思ってしまったり、「弁当箱」の俊介が最後の赤田圭亮さんのH君のように思えたり、変な読み方をしてしまったようです。

ハリネズミ:さっきから何人かの方が「問題が解決しない」とおっしゃっていることについてです。第一話には、ふだんはお弁当を作ってくれないネグレクト気味のお母さんが出て来ます。14歳だと、客観的にどうなのかは別としてこのお母さんが主観的に唾棄すべきものとして巨大な存在になっている。それ以外考えられないという状態になっているかもしれない。そういう場合、一歩引いたところから状況が見られるようになると、気持ちの上では楽になることもある。たぶんひどいお母さんなんでしょうけど、そこはなかなか変わらない。でもちょっと引いて少し距離をおくと、自分の人生をもう少し広い視野でみられるようになってくる。そうしたら、気持ちが楽になるかもしれない。実体験を通して他者にふれた子どもたちは、日常は変わらなくても別の視点を獲得して生きやすくなっていくんじゃないかな。だとすると、ある意味ではこの作品も、視点を変えるとか視野を広げるという解決策を提示しているのかもしれません。

しじみ71個分:私は解決しないままでいいと思いました。解決したらきっとお話がもっと軽くなってしまっていたのではないかと思います。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『ぼくたちがギュンターを殺そうとした日』表紙

ぼくたちがギュンターを殺そうとした日

アンヌ:主人公のフレディが農家のおじさんの家で暮らしていた時の様子が、丁寧に描かれていると思いました。たとえばp135でレオンハルトの母親と黙々とジャガイモの選別をして、レオンハルトが出てきても、箒で泥をはいて最後まで仕事を終わらせるという描写に、フレディには、もう農家の仕事が身についているんだなと思いました。それにしても、村中の大人がこの子たちがギュンターをいじめたと知っているようなのに、なんでレオンハルトだけは、殺せばバレないと思いこんでいるのか不思議です。難民であるこの一家には、村の様子が入ってこなかったからでしょうか。大人たちも戦争で人を殺し、ユダヤ人を追放した迫害者でもあったのに、自分の村では正しい大人として子供を厳しく罰しようとする。この矛盾に、戦後すぐのドイツという国の葛藤を感じられる物語だと思いました。ただ、それがうまく書けているかと言うと、奇妙などっちつかず感がありました。フレディが物語の終わりごろから妙に傍観者的になったり、作者が大人の話者として顔を出したりするせいかもしれません。

さららん:ギュンターへのいじめからまずいことになり、リーダーのレオンハルトの、「あいつを殺そう」という言葉にフレディは反対できません。力の強いものに弱いものが徐々に支配されていく恐ろしさは、ほかの児童書でも読んだことがありますが、この本の背景、戦後すぐのドイツに東プロイセンから難民が押し寄せた時代のことは知らず、その点だけでも自分にとって新しい1冊でした。親類も復員してきて、フレディのまわりにはナチスのSSだった青年たちがいます。その1人のヴィリーにフレディたちは救われ、グスタフにもフレディは変わらぬ好意を持ち続けることが最終頁(p149)でわかりますが、そこで複雑な思いにとらわれました。SSというだけで偏見の目で見られる時代が続いたのかと思う一方、少年の素朴な感情の中でSSの行為を許して、それですむのかという疑問です。ドイツはホロコーストだけではなく、こういうふうに同国人を受け入れ直してきたのか、という発見がありました。ギュンターはなにかの障がいがあるようですが、最後まで謎の少年で、欲を言えば、もう少し彼の内面を知りたかったです。

マリンゴ: ヒリヒリし過ぎる物語で、途中で何度、本を閉じて深呼吸したかわかりません。普段はそんなことしないんですけど、後ろのほうをめくって、ギュンター死なないよね?と確認してから読み進めました。子どもたちの非常に短絡的な、浅はかな考え方、計画、そういうものがリアルです。大人たちは既にじゅうぶん疑っていて殺したら即犯人はわかるのに、逃げ切れると思いこんでいる視野の狭さが表現されています。そして時代性。大人たちだって殺し合いをしてきたんだから、自分たちがひとり殺したっていいだろう、と子どもが思ってしまう・・・。大人は「戦争は別だ」と考えますが、その理屈が「正しい」わけでもないんですよね。これを読んで思い出した作品があります。まったくタイプが違う小説なのですが、去年末の「このミステリーがすごい!」で1位を取った辻真先さんの『たかが殺人じゃないか』(東京創元社)です。根底に流れる感情が似ていると思いました。これからお読みになる方のためにネタバレは避けますが、御年89歳の作家が書いた昭和24年の物語です。戦争の頃、たくさん人が殺し合った記憶が鮮明で、だからタイトルの『たかが殺人じゃないか』という考え方が生まれるわけなのでした。

しじみ71個分:自分が少年時代に実際にあったことを描いている、と作者の後書きにありますが、第二次世界大戦直後のドイツの雰囲気が大変に理解しやすく、その中で子どもたちの心理をヒリヒリと描きだしているのがすばらしいと思いました。東プロイセンからの難民や、お父さんを亡くした子などが、疲弊と貧困の中で労働させられ、大人から体罰を受けるなど困難を抱えるなかで、行き場のない怒りをいじめとしてぶつけてしまい、それがエスカレートしていく様子にはドキドキさせられました。ギュンターを寄ってたかっていじめたことは、周囲の大人たちにはみんなバレているにもかかわらず、子どもたちは近視眼的になって、ギュンターを殺すことでいじめの事件を隠蔽しようとします。それは家を追い出されてしまうかもしれないなどという不安からでしたが、こういった子どものときの卑怯な気持ちは自分の中にもあったと思い出され、それをえぐり出されるような気分でした。でも、作者は、いじめや同調圧力や、戦争と殺人の境界線など、複雑な難しい問題を大きなあたたかい目で見ていると感じます。大人が戦争で殺した殺人は殺人ではないのかという問いは、決して解決しません。SSにいた従兄のグスタフもいい家庭人であるにもかかわらず、ユダヤの人たちに残酷なことをしてしまったという事実を透明な視線で見ているようです。普通の人が殺戮を行えるという、その細い境界線をいかに考えるか・・・。今にも通じる重要な作品だと思いました。

ハル:原書は2013年発表ということで、最近の本というわけでは決してないのですが、とても新しいものを感じました。こういうふうに戦争を伝えていく必要があるんだな、というか、これからはこういう形で戦争を伝えていくようになるんだろうな、と思いました。戦争を過去のひどく恐ろしい出来事として認識させるのではなく、自分の心の中にもあるものとしてとらえさせ、自分のことに置き換えて想像させ、より身近な問題に落としこんでくれる作品です。ぜひ、主人公たちと同じくらいの年頃の子にも、その子たちを取り巻く親世代の人にもおすすめしたいです。でもひとつだけ・・・注釈は、なければないで不親切だし、あればあったで煩わしいし。特に最初のほうは、注釈で気が散ってなかなか集中できませんでした。巻末とか章末にあるのがいいような? でも、うーん、難しい! 注釈は悩ましい問題です。

エーデルワイス:ショッキングな題なので、覚悟して読みましたが、とてもおもしろかった。作者の実体験に基づいていることに興味を抱きました。宣教師の父親とは何があったのでしょうか? 戦争が背景にありますが、時代を超えた青少年の危うさを描いていると思います。異質なものを排除するいじめの問題、親から子どもへの暴力の連鎖。この本のおかげで同作者の、『川の上で』『ふたりきりの戦争』(どちらも徳間書店)も読んでみました。また同時代、第二次世界大戦末期のドイツと旧ソ連の国境が背景の『片手の郵便配達人』(グードルン・パウゼヴァング/著 高田ゆみ子/訳 みすず書房)、『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール/著 河野万里子/訳 ポプラ社)も読みました。

カピバラ:この著者の『川の上で』を前に読んだのですが、とてもおもしろくて力強い本で、今でも印象深く残っています。今回の本も重厚な作品でした。たくさん子どもたちが出てくるんですけど、どの子もやり場のない不安をかかえ、不安と隣り合わせに生きている。だから自分よりも弱い者が目障りで、いじめてしまう。それがどんどんエスカレートして、後戻りできないところまで行ってしまう怖さがよく描かれていました。大人たちも疲れ果てていて、子どもを虐待したり、理不尽に押さえつけたりしようとする。大人たちも戦争で多くの人を殺しているんだから、ギュンターを殺したぐらいで大騒ぎしないだろう、と少年たちが思ってしまうところは背筋が凍りました。でもそれが戦争の真実なのでしょう。しかしこれは戦争中の異常な空気の中でだけ起こることではなく、今の社会でも起きているので、それが怖いと思いました。私も、殺さないんだよね、殺さないんだよね、殺しちゃったらどうしようと常に緊張しながら読んでいきました。ちょっとホッとしたのは、ギュンターが馬のことに詳しいとわかって、フレディがちょっと見方を変えるところと、ルイーゼという元気な女の子の存在です。戦争の時代の事実をもとにした話として、貴重な本だと思うんだけど、今、日本の子どもたちにどんなふうにすすめたらいいのか、難しいところだと思いました。

まめじか:戦争といじめを重ね、組織的に行われる暴力を描いた作品で、とてもおもしろく読みました。子どもは戦争でひどいことをした大人に不信感を抱き、また家庭によっては体罰や脅しで子どもを押さえつけようとし、そんななかで暴力が連鎖していく。同調圧力から抜け出せない人間の弱さ、フレディが自分の目で見て判断しようとする過程がよくとらえられています。チェコやポーランドの旧ドイツ領だった地域で暮らしていた住人が戦後、土地を追われたことは、ドイツの他の児童文学や絵本でも見たことがありますね。

サークルK:迫害されていたのはユダヤ人だけではないことがわかるので、子どもたちが『アンネの日記』などを読んでナチスに迫害されたのはユダヤ人だけだ、というように思いこんでいるとしたら、ことはそんなに単純ではないのだと気づくことにもなり、新しい想像力の目をひらかれると思いました。ただ、タイトルがショッキングなので、こわいもの見たさに手に取った子どもがどんな衝撃を受けるのかは心配になりました。映画で言うと『スタンド・バイ・ミー』の世界を彷彿とさせるのですが、この物語はみんなが協力してひどいことをしそうになる、その過程で大人になっていくという物語だと思います。最後に「日本の読者のみなさんへ」の中で、作者は物語のフレディなのだと告白しています。日本の、と書いてあるので、原作では語られていないのかもしれませんが。一般的には、一人称の「私」語りであっても、それを作者そのものと重ねて読むことをよしとしないこともありますが、子どもの本の場合、このようなカミングアウトは作品そのものの評価にはあまり影響がないのかしら、ということも気になりました。

ハリネズミ:日本の子どもたちにも共通するテーマが描かれていると思いました。主人公のフレディは、みんなでギュンターをいじめた後気分が悪くなる、お姉さんに相談の手紙を書こうとするけれど実行できない、ギュンターが学校を休んでいるのを知って様子を見に出かけて行くと同じく様子を見に来ていたレオンハルトに遭遇するなど、心のもやもやを抱えて右往左往する過程がとてもリアルに描かれていると思います。いとこがたくさん出てくるので、あれ、いとこの名前が違うじゃないと、最初ちょっと混乱しました。いじめがばれないように殺人を考えるというのは極端な気がしますが、著者の実体験だと知って、戦争が影を落としているこの時代には本当にあったことなのだと怖くなりました。そういう意味では後書きがものを言っていると思います。

西山:ナチスの時代を描いた作品はいろいろと読んできましたが、ドイツの戦後の時期を描いているのを新鮮に受けとめました。あれだけのことを起こし、モラルが崩壊して、それがその後の人生や子どもに影響を及ぼしていないわけがないのに、ハッとさせられたという感じです。隠しているつもりの行動がおとなたちにバレバレとか、子どもらしい迂闊さ?は普遍的で、でもやっていることの桁が違って、怖さひとしおという感じでした。障がい児をいじめて、それを隠すために嘘をつき口裏合わせをする「歯型」を書いた丘修三さんに、読んでみるようすすめたいと思いました。津久井やまゆり園の事件も思い出しました。

ネズミ:物語に入りこむまでに、ちょっと時間がかかりましたが、事件が起こってからは一気に読みました。当時の農村部の暮らしぶりの描写に、『アコーディオン弾きの息子』(ベルナルド・アチャガ/著 金子奈美/訳 新潮社)を思いだしました。ちょうど時代も同じくらいで、人々が手仕事で暮らしている様子が似ています。生活の手触りが伝わってきて。『アコーディオン弾きの息子』では、フランコ側の思想を持つ父親が内戦中に人殺しに関わっているのではということで、主人公は苦しむのですが、大人のやっていることが子どもに反映するというのも同じです。それから、この大人たちの子どもへの接し方は考えさせられました。何が起きたか勘づいているのに口を出さないんですよね。なかなかこういうことはできそうにないので。内容とは関係ありませんが、もう少し字組みがゆるいと読みやすいかなと思いました。

ハリネズミ:ルドルフおじさんが脱走兵だということを、村の人たちは知っているわけですが、密告したりしないんですね。日本だと逃亡兵だとか義務を遂行しない者に対して厳しく糾弾たり密告したりということもあったと聞いていますが、ここにはもっと大らかな人間関係が存在しています。ある意味、村人のその大らかな目は、ナチスに荷担したりSSだった者たちを無条件に許していることにもなるわけですけど。そういう大らかで普通の「いい人」たちが、戦争となると否応なく殺人あるいは殺戮へとつながる行為をしてしまう。そのことをこの作品は浮き彫りにしていると思います。

アンヌ:村の人たちは、だれがナチスの親衛隊だったとか、あの人はダッハウにいたとかも知っているんですよね。でも、駐留軍に密告されたりしないで村で暮らしていける。

しじみ71個分:この本を読んで、先日、JBBYのノンフィクションの学習会で取り上げた『命のうた~ぼくは路上で生きた 十歳の戦争孤児~』(竹内早希子/著 石井勉/絵 童心社)という本を思い出しました。その本の中にも終戦直後の困難を抱える子どもたちの姿が描かれており、それと共通する点を感じました。戦争直後の姿というのは、あまり読んだ経験がなかったので、重く受け止めました。

さららん: p22に、男の子が着るのに恥ずかしいものとして、「股割れズボン」がでてきますが、どういうものか知りませんでした。できれば、注が欲しかったです。

ハリネズミ:私は中国の保育園で子どもたちが股割れズボンをはいているのを見たことがあります。寒い地方や季節だとズボンを脱がなくてもトイレができるので便利なのかな。でもヨーロッパにもあったのは知りませんでした。まあ文字を見ればどういうものかは想像がつきますが。

ルパン:ハラハラしながら読みました。タイトルが「殺そうとした」だから、きっと殺さないんだろう、とわかっていても、やっぱりドキドキしました。どう解決するのか、ギリギリまで引っ張ってくれましたが、私としては大人が出てきて収めてしまうのはちょっと拍子抜けでした。ここで女の子が銃をぶっぱなしてくれたらもっとよかった。せっかくフレディが一生懸命考えたことだから。とてもおもしろくて一気読みだったのですが、登場人物が多すぎてちょっと混乱しました。

西山:子どもはそういうことをするという面がありますよね。昔、元教員から聞いた話です。川で遊んでいて、一人がおぼれてしまった。でも、一緒にいた子どもたちは、禁止されている場所で遊んでいたことを叱られると思って、おぼれた子をそのままにしてしまったというのです。とんでもないけれど、でも、子どもの一面ではある。

しじみ71個分:いじめの果てに殺してしまうのは今の世の中にもありますね。生死の境界、やっていいことと悪いことに関する認識がとても薄く、感情が育っていなくて、結果として殺してしまうというようなことが今でも起こっているのを思うと、本当に難しい問題だと思います。

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鏡文字(メール参加):薄い本だったのですぐ読めるかと思ったのですが、予想以上に時間がかかりました。固有名詞も多く、特に前半は読みづらかったです。イジメの発覚を怖れて殺してしまおうという発想に驚かされますが、事実に基づいた物語とのこと。第二次世界大戦終結直後という、多くの大人たちが人を殺すことに手を染めた時代背景ゆえのことなのかもしれません。父の不在や難民の存在が当たり前という社会状況にあって、だれもが傷を負っており、良きロールモデルもなかなか見出せない子どもたちの姿が痛ましく感じました。終盤ははらはらしながら一気に読めました。おそらく自身も心の闇を抱えつつ、軌道修正を提示するヴィリーが印象に残ります。少年たちのその後を知りたくなりました。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2021年03月 テーマ:歴史と個の物語 自分の人生を生きるというこ

日付 2021年03月16日(オンライン)
参加者 アンヌ、エーデルワイス、カピバラ、コアラ、木の葉、サークルK、さららん、しじみ21個分、すあま、ネズミ、はこべ、花散里、ハリネズミ、ハル、まめじか、マリンゴ、ルパン
テーマ 歴史と個の物語 自分の人生を生きるということ

読んだ本:

(さらに…)

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『王の祭り』表紙

王の祭り

まめじか:時代の波の中で様々な制約を受けている人々が、それでもその中で自分の人生を生きるということが描かれています。主人公のウィルは自信のない子です。父親の仕事を継ぐのが当然だと周囲からは思われているけれど、その覚悟はできてないし、じゃあ何をしたいかというと、自分でもわからない。でもウィルは詩と物語が好きな子なんですよね。だから型通りの言葉を並べただけの暗唱で失敗してしまったのかな。この本に描かれているのは、権力争いの中で庶民が翻弄される、混沌とした闇の時代です。目の前で雑兵が母親の腕を切り落とすし、育てられない子どもが売られていく。そうした記憶が内にたまっていっても、こらえて吐き出さないお国に、狐は「秘めたる怒りを怒れ。心の奥底をわめけ」と言う。お国は舞い、人は芝居をし、あるいは見世物を観て、胸の内に煮えたぎる思いを吐き出すのでしょう。舞台は現実の対極にある夢の世界であり、現実を映したものでもある。「この世は舞台」というシェイクスピアの言葉にもつながりますね。実在の人物では、信長が外に開かれた精神をもち、新しい風を吹かせようとする人として描かれているのがおもしろかったです。複雑な筋の物語なので、中高生はどこまでついていけるのでしょうか。女王を愛しているがゆえに、ほかの人と結ばれるくらいなら殺してしまおうとするレスターの想いの強さ、ハムネットのぎらぎらした生命力というか、どんな状況に置かれても生きのびようとするしぶとさは、もう少し筆を足さないとピンとこないような。これだけたくさんの登場人物を、このページ数の中で掘り下げて描くのは難しいのでしょうが。女王がなぜローマ教会からにらまれているのか、その背景にある国教会とローマ教会の対立は中高生の読者にわかるでしょうか。

ハル:ローマ教会との関係はp15に説明がありましたよね。「女王の父・ヘンリー八世は彼女の母アン・ブーリンと結婚するために、妻のキャサリン王妃と離婚しようとしたが、離婚を禁じているローマ教会はそれを認めなかった。そこでヘンリー八世はローマ教会を切りすてた」。それから「ヘンリー八世は新しくイングランド国教会を設立し、国内のカトリックの教会や修道院を廃し、その財産を取りあげた」とあります。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですが、信長像はこれでいいのかな、と思ってしまいました。信長は立派な君主のように描かれていて、エリザベスは信長に出会って王とは何かを知るということになっているんですが、実際の信長はとても残虐で評判が悪いという側面もあるようなので、ギャップがありました。ウィルの不思議なおばあさんがいろいろと話をしてくれて、妖精と遊びなさい、という部分は作者の想像だと思いますが、おもしろかったです。革手袋とエリザベス女王を結びつけるくだりもおもしろかった。最初の方はぼんやりでぼんくらなウィルが後半になると別人のようにしっかりするのは、どうなんでしょう? 登場人物が多すぎるので、もう少し整理してもいいのかな、とも思いました。トリックスター的な存在だけでも、パック、死の馬車の御者、ハムネットと複数出てきます。女王の暗殺をねらう勢力は2派あるんでしょうか。それとも司教とレスターは手を結んでいるのでしょうか? 急いで読んだせいか、そのあたりが頭の中であいまいになっています。リアリティという点では、一座の主のお豊がスペイン語が話せるのはありか?と思ってしまいました。それから、ふつうこういう物語では異世界に行っている間は時間がたたなかったりしますが、日本は異世界ではなく現実世界なので、ちょっとひっかかりました。

アンヌ:また信長かと読み始めましたが、イギリスのウィルの話になってからは、とてもおもしろくなりました。おばあさんのおまじないの方法とかパックの帽子とかの仕組みもうまく仕込まれているし、手袋の古びをつけるためにウィルを城に連れて行くとか、おもしろく話が進んで行きます。エリザベートが出て来てマンガの『ベルサイユのばら』(池田理代子/著 集英社 )のような宮廷の恋かとおもしろくなったところで、日本にワープしてしまうのは残念でした。お国については、怒りを踊りにするところとかがうまくイメージできなくて、出雲阿国へのつながりが読み解けませんでした。ただ、お国たちや河原にいる人たちがみんなで今様を謡い踊るところに『梁塵秘抄』の歌も出て来て、いつかこれを読んだ人が学校で古典を習うときに、「あれ、この歌、いつか読んだ物語の中に出てきたな」と思えたらすてきだと思いました。『平家物語』や後白河法皇との関連で知ってしまうと、白拍子が権力者のために舞い踊る歌のように思いがちですが、もともとはこんな風に大衆の中から生まれてきた歌だという事が感じられる場面です。コンフェイト(金平糖)や抹茶がこの時代のものとして出てきますが、そんな風に物語の中で無意識に味わった食べ物や古典文学に、大人になってから再び出会い、気付けたらすてきだと思います。

はこべ:アイデアがおもしろいですね。特に前半は、ささっと読んでしまいました・・・が、思いだしてみると、訳がわからない箇所が出てきて(ラベンダーの花模様の小箱は、いったいどうなったのかなとか)、まめじかさんにメールで訊いたりしました。総じて、イングランドが舞台の部分は、すらすらと物語が進んでいるし、よく調べて書いているなと思いましたが、日本に舞台を移してからの後半は、盛りだくさんの上に駆け足で書いているという感があって、不満が残りました。どうしたって日本史のほうが馴染みがあるので、しょうがないかもしれないけれど。それと、登場人物がとても多いので、最初に登場人物の紹介を書いたほうが良かったのでは? さてさて、読みおわってから、作者は何が言いたかったのかなと考えてしまいました。おもしろかったら、それでいいのよ・・・と、言われそうですけどね。わたしはアメリカの少年がタイムスリップしてシェイクスピアの劇団に入るスーザン・クーパーの『影の王』(井辻朱実/訳 偕成社)が大好きで、あの作品にはファンタジーのおもしろさだけでなく、ずっしりと心に響くものがあったと記憶しているけれど・・・。

コアラ:おもしろく読みました。歴史上の実在する人物を書いているのに、窮屈さがなくて、自由に想像をはばたかせている感じがとてもよかったと思います。エリザベス女王と織田信長を対面させるというのも、一見無理がありそうですが、なんとなく設定を受け入れて読み進めることができました。作者がうまいのだと思います。お国たちの小屋にエリザベス女王がかくまわれるというのは、さすがに無理があるとは思ったのですが、それでも読み進めることができたのは、それまで、それぞれの人物や生活がしっかり描かれていて、物語の中に入り込めていたからだと思います。信長がカッコよく描かれていますが、作者は信長が好きなんじゃないでしょうか。好きな物事を書いている、という感じがあって、好感を持って読みました。シェイクスピアにまつわる部分も楽しめたし、歴史上のことを知っていると、より楽しめると思いますが、知らなくても、不思議な体験をするファンタジーとして、おもしろく読めると思います。織田信長さえ知っていれば十分楽しめる。小学校高学年くらいからおすすめです。

エーデルワイス:私も楽しく読みました。よくも、よくもこんなに盛りだくさんの内容を、と感心しました。NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていたので、明智光秀も出てくるこの本はタイムリーでした。映画「エリザベス」やエリザベスの母アン・ブーリンの映画「1000日のアン」も思い出しました。細かいことを言えばうーんと思うこともありますが、時空を越えて日本の歴史とイギリスの歴史をドッキングさせるなんて、こういう発想はおもしろいと思います。

マリンゴ: 評価が難しい作品だと思いました。よく評価すれば、幻想的で先が読めなくて、生きる力強さと儚さが同時に感じられる物語であると言えます。ウィルが後のシェイクスピア、というのもおもしろいです。劇中劇も、あ、ロミオとジュリエットっぽい、と仕掛けがわかるのも楽しいと思いました。ただ、悪く評価すれば、バランスが悪いようにも思います。イングランドのパートはおもしろいのだけれど、織田信長の時代に移ってから読むスピードが落ちました。7年のタイムラグがあるのは、お国を登場させるためだと思いますが、そのせいで、信長がすぐに暗殺されます。王同士がわかり合うには時間が短すぎる気がしました。ウィルとお国、信長と女王の両方の巡り会いを1冊に入れて、盛りだくさんではありますが、多少無理が出ているように思いました。あと、装丁からは「洋」の香りがあまり漂ってこないので、少しもったいないかなと感じました。

さららん:とても読みやすい文章で、おもしろくて一気に読みました。エリザベス朝の詩や、日本の曲舞、古い言い回しもいろいろ出てきて、言葉の重層感を楽しみました。設定もダイナミックで、かっこいいキャラクターも出てきます。ただ伏線が複雑にからまりあい、せっかくの魅力的な登場人物(例えばエリザベス女王の女性の護衛など)が使いきれていないように思われ、盛り込みすぎの印象を受けました。エリザベス女王は自ら決断して行動する存在としてではなく、悩める人として登場します。日本に来たあと信長に強烈な印象を受け、王たるものはどうあるべきかを考えはじめるのですが、私には人物像として物足りませんでした。女王暗殺の陰謀をイギリスで企んだイエズス会のエセルレッドが、日本で女王に再会するなど、手の込んだ設定もあります。ただ、エセルレッドは物語の本筋から離れたあと、「弾圧される日本の信者とともにあれ」と禁教後も逃げつづけたといいます(p311)。浅薄な敵役のイメージだったので、そこまで書く必要があったのか、わかりませんでした。

すあま:時間の流れについては、p5が「1575年日本」、p18が「1575年イングランド」となっていて、ここは同じ時。イングランドから日本に来たときに、日本の方の時が進んでいたので、お国は年をとっていたのですが、ウィルは11歳のまま。イングランドに帰るとまた1575年だったということで、ウィルは行って帰っても年はとらなかった、ということだと思います。この著者は2010年に『けむり馬に乗って〜少年シェイクスピアの冒険』(叢文社)という本を出していて、あらすじを見るとほぼ同じだったので読み比べようと思ったのですが、この読書会には間に合いませんでした。物語については、やはりちょっと登場人物が多すぎて、それぞれの人物についての物語や描写が中途半端になっていると思いました。登場人物たちがこの後どうなるのか、続きがあってもよいような話なので、これだけでは物足りない感じがします。お国が出雲の阿国でウィルがシェイクスピア、というのは、大人はおもしろいけれど、子どもにはわからないのでは。

サークルK:すごくおもしろかったのですが、p45あたりになってようやくウィルとはウィリアム・シェイクスピアのことだったのだ、とわかりました。そこまで読み進むまでは信長の話に、エリザベス女王がどのように絡んでくるのかつかめずに、気の弱いウィルの存在をつかみかねました。たしかに信長とエリザベス女王は同時代の人なので、目の付け所はおもしろく、歴史を習い始めてそれが好きな子どもたちにはぐいぐい引っ張られる展開だと思いますが、あまりに勢いに任せて進んでいくので、読後はそのスペクタクルだけが残ってしまうのではないかと気になりました。登場人物も日英それぞれ歴史上重要な人物なので、その人たちが架空の世界でこれだけ動いてしまうと、一通りの日本史、世界史を知っている大人でさえも、頭を整理するのが大変かもしれません。ですので、表紙にもなっている「死神の馬車で女王一行が信長の城に突っ込んでいく場面」以降は史実の整合性よりもタイムスリップとかエリザベス女王はちゃんとイギリスに帰国できるのか、というところに集中して読むようになりました。革手袋を作る職人階級のウィルの祖母が、上流階級風の口調で語っているところも気になりました。けれど、エリザベス女王が、王としての風格十分で国を引っ張る女性としての描写が多かったので、読者の女の子たちへのエールになることも感じられました。

西山:前の『けむり馬に乗って』も読んでいます。かなり手を入れたとは聞いていますが、構成や登場人物は変わっていないと思います。何度読んでも、その都度読む快感を感じる作品です。いちばんに魅力を感じるのはパックですね。人間とまったく違う理屈で生きている存在が、愉快です。場面場面に演劇的なおもしろさがある気がしています。例えば、p32最終行の、母親がウィルを抱きしめて、口に干しアンズを押し込む場面など、どきりとして、映画のワンシーンのように思い浮かびます。お金をつぎこんで作った実写映画が見たいとかなり本気で思います。建物、装束、人物などなど、極上の歴史エンターテインメント映画になると思うんですよね。手袋を届けに訪れたケニルワース城でウィルたちの部屋が調えられていく様子とか、見たいシーンがたくさんあります。教科書に名前が出てくるけっこうな有名人が、続々と登場するオールスターキャスト的おもしろさもあります。それも、世界史は世界史、日本史は日本史で習うことが、クロスするのが中学生ぐらいの読者にとってもエキサイティングだと思います。絢爛豪華な名前が出てくるだけじゃなくて、ウィルの人物造形としては、父親の抑圧で自己肯定感がもてないことなど、時空を超えた普遍性があります。その点でも、子ども読者に伝わる作品だと思っています。日本に行ってからのウィルがちょっとしっかりしすぎなのは、興ざめかもしれません。最初のときは、細かな年表があったけれど、なくなったのがよかったのかどうか。表紙は断然よくなっていると思います。サブタイトルの「少年シェイクスピア」がなくなってしまったので、『王の祭り』で初めて読む人が、ウィル=シェイクスピアと気づくのに時間がかかってしまうのは、マイナスだったかもしれません。シェイクスピアと最初から知っていて読むと、あの作品の元ネタはこれ?みたいなマニアックな楽しみも出てきますので。

木の葉:改稿前の作品『けむり馬に乗って』と比べると、『王の祭り』は30ページ分ぐらい増えています。物語の大筋は変わってませんが、かなりの加筆修正を施しているようです。私はどちらも刊行直後に読んでいます。今回、読み直す時間がなかったのですが、読みやすくなったと思った記憶があります。一度出した本を別の形で出版するというのは、よほど愛着があったのでしょうね。為政者である信長とエリザベス1世、そして文化を担う者である出雲阿国とシェイクスピアを同時代人として物語に登場させるという着想を得た時、作者は夢中になったのかも、などと想像してしまいます。盛りだくさんのエピソードで、印象に残っているのは、手袋をめぐるくだりです。とはいえ、やはり読者を選ぶかな、という気もしました。歴史的なことにある程度の下地がないと、世界に入りづらいかも。信長はファンも多くラジカルな人ではあったようですが、どうしても叡山焼き討ちなどが頭に浮かんでしまいますし、為政者としての魅力を私はあまり感じていません。もともと権力者の話にあまり関心がもてないこともあり、信長とエリザベスの邂逅? それが? みたいに思ってしまう自分もいて、よく作り込まれてはいるけれど物語世界に心惹かれる、というわけではないというのが、正直なところです。

ハル:私はとってもおもしろかったです。遠い昔に生きていた人たちの物語を想像することで歴史が立体的に見えてきますし、悠久の時の流れのロマンを感じます。ロマンといえば、信長って、やっぱり作家にとっては、こうもロマンを掻き立てられる人物なんだなあと思ったり。でも、皆さんがおっしゃるような信長の残虐性については、時代性も加味しないといけないとは思います。登場人物としては「お国」がちょっと弱いかなぁと思いました。ときどきズバッと庶民代表みたいなセリフを言ったりもしますが、なんでこの子がこういうことを言うんだろうと、共感できるほどには人物に深みを感じませんでした。そのほか、物語上気になる点はいくつかありましたが、全体的にはおもしろかったです。ただ、この本を、いったい何部、誰に売ろうか、と我がこととして考えると頭が痛いというか・・・。YA世代の読者にどうしたら届くのかなぁって・・・。余計なお世話ですけど。

ルパン:この本に関しては最初に発言してしまいたかったんですけど・・・でも、みなさんのご意見を聞いてからでもやっぱり感想は変わらないです。まったくおもしろいと思いませんでした。「みんなで読む本」でなかったら40ページくらいでやめてたな。次々いろんな人を出してくるけど出しっぱなしだし、実在の人物も架空の人物もごちゃまぜで、何しに出てきたんだかわかんないのばっかりだし。エリザベス女王と信長を会わせてどうすんだ、っていう感じで。いろんな通訳が都合よく出てくるのも無理があるし。好きな子のために異世界にとどまることもないし、イギリスへの帰り方もよくわからないし。しかも主人公はシェイクスピアでしたとか、あとがきで、劇中劇は実は『ロミオとジュリエット』だったんですよ、とか、なんかもう作者がひとりで遊んでるのにつきあわされた、っていう感じで腹立っちゃって。しかたなく最後まで読みながら、「あ、そうか、この作品にはきっと続きがあるんだな?! 第2巻で、この三つ子とか〈ばばちゃん〉とかが出てきて活躍するわけね」って思ったんだけど、これで終わってるし。みなさん「おもしろかった」とおっしゃっているので、なんか水族館の回遊水槽のなかで1匹だけ反対向きに泳いでるイワシみたいで申し訳ないですが、はっきり言ってつまんなかったです。ゴメンナサイ。

ネズミ:非常に意欲的な作品だと思いました。私はファンタジーが得意ではなく、途中で頭がこんがらかりそうになりましたが。イギリスの場面と日本の場面とで、イギリスの場面のほうはウィルの気持ちにそって読んでいけるのですが、日本は、お国がそれほど前面に出てこなくて、群像劇のような感じがしました。それだからか、場面によってテンポに乗りづらく、読みにくく感じるところもありました。1箇所だけ気になったのは、p11の「青い目の伴天連」という言葉。伴天連はポルトガル人かスペイン人かではないかと思うので、だとすると、目の色は茶色や黒だったのではないかと。裏をとっていないので、間違っていたらごめんなさい。

花散里:とてもおもしろく読みました。先程、YA世代はどう読むかと言われていましたが、小学校上級くらいで読めるように書かれていると思います。ウィルと妖精パックが物語の中心であり、ファンタジーとして読んだときのおもしろさが非常にあり、日本児童文学の中でもとても良く書かれている作品だと思いました。物語はシェイクスピアがウィルと呼ばれていた少年時代にパックと出会い、エリザベス女王の暗殺事件に巻き込まれ、女王を助けよう馬車に乗り込んで、時空を超えて降り立った所が日本の都であり、少女の頃の出雲のお国と出会うというストーリーは壮大な歴史ファンタジーだと思います。エリザベス女王と信長、イギリスと日本の戦国時代を結ぶ物語は、ペスト菌や手袋の挿話などを盛り込み、庶民と権力者の生活を対比させて世相を描き、飽きさせない趣向が随所に感じられるなど、題材が独創的であると思います。参考文献が多く挙げられ、物語の時代背景について充分に調べてうえで丁寧に物語が描かれたことが伺われます。日本の児童文学としては稀にみるスケールの大きなファンタジーとして高く評価できると思いました。子どもたちに向けて書かれた「あとがき」からも、子どもたちがそこから歴史や文学に関心を広げていくように書かれていると思いました。佐竹美保さんの挿絵で新しく刊行されたことにはとても意味があると感じました。

カピバラ:おもしろいことを考えたよ~という本だなと思いました。いろいろとつっこみどころはあるんですけど、信長も、出雲のお国も、エリザベス1世も、シェイクスピアも、真偽のはっきりしない逸話が多い人たちなので、どんなふうに料理しようとも自由だ、というところがあるのだと思います。そしてこの4人が同時代に生きた人物だというところに目をつけたのがおもしろいと思います。『江戸でピアノを〜バロックの家康からロマン派の慶喜まで』(岳本恭治/著 未知谷)というおもしろい本があって、私は時々開いてみるんですが、上の段に徳川15代将軍が順番に紹介されていて、下の段には同じ時代のヨーロッパの音楽家のことが書かれているんです。綱吉とバッハ、家重とモーツアルトといった具合にね。日本とヨーロッパで同じ時代に生きていた人たちということで、『王の祭り』もこれと同じ発想ですよね。この物語の時代にはグローバル化なんて概念は当然ないわけですが、今の子どもたちは今この地球上で世界にどんなことが起こっているかを知って、地球はひとつという意識をもっていかなければならないので、この本のような視点をもつことは大切だと思います。実在の人物が登場する物語ということで、歴史に興味をもつきっかけになるといいなと思います。

さららん:最後にレスター伯爵が、女王に箱に入った手紙をさしだします。前にレスターからの箱を開いて森に入っていく場面があったけれど、これは別の手紙なんですね?

カピバラ:細かいことを気にしないで楽しめばいい本なんじゃないかな。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『彼方の光』表紙

彼方の光

木の葉:読み応えがありました。2人の逃亡を助けてくれるのは善人ばかりではないし、現代の考え方だと肯定できない人もいることにリアリティを感じました。黒人差別を扱った読み物では、主体的で向上心のある人物像が描かれることも多いですが、この本の主人公はそうではなく、境遇ゆえに、とくに最初の頃は無知で無力。いつまでも奴隷主をだんな様と言い続けるのが切なかったです。彼らを助けるさまざまな人の中では、川の男が心に残りました。とても苛烈ですが魅力的です。このところ日本でも多く翻訳されている黒人の苦難の物語を、アメリカの白人の子どもたちはどんな風に読むのか興味があります。というのは、日本の読者にとって、黒人差別の問題はホロコースト同様、ある意味では良心の呵責なく読むことができるからです。日本人がもっと取り組まねばならない日本の問題がある、ということでもあるのですが。それから、逃亡先としてのカナダという国について、もっと知りたくなりました。

ハル:それがもっとも悲しい部分なのかもしれませんが、主人公の少年が逃亡すること自体に消極的だったためか、劣悪な環境に私の気持ちが引っ張られすぎたからか、期待したほどハラハラドキドキはできませんでした。小説としてのおもしろさは、私にとっては満点じゃなかったです。木の葉さんもおっしゃっていましたが、白人の子や、いまの子たちが、どう読むのかなというのは、私も気になりました。

ルパン:私はとてもおもしろかったです。はじめ、サミュエルが、白人の所有者から逃げ出す意味が全然わかっていないところにイライラして、「ちゃんと言うこときいて!」とか「つべこべ言わずにハリソンについて行け」とか「なんでこの子を連れてくんだ!?」とか思いながら読んでいたんですけど、最後の最後で機転をきかせて、一緒にいたおとなたちも助かっちゃうところでは、「よーし!よくやった!」と、思わずガッツポーズでした。あと、せつなかったのは、白人のドレスを何枚も盗んで重ね着して逃げていく黒人女性が、「川の男」に、それを脱いで置いて行けと言われるのに脱ぎたくなくて、最後は川に流されてしまうところです。死と引き換えてでもきれいなドレスを着ていたかったのかな、と思うと・・・この女性も記録に名前が残っているんですよね。実在の人物とあるだけに、このあとどうなったかと思うと心が痛みます。

ネズミ:物語として楽しんで読みました。きっとカナデイにたどり着くのだろうと思って読み進めたのですが、途中で思いがけない展開があって、ドキドキしながら先を読まずにいられませんでした。当時のさまざまな事情が物語にとりこまれていますが、その一方で、予備知識がなくても楽しめる作品になっていると思います。ハリソンの冗談めかした口調など、登場人物の言葉づかいがていねいに訳され、物語としての豊かさを感じました。

花散里:表紙画から感じる重たい暗い印象が、読んでいてもずっと続いているような気がしました。顔を傷つけられたり、ろうそくの火に手をかざさせられたり、人としての尊厳を奪われ、まるで物や道具のように売り買いされ、家畜のようにこき使われた奴隷たちについて、現代の子どもたちはどのように読むのかと思いました。現在でも問題になっている黒人差別について、このような歴史的背景を知り、この本からも考えてもらえたらと思いました。川の男や、たくさんの服を着て香水をつけた女の人など、登場人物も印象的な人がいて、物語の厚みを感じましたが、「シゴーコーチョク」は子どもに意味がわかるのでしょうか。「あとがき」の字が小さくて大人に向けて書かれているのかと思いました。地下鉄道についてなどを知るためにも最後の地図は役立つと感じました。

カピバラ:タイトルから、きっと最後は光が見えるのだろうと予測できたのですが、それでもやはりハラハラどきどきの連続で、帯に書いてあるとおりまさに「一気読みの逃亡劇」でした。非常に過酷な状況が描かれていますが、主人公サミュエルの子どもらしい見方や考え方がときにほほえましく感じられるのに救われました。情景描写が細やかなので臨場感がありますが、すべてサミュエルの目を通して描かれているのが良かったと思います。たとえば、p165真ん中あたり、「頭の上には、大きな鉄製のランプが天井からさがっていた。思わず、黒いクモがあおむけになって、足の一本一本に白いロウソクをもっているところを思いうかべた」。情景がとてもよくわかると思います。
印象に残った描写が随所にありましたが、中でも、p113で川を渡してくれた男が語ったことです。「老人と旅をしたことがある」というんですね。8歳の時、年寄りの黒人と鎖でつながれて歩かされた。「その老人は、おれたちをつないでる鉄の鎖をもちあげて、その重さができるだけおれにかからないようにしてくれた」という部分です。ハリソンはぶっきら棒でサミュエルに優しい言葉などかけはしないけれど、この老人と同じ気持ちを持っていることを暗示していると感じられ、印象に残りました。だからこそ、ハリソンがおじいちゃんだと気づくところは感動しました。地下鉄道を扱った物語は今までもいくつか翻訳されており、私もそういったものを読んで初めてその歴史的事実を知りましたが、まだまだ数は少ないので、この本が翻訳されたことはとても良かったと思います。今またBlack Lives Matterで日本でも関心を寄せる人が増えてきたので、子どもたちにも知ってほしいと思います。一般文学では、奴隷制度を扱う場合にどうしても事実を知らせるという意味で残忍な描写を描くことが多いですが、児童文学は、奴隷制度に抵抗する活動として「地下鉄道」にかかわる人々の勇気や人間愛を描いて、過酷な運命や差別を乗り越える力を伝えようとすると思います。それが大人から子どもへのメッセージになっていると思います。

まめじか:サミュエルは物音に驚いて急に逃げだすような臆病な子で、絶対に川に入らないと言い張るなど、強情な面もあります。そんなふつうの、等身大の姿が描かれているのがよかったです。農場の狭い世界で育ち、トウモロコシ畑より先には行ったことのなかったサミュエルは、「わしらのもんはなにひとつない」「池という池、魚という魚はぜんぶ白人のもんだし、連中は、わしらのもってるもんはなんであれ取りつくそうとする」というハリソンのせりふに集約されるような状況で、自分の人生を取りもどすための旅に出ます。命がけの逃避行のあいだ、深い悲しみの中にあって現実と幻の境がつかなくなったテイラー夫人やグリーン・マードクなど、いろんな人に出会います。決して善意で動いているような人たちだけじゃないし、黒人谷で暮らす人々も、中には助けてくれる人もいれば、見捨てる人もいる。サミュエルは人に会うたびに、信用できるかを判断し、その過程で人を見る目が養われ、最後には知恵を働かせて危機を脱する。そこに説得力がありました。

ハリネズミ:アメリカの国内だとまだ奴隷所有者に雇われた追っ手に捕まる可能性があるので、別の国であるカナダに逃げるのですね。では、カナダが過去に人種差別のまったくない国だったかというと、そんなことはなくて、先住民に対する差別はずいぶんあったと聞いています。アメリカやカナダには、Black History Monthという黒人の歴史を学ぶための月があって、アフリカ系の人たちが連行されてきたことや、社会の中で果たしてきた役割を、学校などでも勉強するんですね(あとで調べたら、今はイギリス、アイルランド、オランダなどでも同様の月間があるようです)。そういう際には、このような本も使って、白人でもアジア系でもみんなアフリカ系の人たちのことを学び、多様な見方を身につけていくんですね。そしてそういうところから、たとえばローラ・インガルス・ワイルダー賞という名前も、白人の歴史しか見ていなかった作家の名前を冠しているのはまずいんじゃないかという意見が出てきて「児童文学遺産賞」に変わったりする。一方、社会を変えていくための様々な工夫が、日本ではとても少ないので、女性差別にしてもなかなか変わらないんじゃないかなと思います。この本で何を日本の子どもに伝えるか、という点で言うと、いちばんはカピバラさんもおっしゃっていたように、「地下鉄道」のことかと思います。実際に鉄道があったわけではなく奴隷を逃がすための人間のネットワークですが、この「地下鉄道」にかかわったいちばん有名な人はアフリカ系のハリエット・タブマンという女性で、「車掌」(案内人)になって、多くの奴隷の逃亡を手助けしました。タブマンは20ドル札の絵柄になることがオバマ政権で決まっていたのですが、トランプがストップさせ、今はまたバイデンが実行しようとしているようです。タブマンは黒人ですが、白人も先住民も逮捕覚悟でこの「地下鉄道」の担い手になっていたのです。中には金儲けになるからと考えた人もいるのでしょうが、それにしても見つかれば重罪になるわけですよね。そうした危険にもかかわらず、人間を人間として扱わないのはおかしいと考える人たちがいたことを知るのは、日本のこどもにとっても希望になると思います。斎藤さんの訳もいいし、ずっとこの子の視点から旅路を追っていくのがとてもいいと思いました。希望はなかなか見えてきませんが、「光」という言葉があるのでそれを頼りに読み進めることができると思います。

アンヌ:読み始めた時はサミュエルたちがカナダを目指しているとは気付かず、暗闇の中を行くような逃避行だと感じて読むのがつらく、何度か本を置きました。川の男に会って「自由黒人」という言葉を知り希望を持て、そこからは一気読みでした。黒人谷で病床のハリソンの枕元でベルが「沈黙は永遠の眠りを招く・・・だから、あたしは家のなかをたくさんの言葉で一杯にするの」と言う。このp235のベルの言葉は、言霊で命を結び付けようとするようで、好きな場面です。そして、そんな瀕死の時でもハリソンがサミュエルに祖父と名のらないほうがつらくなくていいと思い込んでいることに、とても悲しい思いがしました。読み終ってから地図があるのはよかったと思いました。表紙の絵は、原書では三日月と身をよじる少年の絵だったけれど、日本語版は満月と影絵で、なんとなく希望を感じられて、いい表紙だと思いました。

はこべ:最初は頼りない主人公が、逃避行をつづけるうちに成長していく様子と、史実に基づく重みが2本の柱になっている力強い物語で、一気に読んでしまいました。冒頭の、主の息子が主人公を残酷な目にあわせる場面にあるように、観念的ではなく、すべて細かい描写で綴っていく手法が効果的で、素晴らしいですね。特に、川の男。こういう人物を創り上げる作家はすごいと思ったら、実在の人物なんですね。主人公たちを救う活動に協力しながら、銃をつきつけて相対する未亡人も、実際にモデルがいたのではないかしら。克明な描写で登場人物の背景や心の内まで浮かびあがらせているのは、優れた翻訳の力があってこそだと思います。たしかに描かれている事実は暗いものだけれど、子どもの目で語られているので理解されないということはないし、暗いから、難しいからとためらわずに、ぜひ子どもたちに薦めていただきたい本だと思います。

コアラ:地下鉄道のことは、この本で初めて知りました。多くの人がサミュエルとハリソンを助けてくれますが、相手が本当に味方なのか、裏切られるんじゃないかという状況が、サミュエルの側に立って書かれています。ハリソンでさえ、途中で、訳のわからないうわごとみたいなことを言うんですよね。何を信じたらいいかわからない状況に放り込まれた感じで読みました。印象的だったのが、p169で、ハリソンが「紙に書いたものが嫌いだ」と言って、牧師が書いた自分たちの物語を破って捨てたこと。善意が相手に喜ばれるとは限らないことがよくわかったし、それほどハリソンがつらい思いをしてきたということが、読んでいてつらかったです。p266の4行目では「あのときのぼくはカナダのことを考えようとしていた」という文章が出てきます。あ、助かったんだな、助かった後でそのときのことを振り返った文章なんだな、と思いました。それで、そのあとの場面でつかまった時も、どんな風にこの絶体絶命の危機を乗り越えるんだろうと期待して読むことができました。「あのときのぼくは〜」のような文章は、けっこう大事だと思います。あと、花散里さんと同じように、私も「あとがき」の文字が小さいと思いました。地下鉄道という言葉は「あとがき」にしか出てこないんですよね。この文字の小ささだと、本文を読み終わった子どもが「あとがき」まで読むのかな、とちょっと残念でした。暗い感じの物語だけど、日本の子どもたちにも知ってほしいと思いました。

エーデルワイス:サミュエルが、賢い機転の利くような子ではなく、逃亡に引きずられるようについていくような、好奇心と少年らしい危うさがあり、そこが好きです。そして最後の最後でみんなを救うところが素敵。購入した本には「史実に基づいた・・・」とあるようですが、図書館の本には帯がないので、あとがきを読むまでそのことはわからない。地図は最後でよかったのか、最初にあった方がよかったのか、疑問に思いました。サミュエルが追い詰められる、不安な心境の表現に、p12に「ぼくはのどがつまるような気がした。まるで、大きなヘビがのどに巻きついたみたいだ」とありますが、この表現は度々出てくるので、いかに厳しい逃亡かわかります。ハリソンはサミュエルの母親の合図の毛糸玉を見て逃げることを決意するのですが、果てしない距離を、人から人へと繋いで運ばれてきたことを想像すると、すごいネットワークだと思います。またカナダまでの逃亡ルートがわかっていて底力みたいなものを感じました。

マリンゴ: 教育をあまり受けず、常に威圧されながら育った黒人の少年の、いつも怯えて追われているような、自由とは何かを考えたこともないような感じが、とてもよく伝わってきました。人に恵まれて、裏切られることがないので、逃亡劇としては順調だけれど、ハリソンが病気になったり、白人のパトロールが来たり、最後の最後、船に乗る前にクライマックスがあったり、山場が作られているので、ハラハラしながら一気に読めました。どうでもいいことをしゃべり倒している白人の行商人など、キャラクターがそれぞれ立っているので、物語がより魅力的に思えます。地図を見たい!と思ったら最後に用意してくれていたのもありがたいです。

しじみ21個分:大変に重厚で、読み応えがある作品でした。アメリカの作家が主にはアメリカの子に向けて自国の歴史について書いているのだろうと想像したのですが、今のブラック・ライブズ・マターを考える上で必ずアメリカ国民として知ってなければいけないことなのではないかと強く感じました。私は察しが悪くて、なんでハリソンが足手まといになるサミュエルを連れて逃げるのか、全然わからなかったのですが、あとで謎解きがあって、「あー!」と思いました。私も川の男の印象はとても強くて、ドレスにこだわって駄々をこねるヘイティの乗る舟を足で川にけり戻してしまうシビアさに、逃げる方も支援をする方も命懸けだったということを感じるとともに、彼がサミュエルに伝えた言葉が最後にサミュエルを鼓舞し、みんなを救ったという結末に結実してさらに印象深くなりました。逃避行の間、サミュエルとハリソンが暗い中でずっと息をひそめ、身を隠していなければならなかったつらさは想像を絶します。でも、逃げおおせて最後に「ヒャッホー」と終始気難しかったハリソンが歓声を上げて、青い空を見上げている場面には大きな解放感があり、とても読後感が気持ちよかったです。黒人奴隷の歴史の事実は、おそらくもっと陰惨で、家畜よりもかんたんに殺されていたのかもしれません。その過酷な事実を日本の子どもがどこまで感じ取れるかというのが肝だと思いましたが、歴史を知るということは非常に重要だと思います。あとは、これも察しが悪かったのですが、「カナデイ」が「カナダ」だとはじめはわからなかったし、レバノン川がどこなのかとずっと気になっていました。後半で突然、カナデイはカナダとして文章の中で通用し始めたところには少し違和感がありました。また、シゴーコーチョクというようにハリソンの喋りは、カタカナで傍点が、どういうなまりや言い間違いがあってこうなっているのか、元の英語がわからないので気になってモヤモヤしました。

さららん:自分が黒人の歴史をどのくらい理解し、自分のものとして捉えているかが、この本を読んで問われますね。BLMの報道を見るときの目が変わり、その意味でも読むべき1冊でした。主人公たちの状況はとても過酷です。命を失うことになっても、人間として生きてほしいとの思いから、老人ハリソンは大きな賭けに出たのですが、その怒ったような口調にも、サミュエルへの深い愛情を感じました。それは優れた訳だからこそですね。船を漕いで渡してくれた男は冷酷な一面を見せますが、同時にサミュエルにとても大事な教訓を与え、人間の複雑さを感じさせる魅力的な脇役でした。モデルがいたと聞いて、納得しました。最後に、サミュエルの機転を認めたカナダ国境の警察官の粋な計らいも忘れられません。

すあま:だれがいい人か悪い人かわからないため、最後まで読み終わらないと安心して眠れない、という感じでした。地下鉄道など、物語の背景についての知識があった上で読んだ方がいいのかな、と思ったけれど、逆にこの物語を読むことによって知ることができればそれでよいとも思いました。主人公が泣いてばかりでだめだったのが、次第に生き抜く力をつけ成長していくのがよかったです。お母さんについては、だんだんと何があったかわかってくるようになっていますが、だいぶ想像で補わなければならないので、もう少し明らかにしてほしかったと思います。最後は、後から回想する形であっさりした感じでした。ずっと重苦しいので、読むのはちょっとつらかったです。もう少しユーモアがあってもよかったかな。

サークルK:図書館に本が届いたのが当日だったため内容についての細かな個所はパスさせていただきますが、人種差別ということから、最近の映画で『ドリーム』(原題: Hidden Figures マーゴット・リー シェタリー/原作:邦訳『ドリーム〜NASAを支えた名もなき計算手たち』 山北めぐみ/訳 ハーパーコリンズ・ジャパン)というNASAで優秀な仕事をした黒人女性の実話を思い出しました。また、作中の「地下鉄道」という奴隷たちを逃すための秘密の手段についても、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(斎藤英治/訳 ハヤカワepi文庫)の続編『誓願』(鴻巣友季子/訳 早川書房)に登場する「地下の逃亡路」を思い出し、『彼方の光』に描かれる実話が大人向けのフィクションにもつながっていくことを実感しました。これを児童図書として読む子どもたちの想像力を深く刺激して問題意識を持つきっかけになるのだろうな、とみなさんの感想を伺って思いました。

カピバラ:p180の「ボンネットをかぶると、つばが大きくて、目の前の小さな丸いすきま――大皿くらいの大きさだった――のほかにはなにも見えなかった」ですが、小さな丸い隙間なのに大皿ぐらいというのがよくわかりませんでした。

はこべ:顔の周囲をぐるっとおおうくらいつばが大きいボンネットだと、そういう状態になるんじゃないかな。

ハリネズミ:目の前が大皿の大きさくらいしかあいてないということなんじゃないかな。

カピバラ:「小さな」「すきま」だともっと小さいんじゃないかと思うのにどうして大皿?と思ったんです。

ハリネズミ:先日のイベントでは、翻訳者の斎藤さんが、この本での黒人の人たちの会話は、南部の黒人言葉でふつうの英語とは違うのでどう訳すか悩んだけれど、カナダをカナデイと言っているところだけはそのまま残したとおっしゃっていました。さっき、地図が前にあったらいいか後ろにあったらいいかという話が出ましたが、地図が前にあったらカナダまで行けるのがわかってしまうので、後ろでいいのだと思います。それから地下鉄道で逃げた人で、子連れというのはめずらしいようです。

ルパン:今、テレビ番組でアイヌを侮辱する発言があったということが問題になっていますが・・・「あ、イヌ」というダジャレを言った芸人だけでなく、番組を作るスタッフとか、テレビ局の人が誰もアイヌの歴史を知らなかったというところに問題を感じます。アイヌの人たちがそう言われて差別を受け続けてきたという事実を誰か1人でも知っている人はいなかったのかな、と。私は子どものときに『コタンの口笛』(石森延男/著 東都書房など)という本を読んでそのことを知りました。その時は意味がわかっていなかったけれど、ずいぶんあとに、大人になってから気がつきました。あの本を読んでいなかったら私もこういうことに鈍感になっていたかもしれない。児童書の役割って、そういうところにもあるのかな、と思います。ですから私はこの本は文庫の子どもたちに読んでもらいたいと思います。

ハリネズミ:『コタンの口笛』はよく読まれて映画にもなったと思いますが、批判もあります。今ならアイヌの人が書いた作品も読めるといいですね。BLMについては、アフリカ系の多くの作家が書いていますが、ピアソルは白人の作家です。だから白人の子どもたちにも読みやすいということも、もしかしたらあるのかもしれません。

エーデルワイス:逃亡中の食べ物の話はリアリティがあります。列車で逃亡したら、トイレにも行きたくなると思いますが、それは出てきませんね。大人の本だったらその辺も書くのでしょうか。私たち東北人は震災の時トイレで苦労したので。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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長倉洋海『さがす』表紙

さがす

『さがす』をおすすめします。

著者がこれまで撮りためてきた世界各地の子どもたちの写真に、自分自身の来し方を重ねた写真絵本。「自分の場所」はどこなのか? 「生きる意味」は何なのか? 今年68歳になる著者は、それをさがして、弾丸のとびかうアフガニスタンやコソボ、極寒のグリーンランド、灼熱(しゃくねつ)のアラビア半島など、さまざまな環境の中でさまざまな生き方をしている人々に出会ってきた。そして今、ようやくその答えを見つけ、「さがしていたものは、いま、自分の手の中にある」と語る。世界を駆けめぐってきた写真家ならではの、その答えとはどういうものなのか? 心にひびく写真の一枚一枚、言葉の一つ一つを味わいながら、読者も一緒に考えてみてほしい。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年8月29日掲載)

キーワード:写真、世界、さがしもの

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『彼方の光』表紙

彼方の光

『彼方の光』をおすすめします。

時は今から160年前。その頃のアメリカ南部にはまだ黒人奴隷がたくさんいて、報酬ももらえず白人農場主にこきつかわれていた。ある晩、老奴隷のハリソンは少年奴隷のサミュエルを起こし、闇に乗じて2人でカナダへの逃亡を始める。そして、何度も危ない目にあいながらも、「地下鉄道」にも助けられて、旅を続けていく。「地下鉄道」とは、当時実在した、逃亡奴隷を北へ北へと逃がすための人間の秘密ネットワークで、黒人だけではなく、白人も先住民も、宗教上の理由から助けようとする人たちもかかわっていた。この作品にも多様な立場から逃亡を支える人々が登場する。いくつもの実話から紡ぎ上げた物語で、サミュエルの気持ちになって読み進めることができる。

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年1月30日掲載)


時は今から160年前。アメリカ南部にはまだ黒人奴隷がたくさんいて、報酬ももらえず白人農場主にこき使われていた。ある晩、老奴隷のハリソンは少年奴隷のサミュエルを起こし、闇に乗じてふたりでカナダへの逃亡を始める。そして、何度も危険な目にあいながらも、逃亡奴隷のための人間のネットワーク「地下鉄道」にも助けられて、旅を続けていく。著者は、「地下鉄道」にかかわったさまざまな人種や立場の人を登場させて、当時のアメリカの様子を伝えている。波瀾万丈のドキドキする冒険物語としても読める。

原作:アメリカ/11歳から/奴隷、自由、旅

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

 

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2020年02月 テーマ:手渡されるものを受け止めて――世代を越えて子どもたちが受け継ぐもの

 

日付 2020年02月20日
参加者 カピバラ、コアラ、木の葉、サークルK、さくま、さららん、トマト、西山、花散里、ハル、まめじか、マリンゴ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 手渡されるものを受け止めて――世代を越えて子どもたちが受け継ぐもの

読んだ本:

(さらに…)

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アラン・グラッツ『明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち』表紙

明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

花散里:時代も場所もちがう3人の登場人物が、交互に語っていく物語ですが、各ページ上の柱に場所と年代が記されているのが、読んでいくときの助けになりました。ホロコーストの話は過酷で、この物語のヨーゼフの話も、読んでいていたたまれない思いでした。カストロ政権下のキューバから逃れる少女イサベル、内戦中のシリアで爆撃を受けて難民となりヨーロッパを目指すマフムード。それぞれ故郷を追われ、海路、陸路で困難に立ち向かいながら、やがて最後につながっていく構成の上手さに圧倒されて読みました。難民のことを取り上げている作品が多い中でも、特に印象深く感じました。日本の難民受け入れ問題を取り上げた『となりの難民』(織田朝日/著 旬報社)や、空爆が続くシリアの町で瓦礫の中から本を救い出し図書館を作った『戦場の秘密図書館』(マイク・トムソン/著 小国綾子/編・訳 文渓堂)などとともにブックトークなどで紹介して、ぜひ、日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

サークルK:3人の主人公たちの置かれた立場、年代、環境は全然ちがうのに困難にあることだけは同じで、この次の展開はどうなるのだろう、と思うところで次の子どものエピソードにつながっていき、よく言えばリズミカルに、別言するとあわただしい感じがしました。後ろの地図をたどって、こんなに移動をしなければならなかったのか、家を追われて故郷を捨てなければならなかったのか、と納得できました。現代の読者は、2015年のスマホを持っているマフムードに共感しやすいように思いますが、彼を入り口にして、単なる年号と出来事でしかなかった歴史が共時的につながっていることを実感できると思います。2度と繰り返してはいけない戦争、ということをうまく伝えているなあ、と心を動かされました。

さららん:3人のエピソードが、ひとつずつ順番に終わるたび、私も展開がすごく気になりました。ヨーゼフ、イサベル、マフムードの話をつなげて、飛ばし読みしようと思ったけれど、作者の意図を尊重して我慢しました。3つの話は時間も場所もばらばらで、いったいどう絡み合うのか? という期待が最後まで続きます。どこが史実で、どこがフィクションか、迷いながら読み通したけれど、編集部による断り書き(p386)と「著者あとがき」を読んで納得しました。難民受け入れを拒むハンガリーの兵士は催涙弾を撃ち、沿岸警備艇はボートに乗ってマイアミ直前まで来た人々を捕らえて、キューバに送り返そうとする。今起きている現実は強く心に響き、よくぞ書いたと思いました。ストーリーを時系列に進めながら、主人公に過去の思い出を語らせる難民の物語はワンパターンになりがちだけれど、この本の、刻々と3つの「今」を伝える重層的な作品づくりはお見事。それが現在につながって山場を迎えるところに、物語の醍醐味を感じました。

木の葉:本自体も内容も重い本でした。ドイツ、キューバ、シリアの異なる場所の異なる時代の物語ですが、ベルリンに始まってベルリンで物語を閉じます。構成的にとてもよくできていると思いました。少し前に読んだ『三つ編み』(レティシア・コロンバニ/著 齋藤可津子/訳 早川書房)を思い出しました。同時代ですが、インド、イタリア、カナダの女性の視点で交互に物語が進みます。視点が変わることで、いいところ(悪いところ?)で次の視点に移ります。狙いはわかるのですが、少しストレスでした。銃口をつきつけられたところで章が切り替わっても、このあとも物語は続くので大丈夫、というのが前提で読んではいても、ちょっとあざといな、という気がしました。いろいろ考えさせられる物語でした。2015年は、ヨーロッパで難民が大きくクローズアップされた年で、そのことを思い出しました。ホロコーストをひきおこしたドイツがいちばん難民を受け入れています。どうしても、では日本は? と思ってしまいますが、あとがきの訳注でさりげなく日本の状況についての情報がフォローされています。日本の入国管理局の問題なども、作品化できないものだろうか、などと思うのですが・・・。ただ、若い頃にキューバ革命を熱い目で見ていたことのある立場からすると、ナチス、シリアと並列的に語られることが、なんだ切なく感じました。革命家と為政者とは違う、ということなのでしょうか。

ルパン:すみません、まだ3分の1くらいまでしか読めていないんです。でも、ここまでのところでいちばん印象に残ったのは、p92です。「どっちの側だ」と聞かれ、答え方をまちがえたら殺される、という緊迫した状況で、子どもが「爆弾を落とす人たちには反対です」と声をあげて、一家が救われる、というところ。場所と年代の違う3つの物語が交互に語られ、時系列が行ったりきたりするので読みにくいなあ、と思っていましたが、さっき花散里さんが「ページの上に場所と年代が書いてある」とおっしゃったので、「あ、ほんとだ!」と思いました。ここから先は読みやすくなりそうです。

まめじか:安住の地にたどりつけなかったヨーゼフがいて、友人を失い、祖父を残して上陸したイサベルがいて、妹と生き別れたマフムードがいて、その3人の人生がつながる構成です。現実に起きたこと、起きていることの厳しさがきちんと書かれていますが、ひとり助かったヨーゼフの妹が、何十年もたってからマフムードの家族を助けるなど、結末に希望があり、とても好きな作品でした。イサベルは新しい土地で、ずっと探していたキューバのリズムを見つけ、これからも故郷とつながっていくのでしょう。平澤さんの装画もすてきで、物語にぴったり。ただ、いかにも社会的なテーマを扱ったという感じの、お行儀のいい装丁なので、もう少しポップなほうが、子どもは手にとりやすいのでは? と思います。

ハル:まず、構成が見事だなと思います。最初に1938年のユダヤの少年の話からはじまり、すぐ2章に移ったかと思ったら、1994年のキューバの少女に飛ぶ。そこでハッとさせられ、さらにすぐ3章に移ると、今度は2015年のシリアの少年へ。ああ、第二次世界大戦で終わったと思っているような出来事、子どもが、もちろん大人もですが、故郷で安心して暮らせないような出来事が、今もまだ続いているんだと、一気に身近な問題として胸に迫り、終始、他人事ではないような思いで読みました。そしてやっぱり、子どもたちのたくましさ。難民たちの行進が始まる場面は、思い出しても胸が熱くなります。「著者あとがき」で、著者が〈あなたにもできること〉を提案してくれているところもありがたいです。「自分は何をどうしたいだろう」と考えるきっかけになります。内容も、ボリュームも、重たい本だけど、主人公たちと同じ世代の読者にもぜひ読んでもらいたいです。

西山:親切な本作りだなと思いました。目次を見て、一瞬混乱しないかと心配になったのですが、ページ上部の柱を見れば、すぐに「だれ・どこ・いつ」が分かるようになっている。気になったら、巻末の地図も見られる。ストレスなく読み進めました。キューバのイサベルのおじいさん「リート」が、ヨーゼフたちの船に関わっていたらしいということがだんだんと分かってきますが、だからといって、劇的な安っぽい再会にしなかったのに厳粛さを感じて好感を持ちました。シリアのマフムードのパートがあることで、現在進行形の今の問題なのだとより身につまされました。p30で、「あの子を助けないと」とつぶやいたマフムードは結局自分の身を守るために「見えない存在」になってその場を去ります。爆撃による破壊や、本当に生きるか死ぬかの危険性はもちろんだけれど、日々魂がそがれていくこういう傷つき方があるのだということが、胸に刺さり、また、今の日本に生きている子ども読者にとってもそれは知っている感覚で受け止めるのではないかと思いました。やめろって言えてこそ、健やかに生きていけるのだと思います。この、マフムードが、見える存在になる決意をしていきますね。「シリアでは、目立たない存在になることで生きのびてきたからだ。でも、マフードは今、ヨーロッパで見えない存在になると、それは自分にとっても家族にとっても死を意味するのではないかと思いはじめていた」(p262)と。それが、国境を越えようと歩く子たちの群像の表紙とひびきあって、今の世界への問題提起となっていると思いました。また、p130で物事は「変わっていくんだから」「待ってるほうがよかったんだ」と言っていたリートがp339で「世界が変わってくれるのを待っている間は、チャベラ、何も変わらないんだ。わたしが、変えようとしなかったからだ。もう同じまちがいは、二度としないぞ」と海へ飛び込む。ここに強いメッセージを受け取ります。

マリンゴ:さっき電車のなかで読み終わって、最後の章で泣いて鼻をぐずぐずさせていたので、時節柄、周りのひとに「こいつ風邪か?」という目でにらまれてしまいました(笑)。3つの強力な物語が折り重なってくるお話ですね。章の最後でたいてい何か悪いことが起きるので、だんだん章末に近づくのが不安になりました(笑)。3作が同時進行するので、登場人物が多いのが若干ややこしいですね。本の3分の1まで行ったあたりで、「リート」って誰だっけ、と最初までさかのぼって確認しました。でも、このリートが一番印象的な人物になりました。キューバでは傍観者だったのが、時を経て当事者になってしまう・・・読者も、これは他人の物語ではなくて、自分もいつか関わる物語なのかもしれないと考えながら読めると思います。帯に、この3作がひとつにつながることがにおわされているので、冒頭からいろいろ想像しちゃいました。最後みんなマイアミにたどりつくのかな、とか。そんなシンプルな形じゃなくてよかったです。ユダヤ人を迫害したドイツの人が、贖罪の気持ちもあって、シリアからの難民を受け入れる、という構図をなんとなく想像していたので、ラストで「ああユダヤ人に救われたのか」と意外に思ったりもしました。長いあとがきが素晴らしいですね。細かいところまで事実をすくい上げるおもしろさが伝わってきます。3つが絡まりあっているので、フィクション度が高いのだと思い込んでいました。あと、無気力になった人たちが何人も出てくるのが、印象的でした。精力的に立ち向かえる人ばかりではない。それがリアルさを感じさせました。

トマト:交互につづられる3つの物語が、それぞれ強い力を持っています。でも、どの話も危機一髪のイイところで中断されてしまうので、読んでいてかなりイライラしました。次にくる物語を飛ばして、同じ主人公の話だけを一気に続けて読んでしまおうかと思ったくらい。その気持ちを抑えるのが大変でした。いじわるな本ですよ。でも、しばらくすると、気にならずに読めるようになったのが不思議です。結局、読み終えてみると、この構成で良かったのかなあと思うけれど、ひとつの物語に一気に入り込める構成ではないので、よほど本が好きな子でないと途中でいやになってしまうのではないかと・・・。また、日本の多くの若い人は、ホロコーストのことは知っていても、キューバのことは知らないと思うので、知識不足と3つの物語が混在する複雑さが加わって、読み終えることが出来ないのではないかと。そこがいちばん気にかかります。表紙は、悪くない。いいと思います。

カピバラ:3つの時代、3つの国を舞台に、3人の話が入れかわり立ちかわり出てくるのが最初は読みにくかったけれど、同時進行で進む構成は、緊迫感を出すのにとても効果的だし、描写が具体的で目に見えるように書かれているので、臨場感もありました。最初から緊迫した状況が続き、つらいことがあまりに多く読むのをやめたくなるほどだったので、これを翻訳した訳者はさぞやつらい思いだったろうと推察します。それが最後にきて、3つの物語が決して別々のものではなく、すべてがつながっているとわかり、衝撃を受けました。そこで一気に、難民問題は現在進行形であることを感じさせる、うまい構成だと思います。いろんな人が出てくるけど、ひとりひとりの小さな決断が積み重なって、大きく歴史を変えていく不思議さ。ドラマチックなおもしろさも感じました。読者は高校生以上でしょうか。日本の子どもにぜひ読んでほしいけれど読書力が必要だと思います。

さくま難しいという声もあったのですが、原書の読者対象は9歳からで、アメリカではベストセラーになっています。日本ではこのページ数があるだけで小学生向きにはなりませんよね。日本語版は読者にわかりやすくという工夫を編集部でもいろいろしてくださっています。原書には挿画もないし、柱やカットもないのですが、多くの子どもたちが読んでいるようです。中学年の子がみんな読めるとは思いませんが、高学年や中学生だったら十分読めるのかと思います。そう考えると、日本の子どもがいかに長いものを読めなくなっているのか、ということでもあるような気がしています。
私も最初に読んだ時は、次々にこれでもか、これでもか、とつらい状況が出てくるなあと思いました。セントルイス号の話に出てくる警官がキューバから脱出する話に出てくるおじいさんだということもちゃんと意識できていませんでした。それがセントルイスという名前でつながるということがわかり、ルーティとマフムードがつながるということもわかって、感動して、翻訳したいと思ったのです。難民という共通項を持った3人の物語が並列されているだけかと思ったら、そうじゃなかったんですね。固有名詞はそれぞれの地域の専門家にカタカナ表記の仕方をうかがいました。訳すときはまず最初はこのとおりの順番で訳し、見直すときはそれぞれの人物の話に沿って流れを見ていきました。難民を、どこか別のところで起こっている出来事としてではなく、自分にもう少し近い存在として日本の子どもにも意識してもらえるような本があればと考えていたので、それには長いけどこの本はいいのではないかと思ったのです。
1つの章がはらはらどきどきさせるクリフハンガーの状態で終わり、別の人物の章に変わるというのはどうなのかと思ったのですが、訳しているうちに全体を通していくつかのキーワードがあるのもわかりました。たとえばマフムードは「見えない存在」になりたいというのがp30に出てきますが、次のヨーゼフの章でも「見えない存在」になったみたいだというのが出てきたりします。あと章から章への音のつながりみたいなものも感じました。
原文を読んでいて細かいところで疑問に思ったところもありました。たとえばヨーゼフがユダヤ人であることを示す紙の腕章をつけていたというところですが、紙の腕章というのは聞いたことがなかったので、ホロコースト教育資料センターの石岡さんにうかがってみたりしました。石岡さんがドイツの専門家にきいてくださって、この時代はまだ腕章は一般的ではなかったし、紙の腕章が絶対になかったとは言えないけれど今のところ聞いたことがないと言われました。最終的に著者に問い合わせたところ、「多くの資料にあたって書いたのだが、今はほかの作品を書いているので、どの資料だったのかということは今すぐ言えない。しかるべき団体に問い合わせて疑問があるなら「紙の」という部分を取ってもかまわない」と言われました。ユニセフについても、数字がちょっと違うと思ったので、日本のユニセフに問い合わせて少し変えたりもしました。それからキューバがとても悪く書かれているところは少し気になりましたが、お父さんが逮捕されそうになっているのを子どもの視点で見ているので、そこはそのままにしました。家族の問題にしろ、家が破壊されたにしろ、社会の抑圧があったにしろ、子どもは翻弄されてしまうんだと思いました。何か疑問やおかしいところがあったら、直しますので教えてください。

西山:p47の3行目「見ててくれたといいんだけど」は、ひっかかりました。あと、p173ほか何か所かで、おぼれないように「足をける」という表現が使われていますが、私は違和感を覚えます。どういう動作かはちゃんとわかりますが。「水をける」という表現も使われているので、使い分けがされているのかとは思いますけれど。

さくま:ありがとうございます。考えてみます。

花散里:イザベルの物語の中でパピ(お父さん)、リート(おじいちゃん)というのが、最初に記されている(p21)だけだったので、その後、読み進みながら、パピは名前? リートは? と、何度か前のページをめくり返しました。セニョール・カスティージョ、セニョーラ・カスティージョというのも、ページが進むと、父親とか、お母さんの、とか記されていなくて、子どもにはわかりにくいのでは、と感じました。

さくま:なるほど。

トマト:この作品は、アメリカでは中学年以上向きに出版され、売れているんですか! 日本の子どもは、移民問題を身近に感じていないから読めないのでしょうか。

さくまテーマが何にしろ、日本では300ページ超えると出版がむずかしいと言われます。アメリカとかドイツとかだと小学校高学年向きくらいから、この本に限らず厚い本がたくさん出てるんですけどね。漢字の難しさもありますが、日本の子どもの読解力、読み取って考える力も落ちているかと思います。

トマト:母国語が英語ではない家庭が多いニューメキシコ州で、school librarianをしている友人を訪ねたときのこと。そのときはブッシュ政権だったのですが、学校が国の要請を受け、英語が苦手な子ども向けの読書指導をしていました。朝や放課後に、教師全員がそれぞれ少人数の班を受け持ち、絵本を読み合う授業なのですが、そのプロジェクトに取り組む学校には、学校図書館用にかなりの額の予算をつけてくれると言っていました。その結果、学校全体で読書指導を活発に行えるというわけです。国が、学校教育の中で、読書の授業を大切にしているという点が、日本と違うと感じました。

さくま:それと日本では国語の教科書に載っているのは短い文で、先生が独自に1冊の本を選んで生徒たちみんなで読み合うなんてことも、ふつうは出来ない。だから長い本を丸ごと読むことなしに大人になる場合もあるわけです。でも、アメリカとかドイツでは、長い本をクラスで読んで、それについて討論するということをやっていますよね。文学は正解を追い求めなくて住むので、多様な意見を受け入れることにつながっていくから、日本でもやればいいと思うんですけどね。

木の葉:「今の子どもは」、と思いすぎのような気もします。小学生でも、読む子は読むと思いたいです。思い切って手渡してみてもいいのかも。読み通せたら自信になるのではないでしょうか。

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エーデルワイス(メール参加):緊張感あふれる内容ですがとても読みやすかった。国も年代も違う3人の主人公とその家族が過酷な旅をしますが、読んでいて移動を一緒に体験しているように思えました。つらい場面が多く、どうなるかとハラハラしながら最後まで読み通しました。イラストも効果的で、多くの人に読んでほしいと思います。ドイツ兵が、ヨーゼフとルーティのどちらかを選べと母親に迫るところでは、映画「ソフィーの選択」を思い出しました。シリアからドイツに逃れたマフムードが年をとったルーティと会う場面は感動的でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『オオカミが来た朝』表紙

オオカミが来た朝

カピバラ:オーストラリアを舞台にした物語を久しぶりに読んだ気がします。時代が少しずつ新しくなっていく構成がおもしろかった。最初は、1編が短すぎて、もっとその主人公のことが知りたいのにすぐに次の話へ移ってしまうのが物足りないように思いましたが、しだいにこの本の全体に共通するテーマが現れてきました。貧困、老人、ディスレクシア、障害のある人、難民、移民といった人々を登場させ、そういう人たちにくもりのない目で接していく子どもたちが、人間とは単なる見た目とちがう面をもっているということや、大人の価値観の裏にちがう真実がかくされているということを、ふとした瞬間に気づく。そういうところをとてもうまく描いています。その子どもたちが大人になったときにきっと良い効果をもたらすだろうことを予感させるので、つらい場面も多いけれど希望をもって読めるというところが良かったです。そして大人になってから再登場する人物もいるのでおもしろかったです。

さくま:私もとてもおもしろく読みました。4代の家族の物語ですが、児童労働、難読症や貧困や有色人種への差別、他者への無関心などかなりシリアスな問題が入ってきています。でも語り口がユーモラスで、短い文章の中で、その人その人が浮かびあがるような描写をしてます。たとえばp21ですが、ケニーとダンは父親が亡くなった次の日、母親につらい思いをさせたくないと、そっと物干し紐から父親の衣類をはずします。ちょっとしたエピソードですが、家族を思いやる心情をうまく表現しています。エピソードのつながりも随所でうまく使われています。ケニーは入れ歯なので弟にからかわれたりするというエピソードが最初の章に出てきますが、世代が変わっての章にも、ケニーはそれがゆえに弟にも会わないというところが出てきたりします。またクライティとフランシスはケンカすると頭を冷やすために外を別々に走ってくるというのが第2章に出てきますが、5章では大人になった二人が、別の国に住んでいるにもかかわらず同じことをする。そんなつながりがいっぱいあるので、前のエピソードを思い出しながら読めて深みが増すように感じました。最初の物語に登場するケニーが、最後の物語では曾孫の前に少年の姿であらわれて励ましてくれるのもいいですね。翻訳もじょうずだと思いました。

花散里:『オオカミが来た朝』というタイトルが印象的で読んでみたい作品だと感じました。6つの話がひとつひとつちがうようでいて、つながっていくという構成がおもしろいと思いました。「オオカミが来た朝」のケニーが仕事を探そうと古自転車で荒れ地を行く場面にハラハラし、次の「メイおばさん」ではケニーの2人の娘、クライティとフランシスがおばさんに振り回され、「字の読めない少女」ボニーの話と続き、世代を越えて物語が進んでいき、後半では一層、引き込まれるように興味深く読みました。

サークルK:本の最初にあるファミリーツリーの人物像をたどりながら読み進めることができました。生没年などもはっきり書いてあることで、物語に登場しない人たちも多数いましたが、その不在がかえって、登場人物の人生を下支えするようにも思えました。姉妹の喧嘩の描写も親密だからこそ傷つけてしまう関係であることが分かりましたし、ケニーの父親が亡くなってその洗濯物を母から見えなくするという思いやりも、後半のストーリーに生かされていて、書き手のうまさを感じました。エピソードとしては、列車から投げられた赤ちゃんの個所は、ほんの2~3行でありながらあまりにも残酷で、何度も読み返してしまうほどでした。

さららん:ひとりひとりの人物像がとても印象的です。なかでも字の読めないボニーの存在が心に残りました。すごく意地悪な部分と優しさの混然一体としたところに実在感があり、予定調和的でない結末が気に入りました。この本のどの話もナラティブが自然で、作為を感じさせません。章末にある注のつけ方もいい。「思い出のディルクシャ」では、物語の最初に登場したケニーが、脇役の大人として再登場し、バラバラに見えた話を静かにつなげています。父親の洗濯物を隠すケニーたち、赤い服を着た妹のことを親には話さないカンティをはじめ、悲しみを抱える大人をさらに傷つけないよう、心を配る子どもたちの繊細さを見て、大人と子どもは、互いに守り、守られながら生きているんだと思いました。p156で、カンティは憎むべき兵士のことを思い出し、あの若い兵士は洗脳されていて、でも洗脳されたらだれでも暴徒になるんだと、考える。善人と悪人、敵と味方を単純に分けないこういう考え方、想像力こそ、今の時代に必要なのだと思います。

木の葉:よくも悪くも自己主張の強くない本だなと思いました。読んだのはそれほど前ではないのですが、強く印象に残っているものがないのです。たまたま英語圏の翻訳ものを続けて読んだせいもあるかもしれませんが。かなり深刻なテーマもあり、優れた短編連作なのだとは思います。文学的な香りもします。が、もともと長編が好きなので、ここに書いてない部分の物語を読みたかったな、と思いました。そんななか、字を読めないボニーという少女のことは立ち上がってくるようで記憶に残りました。この中では、「メイおばさん」の話が好きです。

ルパン:いちばん強烈に残ったシーンは、インド人の家族の女の子が列車の窓から投げ捨てられるところです。映像が浮かんでしまって、ほかの場面がかすんでしまうほどショックでした。このできごとを引きずって生きなければならない遺族の悲しみ、さらに、知的で豊かな生活を取り上げられ、貧しく差別される人生、それでも故国に帰るよりまし、という悲惨な人々が今もたくさんいるのだろうと思いました。最後の「チョコレート・アイシング」の章では、毎晩激しいケンカをしている両親が心配ですが、ふたりを案じている息子のジェイムズが、ひいおじいちゃんのまぼろしを見ますよね。その光景がとても感動的でした。自転車に乗って仕事を探しに行く、少年だった曽祖父の姿を見て、自分もがんばろうと思うんですが、きっとケニーの物語が代々語り継がれていたからですよね。親の話、祖父の話、曽祖父の話を子どもに伝える親がいるから伝わっていく。日本では、戦後まだ75年しか経っていないのに、語り継ぐということがほとんどできていなくて、みんなすっかり遠い昔の話だと思っている気がします。私自身、父から戦争の話を聞いているのに、そういうことをほとんど子どもには伝えてきませんでした。自戒をこめて、伝えることの大切さを訴えていかなければならない、と思いました。

まめじか:カンティがおかれた状況は、いまの難民の人たちにも通じますね。弟がうそをついたと決めつける先生に反発しながらも、カンティがなにも言えない場面では、子どもの自尊心がよく描かれています。また列車の窓から妹を放り投げた兵士を思い出したカンティは、戦争になると、ふつうの人も洗脳されてひどいことをするようになると気づき、また迫害は憎しみや軽蔑からはじまるのだからと、意地悪な隣人も見下すまいと思います。世界に対する子どもの洞察や、憎しみに心を奪われない善性は、時代を経ても変わらないのだと、どの章でも感じました。ジェイムズは、海に入った母親がもどってきたときに大きな喜びをおぼえ、自転車に乗ってやってくるケニーの姿を月の中に見て励まされます。ボニーをかばったフランシスは、だからといってボニーが感謝することはなく、おびえた姿を見られたために、よりいっそう自分を憎むと悟ります。フランシスとケイティは、認知症のおばさんが想像の世界で幸せそうなのを見て、頭が混乱するのもそう悪くないと考えます。子どもたちの日常はそれぞれ厳しく、甘ったるい、ただのいい話でない中で生の断片を切り取っているのが、クラウス・コルドンの『人食い』(松沢あさか/訳 さ・え・ら書房)を思わせますね。障がいのあるデフィーに、ディスレクシアのボニーが読み方を教える場面なんかも。

ハル:この表紙と、「前書き」なのか「献辞」なのか、わかるようでわからない冒頭の1ページの感じや、何世代もの謎の家系図から、どうも最初は入り込めなくて。1話目のオオカミが登場するあたりまでは全然頭に入ってこなくて、これは困ったなと思っていました。でも、そこから一気にぐっと引き込まれましたので、読まず嫌いしなくてよかった! と思いました。この本が書店の目につくところに並んでいたとして、私のような人もいるだろうと思うと、もったいないなぁと思います。そして、のめり込んで読んでからは、家系図がいいなと思いました。大人に振り回されて犠牲になるのはいつも子どもたち。戦争もそうですし、家庭内の争いごともそう。「字の読めない少女」のボニー・ケニーも、とばっちりで前歯が欠ける大けがをしたジェニーも、子どもたちをとりまく環境は、ほんとうに理不尽です。そこから立ち上がる子どものたくましさ、生きる力を感じました。「想い出のディルクシャ」に登場する妹のようなことは、少なくとも当時、実際にこういうことがあっても不思議ではなかったということですよね。3歳の少女を目の前にして、こんな残虐なことができるとは、信じたくない気持ちです。

マリンゴ: 一家の家系図が冒頭にあるのだけれど、それでも章ごとに主人公が変わり年代が変わるので、少しつかみにくかったです。逆に、家系図があるがゆえに、登場人物がどこにいるか毎回探してしまったり、この人が今回取り上げられる意図は? とチェックしすぎてしまったかもしれません。普通に短編集だと思わせておいて実はつながっていると、気づく形でもよかったのではないかなぁ、と。これは読書が大好きな子ども向けの本で、読み慣れていない子が手に取ると、難しく感じる可能性もあると思いました。なお、最近読んだ『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン/著 岸本佐知子/訳 講談社)も、断片的でひりひりしたエピソードが続き、最後まで読むと作者の人生が立ち上がってくるので、『オオカミが来た朝』が好きな人は、こちらも好みかもしれませんよ。

トマト:すごく好きです。でも表紙が暗い印象で、これでは読んでもらえないのではと思い、とっても残念。第1話のケニーの入れ歯の話が印象深いです。急死した父親の葬式のとき、ケニーは悲しむよりも、自分が入れ歯だと知られたくないという気持ちが先行してしまうけど、そんな自分をひどい人間だと責めている。子どもは、大人が思う以上にいろいろ苦悩しながら一生懸命生きているんだということがよく分かります。ケニーがどれほど入れ歯のことで傷ついていたかは、ケニーが死にそうになるまで入れ歯を外さず、娘すら父親が入れ歯だと知らなかったというエピソードで裏付けされますが、このケニーの心情が実に細やかに、いい感じのユーモアを交えて描いてあるから重くなりすぎていません。姉妹の出てくる話は、イギリスの兄弟姉妹を描く古き良き物語のようで、楽しく読めました。あんたバカね、と言われていた妹のほうが、賢そうにしていた姉より機転がきくというエピソードがおもしろくて、ユーモアのある会話に魅力があります。私は、家系図が冒頭にあっても気になりませんでした。読みながらたびたび家系図を見て、それぞれの物語の登場人物のつながりも確認できたから、良かったと思います。すべての物語の中で、子どもたちが心を痛めたり、自分を励ましたりしながら一生懸命に生きています。この本の最後の物語は、両親の激しい言い争いを毎晩2階の子ども部屋で聞いておびえるお兄ちゃんと弟の物語です。それまでの物語では、貧困や戦争に翻弄される家族と子どもを描いていましたが、この「両親の不仲」という問題は、子どもにとって最も身近で、最も怖くて、誰にも相談できない重大な問題だと思うので、これを最後にもってきたことがスゴイと思いました。自分だって怖いのに、弟を不安がらせまいとして一生懸命なお兄ちゃんの気持ちがよく伝わってきます。最後に、このお兄ちゃんの祖先であるケニーが、自転車に乗って現れる場面は、「子どもだってたくさん辛いことがあるんだよな。分かるよ。頑張れよ!」と応援しているのだと思い、深く感動して泣いてしまいました。

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エーデルワイス(メール参加):作者の意図することは充分に分かりますが、この構成は読みにくかった。「メイおばさん」の章で認知症のメイおばさんを、子どものクライティとフランシスだけに預けて母親がでかけてしまうところとか、「チョコレート・アイシング」で、ケニーが出て来て両親の不仲に胸を痛めているジェイムズに「くじけるな」というところなど、腹が立ちました。何の解決にもなっていないのに励ましてどうする、という気持ちです。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『思いはつのり、言葉はつばさ』表紙

思いはいのり、言葉はつばさ

木の葉:きれいな本だなと思いました。タイトルも好き。テーマもいいと思います。おもしろいものを見つけたな、と。ただ、まはらさんの作品としては、ちょっと物足りなかったです。私はたぶん中国への関心が高いほうなので、女書(ニュウシュ)というのも聞いたことがありましたが、改めてちょっと検索してみました。女書は湖南省江永地方に伝わるものとのことで、この地域は、漢民族と、少数民族であるヤオ族が混ざり合って暮らしている地区だそうです。ヤオ族は、歌や踊りが上手で女書もヤオ族の影響を受けて七言句の韻文だとのことです。作品の中で、少数民族はハル族という架空のものにしています。そのため、女書という実際のものを使いながら、いい意味でなく、ファンタジーっぽいものになってしまった気がして残念でした。時代設定が明確でないことも、もやもやさせます。それから、人名ですが、多少中国語がわかる人間は、どうしても裏の漢字を探りたくなるけれど、あまり見当がつきませんでした。

さくま:女書(ニュウシュ)については知らなかったので、テーマに興味をもって期待して読んだのですが、内容はちょっと物足りなかったです。ニュウシュのことは男性には(父親にも)知られないようにとさんざん言っておきながら、父親はすぐに認めて筆まで買ってきてくれるし、警察が来た時にはこの主人公は「そこはニュウシュの勉強をするところです」と言ってしまいます。シューインとの仲も、憧れだけで深まらないうちにシューインは嫁入りをしてしまう。またシュウチーとのことも、大変だと思わせておきながら、「ワン」ではなく「ヤン」だという言い訳と、纏足の臭い靴をぶつけられただけで警察は引っ込んでしまう。もう少し綿密に物語世界を構築すれば、もっとおもしろくなったはず。それにニュウシュが役立ってチャオミンが活躍するという場面がないのは残念でした。結婚するシューインに三朝書を書くという場面は出て来ますが、それで辛さそのものが解決されるわけではなく、辛さをまぎらわせるため、となっています。結局、縛りや枠の中でなんとかやっていくということが大事という価値観になってしまっているように思いました。巻末に参考資料が3点上がっていますが、舞台となる場所も見に行かずに他の文化のことを書いてしまっていいのかなあという疑問が残りました。ストーリーが深まっていかないのは、そのあたりにも原因があるのではないでしょうか 。

花散里:まはら三桃さんのこれまでの作品とはちがった印象を受けました。装丁がきれいで美しく、タイトルも印象的で、中国の暮らしなどが分かり、好きな作品でした。女書のことを知りませんでしたので、見返しの模様が女書だとはわかりませんでした。纏足のことも、子どもたちはこの作品で詳しく知ることができるのではないかと思いました。少年、ワン・シュウチーとの出会い。シュウチーがいろいろな事情を抱えていて、後半の展開は興味深く読めました。女の子にすすめたい作品ですが、男の子には難しいでしょうか。

カピバラ:女書という、表舞台には登場しない文化についてとても興味をひかれました。だれにも言えない想いを、言葉につづって相手に伝える、ということは、今このデジタルな時代にかえって新鮮に感じられます。でも物語としては登場人物の造形が通り一遍で深みがなく、展開も盛り上がりに欠けて印象が薄かったと思います。一昔前の少女小説みたいな感じがして、作りものめいたというか、うそくさい感じを受けました。中国の民族間のちがいや文化についても、もうちょっと知りたい気がしたし、フィクションじゃなくてノンフィクションだったらよかったのにと思いました。見返しのデザインが女書だということも、どこにも書いてないので物足りなかったです。

トマト:読む前にネットの情報で、中国で女性だけが使っていた女書という文字のことや纏足を扱うものだと知り、期待して読み始めたのですが、予想していたのとちがい、軽く読める本だという印象でした。

マリンゴ: 私は非常に魅力的な物語だと思いました。辺境の部族のことをよくこんなに徹底的に取材されてるなと思ったら、あとがきで、登場する民族が「一部私の創作」と書かれていて、ひっくり返りましたけれど(笑)。それでも、がっかりという感じではなく、魅力は失われないと思いました。女文字は実在するわけで、事実とフィクションの境目をうまく描いた作品だと思います。ただ、この本の後で、『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ/著 さくまゆみこ/訳 福音館書店)を読むと、その境目の描き方がさらにうまいので、違いはあるなと感じました。シュウチーが村に帰っていくシーンでは、ひとりでは抗えないことに対してあきらめないで戦っていくことについてのヒントを、チャオミンが得た気がしました。とてもいい言葉だと思ったのは、p239 「生活をするために必要な分以上のお金は、贅沢のために使うのではない。人の命を救うときに使うんだ」です。

西山:まず、装幀が美しい! ♯KuTooと絡めて、ちょっと書くつもりだったので、これは外せない作品だ、と嬉しく読みました。よくこんな題材を見つけてきたなと、感心したのですが、編集者からの働きかけだったんですね。まはらさんは、作品ごとにいろんな題材で書いてこられているけれど、本当に目のつけどころがおもしろいなと思いました。ただ、この物語の時代がいつなのかが気になります。前近代イメージで読み進めてきて、p103で「いいアイディアだね」の台詞が出てきて、へっ?! となっちゃったんです。あとで「警察」が出てきて、決定的に、いつの話だ? となってしまいました。「反体制」で警察に追われ、けれど、ジャコウという高価な賄賂でなんとかなるというのは、気になりすぎて、ちょっと物語から気持ちが離れてしまったのが残念です。でも、全体としては、豊かな女性の文化を感じさせてくれるし、「結交姉妹」というシスターフッドが、女同士の支え合いを見せてくれたし、女の子の育ちを応援しようという感じで共感をもって読み終わりました。

まめじか:エンタメとして読んだので、細かいところはあまり気にせずに楽しみました。文字を知り、世界を広げていくチャオミンの姿がすがすがしいですね。気持ちを言葉にしたいという想い、はじめて文字を書いたときの神聖な気持ちと胸の高鳴り、書き終えたあとのつきあげるような喜びが伝わってきました。纏足に象徴されるような、女性が力を奪われた社会にあっても、喜びや悲しみをつづることで支えられ、自由になれるのだと感じました。けして豊かではないグンウイやシュウチーが、貧しいわけでもないチャオミンのために落花生をくれたり、お母さんがチャオミンをあたたかく見守っていたりするのも、読んでいてあたたかな気持ちになりました。

さららん:私もエンタメとして楽しみました。ニュウシュという素材をとりあげ、子どもたちを楽しませながらも、少し考えさせる作品だと思います。文字を書くことで女性が自己表現を知り、生活の辛さから解放されるという要素がよかった――書き方は軽いかもしれないけれど。主人公チャオミンのはずむようなかわいらしさにひっぱられて、読み進めました。フィクションとしての中国は、作り物めいているかもしれない。でも、子どもが安心して中に入っていけるという面もあります。漫画を多く読んでいる子が、本の世界に向かうのにちょうどいい橋渡しになるかも。チャオミンの字がだんだんうまくなっていき、素朴だけれど心が伝わる表現ができるようになるところに、成長を感じました。珊瑚の筆があたたかかった。

コアラ:中国の女書というのは初めて知りました。見返しに飾りのようなものが印刷されていて、最初は単なるデザインかと思ったのですが、読み終わってみると、これが女書かもしれないと気がつきました。とても繊細ですよね。カバー袖の「わたしのちいさなサンゴの筆で、あなたへ言葉を送ります」とあるのも、最初はあまり意味がわからなかったのですが、読み進めていくと、とても思いのこもった手紙の書き出しだとわかって、胸が熱くなりました。日本人が、中国の女書のことを書く、というのがおもしろいと思いました。あとがきを読んで、作者がいろいろ調べたことがわかったのですが、調べて書いたことをあまり感じさせないのが、いいとも言えるし、時代設定をきちんとしていないとも言えると思います。登場人物、特にチャオミンがとても生き生きしているのはいいと思いました。「結交姉妹」というのもいいですよね。年上のお姉様への憧れがよくあらわれていると思います。女書の背景には、女性たちのつらい結婚生活があったということですが、現代の子どもが読むときには、仲間内だけで通じる暗号のようにとらえてもおもしろいんじゃないか、子どもたちが女書のような暗号を作ってみたりしたらおもしろいかも、と思いました。

ハル:チャオミンが覚えたての文字で書く手紙が、まっすぐで、言葉に綴る喜びにあふれていて、初々しくて、絶妙に胸をつき、作家はうまいなと思いました。題材も、お話も、大人の私はおもしろかったのですが、纏足しかり、前を向いて歩き続ける希望や、自由を求めての抵抗ということよりも、つらくてもこっそり文字に綴って耐える、というほうが強く印象に残り、子供が読んだときに「つらいときは書きましょう、歌いましょう」そして耐えましょうと、秘めてたえることが善策なのだと思わないといいなと思いました。

ルパン:おもしろく読みました。私が読んだこの著者の作品のなかでは、これが一番よかった気がします。ただ、『思いはいのり、言葉はつばさ』というタイトルが優等生すぎて、自分からは手に取らなかったかもしれません。中身のほうがずっとよくて、最後までふわっとした感じで読めました。耐えていた女性たちの歴史とか、知らない人のところにお嫁に行ってつらい目にあう中国女性の悲しみとか、ほんとうはつらいことがたくさんあるのでしょうが、少女たちの友情、親子の愛情などで美しいもので包まれている印象です。漢族の中にも貧富の差があったり、ほかの民族に対する差別意識があったり、それぞれプライドがあるのですが、いじめや争いにつながらず、友情で結ばれていくところがよかったです。「軽い」というよりは、本当に「ふわっとした」感じが全編にただよっていると思いました。纏足の靴を投げつけたらあまりの臭さに警察が逃げていく場面で笑っちゃったんですけど、そんなに簡単に脱げたのかな、という疑問が残りました。脱ぐのはたいへんだったんじゃないんでしょうか?

木の葉:時代背景については、近現代だとは思いました。纏足がいつごろまであったのか、というのはひとつのカギかなと。実は清代には禁止されていたものだそうです。清王朝は満洲族なので。ただ、実際には行われていました。辛亥革命後の1912年に纏足禁止令が出ますが、なかなかなくならず、1950年代まで続いたようです。物語に警察も出てきますので、イメージとしては解放前(1949年)ぐらいでしょうか。

さくま:当事者しか作品は書けないとは思いませんが、自分にルーツがない場所を舞台にするときは、やっぱり細心の注意をはらったほうがいいように思うんです。アイヌをとりあげた菅野雪虫さんの『チポロ』(講談社)にも同じような違和感を感じたのですが。ノンフィクションでなくても他者の文化を大事にしながらもっと対象に迫っていってほしいです。おもしろいテーマ、というだけではまずいんじゃないか、と思いますが、考えすぎでしょうか。

西山:歌や衣装は実在の民族のものを下敷きにしてるんですよね、きっと。

トマト:装画がかわいいですね。若い女性が手に取りたくなる本だと思う。この作品は、時代をさかのぼった中国の奥地の村を舞台とし、主人公は漢民族と少数民族の間に生まれた少女なのだけれど、読者はこのイラストのイメージで読んでいき、例えば私が思い浮かべるようなリアルな中国ではなく、中国の雰囲気が漂うふんわりとしたアニメーションのような世界を思い浮かべて読んでいるのだと思う。それはそれで悪くはないのだけれど、少し物足りない気がしています。

マリンゴ: まはらさんの作品だと、徹底的に取材して事実に基づいて書いたもの、と思ってしまうんですよね。

西山:カタカナ名前より、漢字にルビのほうが、その人物と漢字が表す意味が結びついて入っていきやすかったかなと思います。見た目は紙面が黒々としてしまうけれど。それぞれの名前に当てられる漢字が分かるなら知りたいです。

木の葉:ですよね。漢字が見えない。たとえば、「チャオ」というカタカナから考えられる中国語の音は4種類あって、カタカナでは多種類の音を統合してしまいます。昨今は、映画などでも、カタカナ表記が一般的ですが、もともと漢字は表意文字なので、漢字にルビをふってくれたほうが、しっくりきます。

花散里:結交姉妹になったシューインは、美人で裁縫も文字も上手、という魅力的な女性のようなので、どんな漢字なのかと思いました。

西山:「〜さんにわたしは書きます」という手紙の書きだしがなんとも愛らしい! 中国の手紙の書き出しの定型として、こういう形があるのでしょうか?

木の葉:私は、歌なのではないか、と思いました。

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エーデルワイス(メール参加):美しい文体です。「ニュウシュ」は文字や書というよりなんだか模様のようですね。女性同士で手紙を交換していたなんて、子どもの頃に読んだ吉屋信子の少女小説(母世代のベストセラー作家)を思い出しました。女学校の憧れの先輩に「お姉様になって」と告白するなんていうこと、書いてありましたよね。漢族の女性は『纏足』するけれど、ハル族の女性は『纏足』をしないとか、民族によって違うのですね。それにしても痛そう。切ないけれど爽やかな読後感でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2020年03月 テーマ:新しい世界

日付 2020年3月26日
参加者 サンザシ、西山、ネズミ、ハル、まめじか、マリンゴ、(アンヌ、エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 新しい世界

読んだ本:

(さらに…)

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『ルイジンニョ少年』の表紙

ルイジンニョ少年〜ブラジルをたずねて

まめじか:角野さんの『ブラジル、娘とふたり旅』(集英社、あかね書房)が大好きで、子どものころに何度も読みました。はじめて見たブラジルがニューヨークみたいだと思ったというのは実感があり、昔に書かれた本ですが新鮮みがあります。叱られたルイスが壁に向かって立ちながら手と足を鳴らす場面が好きです。心臓に響くようなオノマトペは、角野さんだから生まれた言葉ですね! 気になったのは最後の「ブラジルについて」です。日本人がアマゾンを開拓したことが肯定的に書かれていますが、今はアマゾンの開発も種の絶滅も深刻な問題になっていますよね。ブラジルの人が日本人を尊敬しているという文章もひっかかりました。こうした部分は、復刻版として出すときにはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。

ハル:文章がもう、イキイキしていて、みずみずしくて、あんまり上手で楽しくて、感激して泣きそうになってしまったくらい。「なんて素敵なエッセイだ!」と読み切って、「復刻版あとがき」の冒頭で、小説だったことを知りました。もちろん、小説だったとしても良いものは良いんですけどね。でも、気持ちはとてもわかりますが、この表紙が……どうなんでしょう……。絵も、とてもいい絵だとは思います。装丁も、当時の雰囲気をそのまま再現することは、思っている以上にきっと繊細な作業なんだろうとも思います。でもやっぱり、いま読んでほしいと思ったら、どうなんでしょう・・・。本文に手を加えない以上は、やっぱり絵も装丁も当時のままで、外側だけ新しくするのもつじつまがあわないでしょうか。復刻愛蔵版としてコレクションにしておくのはもったいない気もしますが、でも、復刊の意図がそこにあるんだとしたら、やっぱりこのままが正解なのかな。

ネズミ:復刻版って、ほんとにそのまんまなんだと、出たときに驚きました。今のように情報がいくらでもあるわけじゃない時代に、見たことのない世界に飛び込んでいくようすがとても新鮮でした。50年以上前の経験に基づいたお話とはいえ、ラテンアメリカの人たちに今の感じる気質を伝える部分がたくさんあります。ブラジルの人びとの暮らしぶりを伝えるフィクションは少ないので、貴重な作品だと思います。角野さんの作品では、『ナーダという名の少女』(KADOKAWA)もブラジルが舞台ですが、こちらのほうがより日常のようすが伝わってくる気がします。p44のサンバを踊ろうと誘いかけてルイジンニョが「立てるんでしょ。あるけるんでしょ。それでどうしておどれないのさ。ほら、ちゃんとうごいているじゃないの。」と言うシーンが印象的でした。サンバを、白人も黒人もインディオもみんな踊るというのが、生き生きと伝わってきます。

マリンゴ:1970年の本なのですが、角野さんの幻のデビュー作の復刊ということで、とても興味を持って読みました。装丁が、自分が子どもの頃に読んでいた本と同じ、とても懐かしいデザインです。そういえば昔の本は、作家紹介のところに住所まで書かれてましたよね(笑)。ただ、一方で、当時と同じ体裁で出したため、新刊の印象がなくて、今の子どもが手にとりにくい気がします。そして内容についてですが、ブラジル移民と聞いてイメージするもの、たとえば農地開拓とそれに伴う苦難など、と、サンパウロでの角野さんの体験がまったく違うことにびっくりしました。こんな大都会への移住もあるのですね。角野さんのエッセイをよく拝読して、好奇心旺盛であちこち出かけられるエピソードは知っていましたが、ここまで行動的とは。角野さんの創作の源泉に触れられた気がしてよかったです。

サンザシ:絵は古い感じが否めませんが、文章はみずみずしいですね。ただブラジル語とか、今は差別語と言われているインディオという言葉が出て来て、ええっと思いました。たぶん角野さんも変えたい箇所とか言葉はあったと思うんですけど、それを始めると際限がないので、思い切ってそのままの形で出したんでしょう。p81に「わたしは日本人、あなたはブラジル人よ、という区別をしていたのです。なんてちっぽけな、なんてみみっちい気もちでしょう。わたしはこの国のめずらしいものを見に、観光旅行にきたのではなかったはずです。ごちゃまぜの生活をするためにきたのです。わたしの顔の色が、きいろで、あいてが黒でも、白でも、オレンジ色でも、わたしの国が東でも、北でも、西でも、そんなことが、なんだというのでしょう。たいせつなことは、もっと大きな、やさしい気もちをもってくらすことだと、このときはっきりとわかりました。やっと、ごちゃまぜの生活をするということの意味がわかったような気がしました」とありますが、多文化共生の視点がちゃんとあって、それを子どもにわかるように書いてあるのがいいと思いました。とはいえ、これを出したときの角野さんは若いので、欠点も長所もきちんと見たうえで受け入れると言うよりは、長所を評価して、わくわくしながらそこに飛び込んでいくというスタンスですね。今は森林破壊の問題など欠点も見えているでしょうから、今あらためて書いたら、もう少し違うスタンスになるでしょうね。

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西山(追記):読書会後に読みました。サンバの場面に限らず、なんだが、「たのしい!」がうずうずして、じっとしていられないという感じの文章ですね。ルイジンニョの落第が発覚して、エイコさんが気をもむほどの修羅場になっていたのに、下の道路で起こった事故にすぐ興味を移して親子三人仲良く野次馬になっている様子、吹き出しました。ところで、「ルイジンニョ」って、今なら「ルイジーニョ」と表記するのでしょうか。角野さんのルーツであることが実感されて、多くの読者が感慨深く読むと思いました。

しじみ71個分(メール参加):大人の「えいこ」の目線で描かれるブラジルの暮らしと人々は本当に生き生きとしていて、読んでいると心が浮き立ってきます。擬音の魔女というべきか、決して本当のサンバのリズムを音写したような、とまでは思わないのですが、擬音がうきうきわくわくとした雰囲気を伝えてくれます。学校の成績の件でえいことルイジンニョ少年は仲たがいをしてしまい、少年はえいこを許さず、なかなか元通りにはなりませんが、この点には非常に深いリアリズムを感じます。最後は幸福なサンバの祭りの中で修復されていきますが、ある意味甘さを廃した、人の現実を見つめる鋭い視点が貫かれていると思いました。えいこの目を通して描かれるブラジルの美しさ、雄大さ、おおらかさは本当に魅力的で読むほどに引き込まれていきます。ブラジルはこんなに素晴らしい国なんだということが、えいこの一人称で語られるので、個人的体験から導き出されたものとして非常に深い強い説得力を持って伝わります。こんなものを20代で初めての作品で書いてしまうなんて、やっぱりすごい人だなぁと心から思いました。

エーデルワイス(メール参加):角野栄子さんの1970年デビュー作なのですね。分かりやすいし、温かいお人柄が滲み出る文章です。さすがに挿し絵は古いかな。1959年に東南アジア、アフリカそしてブラジルに2年間滞在。それからヨーロッパ9000キロ自動車旅行。驚きです! アクティブな海外旅行が珍しい時代。グローバルな見方を確立されたのですね。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『あたしが乗った列車は進む』表紙

あたしが乗った列車は進む

ハル:胸に迫るラストでした。思い出しても込み上げてくるものがありますね。素敵な物語でした。長距離列車や、広い大地や、人間関係も、海外の小説ならではの魅力もあって、読み応えもありますが、全体的に少しおしゃれというか、詩的な部分もあって、ところどころ、わかるような、わからないようなという部分もあったように思います。もともと機知とユーモアに富んだ、魅力的な主人公なんですよね。列車の中で出会ったひとたちが、みんな夢中になっちゃって、多少いい人が多すぎると思わないでもないですが、この子がここに至るまでを思うと、古い自分の殻を破るには、このくらいの応援が必要なのかもしれません。

ネズミ:すごく好きでした。地味な本ですが、いろんなことを考えさせられるいい作品だと思いました。列車に乗っているときって、できることは限られていて、景色を見ながら内省的になりますよね。そんな旅の最中の心の動きにそって物語が進んでいき、父親がわからず、母親が死に,おばあちゃんも死に居場所がない、この子のよるべのなさが浮かび上がっていくのがうまいなと。受けとめてくれる人が早く見つかってほしいと思いながら読み進めました。列車の中での人との出会いはどれもおもしろく、とくにテンダーチャンクスに詩の本をもらうというのが、意外性もあってとてもいい。ただ、この子の目の高さが違うという設定は、そうじゃなければならなかったのかなと思いました。『ほんとうの願いがかなうとき』(バーバラ・オコーナー/著 中野怜奈/訳 偕成社)のハワードが、足が悪かったのを思い出し、優しい声をかけてくれる人にそういう特徴を持たせなければならないのかなと。だけど、次に踏み出していく物語として、とてもいいなと思いました。求めている子どもの手に届けたい作品です。

ハル:私は最初、「目の高さがちがう」とあるのは、初恋の特徴的なものというか、意識しはじめた男の子の顔のこまかな特徴を、チャームポイントとしてロマンチックにとらえているのかな? と思っていましたが、読み進めていくと「いいほうの目」(p183)とあって、そこで初めて、そういうことかとわかりました。

西山:列車で移動していくという仕掛けが生きていると思いました。回想にふけったり、あちこちに思いが飛んだりすることで、ライダーの抱えているものが見えてくるのだけれど、それが、読者を謎で引きつけ続ける思わせぶりな方便では無く、長距離列車に揺られながらの物思いとしてとても自然です。車窓の風景が変わっていく様子、せっかく親しくなってもやがて訪れる別れ・・・人生の比喩としてまとまった世界でした。この本を読んでいるときに、ちょうど卒業生にメッセージを伝える機会があって、この中から1節を紹介しました。「悪いことはいっぱいあったけど、それでどうにかなったりしない。あたしは、自分で選んだふうにしかならない」(p162)。もう1カ所カルロスさんの言葉「もっともすばらしい人たちは、いろいろ感じることができて,心に希望を抱いている人間だよ。まあ、それはときに、傷ついたり失望したりするということだけれどね。ときにどころか、つねに傷ついたり失望したりしているのかもしれない」(p226)。望むからこそ傷つくこともあるけれど、「こうしたい」「こうありたい」という思いを捨てず、自分で自分の人生を選んでいってね、と伝えました。あと、心が解放されていく過程でトイレをめちゃくちゃにしたり、恋のめばえがあったり。一色でない心の動きが物語を味わい深くしていました。来年度、学生にすすめようと思います。

マリンゴ:ずいぶん前に読んだのですが、ぼろぼろ泣いてしまって困ったのを覚えています。どこで泣いたんだっけ、と思ってざっと再読してまた泣いてしまいました(笑)。やっぱりラストですね。深刻な内容ですけれど、電車の走る疾走感のおかげか、どこか爽やかさが漂うところが魅力だと思います。ヒロインが、お菓子やパンを手に入れると、計画的に少しずつ食べないで全部一気に消化してしまうシーンが印象的です。身体的な飢餓感は、精神的な飢餓感と直結しているのだなと思いました。

サンザシ:私もかなり前に読んで、読み直す時間がなかったので、細かいところは忘れています。日本は自己肯定感の低い若者が多いって言われてますけど、この本の主人公の少女も自己肯定感がとても低いんですね。『太陽はかがやいている』という小さな本をお守りのように持っているものの、自分は太陽と縁遠い存在だと思っています。助けはいらないし自力でなんとかしようと気を張っているけど、ひ弱でもある。読んでいくと、ドラッグ中毒の母親とニコチン中毒の祖母にネグレクトされた少女だということがわかるんですが、嘘もつくし万引きもします。しかもあったことのない大おじさんの住むシカゴに行かなきゃならない。読者もそれは大変だと思って読んでいくことになります。過去の出来事と現在の出来事の両方で物語は進みますが、現在の流れの中で出会うのはいい人たちばかり。列車の中の出会いがすべてプラスに働くというのは現実にはあり得ないかもしれないけど、まったく希望のなかった少女が未来への希望を取り戻していく物語としてはよくできていますね。鏡を割るのは、自分の存在を否定しようとしている自分を壊す行為なんだと私は思いました。そこが象徴的でとてもおもしろいと思いました。自己肯定感を持てない日本の子どもにも読んでもらいたいな。

まめじか:自己肯定感が低く、自分にも周囲にも価値を見出せないライダーはアレン・ギンズバーグの『吠える』を読んで、「生き残れない人たちは、べつにどこも悪くない」「正されなきゃいけないのは、その人たちを破滅させる世界のほう」だと悟ります。ライダーの怒りと心の叫び、それと汽車の警笛が響きあうラストが圧巻です。ライダーのような、困難な状況下の子どもが出てくる本を書いているアメリカの児童書作家のジェイソン・レノルズが前に「自分の中の人間的な部分のスイッチを切ってはいけない。泣いたり怒ったりするのを恐れるな」と若者に語っていたのを思いだしました。

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アンヌ(メール参加):実に、鉄ごころ、鉄道好きの人の心を打つ小説に出来上がっていて、だからこそ、男の子が主人公ではなくてよかったと思える作品でした。というのはラストの運転手席で警笛を鳴らす場面などは、まさしく鉄の夢だから。主人公を男の子にしてしまうと、ずっと鉄道に夢を抱いてきたということになってしまって、主題とはずれてしまうからです。そうではなくて、このラストは、主人公が怒りを吐き出しつつ近づいてくるシカゴに、未来に向かっていく場面で、でも、少し鉄の私にはうらやましい場面です。読んでいて主人公のつらい過去の出来事にも身をさいなまれたけれど、何より途中で本を置きたくなってしまうほどつらかったのは、主人公が飢えていて、それが相当深刻なものだということを、誰も本人でさえ気づかないということ。せっかく手にしたお金をブレスレットに変えてしまうところを読んで、もう、地団太踏んでしまうほどでしたが、でも、ここら辺から物語はかなり詩の世界に物語が滑り込んでいて、この現実感のない行動はまさしくティーンの物語だとも思えてきたし、まあ、ニールにプレゼントできるものがほしいよね、仕方ないなと思いました。おばあちゃんが作るパンケーキの場面はおいしそうで最高なのに、それが死と結びついてしまうところも、おいしいもの好きの私にはつらいところでした。

しじみ71個分(メール参加):カリフォルニア州パームスプリングから、シカゴまでの数日間で、肉親を亡くし、傷だらけの心を抱く少女“ライダー”が、車内で出会った人々とのつながりの中で心を開き、自分を見つめ、芽生えた新たな希望を持って新天地に向かうという話で、温かで穏やかな読後感をもたらします。車内での数日の間に、母は薬物中毒でそのために亡くなり、その後共に暮らした祖母は決して優しさを前面に表す人でもなかったこと、恐らく互いに思い合っているのに表せないまま死を以て家族と隔てられたこと、詩を解し、知恵があり、心優しく、美点を多く持ちながら、求める愛を得られなかったために自己肯定感を持てずに育ったことなど、ライダーの持つ背景が明らかになっていくと同時に、列車に同乗する人々が交流の中で、家族のようにみなライダーを応援し愛し支えていくという展開は巧みで引き込まれました。少女ライダーが詩を媒介にボーイスカウトの少年テンダーチャンクスとつかの間初恋を経験するくだりも美しいし、旅の途中で母の遺灰をまき、別れを告げる場面も非常に心に残ります。ニール、ドロシア、カルロスなど見守る大人も大変に魅力的です。短い文を重ねていく文体で、回想と現在の場面を鮮やかに交差させ織りなしていく手法も見事だと思いました。愛は肉親でなくても長期間でなくても子どもに自信と希望を与えうるという力強いメッセージも感じます。
ただ、しばらくして、もし、ライダーが特段賢くもなく、詩も愛さず、心優しくもなく、自己肯定感を持ちえず自暴自棄で粗暴で他人を傷つけることを厭わない子だったら、こんなに車内の大人たちは彼女に共感し、同情し、支えようとしただろうか、また、同乗する人々がこのように好人物でなければライダーはシカゴまでの間で希望を持てるだろうかとふと考えてしまいました。そう思うとこの物語は痛ましい経験を持ち傷だらけだけれども、素晴らしい才能を秘めた「選ばれた」子どもが、偶然にも包容力のある大人たちに囲まれて自分を発見し傷を癒し愛することを知る、非常に「幸運な」物語のように見えてきます。児童文学の向日性というのは時に大事な要素だと思いますが、そんなにうまくいくことが現実にどれくらいあるだろうかと思うと逆に切なくなり、少し白けた感が残りました。

エーデルワイス(メール参加):「あたし」の過酷な生い立ちがどんどん分かって、(特にp201の12行目など)列車を降りてからの生活が必ずしも幸せになるかどうかが分かりませんが、読後感が爽やかです。車中で出会った人たちが皆温かい。誕生日を祝ってくれ、ママの遺灰を森に撒くのを見守ってくれる。初めての恋と共にたくさんの愛情を知って、さらに詩人になると目標をもちます。列車の中でお腹をすかしたところはなんとも可哀想ですが、あれこれ考えお金を稼いでいるところがたくましいですね。精神科医ローラがp79で「なりたい自分になれるよう努力して。そして自分を愛するの。それができてはじめて、自分の気持ちや他人の意思を、心から信用できるようになるの」と言いますが、ここがこの物語で一番言いたいところかと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ゴードン・コーマン『リスタート』表紙

リスタート

マリンゴ:非常に引き込まれる作品でした。この物語では、記憶を失った自分が「素」の自分で、記憶を失う直前の自分が、環境に影響された自分なんですね。どんな環境にいるかによって人は変わるし、その環境を自分がどういうふうに生かせるか、あるいは生かせないかによっても、人は変わるのだ、というメッセージが伝わってきました。一番悪いやつ、首謀者、と思われている人物も、周りがそうさせている部分が大きいかもしれないと思います。気になったのは、音楽室のチューバが泡だらけになるバトルシーン。描写は細かいのですが、具体的にどこに誰がいて何が起きたのか、わかりづらかったです。なので、後で動画で誤解が解けたときも、「なるほど!」という鮮やかな印象には至りませんでした。あと、ラストの裁判シーンが出来過ぎというか、うまくまとまり過ぎているように思います。

西山:『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳 徳間書店)のラガーマンの父親を思いだしたりして、マッチョな価値観が満ちている場は本当にいやだなと思いました。本筋とは関係無いのだけれど、「お前のかーちゃんでべそ」的、女親を蔑む悪口って、世界共通であるのだなと思うと、男親ではそういうのは聞かない気がして興味深いですね。たまたま最近読んだラテンアメリカの小説で久しぶりに「イホ・デ・プータ(売春婦の息子)」を見ていたので、気になったのですけれど。老人の戦争体験を今の子どもが知るというのは、よくあるパターンですが、ソルウェイさんの屈折の仕方がとてもおもしろかったです。勲章をもたらした戦場での活躍の実態が書かれていて、それを誇れない過去として無意識に封印しているらしいところに共感を覚えました。

ネズミ:うまいエンタメだなと思って読みました。章ごとに語り手が入れ替わって、その人の視点で語る手法は『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン/作 三辺律子/訳 小峰書店)に似ていますね。これまでの自分をチャラにして、全く新しい自分で生き直したいというのは、誰しも一度は思ったことがあるのでは? なので、あり得ないハチャメチャな設定だけれど、おもしろく読めるだろうと思いました。ただ、日常の食べ物や生活ぶりなど背景はアメリカの文化が色濃いので、海外文学を読み慣れていない中学生にはややハードルが高いかな。わからないところは読みとばしてしまえばいいのでしょうけれど、たとえば、p277 「見た目は列車相手にチキンレースをして負けたみたいだ」のチキンレースとか、私もわからないところがありました。主人公は13歳だけれども、高校生ぐらいに思えてしまうし。ラストはできすぎているけれど、元気が出ますね。

サンザシ:最初にエンタメ系だと思って読めばよかったんだけど、そうじゃなかったので、記憶喪失した人の性格がまったく変わるなんてあり得ないし、ストーリーラインが漫画風だなと思ってしまいました。チェースのお父さんががらっと変わるのもどうかなと思ったし、最後にソルウェイさんの証言で少年刑務所行きを免れるのも出来すぎだし、昔のワル仲間のベアとアーロンが勲章を盗んだんじゃないかと疑うのも短絡的だと思って、物語の中に入り込めませんでした。あと、ブレンダンがユーチューブの企画をするわけですけど、三輪車で洗車マシンを通るとか、全身タイツにシロップをかけてローラーブレードで葉っぱの山に突っこむなんていうのが全然おもしろいと思えなくて。つまり、最初にイメージした物語と違う展開だったので、私は楽しめなかったということだと思います。青いドレスの少女の謎、というのはうまいなと思いました。ちょっとひっかかったのは、ソルウェイさんが戦争で手柄を立てたことを少年たちがすごいと思っているところと、ベアとアーロンがどうしてワルなのかという裏側が書かれていないところでした。

ネズミ:ユーチューバーになりたいとか、再生回数をあげようとかは、今の中学生は共感できるのではないでしょうか。

サンザシ:気持ちはわかるけどね。最後のだけはちょっとおもしろいだろうなと思いましたが。

まめじか:ランチルームをサバンナにたとえている箇所なんかすごくおもしろくて、ユーモアがありますよね。チェースは記憶をなくして自分探しをはじめるんですけど、自分という人間がわからなくなったり、自分という存在にも恐怖を感じたりするのは思春期の若者の普遍的な姿ですよね。そんなチェースが自分に似たソルウェイさんにシンパシーを感じ、必要とされる経験を通して成長していくのはいいなと思いました。ただ戦争で勲章をもらって英雄視されるのは、児童書・YAとしてどうなんでしょうね。アメリカの本にはときどきありますが。そういうところはなんだかマッチョな感じが鼻について、あんまり好きになれなかった。p132に「死んだ人間は、自分がどの軍服を着てたかなんて気にしない」とは書いてありますけど。

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しじみ71個分(メール参加):主人公チェースは中学アメフトの州大会チャンプであり、チームのキャプテンであるという輝かしい経歴を持ちながら、一方、暴力的で悪事を好み、学校の同級生たちを苛め抜き、転校させるまで追い込み、教師も止めることができないほどの暴君であったが、屋根から落ちた衝撃で記憶喪失となって性格が変わり、まっさらな他人の目で自分のやってきたことを見つめ、失敗したり誤解されたりしながら、学校の仲間や過去に迷惑をかけた老人たちの応援を受けて人生の再スタートのチャンスを得る物語で、そんなことってあるかと思いながらも面白く読みました。ただ、自分の犯した悪事に向き合うのは記憶喪失にならないでもできるのではないかとも思います。記憶喪失という装置を使って、半ば他人の目で自分の悪事を他人事として振り返るのと、自分の犯した罪に自覚的に向き合うのとでは葛藤の深さが違うようにも思われ、記憶喪失を利用したところは、作家のちょっとしたずるさを感じました。主人公は最後に全てを思い出して、正しい行動をとろうとするのですが、改心とか葛藤など心の揺れや苦しみをそのまま普通に描くことはできなかったのだろうか、と思います。ビデオクラブ部長のブレンダンの人物造形は魅力的です。YouTubeにのめり込んで何とか面白い動画を撮ろうとする姿は滑稽でありながら真摯で、今時のアメリカの若者の雰囲気を感じます。このビデオクラブの存在がチェースの再スタートのきっかけを与える重要な役割を果たしていますし、力は弱くともブレンダンの聡明さがチェースを救う構図もとても良く、昔のアメリカ製ホームドラマで描かれていたようなアメリカの良いところを思い起こさせられました。

エーデルワイス(メール参加):三谷幸喜監督の映画『記憶にございません』も同じ設定ですね。記憶喪失になって、良き人間になるという発想はよくあることなのでしょうか? 主人公のチェースはアメフトの花形スターですが、やはりアメフトのスターだった父親にコンプレックスを持ち、本当の愛情を求めていたのかもしれません。アメリカらしい大人気のアメフト、スマホ、ユーチューブと現代的ですね。父親の妻と娘(チェースの妹)に助けられるところに、新しい家族像が出ている気がします。チェース、ショシャーナ、ブレンダンが交互に一人称で語るのは、面白いと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『わたしのあのこ あのこのわたし』表紙

わたしのあのこ あのこのわたし

『わたしのあのこ あのこのわたし』をおすすめします。

主人公は、環境も性格も違う小学5年生の2人の少女、秋とモッチ。未婚の母親と暮らす秋が父親からもらった大事なレコードに、ある日モッチの弟がうっかり傷をつけてしまう。2人の少女は仲たがいするが、モッチの弟の発熱を契機にまた仲直りをする。豊かな感受性をもつ子どもたちの、何かをふっと不思議に思う気持ち、意地悪をどうしてもやめられないときの気持ち、仲直りのきっかけがつかめなくてもどかしく思う気持ち、とまどいや迷いなどが、この著者ならではの巧みな描写で表現されている。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2021年2月27日掲載)

キーワード:友情、仲直り、家族

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『コピーボーイ』表紙

コピーボーイ

『コピーボーイ』をおすすめします。

前作『ペーパーボーイ』から6年経ち17歳になったヴィクターは、地元の新聞社で雑用係(コピーボーイ)として働いている。人生の大先輩として慕っていたスピロさんが亡くなり、ヴィクターは生前からの約束を果たそうと決意する。それは、「ミシシッピ川の河口に遺灰をまくこと」。約束を実現するための独り旅の中で、ヴィクターは様々な人と出会い、恋もし、吃音とも折り合いをつけて、新たな道を切り開いていく。若い読者にも、困難を乗り越えて未来を信じる力を与えてくれそうだ。(中学生から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年4月25日掲載)

キーワード:旅、恋、吃音、未来

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『おじいちゃんとの最後の旅』表紙

おじいちゃんとの最後の旅

『おじいちゃんとの最後の旅』をおすすめします。

ウルフの入院中のおじいちゃんは、わがままだし汚い言葉を連発するので周囲をうんざりさせている。でもウルフは、「やりたいことがある」という大好きなおじいちゃんのために、ひそかに病院脱出計画を立て、うそもつき、危険も冒して実行する。ユーモラスな会話を通して、愛に不器用だった祖父の姿、祖父と父、父とウルフのぎくしゃくする関係などが浮かび上がる。自分の祖父の思い出をたっぷり盛り込んだ、スウェーデンの作家スタルクの最後の作品。挿絵も味がある。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年10月31日掲載)


入院中の祖父は、わがままで頑固で汚い言葉を連発するので、看護師さんたちをうんざりさせている。でも孫息子のウルフは、ひそかに計画を練り、嘘もつき、危険も冒して、「やりたいことがある」と言う祖父を病院から脱出させる。そしてふたりは祖父が祖母と住んでいた島の「岩山の家」まで旅をする。ユーモラスな会話を通して、愛に不器用だった祖父の姿や、祖父と父、父とウルフのぎくしゃくする関係などが浮かび上がる。自分の祖父の思い出をたっぷりと盛り込んだ、この作家の最後の作品。味のある挿し絵も秀逸。

原作・スウェーデン/11歳/祖父、病院、旅

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

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『スーパー・ノヴァ』表紙

スーパー・ノヴァ

『スーパー・ノヴァ』をおすすめします。

「読めず、話せず、重い知恵おくれ」とみなされている12歳のノヴァは、自分を肯定的に受け入れ擁護してくれる姉に頼って暮らしてきた。ところがその姉が消えてしまい、ノヴァは里親に引き取られる。1986年の宇宙船チャレンジャー打ち上げまでには姉が帰ると信じているノヴァは、カウントダウンしながら出せない手紙を姉にあてて書き、里親の家庭や学校でのさまざまな体験をし、理解者を得て次第に自分の居場所を見つけていく。自身も障がいを抱えていた著者が生き生きと描くノヴァに寄り添って読める。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年12月26日掲載)


「読めず、話せず、重い知恵おくれ」とみなされるノヴァは、姉に頼って生きてきた。でも、とつぜん姉はいなくなり、ノヴァは里親に引き取られる。1986年のチャレンジャー打ち上げまでには姉が帰ると信じているノヴァは、カウントダウンしながら、出せない手紙を姉宛てに書き、里親家庭や学校でさまざまな体験をし、次第に自分の居場所を見つけていく。自身も自閉症だった著者が描くノヴァに寄り添って読めるし、里親という理解者を得てノヴァが開花していく様子が生き生きと伝わってくる。

原作:アメリカ/11歳から/宇宙、姉妹、家族

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

 

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『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』表紙

ぼくはアフリカにすむキリンといいます

『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』をおすすめします。

コロナのせいで友だちと会えない人は、手紙を描くのもいいね。この本では、アフリカの草原にすむキリンと、遠くの岬にすむペンギンが、ペリカンとアザラシに配達してもらって、ゆかいな手紙をやりとりする。手紙だからこそ、返事を待つ間にどんどん想像がふくらんでいく。キリンがペンギンの姿をまねする場面は、おかしくて笑っちゃうよ。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年7月25日掲載)

キーワード:アフリカ、手紙、動物

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『わたしたちのカメムシずかん』表紙

わたしたちのカメムシずかん

『わたしたちのカメムシずかん』をおすすめします。

カメムシは触ると臭い、だから嫌いという人も多い。この嫌われ者の虫に夢中になり、もっと知りたくなり、自分たちでカメムシ図鑑まで作り、やがてカメムシは宝だと言うようになった子どもたちがいる。どうしてそんなことになったのかを楽しく描いたのが、このノンフィクション絵本。カメムシはどうして臭いのか、どうして集まるのかについても、わかるよ。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年7月25日掲載)

キーワード:ノンフィクション、虫、学校

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『パディントンのクリスマス』表紙

パディントンのクリスマス

『パディントンのクリスマス』をおすすめします。

主人公は、人間のブラウン一家と暮らすクマのパディントン。好奇心旺盛で、いろいろ思いつくあまり、悪気はないのに行く先々で周りを困らせたり、心配させたり、大騒動を引き起こしたりする。そんな小さなクマがついついいとおしくなる、ゆかいな物語集。7編のうち2編がクリスマスにまつわるエピソード。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年11月28日掲載)

キーワード:動物(クマ)、クリスマス

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『しあわせなときの地図』表紙

しあわせなときの地図

『しあわせなときの地図』をおすすめします。

戦争のせいで生まれ育った町を離れ、知らない国に逃げて行かなくてはならなくなった少女ソエは、地図を開き、楽しい時をくれた場所を一つ一つ思い起こしては、そこにしるしをつけていく。幸せな思い出が、生きていく力をあたえてくれることを伝えるスペインの絵本。コロナ禍にある今だからこそ、さまざまな状況の子どもたちに思いを馳せてみたい。(小学校低学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年11月28日掲載)


暮らしていた町を戦争で破壊され、外国に逃げなくてはいけなくなった少女ソエは、机に町の地図を広げて、楽しい思い出がある場所に印をつけていく。自分の家、祖父母の家、楽しかった学校、わくわくしながら想像力をふくらませていた図書館や本屋、いっぱい遊んだ公園、魔法のスクリーンがある映画館、川や橋……。楽しかった体験を、これから避難していく場所での力にしようとする少女の心の内を、やさしいタッチの絵で表現している。最初の見開きと最後の見開きの対比が多くを伝えている。

原作:スペイン/9歳から/戦争、難民、思い出

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2021」より)

 

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魚住直子『いいたいことがあります!』表紙

いいたいことがあります!

『いいたいことがあります!』をおすすめします。

6年生の陽菜子は、母親がうっとうしい。家事も勉強もちゃんとやれと言い、できないと叱るからだ。

ある日、陽菜子は不思議な女の子に出会う。その子が忘れた手帳には、「親に支配されたくない」という言葉も。この子はだれなのか? 謎を追っていくうち、いろいろなことが少しずつわかってくる。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年10月27日掲載)

キーワード:家族(母親)、謎

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ルイス・サッカー『泥』表紙

『泥』をおすすめします。

森の中にある私立学校から、3人の生徒が行方不明になる。1人は皆勤賞の優等生タマヤ、もう1人はタマヤと通学している2歳年上のマーシャル、残る1人はマーシャルをいじめていた転校生チャド。そして、森で奇妙なねばねばの泥に触れたこの3人から、不思議な病が広がっていく。この病とは何なのか? 何が原因なのか? 治療方法はあるのか? 3人それぞれの物語にからむのは、粘菌を利用したクリーンエネルギーのついての聴聞会の証言と、不思議な数式。謎めいた起伏のある展開で読者をひきつけ、しかもバイオテクノロジーについて考えさせる見事な作品。怖いけれどおもしろいこの物語からは、作者が子どもに寄せる信頼感も感じ取れる。(小学校高学年以上)

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年9月29日掲載)

 


森の中にある私立学校から、5 年生の優等生タマヤ、7 年生のマーシャル、7 年のクラスに転校してきたいじめっ子のチャドが行方不明になる。やがて、この3人が森で奇妙な泥に触れたことから、不思議な病が広がっていることがわかる。この病は何なのか? 治療法はあるのか? 異質な3 人は、恐怖と孤独の中でたがいの間の距離を縮めていく。子どもたちをめぐる現在に、クリーンエネルギーについての公聴会の証言と、謎めいた数式がからむ。起伏のある展開で読者をひきつけ、バイオテクノロジーや現代文明の落とし穴についても考えさせる物語。

原作:アメリカ/13歳から/バイオテクノロジー エネルギー 粘菌 いじめ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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2021年02月 テーマ:みんなの空間からわたしの空間へ 図書館がくれた心の冒険

日付 2021年02月16日(オンライン)
参加者 アンヌ、エーデルワイス、カピバラ、木の葉、サークルK、さららん、サンザシ、しじみ21個分、たんぽぽ、西山、ネズミ、花散里、ハル、まめじか、ルパン
テーマ みんなの空間からわたしの空間へ 図書館がくれた心の冒険

読んだ本:

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『希望の図書館』表紙

希望の図書館

たんぽぽ:おもしろかったです。最初は、差別を描いた本かなと思いましたが、違っていました。主人公に、心なごむ場、図書館があり、本当に良かったと思いました。個人的には、お母さんが好きな詩の作者の名前を自分につけてくれたことを、お父さんにも話し、心ゆくまで語り合ってほしかったです。

マリンゴ:非常に落ち着いた静かな筆致で、素敵な作品だと思いました。母が詩人ラングストン・ヒューズをとても好きだったことを主人公は知って、でもそれを父には言えない、というくだり。「本」に出会って、世界の見え方が変わってくる象徴的な場面で印象的でした。ほぼパーフェクトな本ですが、少し気になったのは、終盤まで、ラングストンが小学中学年くらいにしか思えない点でした。たとえば、階段を上がるフルトンさんのおしりを見るシーンが、幼い子の反応のように思えたりして。クレムと話すようになって、ライモンと対決するあたりで、急に中学生らしくなる印象がありました。

まめじか:ラングストンは11歳ですね。

マリンゴ:なるほど。11歳だと、小学中学年とは誤差の範囲内と言えますね。うーん、やはり幼い気はしちゃいますけども。あと、最後の7行くらいが、物語を総括しすぎていて、ないほうが余韻が残ったかもしれないとは思いました。

サークルK:原題は“Finding Langston”(ラングストンをさがして)というものですが、邦題は読者にわかりやすいように、主人公にとって図書館が希望そのものになっていくテーマそのものを表現していて良かったと思います。実在する詩人のラングストン・ヒューズの詩を知識として知っていたら、さらに重層的に楽しめるのだろうと思われました。フィクションの中に、このような形でノンフィクションをうまく取り込んでいるところがうまいと思います。母・妻を亡くして田舎から都会へ引っ越してきて、息子と父親がすれ違ってしまうのかと思いきや、徐々にまた歩み寄っていく描写や、フルトンさん(パール)が単なる隣人ではなくなっていく描写も行き届いていて、しみじみとさせられました。

カピバラ:まず、なんて素敵なタイトルでしょう。日本の読者はタイトルに「ラングストン」という名前があってもピンとこないでしょうから、変えたのだと思いますが、良いタイトルだと思います。本を読むのが好きな子どもが、はじめて図書館に行ったときの気持ちは想像しただけでワクワクするものがありますが、ラングストンは、帰り道がわからなくなったので聞こうと思って、偶然に図書館を見つけるわけですね。その場面の描写がとてもリアルで印象に残りました。閲覧室に通され、「図書館の空気を吸いこむと、古い紙や糊のにおいと、木のにおいがした。母さんがよく作ってくれた、ピーチパイよりいいにおいだ。ここにある何もかもが新しくみえ、ぼくのくたびれたくつが、もっとくたびれてみえた」(p46)と、目に入ったことと、においを描写しているのがリアルで良かったです。いちばん好きなところは、その後の「ぼくは本棚に近づいて片手ですうっとなで、帰り道をきくことなんてすっかり忘れていた」というところと、「どれでも好きな本を、借りられますよ」と司書に言われ、「どれでも好きな本」と、誰に言うともなくささやいた、という描写。気持ちが手に取るようにわかり感動しました。お父さんや亡くなったお母さんの描写もとてもうまく、どんな人なのか、息子とどんな関係性だったのか、よくわかりました。特にお父さんは、妻を失った悲しみが大きく、働くことにいっぱいいっぱいで、息子への愛情をうまく伝えられない。でも父と子は、たった2人の暮らしの中で、少しずつ理解しあっていくのがうれしかったです。ラングストンは、ラングストン・ヒューズの詩に大きな共感をおぼえ、勇気づけられていくのですが、優れた詩、あるいは文学には、どれほど子どもの背中を押す力があるのかがわかり、印象に残りました。2020年に読んだ本の中でいちばん好きな1冊でした。

木の葉:出版からほどなくして読んだのですが、今回再読する時間がとれず、あまり内容は覚えていません。ただ、とても読後感がよかったことだけは、よく覚えています。今回、パラパラと本をめくって、フルトンさんも素敵だったな、と思ったり。それから、ラングストン・ヒューズの詩をちゃんと読んでみたくなりました。本のサイズと形はどうなのでしょうか。私は広げて読むのに、ちょっと持ちづらいなと思いました。

さららん:私もp46の図書館に入ったときの描写、「図書館の空気を吸い込むと・・・ピーチパイよりいいにおいだ」というところが、いいなあと思いました。そこに至るまで、アラバマから父さんと2人でシカゴに来た主人公ラングストンの、暗い日々の描写が続いただけに、図書館で初めて解放された主人公の心情に、強く揺さぶられたんだと思います。リサ・クライン・ランサムはすごくいい作家だ、と感心しながら読み進めました。ラングストンが詩の中に見つけた母さんの秘密を、父さんにあえて明かさないところが、父さんと息子の関係に奥行きを与えています。そして物語全体を通して、言葉の力を信じる気持ちが強く伝わってきます。p136でフルトンさんの朗読を聞いたあと、ラングストンが「今夜はぼくの頭の中の〈声〉がぎこちなく詩を読むのをききたくはなかった」という一文がありましたね。フルトンさんの声をしみじみ味わっていたかったと感じる主人公は、そこで音の芸術としての本物の詩に出会ったんでしょう。司書のクックさんもふくめて、未知の大人との出会いにより、知らない世界に目を開かれ成長していく主人公を描き、その主人公が今度は父さんをも変えていくところに惹かれます。

まめじか:スコット・オデール賞を受賞したときから気になっていた本です。そのとき調べたので、11歳だということがわかった上で翻訳を読むことができましたが、たしかにラングストンの年齢はわかりにくいですね。言葉づかいも少し幼く感じました。p183で、なぜ詩が好きなのかときかれたラングストンは、「だれかがぼくだけに話しかけている感じがする」「ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかっていてくれている感じがする」と言いますが、これはまさに詩の本質ですよね。自分の心に直接語りかけてくるような親密さというか。北部への黒人の移住とか、ポートシカゴの事件とか、アメリカの歴史を背景に、南部にくらべてにぎやかすぎて寝つけないとか、ラングストンが五感で感じたことがしっかり描かれています。

しじみ21個分:コロナで読書会が延期になる前に読んで、今回読み直しましたが、ますますこの本いいなあと思いました。ラングストンの視点にずっと寄り添ってお話を読むことができました。また、表現が非常に体感的でリアルだったので、図書館の中に初めて足を踏み入れたときの感覚、中を見回す感触、図書館の請求記号がわからなかったり、図書館で知らない言葉をおぼえていくときの頭の中の動きの感じだったりとか、ラングストンの感覚を追体験することができ、映像が眼前に広がりました。また、息子から見たお父さんの姿っていうのもリアルで、田舎から大都会シカゴに出てきて働き詰めで、不器用で、不愛想で息子への愛情もうまく表現できないという人物像もしみじみと胸にしみてきました。アメリカと日本とで文化的な背景が異なるなと感じたのは、詩の描かれ方で、アメリカでは詩や詩人がより高く評価され、浸透していると感じました。ラングストン・ヒューズの詩も多く引用されていましたが、自分が好んで聞いていたブルースから受ける印象と全く同じで、物語の後ろにブルースが聞こえているような感じを受けました。図書館司書の描かれ方も親密すぎず、でもきちんと利用者のニーズに応えているという点がリアルで好感が持てました。また、フルトンさんが読んだ詩を思い出し、つっかえつっかえになった自分の声を思い出さないようにするというのもいじらしくて、胸にぐっときたところでした。

アンヌ:私はラングストン・ヒューズの詩を知らなかったのですが、以前読んだ『リフカの旅』(カレン・ヘス/作 伊藤比呂美+西更/訳 理論社)と同じく、児童書の中で詩と出会うと主人公になって詩を読めるので、この物語のおかげで国も言葉の違いも関係なく詩と出会うことができてうれしいです。引用されている詩を調べようとしている途中なのですが、元の詩の省略されている部分とかを知ると、なるほどこういうふうに作者は物語の中に生かそうとしたのだなと仕組みがわかってきてさらに楽しめます。図書館に行くと偶然手に取った本に運命を感じることがあるのですが、この主人公も図書館で詩に出会い、その中に自分に語りかけてくれる言葉を見つけることができたし、母の秘密を知ったりもするし、父や周囲の人と会話できるようにもなる。そんな図書館と詩の魅力が詰まった読み応えのある本でした。

エーデルワイス:『ソロモンの白いキツネ』(ジャッキー・モリス/著 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)の設定によく似ているなと思いました。主人公の男の子が母親を亡くし、父親と都会に出て、学校でいじめられ、居場所がないという。この本の主人公ラングストンは図書館に居場所を見つけました。酒井駒子の絵の表紙が素敵で好きなのですが、原書にも元々の表紙があると思います。日本人に合わせて表紙を変えているのでしょうか?そこのところを教えて頂きたいです。都会にいる黒人が田舎から来た黒人を差別することもあるのですね。黒人を蔑視する言葉に、北部の「ニグロ」に対し、南部の「カラード」の言葉があるということも今回初めて知りました。ショックでした。あと、詩が日常的に、家庭でも暗唱、朗読されるというのが素敵でした。p152~153、p163、p164など印象に残っています。

サンザシ:原書のFinding Langstonの表紙には、日本語版と同じような服装のアフリカ系の少年が大都会のビルの狭間で立ち尽くしているところが描いてありますね。それだと図書館や本とのつながりがわからないから、酒井さんに依頼したのでしょうね。判型も小学校高学年から手にとってもらいたいということで、敢えてYAとは違えているんでしょう。ただ主人公のラングストンは、最初は寂しいんですけどかなりのエネルギーを持った子どもなんで、この表紙絵とはちょっとイメージが違うように私は思いました。それから当時のアメリカ南部と北部はずいぶん違ったのですね。南部のアラバマでは、黒人が図書館を利用できなかったことは、初めて知りました。それから、黒人の貧しい少年にとって、自分と同じような境遇の作家が書いた作品を読むと、そこに自分がいるような気になるし、主人公といっしょになって本の世界が体験でき、そこから次の一歩が踏み出せるようになるということが、よくわかりました。p183でクレムが「詩のどんなところがいいの?」ときいたのに対して、ラングストンが「そうだな……だれかがぼくだけに話しかけている感じがするのが好きだ。それに、ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかってくれている感じがする……ぼくの気持ちを」と言っているのですが、ここはとても重要だと思いました。p10に「まるで立派な住まいみたいに〈アパート〉って呼ぶけど」とありますが、日本のアパートのイメージとアメリカのアパートメントとは違うので、ちょっと違和感がありました。それから、ラングストンが親の手紙をこっそり読む場面で、p116「読めない部分もあるけど、読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか」とありますが、どうして読みたくないのかがよくわかりませんでした。

まめじか:自分の両親がストレートに愛情を示し合っているのが気恥ずかしかったんじゃないですか?

サンザシ:日本人ならそうでしょうが、アメリカ人だし、母親が亡くなっていて、2人が愛し合っていたということがわかるのはうれしいんじゃないかな、と思ったんですけど。

しじみ21個分:父と母との秘密、2人の心の奥底、に踏み込みたくはなかったということですかね?

サンザシ:主人公の年齢は、私も中学生かと思っていました。

アンヌ:p130に、「あと二年したら、ぼくも高校生になる」とあります。

サンザシ:私も中1だと思って、それにしては幼いなと思っていました。特に前半部分は小学校中学年くらいのイメージですよね。アメリカの学校制度は地域によっても違うのですね。この本だと中1だと思って読む読者が多いかもしれないので、もう少し工夫してもよかったかもしれませんね。

すあまラングストンに共感して読み進めることができました。自分が初めて大きな図書館に連れて行ってもらったときのうれしかった気持ちを思い出しました。そして、ラングストンが図書館で手にした本が物語ではなくて詩なのがよかったと思います。詩であったことで、ブルースの好きなお父さんにもわかってもらえたのでは。そして、一緒に図書館に行くというラストもいいなと思いました。フルトンさんは、最初はいやなおばさん、という印象だったのが、ラングストンの目を通してだんだん素敵な女性に思えてきました。表紙の絵の印象で、幼い男の子の話なのだと思って、これまで手にとっていませんでした。実際に読んでみたら、もっと男同士の親子の話で、ラングストンも体格がよくて、いい意味でイメージが違いました。それから、物語には出てこなかったけれど、ラングストンがいつか詩人のラングストンと図書館で会えるといいなと思いました。

花散里:この本が出版されたときにすぐ読んで、とても良い本だったという印象が今も強く残っています。今回、読み返して、やはりとても良い作品だと思いました。酒井駒子さんの絵はあまり好きではないので表紙画は気にかかりました。この作品に登場してくる図書館司書は良いと思いました。シカゴ公共図書館ジョージ・クリーブランド・ホール分館についても作者あとがきで知ることが出来て良かったです。ラングストンという名前を付けたお母さんのことは最初、読んだ時から印象に残っていましたが、今回、読み返して、お父さんがとても印象に残りました。フルトンさんも最初に登場した時の印象が段々と変わり、ラングストンに詩を読んでくれるときのフルトンさんの様子がとても良いと思いました。ラングストン・ヒューズの詩を読み返したりしたいと思い、本を購入しました。絵本『川のうた』(E.B.ルイス/絵 さくまゆみこ/訳 光村教育図書)も読み返しました。詩を読んでいくことなど、この作品を子どもにどうやって手渡すのかは難しいと感じていますが、読んでほしい作品だと思います。

ルパン:こちらは先ほどの作品と反対に「おもしろかった」ということしか覚えていないくらいです。最初から最後まで夢中で読みました。いちばん印象に残っているのは、フルトンさんのお尻が揺れる描写。インパクトありすぎて、なんかすごいおばさんというイメージだったので、お父さんと再婚する可能性があるとわかってびっくりしたことです。

シア:すごくいい本で、丁寧で心情豊かな描写で、文句の付けようがありません。話の軸もぶれていないですし、内容も素晴らしい。フィクションですがリアリティがすごいです。アメリカの当時の文化や歴史について理解しやすいし、興味がわいてきます。背景描写まで細かく書き込まれています。お母さんはかわいそうな設定ですが、「すきっぱ(透きっ歯)」という表現がされているので、幸せであることがわかります。「すきっぱ」はアメリカでは幸せを運んでくると言われていて、人気があるんです。そういうところが細かいなと。この本は図書館というものが古くから地道に社会に与えてきたものや及ぼす影響など、その偉大さについて伝えてくれます。最近の図書館は指定管理者制などが取り入れられ方向性を見失ってきているので、ぜひ、みなさんに読んでいただきたいと思います。図書館が連綿と守ってきたものを今一度教えてくれる1冊です。

ハル:先ほど話題に出たp116の「読みたくない言葉」(~読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか。)のところですが、私なんて一瞬「やだ、お父さん不倫?」とか勘違いしてしまいました(笑)。こんな人は少ないと思いますけど、やっぱり「読みたくない」は、もうちょっと気を使った表現でもよかったのかなと思いました。全体として、ラングストン少年の目で見た景色や感覚、なつかしいアラバマの描写も美しくて、引用されている詩もとても効果的で、良い本に出合えたなあという気持ちになりました。私はあまり「詩」にはなじんでこなかったので、私もこの本で、「詩」というものに出合えたような気がします。ただ、邦題の『希望の図書館』はちょっと違う話を連想させるような・・・。「希望の~」って、ちょっとテーマと違うんじゃないかな・・・と違和感を覚えました。でも、このタイトルで、この判型で、この装丁で、いかにも名書!という感じでまとまっていて。これも読者の手に届けるための工夫なんだろうなぁと、勉強になりました。

ネズミ:とてもよかったです。アメリカという国で図書館がとても大事にされているということを痛感しました。知というのか、知識に誰もがアクセスできるという、図書館の精神や理念というものがしっかりあるんだなと。私は、お父さんがラングストンと話すときに、妻のことは「お前の母さん」とか「母さん」と呼んでいるのに、自分のことを「おれ」と言っているのが、ちょっと気になったのですが、みなさんは気になりませんでしたか? 子どもと話すとき、自分のことを「父さん」と呼ぶかなと。全体にラングストンが幼い印象だったからかもしれませんが、なんか、ちょっと突き放した感じがして。

サンザシ:そこは日本人になじみやすい表現を使うか、文化を伝える方を前面に出すかで違ってくると思います。アメリカ人なら、日常会話の中で自分のことをyour fatherとは言わずやっぱりIを使いますよね。そういう文化だということを伝えるのも大事だと私は思います。PTAなどでも「○○の母です」と言う人が多いですが、欧米ではたいていファーストネームでやりとりしてますよね。○○の母、○○の父、○○の夫という規定の仕方がいいのかどうか、そこも考える必要があるのではないでしょうか。翻訳者の悩みどころの一つですね。それからこの本はシリーズになっていて、ライモンが主人公のとクレムが主人公のが出ています。あとの2冊も読みたいな。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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しずかな魔女の表紙

しずかな魔女

ネズミとてもおもしろく読みました。こういう図書館はないだろうと思いましたが、子どもを受け入れる場所としての図書館、ひとつの居場所というのが提示されていて、いいなあと思いました。魔女の修行の中で、ところどころに印象的な言葉がありました。たとえばp142の「魔法にはね、ひとつだけやってはいけないことがあるの」「それはね─人を操ること」というセリフ。生きることを後押しする、こういう部分にひかれました。それに、文章がとてもきれいでした。

ハル子どものころは特に、おとなしいことをネガティブにとらえがちなので、どちらかというと控えめなタイプの子は読んで励まされるでしょうし、ひかり側に共感できるような元気のいいタイプの子にとっても、新しいものの見方を示してくれる1冊なのではないかと思いました。構成やストーリーそのものも、決して目新しいものではないかもしれないし、時々ふと、そういえばこれは司書の深津さんが書いた小説(の体裁)なんだったな、と思い出すと、若干「いま、わたしは何を読んでるんだっけ?」という気持ちにもなりましたが、表現の豊かさによって、作品として成立しているのかなと思いました。みずみずしい描写で、刺激を受けました。子どもにとって夏休みがどれだけ特別か、「夏休み」の大きさをしみじみ感じます。

シア不登校の話で始まったので、またこの手の話かと思って読み始めました。市川さん、よく不登校の話を書いているなという印象です。『西の魔女が死んだ』(梨木果歩/著 楡出版ほか)を思い出しました。でも、作中の物語はすごくおもしろくてのめりこみました。肝心の主人公のことはすっかり忘れてしまっていました。蛇足だったかと思うくらい。キラキラなエンディングを迎えたのに、野枝ちゃんの将来が冴えなくてがっかりしました。しかし、レファレンスの回答として出典が明らかにされていない自分の小説を渡すというのはちょっと乱暴すぎではないでしょうか。それから、「図書館は静かな場所」というステレオタイプな考え方が、今の時代に合っていなくて古いと感じました。まるで『希望の図書館』(リサ・クライン・ランサム/著 松浦直美/訳 ポプラ社)と同じ時代みたい。

ルパン半年くらい前に読んだんですけど、「おもしろくなかった」ということしか覚えていませんでした。このたび読み返したら前よりは印象がよかったのですが・・・不登校の子の話が中途半端で不完全燃焼としか言いようがないです。作中の物語では「ひかりちゃん」のキャラクターがすご過ぎて、私はついて行けませんでした。

花散里私は図書館司書をしていますが、読んでいて、この設定はあり得ないと思うことが多く、いろいろと気にかかりました。司書が登場してくる作品としては『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ/作 宇野和美/訳 鈴木出版)が大好きで、あの本の中の図書館司書が理想だと思っています。作中の物語も構成が弱いと感じました。ユキノさんの存在もわかりにくいと思いました。友達の両親が離婚してしまうかもしれないというときに手紙を書くということもあり得ないのではないでしょうか。読後感があまりよくない作品でした。

すあま市川さんの物語では、主人公を家族ではない大人が見守って助けてくれる。この本でも、司書の深津さん、ユキノさんがそういう大人です。物語としては、作中の物語が終わったところで今度は外側の話を忘れていました。中の物語はおもしろかったし、登場人物も魅力的だったけど、この話だけだったら物足りないかもしれませんね。中学生の草子が小学4年生の物語を読む、ということなんですが、実際に中学生が小学4年生に共感しておもしろく読めるのかな、と思いました。物語全体で、いい人ばかりが出てくるので読後感は悪くならないのですが、この著者の他の作品と比べると何か足りない気がしました。

サンザシ:不登校の草子に寄り添って読み始めたら、間に野枝とひかりの話が入っていてそっちの方が長いんですね。私には、間のこの物語を読めば草子が元気になるとは思えなくて、ずっと草子が心配でした。市川さんは文章がいいので、それにひかれてどんどん読み進められるし、間に入っている話にも共感はできるんですけどね。私は『小やぎのかんむり』(市川朔久子/著 講談社)がとても好きだし、あれは第一級の作品だと思っているのですが、それに比べると、この作品はちょっと小ぶりの佳作でしょうか。それから、p166の「あざやかな色のリュック」の若い男は、p15で「館長」に「ここの机って、勉強とかダメですかね? レポートちゃっちゃっと終わらせて、ついでに試験勉強もやりたいんスけど」とたずねる男だと思うのですが、ということは、この「館長」が自分の息子に一般利用者を装わせて、草子の前でたずねさせた、ということ? そこまで行ったらやりすぎじゃないかな。

エーデルワイス作者の市川朔久子さんは、この先、大人向けの小説家になってしまうような気がします。p144の9行目から12行目にある、「ひとつだけやってはいけないこと、人を操ること・・・」や、p145の13行目の「じぶんの心はじぶんだけのものですからね」のように煌く言葉がたくさんありますね。でも、ストーリーが凝り過ぎている感じもしました。

アンヌ初めは主人公の草子に興味が持てず、つらい場面も多くてなかなか読み進められなかったけれど、作中の物語が始まると楽しくて、ユキノさんをはじめとしたお年寄りの生き生きとした様子も魅力的で、近所に昔あった古い団地を思いだしました。洋服の色彩について鋭い感覚を持つリサちゃんについても、家族が「美大出身の友人は雷が鳴るとまず稲妻の色を見たがる。世界の見方が違うね」と話していたので、そんな風に様々な視点で世界を「見る人」がいるということが描けていて良かったと思います。1か所いらないかなと思ったのが、館長と息子の小芝居の場面。p15はともかく、それがバレるp165は、必要はあるのかなと。ただ、不登校の子がコロナ下のネットの授業は参加できたのに、対面授業になったら出られなくなったという話を聞いているので、草子がこんなふうに守られているのはよかったなと思いました。

しじみ21個分やさしい表現の、とても好もしい作品だと思いました。まず、図書館で働く者として、図書館が子どもたちにとって居心地のいい場所として肯定的に描かれているのはうれしいです。不登校の子が図書館で過ごすという描写は、やはり、鎌倉市立の図書館が夏休み明け前の8月に発信した「つらかったら図書館においで」というメッセージを踏まえているのかなとも思いました。ただ、p12に、図書館の司書は静かな人と描かれています。それはいかにもステレオタイプで、静かじゃない図書館員もいるしなぁ、とちょっと固定的な捉え方だとは思いました。見た目としても、物語の中に白いページがはさまっていて、目次もあって、さあ、これから物語が始まるというぞ、という工夫もおもしろかったですし、物語の入れ子構成も凝っていました。作中の物語も2人の女の子の理想的な夏休みが描かれていて、とても好ましいのだけど、正直好ましいというだけで終わってしまったかなという感じです。なんというか全般にリアリティがなくて・・・。図書館の可能性が表されているのはとてもありがたいし、ユキノさんという理想的な大人像も素敵で、こういう風に子どもに接したいとは思うのですが・・・。それから1点引っかかったのが、図書館でおばあさんに「学校はどうしたの?」と問われて、心の中で「くそばばあ」という言葉が浮かんだにもかかわらず、それを小学校のときの同級生の男の子の言葉にすり替えてしまっているところです。それはちょっと主人公がいい子すぎてずるいと思いました。自分の言葉で「くそばばあ」と心の中で言ってほしかった。作中の物語に任せてしまうのではなく、本編の物語で主人公の心の中の葛藤みたいなのがもっと深堀りされてもよかったんじゃないかなと思ったというところです。

まめじか草子は幼稚園の運動会で転んでしまったとき、大人の目を気にして自分と一緒に走りだした先生の欺瞞に拒否感を示していますが、深津さんや館長やユキノさんはそれとは対照的な存在として描かれていますね。おもしろく読んだのですけど、おばあちゃんとの魔女の修行というのが『西の魔女が死んだ』に重なり、あまり新しさは感じませんでした。視点を変えると新しいものが見えてくるとか、日々を丁寧に生きる生活の豊かさとか。中学生は子ども時代を思い出し、ノスタルジーを感じながら読むのでは。中学の1年1年ってとても大きくて、自分がガラッと変わってしまったように感じますよね。私はそうだったな。

西山市川さんの作品は、まず言葉が好きです。p57の「いいないいなあ」など、ほんのちょっとしたところでひかりの体温の高い感じが伝わってきたり、読むことの「快」を感じます。ベースとしては、草子の、学校という場に合わないというメンタルな部分ですが、お話の中で2人が迷子になるまでずんずん歩いたり、アリを見たり、ツリーハウスもどきを作ったり・・・この、中身だけでいいと私は思ってしまいました。読者対象の年齢によって違うのでしょうけれど、魔女修行が結局は心の持ち方を変えさせるという着地点は、本気で魔女になりたい子には肩透かしになるなあと思いました。自分が小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)にがっかりした経験を思い出してしまいました。入れ子構造が活かされた装丁もきれいだけど、どうなんでしょう?『コロボックル』シリーズ(佐藤さとる/著)とか、過去にいくつか例がありますが、全体を入れ子にしたことで、疎外される印象を受けたのを思い出しました。作り込んだフィクションのおもしろさも好きなのですが、この作品では、私は作中の物語だけの方がよかったかな。子どもが減った団地の有り様は、それとなく見まもる「小さなおばあさん」の存在含め、とても興味深かったです。

さららん前に読んだ時には悪い印象をもたなかったのに、あとから中身をよく思い出せませんでした。読み返してみて、文章の美しさを再認識。おいしいお菓子を食べているような気がしました。先ほども指摘があったけれど、草子の幼稚園の運動会のときのエピソードの出し方が見事で、それひとつで、大人のぶしつけな行動に耐えられない草子という子どもが見えてきました。中の物語も、子ども時代のきらめきにあふれていて、楽しかった。ただ、入れ子の外と中が組み合わさったときの感動が薄く、それが印象の薄さにつながったのかもしれません。中の物語では、最後に野枝がひかりの両親宛てに手紙を書いたことが功を奏して、ひかりが団地にもどってきてくれます。2人の時間のきらめきは、その時間の喪失を描くことでいっそう際立ち、読者の心に残ると思うので、2人が10年後に再会してもよかったかなーと思いましたが、でもそれでは大事な「魔法」の意味が描けなくなりますね。ひかりのすこし芝居がかった言葉遣いがほほえましく、赤毛のアンの姿が重なりました。また、子どもたちの体温の高さという点では、森絵都さんの本を思いだしました。

木の葉市川さんの文章が心地よくて、このまま草子さんの話としてずっと読んでいたかったです。作中の物語はアイテムとしても定番というか、割と平凡な印象でした。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉はとても素敵ですが、それが生かされているかというと、微妙です。入れ子にしたために、どちらも中途半端となってしまったような気もします。『西の魔女が死んだ』は、私も連想したのですが、あのおばあさんが苦手だったことを思い出しました。それから、野枝という名前は、私はどうしても伊藤野枝を連想してしまうので、少し違和感がありました。私も市川さんの『小やぎのかんむり』は好きな作品で、あちらの方がいいと思います。

カピバラ:2015年に鎌倉市中央図書館が「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」というツイートを出し、大きな反響を呼んだ、ということを思い出しました。これには賛否両論ありましたが、図書館側では、図書館はそういう子の居場所になれるんだという意識が生まれた、ということを聞きました。あくまでも見守るという姿勢は変えず、平日に毎日来る子がいたらなんとなく気にかけるようになったそうです。図書館はそういう場所であってほしいという思いが、著者にもあったのではないかと思います。深津さんは、まさにそういう子どもを見守る存在ですが、現実にこんな司書がいるのかな、とは思いました。やはり自分の水筒を貸すのはありえないし、図書館は出版物を扱う場所なので、いくら自分が書いたものだからといって、出版されていないものを渡すことはありません。でも、図書館はこうあってほしい、という意識が現れているのかな、と思いました。入れ子になった物語がある形式は、2つの物語がどういうつながりがあるのか、謎解きのおもしろさもあって魅力的です。「しずかな子は、魔女に向いてる」というのはすてきな言葉で、きっと著者はこの言葉がとても気に入っているのでしょうが、言葉の魅力が先に立って、それがどういうことなのか、という点は意外とあっさりしていたかなと思います。野枝とひかりのように正反対の子どもが仲良くなれるのか、という意見がありましたが、私は、ひかりのように屈託がなく、思ったことをすぐに言葉にできる子に野枝が惹かれるのはよくわかりました。

サークルK書き出しが柔らかい感じで表現が美しいので、読み出しやすかったです。表紙も本の森のページに入っていく感じがして、挿絵もかわいらしいですし。優しく詩的な日本語に触れられる作品だと思います。p163の「絶海の孤島に来ています」という司書さんの草子への手紙でストーリーを終わらせても良かったのではないかとは思いました。そのあと、「館長さん」とその息子とのやり取りや、司書さんとのやり取りなどは冗長に感じました。すべてに落としどころをつけようとしすぎている感じがして、もったいないと思いました。

マリンゴとても魅力的な物語でした。本編が実は、長い長い序章で、別の物語がすっぽり入り込み、最後にまた本編に戻るという構造が、わたしは非常にうまく機能していると思いました。自分の気持ちを伝えられるのは自分だけなのだ、というメッセージもとてもよかったです。あと、行こうと思えば世界のどこにでも行けるし、誰とでも会えるのだ、と不登校の子に、世界を広げるメッセージを伝えているのもよかったのではないかと。唯一、私が引っかかったのは司書さんですね。不登校のひとりぼっちの女の子に、実話と思われる2人の女子のかけがえのない友情の物語を読ませる司書さんって、デリカシーがどうなんだろう、と。とてもデリカシーある人として描かれているだけに、ちょっと気になりました。

たんぽぽ表現がきれいだなと、思いました。ラストは、「ああ、こういうことだったのだ」と、すっきりしましたが、そこにたどりり着くまで、ちょっと長かったです。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉が、少しイメージしにくかったです。

木の葉図書館を舞台にした作品は結構あって、私も、図書館の存在によって救われる物語は好きです。とはいえ、「図書館=いい場所」という描かれ方が前提となっているようで、そのことには少し疑問も感じています。すべての図書館がすばらしいわけではないですし、現実に問題や矛盾はあるはず。職員の待遇面もどうなのか、なども。本好きは本にまつわることをつい善的に捉えてしまいがちであることにも、注意が必要かな、という気がしています。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『宇宙の神秘』表紙

宇宙の神秘〜時を超える宇宙船

ホーキング博士のスペースアドベンチャーシリーズの、いよいよこれが最終巻です。これまでの巻にはスティーヴン・ホーキング博士も原稿を寄せたり、たぶんプロットにアドバイスをしたりしてかかわっておいででしたが、博士は2018年3月に亡くなられたので、この巻は娘のルーシーさんがひとりで(といっても博士のお弟子さんたちにはアドバイスを受けているかと思いますが)書いています。

それでじつは、私も読み始める前はあまり期待していなかったのですが(これまでの巻でのホーキング博士が書かれたものがとてもおもしろかったので)、読んでみて「ああ、おもしろい。もしかするとシリーズ中でも特におもしろいと言えるかも」と思いました。

本書は、何よりも今の時代にコミットしています。このままいくと未来はユートピアなのかディストピアなのかという問題、パンデミックの問題、専制君主がいた場合の身の処し方、気候変動の問題、AIと人間の共存の問題など、いろいろな点について、私たちに考えるきっかけを提供してくれています。

そして、「足元ばかりを見るのではなく、星空を見ることを忘れないようにしよう」というホーキング博士の言葉でしめくくられています。

シリーズを通しての主人公ジョージは、この巻でも大活躍しますし、親友のアニーもこれまでとは違う、びっくりの姿で登場してきます。トランプそっくりのダンプという為政者も登場してきます。

科学エッセイ(最新の科学理論)には、以下のものが収録されています。

・タイムトラベルと移動する時計の不思議
・気候変動——わたしたちには何ができる?
・未来の食べ物
・感染症、パンデミック、地球の健康
・50年後の戦争
・未来の政治
・未来の都市
・人工知能(AI)
・ロボットをめぐるモラル
・インターネットについて

(日本語版監修:佐藤勝彦先生 装画・挿画:牧野千穂さん 編集:松岡由紀さん 装丁:坂川栄治さん+鳴田小夜子さん 科学コラムの事実確認など:平木敬さん+平野照幸さん)

キーワード:宇宙、時間、感染症、未来、宇宙船、冒険 ディストピア

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『雪山のエンジェル』(さくまゆみこ訳)表紙

雪山のエンジェル

主人公はマケナというケニア人の女の子。山岳ガイドを務める父親と、理科の教師をしている母親との3人家族でナイロビに暮らしていましたが、シエラレオネに出かけた父親と母親がエボラ出血熱で死亡し、マケナは身寄りがなくなります。しばらくは父親の弟の家族に引き取られていたものの、女中同然の扱いを受けてそこにはいられなくなり、路上の暮らしを余儀なくされます。そこで出会ったのが、スノウと呼ばれるアルビノの少女。マケナとスノウは、スラムで何とか生きぬこうとします。やはり身よりのないスノウは、1日に少なくとも3回は魔法の瞬間があるから、それを楽しみに生きていけばいいと、マケナに言います。不思議そうな顔をするマケナに、スノウは言います。

「まず、日の出と日の入り。これで二つね。マザレ(スラムの名)で、おなかぺこぺこで不安なまま目をさまして、スラム街から死ぬまで抜け出せないから生きててもしょうがないと思ったとしても、空を見上げさえすればいいの。お日さまは、マザレ・バレーだろうと、アメリカの金色にかがやく摩天楼だろうと、同じように照らしてくれるのよ。お日さまはいつも、いちばんすてきな服を着て顔を出すの。ハッとするほどすてきな日の出が見られることもあるし、どの朝もほかの朝とはちがうのがいいでしょ。『毎朝が新たな始まりだと思って顔を出すのだから、あなたたちもそうしなさい』って言ってるみたいにね」
「じゃあ、三つ目は?」マケナがたずねた。
「探せば、いつでも見つかるもの。四つ目だって五つ目だって,二十個目だって同じ。ほら、今だって、あたしにとっては魔法の瞬間よ」

日の出と日の入りが毎日違うとスノウが言っても、東京にいたらそんなものかなあ、という程度の理解で終わっていたかもしれません。でも、木曽にいると,空が毎日違うということを実感します。光の具合も、雲の散らばり具合も、空気感も、風の吹き方も、本当に毎日違うのです。

マケナもスノウも命を落とす瀬戸際で助けられ,最後にはそれぞれの居場所を見つけるのですが、マケナを助けるのは、時々顔を出す神秘的なキツネ。スノウの不屈の精神を支えているのは、ミカエラ・デプリンスについて写真と文で伝える雑誌記事。ミカエラ・デプリンスは、シエラレオネで戦争孤児となり、その後プロのバレエダンサーになった女性で、今はオランダ国立バレエ団でソリストを務めています。

(編集:岡本稚歩美さん 装丁:内海由さん)

 

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<訳者あとがき>

本書は、ローデシア(今のジンバブエ)で生まれ、動物保護区で育ち、すでに『白いキリンを追って』『砂の上のイルカ』などで日本でもおなじみになった作家ローレン・セントジョンの作品です。セントジョンは、よく動物を作品に登場させますが、本書にもさまざまな種類のキツネが姿をあらわします。この作品に登場するキツネは、現実のものもあれば、特定の人だけに見えるものもあるらしいのですが、必死に生きようとしている子どもの味方をしてくれているようです。

でも、セントジョンがこの作品で描きたかったのは、キツネよりも「忘れられた子どもたち」のことだったと言います。マケナは親をエボラ出血熱という感染症で失って孤児になってしまいましたし、スノウもアルビノであることで迫害されそうになり、やはり孤児になってスラムに住んでいます。ほかにも、スラムでたくましく生きぬいている子どもたちが登場しています。

ときどき日本の新聞でも話題になるエボラ出血熱は、比較的新しい感染症だと言えますが、致死率が高いので恐れられています。初めて発生したのは1976年で、南スーダンとコンゴ民主共和国でのことでした。近年では2014年からギニアやシエラレオネなどで感染が拡大して「エボラ危機」と言われました。その後いったん終息したかに見え、シエラレオネやギニアでは終息宣言も出されましたが、また2018年からコンゴ民主共和国で流行しています。今、世界の多くの国々は新型コロナウィルスの感染をどう食い止めるかで必死ですが、アフリカにはまだエボラ出血熱とたたかっている人々もいるのです。

セントジョンは、たとえエボラ出血熱が終息したとしても、「エボラ孤児が姿を消したわけではなく、偏見や迷信のせいで村人からつまはじきにされるケースも多々ある」と述べています。エイズ孤児も同様だと思います。セントジョンが生まれ育ったジンバブエにも、孤児が百万人以上いるそうです。首都のハラレから半径10キロ以内で見ても、子どもが家長になっている家庭が6万戸もあるそうです。

また、アルビノの子どもたちが迫害されるというケースも、セントジョンはこの作品で取り上げています。アルビノは、先天的にメラニンが欠乏して肌が白くなる遺伝子疾患ですが、教育がすみずみまでは行きわたっていない場所では、大多数とは違う状態の人がいると、そこには何か魔力が潜んでいると思う人々もまだいます。それで、アルビノの人の体の一部を手に入れて高く売ろうなどという、とんでもないことを考える犯罪者も出てくるのです。

本書でも、スノウはタンザニアで死の危険を感じたのでしたが、そのタンザニアでは、2008年にアル・シャイマー・クウェギールさんという女性が、アルビノ初の国会議員になりました。彼女も子どものころは「人間ではなく幽霊だ」と言われたり、いじめられたりしたと言いますが、人々に自分の体験を話し、アルビノに対する偏見を取り除こうとしています。

また西アフリカのマリ出身のミュージシャン、サリフ・ケイタもアルビノですが、古代のマリ帝国の王家の子孫であるにもかかわらず、白い肌のために迫害され、親族からも拒否されて、若い頃は生活が貧しかったといいます。サリフ・ケイタは、今では世界的に有名なアーティストになり、アルビノの人たちの支援活動を積極的に続けています。

それから本書には、スノウに大きな影響をあたえた人物としてミカエラ・デプリンス(ミケーラと表記されることもあります)が登場しています。ミカエラの本は日本でも出ているので(『夢へ翔けて』ポプラ社)ご存知の方もいらしゃるかもしれません。シエラレオネで戦争孤児になったミカエラは、やがてアメリカ人家庭の養女になり、なみなみならぬ努力を経て、世界で活躍するバレエダンサーになるという夢を実現するのです。

バレエ界に黒人はまだとても少なく、ミカエラには肌に白斑もあることから、その夢を実現するのは、並大抵のことではなかったと思います。

「黄色いスイセンがたくさん咲いている中に、赤いポピーが一つ咲いていたとすると、ポピーは目立ってしまう。どうすればいいかというと、ポピーをつみとるのではなく、ポピーをもっとふやせばいいのだ」という言葉には、ミカエラの強い決意があらわれていて、スノウだけではなく多くの人に勇気をあたえてくれていると思います。

またローレン・セントジョンは環境保護に熱心な作家で、動物保護を目的とした組織ボーン・フリー財団の大使も務めています。

さくまゆみこ

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『雪山のエンジェル』紹介文
「子どもと読書」2021.3-4月号紹介

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「雪山のエンジェル」書評・朝日中高生新聞

「朝日中高生新聞」2020.11.29紹介

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『トラといっしょに』表紙

トラといっしょに

この絵本を訳したいな、と思ったきっかけは、コロナ禍での子どもたちの不安がいかばかりかと思ったことでした。今は子どもには重い症状が出ないと言われていますが、春ごろまではそれもわからない状態でした。私の孫の一人も4月から1年生になるはずでしたが、学校が開かれずに不安になっていたかと思います。私自身も不安でした。

この絵本では、いろいろなことが怖い男の子トムが、自分が描いた絵の中からとびだしたトラといっしょにあちこちで冒険するうちに怖さを克服してゆきます。コロナだけでなく、いろいろな不安を抱える子どもたちに手渡したいと思いました。

とがった歯と、ヒュッヒュッとふる尻尾を持ったトラが、美しく力強く描かれています。トムが自分でもトラの絵を描いてみようと思ったのは、美術館でアンリ・ルソーのトラの絵を見たからです。「不意打ち」とか「熱帯風のなかのトラ」と呼ばれている絵です。絵本の巻末には、ルソーとこの絵についての簡単な紹介があります。ルソーの絵は、一種独特の雰囲気をもっていてそれはそれですごいのですが、トラの絵はホジスンさんのほうがじょうずだと私には思えます。

文章を書いたホフマイアーさんは、南アフリカ生まれで、今はロンドンに住んでいます。私は彼女の絵本をもう一冊『ふしぎなボジャビのき』(光村教育図書)というのを訳しています。

(編集:小島範子さん)

キーワード:トラ、不安、恐怖、絵画、アンリ・ルソー

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◆書評(「子どもの本棚」2021年3月号 No.629)

『トラといっしょに』の書評(「子どもの本棚」2021-03)

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『わたしがいどんだ戦い1940年』表紙

わたしがいどんだ戦い 1940年

『わたしがいどんだ戦い 1940年』(読み物)をおすすめします。

『わたしがいどんだ戦い 1939年』の続編。前作には、内反足のせいで母親に虐待され、家に閉じこめられていたエイダが、疎開先でめぐりあった人々と心を通わせることによって、少しずつ変わっていくようすが描かれていた。

この続編でもまだ戦争は続き、エイダと弟が身を寄せていたスーザンの家は空襲で全壊してしまう。そこで地元の名士ソールトン家の使用人が使っていた家に引っ越さなくてはならなくなる。一方エイダはようやく内反足の手術を受けて、歩くこともできるようになる。

そのうちソールトン屋敷は軍に接収され、エイダが苦手とするソールトン夫人や、ユダヤ系ドイツ人の少女ルースも一緒に暮らすことに。当時はまだナチスの残虐性も表面化していなかったので、ルースは敵国人として村の人たちから白眼視されている。そんなこんなでエイダの視野はますます広がり、いろいろなことを考えるようになる。

それにしても、幼い日に受けた虐待の傷はなかなか癒えないものだ。エイダは、弟がスーザンをママと呼び始めることが気に入らないし、生母についてもしょっちゅういじいじと考えてしまう。なかなか素直に自分の気持ちを表現できないエイダに、読んでいてもどかしくなるほどだが、これが現実の姿なのだろう。

戦時中とはいえ楽しいひとときもあれば、スーザンが肺炎になって心細くなるひとときもある。エイダと、ソールトン夫人の娘マギー、そしてルースというこの立場も背景も違う三人がしだいに友情をはぐくんでいく様子も丹念に描かれている。

英語の原題は、「わたしがついに勝利した戦い」。死がすぐそこに迫る戦争という大状況も描いてはいるが、作者が書きたかったのはそれだけではない。むしろ作者は、エイダという悲惨な子ども時代を送ったひとりの少女が、自分の背負わされたものとの戦いに勝利をおさめる物語を書きたかったのだろう。自らも虐待を受けた経験をもつ作者ならではのリアリティが感じられる。

(トーハン週報「Monthly YA」2019年10月14日号掲載)


主人公のエイダは、内反足の手術を経て歩けるようになったものの、弟と一緒に身を寄せていたスーザンの家が空襲で全壊し、地元の名士ソールトン家の人びとやユダヤ系ドイツ人少女ルースなどさまざまな人びととの暮らしを余儀なくされる。死が身近に迫る戦時下、母親に虐待されていたエイダがスーザンたちの支えを得て、背負わされた傷を克服し成長する姿をリアルに描いている。エイダとルースとソールトン家の娘マギーという立場の違う3人の友情も丹念に書かれ、読ませる作品になっている。『わたしがいどんだ戦い 1939年』の続編。

原作:アメリカ/10歳から/養子 馬 戦争 友情

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

 

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『あまねく神竜住まう国』表紙

あまねく神竜住まう国

『あまねく神竜住まう国』をおすすめします。

学校で習う歴史は何年に何があったという事実が中心で、そこに生きていた人物がなかなか浮かび上がってきません。そういう意味では、歴史上の人物を主人公にした文学作品を読むのはおもしろいものです。どこまでが事実で、どこからがフィクションなのかはもちろんあいまいだとしても、作者もいろいろ調べたうえで書いているので、その作者なりに思い描く歴史上の人物が立体的に立ち現れてきます。

本書は、10代半ばの源頼朝を主人公にすえた作品です。調べてみると、伊豆に流されていた頃の頼朝についての史実はほとんどわかっていないらしいので、大部分がフィクションということになるのでしょう。大多数の日本人には義経の敵として人気の低い頼朝を敢えて取り上げていることに、まず興味がわきます。そしてその頼朝にからむのが、『風神秘抄』の主人公である草十郎と糸世です。

冒頭に登場する頼朝は、ひ弱で死の予感につぶされそうになっています。(「元服をしてもまだ幼顔を残しており、体も発育途上の細さだった。(中略)その上、伊豆では見かけないような色白の肌であり、『ひ弱な若様』と言い落とされるのも無理はなかった」)。糸世の勧めで敵の目を欺くために女装しても、だれにも怪しまれないほど線が細いのです。しかし、走湯権現に参詣した際、真っ暗闇の回廊にひとりで入りこみ、権現の真の姿と言われる神竜を心眼で見ます。このあたりは、アフリカなどでは今も行われている成人儀礼を思い起こさせる記述ですね。頼朝はその頃から自分の立場を客観的に見たり、自分の意志をはっきり持ったりするようになり、やがて死んだ姉・万寿姫の化身である大蛇とも対峙することができるようになります。

謎めいた存在である草十郎に興味を持った人は、小学館児童出版文化賞、産経児童出版文化賞、日本児童文学者協会賞など様々な賞を受賞している『風神秘抄』もぜひ読んでみてください。

(トーハン週報「Monthly YA」2015年6月8日号掲載)

キーワード:源頼朝、歴史、竜

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『虫ぎらいはなおるかな?』表紙

虫ぎらいはなおるかな?〜昆虫の達人に教えを乞う

『虫ぎらいはなおるかな?〜昆虫の達人に教えを乞う』をおすすめします。

私は、虫はオーケーなほうだ。ダンゴムシだって青虫だってさわれる。ゴキブリの卵を見つけて、子どもたちに見せるために飼っていたこともある。もっともうちの子どもたちは興味を示さなかったのだが。

だから以前ならこの手の本には関心が向かなかったのだが、短大教授をしていたときに、「虫嫌いでも、幼児とうまくつきあえるかな」と心配している幼児教育志望の学生が何人もいることにびっくりしてからは、こうした本には大きな意味があるだろうと考えるようになった。

本書は、そのしつらえがまずおもしろい。著者は、どんな虫にもさわれないほどの虫嫌い。チョウにもセミにも近寄れない。それなのに、なんとか虫嫌いを克服しようと、7人の専門家に会いにいくのだ。会ったのは、子どもと虫について研究している発達心理学者の藤崎亜由子さん、NHKラジオの「子ども科学電話相談」で昆虫の質問に答えている久留飛克明さん、「日本野生生物研究所」代表の奥山英治さん、精巧な虫オブジェを作っているアーティストの奥村巴菜さん、『害虫の誕生〜虫からみた日本史』(ちくま新書)の著者である瀬戸口明久さん、「こわい」という気持ちを分析する認知科学専門家の川合伸幸さん。そして、最後に多摩動物公園昆虫園を思い切って訪れたあと、飼育員の古川紗織さんにも話を聞いている。

著者は、「虫は命の大切さを教えてくれる」とか、「ゴキブリは病原菌を持っていない。殺虫剤のほうが体に悪い」とか、「虫が嫌いなのは観察が足りないからだ」とか、「害虫という言葉は、明治後半になってからの概念だ」などと聞くと、なるほどなるほどとうなずきながらも、なにせ虫嫌いなので、ドロバチの巣作りのおもしろさだの、ツノゼミの不思議な形だの、ツダナナフシの肉球のような脚の先だのについて熱く語られても、ついつい引いてしまう。そして、いつまでも虫に触れられるようにはならず、自分のことを「ヘタレ中のヘタレ」と思ったりもする。虫好き対虫嫌いの落差がユーモラスに伝わってくるし、著者によるイラストも楽しい。

(トーハン週報「Monthly YA」2019年8月12.19日号掲載)

キーワード:ノンフィクション、虫

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『わたしは女の子だから』表紙

わたしは女の子だから〜世界を変える夢をあきらめない子どもたち

『わたしは女の子だから〜世界を変える夢をあきらめない子どもたち』をおすすめします。

私は、教科書的に教えようとする本はあまり好きではないので、この本も最初は敬遠していたのだが、読んでみたらなかなかよかったので紹介したい。

ネパール、ジンバブエ、パキスタン、フィリピン、南スーダン、ウガンダ、ペルー、カナダと、世界のさまざまな国で暮らす女の子たちが、自分が抱えている問題をそれぞれに語っていく。

例えばネパールのアヌーパは、貧困な家庭に生まれ親が借金をしていたので学校に行けず、7歳で奴隷のようなカムラリになる。そして8年間家事労働を毎日させられたあげく、解放されて国際NGOの支援を受け、起業家になる勉強をして、動物用医薬品店を経営している。南スーダンで生まれたキャスリンは、両親が留守の間に近所で銃撃戦が始まり、弟たちを連れて200キロも歩いて国境を越え、ウガンダにある難民キャンプまで逃げる。今はそこで弟たちの面倒をみながら、両親と再会できる日を夢見ている。

ここに出て来る国際NGOとは、プラン・インターナショナルという団体で、世界の女の子たちが、十分な食事をあたえられずに家事労働をさせられ、10代で結婚・出産させられ、収入も発言権もない状態におかれている現状を変えようとしている。

ちなみに2018年の男女平等ランキングを見ると、日本は149か国中110位で、世界平均よりはるかに下だ。この本に登場する国をこのランキングで調べても、日本より下にあるのは、148位のパキスタンだけである(南スーダンはこのランキングに含まれていないが、あとは8位のフィリピンから105位のネパールまですべて日本より上)。つまり私たちの国は、衛生面や教育面ではましかもしれないが、女の子たちが不自由な概念や労働条件などに縛られているという点では、この本に登場する少女たちと共通する問題も抱えている。

ところで、本書は原書のレイアウトをそのまま使っているらしく、横書きの文章がずっと続く。私は日本語は縦書きのほうが読みやすいとおもっているのだが、若い世代は横書きの長い文章にも抵抗はないのだろうか。

(トーハン週報「Monthly YA」2019年6月10日号掲載)

キーワード:少女、貧困、難民

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『クラバート』表紙

クラバート

『クラバート』をおすすめします。

<生きること、死ぬこと、愛すること>

「ハリー・ポッター」シリーズや「ゲド戦記」シリーズには、魔法を学べる学校が出てきましたね。そんな学校に通ってみたいと思っている子どもは多いかもしれません。この本にも魔法を学ぶ学校が出てきます。でも、読んだあとでこの魔法学校に行きたいという子どもは、ほとんどいないでしょう。それくらい、この魔法学校は怖いのです。

主人公は、ヴェンド人の孤児クラバートで、物乞いをしながら暮らしています。ヴェンド人というのは、ドイツの少数民族です。ある晩、夢の中にカラスが現れ、クラバートを水車小屋へと誘います。西洋では、水車は時の象徴や、運命や永遠のシンボルだそうですし、カラスは生と死に関するシンボルです。伝説を下敷きにしているこの作品は、そんないろいろなシンボルに満ちています。

クラバートは、この水車小屋で働くことになるのですが、そこは不思議な場所で、徒弟たちはどんなにがんばっても脱出することはできないし、自殺することさえできないうえ、毎年一人ずつ命を落としていくのです。それに、そこは魔法学校でもあって、親方しか読めない魔法の本に書いてあることを、カラスの姿になった徒弟たちは口伝えに学んでいきます。

食べるものは十分に与えられ、魔法を使えば仕事もそうきつくはありません。そのせいか、他の徒弟たちはずっとこの水車小屋で酷使され、遠からず悲惨な死を迎える運命に甘んじているようです。権力者の親方をやっつければ失うとされる魔法の力にも、しがみついていたいのでしょう。

でも、魔法よりもっと大切なものがあるのではないでしょうか? クラバートはなんとか親方をやっつけて、この運命からも、この水車小屋からも抜け出したいと思うようになります。そんなクラバートを助けるのが、村の、声の美しい娘。二人は、命の危険を顧みず勇敢に親方と対決するのです。

コワーイ本だけど、ハラハラ、ドキドキしながら、生きること、死ぬこと、愛することについて思いをめぐらせることができる作品です。

(「子とともにゆう&ゆう」2012年12月号掲載)

キーワード:魔法、孤児、カラス、夢、生と死

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『カモのきょうだいクリとゴマ』表紙

カモのきょうだい クリとゴマ

『カモのきょうだい クリとゴマ』をおすすめします。

わたしが犬の散歩に行く近くの公園には、カモがいます。夏にいるカモは1種類。カルガモです。冬は他のカモもいっぱいいますが、くちばしの先が黄色いのでカルガモは見分けがつきます。春にはポンポン玉くらいの大きさのひなが、母ガモの後について泳いだり、少し大きくなって池の周りの地面をつっついている姿も見ることができます。

この本の主人公は、そのカルガモ。ある日、著者のお子さんが、カルガモの卵を持ち帰りました。激しい雨で水浸しになった巣を母ガモが放棄し、残った卵をカラスがつついているのを見るに見かねて、拾ってきたのです。その6つの卵から無事に孵化したのが、クリとゴマです。著者の家族は、野鳥を育てていいものかと迷いながら、でも一人前のカルガモに育て上げることを目標にして、べたべたせずにクリとゴマに愛情を注いでいきます。

卵からひながかえる様子、2羽が初めてミミズを見た時の驚き、だんだん水になじんでいく様子、雷雨を経験した時の慌てぶり、2羽の性格の差など、細かい観察による描写にはユーモアがあり、読ませる力があります。絵も文も著者がかき、それに著者の家族の手になる写真がついているので、リアリティも半端ではありません。

クリとゴマは、写真を見ても本当にかわいいのですが、この本は、そのかわいさを「売り」にしてはいません。世話が大変なこと、糞がとてつもなく臭いことなどもきちんと描写されているので、読んでいるうちに命とつきあうことのおもしろさ、楽しさ、そして難しさがおのずとわかってくるのがすごいところ。そう、世の中、かわいいだけのものなんてつまらないですもの。

やがてクリとゴマが成長すると、著者は2羽を自然に帰します。しかも簡単には戻ってこられないようなところへ。でも、それで一件落着したわけではなく、まだまだ「親」の苦労は続くのですが。

楽しく読める、優れた科学読み物です。

(「子とともにゆう&ゆう」2013年2月号掲載)

キーワード:鳥(カモ)、ノンフィクション、自然

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『カタカタカタ』表紙

カタカタカタ〜おばあちゃんのたからもの

『カタカタカタ〜おばあちゃんのたからもの』をおすすめします。

台湾の絵本。女の子のおばあちゃんは、足踏みミシンでいろいろなものを作ってくれる。ある日、女の子の劇の衣装を作っているときにミシンが故障してしまった。修理屋が来ても直せない。でも、おばあちゃんは夜遅くまでかかって手縫いで衣装を間に合わせてくれた。「ほんとうに すごいのは カタカタカタじゃなくて、おばあちゃんだったのね」という言葉がいい。

壊れたミシンは、やがてパパがテーブルにリフォームしてくれた。壊れたら捨てるのではなく、別の物に作り替えてまた使うというストーリーの流れもいい。

ユニークな絵で、おばあちゃんと女の子の温かい交流を伝える。翻訳もリズミカルでわかりやすい。

(産経新聞「産経児童出版文化賞・翻訳絵本賞」選評 2019年5月5日掲載)

キーワード:おばあちゃん、ミシン、台湾、絵本

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『バッタロボットのぼうけん』表紙

バッタロボットのぼうけん

『バッタロボットのぼうけん』をおすすめします。

主人公は犬の子どもたちで、バッタ型のロボットに乗って冒険に出かけるという設定。このロボットが、子どもの持つ知識の範囲内でなるほどと思えるように工夫されているのが楽しい。

ボルネオ、オーストラリア、ニュージーランドの陸地と海と川にすむ虫や動物たちが、生き生きと描かれ、吹き出しの中に簡単な説明も付されている。

ファンタジーの要素も取り入れた知識絵本だが、その土地に生息する動物をリアルに、主人公の犬たちをイラスト風に描くことによって、子どもが混乱しないよう配慮がされている。さらに最後の場面がストーリーに奥行きをもたせ、そこからもう一つの想像がふくらむよう工夫されている。

(産経新聞「産経児童出版文化賞・美術賞」選評 2019年5月5日掲載)

キーワード:ロボット、自然、絵本、動物

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『なっちゃんのなつ』表紙

なっちゃんのなつ

『なっちゃんのなつ』をおすすめします。

なっちゃんという女の子が、河原や野原を歩いて、クズのつる、ひまわり、アオサギ、セイタカアワダチソウ、サルビア、オシロイバナ、雷雨、ガマの穂、ハンミョウなどの自然の生きものや現象に触れあいながら、夏を感じていく絵本。

夏独特の旺盛なエネルギーを感じさせる要素も多いが、セミの死骸、お盆のお墓参り、お供え流しなど、死や、あの世とのつながりを思わせる要素も入っている。

写実的ではないが、動植物の特徴をよく観察して活かしている絵がいい。会えなかった友だちと最後に会って一緒に遊ぶという流れも納得できる。

おもて表紙と裏表紙のつながりにも読者の想像力がふくらむ。

(産経新聞「産経児童出版文化賞・美術賞選評」2020年5月5日掲載)

キーワード:夏、自然、生と死

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『マンマルさん』表紙

マンマルさん

『マンマルさん』をおすすめします。

抽象的な図形マンマルさんが、シカクさん、サンカクさんとかくれんぼをする絵本。黒いキャラクターが暗い洞穴に入ると、そこには正体不明のものがいるという設定なので、いささか怖いのだが、訳者のユーモラスでリズミカルな関西弁がその不気味さを中和している。真っ暗闇の中での黒いキャラクターの気持ちを、目の動きだけで表現している絵もいい。

マンマルさんは、ぞっとして洞穴からあわてて逃げ出したけれど、あれはいい者だったかもしれないと思い直す。そして、「さあ いっしょに め つぶってみ。どんなん みえる?」と、読者にも想像を促す。哲学的な絵本とも言えるが、子どもは子どもなりにおもしろさを味わえる。

(産経新聞「産経児童出版文化賞・翻訳絵本賞選評」2020年5月5日掲載)

キーワード:洞穴、形、謎、哲学、絵本

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『ゆきのひ』表紙

ゆきのひ

『ゆきのひ』をおすすめします。

朝起きると外は雪。ピーターは赤いマントを着て外ヘ出ると、足跡をつけたり、枝から雪を落としたり、雪だるまを作ったり、雪の山を滑り降りたり、ひとりで楽しく遊ぶ。原書刊行は1962年。アフリカ系の子どもを主人公にした絵本がまだ少ない時代に出され、時を超えて読者を獲得している。コラージュを主とした絵のデザインや色づかいは、今でも新鮮ですばらしい。(幼児から)

(朝日新聞「子どもの本棚・冬休み特集」2019年11月30日掲載)

キーワード:雪、遊び、アフリカ系、絵本

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『3人のママと3つのおべんとう』表紙

3人のママと3つのおべんとう

『3人のママと3つのおべんとう』をおすすめします。

理想のお母さん像を勝手に作って、うちのお母さんはちっともそれらしくないな、と思ってる人はいませんか? でもね、お母さんだっていろいろなんです。韓国からやってきたこの絵本に描かれている3人のママは、仕事も性格も家庭環境もまったく違います。子どものお弁当の支度だってそれぞれ。あわてて買いに走るママだっています。それでも、3人とも忙しい毎日のなかで子どものことを気にかけています。だから、お弁当をもって野原に遠足に出かけた子どもたちは、それぞれのママに、それぞれの方法で春の息吹をとどけてあげるのですね。読者の心の中にも春の色が広がります。それにしても、パパの存在が見えないのは、日本と同じということでしょうか? (5歳から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年3月28日掲載)

キーワード:母、弁当、多様性、遠足、春、絵本

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『りんごだんだん』表紙

りんご だんだん

『りんご だんだん』をおすすめします。

最初は、ぴかぴかでつやつやの赤いリンゴの写真。「りんご つるつる」という言葉がついています。かぶりついたら、おいしそうなリンゴです。そのリンゴが、少しずつ少しずつ変わっていきます。しわしわになり、ぱんぱんになり、ぐんにゃりしたかと思うと、くしゃくしゃしたり、ねばねばしたり、だんだんに無残とも言える姿に。そのうちに、あら、虫もわいてくる。

写真家が1年近くの間リンゴを粘り強く観察して記録した絵本。言葉はごく簡潔で、詳しい説明はないのですが、生きているものは、時間とともに否応なく変化していくこと、そして、それを糧にしてまた次の命が育っていくことなどが、リアルな写真から伝わってきます。(幼児から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年5月30日掲載)

キーワード:果物(リンゴ)、腐敗、虫、絵本

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『コピーボーイ』表紙

コピーボーイ

『コピーボーイ』をおすすめします。

前作『ペーパーボーイ』から6年経ち17歳になったヴィクターは、地元の新聞社で雑用係(コピーボーイ)として働いている。人生の大先輩として慕っていたスピロさんが亡くなり、ヴィクターは生前からの約束を果たそうと決意する。それは、「ミシシッピ川の河口に遺灰をまくこと」。約束を実現するための独り旅の中で、ヴィクターは様々な人と出会い、恋もし、吃音とも折り合いをつけて、新たな道を切り開いていく。若い読者にも、困難を乗り越えて未来を信じる力を与えてくれる。(中学生から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年4月25日掲載)

キーワード:旅、恋、吃音、未来

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『故郷の味は海をこえて』表紙

故郷の味は海をこえて〜『難民』として日本に生きる

『故郷の味は海をこえて〜「難民」として日本に生きる』をおすすめします。

日本は難民受け入れ数がとても少ない。それでも、戦争や人権侵害によって命が危うくなり、日本に逃げて来る人はいる。その人たちを、同じ人間として迎えるにはどうすればいい? 著者は、シリア、ミャンマー、バングラデシュ、ネパール、カメルーンなどから逃げて来た人に会い、彼らの故郷の味をふるまってもらいながら、どうして日本にやって来たのか、どんな苦労があるのかなどを聞き出していく。子どもにも親しめる料理や飲み物を入り口にして、難民について考えることのできるノンフィクション。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2020年1月25日掲載)

キーワード:難民、多様性、食べ物、ノンフィクション

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『フラミンゴボーイ』表紙

フラミンゴボーイ

『フラミンゴボーイ』をおすすめします。

イギリスの青年ヴィンセントが旅先の南フランスで話を聞くという枠の中に、フラミンゴが大好きで動物と気持ちを通じ合えるロレンゾと、社会から排斥されてきたロマ人のケジアの物語がおさまっている。ナチスの脅威、戦争に翻弄される人間、差別、動物保護など様々なテーマを扱いながら、巧みなストーリー展開で読者をひきつけ、おもしろく読ませる。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚・冬休み特集」2019年11月30日掲載)

キーワード:動物、差別、戦争

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『オオカミが来た朝』表紙

オオカミが来た朝

『オオカミが来た朝』をおすすめします。

オーストラリアのある一家4代の物語を、子どもをめぐるエピソードでつづっていく作品。一家にからめて語られるのは、不安や恐怖、認知症老人との触れあい、難読症の人や移民への差別、民族間の争い、家族との葛藤などだが、語り口にはユーモアと奥行きがあり、味わいながら読める。最初の物語の主人公ケニーが、最後の物語では曾孫の前に少年の姿で現れて「くじけるな」と呼びかけるのだが、その言葉は子どもたちみんなに向けた作者のメッセージにも思える。(中学生から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年10月26日掲載)

キーワード:家族、歴史、差別

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『月の光を飲んだ少女』表紙

月の光を飲んだ少女

『月の光を飲んだ少女』をおすすめします。

魔法を扱いながら、現代にコミットする物語。舞台は中世的な異世界で、そこではシスター長イグナチアが恐怖と悲しみをもって、従順で信じやすい民を支配している。イグナチア配下の長老会は、魔女への生贄として毎年赤ん坊を1人ずつ森の中に捨てさせるのだが、ある年捨てられたルナは、善き魔女ザンに拾われて育ち、やがて恐怖の世界をひっくり返して新たな世界を作り出そうとする。協力するのは、自然の象徴とも思える沼坊主グラーク、竜のフィリアン、ついに出会えた生母、正直でやさしい若者アンテイン、自分の頭で考える勇敢なエサイン。おもしろく読めて、生と死、支配と被支配、魔法と自然の力などについて思いをめぐらせることができる。(中学生から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年8月31日掲載)

キーワード:魔法、竜、家族、生と死、自然

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『漂流物』表紙

漂流物

『漂流物』をおすすめします。

ある日男の子が、浜辺に打ち上げられた水中カメラを拾う。入っていたフィルムを現像してもらうと、ぜんまい仕掛けの魚や、居間でくつろぐタコなど不思議な写真がいっぱい。知らない子が手に写真を持っている一枚も。それを虫眼鏡や顕微鏡で調べて、男の子はまたびっくり。様々な子どもたちがカメラを介してつながっていく文字なし絵本。自由にお話を想像できるのも楽しい.(小学校低学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」(夏休み特集)2019年7月27日掲載)

キーワード:絵本、海、カメラ

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『天才ルーシーの計算ちがい』表紙

天才ルーシーの計算ちがい

『天才ルーシーの計算ちがい』をおすすめします。

12歳のルーシーは雷に打たれて以来、どんな難問でも解ける数学の天才になった。ある日ルーシーは、親代わりの祖母から、ホームスクールを卒業して学校に行くように言われるのだが、極端な潔癖症だし変な癖もあるのでいじめを受け、すぐに学校が嫌になってしまう。そんなルーシーが、数学以外の世界でも自分の居場所を見つける物語。(小学校高学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年7月27日掲載)

キーワード:学校、いじめ、数学(算数)、居場所

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『あしたはきっと』表紙

あしたはきっと

『あしたはきっと』をおすすめします。

茶色い肌の子どもが主人公の「おやすみなさい」の絵本。「あしたはきっと」という言葉に続いて、子どもの日常を彩る青空や、おいしい食べ物や、だれかの歌声が出てきたかと思うと、だんだん想像がワイルドになって、クジラに乗ったり、「へんちくりんなやつ」を見つけたり、笛を吹きながらカタツムリを散歩させているおじさんに会ったりもする。今日がつらかった子どもにも、明日はきっと素敵なことや不思議なことがありそうと思わせてくれるのがいい。寝る前に読んでも、読んでもらっても、楽しいよ。(小学校低学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年6月29日掲載)

キーワード:絵本、想像

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『嵐をしずめたネコの歌』表紙

嵐をしずめたネコの歌

『嵐をしずめたネコの歌』をおすすめします。

イギリスのコーンウォール地方に伝わる伝説を基にした物語。大嵐が来て海が荒れ、漁師たちが船を出せずに村に食べるものがなくなったとき、年老いた漁師のトム・バーコックは飼い猫のモーザーと一緒に、命がけで海に出て行く。村人たちのために、なんとしても魚をとろうと決意したのだ。細かくていねいに描かれた絵がとてもいい。もともとは横書きの文章量の多い絵本だが、そのままの形では日本の子どもに読みにくいので、文字を縦書きにして絵童話風に仕立てている。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年5月25日掲載)

キーワード:海、ネコ、嵐、伝説、絵物語

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『ひみつのビクビク』表紙

ひみつのビクビク

『ひみつのビクビク』をおすすめします。

異国で暮らすことになった子どもの気持ちを、わかりやすく描いた絵本。不安や恐怖をビクビクという存在で表現している。主人公の少女は、本当に危険なことを避けてくれるビクビクを友だちだと思ってきた。でも言葉もわからない異文化の中に放り込まれると、ビクビクがどんどんふくらみ、少女の気持ちは急速に縮こまってしまう。今後は日本にもこのような子どもが増えてくるだろうと思うと、テーマがタイムリーで、子どもの立ち直る力にも目が向けられている。(5歳から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年4月27日掲載)

キーワード:不安、居場所、絵本

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『夢見る人』表紙

夢見る人

『夢見る人』をおすすめします。

南米のチリに暮らす少年ネフタリは、体は弱くても、空想することや詩を書くのが好き。自然の不思議に目を見張る慣性も持っている。でも、息子の体を鍛え、医者や実務家にしたい父親は、それが気に入らない。継母は、本を読んでくれたり、時には守ったりしてはくれても、夫に刃向かうことはしない。最初はなんとかして父親の愛情を得たいと思っていたネフタリだが、やがて自分が詩や文を書きためたノートを父親が燃やすのを目撃すると、心の自由を求めて故郷を離れ、自分の道を歩み始める。ノーベル賞を受けた詩人パブロ・ネルーダの少年時代を描いた物語。緑色で印刷された文章から情景が生き生きと立ち上がってくる。シスの挿絵もすばらしい。(中学生から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年3月30日掲載)


南米のチリに暮らす少年ネフタリは、夢見ることや詩を書くのが大好きで、自然の不思議に目を見張る感性も持っている。でもひ弱な息子の体を鍛え医者や実務家にしたい父親には、軟弱な役立たずとしか思えない。幼いネフタリはなんとかして父親の愛情を得ようとするが、先住民の人権を守ろうとするおじさんの影響もあり、やがて心の自由を求めて自分の道を歩み始める。ノーベル賞を受けた詩人パブロ・ネルーダの少年時代を描いた伝記的な物語。緑色で印刷された文章は情景を生き生きと伝え、挿し絵もすばらしい。

原作:アメリカ/12歳から/詩 夢 父親 チリ

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2020」より)

 

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『ゆかいな床井くん』表紙

ゆかいな床井くん

『ゆかいな床井(とこい)くん』をおすすめします。

6年生になった暦の隣には、人気者の床井君が座っている。小柄な床井君は下品な話もするけれど、背の高い暦を「デカ女」と呼ばずにうらやましいと言ってくれる。2人と、同じ暮らすにいる多様な子どもたちの1年間を描く短編集。楽しく読んでいくうちに、この2人と一緒に読者も「別の見方」ができるようになるかも。(小学校中学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2019年1月26日掲載)

キーワード:学校、差別、多様性、友情

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『まめつぶこぞうパトゥフェ』表紙

まめつぶこぞうパトゥフェ〜スペイン・カタルーニャのむかしばなし

『まめつぶこぞうパトゥフェ〜スペイン・カタルーニャのむかしばなし』をおすすめします。

パトゥフェは、豆粒くらい小さいけれど、なんでもやろうとする男の子。踏みつぶされないように「パタン パティン パトン」と歌ってみんなの注意を引きながら歩いていく。ところが、お父さんにお弁当を届けにいく途中、牛に食べられてしまったから、さあ大変。ゆかいで楽しい絵本。(幼児から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年12月29日掲載)

キーワード:絵本、スペイン、牛、昔話

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『ふゆめがっしょうだん』表紙

ふゆめがっしょうだん

『ふゆめがっしょうだん』をおすすめします。

冬の木の芽を、よく見てごらん。だれかの顔に似ているよ。笑っているみたいな顔もあるし、ちょっと怖い顔もあるけど、みんなで歌いながら春を待っているのかな? 自然ってゆかいで不思議。冬の散歩が楽しくなる写真絵本=幼児から

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年11月24日掲載)

キーワード:冬、植物(樹木)、自然、ノンフィクション、絵本

 

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『クリスマスのあかり』表紙

クリスマスのあかり〜チェコのイブのできごと

『クリスマスのあかり〜チェコのイブのできごと』をおすすめします。

1年生のフランタは、ひとりでランプを持って教会に行き、あかりをもらって帰る途中、近所の貧しいおじいさんに会う。おじいさんが亡き妻のお墓に捧げようとした花束が盗まれたと知ったフランタは、なんとかしようと考えをめぐらせる。子どもの細やかな心の動きを伝える文章に、チェコ在住の画家のあたたかい絵がついている。(小学校低学年から)

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年11月24日掲載)


クリスマスイブに、1 年生の男の子フランタは手提げランプを持って、ひとりで教会に明かりをもらいに行く。そして帰る途中、近所の貧しいおじいさんが妻の墓に供えようと買った花束が盗まれたことを知り、なんとかしようと考える。トラブルもあるが、やさしい人びとにも出会い、フランタは、しょんぼりしていたおじいさんに花束をわたすことができた。幼い子どもの細やかな心の動きを伝える文章に、チェコ在住の画家のあたたかい絵がついた絵物語。

原作:チェコ/6歳から/クリスマス あかり プレゼント

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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スーザン・ヴァーデ文 ピーター・H・レイノルズ絵 さくまゆみこ訳『みずをくむプリンセス』表紙

みずをくむプリンセス

西アフリカのブルキナファソ出身で世界各地で活躍するファッションモデル、ジョージー・バディエルさんの子ども時代を描いた絵本です。主人公はジージーという少女。ジージーはお母さんやお父さんからプリンセス・ジージーと呼ばれていますが、朝早くに起こされて、ティアラのかわりにつぼを頭にのせ、お母さんと一緒に遠くの川まで歩いて、水をくみに行かなくてはなりません。そして、水をくむとまた、お母さんと一緒に歩いて家まで戻ります。

新型コロナウィルスの感染防止策として、手をアルコールで消毒したり、石けんでよく洗ったりするようにと言われていますが、アルコールも石けんも水もすぐそばにはない子どもたちも世界にはいます。この機会に、そう言う子どもたちにも思いを寄せてみませんか。アメリカ図書館協会のnotable booksに選定されています。

ジョージー・バディエルは今、カナダの「ライアンの井戸」という組織と一緒に、アフリカ各地に井戸を作るプロジェクトを進めています。

『てん』(あすなろ書房)、『っぽい』(主婦の友社)などの絵本で日本でも有名なレイノルズさんが、アフリカを舞台に絵を描いているのも、見所です。

さ・え・ら書房は、オビ(今見たら、作者名がすっかり隠れているけど、いいのかな?)にSDGsの指標を入れているのですが、それによると、4(質の高い教育をみんなに)、5(ジェンダー平等を実現しよう)、6(安全な水とトイレを世界中に)、8(働きがいも経済成長も)に該当する絵本のようです。

(編集:佐藤洋司さん 装丁:安東由紀さん)

*全国学校図書館協議会 「えほん50」2021選定
*2021年青少年読書感想文全国コンクール課題図書

SLA「えほん50」選定記事

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タッカー文 パーシコ絵『グレタとよくばりきょじん』(さくまゆみこ訳 フレーベル館)表紙

グレタとよくばりきょじん〜たったひとりで立ちあがった女の子

グレタ・トゥーンベリさんの本はたくさん出ていますが、これはノンフィクションではなく、グレタさんをモデルにした物語絵本です。

森に暮らす少女グレタのところに、困っている動物たちがやって来ました。欲ばり巨人が森の木を切ってしまい、すみかが荒らされているというのです。欲ばり巨人たちは、家を建てたり工場を建てたりと忙しく、森の動物たちが困っていることには気づきません。

そこでグレタは、たったひとりで「やめて!」と書いた札を持って、巨人に見えるように立っていました。でも、巨人たちは通り過ぎていってしまいます。やがてグレタに気づいた男の子が、グレタのとなりに立ってくれました。そのうちに子どもたちがたくさん集まってきて、死にかけた森を救うために、みんなで欲ばり巨人に抗議をします。

巻末には、子どもたちにもできる提案が書いてあります。

物語絵本になっているので、小さな子どもたちにもわかりやすいと思います。
売上げの3%は、環境保護団体のグリーンピース・ジャパンに寄付されることになっています。

(編集:渡辺舞さん)

 

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2020年01月 テーマ:近いか? 遠いか? KOREA

日付 2020年01月17日
参加者 ネズミ、ハル、ルパン、アンヌ、コアラ、西山、カピバラ、さららん、木の葉、サークルK、マリンゴ、まめじか、(エーデルワイス、サンザシ)
テーマ 近いか? 遠いか? KOREA

読んだ本:

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ソン・ウォンピョン『アーモンド』表紙

アーモンド

マリンゴ:非常に読み応えがありました。主人公と、ゴニ。どちらも、非常に極端なキャラで、一歩間違えれば非現実的な物語になりそうなのに、現実のなかに落とし込んでいるのがすごいと思います。人それぞれに成長のしかたやスピードは違って、考えることをあきらめなければ、少しずつ変わっていけるのだと、感じられる本でした。ただ、実在の本と架空の本を取り混ぜているのは、あまり好ましくない気がしました。p125で、『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー著)とおぼしき内容の本が登場します。でも、p126のP.J.ノーランという作家は架空の人物なんですよね。注釈はついているのですが、別ページにあるため、それを見る前に、ノーランの名前を一生懸命検索してしまいました。少しくやしいというか腹立たしいですね(笑)。

サークルK:タイトルを見たとき、何のことだろうと不思議に思いました(読み進むうちに解明されましたが)。挿絵が斬新で、モダンな感じでした。(皆さんがおっしゃっていた、男の子の顔色が明るく変わっていくことには気づきませんでした。)始まりが衝撃的なシーンで、映画を見る思いで読みましたが、あとがきで作者が映像関係にも造詣が深いことを知り、納得しました。脱北者を扱った韓国映画では「クロッシング」(2008)があり、(「母をたずねて三千里」の父子・悲劇版とお考えいただければと思います)今回の3作品を読んで、その映画のことも思い出しました。

ルパン:おもしろく読みました。まず、プロローグがいい。「アーモンド」が何をさしているのかわからないのだけど、「あなたの一番大事な人も、一番嫌っている誰かも、それを持っている」という一文に心ひかれました。そしてp29でそれが脳の中の「扁桃体」であることがわかると、「アーモンド」が物語全体を支えるキーワードとなり、作者の言いたいことがひとことで言い表されている気がしました。ストーリーは映像的というか、殺人事件など非日常な場面がまるでテレビドラマか映画を見ているように目に浮かんできました。そういう意味ではエンタメなのかもしれませんが、この主人公がゴニに対する友情や、自身が生きるよろこびを感じ始めるところはとてもいいと思いました。

ハル:私自身も読んでおもしろかったし、YA世代の子が読んだらよりいっそう感じるものは多いと思うのですが、積極的にYAとしてその世代の子にすすめたいかというと、そうでもないのかなぁと思います。設定だったり、突然の悲劇だったり、ラストのもっていきかただったりが、うーん、これは一般文芸かなと思いました。いつも読む英米の翻訳の本とは違う文化に触れられたのも、新鮮でおもしろかったです。

さららん:どんどん読めてしまった。エンターテイメントとして見事でしたね。冒頭で、「怪物である僕がもう一人の怪物に出会う」との断りがあり、そのあと「その日、一人が怪我をし、六人が死んだ。・・・・・・」と事件の描写から、第1章が始まったので、猟奇的な物語かな?と覚悟をきめて読み出しました。でもすぐにトーンが変わり、むしろ感情のない少年の透明な悲しみに包まれた物語でした。p50-p51の描写(意味が心に響かない少年には、本の楽しみ方もほかの人とは違う)のところなど、この少年の感覚を表していて、リアリティを深めるのに役立っていたと思います。余談になりますが、私には、韓国の小説や映画は血が出て終わる、という印象があって、この作品もやはりそうでした。

アンヌ:主人公は扁桃体異常と言われるし、目の前で祖母も母親も襲われるし、この子はどうなっちゃうんだろうと思いながら読み始めましたが、意外に母親が周到に彼を守る方法を考えていてくれたので、ほっとしました。脳の異常ならば、成長と共に変わって行くだろうと推測がついていたので、ゴニが出て来てからは、そっちの方が心配でした。せっかく再会した親に、また捨てられていますよね。作者は最初にバーンと映像を出すような描き方がとてもうまくて、映画のようにぞれぞれの場面が目に浮かんできます。おばあさんが襲われるところとか、映画だったらここで、不意に無音になるだろうな、なんて思いました。けれど、逆にそれがちっとも怖くなかったりすることもあって、たとえば、不良の親玉のようなまんじゅうはともかく、針金の顔が美しいのは、ありきたりに思えてつまらない気がしました。ぼくは死んだと言いながら話が続いて行って、最後はちょっと拍子抜けという感じもしました。

木の葉:おもしろく読みました。主人公のユンジェと思われる表紙の少年が、章タイトルにも描かれてますが、だんだんと背景の色が明るくなっていくことに、今気がつきました。社会のありようは日本とさほど変わりなく、祖母を失い母を植物人間状態にするクリスマスイブの殺傷事件やそれへの反応なども、日本でもありうると感じたのですが、この物語のようなタイプの作品は日本では見かけない気がしました。タイトルのアーモンドは、扁桃体のことを差しますが、食べ物のアーモンドが上手く使われています。翻訳書も茶やオレンジが基調でどことなくアーモンドトーン。作者は映画関係ということで、視覚的にイメージしやすかったように思います。対比的に描かれるユンジェとゴニの緊張が終盤に向かって加速し、ちょっとドキドキしました。暴力シーンは苦手なので、つらいところもありましたが。ただ、ラストの母親のエピソードはやりすぎというか、快復の兆しぐらいで抑えてくれたほうが私の好みです。

ネズミ:入りづらかったです。感情を持たない主人公の1人称で書かれていますが、自分が幼かったときの出来事を、他人のせりふも再現しながら、3人称のように書いているのが、どうもしっくりこず、どうとらえていいかわからない感じでした。ゴニとの関係はおもしろく、こういう題材をとりあげることは、なるほどなあと思いましたが、かなり読者を選ぶ作品でしょうか。

西山:作者が映画畑の人だからということもあるのでしょうか、映画を観ているようでした。映画にすれば結構流血シーンの多い映画になるでしょうけれど、人は人との関係の中で変わるんだというところが作品の芯になっていると思うのでYAとして非常に好感を持って読みました。脳ってわからないから、身長が9センチ伸びたら「頭の中の地形図がかなり変わったんだと思う」(p198)というところや、「自分でも気付かないうちに僕の頭を追い抜いてしまった体が、夏に着る春のコートのように不必要でうっとうしく感じられた」(p199)といったところが、1年間で10センチぐらい軽く延びてしまう年頃の子どもにとって、とてもしっくりきます。おもしろいなと思ったところは、数々あるのですが、たとえば人の心がわからないから、根本的な問いを発する。「ほかの人と似てるって、どういうこと? 人はみんな違うのに、誰を基準にしてるの?」(p71)と、スマホとの対話アプリで質問しているところ、その行為自体が切ないのですが、ものすごくプリミティブな問いかけですよね。あと、p244で、テレビでとても不幸なニュースが流れていても、平気でチャンネルを変えたり、笑えるのはなぜかという疑問。これも、そもそも共感って何?という根源的な問いで、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)のフィギスの逆パターンなんだなと思いました。フィギスは異様に高い共感能力で憑依を招くわけですから。設定の奇抜さで目を引くということではなく、深く読める作品だと思います。あと、中学生くらいで共感をよぶんじゃないかと思いまして、p87の心ない質問に「別に何ともないよ」と答えてしまうところ、いかにも中学生のリアクションだと思いながら読みました。その直前、レンギョウの芽に日が当たるように枝の向きを変えてやる場面に、なんてやさしい!と思いました。感情が分かるとか、優しさって何?と考えさせる場面があちこちにあって、ハッとすることが多かったです。ゴニもいい子で、たとえばp142の最後のところで、「褒めてるんだ。商売上手だって」と。「ぼく」に分かるように説明を加えるなんて! 蝶を使った感情教育のところ、―あれ、対人間の暴力シーンより怖かったんですけど―そういうことを思いつくゴニが愛しい! ティーンエイジャーにいいなと思った作品でした。

カピバラ:感情がないっていうのがどういうことか、なかなかすぐには理解できず、私も最初は違和感があったんですけど、次第に主人公の独特の世界に入り込んでいくという不思議な感じがあり、それがほかの本にはない体験でした。章の切れ目に、次を読まずにいられないような予告的な表現があるんですよね。p54で、母さんの顔にしわを見つけ、「母さんも、これからは歳をとっていくだけってことよ」と母さんが言いますが、そのあとに、「でも母さんの言ったことは間違っていた。運命は、母さんにそんな機会を与えなかった」と書いてあります。これはもう、母さんに何が起こるんだろうと、次を読まずにいられないじゃないですか。そういった予告的な表現が次へページをめくらせる効果を出していると思います。また、季節の変わり目を表す描写がとても美しく、記憶に残りました。例えばp151「季節の女王は五月だというけれど、僕の考えは少し違う。難しいのは、冬が春に変わることだ。凍った土がとけ、芽が出て、枯れた枝に色とりどりの花が咲き始めること。本当に大変なのはそっちのほうだ。夏は、ただ春の動力をもらって前に何歩か進むだけで来るのだ」 こういった美しい描写が節目ごとに書かれていて時の流れを伝えてくれます。また、章のはじめの絵のバックの色が変わったのには3章くらいで気づき、おもしろいなと思いました。これは原書にはなくて日本の装丁者の工夫なのかな。センスがいいですね。

さららん:1カ所だけ疑問に思ったところがありました。p65で「こうしてぼくは十七になった」と書いてあったけれど、p82で、アーモンドは高校に入学していますよね。17歳で入学なのでしょうか?

ルパン:数え年だからじゃないですか? 12月にうまれたときが1歳で、年が明けてすぐに2歳になるから、満年齢と2歳の差ができるのでは。

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エーデルワイス(メール参加):文学的に質の高い作品。児童書ではなく一般書の棚にありました。村上春樹、カズオ・イシグロのような印象を受けます。好きな作品としか感想がかけないのですが、この作者を今後も読みたいと思いました。

サンザシ(メール参加):とてもおもしろく読みました。ユンジェとゴニはどちらも怪物と呼ばれる人間で、足りないものを持っています。その2人が対立し、理解しようとし、友だちになっていきます。リアルであると同時にエンタテイニングで、先へ先へと読ませる力があります。しいてテーマを示すとするなら、愛による変化・成長といったところだと思いますが、フィクションだからこそ書ける作品かもしれません。文学が持つ力をひしひしと感じることができました。訳もとてもいいと思います。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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リ・ソンジュ『ソンジュの見た星』表紙

ソンジュの見た星〜路上で生きぬいた少年

カピバラ:あまりにも過酷な状況に目を背けたくなるところがこれでもか、これでもかと続いていくんだけど、目を背けてはいけないという思いで読み進みました。実体験だとわかっているのでよけいにつらいけれど、主人公は、今は脱北してこの本を書けるようになったんだ、という事実を希望にして読みました。北朝鮮の状況を書いたものを読む機会は少ないので、関心もあったし、日本にも責任があるところがつらくもありました。政府によって洗脳されるおそろしさや、子どもたちがまず犠牲になるのは多くの国が経験していることだけれど、これがついこの間のことだということ、現在もどこまで状況が改善されているかわからないことに胸をつかれました。つらい中でも、おもしろいと思った点は、子どもたちが、子どもなりの知恵を働かせ、団結して1つの小さい社会を形作っていくところ。〇〇はぼくらの目だ、〇〇はぼくらの声だ、というように、それぞれの長所を生かした役割でお互いに認め合っていく。そしてそれが実の家族よりも強い絆になっていくところです。

西山:何が衝撃的と言って、つい最近のことという事実です。読みだしたら止まりませんでした。p190の、子どものころの夢を語り合っている部分は、軍の指揮官という夢は、社会背景を映したその時のそこだからこその内容ですが、それを、「そんな夢を持ってたなんて、別の人生っていうか、ぼくじゃないだれかの人生みたいな気がするよ」というところがすごく切なかったです。(追記:エルサルバドルの内戦下を舞台とした映画「イノセント・ボイス 12歳の戦場」で屋根の上に逃れて星空を見ているシーンを不意に思い出しました。この映画、ものすごくつらい内容ですが、一見の価値あります。作者の境遇と言い『ソンジュ』と共通する部分が多いと今気づきました。)p261の「人間が別の人間に対してする最悪のこと」を「尊いものや、いいものや、純粋なものを信じられないようにすることじゃないかな」と語り合っているところも本当に胸にしみました。普遍性のある作品だと思いました。

ネズミ:ノンフィクションみたいなフィクション、と思って読んだのですが、ノンフィクションだったんですね。事実のすさまじさに圧倒されました。文学的な企みではなく、そこにある事実の重さが迫ってきて。主人公がどうなるか知りたくて、最後まで読まずにいられなかったけれど、凄惨な場面もあるので、子どもだと、怖くて途中で投げ出してしまう読者もいるかも。父親から教わった、小石を3つ使った戦術が主人公を何度も危機から救うというのが印象的で、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のかくれんぼを思い出しました。

まめじか: キム・イルソン主席の伝説や国の偉大さを信じこんでいた主人公は、しだいに自分の頭で考えるようになります。なんの疑問ももたずに命じられたとおりにするのが、権力者にとって都合のいい人間だという文章にハッとしました。一番ひどい仕打ちは、家や仕事や親を取りあげることではなくて、善なるものや希望を信じられないようにすることだというせりふは、人は何をよりどころにして生きるのか、何をもって最悪の時を乗りきるのかを考えさせます。北朝鮮には、メディアから得たイメージしかなかったのですが、p291の景色の描写はほんとうに美しいですね。主人公の移動した経路がわかりにくいので、地図があったらよかったです。

木の葉:今回、選書係だったのですが、翻訳ものは欧米、特に英語圏のものが圧倒的に多いので、できるだけアジアの作品をと、思いました。とはいえ、これは原書が英語ですが。北朝鮮の脱北者の体験を描いたもので、体制糾弾目的のものだったら、やめようと思っていましたが、読了後に取りあげることにしました。すでに意見として出ていますが、脱北が成功していることがわかっているので、ある意味では安心して読むことはできたのですが、それにしても、前半はきつかったです。ただ、読み進めるにつれて、子どもたちのギャングぶりにたくましさを感じて、ワルといってしまえばワルなのですが、生き抜く知恵と力を感じました。野沢さんが訳者あとがきで「朝鮮半島はアメリカとソ連によって南北に分断され、七十年以上たった今もふたつの国に分かれたままです。歴史は「現在」につながっています。もし、朝鮮半島が日本の植民地ではなく、ひとつの独立国だったならば、こんなことは起こらず、社会のしくみや人々の暮らしも今とはちがっていたかもしれないのです」(p372)と書いてます。読者にはここもしっかり読んでほしいと思いました。朝鮮半島が分断国家になったことに、日本が深く関与していることをちゃんと理解してほしいと思います。

アンヌ:以前に、北朝鮮を渡った在日の女の子が出てくる小説を読んだことがあったので、悲惨な状況を覚悟して読みました。主人公が頭を使ってたくましく生きていく場面は格好がいいけれど、前にパンを恵んでくれたおばあさんからパンを盗む場面は読んでいてつらいし、収容所でも看守に乱暴される女の子たちとは違う。だから、生き抜くたくましさに感動するというより悲惨さを感じながら読み続けました。おじいさんとの再会と、その後の場面は天国のようにのどかで、ほっとしました。でも、おじいさんはこの後も生活が続けていけたのか心配です。韓国での扱いを見ると父親はかなりの機密を知っていた軍人だと思うので。身元がわからないようにするために、原文から削ったりした場面は多いのだろうとも思いました。例えばp308「その老人の横の貼り紙」といきなり出てきますが、何の貼り紙か全然状況がわからない。あとの方でどうもガラス瓶が置いてあったり自転車もあったりしたようなことがわかるけれど、情景描写の部分が変に抜けているように思ったのでそう感じました。

さららん:テレビのニュースに映る平壌の都会の人は幸せそうですよね。けれども農村は疲弊しているはずで、その関係がどうなっているのか想像できなかった。この本を読んでその空白部分が埋まりました。形はあっても稼働していない工場。山のリスまで捕まえて食べる生活。生活は限界を越えていても、父親が、次に母親が家を出て消えてしまっても、この主人公は自分を投げ出さない。盗みは日常茶飯事だし、ときには麻薬に手を出し、自暴自棄になって危ういところまでいきます。それでも仲間には公平で、強い正義感を持っています。ぎりぎりの生活の中でこそ、人としての品格が問われるのだと思いました。その点で、ホロコーストをテーマにした作品と共通するものを感じました。国外への脱出劇が、また実にリアルで印象深かったです。父さんの友だちと称する人を信じられるのかどうか。著者は最初は国境を越えて中国に行き、それから韓国に行き、そして今は脱北者の救済活動をしているということです。少年の日々を、長いスパンで克明に描いたものだからこそ、具体性があって読み応えがありましたが、このとき、あなたは本当はどう感じたの?と聞きたい部分はありました。人物の心の奥深くまで入りたかったです。

コアラ:これが最近の出来事というのがショックでした。1997年頃、北朝鮮が飢饉でひどい状態だというのはニュースで聞いた記憶がありますが、ここまでひどい状態だとは知りませんでした。一番印象に残ったのは、p103からの第9章の、母親がおばさんのところに食料をもらいに行くと行って、ソンジュが起きたら母親がいなくなっていたところ。父親がいなくなり、母親までいなくなって、どんなに悲しく心細かっただろうと思うと、本当に読んでいてつらくなりました。鍋におかゆがつくってあったというのも、もしかすると父親が帰ってきた時のために残しておいた食料だったかもしれず、最後に母親がそれを使い切って、ソンジュの食べるものを作ってあげたのかもしれないと思うと、子どもを残して行く母親の思いはどうだっただろうとか、読み終わってからもいろいろ考えてしまいました。少年たちがコッチェビ団を結成して生き延びていく様子も、胸が痛かったのですが、語弊がある言い方かもしれませんが、フィクションだったらおもしろく読めた部分かもしれません。それでもやはりノンフィクションだからこその凄みを感じました。途中で、少年たちは、強くなるために体を鍛えたりします。これは、日本の子どもたちにも通ずるというか、想像を絶する状況にあって、意外と健康的な普通の子どもたちのように思えて、ちょっとほっとした部分でもありました。北朝鮮のことを知る機会はほとんどないので、貴重な本だと思います。子どもに読んでほしい本だと思いました。

ハル:衝撃的でした。ああ、こういうことだったのか、と、長年の疑問や誤解がとけていく、本当に衝撃的な1冊でした。北朝鮮のこととなると、でたらめで、どこかおもしろおかしくなってしまっているニュースも多いように感じますが、その向こうにはこんなに苦しんでいる人々がいる。中盤は読み進めるのに勇気がいるような、つらい場面もありました。そして、こんなに過酷な環境なのに、ヨンボムのおばあさんは、日本の植民地時代に比べれば「まだまだ」(p141)だと言っています。私たちは日本人として、世界の中の一人として、一体何ができるんだろうと考えさせられます。

ルパン:まさに衝撃でした。「路上で生きぬいた少年」というサブタイトルがついていますが、生き抜けなかった少年や少女、そしておとなもいたと思うとたまらない気持ちです。現実にはもっと悲惨な状況もあると思うし、政治によってこうも人生が変わってしまうかと思うと、それだけで戦慄をおぼえてしまいます。平壌にいれば資源が豊富でいいかというと、ソンジュの父のようにある日突然追放される恐怖と向き合って生きなければならない辛さもあるでしょうし。『九時の月』(デボラ・エリス著、もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房)を読んだ時にも思いましたが、ある国に生まれただけで不幸になる、というようなことが21世紀になってもまだなくならないことが悲しいです。

サークルK:北朝鮮の文学ははじめて読みました。話題の映画「パラサイト 半地下の住人」(2019)を見たばかりなので、過酷な暮らしをしている人々の物語に入り込みやすかったです。映画では現代の貧困家庭と上級家族の対比が視覚化されていました。

マリンゴ: 知らなかったことが多すぎて、圧倒されました。物語の展開がシビアで凄まじくて、波乱万丈すぎますよね。もう終盤かしらとページ数を確認してみたとき、まだ全体の1/3までしか進んでいなくて、これからどうなるのー!と怯えました(笑)。北朝鮮の地方都市の普通の生活を描いたものを読んだことがなかったので、こんな大変な状況なのか、と、重い現実を感じました。敢えて言えば、序盤がやや読みづらいでしょうか。夢の話と現実が交差するせいかもしれません。あと、主人公はリーダーシップがあるのだということが途中、急にわかって驚きました。それまでは塩をなめ続けて体がふくれあがってしまうなど、トラブルの多くて、助けてもらう側の子かと思っていたので。そのあたりは、自分がリーダーシップがある、と早いうちから書き込むことに遠慮があったのかもしれませんね。ノンフィクションだけに。

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エーデルワイス(メール参加):実話なのですが、まさに生き抜くサバイバル。忘れないように付箋を付けながら読み勧めたら付箋だらけになりました。食べ物を探しに、父、母といなくなり、妹もさらわれ一人ぼっちになるところで宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を思い出しました。それにしても子どもを大事にしない国家は滅びると思います。11歳で信じていたものが崩れ、何を信じて生きるのか自問していく苦悩が伝わってきました。韓国での差別を体験し、北朝鮮は韓国より劣っているという偏見を覆し、平和な南北統一を目指したいとの作者。その日が来るといいのですが。

サンザシ(メール参加):ノンフィクションだと思いますが、疑問点もありました。著者が、韓国や大韓民国を中国の一部だと思い込んでいたというのがわかりません。脚色なのでしょうか? また父も母も出ていったあと、著者は自分の家で寝泊まりせず野宿をしているうちに、ピンチプパリ(仲介業者)に家を売られてしまいますが、なぜ自分の家で寝泊まりしなかったのかがわかりませんでした。コッチェビのことは日本でも報道されて知っていましたが、これほどたくさんいたのは知りませんでした。サバイバルのための壮絶な苦労話が中心で、p216やp261後半のような洞察がもっとあるといいのに、と思いました。拉致被害者については日本人も知っていて憤慨していますが、プロローグにあるような朝鮮半島の歴史はほとんどの人が知らないのではないでしょうか。そういう意味では、この部分について書かれた文学がもっとあるといいですね。『1945 鉄原(チョロン)』や『あの夏のソウル』(イ ヒョン/著 影書房)は1945年からの時代を描いていると思いますが、もっといい翻訳で出さないと文学として読めないので残念です。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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李慶子『バイバイ。』表紙

バイバイ。

さららん:2002年初版の本だとは知らずに読み始め、すぐに『じゃりン子チエ』(はるき 悦巳/作)の世界を思い出しました。主人公「和ちゃん」の家族も、親友のホルモン焼き屋のスナちゃんの家族も朝鮮の人たち。そんな子どもたちをとりまく人間模様が描かれています。「朝鮮人のおとうちゃんなんかうちはいらんや」という日本人の女の子もいるし、同じ区域には、もっと貧しい暮らしをしている朝鮮部落もあります。和ちゃんは家族が大好きだけれど、自分が朝鮮だとは、学校では明かせません。朝鮮人ってからかわれたスナちゃんをかばえない。戦争中に日本人として無理やり日本に連れてこられたのに、戦争が終わったとたん外国人登録が必要になった朝鮮の人たち。126号という特別な居住許可のことを、父さんは和ちゃんにちゃんと説明します。国に帰りたくても、今の生活を全部捨てなくてはならない背景が読者にもわかってきます。政治にふりまわされる庶民の悲しみや怒りが、のどかな子ども時代のエピソードに織り込まれ、なんども考えさせられました。大人の社会の差別をそのまま映し出して、子どもたちは傷つけあうこともあるのですが、たくましく旅立つ親友のスナちゃんを見送り、和ちゃんが朝鮮人としての誇りを持って生きようと思うところで物語は終わります。大人の自分には理解できるし、読んでよかったと思います。でも今の子どもたちが予備知識なしで読むのは相当難しい作品ではないでしょうか。学習の一環で、在日二世や三世がなぜ日本にいて、どのように生きてきたか、ということを知るのには良いかもしれませんが・・・・・・。対象年齢は5-6年生ではなく、ずっと上の世代になると思いました。

アンヌ:なんだか昔読んだ『綴方教室』(豊田正子/著)を思い出すようなリアリティのある日常生活の描写が続いていくなと思いながら読みました。男の子の跡継ぎが生まれないと、お妾さんを囲って生ませたりする。そんな理不尽な大人の世界を描いていくので、3人姉妹の主人公の家も最後は酒乱のお父さんが暴力をふるって家庭を壊してというパターンになるのかなと思っていたら、逆に、謝り方を教えてくれ、「父さんの自慢の子や」と言ってくれて、主人公が自己肯定できたのにはほっとしました。最後にスナちゃんとお別れが言えてよかったと思えた、後口のいい物語でした。

木の葉:本の出版は2002年ですが、書かれている時代はそれよりかなり前。作者の実体験が含まれているのかどうかはわかりませんが、主人公が生まれたのは1949年で、作者自身の子ども時代とほぼ重なります。まず思ったのは、今の子どもが読んでもなかなか理解できないだろうな、ということでした。時代背景と在日の韓国・朝鮮の人たちの状況という二重のわかりづらさがあるな、と。大人でも、理解できない人も多いですから。これは、子どもが読むには解説が必要なのではないかと思いました。想像力だけでは無理で、そういう歴史を学んだ上で、読むことに一定の意味はあるように思いました。内容は、文学的というのか、女の子たちの心情をていねいに追っています。せつなさを感じる物語です。大阪などでなく地方都市が舞台というのもいいですね。ただ、韓国・朝鮮に対して加害者である日本人という立場を負わずに、作品に向き合うことの難しさをちょっと考え込んでしまいました。けっして正しい態度ではないことは承知の上ですが、かまえができてしまうというか、ある種の批評しづらさというものがあるような気がしてしまうのです。なので、いろいろ不自由というか窮屈だな、という感が否めません。歴史を知ること、学ぶこと、アイディンティティを大切にすることは重要ですが、外国ルーツの人からも、多様な切り口の「日本語」文学が出てくればおもしろいし、日本人(定義は難しいのですが)作家も、この作品の背景のようなテーマに、取り組むことができたら、という思いもあります。

まめじか:その時々の主人公の心の動きを追っている物語だからでしょうか。三宅君が唐突に現れた印象をうけました。「男のやることに、女ががたがた口出すな!」と父親が言うのは、昔の話だからということもあるのかな。

西山:『児童文学10の冒険 自分からの抜け道』(偕成社、2018)の解説を書くのに読み返した時、確かに作品の背景は古いけれど、今も読めると思ったんです。みなさんおっしゃるように、いろいろ説明が必要なことは多いと思います。解説で外国人登録の指紋押捺がいつなくなったとかは書きました。そういう補足は必要だと思います。でも、出だしのほうのシーンで、ウェディングドレスが着たいというのがごく自然に出ていて、ある時代のある女の子の生きたようすというのは普遍的に読めると思うんです。過酷ですけれど、「在日」の置かれた状況を肩肘張らず淡々とリアルに伝えている。李さんには、今の話をさらに書いていってほしいと思います。

コアラ:まず本のつくりが古いなと思いました。刊行が2002年ということですけど、もっと古く、昭和時代に刊行された本のように感じました。物語の設定が1960年代なので、狙ってその時代のように作ったのかもしれないとも思いました。内容は、1960年代の在日朝鮮人の生活を子どもの目から見ていて、今の子どもに知ってほしいから書いたんだなという作者の思いが伝わってきました。p87では、徴用という言葉も出てきて、今の日本と韓国の問題としてニュースで出てくる問題だし、意外と今が読むのにいいタイミングかもしれないと思ったりしました。タイトルも本のつくりも、子どもが手に取りたいと思わせるような感じではないのが残念です。クラスに在日の人がいるとか、過去を知りたいとか何かのきっかけで今の子どもが読んでくれるとうれしいなと思います。

ネズミ:在日に対する考え方が、1960年代と今では変わってきているでしょうね。

ハル:こういう時代が、こういう社会が、あったんだなと、知りたいことが書かれているお話で、全体の雰囲気も私は好きでしたが、ところどころ「この人はどのひとの誰だっけ?」ということがわかりにくかったり、ちょっと頭の中で推察して補いながら読まないと状況がわかりにくかったり。もうちょっと書いてほしい、もうちょっと読みたい、という部分も感じました。もしかしたらこの作品は、大人向けなんじゃないかなと思いました。

ルパン:先に『アーモンド』(ソン・ウォンピョン/著 矢島暁子/訳 祥伝社)を読んでしまったので、こちらは、最初なんだかちょっと退屈というか、ゆったり話が進んでいる気がしましたが、読み進めていくうちに、鉄浩おじさんのこととかスナちゃんの家のこと、そして最終的に在日朝鮮人の生きにくさなど、リアルに迫ってきてつらくなってきました。そのなかで、子どものもつたくましさや前向きな気持ち、そしてスナちゃんとの純粋な友情も生き生きと語られていて、すべてハッピーとは言えないなかで、読後感のいい作品でした。

サークルK:挿絵が世界観をよくあらわしていると思います、既視感のある風景が内容を助けているように思います。また、焼肉屋さんの匂いまで伝わってくるような描写がいいな、と思いました。大人の事情がだんだん呑み込めていく様子がていねいに描かれていて、一種のビルディングスロマンなのだろうと思いました。

マリンゴ: この本のこと知らなかったので、今回読む機会をいただけてよかったです。戦後の地方都市で、在日朝鮮人がどういう生活を送っていたのか、知らないことが多くて、描写を隅々まで味わいました。選択肢が非常に少ない生活だったのですね。日常をていねいに綴っていて、物語が立ち上がってくる印象があります。もっとも、中盤以降、若干冗長に感じる部分もありました。今日話し合うことになっている他の2冊が波乱万丈すぎるので、これが静かに感じられたのかもしれません。

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エーデルワイス(メール参加):作者の自伝でしょうか。在日朝鮮人の家族の物語ですが、貧しい時代の日本の家族の物語ともいえるかも。優秀な勝ち気な姉とわがままな妹にはさまれた主人公は、自分ばかり損をしているのではないかと思っています。裕福な鉄浩おじさんと春子おばさんの養子に行っていれば・・・それでも両親は養子に応じなかったことは嬉しいことでした。スナちゃんを二度も裏切った形の和子。だがラストが爽やかだったので救われました。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2019年12月 テーマ:仲間とともに立ち向かう

日付 2019年12月18日
参加者 まめじか、ネズミ、ハル、マリンゴ、コアラ、西山、ハリネズミ、すあま、ルパン、カピバラ、彬夜、(しじみ71個分、アンヌ)
テーマ 仲間とともに立ち向かう

読んだ本:

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アラン・グラッツ『貸出禁止の本をすくえ』表紙

貸出禁止の本をすくえ!

西山:ほんっとにおもしろかったです! 架空の作品も混ぜているのかと思っていたので、最後に驚きました。アメリカの図書館で「異議申し立て申請」という制度が日常的に活用されていること、貸し出し禁止措置が取られることがあるということへの新鮮な驚きがあります。日本の図書館のことも、私は知らないことだらけだと思うので、いろいろうかがいたいです。図書館の蔵書に対して「異議申し立て」という発想自体が私には無かったので、ギョッとするような申し立てもできるシステムがあって、それに反論なりしながら、図書館の自由を守るというのは、鍛え続けられる人権意識だなと思いました。あいトリ「表現の不自由展」への、見もしないで行われた攻撃、『はじめてのはたらくくるま』(講談社ビーシー)への異議申し立てを出版社相手に行ったこと、堂々と売られ続け棚に並び続ける『かわいそうなぞう』(土家由岐雄作 金の星社)、『ママがおばけになっちゃった』(のぶみ作 講談社)批判、少し前の『はだしのゲン』(中沢啓治作 汐文社)閉架措置問題など、いろいろ思い出しながら読みました。「異議申し立て」が「貸し出し禁止」(ひいては発行禁止)に及ぶのではなく、中身への論理的批判が無いところに、「配慮」や「忖度」による、議論抜きの決定事項としての「禁止」が来るのではないかと思いつきましたが、どうでしょう。作品から離れた事ばかり考えさせられたというのではなく、もちろん、どきどきひやひやワクワクしながら読みました。エイミー・アンの家の騒々しさには、読んでいてこっちまで「わーっ」となりそうでしたし、多分、ものすごく表情を変えながらのめり込んで読んでいたと思います。『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作 岩波書店)を「今は、冒険みたいにわくわくするところが気に入っている」(p321)と、同じ作品でも読み手の経験やその時々で変わってくるという、読書とはどういう行為なのかということを語っているところ、共感しながら読みました。一つだけひっかかるのは、この本を読んでいいとかいけないとか言う権利が保護者にはあるのかということです。それで行くとマービンは『スーパーヒーロー・パンツマン』(デイブ・ピルキー作 徳間書店)その他を読めないことになります。「子どもの権利」という観点からどうなのだろう。「憲法修正第一条」は成人の成人のみを対象にするということになるのでしょうか。あと「行儀のいい女に、歴史はつくれない」(p298)という名文句が、オリジナルのフレーズなのか、そういう慣用句があるのか、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。

ハル:おもしろかったです。私は子どもの頃、両親に漫画を禁止されていましたし、私の家だけでなく、大人が下品だと思う本やテレビ番組が禁止されるというのはよくあったことで、また禁止されると余計に興味がわくものです。隠れてこっそり読んだり見たりしていました。なので、もしかしたら日本の子には、ある本が学校の図書館で貸出禁止になったところで、ここまで大問題に思うかどうか、新鮮に感じるかもしれないなぁと思いました。p39で司書のジョーンズさんが「教育者としてのわたしたちのつとめは、子どもたちにできるかぎり多様な本、多様な視点にふれさせることです。~~」と、語ってしまうのですが、これは読者の子どもがあとから知ればいいことで、先に明かさなくてもいいんじゃないかと思いました。でも、今回この本を読んで、私もついつい「こんなことを子供が読んで真似したら危ないんじゃないか」と臆病になってしまうところがあるなぁと反省しました。もっと子どもを信頼しないといけませんよね。

マリンゴ:とても読み応えのある本で、ほぼ突っ込みどころがなかったです。子どもにこんなことを伝えたいと、与える側は思うけれど、子どもがどう受け止めるかは全くの自由で、それこそが読書の醍醐味なのだと改めて感じさせられる作品でした。主人公は家で、やっかいな妹たちのこととかで大変なんですけど、それが絶妙な匙加減で、「ユーモラス」と「かわいそう」の境目にあるため、深刻になりすぎないのがよかったと思います。それと、『スーパーヒーロー・パンツマン』の作者のデイブ・ビルキーさんが実名で登場する、その仕掛けが興味深かったです。実際に作者同士、知り合いなのでしょうか? 主人公が、この作者を別に好きじゃないというスタンスなのがおもしろかったです。普通、こうやって作品に登場してもらうからには、もう少し配慮して、主人公が大ファンという設定でもおかしくないと思うので。

カピバラ:主人公は、たくさんの本を読んでいるだけじゃなくて、気に入った本は何度も読みます。こんな子がいるって、なんてうれしいんでしょう! しかも実在の書名がたくさんでてくるので、その本を読んだことのある読者はうれしくなりますよね。例えばp197「本の山は、宝の山。わたしはきゅうに、自分が『ホビットの冒険』(J.R.R.トールキン作 岩波書店)に出てくる竜のスマウグになって、金や宝石の山の上にすわりこみ、ホビットやドワーフたちに宝をとりかえされないよう、必死にまもっているような気がしてきた」という引用など、感じがよくわかるし、同じ本を読んでいればこその楽しみがあります。読書好きの子にとってはたまらない1冊でしょうね。逆に読んだことのない本ならば、これをきっかけに手にとってくれればいいですね。『クローディアの秘密』なんて、おもしろそうだな、って思うんじゃないでしょうか。主人公はとても感受性が豊かで、いろんなことを考えているけれど、それを口には出さないんですね。頭の中でいろいろ妄想するところは子どもらしい発想でおもしろかったです。読者の共感をよぶと思います。また、大人が子どもから遠ざけたいと思う理由のくだらなさも皮肉です。西山さんがおっしゃった「貸出禁止の権利があるのは保護者だけ」というのは、ジョーンズさんが言っていることなのでは?

ハリネズミ:私はおもしろくずんずん読んだんですが、メール参加のアンヌさんの意見をさっきちらっと見たら、「これは設定が変だ」って書いてあったんですね。それで、ああなるほど、と思ったりはしました。最初からちゃんとした手続きをしてもらえばよかったのに、となると、子どもの活躍はなくなってしまうんですよね。多作の作家は、あまり緻密じゃない部分もあるのかもしれません。それと、エイミー・アンが、いろいろなことが言えるように変化するのはすてきだけど、最後は「理不尽なことには抗議するけど、親の言うことは聞く」というふうになるので、だとすると道徳の教科書みたいで、予定調和的。そこはちょっと物足りなく思いました。それから、アメリカは学校図書館や公共図書館に「こんな本を置いておいていいのか」と抗議ができるようになっていて、抗議が多かった本については、書棚から引っこめるというのを州単位で決めるんですね。そのリストは毎年発表されるんですが、それを見るとみなさんびっくりすると思います。マヤ・アンジェロウもだめだし、ハック・フィンもだめになっていたりする。信心深い人は、「ハリー・ポッター」は子どもが魔法を信じるようになるのでダメとか、性的な言葉が出てきたり、汚い言葉が出て来たりするのもダメになったりします。でも、逆に、そういう本を読みましょうという運動もあったりするのがおもしろいところですね。

コアラ:タイトルで、おもしろそう!と期待して読みました。期待に違わず、おもしろく読んだのですが、途中で、教育的なニオイがするなあとも思いました。p57で、作者はレベッカに「(貸出禁止になった本は)おもしろいに決まってるじゃない」「だから大人が、貸出禁止なんかにするんだよ」と言わせていますが、“本はおもしろいから読め読め”という作者の意図を感じるというか、作者が子どもに本を読ませたいから、そう書いているんでしょ、と思えてしまいました。権利章典について調べる学習も、それで権利や自由を学ばせるのね、子どもにその視点を持たせたいのね、と思えてしまって、押し付けがましさを感じました。それでも、クライマックスの教育委員会の会議での、レベッカやエイミー・アンの発言は、痛快でした。自由を侵されたら、異議を申し立てる、自由を守るために戦う、というアメリカ精神が前面に出ている本だと思います。後ろに本のリストがありますが、この本から別の本に手を伸ばしていけるといいと思いました。日本では、貸出禁止問題はどうなっているのでしょうか。

すあま:久々におもしろい本を読んだという感想です。最初からいきなり衝撃的な事件が起こり、大人に対抗して子どもが団結するという話で、おもしろく読めました。この物語の中で貸出禁止になる本は、長く読み継がれてきたもので、禁止した大人も子ども時代に読んだ本。実際の本が登場するので、この本をきっかけに読んでくれるといいと思います。禁止になった本を子どもたちがこっそり読んでいるのは、禁止されると読みたくなる、ということで、本を読んでもらうために禁止したのでは、とすら思えてしまいました。解決策に図書カードの貸出記録を使ったところは気になりましたが、学校司書がフォローしていたのでちょっと安心しました。この本は、大人が子どもの読む本を制限するということだけでなく、言いたいことが言えなかった子が、言いたいことをちゃんと言えるようになる様子を描いているのがよいと思いました。

ルパン:p275で、エイミー・アンが家族への不満をぶちまけるところで、泣けて泣けて。ちょうど電車の中で読んでいたのですが、「これはまずい」と思えるほど涙があふれてしまいました。ただ、荷物をまとめて家を出て行くところまでは拍手喝采だったのだけど、ママが追いかけてきたとたんにすぐにあやまってしまうところで、ものわかりよすぎるなあ、と、ちょっと拍子抜けでした。この両親にはもうちょっとわからせてやらなければならない、と。しかも、結局エイミーは自分の部屋をもらうんですが、もともと客間だのトレーニングルームだのがあったことに驚きです。妹のひとりは個室をもっていたのだから、この子ももっと早く自分の部屋をもらえてもよかったのに。貸出し禁止をやめさせるアイデアはスカッとしました。大人の論理を逆手にとって、たいした逆転劇でした。スペンサーさんの読書記録を晒さずに、これだけで勝ちにもっていったらもっとよかった。たとえば、ネットや本で簡単に調べられるような、有名人や偉人の読書経験などを引き合いに出すだけでも、この論理で行けたはずなので。

彬夜:これは、今回の3冊の中でいちばんおもしろかったです。大人に対峙して、子どもたちだけで工夫をしながら抗うのが痛快です。エンタメ作品で子どもが活躍するというのはいくらでもあるでしょうが、暴力的な反抗などでなく、子どもたちだけで大人に一泡吹かせるというか、刃向かっていく、という物語は、あまり日本で見ないような気がします。それをリードするのが、言いたいことが言えないエイミー・アンという子であるのが、またいいですね。家族の中での立ち位置についても、特に読み手が長女だったら、共感できる子が多いのではないでしょうか。物語の方向はある程度見えてしまって、まあ、予想通りのハッピーエンドと成長が語られるわけですが、それでも、読後がよかったです。保護者が子どもの読む本を禁止できるというのは、私もちょっとひっかかりました。あと、校長のリアクションが書いてなかったので、そこもちょっと知りたかったです。

まめじか:「本は宝の山」と言う主人公が、本を大切に思う気持ちが伝わってきました。主人公は最後に、「本でおそわったからやったんじゃない。本を貸出禁止にされたから、うそをついたり、ぬすんだり、大人にさからったりしたんだ」と言っています。ブラジルの画家のホジェル・メロさんは国際アンデルセン賞を受賞したとき、かつて軍事政権が本を禁じるのを見て、「彼らが恐れるほどの力が本にあるのを知った」と語っていました。自分が好きではない本も守るのが、多様な意見や表現の自由につながりますし、図書館は知る権利を守る場ですよね。アメリカには毎年、禁書週間があって、撤去要望の多かった本を展示するキャンペーンを書店や図書館が行っています。あと物語について言えば、あたたかな家庭なのに居場所のない感じがリアルでした。p229「だれも、わたしのことを、いわれたとおりにするいい子だって、思ってくれない」という文を読んだときは心配になりましたが、そのあとp246「なにも意見をいわず、問題もおこさないエイミー・アンがいい子? それとも教育委員会のまちがいをだまって受けいれず、それを正すために行動をおこすのがいい子なの?」とちゃんと言わせているのもいいですね。

ネズミ:すごくおもしろかったです。主人公が、人に言えないけれど、心の中でああでもない、こうでもないと考えているところ、大人がすることに対しても、それでいいのかと、いろんな方向から考え、立ち向かっていくところがとてもよかったです。ロッカー図書館がだめになったり、大事な紙をシュレッダーにかけられてしまったり、困難にぶつかりながらも、それでくじけないところは、子どもに勇気を与えてくれそう。「三つ編みをしゃぶる」など、深刻にならず、ユーモラスに感情が表現されているのもいい。長いけれど、読んでほしい本だと思いました。

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しじみ71個分(メール参加):以前、中野怜奈さんが子どもの読書の制限に関するニュースを国際子ども図書館のサイトで紹介してくださったのですが、「差別的表現」「暴力的な場面」「薬物・飲酒・喫煙」「同性愛」「性描写」「対象とする読者の年齢に合わない」「宗教上ふさわしくない」等が理由で、学校等で利用制限が要望された本のトップ10をALA(米国図書館協会)が4月に発表しているとか、子どもたちの読んだ本を保護者に公開している、というような事例が実際に米国であるということを情報として得、子どもの読書の権利について以前から問題意識があったので、とても興味深く読みました。
話の筋としては、思ったことを口に出して言えない女の子が貸出禁止の本を貸すロッカー図書館を始めたことで、大事なことを言えるように成長すること、本や読書への愛情、本の中で子どもがさまざまな事柄を体験し、時には閉ざした心を揺らし、動かすといった、本が子どもに与える影響などが描かれていて、おもしろく読みましたが、図書館員としてどうしてもこれはダメだと思うのは、スペンサーさんの読書歴をエイミー・アンが暴露することです。図書館の自由に関する宣言では、図書館活動に従事するすべての人は、利用者の読書の事実を守らなければならないと述べています。なので、多くの図書館では、貸出記録が利用者の目に触れる方式はもう採用していないと思います。読んでいる最中で、エイミー・アンが重要証拠としてスペンサーさんの貸出記録のあるカードを見つけて、それを逆転劇の場面で使うことは容易に想像できてしまいました。この利用者の読書の秘密を保持する件については、教育委員会での演説のあと、司書のジョーンズさんがエイミー・アンに読書の秘密を守ることについて一言述べるだけに留まっているのにはどうしても大きな違和を感じます。また、ジョーンズさんが繰り返し、子どもの読書について制限していいのは保護者だけ、と言い、エイミー・アンもそれについて納得しており、最後の場面では親から子の本は早すぎる、と言われて抵抗しないのもちょっと納得がいきません。国際子ども図書館の同僚間でも、子どもは未熟な存在だから大人が導き、優れた本を紹介するのだ、という議論が定着していて、そのような発言を聞いて、子どもの読書の権利をどう考えるべきか、ずっと疑問に感じていました。子どもたちは大人の薦める良書のみを読まねばならないのだとしたら、それはどうなのか、と今でも悩んでいます。大人からしたら悪書でも読みたいときがあるのではないかと思います。
展開もスピーディーでハラハラ、ドキドキもあり、お姉ちゃんの我慢とか家族の問題もあり、主人公の成長もありで、物語自体はおもしろく読めたのですが、図書館の自由と子どもの読む権利の2点において、とても大きな引っ掛かりを覚えた本でした。

アンヌ(メール参加)本好きにはたまらなくおもしろい本だと思うのだが、少々疑問点がある。まず大前提である、「本を貸出禁止にする仕組み」を、なぜ教育委員会が無視したかということだ。スペンサーさんが独走することを、校長を含め、なぜ教師たちが許したのかがわからないまま話が進む。結局、もともとの規則に従おうということで終わるのだから、教育委員会という名のPTAの暴走への戦いの物語なのだろうか。まあ、それはそれとしてとてもおもしろかった。本以外に行き場のない主人公、クラスでも家庭でも言いたいことを胸にためたまま、人の言うなりに過ごしてきた少女が、唯一の居場所である図書館と、心のよりどころである本を取り上げられたら、それは変身するしかないだろうと納得がいく。それにしても主人公は注意深いというか、一概に人を決めつけるところがないのがいい。私は特に、偽の表紙と題名をつける場面が好きだ。聞いたことがあるようなでたらめな題名がおもしろいし、p204の『17番目のお姫様』の表紙にあったお話を作る場面を読みながら、 私なら『おれの指をかげ』をどんな話にするかと考えて楽しんだ。 そうしていたら、耳は聞こえず目も見えない愛犬の起こし方というネットの動画が流れてきて、そっと鼻先に指を出して、匂いをかがせて起こすというのがあって、 これで感動的な物語ができるなと思った。
二度目の教育委員会の会議で、「禁止本を読んでいた」と、スペンサーさんを指摘するところで終わらず、 でもいい人に育ったというところは、
いいような悪いような落ちつきのない気分にさせられた。うまく丸くまとめたという感じがする。でも、そこで終わらず、主人公の家庭内での関係も変わったのだから、いいことにしようというめでたしめでたしの物語で終わったので、まあよかったと言えるかもしれない。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ジェイソン・レノルズ『ゴースト』表紙

ゴースト

コアラ:タイトルを見て、幽霊が出てくる話だと思って期待して読み始めたのですが、主人公の男の子が自分につけたあだ名ということで、がっかりしました。タイトルで期待させて、ずるいと思いました。私はアラン・グラッツの『貸出禁止の本をすくえ!』の後でこれを読んだのですが、家族に向かって発砲するというショッキングなことが書かれているし、主人公が靴を盗んだりするので、これこそ「貸出禁止」になりそうな本だと思いました。アメリカの、銃の問題や暴力や家庭の問題は、今に始まったことではないと思いますが、アメリカの社会の現実を表している本なのかなと思います。「訳者あとがき」には「ノリのよさ」とありますが、全体的にちょっと荒っぽいなあという感想です。でも、p251の最終行、「自分という人間からは逃れられない。だが、なりたい自分に向かって走っていくことはできる」という言葉は、すごくストレートで、好感を持ちました。それから、アメリカの、学校の部活でない、地域のクラブチームとはどのようなものなのか知りたくなって、少しネットで調べたりしました。原題に「Book1」とありますが、シリーズものだったら、続きが読みたいと思いました。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。今日11時に図書館で借りてきて、引きこまれてずっと読み、電車の中でも読んで読み終わったんです。こういう境遇の子どもはいっぱいいると思うんですが、まわりに手を差し伸べる大人がいるのがいいですね。お母さんもいっしょけんめいだし、おばさんとか、応援を派手にやるサニーのお母さんとかも。それぞれに背景があることも読んでいるうちにわかってきて、うまく作られているなあと感心しました。中華料理店で注文するものも庶民的だし、リアリティがうまく出ています。耳の遠いチャールズさんもいい味を出しているし、主人公のまわりに盛り上げ役の人たちがいっぱい登場するのも、おもしろかったです。シリーズだとすると楽しみです。

カピバラ:私もとてもおもしろかったです。主人公はものすごくシビアな状況を抱えているのに、明るくユーモアをもって語っているところがよかったです。ひとつひとつの描写が具体的で、例えばひまわりの種の食べ方でも、よくわかるように描かれているので、主人公が感じることを一緒に体感できると思います。また、母ちゃん、監督、チャールズさんなど、まわりの大人がよく描きわけられているし、主人公が口ではいろいろ言っていても、大人に対して意外に素直なところも好感をもちました。アメリカの児童文学では以前は白人は白人だけの社会、カラードはカラードだけの社会で別々に描かれていたけれど、今は普通の暮らしの中で自然に混ざり合っているんですね。この主人公はアフリカ系ですが、登場人物には白人もいて、そのような状態が日本の読者には、ちょっとわかりにくいかな、と思いました。本を読むときは姿かたちを想像しながら読むけれど、よくわからない場合もあるのではないかと思います。肌や髪の色がヒントにはなるけれど、すぐにわからないことも多いので。ジェームズ・ブラウンが白人だったらこんな顔、というような表現はわかりやすかったけど、ジェームズ・ブラウンってどんな顔かわからない読者もいますよね。

ハリネズミ:今、ジェームズ・ブラウンがわからなければYouTubeですぐ見られるので、わかると思います。

カピバラ:調べれば、ね。

ハリネズミ:興味があれば、とくに映像はすぐ検索する人が多いんじゃないですか。あと白人か黒人かというのは、どっちでもいいというふうに、この界隈ではなっているんじゃないでしょうか。だから、そこを書かなくてもいいんじゃないかな。

マリンゴ: 私も、選書しようかと、以前候補に入れていたことがありました。なので、読んだのが少し前で記憶が遠いのですが、よかったと思ったのは覚えています。ただ、本の帯やあらすじ紹介が、ちょっとミスリードしている気がしました。帯は、「銃声が聞こえたら走れ!」。あらすじの説明は、「あの銃声をきいた瞬間、逃げ足がいっそう速くなったってことだ。」。それを先に見た私は、足がとてつもなく速くなるファンタジーなのかと思ってしまい、当初戸惑いました。あと、監督が地元出身の五輪メダリストであることが後々わかるんですけど、こういう人って地元ではみんなが知る有名人なのではないかしら? 物語の都合上、知られていないことになっているのか、あるいはアメリカという国はメダリストも多くて、日本ほどメダルの価値が高くないから知らないのか、そのあたりがわからなかったです。

ハル:読み始めてすぐに、この主人公のことが好きになりました。ゴム製のアヒルを世界一たくさん集めるなんてブキミだと言ってみたり、いちいち口は悪いし、くすぶってるし、ひやひやさせられますが、とっても魅力的で、応援したくなります。他の登場人物たちもイキイキしていて、いろいろと映像を思い浮かべながら楽しく読めました。靴を万引きしたあと、なかなか発覚しないので逆にハラハラしました。でも、この決着のつけ方は、読者である子どもたちにとってはきっとうれしいでしょうし、味方になってくれる大人がいるんだと心強く思うかもしれませんが、お母さんからしたら、黙っていてほしくはなかったでしょうね。余談ですが、「歌手のジェームズ・ブラウンが白人だったらこんなだろうって顔をした人」(p9)というような表現は、白人の作家、あるいは白人の主人公のセリフとして書かれてあったら、読者の反応はどうなんだろうと思いました。

西山:どうなるのだろうという興味で読み進めましたが、全体としてはあまり賛成できなかったです。ディフェンダーズの新人食事会、それぞれの「不幸話」(敢えて言います)を打ち明け合うことで、一体感ができてしまう。監督も含めて。その展開はぺらぺらすぎる気がします。修学旅行の告白大会か?と言いたい。

ハリネズミ:私はそこはぺらぺらだと思わなくて、たとえばアン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社)だって、自分だけが特殊だと思っていた子どもたちが偶然集まった時、少しずつ話していくうちに、自分ひとりじゃない、ということがわかってくる。こういう界隈だと「自分ひとりがまわりと違う」と思っている子も多いと思うんですよね。それに告白大会ではなくて、ただ現実を話してるんですよ。

西山:だいたい、料理が来てから、あれを始めてしまう監督のやり方がとても嫌でした。温かいうちに食べようよ!

ハリネズミ:でも、料理が出てきて、うれしい気持ちにならないと、緊張はほぐれないし、言ったとしても表面的なことだけになってしまうのでは?

まめじか:監督も同じような過去を抱えているし、この子は、これまで心を開くということをやってこなかったんですよね。で、これがきっかけで初めて相手を信頼して自分の過去を出すことができる。たしかに軽いタッチでは書かれているけれど、シリアスにならずにどんどん読ませて、でもやっぱりとても考えてそこは出しているんだと思います。

ハリネズミ:ごちそうが出ているから、あったかいゆとりのある気持ちになっているんだと思うのね。教室で、ひとりずつ何か言いなさいというのとは違う。

西山:ところで、北京ダックって、どうやって食べればいいのかわからない料理の一つだと思うのですが、アメリカではそうではないのでしょうか。お高くて難しいメニューというイメージをもってしまっているので、それをするっと注文し、とまどいも無く食べるゴーストって?とひっかかりました。万引きも、解決としてあれで良いのか?と思います。盗んだ靴を履き続けることに抵抗はないのか。こちらも扱いの軽さに釈然としませんでした。現実問題として自分だけじゃないという共感はとても大事だと思いますが、作品を読みながら思ったのは、重い過去をもっていない子がいたら、どうなるのか、ということです。

ハリネズミ:そこは監督がわかってるんだと思いました。詳しいことはわからないでしょうが、監督も同じような育ちなので、バイブレーションのようなものは感じてるんだと思います。だから、最初は嫌がっていたゴーストも、p185「みんな、自分の家族についてすごく個人的な話をした。だからひょっとしたら、うちの話もだいじょうぶかも」となり、話した後はp186「おれは・・・・・・気分がよかった。さっぱりした気持ち。みんな、ぎょっとしたみたいだけど、おれのことをわかってくれたような気がした。やっとみんなと同じレースで、同じスピードで走ってるって気持ちになった」となる。それに、子どもたちから責められて、監督も自分の過去を話さざるを得ないという展開に、作者はもっていっています。

西山:監督も、負けず劣らずハードな過去を持っていることを明かすことで、ゴーストの反発が消える展開から、つまるところ、同じ境遇の存在同士しか本当にはわかり合えないのだという認識を突きつけられたようで、私は反発したのだと思います。

ネズミ:おもしろく読みました。『貸出禁止の本をすくえ!』もそうですが、はっきりとした声が伝わってくる文章がよかったです。貧困地区に住んでいるというだけで嫌な思いをさせられ、しかもこの子は怒りをコントロールできず、すぐに爆発してしまう性格。一度かかわった子どもを見放さない監督に出会えてよかった。ドキドキしながら、一気に読んでしまいました。靴を盗んだことがわかったp210からp211にかけての「罰をくらったり、母ちゃんともめたりするのがこわいわけじゃない」から始まるパラグラフは、口には出せない主人公の複雑な思いが言葉にしてあってとてもよかったです。外に出せずとも、いろいろなことを考えていること、人間の感情の複雑さが集約されていて、こういうことを文字で読めるのはすごくいいなあと。

まめじか:「体のなかに悲鳴がうずまいている」主人公は、怒りやフラストレーションをコントロールできず、自分をもてあましています。そんなゴーストが、過去と向きあうなかで自分と向きあいます。それまでは発砲する父親や、靴を盗んだ店から逃げるために走っていたのに、最後は未来に向かって走りだすのがいいですね。訳は読みやすかったのですが、p98「完全無欠の人間」はちょっと固いかなと思いました。またp30「かけっこの得意なミルク色のぼうや」、p85「かんべんしてよう」とか、p135で靴を「シルバーのかわいいやつ」と呼ぶのは、中学生っぽくないと感じました。バカにしたり、ふざけて言っていたりするのでしょうが、日本の中学生がそんなふうに言うのはあまり聞かないので。

彬夜:まず、タイトルだけ見みたら、まったく違う物語と誤解されないかな、と思いました。おもしろくなかったわけではないですが、いかにも若い作者が書いたのかな、という荒削りな印象がありました。それは、けっして言葉使い云々ということではありません。登場人物の中では、チャールズさんがよかったです。監督は良い人物なのですが、明かされる過去のことばかりでなく車の中が汚いことなども、いかにも「感」があって、あんまりおもしろい人物造型とは思えなかったです。ハリネズミさんがおっしゃるように、個々の子どもたちの裏までわかっているのだとしたら、りっぱすぎて却って興が削がれる。それに比べるとチャールズさんの人物造型は好感度が高くて、その差が何かと考えたら、言葉の量の差かも。語りすぎないほうがいいんですね。自戒を込めて。こうしたクラブがどの程度の水準なのかはわかりませんが、それにしても陸上競技の描き方が適当すぎるのでは?大会の位置づけもよくわからないし、スニーカーで走るの?とか、当日に出場種目の発表?とか。ブランドンの走力もわからないまま、いきなりラストで出てきて、そういうところが、読んでいてストレスでした。読後の自分のメモに「軽妙が持ち味だが、深刻な問題を軽妙に書けばいいというものでもないのでは?」と書いてあり、そう思ったのは、なんとなく大味な感じがしてしまい、ストンと腑に落ちる感がちょっと足りなかったのかもしれません。

ルパン:おもしろく読みました。靴を盗むシーンでは、読書会で「人のものを盗んではいけません」って発言するのを期待されるだろうなあと思いながら読んでました。確かに「いけないわ」とは思ったんですけど、だんだん本人が、後ろめたさを感じはじめる、罪悪感が芽生えてくるプロセスが読み取れて、好感がもてました。一番いいなと思ったのは、物語中でずっと「監督」と呼ばれている監督が、最後の最後に「オーティス」という名前だ、というのがわかったところです。主人公が急に監督に親近感をもったであろうことが感じられました。父親から銃を向けられるというのは、ありえないような体験ですが、実の父親に発砲されたことで足が(逃げ足が)速くなった、というこのストーリー仕立てはすごい、と感服しました。リアリティとお話の力を同時に感じながら読みました。

すあま:お父さんに銃を向けられその結果お父さんは牢屋に入っている、という日本の子どもでは体験することのない設定だけど、主人公の気持ちは共感して読めるだろうなと思いました。お父さんはいないけど、チャールズさんや監督という親ではない大人が見守ってくれる。ゴーストが、けんかをしたり万引きをしたりと陸上を始めてすぐに変わってしまうわけではないところも、よかったです。万引きの解決方法はちょっと甘い感じもしましたが、読後感がよく、おもしろく読めました。ただ、ラストの方でけんか相手の男の子が選手としてでてくるのは、ちょっとできすぎだったように思います。

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しじみ71個分(メール参加):読後感のさわやかな、気持ちいい本でした。ゴーストがどのように走って成果を出すかの直前のわくわく、ドキドキするところで終わっているのも心憎いなと思いました。父親と貧困の問題を抱えた少年が、理解のあるコーチとチームのメンバーとともに陸上に喜びを見出していくさまは読む人に希望を与えます。存分に走りたい気持ちから靴を盗んでしまう場面では胸が痛みますし、そのことから生まれる気持ちの悪さ、罪悪感を一緒に背負って読みました。監督に盗みの件が露見して、謝罪しに行き、許されて、監督に靴を買ってもらうというのはとてもでき過ぎのような気もしますが、読みながら自分の気持ちをゴーストの気持ちに重ねて、罪を犯してしまった苦悩とその昇華を疑似体験できたように思います。翻訳の面でいうと、他の作品を読んでも、どうしてもリズミカルなアフリカ系アメリカンの英語のポップさ、リズムを再現するのは難しいと感じる点はありますが、引っ掛かるところなくすいすいと読みました。人物として魅力的なのはチャールズさんでした。ジェームズ・ブラウンを白人にしたら、という表現は言い得て妙というか、人物像が浮かんできてとてもいいなぁ、と思ったところです。チームのメンバーもアルビノ、養子、片親等々さまざまな背景を抱えているだけでなく、個性的で魅力的だと思います。苦しい練習を仲間と乗り越えていく中で、心中に渦巻く嵐を抑制できるようになり成長するストーリーに重点があるのかもしれませんが、欲を言えば、せっかくスポーツを題材にした物語なので、走ることのすばらしさをゴーストの感覚を通じてもっと描写してくれたら、もっと表現が胸に迫ってきたのではないかなとも思います。

アンヌ(メール参加):これは痛快で、今回の3冊の中で一番好きだし、歌のような作品だと思った。アルコール依存症とはいえ、実の父親に拳銃で撃たれて、その時自分が足が速いと気づくなんて、ラップが聞こえてきそうな感じだ。でも、彼はPTSDで自分の部屋で眠ることができず、毛布を敷いてい寝ている。食堂で働く母親との生活も貧しい。あっという間に監督を信頼するところとか、監督もお金持ちの道楽ではないところがいい。母に心配をかけまいとする監督を叔父に仕立てるところとか、クラスメートを殴った理由をきちんと説明できるところとか、自分を開いていくことができる主人公に信頼感を持って読んでいけて楽しい。万引きのところもドキドキしたが、きちんと解決がついたところでホッとしたし、監督の出自も語られて同じ痛みを知っている人なのがわかるところもすごい。最後も勝ち負けを書かずにいるところで、未来が開けていく感じがしてよかった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題の会)

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西田俊也『12歳で死んだあの子は』表紙

12歳で死んだあの子は

まめじか: 亡くなった子への思いも距離感も様々なクラスメイトが、その死をあらためて考える話です。主人公は受験に失敗したこととか、友だちをつくらなかったこととか、自分の過去に向きあうのですが、言葉にしがたい部分を丁寧にすくいとっています。p202「自分の手でつかんだものは裏切らない」「受験や学校のことなんて、自分の手でつかんだうちに入らない」というせりふからは、主人公たちは自分で考え、鈴元君の死を悼んだ経験をとおして、そう思い至ったのだなぁと思いました。鈴元君が亡くなったときに、クラスメイトに迷惑をかけたとわびた母親に、迷惑なんかじゃなかったと言う場面はいいですね。弱い立場にある人を排除したり、あるいはその人たちが、自分は足並みを乱しているのではないかと遠慮してしまったりする風潮を感じるので。

ネズミ:友だちが死んでしまったという状況を書くのは、おもしろいなと思いました。でも、ちょっと息苦しくて、課題本でなければ途中でやめてたかも。主人公は付属小学校から付属中に上がれなかった中学生で、付属中に行けないと「島流し」と呼ばれているという設定。そういうエリートの世界を書かれてもな、と思ってしまったところもありました。それまであまり関係してこなかった子どもたちが集まって、こういう空間を共有するというのは、現実にはありえなく思えるけれど、つくってみたいという作者の願いのようなものがあったのか。最後のほうは、結末が知りたくて一気に読みました。

ハル:ごめんなさい。ちょっと・・・私は人にはすすめられないです。主人公含め、ここに登場している人たちがどういう人物なのか、全然見えてこなくて、どれが誰のセリフかわかりにくい場面もありました。ところどころで、このセリフは本当に必要なのかなというのもありましたし、どこか座談会のテープ起こしを読んでいるような。人物像があやふやなところも、同級生の死に何かしらの意味を見出そうとやっきになってしまうところも、その同級生とは特別親しかったわけでもないところも、とてもリアルだとも言えますし、きっと著者にとっても思い入れの強い題材だったのだと思いますが、もっと、小説として読ませてほしいと思いました。受験の真っ最中に息子が死んだことで同級生に動揺を与えたことを「迷惑をかけた」という母親に対して、(同級生の死により)「学校では教えてくれない、大事なことを学びました」「感謝してるんです」(p195)って、これもちょっとないなと思います。

マリンゴ: 私は非常にいい物語だと思いました。主人公が、死んだ同級生とそれほど親しくなかったところがよかったです。同窓会で、その同級生の話題が出ないで終わるところも、リアルだと思いました。前向きな姿勢があちこちに見えて、死のことを描いてるのに希望がありますね。たとえば「告白しなかったから、始まる未来もあるんだ」(p148)とか。相手が生きていた頃にもっとああすればよかった、こうすればよかったと考えがちですけど、今からでもできることがあるんだ、という提案が伝わってきます。また、鈴元くんの父が登場するシーンですが、クライマックスなのに会話が静かなのが、押しつけがましくなくてよかったです。1つ気になるのは、修学旅行の場面。単身赴任している父に会いに行きたい場合、普通は学校に相談しませんかね? 学校もそういう事情なら許可を出すだろうし、親が堂々とホテルのロビーに面会に来るなり迎えに来るなりするのではないか、と。小学生がこっそり会いに行くのは、不自然な気がしました。

ハリネズミ:私は、小学校の頃ひたすら死というものが怖かったんですね。祖母が亡くなったからかもしれませんが。なので、こういう計画を立ててちゃんと送ってあげるということが子どもに可能なのかと、まずびっくりしました。ずいぶん大人っぽい行為のように感じたし、登場人物が老成していて、みんなきちんと考えているんだなあ、と。いいところは随所にあるけれど、私にはリアルに感じられなかったし、物語全体は少し長いかもしれません。表紙は、ちょっと不気味という印象を受けました。

コアラ:作者と物語の距離が取れていないように感じました。あとがきで、実際の体験をもとに書いた、とありましたので、やっぱりそうなんだ、と思いました。死の受け入れ方、向き合い方は人それぞれ、というようなことを、中学の先生が言っています。でも、この物語からは、同調圧力を感じるところもありました。「みんな」とか「友だち」などの言葉の使い方から、そう感じたのかもしれません。誰が話しているのかわかりにくい会話もあったし、◯◯がいった、という表現が続いたりして、たどたどしさを感じる作品でもありました。それでも、言いにくいことをきちんと言葉にしている場面もあって、特に、p158の7行目、「ぼくのことを怒ってませんか? 友だちがいのないやつだって」という発言は、胸にささりました。同じクラスの子の死、というものを真正面から描いたという意味で、こういう本もあってもいいとは思いました。

彬夜:静かな物語だなと思いました。読み手の感性によって、印象が分かれそうですね。ただ、私には合わなかったかな、という感じです。正直なところ、けっこう読むのがきつかったです。そもそも、2年後に、親しくもない子の墓参りにみんなで行くとか、あんなふうに、あちこちたずね歩くといった行動に、ついていけませんでした。親しくはなかったけれど、若死にした元同級生について、何かの折にしんみりと考えるとか、一人ひっそりお墓をたずねてみる、というのならわかるんですが。終盤、p249の「おーい、鈴元!」という箇所では、あ、だめ!と思って、思わず本をパタッと閉じてしまいました。会話と独白だけで進むのですが、なかなか物語に没頭できなずに、ちょっと油断すると迷子になってページを前に戻ったりしました。それから、だれの会話かわかりづらい箇所もあります。どの子も老成していて考え深そうに見える。けれど、感情の折り合いの付け方がとても整理され(仕分けされ?)ていて、そんなもんじゃないでしょう、と思ってしまいました。もっともやもやしたものがあるはずだし。作者自身の体験を踏まえた物語のようですが、なんでこの年代の子として書いたのでしょう。

西山:何を読まされているのだろうという思いで、とにかく読み終えはしました。まず、中学2年の秋に、小6の時の「同窓会」をやるという設定自体で、どうしても乗れませんでした。中2が、2年前を懐かしみ集まりたがるというのがどうしても腑に落ちない。それも、「参加者の多くは、そのまま同じ大学の附属中学に通っていた」(p6)のに、です。ぴんとこないまま読み進めると「ピンクのワンピースのえりからのぞく白いうなじを見て、どきっとした。」(p12)、で、また出たよ、何を読まされるんだよと、鼻白み、あとは「女子だけなのかと思ってた。男子もそうだったなんて」(p46)に始まり、やたらと、女子だ男子だという(p37,66)のに、古くさい印象を受けて、14歳の男子が世慣れた大人のように、初対面の自転車屋のおじさんに「めずらしいですね、これ」と話しかけたり(p131)、花屋さんに死んだ友人云々をきちんと話したり、鈴元くんの家族とも結構話せて、もう、今まで読み馴染んできた児童文学やYAの中ではお目にかかれない14歳男子で、かちんと来ることが多すぎました。生きていたら友だちになっていたかも知れないという思い方はいいと思ったのですけれど、その何倍もなんだこれ?が多すぎて、なかなか苦しい読書となりました。

ネズミ:昔自分が感じたやり場のなさや中途半端な思いを作者が完結させたくて、14歳にしたんでしょうか。

すあま:小学6年のときのクラスメイトが2年後に同窓会で再会する話ですが、内容としては高校生や大人でもよかったのではないかと思いました。クラスメイトがそれぞれ違う思い出を持っていて、次第に亡くなった同級生がどんな子だったのかがわかってくるところはおもしろいと思いましたが、物語自体は全体的にセンチメンタルな感じでおもしろいと思えませんでした。スマホとかメールを使っているのに、水着のアイドルのテレカとかバナナシェイクとか、どうも古くさい感じで、いつの時代の話なのかと考えてしまいました。作者の思い出が元になっているので、作者が中学生のころの話を今の時代に持ってきたのかな、と勝手に解釈してしまいました。

ルパン:私は、まったく受けつけませんでした。なんでこんな本が出ているんだろう、と首をかしげたくなるくらい。読書会の本でなかったら絶対すぐに読むのをやめていたと思います。この主人公、いったい何なんでしょう。読みながらもう腹が立って腹が立って。最後に、作者が自分の経験を書いた、とあって、「ああ、やっぱりな」という感じでした。おとなが少年の口を借りてしゃべっているようで、どのせりふも気持ち悪い。そもそも、仲良くなかった子のお墓参りにどうしてそんなにこだわるんでしょう? 要は、「夏野」っていう女の子が好きで、「島流し」にあっているのに同窓会に行ったのもその子に会いたいからで、死んだ子のことを思い出したのも、その子が卒業文集に彼への追悼文を書いたことが気になっていたからですよね。お墓参りなんてひとりですればいいのに、みんなで行くことにこだわったのも、企画すればその子と話す機会がふえるからじゃないですか。それに、夏野と亡くなった鈴元との関係も気になっているから、そこも知りたかった、というところでしょう。ともかく、卒業して2年たって、同窓会で夏野と再会して「白いうなじを見てどきっと」してから急に死んだ同級生のことで動き始めるんですが、そのプロセスのなかで何度も「彼とは、生きていたときには仲が良かったわけじゃない」ということを繰り返し言ってるんですよね。何が言いたいのかと思ってしまいます。仲良くなかった子のことを思い出している自分がえらい、っていうアピールをしたがっているとしか思えない。物語が、タイトルの『12歳で死んだあの子は』の続きにも答えにもなっていないんですよ。主人公だってまだ14歳なんだから、たった12歳で死に向き合わなければならなかった同級生がどんなに怖かったか、悔しかったか、悲しかったか、想像して寄り添うところがあってもいいはずなんですが、そこがまったく出てこない。この子の「お墓参りしよう」という発案を大人たちがほめるところも気に入らない。私がこの子の親だったら止めると思うし、死んだ子の親だったら「イベントにしないで」と言いたくなると思います。亡くなった子を知らない友達まで来て墓参りするところもなんだかいやでした。

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しじみ71個分(メール参加):あまり仲が良かったとは言えない同級生が6年生の3学期に亡くなり、その子の亡くなった2年後にみんなでお墓参りに行くことを企画する中で生や死、友情とは何かを改めて見つめなおし、新たに友情が育まれていくという物語と受け止めました。ただ、私は、今回、この本を読んでもおもしろさを感じることができず、読み進めるのに珍しく困難を感じました。すべてぼんやりしている印象を受けます。
物語でも再三書かれているのですが、特に親友でもなかったクラスメートの死を彼の不在によって同窓会で改めて再確認したというだけで、みんなでお墓参りに行こうといいうモチベーションになるかなという疑問と、行きたきゃ一人で行けばいいじゃん、という腹立たしさを拭えず、共感が湧いてこなかったということがあります。須藤という主人公に魅力を感じることができませんでした。
また、文体がどこかもったいぶっているように感じられ、結果的に全体的にどの子もキャラクターの輪郭がぼやけてしまっている気がします。また、中学2年生の台詞としては練れすぎた印象もあります。附属中学に行くか行かないかという子たちなので、賢いのかもしれませんが。
みんなが故人に対する思いを寄せあうことで、故人の違った側面や魅力が改めて見えてくるという仕組みはあって、それは一つサブストーリーとしてあるように見えますが、小野田を除いて誰一人として深い関係を持っていなかったために、喪失の思いが深く掘り下げられることがないのが残念です。小野田が主人公ならもっと苦悩が深まり、お墓参りで苦悩が昇華されるという物語にもできたのではないかと思ってしまいます。なので、読むと須藤がお墓参りで何か得ようとする自己満足にしか見えず、それが主人公の心情の発露としてなされるというよりは作者の想い先行のような居心地の悪さを感じます。合田里美さんの表紙の絵とタイトルから想起させられるイメージよりだいぶ小さな物語になってしまったように思います。

アンヌ(メール参加):死者を悼むということは思い出すということ。そういう大前提はわかっているのだが、苦手な物語だった。主人公の少年は、行動力がないようでふらっといろいろなところへ行ったりする。その人間像が最後までうまくつかめないままだった。まあ、それはともかく書き方で気になった点は、p147で主人公をあざ笑う渡辺が、p240でいきなり現れるところ。そうとう悪役で、家まで上がり込むんであきれるとか、「腹を抱えて笑う」という、変な表現で主人公と小野田をあざ笑っていたのに、唐突に現れるところがまあ、居心地が悪い。公園での望遠鏡とお父さんのやり取りとか、主人公のお父さんとのやり取りとかもなんか居心地悪い。だいたい、p60のかなりの高熱が一日で治るところも、奇妙だ。普通はこの時点で、親も気付くというか、気にしださないか? 高見順の詩の引用も、スタンダールの『恋愛論』も、かなり高度の読み解きがなされていてすごい。全体に、ひこ田中の『ぼくは本を読んでいる』(講談社)の
作者の変容でしかない主人公を思い出す。とにかく、何をいおうとこれは事実なんだと言われると、批評できないようでつらい物語だった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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アラン・グラッツ『明日をさがす旅』(さくまゆみこ訳 福音館書店)表紙

明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

この本の主人公は3人。ヨーゼフと、イサベルと、マフムード。ドイツのベルリンに住んでいたユダヤ系のヨーゼフは、ナチの迫害を受けて、1939年にハンブルク港からキューバ行きのセントルイス号に乗り込む。キューバのハバナ郊外に住んでいたイサベルは、政権に反抗する父親が逮捕されそうになり、1994年にボートでアメリカを目指す。シリアのアレッポに住んでいたマフムードは、2015年に空爆で家が破壊され、難民を受け入れてくれるはずのヨーロッパに向かう。

時代も場所も異なる3人の難民の子どもたちの物語ですが、やがて彼らの運命の糸が思いがけなくも結びついていきます。私たちの想像を超えた危険や迫害にさらされ、恐怖に脅えながらも、子どもたちは、明日への希望を失わず、居場所をさがし、成長していきます。歴史的事実を踏まえたフィクションです。

時間・空間が交錯するのですが、グラッツのストーリーテラーとしての腕がすばらしい。読ませます。

(編集:水越里香さん 装画:平澤朋子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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<紹介記事>

・「朝日新聞」(子どもの本棚)2019年12月28日掲載

今、地球上にはふるさとを追われ命の危険も覚悟で国外へ移り住まなくてはならない人たちが大勢いる。この物語には、そういう状況にありながらも希望を失わずに生きていく子どもたちの姿が描かれている。ナチスの迫害からのがれるユダヤ人の少年。カストロ政権下のキューバからアメリカに向かう少女。内戦中のシリアからヨーロッパを目指す少年。同時進行でつづられる三つの物語が最後のほうでつながるところが圧巻である。難民問題を考えるきっかけにしたい1冊。(アラン・グラッツ作、さくまゆみこ訳、福音館書店、税抜き2200円、小学校高学年から)【ちいさいおうち書店店長 越高一夫さん】

 

日本にも続く「難民の道」

(ふくふく本棚:福音館書店)

安田菜津紀さんエッセイ「難民』

 

 

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リード&フェラン『たったひとりのあなたへ』(さくまゆみこ訳 光村教育図書)表紙

たったひとりのあなたへ〜フレッド・ロジャーズからこどもたちへのメッセージ

フレッド・ロジャーズというのは、アメリカで半世紀以上親しまれた子ども番組の制作者でありメインキャストでもあった人。子どもの言うことに耳を傾け、子どもをどこまでも尊重しようとし、ゆっくりとしたペースで番組を進めていきました。自分が小さいときにいじめられたり、孤独だったりした時のことを忘れず、子どもたちには「あなたはあなたのままでいい。あなたらしく生きればいい」と語りかけていました。また社会の偏見を打ち破ろうとした人でもありました。

彼の番組はYoutubeでもいくつか見られるようですので、のぞいてみてください。

たしかに古い感じはしますし、のんびりとした趣ですが、今アメリカでは、フレッド・ロジャーズが見直されているようです。トム・ハンクスが主演する映画もできています。それは今の刺激の多すぎる社会や、トランプ的な存在にノーと言いたい人も増えているからかもしれません。

(編集:吉崎麻有子さん 装丁:森枝雄司さん)

 

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ゴラブ&マルティネス『おまつりをたのしんだおつきさま』(さくまゆみこ訳 のら書店)表紙

おまつりをたのしんだおつきさま〜メキシコのおはなし

メキシコ南部のオアハカに伝わる、月と太陽についてのお話。私たちは、なんとなく太陽が沈むと月が出て、月が沈むと太陽が出ると思っていますが、じつは一つの空に太陽と月が一緒に出ていることもありますよね。そんなときオアハカの人たちは、「ゆうべは、お月様がお祭りをしてたんだね」と言うそうです。文章を書いたマシューさんは、何度もオアハカを訪ねて、昔話を聞き、自分でも読み聞かせのワークショップや、ストーリーテリングをしている方。マシューさんは、日本に住んでいたこともあって日本語がわかり、私の訳を送って相談しました。絵を描いたレオビヒルドさんは、オアハカに住んでいるメキシコ人画家で、彼ならではのユニークな絵に仕上げています。巻末には、メキシコの文化を知るための豆知識もついています。

(編集:佐藤友紀子さん 装丁:タカハシデザイン室 天文監修:縣秀彦さん)

 

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<作者あとがき>

メキシコの南部にあるオアハカ州にくらす先住民族の多くは、伝統的に宇宙を注意ぶかく観察してきました。オアハカの南でくらしていたマヤの人たちは、現代のカレンダーより正確ともいえるふくざつなカレンダーを考案していました。サポテカやミシュテカの人たちも、ピラミッドや都市を作ったり、宗教儀式を改革したりするときに、おなじように宇宙を意識していました。

いまでもオアハカの人たちは、月をじっくり観察して、天候を予知しようとしたり、作物の植えつけにふさわしい時期を知ろうとしたりしています。また、月は、美と命の源としてあがめられる一方で、人間らしい一面ももった存在として親しまれています。

こうして月を観察してきたオアハカの人たちにとって、太陽がのぼったあと、まだ空に月が見えるのは、想像力をかきたてるイメージだったにちがいありません。

ひと月をかけて月が地球のまわりをまわるなかで、月がのぼる時間は毎晩、変わっていきます。満月をすぎたあとの下弦の月(月の東側が光っている月)のころは、月は、真夜中に東の空にのぼってきて、朝には南の空を通り、お昼に西の空にしずみます。このため下弦の月のころには、午前中に西の空にかたむきかけた月を見ることができるのです。オアハカの人たちは、こうした現象をユーモラスに表現して「ゆうべは おつきさまが おまつりを してたんだね」というのです。

オアハカの人たちのお祭りは有名で、この絵本の絵を描いたマルティネスさんは、好んでお祭りを描いています。オアハカ州には、17の民族が8つの地域にすんでいるので、さまざまなお祭りが伝わっています。死者の日、ラディッシュの夜、ゲラゲッツァ祭などは有名ですが、そのほかにも、歴史的な出来事や、聖人や、英雄や、通過儀礼などを記念した何百ものお祭りが村々で行われています。この絵本の物語は、「蝶の川」を意味するリオ・パパロアパン川のほとりにある亜熱帯のパパロアパン地域が舞台です。

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ジョン・キラカ『なかよしの水』(さくまゆみこ訳 西村書店)表紙

なかよしの水〜タンザニアのおはなし

スイスのバオバブブックスの編集長が来日なさったとき、表参道のビーガンレストラでお昼を一緒に食べながら話をしました。その時「今はキラカさんにこんな本を描いてもらってるのよ」と聞いて、西村書店につないで出版してもらいました。

前作の『ごちそうの木』は、食べ物がなくなって動物たちが困るというお話でしたが、こちらは、日照りが続いて水がなくなり、動物たちが困っています。ようやく水が流れる川を見つけましたが、そこにはワニがいて、いえにえを差し出さないと水をくれません。この絵本でも、小さくて弱そうなノウサギの女の子が知恵を使って活躍します。キラカさんの絵は、ユーモラス。クスッと笑えるところがいくつもあります。

(編集:植村志保理さん 描き文字デザイン:ほんまちひろさん)

 

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<訳者あとがき>

ジョン・キラカさんは、タンザニアに生まれて今もタンザニアでくらし、村の人たちからいろいろなお話を聞いて書きとめ、それをもとに絵本をつくっています。本書は、そのキラカさんの新作ですが、前作『ごちそうの木』と同じように、日照りがつづいたせいで困っている動物たちが登場します。天候と結びついたくらしをしているアフリカの人々にとっては、水が手に入るかどうかは生死にかかわる大問題です。それで昔話にも、水をさがすとか、水を手に入れるために井戸をほる、というモチーフがよく出てくるのです。

また前作でも、かしこいノウサギが登場していましたが、この絵本でも、ノウサギが大活躍します。ノウサギは、アフリカ各地の昔話によく顔を出すキャラクターです。体が小さく、たたかうための牙も角も、するどい爪も持っていないので、生きのびるためには知恵を使うしかないのが、ノウサギです。力の強い、大きな動物たちに負けることなく、生きる方法を考え出すノウサギは、アフリカの昔話の中では、英雄ともみなされています。昔話をもとに再構成されたこの絵本では、かわいいスカートをはいた姿で登場していますが、そこには、女性や子どもを応援しようと思っているキラカさんの考えがあらわれているように思います。

キラカさんは、2017年夏に来日され、ストーリーテリングや、講演や、子ども向けのワークショップをしてくださいました。末っ子のおじょうさんヴィヴィアンちゃんのことが自慢で、何度も写真を見せてくださったり、何をおみやげにしたらいいかと迷ったりする姿からは、子煩悩なパパぶりを垣間見ることができましたし、講演からは、アフリカに伝わる口承文芸を絵本にして次の世代につなげていこうとする決意がうかがわれました。

さくまゆみこ

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フィリス・レイノルズ・ネイラー著『シャイローと歩く秋』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)表紙

シャイローと歩く秋

ニューベリー賞を受賞した『シャイローがきた夏』の続編です。ビーグル犬のシャイローは、前編に書かれていた様々な出来事をのりこえて、マーティの家にやってきました。でも、シャイローの元の飼い主ジャドは、いろいろな嫌がらせをしてきます。ジャドはまた酔っぱらってはケンカをしたり、トラックを暴走させたりするので、村の人たちも眉をひそめるようになります。

本書では、ジャドがどうしてそんな性格になってしまったのかも明かされています。獣医さんの役目もしてくれるお医者さんのマーフィ先生、施設でいろいろな事件を起こすおばあちゃん、何があっても絶対に目を覚まさない下の妹のベッキー、などサブキャラも存在感を発揮しています。主人公の少年マーティが、なんとしてもシャイローを守ろうとする気持ちが本書でも痛いほど伝わってきます。

(編集:山浦真一さん 挿絵:岡本順さん)

 

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<訳者あとがき>

本書は、アメリカの女性作家フィリス・レイノルズ・ネイラーの作品SHILOH SEASONの翻訳です。

ビーグル犬のシャイローをめぐるネイラーの作品は、アメリカでは4冊出ており、これはその2番目にあたります。アメリカではどの巻もよく読まれ続けていて、2015年には4巻目のSHILOH CHRISTMASも新たに出版されました。また3 巻目までは映画やDVDにもなって人気を博しています。

作者のフィリス・レイノルズ・ネイラーは、1933年にアメリカのインディアナ州に生まれた作家で、小学校4年生の頃から物語を書いていたといいます。日本でも他にアリスのシリーズ(講談社/青い鳥文庫)や、ミステリーホテルのシリーズ(偕成社)などの翻訳が出ています。

シャイローのシリーズの1巻目『シャイローがきた夏』(原題SHILOH 1991)は、アメリカで最もすぐれた児童文学作品に与えられるニューベリー賞を受賞した作品で、2014年にあすなろ書房から翻訳が出て、幸い版を重ねています。この作品は、1993年に別の出版社から『さびしい犬』という題で翻訳出版されたことがあったのですが、その後絶版になって日本語では読めなくなっていました。私は、自分でもビーグル犬を飼っていることもあって、もう一度日本の子どもたちにも読んでほしいと思い新たに訳し直したのでした。

このシリーズでは、全体を通して、動物と人間との関係や、人間としての誠実な生き方や、事実とゴシップの違いや、虐待された子どもなどについて考えさせてくれますが、お説教臭いところはなく、時にユーモアも交えて物語そのものの力で引っ張っていきます。登場人物にもそれぞれ特徴があり、構成もみごとで、物語の伏線もきちんと張られています。よくできた物語として楽しんでいただければ幸いです。

2019年8月 さくまゆみこ

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2019年11月 テーマ:異なる世界の接点は?

日付 2019年11月13日
参加者 アンヌ、イバラ、鏡文字、カピバラ、コアラ、さららん、しじみ71個分、すあま、西山、ハリネズミ、ハル、まめじか、マリンゴ、リック、(エーデルワイス)
テーマ 異なる世界の接点は?

読んだ本:

(さらに…)

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『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』表紙

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

鏡文字:タイトルがいいですね。これを読んだ人は、マレー語で5と7は、言えるようになるのでは? 講談社の児童文学新人賞の受賞作らしい、読後感のよいさわやかな物語だと思いました。いくつかの謎が提示されながら物語が進むので、さくさく読んでいけます。謎のうち、母親の浮気を疑って探る、というのは、ありがちなエピソードかもしれません。比喩的な表現が私には少しうるさく感じました。p4の「新種の生き物を見つけたみたい」、p8の「お湯のなかで溶けきらなかったスープの粉」、p10の「飼い主に命じられた犬のように」などなど、てんこ盛りで、比喩が好きな人にはいいのかもしれませが、私はそこで比喩として提示されているものに感覚がひっぱられて読書が停頓してしまい、かえって妨げになりました。もう少し数をしぼって、ぴりっと効かせたほうがいいのではと思います。日本の学校についてのネット情報等に翻弄されるところはおもしろかったのですけれど、銀行強盗への連想は、ちょっとやりすぎかな、という感じで笑えませんでした。ときどき出てきた語尾の「~もん」というのが舌足らずというか、いささか幼稚な感じがしました。私は自分が非宗教的人間なので、なにも子どもが親に従うこともなかろうと思ってしまい、そのところは、ざらっとした違和感が残ります。それから、朋香ちゃんがいいキャラで、こういう子、好きなので、もう少し出番が多いとうれしかったです。

まめじか:必死に日本の学校生活になじもうとしている帰国子女の主人公が、マレーシア語を入れた短歌を詠むというのが新鮮でした。杉並区は、ムスリムの生徒には、豚肉を使わず、豚肉を調理した油などもまじっていない給食を提供しています。この本の学校では、お弁当を持っていかなくてはいけないんですね。

マリンゴ:ずいぶん前に読んだので、記憶が遠くて、あまり細かいことは語れなくて恐縮です。文章が非常に読みやすくて、マレーシア語の言葉のまざり方もいいなと思いました。タイトルも好きです。唯一気がかりだったのは、イスラム教徒の描かれ方。私が中学生なら、この本を読んで、「イスラム教徒と結婚したら大変だな」と、ネガティブに受け止めてしまう気がするんですよね。義母がイスラム教徒で、自分も改宗に同意したとしても、ここまですぐストイックに学校でお祈りなどを実行するだろうか? という疑問もありました。作者はイスラム教にくわしいようなので、一般的な日本人が知らない、ムスリムのポジティブなところも描いてもらえたらなと思いました。

リック:私も、比喩表現が多用されているのは気になりました。「スープの粉みたいに」「ベーキングパウダーみたいに」など、作家の個性だけれど、どうも気になってしまします。その点以外では、さわやかで、とってもいいお話です。マレーシア語の響きもかわいく、マレーシアへの興味関心が高まりました。でも、イスラム教徒になる港くんが素直すぎませんか。港くんのお父さんも、息子がイスラム教徒になるのは抵抗あったのでは? そのあたりが何も書かれてないのは不自然に感じます。

カピバラ:まずタイトルがなんのことかな、と手にとってページをめくりたくなります。表紙の絵やデザインも気軽に読めそうな感じがしますね。帰国子女が日本で暮らしていくときの小さな違和感がよくわかるし、短歌のおもしろさも伝わってきます。マレーシアの食生活など、文化の違いも興味深い。深く掘りさげてはいないけれど、今まで知らなかった世界を垣間見ることができるという意味で、中学生に気軽にすすめられる本だと思います。

イバラ:最初の、督促女王にギンコーに行くと言われ、何も聞かずについていくというところ、長すぎるしリアリティがないように思って残念でした。マレーシア帰りの沙弥が、先輩にどう話していいかわからず、ヘンテコな敬語を使うところは笑いました。書名はどういう意味かと思って謎のまま読んでいくと、途中で種明かしされるのがおもしろいですね。2年半いたマレーシアから帰国した沙弥も、父が新たにマレーシア人と結婚してイスラム教徒になった港も、音大の附属中学から途中で転校してきた莉々子も、学校で疎外感を感じています。沙弥は周りに合わせようとしていますが、莉々子は開き直って学校以外の短歌の世界に居場所を見出そうとし、港は自分の状況をわからせる方向で社会に向き合わず、あきらめて孤独のなかに身を置くことに甘んじています。ひとりひとりが違う、ということをこの作品はきちんと伝えていて、好感がもてました。タンカードNo.1が港の机の中からでてきたのはなぜか、など途中で謎も設けてあって、新人の作品にしては、とてもよくできていると思いました。これからが期待できますね。

コアラ:タイトルではどんな内容かまったく見当がつきませんでした。カバーの袖のところでも、「魔法の言葉みたいな響き」としか書いていないので、なんだろうと好奇心を持って読み始めました。途中で、マレーシア語の「57577」、つまり短歌の文字数とわかって、なるほどと納得できたし、音の響きもおもしろいので、いいタイトルだと思いました。マレーシア語やマレーシアの食べ物、宗教のことも出てきて、読むなかで無理なくマレーシアのことがわかるようになっています。マレーシアのことはあまりよく知らなかったので、新鮮でした。私は2回読んだのですが、p26の4〜6行目で、「『マレーシア……? 花岡さん、マレーシアにいたの?』(中略)きっと、どんな国か、イメージがわかないんだろうな」とあって、最初に読んだ時には、確かにマレーシアがどんな国かイメージがわかないな、と読み進めていったのですが、ここで「督促女王は呆然とした顔になっていた」と書いてあるんですね。後で判明するけれど、少し前まで督促女王は藤枝港と短歌を詠んでいて、藤枝港はマレーシアと縁がある。それで、呆然とした顔になるわけで、そうだったんだ、と2回目に読んで思いました。作者は設定がわかっているから、「呆然とした顔」と書いて、でもその理由を「きっと、どんな国か、イメージがわかないんだろうな」という方向に読者を持っていっているんですね。タネを明かさないというのは、うまいなと思いました。
いろいろな短歌が出てきますが、そのままの感情を詠んだものも多いし、「これだったら自分も作れそう」と思う中学生もいるのではないでしょうか。本が好きだったり言葉に敏感だったりする子どもが、短歌という形式を知って自己表現の手段を手にいれることができれば、とてもいいことだと思いました。それから比喩がいろいろ出てきますが、私は独自の表現でおもしろいと思いました。鏡文字さんがあげたp8とp10のほかにも、p17「歯が生え変わるように、同じ場所に別のお店が自然におさまっている」、p29「ベーキングパウダーを注入されたみたいに、やってみたい気持ちがぷくぷくと膨らんでいく」、p139「嘲笑と好奇心を混ぜた言葉のボールが、窓ガラスを割るように藤枝の後頭部に飛んできた」など、印象に残りました。
全体的には、自然体で、マレーシアの帰国子女というちょっと変わった設定が無理なく展開していき、終わり方もさわやかで、とてもよかったです。

ハル:主人公=作者ではないですが、初々しく、表現することの喜びがはしばしから伝わってくるような、読んで楽しい1冊でした。私は、大人が選んだ宗教に子どもが縛られていくということに抵抗を覚えるので、両親の再婚によってイスラム教徒になった藤枝に、やはり不自由なものを感じました。日本での仏教と、マレーシアでのイスラム教では、そもそもの考え方や在り方がまったく違うのかもしれませんし、それこそ、自分のものさしだけで考えてはいけないのかもしれませんけどね。

しじみ71個分:とにかくタイトルの音がかわいくて、それにひかれて、期待をふくらませて読みました。最初から期待しているので甘く読んでいるかもしれないけど、とてもおもしろかったです。夏に児童文学者協会のがっぴょうけんに参加したのですが、その際、コピー用紙に印刷された未発表原稿を拝読しました。それはとても新鮮な経験でしたが、この作品にそれと同じような新鮮さを感じながら読み終わりました。主人公がマレーシアからの帰国子女であるという設定がされていますが、それだけにこだわらず、和歌、恋、イスラム教など幅広な要素を取り入れてかつ破綻せずにうまく物語の多様性として生かしているところがとてもいいと思いました。主人公の恋が失恋に終わるのもビターでいいなと思います。結末も気持ちよく、読後感もさわやかでした。全体にマレーシア語の音のおもしろさが生きていて、物語の魅力をふくらませていると思います。

すあま:タイトルの意味に意外性があっていいと思います。短歌は短い言葉で豊かなことを伝える反面、言葉が足りなくて誤解を生んでしまうこともある、という両面を描いていておもしろかったです。主人公とお母さん、佐藤先輩と藤枝くん、イスラム教など、いろんな誤解と理解の話を、短歌をうまくつかって書いている。部活ではなく、二人で交換日記のように短歌を詠みあうのも新鮮でした。それから主人公が失恋するのも意外だったし、おもしろかったです。でも国際交流、異文化交流もテーマとなっているとはいえ、学校司書まで国際結婚させなくてもよかったのでは。それから、クラスメートの朋香ちゃんはもうちょっと物語にからんでいたらおもしろかったのではと思いました。

西山:マレー語がおもしろくて、マレーシアへの関心を刺激する作品だと思います。例えば赤という意味の「メラメラ」、もしかして火が燃え上がる様子の擬態語の語源? などと思ってしまいました。自分だけ違っていることに神経質な今の若い人には共感できる部分が多いだろうと思います。その分、今いる場所がすべてではないというメッセージは力を持つと思います。p105の歌「それぞれの午後二時四十三分に左の指で歌を唱える」の「二時四十三分」にはどきりとしました。東日本大震災が「2時46分」その3分前。これは、意識してのことなのではないかと勝手に思っています。

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エーデルワイス(メール参加):不思議な書名は、マレーシアの言葉からだったのですね。響きがいいし、しゃれています。物語から体験がにじみ出ているように感じたのですが、作者はマレーシアに言ったことがあるのでしょうか? 帰国子女としての体験もあるのでしょうか?

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『ソロモンの白いキツネ』表紙

ソロモンの白いキツネ

アンヌ:きれいな、いい表紙絵だとは思うのですが、なんとなく手に取った時からこの絵で先入観を持ってしまって、アニメの『あらいぐまラスカル』のように野生の白狐を飼う話だと思いこんでしまいました。p29~p30の見開きの絵からも、この父親は白人だと思って、なかなかイヌイットの人々の話だと気づけませんでした。10年以上も、学校でも父親とも会話を交わしていない少年が、不意にソロモンのように知恵者のような発言ができるところは腑に落ちません。読んでいくと、最後のほうは「信太の狐」の伝説のようで、前半の野生のキツネの話がイヌイットのおとぎ話に移行していくのかなと思いましたが、リアリティのある感じからそれも違うように思えて、うまく物語の中に入りこめませんでした。

コアラ:絵本のようなつくりだと思いました。読み終わって改めて見ると、絵は最初と真ん中と最後の3枚しかなかったのですが、情景が思い浮かぶような物語で、本の形と内容が合っていると思いました。白いキツネとソルは深いつながりがあるということが、読むにつれてだんだんわかってくるし、父親の悲しみも描かれていて、しみじみと深みのある物語だと思います。じいちゃんとばあちゃんが先住民族だったことや、読み書きができないことが出てくるけれど、それがあまりたくさんは書かれていないので、逆に読み終わってからあれこれと考えをめぐらせることになりました。余韻と深みのあるいい本だと思います。大人にもおすすめですね。

イバラ:最初読んだときは、私もソルが先住民の子どもだということがわかりませんでした。読み直してみて、よくわかりました。p53に「民族」という言葉がありますが、これを「先住民族」としてくれると、最初からもっとくっきりわかったように思います。都会で居心地悪く暮らしていた先住民の父と息子が、ホッキョクギツネの導きで故郷に帰る話なんですよね。祖父母の自然に近い暮らしの中で子どもが癒やされるという話はたくさんありますが、これは、それだけでなく、ソルが文字の読み書きのできない祖父母に文字を教えるという場面もあり、お互いに補いあっていくのがいいですね。父と息子も、故郷に帰ることによって理解しあうようになるんですね。それに、文章がもつイメージが、すばらしく美しいですね。私はタイトルだけ違和感が少しありました。ソルが、キツネは自分のものではない、自由な存在だと言っている場面があるので、「ソロモンの」じゃなくて「ソロモンと」のほうがいいかと思ったんです。

カピバラ:とても静かな印象の物語。言葉少ないけれど、その裏にいろいろなことが隠されていて、あとから物語の背景がわかってくるようなところがあります。小さな作品ではあるけれど、大きなことを伝えようとしていると思いました。黒い髪に黒い目でいじめられるのですが、主人公が先住民族だということは、日本の読者にはわかりにくいと思いました。心に残る作品でした。

リック:とても美しい物語。絵も素晴らしい。読後、じんわりと心に残り続ける、出会えてよかった作品です。ただ、主人公の男の子もお父さんも、ちょっと語りすぎなのが気になります。いじめと戦う必要はない、という主人公の言葉はとてもいいと思いました。これはいじめがメインテーマの話ではないけれど、いじめられている当事者が読んだら、勇気づけられる言葉だと思います。ずっと本棚においておきたい1冊です。

マリンゴ: 絵がとにかく素敵でした。作者がイラストレーターというプロフィールを見て、この人の絵かと思いこんでいたら、違うんですね。途中でそれを知って、実はショックでした(笑)。本の装丁などが、モーパーゴの『だれにも話さなかった祖父のこと』(あすなろ書房)を想起させました。版元も一緒ですものね。旅をするうちに、距離が近くなっていく父と息子、いいなと思います。あと、子どもが、いじめのある学校に行かない、と主張できるようになるところも印象的でした。p49 「あいつらとたたかう必要なんてない。ぼくがいじめてくれってたのんだわけじゃないんだから」という言葉が頭に残っています。1つだけ気になるのは、ホッキョクギツネがすべてのキーワードであることを、ストーリー上の随所で強調されている点。ああ、すべてがつながっているんだなぁ、と読者が気づいて余韻を感じるスペースがないように思えて、わずかに残念でした。

しじみ71個分:今回読んだのは2回目で、1回目はいい話だと思ったけれども、あっさり読んでしまいました。今回、さらりとおさらいしたくらいですが、ページをめくっている間にもじんと心にしみてくる静かな感動がありました。その魅力はなんだろうかと考えました。白いキツネも主人公のソロモンも都会に似合わないものとしてやってきて、一緒に故郷へ帰る旅をする中で、母親を失った後、おかしくなった父親との関係も修復されていくというのもよかったし、また、故郷の祖父母の背景まで理解が深まっていきました。白いキツネは象徴的な存在で、自然と共生するイヌイットの、ソロモンのオリジンの文化や民族の血脈の高貴さが美しく表されていると思いました。学校で黒い目や髪を理由にいじめられたりする日常を脱し、故郷に帰るにつれて、自分の中の民族のルーツに気づいてだんだんと強くなり、彫刻家になりたいという気持ちに気づき、前向きに考えられるようになるという流れが表現されています。気持ちよく感動して読みました。絵も著者が描いたと思っていたのですが、違いましたね。で、絵を見て、車に乗っているお父さんは白人っぽいなと思い、ソロモンはハーフなのかなと思って読んでいました。

さららん:読んでいて、うれしくなった作品です。引き締まった訳がいいですね。ソルの視点ではじまりながら、短い文章の中ですっと第三者の視点に移行し、父親の感情に入っていく。たとえばp9など、その移行が自然で見事です。p13「ソルは息を長く吐きだした。ほんとうにいたんだ。シアトルの波止場のどまんなかに、まいごになった場ちがいなホッキョクギツネが、ぽつんと一匹。まるで、ソルとおなじように」。この最後の文章で、「まるで自分と同じように」とは訳さず、「ソル」と名前を出すことで、読者は主人公の気持ちにうまく近づけるように思います。ほかにも、そのキツネを、波止場の男たちがピーナッツバターのサンドイッチでつかまえるところなどに、さりげないユーモアを感じました。ソルは学校での疎外感、父親は妻を失った悲しみを抱え、二人とも都会の暮らしになじめずにいるのに、それを内側に抱えこんでしまうタイプです。鍵となるホッキョクギツネ(母親の愛の象徴?)の登場により、物語が動きはじめ、自分らしい生き方をとりもどしていくまでが、センスよく描かれています。読後感もさわやか。こんな作品もあるんだよと、本をあまり読んでいないYA世代にすすめてみたいです。個人的には、イヌイットのテーマを掘り下げた、もっと書きこんだ作品も読みたくなりました。

鏡文字:とても美しい物語だと思いました。絵がきれいというだけでなく、文章から惹起されるイメージが視覚的にきれいです。白いキツネ、森、オーロラ・・・・・・。冒頭、ソルがソロモンの愛称だとわからなかったんです。これは、英語圏ではあたりまえのことなんでしょうか。

イバラ:p33に出てきます。ソロモンの愛称がソルだって。訳者の千葉さんがここで入れたんでしょうね。

鏡文字:p33というと、ほぼ中間なので・・・・・・。まあ、見返しをちゃんと見ればすむ話でしょうが。12歳というのも、見返しには説明がありますが、そこを読まずに本文を読み始めてしまい、人物設定を理解するのに戸惑ったこともあって、冒頭部分がちょっと入りづらかったです。後半はテーマが盛りだくさんです。先住民のこと、いじめのこと、文字のこと・・・・・・。いじめのことは前半でも触れられますが、先住民=いじめられる対象、ということでいいのかな、というのが少し疑問でした。だれ一人、味方してくれなかったのでしょうか。ある種、象徴的作品ということだからなのかもしれませんが、どことなく二項対立的に描かれているようにも思えて。美しい作品ですが、物語として読むと少し舌足らずで、詩的で象徴的な作品とすると、やや饒舌かな、という印象です。

ハル:コアラさんもおっしゃっていましたが、私も今改めて見直して、あれ? こんなに絵が少なかったんだっけ、と思いました。全ページに絵が入っていたような感覚で、文章もイラストも、心に視覚的な余韻が残るような、味わい深い本だなぁと思います。今回の3冊の中では、このお話は、異なる世界、文化が受け入れられなかった話ですね。今いる場所が自分に合わない場合、逃げるのでも、戦うのでもなく、自分に合う場所を選択していくこともできるんだというメッセージは、とても大事なことだと思います。それでも、異なる文化との断絶ではなく、少しずつ変わっていくのではないか、これから始まってくのではないかと思わせる、優しいラストでした。

すあま:スターリング・ノースの『あらいぐまラスカル』のように野生のキツネを飼って最後に野生に戻す、という話かと思って読み進めていったら、キツネには名前もつけずにあっさりと山に帰したのが意外な展開でした。でも、ふるさとがアラスカであるということが、なかなかわからなかったので、日本の子にはどこの話なのかぴんとこないのではないかと思いました。アラスカとシアトルの位置関係もわかりにくいのでは? 登場人物が少なく、文章も少ないので、長編がまだ読めないような中学生にもすすめられると思いました。読後感もよかったです。

西山:いま、うかがって、ああそういう読者層が想定できるのかと思いました。展開が早いのに驚きつつ読んで、絵本ではないけれど、たっぷりのドラマがあるはずだけれど、文章は少ないし・・・・・・と、だれがどのように楽しむのかイメージできなかったんです。半ば、散文詩を味わうような感じでさらさらぁっと読んでしまった感じです。

まめじか:「まいごになった場ちがいなキツネ」と、都会になじめなかった母親、学校で居場所のないソルの姿が重なります。「子どもの人生だって、そんなに気楽で楽しくなんかない」(p34)というセリフには、深くうなずかされました。「オーロラのなかにはかげもあって、そこには死者の魂が宿っているとも信じられている」(p58)という文章をはじめ、全体をとおして人生の美しさと苦さを見据えています。作者のまなざしの深さを感じました。母親とキツネは特別な絆で結ばれていたと、イヌイットの祖母は語りますが、ジャッキー・モリスの『こおりのなみだ』(小林晶子/訳 岩崎書店)も、人と動物の魂の結びつきを描いています。これは、クマの赤ん坊が人の子として育てられる話です。

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エーデルワイス(メール参加):12歳のソロモンの心の動きがていねいに描かれていますね。ソルがおばあちゃんに「はじめるのに遅すぎることはないよ」というところが、とてもいい。今年読んだ本のマイベストになりそうです。

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『野生のロボット』表紙

野生のロボット

しじみ71個分:とてもおもしろく読みました。AI、ロボットの物語ということですが、お母さんの心を持って、ガンの子どもを育てる話を主軸として、最後は島の動物が一致団結してロボットを回収に来た戦闘用ロボットと対決する。ロボットの話というよりは、血のつながらない親子の物語や、文化の異なる移民がコミュニティに受け入れられていく物語など、いろんな読み方ができると思いました。ロボットがふわふわした梱包につつまれて箱の中にいたものがパカンと出てくる描写など、赤ちゃんが生まれた様子の表現の暗喩とも見え、赤ちゃんみたいな状態から、学習を経て賢く愛にあふれた大人の存在になっていくのも、人間の成長過程をトレースしたようにも読めます。物語の中で、ロボットは当初、インプットされた情報から声色を選んで、自然なしゃべり方になるように努めたことがきちんと書かれていますが、異質なもの同士が共生し、ガンの親として機能する中で、ロボットがあえて生き物らしく行動するという記述は減って、どんどん普通に感情を持った生き物のように自然に行動するように語られます。読んでおもしろいのですが、物語として、だんだん何を言いたいのか、わからなくなってしまいました。

西山:それは例えば、p85の1行目、親鳥を死なせてしまったことをテレビショッピングみたいなしゃべり方で「なあんと、この子だけが生き残りましたあ!」なんて言っているところでしょうか。あそこは、笑いました。ハリネズミの針が刺さってしまったキツネのカットとか、絵も好きでした。先が気になってどんどん読み進めたわけですが、最終的には釈然としない思いが残っています。これは、野生化したロボットの話なのかな? 文明化された野生動物たちの話なのでは? と思うんです。動物たちが火を操るということがどうしてもすとんと来ない。レコたちは、暴力をふるうことがプログラミングされているらしいし、作中唯一の完全な悪役ですが、なんの躊躇もなく破壊する=殺すことに抵抗を感じました。初めのほう(p43)で、「ロズは、プログラムのせいで暴力をふるうことはできない。でも、相手をいらいらさせることならできる」と松ぼっくりをしつこくクマに落とすところが好きだったんですが、そのくらいのゆるい闘いならよかったのに、と思います。ロズがキラリの母親となると、言葉づかいが「わ」「よ」で女言葉を強調しますが、原文でいかにも女性の台詞であるように表現されているのかどうか気になります。

マリンゴ: 非常に興味深い物語で、読めてよかったと思っています。変化が多くて、次はどうなるのかと、ストーリーに引きこまれました。一般的に、ロボットと人間を描くと、人工知能が人間の知能を超えるか、敵対してきたらどうするのか、といったあたりが焦点になりがちですよね。でも、このロボットのように、人間に害をおよぼさない範囲で、自由を求める、ということがあるかもしれません。こういう素朴なロボットに対しても、人間は、「人の命令に背いて自分の意志を持つ危険なやつ」と判断するのでしょうか。そんなことを考えさせてくれる作品でした。それからp141「うちは変わった家族だね。でも、ぼくはけっこう気に入ってる」というフレーズ、アメリカのYAなんかでよくありそうなセリフですけれど、この小説のなかだと新鮮でした。ほんとに変わった家族ですものね。また、ガンのクビナガが目の前で倒れて死んじゃったり、冬の寒さで凍死した森の動物たちも多かったり、と死をためらいなく書いているのがいいな、と思いました。児童書だと、そのあたりを匙加減して、みんななんとか冬を乗り切りましたぁ! とハッピーエンドになりがちなので。ただ、1つだけ気になるのは、ロボットのスペックがどの程度なのかよくわからないということ。たとえばp132 では、見たものを脳で検索して「あれは船」と言っています。でも、p76では見たものを検索できず、「あなたはオポッサム・・・・・・」と名前を知ってから情報を検索しています。何ができて何ができないのか、わかりづらいなと思いました。

リック:AIなのに、母親らしくなっていくのがおもしろいですね。子育てするママが成長していくお話でもあります。ロボットゆえに、いかなる困難も乗り越えるスーパーウーマンなのが痛快だけど、なんでも解決できちゃうのはおもしろみにかけます。ロボットでは対応できない問題点に突き当たるような展開があったら、もっとおもしろかったのではと思いました。

カピバラ:1章1章が短く、次の章を読みたくなるような書き方がしてあり、絵もたくさんあって、この厚さでも読みやすくする工夫がみられます。小学5~6年生から読める本になっているのが、うれしいです。今の子にとってAIは身近な存在になっていますが、人間社会でどう共存していくか、といったよくある設定ではなく、逆にロボットが野生に入っていくというところがユニークですね。作者は、プログラミングされたロボットと、本能によって動く野生動物は似ているといっていますが、おもしろい着眼点です。たくさんの動物たちが登場しますが、名前のつけ方がその動物に合っていておもしろいし、イタチのチョロリとか、アナホリーとか、翻訳も工夫していますね。セリフもうまく訳し分けていると思います。子どもたちにすすめたい物語です。

イバラ:とてもおもしろく読みました。この本の動物たちはお互いに会話したりして擬人化されていますが、ロズも単純に擬人化されたロボットという位置づけでしょうか? それともSF的に未来のロボットとしてここまで人間化が進んだということなのでしょうか? 物語世界の設定としてそのどっちなのかが、よくわかりませんでした。今のところロボットには感情がなくてプログラミングされたことしかできないはずなのですが、このロボットは人間世界に触れていないので人間らしい会話はできないはず。でも、人間世界の人間らしい口調で話します。さっき原書を見せてもらったのですが、原書はフラットな言い方ですね。訳者が、子どもに読みやすいようにということで、こうなさったのでしょうか? いったいどこまでが科学で、どこからがファンタジーなのか、知りたいです。ロズは、『オズの魔法使い』に出て来るブリキの木こりと同じようなファンタジーの産物なのか、それともサイエンスフィクションの住民なのか、興味があります。著者はどのような物語世界を作っているのか、続刊があるとのことなので、期待して待ちたいと思います。

コアラ:ロボットものは好きでよく読んでいましたが、ロボットが野生化するという物語は初めてで、おもしろかったです。絵がいいですね。p176~p177の見開きの絵とか、飛んでいくキラリを見送るp190~p191の絵とか。あと、シカのキャラメルとか、名前がいいですよね。ロズとキラリの親子関係もいい。キラリが、母親がロボットだということを受け入れていくのがいいし、お互いに支えあっているのがいいですね。最後、ロズが島に戻れる見込みは、私はほとんどないと思っていて、ロボットだから初期化されれば終わりですよね。でも、続編があると聞いて、希望が持てました。続編も読んでみたいと思います。

アンヌ:動物たちの描かれ方が、夜明け前の協定とかなんとなく宮沢賢治的な世界を感じたので、SFというよりファンタジーなんだと思いながら読みました。けれども、動物が火を使うのにはびっくりしました。あげくにライフル銃を使って戦ってしまうし、なんだか受け入れがたい設定です。ロボットのほうは自己保存の法則を生かして言葉を習得し、動物社会の中で生き残っていくというストーリーには納得しましたが、なぜ女性で母親という設定なのか疑問を持ちました。でも、あとがきを読むと作者は最初から女性のロボットを書くつもりだったのですね。ガンの渡りの中で島の外の社会を見せ、他のロボットの働く様子を見せるところなど実にうまいと思いましたが、最後にレコが死にかけながらいろいろ忠告するところは、急に仲間意識を持つロボットに変身したようで、矛盾を感じました。すべてのロボットはロズも含めて実に人間的な存在なんだという落ちを予感させます。続巻があるようなので、そこで解き明かされるのかもしれません。

すあま:読みやすかったです。設定については疑問に思わず、楽しく読みました。ロボット版『ロビンソン・クルーソー』かな。知らない島に漂流した人間の話はあるけれど、ロボットだとこうなるのか、とおもしろく読みました。本をあまり読まない子にもすすめられるのではないかと思います。

ハル:読んでいてとっても癒されました。動物たちの様子が生き生きとしていて楽しかったです。お話も書けて、絵も描けて、多才な著者ですね。でも、これは動物たちにとっては無害なロボットだから、この世界に入っていけたんですよね。捕食・被食の関係にある動物たちが、この時間だけは交流できるという「夜明け前の協定」はおもしろかったのですが、後半、魚たちがクマを助けたところで、クマが「ありがとう! もう魚は食べないことにするわ!」って言うんですよ。これはいただけません。野生の動物同士、食う、食われるというのは、胸が痛むことではありますが、生きていくための手段で、憎しみとか、和解とか、仲直りとか、そういう話じゃないんだから、そこは一緒にしちゃいけないんじゃないかと思います。せめて「魚は今日から3日は食べないわ!」とか、そのくらいじゃだめですかね(笑)。ラストで急に殺伐とした戦いが始まってしまったのも、ちょっと残念でした。私は、ロボットが女性という発想がなかったので、他の方もおっしゃっていましたが、ロズがキラリのお母さんになったとたんに、急に女性的な話し方に変わったように思い、母親役だからって女性にならなくてもいいのに、と違和感を覚えたのですが、あとがきによると、著者は最初からロボットに女性的なものを感じていたのですね。母親になったからと話し言葉を変えたわけではなさそうですが、私は気になりました。

鏡文字:厚い本だったので、時間がかかると思ったら、絵もとても多く、以外と文字数もなかったので、すぐに読むことができました。絵がいいですね。

イバラ:著者は絵と文の両方で表現したかったんでしょうね。日本語版のレイアウトがきっと大変だったと思います。

鏡文字:野生と対極にあるロボットという取り合わせがおもしろかったです。「~んだ」という語尾がちょっと気になって、それで、よけいにだれかに語っているという印象を与えます。だれが、だれに向かって語っているのかと、ちょっと思ってしまいました。それから、無人島でインターネットに接続できるのかな、とかエネルギーは? なんて言うのは野暮というものでしょうか。

イバラ:きっとソーラー・エネルギーを使ってるんじゃないですか。

鏡文字:ソーラーかな、とは思いましたが・・・・・・。動物が火を使うことへの抵抗、という話が出ましたが、そもそもここの動物って、どういう存在なんでしょうか。

イバラ:野生の環境、野生のロボットと言ってるのに、擬人化されている。

鏡文字:それぞれの動物同士は、会話が可能。でもロボットは学習が必要で・・・・・・と考えだすとちょっとわからなくなってくるのですが、まあ、あんまりこだわらずに、物語を楽しめばいいのかもしれません。イワヤマが、突如、温暖化の影響について言及するところが、やや唐突で、「語ってる」感があったのですが、これは作者の文明批評なのでしょう。ラストは思いがけない展開で、ちょっとびっくりしました。

しじみ71個分:そもそもの設定で気になってしまうのが、工場で似たようなロボットがたくさん製造されているのであれば、そんな量産型のロボットを回収する必要はないんじゃないか、と思います。そこに矛盾を感じてしまう。

さららん:字の組み方、改行が読みやすく、文字の見せ方も工夫していますね。たとえばp279「どさっと/ロズのわきに/たおれた」と、ワンフレーズずつ改行してあって、レコ(敵のロボット)がガクリと倒れていく時間を感じました。全体に絵と文のレイアウトのバランスが見事です。小さな事件が次々に起こり、お話の展開が早い。絵も多く、子どもは早い展開が大好きなので、小学生の読者もどんどん読める作品になっていると思います。ただ、ロズと動物たちが暮らす島が、一種のパラダイスなのかと思ったら、終わりのほうで雲行きが変わり、ディストピアのようにも思えてきました。オープンエンディングであるものの、レコたちの追跡が執拗だったので、人間から絶対に逃れられないロボットの宿命をロズが変えることができるようには思えず、疑問が残りました。人間の世界で必要な修理をしてもらい、ロズが島に帰る方法を見つけたとしても、待っているのは、「正義」のために敵を葬り去ることのできる動物たちです。作者にとって「野生」とはなんなのか? 論理の矛盾をどう解決するのか、続編に期待しています。

まめじか:『トラさん、あばれる』(青山南/訳 光村教育図書)の絵本で有名なピーター・ブラウンが児童書を書いたというので、アメリカでたいへん注目を集めていた本で、私は出版後、わりとすぐに読みました。移民も、血のつながらない家族も、いまアメリカの児童書界が手渡そうとしているテーマなので、広く受け入れられたのも納得です。絵と文がよく合っていて、物語の運びに勢いがありますね。ビーバーが義足を作ってくれる場面ではじんとなりました。少し気になったのは、ロズが小屋を作り、動物たちを迎えるところです。異常気象で例年になく寒い冬だったとしても、厳しい自然の中で生きる動物の生き死にを、人工的なもので変えてしまっていいのか。ファンタジーだからそれでいいのかもしれませんが、だとしても、その世界の中でのルールは必要ですよね。あるいは、そういうことは気にせずに楽しいお話として読めばいいのか。どうなのでしょう。

アンヌ:自分の足を直せないところとか、変ですよね。木で直してもらうなんて。ある程度の修理能力を持っていないなんて、おかしい。

鏡文字:木で足を直すのは、私はおもしろかったです。絵的にもいいな、と。ただ、ほかのロボットの部品を使えないのかな、とちょっと思いました。

しじみ71個分:ロボットが動物の言葉を理解するまでは設定として認め得るとしても、動物同士は異なる言語を話すはずなので、意思疎通できないはずじゃないかと思うのですが、その辺はさらりと流してある感じがします。

カピバラ:楽しい動物物語として読めばいいんじゃないかな。

イバラ:それだったら、なにもロボットにする必要はないと思うんだけど。

しじみ71個分:そうなんです。まさに思ったところはそれで、タフな血のつながらないお母さんの話でもまったくよくて、あえてロボットである必要性がなくなっていると思うんです。ロボットでなければならない必然性が物語にない。なので、ロボットがただ素材にしかなってないように感じられました。

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エーデルワイス(メール参加):同じ作者なので、絵と文がよく合っていた。主人公のロボットは、ジブリ映画「天空のラピュタ」に出てくる巨人ロボットのイメージかなと思いました。ばりばりのAIの話かと思って読み始めたら、ばりばりの生身の物語でした。自然素材の足をつけるなんて、ね。

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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2019年10月 テーマ:小学生はつらくて楽しいよ

 

日付 2019年10月16日
参加者 すあま、ハリネズミ、アンヌ、西山、彬夜、マリンゴ、まめじか、(オオバコ、エーデルワイス、さららん、ルパン)
テーマ 小学生はつらくて楽しいよ

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村中李衣『あららのはたけ』

あららのはたけ

アンヌ:手紙形式の物語というのが、懐かしい感じがしました。のどかな田舎生活の話があって、そこに謎のけんちゃんが姿を現わしてくる。その一種緊張する展開があって、そこはとてもうまいと思うのですが、いじめと引きこもりの話だと分かってからは、加害者のカズキにも寄り添う感じになっていくのが釈然としませんでした。最後もはっきり解決するわけはないままで置いておかれた気がします。挿絵は独特の味があって、最近毛虫にやられた家族がいるので、p28の絵などはむずむずするほどリアリティがあって楽しい絵でした。

すあま:手紙の形式で書かれていて、話が進んでいくのはおもしろかったです。でも、けんちゃんについての話が隠れていて、想像しながら読み進めなければならないので、本を読みなれている子じゃないと難しいのではないかと思いました。今の話と回想で過去の話がまざっているのも難しいかも。ラストは、解決に向かう明るい感じかもしれないけど、これで終わり?という感じでした。どうしてもけんちゃんのことが気になって、楽しく読めなかったところがあります。

彬夜:私はこの終わり方は良いと思いました。物語全体に流れるゆったり感が魅力でした。ただ、ある種の約束されたいいお話に誘導されているような思えて、そういうところは読んでいてちょっとつらかったです。畑ものというと最上一平さんの『七海と大地のちいさなはたけ』シリーズ(ポプラ社)が浮かびます。細部は忘れましたが、あちらは都市の市民農園での畑作りで、土とのふれあいが丁寧に描かれていたような記憶があります。この作品は、手紙形式で書かれているせいか、薄い紙を1枚挟んだ状態で見せられているような感なきにしもあらずで、感覚的な思いが今一つストレートに伝わらなかった気がします。知識としては、雑草のこととか台風のこととか、クモの巣のこととか、とてもおもしろいことがたくさん書いてあるのですが、何となく、教えてもらってるような感じというのか。それから、お母さんの描き方が少し気の毒で。ある種の敵役を担わされているような役割感を抱いてしまったのです。2人の少女のうち、エミの、あんた、という呼びかけがちょっと乱暴な気がしました。意図的に使っているのかもしれませんが、この子の物言いが、少し偉そうというのか、えりに対しても、プールでのトラブル(p37)とか、大風で泣き出したこととか(p83)、あまりいい思い出とは思えないことをなぜ語るかなあ、と。まあ、2人の信頼関係の上でのことといえばそれまでですが。エミとけんちゃんのシーンはおもしろかったし、けんちゃんが少しずつ変化していくのもよかったです。まるもさんは、いいキャラだなと思いました。

まめじか:植物は、手をかければうまく育つかというと、そうじゃない。やってみると、自分の力ではどうしようもないことがあるのがわかってくる。だから、若いときに何かを育てる体験をするのって、大切なんじゃないかな。そんなことを思いながら読みました。石川さんの絵がいいですねぇ。のびやかで、あたたかみがあって、出てくるとほっとする。

西山:おもしろく読みました。植物や小動物がいろいろ教えてくれるというのは、ともすれば教訓的な、べたっとした話になりかねないと思います。人間とは関係ない生きものたちの営みを人事のあれこれに引きつけて、生き方を学んでしまったり・・・・・・。でも、そっちに行かないように、ぱっと相対化したり、別のエピソードを出してきたりして、絶妙だと思いました。例えば、クモが風が強く吹きそうな日には大ざっぱな巣をはるという発見はそれ自体ものすごくおもしろくて、「なにがあっても、まじめにせっせせっせとはたらくんじゃないんだと思ったら、なんかホッとしちゃった」(p79)というえりの感想にも共感するのですが、次の手紙でエミが「クモは風のとおり道をつくったんじゃないか」と書いてよこす。絶妙な、それこそ風通しの良さだと感心します。えりがじいちゃんに「ザッソウダマシイっていうやつ。ふまれてもふまれてもたちあがるっていいたいんでしょ?」と言うと、じいちゃんは「もういっぺんふまれたら、しばらくはじいっと様子見をして、ここはどうもだめじゃと思うたら、それからじわあっとじわあっと根をのばして、別の場所に生えかわるんじゃ」という。こういう、ひっくり返し方が本当におもしろい。教訓話になりそうなところがひょいひょいとかわされていると思ったけれど、暑苦しく感じる人もいるいるということでしょうか? ところで、中身の問題ではありませんが、登場人物の名前が紛らわいのは、なんとかしてほしいと思いました。けんちゃんとカズキも、どっちもカ行だし。えりとエミだなんて・・・・・・。

彬夜:おもしろい情報を提供するのは、おじいちゃんとエミなんですよね。先ほど、お母さん像についてもふれましたが、そこはかとない序列を感じてしまいました。手紙形式なのでどうしても情報が限定的になります。この形式でなければ、もっと人物も多角的に語れるから、今のキャラでもそれなり腑に落ちるのかもしれません。むろん、こうした手法の物語があっていいとは思います。

マリンゴ:植物の蘊蓄をこんなに魅力的語る方法があったか、と、この物語を読んで感銘を受けました。さあ畑を作ります!という物語だと、読者を選ぶだろうけれど、手紙のやり取りの中に少しずつ出てくると、興味深く思えます。たとえば、p50に出てくる小松菜のエピソード。葉っぱの話を自分自身のことに、ナチュラルに結び付けているのが印象的でした。2年前のフキノトウみそを古くなったから捨ててしまったお母さんが怒られる、というエピソードがp108にありましたけど、私も捨ててしまいそう(笑)。親近感を覚えながらも、フキノトウみそをいつか作ってみたいかも、と思わせてくれる作品でした。自然を、今までより1歩近寄って見る、そのきっかけをくれる作品とも言えるかなと。あと、まるもさんの存在がいいですね。2人の少女は近いところでわかりあっているけれど、まるもさんというわかりあえないキャラクターが入ってきて、去っていく、そのバランスがいいなと思いました。

ハリネズミ:とても楽しく、おもしろく読みました。畑をめぐる生きものの生命力みたいなことを、言葉で出すのではなく、実際にものが育っていくとか、クモが巣をつくるとかいうようなことを出して来て語っているのが、説教臭くなくてすごくいいな、と思ったんです。いじめの問題ですが、けんちゃんの名前は早くから出て来ますが、どういう状態なのかはだんだんにわかってくる。そういう出し方もうまいと思いました。引きこもりで長いこと外に出ないという子は周りにもいましたが、けんちゃんは、カエルを介在にして外に出て来る。だから、大きな一歩をすでに踏み出しているんだと思います。まるもさんは、私もいいなと思ったのですが、けんちゃんとのバランスで出て来ているのかもしれないと思いました。空気を読んでしまうと苦しくなるけど、全然空気を読まないまるもさんみたいな有り様もいいんじゃないか、と。絵はとてもいいですね。p48のヒヨドリとかp68のカエルとか、すごくないですか? えりとエミは両方とも作者の分身かもしれませんね。だから似たような名前なのかも。今は子どもでもメールでやりとりすることが多いと思いますが、あえてタイムラグがある手紙でやりとりしているのも、いいな、と思いました。

マリンゴ:手紙を書く楽しさを、前面に押し出すのではなく、最後にふっと感じさせてくれますね。

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エーデルワイス(メール参加):畑のあれこれは、村中李衣さんの体験でしょうか? さりげなくリアリティが伝わってきます。文章と絵がとても合っていて、好感がもてました。p181~p182の「友だちって近くにいていっしょに遊ぶだけじゃないよ。いつまでも心の中にいてくれてだからひとりでもだいじょうぶなんだよ」というところに、作者の言いたいことがあるように思いました。私はふと数年前に亡くなった親友を思いました。

オオバコ(メール参加):とても好きな本でした。街と田舎で離れて暮らすことになった仲良しの手紙のやりとりで物語がつづられていきますが、自分の手で畑仕事をしながら発見していくえりと、本で学んでいくエミの違いもおもしろいし、イチゴや小松菜や毛虫の話をしながら、幼なじみのけんちゃんのことを語っていくところも自然で、本当によく書けていると思います。イラストや章扉(でいいの?)に入っている緑色のページもいい。植物を育てるのや虫が大好きだった小学生のころ読みたかったな。(あまりにも虫に夢中だったので、誕生日にクラスの友だちがマッチ箱にいれたオケラをくれました)

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

 

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蒔田浩平『チギータ!』

チギータ!

西山:まさかの小選挙区制と比例代表制をわかりやすく説いて、民主主義ってなに、多数決ってなに、という話でびっくりしました。おもしろかった。今回のテーマが何だったか案内を見直しもせず、子どものエンパワーメントが3冊の共通テーマかと思ったぐらいです。何かを実現していくための知恵をつけるというのは、とても良いと思います。ただ残念なのが、女の子と描き方。4章のタイトル「リーダーは女の子」になんだ?と思ったり、ホームルームでも、卓球の試合でも共に戦った同志のはずの松林に対して、美人かどうかとか顔立ちのことを言う(p158)のに、かなりがっかりしました。作者の那須正幹さんに対する思いには共感してあとがきを読みましたが、女の子の描き方は那須さんには学んでほしくないと切に思います。

まめじか:楽しく読みながら、民主主義のありかたや、いろんな意見を尊重することの意味を考えさせる物語です。男の子のせりふは生き生きしているのですが、女の子はアニメのキャラみたい。「あまいわ」(p68)、「勝負しなさいよ」(p124)「あなたが決めなさい」(p139)、「あら」(p157)など。こんなしゃべり方をする子に会ったことがないので。

彬夜:卓球ものというよりは、多数決の是非を問う物語として読みました。その問題意識はおもしろかったですが、いろいろひっかかる点もあったし、物語に奥行きを感じませんでした。別の本で、チキータという技は、小学生にはむずかしいというようなことを読んでいたので、まずそこから疑問だったし、卓球は、昔と違って日本はけっこう強く、けっして不人気な地味なスポーツという認識ではなくなっているのでは? 選択肢でも、ポートボールが人気、というのも今一つピンとこなかったというか。ポートボールは小学校の体育の授業だけといってもいいスポーツで、話題になることもあまりないし。それから、最初に登場する人気女子、四条と高沢の2人はいったい何だったんでしょうね。もっと話にからんでくるかと思ってました。他の人物たちも、何というのか、それぞれの役割を演じている感じで、物語としてはちょっと物足りなかったかな、という印象でした。たしかに、小さい声を届けることは大事で、そこが達成できたことはよかったですが、「ふみだすべき『前』という方向があっただけだったんだ」(p150)という寛仁の述懐も、今一つしっくりと落ちなかったです。

すあま:最初につまずいたのは、「上忍」と「下忍」が何かわからなかったこと。こういう言葉って、今の子たちにはわかるんだろうけど、時間がたつと古くさくなることもある。登場人物が、食べるのが好きな太めの子や気の強い女の子などステレオタイプで、主な3人以外の子たちや担任の先生に魅力がないと思いました。卓球は人気が出てきているから、子どもたちも興味を持って読めるはずなので、ちょっと中途半端で残念な感じがしました。

アンヌ:私は松林さんの描き方が大人っぽくて、母親的役割を求める感じがしてしまいました。松林さんが算数を応用していくところは、なかなかおもしろいぞと読んで行ったのですが、そこ以外での描き方は疑問です。卓球の作戦も冷静で強引ですし、最後の方の場面で、水商売の年上の女性の言葉にこんなふうに返すことが小学生にできるでしょうか? 同じマンションの男の子を訪ねていく場面にはとてもリアリティを感じたので、作者の女の子への視点に、疑問を持ちました。

ハリネズミ:一気にさらっと読めましたが、まず主人公がさえない男の子、友だちが太った男の子、もう一人はできる女の子というのが、ステレオタイプだなあと思いました。民主主義という考え方もできると思いますが、声の大きい「上忍」の男子たちに対して、千木田たちは「小さい声」に正義ありとして少数派をまとめていくのですが、裏で多数派工作をしている点では同じだと思えて、私はあまり好感が持てませんでした。タイガが秘密にしているらしい家庭の事情を、原口があっさり千木田に話してしまうところは、嘘っぽいように思いました。マッスーのキャラ造形はこれでいいのでしょうか? デブがバカにされているように思ってしまいました。

マリンゴ:小学校のクラスの物語に「小選挙区制の弊害」の話が出てくるのがとても興味深いと思いました。多数決は絶対正義だという考え方に疑問を呈して、子どもたちの視野が広がる物語なのではないでしょうか。ただ、ラストの卓球の試合は、盛り上げようとする意図はわかるのですが、後味が悪いですよね。0-8までわざと技を封印するということは、相手を舐めている、という意味になりますから、最後に惜しくも負けても「自業自得」という感じになってしまいます。それでも、デビュー作で、選挙の多数決について取り上げる、というユニークさがとてもおもしろかったです。著者の次作が気になります。

彬夜:実体験も含まれているようなので、作者の学校ではそうだったのかもしれないですが、私は、小学校の体育は男女一緒でした。それでちょっとネットで調べてみたところ、小学校では一緒、というところが多いみたいです。

西山:名前が古くないですか? 虎一って・・・・・・。

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エーデルワイス(メール参加):とにかく自分たちで考え、決めて実行するところが素晴らしい。スポーツ根性ものとは違うところがいいですね。「少数の意見を小さな声をつぶすのはやめてください」という言葉が何度も出てくるので、ここが作者の大切に思うところでしょうか。爽やかなラストで嬉しかった。

オオバコ(メール参加):スポーツものと思ったけれど、実は多数決について考えさせる、おもしろいねらいの本でした。クラスの話になると、どんどん内向きになっていく息苦しい物語が多いような気がしますけれど、こういう外へ、外へと広がっていく、社会性をもった物語は、とてもいいと思います。ただ、作者が25年前の自分の記憶から綴った物語ということですが、今の小学生が読んだときに違和感はないのかな? 今の学校の様子を知らないので、わかりませんが・・・・・・。

さららん(メール参加):このタイトルが何を意味するのかわからず、それが知りたくてまず手に取りました。主人公の名前が千木田くんだったので、たぶんあだ名だろうと予想はしたのですが、それだけじゃあなかった。(個人的な話ですが、選挙で自分が投票した候補者が当選した試しがほとんどありません。1度だけ、参議院選で中山千夏に入れてしまい、彼女がほぼトップで当選したときには、失敗したと思ったぐらい)。選挙の意味と虚しさを同時に感じている身としては、1票の格差が違憲、と判決が出ても行政が変わらない世の中に歯ぎしりするばかり。少しでも公正で公平な選挙が実現してほしいと思うのです。というわけで、小学校の「レク」でのスポーツ人気投票を素材に、何が正義かという正面からの問いをぶつけ、「ぼくらの小さな声がみんなに届く」ようにがんばるぼく、マッスー、知的な松林さんの奮闘ぶりを、応援したくなりました! 「上忍」でスポーツ万能の榎元派が脅し(?)を使えば、無記名の投票で対抗する知恵合戦も工夫され、最後は卓球で真正面から勝負! キャラクターの立て方が類型的、漫画的かもしれませんが、「最初からあきらめないで。きみの手でクラスを、社会を、変えることができるかもしれない」そんな可能性を、具体的にリアリティをもって、しかも楽しく子どもたちに伝えていく作品として評価できると思います。

ルパン(メール参加):これは、私は正直あんまりおもしろくなかったです。まず「上忍」「下忍」で引っかかりました。言いたいことはわかるけど、知らないマンガだし。知っていたとしてもあまり好感はもてなかったと思います。p16の「ナンバーワンの火影」というのもマンガの登場人物でしょうか。こういう言葉を使わずに表現することはできないのかな、と最初に思ってしまいました。あと、ミヤコさんもねー・・・「50をかなりこえてる」ってあるけど、私と同世代か若いくらいでこれはあんまりだ、と思いました。80歳くらいなら許せるかもしれませんが。クラスのヒエラルキーとか「親友」という言葉に対する思いとかはよく書けているなと思いましたが、なにしろクラスのレクリエーション決めというストーリーが退屈で、この先どうなるんだろうというわくわく感やドキドキ感に欠け、電車の中で読もうとしたのですがすぐに眠くなってしまって、なかなか最後までたどりつけませんでした。

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

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エレン・クレイジス『その魔球に、まだ名はない』

その魔球に、まだ名はない

アンヌ:表紙が妙に女の子っぽくて奇妙な気がしました。少し全体的にいろいろな要素が見えるのに物足りない感じがしました。お母さんだけではなくお姉さんの物語があってもいいのに、とか。昔、女子野球があったことに気づいてからは、わくわくと楽しかったのですが、資料を送って来てくれた人との交流が少ない気もしました。後半は資料負けした気もします。

彬夜:まず気になったのは、タイトルです。どうしてこういうタイトルにしたのかが、よくわかりませんでした。5章の章タイトルと同じなんですね。物語の冒頭部分で、注意深く主語を書いてません。p15になって、「わたし」と出てきますが、こういうところ、原文はどうだったのかな、と思いました。女子が「女子らしくない」ことをやる物語は嫌いじゃないです。とはいえ、リトルリーグが女子に門戸が閉ざされているという認識を持ってないはずもなかろうと思うと、ちょっと設定が不自然だな、と。それを言ったら始まらないのですが。前半、物語に入りづらかったのは、2章の経緯説明がごちゃごちゃしていることも原因の一つかもしれません。p16~20にかけて時系列が入り組んでいて、時期をあらわす言葉がたくさん出てきます。「事の発端は去年の夏休み」「それから一週間」「野球といえば、七歳のときから」「去年の六月からは」「こうして去年の夏は」「九歳の誕生日の一ヵ月前」「四年生に進級するころには」「今年の夏休み」これが出てくる順。ほかにも引っかかった箇所がけっこうありました。p16の「ジュールズ本人は背が低くて、運動神経が鈍い。ピアノだけは例外で、ピアニストとしては優秀だが、スポーツは苦手だ」というのも不思議な文章。p17に「男子が空き地で野球をしていた」とあるのですが、これはピーウィー・イシカワ1人だったんでしょうか。p18の「良い意味で、バイキングに似ている」「髪も目も黒くて、見た目はコミックのキャラクターのようだ」というのもよくわからないです。p21に「ジュールズのママは専業主婦で、テレビに登場する母親のようにエプロンをして料理する」というのは、ふつうエプロンはしない、ということなのかな、と思ってちょっとおもしろかったです。p31「韓国で従軍したぼくのように兵役にもつけない」とあって、なぜ可能形なのかな、と。これは、従軍を肯定的に捉えてのことなのでしょうか。でも、このセリフで、ああ、ハーシュバーガー先生は朝鮮戦争に参加したのか、と思うと、ふいに物語が近づいてきたようで、ハッとなりました。と、前半は乗れなかったのですが、後半はおもしろかったです。こういう風に物語が展開するの? と。いい意味での裏切られ感がありました。p234の「そのときには、この手紙も、野球界の貴重な歴史の一ページとなる」というのがいいと思いました。お母さんはちょっとかっこよすぎるでしょうか。いやなやつも登場しますが、基本的には善意に支えられた作品ですね。物わかりのいい人とそうではない人ときっぱり別れすぎかなという気がしないでもなかったですが。

すあま:アメリカのメジャーリーグ、しかも時代が古いので、日本の今の子どもにはわからないのではないかと思います。これが日本の話だったら、王さんや 長嶋さんが出てくるような感じかな? 日本では当時のアメリカのことがわかるような大人じゃないと楽しめないかも。途中、主人公が元選手の人たちにインタビューして、いろんな人がいろんな立場で話をするところは、おもしろいけれども、物語全体の中ではちょっと長く感じて飽きてしまいそうになりました。主人公は女子でそのクラスメートは日系人、アフリカ系アメリカ人など、この時代のアメリカでは不自由な思いをしている人たちを代表しているところはよくできていると思いました。この本を薦めるとしたら、アメリカの野球が好きな子で中学生以上、そして本をよく読んでいる子。読み手を選ぶ本だと思いました。

まめじか:タイプライターやアンゼンハワー大統領の時代って、今の子は簡単にイメージできるのでしょうか。p67で、戦時中、爆弾の製造に関わったと母親が誇らしげに言うのが、アメリカの物語らしいですね。チップのお母さんの言葉づかいが、「わかるんだい」「聞かしとくれ」など、やけにぞんざいなのが気になりました。原文のスラングをそう訳したのかもしれませんが、わざわざこんな言い方をさせなくてもいいのでは。p224で、お父さんが「ご主人さまのご帰還だぞ!」と言うのもひっかかりました。いくら昔の話でも、読むのは現代の子どもだし。女の子が社会の不平等に直面する物語にも合わないですよね。

マリンゴ: 女子が野球を続けられない状況に陥って、闘ったり葛藤したりする物語なのだろうとは想像ついたけれど、その闘いの方向が意外でした。自分で調べてみる。過去の歴史をさかのぼってみる。その結果、アメリカのプロ野球界に女子選手がいたことなど、私自身知らなかった事実がいっぱい出てきました。調べる、学習する、知識を得るということが大きな武器になる過程が描かれいます。人はなぜ勉強するのか、という問いに対する、1つの答えが出ている作品なので、読む価値があると思います。以前読んだ『変化球男子』(M.G.ヘネシー作 杉田七重訳 鈴木出版)では、主人公がスーパーガールで、そのすごさに説得力が欠ける気がしたのですが、この本では、そのあたりもリアルに感じました。野球の物語というより、何かを学んでいく物語だとも思いました。

ハリネズミ:私も、女の子がただ男の子と張り合うというだけではなく、調べていくところがおもしろかった。ただ、いろいろな資料に当たって調べていくので、ある程度のスピードで読める子じゃないと、根気が続かないかもしれません。アメリカはいろいろな手を使ってジェンダーの問題を取り上げていますが、こういうふうに実証的に書いていく本もいろいろ出ていて、興味深いです。

西山:公民権運動の渦中にあった50年代末のアメリカの物語だとは、途中までわからなかったので、一瞬とまどいましたが、ものすごく興奮しながらの読書となりました。最初から時代背景を言わないほうが、いまの問題として感じられるからいいのかも、と思うに至っています。学生と読み合いたいと思います。#Me Too, #With You的今日性に血が騒ぐ1冊でした。

彬夜:野球の常識が日米では違いますよね。日本では、中学生以下は軟式が多いんじゃないかと思うので、ちょっと戸惑うかも。

すあま:著者紹介に、この物語の前日譚にあたる作品があると書いてあったので、読んでみたいと思いました。お母さんの話なのかも。

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エーデルワイス(メール参加):1957年のアメリカで、リトルリーグに女子を入れないのはおかしいと、断固として引き下がらないケイティ・ゴードンと、図書館で調べるところがいいですね。(「ニューヨーク公共図書館」が、やっと私の市でも上映され、見たばかりなので興奮中です)女子野球の存在を浮き彫りにしているが、内容が盛りだくさんでした。もうこれ以上の母親はいないと思うほどの素晴らしい母親は、挫折を味わいながらも自分の仕事に誇りを持っているキャリアウーマンで、夫と離婚しても子どものことでは連絡を取り合っています。ケイティの二人の姉のうち一人は養子だというのも素晴らしい。

オオバコ(メール参加):アメリカの女子野球には、150年もの歴史があるんですね! 主人公のケイティの物語かと思ったら、途中から女子野球の歴史の話のほうがメインになっていきますが、どっちにしても「男しかできなかったことを、初めてやった女の子の話」って、痛快で、おもしろい。『ライディング・フリーダム:嵐の中をかけぬけて』(パム・M・ライアン作 こだまともこ訳 ポプラ社)も、死ぬまで女だということを隠して幌馬車の御者をしていた人の実話でしたが、「初めてやった女の子の話」のシリーズがあったらおもしろいと思いました(もう、あるかもしれないけど)。

ルパン(メール参加):タイトルがとても魅力的でいいと思いました。でも、「魔球」と話のテーマがどう結びつくのか、とまどいました。「まだ名はない」というところが、「まだ女子は出ていない」という意味なのかな。子どもにわかるでしょうか。子どもにわかるかといえば、はじめ、いつの時代の話かわからず、それもとまどいました。私の認識だとp51に「1957年」という年号が出てくるまではっきりしないと思うのですが。アメリカの子なら野球チームの名前ですぐにわかるでしょうし、日本人でもおとななら黒人差別のところで「あれ?」と思うかもしれませんが、子どもは今の話だと思って読んでいて混乱するかも。はじめ『変化球男子』とかぶりましたが、知られざる女子メジャーリーガーの話でおもしろかったです。しかも、話の舞台は50年以上前ですが、今もまだ続いている問題で、あきらめない気持ちや今後の課題など、本から得るものがたくさんあると思いました。

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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2019年09月 テーマ:新たな仲間と

日付 2019年9月17日
参加者 アンヌ、鏡文字、サマー、しじみ71個分、田中、西山、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、まめじか、ルパン、(ネズミ)
テーマ 新たな仲間と

読んだ本:

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マカナルティ『天才ルーシーの計算ちがい』表紙

天才ルーシーの計算ちがい

アンヌ:この物語は大好きで、落ちこんだときに読むと元気になれる本です。このところ主人公が天才という本を何冊か読みましたが、たとえば『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳 小学館)に比べたら、数字で頭の中が混乱する描写等で、天才でもできないことがあるというイメージがわかりやすく書けています。3回も座りなおさないと座れないとか、除菌シートを手放せない等というのは、日本の小学生や中学生にもよくあるので、周囲が慣れてしまえば大丈夫だろうとあまり深刻にならずに読んでいけたし、いじめにあっても先生から理解されなくても、いっしょに教室を出てくれる仲間が2人もいれば怖くないなと思いました。苦手な犬に好かれたせいで世界がどんどん広がるというところは、私も身に覚えがあって、初めてなめられたり、犬の糞を拾ったりするときの気持ちとか、笑いながら楽しめました。いじめっ子のマディーが受けているストレスも書きこまれていて、ルーシーが気づくところまでいくのは見事でした。気になったのは、p54、p272で、パソコンのチャットにルーシーの気持ちが書きこまれているところ。チャットの書き間違いかと一瞬思いました。字体は変えてあるけれど、つまっていてわかりにくいです。欲をいえば、もう少し数学的な挿絵とか用語解説があればいいのにと思いました。

ハリネズミ:後天的なサヴァン症候群の子どもを主人公にして、リアルな描写でとても読ませる作品だと思いました。どの子も悪く書かないとか、助けてくれる大人も出て来るというところが王道の児童文学で、安心して読めますね。この子がわざとらしくない自然なきっかけで視野を広げていくのがいいですね。翻訳もとても軽快でどんどん読めました。

マリンゴ:数字が得意、という天才的主人公の物語はときどきありますが、天才ぶりについていけなかったり、数式の羅列が読みづらかったりするので、この本もそうかな、とちょっと警戒しました。でも、実際にはそうではなく引きこまれていきました。ルーシーの数学の活用法が非常に物語にうまくはまっていると思います。犬が引きとられるまでの日数の分析、数値化など、とてもわかりやすいし、親近感のわく数学ですよね。友情の輪が、わざとらしくなく、変に感動的ではなく、静かに温かく広がっていくのがいい感じで、読後感もとてもよかったです。気になるのは表紙のイラストですが、主人公の実年齢よりも幼い気がして、ギャップを感じました。あとは、助けてくれる先生のハンドルネームが「数学マスター」だったというところですが、たしかに数学マスターは出てきているんですけれど、印象が薄い登場だったので、「ああ、あの人か!」と手を打つ感じではなかったです。もちろん、わざとらしくならないよう、あえて著者がそうしたのだとは思いますが。

ハル:中学生くらいのときに、こんな本を読みたかったなぁと思いました。ルーシーは数学の天才だけれど、実生活に生かせるような数学的とらえ方を紹介してくれているので、当時の私が読んでいたら、数学の授業ももう少し頑張れたかもしれなかったです。ウェンディやリーヴァイも「いい子」ではなく、それぞれ何かしら癖があるところもリアルでいいですね。おもしろかったです。

西山:みなさんのお話を聞くまでページの多さは気にしていませんでした。意外と長かったんですね。今回の選書テーマが何だったのか、案内を見返しもせず、『たいせつな人へ』に続けてこれを読んで、「兵士」つながり?なんて思ってしまいました。アフガニスタンに2度も行っているポールおじさんの話にハッとして、ハロウィンでもルーシーがおじさんのお古の戦闘服(あ、いま、「せんとう」と打ったら、まず「銭湯」とでました!平和~(^_^))を着ますよね(p181)。「退役軍人の日の振り替え休日」(p237)とさらっと出てくるし、ものすごく異文化を感じました。日常の風景の中に「軍人」がいるんですね。もどかしかったのが、先生に事情を明かさないこと。ストウカー先生は話せば理解してくれるだろうことが、最初から結構はっきりしていますよね。おばあちゃんだって、うまい具合に伝えてくれてもよかったのに、おとなたちはもっと適切な連携やサポートができるはずなのにと、思いました。それによって全てが円満解決するはずもなく、しんどさは依然として残るでしょうし、新たな困難も生まれるかも知れません。それをドラマ化した方が読みたいと私は思います。対人関係ぬきにも、潔癖というのはルーシーの不自由さでもあって、でも、その点はパイがほどいていく。文学的ドラマが無くなるわけではないと思います。ルーシーがパイのうんちをひろったとき、おばあちゃんが感動するのはよくわかります。誕生日パーティーで友だちを招待してスイートルームにお泊まりなんて、これまた異文化体験でしたが、自分だけ簡易ベッドでそれだけでも十分惨めなのに、そこに悪口が聞こえてくるなんて、どんなにつらいか・・・・・・そういう感覚が素直に伝わってきました。スライダーも意外とおもしろかったりなど、ルーシーを設定優先でない、ひとりの女の子として伝えてくれる場面がたくさんあったと思います。全体に読みやすかったのだけれど、p268〜p269の仲直りのシーンはちょっとおいていかれた感じはしました。

まめじか:成長物語というだけでなく、子どもたちが自分たちにできることを考えて、社会をよい方向に変えていこうとする姿が描かれているのがいいですね。p201、クララがパイを里親に出せないと言いながら、「子どものころね、大人たちが『人生は公平じゃない』っていうのが大きらいだった」と語るのが、そうだよなぁと思いました。ウィンディはルーシーの秘密をついしゃべってしまいます。こういうのって、子どものころありましたよね。それで傷ついたり、傷つけたり。なにかひとつでもそういうことがあると、もうこの人は信じられないと、子どもは思ってしまいますが、けしてそうではなくて、許すことを学んで大人になっていくんですよね。

しじみ71個分:表紙の絵がポップだったので、割と小さい子向けの本なのかしらと思ったら、字が小さくてビッシリ書いてあったので、ギャップにびっくりしました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいのある子たちが天才的な能力や賢さを持っていて、周囲との軋轢を超えて、友だちや家族の中で成長していくというような物語は、『レイン 雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳、小峰書店)、『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳、小学館、2016)、『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント著、中井はるの訳、講談社)など、前例が多いので新鮮味はないなぁ、という感じはありました。ディレクシア、主人公と心を通わせる重要な存在としての「犬」も、既視感があったのは否めませんでした。でも、過去に読んだ作品より、主人公がポジティブで力強いところは新鮮味がありました。ウィンディが誕生日パーティで、ルーシーは天才なのだと周囲にバラしてしまったときにも、怒りを表して立ち向かっていくし、自分は天才だから、と自認もしています。最後のパイとのお別れの場面で糞を拾わざるを得なくなって、「わたしの犬じゃないし!」と正直に言ってしまうところなどとてもユニークでユーモラスでした。ただ、こういう作品によくある、障がいのせいで周囲となじめない、理解されない場面は読むと切なくなってしまって、理解ある先生なんだから正直に事情を話せばすむのに、とはいつも思ってしまいます。言わないことでドラマを作るのが英米文学なのかな。でも、この作品はそういった点も含めて明るく読めました。それから、友だちのリーヴァイの人物像は非常に好ましかったです。

鏡文字:おもしろく読みました。物語の方向が予想を裏切るものではなく、ある意味、安心して読み進めることができました。動物が苦手な私としては、また犬か、というか、犬のエピソードに長くひっぱられた感はあったものの、全体的に一つ一つのエピソードがうまくかみ合っていたと思います。人物像という点では、中学生としては、全般的に幼いな、という印象を持ちました。カバーイラストのイメージで、小学校中~高学年向けかと思ったのですが、中学生の物語で文字量も多く、なんと1ページ17行。きつきつ感が否めず、かなり無理して詰め込んでいますが、たとえページ数が増えたとしても、ゆったり作ってほしかった気がします。翻訳物にはたいてい添えられている、訳者のあとがきも読みたかったです。

ルパン:一気読みでした。とてもおもしろかったです。読み終わってから、サヴァン症候群について調べてみたりもしました。習ったことも聞いたこともないことがわかったりするって、とても不思議なことですが、実際に存在するんですね。

田中:この本の訳者として裏を明かすと、原書はかなりのボリュームがありますが、仕上がりのページ数を減らすために、編集部からの注文で原作を削ったところがだいぶあります。字が小さいのも、行間を取ったほうがいいところで取ってないのも、ページ数を減らすためです。一部分を削ると前後のつながりがおかしくなるところが出てくるので、そこは流れがつながるように文章を工夫しました。それと、p275の数学マスターの顔文字「T_T」ですが、原書では「:(」となっています。悲しいという意味だそうで、日本式に涙の顔文字になりました。

ハリネズミ:教育現場の人たちが読むと、障碍があることを言えばいいのに、と思われると思いますが、そうすると「障碍があるから助けなくては」という認識になります。ところが、この本の中ではサヴァン症候群と言わなくても、ウィンディやリーヴァイは、折に触れて助けようとしたり、思いやったりしていますね。そこがすばらしいと思いました。今、日本の学校では、この子はこういう問題をもってる、あの子はこういう障碍をもってるという腑分けが進んでいて、先生たちもそれを知って配慮していく。それが悪いとは言えないですが、その子の前面に問題や障碍が出てしまうような気もします。文学作品ではあえてそれを取っ払って人間を描くというのもありだと思います。それから、リーヴァイにはお母さんが二人いる家庭だというのがさりげなく出てくるのが、いいなあと思いました。

西山:べつに、全員にカミングアウトしろということではないんです。この作品では、先生も感づいているので、もっと助けを求めてもいいし、理解者のサポートがあってしかるべきだろうと思いました。『きみの存在を意識する』(梨屋アリエ作 ポプラ社)を読んだばかりなので、なおのことそういう風に考えたのだと思います。理解し、適切な支援ができる教師がいても、それでも困難は残るし、生徒同士の関係は複雑なまま残るでしょうから、ドラマはそこから始まってもいいのではないかと思います。これは、様々な作品に対して常々思うことです。現実とリンクする困難を描くときには、それに対する現実の制度やなんとかしようとしている存在も描いてほしい。学童の運営に苦労していたとき、学童などなきがごとき作品にがっかりした体験を思いだして、そんなことを考えます。

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ネズミ(メール参加):特殊な状況にある子どもを主人公にした作品って、近年英米ではよく書かれるのでしょうか。おもしろく読みましたが、こういうテイストのものに、やや食傷ぎみです・・・・・・。4年間も人と交わらずに過ごしていたなら、適応にもっと苦労しそうなものだけれど、そこはエンタメだから、おもしろおかしいところだけとってきているのかな。アメリカの文化を知らないとわかりにくいなと思うところや、文章としてひっかかるところがちらちらとありました。読書量の多い子どもには勧めてもいいけれど、年間に何冊かしか読まないような子どもには、勧めようと思わないかなと思いました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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佐藤まどか『つくられた心』表紙

つくられた心

マリンゴ:装丁が非常に魅力的で、目を引きます。導入部で一気に引きこまれますし、AIという、児童書として比較的新しい材料を料理しているそのアイデア力は素晴らしいなと思います。ただ、全体的に描写が少なくて、どういう世界なのかわかりづらい部分がありました。サイエンスフィクションは、ディテールが緻密で、目に浮かぶように描かれないと、プロットっぽい感じになってしまうのかもしれません。もっとも、物語の分量的にはちょうど子どもが読みやすいボリュームだとは思います。あと、誰がアンドロイドなのかという謎で引っ張ると、読者はミステリーとして読むと思うので、はっきりとした結論がある、もしくは結論のない理由が明確であるほうが、ミステリーのルールにはかなっている気がしました。ちなみに、わたしはミカかなと思って読んでいました。

西山:おもしろく読みました。最初に座席表を見て、日本以外のルーツと分かる名前が16人中3人もいて、まずおもしろそうだと思って、期待とともに読み始めました。出だしの会議の様子は、なかなか現代社会に対して批判的で小気味よさを感じました。ITがらみの未来小説として『キズナキス』(梨屋アリエ著 静山社)を思いだして、『キズナキス』のいろんなことをぶちこんだ重層的なボリュームと比べて、一つのテーマだけでドラマを引っ張っていることから、薄い印象を持ってしまいました。p154「冷酷な人と慈悲深いアンドロイドなら、どっちを信用する?」というところを子どもにも考えさせることになるでしょうか。私は、p150の最後の行のミカが「いいにおいのするあたたかい母の胸」に顔を埋めて泣き止む場面で、瞬間的にアンドロイドはミカだと思ったのですが、中学生の読書会で使うと、誰がアンドロイドだろうと盛り上がるだろうと思います。

まめじか:AIと人間はどこが違うかという議論は、バーナード・ベケットの『創世の島』(小野田和子訳 早川書房)にも出てきますね。『創世の島』では、人類はすでに滅びていて、人間の記憶を移されたAIだけがいる世界だと、最後にわかります。

しじみ71個分:子どもたちが学校にいる監視用アンドロイド探しをする中で、友だちとは何かとか、心とは何かなどいろいろ考えるストーリーが、冒頭と末尾にある、大人の会議描写に挟まれる形になっていて、種明かしをすれば大人の思惑どおりになりました、という物語になっていて、正直、読後感はあまりよくなかったです。伝えたいのが、監視社会の恐怖や不安なのか、それを乗り越える力なのか友情なのか、子どもに何を伝えたいのか、今ひとつ重点の置きどころがはっきりしなかったような印象です。表現は、抽象性が高くて、『泥』(ルイス・サッカー作 千葉茂樹訳 小学館)を思い出しましたが、欧米のフィクションっぽいという印象を受けました。人物の背景等を書きこみ、心情を描写して人物像や関係性を描くいう手法をとらず、ほぼ子どもたちの背景を語らないまま、会話だけでアンドロイド探しの話を読ませていくという表現は新鮮でした。抽象性が高いので舞台劇にしたらおもしろいんじゃないかとも思いました。大人との対話があるのは、物語終わりかけのお母さんとミカとの会話の場面だけですが、その中で人の心とはとか、友情とはとかについて話すのですが、あまり深く掘り下げないまま薄い感じで終わらせ、かつ大人の会議の場面が最後に結末として呈されて、友情やら心やらの問題が重要だったのではなかったんだと、もやもや感を残したまま終わるようになっています。テーマの重要性はよく分かるのですが、最終的に子どもたちがそれをつかめるかなぁ、という疑問は残りました。

鏡文字:再読する時間がなく、細部は忘れてますが、全体の印象は残っています。座席表というと、『なりたて中学生』(ひこ・田中著 講談社)を連想させますが、名前に外国ルーツの人が何人も入っているところなど、イタリア在住の作者ならでは、と思いました。はっと目につく表紙で、中表紙もきれいですね。現代の監視社会への問題意識に共感します。冒頭とラストの会議の場面がいかにも嘘くさくてリアリティを感じなかったのですが、でも、現実はもっと嘘くさいことがまかり通っているという気もします。監視社会といっても、きれいな監視社会・・・・・・エネルギーは太陽光だったりと、今風な部分もありますが、会議のいかにも昭和なイメージ(ザ男社会!)は、敢えてのことだったのでしょうか。冒頭とラストが、真ん中に挟まれた子どもたちの物語とは、必ずしもうまくリンクしていないような印象でした。どんな物語が始まるのかな、と期待しながら読んだけれど、やや肩すかしをくらってしまったという感じでしょうか。子どもたちがある意味、無邪気なんですよね。その分、人物造型が薄く物足りない気がしました。こういう社会の下で、それなりに友情が育まれるけれど、それを希望と呼べるのかどうか、作者の意図はどうだったのでしょうか。アンドロイドが誰かということが話題に上りました。読み手としては知りたいところかもしれませんが、私は、それはどうでもいいような気がしました。人間そっくりのアンドロイドなんて、これまでいくらでもフィクションに登場しているし、恋愛の対象にさえなり得るもので、それを否定できるものでもありません。現実には、監視社会がアンドロイドという形を要求しているわけではなく、監視や管理はもっと違う方法で進行していると認識しています。物語に会議が入る構成に『泥』を思い出しました。あれは怖かったけれど、この物語からは、あまり恐怖は感じませんでした。

サマー:おもしろく読みました。監視社会や管理社会ということで思い出したのは『ギヴァー:記憶を注ぐ者』(ロイス・ローリー著 島津やよい訳 新評論)でした。『ギヴァー』は色のない世界で、いらなくなった人間はリリースされるという恐ろしい未来社会でした。『つくられた心』はそこまで恐ろしくはないけれど、子どもたちが疑心暗鬼になってアンドロイドを探す構造になっています。推理、なぞ解きを楽しむ要素があるので、教室で読書会をするといろんな意見が出ておもしろいのかなと思います。登場人物が大勢出てきますが、作者は工夫してそれぞれ口調を変えたりして、人物がキャラ立ちしていると思います。ただ、この物語は何年先の設定にしているのか。50~60年先のことだとしたら、主役に近い仁の口調が今どきすぎないでしょうか? はたして数十年後に今の子どもたちが使っているような口調がそのまま残っているのかな? と疑問を感じました。

ルパン:タイトルにすごく惹かれたんですけど・・・・・・私はこれは失敗作かと思ってしまいました。テーマは何なのか・・・・・・。読み始めてすぐにミカがアンドロイドなんだな、と思ってしまったので、ガードロイド探しの部分も楽しめなかったし。時代設定のちぐはぐ感もあります。スマホを「おばあちゃんがもってる長方形のもの」といったり、レストランや介護の従業員がみなアンドロイド、など、未来社会を思わせる設定で入ったわりには、家が飴屋とか、昭和感があったり、生活ぶりが今と変わらなかったり。物語の世界に入り込めませんでした。最後の会議のところも今ひとつピンときませんでした。ガードロイドがいなくても、子どもたちはこうなるのでは? 信じられないような理想教育クラスというほどでもないので中途半端に終わった感じです。物語世界のイメージがわいてこなかったんです。

アンヌ:わたしは、アンドロイドは鈴奈だと思いました。読者もいっしょにアンドロイドを探す推理小説仕立ての作品だと思い、それならば作者が出したヒントを使おうと考えて、親が役者、でも現実には姿を現わさない、そして実生活が話すことと違うという点がアンドロイドっぽいかなと推理しました。でも答えはないし、大人の会議場面は妙に薄っぺらくて管理社会の恐さがそれほど見えてこないし、どこに向かっているのかわからない奇妙な物語だと感じました。

ハリネズミ:今私たちが気づいていないけれど、確実に存在するAI社会の危険性を提示してくれているという意味で、とてもおもしろかったです。日本にいると自分がいる場がすごい管理社会だということは見えにくいですが、イタリアにいる著者だからこそ見えるのかもしれません。この作品で象徴的に描かれているのと同じようなことはすでに起こっている、あるいはもうすぐ起ころうとしているのではないでしょうか? 一時AIが人間を超える時代は来るのかということが問題になりましたが、今見ていると人間のほうがどんどん劣化して、感覚も麻痺してきて、自分の頭で考えることをやめて、管理社会に対しても疑問を持たなくなっている。人間にはAIにはできない複雑なことができるはずなのに、考えるのは面倒臭いと思って「まあいいか」と思ってしまうと、AIにのっとられる。あるいはAIを使って権力を握ろうとする人の思うままになってしまう。たとえば見守りロボットは、いじめを防止するという目的で導入されますが、盗聴や監視を行うスパイで、それを管理する権力者は、いくらでも都合のよいようにまわりの人間を操作していくことができるわけです。無邪気にアンドロイド探しをする4人の子どもたちは、結局友だちは信頼するしかないという結論に達します。でも、怖いのはその後で、p172では、人間と見分けがつかないようなアンドロイドをつくって、その心もリモコンで操作し、しかもそのアンドロイドには自分は人間だと思い込ませるという仕掛けまでしていたことが明かされます。このシステムは、「友だちを信頼しよう」と思っている子どもたちをあざ笑っている。ガードロイドの正体はわからないままですが、作者はあえてそうしているのでしょう。だからこそよけいに管理社会が子どもを裏切っていく様子が浮かびあがってきて、読んでいてゾッとしました。『ギヴァー』とは時代もつくりも違ってきて、スマート管理が進んでいる社会の恐ろしさ。深読みかもしれませんが、子どものうちから思想を管理しようとする権力者のありようを、鋭く描いているように思いました。日本もこのままいくと、ちょっと先にこれが立ち現れるような気がします。

西山:「深読み」かも知れないとおっしゃっていたけれど、ものすごく「深い読み」だと刺激されました。ベンサムの円形監獄の世界なのですね。監視塔を中心にぐるりに作られた監房。囚人からは看守の姿は見えないので、たとえ監視塔の中に看守がいなくても、囚人は監視されていると考える。これ、「パノプティコン(全展望監視システム)」という言葉があるようです。監視されていると思わせるだけで行動を自粛させ管理下に置ける――本当に怖い現代批評になっていると思います。ただ、エピローグ的最終章の「理想教育委員会」の会議内容が、ガードロイドを紛れ込ませなくても生徒の管理はできるという成果を語るのではなく、最新型アンドロイドの存在の拡大を不穏な未来像として示して終わるので、監視社会の気持ち悪さより、AIの進化の方に目が向くように思います。学生の読書会テキストにしたとしても、私のようにアンドロイドは誰?みたいな興味に議論が集中してしまう気がします。

しじみ71個分:誰がアンドロイドなのかはどうでもいいという描き方ですよね。アンドロイドが紛れているという情報の効果はすごく出ていて、大人の掌の上で子どもの心を弄んでいる感じですよね。最後のところでも親が言いくるめて終わっていて、子どもたちは完全に大人たちにやられちゃってますよね。事実としてアンドロイドがいてもいなくても、相互に監視し合って、それを納得させられてしまって、完全に管理されてしまっていますよね。そこが何とも気持ち悪いですよねぇ。

サマー:子どもの本は、もっと後味がいいものだと思っていたのですが。

ハリネズミ:起承転結がはっきりしてハッピーエンドの物語も必要ですが、考える種をまいているようなこんな作品があってもいいと思うのですが。

しじみ71個分:この作品の気持ち悪さは、子どもたちの力で問題を乗り越えるとか、何か問題を解決できたり、超越できたりという希望がないところなのかなぁ。『泥』は、まだ、友だちを助け出せたというところにカタルシスがあったような気がするのですが・・・・・・。

西山:ものすごく未来の設定のはずなのに、会議の「昭和感」がすごい。それこそブラックですよね。

ハル:これはまた、いかにも課題図書的なタイトルだなぁと警戒しながら読んだのですが、おもしろかったです。このままAIが進化していったら、未来の世界はこうなっているのかな? と考えさせられるところもありますし、このごろなんでも「厳罰化」そして「監視強化」に世論が向かっているようで、それも怖いなと思っていたところでしたので、とてもタイムリーな感じもしました。いじめにしても、監視カメラや会話の録音で管理すれば、子供たちが守られる面も当然あるでしょうし、反面、表面的に抑圧されるだけなのかもしれません。実際にいま現在、いじめや暴力に苦しんでいる人の前ではきれいごとかもしれませんが、そうやって管理されることによって育まれていく心は、アンドロイドとどう違うのか。タイトルの『つくられた心』も、アンドロイドは誰か? ではなく、私の心はつくりものではないと、本当に言えますか? という問いかけなんだと思います。

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ネズミ(メール参加):管理された社会のおそろしさ、薄気味悪さを感じながら、ぐいぐいとひきこまれて一気に読みました。後味が非常に悪かったのは作者の意図したことでしょうから、それだけ作者の力量があるということか。あとで振り返ると、登場人物たちはみな立場と状況だけしか与えられていなくて、中学生の頃のぐちゃぐちゃした感情は描かれていません。観念的に書かれた作品という感じがしました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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マイケル・モーパーゴ『たいせつな人へ』表紙

たいせつな人へ

ルパン:これはノンフィクションなので、事実の迫力はやはりすごいな、と思いました。一番食いついて読んだのは登場人物のプロフィールです。

アンヌ:モーパーゴは私の苦手な作家で、いつも感動の波にうまく乗れません。今回は主人公が平和主義者で徴兵拒否者として農場にいられたのに、なぜ戦争に行ったのか、ということばかり考えてしまいました。戦中の日本では考えられない権利ですよね。それなのに、戦死した弟の復讐ではないにしろ、遺志をついで戦争に行き、人を殺したくないと言いながらも対独協力者のフランスの民兵は殺してしまう。老後は英雄としてフランスの村に迎えられているけれど、主人公のプロフィールを読むと、実人生では戦争に行ったことを悔やんでいたのではないかとも思えます。そこが書かれていないようで、何か物足りない感じがしました。

マリンゴ:モーパーゴの本の多くは、語り手と著者が近くて本人の体験が投影されている印象を受けます。実際は違うんですけれど。でも、今回は本当に自分の親族の話なんですね。いつもよりさらに、リアリティを感じました。登場人物のプロフィールが巻末にありますし。ただ、実際の話だからこそ、普段より登場人物が多いし、実在の人物だからキャラ立てがしづらいせいか、人物像が立ち上がってこない人が何人かいたように思います。ところで、レジスタンス、スパイ活動をやった人は、何かの戦いで華々しく活躍した人と違って、戦後に報われないのだなぁ、と感じました。デンマークの少年たちのレジスタンスを描いた『ナチスに挑戦した少年たち』(フィリップ・フーズ著 金原瑞人訳 小学館)のことを思い出しました。なお、1つ誤植と思われる個所を見つけました。p104の6行目「合った」は、正しくは「会った」ではないかと。

西山:表紙のこれ、オオカミの顔なんですね。子ども時代の父親と弟のピーターと3人で森をハイキングしたときのエピソードから来ていますよね。オオカミが来たら戦って追い払うのだといつも棒を持っていたというピーター。「ぼく」は「戦う必要なんてない、ふりかえって正面から堂々とむきあい、手をパンパンと打ち鳴らしてやれば、逃げていく」(p17)と。この2つの考え方が、その後ファシズムとの戦いに自ら飛び込んでいったピーターと、兵役免除審査局へ行って平和主義を貫こうとした「ぼく」という対照的な行動につながるわけですが、結局、「ぼく」は非戦を貫けなかったわけです、叔父が背負ったその生き方をモーパーゴも背負って、それが作品に通底しているのかなと思いました。今までの作品をふりかえらせるような作品だと思います。兵役拒否という制度の存在を子どもに知らせるのも意味がある作品だと思います。レジスタンスの過酷さを読むに付け、抵抗の闘争が冒険の延長のようだった『ナチスに挑戦した少年たち』はのんきだったなあと改めて思い返しました。それと、ヨーロッパでのナチスへの市民の抵抗の規模を垣間見て、作品からは離れるのですが、オリンピック会場で旭日旗なんてひらめかせたら、ヨーロッパの人々に「ナチスと組んでいたファシズム国家日本」という記憶を呼び覚まさずにはおかないだろうと思いました。あと、クリスティーンの最期が悲しすぎる・・・・・・。p96でレジスタンスにおける女性たちが「無名の勇者」で「こういった女性たちを讃える勲章はない」と書いていることとで、モーパーゴがクリスティーンに深く心を寄せ、苦い記憶として継承しているのだと思いました。

ルパン:クリスティーンの最期は本当に切ないですよね。そこがノンフィクションのつらいところ、重いところ、ということでしょうか。

まめじか:まず、いいなと思ったのは、インドから来た移民の女の子が出てくるなど、時代とともに変わっていく村の様子が描かれていることです。モーパーゴは細部にまで心を配る作家ですね。女性に光を当てているのはいいのですが、その人たちも戦っていたわけで、それを考えると複雑な気持ちになりました。読者がいろいろ感じて、考えればいいのでしょうけど。

アンヌ:ドイツでも反ナチスの本は多く翻訳されていますか?

まめじか:はい、英米文学児童文学にはホロコーストものが多いし、英語からの翻訳はドイツではメジャーなのでドイツ児童文学賞の青少年審査員賞にもよくノミネートされていますよ。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)とか『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝訳 あすなろ書房)とか。マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳 早川書房)は同賞をとっていますし。

しじみ71個分:モーパーゴの物語はいつも比較的短いですが、この作品も短い物語の中で、90歳のおじいさんが自分の人生を振りかえるという形式になっていて、語られる内容は大変に壮絶なので驚きました。おじいさんが寝床でしゃべる話を孫が聞くような淡々とした語り口ですが、平和主義の人が教練を受け、命をかけて軍事スパイになるという、とてもハードな内容ですね。でも、オブラートがかかっているように、読み終えた後の印象が割とソフトです。一人の男の一人称語りで、戦時中に関わった様々な人々の人生を描きつつ、それを通じて戦争の時代を描いていて、うまいなぁ、手慣れているなぁ、と感じます。まさに老練という感じですが、読んでいて、物語の中身よりもその印象が先に立ってしまうなとは思いました。それから、私は、大変にお恥ずかしいことに、原題まで考えが及ばなかったので、表紙の白い顔をキツネだと思ってしまって、なんでキツネの顔が表紙に描いてあるんだろうと思っていました・・・・・・。オオカミなんですよね。

ルパン:原題のほうが、手に取りたくなりますよね。

鏡文字:150ページ程度と短めで挿絵もとても多いけれど、内容はYAといってもいいような作品です。読書対象をどのあたりに設定しているのかが、本の作りから少しわかりづらい気がしました。ノンフィクションなので、正直なところ、内容についてあれこれ言ってもしかたがないかなと思う一方、もしも、児童書としてでなく、一般向けのものとして書かれたらどうだったのだろうか、そのほうが読み応えがあるものになったのでは、という思いがぬぐえませんでした。クリスティーンとの関係など、人間ドラマや心のひだのようなものをもっと知りたかったです。回想形式なので淡々としていますが、さすがに手練れというか構成などはよくできている、とは思いました。スパイというものをどう捉えるか、レジスタンスとしての暴力をどう考えるか、悩ましい問題で、『ナチスに挑戦した少年たち』のときも思いましたが、自分の中でも明確な答えが出せていません。結局暴力なのか、という割り切れなさがどうしても残ってしまいます。ただ、『ナチスに挑戦した少年たち』は、当事者が子どもでしたが、こちらは大人の行動なので、より緊迫感や切実さがありました。とはいえ、また反ナチスか、という思いもあって、欧州は、多かれ少なかれ、ナチスを台頭させたことへの後ろめたさがある分、「絶対悪」ナチスに対置する物語(創作という意味でなく)は作りやすいのではないかと思ってしまい、いつももやっとします。

しじみ71個分:軍事スパイとして殺し、殺されという凄惨な経験をした人が、終戦後には学校の先生になるわけですよね。自分のおじいさんという、とても身近な存在の人が、戦争中の暴力に加担していたのを知るのは、考えると非常に重くて深いことなので、そういう意味で、自分たちの身に置きかえて考えてみるきっかけとして読むのはおもしろいとは思います。

ルパン:そのわりには葛藤の部分が描かれてないような。

サマー:表紙の絵が動物の怖そうな顔なのに、タイトルがふわっとしていてマッチしていないような気がします。内容としては、言葉としてしか知らなかった「レジスタンス」がどういう活動をしていたのか、武器や食料などの荷物をどんなふうに投下していたのかがわかって、大人としては興味深かったです。ただ、これを日本の子どもたちが読んで、背景が理解できるのか疑問です。日本の子どもたちのどの年代に向けているのか? ヨーロッパの子どもたちなら、歴史教育で勉強しているでしょうから、背景がわかるのでしょうけど。

ルパン:子どものころドーデの『最後の授業』を読んだのですが、時代背景などまったくわからないなりに、強い印象を受けました。後年、世界史やほかの小説などで「アルザス・ロレーヌ」という言葉を聞いたときに、小説のイメージがまざまざと浮かび、歴史も物語もリアルに迫ってきました。歴史を知らなくても物語の持つ力が強ければちゃんと心に残るのだと思います。それにしても、今90代の、戦争の生き証人がひとりもいなくなる時代がすぐそこに迫っていますよね。10年後、20年後、世界大戦を知っている人間がひとりもいなくなったときが怖いです。その時代に向けてこういうものはできるだけ残していかなければ、と思います。

ハリネズミ:それぞれの章がべつの人に向けて書かれていますね。最初の「フランシス」は自分の紹介ですが、「子ども時代のイギリス」はお父さんに宛てたメッセージ、「スター街道まっしぐら」はピーターに宛てたメッセージ、それ以降も妻のナン、ハリー、オーギュスト、クリスティーン、ポールと、それぞれフランシスが深くかかわった人を思い出してその人に対して何か言うという形を取りつつ、そのなかで彼がやってきたことや彼が考えていたことを浮かびあがらせる。それがまずうまいなと思いました。それに、ただ出来事を紹介するのではなく、p44やp71など想いをところどころにはさんで物語に深みを持たせています。この作品にどの程度フィクションが含まれているのかはわからないのですが、この本にも戦争に反対するというモーパーゴのポリシーが通奏低音のように流れていると思います。「心を凍らせないと戦場には出ていけない」という言葉があったと思いますが、フランシスは軍事スパイとして戦場に出て行く。そして戦争が終わったとき、日常生活に戻るのに苦労します。ナンのおかげで自分はなんとか日常の暮らしに戻ることができますが、とても勇気のある、戦場で大活躍していたクリスティーンというワルシャワ生まれの女性は、平穏な日常には戻れないという姿も描いています。それでも、このテロリストをカッコいいと思う子どもも出て来るかもしれません。訳し方もあるけど、自分の叔父の生涯というノンフィクションにしばられている部分もあるかもしれません。
表紙の絵は原題に即しているので、日本語の書名にはちょっとしっくりしませんね。あと星空の絵が何度も出てきますが、そううまい絵でもないので、どうして繰り返し同じ絵が出てくるのかな、と思いました。ドイツでは小学生にも戦争で何をしたかを教えているという話を聞きますが、日本の子どもはほとんど教わっていません。なので、この本を読んでも日本の子どもにはピンと来ないところが多いかもしれません。でも、だから出版しないでいいのかと言ったら、それは違う。ちょっと違和感をおぼえたのは、p11でパンジャブ州からの転校生の女の子が、カウラは大切な人を呼ぶときにつける敬称だと言うんですね。アジアの子が自分の名前を言うときにこうは言わないような気がして原文を見たら、カウラはプリンセスという意味だとなっていたので、親がこの子につけてくれた名前がこうだったということなのかな、と。ただ、アマゾンでは最初の部分しか読めないので、実際がどうなのかはわかりません。

しじみ71個分:p144で戦争から帰ってきて、主人公が戦争の後遺症に悩まされ苦しんだことや、妻のナンのサポートでやっと日常生活に復帰できたということが植物の比喩を通して短く語られますが、表現が非常に抽象的なので、それがどれほど大変なことだったのかが想像しにくいです。これを読んでその大変さが分かる子どもがどれほどいるかなぁ、という疑問を感じますね。

ハリネズミ:語りのうまさには感心しますが、日本の子どもがこの作品からどれほどのものを読み取れるかは、もう少し説明がないとわかりにくいかも。まあ、手渡す人にかかっているかもしれませんね。

ルパン:クリスティーンはどうしてもとの生活にもどれなかったのでしょうか。

西山:クリスティーンの母国ポーランドは「新たにソ連が占領して」「帰る国はなく」(p144)なってましたから。

ハル:私は、長く生きて、一緒に生きたひとがみんな先に逝ってしまうというのはこんなにも切ないものなんだなぁと、童謡の『赤とんぼ』のような感覚で、しんみりひたってしまいました。幼いころ、弟に冷たくあたってしまったことへの後悔とか、レジスタンスの太陽だった、今は亡き女性についての思いとか、後から振り返れば、あのときああすることもできたんじゃないか、こうすればよかったんじゃないかって思うけど、仕方ないよね、みんなそのときを精一杯に生きていたんだから・・・・・・なんて、戦争の場面すら、若かりし日々の1ページのように読んでしまって、これでよかったんだろうか、と読後に思いました。これ、日本語版のタイトルが『たいせつなひとへ』だからっていうのもあるんじゃないかなぁと思います。原題の“IN THE MOUTH OF THE WOLF”(章タイトルに「オオカミの口の中」がありました)に近いものだったら、また違った入り方で読めたのかも。でも、『オオカミの口の中』というタイトルだったら、私はちょっと手に取らなそうだし・・・・・・難しいところです。あと、「兵役免除審査局」で、なぜ自分は軍服を着て戦場で戦うつもりはないのかを説明し、それが認められたところがとても印象的でした。

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ネズミ(メール参加):そつのない語りでさらさらと読めましたが、モーパーゴの作品の中でとびきりよいとは思いませんでした。冒頭のフランスの場面で「フランシス・カマルツ大佐殿」とありますが、p.64は少尉なので、どこで大佐になったのかと疑問に思い、なぜ、人生の終わりにフランスにいたのかは、プロフィールを読むまでわからず、やや消化不良でした。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」

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2019年07月 テーマ:幽霊、のようなもの

 

日付 2018年12月21日
参加者 アンヌ、コアラ、シア、しじみ71個分、須藤、ツルボ、西山、ネズミ、ハル、ぶらこ、ハリネズミ、彬夜、マリンゴ、まめじか、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 幽霊、のようなもの

読んだ本:




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『エヴリデイ』表紙

エヴリデイ

彬夜:読み直すことができなかったので、少し前に読んだままの印象ですが、それぞれのエピソードは、リアリティがあって、おもしろく読みました。せつない物語だなと。ただ、やっぱり設定そのものが納得しきれなくて、そもそもこの子はいかにして誕生したのか、という点が腑に落ちませんでした。

コアラ:おもしろかったです。通勤途中の、10分くらいの細切れの時間で読んでいったのですが、それがよかったのかもしれません。とにかく先が気になってしかたなかった。毎日違う体に宿って生活する、というのは独創的だと思いました。カバーに描かれている赤い服の女の子がリアノンだとすぐに分かったのですが、たくさん描かれているのは宿った人たちのはずなので、なぜ宿った人たちの中にリアノンがいるのか、読み進めるまで謎でした。最後は結局Aが去ることになって、寂しい終わり方でしたが、愛に溢れたおもしろい話でした。

ぶらこ:「これからどうなるのだろう?」と予測がつかなくて、一気に読んでしまいました。 奇抜な設定だけど、ルールが細部まで作り込まれているからリアリティを持って読めるし、主人公が憑依する人々の生活が細やかに描き分けられているのがおもしろかったです。プール牧師の中にいた人物のことやAという存在の謎については全く明かされないまま終わるけれど、それよりも著者は、Aを通して見るいろいろな人生の厚みのほうを伝えたかったのかな、と思いました。ただし、Aがリアノンに素敵な男の子を紹介して去って行くというラストは、恋愛の結末としてリアノンはそれでいいのか?と気になりました。

ハル:設定からしてすごくて、どうなっちゃうんだろうと思いましたが、とてもおもしろかったです。人を内面だけで愛せるのか、環境が違ったらどうか、性別が違ったらどうか、恋愛対象の性別が自分と違ったらどうか、薬物やお酒に溺れていたらどうか、容姿が違ったらどうか、触れられなかったらどうか・・・・・・など、思いの外いろいろと考えさせられます。そしてYAってなんだろう、と改めて考えさせられました。でも、ラストがよくわかりません。これは、私の読解力のなさのせいか・・・・・・。残念です。

須藤:だいぶ前に原書で読んで、残念ながら翻訳には目を通せていないので、そういう感想として受け取ってください。いや、自分は、最初はけっこうおもしろくて読ませると思いました。ただ、彼らがそもそもどういう種族なのかが、最後まではっきりしないので、そこがどうしても気になってしまったんです。アメリカではSomedayって続きが出ているので、その辺のこともフォローしてくれているのかもしれません。その後日本語版が出て、とても評判がよいので、自分の目は節穴かもしれないと思っています・・・・・・。 デイヴィッド・レヴィサンは『ボーイ・ミーツ・ボーイ』(中村みちえ 訳、ヴィレッジブックス)の作家ですが、ジェンダーに関する問題意識がこんな形で出てくるんだ、というところはおもしろかったですね。見た目や性別、どういう階層、グループに所属しているのか、そういうことがアメリカ社会ではより意識されるんじゃないかと思うんですが、そこに属さないアイデンティティみたいなものを、ある意味追求してるんだと思うんですよね。

しじみ71個分:おもしろかったです。1日ごとに同じ宿主が変わる身体のない主人公という設定が斬新でしたし、宿主の生活を変えないように生きてきたのが、リアノンに出会い恋をして変わってしまうという、Aの心を縦軸にして、横軸にAの視点を通して、16歳という年齢で輪切りにされた、現代のアメリカを生きる若者たちの様々な生活や内面が描かれているのが非常におもしろいです。一人ひとり異なる、いろんな高校生の今が見えます。穏やかな子もいれば、薬物中毒や経済的な困難を抱えている子もいる。レズビアンの恋人がいる子もいれば、ゲイのバンド仲間の友人がいる子も登場して、LGBTをめぐる日常も普通に織り込まれていたり、若者群像がとても色彩豊かにリアルに感じられて好感を持ちました。Aが宿主のおじいさんのお葬式で人生を学ぶなど、他人の生活を通して人間を知っていくという表現も繊細で良かったです。ただ、訳の点でちょっと分かりにくいところもあり、もうちょっと分かりやすくしてほしいなという箇所がいくつかありました。
Aの存在を知って利用しようとする悪意に満ちたプール牧師が登場するところから緊張感が高まり、物語がどこに向かって終焉していくのかドキドキしましたが、最後はAがどこにどう逃げるのか全然分からないし、最後の宿主にされたケイティはどうなってしまうのかも分からないし、尻切れトンボな印象を受けました。結末がオープンというのもひとつの手法なのかもしれないけど、もうちょっと何か分からせてほしかったです。章立てが〇日目という日数になっていて最初は何だろうと思いましたが、割り算をしてみると、16歳になってから154日目から話が始まっていることになっているみたいですね。16歳が終わると17歳の子たちに憑依するのかな。人生を年単位の積み重ねで考えるのではなく、日ごとに考えないといけないAの生を象徴しているようです。

シア:衝撃的で素晴らしい本でした。最高の純愛。ここ数年で一番のお気に入りです。読み終わった後、表紙の人物を眺めるのが楽しかったです。設定がとにかく特異で、非日常の連続、先が気になって一気読みしてしまいました。すごいYAです。さすが海外としか言いようがありません。この年齢の子が持っている“もしも自分じゃなかったら?”という変身願望を見事にストーリーにしていると思います。LGBTも盛り込んで、“自分”という個性を徹底的に掘り下げています。自分を愛するということ、人を愛するということ、そしてその人の何を愛するのか、何を求めるのかということについても一石を投じています。数人のメインメンバーと大勢の人生の一日を通して、人間の欲望と傲慢さ、繊細さを描いています。ラストシーンの「生まれて初めて逃げ出す」というのは、ずっと抑圧されていた自己の解放を意味しているのかなと思いました。その人の人生を邪魔しないで生きてきたけれど、Aは新たなスタート切ると決め、全てを捨てることを選択します。逃げるという言い方をしていますが、解放ではないかと。依存や執着からの脱却というか。ただ、訳した際のニュアンスなのかなという気もしてきました。逃げ出すなのか、走り去るなのかとか。Aがどうしてこういう体質なのかとかそういう理由付けは明かされていないけれど、それでいいと思います。他でも幽霊や魔法もそこにあるものとして描かれていますし。続編があるので読みたいですが、この1冊で終わっても構わないくらいです。というくらい感動しましたが、ヒロインのリアノンが最悪でした。
Aが人間の精神で、リアノンが肉体を表しているのならば納得もいきますが。リアノンは平凡な上に狭量で、16歳なら仕方ないのかもしれないけれど狭い世界しか知らないので思考に柔軟性がありません。にもかかわらず性欲だけは旺盛で、DV被害者にありがちな典型的なメンヘラ女です。すぐに電話に出てくれないと嫌、すぐに来てくれないと嫌、そばにいてくれないと嫌、面倒くさいこと極まりないです。アレクサンダーが心配です。スクールカースト上位にいることが価値であるような女子高生。ジャスティンも同じで、リアノンのことをアクセサリーと考えて付き合っているような男ですよね。

しじみ71個分:リアノンについては、きれいで芯が強そうくらいのことしか描かれていないですけど、Aはなぜリアノンを好きになったんでしょうね?

シア:リアノンがAとは正反対の平凡、ドがつくほどのド平凡だから。そして、どこか寂しげだったからかもしれません。Aは自分にないものと、自分と似たような寂しさに強く惹かれたのかなと。Aはリアノンに入ったときお風呂にも入らず、体も見ないばかりか中身も詮索しませんでした。つまり、外側しか見えない幼い恋愛の愚かさを説いているのかなと思いました。リアノンの狩猟小屋での第一声はp285「今日はすごくかっこいいね」です。ここで130kgのフィンが現れたら、上着だって脱がなかったに違いありません。しかも、この時点でまだジャスティンと付き合っているという事実。色欲の罪ですね。p349「わきあがる怒りに自分でも驚いた。『リアノンのためならなんでもできる。でも、リアノンは、そうじゃないんだね?』」とありますが、結局この恋愛は二人が作中でバカにしていたシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』のような結果になってしまって、なんだか空しいです。

ツルボ:YAって、とっても実験的なことができるなと思いました。YAの可能性っていうか、若い翻訳者たちが競ってYAを訳したがる気持ちが分かるような気がしました。私としては、もっと小学生向けの作品を一所懸命訳してもらいたいなと思うけれど。それはともかく、日ごとにいろんな人の身体に宿るというあらすじを読んだときに、なんだかお説教くさいことを言われるんじゃないかと警戒して、あまり気が進みませんでした。でも、実際に読んでみると、主人公の恋の行方や、正体が明かされるのではないか、というサスペンスで、どんどん引き込まれました。最後のところは、私はシアさんとは全く別で、結局、作者がまとめられなくなってしまったので、強引に決着をつけたという感じを持ちました。Aの恋するリアノンが言うことがまともで、恋にしても何にしても、人間同士の結びつきって、精神だけではなく姿や声や体温や匂いや、あらゆることが関わってくるものだと思うので。ティーンエイジャーの群像はよく描けていると思ったけれど、最後の方になると、あまりにもいろんな人に宿るから、コメディみたいになってきて笑えてきました。

まめじか:Aに何ができて、何ができないのかが、いまひとつ掴めなかったんですよね。自我があって、恋もするのに、p152で宿主の感情はコントロールできないとか・・・・・・。読解力がないのか、意味が分からないところがありました。p97で「おれは踊りにきたんじゃない。飲みにきたんだ」って言うジャスティンに、リアノンが「そうだよね」って言って、それは「ネイサンへのフォロー」に聞こえたとあるのですが、なぜそうなるのでしょう?

コアラ:ジャスティンの連れとして来たけれど、ここではもうネイサンに気持ちが向いていて、「うん、そうだよね」の発言は、ジャスティンに対してというより、ネイサンに対して「この人(ジャスティンのこと)踊る気ないから」と言っているような気がした、というようなことでしょうか?

ネズミ:どうなるのか知りたくて読んだけど、途中で疲れてしまいました。主人公の気持ちにあまり寄り添えなかったからか、リアノンとの逢瀬のために宿主たちが利用されていくのが苦しくて。「ぼく」は、もともと男性で書かれていたんでしょうか。もっと中性的だとしても、日本語だと話し言葉で男女がすぐ分かるので、訳すのが難しそうだなと思いました。それから、リアノンを好きになるところから物語が展開する割には、リアノンとの出会いはあまりインパクトがなくて、そこが不思議でした。書店では、海外文学の棚に並んでいることも多いですね。後書きの解説もないし、出版社がそういう読まれ方を狙っていたのでしょうか。

須藤:あと毎日違う人生、違う人物に転移するけど、なぜアメリカのこの狭い地域限定なのか・・・・・・とは思いました。レヴィサンは、さまざまな背景の人物を出すことで、多様な人物に成り代わってみる、というおもしろさも出したかったんじゃないかと思いますし、それはある程度成功していると思いますが、一方より広く見て暴論を言えば、どんなに複雑な背景を持っていても、「アメリカの高校生」って点ではみんな同じ文化的背景の中にいて、それって実はすごく狭いんじゃないかと・・・・・・。

ツルボ:Aのような存在が複数いるというように読めるから、それぞれにテリトリーがあるのかも!

ネズミ:ちょっと前に「ニューヨーク公共図書館」という映画を見たのですが、そのときに、この作品に出てくる宿主ってこんなに多様な人たちなんだと気付いて、テキストから自分がアメリカ人の肉体感覚を想像しきれていないのを痛感しました。アメリカ社会を少しでも知っている大人のほうが、より楽しめるかもしれませんね。

西山:最初は読みにくくて、おいおい、これがずっと続くのかと、『フローラ』(エミリー・バー 著 三辺律子 訳 小学館)のとき同様の戸惑いを感じました。でも、他に読まなくてはならないものがあって中断して、数日ぶりに開いたときにものすごくおもしろい体験になりました。「私はだれ?ここはどこ?」となったんです。これは、Aの人生の追体験みたいなものですよね。本を読むことで、自分というものの輪郭を持てるというところもあったし、『本泥棒』(マークース・ズーサック 著 入江真佐子 訳 早川書房)が出て来たり・・・・・・。読書というのは、そもそも他人の人生を暫し生きるような行為なわけで、それを思い出させるメタ読書のようなところがおもしろかったです。もちろん何より設定の珍しさに目を引かれたわけですが。アイデンティティを保つツールとして自分宛のメールがあるわけですが、パソコンが使えるかどうかでその日の宿主の生活状態が端的に説明できる。すごいなと思います。また、こういう手法でLGBTについて考えさせるのも巧みだと思いました。身体的な性別はどこまで重要なのか。設定と乖離しない問題提起になっています。自分のアカウントにアクセスすることでアイデンティティを保つというのもそうですが、人は見た目じゃなくて中身だという「正論」の究極をリアノンに突きつけていて、リアノンの葛藤は肉体的な接触を含めて人間の身体性を問い直すようで、とても現代的なしつらえでありながら問いは普遍的です。続きは読みたいとは思うけれど、それは別の話かな。謎への興味に応えることはエンタメとして必要な展開だと思いますが、私はこの作品にエンタメ的な満足感は特に求めません。恋愛の在り方にもいろいろ意見が出るだろうから、学生の読書会テキストにしたら盛り上がるだろうと思っています。

アンヌ:読み終って、逃げたのは作者だなと思いました。こういうSF仕立ての小説は、物語を楽しみつつ、頭の別の部分ではこの世界を解き明かそうとフル回転させながら読んでいるので、牧師が現れてAの同類の者がいる、謎が明かされる、というところで中途半端に終わったのにはがっかりです。続き物にするから書かなかったのでしょうか。それにしても粗略な感じの最後です。一つ一つの話は楽しめたし、麻薬や肥満や自殺願望やLGBTの恋等、様々な世界を垣間見られるのも楽しかったけれど、同時に、例えば宿主の自殺願望について、これだけの判断ができるAの成長過程に疑問を持ちました。それなのに、正体が解き明かされないで終わるので、いろいろ推理していた身には辛かった。さらに、これだけ恋について書いておきながら、リアノンにぴったりの男性を紹介してベッドの横に寝かせて消えるなんて、失恋した娘に自分の推薦する相手と見合いさせる親父のようで、これで終わるんなら、恋に落ちたなんて言わないでほしいと思いました。

マリンゴ:最初は読みづらいと思いました。私はロジカルな“仕組み”を知りたいタイプなのですが、なぜ、こういうことになったのか説明がないので・・・・・・。それで各章をまとめるメモを取りながら、業務的に読んでいたのですが、徐々に引き込まれてメモもいらなくなりました。肉体があるから縛られること、肉体があるからできること。ひとつの人生だけを生きること、いろんな人生を体験すること。様々なことに考えが及んで、余韻が残る作品です。気になったのは、設定のブレではないかと思われる部分。p8で「事実にアクセスすることはできるけど、感情にアクセスすることはできない」とあります。けれど、p90では「これまで感情がふるえた経験はひとつしか見つけられなかった」となっていて、矛盾を感じました。あと、p383で「アレクサンダー」の文字が4行続けて横並びになっているんです。偶然なのは分かるんですけど、一瞬、何か意味があるのか、暗号的なものなのかと疑ってしまいました(笑)。できれば接続詞でも助詞でも入れて、バラしてほしかったです。

ルパン:ものすごく疲れる本でした。一生懸命読みすぎたのかもしれませんが、次々とAが憑依する人間が変わっていくので、ついていくのが大変で。リアノンはAの姿かたちや性別までが変わってもずっと好きでいられるのはむしろあっぱれだと思いましたが、Aがリアノンに入るところはさすがにぞっとしました。ひとつだけ共感したのは、p149の「生きる目的が見つかってしまったときに陥る罠・・・・・・その目的以外のことが、すべて色あせて見えてしまう」という一文です。それから、もしも自分がひとつのからだ、ひとつのアイデンティティを持ち続けることができずに意識だけがずっと同じであったら、どんなに辛いだろう、という悲しさ・せつなさは感じられました。

ハリネズミ:発想がすごくおもしろいですね。Aのような存在はひとりしかいないのかと思っていたら、もしかしたら複数いるのかもしれないと思わせたりして、意外性もあって読ませますね。ただ、リアノンのような、一歩引いてボーイフレンドを受け入れて後をついていくような女の子が、しょっちゅう姿の違うAと会ったりするところはリアリティを感じられませんでした。恋愛は見た目と関係ないのか、というのは「フランケンシュタイン」以来のテーマでもあるけど、「フランケンシュタイン」のほうが現実味があるな、と思いました。それと、私には最後がよくわかりませんでした。どうしようとしているのでしょうか? 「逃げる」というのは、どういうことなのでしょうか? それと、Aはリアノンに自分らしさを持ってほしいとか、自立してほしいと思っているはずなのに、Aが「いい男の子」を選び出して、その子とリアのンをくっつけるのは、上から目線のパターナリズム。エンタメだと思えば楽しいけど、ジェンダー的には問題のある作品ですね。続編でいろいろなことがもっとわかってくるのかもしれませんけど。

しじみ71個分:最後にちょっと気になるところが・・・・・・。p129に急いでご飯を食べる姿を「即行」と書いていますが、こういう場合はカタカナでいう「ソッコー」で、漢字にしたら「速攻」じゃないですかね? ネット辞書では「即行」もすぐやるという意味で「速攻」と同じとしていますが、あまり見慣れない感じです。

ルパン:小見出しに○日目、とありますが、どこからどうやって数えているのだろうと思いました。

須藤:なんで正確に分かるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):主人公が、毎日違う人物に入り込んでしまうところが新鮮でした。LGBTやジェンダーについても盛り込まれています。最後が分かるようで分からないので、続編があるのでしょうか?

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『レイさんといた夏』表紙

レイさんといた夏

彬夜:再読でした。最初のうちは、なんだか作者の決めたラインで引っぱっている印象で、物語に入れなかったし、莉緒という子にあまり共感がもてなかったんですよね。割とダメダメな感じの子に描かれていますが、実はとても言葉巧みで分析的。一人称だとそこがちょっと不自然なので、三人称にした方がすんなり入れたかもしれません。が、後半は割とおもしろく読めました。阪神大震災につながるのかと分かった時には、ハッとする思いがありました。ここを描きたかったのかな、と。ただ、読んだ後では、震災からの年月を思うと、この長い期間、レイはどうしていたのか、と気になってしまいました。ずっと一人だったのだろうかと思うと、なんだかやりきれないというか、かわいそうすぎるなあ、と感じてしまいました。母とのつながりという点では、なるほどと思いはしたものの、兵庫に戻ってくることになり、母親は、震災のことを全く語らなかったのでしょうか。はっとはしたけれど、裏を返せば、やや唐突でもあったということでしょうか。母像に震災の影が感じられなかったせいかもしれません。

ハリネズミ:わたしもそう思った。

ツルボ:とても読みやすくて、心に響く、いい作品でした。レイさんが生涯で巡り合った人たちを思い返すことで、自分なりの人生を生きてきたと思えるようになるところなど、私の大好きな池澤夏樹さんの『キップをなくして』(角川書店)に通じるところがありました。レイさんが出会った果物屋のおっさんとか、莉緒のアパートの隣のおばあさんとか、生き生きと描けていると思いました。茜ちゃんって嫌な子ですね。こういう子って絶対変わらないから、莉緒ちゃんも連絡を取ろうなんて思わないでほしいな!

まめじか:人間関係の糸はからまったりもつれたりして、ときに面倒ですが、それが人をつなぎ止めもすることが伝わってきました。テーマを前面に出すのではなく、物語の中に自然に落とし込まれているのがいいですね。レイさんを思い出す人たちの中で、くだもの屋のおじさんだけ少し違いますよね。深い関わりとか、人生を変えるような影響があったわけではないので。

ネズミ:『ぼくにだけ見えるジェシカ』(アンドリュー・ノリス作 橋本恵訳 徳間書店)と比べると、文体の統一感があって、ずっと読みやすく、ぐいぐい読めました。構成や言葉づかいもうまいなと。物語がどう落ち着くんだろうと思っていたら、阪神大震災につながっていたのに意表を突かれました。自分が何者か分からなくなっていた主人公が、レイさんとの関わりの中で変わっていく。思い出した人々からレイさんが浮かび上がってくることと、自分に意識が集中するあまり、自分が分からなくなっている主人公とが対比的に描かれているのかなと。後で考えてみると、荒れた中3女子だったレイさんが、p223でかなり悟った物言いになるのは不自然なのでは、という気もしましたが・・・・・・。中学生くらいで読めたらいいですね。

西山:新鮮だと思ったのが、この子の生理的な感覚です。p59「誰か知り合いの人が手作りしたものが苦手。その家の匂いとか、その人の体温とかが、しみこんでいるような感じが嫌」など、この身体感覚が一貫していて、息がくさいとか手がねばっこいとか、生理的に他者を拒否している感じが、神経を逆なでするような感性なのだけれど、とても興味深かったです。八百屋さんの桃のエピソードはレイさんのものだけれど、この作品を貫く一つの感触として生きていると思います。あと、レイさんが美容師になろうとしていたところで、阪神・淡路大震災で亡くなるというのは、理不尽に断たれた命を悔やませるのだけれど、だから、生きているあなたは好きなことが出来るのだから頑張れ、という方向に着地するのではなくて、お母さんが出てきて、学校に行かなくていいと言う。この展開には共感しました。あと、p206「ええかげんにさらしとかんと殺すぞ」なんて、「できるだけ悪い言葉を使って、精一杯ドスをきかせ」たという枠の中でですが、ここまでパンチの効いた大阪弁も新鮮で、笑えました。

ネズミ:お母さんが息継ぎしないでまくしたてるところも、笑っちゃいますね。

アンヌ:最初はレイさんに興味を持ち、病院で成仏していく幽霊は見えるんだな、とか楽しんでいたのですが、あまり幽霊界の話はなくて残念でした。主人公がもうレイさんの正体が分かっていながら写真を見せずに絵を描くあたりが、犯人が分かっているのに主人公が罠にはまりに行く推理小説のようで、イラッとしてしまいました。人は他者との関係性において自己を確立するという事を、幽霊と主人公に悟らせるためだろうけれど、少々しつこかった気がします。お母さんにとっては、レイさんも会いに来てくれたし、子どもに過剰な期待を押し付けてはいけない、生きていてくれればいいという真実に、また気付くことができて良かったね、と思いました。

マリンゴ: p224の「あたしはあたしが、出会った人らでできている」というところは、シンプルで非常にいい一文だと思います。自分というものが、周りの人の存在で作られているというのは、中高生の読者にとって、大きな気付きになるのではないでしょうか。あと、ヒロインのいじめられた原因が、自分が嘘をついたことにある、というのがいいと思いました。いじめる側が100%悪くて、いじめられる側にはなんの非もない、という設定はありがちなので。ただ、お母さんから教えられたことやアルバムの話を、レイさんに伝えないというか、伝えるタイミングを逸したまま終わってしまうのが、一抹の後味の悪さにつながっている気がします。

ハリネズミ:とてもおもしろく読んだのですが、よーく考えてみたら、お母さんたちの描き方がどうなのかな、と思いました。まずレイさんのお母さんが再婚して最悪の状況になってネグレクトされるというのは、いかにもステレオタイプ。莉緒のお母さんは、みなさんの評判はよかったのですが、結局自分の理想に他者を当てはめようとする人で、そこは変わってないように思いました。p232には、「夢や目標とか、素敵な友人たちとか、きらきらした青春の日々とか、そういうものを莉緒にも持たせたい、持たせなくちゃと思ったの]と言っていますが、作者が、それは勉強をちゃんとやったり、きちんと学校に行ったりすることでかなえられると思っているから莉緒の母にこういう発言をさせているのでしょうか。p231では莉緒の母は、「どうかどうか生きていてって。これ以上のことは、一生なにも望みませんって思ったはずなのに・・・・・・」と言っていますが、[生きている]は、母親の言う幸せより下に位置しているように取れてしまいました。

コアラ:まず、文字が小さいな、と思いました。文字の大きさを測ってみると、『ぼくにだけ見えるジェシカ』と同じだったのですが、ずいぶん小さく見えました。書体の違いは大きいですね。挿絵は、私は結構好きでした。p69のおじさんなんかはいい味出してる。莉緒がレイさんに言われるままにスケッチブックに描いた似顔絵が、挿絵になっているのがおもしろいと思います。p162で、阪神・淡路大震災が出てきますが、もう20年以上前なんだと改めて感じました。今の中学生は知らないんですよね。p222の「あたしはこの人らで、この人らがあたしやねん」という言葉はいいと思いました。そして、その後、それぞれの人が、レイさんからメッセージを受け取る展開になるのかな、と期待したのですが、そういう展開にはならなかったので、少しがっかりしました。新学期まで物語を続けずに、夏休みで話を閉じているのは、終わらせ方としていいと思います。

ぶらこ:周りの人たちとまっすぐ関わることが、「自分とは何か」を知る手がかりになる、というメッセージがストレートに描かれている作品だと思いました。脇役の意地悪なおばあさん、おもしろかったです。ものすごく嫌味な人として描かれるけれど、手作りの煮物が実はおいしいとか、主人公からはまだ見えないところがたくさんある人という感じがして。幽霊のレイさんと莉緒を結びつけたのは、実は莉緒のお母さんだったということでお母さんが重要な役割を果たしていますが、私はこの人が苦手で、後半の展開にあまり乗れませんでした。また後半、震災というすごく大きなテーマが出てきたのは、少し唐突にも思えてしまいました。

ハル:今回の3冊の中では一番「幽霊」感がありますよね。怖さもあって引き込まれて読みました。モンタージュのページなんか、夜に読んでいると、パッと出てきてドキッ!としたり。ラストp222の「この人らが、あたしや」という発見はとても新鮮で、深く感じ入ったのですが、その後でまたp225「あんたも、自分が誰か、探しや……」で、今度は莉緒の自分探しが始まってしまう。「この人らが、あたしや」で止めても良かったんじゃないかと思いました。もう1点は、震災を回想する場面ですが、ここは、読んでいて恐ろしく、苦しくなりました。ただ、幼なじみがレイを探しに来たのは、土砂崩れが起こってからどのくらいの時間が空いている設定なのかは分かりませんが、本当にこんなふうに、中学生が一人で現場まで来られるものなんだろうかと思いました。取材の上でしたら大変申し訳ないのですが、少しドラマチックになりすぎた感じもします。そもそも、この物語で震災を扱わなければいけなかっただろうかという気もしました。

須藤:現在の学校内の人間関係でトラブったりして、前に進めなくなっているような状況にいる主人公の女の子が、幽霊のレイさんと関わることで、前に進めるようになる、という方に主眼があるのか、それとも、20数年前に断ち切られた人生の物語の方に主眼があるのか、どちらなんでしょうね。神戸の震災のことが出てきて、20年も経つのかと思いました。20年経っても、震災というのは、こうして災害に遭った人の心にさまざまな傷というか、思いを残すものなのだなと改めて思います。自分としては、震災のことが出てきた後半がおもしろかったですね。前半は、主人公の子がちょっとひがみっぽくて面倒くさい子だなあと思ってしまったので、いまいち乗り切れませんでした。面倒くさい、やや暗い性格の女の子が、一風変わった他者との関わりを通じて良い方に変化する、という物語に、自分はやや食傷気味です。

シア:スケッチ風というのは分かるのですが、表紙にはいまいち惹かれませんでした。題名もなんだか無個性で読書感想文みたいです。テンポ良く読めましたが、内容というよりもレイさんの個性で読み進めていくという感じでした。全体的に田舎の昭和感が溢れてしまっていて、いじめの辺りも、桃の件でのおじさんとのやり取りも、なんともじっとりとしていて息苦しさを感じてしまいました。日本のホラーのような湿度の高さを思い起こさせます。自分の価値観を押し付ける母親や、近所のおばあさんなど鬱陶しさしかありません。お父さんは空気だし。児童書を読んでいると日本のお父さんっていつも空気ですよね。大丈夫でしょうか。この本で印象に残ったのは、お母さんのp231「これ以上のことは一生なにも望みませんって思ったはずなのに、時がたつとどうしてこう忘れちゃうんだろうね」という言葉ですが、20年経っても成長していないってのはどうなのかな・・・・・・。気になった表現でp62「素敵にすずしかった」とあるんですが、こう言いますかね?最後レイさんが、p222「あたしはこの人らや」と言って成仏していきますが、もう少しエピソードがないと分かりにくいと思います。というか人数が少ない気がします。阪神大震災を入れようと思ったからなんでしょうが、扱いが中途半端ですよね。確かにここから話はおもしろくなりましたが、美談として震災を感動的に扱おうとしている気がしました。震災ものは子どもたちに伝えていくべきものではあるけれど、記憶にある方もいらっしゃるので難しいですから、安易に扱うものではないと思います。

ルパン:この物語のキーパーソンは実は主人公のお母さんですよね。でも、このお母さん、最後に急にクローズアップされて、それまでは存在感が薄いんです。なんだかちょっと作者の都合で動いているような。それよりも、主人公の「私」が引きずっているのは、前の学校の茜ちゃんですよね。この茜ちゃんとの関係が自分の中でどこまで整理されたのか…茜ちゃんとの確執から始まって、汚部屋になったり学校に行きたくなくなったりしているのに、最後はレイさんとお母さんの話になってしまって、消化不良のまま終わりました。そもそも、あまり主人公に好感が持てませんでした。隣のおばあさんを極端に嫌っているのだけど、その理由が「痩せてくぼんだ頬に、ピンクの頬紅をさしているのが気持ち悪い」。挨拶されても返さなかったことをたしなめられたのに逆恨みしているし、茜ちゃんとの関係にしても、レイさんやお母さんに対する態度にしても、共感できる部分があまりありませんでした。

ハリネズミ:p142にイタリックが出てきますが、縦書きにイタリックって違和感あります。物語世界の設定でいうと、レイさんは人の顔は克明に覚えているし描けるのに、病院や町の名前はまったく覚えていないんですね。それでいいのかな、とちょっと疑問に思いました。

ツルボ:幽霊って、作者の都合でどうにでも作れるからね。

須藤:そういう意味でいうと、お化けを出すにしても、いつだったか読んだ魔女の話にしても、既存のイメージを便利に使いすぎなんじゃないかと思います。

ハリネズミ:どの作品でもそうですが、物語世界は、ていねいにちゃんとつくってほしいです。

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エーデルワイス(メール参加):『ぼくにだけ見えるジェシカ』の日本版ですが、こちらのほうがもっと深刻です。母子の問題やいじめや自分探しが出てきますが、関西弁で書くことによって深刻さが緩和されています。幽霊の「レイ」さんが本当に「怜」だったのにびっくり。レイさんの人生が過酷で辛い者であっても、希望を捨てなかったことや、明るい性格だったことなどに読む者は共感できると思います。阪神淡路大震災のところではハッとしました。体験した者にとっては、いつまでも忘れられないことなのですね。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『ぼくにだけ見えるジェシカ』表紙

ぼくだけに見えるジェシカ

彬夜:まず、タイトルが変だなと思いました。ぼくだけって? ほかにも見える子がすぐに見つかるのに、なんでこういうタイトルにしたのでしょうか。それから、表紙の絵のジェシカ。最初の登場がモノトーンのミニドレスとあって、あれ?と思いました。その後、この服、いつ出てくるのかな、と。文章的にもところどころ引っかかるところがありました。たとえば、p20「そんなふうに動けるのは、けっこう楽しめたはずだった」とか、p106「恐怖心はなくなり、興味津々になってきた」とか。ほかにも何ヵ所か「?」と思うところがありました。アンディのことを母親が「暴れんぼ」と呼ぶのも、違う言葉がなかったのかな、と。人名で、ローランドとローナというのは、音が重なるので(元の言語では別の音なのかもしれませんが)、違う名前の方が読みやすかったと思います。まあ、翻訳だから仕方ないんですけど。ストーリーは、開かれていく痛快さがあるので、それなりに読み進めることはできましたが、フランシスたちが自殺を考えるような子には見えなくて、全体的に粗っぽい物語だな、という印象でした。ストーリーだけでなく、人物も、特に親たちの造型が粗いな、と。最大の謎は、ローナになぜジェシカが見えなかったかということ。それから、ラストの後日談的な部分はいらないのではないかと思いました。作者のあとがきによれば、普段は筋立てを決めて書くが、この作品ではストーリーの行き先を決めずに書いた、と言っていますが、この物語は、しっかり決めて書いたほうがおもしろくなったかもしれませんね。

須藤:読後感はよかったんですが、ちょっと地味というか、ページをめくらせていくような力が弱いように感じました。まあただ、子どもにとって、学校で嫌なことをされたときにどう対処したらいいか、とか、あるいはみんなから笑われるかもしれない心配、というのは切実な問題なんですよね。そこをテーマにしていて、それは大事なんだと思うんですが・・・・・・。親をやっていて思うのは、子どもが小学校に上がってそういう問題に直面した時に、なかなか有効なアドバイスを与えられない。要するに、あんまり気にしなくていい、とか、ある意味タフに、大人になれ、とか、大したことは言えないわけです。で、この本は、そうした「子どもにとって切実な問題」をテーマにしてはいるんですが、しかし、この本を読んで子どもがどこまで共感して、自分の問題に引きつけてくれるのかくれないのか、ってことは気になりました。子どもにとって「役に立つ」本であり得るんでしょうか。『西遊記』みたいにいじめや鬱といったテーマとも何も関係ない、ただおもしろい本のほうがあるいは救いになるのかもと思ってしまいました。

ぶらこ:鬱や自殺といった重いテーマを扱っていますが、人間関係がドライで、軽く読める作品だと思いました。でも、p209の「不思議なことに、こっちがまわりの目を意識しなくなると、まわりもたいてい、かわっていてもとやかくいわなくなった」というメッセージは、本当に鬱になるくらいいじめで悩んでいる子には響かないような・・・・・・。それよりももっとライトな層に向けて書いているのかな、という印象でした。子どもたち同士の友情によって人生を楽しむ力を獲得していくお話だけど、もう少しまわりの大人との関係性も読んでみたかった。子どもたちの母親のキャラクターがどれも似て見えてしまったのは残念でした。ファッションについての会話などは楽しく読みました。

コアラ:読んでいる途中では、あまり印象に残らないような内容だな、と思っていましたが、読み終わってしばらくしても、案外印象に残っています。ファッションに興味があって裁縫が得意という男の子が主人公なので、そういうものに興味を持っている男の子の励ましになると思いました。後半は自殺がテーマになってきますが、悩んでいる本人に役立つというよりは、周りで悩んでいる人がいる子にとって、接し方など参考になるかもしれないとも思いました。装丁がなんとなく女の子向けのように感じますが、男の子にも読んでほしい本です。136pからp138までで、「学校に行かないと法律違反」というような会話があって、「え?」と思ったのですが、「訳者あとがき」にそのことについて触れられていたので、その点は良かったと思います。

ハリネズミ:さっき須藤さんが「おもしろくない本でも役に立つのか」と疑問を出されたのですが、私は、おもしろくない本は読まれないので、結局役に立たないと思っていて、子どもの役に立てようとする本ほどおもしろくしないといけないと思っています。この本は物語世界のつくり方が中途半端かな、と思いました。原題は「ジェシカの幽霊」ですが、日本語タイトルは「ぼくだけに見えるジェシカ」。ぼくだけじゃなくてすぐ他の子にも見えるようになるので、どうなんでしょう? それから、この物語では、ジェシカは、自分と同じように穴に落ちて死を考えるようになった子に見えるという設定だと思いますが、それならローナにも見えるはずじゃないかな? また、ジェシカの声は他の人に聞こえないので、人がいない場所で会話をしているはずですが、p32では、みんなのいる教室で会話をしています。それと、ジェシカのミッションは自殺を思いとどまらせることだとすると、そんな子はいっぱいいるでしょうから、永久に成仏できなくなります。そんなこんなで、物語世界の決まり事をきちんと作ったうえで、それを最後まで守って物語を進めてほしいな、そこが残念だな、と思いました。引きこもりのローランドが追いかけて来てp103では「あの、ごめん、きみの言うとおりだ。ものすごく失礼だった」と言うんですが、日本のひきこもりの問題を抱えている子たちは、普通はこんなふうにすぐ出て来た謝ったりしないですよね。それからアンディという子が男の子っぽい格好をしているんですけど、友だちができたりローランドとつきあうようになったら、普通の女の子っぽい服装になるのはつまらない、と思いました。

マリンゴ: 私はおもしろく読みました。今回の課題本としてまとめて読んだことで、『レイさんといた夏』(安田夏菜著 講談社)と比較できて興味深かったです。幽霊のスペックや目的が似ていますよね。この本は、キャラが立っていて引き込まれました。幽霊の本のわりに明るいですね。クラスで浮いている子、はみ出している子が実は魅力的なのかも、と読んでいる子どもたちが気づくといいなと思います。ただ、ファンタジーって、最初に作った設定を守らないといけないはずなんですけれど・・・・・・クライマックスでそれが破られているのが残念です。ジェシカは、死にたいと思った子に見えて、そうじゃない人には見えない設定のはず。でも、クライマックスでは、自殺しようとしている子には見えない。主人公たちを活躍させるための“言い訳”に思えるのです。そして逆に、今まで見えなかったはずのおばさんが、急にジェシカの存在を“感じる”ようになる。これもストーリーの都合ですよね。それが残念でした。最後まで楽しく読むことはできたのですが、架空の世界の作り方と守り方は大事だと思います。

アンヌ:以前から題名だけ知っていて読むのを楽しみにしていた作品だったのにp47で「ぼくにだけ」どころかアンディにまで見えてしまって、がっかりしました。ここから、フランシスとジェシカの物語ではない話がドタバタと始まって行きます。アンディはカッとなったら暴力を振るってしまう問題児のはずが、転校先では冷静な武闘家のように効果的に暴力を振るって問題解決をする。自殺寸前まで落ち込んでいたようには見えません。ローランドについても同様です。さらに自殺寸前のローナにジェシカが見えないというのも奇妙です。学校の行事で展覧会に行った時に、いじめに遭っているローナにジェシカが見えていないのもおかしい。作者が自分で作った設定を守っていない作品ですね。ジェシカが消えた後に物語が延々と続くのは、ジェシカが一番必要だったフランシスが救われていく過程なんでしょうが、エピソードは衣装係の話ぐらいでよかったかもしれません。もともとフランシスは自分の世界を持っている子ですから。でも、その世界の中で、彼はこの先ずっとジェシカのイメージで作品を作って行くのだろうなと思うと、少し切ない気がしました。

西山:文章の弾まなさが興味深かったです。具体的に分析できていないのですが、弾まない文章でドタバタが描かれていて不思議な感触でした。表紙に関してはみなさんのご指摘同様です。裏表紙を見て、ああ、あと二人こういう子が登場するなとも思っちゃっていました。次々にジェシカが見える子が登場して、これはギャグだと思ったんですよ。どんどんみんな見えちゃって、ワヤワヤになることを期待しましたね。那須正幹さんの『屋根裏の遠い旅』(偕成社、1975)で、パラレルワールドに迷い込んでいるのが主人公だけじゃないというのが新鮮だったのを思いだしたりして。ローナにジェシカが見えない理由は書いてありましたよね。まあ娯楽作品としてはサーッと読めたという感じです。

ネズミ:ジェシカが現れてから主人公フランシスの周囲がどんどん変わっていって、いったいどうなるのだろう、ジェシカは過去を思い出せるのだろうか、という興味に引っぱられて読みました。アンディやローランドの誇張気味なキャラクター設定からエンタメだと思ったので、細かいことはあまり気にせずに。学校社会って、どこに行ってもいろんな人がいて、ぶつかり合っていくものだけど、フランシスが味方を得たり、自身も別の角度から考えられるようになったりして、我慢するだけではなく、自分らしくやっていく方法を見つけていくので、読後感はよかったです。子どもに力をくれる本だと思いました。

まめじか:エンタメとして読んでいたら、鬱や自殺というテーマが途中で見えてきました。その重さと、ちょっと緩い設定がちぐはぐというか・・・・・・。フランシスの言葉は、学校で浮いている子だからなのかもしれませんが、年齢より大人っぽいですね。

ツルボ:タイトルが内容と合っていないとかは、みなさんに言われてしまったんですけれど・・・・・・。作者の言葉を読むと、コメディを書いていた方なのでエンタメっぽくなったのだと思うのですが、やっぱり自殺をテーマとして書きたかったのでは? それだったら、一番ジェシカを必要としているローナに見えないのは、何としてもおかしい。鬱という「穴」に入ってしまったから、と作者は説明しているけれど、そういう子どもたちこそ救われるべきじゃないかな。それに比べて、フランシスのように自分の好きなもの、進みたい道がはっきりしている子どもが、内心は死にたいと思っているというのも説得力がない。いまどき、パリコレのデザイナーは男の人のほうが多いと思うし、母親にも認められているのに。三人称で書かれているので、いろんな登場人物の目線が交錯して、煩雑で読みにくかったけれど、これは原文の問題? それとも訳のせいなのかな? 全体に妙に固い文章と会話などの軽やかな部分が入り混じっていて、すっきりしない。p45の「あっけらかんとほほえんだ」とか、p140の「ホームスクールは両親に認められた法律上の権利」とか、「えっ!」と思って読み返す箇所が多々ありました。

しじみ71個分:読みやすくてサクサクと進みました。男の子がファッションに興味があるせいでいじめられるという設定でしたが、イギリスでもそんな問題があるのかなぁ?と思いました。主人公のフランシスの他にもジェシカが見える子たちが登場してきますが、その共通点は後からだんだん分かってきます。ジェシカはスーパー幽霊で、賢くて可愛くて優しい。で、そんな子がそう簡単に自殺するのかなぁ?とも思ったり。ジェシカが成仏できずにこの世に留まっている理由が子どもの自殺防止という割には、自殺リスクの最も高いローナの内面が描かれているわけでもないし、ローナにジェシカは見えないし、ちょっと理由付けとしては弱いかなと思いました。それから、ジェシカの死を悔やんでカウンセラーになったおばさんとの関係があまり書かれていないので、もっと堀り下げてもいいと思いました。西洋の子ども向けの物語で子どもの自殺をテーマにするのは珍しいのでしょうか? テーマ先行な気はします。それと後半、盛り上がりには欠けていますね。ジェシカとの出会いで3人の子どもたちがポジティブに元気になっていくという展開は爽やかでいいし、気付きを得ていく過程も破綻なく書かれていますが、問題が解決して、ジェシカが成仏していくところに盛り上がりがありません。後書きをちらっと読んだら、普段は考えて緻密にプロットを考えてから書くが、今回はあまり考えないで書いたとあって、だから盛り上がりに欠けたのでしょうか。もうちょっと考えて書いてもよかったのでは・・・・・・。残念です。

ハル:タイトルや表紙の雰囲気からして、少し小さい人向けの本かなと思って開いたら、文字が小さい! 文字数も多いし、内容からすると文章も結構、硬い印象があって、全体的にちぐはぐな本だなぁと思いました。「作者あとがき」を読むと、作者自身も普段とは違う書き方をしたと書いているので、ちぐはぐ感が生まれたのは、それも原因だったんじゃ・・・・・・。日本語版の編集では、どのくらいの年齢の、誰に読んでほしくてこの本を作ったんだろうと考えてしまいました。

しじみ71個分:一方、死にたくなるほどの落ち込んだ気持ちは、「穴に落ちたような気持ち」という程度で非常にあっさりしています。死を考えるほどの欝状態の辛さはもっと言葉を割いて掘り下げてちゃんと書いた方がいいのではないかと思いました。全体的に重いテーマの割に掘り下げが浅い印象です。

ネズミ:そこまでの穴に見えてこない。

しじみ71個分:あと、ローナへのいじめについてすぐに警察が介入して、いじめの首謀者の女の子二人を退学にするというのには驚きました。問題のある子たちを指導もなく、ただ野に放つというのもすごいなと思って。

須藤:ゼロ・トレランス方式っていいますよね。ただ賛否両論ありますが・・・・・・。

シア:感動的で最後泣けました。p211「陽光があたたかい。太陽のあたたかさが、ブレザーを通して両肩に広がっていく。おだやかなぬくもりに、心が安らぐ」というところが、ジェシカがフランシスの肩を揉んであげたシーンとシンクロして、目頭が熱くなりました。終始温かい感じの文章でした。でも、表紙がそぐわないように感じました。ジェシカとの出会いのシーンだとすると、フランシスは帽子をかぶっているはずだし、そもそも彼が眼鏡をかけている描写はなかったと思います。いじめられっこは眼鏡、というバイアスがかかった見方はどうにかしてほしいですね。それに、とてもおしゃれなはずのジェシカの服装も全く素敵ではありません。海外のファッションニュースを見ているようなファッショナブルな描写もこの本の魅力の一つですから、画家さんにはもっとがんばってほしかったですね。いつも美しい挿絵を描かれるのに、残念です。
それから、題名も気になります。「ぼくにだけ見える」ではないじゃないですか。全く詐欺です。邦題によくある“ヤクヤク詐欺”です。そもそも、原題は『Jessica’s Ghost』で『ジェシカの幽霊』となり、p187「自分のほうが肉体のない幽霊のように感じられたのだ」というように、生きているけれど自殺願望のあるフランシスたちのことをも示しているように思います。だから読後に深い味わいのある題名になるはずなのに、もったいないです。しかもですね、カバー袖でまた盛大にネタバレをしているんですよ。もう読む前から「ぼくにだけ見える」ことはないとバラしている。本当にこういうカバー袖や帯は読んではいけない時代になりました。最近、若い人を中心にネタバレされても平気だし、むしろ大いに、そして好意でネタバレをする人が増えています。生徒たちも内容を全て知ってから安心して読んだり見たりしています。想像しなくなっているんでしょうか? 焦りを感じます。
とはいえ、話としては良かったです。幽霊話だと成仏してお別れというラストは見えていますが、この本はそうではなくて成仏したのは閉ざされていたみんなの心、という落としどころだったので新しいと感じました。どんなに人生がガラリと変わっても、楽しく過ごせていても、どうあがいてもジェシカはいないという事実がとても切なくて、幸せな未来を断つという自殺いうものの重さを説教するでもなく伝えてきていました。ラストシーンの切なさは一見の価値がありました。中高生にはよくありますが、漠然と死にたい子はいるんですよね。積極的に死にたいというのではなく、生きたくないというレベルの。そういう子に、「穴に落ちる」とか、「太陽と雲」とかのわかりやすい比喩や、p129「じつは、わたしもいわなかったの。いま思うと、それがまちがいだったのね」というジェシカの言葉など交えながら、この本で落ち込んだときの心の処理法が伝わればと思います。

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エーデルワイス(メール参加):ファッションの才能をもつ男の子フランシスも、アンディもローランドも幸せになってよかったです。ひどいいじめは世界中にあるのかとため息が出ます。後半はちょっとお説教臭いと感じました。ユーモアもあり、ファンタジーぽくて、小学校高学年から中学生の女の子が読みそうです。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題)

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2019年06月 テーマ:子どもの生きづらさを考える

日付 2019年6月14日
参加者 アンヌ、カピバラ、コアラ、木の葉、きび、さららん、シア、西山、花散里、ハリネズミ、ハル、ヘレン、まめじか、マリンゴ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 子どもの生きづらさを考える

読んだ本:

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M.G.ヘネシー『変化球男子』

変化球男子

ルパン:とてもいいと思いました。読み始めたときは、「また性的マイノリティの話かぁ」と思いましたが、ストーリーに引き込まれ、主人公の立場に立って考えることができました。もし、今だれかから「あなたは男だから男のトイレに行きなさい」と言われたらとてもいやだろうなぁ、と。トランスジェンダーの気持ちがリアルに感じられました。

きび:タイトルの訳がうまいですね。いちばん感心したのは、このタイトルです。中身も、主人公の気持ちに寄り添って読めました。トランスジェンダーであるということが周囲の友だちにいつ分かってしまうか、そのスリリングな展開で最後まで一気に読ませる作品ですね。知らないこともたくさんあって、興味深く読みました。章ごとに入っている主人公が描いたマンガが、重苦しくなりがちなストーリーに爽やかな風を送っているようで、効果的だと思いました。主人公の新たな出発と、マンガの主人公たちの出発が最後のところで重なっているんですね。

木の葉:トランスジェンダーものとして、おもしろく読みました。ただ、翻訳版のタイトルに反して、内容は直球だな、と思いました。私はあまり多くの知識がないので、医療的な処置のことなども興味深かったです。こうしたことは国によってどんな違いがあるのでしょうか。そのあたりも知りたいところです。こういうテーマを書く場合、人称代名詞をどうするか、興味深かったです。一人称が多様な言語とそうでない場合の翻訳、それぞれのやりづらさがあるかもしれません。細かいことですが、初っぱな、p1「そこが野球のいいところで、いつも自然体でいられる」というのがひっかかりました。それと、ニコという子が、軍隊式中学校に送られたということですが、これはどんな学校なのでしょうか。ここに、懲罰的な意味合いがあるのか、ちょっとわかりませんでした。それから、胸毛を求める主人公。この辺は、ちょっと違和感がありました。ラスト、部屋に引きこもってしまった後の物語の流れ・・・野球の試合に出ることになるのだろう、そして暴投の後に、変化球で打ち取ることになるのだろうと、予測できてしまいました。

さららん:3冊の中で、一番、すっと読み終えました。男子として通い始めた新しい学校で、前の学校では女子だったということを暴露され、シェーンは友達に自分が嘘をついていたように感じて、自分を責めます。思春期真っただ中のヒリヒリする気持ち、居場所がなくなったシェーンの絶望がよく理解できました。親友ジョシュが、野球部のみんなの前で、「ズボンをちょっとおろしてみんなに見せてやれ」という場面など、具体的で生々しいですが、シェーンが絶望のどん底に落ちる理由として説得力がありました。ごたごたの中のp182で監督は、優れた野球選手としてのシェーンを認め、「きみが女子であろうと、男子であろうと、なんならカンガルーであってもかまわない」と言い放ちます。デリカシーのない監督だけれど、価値観と立場のまったく違う人間の発言によって、物語に風穴がひとつあきます。まわりの大人たちが全体にうまく配置されています。巧みに構成された物語だと思います。

ヘレン:大好きな本です。上手に作られています。漫画と話の隙間がとてもおもしろく感じました。

まめじか:安心できる場所を求める切実な思いが伝わってきました。読み終えたあと「心の風通しがよくなる」と、あとがきにありますが、本当にそんな本ですね。気になったのは、p183で「めそめそ泣いてて一番つらいのは、自分が女子みたいに思えることだ」と言っていることです。女性の体で生まれたシェーンが、男らしくなろうとするのはリアルですけど、こう書いてしまうと、泣くのはやっぱり女々しいのだと、子どもの読者は思ってしまいます。性の偏見から自由になるという思いから書かれた本なのに。同じページの「ろくでなし」という台詞は、現代の日常会話としてちょっと不自然では。

西山:私も最終的にマッチョだなぁという印象。試合のおわり方とか、ですね。『ジョージと秘密のメリッサ』(アレックス・ジーノ著 島村浩子訳 偕成社)では、本当に主人公の切なさを共有する読書だったのですが、こちらではそれはありませんでした。主人公の年齢の違いもあるでしょうけれどこちらは思春期に入って、カミングアウトするのかしないのか、どんな反応が待っているのかというドラマでドキドキひやひやしながらページを繰る読書だったので、トランスジェンダーがエンタメとして消費するネタになりかねないと危うさを感じたのです。当事者への想像力を育まれ、共感によって、辛さを追体験していく読書ではなく、自分からは距離を持ったまま、傍観してどきどきしながらページを繰っていく、という感じです。もちろん、ホルモン療法の具体的な記述や、様々なサポート団体の存在を教えてくれることなど、有意義な啓蒙性だと思いますし、この作品が性的マイノリティを消費的に扱っているとは考えませんけれど。ホルモン治療を始めるなら10歳ぐらいがリミットで、それには保護者の承諾が必要、というのが『ジョージと秘密のメリッサ』にも出て来ていましたね。お父さんの変化がどうも腑に落ちないし、3歳のときに性別に違和感を持ったのなら、すごく辛かったと思うけど、それはあまり描かれていない。思春期のカミングアウトに焦点化されているから、それは無いものねだりなのかも知れませんが、主人公の苦しみにこちらも胸が痛くなるという『ジョージと秘密のメリッサ』のような読書にはなりませんでした。

ハル:読んでよかった! と思いました。主人公の感情が胸に迫ってくるので、自分が主人公だったら、その親友だったら、恋人だったらと、いろんな角度から想像して考えることができます。ところどころに入ってくる漫画も、全然意味はわからないんだけど、癒されました。「テイストは宮崎駿に似て」ないですけど。でも、男だったらズボンをおろしてぱっと見せちゃえっていうのは、これは仮に男の子同士でも暴力ですよね。

シア:読後感がすごくいい話でした。この本はタイトルが秀逸だと思いました。でも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』など旬の映画名やゲーム名をそのまま文章内に入れるのは、作品が古くなりやすいので個人的には好きではないです。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は劇中劇としての漫画に似せる意図があったんでしょうが、「アサシンクリード」に関しては描写に違和感があったので、作者がゲームは未プレイだけど若い読者のために書いているように感じてしまいました。『ハリー・ポッター』(J・K・ローリング著 松岡佑子訳 静山社)の文章を引用するのも気になりますが、みんな知っている作品だろうからいいのかな。ネタバレが嫌で帯など何も見ないで先入観なしに読み始めたので、表紙だけで野球少年ものだと思って読みました。だから、サマーの花嫁の付き添いの「女の子」という辺りから、一気に引き込まれて読みました。知らずに読んで良かったです。理解することの難しさや、人間の排他性がよく描かれていました。頑なで変わろうとしない人間からは離れていくのがいいと思います。アレハンドラの底抜けの明るさの裏に隠された苦労を思うと胸が苦しくなりますが、過去や辛さを乗り越えた人間は強いし、弱い人間に優しくなれますね。この子がどういうキャラクターなのか、過去に何があったのか、子どもにわかるのかなと思ったんですが、そこを書き込むと暗くなってしまうかもしれません。日本の本、とくにティーン向けのだと辛いことがあるとすぐ死のうとしたり、死んでしまった人が出てきますが、この本だとどんなに辛くてもシェーンにそういう発想がなくて良かったです。キリスト教圏だからでしょうか? それにしても、父親が薄っぺらいですね。クリスもペラッとしてます。マデリンもめんどくさかったし、大人の恋愛もめんどくさそうですね。友情最高です。それにしても、マデリンの「ピンクのスカート、オレンジのレギンス、青いコンバース」ってすごい配色ですね。これだから海外文学はおもしろいですよね。

マリンゴ:とても魅力的な物語でした。まず主人公を男子と認識させてから本題に入っていくので、主人公の戸惑いや悩みがダイレクトに伝わってきました。ただ一つ気になるのは・・・野球に関して、主人公がスーパーマンのように描かれている点ですね。この年齢だと、治療が進んでいない段階では、体格的に、体力的に、男子に追いつかれそうになるなど、焦りがあるのがリアルなのではないかな。突き抜けたピッチャーとして描かれているため、そこはちょっとファンタジーっぽいと思いました。

カピバラ:トランスジェンダーに関していろいろ知らなかったことがわかる本でした。一口にTといっても多様なケースがあることがわかりました。特にp156の「トランスジェンダーの子のなかには、自分がこういうふうに生まれてきてラッキーだという子もいた。トランスジェンダーであることが、自分をユニークでスペシャルな存在にしてくれるから、もし変われるとしても変わりたくないとまでいった」という部分、そうなのか、と認識を新たにしました。そういう子どもを受け入れるまわりの大人たちにもいろいろなスタンスがあることもわかりました。理性ではわかっていても感情が追いつかないところなど、よく描かれています。

ハリネズミ:自分の性に違和感をもつ子どもの気持ちや、親のとまどいと受容の過程が、ていねいに描かれていると思いました。いつも子どものそばに立とうとするお母さんがいいですね。ただ、トランスジェンダーを取り上げた作品で気になるのは、古い男らしさ(たとえばマッチョ)や古い女らしさ(たとえばかわいらしさ)が、前面に出てきてしまうところ。シェーンは胸毛が生えてきたらいいと思うし、アレハンドラはハイヒールの靴をはく。今は#kuTooというハッシュタグまで登場して女たちはハイヒールを拒否しようとしているのに。これまで苦しんできたトランスジェンダーの人たちは、抑えていた気持ちを爆発させて、肥大化した逆の性のイメージに同化しようとするんでしょうけど、それだとさっきまめじかさんが言った「めそめそ泣いてて一番つらいのは、自分が女子みたいに思えることだ」みたいな発言も登場してしまう。トランスジェンダーの人がみんなそうかどうかはわからないのですが、文学作品がそこでとどまると、間違ったイメージを子どもの読者にあたえかねませんね。レヴィサンの『エヴリデイ』(三辺律子訳 小峰書店)には、女の子と男の子との中間が居心地いいみたいな人が出てきますが、もっといろいろ描かれるようになるといいと思います。それとp68で、シェーンが「ぼくが通った学校だ」と言ってしまう場面ですが、この訳し方だとうっかり口をすべらせたというより、宣言しているみたいなイメージにとれてしまいました。

きび:「ひどくなんかない」が先に来たら、うっかりいってしまった感が出るんじゃないの?

カピバラ:翻訳では最初から主人公の一人称は「ぼく」ですが、原文では「I」ですよね。読者が受ける感じは違ってくると思います。日本語の一人称は性別や年齢で固定されてしまうので、どれかに必ず決めなきゃいけないところがあります。それを考えると、LGBTの人は日本ではもっと生きにくいんじゃないかと気づきました。

花散里:最初、このタイトルと表紙を見て読みたいとは思えませんでした。読んでみて、とても読後感が良かったので、このタイトルはどうなのかと思いました。表紙画も野球少年に読んでほしいのかと感じたくらいでした。トランスジェンダーの子どもの気持ちが細やかに丁寧に描かれていて、両親との関わりも印象深く残りました。最近、LGBTなどを扱った児童文学の作品が多く、この作品を読んでいても医学的にも知らなかったことが多かったので、多様性などについて理解を深める意味でも、たくさんの人に読んでほしい作品だと思いました。

コアラ:「作者あとがき」で、「同じ状況にある人が、必ずしもシェーンと同じようにするわけではない」として、今の性領域にいるのを大事にしている子もいる、医療的処置を受けてもどちらでも個人の自由、としているのがいいと思いました。あと、背表紙のタイトル文字が読みづらかったです。

アンヌ:おもしろくて、そして、読むたびに泣いてしまう本です。主人公だけではなく親の葛藤もよく描けています。母親が助産師で、他の親よりは事情が分かる人という設定ですが、それでもシェーンが最初に打ち明けた相手は、母親ではなく母の友人だった。親子であるからこそ微妙な問題だということがわかります。この問題に向き合おうとしない父親と再度治療についてもめた後に、母親はPFLAGに行こうと言い出す。たぶん離婚に至る過程を思い出して辛かったのではないかと思わせるところで、親も含めて支援する団体があって親も支援を求めていいということが描かれているところが素晴らしいです。父親は婚約者にもシェーンの秘密を打ち明けていないし、医者からも逃げてしまう。社会的通念で生きている男性は、たぶんこういう問題から目をそらしがちなんでしょう。子どもに捨てられる前に改心してくれてよかったと思います。p275の結婚式のスピーチで、大人も弱い存在なんだと気づいているシェーンのスピーチがけなげで、パパもよく成長したなと涙ぐんでしまいます。シェーンは、親友に打ち明けられないことでずっと葛藤しています。その過程で描かれるマデリンとの淡い恋やジョシュとの一塁の会話もおもしろい。そして、ニコのセリフの「レズってやつですか」はLGBTQのうちの二つをも侮辱する言葉で、いかにも男性優位者という感じです。この場面とアレハンドラがカソリックの学校で教師に殴られたというところを読むと、アウティングの卑劣さや宗教の問題などを知ることができます。見事で本当におもしろい作品だとは思いますが、専門用語について、カタカナや英語表記のままのものが多く、何も解説がないのが気になりました。

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エーデルワイス(メール参加):書名のThe Other Boyの邦訳が「変化球男子」になるとは、うまい!と思いました。PFLAG(レズビアン・ ゲイの家族と友人の会)について丁寧に書かれていて、主人公のシェーンの気持ちが伝わってきます。さすがアメリカで、選択権は本人にあると、子どもの頃から意思表示するのですね。宮崎駿アニメは、世界的に有名なのだと改めて思いましたが、シェーンが描いたとされる漫画は、今一つよく分かりませんでした。

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題の会」より)

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ジュリアが糸をつむいだ日

さららん:主人公ジュリアは思いやりのある子ども。楽農クラブの自由研究で「カイコを飼う」という選択をした二人だけど、ジュリアはそれが韓国っぽくないかと悩みます。パトリックとはすごく仲良しなのに、口には出せない微妙な心理があり、子どもの内面と外面が違う部分がうまく描けていました。一方で、ジュリアは黒人のディクソンさんに対するお母さんの反応を観察し、お母さんにも人種を差別する気持ちがあるのではと悩んだり、自分をチャイナと呼ぶまわりの子たちは、知らないことを知らないんだと気がついたりします。アイデンティティの在り方や差別というモチーフを、ステレオタイプとは違う形で提示し、答えが出ないままの部分も残ります。そこがいい。「カイコを飼う」経験を通して、読者もジュリアとともに考えることを促されていきます。ものの考え方が閉ざされがちな日本の子どもに、読んでもらいたい1冊だと思います。

木の葉:カバー袖の説明を読んでしまったので、カイコを飼い始めるまでが長く感じてしまいました。ここは本の作り方として少し工夫してほしい気がします。編集としては、どこまでネタバレにするかは頭が痛い問題とは思いますが。物語全体としてはおもしろく読みました。解決しすぎない終わり方がいいと思ったし、最初、ずいぶんな態度だなと思った弟への感情もいい感じに収まりました。でも、中学生と思うと、人物造型や行動が、とても幼く感じられてしまいました。それから、p12の「郵便日記」という箇所は、原文がどうなっているのかな、と気になりました。パトリックがジュリアをジュールズと呼ぶことが、どうカッコいいのか、私にはイマイチわかりませんでした。p40に「チャイナチャイナ」とはやしたてられる箇所がありますが、ここは少し説明不足なのではなかと感じました。高学年ぐらいの読み手だったら、チャイナじゃなくてコリアでしょ、と思うんじゃないでしょうか。

ハリネズミ:東アジア系の人を「チャイナ」と呼ぶのは、世界のいろんな場所で耳にします。たぶん昔から華僑の人たちが世界のあちこちに住み着いているからでしょうね。でも、今の日本の子どもにはわかりにくいかもしれませんね。

木の葉:p108で、刺繍するものとして国旗という発想に、おっと、と思いました。国のありようの差でしょうが、日本の創作で、日の丸刺繍なんて書かれたらレッドカード出してしまうかも。アメリカ的ということでしょうか。母が人種差別者なのかと悩むくだりは、おもしろかったです。そして、差別される側である黒人のディクソンさんが、ジュリアたちを中国系と間違えるのも、物語としていいなと、思いました。ただ、中国系や日系に間違われる時の感情をもう少し知りたかったです。有機農業の自然循環の話題は、テーマとしてはあまり新鮮味がないという気もします。今日的にはどう議論したらいいのかわからりませんが。ただ、そこに経済的な視点があるのはいいと思います。できあがった刺繍については、うまくイメージできませんでした。

きび:リンダ・スー・パークは、テーマを見つけるのが本当に上手ですね。この作品も、主人公のカイコを飼うというプロジェクトと、アジア系住民と黒人のあいだの微妙な差別意識、循環型農業のことなどがうまくからみあって、楽しいだけでなく考えさせられる作品になっていると思いました。『となりの火星人』(工藤純子 講談社)もそうだけど、日本の児童文学はとかく内向きになりがちだと思うのですが、こういう風に社会に向かって開かれた作品をもっと読みたいと思いました。『モギ~ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房)がニューベリー賞を受賞したあと、著者にアメリカで話を聞いたのですが「これからは、アメリカじゅうの子どもたちがお母さんの本を読んで作文を書かなきゃいけないんだね。かわいそう」と自身の子どもにいわれたとか。まあ、これは笑い話ですが、教師も図書館員も安心して子どもたちに薦められる、アメリカの児童書の高い水準を示しているような本だと思いました。ただ、一人称で書かれているものって、訳し方によってはちょっとうるさい。この本も、ストーリーに引きこまれる前は、少々うるさい感じがしました。

ルパン:とてもおもしろく読みました。子どものときにカイコを飼ったときのことを思い出しました。昆虫が痛みを感じないということは初めて知りました。

コアラ:まず、カイコを飼うことが「韓国っぽい」というのに驚きました。日本で昔、養蚕が盛んだったということを習っていたので、むしろ日本のものという感覚で、韓国でも養蚕が盛んだったというのは知りませんでした。それから、「楽農クラブ」というのが出てきますが、アメリカの4Hクラブみたいだな、と思いました。子どもの頃、4Hクラブの子のいる家庭にホームステイしたときのことを懐かしく思い出しながら読みました。内容のことで言えば、ジュリアとその家族は韓国系アメリカ人で黄色人種、パトリックはヨーロッパ系の白人、ディクソンさんは黒人と、いろんな人種が「アメリカ人」として暮らしていて、すごくアメリカらしいと思いました。そして、それぞれに対する意識をジュリアが感じ取って、考えを深めていくのがすばらしいと思いました。ジュリアとパトリックの友情もいいですね。パトリックが正直にイモムシが怖いとジュリアに打ち明けたり、ジュリアもカイコの研究をやりたくなかったのにやりたいふりをしていたということをパトリックに話したり、そしてそれをお互いきちんと受け止めたりするのがすごくいい。中学生という年頃だったら、男女の友情として、こういう相手がいるといいなと思うかもしれませんね。ジュリアがカイコを手にのせてかわいがる場面も出てきたので、「あとがき」で作者が「イモムシ恐怖症」と書いてあったのにはびっくりしました。この物語はカイコを飼う話ですが、イモムシの挿絵は1箇所(p185)だけしか出てこないんですね。それも、イラスト的でリアルなものではないし、カイコガもp231でチョウチョみたいにかわいく描かれています。これなら、虫恐怖症の人でも怖がらずに読めますよね。本文の漢字には小5以上で習うものにルビが振ってあるようなので、小学校高学年から読めるように作られていると思いますが、カバーの絵がちょっと幼いと感じました。カバーの絵は、桑の葉ではなく、みんなで桑の実を摘んでいるんですよね。裏表紙はお菓子の絵なので、桑の実でお菓子を作る話のように見えるとも思ってしまいました。物語の中に、パソコンは出てくるけれど、スマホは出てこないんですよね。オリジナルが出版されたのが2005年で14年も前だから、ちょっと古い感じもしましたが、技術の進歩が重要という内容ではないので、これはこれでいいと思いました。全体的におもしろかったです。

アンヌ:ジュリアがカイコを飼う決意をするまでが全体の4分の1もあって、主人公に興味を持てないまま、なんだか飽きたなあと思いつつp104までたどり着いた感じです。そこから先はおもしろかったし、有色人種同士の微妙な差別感とかが描かれていたり、知っているようで知らないカイコについても知ることができたりして、読んで良かったなと思いました。お母さんの黒人への差別意識について突き詰めていないところは、少し気になりました。

花散里:リンダ・スー・パークの作品は好きで、特に『モギ~ちいさな焼きもの師』が大好きでした。『木槿の咲く庭』(柳田由紀子訳 新潮社)などを読んで、韓国系アメリカ人である作者にとって韓国が作品の原典であるのではないかと深く心に残りました。この作品では現代の子どもたちのことが描かれて、ジュリアの成長物語として読みました。自由研究でカイコを飼うというときに関わっていく人たち、特にディクソンさんに対する母親の思い、ジュリアがいろいろなことを考えていくということが作品から伝わってくると思いました。カイコの繭から絹糸を、絹糸から刺繍の作品へと見事に描いていることも印象的でした。

ハリネズミ:主人公は、カイコの卵を取り寄せるところから絹糸を取ってそれで刺繡をするところまで体験するわけで、そこがていねいに描かれています。著者も、同じような体験や観察をながら書いたのだろうな、と思いました。ジュリアのお母さんが黒人のディクソンさんを警戒していて、それは韓国にいた若いときに何か嫌な思い出があるんじゃないか、という推測が出てくる。それと、ディクソンさんが、韓国だと聞いても中国と間違えたりする。この設定からは、ディクソンさんは「嫌な兵士」として韓国に行ったことはないのがわかります。循環型農業についても書かれていますが、ほとんどは先生が言葉で説明してしまいます。ただ、イメージがはっきりわかるように説明しているのがいいですね。パトリックとジュリアは7年生(日本だと中学1年生)ですが、ほかの男子たちとつるむことなく、ジュリアとカイコの研究に精を出しています。そこがちょっとリアルではないかも。パトリックは、世の母親たちが描く男の子の理想像っぽいですね。ジュリアがお母さんに「どうして黒人を嫌うのか?」と面と向かってたずねたりしないのが、ちょっと気になりました。韓国風の家庭ということなのでしょうか?。私は、リンダ・スー・パークのほかの作品と比べると、ストーリーがちょっと弱い気はしました。それと、この表紙には、ジュリアのお母さんらしき女性が描かれていますね。ということは、物語の後日談みたいな絵で、とうとうお母さんもディクソンさんと親しくなり、クワの実を摘ませてもらっている場面を描いたんじゃないでしょうか。

カピバラ:ジュリアは自分が差別されていやな思いを体験しているので、自分の大好きな母親が人種差別をしているとは思いたくないんでしょう。だから面と向かって聞けない。その微妙なところをうまく描いていると思います。私は一人称で書かれているのがうるさいとは思わず、ジュリアの気持ちに添って読めました。良いところも悪いところも素直に語る姿勢に好感が持てました。パトリックとジュリアは、確かに中学生よりは幼い感じだけれど、男女を意識することのない仲良しぶりがさわやかでした。弱点をかばいあい、相手を尊重しつつ、目標にむかって協力しあっていく過程がとても楽しかった。卵から大事に育ててきたのに、殺さなきゃいけないと知ったときの衝撃はよくわかり、先生の話で納得するところも自然に描かれていました。いまの日本の子どもはカイコがどういうものか知らないと思うので、挿絵にもっとカイコや、卵のパックに繭をつくる様子などが描かれていればよかったと思います。この本を読んでカイコに興味を持った子は、次に科学的な本に手を伸ばすと思うので、それならそれでもいいんですけど。パトリックがインターネットも使うけど、何でもまず本を読むところから始めるのに好感を持ちました。ジュリアが弟をうるさく思う気持ちも共感できるし、その弟の扱いをパトリックが心得ていて、ちゃんといい仕事をさせるようになるのも愉快でした。とても好きな作品だったけど、唯一不満なのはタイトルの邦訳。この題を見て、女性が手に職をつけていく話なのかと全く違う内容をイメージしてしまいました。女子の話ではなく、魅力的な男の子が出てくるし、一緒に計画を立てる過程やジュリアのスパイみたいな作戦は男女を問わずわくわくするのに、このタイトルだと男の子にはすすめづらいので残念です。

マリンゴ:非常にひきこまれました。虫の描写がまずリアルですよね。カイコを殺さないと、絹糸が取れない。その逡巡の場面で、命の大切さと、命をいただいて人間が生きるのだ、ということを伝える――とてもいい描写だと思いました。コンテストのシーンで、1等賞をもらってばんざーいじゃなくて、ノミネート数が少ない中での2等賞というあたり、リアルでいいですよね。気になるのは、タイトルです。『ジュリアが糸をつむいだ日』って、ネタバレもいいところ。中盤、この計画はうまくいくのか、とハラハラさせるストーリーなのですが、タイトルを思い出すたび「でも結局うまくいくんでしょ」と冷めてしまう。原題も同じだったらまだあきらめもつくのですが、まったく違うし、もう少し考えられなかったのかと思います。

シア:すごくおもしろくて感情移入して読みました。リンダ・スー・パークの本って大好きです。だけどタイトルはつまらなそうだし、完全にネタバレですね。本来ならカイコを殺すのか殺さないのかハラハラしながら読むところで、『ジュリアが糸をつむいだ日』。これはもう完全に殺してるじゃないかと。しかも、つむいだシーンなんて半ページもなかったし、つむぐと言ったら糸車とか連想しますが、そういうのではなくただ鍋でぐるぐるしているだけでそんな重要シーンでもなく。とくにその日がこの本のメインというわけでもないし。タイトルはどうにかしてほしかったです。この本の登場人物はいい人ばかりですね。弟も後半にはコインをあげたりと可愛い行動を取るし。パトリックのさりげない優しさや、貧乏を気にしているところなどにもキュンときました。無駄な恋愛要素がなく、爽やかなところも良かったです。でも、p160「日本人に間違えられる」というのが不思議でした。日本人はマイナーで、多いのは中国人か韓国人だと言われていたので。ジュリアが語っていた、人々は「知らないのに決めつけ」て、「わかったつもりになっているのが問題」というところに大いに共感します。根深い人種差別にも切り込みつつ、もう一つの見えない差別という裏テーマも語っています。

ハル:私も、このタイトルとこの表紙の雰囲気から、こんなに元気のいい物語が始まるとは思いませんでした。表紙の絵はとても素敵ですが、手にとったときは、対象読者よりもう少し小さい学年の人向けの本なのかなと思いました。おじいさん(ディクソンさん)に桑の実を見せている男の子(パトリック)の表情なんて、ほんとにかわいいですけどね。物語のなかでひとつ疑問だったのは、ディクソンさんの情報をくれたガソリンスタンドのお姉さんを「歯が汚い」という設定にしたところ。どんな意図があるんでしょう?

シア:生活水準のことが言いたいんですかね。アメリカは歯に対する意識が高いし。クリスのホワイトニングの描写もあったし。

ハル:そういうことなんですね。

西山:先ほどからカイコの飼育の話が出ていますが、今回のテキストとは関係ありませんが、思い出した作品をご紹介しておきます。ときありえさんの『クラスメイト』(ときありえ著 文渓堂)で、学校でカイコが配られてそれぞれ飼育するエピソードが出てきます。四半世紀前の作品ですけれど、おもしろく読めると思います。さて、テキストですが、正直なところまどろっこしかった。p79の「うちの母さんは、黒人が好きじゃない」から前のめりの読みになりました。それまではちょっとうるさく感じていました。私もp161からの2ページは、大きなテーマで共感を持って読みました。p177の「もしかすると、問題はいつでも存在していて、真剣に考えたときにだけ見えてくるんじゃないかな」なんかもいいですね。でも同時に、翻訳作品でも、こんなにはっきりストレートにテーマを言葉にしている作品があるんだと、ちょっと新鮮に思いました。『となりの火星人』は歯の浮くような表現もあったかもしれないけれど、やっていることは同じではないでしょうか。要は生なテーマのストレートな表現だから良いとか悪いとかではないということでしょう。あと、マイノリティVSマイノリティという構図が新鮮でした。南米のスペイン語圏で、中国人という意味の「チノ」がアジア人への別称として使われる場面にはちょくちょく出会いましたが、「チノ」と呼ばれて腹を立てた日本人青年の「武勇伝」みたいなのを聞かされたのを思いだして、「チャイナ」と言われるのがいやなんじゃないかと、ちょっとひやひやしました。アジア人同士の差別意識とか、ここに書かれているのは違うとは思いますが……。

まめじか:世代が違うと、別の国や人種への感情も異なり、じゃあ自分はどう思うのかと考える子どもの姿は、ロザムンド・ピルチャーの短編などにも出てきます。この本の舞台のアメリカは、日常的に人種問題を考えられる環境ですね。ジュリアは、人生や社会の負の部分を、隠された玉どめに重ね、また、それを考えぬくことが大切なのだと思い至ります。子どもたちを見守るディクソンさんが魅力的ですね。養蚕や刺繍という韓国の文化に加えて、参政権を得たアメリカの女性による織物の話も出てきます。カイコを殺したり、循環型の農場を訪れたりする場面では、人と他の生き物の関わりについて考えさせます。いろんな要素を組みこんで、タペストリーのように美しく織りあげた作品です。p235~p236に「あの五つのさなぎのおかげで、ほかのカイコがちゃんと生きのびて、交尾して、卵も産めたんだということを、カイコたちが知ってくれていたらいいなと思う。もちろん、知っていたはずはないけど。だから、かわりにわたしが学ぶんだ」は、最後の一文がぴんときませんでした。「かわりにわたしがおぼえておく」という意味ですよね?

ヘレン:日本語のタイトルは好きではありません。かと言って、原題もおもしろくなさそうですね。内容はわりとおもしろく読みましたが、テーマを入れすぎたきらいがあります。話があちこちにいっている印象です。もっと絞った方がいいと思いました。実は日本版では削られていますが、原書では各章の最後に作者とジュリアの会話が入っています。そこではジュリアが作家に文句を言ったりしています。ケニーはなぜこんな風に描かれているのかとか。それをうるさく感じていたので、日本版は削って良かったと思います。

一同:ええっ、日本語版で省いたところがあるんですか? 知りませんでした。

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エーデルワイス(メール参加):ジュリアとパトリックの親友同士がカイコを育てるという物語で、カイコの育て方と二人の心の軌跡が丁寧に伝わってきました。二人ともこれからの素敵な人に育つであろうと感じて嬉しくなりました。人が本当に理解し合い差別をなくすのはなかなか時間がかかるのですね。希望はまだ充分にあると爽やかに伝わる内容でした。

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題の会」より)

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工藤純子『となりの火星人』

となりの火星人

シア:公共図書館での予約者がたくさんいて延長できずに返してしまったので、あやふやな記憶ですみません。タイトルからSFかな? と思って読み始めたのですがそんなことはなく、現代の学校に通う子供たちが抱える問題を描いたお話でした。腑に落ちることが多く、なかなか面白く読めました。p.25の「ゆるみそうになる気持ちを」というところがとても辛くて、学校でずっと緊張しなければならない子どもがいるということは間違っていると思いました。でも、これは事実なんですよね。学校というところは窮屈な存在になってしまっています。そういうところはどうしたらいいのか、暗澹たる思いでいっぱいです。本を休み時間に読んでいると変だというのは、他の本にも出てきましたが決めつけのように感じます。本など読まないでみんなと話してみようと言う人もいますが、人と話ができないとか人前で話せない子どももいますよね。でも、それも決めつけなのかもしれませんね。干渉してくるわりに寛容でない世界ですよね、学校って。親以外は放っておいてほしいと思います。p.28辺りの「相談室ってネーミングが悪い」というのはわかります。「何か困っていることはない?」と突然聞かれた子も困るのではないかと思います。急に近づかれても、距離感を持って接していかないと難しいのではないかと思います。p.38の「悪いところばかり注目していると」というのは子どもにわかりやすいメッセージだと思います。強くてわかりやすい言葉というのは、読解力不足が叫ばれている昨今では、とくに必要なのではないかと思います。引用する側としても使いやすくていいですね。しかし、他の海外の2冊は「ありのままの自分」を大切にして、周囲もその子を分け隔てなく受け入れようというのが今後の展望も含めて感じられるのですが、この本はあくまでその子は「火星人」ではあるけれど地球人として受け入れてあげようという、異質は異質として扱うという感が否めません。お国柄の違いなのでしょうか? まあそうだとしても生徒たちに読んでほしいと思います。

マリンゴ:テーマはとてもいいなと思いました。困らせている子じゃなくて、困っている子。さらに何に困っているのか自分でもわからない子。そういう子をすくい上げていくのは非常にいいし、火星との紐付けも、うまくいっていると思いました。ただ、全体的にリアリティのない部分が多くて、物語に寄り添えない感じがしました。たとえば富士山に登るシーンですが、雨音が聞こえるほどに降っているのに、数時間後はめちゃくちゃ晴れています。雨雲を飛ばすほど風がとても強いという描写は特になくて・・・。物語をこういうふうにする、というのがあらかじめ決まっていて、そこに向かってストーリーを引っ張っていっている印象がありました。

花散里:読後感から言うとよくありませんでした。確かに上級ぐらいの子が読めるのかもしれませんが、p60からの会話の後の美咲の「そんなつもりはなかったのに、声をかけていた」、「やっぱりね、という意地悪な気持ちが頭をもたげる」とか、p64「いい気味だった」など、美咲の気持ちの表現の仕方に後味の悪さを感じました。特に前出の表現だけではなく全体的に読み進んでいって、子どもたちに読んでほしいという感じが持てない作品でした。

コアラ:私は、読みやすくておもしろかったです。クラスのあの子はこの登場人物に似ているとか、子どももおもしろく読めるのではないでしょうか。強く見える人の弱さとか、感情とか考えとか、他人には見えにくい部分も描かれているので、自分と違うタイプの子のことも理解できるようになるかも、と思いました。ただ、感情の描き方が荒っぽい。特にp40〜p41、和樹が泣くのが唐突で、話の運びが強引だと感じました。それから、火星の大接近について調べたら、2018年7月31日。今となってはあまりピンときませんが、発行日を見ると、2018年2月6日となっているので、発行のタイミングはよかったと思います。火星の大接近というのは、小・中学生にとって、どのくらいのイベントだったのかな。あと、p221の3行目、「同級生の四人」とありますが、湊はp14で「隣のクラス」となっています。同じ学年、という意味で「同級生」と言うのでしょうか? 私はひっかかりました。

アンヌ:初読の時は何もかもぴんとこなくて、最後に山に登らせて終わりとは、なんて古風なつくりだろうと思いました。2回目に読んだ時は、物語がうまく噛み合っていく感じはうまいなと思ったけれど、やはり登場人物の抱える問題に納得がいきませんでした。分かりやすかったのは聡くらい。これだけ問題がある子供同士が山に登るのに、カウンセラーの教師がついていかないところも奇妙に感じました。

ルパン:前に1回読んだんですけど、内容がまったく思いだせななかったので、もう1度読み返しました。そうしたら、前とまったく同じ感想を持ちました。前半はともかくうるさい。ずっと説教されている感じ。でもまあ、読んでいるうちに慣れてきちゃいました。「これ言葉に出して言っちゃうんだ」っていうところが多々見られて、演劇の台本を読んでいる印象でした。ただ、ストーリーから汲み取る力がない子どもにとっては、わかりやすくていいのかもしれません。他に気になった点は、おばあちゃんが年取りすぎていること。小学生のおばあちゃんならもっと若いと思います。この感じ、ひいおばあちゃんだったらわかるのですが。

きび:さっき予約がいっぱいというお話がありましたが、私の住んでいる区の図書館では、最初に借りたときも2度目も予約はゼロでした。地区によって違うのかしらね。いろいろなタイプの子どもが登場するし、作者がいいたいことがずばりと出てくるので、すらすら読める本だというのはわかります。でも、こういう子どもたちを登場させよう、こういう風にまとめようという作者の構想があって、その枠の中から出ていない作品だと思いました。物語って、作者の作った枠を飛びこえて、作者自身も思いがけなかったものに育っていくというところがあるんじゃないかな。小さいころも今も、私はそういう作品に感動してきたような気がします。それから、スローガン的な、生な台詞が、特に後半は目立っていて気になりました。たとえばp205の「同じように生まれたのに、どこかがちょっと、人と違う。それでも、同じように生きていきたい。誰かを大切にし、大切にされて、幸せになりたい」という3行とか。「この3行を物語で書いてよ!」と思ってしまいました。子どもは、たしかにこういう下りが好きかもしれないけど、なんだか危険な気がします。内容こそ違っても、戦時中も少年雑誌などの「決め台詞」で愛国心を奮いたたせた子どもたちがたくさんいると聞いていますので。それから、主人公のおばあちゃんと、駄菓子屋のおばあさんの話し方が気になりました。今時のおばあちゃんは、こんな話し方をしないと思うし、いくら同じ町で育っても、同じ話し方をするかな? ちょっと変わった人を「火星人」というのも、ひと昔まえの言い方じゃないの?

木の葉:再読です。出版後すぐに、おもしろく読んだ記憶があります。「困っている子」という設定がいいな、と。再読して印象が変わることはありますが、気づかなかったことに気づける場合と、気にならなかったことが気になってしまう場合があるような気がしています。今回は、ちょっと残念ですが、後の方でした。先ほどから出ているおばあちゃん問題については、この作品に限らず、創作における祖父母の類型的な表現は前から気になっています。今時のおばあちゃんを考えてよ、と思うんですね。表紙のイメージは、中学年の印象でしたが、高学年の物語なんですね。キレる少年の和樹のボキャブラリーが豊富なのに少し驚きました。三人称ではあっても視点はあくまで和樹なんですが、配慮、無罪放免、職務怠慢、痛感、自暴自棄、ちなみになどなど、難しい言葉がたくさん。これを新鮮と採るかミスマッチと感じるかは人によって違うかもしれません。視点が変わる短編連作風な構造なので、読み通した後で、あまり強い印象を残さないかもしれません。それから、初めに決められたストーリーがあって、それに合わせて引っ張っているという感じが否めませんでした。言いたい言葉が先行しているというか。たとえば、p120の駄菓子屋のおばあさんのセリフ。「どんな子だって、未来であり、希望なんだ」といった唐突な印象の言葉です。それから、ラストp217の「誰もが、生きていることに感謝した」みたいな言葉は不要だなと感じました。

さららん:自分も空気が読めないタイプなので、登場人物の中で、かえでの気持ちや行動に共感できました。善意で、言ってはいけないことを言ってしまうところや、しまったと思うと、「ごめんなさい」と、つい言ってしまう気持ちもわかります。ただ全体に作者の意図が強く出てしまって、そこが残念。特に和樹のお母さんの造形に無理を感じました。かえでのおばあちゃんも大事な存在ですが、物語の流れで必要な言葉を並べた印象が残ります。オムニバス形式なのでテンポは軽快だけど、今の文体だと一人の心理にあまり深く入っていけないです。とはいえ、一日中、学校で気を使っている子どもたちが読みたくなるテーマ。読んだあと、救われた気分になる子もいるかもしれないです。

ヘレン:まだ読み終わっていません。今日の3冊のテーマの繋がりを感じました。表の表現と裏の表現が異なりますね。一人称、三人称が混ざっていて読んでいて混乱しました。p38「言葉は魔法だ」というところ、そういう影響はあるし信じることができます。和樹は大人っぽい、むしろ子どもらしくないと思いました。でも、自分の体が衝動的、直感的というのはいいことだと思います。いろいろな場面の説明はいいと思うのですが、時々冗長すぎますね。

まめじか:あまりひっかからず、さらっとおもしろく読みました。伝えたいことがはっきりあって、書かれた本ですね。同調圧力とか、外からは見えなくても、ひとりひとりがいろんなものを抱えていることとか。

西山:おもしろく読んだのですけれど、その印象だけで具体的な中身を思いだせないという情けない状態です。一話一話すっと切っていくから、浅くなる部分はあるのかも知れないけれど、ハードルの低い易しさはマイナスばかりでもないと思います。「空気が読めない」かえでの側から語られているのは、新鮮に読みました。

ハル:私の好みの問題なのかと思っていましたが、全体的にすごく、お芝居の中の人たち、という感じがしました。お芝居の中の人たちでも、その中で成立していればいいんでしょうけど、この子がどうしてこういうことを言うのか、いったいこの子はどんな子なんだ? と、登場人物の像が結べない感じがありました。たとえば、駄菓子屋さんのおばあさんの「どんな子だって、未来であり、希望なんだ」とか、台詞がいちいちかっこいので、こういう言葉が胸に響く読者もいるのかもしれませんが、とくに、普段小説をあまり読まない子だったら、「これだから小説は・・・」と空しく感じないだろうかと思いました。

ハリネズミ:様々なタイプの子どもたちが、お互いに認め合い、仲間になっていくのを書こうとしているのは、いいと思うのですが、それぞれのタイプがいまいち描き切れていない、というか、つきつめられていないように思います。そのせいで、ウソっぽくなっている。特に和樹とか岩瀬美咲は、こんな子リアルにいるのかな、と疑問に思ってしまいました。中学生と湊の会話もウソっぽいです。生徒たちに「みなさん仲良くしましょうね」と、無神経に猫なで声で言っている教師のイメージが浮かんできてしまいました。こんなにゆるゆるのキャラだと翻訳物では出版してもらえないですね。実際の子どもと面と向き合うことなく頭の中だけで書いているようにもとれてしまい、そうだったら、子どもに失礼だなとも思いました。この表紙ですが、変わった子のことを今でも「火星人」って言うのでしょうか? 今は、火星にはこんな姿の生命体は存在しないとわかっていますよね? そして、ひょっとすると理科の時間にそういうことも習うかもしれないのに、こんな表紙でいいんでしょうか? 子どもには、知識の点でも物語の点でも、できるだけ本物を提供してほしいと私は思っているのですが、この作品には「子どもだまし」的な甘さをいろいろな面で感じてしまいました。p65の「貸したものは返さないと」は、「借りたものは返さないと」かな。

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エーデルワイス(メール参加):文章構成力はさすが!と思いました。「火星」をキーワードにかえで、湊、和樹、美咲、聡のそれぞれの生き辛さをくっきりと浮かび上がらせています。最後に富士山登山の頂上で終わらせるとは・・・。残念なのが表紙の絵(裏表紙はいいけど)と挿絵です。内容としっくりこない。『セカイの空がみえるまち』のような表紙、挿絵の方がよいかしら?

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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2019年05月 テーマ:知らない世界に足をふみいれて

 

日付 2019年5月10日
参加者 ネズミ、ハル、ルパン、花散里、カボス、アンヌ、コアラ、まめじか、西山、さららん、木の葉、ヘレン、マリンゴ、(エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 知らない世界に足をふみいれて

読んだ本:

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山本悦子『夜間中学へようこそ』

夜間中学へようこそ

ネズミ:とてもテンポがよくて、優菜の行動にそって一気に読みました。夜間中学がどんなところか、よくわかりました。さまざまな事情から学校に行けなかった人、海外につながる人など、多様な人の存在に気づいて、優菜が変わっていくところがいいなと思いました。中学生の話ですが、小学校高学年くらいから読めるでしょうか。p140で、おばあちゃんが優菜の漢字を知って、「これからは、優菜を呼ぶときには、漢字で呼べる」というところが強く印象に残りました。

西山:たいへんおもしろく読みました。中学入学前の小学生の不安がとてもよく書かれていると思いました。たとえば、「カラフルだった小学校の教室に比べ、中学の教室の暗さときたら驚異的だ」(p30)なんて、ほんとにそうだと思う。でも、不安が具体的に書かれているわりに、入学したとたん、部活の仮入部期間休んで、夜間中学に行くことになったのに、そのことへの葛藤がなさ過ぎるのが気になりました。中学入学直後、人間関係をつくるのに大切な時期のことはあまり書かれていない。戦争がいつごろの出来事で、おばあちゃんがそのとき生きていたということに改めて気づくところも、新鮮でした。でも、おばあちゃんが学校に行けなかったことをきいても、結構しつこくさぼりだとか不登校だとか、疑っているところは不自然に感じました。先月のテキスト『むこう岸』(安田夏菜著 講談社)や、今回の『ガラスの梨』(越水利江子著 ポプラ社)もそうですが、実態を調べて知ったエピソードが、どれだけフィクションの中でなめらかに、なだらかに取り込まれているか、という課題が出てくると思います。この作品も、ときどき生な情報が顔を出しているように感じてしまうところがありました。文章の質の違いを分析できない限り、読み手である私の側の感覚の問題とも言えますが。(補足:ちなみに、私が生な情報に感じたのは読み書きができなくて一番困ったのはお通夜というくだり。p40)駅員さんが応援してくれたり(p28)、電車で席をゆずってもらったり(p59)、というところはよかったです。こういうテーマだと、無理解な人を出す書き方もできるわけだけれど、後半で松本さんと高校生のトラブルもありますけれど、全体として人の良い面を前面に出しているところに好感をもって読みました。

マリンゴ:発売間もない頃に読んだのですが、今回再読できませんでした。記憶が遠いので、あまりコメントできずすみません。知らなかったことを学べるいい1冊で、子どもにおすすめしたい本ですよね。ただ、女の子がおばあさんに対していい子過ぎて、「こんな子、本当にいるのかな」と思ったことは覚えています。個人的には、同じ著者の『神隠しの教室』(童心社)のほうが好きです。

コアラ:タイトルがまじめな感じで、おもしろくないんじゃないかと思ったのですが、最後まで飽きずに読めました。以前、在日朝鮮人のお母さんの手記を担当したことがあって、その中に夜間中学のことも書かれていて、夜間中学の存在は知っていたので、イメージとそんなに違わなかったです。戦中戦後の混乱で学校に行けなかった人を身近に感じる設定、この本では、主人公のおばあちゃんという設定ですが、そういう設定で夜間中学を取り上げることができるのは、今がギリギリのタイミングだと思いました。でも、山あり谷ありの人生の人たちが登場するのに、さらっと読めてしまったせいか、あまり印象に残らない作品でした。

カボス:夜間中学のことをよく知らなかったので、様子がよくわかりました。調べてみたら、東京にも8校あるんですね。そのうちのいくつかには、日本語を学ぶクラスも併設されているそうです。いろんな人が来られる多国籍な空間なんですね。さっき西山さんが「おばあちゃんが学校に行けなかったことをきいても、結構しつこくさぼりだとか不登校だとか、疑っているところを不自然に感じた」とおっしゃったのですが、私はおばあちゃんがなぜ学校に行けなかったかを詳しく書いてあるのがおもしろかったんです。戦争のごたごたで行けなかっただけじゃなくて、おばあちゃんの場合はこうだったし、80歳を超えている松本さんの場合はこうだったということが具体的に書かれているのが、いいなあと。具体的に戦時中の様子が説明されている部分がないと、今の読者には逆に伝わらないのではないか、とも思いました。優菜が昼間の学校に通いつつ、祖母の付き添って夜間中学も体験するという設定なので、空気感の違いがわかるのもいいですね。和真は性格が悪いからいじめられたんだろうな、とわかりますが、その和真を、優菜を出入り禁止にしても担任の先生が大事に守ろうとする場面からは、夜間中学にかかわる人たちの覚悟をが伝わってきました。元の学校の先生も和真を気にかけている場面が登場しますね。各章の冒頭のカットの入れ方がおもしろいですね。また、優菜が昼間の学校へのこだわりがあまり書かれていないという意見も出ていましたが、優菜は夜間中学を体験して昼間の学校の同調圧力はどうでもよくなったんじゃないですか?

西山:だったら同調圧力なんて実は無いんだ、そんなもの気にしなくていいんだと書いたほうがいいのでは?

カボス:そう書いたら説明っぽくなってつまらないんじゃないの?

木の葉:それは書き方によりますよ。

花散里:作者は元小中学校の教員なので、子どもを学校現場で実際によく見ていた人が書いている物語だと思いました。外国籍の子どもたちに日本語を教えている元教員の知人から話を聞いていたので、日本の学校で学んでいる子どもが増えている今こそ読んでほしい作品だと思います。作者の『神隠しの教室』(童心社)は、本書を読んだ後に手にしたので、子どもたちや家庭の描き方に多少、違和感を覚えました。主人公、優菜が周りの人たちから、自分がいい子だと言われていることに対しての思い。その優菜が和真の心を傷つけてしまったときの先生の対応。自分は分かっていなかったと気づいていく主人公の心のあり様などがていねいに描かれていて、人の立場に立って物事を考えるということが作品から伝わってきます。子どもたちに読んでほしいと思いました。祖母の幸という名前の意味、祖母との関わりなどを「夜間中学」を通して、上手に物語の中に組み入れていると感じました。読み継がれていってほしい1冊だと思います。

アンヌ:読み終えてから、おばあちゃんがp246で優菜の名前を漢字で呼んでいるのがいいなと思って前の方を調べたら、p11では確かにひらがなで呼んでいて、それに対してp17ではお母さんは漢字で呼んでいるのに気づいて、おお、と思いました。いろいろとおばあちゃんの心を思って涙ぐむ場面も多かったのですが、名前の意味を知らなかったというところには疑問を持ちました。童謡や流行歌の中にも歌われる名前なので。ただ親に愛されていないと思っていたというので、無意識に意味を聞くことを避けていたのかもしれませんね。p200の松本さんのせりふは、不登校児に届くといいなと思いました。いじめや暴力にあった子に、自分を守ることは重要なんだと大人が伝えるいい場面です。何も知らないなりたての中学生がいろいろな国や年齢や事情を抱える大人から学んでいくというところがすばらしい話だと思いました。駅員さんや周囲の人たちの優しさにもほっとしました。そして、戦争のことを文学で伝えていくことの重要性も感じました。

ルパン:中学生の気持ちがリアルに描かれていたと思います。おばあちゃんを送迎していることをほめられて晴れがましい気持ちや、とりかえしのつかないことを言ってしまって、それまでの幸せ感がうちくだかれた時の気持ち、などです。「夜間中学について教えられている」と思うと楽しめないのですが、「調べて書いてる感」があまりなくて、自然に楽しむことができました。ただ、唯一にして最大の残念は、タイトル。

花散里:逆に、「夜間中学」そのものを子どもは知らないから、このタイトルで手に取るのではないでしょうか。

ハル:読んでよかったなと思うところがいっぱいあったのは確かなのですが、私にはちょっと、優菜という主人公が見えてきませんでした。学級委員的な優等生っぽさや、勘の良さがある一方で、夜間中学の生徒と先生の関係を「マジックみたいだ」と表現するところなどは妙に幼い感じもしますし、ちぐはぐな感じがして、どういう子なのかいまいちつかめません。特に後半、優菜が和真に言ってはいけない言葉をぶつけてしまう場面あたりから、いろいろと疑問が湧いてきます。あの失敗のあとでまだ「和真がまた『じじい、電話くらい出ろよ』とか言いだすのではないかとひやひやしたが、さすがに言わなかった」(p197)とか。この場面でそういう想像する?と思いますし、松本さんにどうして少年時代に中学校に行けなかったのかを聞くのも「今なら聞けるような気がした」(p197)って、ここは優菜が聞いちゃだめじゃないですか? この中学校に来ているひとはいろんな事情を抱えているって、痛いほど学んだばかりなのに。母親に車で送ってもらっていた和真に「電車で来ればいいのに」(p217)って言うのも。「先生、和真くん、すごく変わったと思うよ」(p237)も、最後まで、和真くんはいやな子、いやなやつだった子なんだなというところが、気になってしまいました。
あともうひとつ、生徒に「にんべん」の漢字を書かせる場面で、なんで著者はおばあちゃんに「優菜」の「優」を書かせなかったんだろう。おばあちゃんはこの後の場面でお父さんの「健治」も書けてますし。だったら、「木へん」とか違う字にすればよかったんじゃないかなと思います。でも、実際、黒板の前にたったら、ぱっと浮かばないものかもしれませんけどね。

木の葉:夜間中学という素材がとてもいいと思いました。ファンタジーっぽい構造の作品だなという気もしました。往きて帰りし、というか。ただ、あらかじめ決めているストーリーラインにのって物語が進んでいくという印象で、テーマ性を重視したためか、冒頭が誘導的で、優菜という子が見えないまま、読まされてしまったかな、と。特に前半、優菜が夜間中学のガイド役的に感じられて、もし、具体的なモデルがあってのことならば、むしろノンフィクションで読みたかったです。それにしても、今の中学生ってこんな感じなんですかね。作者の方は教師をされていたそうですので、私よりもずっとリアルな子どもについてはおわかりなのだから、これが現実なのかもしれませんが、優菜が幼く感じました。国の場所を知らないことにもびっくりでした。

ネズミ:中学生はわからないでしょうね。大学生でも、わからない子はたくさんいるので。

木の葉:国の場所ですが、地図帳を見ながら、ブラジルを日本の裏側と発想できますか。地球儀だったらわかるのですが。それから、戦争についてこんなに無理解なのかなと、ちょっと悲しくなりました。後半の戦時についての話題は少し唐突かな、と。優菜も、戦争のことなど何もわかってないはずなのに、すんなり入っている感じがしました。気になった箇所は、p209の「栄養失調で死んだ子どものほうが多かったかもしれないですよねえ」というところ。会話としてはありうる言葉と思いつつ、本当に? と思ってしまいます。裏付けがあってのことなのか。そうでないなら、何らかのフォローがないと、あやまった認識を生むことになります。「そうやって引き揚げの船に乗るまで、全部の赤ん坊が殺された」というのも、自分が乗った船では、ということを強調しておかないと、引き揚げ者のすべての赤ん坊が殺されたような誤解を招きます。
一番気になったのは、優菜のリアル中学との関係です。夜間中学での学びの意義はとても理解できます。そここそがこの作品の肝というか、書きたかったポイントでもあろうかと思います。けれど優菜には現実の学校生活が長く続くのだから。たとえば、一度は出入りを禁じられ、中学で部活を始めます。ところが、再びつきそいをすることになってから、昼間の部活はどうなったのかが気になって。リアル中学生活、ないがしろにならないかな、と思ってしまったんです。
それから、父親ですが、自分の母が漢字を読めないことに気づかなかったというのは鈍すぎるのでは? そのうえ親の気持ちを理解しようとしない。かなり終わりの方になっても無理解のままで、「本当はおばあちゃんのことが好き」という言葉だけではしっくり落ちませんでした。無理解な人としての役割を負わされたようで、なんだか気の毒に感じてしまいました。

さららん:以前、海外に住んでいたのですが、そのとき通った夜間の語学学校を思い出しました。いろんな人種、いろんな価値観の人がいて、意見がかみ合わないところがおもしろかったんです。思い出の扉が開かれ、自分の経験とひとつになって、一気に読んでしまいました。

まめじか:「星に名前があることなんて、学校で教えてもらわなかったら知らないままだった」と、おばあちゃんが語る場面がありますが、学ぶというのは、世界の見え方を変えていくことですよね。優菜が学校生活から一歩外に出て、違う世界を知っていくのもよかったし、夜間中学やフリースクールなど、いろんな学びの場にふれているのも好感がもてました。いい人ばかり出てくるな、とはちょっと思ったけど。

西山:夜間中学を通して学ぶことの意味に気づいたことを、優菜のいる中学での学びへの捉え直しに還元してほしかったです。今自分が昼間の中学で学んでいることがどれだけ意味を持っているのか、夜間中学の紹介だけでなく、もっと普遍化した学ぶことのドキドキを書いてほしかったという思いはあります。敢えて欲を言います。

カボス:だけど昼間の中学って、おもしろくないと思います。だってよっぽどの先生じゃないと、組織にがっちり組み込まれていて、自由な発想が禁じられてるんだもの。

西山:だけど、夜間中学は夜間中学、昼間の中学は昼間の中学と分けて、夜間中学にはすてきなエスニックの世界がありますね、だけじゃあもったいない。昼間の中学でも学びのおもしろさに気づくとか。

花散里:部活を休んだら好きな楽器ができなくなるとか、昼間の中学のことが書かれてないわけじゃないですよね。

木の葉:昔、菅原克己さんから識字学級の話を聞いたことがあるのですが、字を習得して作文を書いたおばあさんが、今まで夕焼けがきれいだと思ったことがなかったけど、字をおぼえたから夕焼けがきれいに見える、と書いたんですって。

カボス:さっき優という字も習ったから書けるんじゃないかとおっしゃったのは、p140の場面ですよね。でも、そこでは先生が書いたのを見ながら書いているから、黒板に出て書きなさいといわれたら、やっぱりすぐには書けないのかもしれませんね。

西山:孫の名前をもっと画数の少ない、簡単に書ける字にしとけば感動が増したかも、ですね(笑)。

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エーデルワイス(メール参加):読みやすくてさわやかでした。孫と祖父または祖母の話は児童文学では不滅ですね。私は、「えっ、夜間高校じゃないの?」と思ったくらい夜間中学の存在を知らないかったのですが、とてもよくわかりました。今では外国人の学びの場所になっていて、国際交流してるんですね。

しじみ71個分(メール参加):夜間中学というところが、どのような場所か、どのような人たちが学びに来ているのか、知ることができるよい作品だと思う。定時制高校はよく知られていても、夜間中学に対する認識は全国的に低いと思うので、周知のためには効果があると思う。夜間中学の自由で、国際的である雰囲気や、昼間の中学と違う主体的な学びの場でまた、どんなに年齢を重ねても、国籍が違っていても、学ぼうとする意欲はとても尊いということも伝わる。一方で、物語としてはときどき、何か事を起こすために設定した感じが見えてしまって、作家の意図が見えてしまって興ざめに感じるところがいくつかあった。例えば、p82~84で漢字が書けないことをからかうような言動を中学生が言うあたり、ちょっとわざとらしさを感じてしまった。主人公の優奈が、おばあちゃんの付き添いで学校に通うことになったという流れも、作家の取材経験が透けて見えて感じられた。全体的には、夜間中学を知らしめるにはよかったけれど、お話としてはまあまあ、という印象だった。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ホリー・ゴールドバーグ・スローン『世界を7で数えたら』

世界を7で数えたら

コアラ:出だしは、内容がすっと入ってこない文章で、数ページで投げ出してしまう子もいるんじゃないかと思いました。p4のソフトクリームを食べている場面ですが、チョコレート液にワックスが入っていて、「もっと正確に言えば、食用流動パラフィン・ワックスというものだけど」という文章は、専門的すぎるというか、話の方向が変な気がしました。同じp4の後ろから5行目、「あたしたちの役目は、それをまた外に出してあげること」という文章も、意味がよくわからない。翻訳のせいかと思ったりしたのですが、読み進めるうちに、主人公の性格のこだわりが原因というか、興味を持つところが人とは違っているということがわかってきて、納得しました。慣れてくるとおもしろくなってきましたね。登場人物が生き生きとしていて、特に後半のクアン・ハがとてもよかったです。人や出来事がつながっている展開がとてもいいと思いました。ただ、最後が納得できなかったです。親権を取得してウィローの家族になるんですが、ウィローのことを思うなら、事前にウィローにそのことについて相談したり、「あなたはどうしたいの?」と聞いたりするはず。それを聞かずに本人に秘密にしたまま進めるのはどうなのかなと思いました。それ以外では、心に残る印象的な場面や文章はたくさんありました。p79の12行目、「あたしは、自分でない人間のふりをしていない。その上で、ふたりはあたしを仲間に入れてくれている」とか、p169の真ん中1行アキの前、「かかってこい。ぜんぶいっぺんに。かかってこい!」とか。p205のビール瓶を割ってステンドグラスのようにする場面とかも印象に残りました。気になったのは、p234の3行目「かんそう機」。ひらがなだと逆に読みにくいと思いました。読み終わってみればおもしろかったので、人にすすめたいですね。

マリンゴ:勢いよく読めるし、整った物語だとは思いました。でも、整い過ぎて、ゲームっぽくも感じてしまったんです。たとえば、最後の最後、パティが実はたくさんお金を貯めててマンション一棟買えるという部分などですね。え、そういうミラクルなお話だったの、と印象が変わりました。あと、いろんな人の視点で描いているのが特長ですが、終盤は切り替わりが早すぎて、ちょっと面倒くさいと思ってしまいました。映画やテレビドラマのシーンを起こしたような作りで、脚本的というか・・・・・・。そんなところが目につきました。

西山:1日で読みました。時間が無かったというせいもありますが・・・・・・。おもしろくは読んだんですけど、出だしのところでは、これは学生と一緒に読もうと思っていたのだけれど、だんだん、まあいいか、となりました。エンタメとして、おもしろく読めるよと紹介はできますが、ことさら読み合いたいとは思いませんでした。その理由の第一はウィローが、コミュニケーションに差し障りがないということです。人物としてはデルがおもしろかったです。ここまでダメダメな大人も珍しいけれど、ウィローとの関わりのなかで徐々に変わっていく。でも、終盤の方でもまだ「デルは『人に奉仕する』ってことの意味がわかってないらしい」(p296)と思われるような行動を取って、クスッと笑えました。なかなか消えないダメっぷり。彼女の天才的な「高い能力」が随所で発揮されてはいるけれど、でもそれで大金を手に入れてハッピーエンドという展開ではなかった点には好感を持ちました。

ネズミ:日本にはない作品で、おもしろく読みました。語りに、ウィローの独特の感性、世界の捉え方が表れているのがおもしろく、勢いがあって、ぐいぐい先を読みたくなりました。ただ、最後にいくほどに、何もかもがあまりにもうまくおさまりすぎて、ついて行き難くなりました。1つ1つの文章が、どれもとても短かったのですが、これはもともと原文がそうなんでしょうか? ダメだったりチャンスに見放されていたりしている大人たちがたくさん出てきますが、普通の日本人とはかなり違う状況なので、読者をかなり選ぶのではと思いました。外国文学を読みつけていない読者がいきなり読むのは、ちょっとハードルが高そうです。

まめじか:ウィローは集団になじめず、親を亡くす前から大きな孤独を抱えています。心を開ける人たちと出会ったことで解放されていく様子が、ひしひしと伝わってきました。ウィローの悲しみに、クアン・ハは彼なりに、いろんな人がいろんなふうによりそうのがいいですね。デルの成長は、いくつになっても人は変わっていけるのだと教えてくれます。以前読んだときほどは引っかからなかったんですけど、それでも、よくわからない箇所がところどころありました。p52「デューク氏はまず、あたしのテストの点のことは話題にしたくないと言った。でも、そこで話は終わった」は、なんで「でも」なのでしょう。p118の「黒いほお」は、人の肌なので褐色のほうがいいのでは。

ヘレン:英語で聴きました。笑うためにはいいと思いますけど、書き方はあまりよくないと思っていて。ウィローはアスペルガーということですが、そういう人だと他の人の気持ちはわからない。なので、ウィローがいつも他の人の印象を書いているのは、リアリティがないと思いました。好きだったのは、人のつながりということ。一人のやることが別の人に影響していく。

さららん:主人公のウィローが黒人の女の子だとは、初めは気づかなくて、途中で、ああそうか!とわかりました。テストの成績が良すぎたため、学校でカンニングを疑われたのは、彼女の外観でそう思われたのかも。いっぽうカウンセラーのデルは白人、こんがらがった、不潔で劣等感の塊のような人です。初めのうちはウィローの親友のマイやクアン・ハやベトナム人の家族を、どこかで見下していたんだろうけど、だんだん巻き込まれていくうちに、デルが変わっていくところがよかった。デルの殺風景なマンションに、ベトナム人一家が好き勝手な家具を持ちこみ、一家が前から住んでいるように変えてしまうところが、具体的でとてもおもしろかったです。

木の葉:アスペルガー? といったことを意識せず、頭が良すぎる子の話かな、と思い、わりとすらすら読めました。ある程度の長さがあってしかも初読だと、あまり引っかかっている余裕がなく、あれ? と思うところもややすっ飛ばして読んでしまったかもしれません。物語がどこかファンタジーっぽいなと思いました。主人公の頭が良すぎることへの周囲の無理解は描かれていても、あまり苦労している感がなくて、痛手になるような失敗も挫折もなく、お金も降ってきちゃうんですね。ウィロー以外の子、マイにしてもクアン・ハ(この兄妹の名前の付け方が私にはよくわかりませんでした。慣習的な意味があるのか?)にしても、能力の高い子なのだと思いました。とにかく、いろんなことがうまく行き過ぎだな、と。ハッピーエンドの物語を否定する気はまったくないです。とはいえ、物語の途中でこういう終わり方になるだろうなと思ったら、そのとおりになってしまったので、もう少し、いい意味での裏切られ感がほしかったです。庭が大きな役割を果たしているのですが、私には視覚的につかめませんでした。

ハル:この表紙とこのタイトル! ずっと気になっていた本だったので、今回読めて嬉しいです。どんな人も、ダメに見える人でも、お互いに影響しあっていて、ぐるっと輪っかにつながって、世界が変わっていく様子や、それぞれの成長、特にデルの成長に勇気づけられました。「突然変異型」っていいですね。「そう、おれは変われるのだ」(p267)、「もっとすごいことだ。内側の変化だから」(p268)なんて、わくわくしました。ああ良かったな、と読み終えてから、あんまりタイトルは関係なかったんじゃない?と思いました。ただ話題性ということだと、タイトルの勝利もあるのかなと思います。

ルパン:ずっと前に読んで、とってもおもしろかったことは覚えているんですけど、実は話の内容をすっかり忘れていたんですよね。今回読み返したらやっぱりおもしろかったです。エンタメなのかもしれないけど、ここまでやってくれたらエンタメ上等、っていう感じです。物語にしかできないことをいっぱいやってくれていて、つぼにはまりました。ハッピーエンドだし、子どもが読んで楽しめるんじゃないかと思います。登場人物が、大人も子どももみんなが成長していて魅力的です。ご都合主義でも、ストーンとめでたしめでたしで、いいと思います。これだけの分量を読ませる力のある本だと思います。しばらくしてまた忘れちゃったらまた読んで楽しみます。

さららん:どんなに絶望的なことがあっても、この世界は信頼にたるものなんだ、希望は持っていていいんだと、ファンシー的な設定の中で伝えていますね。

ルパン:この子は養父母の庇護のもとにいたときはそれで自分の世界が完結していたんですけど、保護者がいなくなって外の世界に出なければならなくなった。でも、みんなの助けを受け入れてみごとに乗り越えていく、そのプロセスがとても気持ちをあったかくさせてくれるんです。

アンヌ:読み始めたら止められなくて一気読みをしたのですが、逆に読み返す気にはなれない本でした。すべてがハッピーエンドに向かって突っ走っていくような感じで。天窓のガラスの破片は美しいけれど、風が吹いたら危険だろうなとか、挿し木で庭を造るという魅力的なプロジェクトがだめになると、プロの植木屋さんが好意で庭を造ってくれるというのは何か違うだろうとか、気になることがいろいろあるのですが、なおざりのまま進んでいく感じです。15章の養母が癌を病院で宣告される場面は必要ないと思いました。映像として交通事故の場面がほしいから描いたのでしょうか? ガレージに住んでいたパティが実は大金持ちで、しかもタクシーの運転手さんまでくじを当てて、その上二人が恋に落ちるとは、いくらなんでもうまくいきすぎと思っています。

花散里:2016年に出版された児童文学のなかで、表紙の画とともにとてもおもしろい作品だったという印象が今でも残っています。タイトルが特に良かったと思いました。小学校の図書館に勤務していたとき、アスペルガー症候群の子でよく図書館に来る子がいたので、その子のことを思い出しながら読んだという記憶があります。主人公のウィローが好きな場所も「図書館」でした。エンタメというよりもこの本は読ませるところが多く、私は人の絆についてなど、いろいろな意味で本書は奥が深いのではないかと感じていました。登場人物が群像劇風で、特にベトナム人女性、パティがとても魅力的で印象に残りました。寒冷地体で生息する木、柳という名前の主人公のウィローが物語の中で成長していく、その変わっていく描き方もうまくて、後半の里親探しなども興味深く、今回、読み返してみても、やはり子どもたちに読んでほしい作品だと思いました。

カボス:社会にうまく適応できない人たちが、コミュニケーションをとって影響し合い、変わっていく姿を描いているところは、たしかにいい。ただ、主人公のウィローは、7にこだわりがあるのと能力がとても高いだけで、アスペルガーという規定はできないですよね。それと訳が荒っぽいように感じました。たとえばウィローの養母の名前は、ロバータじゃなくてロベルタになってますが、イタリア系かなんかでしたっけ? 私は言葉によって物語世界に入りこみたいタイプなので、細かいところが気になるんです。p102に「超音波検査のあと、もとの服に着がえてからようやく、ロベルタはなにかおかしいと気づいた。医師にもう一度部屋にくるように、言われたからだ。さっき一度いったのに?」とありますが、日本だと検査のあとまた呼ばれて説明を受けるなんてよくあるから、えっと思うし、「それから、医師は『おひとりになる時間を』と言って立ちあがった。『ご主人に電話したほうがいいでしょう』」っていうのもよくわからない。p134では女の人について「姿勢から、下部腰椎に痛みがあるのがわかる」とあるのですが、p135では「背中に問題のある女の人は」となっている。下部腰椎は背中じゃないですよね。またそれぞれの章には視点人物の名前が書いてあるのですが、一人称と三人称が混在していてわかりにくかったです。p152「ふたりの姉弟が家出して、ニューヨークの美術館にかくれるっていう、むかしの本みたいにはいかない。ベッドが必要だし、しょっちゅうおふろやシャワーにだって入りたい」というのは、カニグズバーグの『クローディアの秘密』のことを言っているのでしょうが、クローディアはベッドもある、シャワーもあると考えたうえでメトロポリタン美術館に家出をするんじゃなかったですか? この訳(原文かもしれませんが)だとしっくりきません。p197の「デルが大きな声で言った。/『ヘイ!』/クアン・ハは全身に緊張が走るのを感じた。ハという名前の人間にむかって、『ヘイ』とはふつう言わない」もわからないし、p199にはクアン・ハの台詞で「まるで脱獄かなにかみたいだ」とありますが、脱獄?と思ってしまいました。そういう違和感をあちこちで感じてしまって。
それに、ウィローは肌が褐色でメガネもかけているのですよね? p129でクアン・ハも「だいたい、あの子は変だ。みんな、わからないのか? 服とか、髪とか、メガネとか、〜」と言ってます。そこはこの物語にとってたぶん大事な要素だと思うのに、この表紙はその特徴を消してしまっています。

ルパン:そういうことは編集者が指摘するべきでは?

カボス:そうですね。翻訳者だけだと気づかないところもたくさんあるので、編集者の役割は大事だと思います。エンタメだからこそ、もっとていねいに訳し、もっとていねいに出してほしかったな、と思いました。

花散里:デルの「変人分類法」について、ウィローが、「この数か月でわかったことがあるとすれば、(中略)人間をグループや等級にわけることはできないってこと。世界はそんなふうにはできていない」が印象に残りました。一人ひとりが違っていいのだ、ということが。

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エーデルワイス(メール参加):デル・デューク式変人分類法(DDSS)1.不適応型 2.型破り型 3.一匹狼型 4.イカれ型 5.天才型 6.暴君型 7.突然変異型、というここがとても好きです。作者は脚本家、映画監督でもあり、すでにこの作品も映画化が決まっているといいます。本を読んでいて、映像が次々にうかぶので、映画、きっとおもしろいと思います。だからなのか、脚本を読んでいるかのようでした。最初から映画ありきで書かれた児童書ではなく、純粋?に児童書として書かれた作品を読みたいと思いました。

しじみ71個分(メール参加):以前、読んで今回再読したが、私はこの本はとても好きだし、おもしろいと思う。天才的な知能、あふれるほどの知識を持つがゆえに、周囲とのコミュニケ―ションがうまくいかない少女ウィローが、最愛の両親を一度に亡くし、世界を喪失し、悲しみのどん底に陥るが、彼女と出会い、なぜか心を通じ合わせたベトナム人親子のパティ、クアン・ハ、マイ、うだつの上がらないカウンセラーのデル、タクシー運転手ハイロたちが巻き込まれ、ウィローを助け、かかわりあっていく間に、変化がもたらされ閉塞していた自分たちの状況をも新たに切り開きチャンスをつかみ、最後には大きな幸運がもたらされる話で、最後にパティとハイロが共同でウィローの親権を獲得し、ともに暮らせるようになるハッピーエンド。それまでは、最愛の両親を喪失した悲しみと、心を通わせる仲間たちといつか別れなければならない悲しみとが底辺にずっと流れているが、ラストでそれが昇華され、感動が迫る。モチーフとして、植物が重要な位置を占めているが、例えるならウィローは春のようで、周囲の人々は植物みたいだ。ウィローに触れて少しずつ変わっていき、芽吹いて花開いていくように幸せになっていくのが、読んでいて清々しい。植物が種から目を出し、花開いて枯れていくのと同じように、人生もめぐっていく、その中での人と人との関わりを愛おしみ、生きていくことの喜びが伝わってくる。なので、この本はとても好きだ。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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越水利江子『ガラスの梨』

ガラスの梨〜ちいやんの戦争

ルパン:戦争の話はほかにもたくさんありますが、この本で新しく知った現実が多くありました。特に焼夷弾のところは、とてもリアルに描かれていて、そういうものだったんだということがよくわかりました。油が飛んでくるので火が消えない、これなら逃げられない、ということが実感として伝わってきて、震え上がりました。戦争を題材にしたお話というのは、多く出版されているわりには、敬遠されがちだと思うので、今の子どもたちが読んでくれるといいなと思いました。一点だけ気になったのは、アメリカがしたことについては詳しく書かれているんですけど、同じことを日本がやったということについてはトーンダウンしていることです。p326「もし、日本が攻めていた中国で、日本軍が同じことをしていたら・・・と思えば、やっぱりゆるせない。いや、アメリカのような兵器も物資もなかった日本軍は同じことはできなかったはずだとは思う。」「アメリカ軍とはちがってたとしても、もしひとりの兵、一部の連隊だけだったとしても・・・」という書き方だと、これを読んだ子どもは、結果的にやってないと思ってしまうかもしれません。あとがきで何かフォローがあるかと思ったけれどそれもなくて残念。あと気になったのは、お兄さん夫婦に対して笑生子(えいこ)がちょっとものわかりよすぎるところかな。優等生すぎるコメントで。この夫婦は戦時中でなくても、もともとそれほどやさしい人ではなかったのだから。

アンヌ:出征する時に「行ってきます」では帰るという意味を含むので言えなかった、そんな言葉狩りがされていたんですね。主人公の兄や姉が手紙を書くときの暗号をあらかじめ決めていたというのは、そんな戦時下をいかに生き延びたかの証言だと思いました。焼夷弾の描写には震え上がりました。米軍の爆撃機のパイロットと、戦後にチョコレートを渡そうとするアメリカ人軍医の姿が描かれています。どちらも普通の人間なのに戦争中はまるで違ってしまう。私の世代まではこういう形で戦争を記憶して折に触れ語ってくれる人が身近にいたけれど、もうすぐこんなふうに戦中戦後を生き延びてきた世代がいなくなってしまう、本当にこういう本は必要だなと感じました。その他には「冷やし馬」の場面がとても魅力的でした。

花散里:読めて良かったと思いました。「あとがき」に、この作品は自分の母親をモデルにしていると書かれていますが、笑生子の娘、小夜子が主人公として書かれた『あした、出会った少年』(ポプラ社)など、他の作品も読んでみたいと思いました。これまでの戦争児童文学は被害者としての視点で描かれている作品が多かったと思いますが、この作品は今までの児童文学になかった視点で書かれているのではないかと感じます。巻末の「参考書籍・戦時資料」も詳しくて、たくさんの資料に基づいて描かれた作品であるということが解りました。対象としてはルビが振ってあるので小学校上級から読めると思いますが、描かれている家族の絆など、親子で読んで話し合ってほしい作品だと思いました。動物の描き方、自然描写とか、文章がとても良いと思いましたが、表紙の装丁、挿画も読書を助ける役割を果たしていると感じました。これからの時代を担う子どもたちに手渡したいと思う作品でした。

カボス:モデルにしたお母さんから聞いただけではなく、巻末の参考書籍や戦時資料がいっぱい挙げてあって、いろいろな目配りをしながら書かれているのだと思いました。主観的に身近な人の体験を書いただけのものではないんですね。悲惨な状況の描写が続くなかで、牧野さんのあたたかい絵には、それを和らげる効果があると思います。天王寺動物園で飼われていたヒョウやゾウ、冷やし馬をしてもらっていたのに戦火をあびて燃えながら走った馬のクリ、供出を命じられたのに隠した犬のキラなど、動物に対する愛情が現れているところも特徴のひとつですね。p339には、戦争で殺された生き物と平和時に死んだ生き物の対比も描かれています。またp293では「国家と国家の憎しみは根深く残っても、人と人が心を交わす一瞬は、雲間から差しこむ光のように、たしかに、そこにあったのかもしれない」と、軍と人は違うという視点も出しています。一方でp325では、「あのチョコレートをくれた優しげなアメリカの軍医さんだって壊れてしまうかもしれないし、成年兄やんだって、もし、もっともっと長く戦場で戦えば、壊れてしまったかもしれない」という文章で、戦争で戦うこと自体が人間を壊すことになるとも言っています。
あと、私は米軍が日本全国の数多くの中都市を爆撃していたことや、原爆模擬弾パンプキンが日本の30都市、50箇所に落とされていたことをこの本の後書きであらためて知りました。令丈ヒロ子さんの『パンプキン』(講談社)も読んでいたのですが、そこは頭に入っていなかったんですね。大人も子どもも読めるようにしたいという著者の覚悟を感じました。中学生くらいから読んでほしい本です。

コアラ:大阪の空襲については知らなかったので、こんなにひどかったんだとわかりました。戦争を知るには大切な本だと思います。でも、子どもが手に取って読むだろうか、という印象でした。分量も多いし、難しい言葉や漢字も多いし、内容もつらい。それでも、イラストがやわらかくて、内容をやわらげているんだなと私も感じました。p24〜p25の冷やし馬のイラストとか、すごくいいと思いました。気になったのは、p50のゾウのイラスト。切り抜き方が、なめらかでなくて、境目がなんか気持ち悪いんです。もう少し上手に切り抜いてほしい。

マリンゴ:非常に読み応えがありました。戦争を後世に伝えていきたいという強い思いを感じる本でした。戦闘機「P-51」や焼夷弾の詳細など、私自身、知らなかったことも多く勉強になりました。ぜひたくさんの子に読んでほしいのですが、そう考えると少し文章量が長くてしんどい、という子もいるでしょうか。あと、第8章の「それからの地獄」というタイトルなど、大変さを煽る文言がいくつか見受けられました。ここまでが地獄なのにさらに地獄か、と読むのがつらくなる子もいるかと想像します。見出しなどで煽り過ぎないほうがよかったのではないか、と。そんななか、キラはこの物語の救いの存在ですね。個人的には、児童文学なのでキラが死ぬところまで描かなくてもよかったのかな、と思いました。

西山:キラのことで言えば、この物語はキラに始まり、キラに終わる。最後のキラの死も納得のいく展開です。キラが死んでしまうのではないかとはらはらする場面がいっぱいあったのに、死なせることなくキラの命を全うさせたのがすごくよかったと思います。書き込まれたたくさんの情報はすでにどこかで読んだり、映画で観たりしたことがある内容で新しいことを知ったという事はなかったのですが、主人公が心を寄せる犬を戦争で死なせなかった点は「戦争児童文学」として新鮮に受け止めました。そういう存在を死なせてお涙ちょうだいにしてしまい(補足:まさに『かわいそうなぞう』土家由岐雄著 金の星社)、子ども読者を悲しみで打ちのめす(補足:椋鳩十の『マヤの一生』もなかなかのダメージを与える)のではなく、最終的に打ちのめさない(補足:モーパーゴの口当たりの良さを少し思い浮かべていました)。どんなに惨い人の死が描かれても、キラが無事だったことで子ども読者に決定的なショックを与えないようにしていると思いました。あと澄恵美姉やんがなにしろ魅力的でした。「子どもは泣くもんやっ!」(p242)、とばんと言ったり、とてもすがすがしくカッコイイ女性でした。キラを死なさなかったことと、澄恵美姉やんの魅力をこの作品の美点として読みました。動物園の動物殺害の真相についても、あとがきでフォローしてほしいポイントでした。最初に読んだとき、「ヒョウが、かわいく鳴いた」(p47)というのにひっかかって、あと付箋を貼りそびれて今見つけられないのですが、たしかおばあさんのことも「かわいい」と表現したところがあって、違和感を覚えました。字が大きくて、カットが入ってくるタイミングもいいし、けっこう小学校高学年くらいで読めるかと思いますが、表紙は大人っぽすぎるかな? でもともかく、キラに引かれて最後まで読めると思います。

カボス:動物園の動物のことは、p136でねずみのおっちゃんに「空中があったら、動物園の檻が壊れて猛獣が逃げ出すんで、それを防ぐために、猛獣を殺すようにって、大阪市から命令があったんや。(中略)もともと、うちのキリンやらカバやらは飼料不足のせいで死んだり、餓死したりしてたけど、十月になってからは、市から、オオカミやヒグマ、トラやライオンにも、毒入りのえさを食べさせて頃競って命じられたんや」と言わせていますよ。

ネズミ:こわいほど迫力がありました。笑生子を視点人物として、一人称にとても近く書かれているので、笑生子がどう生き抜いていくのかが気になって、最後まで一気に読みました。『世界の果てのこどもたち』(中脇初枝著 講談社)もそうだろうと思うのですが、一人の個人の体験ではなく、たくさんの資料にあたって複数の人の体験を登場人物にもりこんだり、今の読者の視点から知りたいこと、書くべきと思ったことを強調したりできるところに、当事者本人ではない作家が書く強みを感じました。当事者だと、自分が思ったことに忠実にあろうとして、こういうふうには書けないかな、と。一方で、p326の後ろから4行目からの「今も決して、アメリカをゆるせないと思う笑生子の気持ちと同じに・・・」のあたりは、この時代を本当に生きた人が、この時点でこのように考えられただろうかと思いもしました。

まめじか:自分の家族の体験があって、それをもとにひとつの作品を書いているのですが、今の時代、その意味はすごくあると思いました。ただ、淡々と出来事を連ねていくような文体に、p172「めちゃくちゃよろこんで」とか、p283「ハグハグ食べて」とか、今の言葉が入ってくるのに違和感をもちました。空襲の描写も、こんなに擬音語を使わなくてもいいのではないか、と。カタカナが多いと目立つし、表現として軽くなるような気がします。

マリンゴ:表現について言うと、私はp307 「死ぬほどおいしかった!」という部分が気になりました。ここまで「死」について重厚に描いてきたのに、この場面ではずいぶん軽く使われている気がして。

西山:焼夷弾の「ザーザー」(本文中は「ザーッ、ザーッ」)は、よく言われる擬音で、多分実際の音をよく表しているのでしょうから、それを他の表現でというのはうまくイメージできません。ただ、おっしゃるように「ハグハグ」といった擬態語が全体の印象を軽くしているというのはあるかも。表現が軽いから、読みやすいというのもあるのかもしれない。それを良しとするか、評価は分かれるだろうけれど。

さららん:語り手の言葉のほかに、戦歌や爆弾が落ちる時の生々しい擬音、玉音放送の天皇の言葉とか、さまざまなレベルの言葉が入っています。そんないろんな要素が全体を形作っていくのに、この長さがあってちょうどよかった。というより、このぐらいないと書けない作品だと思いました。最近、外猫の最期を看取ったばかりなので、キラが命を全うして死ぬ瞬間の描写に共感を覚えました。「魂虫」が最初のほうと、最後にまた出てきますが、作者は現実とむこう側の命がつながっていることを、目に見える形で表現したかったのでしょう。体験したことを少女がどのように感じたか、それを中心に書いた作品なので派手な擬音もありかと。空襲の場面は映画館で映画を見ているような臨場感を覚えました。p272に玉音放送の言葉があり、今読むと、今と全く違う天皇の立場に、強い違和感があります。でも歴史の勉強ではなく、主人公と一体化しながら、その生の言葉に今の子どもたちが出会うのは大事なことかと思うのです。それからアメリカが舞台の児童文学でも、戦死者が出た家に栄誉の印を出す場面があり、日本もアメリカでも国の巧妙な仕掛けは同じなんですね。

木の葉:表紙ですが、ちょっとバラバラとした印象を受けました。中扉の絵の方が好きでしたが、こっちだと、いかにも戦争物、という感じになってしまうかもしれません。

カボス:中扉はよくある日本の児童文学という感じです。この表紙だからこそ新鮮な感じがして、私はこの表紙でよかった、と思いましたよ。

木の葉:まず形式的なことですが、大阪の地図があるといいと思いました。それから、ルビはページ初出のようですが乱れているところがいくつかありました。タイトルは、どうしても『ガラスのうさぎ』(高木敏子著 金の星社)を連想してしまうので、もう一工夫あってもよかったのではないでしょうか。この物語はご本人のお母さんの体験がベースになっているということで、書かなければ、という作者自身の強い使命感があったのだと感じました。その思いの強さはよくわかりましたし、それが物語としての勢いにもなっていると思います。その反面、勢い故にか、若干粗さが残ってしまったというか未整理な文章が気になりました。たとえば、p13の「天王寺動物園の仕事も、ときどき手伝っているので、山仕事や手伝いでいそがしい」とか、「宇治からの帰りは、宇治の山から採った柴を運んでくる柴船に乗って帰ってくるので」とか。p54「お母さんとおばあちゃんと、うちだけで、男手が全然ないんで、澄恵美さんがきてくれはって、ほんま、助かってます!」(←澄恵美さんは女性!)とか。p112の「ぼうぜんとした笑生子には、お母やんをなぐさめる言葉さえ浮かばなかった」というのもちょっと気になりました。小学生にその役割を担わせるのか、と。擬音については、使うことはともかく、少し多すぎるのでは? ウウウウ ジャンジャンという言葉など、いささか鬱陶しく感じました。
冒頭のポエム的な部分は、必要だったのでしょうか。私は今一つしっくりきませんでした。ここも含め、いい悪いということでなく、書き方が情緒的だなと思いました。「情」は感動に繋がることなのでとても大事な要素だけれど、私は「情」が全面に出てくるものに、どうしても警戒感が働いてしまいます。なので、感情が表に出た描写が続くと、少し苦しくなります。
戦争に関する記述では、私はあまり新味を感じなかったです。が、それは私が大人だからなので、子ども読者にとっては意味があるかもしれません。いちばん残念だったのは、加害への言及が弱いことです。被害を書くことを否定はしませんが、p41でドーリットル空襲への言及があって、先生が「国際法では、兵隊でない人を攻撃することは禁じられていのに」と言います。そういうことは実際にあったかもしれません。でも、あとがきなりで、重慶爆撃などに触れてほしかったです。無差別空襲はナチスによるゲルニカや、日本軍による重慶が先です。重慶爆撃は、アメリカの日本への空襲の口実になったと言われています。加害への言及としてp325に「かつて、日本が攻めていった戦地では、日本軍はなにをしたのだろう」とありますが、具体的なことは一切触れてません。p326「アメリカのような兵器も物資もなかった日本軍は、同じことはできなかったはずだ」というのも、当時の感情としてはありえるかもしれませんが、ここもあとがきなどでフォローしてほしかったです。加害に対する記述は終始、抽象的で具体性を欠いているのが残念です。なぜ私が加害ということにこだわるのかといえば、被害体験では、厭戦(反戦ではなく)にしかならないことを危惧するからです。そのことは、敗戦前にすでに清沢洌が指摘しています(『暗黒日記』)。お兄やんが戦地に向かう際も、生きて帰ってほしいという切実な思いは伝わるものの、お兄やんが殺ししてしまう可能性への言及はありません。当時のこととしては仕方がないのかもしれませんが、回想としては描き得たのではないでしょうか? 殺す側への想像は、この読書会の3月の課題だった『マレスケの虹』(森川成美著 小峰書店)には書かれています。

カボス:タイトルはわざと『ガラスのうさぎ』をイメージさせるようにしてるのかと思いました。

ハル:もし私がこの本の編集者で、この原稿を預かったとしたらどうしただろうと、わが身の反省も含めて、考えてしまいました。著者の意図として「あとがき」に「この本を、おとなだけが読む本にも、子どもだけが読む本にもしませんでした」とありますが、私が編集者だったら「子どもの本としては描写が残酷すぎないか」とか「削ってはどうか」とか、余計な提案をしてしまったんじゃないかと思うんです。実際に戦争を体験した人の話を聞いているようなこの生々しさが、それこそが大事だと思う反面、本当にそうだろうかとも思いますし・・・。本の中でも、動物園の職員だったねずみのおっちゃんが笑生子に、かわいがっていた動物を殺したことを臨場感たっぷりに泣きながら語るシーンも、「子どもに向かって容赦ないな」と思いました。うーん、でも、残酷な描写をどんどん削ってしまって、ますます戦争の痛みがうすれてしまうのも怖いことですね。そ
れとは別に、さまざまな描写が多少、冗漫というか、ちょっと過多な感じはしました。ちょうどいい例が浮かびませんが、目に見えた景色を「あれはきっとにいちゃんのなんとかや」みたいに、いろんなことをつなげて考えるところとか、たとえば「(隆司も、ここに引きとられるみたいやし・・・。きっと、一休さんもよろこんではるはずや!)」(p324)とか、ラストの「それは、欲望の金色でもなく、空を制す銀色の比翼でもなく、大きな希望の青い空と~」(p346)だったり、冒頭の「わたしは、川を知っている」「あっちにもこっちにも、光る鳥が飛び交うようにせせらぐ川面のきらめき」(p2)だったり・・・。

カボス:「安穏に暮らしている子ども」は、地球上にはそんなにいないんですね。残酷で悲惨な状況に日々さらされている子どもたちもたくさんいる。「安穏に暮らしている子ども」に、そうでない子どもたちのことをどう伝えていくか、は確かに難しいところです。残酷だから読みたくないと本を閉じられては意味がないので。ただいろいろな工夫をして、やっぱり世界の現実を伝えていかないと。あんまり小さい子だと無理ですが、中学生くらいなら視野を広げてもらう必要もあるかと思います。

花散里:本書は作者がたくさんの資料を基に徹底した取材で描かれた作品であるということが「あとがき」を読んでもよく分かりました。7章「生と死」、昭和20年6月1日の空襲で笑生子が見た、「赤ちゃんの頭がなかった」というのは実際にあったことが書かれているのだと思います。勤務していた小学校の学校図書館では広島の原爆の写真集など所蔵していました。高学年は授業で資料として使用していました。丸木美術館の「原爆の図」も、広島の原爆資料館も過去に実際にあった事実として子どもたちに見てほしいと思います。「怖いところを削るよう提案」するということ、実際にあったことを見せないのは、大人の判断として良いのでしょうか? 削っていいのかと疑問に思います。

ハル:痛いことを痛く書かないことも問題ですね。勉強になりました。ありがとうございます。

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エーデルワイス(メール参加):実母をモデルにして、戦争中の生活が克明に描かれています。ノンフィクションとしても書かれてもおかしくないのが、敢えて児童読み物としたところに、戦争を決してしてはいけないと、子どもたちに伝えたいという作者の強い気持ちと願いが伝わってきました。表紙と挿絵がとてもいいですね。

しじみ71個分(メール参加):最初、子ども時代の戦争体験本か、と思わされたが、過去に多く著されているので、どう違うのかを意識的に読むことになった。ユニークだったのは、随所で米軍の非人道的な行為を語りつつ、日本の行為にも思いをいたしている点だった。また、空襲の場面はリアルで、読み進めるのがつらかった。なんと焼夷弾の威力が凄まじいことか、と恐ろしさがずしんと重くのしかかってきた。作家のお母さんが主人公のモデルとのことなので、ていねいに、ていねいにお話を聞いて、このリアリティがもたらされたのだなと実感した。長兄の正義の意地悪さも含め、きょうだいの描き方はみなとても魅力的で、人物像が目に浮かぶようだった。成年兄やんは特に素晴らしく、自分の父が京都で9人兄弟の末っ子で、2番目の叔父が沖縄で亡くなったが、やはり一番、やさしくて優れた人だったと聞いており、ついつい重ねて読んでしまったが、隣り合う京都と大阪では空襲の有無でこんなにも状況が異なっていたのだということをつくづく思い知らされた。また、最後のあとがきに胸を打たれた。作家の想いが詰め込まれていて、あとがきも一つのエッセイのようだと感じた。日本では戦争を全く知らない大人たちが増え、戦争の記憶が消えかかっている今、子どもたちにどのように戦争の事実を伝えていくかは大きな課題だと思う。その課題に敢えて取り組まれたことは本当にすばらしい。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」

おすすめ! 世界の子どもの本 2018

JBBYで毎年出すことになっている「おすすめ! 世界の子どもの本 2018」で取り上げた本をご紹介します。

このブックリストは、日本で紹介された世界各国からの翻訳児童書の中から、専門家グループが討議を重ねて、日本の子どもたちに読んでもらいたいすぐれた作品を選び、それぞれの書誌事項とともに、短い紹介文をつけています。オールカラーでA4変形版22頁の冊子です。

この年度の選書・執筆チームは、神保和子さん(司書)、福本友美子さん(翻訳家・研究者)、代田知子さん(埼玉県三芳町立図書館長)、土居安子さん(大阪国際児童文学振興財団理事)、それに私さくまゆみこ(翻訳家)です。

表紙の絵は、荒井真紀さんです。

すぐれた翻訳児童書の紹介のほかに、この号には、原田勝さんと母袋夏生さんのエッセイや、ジョン・キラカさんの絵入りメッセージなども掲載されています。

JBBY「おすすめ! 世界の子どもの本 2018』本文

 

<絵本>(50音順)

『あおのじかん』イザベル・シムレール/文・絵 石津ちひろ/訳 岩波書店(フランス)
『あさがくるまえに』ジョイス・シドマン/文 ベス・クロムス/絵 さくまゆみこ/訳 岩波書店(アメリカ)
『アームストロング:宙飛ぶネズミの大冒険』トーベン・クールマン/作 金原瑞人/訳 ブロンズ新社(スイス)
『うみべのまちで』ジョアン・シュウォーツ/文 シドニー・スミス/絵 いわじょうよしひと/訳 BL出版(カナダ・アメリカ)
『エンリケタ、えほんをつくる』リニエルス/作 宇野和美/訳 ほるぷ出版(アルゼンチン)
『おなじそらのしたで』ブリッタ・テッケントラップ/作・絵 木坂涼/訳 ひさかたチャイルド(イギリス)
『おばあちゃんとバスにのって』マット・デ・ラ・ペーニャ/作 クリスチャン・ロビンソン/絵 石津ちひろ 鈴木出版(アメリカ)
『ごちそうの木:タンザニアのむかしばなし』ジョン・キラカ/作 さくまゆみこ/訳 西村書店(スイス・タンザニア)
『この本をかくして』マーガレット・ワイルド/文 フレア・ブラックウッド/絵 アーサー・ビナード/訳 岩崎書店(オーストラリア)
『金剛山のトラ:韓国の昔話』クォン ジョンセン/再話 チョン スンガク/絵 かみやにじ/訳 福音館書店(日本・韓国)
『サイモンは、ねこである』ガリア・バーンスタイン/作 なかがわちひろ/訳 あすなろ書房(イギリス)
『詩ってなあに?』ミーシャ・アーチャー/作 石津ちひろ/訳 BL出版(アメリカ)
『すききらい、とんでいけ! もぐもぐマシーン』イローナ・ラメルティンク/文 リュシー・ジョルジェ/絵 野坂悦子/訳 西村書店(オランダ)
『ソーニャのめんどり』フィービー・ウォール/作 なかがわちひろ/訳 くもん出版(カナダ)
『空の王さま』ニコラ・デイビス/文 ローラ・カーリン/絵 さくまゆみこ/訳 BL出版
『ちっちゃいさん』イソール/作 宇野和美/訳 講談社(スペイン)
『ドライバーマイルズ』ジョン・バーニンガム/作 谷川俊太郎/訳 BL出版(イギリス)
『どれがいちばんすき?』ジェイムズ・スティーヴンソン/作 千葉茂樹/訳 岩波書店(アメリカ)
『なかないで、アーサー:てんごくにいったいぬのおはなし』エマ・チチェスター・クラーク/作・絵 こだまともこ/訳 徳間書店(イギリス)
『なずずこのっぺ?』カーソン・エリス/作 アーサー・ビナード/訳 フレーベル館(イギリス)
『人形の家にすんでいたネズミ一家のおはなし』マイケル・ボンド/文 エミリー・サットン/絵 早川敦子/訳 徳間書店(イギリス)
『ねむたいひとたち』M.B.ゴフスタイン/作 谷川俊太郎 あすなろ書房(アメリカ)
『ふしぎな銀の木:スリランカの昔話』シビル・ウェッタシンハ/再話・絵 松岡享子、市川雅子/訳 福音館書店(日本・スリランカ)
『ふたりはバレリーナ』バーバラ・マクリントック/作 福本友美子/訳 ほるぷ出版(アメリカ)
『へんてこたまご』エミリー・グラヴェット/作 福本友美子/訳 フレーベル館(イギリス)
『ぽちっとあかいおともだち』コーリン・アーヴェリス/文 フィオーナ・ウッドコック/絵 福本友美子/訳 少年写真新聞社(イギリス)
『本の子』オリヴァー・ジェファーズ、サム・ウィンストン/作 柴田元幸/訳 ポプラ社(イギリス)
『まめまめくん』デヴィッド・カリ/文 セバスチャン・ムーラン/絵 ふしみみさを/訳 あすなろ書房(カナダ)
『もしきみが月だったら』ローラ・パーディ・サラス/文 ジェイミー・キム/絵 木坂涼/訳 光村教育図書(アメリカ)
『森のおくから:むかし、カナダであったほんとうのはなし』レベッカ・ボンド/作 もりうちすみこ/訳 ゴブリン書房(アメリカ)
『ゆめみるじかんよ こどもたち』ティモシー・ナップマン/文 ヘレン・オクセンバリー/絵 石井睦美/訳 BL出版(イギリス)
『りゅうおうさまのたからもの』イチンノロブ・ガンバートル/文 バーサンスレン・ボロルマー/絵 津田紀子/訳 福音館書店(日本・モンゴル)

 

<読み物>(50音順)

『ありづかのフェルダ』オンドジェイ・セコラ/作・絵 関沢明子/訳 福音館書店(チェコ)
『アルバートさんと赤ちゃんアザラシ』ジュディス・カー/作・絵 三原泉/訳 徳間書店(イギリス)
『凍てつく海のむこうに』ルータ・セペティス/作 野沢佳織/訳 岩波書店(アメリカ)
『オオカミを森へ』キャサリン・ランデル/作 原田勝/訳 小峰書店(イギリス)
『カランポーのオオカミ王』ウィリアム・グリル/作 千葉茂樹/訳 岩波書店(イギリス)
『口ひげが世界をすくう?!』ザラ・ミヒャエラ・オルロフスキー/作 ミヒャエル・ローハー/絵 若松宣子/訳 岩波書店(オーストリア)
『紅のトキの空』ジル・ルイス/著 さくまゆみこ/訳 評論社(イギリス)
『こいぬとこねこのおかしな話』ヨゼフ・チャペック/作 木村有子/訳 岩波書店(チェコ)
『さよなら、スパイダーマン』アナベル・ピッチャー/著 中野怜奈/訳 偕成社(イギリス)
『ジョージと秘密のメリッサ』アレックス・ジーノ/作 島村浩子/訳 偕成社(アメリカ)
『世界を7で数えたら』ホリー・ゴールドバーグ・スローン/著 三辺律子/訳 小学館(アメリカ)
『太陽と月の大地』コンチャ・ロペス=ナルバエス/著 宇野和美/訳 福音館書店(スペイン)
『ダーウィンと旅して』ジャクリーン・ケリー/作 斎藤倫子/訳 ほるぷ出版(アメリカ)
『月からきたトウヤーヤ』蕭甘牛/作 君島久子/訳 岩波書店(中国)
『テオのふしぎなクリスマス』キャサリン・ランデル/文 エミリー・サットン/絵 越智典子/訳 ゴブリン書房(イギリス)
『テディが宝石を見つけるまで』パトリシア・マクラクラン/著 こだまともこ/訳 あすなろ書房(アメリカ)
『とびきりすてきなクリスマス』リー・キングマン/作 山内玲子/訳 岩波書店(アメリカ)
『ナンタケットの夜鳥』ジョーン・エイキン/作 こだまともこ/訳 冨山房(イギリス)
『パンツ・プロジェクト』キャット・クラーク/著 三辺律子/訳 あすなろ書房(イギリス)
『ペーパーボーイ』ヴィンス・ウォーター/作 原田勝/訳 岩波書店(アメリカ)
『ぼくたち負け組クラブ』アンドリュー・クレメンツ/著 田中奈津子/訳 講談社(アメリカ)
『ぼくとベルさん:友だちは発明王』フィリップ・ロイ/著 櫛田理絵/訳 PHP研究所(カナダ)
『ぼくはO・C・ダニエル』ウェスリー・キング/作 大西昧/訳 鈴木出版(アメリカ)
『ボノボとともに:密林の闇をこえて』エリオット・シュレーファー/作 ふなとよし子/訳 福音館書店(アメリカ)
『もうひとつのワンダー』R.J.パラシオ/作 中井はるの/訳 ほるぷ出版(アメリカ)
『モルモット・オルガの物語』マイケル・ボンド/作 いたやさとし/絵 おおつかのりこ/訳 PHP研究所(イギリス)
『レイン:雨を抱きしめて』アン・M・マーティン/著 西本かおる/訳 小峰書店(アメリカ)
『わたしがいどんだ戦い 1939年』キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー/作 大作道子/訳 評論社(アメリカ)
『わたしも水着をきてみたい』オーサ・ストルク/作 ヒッテ・スペー/絵 きただいえりこ/訳 さ・え・ら書房(スウェーデン)

 

<ノンフィクション>50音順

『いのちは贈りもの:ホロコーストを生きのびて』フランシーヌ・クリストフ/著 河野万里子/訳 岩崎書店(フランス)
『いろいろいっぱい:ちきゅうのさまざまないきもの』ニコラ・デイビス/文 エミリー・サットン/絵 越智典子/訳 ゴブリン書房(イギリス)
『語られなかったアメリカ史:オリバー・ストーンの告発1.2』オリバー・ストーン、ピーター・カズニック/著 スーザン・キャンベル・バートレッティ/編著 鳥見真生/訳あすなろ書房(アメリカ)
『ゴードン・パークス』キャロル・ボストン・ウェザーフォード/文 ジェイミー・クリストフ/絵 越前敏弥/訳 光村教育図書(アメリカ)
『サリバン先生とヘレン:ふたりの奇跡の4か月』デボラ・ホプキンソン/文 ラウル・コローン/絵 こだまともこ/訳 光村教育図書(アメリカ)
『サルってさいこう!』オーウェン・デイビー/作 越智典子/訳 偕成社(イギリス)
『しくみがまるわかり! 骨のビジュアル図鑑』ベン・モーガン、スティーブ・パーカー/著 太田てるみ/訳 岩崎書店(イギリス)
『すごいね! みんなの通学路』ローズマリー・マカーニー/文 西田佳子/ 訳 西村書店(カナダ)
『正義の声は消えない:反ナチス・白バラ抵抗運動の学生たち』ラッセル・フリードマン/著 渋谷弘子/訳 汐文社(アメリカ)
『庭のマロニエ:アンネ・フランクを見つめた木』ジェフ・ゴッテスフェルド/文 ピーター・マッカーティ/絵 松川真弓/訳 評論社(アメリカ)
『発明家になった女の子 マッティ』エミリー・アーノルド・マッカリー/作 宮坂宏美/訳 光村教育図書(アメリカ)
『走れ!! 機関車』ブライアン・フロッカ/作・絵 日暮雅通/訳 偕成社(アメリカ)
『ファニー:13歳の指揮官』ファニー・ベン=アミ/著 ガリラ・ロンフェデル・アミット/編 伏見操/訳 岩波書店(フランス)
『プーさんとであった日:世界でいちばんゆうめいなクマのほんとうにあったお話』リンジー・マティック/文 ソフィー・ブラッコール/絵 山口文生/訳 評論社(アメリカ)
『マララのまほうのえんぴつ』マララ・ユスフザイ/作 キャラスクエット/絵 木坂涼/訳 ポプラ社(アメリカ)
『みどりの町をつくろう:災害をのりこえて未来をめざす』アラン・ドラモンド/作 まつむらゆりこ/訳 福音館書店(アメリカ)
『耳の聞こえないメジャーリーガー ウィリアム・ホイ』ナンシー・チャーニン/文 ジェズ・ツヤ/絵 斉藤洋/訳 光村教育図書(アメリカ)
『もしも地球がひとつのリンゴだったら』デビッド・J・スミス/文 スティーブ・アダムス/絵 千葉茂樹/訳小峰書店(アメリカ)
『ラマダンのお月さま』ナイマ・B・ロバート/文 シーリーン・アドル/絵 前田君江/訳 解放出版社(イギリス)
『わたしたちのたねまき:たねをめぐるいのちたちのおはなし』キャスリン・O・ガルブレイス/作 ウェンディ・アンダスン・ハルパリン/絵 梨木香歩/訳 のら書店(アメリカ)

 

 

 

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2019年04月 テーマ:子どもの幸せとは

日付 2019年4月16日
参加者 ネズミ、花散里、ハリネズミ、アンヌ、彬夜、西山 、マリンゴ、まめじか、しじみ71個分、(エーデルワイス)
テーマ 子どもの幸せとは

読んだ本:

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キャサリン・アップルゲイト『願いごとの樹』

願いごとの樹

マリンゴ:樹の1人称の物語ということで、非常に興味深く読みました。序盤、1つの章が短くて読みやすいなと思いました。p174、175の白黒反転や、p192、193の全面見開きのイラストなど、レイアウトも工夫されていて、物語の盛り上げに一役買っています。樹が切り倒されるかも、という主軸の話のなかに、ひとりぼっちの女の子の友情の話など、他の要素も入ってきて多層的ですね。気になったのは、p9「クラスの全員が『マイケル』という名前だったら、と想像してごらん」の部分。いくら人間の話をよく聞いて博識とはいっても、樹が1人称で語る比喩としては、自然ではないと思い、そこでちょっと引いてしまいました。あと、メイブの日記帳に何が書かれていたのかが示されていない。それが少し物足りなく思いました。

西山:最初はちょっと読みにくかったです。表紙から得た印象ではYAかと思って読み始めたので、童話的なテイストとのギャップに戸惑ったという感じです。今のアメリカの排他性を憂えている人たちの存在を思うと、切実すぎて切ない感じがしました。でも、しっとりしんみりという空気で覆うのではなくて、ユーモアが覆っていてそれは好きでした。カラスのボンゴの「ムリー」と「カワイー」の使い方や、動物ごとの名前の付け方とか、仕返しが「落とし物」だったり、世界を柔らかくしていてかなり好きです。ただ、まぁ、長さ的に無理とは分かりますが、本のつくりとして、もっと違ってもよかったのではと思ってしまいます。p192、193の見開きの挿絵はじめ、絵の主張も強いし、ずっと文章を刈り込んで、絵をもっとふやして、寓話的なきれいな大判の絵本でもあうだろうなぁなどと。

ネズミ:私はちょっとお話に入りにくかったです。樹が声を出すことで、物語が動くというのになじめませんでした。願いごとの樹、動物が住んでいる樹のイメージが先行して、物語ができたのかなと。人間の心の変化そのものは、あまりつっこんで書かれていないようで、やや物足りませんでした。

まめじか:レッドもコミュニティも、いろんな人、いろんな動物を受けいれ、ときに軋轢が生まれるのを見ながら歴史を重ねてきました。レッドとサマールの想いは、「ここにいたい」という願いに結晶化されていきます。居場所をもとめる切実さが、この物語の底にありますね。アイルランド系のメイブのところにイアリア系の赤ん坊が来て、その子が家庭をもって、というふうに、異なる人たちが家族になって連綿とつづいてきた、命のつながりが描かれているのもいいです。少年が「去レ」という言葉を樹に刻んだのは排外的な風潮からですが、その子のバックグラウンドが少し気になりました。あえて書いていないんでしょうけど。

彬夜:とても好きな作品でした。私は、今回読んだ3冊の中ではこれが一番よかったです。寓話的な作品ってなかなか日本の今の作家は取り組まないようですが、もっとあっていいのかもしれません。この物語の静かで、でもどこか人間くさい(樹なのに)語り口が好きです。からすのボンゴとの会話もいいですね。イスラムの女の子の背景については、もう半歩書いてほしいような気がした一方、そうすると物語の良さを壊してしまうのかも、という思いがあります。日記が出てきた時点で、これが、樹が切られてしまうのを防ぐのかな、という風に予測が立ってしまいました。実は、そこの箇所を読む前に樹に動物たちが集まっている挿絵がちらっと見えてしまって、オウンゴールをしてしまったみたいな気分でした。自責のネタバレですね。ああ、動物たちが助けるのね、と。それから、樹が切られるという方向の物語ってありえたかな、というのもちょっと夢想してみました。

アンヌ:ファンタジー好きとしては楽しみに読んだのですが、樹に話をさせたところで拍子抜けしてしまいました。ここは樹が語らなくても、子どもたちに日記を読ませても樹の成り立ちを伝えられるので話す必要はないと思います。樹の代弁者としてのカラスのボンゴもいますから、日本の作家なら樹のそよぎや気配で書ききるかもと思いました。フランチェスカが家族の言い伝えを思い出さないのも不自然ですし、日記を読むというのが当日だというのも駆け足な気がします。ただ、双方の家族がこれだけ奇跡的な状況なのにまだ溶け合わないとしているところは、現実も描いているなと思いました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。ただ日本の読者を考えると、もう少しわかるように出してくれるとよかったと思いました。たとえば、レッドに彫られた「去レ」という言葉ですが、日本だと「出て行け」くらいの言葉かなあと思ったり、レッドが2軒の家のまん中にあるので、どうして家じゃなく、樹に彫るんだろうとも思いました。原書の読者は、サマールという名前が出て来たとき、イスラムっぽいとわかるのかもしれませんが、「去レ」がサマールの一家に向けられているということが日本の読者にも最初からすっとわかるでしょうか? アマゾンで一部を見ただけですが、原書には、願いごとを書いた布がいっぱい樹に巻き付けられている絵がありましたが、日本語版にはないんですね。どうしてなんでしょう? ヘイトの行為として、卵を樹にぶつけるという場面も出てきます。樹に?と思いました。

まめじか:p52で、サマールの家に生卵を投げていますよ。そのあと樹にぶつけるから、サマールの家族に対してだとわかったのかな。

ハリネズミ:家にぶつけるのはわかりますが、2軒の間に立っている樹にぶつけるでしょうか? いいところは、樹を主人公にしている読み物という点がおもしろいと思いました。樹が人間だけでなく動物にとっても大きな存在だということが伝わってきます。それと、動物と樹のやりとりにユーモアがありますね。絵も助けになっています。p202に「とはいえ。」とありますが、ここは句点でいいんですか?

彬夜:「とはいえ。」といった書き方をしてみたくなる時はあります。が、誤植に思われそうで結局辞めてしまうかもしれません。

花散里:サマールの思いがよく描かれているところがよかったと思いました。この本は樹に語らせているのが大切なことだと思います。とても情感豊かな作品だと思います。こういう作品を子どもに手渡したと思いました。主人公の樹の思い、去年読んだ本の中でも忘れられない1冊です。本の創りがとても良いなと思いました。白抜きの箇所、挿絵も作品のよさを支えていると感じました。

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エーデルワイス(メール参加):樹を主人公にして、カラスやリスなど動物たちが登場し、ファンタジーのように思えますが、じつは移民をテーマにもしている奥の深い作品だと思いました。美しい文章だが、全体的に少しわかりにくいのが残念でした。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ファブリツィオ・ガッティ『ぼくたちは幽霊じゃない』

ぼくたちは幽霊じゃない

まめじか:『神隠しの教室』(山本悦子作 童心社)を読んだとき、日本の義務教育は外国籍の子どもにはあてはまらないと知って驚きました。イタリアでは、難民の子どもにも教育が保証されているのですね。警察に見つからないように生活していても、学校に行けば居場所がある。すばらしい教育制度だと思いました。ヴィキは、7歳にしてはちょっと幼く感じました。p181で、共産主義の意味をきかれて「トマトをダメにするもの」と言ったり、p144で、下のほうがせまくなっている黒板に文字を書くと、下にいくほど文字が小さくなるため、文を書くときは必ずそう書くと思っていたり。おとな目線の子ども像というか・・・。

ネズミ:とてもおもしろくて、読み出したらやめられず圧倒されました。聞き分けのない5歳の無邪気なブルニルダと、まだ7歳なのに兄としてがんばるヴィキ。この年ごろの子どもにとって、外国とはこのくらいぼんやりとした認識しかないだろうと自分の体験からも思い、私はとてもリアルに感じました。難民船で海を渡る家族の体験は壮絶ですが、今も危険をおかして海に渡る人々は同じような体験をしているのではないでしょうか。理由はどうあれ、難民として国外に逃れる人たちがどんな気持ちで、どんな目にあっているのか、これを読むと、いくらかでも想像できそうです。読めてよかったです。

西山:このシリーズでこの束で、読むのに時間がかかるかと思っていたのですが、かまえたほど長くなかったですね。紙が厚いのかな。手が止まらなかったからでしょうか。本筋ではありませんが、子どもが質問して、それにちゃんと答える文化というのが一番印象的でした。なんか、このタイミングでそれ聞く?とか、ちょっと黙ってて、とか結構ひやひやというか、イライラというか、読んでる私は思うわけですが、ちゃんと相手をしてるんですね。p223とか、あんなに大変な状況のあとで明日のクリスマスの劇、見にきてくれるのかって、お母さんは丁寧に答えているけれど、私なら無理。日本では、幼い子もものわかりがよく描かれているのか、あるいは、作品以前に社会全体のおとなと子どもの関係のちがいなのか・・・。とにかく、次から次に困難と直面する極限状況にありながら、おとなを質問攻めにする子どもに私はストレスを感じたというのが正直な感想です。もちろん移民や難民の問題を考えるに当たって、学ぶべきところは随所にありました。p79、で「いい人はたくさんいる」止まりでなく「悪いのは法律」と書いているところに信頼を感じましたし、p188の「働きたいなら文句は言うな。非正規だろうが仕事がもらえるだけありがたいと思え。」が、今の日本と重なったり、p243の「問題はおもちゃじゃない」という下りは支援のあり方を厳しく問うていましたし。

マリンゴ:非常に読み応えのある本で、よかったです。移民の旅の物語は、ずっと大変なことが起きて結末近くで少しほっとする、というような展開が多いかと思います。でもこの物語は、いいことがあって、悪いことがあって、というコントラストが強くて、それぞれの場面がより印象的になった気がします。海のシーンは、非常にリアルで怖かったですね。弱者が犠牲になりますけど、その弱者というのが“ひとりぼっちでいる人間”であるのは、衝撃的でした。ミラノに着いて、都会的な美しい風景に癒されて、でもバラックに着くとそこは大変な場所で、とこれもまたコントラストが強いんですね。ラストが若干、尻切れトンボ感がありましたけれど、実在の子の体験をもとにしているから、そこはやむを得ないのかなと思いました。

ハリネズミ:読んでよかったとは思いましたが、お父さんは、イタリアで最底辺の暮らしをしていて、なんの保障も得られていないのに、どうして家族を呼び寄せようとするのか、読者にはわかりにくいんじゃないでしょうか? 戦争や飢餓だとなるほどと思うんでしょうが、この本では「共産主義だったから」としか出てきません。アルバニアで農業をしていれば現金収入は少なくてもずっと人間的な暮らしができるのに、と普通は思うんじゃないでしょうか。国を出る理由がよくわからないままだと、物語に入り込めないように思います。イタリアの子どもなら、アルバニアからたくさん人が入ってきたのを知っているのかもしれませんが、日本の子どもはわからないので。イタリアの学校の先生は、すばらしいですね。不法移民だとわかっていても「学校にいるあいだは心配いりません。イタリア人の子どもも外国人の子どもも、分けへだてなく受け入れるのが、私たち教育者の役目ですから」(p222)なんて言える先生、すてきです。本としては出だしのつかみが弱いように思いました。作文のテーマが、ヴィキだけじゃなく、何を書けばいいのかだれもわかりませんよね。最後のヴィキのメッセージは、ヨーロッパではなくても「正義」と「法律」は一致しないだろうと思います。日本の読者向けと考えると、あと一工夫あるとよかったと思いました。

彬夜ここは「ヨーロッパでは」じゃなくて、「ヨーロッパでも」だとよかったのに。

アンヌ:海を渡る場面の過酷さに、何度本を閉じたかわかりません。非常に迫力に富んだ描写で、しかもその状況が少年の目を通して描かれているのがつらかった。無事たどりついた時に親切なイタリア人に手助けしてもらえますが、その後も過酷な生活状況やお金を巻き上げる警官や悪徳不動産屋の姿など、なかなか読むのにつらい場面が続きます。そのなかでまるで『クオレ』(エドモンド・デ・アミーチス著 偕成社文庫)のような幸福な学校生活にほっとしました。でも、保育園では冷酷なお役所仕事で移民を受けいれません。同じ国の中に残酷さと優しさが同居しているのを感じました。これを読んだ後、日本の人々にも、人に優しくできる誇りというものを感じてほしいと思いました。

彬夜:ノンフィクションっぽい作品だなと思いました。冒頭部分の位置づけは、どうなんでしょう。主人公が中学2年生になってます。ボートで海を越えるシーンの緊迫感がすごいのに、冒頭のシーンのために、ああ、無事に渡れたのね、と思ってしまいます。それでも、あのシーンは読むのがつらかったです。トラウマにならないかも心配でした。ただ、子どもが幼く感じられました。妹はまだしも、主人公の少年は、ああいう緊迫した状況だったら、もう少し聞きわけがいいのではないかと感じてしまいました。学校に行ってからのシーンでは、これでいじめに遭ったりしたらいやだなと思ったのですが、そうならなくてよかったです。彼らはいわば経済難民のようで、これは少しわかりにくいので、もっと説明があってもいいのかもしれません。ラストはちょっと駆け足で、はしょられた感がありました。その後、どんなことがあったのか、なぜ、お母さんだけがうまく仕事が得られたのか、もっと知りたかったです。警察の扱いはひどいですが、日本人には腹を立てる資格はないかもしれませんね。受け入れ政策も貧弱だし、入国管理局の問題点も指摘されている。それを下支えしているのは私たち自身の無関心なので。

花散里:私は今回選書係だったのですが、海外の作品ですぐに思いついたのがこの作品でした。難民もひとりひとりが個人であるということを、『風がはこんだ物語』(ジル・ルイス作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)と重なるように読みました。人形がなくなったり、海をわたっていくボートのところは、読んでいてもとても辛かったですが、とてもよく描かれていると思いました。
父親が呼びよせたときの思いや、お金を搾取される状況。それでも海をわたりたいと思う一家。日本にも外国籍の子どもたちが増えている今、実話をもとにしているという、こういう作品を読んでほしいと思います。難民・移民の話がひとつの作品として読めたのはよかったと思いました。

西山:さっき、おとなと子どもの関係の違いかもと言いましたけれど、普段おとな向けの作品を書いている作家が書いているから、登場する子どもが子どもっぽすぎるのか、とも疑っています。一般の小説家が書いた子ども向け作品では、妙に子どもが子どもっぽく書かれていると感じることがちょくちょくあって。ああ、でも子どもだけでもないかなぁ。あんなに町へ出るのが危険だと言っているのに、お母さんの教会に行きたがりようが呑気すぎるように感じたし。(そこもイライラしたポイントです。笑)おばけが出るぞという軽口に、お父さんには、妻子がどんな困難をこえてきたのかがわかっていないのだなと、体験の断絶の残酷さを感じました。そうでなければ、単にデリカシーがなさ過ぎですけど。

彬夜:船が着いた場所で助けてくれた人たちのことなども、もっと知りたかったです。

ハリネズミ:組織なのか、個人なのか、この本ではわかりませんね。

彬夜:幼稚園と学校の管轄の違いなどは、興味深かったです。

花散里:難民、ひとりひとりが個人であり、それぞれの思いがあると思います。すべてを手放して難民となった辛さ、父親はどういう思いで家族を呼び寄せたのか、日本の子どもたちにも知ってほしいと思いました。

しじみ71個分:今のヨーロッパの情勢をよく映す作品だなぁと思いました。私は、この主人公のヴィキや妹のブルニルダの幼さは、ときどき危機を招くのでハラハラさせられましたが、アルバニアでの暮らしが素朴なものであったことを想像させられて、素直に読みました。一番いいなと思ったのが、イタリアの学校の先生たちです。教育は子どもたちにとっての権利であり、難民であろうがなかろうが、教育を等しく受けさせるのだ、という強い意志が感じられ、感動しました。保育園の園長は反対に官僚的で意外でしたが。また、特に心に残ったのは、学校の初日、クラスの子どもたちが一所懸命に歓迎のために歌を歌ってくれたり、ハグや握手をしてくれたりしたのに、言葉が分からなくて、逆に孤独と不安でヴィキが泣いてしまったところでした。その心細さ、切なさはリアルに胸に迫りました。異国に暮らすことの難しさ、心細さを子どもの視点でとてもよく描いていると思います。言葉に慣れるのがおとなよりも早い、というのも後で分かりますが。密航の船上の恐怖や、不法滞在ゆえのひどい暮らし、警察に見つからないように幽霊のように忍んで暮らす日々、ミラノには居られなくなって郊外に引っ越すなど、厳しい現実がこれでもかと突きつけられ、問題提起のまま終わった感じもしますが、実話に基づくがゆえに簡単に解決の見つからないことなんだと思わされます。このこと自体がとてもリアルだと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):7歳のヴィキの目線で話が進むので、苛酷な密入国の場面にハラハラしました。5歳のブルニルダがあまりにも無邪気で、やりきれなさが何倍にもなります。「幽霊」や「おばけ」という表現は、子どもにとってはとても怖いと思います。イタリアでは学校はすべての人に開かれているんですね。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

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安田夏菜『むこう岸』

むこう岸

彬夜:再読です。直球勝負の意欲作だなと思います。このテーマをとりあげたことに共感するし、いい作品だとも思いました。ただ、再読すると、ちょっと気になることも出てきて。いちばん悩んだのは、むこう岸とは? ということなんです。和真と樹希、この2人は対比ではなく、同じ側にいるように感じました。だから、むこう岸は誰にとっての何なのかなと。それから後半、生活保護の解説書めいた感なきにしもあらず、かなとも。もちろん、それあっての物語なので、中学生が読むのにはいいのかもしれませんが。それに「居場所」というのは今、まさに求められる居場所なのですが、まるで樹希たちのためだけに存在するようにしか思えなくて。ここの場の奥行きが見えない、というか。ほかに客がいるの? マスター、生活大丈夫? とちょっと心配になりました。あとは、放火してしまう人ですが、人としてのいやな部分をひとりで背負わされているようで、ちょっとかわいそうでした。いい人と悪い人がやや類型的というか、人が仕分けされてしまっているような印象もありました。人物でおもしろいと思ったのは和真の母親です。父親に対しては、和真の側に立ってかばおうとする、その直後に、生活保護の子とつきあっていないと知って安心する。「総論賛成各論反対」的なリアル感がよかったです。ふつう気がつくでしょ、というツッコミはともかく、梅酒の誤飲でふたりを出会わせるのもおもしろかったです。

アンヌ:私も同じく直球勝負の作品だと感じました。生活保護法の条文を詩のように感じる少年を描いてくれたことに感動しました。政治家が率先して生活保護受給者を非難するような情けない時代に、働いて社会保障費や税金を払うことの意義を知って欲しいと思っているので、うれしい作品です。最初はアベル君以外の人物の描き方が単純な気がしたのですが、再読したときに構造の巧さに舌を巻きました。

ハリネズミ:すごくよくできた小説だなと思いました。生活保護家庭の樹希は母親に対し「もっと根性だしたらどうだ」と思っていますが、和真のお父さんは和真に対して同じように思っているという構造もおもしろい。さっき彬夜さんは「同じ岸にいるんじゃないか」とおっしゃったのですが、最初はやっぱり別の岸にいるんだと思います。樹希は最初、和真のことを「ものすごくお腹がすいている横で、美味しそうなパンをまずそうに食べているようなやつら」の一人だと見ている。和真も樹希を見て、小学校で自分をいじめた子どもたちのことを思い出し、「生活レベルの低い人たちが苦手だ。怖いし、嫌悪感がある」(p63)と言っているし、樹希に「金持ちのおぼっちゃま」だと言われて嫌な気持ちでいる。それが最初の状況じゃないでしょうか。そのあと、元の同級生の桜田という能天気な人に会って、「きみ(樹希)にとってのぼくは、ぼくにとっての桜田くんなのかもしれない」(p92)「哀れんでいるものは、自分の放つ匂いに気づかない。哀れまれているものだけが、その匂いに気づくのだ」(p93)と感じるようになる。最初は向こう岸にいた子どもたちが、だんだんに近づいていく様子がとてもよく描かれていると思いました。
もう一人のアベル君は、ナイジェリア人の父親の暴力がトラウマになっている存在だと思いますが、こういう存在の出し方もうまいなあと思いました。ナイジェリア人の父親も、ただ暴力をふるっているのではなく、どうしようもない状況におかれて、そうなったというところまで書いています。その結果、アベル君の方は言葉が出なくなり筆談しかできずに、自分はバカだと思っています。和真はそこで、アベル君にも進学校で落ちこぼれた自分を重ねていく。実体験をしたからこその気づきを書いているのも、うまいです。生活保護のところは、必要不可欠な部分だけを書いているように私は思いました。できるところをやっていこうという意欲は書かれているので、それ以上書く必要はないと私は思いました。結局、ほかの人とちゃんと関わりをもてたときだけ、人間は変わっていけるということなんですね。西ヨーロッパだと、必要最低限のお金は生活保護で得て、弱者のためにボランタリーな仕事する人がいますが、日本では生活保護はまだ白い眼で見られているのですね。「カフェ・居場所」のマスターみたいな人はいるので、私はリアリティがないとは思いませんでした。和真の父親やおばあさんはステレオタイプかもしれませんが、やっぱり日本にはこういう人いると思います。

マリンゴ:非常によかったです。テンポがよくて章が終わるたびに、次がどうなるのかと、引き込まれました。こういう物語って、ひとりのキャラが強くて、もうひとりが弱い、というのがよくあるパターンかと思うのですが、本作ではふたりとも強いんですよね。それがとても魅力的です。私自身は、進学校で苦労した経験があったので、和真のほうに自分を重ねてしまう部分がありました。読んでいて思い出したのは、数年前にネット上で物議をかもした生活保護の家庭。ひと月の携帯電話の料金が1万円を超えていて、それはいかがなものか、と批判されたんですよね。でも、既に携帯がないと生活できない時代になっていたし、自分だけでなくキッズ携帯なども必要となると・・・やむを得ないし、「これ、いらないんじゃない」と他人が簡単に言っていいことでもない。私がそんなことを思い出したように、この本をきっかけに生活保護について考えることができるのではないかと思います。

西山:ペンクラブ子どもの本委員会で困難を抱えた子どもたち向けた本を企画中なのですが、その企画の中で学んでいることがこの本の中にあれもこれも詰まっていると思いました。ふたりが互いの理解を進めていく過程が丁寧に積み上げられているという指摘も、ふたりともおなじ岸にいるのではないかという指摘も、どちらにも共感します。結局、和真と樹希たちが同じ岸にいるという指摘を、若干の不満として敢えて指摘するなら、1カ所だけひっかかったところがあります。p66で和真が自分とアベルくんを重ねるところ。「きみは、バカではありません」と和真が思わず発したこの一言はとても重要なわけですが、そんなに重ねられるものだろうか、同じ立場なのに、越えきれない骨の髄まで刷り込まれた差別意識こそがとっさに出てしまうのではないのか、と思ってしまったのです。そんなにすぐにアベルくんの側に立てるのかと。でも、ここで飛躍して、こういうペースで進んでいかないと物語の中での展開は書いていけないと思うので、これはこれでありと思いはします。

ハリネズミ:ここはアベル君を頭で理解するのではなく、自分も進学校の先生や親にバカだと思われたり言われたりする実体験を持ったからこそ言えた言葉なんじゃないですか。

西山:重なる構図は分かるのです。でもこんなに端的にそれを自覚して言葉にできるのか。和真は価値観の彼岸にはいないと思ったんです。育ってくる中でしみついてきた差別意識というものはものすごく根深くて、そう簡単には行かないんじゃないかなと私は思います。それはさておき、生活保護のことを調べるのは、この作品の価値のひとつだと思います。うまく書き込まれている。現実と重ねると、生活保護について調べたいと訪れた中学生に「生活保護手帳」を出してくるって、カウンターの人のチョイスおかしいですよね。でも、p170の「この本のわかりにくさに、怒りすらわいてきた」という一文は大事だと思うから、まぁ、これを出してくるために仕方なかったのかな。子ども学科で、ある先生から「障がいのある人にとってわかりにくさは暴力ですから」と言われてはっとしたことを思いだしたんです。制度自体の至らなさを、お勉強的に生な情報の羅列にすることなく、自然に物語にとけこませて、でもしっかり指摘している。新人作家を比べて言うのは酷ですが、『15歳、ぬけがら』(栗沢まり著 講談社)では、生な情報がつめこまれた印象がどうしても残ってしまったので、やはり、こっちはうまい。生活保護をうけている側を「けなげ」で捉えずタフさで描いたところも好きです。細かいところですが、p177で、「しがない下っ端の、助教だけどね」って、安田さん、いろんなことに気をくばって(笑)。すみずみまで異議申し立てが詰まっていて、すごい作品が書かれたと思います。

ネズミ:意欲作だと思いました。とてもおもしろくて一気に読みました。体は大きくなっても、それぞれの環境によって知っていることも限られ、制約の中で生きている中学生が、周囲との思いがけないかかわりによって世界を広げていくようすに説得力を感じました。いろんなおとなが出てくる物語って、日本の作品では珍しいのでは。頼りない担当ケースワーカーもそうですが、この人はこういう人と、決めつけてしまわないを描き方がいいなあと思いました。生活保護についてていねいに描かれ、個人の努力が足りないせいではないとよくわかります。テーマ性があるけれど、和真と樹希がどうなるか知りたくて、読まずにいられない、物語としての力のある作品だと思いました。

まめじか:すごくよかった。和真も樹希も、相手は自分とは違う側、むこう岸にいると思っているけど、その境界は曖昧なものなんですよね。若いうちは特に、この人はこうだと決めつけて壁をつくってしまうことがあります。でも、お店でアベルが暴れたときに「斎藤のおばさん」が助けてくれたり、エマがおじさんを紹介してくれたり、実は思っていたのとは違う人だったことって、現実にもけっこうありますし。樹希がけなげでなく、かといって敵意まるだしのひねくれた子というわけでもなく、その人物造形もうまい。p135「アベルくんは、泳げない魚で、飛べない鳥なんだろうか? ・・・嵐が吹き荒れる中、物陰でじいっとしているうちに、泳ぎ方も飛び方も忘れてしまったとしたら?」とか、p119「そんな時間があるおかげで、あたしは少しだけ楽に呼吸ができている」とか、心に残る文章もありました。

しじみ71個分:同じように困難な生活を送る子どもを描いた『15歳、ぬけがら』とどう違うのだろうと思い出しながら読んだのですが、登場人物の魅力や、心情の描き込み方の違い? そうなると、作家としての経験や筆力の違いなのかなと思ったりしました。生活保護に関する難解な説明については、和真が学んだ内容として紛れ込ませて、うまいこと読ませるなと思いました。それから、「うまいなぁ」と思ったのはp162~163で、和真の母親が、父親に叱られる和真をかばい、高圧的な夫に対する自分の想いを見せたところで、母親は和真の気持ちに共鳴するのかと一瞬、読者に思わせておきながら、直後に生活保護世帯についてあからさまな差別意識をのぞかせ、和真を失望させるところは二重三重に展開があってあっと思わされました。その効果で、和真のおとなへの失望、おとなの嫌らしさとともに、子どもである自分も含めた差別意識の根深さ難しさがよく伝わるなと思って感心しました。いろんなおとなたちとの対比で、子どもたちの抱える困難や苦しさが分かりやすく描かれていると思います。家庭内での抑圧と自己肯定感の喪失、虐待、貧困とか、さまざまな形で子どもたちが抱える困難を分かりやすく伝えていると感じました。
『むこう岸』というタイトルもとてもいいと思いました。何が向こう岸なのか、って考えさせられます。最初はこの世とあの世の岸のことかと思って、幽霊話か何かと思ったのですが心の問題でしたね。1本の線のような境界を越えて、むこう岸を知ろうとするか、しないか、ということが共生する世界には大事なのかなと思って、よいタイトルだなぁと思いました。「対岸の火事」という言葉もありますが、他人ごとと思って見ないふりをするかしないか、と考えるところが大事かなと。そういう意味で、和真がアベルに勉強を教え、生活保護について調べることを通して学びの喜びに気づく成長や、樹希の進学への希望などはこれからの可能性が最後に見えて、読後も気持ちよかったです。

まめじか:樹希は最後、看護師になる夢をもちます。「むこう岸」は人間関係だけじゃなく、それまで手に届かないと思っていたもののことも含んでいるのでは。いろんなことを考えさせるタイトルですよね。

花散里:昨年読んだ日本の児童文学の中で特に印象に残った作品でした。どうして12月にこういうよい作品が出るのかと思って読みました。一年のまとめをもう書いてしまったのに、と。タイトルもよいし、表紙の絵もとても作品の内容を表していると思いました。和真は名門中学で成績が低迷し、公立中への転校を余儀なくされますが、樹希が母親と幼い妹と生活保護を受けながら暮らしていることを知り、勉強の中だけで生きていた自分自身を見つめ直していく様子がよく描かれていると思います。カフェでふたりはつながりますが、子どもの居場所って大切だと思いましたし、マスターの存在がとてもいいなと思いました。世の中に、親とは違う存在があることが大切だと思いました。
生活保護を受けていたら看護士になれないと思っていたのが、なれることがわかり、勉強していくようになっていくところなど、子どもが読んで共感できるところがあるのではないかと思いました。作者の安田さんは、図書館員にはこういう人がいるのかと、見ているのかと思いましたが、ひとりひとりの人物をよく書いているなと感じました。作品を読んで、無料塾とか子ども食堂とかにも希望があると思いました。

ハリネズミ:p90に「ピアノがべらぼうにうまくて」とありますが、べらぼう、って、今の子どもも使うんでしょうか?

アンヌ:他にもいくつかp111の「なかなか窮屈です」のように子どもらしくない言い方があるので、p128で「山之内くんのしゃべり方って、おじさんぽくて、おもしろーい」とエマが言うように、個性として使わせているんじゃないでしょうか。

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エーデルワイス(メール参加):表紙が暗すぎて、読むのを敬遠したくなりました。しかし、和真と樹希の境遇が、時にはユーモアを交えながらリアルに伝わり、希望を持って終わっていたので、読後感がよかったです。学びたいと思う気持ちが伝わってきます。生活保護についてもよくわかりました。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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大塚敦子『犬が来る病院』

犬が来る病院〜命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと

『犬が来る病院〜命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと』をおすすめします。

聖路加国際病院の小児病棟の子どもたちを3年半にわたって取材したドキュメンタリー。日本で初めて小児病棟にセラピー犬を受け入れたこの病院で、犬の訪問活動をどうやって始めたのか、子どもたちの反応はどうだったのか、子どもたちが豊かな時間を過ごすための配慮がどう行われていたか、多くのスタッフがどう連携してトータルケアをめざしたのか、などについて述べられている。4人の子どもたちとその家族が、それぞれ病に直面して歩んだ軌跡も感動的。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

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浜矩子『お金さえあればいい?』

お金さえあればいい?〜子どもと考える経済のはなし

『お金さえあればいい?〜子どもと考える経済のはなし』をおすすめします。

とてもわかりやすい文章と、ユーモアたっぷりのイラストで、お金や経済について学ぶ本。お金はなんのためにあるの? 経済とは本来どんなものなの? 今の日本経済に警鐘を鳴らす著者は、本当の経済は人と人が出会う場をつくるもので、そこからは幸せが生まれてこなくてはいけないという。利益ばかりを追い求めるような偽の経済活動を賢く見ぬいて、お金にふりまわされないで幸せになるためには、どうしたらいいか。それを本書は伝えている。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

キーワード:経済、社会、お金、しあわせ

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中山茂大文 阪口克写真『世界中からいただきます!』

世界中からいただきます!

『世界中からいただきます!』をおすすめします。

世界各地の普通の家に居候して、家族の素顔や、いつもの暮らしを見せてもらい、普通の食事を食べさせてもらう。そんなふうにして集めたモンゴル、カンボジア、タイ、ハンガリー、イエメン、モロッコなど14カ国の17家族の生き方が、食を中心に写真とともに紹介されている。楽しいレイアウトのおかげで、日本の読者にも親しみやすく読みやすくなっている。コラムでは、世界の主食や屋台やトイレ、日本から持って行って喜ばれたお土産なども紹介されている。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

キーワード:ごはん、台所、料理、異文化理解

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森枝卓士/写真・文『干したから・・・』

干したから・・・

『干したから・・・』をおすすめします。

食をテーマとするカメラマンがつくった写真絵本。世界各地で見つけた乾燥食品を写真で示しながら、干すことによる食品の変化や、干すことの意味や目的を、わかりやすく説いている。野菜や果物や魚や肉や乳製品は、干すと水分がぬけて腐りにくくなり保存がきくようになるのだが、その点に子どもが興味をもてるよう伝え方が工夫されている。めざし、梅干しなど乾燥食品を使った日本の典型的な食事や、野菜の簡単な干し方も紹介されている。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

キーワード:食べ物、干物、自然、知恵

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鈴木まもる『わたり鳥』

わたり鳥

『わたり鳥』をおすすめします。

世界の渡り鳥113種の旅を描いたノンフィクション絵本。なぜ長距離を移動するのか、どんなルートがあるのか、どんなところにどんな巣をつくるのか、渡りの途中でどんな危険に遭遇するのか、何をたよりに移動するのか、などを、子どもにもわかる文章と興味深い絵で説明している。巻末には、本書に登場する渡り鳥44種それぞれの大きさや姿、巣の大きさ、卵の色や形、渡りのルート、繁殖地と冬期滞在地などを紹介する一覧と、「世界のわたり鳥地図」も掲載している。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

キーワード:渡り鳥、生き物、環境

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山本悦子『神隠しの教室』

神隠しの教室

『神隠しの教室』をおすすめします。

ある日、5人の子どもたちが学校で行方不明になる。5人とは、いじめを受けていた加奈、ガイジンといわれているブラジル人のバネッサ、虐待されているみはる、情緒不安定の母親にネグレクトされている聖哉、そして単身赴任の父親と2年も会っていない亮太。みんな「どこかへ行ってしまいたい」と思っていた子どもたちだ。この子たちは、戻ってこられるのか? 戻るには何が必要なのか? 読者は謎にひかれて読み進むうちに、現代日本の子どもをとりまく社会にも目を向けることになる。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<読みもの>掲載)

キーワード:いじめ、ネグレクト、ミステリー、学校

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藤重ヒカル著 飯野和好絵『日小見不思議草紙』

日小見不思議草紙

『日小見不思議草紙(ひおみふしぎぞうし)』をおすすめします。

江戸時代を舞台にした5篇のファンタジー短編集。不思議な刀のおかげで鼻にタンポポが咲き、相手が笑ってしまうので戦わずして勝てる侍の話、野原で出会った不思議な女の子にすばらしい絵の具をもらって出世する絵描きの話、クマの助けを借りて一夜にして堰堤を築く話など、どれも短いなりにまとまりがよく、おもしろく読める。それぞれの短編の前後に江戸時代と現代を結びつける仕掛けもあり、虚実の境がわざとあいまいになっている。ユーモラスな味わいを支えている挿絵もいい。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<読みもの>掲載)

キーワード:ファンタジー、江戸時代、変身

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岩瀬成子『春くんのいる家』

春くんのいる家

『春くんのいる家』をおすすめします。

新しい家族の形をテーマにしたフィクション。日向は、両親が離婚した後、母と一緒に祖父母の家で暮らしているが、そこに、従兄の春も加わって一緒に暮らすことになった。春は、父親が病死し母親が再婚した結果、跡取りとして祖父母の養子になったのだ。新たな5人家族は、最初はぎくしゃくしていて、感情も行き違う。しかし、春が子ネコを拾ってきたことなどをきっかけに、徐々に、みんなが寄り添い合い、新たなまとまりを作り出していく。その様子を感受性豊かな日向の一人称で描いている。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<読みもの>掲載)

キーワード:家族、友だち、ネコ

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八百板洋子文 斎藤隆夫絵『猫魔ヶ岳の妖怪』

猫魔ヶ岳の妖怪

『猫魔ヶ岳の妖怪』をおすすめします。

この絵本には、福島県各地に伝わる伝説「猫魔ヶ岳の妖怪」「天にのぼった若者」「大杉とむすめ」「おいなりさまの田んぼ」の4話が入っている。原発事故前の福島は、自然豊かなとても美しい土地だった。ここに収められた伝説からもそうした地域の背景がうかがわれ、人間と動物や自然の結びつき、人間には計り知れない自然の力などが感じられる。再話は、ブルガリアと日本の民話の研究者・翻訳者。絵も、伝説の雰囲気をよく伝えている。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<絵本>掲載)

キーワード:昔話、福島

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わたりむつこ/作 でくねいく/絵『こうさぎとほしのどうくつ』

こうさぎとほしのどうくつ

『こうさぎとほしのどうくつ』をおすすめします。

4匹の子ウサギのきょうだいが、嵐を逃れるために洞窟に入りこみ、となりの子ウサギたちとも出会って、洞窟の中を探検する。そのうち、ランタンを落とし、真っ暗な中で子ウサギたちは洞窟の中の大広間にすべり落ちてしまう。ところがその大広間の天井には、星のような光がまたたいていて、子ウサギたちを洞窟の出口へと案内してくれた。最後は家にもどって一安心。子ウサギたちの驚き、不安、安堵、幸福感など心のうちを、顔の表情や変化に富む背景の色でうまく表現している。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<絵本>掲載)

キーワード:ウサギ、友だち、冒険

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ひらののぶあき文 あべ弘士絵『手おけのふくろう』

手おけのふくろう

『手おけのふくろう』をおすすめします。

桜の木のうろで子育てをしていたフクロウ夫婦は、ある年その桜の木が倒れていたので次の場所を探すが見つからない。ついに民家の軒下に下げてあった手桶を巣にすることにした。父さんフクロウは、雨や雪の時は翼を広げて巣を守り、ひながかえると獲物をつかまえて運び、ハクビシンを体当たりで撃退する。やがて3羽のひなが無事に巣立ち、一家は森に帰っていく。民家のおじいさんもあたたかく見守る。著者は鳥の生態に詳しく、フクロウの子育てのようすがとてもリアルだし、絵もいい。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<絵本>掲載)

キーワード:自然、親子、フクロウ

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田島征三『あめがふるふる』

あめがふるふる

『あめがふるふる』をおすすめします。

雨の日に、ふたりだけで留守番をしている兄のネノと妹のキフは、窓の外をながめていると、フキの葉の傘をさしたカエル、たくさんの巨大なオタマジャクシ、くるくる回るカタツムリ、踊っている木や草や野菜などが次々にあらわれる。そして魚に誘われて向こうの世界にとびこんだ兄妹は、困っている小さな動物たちを笹舟をたくさん作って、のせていく。やがてお母さんが帰ってきて、子どもたちは現実に戻る。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<絵本>掲載)

キーワード:雨の日、冒険、思いやり

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吉野万理子『部長会議はじまります』

部長会議はじまります

『部長会議始まります』をおすすめします。

物語は、こんな校内アナウンスで始まる。「四時から、臨時の部長会議を始めます。文化部の部長のみなさんは、大講堂に集まってください」。ここは、私立の詠章学園の中等部。

第一部(部長会機はじまります)は、文化部の部長会議で、美術部が文化祭のために作ったジオラマにだれかがいたずらした事件をめぐって展開する。怒っている美術部の部長、怪しげな部活だと思われて悩んでいるオカルト研究部部長、いろいろなことに自信のない園芸部部長、ミス・パーフェクトと言われる華道部部長、恋をしている理科部部長。会議は紛糾する。犯人はだれなのか? いじめがからんでいるのか? それとも恨みか?

第二部(部長会議は終わらない)は、運動部の部長会議。第二体育室が取り壊されることになり、そこを使っていた部の活動を保証するため、運動場やグラウンドの使用を譲り合わなくてはいけなくなる。はじめのうちはほとんどの部長が、自分の部が損にならないように立ち回ろうとするが、だんだんに解決策を見出していく。卓球部、バスケ部、バレー部、和太鼓部、サッカー部、野球部の各部長に、パラスポーツをやりたいと言う人工関節の生徒もからんで、意外な展開に。

章ごとに語り手が変わるので、それぞれの登場人物についても、「他人はこう見ている」のと「自分はこう思っている」との落差がわかり、立体的に見えて来る。また他人にはうかがい知れない悩みを各人が抱えていることもわかってくる。人は見かけとは違うのだ。

楽しく読めて、読んだ後、まわりの人たちにちょっぴりやさしくなれる学園物語。

(トーハン週報「Monthly YA」2019年4月8日号掲載)

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IBBY会長の張明舟さんにインタビュー

1月21日、初来日されたIBBY会長の張明舟(ジャン・ミンジョウ)さんとJBBY事務局でお目にかかった。

IBBY会長・張明舟氏
IBBY会長・張明舟氏

張さんは、1968年に旧満州の小さな村で生まれ、上海国際大学で学び、1991年には外務省に入ったのだが、その時のお給料では故郷の貧しい親に仕送りができないため、さんざん悩んだあげく、国営の旅行会社に転職した。そして2002年にはCBBYのアテンド兼通訳としてスイスのバーゼルで開かれたIBBY創立50周年記念の大会に出かけ、そこで日本の皇后様のスピーチを聞き、真摯に子どもや子どもの本のことを考える世界の人々と出会い、自分もそういう仕事をしたいと思うようになってCBBYに加入したという。

張さんの祖先は日本兵に殺されているのだが、皇后様のスピーチを聞いて「日本軍は憎んでも、日本の人たちとは友だちになろう」と考えるようになったと話してくださった。今は自分で設立した会社を経営しながら、ほとんどの時間をIBBYのために使っているが、自分の任期中に、国際的な支部同士の交流や協力をもっと進めたいし、IBBY事務局がもっと活動できるように資金を調達し、スタッフも増員したいと思っていると、抱負も語ってくださった。

今回のインタビューで特に印象に残ったのは、子ども時代に出会った一冊の本のお話だった。お人柄がわかるエピソードなので、お伝えしたい。

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私は旧満州の、ソ連との国境近くの小さな村で生まれました。生まれた翌年には中ソ国境紛争があり、その後も村のおとなたちは、ソ連兵の侵入に備えて民兵としての訓練を受けていました。子どもは訓練の現場には近づいてはいけないと言われていたのですが、私はこっそり見に行ったものです。

私の父は学校の教師で、母も元は教師だったのですが、子どもが5人もいたので主婦をしていました。住んでいたのは藁屋根に土の床という家で、壁には古い新聞紙が貼ってありました。私はその古新聞を見ながら字を覚えたのです。わからない文字があると、父が教えてくれました。とても貧して、私が小さいころは家に本もなかったのですが、子どもたちが卑屈になることはありませんでした。両親がいつも私たちに、「勉強したかったらどんどんしなさい。鍋釜を売ってでも、その費用は工面するから」と言っていたし、楽しく学ぶことができていたからです。

村の子どもたちは、民兵の訓練場に落ちている薬莢とか、道に落ちていたひもや馬の蹄鉄を拾ってよくゴミ集積場へ持っていきました。そうすると、小銭がもらえるからです。私は小銭をもらうと店に飛んでいってお菓子を買うのを楽しみにしていました。山の中の村では、春節の時以外、家にお菓子はありませんでした。それに、そこはいつもおいしそうな匂いがしたし、カラフルな商品が並んでいて、いつでも行きたくなるようなお店だったのです。

ある日、また集積場で小銭をもらった私は、意気揚々と店に出かけていきました。でもその日はガラスケースの中に入っている何冊かの本に目がいったのです。そのうちの一冊は絵本で、表紙には男の子が白い傘のようなものを背負って飛んでいる絵がついていました。私はその絵にひきつけられ、絵本を見せてほしいとたのんだのですが、お店の人は「見るなら買わないとだめだ」と言うのです。私は長いことためらったあげく、お菓子をあきらめ、その本を買って帰りました。それは柳の種を主人公にした『小さな種の旅』という絵本で、ストーリーは、小さな種がいろいろな体験をしながらあちこち旅をし、世界の果てまで飛んでいく、というものでした。(後で詳しく伺うと、これは、宗海清作 胡立浜絵『小種子旅行記』という本で、画家の胡さんは1980年代に北京で、絵本の絵について日本の専門家から学んだこともあったそうです。張さんは、その日本の専門家というのは松居直さんではないかとおっしゃっていました。)

『小種子旅行記』

その絵本をくり返し読むうちに、私の心の中にも、いつか故郷の小さな村を出て広い世界を見たいという夢が生まれたのでした。のちに私が外務省で働いたりIBBYの仕事をしたりするようになったのは、その絵本の影響が大きいと思っていますし、今でもその絵本のことは、折に触れてよく思い出しています。

(JBBY機関誌「Book & Bread」2019年3月号より)

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2019年03月 テーマ:世界が変わる

日付 2019年03月26日
参加者 アンヌ、鏡文字、カピバラ、さららん、サンザシ、西山、ネズミ、ハル、まめじか、マリンゴ、(エーデルワイス)
テーマ 世界が変わる

読んだ本:

(さらに…)

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フィリップ・ロイ『ぼくとベルさん』

ぼくとベルさん〜友だちは発明王

カピバラ:描写が細かくていねいで、情景が伝わってきました。ディスレクシアがどういうものが理解できてよかったと思います。両親がそれぞれのやり方で、息子を理解しようとしていくのが嬉しかったです。

西山:時代が時代だからが、父親がエディに障碍があると思って接しているからなのか、エディの父親に対する口調が敬語なのに違和感を覚えて最初はなかなか物語に入れませんでした。なんの話なのだろうと。読み進めたら、いろんな情報が入ってきて、それぞれを興味深く読むことになりましたが、ライムの説明はなかなかむずかしいですよね。p70〜77あたり、興味深いけれど、ついていくのが大変。こういうの、訳すの大変なのではないですか? 今回「世界が変わる」というテーマを得て、エディ本人の抱えているものが変わるわけではないけど、ベルさんという理解者との出会いからエディを包む世界が劇的に変わって開かれた。そういう作品なのだということがクリアになったと思いました。

ネズミ:小学校高学年向けの読み物として、ドキドキしながら読めるよい作品だと思いました。自分はだめだと思っていた少年が、ベルさんやヘレン・ケラーとの出会いのなかで、好きなものを見つけて前に進んでいくのを応援したくなります。少年と大人との出会いは、『ミスター・オレンジ』(トゥルース・マティ作 野坂悦子訳 朔北社)を思い出しました。ただ、話し言葉は全体に古風で、ところにより説明的な感じがしました。特に気になったのは家族の中でのお母さんの口調。「書いてごらんなさい」などは、時代感を出すために、わざとていねいにしたのでしょうか。お行儀のよい感じになりすぎるのは、もったいない気がしました。

まめじか:昔の上流階級だからじゃないですか?

カピバラ:ここは口調が変わっていくところです。最初は「書いてごらんなさい」だけど、次は「じゃあ、書いてみて」そのあと「さあ、書いて」になってますよ。

西山:エディがおつかいに行ったところは、字が書けないなら口で言えばいいのに、と思ったりしました。

ネズミ:数字の8を書いたっていいのに。

まめじか:おもしろく読みました。p134「思いちがいをされているんでしょう」など、父親への言葉遣いはていねいすぎるような・・・。昔の話だとしても。ところどころ、わからないところはありました。p13で、お父さんは主人公の字が読めとれず遅れて到着します。hとnをまちがえたようですけど、どうまちがったら、8時が9時半になるのか・・・。翼の形について友人と議論しているベルさんに意見を求められ、エディは「よくわかりません。もしぼくが飛行機で空中にうかんだとしたら、たぶん次に知りたいのは無事に地上にもどれるかってことです。でもぼくも、あの見た目はすごくかっこいいと思います」と言います。私は、エディがどちらの側についているのか、このせりふからはわかりませんでした。次のページで、ベルさんが「二対二で同点だな」と言っているので、エディはベルさんに同意し、その形の翼では飛べないと言っているんでしょうが。それと、畑の石を掘りだすのは、「大人の男がするような仕事」みたいですが、父親は、なんでそんな大変なことをエディにさせたんですか?

ネズミ:そんなに石が大きいとは思ってなかったんでしょう。

サンザシ:お父さんは、この子は勉強もできないから畑仕事のプロにしなくちゃと思ったんじゃないかな。

さららん:テーマも、出会いの描かれ方もすごくいいし、応用数学を使って、主人公が大きな岩を滑車とロープで運び出すところなども、大変おもしろかったんですが、例えばp122、p208のロープと滑車のつなぎ方は、文章だけでは想像できない。だからp125に挿絵があって、ほっとしました。ただp124に「馬たちは丘を上り始め」とあるのに、挿絵の絵は平地に見えます。またp103の「馬房」はなじみの薄い言葉ですね。p126の「主はアルキメデスだ」という文章も、スッとわからない。対象年齢を考えると、少し言葉を補ったほうがよいのかもしれません。

まめじか:アルキメデスの原理で、石を動かしたからですよね。

サンザシ:アルキメデスはp113-114にかけてずっと出てきていますよ。滑車の法則を発見した人だっていうのも出ています。もう一度ここでも補うってこと?

さららん:メッセージもストーリーも素晴らしいだけに、訳語でひっかかるのが残念だったんです。物語の魅力をさらに輝かせるためには、p70-72にかけての「ライム」についてヘレンが話す場面も、もう少しわかりやすくなるといいな、と思えました。

鏡文字:正直なところ、前半が読みづらかったです。物語に入れないな、という感じで。冒頭から、プツンプツンプツンと言葉を投げられているような気がしてしまったんです。物語そのものはいい話だなと思いましたし、エピソードもいいんです。なんというか幸福感のある話ですよね。ただ、表現面でいろいろひっかかりを感じてしまったんです。『マレスケの虹』(森川成美作 小峰書店)はちょっと改行が多すぎると思ったのですが、この本は、ここ改行なしにつなげちゃうの? と思うところが何か所かありました。それから、p20の終わりに、「そんなある日、ある人との出会いが、すべてを変えたのだった」とあり、p43には「そしてこの本が、ぼくにとってすべてを変えるきっかけとなった」とあります。すべてを変えるのがそんなにあるの? とか。それから、ベルさんって、今の子たちにピンとくるのでしょうか。

サンザシ:p4に、「世界じゅうでその名を知られる発明家、アレクサンダー・グラハム・ベル」とか、お父さんのセリフで「ベルさんは、この世でいちばんかしこい人なんだぞ」と、書いてありますよ。

まめじか:電話を発明した人って、どこかに書いてありましたっけ?

サンザシ:それは別になくてもいいんじゃないですか。この作品の本筋にはかかわらないから。

マリンゴ:作家はカナダ人ですけど、カナダではだれでもベルを知ってるんでしょうね。

鏡文字:これってまるっきりフィクションなんですか? それとも、エディにモデルがいるんでしょうか。それを知りたいと思いました。

ハル:奥付ページの上のほうに、「この物語は、史実を考慮して書かれたフィクションです」と書いてありますよ。

カピバラ:「考慮する」って微妙ですね。

ハル:まだp108までしか読めていなくて、そこまでの感想ですみません。ヘレン・ケラーに会って「かしこさの正体」に気づいた場面がぐっときました。子どもの頃には「この授業が、実生活でなんの役にたつのか」「なんでこんな勉強をしてるんだ」なんて、つまらなく思うこともあると思いますが、自分の中で賢さとは何かという答えが出ると、世界がガラッと変わるんじゃないかと思います。エディは、賢さとはp68「ぜったいにわかってやるという強い想い」だと知りますが、はたして読者はどう思うか。それぞれの答えが見つかるといいなと思います。なんて偉そうに言いますけど、私ももっと勉強しておけばよかったと今になって思っています。一か所、勉強ができないことの引き合いに、過去に事故にあったフランキーという少年が登場しているのは、嫌だなと思いました。最後まで読んだら、違う意図があるのでしょうか。

アンヌ:以前に読んだ時は、実在の人物ばかりが気になっていたのですが、今回は主人公の気持ちになれました。読み書きがうまくできないということだけで、差別されたり、何を言っても「うそだね」と否定されたりするのが読んでいてとてもつらかった。けれど、数学や問題が解けた時のさわやかさを主人公と一緒に感じられて、再読できてよかったと思います。私も左利きで矯正された世代なので、この視察員には不快さを感じました。お父さんが怒ってくれてよかった。

鏡文字:100年以上も前の1908年に、左で書くことを親が認めてくれるというのは、うらやましいことですね。

アンヌ:p68のヘレン・ケラーの知りたいという強い思いを感じるところも素晴らしいと思いました。主人公の語り口が大人っぽいのは、ディスクレシアではあるけれど、内面にはすぐれた知性があるという事を示すためなんだろうと思います。

サンザシ:これ、読書感想文の課題図書なんですね。感想文が書きやすいのかな、やっぱり。会話とかあんまり気にせずに読んだけど、そういえばそうですね。エディは10歳の子で、何も習っていないのに滑車の道具を考えだしたりする、ものすごく賢い子なんですね。普通のディスレクシアの子は、もっと大変なんだろうなと思いながら読みました。家族の外にいる人との交流の中で、子どもが自信を得ていくというテーマはいいですね。現地音主義で言うとグレアム・ベルでは? ケネス・グレアムはグレアムになってますけど、この人はずっとグラハムですね。

一同:もうそれで定着してるから。

アンヌ:ベルが飛行機まで発明していたとは知りませんでした。

マリンゴ:今回のテーマは「世界が変わる」なのですが、選書をする段階で、「史実とフィクションのさじ加減」というテーマでもいいかなと、担当者で話し合っていました。この本はまさに、史実とフィクションの混ぜ方が興味深い作品だったのです。グラハム・ベル、ヘレン・ケラーという実在の人物が重要な役割を果たす一方で、エディという主人公はどうやらフィクションらしい、と。その辺の作り方がとてもおもしろいなと思いました。カナダ人にとっては、ベル氏は英雄だし、ヘレン・ケラーは世界的に知られている人だし、どちらも一切悪く書かないで、物語にうまく取り込むのは難易度が高い気がしたのです。もっとも、著者もカナダの方なので、リスペクトする気持ちがもともと高いのでしょうけれど。先ほど、ディスレクシアの症状をつかみにくいという話がありましたが、大人になってからディスレクシアだと気づいた人が主人公の漫画があります。やはり絵で表現されると、伝わりやすくて症状がよくわかるんですよね。活字で症状を語るのは難しいのだなと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):主人公のエディと発明王ベルさんの友情がさわやかです。ベルさん、魅力的ですね。普通の人には理解できない、ディスレクしあの人の苦労がていねいに書かれていました。エディの観察力の鋭さと数学的な思考の優秀さも。

(2019年03月の「子どもの本でいいたい放題」)

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森川成美『マレスケの虹』

マレスケの虹

ハル:文学で戦争を伝えていくことの意義は、この「虹」を探すことにあるのかなと思いました。戦争の恐怖、悲劇、残酷さを伝え、絶望を知り、だからもう2度と繰り返さない、というところからさらに1歩踏み込んで、その恐怖や絶望の芯に何があったのか、戦争による恐怖の本質をいろいろな角度から考え、学び、簡単には言えないけど、やはり未来の希望へつなげていかなければいけないんじゃないかと、そんなことをこの本を読みながら考えました。

アンヌ:すぐには物語に入り込めなかったのですが、裸足で学校に通う描写のあるp25のあたりから、ハワイでの戦前の移民の生活が感じられてきました。一見封建的なおじいさんもハワイで生きてきた人だから、ハワイ人を差別しアメリカに勝つと言っている日本語学校の校長先生とは違う。p88「じいちゃんはたしかにぼくのじいちゃんだ」の意味が、だんだんわかっていきました。疑問なのが母親で、姉や兄に連絡を取らないのはなぜかと思っていたら、実はスパイと一緒だった。時代の緊迫感を感じました。「何人も令状なしに逮捕されないと、憲法に書いてあるでしょう」とp136でミス・グリーンが口にする憲法の下での人権の話がとても心に残ったのですが、戦争が始まると超法規的なFBIが子どもにまで手をのばす。こんな仕組みを作ってはいけないと思います。ハワイの海にかかる「雨の後の虹」をめぐる思いが美しい物語でした。

サンザシ:ここには、白人も日系人もハワイ人もいるという設定ですが、周りの人たちをちゃんと観察して分析しているところがおもしろかったです。たとえばマレスケはハオレ(白人)について「怒れば怒るほど、一歩ひいて、冷静になろうとする。皮肉を言っておしまいにするのも、文句を言うより、相手に響くと考えるからだろう」と思う一方で、日系一世のおじいちゃんについては、「直情径行で、頭にきたらかっかとして、自分の気のすむまで、どなりちらす」と見ています。日系人でも一世と二世はメンタリティが違って「一世はまじめで、やることはとことんやる」けれど、二世についてはもっとのんき。でも二世でも「シェイクスピアを読んでもすごいなって関心はするけど、ハオレのものだという気持ちがどうしてもぬぐえなかった」り、「俳句を読むと、ところどころ意味はわからなくても、なんとなく気持ちがわかるもんなあ。しっくりくる、って感じだ」とハジメさんに言わせたりもする。先住民のレイラニには「私たちハワイ人は、いつだって、あせらないのよ。雨が降れば雨があがるのを待つし、風が吹けばやむのを待つの」と言わせる。それがステレオタイプになるのはまずいと思うけど、いろんな人が混じり合って暮らしている場所ならではの描写だと思うと、おもしろかったです。パールハーバーの事件があって、日系の人たちが右往左往するというところも、よく描かれています。ただ私はマレスケの母親が一体何だったのかがよくわかりませんでした。スパイだったのか、だまされたのか。本の中で明かされないので疑問として残りました。一か所ひっかかったのは、p157で、マレスケが「ぼくは日本人を見殺しにしてしまった」と言ってるんですが、別に見殺しにしたわけではないのでは? マレスケが服をとりにいったあいだに、いなくなっただけなのでは?

まめじか:p124に「生きて虜囚の辱めを受けず、という男の言葉が、ぼくの頭の中をかけめぐった。捕まるぐらいなら死ね、ということだ」とあるので、このあと自ら命を絶ったと、主人公は思ってるんですよ。

さららん:その日本人を助けられなかったことを、見殺しにしてしまったとマレスケ本人が強く感じているんじゃないですか?

ハル:でも、p121に「ぼくらといっしょに、カヌーで戻ります?」とも誘っているので、たしかに曖昧な感じもします。

サンザシ:マレスケの心自体が揺れているように思い、迷っているのかなと思っていたんですけど。

マリンゴ:児童書で、ハワイの日系人の戦争関連の物語。切り口がとてもいいなと思いました。全体の3分の1のところで、パールハーバーが始まるのもとてもいいバランスだと感じました。それ以前とそれ以後と、空気の変わり方がとてもよくわかります。とても読み応えありました。ただ、最後は作者の言いたいことが全部書かれ過ぎていて、余韻が消されている気がしました。正直、p239「美しい虹だった。」で終わってくれたらよかったのにと思うくらい。あと、風景描写がほとんどないのが残念でした。読み始めて序盤で1度ストップして、本当にこれハワイの物語なのかな、と確認してしまったほどです。美しい海とヤシの木と・・・そういう美しい風景があれば、戦争とのコントラストがよりくっきりしたかと思うのですけれど。

カピバラ:戦争中の話で、暗く厳しい現実を描いていますが、主人公がまわりのいろいろな大人たちをよく見て、14歳という年齢なりに考えていく姿に好感がもて、明るい気持ちで読めました。2つの祖国の間でアイデンティティに悩むというのは、どの国の移民もかかえている問題ですが、どちらかに決めることはない、という考え方は納得ができました。現在の日本でも外国籍の子どもが多くなっているし、今の子どもたちの問題でもあるので、ぜひ読んでほしいと思いました。ただ、この表紙の絵はどうなんでしょう。何だかとっても素敵な男の子が描かれていて、ちょっとこっちを向いて、と言いたくなるような感じなんですが・・・。

ハル:足の付け根あたりの描き方がちょっと変・・・?

カピバラ:物語の中身と合っていないと思います。

サンザシ:書名の後ろじゃなくて前に虹が来てるのはわざと?

西山:最初に何の情報もなく本を手に取って、このおしゃれな表紙に「マレスケ」、またまたなんでこんな古くさい名前と思いながら読み始めると、主人公自信がこの名前が嫌だと語っていて、その由来やハワイの日系の世代間の感覚の違いまでそこで伝わってきて、かゆいところに手が届く感じで、うまいなぁと、すっと作品の中に入って行けました。日本の児童書の中で、日系移民のことを正面から書いた作品は、私は思い出せません。こういうドラマで現代の子どもに史実をお勉強的でなく伝えています。ただ、過去の伝達だけでなく、たとえばp37あたりの、マレスケが自分の進路を考えるところなど、今の子にとっても、自分はこれからどう生きていくのかという普遍的な14歳の不安につながっています。戦争についても、p136の後半の部分は、非常時は人権が制限されるという、戦争を過去の出来事としての戦闘だけでとらえない、本質を伝えてくれています。移民のアイデンティティの複雑さを象徴的に伝えてくれる、p161~162にかけての露店のシーンも印象的です。あっち、こっちと立場を2分できない複雑さに沖縄を重ねて思いを馳せました。貴重な過去のことを題材にしているけど、現代的なことも描いていて、大事な1冊が書かれて良かったと思います。先にご指摘があったように、五感に訴える描写があったら、もっとよかったのでしょうね。

カピバラ:最後のお兄さんの手紙、この時代にこんな手紙文は書かないと思ったのですが、これは英語で書いてある設定のものを日本語にしているからなんだと気づきました。

さららん:日本とアメリカでは状況が違うので、なんともいえないけれど、こんな内容の手紙を、軍人のお兄さんが自由に家族に出せたんでしょうか? 検閲にひっかからなかったのかな。

ネズミ:意欲的な作品だと思いました。戦時中の北米の日系人の状況もそうですが、100年前の移民政策によって海を渡った人々の歴史を書いた本はとても少ないので。同じ北米でも、ハワイとアメリカ大陸では違ったのでしょうか。ハワイの日系人はこうだったのかと、興味深かったです。カピバラさんと西山さんがおっしゃったように、マレスケには、今の同世代の子どもも自分を重ねられそうなところがありますね。将来どうしようとか、自分は何をしたいんだろうとか、迷っていて。なので、最後まで目が離せないところがうまい。アイデンティティについて、ありのままの自分でいい、どちらでもいい、と着地したのがいいなと思いました。ひとつだけどうなのだろうと思ったのは、p100のJAPS GO HOMEという言葉。「日本人は国に帰れという意味だ」と書いてあるだけですが、JAPSに差別的な意味合いはなかったのでしょうか。

サンザシ:最初は略語だったのが、戦争の中でどんどん日系人迫害に使われるようになって、蔑称として定着したんじゃないでしょうか?

ネズミ:解説がほしいなと思いましたが、創作だとつかないのでしょうか。翻訳ものでこういう内容だったら、必ずつきますよね。

マリンゴ:たしかに日本の本だと、巻末にあとがきを入れるかどうかは、作家次第ですね。入れたとしても、だいたいは謝辞が中心でしょうか。

まめじか:伝えたいことがあって書かれた、意味のある作品だと思うんですけど・・・。静かなドキュメンタリー映画を観ているようで。入り込めなかったのは、主人公が、思ったことをぜんぶ言葉にしていて、撓めがないからでしょうか。作家をめざすのも、先生の言葉だけでそうしたように読めて、私は納得できませんでした。

さららん:マレスケはあるとき日本人スパイとの関係を疑われ、マレスケの立ち寄ったホテルにFBIが調べに行きます。でもドアボーイは、そんな少年は知らないと答えたんです。それを「かばってくれた」としっかり感じたところに、ハワイという多民族社会の戦争時代に生きるマレスケを感じました。

まめじか:そうした場面で、主人公が自分の特性に気づく様子が書かれていたらいいんですけど、それがないので、最後がちょっと唐突に感じました。

さららん:戦争中の日系人の話は関心のあるテーマです。収容所に入れられた一家の話かなと思ったら、そうじゃなかった。私自身は、物語に起伏がないようには思いませんでした。「しかたがないものは、しかたがない」というのがおじいちゃんの口癖。戦争をテーマにした別の作品で、愛犬が連れていかれたあと、母親が子どもに「戦争なんだからしかたがないのよ」と言う場面があり、その「しかたがない」に強い反発を覚えたことがあります。でも、ハワイに移民したあと苦労を重ねてきたおじいちゃんの「しかたがない」には、人生の重さを感じました。前に読書会で読んだ『ミスターオレンジ』(トゥルース・マティ作 野坂悦子訳 朔北社)の主人公にも、出征した兄さんがいて、『マレスケの虹』の時代や状況と共通するものがあります。今の日本の子どもたちに必要な点を与える、良い作品だと思いました。

アンヌ:小峰書店のサイトでは、読者対象が小学校高学年・中学生向けとなっていますね。

鏡文字:再読です。私はこの本のオビが好きです。色もいいな、と。表紙はオビがあるとないとで、だいぶ感じが違いますね。オビの1941年12月、ハワイという言葉で、描かれる世界がすっと入ります。カバーをとった中もいい感じです。物語としては、まず、題材がとてもいいなと思いました。共感できることがたくさんあります。森川さんの作品の中では一番好きです。が、再読でちょっと気になるところが出てしまって。さっき西山さんが言ったp136。グリーン先生の問いかけに、マレスケ本人がすべて答えを持ってしまっている。「それは、戦争になったからだ」以下の記述です。ずいぶん達観しているな、と。たしかにいろいろ考える子ではあるけれど、他の記述からとりたてて早熟さは感じないタイプです。おそらく作品を描くためにいろいろ調べたことのだろうと思うけれど、「調べました感」が顔を出しているという印象もありました。それと風景描写や身体的な表現も少ないから、潤いがない。冒頭からそのことでつまずきました。p9の「14歳にしてはじめての失恋だ」以降の3つの文はいらないと思います。

さららん:「マレスケは」と三人称で書いてあったら、どんな印象になるでしょう?

鏡文字:そう、三人称にした方がよかったのかも。一人称で描かれている割には、距離があるというか、客観的すぎるんですよね。だからドラマチックなことがあるのに、平板な印象になってしまう。あ、でも、再読で新たに思ったのは、グリーン先生がいいなということで、「本を貸してあげるから」というところは、ちょっとグッときます。最後のお兄さんの手紙、p229「だけどね、ぼくらが殺そうとしている相手は親も子もいるんだ」というのは、日本兵には書けなかったことかもしれない、と思いました。アメリカの兵隊はこういうことを書けたのだとしたら、やっぱり日本の軍隊は・・・と思ってしまいます。ただ、「お母さん ぼくはあなたをあいしています」というのがラストに来て、それが実感なのかもしれないけれど、私は「母か・・・」と少し引いてしまいました。

サンザシ:翻訳だと『そのときぼくはパールハーバーにいた』(グレアム・ソールズベリー著 さくまゆみこ訳 徳間書店)というのもありましたね。その本でも、日系ハワイ人のおじいちゃんやお父さんが収容所に入れられていました。

西山:植民地下の朝鮮人が、日本軍の兵士として戦地に立った皮肉な悲劇も重なりますね。長崎源之助『あほうの星』を思いだします。

サンザシ:アメリカの海兵隊に入る人たちも、貧しくて自分のお金では大学に行けないような人たちが多いと聞いています。そういう人たちが、自分たちはB級市民じゃなくて一人前だと認められたいがために、志願するようですね。

西山:最初に上陸して戦闘に入っていく人たちなので、洗脳というか感情をもたない人間に改造されるんですよね。

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エーデルワイス(メール参加):とても印象に残る作品でした。日本とアメリカの間に戦争が始まり、その最中のハワイでの日系人の生活が書かれています。主人公マレスケの心の軌跡もていねいに書かれていて、伝わってきます。母親への思慕と嫌悪感が切ないですね。兄の広樹のような気持ちで戦争に参加する日系人が多いと思うと、それも切ない。「ノーレイン、ノーレインボウ」という言葉が印象的です。希望がある終わり方ですがすがしいです。

(2019年03月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ルイス・サッカー『泥』

さららん:『穴』(幸田敦子訳 講談社)以来、久しぶりのルイス・サッカーの作品です。動きの描写がきっちりした翻訳のおかげで、安心して読み進めることができました。同じ学校に通うマーシャル、タマヤ、チャドの3人の人間関係を核に、森の中である事件が起こります。チャドのいじめを避けようと、マーシャルがタマヤと入った森で、パンデミックが始まるのです。フランケン菌とあだ名のつい「エルジー」の不気味な増殖と、帰ってこないチャドを救いに森に戻るタマヤ、タマヤを追って森に戻るマーシャル。単純なからみあいだけれど、説得力がありました。物語には、事件の前から始まる大人たちの聴聞会での証言が織り混ざり、現実の描写と、最初は意味不明の過去の証言が交差して、初めのうちは?だらけですが、途中から、聴聞会の時間が現実の事件を後追いする形になって、真相が明らかになっていきます。巧みな構成です。説明抜き、視点が刻々と変わるところなど、サスペンスのようですが、ホッとするところ、クスっと笑ってしまうところもあって楽しめました。結末はオープンエンディングで、やや不気味。でもこのぐらいの軽さ、辛さがちょうどよく、文明への警告として今の十代にすすめたい作品です。私自身、どっぷり物語に浸って楽しみました。

まめじか:環境問題とサスペンスをくみあわせたのがおもしろいですね。社会派エンターテイメントというか。日本の作品にはなかなかないです。徐々に数が増える掛け算の数式は、正体不明のものと向きあう恐怖をかもしだしています。この本では、若い力が立ちあがり、それが世界を変えていくんですね。今、アメリカでは銃規制、欧州では環境問題をめぐる若者のデモがひろがっています。先日は、JBBYの子どもの本フェスティバルで、作家の古内一絵さんが、福島について考えるだけでなく、行動を起こさないといけないと語っていました。読んでいて、そんなことを考えました。いろいろと思いをめぐらすことのできる本でした。

ネズミ:構成や書き方がうまい。アメリカの売れるYAというのは、こういうところ、抜かりないですね。人物造形がそれほど深いわけではないけれど、物語とからみあって人物像が見えてくるからか、とってつけた感じはせず素直に納得できました。泥にはまっていくシーンと、そこから抜け出すところの臨場感は、作者も訳者も見事です。文学好きの読者にとってもおもしろいし、あまり物語を読み慣れていない読者も、どうなるのだろうとひきこまれるのでは。いじめっ子がいじめていた理由や、いじめを放っておいてしまう周囲など、日本の子どもも共感できそうです。はじめての海外文学の一冊にいい、間口の広い作品だと思いました。

カピバラ:やはり構成が緻密でうまいと思いました。たとえば計算式とか、途中途中にはよく意味がわからないところがあるけれど、あとになってだんだんわかってくるというおもしろさがありました。どうなっていくのか、先へ先へと読ませるんですけど、聴聞会の部分など難しいので、私はむしろ読書力が必要ではないかと思います。

ネズミ:聴問会の部分は、私は最初の1つ2つを読んだ後は、飛ばしてしまって、あとで最初から読み返しました。

さららん:子どもたちの描写の部分だけ読むんだと、飛ばしすぎでは?

まめじか:読んだ中学生が、すごくおもしろいと言ってましたよ。それまでファンタジーなどは読んでなかった子ですけど。

カピバラ:計算式は何かを表してるんだな、と思いながら読んでいき、先へ先へと得体の知れない恐怖が増してきます。ひりひりする感じがあり、私はあまり好きになれない作品でした。いじめっ子が、実はだれにも愛されていない子だった、という設定はちょっとありきたりかな。

ネズミ:そこが初心者向けかなと。

カピバラ:でも初心者だと、やっぱり聴聞会の部分を理解するのは難しいんじゃないかな。

マリンゴ:架空の世界なのにリアルに描かれているのが、さすがだと思いました。少しずつ悪くなっていく症状が、手に取るようにわかりました。私は、実は聴聞会の部分がとてもおもしろかったんです。対応の遅さや隠蔽しようとする行動がうまく表現されていて。これらを読んで、東日本大震災や第二次世界大戦中のさまざまなことを連想してしまいました。でも、児童書だから、ここから一気にハッピーエンドに持っていきます。その筆力がすごいです。そして最後に、こんなひどい事故が起きたというのに、製造をやめない、今度こそは大丈夫と言い張る・・・これも何かを想起させる象徴的なシーンですよね。大人にとっても読み応えのある作品でした。

サンザシ:私もとてもおもしろかったです。本を読み慣れた子だったら、聴聞会の部分もおもしろいと思います。読み慣れているかどうかというより、社会問題に対する視点があるかどうか、かもしれないけど。今の問題と重ね合わせて読めますからね。バイオテクノロジーの怖さもよく出ています。安易に技術開発して使うことのおそろしさや落とし穴がちゃんと書かれている。人物は、厚みがあるというよりは、状況のなかで動くものとして描かれています。展開のおもしろさにぐぐっと引っ張られました。すべて解決したと思ったところで、p218にまた2×1=2がまた出てきます。これ、また同じことがくり返されるという暗示ですよね。怖いです。今はバンパイアとか妖怪を持ち出して変に怖がらせるだけの作品も多いので、そういうのよりよっぽどいい。聴聞会とタマヤたちの話が無関係だと思っていると、だんだんつながってくるのにワクワクしました。テキストみたいな文章ではなく、このくらいおもしろい物語で環境問題を考えると、社会に意識をむける中高生も増えるのではないかと思います。

アンヌ:子供の時からSF好きなもので楽しく読みました。取り返しがつかない発明の恐さは、アレクサンドル・ベリャーエフの『永久パン』(西周成訳 アルトアーツ刊)を思いださせます。皮膚炎の描き方はかなり怖いなと思います。チャドのいじめの原因を家族から疎外されているからだと説明していますが、チャドのふるう暴力場面もかなり怖いです。p157、p160あたりですね。助けに来てランチを食べさせてくれるタマヤがここまで我慢する描写に、作者はタマヤが女の子だからそうさせたのかなと、ちょっと怒りを覚えました。男の子だったらここまで世話を焼くようには書けなかったでしょう。

サンザシ:いじめっ子だったら、これくらいするんじゃないですか? これが現実なんじゃないかな。タマヤをがまんさせると言うより、むしろタマヤを冷静な存在として描いているのではない?

アンヌ:32章のp197「カメ」で、あ、助かるんだと未来を見せハッピーエンドを予感させるところはうまい。ユーモアのある作風とはこういうところかと思いました。気になったのはp232「風船を膨らませる方法」の活字です。らの字がとても読みにくいので、なぜこの書体を選んだのかと。

サンザシ:手書きっぽくしたいんでしょうね。そういえばp233に誤植が。

ハル:あとがきに「パニック小説」という言葉もありましたが、まさにそういう、パニック映画を見るような感覚で、読んでいるときは純粋に楽しみました。2×1=2、2×2=4の数字の意味に気づいたとき、見出し回りの泥がどんどん増えていくことに気づいたときの、うわぁぁぁと背筋にくるような気持ち悪さ。ラストもお約束的で(これは、雪が解けたら、そこには突然変異でさらに進化したバイオリーンがいるんですよね?)、もう、きたー!という感じ。だけど、読み終わってから、ただ「おもしろかった」だけでは済まないものがついてくる。そこがいいですね。やはり、ていねいにつくられた本は、読者にも伝わるんだなと思いました。

西山:7章の最後から登場する数式が、エルゴニムが36分毎に倍に増える様を表しているのだけれど、「2×〇〇」という数式になっています。「〇〇×2」とした方が倍々に増える恐怖が出ると思ったのですが・・・。

サンザシ:アメリカの計算式の書き方なのかしら? でも2つに分裂したものが〇〇個あると考えれば、同じかも。

西山:まさかパンデミックものだとは思わずに読み始めたので、皮膚のただれる様子とか想定外の怖さでした。再読する時間がなかったので、ていねいに読みかえしたら、あらためて気づく絶妙な伏線とかあるのだろうなと思っています。

鏡文字:雪解け後のことを考えた時、園子温監督の『希望の国』のラストシーンを思いだしました。逃れて海辺に出てマスクをとり、晴れやかな気持ちになる。と、手元の線量計がピーピーと鳴ります。あの怖さにちょっと類似したものを感じました。この本は、物語そのものはおもしろく読みました。ただ、p131の聴聞会の記述で、瀕死の状態とあって、そこで死ななかったとわかる。前半の緊張がここで一気に緩んでしまいました。それから、バイオリ-ンの設定。これがファンタジーになってしまったかな、と。ファンタジーが悪いわけではないのだけれど、ちょっと説得性が不足してしまうというか。ところで、ラストの風船をふくらませる方法は、みなさんはどう感じましたか。

サンザシ:助かると思うと緊張が途切れる、というのは、大人の読み方かも。それに、いったんはほっとさせますが、それで終わりではないし。

アンヌ:天才のフィッツマンの頭の中にあるものと実際に生まれてくるものの違いでしょうか? 言葉で表していても、実際はその発明を実現する技術は追いついていない。突然変異に対処できるのか不安が残ります。

さららん:恐ろしい話として読んでいても、これは創り話だから、と、どこかで安心していられます。やっぱりファンタジーっぽいのかも。

鏡文字:人間関係はリアルな緊張感があるのに、バイオリーンがファンタジーなので、怖いんだけど、そんなに怖くない。という感じがしました。

サンザシ:私は逆に、バイオリーンが今の社会のもろもろを象徴的に表しているような気がして、逆に怖かったです。

さららん:装丁もいいですね!

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エーデルワイス(メール参加):私はこの作家とどうも相性が悪いようです。『穴』も読後感が悪かったのを思い出しました。この作品も、内容はおもしろいし主人公が魅力的なのですが、構成が懲りすぎているように思いました。

(2019年3月の「子どもの本で言いたい放題」)

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リン・フルトン文 フェリシタ・サラ絵『怪物があらわれた夜〜『フランケンシュタイン』が生まれるまで』さくまゆみこ訳 光村教育図書

怪物があらわれた夜〜『フランケンシュタイン』が生まれるまで

メアリー・シェリーという若い女性が、どうして『フランケンシュタイン』という物語を書いたのか、その背景がとてもわかりやすく描かれた絵本です。ちなみにフランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく、実験を重ねて怪物を作り出してしまった男の苗字です。

この絵本を訳すにあたり、『フランケンシュタイン』をもう一度読んでみました。ずっと前に読んだことがあったのですが、それほど印象に残っていなかったので、絵本を手もとに置きながらもう一度読み返してみたのです。

そうしたら、やっぱりおどろおどろしいだけの物語ではないということが、よくわかりました。物語は今のSFと比べるとまだるっこしいところもあるのですが、だからよけいに怪物の悲しみや恨みが切々と伝わってきます。

この絵本には、女性が評価されない時代にあって、メアリーはどうしたかったのか、ということも描かれています。

(編集:相馬徹さん 装丁:城所潤さん+岡本三恵さん)

*「ニューヨーク・タイムズ」/ニューヨーク公共図書館ベスト絵本

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<作者あとがき>

メアリー・シェリーは、1818年、20歳のときに『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を書きましたが、最初は500部しか印刷されませんでした。しかし、まもなく死体から怪物をつくりだした男のおそろしい物語はイギリス中で話題になりました。しかも、それを書いたのが、わかい女性だったなんて! 女の人たちはあきれ、男の人たちはあざわらいましたが、だれもがこの作品を読んだのです。そして1823年には早くも劇になって上演されました。「なんとなんと、わたしは有名になっていたのです」と、劇を見たあとで、メアリーは書いています。1910年には、最初の「フランケンシュタイン」の映画が作られました。それ以来、いくつもの映画や、舞台や、ラジオ番組やテレビ番組が制作されてきました。

1831年版『フランケンシュタイン』の序文でメアリーは、ヴィクター・フランケンシュタインと怪物の物語がどのようにして生まれたかを書いています。そこには、1816年の夏をレマン湖のほとりで過ごしていたころには悪天候がつづいたこと、バイロン卿がそれぞれ怪談を書いて比べてみようとみんなに提案したこと、そして、青白い顔の学生が邪悪な技術で作り上げたもののかたわらにひざいまずいている姿が白昼夢のように浮かんだことなどが述べられています。

1831年版のこの序文には、母親のメアリー・ウルストンクラフトのことは出てきませんが、きっとメアリーの潜在意識の中で『フランケンシュタイン』が形を取り始めたいたとき、この有名だった母親も大事な役割を果たしていたのではないかと思います。この絵本では、怪談を読みくらべるための締切があったことにしました。それから、集まった人たちがバイロンの別荘ディオダティで寝泊まりしていたように描いていますが、じっさいはメアリーとパーシーとメアリーの異母妹は、近くのもっと小さな別荘を借りていました。

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、たいていの人が映画から思い描くものとはちがいます。ハリウッドの映画には、首にボルトのついた四角い頭の、ひたすら凶暴な怪物が登場しますが、メアリーが書いた本に登場する怪物はそれとはちがい、話すことも読むこともできました。メアリーが作り出した怪物は、ひとりぼっちで、じぶんの家族がほしいと願っていました。しかし、見た目が恐ろしいので、だれからもきらわれ、受け入れてもらえなかったのです。作り主であるヴィクターからも拒否されていました。フランケンシュタインが作り出した怪物を、舞台や映画に登場する、単に口がきけずに暴れ回る怪物と見るならば、原作者メアリーが伝えたかったことが見えなくなってしまいます。原作からは、無邪気な存在でも憎悪と偏見によって凶悪な存在に変わるかもしれない、というメッセージが読み取れるからです。

みんなで怪談を書いてみようじゃないか、というよびかけがあったとはいえ、『フランケンシュタイン』は、お化けや幽霊が出てくるお話ではありません。メアリー・シェリーは、それまでにはなかった新しい種類の物語を生み出していたのです。いまなら、サイエンスフィクションとよばれることでしょう。研究に没頭するあまり制御のきかない危険なものを発明してしまう科学者は、いろいろな本や映画に登場しています。そういう作品の源に、『フランケンシュタイン』はあるのです。メアリーが作り出した怪物は、200年前の嵐の夜に生まれたときと同じように、いまでもさまざまな想像のなかに息づいているのです。

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<紹介記事>

・2019年4月14日「京都新聞」の「絵本からの招待状」で、ひこ・田中さんがていねいにご紹介くださいました。ありがとうございます。

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「フランケンシュタイン」誕生にまつわるノンフィクション絵本です。時は1816年5月。詩人バイロンがスイスのレマン湖畔に借りていた別荘に集った男女5人は長雨にうんざりして、怖い物語を互いに読み合っていました。そのときバイロンが、自分たちも怪談を書いて1週間後に読み比べてみようと提案します。

明日がその日ですが、メアリーにはまだ何も思いつきません。怪談を作り終えた男たちが階下で、化学実験で電気を使うと死んだカエルの足がピクリと動いたという話をしています。それでメアリーは、小さな頃に聞いた電気を使って死体を動かした実験の話を思い出します。

メアリーの母親は、1792年に出版した「女性の権利の擁護」において、男も女も等しく教育を受ける権利があり、男女の間に差異はないと主張した先駆的なフェミニストのメアリー・ウルストンクラフトですが、娘を産んですぐに亡くなりました。この花親を尊敬していた彼女は、女が書くものが男の書くものに負けるわけではないと思っているのです。

階下ではまだ話が盛り上がっています。「いのちのないものに、いのちを与えることができれば、自然を打ち負かしたことになるぞ!」「人間が勝利を勝ち取るんだ!」。勝つことに夢中な男たち。しかしメアリーが気にかけるのは別のことです。「いのちをあたえられたものは、そのあとどうなるの?」

「フランケンシュタイン」は、恐ろしい怪物の話だと誤解されがちですが、自分を作り出したフランケンシュタイン博士から愛情を得られなかった彼が憎しみを募らせていく悲しい物語です。それは200年の時を超えた今も私たちの心を打ちます。未読の方は、メアリーが書いた原作も開いてみてください。

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市川里美画 ウィルソン文『メリークリスマス〜世界の子どものクリスマス』さくまゆみこ訳 BL出版

メリークリスマス〜世界の子どものクリスマス(改訂版)

世界の子どもたちが、それぞれにクリスマスを楽しんでいる様子を紹介した絵本です。以前、冨山房から出ていたもの(1983)に、加筆・訂正して復刊されました。市川さんの絵も少し追加されています。

冨山房版が出たとき、私は冨山房の編集者でした。この絵本はもともと矢川澄子さんに翻訳を依頼しようと予定していたのです。当時は、印刷は4色のフィルムを取り寄せ、日本の印刷所で版を作り直して行っていました。クリスマスの絵本は、少なくとも11月初旬にはできていないと店頭に並ばないのですが、この絵本のフィルムはなかなか来ませんでした。夏を過ぎたころようやく届いたので矢川さんにご連絡すると、「今はほかにも仕事がいろいろあって、すぐには取りかかれない」とおっしゃるのです。社内の会議でそれを伝えると、「せっかくフィルムが来てるんだ。それなら、さくまが訳せ」と副社長のツルの一声。

私は他の本の編集もしながら、この絵本を訳し、この絵本の編集も自分でするという羽目に陥りました。

それで、ようやくなんとか間に合って、その年のクリスマスに並ぶことになったのですが、できあがった絵本を開いてみて「ひやあああ」。ものすごい誤植があったのです。それは、「はじめに」というクリスマスの由来を説明するページでした。「今からおよそ200年前ほど前に、ベツレヘムというところでイエスさまがお生まれになった」と印刷されているではありませんか!! もちろん私の責任です。結局そのページを切って別に印刷したページを貼り付けるという作業をしなくてはなりませんでした。

それ以来、私は、翻訳と編集の一人二役は絶対にやらない、と心に決めています。やっぱりその本を愛してできるだけいい形で出そうと思う人が、最低二人はいないといい本はできないのだと思います。

この絵本には、イギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オランダ、ポーランド、チェコ、スロバキア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ロシア、フランス、イタリア、ギリシア、メキシコ、インド、日本、オーストラリアの、クリスマスの様子が描かれています。クリスマスのお菓子や飾りの作り方も出てくるし、私たちがよく知っている賛美歌も5つ、楽譜とともにのっています。

(編集:江口和子さん デザイン:細川佳さん)

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◆「日本児童文学」2023年11・12月号に「クリスマスをよむ」という特集があり、編集長の奥山恵さんの依頼で、こんな文章を書きました。

「クリスマスあれこれ」

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ジル・ルイス『風がはこんだ物語』さくまゆみこ訳 あすなろ書房

風がはこんだ物語

小さなボートでふるさとを脱出する難民たちの物語。その難民のひとりラミがバイオリンを弾きながら語る「白い馬」の話が中に入っています。「白い馬」というのは、モンゴルの昔話、あの『スーホの白い馬』に出てくる馬です。馬頭琴の由来を語るあの物語が、難民たちに勇気をあたえ、希望の灯をもちつづける力になってくれます。

ジル・ルイスは獣医さんでもあります。どこかで知った馬頭琴の物語に心を動かされて、この作品を生み出したのでしょう。私も、今から十数年以上前に、当時外語大でモンゴル語を教えていらっしゃった蓮見治雄先生に会いに行き、もとになったモンゴルの伝承物語について教えていただいたことがあります。その時日本ではスーホとされている名前は言語の発音ではスヘに近いとうかがいました。ジル・ルイスの原文ではSukeになっています。この本では、みなさんが知っている「スーホ」を訳語としました。

じつは、私も赤羽末吉さんの絵に慣れ親しんでいたので、原書の絵には違和感があり、文章の権利だけ購入してはいかがでしょうか、とあすなろさんには申し上げたのですが、画家さんもこの本の絵で受賞なさっているのでそれはできないとのことでした。こうして出来上がってみると、これはこれでいいのかな、と思えたりもします。
(編集:山浦真一さん 装丁:城所潤さん+大谷浩介さん)

 

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ビヴァリー・ナイドゥー『ノウサギのムトゥラ〜南部アフリカのむかしばなし』さくまゆみこ訳 岩波書店

ノウサギのムトゥラ〜南部アフリカのむかしばなし

南部アフリカに暮らすツワナ人に伝わるノウサギの昔話集。南アで生まれ育ったナイドゥーさんが、再話しています。

どのお話でも、体の小さなノウサギが、知恵を使って体の大きな動物たちを出し抜きます。

ナイドゥーさんによる「日本の読者へ」という序文もついています。またフロブラーさんの挿絵は、ノウサギのムトゥラのキャラクターをとてもよく表現していて、ユーモラスです。

入っている昔話は、以下の8つです。

1.ゾウとカバのつなひき
2.ノウサギのしっぽ
3.にごった水たまり
4.ノウサギとカメの競走
5.恋するライオン王
6.夕ごはんはどこへ?
7.角を生やしたノウサギ
8.親切のお返し

この本、当初は昨年秋に出るはずだったのですが、翻訳権の取得に時間がかかり、ようやく出ました。

(編集:松原あやかさん)

 

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<訳者あとがき>

この本は、アフリカ南部のツワナの人たちに伝わる昔話を、ビヴァリー・ナイドゥーさんが再話したものです。ツワナの人たちは、ボツワナ、ナミビア、南アフリカ共和国にまたがって暮らしています。アフリカ大陸は、かつてヨーロッパの国々が地図上で線引きをして国を分け、植民地にしていたので、一つの国の中に多様な民族が暮らし、一つの民族がいくつもの国に分かれて住んでいるのです。ちなみにボツワナというのは、「ツワナ人の国」という意味で、国民の九割がツワナ人ですが、南アフリカ共和国には、それより多い数のツワナ人が住んでいます。

アフリカの昔話には、いたずら者の動物がよく登場してきます。たとえば、日本でも知る人が多いクモのアナンシは、神さまから指示されたものを、ほかの動物をだまして集めたりしています。アナンシはもともとはガーナのアシャンティ地方の昔話に登場するキャラクターでしたが、それが近隣の国の人々にも伝わったり、奴隷貿易の影響でアメリカや西インド諸島にも伝わりました。

世界各地の昔話や神話に登場する、こうしたいたずら者を、文化人類学などではトリックスターとよんでいます。トリックスターは、いたずらや思いがけない行動をして、社会のきまりや力の関係を混乱させます。でも、それだけではなく、トリックスターは新たな価値をつくりだす役割も担っています。まわりの者たちをしょっちゅうこまらせているけれど、どこか憎めない——トリックスターは、そんな存在なのです。

私は、アフリカ各地に伝わる昔話の本をたくさん収集していますが、そうした本にトリックスターとして登場する機会がいちばん多いのが、ノウサギだと思います。カメ、クモなどがトリックスターになるお話もあります。

本書に主人公として登場するノウサギのムトゥラも、そんなトリックスターだと言えるでしょう。身体は小さいし力も弱いのに、知恵(ときには悪知恵)を使って、ゾウやライオンやカバなど力の強い大きな動物たちを出し抜いたり、だましたりしています。力の強い動物にとっては、ノウサギはやっかいないたずら者でしょうが、いつもいじめられている、力の弱い小さな動物たちにとっては、胸がすっとするヒーローかもしれません。でも、時には、ノウサギがもっと弱い動物(たとえばカメ)にへこまされたりするのも、おもしろいところです。日本でもよく知られている「ウサギとカメ」に似たようなお話も、この本の中には入っています。

ムトゥラというのは、ツワナ語でノウサギという意味ですが、すべてのノウサギをさすのではなく、固有名詞として使われています。原書では、ほかの動物たちもツワナ語で登場していた(たとえばカバはクブ、ジャッカルはポコジェー、カメはクードゥというように)のですが、日本の読者にはなじみがないので、ムトゥラ以外は、日本語にしました。

動物が登場するこうした昔話は、じつは人間のことを語っているといいます。お話の中に人間のだれかを登場させると、「ばかにされた」と思ったり、「嫌みを言われた」と思ったりする人も出てきて、村のなかの人間関係がうまくいかなくなる場合があるので、動物の姿を借りて間接的に語るのだそうです。

アフリカ大陸の多くの地域では、「読む・書く」の文字の文化よりも「語る・聞く」の声の文化のほうが尊重されてきました。民族や村の歴史や、叙事詩なども、語り部の人たちが語り、みんなでそれを聞くことによって、伝えられてきたのです。地域によっては「語り」を職業とする人たちがいましたし、夜になると人々が集まって語り合ったり、年配者が子どもたちに昔話を聞かせたりすることも、よく行われていました。けれども、今はアフリカにもテレビやスクリーンメディアが入りこみ、そうした伝統は失われかけています。

昔は、欧米の学者の人たちが、伝承の物語や昔話を集めて出版していましたが、通訳を介しての記録だったり、欧米の昔話風に再話されることも多かったようです。今は、自分たちの文化の源が消えていくことを心配したアフリカの人たちが、あちこちを回って伝承の物語を自分たちで集めるようになりました。たとえば大学の先生が学生たちに、長い休みの期間に祖父母や長老から昔話を聞いて書きとめるようにという宿題を出し、集まったものをまとめて本にするなどということも行われています。またタンザニアの絵本作家ジョン・キラカさんのように、あちこちの村をまわってお話じょうずの人たちから昔話を聞き、それに基づいて絵本をつくっている人もいます。現地のようすをよく知る人たちが集めたり再話したりした本のほうが、語られるときの雰囲気なども伝わってくるので、より楽しく読めるのではないかと私は思っています。

本書も、子どものころ聞いた昔話が楽しかったことを思い出したナイドゥーさんが、今の子どもたちに向けてその楽しさを伝えようと、再話して本にまとめたものです。ナイドゥーさんの作品は、人種差別がはげしかったアパルトヘイト時代の南アフリカの子どもたちを主人公にした『ヨハネスブルクへの旅』(もりうちすみこ訳 さ・え・ら書房)や『炎の鎖をつないで〜南アフリカの子どもたち』(さくまゆみこ訳 偕成社)、父親を殺されてナイジェリアからロンドンへ脱出する子どもたちを描いた『真実の裏側』(もりうちすみこ訳 めるくまーる)が、これまでに日本でも翻訳されていますが、昔話の再話の本が日本で紹介されるのは本書がはじめてです。

ナイドゥーさんは、黒人差別のはげしい時代に南アフリカのヨハネスブルクで生まれました。子どものころは白人だけの学校に通っていたのですが、そのころは目隠しをつけて走る馬みたいに周囲のことが見えていなかったそうです。大学生のときに目隠しをはずすことができたナイドゥーさんは、人種差別はおかしいと思い始め、政府に反対する運動に加わって逮捕され、牢屋に入れられた経験をもっています。その後イギリスに亡命して作家となりましたが、最初の作品『ヨハネスブルクへの旅』は、ネルソン・マンデラが牢獄から釈放されて自由になった一年後の一九九一年まで、南アフリカの子どもたちが読むことはできませんでした。ナイドゥーさんはほかにも、アフリカの子どもが抱える困難や、アフリカの文化や暮らしを伝える本を書いています。私は二〇〇八年にケープタウンで開かれたIBBYの世界大会でお目にかかり、親しくお話をさせていただきました。今回も、お願いすると快く「日本の読者のみなさんへ」というメッセージを寄せてくださいました。

私は「アフリカ子どもの本プロジェクト」というNGOにかかわって、仲間といっしょにアフリカの子どもたちに本を送ったり、ケニアに設立した子ども図書館を支えたり、日本で出ているアフリカ関係の子どもの本を残らず読んで、おすすめ本を紹介したり、おすすめ本をみなさんに見てもらう「アフリカを読む、知る、楽しむ子どもの本」展を開いたりしています。この本を読んで、アフリカの昔話っておもしろいな、と思った方は、「アフリカ子どもの本プロジェクト」のウェブサイト(http://africa-kodomo.com)を開いて、「おすすめ本」の中の「昔話」のところをクリックしてみてください。そこにも、おすすめの昔話絵本や、昔話集がのっていますよ。

二〇一八年冬           さくまゆみこ

 

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さくまゆみこ編訳『キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし』岩波書店

キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし(岩波少年文庫版)

あまたあるアフリカの昔話の中から、私が「ふしぎ」をキーワードにおもしろい話を選び出し、翻訳したもので、以下の13の昔話が入っています。

・恩を忘れたおばあさん(ガーナ)
・山と川はどうしてできたか(ケニア)
・魔法のぼうしとさいふと杖(チャド)
・カムワチと小さなしゃれこうべ(ケニア)
・動物をこわがらせた赤ん坊(セネガル)
・力もちイコロ(ナイジェリア)
・キバラカと魔法の馬(スワヒリ)
・ヘビのお嫁さん(タンザニア)
・悪魔をだましたふたご(リベリア)
・ニシキヘビと猟師(コートジボワール)
・ワニおばさんとの約束(ナイジェリア)
・村をそっくり飲みこんだディキシ(ボツワナ)
・あかつきの王女の物語(スワヒリ)

*スワヒリというのは、スワヒリ語で語り伝えられてきた物語という意味です。ロンドンでお目にかかったこともあるヤン・クナッパートさんが編集したMYTHS & LEGENDS OF THE SWAHILIという本から選んだ昔話なので、こうなっています。

*この本は、もともと冨山房で出版されていました。原稿を冨山房に持ち込んだ時の私はフリーの翻訳者でしたが、なかなか本にならないので、何度も問い合わせをしているうちに、なぜか編集者として冨山房に入社することになりました。そして編集者の私が最初に手掛けた本が、この作品だったのです。

(編集:須藤建さん)

ちなみに、冨山房版はこちら

 

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<あとがき>

アフリカというと、どこかとても遠いところで、人びとの生活や考え方も、日本人とは全然違うと思っている方もあるかもしれません。たしかにアフリカは地理的にも近くはないし、私たちとは違った文化や風習ももっています。けれどもそれ以上に、同じ地球の上に暮らしている人間として、共通していることもたくさんあります。

たとえば、日本でも昔は、子どもたちが、いろりばたで、おじいさんやおばあさんの話す物語に耳を傾けました。アフリカでも、夜になると、子どもたちは火のまわりに集まって、お年寄りやおとなが話してくれる物語を聞きます。そんな時、物語に引きこまれて夢中になった子どもたちの目が、きらきら輝いているのは、世界のどこでも同じだと思います。

この本には、アフリカ大陸のあちこちで語られてきた物語の中から、魔法の話や、ふしぎな精霊や魔神の出てくるものを集めて、まとめてあります。

どの物語が、どの国に住んでいる人たちのものか、ということについては、八頁に載っているアフリカの地図を見てください。

ただし、スワヒリの物語と書いてあるものについては、ちょっと説明がいるでしょう。地図を見てもおわかりのように、スワヒリという国はありません。スワヒリの物語というのは、スワヒリ語という言語で語り伝えられてきた物語、という意味です。スワヒリ語は、アフリカのバンツー語に、アラビア語の影響が入ってできた言葉です。もともとは、東アフリカのインド洋沿岸で話されていましたが、今ではもっと広い地域に普及しています。

スワヒリの物語を読んで、『千夜一夜物語』などのアラビアの物語を連想した方もあるでしょう。それも、もっともです。スワヒリ人と呼ばれる人びとは、アラビア文化の影響を強く受けています。昔、アラビアの人たちは、紅海やインド洋を越えて海からアフリカへ入り、また砂漠を越えて、北アフリカや西アフリカまでも入って行きました。ですから、チャドの物語『魔法のぼうしとさいふと杖』にスルタンが出てくるのですね。

テレビやラジオや映画など、受身の娯楽が少ない地域には、自分たちで積極的に娯楽をつくり出していく良さがあります。そこでは、踊りや歌や楽器の演奏などと並んで、物語(ストーリーテリング)が人びとの生活になくてはならない楽しみになっています。

アフリカでは物語といっても、本を棒読みするように抑揚なく話すわけではありません。歌を混じえたり、物まねや踊りを入れたり、身ぶり手ぶりを加えたりしながら話すのです。

またアフリカには、職業的な語り部(西アフリカではグリオ、ジェリ、ジャリなどと呼ばれています)もいます。この人たちは、物語を聞かせることを専門の仕事にしていて、民族の歴史や、王の系譜や、伝統的な行事歌や褒め歌、叙事詩などを語り聞かせています。自分で楽器を弾きながら、それにあわせて歌い語りをすることも多いようです。また聞き手のほうも、合いの手を入れたり、かけ声をかけたり、熱が入ってくれば踊り出したりします。

アフリカの日常生活の中では、たいてい一日の仕事が終わって日も暮れたころに、語りが始まります。「昼間話すと、語り手の母親に死が訪れる」という言い伝えがあって、物語は夜のものと決まっている地方もあります。

時が夜というのは、大事なことかもしれません。夜の闇は、人間の想像力をとき放ち、昼間の太陽の下では見ることのできない世界へと、私たちを導いてくれます。昼間はふつうの木が、夜見るとふしぎな力をもった魔物のように思えたことはありませんか? 人間がものを思い描いたり、想像したりする力は、夜の闇の中で無限に広がってゆくものです。この本の中に出てくる、ふしぎな力をもった魔性の者たちも、きっとそうした闇の中から生まれてきたのでしょう。

特に、テレビとかラジオもなく、電灯さえないようなところでは、人間がむき出しの自然に接することも多くなり、夜のもつ魔力も、都会とくらべるとずっと強いといえそうです。

一九七五年、私はナイジェリアで、たまたま夜行の貨物列車で旅をしなければならなくなったことがありました。その時の風景は、今でも忘れられません。ナイジェリアは、当時アフリカではいちばん人口の多い国だったのですが、夜の風に吹かれながら屋根なしの貨車に乗っていると、まるで無人の荒野を走っているような気がしたものです。日本なら、へんぴなところでも、必ずどこかに人家のあかりが見えたり、走ってゆく車のヘッドライトが見えたりして、ああ、あそこに人がいるんだな、とわかりますが、そのころのナイジェリアは、まだ大都市以外には電灯がなく、もちろん、照明看板やネオンが見えるわけではありません。夜行貨物列車は、闇の海の中を、ゴトンゴトンとどこまでも走っていきました。あの時は、だれにもじゃまされずに、夜そのものと向かいあっているような気がしましたし、この本に出てくるようなふしぎなものたちが、あそこにもここにも、身をひそめているように感じたものです。

その後、私は東京であわただしい毎日を送っています。あの時のように、夜のもつふしぎな力を感じることも少なくなってしまいました。都会というのは、たしかに便利ですが、その反面、私は大事な忘れ物をしてしまっているようです。

読者のみなさんには、なるべくなら夜、窓をあけ放って、そして、アフリカのおじいさんやおばあさんに話してもらっているような気持ちになって、この本を読んでいただければ、と思っているのですが……。

本書は最初、冨山房から出版されて版を重ねましたが、その後長いこと入手できなくなっていました。思えば、この本の出版がきっかけになって、様々な出会いがありました。「アフリカ子どもの本プロジェクト」というNGOも、そんな出会いが重なって生まれたものです。このNGOでは、アフリカの子どもたちが必要としていれば本を送ったり、ケニアに二つある図書館を支えたり、日本の子どもたちに本を通してアフリカの文化や子どもの状況を伝えたりする活動を、仲間といっしょに行っています。私はその後も、さまざまなアフリカについての本を翻訳してきましたが、この本はそんな活動の源にあるような、自分にとってはとても大事な本です。今回、岩波書店さんが再刊してくださることになり、とてもうれしく思っています。気に入ってくださって、しっかり見てくださった須藤さん、ありがとうございました。

二〇一八年十一月     さくまゆみこ

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2019年02月 テーマ:母と娘、そのややこしき関係

日付 2019年2月26日
参加者 彬夜、アンヌ、カピバラ、アカシア、マリンゴ、ケロリン、西山、ネズミ、ハル、まめじか、ルパン、ツチノコ、(エーデルワイス)
テーマ 母と娘、そのややこしき関係

読んだ本:

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リタ・ウィリアムズ=ガルシア『クレイジー・サマー』鈴木出版

クレイジー・サマー

アンヌ:知らないことばかりで驚きながら読んで行きました。ブラックパンサーがこんな風に人民センターを運営し、食事やサマーキャンププログラムで夏休みの子どもたちの世話をしていたんですね。いろいろと調べながら読まなくちゃと思っていたんですが、それにしても、なぜここまで注をつけないんでしょう。セシルはなぜ子供たちに来させたんだろうと読んでる間中思っていました。水一杯飲ませるのに、ここまで子供を怖がらせるとか、理解できないことが多すぎて。例えばp144でセシルが言う「わたしたちはつながりを切ろうとしているんだよ」の私たちは誰なのか?とか。勝手につながろうとするなと言いながら、デルフィーンにもっとわがままを言ってもいいと言うのはなぜなのかとか。セシルの言葉の中に、手掛かりを探していました。セシルの生い立ちを知っても、すっとわかるというわけでもなく、いまだ釈然としません。物語としてはおもしろく、とてもパワーがあってどきどきしながら読めました。ただ、時代についてもセシルについても本当にわかりにくく読みづらい本でした。

彬夜:物語そのものはおもしろく読みました。3姉妹のキャラもいいし、前半、ちょっと読むのがきついけど母親像もおもしろい。ラストもいい感じです。ただ、いまの日本の子どもが読んでわかるのかが疑問でした。主人公は11歳ですが、かなり大人びています。読者も高校生ぐらいなら、読めるんでしょうか。薄手の紙を使ったのか、見た目よりページ数も多く、けっこう長い物語です。いきなりカシアス・クレイが出てきて、まず、今の子知らないよ! と思ってたら、少し経つと、50年前の話であることがわかってくる。でも、公民権運動についての説明もないし、これ予備知識なしに、理解するのはハードル高いんじゃないでしょうか。私が読んでも、「世界の反対側」という表現には戸惑ったし、「有色人種」と「黒人」という言葉に、当時どういう意味を持たせていたのか、わかりません。注釈も少なく、読者を選ぶというか、あまり親切な作りになってないと感じました。こなれてない訳文も散見しました。日系のヒロヒト・ウッズという少年が出てくるんだけど、どういう考えがあって、ヒロヒトと名づけたんでしょうね? この少年の描写もちょっとひっかかりました。p147の「そんなに目が細くて~」というところ。そして、当時の職業観といえばそれまででしょうが、ジェンダーバイアスたっぷり(158p)で、やっぱり、今読む子への配慮がほしいな、と。
あとがきの文章を読むと、ワシントン大行進より先にケネディ暗殺があったような印象を与えてしまいます。それから、訳者は「ユーモアがあって」と解説していますが、そのユーモアは感じ取れなかったです。好きなところは、p173の「公園に名前をつけてもらうより、自分が公園にいたかったんじゃないの?」という言葉です。

ルパン:これは読むのが難しかったです。読んでいるときは、この母親がどうして子どもたちにこんな態度でいられるのか、そもそもどうして家庭を捨てたのか、というところがさっぱりわからなくて。全部読み終わってから、「きっとセシルは、白人に頭を下げて生きていくような姑や夫の生き方がいやだった…んだろうな」とか「子どもには、民族の誇りを表すような名前をつけたかったのに、ちがう名前をつけられていやだった…んだろうな」とか「父親はセシルの生き方を一度見せておこうと思ってわざわざ会いに行かせた…んだろうな」とか、「セシルは政治活動にかかわっているから、子どもに累が及ばないようにと思って冷たくした…んだろうな」とか、いろんなことを一生懸命考えたんですけど、それが合っているのかどうかもわからず、フラストレーションがたまりました。そもそも、これ、小学生が読んでわかるんでしょうか。せめてあとがきに「アフア」という名前のこととか時代背景のこととかを含めてもっとわかりやすい物語解説を書いてもらえたらよかったと思うのですが。さらに、あとがきに「全編がユーモアと愛とさりげない感動に満ちて」いるとありましたが、そうかなあ…? 少なくともユーモアはあんまり感じられませんでした。訳し方の問題かな? ネイティブが原語で読めばユーモラスに思えるのでしょうか?

ハル:日本の本にはなかなか登場しない母親像だなと思いましたが、とても難しかったです。時代背景のこともですが、母親が娘を置いて家を出た理由も、わかるような、わからないような……。自分の思想、信念を守るためにこういう選択をしたのかなとは思いますが。いつもなら「こんな難しい本じゃ伝わらない」とばっさりいくところ、この本に関しては、先ほどの「日本の本にはなかなか登場しない」母娘関係という意味で、わからないながらも読んでみて、世界にはこういう母娘もいるんだろうかと想像してみるのも良いのかなと思いました。とはいえ、末の娘の名前のところは、どうしてその名前にこだわったのかが、少なくとも日本語版からはまったくわからなかったので、そこはわかりたかったです。

ネズミ:お話として、とてもおもしろかったです。とても濃い。すべてを言語化しようとしていくところは、日本の作品にはないものですね。サンフランシスコに遊びにいくところ以外、舞台はほとんど変わらず、大きな山場のないストーリーなのに、この子がどうなるのか、読まずにいられなくなってくるところがすごい。我慢強いお姉さんのデルフィーン。感受性が豊かで、思いを外に出さず、どんどんひとりでためこんで、手のつけられない妹たちと一生懸命生きていて、いったいどうなるんだろうって。印象に残ったところがいくつもありました。たとえば、p100の6行目の「妹たちとわたしが話をするときは、いつもかわりばんこだ。……デルフィーン、ヴォネッタ、ファーン、デルフィーン、ヴォネッタ、ファーン」とか、p116の8行目「だれの心にも、ラララがある」とか。でも、訳文が不親切だと感じるところもぱらぱらありました。小学校高学年から中学生くらいの読者なら、もっとドメスティケーションしてよかったんじゃないかと思います。訳語だけ出されても、わからないところなどは。

まめじか:日本の作家は書かないテーマですし、骨太の作品だと思いました。でも、わからない部分がところどころあって。p84で、ブラックパンサー党の人が「この絵がどうかしたか」ときくんですけど、Tシャツの絵のことですよね? そのあと、主人公が、答えはわかってるというのは、どういう意味でしょう。この3姉妹は、かわりばんこに、歌をうたうみたいに話すと書かれていて、だから、原文でもそうなのかもしれませんが、p80やp170は、だれの言葉かわかりませんでした。子どもの本だったら、だれのせりふかわかるようにしたほうがいいかと。あと、母親の口調が乱暴なのが気になりました。品がないだけの人のように感じられて。p73「いいから、おまえ、さっさと飲みな。一滴も残すんじゃないよ」とか。男っぽい服を着て、詩人で、ほかのお母さんとは違うにしても、この言葉づかいでいいのかな・・・。

ツチノコ:当時の文化や固有名詞があまり分からないなりに、独特の空気感を楽しみました。公民権運動が盛んな時代のオークランドでのひと夏を疑似体験した気分で読書しました。社会背景を知らないと理解しづらい部分があるので、注や説明が少ないのは不親切だと思います。黒人だから誇り高くきちんとしないといけない、万引き犯に間違えられないように堂々としないといけない、といった自制心が痛々しくも健気で、11歳の女の子にここまで考えさせる社会の空気や人種差別の根深さが伝わってきました。一生懸命に健気に生きるデルフィーンたち3姉妹の姿がまぶしいです。この本でブラックパンサー党やハリエット・タブマンについて初めて知り、少し調べてみました。人種問題に興味を持つきっかけとしても、いい本だと思います。

ケロリン:昔の話だと思わずに読みはじめ、あ、昔なんだな、と思い軌道修正しながら読む感じでした。アメリカの1960年代でさらに黒人問題となると、子どもの読者には、物語に入っていくのに、かなりハードルが高そうだと思いました。しかし、大人の読者だと、緊張感を強いられながら生活している様子など、当時の状況を知ることができておもしろいと思いました。ただ、わからないのがセシルの気持ち。ここまで子どもたちに冷たく当たる理由を、文章から読み取ることができなかったです。特にデルフィーンは、母の行動にいちいち深く傷ついていく。だから最後に、娘たちが詩を朗読したり、犯人を見つけたりして大喝采を浴びたあと、娘たちと別れるシーンで娘たちをハグするシーンが、ちょっと嫌な感じに思えてしまいました。うまくやったから娘たちをハグしたように思えて・・・。物語がよく読み取れなかったのかもしれません。でも、日本の作品だったら、これだけわからないところがあると、けちょんけちょんに言われるのに、翻訳だと「わからないけど雰囲気はいい」みたいに言われたりするんですよね。それが、下駄履かされてるみたいで、嫌です。翻訳物って、もともと自分がわからない世界だから、想像で補って成立するところはあるんだけど、このお母さんのことは、もっとちゃんと知りたかったですね。

ネズミ:でも、p145の「デルフィーン、もっとわがままをいっても死にはしないよ」って声をかけるところなど、お母さんの変化が感じられますよね。

マリンゴ:なぜだか読みづらかったです。終盤、引き込まれていって、盛り上がってよかったなとは思うのですけれど。文体の問題なのかどうなのか、お母さんのセリフにも馴染めないものがあって、中盤までスムーズに読めなくて、しんどい読書体験でした。描かれている社会背景は興味深かったです。キング牧師やマルコムXについてはそこそこ知っているつもりでしたが、ブラックパンサー党の具体的な活動や人民センターの様子など、初めて知ることもたくさんあり、勉強になりました。

アカシア:クレイジーって言葉ですが、タイトルだけじゃなくて、お母さんもクレイジーだし、クレイジー・ケルヴィンも出て来るし、原書ではそれで全体の雰囲気もかもしだしているんでしょうね。ただ日本語にするのが難しい言葉なので、訳文ではそのまま「クレイジー」だったり「どうかしている」だったり「頭のおかしな」だったり、いろんな訳し方がされています。私も、お母さんがなぜ家を捨てたのか、なぜ3人の娘に会っても冷淡なのかというのは、最後まで読んでもわからないままでした。
この作品は、ニューベリー賞オナー、全米図書賞ファイナリスト、コレッタ・スコット・キング賞、スコット・オデール賞などすごくたくさん賞をとっているんですね。続編もあと2冊あって、そっちも賞をとっている。だから、もっとおもしろい作品のはずなんです。それが、日本語で読むとそれほどおもしろくない。その理由の一つはもちろん、アフリカ系の人たちの歴史や文化が日本ではあまり知られていないからだと思います。でも、もう一つの理由は、翻訳なのかなと思いました。原文の一部がアマゾンで読めるんで、読んでみたら、けっこうニュアンス違うなあとか、訳をもう少していねいにしてもらえれば、と思うところがありました。たとえば、p3の「自分と妹たちを力いっぱいシートに押さえつけて」は日本語として変だし、p5の「(父親が)自分もいっしょにくるわけじゃない」だと、父親も母親も娘たちに冷淡なようにとれますが、原文では「私たちを行かせたいわけじゃなかった」となっているので、父親はもっと思慮深いイメージです。全文を比較したわけではないので、この先は単なる想像ですが、もしかしたらセシルについても、原文ではちゃんと理解できるように書かれているんじゃないでしょうか。この訳者の方は、うまいなあと思う作品もいっぱいあるのですが、この作品は相性が悪かったのかな。セシルの口調も荒っぽく訳されているせいか、考えの足りない人のように思えて、最後のハグも、ケロリンさんのおっしゃるように自分で想像力を思いきり膨らませないかぎり、とってつけたように思えてしまう。残念でした。
あと、ブラックパンサー党が政治活動だけじゃなくて、貧しい人たちのための活動をいろいろとしてたことは伝わってきますね。ただ、英語だとpeopleだけど日本語だと「人民」と固い語になってしまいますね。

ネズミ:注があまりないと思いました。入れない方針だったんでしょうか。

アンヌ:固有名詞については、前半のp6、p7、p9、p63、p91等に、かっこで注が入っているものもありますね。でも、例えば「赤い中国」(p103)などの歴史的事実について、どこかに注があればもっと読みやすかったと思います。

カピバラ:わからないところはいろいろ、たくさんありましたけど、デルフィーンがあまりにも健気なので、この子が最後に幸せになるところを見たい一心で、深く考えずに先を急いで読んでしまいました。今回の課題3冊は、主人公が同年齢ですが、日本の2冊とは外の世界に対する気持ちのはりめぐらし方、緊張感の度合いに雲泥の差があります。日本の主人公たちには、デルフィーンに比べたら、あなたたちの悩みなんて何ほどのものでもないよ、と言いたくなるほどでした。私も最後がいちばんわからなくて、ハグさえしてもらえば、それでよかったのかな、と疑問に思いました。細かいところでは、情景をわかりやすくするために固有名詞を使った比喩がふんだんに使ってあるのですが、スニーカーを「原始家族フリントストーン」のフレッドみたいに引きずってピタッと止まった。(p202)、マイクをダイアナ・ロスみたいに握ると(p254)、ハリウッドの黒いシャーリー・テンプルだといわれたみたいに舞い上がった(p262)など、日本の読者にはかえってわかりにくくなってしまっています。

彬夜:読者対象はどうなんでしょうね?

カピバラ:5、6年から中学生を対象にしていると思いますが、中学生でも難しいんじゃないでしょうか。

ケロリン:ルビの付け方を見ると、中学生向けのようです。

カピバラ:サラ・ヴォーンとかスプリームスとか言われても全くわからないでしょうからね。それに、スプリームスって、シュープリームスですよね。

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エーデルワイス(メール参加):主人公のデルフィーンがとても健気だし魅力的ですね。まだまだ黒人差別がはっきりある時代に、毅然として態度をとり続けるのは並大抵のことではないのだと思いました。最初はセシル(ンジラ)のことを何様?と思っていましたが、だんだん素敵に思えてきました。幼い娘三人を残してなぜ家を出たのか、ジュニアに理解できるのかな?

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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魚住直子『いいたいことがあります!』

いいたいことがあります!

ツチノコ:読みやすくてメッセージも分かりやすく、おもしろかったです。自分が子どもの頃にこの本を読んでいたら、すごく感銘を受けたと思う! 子どもの頃は自分の親を一人の人間として客観的に見ることが難しいから、母親の悩みや過去に思いをはせることで何か気づきがあるかもしれない。家事分担や将来、友人関係についても絶妙なリアルさで描かれていて、読者が身近な問題を考え直すヒントになりそうだと感じました。

ケロリン:この作者は、女の子が主人公のお話が上手ですね。ハシモとのやり取りとか。スージーが出てきたとき、すぐに正体はわかったけれど、とても上手につないでいると思います。いつの世も、母親は自分の失敗を繰り返してほしくなかったりもして、いろいろアドバイスをするけど、うっとうしがられる。そんな気はちゃんちゃらないつもりでも、どこかで自分の付属物のように思ってしまっているのかもしれません。

マリンゴ:すっと頭に入ってくる物語で、とても読みやすかったです。魚住さんはほんと、女性と女性が関わりあう物語が特におもしろいなぁと思います。『Two Trains―とぅーとれいんず』(学研プラス)もそうですね。仲良くなったお姉さんが、実は昔のお母さんで、自分と今のお母さんをつないでくれる存在になる、という構造がとても効いているなぁと思いました。

アカシア:母親と娘の日常がリアル。リアリスティック・フィクションですが、ファンタジーの要素も入っている作品。そういうのは、うまくまとめるのが難しいと思いますが、これはとてもよくまとまっています。それに、子どもの側からだけじゃなくて、母親の視点もちゃんと描かれている。とてもおもしろく読みました。陽菜子は最後に自分の道を見つけたわけですが、それが具体的には塾にちゃんと通うだけというのはちょっと寂しいけど、主人公が成長したことは伝わってきますね。家事の分担に焦点をあてた書評もいくつか見ましたが、もっといろんなことを扱っている作品じゃないでしょうか。

カピバラ:子どもを思い通りにしたい母と、反発しながらも直接ぶつかれず、塾をさぼってしまう娘。6年生は母親に対していろいろ疑問を持つ年頃で、モヤモヤした気持ちを自分でももてあましている感じがよく描かれ、共感するところが多いと思います。スージーがお母さんの分身とはすぐにわかるけど、今のお母さんとはあまり結びつかないですね。スージーがお母さんだというのが、妹である恵おばちゃんの話でわかるわけですが、陽菜子自身がちょっとずつ「もしかしたら?」と気づいていくほうがおもしろかったんじゃないかな。気づく伏線がもっとあったらよかったのに。お兄ちゃんには家事をさせない、専業主婦を選んだ母親の、夫へのなんとなくの負い目など、男女差について読者に問いかけている部分がありますが、それがこの作品の主眼ではないですよね。6年生女子の微妙な友だち関係はうまく描けていると思いました。p 22 に、スージーが紺色のポロシャツを着ているとありますが、挿絵はどう見ても紺色には見えません。文と絵を合わせてほしかったです。

アンヌ:「あのさ、ごはんってだれでもたべるよね」(p179)で始まる言葉が、この物語を通しての陽菜子の成長のあかしだと私は感じました。家事は母親の仕事だと兄が言うのに対して、家事は生きていくための能力であり平等に誰もが身につけなくてはいけないものだと気づいて口にすることができたのは、よかった。陽菜子が日々感じてきた不満や不平等感が、母だけの責任ではないこと、男女間の不平等の問題に気づいたのだと思います。でも、兄にはその言葉が届かずただ怒っているように書かれているので、これでは母と娘だけの物語で終わってしまっていますよね。兄がこうでお父さんも同じだったら離婚かな?なんて心配しながら読み終りました。

彬夜:中表紙の紙が好き。これも再読でした。母子対立はあっても、重くなく、さらっとおもしろく読みました。ゆるやかにリアルという感じでしょうか。責められる子が出てこない。母子の対立を含みながらも、疲れている時でも読める本かもしれないですね。嫌な子は出てこないし。ご指摘のとおり、スージーはすぐにお母さんだとわかるけれど、それでいいと思いました。徐々にわかるほうがいいというカピバラさんのご意見には、なるほどと思いましたけど。おもしろい言い回しだなと思ったのが、「難しい大学」という言葉と、単身赴任の父を指して、「家族のレギュラーじゃない」という言葉です。

ハル:子どもの立場としては、一度くらいは親の子どもの頃を見てみたいと思うことはあると思います。「お母さん(お父さん)だって子どもの頃があったくせに、どうして子どもの気持ちがわからないんだ!」って。このお話は、ファンタジーとしてその願いを叶えてくれています。本を読むことの醍醐味だなと思います。手帳に書かれていた言葉は、自分にも確かにこういう時代があったなと思い出させてくれる、リアルさと力強さがありました。同世代の読者ならなおさら、「そうだ! そうだ!」と勇気づけられるだろうと思います。

ネズミ:おもしろく読みました。私もこんなふうに思われていたことがあったんだろうなって思いました。娘はずいぶん煙たがっていただろうなって。この本は、絶対的な権力者だった親が、ひとりの「人」になるときの感じを、とてもうまく表現していると思いました。スージーがお母さんだというのは、最初から読者にわかるように書いているのだろうと私も思ったんですけど、p141の、物置の屋根にあがって二階の窓から入った、というところで結びつくのがうまいなと思いました。登場人物の中で、陽菜子だけが、ここで「あっ」と思うでしょう。お兄ちゃんだけ甘やかしてという母親の行動は、私もちょっと古い感じがしましたが、友だちの描かれ方は好きでした。友だちに誘われて遊びにいくけど、実はその子たちには別の意図があったというところや、ハシモが絵をほめてくれるところ、心の機微が現れています。よかったです。

まめじか:この年頃は、親だって間違えるのだと気づきはじめ、少しずつ自立に向かう時期です。親に一方的な正しさを押しつけられれば、反発もします。親子といっても、別の人間なのだから、自然にわかりあえるわけではない。主人公の心の動きがていねいに描かれていて、感じのいい作品だと思いました。手帳にスージーが書いた言葉も、ストレートに胸に届きました。中学2年生で、ここまで自分の意見を整理して、言語化できるのかな、とは思いましたが。この子はしっかりしているので、できたのでしょうね。

西山:さらっと読めてしまったのだけど、変な言い方ですが、たぶんすごく上手。深い謎で引っ張っていくというわけでもないし、妙にとんがったところがなくて、でもそれを物足りないとは思いませんでした。多分すごく上手というのは、あのスージーの手帳の文章が、手書き風にフォントを変えて何度も出てきますよね。それが、そのたびに、ちゃんと読まされたように感じてはっとしたんです。コピぺに思えたら、中身は知っているわけですから飛ばし読みもできたはずなんですけど、その都度改めて読めて、腑に落ちていった気がします。これは絶妙な繰り返しなのじゃないか。作為を感じさせないけれど、そうとう練り上げられているのかもと思った次第です。お兄ちゃんにだけは、いらつきましたね。ドラマにはよく出てくるけれど、今更なパターンに思えてしまいました。

アカシア:母親がそういうふうにしむけているわけですよね。確かに古いですが、まだまだ実際はこういう家庭も多いんじゃないかな。じゃなかったら、日本はもっとよくなってるはずだもの。

西山:お父さんの描き方も絶妙ですね。p97で陽菜子がわかってくれるかどうか迷うけど、電話してみると案の定だったとか。それと、p132の挿絵があるところと、p153で、スージー/母親は両方とも丸い椅子に座っているんですよ。さらっと読めちゃうけど、細かい所までちゃんと考えられてるんですね。

ケロリン:ぜんぜん関係ないんですけど、スージーが最初に出てきたとき、とてもやせている絵だったので、やせていたので「スージー」っているあだ名になったというオチでは!?と思って読んでいました。(笑)

アカシア:この本には悪い子が出て来ないってところですけど、悪い子を書くと、悪いってだけで終わらなくなります。今は、なんで悪いのかを書かなきゃいけなくなるからね。『ワンダー』(R.J.パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)だって、1巻目ではいじめっ子でしかなかったジュリアンから見た物語を2巻目の『それぞれのワンダー』で描かなきゃいけなくなる。悪い子を登場っせないのは、もちろん作家の「こうあってほしい」という願望もあるでしょうけどね。

西山:ひと昔、ふた昔前は、もっと陰湿でどろどろに展開するいじめ物語も多かったけれど、この本では「地元の中学に行く子をふやそうキャンペーン」(p114)だなんて、言葉選びもうまい。陽菜子に塾をサボらせた子たちも、それを伝えてくれたここちゃんも、不信感をこじらせて引っ張らない展開も、どれも私は好感を持って読みました。

ルパン(終わってから参加):今日話し合う3冊の中では一番おもしろかった作品です。主人公の陽菜子と昔のお母さんが出会う、という設定もいいと思います。ただ、息子には何もさせなくて、娘には家事をたくさんやらせる母親って、ちょっと古いかな、とは思いました。あと、陽菜子は行きたくなかった塾にまた行くようになりますが、ここちゃんの告白がなかったらどうなっていたかな、とも思いました。どちらかというと、小学生より保護者に読んでもらいたい作品かな。無意識に自分の思いを子どもに押し付けている親は今でもたくさんいると思うので。自戒もこめて。

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エーデルワイス(メール参加):これも、従来からある手法を使っていますが、読ませますね。p240の「子守歌をいつやめたらいいのか、つなぐ手をいつ離したらいいのかそれがわからない」など印象的な言葉も多いし。あれもこれもできないといけない女の子って大変ですね。流されない自分をもつことの大切さを感じました。

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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安東みきえ『満月の娘たち』講談社

満月の娘たち

彬夜:安東さんの作品は、ほとんど読んでいて、これも再読です。3組の母娘が出てきますが、基本的に繭の物語かなという気がしました。安東さんは比喩表現なども巧みで、とても文章が上手。たとえば、「プリンが崩れたみたいに、てれっと笑った」(p10)とか、「(サバが)アメリカンショートヘアーみたいな模様」(p142)とか。私は動物に詳しくないので知らなかったけれど、ネットでアメリカンショートヘアーを検索して、とても納得しました。随所にまだまだおもしろい表現があります。繭の物語と感じてしまったのは、一番深刻そうだからで、語り手=主人公である志保は、ある意味、母とけんかできる時点で健全だなと感じてしまったからでしょうか。志保はすごく冷静な子だと感じました。達観しているというか、冷めた目で世の中を見ているな、と。それから、ちょっと書きすぎ感があるかな、という気もしないではありませんでした。野間児童文芸賞の受賞作だし、おもしろく読みましたけれど、私はやはり、安東さんの短編作品の方が好きです。

アンヌ:うちの家族が珍しく表紙を見て「わあ、ヒグチユウコだ。おもしろい?」と訊いてきて、若者に人気のあるイラストレーターなんだと改めて思いました。私は、残念ながら前半のおもしろそうなやりとりに乗りそびれてしまったようです。そこに繭さんが出てきて、釈然としない人物だなと思っているところに、幽霊らしきものが出てくる。それなのに、助けたのかあの世に引きずり込もうとしたのかわからない、という展開では、幽霊も出てきた甲斐がなく、この親子の問題は曖昧なままで役割を終えた感じです。前半部については、p112の祥吉への恋心を書いておいて、ふと外すところとか、p153の月の話とか、いい場面や言葉がたくさん山あって附箋だらけなんですが、全体については、楽しめませんでした。

カピバラ:中学1年生の志保と美月と祥吉は保育園からの幼なじみで母親同士もよく知っている。3人の会話がテンポよく描かれており、時にアハハと笑いながら読めてドラマでも見ているようでした。幽霊屋敷を探検するというのも中学生にはおもしろいストーリーだし、ちょっとホラーっぽい、謎めいた独特の雰囲気があって、読ませる作家だと思います。でも繭さんの描き方は不自然なところもあり、実在する人のリアルな感じがしませんでした。作者が伝えたかったことは結局何なのか。母親のたった一言の呪縛から逃れられずに苦しむ娘の葛藤? 娘を愛しすぎるために娘を束縛する母の葛藤? 問題提起はいくつかありますが、解決するところまでは行っていないので物足りなさを感じました。タイトルや表紙デザインは魅力的でよかったけれど、男子をシャットアウトしているのが残念。

アカシア:私も安東さんの短編は好きですが、うますぎて子どもにはわかりにくい作品もあると思っていました。この作品のほうが子どもにもわかりやすいんじゃないでしょうか。幽霊話で引っ張っていくので一気に読めるし、ユーモアもあるし。私は、繭さんのことよりいろんな親子関係があるっていうことを書きたいのかと思いました。中心にいる3人は、それぞれ何かしら問題を抱えています。志保と美月は、母親としっくり行っていない。祥吉のお母さんはちゃんとしていて、祥吉は反発も感じていないし家の中に居場所がないとも感じていませんが、お父さんがそばにいません。私は、この本から、「家族はいろいろだ」し、「母親を全面的に正しいと思わなくてもいい」というメッセージを受け取りました。最近は、親子が無条件に絆で結ばれているわけではないと子どもの本でも言っていますが、ひと昔前までは、親子は愛の絆で結ばれているのが当たり前という書き方でした。そうでないのは、たとえばルナールの『にんじん』のように、とても稀な例外だった。だから私は、子どもの頃にこの本を読みたかったと思いました。こういう本がもしあったら、私は救われていたと思うんです。今だって、救われる子はいっぱいいると思います。最後の場面ですが、繭のお母さんが娘を守ろうとしたのか、それとも自分がいる死の方へ引っ張ろうとしたのかわからない、という意見がありましたが、私はわからないからこそいいんだと思います。どっちかに結論づけていたら、月並みになるか、オカルト物語かどっちかになる。わからないからこそ、割り切れない母子関係が立ち現れるんじゃないかな。私にとっては、好感度がとても高い作品でした。

マリンゴ: 素敵な作品でした。娘と母親を描く小説って、2人が向き合うタイプのものが大半だと思うのですが、この小説のなかには「月」という、象徴的なものが1つ加わるので、母娘関係を客観的に描くことができているのだと思います。とても余韻が残ったし、自分自身、母とのことを少し思い出したりもしました。先ほどの話にも出ましたが、私は「解決しない」のがいいと思いました。読者にはそれぞれ違う母娘関係があるから、何かピシッと結論を出されると、「自分とは違う・・・・・・」と感じてしまう人も多いのではないでしょうか。唯一、物語で気になったのは“匂わせ”部分。たとえばp19「でも、笑っているこの時には気づかなかったのだ。残り一パーセントの可能性ともうひとつ、怖いのは幽霊だけではないことに」を読んで、異世界に飛んで行ってしまうなど、よほど恐ろしいことが起きるのだと思ってしまいました。だから、警察署に連れていかれるという実際の展開も、本当ならじゅうぶんショッキングなのですが、自分の想像が激しすぎたので、なーんだそういうことか、と少しがっかりしてしまったのです。こういうふうに先を匂わせなくても、じゅうぶん怪しげな雰囲気は漂っているので、ないほうがかえって読者には親切かなと思いました。

ケロリン:母と娘とは、永遠のテーマなんでしょうね。反抗期からまだ抜け出ていない娘を持つ身としては、胸がイタタタとなりながら読みました。特に、繭さんをなぐさめるつもりで言った、「もしも私なら、最後に大嫌いって言われたってどうってことないわ。子どものついた悪態なんてなんでもない。覚えてもいないわ!」というセリフですが、母親ならなんてこともなく受け止めてるよ、という意味にも取れるのに、美月と志保には、子どもの言ったことを覚えてもいないなんて、勝手だと言われてしまう。母と娘ってこんなことの繰り返しなんでしょうね、とさらにアイタタタとなりました。しかし、今はフルタイムで働く母親も多く、本当に覚えてなかったりするのかも、と思うと、母と娘の関係も、少し前とずいぶん違ってきているのかもしれません。

ツチノコ:かなり好きなお話でした。文章のディティールや、表現で、いいなと思うところがたくさんありました。ヒグチユウコさんの表紙イラストや装丁の色遣いも素敵ですよね。幽霊の描写が中途半端だったり、作中に登場するいくつもの親子関係がどれも似通っているような気がしたり、なんだかしっくりこない部分もありましたが、最後の急展開で吹き飛びました。ラストシーンでは「サスペリア」という古い怪奇映画を思い出しました。館の崩壊と共に母娘関係の呪縛も解けたかのような不思議な爽快感、カタルシスがあります。繭さんがミニチュア作家というのも箱庭療法のようで象徴的ですよね。オビにある、「まるで神話のようだ。新しい時代の母娘の。」という梨木香歩さんのコメントが印象的でした。

西山:子どもたちのぽんぽんとしたやりとりがおもしろくて、ところどころ吹き出しました。例えば、p25の「孤独死」の勘違いなんておかしいし、はっとさせられる新鮮さもあります。p62後から4行目の「美月ちゃんのおばちゃんとうちのママは仲がいいけれど、意見の割れることも多いみたいだ」というくだりなんかも、母親たちの描写として新鮮に思いました。そうやっておもしろく読んでいたのですが、どうも繭さんが出てきたあたりから、つまらなくなってしまった。「お茶飲む? っていうみたいに、『ネコ、だく?』」(p73)と言う繭さん、これはまたおもしろい人が登場したぞと思ったのですが、彼女が危うくなってくるにつれて冷めてしまった。森絵都の『つきのふね』(講談社、角川文庫)と構図が似ているな、と思って。中学生の女の子ふたりと男の子ひとりが、心が壊れはじめた大人をなんとかしようとじたばたする、月が象徴的なモチーフ、クライマックスは火事だし・・・・・・と、そういう構図の類似性を興味深く思って読んでいる段階で、もう作品自体からはちょっと引いた読書になっていたんだと思います。美月ちゃんと志保が再会してせっかく仲良くしていたけれどぎくしゃくするといった、月並みな展開でなかったことなど全体的に好感は持っているのですが、私は、子どもたちが中心のドラマが読みたかったのかなと思います。

まめじか:母娘の複雑な関係性を繊細に描いた作品ですね。さきほど、表紙が女の子向けだという話がありましたが、私は、この本は女の子が読めばいいんじゃないかと。p245の、美月の母親の台詞は、パトリック・ネスの『怪物はささやく』(シヴォーン・ダウド原案 池田真紀子訳 あすなろ書房)を思いだしました。状況はまったく違いますが、『怪物はささやく』では、母親が死を迎えつつある現実を受けとめられず、怒りをぶつける子どもに、あなたの気持ちはぜんぶわかっていると、母親が言うシーンがありました。「子どもが自分のことをどう思ってるかなんて、気にしてらんないの。そんなひまはないのよ。きっとあんたのおかあさんも娘の言葉に傷ついたりしてないと思うわ。だからだいじょうぶ。なんにも悲しむことなんてない」(p245)という美月の母親の台詞は、どんなにわかりあえなくても結局母親の愛は絶対だという前提ですよね……?

彬夜:親の側から見ると、そう感じるということなんじゃないですか?

まめじか:子どもの気持ちがあって、それとは別に親の想いがあるのはわかるんですけど。母親は子どもを愛するものだという前提にこの本が立っているとして、でも、そうじゃない家庭も現実にはありますよね。子どもを愛せない親もいるし。それを書かなきゃいけないということではなくて、思ったのは、その前提は日本的だなと。血縁重視というか。いいとか悪いとかじゃなく。

西山:現役の中学生がどう読むのかとても興味深いですね。私たち大人が気にも留めないところに反応するのかもしれない。親世代子世代混ざって読書会をしたらおもしろそう。

ネズミ: 100ページまでしか読めてません。でも、まだ物語が本格的に始まっていないんですよね。会話のテンポはいいんですけど、『いいたいことがあります!』(魚住直子著 偕成社)と比べると、主人公に特徴があまりなく、読者をひっぱっていく機動力にやや欠ける感じもしました。あまり強引じゃないというのか。でも、日本の作家だからできる技だと思ったのは、美月を関西弁にして、主人公の会話と区別させているところ。こういうのは、翻訳だとできません。

アカシア:しかも中途半端な関西弁と断っているので、ちょっと変でも大丈夫なんですね。

ハル:はじめて読んだときは、「いいなぁ」と思いながらも、読後はどこかほんのり、古いというと語弊があるかもしれませんが、懐かしい感じもあって、少し前に出ていた本かな?と思った記憶があります。今回改めて読み直してみたら、会話もとてもおもしろく、生き生きとしていて、「古い感じ」という印象は抱かなかったのですが、強いていえば、繭さんというキャラクターが、ちょっと昔懐かしい感じがするのかなと思います。母親は母親で、これが親のつとめだと思っているし、娘は娘で、こんなに繊細なのかと思うほど、母親の何気ない一言に傷ついて、親子の関係って、どこの家も似たりよったりで、ずっと模索し続けていくものなのかなと思いました。

彬夜:ラスト近くの、繭の母親が引きずりこもうとしてるんじゃないかというシーン、怖いですね。結果的には、救うことになる。そこがおもしろいです。意図はわからなくていいと思います。ちなみに、安東さんはあるインタビューで「親は完全じゃない。不手際も、失敗も、言っちゃいけないことも言います。子供がそれを全くわからないまま『毒親』だと子供に言ってほしくない」と語っています。親から見る、という視点はかなりあったかと思います。

ルパン(みんなの話が終わってから参加):正直、あまり感動できませんでした。私には、志保とママとの確執があまりピンと来なかったんです。よその家の子に生まれたかったと思うほどの深刻な問題が見えてきませんでした。また、キーパーソンとなるべき繭さんの魅力があまり見えてきませんでした。繭さんが母親の呪縛にどう立ち向かってどう戦ってどう勝ったか、というプロセスがきちんと描かれていないと思ったんです。結局、母親や熊井さんがいないと生きていかれないことを露呈しただけのような。さらに、その繭さんを救うひとことになるはずだったと思われる美月ちゃんのお母さんのp245の言葉も、結果的に美月や志保を傷つけて終わったという、なにかとんちんかんなエピソードに思えてしまいました。さいごに志保はママに抱きしめてもらってよかった、というあっけない結末も、志保がそこまでママを嫌っていたことと結びつかず、拍子抜けしてしまいました。それに、繭さんや美月ちゃんはこれからどうなっていくのか、という疑問が残り、不完全燃焼的な読後感でした。

アカシア:志保のお母さんは管理的なので、感受性のするどい子どもにとっては嫌だと思います。客観的に見るとそうでなくても、子どもにとっては翼をもがれたみたいな気がするんじゃないかな。私にはその確執はリアルでしたが、そのあたりの感じ方は読者によって違うかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):会話がスマートで、どんどん読み進められました。印象に残った新鮮な文章がたくさんあり、すぐれた作家だと思います。表紙もいいですね。

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

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2019年01月 テーマ:子どもにとって、心のよりどころとは・・・

日付 2019年1月18日
参加者 アカシア、鏡文字、カピバラ、ケロリン、西山、ネズミ、マリンゴ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ 子どもにとって、心のよりどころとは・・・

読んだ本:

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ベッツィ・バイアーズ『トルネード!』

トルネード!〜たつまきとともに来た犬

西山:今回の3冊の中で一番おもしろかったです。気に入った話を何度も聞く、家庭内のおなじみのエピソードがある、その場面がとてもよかったです。好感をもって読みました。ほかの本だと、入れ子構造が余計な仕掛けに見えたり、効果が上がっていないと思ったりすることがありますが、これは違和感なくおもしろく読みました。(当日言いそびれ。竜巻は本当に恐ろしいことで、津波や地震、あるいは空襲まで含め、おびえる子どもを安心させたいという思いがこの構造そのもので、そのことが最後の一行「また、トルネードが来たときにな」で強く感じられて、子どもへの愛にあふれた本だと思いました。)ただ、『レイン』(アン・M・マーティン著 西本かおる訳 評論社)を思いだして、「バディ」として「トルネード」を飼っていた女の子の気持ちを思うと……。そこだけは複雑です。

ネズミ:物語の中に物語がある構造が、効果的に使われていると思いました。カメのことも、手品のことも、五時半のことも、毎日の何気ない話だけれど、どれも楽しいし、何度も聞きたがるぼくたちのおかげで、楽しさがさらに増すようです。挿絵がとてもよくて、最初と最後だけカラーだけど、全部色がついているような錯覚に陥りました。p72の「あの男はれいぎ知らずで、自分の名前も、いわなかったしな」というのだけ、ちょっとひっかかりました。p62-63の場面で「あの男」を、それほど「礼儀知らず」と感じなかったので。ともかく、物語の楽しさを味わえる作品だと思いました。

レジーナ:絵がお話にぴったり! トルネードが愛らしく、生き生きと描かれています。カメが口に入って困った顔とか、大事な穴を猫にとられて呆然としている表情とか。最後のカラーの挿絵は、ほかとは少しタッチが違いますが、これもまたすてきですね。トランプの手品の場面はよくわからなかったです。トルネードがいつも同じカードをとるのは、においがするとか、なんか理由があるのだと思いますけど。「ハートの3だったら、カードを捨てない」というのが、手品なんですか?

西山:ちっちゃい子が、わけもわからない手品をやってみせることがありますよね。ボクとトルネードが自分たちでも「それがどんな手品なのか、さっぱりわからないんだ」(p30) と、一人と一匹が困った様子で顔を見合わせているp31の絵と相まって、本当におもしろいと思いましたが。

アカシア:そこはおもしろいんだけど、p78では弟が「トルネードは、ほんとのほんとに、トランプの手品ができたの?」ときくと,ピートが「ああ、できたとも」と答えるので、だったら、もう少しわかるように書くか、訳すかしてもらえると,スッとおもしろさが伝わるのではないかと思いました。つまり、本当は手品じゃないんだけど、やりとりがおもしろいんだということが伝わるように、ってことですけど。

レジーナ:手品っぽいというのはわかりますけどね。

鏡文字:また犬か、とちょっと思ってしまいました(前々回も犬の話があったので)。トルネードにいちいち「たつまき」のルビがふってあるのが気になりました。自然現象は、「たつまき」だけではだめなのでしょうか。物語は、ちょっと中途半端な感じ。竜巻が来ているという緊張感があまり感じられなかったんです。話をするのがピートで、この人との関係がつかめなくて。まあ、読んでいけば子どもたちと信頼関係があることは伝わるんですが、これまで子どもたちとどんな風に関係を築いてきたのか。親だったら、安心させようとして、こういう話をする、というのもありかもしれませんが、雇われている人、なわけですよね。ピートのことがよくわからない(人となりだけでなく、どういう雇用関係なのかな、とか)ので、なんでここまで子どもがなついているのかな、と・・・。私は子どもたちが話を聞いている間中、お父さんはどうなったかが気がかりでした。大事なくてよかったですが。あと、p48「じゅうたんをほりまくってあなをあけた」というのがちょっとひっかかりました。

アカシア:家の中でも前足で地面を掘るようなしぐさをする犬がいて、じゅうたんには実際に穴があきますよ。そういう犬を飼ってないとわからないかもしれませんが。

鏡文字:女の子のことは、私もかわいそうだと感じました。挿絵は、猫の絵が好きでした。

ルパン:おもしろかったです。トルネードは犬小屋ごと飛んできたんですよね。竜巻はたいへんなことだと思いますが、場面を想像するとなんだか笑えてきました。絵もすばらしいです。トルネードはピートと7年過ごしたとあり、最後(p79)の絵はピートがずいぶん大きくなっているんですよね。そういうところがいいなあ、と思いました。ひとつだけ気になったのは、トルネードの前の飼い主のこと。おじいさんから孫への贈り物だったんですよね。とてもかわいがっていた女の子と、プレゼントしたおじいさんが気の毒で・・・そこのくだりはないほうがいいと思いました。

アカシア:うちにも犬がいるんですけど、トルネードは、せっかく掘ったお気に入りの穴をネコにとられる。その時の顔(p51)、たまりませんね。犬の表情を挿絵はとてもうまく捕らえて描いていますね。暗くて狭いところにみんなで避難しているときにお話を聞けて、いつもそれを楽しみにしているという設定も、とてもいいなあと思いました。ほかの方と同じで、ひっかかったのはトランプの手品のところです。客観的に手品っていわれると、よくわからない。『レイン』では、発達障がいの子が、飼い主を自分からさがそうと懸命になります。この本では、もとの飼い主の女の子がトルネードを抱きしめている場面があるのに、ピートは、トルネードが戻って来たのを知らせないどころか、隠している。前の飼い主は意地悪だから返さなくていい、という理屈ですが、そうなら、前の飼い主をもっとひどい人に描いておかないと、読者もちょっと納得できないんじゃないかな。『レイン』を読んでなければ、そこまで思わなかったかもしれませんけど。

西山:『レイン』の主人公は、発達障がいがあって、嘘がつけない、融通が効かないという子だから、黙って自分のものにしてしまうというようないい加減なことができなくて、それが哀しい。そこを、あの作品の切なさとして読んでいたのですが。

アカシア:でも『レイン』のローズは、クラスの他の子の事は考えられなかったのに、あんなふうにほかの人のことを考えられるようになるのは、やっぱり成長が描かれているんじゃないかな。

ネズミ:この本では、ピートたちが犬を奪ったわけじゃなくて、トルネードが自分で戻って来たんですよね。

アカシア:本の前のほうに、犬が行ったり来たりするのもありだ、みたいなことも書いてあるので、そうすればいいのに、と私は思ってしまいました。

カピバラ:飼い主のわからない犬に出会い、かわいがるうちに元の飼い主が現れるという話はほかにもあるけれど、トルネードという自然災害とからませ、避難中にピートから昔の思い出話を聞くという枠物語に仕立てて、読者をひきこむ工夫をしていますね。読者もピートの話を聞きたいという気持ちで読んでいきます。ストーリーの組み立て方がうまいですね。元の飼い主の女の子がかわいそうだという意見がありましたが、読者はこっちに残ってほしいと思いながら読むから、この結末には満足すると思います。元の飼い主のことはほんの少ししか書いてないので、子どもの読者は女の子のほうにはあまり感情移入しないでしょう。大人の読者はそちらの状況もいろいろ想像できてしまうけれどね。とてもおもしろい作品でした。

マリンゴ:とてもおもしろかったです。短い文章なのに、いろいろなことが伝わってきます。私は、語弊があるかもしれませんが自然現象のトルネードが好きで(笑)トルネードのドキュメンタリーとか映画とか、必ず見てしまいます。が、日本の子どもたちはそこまで知識がないかもしれません。「台風」「地震」などは共通の認識がありますが、「トルネード」はそこまでぴんと来ないと思うので、訳者あとがきなどで知識を補足してあげたら、なおよかったのではないかと思います。物語については、エピソードの小さいところがいいですね。カメのこととか、五時半の猫とか・・・。一つだけ気になるのは、p76-77の見開きのイラスト。廃墟感が強くて、一瞬、すべて吹き飛ばされてしまったのかと思いました。そこまでの被害は受けてないので、もう少し、それがわかる絵だと、なおよかったのかなぁ、と。

西山:活字を変えているのもわかりやすいですが、実はそれに気付かないぐらい自然に読んでいました。これからお話が始まるというのがはっきりしているから、混乱はしないと思います。

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エーデルワイス(メール参加):表紙と挿絵が降矢ななさんだ!と、期待して読んだのがいけなかったのか、読後感が今一つ。アメリカの竜巻の発生する地名が書いてないのですが、日常に竜巻が襲ってくることや、避難の備えをしていることをもう少し書いてほしかったです。この本の薄さは低学年向きかと思いきや、語り部による過去と現在のお話が交互に進み、高学年向きなのか・・・。なんだか中途半端に感じました。犬のトルネードの物語の骨組みだけ残して、降矢ななさんの『絵本』にしたらどうかしら・・・なんて思いました。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ケイリー・ジョージ『ねずみのモナと秘密のドア』

ねずみのモナと秘密のドア

カピバラ:ホテルの従業員やお客さんが、ひとりずつ順に登場して、どんな人物か紹介されていくのですが、それぞれの動物の特徴を生かした性格付けがされていて、おもしろかったです。挿絵は単純な線だけれどユーモラスに動物たちを描いています。こわいと思ったクマさんと友だちになり、そのことがオオカミを撃退する場面の伏線になっているなど、小さなエピソードや、ちょっとした事件がそれぞれ関連をもちながら語られていくので、どんどん読んでいけると思います。泊まるのを遠慮してほしいコガネムシが実はホテル評論家だったというのも愉快。ここに昔泊まったねずみ夫婦が、モナの両親かもしれないのですが、モナが再会できるかどうかは1巻目には書いてありません。続きを読みたくなりますね。中学年の子どもたちにすすめたいと思いました。

マリンゴ: とてもかわいらしい本で、おもしろかったです。イラストがすばらしいですね。特にモナとトカゲ。著者本人が描いたのかと思うほど雰囲気に合っています。物語では、オオカミが悪役でクマがいい役なのですが、オオカミは肉食で、クマは7割くらい植物を食べる雑食で、小動物に少し近いからかな、などと構造の設定を想像しました。もっとも、ホテルの従業員とお客が草食ばかりというわけではなく、たとえばアナグマは雑食、ツバメは肉食だそうなのですが。なお、表紙ですが、左下に著者、翻訳者、画家の名前があって、帯がかかると完全に隠れてしまっているのはよくないと思いました。『トルネード!』(ベッツィ・バイアーズ作 もりうちすみこ訳 学研)も同じ位置にありますが、こちらは帯に名前が表示されているので、問題ないですね。

ケロリン:中学年向けの、エンタメではなくきちんとしたストーリーのある物語が始まったといううれしい気持ちで読みました。動物が登場人物ですが、人間関係ならぬ動物関係がとてもよく描かれています。注意するとしたら、動物の実際からあまり違うことが起きたりすると、違和感が増してしまって物語に入りこめなくなるということですね。高橋さんの挿し絵もとても合っていますね。今後のシリーズ展開が楽しみです。

西山:かわいらしい本ですね。中学年くらいに読まれるシリーズになるのでしょう。小さいものの世界がこまかく描かれていて、シルバニアファミリーのようなミニチュアの世界が提供する楽しさがあるように思います。小さきものはみなうつくし、です。ネズミとリスの大きさの違いが意外とこだわられていたり、はまる要素はたくさんあるのでしょう。だけど、私自身は、この世界の人間観や構図がすごくクラシックで、なんだかなぁと入りきれません。親がいなくて、かわいそうな女の子、いじわるな同僚、理解のある上役、お客さんには徹底した敬語で、人間関係が古くさい。それはそれで安定感のある古典みたいなよさがあるのかもしれないけれど、このシリーズが大好きになる子はいるのでしょうけれど、退屈せずに読みましたけれど、特に推したいと思う作品ではありませんでした。

カピバラ:「ダウントンアビー」のメイドの世界みたいですよね。

ネズミ:女の子っぽい本だなと思いました。悪くはなかったけれど、健気な女の子ががんばるというのは、どこか古臭い感じもして、これをぜひどうぞ、とまでは私も思いませんでした。森のいろんなアイテムを想像する楽しみはあるけれど、どこまでがリアルで、どこからがファンタジーか、よくわからないところも。たとえば、ペパーミントでにおいを消すというのがありますが、動物のにおいは、ほんとうにペパーミントで消えるんでしょうか? ハリネズミがハリでメモをとめるなど、おもしろいですが、p84の最後から2行目「ずっとひとりきりで生きてきたモナは、相手に思いを言葉で伝えることに、まだなれていませんでした」と言われると、動物だか人間だか、わからなくなってしまいます。また、登場人物同士のせりふがあけすけで、人間だったらぎょっとしてしまうような直接的な表現があるなあと思いました。たとえば、p154の冒頭の「このままだと、わたしよりモナのほうが評価されるようになるんじゃないかと不安だったんです」とか。悪くはないけど、私はもっとほかの本を子どもに読ませたいかな。

レジーナ:飽きさせない展開で、一気に読みました。ティリーがモナをかばう場面は唐突で、なぜ急に態度を変えたのか、わかりませんでした。読みやすい訳ですが、ひっかかったのはp91「止まり木のかわりにみじかい小枝が打ちつけてありますが、ねむるにはおぼつかないのか、すみに小さなベッドが置いてあります」。「おぼつかない」は、物には使わないかと。あと、p70「あなたがのろのろしてるのは、わたしのせいじゃないし」で、これは、仕事に手間取って食べるのが遅くなっても、自己責任だという意味でしょうか。ちょっと意味がとりづらいので、中学年向きの本ならば、ここはもう少していねいに訳したほうがいいと思いました。

鏡文字:私は、基本的に人間至上主義なので、動物ものはちょっと苦手です。でも、いろんな意味で、安心して読めました。表紙の絵はすごくかわいいんだけど、字体もいろいろで、字面がおちつかない気がしました。このグレードだと、本のサイズももう少し大きいほうが一般的なのかな。もっと上の子向けの話かと思いました。私も、これが人間だったら、きつかったかも。ご指摘があったように、古典っぽい感じもしました。意図して、なのかもしれませんが。言葉づかいもクラシック。ストーリーとしては、結局はモナ一人(一匹)が活躍しているのが気になりました。

ネズミ:文字量からすると、高学年じゃないと難しいですか?

ケロリン:中学年向けソフトカバーだと、この判型と厚さはよくあります。

カピバラ:タイトルの「秘密」が漢字なので高学年向けでしょうか? 本文にはルビがありますけどね。

アカシア:楽しく読みました。全体にかわいらしいお話だし、オオカミ以外は本質的にいいキャラだし、ハッピーエンドなので安心して読めます。ただ、ものすごくおすすめとは思いませんでした。物語世界のつくり方が不安定だからかもしれません。擬人化の度合いはこれでいいのかな、と疑問に思うところがありました。たとえばモナですけど、お話の中ではネズミではなく擬人化の度合いが高く、まるで人間のように描かれています。でも、両親の記憶もないくらい小さいときに孤児になって、どうやって生きのびたのか、そこは不明です。このホテルに到着するまではネズミ的で、ホテルに到着してからは人間と同じような存在ってこと? うーん、どうなんでしょう。私は、小さい子どもが読む本でも、作品世界はきちんと作ってほしいと思うほうなので、そのあたりが中途半端で残念でした。ストーリーが都合よすぎるところもありますね。ハートウッドさんはホテル評論家に来てもらって新聞にいい記事を書いてもらいたいと思っていますが、そうすると、知られたくないオオカミにもホテルの場所は知れてしまいますよね。オオカミがホテルのありかを探しているところで、においが漏れるからホテルでは料理しないとか、火を使わないと言ってますが、それでばれるくらいなら、夜に灯りをつけなくてもとっくにばれているようにも思います。ティリーの改心もとってつけたようで。あと、モナはいつも前向きで、応援したくなるキャラなのですが、ひたすらいい子なんですね。中学年くらいまではこれでいいのかもしれないけど、年齢が高い読者だと,嘘くさいと思うかもしれません。

ルパン:私はおもしろく読みました。リアリティのなさにはあまりひっかかりませんでした。ひとつだけ・・・モナやティリーはお金をもたずに迷い込んできたらメイドになるのに、ツバメのシベルさんだけお客さん扱いなのはなぜだろう、と思いました。けがをしているからかな。 モナの両親は生きているみたいですね。2巻も読んでみたいと思います。

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エーデルワイス(メール参加):とてもかわいいお話で、挿絵と文章がよく合っています。女の子が喜びそうですが、だからといって甘ったるい感じはなくおもしろく読みました。続編も読みたいです。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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佐和みずえ『拝啓、お母さん』

拝啓、お母さん

鏡文字:この作者の『パオズになったおひなさま』(くもん出版)には問題が多いと思っていたので、それよりはよかったかな、とは思いました。ただ、活版印刷ということを除けば、ありがちの話のようにも感じました。その活版印刷のことがどのくらいわかって書いているのかはちょっと疑問で、仕事の様子が今一つ伝わってきませんでした。活版印刷の工程を縷々説明していますが、抜けている作業があります。家内工業の印刷屋さんなのに、1日じゅう、がっちゃんがっちゃんと印刷機の音がずっとするというのも不自然。それから、活字を投げるところ、気になりました。そんなことしますか? あれは、活字を大切に扱わなくては、と告げるために無理に作ったシーンだな、と。ということで、決められた筋に則って引っ張っていくという感じがして、私はあまり楽しめませんでした。活版印刷をはさみこむなのど、本作りの工夫は感じたんですけどね。

レジーナ:活版印刷や職場体験など、テーマありきの印象をうけました。p28で「妹なんかいらない」と言ったゆなに、お父さんは、「そんなことしかいえないのか、なさけない!」と言いますが、やりとりが紋切型で、血肉のかよった登場人物には感じられませんでした。

ネズミ:私はそれほど批判的には読みませんでした。小学校中学年くらいに親しみやすい本だなと。ゆなが、思っていることをうまく表現できず、行ったり来たりする感じ、はりきっているのに空回りしてしまう感じがよく伝わってきて、小学生は共感をおぼえるのではないでしょうか。実際にお手紙がはさみこんであるのもいいなあと思いました。ただ、感情を表現した部分で、しっくりこないところがありました。p65「六年生のお兄さんとお姉さんが、まぶしくてたまりませんでした」は、そのあとに説明的な文で補足してあるので、どこかとってつけたような感じがしましたし、p70の「ぱあっと顔を赤らめて」の「ぱあっと」も、わかるようでわからない。個人の語感の問題かもしれませんが、そういう、ちょっとひっかかるところが、ちらほらとはありました。でも、全体としてはいい作品だと思いました。

西山:私は冒頭からひっかかってしまったんですよねぇ。「暑い……」とあるから、空港の建物から外に出たと思っていたのに、通路のガラス窓に飛行機の翼と夕焼け空が広がっているというし、「通路は冷房がきいていますが」と続くので、今どこにいるの?! となってしまった。出だしからひっかかったせいか、九州のラーメン=とんこつなので、わざわざ看板に「とんこつラーメン」とは書かないだろうとか(大分県は違うのかもしれませんが、未調査)、小さなことまでちょこちょこひっかかってしまいました。内容的に抵抗を感じるのは、お父さんやお母さんのあり方です。子どもに相談もなく祖父母の所へ行かせるのは、この作品に限らずよく見かけます。だから常々感じているのですが、児童文学も、子どもの権利にめざめてほしい。子どもを困難に直面させるための設定として人を動かしているように見えると楽しめません。せっかく中学年向きに、ていねいな本作りをしているのに、人間の描き方がていねいじゃないと感じました。

ネズミ:祖父母の家に行くのは、別に無理やりじゃなくてもいいかもしれませんよね。

西山:孫がいるのに、何年も行き来していないなんて、よほどの確執があるのかと思いましたよ。帰省が経済的に厳しい家とは思えませんから。なにしろ、お父さんは自らゆなを大分空港に送ってとんぼ返りするのですから。子どものひとり旅サービスを使うでもなく。

ケロリン:うーん、違和感はあるものの、描ききれていないということについては、ちょっと反論。小学校中学年向きの本は書くのも選ぶのも難しいと言われます。テーマもそうですが、文章量の問題もありますね。何を書いて何を書かないか、高学年向けの本よりも気を使うところかもしれません。お父さんやお母さんの描き方は、祖父母との関係に軸足を置くために、ここまでしか書かなかったということなんでしょうね。でも、お父さんが、最初はゆなとがんばろうとするけれど、やっぱり危険だと感じていくところは、けっしてゆなを責めるのではなく、自分へのいらだちも含めて、とてもわかりやすいシーンとして描かれていると思いました。とんこつラーメンは最後のシーンの伏線ですね。活版についてもどこまで書くかですが、このあたりでちょうどいいんじゃないでしょうか。よくある祖父母のもとに行って成長する話かと思いきや、ステロタイプの流れではなく、おばあちゃんが自分の人生のなかで後悔をしていることを話したりするところや、後悔を「穴ぼこ」と表現するところなどは、おもしろいと思って読みました。

マリンゴ: 冒頭を読んだ時点では、古いタイプの物語なのかなと思いました。お母さんの出産前に、よそに預けられる。行った先には、とてもやさしげなおじいちゃん、おばあちゃん。ちょっとステレオタイプかな、と。でも、そこから活版印刷の話に集約されていくので、そっちか!と興味深く読みました。作者の、活字に対する愛情が伝わってきました。おじいちゃんの後悔、おばあちゃんの後悔に、ゆなの後悔を重ねる、という描き方がとてもいいと思います。読んでいる子どもにとって、わかりやすい。何か後悔していることがある子は、ここに自分を重ねられるのではないでしょうか。

カピバラ:活版印刷のよさを伝えたい、という熱い思いからつくった本ですね。職人さんの心意気や手仕事のすばらしさはよく伝わってくるんですが、物語の設定はそれを説明するために作ったという感じがします。中学年向きだからとはいえ、描写が説明的なのが気になりました。さっきも出てきたp65の「……ゆなには、六年生のお兄さんとお姉さんが、まぶしくてたまりませんでした」ですが、お兄さん、お姉さんらしさをもっと仕草や素振りで伝えていれば、「まぶしい」と言わなくても、ゆなが「まぶしい」と思う気持ちが読者にも感じられる。そういう残念なところがすごく多いと思いました。また私も冒頭は読みにくかったです。読者は最初からゆなの目線で読みはじめるのに、p4に、「遠い九州までつれてこられたという緊張もあってか、ゆなのせなかは、汗でじっとりとしめっています」というナレーター目線の描写が出てくるのは違和感がありました。ノンフィクションではないので活版印刷のしくみはそんなにくわしく書かなくてもいいと思いますが、p72、p73の図解はわかりにくいです。印刷機がどうなっているのか、よくわかりませんでした。実際に活版印刷をした紙をはさんでいるのは、よかったと思います。最後に親子3人で赤ちゃんの名前の活字を拾う部分、ゆなが「あった!」と声をあげるのですが、一体どの活字だったのか、どんな名前なのか書いてほしかった。なんとなく美しげに終わらせているけど、不満が残る終わり方でした。それと、表紙の絵はどう見ても幼稚園児にしか見えず、心理描写も4年生にしては幼すぎるように思いました。

アカシア:今カピバラさんがおっしゃった夢の部分ですが、私もひっかかりました。「三人は目をこらして、文字の海を見つめています。/『あった!』/ゆなが声をあげました。/そして、うまれたばかりの赤ちゃんの名前の活字を、そっと拾いあげたのです」ってあるんですね。ここまで具体的な行為を書くのなら、やっぱりなんの字を拾いあげたのかを読者は知りたくなります。まだ赤ちゃんは生まれていませんが、それならゆなは、こういう名前がいいと思ったくらいのことは書いておかないと、この文章が宙に浮いてしまうように感じました。それから西山さんと同じように、冒頭の「暑い」と繰り返されるところですが、機体の中や空港は時として寒いと感じるくらい空調がきいてますよね。普通は空港から外へ出たときに暑さをはじめて感じるので、私も違和感がありました。私がいちばん気になったのは、あとがきの「言葉は、ときに人の心につきささるトゲとなることもあります。どうしてでしょうか。それは、真剣に言葉を選んでいないからかもしれません」という文章でした。ゆながお母さんに、「妹なんていらない」と言ってしまったことに対してこの文章が向けられているとしたら、とても残酷だなあと思ったんです。子どもは、自分より力がある存在に対して、トゲのような言葉をぶつけるしかないこともあるじゃないですか。それを「真剣に言葉を選んでいない」なんてお説教されても、子どもの心はすくいとることができないんじゃないでしょうか。活版印刷については、その魅力が伝わってくると思いました。私は、活版印刷はもうなくなったと聞いていたので、この本をきっかけに調べてみて、まだあちこちに残っているのがわかったのは収穫でした。活版で印刷したハガキがはさみこまれているのもいいなあ、と思いました。でも、これって、実際のハガキサイズの紙じゃ小さすぎてだめだったんでしょうか? 技術的に難しいのかな? あと「拝啓」ってずいぶん固い言葉ですが、手紙はこの言葉で始めるって学校で習うのかしら?

鏡文字:この作者は一卵性双生児だそうですが、二人で書いているので、決められた設定ありきになってしまうんでしょうか。

アカシア:物語が自然に生まれてきて、登場人物が動き出すというより、最初からきっちり流れを決めておいたうえで、分担して書いていくんですね?

マリンゴ:コンビで1つの作品を書かれるといえば、たとえば岡嶋二人さんもそうでしたね。

ルパン(みんなが言い終わってから参加):なにかの職業について調べて書く話としては、よくできていると思いました。が、主人公の葛藤や後悔が活版印刷とどう結びついているのか,私にはよくわかりませんでした。おじいちゃんが昔ながらのやり方にこだわっている理由もはっきりわからなかったし。ゆなが職人の手作業を見ることによって成長をとげる物語であるのなら、おじいちゃんの技術もほかの人にはできない特別なものでなくてはならないと思うし、ゆなの気持ちを変えるきっかけも活版印刷でなければ成り立たないものでないと、読者の共感が得られないと思いました。文字が反転することとか、紙に凹凸ができることとか、手で文字を組むこととか、活版印刷ならではのものがストーリーのカギになって何かが起こることを期待して読んでいたので、最後は拍子抜けでした。これならべつに活版印刷でなくてもいい話ではないかと思ってしまいました。ただ、ゆなが作った活版印刷の紙がはさまれているのはいいと思いました。これを読んだ子はきっとさわってみるでしょうし、図書館で古い本に出会ったときに活版の手ざわりを確かめるようになるかもしれません。

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エーデルワイス(メール参加):素直に読めました。挿絵がかわいすぎて、文章と合ってないような気がします。印象が深刻にならないように敢えてそうしたのでしょうか? 活版印刷にスポットを充てたのが新鮮でした。結菜の葉書が、活版印刷とはっきりわかるとよかったのに。私には違いがよく分かりませんでした。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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2018年12月 テーマ:この国から、あの国へ

 

日付 2018年12月21日
参加者 鏡文字、コアラ、さららん、サンザシ、西山、ネズミ、ハル、マリンゴ、レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ この国から、あの国へ

読んだ本:




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大竹英洋『そして、ぼくは旅に出た。』

そして、ぼくは旅に出た。〜はじまりの森 ノースウッズ

コアラ:とてもよかったです。読んでいる間中、旅をしている気持ちになりました。カバーの写真がとてもよくて、これから旅に出るという気分にさせてくれます。内容も構成もいいし、要所要所に読者の理解を助ける説明が入っていて、写真家のジムに会う前になぜ写真だったのかを説明する章があったり、スムーズに読み進められるようになっています。いろんな人に薦めたいと思いました。個人的にはp290からの「センス・オブ・ワンダー」、名前も知らない花を見て、新鮮なまなざしで写真を撮っていくところ、試行錯誤の話がおもしろかったです。終わり方もすばらしいと思いました。進路を考える時期の高校生くらいの子どもにも、大人にも、多くの人に読んでもらいたい本です。

ハル:この本に出会えてよかったです! 最初に本を開いたとき「わぁ、文字が小さい。文字が多い。時間がない~」と思ってしまったことを反省しました。心に余裕がないときこそ、良い本を読もう! 進路を考えはじめる年代のひとたち、受験や就職活動などでいちばんいそがしいころかもしれませんが、そんなときこそ、読んでほしいです。著者は思い切った冒険の旅に出ますが、謙虚で礼儀正しく、若いときにありがちな無邪気な傍若無人さもなくて、たとえば、「弟子にしてくれるまで帰らない!」なんて言わないところとか、そういったところも安心してひとに薦められます。「『一日というのはこんなふうに美しく始まっていくのだ』ということを、ずっと覚えておきたいと願ったのでした」(p120)。私も覚えておきたいです。もう、絶賛。

さららん:池袋のジュンク堂のトークに行って、作者のサインをもらってきたんです。そのときオオカミや、さまざまな動物の呼び声の真似をしてくれ、ノースウッズに行ってきた気分になったものでした。人は、目で見えるものにとらわれることが多いけど、この人は、目に見えないものをとらえようと、もうひとつの感覚を磨ぎすましています。それがとても気持ちいい。何気ないひとことがいいですね。読んでいるうちに、自分の心もひらいてきて、生きていくのも悪くないと、思えるようになりました。自然の描写と内省的な文章のバランスが見事。かかわっている編集者の腕もあるかもしれませんが。

レジーナ:すっごくよかった。勇気を出して一歩踏みだせば、未来はひらけるのだと、ストレートに伝わってきて、ぜひ中高生に読んでほしいと思いました。著者は、夢で見たオオカミに導かれるようにして旅に出ます。今は、ここまで行動力のある若者は少ないですよね。大学に入ったばかりのころは体力がなかったというのも、親近感がもてるし。著者は自然をもっと近くに感じ、新たな目でとらえたくて、生きていることを感じたくて、写真を撮ります。そのなかで、「人間は何者で、どこへ向かおうとしているのか」と考えます。人としてのあり方が、すごくまっとうというか・・・。自分の足で歩き、考えを深めているので、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要でない」というレイチェル・カーソンの言葉にも説得力がありました。写真は選択の連続だと言っていますが、人生も同じですね。この本のもとになっているのは、2011年からの連載で、旅から何年もたって書いたものです。なのに、ひとつひとつの印象がくっきりしていて、においまで伝わってきます。写真家という、ものをよく見るお仕事をされているからでしょうか。p320で「ビジョンが大切だ」と言われる場面では、わたしも若いとき、ビジョンは何かときかれて、やりたいこととビジョンは違うと言われたのを思いだしました。道を示してくれる年長者の存在って、大きいですねぇ。

ネズミ:時間切れで第3章までしか読めなかったのですが、まず文章にひきつけられました。ナチュラリストって、こういう人のことだなと。バーチャルの対極にあるというのか。実体験から、感性が開いていくようすが魅力的でした。

さららん:星野道夫さんの文章を思い出しますね。

ネズミ:ただ「はい、見ました」「知りました」ということじゃなくて、すべて体と心にしみこんでいるんですよね。

西山:読了していないのですが、とても気に入りました。星野道夫だなぁと思いながら読んでいたら、出てきましたね、星野道夫。しっかり影響関係にあったのですね。中学の国語の教科書に、星野が正確な住所も分からぬままに写真で見た村に手紙を出して行ってしまうという、エッセイが載っていた(いる?)のですが、大竹さんのとりあえず行っちゃうという決断は星野のやり方と同じです。こういう歩き出し方は、若い人の背中を押すと思うので、この本も中学3年生ぐらいから出会うとよいなぁと思いました。とにかく、文章がここちよい。p95の湖の水を飲んで「その水が体のすみずみにまで染みわたっていくようで、そのまま自分の体がすぐ真下の湖へと溶け込んでしまうような、そんな感覚がしました」なんて、本当に素敵。自然の描写をはじめ、決して「うまいこと言ってやったぞ」というドヤ顔じゃない。感じのよい文章だと思いました。また、考え方としても大事なことがたくさんあって、たとえばp166の中ほどの、「聞いているだけで澄んだ気持ちになり、明日を生きる活力がわきあがってくるような情報が、あまりにも少ない」という指摘は、児童文学というジャンルは、そうした情報(言葉)を発するものではないかと省みたり・・・。立ち止まり、味わい、様々な連想に思いを馳せ、時間をかけて楽しむ本。帰りの電車で続きを読むのが楽しみです。

マリンゴ:言葉の紡ぎ方、情景描写の美しさ、一途な想い、構成の緻密さなど、すべてに引き込まれました。過去の話の出し方のタイミングがとてもうまいなぁ、と。ジム・ブランデンバーグに会えたところがクライマックスではなくて、そこから物語がもう一度始まるところもいいなと思いました。読み終わりたくなくて、大事に少しずつ読んでいました。写真もきれいですね。

サンザシ:この本に載っているのは、この時期にとった写真で、今撮ったのとは違いますね。ちょっと素人っぽいところがまたいい。

マリンゴ:『Into the Wild』という映画を思い出しました。頭のいい青年がアラスカに魅せられて、野生の地に入っていって悲劇的な結末を迎える話なんですけど、この本の場合、同じ自然に魅せられる話でも方向が真逆です。ポジティブに、前向きに未来へ向かっていきますね。

サンザシ:この本の中では、大きな事件がおきるわけではありません。嵐は出てきますが、それが中心でもなくて、日常体験したことを時系列で書いているだけ。それに、石牟礼さんみたいに考え抜いたうまい文章とか玄人好みの凝った文章でもない。ちょっとがんばれば、このくらい書けるよね、という文章なんだけれど、嫌味がないし、とても素直。探検家や冒険家や写真家って、やっぱり自分を前に出そうという人が多いように思いますけど、そのなかでこれだけ素直な文章で、しかも読ませるっていう人はなかなかいないと思います。素直な心で書いているのが、いちばんのポイントなのかもしれません。余分な思惑がないっていうか・・・。ほかの方もおっしゃっていましたが、ずっと読み続けていたい文章だし、もっともっと読みたい気持ちになる文章です。構成は行って帰ってくる物語ですね。子どもや若者が冒険の旅に出て、もどってきたとき成長をとげている、という。スピリチュアル・クエストという言葉も出てきますが、その言葉どおりです。自然が人間にどんなものをもたらすかについても、とてもていねいに書かれています。これから星野さんみたいに、写真と文章の両方で大いに活躍してほしいです。表紙の写真ですが、ジム・ブランデンバーグの写真の中に同じ構図の写真を見つけました。でも、こっちは自分のカヌーですから、そこにも意味があって、ジムへのオマージュになっているんだなあと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):美しい写真にまず目を奪われました。「スピリチュアル・クエスト」の旅。作者の人柄なのか素直な文章ですね。作中に出てくる人たちは、浄化されて、なんというかその人の役目を果たしている。生き方は自分で選ぶのだと思いました。これを読んだ若者がきっと『旅』にでますね。p395の「不快さを無視せよ」「子どもになれ」とか、p403の「ジムに限った話じゃない。誰かを見上げすぎるのは危険なことだ。その壁が障害となって、成長できなくなる。大切なことは、自分の道をみつけることだ」など、印象的です。盛岡ではこの本は一般書の棚におかれていました。

 

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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小手鞠るい『ある晴れた夏の朝』

ある晴れた夏の朝

さららん:ディベートという形式で、原爆の是非を知的に問う展開が珍しく、おもしろかったです。舞台はアメリカ。原爆肯定派、否定派に分かれた登場人物ひとりひとりが個性的で、異なる文化的背景を持っています。主人公の日系のメイに肩入れしながら一気に読み進み、「原爆ノー」に深く共感しながら、気持ちよく読み終えました。小さな点ですが、冒頭の原爆否定派の挿絵を見ると、メイのチームのリーダー、ジャスミンの顔が、日本人にも見えるというイメージとは違っていますよね。人物像をじっくり描く書き方ではないため、たとえばメイの母親には、人間としての厚みがあまり感じられませんでした。でも、この作品に出会えてよかったと思います。十代の子どもたちに薦めたい。

鏡文字:この本は夏に読んでいて、いろんな人に薦めています。戦争を扱うのに、こういう書き方もあるんだな、という点で参考になる本だと思います。ディスカッションする高校生たちの配置が絶妙ですよね。ただ、物語という点で若干、物足りなさもつきまとう。あと、大人になったメイから始まりますが、そこに戻ってはこないんですね。細かい内面とか書く物ではないんですが、年表がおもしろかったです。最初と最後の事項に作者の意志を感じます。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、主語がない、と批判的にとらえる見方もあるので、ここは、みなさんがどう感じたのか、興味がありました。

サンザシ:かつてはあいまいだと言われたけど、今は、この文章の主語は人類全体だと広島市などは公式な見解を述べています。

ハル:こういう方法があったのか!と勉強になりました。このごろ「戦争ものは読まれない」と聞きますが、読書としてのおもしろさもしっかりあって、きっと主人公たちと同年代の読者も、さまざまな刺激を受けるんじゃないかと思います。本のつくりもていねいだし。ただ、日本人の私が読めば“we Japanese”の解釈のところで「あれ?」とひっかかってしまいますし、そこで否定派が打ちのめされてしまうのが、どこかぴんとこない感じはあります。最後まで読めば、ああそういう文化の違いがあるんだなとわかりますし、逆に印象にも残りましたので、これはこれでいいのかもしれません。いずれにしても、子どもたちにもぜひ読んでほしいと思う1冊でした。

コアラ:フィクションでディベートをするのがおもしろいと思いました。アメリカの高校生が、原爆について肯定派と否定派に分かれて意見を戦わせるという内容ですが、その中でアメリカの学校で習ったことというのが出てきますよね。たとえば、p44〜p45のスノーマンの原爆についての数値的な説明。私は日本の学校で、原爆の悲惨さについては教わりましたが、彼が説明したような数字的なことは習った記憶がありません。アメリカと日本の教育の違いというものがわかって興味深かったです。読み進めながら、原爆について考えられるいろいろな議論を上手にまとめていると思ったし、肯定派、否定派それぞれの意見にうなずいたり、考えさせられたりしました。p73の日本兵に殺された中国人という視点は忘れてはいけないと思います。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、凝縮されたものがあると思うので、メイの母親が解釈する場面には胸が熱くなりました。日本の子どもたちがこの作品を読んでそれぞれの意見を追っていって、自分の考えを深めていければいいなと思ったし、そういう子たちが社会に出ていくのは頼もしいと思いました。

サンザシ:アメリカの高校生がこんなふうに討論し、途中までは勝ち負けにこだわっているんだけど、最後は勝ち負けをこえて次の段階に進んで行くのがいいなあと思いました。日本の高校生ではあまり体験できないことなので、うらやましい。ひっかかったのは、「過ちは繰り返しませぬから」に関して、スノーマンが、日本人は懺悔しているんだからそれに報いるために原爆を落としてよかったんだ、と言う。それを聞いて反対派が負けたと思うのがどうしてなのか、私は納得できませんでした。たとえ語句の解釈が正しいとしても、日本人が反省してるってことと、原爆を落としていいってことは、やっぱりイコールで結びつかないから。p184で、お母さんが日本語の世界はそんなふうにできてないと言うところも、ちょっと気になりました。日本語は、自己主張することなく相手や世界にとけこむようにできているとあって、ちょっと先にも個人より仲間の調和を重んじるということが美徳として書かれています。アメリカではそれが美徳かも知れませんが、日本ではこういうのが強い同調圧力となって子どもたちを苦しめている。その点は、日本の読者が対象だとすると、もっとつっこんでほしかった。賛否両論がとびかうのは新鮮ですが、頭をつかう読書になるので、読者対象はかぎられるかもしれません。本を読んで考えるという習慣がない子だと、ハードルが高いかも。

マリンゴ:アメリカ在住の小手鞠さんだからこそ、書ける作品だと思います。ディベートがどう展開するのか気になって、一気読みしました。さまざまな角度から、日本の戦争について語っていて、中高生なら知らないことも多いのでは?と思います。ただ、各キャラクターの描写が最低限で、どんな人物かがあまり立ち上がってこない。青春小説の読みすぎかもしれませんが(笑)、主人公の葛藤や頑張って準備する様子などをもう少し読みたかったです。登場人物が、物語を動かすための駒として使われている感じもあります。けれど、推察になりますが、きっと「敢えて」なんでしょうね。ディテールを描いていくと分厚くて読みづらい本になるので、そこはもう描かない、という判断をしたのかなと思います。なお、ラストのほう、「過ちは繰返しませぬから」の部分、アメリカ人だったら、なるほど、と思って読むでしょうけど、日本人ならミスリードに気づくんじゃないかな・・・と感じました。でも、みなさんの感想を聞くと、わたしが疑り深すぎるのかな・・・。今のままでいいのかも、と思い直しました。

西山:これはディベートではありませんよね。p19からp20にかけて「ディスカッション」と説明しています。「どちらかといえば、ディベートに近いものになるかもしれないな」とは書いてあります。私は自分ではディベートをやったことはありませんが、中学の国語で積極的に取り組んでいる教師もいましたが、自分の意見とは関係なく賛成反対の役割で議論するのが、私にはどうしても好きになれません。でも、これはそうじゃない。まず自分の考えがあって、そこから議論しているので、共感して読みました。原爆に限らず、原爆、太平洋戦争、いろんな事実関係をイロハから、啓蒙的に書いて伝えている。すごいなと思いました。赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)が天皇の戦争責任について、アメリカの高校に通う日本人の少女がひとり矢面に立たされる話だったように記憶しています。並べて読み直すと何か見えてくるのかも知れないなと思います。p57「反対意見を主張するときには、まず、相手の意見のどの部分に反対するのか、ポイントをはっきり示してから反論に取りかかること。/学校で習ったこの教えを守って、私は主張を始めた」というところに、感心というかうらやましいというか、反省させられたというか・・・。あと、〇〇系〇〇人とか、単純に「〇〇人」と国籍で人をくくれない様を見せてくれているのもいいなぁと思った点でした。

サンザシ:ディベートについて今ちょっと調べてみたんですけど、大統領候補が討論したりするのもディベートですよね。そっちは広義のディベートで、狭義のディベートが、今西山さんがおっしゃった教育現場で使われているもので、賛成・反対の説得力を競い合う競技を指すみたいですよ。

さららん:でも、この本の中のは、ディベートじゃないと言ってますね。

レジーナ:中学のディベートの時間では、基本的に肯定派と反対派に分かれるけど、自分の意見は反対だとしても肯定派として話してもいいし、自由に選んでいいことになっていました。

ネズミ:昔、友だちがESSでディベートをやっているのを見ると、参加者は賛成と反対の両方の論を用意しておいて、くじを引いてどちらの側かを決めていました。

サンザシ:それだと考える訓練にはなっても、自分の意見を言う練習にはならないんじゃない?

西山:かえって隠れ蓑になってしまう。

さららん:教育で使うディベートというのは、もしかしたら、アメリカから伝わってきたのかもしれませんね。

ネズミ:ESSでディベートやってた人たちは論が立つようになって、外交官になったりしてますよ。

サンザシ:欧米だと、でたらめな論理でも堂々と自己主張する人もいるので、敢えて別の視点に立ってみるというのも必要なんだと思いますけど、日本はもっと自分の意見を言える練習をしたほうがいいんじゃないかな。

さららん:この本には、アメリカに住んでいる作者の実感がこもっていますよね。国籍で人をくくるのではなく、ひとりひとりに光を当てて考え、取り上げています。物事の多面性を見る入口として、こういう本は必要。

ネズミ:この本は、アメリカのことを学べる感じがしました。原爆のアメリカでの捉え方の話をアーサー・ビナードがするのを聞いたことがありますが、本当なんだなあと。でも、英語の論理をそのまま日本語にしたような会話文には、かなり違和感がありました。たとえばp27「まあまあ、スコット。今はそれくらいにしておかないか。そのつづきは討論会の会場で正々堂々と」とか。わざとつっかかるように書いたのかな。だとすると、この表紙にひかれて手にとった中学生は、すっと入れるのかなと心配になりました。8人の同じような年齢の人物を書きわけるのは大変なので、チャレンジングだと思いますが。あと、内容について、これは書かないのかなと思ったのは被曝のこと。放射能で土地や物が汚染されて被曝したり、あとあとまで病気の危険を負ったりといったことは、反対の理由になるのではないかと思うんですが。

サンザシ:もう一つ。ダリウスというアフリカ系の人が、自分たちは抑圧される一方の人間だから「ほんとうに罪のない人間というカテゴリーに入ると思う」って言うんですけど、ちょっとノーテンキすぎるように思いました。

ネズミ:最初の方は、罪がないかあるかという話になっているので、そういう意見が出たんじゃないかな。

レジーナ:私もおもしろく読みました。真珠湾攻撃は宣戦布告するはずだったのに、大使館の対応の遅れで不意打ちになったとは知りませんでした。「日本には、国民が一丸となって戦うという法律があったのだから、罪のない市民が犠牲になったとはいえない」と言う中国系のエミリー、「有色人種の土地にばかり核兵器が使われたのは、人種差別だ」と説くジャスミン、アメリカで差別されてきた黒人の視点から、原爆投下を非難するダリウスなど、多様なルーツをもつ高校生が、それぞれの視点から語っていておもしろかったです。口調が、ひと昔まえの翻訳ものや外国のテレビ番組のテロップみたいで、それは少し気になりました。p107「とんでもない!」「とびきり楽しい午後を過ごしてね」とか、p126「いまいましい!」とか。翻訳物は文体で敬遠されるって言われているのに。意図的にこういう口調にしたのかもしれませんが。

サンザシ:小手鞠さんが若い頃に読んだ翻訳小説がこういう口調だったのかしら?

ネズミ:やっぱりわざとかも。

西山:舞台が日本じゃないっていうことをはっきりさせたいから、こうしたんじゃない?

鏡文字:だとしたら、すごい技術ですね。

レジーナ:でも、あえてそうする必要はあるのでしょうか。翻訳ものでも、今はなるべく自然な文章にしますよね。そうじゃないと、読まれないので。

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エーデルワイス(メール参加):今年度の「マイベスト」になりました。感動でいっぱいです。物語としてもぐいぐいひっぱってくれるので、あっという間に読み終えていました。中高生に是非読んでほしいですね。国、人種、戦争、あらゆる困難な問題もこうして解決できたらいいですね。

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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フィリップ・フーズ『ナチスに挑戦した少年たち』

ナチスに挑戦した少年たち

ネズミ:デンマークのこうした事実を知らなかったので、そういう意味では興味深かったです。少年たちがあまりにも無謀なことをするのでドキドキしましたが、著者がインタビューした時点で生きて話しているので大丈夫だろうと。ただ、聞き書き部分と地の文が区別しにくく、物語のような文章のおもしろさ、わくわくする感じはあまりありませんでした。ノンフィクションを読み慣れないからか、読みにくいところや、実際にどういうことかよくわからない箇所が多少ありました。

西山:とにかく少年たちがあまりにも無謀。最初の写真の何人かは亡くなるかもしれないとずっとはらはらして読みました。クヌーズの語りとそうでない部分は、縦線を入れて形上は区別してますけれど、文体が同じだから、かなりわかりにくかったです。「カギ十字」という名称の方がなじんでいるのに、「逆卍(ぎゃくまんじ)」というのは、矢印を書き込んだ抵抗の落書きを視覚的にも説明するためでしょうか。違和感がはありました。それにしても、なんでこんなに無事だったんだろう……。金髪碧眼のアーリア人だったから? などとちょっと皮肉っぽく見てしまいました。たとえば、p154の並んで撮られた写真など、私の目にはヒットラー・ユーゲントの少年たちと風貌的には一緒に映ります。ところで、ドラ・ド・ヨングの『あらしの前』『あらしのあと』(吉野源三郎訳 岩波書店)では、オランダが早々に降伏したことは、国民が死なずにすんだということで否定的ではなかったと記憶しているのですが、実際のところどういう感じだったのでしょう。怒りつづける若者たち、という点ではYA文学として共感して読めるとも思いました。別の場所、時代だったら彼らが次々とやらかすことは、ハックやトムや、たくさんの児童文学作品の中のエネルギーに満ちたいたずらをする子ども像ともとれる・・・とはいっても、やっぱり命がかかりすぎていて、複雑な思いで読みました。そういう意味では新鮮でした。

サンザシ:私も、クヌーズが話している部分と地の文の区別がもう少しはっきりするといいな、と思いました。たとえばクヌーズの部分はですます調にするとか、何か工夫があったらよかったのに。クヌーズの部分は始まりの箇所は名前が書いてありますが、終わりはちょっとした印だけなので、そこに注意していないと、あれ?となってしまいます。それと、この少年たちは、ナチスの犯罪についてわかっているわけではなく、自分の国が侵略されたから破壊活動を始めるんですね。それに書きぶりが、戦争に行って敵を殺すのとあまり変わらないところもあって、同じ「敵をやっつけろ」というレベルじゃないかと私は思ってしまったんです。

さららん:私もそこは気になった。

サンザシ:少年だから上っ調子なのはしょうがないとしても、この作品が新しい戦争反対文学だとはなかなか思えなかったんですね。銃が暴発する場面など、戦争ごっこみたいだし。落ち着かない気持ちを抱えながらの読書になってしまいました。訳は、p34の「クヌーズ大」は「大クヌーズ」のほうが普通なのでは? フォークソングという言葉が出てきますが、この言葉を聞くと、私はどうしてもアメリカのプロテストソングを思い浮かべてしまうので、ちょっと違うのかなあと思ったり。あとp125の4行目の「相手」は、これでいいのかな? p189の収監されている部屋の鉄格子を切る場面は、私だけかもしれないけど、実際にどうやったのかよくわかりませんでした。

コアラ:p192の写真を見てもよくわからないですよね。

サンザシ:そういうところまでわかると、もっと臨場感が出るのに。細かいところですが、p240に「練り歯みがきが容器からぴゅっと出てくるようにしたらどうだ」とありますが、今の子どもは容器からぴゅっと出てくるのしか知らないから、よくわからないと思います。p246「頭を撃ちぬいた」は、射殺した人の頭を、とどめをさすために打ち抜いたのか自分の頭を撃ちぬいたのか、言葉を補った方がいいかと思いました。

コアラ:まず、本のつくりが変わっていてちょっと読みにくかったです。地の文があって、黒い線で区切られた注釈が入って、さらにクヌーズ本人が話す形式の文章も挟まっていて、断片的な感じがして最初は戸惑いました。内容としては、デンマークの状況や抵抗運動のことは知らなかったので、そういう面ではおもしろかったです。ただ、少年たちの破壊活動は、読んでいてあまりいい気持ちはしませんでした。ここまでやるか、という感じで。それでも、少年たちの行動が、あきらめていた大人や他の子どもたちが立ち上がるきっかけや刺激になったということで、こういうことがあったというのは、知っておいていい話だと思いました。

ハル:こういう少年たちがいたということを私も知らなかったので、タイトルを読んでわくわくしました。でも、本の中身からは、それ以上のものは得られなかったかなぁと思います。少年たちがどうやって武器を盗んだかとか、どうやって破壊活動を行ったかとか、そういうことを知りたいわけではないですし。記録として必要な本だと思いますが、子どもの本とするなら、題材が題材なだけに、本のつくり自体、もう少し配慮や工夫があってもいいのかもしれません。ノンフィクションがいいのか、小説がいいのかということも含めて考えたほうがいいのかも。キャプションも、もうちょっとていねいに教えてほしかったです。

鏡文字:彼らに直接関係する写真と、そうでないのが混在しているのでちょっと戸惑いますね。この本は、いろいろ考えさせられました。でも、おもしろいかっていうと、そうでもないな、というのが正直なところです。特に、前半が退屈でした。子どものごっこ遊びめいているのに、けっこうヘビーで、それが読んでいてきつかったです。ギャングっぽい、というか。ナチスというものを絶対悪として置いてますよね。悪の自明性というのか、そのことに寄りかかった作品だと感じました。もっと問いがほしい。それから、結局暴力なのか、という思いがどうしても拭えなくて。絶対的な非暴力という考えもある中で、彼らの暴力性をどうとらえたらいいのだろうと、考え込みました。レジスタンスを否定するわけじゃないけど、これでよかったんでしょうか。もう一つ、カールの遺書を読んで、ああ、戦時中の日本の若者と変わらないではないか、と思いました。デンマークにこういうことがあったと知ることができた、という点で、読んで無駄だったとは思いませんでしたが。あとがきに「無鉄砲さがおそろしくなってしまう」という言葉があったことにちょっとほっとしました。

さららん:読んでいて、どこかすわりの悪さを感じました。無抵抗で占領されたデンマークの大人たちに反発して、ナチスへのレジスタンスを始めた少年たち。骨のある子たちだと思ういっぽうで、「こんな活動をしていたら、いつか君たち、敵の誰かを殺しちゃうよ」と思いました。だから誰も殺さないうちに逮捕されて、少しほっとしたんです。戦争という暴力に対するレジスタンスは、良いことなのかもしれないけれど、つきつめれば暴力性は同じ。主人公たちが敵の武器を奪い始めたあたりから、暴力で悪をやっつけることの危うさが気になりました。戦争を描いた他国の作品でも、戦後まもなく出たものでは、しばしばレジスタンスに協力する子どもが一種の英雄として登場します。権力への抵抗そのものは大事な価値観。でも「レジスタンスをしているオレたちは善」というスタンスのノンフィクションを、子どもは今もカッコいいと思って読むんでしょうか?

ネズミ:みなさんの話を聞いているうちに、こういうふうにふりまわされて、よくわからないけどあれこれやってしまうというのも、戦時を生きる子どもの悲劇のひとつか、という気がしてきました。

サンザシ:でも、子どもがこの本を読んでそこまっでくみ取れるでしょうか?

鏡文字:そこを読み取ってほしいなら、そういう書き方が必要ですよね。現状だと、「やったぜ」という書き方ですから。

さららん:そういえばドイツの隣国、オランダの歴史を読んだことがあります。ナチスが侵攻するやいなや、政府と国王一家はロンドンに亡命。ユダヤ人の強制連行に、市民が連帯してストライキをするなど、デンマークの大人たちよりはがんばる人たちが多かったようですね。

サンザシ:ロイス・ローリーの『ふたりの星』(講談社/童話館出版)は、デンマークの市民や子どもが、ナチスの目を盗んでユダヤ人をスウェーデンに逃がすという設定でしたね。7000人くらいは同じようにして逃がしたらしいので、デンマークにもがんばる人たちがいたようですよ。

レジーナ:サンディー・トクスヴィグの『ヒットラーのカナリヤ』(小峰書店)も同じようなシチュエーションだったと思います。

さららん:知らないことばっかりだった、という意味では、とてもおもしろい本。

レジーナ:レジスタンスというと、まずフランスを思いだしますが、似たような状況でたくさんの人が亡くなっていますよね。この子たちが無事だったのは、少年だったから? 政府の姿勢が違うから? 西山さんがおっしゃるように、金髪碧眼だから? 人を傷つけかねないことをしているというのは、そうなのですが、今の日本に、ここまで行動力のある若者はいるでしょうか。それを考えると、大人から見ると無鉄砲だったり、考えが足りなかったりしても、ナチスに抵抗しない大人をふがいなく感じてアクションを起こす姿は、今の子どもたちに刺激をあたえると思います。

マリンゴ:デンマークが戦争中にどういう状況だったのかよく知らなくて、スウェーデンと似たような感じだったのかな、と思っていたのですが、この本でいろいろな事実を知って、とても興味深くて、引っ張られるように勢いよく読了しました。少年たちのやっていることは、今の日本ならただの不良というか、破壊行為です。だから、読んでいて後味は決してよくない。ただ、だからこそ戦争というものが、いかに破滅的で何も生み出さないものであるか、ということを改めて感じました。このヒーローたちの後日談が、必ずしも幸せではないところもリアルでした。おとなの文学で、こういう少年たちを取り上げるほうが読み応えがあるかも。児童文学だと、どうしても「このヒーローたち、すごいよね」という方向に行くので。ちょっとせつないですけれど、でも「その後」を知ることができてよかったです。

西山:p142、これはなんですか? イメージ写真?

さららん:レジスタンス博物館に展示されていたものでは?

西山:ああ、なるほど。しかし、それならそうとキャプションを付けてくれないと、いつだれが撮ったのかとひっかかりました。まさかとは思いつつ、戦争中にこんな武器の記念写真撮ってたの?と一瞬考えました。さっき言い忘れていました。p174の最後、罪を軽くしようとする弁護士を全く無視して、同じ証言を繰り返す、言うこと聞かないにもほどがある様子は一瞬笑えました。でも、殺されるかもしれないという恐怖感、危機感のなさに、やっぱり複雑な気分になったところです。

サンザシ:デンマークの少年だから生意気なことも言っても殺されないけど、ドイツの白バラの人たちは、どんどん殺されて行きますよね。クヌーズたちは「どうせたいしたことにはならないさ」と、多寡をくくっていられたということなのかな。

西山:これだけのことをして無事な話は初めて読みました。

サンザシ:グループの中にはユダヤ人の少年もいて、とっても危ないんじゃないかとはらはらしましたけど。

ネズミ:疑問に思った箇所を思い出しました。p88の4行目、「クヌーズとイェンスは、チャーチルクラブのことを家族からかくすのに大変な苦労をしていた」とあるのに、2つ先の文は「ただ、秘密がばれないようにするのは、いくつかの点で、そうむずかしくはなかった」となっています。最初の「大変な苦労をしていた」というのは、「なんとしても家族に知られまいとしていた」というようなことでしょうか。気になりました。

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エーデルワイス(メール参加):題名は『ナチスに挑戦した少年たち』ですが、その中心はクヌーズなんですね。時代背景、作者とクヌーズとの出会い、交流、クヌーズ自身の証言、当時の写真の数々。読んでいくとあれこれ散乱していて、落ち着かなくなりました。まだあどけない15,6歳の少年たちはデンマーク政府に抗議を込めてレジスタンスを始めます。若さゆえの正義感ですね。その後捕まって刑務所へ。その後遺症で生涯悩まされます。クヌーズの晩年の写真は、いいお顔ですね。好きな美術の仕事を得てよかった。比較的背が高く金髪、青い目が多いデンマーク人にヒトラーが理想人種をみたというのは、やりきれません。この本、読書感想文の課題本にいいですね。書きやすいと思いました。

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2018年11月 テーマ:不思議な道連れ

日付 2018年11月30日
参加者 アンヌ、鏡文字、コアラ、さららん、すあま、しじみ71個分、西山、ネズミ、ハリネズミ、マリンゴ、レジーナ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 不思議な道連れ

読んだ本:

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ライナー・チムニク『熊とにんげん』

熊とにんげん

マリンゴ:普段、YAなど長めのものを選んで読むことが多いので、こういう短くていい本を紹介してもらえてよかったと思っています。イラストがとても素敵。この絵のおかげで、世界にぐっと入りやすくなりました。24歳のときに書いた作品とは思えないです。もっと老成した作家の作品かと。不条理があっても、時にはひとりぼっちでも前を向いて生きていく、という内容は、大人にもぜひ届いたらいいのにと思います。今だからこそ読んでよかった。子どものころはこういうヒリヒリする本は苦手でした。1か所だけ気になったのは、p54「いく百いく千の小さいくもが巣をはり、田園に魔法をかける季節がきた」の季節が秋だということ。蜘蛛が巣をはりまくるのは春から夏で、秋は弱い蜘蛛が淘汰されて強い蜘蛛だけが生き残るイメージがあるので、外国の蜘蛛は生態が違うのかな、と。ファンタジックな物語なので、事実に沿う必要はもちろんないんですけどね。

西山:イラストが好きです。ものすごくしっかりしたデッサン(p4の熊とか)と、デフォルメしたユーモラスな線(p8など笑ってしまった)と、かなり好きです。切なさ、人間の根源的な寂しさというのは、幼いながらに抱えるもので、今にして思えば、「幸せな王子」や「泣いた赤鬼」でくり返し泣いていたのは、ある気持ち(うっすら切ない、とか)を掬い取ってくれていたのかもしれないと思います。子どもの時、この物語に出会っていたら、私にとって大事な1冊になっていたかもしれない、と思います。

ネズミ:物語の太い線があるわけではありませんが、熊とおじさんの静かな生が描かれていて、惹きつけられました。子どものときに読んだら、なんだか分かんない、と思ったかもしれませんが、サン=テグジュペリの『星の王子さま』がそうだったように、どこか気になって、後でまた手に取るような本になったのではないかと。p5におじさんの「とくべつなこと」が書かれていますが、それが、「熊のことばがわかること、心根のいいこと、それから七つのまりでお手玉ができること」と、ごくごく普通のことなんですね。一大スペクタクルのような、目を奪う事件が起きないところがいい。生きていく手触りというか、素敵だなと思う箇所がいっぱいありました。ときどき読み返してみたくなる、普遍的なもののある作品。こういう物語も子どものそばにあるといいですね。読者対象は小学校低・中学年と書いてありますね。

ハリネズミ:低学年は無理じゃないかな。

レジーナ:人が生きるというのがどういうことなのかを、静かに、自由に考えさせる本です。「ひと呼吸に三歩の歩み」など、リズミカルで品のある文章がすばらしくて、日記に書き写しちゃいました。文と、素朴で味わい深い絵とが合わさって、読み終えたあと、一遍の美しい詩を読んだような、しばし角笛の音を聞いていたような気になりました。子どものときに読んだら、ちょっと難しくても、文章に惹かれたと思います。

さららん:生きることの厳しいルールと悲しさが描かれています。私も小さい時「泣いた赤鬼」とか「幸せの王子」とか妙に好きだったんですね。「ごんぎつね」は残酷で嫌だったんですけど。自分が最初に童話を書くとしたら、こういうのを書きたかったけど、書けない自分に失望してきました。好きなところはいろいろあるけれど、たぶん一番好きなのは人間と熊の愛情が描かれている点かと。熊はおじさんを愛し、熊の仲間のところに戻っても、また人間のところに戻ってしまいますね。求めても求められないものを求めて、振り子のような二者の心の揺れが繰り返される静かな物語だと思いました。

鏡文字:絵もいいですが、全体的にすごくきれいな本ですね。絵の配置や余白の量、手書きっぽい文字など、本当に美しい本だと思いました。もし、子どものときに読んでいたら、よくわからないところがあっても、なんかずっと気になって好きになった本かもしれません。ただ、おじさんのパフォーマンスを、お手玉と記されると、どうしても日本のお手玉が浮かんでしまいました。

ハリネズミ:上田さんが最初に訳されたのが1982年ですから、ジャグリングという言葉はまだ日本では一般的ではなかったんだと思います。

鏡文字:神さまと友だちって、最強ですね

ハリネズミ:素朴でシンプルな人って、神さまとお友だちなんじゃないですか。

すあま:ずっと読まずにきてしまっていたので、よい機会となりました。よく復刊してくれました。文庫だと絵が小さくなってしまうので、やはりこのサイズがよいと思います。子ども時代に読むと、すごく好きになって大事な1冊になる、という可能性のある本だと思います。紹介しないと手に取ってもらえないかもしれないので、読んであげれば自分でも読んでみたいと思うのではないでしょうか。タイトルの『熊とにんげん』が、子どもには手に取りにくいかもしれません。かといって『熊とおじさん』でもないし・・・。

ハリネズミ:そこは原題がLeuteだから、おじさんじゃないですね。

すあま:でも、日本語版ではタイトルも変えたりするじゃないですか。

ハリネズミ:おじさんに限定していないんだと思います。だから「にんげん」じゃないと。

すあま:平仮名だから、少しやわらかい感じもしますね。派手な絵のにぎやかな本が多い中、こういう静かな本も読んでほしいです。

コアラ:私が子どもだったら、どう読んだだろうか、とまず思いました。子どもの頃は、冒険ものが好きだったので、自分からは手に取らなかったかもしれませんが、もし読んだら、たぶん、よくは分からないけれども何か気になる本になったと思います。大人になってから読んだ方が、私にはしっくりくる本でした。原著の初版が1954年ということですが、ちょっと古い感じが、かえって目立っていいと思いました。いろんなものが含まれている作品ですよね。人間の一生や、人間の手で自然の状態から引き離された動物のこと、動物の幸せや、人とのふれあい。子どもが読んでも何か心に残るのではないでしょうか。

アンヌ:生きてこの本に出会えてよかったと思える1冊です。この本を読むと、犬とか無口な友人とかと一緒に、山や月や海の向こうに耳を澄ませていたときを思い出します。おじさんがロシア語やフランス語を知っているのは、様々な国の国境近くまでさまよっているからでしょうね。それで、「ドゥダ」というのはどこかの言葉で「ジプシー」の意味かなと思って調べてみましたが分からなくて、これは苗字でしょうか? その後に「ロマ」という言葉が出てくるから「ジプシー」とも違いますよね。

ハリネズミ:この家族の苗字じゃないでしょうか。

しじみ71個分:ウィキペディア情報ですが、ポルトガル、ブラジル、スロバキア、ルーマニア出身でDudaの姓を持つ人がいると確認できました。)

さららん:「ロマ」も、昔は「ジプシー」と訳されていましたね。

アンヌ:本の中に書かれた楽譜を実際に弾いてみると確かに角笛のようだったり、クマがせがんだ「お話」はどんなのだろうとか思いを馳せたり、読み直すたびに魅力が深まって行く感じがしています。

ネズミ:熊がおじさんのふくらはぎをひっかいてお話をせがむところとかいいですよね。

しじみ71個分:大変におもしろい本でした。ほんの数行で一気に物語の世界に引きずりこまれました。すべての言葉が美しく、胸にしみて、まるで詩のようです。また、ブックデザインがいい! 余白が多くて視覚的に白が効いていますね。このデザインはすごいです。絵も素晴らしいです。お話もシンプルで、民話のような書かれ方をしていますが、すべての表現が胸にぐっと迫りました。おじさんは流浪の民で、定住の人々の共同体の周縁にいて、熊も熊の共同体から外れた周縁にいて、それぞれの社会に定着できないふたり組みの、社会からちょっと離れた、孤独な中での強い結びつきが描かれていると思って読みました。マレビトの寂しさとでも言いましょうか・・・。また、この物語の中に描かれる、民話とか寓話に通底する暴力性も好きです。犬だけは我慢ならないと、追ってくる犬を叩き殺すという場面にも表れていますが、生を見つめるとそこには残酷な暴力もあるわけで、それをきちんと描いているところに迫力を感じますし、静かな物語の中に激しいドラマチックさをもたらしています。熊とおじさんに張り合って、ドゥダの女たちが裸で踊るというくだりも、挿絵のおもしろさも加わってプリミティブな、強いエロスの力を感じます。暴力も性も「生」に直結していますから、そこを若いチムニクが描いたというところがすごい。

レジーナ:私はそこでアマテラスの話を思い出しました。

ハリネズミ:さっき「幸せな王子」とか、「泣いた赤鬼」が話に出てきましたが、この作品は、そういうのとはぜんぜん違うと思います。生きるってどういうことなのかという視点の深さがが違うんじゃないかな。甘ったるい話ではないし、そこはかとない寂しさというだけではないすごさが、この本にはあります。p77でヨショーという人がこう言っています。「熊はみんな森で生まれるんだよ。でもね、ときどき人間がやってきて、ほら穴の前のしげみにかくれてね、夕方親熊が川へおりていったすきに、穴にしのびこんで子熊をぬすむんだ。そして鼻に鉄の輪をはめてくさりにつなぐ。そのくさりを高くつりあげる。子熊は痛くてたまらないから、あと足でつま先立ちになる。そうやって、二本足で歩くことをしこむのさ。二本足で歩けるようになると、こんどは、熱い鉄板の上を歩かせる。熊は足の裏がやけついちゃたいへんだから、かた足ずつとびあがる。そのとき、音楽を聞かせるんだ。こうしておどりをおぼえさせる。しばらくすると熊は、音楽が鳴りだすと、足をあげなきゃやけどをすると思って、おどりだすというわけさ」と。その後で熊が、おじさんはそんな人じゃなかったというので、子どもの読者はほっとするわけですが、おとなになって読むと、おじさんは直接手を下しはしなかったかもしれないけど、そういうふうに訓練された熊がいたからこそ暮らしが成り立っていたと思って、ぞくっとするわけです。単に深い愛情などという言葉ではすまされなくなってくる。普通子どもの本だと、そこまで書きませんが、チムニクはそこまで書いてしまう。年齢が高くなって読んだほうが、いろいろと考えるでしょうね。それと、この本の翻訳は、これで完璧という気がしています。上田真而子さん、すごい、と。それに、この本にはユーモアもありますね。p27の「おっと、演歌師をわすれていました。そう、演歌師もいましたよ」なんて、どうして手書き風の文字にしてるのかわかりませんが、なんとなくおかしいじゃないですか。p51の渡り鳥の絵も。チムニクの本の中では、私はこれがいちばん好きです。

レジーナ:p56の手書きの部分もおもしろいですよ。丁寧につくられた本ですよね。

西山:補足します。さっき「泣いた赤鬼」とか「幸せの王子」を出しましたが、同じような物語と思っているわけではないんです。もし、幼いころ、こちらに出会っていたら、私が「泣いた赤鬼」にすくいとってもらっていた感情のようなものを、もっと深く受け止めてくれていたのではないか、子どもの頃出会いたかったな、という意味です。心の居場所になってくれたかな、と。

ハリネズミ:なにかがわかる本というより、心の中に種のようなものが残る本なんでしょうね。

しじみ71個分:熊の口輪について一言言いたいです。口輪は、熊が人間に飼いならされた証として描かれていて、人間による残虐な調教の果てに付けられたものです。おじさんは熊をつないだりはしないけれど、口輪は外さなかったですよね。熊の調教を誰がやったかは書いていないので、違う人かもしれないし、おじさんかもしれない。熊は、口輪のせいで熊の群れから排除されもするので、非常に重要な象徴的な意味を持っていて、それは熊と人間の明らかな境界なのですが、でも、それを越えた結びつきが描かれているところが非常に深いと思います。熊は口輪を外して、熊の群れに帰属できるようになるけれど、おじさんの角笛だけは首から下げたままでおじさんとのつながりを持ち続けますよね。人間でもありますよね、そういう関係、なんというか暴力を受けたのに離れられない共依存とか…違うか…?

ハリネズミ:「共依存」だと、お互いに好きというのとは違いますよね。

しじみ71個分:そうなんですよね。熊と人間との間には深くて大きな溝があるはずなのに、熊とおじさんは互いに大好きなんです。たぶん人間一般は好きじゃないだろうけどおじさんは好き、なのかな。(子どもも好きですね。)ただ、いい話というだけでなくて、シンプルなのによく読むと実はとても複雑な構造になっていて、いろいろなことが幾層にも重なって描かれているのではないかと感じます。何回読んでも如何様にも深く読めるんですね。

ルパン(遅れて参加):いい話だと思いました。熊おじさんの名前が出てこないところが好き。ラストがちょっと切ないところも。初めて読みましたが、懐かしい気持ちになるお話でした。

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エーデルワイス(メール参加):詩のような文章と、魅力的な絵。作者と訳者は1930年生まれの同い年なんですね。熊おじさんのできる三つが、とてもとても尊いことに思えます。熊に芸を仕込む為に、まず洞穴から小熊を盗む。鉄の鎖をつけ引っ張り、二本足で立たせる。熱い鉄板に乗せダンスを覚えさせる。これらのことはきっと事実で、なんて残酷なことだろうと思いました。

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ディオン・レナード『ファインディング・ゴビ』

ファインディング ゴビ

さららん:犬のゴビの視点が出てくるノンフィクションで、主人公のディオンと一緒に走っている気持ちになりました。読みやすかったです。ノンフィクションだけれどフィクションの部分もあり、読んだことのないタイプの本でした。ウルムチを始め、文化の違う知らない土地を旅行する楽しさがあります。ゴビは見つかるのかな、と、砂漠の中の一粒の砂を探すような気持ちになり、ハラハラしました。クラウドファンディングという現代の手法を使ったら、普通ではできないことができることが、子どもたちにも実例として分かります。よい中国人たちに助けられて、主人公はゴビを見つけた一方で、目立つ外国人として尾行されたというエピソードでは中国のこわさも感じました。

レジーナ:実際にあった出来事の重みがあり、それをうまく物語にしています。マラソンを走り抜いたあと犬は連れて帰れないことがわかり、ようやく一緒に暮らせると思ったら今度は犬が行方不明になるという展開に、引きこまれました。p120の「いやはや、かわいい犬ですなあ」など、せりふはところどころ不自然に感じました。

ネズミ:ノンフィクションだと気づかずに読み進み、p53の犬の写真を見て、「あれっ」と思い、作者と登場人物が同じ名前なのに気づいて、「ああ、ノンフィクションなのか」と。(帯に「奇跡の実話」とあるのを、他の参加者が見せる。)なるほどー。なので、途中でとまどいました。犬好きの人は好きなのかもしれませんが、ここまでして犬を連れて帰るかなと思ってしまいました。また、中国でゴビがいなくなって、探しに行きますが、中国は中国の論理があるだろうに、西洋人の勝手な印象で中国をとらえているようなところが引っかかりました。言葉が分からなければ、そりゃあ得体の知れない感じがしてしまうだろうなと。誤解もあるだろうし。あと、地図がほしかったです。

西山:帯をちゃんと見ないで、ノンフィクションだと思わずに読み始めて、先ほどネズミさんがおっしゃったのと全く同じタイミングで、同じように気がついた口です。活字のフォントを変えながら、犬の話を入れていくというやり方ですが、p7の5行目「小犬はすっかり落ちついて、のっぽさんといっしょに走った」とありますので、犬の一人称というわけではない。なんだか作りがピンとこないなぁと、最初は読みにくかったです。でもそのうち、ヒヤヒヤしながら読めるようになりました。タイトルからして、ゴビ砂漠でいなくなった小犬を探す物語かと思いきや、ウルトラマラソンは本の半ばで終わってしまったのに、まだまだ後が長い。びっくりでしたね。これは、物語の長さが物理的に分かる紙の本だからこそのドキドキだったと思います。えーまだ何か起こるの?と翻弄されたのが楽しい読書となりました。ノンフィクションだから仕方ないのですが、p147の、あのゴビを隠しもせずエレベーターに乗るところ、迂闊すぎますよね。私、登場人物の迂闊さが生み出すスリルにはストレスを感じるんです。ちょっとイライラしましたが、実話なんですよねぇ。

鏡文字:一般書の『ゴビ〜僕と125キロを走った、奇跡の犬』(ディオンレナード著 夏目大訳 ハーパーコリンズ・ジャパン)を先に読みました。あすなろ版は、子ども向けに編集されたものの翻訳ですが、なぜ、同時期に出たんでしょうね。でも、あすなろ版もコードは一般書ですけど。

マリンゴ:あすなろ書房は、中学生以上向けのYAは、すべて一般書コードだと聞いたことがありますね。

鏡文字:ハーパーコリンズ版の方は、ディオンさんの生い立ちなどにも触れています。父親が亡くなった時のこと、母親のこと、奥さんとの出会い、ウルトラマラソンをはじめた経緯が書いてあって、そっちを先に読んでしまうと、こっちは、どうしてもダイジェスト版のように感じてしまいました。

マリンゴ:一気に勢いよく読めました。ただ、気になるところも多かったです。私は元々、ウルトラマラソンやアドベンチャーレースをテレビで観戦するのが大好きなんですけど、景色とかレースの熱量とか、そういった描写がもう少し読みたかったので、物足りなさを感じました。もっとも、レースが物語のすべてではないので、ページを多く割くことができなかったのでしょうけど。本文は、人間の目線と犬の目線が交互になっていますが、ノンフィクションであるからには、犬の目線はいらなかったように思います。人間が知り得ないこと、気づかなかったことを犬が語ってこそ、視点を切り替える意味があると思うので。あと、この作者の、アジア人に対する不信感を随所に感じました。特に、ホテルに犬を連れて入ってやったぜ!と出し抜いたことに喜んでいるシーンは、共感できませんでした。ホテルがどうしても犬を受け入れられないというのは、この地方の文化であって、やはり尊重すべきかと。違反するにしても、もっとこっそり「申し訳ない」という感じだったら、理解できたのですけれど。あと、一般向けの本には書いてあるのかもしれませんが、こちらの児童書版では、ディオンの仕事がどんなものなのか、そういう部分が一切描かれていないのが残念でした。

ハリネズミ:ディオンとゴビの2つの視点で書かれているのは、私はおもしろかったです。ディオンは最初は「別に飼い主じゃないし」とか、「しかもいびきをかく犬だし」とか、「勝手についてきただけだし」と思っているんですが、犬のほうは最初からディオンを気に入っています。2つの視点があることによって、双方の気持ちの差が出ていて、それがだんだんにお互い離れがたくなっていく過程がうまく描かれていると思います。ウルトラマラソンの苛酷さは知らなかったのですが、その部分はサバイバル物語のように読めますね。ノンフィクションならもっと写真があったらいいのに、と思いました。YouTubeを見るといっぱい映像があるから、入れようと思えばいくらでも入れられたのに、と思ったんです。それに、ゴビは足の短い小さな犬でちょこまか走っていて、ディオンさんはひょろっと背の高い人で大股で走っているので、写真があればその対比のおもしろさもよくわかるのに、と。契約上の制限があったのでしょうか? ウルムチは新疆ウィグル自治区の首都ですよね。ウィグルの人たちは中国政府に抑圧されていますが、それについてはこの本は一切触れていませんね。そこを思うと、犬好きの私でも「人間が大変なのに犬かよ」と思ってしまいました。まあ、ゴビの捜索に中国人もかかわっているし、中国政府の尾行もついていたみたいだし、これからハリウッド映画にしてまた中国でロケしなくちゃならないとすると、政治的なことは書けないのかもしれませんが。

しじみ71個分:表紙の犬の絵があまり可愛くないなぁと初めは思ったのですが、主人公と一緒にレースを走る様子を読んでいる途中から、可愛く思えてきて、犬に感情移入して読みました。犬の視点で表現する箇所は、フォントを変えてありますが、一人称で書かれていたり、行動を客観的にト書き風に書かれているところもあったりで、ちょっと中途半端でした。文筆が専門じゃない人か書いたからか、と後で納得しましたが。表現が淡々としているところは好感が持てました。ウルムチは、中国でも北京や上海とは異なるし、政治的にも微妙だし、おそらく英語も都市部より通じにくいでしょうし、ノンフィクションだから西洋人の不安な視点そのままで描かれているんだなと理解しました。また、おもしろかったのは、ゴビ発見の知らせを受けて写真を見た主人公はゴビではないと思ったのに、友人が絶対ゴビだから確認しに行くように促した点です。フィクションだったら逆に、ほかの誰もが違うと言っても、主人公だけは自分の犬だと分かる、となるのでは? 都合の悪いところも脚色しないで、正直に書いているところがおもしろかったです。クラウドファンディングで捜索費用を集めるとか、中国内でインターネットを使う際には気を遣うとか、お話の筋以外でもいろいろおもしろい情報が得られました。また、主人公が犬を探すために会社が休みをくれるなんていうのも日本では考えにくいなと、物語とは別なところで感心しました。

アンヌ:私も実話とは知らずに読み始めたので、この小さい犬が岩場を身軽に走る姿や、主人公がただ競争するのではなく、過酷な自然の中で助け合いながらマラソンに参加している姿がとても新鮮で、前半はおもしろく読みました。でも、ホテルに犬を連れ込むシーンとか、所々に相手の国を尊重していない言動が見られて、後半は、素直にイギリスへ犬を連れ帰る冒険の物語とは読めませんでした。この本は子ども向きに書き直したものだそうですが、それにしては、説明不足の点が多いと思います。そこらへんが、何か奥歯にものが挟まったような感じがします。

コアラ:私はおもしろかったです。カバーの犬は、私は可愛いと思いましたが、p53に実物のゴビの写真があって、口元が黒くてモサモサしていて、カバーの絵よりもユニークな顔つきですよね。でもこの大きな目でじっと見つめられると、虜になってしまうんでしょうね。犬目線の文章は、ちょっとちゃちな感じがしました。子どもに身近に感じてもらいたくて、こういう文章を入れたんだろうなと思いました。イギリスに呼び寄せるのにクラウドファンディングで費用を集めたり、中国ではだんだん話が大きくなって、スパイ映画のような感じになったりと、ハラハラさせられたけれど、ハッピーエンドになってよかった。これが作り事でなくノンフィクションだというところに読む価値があるように思いました。

すあま:私も、ゴビの写真が出てきて、初めてノンフィクションだと気づきました。また、出だしに「お嬢ちゃん」と呼んでいることから雌犬なのか、と思いましたが唐突な感じもしました。ウルトラマラソンのことは知らなかったので、読み進めながら競技について知っていく、という感じでしたが、もう少し説明がほしかったと思います。また、地図もあれば良かったのに。後半、ゴビを探して連れて帰るまでが長いので、ちょっと飽きてしまいました。また、ホテルに犬を入れるとその後は誰も泊まらなくなる、と言われているのに、ルールを守らずに連れ込むのはどうかと思いました。

鏡文字:先ほど言ったように、一般書を先に読んだので、特にゴビ視点に違和感がありました。行方不明中の真相は人間には分からないけれど、ゴビ自身は分かっているのだから、ゴビ視点を入れるなら語ってほしいと思ってしまいます。もちろんノンフィクションなのでそれはできないわけですが。子どもが読むために、安易に犬視点を入れちゃった、という印象がありました。ところで、犬は見てすぐに、雄雌のどちらか分かるのでしょか?

ハリネズミ:わかりますよ。毛がとても長い犬以外はね。

鏡文字:犬好きのハリネズミさんから「犬かよ」との発言があったので、安心して言いますが、たかが犬1匹のためにここまでするかと思って、いささかうんざりしました。マラソンや駅伝を見るのは好きですが、過酷なウルトラマラソンについての描写も、読んでいて少し疲れました。それから、少しおかしな箇所があるな、と。p63に「妻がどう反応するか読めずに不安」とあるのに、次のページで「イエスというのがわかっていた」と書いてあります。また「ウルムチのような小さな町」とありますが、ウルムチは、人口135万の中国西部最大の都市です。ちなみに一般書の方には大きな町という記述があったかと思います。p106の「携帯電話がバイブした」という言葉にもひっかかりました。あと、西洋的な視点という何人かの方の意見に私も同意します。たしかに、中国はいろいろ矛盾を抱えた国だとは思いますが。

ルパン(遅れて参加):私はあまり感情移入できませんでした。犬を飼っていたことはあるんですが・・・いくら過酷なレースをともにしたとはいえ、犬1匹のためにここまでやらなければならない理由が伝わってきませんでした。ニュラリはゴビを押し付けられたうえに悪者にされて気の毒でした。

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エーデルワイス(メール参加):ノンフィクションで興味深く読みました。ゴビ砂漠の250kmを7日間で走るなんて、極限状態での自分が試されるレースですね。そこになぜ、かわいい犬が迷いこむのかが、よくわかりませんでした。ゴビ側から見た文章がしばしば出てきますが、どこからやってきたのか、行方不明のときはどうしていたのか、誘拐だったのか、なども語ってほしくなります。それは無理なのですが、だとすると、ゴビの気持ちをあらわす文章はいらないかと思いました。ゴビが中国を出るまでが、こんなに大変だとは知りませんでした。フィリピンから飼い猫を連れ帰った知り合いがいるので聞いてみたところ、猫はスムーズに連れ出せたそうです。犬は狂犬病などがあるから移動が難しいのでしょうね。

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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泉田もと『旅のお供はしゃれこうべ』

旅のお供はしゃれこうべ

アンヌ:たいへん好きな作品でとてもおもしろく読みました。時代ものは武士の話が多いので、商人という設定もよかった。気になった点だけを言いますと、最後に助佐が人間の姿で別れを告げに来るところは、霊となってあの世に行く途中だから、わざわざ十六夜に変身させてもらわなくてもよかったと思います。幽霊が最後に昔の姿で別れを告げにくる話はよくありますから。後半は前半に比べて少しすっきりしていません。おもしろいので続き物にして、お春の話は次の巻にしてもよかったかもしれません。

しじみ71個分:私もおもしろいと思いました。人情の温かみもあって、いい話だなと。しゃれこうべと旅をするというのも変わっていますし、そのしゃれこうべがしゃべるという設定もおもしろかったです。ひ弱な商家の跡取り息子が旅の途中で様々な事件を体験して成長していく物語ですが、父親から受け取りに行ってほしいと言われた茶碗が道中でお供に盗まれ、それを探す謎解き要素もあり、読む人を飽きさせない展開になっていますね。しゃれこうべの助佐が最後に人の姿を現すのも感動的なのですが、やはり、ちょっとお茶の間の時代劇的な安易さもあって、そこは少し引っかかるところでした。例えば、助佐が、妹のお春のことが気にかかって成仏できないでいたのを主人公が解決して成仏させるあたりとか、終わりの読めてしまう分かりやすさがあるような・・・・・・。

ハリネズミ:気の弱い意気地なしの惣一郎が、しゃれこうべの言うことを聞いて体験を重ねるうちに成長していくという流れで、講談みたいなストーリー展開だなと思いました。表紙や裏表紙からもエンタメ作品だということはわかるので、リアリティにこだわらなくてもいいんでしょうけど、父親が自分の焼いた茶碗を息子の初出張として遠いところまで息子に取りに行かせ、それが盗まれるという展開はリアルではないと思いました。得意先なら、ほかのを買い付けに行ったついでにもらってくるのが普通でしょう? そこは、お約束ごととしてスルーするのであれば、後で惣一郎が怒ったりする場面を詳しく書いて読者の注意を惹きつけない方がいいのに、とも思いました。作者のデビュー作を書き直した作品ということで、応援したいなと思っています。

マリンゴ:ユニークな作品で、とてもおもしろく読みました。賞に応募した時のタイトルは『野ざらし語り』なんですね。このタイトルだったら、受ける印象がまったく違っただろうなぁ、と興味深かったです。内容はポップで元気なので、『旅のお供はしゃれこうべ』というタイトルのほうが、イメージに合っていてよかったとは思いますが、野ざらし語りという言葉の響きがとてもいいので少し残念な気も。ストーリーで唯一気になったのは、しゃれこうべのスペックですね。p15に「ひょこひょこ近づいてくる」とあるように、多少自分で動けるけど、遠くまでは行けない。何ができて何ができないのか、その境目って明確になっていたかな? 私、読み逃してしまったかしら……。

西山:ちょっと転がれるんだから、転がり続けたらどこでも行けそうな、とか?

レジーナ:転がって長距離を移動するのは、難しくないですか。坂とか障害物とかあるでしょうし。

西山:私は、この本を読んだのは2度目だったんですけど、前に好感を持って読んだ記憶はあるのですが、まぁすっかり忘れていて、2017年に同じ画家の表紙で出ている『化けて貸します!レンタルショップ八文字屋』を続編かと思って今回読んでしまい・・・。ラストを忘れている証拠ですよね、続きだと思ってしまうって。さらに、恥をさらせば、この2冊目も読んだことを忘れてました。失礼な話ですみません。ジュニア冒険小説大賞は、竜頭蛇尾の印象を得るものが多かったのですけど、この作品はバランスよくまとまっていると思います。たとえばp79に出てくる「目かづら」。「江戸で百目の米吉っていう男がそういう目かづらをつけて歯磨き粉を売り歩いてずいぶんと評判になってたんだ」とありますが、そういう江戸の風俗はきっと正しい情報なのだろうなぁ、この作者は江戸の風俗に詳しくて、それが作品の強みになっているのだろうなと思いました。(検索してみたら、「コトバンク」に出て来ました!)エンタメ系の作品はシリーズにしがちですけれど、シリーズにしようと思えばできる作りなのに、しっかり1冊で完結させているところが潔くて好感を持ちます。

ネズミ:パパッと読みました。おもしろく読んだけれど、エンタメだからか、特に印象に残らなかった感じです。成長物語だと思いますが、説明的に感じたところ、説教臭く感じたところがちょこちょこありました。最後に助佐が人間になって出てくるところや、p162からあとの惣一郎が若旦那になるところは、ややとってつけたようで、なくてもよかった気がました。その前の冒険で十分楽しめたので。

レジーナ:物語づくりがうまいなと思いました。おもしろかったです。しゃれこうべと旅をするという設定に引き込まれて一気に読みました。表紙の絵はちょっと古いような……。気弱な感じに描いたのでしょうが、顔立ちが女の子みたいでもあるし。

さららん:タイトルを見たときに、「うーん、どうなんだろう?」って思ったんですけど、読み始めたら設定がすごくおもしろい。江戸の浅草の商売をはじめ、知らないことを知ることができました。最後、キツネの十六夜が生きているから、しゃれこうべの助佐と別れたあとの惣一郎の喪失感はやわらいでいますね。甘っちょろいところもあるけれど、日本ならではのエンタメ物語です。父親が焼き物の本当の価値を惣一郎に知らせず、惣一郎の言葉が誤解を生んだ結果、出来心で盗んでしまった奉公人の市蔵が救われなくて、そこだけちょっとかわいそうでした。

鏡文字:表紙に画家の名前がないんですね。絵が少ないからでしょうか。すべて確認したわけではないですが、この賞(ジュニア冒険小説大賞)の受賞作シリーズは、ふつう表紙に名前があります。このグレードでエンタメのつくりとしては珍しいと思いました。物語はおもしろく読みました。西山さん同様、ジュニア冒険小説大賞は、「うーん」と、思う受賞作も結構ありますが、これは読みやすかったし、よくまとまっていると思いました。この人の文章は、読点が少ないですね。見せ物をする場面で、しゃれこうべに話させますが、観客は怖がったりはしてません。どう認識していたのでしょうか。

しじみ71個分:たしかに驚きはするけど怖がってはいないですね。

ハリネズミ:自然の中にしゃれこうべがごろんとあったら怖いけど、見世物は最初から怖いものを見せるという趣向なので、観客の好奇心が勝っているのでは?

鏡文字:基本的に惣一郎の視点だけど、視点がずれるところがあるのが残念。p89には市蔵の視点が出てきます。それから、大人になってからのシーンはありますが、その後、惣一郎はどう生きたのでしょうか。助左にとらわれて生きているのかも、と。結婚したのか、子がいるのか等気になりました。途中では春と結ばれるのかなと思ったのですが。あと、十六夜がスーパーすぎるのが、ちょっと気になりました。

すあま:読みやすく、さーっと読んでしまいました。おもしろかったのですが、時間が経つと気になることも出てきました。惣一郎は13歳ということでしたが、人前で話をするところなど、もう少し年が上のイメージでした。時代が古いので、早くおとなになるのかもしれませんが。盗まれた茶碗に何か意味があるかと思っていたら、父親の作ったもので価値がなかったのでちょっとがっかりしました。終わり方としては、しゃれこうべが成仏して終わりでもよかったかも。大人になった惣一郎の部分はなくてもよかったのではないかと思いました。

コアラ:おもしろく読みました。最後までユーモラスで、少しほろりとさせて、うまくまとめていると思います。しゃれこうべが話すというアイディアが、まずおもしろい。ただ、それだけではストーリーにならないところを、こういうストーリーに作り上げたのは見事だと思います。登場人物の中では、父親の人物像が少しつかみにくかったです。あと、主人公が最初は弱気だったのに、急にアイディアマンになったりするところは、ちょっと作者の都合を感じました。デビュー作ということですが、安定感がありますよね。

アンヌ:最後に十六夜と語り合うところで、続編があるのではと思い期待しています。

すあま:しゃれこうべとはいいコンビになっていたので、成仏しなければ続編も書けたのではないかと思いました。

ハリネズミ:子どもの本だと、そこは成仏させるんだと思うな。次の巻があるとしたら、やっぱり十六夜との話でしょうか。

ルパン(遅れて参加):楽しかったです。今日話し合う3冊のなかでいちばんおもしろかった。ユーモアのセンスもいいし、話もスピーディーで現代的。好きなテイストの物語です。

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エーデルワイス(メール参加):おもしろく読んで、よくまとまっていると思いました。日本の昔話「うたう骸骨」からヒントを得て書かれたのでしょうか?

 

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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遠藤敏明『木でつくろう手でつくろう』

木でつくろう手でつくろう

『木でつくろう手でつくろう』をおすすめします。

原発事故以来、「ふるさと」という歌が流行っています。福島には美しい場所がたくさんあり、私の友人をふくめ有機農業で頑張っていた人もたくさんいました。私自身はあまりにも情緒に流れる気がして「ふるさと」はうたいませんが、「うさぎ追いしかの山」や「小鮒釣りしかの川」が放射性物質という毒に穢されてしまったという事実からは、これからも目を背けないでいようと思います。尖閣諸島や竹島は日本の領土だと主張するのもけっこうですが、それよりずっと広い範囲の「領土」を私たちは原発事故で失ってしまったのではないでしょうか。

と、そんなことを思いつつ年が明けたので、同じことをもっとポジティブな視点から考えようと思い、今回はこの本を推薦することにしました。

この本で語られているのは「木」です。木材の知識や、簡単にできる木工もいろいろ紹介されています。でも、スウェーデンで暮らした体験をもつ著者は、木だけではなくいろいろな素材に愛情を注ぎ、理解し、時間をかけてそれと対話しながら何かをつくりあげる、という生き方そのものが大切なのだと語りかけてきます。手作りのものにかける時間は、能率や効率という視点から見れば無駄かもしれません。それに、そんなふうにしてつくったものは、GNPやGDPには貢献しないかもしれません。けれど、と私は思うのです。さまざまな電化製品やファストフードをはじめ便利漬けになってしまっている私たちは今、もう一度自然のものの「手触り」や自分で工夫してつくる力を取り戻す必要があるのではないかと。

(「トーハン週報」Monthly YA 2013年2月号掲載)

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ジェーン・サトクリフ文 ジョン・シェリー絵『石の巨人〜ミケランジェロのダビデ像』

石の巨人〜ミケランジェロのダビデ像

『石の巨人〜ミケランジェロのダビデ像』をおすすめします。

今回取り上げるのは、ミケランジェロを主人公にした絵本です。

ミケランジェロのダビデ像は、あちこちにレプリカがあるので、見たことがある方も多いでしょう。2012年には島根県奥出雲町にもレプリカが設置され、「裸はけしからん。パンツをはかせろ」と言い出す人も出て話題になりましたね。

この絵本は、フィレンツェの街にはクリーム色の大きな大理石が40年も置きっぱなりにされていたこと、この石を使ってダビデ像をつくることを依頼された何人かの彫刻家が、断ったり途中で彫るのを辞めてしまったことなど、前史をまず語っています。

やがて(実際は1501年)とうとうこの仕事を引き受けたミケランジェロは、周りに木の囲いを張りめぐらせて秘密裏に仕事を進めるのですが、彼には石の中に埋もれている形が早くから見えていたようです。それから実際に彫像ができて広場前に設置されるまでの苦労が絵と文章であらわされています。

ルビがふってあるので、小学生から読めますが、若い人が読んでもなかなかおもしろい。天才ミケランジェロの人となりや、この石像が生まれたいきさつがわかります。

文章を書いたサトクリフはアメリカ人で、この絵本で初めて日本の読者にお目見えしました。イギリス人であるシェリーの絵は、『ジャックと豆の木』(福音館書店)や、「チャーリー・ボーンの冒険」シリーズの挿絵でもおなじみの、あたたかくて楽しい雰囲気をもっているのですが、ダビデ像だけは大変リアルに描いてあります。ミケランジェロへのオマージュとい意味もこめられているのでしょうか。

(「トーハン週報」Monthly YA 2013年12月9・16日合併号掲載)

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ポール・モーシャー『あたしが乗った列車は進む』

あたしが乗った列車は進む

『あたしが乗った列車は進む』をおすすめします。

少女が一人、長距離列車に乗っている。壊れた腕時計をはめ、「ライダー(乗客)」というカードを首からぶら下げて。隣にすわっているのはドロシア。親戚でも友だちでもない。少女がちゃんと目的地につけるように見張っているのだ。少女は、『太陽はかがやいている』という題の小さな本をお守りのように持っているけれど、自分は太陽とは縁遠い存在だと思っている。少女は、助けはいらないし自力でなんとかしようと気を張っているが、自分が人から傷つけられるような弱い人間だということにむかついてもいる。

物語は、少女がこれまでのことを回想する過去の流れと、列車の中で出会った人々との交流を描く現在の流れの、両方で進んで行く。回想場面には、ドラッグ中毒の母親、ニコチン中毒の祖母などが登場し、ネグレクトされた少女が、愛をほとんど感じられない暮らしをしてきたことがわかってくる。そのせいで少女は自己肯定感を持てず、ウソもつくし万引きもする。少女は、知っている身内をすべて失って、会ったこともない大おじさんの住むシカゴに向かう途中なのだ。

でも現在の流れの中では、旅の間に少女は少しずつ変わっていく。軽食カウンターで働くニール、ドーナツをくれたり一緒にクロスワードパズルを楽しんだりするカルロス、ギンズバーグの詩集『吠える』を貸してくれる少年テンダーチャンクス、そしてじつは思慮のあるドロシアたちとの出会いが、少女に本来のかがやきを取り戻させてくれるのだ。少女は、「あたしは、自分で選んだふうにしかならない」と思えるようになり、これからの自分に希望をもちはじめる。最後のほうで、自分の存在を否定しようとする自分を映している鏡を壊す場面は、象徴的だ。

自分をなかなか好きになれない年頃の子どもたちにすすめたい。

(「トーハン週報」Monthly YA  2018年10月8日号掲載)

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ユベール・マンガレリ『おわりの雪』

おわりの雪

『おわりの雪』をおすすめします。

夏なのに雪? といぶかしむ方もおいでかもしれません。そう、暑いさなかに冬の本を読むのは、なかなかいいのです。想像力のおかげで少しは涼しくなったりして。

主人公の少年の父親は病気で寝たきりになっており、一家三人は、その父親の年金を頼りにくらしています。母親は、夜になるといつもこっそり出かけていきます。少年も、養老院で老人たちの散歩の介助をして少しばかりのお金をもらっています。時には、子ネコや老犬を「始末してほしい」と頼まれることもあります。つまりこの少年はまだ長い年月を生きてはいないのに、もう死のすぐそばにいるのです。

孤独な少年には、ほしいものがひとつだけあります。それは、古道具屋で売っているトビ。自由に空を飛び回れる翼を持ったトビのそばに腰をおろして、少年は時間を過ごします。そして、想像の中でつくりあげた話を父親にして聞かせるのです。

これは明るい元気な物語ではなく、暗い静かな物語で、少年の周囲にも白い雪や冬枯れた風景が広がっています。父親が死を迎えるということはあるにせよ、外側で大きな事件が起こるわけではありません。でも、すぐれた描写によって、その瞬間その瞬間を「生きている」この繊細な少年の思いが、とてもリアルに読む者にも伝わってくるのです。そういう力をもった文章、そして翻訳です。

著者のユベール・マンガレリは、おとなの本と子どもの本のボーダーにあるような作品を書いているフランスの作家です。

(「トーハン週報」Monthly YA 2013年8月12日号掲載)

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村中李衣『チャーシューの月』

チャーシューの月

『チャーシューの月』をおすすめします。

私がつきあっている子ども学科の学生は、保育士の資格を得るために、いろいろな施設にも実習に出かけていきます。知的障碍者の施設や母子生活支援施設や児童養護施設に行くことになった学生たちは、最初は不安を抱えています。「対応できるのか」「暗い場所なんじゃないか」「手に負えないことが起こるんじゃないか」という心配をしているのです。でも実際に行ってみると、90%以上の学生が、生きることを基本を考えさせられるような大変いい体験をさせてもらい、顔つきもしっかりして帰ってきます。「楽しかった」と言う学生もたくさんいます。

でも、そういうところでの暮らしを内側から書いた作品はそう多くはありません。この作品の舞台は、あけぼの園という児童養護施設。ここで暮らして中学生になったばかりの美香が、物語の語り手です。ある日、そこに六歳の明希(あき)がやってきます。明希の父親も母親も生きているのですが、娘を育てることができないのです。

物語は美香と明希を中心に、まわりの子どもたち、職員たち、親たちを描いていきます。すてきなのは、子どもたちがハンデのある環境にもかかわらず、自分を大事にして成長していくこと。美香は最初、明希をふくめ他者をうざったいとしか思っていないのですが、やがて他者に手をさしのべるようになっていきます。もう一つすてきなのは、親をふくめだれかを悪者にしたりしないこと。作者は、おとなも変われるはずと思っているのかもしれません。

(「トーハン週報」Monthly YA  2013年4月8日号掲載)

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<子どもが素敵>

チャーシューの月って何でしょう? いったいどういうこと? 不思議に思う人もいるかもしれませんが、読んでいるうちにどんな心もようを表しているかわかってきます。

舞台はあけぼの園という児童養護施設。ここで暮らして中学生になったばかりの美香が、物語の語り手です。ある日、6歳の明希(あき)が、お父さんに連れられてあけぼの園にやってきます。明希は何か失敗するとすぐに「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返しますが、その一方、何でも写真に撮ったように記憶できるという特技ももっています。

美香は、優等生ではありません。いらいらしたり、むかついたり、突っ張ったりしています。「わたしたちに小さい子への思いやりをもてなんていってもムリな話だ。わたしたちが小さかったとき、いったいだれが思いやりをくれたっていうんだろ」と、反発もします。そりゃそうですよね。

美香は、最初は新入りの明希をうざったいと思います。でも、美香はよく見ているのです。それでいざというときは心配になって、どうしても「思いやって」しまうのです。美香より2歳年上の信也も同じです。つらい思いをしてきた体験があるからこその「思いやり」なのかもしれません。

施設の職員たちは、ダルマ園長を含めみんな善人面をするわけではなく、子どもたちにしょっちゅう悪態をつかれながら、そしておそらく限界を超えないことを自分に命じながら、公平に子どもたちを愛しています。でも、子どものほうでは「たった一人のわたしを見て」「たった一人のぼくを愛して」と叫んでいるのでしょう。そんな中で美香は自分を捨てることなく、場面場面で何かを自分で選び取って、成長していきます。そして、両親の間で引き裂かれていた明希も、本能的にでしょうか、母親に引き取られるのを拒否し、父親が迎えにくるまで待っていることを選び取ります。

地元の児童養護施設で、子どもたちと絵本の読み合いをしながら、さまざまな子どもの心もようと出会ってきた著者ならではの、熱い作品です。

(「子とともにゆう&ゆう」2013年3月号掲載)

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現代語で読むたけくらべ

現代語で読む たけくらべ

『現代語で読む たけくらべ』をおすすめします。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて・・・・・・」

思い返してみれば、私も原文で『たけくらべ』を読んだことがある。注釈付きの本だった。大門というのは吉原の門のことだとか、お歯黒どぶというのは、遊女が逃げないように遊郭のまわりにつくられたどぶだ、というような注が下の方に入っていた。原文をそのまま読んだだけでは意味がよくわからないので、目を原文から注へ、注から原文へと行ったり来たりさせながら読んだ。でも、そういう読み方ではなんとか意味を理解するのが精一杯で、文学作品として楽しむというところまではいかなかったのをおぼえている。

私は古典の現代語訳はもともとあまり好きではないのだが、今回本書を読んで、これもありだな、と思った。その昔原文を読んだときよりは、よほどおもしろく読めたからだ。

「ここから表通りを回っていけば、吉原遊郭の大門にある見返り柳までは遠い。しかし、吉原を囲む真っ黒などぶ川には、芸者を揚げて騒ぐ三階の灯りが手に取るように映っている。人力車の行き来はひっきりなしで、はかりしれないほどの吉原の繁盛ぶりが想像できる」というのが、本書の現代語訳。

ただ「訳者」も後書きで述べているように、原文のリズムや響きを味わうためには、本書を読んだ後でもいいから、ぜひ原文のほうにも触れてもらいたい。動画サイトにも朗読があるのだから。

(「トーハン週報」Monthly YA  2012年12月10・17日合併号掲載)

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ジャクリーン・ケリー『ダーウィンと出会った夏』

ダーウィンと出会った夏

『ダーウィンと出会った夏』をおすすめします。

舞台は1899年のテキサス。今とは違って、女の子が思い切って好きなことができる時代ではありません。11歳のコーリー(キャルパーニア)は、兄3人、弟3人のまん中にはさまれた唯一の女の子。同じ屋根の下には、古い小屋(かつての奴隷小屋)で実験三昧の日々を送る祖父も住んでいます。

親たちは、女の子は刺繡や料理がちゃんとできるようになって、年頃になれば社交界にデビューしなくてはならないと言いますが、コーリーの思いは別のところにあります。変わり者の祖父は、「実験室」で蒸留酒をつくろうとしていただけでなく、しょっちゅう自然の中へ出かけていき、ついてきた孫娘に、目に触れる生き物についていろいろな話をしてくれます。おかげでコーリーは博物学に興味しんしんなのです。

でもコーリーが自分らしい生き方を貫くのは、今よりずっと難しいことでした。各章の冒頭にはダーウィンの『種の起源』からの文章の抜粋があって、悩んでいるコーリーの背中を押してくれているようです。

祖父ばかりでなく、兄弟たちそれぞれのエピソードにもユーモアがあり、楽しく読めます。コーリーが祖父の話を聞いてどんどん科学的な見方を獲得していく過程も、リアルに書かれています。祖父がしてくれる話は単なる知識ではなく、人生体験に基づく味わい深い物語になっています。自然科学の分野ではあっても、こういう物語から入れば子どもたちは大いに興味をもつようになり、理科離れも食い止められるのではないでしょうか。

(「トーハン週報」Monthly YA  2011年10月14日号掲載)

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『さがしています』アーサー・ビナード/作 岡倉禎志/写真

さがしています

『さがしています』をおすすめします。

昨年の3月11日以降、子どもの本の作家たちからも、いろいろな作品が生まれてきました。でも、出版された作品の中に、世界に向けて推薦できるものは、なかなかありませんでした。もう少し心の中で熟成する時間が必要なのかもしれないなあ、と思っていたとき、この絵本にめぐりあいました。

この絵本でとりあげているのは、福島ではなく広島です。主人公は、広島平和記念資料館に所蔵されている品々です。でも、この品々が言葉を語りだすと、福島が見えてきます。そして、広島や長崎がまだ終わっていないことも、私たちが、この先どんな未来を創らなければならないのかも。

アルミの弁当箱、理髪店の時計、軍手、鉄瓶、眼鏡・・・・・・。そのうちのいくつかは、私も平和記念資料館で見た記憶があります。でも、ビナードさんは見ただけで終わらせず、物たちが発する声なき声に耳を傾け、想像し、考え、悩み、物たちと私たちをつなぐ詩を書いて、その物たちの背後にいる人たちの息づかいや、あのときピカドンによって断ち切られた生のぬくもりを、みごとに浮かび上がらせました。それだけではありません。ビナードさん独特の日本語の表現がいいのです。普通の平板な日本語とはひと味違うからこそ、右から左にするすると消えていかないで、読む人の胸に残ります。

私は、若い人たちを教える立場になって以来、絵本や児童文学で何ができるかを考えてきました。この絵本には、その答えの一つがあるのではないかと、いま思っています。

(「トーハン週報」Monthly YA  2012年10月8日号掲載)

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『声めぐり』齋藤陽道著

声めぐり

『声めぐり』をおすすめします。

思わず引き込まれて、ところどころ立ち止まって考えながらも、私は一気に最後まで読みました。著者は写真家であり、障害者プロレスのレスラーです。

最初に、耳がよく聞こえず、補聴器をつけての発音訓練に明け暮れていた幼い頃の辛い日々が語られますが、その後、ろう学校に入って手話が使えるようになり、著者は「音声言語ができてこそ一人前だという呪い」から解放されます。

「ろう学校の生活は、本当に楽しかった。もし、家の近くにろう学校がなかったらと思うと恐ろしくなる。何に対しても『早く終われ』と願うばかりだった過去。何に対しても終わりを一刻も早くと願う気持ちは、やがて自分の命を断つことに向けられていただろう。それはとてもリアルに想像できる未来だった」。

もう少し先には、手話についての、こんなすてきな文章もあります。

「行き交う人々の直線的な動きと比べると、手話の動きはまるくて球体的なので、とても目立つ。手話を見ようとして意識をそこに向けるとき、ひしめきあう雑踏が消えて、ともだちという存在一点へと収斂していく」。

著者は、しだいに手話だけでなく、体感できるものを「声」として捉えるようになります。写真も声だし、障害者プロレスも、相手とのコミュニケーションの手立てとしての声なのです。音声言語だけでなく、じつに多様な「声」が存在することが、読者にも伝わってきます。

それにしても本書の言葉は、一つ一つが心に響きます。それは、著者が本当に言いたいことを、自分の表現で語っているからなのでしょう。表面的な言葉ではなく、かといって斜に構えた言葉でもなく、統合された一つの身体からまっすぐに出てくる言葉が、ここにはあります。今、そのような言葉を発したり書いたりする人は少なくなり、出来合いの言葉を借りて語る人が多くなってきたことを思うと、本書の存在はとても貴重です。

(「トーハン週報」 Monthly YA 2018年12月10日号掲載)

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2018年09月 テーマ:私を変えた出会い

日付 2018年09月18日
参加者 アンヌ、オオバコ、カピバラ、コアラ、しじみ71個分、すあま、たぬき、西山、花散里、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、レジーナ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 私を変えた出会い

読んだ本:

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ジョン・ボイン『ヒトラーと暮らした少年』

ヒトラーと暮らした少年

カピバラ:純粋で無垢な少年の心情、周りの人々の人物描写が巧みで、次々と場所が変わるけれど情景描写もうまく、まるで映画を見ているようにおもしろかったです。後半、次第にヒトラーに心酔していくのですが、どんなところに惹かれたのかという部分が描き切れていないと思い、そこは少し物足りませんでした。だから唐突に変わっちゃった気がしました。最後にアンシェルと再会するところに希望が感じられてほっとしました。最初にアンシェルとの仲良しぶりがほほえましく描かれているところが、伏線としてここで生きてきます。物語として納得のできる終わり方でした。ベルクホーフは本当に美しいところだったようで、絵本作家ベーメルマンスの伝記にも、少年時代に暮らしたこの土地の美しさが出てきます。時々山の家にヒトラーが来て、人々が興奮する様子もありました。美しい場所だけに、そこで行われていることの恐ろしさが際立っており、その対比もうまいと思いました。

ハリネズミ:『九時の月』を読んでいる時と違って、翻訳にいらだつことなく、すーっと物語の中に入っていけました。文学作品は、こんなふうにていねいに訳してほしいと思います。原作もいいのでしょうが訳もいいので、登場人物がそれぞれ特徴をもった存在として浮かびあがってきます。ヒトラーはそんなに魅力的な人物ではないかもしれないけれど、ピエロはついつい惹きつけられて、間違った判断をしてしまうんですね。その怖さがリアルです。ピエロは孤独で、名前も変え、アイデンティティも失っている。そんなときに、ちょっと親切にしてくれのがみんなが崇拝している強くて偉い人だと、すっと取り込まれてしまう。子どもは、周囲の熱狂に左右されやすい、とも言えるのかもしれません。最後は希望も見えて、展開もおもしろく、子どもに手渡したいなと思いました。

コアラ:今回のテーマを聞いた時には、漠然といい出会いをイメージしていましたが、これは悪い出会いというか、恐ろしい出会いでした。読み進むについれて、主人公のピエロが、横柄で権力的に変化していくのが怖くなりました。7歳という年齢で、ヒトラーという、権力を持つ圧倒的な存在に出会って影響を受けていく恐ろしさを感じましたね。主人公に共感しながら読むというよりは、主人公を一歩引いた目で見るというか、少年が変化していくのを大人の目で読んだという感じですが、この本の対象年齢は何歳くらいでしょうか。本のCコードは0097となっていて一般向けなので、YA扱いでしょうか。最後のほうで、この本を書いたのがアンシェルだという展開になりますが、p280の後ろから3行目の「だが、もちろん、すぐに彼だとわかった。」の行のところから、主語がアンシェルの一人称になるところは、劇的でしたね。いい終わり方だったけれど、p282で、この本のテーマを全部言ってしまっているのが、ちょっと残念でした。読み取り方をまとめてくれているから、わかりやすいといえばわかりやすくなっているけれど、読者の自由な読み取りに委ねてもいいのではないかと思いました。

花散里:原書のタイトルには「ヒトラー」とは書かれていない。この日本語のタイトルでは、読む前から少年が出会ったのがヒトラーだったと解ってしまう。第1部の第5章ぐらいから読み進んでいって、その人物が「ヒトラー」なのではないかと思えるような場面の緊張感が削がれてしまっているのではないかと感じました。第2部からのヒトラーと出会ったことで性格が変わって行く様子は恐ろしいほどで叔母さんの死などは特に壮絶で一気に読ませます。同じ著者の『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)は結末が衝撃的で印象深かったのですが、この作品ではピエロが〈ピエロ〉に戻るエピローグまでを読んで救われる思いでした。ヒトラー死後の戦後までを、子どもたちはどのように読むだろうかと思いました。

アンヌ:タイトルを見て、ヒトラーと向き合うことになるんだなと思うとなかなか手が出ませんでした。過酷な孤児院生活の後、状況もわからないまま叔母に引き取られ、あっという間にヒトラーに取り込まれて行ってしまう。まあ、理解はできるのだけれど、釈然としませんでした。愛情をもって引き取ってくれたはずの叔母さんが、使命を持った二重生活を送っているから、ピエロと本当に話し合えなかったせいでしょうか。とにかく、最後のエピローグでアンシェルが出てきて、ほっとしました。

たぬき:タイトルと袖文句で、どういう本かわかっていまいます。なぜヒトラーにひかれたのか、だからこそこわいという見方もあるけれど、もっと子どもにわかるように書いてもいいのかと思います。

しじみ71個分:非常におもしろく読みました。フランスで孤児となった少年のアイデンティティが、ベルクホーフのヒトラーの山荘で家政婦として働くおばさんに引き取られ、ヒトラーと出会ってしまったことにより変貌していくさまが痛々しく、胸に刺さりました。ピエロのアイデンティティの喪失が、ペーターとドイツ風に呼ばれるようになり、父母がつけてくれた名前を奪われることや、自分の物として唯一持っていったケストナーの『エーミールと探偵たち』がいつのまにかどこかに無くなってしまって、代わりに『わが闘争』を含むヒトラーの書斎の本を読むようになっていくなど、いろいろ細かく描きこまれて、読み応え十分でした。また、おばさんのベアトリクスとか、それぞれの登場人物のキャラクターも明確に描かれていて、それぞれの役割がわかりやすいですし、料理人のエマがいい味を出していて魅力的です。メイドのヘルタは、最初は運転手のエルンストに懸想するような、軽い人物として描かれているのが、ヒトラーの死後、山荘を去るときには、ピーターに重々しい台詞を残して行くところが、急にりっぱな人間になったようで、おかしかったですが、戦後のピエロの魂の彷徨のきっかけにもなっていて、重みがありました。
子どもでも戦争の加害者になり、重い十字架を抱えてしまうという姿が描かれていますが、このピエロは、最初は間違いなく、第一次世界大戦の被害者です。父親が大戦後に心を病み、事故死し、働きずくめになった母親も死んで孤児になってしまいます。誰でも加害者にも被害者にも、簡単になり得るわけで。少年が力もなく、身寄りもなく、経済的にも困窮し、何もないところで強大な力にあこがれ、ヒトラーに自己を同一化していきますが、そのヒトラーという力へのあこがれは、常に恐怖に裏打ちされてもいるわけで、恐怖による支配としても描かれていました。なぜ人が戦争犯罪に加担していくかを考えさせられましたし、本当に読むと痛くて、胸にせまる物語でした。

オオバコ:『縞模様のパジャマの少年』は、作者も言っているように寓話として書かれているから、雪崩をうつようにエンディングに落ちていく迫力がありましたが、この本はもっとじっくりと描かれていて、より大きな物語の世界を創っています。序章と終章が円環のように結ばれている構成も、見事だと思いました。大変な作家ですね。心優しい、ケストナーを読んでいた少年がどんどん変わっていく有り様が恐ろしい。メイルストロムの大渦巻みたいに大きな力に吸いこまれていく人たちと、それに必死にあらがっている人たち。そんな群像に、現在の日本にも通じるものを感じました。だって、文書をなによりも大事にしている官僚たちが、平気で国会に提出する書類を差しかえたり、偽造したりするのって、身震いするほど恐ろしいと思いませんか? それと、良い意味でショックを受けたのは「加害者としての子ども」を描いているところです。戦時下の子どもは戦地に赴いて人を殺すこともないし、自分から戦争をはじめたわけでもない被害者であり、文学のなかでもそういうふうにしか描けないと思っていました。日本の創作児童文学も、圧倒的に被害者としての子どもを描いたものが多いですよね。中国に赴いた少年兵が主人公の乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』はありますが。でも、これほどドラマチックでなくてもピエロのような少年は日本にもいただろうし、こういう形で子どもたちの戦争を描くこともできるかもしれないと思いました。その点も、とても新鮮でした。原田さんの訳はいつもそうですが、今回も翻訳の上手さに圧倒されました。特に会話の訳が見事で、登場人物のそれぞれがありありと目に浮かび、生き生きと動いている。「まいった、まいった!」という感じでした。

レジーナ:主人公がヒトラーにひかれたのは、父親的な存在を求める気持ちからでしょう。無垢な少年が変わっていったという意見もありましたが、私はそうは思いませんでした。ピエロが特別、無垢なわけではなく、ふつうの子どもの純粋さをもち、成長してもその部分は残っていて、だからこそヒトラーに影響されたように見えました。p198でカタリーナにさとされても、「今のやりとりを記憶の中からとりのぞき、頭の中の別の場所に入れなおした」ように、良心がわずかに痛む瞬間はあっても、気づかないふりをしてやりすごします。以前読んだ本で、ドイツ人が、収容所から生還したユダヤ人に、「そんなことが起きていたなんてまったく知らなかった」と言い、「わたしたちはみんな気づいていたのだから、知らなかったなんて、ぜったいに言ってはいけない」と、奥さんに言われる場面がありました。p261のペテロとヘルタの会話で、そのシーンを思いだしました。ナチスがユダヤ人のまえに殺したのは、障がいのある人たちなので、アンシェルの耳が聞こえないことにも深い意味がありますね。場の雰囲気に流されるうちに、アンシェルや伯母やエルンストを切り捨てていくピエロにも、草花を愛するような優しい人だったのに、戦争で心が傷つき、暴力をふるうようになる父親にも、人間としての弱さがあり、それは私たちだれもがもっている弱さなのだと思います。p172で、エーファとフロライン・ブラウンと、表記が分かれているのですが、なにか意味はあるのでしょうか。

オオバコ:YAだから、原作のままに訳してもいいんじゃないかしら?

ハル:これは、ピエロが引き取られた先にいたのがたまたまヒトラーだったというだけで、ヒトラーに魅力があったということではなく、たとえば村長さんとか、そういった戦争に関係ない人だったとしても、権力があって、こわくて、ときどき優しくて、なんていう人の前に突然立たされたら、誰だってなびいてしまうんじゃないかと思います。戦争に限らず、学校や社会やいろんな日常で、いつのまにか強い力に染まっていた、という危険はいつもあると思います。純粋無垢であればあるほど。そうならないためにはしっかり勉強をしなければいけない。でも、その教育がすでに毒されていたら…?と、恐ろしくなりました。戦争が終わって、ピエロも自分の犯した罪を背負い、償いの日々を生きていかなければなりません。でも、そこに希望を見つけたような思いがしました。戦争があった(または、たとえばいじめの加害者になってしまった)。最悪だった。許されない。で終わるのではなく、過ちを認め、罪を背負い、償いながら生き続けることで、次の世代か、いつかの希望につながっていくんだなと思いました。

西山:希望とか絶望とかは考えませんでしたね。取り返しのつかなさをつきつけられて呆然とする感じ。ピエロの変質は不自然とは思いません。「力」にひかれていく様子がとてもわかる。近くにいる人たちをぴりぴりさせ、まわりの人間の生殺与奪をにぎっている総統と一緒に出掛けている自分を「羨望のまなざしで見るだろう」(p198)という場面、汽車の中で自分をいたぶったヒトラーユーゲントがその場にいたらどんなに驚き、恐れるだろうかと考えているだろうと、ピエロの高揚感が想像できてしまいました。権力のそばにいて得意に思う快感を理解してしまった瞬間、私もピエロと同じ側に立っているわけで、そういう意味でも実に怖い読書でした。

ハリネズミ:ピエロは、取り返しのつかないことをしてきたのですが、ぐるっと回って振り返ったときに、そこに自分を理解してくれるかもしれない友だちが確かにいる、というのは希望だと私は思ったんです。

マリンゴ:前作の『縞模様のパジャマの少年』は、あまりに衝撃的でした。後半、かなり力技になるんですけど、それに気づいたときはもう物語に引きずり込まれているんですよね。なので、今回の作品も期待したのですが、こちらのほうが早い段階から力技な感じがしました。決して、物語に入れなかったわけではないのですが、少し距離を置いて読みました。主人公が変わらなくて、まわりの人間たちが変わっていくのを観察する、という物語はよくありますが、主人公が変わっていってしまう、という展開になっているのはすごいと思います。変わっていって、そして自分がやってしまったことに気づく。幅広い世代に読んでもらえたらいいですね。今の日本でも、ネットなどを見ていると、大きな声に引きずられがちなように感じることがあります。この物語を、自分に置き換えて読んでもらえるといいのではないでしょうか。

オオバコ:これから主人公は自分の罪に向き合って、贖罪の人生を送っていく。そこに魂の救いがある……というところに、ちょっとほっとしました。

西山:『九時の月』でも、解説で、モデルになった女性が生きのびたことがわかってほっとしました。これもまた、一つの希望のある終わり方だと思います。

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エーデルワイス(メール参加):p261の「でもあんたは若い。まだ16なんだから、関わった罪と折り合いをつけていく時間はこの先たっぷりある。でも自分にむかって、ぼくは知らなかったとは絶対に言っちゃいけない。・・・それ以上に重い罪はないんだから」というヘルタの言葉が印象的でした。レニ・リーフェンシュタールも登場しますが、自伝を読んだり展覧会に行ったりしたことを思い出しました。『縞模様のパジャマの少年』と同様に映画になりそうな気もしますね。8月にNHKBS3でヒトラーを題材にした映画『ブラジルから来た少年』(1978年アメリカ・イギリス製作)を観ました。グレゴリー・ペックがメンゲレ博士を、ローレンス・オリビエがナチハンターの役を演じていました。サスペンス調でおもしろく、現代に警鐘を鳴らしていて、古さを感じませんでした。当時、この映画を観た人はどのくらいいたのでしょう? 地方でも今はマイナーな映画も上映されるようになったけれど、当時は上映されていなかったように思います。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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デボラ・エリス『九時の月』

九時の月

ルパン:読み終わって、おなかいっぱい、という感じでした。いろいろな意味で、濃かったです。まずはイランのことですが、15歳の子が死刑になるとか、それも、同性の子を好きになったから、というのは衝撃的でした。2代にわたって自分の子どもを見捨てる親の存在も。実在のモデルがいるとわかって、ほんとうにショッキングでした。イランの政情のことと同性愛の問題と、重いテーマがふたつあって、うまく絡み合っていると思いましたが、どちらが主軸のテーマなのだろうと考えながら読んでしまって、ちょっと感情移入しきれなかったところもありました。

アンヌ:革命後のイランについては漫画の『ペルセポリスI イランの少女マルジ』(マルジャン・サトラピ著 バジリコ)ぐらいしか読んだことがなくて、この作品で改めて革命防衛隊が学校や家庭の中にまで入り込んでくる生活に恐怖を感じました。空爆が行われている街で、王党派の人々を集めて毎日のようにパーティをする両親に反発する主人公。ユダヤ教のラビとも友人として語り合える学者の父親を持つサディーラ。普通なら反政府的な行動をとった娘の命を助けてもいいんじゃないかと思える両方の親がとる行動が衝撃的でした。宗教や社会が断罪する世界で、同性愛者が受ける過酷な状況には震え上がりました。冒頭のファリンが描く悪霊の物語が稚拙で入り込めない感じなのに、2人の恋の場面はとても繊細です。特に古都シーラーズで過ごす場面の描写はとても美しく、イランの古い文化の魅力を感じました。

花散里:ずっと読みたいと思っていた本で、読み終わったときには衝撃を受けました。ファリンがサディーラと出会ったことで変わるというストーリー展開は、まさに今回のテーマ通りですが、イランやイラクとの政治状勢、宗教のことなどがまだ充分に理解できていない世代の子どもたちは、どのように読むのでしょうか。爆撃が続き、死との隣り合わせのような日々の中で、親たちの開くパーティーを見つめる子どもなど、紛争が続く国で生きる人々のことを描いた作品を日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

コアラ:原書の書誌情報(コピーライト)が入っていないですよね。2章以降は章タイトルがないのも変な感じがしました。章番号の下のデザインはペルシア文字のようで興味を引きました。ネットで調べたら、「章」という意味のペルシア語にこのような文字が入っていて、いいデザインだなと思いました。イランというあまり馴染みのない世界が舞台なので、知らない世界を知るという点ではおもしろかったけれど、内容としては、ちょっと冷めた目で読んでしまいました。障害があればあるほど愛は燃え上がるよね、とか。サディーラは理想化されすぎという気がします。ただ同性愛というだけで死刑になる国があるということには、驚きました。問題提起という面では意味があるけれど、子どもが読んで、特に同性愛の傾向のある子どもが読んで勇気付けられるかな、というと、ちょっと暗すぎる内容だと思います。あと、物語に著者の考え方が現れているようなところがあって、例えばp92の7行目など、ちょっとついていけない感じがしました。気になったところは、訳者あとがきのp285の2行目、「イギリスのM16」となっていますが、これは「イギリスのMI6(エムアイシックス)」ですよね。

ハリネズミ:私は、訳のせいか、ファリンにあまり共感できなかったんです。最初の方で、ファリンがパーゴルへの復讐に凝り固まっているように取れてしまい、またこの訳だとアーマドをさんざんに利用しているようにとれます。p37やp45の訳も、アーマドをバカにしたような無神経な発言に取れるので、結末についても自業自得感が出てきてしまいます。また原文はもっとリズムのいい文章なのだと思いますが、もう少していねいに、細やかに訳さないと、メッセージだけが前面に出てマンガ的になってしまい、物語の中に入り込みにくくなります。ファリンがサディーラをどれだけ深く思っているかとか、サディーラの魅力を読者にも納得できるようにもう少し表現してほしかったです。でないと、一時の熱に浮かされてヒステリックになっているだけのようにもとれてしまうので。悪霊ハンターの物語も、この訳だととてもつまらないですね。

カピバラ:1988年のイランという日本の読者には遠い状況でありながら、前半は居場所がないと感じている十代の少女らしい心情が描かれて共感できると思います。紙に好きな人の名前を書く、お互いの秘密を打ち明け合う、離れていても毎晩9時に月を見る、というような、好きな人への溢れる思いが描かれ、相手が同性でも異性でも同じと思わせる描写が多くありました。後半は死と隣り合わせの緊迫した状況に、読者も緊張を強いられ、苦しくなります。最後はあまりにも理不尽でむごいのですが、実話をもとにしているので、今の日本の読者にも知っておいてほしいと思います。また、当時のイランの富裕層の考え方がよくわかりました。70年代後半にイギリスに行ったとき、イランの金持ちの子弟が大勢留学していて、首からさげたロケットには国王の写真、家には国王一家の写真を飾っていたのを思い出しました。ファリンの母親と同じ世代かなと思います。

マリンゴ:ラストが衝撃的でした。脱出できて、サディーラとは会えないのだろうなとは思いつつ、みんなとの再会のシーンを想像していたので、その斜め上を行くエンディングにびっくりしました。でも、アーメドの態度が徐々に変わってくる様子がうまく描写されているため、リアリティを感じて、うまいなと思いました。ここで終わる?というところで放り出されるわりに、読後感が悪くなかったのは、そのリアリティのおかげかもしれません。p121「戦争によって得たものはかえさなければならない」という部分が印象に残りました。文章に矛盾を感じる箇所がありました。

たぬき:日常の雰囲気や生活感が伝わるのはいいと思いました。基礎知識がないと理解しに口と思うので、巻末に説明をいれるとか、子どもにやさしい設計にしたほうがいいのではないでしょうか。

西山:帯に「あたしたち、悪いことしてない。ただ一緒にいたいだけだよ! LGBTとは、恋とは、愛とは。」とあって、一見恋愛小説として押し出しています。それは、ひとつの作戦だけど、違和感がありました。明日をも知れぬという状況下で、そこから目をそらして享楽的に暮らすファリンの両親の感覚には共感できません。そういう革命前の支配階級に近い富裕層への反発が、革命を支持したのだろうということも理解できるとも思いましたが、圧倒的に理不尽な暴力が伴っている原理主義革命にはとうてい共感できない。書き割り的にならないで、複雑な状況を割り切れないまま突きつけられて、そこに小説のおもしろさを感じました。複雑な状況がからまりあう中で、いろんな登場人物を見せています。いちばんショックだったのは、サディーラのお父さんが変わってしまうところでした。サディーラの家でラビや娘たちとお茶を飲みながら穏やかに詩編の言葉などを語り合う場面は印象的で、すごく知的で、教養のある感じの良い父親の印象だったのに、サディーラとファリンのことを知ったあとで娘を完全に拒絶しますよね。そこまで同性愛は受けいれられないものなのかと、愕然としました。ドキュメンタリー風に作られたイラン映画『人生タクシー』で禁止されている英米の映画DVDなどが闇で流通する様子とかできてきたのを思い出しました。この映画はおもしろかったので、機会がありましたら、ぜひ。

ハル:恋愛小説の部分も味わいながら読みましたけど…どうしてこの(性格がきつい感じの)ファリンにサディーラは惹かれたのかなと思っていたのですが、翻訳で人物の印象が変わっていたのかもしれないですね。それ以外の面では、女の子たちが、学ぶことで自我に目覚め、それが破滅につながったのだとしたら、本当に恐ろしいこと、あってはならないことだと思います。実話を元にした物語だということですが、自分を偽ってでも、生きてほしかった。そうしたら、いつか…ということもあったかもしれません。信念のために死を選ぶことをすばらしいとせず、読者は自分だったらどう生きるかを、考えてほしいなと思いました。ショックな結末で、中高生などの若い読者にはどうなのかなという気もしましたが、いまだにこういう社会もあるんだと知ることも必要だと思います。

レジーナ:表紙画がすてきですね。p198の「あなたを選ぶってことは、わたし自身を選ぶってこと」という一文は胸に響きました。ファリンは、刑務所で、自分は成績がいいから助けてもらえるはずだと考えます。全体を通して考え方が幼いので、この主人公には共感できませんでした。p119の「おまえなんか、無だ」をはじめ、訳文に違和感があり、ところどころひっかかりました。

オオバコ:この作者は、実際に取材したことを何故ノンフィクションではなくフィクションで書くのかと疑問に思っていましたが、来日したときの講演を聞いたとき、ノンフィクションでは実際に取材した人たちに危険が及ぶのでフィクションで書くと聞いて、目を開かされる思いがしました。今まさに起こっている、それくらい深刻な、命にかかわる現実を書きつづけている作家なんですね。この作品もフィクションというよりノンフィクションとして読みました。ですから、登場人物の言動や、物語の結末を、こうしたほうが良かったのにとか、こう書いてほしかったというのは、ちょっと的外れのような気がします。わたしも西山さんと同じように、この本はLGBTをテーマとしているというより、多様性を認めない国家体制や社会の恐怖を描いていると思ったし、読者もそんなふうに読んでくれたらいいなと思いました。女子高のロッカールームの様子や、明日どうなるかわからない日々を過ごす金持ちの奥様方や、アフガン難民の運転手のことなど、とてもおもしろく読みました。ただ、主人公がちっとも好きになれない、軽薄な女の子で、感情移入できなかったのが残念。これは、翻訳のせいじゃないかな。級長のパーゴルの言葉づかいも乱暴で汚いから、かえって滑稽な感じがしたし。せっかくの重みのある、大切な作品なので、もっとていねいに訳してほしかったと思います。

しじみ71個分:私はこの本を読んでどう受けとめたらいいかわかりませんでした。テーマの重点が、戦争にあるのか、文化多様性や差異にあるのか、LGBTにあるのか、人権問題なのか…。そもそも、厳しい境遇にある強い、新しい女性を描くなら、主人公のファリンが人物として魅力的である必要があると思うのですが、彼女がノートに書き綴る悪霊ハンターの話が、非常に表層的で、アメリカずれした感があり、まったくおもしろくないので、主人公に感情移入することができず、彼女の心情にそってお話を読み進めることができませんでした。主人公が魅力的ではないので、恋の相手となるサディーラと恋に落ちるさまが簡単すぎるように思えたし、思春期にありがちな、恋と憧憬の誤解とか、のぼせ上がりにしか読めませんでしたので、命をかけるほどの恋になるのか?とつい思ってしまいました。本の中の登場人物の心のひだが深く描かれていないと、読み手の心がついていかないものですね。同性愛に厳しい国であることは十分分かっているはずだろうに、ふたりの逢い引きも不用意すぎてすぐに見つかって、つかまってしまうというのもなんだか軽薄な感じを受けました。それと、カナダの人が書いたということに、微妙にひっかかっています。訳のせいなのかもしれませんが、今の世の中全体が、西洋的な価値観で動いていると私は日頃感じているのですが、西洋的な視点から見た物語の中で、この本を読んだ子どもたちが、イランは悪い国、人権を無視する文化的に遅れた国みたいに、簡単に思ってしまうのではないかと心配になりました。1980年代の物語として書かれていますが、体制派反体制派の反目の中で密告が常態化していることや、同性愛で死刑になるというような社会を支持するわけではもちろんないですが、その国の文化の成り立ちや、歴史的背景等に思いを致さないでそういった点ばかり強調してしまうと、子どもたちは偏った印象を持ってしまわないか、という心配が残りました。日本でも死刑はありますし、ほかの国でも同性愛が禁じられている国はあります。一方、物語の中でも、詩を吟じ合う場面などは、とても美しく、ユダヤ教のラビとの交流も描かれていてとてもよい部分があったので、非常にもったいない気がしました。

すあま:私は、この作者の他の作品も読んでいますが、これは読後感がよくなかったです。児童文学として書くなら、やはりラストは救いがあるもの、明るいものでなければと思います。悪霊の話で終わってしまい、落ち着かない気持ちのままになってしまいました。最後の4分の1が捕まってからのことで、だれが密告したのかもわからないままでつらい場面が多く、長く感じました。友だちを作ってこなかったファリンにとって、初めての友だちであるサディーラに夢中になるのは共感できましたが、それが恋愛感情とは思えませんた。また、パーゴルの言葉づかいがあまりにも乱暴で、違和感がありました。

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エーデルワイス(メール参加):イランにアメリカ文化(映画ビデオ)が入っていたり、戦争で爆撃を受けながらも金持ちはパーディを開いていたりすることに、驚きました。主人公のファリンが、裕福な暮らしや親のことを疎ましく思いながらも、学校の成績が優秀なことや名門を誇りに思っているところなどがよくわかりません。運転手と結婚させられたファリンがその後どうなったのかをもっと知りたいと思いました。両親は、娘の命は助けても、見捨てたのですね。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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茂木ちあき『空にむかってともだち宣言』(課題図書)

空にむかってともだち宣言

コアラ:読みやすかったです。内容がよくまとまっていて、ミャンマーのことも難民のことも子どもが読んでわかるようになっていますね。特に、難しい話になりがちな難民の説明について、男の子たちがナーミンをからかったという事件から急遽難民についての授業になるという展開は、うまいなと思いました。気になったところがいくつかあります。p14の8行目、「どおりで」は「どうりで」の間違いですよね。あとp36の挿絵で、あいりが男の子のように描かれていて、どの子があいりなのかパッと見てわかりませんでした。

花散里:こういう作品から外国のことを知ることができるので良いと思いました。今、日本のどこの地域の学校にも、外国から来た子どもたちが在籍しています。日本語がまだよく理解できていない子どもたちとのやり取り等が伝わってきますね。共感して読める子が多いのではないかと思います。

アンヌ:今の日本は実際に殆ど難民を受け入れていない状態なので、この一家がNGOのサポートを受けている難民だという設定が気になりました。給食の時の勇太のいじめは、あいりが暴力をふるいたくなるほどひどいので、この「難民を知る授業」で、どれほど理解できたのか疑問です。だから、先生がいうp72の「ありがとう、航平くん」は、皮肉に聞こえました。クラス全体でミャンマーの民族舞踊を踊るというところは、音楽や振りつけでその国を体で感じて子供たちも見ている親の方も楽しくミャンマーの文化を知ることができる、いい場面だと思います。少し疑問だったのはp117の「ハグとハイタッチ」。ハグはどれくらい日本語になっているんでしょう。

ルパン:さくっと読めました。ミャンマーのことをあまり知らなかったので勉強になりました。テーマありきという感じで、登場人物の子どもたちがそれに合わせて動かされている感はありましたが、あまり期待していなかったので、その割りには楽しめたということかもしれません。期待しなかった理由は、ひとえにタイトルです。読書会のテキストになっていなかったら、まずは手に取らなかっただろうと思います。子どもたちは手を出すんでしょうか…あ、課題図書だったんですか? なるほど。課題図書なら読むのかな。でも、これ、小学生が読んでおもしろいんでしょうか。

オオバコ:先日、「おもしろい……といわないと怒られそうな本がある」という発言を聞いて思わず笑ってしまいましたが、この本は「良い本……といわないと怒られそうな本」だと思いました。課題図書に選ばれたということですが、なぜ選ばれたのか、どんな感想文が出てくるのかすぐに分かってしまいそう。テーマだけで本を選んで感想文を書かせていいのかな? みなさんがおっしゃるとおり、小学生向けにサラッと書かれていて読みやすいけれど、物語としておもしろくない。社会科の、あるいは道徳の教科書みたいな書き方をしていますね。それでも、「難民」を取りあげているところに意味があるのかな・・・・・・と思って、ネットで作者のインタビュー記事を読んでみました。そうしたら「(ミャンマーから来て主人公のクラスに入った)ナーミンを、わたしは難民だとは書いていません」といっているのね。だから、作中で「難民とはなにか」を、主人公の母親の友だちが子どもたちに説明しているけれど、この本は「難民について書かれた物語」じゃないんですね。たしかに日本は難民申請をしてもほんの少数しか認められない、難民を受け入れないといっていい国。昨年も2万人申請したのに、認可されたのが20人だったと新聞に出ていました。そういう事情もあって、作者は前記のように述べたんでしょうけれど、そこのところをサラッと書き流してしまっていいものなの? それにミャンマーといえばロヒンギャを迫害して多くの難民がバングラデシュに流れこんでいるというニュースが海外のテレビ放送では毎日のように流されているし(日本ではほとんど報道されないけれど)、先日の朝日新聞の歌壇にも<アウンサンスーチーと今は呼びすてにしておこう・・・・・・>という歌が載っていたばかり。いったいナーミンのお父さんはアウンサンスーチーが政権を取ってから警察に捕まったの? それとも、軍政時代の話? サラッと書いてあるから、ますますモヤモヤしてきて、ひと言でいえば「みんな仲良し、みんな良い子」的な、のんきな物語だなというのが、率直な感想です。

レジーナ:日本で難民認定されるのは非常に難しく、この本でも、ナーミンの家族が難民だとは書いていなくて、それについてはぼかしてある感じがしました。p26で、ゴンさんも「いろいろと事情があるんだ」と言うだけで、あいりにきちんと説明しないですし。海外にルーツをもつ子どもは、言葉の問題を抱えているケースが多くあります。そんなにすぐに言葉もうまくならないそうです。p69で、ナーミンは自分の過去を流暢に語りだすのですが、たった数か月でこんなに話せるようになるのでしょうか。

ハル:たしかに、言葉の壁だったり、偏見だったり、実際にはこの本には描かれていないような苦労がもっとあるんだろうなとは思いましたが、物語全体をとおして、知らなかったこと、無知であることを攻めるのでははなく、知らなかったなら、これから学んで理解を深めようよ、と呼びかけるような、作者の姿勢に愛を感じました。給食の時間に男の子たちが悪ノリしてしまうシーンも「軽い気もちでいったいたずらが、思いがけず大さわぎになってしまい、とまどっているようにも見えた」(p61)り、先生も、二度とそういうことは言うな! とかその場で叱りつけそうなところを、そうせず、子どもたちに学ばせて考えさせる、そういう姿勢がよかったです。

西山:いま、みなさんが出している本を見てびっくりしたのですが、私、同じ作者の『お母さんの生まれた国』(新日本出版社)を読むんだと思い込んでました! 主人公の小学生が、カンボジア難民という母親の過去と向き合う物語ですが、こちらの方が、読みごたえはあります。『空に向かってともだち宣言』も出てすぐに読みましたが、申しわけないけれど、すっかり内容忘れています。移民や難民の問題を、小学生を読者対象として書いたことは意味のあることだと思っています。ノンフィクションとして書かず、フィクションにするからには、事実関係の伝達だけでなく、むしろ、当事者は、周りの子どもの感じ方や考え方を捕まえたいと思っているのでしょう。その点で、人物描写には課題もあるとは思います。

たぬき:課題図書としてこれが選ばれたということですが、二、三十年前の本としても通用しますね。これを選んだ人たちは低学年向けの難民ものを探していたんでしょうか? 難民だから給食いらないよね、っていうのはひどすぎますね。傷つけるつもりはないけど、そうしてしまうとか、いろいろな場合があったほうがリアル。この文字量で描こうとしたのはいいなあと思いました。非常にさわやかで、いい人がでてきて、さっと読めるんですが、ひっかかりがない。だから読んでも記憶に残らないのかもしれません。そこはもっと攻めてほしかったです。

マリンゴ:さらりと読めました。著者の、ミャンマーへの愛情が伝わってきます。テーマもいいと思います。ただ、先が気になって惹き込まれるタイプの物語ではないなと感じました。その理由の1つとして、ナーミンが控えめでいい子で、受け身すぎるキャラクターであることが挙げられるかも。こういう転校生なら、クラスに受け入れられて必ず好かれるよね、というタイプなので。最初はおとなしく見えても、徐々にユニークな発言をし始めたりしたら、目が離せなくなったと思うのですが。後半はミャンマーの文化紹介になってますね。そのせいか、なかよし大使に選ばれた場面でも「よかったね」とは思うのですが、カタルシスを得られるところまではいきませんでした。

カピバラ:今日話し合う本は3冊とも、大人がひきおこした政治情勢に翻弄される子どもが描かれています。日本の作品にはこういったテーマがまだ少ないので、そこにチャレンジする姿勢に好感をもちました。知らない外国で起こっている出来事ではなく、自分の身近なクラスメイトから考えるのは読者にもわかりやすいと思います。これからもこういう本がどんどん出るといいですね。でもやはり物語としての魅力はいまひとつなのが惜しい。タイトルや表紙の雰囲気も、もう少し考えてほしいです。

ハリネズミ:こういう本があってもいいとは思いますが、たとえば、このお父さんは日本ではジャーナリストになれないとか、子どもだってすぐには日本語が話せるようにならないだろう、とか、リアルな日常の中ではもっと葛藤があるはずなのに、それが書かれていないので、「よかったですね」としか言えないなあ。タイトルからして能天気な気がします。最後はめでたしめでたしですが、これを読んだ子どもたちは、本当に難民のことを考えるようになるんでしょうか? 疑問です。いい意味でも悪い意味でも、日本の作家が社会問題を扱うとこんなふうになりがちという一例だと思います。ドイツは申請した人の半数以上は受け入れているのに日本は申請数が少ない上に認定数は0.6%だそうです。そういうことを考えると、難民について、あるいは国を脱出した人について考えるにしては、これだけだと弱い気もします。p64に「難民は、世界中に1500万人以上いて、日本に避難してきている人も、1万人以上いるという」とありますが、いつの時点の話なんでしょう? 日本は、1978年から2005年末まではインドシナ難民をたくさん受け入れたのですが、今はごく少数です。また、ナーミンたちはどうして国を脱出せざるをえなくなったのでしょう? 現代のミャンマーから日本への難民は主にロヒンギャで、ロヒンギャはミャンマー語を話さないようです。また、この本の記述からは、ミャンマー人は箸を使わないように思えますが、ミャンマー人も麺類を食べるときは箸を使うそうです。ナーミンがただのかわいそうな女の子ではなく、生き生きとして能力もあり、まわりの人たちにも文化的な影響をあたえる存在として描かれているのはとてもいいと思ったので、身近なところにもこういう人がいるよと知らせる入り口としてはいい本なのかもしれないけど、もうすこし考え抜いたうえで書くと、さらによかったのに、と残念に思いました。

しじみ71個分:さらっと読みました。難民をテーマとして取り上げたことはとてもいいなと思います。うまくいきすぎだったり、周りの人々の理解がやたらあったり、日本語がうますぎたり、と教科書的に都合のいいところはたくさんあるのですが、こういうテーマを扱う本が増えていくことに意義があると思っています。どんどん増えていくうちに、内容も深化していくのではないでしょうか。とてもおもしろかったのですが、この本を図書館で借りたところ、ページの途中に、「あいりちゃん、すごい!」と、小学生らしい子どもの字で書いたメモがはさまっていて、この本の中身をちゃんと受け止めたんだなぁ、と感動してしまいました。大きなテーマを小さい子どもたちにどう伝えるかは一つの大きな課題だと思います。この本は中学年向けでしょうか、難しいテーマを難しく伝えると読むのを放棄して逃げだしちゃう子どももいるように思います。こういう教科書的な表現もひとつの子どもへのアプローチの仕方かと思いました。今後、バリエーションが出てくることに期待したいです。

すあま:すっかり難民の家族の話だと思いこんでいました。難民ではなくて日本にやってきた子どもの出てくる本は他にもあり、難民問題をテーマにするなら、ナーミンの家族はどちらなのかもう少しはっきり書いてもよかったんじゃないかな。巻末に解説があるといいのではないでしょうか。日本が国として難民に冷たいということなど、もっと書いてほしかった。ちょっと物足りなかったです。

花散里:日本の児童書は、巻末に解説のない作品が多いですね。難民のことを中学年くらいに伝えるには、この内容以上に盛り込むのは難しいと思うので、解説で補うしかないと思うんですけど。

ハリネズミ:日本の作家の本だけ読んでいても、世界のことはなかなかわかってこないような気がするのは、私だけでしょうか。日本の出版人は、子どもはまだ社会の問題に触れなくていいと思ってるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):読みやすくさわやかで、希望が持てます。授業で「難民地図」を示し、子どもたちに説明したところが印象的でした。以前、アウンサンスーチーの『ビルマからの手紙』を読んだことがあります。そのアウンサンスーチーが、今はロヒンギャ問題で批判されています。ミャンマーの民主化はまだ遠いのでしょうか?

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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日本児童文学者協会編『迷い家:古典から生まれた新しい物語・ふしぎな話』偕成社

迷い家

すあま:これは「古典から生まれた新しい物語」というアンソロジー・シリーズの1冊です。古典というので、いわゆる「古典」と呼ばれるものをイメージしていたら、昔話や国内外の名作もモチーフとなっていたのが意外でした。この『迷い家』でも、作家がかなり自由に発想しているので、読んだ後に元になっている原作を読みたいと思うのかどうかは疑問に思いました。短編としておもしろければよいのですが、物語の後に作者の説明があるものの、うまく古典への橋渡しになっているとは思えませんでした。

ヘレン:まだ読み終わっていないのですが、けっこうおもしろかった。『絵物語 古事記』(富安陽子文 山村浩二絵 偕成社)より読みやすかったです。オーストラリアの学生にも読ませることができるかも。古典というと日本のものかと思っていました。4編の中では「迷い家」がいちばん日本的でおもしろかった。別の話もおもしろかったです。

レジーナ:p106の「カチューシャ」の、名前の説明は不要では? 本の造りとしては、ほかの巻にはどんな作家が書いているか、わかったほうがいいと思いました。

ネズミ:住んでいる区の図書館にはなく、隣の区の図書館で借りました。100ページしかないのに、この束を出して、読んだ満足感を与えるような造本ですね。お話自体は、さらっとおもしろく読めるけれど、それほど印象には残りませんでした。「作者より」という形で、それぞれの作者が原作との関係を説明しているのは、もとの本を知っている大人が読めば、そう変えたかと、おもしろがりそうですが、子どもは、そこから元の作品に行くかというと、そうでもなさそうな気がします。大人と子どもでは、この本の楽しみ方が違うかもしれませんね。絵や文字組などは、読みやすそうでした。1か所気になったのは、p36のせりふのなかの「手も足も出せない」という言い方。「手も足も出ない」では?

須藤:その前に「手が出せない」とあるから、わざとかも。

さららん:慣用表現じゃなく、遊びで持ってきたのかもしれませんね。

マリンゴ:1つ1つのお話は、とてもおもしろく読みました。ただ、おもしろかったからといって、ネタ元の古典にまで遡ってみたいと考える子は少ないかもしれませんね。あと、児童書のアンソロジーについて常日頃気になっているのが、表紙に著者の名前を入れないという習慣です。一般書だと、もちろん入っているので、「この作家さんの作品があるから読もう」と、買うきっかけになります。でも、児童書では大半のアンソロジーが名前を載せない。表紙の文字が多くなって子どもが見づらいとか、子どもは作家の名前で本は選ばない、などの理由があるのでしょうか? この本の場合、出版社のホームページの書籍紹介にさえ著者名が出ていない。村上しいこさん、二宮由紀子さん、廣島玲子さん、小川糸さんに加えて宮川健郎さんの解説だったら、喜んで読みたい、と思う人は多いと思うのですが。この本は、地元の図書館にも近隣の図書館にも入っていなくて、結局買ったのですが、図書館に入ってない理由は、こういうところにもあるのかもしれません。

カピバラ:「古典から生まれた新しい物語」というのは、作家さんたちが書きやすいように一つのテーマを設けた企画だと思います。これをきっかけに古典に手をのばしてもらおうというよりは、ちょっとしゃれた短編集、軽く読める本という感じを受けました。有名な作家たちが手慣れた文章で書いていますが、それぞれの書きぶりは個性もあり、古典との取り組み方もそれぞれでおもしろく読めました。デザイン的な挿絵も好感を持ちましたが、本の造りはあまり子どもが手に取りやすいとは思えません。

アカシア:私は、古典に向かわせる本というより、これはこれで楽しむ本かなと思って読みました。村上さんの物語はとてもおもしろかったけど、あとはそんなに惹きつけられませんでした。「迷い家」は、もっとリアルな現実と接点を持たせて、なるほどと思わせてほしかったです。「三びきの熊」は昔話そのものの方がおもしろい。どうして蛇足みたいな続きをつけてるんでしょう、と、失礼ながら思ってしまいました。

花散里:住んでいる所の図書館には所蔵されていなかったので他の図書館から借りました。小学校の図書館に入れても、紹介しないと手に取らないだろうし、読まないのではないかと思いました。「迷い家」はおもしろいなと思ったけど、子どもたちに遠野物語のおもしろさが伝わるかどうかは疑問です。日本児童文学者協会は最近、アンソロジーを結構、続けて出しているようですね。

西山:アンソロジーはよく企画に上がってきます。

花散里:日本児童文学者協会の人たちと話をしたときに、外国の児童書を読んでない人が多いなと感じました。外国の作品も読んで、書かれているのかなと思っていたのですが・・・。

さららん:古典的なものを読んでないってこと?

花散里:最近の新しい作品もです。YAなど特に読んでないですね。よい作品がたくさんあるのに。

アカシア:べつに外国の作品を読んで書かなくてもいいんですけど、いろいろ読んでいる作家のほうが視野が広くて、国際的にも通用する作品になってくるんじゃないかな。

須藤:いま読んでいたのですが、「やねうらさま」はおもしろかったですね。あまりにサキっぽいから、サキの元ネタがあるのかと思ったけど、オリジナルらしい。解説で引かれている「開いた窓」はサキの有名作ですが、それとこの「やねうらさま」はストーリーとしてはまったく違う話なので、サキらしさをうまくつかんだ、ほんとうのオマージュになっている。

カピバラ:子どもは、パロディには興味持つかもしれませんね。

アカシア:私も「やねうらさま」がいちばんおもしろかったのですが、ほかはパロディとしてもイマイチのように思います。

マリンゴ: このシリーズは、テーマの縛りが二重になっているのですね。古典を元ネタに書く、というのと、「ふしぎな話」を書く、というのと。だから著者は、自由に書く場合に比べて、制約があって不自由ですね。

ネズミ:花散里さんが、これだと手に取らないとおっしゃったのは、どうしてですか? 表紙を見ても、小学生がおもしろそうと思わないということですか?

花散里:書架に並んでいるときに、この背表紙だけでは内容が分からないし、面出ししていても、この装丁では作家の名前も分からない。

カピバラ:「古典」を強調せず、「ふしぎな話」をもっとアピールしたほうがよかったですね。

マリンゴ:小学生も、作家の名前を見て、本を選びますか?

花散里:勤務していた学校図書館では児童書の書架は著者名順に配架していたので、富安陽子さんとか、好きな作家の棚の下に座り込んで選んでいる子もいました。シリーズ本などは次から次へと読んでいるようでした。

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アンヌ(メール参加):『遠野物語』は大好きで、時たま読み直しては、あれは本当はどうなんだろうと色々考えてしまいます。「迷い家」は、家そのものが意志を持つようで、無機質なものに対する恐怖と、その家について知っている人々がいて、後であれこれ言うというところに、村という共同体についての恐怖を感じます。今回は、家の主のおばあさんが出てきて説明してしまうので、わかりやすいけれど、家への恐怖が薄れてしまうのが残念な気がしました。けれど、その分、家の主と主人公のおばあさんへの恐怖が増して、おもしろい後口になっている気がします。

エーデルワイス(メール参加):4人の作家が古典を題材に自由に書いている感じがしました。どの作家も大好きなのですが、子ども向けの短編って難しいと思いました。なんだか中途半端な感じがしました。個人的に気に入ったのは「迷い家」で、すっきりと読めました。昔話だと残酷に思いませんが、現代版『迷い家』では、真に嫌な人間ではあるものの園子がこの世から消えてしまうのは、怖いと思いました。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ピウミーニ著 ケンタウロスのポロス

ケンタウロスのポロス

しじみ71個分:残念ながら手に入らず、途中まで図書館で読んで終わってしまいました。しかし、最初を読んだだけでも本当に格調高い翻訳で、お話自体もとてもおもしろくて、途中までになってしまったのは残念でした。これも、挿絵がついていますが、絵が気になることはまったくなく、逆に引き込まれるようでした。お話は素直に頭に入って来て読めました。

花散里:登場人物が多かったので、最初は「おもな登場人物」の紹介を何度も開いては確認していたのですが、読んでいったら気にならずどんどん読み進めました。小学校の図書館で「ギリシャ神話の本はありますか?」とよく聞かれたのですが、その「ギリシャ神話」が好きな子どもたちにこの本を薦めたかったです。善人と悪人がわかってしまうのはそれほど気になりませんでした。空想上の生き物ケンタウロス、神様と人間、半神半人と登場人物が不思議な話で、図書館に入れたら、特に男の子たちがおもしろがって読むんじゃないかなと思いました。

アカシア:私もとてもおもしろかった。男の子が旅に出て様々な研鑽を積んで、賢くなって帰ってくる、という定型ではあるけど、物語としてよくできていると思いました。ギリシア神話をある程度知っていると、ゼウスとかアルテミスとかヘラクレスなどなじみの神様が出てくるのに加えて、オリジナルなキャラクターが出てくる、そのバランスがおもしろい。欧米の子どもたちだと、そんな楽しみ方もあると思います。日本の、ギリシア神話を知らない子どもたちは、カタカナ名前が多すぎると思うかもしれないけどね。冒頭がケンタウロスの走っている場面で、最後も、違うシチュエーションではあるけど、やっぱりケンタウロスが走っている場面。そういうところも、おもしろいなと思いました。佐竹さんの絵もとてもいいですね。最後のところは、異類婚姻譚ですよね。上橋さんの『孤笛のかなた』(理論社/新潮文庫)を外国に紹介しようとしたとき、「西洋の人は、人間が非人間になることを選択するという結末は受け入れられないんじゃないか」と言われたんです。でも、これも、人間がケンタウロスになる道を選んでるじゃないですか。女の子が勇気をもってそういう道を選択するのも、『孤笛のかなた』と同じですね。

カピバラ:神話に出てくる神々は、荒くれ者だったり、怪力だったりと単純な性格づけで表されるけれど、ポロスは粗野で熱しやすく冷めやすいというケンタウロスのなかにあって、思慮深く深みのある人物像として描かれているところにまず惹きつけられます。数々の試練にあいながらどうやって生き延びるか、このポロスにぴったりくっついて先が知りたいという思いでページをめくりました。佐竹さんの絵もとても合っていて、大自然の中にケンタウロスを小さく描いているのがいいと思いました。「行きて帰りし物語」と書いてありますが、一昔前に多かった児童文学のように懐かしい感じもあり、久しぶりに読み始めたら止まらない読書ができました。

マリンゴ:すごくおもしろかったです。1つ1つの章がびっくりするほど短いのだけれど、それがとてもよくまとまっていて、次の話が魅力的に展開するので、小学校の“朝読”などにも向いているのではないでしょうか。わたしは、ときどきギリシャ神話をもう1度ちゃんと勉強しなきゃ、っていう病気にかかることがあるんですけど(笑)、この本はギリシャ神話を一味違う切り口から紹介してくれていて、勉強ではなく楽しく読めます。絵は、まるで原書に添えられているイラストのように、世界観に合っていますね。あと、地図があってよかった! キリキアからドドナってこんなに距離があるのか!とか、細い海峡ってこんな感じなのかとか、地図のおかげでよくわかりました。

西山:文体がおもしろいと思いました。例えば、以前ここでも読んだ『チポロ』(菅野雪虫著 講談社)はアイヌの神話はあくまでも素材で、ファンタジーを読んだという感触を得ます。けれども、これは、創作作品なのに神話を読んだという感触でした。ヘラクレスとか、「荒くれ」ぶりといい、そしてそのとんでもない展開が「・・・・・・した」「・・・・・・した」とぐいぐい進むのが、近代の小説的でない。あまり描写をしないせいでしょうか。ていねいに文体を分析したらおもしろそうだと思いました。

ネズミ:とてもよかったです。きびきびとした緊張感のある語りに惹きつけられました。ヘラクレスが襲ってきた男たちをいきなり殺してしまう場面など、ぎょっとしながら、どんどん先が読みたくなりました。ちょっと前に読んだのに内容をぜんぜん覚えていない本がときどきありますが、この本は途中でしばらく休んでも、前の内容をわすれていなくて、物語の力の強さを感じました。金の羊毛とかアマゾンとかをきっかけに、ギリシャ神話も読みたくなります。佐竹さんの絵はすばらしかったです。波乱万丈の物語のなかには、この辺でおもしろいことを出して読者を惹きつけようとばかりに山場が次々と用意されている作品がありますが、この物語は変化にもお話の必然が感じられて説得力がありました。

レジーナ:神話の登場人物を使いながら、それに負けない壮大な物語をつくりあげています。物語に勢いがあり、格調高い訳文です。神々もケンタウロスも人間くさくておもしろいですね。佐竹さんの絵は、楽しんで描いてるのが伝わってきました。賢者マウレテスのどことなくユーモラスな感じ、ポロスとネポスの戦いが、盾に映っているかのように丸く切りとられているのとか、魅力的な挿絵です。最後の場面は、ゼウスの視点で俯瞰しているかのように描かれています。このアングルで描こうと思ったのがすごいです!

さららん:よく知られているヘラクレスと、あまり知られていないポロスを最初に登場させるあたりに、作家の選択の巧みさを感じました。おなじみの神の名やふるまいで読者を惹きつけ、一方でポロスを主人公にさせたからこそ、自由にお話をつむげる。1つずつのエピソードで読者をはらはらさせながら大団円に向かっていく、お話創りが見事でした。一方で「神は、ひさしぶりに地上に降りる口実を見つけたことに満足していた」(p193)「ゼウスはこれまで、こんなに楽しい思いをしたことがなかった」(p195)という細かい表現を通して、ゼウスのいたずら心も十二分に伝わってくる。短い文章に、脇役としてのゼウス像もしっかり立ちあがってきます。ピウミーニを、無駄のない、ひきしまった翻訳で読むことができてよかったです。

すあま:ケンタウロスを主人公にしたというのがおもしろいと思います。ポロスが本当にギリシャ神話に登場するとわかり、もう一度読んでみようかと思いました。ポロスはケンタウロスというなじみのない存在ですが、馬扱いをされたり、様々な苦難を乗り越えていくところが共感を得られると思います。でも、「古事記」同様、やはり登場人物の名前が難しいですね。子ども時代の読書では、神話,伝説を好んで読む時期があるということなので、うまく手渡せるとよいと思います。挿絵については、一時期ファンタジーと言えば佐竹美保さん、という感じでしたが、この本ではまったく違うイメージで描かれ、しかも作品にとてもよく合っているのがすごいと思いました。ケンタウロスを大きく描いていないのも、読み手の想像を邪魔しないのでよいと思います。

さららん:裏表紙に、子ども時代のケンタウロスのポロスがいるのがかわいい。

須藤:これは佐竹さんによれば、ポロスとイリーネの子どものつもりだそうです。最後の場面の絵もすごい。ドローンで撮影しているみたいだと思いました。

西山:わあって女のケンタウロスの方に向かって行くところですよね。所詮ギリシャ神話って、女好きの神々の狼藉だらけだったよなとか思って、なんか笑ってしまいました。

アカシア:いかにもケンタウロスらしいし、あえて女の方を描いてないのもいいですね。

さららん:この左のほうのにじみは、ゼウスにも見えるけれど…。

カピバラ:あ、ほんと。顔のように見えますね。

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アンヌ(メール参加):ケンタウロスは思慮深い生き物だと思い込んでいたので、少しびっくりしました。悪役が少々卑小で、あまりスケールが大きい話ではないのが残念でした。

エーデルワイス(メール参加):ケンタウロスのポロスを主人公にした物語で、嫌みなくすっきりとおもしろく読めました。最後にイリーナと結ばれるところに好感が持てました。『絵物語 古事記』にも出てきますが、大事な時に心と体を清める「みそぎ」は古代から西洋東洋共通なのが興味深いですね。佐竹美保さんの挿絵は、とても合っていました。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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富安陽子文 山村浩二絵 『絵物語 古事記』偕成社

絵物語 古事記

西山:諸般の事情で借りられずに買いましたが、山村浩二さんの絵の力で繰り返し読んでも楽しい本かなと思っています。子どものころ、今のように創作児童文学があふれている状況ではなかった時代、物語好きにとっては日本の神話やギリシャ神話はごく普通に親しむもので、神話や伝説をファンタジーとして楽しんでいました。でも、娘は日本神話とか多分、読んでないと思います。すっごく久しぶりでなんだかなつかしく楽しんだのですが、絵がなくてお話だけで伝わってほしかったなという気もしてしまう。なんだか、物語の記憶の仕方が絵や映像に主導されがちなことにうっすら抵抗を感じます。視覚的に思い浮かべるばかりが、物語を受け取る想像力ということでもないだろうと。例えば「内はホラホラ、外はスブスブ」という言葉自体がものすごく印象深く残っていて、妙に好きなのですが、これは、映像の記憶ではありません。あと、さらにプライベートに懐かしかったのは、私は、生まれが「天の岩戸」の岩戸で、アマテラスがこもったのはここで、神様たちが集まって騒いだのは狭いけどこことか、引っ越した先は高千穂の峰が近くて、小中学生のスケッチの題材だった高千穂の峰はまさにp188の挿絵の形だったとか、またまた引っ越した先は、鵜戸神宮が近くて「うがやふきあえずのみこと」が祭神で、その意味はp243で今回初めて知りましたが、なんか久しぶりと感慨深かったりでした。普遍性のまったくない思い出話ですみません。

ネズミ:「古事記」は恥ずかしながらこれまで手にとったことがありませんでしたが、富安さんの語りは読みやすく、すっと入れました。でも、だんだんと神様の名前が増えてくると、頭が飽和して混乱しながら追っていく感じ。そんなふうに物語にとりこまれていくのも神話の楽しさかなと思いました。毎ページ入っている絵は、ユーモラスだけれどグロテスクな面もあって、好みが分かれるかな。私は好きでした。話の展開に奇想天外なところも多くて、こんな世界だったのかと驚きました。最後まで楽しいと思って読みとおすか途中で離れてしまうかは、子どもの読書力によるでしょうか。岩波少年文庫の福永武彦の『古事記物語』と比べてみたいと思いました。

レジーナ:昔の人の豊かな想像力にふれ、神話という物語のおもしろさを堪能できる1冊です。絵の連続性は絵巻のようで、いきいきとしたイメージがひろがります。くさびで木に割れ目を入れ、そこにオオナムヂが入る場面など、言葉だけではイメージできないですよね。ページ数はありますが、半分は絵ですし、今の子どもたちが手にとりやすい形で出たと思います。勤め先の中学校でもよく借りられていますよ。

ヘレン:はじめは、オーストラリアの大学の学生に読ませようと思ったのですが、神様の名前が複雑で、漢字ではなくすべてカタカナなのはどうしてなんでしょう? 展開も予想できないので、日本語に慣れていない学生だと難しいかもしれません。

アカシア:原文はすべて漢字ですが、たとえばイザナミは伊邪那美で、音を漢字にしている部分もあるので、漢字で書くと逆にわかりにくくなるからじゃないでしょうか。

さららん:絵の魅力に補われて、お話が語られているのを強く感じました。文章だけではよくわからず、これはどういうことだろう?と思う部分を、絵の中に読みとることができました。空飛ぶ船の絵が出てきますが、これは自由な想像なのでしょうか? それとも調べこんだからこその絵なのか、どっちなんでしょうね。

レジーナ:最初上がってきたのは普通の船の形をしていたのが、もっと自由に描いてほしいと言われて、こうなったそうですよ。もしかしたら、そこで調べられたのかもしれないけど。普通、船を描いてと言われて、この形は出てきませんね。

さららん:なんか宇宙船みたいですね。海にもぐるのも、潜水艦みたいで。そういうのも、子どもにはおもしろいでしょうね。絵があるから、文章をこれだけシンプルに保てたのでしょう。子どものころは、稲羽の白うさぎのお話が大好きでした。昔読んだ本では、うさぎを助けたのはオオクニヌシノミコト。この本の中ではオオナムヂと書かれていて、同一神なのだけれど、出世魚のように神様の名前が変わっていく。それがおもしろくもあり、やや煩雑にも感じました。死んだ妻をさがしに黄泉の国にいったイザナギの話は、オルフェウスの話に通じるし、ヤマタノオロチの首は8本あるけれど、他の西洋の物語の竜の首と数が共通しておもしろいと思いました。ちなみに古事記の特にアマテラスのエピソードが大好きな友人が海外に何人かいるのですが、日本人の自分は古事記と聞くだけで、警戒する部分がありました。天皇制に利用された物語、という印象が刷り込まれているからですが、そのあたりを、みなさんはどう思って読んだのか伺いたいと思います。

アカシア:「古事記」は上中下と3巻あり、中と下は天皇の系譜につながる部分がたくさんありますが、これは上だけなので、物語としておもしろく読めるんじゃないですか。

しじみ71個分:「古事記」は、子どものころに、1つのお話ごとの絵本がうちにあって、昔話として慣れ親しんでいました。もう少し大きくなってからは神話物語として読むことがあって、学生時代は日本思想の分野の研究対象として読んだ経験があって、向き合い態度を変えながらずっと触れていたものでした。なので、子どもの読み物として改めて読むと、自分の持っていたイメージとずれてくることがあって、それはおもしろいと思いました。改めて読んでみると、基本的に、神話=神様の物語の形式となっていても、中身を読むとほとんどは部族間の戦争みたいなもので、部族戦争が神の物語として描かれているのかな、という印象を持ちました。「人間」の話だとしたら、神様といっても人間くさくて、怒ったりすねたり、プリミティブな感じの、人間らしい正直な気持ちや素朴、粗野な行動が書かれていても納得できるなと思いました。
「古事記」の物語世界は、何をどう頑張っても空想するしかない世界なので、いろいろな解釈もできると思います。ですが、こうして絵がついてしまうと、イメージは限定的になるかなと思いました。日本列島のつくり方とかは、私の頭の中ではまったく違っていたし、神様がこんな服を着ているのは事実なんだろうか?とか引っかかるところはありました。また、山村さんの絵は白黒だけなのに、相当にインパクトがあって、タッチにも臨場感があるので、ヤマタノオロチの血が川に流れ込むあたりは怖いくらいだし、逆にヤマタノオロチ自身はけばだった感じが自分のイメージと違うと思いました。絵の力があるだけに、これを真実と思い込むことはないのかな、という疑問を感じます。白うさぎに騙されてうさぎの皮をはぐのはワニかサメかという論争があったけれど、ここではサメを選択して絵で書いていますね。原文ではワニになっているので、どうなのでしょうか?いずれにしても、この本文では絵と本文でサメ説を採ったのだなぁと思いました。全体的には、この物語は内容も絵も本当に力強いので、改めて読むと、ただの昔話と思って読んでいたのより、とてもおもしろいと感じました。

花散里:絵がとても気にかかりました。小学校高学年からを対象に作られた本かなと思うけれど、p34の「黄泉の国」の絵など、絵のインパクトが全体的に強すぎると思います。学習指導要領に伝統的な言語文化に触れる学習指導が求められ、昔話、神話・伝承など、たくさんの本が出版されています。何故、今、富安さんが古事記を取りあげたのか、山村さんの絵はどうなのだろうかと考えてしまいました。古事記は、稲羽の白うさぎなど絵本でもいろいろな形で出ています。この本を子どもたちは、どう読んでいくのでしょうか。古事記は発達段階が進んで、もっとよく理解できるようになってから別の形で読んでもいいのではないかと思います。

さららん:もともと山村浩二さんはアニメーションで「古事記」を制作しています。そういう形で、映像から古事記に入る人もあるだろうし、漫画の『ぼおるぺん古事記』(こうの史代著 平凡社)から入る人もあるのが現状です。入り方はさまざまでいいんじゃないかな?

アカシア:今は「古事記」ばやりなので、いろいろ本が出ていて、漫画やラノベにもなっています。復古的な意識のもあるし、そればかりじゃまずいと言うんで『松谷みよ子の日本の神話』(講談社)なんかもある。ちょっと前ですけどスズキコージさんの挿絵で『はじめての古事記』(竹中淑子+根岸貴子文 徳間書店)も出ています。そういう流れの中に、この本もあると考えたほうがいい。この本で最初におおっと思ったのは、イザナミとイザナキが夫婦になる場面なんですけど、原典では女神のイザナミが先に声を掛けると、女性が先に声を掛けるのはよくないとイザナキが言って、交わってもひるこが生まれる。高天原の偉い神様に相談すると、そこでも「女が先に行ったのが悪い」と言われる。そこでやり直して、イザナキが先に声を掛け、今度はうまくいく、ということになってるんですね。そこを読んだときは、ずいぶん女性差別的だなあ、と思ってたんです。でも、富安さんもそう思われたのかどうかはわかりませんが、この本では「女が先だったらだめ」という部分は省いてあるんです。ただ単にわかりやすくしてるだけじゃないんですね。
それからさっき神様の名前が多すぎるという声がありましたが、原典と比べると、マイナーな神様の名前はずいぶんと省かれています。そして、p97の「さて、これでひとまず、スサノオの話はおしまいとしよう」みたいに、途中で言葉を入れてわかりやすくしているのも富安さんの工夫だと思います。地獄に言ったら振り返っちゃダメとか、三枚のお札みたいな話とか、異界の食べ物を食べたら戻れないとか、世界の神話や昔話に共通するモチーフが、とてもわかりやすく語られているのも、いいですね。山村さんの絵ですが、私はこの本はグラフィックノベルだと思いました。ひどい絵の本もたくさんあるなかで、私はいい絵だと思いました。神様を人間っぽく描いていて、裸ん坊の姿も出てくる。あえてそう描いているのだと思うと、好感がもてます。

カピバラ:この本は5、6年生の子どもに読んでほしいと思って作られた本だと思うんですけど、「古事記」を今の子どもに楽しんでほしいという気持ちが表れていていいと思います。富安さんの文章はおもしろいし、全ページに絵をつけてあるので文章がページの半分しかないのも読みやすい。短編集のように、おもしろそうな話だけ読んだっていい。私たちが子どものころって、絵本などで「いなばの白うさぎ」「やまたのおろち」などの話を他の日本昔話と同じように知る機会は多かったのですが、今はそうでもないですから、「古事記」に触れる、という意味でこういう本を今出す意味をわたしは買います。もうちょっと大きくなってから、ちゃんとしたのを読むとっかかりになると思いますね。それと、私はこの表紙がとても好きです。何か変な人や、怪物みたいなのや、動物がちりばめられていて、ちょっとおもしろそうって子どもが手にとるんじゃないかな。

マリンゴ:最近の「古事記」ブームを私は知りませんでした。今、刊行数が増えてるのですね。私は「古事記」そのものにあまり馴染みがなくて、この本のおかげで、「やまたのおろち」や「いなばの白うさぎ」など、今まで断片的に記憶していたことが物語としてつながって、とてもよかったです。もともと山村さんの絵が好きなので、イラストが全ページに入って、しかも富安さんの文章なんて、奇跡のコラボみたいな本だなぁと思いました。絵のインパクトが残る子どもは多いでしょうけど、これで「古事記」に興味を持った子は、ほかの本も読むでしょうし、読まない子は、この本で「古事記」を知っておいてよかった、ということになるでしょうし、存在意義のある本だと感じました。

須藤:とてもよくできていると思いました。全ページにわたって絵が入って、そのため文章は短くかりこんでいるんですが、ちゃんとお話はまとまっているし、何よりおもしろい。いい本だなと思います。「古事記」自体は子どもの頃、赤塚不二夫のまんがで読んだっきりで、実はきちんと読んだことがあんまりなくて……。個々のエピソードがこういうふうにつながっていったのか、と改めて思いました。どぎついところはうまくごまかしたり削除されていたりして、それでいて神様がみんなめちゃくちゃなところはよく出ているし、子どもに「古事記」の世界を紹介したいときに、この本があるととてもいいんじゃないでしょうか。それから、途中から来たので前半聞けなかったのですが、絵については意見が出ていたんですか? ぼくはとても好きな絵でしたけど……。p202で、木花咲耶姫が燃えさかる産屋の中で赤ん坊を産む場面の、この迫力ある顔とか。

西山:絵の好きずきというより、物語に絵で触れることはどういうことなのか立ち止まって考えてみたいと、私は思ったんです。絵にしなくても物語は理解できるのに、視覚的「わかりやすさ」がそんなに大事かなと思います。入りやすいのは確かにそういう面はあるだろうけれど、物語の流動的なイメージ世界が限定されていかないか気になります。

しじみ71個分:好き嫌いというより、頭の中の造形と絵のイメージがちょっとずれるところはありますね。

西山:絵にしなくても、物語は理解できる。くまなく目に浮かばなくたっていいと思うんです。いつもいつも視覚的な理解が先立っているような気がします。

レジーナ:昔話は、絵にすると残酷だったり、絵では伝わらない要素があったりするので、絵本にするのは難しいという意見は昔からありますね。神話についても、同じように思われる方がいらっしゃるのかもしれません。私は、お話と絵の出会いが良い形であれば、それでいいように思います。「古事記」のお話を生で語れる人は、あまりいませんし。

しじみ71個分:おもしろいなと思うのは、ギリシア神話だと文字だけの本でも子どもが読んで、おもしろいって言うんですよね。特に男子でその傾向が強いような気が…。

花散里:今は歴史読物でも、織田信長がイケメン漫画の主人公のような表紙だったり、どうかと思うような児童書が出版されています。「古事記」も、登場人物がイケメンのような絵のものも出ている。学校図書館にもそういう本が入って行くのか、そういう出版の流れはどうなのかと思います。

しじみ71個分:最初のひる子流しの話は省かれていますよね。どろどろしたような話は省かれているのでしょうか。なので、個別のお話はある一定の方針で選ばれているんだなとは感じました。あの話は子どもの頃からいちばん気にかかっていた部分だったのですが。

須藤:絵のことでいうと、p169で事代主がのろいの逆手を打つ場面などはおもしろかったですよね。「手の甲と甲をうちあわせ」とあるけど、こうやって打つのか!って思いますよ。

アカシア:ここは絵がないとわからないですね。

しじみ71個分:だけど、これは本当にそうなんでしょうか?これも一つの解釈だと思うのですが…。

アカシア:調べてもわからないことはいっぱいあるかとは思いますが、監修の先生がついているので、今の説ではこうなっているという点は、おさえてあるのではないでしょうか。

すあま:「古事記」の話って、1つ1つ別々に知ることが多いですけど、この本ではすべての話がつながっているところがいいなと思いました。読みやすくてわかりやすかったです。絵については、第一印象ではあまりよいと思わなかったけれど、読んでいくうちに話の雰囲気に合っているように思えてきました。「絵物語」ということですが、大人だとある程度わかっているようなものも、子どもにはなかなかイメージしにくいことが多いので、全部注で説明するよりも絵でわかる方がよい、ということだと思いました。神様がとんでもなくてユーモラスなところもおもしろく読めます。でも、神様がいっぱい出てくるので、わからなくなってきました。人物の名前がおぼえられなくて海外文学が読めない、という人が多いようなので、登場する神様の紹介があるといいと思います。

アカシア:旧約聖書もそうですけど、系譜を長々と書いていくのは、そういう形式でリズムを作っているのかと思うので、いちいち紹介がなくてもいいように、私は思います。ちょっとわからなかったのは、私がコノハナサクヤヒメとおぼえていたのが、ここではコノハナサクヤビメとなっていて、他にもスセリビメというふうに「ビメ」があるかと思うと、クシナダヒメのように「ヒメ」もある、というところ。

しじみ71個分:Wikipediaで見ると、コノハナサクヤビメは木花之佐久夜毘売、スセリビメは須勢理毘売命・須世理毘売命、クシナダヒメは櫛名田比売となっているので、もとの漢字が違うのかもしれませんね。私も昔はみんなヒメと読んでいました。監修が入って厳密になっているのかもしれませんね。絵も物語も、神々が非常に人間くさく描かれていますが、もしかするとあえて、神性を否定的に描いているのかなとも思いました。

西山:原田留美という私の仲間が『古事記神話の幼年向け再話の研究』(おうふう 2017.12) https://honto.jp/netstore/pd-book_28883127.html というのを出してます。ワニかサメかについても、大変詳細に分析、考察されていますよ。

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アンヌ(メール参加):せっかく語り手が富安陽子さんなのに、最初の出だしがとても男性口調なのにはがっかりしました。古事記の語りは女性というイメージだったので(さくま:稗田阿礼については、一時期女性だという説が強かったのですが、今は男女両方の説があるようです)。絵については神々を極力美しく書かないで、身近な感じにしようとしたのかなと思いました。私は、伊藤彦造とか池田浩彰の挿絵で読んでいたので、神話の神々は美しく色っぽい神々という印象が残っています。

エーデルワイス(メール参加):絵物語ということで、全ページ挿絵があることに感心しました。読みやすかったです。ただ絵が大人好みなので、子どもが手に取るかな? 偶然ですが、こちらのグループで毎月『えほんの読書会』をしています。今月とりあげたのが山村浩二さんで、たくさんの絵本の絵を描いていて、有名なアニメーション作家であることも知りました。2002年『頭山』で国際アニメーショングランプリをとったことは記憶にありましたが。横道に逸れますが、山村浩二著『アニメーションの世界にようこそ』(岩波ジュニア新書)はおもしろかったですよ。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2018年10月 テーマ:古典を今によみがえらせる

日付 2018年10月30日
参加者 アカシア、カピバラ、さららん、しじみ71個分、すあま、須藤、西山、ネズミ、花散里、ヘレン、マリンゴ、レジーナ、(アンヌ、エーデルワイス)
テーマ 古典を今によみがえらせる

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『フラダン』表紙

フラダン

『フラダン』をおすすめします。

男子高校生の主人公が、強引な勧誘を受けてしぶしぶのぞいてみたフラダンス愛好会は、なんと女子ばかり。
と、そこへ個性バラバラなほかの男子3人も入ってきて、「フラガールズ甲子園」に向けた特訓が始まってしまう。
笑いながらぐんぐん読める青春小説だが、福島を舞台に、多様な人々とのふれ合いや原発事故のその後をめぐる状況も描かれていて、味わいが深い。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年7月28日掲載)

笑いながら読める青春小説だが、福島の原発事故をめぐる状況や、多様な人々とのぶつかりあいや交流なども書かれていて味わいが深い。工業高校に通う辻本穣(ゆたか)は、水泳部をやめたとたん「フラダンス愛好会」に強引に勧誘される。しぶしぶ行ってみると、女子ばかり。ところが、シンガポールからのイケメン転校生、オッサンタイプの柔道部員、父親が東電社員である軟弱男子も加入してくる。穣は男子チームを率いることになり、最初は嫌々だが、だんだんおもしろさもわかってきて、真剣になっていく。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<読みもの>掲載)

キーワード:フラダンス、青春、震災、福島

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たしろちさと作『はなびのひ』佼成出版社

はなびのひ

『はなびのひ』をおすすめします。

子ダヌキのぽんきちは、今夜は花火職人の父親がでかい花火をあげるというので、朝からそわそわ。そのうち母親から、父親に握り飯を届けてくれと言われて、ぽんきちは勇んで出かける。その後ろから、もう花火が始まるのかと勘違いした、ご近所さんがぞろぞろ。動物たちで描く江戸の花火大会の絵本。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年7月28日掲載)

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濱野京子著『ドリーム・プロジェクト』PHP研究所

ドリーム・プロジェクト

『ドリーム・プロジェクト』をおすすめします。

同居した祖父が寂しそうなのに気づいた中2の拓真は、友だちの知恵と協力も借りて、かつて祖父が住んでいた山間の家を地域の集会所にしようと、クラウドファンディングで古家の修理費を集めることに。

果たしてお金は集まるのか? どきどきしながら楽しく読めて、社会参加の仕方についても考えられる作品。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年6月30日掲載)

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トンケ・ドラフト作 西村由実訳『青い月の石』岩波少年文庫

青い月の石

『青い月の石』をおすすめします。

伝承遊び歌から始まる冒険物語。

少年ヨーストは、青い月の石を手に入れようと、いじめっ子のヤンと一緒に地下世界の王を追っていく。その途中で出会うイアン王子は、父王が地下世界の王と交わした約束を果たしにいくところだ。

3人は、地下世界の王の末娘ヒヤシンタに助けてもらい、それぞれの任務を遂行して無事に戻ってくるのだが、タブーをおかしたイアン王子は、最愛のヒヤシンタのことを忘れてしまう。そこで今度は少女フリーチェも加わり、王子に記憶を取り戻させるための次の冒険が始まる。

オランダ屈指のストーリーテラーが伝承物語のモチーフをふんだんに使い、豊かなイメージで現実とファンタジーの間に橋を架けた作品。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年5月26日掲載)


伝承遊び歌で始まり、ぐんぐんひっぱっていく冒険物語。祖母と暮らすいじめられっ子のヨーストは、青い月の石を手に入れようと、地下世界の王マホッヘルチェを追っていく。途中で出会ったイアン王子とたどりついた地底の国で難問をつきつけられるが、マホッヘルチェの娘ヒヤシンタが助けてくれる。ようやく地上に戻ると、タブーを侵したせいで愛するヒヤシンタのことを忘れたイアン王子に記憶を取り戻させるため、次の冒険が始まる。昔話のモチーフを使い、現実とファンタジーの間に橋をかけた作品。2020 年JBBY 賞受賞作。

原作:オランダ/10歳から/石 冒険 地下世界 タブー

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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寮美千子文 小林敏也画『イオマンテ:めぐるいのちの贈り物』ロクリン社

イオマンテ〜めぐるいのちの贈り物

『イオマンテ〜めぐるいのちの贈り物』をおすすめします。

アイヌの熊送りの儀式をめぐる絵物語。

少年の家出は、父親が仕留めた母熊の子どもを神として大事に育てるが、やがて別れの日がやってくる。

詩的な文章と美しい絵が独特の世界をつくり、生命が軽視されることも多い今の時代に、「いのちのめぐみ」を受け取るとはどういうことかを伝えようとしている。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年4月28日掲載)

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ライナー・チムニク作・絵 上田真而子訳『熊とにんげん』徳間書店

熊とにんげん

『熊と人間』をおすすめします。

喜びと美しさと悲しみがたっぷりつまった絵物語。主人公は、踊る熊と、熊と一緒に旅をする「熊おじさん」。おじさんはお手玉の名手で、熊にお話を聞かせ、季節の変化を楽しみ、角笛で澄んだ音を奏でる。

心に響く名訳で、人間が生きるうえで必要なものは何かを考えさせてくれる。

(朝日新聞「子どもの本棚」2018年2月24日掲載)


旅芸人の「熊おじさん」はお手玉の名手で、手回しオルガンのメロディに合わせて熊が踊るのも見せながら、村から村へと旅をし続けていた。おじさんは相棒の熊をこよなく愛し、熊の言葉がわかり、季節の変化を楽しみ、澄んだ音を角笛で吹いた。心に響く名訳で、人間が生きるのに本当に必要なものは何かを読者に気づかせてくれる、喜びと美しさと愛と哀しみがたっぷりつまった絵物語。1982 年に翻訳出版されたチムニクのデビュー作が、出版社をかえて復刊された。

原作:ドイツ/10歳から/クマ 旅芸人 愛

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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エミリー・バー『フローラ』

フローラ

『フローラ』をおすすめします。

主人公のフローラは17歳。10歳の時に交通事故に遭い、それ以降の記憶は数時間しか保てなくなっている。そのフローラが恋をしたのは、親友ペイジの彼氏だったドレイク。このドレイクって男、見た目はいいけど、最初からどうもうさんくさい。フローラの記憶障害につけこんでいるふしがある。

でも、フローラは「ビーチでドレイクとキスした」ことを忘れないようにノートに書き、それを何度も見返し、ますます想像を膨らませて、ドレイクが引越した先のスヴァールバルへと出かけていく。

ところで、事故の際、車を運転していた母親は、この事故を自分のせいだと思い込み、娘のフローラを真綿でくるむようにして育て、常に精神安定剤や抗うつ剤を飲ませて、危険な目に遭わないように「守っている」。でも、フランスに住んでいる息子(フローラの異父兄)がガンで死にかけているというので、やむをえずフローラをペイジに託して夫と一緒に息子のもとへ駆けつける。ところが託された方のペイジは、フローラに彼氏を取られたと思い込み、付き添いを放棄してしまう。というわけで、家にだれもいなくなったすきに、フローラは旅に出るのだ。

こういう状態におかれたフローラが、自分ひとりで計画を練り、フライトや宿を予約し、旅の準備をするのは、ずいぶんと大変なことだ。でも、すべてメモを取って絶えずそれを確認しながら、なんとかやりとげていく。読者は、フローラの勇気に感心しながらも、不誠実らしいドレイクとはうまくいかないとだろうと予感して、ハラハラしながら物語を読み進めることになる。

甘いラブストーリーではない。スヴァールバルでフローラが出会った人が言う。「きみはここにドレイクを見つけにきたんじゃないと思うよ。自分自身を見つけにきたんだ」。そう、これは、母親が勝手に作ったイメージから脱け出して、本当の自分をさがそうとする、勇気ある女の子の物語でもある。

(「トーハン週報」Monthly YA 2018年8月13・20日合併号掲載)


交通事故の後遺症で、記憶が短時間しか保てない17 歳のフローラは、ドレイクに恋をした。交通事故が自分のせいだと思い込んでいる母親は、フローラに精神安定剤や抗鬱剤を飲ませ真綿でくるむように保護しているが、フランスに住む息子が癌で死にかけていると知らされ家を留守にする。そのすきにフローラは自分で苦労して計画を練り、ドレイクの引っ越し先スヴァールバルへと出かけていく。それは、母親から自立し、本当の自分を探すための旅でもあった。主人公の成長がリアルに伝わってくる。

原作:イギリス/13歳から/記憶障害 母親からの自立 自分探し

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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2018年07月 テーマ:子どもと花をめぐる物語

日付 2018年7月17日
参加者 アカシア、アンヌ、さららん、ととき、花散里、ハル、マリンゴ、
(エーデルワイス)
テーマ 子どもと花をめぐる物語

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ジョン・デヴィッド・アンダーソン『カーネーション・デイ』

カーネーション・デイ

さららん:たった半日の小さな大冒険ですが、最後まで読むと、3人の人間関係、悩みなどいろんなことがわかってきて、内容的には正道の児童文学だと思います。読み始めて、造語がうまいな、と思いました。どうしようもない人のことを「ナシメン」と名付けるとか、今っぽい。また主人公3人が、社会のいろんな層から出ているところもいい。ただ最初の方で、3人の語りというルールがよくわからなくて、ときどき混乱しました。3人の性格がわかってくると読み解けるのですが、トファーとスティーブの語り口が似ています。もうすこし文体の面や、小見出しを大きくするとか、子どもが入りやすい工夫が必要かも・・・。ダブルミーニングをちゃんとダブルで訳しているところはいいですが、訳がわかりにくいところもありました。ひとりひとりの子どもをよく見ていて、必要な言葉や手をさしのべるビクスビー先生は素敵。やっと会えた先生に、ブランドがどんな励ましの言葉をかけたか書いていないところが、逆に物語の世界の奥行を広げているなと思いました。

アンヌ:私はとても読みづらくて、最初のうちは3人の区別がうまくつかないまま話が進んでいく感じで苦労しました。『二十四の瞳』(壺井栄著 岩波文庫)みたいに苦労しながら先生を訪ねていく話なんだと了解してから、やっとすらすら読んでいけました。古本屋の場面とか、あきらめて帰ろうと乗ったバスにお酒を盗んだ男が乗ってくるとかは、うまい作りだなと思いました。でも、ケーキや音楽の謎がやっと解けるのがエピローグなので、全体としてはわからないままいろいろ進んでいく感じが強かったです。読み終わってみると、良い物語だったなと思えるのですが、先生が亡くなる話なのはつらいですね。

アカシア:この先生が魅力的に描かれているので、おもしろく読みました。世界には6種類の先生がいる、なんていうところも、なるほどと思ったりして。ただ残念なことに、最初の出だしにひっかかってしまった。「謎の菌」は、アメリカの子どもたちがよく使うcootieという普通名詞だと思いますが、「謎の菌」だとうまく伝わらないかも。「菌急事態」も、会話だと「緊急事態」と同じになってしまうので、もう一工夫あったほうがよかった。訳者が苦労されていることは伝わってきますが。それに、ほかの方もおっしゃっていましたが、前半部分、3人の少年が同じような口調で語るので、だれがだれだかわからなくなります。もう少し区別できるような工夫があるとよかったですね。P26の「レッド・ツェッペリンのリードは?」に対して「ツェッペリン飛行船が鉛(ルビ・リード)でできているわけないですよ」と返す部分。鉛の発音はリードじゃなくてレッドなので、変です。もう一つ気になったのは、少年たちが「最後の日に何をしたいか」という話を先生が授業でしたのをおぼえていて、それをそろえてお見舞いに行こうとします。この先生はまだ入院したばかりで、回復する可能性だってあるんじゃないかと、私は思ってしまいました。それなのに「最後の日」に食べたいといったケーキやポテトチップスを持って行ったりする。日本の子どもだったら、たぶんしないでしょうね。でも、前にこの会でとりあげた『クララ先生、さようなら』(ラフェル・ファン・コーイ作 石川素子訳 徳間書店)も、死を前にした先生に子どもたちが棺桶を送るという設定になっていました。だから、外国では、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

マリンゴ:いい話だと思ったし、読後感もとてもよかったです。ただ、みなさんがおっしゃっているように、視点の切り替えが頻繁すぎて、特に序盤は誰目線なのかわからなくなりました。3人の感情表現が似ている上に、ゴールが一緒であるため、混同しやすくなるんじゃないかと思いました。みんな先生が大好き! なんですけど、たとえば1人は、先生に対して何か複雑な感情を抱いているとか、そういう違いがあれば、視点が変わっていく意味も大きくなったかもしれません。序盤の1人の視点を長めにするか、あるいは全体を三人称にしたほうが読みやすかったかも。著者には叱られるかもしれませんが、もしかしたらスティーブの視点固定でも一応成立は可能な物語だったかな、なんて考えながら読んでいました。あと、「すい管せんがん」と先生がはっきり病名を言うところは、日本ではなかなか考えられないシーンで、印象的でした。私はすい臓関係の病気、少しくわしいので、ラストの部分、「すい臓の病気で、フライドポテトそんなに食べたらあかんー!」と思わず悲鳴を上げたくなってしまいました。でも、自分が言ったことを、子どもたちが覚えてくれていた、というのは大きな喜びでしょうね。

ハル:私も、ブランドの節に入って、一人称が変わって、初めてそういう構成なんだと気づきました。見出しでページを変えるとか、本づくりにもう少し工夫があってもよかったのかなと思います。でも、物語自体はとても良いお話だと思いました。高価なケーキや未成年では買えないワインを一生懸命買おうとするのも、大人になった今だから「そんなのいいのに!早く会いに行って!」と思うけど、子どもたちにとったら一大事で、大冒険で、ゆずれないところですよね。全体的に、あからさまに書かないというか、まわりくどい書き方というか、大人っぽい書き方だなとは思いました。余談ですが、学校をさぼらなかった子たちにも、『指輪物語』の最終章、聞かせてあげたかったな。

西山:感想は、みなさんとまったく一緒! え、ちょっと待ってと立ち止まった場所もたぶん一緒です。最初は、ちょっと腹を立てながら読みました。自分がレポーターか何かなら、登場人物メモでも作りながら読むけれど、一読者としては、そんな手間をかけなくてもページをくっていけなければ読書は楽しめません。それど、彼らのうかつさは、リアルなんだとは思います。だから、子ども読者には共感を持って読まれるかとは思いますが、正直なところ、次々と繰り出される失敗は若干ストレスでした。いや、ケーキ背負って走ればぐちゃぐちゃだろ、とか。もう少し読みやすければよかったのに。原書もこういう作りなんですよね? だとすると、勝手に三人称にすることはできないし・・・。

アカシア:話者が替わるところで、ちょっとずつ違うそれぞれの男の子の似顔絵をつけるとか、それくらいはできるでしょうけど。

花散里:がんの宣告を受けた先生を思う3人の少年たちの物語で死を描いた作品として、人の死をしんみりと思わせてくれると紹介され、1回目は一気に読みました。2回目に読み返した時には、目次がないし、p89のスペイン語がそのまま書かれていたり、登場人物が区別しにくいなど、日本の子どもたちが読んだときにどうなのか、と、気になってきました。3人の少年たちにとって特別な1日であったというこの作品に、このタイトルでいいのか、と思ったり、表紙の絵や装丁にも引っかかりました。編集や翻訳の方も、日本の子どもたちが読むときのことをもっと考えてほしいな、と思います。私は、優れた海外の翻訳作品を日本の子どもたちに手渡したいといつも思っています。そのためには、こなれた日本語にする翻訳者の方、編集者の方の力が大きいのだと改めて思った作品でした。

アカシア:今おっしゃったp89のスペイン語は、日本の子ども向けだったらアルファベットで出しておく必要がないですよね?

花散里:そう、そういうことろは、編集者の人に目配りしてほしいですよね。日本の子どもたちがどういうふうに読むか、をちゃんと考えてほしいものです。読んで、すっとわかるようにしておいてほしいです。

さららん:翻訳物の場合、中身を全部わかるようにするのは難しいけれど、でもだからこそ、訳者と編集者が一丸となって、読みやすくする配慮が不可欠だということですね。

花散里:会話で文章が続いていくところは、とくに気になりました。「世界には6種類の先生がいる」と、先生のタイプをあげていくところなどはおもしろく読みましたが・・・。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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エミリー・バー『フローラ』

フローラ

アンヌ:最初は苦手な設定だなと思っていたのですが途中から夢中になり、よくできた推理小説を読み終えたような気分になりました。恋をすると今まで使わなかった脳の部分が活性化するんだとどきどきしながら読んでいきましたが、でもそれは精神安定剤のような薬を飲まなかったせいで一種の躁状態になったからなんですね。少し、残念です。でも、記憶がなくても記録をすることで生きていけるという事がわかって、予感していたような嫌な話ではなく、親友のペイジと仲直りもできてほっとしました。

ととき:ミステリーとしてのおもしろさで、はらはらしながら最後まで一気に読みましたが、主人公があまり好きになれなくて・・・。フローラは、10歳までの記憶はあるんですよね。お兄さんが、自分をとてもかわいがってくれたことは覚えている。でも、重病で死ぬかもしれないお兄さんのところに行くより、キスしてくれた男の子のほうに行っちゃうんですよね。それがYAといえば、それまでだし、海外でよく売れている理由でもあるんでしょうけれど。なにかに突き動かされて書いたというより、こういう障がいのある主人公をこんな風に動かせばおもしろいものを書けるんじゃないかという作者の意図がまず先にあったような感じがして。まあ、エンタメというのは、そんなふうに書くものなのでしょうが・・・。小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)は、おなじ障がいを扱っていても感動したし、大好きな作品ですが。

アカシア:フローラは、お兄さんがどこに住んでいるかはわかっていないんですね。キスしたことを覚えているのは、忘れないようにノートに書いて、それをいつも見ているからだと思います。それに、そこが自分が生きることにとってとても重要だと思ったから。私は、エンタメだからこの程度とは思わず、この作者はその辺まできちんと目配りをして書いていると思いました。

さららん:3部構成が、とてもわかりやすかったです。記憶を留めておけないフローラの語りが断片的で、でもその感じ方と一体化すると、自分とはまったく違うフローラの感覚で世界が紐解けてくる。そこがすごくいいですね。例えば心は10歳のままなのに体は大人、その違和感を伝える語りが実に巧みです。キスの記憶、タトゥーなど、記憶と体の関係を描いているところにも注目しました。後半で登場する兄ジェイコブの存在は、読者に(そしてフローラ自身にも)隠されている家族の秘密を解き明かすに重要な存在。でも、危篤のはずの兄から、フローラに届く手紙やメールの翻訳文体が元気だったので、私の中では兄の人物像がうまく結べませんでした。1部、2部で残された謎が、3部ですべて手紙を使って種明かしされる。フローラ自身のハンデを思うと、それしか読者に伝える方法がなかったのかもしれない。ただ1部、2部までの展開と盛り上がり、息をのむほどの面白さを考えると、これ以外に物語を終わらせる方法はなかったのかな、と思いました。

花散里:物語の展開にドキドキしながら衝撃を受け、精神的には怖いようにも感じながら読みました。「自分探しの物語」というYAの作品のおもしろさを充分に感じました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいを持った主人公の作品が最近のYAには多いですが、記憶が短時間しかもたないという記憶障害を抱えた少女フローラの語りに引き込まれていきました。自分に記憶を与えてくれたドレイクを追って北極へと旅立つ第2部、妹を思う兄からの手紙で物語が大きく展開していく第3部へと、構成もうまいと思いました。わが子が可愛いばかりに、という母親の思いは複雑でしたが・・・。友人のペイジ、ノルウェーの人たちなど、フローラに関わる登場人物も魅力的に描かれていて印象に残りました。

西山:読み始めは、うわーまたこういう認知が独特な主人公の一人称で内面に付き合わされるのか、つらいなぁと思ったのですが、投げ出す前にぐんぐんおもしろくなりました。今回、テキストにしていただいて本当に良かったと思っています。『カッコーの巣の上で』を思い出しました。じつは、映画と芝居を見ただけで原作は読んでないんですけどね。結局、奇をてらった難病ラブロマンスではなく、思春期の親子関係の物語だったんですね。普遍的な物語だとわかって、とても共感しています。いつまでも、フローラを10歳のままで止めて庇護したい母と、17歳の思春期に入っている娘の確執。フローラが外に出ていくという展開がすごくおもしろかった。スヴァールバルの人たちの寛容さの中では障がいが障がいでなくなっている、その在り方も素敵でした。ドレイクのやったことは、障がい者に対する性加害を考えさせられました。相手が被害を告発する力がないと思うから、そういう行動を取る卑怯さといったら! 障がいの有無に限らず、セクシュアルハラスメントの構造ですね。

ハル:私は・・・こういった記憶障害の例は確かにあるんだと思いますが、なんだかちょっと言いにくいですけど、正直言って「子どもが考えそうな筋書きだな!」と思いました。ドレイクとの関係は恋愛ではありませんでしたよね。友達もそれをわかっているのに、そのドレイクとキスをしたことが「あなたは頭のいいかっこいい男の子とキスだってできる」とフローラに自信をもたせる理由になるのがわかりません。なんで?「頭のいいかっこいい男の子」って、だれが? これ〈ラブストーリー〉ではないですよね。なんで? なんで? と、イライラしながら、なんだかんだで結局一気に読みました(笑)。その、「一気に読ませる」力はすごいと思いました。

マリンゴ:同じことの繰り返しで読みづらいかなと最初は心配だったのですが、あまり苦にならず、むしろ惹き込まれて読んでしまいました。すごい筆力だなぁ、と思います。ドレイクのクズっぽさがいいですね。中途半端に改心せずに、最後までクズでいてくれてよかった気がします(笑)。物語の皺寄せが全部ジェイコブに行きすぎてるかなとは思いましたけど。事故で大やけどを負って、ゲイで生きづらくて、20歳そこそこで肝臓がんですものね。過酷すぎます。フローラのような高次脳機能障害というと、私は料理研究家のケンタロウさんを思い浮かべます。高速をバイクで走っていて6メートル下に転落して、奇跡的に命は助かったけれど、記憶障害になって・・・。でも、当時は寝たきりだったのが、今は車椅子で動けるようです。少しずつよくなるという希望があるのではないかと思います。この本と同じように。なお、北極の街として登場するロングイェールビーンですが、NHKの特集で見たことがあります。世界最北の街で、(スヴァールバル条約に加盟している国であれば)どこの国籍でも無条件で移住してきていい、自由に商売をしていい、という特別な地区で、活気があってみんなフレンドリーでした。だから、フローラにみんなが親切にするのは、ある意味、とてもリアリティがあるなと思いました。ただ、物語で唯一気になったのは、メールのアカウントをフローラが自分で作ったという件ですね。どうしても、そこもドレイクがやったのだと思いたい自分がいます。1~3時間の記憶しか持たない中でどうやってやれたんでしょうね。

アカシア:おもしろく読みました。私の感想は、ほぼ西山さんと同じです。最初は、困難を抱えた人の一人称はしんどいな、と思ってさまよいながら読んでいたんだけど、だんだん引き込まれて、フローラが手ひどい目にあうのかと心配になり、そのうちフローラが自立するのを応援したくなり・・・と、読みながら気持ちが変わっていきました。アマゾンには小学館からのセールス言葉で、「絶対忘れられないラブストーリー」と書いてありますが、それはこの本のテーマからはずれているし、内容とも違いますね。障がいを持っていながら自立していく少女の物語で、考えさせる要素をいっぱい含んでいます。この母親は客観的にはひどい親ですが、なぜこうなってしまったかが書かれているのでリアリティがあります。最初は怒っていたペイジが、フローラに「本当の自分」を取り戻させようとするようになるのも、納得できるようにリアルに描かれています。他の方たちが、リアルではないと疑問を投げかけた点は、私はすべて説明がつくように描かれていると思っています。でも、一つだけ疑問だったのは、この母親が、フローラを置いて夫とフランスに行くという設定です。最初はパスポートがないと言うので、ああそうか、と思っていましたが、パスポートは結局あったわけですよね。だとすると、フローラがこれまでにも2回家出をしていたこともあり、自分のそばに四六時中おいて監視しようとするほうが自然なんじゃないかと思いました。ネットで前向性健忘症についてチェックしてみましたが、何かのきっかけで直る場合もあるようですね。でも、抗うつ剤などを飲ませて不活発にしておいたらダメらしいですね。そういう意味では、この本の終わり方には希望が持てます。

 

エーデルワイス(メール参加):18歳で自立できるなんて、日本と比べて感心してしまいます。主人公フローラの未来を明るく見せているので、読後感がさわやかです。p273でお兄さんが、「もう精神安定剤を飲まされないようにしろ。おまえはおまえでいるんだ」と述べているのが心に残りました。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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中澤晶子『さくらのカルテ』

さくらのカルテ

マリンゴ:とてもおもしろいアイデアで、魅力的だと思いました。桜を診察して治療する、というのがいいですよね。リアルな樹木医ではなくファンタジックな世界観なのも興味深かったです。それだけ思い入れを持って読んだぶん、ちょっと残念だなと思った部分がいくつかありました。p11で「ばかでかい鏡を立てた」「さくらの木の不眠症は、治りました」という事例が書かれていて、なるほどそういうパターンの物語が出てくるのね、と思いながら続く1つめのお話を読んだら、まったくこの事例そのまんまで・・・。なぜ先にネタバレしてしまうのか! オチを知らなかったら楽しく読めたのに。子どもには、概要をあらかじめ説明したほうがわかりやすいと考えたのかなぁ。あと、p20「池の端に立っているさくらならば、水面に映った自分を見ることができるのでしょうが、ここに池はないのです」という一文があることによって、あ、オチの部分、鏡を立てるより池を作るほうが、もっと風流なエンディングになったんじゃないか、と思ってしまいました。あとは、全体のバランスですね。1話目がほんわか昔話風なのに対して、2話目がベルリンで、3話目が福島。全部で5話くらいあって、2話がベルリンと福島ならバランスいいと思うのですが、3話だったら、うち2話がほんわか系のほうがよかったんじゃないかなぁ、と。

ハル:私は、1話目のようなお話をもっと読みたかったです。これが2話目、3話目から始まっていたら、そういう本なんだなと思ったんだと思いますが、1話目から読んでしまったのでそう思うんだと思います。きっと、2話目、3話目を書きたくて始まった企画なのだろうとは思いますが・・・教訓とか「人間とは」とか、そういう勉強のために読むのではない、読んで楽しい(だけでなくてももちろんいいですが)子どもの本をもっと読みたいと最近思います。

西山:再読する時間がなくて発売後すぐに読んだきりですが、一番印象が強いのは「太白」ですね。p21の5行目「自分の考えなど、たずねられたこともない小坊主」が「さくらの何がうつくしいと感じますかな」と問われて、ほおを「濃いさくら色」に上気させて答える場面が好きでした。何かがうつくしいと心奪われる、苦しいような切ないような感触が思い起こされます。でも、ベルリンと福島の物語が『こぶたものがたり』『3+6の夏』(ともに中澤晶子作、ささめやゆき絵)と同様に、中学年ぐらいで読めるコンパクトさで書かれていることは貴重だと思っています。歴史的、社会的テーマを扱った作品はどうしてもボリュームのある、高学年向き、YAとなりがちなので。

花散里:ささめやゆきさんの表紙絵から中学年ぐらいの子がこの本を手に取るのではと思いましたが、京都の太白のお話など、最初の展開から、もう少し上の学年の子でないと物語に入っていけないのではないかと感じました。作者が描きたかったのは、ベルリンや福島のことでは、と推測される「さくらの物語」だと思いますが、読者対象を選ぶのが難しいと思いました。福島のことや、「さくら」をテーマにしたブックトークの中で紹介するなど、子どもたちに手渡して行きたい作品だと思います。

さららん:「さくらのカルテ」というタイトルのつけかたといい、導入といい、全体的によくつくりこんだ本だと思いました。あとがきのかわりの「さくらノート」がとてもおもしろかった。この物語を書くきっかけになったのか、あとから調べてわかったことを付け足したのか・・・その両方かも。3つの物語が成立していく過程はそれぞれ違っていたはずで、想像する楽しみがさらに残ります。なにしろ第1話の「京都・太白」と、2話の「ベルリン・八重桜」の味わいが全然ちがっている。3話の「福島・染井吉野」まで読んで、あーこれが書きたくて前の2つも書いたのかな、と思いました。さくら専門の精神科医とその助手を狂言回しに登場させることで、味わいの違う3つをぴったりくっつけたかというと・・・そこはやや疑問ですね。意欲的な失敗作というと言いすぎかも。意欲作であることは確かです。

ととき:いい作品ですね。芭蕉の俳句「さまざまのこと思いだすさくらかな」を思いだしました。そういう桜に対する思いって、外国に紹介したとき分かってもらえるかな? みなさんがおっしゃるように、作者が書きたかったのは第3話の夜ノ森地区の桜の話だと思いました。第1話は、落語の『抜け雀』を思わせる展開でおもしろく読ませ、第2話の斎藤洋さんの『アルフレードの時計台』のような雰囲気の話で、ちょっとしっとりと考えさせて、第3話に続ける構成がいいなと思いました。小学生にはわからないのでは? ということですが、おもしろい物語だなと思って心に残っていけば、今はベルリンのことや福島のことが理解できなくても、やがて大きくなって「ああ、そうか!」と思うときが来るんじゃないかしら。私自身も、そういうことがよくありました。それもまた、本を読むことの素晴らしさだと思います。戦争を体験した世代が、いろんな形で戦争のことを書きつづけてきたように、福島のことも書きつづけて、次の世代へ、また次の世代へとつなげていってほしいと切に思います。それも、児童文学の使命のひとつなんじゃないかな。ただ、狂言回しのお医者さんと看護師さんのネーミングがいやだな。じつをいうと、最初にそこを読んだときにうんざりして、読むのをやめようかなと思いました。

アカシア:さっき花散里さんが、これだと背景が分からないから小学生には難しいとおっしゃっていましたが、難しいと読んでもらえないということですか?

花散里:さくら専門の精神科医「ビラ先生」とか、ネーミングはおもしろそう、と子どもは読んでいくのかもしれませんが、作者が伝えたいと思っているベルリンの八重桜や福島のお話に入っていけるのかなと感じたんです。

アンヌ:私も、マリンゴさんがおっしゃったように5話くらいあればと思いました。ベルリンと福島の桜の話が書きたかったというのは分かるのですが、私はもっと第1話の「京都・太白」のような物語をあと2つくらいは読みたかった。絵から抜け出る話はよくありますが、花びらがひらりと飛んでいくというのはとても美しく、錯覚としても起こりそうな感じです。こういう不思議な話の形でメッセージ性のある作品を書くのであれば、せめてもう1話ぐらい語り手にまつわる話とかがあってもよかった気がします。私はこの語り手の語り口にはとてもはまってしまい、ネーミングも好き、大好物が桜餅で2つ食べちゃうところも好きです。だから、「ベルリン・八重桜」でビラ先生が活躍していないのが物足りなくて残念でした。

ととき:あと2話あったら長すぎない?

アンヌ:確かに、5話入れるには最初の1話が長すぎますね。さくらふりかけさんが先に鏡の治療法を話してしまうのを削って、絵師が絵を描く話と治療の話に分けて最初と最後に入れるのはどうだろうかとか、いろいろ考えてしまいます。

アカシア:私は、この作家・画家のコンビによる『こぶたものがたり』(岩崎書店)がとても好きなので、それと同じような作品かと思って読み始めたのですが、あっちはチェルノブイリと福島の子ブタがそのまま出てきて、その2箇所を子どもの手紙が直接結ぶという設定だったと思います。こっちは、それができないので、サクラハナ・ビラ先生とか、助手のさくらふりかけ、といった狂言回しのような存在を出してきたんでしょうか。この狂言回しの2人は、時空を超える存在なので、いかにも人間というかっこうで出てきちゃっていいのかな、と思いました。もっとスーパーナチュラルな存在(たとえば妖精とか小人)として描いたほうがよかったのでは、と思ったのです。1つ1つの桜のお話はなかなかおもしろかったのですが。たぶん作者がいちばん書きたいと思われたのは、福島の桜なのかなと思いましたが、それぞれにテイストが違うので、ちょっとちぐはぐな感じがします。2番目のお話に出てくるエヴァは、ドイツ語だと普通はエーファあるいはイーファになるのでは?

西山:作者の経験から考えて、「エファ」の発音をご存じないはずはないと思います。日本の読者の耳なじみにあわせて、ということありますかね?

ととき:登場人物の名前の呼び方は、難しいですね。いろんな読み方があるときにも、作者の好みがあるし…。

アカシア:でも今はほとんどの本では現地音主義になっているように思っていたので。

 

エーデルワイス(メール参加):ささめやさんの絵が好きです。この表紙もインパクトがありますね。内容は、ささやかなようで壮大なテーマを扱っているようです。特に最後の「福島・染井吉野」は、作者の一番つたえたかったことでしょうか? この本のように、一見幼年童話のように見えて、中身は重厚な本が最近増えているように思います。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョナ&ジャネット・ウィンター作 さくまゆみこ訳 『この計画はひみつです』

この計画はひみつです

本の袖にはこう書いてあります。

ニューメキシコの砂漠の名もない町に科学者たちがやってきました。
ひみつの計画のために、政府にやとわれた科学者たちです。計画は極秘とされ、だれひとり情報をもらしません。
思いもよらないものが作られているにちがいありません。もうすぐ完成しそうです。
時計の針がチクタクと時を刻み・・・・・・

ちょっと怖い絵本です。子どもにどうなの? という方もいらっしゃいますが、今は、妖怪よりもお化けよりもバンパイアよりも怖いものが、子どものすぐ近くに存在しているように思います。あまり小さい子どもには何が何だかわからないかもしれませんが、小学校高学年くらいから大人まで、読んでもらえるとうれしいです。文章を書いたジョナ・ウィンターはジャネットの息子さんで、伝記絵本なども手掛けています。
(編集:高瀬めぐみさん 装丁:鳥井和昌さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定
*全国学校図書館評議会 「えほん50」2019選定

「えほん50』2019選定記事

 

 

◆◆◆

<紹介記事>
・「東京新聞」2018年8月3日

世界中の優秀は科学者たちが集められ、極秘のうちに進められた『ひみつの計画』。最初の原子爆弾が作り出された。
世界で初めて、広島に原爆が投下される3週間前、米ニューメキシコ州南部の砂漠で、最初の核実験が行われた。爆発地点近くの土や植物から、危険なほど高いレベルの放射線を発するプルトニウムが見つかっている。
2016年時点で、世界には核兵器が1万5700発存在する。その数がゼロになることを願って、「原爆の日」を前に読んでほしい。

・「MORGEN モルゲン」2018年7月6日

この時期になると思うのは、戦争についてだ。今の平和な日本に巡ってくる夏は、爽やかで美しい。日本に原爆が落ちたことなんてはるか昔のことのように。
この絵本の舞台はアメリカ。世界中から集められた科学者たちが秘密の爆発物を作っている。淡々と簡潔に語られる文章からは、登場人物の心情や具体的な描写といった情報が少ないため、登場している人物が機械的に感じられた。しかし、それだけに実験の様子が描かれたページの爆発のイラストはリアルで痛々しく、その爆発物の悲惨さを大いに物語っていた。
この爆発物が落とされ、唯一の被爆国となった日本に住む私たちは、この痛ましい過去をどう捉え、どう考えていくべきだろうか。無情に作られた核爆弾は、この本にあるように大きな破壊力を持つものだ。それが、希望も、命も、国の機能も、すべて奪ってしまった。今日本に住んでいる私たちは、数多くの犠牲の上で今の生活が成り立っているということを忘れてはならない。そしてこの平和が続くよう、平和を世界に訴え続け、当時の悲惨な戦争を忘れないでいることが、今の日本に生きる私たちの責任である。過去のことだと自分の世界から切り離し目を背けることは逃げだ。この平和が続く保証なんてどこにもないから、私たちが、戦争の恐ろしさを世界に発信し、平和への理解者を増やして行かなければならない。
そのためにも多くの人にこの絵本を手に取ってもらいたい。戦争や原爆の記憶が消え去らないように。
(評・旭川藤女子高等学校2年 我妻未彩)

◆◆◆

<作者あとがき>より

1943年3月、アメリカ合衆国政府は、科学者(原子物理学者や化学者や研究者)をニューメキシコ州のへんぴな砂漠地帯に集めて、ひみつの計画にとりかかりました。〈ガジェット〉とよばれるものをつくるためです。このへんぴな場所には、ちゃんとした地名がなく、アメリカ政府には「サイトY」という暗号でよばれていました(もともとは、ロスアラモス・ランチ校という私立のエリート男子校があったところです)。それは、サンタフェから車で45分の場所にあり、場所を示すものは、郵便を受けるための「私書箱1663」という数字だけでした。この計画のリーダーは、J・ロバート・オッペンハイマーという名高い科学者で、アメリカばかりでなく世界中から優秀な科学者を集めていました。その中には、ナチスドイツから亡命した科学者も、ノーベル賞受賞者もいました。その科学者たちのチームがつくりだしたのが、最初の「原子爆弾」です。完成すると、1945年の7月16日に、ニューメキシコ州南部の砂漠で、最初の核実験がおこなわれました。実験の場は「トリニティ・サイト」と名づけられ、ホワイトサンズ性能試験場(現在のホワイトサンズ・ミサイル実験場)の一角にありました。

実験で起こった爆発は、太陽の1万倍もの熱を放出し、250キロくらい離れたところでもその熱が感じられたといいます。また、200キロ近く離れている建物の窓が爆風で割れました。キノコ雲は、1万メートル以上の上空まで立ち上りました。火球におおわれた場所の砂は灰緑色のガラス状のつぶに変わり、放射線量が非常に高い「トリニタイト」という人工鉱物ができました。爆発地点から半径160キロの範囲では、植物にも動物にも土にも、危険なほど高いレベルの放射線を発するプルトニウムが見つかりました。ここの放射能は、2万4100年後まで消えないと科学者たちは推測しています。アメリカ政府は、ようやく2014年になって、核実験の時ニューメキシコ州に住んでいて高濃度の放射線をあびた人々が、ガンを発症したかどうかの調査を始めました。こうした調査は数十年早く行うべきだったと、多くの人が考えています。

「サイトY」で働くコックさんや事務の人たちの多くは、科学者たちが何を作ろうとしているのかをまったく知りませんでした。極秘にすることを誓った科学者たちの多くは、ニューメキシコにやってくる前に名前まで変えていました。うっかり〈ガジェット〉の情報がもれてしまわないように、またスパイがもぐりこまないように、郵便は政府機関がチェックしていました。

なぜ、そんなにひみつにしていたのでしょう? ここでの研究や発明の目的は、なんだったのでしょう? アメリカ合衆国は、ナチスドイツと日本を敵として、第二次世界大戦を戦っていました。ナチスが原子爆弾の開発にやっきになっているといううわさがあり、アメリカ政府は、アメリカ人を守り、戦争に勝つために、ナチスより先に原子爆弾を開発してしまおうと、いそいでいたのです。

トリニティ実験の3週間後、アメリカは二つの原子爆弾を日本に落としました。1945年の8月6日に最初の爆弾を広島に、1945年8月9日に次の爆弾を長崎に落としたのです。第二次世界大戦が終わったのは、その後です。この二つの原子爆弾の被害を受けて亡くなった人は、16万4千人から21万4千人だと言われています。そのほとんどが市民で、子どももたくさんいました。

広島と長崎以来、原子爆弾が人を殺すために使われたことはありません。今は、多くの国が、地上での核実験を禁止しています。自然環境や人間の健康に、大きな悪影響をあたえることがわかっているからです。また多くの国が、もっている核兵器を減らそうとがんばっています。それでも、2016年の時点で、世界には核兵器がまだ1万5700発も存在しています。

いつかその数がゼロになることをねがっています。

ジョナ・ウィンター

◆◆◆

<訳者あとがき>

アメリカの多くの子どもたちは、「広島と長崎への核爆弾投下は、戦争を終わらせるために仕方がなかった」と学校で習います。しかし最近は「原爆を落とさなくても戦争は終わっていたはずだ」「原爆ができたからには落としてみたいと思ったのではないか」という声が上がるようになりました。そのアメリカに住む絵本作家ジャネット・ウィンターが息子さんのジョナと一緒につくったのがこの絵本です。

日本の統計では、1945年8月6日に広島に落とされたウラン原爆(リトルボーイ)による直接の死者は約14万人、8月9日に長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)よる直接の死者は約7万4千人とされています。負傷者は広島が約8万人、長崎が約7万5千人。しかし、核爆弾はもちろん投下された時だけではなく、その後も放射線による被害者を出し続けました。広島にも長崎にも核爆弾とそれに伴う被害を受けて亡くなった方たちの名簿があります。原爆死没者名簿といいます。毎年書き加えられ、2017年の名簿には、広島は30万3195人、長崎は17万5743人の方が載っています。

2017年度のノーベル平和賞を受賞したのは「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」という国際NGOでした。この団体は、スイスのジュネーブに本部があり、100か国以上から多くのNGOが参加して、各国の政府に対して核兵器を持つのはやめようと呼びかけています。ノーベル賞授賞式には日本の被爆者の方たちも出席しました。

さくまゆみこ

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2018年06月 テーマ:5年生いろいろ

日付 2018年6月22日
参加者 アカシア、アンヌ、オオバコ、カピバラ、コアラ、さららん、
須藤、西山、ネズミ、花散里、マリンゴ、ルパン、レジーナ、
(エーデルワイス)
テーマ 5年生いろいろ

読んだ本:

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小俣麦穂『ピアノをきかせて』

ピアノをきかせて

ルパン:主人公の響音は、ほかの2作の主人公とくらべて、ずいぶん大人びた5年生だな、と思いました。けなげというか、こんな子いるのかなあ、と・・・。ここにいる子どもたちはみな千弦のためにがんばるのですが、みんながそれほどまでに尽くす相手である、千弦の魅力がよくわからない。母親の関心も、初恋の相手であるシュウの関心も、みんな千弦に向けられているのに、妹である響音は、嫉妬はしないのでしょうか。音楽を文章で伝えるのはとても難しいことだと思います。よく挑戦したな、とは思いますが、あまり成功しているとは言えないと思いました。

さららん:物語は、響音の世界の描写、響音が色をどう感じ、音がどう聞こえるか、から始まり、響音はおねえちゃんの千弦の弾くピアノの音が精彩を欠いてきたことに気がついていて、心配しています。千弦も少し後に登場しますが、物語の中で、その千弦の影が薄いように感じました。響音や親友の美枝が憧れている秋生も、千弦に魅かれているようですが、読者にとってその理由がピアノの音だけでは納得できず、さほど魅力的な少女には感じられません。千弦に対して過干渉になっていたお母さんは、距離を置くことで自分の子育てを考える時間を得て、響音、千弦との関係を少しずつ立て直そうとします。大人の弱さ、頼りなさが正直に書かれているところは好感が持てました。発表会に向けての練習で、響音は自分の才能を踊ることに見出します。ダンスが大好きな女の子は、あこがれて読むのかもしれませんねい。全体として、ちょっと少女漫画的なお話だと思いました。

レジーナ:音楽が聞こえてくると、体が自然に動き、自分の世界に入ってしまう響音は、今の子どもにしては天真爛漫で、のびのびしていて、そこが気に入りました。みやこしさんの挿絵がすてきですね。千弦の心をとかそうとする響音をゲルダに重ねるのも、新しさはないのかもしれませんが、美しいイメージです。

ネズミ:私もさらっと読みました。でも、5年生の子どもが姉のピアノを聞いて「しずんだように、重い音」と感じるかなあというところにすごくひっかかりました。少女漫画のようだと感じたのは、登場人物に各自の役割以上のふくらみが感じられなかったかな。感じのよい作品ですが。

西山:表紙がきれい。グレーと赤がすてきです。全体的に好感をもって読みましたけれど・・・。あっという間に忘れるかも。ピアノにあわせて思わず踊るところ、異性への憧れ方など、読みはじめる前に思っていたほどYA寄りではなく、好感を持ちました。肝心の音楽劇の舞台があまり見えてこなかったのはちょっと残念。ピアノコンクールの演奏の様子は、言葉を尽くして描かれていると思いましたが。最後、終わらせられなくなっている感じがします。もっと早く切り上げてもいいんじゃないかな。

マリンゴ:冒頭、音楽の難しい話かと身構えたのですが、そんなことはなく、平易で分かりやすい物語でよかったです。ステージやコンクールの場面が細かく描かれているのもいいなと思いました。気になったのは、p51「ジャイアンみたい」。ジャイアンって『ドラえもん』のジャイアンのことですよね? 突然出てきますけど、日本人の一般教養として説明なしに出してかまわない単語なのかしら。あと、千弦の音が機械的であることを、美枝までもがうっすら気づく描写がありますが、美枝はちっとも気づかなくて、響音をはじめ分かる人だけが分かる、というふうにしたほうが、ハイレベルな音楽の物語なのだということが伝わるのかなと思いました。全体的に心理描写が丁寧ですが、丁寧すぎる気もします。たとえばラストの部分、p221の「おそろいのマグカップとお茶わんが秋空にかかげられた」で終わったほうが、余韻が残ったかもしれません。

カピバラ:音楽を文章で表すのは限界がありますね。いろいろな楽曲が出てくるけれど、作者の意図がどこまで読者に届くのか、難しいところです。お姉ちゃんのことは表面的にしか描かれていないので、そもそもなぜピアノが好きなったのか、なぜ今は重い音になっているのか、わかりにくかったです。たったふたりの姉妹の関係は、子どもとはいえいろいろ複雑で、妹は姉に辛辣だったりするけれど、この子はお姉ちゃんに文句をいったりせず、ぜんぶ受け入れているというのが珍しい。最近、辻村深月の『家族シアター』(講談社)を読んだのですが、その一編に出てくる姉妹の物語は、心理描写が非常によくできていました。だからなおさら、そのへんを物足りなく感じました。おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんの台詞が、ちょっとつくりすぎている感じがしました。

アカシア:音楽を文章であらわすのは難しいけど、この作家は、音楽の雰囲気を言葉であらわそうとしている、その努力は買いたいと思いました。ただ文章が、文学ではなく情報を伝える文章なので、お行儀はいいのですが、うねりみたいなものはないですね。それから、特に最後など、ひと昔前の青春ものみたいなところがあって、そこはどうなのかな、と思いました。

花散里:姉に対する思いなど、響音の描き方が5年生らしくないと思いました。逆に、表紙絵といい、p137の挿絵などは幼い子が描かれているのかと感じました。姉が妹を思っていくというのは分かるけれど、妹が姉に対して、こんなふうに思っていくだろうか、ということを感じながら読みました。叔母の燈子の人物設定にも無理があるように思いました。松本市で行われているコンサートなどが背景にあるのかと思いましたが、音楽についてあまり知識のない小学校高学年の子どもたちには入っていきづらい世界ではないかと感じました。後半から最後まで、読後感があまりよくなかった作品でした。

コアラ:「戦場のメリークリスマス」は大好きな曲でしたが、雪と結びつけたことはなかったので、曲を思い浮かべ、雪をイメージしながら読みました。作者は「あたたかい雪」と書いていたので、音楽を聞いて呼び覚まされるイメージというのは人それぞれだなと。ピアノコンクールの場面では、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』(幻冬社)を思い出しました。ただ、コンクールやステージでの発表という華やかな場面を描いているわりに、地味な作品というか、平坦な印象でした。「ふるさと文化祭」が終わって、「市民芸術祭」への出演依頼の話になったのが、最後まであと20ページくらいしかないところで、どんな風に盛り上がるんだろうと思ったら、あっさり終わってしまったし、どこでこの物語が閉じられるのだろうと心配になりました。終わり方があまりよくなかったかなと思います。

アンヌ:最初から主題がはっきりしていて、姉がピアノを楽しい音で弾ける日を取りもどすという目的が一瞬も揺らがないのが、ある意味単調でした。「戦場のメリークリスマス」のように映画のストーリーを背負った曲を使うのは、音楽を描く物語としてはまずいのではないかと思います。音楽についてより、色彩を描く記述のほうがうまい作品だと思いました。ストーリーとしては、家族関係の問題が実にあっさり解決されていて、物足りない感じがしました。

オオバコ:西山さんの言葉どおり、ちょっと前に読んだのに、すっかり忘れていました。たった1行でも1か所でも、心に響く言葉や場面があれば覚えていたのに。自分の音が出せなくなった演奏家(学習者でも、その道を目指しているのなら演奏家だと思います)が、いかにしてそれを取りもどすかというテーマはおもしろいと思うのですが、人物造形がはっきりしません。演奏家=千弦の内面を描かなければ書けないのでは? だいたい、音楽は感性の芸術だから、みなさんがおっしゃるように言葉で表すのはとても難しいことだと思います。それに、千弦が学んでいるのはクラシックですが、妹の響音が素晴らしいと何度も言っているのはポピュラーで、そこのところにも違和感がありました。p5に、どこからか流れてくる、たどたどしい弾き方の「エリーゼのために」を聞いた主人公が「つまらなそうな音でつっかえつっかえ弾くピアノに、ぼそりと文句をいう」場面で、「なんて嫌な子!」と思っちゃいました! 私の大好きな安西均さんの『冬の夕焼け』という詩に同じような場面が出てきて、どこかでモーツァルトのK311番を弾いている子が、いつも同じところでつっかえるのを「淡い神さまのようなお方が、忍びよってきて、なぜか指をつまづかせなさるのだ」と、見知らぬ家の子の、そんないぢらしい努力にふと涙ぐむ・・・。かたや老詩人、かたや小学5年生の女の子だけど、ずいぶん心根が違うなと・・・。

須藤:あまり物語に入り込むことができませんでした。登場人物が揃ったあたりで、だいたいどんなストーリーか予想できてしまうし、また何でもかんでも台詞で説明しすぎではないかと思います。たとえばp131で秋生が、主人公の姉の千弦を、アンデルセンの「雪の女王」に重ねながらこんなふうにいいます。「土屋さんのピアノをきいたとき、(中略)なんて楽しそうな音で弾くんだろうって。それがいつのまにか、つまらない音を出すようになっててさ。(中略)土屋さんは、カイなんだよ。(中略)カイの心をとかすのがゲルダのまごころなら、土屋さんの心をとかすのは、ぼくたちの音楽だ」これまでの流れとこれからの展開、全部説明してしまってますよね。正直、ここまでいちいち言わなくてはならんかと思います。それから、主人公の響音と、お姉さんの千弦がおじいちゃんの家にいるあいだに、両親の話し合いでいつのまにか問題が解決しているというのも、ちょっと納得できません。そもそも、この両親は、どんなふうに子どもに向き合っているのでしょうか。最初の方で、父親が「響音のことをちゃんと見ているか」とか母親にいう場面がありますが、ここは腹が立ちます。子どものことを「ちゃんと見る」のは父親の責任でもあるからです。後半で、母親が、響音にむかって「千弦に、すごく会いたいですって、伝えてね」という場面も釈然としません。いくらうまくいかない関係になっていて、おじいちゃんの家に一時的に預けている状態なのだとしても、こういう大切なメッセージを、もう一人の子どもに託して伝えようとする姿勢には、疑問を感じます。子どもに負担を与えないでほしい。こういう親たちなので、最後に子どもたち二人に向かって謝って話す場面も、私は白々しく感じました。

 

エーデルワイス(メール参加):コミックの小説版のようなイメージですね。ちょうどベストセラーが原作の映画「羊と鋼の森」(原作は宮下奈都著)を見たばかりなので印象がダブり、ピアノの音が頭の中で響いていました。「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲が何度も出てきます。この静かな反戦映画では、イギリス兵の捕虜役のデヴィッド・ボウイが、美しい歌声を持つ弟を学校内のいじめから助けることができなかった過去を長い間悔やんでいて、死ぬ間際に夢の中で、美しいイギリス田園の家で、弟と分かちあう場面が印象的でした。兄弟の心のつながりという視点で、この作者は「戦場のメリークリスマス」の曲を選んだのでしょうか。

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ケイト・ビーズリー『ガーティのミッション世界一』

ガーティのミッション世界一

西山:スピード感のある文章がおもしろくて、出だしからノリでひきこまれました。ロビイストが出てきて驚いて、原発の問題と重なって・・・この場合ガーティは東電社員の子どものような立場で、どう展開していくのかとひやひやしながら読み進めたんだけど、結局、日常のいろんなことの、ひとつのエピソードとして流れていきましたね。そこを焦点化して注目してしまうと物足りなく感じたというのが正直なところだけれど、でも母親に認められたいというのがテーマだから、仕方ないかなとは思っています。あまりはしゃいだ文体は好きじゃないけれど、これはおもしろく読みました。例えば、「ローラースケートで歩道の継ぎ目の上を通るときに鳴る、かたん、という小気味いい音みたい」以下の比喩の畳みかけなど、嫌みじゃなくて、5年生の感覚のサイズ感が出ている気がしておもしろかったです。日本の作品と翻訳ものでは同じ5年生でもかなり違うだろうなと思っていたのですが、意外にも「おバカさ加減」はてつじと一緒でしたね。とはいえ、とにかく目立ちたい、それで一目置かれたいというメンタリティには、やはり日本とは違う価値観を感じました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。ガーティの母親への想いや、メアリー・スーとのやりとりなど、どこもうまいなあと。脇役では、ジュニアがよかったです。普段は目立たないけれど、肝心なところでいつもガーティに寄り添って助けにきてくれる。ただ、ガーティは、さっきの本のてつじのように、時に突拍子もないことをやってしまうハチャメチャなキャラクターのようですが、人物像が少しとらえにくいというのか、はっきりしない感じがしました。それから、内容としては5年生が楽しめる本なのでしょうけれど、翻訳だとグレードが上がりますね。タイトルにもある「ミッション」という言葉や人物名など、カタカナ語がたくさん出てきて、日本の5年生が読むには読者を選ぶと思いました。

レジーナ:カエルを蘇生させる冒頭からひきこまれました。メアリー・スーを席どろぼうと呼んだり、p126で、パーティに潜入したジュニアを待つあいだ、小さなオードリーが、むしった葉っぱを埋葬していたり、女子にばかりいい役をあげると、いちいち文句を言うロイみたいな男の子がいたり、細かなディティールがおもしろかった。ガーティははりきっては空回りして、でも、その中で、人の注目は一時的だということ、世の中にはどちらが正しくて、どちらが間違っているとは言えない問題もあること、そして、どんなに願っても、手に入らないものもあるということなど、人生の真実に気づいていきます。p115で、ガーティを無条件に信じるレイおばさんなど、まわりの大人の描写もあたたかいですね。全体的にリアリティがあるのですが、チョコレートをシャツに入れる場面は気になりました。10歳にしては、ここだけちょっと子どもっぽいかな。

さららん:冒頭では、ガーティの一人称に近い三人称の視点でウシガエルを登場させ、最後ではウシガエルの視点でガーティの姿を描写するところが、合わせ鏡のようで、凝っていますね。まもなく町から引っ越ししてしまうお母さんの関心をひきたいがために、世界一の5年生になりたいと思うガーティの健気さ。最初は、ガーティの言動が大げさで、ちょっとやりすぎのように感じたけれど、内的な動機がわかってくると、お話が俄然おもしろくなってくる。ガーディの父さんや、「一発かましてやりな、ベイビー」を口癖にしているレイおばちゃん、家で面倒を見ているオードリーの存在が脇をかため、ガーディの持つ弱さや複雑さも十分に伝わってきました。作者独特のユーモアのセンスがあちこちで光っています。敵のメアリー・スーの髪を解かして和解する描写でも、「一回くらいはわざと髪をひっぱってやるかもしれない」というクールさがいいですね。ガーティの息遣いを感じさせる、勢いのあるリズムにのって読めれば、高学年の女の子や男の子が、おもしろく読めるお話。ただ、そのリズムにのるのに少し時間がかかるかもしれません。

ルパン:おもしろかったです。一番好きなキャラクターはレイおばさんです。p178~179で「あんたはいっつも、持ってないものを手に入れようとして、やっきになってる。でも、持ってるものにはろくに感謝しない」という言葉が印象的でした。また、p241「あたしは、あの人にとことん感謝しなきゃいけない。だって、あんたをあたしのところへ置いていってくれたんだから。あれは人生で一番幸福な日だった」とか、脇役のはずなのに、一番シビレるセリフを言うところが好きです。

オオバコ:今回の3冊のなかでは、いちばんおもしろい本でした。「てつじ」と同じに最初のうちは饒舌な文体になじめなかったのですが、ガーティのミッションがどういうものか分かってからは一気に読めました。ただ、そこにたどりつくまでに何ページも読まなければいけないので、小学生の読者には難しいのでは? 石油ステーションのところは、問題を安易な形で解決に導かずに終わっていますが、このほうがリアルなのでは? 最後の場面も、ガーティは必死にやりとげようとしていたミッションがどうでもよくなって、自分のなかで母親との問題を乗りこえている。状況は変わらなくても、自分の心のありようが変わることで乗りこえていくという、ジャクリーン・ウィルソンの作品にも通じる姿勢が素晴らしいと思いました。ちょっとテーマを盛りこみすぎ=張り切りすぎ・・・という感もなきにしもあらずだけれど、作者の第1作と聞いて、なるほどねと思いました。ガーティの友だちも、おばさんも、きっちり描けていますね。

アンヌ:私は、リンドグレーンの作品の中では『長くつ下のピッピ』が少々苦手で、似たような過剰さを感じました。次から次へと事件が起き、ジェットコースターに乗っているかのようなどきどきする展開がつらかった。お母さんとの関係や状況がわかってきて、ミッションの重要性は理解できましたが、自分のミッションに夢中で、友人にとって大切なものより優先するところや、オードリーを捨ててパーティに忍びこむところとか、やはり読むのがつらい場面が多い物語でした。でも最後にカエルが怒っていないらしいとわかるエピローグは好きで、救われた感じで本を閉じました。

コアラ:おもしろかったです。5年生らしさというか、5年生ってこういうことを思ったりしたりする年代だなと思いながら読みました。子どもらしさがよく表されていると思います。おもしろく描かれているけれど、設定は辛い。同じ町に母親が住んでいるのに会えないし、引っ越していってしまうという設定で、胸が苦しくなるように感じました。でも、たぶん子どもが読んだらあまり辛さは感じなくて、めげずに生きていくところに共感するのではないでしょうか。

アカシア:日本は子どもが同調圧力を過剰に感じてしまう国なので、そういうものに影響を受けない子どもの話として、好感をもちました。でも、5年生がこの長さの物語を読むかというと、難しいですね。その難しさの一つは、シリアスな作品として読ませたいのか、それともユーモアを楽しむものとして読ませたいのか、訳者のスタンスが決まっていないからかな、と思いました。後ろの宣伝のページに『マッティのうそとほんとの物語』とか、『落っこちた!』が載ってますけど、それと同じような書きぶりの作品なんじゃないかと思うんですね。そっちもなんですけど、これも自己中心的なガーティのドタバタをおもしろく読ませるには、もっとユーモア寄りの翻訳文体にしたら、日本の5年生にももっと読みやすくなったかもしれないと思いました。ほかの方もおっしゃっていたように、途中からこの子のミッションは、お母さんに自分を認めさせることなんだとわかりますが、そこまでは何を手がかりに読んでいったらいいのかがちょっとわかりにくい。一つの物語の中に、お母さんに自分はすごい子なんだということを見せつけたいという情熱と、学校でのいじめと、環境問題と、母親が果たして劇を見に来るのかというサスペンスなど、いっぱい要素が入っています。環境問題は、すぐに解決し得ないというのはその通りだとしても、「うつり気」という言葉で終わらせているのはどうなんでしょう? チョコレートを全部食べてしまうところは、5年生がここまでやるのかな、と思ったし、「さえない負け犬」だと思われている子たちのためにやったとガーティは言っていますが、それなら他の子にも分けたほうがよかったのでは? 最初の方がわかりにくかったのは、ガーティが「歯みがき粉」をつけて歯を磨いているところで、私は粉の歯磨きをつけているのかと思って、特殊なこだわりがあるんだなあと思ってしまったんです。

みんな:今は、チューブでも歯磨き粉って言うとか、どうしてそういうことになっているのかとかの議論になる。

アカシア:それからp117行目に「ただのウシガエルじゃない」も、最初読んだ時、おばさんは騒いでるけど「ただのウシガエルじゃないか」と言ってるのかな、と思ったら、意味が通じなくなりました。こういうところは「ただのウシガエルじゃないよ」などとしたほうが誤解されなくてすみますね。そのあと、ガーティが「いい」も、どういうニュアンスかつかみにくかった。5年生らしくない会話もところどころにありました。

カピバラ:おもしろく読みましたが、同じ5年生が読むとしたら、『ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!』(ゆき作 朝日少年新聞社)のほうがずっと読みやすいのかなと思います。やはりカタカナの名前は、子どもにとっては、男女の区別もつかないし、どれがだれだか覚えにくいですよね。手がかりは表紙の絵だけで……。せっかくはたこうしろうさんの魅力的な表紙絵があるのだから、挿絵も入れてほしかったし、冒頭に人物紹介図があるとよかったですね。授業中に手をあげて、先生に一番にさしてほしいとか、ちょっとしたことで気分がころころと変わるところとか、5年生らしいところがうまく描けていると思いました。鼻持ちならないメアリー・スーと対決する図式もわかりやすい。ガーティは想像力豊かな子どもで、一生懸命なんだけどやることなすこと裏目に出る。ちょっと『がんばれヘンリーくん』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学習研究社)シリーズの女の子、ラモーナが大きくなったらこんな感じかな、なんて考えました。ヘンリーくんシリーズは今読んでもおもしろいんですが、やっぱり古めかしさは否めない。だから、ああいう本の現代版があるといいですよね。ガーティと友だちとのやりとりは子どもらしくて笑えるし、おばさんとのやりとりもおもしろい。一文一文が短いので、テンポよく読めるし、文章に勢いがあって良いと思いました。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。3冊のうちこの本を最後にしていて、昨日から今日にかけて読んだのですが、ページを繰る手が止まらなかったので、焦ることもなく読了できました。いじめがスタートする場面では、ストーリーが一気に動き出す緊張感がありました。あと、p190で、ガーティがオードリーを邪魔者扱いしようとして、やっぱり事情をきちんと説明する場面がとてもよかったです。ラストが、あれ、ここで終わるんだ!?と、ちょっとびっくりしましたけれど。ウシガエルを挟んで、もう1章あるのかなと思っていたので。あと少し、続きを読みたかったです。訳者あとがきで、これは著者の大学院の卒業制作で、出版社5社が競合して版権を争った、と書いてあったことに驚きました。

 

エーデルワイス(メール参加):冒頭の「ウシガエルはちょうど半分死んでいた」に惹きつけられました。今を生きているガーティの心情がリアルです。実の母親とのシーンは少ないのですが、いろいろと考えさせられます。劇の主役を勝ち取ったにもかかわらず、降ろされ、ふたたび主役になれそうなときに宿敵メアリー・スーの真の姿を知って彼女を舞台に立たせるなんて・・・憎いぜ、ガーティ! と思ってしまいました。とてもおもしろかったし、はたこうしろうさんの表紙絵もいいですね。ガーティはお父さんとレイおばさんから愛情をたっぷり受けていますが、実の親に愛情をかけてもらえない子どもたちが、それに代わるたくさんの人の愛情に恵まれて健やかに育ちますようにと祈らずにはいられません。

 

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ゆき『ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!』

ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!

さららん:語りに特徴がある文体で、主人公のてつじはおもしろい子。そのことを自分でも自覚している。「……だな」「……もんだよ」という語尾や、自分で自分につっこんだり、ぼけたりしながら、読者にむかって話をつむいでいくところに落語の文体を感じました。事実、「ありがとよ」の章には落語家のおじいちゃんが出てくるし、「なぞかけごっこ」の章でも笑点でおなじみのなぞかけを、クラスのみんなが楽しんでいる。好き好きはあると思いますが、この独特の文体で物語を進行していくところが、今の児童文学ではめずらしい。ただ、てつじの行動や言動には少し古くさいところ・・・たとえば「まったく男というやつは、どうしようもないもんさ」(p72)・・・もあり、また五年生なのに「うらない」(p205)という言葉を知らないなど、リアリティに疑問を感じる部分も残ります。とはいえこの作品には、てつじと友だちの妹のひとみちゃんの関係をはじめ、こうだったらいいな、というような、無欲で風通しのいい人間関係がありますね。この本に出てくる大人の多くが、てつじに代表される子どもの「おもしろさ」や「突拍子のないところ」を受け入れていて、そこも落語の世界に似ています。つっこみどころはいろいろあるが、現実というよりひとつのフィクションとして、子どもと子ども、子どもと大人のゆったりした関係を、読者の子どもたちは楽しむのではないかと思います。

レジーナ:おもしろく読みました。話の展開や装丁は、ひと昔前の雰囲気ですね。今の子は、ひとりだけ目立つのがこわいと思っているようですが、てつじは、あたたかな人たちに囲まれて、生き生きと楽しそうにしています。今の時代を写しとっているというよりは、本当にこうだったらいいのにな、と思いながら読みました。

ネズミ:同じ5年生でも、今回とりあげたほかの作品とはずいぶん違うなと思いました。先月読んだ『金魚たちの放課後』(河合二湖著 小学館)とも、全然違います。話し言葉で、楽しく読めるようにしたのだと思いますが、このユーモアを小学生がおもしろいと思うのか、私はよくわかりませんでした。たとえばp8に、強く思い続けると、どんなことでもそのとおりになると本に書いてあるからと、髪の毛が短くなるように念じるというのがありますが、こんなことをする5年生はいないかなと。みゆき先生とぬまちゃんのキャラクターも、実際の学校にいそうにないし。現実離れしているけれど、子どもはすっと受け入れられるのでしょうか。

西山:5年生もいろいろ。その違いを感じてみたいと思って、登場人物の年齢でそろえるテーマを提案しました。特に、この本のテイストは、この読書会とは結構違っている気がするので、みなさんがどうお読みになるか、ものすごく興味があります。去年の日本の新人作品の中で、この本のノリはなんだか異次元で、安心できる人間関係と全体を覆っている緩くあったかい感じが結構好みなんです。たとえば、「どっかーん」をやってみせろと6年生から言われても、「するもんか」(p34)と拒否する。軽いノリのいい奴というのではなく、てつじにはてつじの道義というか、芯が通っている。そういう子ども像に好感を持ちました。あと、「こぐまのポン吉」がキュート。あの、やんちゃなひとみちゃんは魅力的な女の子です。かなり多動な子ですけれど、てつじがしっかり受け入れている。古風ではあるけれど、現実になさそうだからこそ、こういう子どもたちが書かれているのは愉快です。

マリンゴ:「ゆき」という著者名から、20代の作家さんかと思ったら、違っていて驚きました。タイトルと表紙の印象から、自分で積極的に手に取るタイプの本ではなかったので、今回の選書に入れていただいてよかったです。楽しんで読みました。文章力があって、勢いがあって、テンポよく読み進められました。ストーリーの盛り上がりがさほどなくて、小さな出来事の積み重ねなのですが、そういう本って意外と最近見ない気がして、逆に新鮮でした。てつじとポン吉の関係性など、温かみがあってよかったです。

カピバラ:このような5、6年生対象の物語は、YAとちがって、大人として読むとあまりおもしろいとは思わないかもしれませんが、その年齢の子どもたちがどう感じるか、どう読むかを考えることが大切ですね。これは新聞の連載なので、各章が短く、ちょっとした小話的にまとまっているので、おもしろく読めると思います。でも、一人称の語りですべてを説明しているので、饒舌になりすぎて、うるさく感じてしまいます。てつじは、正直に自分の気持ちを出していく子なので、好感はもてるのですが。タイトルも表紙の絵も、子どもはおもしろそう、と興味をひかれると思います。ところが表紙をめくると、冒頭に「たとえばこの ちいさなものがたり そのどこかから あなたのもとへ ひとつのいのりが しずかに しずかに とどきますように」と書いてあり、「は? こういうタイプのお話だったの?」と、妙な違和感がありました。内容とは全く合わないし、この部分は不要だと思います。1か所、よくわからないところがありました。林間学校のお寺で縦笛を鼻で吹くと、別の笛の音が聞こえ、それを吹いたのは、林間学校に来ていない子だったとわかる。ここだけいきなりファンタジーって、変じゃないですか?

何人か:そこは私も変だなと、思った。

アカシア:翻訳は、どうしても情報を伝えるための文章になりがちなので、もう少し文体を工夫できるといいのにな、といつも思っています。そういう意味では、この文体は軽快でおもしろかったんです。リアリティからは離れるけど、新聞連載だから、みんながおもしろく読んで、次も読みたいと思って待つんだろうな、と。最初の「たとえば〜」はとばして読んでいたけど、もう一度見てたら、これが目に入って、私も「なに、これ?」と思いました。著者が書いているのか、出版社が売ろうと思って書いているのか? この作家はこんなことを思って書いてるわけ? と思ったら気持ち悪くなりました。ただ、これがなければ、エピソード的な短いお話がまとめられているので、あまり本が好きじゃない子も楽しく読めるんじゃないかと思います。それに、さっき西山さんがおっしゃったように、ただおもしろがらせるだけじゃなくて、てつじが魅力的なキャラに描かれているのがいい。金魚を川に逃がすところは、金魚にも環境にも悪いと思われているので、ちょっとまずいんじゃないかな。マンガ的な表紙や挿絵は、あまりじょうずだと思えませんでした。私も子どもだったら、この作品をおもしろく読んだと思いました。

コアラ:おもしろく読みました。p135に「てつじくんはいっぱい物語を持ってるのね」というセリフがあって印象に残りました。一つの章が短いので、細切れの時間でも読めて、読みやすくていいと思います。てつじもいい子だけど、ひとみのキャラクターがとてもいいですね。主人公は小学5年生ですが、本のつくり、特に文字の大きさは、中学年向きといってもいいくらいで、本を読み慣れていない子にも読みやすいと思いました。

アンヌ:古風なユ―モア小説を読んでいる気がしました。誰も嫌な人が出てこなくて、強面の先生もすぐ別の顔が現れるし、困ったこともすぐ解決する。連載だからでしょうが。ウエディングドレスをなぜ着せられるのかとか、金魚を川に流したら、すぐ釣られるのは都合がよすぎるとか、突っ込みどころが山ほどあるけれど楽しい。ただ、何度も読み返したいかというと、そうでもない。昔読んだのは何だったっけと思って調べたら、佐々木邦の『いたずら小僧日記』(「少年少女世界の名作文学」 小学館)でした。同じように主人公は、なぜ人が驚いたり困ったりするのかわからないという設定ですが、この物語のてつじは、人の心がわかる子です。ゆきさんと仲良くなり、不思議な縁をつなぐところが新鮮でした。ぬまちゃんがコマの職人のところに修行に行くというのも安易な感じで、ここも、少々突っ込みをいれたいところです。

オオバコ:昔からよくあるワンパクもので、古くさいなと思いました。佐々木邦が訳したオールドリッチの『わんぱく少年』(講談社)とか。子どもは、くすぐるとついつい笑ってしまうからおもしろい本だなと思うかもしれないけれど、もっと上手にくすぐってほしいなと思いました。ひとみとの関係はうまく書けていたけれど、笑わせよう、笑わせようとしているところが鼻につきました。自分ってこんなにおもしろいんだぞっていっているみたいな……。一人称で書いてあるせいでしょうか。三人称だったら、てつじについて周囲の人たちがどう思っているかも書くことができたのでは? おじいさんの噺家の落語を聞いて、みんなが泣く場面があるけれど、なんで泣いてるの? 何に感激しているのか、分からなかったけれど……。子どもの読者も、なんで泣いてるのかなって思うんじゃないの?

アカシア:ここは笑い泣きですよね。おじいちゃんが行っちゃったと思ったら、おもしろい話をしてくれたから。

カピバラ:ぽろぽろと泣いている、というのは、悲しんでいる表現だから、読者はどうしてかな、って思うでしょうね。

オオバコ:こういう外向的な語り手が前へ、前へと出てくると、ほかの人物に深みが出なくなるんじゃないかな。こういうエンタメの作品に深みなんていらないよっていわれれば、それまでだけど。

須藤:やんちゃな男の子の語りで圧倒的に読みやすいですね。ただ日常の出来事をスケッチしていくような感じで、通して読んだ時に今ひとつ全体的に起伏がないというか、物足りなさを感じます。同じように少年の日常を切り取った感じの本で、台湾に『少年大頭春的生活日記』っていう作品があるんですが、これは同じように少年の日記というか、日々の出来事の記録が描かれているようにみえて、じつはその時々の世相とか、少年の目から見た台湾がさまざまな角度で挿入されているんですよね。だから、もちろん日常のスケッチふうな作品があってもいいのですが、その場合でも描かれている中身にバリエーションがちょっとほしいなと感じてしまいました。
 あと、何人かの方が指摘されていますが、モチーフがレトロというか、ちょっと昭和っぽい感じがします。パープーって音がする自転車の警笛とか、林間学校だとか縁日だとか。この子どもたちは、たとえばスマホなんて持っていなさそうです。総理大臣になりたいという設定も、いかにも昔風ですね。もちろん物語の中でも珍しがられてるんですが、いま総理大臣といえばあの男なので、あれに憧れる小学生などいるのか疑問に思ってしまいました(笑)。いや冗談でもなくて、物語の名かでも総理大臣が登場して、主人公の学校にやってくるでしょ。どうしたって安倍のことを連想してしまうので、いろいろ考えてしまうんですが、とくに意味がなくて・・・・・・もうちょっと時代というものを考えてほしいです。主人公の男の子と小さい女の子ひとみとの関係性や、やりとりなどがおかしくて、そういうところには魅力がある作品だと思いました。

ルパン:私は、これ、すごくおもしろかったです。電車の中で読んで吹き出しそうになるくらい。『ピアノをきかせて』の子どもたちより、こっちのほうがずっと実際の5年生に近いと思います。鼻でリコーダーを吹いて、浮いちゃうところとか、想像したらおかしくて。その一方で、「おとうさんとおかあさんがなかよくなりますように」という七夕の短冊を読んでしんみりしてしまうところとかもいいし。あまり深く考えずに、一気に読んでしまいました。

エーデルワイス(メール参加):一見やんちゃで、独創的で奇抜なようなてつじですが、気持ちは繊細で誰よりも人の気持ちを思い、気を遣っているように思います。こんな子はたいていクラスから浮き、いじめられるのですが、クラスメートも教師も理解があり、生き生き暮らす・・・。子どもの目線で書いているようですが、こうあらねば、こうなってほしいというある種の大人の理想願望を感じてしまいました。

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2018年05月 テーマ:生きものと私

日付 2018年05月31日
参加者 アンヌ、カピバラ、シア、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、レジーナ、
(エーデルワイス、ルパン)
テーマ 生きものと私

読んだ本:

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サラ・ペニーパッカー『キツネのパックス』

キツネのパックス〜愛をさがして

カピバラ:擬人化されていない動物物語って私はとっても好きなんです。これは冒頭がパックスの立場からの話なので、最初からぐっとひきこまれる感じがありました。ピーターの側の描写と交互に出てくるので、重層的に考えられておもしろかったです。情景描写や行動がわかりやすい描写で細かく書かれているので、頭の中で思い描きながら読んでいきやすい書き方だなと思いました。離れ離れになってしまうところから始まるんだけど、きっと最後には再会するんだなとうすうす分かりながら読んでいけて、ほんとに最後に再会の場面があって満足感がありました。クラッセンの挿絵はそんなにリアルな絵ではないところがよくて、ほのぼのとした感じを醸し出していて好感がもてました。表紙の絵も魅力的で、読みたい気持ちになりました。映画化されるんですね。サブタイトルの「愛をさがして」って、どうなの? ないほうがよかったですよね。

シア:ニューヨークタイムズベストセラーに48週連続ランクインし、紹介文には感動的と書いてあります。でも、読んでみるとひたすらピーターが犠牲になったなと思って、途中で読むのが嫌になってしまいました。骨折までして飼いギツネに手をかまれても、ピーターだけが報われません。後日談などがないと救われないと思いました。戦争は全てを壊してしまいます。野生動物だけでなく人間すらも。戦争が2人の絆や運命を引き裂いた、と言いたいのでしょうか。基本的に引き裂いたのは父親なんですけど。サカゲやスエッコやハイイロは確かにわかりやすい犠牲者ですし、彼らは人間を許す必要ないんですが、パックスはピーターと過ごした時間をもっと信じてほしかったなと思います。信じないと永遠に反目しあうだけですよね。人間がいつも悪いんですけど、でも個人としてのピーターは違うので、そこをもう一歩踏み込んで、戦争に飲み込まれない絆を描いてほしかったなと思います。切っても切れない絆というには切れたなと。本能に負けたなと。ピーター目線だとp334でサカゲは明るい毛と書いてありますけど、パックス目線だとp42で輝く毛になっているし。この本の根本的な話として、パックスを野生に返さなきゃいけないということが漠然としている。p18の「そろそろ野生に返す頃合」というくらいしか作中では触れていませんが、野生に返すということが自然であるというなら、それを見越した育て方というのもあるはずだし、施設もあるし、その辺りのケアをしていないのに、簡単に野生には返せないと思います。そこを描かないと、野生動物に手を出して、殺してしまう人間が読者にも増えてしまう気がするんです。犬猫と同じではないのです。そこがパックスとデュークの差であり、この本の独特なポイントだと思うんです。そこを掘り下げてほしかったなと。それだとこの本のテーマがぼやけてしまいますが。パックスにとって何が一番の幸せなのかがわかりません。野生動物は野生で暮らすことが一番というメッセージ性の強い作品でもないし、中途半端な「ラスカル反戦物語」みたいです。お父さんと飼い犬の話が盛大な前振りかと思ったら、別にお父さんはその件については改心もしないし、おじいちゃんは空気だし。ヴォラもいろいろ助けてくれたし、今後のやり取りも見えるけど、それにしても大人がみんな頼りにならなくて、戦争のせいだというのは本当に救いがありません。モーパーゴと違い救いがなく、暗い気持ちになる本でした。「ににふに」って日常使わないし大人でも聞かないなと思いました。他の訳はなかったんでしょうか。

ハリネズミ:訳者はわざとこの言葉を使っていると思います。p229に、ピーターも「どういう意味かわからない」と言っていて、それに答えての説明もありますよ。

アンヌ:最初のほうをぱらぱらめくりながら、野生動物との別れの物語なんだろうなあ、読むのは辛いなあとか、あ、最初に頑固爺さんが出て来る、いやだなとか思っていたのですが、読み始めると意外な展開で夢中になりました。主人公はおじいさんの家を2日目には家出してしまうし、怪我して出会うのが退役軍人の女性で、仙人っぽい人なのかと思ったらそうでもない。このPTSDを抱えたヴォラとピーターが、意外なくらい早くお互いを理解しあう。ピーターが母の死後カウンセリングを受けた経験が生かされている感じでしたが、優しい言葉で大人の女性と語りあえるのは意外でした。また、ピーターの語りとパックスの語りとに時間差があったり、パックスが空腹で動けなくなるまで3日間かかったりしているところ等に、人間の時間と狐の時間の違いというリアリティを感じました。けれど、ふと、この戦争って、いつのことで、どこの国のことかが気になりました。テレビがあるし、ピースサインをしたりするから第二次世界大戦ではなく近未来なのかとか、場所はアメリカのようだけれど、古狐にも戦争の記憶があるからアメリカ本土ではないなとか。どこと戦っているのかもわかりません。現実世界の設定の方にSFのような奇妙な曖昧さがありました。

ハリネズミ:三人称語りですけど、キツネの視点とピーターの視点が交互に登場するのがおもしろいですね。各章の数字が、男の子かキツネの影絵になっているのもよかったです。さっきカピバラさんは「擬人化されていない」とおっしゃったけど、生まれてすぐに人間に養われることになったキツネが、どれだけ本能でキツネの社会で生きていけるのか、と考えると、やっぱりフィクションが入って擬人化もされているんだろうと思います。キツネが「南」「戦争病」と言ったりする部分も、当然擬人化されているフィクションでしょう。ただし、後書きで、自然の生態のままに書いている部分と、物語の組み立てを優先させたがために生態にそぐわないところもあると著者が言っているので、それはそれでいいのかと思いました。p109でヴォラが「人間が飼いならしたキツネを野生に返したら生きてはいけないってこと、わかるだろう」と言い、それに対してピーターが「わかります。ぼくのせいです」と言っているので、作家がそこをちゃんとおさえて書いていることがわかり、このケースが例外なのだということが逆に読者にも理解できるように思います。パックスがどうやって自然の中で生きのびたかについては、スエッコに卵を3個ももらったり、人間の食料をくすねたりして生きのびるという設定も、それなりに納得できるように書かれているのではないでしょうか。
 さっき、ピーターに救いがないという意見も出ましたが、それまで孤独だったピーターはヴォラと出会ったことで確実に成長していき、世界も広がっているんだと私は思います。p281でヴォラがピーターに、「ポーチのドア、いつでもあけておくからね」と言うんですが、これは「あなたの人生はあなたの人生だけど、いつでも訪ねてきていいんだよ」と言っているんだと思います。p339ではピーターがパックスに「おまえは行きなさい。うちのポーチの戸はいつでもあけておくから」と、同じセリフを言っています。作者はここで、絆が全く切れてしまったわけではないと言っているんじゃないでしょうか。
 よくわからなかったのは、ピーターのお父さんは「ケーブルの敷設をしている」とありますが、実際には何のために何をしていたのかが、私にはよくわかりませんでした。触れると何かが爆発して、ハイイロが死んだりスエッコも大けがをしたりするのですが、ケーブルだから地雷ではないですよね? 翻訳は細かいところがちょっと気になりました。p200「足をひきずりやってくる」は「足をひきずりながら〜」だと思うし、p267の「お父さんは知ってたんだ」も、何を知っていたのでしょう? p336「黒い鼻先がつき出す」は「〜つき出る」じゃないかな?

マリンゴ:過酷な物語ですよねえ。ピーターもパックスもつらすぎる状況が続いて、読んでいるうち、しんどくなりました。でも、目線が頻繁に切り替わるおかげで読み進めることができました。ピーターが、何がなんでもパックスを探しにいこうとあまりに一途でブレないので、物語の構成上そうしたのかな、とちょっと違和感がありました。でも、最後まで読むとその違和感も解消できました。パックスに執着することが、彼の生きる目的でもあったわけですね。最後、パックスと離れることを決断できました。つまりこれはピーターの成長を描いているわけですよね。この物語の終わりとして、満足感がありました。なお、先ほどカピバラさんがおっしゃったように、わたしもサブタイトルはないほうがいいと思います。

ハル:とてもおもしろかったです。コヨーテの声におびえながら眠る、とか、夜の庭でホタルに囲まれて桃をかじるとか、自分が体験できない世界を追体験させてくれる、本の力を痛感しました。戦争で殺した兵士のポケットから愛読書が出てきたというシーンもそう。戦争ってそういうことなんだと身に沁みました。ピーターとの出会いで、ヴォラも救われていくところもよかったです。p246「昔どんなに悪いことがあって、挫折したとしても、不死鳥みたいにやり直すことができるって」というピーターのセリフに胸を打たれました。ですが、キツネの生態ってこうなのかな?と疑問に思うところもありながら読んでいたら、「あとがき」に“物語を優先して実際のキツネの生態とは変えている部分もある”といった説明があり、実写映画を見るような気持ちで読んでいた私としては、それってありなのかなぁと思いました。

西山:キツネの言葉を人間の言葉に翻訳しているという趣向が「謝辞」の追記でで書いてありますが、成功とは言えなかったのではないでしょうか。けっこうひっかかってしまって読みにくかったです。今出ていた、「南」や「戦争病」もそうですし、p2で「涙」の概念がないらしいということは分かるけれど、「目から塩からい水」と言いつつ、次の行では「涙」という単語を使っている(使うしかないと思いますが)とか、なかなか読みにくかった。p44の「サカゲ」の呼び名が出るところも、え? どこで女狐は「サカゲ」と言ったとか、記述あったかしらと戻ってしまった。あくまでも人間の都合で、呼び名が必要だから、呼び名を付けているだけでしょうかね。とにかく、キツネの章は、とまどいながら読む部分が多かったです。何より気になったのは、どの大陸のいつの時代のどの戦争なのかわからなくて、それが一番気になって仕方なかったです。地雷が埋められていることを知らずに、ピーターが山道を進むので、クライマックスの危機が、コヨーテとの戦いだったことに拍子抜けしました。

ハリネズミ:コヨーテとの戦いをなしにすると、ピーターとパックスが暮らす、という結末にしないとおかしいのでは?

西山:そっか。パックスは人間界に決別して、自然界に戻るから? なるほど。でも、いろいろ不満を述べましたが、読んでよかったと思ってます。戦場で足を失い、それよりなにより人を殺したという罪の意識がPTSDとなっているヴォラの存在が本当に印象深く、魅力的でした。兵士がどのように心を壊されるか、自分が好きだった食べ物すら思い出せないという状態から、少しずつ自分を取り戻していったというヴォラの話が身にせまりました。シンドバッドの人形も本当に素敵。ヴォラの胸中を思うと切なく、そして、どんなにすばらしい人形か見たい、と思いました。映画化されるなら、これはすごく興味深いです。

ネズミ:おもしろく読みました。きびきびした文章で、章はじめの影絵のカットを見ながら先へ先へと読ませられました。戦争が一番のテーマなのだなと思います。キツネの名前がパックスだし。戦争病にかかって、正義の名のもとに殺し合いをする人間と、自然の営みとしてのみ他者を殺す動物というのが対比されているのかなと。だから、最後は仮にコヨーテに殺されてしまってもいいのかも。私も最初、戦争の実態がはっきりしないなと思っていたのですが、あとから、わざとそんなふうにあいまいに書くにとどめたのかもと思いました。寓話的な戦争として。保護した野生のキツネをピーターが12歳まで飼うというのは長いなと思いましたが、強い意志力や理解力があって、世間ずれしすぎておらず、いざとなれば生きる力があるためには、主人公は12歳じゃなきゃいけなかったかもしれません。ヴォラが魅力的だし、いろいろ考えさせられます。エージェントや編集者がサポートして、よくつくりこまれた作品なのかな。

ハリネズミ:お父さんは、妻を亡くしてそれがトラウマになって、息子にも暴力をふるっている。近未来なら、ピーターがいなくなったことも携帯かなんかで聞いているでしょうし、ドローンか何かで行方をつきとめるでしょうから、近未来とも言えないように思います。p326ではじめて父親は息子を抱きしめます。p327の描写も、お父さんのピーターに対する態度が変わったことを書いています。p330に「月日を経て弱まったお父さんの悲しみ」とあるので、お父さんの悲しみをパックスが感じたのはここがはじめてなんですね。「月日を経て」だから、妻のことを言ってるんですよね? お父さんも妻を失った悲しみを初めてここで表現することができて、今後変わっていくことを示唆しています。すごくうまくできている物語だと思いますが、私も最初読んだときはそこまで読み取れませんでした。深いところまで読み取るには、私の場合は2度読まなくてはなりませんでした。

ネズミ:いろんなところに伏線がありますね。

ハリネズミ:日本語版の編集者にはもっとがんばってほしかった。たとえばp8に1行だけ「パックス」とあります。ここは敢えて強調するためにしているのかと思ったけど、ほかにも最後のページに1行だけというのがいくつもある。普通の編集者だったら、前のページに追い込んで見栄えをよくし、ページ数をなるべく少なくします。p34も。ほかに、言葉のおかしいところもそのままになっているので、目配りをもう少ししてもらえれば、さらにいい本になったのに、と思いました。

ネズミ:p52も。あ、p177もですね。

レジーナ:とてもおもしろく読みました。ピーターは、母親を亡くしたあと、パックスを見つけ、心を通わせます。でも、父親に言われて山に放してしまい、それを深く悔やんで、迎えにいこうとするのですが、その心の動きが細やかに描かれています。ヴォラが、ピーターの無謀な計画を止めるのではなく、だまって松葉杖を作る場面は、武骨で温かな人柄がよく表れていますね。ヴォラは、戦争からもどってきたあとは、自分がどういう人間で、何をしたいかもわからなくなるほど、心に傷を負っています。ピーターがヴォラに不死鳥の話をしたり、人形劇をしたりして、それでもやりなおせると伝える場面は、胸に迫りました。ピーターはヴォラに助けられ、ヴォラもまた、ピーターに救われたのですね。p131で、ヴォラはピーターに、あんたは野生なのか、それとも飼われているのか、と問うのですが、これはピーターとパックスの関係に重なります。結末は、別れてからも、お互いに愛情をもちつづけ、ゆるやかにつながっていくあり方が示されているようで、希望を感じました。p256ですが、父親は、このキツネがパックスだとわかったのでしょうか。

ハリネズミ:お父さんは、パックスだってわかったんじゃないですか。ほかのキツネだったら、このお父さんだからけとばしてると思う。ここは「けるまね」だもの。

レジーナ:パックスのことを思いだし、一瞬、心がゆるんで、蹴らなかったのかと思ったのですが。

ハリネズミ:一緒に暮らしてたら、パックスの癖とかわかってるんじゃないかな。

レジーナ:ピーターならそうかもしれませんが、父親はパックスをかわいがっていたわけではないので、そうとも言えないのでは。

ハリネズミ:お父さんはよくこのしぐさを使ったからパックスにはわかったって、書いてありますよ。お父さんは通じると思ってやっているんだと思うけど。

ハル:お父さんは「ぎこちなく笑った」とも書いてありますね。パックスだとわかったんだと思って読みました。

レジーナ:そうすると、この再会は、ちょっとできすぎではないでしょうか。飼っていたキツネに、戦場で偶然会うなんて。

ハリネズミ:普通のキツネだったら、あまり意味のない描写になってしまいますよ。

ルパン(メール参加):おもしろかったです。ピーターとパックスが、突然の別れによってそれぞれ成長し、そのうえできちんとお別れするために再会するプロセスが丁寧に描かれているとおもいました。さいご、ピーターが兵隊人形を投げるシーンは泣けました。ただ、ヴォラの操り人形がちょっと唐突な気がしました。ヴォラも成長しますが、そこにピーターとパックスの関わりが絡んでいないので、なんだかそこだけ違和感がありました。ピーターがヴォラのところに戻るのかどうかも気になりました。

エーデルワイス(メール参加):この物語も戦争ですね。主人公のピーターとキツネのパックスの章が交互にあらわれ、最後再会して別れていくシーンは感動的です。ヴォラの再生には希望が持てました。ここにも図書館が出て来て、その司書を通じて、人形劇を一式寄付します。心に残る言葉がいっぱいありました。

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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マイケル・モーパーゴ『図書館にいたユニコーン』

図書館にいたユニコーン

ネズミ:ツボを押さえた「鉄板」の物語だなと思いました。本や図書館をめぐる物語というのも魅力的です。モーパーゴはうまいなと思ったポイントが2つあって、1つは子どもの気持ちをとてもうまくすくいあげているところ。たとえばp22の「ぼくは、のろのろと、せいいっぱい、ふてくされて歩いた」から数行の表現など、子どもの心情が生き生きと伝わってきます。2つめは、主な読者層にうまく伝わる表現で書いていること。シンプルな言葉でわかりやすいけれど、ある程度格調も高い。原文のそういう点を、翻訳もうまく再現しているのでしょう。中学年向けの物語として、とても感じがいいと思いました。

西山:絵がきれいですね。モーパーゴというのは、こういう作家なのかなぁ。安心して手渡せる戦争もの。深刻にしない。結構ひやひやさせても、最悪の事態は回避される。中学年くらいの心のキャパはこれくらいで、受け入れるにはほどよいのかもなあとは思いつつ、どうしても私は甘く感じてしまいます。冒頭は『日ざかり村に戦争がくる』(ファン・ファリアス著 宇野和美訳 福音館書店)を思いだしたのですが、展開は対照的でした。中学年くらいの心理に決定的な傷を負わせない、このくらいの戦争ものも必要なのかなぁと、読者を考えると、これでいいのかとも思うけれど・・・・・・という感じです。くり返しちゃいますけど。

ハル:この作家で、このテーマなのに、感動しませんでした・・・とは言いにくいような感じもしますが、正直なところ、いまひとつぴんときませんでした。このお話から、そこまで「本の力」というものは感じなかったし、お父さんが先頭に立って図書館から本を運び出すシーンも、どうしてここでお父さんなんだろう?と不思議でした。でも、みなさんのお話を聞いていて、誰に向けて書いている本なのか、対象となる読者のことも考えながら読まなくちゃいけないなと反省しました。もう1回、読み直してみたいです。

マリンゴ:今回「生きものと私」というテーマで3冊選書したのですが、この本に出てくる木彫りのユニコーンは生き物じゃないということで、いったん外しました。が、まあいいんじゃないかということで復活させてもらいました(笑)。 モーパーゴの作品、比較的長めのものを多く読んできましたが、こんなに少ない文字数でも、中学年向けに戦争の物語をしっかり伝えているのが、すごいな、と。たくさんの描写を重ねなくても、小さい子どもに届く書き方をしていますね。同じモーパーゴの『最後のオオカミ』(はらるい訳 文研出版)は、今年の夏の課題図書になりましたね。そちらのほうがよりドラマチックだけど、オオカミの生態に関して本当にそうなのかな?と、ひっかかるところがありました。それに対して、この本は、自然な流れで読めるので、私としてはこちらのほうが好きです。

ハリネズミ:さっきもちょっと出てきたんですが、子どもの心理描写がうまいですね。この子はちゃんと愛されてはいるけど、嘘はすべて見抜きます。また学校に行けとか、牛乳を飲めとかうるさく言うお母さんと、この子の関係をうかがわせる箇所が、さっきの場所以外に、p53にも「そうかんたんにお母さんを喜ばすつもりはなかった」とあります。1回ならず出てくるこの言葉で、母と子の関係をうまく浮き上がらせています。気になったのは、p90の文章「さいごのさいごに、先生とお父さんがユニコーンをかかえて出てきたのだ」とあるけれど、絵を見ると、まだ本を抱えた人たちが出てきている。文と絵にズレがあるんですけど、子どもが見たら疑問に思うんじゃないかな。それからお話にはまったく関係ないんですが、挿絵を見てもユニコーンの角がとがっています。で、子どもが来る図書館にこれを置いたら危険なんじゃないか、と心配になりました。
 イラク戦争の時に図書館の蔵書を守った司書さんの話は『バスラの図書館員』(ジャネット・ウィンター作 長田弘訳 晶文社)などで英語圏では有名なので、この物語もそれも下敷きにしているのかもしれません。でも、これは架空の場所だし、名前もいろいろで、舞台が特定できないようにわざと設定しているところとか、作者が顔を出して20年前のことを思い出して書くとか、「私も今はその図書館に行って時々お話をしまう」などという仕掛けにしているのは、モーパーゴならではのうまさですね。まあ、でもうますぎて、つるっとして印象が薄くなるという点もあるかもしれません。あと、モーパーゴにしては、メッセージが生の形で出てきているように感じました。ユニコーン先生が、いかにもみたいなメッセージを生の形で伝えてしまっています。ただ3,4年だと、生のメッセージも好きなので、これでもいいのでしょうか。大人が読むとちょっと物足りないですが。

アンヌ:以前に1度読んでいて、その時、さらりと読めるけれど何か物足りないと感じました。読み直してみても、主人公が夢中になっている山の生活の描写が魅力的だったぶん、図書館で本にひかれていくところが、もうひとつ納得がいきませんでした。お父さんがなぜ、火の中に飛び込んでいってまで本を救おうとしたのかも疑問です。たぶん、初めて声に出して家で本を読んだときに、両親ともすごく感動したというところに関係すると思うのですが……。一角獣の神話のところも、もう少しひねってあればおもしろいのにと思いました。

シア:マイケル・モーパーゴなので安心して読み始めました。読後感の良い作品で、さすがモーパーゴ、良くも悪くもできあがっている感じです。もう児童文学界のディズニーだなと! 絵も叙情的で合っていると思いました。学校図書館では、こういう厚さだといろいろな年齢層に読んでもらえますね。『カイト』なども置いていますが、手軽なので人気があります。モーパーゴはあまり多くをつめこまないから、基本的に厚みのない本になりますが、その分読者に考えさせると言うか訴えかけると思います。彼は表現というか、やり場のない苦しみは残さない感じがします。前向きさを感じます。反戦の話でも、悲惨さを強調するのではなく事実として捉えつつ、人の思いの強さを描いています。逆に悲惨な描写があることで、人々の良い行いが押し付けがましくなく自然な流れとなっていて、子どもにも善と悪のわかりやすい対比になっていると思います。本がちゃんと回収されて図書館が立派に再建されたりしていますからね。p49のユニコーンは現代ではイッカクになっているというくだりはおもしろいと感じました。実際、昔はイッカクの角がユニコーンの角として売られていたそうだし、角と歯という差はありますが、夢があって良いと思います。ユニコーン先生みたいな先生には憧れますね。子どもに本の良さを伝える意義深さを改めて感じます。こうやって本嫌いが治っていくのを見るのはうらやましいですね。小さい子への働きかけは大事ですよね。それがなかった子たちへの対応は本当にもう残念としか言いようがなく……。しかし、先生だけでなく子どもたちもみんなの前で話していくようになるのは海外では普通のことなんでしょうが、日本とは異なります。これが今後の日本の目指す教育のあり方なんだなと思ってしまいました。p14で、お父さんは、トマスをかばっているときは学校なんか行っても役に立たないとか言っていたけれど、トマスが読むようになって泣くほど喜んでくれたのには驚きました。p59の物語や詩を読むと夢を持ちたくなる、というのはすごくわかります。こういうのを知らない人はかわいそうだし、知らない人代表の冒頭のトマス少年は完全に未開人だったので、お母さんとユニコーン先生のおかげで文明人に成長できて、しかも小説家にまでなれて本当に良かったと思います。本嫌いは文化的な生活において致命的だということがわかりました。

カピバラ:モーパーゴということで期待して読みました。元図書館員としては、このタイトルは何て素敵!と思いました。モーパーゴは書きたいことがはっきりあって、それを上手に構成して物語として差し出す作家だと思います。私たちがなぜこんな読書会をしているかというと、それはひとえに、子どもに本の楽しさを伝えたい、と思っているからですよね。だから、全く本を読まない子が本の世界に目覚めるというところは、とにかく嬉しかったです。お母さんに無理やり引っ張られて図書館に入ってみたら、ユニコーンがいる! そしてきれいな女の人がいる! ちょっと司書が美化されていて偶像みたいになっているのはどうなのかと思いましたが、こういうところから本に導かれるというのも、この年齢の子どもならあるのかな。この文章量なので詳しくは書いていないけれど、さすがうまくまとまっていると思いました。本を読まずに野山をかけまわっていた子どもが、図書館の存在意義を知る。それだけでもよかったと思います。戦火の中で命がけで本を守った人々の実話はいろいろ伝わっており、本にもなっているので特に目新しくはないけれど、ドラマチックに盛り上げて希望をもって終わるところは、中学年向きのお話として良いと思います。

ネズミ:ユニコーンや司書のことですが、その前のp25にまず、ほかの子たちが前に行こうと、押し合いへし合いしているのを見て、「見たがっているものは、いったい、なんだろう?」と主人公が興味をひかれるシーンがあるので、私は美化されすぎているとは感じませんでした。

レジーナ:このテーマを、この分量で書くのは難しいと思うのですが、さすがモーパーゴですね。しぶしぶ親についていくときに、わざとゆっくり歩く場面は、私も子どものとき、同じようなことがあったのを思いだしました。子ども時代の記憶を持ちつづけ、作品にできるのはすごいですね。この子は学校が好きではなかったようですが、何か問題を抱えていたのでしょうか。さきほど、西山さんが、読者に決定的な傷を負わせない戦争ものだとおっしゃっていましたが、ユニコーンとか、本とか、そういう美しいものが失われていくのが戦争で、この本はそれを描きたかったのだと思います。時代も場所もはっきりとは明かされず、どこででも起こりうる話として描かれていますね。

西山:この子がかかえている問題ですけど、p65に、「カ行やタ行の音がだめで」と声を出して読むのが苦手だったというのが書いてありますね。

ハリネズミ:ちょっと吃音とかあったのかもしれませんね。

アンヌ:さすがモーパーゴ、仕掛けはあったんですね。読み落としていました。

 

ルパン(メール参加):聖書のアレンジなのでしょうか? ユニコーン先生のお話をそれほどおもしいと思わなかったので、どうしてそんなに任期になるのかわかりませんでした。図書館に引きずっていったのはお母さんなのに、本を命がけで守ったのはお父さんだったのも、びっくりしました。

エーデルワイス(メール参加):モーパーゴは大好きな作家です。この本は戦争がテーマですね。本のユニコーンにすわって絵本を読むのはすてきです。小さな村なのに図書館があって、司書がいて、子どもたちのためのお話会があるなんてすばらしい。図書館の充実がうらやましいです。

 

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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河合二湖『金魚たちの放課後』

金魚たちの放課後

アンヌ:転校生が来ると同級生の男の子たちが金魚畑に連れていくという始まりはとても楽しくて、何が起きるのだろうと期待したのですが、金魚がうまく飼えない悩みで、ちょっとがっかりしました。動植物を死なしてしまう「死の指」の持ち主なんて悩む割には、それほどのこともなく曖昧な現実を受け入れて終わるという感じです。2編目の「さよならシンドローム」の方がまとまっていますが、主人公の語り口が中学生というより30過ぎの女の人のようでした。あまり感情の波がなくて、金魚との別れについても淡々と終わる。2編とも、こんな話かなという予想を裏切られる意外な終わり方ではあったけれど、少し残念でした。

カピバラ:何か月か前に読んで、そのときはおもしろいと思ったんですけど、今思い返したらあまり覚えてなくて……印象に残るところが少なかったように思います。ペットを飼う話は多いですが、金魚というのはおもしろいと思いました。現代っ子らしい生活が描かれていると思います。

レジーナ:美しい装丁の本ですね。金魚畑という言葉は、おもしろいと思いました。ただ、盛り上がる場面が特にないので、全体的にぼんやりしているというか、あまり印象に残る本ではありませんでした。

ネズミ:金魚畑というのがおもしろいと思いました。さいしょの話は、お父さんは描けない漫画家、お母さんは夜家をあけることの多い看護師、お姉さんもかなりぶっとんでいて、家族設定にも新しさがありました。でも、さらっと読めて、今の子どもが読むと、うん、うんって思うのかもしれないけど、全体的になんとなくこぢんまりした感じがしました。なんでそう思うのかなと考えてみると、主人公が自力で動いて発見していくのではないからでしょうか。後の話も、主人公が金魚を連れていこうとするときに、案外人まかせで解決したり、友だちとの関係をとらえなおすきっかけが、母親の会話だったり。子どもたちを応援しようという作家の姿勢は感じましたが。

ハル:言いづらいですが……この本に出会って最初に思ったのは「仲間がいた!」ということです。確かに私も子どもの頃、金魚を飼ってはすぐに死なせていました。でも、恥ずかしいし「死なせてしまった」と考えると怖いし、私はそこに気づかないふりで通してきましたが、主人公はこのことを真剣にとらえている。さらに転校生の遠藤さんは「たくさん経験してみないとわからないんだから、何回でも金魚を飼ってみろ」と言う。優しいようでいて、なかなかドライな発言だと思います。金魚のふわふわしたかわいらしさと、どこかひんやりとした怖さというか、グロテスクさというか、そんなイメージが、思春期の少年少女の気持ちとからまっていくようで、とてもおもしろかったです。同じように「仲間がいた」と思う読者も、実は多いんじゃないかと思います。

マリンゴ:最初に読んだとき、これはすばらしいな、いい本だなと思いました。特に前半が印象的でした。物語に死の匂いがたちこめているのに、どこかさわやか。金魚というテーマだからこそだと思います。次々死んでいっても、金魚だと凄惨な感じがしませんし。多くの子どもが金魚を飼った経験、あると思うんですよね。なので共感しやすい。私も昔、職場で飼っていたグッピーの水を換えたら、一気に大量に死んだことがありました。ちゃんと一晩汲み置きしたんですけど……。そういう記憶をよみがえらせてくれる力が、この作品にはありました。後半、女の子が外国まで金魚を連れていこうという場面には驚きましたけれど。自分だったら、こんなに執着しないでさっさと誰かにあげてしまうかな。あと前半の主人公の男の子が、自分の指は死を呼ぶんじゃないかと、不安にかられているところがいいなと思いました。根拠のない不安感って、あると思うんです。何をやっても死なせない友だちをうらやむ感情。そういう心の描き方がうまくて、とても気に入った作品だったので、みなさんはどう読まれるか、感想をお聞きしたいなと思って。とても参考になっています。

ハリネズミ:金魚を飼うって、小学生くらいでほとんどの子が体験するように思います。だから、そのくらいの子が読むと、おもしろくて共感をもつのかも。でも、私はあまり文章にひきこまれませんでした。転校生の遠藤さんの言葉ですが、p100に「わたし、しょっちゅう転校ばっかりしてるような気がするけど、冷静に考えたらまだ二回しかしてないし、学校だって三か所しか知らない。もっともっとたくさん……せめて百回くらいは転校しないと、法則とか傾向なんて見つけられないのかもなって、最近思ってる」とあるんですが、ませた感じの女の子だとしても、小学生らしくないなと思ってしまいました。第1部と第2部の間に、3年が経過してますけど、子どもがあまり成長していないのも気になりました。金魚畑はおもしろいけど、それ意外にもオリジナリティや新鮮みがあるとさらによくなるように思います。たとえば家族は従来型だし、インド人の同級生がせっかく出てきても、カレーを食べてるというだけ。私はそういうところが物足りなかったのかもしれません。p138の「女の子は、かわいくてきれいなものが好きなはずなのに」もステレオタイプ。この作者は何歳くらいの方ですか?

レジーナ:77年生まれのようです。

ハリネズミ:それにしては、ちょっと古い感じがしてしまいました。自分では書けないのにこう言っては失礼ですが、さらにもう少しがんばっていただけるといいな、と。

シア:私は金魚が好きなのでワクワクしながら手にしました。表紙もとても可愛くて。でも、2話収録で意外と少なく、淡白な1冊でした。この方、『バターサンドの夜』(講談社)の作者ですよね、前作もそんな感じの印象を受けたんですよね。内容が軽くて、まるでメレンゲみたいにふわふわしています。YAなので「迷い」みたいなのがテーマになるのはわかりますが、続きのないシリーズもののような感覚に陥ります。答えがなくてはっきりしないので座りが悪い印象です。主人公の灰原くんも遠藤さんも目立って反抗するわけでもなく淡白。生きていても死んでいても静かな金魚が題材なせいなんでしょうか、淡々としています。「死神の指」という表現の仕方とか、灰原君のお姉さんは深刻な感じで、おもしろくなりそうな感じだったんですが。いじめられる子は自分に原因があると思ってしまうけど、そうではないんですよね。今は偶然でターゲットが決まる世の中。そこはうまく掬えていると思います。ただ、この子たちは私とは反応が違いますね。みんなそうだと思いますが、私もいろいろ飼ってもすぐ死んでいました。オタマジャクシを飼っていましたが、日々どんどん数が減っていきました。なんだろうと思ったら共食いしてたんですね。人間が寝ている間に、彼らは壮絶なバトルロイヤルしていました。最後に勝ち残った1匹は、足や手は出たが巨大になってカエルになりませんでした。なぜ、と調べたらヨウ素が足りなかったことがわかりました。私は原因を追及しながら自分のせいなど思わずに飼っていたので、灰原君の反応とは違いました。この作者って、窮屈な世代の子どもたちを扱って、窮屈な日常を切り取るのはとてもうまいと思います。中高生が読んで私もつらいなと共感するにはいいのではないかと思います。

西山:おもしろく読みましたが……。収録2作の間に3年たっているんですね。「サヨナラ・シンドローム」の冒頭で「期末テスト」「数学」とあって、誤植か、姉が主人公になるんだか、なんだ?と思って立ち止まったのですが、まさか、3年後の話だとは……。小学5年生と中学生の関心事はちがう。なにが切実なのかは大きく変わる時期ですよね。どちらの読者に読んでほしいのでしょう。後半でアメリカに金魚を送れるかどうかで、検疫だのなんだの調べたりするして、村上しいこの『こんとんじいちゃんの裏庭』(小学館)を思いだして、子どもが自分でいろいろ調べていくおもしろさ、情報の具体性がおもしろかったのですが、でも最終的に、思春期の心のほうにウェイトがいってしまうのっで、調べるワクワクを追求していく方は二の次になってしまう。そこが作品の個性になると思うのに。だから部分部分はおもしろかったけれど、あいまいな印象になってしまう。転校ものとしても興味深く読めたけれど、そこも主軸ではないんですよね。これ、という像を結ばないので、おもしろく読んだのに記憶から消えやすい、そういう作品の一つのように思います。

レジーナ:今の母娘は距離が近いので、友人関係の悩みも話すのでしょうね。それをこういう形で物語に入れて、読者がおもしろいと思うかはわかりませんが、リアルなのだと思います。

ルパン(メール参加):おもしろかったです。「水色の指」と「さよなら・シンドローム」、語り手が交替するパターンはよくありますが、これは時間がずれているのでおもしろいと思いました。「水色の指」は、私も生き物を育てたり死なせたりと、いろいろあったので、灰原くんの気持ちがよくわかりました。

エーデルワイス(メール参加):水色の涼しげな地にユーモラスな金魚の絵の表紙ですが、ほのぼのとした内容ではありません。前半は灰原慎、後半は遠藤蓮実と、2人に絞った展開がすっきりしています。金魚を取り上げているところがユニークだと思いました。飼った体験がある子は、確かに金魚の死や埋めたことなどに共感すると思います。金魚を外国に送ることなど知らないことばかりで興味を持ちました。慎は、なんでもそつなくできる子なのに、生き物を上手に育てることができません。家がバラバラゆえの心の不安定が影響しているかもしれないことにもどこかで気づいています。蓮実との交流で生き物に接する何かが変わっていくところがいいですね。慎とは違い家族は安定しているけれど転校をくり返す蓮実。学校での居場所や友人関係などは、社会の荒波にもまれているような大変さを感じます。本当の友だちとは、と投げかけている気がします。

 

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョン・ボイン『ヒトラーと暮らした少年』

ヒトラーと暮らした少年

『ヒトラーと暮らした少年』をおすすめします。

先日他界されたかこさとしさんは、子どもの視点をずっと持ち続けながら、何事もきとんち理論的に考える方だった。そのかこさんでさえ、子どもの頃は軍国少年で、15歳のときに図書館通いもやめる。文芸作品の読書などという軟弱なものは捨てて、軍人になる勉強をしなくては、と思ったからだ。しかし、視力が悪くなり軍人になることができずに命拾いをする。そして戦後、「誤った戦争をなぜ正義だと思い込んでしまったのか」と自問し、「私のような間違った判断をしないよう、真の賢さを身につけるお手伝いをしていこう」と考えて、子どもの本を書き始める。

本書は、主人公のピエロが7歳の時から始まる。ピエロはフランスに住んでいて、アンシェルという、耳の聞こえない親友がいる。ピエロの父はドイツ人で母はフランス人だが、二人ともやがて亡くなり、孤児となったピエロはドイツ人の叔母に引き取られ、ドイツ南部の山岳地帯にあるベルクホーフで暮らし始める。ベルクホーフはヒトラーの別荘で、ピエロはペーターと名前を変え、ここでヒトラーと出会い、かわいがられ、憧れ、ヒトラーの思想に染まっていく。そして、叔母さんたちのヒトラー暗殺計画を知ると、ヒトラーに知らせ、結果としておばさんは処刑されてしまう。ペーターは、自分の世話をしてくれたおばさんよりヒトラーの方を選び、ユダヤ人のアンシェルともぷっつり関係を絶つ。

先ほど、かこさん「でさえ」と書いた。もう一度ここで、多文化に親しんでいたはずのピエロ「でさえ」と書いてもいいかもしれない。子どもは、周囲の熱狂に左右されやすい。

オーストラリアのジャッキー・フレンチも、先生や親をはじめ周りがみんな間違った思想の持ち主だったら、子どもは簡単に染まってしまうかもしれないという危惧を持って、『ヒットラーのむすめ』(鈴木出版)を書いた。

子どもには、ゆかいな楽しい本も必要だ。でも、「真の賢さを身につける」助けになるような本も必要だと、私は最近つくづく思う。本書はそんな一冊。

(「トーハン週報」Monthly YA 2018年6月11日号掲載)


ドイツ人の父とフランス人の母の間に生まれたピエロは、両親とも亡くなるとドイツ人の叔母にひきとられる。叔母はヒトラーの別荘で家政婦をしていた。ピエロは、ヒトラーにかわいがられ、憧れを抱き、ヒトラーの思想に染まっていく。名前もペーターに変え、耳の不自由なユダヤ人の親友とは連絡を絶ち、叔母を裏切ってヒトラーに暗殺計画を密告する。強烈な存在の影響でどんどん変わっていく少年の姿は恐ろしいが、真の賢さとは何かについて考えさせてくれる。

原作:イギリス/13歳から/ヒトラー 第二次世界大戦

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2019」より)

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出久根育『チェコの十二ヵ月』

チェコの十二カ月〜おとぎの国に暮らす

『チェコの十二カ月〜おとぎの国に暮らす』をおすすめします。

チェコ在住の日本人画家によるエッセイ集。理論社のウェブサイトに十一年間にわたって掲載されていたものに加筆し、新たにすてきな絵を入れてあります。

たとえば冒頭の「冬から春へーー緑の季節を迎える前の春の色はことさら美しく感じます。厳しい冬を乗り越えた喜びとともに目に映る色だからでしょうか。夏の緑、秋の黄色、冬の灰色、では春の色は何色でしょう。春の風景はすべての季節の色が、点描で幾重にも重なって、水でふんわりとにじんだ絵のようです」という文章からも、もう少し先の「膨らんだ芽から小さな若葉が、生まれて初めての空を早く見ようと、我先にと押し合います。やわらかくて瑞々しく、子どもの肌のような透明な若葉です」という文章からもわかるように、感受性豊かな画家としての目をあちこちに感じます。だからかもしれませんが、私は一度しか行ったことのないチェコの田舎の情景が目の前にうかんできて、わくわくしました。

南モラビアの氏を追い出すお祭りや、チェコの伝統的な復活祭の様子、魔女の人形や絵を燃やす行事、ぶどうの収穫祭、マソプストなど珍しい風習も、楽しい絵とともに紹介されています。

夜汽車に乗って体験した芝居の話や、ビロード革命を記念するデモのことや、チェコではクリスマスにどんなお祝いをするのか(だれもおいしいと思っていないらしいのに、みんなコイの料理を食べるんですって)、なんていう話も、おもしろい。

画家さんの中にも、何度でも読み返したくなるような味のある、とてもじょうずな文章を書く方がいます。出久根さんもその一人。

読んでみると、副題にある「おとぎの国」に紛れ込んだような気持ちになれます。しかも、この「おとぎの国」は現実に存在している。そこが、またいいんですよね。

(「トーハン週報」Monthly YA 2018年4月9日号掲載)

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TOTO BONA LOKUA

TOTO BONA LOKUA(トト ボナ ロクア)

アーティスト:Richard Bona, Lokua Kanza, Gerald Toto
レーベル:Sunny Side

 

 

 

リチャード・ボナはカメルーン出身(ベーシストとしても有名)、ロクア・カンザはザイール(コンゴ出身)、ジェラルド・トトは西インド系のフランス人(生まれたのは、マルティニクという説とパリという説があります)。

この3人はふだん別々に音楽活動をしているのですが、ここではユニットを組んで、一緒に歌ったり演奏したりハモったりしています。それぞれの母語で歌っている曲は、私には意味がわからないのですが、英語で歌っている曲もあります。

小鳥の声や口笛や子どもの声が入っていたりして、うっとうしい季節に聞くと、さわやかになれます。

この3人がLugano Jazz Festivalに出演したときの映像が、以下にあります。

 

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Rough Guide to African Lullabies

Rough Guide to African Lullabies
(アフリカの子守唄入門)

アーティスト:Various
レーベル:World Music Network

 

前に紹介したAfrican Lullabyは、アフリカ各地の伝統的に子守唄を取り上げていましたが、こちらは、アフリカ各地の多彩なミュージシャンや楽器を紹介するのがメインの目的で、夜聞くのにふさわしい落ち着いた曲を集めてあります。

1曲目は南アフリカの男性アカペラ・グループのレディスミス・ブラック・マンバーゾ、3曲目はベナンのアンジェリック・キジョー、4曲目はマリのグリオの家系でンゴニを弾くバセク・クヤテ、5曲目はマリの二人の巨匠、ギタリストのアリ・ファルカ・トゥーレとコラ奏者のトゥマニ・ジャバテ、15曲目は南アフリカのミリアム・マケバと有名なアーティストを入れています。

国で言うと、南アフリカ、コンゴ、ベナン、マリ、モザンビーク、カーボベルデ、ソマリア、エチオピア、ガーナ、ジンバブウェ、セネガル、ギニア、タンザニアとこちらも多様だし、聞ける楽器も、本来はグリオの楽器だったンゴニやコラ、ギター、シンセサイザー、セプレワ(古いガーナの弦楽器)、ンビラ(親指ピアノ)、バラフォンなど様々です。歌が入っている曲もあるし、楽器だけの曲もあります。

私は個人的には、African Lullabyの方が好きなのですが、こちらも夜などにボリュームをおさえて聞くと、なかなかいいのです。最後は、タンザニアの歌「マライカ」を南アフリカ出身のミリアム・マケバが歌っています。

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2018年04月 テーマ:好きなものがある子どもたちの話

日付 2018年04月20日
参加者 アカシア、アンヌ、カピバラ、コアラ、さららん、西山、ネズミ、ハル、マリンゴ、ルパン、
レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ 好きなものがある子どもたちの話

読んだ本:

(さらに…)

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佐藤まどか『一〇五度』

一〇五度

さららん:「椅子をつくる」というテーマを新しく感じました。モックアップ(原寸模型)など専門用語がいっぱい並び、覚えきれないほどでしたね。主人公の真と出会い、椅子づくりの同士となるのは、スラックスをはいて登校する女の子梨々。梨々の造形が理知的でさわやかでした。真はというと、「LC4」という歴史的な椅子に座って、その良さと悪さを自分の頭と体を通して考えます。大好きな椅子であっても、そうした分析的な目がクールでいいな、と思いました。でも一方で、二人ともお金持ちの通う私立の学校に通っていて、真は勉強もできるし、椅子のデザインまでできる。真の強権的な父親以外、まわりがほぼみんな二人に協力的で、フィクションとはいえ恵まれすぎた環境のようにも思えます。椅子職人だった真のおじいちゃんが、まっこうから父親とぶつかる真に、そのときどきに必要な言葉を(「オヤジをだましときゃいい」などと、ときにはどきっとするような言葉も)発してくれるのがうれしかったです。

アカシア:著者がプロダクトデザイナーだけあって、イスがどのように考えられて作られているかがわかったり、現場での工程がわかったりする部分は、とてもおもしろかったです。一〇五度が少しリラックスしてすわるイスの背もたれの角度だとわかって、なるほどと思いました。真の祖父はそれに加えて、人間もおたがいに軽くよりかかるのがいいと言ったりして、象徴的な角度としても使われているんですね。できる子の真と、できない子の力という兄弟の対比が描かれ、できる子だって「なんでもできるんじゃなくて、無理してるんだよ。がんばっても認められない。それでまた無理をする。ストレスがたまる。この悪循環から抜け出せないんだ」と、そのつらさを書いています。そのあたりもいいな、と思いました。できる子の真は、勉強もがんばる、イスのコンクールでも高評価を得る、弟や梨々の勉強の面倒もみる、と「できすぎ」少年ですが、これだけ出来過ぎだとリアリティがなくなってエンタメになるかも。出来過ぎくらいにしておかないと、成立しない物語なんでしょうか?

コアラ:おもしろく読みました。椅子のことがかなり詳しく書かれていて、こういう世界があるのかと、知らない世界を知る楽しさがありました。ただ、主人公が中学生で、確かに中学生でも職人的なものに興味を持って詳しい人もいると思いますが、レベルが高校生くらいのような気もします。p134の7行目「結局女ってヒステリーだよな」という言葉は気になりました。p220で偏見を自覚する場面があるので残しているのかもしれませんが、p134では無自覚に言っていて誰も注意をしていません。そのほか、ご都合主義なところもいくつかあって気になりました。例えばp139で梨々の家に行こうとしていた真の前にちょうどおじいさんの早川宗二朗さんが現れるところとか。梨々についても、できすぎな女の子のように思いました。それから、タイトルになっている一〇五度という関係について、ちょっと寄りかかったほうがいい、というのは大人の関係かなという気がします。椅子の製作の過程はいいのですが、弟や父親との関係は、ストーリーにあまりなじんでいないというか荒っぽい感じがして、勢いで書いているようにも思えました。

アカシア:p134のところは、この子がそういうことを言うのはふつうじゃない、とそこでおじいさんが気づくというストーリーの運びになっているので、あえて言わせているのだと思います。それと、梨々ですが、私は女の子のオタクとして登場させているんだと思いました。ふつう、オタクは男の子がほとんどなので。

アンヌ:大人でも知らない、「プロの椅子づくりの世界」が描かれているのが楽しくて、モデラーという仕事や、工具や材料の名前などに漢字にカタカナのふり仮名をふってあるところとか、ある意味SFを読むときのように、わからなくてもどんどん読める感じがおもしろかった。主人公が15歳だとすると、お父さんは40代。おじいさんは70代かな。少し、おじいさんが年寄りに書かれすぎているかもしれません。真がまっすぐすぎて、勉強まで頑張って上位に入るなど、葛藤がなくて納得がいかない気もします。友人に失敗話をさせようとしたり、コンペで賞を取っても喜ばないお父さんというのは、あまりリアリティがない。親も未熟なんだろうなというのは大人にはわかりますが。少し一面的に感じました。

ルパン:「105度」については、なるほど!と思いました。でも、椅子を作るシーンは……空間図形に弱いせいか、イメージがわかず、あまり物語に入り込めませんでした。恵まれた環境にいる中学生が、大人の手を借りてやっている、という感覚がぬぐえず、等身大の共感は得られないと思いました。

アカシア:大人の手はできるだけ借りないようにして、この二人はがんばってた、というふうに私は理解しましたけど。

ルパン:それから、p251で真の父親が「将来は飢え死にする覚悟でやれ。茨の道を自分で選ぶ以上、泣き言を言うな」というところ、あれ、椅子づくりの道を選ぶことを許したのかな、と思ったのですが、次のページではどうやらそうではないような感じで、よくわからないまま終わってすっきりしないものが残りました。

アカシア:このお父さんは、一見子どものためを思ってアドバイスしているかのようですが、本当の真のことは、何も見ていないですね。真や、弟の力が、今何をおもしろがり、何に情熱を注いでいるかはまったく見ていない。賞をもらっても、まだ気づかない。だから真はがっかりするのだと思いますが、でもそれでもやろうと最後には思う、という終わり方なんじゃないでしょうか。

ルパン:ラストシーンで父親に「途中で放り投げても、助けてやるつもりはないぞ!」といわれた真は、「よし、放り投げずにやってやる!」ではなく、「ワクワクしていた気分が一気に萎えてくる」といっています。なんだか、助けてほしかったのかな、と思ってしまうシーンです。

アカシア:そこは、それでもこの子はやろうとしている、というところを浮き彫りにするための布石だと思います。

ハル:特に同世代の読者が読んだら、好きなものがあるってかっこいい! オタクってかっこいい!と思うでしょうし、自分も何か見つけてみたいと思わせてくれる本だと思いました。失敗しながら学んでいく姿にも、父親の反対を押し切って突き進んでいこうとする姿にも、読者は勇気づけられるだろうと思います。ただ、なぜか、登場人物の会話が無機質というか、血が通っていないような印象を全体的に受けました。いかにもせりふっぽいというか。そこが私は気になりました。

レジーナ:美大の工業デザイン学科に入学した友人の、初めての課題が椅子でした。4本の脚で体重を支えなきゃいけないから、椅子は難しいと言っていましたね。この本は、専門知識に基づく描写を通して、ものづくりのおもしろさが伝わってきました。家族の描き方は少し物足りなかったです。子どもを理解しない父親、そっと応援するおじいちゃん、というふうに、大人の描写が一面的で、生身の人間に感じられなかったからかな。

ネズミ:職業小説や部活ものというのでしょうか。『鉄のしぶきがはねる』(まはら三桃作 講談社)を思い出しました。椅子にのめりこんでいくのはとてもおもしろいけれど、こんなに成績にしばられている中学生や、ここまで子どもに期待する親がいる家庭って実際には1割もないんじゃないでしょうか。とすると、この主人公にどれだけの中学生が気持ちを寄せて読むのだろうと思ってしまいました。個性があるゆえに肩身の狭い思いをしている子どもは共感できるのかな。

西山:すごくおもしろく読みました。生身の子っぽくないのは、たしかにそうだけど、それは中学生らしくなかったということでは?と思ってます。高校生っぽい。進路の問題としては、中学生という設定が必要だったのでしょうけれど。中学生らしい「おバカさん」さがなくて、生身な感じを欠いている気がします。p47のスラックスをはく理由を語る梨々のせりふは、中学生としてはなじまないかもしれないけれど、「権利を行使した」と書いてくれたのは気持ちよかったです。なにより、物語が椅子にまっすぐ進んでいくのがすがすがしかったです。冒頭のからかいとか、梨々のスラックス姿とか、学校の友人関係のぐちゃぐちゃに展開するかと思いきや、すぱっと見切って、椅子づくりに進む潔さが新鮮な印象でした。病弱で、親から溺愛される弟への屈折が出てきて、あさのあつこの『バッテリー』を思いだしもしましたが、真と対照的な存在として、うまく書かれていたのか、最終的に二番煎じ感は消えていました。賞もとったのに、じゃあやっていい、と最後まで言わない父親も新鮮な気がしました。好きなもので食べていけるわけじゃない、ということを子どもにつきつけているシビアさが新鮮。昨今「子どもの夢を応援」する物わかりのよい親像が、実際はどうかは別として、建前としては主流のように私が感じているからでしょう。でも、真は負けていない。そこが、児童文学としての、作者の子どもへのエールかもしれない。あと、なにしろ、本がきれい! カバーをはずすと地模様が方眼紙だし、見返し遊び紙や扉がなんか上等だし、おしゃれな造本だなぁと愛でました。

ネズミ:お父さんの昔の友だちが死んでしまうというエピソードは、そこまで言うかなと思いましたが。

西山:それでも好きなことをやる方を選ぶんですよね。

マリンゴ:今回の3冊のなかで一番好きでした。佐藤さんの『リジェクション 心臓と死体と時速200km』(講談社)には、いまいちハマれなかったのですが、これはとても好きです。登場人物たちが高校生レベルなので中学生の読者が共感できるのか、といった話が先ほど出ていましたが、私はこれは、自分に重ねるのではなく、突き抜けたものとして読めばいいのだと思います。ここに出てくる中学生たちのことは、要するに藤井聡太六段だと思えばいいのです(笑)。椅子界の藤井聡太。読者は、そのエネルギーに引っ張られて、自分も何か打ち込めるものを見つけたいと思うのではないでしょうか。ただ、唯一、気になったのは、最後のコンテストの場面。エンタテインメントとしての盛り上がりを期待したんですけど、ライバルの描写が少ないんですよね。p240「繊細なラインで、ひと目見てすわりたくなるイスだ。斬新なアイディアはとくにないけど、細部まで気を抜かずに徹底して計算されてデザインされている」。具体的な描写がないので、どんな椅子かわかりません。ライバルの人物造形もない。敵が強く、ちゃんとイメージが湧くほうが、盛り上がるのに……とそこは残念でした。いずれにしろ、全体的に読みごたえがあるので、これが夏の課題図書として、たくさんの中学生たちに読まれるのはいいなと思います。

エーデルワイス(メール参加):「105度」ってなんだろう?と思っていたら椅子の角度だったのですね。新鮮です。椅子のデザイナーを目指す主人公は新しい視点。作者がプロテクトデザイナーらしいからその道を描いたのでしょうか。椅子に関するエピソードは興味深いです。父と息子の対立や、その父と祖父の関係も描かれてはいますが、この二人は対話を避けて逃げている感じです。もうちょっと深く描かれたら、もう少し納得できる感じがします。ところで、「スラカワ」こと早川梨々は女子ながらいつもスラックスをはいて目立っている設定ですが、私の中高生時代、あたりまえに制服の下に女子がスラックスをはいていました。ただの寒冷地ということかもしれませんが。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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三輪裕子『ぼくらは鉄道に乗って』

ぼくらは鉄道に乗って

さららん:ちょっと昔っぽい印象を受けたけれど、物語自体は好感が持てました。昔っぽいのは、時刻表を使うという理由だけでなく、人物造形のせいかもしれません。ともあれ、時刻表を具体的に使って、子どもたちが自分の頭と足で歩こうとしているところはいいですね。悠太の近所に引っ越してきた理子が、なぜ時刻表を見ていたのか、その謎が後半で解けます。離れ離れになった弟に会いに行きたい理子。親の都合で、がまんを重ねている子どもはいっぱいいますよね。子どもだって、自分で動いていい。心理の描き方は地味かもしれないけれど、次の電車に乗り遅れないように主人公の悠太がじっと待つところなど、よく理解できました。

レジーナ:インターネットで調べる場面を見て、鉄男もそういうのを活用するんだなと思いました。弟に会わせてもらえなくて、会いにいくというのは、ひと昔前の児童文学にありそうですね。

ネズミ:時刻表や図書館がきっかけになるのがおもしろいなと思いましたが、お話自体、とりたてて驚きや感動はありませんでした。理子は、案外活発で面倒見のよさそうな女の子なのに、弟に会ったあとに泣き崩れるというのが、ピンとこなくて、登場人物にもっと魅力があればいいのになと思いました。

マリンゴ: かわいらしい話で、好感を持ちました。好きなものがある子たち同士で惹かれあう……そういう人間関係の広がりが、いいなと思いました。読んでいると、電車に乗りたくなります。青森に行ったとき、気になっていたローカル線に乗らなかったことが今さら悔やまれたりして。ただ、小道具の時刻表ですけど、見ている時間が長すぎるのではないかと思いました。引っ越し当日、つまり冬休み最後の日に見ていて、春になって学年が上がってもまだ見ている。そんな何か月も時刻表を見てたら、さすがに千葉への行き方、わかるのでは?とツッコミを入れてしまいました(笑)。それはともかくとして、読書をする子はやっぱり女子が多いので、この本のように、男子に向けて書かれた本はとてもいいと思いました。この本をきっかけに読書好きになる男の子もいるかもしれませんよね。

カピバラ:今回のテーマ「好きなものがある子どもたちの話」っていいですよね。物語の設定として魅力があると思います。悠太は日本の児童文学に良く出てくるタイプの男の子。主人公がどういう子かというのは、物語を読んでいくうちにその子の行動や言葉を通して少しずつ見えてくるのがおもしろいのに、冒頭でぜんぶ説明しているのはつまらないですね。鉄道ファンにとって時刻表はとても魅力あるものだけど、その魅力があまり伝わってこないのが残念でした。鉄一のことを1歳しか違わないのに「鉄一センパイ」と呼ぶのはどうかと思いました。理子は自分のことをしゃべる子じゃないのに、p110では自分の境遇を聞かれもしないのにぺらぺらしゃべっているのがとても不自然でした。会話でぜんぶ説明しようとするとリアリティに欠けてしまいますね。

アカシア:私も時刻表などのおもしろさがもっと書かれているといいな、と思いました。それから、物語世界のリアリティをもう少し考えてほしいと思いました。鉄男の二人が、理子の弟に会いに行こうとするのも不自然だと私は思ってしまったし、保育園の先生が知らない子どもから受け取ったものを園児に渡すなんて、現実にはありえません。

コアラ:鉄道が好きな子どもの心理がうまく描かれていると思いました。例えばp39の「古い車両の列車が、夜じゅうかけて遠い町まで走り続けていくって想像すると、心がときめくっていうのかな」という隼人のせりふ、好きな気持ちがこちらにも伝染して、確かにいいよね、と思います。気になった場面は、p139からp141あたりの、保育園で悠太がヨッチに理子からのプレゼントを渡して、写真も撮るところ。ヨッチにとって悠太は知らない人なわけで、知らない人から物をもらって写真を撮られる、というのは危険だと思いました。それから、p55で悠太が「鉄道ファン」付録のメモカレンダーの2月のところに、隼人の名前と電話番号を書くところも気になりました。「鉄道ファン」は自分では買わずに図書館で読んでいますよね。誕生日に買ってもらったのは8月なので、その号には2月のメモカレンダーは付いていないはず。いつ買ったのかなと思いました。全体としてはおもしろかったです。

アンヌ:私は、鉄な従弟がいて、時刻表の魅力や乘った電車について語り合った事があるのですが、鉄は一日中でも時刻表を見ていられるそうです。もう少し、時刻表を見る楽しみなど書いてあると、その後の理子を鉄子と間違えたあたりがスムーズに展開したと思います。今回、そんな鉄の心を打つ名場面をあげますと、p20のパソコンの乗り換え検索と時刻表で「これで日本中どこでも旅ができるんだ」と思う場面、p38からp39の寝台車とローカル線という隼人と悠太のそれぞれの趣味を語り合う場面、p44からp47にかけての、大曲まで行くルートについて話すところ等があげられると思います。また、もはやない寝台電車での幻の旅を語り合うところも素敵です。気になったのは、理子についての描き方です。しっかりしているようなのに後半泣いてばかりいて、家族関係なども古風だと感じました。その他には、子どもにとって、鉄道博物館に行く在来線のルートもドキドキするものだという事が描かれているところも、うまく後半の大原行につながっています。ここは、東京以外に住んでいる子にとってもおもしろいかもしれません。隼人も悠太も何か事故があった時の対処法とかを考えていて、電車の道は一本ではないという事が書き込んであるところもいいなと思えました。

ルパン:おもしろく読みました。私は全然鉄道に興味がないのに、ワクワク感を共有できました。一番好きなシーンは、p25で理子の家が千葉の大原から越してきたと聞いた瞬間、それまでふてくされて黙っていた悠太が、「大原? いすみ鉄道が通ってる?」と反応するところです。こういう、何かひとつのことにマニアックに精通している小学生とかって、すごくおもしろい。今回のテーマにもある「好きなもののある子ども」の、魅力全開シーンだと思います。

ハル:私はもうちょっとワクワクしたかったなと思いました。鉄道博物館に行ったところとか、時刻表のこととか、鉄道好きじゃない読者も巻き込むほどのインパクトはなかったかなと思いましたが、鉄道好きな子が読むとまた全然違うでしょうか。理子の弟が登場したシーンはぐっときました。結局解決はしていないけど、線路でつながっているというところが、鉄道のロマンなのかな……。

カピバラ:目次の章見出しを読むだけで筋が全部わかってしまいますね。もっと工夫してほしいです。目次ページは右と左でフォントの大きさが違っています。それからもう一つ気になったのは、悠太が新幹線を見たことがないという点。これだけ鉄道が好きな子どもなら、お父さんと見に行ったりするんじゃないかな。

エーデルワイス(メール参加):私の文庫にこの本を入れたら、鉄道大好きな小6の男の子が借りていきました。挿絵もよかったのでしょう。家庭の抱える深刻な問題も、『鉄道』というフレーズで暗くならずにすんでいます。鉄道が大好きで乗り継いで目的地までゆくドキドキ、ワクワク感が出ています。東京の新宿の圧倒的な人混みを、子どもだけでよく頑張りましたね。小学生の頃、電車というより汽車に乗り一人で祖父母の家に行ったことを思い出しました。一日がかりだったように思います。冒険感でいっぱいでした。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョー・コットリル『レモンの図書室』

レモンの図書室

さららん:本だけが友だちのカリプソが主人公です。お母さんの死後、お父さんとの二人暮らしが始まり、カリプソはお父さんに暮らしの面倒を見てもらえません。でもメイという本好きの友だちが現れて、物語の世界を通して、カリプソの心の扉が開きます。レモンの研究書の執筆に打ち込むお父さんが、非常に子どもっぽいと感じましたね。現実を逃避するお父さんの心の問題が次第に明るみに出て、閉ざされた家庭に外からのケアが入ります。イギリスには、大人の世話をする子どもの会があることを初めて知って、新鮮でした。p188に「正常か異常か、その判断は人によってちがうんじゃない」とメイが言います。そんな言葉がこの物語を単純なものにせず、救っていますよね。幸せの形を自分で探すカリプソの物語になっています。ただ、いいところもたくさんあるけれど、わかりにくいところもありました。私にはお父さんが謎の人で、共感を抱けず、血の通う人間としての像が結べませんでした。子どもが大人をここまで理解し、包容する必要があるのかと、疑問も感じました。なお本文に出てくる本のタイトルが巻末にリストで出ているのは、とても親切ですね。でも文中には「未邦訳」の注をつけなくてもよいと思いました。それを見たとたん作品の世界の外に、放り出されてしまいます。

アンヌ:とても魅力的な表紙で、レモンの背景の地色の灰色がかったベージュの色に不安が表わされているようで見入ってしまいました。二人が出会う場面で、メイがカリプソの名前を木で組む場面とか、授業で、言葉を知っていることに尊敬の念を抱くところとか、古典的な児童文学について二人が夢中で話すところとかに、とても惹かれました。でも、カリプソはいつも空腹で、食事だけではなく洗濯も自分でしなくてはならない状況で、読んでいてつらく、父親への怒りを感じました。物語の後半は、あまりうまく描かれていない気がします。父親の状況を、父親とカリプソが交互に物語を書き合う事で説明してしまうところや、大人の面倒を見ている子供たちを支援する組織が妙に無力だったりするところとか。そして、これだけいろいろあったのに、最後はカリプソも父親と家庭を作るという結論には、なんだか昔『ケティ物語』(クーリッジ作、小学館)のラストを読んだ時のように、がっかりしてしまいました。気になった言葉がp10『少女ポリアンナ』(エレナー・ポーター作 角川文庫)の「よかったさがし」。本の内容を知っていても違和感のある感じがしました。村岡花子版では「喜びの遊び」「喜び探し」だったので、最近の訳はどうなんだろうと調べたら「幸せゲーム」「幸せさがし」などの訳があり、確かに「よかったさがし」としている本もありました。

ネズミ:p10のせりふだけ見ると、「よかった探し」と『少女ポリアンナ』は結びつかないですね。

コアラ:主人公は10歳ですが、本のつくりは大人っぽいと思いました。カリプソが赤毛でメイが黒髪で、物語の中でも『赤毛のアン』(モンゴメリー作 講談社他)が出てきますが、他にも『赤毛のアン』を思い出させるところがありました。例えばカリプソが学校を休んでメイがさびしがるところや、p239からの部分で大切なことに気付くところとか。それから、物語の中で本がたくさん出てくる割には、あまりワクワク感がありませんでした。やっぱりp10の「未邦訳」で気持ちが削がれたのかもしれません。それでもカリプソが本を大切にするところとか、共感できる部分もありました。巻末の「読書案内」は親切だと思いました。

アカシア:原文は、よく練られた美しい文章だったのですが、訳はかなりはずんだ元気な調子になっていますね。訳文の文体に私はちょっと違和感がありました。お話はおもしろく読んだのですが、いくつか引っかかる点がありました。一つは、この父親の状態ですが、大人なら想像がつきますが、子どもに理解できるのかな? 母親の本を全部外に出して、書棚にレモンを並べていたところも、父親が母親の思い出と訣別したかったのか、それとも単に精神が錯乱しているのか、そのあたりもよくわかりません。二つ目は、ダメ親と子どもの関係なのですが、現実では子どもが、「親がダメなのは自分のせいか」と思ったり、「自分がしっかりしないと家庭が崩壊する」と思ったりして、がんじがらめにされてしまうことも多いのではないでしょうか。たいていの児童文学では、作家はそうした子どもの側に立って、「もっと自分のことを考えてもいいんだよ」というメッセージを送りますが、この作者は逆に父親の側に立って愛情をもっと注ぐことを娘に奨励しているように見えます。そこに引っかかりました。表紙やカットの入れ方はいいですね。

カピバラ:10歳の子どもらしい感覚が描かれていると思いました。対象年齢がYAよりちょっと下に思えたのは、弾んだ訳文のせいかもしれません。子どもの気持ちや、パパやメイの描写は、ありきたりではなくおもしろかったです。例えばp198、パパの様子を「つかまるとわかって、身をかたくするハムスターみたい」という表現とか。自分にとってメイがどんなに大切な存在かと気づくことによって、パパには自分が必要なんだと気づくところが、すっと理解できました。ゲームに夢中になる子ども、パソコンから目が離せない大人など、今の子どもを取りまく現実がよく描かれ、その中にいながらカリプソは紙の本の価値を信じている昔ながらの子というのがほほえましかったです。知っている本のタイトルがたくさん出てくるのも読者にはうれしいと思います。

マリンゴ: 非常によかったです。冒頭で実在のいろんな本が紹介されていたので、図書室で子どもたちがさまざまな本を読む話かと思っていました。こんな物語だったとは! 親が大変な状況にあって、子どもが苦労する……こういうことは日本でも身近にあると思います。この子自身も相当個性的なのですが、そういうキャラクター、そして親との関係性を、一人称なのによく描けているなあと感じました。三人称のほうがきっと書きやすいはずですけど……。先ほど話題になっていましたが、「レモン」の解釈が日本と欧米で違って、ネガティブな意味があるところも、おもしろいですね。あと、余談ですけど、メイのお母さんのアイコって日本人ですよね。ステレオタイプな東洋人ではない描かれ方をしているのが、ちょっとうれしかったです。

ネズミ:母親が亡くなってから立ち直れない父親や、子どもの面倒を見られない親は、『さよなら、スパイダーマン』(アナベル・ピッチャー作 偕成社)や『紅のトキの空』(ジル・ルイス作 評論社)、『神隠しの教室』(山本悦子作 童心社)にも出てきますね。子どもがそれぞれの環境でそれぞれに親と向き合って生き延びていくというのは難しいテーマだけど、必要だと思うし、おもしろく読みました。ですが、この主人公は10歳で、感じ方など小学生が読んで、うんうんと思いそうなところがいっぱいあるのに、本のつくりが大人っぽくて、小学生が手に取るかどうかが疑問です。一人称の語りが、せりふの部分はいいけれど、地の文ではしっくりこなくて、三人称のほうがすっと入れたのではという気もしました。作者はこの子の目線を大事にしたかったのでしょうか。それと、結局、カウンセリングのゆくえがよくわからないですよね。リアルなのかもしれないけれど。日本だとマンガ『Papa told me』(榛野なな恵作 集英社)が1988年に出て、新しい親子像が描かれてきたけれど、この本のような父親は今もよくいるということなのかな。

カピバラ:カウンセリングは、与える側と受ける側にずれがあるところをうまく描いていると思います。受ける側は、なんとかしてほしい、と思って行くんですけどね。

レジーナ:とてもきれいな表紙です。YAにしても、大人っぽいつくりだと思いました。「大人を世話する子どもの会」というのはおもしろいですね。せりふはところどころ、しっくりこなかったです。p24「だめだめ! いえない!」「読んでる本の先をバラされるって、すっごく頭にくるよね。ほんとうにごめん! お願い、ゆるして!」、p133「もちろん知ってたよ! ここには本なんて一冊もないの。ふざけてみただけ! 怒らないで!」など、感嘆符が多いのは原書のままなのかもしれませんが、日本語で読んでいると、浮くというか、大げさに聞こえて。本棚のレモンを投げる描写もヒステリックで、読者はついていけるのか……。父親も、そういうのが嫌いなのはわかりますけど、カリプソがハロウィーンのお菓子をもらいに行きたがっているのに、頑なに反対します。いくら精神が不安定だとしても、自分の本をだれかが買ってくれたと喜んでいるカリプソに対して、ひどい態度をとるし。一人称は、その人の目に映る世界なので、すべてを描けないとしても、描写によっては、立体的な人物像になると思うのですが。

アカシア:このお父さんは出版業界にいるんですよね。だから、新人の原稿がそうそう採用されないのは知っているはず。なのに、送った原稿がある社から採用されなかっただけで、こんなに落ちこむなんて。リアリティという点でどうなんでしょう?

ハル:すごくきれいな装丁で、しっとりとしたお話かと思って読み始めたら、予想外の展開で。そのためか、お父さんは「おかしい」人なのか、ただ「心を閉ざしている」人なのか、どっちを意図して書かれているんだろうと少し戸惑いました。本を捨てていたことがおかしいのであって、レモンの歴史をまとめることや、レモンを棚に並べていたこと自体は「異常」ではないですよね? 絵面は衝撃的ですけど、レモンを研究していたわけですから。……でもやっぱりおかしいのかな。よくわかりません。でも、こういう、子どもが自分のことに集中できず、家のことや親の面倒を見なくてはいけないというような問題は確かにあるんだと思うし、このお話よりもっと切迫した状態の家庭もあるということも、この本を読んで想像することができました。主人公の女の子はとても大人びたところもあり、年相応に幼いところもあるので、読者には主人公の考え方や答えを丸のみにしないで、自分だったらどうするだろう、友達だったらどうしてあげることができるだろうと考えながら読んでほしいなと思いました。

ルパン:私はのめりこむようにして読みました。父親が書棚いっぱいにレモンを並べているシーンは、まるで本当に目に飛び込んできたように残像が残りました。強烈なシーンだったので、よほど書き込まれていたのかと思いましたが、あとで見返したらほんの半ページほどの出来事なんですね。それだけでリアルに壮絶さを見せる筆力はすごいと思いました。ところで、お父さんがここまで壊れてしまう原因はお母さん、つまり奥さんの死にあるわけですが、このお母さんも有名な画家で、ふつうの主婦ではないですよね。どんな女性だったんだろうと興味がわきました。それから、メイがとてもいい子ですね。カリプソに寄り添うメイの姿にとても共感がもてました。見守るメイのお母さんにも。p222にあるように、星を「濃紺の空にピンで刺したような穴が五つほど点々と光っていた」と表現するように、うまいなあ、と思えるところが何箇所もありました。救いがあるけれどご都合主義が鼻につくことはなく、後味も悪くなくて好感が持てる本でした。

カピバラ:p182の4行目の改行位置は、間違いではないでしょうか。カットの上ではないのに短く改行されています。

エーデルワイス(メール参加):親が心の病気で、その子どもが親を世話をする「ヤングケアラー」がいるんですね。そそれで「大人を世話する子どもの会」をつくっている。イギリスは進んでいるのか深刻なのか。日本も同じです。子どもは衣類を洗濯もしてもらえず食事も作ってもらえない。子ども時代を安心して過ごすことができない子が増えていることに怒りを覚えます。カリプソのように父親に対し憤りを覚えながら自分がなんとかしなければならないと頑張ってしまうことが本当に切ない。レモンに「欠陥品」「困難」という意味があることは初めて知りました。すっぱいからかな? カリプソは親友のメイとその家族の温かさに触れ、幸せになる・・・。良き人間同士の触れ合いが大事とのメッセージでしょうか。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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2018年03月 テーマ:学ぶということ

 

日付 2018年3月15日
参加者 アザミ、アンヌ、オオバコ、コアラ、さららん、西山、ネズミ、ハル、レジーナ、ルパン、
(エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 学ぶということ

読んだ本:

(さらに…)

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今村夏子『こちらあみ子』

『こちらあみ子』より「こちらあみ子」

さららん:一人称の物語なので、すみれの花を一生懸命掘って小学校の女の子にあげようとしている冒頭の場面、これだけの描写ができることができる主人公は、十分に考えることができる人物だと感じました。しかし読み進むうちに、あみ子のイメージが変わっていきます。周囲からは、どこか障害のある子どもといった見方をされていることがだんだんにわかってきました。あみ子には、義理の母さんの悲しみも、父さんや兄さんの気持ちも理解できない。長い間、慕っていたのり君に、ついに思いきり殴られたあみ子は、けがをして歯も抜けてしまう。しかしその歯をあえて直さず、歯茎に触るたびにのり君のことを思い出すあみ子の感覚に、唸らされました。だれかが初めて本気で、人間としてのあみ子に丸ごとぶつかってくれたことは、あみ子にとっては喜びなのです。たとえ完全な否定であれ、憎しみであれ、その瞬間生まれて初めて、「こちらあみ子……」と発信しつづけていたあみ子は、だれかと本当の意味でコミュニケーションできたのだと思います。淡々とあみ子に話しかける別のクラスメイトの少年がいることが、この話の救いになっています。児童文学ではなく、大人が読む本だけれど、人間の生きる矛盾、切なさ、その奥にある輝きを感じました。

レジーナ:発達障害か、何かそうしたものを抱えている子を主人公にして、その目に映る世界を描いているのはおもしろいと思いましたが……。子どもに向けて書いているわけではないですし、これは大人の本ですよね? 坊主頭の少年はあみ子のことを気にかけているようですが、全体としては救いがなく、目の前の子どもに手渡したいとは思いませんでした。

ネズミ:すべてを言葉で表していく『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント作 講談社)と比べると、情景を切り取って、人物の心情をそれとなく浮き彫りにする、とても日本的でこまやかな作品だと思いました。何を考えているか状況もわからず、登場人物たちの動きを追っていくうちに、だんだんと全体像が見えてくるというのは、文学としてはおもしろいけれども、子どもに手渡したいとは思わないな。どうしようもないコミュニケーション不全が根底にあって、父親は存在感が薄く、継母も精神を病んでしまうわけだし……。高校生ぐらいだったら、他者と理解し合うことを考えるきっかけになるかもしれないけれど、それでも非常に読者を選ぶ作品なのでは?

ハル:今回の選書係として、この読書会の趣旨に添わず「子どもの本」ではない本を選んでしまいました。申し訳ありませんでした。あみ子は変わっているし、勉強もできないし、何も学習していないようにみえるけれど、じゃあ、みんなとどこがちがうだろうと言われると、案外、みんな似たようなところがあるんじゃないかと思うのではないでしょうか。本当ならあみ子に応答してくれそうな坊主頭のクラスメイトのことは名前すら覚えず、助けも求めない。あみ子はあみ子のまま、ありのままであるからこそ、人の心をざわつかせ、隠していた嫌な気持ちを引き出してしまう。 暴力はいけないけれど、殴りたくなるのり君の気持ちもわかります。それでも、読後振り返ってみると、あみ子はあみ子なりに確実に成長しているんだなとわかります。「子どもの本」ではないですね。

アザミ:子どもの本と大人の本の違いを考えてみるには、いい本だと思います。あみ子は、15歳になっても周りの状況がまったく把握できないので、今なら発達障碍とかコミュニケーション障碍などと言われるのだと思います。この本は、そのあみ子からは、周りがどう見えるのかを書いているのがおもしろい。ただ、子どもがもし読んでも、あみ子になかなか共感できないと思います。共感するのは、大人ですよね。継母は、あみ子が「弟の墓」を見せた時点で神経を病んでしまうけど、一緒に住んでいるのだから、あみ子が普通とは違う感覚を持っているとわかっているはずなので、リアルに考えると解せない気がします。それに、父親は仕事で子どもをまったく顧みず、兄は暴走族で、あみ子はドロップアウト。こういう状況が他者の介在もなくずっと続くのは実際にはあまりないと思うので、ある意味寓話的な設定と考えてもいいのかもしれません。

コアラ:大人向けの小説だと思いました。主人公は子どもで、母親が自宅で開いている書道教室をのぞいたり、チョコレートクッキーの表面のチョコだけなめとったりと、子どもがやりそうなことはよくわかっている作者だなと思います。ただ、あみ子がなめとったあとのクッキーをのり君が知らずに食べた場面は、ぞっとしました。全体としてどう読んでいいかよくわからなかったというのが正直なところです。

ルパン:なんか、衝撃的でした。せつなすぎるし……どう表現すればいいのか、読了してしばらく絶句でした。成長があって、救いがあって、希望があって、という児童文学に浸りすぎていたのか?と思ったほどに。ただただ、あみ子の姿が哀れで、読後感は「つらい」という感じでした。最終的にあみ子は家族と離れておばあちゃんのところへ行くことになりますが、おばあちゃんはあみ子の良き理解者なのでしょうか。そうだとしても、あみ子よりずっと先に死ぬだろうし、今の唯一の友だちらしき「さきちゃん」も、いずれ大きくなればあみ子を相手にしなくなるであろうことも想像がつきます。救いといえば、あみ子に親切だった「坊主頭の男の子」の存在があったけれど、あみ子のほうでは彼に興味がなく、もう忘れてしまっているし……。それでもあみ子は傷つかないのに、まわりにいる人々は父も、継母も、兄も、のり君も、みなあみ子のせいで傷ついてしまう……そのことが悲しすぎて、やはり子どもたちに読ませたいとは思わないです。いろいろなハンデを背負った人がいることは、いつかは知ってもらいたいけれど、いきなりこれを渡すことはできない。やはり児童文学とはいえないのでは、と思います。

オオバコ:私は、児童文学とはまったく思わないで読みました。児童文学は最後に希望があったり、もう少し生きていこうと そういうのを伝えたいというのがあるから、これは違いますよね。学習障害のある子どもの物語としても読まなかったな。もっと普遍的な、人と人とのコミュニケーションの物語として、身につまされるような思いで最後まで読みました。善意で、ピュアな気持ちを伝えたつもりが、不幸な結果になる。たいていの人は、少しずつ学んで世俗的な知恵を身につけていくのに、あみ子はまったくそうならない。読んでいくうちに、なにか天晴れというか、聖女のような存在に思われてきました。トランシーバーが、じつに効果的に使われていて切ないですね。暴走族になってしまったお兄ちゃんが、窓の外の鳥の巣をぶんなげるところも目に見えるようだし、あみ子にまともに話をしてくる隣りの席の男の子や坊主頭の子(このふたりは同一人物?)、いい子だなあと胸が熱くなりました。竹馬で近づいてくる子ども、なんの暗喩なんでしょうね? 最後の一節、ぞくっとしました。

アザミ:児童文学は最後に希望があったり、それでも生きていこうと思わせるというのは、ひと昔前の言い方のように思います。YAだと今は希望がない終わり方作品がけっこうあります。私は、大人の文学と子どもの文学の違いは視点だと思っていますが、この作品はあみ子の視点のように思えて、じつはもっと複雑なのだと思います。

エーデルワイス(メール参加):優れた小説だと思いました。文章に魅せられました。書かれていないところに、なんともいえない余韻があります。あみ子が「発達障がい」らしいことがだんだん分かり、あみ子自身の思考が伝ってきます。家族が崩壊してしまうのだけれど、あみ子自身がちっとも失望していないで、前をみている。中学校の同級生の坊主頭が、「おれだけのひみつじゃ」「卒業しても忘れんなよ」と言うのが温かい。きちんとあみ子と向き合ったのは彼だけかもしれない。

しじみ71個分(メール参加):非常に残酷なストーリーで、読んで苦しくなりました。大人を描いた本であれば、大概、どんな残酷なことが書かれていても割と平気で読めるのですが、子どものことになると、誰かに助けてほしい気持ちでいっぱいになってしまい、これも読んでいて非常に辛くなる物語でした。あみ子本人は辛くもなく、不幸でもなく、いつでも純粋な愛情や欲求のままに行動しているだけで、何で周りがうまくいかなくなるのかが分からないけれど、周りはあみ子のために傷つきどんどん壊れていくさまを、ぎりぎりと追い込んで書けるのは大変な作家の力量だと思いました。また、お兄さんと保健の先生、名前すら覚えてもらえない隣の席の男子などの造形は物語の中で救いになって、読んで少し息がつけるところでした。隣の男子があみ子の問いに真摯に向き合う一瞬も非常に深い余韻を残しました。また、ライオンのような金髪のお兄さんが鳥の巣を放り投げ、巣が壊れていく場面は非常に映像的で美しく、見事にそれまでのあみ子と家族の物語が昇華され、クライマックスとなった感があり、読み応えがありました。しかし、他の2篇も読みましたが、やっぱり今村夏子は怖いです…読んでいて苦しくてたまりませんでした…。

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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さとうまきこ『魔法学校へようこそ』

魔法学校へようこそ

ネズミ:うーん、子どもたちに読ませたくないことはないけれど、積極的に読ませたいとも思わなかったというのが正直なところです。ため息をついていた3人の子どもが魔法使いのおばあさんに出会って、その後どうなるのかと読み進めました。おばあさんが時を9秒止める、9センチ物を持ちあげる魔法を教えるというのは、少しのことで人生は変わるということの象徴なのでしょうか。おばあさんが最後に3人に言葉ですべて説明してしまうのが残念でした。物語のなかで気づかせてくれるといいのになあと。

西山:ネズミさんはこの言葉を避けておっしゃってた気がしますが、言っちゃいますね。あまりおもしろくなかった。魔法を使って、もっと楽しめばいいのに。にょろにょろした矢印はおもしろいのに、と。いぬいとみこが『子どもと文学』(福音館書店)で、小川未明の幼年童話「なんでもはいります」に対して、「ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです」(p31)と批判していたのを思い出しました。『子どもと文学』の主張を全面的に支持するわけではありませんが、これは中学年向きに作られていると思うので、そのぐらいの子どもにとっては9秒時間を止められる、9センチ物を浮かすことができる魔法で、どきどきわくわくすることこそ大事なのだと思います。作家の主張がストレートに書かれてもいいけれど、それと同じだけ、というか、それ以上に、読者の心を自由に遊ばせることはおざなりになってはいけないと思います。

ハル:書き手の「伝えたい!!」という熱意が前面に出ている感じがしました。物語の始まりはわくわくするし、魔法が妙に限定的なところもおもしろいと思いましたが、メッセージがわかりやすすぎるので、読者も「あ、これはおもしろい本と思わせて、お説教しようとしているな?」と気づくと思うんです。「だまされないぞ!」という気持ちにならないでしょうか。読書感想文は書きやすいかもしれませんけど。

アザミ:私もあまりおもしろく読めませんでした。昔の時代劇みたいに、リアリティから遠い感じがしてしまって。現実には、三人の異質でこれまでほとんど話もしたことのない主人公が、おばあさんにちょっとくらい魔法を習ったからって、すんなり仲良くなったりしないでしょ。作者には、もう少し真剣に子どもと向き合ってほしいと思いました。紅子の口調が「〜だわ」というのも、現代の子どもにしては不自然です。

コアラ:さらっと読んで楽しむ本だと思いました。舞台となっている千歳船橋は、よく行く場所なので、駅前を思い出しながら読んだりして個人的にはおもしろかったです。

アンヌ:主人公にまったく個性がなくて、普通の子という設定なんでしょうが、なんだか人間像が浮かび上がってきません。物語自体はかわいくておもしろいけれど、お説教くさい。魔法も9という数字がおもしろいのに、最後にどうなるかというところで、全然違っていて拍子抜けする感じです。魅力的な要素があるのになぜか退屈な感じにおさまっています。それでも、もし動く矢印がいたらどうするかと問われたら、追いかけますと答えます。嫌いな世界ではないけれど、物足りない感じですね。

ルパン:とりあえず最後までさらっと読みました。いちばん気になったのは、子どもたちを名前でなく特徴で呼ぶことです。「背の高い少年」とか。ほかにもたくさんいるうちのひとりのような、十把ひとからげの呼び方ではなく、ちゃんと名前で呼んでもらいたいです。良かったのは、クラスで相手にされていない紅子と男の子たちがだんだん仲良くなるところ。はじめのうち、「学校では口をききたくない」と言っていた子たちが、堂々と仲良くするようになるまでのプロセスは好感がもてました。ただ、ストーリーがありきたりすぎて、結局あまりおもしろくない。時間が止まる魔法も、ほかの人の動きが止まってその間に何かするとか……発想が古いなあ、と思います。

オオバコ:図書館にある本をかたっぱしから読むような、とにかく読むのが好きな子が、するするっと読むような本だと思いました。作者は、みみっちい魔法を書きたかったのかしら? それだったら、みみっちさに徹すれば良かったのに、終わりのほうでなんだか壮大な話になってしまった。魔法使いのおばあさんの長い演説ですが、こういうのは演説で書かないで物語で書かなきゃね。まあ私も、小さいころは、けっこうこういう演説が好きだったけど……。

アザミ:私は大人が何らかの意図をもって猫なで声で迫って来るような作品は大嫌いでした。

さららん:私もするするっと読みきりました。最後に魔法使いのおばあさんの家が空にむかって発射されるところは、ひと昔前に書かれた児童文学、例えば1953年に書かれた『アーベルチェの冒険』(アニー・M・G・シュミット作 岩波少年文庫)や、1963年の『ガラスのエレベーター 宇宙にとびだす』(ロアルド・ダール 評論社)を思い出しました。おばあさんが3人の子どもたちの名前を覚えないのは、どうしてでしょう。紅子のことを「顔をかくした少女」と呼ぶのには意味がありそうだけれど。ちょっとした悩みのある、どこにでもいる子、ということを強く打ち出し、そんな3人を主人公にすることで、読者に身近な物語にしたかったのかもしれません。

アザミ:どうしてこの子たちは、おばあさんに呼び出されたんでしょうか?

オオバコ:わたしも、この3人がどうして選ばれたのかなと思いました。特に「ぼく」なんて、なんの悩みもないような子なのに。

アザミ:特に問題がない子どもたちを呼んだのだとすると、このおばあさんは問題がある子がたくさんいて忙しいわけだから、物語世界が破綻するのでは?

レジーナ:同じ作者の『9月0日大冒険』(偕成社)はおもしろく読みましたが、この本は、登場人物もステレオタイプですし、絵もクラシカルで、ひと昔前の本を読んでいるような……。

エーデルワイス(メール参加):ユーモラスな絵が、シリアスな内容の物語を助けていると思いました。ちょっとお説教臭いかな?

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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リンダ・マラリー・ハント『木の中の魚』

木の中の魚

アンヌ:アリーが自分は字が読めないということを言い出せるまでに、すごく時間がかかっているのが印象的でした。お兄さんも同じ難読症だとすると、2人そろって学校でそのことを指摘されないのは奇妙なので、そのことが不自然ではないように、7回も転校するという設定にしたのだろうと思いました。最初に校長室で読めなかったポスターの内容が「人に助けを求める勇気」で、最後にはアリーが自分でその字を何とか読もうとして、さらに絵が示すようにお兄さんに手を差し伸べるまでになる。1つの物語の中で、問題をすべて回収して見せているのは見事だと思いました。最初のうちジェシカがシェイにあまりに従うので、シェイは男の子なんだと思っていました。翻訳の作品では名前だけでは性別が分かりません。子どもたちの会話が『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ作 集英社)風なおばあさんっぽい言い方に聞こえたり、アルバートのけんかの場面のせりふが逐語訳的で、はきはきしていなかったりするのが気になりました。p241の「たより」のしゃれのように、苦労して翻訳したのだろうけれど、通じるかなと疑問に思うところもあります。『レイン〜雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 小峰書店)や『モッキンバード』(キャスリン・アースキン作 明石書店)を思い浮かべたのですが、あの2冊の本を読んだときには、過酷な状況を描きながらも未来に進む子どもへの信頼が感じられて、海外の作品の構造はすごいなと思ったのですが、ちょっと、この作品には物足りなさがありました。もう少し、どのように難読症を克服していったかの描写がほしかったと思います。難読症へのサポートを知る人は少なく、例えば高校受験の際のiPadの持ち込みは、まだ2県でしか認められていないそうです。難読症が、もっといろいろな人に知られる手掛かりが、註とか「あとがき」にあればいいのにと思いました。

オオバコ:おもしろく読みました。主人公のアリーが、難読症に悩みながらも矜持を保ちつつ生きているところが、とても良いと思いました。でも、アリーのお母さんは、どうして子どもが難読症だって大きくなるまで気づかなかったのかしら? お母さん自身にも、なにか問題があったのかな。7回転校したという話だけど、教師もここに至るまでなんで気づかなかったんでしょうね。内容については以上のほかにはあまりないのですが、本作りに関しては「どうしてだろう?」と思うところが多々ありました。タイトルがおもしろいので原題はなんていうのかと思って調べたんだけれど、クレジットというのかしら、原題、著者名、原出版社などが、どこにも書いてない。また、作者自身が難読症だったのか、あるいはそういう子どもに接した経験があるのか知りたかったけれど、「あとがき」もない。ふつう、こういう本って、専門家に訳文をチェックしてもらったり、難読症がどういうものかという説明があったりするのだけれど、なぜなんでしょう? 日本語の場合と、英語の場合の難読症のあらわれ方の違いなど知りたいと思いました。良いテーマの本なので、特別の事情があって超特急で作ったのなら、もったいない話ですよね。タイトルの『木の中の魚』のもとになった言葉も、アインシュタインが言ったと広く信じられている言葉で(本当はそうではないという話ですが)、アメリカの読者は、タイトルを見たときになんの話かすぐに分かるのかもしれないけれど、日本の読者にはちょっとピンとこないのでは? あと、良い悪いの問題ではなく、単純におもしろいと思ったのは、アリーの父親が軍隊の戦車隊の隊長と知った男の子が「マジ? すごいや!」と言うところ。アメリカの作品だなあ!と、つくづく思いました。日本やイギリスの作家だったら、こんな風にさらっと、呑気な書き方はできないんじゃないかな。

レジーナ:日本語は1文字1音なので、読みの困難があっても、なんとか読めてしまう場合があるのに対し、英語は音韻の変化が複雑です。だから、英語圏ではディスレクシアが表面化しやすく、周囲の大人が気づくという話を聞いたことがあります。アリーは2年生のとき、先生の前で、自分の名前が読めなかったようですが、それでもディスレクシアだと気づかれなかったのでしょうか。今は学校現場でも、理解が進んでいるのではないかと。ディスレクシアだけでなく、多動の傾向の少年など、いろんな子どもが出てくるのは良かったです。でも、p89の「ばっちい」や、p128の「おっかない」など、読んでいてひっかかる箇所がありました。今の子どもは、こういう言い方はしないですよ。全体の文体は今風なのに、そこだけ浮いているような……。すぐに意味がとれない箇所も、ところどころにありました。たとえば、p102の「『バカ』と『赤ちゃん』って言葉なんかを考えて、やっぱりアルバートはまちがってるよ」ですが、これは、字が読めない自分は赤ちゃんかバカみたいなものだと、アリーが思っているということでしょうか? p146の詩は、そんなにいい詩ではないので、それで賞をもらうのには違和感があります。p110の「一週間に一度までしか」は、「一度しか」では?

ネズミ:日本の作品にはあまりない良さだと思ったのは、主人公のディスレクシアの少女だけでなく、クラス内にいろいろな子どもが出てくるところです。アルバートとキーシャのことも含めて、先が知りたくなる展開でした。ただし、「難読症」を扱っているので、テーマ的にとりあげられやすい本だと思いますが、この本の登場人物と年齢が重なる5、6年生が読むのは厳しいのではないかと思いました。会話が多用されていますが、表現の仕方が日本人とかなり違います。違っているからおもしろい部分もあるのですが、もともとの文章の問題か訳文の問題か、どういう意味かすぐにわからず、前後を読み返すことが何度もありました。たとえば、p115の5行目からの「あのね……五年生で」で始まるせりふ。チーズクラッカーをだれが持ってきたのか、なかなかわかりませんでした。描かれている内容からすると、中学生よりも5、6年生に近い感じがしますが。難読症に関しては、本の上にスリット状の補助器具をのせて、1行か2行だけ見えるようにすると読みやすくなるという話を聞いたことがあります。難読症の子どもがそれとなく使えるように、「集中して読みたい人へ」のような表示をして常備している学校図書館もあるそうです。そういった日本の難読症の事情をあとがきなどで説明するとよかったと思います。章ごとの改ページも、目次もあとがきもないというのは、ページ数を抑えようとしたのでしょうか。

西山:たいへんおもしろく、学生と一緒に読んでもいいかなと思っていたんですけど、今のご指摘を聞いていると、ちょっと立ち止まってしまうかなぁ。でも、難読症の人がどんな困難をかかえているかは示してくれる気がして、そこは意味があるかなと思います。それと、アリーが浮いてないでみんなと一緒のようにしたいと思うのは、若い人には近しい感覚で、共感できるところが結構ある気がします。『ツー・ステップス!』(梨屋アリエ作 岩崎書店)のサヨちゃんを思い出しました。空気が読めないと疎まれる子が、何も感じていないのではなくて、本人も苦しんでるんだということ。それを、この作品も伝えてくれるかな。箱の中のものをあててごらんとか、ちょっとワークショップでやってみたくなるような材料もたくさんありますし。難もあるけど、やっぱり捨てがたいかなぁ……。学生に勧める場合は、最初は、次々人名が出てきて、しかもそれぞれに病名がつきそうな子どもたちでわかりにくいけれど、とりあえず、何ページかがまんして読みすすめるよう声かけしたいなと思います。解説がほしかったというのは、確かにそう思います。詩のところはやっぱりまずいかな。すばらしい詩だとはまったく思えなかったので、同情で賞をあげたのかと読む子ども読者も出てくると思います。個性的でいい詩じゃないと成立しませんよね。学生も、とまどうかなぁ……。難しいですね。

ハル:難読症という、特に日本ではあまり知られないハンディについての理解を深めるだけでなく、他人は自分のものさしでははかれない、さまざまな困難や大事なものを抱えているものだ、という発見を読者に与える、そして助けを求める勇気についても気づかせてくれる、良いお話だと思います。ただ、難読症だから天才で才能豊か、ということではないですよね。そこを誤解してしまうと、難読症でなくても勉強が苦手だったり、ほかの不得手なものを抱えている読者からしたら、救いが半減してしまうのではないかと気になりました。あんまり先生が「アリーはすごい、アリーはすごい」と言いすぎるのもちょっと心配。天才じゃなくてもいいじゃないですか。みんながみんなと同じように可能性をもっているということだと思うんです。アリーが、自分だけじゃなくてみんなも何かしら重石を抱えていることに気づく場面がありましたが、そこが大事だと思います。シェイの今後も心配です。そして、全体的になんだか読みにくいのは、子供たちの独特な言い回しやユーモアを含んだ会話が続くからかなと思っていましたが、皆さんの意見を聞いていると、もう少し、翻訳で努力できるところもあったのかなと思えてきました。

アザミ:なんだか余裕のない本づくりだな、と私も思いました。この訳者は、「グレッグのダメ日記」シリーズも訳している方ですよね。口調が同じようなので、作家は違うのにイメージがダブってしまいました。難読症を主人公にした本は、アメリカやイギリスではたくさん出ていますね。しかも、難読症の子どもも読めるように書体や配列が工夫してあります。私は、障碍を持った子どもや特別な状況におかれた子どもの本に「かわいそう」という言葉が出て来るのは好きじゃないのですが、この本にはいっぱい出てきますね。アルバートが不良をやっつける場面は、ご都合主義的な感じがしましたし、女性を守らなきゃという発想に、マッチョ的な思想がにじみ出ているようにも思いました。詩で賞をもらう場面は、意外な展開になるのでおもしろいところですが、肝心の詩をもっと日本の子どもでもなるほどと思うように訳してほしかったです。翻訳については、p48の「水だって? マジ? それだけ?」というシェイのセリフは、意地悪というより驚いているようにしか感じられないし、p79の「靴の上をはじいた」は?でしたし、p194でアリーがアルバートの面前でアルバートについて「食べ物がないんでしょ。冷蔵庫にも。おなかがすいても食べられないなんて、かわいそうだよ。それに、アルバートは恥ずかしいでしょ。たぶん。きっとそうだと思うんだ。でしょ」と言っているのは、自分も差別されてつらい思いをしているアリーのセリフにしてはあまりにも無神経で、ひっかかりました。作り方、訳し方しだいでは、もっとみんなに読まれる本になったのではないかと、ちょっと残念です。

コアラ:最後の方は感動的でした。ダニエルズ先生は理解のあるいい先生だし、キーシャもアルバートもいい友達として描かれています。ただ、この本のあちこちにちりばめられているたとえや表現が、ユーモラスにも思えますが、私にはあまりピンとこないというか、おもしろく感じられなくて、読み始めてしばらく慣れるまでに時間がかかりました。あとは、タイトルが少し地味かな、と思いました。

さららん:アルバートにもキーシャにも主人公のアリーにも、いいところはいっぱいある。テーマや展開も悪くない。ただ表現面で少しひっかかりを覚えました。まずは献辞。「ヒーロー」という表現は確かに海外の本でよく使われますが、「あなた方はヒーローです」で日本の読者に受けいれられるのか? またトラヴィス兄ちゃんの「おれのお気に入りの妹は元気か?」という言葉も、日本語として固い。翻訳のとき、どうしても日本語にならない言葉は、「トゲ」として固い表現のまま残すこともあると聞いていますが、「お気に入り」を生かす意味があるのかどうか、わかりませんでした。

オオバコ:「ヒーロー」は単に「中心人物」っていう意味でも使いますよね。

さららん:例えば「ヒーロー」を使わず、「あなたがたの勇気をたたえます」など別の表現があったかも。全体にバタ臭さの残る本だと思いました。

ルパン:ディスレクシアの友人がいるので、だいたいどういうものか知っているつもりでいましたが、これを読んで、「ああ、本人はそういうふうに見えているのか」と認識を新たにしました。この本にあるアリーの描写が医学的にも正しいのであれば、多くの子どもたちや学校の先生に読んでもらいたいと思います。実際、この作者かあるいは家族がディスレクシアなのか、それとも調べて書いたのか、知りたい気がします。先生が理想的すぎる気がしましたが、逆にひとつの理想像というものがあって、これを読んだ教師がそれをめざす、というのであれば良いと思います。

エーデルワイス(メール参加):ダニエル先生の授業が魅力的です。「ひとり」と「ひとりぼっち」の違いについて質問したり。「難読症(ディスレクシア)」の文字の学び方が視覚的に進むところも興味深いですね。「IM  POSSIBLE」 不と可能も、何度も発音してしてみました。スペルは同じですが、Ally=アリー Ally=仲間も素敵です。いじめは世界中にあるのだと思うと乗り越えるのは並大抵ではないですが、アリーはきっと素晴らしい芸術家になるだろうし、アルバートは科学者に、キーシャは料理家になるだろうし、アリーのお兄ちゃんもディスレクシアを克服するだろうと思わせて、読後感がよかったです。余談ですが、友人の息子さん(27歳)がADHD(注意欠陥、多動性障がい)で、最近2回にわたって、自分のことをみんなの前で話されました。同じ症状をもつ小学生や中学生もきて熱心に話を聴いていました。一人の勇気がみんなに伝わった瞬間を目の当たりにしました。

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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児童書は読書の土台です!

「読書推進運動」(読書推進運動協議会刊)2018年4月15日号に「児童書は読書の土台です!」という記事を書きました。JBBYの活動について、みなさんにも知っていただきたいと思いました。

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子どもの読書週間によせて
JBBY会長 さくまゆみこ

 

私は、昨年からJBBY会長という役目をおおせつかっている。子どもが本を読まなくなったという声は、ずいぶん昔から耳にタコができるほど聞いていたし、最近は、まったく本を読まない大学生さえ多いという。そんななかで何ができるのか、報酬なしのボランティアではありながら、大変チャレンジングな役目である。

出版不況に関しては、大人の本と比べると子どもの本はまだいい、という声も聞かれるが、多くの新聞では大人の本の紹介・書評欄は毎週あるが、児童書の場合はだいたいが月に1回だったりする。なので、多くの人が子どもにどんな本を買ったらいいのかわからず、書店で山積みになっている本に手を出してしまう。

売れる本イコール子どもの心に種をまける本ではないので、そうした本を与えられた子どもは、本や読書の本当のおもしろさに気づくことなく、大人になってしまう場合も多いのではないだろうか。読書離れを嘆くなら、読書の土台をつくる児童書にももっと焦点を当てて、子どもの視野を広げ心に響く本を紹介したほうがいいのではないだろうか?

ところでJBBYでは3年前から毎年、日本で創作された児童書を海外向けに英文で紹介するブックレットJapanese Children’s Booksを発行してきた。選考委員たちは、かなり突っこんだ論議を交わしながら選書をし、選ばれた本について原稿を書き、ネイティブのすばらしい翻訳者たちに英文にしてもらって、絵本、読み物、ノンフィクションに分けて合計約一〇〇点を紹介している。

これを日本語でも読みたいと言う声が多く寄せられたので、昨年度からは、その日本語版「おすすめ! 日本の子どもの本」も出版することになった。また今年度からは、翻訳の児童書のなかからおもしろい作品を選んで紹介するブックレット「おすすめ! 世界の子どもの本」も出版する予定で、現在選書を進めている。翻訳作品についてもブックレットを出そうと思ったのは、翻訳書でしか得られない多様な価値観や多様な文化を知ることも、今の日本の子どもにとっては重要だと思うからである。

また、昨年度からは「国際アンデルセン賞講座」として、日本から候補として推薦していた角野栄子さんと田島征三さんについて、学んだり話しあったりする連続講座も開き、最終回にはおふたりの講演会も開いた。こうした活動やブックレットが、角野さんのアンデルセン賞受賞にささやかなりともつながったのであれば、うれしいことである。

毎年好評の「JBBY新編集者講座」では新たな趣向を考えているし、さらに昨年度からは、日本にいる困難を抱えた子どもたちについて考え、本で支援する「希望プロジェクト」も発足させた。学びの会を開いたり、子ども食堂や南相馬の子どもたちに本を届けたりの地道な活動を今年度も続けていくつもりだ。

出版・教育関係者のみなさまにも、子どもの読書に関して様々な試みをしているJBBYの活動をさらに知っていただけるよう努力していきたいと思っている。

 

 

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ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』新装版 さくまゆみこ訳

ヒットラーのむすめ(新装版)

オーストラリアのフィクション。ある雨の日スクールバスを待っているときに、アンナは「ヒットラーには娘がいて……」というお話を始めます。マークは、アンナの作り話だと思いながらも、だんだんその話に引き込まれ、「もし自分のお父さんがヒットラーみたいに悪い人だったら……」「みんなが正しいと思っていることなのに、自分は間違っていると思ったら……」などと、いろいろと考え始めます。物語としてとてもうまくできています。現代の子どもが、戦争について考えるきっかけになるのではないかと思います。
(装丁:鈴木みのりさん 編集:今西大さん)

*オーストラリア児童図書賞・最優秀賞
*産経児童出版文化賞JR賞(準大賞)

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<新装版へのあとがき>

この本の著者ジャッキー・フレンチは14歳のころ、ドイツ語の宿題を手伝ってくれた人から少年時代の話を聞きました。その人は、ナチス支配下のドイツで育ったのですが、家族も教師も周囲の人もみんなヒットラーの信奉者だったので、自分も一切疑いを持たず、障害を持った人やユダヤ人やロマ人や同性愛者、そしてヒットラーの方針に反対する人々は、根絶やしにしなくてはいけないと思い込んでいたそうです。そしてその人は強制収容所の守衛になったものの、戦争が終わると戦犯として非難され、密出国してオーストラリアに渡ってきたとのことでした。「周囲が正気を失っているとき、子どもや若者はどうやったら正しいことと間違っていることの区別がつけられる?」と、その人は語っていたと言います。

作者のフレンチは、長い間そのことは忘れていました。でもある日家族で「キャバレー」の舞台を見に行った時、息子さんが、ウェイター役が美声で歌う「明日は我がもの」に共感し、その後にそのウェイターや周囲の人々がナチスの制服を着ているのに気づいてショックを受け、「自分もあの時代に生きていたら、ナチスに加わっていたかもしれない」とつぶやいたのだそうです。息子さんは当時14歳。それで、フレンチは自分が14歳のときに聞いた話を思い出し、この本を書かなくてはと思ったのでした。

本書がすばらしいのは、子どもが自分と世界の出来事を関連させて考えたり想像したりしていくところだと思います。今、戦争を子どもに伝えるのは、そう簡単ではありません。体験者の多くがもうあの世へ行ってしまって直接的な出来事として聞く機会は少なくなりました。それに、暗い物語は敬遠され、軽いものがもてはやされる時代です。そんななか、子どもへの伝え方を工夫して書かれたこの物語が、今の日本でも多くの人々に読み継がれているところに、わたしは一筋の光が見えているような気がしています。

さくまゆみこ

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キム・スレイター『セブン・レター・ワード』

セブン・レター・ワード〜7つの文字の謎

『セブン・レター・ワード〜7つの文字の謎』をおすすめします。

スクラブルって知ってる? アルファベットの文字が書かれたコマをボードのマスに並べて単語をつくっていくゲームなんだけど、この作品ではそのスクラブルがモチーフとして使われている。まるで、『不思議の国のアリス』がトランプを『鏡の国のアリス』がチェスをモチーフにしてたみたいにね。

主人公のフィンレイはイギリスで暮らす14歳の男の子。母親が何もいわずに家を出ていって以来、吃音がひどくなっている。今は家の設備工事をする父親と二人で暮らしているのだが、学校でも家でも、言葉がなかなか出てこないので、だれかが先を越して言ってしまったり、からかわれたり、いじめられたりする。でも、フィンレイの頭の中には言葉がたくさんつまっていて、さらに新しい言葉をコレクションしているから、スクラブルはお手のものなのだ。たいていはオンラインで、会ったことのない相手と対戦している。実際に会話する必要がないので、気が楽だからね。

物語は、いくつかの謎をめぐって展開する。フィンレイの母親はどうして消えたのか? フィンレイがネット上で知り合ったアレックスとは何者なのか? 父親は何を隠しているのか?

その一方で、今のイギリスのティーンエージャーたちが直面しそうな日常的な出来事(異質な者へのいじめ、外国人へのヘイト、全国学校スクラブル選手権大会、勇気、信念)などについても、ていねいに描いていく。スクラブルというゲームのおもしろさや、技をみがく方法についても書いてある。

個人的にちょっとだけ物足りなかったのは、母親の描き方。著者の前作『スマート』もそうだったけど、主人公の母親は犯罪者を告発しようとはせず、妥協したり身を引いたり我慢したりしてしまう。まあ、だからこそ、脅しもハンデも乗り越えようとする主人公がより強い印象を残すのかもしれないけどね。

(「トーハン週報」Monthly YA 2018年2月12日号掲載)

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2018年02月 テーマ:困難からの脱出

日付 2018年2月23日
参加者 アンヌ、オオバコ、コアラ、さららん、しじみ71個分、西山、
ピラカンサ、マリンゴ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ 困難からの脱出

読んだ本:

(さらに…)

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ジェイムズ・ハウ『ただ、見つめていた』

ただ、見つめていた

しじみ71個分:とても沈鬱なストーリーだという印象です。でも、作者がからみ合わない視線をテーマにして書いたのはとてもおもしろいと思いました。全くからみ合わないで互いに見ているだけの存在の3人の視線で描かれていて、からみ合わないがゆえに互いにさまざまな妄想を抱いたりするわけだけれども、それが父親から虐待されている女の子の精神が追い詰められ、幸せそうに見えた男の子の家に思わず入って物を取ってしまい、その取られた物が見つかるところから急激にぐぐっと、からまなかった視線の三角形が急に縮まっていき、その3つの視線がぶつかり、集まった点になった地点が、女の子が父親に殺されそうになるぎりぎり寸前のところで助けに入るという構造になっていて、それはとてもスリリングでおもしろいと思いました。でも、家族から虐待されている女の子が、現実逃避で空想の物語をつくるところで、テンポがクッと変わってしまうので、そこはちょっと読んでいてつまずくところがありました。ミステリーっぽいしかけはどうなるのか、興味をひかれました。いろいろなところで、伏線が効いています。また、最後のクライマックスで、父親に殺されかけているところで、幽体離脱みたいに苦しい思いをしている自分を客観視するというシーンは、リアリティがあると思いました。虐待を受けている自分を客観視することで、今苦しめられているのは自分じゃないと思おうとして、切り抜けようとするところは非常に切実ですね。主な登場人物は、女の子を除いて、それぞれアイデンティティの獲得とか、家族の問題とか、あれこれ困難を抱えていて、そのどこがどのようにその後からんでくるのか、わかりませんでしたが、そこが最後につながったのがとてもおもしろいと思いました。

アンヌ:この本はどうとらえていいかわかりませんでした。それぞれが語っていくところが、まるで映画の予告編を見せられ続けている感じで、最後にマーガレットの父親が出てきて、ああ、そういうわけだったのという感じでした。

ルパン:ところどころに別の物語がはさまっているのが、読みにくかったです。最後まで行ってからもう一度読み返してみれば、マーガレットの空想物語のところだけ活字がちがう、ということがわかるのですが、初めのほうにクリスの想像物語もぽん、と入れられているので、何がなんだかわからなくなります。しかも、活字がちがう挿入物語部分も、それがマーガレットの空想だということは伏せられているのですから、ますます混乱を招きます。最後のほうまでわけがわからないまま読み続け、これは最初から読み直さないとだめだ、と思ったあたりで、突然衝撃のシーンと種明かしがあって、ようやくなるほど、と合点がいったのですが・・・果たして子どもはこれを最後まで読めるのかな、と、はなはだ疑問に思います。ラストでどんでんがえし、みたいなものを狙ったのでしょうが、狙いすぎて流れがぎくしゃくしています。子どもでなくても、中高生でも理解しにくいストーリーだと思います。苦境にいる若者の内面世界を描きたかったのかもしれませんが、私の文庫で薦めたいとは思いませんでした。

オオバコ:マーガレットが盗みに入るところから、やっと物語が動いてきますね。そこからは、とてもおもしろくて一気に読みましたが、それまでがおもしろくない。特に、章の初めにあるおとぎばなし風の物語がわけがわからなくて、つまらなくて、途中で飛ばして読みました。読み終わったあとで読めば、なんのことかわかるけれど・・・。大人の私でもそうだから、子どもの読者は肝心の事件までたどりつけるかどうか。心より頭で書いた物語という気がしました。

コアラ:最後が思いがけない展開でした。ミステリアスで不思議な雰囲気だと思いながら読み進めましたが、マーガレットが他人の家に忍び込んだところで、気持ち悪くなって・・・。見つめていた段階から一線を越えてしまったという気がしました。最後はマーガレットにとっても解決になったし、クリスにとっても人助けができたので、とらわれていたものから解放されたし、エヴァンも、妹が悪い夢を見ていてオペラが流れていた家がここだとわかって解決とも言える。ラストで一応3人それぞれの解決になったと思いました。

レジーナ:同じ作者の『なぞのうさぎバニキュラ』(久慈美貴訳 福武書店)は子ども時代の愛読書で、何度も読みました。p119で、母親は、父親との不和について語ろうとしません。アメリカだったら、エヴァンくらいの年齢の子には説明すると思うのですが。

ピラカンサ:そこは、自分たちもはっきりわかっていないからでは?

レジーナ:この両親がどういう状況にあるのか、最後まで明かされないので、しっくりこないのかも。p28で、クリスは「願ってもしょうがない」とつぶやくのですが、台詞として唐突ですし、十代の子はこういう言い方をしないのではないでしょうか。p13の「けだもの」も、虐待している親を指しているので、「けもの」ではなく「けだもの」としたのでしょうが、はじめて読む人にはそれがわかりません。選ぶ言葉がうまくはまっていないように感じました。

西山:またこの形か、と私は思いました。視点人物を変えながら、謎を明かしていく。日本の創作だけじゃないんですね。この形の利点もおもしろさもあることはわかりますが、視点人物の年齢も違うとき、どの年齢の読者に寄り添って読んでほしいのかわからない。7,8歳のコーリーの不安、そこから生まれる虚言。14歳のエヴァン。18歳のクリス。それぞれにおもしろいところはあります。例えば、p52の真ん中あたりで、シェーンのひざを見て、「何度もサーフボードから落ちたりしたんだろうな・・・そう思うと、自分のことがひどく恥ずかしくなった」なんていう思春期の自意識にははっとさせられます。マーガレットの物語の隠喩がわかると、呪いをかけられた人形というのが母親なのもおもしろいと思いました。でも、全体としては満足の読書にはなりませんでしたね。

マリンゴ:抒情的ですけれど、わかりづらさに途中までイラッとする内容でした。3冊のなかでは最後に読んだのですが、正直苦手ですね。前に一度読みかけていて、途中で挫折してやめたこと、中盤になってようやく気づきました。ただ、伝わってきたテーマ自体はいいなぁ、と。「ただ見つめているだけ」でも、人間関係は知らないうちに生まれている。見つめられている側が気づいていたり、第三者が見守っていたり。自分はひとりぼっちだと思っていてもひとりきりじゃない。しかも、そこから一歩踏み出せば、さらに周りの人間とつながれる。そんなメッセージが伝わってきたように思いました。ただ、だからといって感動はできなかったんですけど(笑)

ピラカンサ:私がいいなと思ったのは、人間は見た目と内実が違うというところをさまざまな人間を通して描いているところです。幸せそうに見える家族とか、なんの不足もないように見える若者だって、いろいろな葛藤を抱えているということがわかってきます。ただ、視点が3つあり、しかもマーガレットが書いている物語と、クリスが思い描く昔話風の物語まで出てくるので、物語の構造が複雑で、子どもの読者は戸惑うのではないかと私も思います。p134あたりの描写も、なぜそんなことをしているのか最後まで読まないとわからないので、ストーカーみたいで不気味です。マーガレットが書く物語も最後まで読むとなるほどと思いますが、そこがわからないとあまりおもしろくありません。主人公の3人は、おたがいに見ているだけで親しいわけではないのに、マーガレットが虐待されているのを窓からのぞいたエヴァンがクリスを呼んできて一緒に助ける。そこは、物語のリアリティとしてどうなんでしょう? また、この父親ならマーガレットへの虐待は長く続いていたのかと思いますが、町のだれもそれには気づいていないというのも、どうなんでしょう? 物語世界のリアリティがもう少しあるといいな、と思いました。

エーデルワイス(メール参加):衝撃のラストでした。クリスとエヴァンとマーガレットの3人の様子が坦々と綴られていて、確かに3人はそれぞれ悩みがありそう。最後にこうくるか!という感じでした。本筋の間に出てくる架空の物語は、マーガレットが父親に秘密にしていたノートに書いていたものだったことも分かりました。マーガレットは無言で助けを求めていたのが、その無言ゆえにクリスとエヴァンに伝わったのでしょうか。マーガレットは救われましたが、クリスとエヴァンその後はどうなったのでしょうか。彼らの心も救われたのでしょうか。マーガレットの母親は自分夫が娘を虐待することを止めることができない。ただ音楽を鳴らし部屋に閉じこもるだけ。それがとてもやりきれない。母親も被害者と言えるのだけれど、本当にやりきれない。娘を救うことができないことが。原作は20年前に書かれているのですね。これも映画になりそうと、思いました。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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中川なをみ『ひかり舞う』

ひかり舞う

ピラカンサ:場所が点々と移って、様々な人に出会っていくので、細切れに読むとよくわからなくなりますね。一気に読むと、おもしろかったです。特にいいなと思ったのは、男の子が女の仕事をしようとするというところ。逆のケースはいろいろ書かれていますが、こういうのは少ないですね。物語の中のリアリティに関しては、武士の妻である主人公のお母さんが、子連れで出ていって、洗濯だの料理だのをしてお金を稼げるのかな、とか、おたあを引き取ることにする場面で、身分の低い縫い物師が主人のいる前で、そんなことを言い出すのはありなのか、とか、疑問に思いました。p229の6行目にここだけ「彼女」という言葉が出て来ますが、浮いているように思いました。

マリンゴ:おもしろく読みました。最初は、女性の仕事をする男の子の、お仕事成長物語なのかと思っていました。でも仕事の話が中心ではなく、住む場所がどんどん変わり、物語もいろいろなところに飛ぶので、ラスト30ページになってもどうやって終わるのか想像がつきませんでした。小西行長だけでなく、この女の子・おたあも実在の人物をモデルにしていると、あとがきで知って驚きました。あと、最後のほうは、キリスト教の思想がたくさん語られていますが、小学生がこれをどう読むのか、興味深いです。私自身、小学生の頃に『赤毛のアン』を読んで、ストーリーはわかるのだけど、いたるところに出てくる聖句の意味がさっぱり理解できなくて・・・。キリスト教系の学校に入学してから、ああなるほど、と意味を知ることができたので。小学生はこの文章の意味がわかるのか、あるいはわからないなりに読了するのか、単純な興味として気になりました。なお、知り合いに歴史小説を書いている作家さんがいるのですが、作品を発表すると、郷土史研究家はじめ、たくさんのマニアから時代考証について突っ込まれ、その戦いが大変だと聞きました。その点、この作品は、私の推察ですけれど、児童書だからということで自由に書いているのかな、というふうに感じました。もちろんそれはそれでよくて、おもしろかったです。

西山:まず、男の子のお針子がおもしろいというのがありました。吉橋通夫の『風の海峡』(講談社)を思いだして読みました。同じ時代で対馬に焦点を当てて、小西行長が出てきて、雑賀衆が魅力的で・・・複数の作品で、その時代に親しみが出てきたり、立体的に見えてきたりということがあるなぁと改めて思います。(追記:「望郷」の節では、村田喜代子の『龍秘御天歌』(文藝春秋)、『百年佳約』(講談社)も思いだしました。言いそびれましたが、これ、おすすめです。朝鮮から連れてこられた陶工たちのコミュニティの悲喜こもごもが、悲壮感でなくおおらかに物語られていてものすごく新鮮だった記憶があります。)
時代考証的にはちょこちょこ気になるところがあったのですが、当時「日本国」と言っていたのでしょうか。p187に「日本国は、この戦で人も金もつかいきってしまったんだ」という言葉があるのですが、「いま」がぽんと顔を出した気がしてひっかかりました。布や食べ物は丁寧に描写されるのに、父親が死んでもけろっと話が進む。妙に潔いというか・・・。そういうところに、いちいち立ち止まらないから、平史郎7歳から37歳までを駆け抜けられるのか、賛否わかれる気がします。また、別のことですが、p331の「五万ものそがれた鼻が塩づけされ、後日、京都にある耳塚に埋葬された」とありますが、確かに「鼻塚」とは聞かないから、そうなんでしょうけれど、読者は「鼻なのに耳?」となるのではないでしょうか。あと、捕らわれた朝鮮人が連行されるところで、p185では「人々の泣きさけぶ声が大きくなってくる」とあるのに、p186では「多くは押しだまって目だけをぎらつかせていた」と書いてあると、え?となってしまう。捕らわれた同郷人に胸を痛めて身を投げるおたあ(p208)とp248の「こづかれたりどなられたりしながら働いている子どもたち」を「笑って見ている」「貴族のむすめ」の感覚が矛盾するように思います。編集担当者はひっかからなかったのかなぁ……。

レジーナ:男性の縫い物師という設定はおもしろいのですが、それが歴史の動きとからむわけではなく、私はあまり入りこめませんでした。タツとの再会や、周二との出会いはうまくいきすぎていて、ご都合主義な印象を受けました。

西山:私は結構最後の方まで、お母さんに再会するのかと思ってました。出て来ませんでしたね。

コアラ:話がサクサク進むのがよかったです。ただ、いろいろなところで粗いというのは私も思いました。歴史的に調べていない気がします。でも、縫い物で身を立てるのはおもしろいと思います。今の時代、縫い物や編み物が好きな男の子もいますが、好きなことをしていいんだよと背中を押してくれているようにも思えます。気になったのが、p57に「慈しめよ」という言葉が出てきますが、唐突かなと。わかりにくい言葉だと思います。ただ、読み進めていくと、キリシタンが異質な者として描かれていて、この言葉もキリシタンの異質さと重なるようになっているのかなと思いました。全体的にはおもしろく読みました。

ピラカンサ:この「慈しめよ」は、主人公もわからなくて、そのうちだんだんわかっていく、という設定なので、これでいいんじゃないかな。

さららん:自分自身、子どもだった頃に、道で配られていたパンフレットでキリスト教に触れ、その教えをどう理解したらよいか、すごく悩んだ時期があります。教会に通う勇気もなかったので、文学の中で出会うさまざまな登場人物を通して、理解を深めてきました。もともと「百万人の福音」誌に連載された『ひかり舞う』には、キリシタンの生き様も背景に描かれ、「神はわれわれに最善を尽くしてくれていると信じるしかない」とストレートな表現も出てきます。歴史物語という枠組みのなかで、こんな言葉が子どもに届けられてもいいんじゃないかと思います。主人公は父親を早くに亡くしていて、どんな人物だったかよく覚えていない。でも母から伝えられた「慈しめよ」という言葉、そして成長のなかでキリスト教に触れることで、もしや父も信者だったのではと次第に気づいていく。父親捜しの物語も用意されていたんだと、発見がありました。描き方は深くはないかもしれないけれど、大きな枠の中で、こういうことがあったと子どもに伝える本であり、縫い物師の少年の目を借りて、小西行長を描いた試みとしてもおもしろかったですね。

オオバコ:最後までおもしろく読みましたが、「おたあ」を主人公にして書いたら、もっとよかったのにと思いました。朝鮮との交流や、侵略、迫害の歴史を児童書で書くのは、とても意味のある、素晴らしいことだと思います。ただ、周二が出てくるところまでは、あらすじだけを書いているみたいな淡々とした書きっぷりなので、途中で読むのを止めたくなりました。かぎ括弧の中の言葉遣いも「?」と思う個所がいくつかありましたね。ひとつ疑問なのは、男の縫物師が、当時それほど侮蔑されていたのかどうか・・・。これは、ちゃんとした着物の仕立てではなく、繕い物をしていたからなのか・・・。縫い物をしていたからこそ、お城の奥まで入りこめるし、いろいろな事柄を知ることができるので、そこはおもしろい工夫だと思いましたが。みなさんがおっしゃるように、歴史的な事柄に破たんがあるとしたら、もったいないなと思いました。

ルパン:飽きずに最後まで読みましたが、男が縫い物師であるという設定が、ほとんど生きていないように思いました。平史郎が針子であったがために物語が大きく動く、ということがないんです。しかも、盛りだくさんすぎて、作者が何を描きたいのかがよくわかりませんでした。明智光秀の衣裳係だった父、あっけなく死んでしまう妹、武家の妻なのに首洗いをして生きていこうとする母、そこまでして息子を守ろうとしている母から離れてしまう平史郎。さらに、男の針子として珍しがられたこと、雑賀の鉄砲衆のこと、小西行長のこと、朝鮮のこと、キリスト教のことなど、どれひとつとっても、それだけで一冊の本になりそうなものを詰め込みすぎて、結局どれも中途半端なのでは? そして、後半、おたあが主人公だっけ?と思うほど、おたあへの愛情はこと細かに描かれているのに、最後は突然現れたるいと幸せになります、で終わってしまう。読み終わってきょとんとしてしまった、というのが正直な感想です。

アンヌ:とにかく私は絵描きの周二が魅力的で好きです。主人公と二人で同じ海の夕焼けの赤に見とれている出会いの場面、一緒に組んで京都に出て店を開き周二がモテモテになる場面、周二がこの時代の風俗図のもとになるような人々の姿をスケッチしていくところなど、生き生きと描かれています。どんな絵を描いたのだろうと思い、美術史の本を見たりしました。そこにあった南蛮人渡来図などを見て、天鵞絨のマントや金糸の飾りをつけたズボンなどを見た日本人は驚いただろうなと思い、布地の魅力というものにはまった主人公の気持ちがわかる気がしました。専門職の仕立て屋というのは昔から男性もいたように思うのですが、とにかく主人公が女の仕事とされてきた繕い物から仕立てを覚えていくのが、独特の筋立てです。そして、時代を描いていく。歴史でキリシタン迫害のことを習っても、なかなか、こんなにキリシタンの人が沢山いたこととか、その人々の思いとかを知ることがありません。物語として描かれる意味を感じます。朝鮮への侵略戦争やその後の外交の復興と朝鮮通信使の魅力的な様子までが描かれていて、そこも、いいなと思えました。ただ、主人公がキリスト教にどう惹かれていったかはもうひとつはっきりしませんでした。朝鮮から連れて来られたおたあへの気持ちも、よくわからない。キリスト者として生きるおたあは孤独ではないですよね。だから、それでいいのかとか、もやもやした気持ちが残ります。

しじみ71個分:私は一気に、おもしろく読みました。これは、出会っては別れ、出会っては別れ、という男の一代記になっていますね。楽とは言えない人生の中で、出会う人がみんな魅力的で、その中でいろいろな気づきを得て成長していくというところはよかったと思いました。わたしも周二という人物はとても魅力的で好きなキャラクターでした。キリスト教系の雑誌に連載されていたと今日教えていただき、納得がいきました。キリスト教にはこだわって書かれていて、平史郎が当初はおたあなどキリシタンの考え方を理解できずにいたのが、おたあからクルスをもらって、最後にやっとはじめて理解でき、そこでキリスト教に対する共感や信仰が生まれているという心情の流れは、宗教に対する人の心の動きとしておもしろいと思って読みました。情景描写がとても美しいところが数か所あって、時々、うるっとなったところもありました。例えば、おたあを連れて、山に登り、海の向こう側に釜山が見えたというところなど、ところどころにキラッとする情景描写がありました。また、おたあを守ってるつもりで、実はそれが自分のためだったと気づいたり、など、主人公が自分の心と対話しながら考えていく内省的な表現はおもしろかったです。

エーデルワイス(メール参加):明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、小西行長、キリシタン、雑賀の鉄砲衆、二十六聖人・・・盛りだくさんの歴史読み物でした。琵琶湖、近江、京、対馬、壱岐、長崎、釜山と西日本縦断というスケールです。主人公は平四郎で武士で男でありながら針子として苦難の道を生きるのですが、様々盛り込み過ぎて、主人公の魅力が不足のような気がしました。父に死なれ、自分の責任のように妹を死なせてしまい、母と別れ、様々の人と出会い助けられ成長するのですがステレオタイプ。豊臣秀吉の朝鮮出兵と朝鮮の人々の悲劇、キリシタンのことを描きたかったら、いっそ「おたあ」を主人公にして、運命的に平四郎に出会う設定にしたらよかったのでは・・・と、思いました。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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栗沢まり『15歳、ぬけがら』

15歳、ぬけがら

アンヌ:いろいろなことがぶちまけられたまま終わった感じがして、あまり読後感がよくありませんでした。けれども、ところどころに胸を打つ言葉がありますね。例えば、p92からp102にかけてのマイナスの掛け算をどう考えるかのところ。主人公の「理解したい」という気持ちを見事にひろいあげていくところは、素晴らしいと思います。ただ、母親や優香さんのおこなっている出会い系の疑似恋愛じみた売春や、裏に暴力団の存在が見える中学生の援助交際や、それに絡む中高校生男子の中間搾取やカツアゲとか、これからも主人公の周りにある暗い淵は変わらないままで終わるこの物語を、誰にどう手渡せばいいのかと思う気持ちがあります。

ルパン:最後まですーっと読んでしまいました。あまり良くない前評判を聞いていたので身構えていたのですが、読み始めてみたら不快感はなく、こういう状態はきついだろうなあ、と、むしろ共感をもって読みました。ただ、ここに出てくる大人たちがなんとも情けなくて・・・主人公の麻美は一応成長して終わるのですが、ダメな大人はダメなまま。麻美をいじめる女子三人組とも、交流はないまま。そういった、ちょっとした口の中のえぐみのようなものは残りました。麻美が、部屋も制服や靴が汚れたままでいて、そのことに嫌気がさしているのに、自分で何とかしようとはしないところなど、イラっとさせられる部分もあるのですが、やはり自分でやる気を出すまでには時間が必要だったのだろうとも思いました。救われない部分が残るところが、リアリティを出しているのでしょう。読後感は悪くはありませんでした。

さららん:テーマを知らないまま、表紙には好感がもてず、タイトルもなんなんだろう?と読み始めましたが、一気に最後まで読み通してしまいました。自分が断片的に知っていた子どもの貧困の問題が、主人公の麻美を取り巻く状況の中に、これでもかというほど詰めこまれていましたね。麻美の立場なら、お腹もすくし、夜、町にも出たくなるだろうし、気持ちを重ねることができました。ときどき情景描写に心理を映し出す象徴的な表現がでてきて、それが強く印象に残りました。例えば学習支援の塾で食べた久しぶりのハンバーグ。フライパンを洗うとき、主人公はぐるぐる回る水を見つめながら、自分の整理のつかない感情をそこに重ねますよね。タイトルになっている「ぬけがら」もそうで、「声を出すその日まで、セミはこの体で、この形で生きていたんだ。ぬけがらに生き方が刻まれてるって、たしかに言えるかもしれない」と、「強いぬけがら」の象徴するものをきちんと言葉にしています。こんがらがった心のなかで、だれかのために何かすることの喜びを主人公は知っていき、そのための勇気もふるう。貧困の中の少女の成長物語として、道筋が見えている感じはするけれど、読んで嫌だという印象はありませんでした。

コアラ:強烈な印象を受けました。以前『神隠しの教室』(山本悦子著 童心社)を読んだときにも、貧困家庭の男の子が出てきて、給食を目当てに学校に行くような感じでびっくりしましたが、これは全編貧困が描かれていて本当に強烈でしたし、いろんな人に知ってもらいたい作品だと思いました。目次が全部食べ物になっていて、空腹だと食べることしか考えられなくなるんだなと思いました。麻美が、お腹をすかせた和馬を見てもお弁当を譲らず、自分ひとりで食べてしまって自己嫌悪に陥っていることに対して、p198で塾長が、「自分が全部食べることで、それをエネルギーに変えることもできるんだよね」「もっとたくさんの食料を手に入れて友達に提供できたら、こんなにすごいことはないんじゃないかな」と言っていて、塾長、いいこと言うなあと思いました。後半で麻美が「強いぬけがらになる」と言ったことについて、p185で男子学生が「ふつう、そういうふうには使わないんじゃないかなぁ」「マイナスの意味で使うんだよ」と言ったり、p218で優香さんが「『強いぬけらがになりたい』っていいな、と思ってさ」「『ぬけがらの意地』みたいな感じ?」と言ったりして、かなり説明されていて、タイトルの意味がわかるように書かれていると感じました。そういうぬけがらの話も、p169の、ぬけがらについての塾長の話、「ぬけがらって、そのセミの生き方そのもの、って気がするんだよね」という言葉で生きてくると思いました。装丁は好ましいとは思えませんが、力強い作品で、書く力のある人だなと思いました。問題が解決されているわけではないけれど、希望のある終わり方もいいですね。

西山:今回読むのは3回目になるのですが、失礼な言い方になるかもしれないけれど,再読して、評価が上がりました。どうも最初は、子どもの貧困にまつわるさまざまな情報のパッチワーク的な感じがしてしまって、このエピソードは聞いたことがある、とかあまり素直な読者になれていなかった気がします。物心つくときからこの状況というわけではないのに、こんなにものを知らないものかと、違和感を覚えてしまったり・・・。でも、今回、時間がない中どんどんページを繰ったのがよかったのか、でこぼこを感じずに読めました。どうしようもない汗臭さなど、生理的な感触と、あと、これは、学生と読んで気づかされたのですが、目次からして食べ物の話—−空腹と食欲の話として、一貫しているということで、作品としての背骨が通っていてよかったと思います。

マリンゴ:日常的な貧困をテーマにしたこの作品は、著者のデビュー作ですよね。これから、どんなテーマを取り上げていくのか、とても気になります。楽しみです。タイトルの「ぬけがら」がいいと思いました。ネガティブな意味で使われがちですが、ポジティブな意味も含めている。そういう発想の変換がよかったです。ただ・・・タイトルに「15歳」とあるので、15歳15歳、と自分に言い聞かせながら読んでいたのですけれど、どうしても12歳くらいの子の物語に思えてしまいました。例えばp60。お母さんが汚し放題で片付けをしないことへの不満が書かれていますが、「じゃあ、あなたがやれば」と読者はツッコミを入れるのではないかなぁ、と。15歳だったら、「出ていく」ことを考えるか、あるいは「自分でやる」ことを考えるか。何かリアクションがある気がしたのです。あと、余談になりますが、セミのぬけがらってたしかに美味しそうだなと思いました(笑)。調べたら、去年の夏、ラジオ番組で小学生が「セミのぬけがらは食べられますか」と質問したそうで、大阪の有名な昆虫館の方が回答しているのですが、「ぬけがらは、ワックスのような、油のようなものでコーティングされているので、生のままでは食べないほうがいい」とのことです(笑)

ピラカンサ:私は出てすぐに読んだのですが、家の中を探しても本がなかなか見つかりませんでした。それで、図書館で借りようと思ったのですが、私が住んでいる区の図書館はすべて貸し出し中。よく読まれているんですね。読み返すことができなかったので、最初に読んだ時の感想のメモですが、私はこの主人公があまり好きになれませんでした。私も、15歳なんだから、被害者意識ばかりもつのでなく、出ていくなり、自分で掃除やご飯づくりをしたりしたらいいのに、と思ってしまったんです。日本の状況だけを見ていれば共感する部分もありますが、海外にはもっとひどい状況のなかで生きている子もいるから。それに、貧困のリアリティも外から描いている感じがして、敬遠したくなってしまいました。

しじみ71個分:あまりひっかかるところなく、すっと読み通しました。年齢よりも幼く見えたり、何でも人のせいにしてしまったりすることに私は逆にリアリティを感じましたね。以前、医療系のシンポジウムで医師のお話を伺った際、貧困は、何をしても無駄、という諦めが続くことから、後天的な無能感、無力感が植え付けられるということを知りました。貧困の非常に難しい問題はそこにあるように思います。例えば、子ども食堂に関わって聞くところによると、フードバンクにお米があっても、家に炊飯器がないからお米が炊けない。家で調理しなくてもいいものでないと、なかなかもらわれていかないそうです。鍋と水があればご飯は炊けるし、ご飯じゃなくてもおかゆでも食べられるのに、調理方法を知らないからそれができないし、学ぼうという意欲もなかなか出てこないということがあります。生活保護の申請も、やればできるのに、それに気づけないし、何か言われるのが嫌で申請をする気も起きないということが実際にあるようです。なので、学習塾の支援があって、人との関わりの中で気づきが生まれてよかった、ダメなまま終わらなくてよかったと思いました。
貧困によって困難な状況にいる子、お金持ちの家の子なのに、親からの愛情を注がれず生活が崩れて困難な状況にいる子が、社会のはきだめみたいなところに寄せ集まって、互いに傷つけ合いながら、その中で互助、自助で生きていく様は理解できました。

ピラカンサ:私はこういう社会問題を扱った作品こそ、状況がわかるだけじゃなくて、だれもが読みたいと思えるように書いてほしいと思っているので、ちょっと点が辛いのかもしれません。

しじみ71個分:今、思いましたが、もし貧困ということを全く知らない子どもがこれを読んで、例えば同じクラスに、外見的にそう見える子がいたら、どう思うだろうかなと気になりました。あえて、経済的に困難な子を探したり、ことさらに意識したりという逆効果が生まれる恐れというのはないのでしょうか? 貧困という現象を、背景まで深く考えて想像できるかどうかどうかわからないかもしれませんね。大人であれば、社会現象として、こういうこともあるよな、と理解できるかもしれませんが。子どもが貧困ということを理解するのに、この本がどれぐらい助けになるかと考えています。

オオバコ:子どもの貧困というテーマを取り上げたのは、意欲的でよいことだと思いましたが、p14まで読んだところで「こういう展開で、こうなるだろうな・・・」と予想がつきました。戦後まもなく、セツルメント活動が盛んなときがあって、そういう活動をしている学生たちのなかから児童文学を書きはじめた人たちも大勢いたように思います。わたしが関わっていた児童文学の同人誌の同人にも、そういう方がいらっしゃいました。子どもの貧困は、ある意味、日本の児童文学の出発点のひとつだったような気がします。でも、日本全体が貧しかった当時の貧困と、いまの貧困は、ちがうんじゃないかな? 現在の子どもの貧困は、もっと構造的なものなのではないでしょうか? 村上しいこさんの『こんとんじいちゃんの裏庭』(小学館)には、多少とも現実の社会とのつながりがありましたが、この作品には、そういう社会的な広がりが見えないのが物足りなかった。塾長の描き方も曖昧ですし……。「お金持ち」の意地悪をする子たちの書き方もステレオタイプだと思いました。

しじみ71個分:作者は学習支援にも携わっていたということなので、子どもの困難をあれもこれも知らせなければと、現象を詰め込みすぎてしまったのでしょうか?

ピラカンサ:作者に、書かなきゃという意識が強すぎたのかもしれませんね。状況だけではなくて、もっと個を書いてほしかったと思いました。

ルパン:貧困の中にある人たちだけで閉じてしまっているような閉塞感があるんでしょうか。

しじみ71個分:自分の身近な例だと、母子家庭でどんなに経済的に苦しくて、働きづめで疲れていても、子ども食堂に来ないし、あまりつながりたくないようなんですね。子ども食堂なんて頼ったら終わりと言われたらしく、人に頼りたくないという意地もあるようで、そういうのは理解できます。閉塞といえば、それは実態として閉塞しているんじゃないかなと思います。

エーデルワイス(メール参加):作者が現在の子どもたちと関わったことがベースになっているのか、リアリティがありました。育児放棄しているだらしのない心の病気の母親。空腹の描写は本当に辛いですが、最低限の料理も掃除も教えられないとできないのですよね。かったるい様子の主人公15歳の少女の表紙と「ぬけがら」の文字は、マイナスイメージでしたが、実は前向きのメッセージがこめられていました。最後まで読まないと分かりませんね。いわゆる「子ども食堂」が児童読み物に登場したのですね。
こちらにも「こども食堂」が定期的に開かれています。一度お手伝いにいきました。
その日に集まった食材を、その日に集まった初対面のお手伝いボランティアで黙々と手際よく料理を作るのです。前もって献立が決まっていることは易しいですが、その場で決めるのは並大抵ではないと思いました。小学生、中学生が大学生に勉強を教わったりお喋りして楽しそうでした。自分の居場所があるのは本当に大切と思います。定期的に文庫の本を貸し出して、子どもたちに見てもらっています。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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アティヌーケ文 ブルックスバンク絵『チトくんとにぎやかないちば』さくまゆみこ訳

チトくんと にぎやかないちば

西アフリカの市場を舞台にした楽しい絵本です。チトくんは、お母さんにおんぶされて市場に出かけていきます。チトがきょろきょろしていると、市場のバナナ売りのアデさんが小さなバナナを6本くれます。チトはバナナを1本食べると、残りはお母さんが頭にのせているかごに、ぽいっと入れてしまいます。フェミさんからオレンジを5個もらうと、1個だけちゅうちゅうして、残りはお母さんのかごへ。こうして、お母さんのカゴの中に、揚げ菓子や、焼きトウモロコシや、ココナッツと、いろいろなものが入っていきます。

お母さんは値段の交渉に夢中で、ちっとも気づいていなかったのですが、やがてかごをおろしてみてびっくり! そして、最後のページがまたおもしろい。

文章を書いたアティヌーケはナイジェリア生まれの児童文学作家。絵を描いたブルックスバンクも西アフリカで育ちました。二人が大好きな西アフリカの市場のようすが、生き生きと伝わってきます。私もナイジェリアではいくつかの市場を訪ねたことがありますが、この絵本からは活気にあふれたざわめきまで聞こえてくるようです。
(編集:高尾健士さん 装丁:森枝雄司さん)

*2018年 子どものためのアフリカ図書賞(米 Children’s Africana Book Award)受賞作

 

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2018年01月 テーマ:魂の記録が残したものは

 

日付 2018年1月26日
参加者 アンヌ、コアラ、サンザシ、しじみ71個分、須藤、西山、ネズミ、花散
里、マリンゴ、レジーナ、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 魂の記録が残したものは

読んだ本:

(さらに…)

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ルータ・セペティス『凍てつく海のむこうに』

凍てつく海のむこうに

しじみ71個分:本屋で表紙を見たときからおもしろそうだと思っていましたが、本当におもしろかったです。まず、東プロイセンに取り残された人々を海路でドイツ本国へ住民を避難させる「ハンニバル作戦」があったということを全く知りませんで、その知識を得たことは有益でした。お話は、登場人物が代わる代わる語る形式で、全員が何か秘密を抱えており、各人のストーリーが結末に向かって集約されていくという構成で、スリルとサスペンスでずんずんと読んでしまいました。それぞれの秘密は、各国の美術品の略奪の補助をしていたところから美術品を持って逃げだしたことや、迫害されていたポーランドから逃れてきたこと、従妹を死に追いやる原因を作ったことなど、それぞれに重く、読んでいてドキドキしました。お話の中では悪役のアルフレッドの描き方も秀逸でした。手に赤く湿疹ができていて、ぼりぼりとかきむしるという描写に象徴される気持ち悪さ、不気味さが何ともいえませんでした。ヒトラーを狂信し、夢想と現実とのバランスを失いかけていて、精神の不均衡の象徴的存在で、手紙の中で好きだという隣家の少女もユダヤ人として告発したということが少しずつ分かってくるのもおもしろかった。この人物によっていつ、どんな破綻が起きるのか、ドキドキさせられて・・・。非常に大事なキーマンで、その暗黒さで話をおもしろく引き締めていたと思います。エミリアと筏に乗ったところで、ポーランド人のエミリアを殺そうとし、結局自滅して死んでいくことで、ここでカタルシス効果があるように思います。さまざまな人々が人種、国籍、体の特徴、性的指向等個人でどうにもならないことを迫害の理由とすることは今となっては理解しがたいですが、アルフレッドのような不気味さで、復活して来ないとも限らないという恐ろしさも感じました。

アンヌ:とてもおもしろくテンポもいい小説ですが、ある意味映画のように一瞬一瞬がくっきり照らされて、説明不足のまま進んで行ってしまうところを感じました。ナチスの美術品強奪に対してフローリアンが何をしたかったのかとかいうことも、もう一つはっきりしない感じです。ただ、ヨアーナのようにドイツ人とみなされて働かされた人々や様々な民族へのドイツやソ連の迫害等については知らなかったので、これからいろいろと調べて行きたいと思いました。

サンザシ:この本は出版されてすぐに読みました。長い小説ですが、人間がちゃんと書けているので、とても読み応えがあります。様々な人生が出会って、その交流からまたそれぞれの人が力をもらって生きていく様子も描かれています。冷たい海で命を落としたエミリアは哀れですが、最後の章に、おだやかに幸せ感あふれる描写が出てくるのは、悲しいし美しいですね。ドイツ人のアルフレッド(正しくはアルフレートでしょうね?)だけが極めつけのどうしようもない存在に描かれていますが、それでも、手をかきむしるなど、どこかに無理が出ているのですね。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。知らないこともたくさん書かれていて、勉強になりました。4人の登場人物の一人称なので、緊張感が途切れることなく、話が展開していきます。たとえとして正解かわかりませんが、ドラマ「24」を見ている感覚に少し近かったです。エミリアの出産に関するミスリードについても、他の人の一人称がうまく使われています。真相が明らかになったとき、登場人物たちも驚くので、「だまされた」という不快感がなく読めました。そのあたり、とても巧みだと思います。よかったところをいくつか挙げていくと……。まず67ページの「ポーランドの家庭では、コウノトリに巣をつくってほしいと思うと、高いさおのてっぺんに荷馬車の車輪を打ちつけておく」。非常に印象的で、なるほど、そうやってコウノトリといっしょに生活しているのか、と。すると、後ろのページでも「コウノトリ」が登場し、最後、エミリアが死ぬ前に見た夢(?)のなかにも出てきて、効いてるなぁ、と思いました。166ページの、混乱のなかでドイツ人が整然と列をつくるシーンは、国民性が現れていて、絵が浮かんでくるようでした。288ページで、靴職人が赤ちゃんにも「靴を見つけてやらんとな」というシーンも、登場人物の個性が端的に表れていていいと思いました。もっとも、擬声語が2か所、気になりまして……。冒頭の銃声の「バンッ」、船が沈没するシーンの「ドンッ」。この2つの多用は、せっかくの作品を幼いイメージに見せている気がしました。なお、最後の参考図書一覧は、著者が参考にした本、ではないのですよね? 翻訳の方、編集の方が使われた文献なのかしら。

須藤:作者のルータ・セペティスさんがあとがきに書かれているように、この本をきっかけにして、歴史に興味を持ってもらえたらうれしいので、訳者の方と相談して、参考になる本を紹介するつもりで入れました。

しじみ71個分:擬音は私も気になりました。最初の方の章で、銃声が場面転換のきっかけになっている箇所がありますが、カタカナで「バンッ!」と書くと少々野暮ったく、映画などであれば、少し乾いた「パン!」(再現不能)という音になるのではないかと思うのですけど、頭の中の銃声と字面が一致しなくて、少し引っ掛かってしまいました。擬音は表現が難しいですね。

西山:私は同じ作者の『灰色の地平線のかなたに』(野沢佳織訳 岩波書店)がすごく好きなんです。それで、読まなくてはと思いつつまだだったので、今回とても楽しみでした。で、長かろうが、絶対読み始めたら一息に読めるだろうからと、最後に取っておいたんです。そうしたら、まぁ、期待とは全然違って、どんどん読めなくて・・・・・・読み終わらなかったのを作品のせいにするのは、身勝手だとは思いますが、まぁ、敢えて言ってしまえば、私の期待した作品ではなかった、と。言葉は悪いですが、一人称の4人の切り替えが思わせぶりというか、あざといというか、凝りすぎと感じてしまった。『灰色の地平線のかなたに』は、ソ連のリトアニア支配、シベリアへの強制連行という、私は知らなかった出来事、舞台でしたけど、時間も空間も単線だったんですね(もちろん、多少の回想部分もありますが)。ぐいぐい読めた。中身がひっぱっていく作品でした。造り=語り方で引き回すのでなく。(補足:この後、最後まで読みましたが、皆さんの話をうかがったうえでも、この時点で抱いてしまった不満は払拭されませんでした。うまい作品を読ませてもらったという感触は、『灰色の地平線のかなたに』で、出来事とリナたちの姿を突きつけられてしまった、そこに投げ込まれ圧倒されたという感触ととても違っています。今回は、作品が最後まで「本」だった。いっそ、歴史ミステリーと割り切って読めば素直に楽しめたのかもしれません。この辺は、一人称の語りの功罪とあわせていずれじっくり考えてみたいと思います。)
真実を隠した話者たちの切り替えは、こういう史実に基づく重い事実を伝えるうまいやり方でもあるとは思います。同時に、その造りがかえって「むずかしい」にもなりはしないかと思ってしまう。素直な造りの『灰色の地平線のかなたに』の方が案外、読みやすいとう面もあると思います。

サンザシ:この作品は、さまざまな一人称でしか書けませんよね。それに今は英米ではこういう複数の視点で書いた作品はいっぱいあるので、凝った造りとは言えないと思います。私は読みやすかったな。

西山:3分の1ほどしか読み終わってませんけど、アルフレッドは密告したのだろうなと思っていたら当たりましたね。嫌な人がちゃんと描けるのが、この作者の魅力の一つだと思っています。『灰色の地平線のかなたに』のスターラスさんが何しろすごいと思っているので、それに準じるのが、「悪いけどエヴァ」でしたね。アルフレッドは新しい怖さでした。

ルパン:私は一気読みでした。冒頭だけは、入りこむまでに時間がかかりましたが。やはり、エミリアが一番せつなかったです。いとこの代わりに犠牲になり、レイプされて妊娠し、思いを寄せたアウグストからもフローリアンからも女性としては愛されないまま死んでしまうなんて。ただ、エミリアは、死んだあとは、自分の子どもが、憧れの「騎士」フローリアンの娘として愛されて育てられ、オリンピックの選手になるし、自分のなきがらも見知らぬ土地で手厚く葬られるという救いがあります。救いのないのはアルフレッド。だれからも愛されず、理解されず、嫌われ、さげすまれたまま冷たい海に落ちて死んでいくのですから。デフォルメされているけれど、こういう人はきっといる、というリアリティがあって、それだけに読んでいて苦しい気持ちにさせられました。脇役では、靴職人と少年がいいですね。ただ、「少年」は名前で出したほうが、よかったのでは。盲目の少女イングリッドは名前で出てくるので、とちゅうで亡くなってもインパクトがありました。「少年」はこのグループを和ませる存在でもあり、のちにヨアーナとフローリアンの子どもにもなるのに、ずっと「少年」と呼ばれたままなので、存在感が薄くなっていたと思います。

サンザシ:こういう船で避難する人たちは、おそらくいろいろな背景を背負っているので、すべての人に名前を聞くということはもともとしなかったのでは?

ネズミ:おもしろく読みました。『リフカの旅』(カレン・ヘス著 伊藤比呂美・西更訳 理論社)もそうでしたが、自分の親や親族の過去の体験を聞いて、若い作家がこれだけの作品に昇華させているというのに感服します。構成が巧みですね。『いのちは贈りもの』がひとりの視点で描かれているのに対し、この本は複数の声でいろいろな角度から物事を見えてきます。緊張感を保ったまま、最後までぐいぐい読ませられました。アルフレッドは極端ですが、このような人物を出してこないとナチスの宣伝文句を言わせられなかったのかなと、複雑な思いがしました。たいしたことではないのですが疑問に思ったのは、エミリアが船で赤ん坊を産む何日も前、106ページに「陣痛が始まっていて」という言葉が出てきます。陣痛って産む直前の痛みなのでは?(他の参加者から、「前駆陣痛」というのがあるから問題ないという声あり)。

レジーナ:昨年カーネギー賞をとったときから気になっていた作品です。歴史の中に埋もれた人たちに声を与えたいという作者の想いが、全編を通して感じられます。みんなが必死になって乗船許可証を手に入れようとする姿は、現代の難民の人たちに重なりますね。アルフレッドは一面的に描かれていますが、人間の悪の部分を表しているのだと思ったので、気になりませんでした。アルフレッドがはじめ、エミリアをアーリア人種だと思う場面からは、人種という枠組みがいかに表面的で、あてにならないかがよく伝わってきます。緊迫した状況が続きますが、乳母車にヤギをのせ、たくましく生き抜こうとする「ヤギ母さん」など、ちょっとほっとできるユーモアがあるのもいいですね。

花散里:私も『灰色の地平線のかなたに』が好きで、作者のルータ・セペティスさんが来日された折に、講演会でお話を聞かせてもらいました。過去にあった出来事を伝えたいという思いを表現され、丁寧に語られる姿も印象的な方だったので心に残っていて、この本が出るのをとても楽しみにしていました。

エーデルワイス(メール参加):4人が入れ替わり一人称で語りながら展開していく物語なので、まるで映画のシナリオのようですね。いつか映画化されるのではないでしょうか。ヴィルヘルム・グストロフ号沈没のことは全く知りませんでした。その沈没に向かう展開の物語を読んでいると緊張感でいっぱいになり、酸欠状態のようになりました。4人の一人称での文章はこの物語には必要だと思いましたが、私には読みにくくて、なかなか読み進めませんでした。ソ連兵に乱暴され妊娠したエミリアが、妄想で恋人を作り出し、その子どもを宿したと自分に思い込ませたところでは、人は生きるために「物語」が必要なのだと思いました。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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朽木祥『八月の光』

八月の光〜失われた声に耳をすませて

アンヌ:「石の記憶」を読んで本当によかったと思っています。実は小学校の林間学校で原爆のニュース映像を見させられて「核戦争が始まったら、自分はただの黒い影になって永遠に焼き付けられてしまうんだ」と恐怖を感じたのと同時に、その年齢なりの虚無感に襲われたのですが、その時の自分にこの物語を手渡したいです。主人公が黒い影に温かみを感じて寄り添う場面を読むと、生きていくことも死んでいくことも、空しいものではないと思えました。

コアラ:私は「石の記憶」では泣いてしまいました。「水の緘黙」でも泣いてしまいました。朽木さんの本は初めて読みましたが、ひどいことが書かれてあっても、しっとりとして後味は悪くないと思いました。特に言葉が美しいと思います。174ページの「あの日を知らない人たちが、私たちの記憶を自分のものとして分かち持てるように」という言葉が印象に残りました。戦争や原爆の本はたくさんあって、きっかけがないと手に取らない本かもしれませんが、なるべく多くの人に読んでほしいと思いました。

サンザシ:この著者は、広島のことを書くと心に決めて、原爆で亡くなった方たちを一人一人生き返らそうとしているように感じます。言葉や表現が立っていますね。被害者意識だけにとらわれることなく、ある日とつぜん人生が奪われるということはどういうことかを考え、つきつめていっているように思えます。そこからまた生を見つめ直すことも始まるのかと思います。偕成社版は「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」の3点のみだったのですが、この本ではエピソードが増えて、より立体的になったと思います。どの短編にも喪失の哀しみが通奏低音のように流れていますが、そこにおさえた怒りがあるのも感じます。ただ重苦しいだけじゃないのは、明るい陽射しを感じるような情景が差ししはさんであるかと思いますが、それに加えて広島弁がやわらかくてあたたかいリズムを作っているように思いました。最後の短編は、「あなた」を外国人と想定していますが、なぜでしょうか? 日本の子どもには向けられていないのでしょうか?

マリンゴ: まず装丁ですが、子どもが親しみやすいものに仕上がっていて、とてもいいと思いました。偕成社版(『八月の光』)と小学館文庫版(『八月の光・あとかた』)は、格調高い装丁ではあるのですが、子どもがちょっと手に取りづらいのかなという印象があったので。内容については、朽木さんの他の本でも感じますが、広島についての想いがとても伝わってきました。で、先ほど話題にあがっていた「カンナ あなたへの手紙」ですが、わたしは、翻訳されることを前提に書かれたのではないかと、勝手に想像しています。海外の読者、そして日本の子どもたちのなかにも、広島の原爆がどういうものか、知識のない子は多いと思います。そういう子どもに向けて、広島の説明をていねいにしている章というのは、非常に効果的であると思いました。ただ、1つだけ疑問があって……。222ページに「私の国では、夏はとても暑くて、花はあまり咲きません。それなのに、不思議に赤い花だけがたくさん咲きます」という部分。私はこれを読んで、へえ、どこの国の話なんだろう!と、興味を持ったんですけが、え、日本の話?と驚いたのでした。日本の夏は、ピンクの葛の花や芙蓉、紫のルリマツリ、白いオシロイバナなど、さまざまな色の花が咲き乱れるイメージがあるので……。著者の体感として、夏にそういうイメージがあるのか、あるいはカンナの花を際立たせるために意図的にこのような描写にしたのかなぁ、と。

西山:今回、新しく加わった作品も含めて収録順も変わっているとは聞いていたので、どう変わったか楽しみにしていました。「雛の顔」と「銀杏の重」が並んでいるのもとても腑に落ちて、しっくりきました。色のある表紙になったことについては、装丁の中嶋香織さんのお話を伺う機会があって、表紙の桜が、裏ではカンナになる。桜もカンナもこの1冊の中で象徴的な花ですし、よく考えられているなと、改めて感心しました。いつもそう思うんですが、言葉がおいしい! それぞれの語り出しや、かなり息の長い一文が好き。「雛の顔」の冒頭なんて、繰り返し口の中で転がして味わってしまいます。広島弁が全体を和らげている。それぞれの一文が流れるようで、息づかいが感じられます。その点では、「カンナ」は、広島弁が生かされていなくて、ちょっと物足りない。「水の緘黙」は詩のようで、わからなくてもかまわない話かなと思っています。「カンナ」はちがって、伝達性を重視している気がします。どこかで辛い思いをしている人と連帯したいと思っているのでは、と思って読みました。「三つ目の橋」がちょっと異質かな。

サンザシ:私は異質だとは思わなかったんだけど、どういう意味で異質?

西山:「三つ目の橋」がつなぎになっているのかもしれません。最初のほうの短編は詩のよう。そこに生きた人たちのことを、土地の言葉で語って立ち現せている。それに対して、「三つ目の橋」から、情報を伝えようとしていると感じます。

しじみ71個分:短篇の編成は、概ね時系列になっているのではないでしょうか。原爆投下のその日までと直後を描く作品から、「水の緘黙」「三つ目の橋」も戦後の物語へとつながっていくように見えます。「八重ねえちゃん」は、途中までは子ども時代の当時の視点で描かれていますが、終わり近くで視点が変わっていて、現代の地点から振り返るという表現になっているので、そこで雰囲気が変わっています。2回目の改版で、新たに途中で現代の視点に移行する「八重ねえちゃん」と、孫の世代から見た「カンナ」が加わったわけですが、それには著者の必然性があることなのだろうと思います。

ルパン:ひたすら、「すごいなあ」と思いながら読みました。現実に自分が見ていないものを、こういうふうに伝えられるんだ、という筆力に驚きました。「カンナ」の冒頭は私もひっかかりました。夏に赤い花しか咲かない国ってどこ?って。私の中では、夏の花といえばひまわりだし。ところで、広島弁ってやわらかいですか? 私はあんまりそうは思わないのですが。

ネズミ:すごく好きな本です。普通の人の暮らしぶりが語られる一方で、原爆後の地獄絵のような場面が繰り返し執拗に描かれています。作者自身は見ていないのに、おそろしさがずんと伝わってくる描写で、これを描かなければという作者の強い意志が感じられました。前の出版社のものが絶版になったあと文庫本で出たけれど、子どもに手渡したいというので今回この版で出たと聞きました。原爆を描いた本として、ぜひ海外に紹介したい1冊です。でも、方言も用いたこの文体は、訳すのがたいへんでしょうね。文学的な書き言葉の物語で、読書慣れしていない子どもにはややハードルが高いかもしれないけれども、少し読んで聞かせたら読みたくなるのでは。子どもたちに手渡していきたい短編集です。

サンザシ:「石の緘黙」は原爆投下から4年後で、「三つ目の橋」は3年後ですから、時系列的に並んでいるわけではありませんね。

西山:被曝者がてのひらを上に向けて歩いてくる、という描写に今回はっとしました。大抵幽霊のような手の形で書かれ、描かれていた気がしてました。あるいは、勝手にそう思い描いていたのかも。

レジーナ:広島の記憶を文学として昇華させた、すばらしい作品だと思います。広島弁の会話がいいですね。あの日一瞬で消えていったひとつひとつの生に、くっきりした輪郭を与えています。不器用だったり、身びいきなところがあったりもする登場人物が、生き生きと描かれていますよね。ふつうの暮らしが失われることが戦争なのだと、あらためて思いました。「いとけないもんから……こまいもんから、痛い目におうてしまう」という八重ねえちゃんの台詞は、戦争の本質を鋭くついています。わたしも高校の時に原爆資料館に行き、「原爆は自分の上に落ちていたのかもしれない」と思って衝撃を受けたのを、「カンナ」を読んで思いだしました。

花散里:今回のテーマで、日本の作品を考えた時に、すぐに思い浮かんだのが本書でした。『八月の光』(偕成社)は2012年に刊行されたときに読んだ3編がとても衝撃的でした。特に「雛の顔」の真知子の印象が強く心に残りました。今回の本書、全7編を改めて読んで、「失われた声」を丁寧に描いた朽木さんの文学が、戦争被害者の心の奥深くまでを表現していて、いろいろな思いを伝えたいということが胸に迫ってくるような印象を受けました。『八月の光』とともに『光のうつしえ』(講談社)も印象に残る作品で、子どもたちにどのように手渡していったら良いのか、記憶をつないでいくということの大切さを改めて感じました。「カンナ あなたへの手紙」など新しい作品が加わり、表紙の装丁もカンナが描かれていて、新たに伝わってくるものがあり、多くの人に読んでほしいと思う作品でした。

サンザシ:読むのは、小学生だと難しいですか?

花散里:『光のうつしえ』(講談社)も、難しいかなと思います。

須藤:またこういう形で刊行されることになって本当によかったなと思います。私はまず朽木さんの書く文章が好きで、作品中に描かれている人間にもいつも好感を持ってしまうのですが……。ちょっと余談ですが、古い小説を読んでいると、同じ日本語を話していても、生きている時代によって人間というのはこうも変わるのかと思うことがあるんですよね。そして、過去のことを今の作家が書くと、登場人物が今の人間になってしまいがちなんですが、この短編集はちがう感じがして。いろいろな資料を読みこんで、またご自身の体験もあって書いているからでしょうか。教養や豊かさにささえられた品のよさのようなものを、朽木さんの書く人間からはいつも感じます。作品の感想を一つあげると、「八重ねえちゃん」が私は心に残りました。周りからはちょっとトロいと思われているけれど、おかしいものをおかしいと言える人。大人の理屈に染まっていない人というか。大人はすぐにわかったような理屈をつけてしまうんですが、そこに対抗する子どもの倫理観、「いけないものはいけない」という倫理観に、いまやっぱり立ち返ってみるべきなんじゃないかと思うんですよね。

しじみ71個分:『八月の光・あとかた』(小学館文庫)を読んだとき、これは本当に子ども向けなのかしら?と思いつつ、泣きながら読みました。言葉が非常に美しいです。本当に丁寧に、広島の市井の人々の暮らしが描かれていて、生きていた人、ひとりひとりの人生にリアリティを感じます。言葉一つ一つに文学的なきらめきがあるとでも言えばよいのか、本当にすごい文章力だと心から思います。描写が本当に繊細で、皮膚の裏を針でつつくような、チクチクした切ない痛みのある文章で、たとえば「銀杏の重」の、長女の嫁入り支度をする親戚のおばちゃんたちの場面など、ああ、いかにもおばちゃんたちが集まったらこんな話をするだろうなぁという自然なおばちゃんトークが描かれ、短く詰めた疋田絞りの着物の袖を婚礼用にほどく際、母がしぼをつぶさないで上手に上げてある手際に感嘆したりする、そんなセリフ一つ一つで人々がどれほど丁寧に暮らしていたことなどがよく分かり、心にズンと響いてきます。一発の爆弾が落ちて、それが一瞬で失われてしまう、というその酷さ、非人道性が、つつましくも温もりある生活の描写との対比でありありと表されるように思います。戦争は人の命だけでなくて、暮らしの文化みたいなものも奪ったのだなという感慨もわきました。
 被爆した人々の表現も凄まじく、手のひらを上に向けて、焼けた皮膚が垂れ下がる腕を持ち上げて歩くさまが繰り返し描かれるところや、48ページにある、被爆した人がやかんを拾って歩くけれど、ぽとんと落とし、それを後ろの人がまた拾う、というような表現など、朽木さんがその場にいたのかと思うような凄まじい表現です。個人的に言えば、「水の緘黙」がいちばん好きです。記憶をなくした人の頭に、イメージが断片的に浮かんで、夢幻を漂うような感じはとても美しくあり悲しくもあります。「三つ目の橋」は、被爆経験がスティグマとなって生き残った人にのしかかるさまが淡々と描かれ、切なさが胸に迫ります。あと、「八重ねえちゃん」についていえば、184ページの子犬の表現は確かにとても素敵なのですが、全般を通して他の作品と比較してみると、割と表現が大雑把なように感じました。短いからそういう印象になるのでしょうか。最後の、「帰ってきてほしい。」という切実な叫びに全てが集約されていると思いますし、それは理解できるのですが、展開が急がれているような、何か少々物足りない感じを受けました。189ページから言葉が変わっていて、190から193ページまでを通して、「今も」とか「今なら」とか現在の視点から振り返っていることを明示していて、時間が経過した後だから言えることが書いてあります。その点が少し他の章と異質なように感じました。「カンナ」は表現がとても説明的ですが、今の子どもたちや外国の人々に向けて書くという意図がはっきりとしている作品だと思うので、そのように理解して読みました。いずれにしても、広島にこだわり続ける覚悟をもって、これだけの筆力で書き続けられるということは本当に素晴らしいことだと思います。

ルパン:私は「三つ目の橋」が好きです。同時代に生きていても戦争体験を共有できない人がいる、という現実は悲しいけれど、そういうことも伝えていかなければならないのだと思いました。

しじみ71個分:お付き合いしていた人との別れ話の場面の表現などは本当に秀逸です。袖口を伸ばしたところの折線がくっきりと見え、地が赤茶けた服を着て恋人の親に会いに行ったりしなくて良かった、と諦めようとする辺りの描写がとても繊細で、本当に切ないです。

サンザシ:朽木さんは被曝二世と敢えてはっきりおっしゃっていますが、差別を心配してなかなか言えない方も多いのかと思います。福島も同じですけど。前に原爆資料館の館長さんにお会いしたことがあるのですが、館長の仕事につくまでは被曝したことをずっと隠していたとおっしゃっていました。「三つ目の橋」の主人公は「親のない娘はもらわれん。まして妹つきでは」と言って婚約破棄されて身投げも考えるけど、いつも妹の久子が待つ家に帰ってくる。その妹が、死んだお母さんと同じように、夜玄関に走り出て、戦死した父親が帰ってきた音がした、と言うようになる。そこで終わったら、悲しいだけのお話ですが、その後、主人公は「私はしゃがんで久子を抱きよせました。父も母も逝ってしまったけれど、幼い久子のなかに、父のあとかたも母の声も残っているのだと思いました」と言って、次の休みには妹とよもぎを摘みにいく約束をする。そして、よもぎ団子をつくって「お父ちゃんおかえりなさい、って言うてあげよう」という方向へ持って行く。そのあたりなど、文章だけでなく構成もほんとにうまいですね。

西山:236ページの「今は〜」は、「その頃は」が正しいように思ったのですが、急に時制をひきもどされた感じがして、立ち止まりました。多分、故意にやってらっしゃるのでしょう。ふつうじゃなくしている効果があるのかな。

エーデルワイス(メール参加):地元の図書館には偕成社版しかなかったのですが、無駄のない美しい文章で、すぐに読み終えました。読後になんともいえない余韻が残ります。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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フランシーヌ・クリストフ『いのちは贈りもの』

いのちは贈りもの〜ホロコーストを生きのびて

アンヌ:たいへん内容が重く、戦争の現実に打ちのめされた思いがして読み返すことができなかったのですが、文章が詩的で美しい本だと思いました。ジュネーヴ条約のおかげで捕虜の家族である主人公母子がユダヤ人であっても、人質として最初のうちはフランスに留め置かれたという事実に驚きました。日本の兵士や家族でこの条約を知る人はいたのでしょうか。ここに書いてあるソ連兵と同じように、日本人も捕虜になることが許されなかったことを思うと暗澹としてしまいました。

コアラ:この状況をよく生き延びたと思いました。子どもの視点で、子どもが追体験できるように書かれていると思います。私も子どもの視点で読んでいったので、後半、列車に乗って母親が食べ物を探しに行って戻ってこなかった場面、胸が苦しくなるような恐怖を覚えました。ホロコーストの全体像はこれ1冊を読んで分かるものではないと思いますが、現実の子どもにとってどうだったのか、ということが生々しく書いてあるので、ホロコーストを知らない子どもにとっても、リアリティを感じながら読むことができるのではとないか思いました。

サンザシ:とても読みやすい訳で、多くの子どもに読んでもらいたいけど、もう少し編集の目が行き届くとさらにいいなあ、と思いました。お母さんは精神に異常をきたすのですが、p289の注を見ると、1974年にはお父さんとお母さんの共著で本を出しているようなので、回復したのでしょうか? そのあたりのことも、子どもの読者だと気になると思うので、後書きにでも書いてあるとよかったと思います。p99のユダヤ教についての注も「世界でいちばん古い宗教」とありますが、もっと古い宗教ってありますよね。それから、解放されたあとトレビッツに行って、村の人たちを追い出して家を占拠し、勝手に飲み食いするのですが、「自分たちがひどい目にあったのだから当然だ」というドイツ人全員を敵視している視線を感じました。少女時代にそう思ったというのは十分あり得ることですが、この本は後になってから書いているので、大人の視線としてはどうなのでしょうか? ユダヤ人が迫害された事実は、本当にひどいと思いますが、「だから何をしてもいい」ということにはならない。この著者はそうは言っていませんが、ちょっと今のイスラエルがパレスチナに対してやっていることとつながっている気がして、個人的にはぞっとしました。

マリンゴ: 少女の一人称で書かれていますけれど、最初は漠然とした表現が多くて、少し物足りない気がしました。でも、中盤からどんどんリアルになってきました。年齢を重ねたから記憶が鮮明になってきたのか、あるいは大変なできごとだから特に記憶に残っているのか……とにかくそのコントラストがくっきりしていて、かえって臨場感につながりました。これだけひどい状況なのに、「自分は恵まれている」と少女が思っているところが、重い読後感につながっています。先ほどのお話、わたしはさらっと読んでしまったのですが、たしかに言われてみると、カーテンで洋服を作って、持ち主の家族に逆ギレしているシーンは、小さな違和感を覚えました。

西山:つい最近、今ドイツで親ナチの人の発言がふえている、という記事を見た記憶があります。(「論説室から 寛容をむしばむ毒」『東京新聞』2018年1月24日5面)難しいなと。そういう視点は、巻末の解説なりでフォローすることもできるのかなと思います。この本自体は、非常に興味深く読みました。特に子どもの目線で覚えていたことを書いているというので、新鮮さがありました。今回とにかく衝撃だったし読んでよかったと思ったのは、56ページで「丸刈りにされた男の人がひとり、折りたたみ式のポケットナイフが地面に落ちているのを見つけ、ふと立ちあがってひろうと、のびた爪をそれで切った」という場面。非人間的な扱いを受けて、爪どころではない状況に投げ込まれているのに、人は、爪を切る……。なんだか、とてつもない真実を突きつけられたようで、くらっとしました。子どもならではの問いも、例えば、55ページの「ママ、小さな子たちにあんなにひどいことをする人たちも、自分の子どもたちには、やさしい笑顔でキスするの?」なんて、ドキッとする。作家が、こういうのにはっとしてフィクションを書くと、作品の陰影を深くするかもしれない。そういう生な素材として(ということ語弊があるかもしれませんが)興味深い1冊だと思いました。

ネズミ:最初はおもしろく読み始めたのですが、同じようなトーンで続いていくからか、途中で疲れてしまいました。ユダヤ人の少女の視点で書かれているので、ただ一方的にユダヤ人はかわいそうと読まれてしまうのでは、という懸念も。語りつがれるべきテーマだとは思いますが。

レジーナ:子どものときの記憶をたどっているので、ぼんやりした記述もありますが、母親が他の囚人たちを送りだしながら罪悪感をもつ場面など、真に迫る場面がたくさんありました。これは、大人になってから、当時を思い出して書いた本ですよね。子どもの言葉づかいの中に、たとえば282ページ「老いてしまった気がするけれど、子どもです」など、大人っぽい言い方が混じるのが少し気になりました。

マリンゴ:フィクションだと、何歳の視点から書いた物語なのか、あるいは大人になってから振り返って書いた物語なのか、厳密に設定を決めます。でも、この作品の場合は著者も最初に書いているとおり、著者の体験を小説のかたちでまとめたものなので、そこが混ざっていてもいいのではないかと思いました。

花散里:今回の選書担当で、テーマ「魂の記録が残したものは」を考えているときに取りあげたいと思ったのが本書でした。フランス国籍でユダヤ人の少女が9歳から11歳までの間、収容所を転々とし生きのびた「魂の記録」であり、著者自身の伝記で、冒頭に「『文学』というものではありません」と記されていますが、子どもに手渡したい1冊として本書をあげたいと思いました。訳者の方から、もとは大人向けに書かれていた本で、子どもに手渡す本として、地図や年表を入れたり、章立てにしたとお聞きしました。ドイツやポーランド、東欧を舞台にして書かれたホロコーストの作品はたくさんありますが、著者がフランス国内のユダヤ人収容所を転々と移動させられたことが地図などで、分かりやすく描かれていると思います。訳注について先程、いくつか指摘がありましたが、読んでいるときは、訳注が参考になり、子どもたちにも内容を理解する助けになると感じていました。著者や母親は戦争捕虜の妻子として国際条約に守られ、収容所でも離れることなくいられたれたこと、父親の存在が、生きる希望に繋がっていたことなどが、強く印象に残りました。差別や戦争が人間の尊厳を傷つけ、大切な人生をいかに奪ってきたかを、小学校の高学年くらいから理解するのによい本ではないかと思い、「伝えていく」という意味を感じながら読みました。

須藤:大前提として、こういう経験をした人が、自分の記憶を書き残すのは、とても大事なことだと思っています。ホロコーストに限らずですが……。第二次世界大戦のことも、遠くなってきているじゃないですか。ある非常に大きな出来事があった場合に、それを経験した一人一人の視点を残しておいて、参照できるようにしておくのは、とても意義があることだと思います。その意味で貴重な記録だと思いますが、今回児童書の読書会だという趣旨に沿っていうならば、これは子どもの視点で書かれているけれど、子どもが読んでわかりやすい本ではないですよね。収容所を転々とするので、どんどん場面が変わっていきますし……、注釈も子どもが読むには難しいです。それから子どもが読むとした場合に、ちょっと気になったのは、「ドイツ人はきっちりしている」とか、この方の、ある種ステレオタイプな思い込みが、そのまま書かれていることですね。さまざま経験を経た上で、そんなふうに思われるようになったと思うので、別にそう思われること自体は否定したくないですけど、予備知識がない読者が読んでそうなんだと思われると困るというか。194ページで、各収容所にいた人たちが一つの場所に集められる場面があって、そこで一口にユダヤ人といっても実に多種多様な人がいる、という事実に実感として気づくのですが、そこはとても興味深かったです。

しじみ71個分:子どものときに書いた日記を、大人になってから書き直したとありますが、そのとおり子どもの視点から書かれているため、記述は断片的で、戦争の全体像は見えないと思いました。ただ、同時に、戦争を俯瞰で表現できるのは、大人の著者の後知恵であるんだなとも感じました。なので、はじめは違和感というか、読みにくさがあったのですが、後半に向かうに連れて、人の生き死にが切実になってくる中で、表現がどんどんリアルに立体的になってくるのがすごかったです。ドイツにいたユダヤ人への迫害というイメージが強かったのですが、フランスにいたユダヤ人の迫害について知れたのは大きな収穫だった。著者は戦争捕虜の家族ということで特別な地位にあったということですが、戦争捕虜が優遇されていたことなども初めて得た知識でした。それでも、あれほどまでの過酷な環境に投げ込まれたという事実は本当に痛いものでした。後半の描写は本当に臨場感あふれるもので、みんながおなかをすかせているのに、子どもの傍若無人な本能とでも言うのか、お母さんに「おなかがすいた」と言い募るあたり、お母さんの立場を思うと本当に切ないし、絶望的な気持ちがしたと思うけれど、子どもの側からしか書いていないあたり、リアルに子どもの無邪気な残酷さがそのまま描かれていると思いました。お母さんが食べ物をくれない、変な顔をして私を見ている、と言って逆恨みを感じる辺りなども同様です。
虐殺された人々の苦しみも想像を絶しますが、生き残ることさえ本当に大変だったことも良く分かります。シラミがわいて、チフスになるとか、列車の中に排泄物がたまるとか詳細に書かれているので、一つ一つの描写が体感的に突き刺さってきました。また、戦後の様子が描かれているのも画期的だと思いました。強制収容所の地獄を体験して、大きな心の傷、喪失を味わってしまったために、故国フランスの同年代の友だちが幼稚に見えて、全くなじめなくなってしまい、その深い苦悩が何十年も続いたこと、そして年老いてベルゲン・ベルゼン強制収容所に戻ったとき、生き残り、家族を作り、子孫を残し、命の贈り物をつないだことで、やっと勝利したと宣言するという記述から、戦争が人の命を奪うだけでなく、生き残った人にも心身の大きな傷を残し、その後の人生を奪い取ってしまうのだということを知りました。これは私にとっては新しい気づきであり、読んでよかったと思いました。

ルパン:真実の迫力だなあ、と思いました。衝撃的と言っていいほどリアルな描写が続き、感情移入してしまって胸が苦しくなるほどでした。訳は、読みにくいと思いました。ところどころ表現に引っかかったり、原文が透けて見えるような無生物主語の訳文があったり。それでもやはり私は文庫の子どもに薦めたいと思いました。多少の読みづらさを超える力強さがありますから。先ほどから話題になっている注ですが、私は注があるのが懐かしいと思いました。昔の本は注がいっぱいあったなあ、と。私自身は子どものころ注を読むのが好きでしたし、今でもそうです。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ヨーレン詩 ショーエンヘール絵『月夜のみみずく』

月夜のみみずく

『月夜のみみずく』をおすすめします。

みんなが寝静まった冬の夜更け、女の子が父親と一緒に雪を踏みしめながら森の中へと入っていく。そっと静かに耳をすませて。ミミズクに会うために。日常とは違う不思議な時間を父親と共有し、自然の驚異に触れたときの、胸のときめきが伝わってくる絵本。[小学校低学年から]

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年12月23日掲載)

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ガルブレイス文 ハルバリン絵『わたしたちのたねまき』

わたしたちのたねまき〜たねをめぐるいのちたちのおはなし

『わたしたちのたねまき〜たねをめぐるいのちたちのおはなし』をおすすめします。

春になったら芽を出す種。その種をまくのが人間だけじゃないって、知ってた? 風も小鳥も太陽も雨も川もウサギもキツネもリスも種まきをしてるんだって。どうやって? この絵本を見ると、わかってくるよ。見返しに様々な種の絵が描いてあるのも、おもしろいね。[小学校中学年から]

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年12月23日掲載 *テーマ「冬休みの本」)


人間は植物を育てようとして畑や庭に種をまくが、人間以外にも種をまいているものがいる。それは、風、小鳥、太陽、雨、川。そしてウサギやキツネやリスなどの動物たちも。でも、いったいどうやって? それがわかってくるのがこの絵本。見ているうちに、自然の中に存在するものは、みんなお互いに利用し合い、助け合いながら、命をつないでいることもわかってくる。絵が親しみやすく、訳もリズミカル。見返しに描いてあるさまざまな種子の絵もおもしろい。

原作:アメリカ/6歳から/種、自然、動物、命のつながり

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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レベッカ・ボンド『森のおくから』

森のおくから〜むかし、カナダであったほんとうのはなし

『森のおくから〜むかし、カナダであったほんとうのはなし』をおすすめします。

先月他界した作者が残してくれた絵本。ホテルを経営する母や周りの大人を見ながら育つアントニオは、山火事で湖の中に避難したときに不思議な光景を目にする。祖父の実体験に基づき、様々な人間と様々な動物が共有した特別なひとときを描いている。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年9月30日掲載)


アントニオの母親は、カナダの森の中の小さな町でホテルを経営している。アントニオの友だちはホテルで働く大人たちだ。森には野生動物がたくさんいるが、人間の前にはあまり姿を現さない。ある時、山火事が起こり、湖の中に避難したアントニオは不思議な光景を目にする。大きな獣も小さな獣も次々に森から出てくると、人間のいる同じ湖の中に入ってきたのだ。作者の祖父の実体験を下敷きに、さまざまな人間とさまざまな動物が共有した特別なひとときを描いている。

原作:アメリカ/小学低から/森 野生動物 山火事

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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キャサリン・ランデル『オオカミを森へ』

オオカミを森へ

『オオカミを森へ』をおすすめします。

舞台は20世紀初頭のロシア。貴族のペットだったオオカミを野生にもどす仕事をしていたマリーナは、暴君の将軍に従わず、逮捕監禁されてしまう。マリーナの娘のフェオは、兵士イリヤや革命家のアレクセイ、そして子どもたちやオオカミたちと共に、母を取り戻しに都へと向かう。くっきりしたイメージを追いながら楽しめる冒険物語。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年10月28日掲載)


舞台は20世紀初頭のロシア。貴族たちが飼えなくなったオオカミを野生に戻す「オオカミ預かり人」の仕事をしていたマリーナは、将軍に言いがかりをつけられて逮捕され、サンクトベテルブルクに連れ去られてしまう。人間よりオオカミを友だちとして育った、マリーナの娘フェオは、将軍の支配に疑問を持ったイリヤや、革命家のアレクセイ、そして大勢の子どもたちやオオカミと一緒に、母を取り戻しに都へと向かう。人物造形がくっきりしていて、ストーリーもおもしろい冒険物語。

原作:イギリス/10歳から/オオカミ ロシア 革命 子どもの戦い

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)

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谷山彩子『文様えほん』

文様えほん

『文様えほん』をおすすめします。

文様とは、「着るものや日用品、建物などを飾りつけるために描かれた模様」とのこと。日本でも、縄文時代からヘラや竹筒や貝殻や爪を使って土器や人形に描かれていたし、現代でもラーメン鉢や衣服に描かれている。モチーフは、植物、動物、天体や自然など様々だし、線や図形を組みあわせた幾何学文様もある。

本書は、そうした文様の種類を教えてくれるだけではない。地図で、世界各地の文様の違いや、伝播による変容を見せたり、四季折々の生活や町の風景の中にひそんでいる文様を示したりもする。巻末に用語集や豆知識もついたノンフィクション絵本だが、読んだあとの子どもたちには、身のまわりのあちこちに文様を発見していく楽しみが待っていそうだ。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年11月25日掲載)

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ウィリアム・グリル『シャクルトンの大漂流』

シャクルトンの大漂流

『シャクルトンの大漂流』をおすすめします。

アーネスト・シャクルトンはアイルランド生まれの探検家で、三度も南極探検に出かけた。一時はほかの著名な探検家の陰で忘れられていたが、最近は極限状況におけるリーダーとしてのシャクルトンに焦点を当てた本がいろいろ出ている。映画にもなった。

この本は、シャクルトンが三度目にエンデュアランス号で南極探検に出かけた時のことを描いている。といっても舞台は白い氷の世界だし、登場するのは探検隊の男たち。船も壊れるし、探検は成功したとは言えない。絵本にするには難しい題材だ。

しかし、百貨店ハロッズの広告イラストレーションを仕事にしていたグリルは、困難続きのこのサバイバル物語を見事におしゃれな絵本にしてみせた。そしてデビュー作のこの絵本で、イギリス最高の絵本にあたえられるグリナウェイ賞を受賞した。船に積み込んだ道具を細かく描いたり、コマ割り手法を使ったり、見開きいっぱいに大波にもまれる小さな船を描いたり・・・。レイアウトも斬新で、ビジュアル的な工夫があちこちに見られる。

最近の絵本は幼児や小さな子どものためのものとは限らない。この絵本も、かえって中高生が読んだほうがおもしろいのではないだろうか。そして絵本はあらゆるテーマの入門書ともなる。まずこの作品を手に取ってみて、興味を持ったら次に『エンデュアランス号大漂流』(E.C.キメル著 千葉茂樹訳 あすなろ書房)や『そして、奇跡は起こった!』(J.アームストロング著 評論社)なども読んでみてほしい。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年2月13日号掲載)

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ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳

紅のトキの空

『紅のトキの空』をおすすめします。

今回は書評用に送られて来た本の中に、自分がかかわった作品が入っていたので、それを紹介したい。

著者のジル・ルイスは獣医の資格を持つイギリスの女性作家で、『ミサゴのくる谷』『白いイルカの浜辺』(共にさくま訳 評論社)など、動物や鳥の登場する作品をたくさん書いている。この作品にも、ショウジョウトキという紅色の鳥(「何百何千もの群れが飛んできて、木にとまります。それは、暗い空にともる紅のランタンみたいに見えます」)やハトやワニが象徴的に登場してくる。

主人公の女の子スカーレットは中学1年生。家族は、精神を病む母親と、異父弟で発達の遅れているレッド。スカーレットは、自分がしっかりしないと、愛している家族がばらばらにされてしまうと思って、弟や母親の世話も洗濯も掃除も買い物も、そして勉強もがんばっている、どこから見てもけなげな少女だ。

ところがある日、母親のタバコの不始末が原因で、住んでいたアパートが火事になり、一家は焼け出されてしまう。それにより、母親は病院へ、弟は保護施設へ、そしてスカーレットは一時的な里親のもとへ。でも、レッドには自分がどうしても必要だと思っているスカーレットは、ひそかに弟を誘拐して一緒に暮らす計画を練る。そして、誘拐には成功するのだが・・・。

ジル・ルイスの人間を見る目が深い。そして、里親になったルネの一家や、傷ついた鳥を保護しているマダム・ポペスクなど、子どもを理解する大人が登場するのもいい。

子どもに寄り添って物語を紡ぎ出す著者は、スカーレットの「けなげさ」をそのままよしとするのではなく、最後にすてきな解決法を用意している。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年4月10日号掲載)

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戸森しるこ『理科準備室のヴィーナス』

理科準備室のヴィーナス

『理科準備室のヴィーナス』をおすすめします。

戸森しるこは、これまで作品を3点出版しているが、どの作品でも、〈生きていくことや、心の動き方って、そう単純じゃないよね。でも、だからこそ楽しいしおもしろいんだよね〉ということを、伝えてくれている。

3作目のこの作品の主人公は、中学1年生の結城瞳。友達からのけ者にされたりもしている。

この年齢って、自分探しもし始めるけど、他者の多様性をそのまま均並みに受け入れるよりは、自分が魅力的だと思う存在に限りなく濃密に惹かれていく時期かもしれない。今回瞳がどうしようもなく惹かれてしまったのは、「理科準備室のヴィーナス」つまり、第二理科準備室で授業のない過ごすことの多い理科担当の人見先生。顔がヴィーナスに似ている。年齢は31というから瞳よりはずっと大人で、シングルマザーらしい。学校の規則など気にしないところも、生徒を前にして一人でお菓子を食べるところなんかも、魅力的。「誰より美しく、誰よりやさしくて、そしてとても危険な人」だ。

でも、瞳は、もう一人、別の角度から人見先生をじっと見ている男子がいるのに気づく。それが正木くん。これは、人見先生に憧れてしまった繊細にして大胆な二人の中学生の物語。瞳と正木君は、同じように先生を想っているようでいて、少し違う。性別が違うから、微妙なバランスの上で揺れる三角関係だ。

後になってから、瞳は考える。「放課後の理科準備室で、私たちはたしかに同志だった。手の届かないものに近づくために、いなくちゃならない存在だった」と。

この作品は、ストーリーだけを追っていたら味わえない。一つ一つの描写や言葉に意味が潜んでいるから。でも、たまにはこういうのも読んでみない? よくわからないところが残ってもいいからさ。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年10月9日号掲載)

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2017年12月 テーマ:動物と人間

日付 2017年12月22日
参加者 アカシア、コアラ、アンヌ、冬青、花散里、レジーナ、西山、しじみ
71個分 、(エーデルワイス)
テーマ 動物と人間

読んだ本:

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キャサリン・ランデル『オオカミを森へ』

オオカミを森へ

コアラ:おもしろく読みました。日本とは全然違う世界で、引き込まれました。深い雪や「極みの寒さ」という吹雪など、寒さの描写が印象的でした。翻訳も読みやすくて、かなりの分量なのにすらすらと読めました。「オオカミ預かり人」というのは架空の職業だそうですが、オオカミとの触れあいはとても生き生きと描かれていたと思います。

アンヌ:とにかく表紙も挿し絵も素晴らしくて、楽しみながら読み進めました。オオカミとの生活にリアリティがあって引き込まれましたし、イリヤという兵士が突然現れてオオカミに魅了されて共に行動し、最後には彼の目指しているものもわかって行くというところも、おもしろく読みました。革命の場面で、演説に賛同するのも刑務所に一緒に行くのもまずは尼僧たち。作者はロシア革命の発端である女工たちのデモを踏まえて、この場面を書きたかったのではないかと思います。疑問に思ったのは、刑務所の中にもオオカミを連れた男たちがいるという場面。番犬替わりなのでしょうか? 少し説明がほしかったところです。ラストのエピローグはもっと民話的な語り口にするとか、違う形にしてほしかった。物語と地続きな語りのまま終わるという感じは、少しあっさりしすぎている気がしました。

西山:最後も敬体にすれば、入れ子で昔話のようになったのかな。

アカシア:一応、全体を昔話風にしているんじゃないですか。

冬青:導入部が敬体で始まっていて、最後も昔話のような語り口で終わっているので、敬体のほうが良かったかもね。

アカシア:でも、そうすると、ドラマチックな場面の緊迫感やスピード感に欠けるから、これでいいんじゃないかな。

しじみ71個分:とてもおもしろく読みました。ワイルドな女の子という設定は好物です。前半の展開はスピード感があって、とても気持ちがいいし、敵のラーコフの描き方もとてもいい。これでもか、というほどの極悪人に描かれていてメリハリが効いています。オオカミとの触れあいは胸に迫りますし、脱走少年兵のイリヤがバレエが好きで最後には願いが叶うという点も好もしいし、少年少女の革命というのも、現実味はないけれど、作者からの子どもたちへの激励として受け止めました。

冬青:こういう才能にあふれた若い作家が彗星のように現れるなんて、イギリスの児童文学会はすごいと思いました。“Rooftoppers”もおもしろそうだし。まず最初に「オオカミ預かり人」という仕事を思いついたところが素晴らしい。飼いならされたオオカミを侍らせているロシア貴族の邸宅なんて、ぞくぞくしますね。登場人物が大勢出てくるけれど、それぞれが個性豊かに描かれているので、まったくごちゃごちゃにならずに読めました。ラーコフの憎たらしさがちょっとマンガ的だけれど、これくらいに書かないとドラマチックにならないのかもね。フェオのしゃべり方が、森の中で暮らしているにしては女の子っぽいけれど、これはお母さんが貴族の出だから? 世にも美しいお母さんの背景が知りたいと思いました。

花散里:この本を手にしたとき、表紙画や装丁から絶対におもしろそうだと思って読みはじめました。「野生動物を救う」というテーマで4冊の本を取り上げて紹介(科学技術館メールマガジン)した時に、上橋菜穂子さんと獣医師、齊藤慶輔さんの『命の意味 命のしるし』(講談社)を読みました。齊藤さんは「野のものは、野に帰してやりたい」という思いで猛禽類を野生に帰すために取り組んでいて、上橋さんは「リアル『獣の奏者』」に会いに行くために北海道を訪ねています。この本では、オオカミを野生に帰すという設定にかなり無理があるのでは、と思いながら読みました。91ページのオオカミが仲良く寝ている挿画は、「これがオオカミ?」と気になりましたし、オオカミはもっと獰猛で獣っぽいのではないかと、全体を通して感じました。『鹿の王』で上橋さんは飛鹿とトナカイの違いや、狼に似た黒い犬の怖さとか、よく調べた上で書かれていると思いました。後半、革命扇動者のアレクセイが登場し、子ども達が革命を動かしていくような行動を起こしたり、フェオが演説する場面になると、「オオカミ預かり人」としての前半のストーリー展開から違ってしまったような印象で、読後感はあまり良くなかったです。

冬青:革命にしては、ちっちゃいけどね。

レジーナ:きれいな装丁の本ですね。極寒の地の静謐な美しさや自然の厳しさ、オオカミの息づかいが感じられるような本です。43ページ「家の周囲の森は命の気配にふるえ、輝いている。森を通る人たちは、どこまで行っても変わらない雪景色を嘆くが、フェオに言わせれば、そういう人たちは読み書きのできない人たちだった。森の読み方を知らないのだ。積もった雪は吹雪や鳥たちのことをうわさし、それとなく教えてくれている。朝が来るたびに新しい物語を語っている」、177ページ「雪景色は見わたすかぎり足あとひとつなく、まだ若い木々があちこちで雪に埋もれ、祈りを捧げる北極グマのように見える」など、ところどころに詩的な文章があるのもよかったです。フランスの革命では、何度も覆されてようやく民衆が力を得ます。これはハッピーエンドで終わっていますが、実際にはロシアの革命でも多くの血が流れたのでしょうね。一か所気になったのは、45ページ「今いるオオカミたちのうちの二頭は、人間で言えばちょうど自分と同い年くらいの女の子」です。同じページに「ハイイロは、フェオより数か月だけ早く生まれた雌」とあります。犬は人間の6~7倍はやく年をとるので、オオカミもだいたいそうだと思うのですが、そうだとすると、「人間で言えば同い年くらい」にはならないのでは。

ヒイラギ:「人間で言えば」の部分がちょっとちがうかもしれませんね。

西山:大変おもしろく読みました。いろんな意味ではじめての世界でした。題材も、ちょっとした描写もとても新鮮で。気に入ったポイントがいくつもあるんですが、まず、随所に笑える箇所があるのがいい。例えば、8ページ、5行目から、「オオカミのいる家には幸運がやってくる」として、列挙しているのが、「男の子は鼻水をたらさず、女の子にはニキビができない」という思いもよらない次元で、始まって2ページ足らずのこの段階で「これはおもしろい!」となりました。168ページ「オオカミのところはわからないけど、あとはわかる」とか、全体としてはシリアスで、張りつめていて、血のにおいもするけれど、クスッとさせるところがちょこちょこ出てくる。それを読む楽しさがありました。子どもたちの革命は魅力的だけど、後ろの方は急に軽くなる気はしました。ユーモアを味わいつつも、戯画的には読んでいなかったので、子どもたちが殺されても不思議はないと思っていたから、ホッとするけれど、分裂したイメージになってしまった気はします。アジテーションも浮いてるかもしれない。
カバー折り返しのところに引用された一節「世界でいちばん勇敢で賢いオオカミが死んだ。だからわたしは…」の一節は、自身を奮いたたせるための言葉だと思って、いつ出てくるかいつ出てくるかと思いながら読んでいたので、演説の一節だったことは、少々不満ではありました。軽くなったようで。それでも、演説は魅力的で音読したら気持ちよさそうと思ってしまった。あと、新鮮だった表現、48、49ページ「唇に凍りついた鼻水をかみくだいて吐き出すと」とか。182ページで感情が表れやすい「眉や鼻の穴、口や額がぴくりとも動かないから「表情が読めない」なんて、目以外で心を読もうとするのが新鮮でした。296ページの「罪を犯す覚悟を決めた美しい子どもたちの一団」なんて表現も好き。唯一引っかかったのは、307ページ、「三十分後〜」のところ。時制があれ?と。オオカミを感じさせるシルエットなど、私はイラストにも魅力を感じました。全体に厳しい寒さが感じられるのもいい。訳者おぼえがきで、どこが創作なのかが書いてあるのも親切。満足の一冊でした。

ヒイラギ:さっき花散里さんがオオカミは挿絵とはちがってもっと獰猛なイメージなのではないかとおっしゃったのですが、私はオオカミが好きなので動画や画像もいっぱい見たことがあるのですが、そんなことないです。安心している時はかわいい表情やのんびりした表情を見せるものです。それに、このオオカミたちは人間に飼われていた歴史をもつ者たちですからね。挿絵もぴったりだと思って見ていました。ただ、野鳥を自然に帰す活動をなさっている齋藤先生の本は私も何冊か読みましたが、この本の場合は、生まれてすぐに人間に飼われたオオカミだから、私もリアリティを考えれば野生にかえすのは無理なのではないかと思います。
私はおもしろい冒険物語として読んだので、そういうリアリティとの齟齬はあまり気になりませんでした。これは楽しく読ませる作品なので、これでいいじゃないか、と。原題にもなっているwolf wilderは直訳すると「オオカミを野生に返す仕事をしている人」というくらいの意味でしょうが、訳者の原田さんもそのあたりも含めて考えられたのでしょうか、「オオカミ預かり人」という訳になさっている。リアリティという点でいえば、革命家と言われるアレクセイは15歳で、そのほかの子どもたちはみんなそれより年下です。だから、この子たちが革命を起こすというところにもリアリティはあまりないかもしれない。私は、じつはリアリティにはかなりこだわる方なのですが、この作品ではあまり矛盾を感じませんでした。たぶんこの作品なりの世界がうまくできていて、訳者もうまくそれに沿って訳されているからだと思います。舞台は100年ほど前ですが、今描かれている物語なので、ジェンダー的にもきちんと配慮されていますね。主人公のフェオはおしとやかとはほど遠い嵐のような少女だし、兵士のイリヤはじつは踊るのが好きでバレエダンサーをめざしているなんて。

西山:たしかに女の子が強く描かれているのもいいですよね。

アンヌ:実は読み始めた時はもっとロシアの幻想文学的な物語だと思っていました。特にお母さんについては、とても高貴な顔をして威厳があるというので最初は魔女なのかなと思いました。お母さんについての謎解きもしてもらいたい気がします。

冬青:続編があるのかも。

西山:少年兵のイリヤが、オオカミの出産を見たがるところ。子どもにもどる様子がきゅんとするほどよかった。

アカシア:あの場面があるから、イリヤが兵士の身分を投げ捨てて将軍にたちむかうことを決意する場面も納得できるんですよね。

西山:32ページの真ん中あたり、「さげすむような目でにらんだ。少なくとも、そのつもりでにらんだ。本で読んだだけなので、どういう顔をすればいいのか、じつはよくわかっていない」という、ここもハッとさせられ、すごくおもしろく読みました。読書体験と実生活での体験にこういうベクトルがあることを端的に示してくれたことは意義深いと思います。

エーデルワイス(メール参加):好きですね、めちゃくちゃ。わくわくしました。ロシア皇帝時代オオカミをペットにしていたなんて。なんということをしていたのでしょう。マリーナとフェオの親子が魅力的で、フェオがかっこいい! 作者はまだ若い方で、アフリカジンバブエで幼少期を過ごしている。こんな物語を生み出したのですね。今後も期待したいです。訳もとても読みやすくてよかったです

(「子どもの本で言いたい放題」2017年12月の記録)

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上橋菜穂子『鹿の王・上』表紙

鹿の王(上/生き残った者 下/還って行く者)

西山:出てすぐに買って読みました。それっきりで、今回読み返す時間がなかったので、その時の印象だけでごめんなさい。もちろん、おもしろかったけど、期待ほどではなく、少しずつ冷静に読んだという感じでした。先が気になってしょうがない、というほどのめり込まず、淡々と少しずつ読み進めたという感じ。冒頭は、なにが起きるんだろうと、とてもドキドキしながら読んだんです。坑内の描写はすごいと。でも物語が進むと、説明的な世界になってしまった。下巻303ページ、真ん中あたりの「ひとりひとり、まったく違うの。どの命も」といった上橋菜穂子の基本的価値観に共感しつつ読んだけど……という感じです。アンデルセン賞受賞直後で派手な帯とか、テレビで騒いでたりとか、何を今更、上橋菜穂子はずっと前からおもしろいわい!と、拗ねていたせいかもしれませんが、上橋作品の中では、私にとっては評価はあまり高くないんです。

レジーナ:謎解きのおもしろさの中に、なぜ死ぬ者と生きのびる者がいるのか、病や死を得ながら生きるのはなぜか、という大きな問題を扱っています。民族間の対立や抑圧は、上橋さんのほかの作品に通じるテーマですね。この本の世界には、混血のトマのように、混じり合いながら血をつなげていく人がいる一方で、火馬の民のように、国を奪われた痛みを忘れられない人たちがいます。オタワルのように、自分の国を失ったあと、知識や技術を活かして国の中枢に入りこみ、したたかに生きのびる人々もいます。国や民族の複雑な関係性を、人の体に広がる宇宙に重ねているのは、ユニークでおもしろい視点ですね。自然を支配しようとする人間の傲慢さ、人知を超えた自然のしくみについても考えさせられます。本のつくりですが、いろんな種族が出てくるので、地図があるとよかったです。

花散里:出版されて、すぐに読みました。自分が大人だからかもしれませんが、主人公のヴァンがとても魅力的に描かれていると思いました。岩塩鉱で出会ったユナを助け、育てる姿は印象的で、ユナを見守る眼差しなどが目に浮かぶようでした。医術師ホッサルが懸命に治療法を探す様子や、愛する人々を救うために奔走していくヴァンの生き方など、下巻の後半がおもしろかったです。謎の病の恐ろしさなどが、とても上手に描かれていると思いながら、惹きつけられるように読みました。『ゲド戦記』(アーシュラ・K.ル=グウィン作 清水真砂子訳 岩波書店)の4巻目が出たときもそう思いましたが、これはYA以上の、むしろ大人の本ではないかと思います。「守り人」シリーズや『獣の奏者』は小学校の図書館でも、とても良く読まれていて子どもたちに人気があります。

冬青:くりかえし読んでも、その度に発見があって面白い本ですね。大人向けのエンタメ本でもエピデミックものは沢山出ていますが、わたしが読んだかぎりでは、たいてい近未来の世界や現代を舞台にしています。でも、この作品はいかにも上橋さんらしい世界を舞台にしているので、魅力があります。自然の描写も美しくて緑の空気をいっぱい吸ったような気になるし、飛鹿を柵の中に入れるところの描写など、実際に動物をどう飼いならすかを見てきた人でなければ書けないような箇所があちこちにあっておもしろかった。でも、地図を見返しにでも入れてくれれば、もっと分かりやすかったのに。病気や免疫についての記述は必要な部分だと思うけれど、ちょっと退屈でした。冒頭は衝撃的で、印象的な場面ですが、それがどういうことか分かるまでがちょっと長くて、年若い読者には辛いのでは?

ヒイラギ:ルビの振り方は、一般書ではなくYAですね。

アンヌ:人の名前が難しいので、今回は読み直しながら、登場人物のページに人物関係表を作って書き込んで行きました。1回目に読んだ時は謎解き中心で読んで行ったので、2回目の今回の方がずっと楽しめました。とにかく私はファンタジー世界を作者が戦争で壊してしまうというのが嫌いで、この作品では戦いはあるものの全面戦争はないので、世界の隅々まで楽しめたという感じです。家族を失っている主人公のヴァンが、一人の幼女を助けたことによって、すんなりと移住民の家族の中に入って行くことができ、その家族は結婚によって別の民族とつながっている。様々な形で家族が形成され、新しい世界が出来上がっていく可能性を示しています。支配層の王たちが、それぞれの妥協点を常に探っているという感じもよかった。もう一人の主人公のホッサルが中心の医学の場面も、推理小説のようにおもしろく読めました。病に抗体がある者はトナカイの乳でできた食品を食べていて、トナカイは地衣類を食べていて、その地衣類でできた薬は、超能力を得たユナの目には光って見えると描かれているところは、ファンタジーならではのとても美しい謎とき場面だと思います。気にかかるのは、後追い狩人サエです。すぐれた能力がある女性なのに、子どもができなくて婚家から身を引いていたり、「あれは寂しい女だから気を付けろ」なんてホッサルに言われたり、やたら顔を赤らめる場面があったりして、かなり女らしく描かれています。封建主義の国の物語だから仕方ないとしても、少し物足りない気がしました。

コアラ:物語の世界に浸っておもしろく読みました。下巻の438ページから440ページくらいで、〈鹿の王〉とは何かという話があるのですが、英雄的な話を否定して、残酷さや哀しみを語る父親のセリフ、仲間を救うのは出来る者がすればいい、ひよっこは生き延びるために全力を尽くせ、という話は、まさに若者たちへの大人からの言葉だなと思いました。それから、音と漢字のあてはめ方がいいですよね。「飛ぶ鹿」と書いて「ピュイカ」と読ませるのは、いかにもピュンピュン飛ぶように駆ける鹿を思わせて、うまいなと思いました。ただ、上下巻の大作のわりには少し印象の薄い物語でした。

しじみ71個分:長編で、世界も人物も複雑な構成になっているのに破綻がない。これだけの世界を構築できる筆の力がまずすごいと思います。ローズマリー・サトクリフのローマ帝国時代のブリテンの物語シリーズを思い出しました。あとがきに、上橋さんはご両親の介護や、ご自身の更年期障害といった、命、生死、病といった問題の中で向きあう中で生まれた物語だと書かれていましたが、上橋さんの思いがよく伝わる作品だと思います。柳澤桂子さんの著書にも言及しておられましたが、私も『われわれはなぜ死ぬのか : 死の生命科学』(柳澤桂子著 草思社 1997)を読んで生物の生死について考えたこともあったので、自分の関心に重なるところの多い作品でした。人の手の水かきが出来ては消えていくように、個体の中で生滅、生まれては死ぬことを繰り返しているという命の不思議さを描くことに挑んだ上橋さんの思いに強く共感します。政治的な面でも、あの国がモデルかしら、とか想像できるのもおもしろいポイントでした。いぶし銀の大人のラブストーリーとしても読めるし、医療、政治、家族等多面的な読み方ができる作品ですし、いろんな知識がもりこまれていておもしろかったです。想定する読み手は高校生以上くらいでしょうか?

ヒイラギ:最初に読んだときは、医学の部分や政治の部分は難しいなと思って、いい加減に飛ばし読みしてしまいました。登場人物がたくさんいて関係も複雑だし、政治の部分も、最初読んだときは私自身の頭の中がうまく整理できなくて、表面的なおもしろさだけを追ってしまったんです。でも今回は、自分で地図も人物関係リストも作りながら読んでいったら、前よりずっと頭に入ってきて、おもしろさも深まりました。構成もよく考えられていて、医学や政治の部分の理屈や説明が続く後にはユナのかわいい言葉や自然の描写があって、うまく調和がとれているんですね。そのあたり、すごくうまいと思います。動物と人間の結びつきもおもしろくて、そのあたりもじっくり考えて書かれているように思います。
ユナが子どもの実像と少し違う、という意見も聞いたことがありますが、この本の中ではこれでいいじゃないかな。知らない親族のところで暮らしたり、ホッサルのところに行ったり、がまんしているところはわずかしか描かれていませんが、ユナが主人公ではないからね。生物の死については「病の種を身に潜ませて生きている。身に抱いているそいつに負けなければ生きていられるが、負ければ死ぬ」というふうに書いてあったりするところで、1回目に読み飛ばしていたのが、今回はああ、なるほどと思ったりもしました。非血縁の人たちが家族をつくっていくというところもおもしろいなあ、と思って読みました。

アンヌ:文庫版には地図がついているようですよ。

しじみ71個分:私は科学的な硬い記述と、ソフトなストーリー部分が交錯することによって、読み方にリズムができるので、それがおもしろいと思いました。ユナについては、ウィルスに感染した生き残りなので、突然変異して新しい人類となってもっと活躍したりするのかと期待したけれど、そこはそうではなかったですね。

アンヌ:たしか親戚の伯母に預けられたとき、ユナは頑固に誰にもなつかないで家を抜け出してばかりいると描かれていますよね。

レジーナ:ユナの舌足らずなしゃべり方は、ところどころ幼すぎるというか、ちょっと不自然に感じるときがありました。

ヒイラギ:私はそれは引っかかりませんでした。この異世界にはいろいろな言語や方言があるのかもしれないし、様々な種族の中で育っているので、最初からすらすらとはしゃべれないんじゃないでしょうか?

冬青:ユナは、リアルな人間の子どもというより、少しばかり神性を持った存在として描かれているような気がしたけど……。

しじみ71個分:確かに、ユナのしゃべり方はその年齢の実際の子どもとはちょっと違った感じは受けました。大人が見た小さい子ども像的な印象。そういえば、私は、描写からユナの絵柄が思い浮かんでこなかったですね。

エーデルワイス(メール参加):以前読んでから読み返していません。文庫でも人気で、予約が続きました。読み応え充分で、浸りたい作品です。日本でもないヨーロッパでもない、架空の時代と世界がなんともたまりません。ただし、私はNHKで放送中の「守り人」を見る気になれません。上橋さんの世界観を出すのには、テレビドラマではむずかしいのかな? ところで、『鹿』ですが、日本中増え過ぎてこまっています。岩手でも問題になっていて、駆除されつつあります。11月下旬に処理されたシカ肉がよそから我が家に届きました。夫がシチューにしてくれましたが、山での姿が思い出されると夫は口にしませんでした。私は「鹿の王」など忘れペロリと食べました。牛肉のようで美味しかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年12月の記録)

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2017年11月 テーマ:外から来た家族

日付 2017年11月23日
参加者 ハリネズミ、ルパン、よもぎ、アンヌ、レジーナ、西山、マリンゴ、ネズ
ミ、ヘレン、(エーデルワイス)
テーマ 外から来た子ども

読んだ本:

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キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

わたしがいどんだ戦い1939年

西山:これだけのかたくなさは、なかなかない、というのが一番の印象です。ひどい扱いを受けている子が描かれている作品は読んできましたが、「丸太をなだめているようだ」という表現があったと思いますが、心も体もここまで硬直している登場人物というのは、私はちょっと記憶にありません。幼児期に当たり前に面倒を見られない、それどころか、暴力も振るわれていたわけですが、それが、知識が足りないという次元ではなくて、自分が何を感じているのか感情自体が自分のものでないようなことになるのだと衝撃を受けました。例えば、p266の中ほど、「スーザンへの怒り(略)母さんへの怒り(略)フレッドへの怒り(略)」何事にも怒りとしてしか出てこない。未分化な感情に混乱するばかりの様子が繰り返し出てきて、圧倒されながら読みました。そういうエイダの内面もそうだけれども、どうなるか、どうなるかと先が気になって読み進めるタイプの本ですね。イギリスの戦時中の感じが、灯火管制とか、人を見たらスパイと思えとか日本と同じだなと思う部分と、それでもクリスマスを祝う様子とか、やはりまるで違う部分とか興味深かったです。

マリンゴ: 全体的に、すばらしい作品だなと思いました。引き込まれて、一気に読了しました。もっとも、穏やかな気分で読み終える直前に家が焼けちゃって、ええっ、ここで終わるの!?というショックはありましたが。あとがきを読んだら、続編が出るとのことで、それなら納得です。続編を早く読めたらいいなと思います。あと、1か所だけ気になったのは、2度目に会ったときの母親の態度。前半とあまりにも変わらないので、どうなんだろう、と。娘の変化と息子の成長を脅威に感じて、辛く当たるにしろ、もう少し態度が変わるのではないのかな、とちょっとだけ気になりました。

ハリネズミ:同じ時期のイギリスの子どもの疎開を書いて、同じように虐待されている子どもが、偏屈なつき合いの悪い大人と心を通わせていくという作品に『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)がありますね。最初に『おやすみなさい〜』を読んだときは、こんな母親がいるのだろうかといぶかったのですが、これを読んで、ああ、やっぱりいるんだな、と思ったりしました。また『おやすみなさい〜』は物語が直線的に進んでいきますが、こちらはやっといい方向にむかったと思うと、またパニックになったりして、とんとんとはいきません。後書きを見ると、著者はご自身も虐待を経験しているとのことなので、こちらのほうが、よりリアルなのかもしれませんね。それから、イギリスは階級社会ですから、労働者階級のエイダと中流階級のスーザンとは、日本語版で読む以上に隔たりがあるんだと思うんです。日本語に訳してしまうと、そのあたりはよくわからなくなってしまいますけどね。さっき、『春くんのいる家』(岩瀬成子著 文溪堂)の日向は大人っぽいという声がありましたが、この作品のエイダはもっと大人ですね。おかれた状況から、早く大人にならざるを得ないということがあるのかもしれません。

アンヌ:私はこの本に夢中になってしまい文字通り一気読みしました。列車の中から馬に乗った女の子を見るところから始まる、馬に乗り自由に走れることへの憧れや、馬との一体感がとてもうまく描かれていて、K.M.ペイトンの作品、例えば『駆けぬけて、テッサ』(山内智恵子訳 徳間書店)などを思い浮かべ、どんどん読みすすんで行きました。はっきり書かれていませんが、スーザンは多分レズビアンの恋人を失い、その関係性ゆえに村人や父親から疎外されたと感じているのだと思います。その喪失感から鬱状態になっていたところに、エイダたちが来て、だんだん立ち直っていく。子供たちの世話をしながら時々ひどいことを口にしてしまうのも、そのせいだと感じました。エイダは母親の虐待にひどく傷ついている子どもで、何度も何度も拒絶されたときの思いが甦って、相手を信じることができません。無知で人と会うこともなく育っているので、他人を拒絶する言葉をつい言ってしまいます。そんな彼女が変わったのが第36章のダンケルクです。自分が他者に対して何かできると知った時変わることができるのだと作者は言いたかったのだと思います。そうでなければ、ロンドンでもパニックになり立ち直れなかっただろうと思います。この本はとても心に残るので、ついつい続きを考えてしまって、早く続編が出ないと心が安まらない気がしています。

ルパン:たいへんおもしろく、夢中になって読みました。いちばん気に入っている場面は、エイダが警察官に向かって「足は悪いけれど、頭は悪くありません」と啖呵を切るところです。主人公に早く幸せになってもらいたい、という一心で読んだので、お茶の招待になかなか応じないところでは、「早く行け~」と心の中でさけんでいました。

よもぎ:とても読みごたえのある、いい本でした。冒頭の母親があまりにもすさまじくて、ディケンズの小説を読んでいるような……。こういう貧困家庭に育った子どもたちが、ミドルクラスの家に預けられるということがあったんですね。激しい虐待にあってもエイダが心の底に持っていた清らかな魂というか、それは弟に対する愛情によって辛うじて保たれていたものだと思いますが、その魂が馬や、スーザンや、村の人々によって、やがてほぐれて育っていく様子に感動しました。日本の学童疎開にも、いろいろなドラマがあったに違いないのですが、このごろはあまりテーマとして取り上げられないですよね?

ヘレン:この本も『春くんのいる家』のように、子どもの気持ちがよく感じられますね。

レジーナ:私も『おやすみなさい、トムさん』を思いだしながら読みました。p110に「わたしたち、暴風雨にもてあそばれてるね」とありますが、主人公は、戦争や家庭環境など、自分の力ではどうしようもないことに翻弄されます。でもp103に、自由とは「自分のことを自分で決める権利」とあるように、最後には自分で人生を選びとっていくんですね。それまでスミスさんと呼んでいたのが、p184ページからはスーザンと呼ぶようになります。主人公の気持ちが変わる重要な場面だと思いますが、どうしてここでそうなるのか、気持ちの変化についていけなくて、ちょっと唐突な印象を受けました。

何人か:そこは、それでいいんじゃないかな。

ネズミ:ひきこまれてぐいぐい読みました。エイダがどんなふうに成長していくか、目が離せない。「外国の小説」という感じがしました。日本の作品だと、相手はこう思うだろうと思いながらも、人と人があまり直接的に思いをぶつけあわないけれども、この作品の場合、エイダとスーザンが、面と向かって言葉で伝えていく場面が多いですよね。人間関係の作り方の違い、関係性の違いなのでしょうね。そういう違いがおもしろくもありますが、時には息苦しくなるほど。英米の作品に慣れている子どもじゃないと入りにくいかなと思いました。

ヒイラギ:疎開を取り上げた日本の作品は、いじめとか空腹などがテーマで、こんなふうに、それを機会に成長するとか、新しい出会いがあるなんていうのは少ないですね。角野栄子さんの『トンネルの森 1945』(KADOKAWA)はちょっと色合いが違いましたが。

よもぎ:『谷間の底から』(柴田道子作 岩波書店)は、疎開児童が初めて書いた作品として出版当時は話題になりましたが、今でも読まれているのかしら?

ネズミ:この本の表紙はすてきですが、中身のイメージと違うかな。飛行機乗りみたいで。

エーデルワイス(メール参加):読み応えがあって、一気に読みました。まるで昔話の継母のような、主人公エイダに対する実母の仕打ちは、無知なる生い立ちのせいでしょうか。最近いとうみく作の『カーネーション』を読んだばかりですが、母親に愛されないというところは、なんともいえない切なさがありますね。エイダが、虐待による後遺症で、呼吸困難になったり、人に触られる恐怖を感じるところは、具体的でリアルでした。弟のジェイミーが環境の変化でおねしょをする場面では、どんな母親でも恋しいのだろうと思わされました。里親のスーザン・スミスは最初は頼りないように思えましたたが、毎晩エイダとジェイミーに本を読んでくれたり、ジェイミーが学校の担任に左手を矯正されるのに対し毅然とした態度で言い負かすところに惚れ惚れしました。ラストは感動的。続編はどのような展開になるのでしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題」2017年11月の記録)

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岩瀬成子『春くんのいる家』表紙

春くんのいる家

ルパン:おもしろかったです。岩瀬成子さんの作品はどれも好きなので、期待していました。複雑な人間関係や心の綾はとてもよく書けていて、さすがだと思いました。ただ、もう少し春くんの魅力が伝わってもよかったのかな、と思います。おもしろかったけれど、印象が薄いというか・・・。

アンヌ:なんだかまるで詩を読んだように感じました。特に心に残ったのは、春くんが夕方まで自転車を乗り回し、日向もまねをするところです。この子たちの孤独と自由と未来への不安が感じられました。ネコを拾ってきた場面では、家族の会話が開かれていく予感がとてもうまく描かれています。でも、こんな風に分析していかないほうが、読んだ後に、ふんわりとしたひとつの世界を感じ続けられるような気がしています。

ヒイラギ:大きな事件は起こりませんが、日向は親が離婚したために母親と一緒に祖父母の家で暮らすことになるし、春くんは父親が病死して母親が再婚し、祖父に請われて「跡継ぎ」として祖父母の家にやってくる。みんなが新しい環境の中で最初はぎくしゃくしているんですが、だんだんにそれぞれがそれなりの居場所を見つけて行く過程が、とてもうまく書けていると思いました。たとえばp34「お客さんみたいだ、わたしと春くんは。いいのに、いいのに、とわたしは思う。親切にされると、親切にされている自分が特別な子になったみたいな気がする」と日向が思うところとか、p46で春が「自転車で走っているとね、なんか、自分が軽くなる感じがするんだよねえ。たとえば、名前とかさ、どんな学校にいってるかとかさ、たとえば家族とか、そんなもんがだんだん消えていって、かわりに体に空気がはいって軽くなるような、そんな気がね、する。それが、たぶん気もちいい」と言うところなんか、うまいなあ、と思いました。日向の母親が離婚の原因を子どもに言わないで何となくごまかすことろは日本的ですが、でもこの母親も家族の今をよく見ていて、「うちは今、なんていうか、たいへんなときじゃないの。今までべつべつに生活していた人間がこうやってあつまって、なんとか家族になろうとしているのよ。つまり、たいへんなときであるわけよ。でしょう? この際だから、ね、ネコも飼いましょう。みんなでいっしょに家族になればいいんじゃないのかな」なんて言ったりするのも、いいですね。最後に、日向がなんだか笑えるような気持ちになって安心するという場面も、言葉で状況を説明してはいないのですが、読者も一緒に明るい気持ちになれますね。

マリンゴ: 岩瀬さんの作品は、小学高学年以上向けのものは何冊も読んでいるのですが、中学年向けは初めてでした。言葉にしづらい感情を言葉にするのが岩瀬さんならではの作風だと思いますが、それを中学年に対してもできてしまうところがすごいと思います。どの年齢の子にも言葉にできない感情はあるでしょうけど、学年が下がるほど、ボキャブラリーが少ないために表現できない気持ちが増えると思うんですね。そういう子たちが、本作を読んで「それってこういう気持ちなのか」と、ハッとすることもあるのではないか、と。また、会話の文体ですが、普通は小学生同士の会話って、くだけた現代的な方向に行きがちですが、この作品では、佐伯さんが丁寧語でしゃべってたりして、そこがとてもユニークだと思いました。

西山:文学だなあ、と思います。岩瀬成子の作品は、筋は忘れちゃうんです。というか、説明しろと言われても、筋が浮かぶわけではない。でも、読みはじめると、岩瀬成子の世界だ!と思う。たとえばp21の「わたしは春くんの青いソックスを見た。春くんとなにか話したいのに、でも、なんのことを、どんなふうに、話せばいいのか、わからない。」「春くんは、わたしが春くんの足を見ているのに気づいて、青いソックスの指先をぴくぴくと動かした。」こういうところ、理屈で説明できない、これ以上でもこれ以下でもない描写に、岩瀬成子だなぁと思ってしまいます。こういう一つ一つが、子どもの心をいい方向に複雑にしてくれる、その複雑さはもやもやを抱えた子どもの救いになるんだろうと思います。佐伯さんの丁寧語も独特の味を出していて、p27の「猛然と腹が立った」とか「それはね、思い過ごしでしょう」とか、こういう話し言葉は、岩瀬成子の世界を作っていると思います。子ども読者がそういう言い回しに出会うことはとても良いことだと思いますし、こういうのはおもしろがると思う。そこここに散りばめられたユーモアも好きですね。「おばあさんになったら、だれでもネックレスを好きになるんじゃないのかな」(p29)なんて、笑ってしまった。刺身を応接間の高そうな壺の中に隠してた思い出話のところもおもしろい。p49の「おれら、悪い子だなあ」「うん、悪い」「わたしは急にうれしい気もちになった。もっと、ずっと悪い子になれそうな気がしてきた。不良とかになろうと思えば、なれるかも、と思った。そしたら、おじいちゃん、きっとすごく怒るだろうなあ。/くふ、くふ。わたしは笑った。」なんて、おもしろくてたまらない。独特で、硬直した子どもにまつわる問題意識みたいなのをゆるめてくれる気がする。一言一言がおいしい1冊でした。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。大きな事件が起こらないのに、物語が成り立っているのがすごいなと。だれが何をしたという筋を楽しむ物語と、岩瀬さんはまったく違うアプローチなんですね。行ったり来たりする思いや細やかな気持ちを見せてくれる作品。p36の「ほんとは気もちがごちゃごちゃしたのだけれど、ごちゃごちゃする気持ちをうまく伝えることなんて、できそうになかったから。」と、p61の「おじいちゃんのなかにも、いろんな気もちがごちゃごちゃとあって、怒りたいとか、心配だとか、もっとべつの気もちもあって、そのいちいちが、すんなりでてこないんだ。」、こういうのを読むと、言葉にできないこともすべてひっくるめて表されていてすばらしいなと思いました。一人称で書いているのに、この子の世界や家族のひとりひとりのようすが自然に伝わってくるのもうまい。大きな事件が起こるのを求めている読み手はとまどうかもしれないけれど、手渡せば好きな子はいるだろうなと思います。「しっかりしろよ、娘」とお父さんが言う父娘の関係が今風で、ステレオタイプな人が出てこないのがおもしろいな。

レジーナ:祖父母といっしょに暮らすようになって、そこに従兄もくわわって、どこかぎくしゃくしていた関係性が、猫を飼いはじめたことで少しずつ変わっていきます。子どもの心を繊細にとらえて、くっきりと描いていますね。

ヘレン:すごくやさしくてわかりやすい話です。子どもの感じとか大人の感じが描写されていて。はっきりした筋があるというより、雰囲気を大事にしている作品です。日向ちゃんは大人のことをよくわかってくれていますね。

よもぎ:わたしも、西山さんとおなじに「文学を読んだ」という感動をおぼえました。悲しいとか、辛いとか、嬉しいとか……そういう感情の底というか、とっても薄い幕の向こうに透けてみえる心の動きを掬いとるのがうまいなと、いつも思います。わたしがいちばん好きなのは、春くんが夕日の沈む瞬間を見たというところ。最後に、日向ちゃんといっしょに朝日を見ようというところと呼応していて、見事だと思いました。それにp85の日向ちゃんの「だってしょうがないじゃん」という台詞。10歳の子に、こういうことをさらっと言わせるなんて、すごい! わたしは常々、ひとりひとりの人間が描けていれば、たいした筋がなくても、それだけで文学として成立すると思っていますが、この作品でも同じことを感じました。日向ちゃんの家族はもちろんのこと、友だちの佐伯さんや合田くんも、ページからくっきりと立ち上がるように描けている。会話が上手いってことでしょうね。佐伯さんの「なめとこ山の熊」の話、とってもおもしろかった。筋がないという話が出ましたが、実は、ゆったりとした、大きなストーリーが流れているんじゃないかな。

エーデルワイス(メール参加):小四のひなたと中二の春くんは、大人の事情で翻弄されているように思いました。それでも子どもは、自分の居場所を見つけていくのですね。淡々と生きて行く春くんと、それを見つめるひなた。悲劇になってもおかしくない物語ですが、明るい方へもっていきましたね。佐伯さんの「なめとこ山のくま」の話がおかしかった。岩瀬さんは賢治がお好きなのでしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題2017年11月の記録)

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ユリ・シュルヴィッツ『ぼくとくまさん』さくまゆみこ訳

ぼくとくまさん

『ゆき』や『よあけ』で有名なシュルヴィッツのデビュー作です。今の画風とはだいぶん趣が違いますが、デザインや空間に対するとぎすまされた感覚は共通しています。24歳でアメリカにやってきたシュルヴィッツは、自分の絵を持って出版社をまわりました。イラストレーションの仕事がほしかったからです。そして苦労してこの作品をつくりあげました。
(編集:山浦真一さん 装丁:桂川潤さん)

その時のことが『シュルヴィッツの絵本論』(未訳)に書いてあるのでちょっとご紹介しておきますね。

◆◆◆

 最初に出会った編集者は、幸運なことにスーザン・ハーシュマン(当時はハーパー・アンド・ロウ社勤務)だった。出版社を訪れたのは挿絵の仕事をもらえないかと思ってのことだった。彼女は私の作品を見て気に入ってくれたが、絵をつけるべき原稿は持ち合わせないので、自分で文章も書いて絵本をつくったらどうかと提案してくれた。私はふるえあがった。
自分で物語を書く? そんなことできるはずがない。私は画家で、作家ではない。やってみたいことはいろいろあったが、文章を書くなどという大それたことは考えてもいなかった。文章を書くということは、言葉の魔術師にこそふさわしい神秘的な行為だと思っていた。私にとって言葉を用いるということは、野生のトラを調教するようなものだった。
「どう書いていいか、わかりません」と、私は言った。
「やってみれば?」と、彼女は言う。
「でも」と私は言って、乗り越えがたい障害を思った。「私は英語を話すようになってから、まだ4年もたっていないのです」
「心配ないわ。変なところがあったら直せるから」と、彼女は請け合った。
そうまで言われれば、試みるしかない。私は何度も書いてみては、へたな文章をスーザン・ハーシュマンに見せにいく、ということを何ヶ月もつづけた。彼女の批評や提案を得て修行し、何度も失敗したあげく私はついに1冊の絵本をつくりだした。わずかな変更ののち、最初の絵本『ぼくとくまさん』The Moon in My Roomが生まれた。試行錯誤の繰り返しがなかったら、きっとつくれなかった絵本だと思う。

 

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フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 『シャイローがきた夏』

シャイローがきた夏

アメリカのフィクション。アメリカでは長く読みつがれている作品です。山の村に住む少年マーティがビーグル犬に出会い、最初に出会った場所の名前をもらってシャイローと名づけます。ところがこのビーグル犬には持ち主がいて、自分の飼っている猟犬たちを虐待しているのでした。マーティは、シャイローを虐待している飼い主からなんとか救い出そうとします。このあたりは、ひと昔前のよきアメリカが反映されているかもしれません。少年とシャイローの間に通い合う気持ちが生き生きとフレッシュに表現されているのが、私は気に入っています。前は別の出版社から別のタイトルで出ていた作品ですが、新たに訳し直しました。うちにもビーグル犬がいるので、ずっと気になっていた作品です。3部作なので続編もあるのですが、3作とも映画になっていて、DVDで見ることができます。

*ニューベリー賞(アメリカ)受賞
*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定

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フィリパ・ピアス作 ヘレン・クレイグ絵『消えた犬と野原の魔法』さくまゆみこ訳

消えた犬と野原の魔法

イギリスの絵物語。フィリパ・ピアスが最後に残した原稿に、共通の孫をもつヘレン・クレイグ(ピアスの娘のサリーと、クレイグの息子のベンはパートナーで、間にナットとウィルという二人の息子がいます)が絵をつけました。本ができあがる前にピアスは亡くなってしまったのですが、文章にも、クレイグの絵にも、ピアスが愛した風景や人々がたくさん登場しています。
イギリスに行ったとき、近くのルーシー・ボストンの家までは訪ねていった(この時はもうボストンは亡くなっていて、息子のピーターさんとその妻ダイアンさんにお目にかかりました)のに、ピアスをお訪ねすることはしませんでした。ファンというだけでお訪ねするのはいかがなものか、と変な遠慮が働いてしまったのです。もともと私は、作家にサインをもらったり一緒に写真を撮ったりするのも苦手なほうです。
本書は、表紙の左下に出ている少年ティルが、行方不明になった犬(表紙のまん中に出ていますね)を、右下の不思議なおじいさんの助けを借り、野原の家に住む二人のおばあさんたち(ピアスとクレイグがモデルのようです)にも手伝ってもらって捜すというストーリーです。今はやりの、展開が早く刺激の多い作品とは違いますが、味わいの深い作品になっています。ピアスは、人間の心理をとてもじょうずに、しかもユーモアとあた たかさをこめて書く作家で、私が大好きな作家の一人です。編集者としてもかかわらせてもらいましたが、今度は翻訳者としてかかわったことになります。
(編集:上村令さん 装丁:森枝雄司さん)

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ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』表紙(さくまゆみこ訳 評論社)

白いイルカの浜辺

イギリスのフィクション。主人公の少女カラは、難読症で学校でいじめにあっています。自然保護活動をしている母親は、野生のイルカを調査中に行方不明ですが、カラはいつか帰ってきてくれるものと信じています。やはり難読症の父親は、細々とエビ漁を続けながらひたすら途方に暮れています。ある日、カラの学校に転校生フィリクスがやってきました。フィリクスは、脳性麻痺で手足が不自由ですが、人一倍の自信家でもあり、ITオタクでもあります。
カラたちの暮らす漁村は、今のところ底引き網漁が禁止されていますが、もうすぐその禁止が解かれることになっていて、カラは、沿岸の海の自然が生物もろとも根こそぎ破壊されてしまうと心配しています。
そんなある日、カラは浜辺にのりあげている白い子イルカを見つけます。白いイルカはプラスチックの網にからまって大けがをしているのです。カラは、まわりの人たちの力を借りて、白いイルカのいのちを助けようと奮闘し、やがてクラスメートや地域の人も巻きこんで、底引き網漁に反対する活動を始めます。
ハラハラどきどきの冒険物語でもあり、親と子の物語でもあり、地域や政治とのかかわりの物語でもあり、大自然とITを対比する物語でもあり、そして何より動物について深く知ることのできる物語です。著者のジル・ルイスは獣医さんでもあるので、動物や自然についての描写は的確でウソがありません。おもしろいです。
(編集:岡本稚歩美さん 装画:平澤朋子さん 装丁:中嶋香織さん)

***

<紹介記事>

・「子どもの本棚」(日本子どもの本研究会)2016年2月号

 

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ルーシー&スティーヴン・ホーキング『宇宙の法則 解けない暗号』さくまゆみこ訳

宇宙の法則〜解けない暗号

ホーキングさんのシリーズは、『宇宙への秘密の鍵』『宇宙に秘められた謎』『宇宙の誕生』の3冊で完結したと思っていた方も多いと思いますが(私もです)、また出ました。今度は、宇宙や天体のことというより、数学やコンピュータにまつわる話に焦点が当たっています。

ある日、地球上のコンピュータがあっちでもこっちでも故障して、インフラは破壊され、交通はマヒし、物流はストップしてしまいます。アニーのお父さん(ホーキング博士がモデルですね)は、対策を打つために首相に呼び出されて出かけ、その間にジョージとアニーは不思議なコンピュータのコスモスを使って宇宙に飛び出していきます。コスモスがいつもと違うのも気がかりですが、やがて二人は、世界を支配する欲望にとりつかれた奇妙な男が量子コンピュータを使って事件を引き起こしていたことを知ります。

ホーキングさんのシリーズは、空想と理論やファクツがうまく結びつき、科学を身近なものに感じられるところがいいな、と思っているのですが、なにせ私は数学が大の苦手なのです。量子コンピュータのことなんて、さっぱりわからないし、普通のコンピュータの原理だって理解しているとは言い難いのです。なので、今回は、佐藤勝彦先生(自然科学研究所長)だけでなく、平木敬先生(東京大学情報理工学系研究科教授)にも、わからないところを教えていただきました。自分なりには、一応ひととおりわかったうえで、訳したつもりです。翻訳をやっていておもしろいと思えることの一つは、未知の分野のことが少しはわかるようになる、というところです。

(監修:佐藤勝彦先生+平木敬先生 編集:板谷ひさ子さん 装画:牧野千穂さん 装丁:坂川栄治さん+坂川朱音さん)

◆◆◆

<紹介記事>

・「子どもと読書」2016年5.6月号の「新刊紹介」で、宮崎祐美子さんがご紹介くださいました。

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ジョージとアニーは親友同士。ある日彼らの町でサイバーテロが起き、町中が大混乱に陥ることに。なんとそれは世界同時多発テロの幕開けだった。アニーの父エリックが持つスーパーコンピュータ・コスモスの力をかり、宇宙へ飛び出した二人は、果たして事件の謎を解明することができるのか。

ホーキング博士のスペースアドベンチャーシリーズの続編。ところどころに美しい宇宙の写真と最先端の科学を紹介するコラムが掲載されており、作者がこの本を手にとる子どもたちに科学の面白さを伝えたい気持ちがあふれている。一方で文明の未来への警鐘も。前作で小学生だった二人は中学生になり、自作の活躍も楽しみだ。

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ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳

紅のトキの空

イギリスの児童文学。『ミサゴのくる谷』や『白いイルカの浜辺』でおなじみのジル・ルイスの作品です。ルイスは獣医でもあるので動物の描写が正確だし、困難な状況を抱えた子どもたちに寄り添おうとする気持ちが、この作品にも反映されています。
この作品に象徴的に登場するのは、ショウジョウトキ(スカーレット・アイビス)。トリニダード・トバゴに生息する真っ赤なトキです。そこから名前をつけられたスカーレットは12歳で、褐色の肌(写真でしか知らない父親がトリニダード・トバゴの人だったのです)。精神的な問題を抱えた母親と、発達が遅れている白い肌(父親が違うということですね)の弟との3人暮らし。毎日の生活をなんとか回しているのはスカーレットなのですが、なにせ12歳なのでそれにも限界があります。
スカーレットは母を心配し、弟を守ろうと懸命なのですが、住んでいるアパートが火事になったことから、これまでの暮らしとは違う世界に投げ出されてしまいます。果たしてスカーレットたちは、自分の居場所を見つけることができるでしょうか?この作品にも、傷ついた鳥や捨てられた鳥の世話をしているマダム・ポペスクという魅力的なおばあさんが登場します。
ジル・ルイスは後書きで、主人公スカーレットのような、家族の責任を自分が背負わなくてはいけないと思っている子どもが、英国にはたくさんいると書いています。また、「家」や子どもの居場所について考えて書いた本だとも述べています。
(装画:平澤朋子さん 装丁:中嶋香織さん 編集:岡本稚歩美さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定

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<紹介記事>

・「子どもと読書」(親子読書・地域文庫全国連絡会)2017年5〜6月号

 

・「こどもとしょかん」(東京子ども図書館)2017年春号

 

・「子どもの本棚」(日本子どもの本研究会)2018年1月号

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ルーシー&スティーヴン・ホーキング『宇宙の生命 青い星の秘密』さくまゆみこ訳

宇宙の生命〜青い星の秘密

おなじみの宇宙アドベンチャー物語です。この巻では、アニーとジョージが火星に行く宇宙飛行士を養成するための訓練を受けることになります。でも、その裏にはとんでもない事実が!
ハラハラ、ドキドキのそうした物語の合間合間で本書は、地球の水は、どこから来たの? 火星やエウロパ(木星の衛星)には生命体がいるの? 火星で生活するのはどんな感じ? 火山って何? 自動運転車は間もなく実現する? 化学元素って? 周期表はどうやってできたの? 人工冬眠は何の役に立つの? 量子トランスポーテーションって何? などという疑問に答えてくれます。無重力飛行やVRも登場します。
このシリーズには最新の科学知識が出てくるので、翻訳は大変です。でも、私が素人だからこそ、監修の先生方に疑問を何度もぶつけて、自分なりに納得したところで訳しています。
(日本語版監修:佐藤勝彦先生 装画・挿画:牧野千穂さん 編集:板谷ひさ子さん 装丁:坂川栄治+鳴田小夜子さん)

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モリー・バング&ペニー・チザム『海のひかり』さくまゆみこ訳

海のひかり

アメリカのノンフィクション絵本。モリー・バングの『わたしのひかり』『いきているひかり』に続く「ひかり」シリーズの3作目です。今度は水の中にいる植物プランクトンがテーマです。海の生物も、陸の生物と同じように、太陽光のエネルギーが大事なのだということがよくわかります。光の届かない深海にまでその影響は及んでいるのです。

私たちが吸う酸素の半分は、水の中をただよう植物プランクトンがはき出したものだって、知ってました? そうだとすると、福島の汚染だって、空気や土のことしか考えていないのでは、まずいんじゃないのかな? 海の食物連鎖も心配だな・・・などと、いろいろなことを考えながら訳しました。

バングはこの絵本シリーズによほど力を入れているのだと思います。科学の絵本にしては珍しく、図鑑風ではない美しい絵がついています。2巻目からはMITでエコロジーを教えるチザムと組んでの仕事なので、科学的にもより正確になりました。

こういう絵本や、ホーキング博士のシリーズなどは、翻訳するときに丹念に調べなくてはなりません。でも、調べるのは嫌いじゃありません。知らなかったことが、いろいろわかってきますからね。
(編集:岡本稚歩美さん)

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スティーヴン・サヴェッジ『ちいさなタグはおおいそがし』さくまゆみこ訳

ちいさなタグはおおいそがし

アメリカの絵本。小さなタグボートが主人公です。タグボートというのは、港でほかの船を引いたり押したりして助ける船です。めだつ船ではありませんが、小回りがきき、強力なエンジンをもっています。

タグは大忙しで活躍していますが、夜になるとさすがにつかれてきます。そうすると、こんどは仲間の船がやさしくいたわってくれます。

作者のサヴェッジさんは、この絵本について、「自分に子どもが生まれて生活が変化したころ、アトリエから港を見おろしているうちにアイデアがうかんだのです」と語っています。

私はタグボートの絵本をもう1冊訳しています。『さあ、ひっぱるぞ!』(ケイト・マクマラン&ジム・マクマラン作 評論社)です。タグボートは小さいわりには力持ちなので、子どもに好かれるのかもしれません。
(編集:小川淳子さん 装丁:田中久子さん)

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ポリー・アラキジャ『トビのめんどり』さくまゆみこ訳

トビのめんどり

西アフリカのナイジェリアを舞台にした絵本。主人公はトビという名前の男の子。友だちのアデが飼っている雌牛は月曜日に1匹赤ちゃんをうみ、トゥンデが飼っている羊は火曜日に2匹赤ちゃんをうみ、ビシが飼っているヤギは水曜日に3匹赤ちゃんをうみ…というふうに、村の子どもたちが飼っている動物には、次々に子どもが生まれていくのに、トビはずっと待っています。でも、3週間たつと、とうとう卵がかえって、ヒヨコが誕生!

村の人々の暮らしぶりを伝えながら、曜日や数についてもわかるように考えられた絵本です。最後の見開きには、「ぜんぶで なんば いるのかな?」と、たくさん描いてあるニワトリを数えてみる楽しさがあります。

作者はイギリスに生まれて、ナイジェリア人と結婚し、長年ナイジェリアに住んでいた画家です。作品が紹介されているホームページはここにあります。
http://www.pollyalakija.com/

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<紹介記事>

・「子どもと読書」2014年11.12月号の「新刊紹介」で北村明恵さんがご紹介くださいました。

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トビはめんどりを、友達はそれぞれ牛・羊・ヤギ・ネコなどを飼っています。月曜日、友達のアデの牝牛が赤ちゃんを一匹産み、トビのめんどりは卵を一つ産みました。火曜日、トゥンデの羊が赤ちゃんを二匹産み、めんどりは二個目の卵を産みました。こうしてどんどん赤ちゃんと卵が生まれ、七日目の日曜日、卵は七個になりました。三週間たって、他の赤ちゃんは大きくなって動きまわるようになりました。トビとめんどりは、卵がかえるのを待っています。

数がどんどん増えていく数の絵本でもあり、絵の中の動物を探して数える絵本でもあります。また、まわりで働く大人達や、動物と共に暮らすアフリカの暮らしが絵から伝わってきます。

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トニ・モリスン&スレイド・モリスン文 シャドラ・ストリックランド絵『ほんをひらいて』さくまゆみこ訳

ほんをひらいて

アメリカの絵本。主人公は下町に暮らす東洋系らしき少女ルイーズで、雨宿りをするために図書館に入ります。ルイーズにはこわいものがいっぱいあって、不安を強く感じる子どものようです。でも、本を開くと、広い世界が見えてくる。お話を読めば、つらいことも忘れられる。そう、ひと味違った、本の世界の楽しさ を伝える絵本です。

トニ・モリスンはノーベル文学賞に輝くアフリカ系アメリカ人。スレイド・モリスンは、トニの息子です。スレイドは、この作品を母といっしょにつくった後亡くなっています。膵臓癌で亡くなったようですが、そこには何か事情もあるようで、原出版社からスレイドの死については著者紹介に書かないでほしい、と言われました。
(編集:石原野恵さん 装幀:森枝雄司さん)

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<紹介記事>

・「読売KODOMO新聞」2014年12月4日

 

・「新日本海新聞」2014年11月30日

 

・「読売新聞」2014年12月13日夕刊

 

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ユリ・シュルヴィッツ『ゆうぐれ』さくまゆみこ訳

ゆうぐれ

アメリカの絵本。『ゆき』に出て来た男の子と犬がここでも登場します。この絵本では、男の子が黒ひげのおじいさんと犬を連れて散歩に出かけます。あたりはだんだん暗くなり、さびしくなってきます。でも、人々はあっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しそう。そのうち、ぽつんと明かりがともります。そして明かりはだんだんに増えていき、通りも、お店のウィンドウも、広場も、まばゆいイルミネーションで飾られます。

クリスマスの街を描いた絵本です。あちこちにクリスマスツリーが登場し、本屋さんもおもちゃ屋さんも、マザーグース劇場も明るく楽しそうに見えます。空が暗いので、よけいに街のイルミネーションがきれいに映えるのですね。
(編集:山浦真一さん 装丁:城所潤さん+岡本三恵さん)

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<紹介記事>
・11月26日の毎日新聞です。「本はともだち」コーナーの「クリスマスには絵本の贈り物を」という記事で、書いてくださったのは木村葉子さんです。

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名作絵本「よあけ」で知られる作者の最新作。クリスマスの夕暮れどき、おじいさんと散歩に出かけた男の子は、川面に沈む夕日を見る。薄暗くなった街に戻ると、人々は忙しそうに行き交っていた。自然の光が消えると、街の明かりが次々とともる。静かな中にも華やいだクリスマスが感じられる一冊。

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ヘレン・スティーヴンズ『おばあちゃんからライオンをかくすには』さくまゆみこ訳

おばあちゃんからライオンをかくすには

イギリスの絵本。前作『ライオンをかくすには』では、迷い込んできたライオンを両親から隠そうと必死になったアイリスですが、今度は、両親の留守におばあちゃんがやってくるというので、さあ大変! なんとかしておばあちゃんからライオンを隠そうとします。

でも、大きな衣装箱を運び込んだおばあちゃんにも、何か秘密がありそうです。だって、おばあちゃんは「ねるまえのおやつ」を山のように用意するし、夜中におばあちゃんの寝室から変な物音が聞こえてくるのですから。

それにしても、ゆかいな家族です。アイリスは、このおばあちゃんの遺伝子をしっかり受け継いでいるのでしょう。怖いことは何も起こらない、あったかいストーリーとあったかい絵が魅力。くすくすっと笑えるユーモアもあります。
(装丁:伊藤紗欧里さん 編集:若月眞知子さん)

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トルーディ・ラドウィッグ文 パトリス・バートン絵『みんなからみえないブライアン』さくまゆみこ訳

みんなからみえないブライアン

アメリカの絵本。目立たない子どもを主人公にしています。私が前に訳した『ひとりひとりのやさしさ』(ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵 BL出版)には、転校生をわざと無視したり、あざけったりするいじめが出てきました。いじめは、子どもをめぐる大きな問題なので、子どもの本でも取り上げられることの多いテーマです。でも、この絵本のブライアンは積極的ないじめを受けているというより、目立たないために、みんなからついつい忘れられてしまうのです。友だちから忘れられるだけではありません。ほかに手のかかる生徒を抱えていれば、先生までその子がいることになかなか気づきません。

でも、そんな体験をたくさんしてきたせいか、ブライアンは人の痛みがわかる子どもです。なので、転校してきたジャスティンがからかわれた時に、得意な絵をつけた手紙を書かずにはいられなかったのでしょう。それをきっかけにして、友だちの輪が広がっていくのがすてきです。

この絵本は、どうぞ後ろの見返しまで見てくださいね。
(装丁:森枝雄司さん 編集:宮本友紀子さん)

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<紹介記事>

・「公明新聞」2015年11月28日

・「AERA with Kids」2015年9月号

 

・「朝日小学生新聞」2015年11月号

 

・「教育家庭新聞」2015年7月20日

 

・「教育新聞」2015年6月25日

 

 

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『ノックノック:みらいをひらくドア』表紙(さくまゆみこ訳 光村教育図書)

ノックノック〜みらいをひらくドア

アフリカ系アメリカ人の男の子を主人公にしたアメリカの絵本です。「ぼく」とパパは、毎朝「ノックノック」のゲームをしています。パパがドアをたたくと、ぼくは寝たふり。そしてパパがベッドまで来るとぼくはパパにとびついて「おはよう」と言うのです。

ところがある朝以来、ノックノックの音が聞こえなくなってしまいました。ぼくは、パパが恋しくて、手紙を書きます。「パパ、かえってきて。ぼくは パパみたいに なりたいんだ。でも、パパが どんなだったか、わすれてしまいそう」と。ぼくの手紙は机の上に置かれたまま月日がたつのですが、とうとうある日、パパからの返事が机の上にのっていました。「すまないが、わたしは かえれない」で始まる返事の手紙が。父親の愛情にあふれるこの手紙がすてきです。

この絵本は、作者ビーディーの実体験を元に書かれています。ノックノックの遊びをしていたビーディーの父親も、家族から引き離されて投獄されたのでした。ビーティーは後書きでこう言っています。「後に小さな子どもたちを教える立場になった私は、多くの子どもたちが投獄、離婚、死などの理由で父親の不在と向き合っていることを知りました。こうした体験に後押しされ、子どもの視点から描いたこの絵本ができあがりました。この絵本はまた、父親をなくした子どもであっても、すばらしい人生を歩むことができるという希望も語っています」
(装丁:城所潤さん 編集:相馬徹さん)

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<紹介記事>

・「産経新聞」2015年8月16日

 

・「子どもの本棚」(日本子どもの本研究会)2016年12月号

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モーリス・センダック『バンブルアーディ』さくまゆみこ訳

バンブルアーディ

アメリカの絵本。センダック最後の絵本です。主人公は子ブタちゃんのバンブルアーディ。生まれてからこのかた一度も誕生日のお祝いをしてもらったことがありません。でもそのうち、パパもママもあの世へ行ってしまい(「とうとう ブタにくに されちゃった」)、アデリーンおばさんに引き取られます。そして9歳のバンブルアーディは、初めてアデリーンおばさん誕生日のお祝いをしてもらうことになります。

でも、うれしくてたまらないバンブルアーディは、おばさんが仕事に出たすきに、友だちをたくさん呼んでどんちゃん騒ぎ(この大騒ぎが盛り上がる場面は、『かいじゅうたちのいるところ』と同じように3見開きを文章なしに絵だけで見せています)。そこへおばさんが戻ってきて・・・。おばさんが 怒り狂う(「きえろ、うせろ、たちされ、でていけー!」)場面も迫力あります。最後は、すてきなアデリーンおばさんが、「もうぜったい10さいにならないから」と謝るバンブルアーディを、また受け入れてくれます。私はこのところ児童文学や絵本にみる新しい家族像について考えているのですが、これも「子どものないおばさんの養子になった男の子」を描いている絵本と見ることもできそうです。おばさんがバンブルアーディの試し行動でカッとなった後で関係を再構築していく過程と見ても、おもしろいかもしれません。

80歳を過ぎたセンダックがつくったとは思えないようなエネルギーが感じられる絵本です。

書き文字は、わざと子どもが書いたみたいな文字にしてくださっているようです。私はもっときれいな文字の方がしっくりくるのではないかと思ったのですが、センダック関係者のほうは、これがいいと気に入ってくれたとのこと。
(装丁:城所潤さん 編集・広松健児さん)

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<紹介記事>

・「産経新聞」2016年5月24日

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サラ・M・ウォーカー文 ジョナサン・D・ヴォス絵『ウィニー:「プーさん」になったクマ」さくまゆみこ訳

ウィニー〜「プーさん」になったクマ

ノンフィクション絵本。表紙が「原作」となっているのはちょっと解せないので問い合わせたところ、単なる間違いでした。リライトなどは一切せず、原文に忠実に訳しています。

『クマのプーさん』のぬいぐるみは、ウィニー・ザ・プーという名前ですが、ウィニーという名前がついたいきさつを、この絵本では子どもにわかるように語っています。クリストファー・ロビンは、ロンドン動物園でウィニーという名前のクマに出会い、それが印象に強く残っていたのですね。そしてウィニーは赤ちゃんの時に、鉄道の駅で、カナダ陸軍の獣医だったハリー・コルボーンに引き取られたクマだったのです。どうしてそのクマがカナダからロンドン動物園までたどりついたのか、ウィニーはどんなクマだったのか、という実話に基づいた絵本です。

同じ実話に基づいて、評論社からも『プーさんと であった日』というのが出ています。評論社の絵本の文を書いたのは、コルボーンのひ孫のリンジー・マティックさんで、そちらはコルデコット賞をとっています。

こちらの『ウィニー』は、動物園に来た後のことまで描かれているので、両方見比べてみると、おもしろいかも。
(装丁:稲垣結子さん 編集:仙波敦子さん+堀江悠子さん)

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デミ『フローレンス・ナイチンゲール』さくまゆみこ訳

フローレンス・ナイチンゲール

ノンフィクション絵本。ナイチンゲールの本は日本でもたくさん出ていますが、この作品は、なによりデミが描いている絵を見ていただきたい。

私は、ナイチンゲールという人はずっと現場で看護の仕事をしていたのかと思っていましたが、じつは違いました。35歳の時に熱病にかかり、その後は主にベッドで研究したり執筆したりしていたのですね。ナイチンゲールが状況を改善するまでは、当時の病院は、排泄物があちこちにあったり、ネズミがかけずり回っていたりして、相当不衛生だったようです。デミも、そういう場面を描いているのですが、彼女の絵は汚くならないのですね。

原書は金色が使ってあるのですが、日本語版は金が使えなかったので、森枝さんが、題字に細工をして、かがやいているようにデザインしてくださいました。森枝さんは、いつもすてきな工夫をしてくださいます。こういう科学・知識の絵本は、文章をただ訳すだけでなく、原書の記述が正しいかどうかも私は調べて確かめます。そうでないと、安心して日本語にすることができないので。
(装丁:森枝雄司さん 編集:鈴木真紀さん)

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『フローレンス・ナイチンゲール』紹介文
「本の花束」2020年11月3回号掲載
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ジョン・キラカ『ごちそうの木』さくまゆみこ訳

ごちそうの木〜タンザニアのむかしばなし

最初はスイスで出た絵本です。ドイツ語で出たのですが、キラカさんはもともと英語でテキストを作られていたので、英語版を中心にして訳しました。

キラカさんがご自分で村人から聞き取った昔話を絵本にしています。キラカさんの最初の絵本『チンパンジーとさかなどろぼう』(若林ひとみ訳 岩波書店)には、伝統的な衣装を着た動物たちが登場しますが、この絵本に登場する動物たちは、現代風の衣装を着ています。「なぜ?」とたずねてみると、今はタンザニアの田舎でも伝統的な衣装を着る人が少なくなり、子どもたちに絵本を見せると、「どうしてこんな変わった服を着ているの?」と言われるからだと、おっしゃっていました。

キラカさんは来日の際、この絵本のストーリーテリングをあちこちでしてくださいました。ご覧になったみなさんは、アフリカのストーリーテリングが パフォーマンスだということを目の当たりにして、その楽しさを充分味わうことができたのではないかと思います。

この昔話の基本形はアフリカ各地にあり、たとえば光村教育図書から出た『ふしぎなボジャビのき』(ダイアン・ホフマイアー文 ピート・フローブラー絵 さくま訳)も、とても似た昔話を絵本にしたものです。ほそえさちよさんのご尽力で、西村書店が2017年夏のキラカさんの来日に間に合うように出してくださいました。
(書き文字デザイン:ほんまちひろさん 編集:植村志保理さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定

◆◆◆

<訳者あとがき>
アフリカには、まだ農業が天気に左右されているせいで、日照りがつづくと飢える人が出てしまう地域があります。それを考えると、この絵本にあるような「ごちそうの木」の存在は夢であり、あこがれをもってくり返し語られてきたのもうなずけます。これはタンザニアの昔話ですが、類話はアフリカ各地にあって、南アフリカの作家と画家による絵本『ふしぎなボジャビの木』(光村教育図書)も、同じテーマをあつかっています。
アフリカの多くの地域は文字をもたず、歴史や叙事詩や物語は口伝えで語りつがれてきました。そういう社会では、きちんと記憶することが生死にかかわるくらい重要だったのかもしれません。
またここにも、アフリカ各地の昔話に姿を見せるノウサギが登場しています。英語の原書では「ウサギ」となっていましたが、作者に確認したうえで「ノウサギ」と訳しました。ノウサギは、体は小さいのに知恵のある存在で、大きな動物をぎゃふんといわせるトリックスターでもあります。
おとなたち(とくに祖父母)が1日の仕事が終わった夜、子どもたちに昔話を語って聞かせ、そのなかで社会の決まりや価値観や歴史を伝えていくという文化が、アフリカにはあります。こうしたお話の時間は、歌や踊りが入ることもある楽しいひとときです。しかし、近代化の波におされて、今はその文化も消えていこうとしています。そのため、学者だけでなくキラカさんのような方も、故郷の昔話や伝説を集め、語りの楽しさもふくめて子どもたちに伝えていこうと努力しているのです。
ところで、「ン」で始まる言葉や人名が、アフリカにはあります。「ントゥングル・メンゲニェ」は、「びっくりするほどすばらしいもの」という意味で、こうした語りのなかでだけ使われる言葉だそうです。

さくまゆみこ

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ニコラ・デイビス文 ローラ・カーリン絵『空の王さま』さくまゆみこ訳

空の王さま

イギリスの絵本。見知らぬ国にやってきて、知り合いもなく、言葉もわからず、自分をよそ者だと感じている少年が主人公です。この少年がとなりにすむ足の不自由なおじいさんと知り合いになり、おじいさんが飼っているレース用のハトに自分の気持ちを託します。デイビスの献辞も「新たな土地で居場所を見つけなくてはならないすべての子どもたちに」となっています。

2015年にBIBグランプリにかがやいたローラ・カーリンの絵がすばらしい! 先日絵本の会で、ひとりの画家が今年度のベスト絵本に挙げてくださり、画家の目から見るとどこがすごいかを話してくださいました。その話を伺って私もなるほどと思いました。

本当の絵本とは、文が語っていないことを絵が語っている作品だと、私はシュルヴィッツの絵本論から学びましたが、この絵本はまさにそれです。絵が、文章にはない多くのことを語っているので、文字だけを追っていたのではもったいない。少年の孤独、少年のとまどい、少年の疑い、そして少年の喜びを絵からも感じとってください。
(装丁:安東由紀さん 編集:江口和子さん)

*ニューヨークタイムズ・ベストイラスト賞受賞
*ケイト・グリナウェイ賞ショートリスト
*SLA「えほん50」2019に選定

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イヴ・バンティング文 ローレン・カスティーヨ絵『わたしのおひっこし』さくまゆみこ訳

わたしのおひっこし

イギリスの絵本です。コーリーという女の子の家の庭に、家具や本や電気製品など、いろいろなものが置いてあります。これまでコーリーの家族が使っていたものをずらっと並べて、セールをしているのです。一家が、何らかの経済的な理由があって、一軒家から小さなアパートへ引っ越すことになったからです。
なじみ親しんできたものや友だちとの別れは悲しいし、さみしい。けど、セールが終わったときには、愛し合っている家族の結びつきはこれまで以上に強くなったようです。
途中で、コーリーの愛読書が『おやすみなさい、おつきさま』だということもわかったりして、味わい深い作品です。
(装丁:城所潤さん+岡本三恵さん 編集:相馬徹さん)

 

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<紹介記事>

・毎日新聞北陸版 2018年2月5日

 

・小学図書館ニュース第1126号

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ジョイス・シドマン文 ベス・クロムス絵『あさがくるまえに』さくまゆみこ訳

あさがくるまえに

アメリカの絵本。絵が多くのことを物語っています。背景は冬の街、テーマは、願いと言葉の力。私は、ベス・クロムスの絵が大好きで、いつか翻訳を手掛けられたらいいな、と思っていたのですが、今回それが実現しました。描かれているのは、子どもの素朴な願いですが、この絵本をきっかけに、言葉の力、願いの言葉について思いをめぐらせてもらえるとうれしいです。

飛行機の操縦士をしているお母さん、疲れたお母さんのためにお茶のしたくをするお父さん、なんていう家族がそれとなく描かれているのもいいですよ。家にはネコも犬もいます。

とてもいい紙を使って印刷してくださったので、原書よりテカらなくて、おちついた感じに仕上がっています。
(編集:須藤建さん)

◆◆◆

<作者あとがき>より

あなたのねがいはなんですか? そのねがいをあらわすのにぴったりの言葉をみつけて、声にだしてみましょう。そうしたら、つつみこむような暗い夜の底にも、雪のかけらが、ひらひらとまいおりてくるかもしれませんよ。

ジョイス・シドマン

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<紹介記事>

・MOE 1928年3月号

 

・読売新聞 「本こども堂」2018年3月20日

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モーリス・プレジャー『しろくまポリー』さくまゆみこ訳

しろくまポリー

イギリスの仕掛け絵本。シロクマのポリーがうとうとしていると、鼻にぴしゃっと水がかかります。ポリーは、雪の上の足跡を追って、いたずらっ子をさがしに出かけます。どの見開きにも仕掛けがあって、何よりとっても絵がきれいです。共同出版だととかく印刷や製本が心配ですが、これはとてもていねいに作られていました。
(編集:林千里さん)

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さくまゆみこ他『明日の平和をさがす本:戦争と平和を考える 絵本からYAまで300』

明日の平和をさがす本〜戦争と平和を考える 絵本からYAまで

この国は、深慮なしの政治家のせいで、だんだん戦争に近寄って行っている気がします。そんな不安を抱えている私たちが相談して、この本を出しました。これは、戦争や平和を考えるための子どもの本のガイドブックです。

子どもの本は、すべての学びの入口でもあるので、子どもに手渡すだけでなく、大人にも読んでほしいと思っています。

1ページ1冊の割合で作品が紹介されているだけでなく、ところどころにコラムがあって、まとめて考えることができる仕掛けになっています。編著者だけでなく、三宅興子さん、落合恵子さん、ひこ・田中さん、中島京子さん、安保関連法に反対するママの会の方、SEALDsメンバーだった方たちなど、何人かの方たちにも原稿を書いていただきました。

読んでおもしろいガイドブックになったかと思います。表紙の絵やカットは、いとうひろしさんが描いてくださいました。私はブックトークなどで戦争の本を取り上げるときのヒントもコラムで書いています。

野上さんが書いた前書きと私が書いた後書きを載せておきます。ぜひ、手に取ってみてください。

<はじめに>
日本は、1945年8月15日に、アメリカやイギリスなどの連合国を敵に回した戦争に負けて以来、一度も戦争をしていません。310万人ともいわれる、尊い犠牲者を出した反省から、憲法で戦争をしないと決めたからです。その後、世界の国々と友好関係を築き、平和が続いてきたことで経済も発展し、戦後の荒廃から立ち直り豊かな暮らしを実現できました。
ところが、それから70年以上もたつと、戦争の悲惨な記憶がうすれ、近隣の国々を侵略したことへの反省もなく、憲法の精神をないがしろにして、戦争ができる国に変えようとする力が強まってきています。世界の各地で、いまも戦争や紛争が起こっていますから、いつまた日本がそれに関わらないとも限りません。
子どもの本に関わる私たちは、将来にわたって戦争の悲劇を子どもたちに味わわせることを断じて避けたいと願います。そこで、全体を8章に分けて戦争と平和を考える本を300冊以上紹介しました。これまでも戦争と平和をテーマにしたブックリストはたくさんありましたが、この本では、コラムを除き2000年以降に発行された比較的新しい本を精選しています。この本をもとに、戦争のない平和な世界を作るには、どうすればいいか考えてもらうとうれしいです。(野上暁)

<おわりに>
戦争を描いた本なんて読みたくない、と思う方もたくさんいると思います。だって、暗くて、重苦しくて、子どもが笑ってくれないからね、という声も聞こえてきそうです。朝の読書の時間に、戦争が出てくる本はふさわしくないよね、とおっしゃる方がいるのも知っています。
「だけどね」と、私たち編集委員の五人は思いました。「だけど、戦争が出てくる本も読んでみようよ」と。とりわけ日本の国が戦争に向かおうとしているように思える今、読んでおく必要があるとも思いました。
それで、戦争と平和に関する子どもの本のブックリストを作ることにしました。私たちは集まって話し合い、どの本を取り上げるかを決めていきました。ほそえさちよさんに編集をお願いすることも決めました。そのうち、「一つのテーマで何点かの本を概観できるようなコラムも必要だね」、「今この本を戦争に向かわせないために、頑張っている仲間たちにも参加してもらおうよ」ということにもなりました。
今はまだこの日本には、小鳥の声で目を覚ます人もいるかもしれません。働きに行く前に犬を連れて林の中を散歩する人もいるかもしれません。友だちや仲間と楽しくおしゃべりしながらお昼ご飯を食べる人もいるかもしれません。子どもたちと水辺や牧場や公園で遊んでいる人もいるかもしれません。でも、戦争はそういうものの一切を徹底的に壊してしまいます。
私たちはこのブックガイドをつくりながら、こんな発見をしました。

・ほんとうの戦争って、ゲームとは全然違うということ
・戦争で儲ける人がいる以上、起こしたくなる人もいるということ
・戦争って、一度始まるとなかなか終わらせることができないということ
・戦争で死ぬのは、ほとんどが市民や子どもだということ
・戦争は、殺した方も大きな傷を負わなくてはならないということ
・このブックガイドに取り上げた本には、戦争や平和だけでなく、人間の奥深さが描かれているということ

ちょっと世界を見わたしてみてください。私たちには見えにくいけど、世界のあちこちに戦争や紛争で日常のくらしを壊されてしまった人たちがいます。生まれてからこの方ずっと戦争しか知らない子どもたちもいます。その人たち、その子どもたちは、私たちとは関係ないのでしょうか? 見ないですますことができれば、関係ないと言えるのかもしれません。でも、私たちの国でつくられた兵器がその人たちを殺してはいないでしょうか? 私たちが選んだはずの政治家が、その人たちの命を奪う手伝いをしてはいないでしょうか? そんなことにも目を向けていったほうがいいと私たちは考えました。
このブックガイドには、ここに載っている300冊の本の作家・画家たちだけでなく、紹介文を書いたみんなの気持ちもつまっています。そのうえに、読んでくださるみなさんの気持ちものせていただければ幸いです。
おもしろそうだなと思ったら、このブックガイドで取り上げた作品そのものを手に入れて読んでみてください。本屋さんになければ図書館でさがしてみてください。ブックトークの時に、取り上げてみてください。子どもが手に取れるようにしておいてください。そこから、何かが少しずつかわっていくかもしれません。(さくまゆみこ)

(編集:ほそえさちよさん 装画:いとうひろしさん デザイン:鷹觜麻衣子さん)

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<紹介記事>
・「岩手日報」2016年11月27日

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さくまゆみこ文 沢田としき絵『エンザロ村のかまど』

エンザロ村のかまど

「たくさんのふしぎ」2004年2月号のノンフィクション絵本が、ハードカバーになりました。「アフリカ子どもの本プロジェクト」が生まれたきっかけになった本です。アフリカというと、野生動物、飢餓、内戦なんていうイメージが強いですが、沢田さんが丹念に描いた絵は、普通の人たちの暮らしをきちんと伝えています。お金とハコモノだけでは人と人がつながる国際協力はできません。この本が、その辺を考えるきっかけになれば、うれしいです。
(編集:福井恵樹さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定
*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定

この本には英語版とスワヒリ語版もあって、「アフリカ子どもの本プロジェクト」で取り扱っています。

 

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キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

わたしがいどんだ戦い 1939年

『わたしがいどんだ戦い 1939年』をおすすめします。

舞台は第二次世界大戦下のイギリス。内反足のエイダは、「奇形の子は恥だから隠さなくては」と考える無知な母親によって、ロンドンにある家の中に閉じ込められ、学校へも行くことができず、母親の暴力にさらされながら家事奴隷にされている。そのうち、近隣の子どもたちが疎開することになり、エイダも弟のジェイミーと一緒に家を離れたいと強く思い、ひそかに歩く練習を始める。

母親の留守中にうまく疎開児童の群れに紛れ込めたところまではよかったのだが、疎開先では最後まで引き取り手がなく、エイダとジェイミーの世話は、疎開児童を受け入れるつもりがなかったスーザンに押しつけられてしまう。

これまで世間のことは何も知らないエイダが、この環境の中でどう成長していくかが、本書のテーマだ。第二次大戦も影を落としてはいるが、そればかりではなくエイダは、母親の無理解と愛の不在、子どもが苦手なスーザン、なじみのない疎開先の環境、すぐパニックに陥ってしまう自分や自分の中の人間不信とも懸命に戦わなくてはならない。子どもにとっては、こっちのほうが戦争より大きな戦いと言えるだろう。

同じ時代の疎開児童を取り上げた『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)も、母親に虐待される子どもと、偏屈でつき合いの悪い引き取り手の出会いを描いていた。この二冊には共通するところがたくさんあるが、本書の著者は自分も虐待の経験者であることから、ちょっとしたことが引き金になってエイダがパニックに陥ってしまうところなど、本書ならではのリアルな描写も登場する。

長い作品だが、最後は明るいので、安心してどきどきはらはらしてみてほしい。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年12月11日号掲載)


ゾウと旅した戦争の冬

『ゾウと旅した戦争の冬』をおすすめします。

本書の構造は二重になっています。老人介護施設にいるリジーというおばあさんが、昔のことを思い出して語る話を、「わたし」とその息子のカールが聞く、という外枠の物語がまずあります。そして、その枠の中で、リジーの若き日と今を結ぶ物語が展開していきます。

枠の中の物語は、書名からもわかるように戦争ものではありますが、ほかの戦争ものと違う本書の特徴は、子どものゾウが出てくるところ。このゾウが、悲惨さや息苦しさをうまく中和させる役割を果たしています。

作者はイギリス人ですが、舞台はドイツ。ドレスデンで暮らしていた母親と子ども二人の家族が、大空襲を受けて、動物園から預かっていた子ゾウといっしょに避難しなくてはいけなくなります。とりあえず親戚の家に身を寄せようとしますが、そこで出会ったのは、なんと敵である英国空軍のカナダ人兵士。この兵士ペーター(ピーター)は、父親がスイス人でドイツ語も話せるのですが、氷の池に落ちたリジーの弟の命を救ったことから、この家族やゾウといっしょに避難の旅を続けることになります。

著者のモーパーゴは、社会的な問題をリアルに取り上げながら、人間の心理をとてもうまく描くことのできる作家です。でも本書には、ありそうだけど「出来過ぎ」と思えなくもない設定がいくつか登場します。大体ゾウにこんな旅ができるのでしょうか? でもね、二度目に読んでみて、モーパーゴの物語づくりのうまさに、私はうなってしまいました。

このお話ってもしかすると……と思う読者もいると、著者は最初から考えていたのだと思います。うまくできています。危険、恋、裏切り、再会……極上のストーリーテリングです。

(「トーハン週報」Monthly YA 2014年4月14日号掲載)


童話学がわかる

原稿書きました


さくまゆみこ『イギリス 7つのファンタジーをめぐる旅』

イギリス 7つのファンタジーをめぐる旅

「ピーター・ラビット」「ふしぎの国のアリス」「クマのプーさん」「ピーター・パン」「クリスマス・キャロル」「たのしい川ベ」「グリーン・ノウの子どもたち」の作品と作家、そして作品の生まれた舞台を紹介しています。旅の部分は実用的で役に立ちます。
(装丁:寺井恵司さん 編集:林千里さん)


ファンタジービジネスのしかけかた

「ハリー・ポッターをはじめとするネオ・ファンタジーがなぜこんなに売れるのか」を追求した本です。最初は情報を提供すればいいということだったのが、結局いっぱい書いてしまいました。正統派ファンタジーとネオ・ファンタジーの違い、ゲームとネオ・ファンタジーの関係など面白い視点が出ていると思います。
(装丁:鈴木成一デザイン室 編集:金沢千秋さん、小鮒由起子さん)


さくまゆみこ『子どもを本好きにする50の方法』

子どもを本好きにする50の方法+おすすめ本300冊

私は子どもの本が好き。だから、みなさんも一緒に楽しみましょうよ、というのがコンセプトです。子どもに良書を押しつけようというつもりはありません。版元の意向でこういうタイトルになってしまいましたが・・・。一つ一つの項目が短いので、時間のない人もちょっとお手すきの時に読んでみてください。後半のリストは、それぞれの子どもの興味から入れるように、入り口を工夫したつもりです。
(編集:松浦聖子さん ブックデザイン:中野岳人さん 装画:大高郁子さん)


エンザロ村のかまど(たくさんのふしぎ)

「たくさんのふしぎ」という、小学校中学年向けのノンフィクション月刊絵本の2004年2月号です。ケニアの小さな村エンザロと岩手県の遠野を結ぶノンフィクション絵物語です。沢田さんが実際に現地を見てから絵を描いてくださったので、風景も、人々の物腰も身振りもリアルで生き生きしています。背景を詳しく知りたい方は、「こどもの本」に載せたエッセイを見てください。
(編集:福井恵樹さん)


みんなちきゅうのなかまたち


なまくらトック


がちょうのペチューニア


ながすねふとはらがんりき


ついでにペロリ


ペチューニアごようじん


だめといわれてひっこむな


ヴァイノと白鳥ひめ


ペチューニアのだいりょこう


さくまゆみこ文 斎藤隆夫画『クモのつな』(こどものとも)

クモのつな〜西アフリカ・シエラレオネの昔話

シエラレオネの昔話を絵本にしました。日照りになってみんなが困っているのに、クモだけは元気です。不思議に思ったノウサギがクモにきいてみると、クモはどこに食べ物があるかを内緒で教えてくれます。ところがノウサギがほかのみんなにも教えてしまったので、さあ大変。ユーモラスなお話です。


ヤノッシュ『くまのサーカス ザンパーノ』さくまゆみこ訳

くまのサーカス ザンパーノ

ドイツの絵本。私は1975年の夏にミュンヘンでヤノッシュに会って、インタビューしたことがあります。それで、この絵本を知って訳そうと思いました。
熊使いのザンパーノおじさんは、恐ろしい熊にさまざまな芸当をさせて、自分の方が強いところをみんなに見せていました。ところがある日ハエがぶんぶん飛んできて、熊は手をぐるぐる振り回し、熊をつないでいた綱を持っていたおじさんは宙にういてしまいます。そのまま綱が切れて、おじさんは・・・人間社会を批判的に見ていたヤノッシュらしい絵本です。


アンティエ・フォーゲル『小さな庭師のための大きな本』さくまゆみこ訳

小さな庭師のための大きな本

ドイツの実用的な絵本。アボカド、ラディッシュ、ミニトマト、ハーブ、パイナップル、桃などおいしいものや、お誕生日の木など記念になるもの、そして四つ葉のクローバーなどプレゼントにできるものを、鉢植えや地植えで楽しむための実用的な絵本です。食べた後の残りの部分で楽しもうというページもあります。


ヴィエラ・プロヴァズニコヴァー文  ヨゼフ・ラダ絵『森と牧場のものがたり』さくまゆみこ訳

森と牧場のものがたり

私はラダの絵が大好きです。ゆかいなラダの絵を使って、動物たちの物語が展開する絵物語です。


ユッタ・クルツ『小さなコックさんのための大きな本』さくまゆみこ訳

小さなコックさんのための大きな本

子どものためのお料理の本。卵、肉、ソーセージ、じゃがいもとスパゲッティ、トースト、サラダ、お菓子に別れていて、楽しい絵がついています。どれも作ってみましたが、おいしかったですよ。


ウィルソン文 市川里美絵『メリークリスマス』さくまゆみこ訳 冨山房

メリークリスマス〜世界の子どものクリスマス

イギリスの絵本。市川里美さんの絵がとっても楽しいクリスマス絵本です。最初にクリスマスとはどういうものか、という由来のお話があり、続いて、イギリス、アメリカ、ドイツ、オランダ、ポーランド、チェコ、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ソ連、フランス、イタリア、ギリシア、メキシコ、インド、日本、オーストラリアでは、どんなふうにクリスマスのお祝いが行われているかを紹介しています。「きよしこのよる」「ひいらぎかざろう」などのクリスマスキャロルや、クリスマス飾りやショウガクッキーなどの作り方も載っています。
この絵本は、よんどころない事情があって、ひとりで編集と翻訳をおこないました。これ以降、やっぱりひとり二役はしないほうがいいと考え、どちらかに徹することにしています。
(編集:作間由美子)


ミラ・ギンズバーグ文 アルエーゴ&デューイ絵『そらにかえれたおひさま』さくまゆみこ訳

そらにかえれたおひさま

アメリカの絵本。大きな雲が空をおおって、三日間もお日さまが見えなくなってしまいます。さあ、たいへん。ひよこたちは、お日さまをさがして旅に出ることにしました。


アロナ・フランケル『すやすやおやすみ』さくまゆみこ訳

すやすやおやすみ

イスラエルの絵本。幼い子どもの眠りがテーマです。「まあくんは、どこで ねむるの? いぬごやの なかかな?」「いいえ、いぬごやの なかで ねむるのは、いぬさん」と、なんとなくユーモラスな言葉が続きます。おもしろいのは、まあくんは夢のカードを持っていて、見たい夢のカードを枕の下に入れておくというところ。悪い夢を見そうなときは、悪い夢を見ないための魔法のカードも持っているのです。


アロナ・フランケル『うんちがぽとん』さくまゆみこ訳

うんちがぽとん

イスラエルの絵本。シリーズの中では、これだけまだ現役です。おむつにバイバイすることがテーマです。まあくんはある日、お母さんからプレゼントをもらいました。箱をあけてみると、そこには、おまるが入っていました。日本のおまるとはちょっと違う形ですが、トイレトレーニングはどこも同じようですね。ちゃんとおまるにウンチができたときの、まあくんの喜びが伝わってきます。


アロナ・フランケル『ことりのいのち』さくまゆみこ訳

ことりのいのち

生と死をテーマにした絵本です。死んだ小鳥を見つけた男の子が、お母さんと一緒にそっとバラの木の下に埋めます。するとある日、バラの花の間から小さな声が聞こえてきたので、のぞいてみると、小鳥の巣があってその中に三羽の赤ちゃんが・・・


アロナ・フランケル『ぱくぱくぺろり』さくまゆみこ訳

ぱくぱくぺろり

食べ物をテーマにした絵本です。好き嫌いしないでなんでも食べようね、いろいろなものを食べると、それが体の栄養になってどんどん大きくなれるからね、と語りかけています。


アロナ・フランケル『ぞうのまあくん』さくまゆみこ訳

ぞうのまあくん

イスラエルの絵本。下の子が生まれたときの上の子の葛藤をテーマにした絵本です。ゾウの一家が登場します。赤ちゃんは自分では何もできないので、お父さんもお母さんも赤ちゃんの世話で大忙し。まだ小さいお兄ちゃんのまあくんは、ちっともおもしろくないので、赤ちゃん返りをしたり、文句を言ったりします。最後はお父さんとお母さんが、まあくんの気持ちもわかってくれるので、ホッと安心できます。


人間

環境について考えるイギリスのノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。世界のあちこちで生きている人間が、環境破壊や環境汚染のせいで、危機に瀕していることを伝えています。私たちに今何ができるか、という情報も入っています。


野生生物

環境について考えるイギリスのノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。環境破壊、環境汚染などで絶滅してしまう生物やについて述べたあと、それを食い止めようとする試みも紹介しています。


ちきゅうのえほん『土』さくまゆみこ訳

環境について考えるイギリスのノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。土はどんなふうにつくられているのか、ダムの害、農薬や化学肥料の害、土地の砂漠化を防ぐ方法などについて述べられています。巻末に用語解説がついています。


ちきゅうのえほん『水』さくまゆみこ訳

環境について考えるイギリスのノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。水道の水はどんなふうにできているのか、水はどんなふうに循環しているのか、なぜ水が汚染されてしまうのか、海が汚染されてしまうのか、魚の乱獲の問題、水をじょうずに使うためにはどうすればいいのか、私たちには何ができるのか、などを伝えています。


ちきゅうのえほん『森林』さくまゆみこ訳

森林

環境について考えるイギリスのノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。森林の構造、木のいのち、木はどんなふうに役立っているのか、破壊される熱帯林、森林を破壊するとどうなるのか、森林を守るためにはどうすればいいのか、私たちにできること、などを伝えています。


ちきゅうのえほん『空気』さくまゆみこ訳

空気

イギリスの環境について考えるノンフィクション絵本。著者は動物園や大英博物館に勤務したあと、BBCで科学番組の制作をしていた人です。空気とは何か、大気汚染はいるから始まったのか、排気ガスによる汚染、地球温暖化について、破壊されるオゾン層、酸性雨、原発の危険性、大気汚染をはかる方法などについて伝えています。


マリー・アニエス・ゴドラ文 ティエリー・クルタン絵『はじめてのABCのえほん』さくまゆみこ訳

はじめてのABCのえほん

アルファベットについてのフランスの絵本。「おおきな A、あしを ひらいて たっている」「ちいさな a、まあるい まどが あいてるよ」というふうに、AaからZzまでを紹介しています。


フランソワーズ・オードリー=イルジック文 ティエリー・クルタン絵『はじめてのかずのえほん』さくまゆみこ訳

はじめてのかずのえほん

数についてのフランスの絵本。0から10までの数字を紹介し、日常のくらしの中で、それぞれの数を楽しんでいきます。


ジュリアス・レスター文 ジェリー・ピンクニー絵『おしゃれなサムとバターになったトラ』さくまゆみこ訳

おしゃれなサムとバターになったトラ

アメリカの絵本。『ちびくろさんぼ』に違和感を持っていたアフリカ系作家のジュリアス・レスターとアフリカ系画家のジェリー・ピンクニーが作った絵本です。お話のおもしろさはそのままに、アフリカ系の子どもたちが誇りを持てるように考えられています。ピンクニーも、そのような点を意識して絵を描いています。


ユリ・シュルヴィッツ『ゆき』さくまゆみこ訳

ゆき

アメリカの絵本。男の子がいちはやく雪が降っているのを見つけますが、大人は大したことがないと取り合いません。でも、そのうち町はいちめんの雪景色に。マザーグースやハンプティダンプティも飛び出してきます。シュルヴィッツの絵本論を読んでいたので、翻訳したいと思った一冊です。子どもにアピールする楽しいところと、大人にアピールするスパイス入りのところが重層的に存在して、含蓄のある絵本。雪国の友だちが、「ほんとにこうなのよねえ」と言ってくれてます。
(装丁:辻村益朗さん 編集:山浦真一さん)

*日本絵本賞翻訳絵本賞受賞
*SLA「よい絵本」選定


レイモンド・ブリッグズ『サンタのなつやすみ』さくまゆみこ訳

サンタのなつやすみ

イギリスの絵本。サンタは夏には何をしているのかな? 以前ほかの出版社で出ていて絶版になっていたのを、山浦さんが探し出してきて出し直すことになりました。以前のは少し訳も違っていたので、全く新たに訳し直しました。『さむがりやのサンタ』の続編です。原著では、このサンタさんはイギリスの労働者階級の言葉を話しているんですよ。サンタがフランスに出かけたり、そりをキャンピングカーに改造したり、プールサイドでのんびりしたり・・・大人が読んでも楽しめます。
(編集:山浦真一さん)


レイモンド・ブリッグズ『風が吹くとき』さくまゆみこ訳

風が吹くとき

これは、もともとイギリスで1982年に出版された作品で、日本語訳は以前別の出版社で出ていましたが、今回翻訳をし直してあらたに出版することになりました。出版当時から、漫画のコマ割りの手法を使ってシリアスな問題を描いた、絵本の常識をくつがえす作品として、大きな評判を呼んだ作品です。それから15年以上たった今、ソ連は崩壊し、米ソ2大国が国際政治を大きく左右していた時代は去って、世界の情勢はもっと複雑になってきているように思えます。しかし、最近のインドやパキスタンの核実験で明らかになったように、核兵器をパワーゲームの切り札とみなす風潮はまだまだ盛んです。そういう意味では、核戦争の脅威は去ったわけではありません。まだ、核は使用しなくても、ジムやヒルダのようなふつうの人たちが犠牲になる戦争は、世界各地で多発しています。レイモンド・ブリッグズがこの絵本で描こうとした状況は、表向きの形は変わっても、今でも存在しているのです。この絵本が、親子いっしょに、もう一度核の問題、そして戦争の問題を考えるきっかけになってくれれば幸いです。
(編集:山浦真一さん)


モーリス・プレジャー『ねずみのモーリー』さくまゆみこ訳

ねずみのモーリー

イギリスの仕掛け絵本。小さなカヤネズミのモーリーは、新しいおうちにしようとあっちこっちを探しますが、いいと思ったところには、みんなほかの生き物がすんでいます。どの見開きにも仕掛けがあって、何よりとっても絵がきれいです。共同出版だととかく印刷や製本が心配ですが、これはとてもていねいに作られていました。
(編集:林千里さん)


モーリス・プレジャー『こうさぎビリー』さくまゆみこ訳

こうさぎビリー

イギリスの仕掛け絵本。元気なこうさぎのビリーが、ちょうちょをさがして、あっちこっちをさがしまわります。どの見開きにも仕掛けがあって、何よりとっても絵がきれいです。共同出版だととかく印刷や製本が心配ですが、これはとてもていねいに作られていました。
(編集:林千里さん)


ワンダ・ガアグ『スニッピーとスナッピー』さくまゆみこ訳

スニッピーとスナッピー

アメリカの絵本。2匹の子ネズミ(スニッピーとスナッピー)が毛糸玉で遊んでいると、その玉が転がってしまい、2匹は追いかけていきます。その先には、大冒険が。この絵本は、以前渡辺茂男さんの訳で他の出版社から出ていました。私は編集者として翻訳者である渡辺茂男さんと出会い、渡辺さんに誘われて、ミネソタ大学のカーラン・コレクション(絵本原画のコレクション)や、ガアグの暮らしていた家を見に行ったことがあります。福本友美子さん、広松由希子さん、竹迫祐子さん、白井澄子さん、谷口由美子さんたちと一緒の、とても楽しい旅でした。そんな渡辺さんが訳されたものを新たに訳すことになり、とても緊張しました。既訳を見たら左右されてしまうと思って、敢えてまったく見ないで訳しました。
(装丁:田辺卓さん 編集:山浦真一さん)


ウェンディ・ハートマン文 ニコラース・マリッツ絵『ひとつ、アフリカにのぼるたいよう』さくまゆみこ訳

ひとつ、アフリカにのぼるたいよう

南アフリカのユニークな数え歌の絵本。1は太陽、2から10まではサバンナの動物、そして太陽が沈んで月が出ます。それからまた10、9、8……と数が下がっていき、最後にまたアフリカの太陽が登場します。
(編集:飯田静さん)

エネルギーのかたまりみたいなマリッツの作品はほかに、『ぼくのアフリカ』という絵本があります。そちらは冨山房の編集者だったとき、渡辺茂夫さんに訳していただいて、私が編集した本です。


イフェオマ・オニェフル『おばあちゃんにおみやげを:アフリカの数のお話』さくまゆみこ訳

おばあちゃんにおみやげを〜アフリカの数のお話

ナイジェリアの文化を伝える写真絵本。数の絵本にもなっています。著者はナイジェリアで生まれ育った女性フォトグラファー。アフリカというと「動物がたくさんいる」とか「貧しい」とか「内戦でたいへん」というイメージばかりが伝わっていますが、広いアフリカ大陸には元気な子どももたくさんいます。これは、そんな元気な男の子がおばあちゃんの家に遊びにいきます。西アフリカ・ナイジェリアの人々の日常生活を生き生きと伝える数の絵本です。
(編集:西野谷敬子さん)


エズラ・ジャック・キーツ&パット・シェール『ぼくのいぬがまいごです!』さくまゆみこ訳

ぼくのいぬがまいごです

アメリカの絵本。プエルトリコからニューヨークにやってきたばかりの少年ホワニートが、いなくなった犬をさがして、街に出ていきます。ホワニートは英語が話せません。でも、肌の色もまちまちな、様々な子どもたちが手を差し伸べ、犬をさがすのを手伝ってくれます。もともとはスペイン語と英語のバイリンガル絵本でした。キーツがどの部分をどこまで担当したのか、調べたけどわかりませんでした。
(編集:星野博美さん)


クレア・ターレー・ニューベリー『サリーとライオン』さくまゆみこ訳

サリーとライオン

アメリカの絵本。小さな女の子のサリーの親友は、なんと本物のライオンのハーバート! でも、ハーバートはやがて大きくなってみんなが怖がるようになり、山の牧場に連れて行かれてしまいます。ハーバートとサリーの友情の深さを思い知った両親の決心がすてきです。ニューベリーのデビュー作。90年近くも前の作品とは思えない斬新なデザインの絵が魅力です。よけいな情報かもしれませんが、ニューベリー賞のジョン・ニューベリーはイギリス人で18世紀の人。こっちのニューベリーは20世紀のアメリカ女性で「猫の画家」として有名になった人です。
(装丁:桂川潤さん 編集:轟雅彦さん 鈴木真紀さん)


ジョン・ラングスタッフ文 ロジャンコフスキー絵『おおきなのはら』さくまゆみこ訳

おおきなのはら

アメリカの絵本。野原にいるいろいろな動物たちが登場してきます。数の絵本にもなっています。光村さんで絵本を出し始めるというので、いろいろ相談した中から生まれてきた絵本です。オリジナル版は1957年。2色刷の見開きと4色刷の見開きが交互にあらわれます。ロジャンコフスキーの絵がすばらしい! 動物や鳥のお母さんと子どものやりとりが楽しいし、見返しがまたとってもいいですよ。
(装丁:桂川潤さん 編集:轟雅彦さん 鈴木真紀さん)


ケイト・バンクス文 ゲオルク・ハレンスレーベン絵『おつきさまはきっと』さくまゆみこ訳

おつきさまはきっと

おやすみなさいの絵本。ホーンブックの書評でピンときて取り寄せてもらいました。その後ホーンブックで最優秀絵本に選ばれたので、わたしの目も節穴ではなかったと自慢してます。窓→お月様→世界という広がりがあります。力強い絵を描くこの画家には注目!
(編集:鳴瀬奈美子さん)

*「ニューヨークタイムズ」最優秀絵本選定、ホーンブック賞受賞


ジョン・ラングスタッフ文 ロジャンコフスキー絵『かえるだんなのけっこんしき』さくまゆみこ訳

かえるだんなの けっこんしき

アメリカの絵本。1956年にコルデコット賞を受賞した作品です。もとになっているのは有名な物語唄(もともとは400年前のスコットランドの唄のようです)で、ボブ・ディランやピート・シーガーも録音しています。コルデコット賞の絵本は、日本でもたいてい翻訳されているのですが、これは、韻を踏んでいる唄なので翻訳が難しいため、これまで出ていなかったのだと思います。ロジャンコフスキーはいいですよ。
(装丁:桂川潤さん 編集:鈴木真紀さん)

*コルデコット賞受賞、産経児童出版文化賞受賞


カレン・ヘス文 ジョン・J・ミュース絵『ふれ、ふれ、あめ!』さくまゆみこ訳

ふれ、ふれ、あめ

ニューベリー賞を受賞したヘスの詩的な文章と、緑と光と熱気と雨の表現がすばらしいミュースの絵。暑い暑い夏にぴったりの絵本です。恵みと豊かさをもたらす雨が降ってみんなの気持ちがほどけ、さまざまな肌の色の家族がみんな笑顔になっていく様子がよく表現されています。
(装丁:鈴木康彦さん 編集:河本祐里さん)


イフェオマ・オニェフル『AはアフリカのA:アルファベットでたどるアフリカのくらし』さくまゆみこ訳

AはアフリカのA〜アルファベットでたどるアフリカのくらし

「AはアフリカのA アフリカ大陸には、たくさんの国があって、おおぜいの人がくらしています。着ているものや、話すことばはちがっても、アフリカ大陸は、みんなのふるさとです」「BはビーズのB 女の子は、頭や耳や首をビーズでかざります。・・・」「CはカヌーのC カヌーは、魚をとったり、売るものを市場にはこんだりするのに、つかわれます・・・」AからZまでの文字の一つ一つと共に、アフリカの文化のさまざまな側面が紹介されていきます。作者は、西アフリカのナイジェリア生まれの女性フォトグラファーです。
(編集:西野谷敬子さん)

*産経児童出版文化賞推薦


e.e.カミングズ文 クリス・ラシュカ絵『クリスマスのちいさな木』さくまゆみこ訳

クリスマスのちいさな木

クリスマスの絵本。e.e.カミングズのクリスマスの詩をもとにしています。森の中の小さな木が、都会に出てクリスマス・ツリーになる夢を見ていると、ある日、その夢がかなって、小さな家の小さな家族にクリスマス・ツリーとして迎えられます。ラシュカの独特な絵が、あたたかい雰囲気をかもしだしています。
(装丁:桂川潤さん 編集:鈴木真紀さん)


レベッカ・ボンド『あかちゃんのゆりかご』さくまゆみこ訳

あかちゃんのゆりかご

赤ちゃんが生まれてくるのを知って大喜びの家族。お父さんは、海で静かに揺れる船や、巣の中で静かに揺れる小鳥たちのことを考えながら、ゆりかごをつくります。おじいちゃんは、同じ地球に暮らすほかの動物たちのことを考えながら、ゆりかごに魚や動物の絵を描きます。おばあちゃんは、家族や親戚のことを一人一人思い出しながら、端切れを縫ってベッドカバーを作ります。お兄ちゃんは、早くいっしょに遊びたいなと思いながら、ベッドにつけるモビールをつくります。そして、お母さんはそのゆりかごを、窓辺に持って行って「そとを みながら、やわらかな つきのひかりや すがすがしい あさひのことを かんがえました。よぞらのほしや ひんやりした よるのくうきのことも かんがえました」。
やがて生まれてきた赤ちゃんが大泣きしても、だいじょうぶ。家族のそれぞれが思いをこめながら完成させたゆりかごに寝かせると、赤ちゃんは安心して、すやすや眠るのです。どの見開きにも、黒い犬が登場しています。犬も見守っているのですね。
(装丁:渋川育由さん 編集:和田知子さん)

・全国学校図書館協議会・選定図書
・社会保障審議会推薦文化財
・日本子どもの本研究会選定図書
・日本図書館協会選定図書

◆◆◆

<紹介記事>

・「おさなご」(長野県市立幼稚園協会編)2012.03

文字がわからない子どもたちにも温かい絵柄と色彩で楽しめる1冊。赤ちゃんが生まれてくるとわかった時の家族の喜びは誰も同じ気持ち。お父さんはゆりかご作りに取り掛かり、おじいちゃんはそのゆりかごにペンキを塗ります。おばあちゃんはベッドカバーを作り、お兄ちゃんはおもちゃを作りました。赤ちゃんに注がれるやさしい家族の眼差しに、心が温かくなります。

・「紀伊民報」2017年4月7日

もうすぐ赤ちゃんが生まれます。家族は手を取りあって、大喜び。
お父さんは、すべすべにかんなをかけた板でゆりかごを組み立てました。おじいちゃんは、そのゆりかごにペンキを塗って、青い海や空を飛ぶ大きな鳥を描きました。おばあちゃんは、小さな布を縫い合わせてベッドカバーを作りました。お兄ちゃんは、赤ちゃんが楽しめるように、モビールをゆりかごに付けました。
家族の一人一人が、赤ちゃんが生まれてきてからの新しい世界をうっとりと思い浮かべながら、リレーのようにゆりかごを作り上げていきます。その様子を、そっと見守るお母さん。赤ちゃんがお母さんのおなかで育っていく間に、足りないところはひとつもないすてきなゆりかごが、出来上がりました!
絵本全体に、新しい命を迎える喜びがあふれています。この絵本を読みながら、お子さんがおなかにいたときのことや、赤ちゃんのときのことを一緒にお話ししてみるのもいいですね。自分が生まれてきたときのことを家族から聞くことで、自分がどれだけ大事にされているのかを、実感できるのではないでしょうか。この4月から、新しい環境に飛び込んだ子どもたちも多いと思います。自分が大事にされているという実感は、きっと、子どもたちの背中を後押ししてくれるでしょう。(県立紀南図書館)

・「月刊リトル・ママ」〜妊婦さんにおすすめの本〜 2018年10月15日号

お父さんが作ったゆりかごにおじいちゃんが色を塗り、おばあちゃんがベッドカバーを縫い、お兄ちゃんがモビールを作って・・・と、赤ちゃんが待ちきれない一家のお話。赤ちゃんが少し大きくなってから、「こんなふうに待っていたんだよ」と読んであげてもいいですよ。

・「RADIANT」(立命館大学研究部)2018年3月号〜年代を超えて、心に働きかける絵本〜

お母さんは妊娠中。お父さんがゆりかごを作ると、おじいちゃんとおばあちゃん、そしてお兄ちゃんは赤ちゃんのためにゆりかごを飾り、赤ちゃんがやってくるのを待っている。家族の温かさと赤ちゃんを待つ喜びを感じさせる絵本。


おかあさんともりへ

舞台はアフリカ。ヒヒの赤ちゃんが、お母さんと一緒に森に出かけ、いろいろな動物と出会います。そしてヒヒの赤ちゃんは、この世界がさまざまな特徴をもっていることを知るのです。『おつきさまはきっと』で好評のハレンスレーベンの絵本。
(装丁:田中久子さん 編集:塩見亮さん)


サバンナのともだち

アフリカのサバンナでジョゼフ少年と金色のたてがみのライオンが友だちになります。けれどジョゼフはライオンをお父さんが商人に売り渡すのではないかと心配に。 広いサバンナと星空と、村の風景が美しく表現されています。
(装丁:渋川育由さん 編集:鈴木真紀さん)


ジェイムズ・マーシャル文 モーリス・センダック絵『おいしそうなバレエ』さくまゆみこ訳

おいしそうなバレエ

さえないオオカミがブタの街に迷いこみました。見ると劇場があって、看板には、おいしそうなころころ太ったブタが! しめしめ、とオオカミは劇場に入っていきますが、見ているうちにバレエの素晴らしさにすっかり魅せられてしまいます。親友だったマーシャル亡きあと、残された原稿にセンダックが絵を描きました。とにかく笑えるし、二人の友情にもホロリとさせられます。
(装丁&描き文字:森枝雄司さん 編集:米田佳代子さん)

*SLA「よい絵本」選定


バーバラ・クーニー絵『北の魔女ロウヒ』さくまゆみこ訳

北の魔女ロウヒ

フィンランドに伝わる民族叙事詩カレワラを下敷きにした絵本です。東京の洋書屋さんで見かけて、クーニーの絵にほれこみました。文章は、クーニーの絵を見ながら、カレワラを参考にして書き直しました。ロウヒが太陽を山の奥深くに閉じ込めたため、あたりは真っ暗に。また太陽が空に上がるまでの、天照大神の話にも似た物語です。とにかく絵がすてき。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん)


ロイス・レンスキー『いまはあき』さくまゆみこ訳

いまはあき

風に舞う木の葉、落ち葉のじゅうたん、りんごの収穫、木の実拾い、渡り鳥、ハロウィーン……レンスキーが秋の楽しさを描いたかわいい絵本です。サイズも、持ち歩きにちょうどいい大きさ(148ミリX 126ミリ)。もう何年も前にアメリカに行ったときに見つけた絵本です。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん、草野浩子さん)


ロイス・レンスキー『ふゆがすき』さくまゆみこ訳

ふゆがすき

そりすべり、雪だるまに雪合戦、アイススケート、クリスマスとサンタクロース、バレンタイン……と、寒いけど冬は楽しい季節。「ふゆが すき。ゆきが すき。つめたい かぜも なんのその。ひらひら ゆきが まいおりて あたり いちめん ぎんせかい」歌の楽譜もついています。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん、草野浩子さん)


ポージー・シモンズ『せかいいちゆうかんなうさぎラベンダー』さくまゆみこ訳

せかいいちゆうかんなうさぎラベンダー

ラベンダーは内気でおとなしい慎重派。お兄さんやお姉さんが危なっかしい遊びをするので、いつもハラハラしています。ピザやドーナツが好きな町のキツネが遊びにやってきても、用心して近寄りません。「よわむし!」「おくびょうもの!」と言われたラベンダーが、どうやって世界一勇敢なウサギと言われるようになったのか……まあ、読んでみてください。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん)


ジョン・ウォレス文 ハリー・ホース絵『なんだってしてあげるよ』さくまゆみこ訳

なんだってしてあげるよ

小さなクマのチャーリーと大きなクマのジンジャーが登場する愛の物語。原書では両方ともheですが、この2匹はどういう関係なのでしょう。お父さんと息子? それともおじいちゃんと孫かな? それとも年の離れた友だち? もしかするとチャーリーはみなしご? いろいろに想像できます。おやすみなさいの絵本でもあります。
(装丁:田辺卓さん 編集:山浦真一さん)


オスカーとフー

オランダ生まれのアニメーション作家とフランス生まれのテレビ番組制作者がつくった絵本。砂漠で迷子になった男の子オスカーが小さな雲フーと出会って、友情をはぐくむ物語。この夏、来日した二人に会いました。とてもいい人たちでした。(編集:竹下純子さん)


いのり〜聖なる場所

ノンフィクション絵本。イスタンブールのブルーモスク、ガンジス川の水あび場、フランスのシャルトル大聖堂・・・世界各地にある28箇所の「聖なる場所」を精巧なペーパークラフトで再現した美しい絵本です。キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教について、そして祈りについて、宗教にまつわるさまざまなことを考えさせてくれます。
(装丁:桂川潤さん 編集:鈴木真紀さん)


オスカーとフー いつまでも

2004年に出た『オスカーとフー』の続編です。少年オスカーについてきた雲のフーが、ホームシックになります。オスカーは自分の夢の中にフーを連れていき、そこでフーは雲の家族と再会します。誰かの夢の中に入るって、『トムは真夜中の庭で』みたいですね。色がきれいです。
(編集:吉村弘幸さん)


レベッカ・ボンド『ゆきがふったら』さくまゆみこ訳 偕成社

ゆきがふったら

『あかちゃんのゆりかご』の作者による新しい作品です。雪が降って除雪車が大きな山をつくったのを見て、子どもたちは大喜び。その雪の山にトンネルを掘り、滑り台や地下室もつくり…。作者自身の子ども時代の体験を描いた絵本で、楽しさが伝わってきます。(装丁:渋川育由さん 編集:和田知子さん)

・日本子どもの本研究会選定図書
・全国学校図書館協議会・選定図書
・日本図書館協会選定図書

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<紹介記事>

・「保育ステップアップマガジン ポット」2017年1月号

一晩中降った雪を除雪車が押して、小山に積み上げていきます。起きた子どもたちは大急ぎで雪の小山に登り、知恵を出し合って、すてきな遊び場を作ります。さあ、いったいどのような遊び場なのでしょうか。
読み聞かせのポイント:夜中に雪が降り積もり、朝には一面真っ白な世界! 子どもたちは雪山にかけ登り遊び始めます。画面いっぱいに躍動する雪遊びの楽しさが伝わってきます。臨場感のある絵をゆっくり見せたいですね。

・「edu」2015年5/6月号ふろく「子どもに読みつがせたい絵本最新定番50」

雪の日に子どもがしてみたいこと、すべてが描かれたような絵本。こんなことも、あんなことも! できたらいいね、楽しいね。そんな気持ちでゆっくり絵を見せ、リズミカルに読みます。読後、裏表紙を開いて見せると喜びますよ。


ロイス・レンスキー『はるがきた』さくまゆみこ訳

はるがきた

「はなの かおりを はこぶ かぜ。あっちも こっちも はるの いろ。」レンスキーの四季の絵本の春バージョン。春の風にのって、小鳥や子どもたちの歌が聞こえてくるような、春色の絵本です。もともとのオリジナルは1945年刊。その頃は、花粉症もなかったんですよね。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん+草野浩子さん)


アンソニー・ブラウン『かわっちゃうの?』さくまゆみこ訳

かわっちゃうの?

イギリスの絵本。「これからは、いろんなことがかわるんだよ」とお父さんがジョーゼフに言い置いて出かけていきます。一体、何が変わるの? どんなふうに変わるの? 自分の下に赤ちゃんが生まれることになった男の子の不安をこれほど見事に描いた絵本はないと、私は思っています。ページを追うごとに何かが変わっていきますが、何が変わっていくのかを発見する楽しみもあります。アンソニー・ブラウンの作品にしては、人間もリアルに描けています。ゴリラの絵はもちろん秀逸です。
私はこの表紙ではなく、もっと魅力的なペーパーバックの表紙を日本語版では使ってほしいとお願いしたのですが、なぜかハードカバーの原書の表紙がそのまま使われてしまっていました。
(編集:吉村弘幸さん)


ロイス・レンスキー『たのしいなつ』さくまゆみこ訳

たのしいなつ

レンスキーの四季の絵本は、この巻で4冊(ほかに『はるがきた』『いまはあき』『ふゆがすき』)そろいました。ままごと、探検ごっご、汽車ごっこ、プール遊びなど、夏のあいだの子どもたちの遊びが楽しく紹介されています。歌もついていますよ。
(編集:山浦真一さん、草野浩子さん 装丁:桂川潤さん)


ローズマリー・ウェルズ『マックスとたんじょうびケーキ』さくまゆみこ訳

マックスとたんじょうびケーキ

アメリカの絵本。うさぎの姉弟ルビーとマックスが活躍します。おばあちゃんのお誕生日にあげるケーキをつくっているルビーは、弟が邪魔ばかりするのでキッチンから閉め出してしまいます。でも弟のマックスは、とってもすてきなケーキを自分でもつくるのです。二つのケーキをもらったおばあちゃんの反応がすばらしい!
(装丁・描き文字:森枝雄司さん 編集:鈴木真紀さん)


ウォン・ディ・ペイ他『ほーら・これでいい!:リベリア民話』さくまゆみこ訳

ほーら、これでいい〜リベリア民話

アフリカの昔話絵本。西アフリカのリベリア北部にくらすダンの人々に昔から伝わる物語。ばらばらに存在していた頭、腕、足、胴体が出会い、合体していく愉快なストーリーを通して、社会の中でもひとりひとりが大事なのだということを子どもたちに教えていたそうです。アートンのアフリカ絵本シリーズ4作目。
(装丁:長友啓典さん+徐仁珠さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん+米倉ミチルさん)

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<訳者あとがき>

西アフリカにあるリベリアは、解放された奴隷の人たちがつくった国です。つまり、アメリカに連れていかれて奴隷として働かされていた人たちが解放後アフリカにもどって19世紀にリベリアという国をつくったのです。リベリアという名前も「自由の国」という意味です。しかし、1980年代からリベリアでは政治が不安定になり、内戦が始まり、多くの人が亡くなったり、難民になったりしました。またこの内戦は、子どもの兵士が大勢使われたことでも知られています。

今は、民主的選挙で選ばれたアフリカ初の女性大統領エレン・ジョンソン=サーリーフさんが国の立て直しや学校教育に力を注いだ結果、外国に逃げていた難民たちも戻り、平和な日々がふたたび訪れようとしています。ただし内戦で荒れ果てた国土や経済をもとにもどすには、まだまだ時間がかかるようです。

この絵本の文章を書いたウォン=ディ・ペイさんは、リベリア北東部のタビタに暮らす語り部の一家に生まれました。ダンの人々に伝わる物語は、おばあさんから教わったそうですが、それだけでなく太鼓をたたいたり、楽器をつくったり、踊ったり、仮面をつくったり、木彫りをしたり、布を染めたり、壁に絵を描いたりすることなども家族から学びました。

今ペイさんはアメリカに住んで、絵本をつくるだけでなく、主に子どもたちのために楽器を演奏しながらリベリアの昔話を語ったり、リベリアのダンスを教えたり、仮面ダンスの公演を行ったりしています。

物語の中にサクラが出て来ます。サクラというと日本の木というイメージが強いかもしれませんが、リベリアの熱帯雨林には野生のサクラの木がたくさん生えていると、ペイさんが教えてくださいました。野生のサクラだと、サクランボも日本のお店で売っているのよりは小さくてかわいい実なのでしょうね(後で調べてみると、アフリカのチェリーは、日本のとまた少しちがうようです)。

この絵本の絵は、ガーナのファンティの人々の間に伝わる「アサフォの旗」からインスピレーションを得て描かれたといいます。アサフォというのは民兵という意味で、地域を守る組織ですが、それぞれの組織が独特の絵柄をアップリケや刺繍で表現した旗を持っているのです。そのデザインや色がおもしろいので、「アサフォの旗」は、今は美術工芸品としても評価されています。

さくまゆみこ


E.B.ホワイト『いつだってそばに』さくまゆみこ訳

いつだってそばに〜Wit & Wisdom from シャーロットのおくりもの

『シャーロットのおくりもの』の中から、おもしろい言葉と絵を選んで1冊にまとめた本です。シャーロットの人間観察、テンプルトンの生き方、農場の四季の移り変わりや、納屋のようすなどが、こうして読んでみると、あらためて心に残ります。
(装丁:森枝雄司さん 編集:猪八重みち子さん)


映画版シャーロットのおくりもの

映画『シャーロットのおくりもの』の脚本をもとにした絵本です。出版社に依頼されて徹夜で訳しました。映画を楽しんでくれた人は、この絵本を経てから、最終的には原作を読んでもらいたいと思っています。じつは映画の字幕は、著作権の関係で原作本とは違う言葉が使ってあります。この絵本は、字幕に沿って訳してあります。
(装丁:田辺卓さん 編集:山浦真一さん)


ジーニー・ベイカー『ひみつのもり』さくまゆみこ訳

ひみつのもり

海の中に存在する神秘的な森を、美しいコラージュで表現しました。最初は小さな魚の死など気にしなかった少年が、その森の神秘にふれることによって、変わっていきます。海辺や海の中の表現がとてもすてきです。

ジーニー・ベイカーは、イギリスに生まれますが、オーストラリアに移住してから自然や環境問題をテーマに、精巧なコラージュを使った絵本をたくさん出しています。どれも、私は大好きです。最近の作品は、環境だけでなく社会全体に目を向けて作品をつくっているように思います。
(装丁:則武 弥さん 編集:相馬 徹さん)

オーストラリア原生自然保護協会賞受賞


イフェオマ・オニェフル『おとうとは青がすき:アフリカの色のお話』さくまゆみこ訳

おとうとは青がすき〜アフリカの色のお話

写真絵本。赤は大おじさんの帽子の色、緑はヤシの葉っぱの色、金色はお母さんのネックレスの色…..。お姉さんのンネカが、「青がすき」という小さな弟のチディに、ほかにもすてきな色があるんだよ、と教えてあげます。ページをめくるたびに鮮やかな色が目に飛びこんできて、楽しみながらアフリカの文化に親しむことができます。ナイジェリア出身の著者がアフリカの暮らしや文化を楽しく伝える写真絵本シリーズの1冊。
(編集:和田知子さん)

 

 


ジョン・キラカ『いちばんのなかよし:タンザニアのおはなし』さくまゆみこ訳

いちばんのなかよし〜タンザニアのおはなし

タンザニアのティンガティンガ派の画家による、楽しい絵本です。親友だったゾウとネズミ(ずいぶんと体の大きさが違うのに!)が、とっても愉快な絵を通して、本当の友情について教えてくれます。ボローニャ国際児童図書展ラガッツィ賞受賞作品。(装丁:長友啓典さん+徐仁珠さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん)

ボローニャ国際児童図書展ラガッツィ賞受賞

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<訳者あとがき>

ボローニャ国際児童図書展でラガッツィ賞を受賞したこの絵本は、タンザニアの絵本作家ジョン・キラカが出版した2冊目の絵本です。この独特な趣のあるゆかいな絵は、ティンガティンガ派とよばれるタンザニアの画家たちの流れから生まれました。

この流派の始祖はエドワード・サイディ・ティンガティンガという1932年生まれのユニークな人で、農夫、庭師、八百屋、刺繡屋、ペンキ屋、ミュージシャンなどの仕事をしながら、絵も描いていました。最初は自転車にぬるペンキで、合板に描いていたといいます。タンザニアの動物や自然や人々の暮らしを描くその絵は、しだいに評判になり、観光客にも人気が出て売れるようになったため、ティンガティンガは親戚や友人の若者たちに教えるようになります。こうして画家のグループができたのですが、彼自身は1972年に友人たちと乗っていた車が盗難車とまちがえられて(あるいはティンガティンガが知っていたかどうかは別として、実際に盗難車だったという説もあります)パトカーに追跡され、警官に撃たれて不慮の死をとげました。

しかしティンガティンガの死後も弟子たちは活動をつづけ、今は画家たちがたがいに技をみがきあったり助け合ったりしています。ティンガティンガ派の画家の中には、観光客向けのきまりきった絵を描く人もいますが、この絵本の作者ジョン・キラカのように、豊かな独創性をもって新たな世界を切りひらいていく画家も生まれてきています。

タンザニアだけでなくアフリカ大陸はおもしろい昔話の宝庫で、動物を主人公にした昔話もたくさんあります。人間を主人公にすると、自分の悪口をいっているのではないかと勘ぐる人も出てきます。社会に波風が立つことにもなりかねないので、動物を主人公にして語ることが多いのです。

この物語は、そうした豊かな昔話にもとづいてそこにオリジナルな味わいをつけくわえたものだと思われますが、最初に本にしたのはスイスの出版社でした。私は、キラカさんが書いた英語の文章と、スイスで出版されたドイツ語の文章の両方を参照しながら、日本語に翻訳しました。

この絵本の舞台になっているタンザニアは、東アフリカにあります。赤道が近いので、季節が日本のように四つあるのではなく、雨季と乾季に分かれています。農業は今でも天候に左右される部分が大きく、雨がふるはずの雨季に日照りがつづくと、この絵本にあるように、みんなが食べるものに困るということになります。

絵本の中でバッファローやサイやシマウマが身につけているのは、カンガというきれいな布です。カンガは、巻きスカートにしたり、赤ちゃんをおぶうのに使ったり、テーブルクロスに使われたりと、暮らしの中でさまざまに用いられています。

また21ページには、果物や木の実を入れておくかご、土を焼いてつくるつぼ、ヒョウタンでつくったひしゃくなど生活の道具が描かれていますし、23ページには、板にくぼみを彫って、そこに小石や豆などを入れてあそぶバオとよばれるゲーム盤が描かれています。絵本に登場するのは動物たちですが、タンザニアの人々の暮らしぶりがわかる絵になっているのですね。

さくまゆみこ


ミリアム・モス文 エイドリアン・ケナウェイ絵『アフリカの大きな木バオバブ』さくまゆみこ訳

アフリカの大きな木 バオバブ

ノンフィクション絵本。アフリカの大地にどっしりと根をおろし、空に向かって枝をひろげ、何千年も生きつづけるバオバブ。バオバブという木のふしぎと、サバンナに生きる動物たちの生き生きとした表情が楽しめる科学絵本です。アートンのアフリカの絵本第2弾!
(装丁:長友啓典さん+徐仁珠さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん+船渡川由夏さん)

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<訳者あとがき>

私が最初にバオバブという木があることを知ったのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んだときでした。バオバブという言葉のひびきがとてもおもしろくて記憶に残ったのですが、同時にこの物語には、バオバブはとても悪い木だと書かれていました。毒気を発してはびこり、しまいには星を破裂させるというのです。だから芽が出ているのを見つけしだいひっこ抜かなければいけないのだ、と。

その後私は、ナイジェリアの北部でバオバブの木を実際に見る機会にめぐまれました。そのときは乾季だったので、バオバブはすっかり葉を落としていました。ちょっと見ただけでは枯れているように見えるのですが、近づいて見ると太い幹からはしっかりとした生命力が感じられ、ふしぎな思いに打たれたものです。

東アフリカに行ったときには、バオバブの繊維でつくったバッグを手に入れ、もっといろいろ知りたくなって調べてみると、バオバブは悪い木であるどころか、とても役に立つすばらあしい木だということがわかってきました。バオバブには年輪がないので樹齢を調べるのはむずかしいのですが、2000年以上生きていると信じられている木もあるようです。この絵本を見ていただけばわかりますが、どっしりと立って、まわりの人間や動物に憩いの場や、子育ての場や、住まいを提供し、食べ物や生活の道具をもたらしてくれる木、それがバオバブだったのです。とくにバオバブの巨樹は、神聖な木とみなされたり、村人たちの集会の場となったりしています。西アフリカのセネガルのように、バオバブを国の木と制定して大事にしている国もあります。

バオバブは世界に10種類以上あって、アフリカ大陸のほかにマダガスカル島やオーストラリアにも自生していますが、この絵本に描かれているのはアフリカ大陸に育つバオバブ(学名でいうとアダンソニア・ディギタータ)です。

さくまゆみこ


マヤ・アンジェロウ文 マーガレット・コートニー=クラーク写真『ぼくはまほうつかい』さくまゆみこ訳

ぼくはまほうつかい

写真絵本。主人公はガーナのアシャンティ地方(アナンシの話で有名なところですよ)にくらす少年コフィ。コフィが日々の暮らしや機織りの仕事や市場のようすなどを案内してくれます。アンジェロウはアフリカ系アメリカ人で有名な詩人で、ガーナで暮らしていたことがあります。アートンのアフリカの絵本第3弾。
文章を書いたマヤ・アンジェロウはアフリカ系アメリカ人の著名な詩人で、ガーナに住んでいたことがあります。写真を撮ったコートニー=クラークはナミビアに生まれたフォトジャーナリストで、「ンデベレ基金」を創設して、南アフリカの女性や子どものアートを支援する活動も行っています。この絵本をつくるにあたっては、ガーナ各地を取材したそうです。
アートンが今はないので、図書館で見てください。
(装丁:長友啓典さん+久万美那子さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん+堀さやかさん)

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<訳者あとがき>

この絵本の舞台になっているガーナは、金やカカオ(チョコレートやココアの原料)の輸出国として世界的に有名です。日本では、野口英世が黄熱病の研究をした国としても知られています。

ガーナの首都は、南部の大西洋に面したところにあるアクラ。第二の都市はアシャンティ地方にあるクマシ。コフィ君がくらすボンウィレ村は、このクマシから北東に20キロばかり行ったところにあります。ボンウィレは、この絵本にもあるように、ケンテという布の産地としてとても有名な村です。

ケンテは、複雑なデザインをもつ色あざやかな手織りの布で、追われる模様にはどれも意味があると言われています。細く織った布を縫ってつなぎ、大きな布にしていくのですが、手間のかかる豪華な布なので、ガーナの人は、普通は儀式や特別なときに身にまといます。この絵本では、コフィ君が旅に出る時も、海に行く時も誇らしげに胸を張ってケンテを身にまとっていますが、実際は普段着や旅行着ではなく、晴れ着です。また日本だと機織りは伝統的には女性の仕事を思われていますが、ガーナでは男性の織り手のほうがずっと多いようです。

次に「金の腰掛け」の伝説についてご紹介しておきましょう。17世紀にお生・トゥトゥという王様がアシャンティ一帯の小王国をまとめて統一し、ここに大きな王国をつくりました。このとき、空に黄金の腰掛けがどこからともなくあらわれ、オセイ・トゥトゥ王の膝の上に降りてきたという伝説があります。この金の腰掛けはアシャンティ王国のシンボルとなり、新たに即位しようとする王様は、今でも非公開の即位の儀式のときにはその上にすわるそうです。現在のガーナは共和国で王様が治めているわけではありませんが、王様は昔ながらの儀式などをとりおこなっています。

この絵本の表紙で、コフィ君が頭の上にのせているのは、金ならぬ木製の腰掛けです。アシャンティの人たちは、こういう腰掛けにすわってご飯を食べたり、お洗濯をしたり、おしゃべりをしたりするのです。

アフリカの昔話の世界では、「クモのアナンシ」が有名ですが、知恵のまわるいたずら者アナンシも、ガーナのアシャンティ生まれだということをつけ加えておきたいと思います。

最後になりましたが、この絵本を翻訳するにあたっては駐日ガーナ大使のバフォ・アジェバゥワ閣下に貴重なアドバイスをいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

さくまゆみこ


ユリ・シュルヴィッツ『ねむいねむいおはなし』さくまゆみこ訳

ねむいねむいおはなし

アメリカの絵本。ねむいねむい夜が来て、ベッドの中の男の子もねむくなりました。部屋の中のテーブルや椅子も、壁にかかった絵も、窓のカーテンも、みんなねむそうです。ところが、どこからともなくノリのいい音楽が聞こえてきたから、みんなパッチリ目をさまし……でも最後にはまた眠りの世界へと入っていきます。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん)


ジャック・フォアマン文 マイケル・フォアマン絵『あ、そ、ぼ』さくまゆみこ訳

あ、そ、ぼ

イギリスの著名な絵本作家マイケル・フォアマンが息子と一緒につくった絵本。息子ジャックは、小さいときにいじめられ、仲間外れにされた体験を詩に書いていました。この絵本はその詩に基づいてつくられています。お父さんがつけた、色の少ない、余白の多い絵が、それだけよけいに多くのことを語ってくれているように思います。
(装丁:田辺卓さん 編集:桑原勝明さん)


レイモンド・ブリッグズ『エセルとアーネスト:ほんとうの物語』さくまゆみこ訳

エセルとアーネスト〜ほんとうの物語

イギリスの絵本。牛乳配達だった父のアーネストと、メイドだった母のエセルとの出会いからはじまり、息子レイモンドの誕生や、第二次世界大戦中の困難な暮らし、そして両親の病と死をドキュメンタリー風に描いています。つましいながら精いっぱい生きた労働者階級の両親と、有名な絵本画家になった息子の間に確かな愛情が通っているのが感じられて、いい絵本だな、としみじみ思います。
(装丁:田辺卓さん 編集:桑原勝明さん)


ディウフ文 エヴァンズ絵『おしゃれがしたいビントゥ』さくまゆみこ訳

おしゃれがしたいビントゥ

アートンのアフリカの絵本シリーズの5作目。西アフリカの女性たちは、みんなおしゃれが大好き、着るものや装飾品だけでなく、ヘアスタイルにもこだわります。主人公の女の子ビントゥは、自分の髪をおしゃれな三つ編みにして、金色のコインやきれいな貝殻をつけたいのですが、おばあちゃんは「まだ早い」と言います。三つ編みをしなくても、すてきな女の子になれるかな? セネガルの村の暮らしが生き生きと描かれています。伝統的なアフリカ社会では、おばあちゃんの言葉に大きな重みがあったこともわかります。
アートンという会社がなくなってしまったので、図書館で見てください。
(装丁:長友啓典さん+徐仁珠さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん+米倉ミチルさん)

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訳者あとがき

この絵本の舞台は、西アフリカの大西洋に面した国セネガルです。セネガルは、アフリカ大陸の中でも政情が安定している国の一つで、首都ダカールは、パリ・ダカール・ラリーのゴール地点としても有名です。

このあたりには、13世紀から15世紀にかけてマリ王国という国があり、サハラ砂漠を越えてくるラクダの隊商を使って地中海諸国と交易して発展していました。その後、ジョロフ王国などができましたが、1815年にフランスの植民地となり、1960年にフランスから独立しました。初代大統領は、詩人で文学者のレオポルド・セダール・サンゴールですが、サンゴールはまた、ノウサギを主人公にした昔話を子どものために出版しています。

セネガルはイスラム教の人たちが人口の9割以上を占めます。この絵本に出てくる赤ちゃんの名付けの儀式にも、イスラム教のお坊さんが出てきましたね。

またセネガルは、ジェンベなどの太鼓、木琴のようなバラフォン、ヒョウタンに皮を張った弦楽器のコラなどという楽器が国歌にも登場するほど音楽がさかんな国で、昔から音楽と歌を職業とするグリオ(吟遊詩人)が社会で大事な役目を果たしていましたし、ワールド・ミュージックの世界でも、ユッスー・ンドゥールやイスマエル・ローをはじめとするミュージシャンたちが活躍しています。

この絵本の主人公ビントゥは、お姉さんや大人の女の人と同じように、髪を長い三つ編みにしたくてたまりません。アフリカの女性にはおしゃれな人が多いので、ビントゥもおしゃれをしたいのです。この三つ編みは、日本でいうお下げとはちがって、髪の毛をほんの少しずつ手にとって、ぎゅうぎゅう引っ張りながら編んでいくのです。同じ三つ編みでも、無数につくるので、時間もかかります。実際にやってもらった人にきくと、3,4時間はゆうにかかるそうです。カラフルな付け毛を編み込んだり、編んだ髪をおもしろい形に束ねている人もいます。アフリカの多くの国では、美容院や床屋さんの店先に、ヘアスタイルの絵を描いたゆかいな看板が出ていて、それを見て歩くだけでも楽しいものです。

西アフリカの女性はまた、着るものにもこだわります。この絵本に登場する女の人たちも、大胆な柄のカラフルな衣装を着ていますね。スケイエおばあちゃんの青いドレスについているのは、タカラガイのもようです。昔は貨幣としても使われていたタカラガイは豊かさの象徴で、今でも装直品などによく使われています。

さくまゆみこ

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イフェオマ・オニェフル『たのしいおまつり:ナイジェリアのクリスマス』さくまゆみこ訳

たのしいおまつり〜ナイジェリアのクリスマス

写真絵本。西アフリカのナイジェリアに住むアファムは、クリスマスを楽しみにしています。でも、ナイジェリアのクリスマスは、日本のクリスマスとはちょっと違います。「モー」という精霊があらわれて、おどりながらあたりを練り歩くし、珍しいごちそうが出てきます。表紙は精一杯クリスマスのおしゃれをした子どもたち。
作者はナイジェリアで生まれ育った女性フォトグラファーです。ナイジェリア人の知人パトリックが、この絵本に出て来るジョロフライスを作ってくれたことがありますが、とてもおいsかったですよ。
(編集:和田知子さん)


クリスチャン・エパンニャ『おじさんのブッシュタクシー』さくまゆみこ訳

おじさんのブッシュタクシー

アフリカの絵本シリーズの6作目。カメルーン人の画家が西アフリカのセネガルに出かけてつくった絵本です。ブッシュタクシーというのは、同じ行き先なら知らない人同士でも乗る小型バスのようなもの。ぼく(セネという男の子です)のおじさんはそのブッシュタクシーの運転手。おじさんは車をいつもきれいにして整備もしているので、乗客もたくさん乗ってきます。セネガル相撲の勝者を乗せてお祭りに行ったり、結婚式に使われたり、時には車の中で赤ちゃんが生まれてしまったり、また時には亡くなった人の棺を載せることも。セネガルの人々の日常生活がていねいに描かれ、熱気とにおいと音が伝わってくる作品です。
アートンという会社がなくなってしまったので、図書館で見てください。
そういえば、私の仕事場にやってきた方がアートンのこのシリーズをまた出したいとおっしゃったことがあります。ISに捕まって殺されてしまった後藤健二さんでした。後藤さんは、子どもたちが多文化を理解することがとても大事だと思っていらっしゃったのだと思います。
(装丁:長友啓典さん+徐仁珠さん 編集:細江幸世さん+佐川祥子さん+堀さやかさん)

 

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<訳者あとがき>

この絵本に登場するブッシュタクシーは、日本のタクシーとはちょっとちがいます。日本のタクシーは、自分一人で、あるいは知り合いがいっしょに乗りますが、アフリカのブッシュタクシーは、知らない人同士もいっしょに乗ります。そういう意味では、小さい乗合バスといってもいいかもしれません。ただし日本の乗合バスとちがって、ブッシュタクシーはほとんどが個人経営です。

ブッシュタクシーには、たいてい行き先表示がないので、運転手さんが「これは○○行きだよ」「△△行きはこっち!」などと大声を出しているのを聞いて乗り込みます。運転手さんが呼ばわっていないときは、ひとつひとつどこ行きかを確かめないといけないので、ちょっとやっかいです。

ブッシュタクシーのなかには、ちゃんと整備されていないので途中で動かなくなってしまったり、スピードを出しすぎて横転したりするのもあるのですが、この絵本のブッシュタクシーは、安全をちゃんと考えていつも整備されているようですね。おじさんの笑顔だけではなく、きちんと手入れや整備がされていることも、大勢のお客さんを獲得できた理由ではないでしょうか。

結婚式の日に花むこさんと花よめさんを載せた場面には、ほめ歌をうたう人が登場します。これは、グリオとかジャリとかジェリとか呼ばれて、語りや歌を職業としている人です。お祝いの時などに、ほめ歌をうたうばかりでなく、本来は民族の歴史や英雄の叙事詩など、いろいろな歌をおぼえていて、頼まれればそれを披露します。もともとアフリカでは文字をもたない民族が多かったので、こういう語り部の人たちが大きな役割を果たしていました。この絵本のグリオの人が持っているのはコラという楽器です。大きな丸いヒョウタンを半分に切って、ヤギの皮や牛の皮を張り、そこにネックや弦をつけています。

セネガルは、イスラム教の人たちが95%を占める国です。この絵本の2ページには丸屋根のモスク(寺院)が描かれているし、15ページにはイスラム教の聖職者マラブー(セネガルではとても大きな権力をもっている偉い人たちです)が登場します。また19ページには中国人の人たちが棺を運ぶ場面もありますが、首都ダカールは国際都市なので中国系の移民の人たちも暮らしているのです。

それからこの絵本には、セネガルずもうの力士たちも登場しますね。セネガルの力士たちは、悪霊から身を守るお守りをつけ、太鼓の音に合わせて踊りながら入場し、試合では相手の背中を土につければ勝ちだそうです。サッカーやバスケットボールなど、外国から輸入されたスポーツもさかんになってきましたが、伝統的なセネガルずもうも、まだまだ根強い人気をもっているようです。

さくまゆみこ


イフェオマ・オニェフル『いっしょにあそぼう:アフリカの子どものあそび』さくまゆみこ訳

いっしょにあそぼう〜アフリカの子どものあそび

写真絵本。アフリカの子どもたちは、どんな遊びをしているのでしょう? この写真絵本にはセネガルやナイジェリアの子どもたちの遊びがたくさん登場します。ゲーム機器は一切登場しませんが、子どもたちはビンのふたや、小石や、植物の種や、ひもや、自分の手足を使って楽しく遊んでいます。あやとりや、ハンカチ落としみたいな遊びもありますよ。作者は、ナイジェリアで生まれ育った女性フォトグラファーです。
(絵:川口澄子さん 編集:和田知子さん)


ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリアー絵『ローザ』さくまゆみこ訳

ローザ

アメリカのノンフィクション絵本。ローザとは、公民権運動の母とも言われるローザ・パークスのこと。ある日、ローザはバスの中で「白人に席をゆずりなさい」と言われて「ノー」と答えました。それをきっかけに多くの人があきらめるのをやめて立ち上がり、キング牧師たちの公民権運動につながっていきました。文章を書いたニッキ・ジョヴァンニは、ラングストン・ヒューズ賞も受けた女性詩人で、大学教授でもあります。絵を描いたブライアン・コリアーは、現在第一線で活躍するアフリカ系の男性。絵本の中のローザの後ろには金色の光がかがやいていますが、それはコリアーのローザ・パークスへのオマージュです。
いつも日本の子どもにあまりなじみのないテーマの作品を訳すときは、日本の子どもとどこでつながるかを考えます。この絵本は、それまでだまって我慢をしてきたローザが「ノー」と声をあげるところだと思いました。訳もそこに焦点があたるようにしました。
(装丁:則武弥さん 編集:相馬徹さん)

*コレッタ・スコット・キング賞(アメリカ)受賞
*コルデコット賞(アメリカ)銀賞受賞
*SLA「よい絵本」選定


ジェシカ・ミザーヴ『ちいさいちゃん』さくまゆみこ訳

ちいさいちゃん

イギリスの絵本。ちいさいちゃんは、何をやってもおおきいちゃんにはかないません。存在はいつもおおきいちゃんの影に隠れてしまっています。ある日、いじわるをされた仕返しに、ちいさいちゃんはとんでもないことをしてしまいます。本気で悲しんでいるおおきいちゃんを見て、ちいさいちゃんはどうしたでしょう?
原書では、SmallとBigというこの二人の登場人物を、私は「ちいさいちゃん」と「おおきいちゃん」というふうに訳しました。
(装丁:藤田知子さん 編集:浜本律子さん)


ウルフ&サヴィッツ文 オドリオゾーラ絵『おはなしのもうふ』さくまゆみこ訳

おはなしのもうふ

イギリスの絵本。「ゆきに おおわれた やまの おくに、ちいさな むらが ありました。このむらの こどもたちは、おおきな《おはなしのもうふ》に こしを おろして、ザラおばあちゃんの おはなしを きくのが だいすきでした。」
ザラおばあちゃんは、子どもたちや村人たちの様子をよく見ていて、毛糸で靴下やマフラーや手袋やショールや赤ちゃんのおくるみなどを、どんどん編んでプレゼントしていきます。子どもたちにお話をして聞かせるやさしいザラおばあちゃんと、村人たちの心あたたまるストーリー。寒い冬に心のこもったあったかいプレゼントと、《おはなしのもうふ》との関係は? それを知っているのは子どもたちです。
(装丁:城所潤さん 編集:吉崎麻有子さん)


ローレンス・アンホルト『わすれられたもり』さくまゆみこ訳

わすれられたもり

昔は国じゅうに広がっていた森は、だんだんに小さくなり、まわりは都会になっていきます。忘れられた森で遊ぶのは子どもだけ。ある日、そこで工事が始まることになって、子どもたちはびっくり。このままでは森がなくなってしまう、と思ったとき、自然を大事にする心を取り戻した人たちが・・・。
(装丁:森枝雄司さん 編集:筒井彩子さん)


ニキ・ダリー『かわいいサルマ:アフリカのあかずきんちゃん』さくまゆみこ訳

かわいいサルマ〜アフリカのあかずきんちゃん

南アフリカで生まれ育った作者が描いたゆかいな絵本です。サルマは、おばあちゃんに頼まれて市場にお買い物に行った帰りに、犬にだまされて、買ったものを入れたかごも、サンダルも、ンタマ(腰に巻く布)も、スカーフやビーズも、みんな取り上げられてしまいます。サルマはおじいちゃんに助けを求めます。おじいちゃんは、クモのアナンシのかっこうをして、子どもたちに昔話を語っている最中でした。おじいちゃんとサルマは、仮面をかぶり、楽器をたたいて、犬に食べられそうになっていたおばあちゃんを、助け出します。アフリカの息吹が伝わってきます。
(装丁:城所潤さん 編集:相馬徹さん)


レオ・レオーニ『チコときんいろのつばさ』さくまゆみこ訳

チコときんいろのつばさ

1964年のレオーニの作品で、ちょっと不思議な趣があります。翼のない小鳥のチコが、魔法の鳥に金色の翼をあたえられるのはいいのですが、今度は仲間の妬みをかってしまいます。チコは困っている人たちに金色の羽を少しずつあげていき、最後に何かを悟ります。
(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん)


宇宙船プロキシマ号の伝説

40兆キロメートル離れた星に、知的生命体が発見されたというニュースを聞いて、宇宙船プロキシマ号は地球を出発し、5世代をかけて旅を続けていきます。物語はSFで、ブラックホールの周辺では何が起こっているかが明らかになります。見開きごとに星雲や銀河などの美しい写真が使われていますが、どれもNASA及びハッブル宇宙望遠鏡による神秘的な宇宙の画像です。地球の写真もすばらしい! 原書は大型版で画像もよく見えなかったのですが、許可を得て小型に。画像も日本語版の方がずっときれいです。(装丁:桂川潤さん 編集:山浦真一さん)


ジャクリーン・ウッドソン『かあさんをまつふゆ』表紙(さくまゆみこ訳)

かあさんをまつふゆ

アメリカの絵本。戦争中お金をかせぐため、大好きな母さんはシカゴに出稼ぎにいってしまう。少女エイダ=ルースはおばあちゃんとお留守番。雪が降った日、小さな黒い子ネコが迷い込んでくる。おばあちゃんは飼ってはいけないと行ったけれど、エイダ=ルースはそっと中にいれてあげる。母さんからの手紙を待っていても、郵便屋さんはいつも通り過ぎ、手紙もお金も届かない・・・。母親の帰りを待つ少女の思いを詩情あふれる言葉と絵で描いた絵本です。
(装丁:則武 弥さん 編集:相馬徹さん)

*コルデコット賞銀賞受賞


ブルンディバール

アメリカの絵本。第二次大戦中、チェコ北部テレジンにあったナチスの強制収容所で、子どもたちが上演していたオペラをもとに描かれた絵本です。オペラを作曲したハンス・クラーサもユダヤ人で、テレジンに収容され、後にアウシュビッツで亡くなりました。この絵本は、ユダヤ系アメリカ人のセンダックが初めて正面からユダヤ人の歴史に取り組んだ作品といっていいと思います。子どもたちが力を合わせて悪者を追い払うというストーリーに、センダックの思いがあらわれているのではないでしょうか。
(装丁:森枝雄司さん 編集:上村令さん)

「ニューヨーク・タイムズ」ベストテン絵本に選定

◆◆◆

<この絵本について>

この絵本は、アドルフ・ホフマイステルが台本を書き、ハンス・クラーサが作曲して1938年に完成したオペラにもとづいてつくられました。このオペラは、チェコのプラハにあったユダヤ人の孤児院で1942年に初演され、そのあと、チェコ北部のテレジンにあったナチスの強制収容所で、子どもたちが55回にわたって上演しました。子どもが演じたオペラなので、絵本の中のブルンディバールも子どもの姿をしています。

第二次世界大戦のとき、ナチス・ドイツはユダヤ人、政治犯、知的障碍者、外国人捕虜などを強制収容所に入れ、じゅうぶんな食べ物をあたえずに働かせたり、ガス室に送って殺したり、とてもひどい扱いをしました。テレジンの強制収容所にはガス室はなく、芸術活動も行われていました。収容されていた子どもたちが描いた絵もたくさん残っていて、子どものオペラも盛んに上演されていました。

絵本の中で300人の子どもたちが助けにくる場面では、中央にドイツ語でARBEIT MACHT FREIと書いてあります。「働けば自由になる」という意味で、この言葉はナチスの強制収容所のスローガンになっていました。しかし、ガス室のない収容所であっても、じっさいは自由になるどころか、無理に働かされて病気になり死んでいった人もたくさんいました。テレジンに収容されていた子どもたちも、多くがそこで亡くなったり、あるいはアウシュビッツなど別の強制収容所に送られて殺されたりして、生き残った子どもは15000人中132人だけでした。このオペラを作曲したクラーサも、テレジンに収容されていましたが、1944年にアウシュビッツで亡くなりました。また、絵の中に出てくる六角の星はユダヤ民族の象徴で、「ダビデの星」と呼ばれています。当時ナチスはユダヤ人すべてに「ダビデの星」を衣服にぬいつけることを強制していました。

この絵本は、2003年にアメリカの「ニューヨーク・タイムズ」という新聞が選ぶベストテン絵本に選ばれています。また、モーリス・センダックは2003年にこのオペラを演出し、2005年には舞台美術も手がけています。

なお、「ブルンディバール」というのは、チェコ語の方言で「マルハナバチ」のことだそうです。

さくまゆみこ


ジョナサン・ビーン『よぞらをみあげて』さくまゆみこ訳

よぞらをみあげて

アメリカの絵本。女の子が夜の風にさそわれて、ふとんや枕をかかえて屋上に出ていきます。頭上にはひろびろとした空が広がり、女の子はお月様を見上げながら眠りの世界に入っていきます。女の子をそっと見守るお母さんがすてき。
原書は主人公の女の子がsheという三人称でしか出てこなかったのですが、いくら日本語では主語が省略できるといっても、まったく出さないわけにはいきません。子どもの本では「彼女」は使えないので、「この子」?「女の子」?といろいろ考えたのですが、sheと比べると音数も多いし、どうしても硬い感じになってしまいます。そこで作者といろいろ相談して、最終的には許可をいただき一人称で訳しました。
(装丁:羽島一希さん 編集:小山侑希子さん)

ボストングローブ・ホーンブック賞受賞


レベッカ・ボンド『ドーナツだいこうしん』さくまゆみこ訳

ドーナツだいこうしん

ビリーが、おやつのドーナツをベルトからつるして歩いていると、後ろからニワトリがついてきて、猫がついてきて、犬がついてきて、女の子がついてきて、しまいには町中の人たちばかりか、空想の世界の住民までついてきて、なんとも楽しい大パレードに。静から動、そしてまた静へと移っていく構成がみごとです。
(装丁:渋川育由さん 編集:和田知子さん)


リンカーンとダグラス

アメリカの絵本。奴隷解放宣言を出した米国大統領のエイブラハム・リンカーンと、奴隷から身を起こして黒人や女性の地位向上のために闘ったフレデリック・ダグラスの、肌の色を越えた友情の物語。『ローザ』のコンビの新作です。巻末に年表もついているので、大人がアメリカの歴史を学ぶにも役立つかもしれません。
(装丁:則武 弥さん 編集:相馬 徹さん)


ユリ・シュルヴィッツ『おとうさんのちず』さくまゆみこ訳

おとうさんのちず

アメリカの絵本。絵本作家シュルヴィッツが自分の子ども時代のことを描いた絵本です。ポーランドのワルシャワで生まれたシュルヴィッツは、4歳のとき大空襲で家を焼かれ、家族とともにトルキスタンに逃げます。そこでは毎日の食べ物にも困るかつかつの暮らしをしていました。ある日、市場に出かけたお父さんは、パンを買うはずだったのに大きな地図を買ってきました。あまりのひもじさに、お父さんを恨む「ぼく」……。でもその地図は、魔法の時間をもってきてくれたのです。巻末には、トルキスタンにいた頃の少年シュルヴィッツの写真と、10歳のシュルヴィッツが便せんの裏に描いた地図と、13歳のシュルヴィッツがトルキスタンの中央市場を思い出して描いたマンガ風の絵も載っています。
(装丁:桂川 潤さん 編集:山浦真一さん)

コルデコット賞(アメリカ)銀賞受賞
*日本絵本賞翻訳絵本賞受賞
*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定
*SLA「よい絵本」選定


ジュリアス・レスター文 カレン・バーバー絵『ぼくのものがたり あなたのものがたり』さくまゆみこ訳

ぼくのものがたり あなたのものがたり〜人種についてかんがえよう

アメリカのノンフィクション絵本。肌の色だけを見て人を判断しないようにしよう。人種で人を差別しないようにしよう。だれにでも、たくさんの物語を持っているのだから、その物語に耳を傾けよう。そう語りかけるのは、アフリカ系アメリカ人のジュリアス・レスター。ジュリアス・レスターは子どもの頃、まだ差別が色濃く残っていた時代に少年時代を過ごしたので、「こことは別の世界があるということを本をとおして知らなかったら、生きていくことができなかっただろう」と語っている人です。色あざやかな力強い絵がついています。
(編集:檀上聖子さん、板谷ひさ子さん)

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<紹介記事>

・「西日本新聞」2009年8月28日


デミ『1つぶのおこめ:さんすうのむかしばなし』さくまゆみこ訳

1つぶのおこめ〜さんすうのむかしばなし

昔話と数の絵本。王様にお米を取り上げられて困っていた村を、知恵のある女の子ラーニが救います。数の絵本にもなっていて、牛やラクダやゾウが、お米を運んでくる場面がすばらしい! 絵を見ただけで、お米が次々に倍になっていくようすや、大きな数を実感することができます。金色を使ってインドの細密画風に描かれた、デミの絵がユニークです。
(装丁:辻村益朗さん 編集:鈴木真紀さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定


ケイト・マクマラン&ジム・マクマラン『さあ、たべてやる!』さくまゆみこ訳

さあ、たべてやる!

アメリカの絵本。働く車が主人公の、ちょっと変わった絵本です。この車は、みんなが捨てたもの、いらなくなったものを食べてくれます。町や広場を、ゴミの山また山にしないために。そう、これはゴミ収集車の絵本なんです。「ばっちいシチュー」は、いかにもばっちいんですけど、子どもたちは喜んでくれるのかな?
(編集:吉村弘幸さん)


ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ホワイト絵『むこうがわのあのこ』さくまゆみこ訳

むこうがわのあのこ

アメリカの絵本。こっち側とむこう側の境目には長くつづく高い柵があります。こっち側にはアフリカ系の人たちがくらし、むこう側には白人が住んでいます。こっち側の子どもたちは、むこう側の人たちとつきあってはいけないと、親たちに言われています。ある日、柵のむこうに白人の女の子があらわれて、じっとこっちを見ています。でも、こっち側の女の子たちは無視します。だけど、いつもぽつんとひとりでこっちを見ているあの女の子のことは、気になります。そのうち、こっち側の子どもとあっち側の子どもの距離がだんだん縮まって、とうとう女の子たちは、その境目を文字どおり乗りこえていくのです。おかげで未来も変わっていきそうです。
(装丁:則武 弥さん 編集:相馬徹さん)

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<紹介記事>

・「教育新聞」2010年12月17日


ジェリー・ピンクニー『ライオンとねずみ』さくまゆみこ訳

ライオンとねずみ

アメリカの絵本。イソップ物語の中の有名なお話を、アフリカ系の画家ピンクニーが東アフリカのセレンゲティ国立公園を舞台に描きました。ライオンの背中をうっかり駆け上がったねずみが、命を助けてもらったお礼に密猟者につかまったライオンを助けます。力強い絵で、なんといってもライオンの表情、ねずみの表情がすばらしい。絵が中心の絵本で訳すところはあまりなかったのですが、それなりに工夫はしました。
(装丁:森枝雄司さん 編集:鈴木真紀さん)

コルデコット賞受賞


ケイト&ジム・マクマラン『さあ、ひっぱるぞ!』さくまゆみこ訳

さあ、ひっぱるぞ!

体は小さいながら、大きな港で毎日大活躍するタグボートを主人公にしたゆかいな絵本です。『さあ、食べてやる!』で、目立たないけどなくてはならないゴミ収集車の絵本を出版したコンビが、今度は目立たないけどなくてはならない船を主人公にしました。
(編集:吉村弘幸さん)


アンソニー・ブラウンとこどもたち『くまさんのまほうのえんぴつ』さくまゆみこ訳

くまさんのまほうのえんぴつ

イギリスの絵本。栄えあるチルドレンズ・ローリエトのアンソニー・ブラウンが、子どもたちと一緒に作り上げた絵本です。子どもらしい発想に満ちています。絶滅しそうな動物たちも、魔法の鉛筆でなんとか助けられるといいな。そういえばアンソニー・ブラウンが大好きなゴリラも絶滅危惧種ですね。この絵本にも登場していますよ。
(編集:渡邉侑子さん)

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<子どもと一緒に作った絵本>

子どもとのやりとりの中から生まれた本はたくさんあります。ルイス・キャロルは、勤めていた大学の学寮長の娘アリスをボートに乗せてピクニックに行く途中、即興で語ったお話を基にして、『不思議の国のアリス』を書きました。ケネス・グレアムは、自分の息子に夜寝る前にしてやったお話を後に整理して『たのしい川べ』を書きました。ビアトリクス・ポターは、かつての家庭教師の息子が病気だと聞いて、励ますために書いた絵手紙をほとんどそのまま使って、『ピーターラビットのおはなし』を作りました。どうもイギリスにはそのような伝統があるようですね。

さて、今回のこの絵本は、子どもたちとのやりとりを基にしただけでなく、子どもが描いた絵が使われています。「サン」という新聞が主催したコンテストに応募した子どもたちと、イギリスの絵本作家アンソニー・ブラウンが一緒に作った絵本なのです。ブラウンにはその前に『くまさんのおたすけえんぴつ』という絵本があって、何でも描くと本物になってしまう鉛筆が登場していました。同じ不思議な鉛筆が登場するという意味では、その続編です。

ちょっととぼけたくまさんが、悪い人間に捕まりそうになるたび、この不思議な鉛筆を使って、危機を脱出していきます。そのうち、くまさんは、自分だけでなく他の動物たちも助けようとがんばるようになるのです。この絵本がおもしろいのは、子どもたちが描いた絵と、大人の絵本作家が描いた絵が同じ画面に登場すること。子どもたちの想像力の豊かさは、プロの絵本作家をしのぐほどです。

イギリスには「チルドレンズ・ローリエト」という名誉な称号があります。ローリエトというのは本来、国を代表する「桂冠詩人」の称号ですが、こちらは国を代表する子どもの本の作家や画家で、2年ごとに選ばれます。アンソニー・ブラウンは、6代目の現在のチルドレンズ・ローリエト。8月末にロンドンで開かれた「子どもの本の世界大会」でも大活躍でした。わたしもこの大会に参加したので、お話を伺うと、「子どもたちとの本作りは、とっても楽しかったよ」と笑顔でおっしゃっていました。

(「子とともにゆう&ゆう」2012年10月号 通巻684号 愛知県教育振興会発行)


ラングストン・ヒューズ詩 E.B.ルイス絵『川のうた』さくまゆみこ訳

川のうた

アメリカの絵本。ラングストン・ヒューズのジャズの本や詩の本を、私は学生時代によく読んでいました。ヒューズは今でもアフリカ系の人たちの尊敬を集めているのですね。この詩は、いろいろな先輩が訳されているので自分なりの訳にするのに深く考えなくてはなりませんでした。絵もただ美しいだけではなく、そこからいろいろな思いが伝わってきます。
(装丁:城所潤さん 編集:相馬徹さん)

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<紹介記事>

・「子どもの本棚」2012年6月号


まちのいぬ と いなかのかえる

春・夏・秋・冬のそれぞれの美しい風景を舞台に、町の犬といなかのカエルの友情と喪失と再生の物語が展開していきます。ミュースのどことなく素人っぽい絵が、私はけっこう好きです。うちの犬とよく似た犬(うちのコナツはもっと小さいし、足が短いですが)が登場しています。(編集:須藤 建さん)


おはよう

装丁家・桂川さんの息子さんであり「歩く会」の仲間でもあるリョウ君が、子どものときに好きだった絵本です。くまのぬいぐるみテディのなにげない一日が、クラシックな絵とともに語られていきます。青短のクリスチャンの先生が、だれよりも早く「広告見ましたよ!」と言ってくださいました。(装丁:桂川 潤さん 編集:土肥研一さん)


マーガレット・ワイズ・ブラウン文 スティーヴン・サヴェッジ絵『おとうさん おかえり』さくまゆみこ訳

おとうさん おかえり

夜になると、お父さんたちが帰ってきます。魚のお父さんも、テントウムシのお父さんも、ウサギのお父さんも、クモのお父さんも、犬のお父さんも、小鳥のお父さんも、カタツムリのお父さんも、ブタのお父さんも。ライオンのお父さんは、ちょっと別ですけどね。そして、「ふなのりの おとうさんは、うみから あがり、おとこのこの ところに かえってきます。」「おとうさん おかえり!」
マーガレット・ワイズ・ブラウンが、この絵本の文章を書いたのは1940年代初頭で、戦争からお父さんたちが帰ってくる時代でした。サヴェッジは父親の自分が仕事を終えて娘のもとへ帰っていくことをイメージして、2年間かけて絵を書きました。原画は、リノリウム板を使った版画です。
(装丁:坂川事務所 編集:沖本敦子さん)


ごめんなさい

ぬいぐるみのクマさんが主人公の「くまのテディ」シリーズの2作目です。ふきげんでまわりのみんなに当たり散らしてしまったテディは、鏡を見てびっくり! 怖い顔になっていたからです。みんなにあやまって許してもらったときの気持ちはまた格別です。(装丁:桂川 潤さん 編集:土肥研一さん)


おやすみなさい

「くまのテディ」シリーズの3作目。自分の部屋でひとりで寝ようとしても、いろいろなものが怖くなって、テディはなかなか眠りにつけません。でも、だいじょうぶ。安心しておやすみなさい。夜の間も守ってもらっているのですよ。(装丁:桂川 潤さん 編集:土肥研一さん)


モリー・バング『わたしのひかり』さくまゆみこ訳

わたしのひかり

モリー・バングの『ソフィーはとってもおこったの!』は、女の子の日常を描いた絵本でしたが、これは詩的に描かれた科学絵本です。「わたし」と言っているのは太陽です。ソーラー・パワーについて、エネルギーや電気のことを考えるのにちょうどいい絵本だと思います。とっても絵がいいんです。これまでの科学絵本や知識の絵本の多くは、説明的な絵がついていましたが、これは違います。絵だけ見ていても楽しいんです。モリー・バングは絵本の視覚的効果についての理論書(”Picture This: How Picture Work”)も書いていますよ。
カバーには窓があいていて、そこから表紙の絵がのぞいています。
(編集:吉村弘幸さん)

第58回青少年読書感想文全国コンクール課題図書選定
*SLA「よい絵本」選定

◆◆◆

<モリー・バングの後書きより>

長いあいだ、わたしは、電気にあまり興味をもっていませんでした。電気というものが電線を流れ、モーターを動かし、光をともすことは知っていましたが、そこでとどまっていました。
でも、わが家にソーラーパネルをつけると、がぜん興味がわいてきたのです。ソーラーパネルのガラスにうめこまれた小さな太陽電池は、いったいどうやって日光をとらえ、それをわが家のレンジや、温水器や、せんたく機や、コンピュータや、テレビや、照明で使われるエネルギーに変えているのでしょうか? この絵本にかかれているのは、わたしがさぐりだしたことの一部です。


バラク・オバマ文 ローレン・ロング絵『きみたちにおくるうた:むすめたちへの手紙』さくまゆみこ訳

きみたちにおくるうた〜むすめたちへの手紙

アメリカのオバマ大統領が文章を書いた絵本で、子どもたちを励ますメッセージがいっぱい。ただ原著出版社が「何もつけ加えてはならぬ。ちょっとした変更もならぬ。とにかく直訳しろ」の一点張りだったので、翻訳は苦労しました。明石書店は被災地の子どもたちにも読んでもらいたいと、この絵本をたくさん寄贈してくださいました。オーストラリアのラッド前首相も犬と猫を主人公にして絵本を書いていますが、日本の首相と絵本はとうてい結びつきませんね。
(装丁:桂川潤さん 編集:赤瀬智彦さん)

◆◆◆

<この絵本に登場する人たち>

ジョージア・オキーフ(大きな花や骨の絵で知られる画家)
アルバート・アインシュタイン(相対性理論を唱えた物理学者)
ジャッキー・ロビンソン(メジャーリーグ初のアフリカ系選手)
シッティング・ブル(北米先住民スー族の大戦士)
ビリー・ホリデイ(多くの名曲・名唱で知られるジャズ歌手)
ヘレン・ケラー(視覚と聴覚を失いながら活動した社会福祉事業家)
マヤ・リン(ベトナム戦争戦没者慰霊碑を設計した中国系の建築家)
ジェーン・アダムズ(貧困をなくすために努力した社会事業家)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(公民権運動の指導者)
ニール・アームストロング(月面を初めて歩いた宇宙飛行士)
シーザー・チャべス(農場労働者の人権を守ったメキシコ系の運動家)
エイブラハム・リンカーン(奴隷解放宣言に署名した大統領)
ジョージ・ワシントン(アメリカ独立戦争を戦った初代大統領)

◆◆◆

<日本のみなさんへ>

オバマ大統領はこの絵本をとおして、世界中の子どもたちに語りかけているのだと思います。力や才能はだれにでもあると、彼は語っています。だれでも、ヘレン・ケラーやジャッキー・ロビンソンのように、大きな困難を乗りこえていくことができると、語っているのです。私の絵が示そうとしているのは、こうした偉人たちもみんな同じように、かつては子どもだったということです。

この絵本が国境をこえて、日本の子どもたちにもなぐさめや勇気やはげましや希望をあたえることを私は願っています。そして日本の子どもたちも、困難を乗りこえる力や、すばらしい生き方をするための力が、自分の中にもあると気づいてくれるよう願っています。

ローレン・ロング


風をつかまえたウィリアム

舞台はアフリカのマラウィ。飢饉になり授業料が払えないので学校へ行けなくなったウィリアムは、近くの図書館にあった本で風車をつくる方法を研究し、ゴミ捨て場で材料を集めて自分の家に電灯を灯すことに成功します。文藝春秋社で出た『風をつかまえた少年』の絵本版。コートジボワール生まれの画家が絵をつけています。カムクワンバ君の物語は、ずいぶん前にアメリカ人の友人から教えてもらってTEDの講演記録(今は日本語もあります)を見て以来、ずっと気になっていました。第46回夏休みの本に選定。(装丁:桂川潤さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


イライジャの天使 ハヌカとクリスマスの物語

ユダヤ教徒の少年ととキリスト教徒のおじいさんの友情の物語。この絵本が取り上げているのは、実在のアフリカ系アメリカ人イライジャ・ピアース。文章を書いたローゼン(イギリス人のマイケル・ローゼンとは別人です)も、絵を描いたロビンソンも、小さいときにイライジャが大好きでした。床屋さんをしていたイライジャの木彫りはナイーブアートの一種だと思いますが、素朴で心のこもった本当にすてきなもので、一部は▶︎http://foundationstart.org/artists/elijah-pierce/▷ここ│や▶︎http://www.kenygalleries.com/images/af-pierce/pierce-bio.html▷ここ│で見ることができます。(編集:松井智さん、松木近司さん)


エイミー・ヘスト文 ヘレン・オクセンバリー絵『チャーリーのはじめてのよる』さくまゆみこ訳

チャーリーのはじめてのよる

小さな男の子ヘンリーが、小さな子犬をもらってきて、チャーリーという名前をつけます。見慣れない環境にひとりで寝かされて不安になる子犬と、その子犬を全存在をかけて愛し、守ろうとしている小さな男の子の思いが、びんびん伝わってくる絵本。子犬と子どものしぐさの一つ一つに、オクセンバリーのうまさが光っています。うちの犬が幼かった時のことを思い出しました。

(装丁:中嶋香織さん 編集:河本祐里さん)

◆◆◆

<子犬とのつき合い方、知ってますか?>

わたしの家には、コナツという犬がいます。体が白、茶、黒と3色の、とっても食いしん坊のビーグルです。

赤ちゃんのコナツがわが家にやってきたのは、11年前の6月。最初の夜は、毛布を敷いた大きな段ボール箱の中で過ごしたのですが、しょっちゅうクンクン鳴いていました。でも、わたしたち家族は、「鳴くたびに抱いていたら、じっと我慢して耳を塞いでいました。そのうち鳴き声がしなくなると、今度は、ちゃんと息をしているのかな? 衰弱したんじゃないのかな? と不安になって段ボールの中をのぞき込み、おなかが上下しているのを見て、ああ眠っているのだとホッと安心したものです。

この絵本は、雪の日に小さな男の子が子犬をもらってくるところから始まります。男の子はヘンリー。ヘンリーは、子犬にチャーリーという名前をつけ、だっこをせがまれればすぐにふかふかの毛布でくるみ、抱いたまま家まで連れて帰ります。家に着いたら、あちこち案内して、「今日からこの家に住むんだからね」と、何度も何度も話してやります。

ヘンリーは、チャーリーと片時も離れずにいたいのです。でも夜になると、お母さんとお父さんに「犬が寝るのは、キッチンだよ」とくぎを刺されてしまいます。そこで、ヘンリーは工夫してチャーリーのベッドを作るのですが、その工夫の仕方が子どもらしくて、なんとも素敵です。

でも、すやすや眠っていたはずのチャーリーは、真夜中に大きな鳴き声をあげます。慌てて飛び出していくヘンリー。子犬を心配し、思いっきり愛情を注ぐヘンリーも、その愛情に甘えるチャーリーも、表情やしぐさがとってもかわいい。オクセンバリーは、子どものことも犬のことも本当によくわかって絵を描いています。

この絵本を見て、わたしはコナツが来た夜にあまりかまってあげなかったことを後悔しました。犬だって、知らない家での初めての夜はとっても不安なんですよね。

(「子とともにゆう&ゆう」2013年1月号掲載)

◆◆◆

<紹介記事>

・「子どもと読書>2013年3・4月号で藤井亜希子さんがご紹介くださいました。

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そのひは、ゆき。だっこして、と子犬はせがんだ。だから、ぼくはずっとだっこして家まで帰った。ふかふかの青い毛布に子犬をくるんで。

「これからは、ここにすむんだよ」と家の中を見せて回る男の子から、一緒に住む嬉しさが伝わります。犬が寝るのはキッチンだよ、とお母さんとお父さんは決めますが、真夜中に突然の鳴き声。男の子はあわててキッチンにかけつけます。そんなやり取りを繰り返し、結局一緒にベッドに眠る二人。画面のすみに小さく映ったお母さんの表情から、きっと許してもらえただろうことも感じ取れて、柔らかな絵からは、二人(犬)の幸せな寝息まで聞こえてきそうです。


つぼつくりのデイヴ

奴隷には読み書きが許されていなかった時代に、自分がこしらえたすばらしい壺に詩や名前を書いていた奴隷がいました。それがデイヴです。巻末には壺の写真も載っているので、ぜひ見てください。職人としての誇りを持っていたデイヴの焼き物は、実用的でしっかりしていて、しかも美しいのです。
(装丁:則武弥さん 編集:相馬徹さん)

コルデコット賞銀賞、コレッタ・スコット・キング賞受賞

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<紹介記事>

・「2012年に出た子どもの本」(教文館)

 


モリー・バング&ペニー・チザム『いきているひかり』さくまゆみこ訳

いきているひかり

太陽の光や植物の役割と、私たちが生きていることの関係を、ときあかしてくれる絵本です。『わたしのひかり』の姉妹編ですが、こちらもすてきな楽しい絵がついています。ほんとにいい絵なので、ながめているだけでも楽しい。普通の科学絵本や知識絵本とは、そこが違います。ペニー・チザムさんは、長年エコロジーについて教えてきたマサチューセッツ工科大学の教授です。
(編集:岡本稚歩美さん)


シェーン・W・エヴァンズ『じゆうをめざして』さくまゆみこ訳

じゆうをめざして

アメリカに奴隷制がしかれていた時代、南部の奴隷たちを北部やカナダに逃がす秘密のルートがありました。「自由への地下鉄道」です。アフリカ系の人たちだけでなく白人も先住民もこの地下鉄道にかかわっていました。彼らは自らの命の危険を覚悟して、奴隷たちをかくまったり、食べ物や必要品をあたえたり、道案内をしたりしていたのです。自由の地にたどりついたとき、赤ちゃんも生まれるんですよ。
(装丁:石倉昌樹さん 編集:木村美津穂さん)

*コレッタ・スコット・キング賞受賞


アンソニー・ブラウン『くまさんのおたすけえんぴつ』さくまゆみこ訳

くまさんのおたすけえんぴつ

先に出た『くまさんのまほうのえんぴつ』は、これを下敷きにして作られました。以前は田村隆一さん訳で評論社から『クマくんのふしぎなエンピツ』として出ていた絵本です。ハンターに追いかけられたくまさんが、魔法の鉛筆でつぎつぎに絵を書いて危機を脱出していきます。8月の「子どもの本の世界大会」で、私もアンソニー・ブラウンに会って話をしてきました。(編集:渡邉侑子さん)


ジェリー・ピンクニー『うさぎとかめ』さくまゆみこ訳

うさぎとかめ

アメリカの絵本。イソップ物語の中にあるおなじみのウサギとカメが競走するお話を、ピンクニーが個性あふれる絵本にしました。ユニークなのは、油断したうさぎが、ただ負けてくやしがるだけではないところ。ピンクニーは、もうアメリカ絵本界の大家ですが、年々絵がじょうずになるし、絵本としての完成度も高まっているように思います。すごい!
(装丁・書き文字:森枝雄司さん 編集:鈴木真紀さん)


エイミー・ヘスト文 ヘレン・オクセンバリー絵『チャーリー、おじいちゃんにあう』さくまゆみこ訳 

チャーリー、おじいちゃんにあう

イギリスの絵本。『チャーリーのはじめてのよる』の続編です。今度は、ヘンリーが子犬のチャーリーを連れて、おじいちゃんを駅まで迎えにいきます。おじいちゃんは、犬が好きではないので、ヘンリーは心配していたのですが、ある事件がきっかけで、おじいちゃんとチャーリーは仲良しになります。オクセンバリーのこの絵、犬好きにはたまらないですよ。
(装丁:中嶋香織さん 編集:河本祐里さん)

◆◆◆

『チャーリー、おじいちゃんにあう』
の書評・紹介記事が掲載されていました。

エイミー・ヘスト文
ヘレン・オクセンバリー絵
さくまゆみこ訳
岩崎書店 2013

◆ヘンリーと子犬のチャーリーは、おじいちゃんを駅まで迎えに行きます。犬の苦手なおじいちゃんはチャーリーと仲良くなれるのでしょうか?
透明感のあるやわらかな色彩が魅力の画家が、元気いっぱいの子犬のチャーリーを、表情豊かに愛らしく描きました。こじんまりとした小さな駅舎、昔ながらの街並みが残るイギリスらしい田舎が舞台。チャーリーとヘンリー、おじいちゃんの心温まる交流です。
—「子どもの本」安曇野ちひろ美術館 柳川あずささんによる紹介記事。「「赤旗」2014年1月1日)

◆雪のふる日。ヘンリーは子犬のチャーリーと、汽車でやってくるおじいちゃんをむかえに行った。おじいちゃんは今まで犬と仲良くなったことがない。チャーリーを見てもにこりともしない。
そんなとき、とつぜんおじいちゃんのぼうしが風にさらわれる。チャーリーは、ぼうしを追いかけて見えなくなった—。だれかと友達になるって、実はすごいことだ。おじいちゃんの気持ちが変わっていく様子をたどってみて。
—「友達になるって、すごい」(「高知新聞」2014年1月12日)

◆動物の気持ちが通じる姿を描いた『チャーリー、おじいちゃんにあう』は、子どもの柔らかな表情やしぐさが心温まる新刊絵本。子犬を飼い始めた男の子、ヘ
ンリー。犬と仲良くしたことのないおじいちゃんは、最初は硬い表情。しかし子犬のある行動によって、おじいちゃんの心は解きほぐされる。
—「子犬の懸命な姿、人の心を温かく」(「読売新聞」夕刊 2014年2月1日)

◆雪の日曜日、ぼくは愛犬チャーリーと駅までおじいちゃんを出迎えに。懐っこく賢い子犬に、おじいちゃんも心を開いていきます。ぼくの願いがにじむ文、愛のこもる確かなデッサンに温かく満たされます。
——「祖父と孫と子犬の大好きな心が通い合う」(「月刊MOE」2014年3月号「2014年2月3日)

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同じ主人公(少年ヘンリーと子犬のチャーリー)の絵本はもう一冊あります。『チャーリーのはじめてのよる』です。こっちは、やってきたばかりの子犬を気遣うヘンリーの気持ちに焦点を当てています。


ヘレン・スティーブンズ『ライオンをかくすには』さくまゆみこ訳

ライオンをかくすには

小さな女の子が大きなライオンを隠すには、どうしたらいい? たいへんだけど、アイリスはがんばります。だって、家の中にライオンがいたら、お母さんもお父さんもあわてますからね。やさしいアイリスと、のんびり屋のライオンがいいコンビです。アイリスがライオンに読んであげる絵本は、ジュディス・カーの『おちゃのじかんにきたとら』なんですよ。新しい絵本ですが、どことなくクラシックな趣があります。
(装丁:伊藤紗欧里さん 編集:若月眞知子さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定


あかちゃんぐまはなにみたの?

アメリカの絵本。巣穴の奥深くで目をさました赤ちゃんグマが、さまざまな色の世界と出会っていきます。おひさまの黄色、オークの葉っぱの緑、カケスの青、マスの茶色、イチゴの赤、チョウチョウのオレンジ色……でも、やがて風と雨がやってきて、赤ちゃんグマはお母さんについて巣穴にもどります。そしてまたすてきな色と出会うのです。はじめて日本で翻訳が出たこの作者は、森と動物に囲まれて育った女性です。
(編集:須藤建さん)


マーティン・ルーサー・キング・ジュニア文 カディール・ネルソン絵『わたしには夢がある』さくまゆみこ訳

わたしには夢がある

アメリカの絵本。キング牧師が「ワシントン大行進」で集まった人びとに向かって、リンカーン記念堂の前から有名な演説を行ったのは、1963年8月。半世紀前のことです。もちろんこの演説のことは私も知っていましたが、訳すにあたってもう一度考えながら読み直してみました。演説の映像も見てみました。キング牧師は最初のうち草稿を見ながら演説をしていますが、I have a dreamのあたりから、草稿を見ず、思うままに語り始めます。その後、1968年にキング牧師は暗殺され、犯人が逮捕されますが、ケネディの時と同じように、国家の上層部(CIAやFBIなど)がかかわる陰謀だという説が根強くあるようです。この絵本の巻末には、その日の演説の全文が載っています。格調の高い、勢いのある演説をなるべくわかりやすい言葉で訳すのに苦労しました。
(装丁:森枝雄司さん 編集:相馬徹さん)


ホフマイア再話 フロブラー絵『ふしぎなボジャビのき』さくまゆみこ訳

ふしぎなボジャビのき〜アフリカのむかしばなし

南アフリカの絵本。アフリカの平原に飢饉が来て、動物たちはみんなおなかをすかせています。おいしそうな実のなる木を見つけたのですが、なんとそこには大きなヘビが巻き付いていて、木の名前をあてないと実を食べさせてくれません。その名前を知っているのは、サバンナの王さまのライオンだけ。そこで動物の代表がライオンのところに出かけ、木の名前を聞いてくるのですが、いつも帰る途中でほかのことを考えたり、転んだりして、名前を忘れてしまいます。そこに登場するのは、小さくても賢いカメです。再話も絵も、南アフリカで生まれ育った人たちです。
(編集:吉崎麻有子さん 装丁・書き文字:森枝雄司さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定

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<紹介記事>

・「女性のひろば」2013年11月号

 

・「朝日小学生新聞」2013年10月5日


パトリシア・ポラッコ『ありがとう、チュウ先生:わたしが絵かきになったわけ』さくまゆみこ訳

ありがとう、チュウ先生〜わたしが絵かきになったわけ

アメリカの絵本。ディスレクシア(読字障害)をもっていたポラッコが、中国系のすてきな先生に出会って、美術の道を志すにいたるまでの経緯を描いた自伝的な絵本です。若き日のポラッコが、悩んだり、苦しんだり、喜んだり、ほっとしたり、得意になったりする様子が、生き生きと伝わってきます。子どもは愛情をかけられ、励まされて成長していくんですね。『ありがとう、フォルカーせんせい』(香咲 弥須子訳 岩崎書店)の、その後の物語。
(装丁:塚原麻衣子さん 編集:大塚奈緒さん)


1はゴリラ〜かずのほん

イギリスの絵本。1はゴリラ、2はオランウータン、3は・・・と、いろいろなサルや霊長類が登場する数の絵本。迫力ある絵がすばらしく、同じ種類でも1ぴきずつ個性が描きこまれています。最後にはなんと!

昨年9月にロンドンで最初にダミーを見つけ、その時、アンソニー・ブラウンさんとも話したのですが、「ぼくはどの絵本も作ってしまった後は関心がなくなってしまうんだけど、この絵本は違うんだ。自分でもとっても気に入っている」とおっしゃっていました。日本に戻ってきて完成した絵本を見た私は、すごい! と思いました。これまでのアンソニー・ブラウンとはひと味違う絵、そしてコンセプトです。ずっと見ていてもちっとも飽きない、不思議な力をもっています。ソデにある山極寿一さんの文章がまたいいんですよ。
(編集:須藤建さん)


ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵『ひとりひとりのやさしさ』さくまゆみこ訳

ひとりひとりのやさしさ

アメリカの絵本。クローイの学校に、貧しい転校生がやってきました。その子がにっこりしたり遊びに誘ったりしても、クローイたちは知らん顔で無視。いじめの問題は、お題目を唱えたり、いじめた者を糾弾するだけでは解決しません。これは、自らもいろいろな差別や偏見にさらされてきたウッドソンが「いじめ」をテーマに書いた絵本です。ふつうの絵本にはない視点で、子どもの心の奥までおりていっています。ルイスの絵がまたすばらしいし、物語に出て来てやさしさを生徒たちに伝えようとする先生もすてきです。
(編集:渡邉侑子さん)

*シャーロット・ゾロトウ賞、コレッタ・スコット・キング賞銀賞受賞


子どもの本の歴史〜写真とイラストでたどる

500ページ近くある「ぶっとい本」です。16世紀頃から現代までの英語圏での児童文学の歴史が、豊富なイラストや写真とともに紹介されています。翻訳は、さまざまな資料にあたり苦労しましたが、大いに自分の勉強にはなりました。巻末には、カーネギー賞、グリーナウェイ賞、ニューベリー賞、コールデコット賞のリスト、邦訳書データ付きのタイトル索引、人名索引がついています。
(装丁:熊谷博人さん 編集:檀上聖子さん)


国際アンデルセン賞の受賞者たち

1956年の受賞者エリナー・ファージョンから始まって、2002年の受賞者エイダン・チェンバーズとクェンティン・ブレイクに至るまでの44人の生涯、特徴、代表的な作品が、イラストレーションや写真とともに紹介されています。資料的な価値はじゅうぶんだと思います。普通の本屋さんにはないと思いますので、メディアリンクス・ジャパン(電話04-2936-6428)に直接お申し込みください。
(装丁:藤根孝紀さん)


さくま編訳『キバラカと魔法の馬』表紙

キバラカと魔法の馬〜アフリカのふしぎばなし

アフリカ各地に伝わる昔話から、不思議なおはなしを自分で選んで訳しました。「恩を忘れたおばあさん」「魔法のぼうしとさいふと杖」「山と川はどうしてできたか」「ヘビのお嫁さん」「力もちイコロ」「動物をこわがらせた赤ん坊」「カワムチと小さなしゃれこうべ」「ワニおばさんの約束」「あかつきの王女の物語」「村をそっくりのみこんだディキシ」「ニシキヘビと猟師」「悪魔をだましたふたご」が入っています。

この本がきっかけで、私は冨山房に入社し編集部で働くようになりました。つまり入って最初に編集したのがこの本だったのです。


アフリカの子〜少年時代の自伝的回想

西アフリカのギニアでマリンケ人として生まれ育った作家が、少年時代を誇りをこめてふりかえった自伝的小説。鍛冶屋のお父さんの仕事、ワニのトーテムに守られたお母さんの不思議な力、太鼓のひびき、成人になるための儀式、村の日常生活、グリオのパフォーマンスについてなど、おもしろくて興味深い記述にあふれています。(カット:エム・ナマエさん 編集:家井雪子さん)


カマキリと月〜南アフリカの八つのお話(単行本)

南部アフリカの先住民のサンやコーサの人たちの昔話や神話をもとにした動物物語。「小さなカワウソの冒険」「ブアブンの花が散る」「絵かきになったノウサギ」「ジャッカルの春」「ずんぐりイモムシの夢」「サボテンどろぼうはだれだ?」「雨の牡牛」が入っています。訳すとき難しかったのは、動物や植物の和名です。南部アフリカ固有の英語から割り出すのに、文章を翻訳してから丸一年くらいかかりました。最後は著者に特徴やわかるものはラテン名も教えていただきました。当時は電子メールがなかったので、お手紙でやりとりしていました。画像検索も当時はできなかったので、著者に写真を送っていただきました。後書きでポーランドさんは、こう述べています。「この本にのっているお話は、楽しんでもらうことを第一の目的として書きました。けれどもこの本は、サンやコーサなど〈古い人たち〉への賛辞でもあります。かれらの知恵や世界観は、はかりしれないほどわたしをゆたかにしてくれました。かれらのつたえてきたものの中にある、よろこびや魔法のいくつかを、読んでくださるかたたちと分かちあうことができれば幸いです」。2004年には福音館文庫の1冊としてよみがえりました。
(編集:松本徹さん 装丁:加藤光太郎さん 巻末の動物の絵:木村しゅうじさん)

*産経児童出版文化賞


シャーロック・ホームズ 消えた銀星号

編集者の方に「シャーロック・ホームズは好きですか?」ときかれて、「ええ」と答えたら、訳すことになりました。

「消えた銀星号」「地獄船グロリア・スコット号の最期」「地底の王冠」「幻のスパイを終え」の4つのお話が入っていて、解説を日本シャーロック・ホームズ・クラブ主宰者である東山あかねさんが書いてくださっています。今見ると、とてもとてもオーソドックスな表紙絵ですね。


風のゆうれい〜テリー・ジョーンズ童話集その2

イギリスのモンティ・パイソンのメンバーで、作家・脚本家としても活躍したテリー・ジョーンズが、娘のサリーのために書いた童話集。二巻目のこの本には、「のどじまんのちょうちょう」「ガラスの戸だな」「心配しょうのケイティー」「木切れの都」「ピーターのかがみ」「ゆうかんなモリー」「風のゆうれい」「世界の海を泳いだ魚」「ティム・オレーリー」「おばけの木」「たばこ入れの悪魔」「世界一の金持ちになった男」「金のかぎ」「リー・ポーのワイン」「1000本の歯をもつ怪獣」「悪魔にたましいを売った博士」の16のお話が入っています。ジョーンズはオックスフォード大学で中世文学に親しんでいたので、そんな雰囲気も持った、そしてちょっとスパイスがきいた物語になっています。

この中の「風のゆうれい」は大阪書籍の国語の教科書にも掲載されていました。
(編集:檀上聖子さん)


モロッコのむかし話〜愛のカフタン

ロンドン大学で教えていたヤン・クナッパートさんをお訪ねしたとき、まだ本になっていないブックレット状態のこの本を見せていただき、翻訳させてもらうことにしました。クナッパートさんは、アフリカ各地の神話・伝説をご自分で収集して、本や事典を出しておられる学者です。

モロッコはイスラム教の国なので、イスラム文化にも触れたおもしろいお話が集めてあります。「丘の上のおばけやしき」「ふしぎなさかな」「愛のカフタン」「ひみつのとびら」「妖精にそだてられたむすめ」「ファディルとハットゥーシャ」「かしこいむすめと砂漠の王さま」「すなおなおよめさん」「アッラーのなさること」が入っています。

(編集:家井雪子さん)

 


イースト・オブ・ザ・ムーン〜テリー・ジョーンズ童話集その1

イギリスのコメディ・グループ「モンティ・パイソン」で有名なテリー・ジョーンズが、娘のサリーのために書いた物語集。「麦わら人形」「ぼけた王さま」「ふしぎなケーキの馬」「夜の飛行士」「3つの水玉」「ジャックのひと足」「骸骨船」「海のとら」「大きな鼻」「魔女とにじ色のねこ」「なぜ鳥は朝うたうか」「むらさき色のくだものがなる島」「遠いお城」「どこにもない国にいった船」の、ファンタジーと寓話がまじりあったような14のお話が入っています。

フォアマンの挿絵がすてきなんです。

(編集:檀上聖子さん)


スホーの馬〜アジア・アフリカの民話

私がこの本のために選んで再話したのは、つぎの5話です。オムニバスなのでごちゃまぜ感もありますが、まじめに選んでまじめに訳しました。巻末の「アジア・アフリカ民話の舞台」と「さまざまな動物物語」も書いています。

◆「スホーの馬」・・・モンゴル
絵は、梶山俊夫さん。赤羽さんの絵本で有名な、馬頭琴の由来を語るお話です。私は東京外語大のモンゴル語の教授・蓮見治雄先生に原話を見せていただいて再話しました。「スホー」という名前は、蓮見先生は「スヘ」に近い発音だとおっしゃったのですが、それは何となく変だし、かといって赤羽さんの「スーホ」も使えないかなと思って、こうしました。

◆「アナンシのへびたいじ」・・・ガーナ
絵は本信公久さん。アシャンティの人たちの間に伝わるクモのアナンシを主人公にした昔話です。

◆「ジャッカルとらくだ」・・・東アフリカ
絵は、タンザニアのティンガティンガ派の画家デービッド・ムズグノさんです。タンザニアにいる友人経由で特別にたのんで描いてもらいました。

◆「のうさぎのちえ」・・・中央アフリカ
絵は、長野博一さん。アフリカ民話にたくさん登場するトリックスターのノウサギが活躍しています。

◆「どうぶつのおんがえし」・・・インド
絵は、井上洋介さん。古代インドの説話集「パンチャタントラ」に出てくるお話です。

(編集:桑原勝明さん)


シャーロック・ホームズ 花むこ失踪事件

この巻には、「花むこ失踪事件」「ボスコム谷の謎」「窓から消えた顔」「技師の親指」が入っています。
そして、前の巻と同じく東山あかねさんのすばらしい解説がついています。


バオバブの木と星の歌〜アフリカの少女の物語

アフリカ南部のナミビアに暮らす先住民サン人(昔はブッシュマンと呼ばれていた)の少女ビーが主人公です。サンの人たちはいつも自然と調和して暮らし、空の星の歌も、木のささやきも、小鳥の歌も聴き取ってきました。
著者のレスリー・ビークは、私も南アフリカのケープタウンでお目にかかり、親しくお話をさせていただきましたが、サンの人たちの文化を伝えるためのサポートをしていて、そのような物語もたくさん書いています。この作品は、カラハリ砂漠を舞台にした、死と愛と再生の物語です。主人公のビーは、一度は苦しい体験にうちのめされて自殺しようとしますが、やがてそれを乗り越えて生きていきます。ほかにも故郷を失った祖父、深い悲しみを抱える母、新しい未来を夢見るクー、貧しい白人の農場主や精神を病むその妻など、さまざまな人間模様を浮かび上がらせています。
サンの人たちの言葉の発音については、京都大学アフリカ地域研究センターの当時の所長田中二郎先生にご教示いただきました。
(編集:松木近司さん)

*産経児童出版文化賞推薦


ミリアム・マケバ&ジェームズ・ホール『わたしは歌う:ミリアム・マケバ自伝』さくまゆみこ訳

わたしは歌う〜ミリアム・マケバ自伝

「ママ・アフリカ」と呼ばれたミリアム・マケバは、「パタ・パタ」などの歌で有名ですが、とても数奇な運命をたどった女性です。南アフリカで生まれましたが、アパルトヘイト政権のもとで31年間も国外追放になり、イギリス、アメリカ、ギニアと拠点を移しながら、歌手として活躍しました。マンデラが大統領になるとようやく南アフリカに戻って、その後も世界を回って歌声を聞かせてきました。
しかし彼女は歌手だっただけではなく、人権活動家としても国連でスピーチをしたし、何より波瀾万丈の人生を送った人でした。
私はマケバの来日コンサートにも行きましたし、CDはすべて持っていて、それを順番に聞きながらこの本を訳しました。
(編集:松本徹さん 装丁:桂川潤さん 写真・編集協力:吉田ルイ子さん)


ライオンと歩いた少年

イギリスで暮らす少年クリスは、父親の仕事の都合で突然アフリカのタンザニアへ行くことになります。ところが目的地に向かう途中、軽飛行機が墜落して、パイロットと父親は重傷を負ってしまいます。軽傷ですんだ少年はひとりで助けを呼びに行こうとするのですが、そこは様々な野生動物が暮らすサバンナ。飛行機という現代文明を象徴するものが失われたことで大自然の中に放り出された少年は、年老いたライオンと出会います。死期を迎えて群れを去った老ライオンと、生きようとするクリスが、ふしぎなことに魂を通わせるようすが描かれています。

著者のキャンベルは、野生の動物と人間のかかわりをテーマに書いている作家です。翻訳は、原文では名詞につく形容詞がたくさんあるので、それをどう訳すかという点で苦労しました。

(編集:米田佳代子さん 装丁:鈴木裕美さん)


ふしぎの国のアリス

ちょっとチャレンジングなことをしてみようかと思って、再話しました。もちろん注釈付きの原文を読んでいます。

でも、結論としては、「アリス」はやっぱり、英語ができる人なら原文で読むのがいちばんおもしろいと思います。言葉遊びのたぐいは、翻訳ではなかなか表現できないので。ちなみに最近は、原文を読まないで再話する方も大勢おいでですが、それはまずいと思っていますし、あらすじだけの再話なら読まないほうがいいと思っています。

(編集:桑原勝明さん)


炎の鎖をつないで〜南アフリカの子どもたち

南アフリカで行われていたアパルトヘイトの実態を15歳の少女の目を通して描いています。暮らしていた土地から不毛の地へ強制移住を命じられた村の人々の反応、抗議に立ち上がった子どもたちへの仕打ち……。南アフリカで生まれ育ち、学生時代にアパルトヘイトに抗議して亡命を余儀なくされた著者だけに、描写はリアルです。
アパルトヘイトの中で人々がどのように思い、行動し始めるようになったのか、その揺れる心持ちを知ることができる物語です。歴史的事実の裏には、必ず無名の多くの人の思いがあふれているのだということわかってきます。原書は古い(1989年)のですが、後書きでそれ以降の南アフリカの状況を補足しました。
著者のビヴァリー・ナイドゥーさんとは、南アフリカのケープタウンで「子どもの本の世界大会」があったとき、お目にかかってお話をすることができました。

(編集:家井雪子さん 挿絵:伏原納知子さん)


ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』表紙(さくまゆみこ訳 理論社)

レーナ

アメリカのフィクション。アフリカ系のマリーの父親は大学で教えていて、いい家に住んでいます。でも母親は家を出て世界各地を回って自分探しをしています。そんなマリーの学校に転校生のレーナがやってきました。白人のレーナの母親はガンで亡くなり、父親はいわゆる「プアホワイト」。このあたり、従来のアフリカ系の作家が書いた作品とは設定が逆転しています。マリーとレーナは肌の色が違うのを乗り越えて友だちになります。でも、レーナには秘密がありました。父親から性的虐待を受けていたのです・・・。
作者のウッドソンはアフリカ系アメリカ人の女性で、私、この人の大ファンです。表現はとてもリリカルなのに、きちんと社会問題(この作品は、人種問題、児童虐待など)を扱っているんです。父と娘二組の物語でもあります。ぜひ読んでください。沢田さんの表紙絵がまたいいですね。
(絵:沢田としきさん 装丁:高橋雅之さん 編集:平井拓さん)

*ジェーン・アダムズ児童図書賞銀賞受賞
*コレッタ・スコット・キング賞銀賞受賞


ヴィクター・マルティネス『オーブンの中のオウム』さくまゆみこ訳

オーブンの中のオウム

メキシコ系アメリカ人の詩人が初めて書いたYA文学で、メキシコからの移民チカーノの少年の息づかいが伝わってきます。父親は飲んだくれのうえに暴力をふるう。兄や姉はいつもトラブルに巻きこまれる。一家はいつも貧困と差別と暴力にさらされているけれど、その家族を見る著者の目には、ぬくもりも感じられます。アメリカ人やスペイン語の得意な方に聞いてもわからないチカーノ特有の表現がたくさん出てくるので、作者に何度もe-mailで問い合わせたりして、翻訳には苦労しました。
(表紙絵:木村タカヒロさん 装丁:鈴木成一さん 編集:神田侑子さん、長田道子さん、沼田敦子さん)

*全米図書賞受賞、産経児童出版文化賞受賞


ジェフ・ブラウン文 トミー・ウンゲラー絵『ぺちゃんこスタンレー』さくまゆみこ訳

ぺちゃんこスタンレー

ユーモアたっぷりの物語。ある日、目が覚めるとスタンレーは厚さ1.3センチのぺちゃんこになってしまっていました。さあ、どうする? でも、スタンレーはその薄さでなければできないことを次々にやっていくのです。そのあたりが、とても楽しい。昔イギリスにいたとき、下宿先の子どもたち3人に読んであげると、年齢もちがう3人が3人ともげらげら笑いながら大喜びした絵物語。ウンゲラーの絵もとっても味があっておもしろいんです。いくつか出版社に持ち込んだけど断られて、やっとあすなろで出してくれました。でも、もう何度も刷を重ねています。
(編集:山浦真一さん)


グレアム・ソールズベリー『その時ぼくはパールハーバーにいた』さくまゆみこ訳

その時ぼくはパールハーバーにいた

アメリカのフィクション。真珠湾奇襲のときハワイに暮らしていた日系ハワイ人の少年トミカズとその一家の物語。日米関係が緊迫してくると、移民してきた父親と、日本から呼び寄せた祖父は、収容所に入れられてしまいます。自分はアメリカ人だと思っていたトミカズも、それまで遊んでいた友だちと遊べなくなります。日常生活が一変して、悩みながらも成長していく少年を描いています。
著者ソールズベリーの父親は、第二次大戦の日本軍との戦いで戦死しているのですが、それでもこういう物語が書けるのですね。表紙絵を描いているのが横山隆一さんのお嬢さんなので、トミカズ少年はどこかフクちゃんに似ています。
(表紙絵:横山ふさ子さん 装丁:森枝雄司さん 編集:米田佳代子さん)

*スコット・オデール賞受賞


アリソン・レスリー・ゴールド『もうひとつの『アンネの日記』」さくまゆみこ訳

もうひとつの「アンネの日記」

ノンフィクション文学。アンネ・フランクの同級生で親友だったハンナ・ホスラーが、ナチス占領下でのつらい体験や、アンネの思い出などを語っています。著者はハンナの回想を聞き書きしています。隠れ家にいたアンネはナチスに見つかって逮捕されたため「アンネの日記」は途中で終わっていますが、ハンナは、ホロコーストを奇跡的に生きのびてイスラエルに暮らし、子どもや孫にも恵まれました。アンネのケースが特殊ではなかったことがよくわかります。
(装丁:森枝雄司さん 編集:中田雄一さん)

*産経児童出版文化賞大賞受賞、厚生省中央児童福祉審議会特別推薦


ジャクリーン・ウッドソン『マーガレットとメイゾン』さくまゆみこ訳

マーガレットとメイゾン

アメリカのフィクション。ニューヨークに住むアフリカン・アメリカンの少女の友情物語。『レーナ』の作者ジャクリーン・ウッドソンが自分の子ども時代を思い出して書いたシリーズ〈マディソン通りの少女たち〉の1巻目です。祖母に育てられたメイゾンと、父を亡くしたマーガレットが主役ですが、超能力をもつデルさん、北米先住民のおばあちゃんなど、脇役も魅力的です。
(装丁:鳥井和昌さん 編集:米村知子さん)

SLA夏休みの本(緑陰図書)選定
*JBBY賞・翻訳者賞(シリーズ対象)


E.B.ホワイト『スチュアートの大ぼうけん』さくまゆみこ訳

スチュアートの大ぼうけん

アメリカのフィクション。映画「スチュアート・リトル」の原作です。人間の一家にネズミの子が生まれるという不思議な設定ですが、映画ではあまりにも奇妙だと思ったのか、スチュアートは最初からペットという設定になっています。2000年夏に映画が日本にもやってきて私も見ました。
(編集:山浦真一さん)


エリック・キャンベル『ゾウの王パパ・テンボ』さくまゆみこ訳

ゾウの王パパ・テンボ

イギリスで出たフィクション。舞台は東アフリカのタンザニア。儲けと復讐のために象牙狩りをする男と、パパ・テンボとよばれる大きなゾウの戦い。キャンベルの前作『ライオンと歩いた少年』と同じように、この作品でも人間の子ども(この本では少女アリソン)と野性の獣(この本ではゾウ)が心を通わせあう瞬間が描かれています。スリルとサスペンスがいっぱいの迫力ある物語です。
(挿絵:有明睦五朗さん 編集:米田佳代子さん)


エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳

ローワンと魔法の地図

オーストラリアのバイロンベイに行ったときに何軒かの本屋さんを回って、今子どもが夢中で読んでいる本を教えてもらいました。その中から探し出した本です。本嫌いな子どもでも読書の楽しみを味わえるのではないかと思いました。
ローワンはバクシャーという家畜の世話をする少年。あるとき、村に水が流れてこなくなり、勇者をつのって水源である山に登って原因を確かめることになります。ローワンは勇者とはほど遠い臆病な少年なのですが、魔法の地図が読めるのがなぜかローワン一人だったため一緒に行くことになってしまいます。最後には竜も出て来て冒険とスリルに満ちています。
小学校高学年なら読めるように訳したつもりでしたが、課題図書の対象は中学生でした。全5巻のシリーズもので、どの巻でも弱虫のローワン君は、いつのまにか冒険にまきこまれてしまいます。個人的には、ハリー・ポッターよりこっちのシリーズの方がおもしろいのではないかと思っています。子どもたちから手紙がくるのが何よりうれしい。
(装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん)

*オーストラリア児童図書賞・最優秀賞受賞
*毎日新聞青少年読書感想文全国コンクール課題図書

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

この作品に最初に出会ったのは、オーストラリアのバイロン・ベイという海辺の町でした。岬からイルカやクジラが泳いでいるのが見えるその町で、本屋さんに入っていった私は、店員さんに、今、子どもたちが夢中になって読んでいる本があったら教えてほしいとたのみました。その店員さんが出してきてくれたのが、このローワン少年の出てくるシリーズでした。店員さんは、「このシリーズは、仕入れてもすぐ売れてしまうんです」と言って、その時には、二巻目は店にありませんでした。とりあえず一巻目と三巻目を買って帰って読んでみると、これがおもしろいのです。日本に帰ってから二巻目も取り寄せて、一気に読みました。

その後、このシリーズについて調べてみると、一巻目の本書はオーストラリア児童図書協会が選ぶ年間最優秀児童図書賞を受賞していることがわかりました。そして三巻目も同じ賞の優秀賞に選ばれていました。

この本には、竜、洞窟、クモ、底なし沼、魔法をかけられた地図など、ファンタジーの読者におなじみのものが登場し、読者をどきどき、わくわくさせるストーリーが展開していきます。そればかりか、この作品は、これまでのファンタジーにはない新しい魅力ももっています。その魅力の一つは、主人公が、内気で臆病で、いかにも冒険には不向きな男の子だという点です。これまでのファンタジー作品の主人公のほとんどが、最初から勇気があったり、修業が好きだったり、好奇心や冒険心に富んでいる者だったことを考えると、この点は異色だと思います。ローワンは、運命のいたずらで仕方なく山にでかけていき、途中でも怖い怖いと思いながら、それでもとうとう最後には、村人も家畜も竜も救うことになるのです。

もう一つの新しさは、ジェンダーをこえた男女差のない社会が描かれているという点です。はじめのほうに、リンの谷の村の最長老で村長の役割をしているランという人物が出てきますが、すっと読んだだけではランが男性なのか女性なのかわかりません。よく読んでみると、原文ではshe(彼女)という代名詞が出てきて、ランが女性であったことがわかります。また魔の山に出かけていく勇者たちは、ローワンを除くと男性三人、女性三人です。体格はストロング・ジョンが一番大きいらしいということはわかりますが、力や勇気や知恵の点では、男性も女性も同じように描かれています。つまり、従来の「男の役割」「女の役割」「男らしさ」「女らしさ」にとらわれず、それぞれの個人がその人にふさわしい役割を果たしていく社会が、作者の一つの理想として描かれているのです。

作者のエミリー・ロッダは、本名をジェニファー・ロウと言い、一九四八年にシドニーに生まれました。シドニー大学で英文学の修士号を取ったのち、出版社に職を得て、編集者になります。子どもの本を書くきっかけは、娘のケイトに、自分で作ったお話を聞かせたことでした。ケイトがこのお話をとても気に入ったので、出版を思い立ち、きちんとタイプして自分が勤めていた出版社に売り込んだのですが、そのときにペンネームとして祖母の名エミリー・ロッダを使いました。この初めての作品『とくべつなお話』は、一九八五年にオーストラリア児童図書最優秀賞を獲得しました。二作目の『ふしぎの国のレイチェル』も一九八七年の同じ最優秀賞に選ばれます。エミリー・ロッダは、その後もオーストラリアで最高の児童図書にあたえられるこの賞を、合計五回も受賞しています。パトリシア・ライトソンやアイヴァン・サウスオールなど何回か受賞した作家はほかにもいますが、五回も受賞したのは、エミリー・ロッダだけです。昨年末には、ローワンシリーズの四巻目が出版されましたが、これも、オーストラリアの子どもたちにはすでに大人気を博し、今年の最優秀児童図書賞の有力な候補となっています。

二〇〇〇年五月

さくまゆみこ


ジャクリーン・ウッドソン『青い丘のメイゾン』さくまゆみこ訳

青い丘のメイゾン

アメリカのフィクション。「マディソン通りの少女たち」の第2巻。私立の寄宿学校に転校したメイゾンは、白人の少女たちの仲間にも、かといって数少ない黒人の少女たちの仲間にも入れず、孤独な日々を過ごします。作者のウッドソンは、今年コレッタ・スコット・キング賞を受賞しました。感受性の強い少女が生きていくのは、昔も今もそう簡単なことではないようです。
(絵:沢田としきさん 装丁:鳥井和昌さん 編集:米村知子さん)


E.B.ホワイト『シャーロットのおくりもの』さくまゆみこ訳

シャーロットのおくりもの

アメリカのフィクション。1952年にアメリカで出版されて以来、ずっと読み継がれてきた動物ファンタジーの古典です。以前別の出版社から出ていた翻訳(鈴木哲子さん訳で、法政大学出版局刊)は、今の子どもには少し読みにくくて残念だと思っていました。今回まったく新たに訳し直す機会をあたえられ、今の子どもにも充分読んでもらえるようになったのではないかと思います。
(装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん、草野浩子さん)

*ニューベリー賞オナー(この年の本賞はアン・ノーラン・クラークの『アンデスの秘密』が受賞)
*ホーンブック・ファンファーレ


ジャクリーン・ウッドソン『メイゾンともう一度』さくまゆみこ訳

メイゾンともう一度

アメリカのフィクション。「マディソン通りの少女たち」の第3巻。新しい学校に通い始めたメイゾンとマーガレットですが、メイゾンの前には蒸発した父親が現れます。マーガレットは、不自然なダイエットに苦しんだり、メイゾンとの仲がぎくしゃくするのに悩んだりします。キャロラインという白人の少女や、ボーという黒人の少年とも友だちになって、二人は成長していきます。
(絵:沢田としきさん 装丁:鳥井和昌さん 編集:米村知子さん)


エミリー・ロッダ『ローワンと黄金の谷の謎』さくまゆみこ訳

ローワンと黄金の谷の謎

オーストラリアのファンタジー。『ローワンと魔法の地図』に続くローワン・シリーズの第2巻。リンの村が闇に潜む敵の魔手におびやかされ(といってもこの辺が普通の物語とはひと味ちがいます)、弱虫のローワンが、こんどは〈旅の人〉の少女ジールと一緒に空を飛び、またまた思いがけない冒険をすることになります。どきどきワクワクのエンタテイメントですが、ある意味では自然の力の恐ろしさと素晴らしさを描いた作品ともいえると思います。
(絵:佐竹美保さん 装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん、佐近忠弘さん)

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

本書は、オーストラリアの作家エミリー・ロッダが書いたローワンの冒険シリーズの二作目です。シリーズといっても、それぞれの巻で物語は完結するので、一作目の『ローワンと魔法の地図』を読んでから本書を読んでもおもしろいし、この二作目から読み始めてもおもしろい、と思います。わたしは、オーストラリアのバイロン・ベイという町で初めて出会った三作目から読み始めて、このシリーズにすっかりはまってしまいました。

オーストラリアで今いちばん人気のある女性作家エミリー・ロッダは、一九四八年にシドニーに生まれ、子どものころから本を読んだり物語を書いたりするのが大好きでした。結婚して子どもができてからは、その子たちに物語をつくってきかせていましたが、そのうちそうした物語を気に入ってくれる人が家族以外にもふえていきました。最初は出版社で編集の仕事をしながら、自分の趣味として少しずつ作品を書いていましたが、どんどん人気が高くなり、一九九四年からは作家業に専念しています。

今でも「趣味は何ですか?」ときかれて「本を読んだり書いたりすること」と答えるくらいですから作家専業になったのが遅いわりには作品数も多く、これまでに子どもの本を四八点、大人向けのミステリーを八点出版し、オーストラリア最高の子どもの本にあたえられる児童文学賞を五回も受賞しています。

つぶぞろいの作品を次々にうみだす秘密は、エミリー・ロッダがいつも持ち歩いているノートにあるようです。このノートに、何かのときにふっと頭にうかんだアイディアやプロットや、おもしろい人物などのことを、なんでも書き留めておくのだそうです。そして執筆中にゆきづまったときは、このノートを開くと、書き進めていくヒントが見つかるのだといいます。

数多くの作品の中で、子どもにいちばん人気が高いのが、このローワンのシリーズです。現在四作目までがオーストラリアで出ていますが、今年中には五作目が出ると聞いています。日本語版は三作目以降もあすなろ書房で出ることになっていますので、どうぞ楽しみにしていてくださいね。

なお、最近エミリー・ロッダのホームページができました。興味がおありの方は、http://emilyrodda.com/ をご覧ください。作者の写真も載っていますよ。

二〇〇一年六月二〇日

さくまゆみこ


ディック・キング=スミス『奇跡の子』さくまゆみこ訳

奇跡の子

イギリスのフィクション。著者のキング=スミスが、自分でいちばん気に入っているという作品です。イングランドの田舎の牧場にある日捨てられていた男の子は、障碍を背負っていたものの、馬や鳥やキツネやカワウソたちと心を通わせることができました。この少年が、まわりの人々や動物と交流をしながら生きた軌跡をたどります。宮澤賢治の『虔十公園林』を思わせるような、愉快な作品が多いキング=スミスとしては異色のしみじみとした作品です。
(絵:華鼓さん 装丁:野崎麻理さん 編集:中田雄一さん)


ジャクリーン・ウッドソン『ミラクルズボーイズ』さくまゆみこ訳

ミラクルズ ボーイズ

アメリカのフィクション。ニューヨークのハーレムで、三人の兄弟が生き抜いていく物語です。兄弟の父はアフリカ系アメリカ人で、池で溺れそうになった白人女性を助けて低体温症になり、命を落としてしまいます。兄弟の母はプエルトリコ人で、病気で亡くなります。残された息子たちは、それぞれがトラウマを抱えながら、なんとか三人で生きていこうとします。
(絵:沢田としきさん 装丁:高橋雅之さん 編集:小宮山民人さん、奥田知子さん)

*コレッタ・スコット・キング賞受賞


エミリー・ロッダ『ローワンとゼバックの黒い影』さくまゆみこ訳

ローワンとゼバックの黒い影

オーストラリアのファンタジー。ローワン・シリーズの第4作目。妹のアナドが怪物に誘拐されたため、ローワンはゼバックの地に乗り込んでいきます。そこで出会ったのが、絹に絵を描いてきた家族。そして、300年ものあいだ隠されていたリンの歴史の秘密が明らかになります。異世界ファンタジーですが、著者のロッダさんは、やっぱりこの異世界の成り立ちまでしっかり考えてシリーズを作られていたのですね。
(絵:佐竹美保さん 装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん、佐近忠弘さん)

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

オーストラリアで生まれて、日本でも大人気の〈リンの谷のローワン〉シリーズの四巻目をおおくりします。

このシリーズは、それぞれの巻が独立した物語になっているので、どの巻から読んでいただいてもいいのですが、本書から読みはじめる方のために、かんたんな説明をしておきます。

一巻目の『ローワンと魔法の地図』では、リンの村でバクシャーという家畜の世話係をしているローワンが、ほかの村人六人といっしょに、〈禁じられた山〉に登る羽目になります。ローワン以外はみんな勇敢でたくましい大人たちです。ところが、〈禁じられた山〉は一行七人を次々に試練にかけてゆき、一人また一人と脱落してしまいます。最後には、村に水が流れてこなくなった原因が突き止められ、リンはまた豊かな水に恵まれた村としてよみがえります。「勇気」をテーマにしたこの作品には、リンの村の成り立ちや、ローワンの家庭環境についても、くわしく書かれています。

二巻目の『ローワンと黄金の谷の謎』には、リンの村人と、〈旅の人〉たちの反目が描かれています。奇妙な眠り病に襲われたリンの村人たちは、〈旅の人〉が呪文をかけたのではないかと疑うのです。ところが、病の原因は思いがけないところにあり、それを発見したローワンは、村人を助けるために空を飛んで大活躍します。エコロジーの観点も取り入れた作品です。

三巻目の『ローワンと伝説の水晶』の舞台は、海ぞいのマリスの地です。マリスの民のリーダー〈水晶の司〉は、三氏族の代表の中から選ばれるのですが、選ぶ役目はリンの〈選びの司〉。リーダー選びの際には各氏族の思惑が入り乱れ、マリスの地は混乱に陥ります。その混乱に乗じて、海の向こうからゼバックが攻めてきます。〈水晶の司〉にふさわしいのは誰なのか? 果たしてゼバックは撃退できるのか? 最後にはあっと驚くどんでん返しが待っています。

作者のエミリー・ロッダは、すでに六〇点以上の児童書を書いている人気作家です。『デルトラ・クエスト』(邦訳は岩崎書店)などゲーム的なおもしろさを前面に押し出した作品もありますが、文学としての味わいの深い作品もあり、オーストラリア児童図書賞を何度も受賞しています。このローワンのシリーズは、ロッダの作品の中では子どもの人気がいちばん高く、またご自分でもいちばん楽しく執筆できたシリーズとのことで、一巻目が児童図書賞の最優秀賞を、三巻目が優秀賞を獲得し、四巻目以降も候補作に挙がりました。図書館でも高い評価を受けています。

この秋には五巻目が出版されると聞いているので、今度はどんな展開になるか、私も楽しみにしています。

二〇〇二年五月

さくまゆみこ


エミリー・ロッダ『ローワンと伝説の水晶』さくまゆみこ訳

ローワンと伝説の水晶

オーストラリアのファンタジー。『ローワンと魔法の地図』『ローワンと黄金の谷の謎』に続く<リンの谷のローワン>シリーズの第3作目です。不思議な呼び出しを受けたジラーとローワンは、海辺にあるマリスの町まで出かけていきます。ところが、マリスでは〈水晶の司〉の地位をめぐって3種族が争っており、ローワンは思わぬ冒険にひきずりこまれてしまいます。最後のどんでん返しには、うなってしまいました。
(絵:佐竹美保さん 装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん、佐近忠弘さん)

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

ローワンシリーズも本書で三作目となり、弱虫だったローワンも少しずつたくましくなってきました。それぞれ独立した物語になっているので、どの巻から読んでいただいてもいいのですが、本書から読み始める方のために少し説明をしておきましょう。もっとも、いちばんおもしろい部分は実際に作品を読んで楽しんでいただいたほうがいいので、ここでは簡単な紹介にとどめます。

一作目の『ローワンと魔法の地図』では、リンの村でバクシャーという家畜の世話係をしているローワンが、ほかの村人六人と一緒に、魔の山に登る羽目になります。ローワン以外はみんな勇敢でたくましい大人たちです。ところが魔の山は一行七人を次々に試練にかけてゆき、一人また一人と脱落してしまいます。最後には、村に水が流れてこなくなった原因がつきとめられ、リンはまた豊かな水に恵まれた村としてよみがえります。この巻には、リンの村の成り立ちや、ローワンの家庭環境についても、くわしく書かれています。

二作目の『ローワンと黄金の谷の謎』には、リンの村人と〈旅の人〉たちの反目が描かれています。奇妙な眠り病に襲われたリンの村人たちは、〈旅の人〉が呪文をかけたのではないかと疑うのです。ところが病の原因は思いがけないところにあり、それを発見したローワンは、村人を助けるために空を飛んで大活躍します。

『ローワンと魔法の地図』も『ローワンと黄金の谷の謎』も、おかげさまで大変評判がよく、弱虫で怖がりやのローワンも、多くの人に気に入ってもらえているようです。謎解き、冒険、ファンタジーと、おもしろい要素をそろえたこのシリーズは、一作目がオーストラリアで最も優れた児童文学にあたえられる児童図書賞の最優秀賞を、三作目の本書が優秀賞を受けています。

オーストラリアでは現在四作目まで出版されていますが、二〇〇二年の秋には、五作目も出版されるというので、今度はどんな物語になるのか、私も今から楽しみにしているところです。

本書を訳すにあたって、原著の設定が少しわかりにくかった箇所は、日本語版ではわかりやすく改めました。それも、手紙で著者のエミリー・ロッダさんに質問をし、話し合った結果であることをお断りしておきます。

最近本屋さんには新しい冒険ファンタジー作品がたくさん並んでいるので、私もいろいろ読んでみました。ひいき目かもしれませんが、やっぱりローワンのシリーズがいちばんおもしろい、と私はひそかに思っています。とくに、スピーディーな展開でありながら、それぞれの人物がうかびあがるように描かれているところが、私は好きです。それに私は、文章の端々に垣間見える作者の世界観も、なかなか気に入っているのです。

二〇〇二年一月

さくまゆみこ


コーラ・テイラー『ジュリー:不思議な力をもつ少女』さくまゆみこ訳

ジュリー〜不思議な力をもつ少女

カナダのフィクション。ジュリーには、ほかの人には見えないものが見えています。幼いころは作り話がじょうずだと言われましたが、物心ついてからは普通と違うことが不安で、どうしていいかわからなくなることもあります。でも、まわりに人には、この気持ちはなかなかわかってもらえません。ある日、ジュリーは空を船団がゆっくり進んでくるのを見ました。これはいったい何を意味しているのでしょう? ジュリーは心配でたまらなくなります。
(絵:佐竹美保さん 装丁:岡孝治さん 編集:喜入今日子さん)

*カナダ図書館協会最優秀児童図書賞受賞
*カナダ総督文学賞受賞


エミリー・ロッダ『ローワンと白い魔物』さくまゆみこ訳

ローワンと白い魔物

オーストラリアのファンタジー。ローワン・シリーズの5作目です。リンの谷はいつまでも白い雪にとざされ、おまけに山の上からは白い魔物が這い出てきます。食料がなくなり、村人たちは山をおりて避難する羽目になってしまいました。なんとかして冬を終わらせて春をもたらそうと、またローワンが活躍します。今度はノリス、シャーラン、ジールと一緒の冒険です。
(絵:佐竹美保さん 装丁:丸尾靖子さん 編集:山浦真一さん+佐近忠弘さん)

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

お待たせいたしました。ローワン・シリーズの五巻目の日本語版をお届けします。

このシリーズは、熱心に読んでくださる方が多く、「次の巻を早く翻訳して」というお便りもたくさんいただきました。ありがたいことです。この巻にも、そうしたロッダ・ファンの期待を裏切らないおもしろさがいっぱいつまっています。

今回は、まだオーストラリアで原書が出る前の校正刷りを入手して訳し始めました。第一段階の翻訳原稿がちょうど出来上がったころ、オーストラリアで出版された本を見てびっくり。表紙のイメージが前の四巻とはがらっと変わっていたのです。でも、日本語版は相変わらず佐竹美保さんのすばらしい絵がついているので、シリーズのイメージはそのままで楽しんでいただけると思います。先日韓国でもこのシリーズの一巻目『ローワンと魔法の地図』が出版されましたが、この韓国版にも、佐竹さんの表紙絵や挿絵がそっくり使われています。

それにしても、エミリー・ロッダという作家は、本当にじょうずなストーリー・テラーだと思います。どの巻も、読者をぐんぐん引っぱっていき、最後にはまたどんでん返しを用意しているという構成には、わたしも感心させられっぱなしです。

エミリー・ロッダのホームページに、作品を書くためのヒントがのっていました。創作に対する作者の考え方の一端がわかるように思うので、ちょっと紹介しておきましょう。

・書きつづけましょう。
・自分が知っているタイプの人や場所について書いてみるのがいいでしょう。
・自分が物語の世界の中で実際に生きているつもりになりましょう。そして、どう感じるのか、何が見えるのか、何が聞こえるのかを描写しましょう。そうすれば読む人も、物語の世界の中に入りこむことができます。
・読書も役に立ちますが、自分自身のスタイルをみがけばみがくほど、書いたものはよくなります。
・書くことを楽しみましょう!

ご自分もきっと楽しんで書いていらっしゃるのでしょう。わたしも楽しんで翻訳をしました。

さて、ローワン・シリーズはこのあとまだ続くのでしょうか? もっと続けて読みたいとわたしも思いますが、今のところはまだ未定のようです。とりあえず次は犬たちを主人公にしたエミリー・ロッダ作品をご紹介したいと思っています。これも、愉快な作品なので、楽しみにしていてくださいね。

二〇〇三年七月一〇日

さくまゆみこ


エミリー・ロッダ『ふしぎの国のレイチェル』さくまゆみこ訳

ふしぎの国のレイチェル

オーストラリアのファンタジー。「リンの谷のローワン」シリーズでおなじみのロッダさんが書いた、おかしなおかしな物語。風邪をひいて退屈していたレイチェルは、いつのまにかユニコーンに乗って、空にブタが浮かぶふしぎな次元に入り込んでしまいます。おまけに出会ったおばあさんも、おじいさんも、どこかおかしい! ロッダさんのユーモアのセンスが全開になり、謎解きもあって、たのしく読める一冊です。
(絵:杉田比呂美さん 装丁:高橋雅之さん 編集:山浦真一さん、佐近忠弘さん)

*オーストラリア児童図書賞・最優秀賞
*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』さくまゆみこ訳

ヒットラーのむすめ

オーストラリアのフィクション。ある雨の日スクールバスを待っているときに、アンナは「ヒットラーには娘がいて……」というお話を始めます。マークは、アンナの作り話だと思いながらも、だんだんその話に引き込まれ、「もし自分のお父さんがヒットラーみたいに悪い人だったら……」「みんなが正しいと思っていることなのに、自分は間違っていると思ったら……」などと、いろいろと考え始めます。物語としてとてもうまくできています。現代の子どもが、戦争について考えるきっかけになるのではないかと思います。
(装丁:鈴木みのりさん 編集:今西大さん)

オーストラリア児童図書賞・最優秀賞
産経児童出版文化賞JR賞(準大賞)

◇◇◇

〈訳者あとがき〉

ヒットラーを知っていますか? 名前は聞いたことあるけど、よく知らないという人も多いかもしれません、。アドルフ・ヒットラーは一八八九年オーストリアに生まれ、最初は芸術家になろうとしますが失敗してドイツに移住し、第一次世界大戦にドイツ兵として参戦します。一九一九年にはドイツの労働党(のちのナチス)に入党して、たくみな演説で人々の心をとらえて党の独裁者となり、三四年には首相と大統領を兼ねて自らを総統と称するようになります。それ以降は、気に入らない「敵」を抹殺し、近くの国をどんどん侵略して、第二次世界大戦を引き起こします。そして大戦中に六〇〇万人のユダヤ人、五〇万人のロマ人、ほかに体の不自由な人たちなどあわせて約一一〇〇万人を、強制労働や毒ガスなどで大量に虐殺したのです。このとき日本は、イタリアとともにヒットラーのドイツと手を結び、オーストラリアをふくむ世界を敵に回して戦って負けたのでした。

第二次世界大戦とか、ナチスとかヒットラーというと、自分とはあまり関係のない昔の話に思えます。『アンネの日記』や、わたしが訳した『もう一つの「アンネの日記」』など、ナチスが支配した社会の中でのユダヤ人の苦しみを書いた本は、日本でも数多く出版されてよく読まれていますが、きっと昔の歴史をふりかえるような気もちで読む人が多いと思います。そして今はもうそんなひどい時代は終わってみんながより幸せな暮らしをすることができるようになったのだと、わたしたちはつい思ってしまいがちです。

でも、ほんとうにそうなのでしょうか? 身の回りには苦しんでいる人たちが見えなくても、世界を見まわしてみると、あのときのユダヤ人と同じように理不尽な弾圧や攻撃を受けて苦しんでいる人たちは、まだたくさんいるのではないでしょうか? マークの夢の中には、ジーンズをはいて現代風のヘアスタイルをしたヒットラーが出てきますが、今の時代だってヒットラーのような人がまたあらわれるかもしれません。あるいは、もうあらわれているのかもしれません。

この『ヒットラーのむすめ』は、ほんとうにいたかどうかわからない謎の少女ハイジと、ハイジの物語にひきこまれていく現代の少年マークをうまくつなげることによって、第二次世界大戦の時代と、わたしたちが生きている今の時代をうまく結びつけています。マークは「どうやったら善悪の違いがわかるのだろう?」とか、「自分のお父さんが極悪人だったらどうしたらいいだろう?」などと、さまざまな疑問をもちますが、それはマークだけでなく、多くの子どもたちがいだく疑問ではないでしょうか?

作者のジャッキー・フレンチは、子どもの本ばかりでなく園芸や料理の本も書いているオーストラリアの女性作家です。『ヒットラーのむすめ』はオーストラリア児童図書賞を受賞したばかりでなく、イギリスやアメリカでも賞を受けたり推薦図書にえらばれたりして、高い評価を受けています。

さくまゆみこ


マーグリート・ポーランド『カマキリと月:南アフリカの八つのお話』さくまゆみこ訳

カマキリと月〜南アフリカの八つのお話

南アフリカのフィクション。南アフリカに古くから住んでいる人々の世界観や宇宙観をよりどころにして書かれた、八つの動物ものがたり。主人公の動物たちが、自然の中でいとなむ暮らしや冒険の物語には、私たちを深いところから元気にしてくれる優しい力があふれています。以前単行本で出ていた作品の、文庫での再刊です。
(絵:リー・ヴォイトさん 装丁:辻村益朗+大野隆介さん 編集:松本徹さん)

*パーシー・フィッツパトリック青少年文学賞(南アフリカ)受賞
*産経児童出版文化賞受賞


ミシェル・ペイヴァー『オオカミ族の少年』さくまゆみこ訳

オオカミ族の少年

イギリスのファンタジー。舞台は今から6000年も前の北の国。主人公の少年トラクは悪霊にとりつかれたクマに父親を殺され、孤児になってしまいます。しかも、そのクマを退治するために精霊の山に行くという使命を負わされます。旅の仲間は、オオカミの子ウルフと、ワタリガラス族の少女レン。ハラハラ、ドキドキの連続です。 あの「ハリー・ポッター」より契約金が高かったという噂の本! 6巻続くシリーズの1作目。
(絵:酒井駒子さん 編集:竹下純子さん、岡本稚歩美さん 装丁:桂川潤さん)

◆◆◆

<著者からのコメント>

私は文字が読めるようになる以前から、先史時代に惹きつけられていました。10歳になる頃には、弓矢を手にし、一匹のオオカミを友に森で一人で生きていくことを夢見るようになりました。ロンドンに住んでいたので、両親が私に飼わせてくれたのは、オオカミではなく、スパニエル犬でしたが、私は先史時代の人々がしていたことを、できる限り真似してみました。
・・・・・・大人になって、子ども時代の夢は忘れなければと思いました。大学在学中に、少年と子オオカミの話を書いたことがありましたが、あまり良い出来ではなく、放ってありました。
その15年後、南カリフォルニアの山間部を単独で徒歩旅行していたとき、突然、子グマをつれた大きな黒クマに遭遇しました。子グマを連れていることでとても気が立っており、私に出ていけと警告しました。幸いにも私は母グマをなだめることができました。(歌を歌うことで!)その間じゅう、私はおびえきっていましたが、あとになって興奮してきました。自分が時代をさかのぼったような不思議な感覚を体験したからです。
それから何年かして、昔書いたオオカミと少年の話を書きなおすことを考え始めました。クマに出会ったときの感覚を思いおこしたとたん、先史時代への熱い思いがあふれるようによみがえってきたのです。こうして生まれたのが『オオカミ族の少年』です。


バーナード・アシュリー『リトル・ソルジャー』さくまゆみこ訳

リトル・ソルジャー

イギリスのフィクション。家族を皆殺しにされて少年兵になったカニンダは、ある日慈善団体に保護されて、いやいやながらアフリカからロンドンへやってきます。でも、カニンダが考えているのは故郷に帰って敵の氏族を殺すことだけです。一方ロンドンでも同じくらいの年齢の子どもたちが「戦争」と称するギャング同士の喧嘩をしていて、カニンダはそれに巻き込まれたり、同じ学校にやってきた敵の氏族の子どもを殺そうとしたりします。アフリカの少年兵を扱ったリアリスティックな物語。
(表紙絵:影山徹さん 装丁:鳥井和昌さん 編集:浦野由美子さん)


アラン・ストラットン『沈黙のはてに』さくまゆみこ訳

沈黙のはてに

カナダのYA小説。HIV/エイズがテーマです。舞台は南部アフリカ、主人公は16歳のチャンダ。母親と義父、妹二人、弟と暮らしています。義父がエイズになり、母親は自分もエイズにかかっていることを知り、子どもたちに迷惑をかけまいと一人で田舎に戻ります。「エイズ」という語はタブーで、口にすれば地域で仲間外れになるからです。同じようにエイズで両親を亡くした親友エスターと支え合いながら、チャンダが沈黙のタブーを破り、運命を切りひらいていこうとする物語。
『ヘブンショップ』(デボラ・エリス著 さくま訳)も、カナダの作品でした。日本の作家だと、わざわざ外国に出かけて取材したうえで作品を書いたりはしないと思いますが、カナダは、多文化理解という点では児童文学も一歩先を行っているように思います。
(イラストレーション:沢田としき 装丁:タカハシデザイン室 編集:山浦真一さん)

*プリンツ賞銀賞受賞


ジョゼフ・レマソライ・レクトン『ぼくはマサイ:ライオンの大地で育つ』さくまゆみこ訳

ぼくはマサイ〜ライオンの大地で育つ

原マサイの著者が書いたノンフィクション。ケニア北部の遊牧民の子として生まれ、キリスト教の学校に入り、伝統文化と西欧文化の間で悩みながら成長した著者の半生記。ライオン狩りの恐怖、初めて学校に入ったときのとまどい、伝統的な遊牧民の暮らし、サッカーで大統領の応援を受けたこと、アメリカに渡るときの不安などが、素朴で真摯な語り口で語られていきます。渇きで死にそうになったとき牛の鼻をなめて生き延びたという話など、びっくりするようなエピソードも。
著者のレクトンさんは、その後1年の半分はアメリカで教え、もう半分はケニアの遊牧民の福祉のために活動していましたが、今はケニアの政治家になっておいでのようです。
(編集:服部義治さん)


ミシェル・ペイヴァー『生霊わたり』さくまゆみこ訳

生霊わたり

イギリスのファンタジー。トラクが暮らす森を得体の知れない病が襲い、トラクはその治療法を捜しに旅立ちます。しかし海辺に出たトラクはアザラシ族の少年たちに捕らえられ、島に連行されてしまいます。魂食らいの意外な正体が暴かれていくこの巻は、海が舞台。レンとウルフも再び活躍します。1巻よりさらにおもしろさを増しています。
(絵:酒井駒子さん 編集:岡本稚歩美さん 装丁:桂川潤さん)


デボラ・エリス『ヘブンショップ』さくまゆみこ訳

ヘブンショップ

カナダのフィクション。アフガンの子どもたちを描いてきたエリスが、今回はアフリカに出かけて子どもたちを取材し、エイズやエイズ孤児の問題に焦点を当てました。主人公は13歳のマラウイの少女ビンティ。親をエイズで亡くし、親戚に引き取られますが、そこでこき使われたうえに盗みの疑いをかけられて逃げだし、田舎のおばあさんを訪ねていきます。そのうちおばあさんも亡くなり、子どもたちだけで生きていく方法を考えます。あすなろ書房から出した『沈黙のはてに』と同じテーマですが、こちらは小学生高学年から。
(絵:斎藤木綿子さん 編集:今西大さん 装丁:こやまたかこさん)

*ジェーン・アダムズ児童図書賞銀賞


ローレン・セントジョン『白いキリンを追って』さくまゆみこ訳

白いキリンを追って

南アフリカを舞台にしたフィクション。火事で両親をなくして、祖母と暮らすため南アフリカの鳥獣保護区にやってきた11歳のマーティーンは、白いキリンにまつわる不思議な伝説を耳にします。白いキリンは本当にいるのでしょうか? 密猟者との戦いや、マーティーンの出生の秘密もからむ、ドキドキハラハラの冒険物語です。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:山浦真一さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


ミシェル・ペイヴァー『魂食らい』さくまゆみこ訳

魂食らい

イギリスのファンタジー。季節は冬。雪と氷の世界が広がります。この巻では、ウルフが魂食らいにさらわれてしまいます。自分の危険もかえりみず、とにかくウルフを捜して救い出そうとするトラクと、それを向こう見ずだと思いながらも助けてしまうレン。またまた手に汗握るストーリー展開です。6000年前という時代や人物の心理がきちんと書けているので、子どもばかりでなく大人も物語世界に入り込めます。酒井さん描く裏表紙のシロクマは必見!
(絵:酒井駒子さん 編集:岡本稚歩美さん 装丁:桂川潤さん)


コーラ・テイラー『ジュリーの秘密』さくまゆみこ訳

ジュリーの秘密

カナダのフィクション。『ジュリー〜不思議な力をもつ少女』の続篇で、。凡人は、未来を予見したり、ちょっと不思議な雰囲気の作品です。主人公のジュリーは、だれにも見えないものが見えるという不思議な超能力をもっています。人の心を読めたりすると便利だろうなと思ってしまいますが、そんな超能力を実際に持ってしまうと、不安に駆られるのですね。本書のジュリーは、吹雪に閉じこめられたり、悪漢につかまった兄を助け出すために、超能力を使います。
(絵:佐竹美保さん 装丁:岡孝治さん 編集:喜入今日子さん)


ルーシー&スティーヴン・ホーキング『宇宙への秘密の鍵』さくまゆみこ訳

宇宙への秘密の鍵

科学的な知識とおもしろい物語を融合させた、めずらしい作品だと私は思っています。エコ活動家を親に持つジョージは、ふとしたことから隣に住む科学者のエリック(ホーキング博士がモデルですね)、その娘アニーと友だちになります。そしてエリックが持つスーパーコンピュータ「コスモス」が用意した不思議なドアから宇宙に飛び出し、彗星に乗って太陽系をめぐる旅に。ブラックホールをめぐるホーキング博士の研究の成果も説明されているし、星雲や天体の最新の美しい写真も載っています。物語を書いているのは、ホーキング博士の娘さんです。
(装画・挿画:牧野千穂さん 装丁:坂川栄治さん+田中久子さん 編集:津久井恵さん+松岡由紀さん+板谷ひさ子さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定
*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定

◆◆◆

<紹介記事>

・「おもしろ読書事典小学生版」(岡山県教育委員会)2014年3月号


ジャクリーン・ウッドソン『あなたはそっとやってくる』さくまゆみこ訳

あなたはそっとやってくる

アメリカのYA小説。ユダヤ系の少女エリーと、アフリカ系の少年ジェレマイアの、ラブストーリー。二人とも心の中にぽっかりとあいた穴を抱えています。それに、仲良く手をつないでいれば、街の黒人たちからも、白人たちからも、いぶかしげな目で見られます。からかう者たちもいます。つきささる視線や言葉をどうかわしていったらいいのでしょう。困難だらけの恋は切なくて苦しくて、それだからこそ二人の結びつきはしだいに強くなっていくのですが・・・。
(装画:植田真さん 装丁:タカハシデザイン室 編集:山浦真一さん)

*読書感想画中央コンクール指定図書(中学校・高等学校)


ミシェル・ペイヴァー『追放されしもの』さくまゆみこ訳

追放されしもの

イギリスのファンタジー。トラクは〈魂食らい〉に付けられたしるしのせいで、氏族たちから誤解されて追放の身に。寄り添ってくれるのは最初はオオカミのウルフだけ。やがてレンとベイルも駆けつけてきます。トラクは14歳、レンは13歳。そろそろ性別も意識するようになり、恋も芽生えそうです。これまでの謎のいくつかが明らかとなり、物語はますますおもしろくなってきています。
(絵:酒井駒子さん 編集:岡本稚歩美さん 装丁:桂川潤さん)


コーラ・テイラー『ジュリー』さくまゆみこ訳 小学館ファンタジー文庫

ジュリー 〜 不思議な力をもつ少女

カナダのフィクション。2003年に出版されたハードカバーの文庫版です。超能力をもった女の子ジュリーが主人公。カナダ図書館協会最優秀児童図書賞とカナダ総督文学賞をとった物語が手軽に読めるようになりました。


エミリー・ロッダ『テレビのむこうの謎の国』さくまゆみこ訳

テレビのむこうの謎の国

オーストラリアのファンタジー。私はよくなくし物をするのですが、この本を読むと、そのなくし物がどこへ行ってしまったのかが、よくわかります。バリアの向こうの謎の国にまぎれこんでしまったのです。どこにでもいそうなパトリックという少年のキャラづくりもいいし、ストーリーテラーとしてのロッダさんのうまさも全開!
続編に『謎の国からのSOS』があります。
(絵:杉田比呂美さん 編集:山浦真一さん 装丁:タカハシデザイン室)

*オーストラリア児童図書賞・最優秀賞受賞


ミシェル・ペイヴァー『復讐の誓い』さくまゆみこ訳 

復讐の誓い

イギリスのファンタジー。舞台は6000年前の北部ヨーロッパ。は、復讐がテーマです。大切な友人の命を奪ったのが〈魂食らい〉だという事実をつきとめたトラクは、復讐を誓って旅立ちます。そして復讐と、友情(愛)との間で揺れ動き・・・トラクも、レンも、ウルフも成長し(当然のことながら、オオカミのウルフの成長がいちばん早いのですが)、新たな事実が次々に明かされていきます。
(絵:酒井駒子さん 編集:岡本稚歩美さん 装丁:桂川 潤さん)


ルーシー&スティーヴン・ホーキング『宇宙に秘められた謎』さくまゆみこ訳

宇宙に秘められた謎

人気の宇宙冒険物語の2巻目です。物語もよくできていて、読んでいるうちに宇宙への関心がおのずと高まってきます。物語のほうは、主人公のジョージが、アメリカに引っ越したアニーを訪ねていき、NASAを見学したりしているのですが、スーパーコンピュータの「コスモス」に届いた謎のメッセージに呼び出されて、ふたたび宇宙へと出ていく、という流れ。
物語の間に、世界の宇宙物理学や天文学など第一線の科学者たちが、「エイリアン(異星人)とのつき合い方」「宇宙にはだれかいますか?」「ゴルディロックス・ゾーンってなに?」など最先端の知識を子どもにわかりやすく伝えるコラムを書いています。
今回のテーマは、宇宙人はいるのか、地球以外に人間の住める場所はあるのか、といったところでしょうか。博士が子どもたちに向けて書いたコラムも掲載されています。
私もこの本の翻訳に取り組む課程で、宇宙のことがいろいろわかってきました。
(装画・挿画:牧野千穂さん 装丁:坂川栄治さん+田中久子さん 編集:津久井恵さん+松岡由紀さん+板谷ひさ子さん)


エミリー・ロッダ『クツカタッポと三つのねがいごと』さくまゆみこ訳

クツカタッポと三つのねがいごと

オーストラリアの絵物語。ハツカネズミを主人公にしたシリーズの2巻目で、チュウチュウ通り2番地に住む古道具屋のクツカタッポが主人公です。クツカタッポというのは、仕事に夢中になるとぼうっとなってしまい、靴の片方をいつもなくしているからです。さて、クツカタッポは旅先で不思議な青いビンを見つけます。このビンを持ち帰って洗ってきれいにしていると、ビンの中からはなんと太ったネズミがあらわれて、願いをかなえてくれるというのです。ストーリーは、昔話の「三つの願い」を下敷きにしていますが、クツカタッポが願ったのは、お金でも物でもありませんでした。ユーモアたっぷりのお話です。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『ゴインキョとチーズどろぼう』さくまゆみこ訳

ゴインキョとチーズどろぼう

オーストラリアの絵物語。といっても絵のほうは日本人のたしろさんに描いていただいています。原書の絵がイマイチだったからです。ロッダさんが来日なさったとき、このシリーズのことを聞いて、出るのを楽しみにしていました。
チュウチュウ通りは、ハツカネズミたちの住むネコイラン町にあります。そこには1番地から10番地まで、10軒の家が建っていて、気のいい仲間が住んでいます。シリーズは、このチュウチュウ通りの住民たちを1匹ずつフィーチャーしていきます。
この1作目は1番地に住む老ネズミの「ゴインキョ」が主人公。ゴインキョは黄金にかがやくチーズをいっぱい持っています。でも、そのチーズをねらう泥棒がやってくるのです。
ストーリーテラーとしてのロッダさんの技量ががすばらしいと思います。ストーリーがおもしろいだけじゃなくて、ちょっと考えさせられるし。どの見開きにもかわいい絵がついているので、小学校低学年の子どもたちから読んでもらえます。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)

*厚労省児童福祉文化財選定


エミリー・ロッダ『クイックと魔法のスティック』さくまゆみこ訳

クイックと魔法のスティック

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通りの6番地で暮らすのはクイック。「チーチーチックス」というガールズ・バンドのドラマーです。森の中で穴に落ちたおばあさんを助けたところ、おばあさんはドラムスティックに魔法をかけてくれます。すると、前よりずっとうまくドラムがたたけるようになったクイックは一躍スターに! でも、金もうけしか考えないやつが、ネズミの世界にもいるんですよね。ある日、レックス・サギシーというネズミがあわわれて・・・。最後のお話のまとめ方に、ロッダさんの価値観がきっちりあらわれています。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『レトロと謎のボロ車』さくまゆみこ訳

レトロと謎のボロ車

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通り7番地のレトロは、車の修理屋さん。夢の車サンダーバードを手に入れようとチーズをためています。ある日、そのレトロに助けを求める手紙が届きます。行ってみたレトロは、ボロ車をおしつけられたあげくに、盗難にあうというさんざんな目に。この巻も、チュウチュウ通りのあったかい仲間たちがすてきです。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『フィーフィーのすてきな夏休み』さくまゆみこ訳

フィーフィーのすてきな夏休み

オーストラリアの絵物語。大好評の「チュウチュウ通りのゆかいななかまたち」シリーズの第3作。今度は子だくさんのお母さんネズミが主人公。なにしろ子どもが14匹もいて、フィーフィーは毎日大忙し。え、お父さんはって? お父さんは船乗りでたいてい海に出ているのです。そんなお母さんのために、子どもたちは夏休みをプレゼントしようと考えるのですが・・・たしろさんの絵もかわいいし、ロッダさんはほんとにお話を作るのがじょうずですね。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


シャーマン・アレクシー『はみだしインディアンのホントにホントの物語』さくまゆみこ訳

はみだしインディアンのホントにホントの物語

アメリカのYA小説。アメリカでたくさんの賞を受賞した北米先住民作家の自伝的小説です。著者は、78%が実体験だと語っています。主人公は、保留地で生まれ育った14歳のアーノルド。体も弱くいじめも受けています。でも、ある日、教科書をぶつけて鼻の骨を折ってしまった白人の先生から聞いた一言で、決意するのです。このままでは希望がない、保留地を出て白人のエリート校へ行こう、と。それは、ただ学校を変えることではなく、さまざまなことを意味していました。
私は翻訳する作品を探すために原書でいろいろ読みますが、この10年ではいちばんおもしろかった作品です。北米先住民の若者の今を知る好著というだけでなく、人間としての誇りとか、希望とか、生きるとは何かとか、そんなことも考えさせてくれます。すてきなおばあちゃんも登場します。
(装丁:城所潤さん 編集:喜入今日子さん)

*全米図書賞受賞
*ボストングローブ・ホーンブック賞受賞
*やまねこ賞読み物部門受賞

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<紹介記事>

・BOOKMARK 01号


ミシェル・ペイヴァー『決戦のとき』さくまゆみこ訳

決戦のとき

イギリスのフィクション。とうとうこのシリーズも最終刊になりました。最後まで残っていた最強の「魂食らい」イオストラとの対決はどうなるのか? トラクとレンの恋は? ウルフの子どもたちは? 相変わらず読者をはらはらどきどきさせながら、いろいろなことを考えさせてくれます。読ませる力がある本ですね、やっぱり。この終わり方、私は好きです。
(絵:酒井駒子さん 装丁:桂川 潤さん 編集:岡本稚歩美さん)

*ガーディアン賞受賞


ゆかいな農場

フランスの農場に暮らすデルフィーヌとマリネット姉妹と動物たちがくりひろげる物語が七編。めんどりがゾウに変身したり、キツネにそそのかされてニワトリたちが家出したり、ブタがやせるダイエットに夢中になったり、イノシシが学校に出かけていったり……。最初はセンダックの絵を使って英語から訳すはずが、事情あってフランス語から全部訳し直しました。厚労省児童福祉文化財選定。(絵:さとうあやさん 装丁:森枝雄司さん 編集:松本徹さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定


エミリー・ロッダ『レインボーとふしぎな絵』さくまゆみこ訳

レインボーとふしぎな絵

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通り4番地に住むレインボーは、売れっ子ではないけれど、絵を描くのが大好きな画家です。ある日、レインボーのところに老ネズミホームの経営者から手紙が届きます。その手紙には、ホームに飾るための、大きくて楽しい絵を持ってきてほしいと書いてありました。でも、行ってみると、有名な画家たちも自分の絵を持ってきていました。エミリー・ロッダの楽しいお話です。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『チャイブとしあわせのおかし』さくまゆみこ訳

チャイブとしあわせのおかし

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通りの5番地には、ケーキ屋さんのチャイブが住んでいて、ネコイラン町いちばんのおいしいケーキをつくっています。ところが、ある日出世した昔の友だちに出会ったことから、チャイブは、自分も生き方を変えてもっとおもしろいネズミにならなくては、と思いつめてしまいます。そして、慣れない仕事に挑戦してみるのですが、どれもうまくいきません。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


マイケル・モーパーゴ『モーツァルトはおことわり』さくまゆみこ訳

モーツァルトはおことわり

イギリスの物語。語り手は新米ジャーナリストのレスリー。世界一有名な天才バイオリニストのパオロ・レヴィにインタビューをすることになり、緊張のあまり上司から話題にするなと言われていたことをたずねてしまいます。レヴィはなぜモーツァルトを演奏しないのか? それには深いわけがあったのです。読んで行くにつれ、ナチスの強制収容所にとらわれていた音楽家たちの悲劇とその後の物語が、浮かび上がってきます。
フォアマンの絵は、青を基調にしたヴェニスの風景と、収容所を描く暗い色調とが対照的です。
マイケル・モーパーゴは、あとがきでこんなふうに語っています。

(前略)オーケストラの前をならんで歩かされた者たちの多くはガス室へと送られました。そこでしょっちゅう演奏されたのが、モーツァルトでした。
そんなつらくて苦しい状況で演奏させられた音楽家たちは、どんな気持ちでいたのでしょう? 中には、私のようにモーツァルトが大好きな人たちもいたはずです。その人たちは、その後の人生では何を考えながらモーツァルトを演奏したのでしょうか? この物語は、そんな想像から生まれてきました。もうひとつ、きっかけになったのは、ある晩ヴェニスで目にした小さな男の子のすがたです。アカデミア橋のたもとにある広場にいたその男の子は、パジャマすがたで三輪車にまたがり、辻音楽師の演奏に聞き入っていました。たしかにすばらしい演奏だと私も思いましたが、その子も、身動きひとつせずにうっとりと聞き入っていたのです。

(装丁:岡本デザイン事務所 編集:板谷ひさ子さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


ジャクリーン・ウッドソン『わたしは、わたし』さくまゆみこ訳

わたしは、わたし

アメリカのYA小説。少女トスウィアの一家はアフリカ系で、父親は地区で数少ない黒人警官です。その父親が、ある日、同僚の白人警官たちが両手を挙げている黒人少年を射殺するのを見てしまいます。正義感の強い父親は、まわりの白人警官たちから要請されても、脅しを受けても、黙っているわけにはいかないと思ってしまいます。そして法廷で証言することになったせいで、一家は生命の危険にさらされることに。アメリカにには証人保護法という法律があり、一家はこれまでの人生を捨てて別人になり、よその土地に引っ越すことになります。でも、人生をリセットするのは、けっして簡単なことではないのですね。父親は無気力になり、母親は宗教に走り・・・イーヴィーと名前を変えた少女トスウィアも、自分は何者なのか、どう生きていけばいいのか、と思い悩みます。
さすがウッドソン、難しい問題をリリカルに書いています。
(絵:吉實恵さん 編集:今西大さん)

*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)選定


宇宙の誕生 ビッグバンへの旅

3巻目で扱われているのは量子力学。最初はよくわからなくて、量子力学についての入門書を何冊か読みました。ホーキング博士の分身であるエリックのかつての敵、リーパーがまた登場してきます。リーパーやブラックホールをめぐる謎で読者を引っ張りつつ、「ヒッグス粒子」など最先端の科学知識についても披露しているというすごい本です。(装画・挿画:牧野千穂さん 装丁:坂川栄治さん+永井亜矢子さん 編集:板谷ひさ子さん)


エミリー・ロッダ『マージともう一ぴきのマージ』さくまゆみこ訳

マージともう一ぴきのマージ

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通りの8番地には、ちょっとドジな魔術師のマージが住んでいます。ある日、ふたごの呪文を唱えると分身があらわれて、マージが2匹に! でも、後から出てきたマージ2号は何をやってもうまくできるのです。落ちこんだマージは家出をしようと思ったのですが・・・。またまた意外な展開になっていきます。
(装丁:タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『セーラと宝の地図』さくまゆみこ訳

セーラと宝の地図

オーストラリアの絵物語。チュウチュウ通り9番地に住んでいるのは船をつくる仕事をしているセーラ。ある日、郵便屋さんのスタンプが宝の島の地図を発見し、セーラといっしょに宝探しに出かけていきます。でも、海賊につかまってしまい、もう少しで海に沈められそうになりますが・・・。いつも思いますが、ロッダさんはすばらしいストーリーテラーですね。幼年童話をこんなにおもしろく書けるなんて、みごとです。
(装丁・タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『スタンプに来た手紙』さくまゆみこ訳

スタンプに来た手紙

オーストラリアの絵物語。いよいよ「チュウチュウ通りのゆかいななかまたち」シリーズの最終刊! 10番地に住んでいる郵便屋さんのスタンプが主人公です。ほかのネズミたちにいつも郵便を配達しているスタンプは、ある日、自分にはちっとも手紙が来ないことに気づいて、ペンフレンドがほしいと思います。ところが・・・。ストーリーがおもしろいだけでなく、生きる喜びについても作者は子どもたちに伝えようとしているようです。
(装丁・タカハシデザイン室 編集:吉田亮子さん、山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『だれも知らない犬たちのおはなし』さくまゆみこ訳

だれも知らない犬たちのおはなし

ドラン通りに住む6匹の犬たちの物語。この犬たちは、ペット(=人間)が学校や職場に出かけてしまうと、一緒に集まってテレビを見たり、異星人や幽霊をやっつけたり、ニワトリと渡り合ったり、どろぼうから仲間を救出したり・・・と、大忙し。ユーモアたっぷりの物語。思わず笑ってしまいますよ。
(装丁・タカハシデザイン室 編集・山浦真一さん)


エミリー・ロッダ『謎の国からのSOS』さくまゆみこ訳

謎の国からのSOS

オーストラリア児童図書賞・最優秀賞を受賞した『テレビのむこうの謎の国』の続編です。前作では主人公パトリックが、〈謎の国〉(もう一つの世界)の テレビ番組に出演して、みごと「さがしものチャンピオン」になっていました。その賞品として〈謎の国〉とやりとりができるコンピューターをもらったまではよかったのですが、それから1週間すると、二つの世界を隔てるバリアに異常が起き、通信不能になってしまいます。SOSをキャッチしたパトリックは、再び〈謎の国〉へと旅立つのですが、今回は、ひょんなことからパトリックの姉クレアと、弟ダニーも、〈謎の国〉に迷いこんでしまいます。というわけで、パトリックは、バリアの異常の原因を解明するだけではなく、姉と弟を無事に連れ帰ることもやらなくてはいけなくなってしまいます。

相変わらずロッダさんのストーリーテリングにひきこまれ、切羽詰まった展開に、はらはら、どきどきさせられます。

(編集:山浦真一さん 装丁:タカハシデザイン室)

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<紹介記事>

・「産経新聞」2014年2月2日

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この世界とよく似たもう一つの世界、すなわちパラレルワールド〈謎の国〉のテレビ番組に出演して「さがしものチャンピオン」になったパトリックは、賞品として〈謎の国〉とやりとりができるコンピューターをもらってから1週間がたった。ある日、2つの世界を隔てるバリアに異常が発生して、通信ができなくなった。前作『テレビのむこうの謎の国』(あすなろ書房)の続編となる物語。

 

・「子どもと読書」2014年3・4月号で高橋峰子さんが紹介してくださいました。

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たった一人で世界を救わねばならないとしたら、どうする? 前作『テレビのむこうの謎の国』では、〈見つけ人〉として、パラレルワールドであるバリアの向こうの人たちのなくしものを探し出して、念願のコンピュータをゲットし、ハッピーエンドを迎えた主人公パトリック。だが、本作では、「バリアの向こうの世界」の崩壊を止める役割を与えられてしまう。しかもタイムリミットがどんどん迫ってくる。ハラハラする場面の連続だ。

パトリックは頭をフル回転させ、勇気を出し、あきらめることをしない少年へと成長する。そして何より、うっとおしいと思っていた姉弟と力を合わせ、〈見つけ人〉として、心を満たす「すばらしいもの」を見つける。


マイケル・ウィリアムズ『路上のストライカー』さくまゆみこ訳

路上のストライカー

南アフリカのフィクション。故郷のジンバブエの村で家族や友人を虐殺されたデオは、障碍を持つ兄のイノセントと一緒に逃げて、なんとか南アフリカにたどりつきます。でも、そこで遭遇したのは、外国人憎悪に駆られた人たちのヘイトスピーチと暴力。失意の底にあってシンナーに溺れていたデオを救ったのは、ホームレスのためのサッカーでした。ホームレス・ワールドカップという国際大会があるのを、私はこの本で知りました。切ないけど、勇気をもらえる作品です。著者は南アフリカ人。
(編集:須藤建さん)

*カーカスレビュー・ベストブック、ALAベスト・フィクション・ブック
*青少年読書感想文全国コンクールの課題図書(高校生)


ローレン・セントジョン『砂の上のイルカ』さくまゆみこ訳

砂の上のイルカ

『白いキリンを追って』の続編です。舞台は南部アフリカ。大移動するイワシの群れを追って、鳥、イルカ、サメ、アザラシ、クジラが乱舞するサーディン・ラン。主人公の少女マーティーンは、心にわだかまりを抱えたまま、学校の旅行で、このスペクタクルを見に行くことになりました。ところが、大嵐に見舞われて大揺れに揺れた船から落ちてしまいます。助けてくれたのは、なんとイルカでした! マーティーンは何人かの子どもたちと一緒に、謎の多い島に流れ着きます。イルカと子どもたちの結びつきを描いた冒険物語。
著者は、南部アフリカのローデシア(今のジンバブウェ)で生まれ、16歳まで野生動物と接しながら農場で育った女性です。
(装丁・タカハシデザイン室 編集・山浦真一さん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


ジル・ルイス『ミサゴのくる谷』さくまゆみこ訳

ミサゴのくる谷

イギリスのフィクション。ミサゴというのは猛禽類の仲間で、日本では留鳥のようですが、この本の舞台のスコットランドでは夏に子どもを育て、冬になると西アフリカに飛んでいってしまいます。アメリカの緑の地球図書賞を受賞したこの作品では、そのミサゴが、スコットランドの農場で暮らす少年カラムと、ガンビアの病院で治療を受けていた少女ジェネバを結びます。ほかにも個性的なキャラクターが登場して、読み応えのある作品になっています。作者は、獣医さんから作家になった英国女性です。
(装画:平澤朋子さん 装丁:中嶋香織さん 編集:岡本稚歩美さん)

*緑の地球図書賞(アメリカ)
*厚生労働省:社会保障審議会推薦 児童福祉文化財(子どもたちに読んでほしい本)特別推薦

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<紹介記事>

・「子どもと読書」2013年11・12月号

 

・「朝日新聞」2013年9月28日(子どもの本棚)

 

・「子どもの本棚」2014年3月号


セックス産業——東南アジアにおける売買春の背景


図書館の神様

きゃべつ:瀬尾さんは好きな作家です。瀬尾さんの作品では、いつも主人公が、自殺したくなったり、恋人が死んでしまったり、どん底の状況になることが多いですよね。でも、生老病死は避けられないけれど、だからといって救いがないわけではないということを、いつも全力で言っていて、そういうところが児童書らしいなと思います。この作品でも、最後のところで、救われる場所や人はちゃんといる、ということを書いていますよね。作品の根が明るいところが、森絵都さんの作品に通じている気がします。

オカリナ:私、この本のよい読者ではなく、身につまされるところがあってそこを中心に読んでしまいました。この主人公は本嫌いなんですね。で、私も今、本嫌いの人たちと付き合わなければならない立場にいるのです。だから本嫌いの人って、そうか、こんなふうに思うのか、こんな反応をするのか、だったら、こっちはどうすればいいのかな、なんて考えながら読んでしまいました。

きゃべつ:瀬尾さんは、たしか司書さんでいらっしゃいますものね。もしかしたら、そういった読書嫌いの子と日々向かい合っているのかも知れません。

オカリナ:読後感のいい小説ですね。

アンヌ:頭痛を逃れるためにスポーツに打ち込むという設定には、じんましんの痒さを逃れるためにスポーツを始めたと言っていた人がいたので、リアリティを感じました。ただ、ここまで本を読まない国語の先生なんているはずがないと思ったのですが。

一同:いっぱいいるんじゃないでしょうか。

アンヌ:垣内君が、高校生にしてはできすぎているようで。夜中に電話をしても怒らないし、なんだか主人公のことを、呆れながらも見守ってくれている老紳士のようでした。弟も心配して5年間毎週のように様子を見に来てくれているし、3人の男性に守られて時間とともに更生していく話と感じました。ただ、夏目漱石の『夢十夜』をとても怖がりながら読んだり、授業で生徒たちと語り合ったり、生徒の書く物語を読む場面は好きでした。先生には、こんな楽しみもあるんだなと思いました。

ジラフ:この作家は好きで、わりとよく読んでます。自殺未遂だとか、この作品もそうですけど、何かつらいことがあって、水の中でじっと息を潜めているみたいにやり過ごしている時間のことがよく書かれていて、読み終わった後にある種のカタルシス、清々しさを感じます。淡々としていて、地味な作品が多いのに、この読後感にもっていけるのは、作者に力があるんだと思います。主人公が恢復していく場所が、この作品では図書室で、ここで「袖振り合う」というくらいの淡い出会いがあって、でも、たがいに必要以上に深くは踏み込まないで、また別れていく。そのあっさり加減がいいんです。でも、「袖振り合うも多生の縁」で、やっぱりそれはかけがえのない、再生に不可欠な、ひとつの出会いのかたちなんだと思います。

レジーナ:さらっと読みました。主人公はバレーに一生懸命で、正論を語りますが、正しさというのはひとりよがりになることがあるし、人を追い詰めることもありますね。特に悩みを抱えた人は、正しさを求めているわけではなく、自分の気持ちを受け止めてもらいたいだけだったりしますよね。でも高校時代の主人公には、それがわからなかった。不倫についても、相手に嘘をついてないから裏切ってないかというと、そうではないように、人間関係や人生には白黒つけられない部分があって、この作品はそこを描いているのだと思いました。浅見さんは自分の教え方に問題があるから、生徒が料理教室をやめていくことにも気づいていません。子どものような大人ですね。魅力が感じられませんでした。主人公と垣内君が、日本十進法から教科別に、本の並びを変える場面があります。一時、赤木かん子さんの提唱で、すべての本を内容別に並べる学校が増えました。しかし非常に使いにくく、今、困っている学校がたくさんあります。特定の主題にくくれる本ばかりではないですし、ひとりの担当者の考えでその本の主題を決めても、どう分類したのか、後から配属された人にはわかりません。p122(※単行本)に、10年以上寝たきりだったおばあさんがサナトリウムに入ったとありますが、ホスピスではないでしょうか。今の時代、結核患者のサナトリウムはあまり見かけませんが。

レン:さらっと読みました。大人の童話だなと思いました。高校生も読んでると思うけれど、大人が懐かしんでいる感じがして。主人公は社会人になってもまだ自分探しをしていて、大人になりきれない大人が、中高校生に寄りかかる。そういうのを私は、積極的に中高校生にあまり勧めたくないなあと。親が子に不満をぶつけるとか、高校生に頼ってしまうという状況がいやなんです。

紙魚:私も大いにそう思います!

レン:大人に守られるべき18歳以下の子にもたれるというのは逆だろうと。

オカリナ:この主人公は浅見さんには寄りかかっているけど、垣内君には寄りかかってないと思う。不満をぶつけたり、悩みを打ち明けたりはしていないから。

レン: 最終的に主人公は救いを見いだすし、読者も希望を抱けるのかなと、みなさんの話を聞いているうちに少し思えてきたけれど、それでも、大人の童話かな。

オカリナ:いや、この主人公もまだ大人にはなってないんじゃないかな。20歳で自動的に大人になれるわけじゃないから。垣内君は、何か問題を抱えていそうな主人公にやさしいけど、それだけで、別に負担に感じたりはしていない。一定の距離をおいて対応しているんだと思うな。

紙魚:物語の印象が非常に軽やかでふわふわしていて、やや頼りない文体、あいまいな人物設定には、個人的には信頼しがたいなと感じてしまいました。自殺とか、不倫とか、病とか、通常、ごくごく気をつけて扱うべき事柄を、あっさりと書いてしまうことにも、ちょっと違和感を持ちます。でも、もしかしたらそれも、作者の意図なのかもしれません。というのも、この小説には、深刻さの押し売りがなかったなと。読み進めるにしたがってだんだんと、登場人物の事情がちらっと見えてきたり、人がどう本から影響を受け変わっていくかということが伝わってきたり。人間関係はすごくやっかいでめんどくさいことは、もちろん作者だって承知のうえで、でもそれを最初から書かず、解像度が低い景色から、だんだんと識別可能な精密さへ持っていこうとしているのかなとも思います。ただ、正直なところ、この主人公はあんまり好きになれなかったです。大人とは思えなくて。
オカリナ:主人公は垣内君に頼ってはいないですよね。

紙魚:確かに、頼っているわけではないんですよね。このような大人と少年の関係性は、山田詠美の初期の作品などにもちょっと似ている感じがあります。

きゃべつ:先ほど、森絵都さんの『ラン』(角川文庫)と作品が似ているという指摘がありましたが、たしかに『ラン』の主人公も22歳で、児童書の主人公になる年齢ではないし、子どもでいていい年齢でもないと思います。ただ、肌感覚として、社会人1、2年目って、ほんとうにぐらぐらしていて子どもだし、森さんにしても、瀬尾さんにしても、大人として描いていないのではないでしょうか。このお話のユニークなところは、文芸部の顧問と生徒だったら、顧問が詳しくて、生徒がやる気ないのがふつうだけれど、それが真逆なところですよね。立場が逆転しているからこそ、先生と生徒という関係性でも、対等でいられるのではないのかなと。だから、精神的に依存しているわけではないのだと思います。たしかにその軽重を理解せずに、安易に生老病死を扱ってはいけないですよね。そのことは、新人賞の選考会でもよく話題になりますが、瀬尾さんの場合は、その重みはよくよく分かっていて、わざと問題そのものを真っ正面から描かず、回復していく心に焦点をあてているのではないかなと思います。生老病死に苦しむ気持ちは読者の内側にあるから、それを借景にして、そこから先を書く、というような……。

パピルス:読みやすくてパッと読むことができましたが、特におもしろいとは思いませんでした。人物描写が薄っぺらいというか、例えば、最初に不倫相手が出てきたときの会話では、「不倫相手」(男性)と会話してるというのがわかりませんでした。同性との会話か、ファンタジーみたいに人間じゃない生き物と会話をしてるのかな? って思ってしまいました。主人公は過去に傷があり、再生していく物語であると帯で謳われていました。その傷というのが同級生の自殺でした。傷を表現するためにとってつけたように死を持ってきたような印象を受けました。

ルパン:これ、半分くらい読んだところで、ようやく「前にも読んだことある!」って気がつきました。

オカリナ:印象が薄い本なのかしら。

ルパン:エンタメとして読んじゃいました。同級生の死に責任を感じている、っていう設定なのに、いまひとつ「重さ」が伝わってきません。国語の教師が、高校生に触発されて本を読み出す、というのも、まじめに考えたらちょっと……。とりあえずおもしろかったけど、マンガみたいな感じでさらっと読んじゃったからだろうな、と思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


マークース・ズーサック『本泥棒』

本泥棒

ジラフ:とにかく文体が新鮮で、語り口が魅力的でした。ナチス政権下のドイツっていうシチュエーションで、こういう女の子が主人公の話は、ほかにもあるかもしれないし、あり得ると思うんですけど、作者がノートに自由に書きつけていったみたいな、みずみずしいアプローチにぐいぐい引かれて、読み進んでいく感じです。訳者のあとがきによると、最初は100ページくらいの、もっと短い話を書くつもりが、ナチス時代のドイツというシチュエーションを得たことで、物語がふくらんで、こんなに長くなってしまったそうです。登場人物の心象風景がすごくビビッドに伝わってくる表現もいっぱいあって、それは、物語の展開を、語り部の死神が「上から」見ているせいかもしれません。

アンヌ:とても読みづらく、苦戦しました。特にプロローグ。死神のモノローグで始まるので、SFなのかと思ったりしました。その後も、まさか語り手として死神がずっといるとは思わなかったので、なかなか物語の中に入り込めませんでした。死神というものが、神なのか神のしもべなのか、よくわからないせいかもしれません。いきなり、かくまわれているユダヤ人の青年が絵本を書き、それがそのまま文中に出てくるのも斬新でした。主人公のリーゼルが本を読むことを覚え、やがては防空壕の中や隣家のおばさんに朗読するようになる物語には感動しました。養父母が実は優しい人だとわかってくるとホッとしました。特に、お父さんがとても魅力的でした。飢えている人にパンを与えずにいられないとい人。けれど、それが、罰せられる社会に震撼しました。ヒトラー・ユーゲントについて書かれていることも衝撃的で、このように、与えられた言葉を唱えることの方が重要だという教育を受けると、自分でものを考えない大人になっていく、自分で物事を判断しない、ただの兵士が出来上がるのだなという怖さを感じました。

パピルス:読みにくい本でした。中盤までは一文一文読んでいたのですが、後半は斜め読みをしてしまいました。ちゃんと読めていなくて消化不足なので、あれこれいうのは気が引けますが。まずは文体が特徴的でした。短文でパッパと展開していく印象を受けました。死神の視点で物語が進んでいくというのがおもしろいと思いました。主人公が預けられた家の人たちは、最初は冷酷な人たちに思え、主人公には悲惨な日々が待ち受けていると思われました。ツライ物語かと。が、実は皆良い人だったので安心しました。予想も裏切られておもしろかったです。本を通して主人公が文字を覚えていくところが好きな部分です。ナチス政権下に生きる人々を描いた作品では、『ベルリン1933 』(クラウス・コルドン著 酒寄進一訳 理論社)を読みました。コルドンの作品では、時代背景の描写がもっとしっかりしていてよく伝わり、その時代に懸命に生きた人々の姿が鮮明に描かれていました。なぜ「ナチス政権下のドイツ」をテーマにしたのかがわかりました。ちゃんと読んでないので間違っているかもしれませんが、今回の作品は「皆さんご存知の絶対悪のナチスや、皆さんご存知の絶対悪のヒトラーが」というように、小説を書くための単なる要素の一つとしてナチスを扱っているような印象を受けました。

オカリナ:ここ10年でいろいろ読んだ中で、私はこれがいちばんといっていいほどおもしろかった。死神とあるけど、英語では大文字のDeathでしょうね。日本語では神となっているけど、一神教の場合は神のほうが位が上。だから、別に矛盾はないと思います。それから、ナチスはドイツでも絶対悪というふうには捉えられていないと思います。悪魔のしわざではなく普通の人がああいうことをする流れになっていったのが怖いのです。この作品も、そのあたりをうまく書いています。生と死、愛と別れ、狂気と正気、そういうものをとてもうまく書いている。そして死神にも個性や情をもたせているのもうまい。この作品は言葉の問題も扱っていますが、ヒットラーの言葉と、庶民がつながっていく言葉が別種のものだということがわかる。それから、登場人物の一人一人がとても個性的で、ちょっとしたことから性格やその人の世界観がわかるようになっています。一つ気になったのは、小見出し(死神の言葉)の扱い方。原書でセンター合わせになっているからといって、日本語でもセンター合わせにしたら読みにくい。あんまり考えないで編集してますね。

紙魚:これはきっと、原書がそうなっていたんでしょうね。横書きだとセンター合わせでよいでしょうが、縦書きでこうするのは間違いだと思います。

オカリナ:人物像もそれぞれがくっきり現れてきます。養母も悪態ついてるけど、実はいい人だというのも読んでいるとわかってきます。ヒトラーの言葉と、ふつうの人がつながっていく言葉はちがう、と書かれている部分なんかも深いです。リーゼルの父親への愛情も心を打ちます。だから死神もリーゼルを特別扱いするんですね。

ルパン:すみません、まだ途中までしか読んでいないんですど、出だしのところから、「死神が語っている」という設定が子どもにわかるのかなあ、と思いました。あと、各章のはじめに見出し? みたいなものがあるのですが、これがわかりにくかったです。ストーリーの先取りのようですが、じゃまをして話の世界にどっぷりつかれないように思います。

オカリナ:ここは必要だと思いますけど、訳が不十分なので、有機的につながっていないんじゃないでしょうか。

紙魚:そもそもは一般書だったのに、アメリカでヤングアダルトとして刊行したらすごく売れたという話を聞いて気になっていたので、じつは映画を観てしまっていました。なので、すでにあらすじが頭にあり、みなさんよりは読みづらくはなかったと思うのですが、それでもやはり難航しました。この本の印象は、読み手がどう死神とつきあうかで変わると思うのですが、本のつくりのせいなのか翻訳のせいなのか、どうも死神にうまく引っ張ってもらえなかったように思います。でもこの本は、死神を語り手にしたからこそ、時間も場所も自在に移動できたんですよね。好きだったのは、地下室でリーゼルが本を読む場面です。そのシーンが読みたくて、読み進められたといってもいいくらいでした。弟も死んでしまい、両親とも別れ、なにも持っていない女の子が、言葉を手に入れることで生きる力を得ていくということが書かれている物語です。ああ本っていいものだなあとあらためて素直に思えました。私も本の世界にたずさわる者として、なんだったら、盗んででも本を読んでほしいなあとさえ思いました。実際のところ、状況はまったく別ですが、もしかしたら将来、本の世界がやせ細り、読みたい本が読めない時が来てしまうかもしれないと、最近、危機感を抱くこともなくはないんです。

きゃべつ:売れる本だけをつくろうとすると、多様性が細っていくような気がするので、そうならないようにできればと思います。

紙魚:自由に好きな本が読める喜びを、本の中で感じました。途中、マックスの書いた寓話が入っていますが、あの部分、よいリズムを生み出していますよね。それにしても、アメリカでベストセラーになった本で話題性もあったというのに、なぜ日本では売れなかったんでしょうかねえ?

オカリナ:日本語版の体裁や、死神の台詞の部分が読みにくいですよね。私は、小見出しをとばし読みしました。私も映画をDVDで見ましたが、映画より本のほうがおもしろかったです。せっかくの内容なのに、編集の仕方で損をしてるのかもしれませんね。

ルパン:もし書店や図書館でプロローグだけ立ち読みしたら、そのまま棚に戻していたかもしれません。

アンヌ:字を太くして強調されると、逆に読みにくくなってしまうと思います。

オカリナ:英語で太い字になっている部分を機械的に太くしているのでしょう。もっと配慮した編集をしないと、いい本だって売れないですよね。もったいない。

きゃべつ:字を大きくしたりするのは、ハリーポッターから目立つようになった気がしますね。

ルパン:アスタリスクも気になります。内容はいいんですけどね。気に入っているのは町長の奥さんが「盗んででも本を読んでもらいたかったの」というところです。

レン:ごめんなさい。まだ3分の1くらいしか読めていないんです。おもしろいと言われたので、どこかですっと読みだせるだろうと期待してきたんですけれど、まだ入りこめていなくて。語り手が死神であることも、50ページくらい行ったところで、ソデの「わたしは死神。」というのを読んで初めてわかったのですが、それがわかっても、やっぱりなかなか進みませんでした。
 
レジーナ:数年前に読み、非常に心を動かされました。しかし、日本語が読みにくい部分もあるので、それを含めて考えたくて、この読書会で読みたいと思っていました。語り手は、人間らしい感情を持つ死神です。毎日のように空襲があり、収容所へ向かうユダヤ人の行進が町を通る時代です。どこにも希望が見出せず、死さえも救いとなるような状況は、いわば神なき世界であり、そうした中では、神は死神となるしかない。しかし、この死神は死をもたらすだけではなく、人間らしい生き方を貫いた者、他者への思いやりを持ち続けた者に目を留めます。言葉に生かされるリーゼル、死んでいく敵国人パイロットのそばにクマのぬいぐるみを置くルディ、ユダヤ人にパンを差し出す父親……。死神は、瓦礫の中に最後まで残る人間性を照射しているのです。リーゼルを支える周りの人々の描写が温かいですね。父親は、煙草を売って本を手に入れ、読むことを教え、出征の前には、「防空壕で本を読み続けるように」とリーゼルに言います。この時点では自分でもまだ気づいていないのでしょうが、リーゼルにとって物語がどれほど大切か、父親はちゃんとわかっているんですね。リーゼルを愛する母親やルディも、深い悲しみの中を生きるフラウ・ホルツアプフェルも、粗野で武骨で、文学に関心があるわけではありませんが、豊かなものを持っている人たちなのでしょう。

 この本には、人がいかに言葉に生かされるかが描かれています。一番心に残ったのは、リーゼルが、収容所に向かうユダヤ人の列の中にマックスを見つけ、「ほんとうにあなたなの?」「わたしが種をとったのは、あなたの頬からだったの?」とすがりつく場面です。マックスはリーゼルに物語を書き、リーゼルは、病気のマックスのために石や羽を拾っては、それにまつわる物語を聞かせます。そんなマックスが収容所に送られたことで、リーゼルは、言葉というものを信じられなくなったのではないでしょうか。人は嘘をつくし、上っ面だけの言葉を言うこともあります。マックスはどうしようもなく去っていくのですが、それでもリーゼルは、マックスを失って、世界は生きるに値しない、言葉で語るに値しない、言葉は役に立たないと感じたのではないでしょうか。

 私は4歳の時から毎日、日記を書いていますが、数年間どうしても書けなかった時期がありました。本当に絶望したとき、人は言葉を失い、自分のことを語れなくなります。リーゼルは、町長夫人の言葉をきっかけにして、悲しみを乗り越え、自らの物語を書きはじめました。長田弘さんの詩に、「ことばというのは、本当は、勇気のことだ。人生といえるものをじぶんから愛せるだけの」とあります。言葉は、世界や人生への信頼に根差したものなのだと思います。リーゼルという名は、ドイツ語の“lesen”(読む)という単語に少し似ています。言葉を渇望し、物語を愛した少女にふさわしい名前です。国際アンデルセン賞の受賞スピーチで、画家賞を受賞したホジェル・メロさんは、「言論の自由が奪われた時代に育ち、政府に好ましくないことを書いたために連れて行かれる人々を目にする中で、言葉がどれほど力を持つかを知った」と語っていました。言葉には大きな力があり、だから権力者は言葉を恐れて焚書を行う。ナチスは中身のない言葉やスローガンを植え付け、考えない国民を育てる。先月、『ベルリン』三部作を書いたクラウス・コルドン氏が来日しました。若い人に向けて歴史小説を書く意味についてお話され、「歴史的な出来事の真実を書きたい」とおっしゃっていました。真実を語ること、同時に、真実を語れる環境を守っていくことが必要ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)

Comment

とびらをあければ魔法の時間

アンヌ:花柄模様の陶器の犬が出てきたので、『とびらをあけるメアリーポピンズ』(P.L.トラヴァース作 林容吉訳 岩波少年文庫)の「王さまを見たネコ」を思い出し、きっと、この犬もきっと動きだすぞとわくわくしながら読み始めました。思ったとおり、クッキーの甘さにほっとできるような別世界が開く物語でした。ただ、もう少し物語の展開をのんびりしてもらいたかったような気もしました。本の中から出てくるのが、動物とお菓子。これを1日にしないで、動物の日、お菓子の日、音楽の日、で、もう1度音楽、くらいな流れはどうだろうと考えてみたりしました。でも、3回もサボったら、先生から電話がかかって、レッスンをさぼっているのがばれるから、2回が限度かもしれませんね。こんな風にあれこれ構成を考えてしまったので、他の作品を読んでみたくなり、『あひるの手紙』(朽木祥作 ささめやゆき絵 佼成出版社)を読んでみたら、これもおもしろく、見事な構成の作品でした。

レジーナ:おもしろく読みました。子どもの時に出会っていても、きっと楽しく読めた本です。ファンタジーの場合、世界を作り過ぎる作家もいますが、そうではなく、曖昧なままで終わるのが見事ですね。

レン:すいすい読めました。おもしろいけれど、どこか既視感がある感じ。賢治の『注文の多い料理店』と似ているかな。ピアノ教師の知り合いの話を聞くと、この主人公みたいに、まじめに練習しているのにできなくて追いつめられるような子は少なそうなので、書きだしのところでどこまで今の子が物語にのってくるかなというのは、ちょっと思いました。

きゃべつ:こういうふんわりとしたお話をどう読めばいいのかわからなくて、読んでいて、気になるところがずいぶんと出てきてしまいました。まず、気になったのが、情報が後出しじゃんけんになっているところです。最初に、音楽の練習に行きたくないという話が出てくるけれど、次のページをめくって絵を見るまで、主人公がなんの楽器をやっているのかがわからず、とまどってしまいました。「メヌエット」という言葉だけで、バイオリンとわかる人が多いのでしょうか。「谷戸」や「☆のように急がず」という言葉に、注訳が入っているのも気になりました。主人公がこの言葉を理解できていないのに、読者だけがわかるだなんて、へんな気もします。あと、「鳥ノ井驛」も旧字をすんなり読んでいたりして、そういったところに、作者の存在を感じてしまいました。この物語で不思議なのは、人が出てこないところで、たとえばすずめいろ堂にはじめて入るとき、他人の家に入るのに、主人公は住んでいる人の姿を熱心に探しません。そして、勝手に人の本を手に取ってしまう。なぜ、そこには本しかないのか、なんのために存在する場所なのか、など気になることはたくさんあります。たとえばそこにおじいさんでもいたら、そのあたり違和感なく、また注釈での説明を必要とせず、伝えられたのではと感じました。
この作品がいいのは、「すずめいろどき」という言葉(概念)を使っているところだと思います。でも、すずめいろいろどきってどんなだろう、ってうまくイメージができなくて、そのせいか、世界にひたることができませんでした。すずめいろどきのあいだだけの魔法というのが魅力的なのに、最後のところで主人公が「営業時間をのばしてくれるかも」と安易に言っているのが、少し興ざめでした。あと、小見出し、2行取りで鳥が2羽以上いるのは、窮屈な感じがすると思いました。でも、高橋和枝さんの絵は、やっぱり素敵ですね。とてもよかったです。

オカリナ:この本屋さんは異空間なので、現実的でないところがあってもいいんじゃないかな。かえってその方が、異空間にさまよいこんだ感じが出るので、著者はきっと敢えてそうしているのではないかと思います。人が出てきたりしたら、リアルな日常空間になってしまいそうです。子どもって、どうしていいかわからなくなったとき、自分で視点を変えることってなかなかできない。それが、本という異世界で別の視点を獲得すると、何か見えてくる。そんなことをこの本から感じました。

レン:あさのあつこさんの『いえでででんしゃ』(佐藤真紀子絵 新日本出版社)も思い出しました。いやなことがあって家出したあと、おかしな人といっぱい会って、そこから戻ってくる。ストレスをかわすのに、こういうお話はいろいろあっていいのかもしれないですね。

オカリナ:この作者の方は、研究などもしておいでだったようなので、谷戸などにもちゃんとわかるように注が入ってるんですね。

ジラフ:楽しかったはずの習いごとがいやになって、でも、「自分で(楽器が)ひけたら、どんなにうれしいだろう」という、習い始めの楽しかった気持ちを思い出すまでのことが、とてもうまく書かれていると思いました。見知らぬ駅が、不思議な異空間への入り口になっているのもよかったです。ただ、このファンタジーの背景になっている「すずめいろどき」という時間が、具体的にどういう時間なのかイメージできなかったので、最後まで霞がかった感じがぬぐえなくて、そのことはずっとひっかかりました。「すずめいろどき」という言葉に、私はこの本で初めて出会いましたけど、どこかの地域の言葉なんでしょうか。

オカリナ:空の色ではなく、暮れなずんできたときの街並みがすずめの色みたいに見えるんでしょうか?

レン:スズメの色を、あらためて見てしまいますね。

アンヌ:こうやって本を読んだ後に、ある時ふと黄昏に、「ああ、これが『すずめいろどき』なのか」と思ったりする楽しみがありますよね。

紙魚:朽木さんの本なので、もしや教養がぎっしりつまっている物語なのかしらと思いながら読み始めたところ、いえいえ、とってもおもしろくて、物語の中にどんどん入っていくことができました。感銘を受けたのは、音楽という、文章で表現するのがもっとも難しいものが、まるで自然と音がきこえてくるかのように表現されていたことです。ふだん私たちは音楽を、美術など芸術の範疇のなかで語りがちですが、朽木さんは、そこから見事に解放されて、音楽をおかしや動物との対比によって表現している。そうか、音楽って、好きなもの、楽しいものという範疇の中に入れて、こんなふうに表現すればよかったのかと、すがすがしく感じました。

ルパン:既視感があるお話なのだけど、不思議とそこがよかった気がします。子どもの本の王道、という感じですよね。斜に構えていないところがとても好感がもてました。大傑作ではないけれど、珠玉の佳作というか、くせも気取りもなくて、読み終わったあと幸福感があって、とてもいいと思いました。

オカリナ:読者対象を考えると、あまりひねっても仕方がないですもんね。

ルパン:「お約束どおり」にストーリーが進んでいく安心感が得られます。「平凡」なのではなく、「安心感」。おさまるべきところにすとんとおさまるうれしさ、みたいなものがありました。

紙魚:p84に、「そうだった。ずっとわすれていたけど、わたしもまえはそう思っていたのだ。大すきな音楽を、きくだけじゃなくて、自分でひけたらどんなにうれしいだろうって。」という文章がありますが、この本をずっと読み進めて、ここにたどりついた時、本当に心がふわっとして、私まで、ああそうだったという気持ちになれたんです。おそらく作者は、この境地を描きたかったのではないでしょうか。私も子どもの頃ピアノを習っていたのでわかるような気もするのですが、子どもの時って、どんなにピアノが好きでも練習はいやだし、うまくなろうと地道に練習しようと考えたりもしないんですよね。でも、お稽古をやめるときかれれば、やめたいわけでもない。小さい時って、先のことを考えずに、そのつど今を生きていますから。ただ、ふと「そうだった」と思う時もやっぱりあったりするんです。このあたりのことが、なんとも自然に描かれていて、すごいなあと思いました。

ルパン:最後のところで、ピアノを始めたばかりの頃の気持ちにもどるところ、「そう、そのせりふを待っていたの」と言いたくなりました。このお話のすべては、そのひとことに至るまでの道だったんだね、という、いい意味での予定調和ですよね。結末はわかっているのだけど、そこまでのプロセスがちっとも飽きさせなくて。

オカリナ:お話の長さもちょうどいいですね。これ以上長くなると、冗長になります。

パピルス:主人公の女の子の気持ちがよく伝わり、おもしろく読みました。高橋さんのイラストも可愛く文章とぴったりで、お話の世界に自然に入り込めました。年末は仕事だったり家庭のことで忙しくて落ち着いて読書ができないのですが、時間があるときに再度ゆっくり読みたいと思いました。主人公の女の子が本から「文字」を通してメッセージを受け取るのではなく、本を開くとクッキーが出てきたり、音楽が流れてきたりして、それらがメッセージとなって女の子に伝わるという設定に感心しました。対象読者である小学校低・中学年の子に、本を読む楽しさがわかりやすく伝わるなと思いました。

きゃべつ:あっ、今調べてみてわかりましたが、「すずめいろどき」ってほんとにあるんですね。たそがれどき、夕暮れどきのことを言うようです。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


どうしてアフリカ? どうして図書館?

ローワンやクロ千の訳者として私を知ってくださっている方には、「どうしてアフリカのものも訳してるの?」とよくきかれます。またアフリカにかかわるNGO活動もしているのを知ってくださっている方には、「どうして(医療や食料などの援助ではなく)図書館をつくったり、図書展をしたりしているの?」とよくきかれます。その答を子どもたちに向けて書こうと思いました。中・高の同窓生だった編集者の重政さん(私よりずっと若いですが)に何か書けといわれたのが、きっかけでできた本です。絵を描いてくれた沢田さんの最後の仕事になりました。
(編集:重政ゆかりさん)

*SLA夏休みの本(緑陰図書)選定


アンナレーナ・ヘードマン『のんびり村は大さわぎ!』表紙

のんびり村は大さわぎ!

レジーナ:薪を積んで世界記録に挑戦するとか、八本足のテーブルで「スパイダー・クラブ」のひみつ会議をするとか、ユーモアのあるお話ですね。p33「わたしたちの脳みそ、ゆるんでたのか、とけてたのか?」など、主人公のちょっとした言葉づかいもおもしろくて、楽しく読みました。

よもぎ:とてもおもしろかった! おもしろい本をおもしろく訳すのって、なかなか難しいと思うのですが、さすがは菱木さんだと感心しました。子どもといっしょになってギネスに挑戦して、鼻の穴に棘を刺してしまうお母さんなんて、日本の物語には登場しませんよね? 主人公の女の子が養女だってことは最初に書いてあるのですが、後半になってスリランカから来た子どもだとわかる。そして、同じスウェーデンの南部から来たおじさんが「おまえとおれはよそものだ」という。日本の物語だとおおごとになりそうなことを、実にさらっと書いてあるところなんかいいですね。ああ、よその国ではこんな風に暮らしている人たち、家族もいるんだなと、小さな読者たちも自然に分かるんじゃないかしら。登場人物が多いけれど、それぞれキャラクターがはっきり描けているので、「あれ、この人は?」と迷わずに読めたのもうれしかった。

ルパン:これも、とってもおもしろかったです。挿絵の雰囲気が気に入りました。p63の、ストローを口いっぱいにくわえた顔とか、p155の、おじいさんたちが必死で薪を積んでいるところとか。お話とぴったり合っていると思います。薪を積むというミッションと、世界記録への挑戦を組み合わせたアイデアがいい。ただ、宝くじがあたって豪華客船の旅に出ているという設定はいらないんじゃないでしょうか。回想シーンにする必然性がなく、わかりにくくなるだけのような気がします。

ヒイラギ:旅行をしている間に回想したことを録音していくという設定ですよね?

アンヌ:最初の船旅のところで主人公と一緒に退屈してしまい、なかなか読み進めませんでした。村の話になってからは楽しく、北欧の生活や日本と違う価値観を知ることができてよかったと思いました。例えば、年金生活者のおじいさんがのんびりしていたり、けがをして働いていないロゲルも生活は保障されていたりするところ等ですね。後になって主人公が養女で肌の色も違うとわかり、船旅で娘だと思われなかったのはそのせいかと分かったりしました。

ヒイラギ:今回の3冊はどれも主人公が10歳という同じ年齢なのですが、テイストがずいぶん違いますね。この作品がいちばん子どもっぽい。アッベたちが、無邪気にギネス世界記録に挑戦するんですが、そこで自分たちも無理かな、とは思わないし、周囲の大人も無理だからやめろとか、せめて練習してから本番にのぞめ、なんて言わないんですね。お国柄かもしれませんが、今のスウェーデンは子どもらしい時期を大人がちゃんと保証しているってことかも、と思いました。最初のほうは常体と敬体が混じっているのですが、それに違和感を感じないですっと読めるのは、さすが菱木さんだと思いました。挿絵はおもしろかったのですが、主人公のアッベはスリランカから来たので肌の色も茶色いんですよね。その子が問題なく周囲にとけこんでいるようすをきちんと出すには、挿絵の肌ももう少し茶色だったいうことがわかるようにしておいたほうがよかったのではないかと思いました。表紙だけは少し色がついていますけどね。

マリンゴ:個人的なことなのですが、わたしはリンドグレーンの「やまかし村」シリーズが本当に大好きで。特に『やかまし村はいつもにぎやか』(大塚勇三訳 岩波書店)は、村の風景と子どもたちを描いた表紙で、少しだけこの本の装丁に似てるんですね。イラストのタッチは全然違うのですが。同じスウェーデンの作家ということもあり、そっちの方向で期待していたら、全然内容が違ったので、「コレじゃない感」がどうしてもありました(笑)。テンポよく、たくさんの登場人物がうまく書き分けされていると思います。また、子どもって先走ってどんどんしゃべってから意図を説明するような、そういうまだるっこしいしゃべり方をしがちですけど、それが文体に反映されていて、10歳の子らしい一人称だなと思いました。ただ、豪華客船の設定がうまく生かされていない気はします。普通に時系列じゃダメなのかな? 1年前の出来事と、今の豪華客船でのことがどこかでリンクする――たとえば気に食わない乗客のギュンターさんが実はギネスの記録保持者で少しだけ分かり合えるとか――そういう仕掛けがあるほうが、個人的には好みです。

西山:ルパンさんやマリンゴさんがおっしゃっていたのと一緒です。入れ子にして、回想にして、物語をわかりにくくしていると思います。豪華客船のクルーズという大枠に必要性を感じない。中でやっていることの単純明快さや、絵の雰囲気とから考えると、小学校中学年ぐらいの子が楽しく読めるはずの本だと思うので、複雑な構造はそぐわないと思いました。それはそれとして、スウェーデンの人の感性の違いを感じられたのはおもしろかったです。母親が娘のイベントの邪魔するのにはびっくりした。なんのかんの言っても、力を貸すとか何か展開があるかと思いきや、本気で対抗していて、本当にびっくり。「火薬のカッレ」の「本物の〈薪爺さん〉」ぶりも笑えましたね。p171の「どこが薪がたりないっていうのよ!」って、内心一緒になって突っ込み入れてました。いやぁ、なんか、本当にのどかなのんびり村でした。

ネズミ:私も、クルーズに出て、1年前の出来事を書くという設定がなくてもいいのに、と思いながら読みました。客船でのお母さんとギュンターのやりとりなどなしに、のんびり村の出来事を楽しめてもいいのにな、と。記録をつくろうとがんばるところとか、マムスマムスを食べて気分が悪くなるとか楽しかったです。おもしろさや子どもらしさは、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』に通じるところもあるかな。

ヒイラギ:この作品では、人種の違う養子がごく普通に受け入れられている。お母さんが娘と張り合うところも、日本だったら継母なのになんて思われるだろうと考えると、遠慮してこうは書かないですよね。そんなの一切関係なく、普通の遠慮のない親子関係になっているのが、またおもしろいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):親が離婚しようが再婚しようが恋人ができようが明るくて、スウェーデンらしいおおらかさですね。「ギネス世界記録」に挑戦するところや、薪を積み上げるところが神泉です。親友のアントンがいじめにあうところは日本と変わらないなと思い、ナージャがアッベの一時的な正義感に意見を言うところではジンときました。p52で、マッチ棒を鼻の穴にいれるところは笑ってしまったし、p53の「ギャーギャーわめく人がいる家にはいられないもの。耳は大切にしないとね。とくに子どものときはね。」というアッベの台詞が気に入っています。会話をこんなふうにユーモアで返したいなあ。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年11月の記録)


2017年10月 テーマ:ふたつの世界

日付 2017年10月27日
参加者 アンヌ、西山、ハリネズミ、ネズミ、よもぎ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス、さららん、しじみ71個分)
テーマ ふたつの世界

読んだ本:

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ニール・シャスタマン『僕には世界がふたつある』

僕には世界がふたつある

ハリネズミ:読み始めたはいいのですが、どこまでいっても入っていけなくて、どうしようかと思いました。病を持った人が見ている世界が描かれているんだと思いますが、苦しいんだろうなあとは思っても、長い作品なのでえんえんと不可解だったりして、楽しい部分がない。それに原書はYAですが、日本語版は大人向けに出ていますね。よほど本好きな子でないと読むのが難しいのではないでしょうか。それにこれを読んだから、統合失調症のことがすべてわかるわけでもないし。物語ではなくレインの『引き裂かれた自己』(ちくま学芸文庫)を読んだほうがまだわかる。こういう本は、だれが読むのかな?と、思ってしまいました。

ネズミ:読むのがつらい物語でした。正直、途中ななめ読みした部分もありました。こういう世界がある、ということを知らせるという意義は感じますが、多くの読者の共感を呼ぶのは難しいだろうと思いました。言葉遊びの部分は、日本語だと音も意味もつながらずおもしろくありませんが、原文だとおもしろいのかな。

西山:いやぁ・・・・・めくりはしました。でも、船の世界の方はほんとに、斜め読みで、一応めくっただけです。この作品が、だれかの救いになるのかなぁ。不安定な精神状態で読んだら、病を深くしないかしらと思ったり・・・・・・。うーん、しんどかったとしか言えません。

レジーナ:数年前、3分の2くらいまでは原書で読んだのですが、それも読みにくかったです。いろんなテーマの本があって、いろんな子どもが生きやすくなるといいな、とは思いますけど。看板など目に映るものが、そんなことあるわけないのに、なにか重要なメッセージを送っているように思えて、その指示に従わざるをえなくなるなど、主人公の心の描写にはリアリティがあります。でも、心を病んだ人の目から見た世界を、そうでない人が入っていけるように描くのは、なかなか難しいですね。夜の病室で、キャリーと僕が抱きあう場面がありますが、そんなことは本当にできるものなんでしょうか。

西山:『レイン~雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳 小峰書店)は、主人公の女の子のことがいとしくなったけど、これが子どもに読まれても異様なものとしか思われないんじゃないかと思ってしまった。

レジーナ:『レイン』は、1章まるごと同音異義語について書いてあるのを日本語版では省いたり、パニックをおこした主人公が同音異義語をさけぶ場面ではそれを数字に変えたり、訳も編集も工夫しています。

よもぎ:たしかに妄想の場面などわかりにくいのは当たり前だと思うのですが、間に挟まれている現実の場面とのギャップが痛ましくて、最後まで突きはなさずに、きちんと読まなければという気持ちになりました。仲の良い友だちと一緒にやっていたことができなくなる、友だちが後ずさりして自分の家のドアから出て行く……本当に深淵に突きおとされたような気持ちになるのではと思いました。古い作品ですが、乙骨淑子作『十三歳の夏』の15章に、主人公の13歳の利恵がたまたま精神疾患のある青年と電車で乗りあわせる場面があるんです。怯えたように大声で泣く青年を、隣にいる年老いた母親がおだやかな口調でなだめている。青年が泣いている理由など、ほかの人たちには理解できないものなのでしょうが、母親はその悲しみに寄りそっている。その母親の姿に、主人公は心を打たれるのです。作者が亡くなったあとのことですが、知的障害の娘さんを持つ方が、この箇所を読んだことで乙骨淑子の大ファンになったと聞いたことがあります。ニール・シャスタマンも、乙骨淑子と同じ姿勢で精神疾患のある息子や、おなじ病を持つ若い人たちに向かいあっているのではと思いました。最後に船長から船に乗れといわれた主人公が「もう乗らない」とか「絶対にいやだ」ではなく、「今日は行かない」といったところがリアルで、なかなか良かった!

アンヌ:半分くらい読んで、これはファンタジーではなくて悪夢だぞと気づき読めなくなりました。統合失調症について知らないからだろうと思って、精神科医の著作等を読み、改めて読み進めたのですが、現実世界と著者が深淵と呼んでいる別世界との関連がわかりませんでした。病院での主人公の行動も、例えばなぜ薬を飲まなかったのか等も、医者側からのアプローチが書かれていないので読み解くことができないままでした。読んでよかったと思えるのは、精神の病というものを普通の病気と同じように見ていく視点が与えられたことです。

西山:よかったところもありましたよ。「98あったはずの未来」の「こうなれたかもしれないのに」のほうが「こうなるはずだったのに」よりずっといいから。死んだ子どもは偶像化されるけど、精神を病んだ子どもはカーペットの下に隠される」(p194)、これは胸に刺さりました。

ルパン:何がどうなっているのか、わからないまま読みました。精神を病んでいる人にとってはこう見えるのか、ということがおぼろげながらわかったような気がしますが…。今回の課題でなかったらきっとすぐに投げ出していたと思うのですが、がんばって最後まで読んだら、空色のパズルピースの場面がぐっときました。精神を病んだ人の気持ちを知るにはいいのかもしれないけど、これは児童書なのか、考えるとかなり議論の余地があるかと思います。子どもに読ませたいかと聞かれたらノーです。そもそも、どこの、なんの話か、イメージがまったくわかない。「カラスの巣」というのがマストの上のバーの名前であることなど、しばらく読まないとわからないし、空間としての理不尽さも、スヌーピーの家のようなワクワク感がなく、ただ理解不能のフラストレーションがたまるだけ。船も白いキッチンもそれがどういう場所であって何を表しているのか最後までわからない。ただ、最後まで読むと、精神疾患の人に世界がどう見えているか、そして現実の友人には精神を病んだ友達がどう見えるのかということが書いてあって、主人公が妄想と現実の間を行ったり来たりしているということがわかります。心の病を持つ人に共感はできなくても、これを読むことで、少しでも理解しようという気持ちにはなれると思います。いずれにしても、読み終わったときは、どっと疲れました。再読したらもっとよくわかるのかもしれないけれど、これを2度読む元気はないかな…。

さららん(メール参加):ここまで深く、精神疾患を持つ少年の心の世界に入った作品は読んだことがありません。海賊船のエピソードも、主人公ケイダンにしてみれば、エピソードでもなく、夢でもなく、現実そのものなのでしょう。深い海溝にもぐりこみ、浮き上がってくるまでをケイダンと共にし、意味がわからない部分もたくさんあるのですが、ページを繰る手が止まりませんでした。病院、海賊船の航海、白いプラスチックのキッチンの世界を行き来しながら、なんの前触れもなく病院にいるカーライルが、海賊船の乗組員のカーライルになったりします。本を読んでいる間じゅう、なにかにしがみついていと、体が振り落とされてしまうジェットコースターに乗っているような気分でした。いっぽうで、薬とその効き目の関係や、病状につける名前は便宜的なもので、一人一人全部症状が違うことなど、多くの学びのある作品でした。

しじみ71個分(メール参加):まだ、全部読めてなくて申し訳ありません。しかし、何と言っても残念なのがタイトルです。あまりにも説明的過ぎて、浅くなってしまい、つまらないです。深海の、海淵の底から見上げるような、孤独を表すタイトルではないと思いました。お話自体は、フィクションながら作家自身の息子の経験を下敷きにしているので、耐え難い苦悩に満ち溢れて、深海をたゆたうようつかみどころなく、内容は理解しようとすると難しいように思いますが、訳のおかげか、主人公の現実と非現実を行き来する恐怖が、幻想的かつ淡々と伝わりました。悲劇の終焉が待っているのだと思いますが、家族が救いになることを期待して読み進めます。

エーデルワイス(メール参加):宮沢賢治作『小学校』のきつね小学校の校長先生が、授業を参観し終えた主人公に「ご感想はいかがですか?」と訊ね、主人公が「正直いいますと、実はなんだか頭がもちゃもちゃしましたのです」と答えると、きつね校長が「アッハッハッハ、それはどなたもそうおっしゃいます。」と笑います。そんな感じの感想です。 作者は脚本も手掛け、自ら映画化の脚本も進行中とか。観たいかどうか今のところ分かりません。この本は確かにヤングアダルトコーナーにありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


まはら三桃『奮闘するたすく』

奮闘するたすく

アンヌ:ケガだけではなく認知症にもなったおじいちゃんがデイサービスに通うのについて行き、夏休みのレポートを書く。自分からボランティアに志したわけでもない小学生がデイサービスに行くという設定がおもしろくて、介護職の人や調理師さんとか、うまく描かれているなと思いました。祖父といる時のつらい思いやせつなさと同時に「お年寄りのやることには意味がある」と理解しようと変わって行くところ等、いいなあと思いながら読みました。花の部屋への推理小説じみたストーリーも、うまい仕掛けです。p.231-232の、死について考えつつ、人には死の間際まで生きようとする力があるという感じ方や、死者が心の中に生きていくというふうに繋がって行くところも、いいなと思いました。なんといっても、お年寄りと小学生の男の子たちが古い歌謡曲の「食べ物替え歌」で盛り上がって行き、最後は大笑いのうちに幕を閉じていくというところが、本当に意外で傑作だと思いました。

レジーナ:デイサービスでの経験を通して、死や老いについて考える小学生の等身大の姿がユーモアたっぷりに描かれていて、好感がもてます。「宇宙が存在するのも、考える自分がいるからだ」と思う場面が印象的でした。p137で、祖父が、「自分ではできないとわかっているけど、世話にはなりたくない。なのに、『どうしたいか』ときかれても困る」という台詞には実感がこもっていますね。ただ「やきもち」や「ケチ」など、お年寄りの姿が少しキャラクター的に描かれている感じがしました。リニが初対面でハグする場面もちょっとリアリティがないように思えて違和感がありました。

西山:たいへんおもしろく読みました。もう少し低学年向けかなと思いながら手にとったら、『伝説のエンドーくん』(小学館)くらいのグレードかなと。読み始めたら、大人として普通に楽しむ読書となりました。最後、あのおばあさんを死なせなかったのがよかったな。大笑いで終わらせたっていうのが、たいへん賛成でおもしろかったです。レジーナさんが今挙げたところとか、私もなるほどと思って読んでました。あと、p167の「佑の思考は、妙な具合にカーブした」とか、おもしろい軽い書きぶりがあちこちあって、でも、ただ奇をてらったという感じじゃなくて、「人間ってぜってー、死ぬんだよな」(p231)「でも、死んでからもたまに生きてるぜ」(p232)なんて、軽いけど、妙に深い。一つ難をいえば、早田先生がこの課題を与えた意図というのが、単なる思いつきなんだか・・・・・・。何か、深い意図が明かされるかと思いながら読み進めたけれど、別に説明はありませんでしたね。そのへんはエンタメ的に読み流さないとだめなのかな。有無を言わせない目力って、教師のパワハラでもあると思うと、ちょっとひやひやしました。1カ所文章で気になったのは、p173のまんなかあたり、「自分が怒鳴ったくせに、祖父は引っ込みがつかなくなっている」のところ、「くせに」じゃなくて、怒鳴った「から」ではないのかと思いましたが、ここ、どう思います? インドネシア人のリニさん、言葉がたりない分、あけすけで、おもしろかったです。

レジーナ:「自分が怒鳴ったくせに、祖父は引っ込みがつかなくなっている」ですが、ここは佑が、「自分が怒鳴ったんでしょ?」「自分でやったんじゃん」と思っている箇所なので、これでいいのではないでしょうか。

西山:なるほど!

よもぎ:ユーモアがあって、テンポの良い作品で、楽しく読みました。高齢化社会になって、ゆくゆくは介護職を選ぶ子どもたちが大勢いると思うので、良いテーマを選んだなと思いました。外国から来る介護士の方たちも、ますます増えてくると思いますし。細かいところですが、蝉が羽化するところを見たいと願っていたおばあさんの話、いいなあと思いました。幻のように白く透きとおった蝉が、だんだん緑色を帯びてきて、最後に茶色い蝉になる……本当に、何度見ても飽きないですよ!

ハリネズミ:さっき、西山さんが教師のパワハラか、とおっしゃったのですが、私はそうは思いませんでした。この先生は、たすくがいつも中途半端に流しているのを見ていて、もっと突っこめばおもしろいよ、ということを分かってもらうために、この課題をあたえたのだと思います。ほかの子どもたちのこともよく見ていて、それぞれに別の課題を与えているのかもしれません。老人クラブの老人たちは、すぐに「ひごの~もっこす~」と歌ってしまう坂本さん、言葉を普通とは違うところで切って話す北村さん、女子力の強いよし子さんなど、個性的な人がそろっているし、インドネシアから来たリニさんも、いい意味で存在そのものがユーモラス。だから私もおもしろく読みましたが、たすくの祖父までおどけさせなくてもいいのに、とちょっと思ってしまいました。p61で「大内警部補、出動だ」とたすくが言うと、「はっ」と言って敬礼までするところなど、やりすぎのように感じました。それから「花の部屋」についての謎も、盛りすぎ、引っ張りすぎの印象を持ちました。そうまでしなくても、充分おもしろく読めるのに、と。

ネズミ:父のデイサービスに、最近私も何度かついていきましたが、そこでも東南アジア系の人が入浴介助を担当してました。こういう世界のことは、以前はわからなかったのですが、自分が行くようになってから、認知症の高齢者を扱った本がちょっと気になるようになりました。子どもに伝えるのが難しいテーマなのか、「これはいい」と思う本になかなか出会えません。この物語は、老人のなかに小学生が入っていきます。戯画化と感じるところもあるけれど、明るくしないと描けないテーマでもあるのかなと思いました。認知症になっても誇りはある、こんな子どもじみたことはできないという「おさるのかごや」の場面だとか、すごく大変な介護の現場での、働く人たちに優しさが伝わってくるところがいいなと思いました。ブルー・コメッツの歌で、おじいさんや母親にも青春があったことを知るというのもうまいです。難しいテーマですが、こういう作品がもっと書かれてほしいです。

ルパン:個人的には母も認知症が始まっていたので、せつないところが多々ありました。おじいちゃんが作品を額に入れられてプライドを傷つけられるところとか、時折正気になったときに悄然としてしまう場面とか。そう思うと、自分たちの世代にはダイレクトに響くけど、今の子どもたちにとってはどうなのかな。小学生のおじいちゃん、おばあちゃんは最近若いですから、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん世代の話かな、と思います。いずれにしても、こういう本を通して、子供たちに介護現場の情報が入るのはいいことだと思います。

西山:介護が子どもに身近な話題になっているのは確かだと思います。親が介護でたいへんになると子どもにはねかえるし・・・・・・。

さららん(メール参加): 目力のある早田先生から、夏休みの宿題としてデイサービスに通い、様子をレポートしてほしいと頼まれた佑(たすく)と一平。警察官だったおじいちゃんの認知症がすすみ、デイサービスにつきそいはじめます。おじいちゃんの認知症の描き方(受け答えがすごくはっきりしていたかと思うと、びっくりするぐらいわからくなることの繰り返し)に、リアリティがありました。佑たちの通っているデイサービスは、かなり自由で、さまざまな人生を経たいろんな老人たちが暮らしている。入ってはいけない『花の部屋』もある。その部屋の謎はあとで明かされますが、すこーし肩透かしの印象がありました。インドネシア人のリニさんも登場し今の介護の現場の雰囲気を伝え、インドネシアではお年寄りが大切にされていると語ります。最後は替え歌の大合唱と、笑いのうちに大円団……なんですが、ここはちょっとついていけなかった。年をとることや、デイサービスがどんなところか理解するうえで、良い本かと思います。大人も子どもも生き生きとした言葉遣いとエピソードの積み重ねで描かれ、まはらさん、うまいなあと思うのですが、面白い読み物かどうかというと……どうなんでしょう?

しじみ71個分(メール参加):とてもいいと思い、気持ちよく読みました。前に、まはらさんが選挙をテーマにした本を読んだときは、社会のテーマを子どもに伝えるお気持ちは分かるものの、保守の議員の孫という設定に、馴染めない感じがありましたが、今回は、馴染めないところを感じることもなく、重いテーマを、笑いとペーソスを織り交ぜ、軽やかに、きちんと子どもに届ける本になっていると拝見し、大変に気持ち良く読了しました。話の筋が明快で、簡略ながらもご老人たちの個性がきちんと書き分けられ、愛情と尊敬ある筆致で描かれていると思います。誰もが迎える老いと死を子どももきちんと知ることは重要だというメッセージもきちんと、花の部屋のエピソードで届いていますし、とても効果的になっていると思います。介護する家族の視点もあり、外国人労働者の問題もあり、社会問題をきちんと子どもに届けるという作家のお気持ちが分かりました。自分の関心のあるテーマでしたので、ますます心に沁みました。現実は、こんな素晴らしい、明るい介護施設ばかりではないと思いますが、拘束、虐待、人権無視のような施設が存在する現実を変えていくために、子どもも大人もみんなが普段から老いや人生を考えていくために、必要な本だと思いました。

エーデルワイス(メール参加):前回の『こんとんじいちゃんの裏庭』に引き続き、老人問題ですね。デイサービス、老人福祉施設、外国人福祉士・・・と、今どきのことがきちんと書いてあります。私の世代では親の介護をしている者がほとんど。私の場合、現在87歳の母は12年前にアルツハイマー病と診断され、『要介護1』と認定されました。その後父を説得して3年前にデイサービスの手続きをとりました。今年の9月、今度は89歳の父が肺の病気で入院、認知症もでてきて、『要介護1』の認定を受けました。病院は治療を終えると退院しなければなりませんから、施設の入所を検討中です。何を言いたいかというと、「奮闘するたすく」の物語が私の現在とリンクしたわけです。年寄りは子どもに戻ります、「二度わらし」はいい言葉ですね。はじめと終わりに歌謡曲の替え歌で、明るくてちっとも悲惨でないのがいいです。現在母は私の家にいますが、文庫や親子わらべうた会に連れて行きます。子ども好きの母は楽しそうに遊んでいます。子どもたちも違和感ないようで、母に懐いています。佑や一平のように、子どもの力は大きいと思います。介護保険で日本の介護は随分変わったと思います。家族以外の力を借りての親の介護は助かります。もう一言いいますと、今どき一人が一人の介護ではありません。私には夫の両親も健在(92歳93歳)です。また今年独身の叔母(母の妹)を看取りましたし、もう一人の独身の叔母も施設に入っているので看ています。夫も入院中の独身の叔父を看ています。長寿国家で、子どもの出生率が低い日本の行く末は如何に・・・!?

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


山本悦子『神隠しの教室』

神隠しの教室

レジーナ:ネグレクトや虐待など現代のテーマが盛りこまれていて、気になっていた作品です。バネッサが、「母親の通訳をするのを負担に感じている」と打ち明ける場面が印象的でした。義務教育に外国籍の子どもは含まれないんですね。知らなかったです。今いろんな家庭があるのに、全員の母親が来ないと帰れないというのは、少しひっかかりました。電話はつながらないのにインターネットは通じるなど、ファンタジーのつくりとして気になる点もありました。

ネズミ:こことは別の世界に行きたいと思っている、学年もばらばらの5人の子どもたちが別世界に行ってしまう。帰ってこられるのかとかドキドキしながら、ぐいぐいと読まされました。字がけっこう小さい長い本だけれど、会話が中心なので物語に入りこむとどんどん読めてしまうというのがいいですね。こんなにたいへんな状況の子ばかり集まるか、と最初は思ったけど、こういう子は1クラスにひとりはいるだろうし、十分ありうることかもしれませんね。読んでいると、いろんな状況の子がいることが見えてくる。乱暴だけど優しくて、時に悪ふざけがすぎてしまう聖哉とか、一人一人のいろいろな面が描かれているのもいいですね。苦しい状況にある子どもたちを応援しようとする作者の姿勢が感じられる作品でした。子どもだけでなく、養護の先生の視点が混じってくるのですが、先生もいじめられていたことがわかることが作品に厚みを与えている気がしました。p314「逃げることも恥ずかしいことじゃない」というせりふは、作者が言いたかった言葉でしょうね。いろいろな問題を抱えながらも、なんとか自分の力で生きていくことを応援していて、いいなと思いました。

西山:バネッサが出てくるところで、おおっと思いました。保健室に連れていく係として、あたりまえのように「日本人」名前でない人物が出てくる。日本の児童文学作品では、登場人物の国籍は多彩とは言えないので、とても新鮮でした。『児童文学』7-8月号の特集<〝壁〟を超えて>で、そういう観点で触れたのですが、現実社会では、地域差はあるとは言っても、様々な国や民族のルーツを持つ子どもがいるのに、 日本の創作児童文学の中ではほとんどお目にかからない。これは、良いこととは思えません。ともかく、一息に読みました。多数派からはじかれたのか、自分がはじいたのか……排除されたかわいそうな子どもたち、ということではなく、たてこもっているとも取れて、外と隔てる壁が両義的で新鮮です。学校自体が、いじめがあったり、子どもたちが抑圧されるマイナスの舞台として焦点化された作品は多かったと思いますが、この作品は、学校がシェルターでもある。大人にもできること、やらなきゃいけないことがあるというのも早苗先生のあり方を通して描かれていて、メッセージとして好感をもちました。

ハリネズミ:著者の山本さんは、やはり2016年に出した『夜間中学へようこそ』(岩崎書店)もおもしろかったですね。さっき、レジーナさんが電話は通じないのにパソコンは通じるのでファンタジーの約束事がどうなっているのか、とおっしゃいましたが、この本に出て来るのは有線電話で、パソコンとはシステムが違うので、私は全然気になりませんでした。ファンタジーの約束事が壊れているとも思いませんでした。児童文学の流れで言うと、親が子どもにちゃんとした居場所をあたえられない場合、親以外の大人が登場して支えることが多いのですが、この作品では「学校」という建物が子どもたちを助ける。そこがとてもおもしろいと思いました。みはると聖哉以外は、「もう一つの学校」に緊急避難したときに、自分たちでなんとかしようという意欲も意志も生まれてくる。でも、年齢の低い1年生のみはるは、母親の恋人に虐待されているのを自分の意志だけではどうすることもできない。6年生の聖哉はネグレクトしている母親が不在なので衣食住すべてに困っていて、これまた自分の意志がどんなに強くても解決できない。だから、外からの助けが必要なのですね。
様々な問題を抱えた子どもたちですが、問題の一つ一つがリアルだと思いました。最初読んだときは、「母親がそろわないと戻れない」というところで、子育ての責任は母親にあるというメッセージが出てしまっているのではないかと思ったりしたのですが、もう一度ていねいに読んでみると、そう言い出したのは母ひとり子ひとりの聖哉で、聖哉の気持ちが強く反映されているだけだとわかりました。p225に、もう一つの世界に行ったものは戻って来ないとあって、そういう設定だと思って読むと、カレーパンだけ行ったり来たりしているな、とちょっと不思議に思いました。バネッサが自然に出てくるのはいいですね。そのバネッサと加奈は同じクラスですが、それ以外は触れあうことのなかった子どもたちが、時間と空間を共にするうちに触れあっておたがいに思いやったりするようになる。

アンヌ:「神隠し」の物語は多いけれど、この物語は「神隠しにあってしまった」側の冒険談ですね。なんといっても冒険物語に必要なのは、どうやって食物を確保するかという事です。この物語では、「神」ではなく「学校」からの一種の贈り物のような「給食」という食べ物がまず与えられます。けれども、それだけでは一日一食になってしまうから、畑からプチトマトを採集したり保管倉庫から非常食を取って来たりして、生き残るための冒険がなされて行く。そういうところが、気に入りました。でも、実は引き出しの中のロールパンに気づいた時、ここで外界につながっている、きっとここでやり取りをするんだと思ったので、パソコンで通信するというのは意外でした。異世界の中で子供たちは成長していく。外界の大人も変わって行く。でも、それと同時に、大人である早苗先生の中には、まだいじめが影を落としていて、完全に和解するとは書かれていません。納得がいくけれど、ある重さも感じました。

よもぎ:なによりおもしろかったのは、学校という建物が生命を得た存在のように子どもたちを守るという設定でした。長い年月、ずっと子どもたちを見守りつづけてきた古い校舎だからこそ、そういう力を持ったということなのでしょうね。いろいろな状況で苦しんでいる子どもたちを守りたいという作者の思いが伝わってくる作品だと思います。ストーリー自体も、子どもたちがこれからどうなるのか? なぜ聖哉だけ、行方不明になった子どものリストに入っていないのか? など、いくつかの謎が次々に出てきて、最後まで一気に読んでしまいました。長いけれど、小学生の読者がしっかりついていける作品ですね。ただ、文体が重苦しくて、古めかしい感じがしたんですけど、こういう内容だったらしかたがないのかな? ユーモアがないというか……。

ハリネズミ:この作品はテーマがテーマだけに、ユーモアを入れるのは難しいですね。自分のことだけで精一杯だった子どもたちが、「もう一つの学校」に行って少し心がリラックスすると、やさしい面を見せていく。そこの描き方もすてきです。

ネズミ:学校の先生を批判的に描く本も多いけれど、この本では、子どものことを思い、それなりに職務を果たそうとしている先生が描かれてますね。

ハリネズミ:アン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社)も、それまでは触れあうことのなかった、それぞれに問題を抱える子どもたちが、宿泊旅行をきっかけに出会って、おたがいを知り、元気になっていくという物語でした。似た設定なので、比較してみてもおもしろいかも。

ネズミ:この作家は愛知県の方なので、身近に日系人を見てきたのかもしれませんね。

西山:テーマとして焦点を当てて描かれているのではなくて、そこにいる子どもの一人として当たり前に出てくるのがいい。

ネズミ:今はいろんな国籍の子どもがいますよね。親が外国籍かどうかは、名前だけではわからないし。思った以上に外国とつながる子どもは多いと思います。

ルパン:今、本が手元になくて、細かいところについてはお話できないんですけど、前に読んだとき、とてもおもしろかったことを覚えています。ただ、別世界の作り方がちょっとご都合主義的に思ったところはありました。給食は出てくるけど、お盆は返せないとか。ただ、読んでいてつまずくということはなかったですね。ストーリー性があってよかったです。神隠しにあった子どもの母親のなかに、保健の早苗先生を昔いじめていた元の同級生がいるわけですが、そこの家庭が、その後どうなったのかも知りたいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):5人の問題(親の虐待、育児放棄、いじめ、在日外国人)を抱えた子どもたちと、小学校時代にいじめを受けたことのある養護教諭が登場します。子どもたちのサバイバルとミステリーと、再生へと繋げて見事な展開でした。聖哉についてはもう胸がつぶれそうに切ない。食べ物の確保からして自分ではんとかしなくてはならないのですから。子どもが一人で、心の弱い母を保護し、そこから一歩越えて生きて行こうとするんですね。早苗先生が、かつて自分をいじめた多恵と向き合うところは、綺麗ごとに終えてなくて、迫力がありました。p381に「これからはずっとこの空のしたにいる。もう逃げない」という言葉があります。希望のあるラストですが、弱い私は逃げてもいいのでは・・・と、思ってしまいました。

さららん(メール参加):いじめ、虐待、ネグレクト……今の子どもたちの問題を、学校というもっとも日常的な場を使いながら、そこに「神隠し」という非日常の穴をあけて、子どもと大人の両方の心理からうまく描いている作品だと思いました。重く、暗くなりがちなテーマですが、サバイバル物語の要素、謎解きの要素に助けられ、どんどん読み進みました。「もうひとつ」の学校からどうしたら出られるか、あるいは救い出せるか、子どもの側と大人の側の両方から推理し、パソコンでやりとりしながら、解決を探していくところが面白く、「行方不明」になった子どもは「5人」でなく「4人」だと思われている点がずっと気になります。それは聖哉のせい。彼以外の子どもたちは、自分が「変わる」ことを決心して外の世界に帰り、聖哉はむこうの世界に残ってしまう。けれども最後の最後で、現実に生死の境にあった聖哉が救われる。
子ども時代にいじめにあい、「神隠し」にあった早苗先生自身も、いじめた側の多恵(亮太の母親)と対峙することで自分を乗り越えます。P349の「お母さんが来ないと帰れないなんて、この世界のルールを決めて、自分をしばりつけているのはあなたなの。あなたは帰れるのよ!」という早苗先生の言葉が、とても良いと思いました!

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


2017年09月 テーマ:ごまかされるのはいや! ほんとのことを探る子どもたち

日付 2017年9月22日
参加者 アンヌ、カピバラ、コアラ、さららん、西山、ネズミ、ハリネズミ、
ハル、マリンゴ、よもぎ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス、しじみ
71個分)
テーマ ごまかされるのはいや! ほんとのことを探る子どもたち

読んだ本:

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バイバイ、わたしの9さい!

さららん:世界は不幸でいっぱいなのに、自分にはなにができるんだろう?と焦ったにときの感じを、思いだしました。大人が突然、バカみたいに見える時期が、よく描かれています。自分はまだ大統領になれないことに気づいた主人公が、大統領宛に加え、ジダン宛てに手紙を書いたところがおもしろい。十歳の誕生日にジダンから手紙が来て、友だちと会いにいくときの幸福感!全体を通して、少女のあたふたぶりが自分自身の子ども時代に近く(爪を噛む癖もふくめて)、共感をもって読めました。手紙をもらって、世界中の不幸が解決するわけじゃないけれど……一種の夢物語なんでしょう。

マリンゴ:幼いころの、すっかり忘れていた感情を思い出させてくれる作品でした。小学1年生のときに『マザー・テレサ』の伝記を読んで、こうしてはいられない! と衝撃を受けたのですが……あのときの気持ちは、今はどこへ(笑)。ただ、主人公がいろいろなことを考えていくのはいいんですけど、その結論として、権力をもつ3人の有名人に手紙を送って、そのうちの1人から返事をもらう、というのがこの本のなかでの“解決”になっていることについて、どうも、うーん、と首をかしげてしまいました。

ハリネズミ:英米の児童文学だと、ここでは終わらなくて、もう少しジダンとこんなことを話し合って希望が見えてきました、くらいのところまで書くと思うんですけど、書かないのがフランスの作品だなあと私は思いました。

マリンゴ:あと、ジダンから受け取った返事の内容が具体的に明らかになっていますが、これは、ジダンが自分で書いたもの……ではおそらくないと思うので、著者が書いて本人の許諾を得たものなのか、それとも信頼関係があって許諾なしでやっているのか、リアルとどういうふうにシンクロしているのかが興味あったので、あとがきで触れてほしかったです。

ハル:心が洗われました。ジダンが扉を開けたところで、じーんときました。この先が書いてないのは、「さぁ、あなたなら、ここからどうする?」という読者への問いかけのように思って読みました。ジダンが架空の有名人ではないところがいいんだと思います。自分たちでも何か動かせることがあるんじゃないか、と思えそうです。でもちょっと、これは実話なのかな? 実話だったら、その後なにか展開はあったのかな? と、気になりはしますよね。

ヨモギ:前半は、とてもおもしろかったです。9歳の子どもの心情が、生き生きと描けていて、なかなかセンスがいいなと思いました。なかでも、世界の飢えた子どもたちをなんとかしたいという主人公の話を聞いて、ママがパソコンで10ユーロ寄付しておしまいにする。そんなママの姿が悲しい……という下りなど、鋭いなと思いました。ところが、後半でがっかり。えっ、ジダンに手紙を出して対面できるところでおしまい? なんだかストーリーが途中でねじれて、妙なところに行き着いてしまったという感じがしました。これでは、パソコンで寄付しておしまいっていうママと同じじゃないかと。もっとも、フランスの子どもたちが読めば、感激するかもしれませんけれどね。アルジェリア系移民二世のジダンに対戦相手のイタリアの選手に人種差別的な発言をしたから頭突きをした事件があったのが2006年、この本が2007年に出ているので、とりわけ印象が強かったと思いますが、日本の子どもの読者にはまったく伝わらないのでは? まして訳書が出たのが2015年ですからね。日本で出版しようと思うなら、編集者も訳者も、もう少し日本の読者に配慮しなければいけなかったのではと思いました。

アンヌ:かなり以前に読んで、その時も今回も、最後をどう受けとればいいのか途方にくれました。悲惨な社会状況に気づいた時、この主人公は9歳だから、思春期のように妙に世にすねた感じの受けとめ方をしないで、まっすぐに単純に考えていく。主人公が一人でものごとを考えていく力をつけていくのを応援するように描いているところが、いかにもフランス的だと感じました。とまどったのは、歌手のコルネイユとかジタンとか現実にいる人間を引きいれているところです。コルネイユは日本では思ったよりヒットしなかったようなので知られていません。ルワンダの現実とかも含めて、この短い註だけではなく解説が欲しかったと思います。

コアラ:私はすごく好きで、読んでよかったと思いました。成長をいい形で書いていると思います。出だしで心をつかまれました。p7に「十さいって、「もう二度と、二度と、二度と」の年。きっとこれから、なにか深刻なことがはじまるんだ。」とあって、10歳をこんなふうに考えたことはありませんでしたが、そう書かれたら確かにそうだと思えて、すごく新鮮でした。『こんとんじいちゃんの裏庭』(村上しいこ作 小学館) のあとにこれを読んだのですが、「すべての問題を解決することは無理」とあきらめを語る大人にがっかりするようなところは『こんとんじいちゃんの裏庭』と同じですが、この話で大人は、考えることをやめろ、とは言わないので、そこが『こんとんじいちゃんの裏庭』と違うところだと思いました。日本の子どもが読んで、ジダンがどういう人かわからなくても、なんかすごいことなんだということはわかると思います。ささめやゆきさんの絵が、すごくよくて、この本の雰囲気に合っていると思いました。

ハリネズミ:私もささめやさんの絵がとてもいいなと思いました。世界の様々な出来事に胸を痛めて深刻に考えるこの年齢の子どもの気持ちがよくあらわれています。この子は大統領になって解決したいと思うわけですが、そういうとき首相になって解決したいと思う子どもが日本にどれくらいいるでしょうか? うらやましいと思いました。ただジダンに手紙を書いて、ジダンに会えて喜んでそれで終わり、というのは、私には物足りません。それから、最初に10歳になるとどんなことが起こるのか、という点が大きなテーマとして出てくるのですが、その糸は途中で消えてしまっている気がします。p7に、「(十さいは、)もう二度と、二度と、二度と自分の年を一文字で書けなくなる」とありますが、日本だとここにも出ているように漢数字で十と書けますよね。つづいて「もう二度と、二度と、二度と、両手で年を数えられなくなる」とありますが、ふつう指は十本あるので10までは数えられる。どういうことかわかりません。もう少し日本の子どものことを頭において訳してほしかったですね。

ルパン:読後感は悪くなかったのですが、あとでふりかえって、おもしろかったかというと、そうでもないなあ、というのが正直なところです。この子の頭のなかでいろいろなことが進んでいくのですが、大きなストーリー展開がなくて、さいご、ジダンとどんなことをして世界を変えていくのかが見えてきませんでした。

西山:ささめやさんの絵は好きだけど、ラストで、表紙のこれはジダンだったのか!と思った衝撃が強すぎて、感動とはいきませんでした。私は、手紙を出して満足しているとは思わなかった。ここからはじまるのだろうと自然に受けとめていました。(当日読書会では言いそびれましたが、p97で、お気にいりの絵本をシモンが「めちゃめちゃいいよね!」と話しかけてきて好きなページを言いあう場面、とてもよかった。そうやってつながったシモンとジダンのところへ出かけることに意味があるのだと思います。世界を動かすことは、そこから始まっている気がします。)ネットで募金するママの姿が飢えている男の子より悲しく思えたという場面(p40)にはドキッとさせられました。爪をかみ、「自分の先っちょを切ったのに、ちっともいたくないんだよ」(p28)とか、「ハッピー・バースディ」の歌を「バカ丸だし」だと思ったり(p90)、そういう感性おもしろかったです。p54で、どうして平気でいられるのか、どうして何もしないのかと問いつめられた母親が、「寄付もするし、選挙では、いちばんよい政治をしてくれそうな人たちに投票する。よくないと思うことがあれば、デモをするし……」というところ、何もしない大人を批判している部分なので、日本との民度の高さが違うことに愕然としました。このぐらいの分量で、中学年くらいから読めて、世の中のことを考えられる、いい作品だなと思います。

ネズミ:この本は、私の住んでいる区の図書館にも、隣の区の図書館にもありませんでした。ジダンじゃ日本の子にはわからないと、はじかれたのかなと邪推しちゃいました。終わり方が中途半端ですが、9歳の子がパパとママとニュースを見て、この社会がどうにかならないかと思い始めるというのはおもしろいなと思いました。「自分はどうしてここに生きているのだろう。死んだらどうなるんだろう」とか、私も10歳くらいのときに、ぐるぐるいつまでも考えました。個人の心情を描いている本は多いけれど、こういう社会への問題意識を扱った本は日本では少ないですね。ヨーロッパでは、アフリカや中近東のニュースもよく流れますね。

レジーナ:子どものとき、湾岸戦争やフランスの核実験のニュースにすごく衝撃をうけたので、そのときの気持ちを思いだしながら読みました。ささめやさんの絵はあたたかみがあっていいですね。でも、結末はちょっと唐突。あと、ジダンはもう引退していますが、こういうふうにスポーツ選手やスターが前面に出てくる作品は、あとになって古くならないでしょうか。

エーデルワイス(メール参加):読み終わって、フーッと心の中でため息をついていました。主人公タマラに「あなたはどうなの?」まっすぐの目で見つめられているようです。真摯に受け止めました。著者のヴァレリー・ゼナッティはユダヤ人としてフランスで生まれ、13歳で両親とイスラエルに移住。兵役につき、今はパリ在住。この経歴を見て、なるほどこのような本を書けるのだと思いました。実際、作者はジダンと交流があるのかもしれませんね。ささめやゆきさんの挿絵も効果的です。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


こんとんじいちゃんの裏庭

コアラ:最初のコンビニの場面で、主人公の見方に全然共感できず、一人称で進んでいくので、物語にずっと共感できないまま、頭の中で批判しながら読んでしまいました。p4に、「急いでいたわけじゃない。別の通路を通ればいいけど、できなかった」とありますが、ただ「できなかった」でなく、もうちょっと何か表現してほしかったと思います。ここで何か表現されていれば、主人公に寄り添えたかもしれないと思いました。少し残念でした。最初の、暴力を振るった場面が宙ぶらりんのまま、加害者である主人公が被害者として行動すること、それと三津矢さんの加害と被害の話もあって、加害と被害は白黒はっきりつけられない部分がある、ということを描いているのかな、と思いました。裏庭に出てきたじいちゃんが何だったのか、明らかにされないまま終わってしまいましたが、何らかの決着をつけてほしかったと思います。実際に事故にあったときに、もし相手から恐喝まがいのことをされたら、こういう方法がありますよ、という知恵を授けてくれる話としてはいいと思いました。 

アンヌ:初めて読んだ時、あまりにも主人公やほかの登場人物の印象が悪い上に、この先もっとひどいことが起きるんだろうなという予感がして読み進めず、しばらく置いてから読みなおしました。読んでみると、不登校に動じない母の強さや、父親が昔は実はワルだったかもしれないという意外な話や、おじいちゃんと出会う裏庭の話、保険屋の北井の豹変ぶりとか、おもしろい要素がたくさん出てきてほっとしました。 

ヨモギ:私も冒頭の場面でぎょっとなって、主人公にいい感じを持てませんでしたが、作者はかなり考えたうえでこうしたんでしょうね。あとは、村上さんらしいテンポの良い文章で、一気に読めました。途中に入ってくるおじいちゃんとイチジクの場面が、快い緩衝材になっていると思います。ジューシーなイチジク、食べてみたい!坪田譲二の短編『ビワの実』を思いだしました。ただ、絵を描くことの魅力が、あまり書かれていないのが残念でした。闇を描くことについて、もう少し掘り下げて書いてあれば、もっと奥行きのある作品になったのでは? あと、保険会社のお兄さんの変わりっぷりが、ちょっと唐突なのでは? 

ハル:みんな、いろんなことを抱えて生きているのだし、いい面もあればわるい悪い面もあるというのはわかるのですが、登場する大人がみんなどこかちょっと変。「上手に生きていくには」とか「生きづらさ」ばかりで、いわゆる正論をいう大人が誰もいないので、私が中学生のときにこの本を読んだら、主人公にも共感できず、とまどってしまいそうです。世の中、良いか悪いかだけじゃない、というのは、その年齢だからこそ、学びたかったではありますが。 

マリンゴ: 非常に問題があって共感を呼びづらい男の子を主人公に据えて、しかも一人称で書いた著者の勇気に感動しました。なかなか書けないものだと思います。共感できないものの、次々と事件が起こり、それに対して主人公がどう反応するのかなと興味をひかれて、どんどん読み進めることができました。暴力、不登校、介護、そして大人の世界の不条理がてんこもりで、読みごたえありました。特にいいと思った文章がいくつかあります。p188「新しい関係、それを物語というんだ。物語のない人生なんてつまらん。」、p191「ここにいると、体臭も、口臭も、涙の臭いまでまったく同じになっちまう」、p244「いいとか悪いとかで判断するのはもうやめなきゃ。みんなそこを超えたところで、もがきながら懸命に生きている」といったところです。もっとも少しだけ違和感もあって、最後に近いところで、美術部の先生に「暗闇」について話すシーン。いくら人の死を経験して成長したといっても、ここまで素直なキャラに変わるかな? 私としては、主人公が暗闇の絵を描いてみせて、先生に「お! おまえの絵、なんか変わったな」と言わせるくらいの歩み寄り方が自然かなと思いました。あと、タイトルに、もう少し小説のなかのヒリヒリ感が出ると、内容がつかみやすいのかな、と。 

さららん:最初の「いらねえよ、こんなもん」で、いったいどんな乱暴な子なのかと、驚きました。強烈な言葉でした。でも読んでいくと、少しずつ心の中が見えてきて、いいところもいっぱいある子だとわかりました。とんがった言葉をときどき使う悠斗という少年の造型に、中学生や高校生の読者は自然に共感できるのか、聞いてみたいところです。「おりこう」な児童文学には出てこない言葉やモチーフが盛りこまれている部分が、逆にこの本の良さ! 大人の本音とか、だまそうとする部分とか、「善悪を決めようとするためにこの仕事をしているわけじゃない」と弁護士に言われることもあり、人間というものの複雑さを見せてくれる作品でした。おじいちゃんの存在は不思議なままです。混沌状態になったおじいちゃんの裏庭に、作家はどんな意味をこめられたのか、もうすこし考えみないと……。 

レジーナ:冒頭の暴力の場面で、この主人公に最後までついていけるか不安になりましたが、とても好きな作品でした。この年代って、なにかの拍子にキレちゃう子っていて、p213に「自分の心の在りかがわからない」とあるように、自分の心をもてあましていて、でも、世界の中に自分を落ちつかせようとしているというか、なんとか自分の立ち位置を見つけようともがいている時期ですよね。自意識も強くて、ひとりよがりの正義をふりかざして突っ走ることもあるし。p201で、空を見て永遠を感じたり、急にむなしくなったり、そういう振れ幅の大きさや感性の鋭さもよく描かれています。そして、そんな主人公のまわりには、三津矢さんのような大人がいて、失敗を許す社会のありかたが描かれているのもとてもいいと思いました。若いときって、「いい人か悪い人か」とか「正義か悪か」という枠組みでしか見られないけど、主人公もだんだん、謝らせれば解決するわけではないと気づきます。そして、保険屋の前で怒りをこらえたり、三津矢さんが父親を看取れるようになんとかしようとしたり、少しずつ成長していきます。成長することの尊さが描かれている作品だと思いました。認知症の描写も、p68「じいちゃんは、認知症になってから、物と一緒に、たくさんの言葉も失った」、p69「じいちゃんの頭の中で、いろんな言葉と映像が重なり合うことなく浮遊している」など、リアリティがありました。 

ネズミ:おもしろく読みました。最初の場面は衝撃的で、私も「え、蹴ってたの?」と二度見しましたが、前の日に美術部でいやなことがあって、むしゃくしゃして突発的に暴力をふるってしまったというのがわかって、なるほどと思いました。こういう中学生っていますよね。一見とんでもない不良みたいだけれど、中学生同士は「あの子あんなことしちゃって」って思いながら、結構その子を理解している気がします。この作品でいいなと思ったのは、たくさんの大人が描かれていることです。村上さんの『うたうとは小さないのちひろいあげ』(講談社)もそうでしたが、この子の父親、母親のいろんなところを描いています。警官もコンビニのおじさんもそう。両親や大人を批判的に見ながらも、一方で愛されたい、認められたいという気持ちもある、この年頃の子の心の揺れをすごくうまく描いているなと思いました。p14の最後の文「母親はぼくの怒りの理由に興味がない」とか、いい先生だと思ったら、劇場型の指導だったと思いこんで荒れるとか、p107の「ねえ、悠君の中には、いいやつと悪いやつの、二通りしかいないのかな」というせりふとか。混沌としていて、善悪の論理も何も超えちゃっているおじいちゃんが、この子を救うキーになるというのも、なるほどなと思いました。 

西山:非常におもしろく読みました。とても新鮮な感じがした。というのは、近年感じのいい子がでてくるYAが多くて、思春期の若者とおばさんが同じ本で心温めてていいのか、と思うこともあったので(作品を通して世代を超えて感動を共有できるのは素敵なことで、児童文学のよさだと思ってはいるのですが)、久しぶりにとんがった子がでてきて新鮮だった。好印象です。また、最近のYAは、部活とかお仕事もので詳細でリアルな情報自体がおもしろさになっている作品が多いと思いますが、事故処理や法律相談は読んだことない。これって、けっこう大事なとこだと思います。子どもに力を与える。本当のことを知りたいというまっすぐな正義感も王道の児童文学という感じで、好感をもちました。それでいて、きれいごとを出していないのが新鮮。公的なところに行ったときに全然受けつけてもらえない、子どもの無力さが書かれていたのもいいし。清水潔の『殺人犯はそこにいる』(新潮社)をたまたま直前に読んでいたので、調査してどんどんわかっていく展開のおもしろさが、ここにもあってちょっとうれしかったです。表紙とタイトルは、私が感じたおもしろさとはイメージが違うなと感じています。 

カピバラ:私がいちばんおもしろいと思ったのは、警察とか保険屋さんとか弁護士とか、中学生が普通なら関わりのない場所にふみこんで調べていくところです。学校、家庭、部活以外の社会を垣間見るのが新しいと思いました。そして事件の真相が少しずつわかっていきます。冒頭の場面は、えっと思ったけど、いい子が主人公の話はおもしろくないですからね。ほほう、そうきたか、と思いました。でも、どうしてこの子はこんなことをしたのか、読んでいくうちにわからないといけないといけないと思うんですが、あまり納得いく説明がなかったと思います。おじいちゃんとのふれあいとか、いいところもあるけど、最後まで腑に落ちなかった。悩みを抱えた主人公が出てくる話って、かならずどこかにいい大人が出てきて助けになったりするんですが、この作品に出てくる大人たちって、両親も含めてどこか嫌な感じだと思いませんか? 三津矢さんにもはリアリティがないですよ。 

ルパン:おもしろく読みました。この本を読んだあと、人を「いい人」と「悪い人」に分けないようにしよう、と思いました。ただ、主人公には最後まで共感できない部分がありました。特に、p192「あなたはもう、死んじゃう人なんだから」と、面と向かって言うのはひどすぎると思いました。こういうせりふを子供が読むことを思うと……。事故については、はっきりと証明できないままで終わり、これが現実ということで、リアリティがあるのかもしれないけど、読後感はすっきりしないものがありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかった。主人公のこの年齢の少年が成長していく姿をとてもリアルに描いていると思いました。最初は何事も一面的にしか見ていないのだけれど、人間存在というのは多面的なものだということを段々に理解していく。この年齢の子は嫌なら嫌と思う気持ちも強いし、悠斗も、 三津矢さんや担任のムトユラや、奥谷さんや北井さん、そして自分の両親のことも最初は嫌悪の対象でしかない。でも、様々な側面を見ることによって他者のことも自分のことも客観的に見られるようになっていく。最初の暴力シーンはショッキングですが、あまりにも一面的にしか見ずに自分の気持ちに振り回されてしまう少年の状態をあらわしているのだと思いました。この年齢の子どもは、同調圧力に負けてしまう場合が多いと思うけど、この子はそういうことがないのも、ユニークです。子どもが事件解決に乗り出していく冒険を、ファンタジーではなく飽くまでもリアルに描いているのもおもしろい。わからなかったのは、裏庭のおじいちゃんの存在。最初は悠斗が幻影を見ているのかと思ったのですが、父親が若かったときは同じように暴力的だったという事実を初めて知らされたりもする。かといってファンタジーでもないので、そこをどうとらえればいいのか、よくわかりませんでした。

よもぎ:外国の作品には、裁判所などもけっこう出てきたりしますよね。

ハリネズミ:外国のものだと日本の子どもにはいまひとつリアルにとらえきれないところがあると思うのですが、この作品は現代の日本だし、保険会社、警察、病院、弁護士など、日本の今の社会制度がとてもリアルに出てくる。相当調べて書いたのでしょうね。

しじみ71個分(メール参加):とても共感して読みました。主人公の中学生がコンビニの店員を蹴飛ばすという衝撃的な始まりで、まず少年の持つ毒というか闇に魅かれました。店長にとがめられて、決して悪びれもせず、大人のようなずるい言葉がするする出てくることの違和感のなさを、絆創膏のなじみ方に例えた表現はとても好きです。一方、コンビニの一件から警察が自宅に訪ねてきた間に、認知症のおじいさんが家を出てしまって交通事故に遭う。意識不明に陥ったにもかかわらず、轢いた側から損害賠償請求されるという理不尽な出来事から、大人の嘘やずるさを、子どもであることに傷つきながら、正義感に駆られて追究していくという、少年のアンビバレントな心持ちが描かれていて、思春期の頃の自分を思い出し、「あるある」と思いながら読みました。美術部のトラブルから不登校を始め、友だちや担任の行動の裏を読んで疑ったり、自分の子どもらしい素直さを恥ずかしがったりと、揺れ動く心のさまには多くの思春期にいる当事者の子どもたちにも共感できるところがたくさんあるのではないでしょうか。彼を支えるのが、おじいさんと一緒に庭を手入れしてイチジクを育てた経験だったり、友だちのストレートな友情だったり、というのもとても愛おしいです。少年の思うようには問題は解決もしないし、おじいさんも回復しないですが、きちんとした少年の成長物語だなぁと感銘を受けながら読了しました。

エーデルワイス(メール参加):老人性認知症と、交通事故処理が児童文学で直球で取り上げられたのは極めて珍しいのではと、注目しました。私も認知症の母を抱えていますし、父も数年前に運転中に交通事故を起こし(その後説得して運転免許証を返還)、長女の私が処理をしました。身につまされます。主人公の尾崎悠斗が「僕はどうしたら優しくなれるのか?」と、これまた直球! 村上しいこさんの文は説得力があり読みやすいです。イチジクの生える裏庭に、じいちゃんがときどき姿を現す。好きなシーンです。イチジクはヨーロッパ、中東などの昔話にも登場しますが、特別なくだものだと感じています。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


ジェリーフィッシュ・ノート

さららん:親友を失った少女が主人公。どうしてあの子は死んだのだろう?という問いかけに隠された罪悪感が、あの子が死んだわけを知っているのは私だけ、という思い込みにすり変わっていきます。クラゲの存在を通して、少女時代のひりひりする思い出と喪失を描いたユニークな作品です。ゴシックと明朝で、現在と過去(回想)を分け、細かい章立てをして読者に読みやすくしていますね。論文を書くときの構成を借りた点が凝っています。科学的な知識とストーリー(友人の死と、取返しのつかない過ちをどう受けとめるか)が絡まりあいながら進むところがこの本のおもしろさなのですが、私の力不足か、読みとれない部分が残りました。友だちの死を受けいれようともがく主人公の苦しさはよくわかったのですが、行動のすべてには共感できませんでした。

レジーナ:全米図書賞にノミネートされたときから気になっていた作品です。主人公はこうと思ったら、それしか見えなくなるので、おしっこを凍らせてクラスメートのロッカーに入れる場面などは、その気持ちについていけないところもありました。文章は読みやすかったんですけど。あと、p92「時間と空間は同じものだということを知っている。時間のすべての瞬間は同時に存在する」など、ところどころわからない箇所がありました。こうした部分が理解できたらもっとおもしろいんでしょうね。 

ネズミ:まず構成が凝っているなと思いました。論文の書き方を頭に持ってきて章がはじまり、書体が変わっていたり。アメリカのYAのこういうところは感心する反面、ここまでしなきゃいけないかと思う部分もありますが。ストーリーは、友だちを失ったという事実をこの子なりにどう受けいれていくかがメインですね。自分なりに理屈をくりだして、試行錯誤するようすをおもしろく読みました。でも、日本の中1の子とくらべると考えていることが大人っぽく感じて、日本の中1の子が読めるのかなとは思いました。あと、おもしろかったのは家族のようす。ただ両親と兄弟がいてというのではなく、お兄さんにゲイのボーイフレンドがいることがさらっと出てきたり、土曜日だけ父親に会いにいったり、さまざまな感じ方、暮らし方、価値観があるのを見せてくれる本だなと思いました。 

西山:出だしから、最初は観念性についていけませんでした。p4の「三十億」をどんな数字か考えようとして、「三十億時間さかのぼる」という置き換えから置いてけぼりを食った感じです。すごい時間だ、とポーっとするでもなく、ピンときませんでした。いかにもきれいな表紙の感じと、奇妙に観念的な思春期と、先ほどから話題になっているおしっこの復讐場面が、うまく、統一したイメージとならなかった。感覚としては既視感があるけれど、研究レポートの仕立てとか、部分部分にハッとさせられ新鮮さも感じつつ、読み始めたら加速してあとは一息に読んだんですが……どうも心に定着しない感じです。

カピバラ:私はとてもおもしろかった。心に傷を負った子どもを描く作品は多いので、共感してもらうためにどう表現するか、作者は工夫をする必要がありますよね。そうでないと皆同じような雰囲気になってしまいます。その点、この作品には新しい工夫が感じられ、意欲作として評価できると思いました。リアルタイムの生活を描いているところ、亡くなった親友との幼いころからの思い出を書いているところ、クラゲについてなどを自分で調べていくところ、と三つの局面から構成され、1章1章が短いのでテンポよくどんどん進んでいきます。つらくて読めない部分は飛ばしたり、逆にじっくり読んだり、いろんな読み方ができるし、読後感がいいですね。

ハリネズミ:私もおもしろく読みました。時間を前後させる書き方ですが、書体が変えてあるのでわかりやすいですね。ゲイのお兄さんのアーロンが、家族にすんなりと受け入れられているという設定もいいですね。p54の理科の教え方なんかも、楽しくていいな、と思いました。ただ、主人公のスージーは12歳なので、無謀なこともするとは思いますが、シーモア博士に手紙を書きもせずに、家族のお金を盗んでひとりで会いにいこうとします。計画のほかの部分は綿密に計算されているので、そこはなんだかちぐはぐな感じがしました。自分のおしっこを凍らせてフラニーのロッカーに入れておくという部分は、それほど切羽詰まっていたのかと思う反面、強烈なイメージが残るのでストーリーから浮き上がっている感じもしました。イルカンジクラゲのことがずっと出てくるので、最後は、そのせいでフラニーが死んだということが証明されるのかと思っていましたが、肩すかしでした。p56に「大事なことは話し、それ以外は話さない」とありますが、すぐその4行後には「わたしはもう決めたの、話はしないってね。その夜だけじゃなく、たぶんもう二度と」とあって、実際スージーは一切話さなくなる。「大事なことは話す」んじゃなかったの?と不思議でした。ところどころで女性の会話の語尾に「わ」がついていますが、今「わ」をつけて話す人はいないのでは? 

コアラ:小学校高学年から中学生にかけての、女の子同士の関係が変わっていく話で、仲良しグループの付き合いとか裏切られた思いとか、ヒリヒリするような感じがよく表れていると思います。主人公スージーの、フラニーに対する執着は度を越していて、恋愛感情に近いと思いました。フラニーがクラゲに刺されて死んだということを証明してもらうために、クラゲの研究者に会いにオーストラリアに飛行機で飛んでいく計画を立てて、家族には別れの挨拶をするという展開は、支離滅裂だと思いましたが、もしスージーが同性愛の傾向を持っていて、それに苦しんでいる状態だったとしたら、理解できるようにも思いました。もちろんこの話は、フラニーの死が受けいれられなくてもがいているものだと思うので、最後の方でスージーが飛行機に乗なくなったとき、「フラニーはもう帰ってこない」「二人の友情は、あのときああいうふうに終わったままだ」とあって、主人公もフラニーの死を受けいれられたんだな、ということがわかって、ほっとしました。クラゲのことについては、あまり驚きもなく読んでしまいましたが、クラゲという透明感のある生き物のおかげで、陰湿ないじめが描かれていても、少し幻想的な、透明感のある物語になっていると思います。学術書っぽい本のつくりや、過去のストーリーが現在のストーリーに挟まっていて、過去のできごとがだんだんわかってくるという形式はおもしろいと思いました。 

アンヌ:クラゲのこととか、論文のような構造とかおもしろい仕組みのある物語なのですが、最初の、親友の溺死と海というイメージが強すぎて、私はなかなか物語の中に入りこめませんでした。後半のタートン先生とのやりとりとか、ジャスティンとの友情とか、父親が恐竜のことを言いだすあたりとか、好きな場面はあるのですが、おしっこ事件のところが強烈すぎて、飛んでしまいました。また、主人公の言葉がきれいで知性を感じるのに、オーストラリアに行こうとして挫折するあたりの子どもっぽさとかに、複雑な年ごろを描いているなと感じました。 

ハル:私はとてもおもしろかったです。クラゲや原子の世界の神秘的な話と、スージーの現在と、最悪の別れを迎えるなんて知らなかった、平和なころの回想と、交互に入る展開にも引きこまれました。こういった友達とのすれちがいに、実際に悩む子も多いのではないかと思うので、スージーはどういう答えを見つけるんだろうと、とても興味深かったです。欲を言えば、「おしっこ」のインパクトが強いのが残念でした。ちょっと共感のハードルが上がってしまったかなぁという感じがします。また、ラストではジャスティンだけでなく、サラという新しい友だちもできそうで、ここでも胸が熱くなりましたが、読後しばらくしてからふと、サラの顔がきれいだという描写は必要なのか?と、ちょっとひっかかりました。これからおしゃれや恋も、サラと一緒に覚えて成長していけそうだ、ということなんでしょうか。 

マリンゴ: 冒頭の部分で、二人称の小説かと思い、読みづらそうだと警戒してしまいました。そうではなくて助かりました。100ページを超えるあたりから惹きこまれて、最後までおもしろく読みました。主人公の危うさがよく描かれていると思います。おしっこを凍らせるところとか。小さなエピソードだと思っていたナイアドさんが、クライマックスをもりあげる要素として再登場したのが興味深かったです。あと、あとがきに、クラゲのノンフィクションを書くつもりがボツになって、この作品に生かしたという裏話があって、とても興味深かったです。 

ルパン: 友だちとけんかしたまま死なれたら、十代の少女はどれほどつらいだろうかと考えさせられました。死因がわかってもフラニーが帰ってくるわけではないことに気づいたスージーは、きっとフラニーが死ななくてももう帰ってこない、ということを、心のどこかで知っていたのかもしれません。一番好きな場面は、スージーがフラニーのママに電話するところと、サラ・ジョンストンと仲よくなるところです。 西山:おしっこの件は、もしオーブリーみたいになったら「秘密のメッセージ」を送って、と言ってた(p69)、そのメッセージなんですよね。いや、これではわからないだろう、と思いますが、それはそれとして、絶対なりたくないと思ってた女の子に向かって思春期の階段を上っていってしまうフラニーと、取り残されたスージーのとまどいと悲しみ、怒りは印象的です。そういう意味で、スージーは「普通」の成長から外れているといえるのかもしれない。その生きづらさは相当なものだと思います。 

アンヌ:おしっこの事件についても学校側は特に追及していないのが不思議でした。 

西山:フラニーはみんなが知っている、クラスの子なのに、新学期に先生が特に触れないのが、私には解せない感じがありました。別の学校だっけと、読み返したぐらいです。(読書会の席では言いそびれましたが、こういう風に同じ学校の生徒の死について触れないのは、悪しき日本的やりすごしだと思っていました。「日本的」とは言えないのでしょう。) 

ハリネズミ:アメリカの学校では、個人的なことを話したりしないんでしょうか?

アンヌ:ちょうど『ワンダー』の続編にあたる『もうひとつのワンダー』(R・J・パラシオ/著 ほるぷ出版)を読んだあとだったので、学校のかかわり方の違いを感じました。あの作品では、学校がいろいろな場面でかかわっていますよね。公立校と私立校の違いなのでしょうか。

しじみ71個分(メール参加):素晴らしい成長物語だなと思いました。アスペルガー症候群を思わせるところもあり、感情の表現やコミュニケーションが不得手で繊細で、精神的には幼さを残しながら、同時に高度な知性にあふれた少女が描かれており、最初は遠いところにいるように感じられる主人公にいつの間にか寄り添って読み終えられるという作品でした。彼女の行動は大人には理解しがたいところもたくさんあって、痛々しく切ないのですが、親友だった少女の死を受け入れて乗り越えるために、クラゲの生態調査に没頭し、最後には外国のクラゲの専門家に会いに行く冒険を企てて失敗します。その落ちはなんとなく予想できるけれども、冒険の失敗が判明したときには共に落胆している自分がいました。そして、失敗したときに、家族のあふれるような愛に改めて気づかされる場面では、心がじわりと温かくなりました。理科の授業を通して、孤立していた教室で新しい友達を見つけられますが、その友達がADHDだったり、お兄さんの恋人が同性の青年だったり、背景にインクルーシブな社会への志向が見える点も好きです。現在の物語と並行して、亡くなった親友との出会いから最悪の別れまでが描かれ、その別れの方法は読む側の想像を超えて盛り上がりを迎え、とても成功していると思いました。何よりクラゲの知識が一杯詰まっているのはとてもおもしろかったです。クラゲにも興味がわくし、クラゲの絵も素敵でした。

エーデルワイス(メール参加):理系女子に憧れます。私自身感覚的、情緒的なので、こんなふうに理論的に考えられたらと思います。小学生、中学生の話すことをありのままに黙って聴くことにしていますが、スージー・スワンソンのように、感じることを克明に語ることができたら(心の声ですが)いいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


カトリーン・シェーラー作『キツネとねがいごと』

キツネとねがいごと

『キツネとねがいごと』をおすすめします。

今回は哲学的な絵本を。作者は、言語障碍の子どもたちに美術を教えながら、イラストレーターとしても活躍しているスイス人のカトリーン・シェーラー。年老いたキツネ(この作者の絵本には、キツネやネズミを主人公にした作品が多い)が、朝目をさますと、鼻先にはリンゴのにおいがただよい、耳にはツグミの鳴き声が聞こえてくる。はっとして外に飛び出てみると、木に実った大事なリンゴをツグミがつついている。ウサギやネズミもやってきて、だれも年寄りキツネなど怖がらず、どんどんリンゴの実を食べてしまう。

キツネには体力も敏捷性もないものの知恵があった。罠をしかけると、イタチがかかる。なんとこのイタチは魔法が使えるというので、逃がすかわりに、リンゴの木に触れた者はみんな木にくっつくという魔法をかけてもらう。やがてリンゴの木にはだれも近づかなくなり、キツネはリンゴをひとりじめ。と、ここまでは普通の絵本なのだが、ここから先がちょっと違う。

ある日、死神がキツネを迎えにきた。ところでこの死神、キツネの顔をしている。ふーん、そりゃそうだよね。人間やウサギの顔じゃおかしいものね。で、まだ死にたくないキツネが、最後に食べたいからリンゴをとってくれと死神を木に登らせると、案の定、死神は木にくっついて降りてこられなくなる。

さあ、これでキツネは永遠に生きることができるようになった。でも、それって、ほんとに幸せなの? 死神が困った顔をするどころか、ほほえんでいるのはなぜ?

原書名には「死」という言葉が入っているから「死」がテーマではあるのだが、この絵本から受け取るものは読者の年齢によって違うかもしれない。別紙に描いたものを切り抜いてコラージュした絵は、時とともにキツネの表情が変わっていくのをうまく表現している。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年8月14/21日号掲載)


角野栄子『靴屋のタスケさん』

靴屋のタスケさん

『靴屋のタスケさん』をおすすめします

「わたし」は、靴屋のタスケさんの手仕事に興味しんしん。金づちでトントンたたいたり、火で何かをあぶったり……。作者の子ども時代が背景にあるので戦争も影を落としているけれど、タスケさんの職人技に見とれる体験は楽しい。夏休みはプロの仕事を見るいいチャンス。絵も赤が印象的。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年7月29日掲載)

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『靴屋のタスケさん』をおすすめします。

職人の手仕事に興味をひかれる戦時下の幼い少女の気持ちをみずみずしく描いたフィクション。舞台は1942年の東京。小学校1年生の「わたし」が住む地域に、若い靴職人のタスケさんが店をだす。少女は放課後になると靴屋に行き、タスケさんのプロの仕事ぶりに見とれる。極度の近眼のため徴兵を免れていたタスケさんだったが、やがて戦況が悪化すると少女の前から姿を消す。兵隊にとられたのだ。おだやかな日常と、暴力的な戦争の対比がうかびあがる。 キーワード:戦争、友情、切なさ

(JBBY「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<読みもの>掲載)

 


みずまき

『みずまき』をおすすめします。

かんかん照りの暑い日には水まきがいちばん。女の子がホースで勢いよく水をまくと、あっちからもこっちからも小さな生き物が顔を出す。
この分じゃ、この女の子もびしょぬれだな、と思っていると、最後にはちゃんと浴衣を着せてもらって涼しそう。
命の豊かさが感じられる絵本。品切れ中なので図書館で見てね。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年7月29日掲載)


2017年07月 テーマ:走り出す女の子からひらかれる物語

日付 2017年7月21日
参加者 アンヌ、コアラ、西山、ネズミ、ハリネズミ、ハル、ルパン、レジーナ、
(エーデルワイス)
テーマ 走り出す女の子からひらかれる物語

読んだ本:

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きみのためにはだれも泣かない

ルパン:これは…いまひとつでした。人物がいっぱい出てくるし、ひとりひとりがデフォルメされすぎてるけど誰が誰だかわからなくなるし。しかも、なんだか大人が中学生のかわりに書いています、っていう感じがしてしまって。と思ったら、これは別の物語の続きの話だったんですね。なるほど、って思いました。もとの話を読んだらもっと共感できるんでしょうか。

レジーナ:登場人物の会話や心情にリアリティがあり、今の中学生に届けようとして書かれた作品だという印象を受けました。でも、私はちょっと入りこめませんでした。デートDVなど現代のテーマは入っていますが、1冊丸ごと、誰が誰を好きで、誰と誰がくっついて……という内容で。人を愛することの喜びや、好きになったときに世界が一瞬で輝くような感じが伝わってこないからでしょうか。ロジャーをなくしたおばあちゃんの気持ちがわからない鈴理は、アスペルガーかなにかの発達障がいがあるようです。描き方次第でもっと魅力的な人物になったのに、この本ではあまり共感できませんでした。

ネズミ:私は苦手でした。どう言っていいのかわかりません。人物ひとりひとりがデフォルメされて、スペックのなかで動いていく感じで、人物の展開に意外性がなくて。現役の中高生が読んで、どんなことを思うのだろうと思いました。共感できるのか、安心するのか、警戒するのか、読んで救われた気持ちになるのか。それがよくわからなかったので、みなさんの意見を聞きたいと。一人称って、みんなおしゃべりになってトーンが似てきてしまいますね。どんなふうに手渡せる本なのか、私はよくわかりませんでした。

西山:章ごとに語り手を変えるというやり方はこの10年、あるいはもう少し前から本当によく見ますが、主体が変わっても、あまり別の人格に思えない場合も多いと感じています。そんな中、梨屋さんの作品は、例えば『夏の階段』(ポプラ社)にしても、本人が思っていることが、他の人からはぜんぜん違って見える、ちゃんと別の人間を見せてくれるので、この手法が生きていると思っています。今回の作品もそう。ただ高校生の複数の恋愛感情が交錯すると、ちょっと、誰のセリフかわからなくなってくるところは何箇所かありました。鈴理ちゃんは、なにかの障がいを持っているのかなと思いながら読みました。でも、それがp240あたりで、そういう次元の話でなくなる。鈴理ちゃんに障がいがあるとかないとかは関係なくなる気がしました。月乃が他者と決定的に分かり合えないことを思い知らされたことで、新しい関係の持ち方へ回路が開かれている。ここがタイトルにも直結していて、メッセージの要だと思います。p29の「他人に迷惑をかけないためには、自分の心に迷惑をかけるしかない」という月乃の感覚とか、多少自己陶酔的な気分にさせちゃうかもしれないけど、共感する中高生は多いのではないかと思います。

ハル:みなさんがどんな風にこの小説を読まれるのかなぁと、いろいろご意見をうかがいたいと思っていました。確かにたくさんのさまざまな人物が出てきますし、実際にはこんなに特徴が顕著な子っていうのはいないのかもしれないけれど、とてもこまやかに練られているので、物語の世界ではリアリティをもって、きちんと生きている感じがします。日常の中で、中高生だけじゃなく大人も抱くような、友情間でのいろいろなモヤモヤに対して、ひとつの答えを示しながら描いているので、読者は「私が言いたかったのはこれなんだよね」「あのとき私があんな風に思ったのは、変じゃなかったんだ」と、安心できるんじゃないかと思います。若い不確かな心情に寄り添おうとする作家の姿勢が、強く感じられる作品だと思いました。

コアラ:私はあまり入りこめませんでした。出だしが鈴理だったので、鈴理に沿って読んでいたら、あまりにも周りが見えていない言動が多くて、読むのが辛くなりました。寄り添っているのでなく突き放すように書いている感じがしました。それでも、中学生が読んでも高校生の気持ちがわかるように書いてあるし、高校生が読んでも中学生の時はそうだったというように自分の成長がわかるように書いてあるとは思いました。どきっとするタイトルですが、後書きを読んでもどういう意味かよくわからないというか、あまりピンときませんでした。ただ、カバーの絵は、何か物語がありそうで手に取りやすいとは思いました。

アンヌ:最初は月乃さんの視点から書かれているのかと思って読み始めたのですが、途中でそれではついていけなくなりました。他人を突き放してみているような姿勢をとりながら、実は自分を整理できていない。ああ、こういうところが中学生なんだという感じがしました。とても古典的なぐらいに能天気に書かれている彗が物語を動かしてするところにも、リアリティを感じました。とにかくこれだけの人数の登場人物を短い言葉でよく書き分けたと思います。うわべは幸せそうだったり素晴らしい人に見える人間でも、心の中に闇を抱えていたりすることが語られていて、デートDVについては被害者だけではなく、加害者へのメッセージもあります。新しいヤングアダルトの書き手だなと感じました。

ハリネズミ:私はおもしろく読みました。たしかに登場人物は多いですが、デフォルメされて特徴がはっきり出ているので、読んでいて混同することはありませんでした。各章がそれぞれの人物の一人称なので、文体も違いますし。普通ギャルメイクをしている人は自分の素を出したくないと思ってわけだから、周りの人の世話をしたりしないと思いますけど、夏海は違いますね。鈴理だけちょっと浮き上がっているように思いましたが、それはこの子が何かハンディを抱えているからでしょうか。それぞれが個性的ですが、表紙の絵はどれも同じ顔なのが残念。私がいちばん気になったのは未莉亜ですが、未莉亜の章はありません。別の巻で出てくるのかな。全体にユーモアもあって、楽しく読めます。このタイトルは反語的な表現なのでしょうね。

西山:人が混ざるというのではないんですが。単純に、会話が続いているとだれのセリフがわからなくなるところがありますね。

ハリネズミ:どうしてこういう書名なのかなあ、と私も思ったのですが、後書きに「自分の心の動きを感じ取れることは、だれかの心をおもいやる力にも他人のために心を動かせるやさしさにもつながるんじゃないのかな。(中略)悲しかったりさみしかったり苦しかったりしたときに、だれかが代わりに泣いてナカッタコトにしてくれるわけではないのですから。そんな意味を込めて、逆説的ではありますが『きみのためにはだれも泣かない』というタイトルをつけました」とあって、納得しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


日小見不思議草紙

ハル:お話はおもしろくて良かったので、気になったのは本のつくりのことだけです。飯野さんの絵は私も好きなのですが、結構、なんというか、しっとりとしたきれいなお話のときに、飯野さんの絵がバーンと出てくると、笑いたくなってしまうというか。物語と絵が合っているのかなぁ?と思わなくもないです。それから、本がとても重たいのが気になりました。ランドセルに入れたら重たいだろうなぁと思います。

西山:この作品、大好きです。今年度の日本児童文学者協会新人賞受賞作です。入れ子にしている作りが効いていて、人を食っている感じ、「騙り」をおもしろがっている感じが本当に読んでいて愉快で好きです。例えば、「三の巻 おはるの絵の具」は本題の話自体はどこかで見たことがあるような印象ですが、「日小見美術散歩 その七」とした絵の解説が本当に愉快。「(日小見市役所観光課発行 季刊『ひおみ見どころガイド』春号より)」(p108)なんて、もう楽しいなあ! 話で一番好きなのは「一の巻 立花たんぽぽ丸のこと」です。子どもの頃、多分学研の「学習」だったと思うのですが、今江祥智の「たんぽぽざむらい」を読んでとても、好きだったんです。これも、戦意を喪失させる、ゆるさがある。子どもの殿様が楽しそうに笑っているのが、しみじみと幸せな景色。人を殺したくない六平太のこの物語を、私は、自衛隊員に読み聞かせしたいと、結構真剣に考えています。

ネズミ:私もおもしろく読みました。納得のいくまで時間をかけて、じっくりていねいに書いた作品という印象がありました。地図までのっているので、自分が今いる町にも、昔こんなふうに、いろんな感情を持ちながら生きていた人がいたんだろうな、って思えてきます。物語の楽しさ、理だけでは片付かない不思議を味わえる作品だと思いました。

レジーナ:ずっと読書会で読みたいと思っていました! とても好きな作品です。人と動物が入り交じって暮らす不思議な町を舞台に、血のつながらない親子や、恋人たちが心を通わせる様が描かれています。人も虫も動物も、いろんな命を等しいものとしてとらえている感じがします。生きることの美しさやヒューマニティを、声高にではなくそっとうたう作品です。読みおわったあと、世界が少しだけ違って見えて、自分が住む場所にもこんな不思議がかくれている気がしてきました。「おはるの絵の具」はちょっとセンチメンタルで、昔の日本の児童文学にありそう。でも、気になるほどではありませんでした。かんざしをさした熊など、飯野さんの絵はユーモアがあり、作品の世界にもよく合っています。p35で、サルが「おなじだよ。おなじ」というのですが、その意味がよくわかりませんでした。

ハリネズミ:どんな理由にしろ人を斬ったという点では同じ、ということじゃないでしょうか。

アンヌ:最初は、サルがそれまでもいろんな人に刀を渡してきていて、そんな人たちとおまえも同じだったんだなという意味で言ったと思っていたのですが、猿が刀を取り戻すわけではなく刀も埋められてしまうので、違うようですね。

西山:「おれは……おれは……。」の「……」には、「斬りたくなかった」とか「斬るつもりはなかった」が入るのが自然な気がするので、「おなじ」というのは、やはり、人を斬ったことに変わりはないという突き放した一言ということになるのかな。考えさせますね。

ルパン:うーん、おもしろかったけれど、私はまあ、ふつう、っていう感じでした。どの作品も既視感があって。たとえば、「おはるの絵の具」の章は、あまんきみこの『車のいろは空のいろ 白いぼうし』みたいだ、とか。

アンヌ:おもしろかったけれど、それぞれの作品を読み込んで行くと、全体にうまく収まりをつけてしまっているところが逆に残念な感じがしました。一の巻では忠臣だった侍が四の巻では実は熊だったりする意外性や、その奥方や女中が熊の姿なのに紅を指していたりするという物語にしかありえないリアリティがおもしろいと思いました。作品としては、三の巻の「おはるの絵の具」の話が心に残りました。主人公が師匠の言うとおりに、おはるがくれた絵の具の色を再現できるように努力したり、江戸に上がって修行して御用画家として藩に仕えたりすることもなく放浪し、水墨画家となり色を使った絵を描かなくなってしまう。稲垣足穂が『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(ちくま日本文学全集)で、この話のようにこの世ならぬものに意味もなく愛されてしまう経験によって「主人公たちは大抵身を持ち崩してしまう」と言っているのを思い出しました。

コアラ:すごくおもしろく読みました。連作の物語を読むおもしろさを1冊たっぷり味わいました。物語の前後に挟まれている文も、現代から江戸時代の物語にすっと入っていけるようになっていて、うまいなと思いました。「立花たんぽぽ丸のこと」では、六平太の鼻にたんぽぽがぱっと咲く場面、挿絵もおかしくて、電車の中で読んでいて笑えてしかたなかったです。「草冠の花嫁」で「おこん」という女の子が出てきてキツネだったので、「おせつネコかぶり」で「おたま」という女性が出てきたのでネコだなとピンときました。「龍ヶ堰」の上田角之進がクマでハチミツづくり、というのも納得です。「おはるの絵の具」は「おはる」という女の子なので春の精霊かな、と思ったら蝶で、意外だったし切ないラストで、私はけっこう好きでした。「おわりに」も日小見の観光ガイドのようになっていて、行ったら楽しそうと思いました。一番最初の地図を見返すと、物語で馴染みになった由庵の診療所があったりして、また物語を思い返したりしました。本を読み終わって電車を降りたら猫が通っていて、「あ、ネコガミかな」と思ったりして、読む前と読んだ後では、世界が違って見えました。

ハリネズミ:私もおもしろく読みました。最初は人間だと思っていたのが、獣だということがわかってくるんですね。幽庵先生もネコだし。飯野さんの絵はいいですね。登場するのが人間界と動物界をいったり来たりする者たちなので、ぴったりの気がします。一つ一つはよくある物語ですが、時空を超える仕掛けがあって、過去の歴史と今がつながるように書かれていますね。その仕掛けが見事だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


いたずらっ子がやってきた

コアラ:最初に「1911年デンマーク領ボーンホルム島」とあるのですが、何か事件があったわけでもなく、なぜその時代設定なのかわかりませんでした。単に今より窮屈な時代というだけでしかなく、なぜ今、この現代に、その時代の物語が必要なのかわかりませんでした。読んでいていろんなところで『赤毛のアン』を思い出しましたが、『赤毛のアン』の方がずっと心に残ると思いました。最後まで読みましたが、私はあまりおもしろいとは思いませんでした。

アンヌ:時代設定が1911年というのは、作者が古い時代の話をデンマーク人の夫の親戚等から聞き書きして書いたからではないかと思いました。題名に「いたずらっ子」とありますが、主人公が自主的にいたずらをするのはp.182のアンゲリーナのブルマーを取る場面だけかもしれません。この場面で、おばあさんなんだと思っていた島の女性が思いっきり走ったあげく、みんなで昔を思い出して女の子のように笑い転げて、それから「おばあさん」であるのをやめてしまう。型にはまった大人から、女の子だった自分を取り戻していく感じがして好きです。註が見開きの左ページの端に載っているのは、読みやすく感じました。

ルパン:おもしろく読んでいるところですが、まだ途中です。これまでのところでおもしろかったのは、死んだ七面鳥が生き返る場面です。夜中にひとりで生き返っているところとか、想像するとゆかいです。今、気になっているのは、母親が死ぬまでどういう暮らしをしていたかということです。父親が亡くなって、この時代の母子家庭のはずなのに、お手伝いさんがいたり。けっこう裕福な暮らしをしていたらしいので、財源はどこにあったのかなあ、とか。いずれにしても、都会のぜいたくな暮らしをしていた女の子が、その価値観を田舎の生活に持ち込むわけですが、ここから先、そのへんのところ、どう折り合いをつけていくのか、続きが楽しみです。絵は、好き嫌いがあるかなあ、と思いますが、私はレトロな感じで悪くないと思いました。

レジーナ:全体的に私には読みにくく、作品の世界に入っていけませんでした。たとえば33ページの「なによりうれしいのは、おばあちゃんがわたしに帽子をあんでやりたいと思ってくれたことだ」で、子どもの側から見たときに、「(祖母が自分に)あんでやりたい」という言い方をするでしょうか。先生への手紙で、上着が変だと書いていますが、この書き方だと無神経な感じがして、主人公に共感できません。昔の話なので、体罰のシーンもけっこうあり、この時代設定にした意味もよくわかりませんでした。

ハリネズミ:「あんでやりたい」は、それでいいんじゃないですか。私はひっかかりませんでした。文が長いから読みにくいというか所はありましたけど。

ネズミ:おもしろい本なんだろう、と思って読みました。母親の死をどうのりこえるかというのがテーマでしょうか。互いになじみのない主人公と祖母が共に暮らすなかで死を乗りこえて生きていくというのはすてきで、いつの時代にも通じるテーマですね。でも、どこか違和感がある。前後がつながらない表現がちょこちょこあって私はすっと物語に入れなかったので、おもしろいと言い切るのはちょっと、という感じです。たとえば、p33で、毛糸の帽子のボンボンのことを、「おばあちゃんがあんでいた毛糸の玉だ」と言っていますが、ボンボンは編むのでしょうか? p36の5行目「わたしはすごくうれしくなって、そのあとはもうおしゃべりができなかった」というのは、どういう意味なのでしょう。また、シチメンチョウがガボガボゴボゴボ鳴く、という表現が出てきますが、この擬声語でいいのかなあと思いました。p187の後ろから3行目「元気で、型やぶりな子だったんだよ」の「型やぶり」と「子」の組み合わせも、私にはしっくりしませんでした。ニシンの燻製の小屋に入って、ネコがついてくるなど、想像するとすごく楽しいのですが。全体のリズムや盛り上げ方をもう少し工夫してくれると、もっと楽しい作品になったんじゃないかと思いました。字組みやルビを見ると、高学年からの作りに見えますが、主人公と同じ10歳くらいの子どもでも、内容としては楽しめそうな気がしました。レイアウトのことを言うと、p7の最初、「一九一一年 デンマーク領ボーンホルム島」は四角で囲まなくてもよいのでは?

ハリネズミ:北欧の国はジェンダー的には進んでいると思っていたのですが、この本では女の子がずいぶん差別されているみたいですね。この時代の田舎だからでしょうか?

西山:ノリがわからない、とういうのが全体的な印象です。失礼な言い方にはなりますが、応募原稿にときどきある感じ。書きたいこと、醸し出したい雰囲気はあるけど、笑わせたいというのもわかるけど、それが一つのまとまった印象にならない感じです。文体の問題かなと思います。燻製小屋のところがおもしろくて、そこあたりからは笑えるようになったのですが。冒頭のおさげをヤギに食べられてしまうというのが、笑うところなのか、どう受け取ればよいのか本当に戸惑いました。p13のおばあさんに手を叩かれたシーンは一瞬で心が冷えたというか、とても深刻にショックを受けて、だから、なかなか書かれているあれこれがユーモアとして受け取っていけない。どう読んでいいかわからないということになっていたと思います。それから、七面鳥の大きさを「お茶箱くらい」とたとえている(p21他)けれど、日本のお茶箱を想像すると大きすぎるし、ましてや今の子どもがお茶箱を思い浮かべられるとは思えません。伝えるための比喩のはずがそうなっていない。

ハル:みなさんのご意見をうかがいながら、確かにそうだなぁと思っていました。あとになって、いろいろな場面を絵にして思い浮かべるととてもおもしろいのに、読んでいるときは笑えないというのが残念ですよね。物語の中で学校の先生に宛てた手紙が出てきますが、子どもが書いたとは思えないような手紙です。大人が、子どもの頃に大人から受けた不愉快な出来事を思い出しながら、「あのとき、ああ言ってやればよかった、こう言ってやればよかった」っていう思いの丈をぶつけたような。手紙だけじゃなく、全体をとおして、主人公の女の子の向こうに大人が透けて見えるような感じがしました。

ハリネズミ:あの手紙は、とても10歳の子の手紙とは思えませんね。いくら賢い子だとしても。

ハル:絵も、攻めてるなぁと思います。ダメというわけではないですが、どうしてこの絵を選んだのか、編集の方にお話を聞いてみたいです。

ハリネズミ:インゲが前向きに生きていこうとするのは、いいですね。物語もなかなかおもしろい。死んだと思っていたシチメンチョウのヘンリュが生き返るところとか、燻製ニシンの小屋で寝たらいつまでも匂いがとれなくてネコがついてくるところなど、愉快です。ただ、インゲのいたずらが、子ども本来の生きる力から出てくるものと、単なるドタバタ(アンゲリーナのブルーマーを持って走り回り、追いかけてきたアンゲリーナのスカートを犬が食いちぎる場面など)と両方あって、それがごちゃまぜに出てくるのが気になりました。それと、舞台はデンマークで、デンマーク語の世界だと思うのに、原書が英語のせいかブロッサム、チャンキー、プレンティなどいくつかは英語のままで出てきます。できたら著者に問い合わせるなどして、全部デンマーク語でそろえてほしかった。みなしごのクラウスに対するところは、昔のチャリティの精神ですね。

ネズミ:カタカナ名の部分ですが、番ねずみの「ヤカちゃん」みたいに、意味をとって日本語にするとか?

ルパン:p78に「民衆学校」とありますが、これは何のことでしょう?

ハリネズミ:ところどころ、注があった方がいいな、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


2017年06月 テーマ:絵にまつわる物語

日付 2017年6月30日
参加者 アカザ、アカシア、アンヌ、カピバラ、すあま、ナガブチ、西山、ネズミ、
野坂、ハル、マリンゴ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 絵にまつわる物語

読んだ本:

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オイレ夫人の深夜画廊

ナガブチ:この作品は、難解でした。日本人の作家さんとは思えない文章でした。ただ、難しいところや描写を読み飛ばしても、なんとなく読める、ストーリーは追えるなと思いました。

レジーナ: 同じ作家の『ドローセルマイアーの人形劇場』『アルフレートの時計台』と同じように、雰囲気のある作品です。ドイツの冬の静謐さ、重苦しい感じはよく出ているのですが、物語でぐいぐいひっぱっていくような作品ではないので、読み手を選ぶ本です。わたしはあまり入りこめませんでした。雰囲気を味わうようなこういう本も、あっていいとは思いますが。

ネズミ:物語の世界にすっと入っていけました。確かなイメージが浮かんできて、うまいなと思いました。夜だけ開く画廊で、出会うべきものに出会って、最後に主人公の人生の方向が変わるというのも魅力的。物語の世界を楽しめました。このあいだ読んだ同じ著者の『アリスのうさぎ』(偕成社)よりも好きでしたが、主人公が青年というのは、子どもにはとっつきにくいでしょうか。こういう本がたまにはあっていいと私は思いますが。

西山:特に付箋をはることもなく、さら〜っと読んでしまいました。なぜか、安房直子をふと思い出して、ふわっと懐かしい気分を味わいました。だから、なに、という感想も特になく、すみません。

ハル:なんだかこれからおもしろいことが起こりそうなんだけど……眠い、と何度も心地よい眠りに誘われながら読んだら、ラストでぞくっとくるほど感動したので、こう言うのも変ですが、最後まで読んでよかったです。出版社のホームページでは読者対象が小学5〜6年生となっていましたが、どこまで読めるんだろう? というのは判断が難しいところだなと思います。

マリンゴ:最小限の言葉で、異国の不思議な空間を描き出すのは、さすが斉藤さんだと思いました。ただ、広場に行ったあたりから、私の想像力が追いつかず、イメージが曖昧になってしまいました。読後感はいいです。ただ、さらっとしていてあまり後には残りませんでした。p134の「だれだって、ヒントに出会うのです。ヒントは連続してあらわれますからね」は、「わかるわかる」と、とても納得できました。

すあま:私は『アルフレードの時計台』よりもおもしろかった。ただ、前半がまどろっこしい感じで、物語にうまく入っていけなかった。主人公が子ども時代にサモトラケのニケの頭と首がないのがこわかった、と感じたことに共感できた。著者はたくさんの作品を書いているが、これはあえて海外の作品のような感じにしている。登場人物の名前が難しいので、日本の物語を好んで読む子どもには読みにくいかもしれない。

アカシア:これは連作の3冊目ですね。1冊目の『ドローセルマイアーの人形劇場』には、ふしぎな人形と人形遣いが出てくるし、2冊目の『アルフレートの時計台』にはタイムファンタジーの要素もあって、どちらも不思議さの度合いがもっと濃厚です。この3冊目は、それに比べると、オイレ夫人のキャラもそうそうくっきりはしないので、単発の作品としては弱いかもしれません。また、リヒトホーフェン男爵が現れて、フランツが小さい時グライリッヒさんにあげた木のライオンを取り戻すという要素と、サモトラケのニケの顔がわかるか、という要素が入り交じっているので、読者がくっきりとした印象をもてない理由は、その辺にもあるかもしれません。ただ、前の2作に登場したクラウス・リヒト博士、時計台やアルフレートの絵、ドローセルマイアーさんなども再登場してきたり、2作目で不気味な役割を果たしていたフクロウがオイレ夫人と重なっているなど、連作で読むと、よりおもしろいのかと思います。
 画廊に立ち寄った哲学の学生であるフランツは、彫刻家になる決心をします。1作目では高校の数学教師だったエルンストが人形遣いになり、2作目でもやはり別の道を志していたクラウスが、親友の死に直面して小児科医になるなど、主人公たちはみんな、ふとしたきっかけをもらって、これまでとは別の道を歩み始めるというところも、3作に共通しています。p32の「どういたします?」は「どうなさいます?」かな。

ルパン:こういう雰囲気の物語は好きなのですが、オイレ夫人に魅力がなく、期待外れの感がありました。また、サモトラケのニケとかミロのヴィーナスの「失われた部分」に想像力がかきたてられる、というのは言い古されていることなので新鮮味がなかったです。でも、子どもにとってはおもしろいのかもしれません。p31の「複数形」に関しては、そこまで翻訳風に作らなくてもいいんじゃないかと思いました。ちょっとやりすぎ。

アンヌ:カフカやカミュを思わせる静かな始まりで、医師の言葉に、主人公はもうこの町から出られなくなるのかなとか、深夜画廊の客の様子に、『おもちゃ』(ハーヴィイ・ジェイコブス/作 ちくま文庫『魔法のお店』収録)を思い浮かべ、さあ、怪奇に行くかファンタジーに行くのかとワクワクしながら読み進めました。普通、過去の何かに出会う主人公は、取り戻せない時間に苦い思いを抱くのですが、この物語では未来を手に入れるところが新鮮でした。ただ、町見学の場面やオイレ夫人の描写に今一つ魅力がなく、主人公が若い大学生というより中年男性のようで、物語の謎もそのままで淡々と終わってしまったのが残念でした。

カピバラ:1作目から読んできたけど、異国の街で、時計塔、古いホテル、人形劇場、画廊などを出して、いかにも謎めいた、これからなにかが起こりそうな雰囲気を上手に出していると思います。3部作として読むと、前に出てきた人がまた出てくるなど、読者を楽しませる工夫があるんですが、出版の間隔があいているので、前作のことをほとんど忘れてしまって……。おもしろい作品というより、おもしろそうな作品という感じです。

アカザ:3部作のうちでは、私は『アルフレートの時計台』がいちばん好きで、いまも心に残っています。この作品も、とても上手く書かれていて、男爵があらわれる前に景色が少しずつモノクロに変わっていくところなど、素敵でした。ただ、フランツにどうしても木彫りのライオンを返したかったグライリッヒさんの思いとかがあっさりしすぎていて、強く伝わってこないんですね。美しい物語を読んだという気はするけれど、感動とまではいかなかった。

野坂:物語世界はよく構築されているので、すうっと読めました。でも、子どもにはどうなのか、少しわからない部分があります。前作の二つも読まないといけませんね。「どうせ考えたって、わからないんだから、奇妙だと感じても、まあ、そういうことなんだって、そうおもうしかないのよ」という少女の言葉に、主人公フランツは、自分には何か思い出せねばならないことがあるのだろうか、と考えこみます。そんなところに、虚構の世界に読者をからめとるレトリックの巧さを感じました。また「クルトがきみに何を思い出してほしいかは来るとの問題だし、きみが何を思い出すかは、やはりわたしの問題ではない」と明言する男爵の論理が、個人主義、ヨーロッパ的でおもしろく、男爵の存在感を際立たせていますね。YAとしても読める作品では。アカシア:ルビの振り方をみると、YA対象ではないですね。しじみ71個分(メール参加):まず、本を開いて、文字組みの視覚的な効果に感動しました。頭を揃えて、ほぼ1行1文で描かれた文章ですが、その形式だけで、幻想的な物語であることを端的にわからせる効果があると思いました。そこだけでぐっと引き込まれます。子ども向けというよりは、ヤングアダルト、もしかしたら大学生とか、就活中の人とか転職模索中の人とかでもいいような、青年層向けの自分探しの童話として受けとめました。主人公が木彫りのライオンとニケの像を見付けて、自分の夢が何だったのかに気づくという割とストレートなプロットですが、途中途中で描かれる美術品や街の表現が美しいのも良かったです。エーデルワイス(メール参加):さすがストーリーテラーの斉藤さん。おもしろく読者を引っ張って最後にすとんと落とす。わかりやすくて読みやすいです。挿絵もいいですね。ルーブル美術館には行ったことがあります。「サモトラケのニケ」は入口でお出迎えしてくれるようですね。どんな美女だったのか興味があります。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スピニー通りの秘密の絵

ナガブチ:テンポもよく、読み進めるほどに、楽しく読めました。最後かなり加速しますが、中でもナチスについてのくだりでは、存命者リストの話や施設の話など、非常に具体的な情報が出てくるのが印象的です。1枚の絵が持っていた真の意味、重さを知った時、とても感動しました。

ネズミ:いろんな要素が盛り込まれている本だなと思いました。セオとボーディが仲良くなっていくところがおもしろかったです。でも、あまりに盛りだくさんすぎて、ここまでしないとおもしろい本にならないのか、読者はのってこないのかと、やや食傷気味にもなりました。こういうのが今風なんでしょうか。ナチスのことも出てきますが、実際の収容所の様子などはうかんでこなくて、筋だてのひとつの道具なのかなという感じ。冒頭で、ジャックがセオのおじいさんだということに、途中まで気づきませんでした。前のほうに書いてあったんでしょうか。

アカザ:わたしも、すぐに分からなくなりました。たしかに前のほうにおじいさんだって書いてあるけれど、1か所だけだとつい見落としてしまいますね。

西山:美術館に行きたくなりました。単純に絵画の読み解きは面白いなと。最初、私も貧困の話かと思いました。スピーディーに繰り出される情報と謎解きでだんだん加速してきたのですが、実はあと少しで読み終わっていません。謎解き部分なので、直前に慌ただしく目を通すのももったいないかと、帰りの電車を楽しみにしています。でも、お構いなく、語ってください(笑)

ハル:子ども向けといっても、こんなにおもしろいミステリーがあるんだ、と夢中になって読みました。絶望的な環境にもめげず、たくましく、しかも天才的な才能をもつ主人公の女の子も痛快です。終盤になって、もう残り何十ページもないけどほんとにお話が終わるのかな?というくらい駆け足になってしまったのがちょっと残念ですが、新しい発見もあり、勉強にもなり、絵画への好奇心もくすぐられて、とてもおもしろかったです。

マリンゴ:最初、読みづらいなと思っていたのですが、途中から一気に引き込まれました。ただ、ラストの部分、捜しまわっていた人が隣に住んでいた、というところで、びっくりするというか、それはちょっとないよ、と思いました。作者のサービス精神が旺盛すぎたのでしょうか。伏線がはられていなくて、後で弁解のようにいろいろ経緯が語られるスタイルで、ミステリー作家さんとかが読むと、いわゆる「ルール違反」ではないのかな、と思いました。あと、p114で、「超オタクの奇人レオナルド・ダ・ヴィンチは卒業総代をねらっている」など、画家たちを高校の生徒にたとえて説明する部分はとてもうまくて、読者もわかりやすいのではないかという気がします。

すあま:ちょっと主人公の境遇がひどいのではないかと思いながら読み進めましたが、主人公の世界が広がっていくにつれて、おもしろくなりました。終盤で話が急展開してちゃんとついていけず、探していた人物はおじいちゃんがとなりに住まわせていたのかと思ってしまいました。最後におじいちゃんの手紙を見つけるところは、なくても物語としては十分だったかもしれません。手紙を読まなかったのに、おじいちゃんの希望をかなえることができた、というところはおもしろいと思います。

アカシア:最初の展開から、ジャックが収容所で一緒だったマックスの話になり、マックスが娘の命を助けるために高価な絵を使ったのが明らかになる。そこまでの展開はみごとだと思いました。でも、最後が『小公女』みたいにご都合主義になってしまった。p252には「収容所を生きぬいたとしても、パリの死刑執行人の手から逃れるのは無理だったんじゃないかと思う」とありますが。p246では、その「パリの死刑執行人」ハンス・ブラントが、アンナの出所申請をしたと書いてあるので、流れに無理が。p252には「ボーディがラップスターのまねみたいな話し方をやめるなら」とありますが、ボーディの口調はそういう訳にはなっていないので、ひっかかりました。マダム・デュモンが自分の名前をおぼえていないということで、最後の展開につながっていくわけですが、自分ではおぼえていなかったにしても、「アンナ・トレンチャーを知らないか」ときかれれば、普通は思い出すのではないかと、そこもひっかかりました。あと一歩でおもしろくなりそうなので、ちょっと残念。

ルパン:とてもおもしろく読みました。エンタメとしては最高だと思います。そう思って読むと、となりの奥さんがさがしていた少女だったとか、最後にお金がたっぷり出てきて一安心、というのも、「どうぞどんどんやって」という感じで楽しめました。ただ、児童文学作品として考えると、あまりにご都合主義なのが残念。あちこちに『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店)のオマージュなのかな、と思われるシーンがありますが、それにしてはちょっとお粗末な気がします。

アンヌ:主人公がニューヨークのど真ん中でビーツを育て酢漬けの瓶詰を作ったり、祖母の残した服を再利用したり、『家なき娘』 (エクトール・マロ作 二宮フサ訳 偕成社文庫)のように生活をやりくりする様子がとても楽しい物語でした。ナチスによる美術品の略奪話は推理小説にも多いのですが、この作品では、絵の謎だけではなく、祖父が盗人ではないということを解き明かすというスリルがあって、主人公と共にドキドキしながら読み進められました。絵の謎を解くために、ボーディがスマホを駆使し、図書館員がパソコンで調べてくれる。このいかにもスピーディーな現代の謎とき風景と、これに対比するように描かれる主人公が現物の絵画を見、参考資料を読みこんで謎を解こうとするところが実に魅力的で、作者の思い入れを感じます。愕然としたのはp264から始まる隣人と絵の関係がわかる場面です。あまりに描写が省略されすぎていて納得がいかず、作者がもともとは長々と書いていたのを削られたのかなと思いました。

カピバラ:この本で一番いいと思ったのは、ふたりの女の子の関係性です。育った環境も性格も全く違うのに、初対面から拒否反応を起こさず、すっと相手を認めていくところがすがすがしい。この年頃の女の子の、大人っぽくしたい、背伸びしている感じもよく出ています。図書館で調べるところもよかった。

アカザ:とてもおもしろくて、一気に読みました。主人公の女の子が魅力的だし、貧しいといっても豊かな貧しさというか、庭で飼っているニワトリに名前をつけたり、読者が憧れるような貧しさですよね。美術史を学んだ作者ならではの贋作の見分け方とかラファエロの絵の話とか、細部がとても魅力的な物語だと思いました。ただ、やっぱり最後ができすぎというか、やりすぎじゃないのかな。

野坂:作者はもともと美術研究者で、その専門を生かした、力のこもったデビュー作ですね。友情物語、謎解き物語として夢中で読みました。主人公セオは相棒ボーディと力をあわせ、死んだおじいちゃんが遺した絵の謎を探るのだけれど、最終的に絵の中にも失われた家族が描かれていたことがわかり、いくつもの家族の喪失と再生の物語が層になっている点、うーんやられたという感じ。絵そのものにも見えない層があって、絵の秘密を探るため、病気のふりをしてレントゲンにかけるところも、奇想天外な子どもたちのパワーを感じました。ただ、大円団の部分で、マダム・デュモン(いじわるな隣人)が、急にきれいな言葉で話しだし、人格が変わったように感じたのは残念。そして、セオはものすごく貧乏なんですが、ただの貧乏ではなく、そうしたことがアートのように感じられるのは、売れない画家だったおじいちゃんのセンス、生き方のおかげ。そんなおじいちゃん、セオの人物像にも、それなりに苦労しているセレブの娘ボーディの描かれ方にも、好感が持てました。

レジーナ:私も『クローディアの秘密』を思い出しながら、おもしろく読みました。ところどころわからない部分がありました。映画『黄金のアデーレ』は、ナチスに奪われたクリムトの絵を取りかえそうとした実在の人物の話ですが、奪われた絵を取りもどすことが、失われた過去を取りもどすことにつながっていて、その点ではマダム・デュモンの人生に重なりました。

しじみ71個分(メール参加):美術の専門家が書いただけあって、絵にまつわる謎解きがとてもリアルでしたし、モニュメンツ・メンという存在も初めて知り、非常におもしろく読みました。貧しく、頼りのおじいさんを亡くし、母は生活力がないという厳しい環境にありながら、知恵をフル回転させて、アナログを旨として生きる主人公のセオと、珍しい家族環境を持ち、ネット検索に非常に長けたボーディ(bodhi、菩提=悟り、知恵)という女の子の二人組が、本とネットという現代に必要とされる知性をそのまま象徴しているようで、その二人が絵にまつわる謎解きをするという構成がとても巧みだと思いました。私が特にいいなと思ったのは図書館員のエディで、タトゥーがあって型破りでありながら、図書館情報学修士号を持ち、専門的なサポートをしてくれる存在として描かれています。また、いかにも司書らしい容姿として描かれる専門図書館員の彼女もプロフェッショナルなスキルをフル動員して子どもたちを助けるというところで、アメリカにおける図書館員の認知度の高さが良くわかり、日本とは違うなぁと実感しました(多くの専門家がそこを目指しているとしてもまだ社会全体でそこまで到達していないという意味で)。セオがおじいさんの宝の絵を売って生活の足しにすることばかり考えて、途中、絵の持ち主探しに消極的に見えるように思えた点はちょっと残念にも思いましたが、生活に困窮しているという意味でリアルだったなとも思います。最後の、お前はニワトリだ、地面をつついて真実を探せ、というおじいちゃんのジャックの言葉はぐっときました。真実を探求する人の姿勢を端的に表した言葉だと思います。小学校高学年くらいの子どもには、ミステリ的な要素に知的好奇心をくすぐられておもしろいのではないかと思いますが、もしかしたらちょっと難しいでしょうか?

エーデルワイス(メール参加):極貧で、家の仕事と母の世話をするセオドラはたくましくもけなげです。言語と図書館と美術館とミステリーがあわさって、おもしろい作品に仕上がっています。訳もいいですね。ナチスの奪った絵画を洞窟から奪い返すという映画を何年か前に見たことがあります。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ミスターオレンジ

ナガブチ:「ミスターオレンジ」がモンドリアンであるかどうか微妙で、ずっと読みながらひっかかっていて、最後の解説で、ああやっぱりそうだったのか、と腑に落ちました。モンドリアンの絵画は解釈が難しいですよね。一瞬、教育色の強い、戦争の愚かさを前面に伝える本かと思ったのですが、三原色とは何か、といった哲学的なところ、絵画の見方の提案にまで踏み込んでいっていて。それから印象に残ったのが「ミスタースーパー」です。狂言回し的な役回りで、読み易く、技法上必要なのかもしれませんが、どこか既視感もあって、本筋にとってどれくらい意味があるんだろうと思いながら、読んでいました。しかし、消滅後、もう出てこないと忘れていたら、最後に再登場し、驚きました。「想像力」の二面性を体現する存在として、どこか懐かしさを感じさせながらの登場に感動しました。最後ではっきりとこのキャラクターの意味が分かった気がします。ミスターオレンジは初登場の雰囲気から、この人は最後は死んじゃうんだろうなと予測しながら読んでいたので、それとは対照的でした。

ルパン:とてもおもしろく読みました。親友のリアムが悪い先輩と仲良くなってしまって気まずくなったあと、仲直りするシーンが印象に残りました。孤独なデ・ウィンター夫人の最後はせつなかったです。

アンヌ:以前に読んで、とてもいい本だけれど同時に心が重くなる本でもあるなと思っていました。作者はオレンジひとつで読者を物語の中に引き込むのを成功していると思います。その色、味わい、香り、形や重さを感じることによって、読み手は主人公の少年の日常からニューヨークでのモンドリアンの生活やその絵画にまで引き込まれます。作者はそれだけではなく、ブギウギというダンス音楽によって、当時のニューヨークの音と動きを本の中に引き込み、さらにモンドリアンの絵の象徴するものを感じさせることにも成功していて、実に手の込んだ作品だと思います。ただ、この時点で、ヨーロッパからやって来たモンドリアンには戦争はもう終わるとわかっているのに、この後、原爆が落とされたのだなと思うと暗然とする気分があります。ニューヨークの自由のまぶしさと戦争の残酷さが同時に感じられる物語でした。

カピバラ:とてもおもしろく読みました。この主人公の男の子の気持ちがとても素直に描かれていると思います。最初のうちは大好きなお兄さんが出征していくことを誇りに思っていたけれど、お母さんの微妙な反応に気づき、お兄さんからの手紙の中に父母だけが知っている真実があったことをだんだん知っていくのが自然と描かれていて、読者も主人公と一緒に成長していけるのがよかったです。お兄さんが出征している弟の話はほかにもありますが、ミスターオレンジに出会うことでまったく新しい自由な発想や、未来への希望といったものを絵や音楽から感覚として知っていくという感じがとても新しくてわくわくするようなものがあって、そこが今まで読んできたものにはない、新鮮な印象を与えてくれました。このミスターオレンジはナチスの手を逃れて新天地アメリカにわたってきたんですけど、「おさるのジョージ」の作者レイ夫妻も同時代にアメリカに渡ってきました。その当時のニューヨークの雰囲気がもっと描かれていてもよかったんじゃないかな、と思いました。日本版の装丁は、内容をよく表していていいですね。

アカザ:本当に、装幀は原書よりずっといいですね。物語の雰囲気をよくあらわしていて素敵です。物語そのものも、素晴らしい。英国や日本の児童文学では、実体験としての戦争が描かれていますが、参戦していても本土での戦いがなかったアメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどの国の子どもたちがどのように戦争を見ていたかがうかがえて、おもしろかったです。『ペーパーボーイ』(ヴィンス・ヴォーター作/岩波書店)と同じように、主人公のライナスがまったくの他人だけれど素晴らしい大人にめぐりあって、新しい考え方に触れ、変わっていくところが、とてもいいと思いました。お兄さんが描いた漫画の主人公と頭の中で会話をかわしながら少しずつライナスの戦争に対する考え方が変わっていくところも、とても上手い書き方をしているし、家族の描写もおもしろかった。ただ、想像力についてのくだりは感動的だけれど、ちょっと理屈っぽいかな。モンドリアンがモデルだということは物語の最後まで明かされないけれど、どこかに絵を入れたほうが良かったのではと、ちょっと思いました。口絵とか、栞とか……。

カピバラ:これは創作だから、はっきりした作品を出してないのでは?

アカシア:ヴィクトリー・ブギウギなんていう絵の名前が出てくると、モンドリアンだってわかりますけどね。表紙もモンドリアンの絵をモチーフにしてますね。

野坂:この本を訳しながら、何度も繰り返しテキスト全体を読み。読むたびに新しい発見がありました。そのつど、ひとつひとつのシーンが映画のように立ち上がってくるんです。でも実はライナスは、考えている時間のとても長い少年です。地の文、ライナスの意識の流れ、思考から地の文にもどるときの自然な着地・・・思考の部分は、二倍ダーシュを使ったり、括弧に入れたり。それに加えて、自由間接話法をかなり取りいれました。また空想の中でのミスタースーパーとのやりとりが際立つように、地の文とは違うゴシック系の書体を使いましたが、ライナスが空想から徐々に覚醒していくところでは、あえて明朝とゴシックを数行おきに混ぜて使いました(p184-p188)。
 これまでにも、いろいろな方から感想をいただいています。例えば、第二次世界大戦中の日本の子どもの日常は、山ほど読んできたけれど、海の向こうのアメリカの子どもが戦争をどう感じていたかは、ほとんど知らなかったとか。それから、「モンドリアンはもっと気難しく、複雑な人だと思っていた」と、画家さんに言われたこともありました。でも、正確なモンドリアン像を伝記のように描こうと、作家は意図したわけではありません。芸術や音楽、戦争とはなにか、ライナスにとって新しい視点を開いてくれる「だれか」として、その姿は描かれている。子どもの本として、このような書き方もありではないかと、私は受け止めています。家族や友人ひとりひとりの性格も、きちんと肉付けされている。迷いながら自分で考えを深め、自分なりの答えを見つけていくライナス。全体として、ライナスに象徴される「子ども時代」への応援歌になっている作品だと思っています。一方で、本来自由であるべき想像力が、戦争賛美の方向へコントロールされることもある。今も世界中で繰り返されている、そうした無言の圧力に、子どもがどう抗していくか、という物語にもなっています。
 それから、念のため作家に確認したところ、ライナスの一家はドイツ出身だそうです。「ミュラー」という名字が、本文にでてきます。お話のなかでは、何系の移民か、ということは大きな意味を持っていませんが。

レジーナ:装画がすごくすてきで、それに惹かれて読みました。とてもおもしろかったです。全体をとおして、空襲など、直接戦争の被害を受けない状況で、子どもが感じている不安がひしひしと伝わってきました。志願して戦争に行ったアプケが、目の前で人が死んでいくのを見るうちに、なんのために戦っているのかわからなくなるのも、戦争のリアルな現実を表しています。想像力についてのくだりは、私はそんなに理屈っぽいとは思いませんでした。「自由を奪われたら、人はかならず抵抗する」という台詞は現代にも通じます。困難な時代になにを信じ、たよりにするか、そういうとき、想像力や目に見えないものがどれだけ力になるか、そんなことを考えながら読みました。ブラジルの絵本作家のホジェル・メロさんが、「言論が弾圧された時代、ペンで権力に抵抗した人々が次々とどこかに連れていかれるのを見て、言葉がどれほど大きな力をもつか知った」と語っていたのを思いだします。ナチスがモンドリアンの絵を飾ることを禁じたと語る場面では、エリック・カールが、学生時代、美術の先生の家に遊びにいき、そのときナチスに禁じられた画家の絵をこっそり見せてもらって、それが自分の人生を決めたと言っていたのを思い出しました。

ネズミ:おもしろく読みました。最初は、戦争に行くお兄さんをかっこいいと思っていたライナスの戦争観がだんだんと変わっていき、お父さんやお母さん、そしてミスターオレンジと、それぞれの立場からの戦争の受けとめ方が見えていくところ、「ぼく」の描き方がよかったです。最初は、ミスタースーパーってなんだろうと思いましたが、ミスタースーパーがいるから、戦争の虚像と実像の対比があざやかになっていくのかなと思いました。ただ、読者を選ぶ本かなとは思います。最初と最後が1945年で、物語が展開するのは1943年。本を読みなれた子じゃないと、構成がすぐにはわからないかもしれませんね。

西山:共謀罪が成立しようとしていたとき、ちょうど95ページを読んでいたんです。「こうしたことは、長いプロセスなんだ。わたしが生まれるまえからはじまっていて、このあともずっと続いていく。もっともっと大勢の人の努力が必要で、そこがまさにすばらしいところなんだよ」と、ここが、あまりにも現実の政治状況と重なって、くさってる場合じゃないな、と、諭されたような気持ちになりました。全体に、今、この状況下で読むことで考えさせられる場面が多かったです。先ほど『あらしの前』『あらしのあと』(ドラ・ド ヨング著 吉野源三郎訳 岩波書店)の名前が出ていましたが、私もあの作品では、異年齢の子どもたちのそれぞれの感覚も好きな所の一つで、例えば、22ページ「アプケはいろんなことを子どもっぽいと感じないぐらい、大人なんだ」というちょっとしたところなどに、とてもおもしろさを感じました。みなさんがおっしゃっているように、勝った側のアメリカの戦争の子どものものの感じ方が新鮮でした。ミスタースーパーの両義性が、戦場へ人を送り込むのか、戦争に反対するのかどちらにはたらくのか、雑誌など、児童文化財の問題としても興味深いと思いました。(でも、この作品は「戦争に参加すること=正義」の側に立っていて、にわかに日本に置き換えられないなと、読書会を通して考えさせられました)ライナスの感性のするどさには、感心して読みました。部屋を見て、陽気な感じがする、と感じたり。「教わったばかりの、いままでとはちがう考え方を、ライナスは頭の中でごちゃまぜにしたくな」くて階段をゆっくり降りる(p97)とか、そういう細部を楽しみました。

ハル:とても良かったです。「ライナスはかけていく。水たまりをとびこえ、歩道のふちでバランスをとり……」という、リズミカルな冒頭の1行目から引きこまれました。爆撃を受けたり、防空壕に避難したりという実体験の戦争の恐ろしさを伝える物語とはまた違い、想像から始まる戦争の恐ろしさ、絶望も希望もうむ「想像力」のパワーを、物語を追いながらとてもわかりやすくイメージできました。この画家は誰だろうと思いながら、読み終わって改めてカバーを見たら「ああ〜」とわかりますね。素敵な装丁です。そして、先ほどアンヌさんがおっしゃっていましたが、私も読後は「1945年3月」には、ニューヨークではもうほとんど戦争が終わっていたんだなぁと、何とも言えない切なさも覚えました。

マリンゴ: とても素敵な物語だと思いました。お母さんの反対を押し切って戦争へ行ったお兄ちゃんは、主人公にとってヒーローでした。でも、お兄ちゃんが向こうでつらい思いをしていると知り、主人公は戦争の現実を知ります。その流れがとてもよかったです。あと、描かれているのが「戦勝国」の考え方だなぁと思いました。p207の「アプケは未来を想像できたから、戦争に行ったんだ。想像したのはいい未来だよ」に象徴されるように、戦争は正義なのだと捉えているところが少し気になりました。戦争には勝つ国と負ける国があるわけなのですが……。日本の戦争児童文学とはまた違う心理描写で、興味深く読みました。それと、「訳者よりみなさんへ」の部分で、この本が作られた経緯について紹介されていて、とても驚きました。「モンドリアン展」のために作品を書いてほしいと依頼された作家が、このような作品に仕上げるとは。普通なら、もうちょっとモンドリアンに寄せて、主人公として書くと思うのですが、ここまで大胆に作り上げたことがすごいと思いました。

すあま:非常におもしろかった。お兄さんが戦地に行ってしまって、家でのライナスの役割が上になり、がんばって背伸びをしている。でも戦争をすべて理解しているわけではない。ライナスはミスターオレンジに出会うことで成長していく。ミスターオレンジがライナスを子ども扱いせずにきちんと語りかけ、ライナスの世界が広がっていく。私はミスターオレンジのモデルがモンドリアンだと気付かなかったので、あとがきを読んでびっくりしました。読み手は、モンドリアンという画家にも興味をもつのではないでしょうか。

アカシア:いい作品だと思って、私がかかわったブックリストでも推薦しています。オランダでのモンドリアン展に際して依頼されて書いた作品とのことですが、モンドリアンとの距離が絶妙なのもすばらしい。ライナスの感受性の強さを「においには名前がない」のを不思議と思ったりする描写であらわしているのも、いい。1945年3月の出来事が最初と最後にあって、つながっているのですね。ただ2回目に読んで、もし自分が編集者だったら相談したいなというところが少し出てきました。たとえばp5に「ポスターに書かれている住所は、西五三番地十一番地」とありますが、これはニューヨーク近代美術館(MOMA)の住所です。でも、オランダの子ども以上に日本の子どもには、それがわからない。そことつながっている最後の章は、ライナスがこの美術館にやって来たところから始まりますが、「ビル」と訳されているのでそれが美術館かどうか読者にはまだわかりません。日本の子どもだとビルと美術館は別物だと思う子も多いと思います。ようやくp238で「こんな立派な美術館」と出てくるのですが、おとなの本ならこれでもいいと思いますが、子どもにとってはイメージがうまくつながらなくて盛り上がれないようにも思います。「ビル」じゃなくて「建物」とするとか、最初の章で、ライナスがこの住所にこれから向かうことをもっとはっきり打ち出すとか、何か工夫があるとさらによくなると思いました。p5には「ライナス、中へお入り・・・」という言葉が太字になっていますが、後のほうを読まないと、これがモンドリアンのいつもの台詞だということがわからない。謎が1箇所に1つなら子どもはその謎を抱えて読み進めますが、いくつも謎があると、わけがわからなくなってくるのではないかと危惧します。p52の「ヨードチンキの小びんを、ぐるりとまわした」は、ひょっとすると小瓶で、ぐるりと周りをさした、ということ? ちょっとよくわかりませんでした。p183の「ウィンドウに飾られたもう何個かの青い星」は、前に星が2個と出てくるのですが、それが増えているということ? だとすると、なぜ増えているのかよくわかりません。p187の「だったら、わたしにひとつ、例を見せだまえ!」も、もう少しすっとわかる表現になるといいな。p204の「あいつはだいじょうぶなんだよ」も、戦地でひどい目にあっているのですから、「まだ生きているんだよ」くらいの方がよかったのでは?
 それからこれは、この作品に限ったことではないのですが、欧米の作品の多くは、戦争にはひどい部分がたくさんあるけれど、それでも正義の戦争は必要だというスタンスですよね。そこに、今回気づきました。この作品でも、お兄さんの友だちが戦死したり、お兄さんが「こんなはずじゃなかった」と思うなど戦争への疑問は書かれていますが、p197「戦争に勝つことは、未来のために戦う意味があるんだよ」p207「アプケは未来を想像できたから、戦争にいったんだ。想像したのはいい未来だよ。敵のいうなりにならなくちゃいけない未来じゃなくて、別のやつ。みんなが、自分のしたいことができる未来なんだ。だからこそ、アプケは戦いに行った。そのためには戦わなくちゃいけないって、わかってたんだ」などというところがあって、ああやっぱり、と思いました。

ネズミ:登場人物のせりふにそういう表現が出てきたとしても、それは時代を反映して描いているからかもしれないし、作者のスタンスはわからないんじゃないでしょうか。批判をこめて書いている可能性もあるし。

アカシア:著者を責めているのではなく、欧米の著者はそういう視点にどうしても立ってしまう。兵役がある国では当然そういう教育がなされるので、それが普通なのだと思います。日本の子どもが読んだときに、どういうメッセージを受け取ってしまうか、ということを考えると、ちょっと不安です。

しじみ71個分(メール参加):モンドリアンを素材にして、戦時中のアメリカを描いていた点、とてもおもしろく思いました。未完の遺作になった「ヴィクトリー・ブギ=ウギ」の画像を確認してみて、物語の中でこの絵が非常によく表わされているなと思って感心しました。アメリカを、特にニューヨークを自由の象徴として描ており、自由をもとめてヨーロッパから逃げてきたモンドリアンと、自由を守るために戦地に旅立ったお兄さんとの対比がそのまま少年の葛藤になるあたり、おもしろく読めました。架空のヒーローが自分の心との対話にもなっていると思いますが、戦争賛美がまやかしであり、お兄さんが命を賭けていることに気づいた段で、ノートを縛って片づけるところが良かったと思います。兄弟が修理して靴を使いまわすところなど、「物がない」ということを具体的にイメージしやすく、生活臭があって良かったです。

エーデルワイス(メール参加):読みやすい訳ですね。心に響く言葉がたくさんありました。p99「未来にはだれもがみんなこんなふうに暮らせるはずなんだ」p197「自由を奪われたら人は必ず手行こうするものだ」などです。ピート・モンドリアンがとても重要な人物として登場しますが、あくまでライナス少年の成長を描いているのがいいですね。平田さんの挿絵もすてきです。モンドリアンをよく知らなかったので、図書館で大きな美術本を借りてカラーで印刷された作品を見ました。オランダでの初期の作品は風景画が中心で、具象から幾何学抽象への過渡期があり、新造形主義を確立していったようです。作品はニューヨークにもあるようですが、オランダに行く機会があったらハーグ市立美術館へ行って作品に会いたいです。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジュディス・カー『アルバートさんと赤ちゃんアザラシ』

アルバートさんと赤ちゃんアザラシ

『アルバートさんと赤ちゃんアザラシ』をおすすめします

店を売って生きがいをなくしていたアルバートさんが、海で、親を亡くしたアザラシの赤ちゃんに出会う。このままでは死んでしまうと連れ帰ることに。
でも、アパートはペット禁止で、うるさい管理人もいる。動物園で飼ってもらうもくろみもはずれ、さあ困った。
作者の父親の実体験をもとにしたお話で、絵も楽しい。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年6月24日掲載)


仕事を辞めて生きがいをなくしたアルバートさんが、海に出かけた時に、親を亡くしたアザラシの赤ちゃんに出会う。このままでは死んでしまうと連れ帰ることになったのはいいが、アルバートさんのアパートはペット禁止で、うるさい管理人もいる。なんとかごまかしてアパートで飼っていると、とんだ事件が次々に起こる。作者は、父親の実体験を下敷きにして、最後はアルバートさんにとってもアザラシにとっても幸せな、楽しいお話に仕上げている。

原作:イギリス/8歳から/アザラシ ペット 動物園

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)


鳴海風『円周率の謎を追う』

円周率の謎を追う〜江戸の天才数学者・関孝和の挑戦

『円周率の謎を追う:江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』をおすすめします

関孝和という名前は知っていても、どんな人かを私は知らなかった。江戸時代の和算の達人ということを知っていただけである。本書はその関孝和を、血の通った人間として描き出そうとしている。数学が好きで儒学や剣術にはなかなか身が入らなかったこと、数学の師匠の娘である香奈と励まし合って学んだこと、数学好きのライバルたちと切磋琢磨したこと、けれども勤め(御用)をおろそかにできず数学だけを専門にするわけにはいかなかったことなどが、読みやすいストーリーとして語られているので、興味をもって読める。

後書きには、関孝和という人は、天才的な業績を残したにもかかわらず、いつどこで生まれたのかもわからず、その人生には謎が多いと書かれている。つまり、子どもの頃のことや折々に出会った人との会話などは、著者が想像して描いたフィクションとも言える。でも様々な文献に当たったうえでの想像であるからか、何かに一途になって心の中に消えない炎を持ち続けていた人だということが、無理なくしっかりと浮かび上がってくる。

私たちが約3.14と学校で習う円周率も、関が学び始めた頃は3.16とされていた。それに疑問を感じて関が追求しようとする過程や、漢文から思いついて数式を表現する方法を編み出すところなどが、スリルに富んだ推理小説のように描かれていて、おもしろい。出世やお金儲けには関係なくても、情熱を注げるものを持っていた人の楽しさが伝わってくる。

次は、「わたし、女数学者になります」と宣言して(ここもフィクションかもしれないが)、関を励ましつづけた香奈についても、もっと知りたくなった。

(「トーハン週報」Monthly YA 2017年6月12日号掲載)

 

関孝和の一生を、円周率を探る研究を核にして描いている。私たちが約3.14と学校で習う円周率も、関が学び始めた頃は3.16とされていた。それに疑問を感じて追求しようとする過程や、漢文から思いついて数式を表す方法を編み出すところなどがスリルに富んだ推理小説のように描かれている。同時に、この数学者が何かを一途に追求し、消えない炎を持ち続けていたひとりの人間として浮かび上がってくるので、読み物としてもおもしろい。さまざまな文献を研究して書いた労作。

(「おすすめ! 日本の子どもの本2018」<ノンフィクション>掲載)

キーワード:数学、歴史、江戸時代、円周率、関孝和


2017年05月 テーマ:一歩踏み出す子どもたちの物語

日付 2017年5月18日
参加者 アンヌ、コアラ、サンザシ、西山、ネズミ、マリンゴ、メリーさん、よも
ぎ、レジーナ、(エーデルワイス、しじみ71個分)
テーマ 一歩踏み出す子どもたちの物語

読んだ本:

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タイムボックス

ネズミ:私は本当にファンタジーが苦手なので、最初に発言するのが申し訳ないです。時間を止めることがどういう結果をもたらすのかと、最初はおもしろく読みだしたのですが、途中でふたつの話の筋についていけなくなってしまい、最後はどうなってもいいという気分でした。シグルンは結局どうなったのでしょう。感想しか言えずごめんなさい。西山:ふしぎな話ではある。けど、読書感想文を書きやすいと思っちゃいましたよ。テーマがはっきりしている。最後にバタバタと終わるのは、うーんとも思いますが、ま、そういう話かと。スペイン映画『ブランカニエべス(白雪)』を思いだしました。これ、グリムの『白雪姫』を下敷きにしているのですが(白雪が七人の小人と闘牛士になる!)、とんでもなくブラックで残酷(描写がグロテスクというのではなく、展開が皮肉で救いがない)で、この寓話に通じるものを感じました。

マリンゴ:書店に買いに行ったら、児童書コーナーではなくて、一般書コーナーにありました。読んだ感想は……すばらしいと思いました! 自分では、もし同じストーリーを思いついたとしても、書けない物語です。近未来の架空の設定から、過去の架空の設定に飛ぶ――なぜそんな、いびつな構造なのだろう、と思っていると最後に理由が明かされます。架空の設定がふたつあるのに、読み分けしやすいと思いました。過去のほうの物語を寓話風に描いて、描写を少なめにしているため、近未来とうまく差別化ができています。こういう書き分けのできる筆力がすごい、と感じました。

ルパン:なんだかグロテスクな描写が多くて辟易しました。あちこちに教訓めいたというか、思わせぶりなところがたくさん出てくるんですけど、何が言いたいのかさっぱりわからないし。そもそも最愛の妻を亡くした悲しみを世界征服で癒そうとするところから、すでにダメでしょ。可愛い赤ちゃんが生まれたというのに置き去りにして戦争しに行っちゃって。こんなに長い話の結末が、「時間には勝てない」という、子どもでもわかるあたりまえの結論だなんて。正直、どこがいいのかさっぱりわからない作品でした。あ、でも、挿画はすごくいいと思います。

サンザシ:おもしろくは読んだんですが、謎の部分が残ったままになってしまいました。たとえば、なぜ子どもだけがタイムボックスの外に出られるのか? アノリは結局どういう経過を経て最後にまた登場するのか? そういうことは、わからずじまいです。作者は過去と近未来をつなげようとしているのでしょうが、両方ともあり得ない世界なので、今の子どもが自分と重ね合わせて読むことができるのでしょうか? タイムボックスのセールスマンは『モモ』の灰色の男みたいですが、この著者はそういう糸をいっぱいつなぎ合わせて物語を紡ぎ出しているのですね。原文はアイスランド語だそうですが、日本語版は英語版から訳されています。アイスランド語の翻訳者がいなかったということでしょうか。訳者は、著者が英語版にもちゃんと目を通しているからだいじょうぶだというようなことを書いておいでですが、重訳の問題は、書かれている内容に間違いがなければそれでいい、というものじゃないんですね。さっきの石牟礼さんの本じゃないけど、最初に書かれたものには言霊を感じさせるものがあったとしても、訳した段階でそれは減ってしまうので、本当はやっぱりオリジナル言語から訳したほうがいいのだと思います。それと、この作品はやっぱり長いですね。たとえばピーターとスカイラーのエピソードなどは、なくてもいいんじゃないかと思いました。

コアラ:読んだのは2回目でしたが、それでもよくわからなかったです。最初のページで「あの人、経済学者?」「そんなわけないでしょ。経済学者ならスーツを着ているはずよ」とあって、風刺だとは思うけれど、文章の端々にあるそういう表現のほうが気になって、ストーリーに入れませんでした。作者は口承文芸研究家ということで、後半に、口承文芸の昔話風の挿入話があって、「昔、あるところに王女がいました」で始まる話なんですが、そこはいわゆる昔話の型にのっとっていたので、そこだけは読みやすくておもしろかったです。あと、カバーの絵と本文中の挿し絵もかわいらしくてよかったです。

アンヌ:読むのがつらいファンタジーでした。この暗澹たる感じはフィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』(新潮社)から始まる「ライラの冒険」シリーズを読んだとき以来です。出てくる人々が少しも心を通わせない。最初の大前提で、王さまは戦争に動物を使ってはいけないと言われていたはずなのに、全然罰せられないで何十年も闘い続けられているのもおかしいと思いました。

サンザシ:いちばんすごい罰が下ってるんじゃないですか。

アンヌ:でも、その間におびただしい数の動物や人が死んでいきます。えせ魔術師たちの目的も能力も明らかにされないままです。エクセルがとても残酷に殺されていく意味も謎のまま。姫は空腹を感じるのに、なぜ人々が飢えないまま時間を超えられるのか、など説明されない設定が多すぎます。さらに、著者の「日本人読者へのメッセージ」と「訳者あとがき」が両方ともネットでしか読めないというのには驚きました。これは読者に対してあまりに不親切です。

メリーさん:皆さんの感想を聞きながら、いろいろな意見があるんだな…と。タイムトラベルものはいろいろありますが、時間を止める箱というのはおもしろいな、と思いました。しかも、自分の手で愛する人を傷つけてしまったけれど、タイムボックスのおかげで、とりあえずは死なせずにいられるという、その二律背反がユニーク。後半、グレイスの正体が明かされてびっくりしました。個人的には最後の場面「きっとまた会える!」というアノリの姫への手紙が一番好きです。
レジーナ 寓話のような作品なので、描写が残酷だとは思いませんでした。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)や、ソーニャ・ハートネットの作品など、戦争や現代のテーマを寓話のように描いた作品はほかにもありますが、寓話には寓話にふさわしい長さがあるので、これは長すぎるのでは……。オブシディアナが父親を恋しく思っていることが描かれていますが、現代の寓話だとすると、こうした感情描写はいらない気もします。グレイスがビデオ映像を見せるのが不自然だったり、急にオブシディアナ姫をまつりあげるようになった理由がわからなかったり、ファンタジーのつくりとして気になりました。p124で、なぜ奇跡が起きたのか、あるいは実際には起きていないのかもしれませんが、なぜみんながそう思いこんでしまったのか、アーチンの意図はなんだったのか、よくわかりませんでした。p196でオブシディアナ姫は目覚めますが、なぜこのタイミングで箱から出すことにしたのでしょう?エーデルワイス(メール参加):アイスランドといえば、火山と温泉の国、トロルの国でもありますね。壮大なファンタジーといっていいと思いますが、著者が口承文芸の研究家で、自然保護活動家と知って納得しました。今に至るまでの歴史にみる人間の愚かさと希望、再生、永遠の愛がテーマですね。一気に読んでしまいましたが、お説教臭いのが残念でした。しじみ71個分(メール参加):読んでびっくりしました。これは本当に子ども向けのお話として書かれたのかなと何度も思いましたが、最後まで読んで、やっぱりそうなんだと思いました。昔話と現代の話がパラレルに進んでいきますが、両方とも怖かったです。自分では絶対に手に取らない類の本だったので、好き嫌いはさておき、いろんな意味でおもしろく読みました。昔話のほうは、小人の首がはねられるところはグリム童話みたいに残酷だし、お姫様は愛されるあまりか、おとなの様々な邪な思い出虐待され誤解され恐れられ憎まれてしまいます。楽しいお話とはいえない。表現は、白雪姫や眠り姫やシンデレラやかぐや姫まで、あらゆるお姫様物語の典型が要所要所に盛り込まれているように思え、そのためお父さんがベッドで子どもに読み聞かせる物語のような印象を受けました。現代のお話の方は、明らかな政治・経済批判だと思って読みました。経済不況を理由に、人々、特に国会議員がすべてを無責任に放り出してタイムボックスから出てこないとか、遠方に苔むす銀行ビルが象徴的に出てくるところも、明らかに銀行・国際金融資本、グローバル経済批判を基調にしていると受け止めました。そういったものが、タイムボックスに人々が逃避したせいで崩壊し、自然が凌駕していくさまは、怖いように思いました。
 余談ですが、アイスランドは、サブプライムローン問題、リーマンショックで経済破綻に陥り、IMFの管理下になるところでしたが、政府の決定に大統領が拒否権を発動し、国民投票も行って介入を否決、イギリス・オランダからの借金を踏み倒し、アイスランドクローナの価値は暴落したものの、そのおかげで観光が増え、経済が持ち直しました。国民が政治にノーを突きつけ、腐敗した既存の政治勢力を否認し、市民活動を基盤として政治参加をしたと聞いています。
 子どもたちがタイムボックスを開けるために奮闘するのは、拝金主義の愚かなおとなにならないように、傍観主義や無責任に陥らないように、いろんなことに関わり合って楽しんで生きろ、という作者のメッセージのようにも思います。時間や老いの中で生きることを選び、最後に愛を獲得した姫と少年は、時間泥棒や拝金主義の大きな流れに抗う市民の力の象徴のようです。子どもたちの成長というよりは、人類全体がタイムボックスから出てこい、というほうが、テーマとして際だっているように思います。
 これも余談ですが、「アイスランド無血革命:鍋とフライパン革命」という映画をご覧になってみてください。Youtubeでも見られます。とてもおもしろいです。民主主義をどうやって作るのかがわかりますし、政治への市民参加、市民活動に希望が持ててくる映画です。この作品はこの映画ととても印象が似ています。

(2017年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)


水はみどろの宮

マリンゴ: 描写がとても美しくて魅力的です。自然の生き物、植物が緻密に描かれていて、自然に対する畏敬の念が伝わってきます。ただ、石牟礼さんの本に物申すのは畏れ多いところもあるけれど、登場人物の気持ちの描き方が少なくて、感情移入しづらい部分もありました。たとえば、107ページの「お葉はそれから三日も帰らなかった」の部分。爺さまがどれだけ心配し、再会したときどれだけ喜んだか、というあたりは描かず、さらっと流しているところが気になりました。一方、非常に素敵な表現も多くて、特に111ページの「片目じゃの、片耳じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけのものに遭うたら、神さまの位をもった人じゃと思え」が、とてもよかったです。

西山:最近、うまいなと思う作品の多くが、読者にレールの上を走らせるのが巧みで、伏線の仕込み方や、引っ張り方はうまいんだけど、少々どうなんだろうと思うところがありまして。この作品は、そういうタイプとまったく違いました。ひたすら文章に惹かれて、そこにたゆたう心地よさで、世界を受け入れながら読みました。とにかく、言葉がおいしい! 「気位の美しかものども」(14ページ)の気配が言葉として満ちている感じ。111ページの「片目じゃの、片耳じゃの、……神様の位をもった人じゃと思え」などなど、九州の方言(私は親戚のいる博多弁で響かせながら読んでましたが)のやわらかさとも相まって、本当によかった。猫もよかった。「どうなるの?」という「読まされ疲れ」みたいなものが最近あるので。こういう作品を読めるキャパが育つということも、とても大切だと思います。この先もときどきひたりたくなる世界だなと思いました。

ネズミ:文章が濃い物語だと思いました。パソコンではなく、手書きで書かれた感じ、言葉のひとつひとつが作者の体から出てきているように思いました。こういった自然を実際に体験して、五感で書いている感じ。ただ、物語は起承転結が見えてこないので戸惑いました。爺さまと暮らすお葉がごんの守と出会って、そのあとどうかなるのかと思ったらそうでもなくて。それに「水はみどろの宮」と「花扇の祀」は、別々の話なのか、ひとつの物語なのかも、よくわかりませんでした。

コアラ:第一部(「水はみどろの宮」)と第二部(「花扇の祀」)は、単行本では続いていますね。

レジーナ:五感に訴えかける描写が多く、体で書いている作品ですね。長谷川摂子さんの『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。石牟礼さんがテーマにしてきた水俣についての言及もありましたが、自然の中でつつましく生きるあり方が描かれていて、人は自然の中で生かされているのだと全編を通して伝わってきます。恐竜まで出てきたときは驚きましたが、人間が地球に暮らしているのは、途方もなく長い歴史のわずかな時間にすぎないのだということでしょうか。少女の視点で書いていたのが、第二部では猫の視点になり、時間も前後するので、読者を選ぶ本です。

メリーさん:石牟礼道子さんがこういう話を書いていたことは知りませんでした。とてもよかったです。この本を子どもにそのままどうぞ、というのはちょっとむずかしいかなと思いますが、何とかして読んでほしいなと思います。たとえば語り聞かせるのはどうでしょう? 方言を多用した歌のような文体がすごくいいし、オビのコピーに「音符のない楽譜」とあるように、やわらかなトーンが物語の世界に読者を誘う気がします。これというストーリーはないのだけれど、日常のすぐ隣にあるもうひとつの世界に、知らぬ間に入り込んでいく心地。それでも、お葉とごんの守の間には、明確な境界線があって。生活と幻想のあわいの部分が何ともいえずよかったです。

よもぎ:言葉の力を感じさせる作品でした。たしかに、お葉と千松爺の話は、ストーリーがはっきりしないから子どもたちには読みにくいかもしれないけれど、音読してもらったら、好きになる子もいるんじゃないかな。わたし自身も、子どものときにわけがわからないまま暗誦した詩や古文が、ときどき、ふっと蘇ってくることがあります。ぜひ、子どもたちに手渡して、日本語の美しさを味わってもらいたいと思いました。マリンゴさんがおっしゃった111ページのお爺の言葉、わたしもいいなあ!と思いました。この2行だけでも、読んだ子どもの心に残るといいなと……。後半の、猫のおノンの話は、物語もしっかりつながっていて読みやすく、胸を打たれる話でした。地の文だけではなく、会話がとてもおもしろい。猫も、狐も、恐竜も、それぞれキャラクターにあった言葉遣いをしていて、いばっていたり、かしこまったりしていても、どこか間が抜けているところなど、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思いだしました。先月の読書会で話題になったオノマトペも、例えば子猫が「ふっくふっくと息をしている」とか瞳孔が「とろとろ、とろとろ糸のように細く閉じていく」とか、昔からある言葉なのに、ここにはこのオノマトペしかないと感じさせる使い方をしている。このごろよく見る「ぶんぶんと首を横に振った」とか、「ふるふるとうなずいた」というような表現より、ずっと新鮮でした。本当に、読めてよかったです。

アンヌ: 久々に、小説を読んだなと思いました。日本のどこかにあるかもしれない、あったかもしれない場所が、実に見事に作られていて、映画でも観ているかのように見入っているうちに、気が付いたらファンタジーの物語の中にいたという感じでした。読んでいて心地よく、すごくほっとしました。言葉でこの世や自然、自分の体の中に流れているものを見つけて書いていっているという感じがします。最初の何章かだけでも子どもたちが読んで、この不思議な世界を感じてほしいと思います。後半猫が主人公になり、鯰が口をきき始めてからは実に奔放な物語になっていき、それもとてもおもしろく読みました。著者も亡くなった飼い猫を再創造できて楽しかったんじゃないかと思いました。

コアラ:文学にひたった感じです。最初の一行で、文学の香りがどっとおしよせてきて「これは違うぞ」と思いました。「他とは違う」でもあり「今読む気分じゃない」でもあったのですが、気持ちを整えてから読むと、けっこうさらさらと読めました。方言が出てくる作品は読みにくいなと思うことが多かったのですが、これは読みやすかったです。お葉と千松爺の会話がとてもいいと思いました。お葉はよく「ふーん」と言うんですが、お葉の感じが出ていると思います。千松爺がお葉を大切にしていることも、いろいろなところから伝わってきました。「花扇の祀」のおノンと恐竜のところで、ちょっとついていけない感じがありましたが、これは、掲載していた雑誌が出なくなって、物語の筋から自由になってというか、自由に想像をめぐらせたのではと思いました。全体としてユーモアもあるし、比喩もいい。例えば57ページの「雨蛙の子が木にはりつくようにして」というのは本当に目に浮かぶようでおもしろいと思います。メリーさんがおっしゃっていたように、語りでもしないと、子どもにはとっかかりがないかもしれないけれど、ぜひ読んでほしいと思います。

サンザシ:私もたいへんおもしろかったです。自然と人間が共存していて、不思議なものや畏怖するものがたくさんあったころの、生きることの有りようを描き出していると思いました。この文体も、その内容と深くかかわっていますね。今は、どこもかしこも偽の明るさに彩られて、そういう不思議なものが消えてしまいました。最近の物語は、場面展開を早くしたり、人目をひくアイテムを出してきたりすれば読者を獲得できると思われているようですが、この作品にはそういうのとはまったく違う、言葉そのものの力があります。言霊がひびいているような物語だと思いました。その力を少しでも感じ取れる子どもなら、この作品に入っていけると思います。

「花扇の祀」のほうが、時間が行ったり来たりするので難しいかもしれません。冒頭におノンが恐竜たちと遊ぶ場面がありますが、著者が楽しんで書いたことはわかっても、何もここで恐竜を出して子どもにサービスしなくても、と思ってしまいました。

西山:p241に、「六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある」とあります。p114では地の文で、「いまではアロエというが」なんて書いてある。作品の時間なんておかまいなしに書いていらっしゃって、そういうこともおおらかに受け止めればいいのかなと。

サンザシ:時間があっちへ行ったりこっちへ行ったりするんですね。

よもぎ:九州の言葉の力強さを感じました。

西山:動物でひっぱれられて、結構子どもも読めるんじゃないかと思います。犬、狐、猫。たとえば14ページなど、山犬らんのしぐさが目に浮かびます。しぐさとか声とか、全編に生き物が目に浮かぶように出てくるので、子どもに難しいというわけではないのではないかと思います。音読したら、結構入り込むんじゃないかな。子どもが小さかったら、試してみたかったと思うくらいです。

エーデルワイス(メール参加):美しい文章でした。ただ、意図的なのでしょうが、内容の進行が散漫なのが残念でした。盛岡の図書館にあったのは平凡社版でした。福音館版とは挿絵が違うので、印象も違うかもしれません。

しじみ71個分(メール参加):言葉の力を存分に味わうことができました。あまりに言葉が美しすぎて、我知らず泣いていました。言葉が色鮮やかに、人、動物、虫、木、花、風、水、音を描き、頭の中に世界が浮かびました。方言もたくさんあり、読んで難しいのかなと一瞬思ったのですが、とんでもなく視覚的な物語で、あっという間に読み終わってしまいました。お葉が山犬のらんとともに白藤を見に行ったところで、白い蝶がひらひらと舞うに至っては、心がふるえて、もう涙がぽろぽろ出ました。非常に静かな表現なのに、とても強く、深く染みいります。ごんの守とお葉の歌の掛け合いのところなどは、まるで能か狂言のようで、どのように立って言葉を交わしているのかが、まざまざと目に浮かびました。猫のおノンと白い子猫の話も素晴らしかったです! 時空を超えて、すべての行きとし生けるものが自然の中で命を循環させるその切なさ、強さ、美しさを心底から理解できる作品だと思います。子どもたちにとっては、方言がとっつきにくいでしょうか? 子どもの感想を聞いてみたいです。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」より)


チポロ

コアラ:おもしろかったです。読みながら、矛盾に気がついたり、この伏線はこうなるのかなと思ったのにそうならなかったりして、あまり計算されていない物語なのかな、と思いました。でも終盤に一気に迫力が増して、チポロのせりふの「人間なめんなよ」と魔物ヤイレスーホの「魔物をなめるなよ」、このふたつは結構気に入りました。このあたりから、細かいところはどうでもいいと思えるおもしろさでした。チポロの母親がどうして死んだのかということについてずっと説明がなくて気になっていたのですが、最後のところでいろいろ説明がつけられていましたね。p252の「(人間に)なにか与えたいと願うならば、おまえの命と引き換えだ」というところから察しがつきました。そして、柳の木になって、柳の葉を人間の糧となる魚にしたというところで、そうだったのか、と。本の扉の絵も柳で、愛を感じる扉だなと思いました。ほかにもすごくいいなと思う場面はp250。相手を殺すのが嫌で「ほかに方法があるんじゃないか」と言ったり、「なぜ、死をもって償わせようとしないのだ」と問われてチポロとイレシュが(なんでだろう?)(なんでかな?)と顔を見合わせたり。戦いのさなかにあって「殺すのが嫌だ」と立ち止まって考えるのはすごくいいと思いました。ただ、伏線についていえば、p74。チポロがシカマ・カムイの家来になると決心して、そのあと右手がだめになったときのために利き腕でない左手で弓を射る練習する場面。このあときっとシカマ・カムイの家来になって、右手がだめになるというピンチが来るけれど、練習の成果で左手を使って切り抜ける、という展開になるだろう、と期待したのに、家来にもならなくて…。シカマ・カムイはなぜかp223でいきなり再登場してくるし、右手がダメになるピンチはチポロでなく、なぜかレプニにふりかかる。せっかく期待させたのだから、もう少しうまく展開してほしかったと残念でした。魂送りの矢についても、体を鍛えただけで射ることができるようになってしまって、もうちょっと何か特別なことを絡めてほしかったです。でも読後感はよかったです。ちなみに「チポロ」とはアイヌ語でイクラのことだそうです。

アンヌ:おもしろくて本当に読んでよかったと思える本でした。アイヌ文学で忘れられないのは知里幸恵編・訳『アイヌ神謡集 』(岩波文庫)ですが、あのふくろうの神様と同じように、物語は鶴が貧しい子どもであるチポロの矢に打たれるところから始まります。この自ら撃たれた鳥が神としてその家を富ませるという不思議な物語を、殺された鶴が神として儀式を求め、それからあの世に旅立っていくというふうに書いています。アイヌのアニミズムを、すべての生き物に宿る神様と人間との関係として実にうまく描いていると思いました。イレシュがさらわれ、手に触れるものが凍ってしまう魔法をかけられるというところは、アンデルセン著『雪の女王』を思い浮かべました。家族がアイヌの物語について調べたことがあって、巻末にあげている資料が家にあり、これを機会に山本多助著『カムイ・ユーカラ』(平凡社)なども読んでみました。ミソサザイの神様や怪鳥フリューのユーカラがあり、優しい姫神様の名前がイレシュだったりして、この物語をさらに奥深く楽しめました。この作品を読んだ後、私のようにアイヌの世界に興味を持って、独自のアニミズム的世界観を知ってほしいと思います。子どもたちが、世界の人々が様々な自然観を持っていることや、一神教の宗教だけが宗教のあり方ではないと知ることは重要だと思うからです。よもぎ:わたしも、『雪の女王』を思いだしながら、最後までおもしろく読みました。アイヌの神話が巧みに取りいれられていて、興味深かったです。子どものころ、知里幸恵さんの伝記と、神謡集のなかのお話を子ども向けに書いた物語を読んで、とても感動したのを思いだしました。ただ、どこまでが神話から採ったものか、どこが作者の創作なのか、あとがきかなにかでもう少し詳しく書いてくださるとよかったかな。読者も、もっと知りたい、読みたいと思うでしょうし。けっこう難しい単語を使っていますが、敬体で、易しい語り口で書いてあるので、けっこう年齢の低い子どもたちも、おもしろく読めるのではないかと思いました。ミソサザイの神が、かわいい!

メリーさん:下敷きになっている物語がいくつかあると思うのですが、読ませるなあと思いました。これは男の子が女の子を探しにいくので『雪の女王』の逆パターンですね。それにしても、この限られた分量の中で、紋切型ではない人間が書かれているのがすごい。どんな人にも善と悪、ふたつの面があることが描かれているので、物語に深みが出ていると感じました。自分を傷つけようとする相手にも思いをめぐらせて後悔するイレシュや、強さと弱さの両方を持つチポロ。どちらかというと、やさしいけれど強い、イレシュに感情移入して読みました。チポロはちょっとかっこよすぎるかな? ミソサザイの神様など、サブキャラクターたちはかわいくて好きです。

レジーナ:『天山の巫女ソニン』(講談社)の舞台は韓国風の異世界でしたが、今回はアイヌの伝説を下敷きにしていて、どちらもおもしろく読みました。チポロがかっこよすぎるという話が出ましたが、神話の主人公だと考えれば、それでいいのではないでしょうか。敬体で書かれているので、戦いの場面は少しまどろっこしく感じました。盛り上がっているときにテンポが落ちるようで……。p78「魔物の手からはにゅーっと黒い粘り気のある汁のようなものが伸びています」や、p248「わーっ!」はラノベっぽい表現で、p82「黒いコウモリのような魔物は地面に落ちると、砂が崩れるように散ってゆきます。そしてそれは何百何千という黒い虫になって、飛び去っていきました」も非常にわかりやすいのですが、漫画っぽい描写で、少し気になりました。ヤイレスーホはなぜ人間になりたかったのでしょう?

ネズミ:成長物語としておもしろく読みました。主人公が10歳で、小学校中学年くらいからが対象だと思うので、意識的に敬体で書いたのだろうと思います。こういうやわらかな語り口もいいなと私は思って、それほどひっかかりませんでした。弓がじょうずになっていくところ、おばあさんのありがたさ、自然を大事にすることなどがいいですね。ところどころに印象深い表現もありました。p262の「人間の『弱さ』を助長させる『甘さ』だとオキクルミは思いました」とか。ただ、戦いの場面で鳥が助けにくるところはやや唐突な感じがしたし、p211でイレシュが「出来心よ」というのは、12歳くらいの女の子としてはどうかと思いましたが。

西山:おもしろく読みました。でも、なんとなく、全体にちぐはぐした感じ。「ソニン」シリーズは、文体に感心したんです。上橋菜穂子的世界でもあるのだけれど、それがこんなに易しい文体で書かれているということに驚いた。結構あれこれ入り組んでいる世界なのに、ものすごくなめらかに伝わってくる「前巻のあらすじ」にとにかく驚いた印象を強く持っています。だから、この作者の敬体自体に私は、批判的どころか好感を持っているのですが、今回の敬体はアニメ的に感じてしまう瞬間がそこここにあった気がして、そういう感触はソニンにはなかった気がしています。「人間なめんな」とか、おもしろいんですけど、どうもでこぼこして感じる。読み直して比べたわけではなくて、印象の記憶だけで言ってます。アイヌの世界を下敷きにしたファンタジーとしては、たつみや章の『月神』シリーズを思い出しながら読んだのですが、あちらは神への祈りとか、ものすごく厳かで、ゆるがせにできない感じがあったのに、こちらでは、チポロが「空腹のあまり、〈魂送り〉の儀式を忘れてい」(p124)て注意されたりして、なんか、軽い。自分の中にエキゾチズムっぽいアイヌ文化ロマンみたいなのが前提としてあったから軽薄に思ったのか…。切なく放り出されたままの感じのヤイレスーホは、私は続編への伏線かしらと思っています。

マリンゴ:おもしろく、勢いよく一気に読みました。半年くらい前に読了して今回再読できなかったので、少し記憶が遠いのですが、会話がちょっと軽い気がしたことを覚えています。ラノベ感、と言いますか……。読んだのと同じ時期に、友人に『ゴールデンカムイ』(野田サトル作 集英社)という漫画を勧められ、これがとても重厚な描写で重いので、『チポロ』がちょっとライトな気はしました。テーマがテーマだけに、重厚感を期待する人もいるのではないかな、と。あと、終盤はこれでもかこれでもか、と戦いがあって、途中で、文章を読む速度に想像力が追いつかなくなりそうだったことを覚えています。

サンザシ:物語はおもしろかったんですけど、どの程度アイヌの伝承に基づいているのか、わかりませんでした。オキクルミやシカマ・カムイといった名前は聞いたことがありますが、伝承に基づいたキャラ作りをしているのでしょうか? 魔物との戦いは勇壮ですが、どれくらい伝承に基づいているのでしょうか? そのあたりを知りたいと思いました。引っかかったのは、チポロの言葉が妙に現代風で、神様に対してもタメ口だったりするところ。想像の世界から急にリアルな現代に引き戻されるような気がしたんですね。オキクルミの妹とイレシュのイメージがダブるように作られているのはおもしろいですね。

レジーナ:オーストラリアのパトリシア・ライトソンも、先住民の伝承に基づいた物語を書いたとき、批判されたのを思い出します。

アンヌ:でも、アイヌの人たちは、書いてもらって広く知られればうれしいと思うのでは? そういう声も聞いたことがあります。

サンザシ:ライトソンも先住民を抑圧する側の白人だったので、批判的な意見が出たんですね。だとすると、同じようにアイヌの人たちから言語や文化を奪った側の日本人としては、勝手に解釈したりねじ曲げたりするのは許されないということになります。菅野さんは勝手にねじ曲げてはいないと思いますが、そういう意味では、アイヌ文化とどう向き合ったかという後書きを書いてほしかったな。

ネズミ:さっき言い忘れましたが、ヤイレスーホを殺せばイレシュの呪いがとけるとわかっているのに、殺さない方法を探すというところは、大きなテーマを投げかけていると思いました。敵を殺せばいいというのではないのは。

ルパン:今回読んだ3冊のなかでは一番わかりやすくて、おもしろく読みました。ただ、「ですます調」が気になるんですよね。語尾は、敬体より常体のほうがスピード感があっていいのではないかと思いました。エーデルワイス(メール参加):アイヌの神話を題材にしたのが新鮮ですが、なんだか軽い。高橋克彦原作の「アテルイ」をNHKドラマで見たような印象でした。しじみ71個分(メール参加):アイヌの物語をなぜ菅野さんが書かれたのか、そこにまず興味を持ちました。自然とともに生きるアイヌの人々が自然や命への謙虚さや感謝を忘れ、神から見放されてしまった時代に、頼りなかった少年が魔物にさらわれた女の子を救い出すために強くなっていく、という筋書きは、素直におもしろく読めました。アイヌ文化のモチーフそのものにとても魅力があるので、それが物語をさらにおもしろくしているのだと思います。ところどころ台詞が現代風で、ふっと我に返ることもあったのですが、それ以外は楽しく読みました。少年が神の血を引くとわかると、なんだやっぱり普通の弱い子じゃないじゃん、と残念にも思ったのですが、旅をして、戦って、達成して、帰還するという成長物語はわかりやすくていいなと思いました。ヘビの化身の少年がちょっと哀れでしたが、敵役なので仕方ないのかもしれません。

(2017年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ニコラ・デイビス文 エミリー・サットン絵『いろいろいっぱい』

いろいろいっぱい〜ちきゅうのさまざまないきもの

『いろいろいっぱい〜ちきゅうのさまざまないきもの』をおすすめします

都会に暮らしていると、この地球は人間が治めているという錯覚に陥ってしまう。でも、実際は違う。この惑星には数え切れないほど多様な生き物が暮らしていて、それぞれがたがいにつながって一つの美しい模様をつくっているのだ。

だから、ある生き物が絶滅するということは、そこにつながっている生物にとっても問題だということ。人間もその美しい模様の一部なのだから、壊さないで大事にしていかないとね。

シンプルな絵本だが、読み進むうちにそんなことが伝わってくる。なにより絵がすばらしいし、文字が大小二種類あるので、小さい子になら、大きい文字だけ読んであげてもいい。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年4月29日掲載)


この地球には数え切れないほど多様な生き物が暮らし、互いにつながってひとつの美しい模様を織りあげている。だから、ある生き物が絶滅すると、そこにつながっている生物にとっても問題が起こる。人間もその美しい模様の一部だから、みんなが生きていかれる環境を守る必要がある。こうしたことを子どもにもわかるように、シンプルな文章とすばらしい絵で表現した絵本。文字が大小2種類あるので、小さい子には大きい文字だけ読んであげてもいい。

原作:イギリス/6歳から/生物多様性、環境破壊、絶滅

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)


2017年04月 テーマ:友情いろいろ

日付 2017年4月28日
参加者 アンヌ、げた、コアラ、さららん、サンザシ、西山、ネズミ、ハル、マリ
ンゴ、よもぎ、りんご、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 友情いろいろ

読んだ本:

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ぼくたちのリアル

げた:現実として、リアルのような、ここまでいいやつがいるかなってところはありますけれどね。完璧じゃないから、またそこがいい、こんな子がいるクラスだったらいいなっていうふうに思いました。先生もすごくクラス運営やりやすいんだろうなって。今でも現実にいじめって一定数あるんですよね。こういう子がいてくれたら、いじめもなくなるのにね。それとサジくんって、前の学校ではいじめられたけど、けっこう行動力があって、頼もしい感じがしました。リアルのお母さんを笑わせようと漫才のDVDを持っていくなんて、ちょっと想像を超えてますよね。リアルとアスカとサジの3人トリオ、すごくいい感じですね。

アンヌ:とても繊細に書かれていると小説だと思いましたが、それだけに息が詰まるようで読み返せませんでした。リアルが背負わされているものが大きすぎて、弟の死だけではなく母の病とか。アルトの様ないじめが趣味みたいな人間が出てきても、兄としての責任の問題に話が流れていくところとか、つらさが先立ちました。

コアラ:友情だけでなくて、恋と失恋の話にもなっていておもしろかったです。他人のことを思いやったり行動を理解したりして、繊細だし、無意識にやっていると気づかないことだと思うんですけれど、自覚的に友達同士でも配慮しあっているんだなと思いました。タイトルもおもしろいと思いましたが、装丁がちょっと地味かなという気がしました。

ハル:とてもよかったです。同性愛者の男の子が登場しますが、そうなるとこういうお話はだいたいそこに集中しがちで、道徳的にもなりがちだと思っていました。でも、戸森さんの場合は、そこは話のひとつで、道徳的にもならず、読書のおもしろさが存分に味わえる。夢中で読めて、読み終わってからもいろいろ思い返して心や頭で想像したり、考えたりできる。課題図書(第63回青少年読書感想文全国コンクール・小学高学年課題図書)に選ばれたのも納得の、いい本だと思います。

よもぎ:とてもおもしろかった! 会話といい、一人称で書いている地の文といい、こんなに上手い作者が出てきたんだと感動しました。特に、サジの書き方がいいですね。ちっともめそめそしていなくて。こういう書き方だったら、いろんな子がいて、どの子もみんな普通の存在なんだと読者の子どもたちも感じるのではと思いました。p201のサジのせりふ、「うそばっかり」なんて、いいですよね! あえて難をいえば、あまりにも上手くて、すっきりまとまりすぎているところかな。こういう言い方をすると叱られるかもしれませんが、女の人の書き方だなあと感じてしまいました。作者が自分の体験から書いた『ジョージと秘密のメリッサ』は、もっと激しい、胸に突きささるようなところがありましたけれど。

ネズミ:「ワケあり」のさまざまな事情をかかえながら生きていく子どもたちに共感しながら、ぐいぐい読まされる作品でした。おもしろかったです。p147に「いいたいことをいえばすっきりするから我慢するななんて、おとなはたまにそんなことをいうけど、そういうのってちょっと無責任だ。すっきりするだけじゃすまないってことを、ぼくたちはけっこうちゃんと知っている」という文章がありますが、子ども社会のたいへんさに作者がよりそっていて、もがきながら出口をさがしていく子どもたちを応援しているのが伝わってきました。

サンザシ:主人公のリアルは、あえてリアリティからちょっと離れたスーパーボーイにしているのだと思ったので、私はあまり気になりませんでした。とてもいいな、と思ったのは、サジが同性愛者だということが嫌な感じなしに書かれているところです。サジはそこだけではなく別の面もちゃんと描かれているので、一人の人間として浮かび上がってくる。またそのサジの思いを大事にしようとする渡の視点もいいな、と思いました。同性愛者とどう付き合っていいのかわからない子どももたくさんいるので、こういう作品が出るのは評価したいです。またこの作家は、文章にリズムやうねりがあって、会話のテンポもいい。これからが楽しみです。

ルパン:文句なくおもしろく読みました。いちばん良かったのはp201「だって、ふたりで外国にいけるほどおとなになるまで、ぼくとリアルは友だちでいられるだろうか。これだけははっきりわかるけど、五年になってぼくとリアルがなんとなく仲がいいかんじになれたのは、サジがいてくれたからだ。」というところです。地味キャラの「ぼく」の気もちがほんとうに“リアルに”伝わってきました。

マリンゴ:この本は、昨年刊行されて間もなく読みました。文章がとてもうまい。そして、リアルくんにしろ、サジくんにしろ、華やいだキャラクターなのが、他の児童文学と大きく違う点だと思います。一般的に日本の児童書に出てくる登場人物って、素朴なイメージの子が中心で、こういうふうに、オーラを持つ子が描かれているのは珍しいですよね。同世代の小学生の読者が憧れるような魅力的なキャラで、惹きつけられて読めそうだな、と。戸森さんのブログなどによれば、LGBTはこだわりのあるテーマだそうで、今後も書き続けたいようです。2作目の『11月のマーブル』(講談社)も読んで、わたしは『ぼくたちのリアル』のほうが好きでしたが、1作1作がほかの作品にない独特な雰囲気をまとっていて、これからも新作が楽しみです。

りんご:最初のリアルの描写にすごくひかれました。リアル、完璧すぎるんじゃないかとも思いましたが、嫌味じゃないし、こんな男の子いたらいいな、と素直に思います。3人の男の子たちも愛情深く描かれていて、しかもお父さん、お母さん、学校の先生もリアルに描かれているところが好きです。カバーに使われている紫色は、お話のなかで大事なモチーフになっているラピスラズリの色だそうです。

西山:私は『11月のマーブル』と続けざまに読んで、正直に言うと、初読のときは印象がよくなかったんです。2作の印象があっという間に混濁しちゃって。再読したら、ここ好きっていうところをあげていくと、驚くほどいっぱい出てくるんです。目に付いた一例を挙げるとp45「友だちの数が多いやつは、たいていベルマークを集めるのがうまい」とか、こういうのすごくおもしろいと思う。冒頭は、後藤竜二の『大地は天使でいっぱいだ』(講談社)を思い出しました。文章が生き生きしてる。うまい。でも、後藤竜二始め、先にたくさんいるし、こういうヒーローを出すのはとてもいいなと思ってるんですけれど、石川宏千花さんの『UFOはまだこない』(講談社)の彼がいたよなと思ったり。では、どういう点が新しいのかと考えると、トランスジェンダーの子どもを意識的にテーマとして取り込んでいる点かだろうけれど、2作の印象が混じってしまったのも、まさにその点が原因だと思うので、あまり手放しで賞賛できない感じです。お母さんの問題、リアルの問題、こんな重たいものを背負わせなくてもと、物語が過剰な感じもして、もっとものすごく日常のリアルたちを読みたいと思いました。作者が描きたいと思っている、目を向けている問題を入れることが過剰で、止めた方がいいと思うのではなくて、それらがもっと普通にさらりと書かれたのが読みたいという勝手な感想です。

サンザシ:さっき『川床にえくぼが三つ』(にしがきようこ著 小学館)を読んだとき「ふるふると首をふる」という表現はいかがなものか、という意見が出ていましたが、この作品にもp80に同じ表現が出てきます。はやりなのでしょうか?

よもぎ:いま、マンガやアニメに使われているオノマトペが、文学作品でもよく使われるようになってきてますよね。いいのか悪いのか、それともしかたがないのか分からないけれど、わたしとしては児童文学作品には昔からの美しい言葉を使ってもらいたいという気がしています。児童文学って、そういう言葉を次の世代に伝えていく船のようなものだと常々思っているから。その反面、作者独自のオノマトペを創造してほしいとも思うんですよね。

エーデルワイス(メール参加):よくあるテーマですが、構成がしっかりしていて、ぐいぐい読めました。同性を好きになる川上サジの内面はどうだったのか、深くは踏み込まないで、爽やかに終わっていますね。日本には昔からマンガにBL(ボーイズ・ラブ)の分類がありますが、やっぱりマンガのほうが進んでいる気がします。登場人物の名前が魅力的で、璃在の璃はラビスラズリでお母さんのるり子にたどりつくところとか、サジはスプーンで広い心をもってすくい取るだとか、最後に意味が明かされるところが憎いと思いました。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


川床にえくぼが三つ

ルパン:まあ、どっちかといえばおもしろかったんですけど、それはただ、何年も前のバリ旅行のことをなんとなく思い出したからかもしれません。文庫の子に手渡したいかと聞かれたら、手渡したいとは言えないですね。そもそもこのお話、小学生が読んで楽しいんでしょうか。なんだか誰かの旅行記を読んでいるみたいでした。主人公の文音と友だちの華、中2の女子がふたりでインドネシアまで行って発掘隊に加わって、原人の足跡まで見つけちゃうんですけど、古代への思いや情熱がまったく伝わってこないんです。いっそのこと古代人が現れでもしたらおもしろかったのに。それに、文音がかかえている問題も「引っ込み思案」くらいで、何に悩んでどう成長したのかも感じられないし。こういう設定のお話って、ふつうは読者がいっしょに旅をしていっしょに感動していっしょに成長したような気もちにさせてもらえるものだと思うんですけど、この物語にはそういうワクワク感がまったくありませんでした。

マリンゴ:昨年、小学館児童出版文化賞を受賞したのをきっかけに読んで、うーん、どうなんだろう? と。評価が難しい作品だという気がしていたので、みなさんの感想を聞きたいと思っていました。女の子の他愛ない友情のもつれと仲直り、というテーマ自体は、よくあるもので珍しくない。でも、旅先のジャカルタの風景とか、雨とか、匂いとか、リアルに立ち上がってきていて、紀行文的な読み方をすると、魅力的な部分もあります。自分が子どもの頃に読んだら、シーンが鮮やかに胸に残る本で、けっこう好きだったかなと思います。

りんご:子どもが海外に行くのって、衝撃的な体験だと思うのですが、主人公たちの驚きや発見が生き生きと描かれていません。インドネシアの空気が伝わってこないのが残念でした。淡々と物語は進行していきます。小説としての読み応えがないです。主人公が発掘作業を手伝って「50万年前から友達」というアイデアはおもしろいのですが、そこ以外は特別におもしろさを感じませんでした。せっかく発掘というロマンあふれる題材を使っているのに、ロマンも伝わってこず、もっとそこを書いてほしかったです!

西山:再読しきれなかったんですけど、あまり強い印象を持てずにいます。良くも悪くも。最初に読んだときに気になったのが、視線を「するどい」と形容する文章がものすごく多いこと。編集者は気にならなかったんだろうかと。p17、「視線がとてもするどい。思わず顔をふせた」。p47で現れた島尾先生が「笑顔なのに、先生の目はとても鋭かった」。p54「その視線がとてもするどく感じられる」。p56「するどい視線になれずにたじろいでいるあたし」と・・・・・・。なにか、すごく悪いことが起きるのかと身構えるような気分になっていました。それだけでなくて、例えば、p33、4から5行目、「いらいらしていて見ていた華が横から手をだして」という場面や、p34からp35の、イスラム教に関して「そのくらいなら知ってるわ」、という言い方の突き放した感じ。p36「当然だけれど、他の人は全員外国の人。じろじろとあたしたちのほうを見ていた」とか、たたみかける拒絶感というのか、私にとってネガティブな緊張感ばかりを作品から受け取ってしまった。まぁ、はじめて外国に行く、それも日本的な快適さとはほど遠い、不便で、不快なインパクト強烈な行き先では、主人公の感覚としてはこれがリアルなのかもしれないけれど、警戒している感じ、不安な感じばかりが前面に出ています。不便や不快もおもしろがってしまう異文化体験のわくわくを私が期待しすぎなのかもしれないけれど・・・・・・。

げた:私はあんまり鋭くなくて、気がつきませんでした。私はどっちかっていうと、そのことよりも異文化理解だとか、多文化理解へのきっかけづくりに使える、副教材的な本としても、さらっと読めていいかなという気がしています。マンディ、ナシゴレン、日本とは全然違うインドネシアの食文化だとか、アザーンが1日5回だとか、勉強になりますよね。中学2年生の女の子たちを通してだけど、インドネシアの人々の心情なんかが、深く表現されているわけではなくて、通り一遍で、さらっと説明されていて、深みがないといえばないんですけどね。インドネシアに比べて、経済力が日本のほうが上なので、遺跡発掘調査もなんとなくしてやってる感があって、対等ではない関係がただよってきて、そういうところがまだまだだなとという感じはもちましたけどね。テーマの友情ですけど、女の子2人が、お互い嫉妬から生まれたいさかいを超えて友情を育んでいくという展開も楽しむことができました。

アンヌ:今回1番おもしろかった本で、作者の書きたいことは見えてくるのですが、うまく書けているかという点には疑問が残りました。主人公の一人称で書かれていますが、内向きな性格で自分を閉じているし病気もしてしまいます。そんな主人公が周囲を見回しても、鋭い視線で見返される場面が多すぎてその先になかなかいかない。「タイムマシンみたい」などとおもしろいことをよく言う人で、頑固な性格であるとされていますが、華の言うように人から相談をされるような人柄には見えてこない。研究者たちの中で過ごすという魅力的な設定なのに、肝心の研究内容がよくわからない。もう少し説明してほしいし、註を入れてもよかったのではないかと思います。いっそ、楓子さんを主人公として大人向きの小説にした方がおもしろかったかもと思いました。書き方で気になったのは、p83アボカドの木に登るダングさんを「いや、サルそのものだ」というところ。その他p87の「あたしはふるふると頭をふった」マンガではよく見られますが、三人称的表現だと思っていたので気になりました。

コアラ:そういえば、途中でいろいろ違和感があったんだったと、今みなさんの話を聞きながら思い出していたところです。私は、出だしのところは、旅のワクワク感で読み始めました。中学2年生の女の子の友情の物語なんですが、一人称で気恥ずかしいところもあって、p191から、文音と華がお互いのわだかまりをぶつけあう場面は、ちょっと恥ずかしくて読めなくなってしまいました。私自身が一番共感したところは、p201の7行目、「果てしのない研究が未来につながっていくに違いないって思えたのよ。」という楓子さんの言葉でした。子どもの目というよりも、大人の目で読んでしまったような気がします。タイトルは、強いタイトルではないのですが、読み終わるといいタイトルかなと思いました。

ハル:正直なところ「50万年前からあたしと華はつながっている」というところがよく理解できませんでした。仮にそうだったとしても、だから私たちは特別な絆がある、という考え方はちょっと、私の考え方とは相容れませんでした。だけど、そこを抜いてしまうと、女の子同士のやきもちとか、素直になって仲直りとか、そういうのは日常の中で発見できることで、何もジャカルタまで2人を飛ばさなくてもいいんじゃないかなと思ってしまいました。一人称なのも気になります。中学2年生の女の子らしさが少なかったり、主人公の性格からか、日常から飛びだした割にのびやかさがなかったり。せっかくの舞台がもったいなかった感じがします。

さららん:華と文音が異文化に出会い、自分たちの物の見方を相対化していく過程を通して、読者もまた異文化を体験してほしいという作者の意図は、よくわかります。狙いはいいんですが……。現地の言葉に、自分たちで耳をすまして、「バギ」っておはようっていう意味なんだと発見するところなどは、良い描き方だと思いました。現地の人は文音を「ヤネ」と、華を「ナ」と呼ぶ。違う名前を得ることで、2人は違う視点から見た、今までとは少し異なる自分を感じる。「帰ってきたよ、50万年前からの友、ナよ」「うん、帰ってきたね。五十年後までの友、ヤネよ」と、帰国後2人がちょっと芝居がかって言いあうところで、盛り上がるはずなのですが、作者の計算が見えてしまって…残念。あと、リアリティっていう点で、果物とか生野菜を、主人公たちは危ないって言われずに食べてるんですけど、大丈夫かしら。洗い水には注意したほうがいいかも。旅のあいだ、華と文音の気持ちがすれ違い、「嫉妬」という人間の永遠の問題にぶつかるけれど、あまりこじれることなく解決してしまう。お話の構造に、盛り上がりがない。確かに文音はジャワ原人の足跡を見つけるけれど、心に響く、大きな何かとして感じられない。外国に行っても日本人の大人に守られ、日本食に舌鼓を打ち、本当の異文化に出会っていない印象が残りました。

よもぎ:題材は、とてもおもしろいと思いました。知らない国に旅立ち、未知の研究に携わるところなど、だれもが経験できることではないから、読者はわくわくすることと思います。狭い教室のなかで、あの人が意地悪したとか、いじめたということだけでなく、こういう物語がもっとあってもいいんじゃないかしら。主人公と華の気持ちも、よくわかるように書けていました。ただ、アンヌさんがおっしゃったように、説明不足のところが多すぎるのでは? たとえばp53の「テレビで見たことのある南国の大きな葉っぱ」とか、ちゃんと名前を教えてもらいたいし、「研究者のなかに西洋の人もいる」というような表現も荒っぽいですよね。いまどき、こんな風にいう? なかでもひっかかったのが、p120の栗山さんの話。もともとオランダの植民地だった蘭印に、太平洋戦争をはじめた大日本帝国が表向きは独立を助けるという名目で、本心は資源欲しさに進軍したというのは歴史的な資料でも明らかになっていることだし、もっときちんと書くべきだと思います。ただでさえ、近、現代史を教えない学校があるという話ですから。作者の書き方だと、日本とインドネシアという国が、第二次世界大戦で直接戦ったように誤解するのでは? だいたいインドネシア共和国ができたのは、大戦後なのに。どうしてこんなに大事なところをさらっと書きながしてしまったのか、なにかの配慮が働いたのか、ぜひ作者に訊いてみたいと思います。あと、p105の4行目「やさしが」は「やさしさが」、p145の2行目「あたしは」は「あたしが」ですよね?

ネズミ:4か月くらい前に読んで、今回ちらちらとしか読み返せなかったのですが、前に読んだとき、やや全体に物足りない感がありました。外国に行っても日本のものさしをひきずっていて内向きで鈍感な感じがするのは、地層学者のおばさんに誘われて中2の夏休みになんとなくついてきてしまった女の子という設定だからかなと思ったのですが、そこからもっと成長するのを期待してしまうと、そうでもなかったかなと。またクライマックスの足跡の発見も、都合よすぎる感じがしてしまって。でも、このくらい受け身でぼやんとしているほうが、今の中学生には現実味があって親近感が湧くのでしょうか。説明的な会話が多い気もしました。みなさんはどう読むのだろうと思っていた本だったので、今回とりあげられてよかったです。

サンザシ:異文化に触れた子どもたちの新鮮な驚きは描かれていますが、文章にオリジナリティがないと思いました。そのせいか、作品世界に引き込まれるというよりは、道徳の教科書に出てくる「いい話」を読んでいるみたいな感じがしてしまいました。不満だったのは、リアリティの欠如と、上から目線です。そもそも大事な調査を抱えて忙しい研究者が、初めて外国に行く観光気分の子どもを2人も現場に連れていくでしょうか? それに帰るときも、田舎から危険がいっぱいのジャカルタ空港まで行って、そこから帰国便に乗るのを楓子さんは最初子どもだけでやらせようとします。それもちょっとあり得ないな、と。日本まで一緒に帰れないとしても、普通はジャカルタで飛行機に乗せるところまでは大人の責任でやるでしょう。またp18で栗山さんが荷物チェックが厳しいので、カウンターを蹴って子どもたちをどきっとさせるのですが、私自身は飛行場でカウンターを蹴っている人なんて見たことがないので、栗山さんのキャラ設定としてこれでいいのか、と疑問でした。
 上から目線というのは、たとえばp83でダングさんが木に登るのを見て「サルみたい、いや、サルそのものだ」で終わらせているところ。それから「〜をしてあげる」という表現が随所に出てきます。p117「やさしくしてあげると、ぜったいに気持ちで返してくれる」p118「親切にしてあげると返してくれるのよ」。こういう言い方って、この作家は欧米人に対してもするのでしょうか? もう少し寄り添った書き方ができるとよかったのに。p185「あわてて車にもどるダングさんがすべって転んで、どろまみれになった。思わず、笑ってしまった」というところも、ダングさんがみんなの傘を届けようとしているところなので、これで終わらせてはまずいでしょう? それと、p224の「話しているうちに、わけがわからなくなってきた」というところですけど、ここは二人の友情話にとってはキモになる部分なので、もっとちゃんと書いてほしかった。小学館児童出版文化賞をとった作品なので評価する人も多いと思いますが、私には題材を生かし切れていない、もったいない作品だと思えました。

ルパン:p118はさすがに「上から目線」が気になりましたね。「ダングさんに運転免許をとらせてあげたのよ。」とか「小さいことでも親切にしてあげると返してくれるのよ。」というセリフ。「〜してあげる」ということばづかいだけでなく、ダングさんが色々よくしてくれるのはこちらに恩があるからだ、という楓子さんの考え方には共感できませんでした。エーデルワイス(メール参加):題名の「川底にえくぼが三つ」って、なんのことだろうと、惹かれました。女の子の友情と初の海外体験や、カルチャーショックと成長が描かれています。作者の体験がもとになっているので、リアリティはありますが、もう一つ何か足りない感じがします。私事ですが、23年前に初の海外旅行をしました。図書館員チームに入れていただいての、タイ・ラオス図書間交流の旅でした。1週間の平均睡眠時間は4時間。ハードだけど終始笑っていて、濃密で幸せな時間を過ごしました。最後はもちろん涙、涙・・・。その体験が、その後の私の方向性を決めたような気がします。中2での体験は大きいですね。パックツアーではなく、子どもたちもどんどん日本を出て海外体験をしてほしいな。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ぼくたちの相棒

コアラ:とてもおもしろく読みました。翻訳ものは最近読んでいなくて、そのせいか乾いた文章という印象でしたが、たくさんの情緒を表現している物語だと思いました。実在の科学者のルパート・シェルドレイクさんが、物語の中で架空の登場人物の質問にメールで答えるという設定がおもしろいし、フィクションなのに、犬の実験という現実の世界でもありそうな科学的好奇心を刺激するものでストーリーが進んで、フィクションでありつつノンフィクションでもあるというのがおもしろかったです。物語としては、大好きな友達が引っ越していって、そちらでの生活も応援したいけれど、自分はすごく喪失感があってたまらない、とか、喪失の穴を埋められないという複雑な感情を持ちつつ友達になっていく過程とか、繊細な感情を表現していると思いました。特にいいと思ったところは、p123の3行目から5行目、「だけど、そこは神聖な場所なんだ」というところです。それから、気になったのは、p133の終わりから3行目から。なんとなくドイツのユダヤ人の強制収容所を思い出して、著者が意図したかどうか知りたいと思いました。あとは最後の方で、ジョージが飼っていた犬のバートが死んでしまった後、新しい犬にすぐに気持ちを移すところが、ちょっと気持ちについていけないような気がしました。全体的には、友情とか犬と人間の心のつながりとかが描かれていて、とてもよかったと思います。ずっと飼い主を待っている犬、というので、忠犬ハチ公を思い出しました。

アンヌ:2人の少年の口調が同じで、最初に読んでいる時は混乱しました。2 度目に読み直してみると、それぞれの持つ孤独が身にしみてくる感じがしました。全体にゆったりと時間が流れている物語で、翻訳ものを読んでいる気がしませんでした。p217の、お母さんだから何でもお見通しだというわけではなくて、人として感じ取っているのかもしれないという所や、博士がジョージの質問にしっかり答えている所など、心に残りました。最後に犬が死んでしまうところで終わらず、2匹目の犬に出会うところで終わる。きちんとお別れをして悲しんで次に踏み出すという感じが素敵でした。

げた:レスターは「うつろうは楽し。変わりゆくもよろこばし」というマントラを唱えてる、ちょっと変わった子で、美徳リストも作ってるんですよね。1つずつ自分が考えて、自分がそうありたいっていう言葉を書く、上から教え込まれる、例えば「教育勅語」なんかじゃなくてね。こういう事って、自分で考えることに意味があるんで、道徳教育って本来こういうものであるべきだと思うし、こういうあり方を提示しているっていうのはいいなって思いました。一方のジョージが始めた「犬が飼い主の帰りの時間がわかるか」という実験って、私知らなかったんですけど、いろいろ本が出てるんですね。これも子どもたちが自分自身で実験して確かめていくって姿勢がいいなって思いました。バートが死んじゃうんですけど、死ななくてもいい筋にはできなかったのかなと思いますけどね。でも、次のスニーカーという子犬との出会いの場面もとってもよかった。子どもたちに読んでほしい本だなと思いました。

西山:最初に2人が出会うまでのところが、ものすごくおもしろかった! 読みながら、あなたたち絶対友達になれるからって、わくわくしていたのですが、出会ってからは、2人のイメージが混濁してしまって、一気にわくわく感が失速してしまいました。もっとすぐ意気投合するのかと思いきや、なかなかそうも展開しないし。おもしろくは読んだのですが、出だしで抱いた期待感は裏切られた印象です。伊藤遊の『ユウキ』(福音館書店)を思い出しました。これも、親友が転校していって残される側と、転校してやってきた子が出会う。去る側、去られちゃった側、双方の辛さが、どちらも作品も良く書かれていると思いました。

りんご:2人の描き分けができておらず、私も読みにくかったです。それはこの本の残念な点ですが、それを補って余りあるおもしろい本でした!この本当の研究者、シェルドレイク博士とのメールのやり取りがベースになっているのがいいですね。博士が子どもの目線に立って主人公に語りかけているんですが、上から目線ではなく、子ども扱いせずに、対等に話しかけていけて、すごく好きです。ユーモアもあるし、こんな大人がそばにいたらいいですよね。p2から出てくる「美徳」という言葉には違和感がありました。口語では使わないですし、かたすぎる言葉に感じました。自分の犬で実験したり、記録ノートを作ったりと、子どもがマネしたくなるヒントがたくさんあるのもいいですね。

マリンゴ:みなさんもおっしゃっているように、2人の少年と2匹の犬を混同しやすくて、表でも作りたいと思いました。一目でわかる差別化がされていると、読みやすいのですが……。おもしろいと思ったのは、本文の中で優等生のような答えをする科学者が、実在の人物だという点です。ストーリーの展開のための優等生っぽい答えではなくて、科学者自身の考えなのだなとわかって、とても親近感がわきました。最後、犬の安楽死のシーンは、「あぁ……来た」という感じで。海外の文学ってよくこういうのがありますよね。海外在住の友達も、病気の猫を一生懸命介護してたら、どうして安楽死させないのかと現地の友人に言われたそうです。文化の違いもありますから、完全否定するわけじゃないけれど、当たり前のように描かれていることに、若干戸惑いを覚えました。

ルパン:すてきな物語でした。ただ、やっぱり出だしのところはどっちがどっちだかわからなくて、お話の中に入って行くのに時間がかかってしまいました。2人の区別がついてからは、一気に読めたのですが。私もバートが死んだことは悲しかったのですが、p229「ぼくが死んで天国に行ったとき、バートが気づいてぼくのことを待っていてくれたらいいな、と心から思います」というジョージのセリフが、このお話のクライマックスだと思うんです。だから、やっぱりバートはここで死ぬ必然性があったんだと思います。ただ、ここの訳文、「天国にいったとき」ではなく「天国にいくときは」にしてもらいたかったですね。ジョージはまだ死んでないし、子どもだから死は遠い将来のことだと思うので。それから、p108の挿絵がとても好きです。いいですよね、レスターとビル・ゲイツが抱き合って眠っているこの絵。

サンザシ:日本語の「た」は必ずしも過去形ではないし、「行ったとき」は、現時点で見て過去でなくても使えるので、そこは間違ってないかと思います。これ、もちろん悪い本ではないんですけど、レスターとジョージは口調が同じなんですね。育ったところが違うので、原書だと話し方にも違いがあるのでしょうか? 年齢も同じだし、どちらも雑種の犬を買っているし、同じような実験をしているので、まぎらわしかったです。もう少しキャラに差異を出してもらうと、イメージがくっきりするのではないでしょうか? それから、簡単に安楽死が出てくるのは、文化的な違いなんですけど、私は嫌でした。アメリカの作品には、ケガをしたり病気になったりしたペットを安楽死させる情景がよく出てきますよね。人間の安楽死は、その人の意志が反映されるけど、犬や猫は自分の意志を伝えられないのに。いい作品なんですけど、想像力をかきたてられたりはしませんでした。博士は子どものメールに毎回ちゃんと答えてくれますけど、『ヘンショーさんへの手紙』(B.クリアリー著 谷口由美子訳 あかね書房)では、作家が子どもの手紙に答えるのが面倒になって、作家に書いたつもりで日記をつけなさいって言うんですね。現実にはそっちのケースの方が多いんだろうな、と思います。これは博士が著者のひとりなので、最後まで誠実です。だからかもしれないけど、とても教育的な臭いもしてきました。

ネズミ:おもしろく読みました。小6の男の子の気持ちが伝わってくるなと思いました。ほかにも、p125「それにしても『魂』ってなんなんだろう? 魂や霊魂みたいに、はっきりとは定義しにくいことばってあるものだ。自分自身の魂を感じることはときどきある……」のような、考察や実存への問いかけが挿入されていて、作品の幅を感じました。こういうところで、この作品への信頼感が増します。博士に手紙を書く展開で、私も『ヘンショーさんへの手紙』を思い出しました。米国ではこういうのは児童文学の伝統としてあるのかしら。

よもぎ:わたしも、読みはじめたときはレスターとジョージの区別がつかなくって(まったく違っているんだけど!)なかなか物語に入れませんでした。なにかちょっと工夫があっても良かったんじゃないかな。でも、2人の姿がはっきりしてくるにつれ、がぜんおもしろくなりました。犬を使った実験がおもしろいし、実際にいる学者との手紙のやりとりを入れたアイデアが、秀逸ですね。いくつも、いいなと思う文章がありました。p125の「星空は科学と魂が出会う場所」その通りですよね! p132「おれも鳥みたいに、口笛が吹きたいよ」「嘘ばっかり」という兄と妹のビビアンのやりとりがおもしろい。p151「スツールをぐるぐるまわすと目がまわってしまった」子どもって、本当にこんな風ですよね。p194「たしかに成長を見ることはできない。あんまりゆっくりすぎて……」読者の子どもたちは、ぜったいにこんな風には考えない。これは、大人の作者が子どもに贈る、愛に溢れた言葉で、おおげさにいえば児童文学の本質をあらわしているような気がしました。とてもいい本でした。

さららん:2回読みました。2回目はすうって読めたんですけど、1回目はやっぱり入りにくかった。ジョージの妹のビビアンがかわいい。ジョージとレスターの仲を取り持つ、欠かせないキャラとして書かれてますね。レスターに対して素直に打ち解けられないジョージだけれど、ビビアンに口をはさまれて、じゃあこっちでもいっしょにキャンプをやろうよ、と思わずレスターに言ってしまう。その言葉がうれしくて、レスターが家出を思いとどまる場面が好きです。そして家に帰ったレスターは「引っ越しも新しい言葉をおぼえるようなものだ」としみじみ思います。子どもらしい、それでいて哲学っぽい表現がところどころにあり、心の微妙な動きが会話ににじみでている。感情表現の言葉をあまり使わず、それをできごとや行動で表現して、読者に想像させるように書かれている点が、うまいな、と思いました。目で見えるものと見えないものの関係も大事なサブテーマで、博士は科学者だから実験を通して実証するのが仕事だけれど、決して証明できない動物の予知能力も否定しない。「それは研究できるようなことじゃない」と言いながら、科学と人間の気持ちのバランスを否定しないで認めてくれることが、物語そのものの奥行きにつながっているような気がします。

ハル:ジョージもレスターもどちらかというと個性的な子たちなので、作中の登場人物と同じく、私もこの子たちの人物像をつかむまでに時間がかかりましたし、どっちがどっちで誰が誰かを把握するまでに時間がかかりました。でも、読み終えればとてもおもしろかったです。ただ、この情緒的なお話を、子どもが読んだらどう思うのかなというのは疑問です。子ども向けの本というよりも、大人が読んで味わい深い、というタイプの本じゃないのかなぁと思います。

サンザシ:この本の翻訳者は本来とてもじょうずな方なのですが、たとえば13pの「人間や動物は」は「人間と動物は」じゃないかなと思ったり、少しわかりにくさと違和感がありました。それに2人の主人公の差を出すところなども、編集者が最初の読者としてアドバイスするなど、もう少しがんばってほしかったかな。エーデルワイス(メール参加):レスターが繰り返し唱えるマントラの「うつろうは楽し。変わりゆくもよろこばし」って、深いですね。ジョージは、飼い主がいつ帰って来るかを犬が察知するかどうかの実験をしていますが、ルパート・シェルドレイクの回答が機知に富んでいます。物語全体が哲学的だと思いました。犬のバートが死ぬくだりは切ないです。訳者の千葉さんも、後書きに、子どものころ愛犬エルを失った悲しみを書いていますが、経験した人にしか分からない深い悲しみがあるのだと思います。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


くらやみのなかのゆめ

カナダの絵本。クリス・ハドフィールドは、カナダ人の宇宙飛行士です。子どもの頃、アポロ11号の月面着陸をテレビで見て、宇宙飛行士を志したのでした。ギターを国際宇宙ステーションに持ち込んで、デヴィッド・ボウイの曲を歌ったり、船外作業中にとつぜん目が見えなくなったのに落ち着いて行動したことでも有名な人です。

彼は、小さいころ暗闇が怖くてたまらなかったのですが、やがて暗闇を,力強くて不思議で美しいものだと感じるようになります。「夜のやみは,夢をうみだし、朝の光は、その夢を実現するためにあるのです」とも語っています。

ザ・ファン・ブラザーズは、アメリカ生まれでカナダに暮らしているイラストレーターの兄弟です。日本で紹介されるのは、この作品が初めてだと思います。暗闇を怖がる子どもたちに手渡してもらいたいと思っています。
(編集:喜入今日子さん 装丁:城所潤さん)

◆◆◆

・「産経新聞」2017年3月19日


西村繁男『あからん:ことばさがし絵本』

あからん

『ことばさがし絵本 あからん』をおすすめします

「あ」から「ん」まで、それぞれの文字で始まることばをさがす楽しいあいうえおの絵本。

たとえば「た」だと、「たこあげする たぬきに たこ たいあたりする」というゆかいな文に出てくるものだけでなく、ほかに9個の「た」で始まるものが描かれています。さあ、何かな?

「ん」もおもしろいよ。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年3月25日掲載)


2017年03月 テーマ:自分ってなに? 心と体のずれのなかで

日付 2017年3月24日
参加者 カピバラ、クマザサ、げた、コアラ、さららん、サンザシ、西山、ネズ
ミ、ハル、よもぎ、リス、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス、しじみ
71個分、マリンゴ)
テーマ 自分ってなに? 心と体のずれのなかで

読んだ本:

(さらに…)

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リトル・パパ

ルパン:まったくもっておもしろくありませんでした。ほかの2冊(魚住直子の『てんからどどん』とアレックス・ジーノの『ジョージと秘密のメリッサ』)は、入れ替わりによって主人公が成長していく物語ですよね。でも、これはおとなと子どもが入れ替わったことに何の意味があるのかさっぱりわからない。結局、入れ替わってよかったと思えるのはパパの絵が出版社にウケたことくらいでしょ。最後はいきなりヘンなマンガになっちゃってるし。この本のなかで唯一良いと思えるのは、あとがきの中にある、訳者の叔母さんがそっくりの双子で、ある日制服を交換して互いの高校に行った、というエピソードです。この作品全体より、このあとがきのほうがよっぽどおもしろいです。

カピバラ:パパがクマになったり、金魚になったり、中学年向きの本によくあるんですけど、それでどんなに大変なことになるのか、どんなに家族がドタバタするのかがおもしろいわけですよね。でもそこがあまりおもしろく書けていなかったと思います。ドタバタだけではなく、入れ替わったからこそできることとか、予想外の効果とかがないと物足りない。それに、赤ちゃんってこんなしゃべり方するかな? 赤ちゃん言葉がありきたりで、つまらなかったです。

さららん:すぐに読めてしまったけれど、全体的に「荒っぽい」印象を受けました。なにが荒っぽいのかなあ。赤ちゃん言葉のつくりかた? 中身はパパだけど、外見は2歳児の存在を、子どもはおもしろいと思うんでしょうか?

カピバラ:おもしろいと思って書いてるんじゃない?

ネズミ:何も言えません。おもしろいと思えませんでした。お父さんのセリフもおっさんくさくて、入れ替わった弟にもお父さんにも気持ちを寄せられませんでした。

レジーナ:人間が別のものに変身する話は、それをきっかけに、自分という存在や、まわりの人たちとの関係性を見なおすことに意味があると思うのですが、この本はドタバタでおわっている気がしました。p93で子どものホリーが言っている「みすみす」や、p30の父親のセリフの「おねしょの心配はご無用です!」など、言葉づかいもところどころ不自然で、のりきれませんでした。最後の場面がマンガになっているのはなぜでしょう?

リス:高齢で、脳の働きがゆらいでしまった人でも、時にはしっかりとした自意識があり、思いがけない反応ぶりを見せるということを私は実際に体験しています。私は外国に住んでいてこの本は一度も見ていないので、どんな文脈や文章の中にあるのかは分かりませんが、一つの言葉にとらわれないことも大事だと思います。でも何といっても、このようなシビアなテーマには、ユーモアの質が問われますね。

西山:読みにくかったです。どっちのことをさしているのか、うけとりにくくて若干イラつきました。体の大きなお父さんが、身体的にはいろんなことができなくなるわけですが、それがドタバタのネタになるのか。障がいのある人のことが浮かんで、ぜんぜん笑えなかった。むしろ、ざわざわさせられて、不快感を覚えました。みなさんの感想を聞いていて、『お父さん、牛になる』(晴居彗星作、福音館書店)というのを思い出しました。フンの始末に困るシーンとか強烈だった。あのくらいシュールだとまだいいように思うけど・・・・・・。

ハル:わたしは、おもしろくないどころか、読んでいて傷ついてしまいました。「グロテスク」という表現が使われていましたが、そのあたりからどんどん気持ちが暗くなってしまって。高齢者の自動車事故のニュースなどもよく話題になりますが、それに限らず、こういう現実だって身近にあるでしょう? なんにも考えずに、わあ大変だ!って、ドタバタを楽しめばいいのかもしれませんけど……やっぱり、ただ楽しければいいってもんじゃないと思います。

サンザシ:この物語の家族像は、ジェンダー的にみるととても古いですね。父親=家長という図式です。それから、突飛なシチュエーション設定にするのだったら、入れ替わったときのリアリティもちゃんと書いてもらわないと。ベンジーは2歳という設定なのに、体が大きくなったとたんパパの靴や服をどんどん脱いでしまう。大人の服にはボタンやジッパーやひもなどいろんなものがついてることを考えれば、たとえ体は動かせるようになったとしても、実際には無理ですよね? また、パパは「おむつを外せ」と何度もどなるんすが、出版社に受け入れられるだけの絵が描けるくらいなら、おむつなんか自分ではずせます。p74には「こんなおにいさんがいるのもいいわね」「そうだね。ぼく、ずっとおにいさんがほしかったんだ」ときょうだいが会話をしていますが、前とのつながりがないのでそこだけとってつけたように浮いています。物語の中のリアリティがぐずぐずなので、えっ?と思ってしまってちっとも笑えませんでした。

げた:絵がもう少しかわいいといいのにね。赤ちゃんになったお父さんが全然かわいくなくって、気に入らないなあ。それに、赤ちゃんになったパパは結構「赤ちゃん」の状態を楽しんでいるのに、赤ちゃんになったお父さんはそうでもないですよね。赤ちゃんになったお父さんが活躍する場面を登場させたらよかったのにね。

コアラ:p10の「きったないタオルケット」は、関西弁のようでおもしろいと思いましたが……。

よもぎ:単なる強調じゃないかしら?

コアラ:あまりいい絵ではなかったけれど、p104からのマンガの部分は、子どもが読んだらおもしろがるのではと思いました。最後、p126で、「パパは今、新しい本にとりくんでいる。題名は『リトル・パパ』」とあるので、この本がまさにそのパパが書いた本、という設定にすればよかったのに、せっかくのアイデアがうまく生かされていなくてもったいないと思いました。

よもぎ:お父さんと赤ちゃんが入れ替わるドタバタがおもしろいと思って、作者は書いたのかしら? ちっともおもしろくなかったし、読んでいるうちにどっちがパパか赤ちゃんか混乱してきました。原書にも最後のほうのマンガがあるのかどうかは知らないけれど、おもしろさが足りないと思って、サービスで入れたのでは? いちばんまずいなと思ったのは病院の場面。どうしても、認知症などの障がいのある方たちとダブってしまって(入れ替わったことを知らない、ほかの人たちには、当然そう見えたことでしょうし)さららんさんは「荒っぽい」とおっしゃったけど、ずいぶん無神経な作者だなと思いました。子どもたちに薦めたい作品ではないですね。

アンヌ:ネットで原作の表紙絵を見ましたが、すね毛だらけで、もっとひどい感じです。こちらの絵はあごの線がないところが松本かつぢ風で、特に赤ちゃんの絵がかわいい。でも、マンガのところは原作と同じ仕組みなのでしょうか?あまりマンガとしてもおもしろくありませんでした。しじみ71個分(メール参加):楽しいエンタメ物語だと思った。入れ替わりによって成長も何も起こらないところが気楽だった。教育テレビでやっているアメリカのホームコメディのようだ。ドタバタがあって、ドキドキがあって、やっぱり元に戻って良かったというだけの話だけれど、この単純明快さは小さい子にも楽しめるのではないか。言葉や訳にも気になるところは特になかった。

マリンゴ(メール参加):かわいらしい物語でした。入れ替わってからのドタバタが、ちょっと長い気がしましたが、子どもはこういう繰り返しが好きだろうから、いいんでしょうね。

エーデルワイス(メール参加):日本人の挿絵が原作とピッタリ合っていたが、原作には挿絵がなかったのだろうか? パパの体になったペンジーのやり放題がおかしい。赤ちゃんとパパの体の入れ替えのお話は、珍しいかも。楽しく読めた。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ジョージと秘密のメリッサ

ネズミ:とてもおもしろく読みました。気持ちよく、後味もとてもよかったです。本当の自分をなかなか外に出せないジョージに、ずっとケリーがよりそっているのもいいし、最後にお母さんが認めてくれるところがいい。悩んだり悲しんだりする、いろんな心理描写が子どもらしく納得のいく表現で描かれていて、説得力があると思いました。

レジーナ:ジョージの描写にリアリティがあって、胸がいっぱいになりました。ケリーが友だちとして支える姿もよかったし、スコットが、はじめはトランスジェンダーをゲイとまちがえたり、とんちんかんなことを言いながらも受けとめようとする場面もとてもよかったです。

リス:この本のテーマを知って、作家が創作活動を通して、どれだけ社会に貢献していることかと、改めて意識しました。タブーとなっていた、いろいろなテーマが作家によって本となり、子どもも大人も、現実世界に生じている事柄や問題に目を向けることができます。例えば家族関係や、子どもの自立性などでは、両親の離婚問題から始まり、老人問題、パッチワークファミリー……などと、家族、子ども像が変容して行くさまを。性に関わる児童書も出るようになりました。優れた児童書はいろいろな社会現象や問題について自由な目で、深く取り下げ、啓蒙的な役割を、時には積極的に、あるいは大胆に担ってくれていると実感しました。
それにしても、子どもが離婚した父親に対して、「いい人だけど、父親向きじゃない」と言うくだりに、新鮮ながらも、ある種のほろ苦い感慨を覚えました。今の子どもたちは親をそんなふうに批判できるのかと。あるいは人間の幸せのために作家が本の中でそのように言わせているのかと。さまざまな人間の生き方や考えを読者にアプローチしていく作家の姿勢が印象的でした。

西山:たいへんおもしろく読みました。トランスジェンダーの人がどういうときにストレスを感じるか、ああ、こういうことがこんなふうにつらいんだ、ということを初めて知った気がします。テーマとは全く関係ありませんが、食事の場面や、学校の送り迎えの場面で、おお、アメリカ!と思って、いやぁ食事がひどいなぁと、翻訳もので異文化に出会うというのを改めて実感しました。ひっかかったのはp94、「英語」と訳しているのは、「国語」の方がいいのでは? 子ども読者は自分たちにとっての「英語」と同じように捉えるのではないかと思うので。この作品を読んでいたとき、トランスジェンダーの多さを新聞記事で読んで、ふと、性別なんて血液型占いみたいなものじゃないかと思ったんです。血液型どころか、すべての人間を女性か男性かというたった2つの型に分けて、こういうものと決めつけるのは、ものすごくナンセンスに見えてきました。でも、世の中はまだまだ、一人一人をありのままで受け止めるには至っていないから、いかに生きにくいかを伝えてくれるこの作品はありがたいです。日本の最近の作品でも、「オネエ」とか「オカマ」とか、身をくねらせて女言葉で笑いを取るとかいう場面が結構あると感じていて、ものすごく認識の遅れを感じます。

サンザシ:「国語」か「英語」かというのは難しいところです。そもそも「国語」という表現は、国家の言語という意味で、ほかの国では使いませんから。日本の子どもになじみのある表現を大事にすれば「国語」になるかもしれませんが、異文化を伝えるという方を重んじれば「英語」という訳語にするかもしれません。

クマザサ:この本はかなりぐっときました。男の子らしさや女らしさの押しつけというある種の規範のなかで、息苦しさを感じている子は、きっとたくさんいると思う。主人公の心の揺れをていねいに追っていくところがいいですよね。翻訳もののYAなんかを読んでいると、LGBTをテーマにした本が最近はいろいろ出ていますが、同性愛をあつかった作品が比較的多くて、トランスジェンダーをテーマにしているのは珍しいと思います。動物園にいく場面も、すごくいいですね。この子の解放感がすごく伝わってきます。読んでいて切なく、苦しいところが多いけど、最後に自分らしくあることの喜びを感じさせて終わっているところに、とても好感をもちました。私は志村貴子さんの『放浪息子』(エンターブレイン)というマンガが好きなんですが、このマンガも、男の子になりたい女の子と、女の子になりたい男の子の話を描いています。ジェンダーのことや、子どもの気持ちをすごくていねいに拾ったいい作品です。ただ、こういうことを伝えるチャンネルは、マンガだけじゃなく、たくさんあってほしい。とくに子どもの本にこそ、あってほしい。そういう意味で、この本が出たことは率直にうれしいです。

ハル:すてきな本ですね。ケリーもお兄さんもお父さんも、みんなそれぞれに違う形の愛があってすごくいい。愛があふれてる。ジョージと親友のケリーは1週間ほど話せない期間がありましたが、もしかしたらそのときケリーには、ジョージの告白をどう受け止めるかという葛藤もあったんじゃないかと思います。でもそこを書かないでいてくれたことで、もし自分がこういう場面に出会ったら、こんなふうにぴょんと垣根を飛び越えて受け止めちゃえばいいんだよっていう例を見せてくれたような。LGBTだとかなんだとかあれこれ考えないで、ケリーみたいに受け止めればいいんだって。……すごくいい本だと思いました。

サンザシ:作者自身もトランスジェンダーということなので、心理描写がリアルです。ジョージの母親や兄との関係も、だんだんよくなっていくんですが、それも自然な流れで描かれているのがいい。それと、女性の校長先生が、校長室に「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの若者が安心してすごせる場所を」と書いたポスターを貼っていたり、ジョージの母親との面談で、「親は子どものあり方をコントロールできませんけど、ささえることはまちがいなくできます。そう思いませんか?」(p138)と言ったりする。そういうちゃんとした教育者に描かれているのもいいな、と思いました。最後のほうにジョージ(メリッサ)が女の子の服を着て女の子になって動物園に行ったときの解放感や高揚感が描かれているんですけど、私は、それほどまでに自分を抑圧しなくてはならなかったんだということを感じて、胸を打たれました。ジョージは、シャーロットの役を演じれば、家族にも自分が女性なんだとわかってもらえると思いこんでいるわけですが、そこはちょっと疑問でした。英語では女性の台詞と男性の台詞に日本語ほど差がないし、シャーロットは人間ではなくクモで見た目も人間ほど性別がはっきりしないので、そんなに効果があるのかな、と疑問に思ったのです。

げた:認識不足で申し訳ないんですけど、私はゲイとトランスジェンダーの区別がついていなかったんです。でも、違うんだってことがわかりました。そういうことがわかるってだけでもいいんじゃないかな。こういうテーマを扱った子どもの本を読むのは初めてなんですけど、もっと出てくるといいなと思いました。

コアラ:今回のテーマ(「自分ってなに? 心と体のずれのなかで」)にぴったりで、とてもよかったと思います。トランスジェンダーの子の気持ちもよくわかりました。ケリーがすごくいい対応で、本当にいい親友がいてよかったね、と思いました。なんでこんなに作者はジョージの気持ちが書けるんだろうと思っていたけれど、あとがきに作者はトランスジェンダーとあって、納得しました。あとがきには、この本の完成まで12年もかかった、ともありましたが、時間をかけただけあって、よくできていると思います。気持ちよく読めました。ジョージがシャーロットを演じた後とか、ケリーの洋服を借りるところとか、p213「メリッサは、おなかの底からぬくもりがこみあげてきて、指先へ、つま先へと、波のようにひろがっていくのを感じた。」というところとか、幸せ感がとてもよく伝わってきて、読んでいて顔がほころんできました。でも、訳は、ところどころ気になりました。p11の4行目「よお、弟」は、日本語では「弟」とは呼ばないだろうと。p38の1行目「わお、ケリー」も、英語の言い方そのままだし、もう少しうまく訳してほしいと思います。全体として、トランスジェンダーの人にどう接したらいいかがわかる本だと思いました。どんなきっかけでもいいから、子どもや親に読んでほしいし、どう接すればいいかわからないから変だと排除したりすることも、このような本を読めば、かなり減るのではないでしょうか。装丁も、読み終わってから見ると、口元を隠しているようにも見えるし、バツでなく丸の中にジョージがいるようにも見えて、深読みのできるおもしろい装丁だと思いました。

リス:表紙の白の余白が効いてますね。タイトルの中の一語“秘密”って、どんなことなのかしらと、読者の想像を駆り立てるように。私は、コアラさんがおっしゃった「弟」という訳語には違和感を持ちませんでした。日本ではあまり耳にしない言い方でも、外国ではよく使われる、ということで、訳文に取り入れれば、日本語の表現がまた一つ豊かになると思えますが。お兄ちゃんはそんな言葉使いで威張っているのでしょう。

よもぎ:とても良い本ですね。感動しました。この本を読むまでは、LGBTを取りあげるのはYAからと漠然と思っていたけれど、トランスジェンダーの人たちは、小学生のころから悩んだり、悲しい思いをしたりしているんですものね。小学生を対象としてこの物語が書かれているということに、大きな意味があると思いました。トランスジェンダーの子どもたちにとっても、そのほかの子どもたちにとっても、読む価値のある作品だと思います。作者自身の体験にもとづいているので、主人公のジョージはもちろん、お兄ちゃんやママやパパ、ケリーや校長先生も、生き生きと描けている。それから、『シャーロットのおくりもの』に全校で取り組むというプログラム、すてきですね。日本の学校でも、こういう取り組みをしているところがあるのかしら。中島京子さんの『小さいおうち』(文藝春秋)もそうですが、こんなふうに名作を下敷きにしている作品って、なんともいえないハーモニーをかもしだして、感動が倍増されますね。ただ、日本の子どもたちは「シャーロット」を読まないうちにこの本を読むと、なんというか、もったいない気がするけれど……。

アンヌ:題名に引かれて手に取って、何度も読み返しました。誰かとこの本について語り合いたかったので、ここで読めて嬉しいです。なんといってもこの本には、トランスジェンダーである苦しみとともに、ジョージの喜びについて書いてあることが素晴らしい。女の子としての自分を想像するときのジョージの幸せな気分、「ごきげんうるわしくていらっしゃる」という言葉から浮かび上がるシャーロットの象徴する女性像に憧れる気持ち、舞台でシャーロットを演じる時の役者としての喜び。そして、女の子の服を着てお出かけをするという喜び。普通ならお芝居の場面ぐらいで終わるところですが、この最終章があるのが重要なのだと思います。ここを読むと、トイレの問題が描かれていて、今アメリカで問題になっている「だれでもトイレ」などの必要性もわかります。親友のケリーだけではなく、ゲイと勘違いはしているものの、父や兄も見守ってくれているところに、学校でつらいことがあっても見てくれている人はいるんだよという作者のメッセージを感じます。その他にも、メッセージを感じるところは多々あって、p54のトランスジェンダーの女性がテレビで語る場面で「手術をして取りたいのか、取っているのか」と訊かれるところ。これは、p157で兄もジョージにたずねますが、ジョージのこれからの人生で何度も訊かれる事を、「それは自分と恋人以外の誰にも関係ないことだから答える必要はない」と知るのは重要だと思います。さらに、ホルモン抑制剤のことも2回出てきます。この本が、小学校3、4年生が対象なのは、思春期前の間に合ううちに子供たちにそのことを知らせたいからだと思います。トランスジェンダーの問題は多様です。体を変えなくては生きていけない人もいれば、異性の服装をすることによって解放されて生きていける人もいる。恋愛対象も様々です。ジョージの恋の対象がまだわからないと書いてあるのも、自分で選べる時まで決めつけなくていいんだよという、メッセージだと思います。感動して『シャーロットのおくりもの』(E.B.ホワイト作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)も読み返したのですが、ここで描かれる農場で繰り返される生と死の物語に託して、作者はジョージに短い生の中で、幸福にせいいっぱいに生きて欲しいという気持ちを表したかったのだと思いました。

ルパン:これは、何かすごい迫力のある作品だな、と思いました。この主人公は、「女の子になりたい」とはひとことも言っていないんです。「自分は女の子なんだ」って言いきってるんですよね。自分が信じていることを理解されない孤独感や苦しみもしっかり伝わってきます。動物園のシーンでは、初めて身も心も女の子になれた喜びが描かれていますが、この先のいばらの道を思うと読者としては手ばなしに「よかったね」と言えない気もしました。そういうことも覚悟のうえで自分を解放したということでしょうか。やっぱり真に迫るものがありますね。『てんからどどん』(魚住直子作 ポプラ社)はスカッとした清涼飲料水でしたが、これはあとあとまで残るコクのある飲物のようでした。

サンザシ:この子の将来は決して楽ではないと思いますが、それでも、理解してくれる人がゼロから複数人に増えたんだから、希望のある終わり方なんだと思います。

ルパン:アメリカ人の友人が、自分の息子が「女の子である」ことを早くから認めて、5歳くらいからsheと呼ぶようになったんです。服装もスカートやドレスで。男の子なのに女の子として生きさせることにする、と親が決めるのは早すぎる決断だ、と今までは思っていたんですけど、この作品を読んだあと、本人が実際にこのように感じているのであれば正しい選択だったのかもしれないと思うようになりました。

カピバラ:アメリカではラムダ賞やストンウォール賞など、LGBTを取り上げた本に与えられる賞もあって評価されているけれど、日本ではまだまだ手をつけていない分野です。この本は多様性を理解する本としてすばらしいと思いました。LGBTに限らず、人間関係の中で、思い込む、決めつける、ということがどんなに理解をせばめているか。そこに気づかされるところがいいと思いました。またこの本の読み方は2通りあって、ジョージと同じような子どもが読む場合と、それ以外の子どもが読む場合が考えられます。前者の場合、トランスジェンダーといってもいろんなケースがあるので、全部に共感するわけではないかもしれませんが、細かい部分の描写がリアルなので共感を得られると思いますし、後者の場合も、知らないことを知る、理解することができると思います。どちらもある程度成功しているといえるんじゃないでしょうか。

さららん:トランスジェンダーの人たちに対するテレビのドキュメンタリーで、「シスジェンダー」と言う言葉を使っているのに出会いました。「生まれた時に割り当てられた身体的性別」と「自分の性自認」が一致している人を指す言葉だそうで、こういう言葉ができたこと自体、すごい進歩ですよね。私たちが当たり前だと思いこみ、その当たり前を要求することが、トランスジェンダーの人を傷つけていく。異質な者を差別する根の深さと、理解することの困難を改めて思いました。トランスジェンダーとは違いますが、同性同士で結婚できるオランダでも、性のあり方の違いが受け入れられない人はまだまだいて、ひそかな偏見は残っています。この作品は、みなさんの言うとおり、子どもたちにトランスジェンダーを届けるのに、とても良い物語でした。ただp33の「午後の短い影が、大通りを走るジョージの前をすすんでいく」など、自然描写の訳にややわかりにくい部分があり、惜しいな、と思いました。

エーデルワイス(メール参加):新訳の『シャーロットのおくりもの』は私も大好き。シャーロットの気持ちを思って涙を流すジョージが素敵です。この作品を題材にした小学校での授業はいいですね。それだけアメリカでは普遍的な物語なのですね。小学校の劇でもオーデションをするところがさすが! ジョージがシャーロットの訳を熱望するところが胸を打ちます。ジョージの心の動きが丁寧に書かれていて、トランスジェンダーを理解する1冊だと思いました。親友のケリーと兄のスコットがとてもいい。トランスジェンダーで悩んでいる多くの人にもケリーとスコットのような人たちが寄り添ってくれますように・・・。「親は子どものあり方をコントロールできませんけどささえるこれはまちがいなくできます」と、ジョージのママに校長先生がいう言葉は名言だと思います。

マリンゴ(メール参加):とても興味深く読みました。私自身が、いわゆる「女子力」が低いこともあり、そこまでスカートを履きたい? そんなにお化粧したい?など、若干、ぴんと来ないところもありましたが、著者ご自身が、トランスジェンダーなので、説得力があって、ああ、そうなのかなと納得した次第です。p191で、雑誌の入った手さげを、そのまま返してもらえるという、効果的な小道具の使い方が、とてもいいなと思いました。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


てんからどどん

げた:さらっと読めちゃったんですけど、なんとなく道徳の副教材を読んでいるような気がしてきました。そうはいっても、最後まで楽しく読めたし、話の筋を楽しみましたよ。入れ替わることで、お互いのいいところとか悪いところとかを客観的に、見つめることができるんですよね。まあ、そんなに深く読み込まなきゃいけないって感じの本じゃないなと思いましたけど。嫌いじゃないな。まあ、そんなところです。

コアラ:体が入れ替わる、という話はよくあるだろうと、ネットで調べてみたら、入れ替わりが出てくる作品をまとめたサイトがあって、やっぱりコミックでも小説・児童書でもたくさんありました。その、よくあるモチーフで無難にうまくまとめた作品という感じでした。カバーや人物紹介の絵がいいなと思いました。今井莉子の絵にけっこうウケて。よく特徴をとらえているなと思いました。森田くんは、今井莉子だけの関係で出てきたのかと読み進めていったら、かりんとの恋の話になっていって、少ない登場人物をうまく使っているなと思いました。ただ、中学2年生の女の子なのに、かりんも莉子も親に反抗していなくて、いい子だから、ちょっと違和感がありました。全体に、かりんも莉子も入れ替わりでいい方に変化するし、あまり深く悩まず、軽く誤解が解けたり自分を見つめ直したりして、いい子たちだな、と思いました。かりんと森田くんは恋がうまくいきそうなので、莉子にも恋が訪れたらいいなと思いました。

ルパン:いい話だな、と思いました。まあ、実際に入れ替わったらこんなもんじゃないだろう、とは思いましたが。読後感がとても良かったです。さっぱりしてて。私は道徳くささは感じませんでした。みんな良い方向におさまって、すかっとしたし。中味が濃いわけではないですが、それだけに清涼飲料水的なさわやかさで楽しく読ませていただきました。

カピバラ:入れ替わりの話っていうのは、状況自体がおもしろいんですよね。だから読者も、入れ替わったらどうなるんだろうという興味で引き込まれて読んでいけるということがあると思います。この話は、入れ替わるところだけが非現実なんです。だからちょっと嘘くさく感じるけれど仕方ないかなと思いました。軽いノリで読めば楽しめるタイプの話なんじゃないかなと。入れ替わったときのギャップとか、他人がそれに対してどんな反応をするのか、というところがおもしろく書けていればいいと思います。その意味では実際の中学生にも読めるし楽しい話だなと思いました。

さららん:軽いノリの「かりん」と、内気でもさもさしている「莉子」の対比がおもしろかった。最後にみんなでダンスを踊る大円団は、できすぎかもしれませんが、素直に好感が持てました。どうしてかなあと考えると、この物語、全体のトーンは軽くても、魚住直子さんらしい、身体性を感じさせる文章がところどころにちゃんとあって(例えば、入れ替わった体の重さを伝えるのに、「水の中を歩いているみたい」のような表現をするとか)、重しになってるんです。クリシェを重ねることの多い、ラノベの文体とは違っているみたい。マンガはいっぱい読んでいるけど、もう少し何か読みたいって子に、ちょうどいい本かもしれませんね。最後のほうで登場する「いかずち」は、もう少しフォローがあったほうがよかったような気もしますが……。

サンザシ:「いかずち」は、稲妻の化身みたいなものなんでしょうか。

ルパン:183ページのうしろから4行目に、入れ替わりから戻ったときの感覚を「指先のあまらない手袋をはめたときみたいにすみずみまで自分だという感じがする」とありますよね。こういうところ、すごくうまいと思います。

ネズミ:最初は「もしかして、これ、苦手かも」と不安でしたが、読み進めるとそんなことはなくて、楽しく読めました。このくらいの子って、自分はこんなふうと決めつけて、その枠からなかなか出られないところがあるじゃないですか。ドタバタふうだけれど、この本は他人になることで見えてくる発見や新しい視点を通して、もっと自由にものを見ていいよ、大丈夫だよと背中を押してくれる気がしました。莉子はだめだと決めつけていたのに、かりんが説得したらお母さんはコンタクトにしたり美容院に行ったりするのを許してくれるとか。シンプルな文体でややベタに(とはいえ、ベタベタではなく)書かれているので、普段それほど本を読みなれていない読者でも、マンガタッチの表紙にひかれて手にとっておもしろく読み通して、何か感じてくれるんじゃないかしら。読書へのいい入口になる本だと思いました。

西山:みなさんおっしゃるのを、そうそうと思いながら聞きました。出だしは結構どろどろしていて、莉子がネット掲示板について「どこもぐちやなやみであふれていて、読むたびうんざりしながらもほっとする」(p6)なんてある。そういうことを書くのが魚住さんだなと思いました。かりん像が新鮮で、「その日もしゃべって走りまわっているうちにあっというまに学校がおわった」(p12)とか、いたいたそういうタイプって、笑っちゃいました。ほんっとに話を聞いてなかったり……ああ、あの子たちの頭の中こんなふうだったのかと妙に納得しました。リアルな世界にはこういう落ち着きのない子がいるのに、物語ではあまりお目にかからなくて、新鮮でおもしろかったです。だから、入れ替わったときのギャップもあって、だからこそ入れ替わりが生きてたんだなと。あと、好きだったのは例えばp66の後ろから2行目。「待たなくてもいい。掃除しろといえばいい」と、部屋を片付け始めたのに感動して「いつ気がついてくれるか、待ってたの」と目をうるませている莉子のお母さんをバサッと切っている。こういうところ、ずいぶんタッチは変わったけれど、最初の頃の魚住さんの厳しさを見るようで好きでした。中学生が読んで、おもしろかったよと口コミで広げることのできる本だなと思います。

ハル:私も、すごくバランスのいい本だなぁと思いました。お話自体は軽くてさらっと読めてしまいますが、表現のおもしろさはちゃんとあって、文学すぎず、軽すぎず。普段本を読まない子が読書のおもしろさを知るきっかけになるような、ちょうどいい本なんじゃないかなと思いました。キャラクターの設定もなかなかリアルですよね。だいたいこういうのって、外見が地味な子は内面がすごくいい子で、派手な子は改心する、というケースが多いように思いますが、そのパターンにはまっていないところもよかったです。コアラさんに同じく、莉子にも最後、もうちょっといい思いをさせてあげたかったけど、この1歩を踏み出せただけでも、莉子にとっては大変身なんですよね。

サンザシ:私も、表紙を見てラノベかなと思ったのでそんなに期待しなかったのですが、おもしろく読みました。まったくタイプの違う二人が入れ替わって、それぞれ普段ならできない体験をしてみるというところは、うまく書けているなあ、と思います。登場人物は、かりんのお父さんなどステレオタイプの人もいるので、ラノベっぽいですが、その割りに教訓的ですね。お互いのいいところを認め合うようになって、次の1歩を踏み出すことが奨励されているみたいな。でも、この内容をすごくまじめに書くとだれも読まないと思うので、こういう書き方もありだと思います。中学生くらいだと、自分の存在に自身がない人も多いので、おもしろく読んで考えるきっかけをつかむにはいい本だと思います。

レジーナ:私は物足りなかったです。さらっと読みました。謎の男の正体が最後までよくわからなくて、消化不良です。かりんの父親の描き方もステレオタイプで、人物造形や展開がラノベっぽくて……。エンタメならもっと楽しく読めないと。こういうのが好きな子もいるのでしょうが。

リス:その“なぞの男”は一応登場人物の一人ですが、中身がない。そのため、現実には起こり得ないことを可能にする力は持っていても、作品全体の中では存在感が薄い。創作上、彼にあたえられた役目、意味合いは、この作品がファンタジーというジャンルに属していることのアリバイとか、象徴を成しているだけだと思えます。便宜上、とってつけたと言う感じがしなくもありません。また、文体については、日常生活での会話がそのまま文字化されていますので、わざわざ、字を追って行くことにまどろっこしさを覚え、読書になかなか気乗りがしませんでした。それで読後の印象も薄かったです。同じ作者の『園芸少年』(講談社)は作品世界に引き込まれ、印象深く、すごく良かったんですが、この作品は、読み始めた時の第一印象は、作家になりたい人にとって、お手本とみなされる、ある種のパターンにそって書かれているみたいだと感じてしまいました。
 読後の“発見”としては、この話は、ファンタジー仕掛けになっていますが、これって、いわゆる、新聞、雑誌、ネットなどでの“人生相談欄”を別の形式にしたものではないかと思ったことです。相通じるものがありませんか? 違うところは、回答者(作者)が一方的にアドヴァイスを与えているのではなく、主人公が自ら答えを見い出して行く、という形になっています。その点が主人公に前向きな姿勢を与えていると思います。ただ同時に、教育的なねらいも感じられます。作者が言いたいことは、他の方法でも良かったのでは?

サンザシ:読書なれした子どもには確かに物足りないと思うんですけど、今は骨があって質が高い本だけを子どもに勧めていたのでは読書教育は成り立たない時代だと思います。イギリスでもアメリカでも日本でも、本嫌いの子どもや、そんなに本が好きじゃない子どもをどう読書に誘うか、ということが問題になっています。だから私は、そういう観点から次の読書のステップになるような本を選んで手渡すのも必要だと思うんです。

リス:中高生向けの小説には学校生活を背景にして、登場人物たちの心理や感情が綿々と綴られている作品が多く見られますが、それは多少なりとも日本独特の私小説の伝統から来ているのでしょうか……? また、それを好む読者がかなりいるのだろうか……、と。この本を読んでいるうち、なぜか、ふと、そんな疑問を持ってしまいました。『園芸少年』が2009年に、『くまのあたりまえ』が2011年、そして『てんからどどん』が2016年に出ました。『くまのあたりまえ』という本にちょっと目を通しましたが、ジャンルも内容も文体も他の作品と全然違っています。無駄な言葉はそぎ落とし、非常に簡潔。結局、この作家さんはいろいろなものを書けるのでは……?

よもぎ:魚住さんの『園芸少年』は、アイデアも、内容や文体もおもしろい傑作でしたけど、この作品はそれほどではなかったですね。すらすら読めて、普通におもしろいというか……。私はお説教くさいとは思いませんでした。この年頃の子どもたちは、周囲の友だちが自分よりずっと優れているように思えて、憧れたり落ちこんだりすることがよくあると思うのですが、そういう子どもたちには真っ直ぐに届く作品だと思います。こういう読みやすい本を何冊も読んで、そのうちに自分の心に本当に響く1冊に出会えばいいのでは? ただ、「雷」と「ほかの人と入れ替わる」というのがどう結びつくのか、あいまいでよくわかりませんでした。

クマザサ:めちゃくちゃ早く読み終えてしまったんだけど、あまり印象に残りませんでした。私はたぶん、この本のいい読者ではないというか、すごく本好きの子どもだったので、こういうさらっと読めるような本は、あまり必要としてこなかったんだろうと思います。かりんの父親が「女の子は勉強しなくてもいい」みたいなことを言い出すじゃないですか。こういう思想はほんと撲滅したいですね。作中でもそれは否定されていて、ちょっとほっとしました。短くてテンポがいい、なんというか手に取るのに敷居が高くない作品だと思いますが、そんななかに、現代的なテーマも一応盛りこまれている。大事なことだと思います。

西山:ラノベって、定義がむずかしいですね。表現の特徴とか、物語の形式などで分類できるカテゴリーではないみたいです。どのレーベルから出ているかという、外的な要因で言うしかない。以前、ラノベに詳しい方と話していて、そういう理由で西尾維新はラノベではないと聞いてびっくりしたことがあります。

リス:かりんとか、莉子とかと、主人公に名前が付けられていますが、だからといって、彼女たちにそれほど個人性が与えられているわけでなく、同じ、あるいは似た悩みを持った子どもたちの代表格、典型として扱われています。その意味では表紙のマンガ的な絵はぴったり合っていると思います。人物をマンガ的に描くと、個性が欠けて、みな典型化されるでしょう。でも、それがさまざまな読者の共感を呼びことになるのでしょう。とっつきやすいし。

カピバラ:本を読まない子どもに手渡す本が必要ってことですよね。ステッピングストーンになればいいと思います。でもラノベに群がる子どもは一生ラノベしか読まないのかな?

西山:読む子は、ほんとに何でも読む。たしかに、ラノベだけで、それ以外に手が延びない子もいることはたしかですが、右のポケットに岩波文庫、左のポケットにラノベという生徒にも出会ってきました。片や、小説を読まないだけでなくマンガも特に読んでいないというパターンがはっきりあることに気づいたことがあって、物語好きかどうかという気がします。

サンザシ:今はほかに子どもの興味をひきつけるものがたくさんあって、放っておくと子どもたちは本の楽しみをまったく知らないで大人になってしまう。それはもったいないので、楽しい入り口になるような本も必要じゃないかな。

さららん:前に読んだ『フラダン』(古内一絵著 小峰書店)も、タイプは違いますが、ノリのいい本という意味では共通しているかも。エーデルワイス(メール参加):魚住さんの作品を読んだのは、『非・バランス』以来です。軽いタッチですがお説教臭くなく、見た目だけではない主人公それぞれの悩みを、読者にも共感できるように書いていると思います。莉子とかりんの親にはやれやれと思っていましたが、莉子とかりんが変わっていくと親もよい方向に変わっていったのでホッとしました。「黄色い帽子のおじさん」はここでは恐い存在として登場しますが、なぜか「おさるのジョージ」に登場する黄色い帽子のおじさんを思い出しました。

しじみ71個分(メール参加):同性間のとりかえばや物語で、思春期の女子なら一度は考えたことがありそう。特に、容姿や性格に自信がなく、コンプレックスを持つ子の気持ちには共感できた。逆に、すらっと可愛い、快活な子が目立たない子と入れ替わりたいというモチベーションにはそんなには説得力を感じなかった。それと、「鹿児島の黒豚」を連呼して悪気がないというのは、ちょっとあんまりにも鈍感すぎやしないかなと思った。しかし、立場が変わることで、家事や勉強の大事さとか、人との付き合い方とか、気付かなかったことを発見したり、自分の良さを見出したりしていく過程のエピソードは丁寧に描かれていて、主人公たちの心情から離れることなく読めた。かりんの友だちも人が良く、実は莉子を認めていたり、森田くんもかりんのことを思っていたという辺りは、うまく行き過ぎだけれども、読んで文字面から不必要に傷付くことがない、安心できる展開だった。一方、家族や、黄色い雷の描写は必要最低限であっさりしているが、書き込み過ぎないことで、2人の心情から目が逸れにくい効果があると思った。
 最初の掲示板への依頼殺人の書込みが招いたのが、現実の殺人者ではなく、しかも莉子が1人で退治したという筋は、莉子がコンプレックスを自分で克服するということの比喩だろうと思うが、単純で分かりやすいので、小学校高学年の子たちがサクサクと読むにはちょうどよいかもしれないと思う。深くえぐらない分、感動はしないが、立場を変えて、相手のことを考えてみたら、と子どもに気軽に一声かけるのに良さそうな作品だと思った。

マリンゴ(メール参加):魚住直子さんの、ユーモラスでちょっとシュールな物語。前から面白いと思っていました。優等生と、劣等生、というようなありがちな対比ではないところがよかったです。特に、かりんの人物造形が面白かったと思います。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ただいま!マラング村〜タンザニアの男の子のお話

さらら:「ただいま!」は、挨拶の言葉だったんですね。「只今現在」の意味かと、思ってしまいました。不安な気持ちや様々な感情表現が、きちんと書き込んであるのは、好感が持てました。お兄ちゃんとはぐれた後、ストリートチルドレンになるのが少し唐突かな、と思ったのですが、描かれている部分と描かれていない部分でうまくバランスを取っている。主人公は途中で、シスターに惹かれて施設に入る。でも、どうしていいかわからず飛び出してしまう。そうした心理もよく描かれていますね、短いページ数の中で。派手なところはないけれど、誠実に描かれた物語という印象を受けました。1箇所だけ、「二年前から(犬が)しずかなねむりについている」という訳語にひっかかりました。これでは犬が死んだことが、子どもにはわからないのでは?

アカザ:とても好感が持てました。こういう作品は年代の上の子どもが対象でないと難しいと思っていましたが、低年齢の子どもたちにもよくわかる書き方をしていて、はらはらしながら最後まで読みました。世界にはいろいろな子どもたちがいて、いろいろな暮らし方をしているということを幼い子どもたちに伝える作品が、もっともっとあってもよいのではと思いました。

ジラフ:人ってどんな時代に、どこに生まれるか、本当に選べない。その与えられた環境の中でいやおうなく生きていくしかない、というあたりまえのことをひしひしと感じて、胸にずしんときました。この男の子の場合は、寄宿舎に入って勉強することで人生ががらりと変わりますけど、実話がうまく物語に昇華されていて、自然に読むことができました。ただ、時間の経過が、路上生活から寄宿舎に入るまで4年、それから村に帰るまで5年と、いずれも章がかわってページをめくると、それだけの時間が経っていて、男の子は外見的にもずいぶん成長しているはずなので、そのあたりを読者の子どもがイメージできるのか気になりました。

たんぽぽ:中学年から、世界中の子ども達に目を向ける導入としてもいい本だなと、思いました。3年生ぐらいだと、後半の時間の経過が、理解できるかなと、少し気になりました。

夏子:皆さんが指摘されたポジティブな部分は認めた上の話ですが、西洋人が見たアフリカという感じが、すごくするんですよね。難しいことは承知のうえで、アフリカの人が書いたアフリカの本が読みたいと思いました。タンザニアの状況は苛酷ですが、日本の子どもたちだって苛酷な状況に陥ることはある。とはいえまったく違うことがあって、それは、日本の子どもに援助の手を延べるのはたいてい日本人(=同じ文化の人間)だけれど、タンザニアの子どもに援助の手を延べるのは、たいていは西洋人(=異文化の人間)ということ。結局、主人公の少年は、西洋化するしかないんでしょうか? 本当にそれしかないのか、私にはわからないんです。私は15年ほど前に、タイの人が書いたタイの本を読みました(後で思い出しましたが、ティープスィリ・スクソーパー作『沼のほとりの子どもたち』[飯島明子/訳]で、1987年に偕成社から出た本でした)。9割くらい読み進むまで退屈で退屈で、何度も途中でやめようと思ったんです。でも読み通したら、最後の部分が、忘れられないほどおもしろかった。ああ、時間の流れがわたしたちとは違う、と体感できたことが、読後の満足感につながっているんだと思います。もちろん最後だけ読んでもダメで、これを味わうには、退屈に耐えないと。となると今の日本の子どもたちはなかなか読みきれないでしょう。子どもたちが読める本で、アフリカやアジアの人が書いた本は、そうはないですよね。西洋の目から見たアフリカであっても、まずそれを知ることが必要なんだと思いますが……。

レジーナ:西洋から見たアフリカの本というのは、確かにそうですが、書き手は西洋の側にいるので、慈善団体の人がいい人に描かれているのは、仕方がないかもしれません。最後のインタビューで、寮ではペットを飼えないと語っているので、寄宿学校にドーアを連れていく部分は、フィクションでしょうか。私が少し気になったのは、挿絵です。ユーモラスなタッチだからかもしれませんが、目鼻が大きく、唇が厚い姿を、必要以上に誇張して描いています。これはポリティカリー・コレクトという観点からは、どうなのでしょうか。フランク・ドビアスの描いた『ちびくろさんぼ』(ヘレン・バンナーマン作 岩波書店/瑞雲社)があれほど物議を醸した後ですし、今の時代の本ということを考えると……。アフリカの人は、どう感じるのでしょうね。

コーネリア:最初は実話とは気づかなくて読み進めました。盛りだくさんに小道具を使ってドラマチックに創作されているつくりものの世界に慣れていると、最初は物足りなく感じました。でも男の子の視点がぶれずに書いてあるので、好感をもって読み進めることができました。半ばくらいから、ツソといっしょになって、応援しながら読みました。ハッピーエンドの方がいいから、最後にお兄ちゃんと会えてよかったのだけれども、村でお兄ちゃんが暮らしていたというラストには、ちょっとしっくりきませんでした。どうして、お兄ちゃんが先に帰っていたのか? はぐれたら、お兄ちゃんの方が弟を探すのではないか? 疑問が残ってしまいました。最後のインタビューで、お兄ちゃんがどうしていたのか、聞いてもよかったのでは。読者対象が、2年生ぐらいだと、これくらいストーリーをシンプルにする方が読みやすくていいのでしょうか?

カボス:みなさんがおっしゃるように、一見良さそうな作品で、好意的な書評もいろいろ出ているのですが、タンザニアに詳しい人に聞いてみると、あちこちに間違いがあるのがわかりました。遠いアフリカの話なので日本の人には間違いがわからないかもしれませんが、こういう本こそ、ちゃんと出してほしいと思います。
 まずスワヒリ語をドイツ語読みのカタカナ表記にしてしまっています。カリーブ、ドーア、カーカ、バーバ、バーブと出て来ますが、スワヒリ語ではカリブ、ドア、カカ、ババ、バブと、音引きが入りません。白人のこともワツングとしていますが、ワズングです。ほかにも、p9に「ツソが水をくんでこないと、おばさんが、トウモロコシをつぶしてお湯でねった晩ごはんをつくれないのだ」とありますが、これは主食のウガリのことだと思います。とすると、乾燥してから碾いたトウモロコシを使いますから、不正確です。p12には「ツソは、大いそぎで、手のなかのおかゆを口にいれた」とありますが、これもウガリのことなのかもしれませんが、おかゆとは形状が違います。おかゆのようなものもありますが、それは手では食べずにコップに入れて飲むそうです。p10にはカモシカが出てきますが、アフリカにはカモシカはいません。
 翻訳だけでなく原文にも問題があるかもしれません。p24に「お日様が昇る方向(東)にいけばモシがあり、ダルがある」とありますが、目次裏の地図を見るかぎり、モシはマラング村から西南の方向にあるようです。バスがダルエスサラームにつく場面では海が見えるとありますが、バスステーションからは海は見えないそうです。現地をよく知っている人は、バスの座席にもぐりこんで旅をする場面が、モシからダルまでは7〜8時間もかかるのに、ずいぶんとあっさりした描写だな、とおっしゃっていました。またp106には「アルーシャのまわりの村には、まだ学校などないのがふつうだった」とありますが、アルーシャは大きな町なので、周辺の村でも学校はあるのではないかという話でした。欧米の作品だとみんないろいろ調べて訳すのに、そうでない場所が舞台だと、そのあたりがいい加減になってしまうのでしょうか? そうだとしたら、とっても残念です。こういう作品こそきちんと出してほしいのに。訳者の方は、現地に詳しい人に聞いたとおっしゃっていたのですが、どうしてそこでチェックできなかったのでしょう? たとえばウガリのことなどは、だれでも知っていることなのに。そういうせいもあってか、全体に、「かわいそうなアフリカ人の子どもが西欧の慈善団体のおかげで一人前になりました」という感じがにおってきて、私はあまり好感を持てませんでした。著者がどの程度、ちゃんとインタビューして、場所なども取材したのか、それも疑問です。
 前に、『ぼくのだいすきなケニアの村』(ケリー・クネイン文 アナ・フアン絵 小島希里訳 BL出版)が課題図書になったとき、スワヒリ語が間違いだらけで困ったな、と思ったのですが、それと同質の違和感をこの本にも感じます。今はアフリカ人の作品もあるのだから、欧米の作家の中途半端なものを翻訳出版しないでほしいと思います。アフリカ子どもの本プロジェクトでもこの本を推薦するかどうか検討したのですが、推薦できないということになりました。ちなみに、編集部には再版から直してほしいとお伝えしてあります。(後に再版から推薦)

一同:そうなんですか。ちょっと読んだだけじゃ、わかりませんね。

プルメリア(遅れて参加):表紙をはじめ挿絵がいいなって思いました。活字も読みやすいし。目次も関心を引きました。作品からタンザニアの人々の生活や村の様子がよくわかりました。わくわくしたけど、でもあまりにもハッピーエンド。カモシカって、寒いところにいるのではなんて思いました。書名『ただいま!マラング村』の意味は、インタビューを読んで納得しました。

アカザ:さっき、レジーナさんが絵は問題があるのでは、と言ってましたが。

コーネリア:子どもたちの手に取りやすい絵にはなっていると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年1月の記録)


ミシェル・エドワーズ文 ブライアン・カラス絵『ソフィアのとってもすてきなぼうし』

ソフィアのとってもすてきなぼうし

『ソフィアのとってもすてきなぼうし』をおすすめします

ソフィアは、おとなりのおばちゃまと仲良し。おばちゃまは毛糸で帽子を編んでみんなにあげるのが好きだけど、自分は帽子がなくて寒そう。ソフィアは作ってあげようとするけれど、できたのは穴だらけのおばけみたいな帽子。どうしたらいい? 他者に心を向けることで、自分もあたたかくなる終わり方がすてきだ。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年2月25日掲載)


2017年02月 テーマ:ちがうって素敵だな

日付 2017年2月20日
参加者 アンヌ、カピバラ、慧、コアラ、さららん、しじみ71個分、西山、
ネズミ、ハリネズミ、マリンゴ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ ちがうって素敵だな

読んだ本:

(さらに…)

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駅鈴(はゆまのすず)

しじみ71個分:古代史のことはよくわからないけれども、史実はきちんと描いているのだろうという印象を受け、筆力のあるきちんとした作品だと思いました。天平時代の史実を脇に置きながら空想とも言える古代の世界を描き、かつジェンダーの問題も含めていたりしておもしろい。表現はかっちりしているけど、おもしろかった。馬が盗まれたり、山火事があったり、地震があったりと、途中からは展開もスピーディになり、読んでドキドキ感もありました。今回は3作品とも、動物が非常に大きなキーポイントになっていたのも興味深かった点です。

西山:私の勝手な読み方なのですが、あちこち現在のあれこれの隠喩のように読んでしまいました。例えばp112の70年前の戦。p249の双六にはまってしまうところでは、「カジノ法」を思い出したり・・・・・・。同じ著者の『氷石』(くもん出版)でも、そういう感触を覚えた記憶があるので、この作家は奈良時代を舞台にしても、現代への見方を結構込めている気がします。

さららん:小里が、女にはなれないと言われている「駅子」になりたいと強く願い、それをかなえていく過程が描かれていて、ジェンダーの視点からは好感が持てるお話でした。淡い恋の物語に、和歌がひと役買い、相手の好意に無頓着だった小里が、少しずつ目覚めていく。ふたりの想いがひびきあう。そのあたりも、さらっと描かれています。若見はかなり頼りないけれど、逆に今の若者っぽい感じがしました。

マリンゴ:この作品は、古文や歴史に興味をもつきっかけの1冊になってくれるかもしれません。ただ、その場合、もう少し補足的説明があってもいいのではないでしょうか。たとえば、新羅、渤海、という国名。中学生以上なら習うでしょうが、小学高学年の子が読む場合、まだ習っていない可能性も高いですし……。あと、序盤から中盤にかけて、話がループしているように感じられました。もう少し、ギュッとコンパクトにしたほうが読みやすいかと思います。

ハリネズミ:駅の読み方が、はゆま、うまや、えきと3種類あるんですね。気にしないで読み飛ばせばよかったのかもしれませんが、いちいち、これはなんだったけと立ち止まってしまいました。総ルビにしてくれればよかったのに。小里が馬を早く駆けさせるのに魅力を感じているのはわかりますが、この時代に恋人の誘いを断っても駅長になりたいとまで執着するのであれば、駅そのものの魅力をもう少し書き込んでもらいたかったです。小里と若見がこの先どうなっていくのかが、私にはよく見えませんでした。安積親王や安人はとても個性が強くておもしろいのですが、物語の本質にかかわるわけではないので、メインストーリーから焦点をそらすことになっているような気もします。

カピバラ:この時代のこの職業への興味からどんどん読めるし、男がやる仕事を一生の仕事にしようとする主人公はなかなかかっこいいです。文章はナレーション部分が簡潔で歯切れがよく、好感をもちました。後半は馬が盗まれたり山火事などが起こり展開がありますが、途中までちょっとまどろっこしい感じでした。若見さんはすぐどこかに行ってしまい、またちょろっと現れるんだけどたいした進展もなく……というのが続いていくので。全体を3分の2くらいの分量にしてもよかったのでは?
アンヌ:とても楽しく読みました。奈良時代が舞台の小説はあまりないような気がします。女帝となる内親王を皇太子とした時代で、今の感覚と違う社会であることが、父親が駅長に返り咲くのではなく、小里が駅長になれる仕組みとしてうまく使われていると思います。ちょっと若見に魅力がなくて、歌も下手なのが残念です。でも、万葉集に「鈴が音の早馬駅の堤井の水を賜へな妹が直手よ」というのを見つけたので、長じた若見がこれを歌ったのなら楽しいな、などと考えました。表紙の絵の色も独特で、奈良の色彩感覚で描いたのだろうと思いました。

ルパン:小里が駅子になりたい気もちはとてもよく伝わってきました。飛駅が近づいてくるときの緊張感、近づいてくる蹄の音、駆け出してくる威勢のいい男たち・・・ものすごい高揚感です。登場人物たちの名前がまたいい。十喜女、恵麻呂、若見・・・聞きなれない分、日本の話なのにエキゾチックな感じがします。最後、小里が駅長になるところはものすごくかっこよかった。「おわりじゃない。」と啖呵切るところ。「あたしについておいで!」みたいな。こんな女の子がいたら惚れそう。惜しむらくは、クライマックスで小里が飛駅走らせるところ。若見といっしょに走ってもらいたかったなあ。なんで豊主なんだろう。思いっきり脇役なのに惚れそう。惜しむらくは、クライマックスで小里が飛駅走らせるところ。若見といっしょに走ってもらいたかったなあ。なんで豊主なんだろう。思いっきり脇役なのに。

コアラ:王道のストーリーで、読み応えのある物語でした。奈良時代の駅家(うまや)という設定もよかったと思います。知らない仕事の世界を知るおもしろさと、万葉集の歌とか歴史上の人物とか知っているものが登場するおもしろさがありました。ただ、細かいところで引っかかるところも多くて、作者が都合よく登場人物を動かしてしまっているのが残念でした。ルビについては、ページ初出にルビを振っているようですが、私も通常の読みでないものは全部にルビを振ってほしいと思いました。本文の組み方は、1行の文字数を少なくした組み方なので、ページを増やして読み応え感やずっしりとした感じを出した本の造りにしたのかな、と思いました。本文中の挿絵はちょっと幼い感じがしましたが、装画や装丁はいいですね。

レジーナ:馬の疾走感や、そのときに埃が立つ様子が目に浮かぶ本です。馬が盗まれたり、地震や火事が起きたり、読者を飽きさせない展開ですね。苦しい生活の中、大仏を作る市井の人の生きる姿も伝わってきました。

ネズミ:それなりにおもしろかったのですが、時代背景がよくわからず、もやもやしました。出だしから、駅家というのはわかったけれど、駅はどんな役割なのか、駅子は何をするかなど、なかなかつかめませんでした。また人の位や階層も、都の役人なのか地方なのか、どちらが上なのかなどつかめず、途中で頭がこんがらかってしまいました。登場人物の大人たちが、この物語の中から出てきたというよりも、ストーリーの都合に合わせて出てきた感じがして、今回のほかの2作品とは大人の描き方に違いを感じました。

:あえて設定を古い時代にしたのに、男の子の領域に挑戦する女の子、という、ずいぶんと昔ながらの物語になってしまっているのがいまいちかな。時代的な習俗や雰囲気はとてもよいのに、作者が現代を背負ってしまっているので、逆に、不自由な女の子、という古い価値観を無意識的に示してしまっています。

西山:時代がさかのぼると、ジェンダーのしばりが逆になかったりするのにね。

(2017年2月の言いたい放題)


レイン〜雨を抱きしめて

:アスペルガー症候群や高機能自閉症が重要なモチーフになっているので、いわゆる「問題」でひっぱっちゃう話かと思い、最初はちょっと入りにくかったのですが、『空飛ぶリスとひねくれ屋のフローラ』(ケイト・ディカミロ著 斎藤倫子訳 徳間書店)よりはるかにおもしろかったです。ローズは、同音異義語と数字に長けていますが、それが感情表現に結びついていくあたりはとてもリアルでした。友だちができるのがいいですね。ローズの「ことば」を受け入れて、せっかちにならない。それがていねいに描かれています。結果的に、お父さんがローズを手放すことが愛情になるのが切ないですね。お父さんの気持ちを考えちゃう。背景はくどくど書かれていないのですが、いろいろ想像してしまいました。

マリンゴ: 非常によかったです。今回読んだ3冊のなかでは、いちばん好きでした。ただ、章タイトルがネタバレになってしまっているのが、いかがなものかと気になりました。たとえば、p134の「悲しすぎる話」、p152の「うれしい知らせ」、p169の「つらい決断」など。ストーリーは、大人が読むと心地よい苦さを感じますが、子ども時代の私だったら、もう少し甘いエンディングがいいなと考えただろうと思います。たとえば、ヘンダーソン家は避難所生活でしばらく犬が飼えないから、月に1度、ローズのところに会いに来ることを取りきめる、とか。

西山:とてもよかった。犬を手放すのはつらいのに、ルールに従わなきゃいけないから返す。そういう融通が効かないところが、幾重にも悲しいけど、腑に落ちました。レインを手放す辛さから、自分と別れる決心をした父親の気持ちに理解の窓が開くという展開も、とても胸にしみました。最近『ぼくと世界の方程式』(モーガン・マシューズ監督 2014)という映画を観ました。自閉症スペクトラムの少年が主人公で数学オリンピックを目指すという話で、母親像とか、とてもよかった。あと、やはり同じ症状を抱えた主人公の作品として思い出すのが『夜中に犬におこった奇妙な事件』(マーク・ハッドン著 小尾芙佐訳 早川書房)ですが、『レイン』は同様の症状の主人公が女の子で、私はそういう作品は初めてだった気がしました。知らないだけなのか、実際発症に性差があるのか・・・・・・作品と直接関わる事ではありませんが、何かご存じだったら教えてください。

しじみ71個分:非常におもしろく、切ない気持ちで読みました。高機能自閉症、アスペルガーの人たちについての理解が深まる作品だと思います。ルーティンでない事態に出遭うとパニックを起こしやすい、こだわりが強い、感覚が過敏であるなど、様子が具体的にていねいに書かれていて、こういった障碍を理解する上でとても有効だと思います。お父さんも主人公の子をどう扱っていいかわからないとか、主人公のこだわりの様子を友達がからかってしまったり、学校の先生も理解できなかったりなど、周囲が理解できなかったり、受容に苦労したりする様子もきちんと描かれていて素晴らしいと思いました。犬のレインがこの作品でもキーになっていて、レインが主人公についてきて教室に入ってくるシーンから、友だちとの関係が少しずつ改善していったり、いなくなったレインを探すことで主人公が成長したりしている。ストーリーの悲しい優しさが身にしみました。父親の弟であるおじさんが主人公のよき理解者であり、そのおじさんがいなかったら非常に辛い物語になるところでした。彼が、主人公に「今どういう気持ち?」と確認するなど、感情のコントロールができないとか、人の気持ちを読みにくいというアスペルガーの人の特徴をよく表わしながら、受容の仕方を示してくれているのもとても良かった。人との距離感をつかむことや、感情がコントロールすることが苦手な父親が愛するゆえに娘を置いていくという最後は悲しく、苦いけれど、感動して読みました。

ネズミ:私も、とてもおもしろく読みました。ほとんどの読者はローズとは違う感じ方で生きていると思うけれど、これを読むと、こんなふうに感じる子もいるんだなとわかってきます。犬がとてもうまく使ってあるなとも思いました。犬がいるからこそ、日本の子どもも親近感を持ってお話にひきつけられるだろうなと。表紙も手にとりやすそう。お父さんの描き方もよかったです。p199からp200にかけての、お父さんがなぐるまいとしながらこぶしを震わす部分が胸にせまってきました。ローズの目線で書きながら、お父さんの人となりがよく伝わってきてうまいなと思いました。

レジーナ:2年くらい前に原書を読んで、とてもいいと思った作品です。人を愛すること、愛ゆえに手放すところは、ルーマー・ゴッデンの『ねずみ女房』(石井桃子訳 福音館書店)に通じますね。原書では、ところどころ同音異義語が併記されていたり、同音異義語についてえんえんと説明している章があったりするのですが、そこはカットして、日本語版として読みやすい形に工夫されています。だけど副題の「雨を抱きしめて」は作品に合ってないのでは。

カピバラ:帯の「心の中が痛い。これがさびしい気持ちなの?」というのもいただけないですね。

コアラ:読みながらいろんなことを考えました。ローズと父親との関わりで言えば、p219に父親の言葉がありますが、そこに至るまでのいろいろなことを思いました。愛情を持ってローズを育てたいのに、どうしてもそうならない、いらだちとか、楽しい日常でなく、父親としてほとんど何もしてやれていない、という負い目もあったんじゃないでしょうか。p198には、お互いの思いが相手に受け取られていない、気持ちの交流ができない、つらい会話があります。p25に、父親とローズの、うまくいっていない会話がありますが、p34からはウェルドンおじさんとローズの会話があって、ウェルドンおじさんみたいな会話をすればうまくいくのかな、と思いました。ただ、これはフィクションなので、現実だとアスペルガーの子との会話はこんなにうまくいかないんじゃないかと思います。p133に、「わたしたち3人の名前の数を合計して、レインの名前の数を引いたら177で、素数じゃないって知ってた?」というローズの言葉があって、つまり、レインがいなくなって良くない未来になるということを素数じゃないということで言い表していて、作者がそこまで考えて名前を設定したのもすごいと思ったし、素数に意味がありそうな気がしてきて、宇宙の真理に触れたようなぞくっとするような気がしました。そして、ローズが「素数じゃないの」と断定する言い方をせず、誰かから返事をもらいたいという言い方をしていることで、素数じゃないという発見とレインがいない未来に、ローズ自身がたじろいでいるように感じました。

ルパン:おもしろく読みました。いちばん好きな場面は、p192〜193。友だちが「同音異義語を思いついた!」と言ったとき、ローズが「前から知っていた」と言わなかったところ。アスペルガーで空気が読めないはずのローズが、友だちの気もちに寄り添った瞬間。ローズが同音異義語が好きになったのは、自分の名前がローズだからでしょうか。亡くなったお母さんがつけた名前なのかもしれませんね。

アンヌ:ローズの方から見る世界が描かれていて、見事な作品だと思い、とてもおもしろく読みました。学校の先生も介助員も、ローズの立場に立つより、他の人の迷惑にならないように排除する立場をとっています。ローズは、お父さんにびくびくしながら育っていて、その孤独が身にしみました。お父さんは、自分の怒りでローズを支配しているし、特別支援クラスに行かせようとしない。もっと早く、援助を求めてくれればいいのにと思いました。特に、ローズのママの死を隠して、自分たちを捨てて行ったと教えていたことは、ひどいと思います。それでも、ローズはどんどん成長していって、他の人の心の中を想像できるようになっていく。自分なりのやり方でレインを見つけたりする能力もある。でも、お父さんは成長せず、お酒におぼれるまま。出て行ってくれてよかったと思ってしまいました。

ネズミ:ミセス・ライブラーはわかっているんじゃないかしら。外に連れ出したりしてますよね。

:お父さんにもアスペルガーの要素があるとしたら、もしかして、小さいときからずっと一緒だったおじさんは、扱いに慣れていたのかもしれませんね。ちょっと深読みかもしれませんが。

カピバラ:いちばんいいと思ったのは、高機能自閉症とはどういうものかを、ほかの人からみた様子ではなく、ローズ本人の感じ方をていねいに描くという手法で伝えているところです。名前のスペルを数字に置き換えたり、素数かどうかを常に気にしたり、時間は何時何分まで正確に言ったり、といったことが繰り返されるうちに、読者は自然にローズの考え方や感じ方に慣れ、おもしろくなってくるんですね。まわりにはローズを持て余している大人も登場するけれど、読者はローズの感じ方を体感して理解できるようになる。とてもいいやり方だと思いました。先生とは違って、生徒たちはもっと子どもらしい興味をもってローズに近づくところもよかったです。レインが来たことで打ち解けて、同音異義語を見つけようとしてくれたり、子どもなりに仲よくなっていくんですよね。それからお父さんとおじさんは全く違う性格のように見えるけれど、家庭の辛い事情をたった2人で乗り越えてきたので、きっとものすごく絆が強いんだと思います。似ているけど、陰と陽のように異なる現れ方をしているのでしょう。本当はお互いをいちばんよくわかりあっている兄弟なのだと思います。会話だけで、そのあたりのいろんなことが感じられて、うまいと思いました。レインがいなくなったとき、ローズはひとつひとつよく考えて、対処の仕方をリストにし、たったひとりで実行しようとします。つらい結果になったけれども、自分で選んで決断し、それを受け入れようとする。だからかわいそうな感じで終わらず、すがすがしさが残るところがよかったです。p44〜45に、ローズが教室で、魚の数え方は4匹が正しく、4つは間違いだと言い張る場面がありますが、英語では数え方は同じですよね……どうなっているか原書で見てみると……数え方ではなく、Iとmeの違いを指摘するということになっています。訳文は日本の読者にわかりやすいように工夫されているんですね。

ハリネズミ:登場人物の心理がうまく描けていますね。ローズの特異性がなかなか理解できず、愛してはいても不器用な対応しかできない父親の切なさも表現されています。低学年の子どもが読むと、父親の心理までは伝わらないかもしれないけど、少し年齢が高くなると、この父親は愛してはいても不器用なんだな、ということが伝わってくると思います。父親がローズに対してどなったり嘘をついたりする場面もあってはらはらさせられますが、ローズと別れる場面では、p224には[「さあ、行け」パパはそう行ってから、ほんの一瞬、わたしを抱きしめた。もうずいぶん前から、抱きしめられたことなんてなかった。ほほがふれたとき、パパのほほがぬれているのを感じた。パパはすぐに体を離して前を向いた。あごがぶるぶるふるえている。]とあり、最後でも弟のウェルドンにこう言わせています。「きみのパパはいつも正しかったわけじゃないけど、いつだってきみのことを大事に思ってたんだよ」「たぶん、ローズはぼくと暮らすほうが幸せだと思ったんだろうな」(p228)。ローズが同音異義語やルールにこだわる場面は、それでまわりがうんざりする気持ちと、それでもこだわらずにいられないローズの気持ちが、両方わかるように書かれていますね。レインを元の持ち主に返そうとするところも、ローズのルールにこだわる性格と相まって、自然な流れで読めます。自信のない父親が「せっかくプレゼントした犬を返しちまった」(p218)と恨む気持ちもわかります。視点が一つに偏っていないのがいいですね。孤独な子どもに犬が寄り添ってくれるという場面も目にうかびますし、その犬を一所懸命探そうとするのもよくわかります。でも、みつかったところでハッピーエンドではなく、もうひとつの展開によって、ローズはただの弱い存在じゃないところが前面に出てくる。かわいそう目線がないのがいいですね。 サブタイトルは私も安易な気がします。

ルパン:本来は漢数字で書くべきところがすべて算用数字で書かれていますね。ローズの頭の中に近いかたちにしようという工夫でしょうか。

ネズミ:素数を読み上げるところは、算用数字のほうがピンときますよね。

コアラ:「一歩」が、「少し、ちょっと」というような慣用的な使い方の場合は漢数字で、「1歩、2歩」と数えられるときは算用数字、というルールで編集段階で統一したのかもしれませんね。

ハリネズミでも、英語の小説だと普通は算用数字ではなくone, twoなどという表記が多いように思います。この作品の原著はどんなふうに書かれているのでしょうね。

さららん:ローズは、自分の論理で動く子どもです。だから犬を返すために、動きはじめたことは、思いやりというより、自分のものでないものを持っていてはいけないという、杓子定規的な、正にローズの論理そのものなのでしょう。でもそのあと、ハリケーンにやられたヘンドリックスさん一家をローズが見つけだす。ハリケーンで何もかも失った一家の子どもたちにとっては、犬が返ってきてどんなにうれしいだろうかとローズが想像する部分で、ローズが大きく成長したのを感じました。

エーデルワイス(メール参加):高機能自閉症を扱い、同音異義語に拘る主人公が興味深かったです。日本語だったらと言葉をあれこれ考えていました。思いつめた時、素数を数える時、ローズは自分の頭をたたきます。心の声が伝わり、たまらない気持ちになりました。父親は愛情を素直に表せない不器用な人なんですね。最愛の犬のレインを元の家族に返すまでの行動はなかなか緻密です。『マルセロ・イン・ザ・ワールド』(フランシスコ・X.ストーク著 千葉茂樹訳 岩波書店)を同時に読んでいたのですが、多様な人間の存在が認知されてきているのだと確認できました。100%ORANGEの表紙装丁が好きです。

(2017年2月の言いたい放題)


空飛ぶリスとひねくれ屋のフローラ

アンヌ:献辞のところから読み始めたので、マンガも作者が書いたのかと勘違いして、驚きながら読みました。大人がみんな孤独で、子どもも孤独で、それなのに大人は子どもを傷つける。ハッピーエンドだからいいけれど、ちょっと理解できない話でした。リスだけがかわいくて自由で詩人で、理想の子どものようです。この本を読んで楽しかったのは、マンガに描かれている本の題名がしっかり読めたこと。哲学者ミーシャムさんの本棚にあるのは、『ホビットの冒険』(J・R・R・トールキン著 岩波書店)で、『指輪物語』(同著、評論社)じゃないのに納得したり、テイッカムさんの名詩選集の最初の名前が2冊とも女流詩人なのを発見したり、リスに読んであげるリルケの詩が『時祷詩集』(リルケ全集・河出書房新社)だ等と、調べて考える楽しみがありました。

コアラ:私はおもしろく読みました。内容もおもしろかったし、マンガで表現しているところと文章で表現しているところがあって、文章も明朝体で人間のフローラを主人公にした場面と、ゴシック体でリスのユリシーズを主人公にした場面がある、という形がおもしろかったです。フローラはアメリカのコミックを読んでいて、アメコミのスーパーヒーローと重ね合わせてリスを見ているので、もっと話が大きくなるのかな、と思ったら、意外とこぢんまりとしたスケールで終わってしまったので、もうちょっと盛り上げてほしかった。p227の2行目で「母さんが何よりもだれよりも愛しているのは羊飼いの電気スタンドだ」とあるから、この悲しい誤解の道具が重要な場面で使われるのだろう、と思っていたら、猫をたたいただけで終わってしまったので、もっとキャラクターも含めて設定を生かしてほしかったです。主人公のフローラは、変わっている子という設定ですが、フローラみたいな子は案外いっぱいいるんじゃないかと思いました。p153の絵で本のタイトルなど全部日本語に変えていて、本の背の見えにくい文字もそれっぽく変形させた活字にしているので、うまいなあ、おもしろいなあと思いました。とにかくリスの絵がすごくかわいかったです。

レジーナ:今回選書係として、社会や時代の制約を受けながら生きている女の子が、動物との関わりの中で周囲から受け入れられていく物語を選びました。この本は2014年にニューベリー賞をとったときに原書で読みました。主人公は個性的で、母親からも変わった子だと思われています。そこに空飛ぶリスが現れたことで、しっくりいっていなかった人間関係が少しずつ変わっていく過程が描かれています。作者が自分のためではなく、子どもに楽しんで読んでもらおうとして書いた本ですね。ところどころマンガになっているのも、おもしろいアプローチなのでは。

ネズミ:得意ではない作品だったけどおもしろかったです。マンガがところどころに入って1章1章が短い構成で、私は落ち着かなかったけど、読書が苦手な子どもにはとっつきやすいかなと思いました。たよりない親と、ちょっとませた子どもと。どんな親でも子どもは折り合いをつけて生きていくんだなというのが伝わってきます。掃除機に吸い込まれそうになって特殊能力を得たリスが出てきたり、フローラがいつも参考にする本があったり、お話としてのうまさが感じられて、子どもが読んだら楽しく読めるのでは。人物は戯画的ではあるけれど、お母さんもお父さんもとなりの人も、いろんな面が見え隠れする描き方で好感を持ちました。

西山:目次を見たときは苦手だと思ったのだけど(散文的なこまかい目次、あまり好きでなく・・・・・・単に好みの問題です)、読み始めたらおもしろかった。子どもを楽しませると思いました。難を言えば、マンガと本文の関係がわからないので、本文出だしを読んでいるマンガの内容だと思ってしまうのではと思いました。読み進めて、仕組みがわかってくればそれでいいのですが、本を読み慣れていない子にとって、ある種の難しさになってしまうかもしれないと、ちらっと思いました。恋愛小説家の母親が、いかにも現実的なのは皮肉?ちょっとおもしろい。信じることによって失うものはないという「パスカルの賭け」がでてくるところ(p158)や、ユリシーズが心にもないことを打ち込んで石のようになってしまうところ(p218)など、考えさせるところもあってそれも好感を持ちました。p15のリスが食べ物のことばかり考えているというところ、もっとリスっぽい?口調、リスの動きを思い起こさせるような、いかにもリスっぽいと思えるような口調にして、もっと楽しませてほしいと思いました。フローラに人生の教えをくれるマンガ、私もほしいと読んだ子どもが思うんじゃないかな。子どもをもてなす作品だと思いました。

マリンゴ: おもしろく読みました。軽快なタッチなので、少女を取り巻く環境が実は苛酷だということを、終盤まであまり感じず、重くなりすぎずに読むことができました。哲学的な内容が随所に入りますが、主人公のお気に入りのマンガからの引用なので、子どもに難しく感じさせないのではないかと思います。リスのスペックが、「空を飛ぶこと」「タイプライターを打つこと」と、明確なのがユニーク。最後、ファンタジーの世界を閉じて、日常に戻るのかと思いきや、ファンタジー全開のままで終了したのが少し意外でした。子どもたちにとっては、想像がふくらむ楽しい終わり方なのかもしれません。

:マンガの部分は、マンガというよりも挿絵のバリエーションのように感じました。なくてもストーリーを理解できるので。p15で、おなかがすいたことをリスの気持ちでいろいろに表現しているところは、マンガ形式だからいっそうおもしろく見えますね。『はみだしインディアンのホントにホントのはなし』(シャーマン・アレクシー著 エレン・フォーニー画 さくまゆみこ訳 小学館)も思い出しました。私は、子どもが子どものロジックのまま不満を言うタイプの本があまり好きではないのですが、そういうところを差し引いても、案外楽しく読めました。フローラを受け入れられない母親がありのままの娘を受け入れるようになるという話ですね。いろいろな人が出てきますが、p217の「家に帰りたい」というスパイヴァーのセリフに主題が凝縮していて、ここで、この本がきわめて正統な児童文学であることがわかります。あと、メアリー・アンという電気スタンドも、猫をたたいておしまい、なのではなく、それで壊れることにより、母親が初めてフローラの方を向くという結果につながっているので、重要なアイテムだと思います。

ハリネズミ:ドタバタの割りには理屈っぽいところがあるな、というのが私の第一印象です。こういうのを訳すのは難しいですね。私の好みとしては、もう少しドタバタ寄りで訳してもらったほうがおもしろくなったと思います。このお母さんはタイプライターで原稿を書いてますから、舞台は現代じゃないんですね。。そういう時代に設定したのはなぜなんでしょう? このマンガのテイストは、日本の子どもとそんなに相性はよくないと思います。2回読んだんですが、私はみなさんがおっしゃっているほどおもしろいとは思いませんでした。

カピバラ:マンガを挿絵としてではなく文章のかわりに入れているのがおもしろかった。この絵のせいで現実離れした人々のように思えるけれど、実はそれぞれが深い悩みをかかえていることがわかってきます。p234の最後に、「フローラは変わってる? そうかもしれない。でも、それのどこが悪いのかな?」と書いてあり、これが作者の言いたいことなのでしょう。各章が短くて読みやすく、視点もどんどん変わって子どもを飽きさせないようにという工夫が感じられるところに好感をもちました。個性的な人物が出てきて、特にドクター・ミーシャムと巨大イカの話はおもしろかったです。リスの視点で書かれているところは楽しいから興味をもって読むのですが、リスの存在がひとりひとりにどんな影響を及ぼしているかというところまではよくわかりませんでした。私はアメリカの出版社のパーティーでこの作者に会ったことがありますが、明るくてとにかくよくしゃべる人で、小柄なのに存在感があり、いつも人に囲まれていました。人を楽しませたいというサービス精神にあふれている人だと思います。それが作品にも表れているんですね。

ルパン:物語の方向性がよくわかりませんでした。読書会で取り上げなかったら読み切れなかったかも。ニューベリー賞とあったので期待して読みはじめましたが、すぐに「どうしてニューベリー賞?」と思い始めてしまいました。最大の疑問は、やはりリスの役割です。リスを特別にしてしまう掃除機も、最初に出てきただけで、何だったんだろう、という感じだし。マンガまじりの構成も、私はあんまりなじめませんでした。挿絵だと思っていたのに、マンガのなかに重要なストーリー展開があったんですね。しばらく気づかずにマンガを飛ばして読んでいたので、途中であわてて最初に戻りました。好きな登場人物はフローラのお父さんで、印象に残ったのは電気スタンドの女の子かな。ラストは、フローラはお母さんと心が通じ合ったのに、ウィリアムは家族に見捨てられたままだったのが気になりました。目が見えないふりをするほど悲しんでいたので、もう少し救いがあってもよかったと思います。大好きなフローラと仲よくなれたのはよかったですが。ティッカムさんの家で幸せになってもらいたいと思います。

しじみ71個分:おもしろく読み、最後のリスのフローラを思う詩には涙ぐんでしまいました。傷ついたり、うまくいっていない人たちが、スーパーリスの存在でかき回され、冒険があり、事態が変わっていくという展開になっています。本文中、絶対にありえないと言い切れることはないんだよ、という趣旨のセリフがありますが、それはスーパーヒーローの空飛ぶリスでもあり、無理なように見える壊れた家族の和解をも象徴していると思いました。リスの存在が未来への希望を表わしているようで、気持ちよく読めました。ストーリーを挿絵で表しているのもとてもおもしろいですね。

さららん:表紙とタイトルでは一瞬腰が引けましたが、読み出したらおもしろかった! 不安、満足、喜び、そういった様々な感情が、「物」で具体的に象徴されていて、つじつまがあうように作られている。子どもには納得がいくお話だと思います。例えば・・・孤独の象徴としての絵の中の巨大イカ、夜中に訪れたフローラを大歓迎するおばあさんが用意するオイルサーディンのクラッカー、父さんと食べに行くドーナツなどなど。それから、リスがなぜ詩が好きなのか、最後まで疑問に思っていたのですが、最初の漫画を見たら、なんと詩集といっしょに吸い込まれていた! 絶対にありえないお話だけれど、テーマは正統派で、ところどころに詩情を感じます。リスの書く詩が、単純なドタバタコメディに奥行きを作っていて、胸がきゅんとなるところもあり、楽しめました。

マリンゴ:余談ですが、うちの実家の庭に、ここのところタイワンリスがたくさん現れます。タイワンリスは外来種で、謎のウイルスがいるかもしれないから絶対素手で触れてはいけないそうです。自治体のホームページなどでも注意喚起しています。なので、主人公のお母さんの言っていることは理にかなっている、と思いながら読みました。

エーデルワイス(メール参加):表紙や裏表紙の色やカットも素敵です。中身にもマンガを入れたり、フローラの章とリスの章とで書体を分けたりと、読みやすく工夫されていると思います。なかなか斬新だと思いました。寂しさを抱えた少女を主人公にし、ドタバタやユーモアを交えて描かれた、いかにもアメリカらしい作品ですね。日本にはちょっとなじまないように思いました。いっそ全部マンガになっていた方がすっきりしたかも。マンガは、日本のほうがずっと進んでいますね。p153の挿絵はおもしろかったです。『ホビットの冒険』『シェークスピア』『ホーキング宇宙を語る』『オルフェウスへのソネット』にまじり、『盆栽の世界』なんていうのもあり、本当に盆栽が置いてあります。世界中で盆栽はブームなのかと笑ってしまいました。この書斎は、著者ご自身の書斎がモデルになっているのでしょうか?

(2017年2月の言いたい放題)


アレックス・ジーノ『ジョージと秘密のメリッサ』

ジョージと秘密のメリッサ

『ジョージと秘密のメリッサ』をおすすめします

4年生のジョージは、体は男の子でも自分は女の子(メリッサ)なのだと感じている。しかし、学校でも家でもそのことは秘密にしている。学年で『シャーロットのおくりもの』の劇を上演することになっても、ジョージがやりたいシャーロットの役は、女子の役という理由でやらせてもらえない。

でも、やがて親友のケリーが、あるがままのジョージを受け入れて、午後の部の役をひそかに代わってくれたり、女の子同士の楽しい時間を設けたりしてくれる。家族も徐々にジョージを理解するようになる。

自らもトランスジェンダーである作家が書いただけに、「男の子のふりをするのは、ほんとうに苦しいんだ」というジョージの叫びも心理描写もリアルだ。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年1月28日掲載)


2017年01月 テーマ:いつどこ固有の物語

日付 2017年1月27日
参加者 アンヌ、げた、コアラ、さららん、しじみ71個分、西山、ネズミ、ピラカ
ンサ、マリンゴ、よもぎ、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス)
テーマ いつどこ固有の物語

読んだ本:

(さらに…)

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おいぼれミック

ルパン:おもしろく読みました。原題のOld Dog, New Tricksというのを見て、どんなお話なんだろう、と思いました。

しじみ71個分:いいお話だと思いました。でも、訳の問題だと思いますが、主人公のハーヴェイの話し言葉にしばらくの間ひっかかってしまいました。15歳のイギリスの男の子というと、もう少し大人っぽいだろうと想像しますが、ちょっと女の子らしいというか、幼いという印象がぬぐえませんでした。話が進むにつれて、気にならなくなってはきましたが。人種に対する偏見のある老人が、若者との日常のつきあいの中で、事件をはさんで和解に至るというシンプルですが、大人っぽい話だと思いました。くさくてかわいい犬が二人をつなぐ大事な装置になっているというのもうまいと思います。表紙の少年の挿絵もインド人を感じさせないし、サモサが登場する以外は、「善良なるインド人一家」と帯に書いてあるほどインドらしさは登場人物には感じられないのですが、作者自身も既に移民意識が薄くなって、定着している世代ということはないかなと思いました。舞台となる街自体が、移民の方が多数派になっており、旧来の地元住民が少数派になっているということで、逆に老人のミックの方が弱者という、逆転した状況に既になっており、ミックの人種差別的な発言は弱者の強がりといった感じの印象を受けました。ハーヴェイのぞんざいな言葉遣いも、ミックがハーヴェイの話すのを聞けば自然な英語を話していることを認めざるを得ないという点にも表れているように思いました。移民の第一世代が地元住民との間の摩擦を起こす、という段階を過ぎた状況を描いており、そういった意味では新しいと思います。複雑な状況を軽妙にさらっとおもしろく書いている点を大人っぽいと感じました。

よもぎ:以前は差別される側だった移民の人たちと、差別意識を持っていた白人とが、ここでは逆転しているんですね。だから「人種差別主義者」とずばりといっても痛切に響かず、かえってユーモラスな感じになっている。そこは、おもしろいと思いました。ただ、主人公のミックに対するしゃべり方がぞんざいなのが気にかかりました。「おいぼれ」という言葉も。原書のタイトルOld Dog, New Tricksのもとになっている諺のOldにも、「おいぼれ」のような侮蔑的な意味あいは、あまりないんじゃないかな。

さららん:軽いけど、テーマは明確です。すぐに読み終えた作品でした。102pで「心臓がいくらよくなったって、人生が破綻していたら意味ないじゃないか!」と、主人公はいい放ち、ミックの秘密にふみこんで娘さんを探し出します。一線を越える行動ですが、そういうことがあってもいいんじゃないかと私は思いました。だいたい主人公の気持ちに沿ってんでいけましたが・・・ちょっとひっかかるところも。原題のOld Dog, New Tricksという表現が、締めくくりにも使われていますが,「おいぼれ犬が新しい技をおぼえた」という訳は、どうなんでしょう? となりの老人ミックを、「おいぼれ」&「犬」と呼ぶことが気になります。愛情を込めた冗談だとは思うのですが、そう感じさせるためには、日本語にかなり工夫がいるのでは?

レジーナ:『おいぼれミック』というタイトルでは、読者が手に取りづらいのでは? けんかの場面では、主人公の言葉づかいは今どきの15歳っぽくて生き生きしているのですが、30ページの「〜だもの」など、語りになると幼くなりますね。93ページのネルソンの台詞も、「おれ様」なんて言う人は現実にいるのでしょうか?

ネズミ:偏見に満ちた寂しい隣のおじいさんのことを主人公がだんだんと心配するようになって……というストーリーはよかったのです。ですが、最後に手紙を開封するほどミックのことを心配する、そこまでして見たいと思うようになるというところまで、主人公の気持ちが動いていくようすが、物語のなかで今ひとつ迫って感じられなかったのが残念でした。原文の問題か訳文の問題かわかりませんが。犬と音楽の使い方はいいなと思いました。インドからの移民といっても、そのなかで対立もあることが描かれているのもよかったです。手紙を開封するという行動は規範から外れているけれど、戦争のときでも、お上の言うことに唯々諾々と従わなかった人が生き残ったり人を救ったりした例もあるので、こういう逸脱は時に現実にはありうることかと思いながら読みました。だからこそ、そこまで説得力のある盛り上がりがほしかったですが。主人公の口調は全体に年の割に幼い印象でした。

西山:時と場所が限定されている話を翻訳作品からも探さねばとなったとき、翻訳ものって、大抵そうなんじゃないか、と気づきました。日本の作品の中ではいつどこを限定しないように書いている作品の方が多いのに。ちょっと、考えさせられます。この作品は、マイノリティが差別されているわけではない。人種差別主義者のほうがマイノリティ。娘が黒人と結婚したから差別するというのは、ヘイトはちがうから、『セカイの空がみえるまち』とは同じ図式で考えられないと思いました。訳者あとがきで「シク教徒」について詳しく知ることができてよかったです。

マリンゴ:表紙から、ミックは完全に犬だと思い込んでいたので、「人間かよ!」と最初は大きな戸惑いがありました(笑)。みなさんも既におっしゃってますが、主人公が知的な15歳の子のわりに、冒頭でのミックに対する物言いが粗雑すぎると思いました。たとえば14ページの「サモサだよ」ですが、「サモサですよ」だと丁寧すぎるとしても「サモサっすよ」くらいにするなど、翻訳で調整できたのではないかなぁ、と。ミックはわかりやすいキャラだし、驚くような展開ではないけれど、イギリスの移民の実情が伝わってきましたし、時代に取り残されていく人の淋しさや、主人公のいろんな感情が描かれていていいと思いました。なお、版元の方によれば、15歳の子が主人公のYAで、これだけ短い本というのは、通常イギリスではありえないけれど、これはディスレクシアの子を対象としたシリーズのなかの1冊だから、簡潔な文章なのだそうです。

ピラカンサ:原書がディスレクシアの子どもを対象にした本だったら、日本でもそういう出し方の工夫をしてほしかったな。現状ではだれのせりふかすぐにはわからないところもあり、読むのが苦手な子どもには向いていませんね。改行のしかたなど、もっと工夫してほしいです。普通の本としては、ストーリーにご都合主義のところもあり、ちょっと大ざっぱすぎますね。ミックの入院中にハーヴェイたちがミックの家を勝手に片付けていて、テーブルの下の段ボール箱に開封されていない手紙があるのを見つけて断りもなく読んでしまうところなんか、どうなんでしょう? かわいそうなおいぼれだから面倒を見てやらないと、という上から目線に思えます。どうしてもやむをえず、ということであれば、「こういう状況ならやむをえないな」と読者も思えるように訳して(あるいは書いて)ほしかったです。結果オーライだからいいだろう、ではまずいと思います。

さららん:私は物語の主人公と主人公の家族が、インド系だとあまり感じられなかったんです。頭の中で、典型的なイギリス人の男の子をついイメージしてしまい……もしかしたら挿絵があったほうが、よかったのかも。

レジーナ:表紙の少年も白人っぽいですよね。

ピラカンサ:シク教徒はカースト制を否定していて皆平等だという理念をもっていることなど、この本から知ったこともありました。そういう意味では読んでよかったとも言えるのですが、気になったのはミックが単なる弱者で、ハーヴェイたちは同情して上から目線で「かわいそう」と思っているところです。書名からして「おいぼれ」ですから、よけいそう思えてしまいます。対等なつき合い方をしていません。たとえばp104「だって悪いやつじゃないよ。ただのおいぼれ犬だよ」p114「ぼくらがこんなに色々やったのに、相変わらずいやなやつのままだったのか」など気になりました。それからp110には、ジェニーが入院中のミックに会いにいったとき、「父は、私と会うのがこわかったんですって。私に憎まれているとおもっていたから」とありますが、ジェニーは返事がなくてもずっとミックに手紙を書き続けていたわけで、つじつまがあいません。リアリティがないように思いました。

げた:「ついに、おいぼれ犬が新しい技を覚えたぞ」ってのはちょっとひどいと思うな。ミックは人間で犬じゃないんだから。そんな思いを持ってて、本当に仲良くなれるんでしょうか?

さららん:おそらく英語の表現にはユーモアがあったはずだけれど、「老いぼれ犬」という日本語にしたとたん、ユーモアが消えて、差別的なニュアンスが出たんじゃないかしら。

げた:移民といえば、日本ってもっと受け入れた方がいいんじゃないかな。観光客じゃなくって、一緒に日常生活を営む仲間として。そのためにも、子どもたちがいろんな国やその国の人々のことを知るってことが必要だと思う。

コアラ:ミックのほうに感情移入して読みました。それで、くさい犬を飼っていたり散々な描かれ方で、あまりいい気持ちにはなれませんでした。7ページで、ミックが「人種差別ではない」と言っているのに、それを無視するかのように、人種差別主義者のミック、という扱いをするのが残念。移民の問題として、移民をする側の思いと、移民を受け入れられない、でも受け入れざるを得ないという側の思いの両方をすくいとって描いてほしかった。YAに分類されていましたが、装丁も内容ももっと幼い感じがしました。

アンヌ:このレスターという町の様子がうまくイメージできなかったので、同じ作家の『インド式マリッジブルー』(東京創元社)を読みかけています。そちらも舞台はレスターで、通りによって、ここらは90パーセントがアジア人の街で、この通りの反対側はスラム街で高級住宅街とか白人街もある等の説明があったので、たぶんこの本の舞台は、古い家のある街にアジア系の移民が増えていった地区なんだろうなと、見当がつきました。この本では、シク教徒や寺院の場面がおもしろかった。お父さんが「まるで小さなブッダだな」という場面には、非西洋的な理解の仕方を感じて、こういう風に子どもの言うことを受け止めてくれるお父さんがいていいなと思いました。

ルパン:66ページで、目をつぶればみんな同じ(移民もイギリス人も)、と言っていますが、ここはどういう意味なのかな。みな同じ人間だということ? それぞれの文化を尊重しあうべき、という異文化交流的なものがテーマだと思いましたが。そのうえ、文脈的に、ここは英語に訛りがないことを言っているらしいので、イギリス人に同化していることに価値があるようにもとれて、ちょっとひっかかりました。

アンヌ:この子なりに、同じイギリス生まれで同じ口調で喋っているんだよと説得しているのでは?

エーデルワイス(メール参加):原題はOLD DOG, NEW TRICKSで、おいぼれ犬に新しい技を教えてもむだ、というところから来ているのですね。物語は予想どおりの展開で、安心して読みました。シク教徒については、今回初めて、だれもが平等という精神を持っていると知りました。世界中に散らばっているインド人の3分の1がシク教徒だということや、イギリスのレスターは移民の町で、人工の40%がインド・パキスタン系のひとたちだということも。白人の方が押され気味で、そんなところからトランプ大統領のような人も生まれるのかと思いました。

(2017年1月の言いたい放題の会)


『フラダン』表紙

フラダン

アンヌ:言葉でダンスや歌を説明するのは難しいことですが、この物語では、ハワイアンの奇声のような掛け声とか踊りの用語とかを知らないままに、まるでSFを読んでいる時のようにどんどん想像して読んでいくことができました。部活動で、男子のいない部に男子を強引に勧誘する場面等も、あるあるなどと思いながら読みました。ただ、読み直してみると、詩織の母親との関係や、木原先生の話などいらないと思う場面もいくつかあった気もします。私が一番心を打たれたのは、マヤが犬のジョンのことを悲しむ場面です。文学にできることは、こういう論理的に説明したり解決できない何かについて書くことじゃないかと思っています。心にいいものが残る小説だと思いました。

コアラ:文章がおもしろかったです。26から27ページの転入生柚月宙彦の自己紹介の場面とか、13から14ページの会話とか。あと薄葉健一の発言の書き方、53ページの12行目とか、聞き取れない小さな声を小書き文字で表現していて、あの年頃の男の子の言葉が全部「いいっス」みたいに「ス」が付くのも表していて、すごくおもしろかったです。フラガールズ甲子園で、詩織が観客席にきっといると信じて、戻ってこいと踊りで呼びかけるシーンが感動的でした。ただ、装丁がキョーレツで、手に取ることをためらわせるのでは、と思ってしまいました。もっとかっこいいほうがいいと思います。

げた:工業高校の生徒たちが、仲間同士小競り合いをしながら成長していく物語ですよね。フラダンスって、今や地域でも職場でもすっごく流行っているんです。高校生がスポーツとしてやってるのはとっても新鮮でした。とってもユーモラスなキャラクターが登場する話なんだけど、震災と原発がずっと裏に流れているんですよね。高校生たちが震災と原発によって歪んだ社会をなんとかしようとしている姿に感動しました。それにしても、原発は無くならないものでしょうかね。皆が生活を一段切り下げれば原発が無くたってなんとかなると思うんだけど。

ピラカンサ:原発の方が電気代はかえって高くつくことがわかってきたのに、辞められないのは利権に群がる人たちがいるからですよね。

げた:ラストで仮設の老人が咽び泣く詩織の背中に掌をそっと添えたってとこはよかったな。

ピラカンサ:この作品は、何よりもユーモアがあふれているところが素晴らしい! あちこちで笑えますけど、その中で福島の原発事故の影響なども描かれていて、考えさせられます。たとえば85pには「以前なら気軽に聞き合えた質問を、同じ福島県に住む穣たちはできなくなっている。互いの過去の重さの予測がつかないからだ。ほとんど被害のなかった自分が気軽に問いかけたことが、相手を深く傷つけてしまう場合だってある」とあります。父親が東電に勤めているという健一の視点も出てきますね。ストーリーには意外性も随所にあって、うまいですね、この作家。私はユーチューブで男子のフラダンスというのを見てみたんですが、本場のは体格のいい人がやっていて立派なのですが、日本の男子はほとんどの人が細身で、しかも腰に大きな飾りをつけてたりするので、とてもユーモラスでした。表紙も、中を読んでから見ると、とてもおかしかった。フラダンスは笑顔が大事ということで、みんな笑顔なのですが、その笑顔にそれぞれのキャラクターの思いが入っている気がします。キャラクターの書き分け方も、喜劇的なラインに寄ってはいますが、うまいですね。

マリンゴ: 毛色の変わったスポーツ小説に、原発や福島の問題を絡ませる……そのバランスがとてもいい本だと思いました。印象的なシーンとしては、85pの「うかつな質問はできない」以降の部分。高校生って傍若無人でいい時期なのに、まるで社会人のように、相手のプライバシーに踏み込みすぎないようにしていて、気苦労が伝わってきます。全体的によかったのですが、一部、芝居がかった文章が気になりました。たとえば180p。「だがこのとき穣は、まだ少しも気づいていなかった。〜衝突を生もうとしていることに。〜プラズマが潜んでいたことに」と、煽りすぎていて、そんなに煽らなくても続きはじゅうぶん気になってるから大丈夫なのに(笑)と思いました。またクライマックスでは、詩織が来ているかどうかまったく確認していないまま、みんなで演技をします。連ドラの最終回だったら、こんなふうに詩織が来るか来ないか!と煽りがちですけど、現実だったら、事前に来るかどうかだけでも確認するとか、来るように仕向けるとか、なんらかの行動を起こすかと思います。そのあたりが少しイメージ先行な気がして、最後の演技の部分、後味はよかったのですけれど、感動とか泣くとか、そういうふうにはなりませんでした。

西山:ほんとにおもしろかった!「3・11」から5年目の福島であることが、必然の物語だと思います。テーマを取って付けたような分裂がなくて、ひとつの小説として大満足の読書となりました。210pの真ん中あたり、「震災を経てから、自分たちは家族や出身地について明け透けに語ることを控えるようになった。」というところなど、実際にあるんだろうなと胸を突かれました。傷が生々しすぎる時期、もちろん語れないということも理解できる。でも、語れないことで、傷がいつまでもじくじくしているということもあると思うから、これは、本当に、何度も言うようですが、「5年目の福島」を言葉にしてくれていると思います。一方で、ほんとに笑える! 羊羹の一本食いとか……。それでいて。203pの羊羹を切るシーンで、実は意外にも繊細に扱われていたと分かるところなど、本当におもしろく読みました。こういうところが何か所もあって、読書の快を満喫しました。他に例えば258pの「成人よ、責任を抱け。」とか、共感できる価値観がいくつも言葉になっているし、よい1冊でした!

ネズミ:とてもよかったです。福島の人々、高校生みんながこういう問題を抱えているということを、部活を切り口に説教臭くなく伝えています。3人称だけど限りなく1人称に近い書き方で、主人公の穣の気持ちによりそって読者をひきこんでいます。あらゆる立場の部員が集まってるというのはフィクションらしい設定だけれど、あざといと感じはせず、気持ちよく読めました。一人一人が、この物語のどこかでとてもいいところを見せるのもいいなと。健一くんが、甲子園に「うまくなったから出たい」と主張するところとか。いいなあと思う文章もちらほらありました。125pの「別にどこかに出ていかなくても、意外なところに世界を広げるヒントは隠れていたのかもしれない」とか、255pの「少しだけ、男子だらけの工業高校に通う女子の気持ちが分かった気がした」とか。113pの「ナナフシから瀕死のマダラカミキリのようになった健一や」では爆笑。

レジーナ:登場人物が生き生きしていて、ユーモアがあって、何度も読みかえしたくなる本です。読んでいてすがすがしく、一人一人を応援したくなりました。羊羹を丸かじりする大河も、底抜けに能天気な浜子も、いちいち芝居がかったしゃべり方の宙彦も、これだけ強烈な人間はそうそういないし、フラガール甲子園で詩織が舞台に上がる場面も、現実だったらこんなにうまくはいきません。でも登場人物の心の動きや、福島の人たちが抱えている想いにすごくリアリティがあって、胸がいっぱいになりました。ひとくくりに福島と言っても、その被災状況はさまざまで、踏みこみすぎないように被災者同士気をつかったり、震災のことを話さないように学校で指導されたり、そういうどこにも出口が見つからない閉塞した状況も透けて見えます。原発事故で突然土地を奪われる理不尽さは、ハワイの歴史と重なりますね。弱い立場の人を切り捨てるあり方に作者が疑問をもっていることが、水泳部のいざこざをはじめ作品全体を通して伝わってきました。

さららん:引用しようと思ったところは、みなさんからもう出ているので、あまり言うことがないです。原発事故後の、分断化され、どこに住んでるのかさえ気軽に聞けない現実の重苦しさを、福島で暮らす高校生の、ありのままの重さにして書いているのが見事だと思いました。読者を笑わせながら、すうっと福島の問題に移れるのは、人物が人間として動いているから。テーマなんてものではなく、登場人物たちのおなかを通した言葉として「今」が語られているからなんでしょう。クライマックスで、サークルのみんなが大会の舞台で踊りながら、詩織を呼ぶシーンを電車の中で読んでいて、泣いてしまいました。『ウォーターボーイズ』や『フラガール』といった映画もあり、決して新しい素材ではないけれど、読者を楽しませつつ、考えさせる虚構の作り方の巧さに感心しました。

よもぎ:『チア男子!!』とか『ウォーターボーイズ』みたいな話かなと思って読みはじめたのですが、福島のいろいろな立場の子どもたちの心情が、きめ細かに書かれていて、おもしろいだけでなく深みのある作品だと思いました。これだけ登場人物が大勢いるのに、「これ誰だっけ?」と思わせずに、見事に描きわけている。本当に上手い作家だと思いました。思わず吹きだしながら最後まで読み、フラダンのクラブも順調にいきそうだし、敵視されていたおじいさんからも花束を贈られ、「良かったね」で終わりそうなのですが、「でもね……」という「もやもや感」が残る。その、どうにも解決できない「もやもや感」が現実の福島の姿なんじゃないかな。そこまで描けているような気がします。

しじみ71個分:さっき表紙がどうも、という意見がありましたが、私はこの表紙がすごく好きです。裏表紙の二人の顔の絵も意味深で、何で、何で?と、本筋ではないながら興味を掻き立てられながら読み進められて、うまい装幀だと感心しました。『セカイの空がみえるまち』の後、これを読んだのもあって、福島の問題をよくぞここまで貫徹して書いたなと作者の強い意志に感動しました。同じ県内でも被災しなかった地域の子、被災して帰宅困難地域から避難してきた子、加害者の立場にある父を持つ子、犬を置き去りにしたことで悲しんでいる子など、いろんな立場の子を通して、福島の今の問題にきちんと話の筋を返していこうという作者の意図が素晴らしいと思いました。また、言葉のセンスがすごくいい。言葉のうまい人だなと思いました。特に、主人公の穰が心の中で入れる突っ込みの言葉などは非常におかしくて、笑いを誘われました。著者の古内さんは、日大の映画学科を出たということですが、そのせいか表現が非常に映像的で、どの場面も映画のように画像が思い浮かびますし、穰が老人ホームで最初の男踊りを披露したときに、健一の背中に塗ったドーランですべって大コケするところとか、細かい描写が非常に場面を想像する助けになりました。あとがきに、実際の高校のフラダンス部に取材したとありましたが、ダンスのテクニックの詳細が書いてあって、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著 講談社)の表現にも通じるかと思いますが、スポーツやダンスの様子に非常にリアリティを感じられたのも良かったです。福島の原発のせいで生じた閉塞感の中で苦悩しながら、部活に懸命に取り組む中で世界観が広がっていく過程を描くことで、非常に明るい希望を持てる作品になっていると思います。子どもたちに本当に薦めたいです。最後のフラガールズ甲子園のところは、仮設住宅に住まうおじいさんが花束を持ってきてくれたりして、和解につながるなどは少々都合よい場面と思うところもありましたが、それも含めて良い映画を見るように気持ちよく読めました。ヤンキーな浜子のキャラクターも良かったですし、男の子たちがお弁当を交換する場面で、宙彦がパクチーについてデトックスになると言ったのを健一が言葉尻を捕まえて「福島だから?」と鋭い質問を入れるところなども表現に緊迫感があり、宙彦が言葉に詰まるところを穰が救うところなども、高校生なりに難しい問題を語るときのもどかしさをうまく表現していたと思い、感心しました。

ルパン:まだ2017年が始まったばかりなのに、すでに「今年のイチオシ!」と言いたくなるような作品でした。これは傑作だと思います。3・11後の福島という場所にいるいろんな立場の子どもとおとなが描かれていて、すばらしいと思いました。特に、「原発問題後の福島にいる東電社員の子ども」である健一君のいたたまれない思いが非常にうまく書かれていると思います。でも、ちゃんとそこに寄り添う友だちもいて、心があったかくなります。情景描写もすごい。踊りを文章で表すのは難しいと思うのですが、地味なメガネ女子のマヤちゃんが、フラダンスを始めると「キエエエエ!」って掛け声をかけるあたりなど、目に浮かぶようでした。動いているものとか目に見えないものを文章にするのはすごい筆力だと思います。大絶賛です。268pの歌の歌詞で、「踊り上手なあなたに……」「踊り手がそろったら……」というところは、何度読んでも泣けてしまいます。

エーデルワイス(メール参加):福島原発の事故で、故郷に住めなくなった方や仕事をなくした方、そして子どもたちがどんな思いでいるかを、きちんと書いていると思いました。福島のフラダンスは有名ですが、笑わせてくれるところもたくさんあって、おもしろく読みました。自分の中では今年度読んだ本のベストの中に入ると思います。p241「・・本当にリーダーになれるのは一番弱い人のことまでちゃんとかんがえられる人だもの」p249「・・自分の悲しみを人と比べることなんてないんだよ」っp250「この世は自分たちの手には到底負えないほど大きくて深い悲しみと理不尽さでできている」などの名台詞もよかったです。

(2017年1月の言いたい放題の会)


セカイの空がみえるまち

西山:新大久保のヘイトデモが出てくるというので、出た直後から話題になっていて気になっていた本です。ここでみなさんの意見をうかがいたいと思って、この作品から今回のテーマ「いつどこ固有の物語」というのを考えました。一言で言えば、ヘイトスピーチをとりあげたということは賛成したいと思います。物議をかもしそうなことを、どちらかといえばエンターテインメント性の高い作品を多く書かれている作家が取りあげるということは、子どもの本に関わる人たちにいい影響があるんじゃないかなと思ったので。書く題材が広がるということでは賛成。ヘイトというものを、学校裏サイトの言葉の暴力とつないだのは、問題意識を持っていなかった読者に近づけるやり方として有効だったと思います。ただ、新大久保のアパートの人たちが一様にいい人たちだったのがどうにも残念です。被差別者、偏見でレッテルを貼られている人を、そうじゃない「いい人たちなんだ」と描く物語は今までもたくさん書かれてきたと思いますが、それは事態を裏返しただけで、結局は壁をくずさないというか、そういう展開の仕方はまたかという感じがしました。基本賛成だけれど、不満が残ったというところ。野球部の男の子が繰り返される慣習を変えようとする点は、大事な提案だと受け取りました。

マリンゴ:発売直後、ネットでいくつかレビューを見かけたので、これは読まなくてはいけないのかなと思って買いました。今回、再読ができなかったので、記憶が若干遠いのですが、新大久保を舞台にして、ヘイトスピーチや在日韓国人の人たちとの関係性を取り上げた、という試みはとてもいいと思います。読み応えのあるテーマです。著者の工藤さんの小学生向けの本を読んだことがありますが、口語調のライトな文体でした。今回はYAだし、これまでの作品とは一線を画した重厚なテイストになっていることを期待したのですが、読んでみると、文体はラノベ的というか……。期待が大きかっただけに、やや失速感があった気がします。みんなはどういうふうに読むだろう、と思っていたので、今回の読書会の課題本として取り上げてもらってよかったです。

ピラカンサ:私も、こういうテーマを取り上げることは評価できると思ったし、たがいに異質の存在である空良と翔がだんだんうちとけていくのは、よく書けていると思いました。ただ、こういう作品こそ普通の本以上にうまく書いてほしいと思っているので、私はどうしても辛口になります。だって、子どもがせっかく読んでも浅かったりつまらなかったりしたら、社会に目を向けた作品をますます読まなくなりますからね。15-16pにヘイトスピーチのサンプルが出ていますが、実際はこんなもんじゃないですよね。新大久保のヘイトデモのプラカードも、ネット上にも、「死ね」とか「殺せ」なんていう言葉があふれている。でも、この本ではマイルドな表現しか使っていないのはどうしてなんでしょう? さっき、ラノベという言葉が出ましたが、キャラクターも、翔はまだしも空良は不安定な気がします。1章ではあかねに押される一方なのに、2章では酔っぱらいに声をかけたり、割って入った翔に文句を言ったりするので、どんなキャラ設定なのかわからなくなりました。知り合うきっかけとして翔が別のホームからわざわざ駆けつけてくるのも、わざとらしいですね。それから、空良の両親にしても翔の父親にしても、おとなが書けていません。著者の人間理解が浅いのかと思ってしまいます。それから例えば146pのように、ここに住んでいるやつらはけっこう図太くてたくましいよ、と状況を説明している部分が多いのも気になります。空良が、自分の一言で父親が出ていったと思い込んでいるのにもついていけない。主人公が物語の中で生き生きと動き出すというより、作者が書きたいことに沿ってキャラを動かしている感じがしてしまいました。残念です。

げた:たいへん厳しい言葉のあとに、甘い感想を言うのは気恥ずかしい感じがしますが、新大久保も上北沢も馴染みのある場所なんで、何となく親しみのわく話でした。新宿の職安も20年前には毎月仕事で通ってましたから。実は、私も翔くんと同じように野球部に入っていて、全く同じような経験をして、野球部内にはびこっている悪習をなんとかしたいと思っていました。でも、翔くんのように先輩に突っかかっていくことなんてできませんでした。すごいなと思いました。なかなか野球部の男子がこの本を手にするってことはないかもしれませんが、もし、読んだとしたら、きっと共感するんじゃないかな。ヘイトスピーチや父の失踪をめぐる家族との関係、同級生との関係など考えさせられる話題の詰まった本でした。買って読んだけど、よかったなと思いました。

コアラ:すごく読みやすくておもしろかったけれど、さらさらと読んでしまってあまり印象に残らなかったのは残念でした。複雑な家庭環境とかヘイトスピーチとか重いテーマを含んでいるので、さらっと読めるほうが重苦しくならなくていいのかもしれないとは思いました。作者の問題意識が強すぎると、物語がつまらなく感じたりするのですが、この作品はそういう作者の主張が浮き上がった感じはなかったと思います。トランペットの女子と野球部の男子、という設定はどこかで聞いたことがあるような、と思ってネットで調べたら、『青空エール』(河原和音作 集英社)という漫画が同じ設定だったことがわかりました。映画にもなった作品のようです。『青空エール』は高校生が主人公なので、それの中学生版ということでこの本が出版されたのかもしれませんが、同じような設定でいいのかなあ、とちょっと疑問に思いました。物語の最後のほうで、あかねと別れた野上先輩が急にイヤな奴に描かれていて、それもとってつけたようにありがちな描き方で残念。全体的に、自分と違う国の人たちのことを「あいつらは」と一括りにせず、一人一人と個人的に仲良くなっていこうというのが感じられてよかったと思います。でも、ちょっと物足りない。

アンヌ:主人公たちは中学生という設定なんですが、セリフが高校生という感じで、その割りにラブシーンが控えめなので、ああ、やっぱり中学生なんだと思いました。

げた:えっ!これ、中学生の話? ずっと、高校生だと思ってた。

アンヌ:酔っ払いに話しかける危険性とか感じていないところも、空良が中学生だからかもしれませんが、翔とのやりとりとか少し奇妙な場面でした。会社を辞めて失踪してしまうお父さんも、家族と話し合えない人なんでしょうが、子どもっぽくていい人には思えなかった。最初はいい話でおもしろいと思ったけれど、2度目に読むと、こういう矛盾ばかりが目に付いてしまいます。

ルパン:おもしろく読みました。が、どこがおもしろかったのかな、と後からふりかえってみると、正直なところあまり思い出せないんです。ただ読みやすかっただけ、ということでしょうか。翔くんの野球部の場面ですが、私はそんなに良いとは思いませんでした。やり方が稚拙で一人よがりだなあ、と。たとえば、2年生になったとたんに何でも自由にできると思って、勝手に1年生にグローブを持たせた結果、その1年生が3年生に怒られてしまうとか。練習をすっぽかしたあと、山本君が好意的に迎えてくれたのにひどい態度で応えるとか。部活の場面がとてもいい感じで始まっているのに、あっというまに「自分のためだけに野球をしているんだ」「ただ勝てるチームにしたいんだ」となり、それでいて、「山本君が成績のために野球をするのは気に入らない」と言い……部活動に対する理想が低く、ものすごく自分中心のせりふが多くて興ざめでした。
 冒頭でヘイトスピーチをとりあげていますから、「ことばの暴力」がテーマなのかな、と思ったのですが、そのわりに主人公の空良ちゃんも翔くんも、けっこう人に対してひどい言葉を使っていて、それに対する反省が見られない。ほかの登場人物の性格もまったくのステレオタイプか、野上先輩みたいにストーリーの都合でとちゅうで豹変してしまうかのまっぷたつで、奥行きが感じられませんでした。空良ちゃんのお父さんも翔くんのお父さんも自分のことしか考えていないし。一番の問題は、ヘイトスピーチがどこの方向にとんでいったのかわからないままであること。言う側にも言われる側にも、何の答えも出していない。ヘイトスピーチをするほうの問題にはまったく焦点があてられていないし、言われる側も、どう立ち向かっていくかという方向性が見えていないので。「言っている人が悪いので、言われているほうは何も悪くないんだよ」というメッセージだけでは、問題提起にすらなっていない気がしました。

しじみ71個分:自分の息子が中学生なのでそれと比べると、主人公の翔くんの言葉が中学生にしては大人っぽすぎて、腹落ちしない感じがしました。実際に子どもがしゃべる言葉と違うかなというところで、違和感が最後までありました。新大久保に関する最初の描写については、ヘイトスピーチへの理解と取扱いが薄くて、軽いかなと感じました。実際にはもっと暴力的だろうと思います。ヘイトスピーチを作品のモチーフに扱ったところは挑戦的だなと思いましたが、非常に重いテーマのはずなのに、最後の方ではそれがどこにも見えなくなってしまうなというところも気になりました。民族の違いにかこつけて、全く理不尽な、言葉や実際の暴力として投げつけられるヘイトと、翔くんが抱えている、自分を捨て、顧みない親に対する憎しみは全く異なる種類のもののはずですが、親に対するヘイトを乗り越えるというところで終わってしまって、筋がすりかわってしまっており、最後には触れることもなくなってしまっているのが残念に思いました。空良ちゃんとの関係も、結局は、学校や部活のはみ出し者同士がくっついちゃうんだな、あーあという感じを受けて、かなりステレオタイプなストーリー展開だと感じました。あと、中学2年生にしては、部活改革で戦うというのも大人っぽすぎるなと思って入り込めず、あまり気持ちが動かされることが最後までないまま終わっちゃったのが残念でした。

よもぎ:私も、「主人公たちは中学生なんだ!」と、びっくりしました。それはともかく、数年前までは、読書会で取りあげる日本の創作といえば、登場人物の半径数メートルのことばかり書いたものが多かったので期待して読んだのだけれど……。ヘイトスピーチも新大久保のことも、風景程度にしか描いていなくて、ちょっとがっかりしました。ヘイトスピーチ、どこに行っちゃったの? 作者の中で熟していないまま、作品として出してしまった感じがします。それから、説明で書いてあるところが多くて、もっと動きや情景で描いて欲しかったなと思いました。こういうタイプの話によくあるんですけれど、新大久保に住んでいる人たちはみんないい人みたいな書き方も、薄っぺらい感じがしました。空良のお父さんも、翔のお父さんも、けっきょくはいい人だったみたいな書き方もね。『きみはしらないほうがいい』(岩瀬成子著 文研出版)は、人間の心の深みにまで踏みこんでいて、感動しましたが。

さららん:私も主人公は高校生だと思っていました。装丁がアニメ風でしょ。自分で本屋に行っていたら、手にとらなかったと思うので、今回読めてよかったです。なんの予備知識もなしに読みはじめたらヘイトスピーチが出てきて、『おっ、これは第一印象とは違って骨のある話かな』と思ったんですが……。疾走感があり読みやすく、漫画を読んでいるように、どんどん先へ連れていかれるけれど、よくわからない部分が残ります。特に翔のお父さんや、ヒトミさんなど大人の造型がパターン化されていて、感情移入できないままでした。

レジーナ:ヘイトスピーチという、今の社会が抱える問題を扱った点では意欲作だと思いました。でも登場人物にリアリティがなく、感情移入できませんでした。217pの野上の発言ですが、こんな無神経なことを言う人は現実にいるのでしょうか。ヒトミもいい人すぎますよね。ゴミの分別にこだわるキムさんもそうで、「ちゃんとゴミを分別する、こんないい外国人もいる」ということを伝えたいのはわかるのですが、ステレオタイプを反対側から書いて終わっているので、ヘイトに抵抗する力は感じませんでした。ジェニー・ヴァレンタインの『迷子のアリたち』(田中亜希子訳 小学館)も、社会からはみだしている人たちが暮らすアパートが舞台ですが、そちらの登場人物のほうが深みがあります。

ネズミ:さまざまな家族のありようやヘイトスピーチを扱っているのはいいなあと思いました。翔と空良、それにほかの登場人物たちもさまざまな問題を抱えている。今こういう状況は実際めずらしくないだろうと思います。でも全体に、トラブルをかかえている人とそうでない人がステレオタイプで描かれている印象がありました。それにお父さんが出ていったからといって、それでいじめにあうのでしょうか。私がこれまで見てきた中学生は、難しい家庭の事情に対してむしろ同情的というのか、そこはいじらないという暗黙の了解があるような子が多かったのですが、この本ではそれも「普通ではない」という意味でトラブルの発端になるので、今はこういうことがあるのならおそろしいと思ったし、そういった子を真の意味ですくいあげる方向には向かっていない印象がありました。118pにある「世間からはみだした人は、案外いい人が多いんだよなぁ」というセリフは、言ってほしくなかったです。意欲作だけど、私は中高校生に積極的に手渡すのはためらうかな。

エーデルワイス(メール参加):市内のどの図書館にもなくて、県内の所蔵刊から取り寄せてもらおうとしましたが、新刊は半年以上たたないと他の図書館に貸し出しできないと言われてしまいました。で、仕方なくアマゾンから取り寄せたのですが、すぐ自宅に届き、複雑な思いを味わいました。読んでみて、韓流ドラマブームとか、従軍慰安婦像の設置問題とか、大統領の罷免問題などがわっと頭にうかびました。日本で起きているヘイトスピーチの怖さも感じました。表紙が、今話題のアニメ映画「君の名は」い似ていますね。中高生が手にとってくれるようにという配慮でしょうか。藤崎空良と高杉翔の章が交互に登場するなど、工夫されていると思いました。異文化の差別はもちろん、この物語にあるような学校での重苦しいいじめも、なかなかなくならないのですね。

(2017年1月の言いたい放題の会)


アン・M・マーティン『レイン』表紙

レイン〜雨を抱きしめて

『レイン〜雨を抱きしめて』をおすすめします

父親と暮らす5年生のローズは、高機能自閉症と診断され、周囲にうまく適応できない。拾ってきた犬のレインが友だちだが、ハリケーンで行方不明に。必死の捜索で見つかった後のローズの行動が、周りの状況を変えていく。

自分がほかの大勢とはどこか違うと感じている子どもたちに、元気をくれる本。

(朝日新聞「子どもの本棚」2016年12月24日掲載)


2016年12月 テーマ:遅ればせながら魔女

日付 2016年12月22日
参加者 アカシア、あさひ、アンヌ、げた、西山、ピラカンサ、ネズミ、ノン
ノン、マリンゴ、よもぎ、レジーナ、(くまざさ)
テーマ 遅ればせながら魔女

読んだ本:

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王様に恋した魔女

西山:おもしろく読みました。調べもしてないのですが、これって、どこかに連載していたものを集めたのかしら。基本設定を繰り返したり、文体が不統一だったり・・・・・・。メモでも取りながら読めば、それぞれの物語がどう絡んでいるかがもっとはっきりしてもっとおもしろいのかもと思っています。さらさら普通に頁を繰っていくと、どこの誰だったかということは混ざっていって思い出せない。柏葉さんは、このタイプの、西欧中世的異世界のファンタジーを時々お書きになっていると思うのですが、私は、現代日本がベースとなっているファンタジーが柏葉作品の中心と理解しています。今日のテキストの中で魔女の歴史性を踏まえているのはこの作品。血でつながらない家族の有り様(p26)は、『岬のマヨイガ』(講談社)も思い出させて、柏葉さんのテーマの1つなんだろうと思います。でも、魔女の魔法の力は血で継がれるので、魔女は、血縁の抗いがたさと、そこからの解放を考えさせる絶妙の存在なのかもしれません。「カッコウの卵」の「竜まきの姫君」好きでした。(追記:「ラ・モネッタちゃん」を思い出しました。)

マリンゴ:とてもよかったです。『岬のマヨイガ』は、ストーリーがてんこ盛りだったのに対して、こちらは抑制されたトーンで、少ない言葉でたくさんのことを描いていて、正直、こちらの作品のほうが好きでした。大人向けの短編連作集のような作り方で、子どもに対して遠慮がないので、読む子たちは新鮮に感じるのではないでしょうか? ただ、最後の2編が「ですます調」になっていることに違和感がありました。世界観も違うので、これは省いて別の本に収録すればよかったのに、という気が。あと、説明の重複が多いですね。子供へのわかりやすさのためにわざとやっているのか、別々の時期に書いた短編をまとめたときに重複が生じたのか、わからないのですが。あと、どうでもいい余談ですが、74ページのイラスト、「真珠色の豊かな髪」という文章から想像する髪の毛とまったく違って(笑)。こんなソバージュっぽくはないかな、と思いました。

げた:魔女ってなんだって、あんまり考えたことなかったんですね。魔女って、歴史的にみれば、ものすごく能力のある女性が男性社会にいいように使われて、都合が悪くなったら、魔女狩りと称して抹殺される、そんな悲劇的な存在・・・だった。そういうことだったのかと今更ながらわかったような気がしました。新鮮な感じではありましたね。この魔女話集はどれも悲しいものばっかりですよね。私は基本的に楽しいお話が好きなんですけど、終わりの3つが、ハッピーエンド的で比較的楽しめるお話で終わってよかったかな。

ピラカンサ:お話はおもしろく読んだんですが、どこか落ち着かない気持ちになるのは、実際の魔女をめぐる歴史との齟齬があるからかもしれません。魔女狩りの時代は、「魔女」というレッテルを貼られた「普通」の女性が逮捕されたり処刑されたりしていた。でも、この作品では、かなり強い魔法を使える魔女が権力者につかまるのを恐れて隠れたりしている。子どもの読者が読んだら、びくびく隠れてないで魔法でなんとかすればいいんじゃないの、と思うんじゃないかな。佐竹さんの絵は素敵ですが、表紙の右上にあるネコだけコミカルに描かれていて、ちょっと笑えました。

あさひ:柏葉幸子の作品は、『霧のむこうのふしぎな町』(講談社)をはじめ何冊か読んでいて、どれも好きでした。今回、久しぶりに読むということで、楽しみにしていました。1章ごとに、お話がそれぞれバラバラで、これらがどう1つにまとまるのか、つながるのか、と期待して読んでいったら……最後までそのままで、拍子抜けしてしまいました。まさか、短編集とは……。全体で1つの物語になると思っていたので、個別のお話ごとに繰り返される、背景、状況の説明を、少しくどいかなと感じながら読みました。でも、物語の世界観や1つ1つのお話は、とてもおもしろかったです。なので、余計に、1つの物語としてつながった作品を読んでみたいと思いました。個人的には、このように、魔女狩りを設定にいかしている作品を他に読んだことがなかったのですが、子どもがどう受け取るかなどは気になりました。歴史を知らなかったら、魔女狩り自体が物語の世界のこと、と思ってしまう子もいるのでは?
先ほどお話があった、魔女という設定に関しては、個人的にはいろんな意味を持たせて描かなくてもいいのかなとは思っています。不思議な能力がある存在というだけで、物語に登場してもよいのではと思います。

ノンノン:読み応えというところで、もう一歩踏み込んでほしい印象でした。自分が編集担当だったら、読者が読み終わって、「短編が鎖のようにつながり『ああ! なるほど!』とすとんと落ちるようにつなげてください」とお願いするかも。そうすると、何度も読みたくなる作品に仕上がると思うので。文章がとても上手いと思ったんですが、少し書き足りてないところがあるのかも? 何回か戻らねば分からないというのが何か所かありました。あと、せっかくこの世界観で、佐竹美保さんの美しい絵でまとめていくのなら、短編すべてを淡々とした常体でまとめてもよかったのではと思いました。説明の重複も削ってもよかったかも? この本は魔女の話ですが、女性の気持ちも描かれているので、全編、わかりやすい形で掘り下げられたらすてきかな。本書のなかではシルバの話が好きでした。最後にお嫁にいくかどうかのシーンで「私を認めてくださった 好きになれる」というセリフ、すごくよかったです。小学生の自分の価値を認められていないと感じている子どもにすごく響くのではと思いました。あと蛇足ですが、たくさん姫君がいて嫁に出す話がありましたけど、息子いないのに全員嫁に出して跡継ぎどうする?と思いました(笑)。佐竹さんの絵も好きなんですが、想像したのと違う表情・しぐさの絵があって…。石工の奥さんのプラチナブロンドの長い髪がちりちりに描かれているところとか、あーん、違う〜と思いました(笑)。やっぱりさらさらヘアじゃないと、金髪は女子の憧れなので。

アンヌ:今回の作品の中では一番好きです。ロシアの怪談や民話から題材をとった短編集『魔女物語』(テッフィ著 群像社)を思い出しました。この物語の向こうにも日本の古典の物語が見えてくる気がします。「カッコウの卵」「魔女の縁談」の竜まきの姫君には、『虫めづる姫君』を思い出しました。もしこれを読んだ子どもが大きくなって『堤中納言物語』や『とりかえばや』『宇津保物語』などを学校で習った時、何か共通するものを感じるといいなと思います。私は魔法戦争が出てくる話が嫌いなのですが、この物語では実際に戦争で戦う場面はありません。いかにそれを避けて生きるかという話の方が多い。杖殿の説明が毎回あるのも、昔話の始まりのような繰り返しの心地よさを感じます。私は魔女について考えるのがとても好きで、それは同時にミソジニーとか異端であることについて考えていくことになると思っています。「ポイズン・カップ」の母も、弟を眠らせたら城主となることも可能だったろうに、女装して魔女のふりをして暮らす。闘わないことを選んだ一種の異端者のように感じます。残念なのは、最後の2つの話が魔女というより竜の話になっていったこと。この2つには違和感があります。

よもぎ:最後の2つの物語だけ敬体で書かれている点にも、違和感がありましたね。いろいろな雑誌に掲載した物語を集めたので、しかたがないのかしら? 私は、最後の2つが好きなので、こういう物語を集めた別の作品集を読みたいなと思いました。そしたら、対象年齢も、もっと低くなって、楽しい本になるんじゃないかな。物語自体は、読んでいるときは、それぞれおもしろかったし、美しいとも思いました。史実にある魔女(魔女と呼ばれた女たち)や、ジェンダーの問題も意識して書かれていると感じましたし。ただ、それぞれの話がつながっているような、いないような……。読み取れていないのかなと思って、何度も読みかえしてみたのですけれど。

ネズミ:カバーそでを読んで、1つの話だと思って読み始めたので、短編集だと認識するまでとても戸惑いました。会話の言葉遣いや、描写の美しさなど、さすがだなと思うし、女のさまざまな生き様が1編ずつに浮き彫りになるのはおもしろかったです。ただ、「名を名のらぬ魔女」がいる世界という共通点があっても、最後の2編だけ敬体になっているので、本づくりで疑問が残りました。雑誌などで発表されたお話を集めたのかなという印象を私も持って、巻末に何か書いていないかと探しました。あと、結婚とか、これからの生き方とか、この本で描かれているテーマは、小学生よりも中高校生が悩むことかなと思うと、体裁と対象年齢がずれている気がしました。四六版で、もう少し大人っぽいほうが、そういう人たちが手にとったかなと。

レジーナ:柏葉さんの本は子どもの頃大好きで、『霧のむこうのふしぎな町』(講談社)、『りんご畑の特別列車』(講談社)、『かくれ家は空の上』(講談社)など、何度読みかえしたかわかりません。この作品は短編集だからかもしれませんが、少し物足りない印象を受けました。描かれる恋愛の形もすごく古典的です。おとぎ話風に語るにしても、現代の問題への洞察があったり、『逃れの森の魔女』(ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/共訳 青山出版社)が「ヘンゼルとグレーテル」を魔女の視点で描いているように、ジェンダー等の問題について現代の文脈で見直していたりすると、より深くなると思いました。

(2016年12月の言いたい放題)


賢女ひきいる魔法の旅は

ネズミ:私はもともとファンタジーは苦手で、ダイアナ・ウィン・ジョーンズもいつも最後まで読み進められないのですが、この本は読めました。叔母さんが賢女だと思っていたら、旅の途中からエイリーンががんばらなきゃならなくなって、どうなるのかと物語にひきこまれました。10代の読者もエイリーンを応援しながら読むのかな。でも、次々と出てくる登場人物やキャラクターが頭の中でごちゃごちゃになったので、人物紹介に絵があってよかったです。

よもぎ:わたしは、ただもうおもしろく読んでしまいました。おっしゃるように、登場人物が多いので、佐竹さんのイラストでしょっちゅう確かめていましたけれど……。エイリーンが憧れていたアイヴァー王子が、旅の途中でわがままな駄々っ子だとわかり、バカにしていたオゴのほうが頼もしく成長するというところなど、おもしろいと思いました。ただ、スコットランドらしき島から出発して、アイルランド、ウェールズらしき島を経てログラ島=イングランドに向かうという旅は、イギリスの読者にとっては楽しくても、日本の読者にはピンと来ないかもしれませんね。

アンヌ:ダイアナ・ウィン・ジョーンズは全作品読んでいますが、当たりはずれがある作家だと思います。この作品は以前に2回読んでいるはずなのに全然思い出せなくて……。たぶん、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ特有の大団円の醍醐味がないせいだと思います。彼女の作品にはいつも、様々な伏線やたくさんの登場人物について落ちがつく驚きと満足感があります。いつだったか『ファンタジーを書く: ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想』 (徳間書店)を読んで、彼女が写真記憶の持ち主だと知って、なるほどと思いました。今回はメモもなかったということなので、妹さんには細かい落ちまでは書き上げられなかったのだと思います。賢女の賛歌で謎を解いてワルドーの隠れ場所の噴水へ昇っていくところなど、かなり無理があるし、聖獣の存在の意味も、もう一つはっきりしていない。P.303の<お父さんは頭のてっぺんにキスをして(それで私は早くも冠を頭にいただいたお妃の気分に…)>のように意味が分かりづらい文章も多い気がします。

ピラカンサ:ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、私は苦手な作家です。自分のテイストには合わないということかもしれないけど。この作品もプロットだけのおもしろさで引っ張っていくように思えて、どうしてここでご都合主義的に風が吹くのだろうとか、アイヴァー王子がここまで排除される理由がよくわからないとか、いろいろ疑問を持ちました。ハリポタ的というか、キャラクターの厚みもあまりないし、才気あふれる作家なんでしょうけど、思いつきでプロットを推し進めていっているように思えてしまいました。

ノンノン:『ゲド戦記』とか「守り人」シリーズとか、もともとファンタジーが好きなんですが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズは読んだことがなかったので、どんな作品を書く人なんだろうと楽しみに思って読みました。でも、これは引き込まれるところが弱かったです。文章が推敲途中なのかな? 中途半端な感じがありました。人物造形描写が甘いのかも。たとえば主人公のエイリーンは、自分はダメだと思っている割には、王子様と結婚できると思っている。変な自信があるんですよね。賢女の才能が目覚めたところも、どういう風に目覚めていくのか、自覚していくのかなどの描写が足りなくて、分かりにくかったです。島ごとの聖獣の特徴や、その存在価値、島を旅する理由なども伝わってこなかったし…。あと、途中で王子を救いにいく話はなくなって、お父さんに会いたいというところが繰り返されて、「あれ? 王子は…?」と思いました。

あさひ:登場人物たちの性格がつかみきれず、物語の途中で、この人こういう行動をとる人だっけ? とつっかかりながら読みました。ファンタジーで描かれる異世界は好きなのですが、本書では、独自の設定、ルール、詳細などが、楽しめるほど書き込めていないのかな、と思いました。主人公の恋物語の流れはおもしろかったです。

アンヌ:『魔女集会通り26番地』(偕成社)(新訳『魔女と暮らせば』《徳間書店》)とか、『グリフィンの年』(東京創元社)などは、本当におもしろくて見事なんですが。

げた:この本が読めないという方もいらっしゃって、私だけじゃないとわかってちょっと安心しました。これってロールプレイイングゲームみたいな感じでしょ? ビデオゲームって苦手なんですよ。魔女については、この本ではあんまり深く考えなくていいんじゃないかな。昔図書館で児童担当だったとき、『ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔(徳間書店)』を同僚におもしろいよって勧められたんですけどね、読めなくって挫折しちゃいました。今回はよまなくちゃと、メモを取りながら読んで、話の筋としてはうまく書けているのかなとは思いました。どこまでをダイアナが書いたもので、どこからアーシュラが書いたのかはよくわかりませんでした。なんとか読み切りましたけどね。結局こういうファンタジーってたいした内容はないわけですよね。勧善懲悪的で、これも、悪の権化みたいなワルドーを魔女としての才能を開花させたエイリーンが懲らしめるという、そんな冒険の過程を楽しめばいいってことかな。

マリンゴ: 私もだいぶ苦手でした(笑)。もともと、ハイファンタジーが得意ではないのですが、それでも楽しく読めるものもある中、これは厳しかったです。描写がそこそこあるのですが、イメージが湧かない。この作家さんの描写のスタイルが自分と相性よくないのかと思います。キャラクターもちょっと掴みづらくて、たとえばベック叔母さんは、みんなを引っ張っていく賢女のはずが、あんまり賢いと思えなかったり。あと、最後のほうは文章の流れがギクシャクしていて、テンポよく読めなかったのが残念でした。作者のことをくわしく知っていたり、作品の背景となったイギリスをよく知っていたりすると、また味わいが違ったのかもしれませんが。

レジーナ:私もダイアナ・ウィン・ジョーンズは苦手な作家で……。何か伝えたいことがあるとか、胸の奥底の思いに突き動かされて書いている作家ではないように思います。作って書いているというか、頭で書いているというか……。70ページで、「キンロス公(アイヴァ―王子の称号だと思われる)」と注がついています。作者が亡くなっていて、確かめようがなくてこうしたのだと思いますが、子どもが読むことを想定しているならば、この注は不要だと思いました。名前は統一した方が読みやすいです。

西山:苦手と言いつつ、みなさん読み切ってらっしゃるのに・・・・・・すみません。何日か持ち歩いたのですが、読み進められませんでした。ごめんなさい。

くまざさ(メール参加):この作品も、なんとなく流通しているイメージに安易に頼っているという点で、「楽をしている」作品だと思います。ファンタジーを描くのに、中世っぽい世界や、魔法が生きている世界っぽい道具立てを、これでもかと詰め込んでみせていますが、そのイメージを根底のところから作りあげているのではなく、あちこちから借りてきているだけで、深みも革新性もないと思いました。しかも作者の頭のなかでだけつじつまが合っていることを、それほど説明する気がないらしく、後出しじゃんけんのようにいろいろな設定が明らかになり、一々それに合わせて頭を切り替えなくてはならなかったので、そういう意味でも読者に不親切な作品だと思いました。主人公がまるで傍観者で、事件が起きても、あっさり流していくので、狂言回しとしてはこれでいいのでしょうけれど、物足りないです。たとえば、この主人公は、設定からいって海に船出するのははじめてのはずですよね。だけど、潮の香りや海に出たときの感激といったことはいっさい描かれず、ただたんたんと船内の描写などが続きます。彼女が物語を進めていくコマにしか過ぎないことがよくわかります。『アナと雪の女王』は魔法が生きている世界を描いていますが、すばらしいと思ったのは、危機一髪の時に男性の勇者があらわれて事態を収拾してしまうといった、紋切型のクライマックスをいっさい拒否して、姉妹の物語に収斂していくところです。『ズートピア』は動物たちが暮らす架空の世界を舞台に、エディ・マーフィーの『48時間』のストーリーをなぞったようなバディムービーですが、人種と偏見の問題に一歩も二歩も踏み込んでいて、作り手の志の高さを感じました。この2作品には、ファンタジー、あるいは異世界を描く意味がはっきりあります。『賢女ひきいる魔法の旅は』は、ファンタジーの皮をかぶった、あまりおもしろくないドタバタもの+自己評価が低い女の子と、実は王子さまだった男の子との、ありがちなロマンスもちょっとあるよ、といった感じで、異世界である意味もなく、モチーフは借り物か、あるものをつぎはぎにつなげた作りもの。こういうのわかるでしょ?という感じで想像力の多くの部分を、よくあるイメージにゆだねてしまっていて、残念な作品だと思います。

(2016年12月の言いたい放題)


きかせたがりやの魔女

よもぎ:今回取りあげる本が発表されたときに、「いまさら岡田淳さんの作品?」とか「いい本に決まってるのに、どうして?」という声もあったかと思いますが(笑)、やっぱり読んでよかったと思いました。特に素晴らしいと思った点を2つあげると、ひとつは学校が舞台の物語ですが、教室とか運動場のように広い場所だけでなく、踊り場とか、校庭の端にある茂みとか、隅っこにある小さな場所にスポットを当てているところです。はるか昔、小学校の図工の時間に、先生に「学校のなかの、誰も見ないような場所の絵を描きなさい」といわれて、みんな目を輝かせて階段の下とか、校舎の裏とかを探しまわったことを思いだしました。子どもって、そういう場所が好きですよね。その先生、このあいだ亡くなった、画家の堀越千秋さんのお父さんなのですが、その堀越先生も岡田淳さんも、子どもの心を良くわかっているなと思いました。もうひとつは「はずかしがりやの魔女」にあるように、この年齢の子どもが感じとれる抒情を見事に書いているところです。涙線をくすぐる感傷ではなくって……。最近、児童書に携わりたいと思っている若い人たちの話を聞くと、とかく絵本とYAにばかり興味が向いているような気がしてならないのですが、児童書の核になるのは、やはりこういった小学生向けの読み物だと思うんですよね。

ネズミ:今日みんなで話し合う3冊の中ではこれが一番すっとなじみました。小学校中学年くらいの子どもにわかりやすい、美しい言葉で書かれていて、安心して読める本だと思います。大きな話の中に、いくつものエピソードが入っているというつくりは、岡田さんの『ふしぎの時間割』(偕成社)と似ていますね(『放課後の時間割』か、どちらかと、やや議論あり)。ただ、1つ1つのエピソードは前作のほうが印象的だった気がします。もしも岡田さんの作品を1つも読んでいない子どもに薦めるなら、『ふしぎ〜』のほうかな。でも、こういうテーマを好きな子にはこの本もいいですね。

西山:児童文学の王道のプロの書き手だなあと改めて思いました。時々岡田さんがとる入れ子の構成はちょっとどうなのか、回想によって生じる感傷は今おっしゃった抒情とは違って、子ども読者にとって必要なのかどうかと、思います。くすっとしたり、おもしろかったところはたくさんあります。ちょっと挙げれば、「タワシの魔女」のぼんやり好き(p103)、「しおりの魔法使い」の「探検家になりたい」「なればいいではないか。」というやりとり(p134)とか好みです。1カ所だけあれ?と思ったのは、126ページの虫眼鏡を取り出して手帳の細かい字を見るところ。はたこうしろうさんの絵ではっきり描かれているように、体の小さな魔法使いが、彼からすれば巨大な手帳を見ているのだから、虫眼鏡はいりませんよね。ま、小さなことですが。

マリンゴ: 岡田淳さんの作品はすばらしいと思っています。児童書に携わるようになってから読み始めました。もし児童書と関わってなければ、岡田さんを読むことがなかったのだと思うと、なんだか怖ろしい気がします。この作品もよかったです。魔女の語るお話がことごとくおもしろくて、満足度が高かったです。敢えて言えば、40ページに「もっとクロツグミのことをよくみておけばよかった」と書いてあるのが伏線だと思って、次の章でクロツグミばかりみる展開になるのかな?と期待していたらそうでもなくって。それが、わずかに肩透かしでした(笑)

げた:この魔女はさし絵では若く描いてあるんで、お姉さんに見えちゃうんだけどな。定年退職した魔女という設定なんでしょ?

ピラカンサ:定年退職したといっても、そこは魔女だから、年の取り方が普通の人間とは違うんじゃない。

げた:そうか、なるほどね。まあ、そんな魔女が突然現れて、小学校の日常の時空に入り込み、魔女ばなしを20年前のぼくに聞かせたってわけですね。一読した時はそんなにおもしろいとは思わなかったんだけど、2回目読んだら、まず、踊り場の魔女では、踊り場を通った人全員が踊りだす。45分間踊りっぱなしで、終わったら、拍手が起こったなんて、とっても素敵な風景じゃない? はずかしがりやの魔女とシュウのはなしも、かわいくって好きだな。タワシの魔女もよかった。タワシが、タワシが・・・にも笑ってしまいました。ためになる本じゃないんですけど(笑い)楽しくなれる本ですね。

ピラカンサ:岡田さんの連作短編集は定評があり、傑作もたくさんあるので、それと比べてこれが特におもしろいということはなかったのですが、安心して読めます。どうしてこの魔女が話をしたかったのかという理由も最後に説明されていて、おもしろかった。はたさんの絵もすてきです。私がちょっと引っかかったのはp109のリミコのシーンなのですが、確かにこの子は嫌な子ではあるんだけど、こういう書き方だと子どもにさらに同調圧力をかけてしまうのでは? 「目立つな」というメッセージにも読めてしまいます。それと、「ぼく」がチヨジョさんという魔女に会ってびっくりするという外枠の中に、さまざまな学年の子が魔女や魔法使いに会ってまたびっくりするというお話が入っています。そのイメージがダブってしまうので、ちょっと残念な気がしました。

あさひ:今日の3冊のうち、一番おもしろく、読みやすかったです。はたこうしろうの絵は元から好きで、この本もいいなと思ったのですが、魔女のチヨジョさんだけは、お話を読んでイメージした印象とずいぶん異なりました。もう少し年配の女性かと思っていましたが、絵はとても若く、現役で活躍している魔女のように見えました。特徴として書かれている青いアイシャドウも、カラーイラストで見られなかったので、あれ?と思いました。ストーリーでは、「はずかしがりやの魔女」がとてもよかったです。さりげなく子どもに寄り添った内容で、読んだ子どもも、うれしい、いい気持ちになるのではと思います。一方、「たわしの魔女」の内容は、ピンとこないところがありました。それから、ラストのストーリテリングの先生をなぜあんなに意地悪な人にしたのか、と少し不思議に思いました。

ノンノン:このところ絵本ばかり読んできたので、久しぶりに児童書を読みました。岡田淳さんの作品、なつかしいです。子どもの頃に『放課後の時間割』を読んで、ものすごく引き込まれたのを思い出しました。岡田さんの作品は求心力がありますよね。大人になってを図書館で見つけて再読したのですが、やっぱり引き込まれました。対して、この作品は、『放課後の時間割』に比べて軽い印象でした。さくさく読めるというか。『放課後の時間割』は、子どもの心が描かれていて、それがぐっと引き込まれるポイントだと思うんですが、『きかせたがりの魔女』は感情移入できる部分が弱いのかも。『放課後の〜』に比べて、もっと低年齢を対象にしてるんでしょうか? その割に厚いように思いますが。この厚さなら、もう少し書き込めるんじゃないかな…? 章ごとに子どもが抱える問題が取り上げられていますが、それを1つ1つもう少し掘り下げるとか。でも、さらっと書かれているので、さらっと読むのにいいかなと思いました。

アンヌ:実は、岡田淳さんの作品は、処女作の『わすれものの森』(BL出版)しか読んだことがなくて、あの作品にみられる破天荒さがないのが残念でした。それぞれの物語は魅力的だと思うし、特に「はずかしがりやの魔女」は、とても詩的で好きです。ただ、魔女がストーリーテリングをしたかったからという種明かしのような話や、30代の僕が聞いた話という設定でつじつまを合わせる必要はなかったような気がします。

ネズミ:書き込み方ということに関してですが、今の本は昔の本より全体的に書き込みが少ないというのはあるかもしれません。でも小学校中学年くらいのグレードの本だと、あまり書き込みすぎても子どもがついてこられないから、ほどほどが大切な気がします。同じ岡田さんでも『二分間の冒険』は、もう少し上のグレードだからもっと複雑になっています。この書き方は対象年齢ゆえではないでしょうか。

レジーナ:岡田さんは安心して読める作家ですね。強く心に残る本ではないので、岡田さんの著作全体で見ると傑作ではないのかもしれませんが……。ひとつひとつの章がおもしろく、さっと読めるので、朝読書の時間に読むといいのでは。

くまざさ(メール参加):いきなりですが、どうして「魔女」をいま描くのか、という点が気になりつつ、今回の課題図書を読んでいました。中世の「魔女狩り」を持ち出すまでもなく、「魔女」という存在の造形の根底には、社会や規範から逸脱してしまった女性への蔑視がふくまれていると思います。ジャンヌ・ダルクが「魔女」と呼ばれたように、いったんあいつは魔女だと決めつけられてしまえば、人は平気で石を投げつけても火炙りにされてもいい存在に落とされてしまいました。それはまた終わったことではなく、いまでもたとえばタンザニアでは「魔女狩り」という理由で、女性が殺されるという事件が起きています。私は、魔女というキャラクターは、そうした蔑視の目線を最初からふくんで成立してきたものだと思います。「恐ろしいもの」や「異端」を排除しようとする民衆のヒステリーと、社会への不満のはけ口としてそれを利用してきた体制があったということも抜きにはできません。魔女という古びたモチーフを、敢えて今使うのであれば、魔女とは何なのか、現代社会においてそれはどういう存在なのか、歴史的背景もふまえた上で、再検討する必要があると私は思います。『きかせたがりやの魔女』では、そういったことが考察されているとはとても思えません。なんとなく流通しているイメージを無自覚になぞっているだけです。私はこれを「楽をしている」と思います。ここに出てくるのは、「不思議なことを起こせる便利な存在」であって、おばけでも精霊でも妖怪でもいいはずです。ならなぜ敢えて魔女を選ぶのか。たんに「不思議でおもしろい、ちょっと怖い」みたいなイメージを再生産しつづけるのは、少なくとも21世紀を生きる作家の仕事ではないはずです。内容についてちょっとだけ触れると、最後にストーリーテリングの話が出てくるのは謎でした。ストーリーテリングなんてそんな用語、児童書の関係者にしか通じない言葉です。何が言いたいのでしょうか。

(2016年12月の言いたい放題)


紅のトキの空

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『紅のトキの空』

が出ました

ジル・ルイス 作
さくまゆみこ 訳
平澤朋子 装画
中嶋香織 装丁
岡本稚歩美 編集
評論社 2016.12
原題:SCARLET IBIS by Gill Lewis, 2014

『ミサゴのくる谷』や『白いイルカの浜辺』でおなじみのジル・ルイスの作品です。ルイスは獣医でもあるので動物の描写が正確だし、困難な状況を抱えた子どもたちに寄り添おうとする気持ちが、この作品にも反映されています。

この作品に象徴的に登場するのは、ショウジョウトキ(スカーレット・アイビス)。トリニダード・トバゴに生息する真っ赤なトキです。そこから名前をつけられたスカーレットは12歳で、褐色の肌(写真でしか知らない父親がトリニダード・トバゴの人だったのです)。精神的な問題を抱えた母親と、発達が遅れている白い肌(父親が違うということですね)の弟との三人暮らし。毎日の生活をなんとか回しているのはスカーレットなのですが、なにせ12歳なのでそれにも限界があります。

スカーレットは母を心配し、弟を守ろうと懸命なのですが、住んでいるアパートが火事になったことから、これまでの暮らしとは違う世界に投げ出されてしまいます。
果たしてスカーレットたちは、自分の居場所を見つけることができるでしょうか?

この作品にも、傷ついた鳥や捨てられた鳥の世話をしているマダム・ポペスクという魅力的なおばあさんが登場します。

今回も平澤朋子さんがすてきな絵をつけてくださいました。

ジル・ルイスは後書きで、主人公スカーレットのような、家族の責任を自分が背負わなくてはいけないと思っている子どもが、英国にはたくさんいると書いています。また、「家」や子どもの居場所について考えて書いた本だとも述べています。


松岡享子文 林明子絵『おふろだいすき』

おふろだいすき

『おふろだいすき』をおすすめします。

寒くなると、おふろがうれしいですね。しかも、このおふろには不思議がいっぱい。もわもわの湯気の中から、カメやらペンギンやらカバやら、なんとクジラまで出てきます。想像がふくらむ絵本です。最後におふろから上がって、お母さんが差し出すタオルにくるまれる男の子が、ほっかほかでなんとも幸せそう。

(朝日新聞「子どもの本棚」2016年11月26日掲載 *テーマ「ぬくもり」)


おばあちゃんとバスにのって

『おばあちゃんとバスにのって』をおすすめします

この絵本のおばあちゃんは、お金や効率よりも人とのふれあいを大切にしています。行き先は、困っている人にごはんを出す食堂。ぼくも手伝って奪った食事をみんなが笑顔で食べてくれると、心もあったかに。

(朝日新聞「子どもの本棚」2016年11月26日掲載 *テーマ「ぬくもり」)


『おばあちゃんとバスにのって』をおすすめします。

どんなときにも人生を楽しめるって、いいよね。でも、それにはちょっとしたコツが必要。

この絵本のおばあちゃんは、人生を楽しむ達人。髪は白いけど、黒い服に赤い傘、緑色のネックレスにピアスのおしゃれさん。孫息子のジェイが「なんでバスを待たなきゃいけないの?」と不満げにたずねても、「だって、バスの方が楽しいんじゃない?」なんて答えてすましている。

おばあちゃんとジェイが乗ったバスには、チョウを入れたビンを抱えたおばさんも、スキンヘッドにタトゥーのこわもて男も、ギターをつま弾く帽子の男も乗っている。盲導犬を連れた人も乗ってくる。おばあちゃんはみんなにあいさつし、鼻歌をうたう。にこにこ顔がまわりにも広がり、帽子の男の演奏と歌にみんなが聞きほれる。

バスが終点で停まると、そこはジェイが「汚くていやだなあ」と感じるような街だ。道はがたがたで、家のドアは壊れ、あちこちに落書きもしてある。でも、おばあちゃんは「ここでもちゃんと美しいものは見つけられるのよ」と言って、空にかかった虹に、いち早く目をとめる。

二人が向かったのは、ボランティア食堂。英語だとスープキッチン。無料で、あるいはとても安い料金で食事ができるところだ。日本で言うと、おとなも来られる子ども食堂みたいな感じかな。おばあちゃんはエプロンをかけて、次々とやってくる人たちに食べ物をよそっていく。ジェイも手伝う。そこは、人と人が触れあうことのできる場だ。ひとり暮らしの人も、友だちに会える。こういうところなら、お腹だけじゃなくて心も満たされるはず。食堂に来るのは恵まれない人たちだけど、貧しいとかかわいそうという視点はまったくなくて、だれもが楽しそうだ。原書は、アメリカでニューベリー賞とコルデコット賞銀賞を受賞した。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年12月12日号掲載)

 


『おばあちゃんとバスにのって』をおすすめします。

雨の日曜日、ジェイはおばあちゃんと一緒にバスに乗ってお出かけ。おしゃれなおばあちゃんは、人生の楽しみ方がちゃんとわかっていて、乗ってくる人たちにあいさつし鼻歌をうたう。すると、にこにこ顔がまわりにも広がっていく。終点で降りてふたりが向かったのは、ボランティア食堂。ふたりは、ここにやってくる恵まれない人たちに食事をよそい、さまざまな人との触れあいを楽しむ。生きていくうえで何が本当に大事かがわかってくるような絵本。ニューベリー賞、コールデコット賞オナー。

原作:アメリカ/3歳から/おばあちゃん バス 多様性

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)


2016年11月 テーマ:子どもから大人への成長物語

日付 2016年11月24日
参加者 アカシア、アンヌ、クマザサ、げた、さららん、すあま、西山、ネズミ、
マリンゴ、ルパン、レジーナ、(アカザ、エーデルワイス)
テーマ 子どもから大人への成長物語

読んだ本:

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ペーパーボーイ

ルパン:ものすごくよかったです。ゆうべ、「明日読書会だから急いで読まなきゃ」と思って開いたのですが、1ページ目からもう時間を忘れ、何もかも忘れて、最後まで読みふけりました。唯一、「四つのことば」が今ひとつ明快にわからなかったことだけが残念ですが。student, servant, seekerはなんとなくわかるのですが、“seller”には、どんな哲学的な意味が隠されているのでしょう。でも、その謎もまた余韻として心に残ります。ところで、あとがきを読むと、これは自伝的小説なのですね。途中まで、昔の話だと気づかずに読んでいました。黒人がバスの座席などで差別されているという描写で、初めて現代が舞台でないことに気が付きました。でも、こういう時代って、それほど遠い過去の話ではないんですね。だってそれを経験した人がまだたくさん生きているのですから。この物語は、すべての登場人物が実に活き活きと描かれているところが一番よかったです。まるで今、そこにいるかのように、それぞれの姿が目に浮かんできます。

西山:気持ちよく、ストレスなく読みました。いつの時代か、意識せずに読んでいて、いま言われたように、私もバスのシーンで、あれ?となって裏表紙を見て1959年と気づきました。148ページの、大人になりたい理由など、とてもおもしろく読みました。吃音という困難を抱えているからこその部分と、その特殊性を超えた、普遍的な思春期の考え方や感じ方が分裂していなくていいなと思いました。言葉そのものが中心で、英単語自体のちょっとずらした言葉遊びや、お母さんの言い間違えなど、日本語に移し替えるのはものすごく大変なことだと思うんですけど、説明が挿入されるという感じではなくて、自然に読めたので、これは、すごいと思いました。

マリンゴ:岩波書店のスタンプブックスシリーズ、大好きです。なので、今回もとても楽しく読みました。装丁もとても素敵ですね。実は、私も数カ月新聞配達をしていた経験があるので、この本の新聞配達のシーンを読んで、いろいろと思いだすことがありました。たとえば、夕刊を毎日、門の外で立って待っている人がいたなぁ、とか。そういう触れ合いがあったので、この少年が配達を通してさまざまな人と出会っていく展開はリアルだと思いました。そして、何よりも文章がすばらしい。全文を通して読点が1つもないんですよね! それでいてまったく読みづらさを感じさせない、翻訳の技がすごいと思いました。

アンヌ:読点がなかったのですね。今の今まで気づきませんでした。「人が刺されたあの事件のこと……」と始まるのに、読んでいる最中は主人公の吃音の悩みに夢中になっていて、そういう事件に向かっていることも忘れていました。スピロさんに名前を聞かれて気絶する場面では、主人公の痛みを体中で感じました。2人が詩を一緒に朗読するところは、言葉を声に出す喜びと吃音の不可思議さを同時に感じられ、本当に素晴らしい場面だと思いました。マームが動物園で写真も撮ってもらえないということに、差別が様々な形で人を支配していたことを知らされました。スピロさんの変わった話し方とか、文章全体の不思議な一本調子とか、この翻訳者にしては変だなと思い、原文を読んだ人に教えてもらおうと思って今日来たのですが、読点なしだったとは……。すごい翻訳だと思います。うまい小説という書き方ではないけれど、本当に心に残る物語だと思います。表紙のポーチのベンチ型ブランコの絵もとても魅力的で、物語のイメージがうまく伝わっていると思います。続編があるなら読んでみたいと思っています。

アカシア:本の構造自体は『アポリア』と同じで、周りとのつき合いに困難を感じている少年が、否応なく周りの人と知り合うことになり、そこから成長していくという作品です。でも、こっちの方が、主人公に寄り添って一緒に成長していくような気持ちで読めますね。まだヴィクターは吃音を持っているので、しゃべるときには必要以上に息継ぎをしてしまうことから、文章を書くときは息継ぎなしで書きたい。だから原文もカンマなしなのですが、それを日本語でも、読点なしでいてちゃんと流れる文章にしている翻訳者の原田さんの腕がすばらしい。また脇スジとして、ヴィクターが父親とは血がつながっていないとわかる場面があるのですが、そこもとてもうまく書かれていて破綻がない。周囲にいる人たちがまた個性派ぞろいで、しかも味がある。うまい作家だし、うまい翻訳者。何度も読みたい作品に仕上がっています。

レジーナ:主人公はテレビ少年との出会いで、人は見かけより複雑で、いろんなものを抱えていると気づきます。主人公もマームもスピロさんも、1人1人が生き生きしていて魅力的です。誤解されたり、想いをうまく言葉にできなかったり、人と心を通わすことの難しさは、だれもが日々感じていることです。吃音の少年が主人公ですが、多くの人に届く普遍的な成長物語だと思いました。

げた:吃音の大変さを改めて、知りました。皆さんが言うように、スピロさんは知的で、カッコいいですよね。子どもの人格を認めて、1人の人間として接する。自分も常にそうありたいと思ってます。ワージントンの奥さんについては、主人公の少年が彼女を大人の女性として憧れる気持ちがなんとなくわかるような気がします。マームは母親以上の存在ですよね。マームの存在に比べて、父母の存在が薄いのが気になりました。R・Tとの戦いの場面は手に汗握る感じで、とっても、おもしろく読めました。本の装丁もかっこいいですね。

ネズミ:ほんとうにおもしろかったです。日本人の書いた作品と、外国の作品の違いというのも考えさせられました。吃音のことなど、日本のリアルな環境で描くのはかえって難しくて、現実との違いが気になってしまうのではと思うのですが、外国だとこういうものかと、かえってすっとその世界を受けとめて読める気がします。そして視野を広げることもできる。海外文学のよさですね。作品のおもしろさについては、みなさんのおっしゃるとおりですが、特に私の心に残ったのは「言葉」と表現をめぐるくだりです。言葉を出したからと言って、それですべてを表現できるわけじゃないというのが、書かれていますよね。80ページでは、自分が言おうとしたときに、思うように相手が受け止めないもどかしさや、人が発した言葉が、文字通りの意味だとは限らないことが書かれています。また246ページでは、マームが「パチリと大きな音をたててハンドバッグの口をしめた」のが「すべて終わってけりがついたことを宣言したみたい」というふうに、行動から読み取られる意味を語っています。お母さんの言い間違いは、それでお母さんの性格を露呈したり。いろいろなことを考えさせられました。

アカザ(メール参加)今日みんなで読んだ3冊のなかで一番良かったばかりでなく、最近読んだなかでも最高でした。原田さんの訳も本当に好きな作品を訳しているという感じが、ひしひしと伝わってくる見事なものでした。子どもの友だちに吃音の男の子がいましたが、これほどの苦しみを抱えているとは気づきませんでした。吃音を克服した作家ならではの悩みが細やかに描かれていて、興味深かった。医学的に吃音を治療するのではなく、人と人とのつながりで克服し、成長していく有様が描かれていて感動しました。程度にかかわらず障碍に悩む人たちにとって、心強いエールを送っている作品だと思います。どの登場人物もしっかり描かれていて、それだけでも素晴らしい。マームが素晴らしいですね。黒人が市民権を得る前の社会で誇りたかく、しかも賢く生きている姿が、とても美しいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):IBBY主催「バリアフリー絵本展」(盛岡巡回展)の中に展示されていた1冊で、興味を持ちました。筆者の自伝的物語というのは納得。吃音症の少年の言葉を発音する心理がよく伝わってきました。黒人のメイド、マームとのやりとりやマームがヴィクターと呼ぶところが好きです。深い愛情が伝わってきます。R.T.とのやりとりはらはらしました。解決してよかった! スピロさんとのやりとりはまるで禅問答ようです。含蓄がある言葉の数々ですね。心に残った言葉がたくさんあります。1959年のアメリカの南部の様子、特に映画に出てくるようないかにも南部のアメリカの家の様子が分かります。まだ人種差別が色濃い中、ヴィクターの家は裕福で両親も人格者のようです。出生証明書の欄に「父親不明」と書いてあった件については解決されていないので、続編に明かされるのでしょうか。このことも筆者の事実なのかと気になります。

(2016年11月の言いたい放題)


最後のゲーム

ネズミ:こういうの私、苦手で。すみません。エンタメが悪いというわけじゃないけれど、人形の謎を追う不思議な物語ありきで、登場人物も出てくるものもすべて面白いストーリーのための小道具のようで楽しめませんでした。それと、最後に3人が図書館から電話をするところで、どの親も怒らないのに納得がいきませんでした。

げた:選書当番だったんですけど、表紙とタイトルで選びました。1回読んで、軽いけどミステリアスな部分もあるし、子どもから大人への成長物語でもあるし、おもしろいと思って、みんなで読もうと思いました。人形遊びに夢中だった、幼馴染3人が大人になることで、それを止めさせられる状況になった。不思議な夢を見たポピーがきっかけで、「最後のゲーム」となるイースト・リバプールのクイーン=エレノアの墓を探し、骨を埋めるという冒険をすることになり、結局、やり遂げたってことになるわけですね。その冒険の過程でアリスの秘密やなぜ、ザックがゲームを止めざるを得なかったのかが、3人の中で明らかになって、新たな3人の関係が始まる。また、ザックと父親との関係も新たな段階が始まる予感がします。でも、クイーン=エレノアのお墓探しが最初感じたほどは、再読後はおもしろくなかったかな。バスステーションで、必ずしも逃げる必要がなかったのに、逃げたりして、歯がゆい感じがしました。まだ子どもってことなのかな、とも思います。

レジーナ:昨年から気になっていた作品だったので期待して読みましたが、一連の不可解な出来事は人形のせいだったのか、はっきりと明かされない終わり方で納得できませんでした。

アカシア:千葉さん訳の本は、いつもすぐに引き込まれるのですが、この本は入り込めませんでした。生まれるべくして生まれてきた物語というより、苦労して作り上げた物語だからなのかな。ザックのお父さんがフィギュアを捨ててしまったことを、ザックはポピーとアリスに言えない。その言えないという点がずっと最後の方まで引っ張っていくキーなんだけど、なぜそこまで言えないのか、よくわからない。その理由が納得できるようなかたちで出ていないので、不自然に思ってしまう。ほかにも、自然に入り込める流れじゃないなと思ったところがありました。私はホラーでも、もっとひそかに怖いようなのが好きなので、この本みたいに、表紙から「どうだ、不気味だろう」みたいに迫って来るのは苦手です。

くまざさ:千葉さん、こういうのもお訳しになるんだと。『スタンド・バイ・ミー』(スティーヴン・キング著、山田順子訳、新潮文庫)みたいな子どもたちの家出とその顛末。自分の好きなこと(この本の場合は人形遊び)と、世間一般の価値観が対立した場合に、迷わず自分の好きなほうを選べっていうのは、千葉さんが選ぶ作品らしいなと思いましたが、いっぽうでホラーはあまり千葉さんっぽくないですよね。じつはとくに前半なんですが、日本語の文章をもうちょっとすっきりテンポよくできないか……ということにばかり引っかかってしまって、なかなか入り込むことができませんでした。12歳の男の子と女の子2人が主人公で、男の子は、自分もいい加減大きいのに、女の子たちと人形遊びをしていていいのか、と悩むわけですが、こういう感じの悩みって個人的にはもっと早く来たようにも思います。お父さんと電話するシーンはよかったと思いますね。最近、年のせいか、児童文学を読んでいても、子どもたちのことより、登場人物の大人のふるまいに心惹かれることが多いんです。自分が悪いと思ったことは受け入れてきちんと謝罪する、そういう大人になりたいものだと思います。

アンヌ:ダーク・ファンタジーは大好きなのですが、この作品にはそういうおもしろさが感じられませんでした。最初の人形遊びの場面にもあまり引き込まれなかったし、実際の冒険が始まってからもリアリティがなくて楽しめませんでした。ヨットを盗んで川を渡るところなど、かなりいい加減な感じです。図書館からの電話で、家出によって大人の状況が変わるという所も、ポピーについては書いていない。3人の主人公も、アリス以外はあまり描き切れていない気がします。現実との対比で際立つはずのファンタジー要素も妙に曖昧で、謎が深まったり謎が解けたりする醍醐味がありませんでした。この旅のきっかけとか、エレノアがなぜ図書館の地下にいたのかとか、すっきりしないことが多かったと思います。

すあま:表紙の絵が怖いので読まずにいた本でした。全体的に中途半端な印象です。ファンタジーならファンタジーで、人形がしゃべるとか、もう少し工夫がほしかったと思いました。最初のところで登場人物の子どもたちの関係とその空想世界がどうなっているのかを理解するのに苦労しました。最後も尻切れとんぼでよくわからないまま終わってしまいました。

マリンゴ:とてもおもしろかったです。もっとも、読み始めの冒頭の部分では、人間と人形が同時に多数出てきたので、把握できるか不安になりました。整理して覚えるのに何度も読み返したりして。で、人間が人形の世界に連れて行かれるハイファンタジーかと思ったら、そのまま人間の現実のなかで話が進むローファンタジーだったので、その意外性もあってストーリーに引き込まれ、楽しめました。ラスト、結局どうだったのか曖昧なまま終わることへの批判が先ほどありましたが、私は敢えて曖昧にしている部分も好きでした。お父さんの気持ちがジャックに伝わるシーンもいいなと思いました。

西山:今、聞きながら、私だけじゃなかったんだと安心しました。私は、この表紙とタイトルでおもしろそうだから、通勤の往復で読めると思ってたんですが、出だしでつまずいた。誰がなにやら、となっちゃっていきなり失速して結局読み終わりませんでした。家出したところあたりで、雰囲気として『スタンド・バイ・ミー』を連想したりしました。

ルパン:ひとことでいえば、「気持ち悪かった」です。表紙の不気味さもさることながら、人形に子どもの遺骨を入れるとか、死んだ子供の個人的な思いだけが生きている子どもを動かしているとか…読む前に、この作品に期待した一番の理由は、「翻訳者が千葉茂樹であること」だったのですが…。今までは、「千葉さんが訳すものにまちがいはない」という信念があったのですが、やっぱり間違えることもあるんですね。

アカザ(メール参加):ホラーは大好きなので、期待して読みました。今まで千葉さんが訳したものとは雰囲気が違うという興味も。ハラハラしながら読みすすんでいきましたが、おもしろかったです。冒険の道すじが怖いですね。難をいえば、エレノアの真実が、ポピーやザックの夢にあらわれるというのは、ちょっとどうでしょう? 夢は夢でもいいのですが、真実は3人が調べていって分かってくるというほうが、すっきりすると思うのですが。ホラー、あるいはミステリーと成長物語をからませるという狙いはいいと思うのですが、ホラーなのかミステリーなのか、はっきりしてほしい。それから、アリスとポピーの生活環境のちがいは分かるのですが、性格のちがいが、いまひとつはっきりしませんでした。

(2016年11月の言いたい放題)


アポリア〜あしたの風

さららん:何度か書評で紹介されていたので、読みたかった本です。過去の現実として書くと、震災の描写が読者にとって生々しすぎるので、近未来を舞台にしたんでしょうね。それでも東日本大震災のとき、テレビやネットで見た画面が次々と浮かんできて、「あのとき」に投げ込まれた感じがしました。片桐という男性に主人公は津波から救われたけれど、それは同時に母を見捨ててしまう行為だった。「生きる」意味に真正面から取り組んだところに、作者の気概を感じます。汚れた水の中をボートで行くところなど、リアリティがあり、感情が揺さぶられる場面もあるいっぽうで、よく理解できないところも残りました。そのせいか、どこか未消化のまま読み終えたんです。ひょっとしたら、自分の心をガードしていたのかも。震災を体験した人はもっとガードがかかって、この物語は読み通せないかもしれません。でも、読んでよかったなあと思ったのは、情報の伝わり方が実感としてわかったことかな。現場にいる人には切れ切れにしか伝わってこないし、避難所に行って初めて情報が固まりとしてつかめるけれど、それももちろん十分じゃない。新聞で読んだいたときには、ピンとこなかったことが、理解できました。

西山:「3.11」を書いたということには賛成。本になるのはいいことだと思ってます。それは前提として、どうして近未来にしたのか。それが腑に落ちません。未来として書くならこれからの未来をどうしたいのか、という構想が必要だと思うんです。それを決定的に感じたのは、自衛隊のヘリが助けにくるシーン(p247)で、実はがっかりしちゃった。ああ、2035年も自衛隊が救助に当たるんだって。もう海外派遣で忙しくて、国内の被災地支援なんてする余裕はないと皮肉に思ったりもするんですが・・・・・・。もともとテレビで自衛隊の救援映像の露出が増えていてとても違和感を持っていたので、がっかりしたんです。<子どもの本・九条の会>で『9ゾウくんげんきかるた』(ポプラ社)を作ったとき、これは「3.11」の前に作ったんですが、そのとき私は「人助けするならあかるい色を着て」という読み札を考えていた(使いませんでしたけど)。レスキュー隊員の蛍光オレンジとか目立つ色と比べて、迷彩色の目的は人助けではない。近未来も、結局迷彩色が活躍しているんだ、それが現状を容認しているようで・・・・・・。地震の時の様子をリアルに書くということは時間が経つに従って必要になってくると思うので、5年経ったいまこういう作品が出るのは意味があるのだとは思います。連続テレビ小説『あまちゃん』では、津波の場面をジオラマに水がかぶる様子で表していました。あの日がまだ近かった時点では、被災者でなくてもそれで十分だったと思います。でも、時間が経って、また、あの時の記憶を持たない子どもたちにとっては、はっきりと描写されることが必要になってくると思います。

マリンゴ:東日本大震災を想起させる災害を東京で、という試み、いいと思います。東京が舞台だと、震災の記憶がなくても自分に身近な物語として読める子どもたちもいるでしょうから。ストーリーに勢いがあって、一気に読めました。ただ、文章の表現に関することですが、擬声語への依存度が高く、それが気になりました。ガタガタ、ゴー、プープープーなど。小学中学年くらいの読みものだったら、擬声語で伝えるというのは効果的かもしれませんが、この本の対象年齢は高学年から中学生以降だと思うので、それにしては幼い印象を受けました。また、いろんな人物の視点で描くことによって、群像劇を立ち上がらせていますが、少しめまぐるしい気もしました。たとえば冒頭のお母さんの視点は、主人公の見ているものとあまり変わらないので、なくてもよかったのかな、と思ったり。

アンヌ:同じ作者の『二日月』(そうえん社)と違って、詩的な表現やユーモアがない作品でした。読んでいて登場人物の名前がうまく憶えられませんでした。松永と北川の口調が同じだったり、片桐と伯父さんも似たような感じだったりして、その他のわき役もあまり肉付けされていないと思います。トラウマがあってもう死んでもいいやと思っている大人が3人もいて、厚木は孫まで殺して心中するつもりでいた。そんなすごいことの告白も唐突で、なぜここで保育士に話すのか奇妙に感じました。近未来の設定のわりに、未来が描かれていません。例えば、この時代には避難所に必ずボートの設備があり、その装備はこうだとか書きこまれていないと、映像が浮かんでこないし未来の感じがしません。主人公の今後についても、方向性がないと感じました。避難所もいつかは閉鎖されるのだから、その後のことが気になります。

クマザサ:近未来に設定したのは、やはり東京で起きたらどうなるか、ということを書きたかったからではないでしょうか。でもその割に、地名が架空になっているせいか、臨場感がないんですよね。たとえば,,区ではなにが起きて、××区ではどうなって……とか、実際の地名が出てくればよかったかもしれない。東日本大震災のあとで震災を書くということは、作家としては非常に力が入ることだと思いますし、事実野心的な作品なのだと思います。ただ申し訳ないですが、やっぱり物足りなさを感じてしまいました。まずそれぞれの人物について、設定以上のことが立ち上がってこないんです。余計なことが書かれていないためか、人物像にふくらみがない。またトラウマを抱えている人が多すぎて、人名を覚えるのにもちょっと苦労しました。ざっくりまとめてしまえば、引きこもりである主人公の一弥が、震災を経験して、さまざまな人に出会い、徐々に他人に対して心を開いていく過程を描いた小説となるのでしょうか。乱暴にまとめてしまえば「震災」が主人公の成長の糧にされてしまっている。きわめて個人的な問題が、震災という大きな世界の危機に直結しているという点では、これも「セカイ系」の物語の変奏といえるのかもしれません。草太という小さな男の子が、地鳴りに似た音をきいたのがきっかけで、さけびつづけて止められなくなってしまう場面など、印象的なところもありました。この草太のおじいさんで厚木という人物がでてきますが、後半、この人は持病で長くないので、地震が起きる前は、孫を殺そうと決意していたということがわかります。非常にたいへんなことというか、この人物一人の物語だけでも、きちんと書けば一冊分の長さになるのじゃないかと思いますが、この本ではあっさりと流れていってしまいます。そういうふうに、いろいろな興味深い素材は入っているのですが、未消化であるという印象が否めません。取材もされたでしょうし、作家として大きなテーマに向き合って書かれたのだと思いますが……。千代田区の図書館では児童書棚ではなく、大人の本棚に分類されておかれていました。

アカシア:みなさんがおっしゃるような欠点もありますが、私はおもしろかった。近未来にしたのは、東京を舞台にしたかったからだと思います。被災地、とくに福島の方たちと話すと、たくさんマイナスを背負わされっぱなしで、それが悔しいとおっしゃる方もいます。なんとかこれを自分たちにとってプラスの体験にできないかと。この作品は、マイナスをプラスに変えていく部分を書いています。被災地を舞台にした柏葉幸子さんの『岬のマヨイガ』(講談社)が野間賞を受賞しましたけど、あれは被災地の人たちが読んだら気持ちの整理ができそう。こっちはそういうものではなくて、距離のあるところから書いている。他者も自分も信じられなくなっていた一弥が、否応なく人と生のつき合いをせざるをえなくなる。その過程で自分だけでなくほかの人も困難を抱えていることを知り、後ろ向きで死の方を向いていたり、人とつながれなくなっていたりするその人たちが、なんとか生きる方を向いていくのを見て、自分も生きるほうを向いていく。そこは、上手く書けていると思います。登場人物のだれがだれだかわからなくなったという声もありましたが、年齢も特徴も違うので、私は見分けがつきました。

レジーナ:近未来の東京を舞台にしたのはなぜでしょうか。意欲作だとは思いますが、東日本大震災を背景にしているのに、正面からぶつかっていない印象を受けました。東日本大震災の写真も使われていますが、生々しくならないようにしたかったのか、ほとんどの写真は見開きではなく、ページの端だけに使われています。主人公は母親を置いて逃げますが、ほかにもいろんな人が出てきて、それぞれ苦しんでいるので、全部を描くには無理があるように思いました。主人公の葛藤だけでも、非常に大きなテーマなので。

アカシア:大震災なので、重たいものを抱えてしまっている人が多いのは当然かと思います。生死を目の前にしたとき、それまでは見ないですませていた重たいものが大きく立ち現れてくるのでは? 近未来の東京にしたのは、東京の人たちの多くがもう福島を忘れているので、それなりに意味があると私は思います。それから写真は、近未来の東京が舞台だけど、東北大震災ともつながっているんだよ、ということで敢えて使っているんだと思います。

げた:不登校になった中2の野島一弥が、大地震の後の津波による大災害の避難生活のサバイバルな状況の中で、生きる方向性を見つけ出し、改めて歩き出す物語ですね。一弥の周りには震災前に既に生きる死ぬを考えていた人たちが集まってきてるんだけど、きっと作者が取材する中で、そういう人が多くいたんだろうと思う。でも、一弥が生きる力を持てたことで、ある意味、ハッピーエンドになってよかったよね。自分も被災地に10日間派遣された経験があるんだけど、毎朝の自衛隊員を含む災対本部会議の緊張した雰囲気は今でも思い出すとドキドキしますね。あの頃は余震も頻繁にあったしね。確かに、迷彩服でなくてもいいかも。この話は近未来20年後の東京湾周辺が舞台なんだけど、東京オリンピック前に地震来ないとも限らない、オリンピックが中止にならないとも限らないよね。来ないことを祈るばかりです。

ネズミ:パーッと読めて意欲的な作品だなと思ったけれど、ひっかかるところもいろいろとありました。1つは、心に何か傷を負った人ばかりがここに集まっていること。極限状態だからそれが噴きだしてくるとも考えられるけれど、人物があってその人が抱えた過去というよりも、過去を語るための人物として、みな一弥を動かすために登場しているように、不自然な感じがしてしまって。また、こういうところで小さな子から元気をもらえるのはわかるけれど、草太君が主人公を動かす1つの道具のように思えて読後感がすっきりしませんでした。回想ではなく、起きていることを描写する形で現実を描くにしては、主人公の葛藤や不安があっさりしている気もしました。

すあま:いろいろと引っかかるところがありました。まず、東日本大震災から24年後の東京、という設定でしたが、未来であることも東京であることも読んでいて忘れてしまうくらい、伝わってこなかったです。東京で24年後に大地震が起きたらどうなるのか、についてのリアリティが感じられませんでした。それから、主人公に共感できませんでした。引きこもりだった子どもが、外の世界に出ざるをえない状況に置かれたらどうなるか、ということですが、あまり主人公を応援したい気持ちになりませんでした。そして、読み終わったときに感じたのは、津波の被害を受けた人たちは読めない本なのではないかということです。ただ、東日本大震災を知らない、実感がわかない人に人たちには疑似体験できるのかもしれません。作者もそこがねらいなのでしょうか。

ルパン:災害の話、として読みました。作者がほんとうに書きたかったのは、主人公の成長物語だったのだろうと察しますが、残念ながらそちらはあまり感情移入できませんでした。一弥にはあまり共感できないまま終わりました。それよりも、初めは3.11の話だと思って読み始めたのに、近未来の東京が舞台だということに驚きました。意欲作だとは思います。大災害が実際に来たらどうしよう、と、読み終わってからそのことばかり考えてしまいました。できれば、災害は舞台というか脇役というか、モチーフとしての役割にとどまり、主人公の葛藤と、悲しみの克服をメインに感じさせてくれるような、そういう力のある物語だったらよかったと思います。

アカザ(メール参加):まず最初に「健介叔父さん」問題。お母さんの弟なら「叔父さん」ですが、兄さんなら「伯父さん」のはずですね! これは、まずい! 東北大震災のあと、私もなにか書きたいという作家の気持ちは、良くわかります。なにを、どう書いたらいいか、作家なら、みな考えたと思います。木内昇さんの『光炎の人』(角川書店)を読みましたが、木内さんは原発の事故のあと、科学者の良心について懸命に考えたそうです。ベストセラーになったとは聞きませんが、電気学について、明治から満州事変に至るまでの時代背景について入念に調べた、じつに読みごたえのある作品でした。『アポリア』の作者は、「ひきこもりの少年が、大震災のときに触れあった人たちとによって、生きる希望を取りもどした」ということを書きたかったのでしょうか。それとも、さまざまな登場人物のそれまでの人生を書くことによって「それでも生きていく」ことの大切さを書こうと思い立ったのでしょうか? 戦争や原発事故などの人災とはちがう、誰のせいでもない大惨事や、難病、障碍などを感動に結びつける物語って、あまり好きじゃないんですよね。それなら、ノンフィクションのほうが、ずっと胸に迫るものがあると思います。福島から避難していじめを受けた子どもの手記の「しんさいでたくさん死んだから、ぼくは生きていきます」という一行のほうが、この本一冊よりずっと重い。小説なら、もっと思索を深めて、物語を熟成させてほしいと思いました。それから、近未来に、東京に起きる震災という設定ですが、東京に起きることの特異性や、原発のことが書かれてないのはどうしてでしょう? おとといの地震のときも、みんなの頭をまずよぎったのは、福島の原発はどうなっているかということだったはずなのに。エーデルワイス(メール参加):読み終わって次の朝、強い地震がありまさかの津波も。東日本大震災を思い起こしました。2011年4月上旬、気仙沼のお寺の一角に設けられたSVA(シャンティ国際ボランティア会)の事務所に一泊したことを思い出しました。雪がまだ時折舞い、プレハブ住宅がそれは寒くて、布団にくるまっていてもなかなか眠ることができませんでした。仮設トイレは外の少し離れたところにあるので、行くのがおっくうでした。震災直後、濡れながら一夜を明かした方々はどんなに寒かったろうと思います。
 『アポリア』の中の場面もリアル感が出ています。ただ食料のことは出て来ましたが、トイレのことには触れていません。敢えて避けたのでしょうか? 震災という中での生死を扱いながら、個人の抱える悩み、悔い、悲しみを描いて、それを乗り越えようとしている人びとや、主人公の一弥の心境がよく伝わってきます。どうして不登校、引きこもりになったかを母親や健介に説明できないのか、と思うのは大人ばかり。説明できないのが思春期。黙って見守ることの難しさを感じます。一弥が、自分を助けてくれた片桐を怨み、母親を助けられなかった自分に対して罪悪感と絶望感を抱いているところは、震災後生き残った多くの方の気持ちを代弁していると思いました。自分でも被災しているのにも関わらずボランティアをしている人をたくさん見ました。それで自分も元気になっていったのですね。再生を感じますが、5年たっていても被災地の方はまだ読めないだろうなと思いました。

(2016年11月の言いたい放題)


明日の平和をさがす本:戦争と平和を考える 絵本からYAまで

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『明日の平和をさがす本:戦争と平和を考える 絵本からYAまで』
が出ました。

宇野和美・さくまゆみこ・土居安子・西山利佳・野上暁 編著
ほそえさちよ 編集
いとうひろし 装画
鷹觜麻衣子 デザイン
岩崎書店 2016年11月30日

この国は、深慮なしの政治家のせいで、だんだん戦争に近寄って行っている気がします。そんな不安を抱えている私たちが相談して、この本を出しました。これは、戦争や平和を考えるための子どもの本のブックガイドです。

子どもの本は、すべての学びの入口でもあるので、子どもに手渡すだけでなく、大人にも読んでほしいと思っています。

1ページ1冊の割合で作品が紹介されているだけでなく、ところどころにコラムがあって、まとめて考えることができる仕掛けになっています。編著者だけでなく、三宅興子さん、落合恵子さん、ひこ・田中さん、中島京子さん、安保関連法に反対するママの会の方、SEALDsメンバーだった方たちなど、何人かの方たちにも原稿を書いていただきました。

読んでおもしろいブックガイドになったかと思います。表紙の絵やカットは、いとうひろしさんが描いてくださいました。私はブックトークなどで戦争の本を取り上げるときのヒントもコラムで書いています。

野上さんが書いた前書きと私が書いた後書きを載せておきます。ぜひ、手に取ってみてください。

<はじめに>
 日本は、1945年8月15日に、アメリカやイギリスなどの連合国を敵に回した戦争に負けて以来、一度も戦争をしていません。310万人ともいわれる、尊い犠牲者を出した反省から、憲法で戦争をしないと決めたからです。その後、世界の国々と友好関係を築き、平和が続いてきたことで経済も発展し、戦後の荒廃から立ち直り豊かな暮らしを実現できました。
 ところが、それから70年以上もたつと、戦争の悲惨な記憶がうすれ、近隣の国々を侵略したことへの反省もなく、憲法の精神をないがしろにして、戦争ができる国に変えようとする力が強まってきています。世界の各地で、いまも戦争や紛争が起こっていますから、いつまた日本がそれに関わらないとも限りません。
 子どもの本に関わる私たちは、将来にわたって戦争の悲劇を子どもたちに味わわせることを断じて避けたいと願います。そこで、全体を8章に分けて戦争と平和を考える本を300冊以上紹介しました。これまでも戦争と平和をテーマにしたブックリストはたくさんありましたが、この本では、コラムを除き2000年以降に発行された比較的新しい本を精選しています。この本をもとに、戦争のない平和な世界を作るには、どうすればいいか考えてもらうとうれしいです。(野上暁)

<おわりに>
 戦争を描いた本なんて読みたくない、と思う方もたくさんいると思います。だって、暗くて、重苦しくて、子どもが笑ってくれないからね、という声も聞こえてきそうです。朝の読書の時間に、戦争が出てくる本はふさわしくないよね、とおっしゃる方がいるのも知っています。
 「だけどね」と、私たち編集委員の五人は思いました。「だけど、戦争が出てくる本も読んでみようよ」と。とりわけ日本の国が戦争に向かおうとしているように思える今、読んでおく必要があるとも思いました。
 それで、戦争と平和に関する子どもの本のブックリストを作ることにしました。私たちは集まって話し合い、どの本を取り上げるかを決めていきました。ほそえさちよさんに編集をお願いすることも決めました。そのうち、「一つのテーマで何点かの本を概観できるようなコラムも必要だね」、「今この本を戦争に向かわせないために、頑張っている仲間たちにも参加してもらおうよ」ということにもなりました。
 今はまだこの日本には、小鳥の声で目を覚ます人もいるかもしれません。働きに行く前に犬を連れて林の中を散歩する人もいるかもしれません。友だちや仲間と楽しくおしゃべりしながらお昼ご飯を食べる人もいるかもしれません。子どもたちと水辺や牧場や公園で遊んでいる人もいるかもしれません。でも、戦争はそういうものの一切を徹底的に壊してしまいます。
 私たちはこのブックガイドをつくりながら、こんな発見をしました。

・ほんとうの戦争って、ゲームとは全然違うということ
・戦争で儲ける人がいる以上、起こしたくなる人もいるということ
・戦争って、一度始まるとなかなか終わらせることができないということ
・戦争で死ぬのは、ほとんどが市民や子どもだということ
・戦争は、殺した方も大きな傷を負わなくてはならないということ
・このブックガイドに取り上げた本には、戦争や平和だけでなく、人間の奥深さが描かれているということ

 ちょっと世界を見わたしてみてください。私たちには見えにくいけど、世界のあちこちに戦争や紛争で日常のくらしを壊されてしまった人たちがいます。生まれてからこの方ずっと戦争しか知らない子どもたちもいます。その人たち、その子どもたちは、私たちとは関係ないのでしょうか? 見ないですますことができれば、関係ないと言えるのかもしれません。でも、私たちの国でつくられた兵器がその人たちを殺してはいないでしょうか? 私たちが選んだはずの政治家が、その人たちの命を奪う手伝いをしてはいないでしょうか? そんなことにも目を向けていったほうがいいと私たちは考えました。
 このブックガイドには、ここに載っている300冊の本の作家・画家たちだけでなく、紹介文を書いたみんなの気持ちもつまっています。そのうえに、読んでくださるみなさんの気持ちものせていただければ幸いです。
 おもしろそうだなと思ったら、このブックガイドで取り上げた作品そのものを手に入れて読んでみてください。本屋さんになければ図書館でさがしてみてください。ブックトークの時に、取り上げてみてください。子どもが手に取れるようにしておいてください。そこから、何かが少しずつかわっていくかもしれません。(さくまゆみこ)

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2016年10月 テーマ:新しい扉がひらくとき

日付 2016年10月20日
参加者 アカザ、アンヌ、エーデルワイス、げた、シア、西山、ハリネズミ、マリ
ンゴ、まろん、ルパン、レジーナ
テーマ 新しい扉がひらくとき

読んだ本:

(さらに…)

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二日月

げた:すごく重いテーマですよね。自分の家族に起きたかどうなるか? 自分がママだったら、あんな風に堂々とできるか、自信がありません。でも、日本も、社会環境とか人々の意識も変わってきているから、昔ほどはつらいことはなくなっていると、思いますけどね。医者は患者に対して、最悪の状況を率直に話さなきゃいけないんでしょうけど、5歳まで生きたら表彰ものだなんて、言い方が間違っていますよね。

マリンゴ:この作品は、発売されて間もない頃に読みました。今回、再読できなかったので、記憶が遠すぎて。いとうみくさんの作品はそこそこ読んでますが、他の作品のほうが好きだなぁ。この本はそんなに……と思ったことは覚えています。

シア:3冊の中で最初に読みました。この作者の本は非常に読みやすいですよね。でも、私はこういう話は苦手です。あまり言いたくないんですが、どの話でも変に前向きで、無駄にキラキラした内容になってしまうので、読んでいて苦しくなります。いかにも課題図書な本ですよね。たった1年間の話なのに、主人公はこんなにつらい思いをしています。でも、周りは弱い大人ばかり。この先どうなってしまうんでしょう? なのに、主人公は無駄に前向きさを振り絞っています。なぜ、上の子が恥ずかしく思っていることを親が汲み取れないのでしょう? 見ないふりをしているのは親の方です。親が弱い分、主人公が強くならなければならない。それが家族のバランスです。本当にこの先がんばれるんでしょうか? 主人公はどんどん自分を抑制していきます。そのうち搾りかすになってしまいそうです。例えば公園での場面ですが、母親は溶け込むことに必死で、生意気な子どもたちの態度や言葉遣いを否定しません。仲良くなろうとすることは良いと思いますが、これでは言葉の暴力の恐ろしさを、この子たちも読者も学びません。主人公が飛び出していってもいいくらいの場面です。弱者は世の中の横暴を黙って受け入れるしかないんですか? 自分が前向きで良い人になれば、あたたかい人ばかりに囲まれてキラキラ生きていけるんですか? 描きたい主人公の強さとはなんなのでしょうか? 子ども向けの作品には今後のための教訓が必要だと思います。題材的に納得いきません。

西山:前に読んだとき題名が全体に生かされきってないと思った、ということと、公園のシーンだけは覚えてました。私は、現実的な作品を論じるときに、作品の外の「実際は……」という実例で語るのは違うんじゃないかと考えるんですが、でも、シアさんの発言を聞いていて、おかしいものはおかしい、というのがほったらかしになっているのはまずいんじゃないかと思いました。結構、それは犯罪だろう、とか、人権問題としておかしいだろうというような言動が、ドラマのひとつの山場として結構でてくる気がして、ダメなものはダメといわなきゃいけない。書いちゃいけないと言うことではなく、相対化はしてほしいと。でも、やはり、ひどいことを言う子どもたちから逃げないあのシーンは印象に残ります。それから、p172で真由が「女々しい」という言葉を使っています。これ、気になりました。いまさらこの嫌な言葉を使う必要があるのかな。p196で「芽生を学校につれてこないで」という思いを「いっちゃダメ」とするのは、新鮮でした。そういう思いをはき出させるのが読み慣れてきた児童文学のやり方だったと思います。

ハリネズミ:とても意欲的な作品ですが、私は、この主人公の心の揺れに、すんなりついていけませんでした。『ワンダー』(R・J・パラシオ/ほるぷ出版)を読んだときは、お姉さんが障がいを持った弟にやっぱり来てほしくないという気持ちについていけたんですけど、これも同じシチュエーションの割りには、すっといかなかった。

西山:香坂直の『トモ、ぼくはげんきです』(香坂直/講談社)も、同様のテーマでしたよね。

ハリネズミ:確かにそうだと登場人物に寄り添えるだけの必然的な流れが感じられなかったのかな。

まろん:対象年齢が小学校中学年くらいとのことで、全体的に読みやすく、障がいについて考える良いきっかけになる本だと感じました。私がこの本を読んで怖いと感じたのは、登場人物が誰も悪気がない、というところです。最後に春菜ちゃんが芽生を抱っこする場面がありますが、これはきっと春菜ちゃんにとって無意識のうちに変わるきっかけだったのではないでしょうか。こういう気付きがないまま大人になると、きっとレジで会ったおばさんのように、自分が言った言葉の重さを知らずに人を傷つけてしまう人になってしまうのだと思います。そういった意味では、この本は子どもたちにとってそうした気付きの役割を持つのではないでしょうか。

レジーナ:ひどい言葉でからかわれる場面ですが、私はそういう言葉を本の中で書いてもいいと思います。日本の児童書は「こういうことは書いてはいけない」というタブーが多いですが、大切なのは作者のスタンスと描き方ではないでしょうか。作者のスタンスがはっきりしていれば、どんどん書いていいし、そこで問題提起をしてほしいですね。難しいのは描き方で、私はこの場面はそこまで教訓的だとは思いませんでしたが、そう感じる人がいたなら、伝え方をもっと工夫したほうがよかったのかもしれません。

エーデルワイス:主人公は自分も構ってほしいという思いを、障がいをもっている幼い妹のために我慢している。その気持ちが伝わってきて、とても切ないです。わたしが開いている文庫に以前、障がいをもっている兄と、その弟が来ていました。弟はとてもおとなしくいい子でした。兄は小学4年生で亡くなりましたが、弟はどんな気持ちだったのかと思います。

ルパン:いとうみくの作品はどちらかというと苦手で、しかも課題図書。というわけで、まったく期待しないで読み始めたのですが……結局、かなりはまってしまいました。良い意味で期待を裏切られました。障がいをもった妹が生まれた、という事実と向きあわなければならない少女の葛藤がとてもよく描かれていると思いました。何も悪いことをしていない友人たちの言動にいつのまにか傷ついてしまう、その微妙な心の動きが、「ちょうど薄紙でスッと指を切るような痛さ。」(P83)という一文で、絶妙に表現されています。杏は、健常者の弟や妹がいる真由、障がい児に親切にする藤枝君、芽生の世話でいっぱいいっぱいのママ、といった存在に、少しずつ少しずつ傷つけられていくのだけど、相手を責められないもどかしさ、苦しさと戦わなければなりません。結局は自分自身との戦いです。それに、芽生が普通の妹だったらやりたかったこともたくさんあったことでしょう。赤ちゃんのときはたくさんかわいがり、大きくなったらいっしょに遊ぶ、とか、勉強を教えてあげる、とか。そういう夢がこの先ずっとかなわない、という切なさもあると思います。まだ幼い杏が、大きすぎる問題とせいいっぱい向きあっている健気さに胸を打たれました。ただ、せっかく、とても自然体に描かれているのに……この陳腐な帯の言葉はいかにも余計だなあ。「あたしと妹。ずっとずっと大切な家族。」だなんて。

アンヌ:最初に読んだ時には、障がいについての物語として読んでいたのですが、読み返して、これは、生命の力についての物語だなと思いました。先程、医者がこんな言い方をするのだろうかというお話が出ましたが、現代の医療場面では、生存確率とかが具体的に示されて治療方針が説明されると思います。患者の家族にとっては、それは余命宣言であり、過酷なものだと思います。赤ちゃんが生まれて喜びに満ちているところに、いきなり「死」というものが来てしまった。死ぬかもしれない家族がいるという状況はきついものです。世界がガラッと変わってしまう。だからこの物語の父親のように、必死で本やインターネットで病気について調べてくたくたになって、ふとしたはずみに主人公をぶってしまうような混乱も起きる。いろいろ大変ななか、父親も母親も変わっていく様子が描かれていき、そんななかでの主人公の動揺がていねいに描かれていると思います。赤ちゃんが生きていき、その命の温かさが、いろいろひどいことも言っていた春奈ちゃんの心にまで「かわいい」と思う気持ちを起こさせる。生きる力というものが、とてもうまく描かれていると思いました。最後も詩的で、何度も読み返すにはきつい本ですが、心に残る物語だと思います。

ハリネズミ:作家のサービス精神が旺盛なのでしょうか。p168で勢い何かが飛び込んできて怖い怖いと思ったら真由ちゃんだったというところ、マンガならいいんですが、シリアスなストーリーで急にリアリティのない場面が出てくると、ちょっと残念。p194で真由が「杏は杏のことをきらいでも、あたしは好きだよ。杏はうわべだけなんかじゃない。一生懸命お姉さんしてる杏も、そうやって自分のこときらいっていう杏も、あたしはどっちも好き」というところも、子どもの言葉というより作者のメッセージが前面に出すぎているように思いました。さっきも言ったんですが、杏が障がいをもった妹に学芸会に来てほしくなくて学校にも行けなくなるというところ、それまでにだいぶんいろんなことを乗り越えて進んできたように思えていたので、ちょっと不自然に思ってしまいました。p186には「友だちに障がいのある妹がいることを知られたくない」と言ってますけど、そんなのは学芸会を見に行くことには関係なく知られるわけだし。一所懸命に書いてる作家さんには悪いのですが、メッセージを伝えたくてストーリーを作ったせいか、人物がいまひとつ生きてこない感じがしてしまったのです。それから、公園の場面では、男の子たちが「キモイのがきた」とか「エンガチョー」とか「こいつヘンなの」と言うんですが、シアさんや西山さんが児童文学に書くべきじゃないとおっしゃっているのは私は違うと思います。言うべきじゃないというのも違うと思うんです。子どものこういう暴言は、かかわりの一つなんです。それを大人が受け止めて人と人のかかわりが始まり、理解も広がるんです。それを「言うな」「見るな」と言うと、障がいを持った人やホームレスや気の毒な人たちを見なくなります。かかわりも一切持とうとしなくなります。そのうちそういう人たちが存在しないかのようにふるまうようになるんです。むしろ、子どもがそう言ったときに、まわりの大人が「だめ」というのではなく、このお母さんのような反応ができるかどうか。そういう意味では、ここはよく考えて書かれていると思います。

(2016年10月の言いたい放題)


小やぎのかんむり

シア:表紙がとても可愛かったのですが、内容はそれに反してつらいものでした。どうしようもない人や感情を「手放すこと、断ち切ること」を伝えています。でも、断ち切れるものかなとも、断ち切っていいものだろうかとも思ってしまいました。とくに雷太の母親は自分の気持ちだけで行動しています。この母親は感情で自分の子どもを捨てていきましたが、親の義務はどうなっているんでしょう。この子の法律的な立場や、将来的に高校や大学はとか、これで苦労することになるんではないかとか、いろいろと考えてしまいました。何を言っても親に捨てられたという事実は雷太には残りますので、人の関係などは法律的に切れることはあるかもしれませんが、気持ち的に切れるものでしょうか。まあ、親子って言っても、他人程度の関係しか築けない人も多いですよね。この本は児童書だけあって、子どもが納得するための本だと思いました。中高生向きですね。

西山:市川朔久子の作品はいい! 最初から、どれも好きです。今回も、気になりながら読み出さずにいたのですが、最初タイトルを聞いたときは幼年向けかと思ってました。違いましたね。市川さんの文章がまず、心地いいです。そこはかとないユーモアも随所にあって。今回も冒頭から心鷲づかみにされました。いきなり父の交通事故で、え? と思った次の文で、「横断歩道でもないところを堂々と渡っていて」とあって、なんだ? とおもしろく感じて、でもすぐに事故を起こしてしまったおじいちゃんへの横柄さに、なんかおかしいぞ、となる。この父親像が主人公の抱える問題の中心にあるわけで、もう、なんてうまいんだろうと思います。ただ、この作品に限ったことでなく最近ちょっと考えていることがあって、このうまさ――例えば、この子に何があったのか伏せて書いていく。引っ張っていく、だんだん手持ちのカードを開いていく手順は、あざといというか少々品のないやり方と紙一重なのじゃないか、と。市川さんの作品は文体からして好きなのですが、この作品は、半分は、なにが起こるだろう? っていう伏せられた真相で引っ張られた部分もある気がします。小説はどんなに純文学的なものでも、多かれ少なかれそれはあると思うのですが、その度合いが文学とエンタメの違いかなと最近考えたりしています。住職のオチのない話では、『よるの美容院』(市川朔久子/講談社)の古本屋のおやじでしたっけ、ひょうひょうと食えないじいさんが、思春期の少女が抱えて張り詰めているものをふっと解き放つ緩さがいい。状況としては重いけど、こういう隅々に軽さがあっていいですね。『紙コップのオリオン』(市川朔久子/講談社)でも感じたのですが、幼い子を、いとしいという気持ちにする描き方も好きです。市川作品には、読書の愉しみに満ちています。

まろん:表紙の可愛さからほんわか優しいお話かと思いきや、かなり思いテーマを描いていて驚きました。「自分から離れようとしているんだね。」という箇所がありますが、これは家族の問題だけでなく、学校だったり、仕事だったり、色々なものに当てはまると思います。辛いんだったら思い切ってそこを離れて別の場所に行ったほうがいいというのは、今悩んでいる多くの人たちを励ますメッセージになるのではないでしょうか。ただ、家族というのはとても密な関係であり、このお父さんは主人公から離れようとしていないので、そう簡単にはいかないのでは、と心配です。あと余談ですが、ことあるごとに「セイシュンねぇ」と冷やかす大人たちが、可笑しくて好きです(笑)

レジーナ:「主人公がこの先どうなるか心配」という意見がありましたが、私はそうは思いません。夏芽が抱える問題は、決して簡単に解決するようなものではありませんが、心の中に帰る場所があるのは、人が生きる上で本当に大きな力になります。虐待を受けた子どもは、どんなにひどいことをされても親をかばおうとしますが、この本は「許さなくていい」と子どもに伝えています。許す必要はまったくないけど、いつか折り合えるときが来るかもしれないし、状況は何も変わってないけど、この子ならきっと大丈夫、と思える結末で、子どものもつ力への作者の信頼を感じました。

アカザ:重いことを書いているけれど、さらさらと読めました。重みを感じさせない書き方が、うまいなあと感心しました。なかでも、雷太が実に生き生きと描けていますね。生命力にあふれた、かわいい男の子が、虐待をする実の父親があらわれたとたんに大人しくなってしまう。実際にそういう現場に居合わせたことはありませんが、そうなんだろうなと身に染みて感じました。いくら血がつながっていても、こんな親なら絆を切ってもいい、逃げてもいいというメッセージを、しっかりと伝えている、今の子どもたちにとってとても大切な本だと思います。読みはじめたときは、また田舎で癒される話か、うんざり……と思いましたが、いい意味で裏切られました。でも、東京育ちのわたしとしては、地方で住みにくさを感じていた子どもが、都会で癒される話も読んでみたいな!

エーデルワイス:ひりひりと、きつかった。主人公が心配です。いい大人に恵まれて再出発しそうなのですが、ストンと落ちない。もうちょっと解決策がほしかったと思いました。『三月のライオン』(羽海野チカ/白泉社)を読んでいて、漫画の方が先を行っているかもと思います。

ルパン:かなりあとになるまで、物語がどこに向かっているのかわからず、そこはおもしろく読めました。一番印象に残っているのは、川遊びのシーンです。「このきれいな水と、わたしのなかみを、ぜんぶ取りかえられたらいいのに。そしたらわたしも、香子みたいになれるだろうか。」(p91)ここではまだ、夏芽の問題は明らかになっていないのですが、自己嫌悪に陥っている中学生の少女の気持ちが痛いほど伝わってきます。結局、父親から暴力をふるわれていることが徐々にわかってくるのですが、ものごころついたときからそういう目にあっていると、「自分が悪い」と思ってしまうんですね。そこのところも良く描かれていると思います。一歩まちがえば優等生的というか、ただの「いい子ぶっている子」になってしまう危険があるのに。ただ、距離の問題が気になりました。家から遠く離れた山村で、この子は勇気をもって父親と向きあう決意をかためるのですが、このあと、どうなるのかが心配です。結局、未成年のうちはこの父親が保護者のわけだし、母親は夫に絶対服従で、この子の味方にはなってくれない。そういう環境にまた戻っていかなければならないことを思うと、やっぱり重苦しいものを感じます。

アンヌ:情景描写がよく描かれていて、私の家のお寺を思い出しました。山の上で、黒い木の引き戸がとても重くて大きくて、縁の下も高くて広い。子どもがいくらでも遊べるような広い空間がたくさんある。そこに着いただけで、少し閉塞感から抜け出せるような所が思い浮かべられます。最初から、女子高の制服を着ているだけで痴漢やぶつかってくる男たちが書かれていて、雷太の父親の暴力の場面もあるので、これはたぶん主人公の父親の暴力の問題が物語の底にあるなと、推理小説的に感じながら読んで行きました。重い小説だけれど、サマーキャンプらしい憩いの瞬間もあり、読み返しても楽しめる小説だと思います。主人公の問いかけにふと外す感じの住職のセリフや、葉介との青春場面にはユーモアを感じました。若住職の過去や美鈴さんのモラハラ体験など必要だったのかなと思いつつ、つきつめて書いていないところはよかったと思います。主人公がいい場所にたどり着いてよかったと思いながら、何度も読んでしまいました。

ハリネズミ:とてもおもしろく読みました。今回の3冊の中では、私はこれがいちばんでした。親の虐待にさらされている子どもの数は、日本でも増えているんですよね。主人公は、親に殺意を抱いたことで自責の念に駆られて、自分を信じることができなくなっている。それがサマーキャンプに来て、自己肯定できるように変わっていくんですよね。親って、生物的に親になる次の段階として、どうあってもこの子を受け入れてとことん付き合っていく覚悟がないとできないっていう話を聞いたことがあるんですけど、その覚悟が持てない親が増えてるんだと思います。夏芽は、家に帰ればまたとんでもないお父さんがいて、頼りないお母さんがいるわけですけど、もうしっかりと自分を肯定できるようになり、自分のことを「宝」と思ってくれる人もいるし、自分以上に弱い雷太を守ろうという気持ちにもなっているので、もうだいじょうぶだと思います。同じ状態に戻ることはない。タケじいが、「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でも以下でもない」(p235)とか、「堂々と帰りなさい。子を養うのは親の務めだ」(p237)とか「くれぐれも言っとくが、『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」(p238)と言ってくれたことで、夏芽はどんなに救われたことか。子どもはみんな、どんなに虐待する親でも尊敬しなくちゃいけないし、好きにならなきゃいけないし、かばわなきゃいけないと思ってるんです。だから、これくらい強くはっきり言ってもらってはじめて、違う道もあることがわかって歩き出すことができる。雷太もけなげですが、この先居場所を見つけて生きていけそうだと感じさせる終わり方です。

げた:子どもへの虐待がテーマなんですが、虐待に遭っている2人の子どもが優しい3人の大人と、ひとりの高校生に巡り合って、ひょっとしたら、救われるかもし
れない世界の扉が開いたという話ですね。サマーステイなんて、50年前に経験したことを思い出しました。もう1度体験してみたいなと思いました。夏芽にとっては、現実の状況は全く変わっていないんですよね。今後の行く末については、読者に想像させるかたちになっていますよね。父親があまりにひどいのでびっくりしました。本当に嫌味なやつです。作者は取材して話を書いているでしょうから、実際にいるんでしょうね、こんな父親。母親もひどいですけどね。「自分を生かす我慢と殺す我慢」という言葉はなるほどと思いました。

マリンゴ:とても素敵な作品でした。キャラクターが魅力的で、特に雷太、住職は、個性が際立っていました。あらすじを語らせるだけのご都合主義の会話じゃなくて、生きた会話になっているところも、よかったです。ただ、一つだけ気になったことがあって。女子校に通う中3の女の子が、高1の男の子と出会って、途中からは一つ屋根の下で過ごすようになるのに、異性を意識する描写がないのが、不自然な気がしました。男子として好きか嫌いか、まで行かなくても、父親と同性なのだから嫌悪感があるのかないのか、とか比較したりするのが自然では? で、その理由についての想像なのですが……私は、著者が意図的に恋愛パートを排除したんじゃないかと思っています。さっきの「スティーブ」じゃないけど(笑)恋愛が描かれていると、クライマックスで、読者の興味はそこに行ってしまいます。けど、この物語では、ラストで処理しないといけない要素がとてもたくさんあって、恋愛に傾くとバランスが悪くなる。だから、要素が増えないように、あえて排除した気がします。だから、すべてが片付いた後で、急に意識し始める描写が登場。そこが違和感あります。たとえ雷太と3人でも、夜、いっしょにお墓とかを歩いていたら、何かしら意識はすると思うんですけれど。

ハリネズミ:自己肯定感がない子だからでは?

マリンゴ:それもあるかとは思うのですが、やっぱり「男性」というものに対して、なんらかの感情は持つのが自然ではないかと。

アカザ:最初のほうの、通りすがりに制服を触ってくる人のエピソードを読んでも、主人公が異性に対して持っている負のイメージが感じられるけれど、それが父親に対する感情となにか重なっているのかも。そこまでは書いていないけれど……。

西山:最初に1回だけ、葉介が白桐云々言ったときに、バシンと怒ってますよね。最初にきっぱり怒って、葉介に謝らせて、この先に、通学路で寄ってくるような男たちとは完全に違う存在として葉介を書くことが可能になっているのかもしれません。

シア:罪の意識に苛まれているから、ときめいてる余裕がないんだと思います。

(2016年10月の言いたい放題)


モンスーンの贈りもの

マリンゴ:ついさっき読み終わったばかりなのですが(笑)、全体的にとてもおもしろかったです。「お金」を否定せずに、使い道によっては役立つものなのだ、と提案しているところも、いい視点だなと思いました。ただ、あちこち、細かいところに突っこまずにはいられないというか……。たとえば、ダニタに求婚してきた男性が、あまりにステレオタイプすぎて。こういう、性格が悪くてビジュアルのひどい人だから、断って当然、となるのか。じゃあ、素敵な人だったらどうなるのか、と気になりました。あと、「虫」の扱い方がひどい(笑)。毛虫と1か所書かれているほかは、どんな虫なのか描写がまるでなくて。最初は、いい「小道具」だなと思ったので、拍子抜けしました。毛虫はいつまでも毛虫じゃなくて、数週間でサナギになるはずですしね。少しは描写がほしいと思うのは、やっぱり日本人だからでしょうか。欧米の人は、虫はひとまとめにbugの傾向が強いのかなぁ。

げた:基本的に楽しく読みました。やっぱり、話はハッピーエンドでなくちゃ。主人公の女の子ジャズは15歳の高校1年生なんですよね。大人の世界に踏み込もうとする男女が、お互いの気持ちを確かめ合う様をじれったく思いながら、ドキドキしながら、恋が成就することを願いつつ、楽しく読めました。それと、インドの人々の暮らしぶりも垣間見ることができて、1度行ってみたくなりました。でも、この年じゃ耐えられないかな。昔学生時代に、仲間の1人がインドに行って、大変な思いをしたというのを聞いていますから。人口もあの頃よりさらに増えているし、もっと大変だろうと思います。ジャズのお家で働くことになったダニタはなんとか自立したいと思い、お金をかせぐことを考え、ダニタのアドバイスを求めたんですよね。ダニタの3人姉妹を応援したくなりました。子どもたちに薦めたい本です。やっぱり、アメリカの高校生って、すごいですよね。自分の寄付金で基金まで作っちゃうんですものね。

ハリネズミ:とても楽しく読みました。インドの孤児院が出てきますが、かわいそうという視点がないのがいいな、と思います。それに、血縁ではない家族のありようが、すてきな形で描かれています。サラの養父母が、サラを孤児院に置いて行った生母に対して、「こんな宝物をくれた」として感謝の念を持っているのもいいですね。ダニタが幸せな結婚をしてめでたしではなく、事業を成功させようとするのも現代的。ただ、いくつかのキャラクターがステレオタイプというかマンガ的なのがちょっと気になりました。エンタメだと割り切ればいいのかもしれないですが。スティーブは、スポーツも勉強もできて、ルックスもいいし、ビジネスの才能もあり、礼儀正しくて、まじめ。こんな人、現実にいるんでしょうか? ダニタも出来過ぎですよね。翻訳もちょっとだけ引っかかるところがありました。たとえば、ジャズがスティーブを見て「わたしのおなかはドラムビートに合わせるように、のたうち始めた」(p4)とありますが、恋心をあらわすのにこういう言い方は、私にはあんまりぴんときませんでした。それから、「わたしという、ボディーガードがいなくなった今、ミリアムはきっと行動に出るだろう。とにかく、自分の気持ちをさとられずに、ミリアムがどこまで進んだか、できるだけぜんぶ探らなくちゃ」(p67)とあるんですけど、これだと中年女の確執みたいになる気がして、もう少し軽やかなほうがいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても生き生きとして色彩や香りに満ちていて、おもしろい本だったと思います。サルワール・カミーズというインドの普段着の美しさや感触、モンスーンの雨の中のジャスミンの香り、インドの家庭料理を作る場面等は、知らない土地を五感で味わう気分にさせてくれました。よく理解できなかったのが、主人公のママです。特にアメリカでの活動内容について、有名な社会事業家というのは何をする人なのかとか、ママがどう魅力的なのかあまり伝わらない気がしました。それから、スティーブとの恋のまだるっこさがしつこかった。すでに飛行場の場面で両想いなのはわかってしまっているし、スティーブもミュージカルの『オペラ座の怪人』で、いびきをかいて寝ちゃうような人ですしね。

ハリネズミ:でもジャズにとっては、恋敵と行ったミュージカルで寝ちゃうんですから、そこも理想像なんですよ。完ぺきなの。

ルパン:美しさの基準は文化によってちがう、という視点は良いと思いました。が、読み終わってみると、腑に落ちない点が多々あり……。まずは、お母さんのサラ。主人公の言葉で「すばらしい人」と何度も力説されているけれど、何がそんなに魅力的なのか、いまひとつ伝わってきません。ジャズが抱えている最大の問題は、ホームレスのモナの裏切り、というできごとです。ジャズは、母親であるサラをお手本にし、サラのように弱者に手をさしのべようとしたのに失敗するんですよね。それなのに、このお母さんは、ジャズにはまったく手をさしのべていません。ほかの人たちには一生懸命尽くしているのに。そして、ジャズはインドに行って変わるわけですが、インドで友だちに愛されるのは、容姿がいいから、ということになっています。ジャズ自身の魅力や、インドの少女たちとの心の交流ができているわけではなくて。ダニタと出会うことで、ジャズは前向きな気もちにはなりますが、モナのことは何ひとつ解決しないまま物語は終わっています。ジャズは、モナの事件について、自分のなかでどう決着をつけたのでしょう。それが書かれていないので不完全燃焼のようなすわりの悪さを感じます。

ハリネズミ:モナのことは、ほかの人が教えられるようなことではないような気がします。自分で学んでいくしかないんじゃないかな。でもわだかまっていたのが、インドに行って心が自由になり、本来の自信を取り戻していくんですよね。

ルパン:ジャズの中で、モナのことは終わっていないと思うのですが。

ハリネズミ:後に他のホームレスの人たちを雇ったりもしていますよ。

ルパン:ホームレスの人を雇い続けているのはスティーブであって、ジャズ自身の中では何も解決していないと思うんです。

アカザ:モナについては、掘り下げて書いていないですね。そうしなくてもいいと作者が思ったんでしょう。

ハリネズミ:ジャズとしてはその体験も乗り越えることができたと書いてるんじゃないかな。ただ雇ったりするんじゃなくて、ビジネスの元になるお金を寄付して、そのビジネスがうまくいったら、次のビジネスもサポートできるようなシステムを考え出したんだから。人を見る目も出来てきたんじゃないかな。まあ、マンガ風な点があるのは否定しないけど。

アカザ:エンタメというか……。

ルパン:確かに、ダニタのことは助けるわけですが……なんだか「いい子は助ける。助け甲斐がある人は助ける」みたいですっきりしません。モナみたいな人ではないから助ける気になったのでしょうか。モナのような人とは今後どのように向きあっていくつもりなのでしょうか。それに、母親のサラも含め、夏が終わればアメリカに帰るわけですし。「モンスーンの狂気」が「一時的な善意」でなければいいのですけど。

エーデルワイス:主人公のジャスミンとスティーブは幼いころから波長があって、価値観があって、友情を育んで、同じ目的をもってビジネスパートナー。まさしく理想的な恋人。いろんなものが織り交ぜてあって、おもしろく読みました。3か月も家族で夏休みをとって海外へ行くなんて、日本じゃ考えられない。容姿で悩み、女の子は仕草とか、媚びるというのじゃないけど、アメリカの女の子にもあるんですね。主人公は性格的にそれができない。好感がもてます。そして、本当は美しいということにインドに行って気づかされる。

アカザ:エンタメとしては、おもしろく読みました。インドの衣装やダンス、食べ物も魅力的だし。主人公の恋の話も、ハッピーエンドに終わるということが最初からわかっているような書き方だけれど、同年齢の読者にとっては面白いかも。善意のアメリカ人がボランティアをするときって、こんな感じなんだろうなと、読み終わってから思いました。「いいことしちゃった!」感というか。英語に“cold as charity”という言葉がありますが、善意の行動をする側の後ろめたさというか含羞というか、そういうものが感じられないのですが、ないものねだりなのでしょうか。訳者あとがきの、ひとりひとりが誰かのためになることをやっていけば、社会が変わっていく云々という言葉にも、違和感を覚えました。あと、読み始めたときに、なかなかシチュエーションが理解できなかったのですが……。なにか全体にざわざわと落ち着かない感じで文章が流れていくのは、軽い訳と固い訳がまざりあっているせいかしら?

ハリネズミ:ジャズが寄付したお金は孤児院の基金になって、その基金でビジネスを起こした人が利益を挙げてそのお金が返せれば、次の人がビジネスを起こす資金になる、というふうに、うまく考えられています。作家もインド生まれだし、ただ白人がいいことしちゃった、と自己満足するような本とは違うと思います。

レジーナ:ボランティアの難しさや高校生のビジネスなど、興味深いテーマではあるのですが、訳がところどころひっかかってしまって入りこめませんでした。「爪をかむことは、彼をイライラさせることのひとつだ」(p10)、「わたしはパパに過度のストレスがかかっているようすがないか、注意深く見ていた」(p108)等、原文をそのまま訳してる感じで、大急ぎで訳したような……。15歳のちょっと皮肉っぽい視点で書かれているので、エンタメとしておもしろく読む作品なのでしょうが、「『あなたなら、だれでも巻きこんでやる気にさせられるわね』……『自分家族以外はね』ママはため息まじりにつけ加える。わたしに怒った顔を向けながら……あれがあってから、ママは完全にわたしを身放した」(p19)という文章からは、母親が単純でひどい人間のように感じてしまいました。『もういちど家族になる日まで』(スザンヌ・ラフルーア/徳間書店)は読みやすかったのですが。孤児院の院長が集まってきた子どもたちにバナナを配る場面とか、47ページの、妊娠した貧しい女の子の描写は、西欧のステレオタイプに感じられます。インドなどでは、小学生くらいで結婚させられるのが問題になっていますが、この女の子はそこまで幼くないですし、結婚の年齢は文化によって違うので……。

ハリネズミ:バナナを配る場面は、日本のバナナを連想すると違うと思う。バナナの房はもっと大きいのを買い求めて、お金をあたえるんじゃなくて栄養になるものを与えている。そこは、私はなるほどと思いました。さっきも言ったんですけど、国際援助という観点からはほんとに考えられて書かれている。女の子が早くに結婚するのは、国連もやめさせようとしています。女の子が教育を受ける機会を失うと、貧困の連鎖になってしまうからです。

まろん:瑞々しく、五感を刺激されるような文章で、魔法にかかったような読後感がありました。インドの貧しい人も裕福な人も、みんな生き生きと描かれているのがいいですね。私が一番印象に残ったのは、主人公が外見に非常にコンプレックスを持っている点です。周りから見ると気にしすぎにも思えますが、15歳という年齢は必要以上に見た目を気にしてしまう年頃なのかもしれません。私自身も同じように「私なんかがお洒落をしちゃいけない」と思っていた時期があったので、感情移入しながら読んでしまいました。私の場合は友人に「優越感を持つ必要はないけど、劣等感を持たなくてもいいんじゃない」と言われてはっとした経験がありますが、ジャズも外見の劣等感が消えたことが、自分が変わるひとつの大きなスイッチになったのではないでしょうか。

シア:図書館で借りられたのが最近だったので、軽くしか読めませんでした。10代の女の子による恋の思い込みがよく描かれていると思います。それから、貧困による負の力がどれだけ強いものかということも改めて感じました。カースト制度というのは本当に根強いですね。でも、物語ではそれよりスティーブとのことばかりが前面に押し出されている感じでした。もうちょっと現実の悲惨さを掘り下げて欲しかったんですけど。あとは、女の子が自信を取り戻していく姿もよく描かれていました。女性の自立には必要なことなんだと感じます。自立している女性として母親が出てきますが、彼女は養子であるので自分の生みの親を気にしています。養父母から「いっぱいの愛情しか与えられなかった」のは、最高の育てられ方だと思うんですが、それでは何故か不満らしいですね。それで家族でルーツ探しの旅行に行くわけなのですが、これでは養父母の立つ瀬がありません。自分のやりたいことを達成しようとする力を持った人に育ったことは非常にアメリカ的なのですが、行動の理由がはっきりせず、養父母がかわいそうなだけです。主人公は以前、良い行いのつもりでしたことで人に騙されてしまうんですが、良い行いをするには「脇役を務めた方がいい人も」いると諭されてしまいます。そこまで考えなくても良いのではないかなと思います。騙されないようにするのは当然ですが、立場によっては悪い人とわかっていても助けなければならない場面もあります。関わらないようにするのは、解決ではないと思います。また、ダニタとの友情も物語の軸なのですが、これがかなり力関係のある友情で、全く対等になっていません。何かこの力関係がひっくり返るようなイベントでも入れればいいのに、上っ面の友情が延々と続いて終わります。スティーブとの恋愛模様以外、どれも中途半端な印象です。ハリネズミ:養父母との関連は、どんなに満たされている子でも産みの親のことが気になるということは事実としてあるんだと思います。たとえばバーリー・ドハティの『蛇の石 秘密の谷』なんかにも、客観的にはなんの不満もない養親でも産みの親のことが気になる少年が描かれています。いったん会ってしまうと、それで満足して次の段階に行けるんじゃないでしょうか。

(2016年10月の言いたい放題)


ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙

ペーパーボーイ

『ペーパーボーイ』をおすすめします。

主人公のヴィクターは、ケガをさせた友だちへの罪滅ぼしのため、夏休みの1か月間自分がかわって新聞配達をすると申し出る。ヴィクターは何か言おうとするとどもるので、文節と文節の間にssss・・・を挟んだり、もっと簡単に言える言葉をさがしたり、時には緊張のあまり気絶してしまったりする。

時代は1959年。現代的な言語療法の研究が始まったばかりという時期で、人種差別もまだ激しかった。場所はテネシー州のメンフィス。自分も吃音をもっている著者が、故郷を舞台に回想を織り交ぜながら書いている。

吃音は、「ちょうど世界がひらけて広がる時期に、その人を孤立させ、周囲を困惑させる存在にしてしまう」(作者覚え書より)が、ヴィクターは配達先で否応なくさまざまな人たちと知り合う。美人だけど不幸を背負っていそうな奥さん、本がたくさんある家に住んでいて難しい言葉が好きなおじいさん、いつ行ってもテレビの前にかじりついている少年・・・。通りでクズ拾いをしているR・Tや、芝刈りを仕事にしている巨体のビッグ・サック、そしてだれよりも知恵がありそうなマームというメイドさんからも、ヴィクターは人生について多くのことを学んでいく。そして、見聞きしたこと、考えたことをイプライターで記録していく。

彼が書く文章には、カンマがない。カンマは息継ぎの印だとわかっていても、しゃべる時にたくさん息継ぎをしてしまうヴィクターは、書く時は息継ぎなしにすらすら表現したいのだ。翻訳も、読点なしだが読みやすい日本語になっている。

世界がひらけてヴィクターが成長していく物語の途中には、ヴィクターが父親とは血がつながっていないとわかる事件や、ヴィクターのナイフやお金を盗んだR・Tに、取り返しにいったマームが殺されそうになったり、ビッグ・サックが駆けつけて急場を救ったりという事件も入ってきて、読者をぐんぐん引っ張っていく。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年10月10日号掲載)


吃音を持ち、世間とのつき合いが苦手なヴィクターは、ケガをさせた友だちに代わって、夏休みの1か月間、新聞配達をすると申し出る。その配達がきっかけとなり、ヴィクターは、美人だけど不幸の匂いがする主婦、本がたくさんある家に住むおじいさん、いつでもテレビにかじりついている少年、通りでクズ拾いをしているR.Tなど、否応なくさまざまな人たちに出会うことになる。ヴィクターの成長物語でもあるが、間にさまざまな事件が入り込み、読者をぐんぐん引っ張っていく。翻訳もみごと。

原作:アメリカ/12歳から/新聞配達、出会い、成長

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)


萱野茂文 どいかや絵『ひまなこなべ:アイヌのむかしばなし』

アイヌのむかしばなし ひまなこなべ

『アイヌのむかしばなし ひまなこなべ』をおすすめします。

心根のいいアイヌに仕留められたクマの神様は、その魂を天の国へ送る宴で目にした若者の素晴らしい踊りが忘れられません。クマの姿で何度も地上にやって来ては同じアイヌの矢に当たり、宴で若者の正体をつきとめようとします。このアイヌは、クマの肉や毛糸をたくさんもらって裕福に。さて「暇な小鍋」とは?

アイヌ文化の継承に力を尽くした萱野が採集したこのお話には、道具には魂が宿ると考え、カムイ(神)として敬ってきたアイヌの人たちの考え方がよくあらわれています。人間は他の生命をいただいて生きている、ということの重みも伝わります。独特の文様を取り入れた絵も子どもにわかりやすくて楽しい絵本に仕上がっています。

(「朝日新聞 子どもの本棚」2016年9月24日掲載)


2016年09月 テーマ:自然の厳しさ

日付 2016年9月16日
参加者 アカシア、アンヌ、紙魚、草場、さらら、西山、ハックルベリー、花
散里、パピルス、マリンゴ、ルパン、レジーナ、レン
テーマ 自然の厳しさ

読んだ本:

(さらに…)

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エベレスト・ファイル〜シェルパたちの山

ルパン:ストーリー性豊かで、読んでいるときはおもしろかったのですが……読み終わってから、どうも釈然としないものばかりが残ってしまいました。まず、大統領候補のブレナンが選挙戦中に悠長に登山していていいのか、という疑問。ブレナンに雇われているカミが、ブレナンが休んでいるのに自分は働くことに不平等感を持つのはそもそもおかしい。ジャーナリストであるサーシャが取材相手のブレナンとどなりあったり、ブレナンを面とむかって批判するのもリアリティがない。最後は、カミは全身麻痺、サーシャは死に、ブレナンは世捨て人になり、ニマはブレナンでなくカミを恨んだままアル中に。ともかく救いのない物語。読後感が悪く、登山の様子はよく描かれていますが、子どもに薦めたいとは思いません。物語の意図が、シェルパという職業の人たちにスポットライトを当てたい、ということだったのであれば、完全な失敗だと思います。カミの悲惨な運命には、シェルパへの敬意が感じられません。

アンヌ:最初の語り手が、ギャップイヤーという大学生以前の男の子で、何も知らない様子なのに、いきなり単独行で山奥の村まで医薬品を運ばせるという設定には驚きました。行方不明のカミがほぼ全身まひになっているというところからカミが語る物語が始まるので、ひどいことが起きるのだろうと思いながら読んでいくのはつらく、一度は読むのをやめてしまったほどです。これだけ人が登っているエベレストで、嘘をついてなんとかなると思ったりするのも変で、償いの仕方ももう一つ納得がいきません。最後がエベレストの魅力で終わるのも、奇妙な感じです。山への畏敬の念がない人が書いたんだなと思い、価値観の違いを感じました。お坊さんの話の引用も中途半端で、いかにも「悟り」とか好きそうな欧米人という感触でした。

マリンゴ:惹きつけられる内容で、一気に読みました。ただ、著者のサービス精神が旺盛すぎるように思います。シェルパが山を登って降りてくるだけでも、じゅうぶん読ませるのに。でも、シェルパ族が主人公では、読者がとっつきにくいと思ったのかなぁ。出だしはイギリス人のナビゲーターにしたほうが、イギリスの読者には親しみやすいと考えたのかもしれません。それにしてもシェルパが主人公というのは興味深かったです。これまで登山成功のニュースを読んでも、私自身、関心をもつのは山を登った“外国人”のほうでした。シェルパは高地に強くて、黙々と荷物を運び続ける職業の人、という程度の認識しかなかったので。また描写は、著者本人が実際に登頂しているだけあって、リアルでした。山に遺体があちこち放置されたまま、というのは知らなかった……。遺体を収容できなくても、その場に埋めると思い込んでいたので……。第2弾も出ているとのこと、ぜひ読みたいので、早く翻訳してほしいです。

アカシア:謎に引かれて一気に読みはしましたが、そんなに好きになれませんでした。西欧的な価値観と世界観で書かれているような気がしたんです。たとえばユキヒョウを助ける場面ですけど、自分の生存が脅かされているような地域の人たちは、普通は自分や恋人や家族の命の危険を冒してまで、野生生物を救おうとは思わない。そんなぜいたくはできないんです。それがシュリーヤもカミも、計画もなしに危険を冒す。カミだって携帯電話やメモリーカードを使われたらどうなるかわかっているのにすぐに返してもらおうともしない。この作者はシュリーヤやカミのことを、ピュアだけど知恵なしだというふうに描いているのかと思いました。そうでなければご都合主義。それからカミが頂上まで行けなかったのはカミのせいじゃない。ブレナンが命じたからだし、高山病にかかっていそうなブレナンを支えなきゃと思ったからです。でも、著者はカミに「神様たちにむかって『ごめんなさい』と叫びたい、ばかげた衝動にかられた。あんなに近くまで行ったのに、信仰の証を示せなかったことが申しわけなかった。シュリーヤからあずかった捧げ物を、神々の手にあずけることができなかったことも。そして、ブレナンを頂上に立たせてやれなかったことが申しわけなかった」と言わせている。著者はその後もさんざんカミに悩ませて、雪崩という罰まで加えている。カミはブレナンにはめられたわけですが、首から下が麻痺して寝たきりになり、はめた本人のブレナンが「カミは特別な人間だ」なんて言いながら隠者顔してそばにいる。それなのに著者はカミに「よくきてくれたね」などと語り手に笑顔で言わせている。私は読んでいて気分悪くなりました。歴史的に欧米人に命令されて動くしかなかったシェルパの人たちは、本来ならどこかで生きる知恵を身につけて、割り切り方も知っているはずなんです。もしカミにそれでも申し訳ないと思わせたいなら、遠征隊とは違う理由でカミなりにヒマラヤ(という名前からして西欧的で、この著者の意識を表しているような気がします)の頂上に登らなくてはならない理由があったと著者は書くべきです。それもないので、ご都合主義的に見えます。

パピルス:読んでみたいと思っていた本です。おもしろく読みました。他の方がおっしゃるように、ブレナンがエベレストに登ることで、大統領選にどう影響するのか、おかしいと言えばおかしいですが、そういうものだと思って気にせず読みました。著者がエベレスト登山を経験しているため、ペース配分や酸素ボンベの使い方など細かいところまでリアルに描かれていて、展開を盛り上げたと思います。また、純粋なカミの十代ならではの苦しみがよく伝わってきました。サーシャとの友情や、ブレナンへの忠誠心、シュリーヤへの想いなどです。こういった部分はヤングアダルトならではだと思いました。

西山:おもしろくて一気読みしました。おっしゃる突っ込みどころは、聞けば同感ですが、そういう心理を気にせずに読みました。謎解きで引っ張られてるんですね。ツッコミどころ満載だけど、気にしなければ読める、という読み方自体どうなんだという問題は残ると思います。ただ、テキストだから読みましたが、この表紙で、このタイトルでは、山に興味のない私は手を出さなかったと思います。ノンフィクションだと思っていましたから。

レン:先が知りたくで、どんどん読めました。ストーリーの強さがある作品ですね。ただ、腑に落ちないことがいろいろありました。獣医になる前の社会貢献をする機会としてネパールにやってきた「ぼく」が、いきなりグーグルアースにも出てこないような村に一人で向かうというところで、まずひっかかって。作者はブレナンを嫌なヤツに描きたかったのだろうけれど、あまりに一面的かなとか。内容的に、こんなこと言うかなあ、するのかなあと思ってしまうことがたくさんありました。「シェルパたちの山」と副題にあるのが、あまりピンとこず。山を甘くみちゃいけないということ? 読ませられるけれど、積極的に薦めたいとは思わない本でした。

レジーナ:展開が早く、次々に事件が起きるので、一気に読んでしまいました。副題に「シェルパたちの山」とありますが、シェルパの人たちの人間性は深く描かれていません。作者は、エベレストの厳しさと、社会の不均衡が書きたかったのではないでしょうか。ユキヒョウを助けようと突っ走るシュリーヤのような人物は、ハリウッド映画にときどき出てきますよね。『ジュラシック・パーク』とか。

パピルス:ユキヒョウのところは、カミとシュリーヤが深くつながるきっかけですよね。

花散里:今回の3冊の中で、私はこの本がいちばんおもしろかったです。本書は少年カミを描きたかったのだと思います。ユキヒョウが登場する第3章は、設定が上手いと思いました。シェルパたちの話は、新田次郎の『強力伝』(新潮社)など、山岳小説を思い出しながら読みました。アメリカ人のブレナンなどは物語の登場人物であり、人物像などは、豊富な資金を提供する人間、そういう設定なのかと気にはなりませんでした。ネパールの僻地に医薬品を届ける若者を登場させてストーリーを展開していくことで、カミとシュリーヤの関係性がわかっていくという構成もうまいし、お金がほしくてやってはいけないことをやってしまったという、カミが罪の意識に苛まれていくところも、最後まで一気に読ませると思いました。原田勝さんが訳されたということも、この本を読んでみたいと思った一因でした。

アカシア:でも、この状態で罪の意識をカミに感じさせるのは、西欧的な視点だと思いませんでしたか?

花散里:お金を得るには、それしか考えられなかったのでないでしょうか。

アカシア:だったらなおさら、著者はなぜカミに罪の意識を感じさせるんでしょう?

花散里:ブレナンに対して拒絶できなかったこと、シュリーヤとの約束を守れなかったことを、「捧げ物を、神々の手にあずけることができなかった」と表現したのではないでしょうか。

アンヌ:シェルパの人たちが持っている信仰は別のものではないでしょうか。カミは雇われて山に登っただけ。それなのに、嘘をついたことへの罪の意識とか、罰が当たったことを受け入れているところとか、何か同じ価値観を押しつけている気がします。

花散里:愛情表現ではないでしょうか。

アカシア:カミは遠征隊の中では自由意志が発揮できない存在なんです。シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけないんです。「純粋だけど愚か」という設定にしているんじゃない?

ハックルベリー:児童文学の山登りものといえば、山を登るのは感動的で、基本的にいい人という描き方がほとんどでしたが、名誉名声のために登るとか、シェルパをお金で買って登るとか、汚いものがリアルにからんでいる、というのがおもしろいと思いました。シェルパの人たちの価値観は描かれていると思いますが、なにぶんカミは若いです。お金がほしいとか、愛を貫きたいとか、思いが単純で、まだまだ未熟で、シェルパの地域の価値観もわからない中で、どんどん悪い方に巻き込まれている感じが悲しい。カミはそのつど純粋に悩んで決めているんだけど、ひとつひとつどこかずれていく。カミとニマが山に置き去りにされる場面など、衝撃的で、胸に迫りました。簡単に人の命が犠牲になる、そうして世の中から置き去りにされていく人たちを描いている文学という気がします。山に登るピュアな気持ちとか、感動とかいうより、この世界に置き去りにされていく、というのを描いていると思いますし、それは実際にあることです。そういう社会構造そのもののおかしさとか、愚かなことがつみかさなっていって、こうなりたくないという例の物語として読みました。

アカシア:だれも幸せにはならない物語ですね。

ハックルベリー:「山登りの汚さ」も見るべき、と思いますし、そういう物語があってもいいと思います。

(2016年9月の言いたい放題)


<翻訳者・原田勝さんからのコメント>

バオバブのブログの読書会の記録で『エベレスト・ファイル』をとりあげてくださってありがとうございます。
この物語は世界最高峰をめざす過酷な登山を背景にしているだけに、つらい描写もたくさんあるのですが、読書会に参加なさった方の発言の中には、少し、訳者であるわたしの理解と異なる点があり、メールをさしあげました。また、原作者のマット・ディキンソンの社会的な批判の目や、また自ら登山や冒険、過去の取材を踏まえた彼の執筆活動も尊敬していますので、そういう面でもいくつか訳者からの補足情報を以下に書きたいと思います。読書会のメンバーの方にお伝えいただけると幸いです。

1)大統領選中の登山
たしかに、少し無理もありますが、ブレナンは本選挙前の、そして、党指名を勝ち取る予備選挙の、さらにその前の時期に登山しているという設定です。

2)サーシャがブレナンとどなりあう
これは、ブレナンがサーシャの報道の自由を侵害するような行為に出たからで、ジャーナリストとしては極めて当然のことです。実際にこういうことはあると思います。日本の記者クラブの御用記者体質がむしろ批判されるべきでしょう。

3)カミが全身麻痺で終わることについて
これは、じつはわたしもつらいと思っていたのですが、もともとこの作品は三部作の一作目で、先月来日していたマットと会った際にきいたのですが、三作目の完結編で、このつらい状況を補うような方向での結末が用意されています。残念ながら、これは現時点ではネタばれなので、ここには書けません。訳せるといいのですが……。

4)シェルパへの敬意が感じられない
ニマのアル中のことや、カミの容体などを見るとたしかにそうもとれますが、しかし、そもそも、シェルパを主人公にした作品が大人向けの山岳小説にもほとんどないことを考えると、原作者の強い思いを感じます。マット本人から聞きましたが、イギリスの大手の出版社は、主人公がシェルパであることがネックで、なかなか出版が決まらず、結局、版元はアウトドア関連の本を出版している比較的小さな出版社になったそうです。
また、海外の登山隊が落とす外貨がシェルパの収入源になっているのは事実で、お金をめぐるトラブルも多々あると聞いています。また、同じように命がけで登山しているのに、その配慮がないこともあります。お金のために、過剰な荷を背負って事故にあうこともあります。作品中で、カミとニマは撮影後、クレバスの中に取り残されますが、これは実際にあった事件を題材にしているそうです。
カミがあまりに純粋なので、ばかにしている、というような意見もあったようですが、いくつかのネパールでの旅行記などを読むと、シェルパ族の人たちの人の良さというのがうかがわれ、決して馬鹿にしているのではなく、民族の美点として抽出していると、わたしは考えています。

5)自然への敬意
シュリーヤがユキヒョウを守りたい一心で行動することに対して、そんなぜいたくはできない、という意見もあったようですが、とても残念な意見です。たしかにそれどころではない人も多いでしょうが、ネパールの人たちが自分たちの暮らす地域の自然を守ろうとする気持ちで行動することはきわめて当然ですし、もちろん、フィクションなので、こんな危ないことはしないと思いますが、彼女の気持ちはわたしにはとてもよく理解できます。

6)山への畏敬の念と山の魅力
カミがエベレスト(ネパール語ではサガルマータであることが、きちんと作中ふれられています)に登りたいと思い、ライアンがラストシーンで、エベレストの姿にどうしようもない引力を感じ、また、そもそも、世界中の登山家がエベレストに登りたいと思う気持ちは、あらゆる危険や犠牲を超える不思議なものだとわたしは思います。
じつは、ライアンがエベレストを遠くに望むラストシーンは、第二作の “North Face” で、彼自身が主人公となって、今度はチベットでの冒険が描かれることへのつなぎでもあり、それはこの作品を読むだけでは感じられないかもしれませんが、理屈抜きの魅力を夕日のあたる山頂で表現したのは、とてもうまいと、わたしは感じています。

7)カミの罪の意識
シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけない、という意見がありました。そうでしょうか? たしかにお金で雇われてはいるのですが、きちんとした遠征隊で、立派なシェルパであるならば、エベレスト登山は単なる仕事ではないはずです。シェルパの人たちにとって、エベレストは信仰の山でもあり、また、世界最高峰でもあるし、なにより、人間の限界に挑む命がけのチャレンジであるはずです。
その神聖な山に登っていないのに登ったと嘘をつくこと、また、ベテランのシェルパであれば、もっと早くテントを出発するよう助言できたのではないか、あるいは、もっと早く引き返す決断を下せたのではないか、そういう悩みがあるがゆえに、カミは罪の意識を覚えるのです。

8)だれも幸せにならない物語
これも、三作めの一作目であることが大いに関係しているとは思いますが、たしかに厳しい物語です。しかし、エベレスト登頂がやはりとても大変な事業であり、頂上を目前に引き返した無念さを味わった登山家も多く、また、無理をして登頂には成功したものの下山中に命を落とした登山家も数多くいるのです。それでもなお、なぜ、世界中の人たちが登頂を目指すのか、答えはひとつではないでしょうが、少しでも、その危険な魅力を読者に感じてもらえればと思います。

9)ご都合主義について
たしかに、ちょっと無理があるんじゃない、という設定はありますが、エンタテインメント性を備えた小説には許される範囲だとわたしは思っています。これは、この作品に限らず、とくにヤングアダルト作品には、こうしたアドベンチャーもの、SF、スリラー、ホラー、サスペンスなど、がもっとあっていいと考えています。大人だけがこういうジャンルを楽しんでいて、若い読者はつじつまのあうものだけを読まされるのはどうなんだろう、と前から思っています。わたしの訳したものの中では、ケネス・オッペルや、ガース・ニクスが、もっと日本で評価されるとうれしいのですが。

10)原作者の意識
マット・ディキンソンは、BBCやナショジオの映像作家をやってきた関係で、自然保護やアドベンチャー、社会正義といったテーマにとても敏感な作家です。ヤングアダルト作家としての最初のシリーズは、いわゆるバタフライ現象をもとにした、エコロジカルなサスペンスでした。この「エベレスト・ファイル」のシリーズは、すでに “North Face” という二作目が出ていて、三作目、”Killer Storm” は来年出る予定。訳せるといいのですが。
今年は “Lie, Kill, Walk Away” という、政府による内部告発者の抹殺を背景にした(実際にそうではないかと疑われている事件がイラク戦争にからみ、イギリスでありました)、ヤングアダルト向けのサスペンスものを書きました。
ただ、これも大手の出版社からは出してもらえなかったそうです。
こういう作家がいてもいい、と思います。


いま生きているという冒険

さらら:生きるというのは、世界を経験すること。今生きている普通の世界のむこうにある、さらに広い世界を作者は経験し、若い世代に伝えようとしているんですね。南極まで行けて、よかった! 様々な冒険で広がった想像力を通して、この作者は日常もほんの少し視点を変えればまったく違うものが見えてくることを、併せて伝えています。写真の割り付けに特徴がありますね。写真を文章とは切り離して出すのは、不親切からではなく、その写真を前にして、読者がまず感じることを大切にしているのでしょう。

ルパン:わたしは、これはすばらしい本だと思って読みました。インドひとり旅やエベレスト登山など、個々の冒険だけでも1冊の本になるのに……アラスカ、北極、太平洋横断挑戦など、世界をまたにかけた数々の冒険の末、最後の3行「家の玄関を出て見あげた先にある曇った空こそがすべての空であり、家から駅に向かう途中に感じるかすかな風の中に、もしかしたら世界のすべてが、そして未知の世界にいたる通路が、かくされているのかもしれません。」で、もう胸がいっぱいになってしまいました。KOです。そこだけ切り取ると、言葉だけでは陳腐になってしまいそうなのに。こんなにいろんなものを見てきた人だからこそ説得力のある3行です。ここまでくると、中途半端なフィクションでは太刀打ちできない、と思いました。

アンヌ:若者の冒険談だと思って読み進めていたのですが、p116の白クマとの遭遇あたりから、おやっと思い始めました。ここら辺ではまだ、Pole to poleだったので、冒険ものとして読んでいたのですが、足が震えて白クマが去ったとも動けなかったと恐怖について書かれているところから、成果を語るのが目的ではないと気づきました。特に星の運行術を学ぶあたりからは、冒険ではなく自分自身の中にある先人が持っていた能力を掘り起こす旅になっていき、この章ではとても感動し、羨ましく思いました。ところが、次の空への能力を身につける気球の旅はあまりに無謀で、あっけにとられました。最後の章では、冒険とは何かという考察で始まり、宇宙を内部に持つことが語られていきます。古代の人々が描いた岩壁画や洞窟画、様々な聖地で、別の未知なる世界が自分の中から開かれていく可能性について語るところは、共感するものがありました。現実の世界とは違う世界を探すことは、精神の、想像力の冒険という見解には、実に心を揺さぶられました。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。写真が、カメラマンだから当然ではありますが、すばらしいし、文章も読みやすい。石川さんの文は、他でも読んだことがあるのですが、この本では彼のルーツを順にたどることができて、そういう意味でもよかったです。クラスでいじめを受けたり、イヤな思いをしている子が読んだら、そんな狭い世界のことは大したことない、と励まされるような気がします。外にはもっともっと、広い世界があるのだ、と。もっとも、自分がこれを読んで旅に出たくなるかというと、全然そんなことはなくて(笑)、旅のレベルが桁違いなので、ただただぼう然としながら読み進めていました。自分とこの著者は、生まれ持ったDNAがまったく違うんだなと痛感させられたりもして……。ただ、巻末に近いところで、日常的な生活のなかにも旅はあるのだ、とフォローしてくれている一文があるので、ホッとした次第です(笑)。余談になりますが、この「よりみちパン!セ」というシリーズ、読んだことがなかったのですが、とてもおもしろそうなラインナップで、他にも手に取ってみたいなと、いまさらながら思いました。

アカシア:とてもおもしろく読みました。最初はちょっと疑問を持っていたんです。たとえば、日常は退屈で戦場のような非日常の空間にいると生きてる気がする戦場ジャーナリストっていますよね。この人もそんな感じで冒険アドレナリン中毒なのかな、と思ったんです。でも、最後の「未知の領域は実は一番身近な自分自身のなかにもある」というところに、20代の後半ですでにたどりつく。それはすごいことですね。ところどころにイラスト入りのコラムがあって、その入れ方も楽しめました。

紙魚:今回、選書するにあたって、いちばんはじめに『レッドフォックス』が決まったのですが、日本の作品でそれに並ぶものをと考えると、なかなか浮かばず、違う物差しでスケールの大きなものをと考えて出てきたのが、この本です。石川直樹さんご本人が、なにしろスケールがどでかくて、身体能力も高ければ、強調性もあり、人類学の知識もあり、文学・音楽など芸術にも造詣が深い。どの分野にもつねに能力を伸ばしている、希有な人だと思います。しかも、エベレストに登る1歩と、三軒茶屋の街を歩く1歩は変わらないと、本気で考えているというのも、素晴らしいと思うんです。さきほど、写真の入り方について話が出ていましたが、おそらく、その場にいてその世界を感じるということを、写真でも表現しているのではないかと思います。その場に行ってシャッターを切るだけで、世界はなにも説明してくれない。私たちも、この本を読むことによって、何かしらそこに立ち合っているのではないかと思います。

パピルス:わくわくしながら読みました。高校時代や大学時代。自分も異文化や大自然へ飛び込むチャンスは絶対にありましたが、石川さんのように1歩踏み出す勇気がなかったと思いました。留年して同級生から取り残されるとか、就職活動できなくなるとか、いろんなしがらみがあって、それを振り切ることができませんでした。石川さんは、十代の頃から見ていたものや目指していたものが違ったのでしょう。山への信仰は、畏敬の念からはじまっているというお話が特に印象に残りました。

草場:すごくおもしろく読みました。団塊の世代にはフラッと旅に出る人が多くいましたが、今の学生は保守的ですね。この人みたいに、命ぎりぎりのところに行く人はあまりいない。あの頃は、植村直巳が山だけでなくバラエティに富んだ冒険をしていました。今の若い人も、少しでも冒険をしてほしいですね。留学したくない若者が今は多く、最近は消極的だとききますが、こういう本を読んで刺激を受けて世界に出て頑張ってほしいです。

西山:前にどこかで今の若い人が留学にも消極的とかそういう話が出たときに、30代ぐらいの人だったかな、近年の貧困の問題もあるから経済的にも冒険に行くのが許されない状況があると述べられたことがあります。経済的に上向きのときには、若者がふらふらしているのが許されるのかもしれない。だいたい今の日本で、高校の先生がインドへの一人旅をすすめるというのは、かなり難しいと思います。

レン:状況によるのかなと思います。私が教えている大学では、休学して自費で留学する学生が昔より増えているみたいです。一方で、学生が行きたがっても、親が止めることもあるし。一概に言えないかな。

アカシア:この本でも、「それぞれの街で最安値の宿に行き着くと、そこには必ず日本からのバックパッカーが泊まっています」と書いてあるから、今でも行く人は行ってるんだと思います。ひとくくりに今の若者が保守的とは言えないかも。

西山:本文のおまけのような、カット入りの注釈がおもしろかったです。例えばp16のバックパッカーの説明とか、笑える。ちょっと気になったのは、気球で高度をあげる危険を語っているところで、「死ぬ前の一瞬の恍惚だったといいます」という記述がありますが、体験者は死んでいるのでは。全体としては、おもしろく読みました。p264の1行目に出てくる「見晴らしのよい静寂なところ」という言葉が気に入って、今回合わせ読んだほかの2冊にも出てきたなぁと。なんか、作品とは離れて、そういう場所が出てくる作品って素敵なんじゃないかと思ったりしました。p124の最終行に「マヤ」とあるのは、インカのまちがいですね。ちょっと残念。

レジーナ:私は勤め先のブックトークで紹介しました。犬ぞりの操縦者の家の前に並ぶたくさんの犬小屋の写真や、気球で生活するときの小さなゴンドラの写真を拡大して見せましたが、中学生は喜んで見ていました。私は中学のとき、学校で長倉洋海さんや辺見庸さんの話を聞いて、とてもおもしろかったのを覚えています。今、「この国はこう」と決めつけるメディアが増えていますが、世界に飛びだして自分の目で確かめることができなくても、こういう本を読んで世界を広げてほしいです。

花散里:今回の課題本になるまでこの本を知りませんでした。「よりみちパン!セ」シリーズが、薦めてみたい本のシリーズではなかったから読んでいなかったのかもしれません。読んでみて、世界中を旅してすごいと思いましたし、たくさんの写真が紹介されているとは思いましたが、文章に引っかかるところが、かなりありました。個人的には「深夜特急」(沢木耕太郎著 新潮社)で、アジアを知り、「旅とは何だろう」と思ってきました。この本は中高生向きだから、こういう書き方なのだろうか、という感じがしました。「深夜特急」以降バックパッカーが多くなり、紀行文やノンフィクションの書き手も増え、藤原新也さんの作品などが多く世に出たという時代の流れもあるのかもしれませんが……。小学校では、「グレートジャ―二―」のシリーズを借りて読んでいる子もいます。

アカシア:文章がひっかかったというのは、どこ?

花散里:全体的な印象ですが……。中高生に向けて書いているから、ちょっと浅いというか、こういう表現なのかしらと、思える文章が気になりました。

マリンゴ:沢木さんの『深夜特急』は全巻読みましたし、藤原新也さんも読みましたが、石川さんとは、アプローチが違う気がします。むしろ真逆なのかな。前者の方々は、自分探しの旅といいますか、自らの内面に向けて書いているところがあるように思うのですが、石川さんは外に向けて書いているのではないか、と。

アカシア:この著者が子どもだからこの程度でいいと思って書いているとは、私は思いませんでした。最初は好奇心でどんどん進んで行って、次々に新しいことに挑戦しているから、一つのテーマや場所を見つめて深く、というのとはもともと違うんだと思います。「よりみちパン!セ」は、いろいろな分野の入口として存在してるから、入口の役目が果たせればいいんだと思うし。

レジーナ:昔の中高生はちくまプリマーなど新書を読んでいましたが、今は大学生が読んでいるので、「よりみちパン!セ」はより読みやすい中高生向きの新書として作られたのでは。大学のとき、論文で新書を引用した人がいて、先生が激怒していましたが、新書が学術書でないように、このシリーズも高度な読書にはならないけれど、そこから広げていける本ではないでしょうか。

アカシア:昔は岩波新書が中・高校生の学問の入口だったと思うんです。今はそれじゃあ難しいので、こういうもう一段わかりやすいシリーズになってるんじゃないかな。

花散里:「インド一人旅」のp29「地獄におちてもらうぜ!」などの書き方が、これでいいのかしらと思いました。世界中を旅して、この1冊にまとめるのには無理があり、全体的に盛り込みすぎな印象でした。

アカシア:深いところにおりていってそれを伝えるというのとは、やり方が違うし、このページ数で、しかもあちこち行っているから、それは仕方がないのでは? 「深夜特急」も「グレートジャーニー」も大部ですから、もっと細かい観察ができる。藤原新也もたとえばインドだけで400ページ以上あるわけですから、当然のことながら細かく観察しつづけている。こっちは、同じような好奇心でも、どんどん違う方向に行くので、一つのことについてが浅いといえば浅いですが。沢木さんや藤原さんの本は著者と一緒に地面を這っていくような感覚になれますけど、これはここと思えばまたあちら的に陸から海、海から空みたいに飛ぶので、しみじみ観察するということはない。でも、好奇心をこういう形で持続させるのもありだと思うんです。また、若い勢いのあるうちは、先人がすでにやっていることを繰り返すのは嫌なんだと思うんです。だからインドならインドをじっくり歩いたりしても、それは他の人がすでにやっているので、二番煎じになる。そういう意味では、判断力にしても身体能力にしても、いろいろな場面で自分を試してみようと思って、しかもそれを可能にしていくのはやっぱりすごいと思います。

花散里:p17の、旅に出るということはどういうことなのかの説明にも私は違和感が…。

アンヌ:私は、この1冊の中で著者がどんどん年齢を重ね、その過程で考えを深めていく感じがしました。いわゆる冒険家とは違う人だなと思い、とても新鮮でした。

(2016年9月の言いたい放題)


レッドフォックス

さらら:久しぶりに動物の物語を読みました。レッドフォックスの視点に、ぐんぐん引きこまれます。鋭い観察眼に基づく情景描写が的確。野生動物の動物らしさにも魅かれます。人間と動物の視点を分けて書き、複数の価値観が響きあうところも好きです。対象年齢は高学年以上とありますが、本をたくさん読んでいる子でないと、読みこなせないかもしませんね。

ルパン:なんだか懐かしい思いで読みました。子どもの頃読んだ椋鳩十を彷彿とさせる感じで。数十年ぶりにこういう作品を読んだ気がします。動物にいっさいせりふがなく、くどくどと心理描写をしていないところがいいですね。

アンヌ:最初にこの本を見た本屋では表紙を見せて飾ってあって、なんとなく、クリスマスのプレゼントに魅力的な本だなと思いました。実に淡々と成長の過程や狐の生活が描かれています。ジャック・ロンドンの『白い牙』とか『荒野の呼び声』(新潮文庫)、ニコライ・アポロノヴィッチ・バイコフの『偉大なる王(ワン)』(新潮文庫)を読んで育った身としては、たまらなくおもしろかった。けれど、火事の場面やキツネ狩りの場面など、いくらでもドラマチックに盛り上げられる場面もそうせず、静かに終わっているのには、驚きました。大人でも、読み続けていくのは難しいかもしれない量で、今の子どもには無理かもしれません。たとえ全て読み通せなくても、狐の見事な死んだふりの場面とかを読むと、「狐のルナール」(『狐物語』 岩波文庫)とか、日本の民話とかを読み返したくなったので、そういう物語の入口になればいいと思います。動物好きの子どもに手渡したいなと思います。

マリンゴ:子どもの頃、家に『シートン動物記』の完全版がありました。大人向けだから小学生にはちょっと手強かったんですが、それでもおもしろく読んだのをなつかしく思い出しました。『シートン動物記』が、「オオカミ王ロボ」など、動物に固有名詞をつけて感情移入させやすくしているのに対して、『レッド・フォックス』は、人間に寄せて書くのを極力排除しています。それが、とても興味深くて、楽しく読みました。ただ、大人の今だからそう思うのであって、子どもだったら、もしかして読みづらいのかな?という気もしました。あと、1905年に刊行された本が、なぜ今、日本で発売されるんだろう、ということが不思議です。あ、決して悪い意味じゃなく、素朴にどうして「今」なんだろう、と。

アカシア:とてもおもしろく読みました。「まえがき」で、「レッド・フォックスが示す感情は、人間の感情ではなくキツネ本来のものだ」とか、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物にあてはめているのではない」と繰り返していますね。シートンの動物物語にもそういう批判があったと聞きますが、その批判は当たっていないということをまず言っておかないと、という意気込みが感じられます。これだけの物語を書けるのは、森林がある環境で小さいうちから動物を身近によく見て観察した人ならでは。一定のスピードで読むと引き込まれてどんどん読めますが、今の子どもの読むスピードだと、ふんだんにある自然描写に手こずるかもしれませんね。オリジナルの絵の下に文字をいれたりして、クラシックな感じですね。表紙ももともと布張りに箔押しで金を使ってあるのでしょうけど、それを生かそうとした装丁ですね。

さらら:情景描写の翻訳は難しいんじゃないですか。翻訳者は見ていない情景を想像し、目に見えるような場面にして読者に差し出すわけですから。

草場:おもしろく読みましたが、高学年でこういう話が好きな子じゃないと読まないかも。レッド・フォックスは頭のいいキツネで、死んだふりをするんですね。サバイバルできてよかったです。それにしても、野生の動物なので、最後に環境が変わってもいきられるのでしょうか?

アカシア:まったく同じ場所でなくても、似たような環境の場所なら充分生きられるのではないでしょうか。

パピルス:著者が森に住む動物たちをとても細かく観察しているため、様子が目に浮かぶようです。1章ごとに日々の森での生活が描かれていますが、出会いと別れ、そして成長があり、物語として上手に組み立てられているなと感心しました。翻訳本を多く手がける出版社の編集者が、「翻訳本の良いところの一つに、古い作品でも訳を変えればまた新しくなることだ」と言っていました。この作品は1905年に発表されましたが、日本では2015年に出版されました。100年以上前の作品にはなりますが、表現や言い回しで「古い」ということで、読んでいて気になることは全くありませんでした。

西山:久しぶりに、こういうものを読みました。全体を通していちばん思ったのは、自然界では、若いというのは愚かということで、愚かでは生きていけないんだなぁということ。人間の話だったら、特に児童文学では、若者の好奇心や、無謀な行動も、それで失敗することがあっても、根本的には価値あるものとして捉えられていると思うんです。それに対して、自然界は、若さは馬鹿で命を落とす。翻って考えれば、人間の社会は、弱くて愚かでも生きていける、それが人間が作ってきた社会なわけで、弱肉強食的自己責任論とか、人類の歴史に逆行しているのだなと改めて思いました。「那須正幹の動物ものがたり」(くもん出版)と、並べて読んでみるとおもしろいかもと思いました。272ページの、捕まってしまった場面で、つながれた鎖から逃れようとして、干し草に埋めて、見えなくしたら、鎖をなくせるんじゃないかと試みるところがありますよね。あれなんか、ものすごくおもしろかったです。そういう行動をするんでしょうね。見えないと存在しないと思うのは、幼い子ども同じでしょうか。あと、みなさんもおっしゃっているように、挿絵の下に文章をそえてあるのが、懐かしくて、その懐かしさが新鮮でした。『岸辺のヤービ』(梨木香歩/作 福音館書店)もそういうクラシックな作りにしていましたよね。福音館の本作りのポリシーの表れでしょうか。

レン:とてもおもしろかったです。文章がいい。きびきびしていて、ひっかかるところがなく、すっと入ってきました。すごい観察力ですね。今の子どもがどのくらい読めるかはわからないけど、小さなエピソードを読んで聞かせたら、ひきつけられて読むのではと思いました。絵はやや地味な感じもしますが、しっぽの付け根とかヤマアラシのとげとか、絵があるおかげでよくわかってよかったです。狐でもかしこいのとかしこくないのがいるんだ、というのがおもしろかったです。テレビのように映像でぱっと映せるものがなかった時代に生きていた人はすごいですね。よく見て、すべて言葉で情景を浮かび上がらせていく。そういう力や辛抱強さを、私たちは失いつつあるなという気がしました。

さらら:テレビや映像に浸かっていると、言葉に再構成された情景を、自分の頭で想像するのが苦手になり、まどろっこしいと感じるかも。

レン:すぐにはイメージできないこともあるでしょうね。事件が立て続けにおきて、ひっぱっていくようなストーリーじゃないし。絵本、幼年童話、中学年と、物語を読むことを積み重ねて、こういう本を読めるようにしていきたいですね。

アカシア:本をいろいろ読むだけでなく、実体験もないと情景が浮かびませんね。深い森に入った体験とか。

レン:ああ、そうですね。何が進歩だろうって思います。

レジーナ:キツネの視点で描いていて、しかも、ほかの動物との関連性の中でキツネの生活を描いているのがおもしろいと思いました。ちょっと長すぎる気もしますけど。表紙も美しく、献辞のページで、挿絵が逆三角形に配置されたデザインも素敵です。クラシカルで好きな文体ですが、今の小学生が読むには難しいかもしれませんね。大人が少しずつ読み聞かせてあげるといいのでは。

紙魚:最近の本は、会話や心理描写が多くて、そこまで聞こえてこなくてもと感じることも多いですが、この本はそうでないので、読んでいて静かな興奮を味わいました。人は、小さな声にこそ耳をすませることもあると思うからです。動物を主人公に三人称で書くということは、作者がどれくらい、その動物に自分が想像した感情をのせるかということが問われると思うのですが、ところどころレッド・フォックスの感情は書かれているものの、それが大袈裟すぎない塩梅が絶妙でした。文章での執拗なまでの情景描写と、時折差し込まれる挿絵が、充分に想像を助けてくれたと思います。ただ、今の子どもたちがこれをおもしろがるかと考えると、疑問も残ります。なぜ今、刊行したかということを、ぜひ版元さんにきいてみたいところです。

花散里:学校図書館に勤務していて、かなり読書力のある子どもたちもいますが、この本は中学生以上だと思います。「シートン動物記」シリーズとも比べられるかもしれませんが、動物物語としてレッド・フォクスが描かれているのだと思います。椋鳩十の作品のおもしろさを知っている子は読めるのではないでしょうか。最近、刊行された『ゆうかんな猫ミランダ』(エレナー・エスティス作 津森優子訳 岩波書店)のように、動物を描いていておもしろかった本もありますが、この本は自然の中でのサバイバル物語として、動物たちが描かれていると思いました。スカンクにとびかかって呼吸困難になるほど強烈な一発をくらい、その臭いのために巣にも入れてもらえなかったけれど、そのあと狩りがしやすくなど、動物の世界のおもしろさが、楽しめました。「シートン動物記」などとも、一緒に薦めてみたいと思う印象的な本でした。

さらら:物語はキツネの父親、母親と子どもたちの話から始まるのですが、主人公となる「レッドフォックス」の名前を出すタイミングが、絶妙でした。

アカシア:原文は最初は小文字のred foxで、途中から大文字のRed Foxになるのでしょうか? 椋鳩十さんの動物物語はもっと情緒的で、ぎりぎりの冷徹な観察に基づいたものとは違うように思います。ただ椋さんの物語を入口にして、こういう作品にも向かってくれればいいですね。

西山:情緒過多じゃないのが、逆に、本が苦手な子には読みやすいということもあるかもしれません。気持ちを読み取るのが苦手で、本が苦手という声を聞くことがありますから。

紙魚:まえがきで、作者が、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物に勝手にあてはめているのではないのです。」と書いていて、その気持ちはよくわかるものの、子どもが最初にこれを読まされたら、あまりおもしろくはないのでは。原書はまえがきなのでしょうが、あとがきに持っていってもよかったのではと感じました。

さらら:この作品は、シートンより少しあとに発表されています。シートンが当時受けた批判をかわすために、こんな前書きをつけたんじゃないでしょうか。

アカシア:一つ一つの文章も、今の子にすると長めなんだと思います。だからといって、今の子に口当たりのいいものだけを出していればいい、というもんじゃない。裏表紙には「小学校上級から大人まで」となっていますね。

(2016年9月の言いたい放題)


いとうみく『アポリア』

アポリア〜あしたの風

『アポリア〜あしたの風』をおすすめします。

2011年の東北大震災に関連する本は、これまでにもいろいろ出ている。この作品も、その系列に入るが、なんと舞台は東京近辺で、時代は近未来に設定されている。

主人公は中2の一弥。ふとしたきっかけから同級生に殺意をいだいた自分が恐ろしく、人間と付き合うことを絶って不登校になり、自分の部屋に閉じこもっている。ある日、突然大地が大きく揺れ、津波が襲ってくる。母子家庭の一弥は、なんとかして母親を助けようとするが、そばを通りかかったタクシー運転手の片桐に腕をつかまれ、無理やり避難させられる。一弥は片桐を恨み、避難先でも最初はだれにも心を開かない。

震災というのは、大きな悲しみや苦しみをもたらす一方で、これまでの社会では出会わなかった年齢も職業も背景も異なる人たちが生身の人間として出会うきっかけにもなりうる。

この作品の縦糸は、そうした出会いを通して少しずつ変わっていく一弥の物語である。子どもとおとなの中間にある中2という年齢だからこその揺れも、うまく描かれている。

また横糸となっているのは、一弥が出会う人々がそれぞれに背負っている物語である。片桐以外にも、一弥の叔父である健介、無理心中を図った祖父と一緒に避難している4歳の草太、自分の欲に負ける一方で他人を偽善者とののしる元看護師の中西、ネコと一緒に助けられた中3の瑠奈などが登場し、それぞれが生身の人間としてぶつかり合いながら、死を目の当たりにしてたじろぎ、いのちについて思いをめぐらせ、やがてそれぞれに生へ向かう道を歩み始める様子が描写されていく。限られたページ数の中で多様な人々それぞれの物語を描ききるのは至難の技だが、一人一人の人間を描こうとした著者の努力によって、骨太の作品として立ち上がっている。

ちなみに「アポリア」とは、ギリシア語で「道がないこと」を意味しているという。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年8月8日号掲載)


2016年07月 テーマ:語られてこなかった真実

日付 2016年7月24日
参加者 アカシア、西山、アンヌ、アカザ、レン、さらら、マリンゴ、ルパン
テーマ 語られてこなかった真実

読んだ本:

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墓守りのレオ

アンヌ:題名を見た時から、ピーター・S・ビーグルの名作『ここちよく秘密めいたところ』(創元推理文庫)に似た話かなと危ぶみながら読み始めました。まあ、「吸血鬼」の例もありますから、いろいろなバリエーションで拡がって行くのもおもしろいとは思います。『ここちよく秘密めいたところ』は、霊園の中の霊廟に住みついた男が主人公で、幽霊と話ができます。カラスが運んできた食物で生きていて、カラスは男とも幽霊とも話ができる。『墓守りのレオ』では、主人公の少年レオは正式な墓守として霊園に住み、同じように幽霊と話ができて、一緒に住んでいる犬は彼とも幽霊とも話ができる。そして、その霊園での生活に、殺人事件が絡んでくる。似ているのはここら辺までです。『墓守りのレオ』では、幽霊は自分が死んでいるのだと気づいた時にあの世へ行かないと、幽霊としてこの世を永遠にさまようという決まりがあります。他にも、これは少し反則ではないかと思える仕組みがあって、幽霊が物を持てたり、書類を書いたりできます。まあ、飴買いの幽霊とか、物が持てる幽霊はたくさんいますが、書類を普通に書ける幽霊は初めてです。幽霊にこんなことができたら、遺言書も書きかえられちゃって推理小説などは成り立たなくなるんじゃないかと思いながら読みました。第1話が自覚のない幽霊の話で、幽霊が自分の死に気がついた時にあの世へ行くというきまりがここで説明されます。第2話では、犬が語り手になって、レオの生い立ちが説明されます。ここまででなんとなくこの物語世界の仕組みが分かり、第3話は、いよいよレオが幽霊と話せる特殊能力を持って、生きている殺人者を改心させます。一応おもしろいけれど、この少女を狙い続ける連続殺人者にあまり同情心はわきませんでした。3話中2話が殺人事件ですから、暗澹たる気分にもなります。生きている者や死んでいる者、それぞれの世界での独自の物語がまだ始まっていない気もします。シリーズ化する予定があるからでしょうか? 主人公に魅力はあるけれど、構造や物語の方向性に不満が残る感じでした。

ルパン:私も、幽霊が物をさわれる、というのにひっかかりました。ご都合主義で、物語が台無しになっている気がします。唯一、最初の「ブルーマンデー」は、女の子が死んでいる、という設定にドキっとさせられましたが、あとの2編はおもしろいと私は思えず、好感も持てませんでした。文庫の子どもに読ませたいとは思えませんでした。

さらら:まんがの原作を読んでいるみたいな、人物像のうすっぺらさが気になり、お話の中に入ろうとしても、入っていけなかったんです。最初のほう、p14の「彼は、特別な男の子。理由なんてわからないけれど、そんな気がした」というエミリアの語りに、まずつまずいてしまいました。こういう文体がはやっているのかなと思いなおし、そういう視点で読むことにしてみました。翻訳調ですよね。p169の「彼は、わたしの理解の範疇を超えていた」を例にあげるまでもなく。もってまわった文体は別にしても、幽霊が普通なら許せない存在のパパを「許すわ」って、すぐに言ってしまったり、ママが娘の昇天にすぐ納得してしまったり、これで読者は満足するのかなあと、疑問が残りました。

レン:書き割りのような場面で、輪郭だけの人物が動いているような感じで、あらすじを言えば足りてしまうお話だなと。最も違和感をおぼえたのは、主人公のレオに迷いや感情がないこと。思春期というのは迷うものだと思うのですが、レオは全能者のようで、まったくリアリティが感じられませんでした。文章も感覚的で生硬の感があり、違和感のある表現がちらほらありました。たとえばp143の後ろから4行目「わたしが置いたときとまったく同じ位置に、行儀正しくおさまっている」の「行儀正しく」とか。表紙がかっこいいので、黙っていても中高校生に手にとられそうだけれど、私は勧めたいとは思わないかな。

西山:ものが持てるという設定に、ちょっとひっかかりつつ読み進めたけれど、墓守ひきつぎの書類が書けてしまったところで、ご都合主義すぎるだろうと、決定的に覚めてしまいました。最初読み始めたときに、濱野京子さんの『ことづて屋』(ポプラ文庫)――死者の声を聞いてしまって、伝えるという――を思い出して、時代の要求みたいなのに応えているのかと興味をもちました。ただ、ご都合主義的な設定があると、切なさにいかないというのか。どう読めばいいのだろうと。「パパのことを許す」というのは、妙な理屈なんですが、そういうのが好きな高校生がいるんじゃないかなと思いました。最後の話で思い出したのは『悪の教典』(貴志祐介著 文藝春秋)で、サイコパスというのでしょうか、表はとても感じのいい顔を持っていて、実は非常にゆがんだ理屈で殺人を重ねるという人物が出てくる作品をおもしろく読むのと同じ感覚で読めるかも。このお父さんが殺してきた側のほうに、ちょっとでも気持ちが行けば読んでいけないから、想像力をシャットアウトしないと楽しめないじゃないかなという気がしました。表紙はきれいで、黒い瞳の美少年って萌どころかも。出版社側もチャレンジャーだなと、思いました。

さらら:ある世代の、世間に対して漠然とした憎しみをもっている人たちは、安易だけれど、少しダークで、でもダークすぎず、妙に筋道がひかれたものを読むと、ちょうどいい気晴らしになるのかもしれません。墓守りのレオ自身は、言葉少なで、いかようにも読めるキャラクターとして書かれていますが、1話目の幽霊にも、3話目の教授にも、自己陶酔的なところがあり、私はそこがすごく気になりました。

マリンゴ:6月に発売された『あまからすっぱい物語』(小学館)というアンソロジーに書かれていた、石川さんの短編を読みました。他の人たちが、日常を舞台にしているのに対して、石川さんは近未来が舞台。味覚がテーマのアンソロジーでこういう設定を選んでくるのは、非常におもしろい方だなと思っていました。今回の小説については、3章にいいセンテンスがあると感じました。「いずれは崩壊するのだとしてもそれが明日でなければいい」というのは、現代への警鐘になると思いますし、「呪われている人生を終えて、呪われていない人生を始める」というのは、たとえば死刑制度の是非を考えるときに、参考になる考え方かと。大きな罪を犯した人に、なぜチャンスをあげなくてはいけないのか、1つの答えの掲示だと思いました。ただ、1章で気になる点が2つありまして。1つはみなさんが既に言われている、死んでいる人が物をさわれる件。このロジックの説明がほしいと思いました。でないとご都合主義に聞こえてしまう。もう一つは、母がエミリアを送り出す(天に召される)ことに同意するシーン。同意の前に、「私も死ねば今すぐあなたのそばに行けるのよね」という発想があるのが自然ではないか、と。そこを母に言わせて、「いや、ダメ。なぜなら……」と潰す必要があるのでは? それがないので、母が同意するのがテンポ早すぎるように思えました。

アカシア:私はこの作家の本を読むのが初めてだったので、これでいいのか?と疑問に思ってしまいました。私が編集者だったら、これでは出せない、と思ったんですね。まず文章や使われている言葉が、どこかで聞いたことのある常套句ばかりで新鮮みがない。どの文章も「寝て」いて、屹立していない。設定も特に目新しいわけではないのに、そこに寄りかかっているので、キャラも浮かび上がらないし、読ませる力が弱すぎる。確かに、こういう雰囲気が好きな読者もいるでしょう。でも、雰囲気を出したいなら、文字だけでなく、音楽とか画像とかも使って、マンガでもアニメでもいいので、べつの形にしたほうがいいんじゃないかな。本のおもしろさってこの程度か、と読んだ人に思われたら逆に残念です。もしかしたら作者の方にもっと深い意図があるのかもしれませんけど、このままではどうも。

アカザ:これは、ラノベというか、コミックの原作というか……。そういうと、ラノベやコミックの好きな方に怒られてしまいそうな本だと思いました。雰囲気と、センチメンタリズムだけで読ませようと思って書いたんでしょうか。好きな人は読めばいいと思ったんですが、自分を殺した父親を許す……なあんて平気で書いちゃうのは、どうかな。

(2016年7月の言いたい放題の会)


ぼくのなかのほんとう

マリンゴ:サラのシリーズを原文で読んでいて、とても好きで。英語がとりたてて得意でない私にさえ、とぎすまされた文体だというのが伝わってきます。その著者の作品ということで、読む前から好感を持ってしまっていて、だからちょっと甘めの採点になりますが、楽しく読了しました。もっとも訳者の方のあとがきが、本文をなぞることに終始した内容だったのが残念でした。もう少し、作家さんの情報を知りたかった……。読書感想文を書きたい子どもたちには、こういうタイプのあとがきが、参考になるのかもしれないですけれど。

レン:表紙や字組が小学生には読みやすそうで、さっと読めるには読めたのですが、私はこの子の悩みがくっきりと見えてこなくて、気持ちを寄せられませんでした。音楽家の両親のもとで、この子がどう感じているとか、おばあちゃんのことを両親がどう思っているとか、書かれていますがよく見えてこないというのか。どう読んでよいのか、よくわかりませんでした。

ルパン:正直、あんまりおもしろくありませんでした。先ほどから翻訳のことが取り上げられていますけど、私は、こちらの本は訳文以前に、ストーリーというか内容にいちいちひっかかってしまって、楽しめませんでした。それは訳の問題だったということでしょうか。たとえば、きょうだいがほしいという子どもに向かって母親が「どうしてもうひとり子どもがいるの? あなたがいるのに」と答える。それが、ひどい母親、ということになっているのですが、どうしてひどいんだろう?と思ってしまいます。「あなたがいてくれるだけでじゅうぶん」という母親、別の子どもはいらないという母親は、むしろ愛情深いんじゃないかと思えるので、子どもが不満に思う理由がよくわからない。ここは、「あなたひとりでたくさんよ」とでも訳せば、「そんなのひどい」という子どものせりふとつながると思うのですが。それから、これはオリジナルの問題だと思いますが、「マッディには不思議な力がそなわっている」「マッディがすばらしい」「ヘンリがすばらしい」とかやたら出てくるんですけど、どこがどうすてきなのか、ぜんぜん伝わってこないので、そういう言葉が重ねられることで、かえってどんどんつまらなくなってしまいました。

レン:おばあちゃんが骨折したのは、どういう意味があったんでしょうね? この子が一人でがんばるということ?

アカシア:この子と、お母さんと、おばあちゃんが最初はいろいろ気持ちが食い違っているんだけど、最後には理解し合うようになるっていうのがこの本のテーマだと思うんですけど、それがうまく伝わってこないので隔靴搔痒感がありますね。

アンヌ:すごく好きな作家の本だったので、後に余韻が残る感触を楽しみたいと読み始めたのですが、そうはなりませんでした。きっと、気づいていないだけだと思い5回ほど読み直して、やっと、作文の意味とか練習風景を見るロバートの視線とかで、ロバートをクールな少年という風に書こうとしているのかなと思いました。それにしても、ヴァイオリニストのママが、自分の親が動物に好かれる能力があるのに気づいていないところとか、少し無理があるような気もしてします。マッディの骨折の場面も、ロバートが大人になるというより、ヘンリーがクマやボブキャットと交流できるマッディの真実に気づくということの方が重要な気がして、どうして、ロバートが自分の中のほんとうに気づくのかうまく読み込めませんでした。生活の中の音楽の重要性もロバートが気づくことのひとつなので、「死と乙女」を何度も聴いて見たりしたのですが、すっきりしませんでした。

アカシア:マクラクランは微妙な心の動きを書いて読ませる人なので、ロバートはクールというより、熱でいっぱいなんだけどそれを抑えざるをえなくなってるっていうことなんじゃないのかな。こういう作品って、行間を読ませる訳にしないといけないから難しいんですよね。この訳だと、そこまで行かないのでちょっと残念。p31に『ちいさなくま』という本が出てきますが、これはミナリックとセンダックのLITTLE BEARでしょうから、『こぐまのくまくん』とちゃんと邦題で訳してほしい。そうすれば、子どもがもっとイメージを思い浮かべやすくなります。犬の名前もエリノアじゃなくてエリナーでしょうね。

(2016年7月の言いたい放題)


霧のなかの白い犬

ルパン:読みでのある本なのだろうと思いましたが、すぐに訳でひっかかってしまって、物語の中に入れませんでした。語り手は小さな女の子のはずなのに、おとなの男性のような話し方をしていたり、2、3ページの中に何度も同じ言葉がでてきて興ざめだったり。登場人物も多すぎて、結局どんな話だったのかつかめず、いいのか悪いのかよくわかりませんでした。原文で読んだら全然違うんでしょうか。ただ、最後のおばあちゃんが昔ナチスだったというのは、そこまで衝撃的なことなのかな、と思いました。ヨーロッパの子どもにとっては、ナチスだとわかることがそんなに恐ろしい大変なことなんだ、というのは初めて知りました。

アカシア:あの時代は、ナチスの洗脳がすごかったので、ほとんどの子どもたちがヒトラー・ユーゲントに入っていたんじゃないですか。後には強制加入にもなるし。

ルパン:ともかく、日本人にはあまりピンと来ないことで、子どもならなおさらそうでしょうから、もし本当にこの本のとおりであるなら、ヨーロッパの子どもの感覚を知るうえではいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても盛りだくさんな物語で、うまく読み解けず、みなさんのご意見を聞いてみたい作品でした。身近に移民がいて、父親が彼らに仕事を奪われてフランスに出稼ぎに行っている生活。今という現実を映している物語だと思いました。親の離婚で傷ついたいとこが、人に嫌がらせをしたり移民をいじめたりする。祖母に認知症の傾向が見え始め、主人公が不安に思っている。そのうえさらに、違う名前で送り続けられる郵便の謎があって、最後の最後にナチスの話が出てくる。それらがうまく絡み合っていき雪だるまのように大きくなるかというと、そういうわけでもない。いきなり最後に大物がドンと出てくる感じで、話が終わっていく。特に、私に読み解けなかったのが、おとぎ話の課題です。全然物語と絡み合って行かなくて、どういう風に読んで行けばいいのか、教えてもらいたいと思いました。

アカシア:この訳者の方のほかの作品を読んでじょうずだなって、思っていたのですが、この本は読みにくいですね。編集者がもっとアドバイスしたら違ってたのかな、なんて思いました。ヒトラーがユダヤ人にペットを飼うのを禁じて、飼っていたペットは殺処分にしたという事実は知らなかったので、びっくりしました。ホロコーストやヘイトの問題を、過去のナチスと現在の外国人労働者に対する感情とを比べることによって浮き上がらせようとしている著者の心意気はいいのですが、問題をベンのおばあちゃんがほとんど言葉で語ってしまっているのは、どうなんでしょう? 主人公はいい子すぎて、なんでも親にすぐ打ち明けなきゃいけないと思っているのは嫌ですね。盛り込みすぎなせいか、一つ一つの問題が深く掘り下げてなくて情緒的に終わってしまうことも気になります。私は、ホロコーストものにある種の欺瞞性を感じてしまうのですが、今はアメリカに住んでいるベンのおばあちゃんが「いいえ、そんなことはさせない。自分たちが許さない。わたしたちが愛してきたものや、いまも愛している者を、すべて壊す権利なんて連中にはないのよ。そういう事態がひき起こされる兆候をいまではわたしたちもわかっている。今度はとめられる。・・・」と話したりする場面にも、そうした無意識の欺瞞性を感じてしまいました。たとえばイスラエルがガザで何をしたのか、とか、アメリカがイラクで何をしたのか、と考えたとき、こういう本って、きれいごとで子どもを騙してることにもつながるんじゃないのかな。それから、外国人排斥が戦争の原因であるように描かれていますが、戦争の原因はもっと経済的なものであることが多いので、そこも短絡的だと思いました。表紙の絵は、ホワイトジャーマンシェパードの子犬には見えないですね。耳の先がちがうのかな。

マリンゴ:今の発言の後に言いづらいんですが(笑)私は今日読み終わったんですけど、電車の中で号泣しました。クライマックスの、こういう盛り上げに、涙腺が自動的に反応するんです(笑)。海外から来た労働者の問題、ケイトのことなどを、ナチスとユダヤに重ねていく手法って、現代の子どもたちが戦争を考えるきっかけになるのかな、と思いました。ただ、気になったのは構成上の問題。白い犬の少女がおばあちゃんだというのは、読者はわりと早く気づくわけなんですが、終盤に来ても「おばちゃんがわたしたちをナチスの一員にしたかった」と、ミスリードしています。これは不要では? ミスリードが効果を発揮していると著者の方が思われてるなら、少し計算のズレがあるかと。あと、おとぎ話から始まったので、ラストをおとぎ話でシメるのはカッコイイはずなんですが、あまり効いてない……。内容が抽象的でピンと来ませんでした。少女が書いている文章(という設定)なのだから、もっと直截的でもよかったのかもしれません。

レン:読み始めたとき、認知症が出始めたおばあちゃんのことや、いとことのぶつかりあいが話の中心になるのかなと思ったんですけど、そのあと犬を飼うこと、おばあちゃんが隠してきた秘密、外国人の移民のことなど、どんどん話がふくらんでいって、全体に盛り込みすぎという感じがしました。犬にからんでおばあちゃんとベンのおばあちゃんが出会うところがクライマックスですが、あまりにも都合よく偶然が重なりすぎでは? リアルに感じられませんでした。文章もところどころひっかかりました。まず、あれっと思ったのは、冒頭とラストのお話を書くところで出てくる「英語のハンター先生へ」。これは「国語」ではないでしょうか? 自分の言語の授業の時間に作文しているんですよね? 「英語」となっていると、子どもの読者は外国語の授業をイメージしてしまいます。そんなわけで、積極的に子どもに勧めたいとは思いませんでした。

アカザ:テーマをあれこれ盛り込みすぎた作品ですね。それぞれのテーマは、とても大切だし、心を打ちますが、おばあちゃんと犬の話だけをしっかり書いたら、それだけで十分だったのではないかしら。みなさんがおっしゃるように、翻訳についてはポストイットがいくらあっても足りないくらい、おかしな個所がたくさんあるけれど、一つだけ言わせてもらえば、登場人物の呼び方が統一されていないのが、まずいですね。たとえば、主人公の母親が義理の母親のことを「お義母さん」と呼んだり、「エリザベス」と呼びかけたり。ベンの母親も、「ベンのお母さん」といっていたかと思うと、少し後ろの行では「ミセス・グリーン」といったり。これでは、ただでさえ複雑な物語がますます分かりにくくなってしまう。大人の私でさえ、「えっ、エリザベスって誰だっけ?」「ミセス・グリーンって?」と思ってしまいました。そのあたり日本語ではわかりやすくしておくことは、児童書の翻訳のイロハだと思っていたけれど……。

さらら:翻訳の読みにくさの続きですが、p51の5行目「マーク叔父さんが突然やってきて、学校で課題が出たから、フランを自分の両親のところへ連れて行くって…」の部分、何度読んでも主体がだれなのかよくわからないんです。

アカザ:p50の「手をのばして、毛皮に指を通してみたかったけれど」って、毛皮って毛のついたままの皮のことだから、指を通したりしたら大変!

さらら:そう、どうせ犬を描くのなら、目の前に本物の犬がいるのが感じられるように、生き生きと訳してほしいところです。なにしろ、犬が大切な要素を果たす物語ですからね。それから、物語の筋道が読者にちゃんとわかるように、するべきではなかったかと……。例えばp161の「できることなら、あの時にもどって、あのドイツ人の女の子を探したい。」は、前の文脈とそこで大きく変わり、この物語の真髄に入っていくところなのだから、それがわかるように「けれども」を足すとか、一工夫してほしかったなあ。

ルパン:訳すときに適切な接続詞を補うべきところを怠って、そのまま訳しているな、というところが随所に見られますね。たとえば、逆説的なところでは、日本語なら「しかし」「それなのに」などの言葉がないと不自然なはずですが、そういったところへの配慮がないので、子どもは読んでいて混乱するのではないかと思いました。

さらら:翻訳の文体が定まらないのも気になりましたね。メインストーリーだけに注目すれば、悪くないお話なんです。ナチスドイツの時代を、なんとか生き延びたユダヤ人少女と、その飼い犬の命を救ったドイツ人少女の、引き裂かれてしまった友情。その友情が孫たちの手でふたたびよみがえる、というお話でしょう? 原作と翻訳、その両方の整理不足によって、残念なことになってしまいましたね。

〔西山〕:読書会が終わってから、地元図書館でやっと借りだして読みました。皆さんが指摘していましたが、p28の3行目で一人称なのに、自分とケイトのことを「ふたり」と書いているところなど、やはり、立ち止まるところが多々ありました。これが応募原稿だったら、「気持ちはわかるけれど、もっと整理して」と言いたくなりそうです。ただ、難民の子、車いすの子、ダウン症の子(?)を登場させているのは、それらがナチス的な価値観で排除される存在だから、どこかに絞りたくなかったのかもしれません。p106で、過去にしろ現在にしろ、悲しい気持ちにさせる事実を突きつけられて、そういう気分を振り払いたいけれどできない、という感じには共感しました。奇しくも相模原の事件と平行して読み終えることとなり、石原慎太郎などのヘイト発言が野放しにされている日本で、優生思想が実は遠い過去のものじゃないという恐ろしい現実を突きつけられた気分です。

(2017年7月の言いたい放題)


『白いイルカの浜辺』『ノックノック』が紹介されました

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『白いイルカの浜辺』

(ジル・ルイス著 さくまゆみこ訳 評論社)と
『ノックノック』
(ダニエル・ビーティー文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書)
が「女性のひろば」の4月号と5月号に紹介されました。
書いてくださったのは、近藤君子さんです。ありがとうございます。

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『はみだしインディアンのホントにホントの物語』が紹介されました

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『はみだしインディアンのホントにホントの物語』

(シャーマン・アレクシー著 さくまゆみこ訳 小学館)がこの7月に出るWWzineで紹介されます。書いてくださったのは、青木耕平さん(アメリカ文学研究者)です。教えてくださったのは岩波の須藤建さん。ありがとうございます。

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「ブラウン管の向こう側 かっこつけた騎兵隊が インディアンを撃ち倒した」

──ブルーハーツ「青空」

おそらくだが、あなたの頭の中のインディアンは、21 世紀を生きていない。あ

なたは頭の中でネイティブ・アメリカンを過去の遺物だと捉えている。あなた

の思い描くインディアンはiPhone を持っていない。車になど乗らない。あなた

の想像のなかのインディアンは、羽飾りをつけたジェロニモで、西洋文明の外

部に立ち、英語ではない言語で、詩的な警句を口にしている。そして彼/彼女は、

あなたのことを憎んだりしない。

シャーマン・アレクシー『はみだしインディアンのホントにホントの物語』の

主人公であり語り手の俺=ジュニアは、先天的な病気持ちで、歯がガタガタで、

いじめられっこで、吃音持ちで、貧困家庭に生まれ、おまけに──インディア

ンだ。そう、現代アメリカでインディアンであるということは、決してポジテ

ィヴな意味になりえない。彼らは生まれつき囲まれている。保留地という土地

があてがわれ、彼らの大半はそこから出ない。そして、人々(おそらくあなた

もその一人)が勝手に想像し押し付けるイメージの枠にも彼らは囲まれていて、

そこから出ることは、大きな困難を伴う。本作主人公ジュニアはそこから「は

み出す」ことを望み、懸命にもがき続けることを諦めない。

実際にインディアン保留地に生まれ育った著者が2007 年に著したこの自伝

的小説は、同年の全米図書賞を始め、各賞を総舐めした。なぜ? インディアン

が物珍しいから? 政治的に正しい訴えをしたから? そう思ったあなたは、イ

メージの中でインディアンをやはり囲っている。本作が絶賛されたのは、まず

第一にこの小説が無類に面白いからだ。なかなかお目にかかれない、ずば抜け

た傑作だからだ。彼の出自、肌の色、先天的欠陥、そんなもの、最終的にはこ

の主人公ジュニアには関係がなく、この小説の面白さを最終的に決定するのは

それじゃない。ここに書かれるのは、一人のたくましく生きる少年の姿であり、

友情であり、恋愛であり、死であり、未来だ。最高の青春小説なんだ。

「生まれたところや 皮膚や 目の色で 一体この僕の なにがわかるというのだ

ろう」

出自や皮膚や目の色に関係なく、澄んだ目をしたはみ出し者は、いつだって最

高の言葉を持っている。


2016年06月 テーマ:日常から生まれるドラマ

日付 2016年6月17日
参加者 アカザ、アンヌ、スナフキン、西山、花散里、ハリネズミ、ハル、マリ
ンゴ、ルパン、レジーナ、レン
テーマ 日常から生まれるドラマ

読んだ本:

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あの花火は消えない

マリンゴ: まず装丁がすばらしいですね。丹地さんのイラストも美しいし。本文は、描写がとてもきれいで、風景を想像しながら読みました。だからとても印象はいいのですが、少しだけ違和感を覚えたのは、一人称だというところ。主人公の女の子は、今の発達障碍の区分だとボーダーラインにある子かと思うので、見えている風景がもう少し違うのではないかと感じました。何かが目についたら、そのことしか考えられない、とか。非常に整った抑制された描写なので、少し気になって……。物語の途中で、ああ、これは大人になってから振り返ったものなのだ、とわかるので、なるほどとは思うのですけれど。

スナフキン:このおばあちゃんや自然がいきいきと色彩豊かに描いているのが魅力。おばあちゃんの声を、せんべいに例えていておもしろいと思いました。思い込みがはげしい透子がお母さんのことを祈る場面は切なかった。とてもおもしろく読みました。透子はぱんちゃんを気に入ってるけど、なぜ気に入ったのかをもっと書いた方がいいのでは。

西山:マリンゴさんがおっしゃったのと、全く同じことを言おうと思ってました。初めて読んだ時から、こういう子は、こういう風に考えてこういう風に話すのかな、と思ってしまったんです。長崎に連れて行ってしまうのはひどい。ぱんちゃんのような人をサポートしてきた人が、そんなに簡単に環境を変えるかな。ドラマを盛り上げるためだとしたら、作中に理不尽なことを持ち込むのは違うと思う。美しくしちゃっているところがひっかかってます。

レン:若狭の海辺の町の情景に引き込まれて一気に読みました。人それぞれの人生があるんだな、自分とは違うけど、それぞれに苦しみつつなんとかかんとか生きているんだな、というのを最後に感じられるのがいい。ぱんちゃんみたいな人のことは、身近にそのような人がいないと知る機会がないから、こんなふうに作品の中で出会うのは大切だと思いました。

レジーナ:発達障碍の傾向のある主人公が、友だちとトラブルになったり、周囲になじめなかったりするところにリアリティがあります。風景の描写もきれいですね。私がいちばん気になったのは、ぱんちゃんの描き方です。知的障碍のあるぱんちゃんは、無垢で純粋な存在として描かれているのですが、人間にはもっといろんな面があるし、欠点もあってこそ人間の魅力だと思うんですよね。しかも最後で、唐突に死んでしまうので、主人公の成長にとって必要なだけの存在になってしまっているように感じました。でも気になるところはあっても、どこか心に残る本です。一人称で描くことの難しさについては、自分では気づかなかったので、なるほどと思いました。

花散里:高学年の子どもたちが読むときに、チャボが生き返ったように書かれていたりして、リアルな箇所と空想的な部分が混在しているようで分かりにくいように感じました。父親との関係も、祖父母に預けることになった経緯は分かりますが、父親の会話などが気にかかりました。主人公や家族が障碍を持った人を描いた作品が、昨年も多く出ましたが、この作品には腑に落ちない点も多く、どのように子どもたちに薦めていったら良いのかと感じました。

アカザ:私は、発達障碍がある子どもの話とは、まったく考えずに読みました。だから、目くばせしている友だちを、いきなりビート板でなぐったりするのは嫌だなあと思ったし、おばあちゃんがそんな孫のことを、おまえは悪くないという場面も、そんなに甘やかしていいのかと不愉快になりました。読み方、まちがっていたのかな? ぱんちゃんも、どうして死ななきゃいけないのかしら? うまく言えないけれど、物語の展開のために、特にこういう障碍のある人たちを死なせてしまう話って、あまり好感が持てないんですよね。今回のほかの2冊は1度読んだだけで「いいな!」と思ったのですが、この本はよくわからなくて、読み返したんです。でも、やっぱり何をいいたかったのか分からない。回想の中の風景を、抒情的に書きたかっただけじゃないのかと……。

ルパン:私は、これは傑作だと思いました。一人称がすごく効いています。一人称でなければ、宇宙人を呼ぶシーンなどリアリティが出せないと思います。おこづかいでチャボを買ってあげる友だちも、それを生き返ったのだと信じる主人公もいとしく感じました。ぱんちゃんが死んだところもせつなく読みました。父親は、「ぱんちゃんは生き返らない」と言ってやったとき、初めて父親らしいことをしたのだな、と思いました。ハッピーエンドではないけれど、とても心に残る物語でした。

アンヌ:とても魅力的な作品で、何度も読み返してしまいました。表紙も、挿絵も素晴らしく、特にp23。一瞬の驚きと恐怖と音がうまく描かれていると思いました。主人公の繊細な感覚や世界に感じている違和感が、てんぷらの皮やおそばのだしの濃さで描かれていて、食べ物の描写の場面がとても好きです。主人公が、誰もが好きな賑やかで砂がくっつく砂浜が嫌いだけれど、水と戯れられる磯遊びは好きと描かれていて、夏の魅力とともに主人公の感覚がわかっていく感じも素晴らしいと思いました。暴力に走る場面でも、心の中にあるスイッチが入り暴力を振るう、その瞬間の喜びが見事に描かれています。けれども、暴力を受けた側については描かれていない。主人公が落ち込んだ姿はあっても相手への思いやりがないので、この主人公への共感が生まれにくいと感じました。主人公は、最終的に、学校へ通えないまま成長していき、おばあさんの言うように「人の心をいやすため」ではなく、自分のために絵を描き続けています。作者は、こういう主人公を描くことによって、普通の人間でなくても、それでも生きて行っていいのだと伝えたいのではないかと思います。

ハリネズミ:私は、一人称で書いていいんじゃないかと思いました。一人称だから、主人公が発達障碍だったとしても、それをはっきりさせなくてすむし。でも私はこの子が発達障碍だとは思いませんでした。このくらいの年齢って、普通でも感情の揺れによってこれくらいのことはあると思います。それに、ぱんちゃんが添え物だとも思いませんでした。愛される存在として書かれていますからね。ただ見守りが必要なのに一人で長崎に行くことになったところは、あれっと思いましたけどね。おばあちゃんは普段一緒に住んでいないし、この子のことを心配しているのでかばう気持ちが強いのは仕方がないです。いちばん気になったのは、チャボの替え玉にぱんちゃんもとこちゃんも気づかないところです。特にぱんちゃんは、とても気に入ってかわいがっているんだから、違う鳥だってわかるでしょうに。とこちゃんだって、これだけ感受性が強い子だったら、わかるはず。そこはリアリティがないな、と思いました。

花散里:チャボが生き返ったと子どもが信じているような表現は、私もどうかと思いました。

レン:この年齢で、死んだ生き物が生き返るとは普通は思っていないだろうから、これは「信じたい」ということなんだろうと、私は読みました。

ハリネズミ:だったら、一人称なんだから、信じたいという気持ちを書けばいいんじゃないかな。

ハル:一人称か三人称か、どっちがよかったということではないんですが、読んでいる途中で「あれ、最初から一人称だっけ?」とちょっとつっかかったので、気にはなりました。回想なので仕方ないんですけど、当時のとこちゃんとの精神年齢的な乖離があるからでしょうか。装丁も表現も、風景や色の「とうめいみどり」とか、とてもきれいで、美しい本だなぁと思いました。でも、やっぱり、ぱんちゃんを死なせないでほしかった。長崎に連れていかれたところでも、いつの時代の話?とは思いましたけど、あそこでとこちゃんと別れさせただけじゃだめだったのかな。でも、とこちゃんに「大丈夫や」って、「だからもう、呼びもどさんでもええのや」って言わせなきゃいけないから、この設定は仕方ないのかなとも思いますが……。

花散里:おばあさんの手紙も気にかかりました。児童文学はそのように終わらせなくても良いのではないかと感じました。

レン:でも、回想で書いていることで、希望があるのでは? 今は平坦ではない道も、いつかは切り拓いていけるという。ぱんちゃんが来るのは、この子が来る前から決まっていたことだから、そんなに不自然な感じはしませんでした。

西山:回想形式に私はもともと懐疑的です。叙情と切り離した回想はあまりない。どんなに大変なことも、回想の額縁の中で語れば、喉元過ぎればすべてよしとなってしまう。重松清がそう。どんなに凄惨な暴力を書いても、なんでもオッケーにしてしまう。この作者の持っている叙情性がどうも気にかかります。好みの問題と言ってしまえばそれまでですが。口の感覚の鋭敏さとか、一人称で書くしかないとは思うのですが……。

アンヌ:回想として語ってはいますが、主人公は「今」でも人との関係を築けるようにはなっていません。まだ、何も解決しているわけではないけれど、この子は世界に美しさを感じ、絵を描き、生きている。そのことが重要な気がします。この本を必要とする人の手に、ぜひ手渡してほしい本だと思います。

(2016年6月の言いたい放題)


いのちのパレード

アンヌ:ふた昔前の少女漫画のようなイメージでした。妊娠、カンパ、転校。ただ、違うのは現代なので、性教育の授業を男女一緒に受ける場面があり、妊娠と出産の重要性がここで書かれていること。さらに主人公の母親が産婦人科の看護婦ということで、出産と死産についても描かれています。また、心療内科の医師も、セナと倫に別れる必要は全然ないと言い、不要な罪悪感を取り除こうとしている点も目新しい。でも、全体に、女性に対して厳しい視点で書かれすぎている気がしました。死産や堕胎に対し、死は死として受け入れ生き直せと言うのではなく、ずっと背負って生きろと言われているようで、少女に対して懲罰的な気がします。気になったのは、倫という男の子の描き方。普通、大切な女の子を家庭内暴力で隔離されている兄と暮らす家に連れ込むでしょうか? 避妊もしないこんな男の子に愛を語る資格はないと思うのですが……。

ルパン:残念ながら私は合わなかったようです。語りすぎている感があったり、今どきすぎる言葉づかいなどに好感がもてないまま終わってしまいました。

アカザ:私はとても好きな作品でした。文章もユーモアがあって、力強いし、中高生にぜひ読んでもらいたいなと思いました。いろいろな登場人物の目から書いているのも、成功している。こういう書き方だと、誰が誰だか途中で分からなくなることがあるけれど、それぞれの性格や、家庭の事情がはっきり書けているので、そういう心配もなかったし。女の子だけに背負わせているとか、女性蔑視だとか、そういう感じはしなかったですね。倫もセナも、これまでのことを背負って生きていくのだろうと、最後のところで思いました。表面には出ないけれど、さまざまな事情を、さまざまなやり方で背負って生きている中高生は大勢いるでしょうし、親にはいわなくても身近にいると思うので、十代の読者の心に届く作品だと思いました。

花散里:構成がとても良いと思いました。八束さんの作品が好きで、この本も出版されてすぐに読みました。作者が『ちいさなちいさなベビー服』(新日本出版社)も出されましたので、その本を読んでから、今回また2度目に読んで感想が違ったように感じました。セナが妊娠してしまったところとか、腑に落ちないところもありましたが、全体として好きな作品です。『いのちのパレード』というタイトルは少し気になりました。『子どもの本棚』(2016.3)の「複眼書評」でも取り上げています。中学生が自分の問題として読める作品ではないでしょうか。これまでの八束さんの作品とつながる1冊だと思います。

レジーナ:「命」というテーマをいろんな視点から上手に描いていて、おもしろく読みました。ただ、複数の視点から描くと、どうしても印象が薄くなるように思います。日本ではまだ少ないですが、海外では十代の妊娠を描いたヤングアダルトはいろいろと出ていますよね。この本に出てくるセナは、母親に問題はあっても、家庭としては一応機能しています。今、公衆トイレで出産した、という話もニュースで聞きますが、そこまでいかなくても、だれにも気づいてもらえず、だれのサポートも受けられない、ぎりぎりの状況で子どもを産むということもあると思います。この本は安全ネットの上を描いているので、そうではない状況も、日本の児童文学の中でもっと描かれていくといいのではないでしょうか。

レン:とてもおもしろく読みました。今の中高生が読んで、すっと入っていけそうな会話がうまいなあと。それぞれの心情がよく伝わってきます。以前、『学校では教えない性教育の本』(ちくまプリマー新書)の著者で産婦人科医の河野美香先生の講演を聞いたことがあるんですけど、女子中高校生は、大人が思っているよりずっと多くを経験していて、望まない妊娠もあとをたたないと。だから、こういう問題はとても身近なことだと思います。まわりの家庭を見ていると、高校生が妊娠してしまったとき、自分もそれに近いことを経験している親だとそれほど動じず、まあ仕方ないと受け入れやすいようですが、セナみたいに、いい大学に行って、いい会社に入って、みたいに親が思っている家庭の子はより大変な状況に追い込まれるようです。だから、こんなふうに悩まないといけない。ラストの、修学旅行のシーンがいいなあと思いました。たまたま同じ班になった同士が、新しい関係を何げなく結んでいくようすが、生きることを励ましてくれるようで。

西山:八束澄子は好きだし、おお、デモの話か?と勘違いしてすぐ読んだんですけど、今回読み返す時間がなくて、すみません。怖いほど、思い出せない。

スナフキン:倫君はとんでもない男だと思います。セナの中絶の決意も描いてほしかった。あえて群像にした意味は? 群像にしている理由をあまり感じられませんでした。

マリンゴ:冒頭の、セナの告白が本人のセリフではなく、万里のリアクションのみで語られているところ、盛り上がりに欠けるなと思いました。でも、徐々にそれは意図的なものであることに気づきました。いのちと死を淡々と重ねていく手法によって、生きること死ぬことを、特別視せず、誰にでもどこにでもあたりまえにあるものであることを見せているのだなぁ、と。そのスタンスにとても共感しました。セナが出産しない選択をすることで、がむしゃらにいのちを讃美しないことを示し、でも、別の章でいのちの大切さを伝える……とてもバランスいいと思いました。ただ、読後しばらくすると本の印象がちょっと薄れてしまったかも。視点が次々変わる構成のせいかしら……。

ハル:この本の中に登場する性教育の授業のような、子どもの立場を理解して幸せを願うというスタンスで書かれた、とてもいい本だと思います。表紙はどうなんでしょう。大人が見れば良い絵だと思いますが、今の中学生にとっては? 興味深いテーマだと思いますし、もうちょっと気軽に手に取れそうな……アニメっぽい表紙がいいとは言いませんが、せっかくなので、手をのばすきっかけになるように、中学生の好みに寄せても良かったのかも?とも思います。難しいところですが。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。出てくる家族がどれもぎくしゃくしていて、ステレオタイプではないのもいいですね。生後4日目で亡くなった昴のまわりを家族が取り囲んで、似ているところをさがす場面も、いいですね。そこだけじゃなく、全体に様々な人の思いや心情がうまく書けていると思いました。セナが決心するに至るまでの心の動きが書かれていないという意見が出ましたが、それはセナたちの気持ちがどうであろうと親が無理矢理動いてしまった結果なので、書けないと思います。同年齢だけで悩むのではなく年代的な広がりもあります。美月先生が、「人間はそんなに弱くない」というメッセージを伝えているのも、自然に書かれているので伝わります。最後のパレードの夢も私は好きです。個々の人間が孤立しているのではなく、みんな一緒にパレードしている場面を著者は書きたかったんだと思います。

花散里:『糸子の体重計』(いとうみく作 童心社)とか、こういう章立ては今の子どもたちには読みやすいと思います。お母さんも自分のことを語っています。それをセナに語るという筋立てもうまいと思います。登場人物の名前の付け方も良いなと感じました。倫君の想いがセナの心の中に残っているところも。希望を持たせる読後感が爽やかだと思います。中高生が、「読んでよかった」と思える本ではないでしょうか。いろいろな家庭がありますが、この本に共感する子は多いのではないかと感じました。

アカザ:亡くなっていく赤ちゃんが多いなか、美月先生の授業のときに後ろでお母さんに抱かれていた赤ちゃんの描写が、とてもいいですね。命そのものが輝いているようにキラキラしていて、感動しました。

西山:うーん、母と娘の確執がおもしろかったというのは、思い出しました。章ごとに語り手や、視点人物を変えてそれを重ねていく作りは今、本当に多いんです。先月も言ったかもしれませんけど、人が変わっても語り口や考えが同じだったり……。この本じゃなくて一般的には、それが必ずしもうまくいっていないところに、問題を感じてます。

(2016年6月の言いたい放題)


ぼくたちに翼があったころ〜コルチャック先生と107人の子どもたち

レン:志の高い本だと思いました。「こういうことを知らせたい」というのがある意欲的な作品。ただ、このタイトルはどうなのかなと思いました。足を悪くして盗みをできなくなった主人公がだんだんと変わっていくさまがおもしろいのだけれど、このタイトルだと、最初からすばらしいコルチャック先生ありきな感じがして、よい子の本っぽく見えてしまい、手にとる読者の幅を狭めてしまわないかと思いました。文章はところどころ読みにくいところがありました。「ねつ造」とか「えん罪」とか「みかじめ料」といった語も難しいなと。新聞記者志望だからかもしれないけれど、どこか唐突な感がありました。

西山:コルチャック先生というと、子どもたちと絶滅収容所で死んでいったという最期のエピソードしか知らなかったので、とても新鮮に読みました。失われたものの大きさが身にしみます。いかに豊かな生が断たれたのか。物語がどこまで書いているのかなんの情報もないまま読み進めていたので、ほんとにドキドキしながら読みました。最期の部分まで行かなかったら、その後どうなったかは、あとがきで書いてくれるだろうなとは思っていました。「戦争児童文学」で、いかに生きたかを書くことの大切さを改めて思い知らされた気がします。言葉の難しさの件ですが、「新聞派」の「記者」の言葉だから、いいんじゃないでしょうか。ごつごつしてるとは思わなかったけれど、でも、読者に理解が難しいような言葉が投げ出しっぱなしだとしたら、ほかにやりようがあったかもしれないとは思います。

スナフキン:主人公の設定からして、もっと反発する方が自然なのではと思いました。タイトルは良書感あっていいけれど、内容とはちょっと違うような……。

マリンゴ: 今回の3冊のなかでいちばん好きです。1章が短くて、負荷なく読めるところがいい。主人公が“生まれ変わった”あとの部分は、「人間が成長するためには」的なHOW TO本を読んでいるように思えてしまうところも若干ありましたけれど。物語の閉じ方(主人公はパレスチナに行き救われる)と、あとがき(コルチャック先生の不幸な末路の現実)のバランスがとてもいいと思いました。ただ、裁判を受けるシーンで、写真家くんの強い意志で裁判になったわりに、終わった後、写真家くんのリアクションが描かれていないのが気になりました。

ハル:私は、鈍感にも読んでいる途中にハッとタイトルの意味に気づいて、「翼がもがれてしまうところまで物語は進んでいくのかな、どうなるのかな」と途中からハラハラしながら読みました。主人公の少年ヤネクの成長に従って、だんだん言葉づかいも大人っぽくなっていきますよね。そのせいか、ヤネクに寄り添うような目線というか、不思議な立ち位置で読めた本でした。

ハリネズミ:コルチャック先生の、子どもの家での一面を知るという意味では、おもしろく読みました。ただ、翻訳が和訳調で、特に会話に生き生きした勢いがないのが気になりました。それと、もう少し適切に訳してほしいところがありました。たとえばp 204の「それきりでその警官のことは忘れられ」なんていうところですね。ヤネクがベイリスのことを調べていて、ジニアという少年に想いを寄せていくところとか、最後の場面なんか、いいところはたくさんあるんですけどね。ヤネクのお姉さんに対する感情のぶれとか、迷いなど微妙なところがあまりうまく訳せていないので、この子のリアリティが迫ってこない。そこをもう少しうまく訳せれば、もっとよかったですね。

アンヌ:映画になったことは知っていましたが、本で読むのは初めてです。作者はとにかく、この「孤児の家」について描きたかったのだと思います。子どもたちだけで運営される家と聞いて、なんとなくソ連時代の児童文学を思い浮かべていたら、カメラ泥棒の騒ぎの時のロージーの態度が、その頃のソ連や中国の児童文学作品の中の子どもたちのドグマティックな言動のようで、ぞっとしました。ところが、この孤児の家は、規則や言葉で縛られているのではなく、コルチャック先生の愛情で隅々まで目を配られて運営されている。その事が、コルチャック先生の爪切りの場面とか、告発の掲示板での猶予期間の長さのわけとかで、うまく描かれていると思いました。だから逆に、主人公のヤネクの人物造形や物語がうまくいっていない気もします。実家を訪ねないことや、姉の病気を聞いても見舞いに行こうとしないこととか、釈然としない感じでした。翻訳で、ヤネクのセリフが奇妙に大人びているのも気になりました。例えば、p 36のセリフ「大人は、昔は自分だって子どもだったのを、忘れちゃったんだろうか?」。これは思わず口走った言葉だから、もうちょっと単純な言い方じゃないと次のお姉さんの言葉につながらない気がしました。

ルパン:不勉強のためコルチャック先生について知りませんでした。実在の方なのですね。とても魅力的ですばらしい人物だと思います。女の子を棚に乗せて泣かせるところだけ、ちょっとなあ……と思いましたが。良い物語だと思いますが、文章はあちこち気になりました。p 54「ばれちゃったか、というふうに照れ笑いをした」とありますが、一人称のお話ですよね。「というふうに」というのは誰の目線なのでしょう。それから、p 69「とくに、貧しいと、裕福な人たちみたいにいいチャンスに恵まれないわ」のようなところ。大人が読めば文脈でわかるのでしょうが、私は子どものころこういう文に行きあたると「裕福なひとたちはチャンスに恵まれない」のか、「貧しいとチャンスに恵まれない」のか、どちらなんだろう、と考え込んでしまったものでした。ほかにもところどころ内容というよりは文章でひっかかるところがありました。テーマもストーリーもなかなか良いので残念です。

アカザ:ルパンさんにうかがいたいのですが、こういう本を子どもたちに手渡すとき、予備知識は与えないものなのですか?

ルパン:ふつうに手渡すときには、読む前に予備知識を入れる、ということは、基本的にはしないですね。ブックトークの時間であればやりますけど。

アカザ:知識があるかないかで感想も変わってくるのかもしれませんね。わたしもコルチャック先生が子どものための施設を作っていて、子どもたちが強制収容所に送られるときに、猶予の書類があったのに自分もいっしょに行ったということは漠然と知っていましたが、収容所に送られる前のことは全く知らなかったので、読んで良かったと心から思いました。事実に基づいて書かれているのだと思いますが、主人公は作者が創りだした少年なんですね。そのために、主人公の少年だけではなく、コルチャック先生もふくめて登場する人たちの心の奥底までしっかりと描けていて、とても良いと思いました。ノンフィクションで書いたら、もっとよそよそしくなるのでは? ただ、みなさんがおっしゃるように、翻訳はもっとどうにかならなかったのかと、歯がゆい感じで読みました。冒頭の主人公は、相当な悪ガキなのに自分を「ぼく」と呼んでいて、あんまり悪くなりきれていないようだし、後半は会話が説明文を読んでいるようで……。せっかくの素晴らしい本なのですから、もっと丁寧な本作りをしてくれないと、もったいない!

花散里:『子どもと読書』(2016.1・2月号)の「新刊紹介」の原稿で、「姉さんに入れられた孤児院で体罰を受け」という紹介文を読んで、“姉さんに孤児院に入れられた”ということが気になって、読んでみたいと思いました。「かけこみ所」と呼ばれる孤児院だったことが読んで分かりましたが……。作者、タミ・シェム=トヴの『父さんの手紙はぜんぶおぼえた』(母袋夏生訳 岩波書店)を以前に読みましたが、とても心に残る1冊でした。本書の訳者は高校の時に外国に渡ったようですが、日本語の表現については、分かりにくいところが多かったように感じました。対象は中学生以上だと思いますが、原作をしっかりと読者に手渡してほしいと思いました。コルチャック先生について知るためにも、この物語が読めて良かったですが……。

レン:福音館のホームページでは対象は対象は小学校高学年以上になってます。

レジーナ:6年前明治大学で、国際コルチャック会議があったとき、コルチャック先生が子どもたちに「きみは何になりたいのか? 人間になりたいのか?」と問いかけた、という話を聞きました。コルチャック先生の本は日本でもいろいろと出ていますが、この本は、孤児院の子どもたちが収容所に送られる前の幸せな時代を描いているのがおもしろいと思いました。悪いことをした子どもがいたら、子どもたちが民主的に裁き、大人は子どもの自主性に任せ、信頼し見守ります。そうした環境の中で、ヤネクは人を信じることを学んでいきます。困難な時代にあっても、子どもをひとりの人間として尊重する、そんな場所があったのだとあらためて思いました。4年前ミュンヘン国際児童図書館で、『ブルムカの日記』(イヴォナ・フミェレフスカ作 田村和子・松方路子訳 石風社)の展示を見ました。作者のフミェレフスカさんはいろいろと調べた上で、煙草を吸っているコルチャック先生や、先生のベッドの下におかれたお酒の瓶を本の中で描いています。『ぼくたちに翼があったころ』でも、コルチャック先生は聖人ではなく、ひとりの人間として描かれています。装画とタイトルがすてきな本ですね。訳文はところどころ気になりました。

西山:けさ、「元少年」の死刑判決が出たけれど、更生を期して少年法で守られる必要がなくなったから、実名報道にしました、とかテレビで言っていて、この本を読んだばかりのところだったから、比べて、なんなんだこの国は、と暗澹たる気分になりました。人としてこれだけ手厚く育てようとしていることと比べて、24歳の若者を、もう良くならないから、殺すことにするって……。

(2016年6月の言いたい放題)


雨宮処凜『14歳からの戦争のリアル』

14歳からの戦争のリアル

『14歳からの戦争のリアル』をおすすめします。

戦争って、これまでは無関心でも生きてこられたけど、もうそういうわけにはいかなくなってきた。そう私は感じている。愚かな政治家と、私を含めだまされやすい民のせいで、「戦争をしない」という先人の決断がペケにされようとしているからだ。

戦争はいけないと呪文のように言われて育ってきたものの、「学校で習う『戦争』の話は、ひたすらに暗く、怖く、そして時に説教臭かった。『平和な時代』に生まれたことを、なんだか責められているような気になった」と著者は書く。

でも、戦争って、ほんとうはどんなものなのか? 誰が死んで誰が得をするのか? 著者は「戦争」に深くかかわった人たちにインタビューして疑問をぶつけ、リアルに迫ろうとする。

インタビューに登場するのは、イラク戦争に米海兵隊員として従軍したロス・カプーティさん、太平洋戦争でトラック島に攻め込んだ金子兜太さん、イラクでボランティアを続ける高遠菜穂子さん、戦争解決請負人と呼ばれる伊勢崎賢治さん、戦場出稼ぎ労働者からジャーナリストになった安田純平さん(今シリアで拘束されていますね)、徴兵拒否してフランスに亡命した韓国人のイ・イェダさん、元自衛官の泥憲和さん、女優として戦地を慰問した体験を持つ赤木春恵さんの8人。最前線で戦争を体験したこの8人の話からは、図式的ではないそれぞれの戦争現場でのリアルが浮かび上がってくる。

先日私はフォト・ジャーナリストとして世界各地の戦場を経験している高橋邦典さんの話を聞いた。彼も、「戦場の死体の匂いは、いったん知ると遠くにいても風向きしだいでわかるようになってしまう。戦争はぜったいに嫌だと思うようになる」と語っていた。

政治家や学者とは違って、生身で戦争のリアルと向き合い、そしてなんとか生き残った(安田さんにも生きて帰ってきてほしい)人たちの話は、ふだんメディアには流れない。とんでもないことになってしまう前に、読んで考えてみない?

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年6月13日号掲載)


2016年05月 テーマ:生きるための旅

日付 2016年5月20日
参加者 アンヌ、さらら、西山、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、ルパン、レ
ジーナ、レン
テーマ 生きるための旅

読んだ本:

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生きる〜劉連仁の物語

アンヌ:この物語を読んで驚いたのは、過酷な拉致と労働の事だけではなく、戦争が終わったのも知らないまま主人公が13年間もたった一人で生きていたことです。横井庄一さんや小野田さんを思い出します。でも、劉さんは特殊訓練を受けた軍人などではないただの農民。それなのに、雪の北海道という過酷な土地で、恐怖が彼を穴から出さなかったと知り慄然としました。そして、物語があっさり終わり、エピローグと資料が50ページあるという作りにちょっと茫然としました。そこに書かれたドイツとの戦後補償の仕方の違いとか、いろいろ考えさせられました。

ルパン:劉さんの物語を全部読み終わったあとで、それを裏打ちする資料がついているところが私はいいと思いました。これなら子どもでも興味をもって史実の資料に目を通します。地図もついていてわかりやすいし。劉連仁さんは、過酷な運命のなかでも、生きて帰れて家族と再会できたけれど、命を落とした人がたくさんいたと思うと心がいたみます。これは実話ですが、物語としてもよく書けていると思います。よけいな感情移入がほとんど感じられないし、それでいて人物や情景の描写がゆきとどいています。時系列も一直線で迫力があります。ともかく、圧倒されました。

ハリネズミ:プロローグとエピローグをのぞくと、物語は一直線に進みますもんね。

さらら:谷口正樹さんの装丁が、とてもきれい。以前に、茨城のり子が詩を書いた『りゅうりぇんれんの物語』を読んだり舞台で見たりして、劉連仁の人生は知っていました。描写が細かくて、白菜みたいなのにニラまいて食べるところなど、具体的にどんなものを食べていたかがわかりますね。炭鉱から逃げて、どのように生き延びたか、実感を持って読むことができました。また説明的なところは一字下げてあったり、資料を入れるバランスなど、編集としての工夫にも拍手したい。でも物語として読み始めたのに、エピローグでがらっと文章が説明調になり、少し違和感を覚えました。例えば、エピローグには劉さんが日本国の強制労働の不法性を訴える声明文が出てきますが、これも劉さんの肉声なのでしょうか。物語で深く劉さんの心に入っていただけに、エピローグで急に外側から伝えたいことに内容が変わり、「エピローグ」という言葉の使い方がふさわしかったのか、よくわかりませんでした。さらに読者の子どもに感じてほしいことまで、エピローグに盛られている気もします。

ルパン:子どもに史実を伝えるためには、それも必要だと思いますが。

レジーナ:加害者としての日本は、日本の児童文学ではなかなか描かれないので、意欲的な作品だと思いました。肥だめにもぐって逃げたという話はときどき聞きますが、連仁が体験したことのにおいや寒さも伝わってきました。よく調べて書かれていますし、ていねいにつくられている本ですね。事実に基づく話なので、物語としてのおもしろさとは少し違いますが、こういう本を子どもに手渡していきたいと思いました。

レン:私もおもしろく読みました。中国から連行されてきた人がいたのは知っていましたが、その内実は知らなかったし、私はこの人物のことも知りませんでした。たくさんの資料を、よく整理して、わかるように書いているのがすごいなと。子どもの読者に伝わるように書かれています。ルビが多い黒々とした字面でつらそうな話だけど、劉さんが生きのびるとわかっているので安心して読めます。エピローグの部分は、物語の中に入れるという方法もあるのでしょうけれど、これはそうしないで成功していると思います。これを全部物語に盛り込んで途中で説明していったら、リズムも出てこなくて、物語がつまらなくなってしまいそうです。劉さんの苦闘に焦点をしぼっているから、生き生きとして臨場感が出ているのだなと。要所要所で心の声を地の文に入れた自由間接話法もとても効果的です。こういう難しいテーマの本をていねいに作って出し続けている版元さんがエライと思いました。

西山:茨木のり子の詩をいつ読んだのか、どう知ったのか・・・・・・なんとなく「りゅうりぇんれん」という名前は切なく懐かしく親しく感じてきました。強制連行の事実を認めようとしない発言などに対抗できる具体性が印象的です。例えば、軍服?着せて写真撮れば一般人じゃないと言えてしまうからくりとか。ともかく、一冊の本としての作りがすごいと思います。内容的には、好みの問題ですが、例えば、p138の短文を重ねていく描写とかが、意地悪な言い方かもしれませんが自己陶酔気味に感じられて、かえって作品の重厚さを損なっているようにも感じました。もっと押さえて書いても良かったのではないかと。あと、p226で同じ歴史を繰り返さないために中国人も日本人と一緒に努力しなければならないというのは、劉さんは、何の反省も必要じゃないと思うので、ひっかかりました。

ハル:「課題図書」ってこういう本のためにあるんだと思います。ドキュメンタリーではなくて物語として書き上げることの意義を強く感じました。日本はほんとうにひどいことをしてしまったのに、劉さんがとても優しくて、それがまたつらい。苛酷な環境でも、仲間を思うとき「思い出すのはなぜか笑顔」だったというところや、憎たらしい日本人の鬼監督のことまで「本当は怖かったんじゃないか」と思いやるところとか、思い出すだけでも胸がつまります。最後の「エピローグ」は、「資料編」として別にする手もあったと思いますが、そうすると読まなくなっちゃうから「エピローグ」にしたのかな。おかげで飛ばすことなく読めてよかったです。だけど、せっかくここまで著者の伝えたいことを表現のなかに織り交ぜてきたのに、最後で少し意見を押し付けられたような印象を受けました。この本で読書感想文を書こうと思いながら読んでいたら、「もう、いま自分もこういうことを書こうと思ったのに!」って思う子もいそう。自分なりの考えがもてるように、読者に時間を与えてほしかったです。

マリンゴ:劉連仁さんの史実を知らなかったので、勉強不足で申し訳ないと思いながら読みました。これが課題図書になったのがすごいと思います。臨場感があって、北に向かってしまうときは、「あー、そっち行っちゃダメ―!」とさけびたくなりました(笑)。ただ、エピローグで、少し盛り込みすぎている気がしました。小説のなかの強制雇用を、現在の非正規雇用の問題につなげて、さらに原発問題につなげて、これらが劉さんの働かされていた炭鉱と「大きなちがいがあるでしょうか」と結びつけてしまうのは、やや乱暴に思えました。この本では、あくまで劉さんの話に終始しておいたほうが、伝わりやすかったかなと感じています。

ハリネズミ:私も、日本の子どもの本で、加害者としての日本の側面を書いた本は少ないので、貴重だと思いました。童心社は日・中・韓平和絵本も出していますね。それについての話をうかがったとき、たとえば従軍慰安婦などについても右翼からクレームが来るから、クレームが来ても対応できるだけの事実をきちんと押さえておくと編集の方がおっしゃっていました。この作品も日本軍の強制連行を扱っているので、そういう配慮もちゃんとしながら、それでも出すというところが素晴らしい。私は小野田さんや横井さんについては知っていましたが、劉さんについては何も知らなかったので、初めて知って申し訳ないという気持ちと、この方の強さにも胸を打たれました。誤解を恐れずに言うと、劉さんの逃避行はサバイバル物語としても読めると思うんです。でも、エピローグには、奇跡の生還を遂げてからも「言語障害や対人恐怖症などの後遺症に、劉さんは長い間苦しめられました。また、悪夢にうなされ、山林に入るとパニックを起こす逃亡生活の後遺症は、終生癒えることがなかったといいます」と書いてあるのを読んでドキッとしました。実人生は、ふるさとに帰れればハッピーエンドってわけにはいかないんだと。欲を言えば、物語として読んだ時に、一緒に逃げたほかの人たちは見つかった後無事に故郷に帰れたのだろうか、なんていうことが気になったので、エピローグでもちょっと触れてくれると、さらによかったかな、と思いました。最後のところなど、ちょっと浪花節っぽい記述もあるんですが、とにかくこんな方がいたんだという事実に圧倒されてしまいました。あと、作者が劉さんの足跡をていねいにたどっているので、劉さん=善 日本人=悪という図式にとどまらないリアリティが『ラミッツの旅』(グニッラ・ルンドグレーン著 きただいえりこ訳 さえら書房)より感じられます。

ルパン:p182に、「隆二は戦争を知らない。日清・日露の戦争は教科書で習った。でも、父さんたちが知っている戦争がどんな戦争だったのかは、だれもちゃんと話してくれたことがない」とあります。これは、現代の子どもにも通じるのでは。今でも、日本の子どもや中高生は、現代史は学校でほとんど教わらないのです。

西山:「戦争児童文学」という言葉を使い始めた石上正夫さんが東京大空襲の被害が激しかった地域の小学校に赴任したとき、子どもたちが東京大空襲のことを知らなかったとおっしゃっていたことを思い出しました。校庭の隅を掘れば白骨が出てくるような時代に。親たちはあまりにも辛い体験で、口を閉ざしていたというのですね。近すぎると返って語れないというのがあると思います。

ハリネズミ:広島や長崎の被爆者の中にも、子どもの結婚などを考えると自分が被曝したことをなかなか語れなかったとおっしゃる方がいます。

ルパン:戦争が終わって10年以上が経っても、劉さんの中で戦争はずっと続いていたのですよね。ものすごく切なく感じました。

ハリネズミ:さっき、西山さんがp226の「劉さんはその生涯をかけて、子孫たちが再びこうした目にあわないことを願い、同じ歴史をくり返さないために、中国人も日本人と一緒に努力しなければならないことを説いて、幽界の人となりました」というところで、「中国人にはなにも責められる点はないのに」とおっしゃいましたが、私はちょっと違うように思います。ナチスにあんなに苦しめられたユダヤ人が、今パレスチナ人に対して同じような理不尽な扱いを平気でしているのを見ると、劉さんは、日本人が悪いという気持ちを最終的には超えて、中国人だって同じような状況におかれれば同じような過ちをすることがあるかもしれない、というところまで認識が深まっていたんじゃないでしょうか?

(2016年5月の言いたい放題)


そして、ぼくの旅はつづく

マリンゴ: 苦手です。以上。なんて(笑)。こういう右脳で書いた純文学っぽい本が、もともと不得手でして。いや、それでも、興味深く読めるものもあるのですが、この本の場合は、主人公に特別な才能があって、“特殊な物語”というふうに読めてしまうので、感情移入しづらい。自分が子どもの頃でも、あまり入り込めなかったと思います。

ハル:単館上映の映画のような雰囲気のある作品ですね。世界が優しくてきれいで、出てくるひともみんなあたたかくて、読後に余韻が残るような。だけど、これは好みの問題なんだと思いますが、読むのが退屈でした。どうしてこの子は人前でヴァイオリンを弾きたがらなくなったんだろうといったことにはじまり、さまざまな登場人物たちのさざ波のような心の機微に寄り添えなくて、これは一体なんの話なんだろうと、実はラストの手前あたりにくるまで、よくわからないまま読みました。

西山:すらすらとページはめくれませんでした。地名は出て来ますけど、ロードムービーのような移動していく旅の感覚は無かった。あくまでも音楽の物語で、おじいさんと孫のお話。そのおじいさんとメールや電話でつながっていても、やはり物理的に離れている切なさはありましたが。あんまり、のめり込んでは読めませんでした。

レン:私は、時間はかからず読めました。でも、ヴァイオリンの才能があって、外国に行っても、わりにすぐ英語も話すようになって順応して、6歳の頃からわがままも言わず、お母さんにもこれほど思いやりを持っている、こういう優等生というのか、天使のような子のどこに、ごく普通の日本の子どもは心を寄り添わせるのかしらと思いました。何をおもしろがればいいのか、私はよくわかりませんでした。だれにでもぜひ、と勧めたいとは思いませんね。

レジーナ:口当たりのよい作品ですが、淡々と描かれているので、捉えどころのない印象を受けます。おじいさんの死を予感させる場面から、死んだあとの場面への切り替えは映画的ですね。おじいさんの死についてははっきりと描かれていなくて、読者にはそれでもわかるし、作者はわざとそうしているのでしょうが、作品の中で重要な部分なので、正面からぶつかって描いてもよかったのでは。福音館は、読み物の装画(小林万希子)もすてきですね。 

さらら:翻訳の工夫なのか、ドイツ語のあとにかならず日本語の訳が入っている。主人公のアイデンティティは、ドイツにあるのかな。

ハリネズミ:でも、ドイツ語はだんだんに忘れてしまいますよ。

さらら:ところどころに入る音楽や心情の描写は、とても巧みだったけれど。

ルパン:音楽を文章で表現することはとても難しいと思うのですが、それが成功しているところが随所にあって、その点ではものすごい筆力だと思いました。ただ、残念なことに、それとストーリーがリンクしていなくて、物語の奥行きを広げることにつながっていない気がします。読み終わったときに、いったい何の話だったのか、というのがよくわからない。ものすごくドラマチックでなくてもいいんです。日常の小さな場面をつなぎあわせたような物語はたくさんありますから。ただ、この本は、その小さな場面がつながっていないし、メリハリもない。一人称の書き方がまずい気がします。地の文に統一性がないので、読者に語っているのか、オーパへのメールなのかがわかりにくかったり…これは翻訳の問題なのでしょうか? それから、時系列が行ったり来たりするのも、手法の使い方がうまくない気がします。混乱を招くだけのような。クライマックスは、亡くなったオーパに宛てたメールを継父のジェイミーに見つかる場面なのでしょうが、それのどこがいけないのかがわからないから説得力に欠けますよね。実父へのメールであれば継父が傷つくであろうことも理解できるのですが…おじいちゃんなのだから、いつまでも慕っていても、別にいいですよね? あとから現れた継父があれこれ言うのは筋違い。そう思うと、この場面、むしろ興ざめになってしまいます。

アンヌ:なんというか、ピンと張った糸のようなうまい物語ではないと感じました。エピソードが絡み合っていなくて、最初の方に出てくる金曜日の少年も、もう少し子供同士の物語があればいいのに、もったいないなと思いました。各章で繰り返されるドイツ語の言葉は、外国に暮らすとこういう感覚になるのかなと興味深く感じました。ヴァイオリンの練習場面がとても多く描かれ、それでも教師とうまくいかないエピソードとかもあり、生まれつきの才能を持つこの主人公が、じっくり音楽家として成長していく過程を描きたかったのだろうかと思いました。

ハリネズミ:確かに才能のある子どもの話だし、もっとドラマチックな物語と比べると盛り上がりに欠けるかもしれません。私も最初読んだときはそう思ったのですが、訳者の方の後書きにはこうあります。「新しい土地、新しい言葉、新しい父親――これほどまでに環境が変わったのでは、身がまえない子はいないでしょう。かたくなにならないほうがふしぎです。それにアリは、大好きなオーパからも引き離されているのです。自分を抑え、目立つまいとするあまり、ヴァイオリンを弾くことを、学校ではみんなにないしょにしていました。そして、ひとり、カフェの庭でヴァイオリンを弾きながら、幼いころを振り返り、出会いを思い、別れを思い、時の流れを行きつ戻りつするうちに、閉ざされていた、一枚の、心の扉の前に立つ……。」そうなんですね。感受性の強いアリのような子どもにとっては、生き死にがかかわらないことでも、やはり大きな問題で、いい子でいるのも、自分をなるべく抑えようとしているからなのかもしれません。そう考えてもう一度読んでみると、いろいろな点でなるほどと思うところがありました。

レン:これほどバイオリンのうまい子でも新しい先生になじめないんだと思ったという意見がさっき出ましたが、この子は手作りの練習曲集でおじいちゃんに習うのに慣れていたから、普通の音楽教育に近いリー先生のやり方になじめなかったのではないでしょうか。

(2016年5月の言いたい放題)


ラミッツの旅〜ロマの難民少年のものがたり

アンヌ:ドイツの赤十字でボランティアをしている女の人が、父親はナチスだったと語っているのが印象的でした。ラミッツたちが難民と認められるまでの、内外からの様々な妨害や彼らに援助の手を差し伸べる人々の姿が、短い物語の中にくっきりと描かれていますね。父親が語るロマの人々の姿、ダンスや音楽の話に、あまり知られていないこの民族の生活を知ることができました。ボランティアのドイツ人が語る贖罪の思いに、ドイツ政府の移民や留学生への手厚い保護の源泉を見る気がします。これからの難民の受け入れも変わっていくだろうなとか、ラミッツがこれからも二重の差別を受け続けるのだろうか等の不安は感じましたが、明るい気分で読み終えられました。

ルパン:読みやすく、最後まで一気に読みました。事実にもとづいている、ということで、内容も重く受け止めました。主人公が、口がきけなくなるほど人が信じられなくなる、ということが移民の現実の悲惨さを語っていると思いました。唯一の救いはお父さんと再会できたことです。この家族の未来が明るいものになるように、すべての難民問題が一日も早く解決するように、と願わずにはいられません。

さらら:原著はスウェーデンで出たんですよね。私の知人のクルド人の一家も、難民としてスウェーデンに逃れたので、さまざまな苦労を具体的に知ることができました。北欧はもちろん、ベルギーやオランダでもそうですが、先生はクラスの子どもたちに、難民の子どもたちがなぜ「ここ」にいるのか伝える必要があります。こんな本をきっかけに、お互いの理解を深めていけるのでしょう。主人公ラミッツにはスウェーデンに到着する前に、ドイツからいったんコソボに送り返されるなど、複雑なバックグラウンドがあります。紛争中のコソボを逃れるため、偽造パスポートを用意し、業者にお金をわたしてトラックに乗せてもらったり。私の友人が決して話そうとしない闇の部分がよくわかり、興味深く感じました。ラミッツたちが収容されるのは「難民宿舎」ですが、宿舎とは名ばかり。それを「宿舎」と名付けたところに、翻訳上の配慮を感じました。日本の子どもによくわからない「難民」という存在を知るうえではいい本かもしれませんが、作品としては掘り下げが足りない。例えばストレスのせいで、ラミッツは言葉を失い、お姉ちゃんは歩けなくなってしまう。そうした心の動きを子どもに共感できるように、もっときちんと書いたほうがよいのでは。事実にひっぱられ、物語としての深みに欠けるのが残念です。

レジーナ:以前、難民の人たちの持ち物の展示がありました。鍋など、生活に絶対必要なものだけでなく、歯ブラシやヘアワックスもあって、人間というのは、ぎりぎりの状況でも人間らしくあろうとし、人としての尊厳を失わずに生きようとするのだと感じました。この本を読んでそうしたことを思いだしました。これは実話に基づく話ですが、ノンフィクションとして書かれてもよかったかと思います。私は、この主人公の気持ちに寄り添って読めなかったので……。

レン:テーマ的にはおもしろかったです。日本にないけれど、知っておきたいことだから、出すのは意義のあることだと思いました。ただ、物語を読んでいくうえの味わいが今ひとつかな。一つには、ヨーロッパ全体の地図がほしかったです。ドイツからコソボ、スウェーデンの移動を実感するのに、子どものためには特に必要ではないでしょうか。それと、この作品の場合、一人称で書くのが果たしてよかったのかなと思いました。一人称にしてしまうと、その子が見たこと、知っていたことは書けるけれど、まわりの人たちのことは書けないですよね。援助している人たちや家族の思いなどは、三人称のほうが伝わります。15歳の少年の語りの限界のようなものを感じてしまいました。

さらら:文章に、つっかかるところが多い本でした。「〜だった、〜だった」と描写され、過去のことかと思ったら、「〜なんだ」と、急に現在にひっぱられたりして。

ハリネズミ:過去形と現在形が混じっているから、よけい時系列がごちゃごちゃになるってことですか?

レン:日本人の作家の中学生向けの一人称の作品は親しみやすく、読者が手にとりやすいものになっていると思うんですけど、これはちょっと違うかなと。読んでいても主人公の印象が固まってこないんですよね。

ハリネズミ:トーンが統一されてないのかな。

ハル:知らなかったことを知るという意味で、読書体験としては「読んでよかった」と思うんですけど……これはてっきりご本人が書かれたんだと思っていました。別に作者がいるんですね。冒頭から「こんな嫌な先生っているの!?」って、いくらなんでも信じられないと思うけど、このたどたどしい雰囲気で綴られると、「実際に体験したことなんだな、本当にこういう先生もいるのかもな」という気にもなりました。でもやっぱり、この後で読んだ『生きる:劉連仁の物語』(森越智子著 童心社)と比べると、心に迫ってくるものがなくて残念です。世界を知るための勉強として読む分には、貴重な本なのかなぁと思います。

マリンゴ: 2013年、ギリシャのロマ人の夫婦のもとに金髪の白人少女がいる、と通報があったニュースを思い出しました。誘拐や人身売買の疑いで夫婦は逮捕されたんですが、後日、DNA鑑定で実子とわかって釈放されたそうです。そのときに、ロマ人というのはそういう扱いを受けているのか、と驚いたのですが、掘り下げて調べなかったので、今回の本でとても勉強になりました。しかし読むのが気の進まない本でした。理由は二つあって、まず一つは、本の内容の問題。『リフカの旅』(カレン・ヘス著 伊藤比呂美他訳 理論社)みたいに、過酷であっても自分の意志で決めながら前に進んでいく本は読みやすいのですが、本書のように、運命と家族に翻弄される物語はしんどかったです。でも、実話をもとにしているので、これは仕方ないと言えます。もう一つは、構成の問題。父親と主人公の男の子、二つの話が混ざっていて、どちらの話なのか一部わかりづらくなって、ややこしかったです。父親の過去については会話形式で語るか、あるいは書体を変えるか、工夫して差別化してもよかったのでは、と思いました。あ、これは翻訳ではなく、原文に対しての意見ですが。

西山:内容とは直接関係ないんですけど、扉に「登場人物の名前は変えてあります。」に続けて「ラミッ・ラマダニーの本名は、マーション・ペイジャです。」と書いてありますよね。いいんですか、これ?

ハリネズミ:そこ、おかしいな、と私も思いました。コピーライトを見ると、この作家の名前に加えて主人公の名前も入っている。だったら、日本語版の作者名に仮名でも実名でもいいから入れておくべきなんじゃないかな。難民はいろいろな立場の人がいて、実名を出すとまずいという人もいると思いますが、そうだったら、すぐに実名を書いてしまっているのは変ですね。どっちにしてもその部分に配慮がないような気がしました。

さらら:実体験した人から、作家が話を聞いて書いた作品なら、その両方の名前を作者として出すべきですよね。

レン:『夢へ翔けて: 戦争孤児から世界的バレリーナへ』(ミケーラ・デプリンス, エレーン・デプリンス著 田中奈津子訳 ポプラ社)も、本人と養母の共著で、両方の名前を出していますね。

西山:翻弄される様子はどんどん読めて、事実を知るおもしろさはありました。

さらら:この本では、ロマの子どもが学校に来てほしくないと言われたり、意地悪されたりします。でも日本の子には、ロマがなぜそんなふうに差別されるか、よくわからないはず。バックグラウンドがないだけに、簡単なようで読むのがむずかしい部分があります。白紙の状態で読んでいく子どもに、マイナスの刷り込みをするべきじゃない。この本は、ロマの家族愛や伝統も描かれていて、そこがよさでもあるけど、どうしてこんなに意地悪されるんだろうって読者は思うでしょうね。

ハリネズミ:ロマの人たちが自分の国を持っていない、ふるさとのない人たちだということは、この物語からも伝わってきましたよ。

西山:別の話になりますが、アンリ・ボスコの『犬のバルボッシュ』(天沢退二郎訳 福音館書店)に出てくる「カラク」って、ロマのことでしょうか。

ハリネズミ:ロマについてですが、たとえば、エミリー・ロッダの「ローワン」シリーズには「旅の人」というのが出て来ますね。定住しないで移動して暮らしている人たちで芸術を愛している。そして、定住民からはうさんくさいと思われている。でも、彼らには彼らにしかないいいところがある、という書き方です。ああいう形で子どものための物語に登場させるやり方もあると思います。この作品は、ロマの難民を描くという意味では貴重ですが、私は、こういうものこそ、すぐれた質のものを出してほしいと思ってるんです。だから、そういう目で見ると物足りない。何よりも気になるのは、人物像がステレオタイプで、しかもそれを支えるリアリティが薄いということ。たとえば、冒頭でドイツの学校の先生が「この中のだれかが、クラスのお金をぬすんだのよ。クラス旅行のためにみんなでためていたお金を。これで旅行はなくなったわ」と言い、ヒルダという子が「ラミッツとメメットが犯人だと思います」と言い出すところなど、日本だってここまでひどい状況は考えにくい。ケータイ小説じゃないんだから、もっとリアルに書いてほしいものです。かわいそうなロマのラミッツという設定を打ち出したいがために、リアリティから離れてしまう。それによって、読むほうはラミッツの心の中にまでは入っていけない。それに、この作品を読んだ日本の子どもたちは、スウェーデン人は親切だけどドイツ人はひどいという感想をひょっとすると持つかもしれない。 
 訳にももうちょっと工夫がほしかった。p38には子どもの会話の中に「アルコール依存症」という言葉が出てきますが、この年齢の子がこうは言わないでしょう? 第2章ではラミッツが学校へ行かなくなっていますが、p44のお父さんの言葉をこう訳しただけでは、お父さんの複雑な気持ちは読者に伝わりません。ラミッツの親の結婚についての話でも、お父さんのバイラムは、妻のジェミーラはとても貧しい家庭の出身だったのに、ジェミーラの親が結婚に反対したとあります。それがどうしてか、よくわかりません。ジェミーラがロマではなかったからなのか、あるいは後で「はじめの部分は、ちょっと変えているけどな」とお父さんが言っているので、同じロマでも貧しいのはバイラムの方だったのか、あいまいなままです。p76の「よく気がついたな」も、会話の流れがわかりません。
 また実際にはロマの宗教は様々でイスラム教の人はむしろ少ないと思いますが、ロマのことを知らない日本の子どもたちはみんなイスラム教なのだと思うかもしれません。そういうことは、後書きででも触れてくれるとよかったなと思いました。それから、日本は極端に難民を受け入れない国ですが、そういうことも後書きで触れられれば、日本の子どもももう一つ考えるきっかけをもらえたのに、と思います。

(2016年5月の言いたい放題)


ポーラ・メトカーフ文 スザンヌ・バートン絵『いもうとガイドブック』

いもうとガイドブック

『いもうとガイドブック』をおすすめします。

姉から見た妹を描いた絵本。兄弟や姉妹について描いた絵本はたくさんあるが、その多くは年上の子どもが年下の子どもに親をとられたように感じて複雑な気持ちを抱く様子を表現している。この絵本にもその要素はあるが、それだけではないのがおもしろいところ。

絵も軽妙でゆかいだが、それ以上にユーモアにあふれた文章が楽しく、クスッと笑わせてくれる。

このくらいの年齢の姉妹なら似たような経験をしたことがあるはずで、それぞれの体験と重ね合わせて読めば、実際の兄弟姉妹関係にも余裕が生まれるのではないだろうか。

あたたかいユーモアを短い言葉でうまく訳すのはとても難しいものだが、翻訳はそのユーモアを、細かいニュアンスまで含めてみごとに日本語に移しかえている。そのおかげで、日本の子どもにも十分に楽しめる絵本になった。

(産経新聞児童出版文化賞講評2016.05.05掲載)


あべ弘士『宮沢賢治「旭川。」より』

宮沢賢治「旭川。」より

『宮沢賢治「旭川。」より』をおすすめします。

宮沢賢治の「旭川」という詩を基にして、そのエッセンスを活かしながら、言葉を紡ぎ、絵で表現した絵本。

賢治の詩が内包するさわやかさや軽やかさを、みごとに表現している。動物中心の絵本を数多く出してきた作者だが、この絵本の主人公は、帽子をかぶって馬車に乗る賢治。しかし、その周囲には動物も登場し、馬ばかりでなく大きな蝶やフクロウやオオジシギが随所に登場している。

中でも原詩には出てこないオオジシギを、作者は、「天に思いを届け、天の声を聞いて返ってくる使者のようだ」として、三見開きを使って、大きく扱っている。この鳥に、賢治を象徴させているのだろうか。

画面ごとの構成や、余白の使い方、流れや変化のつけ方もすばらしく、この作者がこの絵本で新たな境地を切りひらいたことを思わせる。

(産経新聞児童出版文化賞講評2016.05.05掲載)


2016年04月 テーマ:寛容と赦し

日付 2016年4月22日
参加者 アカザ、アカシア、アンヌ、ルパン、西山、マリンゴ、カピバラ、ハル、
さらら、レン、げた、レジーナ、きゃべつ
テーマ 寛容と赦し

読んだ本:

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ワンダー

さらら:去年3月オランダの本屋さんで、とにかくこれがおすすめと、『ワンダー』の原書を手渡され、そのあと日本語版を読みました。そして日本人の作家がなかなか書けないこと、日本語では語られてこなかったことを巧みに書いているな、という印象を持ちました。オーガストは素直でとてもいい子。温かい家族の中でまっすぐに育っているけど、自分の障碍のことは常に意識しているし、傷つくことだってあれば、自分を「奇形」と呼ぶことだってある。でも全体に自分のとらえ方がクールであまり感傷的にはならず、そこに好感が持てました。いじめがあっても陰湿じゃなくて、解決に向かって動き出す。日本の現状のなかで、もしこんな男の子がいたらまわりはどう受け止めるだろうかと考えると、そこからリアリティを持って書こうと思ったら、もっとストーリーも暗く、文章も重くなりそう。とにかく、いいお話でした。ただ最後のほうで展開が速くなり、オーガストをいじめている男の子が転校しちゃったという解決が、やや安易な気がしました。

アカザ:なぜワンダーというタイトルをつけたのかと思っていましたが、最後まで読んで、主人公のオギーがワンダーなのだと分かりました。こういう障碍があるのに、真っ直ぐに育つなんて。何ページか忘れましたが、「自分には障碍はない」という言葉が印象的でした。障碍は、むしろ周りの人たちにあって、その人たちが試されている。そういう様々な人たちの視点で書かれているところが、この作品が成功した理由だと思います。サマーという女の子は出来過ぎだし、ジュリアンはステレオタイプ。わたしも含めて、ほとんどの人たちは、サマーとジュリアンの間にいると思うので、ジャックにいちばん共感をおぼえました。リアルな作品に見えて、実はファンタジーだと思うのですが、読んだ子どもたちがどんなことを考えるか、聞いてみたい気がします。

さらら:『ワンダー』という言葉をタイトルにするにあたって、ナタリー・マーチャントの詩が一部冒頭に引用されていますね。ロアルド・ダールの『マチルダ』のミュージカルも、冒頭に、新しく生まれてきたどんな命も「ミラクル」という詩があって、すごく似てるなーと思いました。
 https://sites.google.com/site/qitranscripts/matilda-act-1
 http://www.azlyrics.com/lyrics/nataliemerchant/wonder.html

ルパン:原書で前半を読んで、途中から日本語訳で読んだのですが、そんなに違和感なく移行できました。私はこれはすばらしい物語だと思って読みました。ただ、最後でオーガストが表彰されるのは、なかったらよかったのにと思います。彼はうれしいのだろうかと、腑に落ちない部分がありました。

アンヌ:初めて手に取った時、目次も註も後書きもなく、「第一章」ではなくpart1と書いてあるのに驚いて、小学生対象なのに読めるのかなと気になりました。各章の冒頭に詩や文学作品の引用が書かれているのですが、この本では歌詞も多く、YouTubeで音楽を聞きながら楽しみました。ジャスティンの章(part5)の最後で、ジャスティンがオギーのことを考え暗い気持ちでいる時に、ふと民族音楽の音階を思い浮かべて心が和らぐところがあります。ここは、音楽で世界をとらえている少年の気持ちがとてもうまく描かれていて、好きな場面です。野外学習で、仲が良くないクラスメイトが、よその学校の子供たちからオギーを守り、それをきっかけに学校中の生徒がオギーにうちとけるという展開には、『町から来た少女』(リュボーフィ F.ヴォロンコーワ著 小学館他)のけんかの場面を思い出し、外敵から守ってそこで身内になるんだなと納得しました。ラストは少しくどいと思いましたが、初めて学校に行き、ブドウでさえ半分に切らないと食べられないような体で1年間を生き抜いたのだから、スタンディングオベーションを受けてもいいと思いました。

アカシア:おもしろく読みました。オギーについて書いた本と言うより、オギ-を鏡にしての周りの人たちの反応やそれぞれのスタンスを書いた本だと思います。最後の部分は余計じゃないかという声もありましたが、私はこれは必要だと思います。大勢がスタンディング・オベーションをしたということは、多くの人が最初は奇妙な顔でしかなかったオギーを、一人の人間として認識するようになったということを表してる。こういう本は、下手な人が書くと「かわいそう」という視点がどこかに入ってきてしまったり、主人公に肩入れするあまりほかの人間が書けていなかったり、ということが多いけど、この作品には「かわいそう」という視点もまったくないし、さまざまな人間も書けている。それがすばらしい。最初のほうで、おならばかりしてる看護師さんが登場したり、校長先生がおしりという名前だったりと、笑わせるところがあります。読書が苦手な子もこういう手で作品に引っ張り込もうとしてるのかな、と思いました。ジュリアンとその家族だけはステレオタイプにしか描かれていないと思ったんですけど、考えてみれば現実にもこういう人っているんですよね。

西山:すっごくおもしろかったです。視点人物を変える書き方は、日本の創作文学ではやりすぎというほど増えているけど、この作品を読んだらこの方法が生きている思いました。たとえを思いついたんですけど、語り手がライトを持っていると考える。例えば、語り手を変えていっても、人(語り手=ライトの持ち手)はかわるけど同じ方向に光をあてているパターンの作品。これは、世界の広がりは立ち現れないし、結局語り手を変えた意味が無い。あるいは、それぞれが照らす方向がみんなばらばらでリンクしていかないパターン。これまた、作品世界は広がった大きなひとつのまとまりにならない。でも、『ワンダー』は、一人称の語り手を章ごとに変えていく手法がとても有効だと思いました。それに、あくまでこういう等身大の子と思って読めました。これから書こうと思う人は勉強になる本だと思いました。それと、いじめは許さないというのは、日本の小説の中では、犯罪に近いものでもけっこう許されているんじゃないかと、気づかされました。処罰されるべきことだというのが足りないかも。たいへん新鮮でした。たくさんの人に読んでほしいと思います。

マリンゴ: 発売直後から書店でよく見かけてましたが、帯の文字が大きすぎて、タイトルは「きっと、ふるえる」だと当初思い込んでました(笑)。とてもおもしろくて、いい作品だなと思いました。オーガストの視点で進むのかと思ったら、次々他の人の視点に代わって、さまざまな角度から物語が進んでいくところがよかったです。312ページに、誰もが一生に一度はスタンディングオベーションを受けるべき、と書いてあって、ああこれは伏線だな、と思っていたのですが、そのことを程よく忘れた頃、ラストに再び出てきて、うまいなと思いました。さらに最後の最後、格言で締めているところも。あと、終盤の映画と森のシーン。物語の展開として、そろそろ主人公に「友達を助ける」経験をさせたいと思うのが、一般的かと思うんですけど、この物語は「友達に助けられる」ことで輪が広がっていきます。その流れが興味深く、とてもリアルだと思いました。

ハル:これはもう、一晩で読んでしまいました。読み終わって最初に思ったのは、「あぁ、こういう本を選べる出版者になりたいなぁ」って。障害にからんで結構きわどい表現もありますし、本のつくりも大胆なところもあるので、こういう本をつくれるようになりたいと思いました。中でも印象的だったのは、ハロウィンのシーンで、ジャックがなんの理由もなく、たとえば嫉妬とか、むしゃくしゃしてたとか、そういったわかりやすい理由もなく、ぽんっと意地悪を言ってしまうところです。児童書の世界って、いい子はいい子、悪い子は悪い子、悪い子もだんだんいい子になって……、というふうにはっきりしているように思いますが、その意味でジャックの行動はとてもリアル。こういった描かれ方をしているのをこれまで私は見たことがなかったので、良い意味で、すごくインパクトがありました。読者の子供たちはこの場面をどう受け止めるのかな、共感されるのかな、というのは興味深いです。

カピバラ:だいぶ前から持っていたんですが、帯の「きっと、ふるえる」を見て、あまりふるえたくはないなと思い、なかなか読み始められませんでした。たまたま今朝のNHK「あさイチ」で中江有里さんがこの本を紹介しており、この本は「普通」というのはどういうことなのかを考えさせてくれる本でしたとコメントしていました。確かにそういう面はあると思います。いろんな子どもたちが出てきて、それぞれの視点から書かれているのがおもしろかったです。一人の人間の中にも、良い面も悪い面もあるところが描けていますよね。オギーが明るすぎるくらいに明るく描かれているんだけど、障碍のある登場人物を描くときによくありがちな、かわいそうとか、哀れむ感情を排除しているところが良かった。たまたまオギーは外見に障害があるけれど、他の人たちは外見ではなく性格に障害があったりするわけですからね。オギー以外では、おねえちゃんの気持ちに共感できましたね。それとお姉ちゃんの彼氏の気持ちも。

レン:半年ほど前に読んだまま、読み返さなかったので細部を忘れてしまったのですが、いろんな子どもの視点で書かれているのがおもしろかったです。共感するところがあったり、そうでもなかったりしながら、さまざまな立場や考え方に触れていける。一度読み始めると、ぐいぐい引きこんでいくストーリーの強さがある。どの子も共感したり、そうでもなかったりしながら、ひきつけられて読み進められるから、全世界で300万人も読んだのかなと思いました。

レジーナ:私は今回の選書係でした。この本は4年前に原書で読んで、日本でも出版されるといいなと思っていました。ドイツ児童文学賞の青少年審査員賞も受賞しています。オーガストをどう受け入れるか、周囲の人間も悩みながら成長していきます。難しい主題の作品ですが、家族の温かさに救われますね。外見が派手になっても、オーガストのことをずっと気にかけているミランダなど、人物造形がしっかりしています。複数の人物の視点で書かれた物語は、内容が薄くなることもありますが、この本はそうではなく、ちゃんと残るものがあります。ナルニアの引用は、瀬田さんの詩的な訳文を使ってほしかったです。最後の表彰の場面は、なくてもよかったのでは。全体的にもう少し短くてよかったかな。オーガストは、悩みながらも障碍を明るく笑い飛ばしていて、すごく強い人間ですよね。私にはとてもできないので、共感しきれない部分もありました。

アカシア:さっきも言ったんですけど、私は最後の場面には二つ意味があると思います。そこまでしないと認められないってことじゃなくて、一つは、周りの人がオギーと付き合った結果外見じゃなく一人の人間として認めるようになったこと。もう一つは、この本は広範な読者に読んでもらおうとしているので、読書嫌いの子どもにとっては、スタンディングオベーションがあったほうがイメージがはっきりしてわかりやすい、ということ。

レジーナ:p130に「ゲームのせいでオギーがゾンビみたいになっちゃうのは、すごくイヤ」とあるのは、どういう意味でしょうか。

西山:ゲームに夢中になって反応しないっていう様子じゃないかな・・・。

さらら:さっき、「ワンダー」や「ミラクル」のという言葉の話が出ましたが、どんな命も神の奇跡、というキリスト教的な意味が、この『ワンダー』に入ってるんでしょうか…? 欧米の読者は、タイトルからして、すでにそう感じるのかしらね。

アカザ:入っているんじゃないかしら。

アンヌ:註を入れないと、小学生にはわからない表現がありますよね。たとえばインクルーシブ教育とか。

アカシア:そこは文中でうまく説明してあります。註は子どもの読者にとっては物語の流れを邪魔する場合も多いので、入れないほうがいいこともあります。これは、そのあたりがよく考えられています。それから、オギーは体も弱く、差別の対象にもなってしまいがちな子ですが、親がちゃんと意志を尊重しようとしている。そこもいいな、と思いました。

げた:ごめんなさい。まだ、最初の100ページくらいしか、読めてないんです。この後、読了したいと思います。楽しみにしています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


先生、しゅくだいわすれました

げた:今の小学校には宿題の点検係っていう係があるんですかね。それはともかく、宿題を忘れた時、言い訳を話すことで許してもらえる。子どもたちにそれが受けて、わざと忘れてきて、おもしろい話をしようするようになるという展開になって、お話の発表会の場のようになってきちゃうんですよね。現実には、こんな風にはならないでしょうけどね。職場でも月曜の朝礼の時に、順番にフリーテーマで話すということをしていたことがあったんですが、なかなか大変だったことを思い出しましたよ。おもしろいと思わせる話をするのは難しいですもんね。

アンヌ:物語の枠にとらわれない「ウソ」というのがおもしろいお話でした。ファンタジーの決まり事では、物語の最後に何か証拠が残るような仕組みを置くのだけれど、ここではウソなので何もない。例えば、お話の中で頭をぶつけても「目が覚めたらたんこぶがあって昨日の話は本当だった」となるところが、ウソなので「たんこぶもありませんでした」 となるのが新鮮でした。先生のお話も、生徒たちが引き込まれていって新しいウソの目撃談を誰かが口にすると、それも物語の中にとり込んでしまう。そして、ぐんぐん伸びていく物語は「宿題が出来なかった、作れなかった」 という着地点に収まる。なんだか、一瞬の夢が言葉で語られ教室の中でふっと消えていく感じが、伝承されない物語という感じで新鮮でした。表紙の中にも隠し絵があるし、p.64、p.67の竜のお母さんの挿絵も、 みだれ髪といい裸足といい、怪しそうにおもしろく描けていると思いました。

ルパン:私はあんまりおもしろくありませんでした。子どもたちが「宿題をやらなかった言い訳」として作るお話が、つまらないんです。どれも陳腐でたいしたことないから、宿題忘れが帳消しになっていいと思えるほどの説得力がない。やっぱり、宿題って、やらなきゃいけないものなんです。ましてや、先生が自分で出した宿題を「やらなくていい」というからには、それでもいいやと思えるほどのあっといわせるものがないと。そこが中途半端だと、むしろ「読ませたくない話」になってしまいます。

アカザ:子どもがすらすら読める本だと思いました。特にいやだなという点はなくて気持ちよく読み進めましたが、おもしろかったかときかれれば、ちょっとね。宿題を忘れた言い訳を考えさせるというのはいいのですが、肝心のウソの話がつまらない。ウソ話が奇想天外にふくれあがって、学校が大変なことになるとか、いくらでも冒険できると思うのだけれど、肝心のファンタジーの部分がおもしろくないので、すぐに忘れてしまいそうです。

レジーナ:たわいのない話で、『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・』(市川宣子作 ひさかたチャイルド)に少し似ていますが、私はこういう本はいろいろあっていいと思うし、読んだあとに満足感が得られる短い作品というのはなかなか見つからないので、積極的に子どもに手渡していきたいです。表紙にも工夫がありますね。今の学校現場は、いじめや貧困などいろんな問題を抱え、児童文学でもそうした問題が描かれることが多いですが、この本は、先生と子どものやりとりをほのぼの描いていて、「そういえば学校って楽しい場所だったよね」と思いださせてくれる作品です。

レン:さっと読めましたが、私はそんなにおもしろくありませんでした。宿題忘れちゃうというだけで、おもしろそうと思って子どもは手に取るのかな。中に出てくるつくり話を、私は楽しめませんでした。やらなくてもいい宿題なら、最初から出さなくていいのにって思っちゃいます。子どものときに読んだら、好きじゃない本だったと思います。生活童話のたぐいがとても苦手だったんです。そんなこと言ったって、学校なんて楽しくないのにって思っているヘソ曲がりだったから。

カピバラ:4年生の学級の話なので中学年向けですが、幼年童話かと思うほどの造りですね。4年生向けの本だともっと文章量のある本を想定してしまうけど、今の4年生の読書力が落ちていることを考えると、この薄さ、いかにもおもしろそうなタイトル、ほとんどのページに挿絵入りで、カラーページもたくさんあり、挿絵なしのページは下に余白をたっぷりとって字がぎっしり詰まっていない……読書が苦手な子も何とか読めるように、と考えたところに努力賞をあげたいです。

ハル:そうか、この本は、中学年向けなんですね! もう少し下の子向けかと。ちょっと今そのことに感心してしまって、感想が飛んでしまいそうです。えっと、タイトルから何か、古典的な名作といったものを期待しすぎてしまって、ちょっと物足りなかったなというのが正直なところです。つまらなくはないんですけど。途中で「宿題、もう忘れたくない!」という展開になったところで、新たな展開やオチを期待してしまったんですけど、そこで先生のつくり話がきて終わってしまったので、やっぱりちょっと、ぼやっとした印象を受けました。

マリンゴ: シンプルな話っていうのはこういうものなのだな、と。決して悪い意味ではなくて、むしろいい意味で、お手本になると思いました。自分だったら、みんなのついたウソが一つの物語につながる、というような、もう一段階凝ったストーリーを考えてしまいがちですが、そうなると文章が長くなって本が分厚くなって、中学年向けではなくなってしまう。このくらいの文章量と絵の多さが、中学年の子が楽しく読めるスタンダードなのかも、と感じました。今の子は読書力が落ちていると聞くので……。

西山:読みましたけど、よそに差し上げちゃって手元になくて、地元の図書館では貸し出し中で読み返せませんでした。いまさっとめくって、学校の息苦しい現状が進行していて、学校は重くなりがちだから、こういう軽さは意外と技が必要なのかもと思います。それと、「仕方ないねぇ」っていう緩さが、今回のテーマに沿うんだなと納得。先日テレビで「エイプリルフールズ」という映画を観ました。出てくる人物が全員ウソをついてて、それがちゃんと絡んでいくし、こっちが思っているウソと真相が逆だったり、とてもおもしろかった。作り話がからんでいくとか、どんでん返しがあるとか、中学年向きでも試みてもよかったのではと、欲が出なくもないです。

アカシア:さあっと読めて楽しかったんですけど、後には残らなかった。市川宣子さんの『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・・』と同じつくりですが、あっちは、一人のお父さんがほら話をするので、お父さん像もだんだん浮かび上がってくる。こっちは、一人一人ばらばらに話をするので、ばらばらな感じ。小学生が次々にこんなうまい話を長々とするわけもないので、リアリティもない。想像力の訓練として、あなただったら、どんな話をする? という方向に持って行ければ、それもおもしろいのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


世界の果てのこどもたち

マリンゴ:非常にいい物語だと思います。私自身、満州での生活など、知らないことがいろいろあって勉強になりました。ただ、児童文学として子どもに積極的に推す気にはなれないかも。やっぱり大人向けの文学だと思います。というのも、引き揚げのとき、中国の人がいかに残酷だったかを描いているシーンがあまりに鮮烈で、そこが強く頭に残りそうだから。高校生以上だったら満州ができた経緯など、基本的なことを知っているので、その上でこの小説を読めるでしょうが、そのあたりの歴史をほとんど何も知らない中学生だと、日本はひどいことをされた被害者だ、という印象のみを強く持つようになってしまうかな、と。

ハル:途中読むのがつらくなるくらい、ドキュメンタリーのような写実性を感じるけど、小説として素晴らしい作品だと思います。一方で、日本人ってこんなに素直だったのかなぁとも思いました。当時のこの悲惨で過酷な状況の中で、「自分たちはこんなにひどいことをしたんだ」と、加害者としての立場をこんなに素直に受け入れられたのかなと、ちょっと主人公たちが都合よくまとまっているような感じもします。この作品にかぎったことではないですが、この先、戦争体験者もどんどんいなくなっていくなかで、記録や体験として残していかなければいけない。でもそこには、伝承者にも読者にも、主観や政治的思想もからんでくるので、戦争を語り継いでいく意義と責任と、改めてこわさも感じました。

カピバラ:育ち方や性格がまったく違う3人の少女が、3人3様の強さをもって困難を乗り越えていくところに感動しました。子ども時代は子どもの視点でよく描かれていて、例えば満州の広い広いトウモロコシ畑で働くシーンなど、ありありと情景が目に浮かびました。子ども時代の部分は児童文学でもいいかなと思ったけど、全体としては児童文学ではないと思います。とてもよく調べ、事実をもとにして書いていると思いました。わたしの母が子どものころ、叔父が朝鮮人の奥さんを連れて引き揚げてきた。その人が翡翠の腕輪をはめていたことや、「チョーセンジンと馬鹿にするな」とよく言っていたことを覚えているそうです。けれどそういう記憶をもってる人は、今はもう2世代前になってしまった。だからこういう本は貴重だし、広く読んでほしいと思います。

レジーナ:児童文学でないというのは、どういう点でしょうか。

カピバラ:戦争や人種のことなど、歴史的背景を知ったうえでないと、偏った印象をもつかもしれないという意味です。

アカシア:出し方が、子どもの本じゃない?

ルパン:出し方が児童文学じゃないというのは?

カピバラ:子どもには隠した方がいいというのではなくて、やはり描き方だと思う。後半、ショッキングな場面が続きますからね。

レン:非常に意欲的な作品だと思いました。最後にたくさん参考文献があるので、こういうことをこの作家さんは書きたいと思ったのだなと。でも、児童文学ではないと思いました。戦前、日本も貧しくて、国内では食い詰めて外国に出て行く人がいたこととか、学校でも政治の場でも暴力がまかりとおっていたのだなということなど、改めて考えさせられました。ただ、私もうは少しウェットに書いてくれるといいのになとも思いました。作者が意図的にそうしたのかもしれませんが、事実が積み重ねられていく感じの部分が多くて。読みながら、ロバート・ウェストールの『真夜中の電話』(原田勝訳 徳間書店)の、触ったものや匂ったものの感じが伝わる文章を思い出して、ひとつひとつの体感がもうちょっとあるとよかったなと。でも、朝鮮だから、中国だから、というのではなく、どこの国の人でもいい人もいれば、そうでない人もいるというのは、よく伝わってきました。もう少ししぼって書いたらYAになるのかなと思う反面、3人を描くことで、この当時の満州の群像劇になっているとも思います。なかなかないテーマに取り組んだ、力のこもった作品だと思いました。

レジーナ:この本は一般書として出版されているので、今回、みんなで読む本に選んでよいか少し迷いましたが、クラウス・コルドンの『ベルリン』(理論社)3部作や、マークース・ズーサックの『本泥棒』(早川書房)のように、戦争というものが多面的に描かれていること、日本人が中国人や朝鮮人の土地を奪ったり搾取したりしたことにも触れていて、加害者としての日本が子どもの目で捉えられていることを考えると、ぜひ中高生に読んでほしいと思ったので選びました。人が生きるというのはどういうことか、国を越えて人と人とが心を通わせるというのはどういうことなのか考えさせる作品です。日本がアジアの中で近隣諸国とどのように向き合っていけばいいか、そのヒントがここにあるように感じました。ウェットな描き方ではありませんが、凍りついたトイレなど、満州での生活の描写はリアルですよね。3人は、おにぎりのことを人生で何度も思いだしていて、その場面がリフレインのようにくりかえし出てくるので、最初はさらっと描かれているからこそ、あとになって胸に迫るように感じました。戦争の時代はすべてがつらかったように思いがちですが、けっしてそうではなくて、のどかな日常もあって、それを奪うところに戦争の悲劇性があるんですよね。

きゃべつ:日本の戦争児童文学では、これまであまり触れられてこなかった部分を描いています。角田光代さんの『ツリーハウス』(文藝春秋)は同じく満州から始まる親子三世代の話ですが、それが縦軸だとすると、これは立場の違う3者を主人公にしていて、横軸的。その当時の中国や朝鮮の人の暮らしを知らなかったので、とても新鮮でした。これだけのものを書きあげてくださったのは素晴らしいと思います。読んでいて、よく調べて書いたことが分かりますが、事実を積みあげていけばリアルに近づくのか、という疑問も持ちました。どんなに日本人の加害行為が描かれても、どこか、読んでいる日本人がほっとできるというか、やむをえないなどと責任転嫁できてしまう余地を残してしまうのでは? それが虚構だとしても司馬遼太郎の歴史小説のように、事実を積みあげているからこそ、読んでいてその部分を見抜くことができない。戦争を知らない世代が描き、戦争を知らない世代が読むということは、その恐れがつねにあるかもしれない。戦争に関する本に携わるとき、自分自身、事実を詰めこめば嘘にならないだろうと思ってしまうところがあります。まじめになりすぎて、当事者だったら入れられたであろうユーモアを入れられなくなってしまったりします。どうやって、軽みを出していくのがいいのか、考えていくきっかけになりました。

レン:先日、浅田次郎さんのお話を聞く機会があったのですが、戦争を知らない人間が戦争を書くのはおこがましいという人もいるけれど、生の形で伝わるように書かねばならないと言っていました。書くことは貴重だと思います。

アカシア:たとえばアメリカのアフリカ系でレズビアンの作家ジャクリーン・ウッドソンは、たとえば白人が黒人の問題を書くとか、レズビアンじゃない人がレズビアンを登場させるといったことについて、書いた人が自分の問題としてとらえているのなら、いいじゃないか、と言っています。表面的にとか、ファッションで書くんじゃなくてね。

きゃべつ:もっと、コミカルに描く作品があってもいいかと思います。

アカシア:当事者でも、そうでなくても、ユーモアを持って書ける作家はいます。ウーリー・オルレブなんか、ユダヤ人で戦禍に脅えているのに戦争ごっこなんかやってる子どもを描いているし、ソーニャ・ハートネットも『銀のロバ』(主婦の友社)で死にそうな脱走兵を子どもたちが興味津々で見に行ったりする。子どもはいつでも子どもだと捉えれば、そこにユーモアもおのずと出てくるような気がします。

アカザ:とても力のこもった作品で、感動しました。現代史を十分に学んでいない中高生もいると聞くので、ぜひ読んでもらいたいと思います。被害者としての子どもたちを描くだけでなく、バランスをとって書こうとしている作者の心配りが感じられました。3人の少女の個人史を語っているので、視点が広がっていると思います。児童文学として書かれたものではないけれど、3人が優等生すぎるというか、健気すぎるところが児童文学的。この作者には、もっともっと子ども向けの作品を書いてもらいたいと思いました。戦後の部分が駆け足になってしまった感じはしますけれど。

ルパン:たいへんな意欲作だと思います。子どもが読んでも、それほど善人悪人という色分けは感じないのではないかと思います。中国人が悪いとか日本人が悪いとかいう偏った書き方はしていないから。私がいちばん強烈に印象に残ったのは、にぎった手をこじあけられて、たったひとつのキャラメルを奪われる場面です。いろいろな意味で、リアルにぞっとしました。その記憶を持つ少女がおとなになって好きな人との結婚に踏み切れなかったのはせつなすぎました。児童文学という観点からすれば、主人公が必ず幸せになる予定調和がほしかった。

アンヌ:かなり読むのに時間がかかりました。児童文学だと思い込んでいて、ロシア兵に襲われる場面で違うと気づきました。3人のうちでいちばん心の傷が深いのが、ずっと日本にいた茉莉という設定には、少し納得がいきませんでした。孤児になってからの他人の仕打ちが心に残って、迎えに来た兄と慕う人と結婚しない。ここで茉莉が拒絶したかったのは何なのかが、うまく読み解けませんでした。私は祖父母や親の世代が、引き揚げてきた人たちについてこっそり話しているのを聞いた世代ですが、そういうことを次の世代にどう手渡せばいいのか、この小説を読みながら、考えさせられました。

げた:最初は、これってノンフィクションかなあと思いながら、読み始めました。フィクションなんだけど、ドキュメンタリーみたいだなあと思いつつ、一気に読みました。全編、泣きながら読みました。生命力の弱い幼い子から順番に亡くなっていくんですよね。ひどい話です。大人がいがみ合い、そのつけを幼い子たちが支払うなんてひどいです。許せません。こういった事態を作ったのは為政者、権力者ですよね。がそういう状況をつくってしまう。中国の人だけがひどく描かれているという風には思いませんでした。開拓団の土地はもともと中国の人たちのもの。それを奪ったのは日本人でしょ。作者は私よりずっと若い人なんですが、そんな若い人に書いてもらって申し訳ないという思いもありますね。この本は、歴史の勉強をしながら、高校生ぐらいの人たちに読んでほしいですね。

アカシア:おとなは、戦争はひどいことが常時行われていると知っていますけど、それさえほとんど知らない若い人が読むとどうなのか、という点に興味があります。さっき中国人の残虐性が強く印象にのこるんじゃないかという話がありましたが、珠子は、p265で「もうわらえない。わたしも日本人だから。酷いことをした日本人のひとりだから」と言ってるし、茉莉もp289から次のページにかけて「わたしの手を無理やりに開いてキャラメルを取っていったおばさん。わたしのお皿のじゃがいもを食べたおじさん。かっちゃんにみつけてもらうまで、だれもわたしを助けてくれなかった。養護施設ではひどい目にあわされた。/自分だけじゃない。道ばたで死んでいる人たちの懐から財布を盗んでいった人。空襲で親を失い、不自由な体になってなお、守られるどころか、いじめ抜かれた戦災孤児たち。/こんな日本人なんていらない。この世界に、憎むべき日本人を増やしたくない。/そして。/茉莉にはわかっていた。/日本人。それは、わたしも。/日の丸の旗を振って、進一お兄ちゃまをフィリピンに送り込んだ。鉄を集めて、弾丸切手を買って、鉄砲の弾を送った。シンガポール陥落のときも提灯行列をして祝った。『陥落』されたシンガポールの人たちがどうなったのか、考えもせずに」と思っています。だから二人の頭の中には中国人の酷さより日本人のひどさの方が強く印象づけられているんだと思います。でも、飢えの経験がない読者の中には、キャラメルやジャガイモを取られるより、権力者の宣伝に乗ってほかの国を侵略するより、引き揚げの際に満人が襲ってくる怖さの方を感じてしまう人がいるのも確かかもしれない。マリンゴさんがおっしゃるように。戦争が実感としてない世代にどう伝えればいいのか、難しいところだと思います。
 実際には戦争になると国家がおとなに加害し、おとなが子どもに加害するという弱肉強食の世界が生じる。で、より弱い立場の者がいちばん犠牲になるってことを、この作品はちゃんと書いてます。それと、立場も国籍も育ち方も違う3人の女性の生きていく様子を書いているので、視点が複合的になって全体がよくわかる。それがすばらしい。時代の流れの中で個々に人間の生き方を書くのは、日本の児童文学作家が苦手とするところだと思って来ましたが、この作家は書けますね。これからが楽しみです。それと、残虐なシーンがあるから子どもには読ませないというんだったら、『マザーランドの月』もだめですよね。あっちはもっと訳のわからない残虐さだから。

きゃべつ:『マザーランドの月』は、子どもがわかるだけの範囲で切りとられているので、そういう作品はもっとあってもいいのではないかと思います。読んだときにそれが何を指し示しているかわからなくても、大人になってからわかることもあります。興味を持つきっかけになればいいかと。

西山:私は、これは児童文学じゃないと考えています。私にとっての線引きは、残虐な描写があるかどうかとかいうことではなく、その作品の中心部分が、どういう世代にとっての切実か。それで考えたいと思っています。この作品は、子どもの切実がメインではない。ただ、児童文学を刺激する作品だし、作者も児童文学の人だと思うから今回みんなで読む本になったことにまったく異論はありません。好きな作品です。長いスパンで近現代史を描いているところが新鮮です。戦争を描くときにそれは必要だと思ってます。この作品には、いくつも屈折があって、戦争と人間の様がほんとうに多様で複雑だということを感じさせてくれるから、ネトウヨ云々の心配は感じません。珠子を育てた中国人の両親の印象が強いから、中国の兵隊が残酷だったなんていう印象がひとり歩きすることはない気がする。それと、過ごしてきた時間で家族ができるという家族観も貴重だと思いました。戦争を背景とする物語には、引き裂かれた家族の悲劇とか多いと思うんです。日本に帰ってきて母親含め肉親と再会したにもかかわらず、日本語をすっかり忘れてしまっている珠子の物語は厳しくて新鮮でした。3人の生活の違いもおもしろく、貴重だと思った点です。食い詰めて満州に行くような高知の寒村の暮らしと同じ時代に、おふろあがりにイチゴをつぶしてミルクをかけて食べるような暮らしもあったという。ほんとにおもしろいと思います。中高生と付き合ってて、戦争中は昔で、昔はみんな貧乏で、食べ物もなかったと思っているらしいと気づいたことがあるので、戦前のハイカラな生活が出てくるのは重要だと思います。あれが丸、バツというようにはならない、たくさんの側面が書かれているからこの作品を支持します。身体感覚に寄り添った表現がないと読むのがつらいという話もでてますが、私は、作品始まってまもなく、前の道路が広くて子どもたちが走ってしまうところなんかにあっという間に、心がわしづかみされた口です。多くの10代にはハードルの高い作品ではあるけれど、3人の人生に寄り添って読めるし、誤解しそうな子は最初から読まないから、どんどん紹介していっていいと思います。

レン:印象的な部分を2,3分朗読すると、読んでみようと思うかもしれませんね。この作品は方言がとてもいいですよね。

きゃべつ:きれいな日本語を話す美子が、方言をいっしょうけんめい覚えるところはおかしかったし、かわいかった。

アカシア:気の毒な人たちのことを代弁して書いてあげるという態度だと、自分のものにならないからだめですよね。子どもの時遠いお寺に三人で出かけて雨に降りこめられておむすびを分けあったエピソードですが、何度もくり返し思い出しては語られます。でも、最初の場面で、私はそれほど強い印象を持たなかったので、それを3人3様にことあるごとに思い出すのかなあ、と疑問に思ったんです。そこをキーにするなら、飽食の時代の若い人たちにももう少し強い印象が残るように書いたほうがよかったんじゃないかな?

きゃべつ:私も、饅頭の材料が小麦粉だと上等で、コーリャンだとあまりおいしくない、といった違いが、あまりよくわからないというか、身に迫ってきませんでした。

カピバラ:おにぎりを食べたとき、茉莉は特になにも感じずに大きいほうをもらって食べたけど、あとになっていろいろな体験を経るうちに気づくんですよね。それが美子たちとの唯一の記憶になるくらい大きなものになっていく。

アカシア:飽食の時代の読者にアピールするには、そこをもっと書き込んだほうがいいように思ったんだけどな。

西山:雨の中でのんきに歌ってる。あの場面も大好きです。おとなたちは村を挙げて生死を心配して駆けつけたというのに。そして、歌声を聞いて、おとなたちも笑ってしまう。あの、ほがらかな感じがとても好き。だから、そこにでてきたおにぎりも、場面丸ごとで重要な意味を帯びていくんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


『10代のためのYAブックガイド150!』

今すぐ読みたい! 10代のためのYAブックガイド150!

『今すぐ読みたい! 10代のためのYAブックガイド150!』

近頃の中高生はあまり本を読まないという。小学生は、読書推進ボランティアが読み聞かせをしたり、ブックトークをしたり、朝読なども盛んだったりするので、まだ読むのだが、中高生になるとほかに面白いことも、塾や部活など忙しいことも出てくるから、本なんか読んでらんないということらしい。

それに町の本屋さんに行っても、近頃は味のある本はあまり置いてない。まして児童書などは少しでもあればいいほうだ。私の近所でも、駅前の本屋さんがつぶれてしまった。というわけで、本は中高生の目になかなか触れなくなってもきている。この年齢だと、学校の先生がおすすめする本への猜疑心も強いだろう。だからこそ当コラムを役立ててもらうといいとは私も思っているのだが、たまには1冊ずつのおすすめじゃなくて、たくさんのおすすめの中から選びたいと思う生徒もいるだろう。

そこで、今回はこのブックガイド。中は (1)10代の「今」を感じる本 (2)社会を知る、未来を考える本 (3)見知らぬ世界を旅する本 (4)言葉をまるごと味わう本 (5)現実を見つめる本、と5つの章に分かれている。そして各章が、たとえば1章だったら、「学校のリアル」「部活へGO!」「自分って何者?」「友情、恋、冒険、青春!」なんていうふうにまた分類されているので、自分が気に入ったジャンルで本をさがしやすい。執筆者は、評論家、書店員、作家(森絵都、佐藤多佳子、那須田淳も書いている)、研究者、司書、編集者など25人。それぞれの人が気に入った作品について、おすすめのポイントを熱っぽく語っているのがうれしい。

ちょっと時間ができたけど、何を読んでいいかわからないな、という人たちは、ぜひこれをパラパラとめくってみてほしい。軽妙なエンタメから重厚な社会派までよりどりみどりだ。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年4月11日号掲載)


2016年03月 テーマ:みんな、帰る場所がある

日付 2016年3月31日
参加者 アカザ、アンヌ、カピバラ、シャーロット、ハリネズミ、パピルス、ペレ
ソッソ、マリンゴ、ルパン、レジーナ
テーマ みんな、帰る場所がある

読んだ本:

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しゅるしゅるぱん

ルパン:タイトルがおもしろくて、前から読んでみたいと思っていたのですが、読んでみたらどうにも期待外れでした。急いで読んだせいか、腑に落ちないところが多々ありました。太一(三枝面妖)という作家の奥さんは人間なんでしょうか? 聡子は早死にしたそうですが、それには意味があるのでしょうか? そもそも、恋人同士がそれぞれ別の人と結婚し、互いの恋心だけが残ってしまって、「二人の子ども」として妖怪のしゅるしゅるぱんが生まれ、その別々の結婚によって生まれた本当の子どもたちの前に現れる、という物語のわけでしょう? 妖怪を産んでしまうほど想い合っていたのなら、なぜ結婚しなかったのかさっぱりわからないし、そこまで強い想いがありながらほかの人と結婚して、しかも近所に住んでいて…というのは、児童文学としていかがなものでしょう。面妖は妙さんを裏切る必要はまったくないのだから、しゅるしゅるぱんが生まれる必然性もないはずだし。『ユタとふしぎな仲間たち』(三浦哲郎著 新潮社)に出てくる座敷童のような悲しみがないから、共感できず、読後感も気分のいいものではありませんでした。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですけれど、大きな疑問が残りました。解人が、川で溺れかけている自分の父親を助ける場面があります。p203には解人の思いがこんなふうに描かれています。
【(そうだ、パパは川でおぼれかけたことがある。それがこの時だったんだ。助けないと、ぼくが助けないといけないんだ。ここでパパが死んだら・・・。この手を放すわけにはいかない。ぜったいに放さない)/「きら、死んじゃダメだ!」解人はあらん限りの声をはり上げた。】
だけどね、解人が実際にこの世に存在しているということは、父親はこの時に死ななかったという事実が既にあるわけですよね。歴史的事実としては、父親の彬は、息子の存在と関係なくこの事故を生き延びている。そのあたり、時間的ファクターが矛盾していて、いい加減な感じです。それと、この家系の者ではない宗太郎には、しゅるしゅるぱんは見えないのですが、なぜか溺れかけている子どものときの彬の幻は見える。それもファンタジーの文法としてどうなのだろうと、疑問に思いました。ラノベだと時間軸の有り様を無視した作品がいっぱいあるでしょうけれど、これはラノベじゃないですからね。

アンヌ:SFでは過去の改変はいけないということが前提ですが、例えば『時間だよ、アンドルー』(メアリー・ダウニング・ハーン著 田中薫子訳 徳間書店)のように、過去の少年を現代に連れてきて病を治して過去に帰すというような物語もないわけではないので、私は、この場面にはそう疑問を持ちませんでした。ウェールズに直接影響を受けたネズビットも、かなり自由なタイムトラベル物を書いています。

ハリネズミ:ネズビットは家計の必要からじゃんじゃん書いた人なので矛盾もいっぱいあるのですが、この作品と同じような矛盾は私は感じなかったけどな。

パピルス:タイトル、表紙や目次がユニークで、この本は一癖二癖あるぞと思わせてくれる作りになっています。登場人物の名前(主人公の「解人」など)は意味がありそうで意味が無く、残念でした。描き方が中途半端と言う意見もありましたが、自分にはちょうど良かったように思います。活字を読むのが久しぶりで億劫になっていましたが、おもしろく一気に読みました。印象に残ったのは、太一と妙の出会いのシーンでした。

マリンゴ:たたずまいが素敵な作品でした。人から人へ、命が伝わっていくこと、遠い昔の誰かがいて、今の私がいるのだということ――そんなメッセージを受け止めました。ただ、これだけ丁寧な文章なのに、一部駆け足になっているところがあって、そこをもっと読みたいと思いました。例えばp189ですが、“同い年のいとこに去年負けたから、今年は勝ちたいとあせっていた”とさらりと説明していますが、もっとその部分を読みたかったです。ついでに言うと、結局リレーのシーンで、いとこに勝ったのかどうかわからず、そもそもいとこがまったく出てこない、というあたりはとても気になってしまいました。

ペレソッソ:冒頭を読んで、「好き!」と思ったのですが、読み進めると人物関係がこみいっていて、わかりにくかったです。一つの物語として、何がしたかったのかはっきりとした像を結ばないという印象です。それから、たとえばp203に出てくる「やばくね?」といった言葉は、全体の言葉の雰囲気を乱している気がします。

カピバラ:日本の古い村の風景、山、川、木などを見たときに、その風景を見ながら生きてきた人々の思いを感じるということがありますよね。特に古い家屋敷のなかに自分の身を置いたときに、そこに代々暮らしてきた人の息遣いを感じることがあると思います。私も子どもの頃父の故郷にあった古くからの家に泊まったり、蔵のなかを見たり、そばの川で遊んだりしたときにそんなことを感じたのを思い出しました。そういった、一つの場所に代々息づいて、今につながっている人々の思い、というものが描けていると思います。解人という現代の少年が主人公で、おばあちゃんが口にする「しゅるしゅるぱん」という言葉に読者もすぐにひきつけられる導入はうまいですね。聞いたことのない言葉なので、タイトルから「何だろう?」と興味をもたせます。この言葉の響きには不思議さもあるけれど、ちょっとユーモラスな感じもあって、悪いものではない、という印象があるのが良かったです。表紙のデザインもそういう感じを出していて好感をもちました。2章目で急に道子という読者には全然誰かもわからない少女の話に代わるのがちょっと唐突ですが、すべてはしゅるしゅるぱんという存在の謎ときにつながっていくことがわかり、だんだんおもしろくなってきます。この正体は、座敷童とか、風の又三郎的なものかなと予想しながら読むのですが、だんだんにそうではなく、予想以上に複雑な事情がからんでくるわけですね。これは小学校5、6年生から読んでほしい物語だと思いますが、子どもにとって両親、祖父母までの流れはわかるけど、さらに上の人の子ども時代の話までさかのぼるのはちょっと複雑すぎるのではないかと思いました。おばあちゃんが家系図を書いて説明してくれるのはとても良い工夫ですが、もう少し早めに説明してくれたら良かったのに。謎ときにつられておもしろく読めたのですが、最後に振り返ってみて何か釈然としないことが二つ。まず、結局しゅるしゅるぱんは、三枝面妖と妙の思いの強さから生まれた存在なのですが、この二人のことが、ほかのどの人たちよりもうまく書けていないのです。

ハリネズミ:祖先の因縁だけではなくて、群青池に身を投げたあやめという娘がたたるという伝説まで出てくるので、よけい複雑になっていますね。

カピバラ:お父さんであるアキラや、おばあちゃんである道子の子どものころの情景はよく書けているのに、現代まで死んでも死にきれない存在を生み出してしまうほどのことか、という点が伝わってこないんですよ。桜の木の使い方もいまいち。もう一つは、やはり読者にとって主人公は解人なので、解人の気持ちになって読むと思うのですが、結局解人にとってしゅるしゅるぱんは何だったのか。最後は競技会のリレーで友だちとの友情を確かめ合うわけですが、結局何がどうなったのかな…という疑問は残りました。細部をうまく書ける作家で、例えば道子のかすれたような低い声がしゅるしゅるぱんと似ているとか、そういうところはおもしろいと思いましたが、ゆるぎないストーリー性という点ではまだ弱いのかな。

レジーナ:妖怪が人の情念から生まれるものだとしても、面妖と妙が、それだけ強く想い合っているようには感じられなかったので、しゅるしゅるぱんの正体がわかった場面では拍子抜けしてしまい、違和感が残りました。桜の木としゅるしゅるぱんのつながりも弱いような……。

アカザ:私も、しゅるしゅるぱんの正体は、いったい何なのだろうと思いつつ最後まで読みましたが、肩すかしを食わされたような……。太一と妙の出会いと別れも、よくあるようなもので、座敷童が生まれるほどの執着というか、激情というか、念のようなものを感じなかったので、違和感がありました。そんなことで座敷童が生まれるんだったら、日本全国そこらじゅう座敷童だらけになってしまうのでは? 母を慕う子どもと、その子の気持ちに気づかない母の話というのは涙をそそるし、それに桜の木がからんでくると、なんとなく美しい場面になって、「ああ、いい話を読んだなあ」って感じるのかもしれないけれど。p175からの面妖の独白も、自己陶酔しているようで、あまりいい感じはしなかった。今の妻の正体が今でもわからないが、それでも彼女のおかげで小説が書けるようになった……なんて! 東京から連れて帰った、芸者さんをしていた妻の描き方に作者の愛情が感じられなくて、かわいそう。

カピバラ:伏線もないしね。

アカザ:解人にとってなにより大事なリレーと、しゅるしゅるぱんが結びついていないのよね。

カピバラ:解人中心に描かれているけど、現在父親との関係が悪いわけではなく、父親の子どものころを知ったことで何か関係が変わるわけではないし……。

シャーロット:挿絵に登場人物が描かれていないことで、想像がふくらみます。友だちの父と自分の母が恋人同士だったことがあり、しかも母は捨てられたのだということがわかってしまう場面では、児童文学でこの設定はいかがなものかと思いました。小学校高学年を読者対象としているようですが、系図や時間軸など小学生には理解しづらいところがあると思います。母親に気付いてほしくてイタズラをしていたしゅるしゅるぱんの心情を思うと、切なかったです。

アンヌ:この物語は、現実生活の場面、例えば、都会からの転校生である主人公が田んぼの泥に足を取られたり道に迷ったりするところとか、リレーのエピソード等は、とてもうまく書けています。川の場面等の情景描写も美しい。でも、肝心のファンタジーの謎がうまく描けていない気がします。しゅるしゅるぱんの存在の謎がうまく解けていかない。大人向けの怪奇ものなら、死んだ赤子の霊に桜の木の霊が混じり合うなんて感じですが、ここでは、妙と面妖の思いをもとに桜の木の霊が生み出したもののようです。でも、その割には二人をはっきり父母としている。どこでどう育ったのかもはっきりしないし、しゅるしゅるぱんが消えても桜の木が倒れたり枯れたりしないのも、なんだかすっきりしません。そのほか、面妖の妻の謎も解けないままです。「おひこさん」は、ひいおばあさんとか妙おばあさんで通していれば、家系図も必要なかった気がします。

ハリネズミ:私は、この作者はあえて最初は家系を説明してないんだと思います。バラバラに存在しているように見えた人物たちが実はつながっていたということが読んでいくうちにわかってくる。そこを狙っているんだと思うけど。

アンヌ:名前の謎は、キラ=彬だけでじゅうぶんだった気がします。作者は、面妖という作家を描きたかったのかもしれないけれど、その正体も謎のままなので、私は勝手に、今市子作の『百鬼夜行抄』(朝日コミック文庫)という漫画に出てくる蝸牛という作家と水木しげるさんを合わせたような人だと思って読んでいました。妖怪を見たり接触できて、描くこともできる人。でも、ここでは、その能力で何かしたとは書いていない。面妖や妙おばあさんの若い頃のこの土地はものすごく危険で、霊や妖怪がうごめく場所として描かれているのに、その後どうなったのかはわかりません。面妖が小説を書いたせいで変わったのかもしれませんが、蔵のなかの本もなくなってしまうので、何もわからないまま終わってしまうのが残念でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


戦火の三匹〜ロンドン大脱出

マリンゴ:最初はなぜか読みづらかったのですが、終わってみれば登場人物がとても多いわりによく整理されていて、読みごたえがありました。空襲を受けていない時点のイギリスで、こんなに大量のペットの安楽死があったという事実を、初めて知りました。ただ、動物の心理を描く部分が、微妙に書体と字の大きさが違って、そこが読みづらいと感じました。出てくる回数が少ないので、いっそ違いをなくしちゃえばいいのに、と思って。翻訳ではなく原文に対しての意見なのですが……。あと余談ですが、読む前は表紙の印象から、3匹が人間を時に批判しながら、ぺちゃぺちゃしゃべりつつ旅する話だと思っていたので、若干「思っていたのとは違う」感がありました。

パピルス:私もペットの安楽死については知りませんでした。登場人物が多く、気を抜いて読んでいるといつの間にか知らない名前が入っているので、何度かページを戻って読み直しました。ロバートと妹のルーシーが疎開して、3匹がそこに向かうのが意外でした。

ハリネズミ:戦争が動物に与える影響が、うまく描かれています。動物の周囲にいる人間の様々な心情も描かれているしね。ただ、登場するキャラクターが多くて、視点がどんどん変わっていきます。これが映画だったらいいけど、文章だけだと読者の子どもたちがうまくついていけるかどうか、ちょっと心配になりました。動物だって犬、猫、馬のほかに伝書鳩まで出てきますからね。犬2匹と猫1匹の脱走ドラマと、捨てられたペットの保護活動だけでも物語は成立したように思います。それ以外にも、疎開先でのいじめだの、認知症の問題、脱走兵の問題など、テーマが盛りだくさんで、ちょっと間をおいて続きを読もうとしたら、メインの流れにうまく乗れない感じがありました。

ルパン:まだ最後まで読み終わっていないのですが、今のところ一気に読んでいるので、登場人物の多さはそこまで気になっていません。ローズは祖母の家の近くで生まれた、とあるので、帰巣本能(?)で、これからそこを目指していくのだろうと察しはつきます。動物が主人公のようですが、しゃべらないんですね。それから、今日話し合う3冊のタイトルを見たときは、これが一番ひきつけられました。

アカザ:でも、3匹は戦火をあびてないわけだから、変なタイトルですよね?

アンヌ:なんだか、散漫で、予測がつくエピソードだらけという気がしました。戦争を動物で描きたかったというのはわかりますが、これだけのストーリーのなかに、ナルパックや戦場の動物の話など盛り込みすぎな気がします。例えば戦場での伝書鳩の話は、途中まではリアルなのですが、そこでお父さんが無事に戻るところまでくると、おとぎ話風になってしまう。3匹の動物の大冒険だけでもおもしろいのに、戦争中の動物の話や、学童疎開や戦争のせいで認知症になったおばあさんの話とか、チャーチルの飼い猫とか山盛りすぎて。これは、もっと短い話の短編集にして、一つ一つのエピソードを混じり合わせず、積み重ねていったほうがおもしろかったかもしれません。

シャーロット:動物を主人公にした戦争の物語は、子どもが受け入れやすいと思いました。作者は動物たちに弱音を吐かせていないので、読者は辛い気持ちに押しつぶされず客観的に状況を捉えることができます。「戦争で傷つくのは兵士だけではない、愛する者を失う悲しみは人を変えてしまう」ということが、おばあさんの言動から伝わりました。動物たちの理不尽な死に対しては、登場人物が「動物たちが死ななければならない理由なんてどこにもない」というセリフを繰り返しています。この動物という言葉が、人に置き換えても読めました。戦争という過酷な状況のなかにたくましさや優しさが描かれていて、子どもたちに読んでほしいと思う作品です。

アカザ:最初は登場人物が多いし、それにつれて視点が移り変わっていくので読みにくいと思いましたが、3匹を擬人化せずに書くには、こうするよりほかなかったのでしょうね。エピソードも盛りだくさんで、ちょっともったいない気がしました。もっとも、他国の戦時下の様子がわかって、おもしろかったけれど。チャーチルのエピソードは、私もちょっと余計だなと思いましたが、英国の子どもたちにとっては身近な歴史的人物なのでしょうから、おもしろいと思うのでしょうね。安楽死させられた無名の犬や猫のほかは、登場人物(動物)の誰も死ななかったところに、良くも悪くも子どもの本の書き方を作者はよく心得ていると思いました。もうすぐ空襲が始まるロンドンに、母親に連れられて帰るチャーリーの話など、大人が読むと母子とも死んでしまうのでは……と思うのですが、そこまでは書いていない。特にこの作品についてということではないのですが、被害者にも加害者にもなる戦争を、被害者にしかなりえない子どもの目でどう描いていくかというのは、いつの時代も児童書の作家が抱える大きな課題だと、あらためて思いました。
 それからp89とp100にある「ご馳走にむしゃぶりつく」という表現は、明らかに誤用ですので、増刷のときに訂正されたほうがいいと思います。

レジーナ:一気に読んだので、話がわからなくなることはなく、盛りこみすぎだと感じることもありませんでした。動物を擬人化せず、3匹の行動から、それぞれの性格や特徴がちゃんと伝わってくるのがおもしろいですね。犬が木に登る場面は驚きました。

カピバラ:子どもの頃に『三びき荒野を行く』(シーラ・バーンフォード著 山本まつよ訳 あかね書房)という本があり、ディズニー映画にもなったんですが、やっぱり犬が2匹と猫が1匹で飼い主のもとへ苦難の旅をするというおもしろい話だったんですね。なので、タイトルからそういう話だと思って読みました。人間社会のなかにいる動物たちが、動物だけにしかわからない言葉で会話する物語って好きなんです。みなさんがおっしゃるようにエピソードが盛りだくさんではあるけれど、とにかく飼い主のもとに帰るという大きな目標に向かってただひたすら進んでいくという、1本大きな筋があるので、読みやすいと思いました。3匹が出会う人間には、動物が好きな人もいれば、そうでない人もいて、いろんな関わり方があるところがおもしろかったです。戦争が、いかに普通の人や動物の運命を変えたかがよく伝わってきました。チャーチルや伝書バトは、そんなことがあったのかと、私はそれなりにおもしろく読みましたけど。

ペレソッソ:動物の動き、個性、猫らしさはおもしろく読みました。立ち止まって戦争児童文学として考えてみると、「うん?」という感じです。第六章で、飼い主たちがあれこれ言い訳を並べながら、ペットを安楽死させるために列に並んでいる、あの部分が一番重く問題提起させられた部分でした。戦争と人間を描きたいなら、ここをもっと描くべき。本当は、あの人たちが抱え込んだものとか、どろどろしたことはたくさんあるはずだけれど、全体のトーンとしてはシビアな方向には行きませんよね。読みやすさ、軽さで読ませています。エンタメとして読めばいいんだと思いました。つい先日『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著 金の星社)を読み直す研究会をやって、そこでも話になっていたのですが、動物だと、辛くならずにかわいそうがっていられるという面は確かにありますね。エンタメとしては、たくましく生きのびる3匹の様子がおもしろい。どんどん狩りがうまくなっていくところなど。あと、おばあちゃんの穴掘りの背景って書いてありましたっけ。よくわからなかったのですが。

ハリネズミ:さっきシャーロットさんがおっしゃっていたように、戦争の悲惨さや残酷さだけを描くと、子どもは恐怖感が先に立ってなかなか物語に入り込めなかったり、先を読むのが嫌になったりします。身勝手なおとなの有り様をもっと追求するべきという意見もわかりますが、これくらいでも子どもは十分感じとれると思います。『かわいそうなぞう』は、かわいそうを売り物にしているし、史実とも全く違うので論外ですが、今の子どもたちに戦争を伝えるのに、動物を持ってくるのは、私は「あり」だと思います。

ペレソッソ:兵役につきたくなくて自殺を選びそうになる青年がちょろっとでてきたり、戦争の側面があれこれ入れ込まれてはいますよね。

ハリネズミ:やっぱり盛り込みすぎなんじゃないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


スモーキー山脈からの手紙

シャーロット:自分が選んでいない道を進まざるをえない寂しさや戸惑い、不安、怒りが細やかに描かれていて、それらの心情が痛いほど伝わってきました。これからの人生に心配事を抱えている3人のなかで、ロレッタの存在は異質です。この少女にはあまり魅力を感じませんでした。前半の登場人物の心理描写にはひき込まれましたが、その後の展開では心がほぐれていくエピソードが少し弱いと思いました。アギーと暮らしても良いという父親のセリフや、それをアギーに伝えたときの返事があっさりしすぎていると感じ、物足りなかったです。

アンヌ:今回は、各章ごとに違う登場人物の視点で書かれている作品ばかりでしたが、これは、うまくその方法がはまっていて、バラバラに示された問題が最後にすとんと落ち着く読後感が良く、何度も読み返したくなる本でした。最初、亡くなった実の母親の形見の腕輪のチャームを探す旅に出たロレッタについて、作者が「ピースがはまる」と書き、アギーさんに「ピースを探しに来た」と言わせているのがぴんと来ませんでした。でも、読み返しているうちに、ロレッタは、実の親を亡くしたということだけではなくて、自分のルーツについても知ることができなくなっていることに気づきました。だから、実の母親の腕輪のチャームを見つけられたこの場所が、ロレッタの故郷になったのだとわかりました。一見ふわふわして幸せそうに描かれたロレッタの心許なさが、伝わった気がします。どんどんワルになっていくという、悪循環にはまっていたカービーが、ここでは信じてもらえることによって変わっていく。そのことを、ブローチを「拾って、盗んだ」から「拾って、見つけてあげた」に転換して読者にくっきりと見せる場面には、感動しました。「ノサ言葉」とか、知らない人を排除して意地悪することもできるけれど、仲間内で使うと楽しくなる暗号風の言葉遊びも、うまく使われていました。

ルパン:私は、このなかで一番かわいそうなのはロレッタだと思いました。ほかの3人の悲しみはとてもわかりやすいのですが、ロレッタだけは満たされない思いを口に出すことができないからです。ロレッタの養母はことあるごとに「わたしたち、幸せね」と繰り返します。そのなかでロレッタは、産みの親に育ててもらえなかったから寂しい、とは言えません。実の母親が訪ねたであろう場所をすべてまわっても、この子は産み捨てられたという根本的な悲しみから抜け出せないのではないかと思うと、心配でたまりませんでした。でも、初めて訪れた場所がここで、そして、「母が来た場所だから」ではなく、「みんなに会えた場所だから」もうここにしか来ない、そして何度でも戻ってくる、と決めたロレッタに、心から「良かったね」と言いたい気持ちになりました。
 それから、冒頭のアギーの章では本当に泣けました。ハロルドが二度と帰ってこないことを1日に何度も思い出さなければならないアギーに、胸がしめつけられるようでした。

ハリネズミ:私はロレッタが一番かわいそうとは思いませんでした。日本の人は血のつながりを大事だと思っているから、養子のロレッタがかわいそうに見えるのかもしれないけれど、この子は、ママというのはずっと育ての母のことだと思ってきたわけですよね。そこに疑問を持って生きてはいない。自分を憐れんでもいない。今、英米の児童文学では家族は血のつながりより一緒に生きた時間だっていうのが前面に出ているから、著者もかわいそうな子として書いているわけじゃないと思います。でも、産みの母親が亡くなったという知らせを聞いて、自分のルーツを確認したいと思うのは当然のこと。ここは、バーリー・ドハティの『アンモナイトの谷』(『蛇の石 秘密の谷』中川ちひろ訳 新潮社)なんかと同ですよね。養父母が時としてやりすぎになるところも似ていますね。父親に不満で母親の愛情を確認できないウィロウや、家族から見放されているように思えるカービーは、どちらも血のつながりのある家族ですが、どの子が一番子どもとして守られているかを考えると、それはやっぱりロレッタだと思います。だからロレッタが一番幼いし、子どもらしい。ただしロレッタも、自分のルーツが確認できないという意味では、パズルのピースがきちんとはまらないような気持ちを抱えている。そこへ長い人生を生きてきたけど今は元気をなくしているアギーが加わって、孤立していた生身の人間同士がつながっていく。
 オビには「奇跡みたいな物語」とありますが、さまざまに満たされない思いを抱いている登場人物たちが最後にはお互いに補い合って、次の段階へと踏み出せるようになるというのは、それだけで今は奇跡のようなものかもしれません。でも、それぞれの人物の特徴が浮かびあがるように翻訳されているので、リアルに感じられるし、物語がすっと心に入ってきます。読むと温かい気持ちになるし、人間を信じられるようになるという意味では、クラシックな児童文学と言えるかもしれません。一つ疑問だったのは邦題の「手紙」で、この人たちはみんなが手紙を書いているわけではないから、どうして?と思いました。

パピルス:冒頭部分のアギーの描写にひき込まれ、アギーのことを親身に思いながら読み進めました。いろんな背景を持つ人がモーテルに集まり、それぞれの心情の変化が丁寧に描かれています。読後感も良かったです。モーテルというのは、ボロ宿、安宿のイメージですが、表紙画にはおしゃれな感じのモーテルが描かれていて、中学校時代にこういった感じの世界観が好きだったのを思いだしました。

マリンゴ: 今日話し合う3冊のなかで、一番好きでした。モーテルの情景、映像では見てみたいけれど、自分で泊まったらカビやサビが気になる古びた建物……そういうリアリティがあって良かったです。もっとも、視点が章ごとに次々変わっていくので、最初は何人出てくるのか、覚えきれるのかと戦々恐々でした。4人で良かった(笑)。人との出会いをポジティブに描いているところも、とてもいいと思いました。子どものなかには、新しい出会いを怖がる子もいると思うので。出会いは面倒なものや怖いものではない、むしろ素敵なものなのだ、というのが伝わるかと思います。ラスト、アギーが一人悲しみを引き受けるのかと思いきや、彼女にも救いがあってホッとしました。

ペレソッソ:最初にタイトルだけ聞いたとき、フィリピンのスモーキーマウンテンの話かと思いました。表紙を見たらそうじゃないことはすぐわかりましたけど。映画で観たいと思いました。景色や登場人物を映像として浮かべながら読めたからだと思います。ウィロウのお父さんが一番わからなかったんですが、全体として登場人物それぞれの過去を説明的に描いていないですよね。背景を描きすぎない。現在の様子を描くだけ。あと、目の端に子どもの存在が映るだけで、その場の景色が明るくなる。ふさぎ込んでいたアギーさんが、子どもが庭で駆けている姿を目にするだけで、ぱぁっと明るい気分に変わりますよね。なんだか、児童文学の初心に帰ったような気がしました。

カピバラ:4人それぞれの視点で描かれ、章ごとに別の人になる形なので、一人あたりの分量は4分の一になりますね。だから一人ずつの背景はじゅうぶん書かれているわけではないんだけれど、それはあまり気になりません。なぜなら、今その人、その子が何をどう見ているか、ということが読者に伝わってくるからだと思います。小さなことでも、各人のものの見方がわかり、ああこういう子いるな、と思わせる、上手な書き方だと思いました。アギーの家ではオレンジ色のカーペットにアギーの普段歩く道がついているところなんて、生活感があって、アギーの暮らしぶりが目に浮かびます。翻訳で、アギーの章では「アギー」なのに、子どもたちの章では「アギーさん」と訳されています。原文ではすべて「アギー」ですが、日本人の感覚に配慮した細やかな翻訳だと感心しました。

レジーナ:複数の視点から語られる物語というのは、少し物足りなく感じることがあります。でも、この本は、登場人物のせりふや行動から、それぞれの人生が透けてみえて、ひなびたモーテルの様子もリアルで、とても心に残りました。去年読んでから時間が経っていますが、みなさんのお話を伺っていたら一気に思い出しました。いろんな背景を抱えた人がホテルに集まり、それをきっかけに人生が動きはじめる話は、映画でよく見かけますね。児童文学ではめずらしいのでは。温くて、読後感のいい本なので、勤め先の学校のブックトークで紹介しています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


2016年02月 テーマ:わたしの声は伝わりますか

日付 2016年2月18日
参加者 アカシア、カピバラ、さらら、シア、紙魚、ペレソッソ、マリンゴ、レ
ン、レジーナ、ルパン
テーマ わたしの声は伝わりますか

読んだ本:

(さらに…)

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うたうとは小さないのちひろいあげ

ペレソッソ:しばらく前に読んだきりで再読していなくて、みごとに忘れてます。部活ものだなというのと、歌がよかったという印象だけです。

レン:読後感のよい作品でした。好きなところもたくさんありました。この年代の主人公を扱った日本の作品は大人の存在が希薄なものが多いけど、この本は自分の親は出てこないけれど先生だとか清らさんの家族とか大人の存在感があって、信頼感を感じさせてくれるのがいいなと思いました。頼りなさそうな先生だけど、いいところもある。ただ、彩はなくてはならない登場人物ですけど、どうしてそこまで綾美を気にするか納得がいかなくて、わざとらしい感じがぬぐえませんでした。古の人が読んだうたに今の私たちも何かを感じる、時代も場所も超えて言葉で伝わるものがあるというのが、いいなと思いました。

レジーナ:おもしろく読みました。「うた部」というテーマも新しいですし、登場人物にリアリティがあって、キャラクター的でなく、等身大の姿を切り取っているように感じました。短歌は、わたしの好みとは少し違いましたが、詩や短歌は、人によって好き嫌いがありますもんね。

マリンゴ:最初の50ページくらいまでは、どの子がどういうキャラクターなのか、ちょっと掴みづらかったです。でも、その先は楽しく読みました。一番大事なシーンで出てくる大事な短歌の上の句が、本のタイトルになっているのだと、気づいたときに、そのリンクのおもしろさにゾクッとしました。とても効果的だったと思います。また、最初はヘタな歌が少しずつうまくなっていくなど、短歌の内容で成長を描けているのがすごいと思いました。たとえばスポーツものの小説だったら、いろんな技術を習得していくなど、成長の過程を描きやすいのですが、歌がうまくなっていくのを描くのは非常に難しいと思うので。

シア:最初の印象は、読みにくくてつまらないというものでした。同じ会で読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)とは違う形ながらこちらも文章がぶつ切りなのが気になってしまって。ラノベや、今は懐かしい携帯小説のような感じで苦手でした。細かいところも気になってしまいました。高校行くのに片道410円って高すぎではないでしょうか。それから名前も、「清ら」というのは名前としてどうなんだと思ってしまいました。頑張っても「きよら」じゃないのかとか。女子の名前は多く見ていますが、漢字仮名交じりはさすがに見たことがありません。業平というのも安直ではないかなとか。ブログの台詞回しが痛いなとか。内容としては、短歌を取り上げたのはとても良かったと思います。古典嫌いの子が多いので、少しでも興味を持ってもらえるきっかけになれば嬉しいし。今の高校生の目線を大事にして描いているのを感じました。つまらないことで引きこもっていたり、「犯した罪は背負わなければならない」などの中二病なくだりは苦笑してしまいました。でも、「リス顔」はあまり聞かない言葉です。いつも思うのですが、リアルさを追求して今の時代の言葉を出すと、後で読んだときに古臭さが出るのが心配です。近頃の本はすぐ絶版になって消費されていくものだから、あまり気にしないのでしょうか。本がそこまで回転しない学校図書館としては少々困ります。それに、そのリアルさは作者のフィクションなので、現実とのズレや引っ掛かりを感じるときがあります。若い作家の感覚がリアルなどと言われて受賞したりしますが、単に読んだ側が知らない世界なだけではないかと思ってしまうんです。この本にしても、歌のせいか、恋、恋、恋、と男女関係が生々しく、なんだかんだ言って、そうではない子の方が多いのにと思ってしまいました。中高生がこれを読んで、学校生活の物差しにはしてほしくないと思います。最近、この手の青春ものが多い気がします。高校生を知っている側から見ると、妙な違和感がありました。中高生なら共感するでしょ、というのに悲しいズレ。ドロドロさせて引っ張ったわりにはあっさり終わりました。歌が大変だったのか、イベントが少ない気がしました。最後に、表紙の女の子はちょっとどうにかならなかったのでしょうか。いじめの話かと思いました。

カピバラ:この時期の子どもって、大人から見ればささいなことで身動きが取れなくなってしまう。そのこわばった心が短歌で少しずつほぐれていく様子がよく描かれていたと思います。今回の選書のテーマ「わたしの声が届きますか」にぴったりな内容でした。短歌とブログという二つの表現方法を対比させるような感じで、言葉の可能性を問いかけているかのようでした。ブログが気持ち悪いという意見があったけど、わざと軽々しい口調にして痛々しさを出しているのではないかと思います。登場人物たちのかかえているものは重いけど、書きぶりにユーモアがあるので楽しく読めました。部活ものは昨今たくさん出てきていますが、いろいろなタイプの生徒たちが出てくるのはどれも似たり寄ったりで、おもしろく読んでもすぐに忘れてしまう。その中で印象に残るのは、やはり部活の内容に興味が持てるものじゃないでしょうか。うた部というマイナーな部活をとりあげて、短歌のおもしろさを書いているところがとてもよかったと思います。

ルパン:おもしろく読みました。ただ、表紙の写真がなんだかぞっとするんですけど。教室で自殺した子の亡霊なのかなあ、と思っちゃいました。あと、彩という友だちがちょっと余計な存在に感じました。やたらと解説口調で、いろいろ語るし。作者が調べたことをそのままこの子に説明させている、というのが透けて見えていて、興ざめでした。

カピバラ:そういううざい子を描いているんじゃない?
ルパン:でも、この彩っていう子にはリアリティがない気がするんです。こういう子もいるかもしれませんが、いてもうまく仲間になれないでしょう。それから、競技会の高校生のアルビノーニの歌はものすごく気障で気に入りませんでした。清らの歌のほうがずっとよかった。あと、最後に先生がうた部のみんなを送っていかなきゃならなくて、そのために好きな人にフラれてしまうのが気の毒でした。

アカシア:私はこの本が出たときに借りてすぐ読んだのですが、だいぶん忘れているので、もう一度借りようと思ったんですね。でも、私の区の図書館は全館に入っているのに、すべて貸し出し中でした。多くの人に読まれているんですね。だからもう一度読むのに苦労したんですが、いちばんすごいと思ったのは、登場人物それぞれの短歌がだんだんじょうずになっていく段階をちゃんと書いていること。その上達ぶりが読者にもうまく伝わります。最後のまとめ方もうまい。短歌甲子園というのは知らなかったので、具体的に書いてあって、それもおもしろかった。それから、この年代はいろんな形ではみ出す子がいるので、綾みたいにおせっかいでうざい子もいると私は思って、リアリティがないとは思わなかった。表紙については、この子の表情が強すぎて、中身を読むときのじゃまになるんじゃないかと心配しました。

紙魚:読み終えて、いい本だなと思いました。最近、児童書にも、ネット上の人間関係を描いたものなどがみられるようになってきましたが、こうして、人と人が面とむかってぶつかり合うのは、やっぱりいいものだと思います。ユーモアいっぱいの幼年童話を書いてきた作者が、こうした長い読み物でも、読者を懸命に笑わせてくれるし楽しませてくれる。ちょっと謎があったりもして。いわゆる純文学とエンタテイメントのいい融合というような本でした。ひとりの作家として、幼年童話ではないものを書こうとした作者の姿勢にも、胸をうたれます。それから、作中の短歌が、だんだんうまくなっていくのが上手に表現されているという話が出ましたが、さらに、ひとりひとりの登場人物らしい歌になっていることにも、驚きを覚えました。

アカシア:さっき、今風にしたいつもりで、ちょっと古い表現になってしまっているという話がありましたが、使う言葉や言い方は地域によって違いますよね。ある場所では古くても、ほかの場所では違う。

紙魚:それに、現実の高校生をトレースしたようなリアルさがあればいい本なのかというと、必ずしもそうではないと思います。たとえ、完璧なリアルがなかったとしても、作者の真摯な願いがこめられているものにこそ、私は信頼を抱きます。

シア:あとがきのところですが、「嬉しい」という書き方について、ここまで編集者の方はツッコむんですね。驚きました。

紙魚:この本、多少、読書が苦手でも、読みやすいので読みきれるんじゃないかな。だけど、読み終えた後には、かならず、その人のなかに何かが残ると思います。

シア:高校生なら、もっと受験のことも短歌に読んだりするんじゃないかと思うんですが。3年生もいたのに、全然進路の悩みとか出てこないのが不思議でした。高校生の短歌コンクールの作品集なども見るのですが、そういうのには受験の歌が入ってますし。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


マザーランドの月

ペレソッソ:気になっていた本なので読めてよかったです。勤め先の司書さんから薦められていたんです。読みはじめるとやめられない。読んだことのないタイプで、どう読んだらいいのか、戸惑っているままです。何が子どもに、核となって残るか・・・・・・。勤め先の学校では、司書さんのおすすめで中学一年生が何人も読んでいて、最後に泣いたと言っていた子もいるそうです。

さらら:造本に工夫があり、数字の位置や、ページごとにレイアウトが変わります。内容のきついところを、装丁でやわらげようとしたのでしょう。ただ、左下に頻出する、ボールを蹴る男の子のイラストは不要だと思いました。近未来というか、ありえたかもしれない別の現実を舞台にした作品は、私は大好きなんです。ディスレクシアで、学校では知的に遅れていると思われている男の子が主人公なんですが、体制が嘘だと気付き、最後には自力でそれを暴きにいく。先生が生徒に対して振るう暴力が半端でないのに、驚きました。この作品は、単に暗い味わいのエンタテイメントではないでしょうか。とはいうものの誇張された架空の世界の中に、私たちの生きる管理社会と通じるところがあり、このまま沈黙を守り体制に押しつぶされてよいのか、という問いかけも潜んでいますね。

ペレソッソ:数字が上下したり、空き方が違ったりするのに、法則性はあるのでしょうか。気になったけれど、分からなくて。

レン:今回選書係だったのですが、この本は世界的に非常に高く評価されているのに、どう読んでいいか、まったくわからなかったので、ぜひみなさんの意見を聞いてみたいと思ってとりあげました。人や社会のシステムはどこまで残酷になれるのかとか、暴力でおさえつける支配社会の恐ろしさとかを訴えているのかなとか思いましたが、読者に何が伝わるのかよくわかりませんでした。最後どうなるのか気になって読んでしまったのは、この作品の力なんでしょうけれど。読みにくかったですが、短い章だてなので、なんとか読み続けられました。それから、この物語を一人称で書かねばならなかったのはなぜかなというのも思いました。これは手記ではなく、フィクショナルな語りですよね。主人公は最後死んでしまうのだから。これって死んでしまったんですよね?

ペレソッソ:読みにくいのは、主人公が難読症という設定だからでは。

レジーナ:ガードナーの本は、『コリアンダーと妖精の国』(斎藤倫子訳 主婦の友社)も好きです。『マザーランドの月』は、数年前にコスタ賞をとったときから、気になっていました。原作は、タイトルが「Maggot Moon」で、ウジ虫が月から出ている表紙です。気づいたときには取り返しがつかないほど、権力が大きくなっていて、民衆が情報操作される世界が描かれています。現代性があり、今、出版する価値のある作品ではないでしょうか。「ナチスが第二次世界大戦で勝ったとしたら、どうなっていたか」を想像する中で生まれた作品だと、作者は語っています。月面着陸の都市伝説を取り入れているのも、おもしろいですね。主人公が死んでしまう結末を含め、読者に妥協しないので、賛否が分かれる作品かもしれません。スタンディッシュの口調は、15歳にしては大人っぽい気がします。また、ディスレクシアのスタンディッシュの語りは、ときどき一字違う言葉になっていたりします。ディスレクシアの人は、読み書きが苦手なのだと思っていましたが、言い間違いもするのでしょうか? この本は、スタンディッシュの一人称で語られるので、書き間違いというより、言い間違いをしているような印象を受けます。

マリンゴ:最初、苦手でした。どこからどこまでが現実で、どの部分が妄想なのかわからなかったからです。たとえば、へクターも想像上の友達なのかと。それで、普段はこういうことはしないのですが、今回はあとがきを先に一部読んで、妄想ではないのだということを確認してから、先を読みました。100ページ目あたりから一気に引き込まれて、ページを繰るのが早くなりました。一般的に児童書は、ラストに救いがあって読後感のいいものが多いですが、これは読後感が悪いぶん、逆に尾を引きました。数日たっても「あのシーンはああいうことかな」と考えたり。そういう意味では異色のYAだと思いました。

シア:表紙を一目見て、少年たちの冒険小説かと思いました。しかし、場面がぶつ切りで非常に読みにくく、物語の時間の流れもわかりにくいと感じました。主人公が難読症ということでこの書き方なのでしょうが、果たしてこの設定はいるのでしょうか。難読症で文字が読めないというのはわかりますが(P53「4歳児並みの〜」)、それだから想像力が発達しているというのがよくわからないし、難読症ならではの想像力の持ち主であるから、主人公が重要人物であるという動機づけがどうも納得いきません。あとがきにありましたが、作者も最初から主人公のこの設定を意識して取り入れていたわけではないようですし、都合がよすぎて、RPGのお手軽な勇者設定みたいです。それでも、途中からサスペンス要素が多くなって俄然おもしろくなりましたが、内容としてはかなり大人向きだと思いました。あまりにも残酷なシーンが多すぎますし、おじいさんとフィリップス先生のラブロマンスなどもはいらないのではないかと思いました。フィリップス先生の行動が信念に基づいていたり、先生として生徒を愛するものであったりしてほしいのに、この設定では「愛する人の孫だから可愛がる」ようにも見えてしまいます。自分が教師なせいか、教師に対する目は厳しいかもしれません。とにかく、YAなわりには内容が難しいので、子どもには不可思議な気味の悪さくらいしか通じないではないでしょうか。この手のテーマの本では、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ 藤本一勇訳 大月書店)くらいが丁度良いのではないかと思います。この本は1956年に起きた話という設定なのですが、だいぶ昔なのでこの年に何があったのか調べました。ロシアが無人宇宙船で月の裏側に行ったようです。アポロの月着陸は1969年です。作者は1954年生まれです。『カプリコン1』(真鍋譲司 新書館)や『20世紀少年』(滝沢直樹 小学館)など、月着陸の話が出てくる話は多くあります。この時代に生きる人々には、多大な影響を与えたんだなと思います。子どもたちには時代背景についての知識がないとわかりにくいかもしれません。訴えるテーマは重いし、個人的にはおもしろい本ではありましたが、YAと言われると違うのではないかと思いますし、子どもにはおすすめ出来ない本です。エンタテイメント性は高いのでサスペンス映画になったらおもしろいのではないかと思います。

ルパン:これは仮想世界ということでいいのでしょうか? 私の読解力不足なのかもしれませんが、理解に苦しむところが多々ありました。生理的に受け付けられない場面や表現も。子どもが目をえぐられて死んだり、母親の舌が切り取られたり、救いようのないシーンばかりだし。唯一興味をひかれたのは、アポロ着陸演出説。月面着陸が虚構だったかもしれないという説があるというのは初めて知りましたし、それに着想を得たらしい設定はおもしろいと思いました。

アカシア:私はサリー・ガードナーとは相性が悪いのかもしれませんが、大きな賞をたくさん取って世界各地で翻訳されているこの作品にも、あまり感動できませんでした。一つは、月着陸などのセッティングがあまりにもちゃちだったりして、物語中のリアリティが上出来とは言えないこと。1956年という設定で、米ソの宇宙開発競走が始まるのは翌年だとしても、室内の子どもの細工みたいなセットで人体を吊して撮影しているなんて、信憑性がないでしょう? アポロ陰謀説と照らし合わせれば笑えますが、子どもはそれも知らないから笑えないですよね。56年だと宇宙競争をするくらいの国なら録画もできてもおかしくないのに、どうして実況にこだわるのか、とか。放射線が着陸の障害になるはずと言っているところはヴァン・アレン帯のことを言っているらしいけど、障害があるとしても着陸時ではないし、今は影響がほとんどないと思われているわけだから、わざわざ持ち出す意味はどこにあるのか、とか。あと、家の中は盗聴されているかもしれないので、おじいちゃんが孫を外に連れだして話をする場面がありますが、後の方では大事なことを家の中でべらべらしゃべっていたりもします。
 二つ目には、この作品にはほとんどあたたかみがないこと。ユーモアもありませんね。それも楽しめなかった理由の一つかもしれません。三つ目は、訳のおさまりが悪いところがいくつかあって、気になりました。地下室、地下室通り、トンネルなど似たような言葉が出て来るので、どれがどれだかわからなくなりました。原文どおりなのかもしれませんが、少し整理してわかりやすくしてもらえるといいな、と思いました。それから例えば32ページに「気のきいた考え」と出てきますが、しっくり来ませんでした。たぶん、現実にはどこにも一度もなかった過去の話で、私たちは過去にこういう空間・時間はなかったと知っているわけだから、どっちにしても居心地悪い気がするのかもしれません。

紙魚:今回のテーマは、「わたしの声は伝わりますか」ですが、これは、主人公の声が読者に伝わるかということに加えて、はたして作者が伝えようとしていることが読者に伝わっているかどうかということでもあると思います。そういう意味では、3冊のうち、この本だけは、伝わりにくいと感じました。数々の賞をとっているので、おそらく、「伝わった」人も確かに、しかも大勢いたのだと思いますが、どうしても私には受け取れませんでした。読書って、読み進めながら、小さな納得が積み重なっていくと、作者への信頼につながっていくと思うのですが、この本は残念ながら最後まで、作者を信頼しきることができず、物語のかたちが見えないまま終わってしまいました。

レン:これって、気持ち悪がらせようとして書いているわけじゃありませんよね。

さらら:日本の若者に比べ、欧米の若者は不満を外に発散させることが多いですね。たとえば誰かの車に火をつけるなど破壊行為、暴力行為は日常茶飯事です。ひょっとしたら海外のほうが、暴力描写に対する感じ方が、日本より鈍いのかもしれません。話は変わりますが、ロアルド・ダールは『マチルダは小さな大天才』(宮下嶺夫訳 評論社)で、鞭をもって日常的に生徒に暴力をふるう校長先生を登場させ、コミカルなストーリーの中で猛烈に批判していますよね。

アカシア:でもYAものの受賞作でここまで暴力的な表現が積み重なったものって、ほかにないんじゃないかな。

シア:残酷な描写を好きな子もいますが、この作品の知的レベルにはついていけないでしょうね。

ペレソッソ:閉塞感とグロテスクな場面ということで『進撃の巨人』(諫山創 講談社)を連想しました。映画しか観てませんけど。そういうところが今の若い人の何かにフィットするということはあるのかもしれない。あと、勤め先の司書さんは、現在のきな臭い動きに危機感を抱いていて、生徒にも全体主義的な動きに問題意識を持ってほしいという気持ちもあって、この作品を薦めたと言ってました。それに共感もしますが、どうしてこういう世界になったのか、その課程が書かれていないので、戦争や平和を考える事ができる児童文学としては挙げないかな。

アカシア:今の時代に切り込もうという意図は見えていますが、そういう意図があるイコールいい作品だ、とは言えないですよね。私は、なぜこの作品が受賞したのか、よくわかりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


リフカの旅

ペレソッソ:アメリカへの憧れがさんざん書かれた果てに、入国審査で髪の毛が無いことで足止めを食うとか、「ロシアの百姓」への恨みに反して、目の前の少年を世話してしまうとか、いろんなものが相対化されていくのがおもしろかったです。「百姓」呼ばわりには、違和感を持ちつつでしたが・・・。でも、そうやって、目の前の隣人に憎悪や差別をすり込むのが国のやり方だったわけですね。

紙魚:同じ時に読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)が散漫な点のような物語だとすれば、これは一直線の物語。主人公の視点が一貫していて、とても読みやすかったです。過酷な場面が続くので、主人公に寄り添って読んでいくのはつらいものの、ところどころで、つぎの一歩を進める力を感じることができたのもよかったです。p62の「手が、リュックの中の、プーシキン詩集にふれた。取り出して、考えてることを書きとめたくなった。トヴァ、この本のページはどんどん埋まっていくよ。こんなに小さい文字で細かく書いてるのに。」で、読むことと書くことが同時にあるのを感じ、胸にせまりました。人がたいへんな思いをしているときに、読むことと、書くことの両方が力になるのを感じました。p85で、シスター・カトリナがリフカに触れるシーンでは、ああ、この一瞬があってよかったと感じました。

アカシア:確かに主人公に寄り添って一直線に読んでいける作品ですね。辛いことはたくさんありますが、ベルギーでの人々との出会いとか、イリヤを助けるところとか、あたたかい部分も出てくるので、心に届きます。今問題になっている難民がテーマなので、そんなことも考えながら読みました。ユダヤ系の作家って、どこかで必ずホロコーストの物語を書きますよね。そのうえこの作者は多文化を体験しているから読ませる作品になる。日本でもホロコーストものはたくさん翻訳されています。でも、それが、今イスラエルがしていることから目をそらさせることにもなっている気がして、私は手放しでいいとは思っていません。でも、この作品はよかった。この本を読んで、今問題になっているシリアなど中東の難民の人たちにも思いを馳せられるようになるといいですね。ユダヤ系の人たちは行った先々で作家になっていたりして声が届きますが、今渦中にあるアラブ系の人たちの声はまだまだ届いてきません。書けるような状態にないので当然のことですけど。

ルパン:私がこの作品のなかで一番好きな場面は、p97〜99、リフカが道に迷って牛乳屋のおじさんに送ってもらうところです。リフカは外国語を覚えるのが得意なのですが、ここでは言葉が通じないまま心が通い合っています。とても心に残るシーンでした。悲しかったのは、髪がないリフカのことを好きだと言ってくれた船員の少年が亡くなってしまうところです。ずっといじわるだったお兄さんがラストで迎えに来るところもよかったです。ただ、物語中ずっとくりかえされているキーワード「シャローム」の意味が、さいごの註にしか出てこないのは残念でした。物語のはじめに意味がわかっていたらもっとよかったののに。私はもちろん知っていましたが、これを読む子どもたちはさいごまでわからないわけですから。

アカシア:註はわざと最後においているんじゃないかな。物語そのものをまず味わってほしいと考えると、途中で注が出てくるのは邪魔になりますからね。その場その場でわからなくて疑問を抱いたまま読んでいっても、ストーリーそのものが強ければ、大丈夫です。最後までいって、ああそういうことか、とわかってもいいと思うんです。物語は勉強ではないので。

カピバラ:作者の前書きに主人公のモデルであるルーシーおばさんが元気に電話に出てくる様子が書かれているので、どんなに過酷な状況にあっても、この子は今でも生きているのだ、死なないんだ、と安心できてよかったです。リフカのその時どきの気持ちがとてもリアルに綴られているので、最初からリフカにぴったり寄り添って読めました。とくにうまいな、と思ったのは、リフカが目で見たことだけでなく、耳から聞こえたこと、鼻でかいだ匂い、体で触れたこと……五感で感じたことを、子どもらしい表現で書いているところです。例えば55ページで、モツィフの人が「ワルシャワ」を「ヴァルシャーヴァー(はー)!」っていうふうに言うから、ワルシャワってきっとすばらしいところなんだと思う、という描写。大人は聞き逃すようなことですが、子どもの感性にはそういうところがひっかかる。そこをうまくとらえていて、リアリティがあると思いました。

シア:こういう本を求めていました! これは、第27回読書感想画中央コンクール中高生の部の指定図書なので、だいぶ前に読みました。今回一番安心して読める1冊でした。優しい表情で手に取りやすい表紙ですね。やはり生徒たちには一番人気がある指定図書でした。用語解説などもついていてわかりやすく、内容も重すぎません。『マザーランドの月』を読んで思いましたが、時代背景がわからないとやはり子どもたちには難しいように感じます。手紙形式なので、生徒たちには『アンネの日記』のハッピーエンド版だと紹介しています。時代のせいもありますが、「ハゲは結婚できない」というくだりが何度もしつこく、ジェンダー論まっしぐらなところは気になりました。生徒たちもその部分を気にしてそれを題材に絵にしている子もいました。しかし、このような歴史があるということもわかりやすいし、主人公もいい子で、イベントの起伏も少女漫画的な盛り上がりでおもしろく、かっちりとまとまった円熟した作品です。つらいシーンは、この本ぐらいのショッキングさが子どもには良いです。頑張るとか、希望を捨てないという意味を良く描けていると思います。ユダヤ人は元々とても勉強する民族ですが、リフカはさらに前向きさと迫力を持って勉強しています。こういうお手本になりそうな子が主人公の本が良いと思う私は、嫌な大人でしょうか? リフカとイリヤのやりとりの場面では、たとえ国同士が争っていても、個人間での敵対の無意味さも表していました。リフカは信じられないほどいい子です。隙があって苦労するけれど、親切で、知的好奇心のある少女は大好きです。YAのラストはハッピーエンドでお願いします!

マリンゴ:非常にまっすぐでひたむきな、冒険小説であり成長小説であると思いました。満足度はとても高かったです。ただ、作者がとても優しい性格の方なのか、冒頭でネタバレしすぎてくれているような気がしました。ルーシーおばさんが生きている、のみならず作者が直接会って、髪の毛を「おだんご」にしているのを見るシーンまであるので、終盤の、髪にまつわるハラハラする場面のときにも、「でもこの後を知っているからな〜」とつい思ってしまいました。

さらら:「この物語が生まれるまで」がとても親切だけど、いっぽうで主人公が生き延びることが最初にわかってしまいますよね。原書でも前書きとして、加えてあるんでしょうか?
ペレソッソ:カットが親切とも思いました。解説的なタイミングで。

レジーナ:紙さえ十分にない逃避行の間、たった1冊持っていたプーシキンの本の余白に、手紙や詩を書く場面には、胸がいっぱいになりました。トヴァへの手紙なのに、p91で、「トヴァの背中が曲がっているから結婚できない」と書いているのが、少し不思議でした。表紙の色合いや題字は、ちょっと古めかしい印象です。とても素敵な作品なので、もう少し、子どもが手に取りやすいデザインの方がいいのでは……。

アカシア:余白に書いていても、実際には手紙として出せないから独白みたいなもんなんじゃないかな。

レン:昨年の秋ごろに読んで、今回また読みましたが、好きな本でした。ところどころに、いいなあと思うすてきな表現があります。ユダヤ人なのにカトリックのお祈りを教えられるところが示唆的でした。自由な国アメリカなのに、髪の毛がないと結婚できないから入国が許されないというのは初めて知って、へえーと思いました。まるで最初から日本語で書かれたお話を読んでいるみたいで、訳文はみごとでした。伊藤さんはどんなふうにお嬢さんと共訳したのかなと思いました。

さらら:アントワープの牛乳屋のおじさんに親切にされたリフカは、そのおじさんと別れるとき、お別れのいえなかったゼブおじさんにお別れをいえた気がする。さりげない一文なんだけど、誰かと、別の誰かがどこかでつながっているように感じられる人生の瞬間を、見事にとらえています。最後のアメリカへの入国審査の場面で、それまでリフカが守っていたロシア人の子どもが、「リフカには詩が書けるんだ!」と言ってくれる。立場が逆転して、その子がリフカを守ってくれたところも嬉しかった。残念だったのは、例えばp99に出てくるアントワープの「キングストリート」という表現。名前のせいで、英語圏にある通りのように感じられます。翻訳の際に、「コーニング通り」(オランダ語でコーニング=キング)とか「王様通り」等に変更する配慮が必要だったかもしれません。また、あとがきに「フラマン語はオランダ語に近い」と出ていますが、フラマン(フレミッシュ、フランドル語とも呼ばれる)はオランダ語と言語的には同じです。関西弁と関東弁程度の違いしかないんです。ともあれリフカの目を通して、19世紀初頭の、人の行き来の要所となった、経済的にも豊かなアントワープを実感することができたのは、予想外の収穫でした。

ペレソッソ:今のお話を聞いて、インド映画『きっとうまくいく』(ラージクマール・ヒラニ監督)を思い出しました。これ、主人公たちがそれぞれに安定した生活を送っている現在から回想で過去のことが描かれるので、何があっても「きっとうまくいく」と安心して見ていられるんです。最初にハッピーエンドになると示しておくことで安心させる、エンタメのひとつのハードルの下げ方かもしれません。

シア:子どもは、本を読む前に最後を知りたがります。だから私は、ハッピーエンドだよ、くらいは教えてあげます。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


R.J.パラシオ『ワンダー』

ワンダー

『ワンダー』をおすすめします。

初めてだれかに会ったとき、最初に意識するのはその人の顔だろう。私たちはお互いに顔を見てコミュニケーションをする生物なのだから。でも、その顔の造作やバランスがほかの人のそれとは大きく違っていたら、私たちはどんな反応をするだろうか? 凝視する? 目をそらす? それとも顔の奥にあるその人の心をのぞこうとする?

この物語の主人公はオーガスト(オギー)。「外見については説明しない。きみがどう想像したって、きっとそれよりひどいから」と自分で述べているのだが、先天的に顔に障碍があり、生まれてから27回も手術を繰り返していた。そして学校には行かずに、母親から勉強を教わってきた。

ところがオーガストは、中学にあがる年齢(アメリカの話なので、5年生から中学生なのだが)になって、初めて学校というものに行くことになる。当然のことながら、オーガストは緊張と不安に押しつぶされそうになっている。懸念は的中し、オーガストは学校で、奇形児とかゾンビっ子とかペスト菌などと呼ばれることになる。この世界は、オーガストのような存在には決してやさしくないのだ。

語り手は、オーガストばかりでなく、姉のヴィア、いつもオーガストと一緒にお昼を食べているサマー、親友だけど途中でぎくしゃくしてしまうジャック、ヴィアのボーイフレンドのジャスティン、ヴィアの以前の親友ミランダ、と次々変わっていく。複数の視点を通して、立体的に状況が浮かび上がる。オーガストの存在を鏡にして、周囲の人たちの人となりも浮かび上がる。

障碍を持った人には親切にしなくてはならないとお題目を唱える本ではない。理想的なあるべき姿を提示する本でもない。リアルである。けれど、そう甘くはないこの世界にも、はかない者、弱い者を守ろうとする人たちが存在することを、この作品はきちんと描いていく。「かわいそう」という視点がないのが、何よりいい。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年2月8日号掲載)


2016年01月 テーマ:困難を抱えた他者に寄り添う

日付 2016年1月14日
参加者 アンヌ、サンショ、ペレソッソ、マリンゴ、ミホーク、レジーナ、レン
テーマ 困難を抱えた他者に寄り添う

読んだ本:

(さらに…)

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ウソつきとスパイ

ペレソッソ:もとの言葉を、どう翻訳したのか、数字を織り込んだ暗号のような文とか、手が込んでいるなと思いました。今回のテーマ(選書のテーマは「困難を抱えた他者に寄り添う」)との関連はどういうことなのだろう?とそれが気になりました。

レジーナ:選書係ふたりで、まず読みたい本を挙げ、それから共通のテーマを探しました。『動物のおじいさん、動物のおばあさん』では、人間が、年をとった動物の世話をし、『まほろ姫とブッキラ山の大テング』では、主人公が、孤独な天狗を助けます。また『ウソツキとスパイ』では、母親が病気で倒れたとき、主人公は、その事実を受け入れられず、母親に会いに病院に行くことができません。どの話も、人や動物を助ける場面があったり、あるいは、大切な人が困難な状況に置かれたとき、どう向き合うか、主人公が試されたりするので、「困難を抱えた他者に寄り添う」というテーマに決めました。

ペレソッソ:冒頭はおもしろいと思ったんです。味覚のこと――そんなにはっきりと分けられるものではないということが、もっと全編を通して生かされていたら良かったのに・・・・・・。

ミホーク:日本語版の装丁は素敵だと思います。最後のどんでん返しは、そうだったんだ!とは思ったけど、引っ張った割にはインパクトが弱いといわれれば、そうかなぁ……。言葉遊び、暗号の部分は、原書ではどうなっているのか、気になります。セイファーの家族がヒッピー的で魅力があると思いました。「ウソか遊びか」の境界線はすごくあいまい。ここまで引っ張って「遊びだ」っていわれても、私ならその子に対する信頼がなくなっちゃう気がします。

マリンゴ: タイトルと装丁から、大活劇、こだわりのミステリーなのかと勝手に想像しすぎちゃいました。そのせいか、中盤まで同じことの繰り返しで、冗長な気がしました。ディテールの描き方がうまいので、読み進めることは苦ではないのですが、少し長すぎてダレた気が。もう少しストーリー的に、ミスリードするとか、読者サービスがほしかったかな。登場人物のなかではセイファーが魅力的で、主人公含めみんなが少しずつ扉を開けていくのがよかったと思いました。

サンショ:私も最初のスパイのところが引っ張りすぎだと思いました。子どもはスパイが好きだと言っても、ほかにおもしろいスパイ本はいっぱいあります。テーマは「困難を抱えた〜」だけど、この本の場合、セイファーが困難を抱えた子ってこと? 私はセイファーの状態が今ひとつつかめなかったんですよね。他者と話ができるんだから引きこもりってわけでもないし、ちょっとしたわだかまりで行かないことにしていたのなら、「困難」というほどのこともないと思って。翻訳も、ニュアンスがつかみにくいところがいくつかありました。たとえばp98の「行儀の悪いやつがいるよな!」ですけど、日本だと大人に子どもがこうは言わない。P264の「ほら、きた!」、p265の「もうそっとしておいてだいじょうぶ」という看護師さんの言葉も、ちょっとニュアンス違うんじゃないかな。すすっと入ってこないので、よけい読みにくかったかもしれません。クラスで存在の薄い子たちが団結するところは、『びりっかすの神様』(岡田淳 偕成社)のほうがずっとうまく表現できてるように思いました。

アンヌ:私は楽しくて何度も繰り返して読みました。1回目は、題名に引きずられて、スパイもののような謎解きの気持ちで読んでいったのですが、謎が解けてから主人公が絶望の淵に沈んでいく感じが独特の味わいでした。ひたすら受け身でものごとを曖昧なままにしている主人公の姿勢が不思議だったけれど、実は、親の病気という恐怖から目をそらすために上っ面だけの日常生活を必死にこなそうとしていたということがわかって、せつない気持ちになりました。読み直してみると、外食場面の多さに、日常生活が壊れていることに気づいてもよかったのにと我ながら思いました。父親といじめについて本当に語り合えるのが、初めて自分の家で食事をとる場面というところとか、食卓の情景をうまく使って書いていると思いました。そして、事実を受け入れた後に、セイファーの本当の姿を知って、少し手助けできるようになる。読者もちょっと騙されるところがおもしろい本だと思えました。

レジーナ:数年前、イタリアの翻訳者の人に、PDF版をもらい、おもしろく読みました。孤独な主人公が、風変わりな少年と友だちになり、スパイごっこをする内に、友だちの嘘に気づく、という流れは『魔女ジェニファとわたし』(E. L. カニングズバーグ 松永ふみ子訳 岩波書店)を思い出させます。実際、「カニングズバーグに影響を受けた」と、著者も言っていました。母親が不在の理由を、最後に明かす手法は『めぐりめぐる月』(シャロン・クリーチ もきかずこ訳 偕成社)に似ています。『めぐりめぐる月』では、私は「だまされた」と感じてしまい、やはり児童文学は、そう感じさせてはいけないように思いましたが。母親が倒れたという事実を認められず、病気の姿を見るのがこわくて、どうしても病院に行けないという気持ちは、よく伝わってきました。「ひとつひとつの出来事は辛く、理解できなかったとしても、スーラの絵のように、離れて見ると、その意味が見えてくる」というメッセージには、好感が持てました。決して甘いだけではなく、苦かったり、渋かったり、さまざまな経験を経て、ジョージは、最後は勇気をもって、自分の問題と向き合い、人生を丸ごと味わう喜びを知っていきます。先ほど、ペレソッソさんもおっしゃっていましたが、味覚障がいとストーリーがうまく絡み合っていれば、もっとおもしろい作品になったのかもしれません。スパイごっこも、楽しい要素ではあるのですが、中学生にしては、幼すぎるような……。登場人物の言葉づかいは、ところどころ気になりました。p112に「気を悪くしないで」「相手にしない」とありますが、十代の男の子が、こういう言葉を使うでしょうか? p146の「よっぽどキャンディが好きなんだね」は、前の文章とつながっていないのでは……。

レン:私はかなり苦手でした。出だしの「まちがいだらけの人間の舌の図がある。」というところから、つまずいてしまいました。まちがいだらけの人間って、なんだろうって。だからか、あとも素直な気持ちで物語にのっていけませんでした。名前の最後にsがついていることでからかわれることも実感として伝わってきにくかったですし、母親が不在で父親だけだからといって、何もいつも外食しなくてもいいのにとか。スーラの絵のエピソードはなるほどと思いましたが。

ペレソッソ:私、父親は心の病かと思ってました。お母さんは実はもう存在しないんじゃないかと思ったり、もっとヘビーな内容を想像してました。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


動物のおじいさん、動物のおばあさん

アンヌ:全体の構造がよくできていると思いました。履歴書があって、本文である飼育員のお話があって、それから、その動物の写真がある。まず写真を持ってくるとイメージができてしまうけれど、履歴書で最初にその動物の生きてきた軌跡が見えるのがよかったと思います。好きな食べ物や、好きなことの項目もあって、例えばカバがプールの底の落ち葉を食べるとあって、動物園のプールではカバはただ泳いでいるだけと思っていたのに意外だったり、サイは角を磨くことが好きなんだなどと分かったりして、おもしろいと思いました。一番初めのシロクマのところで、生まれたのがドイツの動物園とあって、捕まえられたのではないと知りました。今動物園の役割は、動物を保護し繁殖することにあるのだなということが、色々な動物の履歴書を読んでいくうちにわかっていきます。ただ、今日欠席のルパンさんから、サイの出産履歴のところとか、ゾウのところの後継者争いとか、本文で説明されていないことが書かれているのがわかりにくいとのご意見もありました。私は、飼育員さんの「こわい」という気持ちについての説明や、動物が死んだ後に解剖し標本にするのも仕事だという言葉に、動物園で働くことへの思いや人間以外の生き物への尊敬の念を感じることができました。動物園についていろいろ知り、動物とともに生きることについて考えられるようになる本だと思います。

サンショ:この本は、老齢の動物だけを取り上げているのがおもしろいし、しかもラクダのツガルさんが前足だけで歩いていたなどという具体的な記述もあるので興味がわきます。ちょっと気になったのはバシャンの履歴書で、何匹かの子どもについてはどうなったのか記述がなかった点です。ルパンさんが指摘した「ラニー博子との別居を開始」という部分は、別に詳しく書かなくても状況がわかるだけでいいんじゃないか、と私は思いました。おもしろい本でした。

マリンゴ: すばらしい本ですね。小説でも成立したかと思いますが、やはりノンフィクションでよかった。国内最高齢にこだわって、本が出た時点で2頭死んでしまっているというリアルさに、子どもたちは動物の「命」を実感するのではないでしょうか。大人が読むと、老いた生き物の、人間に共通するせつなさを感じますね。子どもも大人も、それぞれの年齢で楽しめるという点でも、とてもいい本です。また、「動物園の動物」であることが大前提で、動物園を全面肯定している点を、面白いと思いました。動物園に閉じ込められた動物たち、というニュアンスで、否定的に描かれることも多いので。

ミホーク:「天才!志村どうぶつ園」を本で読んでいるようで、おもしろかったです。飼育員さんが、動物がいかに自然に死ねるか、というところを追求しているのが、興味深かった。ペットじゃないので、死んだら悲しいだけじゃなくて、解剖したりデータを残したりする。飼育員と動物の絶妙な距離感。どの飼育員さんも共通して動物に畏敬の念を持っているのが印象的でした。物語より図鑑好きの子どもは楽しめそう。

ペレソッソ:今回読んだ本の中では一番おもしろかったです。介護や子育てをしている人の読書会のテキストにしたらおもしろいんじゃないかななどと思いながら読みました。例えば、檻に入ってくれないクロサイでしたっけ? それを待つエピソードなど、自分の思いどおりに行かない他者としての老人とか、子どもとかとつき合うときの忘れてはいけない基本を教えてくれている気がして。こわいというのを忘れないということが、異口同音に出てきていましたが、それも、どんなに仲良くなっても、他者は他者ということを忘れてはいけないということだと思いました。
 履歴書の部分は、おもしろく読んだのですが、もしかしたら、少し「お話」っぽくなって、愛玩っぽくなっているかもしれない。履歴書を読んで、ほほえましいと感じた感覚は、本文で受けとった、敬意を持って、他者であることを肝に銘じてつき合うべき動物というイメージとはちょっと違うベクトルかもしれない。あと、まったく余談ですが、わたしは、わりと動物園は好きな方で外国へ行くと、その国の動物園にはなるべく行ってます。もう27年も前ですが、リマの動物園では、ゾウに芸をさせてましたよ。ボリビアのラパスの市内に動物園があったときは、ライオンとか猛獣はいなくて、そのえさになるはずだったヤギしかいなかったり・・・。サバンナの動物が標高4000近いところで馴化できずに死んじゃったとか聞いてますけど、正確なところは調べてません。動物園は、その国の親子の様子を観察出来たりして、おもしろいですよね。全然関係ない話でごめんなさい。
(追記:介護や子育てをしている人、つまり大人におもしろそうということを述べましたが、例えば認知症になってしまったおじいちゃんおばあちゃんと同居して戸惑う子どもたちにとって、老人問題は他人事では無いので、子ども読者にとっても、視野を広げてくれたり気を楽にしてくれたりする本だと思います。年を取っていずれ死んでいくという生をどううけとめるかという大問題とも向き合わせてくれる本だと思います。
 あと一つ言い忘れ。「交尾」があっけらかんと連呼され、写真まで出ていたので、なんだかおもしろかったです。フィクションではここまで言うかな?とか、学校での「性教育」はどの程度受けている子がこれを読むのかなとか・・・・・)

レン:感じよく作られている本だなと思って、おもしろく読みました。どこかゆったり感じるのはなぜかなと思っていたのですが、みなさんのご意見を聞いて、飼育員さんと動物の関係が人間の親子の関係とは違って、相手に対する敬意に基づいているからかなと思いました。自分のもののように支配したり、コントロールしたりしようとしない。あくまでも他者なんですね。92ページの「ぼくは、ハナが勝手に生きていてくれるときが、一番うれしいんです。」というサイのハナさんの飼育員さんの言葉が心に残りました。

サンショ:それでも、動物園の中で暮らすのと、自然の中で野生のままでいるのは全然違いますよね。だから、そこは違うと思って読まないと間違えるかも。サイのハナさんのところでも、ケニアで捕獲されたので、動物園で生まれた2代目、3代目とは違うことがはっきり書いてあります。人間とほかの動物が違うだけじゃなくて、飼われているのと野生のとではまた大きく違うんですね。私も、今日の3冊の中ではこれがいちばんおもしろかったです。普通の動物園の本と違って、お年寄りの動物を対象にするという視点もよかった。

レジーナ:ゴリラのドンが、重い扉を軽々と開けてしまうエピソードは、動物の圧倒的な力の強さを感じさせます。けれど、どの動物も、できないことが少しずつ増えていき、死を迎えるまで、飼育員の人たちは世話をします。ラクダのツガルさんは、注目されるのが好きで、年をとり疲れやすくなっても、プロ根性でお客さんにサービスしますが、初めから人間と信頼関係を築けたのではなく、動物園に来る前は、世話をしてもらえないまま、観光牧場に放置されていたそうです。サイのハナは、野生で生きていた時に、ハンターに捕まり、体を深く傷つけられました。それぞれの動物に歴史があり、人間と動物の関係性も考えさせられます。質素で少なめの食事の方が、ハナの健康にいいと書いてありましたが、先日、新聞で、粗食の方が、サルの毛艶がよくなるという記事を読みました。

サンショ:昔は自分の家でもいろんな動物を飼っている人がいましたね。中野の駅の近くにはトラを飼ってる人がいたし。先日は、都会でカイマンという種類のワニを飼っていた人に会いました。飼うのは研究に必要なのかもしれませんが、できたら自然の中で暮らしているのがいい。そのほうが動物も美しいように思います。私はずっと動物園というものに疑問を持ってきましたが、だれもが自然の中の動物を見られるわけではないので、異種の動物の存在感を子どもが知ったり、絶滅しそうな動物の保存を図ったりするには動物園も必要かもしれないと、今は考えるようになりました。ただ、捕獲はもうしなくなっているのでしょうね。それはいいことだと思います。それと、なるべくもともとの生態系の中で生きられるように工夫されるようになったのもいいと思っています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


まほろ姫とブッキラ山の大テング

レジーナ:物語の中に、昔話を織り込みながら、新月という現代の要素も上手に入れていて、日本のファンタジーのおもしろさを味わえる本です。砧やたる丸など、名前もおもしろいし、登場人物が、物語の世界を、自由に生き生きと動き回っていて、小学校中学年の子どもが楽しんで読める本だと思いました。「カチカチ山の刑」なんて、いかにも、単純でそそっかしいタヌキが考えそうなことです。狛犬に乗って滝をのぼったり、天狗の鼻が天井につかえたり、わくわくする描写がいっぱいあって、柏葉幸子さんの初期のファンタジーに通じます。挿絵も、なかがわさんが書いているので、物語の雰囲気によく合っています。目次の下の挿絵、砧の影がタヌキになっているんですね! 男の子もおもしろく読めると思いますが、表紙がピンクで、タイトルにもお姫様が出てくるので、手に取りづらい男の子もいるのでは? クダギヅネの存在感があまりないのが、少し気になりました。あとがきを読むと、続刊がありそうなので、これから活躍するのかもしれませんね。

アンヌ:ファンタジーの作りがゆるい気がしました。聞いたことがあるものを使って作り上げた感があります。昔の冒険ものにあるような、月蝕にうろたえるタヌキとか、最初に見たものを親と思う動物の習性を使ったクダギツネのところとか。今日欠席のルパンさんからも、p.135の子安貝の説明が「イヤホン」だったり、p.136の遠めがねで「テレビの生中継をみる」とあったりして、時代設定のしばりがゆるいというご指摘がありました。きれいだなと思ったのは、赤い皆既月食の中で砧が踊る場面です。ここは、挿絵も魅力的でした。

サンショ:さあっとおもしろく読んだし、子どもにも楽しめると思いましたが、欲を言えばお話の中のリアリティがもう一歩考えられているとよかった。たとえば天狗の鼻は、人に教えるとどんどん急激に低くなることが絵でも表現されていますが、だったら長い修行なんてしなくてもまたちょっと知識を仕入れれば急にまた長くなるんじゃないの、なんて突っ込みを入れたくなりました。あと、どのエピソードもどこかで聞いたような気がするのは年齢対象が低いからしょうがないのかな。

マリンゴ:第1章の登場人物の紹介が見事で、あっという間に惹き込まれてしまいました。まほろと、たぬきの茶々丸、母親の砧の関係って、ちゃんと説明しようと思うと、かなりややこしくページを要する気がします。それを、会話中心に無駄なくさらりと説明しているのがすごいと思いました。テングと出会ってからも、先の読めないのびのびとしたストーリーで、最後まで楽しめました。

ミホーク:かわいらしいお話ですね。昔話だけど、会話のやりとりは現代的なスピード感を感じました。「音楽は呪文のようなもの……とてもすてきなおまじない」など、ところどころ素敵なセリフが心に響きました。

ペレソッソ:出たときに読んでるんですが、今回きちんと再読できていません。ごめんなさい。絵は好きで覚えていたんですけど、中身はすっかり忘れてた。ただ、好感はもっていたとは思います。「イヤホン」とか「テレビ中継」というのが出てくるのは、昔話風の世界にそういうのが混ざるのは嫌いではないので、たぶん反感は抱かなかったと思います。

レン:するする読みました。読みはじめるとすぐ、こういう世界がありそうに思えて、物語世界にさっと入っていけるところ、どこも子どもに伝わるように表現されているところがうまいなあと。カステラやチョコリットなどのカタカナ語は、遊び心かなと思って、私は気になりませんでした。ただ、おもしろいことはおもしろいのですが、メタフィクショナルなたくらみをぶっちぎるような意外性を私は感じられず、物足りない感もありました。これは、私が大人だからかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


マイケル・モーパーゴ『走れ、風のように』

走れ、風のように

『走れ、風のように』をおすすめします。

世の中には旬の作家というのが確かにいる。マイケル・モーパーゴは今がまさに旬。日本でも次々に翻訳出版されているのだが、最近のモーパーゴは、テーマは違っても、それも粒ぞろいでおもしろい。

この作品の主人公は、犬のグレイハウンド。生まれて間もなく川に捨てられて溺れそうになっていたところを、少年パトリックに救われる。そしてベストフレンドと名づけられ、とても大事に飼われている。しかしある日、走るスピードに目をつけられ、誘拐されて売り飛ばされ、ドッグレース用の犬に仕立てられる。飼い主は金儲けしか考えず、勝てない犬は容赦なく殺処分にするという男である。犬の運命はどうなるのかと、はらはらさせられるが、今度はベッキーという少女に助けられる。

ベッキーは、ブライトアイズと名づけたこの犬を連れて家出をするのだが、子どもの家出というのは、残念ながらたいていはうまくいかない。そこで主人公の犬は、今度はジョーという、妻を亡くしたおじいさんに引き取られて、パディワックと名づけられる。

『戦火の馬』でも、モーパーゴは馬を主人公にしてさまざまな人間模様を描いていたが、この作品でも、犬を主人公にしながら、パトリックとベッキーとジョーの心の有りようを、実にうまく描き出している。ストーリーの作り方もうまい。そういえば、本書と同じ頃に翻訳が出た『月にハミング』も、ストーリー作りのうまさが際だっていた。

モーパーゴは、ドッグレースを引退したグレイハウンドが銃殺されているという新聞記事を読んで、この物語を書いたという。新聞記事一つから、これだけおもしろくて社会的な視点もあるストーリーが書けるなんて、旬の作家ならではのことかもしれない。

(「トーハン週報」Monthly YA 2015年12月14日号掲載)


2015年12月 テーマ:見知らぬ人との生活

日付 2015年12月10日
参加者 アンヌ、アカシア、ルパン、マリンゴ、ヴィルト、ペレソッソ、パピル
ス、(アカザ)
テーマ 見知らぬ人との生活

読んだ本:

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岬のマヨイガ

マリンゴ:東日本大震災を描き、その心の痛みを正面から取り上げた骨太な作品です。発売された直後から気になっていて、みなさんの意見もいろいろ聞いてみたいと思いました。見知らぬ3人が出会って、一緒に暮らし始める序盤部分はとても魅力的でした。ただ、後半に行くにつれ、ちょっと要素が多すぎないかな、と感じました。もとは連載作品だったので、読者が楽しめるよう、サービス精神を発揮されたのかな。カッパ、狛犬、地蔵さま、そして遠野にも行くし……。それでも、メッセージはとても伝わってきました。特に、人の後悔、さびしさ、やりきれない思いを、アガメと海ヘビは喰らって化け物になっていく、という部分はひびきました。

パピルス:好きな作家さんですが、自分にとって柏葉さんの文章は独特で、慣れるまでに時間がかかります。本作も冒頭から言い回しに慣れなくて何度も読み返してしまいました。慣れたらどんどん世界に入り込めて、夢中で読みました。震災を物語として伝えようとしていますが、岩手の伝承と相まって深く心に刺さりました。

ヴィルト:柏葉さんの作品では『つづきの図書館』(講談社)が大好きです。本作は地元新聞に連載された作品ということで、震災を経験した子どもたちが辛い経験を乗りこえられるよう、被災地を舞台にしたのだろうなと想像しました。個人的には震災はまだ生々しいので、津波の場面など子どもたちは辛くないのかな?と心配になりました。おばあちゃんはとてもお元気そうなので、冒頭で遠野から老人ホームへ入居することになったといういきさつに少し違和感がありました。他の参加者からのご指摘により、核となる登場人物の3人とも、被災した地元の人たちではなく、たまたまその場にいて被災民になったんだとあとから気づきました。これだと、被災地に根差した物語とはちょっと違うような……。実は、挿絵がとても残念な印象を受けました。

ルパン:おもしろく読みました。残念なのは挿絵。物語の不思議感に合っていません。挿絵がよければ、もっと独特の世界をイメージできたかもしれないと思うと気の毒です。私には、この作品は震災を正面から捉えたものとは思えません。主人公3人のうち、一人はDVから逃げた横浜の人。一人は関東から来た女の子。おばあちゃんは遠野の人。3人とも震災とは関係ない孤独な人です。震災の時に居合わせたことによって出会うので、この3人にとっては、震災はむしろ都合が良かったことになります。これは被災地の人が読んで、いい気持ちのするものではない気がします。私自身は、この作品は不思議なものが存在する世界を描いたファンタジーだと思って読みましたが、ところどころ現実に引き戻される描写もあり、盛りだくさんすぎて何を書きたいのかがぼやけてしまっているところが残念です。

アンヌ:『遠野物語』(柳田国男著 岩波文庫他)が好きなので、手元に置いて読み進めました。まず「マヨイガ」の話がおばあさんの昔話として語られます。河童や、座敷童が出てきたり、動物系の妖怪たちにおばあさんが「ふったちさん」と呼びかけたりします。これも『遠野物語』に「ふったち(経立)」は獣が年を経て異様な姿や霊力を持つ姿になったものを表すと出てきます。こんな風に、その土地にある不思議な話、怪談や伝承をもう一度語り直して伝えていくということに、物語の力を感じます。明治時代に柳田国男が危惧したように、怪談なんていうものは、時代とともに消えてしまうかもしれません。だから、作者がこのようにその土地にある怪談や伝承を、物語の中に再編することには意味があると思っています。物語の中で、もう一度言い伝えを語り、語る者の解釈を付け加える。そうやって怪談や伝承は再構築され、読者に伝わっていくと思います。前半は津波の話や避難所の話で、題名と作者名がなかったら、読み続けられなかったかもしれません。最後に、家族がいったんはバラバラになっても、ひよりとおばあちゃんが「不思議を見る力」で繋がっているから、この不思議な世界は続いていくのだろうなと思わせて終わるのが、とても嬉しく、物語を伝えることの素晴らしさを感じさせる見事な作品だと思いました。気になったのは挿絵で、河童が本文の描写と違って、とても子供っぽく描かれていることです。

アカシア:河童はいろんな絵が伝わっていますよね?

アンヌ:ここでは、いろいろな川の主のような形で河童が書かれているので違和感がありました。ただ、地図があるのは良いですね。

アカシア:遠野は私も好きな場所です。物語の舞台になっている地域は、震災や津波の被害で大勢が亡くなっています。大きなトラウマを抱えている子もいます。柏葉さんはそういう子どもたちの心の傷をどうやったら癒せるのかと考えて、恐ろしい魔物に対して子どもや河童や地蔵や動物たちが力を合わせて戦って勝利をおさめるという、この物語をつくったのだと思います。そういう意味では激しい戦いのシーンも必要だったんでしょう。読んだ子どもたちが物語の主人公に気持ちを合わせて一緒に戦い、勝って魔物を退治するという展開が必要だと思われたのではないでしょうか。震災と正面から向きあってないとさっきどなたかがおっしゃいましたが、それは時間がたたないとできないことだし、傷が深いうちはなかなかできないことだと思います。これは、柏葉さんなりの子どもへの寄り添い方で、私は大きな意味があると思いました。挿絵は、ある意味目を引きすぎて、物語に集中できなくなるようで、そこは残念。それに、被災地の子どものことを考えずに純粋に物語だけを見ると、いろんな要素が入りすぎかもしれません。だけど私は、血のつながりのない者たちが家族をつくっていくという展開も好きです。

アカザ:読んでいる時はおもしろかったし、柏葉さんでなければ書けない作品だと思いました。つぎつぎに登場してくる妖怪たちも魅力的だし、血縁のない3人が新しい家族として暮らし始めるところも良かった。でも、読み終えてから2、3日たつと、おばあちゃん+妖怪たちの連合軍に対するウミヘビが哀れに思えてきてなりませんでした。なまじアガメとウミヘビの背景が描かれているだけに、なんだか可哀そうで……。そう思うと、夜空を飛んで出撃(?)していく光景が、空爆を思わせたりして。村上春樹がパレスチナ問題について語ったときでしたか「わたしはいつも弱者や少数者の側に立ちたい」と言っていたのを思い出しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


なりたて中学生 初級編

マリンゴ:テンポが非常に遅い作品です。250ページの本で、中学校の入学式が100ページあったり、っていう。ストーリーに特別な構造は何もありません。でも、だからこそ、小6、中1の子たちの心境に寄り添った作品になっていると思います。わたしも、中学に入学する前に不安だった記憶があるので、こういう本があれば勇気をもらえたかな、と。ただ、さっき『ネコのミヌース』(アニー・M.G.シュミット著 徳間書店)のところで、この本を小学校中学年の子が読めるのか、という話がありましたが、こちらの『なりたて中学生』も分厚いので、小6の子ならだれでも読めるのか、ちょっと心配。本が苦手な子にこそ読んでもらいたいのですけれど。文章は、関西弁がいい味を出していると思いました。地域性があると物語がよりリアルになりますし、トボけた感じもよく出ていて楽しめました。

ペレソッソ:私は中高一貫校で教えているのですが、中1の担当者に読ませたいと思いました。制服を着ている子たちをすっかり「中学生」として見てしまって、ついこの間までランドセルを背負って、半ズボンを履いていたということを忘れがちな気がするんです。ランドセル離れできない感じとか、小学生気分をひきずっている子どもの内面を大人に伝えてくれる作品だと思います。
ただ、マリンゴさんがおっしゃったように展開が遅いです。読むのに時間がかかりました。主人公のぼやきの一つ一つが大切で、それを楽しめるどうかでこの遅さへの評価も分かれると思います。あと、関西弁が音として聞こえる人とそうでない人とでは読みやすさが違うのかもしれません。勤め先の学校には、中一にぴったりだからということで、図書室に入れてもらいました。生徒にも勧めようと思います。「さすがひこさん」と思ったのは、子どもの身体感覚をしっかり書いているところです。例えば、バスに座るとき、「ランドセルを背負ったままだと、ちょうどよくて気持ちがいい」(10ページ)というような描写は興味深かったです。あと、一人称の作品は、語り手の主人公が賢く、どんどん洗練されている気がするので、『なりたて中学生』では哲夫の等身大のアホぽっさが良かった。中級編も読みたいと思っています。主人公の名前が成田哲夫で「なりたて」は絶妙。おもしろく読みました。

アカシア:学校の名前も土矢(どや)、瀬谷(せや)、南谷(なんや)、御館(おかん)、御屯(おとん)など、ユニークな命名ですよね。

アンヌ:ひこ田中さんは、書評しか読んだことがなくて作品を読んだのは初めてですが、おもしろさがわかりませんでした。校長先生の挨拶や送辞や答辞が、いくらヴィデオを見て書いたという設定であれ、全部で6ヶ所も一言残らず書かれている。退屈な儀式の言葉を延々と読まされて、読者が投げ出さないか気になりました。おもしろさを知りたいと、作者のファンの方のブログや書評も参考にして、もう一度読み直しました。例えば、登場人物のネーミングが絶妙との評があったのですが、やはり、あまりそういうふうには感じられません。ひたすら受け身の主人公の姿もうまく見えてこない。ただ、敵対関係だった隣の小学校出身の後藤君たちと仲直りするのかどうか揺れているというところには、リアリティがあるなと思いました。

ルパン:いつもはアンヌさんと意見が正反対になるのですが、今日はまったくの同感です。おもしろく読めませんでした。気になる部分もたくさんありましたし。たとえば73ページあたりの、突然天井と壁の間のカビをスプレーで取ろうとする場面などです。新築の家に引っ越したはずですよね? 新しく越してきた家に住んでいるのに、使わなくなった小学校の参考書が1年生の分から積み上げてあるのも不自然です。ふつうは引っ越すときに処分しますよね。それに、全体的に理屈っぽいところが鼻について。いかにも大人が書きました、というのが透けて見えるような。灰谷健次郎作品みたい。『天の瞳』(角川文庫)よりはずっとマシですけど。よく書けていると思える部分もありました。主人公が後藤の出方を伺う様子はおもしろかった。でも、やはり全体的にリアリティがないと思います。小学生が、「卒業式って保護者のためじゃん」とか言わないと思うし。ともかくあんまり楽しくなかったので、読むのに時間がかかりました。

ヴィルト:関西弁かつ、学校の仕組みなどが土地柄のせいか私の経験と違うので、異文化を知るような新鮮な感覚で読みました。教室の席順のイラストに名前が入っていく後半からだんだん乗ってきたのと、主人公である成田くんのこれからが気になるので「中級編」も読みたいと思います。成田くんのキャラが頼りなくてかわいらしかったです(「なりたて」が主人公の名前とかけていたり、学校の名前に遊びが入っていたりしたことには気づきませんでした!)。お母さんが入学のしおりを入学式当日に渡したせいで、事前情報がない成田くんが戸惑うところが気になりました。当地では、小学校在学中から同じ中学に進学する予定の小学校と交流して、中学進学後の生活がスムーズに送れるような配慮や、親子向けの中学校ごとの説明会もありました。入学のしおりが1部しか渡されていなければ、コピーするなどして本人に渡してあげればいいのにと思いました。母親目線で読むと気になる点があるものの、対象年齢の人たちには気にならないかもしれません。

パピルス:おもしろかったです。ひこ田中さんの作品は初めて読んだのですが、ひこさんの書評と似ているというか、斜に構えながらもしっかりと本質を捉えているような、ユニークながらも鋭さを感じました。展開の遅さは全く気にならずに、自分の中学時代を回想しながら夢中で読みました。「あのときもっとこうすれば良かった。」とかいろいろ考えちゃいました。そう考えると、主人公の成田くんは冷静すぎるというか、大人の視点が入っているのでしょうね。

アカシア:ひこさんの幼年童話は、おとなの視点だなあと思うところがあったんですけど、この作品はもっと自然でおもしろかった。関西弁もひこさんの文体も、私には合ってるのかもしれません。同じ台詞を標準語で書かれると、単なる饒舌になる場合でも、関西弁だから独特のノリとリズムがあって、おもしろくなる。それに、私の体験では、女の子より男の子のほうが変化に弱い場合が多いと思うので、小学校の参考書をいつまでも持っていたり、ランドセルと別れがたかったりするのも、わかります。お母さんは、ちょっと抜けたところもある人ですが、この子のことを愛しているのは伝わってきます。学校からのお知らせには注意が及ばないかもしれないけど、子どものことはちゃんと見ている。そこもいいな、と思いました。学校の関西弁的命名については、ちょっと悪ノリって気がしないでもないけど、気づかなかった人もいるならいいですよね。
 江國香織さんが好きな人っていますよね。大きな事件は起こらないし展開はゆっくりだけど、毎日の気持ちのひだみたいな描写を読みたい。男子の中にもいるそういう読者にはアピールすると思います。

ルパン:わたしの文庫にも、こういうのが好きそうな小学生の男の子がいます。わたしが好きでないだけ。

アカシア:送辞と答辞を延々と読まされるのはどうか、という意見がさっきありましたが、ここは、子どもたちの日常の会話とはまったく違う文体だし、学校の一面を描いているんですよね。形式的な儀式の退屈さを表現したいんだと思います。

アカザ:ていねいに書いてあるとは思いますが、正直いって退屈でした。以前にわたしが住んでいた地区は、二つの小学校から同じ一つの中学校に進学するので、熾烈な勢力争いがあって大変だという話は聞いたことがありますが、そういう読者にとっては身近でおもしろいのかもしれません。ひこさんの作品は、オモシロサビシイような雰囲気があって、そこが好きなんですけれど、この作品からはそれが感じられませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


ネコのミヌース

マリンゴ:非常にかわいらしくて、洗練された、構成の練られた作品だと思いました。ミヌースのしぐさの描写から、ネコらしさが伝わってきて、魅力的でした。ウッディ・アレンの映画のようなイメージで読んでいたので、「エレメートさん」という大きな悪が出てきた後半の展開に少しびっくり。でも、甘いだけではなくスパイシーな仕上がりになり、児童書としてもわかりやすい作品だったと思います。

パピルス:ストーリー、挿絵、装丁、どれをとっても可愛らしく、とても好きな本です。悪役も出てきますが、最終的に可愛らしくまとまってハッピーエンドのおはなし。安心して読めます。

ヴィルト:ネコから人間になったミヌースですが、ネコらしいしぐさが自然に描かれていると思いました。子どもが読みやすいストーリーかつ児童書らしい結末という、みなさんと同じような感想を持ちました。2000年刊行だったのに、どうして今まで読まなかったのか不思議なくらいです。気になったのは33ページ。ティベさんがミヌースに対し「あわれなネコを〜」と言った場面。この時点で、ティベさんはミヌースのことをネコとは思っていなくて、人間と思っていたのではないでしょうか?

ルパン:特に突っ込みどころなし。文句なく楽しめました。小さいときに本を読んでいたときの感覚を思い出しました。何も考えないで、全面的におはなしの世界にのめり込んでいたあの感じを、久しぶりに味わいました。児童文学の王道っていう感じですね。スカーっと一気に読めました。

アンヌ:リンドグレーンのカッレ君シリーズ(『名探偵カッレくん』他、アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)を思い出しました。小さい町の中で物語が始まり、すべて終わってしまう。原作が1970年刊ということなので、「悪」というのが公害や環境問題。そういったところに時代を感じました。

ルパン:こういう本って懐かしいよね。

アカシア:ネコが人間になったけど、ネコっぽさが残っているという描写がおもしろかったですね。箱で寝たり、屋根づたいに移動したり、ほかの人の身体に頭をすりつけたり…。だんだん自分でも人間がいいのか、ネコのほうがいいのか、わからなくなっていくんですね。ストーリーがシンプルなので小学校中学年くらいで読むといいのかなと思うのですが、分量が多いのでその年齢だとなかなか読めない。たかどのほうこさんあたりだと同じ素材をもっと短くおもしろく料理できそうな気がしました。

ルパン:高学年が読んでもおもしろいと思いますが。

アカシア:たとえばミヌースは犬に追いかけられると、ハイヒールをはいて一気に木に登ったりしますよね。そういう部分、高学年になるといろんな現実がわかるから、しらけたりしないですか? 

ルパン:おなじ内容で中学年向けがあれば、長編を読み始める良い導入になるでしょうね。

アカシア:けっこうむずかしい漢字もルビ付きで使ってあるし、この文字の大きさだと中学年はしんどいかも。

アカザ:前からタイトルは知っていて、読みたいと思っていた本です。とてもおもしろく読みました。まさに児童文学の王道をゆく作品で、こういう作品で子どもたちは読む力を育てていくのだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


2015年11月 テーマ:戦争と子ども

日付 2015年11月19日
参加者 ハリネズミ、パピルス、レジーナ、ペレソッソ、マリンゴ、アンヌ
テーマ 戦争と子ども

読んだ本:

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路上のストライカー

アンヌ:書評を読んだ記憶があるのに、このつらい国境を越える旅の終わりには、プロのサッカー選手となって活躍する結末が待っていると思い込んで読んでいました。そうじゃないと気が付いたのは、ようやく後半の主人公がシンナー中毒になりかかっている場面でした。ストリートサッカーについても知らなかったので、慌てて調べました。

ハリネズミ:日本のストリートサッカーのチームは野武士ジャパンというみたいですね。

アンヌ:一番気になったのはグリーンボンバーという少年兵に連れていかれるのを阻止するために、主人公が古来から伝わる歌を歌って、イノセントに何かの霊を憑依させるような場面。少年兵たちはもちろんその歌や現象を知っていて、怖がって逃げ去る。こういう文化も、戦争が起きると消えていくのだろうと思いながら読みました。国境の強盗団や違法移民を搾取する農場など、違法な移民が常態化すると、どちらの国も荒れていくということにも気づかされる物語でした。ストリートサッカーを通じて、スターになれなくても救われていく子どもたちがいる。読後感がよく、感動して何度も読み返しました。

パピルス:同じマイケルなので、この作品も著者はモーパーゴだと思って読んでしまいました。あとがきに、取材のために2ヶ月間、カフェで店員として働いたと書いてあったので、「モーパーゴってイメージと違ってフットワーク軽い!」ってびっくりしちゃいました(笑)。内容は面白かったです。人物描写も一人一人厚みがあってよく描けていて、ストーリーも無駄が無い。今まで読んできた小説の中には、ストーリーを繋ぐために登場人物を死なせたと思うような、無理のある描写のものもたくさんありました。しかしこの本は違います。イノセントが死ぬ場面は自然にストーリーの中にとけ込んでいました。終盤、イノセントの死をデオが告白する場面では、デオの気持ちに共感して、ミスドで読んでいたのですが店内で号泣してしまいました。

レジーナ:次々に場面が展開していきますが、主人公の気持ちに寄り添って読める作品です。イノセントの存在が光っていますね。ナチス政権下で最初に虐殺されたのは、障がいのある人たちでしたが、戦争で一番犠牲になるのは、イノセントであり、ポットンじいちゃんであり、子どもであり、弱い立場にある人なのだと改めて思いました。勤め先の中学校では、特に男の子が自ら手に取り、よく読んでいます。シリア難民のへの攻撃や、日本のヘイトスピーチのように、ゼノフォビアは今、実際に起きている問題なので、ぜひ多くの子どもに読んでほしいです。

ペレソッソ:モーパーゴが書いたのだったら、お父さんが出てきますかね(笑)。私もホロコーストを頭に浮かベながら読みました。ユダヤ人が自分たちの生活を圧迫していると考えることがエスカレートしていって一般市民の暴力行為に及ぶというのが。大きな問題として、ヘビーなのは読めないと言われることについて、改めて考えさせられています。私にも課題なんです。戦争児童文学は恐いから読みたくないと、子どもが避けてしまう、それをどうすればいいか、長年、学校の先生含め課題だと思います。そこで例えば、『ヒトラーのむすめ』(ジャッキー フレンチ著 さくまゆみこ訳 鈴木出版)のような手法が必要になってくるのではないかと、学習会なんかも重ねてきました。一方で、あまりにも戦争の現実がわかっていないということの危うさがあります。それは、残酷な描写をどう考えるか、ということにつながります。戦場ジャーナリストの方が、「戦争は、血であり、脳漿だ」と定義されたのですが、それが現実でも、それが描かれていると読まれない可能性が高くなる・・・・・・。「半袖がいいか、長袖がいいか」というシーンは、本当にわからない子どももいる。だからといって注を付けたりして明らかにすればいいという問題でもない。わからないけれど、なにか不穏なものは感じて、心に残り続けるということも大事だと思います。難しいです。
 あと、やはり、イノセントの存在がうまい。極限状態のさらに極限が現れる。かといって、エンタメ的な起伏でひっぱるのではなく、あくまでも少年の心に寄り添って読むことになるので、真摯な読書体験が出来たと感じています。

マリンゴ:タイトルと装丁で、貧しいながらもサッカーを頑張って成長していく話だと思っていたので、こんな物語だったのか!とびっくりしました。でも、終盤、たたみかけるように練習と試合のシーンが続き、サッカーという競技そのものの躍動感と相まっていて、読み終わってみれば、間違いなく『路上のストライカー』でした。わたしのように、勘違いして、中高生たちが本を手に取ってくれたらいいな、と思います。ジンバブエのこと、南アフリカのこと、残像は頭に焼きつきますから。あと、チームメイトがそれぞれの身の上話を語るシーンが、効いていると思いました。地の文でひとりずつ紹介していくと散漫になるところが、緊迫した場面で一気に語られるので、読み応えがありました。余談になりますが、『水曜どうでしょう』というバラエティで、ケニアの自然保護区をドライブする様子が放送されていました。のん気に見ていたのですが、その保護区を、車ではなく自分で、しかも裸足で走り抜けるとなると、どれだけおそろしい思いをするのか、と。すさまじい緊張を感じるシーンでした。

ハリネズミ:日本の戦争児童文学だと「こんなにひどいことがあった」というのを押しつけて来る作品が多いように思います。そう迫られると、読者はひいちゃう。でも、この本は、冒険物語として読めるのがいいですね。読ませるストーリーのつくり方をしてます。最初から、人が死ぬけど。

ペレソッソ:原題と日本のタイトルが違いますね。

ハリネズミ:原題そのままだとなんだかわからないし、状況としては重たいので、未来に向けた面を強調したほうがいいと思ったんじゃないですか。

マリンゴ:タイトルとストーリーに、たしかに最初ギャップを感じますが、「だまされた」という感覚は決してありませんでした。ストーリーに引き込まれて、どんどん読み進めてしまいましたから。

ペレソッソ:松谷みよ子の作品などに、たとえば猫の描写にひかれて読み進んでいたら、いきなり重いものが出て来て、ああ、これは子どもにとってだまし討ちじゃないか、これでびっくりして引いちゃう子もいるんだろうなぁと思ったことがあります。その点、最初からヘビーな出来事で始まり、読み進める子はそれを承知で進んでいくのだから、これは、だまし討ちにならないと思います(笑)。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


高橋邦典『戦争がなかったら』

戦争がなかったら〜3人の子どもたち10年の物語

マリンゴ:とてもいろいろなことを考えさせられました。戦争中の悲惨さのみならず、その後の後遺症……肉体的な障害やPTSDはもちろん、甘えや逃げなども起きてくるのですね。また援助の善意で歯車が狂う、という描写にはギクッとさせられました。写真は、さすが素晴らしい。ただ、個人的には、ノンフィクションのタイプとして好みではなかったです。ジャーナリストとしての視点と、エッセイストとしての視点が、入り混じっている気がして。

ペレソッソ:今おっしゃったのと逆になるんですが、例えば、ジャーナリストが初めて子ども向けにノンフィクションを書いた場合など、児童文学の新人賞の対象になることがあるんですが、そのときは、客観的なものより、語り手が表に出ている物語になっている方が、読み物として読めることで評価が高かったりするんです。子ども向けのノンフィクションのあり方について、詳しくはないんですけど。本の作りとしては、地図がほしかったですね。子どもが対象ならば、本の中でわかるようにしてほしかった。それとやはり、援助のあり方について問題提起されていることは意義深いと思います。あと、映画『イノセント・ボイス 12歳の戦場』を思い出しながら読んでいたのですが、ご覧になりました? 1980年代のエルサルバドル内戦を背景にした実話に基づく映画です。(2004年度メキシコ作品。2006年に日本公開)政府軍、反政府軍ともに少年を誘拐して、兵士にするんです。同じことがおきているんです。それで、『戦争がなかったら』と合わせて強く考えさせられたのは、同時代性とでも言うことです。日本で日本の戦争を題材とした戦争児童文学を書くとき、それは過去の話になる。それは、もちろんとても幸せなことです。それが、そう行かなくなるかもしれない状況ですが・・・・・・『戦争がなかったら』で、同じ地球を移動すれば、内戦で疲弊したリベリアと物にあふれたニューヨークが同時に存在しているんですね。『イノセント・ボイス』もそう。自分の体験を脚本にした俳優のオスカー・トレスは、13歳でアメリカに渡っています。同じ時代に、別の価値観で出来ている世の中がある、日々生き死にを迫られることのない世界があるということを知ったときの、安心と、そちらのアメリカならアメリカの人々には自分が経験してしまったことを想像すらしてもらえないことからくる乖離観・・・・・・。イランのマルジャン・サトラピのマンガ『ペルセポリス』(園田恵子訳 バジリコ)のことも思い出しながら読みました。

レジーナ:同じ作者の『ぼくの見た戦争』(ポプラ社)、『戦争が終わっても』(ポプラ社)を思い出しながら読みました。ムスの義手は、92ページに「金属のカニの爪のような二本指の機械」とありますが、98ページの写真では、手の形をしているのが不思議でした。

パピルス:平和ボケと言いますか、社会人となってから身の回りのことで頭がいっぱいで、こういったことはどこか遠い世界のような感覚でいました。この本を読んで目が覚めたと言った感じです。戦争をテーマにした「小説」はいくつか読んできたのですが、やはりノンフィクションは衝撃度が違います。リアルでした。

アンヌ:かなりきつい読書体験でした。片腕をなくしたムスという少女の話が一番胸にこたえました。実はこの読書会の前に『夢へ翔けて』(ミケーラ・デプリンス、エレーン・デプリンス著 田中奈津子訳 ポプラ社)という本を読んでいたのですが、そちらも内戦下のシエラレオネで孤児になった少女がアメリカ人の養女になる話でした。彼女は伸び伸びと育ち、バレリーナへの夢を叶えることができるのですが、この本でも、同じように両親を内戦で殺されてアメリカで養女になった少女たちが出てきます。彼女たちは、両親がいるムスが留学してくると、いじめたりします。その後、彼女たちはPTSDで苦しみ、著者は彼に会うことで戦場の記憶が甦るからと、養母に面会を断られます。豊かな環境を与えるだけでは救いきれない人の心を見させられた気がしました。それにしても、アフリカの国は内戦だらけで、これだけ貧しいのにどうしてこんなに武器だけはあるのだろうと思いました。

ハリネズミ:子どもの兵士を描いた本は、ほかにも後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和がほしい』(汐文社)とか、『ぼくが5歳の子ども兵士だったとき』(ハンフリーズ&チクワニネ 汐文社)とか、イシメール・ベアの『戦場から生きのびて』(忠平美幸訳 河出書房新社)などいろいろ出ていますね。この本の著者は本職がフォトグラファーですが、写真の仕事とは別に文章でも書きたいという思いがあったのだと思います。『戦争が終わっても』では、戦争の被害者とも言えるリベリアの子どもたちに出会いますが、普通のジャーナリストやカメラマンだったらそれを報道して終わるところを、高橋さんはその後も追い続ける。そこが本当にすばらしいと思います。それによって、例えばムスとギフトはアメリカの善意の人に出会って養子になったり里子になったりするわけですが、だから幸せになったわけでもないというところまで伝えることもできる。少年兵が日常の生活に戻って終わりではなく、どうしても取り戻せないものがあることを伝えている。子どもの兵士はさまざまな心の問題を抱えてしまいますが、貧しい国だとその後のケアも万全にはできない。一度きりの報道で終わってたら、そこまではわからない。そこが高橋さんのすごいところだと思います。アメリカという国は、片方で銃を売って戦争をさせ、もう片方では犠牲者の子どもを引き取っているわけですが、それも大きな矛盾ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


だれにも話さなかった祖父のこと

アンヌ:モーパーゴはうまいと思うけれど、なぜか苦手で、今回も設定の不自然さばかり気になって物語の中に入り込めませんでした。例えば、マイケルのお母さんは、生まれおちた時から自分の父親を見ているはずで、そういうものだと受け入れていると思うのに、大人になってからは目をそむけ続けているというところに納得がいかなかった。第2次世界大戦後に、もっと他の傷痍軍人にも出会っているはずだと思うし。ただ、この作品のように、戦争によって傷つけられ人生も変わってしまうのは兵士だけではない、その時代にその場にいた、ありとあらゆる人に起きるのだ、ということを語り続けるのは、とても意味があると思いました。

ハリネズミ:R.J.パラシオの『ワンダー』(中井はるの訳 ほるぷ出版)にも、顔が普通とは違う子どもが出てきましたね。その本でも、みんながチラッと見てすぐ目をそらすと書いてありました。よほど親しくなって表面の向こうの中身が見えるようにならない限り、普通の人は目をそむけるのではないかな。そこまで親しくないと、逆にそっちの方が礼儀だと思うんじゃない? この子のお母さんは、自分も心にわだかまりのある母親から接触を禁止されていたし、父親もアル中だったことから、そこまでお父さんと親しくなれなかったんでしょう。私はそこは不自然だとは思いませんでした。

ペレソッソ:単純に綺麗な本だなというのが第一印象です。先月『月にハミング』(杉田七重訳 小学館)を読んだばかりなので、ああ同じテーマと思って読みました。『月にハミング』もそうでしたが、モーパーゴは和解の話が得意なのだなあと思いました。読者を不快にさせない。そのあたりを甘く感じてか、『戦火の馬』(佐藤見果夢訳 評論社)をあまり好きになれないと言っていた人がいました。単にいい話で終わると・・・・・・うまさにちょっとひっかかったりします。

ハリネズミ:モーパーゴってうまいんですよ。最近とみにうまくなってます。戦争を自分のテーマにしている作家で、これもその一つだと思いますが、確かにうまいから綺麗に収まってしまうところがありますね。

ペレソッソ:そう言うのって危ない気もします。

レジーナ:私も、顔に先天的な異常のある男の子を描いた『ワンダー』を思い出しました。おもしろく読みましたが、大きなテーマを扱っている割に短い話なので、展開が早過ぎるように思います。主人公とおじいさんが心を通わせていく様子を、もっとじっくり書いてほしかったです。またテーマに対し、絵が少し浮いてしまっている気がしました。テーマの重さとバランスがとれるように、シンプルで、デザイン性の高い挿絵を使っているのかもしれませんが。モーパーゴの他の作品の挿絵を描いている、マイケル・フォアマンやピーター・ベイリーのように、温もりのある抒情的な挿絵の方がしっくりくるような……。

マリンゴ:とても味わい深い作品だと思いました。絵のトーンも好きです。不幸に見える人に会ったとき、じろじろ見たら失礼だ、というのは「本当に失礼だと思って遠慮する」のと「避けて通りたいから目を逸らす」のと、2種類あるのだということが、改めて明確に伝わってきました。当人が聞いてほしがっている、聞いてくれる人がいるなら話したい、と思っていることだってあるのですよね。そのとき、何もできないからと目を逸らすのではなく、向き合って話を聞くことだけでもできる……そんなことを考えさせられました。ちなみに、挿絵に1つ疑問が。人口80人の島と書いてあるわりに、島に戻ったときに訪ねた病院が大きすぎますね。別の大きな島の病院なんでしょうが、文と絵が合っていない気がします。全体的な絵のタッチは好きなのですが、大人の絵本のようなテイストなので、売れるのか、ちょっと心配です。余計なお世話ですけど。

アンヌ:これはヤングアダルト扱いですか?

ハリネズミ:ルビがたくさんふってあるので、小学校中学年くらいから読んでもらいたいんじゃないかな。

マリンゴ:中学生くらいが主に読むのかなぁ、と思いました。

ハリネズミ:主人公は大人になってから思い出して書いているという設定ですが、シリー諸島まで一人でおじいちゃんを訪ねて行ったのは12歳ぐらいとなっていますね。テーマは『ワンダー』と共通したところがあって、まわりの人々とのコミュニケーションを断たれている人がこの場合は祖父で、孫がその祖父とコミュニケーションを取る。親世代を飛び越えた祖父と孫の関係がうまく書かれています。きれいに終わりすぎているという意見も出ましたが、若い人の中には本当に悲惨なものは読みたくないという人も多いので、こういう作品から入るのもいいと思います。戦争は抽象的に描かれていて、絵も怖くないので、そういう人たちには入りやすいと思います。

ペレソッソ:原書もこのイラスト?これが原書のままだとしたら、縦書きだから、開きが逆ですよね。絵は裏焼きみたいに刷るんですか?

ハリネズミ:原書は当然横書きですよね。日本で出す場合は、縦書きにする場合もあります。出版社によって違いますね。絵はこの本の場合は、左右逆にはしてないんじゃないかな。縦書きにすると絵を左右逆にしなくちゃならない場合もありますよね。とくに動きが大事な絵だったりすると。その場合は、原著の出版社に断ってそうしていると思います。
*画家名の表記はこれでいいのか、という疑問が出たので出版社に問い合わせたのですが、原著出版社に確認した上でこの表記になったそうです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


2015年10月 テーマ:ボート

日付 2015年10月29日
参加者 アカザ、アンヌ、慧、ハリネズミ、パピルス、マリンゴ、ルパン、レ
ジーナ
テーマ ボート

読んだ本:

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岸辺のヤービ

:すごく好きな作家さんなのですが、当たり外れはあるかも。これは久々の新刊なので期待して読んだんですけど…。いろいろ考えたり、まな板に乗せたりする分にはおもしろいという感じでしょうか。翻訳風の装丁といい、イギリス好きの匂いといい、パロディというか、作者の遊びのような本でした。当然、『床下の小人たち』(メアリー・ノートン著 林容吉訳 岩波書店)とか『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる著 講談社)とかいろいろ浮かびますね。そういう素地があって生まれた話として海外に紹介してもおもしろいかもしれません。ただ、タガメのこともミルクのことも、いろんな問いかけをしていますが、答えを出さないところがいまどきというか、落ち着いているというか、投げたところで終わっている感じです。

レジーナ:わたしは、海外の児童文学を読んで育ちましたが、そうした翻訳作品に通じる雰囲気で、すらすら読みました。文体も、ネズビットやC・S・ルイスを思わせます。少しまどろっこしい言い回しもあって、子ども向けというより、梨木さんの作品が好きな二十代が読む作品だと思いました。ポリッジが出てくるような、イギリス児童文学の世界で、日本が憧れる、かわいらしい西洋が描かれていますが、実際の西洋とは隔たりがあるのでは……。佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』と重なり、語り手は男性だと思っていましたが、女性なのでしょうか? 来年のカーネギー賞には、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』(福音館書店)がノミネートされています。海外に伝えるとすれば、そうした日本独自のファンタジーの方が良いのではないでしょうか。

アカザ:美しい本で、流れるような文章で、かわいい小動物がいっぱい出てきて、梨木さんファンには、たまらない一冊だと思います。でも、ずっと昔に読んだような……。ムーミンみたいな、『床下のこびとたち』みたいな……。梨木さんの世代の方々には、戦後の優れた翻訳児童文学が、すっかり身体のなかに入りこんで、それこそ血となり肉となっているんでしょうね。でも、わたしはファンタジーでもリアルな物語でも、今の日本の作家が今の日本の子どもに向けて書いた本を読みたい。でも、これって児童文学ではなくって、もともと大人向けの作品として出版したのかも。

ルパン:最初から最後まで、既視感がぬぐえませんでした。はっきりいって、新鮮さがまったくないです。すべてどこかで見たことのある設定・筋立てばかり。まさに私と同世代の人が、好きなように趣味で書いたみたいな作品、というイメージでした。今の子どもたちにとってはおもしろくないでしょうね。欧米文化へのあこがれがありませんから。それと、語り手として登場するこの人間は、いらないと思いました。

ハリネズミ:私はコロボックルより『床下の小人たち』を思い出しました。『床下〜』は冒頭で語り手の男の子が登場するので、それにならったのかもしれませんね。

ルパン:この作品では必要性がないと思うんです。ヤービの世界とかかわっていませんから。それに、随所に教訓を入れようとしていますよね。これも、言い古されたことばかりで新しさがないんです。テーマ自体は古くてもいいと思うんですよ。環境問題とか平和とか、永遠の課題ですから。でも、切り口は新しくしなければならないと思うんです。そうしないとせっかくの教訓が陳腐になってしまいます。

アンヌ:西洋の小人ものプラス佐藤さとるさんの『だれもしらない小さな国』のコロボックルという印象を受けました。冬眠の場面とか、様々な場面にトーベ・ヤンソンのムーミンを、語り手とボートの関係に、アーサ・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』(岩波書店)のシリーズを思い浮かべました。また、「おっそろしく」という言葉にモンゴメリーの『赤毛のアン』の村岡花子訳(新潮社他)を、お隠り谷の白い崖に宮沢賢治のイギリス海岸を思い起こし、それらへのオマージュなのかと思いました。作者が好きな世界をここでおもいきり展開してくのだ、いいなあと、読み手としてより書き手としてうらやましく感じました。けれども、地名が中途半端にカタカナ英語で、まるで外国の小説を翻訳しているような調子で語るのは、なぜだろうと思いました。佐藤さとるさんたちが始めたような、日本の新しいファンタジーを作るというわけではない気がします。小さなミルクキャンディをめぐる、小人ものにお決まりの食べ物場面や、思春期特有の拒食症じみた行動を、パパ・ヤービがさりげなく解決する言葉等は魅力的でした。後半に、環境の変化が物語の中で語られていて、ヤービの世界も変わっていく予感に満ちているのが残念です。もう少し、一つ一つの物語を積み重ねていき、この世界をしっかり作り上げてからでも良かったのではないかなと思います。

パピルス:時間がなくさっとななめ読みした後、他の本に移ってしまいました。すてきな本ですね。装丁も挿絵もフォントもしっくりきます。丁寧につくられているなと感じます。ストーリーは、自分のチャンネルを本の世界に会わせることが出来ず、字面は追っていても、内容が頭に入ってきませんでした。もう一度じっくり読み直します。

マリンゴ:文体も装丁も外国文学っぽいのは、「このまま外国語に翻訳して海外でどれだけ受け入れられるか」ということを考えて、戦略的につくられたためなのかな、と想像しながら読んでいました。ちょっと考えすぎかな? 緻密で素敵な物語だと思いました。ハイ・ファンタジーが苦手なので、語り手のウタドリさんがいてくれるおかげで、入りやすかったです。ただ、読みやすかったか、というとそうではなく、何度も読み返さないと頭に入ってこないシーンもありました。児童文学っぽくないと感じるのは、ミルク売りの仕事ができるのかできないのか、という部分が解決しないまま終わっているせいかと思いました。鳥の描写、虫のディテールなど、さすが説得力があって、魅力的な描写でした。

ハリネズミ:こういう世界をていねいにスケッチしているし、描写がうまいので梨木ファンは喜んで読むでしょうね。どこかで聞いたお話をもう一度読んでいる心地よさがあります。でも淡々と進んでいくので、子どもがおもしろいと思って読むかどうかは疑問です。さっき、慧さんが、いろいろな問題を取り上げているとおっしゃったのですが、ほんとに軽くふれているだけで、作者がそれについて一緒に悩んだり考えたりしているわけではないように思います。イギリスの伝統的な児童文学は、中流階級以上の作家が、中流階級以上の子どもに向けて書いてきたわけです。この本は、その部分のテイストを再現しようとしているように思えます。昔こういう本を読んだ人がなつかしく思って読む本なのかも。イラストがいいので子どもも手に取るとは思いますが、子どもが未来を切り開いていくための本とは思えませんでした。続編があるようなので、この先、もっと広がっていったりもっと焦点がしぼれてきたりするのかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


月にハミング

マリンゴ: もしかして『コービーの海』より好きかもしれない!と思いながら、夢中でページをめくって、一気に読了しました。が、しばらくたってみると、意外と後に残らなくて、少し熱が冷めました。戦争はいけない、人種間で争いあってはいけない、という、いいテーマではありますが、そのためにストーリーが終盤やや教訓的すぎる気もしました。潜水艦に助けられるシーンも、意図が透けて見えてしまうというか。

レジーナ:ルーシーは、母親やセリアを助けられず、ひとり生き残ったことに負い目を感じています。今、国際児童図書評議会(IBBY)も、難民の読書支援プロジェクトをいろいろと行っており、別の国に逃れ、ルーシーのように感じている子どもの心を、本や読書で支えようとしています。辛い体験をした子どもが、異なる国に渡り、人との交わりの中で少しずつ立ち直っていく様子は、マイロン・リーボイの『ナオミの秘密』(若林ひとみ訳 岩波書店)を思い出しました。ルーシーの心を開く助けになるのが、馬や音楽です。音楽は、言葉や国を越えるものですが、戦争の中でそうではなくなり、敵国であるドイツの音楽を聴くことも許されなくなります。モリソン牧師の演説の場面は、言葉のイデオロギーを振りかざす怖さを感じました。しかし、そんな厳しい時代にも、心ある人はいて、イギリス人の家族や、ドイツの潜水艦の乗組員、アイルランド人のブレンダン、カナダ人のウォルターのように、国を越え、さまざまな人がルーシーを助けます。モーパーゴは、人という存在、人間のあり方や、その生きる姿を描ける作家ですね。素姓のわからない少女が発見される冒頭から、英国北部に伝わるセルキ―伝説が、物語にからむのかと思ってしまったので、そうではなかったのが少し残念でした。

アカザ:わたしは、もともと「モーパーゴびいき」なのですが、やっぱり3冊のなかではこれがいちばん好きでした。初期のモーパーゴの作品は「なんだかなあ!」と思うようなものが多かったけれど、どんどん上手くなっていますね。ちょっと上手すぎで、できすぎって感じもするけれど……。特に、最後のダメ押し的な部分は、くどい気もしました。それでも、ルーシー、ジム、お医者さんと、いろんな人の目線で書いているのに、ちっとも読みにくくなっていないし、ストーリーもはっきりわかる。翻訳が上手いせいもあるんでしょうね。ルーシーの毛布にヴィルヘルムというドイツの名前が書いてあったのは何故かというミステリーの要素もあって、長い物語なのに一気に読めました。戦時下の暮らしが細かく描かれているのも、興味深かった。

アカザ:盛りだくさんだけれど、それぞれの出来事がうまく絡みあっている。物語がしっかりと構築されているという感じがします。

アンヌ:ものすごくおもしろい本で、読んでいる最中は、もうワクワクして物語にひたっていたのですが、もう一度読み直したい気分にはなりませんでした。推理小説仕立てのせいかもしれません。島での生活をしていく場面はすべて魅力的で、島が霧でホワイトアウトになったり、裸馬に乗って島中を歩きまわったりする様子は魔法の世界のようなのですが、謎が解けた後では二度とその魅力が味わえないような気がしています。思い出すと、セント・へレンズ島の廃墟とか、海に浮かぶグランドピアノの上の少女とか、その向こうに浮かぶ黒々とした潜水艦とか、実に鮮やかに映像が浮かぶ場面が多く、それだけに、作者の頭の中が見えてしまうような気がしてしまい、作者と語り手の違いがとわかると、作り物じみておもしろ味がなくなった気がしました。

パピルス:おもしろく読みました。主人公にとって辛い部分はしっかり辛く描かれていて、幸せな部分は読み手の心が十分満たされるくらい幸せに描かれていまた。そういうストーリー構成が気持ちよかったです。読後感も良く、さわやかな気持ちになりました。あえていえばルーシーのお母さんの描き方に違和感を感じました。戦時中、お父さんにわざわざ会いに行くものでしょうか。あの状況下で娘と二人で。

アカザ:危ない、と言われても、そんなに危なくないと思っていたのでは?

ハリネズミ:私も前に読んでその時はたいへんおもしろかったのですが、後で思い出そうとしたら、かなり忘れてしまっていました。モーパーゴはうますぎて、仕掛けはあるし、謎もあるし、後日談もわかるようになっているし、物語の作り方にもすきがないので、落ち着くところに落ち着くので、読後の満足感も強い。だから、というのも変ですが、妙にひっかかるところがないので、忘れてしまうのかもしれません。本当にうまくできた、いい話です。モーパーゴは、これと同じ時期に『走れ、風のように』(佐藤見果夢訳 評論社)というグレイハウンドを主人公にした本も出て、そっちもとてもおもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


コービーの海

アンヌ:この物語は、いきなり大海原でモーターボートを自由に操る少女、コービーが登場するところから始まります。いきなり、コービーが義足であることや、片足だけ「ひれ」をつけて自由に泳げる場面が描かれていますが、そのことに読み手が慣れる前に、コービーがゴンドウクジラ(以下クジラ)と出会い、さらに出産を手伝うことになりました。そのあまりの展開の早さについていけず、物語にうまく入り込めませんでした。彼女の両親が喧嘩している理由も、いま一つはっきりしないまま離婚騒動が進んでいきます。ニッケル・ジャックとの友情も、学校での孤独な状況も掴めないままどんどん話が進んでいき、やっとコービーの気持ちに沿うことがきたのは、114ページに出てくるマックスが、「このクジラの赤ん坊の出産は昨夜ではない」とぴしゃりと言う場面でした。ここで、初めてコービーの体験やクジラとの友情は、専門家の人たちにとっても特殊なものなのだということが理解でき、コービーの立場に立って物語が読めるようになりました。コービーが、普段義足を着けている足の切断された部分を級友たちに見られてしまう場面。その時に、トレーシーが「コービーの心を見て」と語る場面からは、まるでパズルをはめるように見事に物語が展開していくと感じました。最後、クジラが海に帰る場面はとても美しく、ここでやっと、クジラの姿がちゃんと見えた気がします。コービーとパパのユーモアのセンスはなかなかきつくて、物語にうまく入り込めなかったのは、この感覚の違いにもあるようです。

アカザ:最初のうちは、私も物語になかなか入りこめませんでした。分かりにくいというより、「こういう物語は前にも読んだことがあるけれど、たぶんこんな展開になるんだろうな」という気がして先を読む気分になれず、途中で他の本を読んでしまいました。その後、また読み始めたら、クジラの親子が怪我をするところからハラハラしながら一気に読めました。ユーモアというか、ふざけ方はたしかにきついですね。それと、登場人物に奥行きがないのでは? ニッケル・ジャックにしても、どこかで読んだような……。テスだって、客観的に見れば親切で人のいいおばさんなのに、こんなに嫌っていいのかしら。

レジーナ:野生の生き物や障がいをテーマに書いている、マイケルセンらしい作品です。陸に打ち上げられ、動けなくなったクジラと、義足を使っていることで、いつもどこか窮屈な気持ちでいるコービーが重ねられています。学校では義足を気にして、のびのびと振る舞えないコービーも、海では体の不自由さを忘れ、ヨットを意のままに操ります。またコービーは、みすぼらしい身なりにとらわれず、ニッケル・ジャックと親しくしています。クラスメイトは、コービーという人間を「義足をつけている」ということだけで見ている――少なくとも、コービーはそう思っている。でもコービー自身も、はじめは人間性ではなく、外見で人を判断し、ベッキーをミス・パーフェクトと呼ぶんですね。しかしクジラはそうではなく、クジラと触れあうことで、コービーの心も自由になっていきます。クラスメイトが全員、片足でシャワーを浴びる場面は、描き方によっては嫌な印象を与えるかもしれませんが、さすがマイケルセン! とても好感が持てました。ローラースケート場で、義足をつけたスケートを滑らせたり、魚の頭を枕に入れたりするユーモアには驚きました。

:なくした足のこと、両親のこと、クジラのこと。いろんな要素が出てきますが、どれも深められきれずに並んでいる感じです。一番思ったのは、この子は足をなくす必要があったのかということ。何の喪失がなくても、クジラとはふれあえたのではないか、そのほうが、クジラとの関係がもっとクリアになるのではないかと思いました。でも、全体には海のイメージがとてもきれいで、フロリダを想像しながら読むことができました。

マリンゴ: とても好きな物語です。舞台となっているフロリダは前から“憧れの地”でしたし、船が家なんてうらやましいですし、自分用のモーターボートがあるなんて夢みたい、と冒頭から入り込んでしまいました。クジラの臭気が立ち上るシーンも印象的でした。匂いを強く感じさせる小説は、そう多くはないと思うので。主人公がクラスメイトと正面からぶつかるシーンは、アメリカならではの解決の仕方だと思いました。日本の児童文学でこれをやったら、リアルじゃないかもしれません。でも、だからこそ翻訳ものとして面白く読めました。映画化したら、一番“オイシイ”役はニッケル・ジャックですね。日本人がやるなら三上博史さん!と思いました(笑)

ハリネズミ:ぶつかるところが日本と違ってアメリカならではというのは?

マリンゴ:主人公がクラスメイトと、言いたいことをはっきり言い合って和解していくのが、アメリカ文学らしいな、という意味です。日本だったら、こんなふうにパーンとぶつからず、もっと婉曲的にやりとりして和解していくと思うので。

ルパン:主人公が片脚を失ったことが原因で、両親が不仲になるんですよね。でも、そのことを全然乗り越えられていないのが気になりました。クジラを助けたことと、家族のきずなの問題がきちんとリンクしていなくて、ちぐはぐな感じのまま終わるため、読後感がすっきりしませんでした。

ハリネズミ:コービの両親は、これからは経済的にはうまく行きそうなので、家族関係も好転しそうですよね。舟が沈んで保険金も入るし、お父さんも陸で働くことにして契約をとっているし。

アンヌ:そう、船の保険金や、お父さんは建築関係の仕事がたくさんできて、お金の問題は解決していますよね。

ルパン:たまたま経済的にどうにかなりそうだから一緒に暮らそう、という感じですよね。このままでは、「自分のせいで家族のきずなが壊れた」というコービーの罪悪感はなくならないと思います。

レジーナ:物語の中でコービーは成長するけれど、両親はきちんと問題に向き合っていないから、根本的な解決になっていないということでしょうか。

ルパン:そういうことだと思います。要は、家族の問題は何も解決していないし、クジラを助けたことも、そこでは何の役にも立っていない。お母さんも、テスの家がなくなったから仕方なく帰ってきたみたいだし。また家計が苦しくなって、そこへテスが戻ってきたら、お母さんは簡単に出ていってしまいそう。

: 寂しかったといいますが、ちょっと唐突ですね。

ハリネズミ:私はベン・マイケルセンが大好きなので期待して読んだのですが、『ピーティ』(千葉茂樹訳 鈴木出版)や『スピリットベアにふれた島』(原田勝訳 鈴木出版)と比べると、ちょっと弱い気がしました。もっと前に書いた作品というせいもあるでしょうが、様々に盛り込みすぎていたり、メロドラマみたいなシーンがあったりね。『ピーティ』や『スピリットベアにふれた島』は焦点が当たる場所がもっとはっきりしていたので、ぐんぐん引き込まれました。同じ時期にジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)も出ていましたね。イルカが登場するばかりでなく(※注:『コービーの海』にでてくるゴンドウクジラはマイルカ科の一種。クジラとイルカの明確な区別はされていない。)、障がいを持った子どもが出てくるし、主人公の家庭が不安定だし、女性の獣医さんも出てくるところなどもよく似ていました。『白いイルカの浜辺』のほうは作家が獣医でもあるので、イルカの吐く息を浴びると黴菌に感染するかもしれないとか、この先海に放すのであれば人間とはなるべく親しくしないほうがいいなど、もっとリアルに描かれていました。

パピルス:僕はこの本おもしろかったです。『クジラに乗った少女』という映画が好きなのですが、この話も同じ年くらいの女の子が、クジラと心を通わせて交流しますよね。主人公の状況や、家庭のトラブルなどいろいろ盛り込み過ぎているという感想もありましたが、YA小説として「このくらいの年齢の子は、こういうことを考えるんだろうな」と思いながら読んだので、気になりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』表紙(さくまゆみこ訳 評論社)

白いイルカの浜辺

『白いイルカの浜辺』をおすすめします

今回は、私がかかわった本を紹介したい。

主人公は、難読症もあって学校でもいじめられている少女カラ。海洋生物学者の母親は、野生のイルカを調査している時に行方不明となってしまったが、カラはいつか帰ってくるものと信じている。カラの父親は、妻が行方不明になったショックや、自分も難読症を抱えているせいもあって、娘との生活をなかなか立て直せないでいる。カラと父親は、ベヴおばさんのもとに身を寄せているが、おばさんには近々赤ちゃんが生まれることになっており、カラたちは住む場所もさがさなくてはならない。

そんな時、カラの学校に転校生フィリクスがやってきた。裕福な家庭に生まれたフィリクスは、脳性麻痺で手足が不自由だが、人一倍の自信家でもあり、ITオタクでもある。

カラとフィリクスは育ちも興味も違う、いわば異文化的な存在なので最初は反発しあうのだが、お互いの異文化性を理解してからは仲間になっていく。

カラにとってはおなじみの、ヨットで海に出る楽しさをフィリクスも知ったことから、二人はお互いを再発見し、ケガをしたアルビノの子イルカの命を助けようとする気持ちが二人の結びつきを強める。

本書は、ハラハラどきどきの冒険物語(特に最後のあたり)であり、親と子の葛藤の物語でもあり、地域や政治とのかかわりの物語でもあり、大自然とITを対比する物語でもあり、そして何より動物について深く知ることのできる物語でもある。前作の『ミサゴのくる谷』同様、動物や自然についての描写は的確でウソがない。

子どもたちが、海の美しさを守りたいという気持ちから環境破壊に異議を唱え、底引き網漁を解禁しようとする利権社会やおとなの意識を崩していくあたりも、おもしろい。

平澤朋子さんの絵がまたとってもすてき。

(「トーハン週報」Monthly YA 2015年10月12日号掲載)


2015年09月 テーマ:子どもと出会う不思議な生きもの

日付 2015年9月17日
参加者 アカシア、レン、アンヌ、レジーナ、ルパン
テーマ 子どもと出会う不思議な生きもの

読んだ本:

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緑の精にまた会う日

アンヌ:妖精も妖怪も、その土地に根差したものとして考えられているのに、この物語のロブさんは、野菜畑が潰されると、道に出て歩き出します。こんな風に、新しい場所へ出かけて行く妖怪は、宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』(宮沢賢治全集8 ちくま文庫 他)くらいしかないなと思いながら読みました。道中の冒険談も、捕まえて利用しようとする人が現れたり、川に投げ捨てられたり、なかなかハラハラさせられておもしろかった。ルーシーがロブさんを待ちわびて、その存在を否定したり、ロブさんの美しいコラージュを作り上げていくところなど、失恋が人を詩人にしたり芸術家にするという作用のようで、作者はとても魅力的に書いているなと思いました。ロブさんがまっすぐルーシーのもとに現れるのではなく、市民農園のお隣さんのところにいるという結末もさりげなくて、いい感じでした。死と再生を繰り返すこの地球という場所で、妖精と共存する魅力を伝えた物語だと思いました。

ルパン:私はロブさんの設定がよくわかりませんでした。見える人には見えるけど、見えない人には見えない…?おじいちゃんとルーシーにだけ見えるんですよね。あと、ロブは素早く移動したり消えたりできるのに、閉じ込められたり、ちょっとつじつまが合わない気がしました。あと、「グリーンマン」というものがよくわかりませんでした。

アカシア:グリーンっていうのは、イギリスでは妖精の色なんですよね。で、妖精っていうのは、いると信じている人にしか見えないんじゃないですか。

レン:私もそこでひっかかりました。神出鬼没だから、どこでも通れるのかと思ったら、ふたが閉められていると出られないんですよね。物質的に存在するってことですか? 体積がある、ということですよね。

ルパン:服も着ていますよね。フランキーが心配しているように、転んだりするし。でも、不死身。見えないだけで普通の人と変わらないとすると、矛盾する点がたくさんあります。

アカシア:旅をしていなくなったから、見えないのでは。

ルパン:「見える者」と「見えない者」の線引きががはっきりしないんです。

アカシア:『妖精事典』(キャサリン・ブリッグズ著 冨山房)を見ると、ロブはブラウニーの一種だって書いてあります。だから場所は移動するんでしょうね。イギリス人は妖精が好きで文学にもよく登場するし、妖精を撮った写真がまことしやかに出回ったりもしますよね。ここでは、いい人間だけに見えるわけじゃなくて、存在を信じている人になら見えるっていう設定になってるんだと思います。

レジーナ:以前、作者のホームページを見て、気になっていた作品です。日本語版は平澤さんの表紙画で、子どもが手に取りたくなるような表紙ですね。フラワーショーの場面は、女王様と庭という要素が、いかにもイギリスらしいですね。話の筋はシンプルで、絵本にもなりそうです。ストーリーがシンプルな割に、小さい子どもが読むには長めなので、大人が読み聞かせてあげるといいのではないでしょうか。

レン:表紙からして、最初に手に取りそうな本ですが、ちょっと物足りなかったです。ルーシーがおじいちゃんをなくし、おじいちゃんが住んでいた家もなくなったあと、ロブさんのことを思いつづけて、最後に市民農園で再会するというのは、よかったなと思いました。でも、ルーシーが喪失感をのりこえていったり、成長するところがが描かれるていると期待して読んだんですが、出会ってそこでおしまいという感じ。喪失感はどう決着がつくのだろうと、ちょっと期待はずれで残念でした。ネイティブの読者には、グリーンマンが歩くという冒険だけでも、おもしろいのかもしれませんが。

アンヌ:いろいろな人が、見たり、匂いを感じたり、声を聞いたりして、様々な感覚で、この妖精の存在を感じるところもおもしろいと思いました。

アカシア:妖精っていうとティンカーベルを思い浮かべる人が多いけど、さっきの『妖精事典』を見ると、日本なら妖怪の類に入りそうなものもたくさん出てきますね。自然の中にいるものはむしろ、かわいらしくはないかも。
 おじいさんが亡くなった後、ルーシーのところにすぐ行くのかなと思ったら、そうじゃなくて、星の王子さまみたいに、いろいろな種類の人間と出会って旅をする。そこが私はおもしろかったです。いつルーシーに会えるんだろうと、やきもきしながら読みました。ルーシーはロブさんに会いたいとずっと思っているけど、ロブさんのほうは妖精だから、なんとなくそっちの方には向かうけど、べつに会いたいわけでもない。そこもおもしろいと思いました。結局ロブさんは、ルーシーのもとへ行くのではなく、市民農園の、目の見えないアフリカ系のコーネリアスさんのところに落ち着く。えっ、ルーシーには会えないで終わるのかな、と思うと、最後の最後でうまく会えるように持って行く。その流れもうまいと思いました。私は子どもが読んでもおもしろいと思いましたが、妖精が両義的でとらえがたい存在だということを知らない日本の子どもには、わかりにくいでしょうか?

レン:タイトルはネタばれですね。

アカシア:だけど、会えると思わせておいて最後の最後になるまで会えないから、これでいいんじゃないかな?

アンヌ:ロブさんが歩き出すのは、ロブさんの本能と同時に、自分を求めるルーシーの声を聞いたからだと思えます。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


『あまねく神竜住まう国』表紙

あまねく神竜住まう国

アンヌ:この本を読んで、自分はなんて、頼朝について知らないのだろうと思いました。『風神秘抄』(徳間書店)の続きなのだと知り、そちらも読んでみました。ストーリーとしては、伊東で捕虜生活を送る少年頼朝が、土地神の人身御供になる運命を逃れて、鎌倉幕府を作る青年となっていく、というもので、明るさのある終わり方や、途中で村娘や白拍子に化けて、舞台で鼓を打つ羽目になるところなど、ユーモアのある冒険談はとてもおもしろく読めました。けれども、肝心のファンタジーの仕組みの部分が、もう一つ釈然としませんでした。2匹の龍と、2匹の蛇というこの物語の根底にあるファンタジー要素がうまくかみ合っていない気がします。もう少し、龍の踊りの意味を頼朝自身が言葉にして語ってくれたら、読者もわかりやすいのじゃないでしょうか? 蛇との闘いについても、万寿姫が変化した方と闘うのは、本当は草十郎の仕事なんじゃないか、いいのか頼朝?と、思ってしまったので。『梁塵秘抄』の選び方は、わかりやすくて、うまいと思いました。こういう物語の中で、読者が、少し古典の詩歌に触れて、調べたり、心の片隅に歌が残っていったりするというのは、いいなと思います。

ルパン:古典ファンタジーって、食わず嫌いで今まで読んだことがありませんでしたが、楽しく読めました。ただ、あとがきに行き着くまで、独立した話だと思っていました。終わり方が唐突で、あれ?と思ったのですが、前作を読んだ人にはわかるのでしょうか。単発の話として読むと、なぜ頼朝が主人公なのか、よくわかりませんでした。頼朝って、ダーティなイメージのはずですし。

アンヌ:『風神秘抄』では、頼朝は早々に草十郎とはぐれてしまって、物語の中に出てきませんでした。同じ登場人物が出てくるわりに、こちらの物語では『風神秘抄』の烏の王国のようなファンタジー要素や、はっきりした展開のおもしろさがありませんでした。曖昧模糊とした頼朝の意識のせいでしょうか。

レジーナ:いとうひろしさんの表紙画は、物語の雰囲気によく合っていますね。上下に2本延びた赤い線も、大蛇を表しているようで、センスを感じます。荻原さんは、伊豆という土地や、そこにまつわる歴史をよく調べた上で、矛盾なく丁寧に書いていらっしゃいます。ただ全体的にぼんやりした印象です。闇の中で竜と対峙する場面は物語の中で重要な部分ですが、少し盛り上がりに欠けます。自分のせいで周りの人が不幸になると思っている頼朝は、ぼんやりした性格で、あまり印象的な主人公ではありませんでした。

レン:つくりとして、袖にも「続き」とは書いていませんよね。読者には、わざと言わないようにしているんですね。途中までしか読んでこられませんでしたが、いつもながら端正な文章に魅せられました。

アカシア:作家ってどの方もそうなのかもしれませんけど、書けば書くほど文章がどんどんうまくなっていく気がします。私はじつは、他の人から「期待してたけどイマイチだった」と聞いていたので、逆に期待せずに読みました。なので、とてもおもしろかった。歴史上の人物って、教科書に出てくるだけだと無味乾燥でつまらないんですね。だから、こんなふうに生き生き書いてもらうと、イメージがいろいろ湧いてきていいなって思うんです。義経のほうはいろいろな形で物語になってみんながよく知っているけど、それに比べて頼朝は人間としてつまらないキャラ。それを敢えて取り上げ、しかも資料があまりない伊豆に流されていた頃を、想像力をふくらませながら書いてます。冒頭に登場する頼朝は、肉体的にも精神的にもとてもひ弱ですが、最後には自分を客観視し、意志をはっきりもち、死んだ姉の万寿姫の化身である大蛇とも対峙できるようになっていく。そういう意味ではおもしろい成長物語になっていると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


大江戸妖怪かわら版1、2〜異界から落ち来る者あり

アンヌ:1巻ではこの世界の仕組みが破たんしていて、2巻でそれを補っているので、余力のある方は、2巻を読んでくださいと提案しました。私自身は、おもしろくて7巻まで読んでしまいました。主人公のかわら版屋の雀という少年が、この不思議な世界のおもしろさや美しさを言葉で描いて見せるという物語で、この作者特有の食べ物についての場面も多数あり、主人公が夢中になって食事をとり、活き活きと生きていく糧とするところなど、好感を持って読みました。ただ、主人公の年齢設定が気になりました。15歳で、現実世界ではそれなりのワルだったという設定。それにしては、幼すぎる気がしました。それなのに、江戸時代からこの異界に落ちてきた人間の女の子の場面では、あまり勉強もしてこなかったような現代人の雀が、江戸時代の商家のお店事情を知っている。その他の登場人物も、外来語や現代語を何の疑問もなく理解している。少しご都合主義的だと思いました。雀が、妖怪や魔人等の異形の者に出会った時の恐怖も、2巻にならないと書かれていないので、読者にとっては1巻だけでは、この世界を想像しにくいと思います。

レジーナ:私の勤め先の中学校の生徒にもよく読まれています。若い読者がさっと読むのにはおもしろいのかもしれませんが、台詞が多いエンタメで、児童文学として読むと、何度もひっかかりました。15歳の雀が妙に幼く、お小枝の言葉づかいも不自然です。6歳の子どもが「ありがとう、桜丸。嬉しい!」と言ったり、鰻を食べて「うん、ふかふか! お口でとろけそう」なんて言ったりするでしょうか。口から紙を出すキュー太をはじめ、登場人物はマンガっぽいですね。百雷がゲームのキャラのようだと、雀が言う場面がありますが、まさにその通りで、たとえば雪坊主という登場人物についても、詳しい説明がないのでイメージできない。カフェがあり、魔人や化け鳥がいる江戸という場所についても、はっきりと心に描けない。虹のような蜃気楼も、よくわからなかった。百雷が地虫を捕まえる場面で、百雷が追っていた事件は、結局何だったのでしょうか? 江戸ならではの言葉遊びがあり、子どもが読んでわかるのだろうかと思っていたら、巻末に用語解説がありました。私が読んだのは講談社文庫の初版ですが、2巻の用語解説も1巻と同じになっています。

レン:今月の課題の本でなかったら手にとらなかったと思います。この手の本は慣れていなくて。「ふーん、こんなふうに書くのか」と珍しがって読みましたが、どう判断したらよいのかわからない感じでした。中学生は、こういうのだと手にとる気になるのかなあ。文体として、台詞が多いですね。台詞で物語が進んでいくところがマンガみたいでした。地の文は必要最小限で、マンガの絵で表されている部分を文字化しているような感じ。長音の使い方など、文字づかいも漫画的。体現どめが多くて、案外漢字が多いですね。最初は、江戸時代の話かなと思っていたら、読んでいるうちに違う世界の話だとわかって、変だと思うところもあるけど、この手のエンタメはこういうものかと思って読みました。先日ある編集者が「1000冊読むと、子どもの本が分かる」と先輩に言われたという話を聞きましたが、もっと幅広く読まないといけないと思いました。翻訳の講座で、関西出身の人に、「絵本を標準語で訳すのに違和感がある」と言われたことがあるけれど、この作者は和歌山の方。関西人なのに江戸の言葉で書くというのは、本当にこの世界が好きなんだなと思いました。自分の世界があるというのはいいことですね。

アンヌ:江戸言葉は、落語や時代劇、歌舞伎などで、音として残っているから、作りやすかったと思います。

アカシア:ひと昔前はテレビでも時代劇をしょっちゅうやっていたから、この作者の年代だとそういうものを見ていて、なじみがあったのかもしれませんね。それに今、エンタメ界は江戸ブームなので、結構読み慣れているのかもしれません。

ルパン:『妖怪アパート』を読んだことがあるのですが、そのときは児童文学とは思いませんでした。この作品も、エンタメとしてはよくできていると思います。挿絵がないけど、情景が浮かんでくるし。なにか、台本っぽい感じもしますね。短く、ポンポンせりふが進んで、テンポがいいと思いました。スピーディーで、畳み掛けるようで、江戸っ子っぽさが出ています。もったいなかったのは、6歳の子らしくないせりふとか。まあ、エンタメだと思って、リアリティは気にしなかったんですけど。子どもらしくなくて、作者の顔がかいま見えちゃうところが残念でした。

アカシア:雀は、幼いかと思うと老成している部分もあって、キャラとしてちょっと不安定ですね。

ルパン:「子どもは〜」と言っているのは誰なんだろう、とか…ところどころ違和感がありましたね。でも、「妖怪の目から見たら人間が異端」という着想はおもしろいと思いました。

アカシア:いろんな妖怪が登場しますけど、百鬼夜行絵巻とか鳥山石燕の妖怪の絵とか、小松和彦監修の『日本怪異妖怪大事典』(東京堂出版)なんか見ると、もっとおもしろいのがいっぱいありますよね。妖怪ならではのおもしろさのディテールがもっと伝わってくるといいのにな、って思いました。そういう意味では物足りなかった。それから、2巻目では1巻目より前の雀の過去が語られて、それから1巻目が終わった後になるわけですが、どこが境目なのかよくわかりませんでした。また、雀の過去がいったいどういうものなのか、あんまりよくわからない。だから後書きで「雀の成長」って言われても、とってつけたような感じがしました。それと、この作品では雀は現代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動し、小さい女の子は江戸時代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動してますけど、この物語の中のきまりごとってどうなってるんでしょうね。もっと後の巻を読むとわかるんでしょうか? 日本語としても「相撲をとったり甲羅干しをしている」(p40)など、気になるところがありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


アーサー・ビナード『もしも、詩があったら』

もしも、詩があったら

『もしも、詩があったら』をおすすめします。

アーサー・ビナードはこんなふうに始める。

「もしも」と言っただけで、まわりの世界が、ちょっと違って見える。
「もしも」から出発して、想像をめぐらしてみると、新天地に到達することがある。
「もしものとき」にそなえて、ぼくらは生きのびようとする。
詩が生まれるきっかけになるのも、この「もしも」だ。

そう、確かに。
もしも、と仮定してみただけで、今とは違った世界が見えてくる。

本書は、シェークスピアだのウィリアム・ブレイクだのジャック・プレヴェールだのから、ボブ・ディランやまど・みちおや吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」まで、「もしも」にまつわる古今東西の詩を取り上げている。

取り上げるといっても、これは教科書ではないし、ただ単に詩を紹介する本でもない。アーサーの生きてきた道の途上にあったあれこれのエピソードや、それぞれの詩に触発された思索が書かれているので、奥行きがある。

アーサーの日本語の言い回しには時にはっとさせられるし(これは、ほかのエッセイの本でもだけど)、「日本語だと鳥の翼も〈羽〉だし羽毛も〈羽〉だけど、英語ではこの二つを同一視することはありえない」(アーサーは、同音異義語と言ってるけど、これもその範疇なのかな?)なんていう豆知識も手に入る。たいていの場合、英語の詩と、それを日本語に訳したものとが載っているので、比べてみて、あーだのこーだの言うこともできる。ところどころに入っているアーサーのイラストも、なかなか趣があっていい。つまり、いろんな楽しみ方ができる本だ。

最後に載っているアーサー自身の詩「ねむらないですむのなら」は、ほかのどの詩よりも辛辣なので、心して読んでほしい。

(「トーハン週報」Monthly YA 2015年8月10日号掲載)


2015年07月 テーマ:仕事さまざま

日付 2015年7月30日
参加者 ハリネズミ、夏子、レン、ひら、ゴルトムント、アンヌ、ルパン、マリ
ンゴ、レジーナ
テーマ 仕事さまざま

読んだ本:

(さらに…)

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どろぼうのどろぼん

アンヌ:詩的な表現に満ちていて、すごいなあと思いながら読みました。盗みの場面で、どろぽんが口ずさむ歌が好きです。読み終った後、この感じに似ているのは何だろうと思っていたら、ふと、別役実の戯曲を初めて読んだ時のことを思い出しました。どろぽんの歌の原点に祖父が歌った歌があるんじゃないかという謎ときのような場面とか、生き物の声も、ものの声も聞こえる矛盾とか、後半にはいくつか、いらないと言えばいらない場面もありますが、あまり気にせず、好きな個所を読み返して楽しみました。

ひら:p204に「何をうばっても盗んでもイイ、良いこともないし、悪いこともない」とありますが、主人公のどろぼんの仕事は、全ての価値を相対化したうえで、世の中に善悪はないし、(たとえ相手にとって価値があるモノでも)それ自体本当に価値があるか分からないから、奪ってなくしてあげてもいい、という前提で存在する仕事。ただ、自分の人生ではじめて「よぞら」という絶対的な価値が出来たことで「世界が主(つまり神)のいない森だとしたら、じぶんであるじになるように生きるしかない」と、考えるようになる。つまり自分自身が自分の神として世界に対して意味づけし、価値体系を構築しなければならない立場になってしまう。今まで自分の価値体系を持っていなかったからこそ、そのために色々な人の価値体系の中からいらないモノの声を聴くことが出来たどろぼんにとって、「どろぼんはうまれてはじめて『いきる』とは恐ろしいと思った」と思うに至った(ここでの『いきる』というのは意味づけされた価値体系の中で生きる、という意味)。同項に「ひたすら道に迷いながら、いろいろなことをかんがえた」とも書いてあるが、よぞらという絶対的な価値に初めて出会うことで「迷い」が出てきているのがうまく表現されています。迷いというのはある価値体系から自分でそれぞれの価値に意味づけして、優先順位をつけて選択して行く際の心理的な難しさを表す言葉だと思いますが、そもそもどろぼんにとっては、あらゆる事象がすべて相対化されたまったく同価値だったので、「迷う」という行為そのものが存在しなかった。だからこそ、他の人の様々な価値を俯瞰的に見ることができ、相手にとっていらないモノの声がいつも向こうから聞こえてきた。ただ、自分で意味づけした「よぞら」という絶対的な価値を「どろばんは探し続けた。だって探すしかなかったからだ」という状況になってしまった。つまりどろぼんは相対的な価値だけでは世の中を生きていくことが出来ない、と初めて感じてしまった(あるいはそのような生き方に出会ってしまった)、それは児童文学として考えると、読者である子どもが自分の価値観、価値体系を模索しながら探していくプロセスにとてもうまく呼応しながら表現しているように思います(ちなみに「黒い犬」はエジプト神話ではアヌビスと呼ばれ死を導く神の使いの人型の犬で、黒い犬を探すプロセスはある意味、今までのどろぼんが死んで、新しい自分を探す、死と再生のプロセス=子供の成長も象徴しているように感じます)。また、どろぼんは価値を相対化することで、本当はその人にとって価値のないものを取り除くのが仕事なので、p4「いつも何かの中間にいるべきだし、どっちつかずでだれにもおぼえられないようになっている」という外見や、219ページの「みんなだれかの子供で、だれかのこどもじゃないひとなんで一人もいない、ということに驚いてしまう」プロフィールは、普通の人としてのアイデンティティーを持たないキャラクターとしてうまく書かれていると思います。逆に言えば、もしどろぼんがだれかの子供であれば、その生まれた背景のためになんらかの価値観を引き継ぐことになってしまうため、物語の整合性から言えば、どろぼんには例え拾ってくれたとしても両親は生きていてはいけないと思いますが、拾ってくれたお母さんが、どろぼんがいらないモノの声が聞こえてきた時から「声が出なくなった」こと、つまり声や言葉(=合理的な価値体系の象徴)を奪われる生贄となったことで、うまく物語のバランスを取っています。この続編はないと思うけど、この続きがあるとしたら、最終的にどろぼんはよぞらともう一人の女性パートナーを見つけることで、自分自身の絶対的な価値(と全体性)を手に入れ、モノの声は聞こえなくなって、そしてお母さんの声も戻って来るはず。どろぼんはその人が本質的に気にしなくてもいい、気にしない方が幸せな価値(それはある人にとってはお金、出世、結婚等かもしれない)を取り除いてくれる(あるいは軽くしてくれる)一種のカウンセラーのようなキャラクター。深く詩的で、好きな物語です。

レン:最初読んだとき、不思議な話だなと思いました。どろぼんがどうなるのか気になって、どんどん読めてしまうフィクションの力を感じますが、登場人物は大人ばかり。児童文学としてどうなんだろうと、みなさんの意見を聞いてみたくて今回の課題に選びました。どろぼんが「拾われた子」であることは、大事な要素だと思います。なぜ、親がわからないという設定にしないといけなかったのか。親子の関係を、所有から解き放ちたかったのか。「モノを持つこと」と、「モノを持つことから生まれる束縛」「大切にすること、されること」などを、考えさせられる物語だと思いました。

レジーナ:物語に雰囲気があり、装丁の美しい本ですね。以前『おうさまのおひっこし』(牡丹靖佳 福音館書店)を読んでから、気になっていた画家の方が挿絵を手がけています。とぼけた挿絵が、作品の雰囲気にぴったりです。物語の最後で、警察が泥棒を救おうとするところにおかしみがあります。ファンタジーの要素を入れながら、家族をテーマにしているのは、近年の柏葉幸子さんの作品を思わせます。公園もそうですが、「ただ存在すること」の意味を考えさせる本です。ものに魂が宿るというのは、日本に古くからある考え方ですが、この作品では、ものが人の心と結びつき、時に縛ってしまうのをどろぼんが解放してあげます。ところどころ気になる点はありました。ヨゾラを殴る場面で、混乱して思わず殴ってしまったのでしょうが、ここでどろぼんが殴る必然性や、そのときの気持ちが理解できませんでした。その後、228ページに「それは、ただしいとか、ただしくないとかじゃない。ただ、だれでもみんなまちがうし、その小さな無数のまちがいがあつまって、世界はできているというだけ」とありますが、人や生き物の関係では、決してしてはいけないことがあって、ヨゾラを殴るのも、してはいけないことだったのではないでしょうか。キジマくんのペンケースを見つけたどろぼんは、自分に聞こえるものの声は、「持ちぬしが、あったことさえおばえてもいないもの。なくなっても気づきもしないもの。そして、持ちぬしのところから、消えてしまいたい、と、願っているもの」と気づきます。忘れられたものと、なくなった方がいいものは違うので、分けた方がいいのではないでしょうか。またフリーマーケットで、がらくたのようなものがなぜ売れるのでしょう。44ページに「あわてて、キジマくんに向きなおった瞬間に、ゴミ箱が、立てかけてあったグラウンド整備のトンボに当たって、がーん、と鳴り、とおりかかった一年生の女の子たちが、わっといって、たおれた」とあります。よく読めば、倒れたのはゴミ箱だとわかるのですが、はじめは女の子が倒れたのかと思いました。「ころして」と、ものの声が聞こえる場面はこわいですね。

夏子:物の声が聞こえて、しかし生き物の声が聞こえるようになると、物の声が聞こえなくなるという設定は、すごくおもしろかった。「ヨゾラを盗む」など詩的イメージも豊かで、歌もなかなかおもしろかったです。でもどろぼんは、実の親ではないとはいえ、ギャンブラー夫妻に愛されて育ったんですよね? それなのに人間の声が聞こえず、人間とはコミュニケーションがないわけで、う〜ん、人と対応しないところが、いかにも現代の日本の作品らしいのかな。でも、そこに問題を感じます。嫌いな本ではないし、魅力のある作品ではあるんですけど・・・。あさみさんの話し方が「〜ですわ」というのは、古くさいですよね。それから勾留された場所では、もっとさまざまな声が聞こえるはずでは? ヨゾラを愛すると、ものの声が聞こえなくなって、そうなると普通のどろぼうになってしまうんですね。

マリンゴ:独創的ですばらしいと感じました。ファンタジーだけど、宙にふわふわ浮いていない、不思議なリアリティがあると思いました。ただラスト、新しい価値観をもって未来に踏み出す物語だと思っていたので、「まだ泥棒を続けるのかい!」とツッコミを入れたくはなりました。

ルパン:すみません、私はおもしろくなかったです。そういうことを言う私がおもしろくない人間なのかな。「人もものを盗るのはいけません」って思っちゃって。持ち主がいらないモノなら盗んでもいい、というのが、どうしても受け入れられないんですよね。犬の「よぞら」に愛情を感じるようになって、連れ戻そうとするのはいいんだけど、「よばれていくのではなく、自分の意志で」と言いながら、盗んだ指輪を売ったお金で買い取ろうとするわけですよね。それって、ぜんぜん正攻法じゃないです。そもそも、盗品を売って生計を立てるというのはいかがなものかと。

夏子:工場で働いていますよ。

ハリネズミ:どろぼうが仕事なのでは? 私は、「どろぼん どろぼん どろろろろ〜〜」というこの呪文みたいなものをおもしろいと思えるかどうかで、この本は評価が違ってくるだろう、と思いました。私はダサイな、と思ってしまったので、作品そのものにも乗れませんでした。なのでよけいにいろいろなところにひっかかったんだと思いますが、まず浅見さんの台詞が「〜ますわ」なんて、いつの時代なんでしょう? 44ページの最初の3行については、倒れたのはゴミ箱なんでしょうけど、女の子たちが倒れたようにも取れるので、なんでこの文が必要なの、と思いました。それから、モリサワのリュックを盗んだ件はそのままでいいのか、とか、いじめられているキジマ君が昔のことを思い出して、いじめっ子のモリサワに謝るんだけど、そういう解決の仕方でいいのか、なんていうところも引っかかりました。犬のよぞらが前の虐待した飼い主に「ふさふさ、ふさふさ。いっしょうけんめい」尻尾を振ったんだけど、実は犬が尻尾を振るのは不安な時や恐ろしいときも尻尾を振るということがわかって、どろぼんが取り返しにいくという場面も、なんだかリアリティが希薄だなあと思いました。犬は全身で感情を表現するから尻尾以外からも見てとれることはあるはずなのに。最後も、生きものの声が聞こえるようになってきたどろぼんなのに、「遠いまちに引っ越して、どろぼうをがんばってみようとおもいます」なんていう終わり方でいいんでしょうか? とにかく疑問がいっぱいわいてくる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


庭師の娘

夏子:この作品は、作中に登場するメスメル博士に興味を持っていたので、ぜひ読みたいと思って選びました。メスメル博士は、英語のmesmerize(催眠術をかける、魅了するという意味)の語源となった人物です。1768年にウィーンで10歳上の裕福な女性と結婚。お金持ちになったので、モーツアルトを初めとする芸術家たちのパトロンとなりました。「動物磁気」という概念と治療で知られていた医者です。今で言うと、「気」で直すという感じで、手かざしで治療したのね。当時の学会で否定されてしまったため、彼の晩年については何もわからないんです。ちょっと怪しい人物ではあるのですが、非常に興味深いですよね。作品のなかでどんな風に料理されるのか期待して読んだんですが、おもしろくも何ともない人物像に描かれていますね。メスメル博士も凡庸だし、せっかく登場するモーツァルト少年も、いきいきと迫ってこない。脇役に魅力がありません。主人公も、この子がなぜ庭師になりたいのか、という肝心なところにリアリティがありません。幾何学的なフランス式の庭園から、(自然な感じがする)イギリス式庭園へと流れが変わる、それを主人公は先取りするわけなので、この子はモーツアルトに匹敵する天才なんだわね。そこがうまく描かれているとはいえず、残念ながら力のある作品とは思えなかった。翻訳もちょっと硬い感じでした。

レジーナ:「主人公がなぜ、庭を好きなのかが描かれていない」というお話がありましたが、マリーは造園に関して、天才的な素質を持った少女なので、私はその点は気になりませんでした。マリーは夢見がちで、庭のことでいつも頭がいっぱいです。この物語では、マリーとモーツァルトという、ふたりの天才の姿が捉えられています。それぞれ豊かな才能を与えられていますが、周囲の環境は必ずしも、それを発揮できる場ではありません。モーツァルトは、周りの大人に実力を疑われたり、妬まれたりします。一方マリーは、父親が庭師ですが、女性のマリーは仕事を自由に選べません。ヤーコプとの恋はうまくいきすぎる気がしました。この時代、マリーが庭の仕事をするには、結婚するしかないので、仕方ないのかもしれませんが……。庭の描写は、「こんな庭を見てみたい」と読者に思わせるように、もっといきいきと描いてほしかったです。マリーが造ろうとしているのは、イギリス式庭園です。この時代、啓蒙主義という新しい考え方が入ってきて、博士のような先進的な人物を通じて、人々に広まっていく。人や社会の考え方が変わり、新しい時代になっていく。それが、このイギリス式庭園に象徴されています。ジャガイモやトマトがヨーロッパにもたらされ、食卓に上るようになるところや、ウィーンの町の描写も興味深く感じました。原書の表紙にはピンクと紫の花が描かれ、ポップな印象ですが、日本語版の装画には味わいがあり、より作品の雰囲気に合っています。

レン:ちょっと読みにくかったです。冒頭で、修道院で看護の仕事をするのではなく、庭師になりたいというのはわかりましたが、その後、造園に打ち込む描写は少なくて。修道院で薬草の世話をさせてもれえることになったとき、私はよかったなと思ってしまったんですね。そしたら、そうじゃなかった。火をたいて花を守る場面はおもしろかったけれど、結局好きな人と結ばれてハッピーエンドかって。後書きを読んではじめて、職業や結婚相手を選ぶのにも自由のない時代だから意味のあることだったのだとわかりましたが、ただお話を読んだだけだと、それが伝わらないかな。それに、人物のイメージがつかみにくい気がしました。せりふから、こういう人かと読んでいたら、次のせりふでは印象が違って。特にブルジがそうで、どういう立ち位置の人かがつかめず、落ち着きませんでした。

ひら:「好きなこと(仕事)をあきらめなくていいんだよ、そのうちうまくいくからさ」という物語で、教訓的なトーンが強くリアリティがなくて感情的に入り込めなかった。逆に言えば、よくある「主人公が、環境的なハンデを克服しようと努力し、成功した」というハッピーエンドストーリーでもないんですね。作者もあとがきで書いているように、「親の言う相手と結婚して、女性として決められた仕事をするのが普通(つまり倫理的)だった時代」において、「当時としては異端の価値観をがんばって持ち続けた」ということがテーマなんでしょうね(ある意味それだけではあるが・・・)。また「好きな仕事をする」という当時としては異端の価値観が、なぜ児童文学として成り立っているかというと、現代では一般的に流布していて、安心して親や教師が子供に伝えられる価値観だからでしょう。例えば同じ手法を転用すれば、人種差別について「昔は皮膚の色で仕事や結婚も決まっていたんだけど、そんな時でも、皮膚の色でなくその人の能力や性格で物事を色々と判断した人がいたんだよ」という美談を若干の事実も踏まえて50年後に児童文学として書くこともできる。文学と倫理の関係で考えると、例えば同性愛は今の時点で倫理的に広く受け入れられている価値観ですが、まだ児童文学としてはこなれていない価値観ですよね(逆に純文学が扱うテーマとしては少し弱すぎるかも。例えば「自殺」を「尊厳死」として肯定する価値観は十分に異端なので純文学として切り立つ可能性があるのでは)。

ゴルトムント:ドイツ語の作品ですが、筆者のアイデンティティは、オーストリア人でウィーンの人。推測ですが、モーツァルトは、本人の実態に近く描かれているのでは。天才ですからね。息をするようにメロディーが出てくる。楽譜に書くのが追いつかない。

レン:モーツァルトは12歳というわりに幼く感じました。私は、なぜモーツァルトを登場させないといけなかったのか疑問でした。時代性を伝えられますが、あれだけの天才のモーツァルトがひきあいに出されると、マリーのことも「結局、ものをいうのは才能」と読めてしまい、そうなると、平凡な読者は親しみを持ちにくいなと。

ゴルトムント:小説というのは描写が命。だけど今は、描写が細かいと読者はなかなかついていけないでしょう。例えば植物の具体的な名前がいっぱい出てくるけど、知らないと読者は飽きてしまいます。マリア・テレジア、モーツァルト、実在の人物をやはりうまく配しています。オペラのコシファントゥッテに博士が出てくるそうで、もう一度聴き直さなくては。主人公の女の子は、時代に負けずに自分の人生を歩もう、というテーマでしょうね。

アンヌ:何か、とても不器用な感じのする物語でした。前半の修道院生活に対する嫌悪感にはとてもリアリティがあるのですが、ウィーンの街の様子、モーツァルトの使い方、メスメル博士の言葉の中に現れる啓蒙思想やブルーストッキングなどの新思想などが、なんだか取ってつけたようで、それぞれについては、描いているけれど、物語の中で活きていない感がずっと最後までしました。ヤーコブとの恋も、一昔前の少女小説じみていて、もう一つ効果を発していない気がします。マリーの心の中が、夢みがちな少女という設定なので、はっきり描かれていないからなのかもしれません。マリーは、庭をスケッチし縮尺を使って設計図を描くことができたり、霜を防ぐ方法を考え出したりすることができる女の子には、到底見えません。もっと自然そのものへの愛着を示す場面などがあれば、いきなり彼女がイギリス式庭園を作り上げられるだけの考えを持っていることに納得がいくのにと思いました。何もかもメスメル博士が言い換えて説明し直して話が進んでいくという感じで、マリーの中にもうまく入り込めないまま、どんどん物語が展開していきました。メスメル博士は、もっと魔法使いのような人間に描かれてもおもしろい人なのに、市民階級のパトロンという役割ではもったいない気がしました。なんだか物語を回していく役割だけなのが残念でした。せっかくモーツアルトが登場するのに、マリーはモーツアルトへの反感を抱くばかりなのも奇妙な感じがしました。もっと、活き活きとお互いの人格を感じ合える場面があればよかったのにと、思いました。

ルパン:可もなく不可もなく、という印象をもってしまいました。メスメル博士は、皆さんのお話を聞いていると、どうやら本物のほうがおもしろそうですね。描かれた人物がみんな平坦で…。いちばん期待してしまったのはプレッツェル売りです。でも、「この人、何者!?」って思わせておいて、結局何者でもなかった。

アンヌ:このあたりから、モーツアルトがもっと活躍してくれるのかと思ったのですが、そうではなくて、がっかりしました。

ルパン:気になったのはP194のところです。寒いから火をたいて植物を温める、っていう発想は、「へえ」って思いましたが、火を燃やしたまま、草花を見守るでもなく、主人公もほかのみんなも家に入っちゃうんですよね。火事になるんじゃないかと心配しちゃいました。しかも、あとで見に行くのはマリーでなく、ほかの人。これでは庭園への愛も感じられず、クライマックスという気もしないまま終わってしまいました。それに、伯爵夫人の依頼はどうなったんでしょうね。結婚によって修道院に入らなくて済んだ、という結末は、マリーの夢とうまくリンクしていなくて、ひどくちぐはぐな印象でした。父親も、マリーの才能を認めているのかいないのかはっきりしないし。

ゴルトムント:父親は、女は庭師になどしないという古い価値観の持ち主。啓蒙専制君主のマリア・テレジア。ウィーンのシェーンブルン宮殿はベルサイユそっくりに作っているわけで、18世紀にはフランス的なものに高い価値を置いた時代だったのでしょう。その当時の空気をベースに書いているんですね。

ルパン:「その当時の空気」がきちんと描けてないから、よけいわかりにくいですよね。でも、本質的な問題は、そこではなくて、ストーリー展開にあるのだと思います。主人公に魅力があって、物語がおもしろければ、多少歴史的背景がわかりづらくても、子どもは気にしないですから。ファンタジーやSFみたいに、ありえないような設定であっても楽しめるものはたくさんあるわけだし。

夏子:庭というと、『秘密の花園』のイメージが強烈よね。『秘密の花園』では、主人公のメアリーの内面と庭が強く結びついているでしょ? ところがこの本では、読み進んでも、主人公と庭とがうまく結びついてこない。主人公の自立心や個性が感じられないために、魅力がないのだと思う。現代の読者が読むのだから、当時の時代背景は今とは違うとはいえ、読者が主人公に共感できるところがないと、読めないなぁ。

マリンゴ:何かがうまくいかないと日常で悩んでいる子どもが読めば、もっと“ままならない”時代もあったのだと感じ、自分も頑張ろうと思えるかも。ただ個人的には、マリーが天才すぎることに共感できませんでした。天才だからマリーは救済されたのか、そうでなければ修道院行きだったのか、とイマイチ感が残ります。ごく特例を描いた物語のような気がしています。

ハリネズミ:原題は、Marie mit dem Kopf voller Blumenですから、頭の中が花でいっぱいになっているマリー、というような意味だと思いますが、マリーの花に対する愛が、そんなに描かれていないし、しょっちゅう花のことばかり考えていました、という描写がもっともっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。現状では、介護よりはガーデニングが好きだと思っているうちに、自分の努力ではなく運がよくて「足長おじさん」のような人が現れて憧れの仕事につけた、というふうに思えてしまいます。メスメル博士も癖があっておもしろそうな人物なのに、この作品では単なる好々爺になっていますね。ひらさんが児童文学はその時代の倫理観に左右されるとおっしゃっていましたが、私はあまりそうは思っていません。それよりも、どんな世界になったらいいかと考えて書いているのが児童文学なのではないでしょうか。

ひら:「米国人を殺すのは正しい」という価値観は現代では異端ですが、戦時では流布するべき価値観として成り立っていて、児童文学として成立できたと思います。逆に現代の日本において「米国人を殺すのは正しい」という価値観の児童文学を書く(売る)のは難しいのではないでしょうか。

ハリネズミ:戦時中は多くの児童文学作家も、お上の政策に協力してしまいましたね。ただ児童文学なるものが目指すものがあるとすれば、それは「お上に迎合して売れればいい」というのではなく、もっと本質的なものなんじゃないかと思いますが。

ひら:児童文学の主な消費者は親や図書館であり、ユーザーが子どもであるケースが多いと思っています。その際、例外はもちろんありますが、基本的に親や公共機関は保守的な価値観(言い換えればラジカルでない価値観)を再生産する本を購入、勧めることが多いと思います。

ハリネズミ:今の価値観を肯定してそれにのっとって書く人もいますが、一つの理想の姿を意識したうえで書く作家もいますよね。現状肯定してしまうと、未来には向かいませんからね。

レン:児童文学は、さまざまな考えの間の揺らぎも伝えているのでは?

夏子:児童文学は、既成の価値観を無力化するためにあるのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


ブロード街の12日間

ゴルトムント:歴史ものです。実在の人物や出来事をうまく取り入れています。コレラを研究した先生の実話が元になったとあとがきにもありました。もちろん主な登場人物は創作されたわけで、基本的にはフィクションですけれども。こういうお話は歴史上の事実をうまく取り入れるのが大事ですね。今日のもう一冊の『庭師の娘』(ジークリート・ラウベ著 若松宣子訳 岩波書店)も。伏線を結構たくさん置いて家族のことや、いろんなことがだんだん分かってくるようになっています。どんなことだろうと気になりながら読み進めました。コレラの原因が空気ではなく水だったこと。博士の研究成果をうまく伝えている本とも言えます。少年に関しては、明るい未来を暗示しつつ終わっています。

ひら:主人公が「小さな大人」として登場している状況から「子ども」として書かれていく描写がおもしろかった。フィリップ・アリエスは『〈子供〉の誕生』(みすず書房)という本の中で、16世紀以前は「子供」という概念(=世の中から庇護される社会的な存在)はなく、「小さな大人」という存在だけだった、と論評しています。その本の中では、かつて人間は7歳ぐらいから小さな大人になり、大人と一緒に労働力として働いていたし、逆に7歳以前はコミュニケーションも取りづらいし、当時は高い確率で死亡したため、大人は将来の労働力を効率的に確保するために、できるだけたくさん子どもを産み、7歳以前の子供は育児コストを下げるために「大きな動物に近い感じで養われていた」と書かれていたように記憶しています。この本の舞台になっているイギリスの世界はちょうど近代市民社会が成立し始める頃で、裕福な市民の家ではいわゆる「子供」という概念が誕生して普及していたと思いますが、まだ社会の底辺には「小さな大人」もたくさんいた時代でしょう。一方で、16世紀からなぜ「子供」という概念が誕生し、子供は大切にしなければならい、という社会通念、倫理観が普及したのか、社会的、経済的な合理性があったからだと思います。つまり自分の子供を「小さな大人」として育てるよりも、産業革命によって職業が高度化し、医療の進歩によって子供が死ぬ可能性が低くなった等から、一人ひとりの子供を丁寧に育て、学習させ、ある一定レベルの職業につけた方が親として(極論すれば人間の個体として)生存確率が上がり、楽ができる。そこから後付で倫理体系が組み立てられたように思います。儒教を広めた孔子やキリスト教を広めたコンスタンティヌスしかり、基本的には治世者の統治しやすさのニーズ、一人ひとりの個体の生き残るためのニーズの後追いの形で倫理感が構成され、経済的、社会的に合理性が高い倫理がその後自然淘汰的に普及していっているのではないでしょうか。主人公は物語の前半で「小さな大人」として非常に大変そうに描写されていますが、その後「子供」として保護されていく状況(倫理観の変遷のような状況)がうまく拾い上げられていて、おもしろく読めました。

レン:去年読んでおもしろかったので選びました。読み返せなかったので、細かいところは忘れてしまったのですが、コレラの謎、イールの家族のことをつきとめていくというミステリーの仕立ての展開でぐいぐい読めました。イールのまわりに、さまざまな大人たちが登場するのも印象的。大人の姿がくっきりと描かれていると思いました。

レジーナ:19世紀のロンドンの暮らしも、「青い恐怖」の謎を追う過程も、おもしろく読みました。イールがスノウ博士の研究を手伝い、助手としての仕事を認められる中で、周囲の大人に心を開いていく様子が、納得できるように描かれています。イールは少し、いい子過ぎる気もしますが…。平澤さんの装画も素敵で、日本の子どもが手に取りやすい本です。以前、ハリネズミさんがおっしゃっていたように、ジョーン・エイキンと比較すると、作品の弱さはあるかもしれませんが、この本はステッピングストーンになるのではないでしょうか。今の中学生を見ていると、エイキンまで読める子がなかなかいません。私は、この本が気に入った子には、エイキンの『ウィロビー・チェースのオオカミ』(こだまともこ訳 冨山房)を勧めています。

夏子:プロットが派手で、ミスエリーを読むような勢いで、先へ先へと読み進むことができました。翻訳も読みやすいと思います。伏線がいろいろあって、ひとつを除くと、後でよく活かされています。うまく活かされていない一つというのは、継父(母親の再婚相手で悪漢)に誘拐されたところ。主人公が最も恐れていた通りの結果となり、絶対絶命の危機を迎えたわけで、いちばんハラハラドキドキする場面ですよね。それなのに友人に救出されると、それだけで終わってしまって、悪漢の継父がその後どうなったのか、言及がまったくありません。最大の敵である継父との関係は、きちんと決着をつけておいてほしかったです。もうひとつクレームを言うと、主人公のイールは高潔で、ひたすら弟を守っていますが、いくらなんでも高潔すぎるのでは? また何もかもがイールの活躍で解決するのでなくて、ひとつの活躍だけで充分ではないかと思いました。そのほうがリアリティがあったのにね。時代やプロットにディケンズ作の『オリバー・ツイスト』の影響が見られますが、時代は『オリバー・ツイスト』の20年後で、ロンドンでコレラが大流行したころですよね。当時のロンドンの雰囲気、不潔さとか匂いが伝わってくると、もっとよかったな。無いものねだりで申しわけないけど。

アンヌ:私にとっては大変読みにくい本でした。まず、第一部で引っかかってしまい、なかなか前に進めませんでした。最初に提出される謎が多すぎるような気がします。ロンドンのテムズ川のどぶ浚いという仕事からして、うまくイメージがわきにくいのに、周りの大人たちや主人公がとても恐れているフィッシュという男の正体も、よくわからないまま話が進んでいきます。ビール醸造所というところもなかなか想像するのが難しいのに、舞台がすぐ近所の仕立屋さんの病人の部屋に移ってしまう。だから、主人公が何のためにお金をためているかという謎ときに行き着くまでに、時代や舞台が頭の中にうまく構成されていきませんでした。ディケンズから類推して何とか想像しましたが、そういう知識なしに、いきなりこの物語でその時代を感じるのは難しい気がします。その後、推理小説のようにコレラと水の関係を解き明かそうとする物語になっていくと、一気にすらすら読むことができました。ただ、フィッシュという悪人は捕まっていないのに、「スノウ博士が偉いから大丈夫」というような博士の家政婦さんの言葉で終わったり、どうみてもひどい引き取り手に思えたベッツィの叔母さんが実はとてもいい人だったりとか、物語を進めるために都合よくしてしまうように感じられる所には、疑問が残りました。

夏子:中流の家庭なんじゃないかな。

ルパン:今日みんなで話す三冊のなかで、私はこれが一番おもしろいと思いました。スピーディな展開でで飽きさせないし。コレラという深刻な問題を扱ってはいるのですが、どちらかというとエンタメっていう感じでした。ただ、いろんな大人がたくさん出てきすぎて覚えられないんですよね。最後、エドワードさんといういい人に引き取られることになり、めでたしめでたしなんですけど、このエドワードさん、最後しか出てこないじゃないですか。名前は出て来るけど、出かけてることになっていて、そのあたりは何ともいえずご都合主義ですよね。そもそも、こんないい人がそばにいたなら、これほど苦労しなくてよかったし。帰りを待っていればよかったわけで。あと、エイベルさんとエドワードさんが、紛らわしくて、どっちがどっちだかわからなくなったりしました。この話のなかでいちばんキャラが立っていたのは、博士の家政婦で、チョイ役のウェザーバーンさんです。

マリンゴ:これが課題図書!と信じられなかったほど、中盤まで過酷なストーリーでした。でも、途中から、現実(歴史)とリンクしていくおもしろさを感じました。ただ、物語のインパクトが強すぎて、これが真実のような気がしてしまうので、現実と架空の人物をブレンドする手法は難しいと改めて思いました。

ハリネズミ:出てすぐに読んで、なかなかよくできた物語だと思いました。庶民の人たちの人間模様がうまく描けているし、コレラをめぐる謎解きもおもしろかった。ディケンズに似ているという方がおいででしたが、私はむしろエイキンだと思いました。ディケンズは今読むと、とても冗長でわきのお話も詳しく書いたりするので、メインストーリーで読ませるエンタメとしてはエイキンに近いかと。気になったのは、著者が作り出した人物は生き生きと描かれていたのに、歴史上の人物のほうは厚みが欠けていた点です。実在の人物なのでウソは書けないため、想像にも限界があったのだと思います。

レジーナ:伝記も書いている作家なので、史実を変えるのには抵抗があったのでは。

夏子:この作家は、ディケンズの伝記も書いているのよね。

レン:イギリスの子どもが読んだら、人物名もぱっと覚えられるんでしょうね。

夏子:この本がすぐれた賞に価するとは思えないなぁ。サトクリフの作品だと、主人公の個性が歴史のなかに生きているでしょ。本当に過去にこういう少年がいたんだろうな、と深く納得させてくれるけれど、この作品はそこまではいっていない。作家はアメリカ人で、ロンドンの街にくわしくなかったのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


2015年06月 テーマ:ふつうって何?

日付 2015年6月26日
参加者 アンヌ、ハリネズミ、ひらさん、ヤマネ、ルパン、レジーナ
テーマ ふつうって何?

読んだ本:

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コケシちゃん

レジーナ:特に気になるところもなく、さらっと読みました。地域にもよるのかもしれませんが、スイスの学校は、そんなにアジア人の生徒が少ないのでしょうか? 佐藤まどかさんはイタリアにいらした方で、以前、ミラノが舞台の『カフェ・デ・キリコ』(講談社)を読みました。 

ハリネズミ:異文化交流の話ですね。ただし、こけしちゃんはスイスのイタリア語圏の学校に行っていたという設定です。それなのに、ホット・エア・バルーンとか、イエロー・モンキーとか、イタリア語ではなく英語ばかりが出てきます。最後のくるみちゃんの手紙の最後の言葉もなぜか英語。そのあたりにちょっと引っかかりました。こんなふうだと、外国人はみんな英語で話しているという間違った概念を子どもがもつようになるかも。人物造型は、わかりやすいといえばわかりやすいけど、ヨーロッパ文化圏だから個人主義的という典型みたいな図式的な描かれ方ですね。もっと立体的に描いてほしいところだけど、中学年くらいが対象だとこのくらいでよしとしてしまうのでしょうか? 自分の意見が言えないくるみちゃんが、少しずつ変わっていくのはいいな、と思いました。 

ヤマネ:まず、表紙は子どもが好きそうで手にとりそうだと思いました。しかしカバーを取ると、表紙とのギャップに驚きました。中は、お話の中でクラス全員で描いた絵になっているのですが、それならばクラスの子全員描かれていればよいのにと思います。異文化を知る入口としていい本かなと思いましたが、とくに大きな感動があるわけではありません。出井君は、スイスから来た体験入学生の京ちゃんをあれこれいじめるけど、カラっとしていてあまり陰険に感じませんでした。それはなぜかと考えたところ、ひとつは、女同士、男同士のいじめの方が陰湿になりやすいのでは?ということと、いじめられている側の京ちゃんがきちんと言い返せる子で、出井くんの行為に対していじめだと思っていないからだと思います。 

アンヌ:比較的構成がはっきりしていて、すらりと読めたのですが、それだけ、特に思い入れを感じるところがありませんでした。一人一人について見つめなおしていくと、奇妙なところが、いろいろありました。主人公のくるみちゃんは、かなり内向的な性格で、自分も転校生でつらい思いをしたのに、京子ちゃんは、はっきりものが言える強い人間なんだと決めつけて、転校したての時でさえ、親切にしません。いじめっ子の出井くんは、日本では協調性が必要だと、もっともなことを言って、京子ちゃんをいじめ続けます。出井君が、家庭の事情で辛い思いをしているのがわかっていくのですが、だからといって、人をいじめていいわけではなく、出井君のいじめは曖昧なままです。京子ちゃんについては、コケシのストラップを買って、くるみちゃんに気を使う性格と、スイスで後天的に得た論理的な性格とが矛盾するような気がして、このストラップの場面が、すらりと飲み込めない気がしました。唯一、くるみちゃんが指導役になって、絵を描く場面が素敵でした。美術製作を個的な世界としてとらえる京子ちゃんに対して、ちゃんと反論し、共同作業で絵を描き上げるところがおもしろかった。それだけに、船を新聞紙で折って作るとか、廃物利用をするところが、まあ、現実なんでしょうけれど、なんで最後まで完全に美しいものに仕上げなかったのだろうかと残念に思います。 

ルパン:これは、異文化交流の話だと思うと、そんなにおもしろくない本です。掃除当番がない、給食がない、というのは、へえ、そうなんだ、とは思うけれど、それ以上のものではない。そこがポイントなのではなくて、この物語のこけしちゃんは、もっともっと壮絶な人生を体験しているのだ、ということに読者が気づかなくてはならないんだと思います。たとえば、金髪で青い目の本物のヨーロッパ人の子どもが「日本とヨーロッパは違うよ」と言うのであれば、確かに異文化交流の話であり、クラスの子も喜んでそういう話を聞くのだと思う。ところが、日本人以上に日本人っぽい「こけしちゃん」がそういうことを言うことでいじめられてしまう。自分たちと同じ顔をしている人間が、「ヨーロッパは違う」と言ったことで、自分たちの文化が否定された気がしていじめるんです。いっぽう、こけしちゃんは、ヨーロッパでは、地元の文化にはなじんでいるのに、みんなと外見が違うからという理由でいじめられている。ヨーロッパでも日本でもいじめられているんです。ただ、もったいないことに、そのシチュエーションの悲惨さが、この物語ではいまひとつ伝わってこない。これで読書感想文を書かせるのならば、おとなが問題提議をしてあげなければいけない、ちょっとわかりにくい作品だと思います。 

ハリネズミ:ツメのあまいところがあるんでしょうね。 

アンヌ:いじめも、例えば、出井君と原君のようなコンビでいじめるところなど、まるでジャイアンとスネ夫のようで、典型的で紋切り型のような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


なんでそんなことするの?

ひら:絵が綺麗。久々に、こんなに綺麗な本を読みました。文章のディティールの表現がうまい。「人と違ってもいいんだよ(いじめはダメよ)」ということがテーマの本ですが、「心理的に他人と違う」というケースと「社会的に他人と違う」ということがあると思います。心理的な違いの部分で、最もいじめにつながりやすいのは、自分の心の中で抑圧している価値(行動、感情)を、相手が言動として表してしまっているケース。今回のケースでは、この主人公(トキオ)の年齢は、母親に甘えたいという感情を(特に人前では)かなり抑圧している年齢ではないか。それにも関らず、主人公のトキオは、甘えの象徴であるぬいぐるみを学校に持って来ていて、そのためにいじめられている(幼稚園児に人気の「しまじろう」をモチーフにした「トラのぬいぐるみ」を、象徴として使ったのはうまい。また、いじめは集団を維持するために、些細な差異を指摘することによって、集団の同質性を維持するための儀式だと思うので、特に学校のような「逃げ難い集団」では起こりやすいと思う)。一方、物語の後半で、他のクラスメートが「切手集め」や「おし花」を趣味として持っているケースが、「社会的に人と違う」こととして語られるが、上記の心理的な抑圧部分(自分の影=シャドー部分)を持つ場合に比べれば(「違い」の質が違うので)、いじめられる可能性や強度は低いと思います。そのあたりの「「人と違うこと」の差異」への視点がなく、「自分と違うからといって、その人をいじめてはダメよ」という一般的なテーマに物語が収斂していくため、読後感としては、やや教訓的すぎる感じがしました。 

レジーナ:ちょうど、松田さんが訳されたカレン・ラッセルの『狼少女たちの聖ルーシー寮』(河出書房新社)を読んだところです。『なんでそんなことするの?』は、人と違っていい、というメッセージをはっきり打ち出し、いじめられていることを認めたくない気持ちや、ちょっとしたからかいがどれほど人を傷つけるのかが描かれています。主人公がトラのぬいぐるみを持ち歩く理由も、ネコの正体もはっきり明かされず、不思議な世界が広がっています。シュールで、ナンセンスで、現実の枠組みの外にある世界です。教訓的という話がありましたが、あまりそう感じさせないのは、色鮮やかで魅力的な絵に助けられているからでしょうか。 

ハリネズミ:ミケはトキオの潜在意識だと思って読みました。いじめる相手に、トキオ自身は向かっていけないけど、ミケならどんどんやっつけてくれる。ひらさんは、周辺とおっしゃいましたが、私は特にトキオが周辺の存在だとは思わなかった。中心・周辺と関係なくだれにでも起こることなのではないでしょうか。「がまんしないで理不尽なことに対しては抗議すれば、すべてはうまくいく」と教えている本ですね。 

ヤマネ:初めて読んだときに、自分の気持ちを言えない子が言えるようになるのが、すっきりしてとても好きだと思いました。いじめについて書かれている本はたくさんあるけど、いじめられている側が、どうしたらいいか発見して自分の行動を少しだけ変えていって、いじめる人たちに立ち向かっていく、というところがおもしろかった。トキオは、はじめはミケに対して、「なんでそんなことするの?」と言っていたのが、46ページではじめて自分をからかう友だちに向かって「なんでそんなことするの?」と言います。ここに大きな転換点があり、はっとさせられました。タイトルの『なんでそんなことするの?』もここに繋がっているのか、なるほどと思います。ミケの言葉の中で、教訓的なところが繰り返し出てきて、少し言いすぎる感じもしましたが、この部分が作者のもっとも伝えたいところなのでしょう。トキオは、すごく悩んでいるわけではないけど(少なくとも悩んでいることに本人が気づいていない)、学校から帰ってきてモヤモヤしています。それはいい状態ではないですね。いろいろな問題が解決していった後、最後のページで、寝そべってマンガを読んで笑いながらポテチを食べている、これが子どもの平和で幸せな状態なのだと思いました。

アンヌ:最初から、これはホラー小説だと思いながら読みました。奇妙に昭和な感じの家のつくりとか、しんとした台所、部屋の扉の向こうには、ミケという、ぬいぐるみか、猫か、化け物なのか、よくわからないものがいるという設定。しかも、そのミケが学校について来て、ぬいぐるみのトラを持ってくるトキオのことを、変だと言っていじめる子供たちを、食べてしまったり変身させたりしてやっつける。ここら辺がホラーなのだけれど、妙に可愛いものに変身させるところが、絵の魅力とともに、恐怖よりユーモアを感じさせる作りになっています。ミケにやっつけられた子どもたちが、自分の異変に気づいているような、いないような感じも、奇妙でおもしろい。トキオが、「なんでそんなことするの?」とミケに訊き、いじめようとする子どもたちにも、同じ言葉を言うことができて初めて、トキオもみんなも変わっていくという話。もう一つ釈然とはしませんが、自分の気持ちをごまかし続けたトキオ君が、そういう辛さを抜け出せてよかったなと思いました。それにしても、一番怖かったのは、ミケの復讐する場面などではなく、10ページの「ぼく、トキオくんのことを思って言っているんだよ」という、コウキくんの言葉でした。 

ルパン:ちょっとストーリーと関係ないところですが、ひらがなと漢字で、字体が違うのって不思議じゃないですか。内容的には、なんだか中途半端な感じ、というのが正直な感想ですね。おもしろくないわけではないのだけど、絶賛したいほどでもなく。8ページで、「ぬいぐるみ=トラ」というのがよくわかりませんでした。絵がなかったらわからないですね。ミケはほかの人には見えないのは、しばらく読んでいるうちにわかってきました。46ページで、初めて友だちに「なんでそんなことするの?」って言えたとき、言われたレイコちゃんが、「ふしぎなものを見たような顔をする」という場面、ファンタジーのなかにリアリティが垣間見えて、とてもいいと思いました。 

ハリネズミ:文学というより、伝えたいメッセージをだれにでもわかるように書いた作品ですね。絵はとてもおもしろいけど。 

ルパン:これ、対象年齢はどのくらいを想定しているんでしょうね。ルビのふり方も、簡単な字にふってあるかと思うと、初出以降はふってなかったり。小さい子対象なのかな、大きい子なのかな。ちょっとピントがぼやけている気がします。
 
ハリネズミ:もう少し説明的な部分を省いて、文章を短くするともっとおもしろくなるかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


ぼくとヨシュと水色の空

アンヌ:心臓病のヤンの気持ちに同化してしまって、文字通り、胸をどきどきさせながら読みました。同時に、ヤンのママの気持ちも、痛いほど感じました。手術の前で、体を大事にしなくてはいけないのがわかっているけれど、大事な本が入っている重い鞄を持って歩いて行く、という冒頭の場面から、引き込まれました。全編を通して、命あることの美しさや温かさを感じる物語です。家族もいい感じに描かれていて、手術に向かって息をつめているというのではなく、ごく普通のドタバタする日常が、うまく描かれています。その中で、いじめで傷ついたヤンに、姉がソファで寄り添う場面などで、家族の温かさが感じられます。また、猫の出産場面とか、川で遊ぶ場面とかで、ヤンが感じている命や世界の輝きが伝わってきます。手術で命が終わる可能性がありながらも、ヤンがそのぎりぎりまで、いきいきと生きているということを感じられる物語で、いわゆる難病ものとは違います。ただ、今回は、あまりにヤンに魅力を感じてしまったので、ヨシュの苦しみや孤独などに、うまく注意が向けられず、早く出てきてくれればいいのに、などと思ってしまいました。 

ヤマネ:この本を今回、課題本に選んだのは、まずタイトルに惹かれたからです。ドイツの原題では、ただ『ヤンとヨシュ』というだけですが、邦題では『ぼくとヨシュと水色の空』となっていて、より気になる、いいタイトルになっていると思いました。表紙も綺麗で惹かれます。お話は、ヤンの病気の重さやヨシュの家庭問題、後半でネズミばあさんが刺される事件が起こるところなど、重い内容が多く出てきますが、ヤンの家庭の温かさや、ヤンとヨシュの気持ちの繋がりや、ネコの場面がうまくお話の中に散りばめられていることで、お話がやわらかくなり温かみが感じられるように思います。ヤンは体は弱いけれど、ものをはっきり言えるところが気持ちいいですね。94ページで、ヨシュに「ぼくは友だちだよ」とはっきり伝える場面や、215ページで、ネズミばあさんにけがをさせたのがヨシュだとみんなに疑われる場面で、ヨシュをかばう場面など、読んでいて気持ちがよかったです。それにしても、ヤンに対するアキとフィルの嫌がらせがひどくて驚きました。中でもナイフを手術の跡に突きつけるところは、本当にひどすぎる。女の子のララゾフィーの存在が気になりました。算数を教えてほしいと言いながら、実はヤンに恋心を抱いているのでしょうね。ヤンは、最後の方では少しララゾフィーのことが気になるようになるけれど、最初はヨシュの方が大事で、男の子らしいなと思いました。ララゾフィーが、最後に大事な役割を果たすところがよかったです。

ハリネズミ:会話からすると主人公は4年生くらいに思えますね。ほほえましいことはほほえましいのですが、182ページに「今はまだ親に話せない」とあって、ずっと大人たちには内緒にしているんですね。ヨシュがネズミばあさんを刺したのではないかと疑われるところは、後半の核になっている部分ですが、大人に知らせないのがなぜなのか、とか、大人を信じない理由などがきちんと描かれてはいないと思います。だから、読者はいらだつかもしれません。ネズミ婆さんとか、ララゾフィーといった脇役が立体的に描かれているのがいいですね。それにしても、表紙のヤンはあんまりやせていない。 

ひら:「「普通」の意味」と「5、6年生特有の、大人になるためのイニシエーション」、「命の質感」がテーマだと感じました。3つを軸に重層的に読めるすばらしい本です。たとえば10ページで、コガネムシの死がいの表現において、命の質感が軽く描かれていて、(主人公のヤン自身の持病のこともあり)物語を通して、ヤン自身が納得できる命の質感を手に入れていく様がいい。またヤンは、肉体的には特殊な心臓の病気を抱え「普通(一般的)でない」が、社会の中心的な価値に対する「周辺(普通ではない)」という意味では、温かで豊かな家庭に育ったヤンは、社会的には「普通」に位置しています。一方、ヤンの親友のヨシュは、お母さんが昼間からビール臭かったり、母子家庭なのに、息子に何も言わずに家出をして、いつ帰ってくるかわからない状況。しかもエレベーターにはトルコ人が乗ってくる貧困エリアのマンションに住んでいるという意味で、社会的に「普通ではない(社会の中心部にいない=周辺に位置している)」。物語の中で、このふたりの「普通でない」が並走していきます。児童文学は、色々な意味で周辺部にいる子供が、主人公になるケースが多く、いくつかのイニシエーションを通して、「普通でないもの」を受け入れていくことが多いけど、この物語では、色々な社会的なセーフティネット(家族の愛情や社会的支援)が普通でないもの(周辺部にある人や事柄)を中心部へ導いていきます。また、普通でないもの同士のコミュニティー(ここではヤンとヨシュ)では、どちらかが中心部に近づくことによって(ここでは、ヤンが、ララゾフィーとデートした瞬間に)、もう片方のヨシュが、シーソーのように、辺境へ離れていく力学が働いています。その意味でこの物語の普通(社会的な中心部)、普通じゃない(周辺部)、のせめぎ合い=出し入れもおもしろい。また、物語の前半部分では、登場人物として、個性を持たない未分化な人物像が出てきます。例えばいじめっ子のアキとフィル、それと呼応するように、2人の姉の個性も見えにくい。一般的に大人になる過程で、悪の中にも正義があるということ(ある事柄には、常に両義性があること)がわかってきますが、未分化な原型としての悪や女性性が、物語の前半に現れ、後半のいじめっ子の四人組(象徴としての悪)がヤンをいじめる場面では、ふたりのいじめっ子(アキとフィル)に加えて、やや友好的な女の子や金髪の子のような、悪の中の個性が描写されるようになります。ふたりの姉も同様で、ジーンズをはくシーンでは、ふたりの肉体的な成長の差が象徴的に語られます。特に秀逸なのは物語の前半で、狂った人間(=最も社会の周辺にいる人間)の象徴として登場しているネズミばあさんに対して、ヤンは、自分と同じ普通でない(と思っている)人間として、親近憎悪を感じていたけれど(無意識的に、より周辺に引き寄せられることに、恐怖を感じている)、物語の後半では、ネズミばあさんに、人としての固有名詞がつけられ、一人の人間として受容されていくプロセスが、とてもうまく書かれていると思います。 

ルパン:すみません、切れ切れに読んだせいか、話の流れがいまひとつしっかりつかめませんでした。手術の前と後で、ヤンが劇的に成長した、ということ? 手術前の緊張感や、無事に成功して終わった後の内面的な変化があまり伝わってこなかった気がします。もう一度読まなければ……。ヤンの年齢については、エレベーターで、「8階のボタンに手が届かない」というシーンが出てくるので、小学校3、4年かな、と思いました。 

ハリネズミ:子どもがひとりでは解決できない問題を抱えている。そういう年齢なんでしょうね。ヤンは、もう何度も手術を受けているので、そうそう悲愴な思いは抱いていないのでは? 

ルパン:ヤンだけでなく、まわりの子までいつのまにか変わっているのが、なんだか理解しづらかったですね。ララゾフィーは自分で算数ができるようになっているし、アキとフィルも手出しをしなくなるみたいなんですが、それもヤンが大手術を乗り越えたことと関係があるのであれば、それがわかるように書いてもらいたい気がします。 

アンヌ:「水色の夢」の章が、よくわかりませんでした。天国や神様のイメージが少しちらつく場面ではありますが、ネズミばあさんが優しく歌を歌ってくれる意味などが捉えきれませんでした。 

ひら:物語中の夢の話は、基本的に、何かを象徴的に表しているように感じます。ネズミばあさんの子守唄は、ヤンにとって、ネズミばあさんが「恐怖」から「受け入れられるもの」への変容を象徴しているのでは。ヤンの中で未解決だった何かが、手術というイニシエーションを通して(あるいは夢を通して)、消化されていく様子がうまく書かれていると思います。 

ルパン:ヤンは幼く見える一方、223ページには、「ヤンはママのそういうところがすきだ」という一文がありますよね。大手術を受けなければならないヤンに、ママが気を回している。回しすぎて失敗したことを反省しているママに、今度はヤンが気を回している。そういう大人びたところもあるので、年齢がつかみにくいんです。ほかの子どもと違う問題を抱えていることで、自然と精神的に早熟になるのかもしれませんが。 

ハリネズミ:ここは、ヤンを病院に連れていく途中で話しているところですね。母親のほうは、ヤンが万一のことを考えて話しているのかと思うわけですが、ヤンの方は母親の勘違いを察してしまう。2人の思いが交錯して、それぞれの心理が読み取れるおもしろいところですね。 

アンヌ:病気の子供は、医者から自分の病気について説明を受け、理解しようとします。ある意味、大人びているところもあると思います。
 
レジーナ:でも、自然の中でのびのび育っているからでしょうか、子どもたちが素朴で、すれていないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


2015年05月 テーマ:他者とのかかわりの中で成長する子ども

日付 2015年5月21日
参加者 レン、ルパン、つばな、アンヌ、イバラ、マリンゴ、レジーナ
テーマ 他者とのかかわりの中で成長する子ども

読んだ本:

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きみは知らないほうがいい

アンヌ:いじめにあっている人を書く意味は何なのだろうと思いながら読みました。この物語のテーマは、「学校、そんなにえらいのか」に尽きるのかな、なんて思いました。

ルパン:これのテーマは「学校、えらいのか」ではないと思うんですよね。そうではなくて、どうしようもない、どこへも持っていかれない子どものつらさ、悩み、そういったものに寄り添う本だと思うんです。学校に行きたいのに行かれない、しかも暴力にあっているわけでも悪口を言われてばかりいるわけでもない。目に見える被害がないから、自分でも「これはいじめじゃないんだ。わたしはいじめられているわけじゃないんだ」って自分に言い聞かせながら、それでも学校に行こうと思うと具合が悪くなってしまう。おとなにも相談できない。自分でも解決できない。先生がかかわると逆効果になる。そんな八方ふさがりの子どもの状態がリアルに描かれていると思います。私は、この本は、こういう目にあっている子にもあっていない子にも、すべての子どもに手渡せる物語だと思います。だれもが「自分に関係ないこと」とは思わない。ほんの少しであっても、共感できる部分があると思うんです。一瞬たりともこういう思いをしたことがない、という子はいないと思うから。でも、ただ堂々巡りをしているだけではなくて。ホームレスのクニさんに憧れているようなことを言いながら、実はクニさんは社会から解放された自由人なのではなく単に社会から「逃げている」のだということに、主人公たちは気がついています。だから、この子たちは今つらくても、きっと前向きに生きていくんだろう、という希望がもてます。あと、タイトルがいいですね。『きみは知らないほうがいい』。どんなお話なんだろう、と興味をひかれます。

マリンゴ:本当に学校へ行きたくない子どもの心に寄り添う物語だと思います。私のまわりにも、周囲のおとなから見て大きな理由がないのに、登校しない子どもがいます。じゃあ、小さな理由はあるのか? そもそも「大きい理由」「小さい理由」ってだれが決めるのか……。その子自身、登校しない理由をはっきりと言葉にできないのかもしれない。この本は、そういう子が読んで、「私の気持ちをわかってもらえている」と思える物語かも。あと、個人的には、調子が良くて明るい叔父さんのキャラが好き。無責任なようでいて、いい味を出していました。ただ、夜中に来た子どもをちゃんと家に送って行ったほうがいいとは思いますが(笑)。

つばな:岩瀬さんの作品はどれも好きだけれど、これは大傑作だと思います。主人公のふたりだけじゃなく、おばあちゃん、お母さん、ホームレスのクニさん等々、ひとりひとりの人物を実に生き生きと、しっかり描いている。児童文学に限らず文学の価値って、大事なテーマを投げかけているとか、いいこと言っているとかそういうことじゃなくって、人間をしっかり描けているかどうかだと、あらためて思いました。だからこそ、昼間くんが最初に「きみは知らないほうがいい」といった意味が、最後に心にストンと落ちました。

レン:びっくりしました。今日取り上げたなかでは、これがいちばん印象深かったです。私自身何度も転校したりで、義務教育の9年間はずっとアウェー感の中で苦しんだ経験があります。いじめてくるクラスメートに対して、こんなことをして何が楽しいんだろうって思って、なんとか学校に通っていた。「xxちゃんが言ってたよ」ということからいじめが始まる感じがすごくリアルです。携帯電話やメールで、学校外の時間にも陰口が進行している今の子どもの息苦しさも描かれているし。お母さんも絶妙です。見ていなさそうでいて、おいしいものを作ったりしてくれる。味方だよと口にしなくても、孤立しているときにふっと同感だというのを示してくれる柳本さんのような存在って、いじめられている子には大きな救いなんですよね。白黒じゃなくこういうふうに書いているのがすごいです。おじさんとか、周りの大人もそれぞれの顔を持っているし。

レジーナ:問題に正面から向き合い、主人公の気持ちをていねいにすくい取った、力のある作品です。以前、「大人がわかったように書いていないのがいい」と書かれた書評を読みましたが、同感で、簡単に結論を出すのではなく、一貫して子どもの視点で、気持ちの揺れをそのまま描いていて、すばらしい作品だと思いました。ホームレスの人と交流する話では、中沢晶子さんの『ジグソーステーション』(汐文社)を思い出しますが、この本は、主人公の問題に焦点を当てています。学校という閉塞した空間で、みんなから外れてはいけないという圧力は、以前は森絵都さんの作品のように、中学生以上を主人公に描かれてました。でも今は、この本にもあるように、小学生から携帯電話も持ってるし、人間関係が複雑化してて、そうした集団の圧力は、小学校中学年ぐらいから感じるんでしょう。ついにここまで来たか、と思います。日本の子どもが抱えている、こうした問題は、海外の子どもにはピンとこないかもしれませんね。それでも、ぜひ多くの国の子どもに読んでほしい本です。「みんなと仲良く」と学校で言われるかぎり、いじめはなくならないでしょう。大人だって、全員と仲良くなんてできませんよね。苦手な人とも、少し離れれば、同じ集団の中でもやっていけるんだから、学校は、社会で生きていく上で、人との適切な距離の取り方を学ぶ場になればいいんじゃないでしょうか。

レン:小学生は逃げ場がないんですよね。中学生よりもさらに。

イバラ:一貫して子どもの視点で、書いてますよね。いじめの解決策が書かれてるわけじゃないけど、いじめられている子がどう感じているかがリアルに描かれてるし、二人が自分なりの乗り越え方を見つけようとしてるのも伝わってくる。

アンヌ:実際には、どういう子がこういう本を読むんでしょうか?

レン:いじめのあるなしにかかわらず、小学校の教室の生きにくさはだれもが何となく感じてると思うので、だれでも読んだら共感する部分があるのでは?

パピルス:傑作だと思いました。学校の何とも言えない空気感が非常によく伝わってきました。これは自分が日本の学校を経験したから伝わるんでしょうか。翻訳で出たら海外の人は理解できるのでしょうか。昼間君はホームレスのクニさんに近づいて行きますが、その理由は、クニさんは「社会から外れた人」で、昼間君は「小学生としての社会から外れた人」というように感じていたからだと思いました。仲間外れにされていても、それを認めたくないという気持ちもあると思います。でも、昼間君はそのことを認めて、さらにクニさんを通して客観的に自分を考えようとしていたのではないかと思いました。

イバラ:私もとてもおもしろく読みました。ステレオタイプじゃなく、ひとりずつをリアルに描いてるのがいい。心の中の描き方もうまいですね。たとえばp172では「どの言葉にも嘘がまじっている。言葉は、レストランの前に飾ってある本物そっくりの合成樹脂のハンバーグステーキやオニオングラタンや焼きそばみたいだ」というふうに違和感を表現してます。おばあちゃんも立体的に描かれてて、さすがです。

レン:子どもたちを自分のところに引きこんではいけないと思って、離れたのかもしれませんよね。作者が、本当に子どもに向けて書いた本だなと思います。子どもや中高校生が主人公でも、彼らに読ませようというのではなく、著者が自分の思いの丈をぶちまけただけの本もあるけれど、これは今の子に手渡したい本です。これで救われる子はたくさんいると思います。子どもの頃の自分に、読ませてやりたいくらい。

アンヌ:子どもの心に寄り添うリアリティがあるということでしょうか。

イバラ:さまざまな人間を紋切り型やいい加減に描くんじゃなくて、それぞれが生きているそのままを個性的にしかもリアルに描ける作家って、そうはいないと思います。いい加減なものや、それらしいまがいものでは、子どもの心の中までは届かない。自己満足的に寄り添ったつもりのおとなも多いけど、この作家は本物を見せようとしてるんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


クララ先生、さようなら

つばな:とてもおもしろい本で、読んでよかったと思いました。なによりも、おとなも子どももいろんな人が出てきて、それぞれが生きること、死ぬことについての考えを述べているところがいい。知らない人のお葬式に出て、式のあとのコーヒーとケーキをちゃっかりごちそうになるおばあさんとか。こういう人、山本有三の『路傍の石』にも出てきますよね。最初は、涙なしでは読めない悲しい物語なのかなと、ちょっと警戒したんですが、どんどんおもしろくなりました。クララ先生にお棺を届けにいった子どもたちが、坂道で遊んでしまうところなんて、「ああ、子どもって!」と思ったり、「本当は、行きたくないから、先延ばしにしているのかも」と思ったり……。私がとてもいいなと思った箇所の一つです。それから、それこそ片足を棺桶に突っこんだようなおじいちゃんが、棺桶を作ることでまた生き返る。ひとりの死が、ひとりを生きかえらせるというところも、深い味わいのある作品だなと思いました。

マリンゴ:実は、クララ先生のパートナーであるマインダートさんに一番感情移入しました。亡くなる前の数時間を独占したい、という気持ちがとてもわかります。子どもが来てクララが喜んだ、という満足感と、自分が最後に言いたいことを言えなかった、という残念な気持ち、その二つを一生抱えていくんじゃないかと、物語が終わった先まで想像しました。わたしが今おとなだから、そう感じたわけで、小学生の頃に読んでいたら、まったく違う感想になっていたと思います。そういう意味でも、読みごたえのある作品でした。

ルパン:ずっと「死を前にした人にお棺をプレゼントしていいのか!?」と思いながら読み進め、最後の最後で泣きました。ご主人のマインダートさんの「きみの旅のためのものだよ」というせりふにすべて収斂された気がします。「たったひとつの人生」ということはよく言われますけど、「たったひとつの死」ということばはあまり聞かれないですよね。死は誰にでもやってくるけど、ひとりひとりにそれぞれの死があることを思い出させてくれる不思議な魅力の物語だと思います。ただ、すばらしいんだけど、子どもに手渡すのには勇気がいりますね。何歳くらいの子が対象なのでしょうか。どこまで理解できるだろうかと思うと安易に手渡すのがこわい気もします。私のなかではまだ結論が出ていません。

アンヌ:西原理恵子さんのテレビ番組(NHKBS「旅のチカラ」)で、ガーナで、とても派手で色々な形の棺桶を作るところを見たことがあるので、国によってはいろいろな棺桶があるのだろうと思っていましたが、オランダではまっ黒なのですね。主人公は自分が夢で黒い棺桶が嫌だと思ったのに、先生がそう言ったと思い込んで棺桶を作るという展開に、もう一つ納得がいかないところがありました。普通の人が棺桶をプレゼントするなんてと怒るのは理解できるし、作る楽しさやおじいさんのたくらみとかはおもしろかったのですが、納得できないところが後を引いて、わくわく読めませんでした。

イバラ:子どもが担任の先生の死をどうとらえて、それをどう乗り越えていくかを描いています。現実を子どもにも隠さず見せるという文化なんですね。日本の作家は棺桶をプレゼントするとは書けない。こういう作品は、違う価値観や世界観を日本の子どもに紹介するという意味があると思います。子どもが先生を大好きだったことも伝わってきます。主人公ユリウスのお母さんについても、単なる事なかれ主義ではなく、死から子どもを遠ざけようとする理由が書かれています。そういう意味で、キャラクターも平板じゃなくて立体的。いい作品だと思いました。

パピルス:おもしろく読みました。先生が「死」と向き合う中での言葉がジーンと響きました。でも、お母さんが子どもを亡くした気持ちに共感できず、途中話についていけませんでした。挿絵自体は良かったのですが、一面ところどころにすべて挿絵のページがあり、余計かなと思いました。

イバラ:私はこの本の挿絵はすばらしいと思います。シリアスな重い内容を、温かなやさしい挿絵がうまく中和している。

パピルス:先生が自分の病気を「モンスター」と表現してますけど、小学4年生くらいの子には病名を言ってもいいんじゃないかな?

レジーナ:クララ先生は、「奇跡が起きるなら、自分ではなく、病気の子どもに起きてほしい」と言い、子どもたちは水着になって授業を受けます。こんな先生だったら好かれるだろうな、と読者は思うし、子どもたちが先生のことをどれほど大切に思っているかが、しっかりと描かれています。だから棺桶をプレゼントするという突飛なアイディアも、読み手が納得できる形に収まってるんでしょう。子どもたちを見守るおじいちゃんも、存在感がありますね。あえてカモではなく、ハトにパンくずをやる場面をはじめ、偏屈だけど人間味あふれる人柄が伝わってきます。エレナは思いこみが激しく、人任せで、もう少し魅力的だったら良かったのですが……。思い出のつまったリンゴケーキを、ひとりで食べたくないと思うマインダートさんに、胸がいっぱいになりました。人の死という厳粛な場に生まれる、独特のおかしみが描かれた場面もあって。たとえば、死者がリスに生まれ変わったと信じて、葬儀でヤシの実を墓穴に入れるなんて、ユーモアがありますよね。作者はオランダ生まれですが、オランダは世界で初めて安楽死が法律で認められた国です。死を描いたユニークな本も早くから書かれていて、ドイツもその影響を受け、ヴォルフ・エァルブルッフの『死神さんとアヒルさん』(三浦美紀子訳 草土文化)のような作品も生まれました。先日、ニューヨークで行われた、児童書の翻訳に関するパネルセッションの記事を読んだんですけど、この絵本は、米国で出版された当初は戸惑う人が多くいたものの、結果的に大きな成功を収めたそうです。死については、おとなも子どもと同じくらい知らないので、この作品のように、子どもが受け止める力を過小評価せず、子どもと一緒に考えていくような本がさらに増えればいいですね。

レン:とても興味深く読みました。日本だとなかなか書かれない作品だろうとまず思いました。暗いこと、ネガティブなことは避けられがちだから。でも、生があるところには死があります。うちの子どもが通っていた中学校でも、3年間の間に二人の先生ががんで亡くなりました。お通夜に行くだけでも年頃の子どもたちは考えるところがあるけど、こういうお話を通して死について考えるのは大事ですね。この作品では、おじいちゃんがおもしろいですね。だんだん元気になってきて。

つばな:子どもは死から遠いところにいると、ついつい思ってしまいますけれど、子どもも大人と同じように死や、つらい現実に直面しているんじゃないかしら。長谷川集平さんだったかな、子どもと大人は同じ現実に立ち向かっている同志だといっていましたが、そういう姿勢をこの作品にも感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


わたしの心のなか

アンヌ:冒頭から言葉のイメージが、美しい物語だと思いました。機械で話せるようになるという展開は、今の段階ではSFですが、やがては夢でなくなると思います。現在でも、ホーキング博士のように発声できる機械もあります。ただ、この物語のように、多くの援助や補助金を得て必要な人の手元に届くだけでなく、安価に手軽に届くといいなと思っています。実は最近、自閉症の方の意志疎通のための絵カードを、自閉症の子どもを持つ女性がスマートフォンのアプリとして開発した製品があるということを、ネット上で知りました。その話を友人にしたところ、携帯電話やスマートフォン等の情報端末の活用が障害を持つ子どもたちの生活や学習支援に役立つことを目指した、東大先端研究所の中邑賢龍教授の「魔法のプロジェクト」について話してくれました。スマートフォンと身近なテクノロジーの組み合わせによって、視覚障害のある高校生が音によって金環日食の研究ができたという話に驚嘆し、身近で手軽な製品で子どもたちの世界が広がっていってほしいと思いました。そんな時にこの物語を読んだので、主人公が言葉とコミュニュケーションを獲得していく過程にとても感動しました。ただ、普通のクラスに行ったら、子どもたちに、機械を使うことを不公平だと言われたり、付き添いの大学生の補助職員がいることにもずるいと言われたりする場面が多いのには驚きました。メロディが、最後に、あげると言われたトロフィーの安っぽさに笑うところや、そんなものをもらったから喜んだと勘違いするクラスの子どもたちに、背を向けて出ていく場面は痛快でした。人や音楽に関するメロディ独特の感覚、レモンイエローが溶けたり、パープルが漂ったりする場面はとても美しいと思いました。もしかすると、古代の人や自分が子どものころ持っていた、オーラのように色彩を感じる感覚かもしれないなと思い、ゆったりと広がる色のイメージを楽しみました。

ルパン:いちばん泣いたところは、11年間1度も言葉を発することができなかったメロディが、初めて機械の力を借りて家族に話しかけるところ。第一声が「ありがとう。」そして「愛してる」。ほんとうに感動しました。それから、置き去りにされたあと、学校でみんなにその理由を聞きますよね。あの場面は緊張感にあふれていてよかったです。メロディの誇り高く負けない姿勢が伝わってくるようで。それから、音楽や感情を色で表すところもいいですね。「きれいなうす紫色を感じる」のように。意地悪な子たちがステレオタイプなのがちょっと気になりましたが、その分、愛情深い人たちがクローズアップされているので救いがあってよかったです。『ピーティ』(ベン・マイケルセン 千葉茂樹訳 鈴木出版)は最後まで誰にも理解されない悲しさがありましたが、メロディは言いたいことを伝えられるようになって、読んでいてうれしかったです。

マリンゴ:障碍の種類は違いますが、物語の展開が、現在放送されているドラマ『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 早川書房)に近いと思いながら読んでいました。『アルジャーノン〜』では、主人公の障碍が“回復”した後で、周囲との関係が悪化していきます。この本も、そういう部分があるので。とはいえ、この本は児童文学だし、ハッピーエンドになるのだと思ってました。なので、後半のとんでもない展開にびっくり。現実は甘くない……でも、主人公が立ち向かう強さを持っていることが伝わってきます。力強い読後感でした。

レン:とてもおもしろかったです。声で表現できなかったのが、言葉を得る過程の心の変化がよく描かれていて。それに、よかったのはまわりの人々の揺れが詳しく描かれていること。両親はこの子を愛しているけど、時々疲れたり、理解できなかったり。ただ愛しているというところだけを描いていない。隣のヴァイオレットや、インクルージョンクラスの補助についた学生の存在はとても示唆的ですし、特別支援学級の先生も人によってさまざま。友だちになったローズの二面性も、私はそうだろうな思いました。前にここで読んだ岡田なおこさんの『なおこになる日』(小学館)を思いだしました。子どもに手渡したいと思いました。

レジーナ:それまで、自分の気持ちを伝える術を持てなかった主人公は、機械の力を借り、自分の声を見つけ、人との関わりの中で成長していきます。メロディの活躍によりクイズ大会で優勝するのかと思いきや、チームメイトから置き去りにされてしまいます。障碍のある主人公の物語の中には、寓話のようなハッピーエンドのものもありますが、この作品はそうではありません。リアリティがあり、一筋縄ではいかない人生の中でやっていく、という主人公の姿勢が明確で、ハッピーエンドではないけれど、結末に救いがあります。とてもおもしろく読みました。

イバラ:私はほかの子がわざと電話しないところに、大きな悪意を感じてしまいました。周囲の目を気にする、というんだけど、そこがよくわからなかった。ほかの子にとっては、これで物語が終わってしまっていいんでしょうか。

つばな:たしかに良い本だし、大勢の読者に読んでもらいたい作品ですけれど、正直いって少々退屈でした。心の中を延々と書いてあるところが長すぎるような感じがしましたし、クイズの問題と答えのところも。アメリカの読者には、おもしろいのかもしれませんが。それから、登場人物の周りの意地悪な子どもたちの描き方も、ちょっとステレオタイプじゃないかな。 私の乏しい経験からいうと、障碍のある友だちに接することで、周囲の子どもたちは確実に変わっていくと思うけれど……。

イバラ:周囲の人が、主人公をどう受け入れてどう変わっていくかは描かれていないんですね。作品の質としてどうなんでしょう? シリアスなテーマを扱う作品は、ただ楽しいだけの作品より質も高くないとなかなか読んでもらえないという現状があるような気がします。

レン:戯画的かもしれないけど、子どもはそういうのを見て、自分ならどうしようと考えるのでは?

イバラ:私は人生の一部を切り取って手渡すという覚悟が作家にも必要だと思うんです。こういう作品って、作家の人生観がもろに反映されるでしょ。

つばな:登場人物を描くのに力を入れたので、そこまで書けなかったのかも。それから、この主人公はとても頭のいい子だけれど、そうじゃない子もいるのになと、ちょっと思いました。

イバラ:乙武さんの本のときにも、みんながこうなれるわけじゃない、という反発はありましたね。

ルパン:メロディを置き去りにして、代わりにほかの子が出たから勝てなかったんですよね。みんなはそれがわかって後悔したんでしょうね。9位のトロフィーなんていらない、と言ったメロディは毅然としていてかっこよかったです。ただ、メロディ抜きでも優勝していたらどうなったんだろう、ということがちょっと気になりますが。

レン:コンクールに関しては、予選大会のときにメロディに注目が集まって、彼女にとってもそれが本意ではないのに、みなとの間がぎくしゃくしてしまう。そこは、そうだろうなと思います。

イバラ:先日『みんな言葉を持っていた〜障害の重い人たちの心の世界』(柴田保之 オクムラ書店)という本を教えてもらったのですが、気持ちを表に出したり伝えたりするのが無理で、思考がないんじゃないかとさえ思われていた重度の障碍の方たちでも、コミュニケーションの方法が見つかれば、気持ちを伝えることができるんだそうです。

レン:『みんなの学校』は大阪市内の大空小学校を1年にわたって撮ったドキュメンタリー映画ですが、あの学校にはいろんな子どもが通ってましたね。私の子どもの小学校にも車いすの子が通ってました。でも、担任の先生がその子だけに手をとられることができないので、お母さんがずっとつきっきりでした。

パピルス:登場人物の設定やストーリーが良い意味でも悪い意味でもシンプルでわかりやすく、さっと読めました。クライマックスで妹が交通事故に遭いますが、あそこは無くても良かった気がします。とってつけたようで、映画化でも狙ってるのかな?と勘ぐってしまいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


2015年04月 テーマ:家族

日付 2015年4月23日
参加者 花子、ハリネズミ、ヤマネ、レン、きゃべつ、ルパン、アンヌ、レジーナ
テーマ 家族

読んだ本:

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はじまりのとき

きゃべつ:こんな重い内容の本とは思いませんでした。ほかの国で起きた戦争の伝えかたとして、こういう方法があるのかと興味深く読みました。基本的には、女の子の視点で身近なことだけを書いているので、読んでいると、その環境に身をひたした気持ちになります。食べ物や学校生活もきちんと描かれているし。細かいことですが、マージンの取り方が気になりました。横書きでもいいけど、やっぱり少し読みにくい。内容は新鮮でした。英語がわからないので馬鹿だと思われるというところとか、マイノリティーとして異文化に入りこんだときのギャップがうまく描かれていますね。ただ、文化を知らないために、読み解くことができないところも多かった。

ハリネズミ:散文詩ですべて説明されているわけではないので、わからないところもありますが、難民としてやって来た人が自分の言葉で語っているのがいいと思います。アメリカっていろんな立場の人がいて、ALA(アメリカ図書館協会)はマイノリティの人たちの文学もちゃんと認めて賞をあげて、普及させようとしているのがいいですね。白人でもいろいろな人がいて、ミセス・ワシントンや「カウボーイ」のようなまるごと善意の人もいれば、「カウボーイ」の妻のように途中までは白い眼で見ている人もいる。それも、ちゃんと書かれています。ただアメリカで出ている作品は、アメリカを悪く書かないですね。ベトナム戦争では、アメリカは枯れ葉剤をまいたり市民を大量に殺す北爆をしたりと、さんざんひどいことをしているし、南ベトナムのゴ・ジンジェムの政権は腐敗していてどうしようもなかったわけだけど、この本ではホー・チミンが悪者になっている。南ベトナムから逃げてきた難民の子どもの視点だから、どうしてもそうなるのかもしれませんね。

きゃべつ:助けてくれるのは、アメリカの船ですからね。

ハリネズミ:主人公の父親は、その腐敗政権で要職にあった人なんですよね。

ヤマネ:すずき出版の「海外児童文学」シリーズは、海外の子どもたちの姿を描いた重いテーマの内容が多いのですが、この本はまず表紙が美しくて、重い印象がありませんでした。ただやはり内容は、戦火のベトナムを逃れて難民としてアメリカにわたった家族のお話なので重いんですけど、横書きの日記風になっているので、それほど重く感じないで読めました。マララさんの手記(『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』道傳愛子訳 岩崎書店)でも感じましたが、ひとりの女の子として考えていることや悩みや喜びは変わらないということが伝わり、遠く離れた場所にいる主人公を身近に感じられるように思いました。またたとえば、自分の悲しい気持ち(涙)を、パパイヤの種が落ちる様子で表現しているところなど、文章が詩的で美しいですね。近年、こうした横書きの本が増えているように感じます。メールも横書きだから、今の子どもたちは横書きの方が読みやすいところがあるんでしょうか。

きゃべつ:ケータイ小説は横書きだったけど。

アンヌ:最初は、横書きのブログのような日記という感覚でスラスラ読めると思っていたのですが、ふとこれは詩なのではと気づいて、じっくり読み込んで、その美しさを味わって行きました。ベトナムについては、同じサイゴン陥落時を描いた『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一著 文藝春秋社)しか知らなかったのですが、その中でベトナム人の特性として植物との強い親近性が描かれていて、印象に残っていました。この本にも植物の種が贈り物として描かれている場面があって、ああ、やはりと思いました。アラバマでのいじめの場面は、読んでいてつらく感じました。それと、この子が熟れていパパイヤを捨てた場面には驚きました。

ハリネズミ:私は、このパパイヤは象徴的な意味あいも持っていると思います。故郷を恋しがるようにその味を夢見ていたのに、もらったのが本物の味とはほど遠い乾燥パパイヤだとしたら、捨てる気持ちはよくわかります。でも、くれた人の善意を否定しているわけではないので、あとで拾おうとするんですよね。

アンヌ:主人公はかなり感性が研ぎすまれた少女で、勝ち気です。食べ物への感じ方も違うんでしょう。少年にいじめられると分かっていても、自分がわかっている答えを書いてしまうところとか、自分への矜持を持った少女だと思いました。3人の子どもたちをエンジニアと医者と詩人と護士にしたがっているお母さんは娘が弁護士に向いているなと思っているのに、詩人になるだろうなという予感で終わっていく章が、とてもいい感じでした。

ルパン:私もいいなと思って読みました。横書きだったので、手に取りづらい感じがしましたが、読み始めたら一気に読んでしまいました。難民の子どもである主人公が、プライドを忘れないところが気に入りました。物質文明のアメリカに来て、素直に喜べばいいところでも、食べ慣れていたものと違う、と思う箇所や、お祈りの場面や、ベトナムのものを大事にしていて、それを自分の感覚として持っているところに、好感が持てました。

レジーナ:3年前に全米図書賞をとった時、英語の試し読みで数ページ読んだことがあり、今回一冊通して日本語で読みました。詩は、実感として受け止められないと理解するのが難しいですが、この本は散文詩の形で自然に書かれていて、すらすら読めました。横書きなのが気になりましたが、日記だと思えばいいのかもしれません。アメリカで生のパパイヤが食べられないのは、この本の時代が数十年前で、輸送事情が今とは違うからですね。主人公は、ベトナムにいた時に隣の席の子をいじめたり、アメリカに来て悔しい思いをしながらも、いじめっ子に立ち向かっていったりする少女です。芯が強く、勝気なんですね。この本では、本人の努力と家族の理解があり、また息子をベトナム人に殺されても、主人公の家族に温かく接するミスェスゥ・ワシィントン、お金をもらってはいるけれど、お金だけのためだけではなく細々と世話をやいてくれるカウボーイなど、周囲に支えてくれる人がいて、主人公はアメリカの社会に溶け込み、作家として成功できましたが、これは非常に幸運なケースです。実際にはヨーロッパでも、言葉でつまずいた移民の人が学校をドロップアウトし、仕事に就けず、貧困の中でISに行ってしまう。一方でそういう人々がたくさんいることを、心に留めながら読みました。p166で、自転車のバーに座るというのは、自転車のハンドルとサドルの間ということでしょうか。

レン:おもしろかったけれど、散文でたたみかけるように事実を説明することがないので詳しいことがわかりません。子どもが読んで、なんのことかわかるのかなと思いました。右も左もわからない場所に放りこまれて、言葉ができないために馬鹿な子と思われたり、習慣の違いからからかわれたりする悔しさなど、イメージは伝わってきますが。かなり読者を選ぶ本だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


ラ・プッツン・エル〜6階の引きこもり姫

レン:自分からは手にとりそうにない本だったので、今回読めてよかったです。ただ、この子自身が否定しているからでしょうけれど、いきなり状況だけ語られて、主人公にしてもレオくんにしても、家族との関係性が見えてこず、入っていけませんでした。事実の積み重ねより、だれかの説明で理由が語られてしまうことが多くて、はぐらかされた気分になって。現実感に乏しい感じがしましたが、登場人物と同年代の読者は主人公によりそって読めるのか疑問に思いました。私が苦手なだけかもしれませんが。

レジーナ: 主人公は、おとぎ話の主人公になりきり、自分の世界に閉じこもってしまう中二病です。きっと現実もそうなのでしょうが、主人公の暴力性の原因は、はっきりとはわかりません。自分でもどうしていいかわからない、モヤモヤとした中学生の気持ちを表そうとした作品ですが、火事の場面はご都合主義ですし、ほかにも矛盾を感じる箇所が多くありました。「自分の耳に聞こえるものだけを信じる」と言いながら、音楽プレイヤーを破壊していますが、音楽も「耳に聞こえるもの」ではないですか? 音楽を含め、現実逃避になるようなものは排除するということでしょうか。リモコンも壊していますが、主電源を入れれば、テレビは使えますよね? 母親が作ったお惣菜の味に、ずっと気づかないのも不自然です。心に問題を抱えた人の中には、自分のストーリーを作り上げる人もいますが、この作品も、人の心の中の、道理や理屈の通じない世界に分け入っていくようで、読むのに体力を使いました。p198に「よろめいたとたん、隣の601号室の窓を破ったのかその振動で、棚が倒れてきた。」とありますが、何が窓を破ったのでしょうか? 人がよろけた衝撃で、窓が破れるわけはないですし。もう少し、文章を練ってほしかったです。

きゃべつ:この本は、私が関わった賞の最終選考にも残りました。この本の閉塞感は、中高生読者にとってリアルなのではないかと思います。世界から疎外感を覚えて、自分だけが違う(特別な)存在と思いこんでしまうところなどが。でも、魔王が実際に何をしたのか、どうしてこうなったのか、もう少し説明が必要なのでは? p15に、妻は実の母親だと書いてあるけれど、その後で、弟を「妻の息子」と書いているので、後妻なのかと疑ってしまいました。リーダビリティはあるけれど、瑕疵もまた多い作品だと思います。最後のシーンで、レオが消防服を着て助けにいくのは、すごく不自然。そして、あれほどまでに家族を憎んでいた姫が、母親がずっと自分を気遣ってくれていたことに気づいた瞬間に、悔い改めるなんて単純、と思ってしまいました。

レン:グリムのラプンツェルのお話が、最初にもう少し説明されているといいですよね。

ルパン:こういう魔王みたいなタイプの変な人って、実際いるんですよね。そういう人が家族を持つとどうなるか……身近な実例と重ねて読んでしまいました。娘に「魔王」と呼ばれるこの父親が、一番、キャラが立っている気がします。

アンヌ:お父さんから、かなりの虐待を受けていると感じました。内側から、窓もドアも空けられない仕組みはひどいと思いました。お母さんが、鍵を架け替えたのに、ドアが開けられるようにしておかなかったのは、不自然な気がします。

ハリネズミ:お父さんは遠いアメリカにいるのに、お母さんは助けてあげないんですよね。

アンヌ:お母さんが作った料理だということに気づかなかったのは、最初のうちは寝てばかりで、あまり食べていなかったり、興奮状態でいたりしたからだろうと思ってあまり矛盾を感じませんでした。これに対して、少年が、他人に対して自分を開いて行く過程が、もう一つ釈然とはしませんでした。特に、火事現場では、運動もしていない体力のなさそうな少年が、棚をどけたり、姫を抱き上げたりするのは、あまりにリアリティがなさすぎると思いました。例えば、いつも隠していた左手で抱き上げるのはいいけれど、同時にその左手で姫とハイタッチするというのは、いくらなんでも無理だろうと思います。駐車場の少年をいじめる同級生に6階のお風呂場から水をかける場面も、いったいどんなホースなら水が届くのだろうと不思議に思いました。

レン:なぜホースが家にあるのかも不思議。

ヤマネ:名木田恵子さんといえば、講談社青い鳥文庫で出ている『天使のはしご』や『星のかけら』などが、小学校高学年の子どもたちによく読まれていて人気の作家という印象がありました。ただ『星のかけら』のあらすじを読むと、事件の連続でストーリーが激しい印象があったので、こちらの作品はどうなのかな?と思い読み始めたんでっす。思っていたよりもずっとおもしろく読めました。皆さんの指摘にもあるように破綻しているところもありますが、エンタメと思えばそれほど気になりません。おとぎ話のラプンツェルをモチーフにしていることもあり、主人公が登場人物を「魔王」「魔王の妻」「カラス男爵」など物語に出てくるような呼び名で呼んでいたところもおもしろかった。p20で、主人公が心理カウンセラーの肥満椙世さんに「告白していないことがある」とあり、それが何なのかずっと気になって読んだのですが、結局最後まで分からなかった。主人公がひきこもった決定的な原因があるのだろうと思っていたんですが、最後までそれが分からないままだったのが残念です。母親が、閉じられたマンションの部屋に、双眼鏡やお気に入りのティーカップを置いていったのは、娘に対する愛情ではないかと思いました。客観的におもしろく読む子もいるだろうし、何かを抱えている子にとっては、共感する部分があったり、何か救いになる部分があるのでは?と感じました。

アンヌ:全体に話がするするとほどけていかない感触でした。

ハリネズミ:私は、潔癖症の男の子にはリアリティを感じたんですけど、姫のほうは、どうなんだろうと疑問でした。父親が暴力をふるっていたためにこの子がおかしくなってしまったという設定だと思いますが、この子の独白には異常なところはほとんどないんですね。だから、父親が不在になった今は、すぐに立ち直れるんじゃないかと思ったんです。それに、長いホースでジャクを助けたり、自分でつくったロープでカラス男爵たちとも服やタオルを渡したり返してもらったりして、それなりのコミュニケーションを取れるようになってるわけですから、かなり立ち直ってるのに、メールができないという設定も不自然に思えます。
 実のお母さんが食べ物を持ってきたりしているのに、相変わらず窓もあかない、ドアも内側からあかないままなのも、不自然に感じました。それと、ホームレスのカラス男爵が姫からいい服をもらって単純に感謝しているように書いているのは、作者の人生観・世界観が浅いせいかな、と思いました。最後も安っぽいメロドラマみたいで、いただけない。作者には困難を抱えている子に寄りそおうという意図はあるのでしょうが、こんな物語では、救われないと思います。外側から猫なで声で何か言われている薄気味悪ささえ感じてしまいました。

花子:作品全体のパワーを感じました。ゲームのようなシチュエーションから始まって、ぐいぐい引き込まれます。中二病の気持ちで読んでいくと、おもしろいです。他人との関わり方もゲームみたい。だけど、お金持ちで何でも与えられ何でも可能なのが、非現実すぎて気に入りませんでした。作品の賛否はありますが、実際似たような状況で少女が友達を殺してしまう事件もありました。レオくんの成長譚も良いと思いましたが、火事は必要だったのか疑問が残ります

ハリネズミ:父親のDVについては、ノルウェーの絵本も翻訳されていますね。『パパと怒り鬼』(グロー・ダーレ文 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり・青木順子共訳 ひさかたチャイルド)という絵本ですが、ほかの家族が父親に脅える気持ちがよく出ています。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー

レジーナ:昨年スコット・オデール賞をとった時から、興味があった本です。エスキモーや鉱夫という、文化的背景の異なる多様な人々との交流が、幼い少女の目を通していきいきと描かれています。さびれた金鉱の町での、心の浮き立つような日々の喜びが伝わってきました。温かな挿絵は文章によく合っていて、とても魅力的です。読者になるのは、小学校中学年から高学年の子どもでしょうか。主人公が幼いので、年長の子どもは共感しづらいかもしれません。大人が読み聞かせてあげれば、年少の子どもも楽しんで聞けると思うので、手渡す側に工夫が必要だと思いました。気温が上がると雪が降ることや、エスキモーの人が足を伸ばして座る様子など、知らないことも多くありました。以前、調べたところ、作者はアラスカ出身で、多くの本の中で、アラスカが誤って捉えられていることに不満をおぼえ、創作を始めたそうです。そう考えると、日本語版のタイトルにはアラスカという地名が入っているのが、いいですね。アービッドとジャックは同性愛者ではないかと考える読者もいたようですが、作者にそうした考えはなかったようです。ジャックの口調で「おいら」となっているのが、気になりました。ひと昔前のテレビや映画の字幕は、黒人の口調が白人に比べると荒っぽく訳されることがありましたが……。p250で、ウナクセラクがナクチルークの夫だと分かりますが、ウナクセラクの名前は、もっと前の箇所にも出てきているので、この説明がもっと早くにあれば、わかりやすいのではないでしょうか。p215で、「冬にぬれた服を着るほど最悪なことはないと、ボーはジャックとアービッドに教わっていました」とありますが、ジャックとアービッドから聞いて、ボーはちゃんと知っていたということなので、もう少しわかりやすい表現の方がいいように思いました。p31で、赤ん坊のボーが「顔の片っぽでにこっとした」とありますが、どのように笑ったのでしょう。それから、p253の「この人がだれかっていうのを調べるのが、こんなにたいへんだとは思わなかったよ」で、「この子」ではなく「この人」となっているので、これは父親について言っているのでしょうか?

アンヌ:この人というのは、男の子のお父さんのことじゃないですか?

ルパン:「よしきた」っていうくらい好きな作品です。最近使われなくなった「エスキモー」という言葉が出てくるのも、なつかしい気もちで読みました。小さいときに、そういう人たちがいるんだと思った、と思いをはせた言葉です。童心に帰って読みました。うちの文庫の子たちも、5、6年生なら読むと思います。地域の人たちがみんなでボーをのびのび育てているところがたまらなくいいですね。ラストシーン、みんなが別れてそれぞれに旅立つシーンでは、感情移入しすぎて、泣きたくなるほど寂しく思いました。

アンヌ:物語の中に食べ物が出てくるのが好きなので、このエスキモーのアイスクリームについて、早速ネットで調べたりしました。でも、物語の中でこの食べ物についての説明はあるのですが、実際に作ったり食べたりする場面はないので、注があってもいいのではと思いました。アメリア・イアハートの写真や初めて飛行機がやってきたとあるので、日本では昭和初期に当たる時期だな、と大人にはわかってくるのですが、子供の読者のためには、やはり注があってもいいと思いました。エピソードが盛りだくさんで、各章は濃いけれど、物語性において、何か物足りない気もしました。特に最後は、とてもあっさりと移住の話になるので。ここは、第2巻に続く期待を持たせる感じなのでしょうか。弟になる少年が喋らないのは、お父さんの耳が聞こえなかったからだけではなく、先住民だからその沈黙で民族性を表しているのかなと思いました。登場人物が大勢いるので、エスキモーの名前なのか、鉱夫の名前なのか、よくわからなくなって、混乱しました。

きゃべつ:いちばんかわいそうなのは、犬のドッグ。そのまますぎて。

ヤマネ:じっくり味わいながら読める作品でしたが、いまいちお話の世界に没頭できず、夢中では読めませんでした。見返しのあらすじのところに、ポーにちょっと変わった方法で弟ができるとあったので、それはいつ出てくるのだろうと思ったらかなり後ろの方でしたね。でもその弟になる小さな男の子が出てくるところから、先が気になってぐっとおもしろくなっていきました。アービッドとジャックがとてもいい大人で、愛情深くボーを育てている様子が良いですね。ボーがお母さんを恋しがる場面が全くないのが不思議だと思いましたが、地域全体で育てているから、寂しさを感じないのでしょうか。全体としてほのぼの温かい雰囲気に包まれていて、ボーがクマに襲われるところも、あまりハラハラせずに読めました。そうそう悪いことは起こらないだろうと思わせるような幸福感に包まれたお話なんですね。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。テイストは、ローラ・インガルス・ワイルダーですね。でも、こっちはお父さんが二人。しかも一人のお父さんはノルウェーからやって来た人で裁縫がじょうず、もう一人のお父さんはアフリカ系で料理がじょうずというのがいいですね。それだけでなく、村には多様な背景や文化をもつ人たちが一緒に暮らしていて、助け合っている。生みの母に捨てられて二人のお父さんに引き取られたボーのことも、エスキモーをはじめとするみんなが助けてくれるんですよね。そのあたりはインガルス・ワイルダーと違って、新しい家族が描かれているし、先住民への尊敬もあっていいですね。私は暮らしをていねいに描いたこういう作品は大好きですが、若い人のなかには、ヤマネさんのように、事件が起こらないからつまらないという感想をもつ人がいるのもわかります。気になったのは、ボーが5歳なのに5歳とは思えない言葉遣いをあちこちでしていたりするところ。p48などは、もしおしゃまだから言っているのであれば、もう少し訳し方に工夫があればいいな、と思いました。絵がその風土ならではのことを伝えながら日本の子どもにもじゅうぶん受け入れられるので、とてもすてきです。書名はちょっと地味で、手にとってもらえるかな?

花子:(編集担当者):1920年代の話ですが、新しい地域社会、家族像が描かれていると思います。二人の父さんたちが娼婦の生み捨てた子どもを拾い、社会全体で育てています。国も言葉も違う人たちが、物のない時代に、円滑なコミュニケーションを取り社会を形成しているんですね。原書は子どもの書いたような短い文が続く厚い本だったので、挿絵を小さくしたり、改行を工夫したりしたものの、はやりボリュームが大きくなってしまいました。長いので対象を5、6年生以上としたんですけど、主人公は5歳で、現地のエスキモーと鉱夫の間で通訳のようなことをやったり、ラブソングも分からないなりに理解したところで話したりしています。小さな子にも読んでほしい本ですね。「エスキモー」という表記については、2巻目に著者が注釈を入れているので、それを本書に使用させてもらいました。自らを「エスキモー」と呼ぶ人たちがいる、とのことなので。文中のできごとはリアリティがあり、地名もバラードクリーク以外は、実在します。少し変わった感じの、温かいストーリーだと思います。

ルパン:読み終わったときには、ぴったりくるタイトルだと思いましたが、子どもは手にとりづらいかもしれませんね…。

きゃべつ:日本のいまの児童書にはない、ゆったりとした時間が流れています。もしかしたら、日本の児童書は、なにか盛り上がりがなければならないと、物語に起伏を求めすぎなのかも知れません。オラフの家に行く、というとても小さなできごとに、3章も使ってます。大人が読んだら、まどろっこしいところもあるかもしれませんが、子どものときの世界観って、これくらいの大きさだったよなあと懐かしくもなります。鉱山が閉まって、みんなが失業するシーンも、あまり暗くならないよう引き算されていて、好印象でした。名前の出し方は、翻訳物でなじみにくい名前ばかりが出てきて、登場人物も少なくない、というときには難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


亀山亮『戦場』

戦場

『戦場』をおすすめします。

「戦場カメラマン」と呼ばれる人たちも、いろいろです。生と死の間をかいくぐる体験を積んでいるうちに刹那的になる人もいれば、逆に哲学的になる人もいます。その体験をくぐり抜けて自分のやりたいことを見つける人もいるし、その体験を売り物にしてバラエティ番組で稼ぐ人もいます。

本書は、そんな戦場カメラマンの一人であり、戦場で片目を失った著者が、「若い頭と心」で見聞きした戦場と、戦争にさらされた人たちを写真と文章で描いています。取り上げられているのは最初がパレスチナで、あとは主にアフリカの国々。恐怖やとまどい、迷いや悩みも書かれているので、若い読者たちも、身近なものとして読めるかもしれません。

多くの戦場カメラマンたちは、日本ののんびりした日常と、戦場の緊迫感の間でとまどい、どちらが本当の現実か考えたりいらだったりし始めます。そのあたりも、あえて整理せず迷うままに書かれているのがリアルです。それと同時にこの著者は、戦争は憎しみや差別が引き起こすものというより、経済・政治のシステムが引き起こすものではないかということに気づいています。たとえばこんな文章。「爆撃で人が死ねば死ぬほど莫大な利益を得てほくそ笑む人間たちが存在する。巨大な経済システムがうごめいて、知らないあいだに人々は殺す側と殺される側に隔てられていく」。

そう、戦争をとめようと思ったら、「戦争をさせている力」について考えてみることが必要なんですね。この国の政治家が言っていることを鵜呑みにしていたのでは、ますます戦争に近づいていきます。総理大臣が唱える「積極的平和主義」にちょっとでも疑問を持った人には、特におすすめです。

(「トーハン週報」Monthly YA 2015年4月13日号掲載)


2015年03月 テーマ:動物と共にある暮らし

日付 2015年3月19日
参加者 ハイジ、ルパン、アンヌ、レン、レジーナ、アカシア、ヤマネ
テーマ 動物と共にある暮らし

読んだ本:

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フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 『シャイローがきた夏』

シャイローがきた夏

レジーナ:主人公が、犬を飼いたいとどれほど強く思っていて、シャイローのことをどれほど大切に思っているか。シャイローと心を通じ合わせていく過程が丁寧に描かれているので、最後にやっと犬らしくほえて喜びを表す場面が、胸につまりました。主人公の首筋に妹が顔をくっつけ、まつ毛をパチパチさせるのを「バタフライ・キス」と表現していますが、素敵な言葉ですね。岡田さんの挿絵は、温かでな物語の雰囲気によく合っていますね。いかにも西洋といった雰囲気に描かれていないので、日本の子どもも親しみやすいのではないでしょうか。

ハイジ:隠して飼うというのは、大変だけど、楽しかったのでは。ジャドが約束を守ってくれるかわからないのに、マーティがちゃんと働くところが、尊敬できました。

ルパン:私もそう思いました。最後に、ジャドも根はいい人だとわかって、読後感がとてもよかったです。

レン:ちょっと前に読んだので、細かいところを忘れてしまったのですが、いいなと思ったのは、男の子の気持ちに添って読めたところ。それと、大人の姿がくっきり描かれていること。ジャドも、両親も。大人の世界がきちんと描かれているのが、翻訳もののいいところですね。そして、日本の親子だったら、なかなかしないような会話が出てきます。英語圏だと、こういう会話を日常的にだれもがするのかはわからないけれど、自分の意見をきちんと言い表しています。いい意味で新しい世界を見せてくれると思います。

アンヌ:最初に読んだ時から、ラストのジャドの言葉にひかれました。善悪を決め付けるのではなく、曖昧さを許しているところが、意外でした。何度も読むうちに、もう、ジャドの気持ちになって読んでしまいました。普段は犬以外に誰もいない生活の中で、毎日主人公の少年と話す。すると、自分の子供時代の寂しさをつい口にしたり、虐待していじめるつもりが、水を用意したりするようになる。最後に、首輪を差し出す時のセリフには、シャドの代わりに泣きたくなりました。また、主人公の周りの大人たちの描き方も意外でした。狭い共同体の中で生きる大人たちは会話の仕方も独特で、直接話し始めるのではなく、回りくどく話しながら本題に入る。生活に困っている人のために、こっそりパイとかケーキを郵便ポストに入れてささやかな生活の援助をしようとする。なんだか白黒はっきり決めつけるようなところがなく、私自身のアメリカに対する偏見が、変わりました。

ヤマネ:とても好きなお話でした。主人公の男の子の気持ちになって読めるところが良いと思いました。シャイローを守るために、周りにどんどん嘘をついて苦しくなっていったり、お母さんに知られてしまってハラハラしながらも少しほっとするようなところなど、子どもの気持ちがよく描かれているので、読む子どもたちは主人公に深く共感しながら読めるのではないかと思いました。小学校高学年の子にぜひ薦めたいと思います。“日本の児童文学は、宗教と政治を書かない”と言われているようですが、p86で主人公の友達のお母さんが、普通の会話で、主人公に選挙の結果の話をしていて、このへんのところは日本の物語にはない要素だなと思いました。

ハリネズミ:私もとても好きな作品です。以前は同じ作品が『さびしい犬』(斉藤健一訳 講談社)というタイトルで出ていましたね。表紙に、ジャドと思われる人の顔にビーグルの胴体がついている絵が載っていて、私にはちょっと不気味でした。今回はイラストも変わって、原作のさわやかさがよく出ていますね。これはシリーズになっていて、続きがあるようです。日本ではまだ一巻目しか出ていませんが。映画化もされて、アメリカではとても人気がある作品のようです。約束はきちんと守るとか、自分でできることは子どもでもちゃんとやるとか、アメリカがもつ価値観の肯定できる部分を体現した作品だと思います。

アンヌ:いきなり主人公の少年がライフルを持って散歩し始めるのは衝撃でした。銃で撃たれたウサギの肉を食べるのもためらう性格なのに、ライフルを打つ練習をするのが日常というところに、銃社会を感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


机の上の仙人〜机上庵志異

ヤマネ:本を手にした時には、タイトルから漢字続きで難しい話かと思いましたが、読んでみたら、はじめの作家の大そうじの部分からおもしろく、ひきこまれました。少し読んでいくと小さい仙人が出てきたので、「コロボックル」シリーズのように小人が出てくるお話なのかなと思ってワクワクしました。異界のものがたくさん出てくるところがおもしろかったです。岡本順さんの絵は佐藤さとるさんが描く不思議な世界にとても合っていると思いました。

アンヌ:初めて読んだときは、再話かとがっかりしたんですが、2度目には、再話には、作者が物語のどこに感動し、自分の物語を構築したか、作者の秘密を見つけることができるような気がしてきて、できるだけ原典に当たって読み直していきました。この中で私が見つけられたのが、『小奇犬』と『侏儒の鷹狩』については『小猟犬』、『石持の長者』については、『石清虚』で、この二つは、最近の怪奇小説のアンソロジーにも選ばれていますし、私も子どもの頃に読んだことがあって大好きな話です。違いは、小さな犬が、原典ではただ残されるのですが、こちらでは、はしゃぎ切っていて仕方ないから預かるとか、リアリティのある感じになっています。さらに犬のねぐらが、どうも古くて表紙の読めない『聊斎志異』らしい本のようだ、とか、うまく変わっています。原典では、最後に寝台の上で主人公が寝返りを打ったとたん、子犬が紙のようにぺちゃんこになってしまうという終わり方なので、この『侏儒の鷹狩』のように、いつの間にか消えていく方がいいなと感じました。『石持の長者』は、岩の中の文字と、最後の方がごたごた話が続くのをすっきりと終らせているのが違う点です。原典では、狐や遊女の話が多いのですが、こちらでは、夫婦愛に変えてある物語が多いと思いました。特に、『衛士の鴉』と『侍女の鴉』の原典の『竹青』は、主人公には別の妻がいるので、鴉の妻が「私は漢水の妻でいい」といいと言ったり、子どもができたりいろいろあるのだけれど、こちらの二つの物語は鴉への変身と、空を飛ぶことへの憧れに物語をそぎ落としてあって、実にすっきりとしたものとなっています。最後まで読んだ読者が、中国にはこんな不思議な話があるんだと知り、世界が広がっていけばいいと思います。

ルパン:うまいなあ、と思いました。さすが佐藤さとる。小人を書かせたら天下一品ですよね。コロボックル世代としてはたまらなかったです。本家本元、真打出ました、という感じ。机の上の仙人が登場したとたん、小人が出てこないかとドキドキしながら引き出しをあけたあの頃の感覚がよみがえりました。ただ、「佐藤さとる」の名前がなかったらどうかなあ? ひとつひとつのエピソードが際だっておもしろいというわけではないですが、上質の小品を読んだという満足感はありましたね。ありきたりなお菓子でも、上手な人が作ると本当においしいじゃないですか。そんな感じ。昔話の再話の仕方もほんとにうまいし、安心して読めました。

ハイジ:仙人がほんとにいるみたいでおもしろかった。短編集のようで、ひとつひとつのお話が短いので読んでて飽きませんでした。恋愛の話はとくにおもしろく読みました。動物は、昔ながらの描き方なのかなあと思いました。

アカシア:表紙の書名にもふりがながないので、小さい子は読者として想定していないんでしょうね。コロボックルを子どもの時に読んだ大人に向けて書いたのかな?

レン:読者は中学生くらいからかもしれませんね。歴史を学校で習ってからじゃないと、時代の感じがわからないから。

レジーナ:長く語り継がれてきた力のある物語が元にあり、それが上手にまとめられていて、ぐいぐい読ませますね。舞台を日本に変えているので、日本の読者にも馴染みやすいのではないでしょうか。それぞれのお話に挿絵が添えられているのがいいですね。この本と『シャイローがきた夏』(フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)、どちらも岡田さんの挿絵です。偶然ですが、一緒に見てみるとおもしろいのではないかと思います。

アカシア:これは昔出ていた『新仮名草紙』に加筆した本なんですね。原典も読みたくなりましたが、前の作品との比較もしてみたいですね。それと、どうせ創作の部分も入れるなら、この小さな犬をもっと登場させたら、もっとおもしろくなるのにと思いました。

アンヌ:最近出た佐藤さんの自伝的小説『オウリイと呼ばれたころ〜終戦をはさんだ自伝物語』(理論社)を読んだのですが、小人についていろいろな物語を探していたころに見つけた物語が体の中に残っていて、それを整理して書いておきたかったのではないかと思いました。

ルパン:名作の続きは、それぞれが心の中に持っているものですよね。百人が百通りの続きを持っているのがいいと思うんですけど。

*この後、「コロボックル」シリーズの続き(『コロボックル絵物語』 村上勉絵)を有川浩が書いているということについての話題で盛り上がる。

ヤマネ:佐藤さとるさんが、有川浩さんにバトンを引き継いだのは、中高生にとても人気のある有川浩さんに書いてもらうことで、今の中高生に「コロボックル」シリーズを読んでほしいという思いがあったのでは?

アカシア:『机の上の仙人』は、公共図書館に入っている冊数が少なかったですね。

レン:『聊斎志異』は、岩波少年文庫にもありますね(立間祥介編訳)。もちろん抄訳ですが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


太陽の草原を駈けぬけて

ハイジ:途中で終わっちゃった感じがしちゃって、えっ?て思いました。けっこう長く読んで来たのに、ここでいきなり終わるのか、って。あとがきを読まなかったらよくわからないところでした。あとがきにイスラエルのことが書いてありましたが、イスラエルではどうだったのかな、と思いました。あと、お父さんが死んだところをはっきり書いてもらいたかったです。戦争で殺されたのではないらしいのだけど、なぜ死んだのかよくわかりませんでした。

アンヌ:読み始める前には、悲惨な難民生活の物語だろうと思っていたのですが、バラライカの音が聞こえてくるような生き生きとした物語でした。特に、お母さんが魅力的で、子どもたちを守って食料を手に入れたりして生き抜くための手段が、音楽だったり、タロットカードの占いや薬草の薬づくりだったりして、魔女のようなところがおもしろかった。子どもたちも遊びながら働いていて、牛糞を拾ってきて乾かし壁上に積み上げて燃料にする。それだけではなく、そこへカッコウが巣を作り、そのヒナを手に入れて食料にする。思いがけない生活があって、とてもおもしろかった。ただし、お父さんという人については、いろいろわかりづらかったと思います。その頃のスターリン信望者の人たちのこととか、粛清とか、歴史的背景がないとわからないことが多いと思います。全体の印象としては、ゆっくり丁寧に書いてあるという気がするので、惜しいなと思いました。

アカシア:楽器が弾ける人とか、絵が描ける人は、どこへでも行って生活できそうですよね。

ルパン:歴史をよく知らないと、理解が難しいなと思いました。子どもたちは理解できるんでしょうか? お父さんはスターリンに心酔していて、お母さんは批判的なのですが、根拠がよくわからずどちらにも共感しにくかったです。でも、お母さんはなかなか魅力的ですね。私はタロット占いをしてもらって、気味悪いくらい当たったことがあるので、そのあたりは不思議なリアリティを感じました。

アカシア:私はフィクションっぽくないなあ、と思って読みました。フィクションならもっとメリハリをつけてもいいし、起伏を大きくしてもいいのに、それをしていない。ノンフィクションみたいな書き方ですよね。ところでお父さんもユダヤ人なんでしたっけ?

アンヌ:お父さんはポーランド人じゃないかと思います。p31の結婚の物語のところで、お祖父さんが土地持ちの資産家とあったので、ユダヤ人ではないと思いました。

アカシア:なるほど。この家族はポーランドから中央アジアに行くんですけど、そういえばシュルヴィッツの『おとうさんのちず』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)でも、確かユダヤ人の作者はポーランドから逃れて中央アジアで極貧の暮らしをするんでしたね。私はそっちも見ていたので、ああそうかと納得しましたが、そうでないと、どうしてそんなに遠くまで行くのかと不思議に思ったかもしれません。お父さんの死については、もう少し説明があってもよかったかな。スターリンの粛正ということを知っていれば想像はつきますが、知らないとここもよくわからないかも。あとね、後書きを読んで気になったのですが、ひとりでに紛争が起こっているわけではなくて、イスラエルが起こしているんですから、このような書き方でいいのかと疑問を持ちました。いちばんよかったのは、主人公の男の子が時には危険な目にあいながらも子どもらしく成長していく様子が、生き生きと描かれている点ですね。

ヤマネ:時間がなくてちょっと急ぎめで読んでしまったのですけど、急いで読める内容ではなかったのでもっと時間をとるべきだったと反省です。歴史や国のことなど知らないことがたくさん出てきたので引っ掛かるところも多くありましたが、冒頭に舞台が分かる地図があったので理解の助けになりました。一家は大変な状況に置かれているけれど、終始明るく描かれているのが良いなと思いました。主人公の男の子は、母親に外に出るなと言われても勝手に出て行ってしまったり、好奇心が旺盛で、とても子どもらしいと思いました。男の子が約束を破って外に出てしまったり他の人と関わってしまっても、食べ物を持ち帰ると家族が全く怒らず、喜ぶ場面に、食べるものに本当に困っていた暮らしぶりがうかがえました。牛糞のトルテやペチカがどんな感じなのかがなかなか想像できなくて気になりました。子どもたちに手渡すときには、子どもたちが読んで分からなかったところを大人がちゃんと答えられるよう勉強しなければいけないなあと思いました。

アカシア:ここに出てくるペチカは、ただの暖炉じゃなくて、オンドルみたいに上で寝られるようになってるんですね。

ルパン:私はまるっこい家を想像したのですが…それだと「中庭」がわかりにくいですね。挿絵があったらよかったのに。ペチカとかも。

レジーナ:日本語版で省略されている部分は、ドイツ語版で読みました。ドイツ語版は本文が280ページありますが、そのうちのp220以降は日本語版にはありません。主人公はイスラエルに行って、敬虔なユダヤ教徒をはじめて目にしたり、中東の食文化に馴染みがないのでオリーブの実を好きになれなかったり、冬にオレンジの実がなるのに驚いたり、様々な新しい経験をします。周りの人が、主人公は収容所から生還してキブツに来たと思う箇所や、スターリンや戦争に対して、キブツの養父母が異なる意見を持っているところからは、同じユダヤ人でも、人によって背景や政治的見解は随分違っていて、ひとくくりにできないことがよくわかりました。庭の手入れや動物の世話など、大人も子どもも役割を担い、何でも自分で作るキブツの生活や、村や家の描写も興味深く読みました。1947年のパレスチナ分割決議のニュースをラジオで聞いた人々は、喜びにわきますが、すぐに次の戦争が始まります。イスラエルに着いてハッピーエンドになるのではなく、それがまた新たな紛争の歴史へと続いていく。そういう想いが作者にあって、生まれた物語だと感じました。そう考えると、最後の部分は日本語版でもやはり必要ではないかと……。なぜ日本語版では削られたのか、みなさんのご意見をうかがいたく、今回みんなで読む本に選びました。それまで都会に住んでいたのに、文化も風習もまったく違う地にやって来て4人の子どもを育てるお母さんは、たくましいですね。バラライカを弾き、占いや薬草療法で稼ぎ、テルアビブではすっかり都会的な服装になります。家に押し入ろうとするブタの鳴き声で目覚めたり、言葉が通じない中で友情を育んでいったり、難民としての生活にも喜びや楽しみがあって、そうしたすべてを経験しながら成長していく姿に、子どものしなやかな力を感じました。普通の暮らしの尊さが丁寧に描かれているので、政治や戦争でそれが壊され、家や生活を失った時の痛みがひしひしと伝わってきますね。

レン:おもしろく読んだけど、物語として起承転結がないからか、最後を省略してあるからか、読後の満足感が今ひとつ。でも、一つ一つの描写は手触りがあって、どれも生き生きとして楽しめました。実感がある。主人公の少年が母親との約束を守れず、親の見ていないところで冒険をしたり、牛糞タルトの間からとったカッコーのひなを料理したら、弟が骨をしゃぶっていたり。多民族がいっしょに生きている感じが伝わってくるところもいいなと思いました。p157で、ムスリムの人とユダヤ人とで、服喪の習慣が同じようだと言うところだとか、p177で、お母さんのバラライカでロシア、ポーランド、ウクライナ、カザフスタンの歌を歌ったり、混ざり合っている感じが出ていておもしろかったです。お母さんのたくましさもよかったです。主人公もいろんなことを体験しながら成長していって、物がなくても工夫していくし。お話の筋を楽しむタイプの本ではないと思いましたが。最初に手ばなしてしまったクルマのことが最後に決着するというのは、いい仕掛けだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


消えた犬と野原の魔法

Photo
『消えた犬と野原の魔法』
が出ました。

フィリパ・ピアス作
ヘレン・クレイグ絵
さくまゆみこ訳
徳間書店
2014.12
原題:A FINDER’S MAGIC by Philippa Pearce & Helen Craig, 2008

フィリパ・ピアスが最後に残した原稿に、共通の孫をもつヘレン・クレイグ(ピアスの娘のサリーと、クレイグの息子のベンはパートナーで、間にナットとウィルという二人の息子がいます)が絵をつけました。本ができあがる前にピアスは亡くなってしまったのですが、文章にも、クレイグの絵にも、ピアスが愛した風景や人々がたくさん登場しています。

イギリスに行ったとき、近くのルーシー・ボストンの家までは訪ねていった(この時はもうボストンは亡くなっていて、息子のピーターさんとその妻ダイアンさんにお目にかかりました)のに、ピアスをお訪ねすることはしませんでした。ファンというだけでお訪ねするのはいかがなものか、と変な遠慮が働いてしまったのです。もともと私は、作家にサインをもらったり一緒に写真を撮ったりするのも苦手なほうです。

本書は、表紙の左下に出ている少年ティルが、行方不明になった犬(表紙のまん中に出ていますね)を、右下の不思議なおじいさんの助けを借り、野原の家に住む二人のおばあさんたち(ピアスとクレイグがモデルのようです)にも手伝ってもらって捜すというストーリーです。

今はやりの、展開が早く刺激の多い作品とは違いますが、味わいの深い作品になっています。ピアスは、人間の心理をとてもじょうずに、しかもユーモアとあた
たかさをこめて書く作家で、私が大好きな作家の一人です。編集者としてもかかわらせてもらい、今度は翻訳者としてかかわったことになります。
(編集:上村令さん 装丁:森枝雄司さん)


2015年02月 テーマ:死と向き合う

日付 2015年2月19日
参加者 レン、ajian、アンヌ、レジーナ、アカシア
テーマ 死と向き合う

読んだ本:

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真夜中の電話〜ウェストール短編集

ajian:これはとてもおもしろかったですね。これだけおもしろいと「おもしろい」以上の感想が出て来なくて困ります。どれもよかったけれど、「吹雪の夜」が一番好きかもしれません。猛吹雪をようやく切り抜けたと思うと、今度は子どもが産まれそうで、たいへんな状況が次から次につづく。最後はホッとしますが……。吹雪のなか、火を焚く場面で、「男は臆病だからこそ命を危険にさらすことができるのだ」とあるじゃないですか。しびれますよね。こういう断定が、くさくならずに説得力を持っているのはどうしてなんでしょうね。ウェストールがそういうなら、そうなんだろうなあ、と……。ほかに印象に残ったのは「ビルが見たもの」でしょうか。目の不自由な人が感じる世界を詳細に、リアルに描いている。これもページをめくらずにはいられない展開です。そして短いなかに、寂しさや、うち震えるような怒りや、感情の濃密な部分が克明に描かれている。収録作がこれだけバラエティに富んでいるのもすごいですね。ゴーストストーリーも、ハートウォーミングな話も、ほんとうにどれもおもしろかった。

レン:先月、原田さんの朗読会に行きました。短編集ができるまでの話などもお聞きしましたが、それはこの本の後書きに詳しく書かれていますね。人間って、どこに行っても変わらない。ぶざまなことをしたり、いい加減だったりしながら生きているというのがうかびあがってきて、ひとつひとつの話がおもしろかったです。原田さんの訳は丁寧で、それでいて男っぽくてすてきでした。日本のオリジナルでこういう本が出るというのはいいですね。さすが徳間書店児童書20周年です。10代の心理がよく描かれているので、高校生に読んでほしいです。大人の外国文学への橋渡しにもなりそうです。

ajian:あ、あと好きだったのは「最後の遠乗り」です。主人公の最後の独白部分。「おれはこの先も、少しずつジェロニモから遠ざかっていく。そして、髪にカーラーをつけ、油ぎった熱い包みをかかえてフィッシュ・アンド・チップス屋から出てくるばあさんたちに近づいていくんだ。電気屋のショーウィンドウをのぞきこんでいる中年男たちに……」。中年に近づいている自分としては、この台詞、非常に身にしみて感じます。

レン:細部がリアルですよね。ちゃんとみんな体験してきた人なんだろうなと思いました。やわらかい羊のフンが、踏むとつぶれて靴につくところとか。線を引いておきたくなるような、いい言葉もたくさんありますね。p106に「夜中、ビルは眠れぬまま横になり、不安に思うことがある。世界じゅうの人たちがあまりに排他的になり、真の平和は日々遠のいているのではないかと……。」とか、今読んでもドキリとしました。

レジーナ:中学の時に、ウェストールの『海辺の王国』(坂崎麻子訳 徳間書店)を読みました。当時、中学生向きの読み物はあまり見つけられなかったのですが、この作品は甘いハッピーエンドで終わらせず、少年の成長していく姿をしっかり書いていて、とても心に残りました。すぐれた作家の中には、長編はすばらしくても、短編になると弱くなってしまう人もいます。ウェストールは、長編も短編も書ける作家ですね。それぞれの話は、登場人物の年齢も、置かれた状況も全く異なりますが、どれも人間の生きる姿を伝えています。特に好きなのは、「吹雪の夜」と「ビルが「見た」もの」。吹きすさぶ風や吹雪の激しさは、ロンドンの都会ではなく、まさにイギリスの北方の厳しい自然ですね。土地の描写に、力があります。p165に「革ジャンの背中のベルト」とありますが、革ジャンにベルトはついているのでしょうか?

アンヌ:「吹雪の夜」は本当におもしろく、イギリスの獣医ジェイムズ・へリオットの著作の中のイギリス高地の物語を思い出しながら、何度も読み返しました。

レン:私たちは、あまりに多くの情報にさらされて、感覚が鈍って、こういう観察眼を持てなくなっているように思いました。

アンヌ:ただこの短編集にあるホラー3篇は、他の物語に比べて、そんなに見事な出来だとは思いませんでした。最初の「浜辺にて」も、夢落ちで終わっているし、「真夜中の電話」も、ハリーが幽霊と20年も電話し続けているというのが少し納得がいきません。最初はいろいろ調べたというのに、メグのように引きこまれたりはせず、幽霊も手出ししないで、毎年繰り返していたのはなぜかとか、疑問が残ります。「墓守の夜」も、設定が、ピーター・S・ビーグルの『心地よく秘密めいたところ』(創元推理文庫)と、同じなので

アカシア:とてもよくできた短編集だと思いました。「真夜中の電話」だけでなく、ひとつひとつの話が、「生きること、死ぬこと」を考えさせますね。描写もリアルです。私はホラーとは思わなかったんですけど、「浜辺にて」では、アランも死んでいるのかと少し思っていまいました。バイクで疾走する場面とか、サマリタンが電話を受ける場面とか、屋根裏に潜んでいるお父さんを見つけた場面など、自然描写も心理描写も情景がありありと思い浮かぶように書かれているのがすばらしいです。翻訳もうまい。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


さよならを待つふたりのために

ajian:ジョン・グリーンは学生時代に、 病院付きの牧師として働いていたことがあるそうです。そのときの体験も元になっているらしい。

アンヌ:最初に読んだ時、とてもリアリティがあったので、誰か患者さんのブログを基にしたものなのかなと思いました。誰かが癌になったと聞くと、他の病気とは違い、もうその人は一つの橋を渡って別の世界に行ってしまったように思う人がいますが、この作品では、死というのはすべての人に訪れるものだということを最初に主人公の口から言わせていて、そこがとてもいいと思います。アイザックが、立ち去った恋人のモニカの車に卵をぶつける場面もとてもいい。たとえ、がん患者であったとしても、悟りきった向こう側の世界の人間などではなく、怒ったり恋をしたり、死ぬ寸前まで普通に生きているのだということを語っています。サポートがあれば旅行にも行けるし、病気になっても自分は自分なのです。死ぬのはみんな同じ。恋もするし、その過程に意味があるのだと言っている物語だと思えました。少し気になったのは、母親がモニカの死後も生き抜くために、社会福祉の学位をとってソーシャルワーカーになる勉強をしていることを、ヘイゼルが知って喜ぶところ。ここは逆に、ヘイゼルがあまりに自分の死後について物分かりがよすぎるのではないかと気になりました。もっとも、そのために、ダメになった親代表のヴァン・ホーテンの物語があるのかもしれないと思いました。

レジーナ:フリースローをしていて、なぜこんなことをしているのかと、ふと人生に疑問を感じたり、自分が病気になったことで、両親が悲しんでいるのに心を痛めたり、「自分の存在を覚えていてほしい」「生きた証を残したい」と願ったり、病を得た十代の少年と少女の感覚がリアルに伝わってきました。主人公は、アンネ・フランクの家でキスをした時、病気の身体にずっと苦しめられてきたけれど、この身体があるからキスができると気づきます。ひとりで背負わなければならないと思っていた苦しみを理解し、分かち合える人と出会えた幸せが伝わってきました。ただ、どうしてふたりが惹かれあったのかが、よくわかりませんでした。また関係が長く続けば、それだけいろんなことがあります。「死別したことで愛が永遠になる」というのは、ヤングアダルトのラブストーリーならでは、ですね。そういう風に感じるのは大人の読み方ですが。ようやく会えた作家は嫌な人間で、ふたりはがっかりします。うまく行き過ぎない物語展開や、酸素の濃縮機にフィリップと名づけるユーモアが、作品のおもしろさにつながっています。残念だったのは、「至高の痛み」がおもしろい小説だと思えなかったことと、ところどころ翻訳が読みづらいことです。p42の「酸素吸入が不足してるほど冷たくはない」は、「酸素が行き渡っていないと、手の先が冷たくなるけど、それほど冷たくなってはいない」ということでしょうか? p145の「アイザックがしたことだって、モニカに全然優しくなかったよ」は、「アイザックが視力を失ったことで、モニカだって傷ついた」ということでしょうか? p154の「オーガスタスはおじさんとおばさんのクッションの格言をうんざりしてても受け入れてる。か弱くて珍しいものは美しいって思ってるんでしょ」ですが、格言がか弱いのですか? 格言を刺繍したクッションを家中に飾る、そういう態度が女々しいということでしょうか? またp27で、お互いに夢中なアイザックとモニカを見て、主人公はなぜ「病院までラストドライブするときのことを考えてみて」と言ったのでしょうか。

アカシア:話としてはおもしろいし、こういう本を出す意味はあると思います。ただ私は共訳とか下訳ということに疑問を持っているのです。その作品世界をどう受け取るかは人によって違うので、一緒に訳している人の間に違いがあると(たいていあるものですが)、特に文学性の強い作品だとどうしてもぎくしゃくしてしまう。アメリカではベストセラーですが、シチュエーションだけが興味深いのではなく、原文では会話にもとても味があると思います。翻訳では、キャラクターとその会話がところどころ合っていないように思えて、ちょっと残念でした。

アンヌ:ヴァン・ホーテンは、ヘイゼルが感動するような娘の物語を書き上げたのに、その後アルコール中毒に陥ってしまい、成長しませんでしたね。

ajian:映画では、ヴァン・ホーテンを演じているのは、ウィレム・デフォーです。

アカシア:たとえばp85の「よかった」がぴちっとはまらないように思ったり、p97の「骨の間がばらばらになってしまう」もすっきりとはわかりません。わからない部分が多くて、止まってしまう。今風の言葉があるかと思うと、古い表現も出てきたりして、ちょっとアンバランス。そんなに無理に今風の言葉にしなくてもよかったのでは、と思ってしまいました。「サイテーの女」なんて訳されると、ガスのキャラクターが揺らいでしまう気がします。

ajian:とてもいい作品だと思うので、伝わりにくい部分があったとすれば、それは残念です。仕事でヤングアダルトの原書をいろいろ読んでいますが、ジョン・グリーンは際立って文章がいいです。今風の生きのいい会話が、テンポよくつづいていく。日本語版では、そういう今風の会話を成立させつつ、この子たちの知的レベルの高さも表現しなければいけない。そこに難しさがあるのかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


光のうつしえ〜廣島 ヒロシマ 広島

アンヌ:この本を読み終えた後、最後に記載された「作中の短歌の出典」のところに、短歌の作者の方への問い合わせがあり、ああ、もう関係者の方々も亡くなられているのかもしれないのだなと気付きました。そして、この出典のところまで読んで、この本を読んだ意味が初めて分かるという気がしました。短歌が書かれたのは、戦後と1970年代。この物語の舞台は、戦後25年の1970年。それぞれの時代を、もう一度、さらに時が流れた現代から見直す必要性を感じます。作中におかれた短歌を読みながら、作者は、まざまざとこの物語にある光景を見たのだろうと思いました。短歌の意味をすくい取って物語とし、そしてその歌い手たちの心を救済する手段として、子供たちが絵を書く行為を物語の中で提案する。そういう形で、書かずにはいられなかったのではないかと思います。今、ちょうど、イスラム国の事件があったり、空爆が行われたりして、無辜の死こそが戦争の本質だと感じています。今、読む意義のある作品だと思いました。

レジーナ:広島生まれの被爆二世の方が書いていらっしゃるので、実感のこもった作品です。方言の台詞は、温かみがあっていいですね。主人公は、被爆者の子どもの世代です。自分たちは実際に戦争を体験したわけではないけれど、周囲の大人の多くが深い傷跡を抱えている環境で、子どもたちはしだいに、そうした人々の心に寄り添って生きるとはどういうことなのかを考えるようになります。ひとりで答えを出すのではなく、文化祭の絵をみんなで描き、友人たちと一緒に問題に向き合う姿が印象的でした。最後にみんなで灯篭流しをする場面もそうですが、人が引き起こした戦争で受けた傷を、少しでも癒せるものがあるとすれば、それはやはり他者と交わり、つながっていくことなのでしょう。声高に平和を叫ぶのではなく、ひとりひとりの小さな物語を通して、普通の生活や平和の尊さ、それを突然断ち切る暴力について読者に考えさせます。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』に関しては、ちょうど数日前の新聞で読みました。記事には、芸術はときに、画家本人の思いから離れてひとり歩きをしてしまうと書かれていました。

レン:大変丁寧に書かれた作品だと思いました。杇木さんの『八月の光』は、当事者である四人の被爆者を直接描いていたけれど、これは自分が体験したのではない子どもが、親や祖父母の世代のことを知るという形で、体験していない子どもとヒロシマをつなぐ作品ですね。両方読むと興味深いです。未曾有の悲劇の中で想像を絶する体験をして、痛みを抱えた大人がたくさんいて、杇木さんはこの主人公の女の子の年代でしょうか。この子が感じていることは、作者の体験なのかなと思いました。子どもたちがかかわることで、悲しみを封印していた大人たちが心を開き、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していく姿も印象に残りました。人為的な戦争という行為による死が、明日を奪い、思いを断ってしまう、そんなことを引き起こすのはやめてくれというメッセージ。美しい灯籠の場面のイメージにのせて、いろんなことを考えさせられました。
 登場人物の子どもたちが、身の回りにいる、一世代上で原爆を経験した人たちのことを、「知っているつもりで知らない」とよく言います。それから、その人たちに直接話をきくのではなく、その回りの誰かからきくという形で、それぞれ何があったのかを知っていきます。このあたり、非常にリアリティがあるというか、よくわかると思いました。祖父も入市被曝をしていて、原爆投下間もない長崎に入っています。おそらくすさまじい光景を見ていたはずです。でも、その時の話をあまり聞いたことがない。いま、長崎や広島で、ボランティアで被爆体験を語ってくださっている人のなかには、何十年も経ってからやっと話せるようになったという人もいます。それほど傷が深い。この作品の舞台になっている時代は、被爆二世が中学生という時代ですから、記憶は、よけいに生々しいものとしてあったでしょう。
 いまはそれから年月が経ってしまって、また別の意味であの時のことが伝わりにくくなっているのではないかと思います。おそらく私の子どもの世代では、直接お話をうかがうということは、もう無理になっているでしょう。起きたことを伝えていく手段は、できるだけたくさんあったほうがいいし、伝え方もアップデートしていかなくてはならない。そういう意味では、朽木さんよく書いてくださったなと、感謝のような思いがあります。
 語りにくい当事者の思いを代弁するように、ところどころに挿入される短歌がきいています。短歌や手記にたどりつけるように、こういうアプローチをしてくださったのは、有難いことだと思いました。
 読んでいて胸が衝かれるようになったのは、それぞれみんな、あの日以来、心残りがある人なんですよね。美術の吉岡先生は、変わった雰囲気の先生として登場して、色黒で歯が白くて、笑い顔が歯磨きの広告のようだといわれたり、最初はちょっと滑稽な印象ですよね。生徒が帰るのを、窓際でずっと見送ってくれるのも、ちょっと変わった人のように思われている。ところが、その見送りの理由があとになってわかる。滑稽だったイメージが反転する。こういうところは、読んでいて巧いなと思いました。

アカシア:同じ朽木さんの『八月の光』と一緒に読むといいな、と思いました。『八月の光』は被爆体験を実際にした人たちが主人公ですが、こっちはその次の世代の人たちがその体験をどう受け継いで自分のものとしていくか、という物語。ストーリーにも工夫があって、灯籠流しの時に声を掛けてきた年配の人はいったいだれなのか? 吉岡先生はどうしていつも窓からじっと見ているのか? お母さんはどうして何も書いてない灯籠をいつも流すのか? などの謎で読者を引っ張っていく。灯籠流しの美しい場面から始まって、最後も灯籠流しで終わり、主人公はその間に確実に成長している、という構成もうまい。朽木さんはご自身で被曝二世とおっしゃっていますが、だからこそリアルに書けることってあるんですね。この作品では、作者が子どもたちに伝えたいことも、かなり前面に出てきていますね。

レン:前にこの会で松谷みよ子さんの本をとりあげたとき、子どもの頃タイトルから、「戦争」ものだと思わずに読んであとでだまされた気がしたと言っていた人がいたけれど、これは最初から「広島」と構えて、未来を担う子どもに投げかけていますね。余談ですが、うちの母が「子育てで一つだけ絶対心がけていたのは、朝子どもを叱って送りださないこと」と言っていたのを、この作品を読んで思い出しました。戦時中を生きていた人だから。

ajian:登場する子どもたちは、身の回りの人たちがどういうことを体験したのか調べて、それをそれぞれ絵にするなど、ある意味で理想的な形で受けとって、引き継いでいるんですよね。実際そういうふうに持っていくのは難しいとしても、「重い」とかハードルを感じずに、どうやって引きつけたものか、ということは常々考えます。

レン:『はだしのゲン』(中沢啓治著 汐文社)は、子どもたちは夢中になって読みますよね。

ajian:『はだしのゲン』はおもしろいです。たんにサバイバルものとして読んだとしてもおもしろい。新しいアプローチは、これからもいくらでもあるべきだと思います。

レン:『さがしています』(アーサー・ビナード文 岡倉禎志写真 童心社)とか。数は少ないですけど。

アカシア:共同で教科書をつくりましょうという動きはアジアでもありましたよね。それに童心社の日・中・韓平和絵本シリーズの試みなんかも。

レン:こういう本を手渡していくのは必要ですね。

アカシア:京庫連(京都家庭文庫地域文庫連絡会)が、定期的に「きみには関係ないことか」というタイトルの、戦争と平和を考えるための児童書のブックリストを出してますよね。そういうのを参考にして、もっと平和教育をやらないと、政治家がどんどん変な方向に舵を切って、そのまま持って行かれてしまいますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


2015年01月 テーマ:おかあさん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん

日付 2015年1月22日
参加者 アンヌ 慧 レジーナ アカシア レン プルメリア
テーマ おかあさん、おばあちゃん、ひいおばあちゃん

読んだ本:

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かあちゃん取扱説明書

アンヌ:最初に題名を見た時から、最後の一文は予想が付いたのですが、そこまでどうたどり着くのだろうと楽しみに読みました。相手を観察し分析して対処法を決めていくという設定は、他人相手なら冷酷な気がしますが、家族それぞれを再発見するという物語になっていて、おもしろく、安心できる感じの物語でした。少し気になったのは、お友だちのカズ君のお母さんの話。子離れできない母親をやさしく成長させてやる男の子という設定は、ちょっと親の方にとって、都合がよすぎる気がしました。

レン:テンポよくおもしろく読みました。幸せなお話ですね。最後、お母さんが機嫌良くやっていたのが、実は自分のため、母ちゃんの方が一枚上手だったというのもおもしろい。地元の小学校でも、片親の家庭が結構多いのですが、そういう家庭の子でも楽しんで読めるかな。最初は、自分の得になることばかり考えていたのが、これまでと違う視点で相手を見るようになるところがうまく書けていると思いました。書き込みすぎない、シンプルさがいい。

アカシア:おもしろく読めは読めたんですけど、このお母さんは、家事、子育て、パートの仕事と大忙し。お父さんは、のんびりしていて1週間に1度食事をつくるだけ。この家庭のあり方は今の日本の平均的な姿かもしれないけど、この作者はそれを肯定しているような気がして、そこが気になりました。日本の女性は社会的な地位も低いし、いろんなことを背負わされすぎなんです。だから子ども向けの作家だったら、未来の社会はどうあるべきか、ということも頭に思い描きながら書いてほしいな、とちょっと思ったんです。だって、同窓会で韓国旅行に行くだけで、これでもかこれでもか、と家庭サービスをしないといけないんお母さんなんですよ。それをおもしろおかしく書くだけではちょっとさびしい気がしたんです。

レジーナ:冒頭の作文は、大人が子どもに似せて書いた字ですね。作文の内容は、4年生にしては幼すぎませんか? やるべきことを書いた表を作り、「やっていなくても、,をつけておけば、お母さんは満足するだろう」というのは、子どもが考えそうなことですね。

:自分がしょっちゅう子どもに言っているようなセリフが出てきて笑っちゃいました。「これは私の物語だ」と思える人が多いと大衆性につながる、という話を聞いたことがありますが、そういう意味で大衆的。とてもおもしろかったです。ただ、パティシエになりたかった夢を思い出すカズのお母さんのほうが類型的すぎ。やりたいことも忘れて子どもに関わってきたことが否定されて、子どもに「ヒマ」っていいきられちゃうのはせつないな。

レン:p106の「お母さんはカズのことを思って、わざわざ学校にとどけてくれたんじゃん」と気づくところで、カズくんのお母さんがきっかけになりますよね。

:そういえば、うちの子どももおもしろがっていました。

プルメリア:この作品を学級の子どもたち(小学校4年生)に紹介したところ、子どもたちは今順番に読んでいます。会話文が多く、字も大きくて子どもたちには読みやすい作品だと思います。最近子どもたちの読書傾向として、本を家庭に持って帰らない、家庭で読書しない、学校で本を読む子どもたちがふえてきています。家庭では塾やおけいこ事などすることが多く子どもたちが読書する時間がなくなってきています。この作品は子どもたちにとって身近な人物や内容であり、おもしろくすぐに読める本なので人気があります。主人公のお母さんは「私のお母さんと似ているよ」「ぼくのお母さんはもっとこわいかも」「料理をほめてもぼくのお母さんは変わらないよ」など自分の母親と比べて読む子どもも多く、「ラブリーなお母さん」では、女子は「かわいいお母さん」といっていましたが、男子はそのままラブリーについては気に留めず読んでました。カズくんのお母さんについて男子は「おやつを作ってくれる」「家にいてくれる」「いつもやさしくていいな」「家のお母さんもこんなお母さんになってほしい」、女子は「ちょっとしつこい」など思いが分かれました。子どもたちには読みやすく手に取りやすい作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


さよならのドライブ

:アイルランドの話ですが、日本の幽霊奇譚にも似ているようでひきこまれました。病院に向かうところでおばあちゃんの死が予見されますが、4世代のいろいろな思いが最終的に統合されるのはいいなあと。p228で、タンジーがエマーに「謝りなさい」というと、お母さんに言われたのだからとおばあちゃんが素直に謝りますよね。この場面が好きです。

レジーナ:一年前、読んでいて、「死んでいくことはこわいし、後に残されることは悲しいけれど、生きることはすばらしく、さよならの後にも続くものがある」と感じ、非常に勇気づけられました。とても好きな作品です。真夜中のドライブでアイスクリームを食べる場面を始め、ひとつひとつの場面が印象的でした。親しくしていた友人が引っ越してしまったさびしさを、足を切断した人が、切った後も足があると感じるのにたとえていますが、細かな描写が的確で、引き込まれました。力のある作家です。自分の意見を主張する、溌剌としたメアリーは、反抗期に入りかけの年頃です。死に向かいつつある祖母を前に、メアリーや、母親や、兄たちが、戸惑ったり、自分の気持ちを素直に表せなかったり、病院に行きたくないと思ったり、それぞれの立場で悲しんでいるのが、よく伝わってきました。タンジーが、井戸に落ちかけたエマーを救ったように、亡くなった人がそっと見守りながら、さり気なく手を貸してくれるのは、ユッタ・バウアーの絵本『いつもだれかが…』(上田真而子訳 徳間書店)を思い出しました。タンジーの死は、幼いエマーの胸に刻まれ、ずっとその心にひっかかっています。グレイハウンドは、エマーにとって、タンジーの死と結び付いた忌まわしい存在で、長い間避け続け、見ないようにしてきたものです。でも、かつて住んでいた農家を訪ねたら、あれほど恐ろしかったグレイハウンドはもういない。原題の “A Greyhound of a Girl” には、「目を背けず、しっかりと向き合ってみれば、死もそれほど恐ろしくない」という意味が込められているのはないでしょうか。以前、訳者の方がおっしゃっていましたが、四人の女性の口調をかき分けるのに心をくだかれたそうです。

プルメリア:表紙や挿絵が気に入りました。この作品は3冊の中でいちばん読みやすかったです。登場人物によって活字が太くなっていたりするのもわかりやすかったです。おばあちゃんの幽霊は若いけれど、親しみやすく感じました。作品ところどころにユーモアがあります。おばあちゃんが病院のベットから車椅子に乗る時、「コケコッコー」といったりアイスクリームをもって煙突から出てくる場面など。四世代の作品はあまり読んだことはありませんが、世代や年齢が異なる4人ひとりの性格がよくわかりました。p53の「みょうちきりん」の意味が私にはちょっとなじみませんでした。

アンヌ:とにかく、挿絵が素晴らしいなと思って読みました。特に、p135にある家系図には助けられました。これがないと、4世代の母と娘の関係がこんがらがって来そうなところに描いてあったので。物語としては、まずタンジーという幽霊があまり納得のいく描き方がされていない気がしました。主人公である曾孫のメアリーや孫のスカーレットの前にさえ現れることができるのに、80年もの長い間、娘を見守っているだけで、何もしてこなかった。この幽霊は25歳の若い女性のまま成長できずにいたということなのでしょうか? 死についてもあの世についても、この世をさまよっている幽霊だから語れないのか、臨終寸前の自分の娘に、「大丈夫よ」と言える根拠が、最後まではっきりしない。タイトルについても、ある意味、一番面白い部分を語ってしまう題名になっていて、どうしてこう変えたのかがわからない。それから、メアリーのセリフでよく出てくる「なまいきいっているんじゃない、なまいきいっているんだよ、」の言葉のあやがよくわからなかった。幽霊が鏡に映らない時の「気味わるーい」のところも。メアリーの心の中の感じをすべて会話にしているのは、作者独特の表現なのでしょうが、そのたびに引っかかりました。

レン:いつ亡くなるかわからないおばあちゃんがいて、4人の女性それぞれの親子関係がある。訳すのがとても難しそうな作品だと思いますが、よく感じが出ていて、訳者がうまいなと思いました。好きだったのは、p94に出てくるエマーと母ちゃんの遊び、「ふんふん、わかったぞ。このキスしたのは……」というところ。その家族や親子だけの特別な言葉とか遊びってあるじゃないですか。そういう日常の生活が描かれていて、幸せ感がありました。筋じゃなくて、人間と人間の関係が描かれているところが読ませますね。

アカシア:今挙げられたようなところはとてもいいし、4世代の会話もおもしろい。女性4人で夜中にドライブして昔住んでいた家を見に行くという設定もおもしろい。でもね、同じ家族の4人だってことが原因なのか、細切れの時間の中で読むと人物に取り立てて強い特徴があるわけじゃないし、時間も行ったり来たりするので、途中で誰が誰だかわからなくなっちゃった。エマーがキリンのようにのっぽっていうのは、物語のあちこちに出てくるので、つかめたんだけど。p135の家系図がもう少し前にあったらよかったのに。それと、物語の基盤をなす設定に疑問を持ちました。タンジーが、アイスクリーム屋のドアを透明人間のように通りぬけて中に入り、でも出てくるときはアイスクリームを持って煙突から出てくるというシーンがあります。で、タンジーは「わたしはドアを通りぬけることもできたのよ。たぶん、なんというか実体がないから〜でも、アイスクリームは、ちがうでしょ。とけてしまうまでの何分間かはね。だから、アイスクリームを持ったままドアを通りぬけることはできなかったの」と言ってます。これ、変ですよね。たとえ手に持っていても実体のある物はドアを通りぬけられないなら、アイスクリーム代として持っていたお金も無理のはず。物語の中のリアリティがきちんと構築されていない。細かいですけど。それと、もう一つ気になったのは、ジェイムズのこと。姉のエマーのほうは突然の母の死に動揺し、死の間際にキスしてあげられなかったのを後悔しているとしても、結婚もして子どももでき、それなりに充実した日常を送ったように思えます。でもジェイムズはずっと「ジェイムズぼうや」と呼ばれていたせいで結婚もできないし、先に亡くなっている。タンジーは、うんだばかりのジェイムズがちゃんと育つかどうか心配じゃなかったのかな。死の間際にもあらわれていないみたいだし。どうせこの世にぐずぐずしているのだとしたら、ジェイムズの死の間際にもあらわれて言葉をかけてあげないと不公平だと思いました。

レン:「いやーっ」と言ってしまったことで、エマーのほうに悔いがあったから、幽霊を呼び寄せたのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


落っこちた!

アンヌ:ユーモアのセンスが合わない本というしかありませんでした。老人ホームに放火して燃やしてしまうようなおばあさん、という設定を面白いとは思えなくて、最初からつまずきました。最後も、それなりに家族が自分自身に合う仕事を見つかって幸せになり、ほっとした後に、新たな騒動を予感させる感じで終わる。この感じが、私の苦手な作家の誰かに似ているなと思っていたら、あとがきに、「ロアルド・ダールは最高の模範」という作者の言葉が載っていて、なるほどと思いました。

:構造は前作と一緒で、混乱の種がまかれるけれどどんでん返しで幸運がもたらされる形。しかし、やっぱり読みにくかったです。うーん、「町一番のすてきな家族」を装っていたのならおばあちゃんがかきまわすことにも意味がありそうですが、実際は本当にただのトラブル好き。マンガの「いじわるばあさん」みたいでした。好きなおじいさんと両想いになると意地悪しなくなるのも「いじわるばあさん」に似ていて、ちょっと安易でした。

レジーナ:主人公が、とんでもない状況に置かれているところから始まり、その理由を回想の形で説明し、最後にオチがあるのは、『マッティのうそとほんとの物語』(森川弘子訳 岩波書店)と似ていますね。ヘンリックが穴に落ちた時、ナーゼは、言われた通りにヨナスを連れてきて、得意気に穴に突き落とします。命じられたものを必ず取って来るようしつけられたのが、裏目に出てしまう――おもしろい場面です。金ののべ棒を探したり、地面の下に機関車が埋まっていたりするのは荒唐無稽で、子どもは楽しめるのではないでしょうか。最後は、主人公が、金ののべ棒を自分だけの秘密にする終わり方です。E. L. カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子/訳 岩波書店)もそうですが、子どもは、何か秘密を持つことで、それまでとは違う自分になったように感じます。自分だけの秘密を持つことは、子どもの成長において、とても大切ですよね。おばあちゃんは個性が際立ち、あくが強いけれど、憎めない人です。先ほど、漫画の『いじわるばあさん』みたいだという話が出ましたが、私も同じように感じました。おばあちゃんがいなくなった後、主人公は、おばあちゃんをとても好きだと言っていますが、いつ頃からそんなに惹かれるようになったのか、その心の動きがつかめませんでした。翻訳は、ところどころ、よくわからない部分がありました。p27の「軽薄そうな灰色の毛糸の帽子」は、どんな帽子なのでしょう。p67に「ナーゼは二枚目のゴルトボンバー・デラックスの金色の包み紙を、穴からほりだしていた。」とあります。この書き方だと、チョコバーの包み紙を、すでに一枚、掘り出しているように読めます。「もみの木」の歌は、「もみの木、もみの木、いつも緑よ」となっていますが、私の知っている歌詞では、「いつも緑に」です。

アカシア:私は最初からリアルな話じゃなくて、荒唐無稽なほら話を楽しむようなテイストの物語だと思ったので、違和感なく読めました。おばあちゃんは家族を騙そうとしたり、もめ事を起こそうとしたりするんだけど、認知症でもないのに施設に入れられたってことが前提としてあるので、なんとなく恨めないし、おかしい。でも、まあ独特のユーモア感覚なので、日本のどの子も楽しんで読めますって、作品ではないでしょうね。1800円っていう高い値段だしね。

レン:最初からかなりつっかかりながら読みました。ハチャメチャなおばあちゃんがやって来て、家族が引っかきまわされて、お宝のことが新聞にのっちゃったり。ユーモアだろうと思いつつも、これがおもしろいのかな?という疑問がずっと消えなくて。おばあさんはかなり皮肉っぽい印象を受けたのですが、本当にこんな感じなのかな。外国語って、そのまま訳すと嫌みったらしく聞こえるじゃないですか。イメージしにくい描写もあって、たとえば75ページの「輪ゴムをおばあちゃんのあごの下にひっかけると、そっと上にあげて、大きくてしわしわの耳のうしろに、またひっかける」って、どんなことなんでしょう。

アンヌ:レンさんは、実際に日本語に翻訳なさる時には、別の言葉に変えてしまいますか?

レン:どういう行為を描いているか、イメージしやすいように多少書きくわえたりすると思います。それからp59 に「ヘンリックは目を見はった」とあるのですが、「目をみはる」というのは、驚いて目を大きく開くことですよね。秘密を話してやるよと言って手招きされて、驚くかなって。「目をきらきらさせた」とか「目を輝かせた」ということかしら。こういうことが、ほかでもちょこちょこ。それと、太字や大きな文字になっている部分がありますが、どうして書体を変えるかわかりませんでした。

レジーナ:原文では、イタリックということはないでしょうか。

アカシア、慧:原文も太字なんじゃない?

アンヌ:例えば、p96には、大文字で表記されている言葉と、太字で表記されている言葉があります。大文字は会話文が大声で述べられていることを表しているのかもしれませんが、太字の方はどうしてそうなのか、よくわからない。日本語としては、どちらも、表記を変える必要はないような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


2014年12月 テーマ:図書館からはじまる

 

日付 2014年12月18日
参加者 レン、きゃべつ、オカリナ、アンヌ、レジーナ、ルパン、パピルス、ジラフ、紙魚
テーマ 図書館からはじまる

読んだ本:

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いとうみく『空へ』

空へ

『空へ』をおすすめします。

短編集のようでもありますが、読んでいくうちに、1冊まるごと物語がつながっていることがわかります。

主人公は小学校6年生から中学生になった佐々木陽介。「とうちゃん」はくも膜下出血に脳梗塞を併発して亡くなり、「かあちゃん」と幼い妹の陽菜(ひな)の3人家族になりました。単親家庭になってすぐに「かあちゃん」は電池が切れたようになったこともあり、陽介は自分ががんばらなくては、強くならなくては、とひたすら思っています。でも、まだ子どもなので、知らないこともいっぱいあり、そうそううまくはいかないのですね。

けれど、そういう立場だからこそ、見えてくることもたくさんあるのです。そして、そういう状況だからこそ、まわりの人とつながれるチャンスもめぐってくるのです。

何が何でもただがんばる、という根性ものではありません。悲しい、つらいというお涙ちょうだいの物語でもありません。

この本に収められた6つの小さな物語は、陽介の日常とその時々の気持ちを描きながら、彼をとりまくさまざまな人間模様もうかびあがらせていきます。しかも、同年代だけではない、世代の違う人たちの人間模様も。

最初の物語「おかゆ」は、陽介が陽菜をお医者さんに連れてきたところから始まり、どうしてそういう羽目になったのかを説明する過程で、「とうちゃん」の死と一家の事情が明かされています。そして最後の物語「神輿」は、町内の祭りで神輿をかつぐのが大好きだった「とうちゃん」の代わりに陽介が神輿をかつぐシーンで終わっています。

いろいろな思いを抱きながらもまっすぐに進んでいこうとする陽介を、ついつい応援したくなる、さわやかな読み心地です。

いとうみくさんは、『糸子の体重計』で児童文学者協会の新人賞をとり、『かあちゃん取扱説明書』でも話題になった、これからがとても楽しみな作家です。

(「トーハン週報」Monthly YA 2014年12月8日号掲載)


『ほんをひらいて』が紹介されました

『ほんをひらいて』
(トニ・モリスン&スレイド・モリスン文 シャドラ・ストリックランド絵 さくまゆみこ訳 ほるぷ出版)が、2014年12月4日の読売KODOMO新聞と、11月30日の新日本海新聞に紹介されました。

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読売KODOMO新聞(リブロ大分トキハ店 岸本由紀子さんが書いてくださいました)

本を広げてすてきな出会い

どんよりした空、
しょぼしょぼ降る雨。
気分が晴れないそんな日に、
少女は図書館へ出かけます。
海に浮かぶ街、片方の目を開けて眠るイルカ……。
本を広げると、
わくわくするような出会いが待っていました。

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探検や夢を手伝ってくれる

女の子のルイーズは黄色いかっぱを着て、家を出た。天気の悪い日は気分が暗くなるけれど、世界は広いからいいことがあるかもしれない。雨が強くなってきたので、図書館に入った。
「ほんは、たんけんしたり、かんがえたり、ゆめをみたりするのをてつだってくれるんだ」。ルイーズは本のおかげで、暗い気持ちやこわい気持ちが小さくしぼんだ。
ノーベル文学賞を受けた黒人女性作家のトニ・モリスンさんが、子どもたちに本のすばらしさを語りかける。

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『シャイローがきた夏』が紹介されました

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『シャイローがきた夏』

が紹介されました。

2014年10月26日の朝日新聞「子どもの本棚」です。

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『シャイローがきた夏』(あすなろ書房)

11歳のマーティはある日曜日の午後、散歩に出かけ、やせたビーグル犬の子犬に出会った。おどおどしながらも後をずっとついてくる姿に心ひかれるが、近所の乱暴者ジャドの猟犬だと分かり、しぶしぶ送り届ける。ところがその犬は虐待されて逃げ出し、マーティの前に再び現れる。シャイローと名前をつけ、家族にも内緒でこっそり飼い始めたが、とうとう見つかってしまう。人と動物のあたたかな信頼関係、少年の一夏の成長を描いた作品=小学校高学年から(P.R.ネイラー著 さくまゆみこ訳 税抜き1300円) 


シャイローがきた夏

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『シャイローがきた夏』

が出ました。

フィリス・レイノルズ・ネイラー作
岡本順挿絵
さくまゆみこ訳
あすなろ書房
2014.09

原題:SHILOH by Phyllis Reynolds Naylor, 1991

アメリカの田舎に住む少年がビーグル犬に出会い、最初に出会った場所の名前をもらってシャイローと名づけ、虐待している飼い主からなんとか救い出そうとする物語です。「夏」とタイトルについているのに、夏が終わった9月に出ました。少年とシャイローの間に通い合う気持ちが生き生きとフレッシュに表現されているのが気に入っています。

前は別の出版社から別のタイトルで出ていた作品ですが、新たに訳し直しました。

うちで飼っているのもビーグル犬なので、ずっと気になっていた作品です。ニューベリー賞を受賞しています。

3部作なので続編もあるのですが、3作とも映画になっていて、DVDで見ることができます。

Shilohdvd1
Shilohdvd2
Shilohdvd3

 


川かますの夏

ルパン:時代設定がよくわからず、なかなか話に入れませんでした。お城の中に住んでいて、伯爵もいるようなので昔なのかなあ、と思うとスクールバスが出てきたり。

アカシア:現代のものか一昔前のものかは、携帯電話が出てくるかどうかで判断できますね。これは、出てきませんよ。

ルパン:たまたまなんですけど、直前に『庭師が語るヴェルサイユ』(アラン・バラトン著 鳥取絹子訳 原書房)っていう本を読んだんです。ちょうどヴェルサイユ宮殿のなかに住んでいる庭師が書いた作品で。そのイメージがあったので、「お城に住んでいる子どもたち」の特別なおもしろさを期待してしまったら、ちょっとはずれました。ただ、お城の敷地のなかだけの生活で、男の子としか遊べない主人公が、「女の子の友だちがほしい」と思うあたりはよく描けているなあ、と思いました。ただ、この子のお父さんはとてもいい父親のようなのに、離婚後はまったく会いに来ないのはどうしてだろうという疑問は残りました。

アンヌ:私にとっては、残虐な場面が多い物語という感じで、読み返せませんでした。孔雀の足はとれてしまうし、川かますは無意味に殺される。川かますの神様とか言っているので、アイヌの神のように何かその命を送りだす儀式とか意味とかあるのかと思ったのだけれど、そんなこともない。まともな大人が、現実の中に出てこない。離婚して今はいないお父さんの思い出と、病気のゲゼルおばさんだけで。がんの描き方も、あとがきを読まない限り30年前の話だとは分からないので、ショックを感じる読者もいるのではないかと思いました。これが映画だと美しい景色を外から眺めて楽しめたかもしれないけれど、本だとその中を生きるような気がするので、気が滅入った物語でした。それから、ラッドとは何か、どんな魚なのか、すぐにわかるように、注を入れてほしかった。

ルパン:アンナは不治の病のおばさんに最後までお礼が言えないままで終わるんですよね。そこがほんとうに残念でした。アンナも残念だったはずなので、感情移入したということかもしれませんが。

パピルス:7年前に読んだのですが、内容を全く覚えていません。読んだ当時、よく理解できていなかったのだと思います。

レジーナ:先ほど残酷だという意見がありましたが、私はそうは思いませんでした。子どもには残酷な面があり、虫の脚をちぎることもあるし、取り返しのつかない瞬間を繰り返し、後悔を重ねながら生き物との距離感を学んでいくのだと思います。巨大な川かますは、母親の死、死の不可解さや不気味さを象徴しているのでしょうか。ダニエルが川かますと向き合う様子は、幼なじみの少女の目を通して描かれます。当事者にしかわからないことがある一方、当事者じゃないからこそ見えるものがあり、アンナの視点をとることで、それが見事に捉えられています。ダニエルやギゼラおばさんに対して何もできず、アンナは無力感を感じます。また女の子である自分は、母親には望まれていないのではないかと感じたり、離れて暮らす父親を恋しく思ったり、友人関係に悩んだりしながら、父親のお話に出てくる「バカルート人」のように振舞うのではなく、自分の頭で考えることを学びます。この本のテーマは、失われた子ども時代への追憶です。目をこらし、川底の川かますを見つめるかのように、2度と戻らない瞬間を切り取っています。「読者はこうした本も理解できる」と信じて書く作者には、子どもの持つ力への信頼があるのでしょうね。

プルメリア:渋谷区の図書館には残念ながら蔵書がありませんでした。
 
アカシア:いつも児童書を出している出版社ではないので、図書館の方がじっくり読んでから判断しようと思っているうちに、品切れになってしまったのかもしれませんね。内容ですが、私も残酷な話だとは思いませんでした。もっと残酷なシチュエーションにおかれている子どももいっぱいいるし、子どもそのものも残酷な面を持っていますからね。全体としては、私は子どもの心理がとてもうまく書けているし、この年齢ならではの、つらいけれどもきらきらと輝くような子どもたちのありようが描写されていて、すばらしい作品だと思いました。ただ、最初のほうは、登場人物の関係性がわからなくて、とまどいました。この子どもたちはきょうだいなのか、と思って読んでいたら、途中でどうも違うらしいとわかったり。子どもにすり寄らない、つまりお子様ランチ的ではないこういう作品は、訳すのが難しいですね。フランス在住の方のせいなのでしょうか、p60には乱暴な言葉使いのお母さんが「〜かしらん」と言ったりしています。まあ、その辺は編集がフォローしなくてはいけない部分だと思いますが。いい本を読んだという満足感がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


わからん薬学事始 1

アンヌ:最初は、題名から江戸時代の漢方薬の話かと思いました。漢方薬も出てきますが、主に生薬の話という設定はおもしろいだろうな、という期待を持って読みだしました。先が気になって、3巻とも読んでしまいました。表紙に薬草の絵とそれぞれの巻の物語の中に出てくる動物の絵が描いてあり、薬草辞典も付いているという装丁が素敵でした。ただ、気になったのが、マンガのような会話の言葉遣いです。75歳の下宿の管理人が 「じゃぞ」とか言っていて、さらに、2巻の中国人のセリフが「〜あるよ」となっていて、現代の作品でこれでいいのかと思いました。嵐のセリフもバンカラ風で気になりました。数々の謎が提示され、それが各巻ごとに解決されていきます。例えば、下宿の住人についての謎や、管理人やその家族についての謎とか。最終的には、新・気休め丸を作る過程の中で、草多の父親はどうなったのか?久寿理島とはなにか?という謎を解いていく仕組みなんだろうなと思いました。主人公に薬草や薬の原材料の声が聞こえる能力があるという設定に、なんとなくマンガの『もやしもん』(石川雅之作 講談社)を思い出しました。下宿の設定には『妖怪アパートの幽雅な日常』(香月日輪著 講談社)も。

レジーナ:都会に出てきた主人公が、個性的な仲間とともに下宿し、学校生活を送る物語はよくありますが、薬学というのがユニークですね。動物実験が苦手なために留年し続ける嵐など、登場人物の設定もおもしろかったです。草多が新しい環境で奮闘する中で、彼の出自や「気やすめ丸」をめぐる謎を少しずつ明かしていく手法も上手です。まはらさんの『鷹のように帆をあげて』『鉄のしぶきがはねる』『たまごを持つように』はどれもよくて、多くの人に読んでほしい作品ですが、本を読まない子どもが、なかなか手に取らないのが残念です。この本は表紙も洒落ていて、子どもの目にとまるようです。読みやすく、内容もしっかりしているので、この本をステッピングストーンとして、まはらさんの他の作品へと読み進めていってほしいですね。

プルメリア:書名を耳にしたとき時代物かと思いましたが、違いました。本の装丁が洒落ているなと思いました。また薬草の紹介も気に入りました。作品の内容が、イメージしていたこれまでのまはらさんの作品と違っていたので驚きました。テレビドラマのように展開しているような感じで読みました。次作も読みたいですが、3巻で完結なんですね。

アカシア:私はおもしろくずんずん読めたんです。でも、立ち止まって考えてみると、まはらさんはこれまで念入りに取材をして現場のリアリティを読者に伝えようとして作品を書いてきたように思うんです。これは、最初からファンタジーの要素が入り込んできているので、この読書会で以前とりあげた『鷹のように〜』とも『鉄のしぶき〜』とも、そこが違うように思いました。登場人物もステレオタイプで、漫画っぽい。リアリティを捨て、ドタバタ的なおもしろさも入れて、読者にサービスしているのかな。それとも、作家ご自身がちょっとリアリティから離れたいと思われたのでしょうか? 私はリアリティを追求するこれまでのまはらさんの作品がとても好きだったので、ちょっと拍子抜けでした。まあ、薬草についてはいろいろと調べられたと思いますが、こういう作品はほかの作家にも書けるように思うので、まはらさんにはリアリティを追求しつつおもしろいものを書いてもらえればうれしいというのが、正直な気持ちです。

ルパン:私は残念ながらおもしろいとは思えませんでした。リアルでもファンタジーでもなく、何もかもが中途半端に思えて。薬学の学校は『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔法学校を思い出させるものの、そこまで書けていない感じでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


14歳、ぼくらの疾走〜マイクとチック

プルメリア:表紙を広げると1枚の絵になるつくりがよかったです。最初は淡々とした内容でしたが、読んでいくうちにひきつけられました。主人公は登場人物と関わりながら成長していく。作品全体に会話文が多いせいか、場面や状況がよく分かり心情に寄り添えるので気持ちに入っていけました。日本にありそうでない作品でした。登場人物の考え方が変わっていくのがいいですね。

レジーナ:同級生に「サイコ」と呼ばれる主人公は、クラスでも浮いた存在です。走り高跳びでかっこいい姿を見せられると思っていたのに、実際はそうではない。酔っ払って登校したり、車を盗んだり、チックは主人公以上にアウトサイダーです。ふたりは旅の間、さまざまな人に出会います。オーガニックのものを食べ本に詳しい大家族、浮浪児の少女、人里離れた沼地で暮らすおじいさん、事故にあったふたりを助けてくれるおばさん……みんなどこか風変りですが、実に魅力的です。麦畑を車で走り、ミステリーサークルのような跡をつける場面をはじめ、ドイツの景色も鮮やかに描かれています。『シフト』(ジェニファー・ブラッドベリ著 小梨直訳 福音館書店)を思い出す設定です。『シフト』はすらすら読めて、映画を思わせる場面展開でしたが、『14歳、ぼくらの疾走』はもっとていねいに、時間をかけて書いている印象を受けました。書き急いでいない小説ですよね。もとの文体がくだけた表現なのかもしれませんが、p6の「僕のいってること、わかりにくい? ですよね、スミマセン。あとでまたトライする」といった言葉づかいには、慣れるのに時間がかかりました。

パピルス:児童文学を読むのが久しぶりだからか、序盤は文章が全く頭に入らず、何度か一から読み直しました。文章が頭に入ってくるようになると、終盤までおもしろく一気に読めました。二人が旅に出た理由がよくわからなかったのですが、通して読むと理解できました。最初は自他共にさえないと思われていた主人公でしたが、だんだんと魅力があることがわかってきました。私は主人公に気持ちを入れて読んでいたので、そのところでとても爽快な気持ちになりました。一部、ジャンク的な表現があり、10代の子が理解できるかな?という部分がありました。また、冗談を言い合う場面で、「ユダヤ系ジプシー」など、日本人には分かりづらい表現があったのが気になりました。

アンヌ:出だしの部分が入りづらかったのですが、病院に入院して、看護婦さんと話し出すあたりから読みやすくなりました。読み出すと、勢いづいてどんどん読み進めました。読み終えてから、この物語を思い出すたびに、尾崎豊の『15の夜』の曲が頭の中に流れ出すような疾走感を感じました。主人公とチックとの二人の旅は、いかにもバカンス中のドイツらしく、男の子二人でうろうろしていても、誰も変だとは思わない。どきどきするけれど、実は、悪いことがあまり起きない。会う人も、皆いい人ばかりで、その中で、東ドイツのソ連との戦闘の物語を知ったりする。この作者がうまいと思うのは、例えば偶然出会ったイザという女の子について余計な身の上話などさせずに別れさせるのだけれど、でも、その後、手紙が届くところ。冒険が終わった後も、続いていく未来を感じさせる気がします。

アカシア:確かにおもしろい。スピードもある。変わった人も出てくる。ドイツには珍しいのかもしれませんが、ドイツ以外なら、この手の作品は結構あるかな、と思いました。この作品は、たぶん今の若者のスラングでリズムよく書かれているんでしょうし、話の仕方でその人の人となりを表している部分もあるんでしょうから、訳が難しいですよね。子どもたちのやりとりは、とてもじょうずでおもしろく読めましたが、たとえばヴァーゲンバッハ先生のp287あたりの嫌みな話し方は、そのいやらしさが今一つ伝わってこない。難しいところですよね。日本語でこんな話し方をする人はいませんから、どういうニュアンスでこの先生はこんな話し方をしているのかが、伝わらない。
 それから原題は『チック』ですね。『チック』とつけたかった著者の気持ちはよくわかります。この作品で書きたかったのはチックなんですよね。だとすると、とんでもなくイカレテるけど、とっても魅力的、でも、自分はゲイじゃないから越えられない一線もあってとまどう、というマイクの気持ちがもう少しぐいぐい迫ってくるとよかったのにな、と思いました。それは翻訳では難しくて、ないものねだりになるのかもしれませんけど。

ルパン:今回の3冊のなかではこれがいちばん読みごたえがありました。最初は主人公の自己否定が極端で、ちょっと読みづらかったのですが、話が進むにつれ登場人物がどんどん生き生きとしてきて、結局一気読みしてしまいました。リアリティもありますし読ませる作品です。ただ、あとがきに「これを読まなくては、ドイツの児童文学は語れない」とあったのですが、そこまで言うほどのものかなあ…?

アカシア:ドイツは比較的理詰めの本が多いので、こういうスピーディーなロードムービー的な作品は珍しいのかもしれませんね。そういう意味では、ドイツの中ではこれを読まないとYA文学を語れないという位置づけになるのかも。

ルパン:出だしはほんとにつまんなかったんです。ただ、チックが出てきて女の子に絵を届けに行くあたりから、ぐいぐいひきつけられました。一番よかったのは、チックに「(君は)つまらないやつじゃない」と言われる場面でした。人生って悪くないと思うようになるプロセスがとてもうまく描けていて、楽しんで読めました。それだけに、チックが同性愛者じゃなくてもよかったのに、と、残念に思いました。

アカシア:私も、なんだかその部分はとってつけたような気がしました。でも、考えてみると日本と違ってドイツなら14歳だと普通は女の子と旅をしたいのかもしれないから、チックが近づいて来る自然な理由になっているのかもしれません。

ルパン:純粋に友達として好きになってもらった方がよかった。同性愛者の目で恋愛対象として見るのではないところで、魅力を見つけてもらいたかったです。

アンヌ:特に物語の中で、チックが同性愛者だとは気付かなかった気がします。普通に友達という感じで。

ルパン:18歳ならまだよかったんですけどね。14歳の同性愛者っていうのがどうも…。

アカシア:性的な関係を持つのが目的ではなく、マイクが魅力的だから最初はそこに惹かれたというだけのことかもしれませんよ。日本なら18歳が妥当かもしれませんが、ドイツは14歳なんじゃないかしら。

ルパン:全体的にスケールの大きな話ですよね。次どうなるんだろう、というわくわく感で最後まで引っ張られました。あと、好きな箇所は、山の上で昔の人の落書きを見つける場面です。自分だけの閉鎖的な世界から大きな世界の一部としての自分に目覚めていく瞬間が印象的でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


2014年11月 テーマ:他者との関わりの中で

 

日付 2014年11月20日
参加者 プルメリア、レジーナ、パピルス、アンヌ、ルパン、アカシア
テーマ 他者との関わりの中で

読んだ本:

(さらに…)

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2014年10月 テーマ:子どもたちの日常

 

日付 2014年10月30日
参加者 アンヌ、ワトソン、ルパン、レン、ヤマネ、ハリネズミ、すあま、ajian、
レジーナ
テーマ 子どもたちの日常

読んだ本:

(さらに…)

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ホープ(希望)のいる町

ルパン:私は今回読んだ3冊のなかではこれがいちばんよかったです。日本の物語にはない設定、場面、ストーリー。翻訳青春モノの珠玉作だなあ、と思いました。

アンヌ:食べ物が出てくる本が好きなので、私も今回の本の中ではいちばんおもしろく読みました。主人公が17歳なのにプロのウェイトレスということに驚きました。高校生の政治参加の場面にも。発達障害の疑いのある赤ちゃんに、哺乳瓶でミルクをあげながら「あなたには愛してくれるお母さんがいる」という場面や、ウェイトレスとしていろいろなお客と接する場面とかに、いい場面がそれほど山ほどあり、感動しました。人と人との関わりを、職業を通して描くのが好きな作家なのだなと思いました。唯一気になったのが、GTが白血病で最後は亡くなり、お弔いの場面が延々と描かれていること。ここが必要かどうか考えたくて、別の作品『靴を売るシンデレラ』(ジョーン・バウァー著 灰島かり訳、小学館)も読んでみましたが、そちらも理想の父親像のような登場人物を交通事故死させお弔いの場面を描いているので、作者は、作品の中で、死を描く必要を感じているのではないかと思いました。

レン:今回の他の2冊とタイプの違う本ですね。話が上手にできていて、読み応えがありました。主人公の気持ちに寄り添って読んでいきましたが、母親に捨てられ、父親も分からず、おばさんに引き取られた女の子が、なんとたくましく、大人なんだろうと。お母さんが自分に残してくれたものが、ウェイトレスの才能と名前というのがおもしろいですね。名前は途中で捨ててしまうけれど、その才能を極めることで、この子は周りの人と人間関係をつくって生きのびていく。おばさんも魅力的。主人公が発達が遅れているかもしれない赤ちゃんに話しかけるシーンなど、上手だと思いました。愛されているということがあると、子どもは強く生きていけると。選挙のことも詳しく書かれているけれど、これって一種の職業小説ですよね?

一同:そうそう。これは職業小説ですよね。

レン:選挙の仕組みはよくわからないところがありましたが、選挙に絶対行かないと言っている人のおかげで、不正がばれるというのもうまい。読ませますね。

アンヌ:原題は過去形なのに、なぜ現在形にしちゃったんでしょうね?

レン:装画は日本の人なんでしょうか? 文章で受けたのとイメージが全然違いました。

ajian:挿画はちょっと安っぽい印象がしますよね。

すあま:日本で出版する場合は、タイトルだけだと内容がわかりにくいので、登場人物のイラストが必要だったのでは。

ヤマネ:読書会で取り上げられなかったら、おそらく手に取らなかった本でしたが、すごく良かったです。

アカシア:自分からは手に取らない本ってありますよね。「新しい場所は新しいものの見方を授けてくれる」なんていう台詞がいいですね。児童書には、希望を感じるまっすぐな言葉がところどころに見つかります。自分でのそれを見つけるのも、本を読む楽しみですね。選挙のところですが、あんまりおもしろく書いた小説が他にないなかで、これはおもしろかった。中高生でもおもしろく読めると思います。

ヤマネ:一筋縄じゃない。感情の表現もいい。ボクシングのサンドバッグをたたきながら、悔しさをあらわす場面が良かった。主人公はお父さんが迎えにくるのをずっと待ち続けていて、けれどそれが全く違う形でやってくる。中高生が読んだら、人生にはそういうことだってあるのだと気づくのではないでしょうか。電車の中でカバーをして読んでいたのだけれど、カバーを取って表紙の絵に驚いた。中高生向けに受け入れやすいように狙ったイラストではないんでしょうか? 文章から感じる表紙のイメージは、あたたかな風景画のイメージだったので、この表紙には驚いたけれど、話の内容は良かった。ウェイトレスの仕事のおもしろさもよく伝わってきました。

レン:混みあってきたらコーヒーをつぎ足すとか。

ajian:原書の表紙、調べてみましたが、こっちのほうが全然いいです。

(一同、表紙の画像を見る)

すあま:日本で出版する場合は、タイトルだけだと内容がわかりにくいので、登場人物のイラストが必要だったのでは。

アンヌ:この表紙絵(日本版の表紙)、他の二人に比べて、GTはうまくイメージがわかなかった。

レジーナ:バウアーの作品にはいつも、置かれた環境で努力する主人公が出てきます。病を抱えながら選挙に立候補するGT、名前を変えるホープ……ままならない現実を受け入れた上で、困難な状況を全力で変えていこうとする登場人物の姿が、押しつけがましくなく描かれているのがいいですね。不正を働いたり、家族や社会の責任を果たさなかったりする人々がいても、ホープはそれにめげず、大切なものをゆずりわたさず、ウェイトレスとしてお客さんを笑顔にします。そしてアナスタシアとの関わりの中で、母親との問題に向き合います。娘のことを顧みない母親も「あんたの人生のたいせつな一部」というアディの台詞がありますが、人を形作るのは、手に入ったものや勝ち得たものだけではなくて、望んでも手に入らなかったものや失ったものもまた、その人の大切な1部だという、作者の生きる姿勢が表れていますね。

アカシア:バウアーは職業とかキャリアを追求している作家ですね。ウェイトレスなんて、おもしろそうな職業じゃないのに、わかってくると「すごいなあ。おもしろそうだなあ」と思えるように書けるところがすばらしい。日本の児童文学の世界では、政治は書かないほうがいいと言われているそうですが、選挙だって、中学生くらいを対象にした本だったら書いたらいいし、世の中はどうなっているかというのも書いた方がいいでしょう。この人はそこもうまく書ける作家ですね。話のもっていきかたもすごくうまいから、選挙のところだけ浮いているようなこともないのがいいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


クラスメイツ(前期・後期)

ヤマネ:この本は発売された時に、とてもおもしろく読みました。前期の巻は登場人物の紹介という感じで軽い感じでしたが、後期では前期で謎のまま終わっていた問題が1つ1つうまく解決されていったり、クラスメイツ同士の関係の深まりを感じたりして、後期が特に読み応えがありました。知り合いの中学生にも薦めたのですが、クラスにこんな子いるいる!と共感できたり、自分と同じ悩みを見つけてホッとしたり、など楽しく読めるのではと思います。大人が読んでも、中学生の頃を思い出したり、中学校時代の自分と似ている子はどの子だろうと考えてみたり、などいろいろ楽しめると思いました。

レン:おもしろかったです。24人のそれぞれの営み、変化が伝わってきて、本当にうまい文章。ユーモアもあって、堅苦しくなく、読者を選ばず読んでもらえそう。現役の中学生もいいけれど、これから中学に行く6年生に手渡したいですね。自分のクラスのだれに似ているとか、だれが好きとか読めて、中学校生活への希望がもらえます。

ルパン:これはすっごくおもしろかったです。『ラン』(森絵都 講談社)よりこっちのほうがずっといいなと思いました。『かさねちゃんにきいてみな』を読んだあとこっちを読んだのですが、『かさねちゃん』のほうは「今どきの小学生事情」みたいな一時的、同時代的な感じでしたが、こっちは根底に「永遠の中学生」のような、どの時代にも共通する中学生らしい感情、という筋が一本通っていて、大人が読めば郷愁感、子どもが読めば等身大。それに現代っ子らしさがほどよく加わっていて好感がもてました。24人が対等に出てくるのもいいし。どの子のも全部おもしろくて。最初に出てきた子たちは、吹奏楽部に入る話なんだけど、それが最後にまた出て来て演奏する、というつなげ方もうまい。いちばん笑ったのは、レイミーちゃんが泣いたのは、ネズミがシューマイではなくシューマッハだから、と言ったところ。あと、印象的だったのは、ガラス破損の犯人さがしになったとき、ヒロが「でも、ぼくじゃないよ」と言ってすんでしまうシーン。そういう子って、確かにいますよね。文庫で子どもたちを見ていると、いつの時代にも変わらない小学3年生らしさ、5年生らしさ、中学生らしさ、といったものが確かにあります。この話は、リアリティらしさとお話らしさがマッチしていて私は好きです。

ワトソン:森絵都さんはこの年代の子どもを書かせたら本当に上手だなと、期待通りの作品でした。こういった構成自体は最近多くて新鮮味という点はあまりありませんが、それでも読ませるおもしろさがありました。一人一人が個性的に書き分けられ、クラスに起きた事柄をそれぞれの視点で捉えそれがまた全体としてつながっています。だれか一人に寄り添って読む作品も良いけれど、「自分はこの子に近いな」とか、「この子のこういう部分はわかる」というように、何かしら共感を得られるところがあるのではないでしょうか。そういった面で、同年代の子どもたちが読むのに意味がある作品だと思いましたし、この年代を過ぎた人には懐かしく読めるのではないでしょうか。

アンヌ:この作者の本を読むのは初めてでしたが、私は苦手でした。とてもうまく書けているし構成もいいけれど、ある意味、物語が始まったところ、人物の紹介だけで終わってしまっている気がして。読んだ後に、24人分のそれからのことを考えて、眠れなくなって困りました。虫博士の陸くんとか好きな子もいたのだけれど。

すあま:森さんが、大人向けの小説の方に行ってしまったように思っていたので、久々に中学生が主人公の物語を書いたんだ、と思って読みました。語り手を変えて物語が進行する形式の本はいろいろと出ていますが、1990年に出た『トリトリ』(泉啓子著、草土文化)という作品が一番印象に残っています。そのときは新鮮に感じたのですが、今はよくある形式なので、特に新しさは感じませんでした。とにかく人数が多いので、だんだん混乱してきました。印象に残る子はいるんだけど、やはり誰か一人に共感しながら読むことができず、一気に読んだ後に物足りなさを感じました。

アカシア:読んだときは、「ああおもしろかった。森さんのYAの中では一番おもしろかった」と思ったんです。でも、あとでふりかえると、細かい内容は思い出せなかったんですよ。この世界で完結しているから後々まで引っかかる必要がなくて、思い出せないのかもしれません。その時その時で読者が受け取るものがあれば、別に思い出せなくてもいいんですけど。一つ一つの話が全体としてつながっていくのがいいですね。

ajian: 森絵都さんの作品はじつはちょっと苦手だったんですが、これは文句なしにおもしろかったですね。自分の中学生時代のことなんかを思い出します。一口にクラスメイトといっても、仲がいい連中もいれば、あまり会話したことのないやつなんかもいて、同じクラスでもよく知っているといえるのは、何人かなんですよね。この作品は、そういうクラスの子たちの、それぞれの視点から書かれていて、自分が中学生だったらたぶん交わらなそうな子もいるんだけど、そういう人の事情にもちょっと踏み込んでいけるようでおもしろい。前期後期に分かれていて、いろいろな事件があって、1年が動いていく構成もうまいなと感心しました。ビートルズも知らなかったハセカンが、後半の別の章ではクラッシュを聴くようになってたり、ああUKロック好きになっていったのかなあとか、書かれていない部分での成長と変化を想像できるのも楽しい。一番好きだったのは吉田くんですね。吉田くんがいちばん変貌を遂げるんじゃないでしょうか。モテたいから東大に行くとかいっていましたが、中高モテなくて勉強にばかり時間を捧げていると、仮に東大に行けたとしてもあとから「中高のときにモテなかった」というルサンチマンをこじらせることになるので、吉田くんはほんとうに水泳部に入ってよかったな、と思います。完全に感情移入していますが。震災のことがちらっと出てくるのも今の作品だなという感じがします。正直にいって読む前はこれほどおもしろいとは思っていなかったので、食わず嫌いはいけないなと思いました。

レジーナ:中学に上がったときのことを思い出しながら読みました。なかなか学校になじめなかったり、いつも小さな気がかりや悩みがあり、「これまでは何も悩みがないのが幸せだと思っていたけれど、きっとこれからは悩みがなくなることはなくて、それが大人になるということなのか」とふと感じたり……。いじめに負けず学校に通い続けたしほりんが、「強くなった半面、弱くなった部分がある。なにかに勝ったつもりで、なにかに負けたのかもしれない」と思う場面がありますが、「今、辛い」とか「今、楽しい」とか、その場の感情ではなく、こんな風に、ちょっと離れた場所から自分のことを振りかえって客観的に考えられるようになるのが、中学1年くらいの年齢ではないでしょうか。老人ホームでボランティアをする場面は、家族や学校で完結しない外の社会とのつながりが描かれていておもしろかったです。美奈の父親が倒れた時、そういうプライベートなことを、先生が他の生徒に教えてしまうのは、現実ではありえないでしょうね。タボの章に、蒼太が給食のデザートをおかわりしないことが書いてあり、その後の章で、レイミーが、甘いものが苦手な蒼太のための特製チョコレートを作ります。細かな伏線の張り方は、さすが上手ですね。ひとりひとりの人物像がくっきりしていて、『ズッコケ三人組』シリーズ(那須正幹著 ポプラ社)の6年1組を思い出させますが、もう少し深く描かれていると、よりよかったかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


かさねちゃんにきいてみな

アンヌ:読んでいるうちに、これはいつまで続くのだろうとだんだん耐えられなくなって、途中でラストを読んでから、読み直してしまいました。自分でもそれはなぜなのだろうと思って、いろいろ調べて、劇団ひまわりで上演されているのを知り、ああ、そうか、ユッキーの一人称で、一人の視点で延々と物語が続くのでなければ、おもしろいのかもしれないと思いました。読み直してみると、一つ一つのエピソードはとてもおもしろいので。最後にリュウセイが戻って来ていますが、どうやって戻ってきたのかとかが、なぜ描かれていないのだろうと思いました。

ワトソン:今回のテーマである子どもたちの日常にあてはまる作品として、私はとても楽しく読めました。登校班だけてこれだけの作品を書くのはすごいと感心しました。一番魅力的だったのはユッキーで、彼の語りの良さがこの作品を支えていると思いました。その分、かさねちゃんに物足りなさを感じました。かさねちゃんの「ちゃんとして」が魔法の言葉のように描かれていましたが、そこにはユッキーのかさねちゃんへの憧れがかなりプラスされているので、実際は魔法のようには効かないのではないでしょうか。また、小学生が読者と考えるとこの量は多すぎる気がしました。

ルパン:私はあんまりおもしろくなかったです。『アナザー修学旅行』(有沢佳映著 講談社)は、場面が動かないわりに、まだおもしろかったんですが、今回は、通学路という限られた場面のなかで、かさねちゃんの魅力が伝わってきませんでした。かさねちゃんだけでなく、どの子も、「この子のことが読みたい」というものがなかったし。強いていえば、語り手のユッキーが毎回日記のさいごに間宮さまへの語りかけを書いているのがおもしろかったけれど。ただ、登校班だけで、よくここまで書いたなとは思いました。結局、「かさねちゃん」とインパクトがある名前だけでひっぱってきた感があります。ふつうの平凡な名まえだったら手にとらないんじゃないかな。印象的に目に浮かぶものといえば、牡丹の模様つきのランドセルでしたが、かさねちゃんの個性とどうリンクするのかわかりませんでした。

レン:私は今回選書係だったのですが、この本は、私自身よくわからない本だったので、みなさんの意見を聞きたいと思って選びました。この著者の『アナザー修学旅行』の時もそうでしたが、私は最初はおもしろくひきこまれたけれど、途中でちょっとうんざりしてきて、「修学旅行だとか、集団登校の班長って、そんなに大事?」と思ってしまい、最後まで読めなかったんです。今の子どもの話し言葉をそのまま移したような会話が続くのも、うまいなあと感心する一方で、当の子どもが読んだらどう思うんだろうと思いました。写真そっくりの絵を見ているような感覚というのか。この数カ月で確かにユッキーは少しずつ成長するけれども、こういうそのまんまの一人称の語りで子どもに伝わるのかな、ふんふんと読んで終わってしまわないかなと。今回読み返しましたが、やはりわかりませんでした。リュウセイのエピソードを盛り込んでいるのは、いいなあと思いましたが。

ヤマネ:話題になっていたので、とても気になっていた本です。まず設定について、これまで集団登校を場面の中心として書いている人はいなかったので、斬新だなと思いました。1日1日、ユッキーの日記で綴られていて、日記の最後が「間宮小の守り神」と言われているホコラの中の間宮さんに何かを祈ったりお願いする形で終わっている。日記をうまく終わらせるために間宮さんは登場するのではないかと感じました。お話は3分の2ぐらい読み進めたところで、ようやくおもしろくなってきました。全体を読み終えて感じたのは、子どもも大人も、一定の時間一緒に過ごす体験をすると、情が湧いたり連帯感のようなものが生まれるのだなと思いました。対象年齢は小学校高学年向けに出されているようですが、正直、小学生がおもしろく読むのかどうかは疑問に思いました。そうかといって、大人が懐かしいと思って読むには自身の子ども時代とは違う現代っぽさがあるし、どのあたりの層がおもしろいと感じて読むのかが分からないと思いました。また、かさねちゃんは大人で冷静なように描かれているけれど、言うべきことや不満などは、全て班員で4年生のマユカが全部言ってくれるので、かさねちゃんは言わなくて済むようになっていると感じました。

ハリネズミ:私は日常と違う世界だと思いました。小学生が集団登校する姿はよく見るけど、たいていはまったく話をしないで黙々と歩いている。だから、この作品はフィクションの世界で書いてると思ったんです。『アナザー修学旅行』もそうだったけど、子ども同士はあまり直接のコミュニケーションをとらない。有沢さんは、わざとコミュニケーションをとらせて直接的なやりとりをさせている。そこが書きたいところじゃないかと思ったんです。

ルパン:地域性もあるかもしれませんね。うちは小学校が目の前なので言葉をかわすヒマもないのですが、甥のところでは2キロ歩くんだそうです。毎日それだけの距離を一緒に歩いたら、会話もはずむだろうし、集団登校も子どもたちの生活の一部になるかも。

ハリネズミ:主人公はかさねちゃんではなくユッキーで、すべてユッキーの視点だから、かさねちゃんは実像じゃない。

アンヌ:もし私が子どもの時読んだら、たぶん、班長をする自分を想像して、こんなにキレる子が二人もいたら、嫌だと思うだろうなと感じました。

ハリネズミ:賛否両論あるとは思ったんですが、私はおもしろくて、後になっても印象に残った本です。子ども同士のやりとりもおもしろくて、今の子どもたちの人間関係が狭くなってきているだけに貴重な作品だとも思います。

すあま:私のまわりの人の評判がよかったのですが、私は全然読み進むことができませんでした。登場人物がなかなかおぼえられず、苦労しました。この作品の特徴は、話し言葉でかかれていること、そして場面として登校するシーンだけを描いていること。脇明子さんの『読む力が未来をひらく』(脇明子著 岩波書店)に、話し言葉と書き言葉についての記述がありましたが、話し言葉で書かれた会話が続くと、読みにくいんだな、と思いました。子どもがおしゃべりしている感じは伝わるけれども、読んでいてうるさい、わずらわしい、と思ってしまいました。マンガのように吹き出しのセリフをどんどん読んでいくのと似ているけれど、絵がないので頭の中でイメージするときに混乱したのかも。読む前は、かさねちゃんが主人公なのかと思っていたら、リアリティがなくて、もっと魅力的に描いてほしかったです。登場人物のだれに寄り添って読めばよいのかがわからず、それも読みづらさの原因かもしれません。かさねちゃんが小学生らしくなくて、感情を爆発させるところがあれば、と思いながら読み進めていましたが、ずっといい子のままだったのも残念。リュウセイくんの問題も、あえて入れる必要があったのか、扱い方が中途半端なように思います。

ajian:私はこの文体っていうか会話はすごくいいと思ったんです。物語はちょっと物足りないものを感じたのですが……。読んだのが結構前なのであやふやですみません。

レジーナ:人口芝の上を歩きたがる場面では、私も昔、同じように感じたのを思い出しました。作者は、子どもの時のことをよく覚えていて、それを素材に書いたのでしょうね。リアリティを追求したのかもしれませんが、実際に子どもが話しているような文体が続くと、少々読みにくく、またリュウセイの複雑な家庭環境には胸が痛くなりました。読み終えて、作者が何を伝えたいかがわかりませんでした。この作品は児童文学なのでしょうか……。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


マイケル・モーパーゴ『希望の海へ』

希望の海へ

『希望の海へ』をおすすめします。

社会的な視点をもちながらストーリーテラーの腕も抜群というマイケル・モーパーゴが、本書で扱うのは、最近になってわかってきた児童移民の問題です。イギリスから「孤児」(本当の孤児はわずか)たちがオーストラリア、カナダ、南アフリカなどへ送られ、第二次大戦後にはその人数もピークに達したと言われています。

第一部を語るのは、アーサー・ホブハウス。まだ幼いうちに船に乗せられイギリスからオーストラリアにやって来たものの、引き取られた先の農場で奴隷としてこき使われます。さんざん我慢を重ねた後にアーサーは年上の友と一緒に逃げ出し、黒い肌の人たち(先住民ですね)に助けられ、「ノアの方舟」と呼ばれる場所でようやく愛を注いでくれる人に出会います。でも、そこでずっと幸せに暮らしたわけではありません。まだまだ山あり谷ありの人生が彼を待ち受けていました。アーサーがその波瀾万丈の人生の中で持ち続けていた唯一のものは、小さな鍵です。それは姉のキティをさがす鍵でもありました。

そして第二部を語るのは、アーサーの娘のアリーです。父親のかわりにまだ見ぬ伯母キティに会うためひとりでヨットに乗り、数々の困難を乗りこえてイギリスまで航海します。複数の文化を背負った(母親はギリシア人)女の子アリーが単独で冒険するという設定がなかなかいいうえに、航海についてくるアホウドリ、アリーと宇宙飛行士との交信、そして父親から手渡された鍵の謎など、第二部にもさまざまな仕掛けがつまっています。果たしてアリーは、伯母のキティを捜し当て、鍵で何かをあけることができたでしょうか?

わくわくしながら読めます。

(「トーハン週報」Monthly YA 2014年10月13日号掲載)


アンドレアス・シュタインヘーフェル『リーコとオスカーともっと深い影』

リーコとオスカーともっと深い影

ルパン:今回の3冊のなかでは、私はこれが一番よかったです。ただ……すごい冒険ですよね。障害のある子どもに一人称で語らせることにまず驚きました。ストーリー性があるので、最後までおもしろく読みました。ただ、最後まで今回のテーマである「石」が出てこないので、この本でよかったんだっけ?と気になっちゃいましたけど。あと、この、リーコのお母さん、いいですよね。

アンヌ:とても、おもしろい本でした。石の謎を知りたくて、続きの2つの巻『リーコとオスカーとつぶれそうな心臓たち』『リーコとオスカーと幸せなどろぼう石』も読みました。楽しくて、何度か読み返しました。オスカーは、リーコを上から見ている部分があったりして最初は嫌な奴だけれど、繊細な部分がわかってくる。知能が高すぎる子どもの立場の難しさもよく書いてあると思いました。本当はうまく文章が書けないリーコだけれど、作者はパソコンで日記を書かせることによって、文章訂正機能で訂正されることにしていて、うまいと思いました。子どもの心の中では、矛盾しないような情景がいくつかあって、例えば、この巻ではないけれど「石を育てる」ことができるということを、すんなり受け入れるところとか、立ち止まらずに、ストーリーがどんどん進んでいくところがよかったと思います。デーナーというファストフードが出てきて、トルコ料理のデーナーケバブ風の食べ物という註が付いていたので、トルコの移民の文化がドイツに根付いているのだなと感じました。 

ワトソン:障害のある子どもを主人公としているけれど、物語の流れとして無理なく読むことが出来ました。四角で囲ってあるところの説明がリーコ的な独特な表現で興味深かったです。翻訳の作品を久しぶりに読んだので、日本のものにはないおもしろさを改めて感じました。ぜひ、続きを読んでみたいです。 

レジーナ:「モグモグちゃん」等、リーコの独特の言葉づかいは本来、作品の大きな魅力になっているのでしょうが、日本語版からは伝わってきませんでした。p18で、リーコがマカロニをフィッツケに見せると、フィッツケが「落ちてきただけか?」と聞き、リーコは「だれが、ですか?」と聞き返すのですが、これはきっとリーコが、名詞の性を人だと勘違いしたのでしょうね。もう少し訳を工夫しないと、日本の読者にはわからないでしょう。p104の「衝立(パラヴェント)」を、リーコは「スペインふうの壁」と説明していますが、何のことかよくわかりませんでした。p122の「ミスター・ストリンガーはミス・マープルのいちばんの友だちなんだけど、太りすぎているだけじゃなくて、ミス・マープルの結婚相手にしては頭が悪すぎるんだ。でも、ミス・マープルにはそうなんだ。」や、p153で部屋が散らかっていることをビュールさんに謝られて、リーコが「かたづけが習慣になっているなら、ママと結婚することになった場合、大歓迎だからだ」と考える箇所は、前後の文脈がつながっていないように感じました。元の文章がそうなのか、翻訳の問題なのか……。リーコの目で捉えた世界を、翻訳にも生かしてほしかったのですが。周囲の大人が、リーコに対等に接しているところや、夜の仕事をしつつも愛情深くリーコを育てている母さんが、道に迷うリーコのために、家からまっすぐ歩いたところにある学校を見つけてくるところは、とても好感が持てました。リーコも愛情を受け止めながら育っているから、すぐに大人に頼るのではなく、自分で問題を解決しようとし、「友達になりたかったのではなく、事件を解決したくて近づいた」と告白したオスカーを、許すことができるのでしょう。3巻まで読み進める内に、私もリーコをそばで見守っている気持ちになり、最後の場面では、数々の冒険をくぐり抜けたリーコの、何てことはないけれど、でも確かな成長の一歩が感じられて、胸が熱くなりました。 

夏子:こういう子どもの一人称で書くのは、冒険ですよね。でもすぐれた作家だということは、よくわかります。完成度の高い優れた作品だと思う。主人公ふたりはもちろん、周りの大人も個性がくっきりとしていて、それぞれ魅力がありますよね。地面に落ちていたマカロニを、おじさんが食べちゃったのには、びっくり。ところが問題は翻訳で、私はまったく気に入りません。何も考えずに訳しているんじゃないかと疑ってしまうほど。リーコの一人称で書かれているわけだけど、いかにも知的障がいのある子どもの文章という風ではいけないと思う。だけどね、一方でこの設定に無理がない、と感じさせてくれないと話が成り立たないでしょ。ところが日本語は、努力した跡が見えません。小学生の男子が絶対に使わないような言葉のオンパレードじゃないですか! 少しだけ例をあげると、p177「足の速い小型車」とか、p178「あまり悪くはない男前」とか、どうしてこういう言葉が出てきちゃうの! 

レン:原語の形をそのまま素直に訳したのかしら。よいと思ったのは、大人も子どももいろんな登場人物が出てきて、リーコがその中で暮らしている感じがよく出ていること。だけど、私も文章に引っかかって苦労しました。冒頭のp5にある「日本の読者へ」から引っかかってしまいました。3行目の「でたらめの思いつきの産物」という言葉、子どもがピンとくるかなと。リーコが、「ときどき頭の中がビンゴマシーンの中みたいにゴチャゴチャになる」という表現も、大人にはパッとわかるおもしろい比喩だけれど、ビンゴマシーンを見たことがない子はイメージしにくそう。p135の「階段室は死にたえたように静かだった」とか、p142「いまいましい6階め」とか、「ン?」と思った表現はほかにもいろいろ。翻訳の問題ではなく、リーコだからこういう表現なのかしら。 

:これ、障がいを持っているという設定にする必要があるんでしょうかね。障がいと冒険の関係の焦点がぼけているし、翻訳もものすごく読みにくかった。つまらなくてわかりにくかった。素直にいいキャラクターだと思ったのは刑事さんだけで、アパートの住人にも魅力がなかったです。 

アカシア:私も、主人公が障がいを持っている設定にする必要があったのか、と疑問を持ちました。この長さで小学生に読ませるとなると、よほどおもしろく翻訳しないとまずいですよね。リーコには知的障がいがあって、オスカーの方は人並み外れて高い知能があるという設定の難しさはあります。でも、残念ながら翻訳や編集にもう一工夫必要ですね。おそらく原文はおもしろく書けていて構成もいいんでしょうけど、それが現状の日本語版では伝わってこない。 

夏子:障がいとプロットの絡みとしては、リーコが人の家に入りたがって、どんどん入っていくところでは? そういう子じゃないと、この話は成り立たないわけなので。 

アンヌ:四角で囲ってある註のような文章は、難しい言葉の説明なんですが、リーコが書いたことになっていて、巻末ではなく、そのまま文章の中に入っているんですよね。リーコのお母さんって、ロシア人でしたっけ。名前がターニャですけれど。 

レジーナ:ドイツ人にもターニャっていう名前がありますよ。

アカシア:このコラムみたいな部分も、本文との関係がぱっとわからないところがあって、もう一工夫したらよかったのにね。ドイツでは小学生が読んでいるのかもしれませんが、日本の小学生は最初の「みっけマカロニ」のところで「何これ?」とつまずくでしょう。かといってプロットが単純だから中学生は読まないでしょうし。難しいですね。タイトルも、「もっと深い」って何と比較して?と、思いました。

アンヌ:作者の「日本の読者へ」が巻頭にありますが、いきなりショーペンハウアーの引用文で始まって、たじろぎました。これは巻末でいいのでは。子どもの時、翻訳小説のわからないところは棚上げにして読んでいた気がします。今回も、読み返すときは、四角に入った註は、飛ばして読んでいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


田中彩子『石の神』

石の神

:とてもおもしろかった。差別を受ける人たちの集落の様子も、石を彫るようになる過程も、石の神に魅入られるさまも、模索も。全部。 

夏子:この作品は、時代はいつになっているんでしたっけ? 

:江戸時代ですね。18世紀の終わりです。 

夏子:この作家さん、まだ新人と呼んでいいのかしら? 応援したいと思いました。でも同時に、欠点も目につきます。主人公のひとりの寛次郎は、モーツアルトに対するサリエリではないけれど(素直な若者なので、サリエリとは似ていません)、常識的で優等生的。もうひとりの捨吉は破天荒な天才であって、まさしくモーツアルトですよね。こういう二つのキャラクターの絡み合うような対立が、つまらないはずがない。ただ捨吉のような子どもは、自ら内面を語ったりしないでしょう。だからこちらに視点が移って、捨吉の側から語られるところになると、無理が生じるのでは? 捨吉は、差別されている地域で育てられ、しかしそこの出身者ではないことから、周りの人々が村に戻れるようにと努力する。でもそれを振り切って、放浪の旅に出てしまう。これは、説得力に欠けると思いました。また周りの大人の個性が、もう少し描き切れているといいですね。育ての親、職人の親方、流れの職人と、それぞれ援助者の役割を果たしますが、みんな似ているんです。どの大人も粒立っておらず、平面的な感じがします。 

レジーナ:日本の児童文学の独特の空気感があり、長谷川摂子の『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。人を守るだけでなく祟りもする石神は、土着の信仰の対象であり、善悪を越えた荒ぶる神ですね。ひとつひとつの場面が印象的でした。捨吉の彫った地蔵の気迫、洞窟の中、石仏という圧倒的な力を前にして、自分が空っぽになる感覚にはリアリティがあります。石神に取り憑かれた捨吉が、並はずれた力ですばらしい作品を次々に生み出すことに快感をおぼえる一方、「こつこつと人の世を生きる道に戻れなくなるのではないか」と恐怖を感じる場面には、狂気と紙一重の芸術のこわさがよく描かれています。

ルパン:うーん、これは一度読んだだけではよくわからなかったですね。『天狗ノオト』(理論社)よりはだいぶすっきりしていて、ずっとよいとは思いましたが。私にはちょっと難しかったです。これ、読者対象年齢は何歳くらいなんでしょう。視点が捨吉になったり寛次郎になったりするのだけど、そのバランスがよくないように思います。主人公は捨吉でしょう、たぶん。最初と最後は捨吉なんだけど、間はほとんど寛次郎。どちらが主人公なんだろうと思いながら読み、結局どちらにもあまり感情移入できないまま終わりました。特に、主役であるはずの捨吉の気持ちがよくわからなくて。石神の役割も。結局、捨吉は今後、人を感動させるものを作っていくのでしょうか? 

:もう作らないと思いますよ。 

ワトソン:『天狗ノオト』よりは大分読みやすくなっていて、よかったです。日本古来に伝わる畏怖につながる世界観を書くのがとても上手な作家だと思います。個人的には好きな世界観です。ただ、これを理解するのはなかなか難しいという印象は否めません。特に前半は入っていきにくく、そこを乗り越えれば物語の世界に入っていけると思いました。年齢を考えなければこの作品でよいのかもという印象です。 

アンヌ:石神の謎を解き明かそうと読みこみました。けれど難しくて、参考に前作の『天狗ノオト』も読みました。その結果、太古の神の存在が作者の中心にあるのではないかと思いました。そのうえで、「先生」が龍の絵を描いて説明したときに語られたような、要石のように、太古の神を止めるために、石神があるのではないかと思いました。村を出た捨吉が八つ当たりをするようにいくつも石神を倒したから、自由になった太古の神が捨吉の中に入ったのではないかと。寛次郎にも山の中の神社に行ったとき、そこに閉ざされていた太古の神の誘いがあったのだと思います。捨吉が、仏ではなく、太古の神を思わせる異様な風貌の石神を彫ってしまったり、洞窟の壁を彫りたくなってしまったりするのは、捨吉の中にいる太古の神のせいだと考えました。ただ、そう考えていくと、p203の「石工の掘るのは、神でも仏でもない、こうありたい、こうなるといいという、ただその、ひとのこころでしかないのだ」とある、作者自身の謎ときにうまくつながらない気もします。捨吉が、村から連れ出そうとしてくれた先生から逃げ出し、さらに村に戻らなかったのはなぜか。それは、役人が切り殺された夜に連れ出されたことや、労働をしたことがない先生のぬるりとした手を触ったとき、全然違う別社会に連れ出されそうになると感じたからではないかと思いました。中央とつながりのある、けれど、社会の裏側にあるような世界を暗示しているようで。石工の親方の家で場面では、職人の生活を自由に書いていて、そこを主に会話で成り立たせている所など、池波正太郎の作品にあるような楽しさを感じました。

アカシア:序章の最後で、「はたしておれは、そちらに行かなくてよかったのだろうか」と寛次郎が思っているのですが、これは、捨吉のような天才になれなかったことへの後悔も少しあるっていうことなんでしょうか? 

:寛次郎は捨吉に嫉妬していたけど、石神による力だったと分かって、やっぱりこれでよかったのだと納得しているのではないでしょうか。 

アカシア:p217に登場する背の高い翁は石神なんですね。ここで、寛次郎は申吉を人間の世界に引き戻して、申吉も普通の人になるってこと? 私はおもしろく読んだのですが、序章にもその後にも道に迷う場面が出てきて紛らわしかったり、双助が村に侵入した賊に匕首で切られて負傷したとき、又五郎が村の差別に憤慨するが、具体的に何があったのか書かれていないので、読者はとまどうだろうとか、細かい表現に疑問を感じるようなところ(たとえば、p21の「体を丸めた龍は目を剥いて、頭の後ろをにらもうとしている」)はあって、まだまだ荒削りだなとは思ったのですが、これからきっとおもしろい作品が書ける人だろうな、という予感はありました。カットの絵もいいですね。 

さらら:『石の神』は、『石を抱くエイリアン』よりおもしろく読めました。それは、完成までにかかった時間と関係する部分もありそうです。受賞から8年かけて、単行本の形になるまで、編集者とがっぷり組んで、文章を練り上げていったはず。加筆しては削り、また加筆しては削り、形を変えて、そこからまた書き直して……と繰り返された時間は、「石を刻む」作業に似ている気がします。作者は、書きこむことで、少しずつ見えてきた「像」をさら彫りこんでいったのではないかしら。捨吉が住んでいた「荒れ地」――そこに歴史的な裏づけがあるのかどうかは、わかりません。史実としては疑問をさしはさむ余地はあったけれど、私は、歴史に場を借りた一種のファンタジー、ひとつの物語として読みました。「荒れ地」から放り出された捨吉が、石を彫る親方のもとに転がりこむ。そして寛次郎との友情を育んでいく。「友情物語」として紹介した書評もどこかで読んだけれど、単なる友情物語ではない。そうくくってしまっては、多くのものが抜け落ちます。寛次郎が石を彫るなかで、いつしか求めた素朴な祈りとしての神仏と、捨吉の表現した、闇の中に引っ張りこむ力としての神仏。石があって、人があって、神仏がいる。その三つが、それぞれ「存在」としてリアルに描かれている点に魅かれました。荒削りだけど、「もの」の手触りのあるところが、良さになっているんじゃないかな。 

夏子:もしかして非差別部落が成立するより前の時代なのかな? 被差別部落が成立する以前には、差別を受けているグループがもう少しぼんやりとした形で、あちこちに点在していたということはありませんか? そういうグループのひとつかな、と思って読んでいました。 

アンヌ:おじいさんは、首切り役人の手伝いをしていたとあります。ここが、被差別部落の出身を示唆しているのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


濱野京子『石を抱くエイリアン』

石を抱くエイリアン

ルパン:自分の娘と同じ学年の少女が主人公だったので、身近な感覚で読みました。ちょうど中学卒業のときに震災だったり。ただ、辞書を切り取るシーンから始まるところがちょっと……。辞書も本ですから、よほどのことがないと切ったりしないんじゃないかと思ったんですけど、たいした理由もなく家族全員分の辞書を切っちゃうところが、なんだか生理的にいやな感じがしました。あと、いかにも「作家が調べたことを登場人物に言わせている」というのが透けて見えるようなところが随所に見られるのが気になりました。『レガッタ!』よりはこちらのほうがいいですけれど。説明的なところが多いと、お話のわくわく感が止まっちゃってつまらなくなるのがもったいないところです。偉生はけっこう好きでした。キャラがしっかり立っていて。 

レジーナ:私たちの電力は原発に依存しているのではなく、原発は一度稼働すると止めるのが難しいという事実は、これまで知りませんでした。原発を地方に押しつけていることへの作者の強い問題意識が、全面的に押し出された作品ですね。頭で書いている印象を受けました。人物像にもう少し厚みがあり、生き生きと動いていたら、もっとよかったと思います。夏希の存在が、途中から急に薄くなります。原発の問題に気づいた登場人物の一人は弁護士を目指しますが、動機がよくわかりませんでした。これについては、主人公も理解できないと言っていますが……。 

レン:けっこうおもしろく読みました。翻訳だと、こういう文体にはなかなかもっていけないんですね。創作ならではの、中学生のリアルな空気感があって。主人公もほんとうに普通の子で、優等生でもなく、とりたてて取り柄もなく、そして、ふしぎ君の偉生君。こういう子っているよな、と。べったりせず、でも毎日学校で顔を合わせる中学生の感じが出ていると思いました。中学生の読者が読んだら、どう思うかな。何気なく手にとって、震災のことをふりかえって考えるんじゃないかな。いい印象で読みました。 

:日本の児童文学として、とてもおもしろかったです。今どきの文体で始まってありきたりかと思いきや、途中からどんどん引きこまれて。成熟した偉生がとっても好きになったので、死んじゃうのがショックでした。偉生と姉さん以外の子どもたちの関係も良かったですね。青春群像というか、集団の楽しさがあって、足を引っ張り合うでもなく、仲がいい。中学生の現状というのはよく知らないのですが、クラス全員の前で告白をしてもすぐに交際に発展することもなく、まわりも静かに見守っている感じが大人っぽいなあと思いました。キュンとしました。 

アンヌ:なんだか題材が並べられているだけのような気がして、もう一度書き直してもらいたいような気分になりました。辞書を切る気持ちとか、うまくつながっていかなかったです。主人公は、人から見たら面倒見のいい「姉さん」で、偉生から、こんなところやあんなところがいいと言われるのだけれど、どうも一致しない。少女漫画にして、外からこの主人公の魅力をもうひと描きしてくれたらいいんじゃないかと思いました。削られた部分があったのかもしれないとも思えました。偉生は何となく宮沢賢治を思わせる鉱物少年で、魅力的でした。 

ワトソン:今回の3冊の中では私はこれが一番読みやすかったです。文章がすんなりと入ってきました。登場人物の苗字から原発関連の話になるのかなという予想ができました。辞書から「希望」を切りとるところは、新しい版の辞書買うというラストへ結びつけるためのものという印象が残ってしまいました。あとがきから、1995年生まれの子の物語をという依頼だったようなので、この時代について残すという意味で書かれた話なのかなと思いました。そういう意味では意義ある作品と言えると思います。ただ、同じ年に生まれた娘にも感想を聞いたら、幸いこの話のように友達を亡くすというようなつらい体験もしなかったし、ゆとり世代といわれるけれど、世間が思うほど自分が生まれた年を意識することはないと言っていました。 

アカシア:おもしろかったです。2010年から11年という一年間の友だち関係の出来事に、チリの鉱山の落盤事故、ニュージーランドの地震、新燃岳噴火、はやぶさの帰還、タイガーマスクのランドセル寄贈なんていう折々の社会の出来事を織り交ぜて書いているのもいいですね。内側だけの心模様だけじゃなく外の出来事にも目を向けてほしい、という著者の気持ちが表れているのかもしれません。そしてもちろん地震と原発事故が3月には起こります。3.11の後、日本中が動揺していたことを、読みながら私もまざまざと思い出しました。欲を言えば、原発について話し合うところが、やっぱり硬い表現になってしまっているのが残念。やわらかい表現では話せないことだというのはわかりますが、もう少し技術用語を超えたものになっているとよかったかな。もっとも著者は意図的に日常になじまないことをわざと強調しているのかもしれませんが。それから、さっき他の方がおっしゃっていましたが、私も会話の文体のテンポのよさに、翻訳文学だとここまでできないなあと差を痛感しました。たとえば最初の方に「ねえよ、そんなの」という市子の独白があるのですが、翻訳だったら女の子の台詞はこうは訳せない。ここまでやれるとおもしろいですけどね。ちょっと疑問に思ったのは、会話の中では苗字で言い合っているのに、地の文では名前になっている。どうしてなんだろうな、と思いました。それと、辞書を破くというのは、この年代の子どもなら大いにあり得ると思います。 

ルパン:でも、切っちゃったページ、裏に大事な言葉が載っているかもしれないのに。 

アカシア:子どもって、大人の想像の範囲を軽々と超えていく存在だと思うんです。で、児童文学作家なら当然のことながら、そこを書きたいんじゃないかな。 

レン:はやぶさの帰還に「希望、感じるよね」という同級生に反発を感じるのは、わかりますよね。 

夏子:「希望」という歌が上手に使われていますよね。岸洋子さんという歌手は、上手なこともあって、ねっとりとせまってくる感じ。 

:薄っぺらい希望は切り取ったけど、震災や苦しみを越えた後に自分の希望は見える、ということでしょうか。 

アカシア:辞書も後で同じのを買うわけじゃないんですよ。切り取ったのは、岩波国語辞典第六版横組だけど、最後に自分のお小遣いで買ったのは同じ辞典の第七版普通版なんです。だから一歩前に進んでる。 

さらら:濱野さんの作品はもともと大好き。だから期待して読みました。原発事故や、その後に起きたことを書きたいという気持ちはよくわかり、意欲的な作品だと思いました。いっぽうで、冒頭で「希望」という字が出ている辞書のページを冒破った主人公が、最後に、辛いこともあったけれど、行方不明になった友人の「希望」を受け入れる決心をして新しい辞書を買うところに、計算が透けてみえて、やや残念でした。会話は生き生きしていて、軽妙です。なのに、どこかテーマにあわせて書かれたのでは、という意識が読み手の私の心にひっかかって、人物がしっかり動いてこなかった。特に、大震災の後の主人公の心理の動き、喪失からの立ち直りが、すこし早すぎるような気がしました。中学生や高校生が実際に読むと、違う感想を持つのかもしれません。でも大きな喪失、そこからの再生、その肝心のところがまだ十分に書けていない気がします。もともと連載だったので、しかたがない部分はありますが、作家のなかで人物像が完全に熟していないうちに、外に出してしまった印象を持ちました。このテーマで、もう一回書いてほしいな、濱野さんには。 

ワトソン:どうして「石を抱いた」なんでしょうね。

アカシア:「石」と「意志」は掛詞になっています。p178-179に「洋一、変なやつだった、っていわなかったな。洋一の思いが、今ごろになってじんわりと伝わってくるようだった。臆面もなく語る夢。気恥ずかしくなるような希望。/偉生は、意志を抱いていた」ってあります。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


2014年09月 テーマ:石

 

日付 2014年09月18日
参加者 アカシア、アンヌ、慧、さらら、夏子、ルパン、レン、ワトソン、レ
ジーナ
テーマ

読んだ本:

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『ネルソン・マンデラ』の紹介記事

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『ネルソン・マンデラ』

が紹介されました。

やまねこ翻訳クラブの三好美香さんが、「月刊児童文学翻訳」No.157(2014年6月号)で『ネルソン・マンデラ』を紹介してくださいました。

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●注目の本(邦訳絵本)●人種の融和を成し遂げた南アフリカの父
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『ネルソン・マンデラ』 カディール・ネルソン文・絵/さくまゆみこ訳
鈴木出版 定価1,900円(本体) 2014.02 38ページ ISBN 978-4790252771
"Nelson Mandela" by Kadir Nelson
HarperCollins Children's Books, 2013
 南アフリカの黒人が入植者に奪われたものは土地と自由。本書は、すべての国民に
自由を取り戻す闘いを続けたネルソン・マンデラの伝記絵本だ。
 ネルソン・マンデラはクヌ村で幸せな子ども時代を過ごした。9歳で父が亡くなり、
預けられた遠方の親戚のもとで、黒人が背負ってきた悲しい歴史を知る。そして、不
当な扱いを受ける黒人を守るために、より一層勉学に励み弁護士となるも、法律だけ
ではかなわぬことから、アパルトヘイト撤廃の活動へ身を投じる。抗議デモや集会を
組織する彼を政府は逮捕した。獄中生活は長く厳しいものだった。しかし、政府は国
際世論の非難を受けてアパルトヘイト撤廃へと方針を変え、投獄から27年を経てよう
やく彼を釈放した。そして彼は、全人種選挙で大統領に選ばれた。
 不屈の精神で非凡な人生を送ったネルソン・マンデラを、作者は平易な言葉と力強
い絵で描き出す。人物や背景に、太い線と艶を消した色を使うことで、絵はより本質
に迫り、時代色まで描写する。私が特に心を引かれたのは、冒頭の場面だ。クヌ村の
丘陵を、逆光と影の黒色を用いて描き、幸せな子ども時代が長く続かないことを予感
させる。次のページでは、父の死を語る文章と、厳しい表情で見つめ合う母子の絵で、
身を切るほどの悲しみを表す。父から受け継いだ民族の誇りと、「ゆうきを出すんだ
よ」と別れを告げた母の言葉が、彼の原点だと感じた。類いまれなる統率力と高潔な
人格をもって信念を貫き、彼は、「アマンドラ(力を)」の合言葉で民衆の心を1つ
にまとめ、大統領に選ばれた。人種差別のない社会への幕開けだ。作者は晴れ渡る空
を背にした彼を描き、天にいる先祖も国民も世界も南アフリカを祝福したと語る。そ
の青天には、この日を待たずに命を落とした多くの仲間やその家族も、先祖として描
かれているように思えた。
 読み終えて、表紙いっぱいに描かれたネルソン・マンデラの肖像画に見入った。そ
の背後にある彼の歴史。そして彼の視線の先に広がる未来。見つめられている私たち
は彼にとっての未来だ。その瞳が読者に真っすぐに問いかけてくる。人間は平等だ、
君は、差別を許さない勇気を持っているかと。長く読み継がれてほしい作品だ。
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【文・絵】カディール・ネルソン(Kadir Nelson):米国サンディエゴ在住。ニュー
ヨークのプラット・インスティテュートで学ぶ。絵本作家として、またイラストレー
ターとして、幅広く活躍。邦訳に、『わたしには夢がある』(マーティン・ルーサー
・キング・ジュニア文/さくまゆみこ訳/光村教育図書)、『ヘンリー・ブラウンの
誕生日』(エレン・レヴァイン文/千葉茂樹訳/鈴木出版)などがある。
【訳】さくまゆみこ:1947年、東京生まれ。青山学院女子短期大学教授。文化出版局、
冨山房で児童書編集に携わり、現在、翻訳家として多くの作品を手掛ける。最近の訳
書に『やくそく』(ニコラ・デイビス文/ローラ・カーリン絵/BL出版)、『海の
ひかり』(モリー・バング&ペニー・チザム作/評論社)、『ひとりでおとまりした
よるに』(フィリパ・ピアス文/ヘレン・クレイグ絵/徳間書店)などがある。
【参考】
▼カディール・ネルソン公式ウェブサイト
http://www.kadirnelson.com/
▼さくまゆみこ公式ウェブサイト
http://members.jcom.home.ne.jp/baobab-star/
▽さくまゆみこ訳書・著作リスト(やまねこ翻訳クラブ資料室)
http://www.yamaneko.org/bookdb/int/ls/ysakuma.htm
▽さくまゆみこインタビュー(やまねこ翻訳クラブ資料室)
http://www.yamaneko.org/bookdb/int/ysakuma.htm
                                (三好美香)



『奇跡の子』熊本子どもの本研究会から

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『奇跡の子』

の紹介を載せてくださいました。

ディック・キング=スミス 著
さくまゆみこ訳
講談社
2001.07

「熊本子どもの本研究会」の菊島紘子さんが、会報No.372(2014年8月6日発行)に『奇跡の子』について書いてくださいました。
私は大好きな本ですが、今は絶版になっているようです。

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「kisekinokokumamoto.pdf」をダウンロード

 


エリザベス・レアード『戦場のオレンジ』

戦場のオレンジ

『戦場のオレンジ』をおすすめします。

いい作品を書いているのはわかるけれど、なぜか心の奥底まで響かない作家がいます。私にとってエリザベス・レアードはそんな作家の一人でした。きっと読者である私との相性の問題なのでしょう。

なので今回も、この作品を取り上げようと即決したわけではありませんでした。でも、迷っているとき、雨宮処凜さんの「若い女性に戦争の現実味を伝えるには、服が汚れる、おしゃれが出来なくなると説明するのがいちばん響く」という言葉が目にとびこんできました。

爆撃される、殺されるというのは、今やバーチャル世界の出来事となり、実感が持てないのだと思います。服が汚れるなんていうのは、日常世界でも体験することなので、逆にリアリティをもって迫ってくるのでしょう。

それならと、今回はこの本を取り上げることにしました。これを読めば、もう少しリアルなイメージが持てるようになるかもしれないと思ったからです。

本書の舞台は内戦下のベイルートで、敵と味方の間にグリーンラインと呼ばれる境界線が走っています。主人公は10歳のアイーシャ。父親は外国に出稼ぎに行き、母親は家に爆弾が落ちてから行方不明で、アイーシャを頭に3人の子どもがおばあさんと暮らしています。そのおばあさんが生きていくのに必要な薬を手に入れるため、アイーシャはグリーンラインを越えて敵の領域まで侵入し、お医者さんを訪ねます。

物語の中には、このお医者さんをはじめ、やわらかい心を持った人たちが登場してきます。でも、戦争という状況は、そのやわらかい心がのびやかに息づくのを許してはくれません。そのあたりのことがとてもよく書かれています。

(「トーハン週報」Monthly YA 2014年8月11日号掲載)


2014年07月 テーマ:家族のありかた

 

日付 2014年07月31日
参加者 アカシア、夏子、ルパン、慧、シオデ、ウグイス、ヤマネ、レタマ、プル
メリア、げた、ajian
テーマ 家族のありかた

読んだ本:

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レタマ:同じように家族を扱っていても『ゼバスチアンからの電話』と非常に対照的でした。あちらの両親は古きよき家庭にありがちなキャラクターですが、こちらは型にはまらない人々が次々と出てくる。日本の児童文学は大人の存在感が希薄なものが多いのですが、これは大人がたくさん描かれていて新鮮でした。しかも、若い登場人物だけでなく、おじいちゃんやおばあちゃんも、読み進むにつれて変化します。料理やレッサーパンダやダーツなど小道具づかいに、人びとのさまざまな価値観が感じられました。20年前に書かれているのに、古い感じがせず自由で、かえって今の若い書き手のほうが保守的な価値観にとらわれている感じしました。ひこ・田中さんには、こういうYAをもっと書いてほしいと思いました。

ヤマネ:ひこ・田中さんは評論家の印象が強くて、作品は初めて読んだんですが、とてもおもしろかった。内容も新しい感じがする。福音館書店から発売されたのは今年2014年で、もともとは1997年に書かれている本ですが、全く古さを感じなかった。福音館書店版は表記の仕方や本のつくりが新しい感じで実験的な部分がいろいろあると感じました。たとえばp139の家の中の座席の表現など縦書きの文章のなかにいきなり図版が入ってきて驚きました。他ではバナナシェイクの文字だけ太字になっていたり。最初に装丁を見た時は斬新だと思いましたが、お話の内容を読んだら合ってますね。対象年齢になっている小学6年生はどういう感じで手に取るのでしょう。もしかしたら対象はもう少し上の中高生あたりかも。日記や手紙などの入れ方も上手だと思いました。

げた:昔文庫で読みました。文庫版のあとがきで作者自身が冒頭シーンが相当いい加減と言っているんだけど、全体に筋の設定が何となく無理やりな感じがしますね。それに、人物像もはっきりしないですよね。林君との初恋も、彼女が彼のどこにどういうふうに惹かれたのか、わかりません。筋的には突拍子もないところから始まって、おもしろい展開ではあるんですけどね。ちょうど40年前に京都に1年いたので、その頃のことを思い出しながら読みました。

プルメリア:独特の雰囲気を持つ女の子の挿絵と背表紙や表紙の一部分がキラキラしているのが印象的です。手紙があったり日記があったり、未来の自分への手紙があったり、会話文が長く挿入されていたりなどさまざまな構成が組み入れられている作品だなと思いました。ダーツは家庭にあったりダーツバーがあったりしますが、中学校の部活でやるのは難しいかも。方言、お寺、地名から京都が身近に感じられました。

アカシア:いろいろなキャラクターが浮かび上がるように書いてあります。谷口極などのキャラクターは、書かれた当時よりも今の方がリアリティがあるかも。ふつうこういうYAは同世代のやり取りしか書いてないけど、さまざまな大人との対話が書かれているところがいいですね。リアルな家族というよりは、理想が書かれている。イデオロギーが先にあるというふうに言えなくもないのだけど、『ゼバスチアンからの電話』などとちがって翻訳物じゃないので、日本語の魅力で引っ張っていくことができる。内面を書くとき、ふつうは会話や行動で書くものですが、日記や会話を使うのはちょっとずるいかな(笑)。読んだときはそれほど気にならなくて、仕掛けとしておもしろく感じたんですけどね。

ウグイス:冒頭で、主人公が赤ん坊の時に両親を交通事故で亡くしたと書いてあり、ああ作者は親のいない話を書きたかったんだな、とわかりました。両親ではない大人との関係を書いて成功していると思います。いろいろな人がいて、いろいろな価値観があるというのが分かり始める年代の子どもの気持ちがよく書かれていますよね。大人顔負けの考え方をする、ちょっとひねくれてはいるけれど、明るく前向きで、へこたれない女の子像というのは、90年代の特徴かもしれません。

ルパン:私はこの本は楽しめませんでした。吐く場面から始まるし、せっかく声かけた女の子に「なんか文句あんの?」っていう大人が出てきた時点でもう…。しかもこの人たちを家に入れちゃって、ずっと物語が続いていくんだけど、ぜんぜん共感できないから、このあとどうなるんだろう、っていうワクワク感もなくて。

シオデ:私も、冒頭から吐いたり、下痢をしたりする場面に生理的な嫌悪感をおぼえたのと、京都弁が多用されるのが字にすると騒がしくて、途中で読むのをやめてしまいましたが、何日かたって続きを読んだら、今度は一気に読めました。世代も環境も違う人たちと触れあいながら成長していくのは、理想というよりむしろリアルなんじゃないかな。そういうリアルな触れあいを書いたところが新鮮で、なかなかいいなと思いました。でも、新版の最後にある現代の部分は、いまの読者に読んでもらいたいという配慮なんでしょうが、本当に必要なんでしょうか? それから、おばあちゃんは、とっても魅力的なんだけど、最後にサークルを作って雑誌を発行するというのは、つまらないところに着地したなと・・・。

アカシア:そこは、あるあるなんじゃないですか? わざとそうしてるのかも。

シオデ:いるけど、だからがっかりしたというか。

ajian:台詞や文体でひっぱるおもしろさや、それぞれの日記や手紙で内面がぽんと出てきたりするおもしろさがあって、ぐいぐい読めました。コンセプトが先にあっても、けして類型的なキャラクターはなくて、主人公の女の子も不思議な魅力があり、ひょうひょうとしています。私はガッツがある子が好きなので、吐いている人にけりを入れてやろうかというあたりに、いいぞと思いました。かといって短気というわけでもなく、魅力的。なかなかおもしろかったです。最後の章はなくてもいいかな。

:『お引っ越し』『カレンダー』『ごめん』も読んだし、映画も見ましたけど、やっぱり、ひこさんは評論や書評がいいのでは。舞台にしている京都については、生活的な部分があいまいで、ひこさんが大学時代に過ごして知っている部分だけが突出しているようで、気持ちが悪い。日記とか『ヴォイス』など、書くという行為も、結局、ひこさんが知っている世界なだけですよね。その上で、登場人物にひこさんの理想を投影しているだけ。リアリティがあまり感じられない。

シオデ:俗にいう京都のいやらしさもよく出ているんじゃないですか。主人公が、修学旅行の生徒のふりをするところとか。

ajian:個人的には、この本を読んで京都に対する好感も上がりました。

シオデ:私は、京都でずっと暮らしていた上野遼さんの作品がとても好きなんだけど、上野さんの作品は、またちょっと違いますよね。この作品に出てくる人たちって、おじいちゃんは元大学教授だし、翼の両親と転がりこんでくるふたりは、関西の名門大学の卒業生だし、いわゆるインテリ(今は死語かも)ばかりってところがちょっと鼻につく……。

アカシア:慧さんがリアリティがないとおっしゃったのは……。

:海と極に両親の服を着せるところは、つくりものめいている。

アカシア:服はそうかもしれないけど、海と極みたいな人はいるのでは?

:あと、この生活の余裕感は今はないですね。ちょっとアルバイトしたりとか……。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


ゼバスチアンからの電話[新版]

レタマ:大昔に読んだけど、内容をすっかり忘れてしまい読み直しました。ザビーネの両親の姿が私の両親とあまりにも似ていて、読んでいると息苦しくなるぐらい。何気ない日常の中でのザビーネの気持ちの動きがこまやかに描かれているところがよかったです。最後に家族全員に変化があるけれど、そこに行き着くまでが長いので、山あり谷ありのストーリーに慣れている子どもには、起伏がなくて読みづらいのかも。前はYAの作りだったのが、今回大人の本として再刊されたのはどうしてでしょう。中高校生では読みこなせなくなったから?

げた:福武書店の版で読みました。ドイツでも、すごく(価値観が)古いんだなとびっくりしました。もっとも、原書は1981年の本で30年以上前のドイツのことだから、今はどうだかはわかりませんけどね。ゼバスチアンのお母さんが、ザビーネにゼバスチアンの世話を頼もうと旅行に誘い出すあたりなどは、ちょっと怖いものすら感じましたよ。ただ、最近の若い子たちは束縛されたがっているところもあって、このザビーネのように自分の生き方を貫いていく強さがあるといいなとも思いました。

アカシア:今の若い人たちが束縛されたがっているとは思わないけど、専業主婦が楽だと思っている人はいるかもしれません。楽なほうに行きたいというか。

げた:結果としては同じになってしまうんですよ。だから、若い子たちに読んでもらいたいと思いました。それから、ゼバスチアンっていうキャラクターなんだけど、こういう男っているんですよね。若い女の子にモテて、嫌味なやつが。私はどちらかというとアンドレアスタイプだったんですけどね。

アカシア:白水社版は、せっかく新版にしたのに誤植が多いですね。内容はすっかり忘れていたのでもう1度読みましたが、あまりおもしろくなかった。いかにも古い。ザビーネの恋愛の対象がゼバスチアンかアンドレアスかという2択だけど、今はもっとたくさんのタイプがいるのに。両親の人物造形も類型的。ユーモアがないのもまずい。クソまじめでおもしろくない。トルコ人が出てくるところの書き方にも引っかかりました。今の若い学生が読みたがるとは思えません。作家に言いたいメッセージがあって書いているところが、ちょっと鼻についたりもします。だから楽しくないのかも。

ウグイス:最寄りの図書館には新版は1冊もありませんでした。予算がないからか、旧版が入っている場合には買わないことが多いみたい。訳者やタイトルが変わると買うけれど。原書が出たのが1981年、福武で出たのが1990年。恋愛というより母親からの自立の物語として印象に残る作品で、ヤングアダルトというジャンルが形成された8、90年代には、親からの精神的な自立というのは一つの重要なテーマだったと思います。この黒い装丁も当時はおしゃれで、中学生、高校生ぐらいによく読まれたのだと思いますね。今になってどうして新訳されたのかはわかりませんが……。ザビーネの一人称で書かれていて、時系列どおりに話が進まず、回想シーンが入ったり、気持ちのゆれに合わせて場面が転換していくあたりも、当時は新鮮だったのではないかと思います。

シオデ:たしかに作者の言いたいことが前面に出ていて、今の若い人たちには古いと思われるかもしれないけれど、私はおもしろく読みました。大人の読者には、共感できる部分も多いのではないでしょうか? だから、いま大人向けに出したというのも分かる気がします。新版なのに誤植が多いのは、私も気になりました。

アカシア:あとザビーネがとてもいやなキャラクターよね。

シオデ:弟をのぞいては、みんな、それほど好感を持てるキャラクターじゃないわね。それが、けっこうリアルだと思ったけど……。

アカシア:キャラクターが立体的でないのは、やっぱりイデオロギーが先にあるからじゃないかしら。

夏子:まあ、それなりにおもしろく読みました。ただ最初からずっと、気に入らない気に入らないとひっかかりながら読んでいて、何にひっかかるのだろうと、考えていたんです。結局、イデオロギーが先行しているからだと思い当たりました。ザビーネの母親からの自立と、母親本人の自立、それが平行して描かれているところが、いちばん興味深かったです。とはいえ今読むと古くて、子どもが読んでおもしろいとは思えないなぁ。ティーンエイジャーの恋愛が描かれていて、セックスにひかれているということだってあるはずなのに、そのあたりはまったく無視していますよね。読んでいて「そんなもんじゃないだろう!」と不満でした。

ajian:イデオロギーはたしかに先に立っているし古いところもあるけれど、2歳年下の同僚は、「すごく分かるところがある」と言ってました。ゼバスチアンはいやなキャラクターですが、こういうやつは今もいるので、アクチュアルな感じもこの本は持っていると思います。さっさとそういう男から卒業して幸せになってもらいたいと若い女の子には思っているけど。

夏子:だけどね、ゼバスチアンからすると、「あなたのためになります」という女の子に迫られたら、まるでお母さんがふたりできるみたいで、すごくうっとうしいと思うよ。ゼバスチアンが逃げたくなる気持ちも、よくわかる。

ajian:ぼくやげたさんは男性なのでゼバスチアンに辛口なんだと思う。

夏子:そんなにいやなやつじゃないと思うけどな。

ajian:デートDVとかしそうじゃないですか。

アカシア、レタマ:そういうタイプじゃないよ。

アカシア:サビーネみたいな、お世話します系はどうですか?

レタマ:でも、ザビーネが、相手に合わせようとしてしまって後で悔やんだり、勇気のない自分をお母さんと同じだと思ったりするところは、おもしろかったです。恋人の前で、自分が思っていたことと違うことを言ってしまったりするあたり。

夏子:そうそう、そのあたりはよく書かれている。

:おもしろかった。のめりこんで読みました。ザビーネは、ピルの心配など大人びているところもありますが、その大人っぽさゆえに、免許を取って仕事を得て家計を支えはじめるお母さんの姿や、得意科目以外は勉強しないベアティの男の子っぽさをとてもよく見ています。で、このお母さんは、一昔前っぽいけれど、案外今でもいそう。だから、高卒で就職か大学進学かという悩みは現在とはちょっと違うけれど、古さはほとんど感じなかったです。ゼバスチアンはいやなやつですね。でも、彼はあまり関係ない。最後に、自分から電話をかけるザビーネは、ゼバスチアンかアンドレアスに選ばれるという2択ではなく、自分自身で決めるという第3の選択ができている。立派な成長です。

アカシア:古いと思うのは訳し方のせいもあるのかも。こういうお母さんもゼバスチアンみたいな人もまだいることはいるけど、「〜わ」で終わる口調などはいかにも古い。

レタマ:一つ思い出したことですが、この頃の「電話」のドキドキする感じが、今の人にはわかりにくいかもしれませんね。当時は携帯電話もメールもなく、長距離電話にはお金がかかって、顔を合わせていない時間は連絡がとりにくかったし、電話の会話は家族に筒抜けでしたが、今はぜんぜん違うので。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


ローズの小さな図書館

アカシア:ずいぶん前に読んだので思い出す部分と思い出さない部分があります。5部構成になっていて、4世代のそれぞれの物語をそのうちの4部をつかって書き、第5部で亡くなった登場人物以外の全員がそろうという構成がおもしろい。すべてのエピソードの舞台が図書館ではないけど、本や図書館にまつわる人を4世代にわたって描いています。アメリカの十代の普通の人たちがどんな暮らしをしていたのか、世代をまたがってたどれるところもおもしろかったです。わなにかかった犬の話など印象的なエピソードも登場します。おまけのおもしろさとしては、ホームレスの人が図書館でハリー・ポッターを読んでいるなんていうところ。平日の昼間、行き場のない人が図書館にいくのは、日本もアメリカも同じなのかと思いました。系図があるのでそれを見ながら読んでいけるのもいいですね。大傑作とは思いませんでしたが、佳作。気持ちのよい本でした。

ウグイス:4世代にわたる家族の物語で、最終章で79歳になった主人公ローズの現在が語られています。とてもつらい境遇にありながら、本が大好きで、移動図書館の運転手として本にかかわっていくローズ。どんな運命も受け入れていく主人公の芯の強さに共感を覚えました。最初の章の展開がおもしろく、この子がどうなっていくのかと期待が高まります。その後の章で、ローズの生き方や本に対する気持ちが、次の世代の家族にどう伝わっていくかが描かれています。2章以降は三人称で書かれているのでより客観的に物語が進み、描かれている期間もローズの章より短いので、ちょっと物足りなさも感じるのですが、読み進むにつれ、書かれていない部分にどんなことが起こったのかを想像する楽しみもあることに気づきました。例えば「アナベス」では3人の男性が出てきますが、次の「カイル」の章を読むと、アナベスの結婚相手は別の男性だとわかります。結局アナベスが選んだのはどんな人なのか、「カイル」を読んで知ることになるわけですが、その間の出来事は読者の想像にゆだねられているのです。人物描写は短いながら的確で、読者の想像をかき立てるので、十分に物語の中にひきこまれます。ローズの子ども、孫、曾孫の中には、ローズと同じように本が好きで図書館に通う者もいれば、本とは関係のない生活をする者もいるけれど、どこかで必ず本にかかわっていくところがおもしろい。どの章にも常にどこかにローズの存在があり、最後にローズの夢がかなうというのは、幸せな余韻が残る終わりかただと思いました。
 各世代の描写の中からは、それぞれの人生のほんの一部を垣間見ることしかできませんが、前の章からのつながりが随所に見られるので、読者は満足できます。そういった小さな描写が、その後の章への大切な伏線となって物語に深みを与えていると思います。たとえば、ローズは後に夫となるルーサーに出会ったとき、しわくちゃなシャツが気になるという描写があって、次の章では、ルーサーが「糊のきいたシャツのボタンをとめていた」という1文があり、結婚してローズがパリッとしたシャツを着せていることがわかるわけです。そういうのが、物語を読む楽しみのひとつだと思うし、読者を満足させてくれると思います。また、その時代にはやっていた小説や、図書館の様子にも時代性が見られ、「本」を通してアメリカの時代の移り変わりを感じることができます。日本でも翻訳されている書名が数多く、それを読む人々がより一層身近に感じられました。『大地』から『ハリー・ポッター』まで登場する本は他にないですよね。本や図書館をキーワードにして描いた家族の歴史というのは珍しく、本好きな人の心をくすぐる描写が数多く散りばめられています。図書館がなくてはならない存在であり、図書館員は本の好みを知り尽くした一生の良き友人として描かれているのもよかった。ローズが最初、ぜんぜん本を読まない人に『大地』を紹介して失敗するけれど、そのあともっと軽い本や料理のレシピ本などを手渡したら、その次に行った時には借りたい人を5人も連れて待っていてくれたところなんか、ぐっときました。
 原題、Part of Meはどう訳すか難しいところですが、「ローズの小さな図書館」とすると、ローズだけの物語にも思えるので、ちょっと内容と違うかなという気がしました。時の流れや家族の歴史というニュアンスがほしかったと思います。

ルパン:私もいいお話だと思いました。はじめにローズが出てきて、そのあと何世代にもわたる何十年分かのエピソードが出てくるんですけど、最後にまたローズの物語が出てくる、というのがすごくいいですね。ときどきちょっとわかりにくいところもありましたけど。たとえば、p16。「風車を回して、畑に水をやるのをやめた」という描写があるんですけど、これ、風車は回ったのか回らなかったのか、って悩んでしまいました。それから、ローズと図書館司書をやっていたアーマがずっと独身なのは切ないなと思いました。ローズの家系はつぎつぎに子どもが生まれてそれぞれの幸せをみつけていくのに、この人はずっと移動図書館のなかで人生を過ごしていくんですよね……。

シオデ:良い本だと思います。本でつながる4世代の物語というのも、本や図書館を愛する大人たちには文句なしに受け入れられるテーマですし、章ごとのエピソードも良く描けている。第1章と第2章は、特に良く書けていると思いました。ただ、私はひねくれているのかもしれませんが、おもしろくなかったし特に感動もしませんでした。発想から書き方に至るまで「いい本でしょ? 感動するでしょ?」と言っているような……。優等生的な感じがするんですよね。私は、登場人物が書いているうちに作者の手に負えなくなってしまうような、作者の思惑と違うところにたどりついてしまうような作品が好きなので、あまりおもしろみを感じなかったのかもしれません。書名がいろいろ出てきますけれど、その本が読んだ人の人生にどのように関わってきたかまでは書いていませんよね。その本を読んでいる読者は想像できるかもしれないけれど、本当は「本&図書館=素晴らしい」ということより、どうしてそうなのか、個々の本の力が読者の人生にどんな風に働きかけたのかを書いてもらいたかった。本好きの人にとっては、いまさらいうまでもない、当たり前のことなのかもしれないけれど。ちょっと引っかかったのはp176の「わけのわからないことをわめいているホームレスみたい」という1文。この子(アナベス)って嫌な子だなと、一瞬思ってしまいました。つぎの章にもホームレスの人たちのことが出てくるので、ホームレス(今は路上生活者っていうんじゃないかしら?)の人たちに対する感じ方が時代によって変わってきたと作者は言いたかったのかもしれないけれど、それだったらもう少していねいに書いてもよかったのでは? 原文がどうなっているかは分からないけれど、アナベスは路上生活者一般についてそう思っているのか、それとも特定の、たとえば自分の家の近くにいる誰かについてそう思っているのかもわかりませんでした。

夏子:アカシアさんと同じく、気持ちのいい本だと思いました。私は、表紙が気に入らないんです。この本は“時の流れ”が一つの大きなテーマとなっているのに、この表紙では、それがあまり感じられないのでは? 好意的に言うと、アメリカの移動図書館の車を、日本の読者に見せてあげる必要はあったのかもしれませんが……。本の内容は、最初のローズの章が何と言ってもいちばんおもしろかったです。「大草原の小さな家」シリーズのように、貧しく素朴な生活がリアルに描写されています。だけどこういうリアリズムのよさが発揮されるのは、貧しい時代の素朴な生活でないとだめなんだと思う。世代が代わってローズの孫のアナベスのあたりで、時代は近代ではなくなり現代になりますよね。現代になると、こういうリアリズムで生活を描いても、読者が共通項を持てないというか、共感しにくくなるんだと思う。アナベスの章は、主人公の心理描写になっているし、カイルの章になると、ハリーポッターの本が消えるというミステリーを持ってこないと、ストーリーにならなくなってくる。ええっと、村上龍の言葉を借りると、貧しさゆえの「悲しみ」に共感するのが近代で、個人がばらばらとなったがゆえの「寂しさ」に共感するのが現代とのこと。おおざっぱな言い方ですけれど、悲しみから寂しさへという近代から現代への変化が、1冊のなかで感じられて興味深かったです。
 最後にローズが登場することで円環が成立します。児童文学の中には、ものを書きたい女の子がたくさん登場しますよね。この本では、そういう女の子が年をとり、おばあちゃんになってから本を書くわけです。それをひ孫が読むというふうに時間が一巡りするところも、おもしろかったな。

ajian:好きな本でした。短いエピソードを重ねていくので読みやすかった。わなのところ、漁師のおじいちゃんのコネが運転免許場できいたはなしなど、一つ一つのエピソードが印象的です。こういう構成で書けるなんて巧い。いろいろな書名が挙がっていて、ローズがパール・バックの『大地』を貸して失敗したジュリアに次に『春は永遠』を貸して、とても気にいってもらます。『春は永遠』が読みたくなったけど残念ながら未訳でした。アメリカで有名な本がいろいろ挙がっていて、他の本も見てみたい気持ちになりました。アナベスが結婚したのは第3部には出てこない日系の人なんですが、それってだれ?と思いました。

夏子:日系の方の苗字は「コアミ」ですよね。「小網」さんっていうのかな?

シオデ:作者が知っている日系人の名前かもしれませんね。

ajian:だんだん現代的になっていくのもおもしろい。ベトナム戦争の話や、チャットルームに入り浸る子も、おもしろかった。

ルパン:未訳といえば、私も、『シンデレラの姉』を読んでいてお母さんが夕飯を作るのを忘れる、というシーンがあったので、その本を読んでみたいと思ったんですけど、これも日本では未訳でした。

:ちょっとお行儀がよすぎるかな。本好きに向けて「よくできた本でしょう」と主張しているみたい。本がたくさん出てきて、辛いときには『大地』、読書への目覚めには「ハリー・ポッター」などメンタルと本がリンクしてる。ブック・ピープル向けの工夫や間テキスト性がたっぷりでした。だから、ちょっと作りこみすぎかなと思いましたが、一応はおもしろかったです。ルイジアナだし貧しいし、最初は黒人の話かと思いましたが、白人ですね。クレオール的な言葉やアクセントは土地のもののようなので、翻訳で工夫されていますが、原文が見たいなと思いました。

ヤマネ:夏子先生が先ほど見せて下さった原書のように、時の流れを感じさせる表紙だったら手に取ったかもしれませんが、日本語版の表紙ではあまり手に取りたいと思いませんでした。また『ローズの小さな図書館』というタイトルから、もっと図書館の話を中心に描かれるのかと期待していましたが、実際は違いました。でも、4世代にわたる家族を書いている構成はとてもおもしろいと思いました。最初のページに載っている地図や家系図が読む手助けになりました。本の中で紹介されている名作とお話のつながりを感じられて心に残った場面は、マールヘンリーの章で『黄色い老犬』という本を読む場面。犬が助からないというパターンに陥ってなくて良かったとホッとしました。全体的にはあまり感動できなかったけれど、良い本だと思いました。

げた:私も、タイトルと表紙の絵を見て、もっと図書館を中心にした話なのかと思ったんですが、違いました。アメリカ南部の1940年前後からの子どもたちの様子を描いているんですね。先程リアリズムで素朴な生活が描かれているという意見が出ましたが、第2部の「わな」の描写などは、たしかに南部の生活を感じさせるリアリティがありますね。ただ、それぞれ章が短いので、これから、という感じのところで終わっていて、ちょっと印象が薄くなり、残念です。私ごとで恐縮ですが、ローズは自分の母と同い年で、母の人生とつい重ねてしまいました。

夏子:大人向けのこういう本『チボー家の人々』とか『ジャン・クリストフ』とかは、何て言うんだっけ? 「大河小説」でいいんですか? たいていもっと分量が多くて、何冊にもなっていますよね。これは短いエピソードをつないで1冊になっているので、読みやすくて助かる(?)というか、子ども向けなんだわね。でもこれほど短くても、後半になればなるほど、家系図を見ないと誰が誰だかわからなくなりますよね。

プルメリア:表紙の女の子は落ち着いていて14歳には見えないかな。裏表紙の、のどかな感じが気に入りました。各章ごとの内容が違っていますが、年号が書かれているので時間が経ったんだなと思うとすんなり内容には入れたような気がしました。ローズがミンクを溺れさせる場面など、当時の生活様式がわかり興味深く読めました。物語の舞台になっているアメリカの地図や家系図、作品に出てくる書名のリストがあるのは作品をさらに読みやすくしてくれました。図書館が作品の中にいろんな形で出てきたのがとてもよかったです。

レタマ:最初のローズの物語が一番印象的でした。17歳だとごまかして免許を取るときに、苦手なおじいさんが口ぞえしてくれるエピソード、移動図書館で人びとに本を手渡していく話など、とてもおもしろくて、そこだけをもっと深めてくれてもよかったのにと思いました。章ごとに世代が順々に変わっていく構成は、本を読み慣れている読者でないと読みにくいかな。1930年代と言ったら、日本の人たちはどんなふうに本を手にしていたのでしょうね。アメリカは図書館サービスが古くから発達していたのだなあと思いました。

シオデ:ルイジアナの言葉が出てきたり、それぞれの時代のベストセラーや背景にある事柄が出てきたりするので、アメリカの読者は自分の国の歴史や時の流れ、自分たちの家族について、日本の読者とはちがう感動をおぼえるのかもしれませんね。

ウグイス:地方色というのも一つの特徴なんでしょうね。ルイジアナといえば、アメリカ人なら誰でも知っているような雰囲気があるのだろうと思います。翻訳になるとそこがちょっと伝わりにくいというマイナスポイントはあるかも。以前、作者のホームページだったか、この本の紹介ページのBGMとして明るく賑やかなバンジョーの音色が流れていたんですね。たしかに日本語版のイメージとはちょっと違うかもしれません。

夏子:ルイジアナの地名は、確かブルボン王朝のルイ王から来ているんですよね。スペインやフランスのラテン文化が入っていて、独特な地域ですよね。

シオデ:ルイジアナの言葉の訳は難しかったでしょうね。促音の「ッ」が使われているところなど、音読するときはどんな風に読むのかな? 日本のどこかの地方の言葉を使う場合と、木下順二さんのように創作方言にする場合があるけれど、わたしは創作方言にするしかないと思っています。

夏子:すべて標準語に統一する翻訳者の方もいるけれど、それも味気ないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


ラン

げた:初版(理論社)からはかなり表現を削って、分量が少なくなって新しく出されたようですね。

ルパン:おもしろかったです。亡くなった人と会う、というのはすごく難しい設定だと思うのですが、前に読んだ『母ちゃんのもと』(福明子 そうえん社)と比べたら、こちらのほうがずっとまともです。親に死なれるって、若い人にとっては大変なことだと思いますが、その気持ちも書けていて。死んだ家族と会っているけど、こんなに仲いい家族だったっけ、とか家族のリアリティにも踏み込んでるし。無条件にいいことばかりではなかったことを冷静に思い出すんですが、わざとらしくなくて。あと、「走る」っていうことで、知らない世界を知っていくわけですが、ゼロから知っていくパターンって、説明調で鼻につくストーリー運びもあるけれど、これはそんなにいやらしくなく、読んでいて、疲れなかった。あと、醤油飲んで自殺はかるおばさんがおもしろかったです。YAものの脇役としてはずいぶん年上ですよね。そのうえ最初から敵対関係なんだけど、何となく距離が縮まっていくあたり、主人公に感情移入できました。それに対して、ドコロさんは、よくわからなかったです。その罪悪感も、罪ほろぼしの論理も。

ハリネズミ:ペースメーカーをしてもらった後輩が心不全で亡くなって「ひでえ罪悪感にとりつかれてさ。そいつへの罪滅ぼしのつもりで走るのをやめた」って、書いてありますよ。

ルパン:ラビットが死んでしまったからといって、自分まで走るのをやめちゃったのは、どうしてでしょう。やめたら、その人の死を無駄にしたような気がするんですが。

ハリネズミ:天才ランナーとか言われるレベルの人だと、ペースメーカーがつくことも多いんでしょうから、また同じことになっちゃまずいと思ったんじゃないかな。

トトキ:最後まで、すらすら読めたのは覚えています。あの世とこの世を行ったり来たりするという点は、同じ森さんの『カラフル』に似ていますね。エンターテインメントとしては、おもしろく書いてあると思うけれど、どういったらいいのか「死ぬ」ということに対する切実な感じがないのがひっかかるんですよね。一緒に読んだ『ロス、きみを送る旅』(キース・グレイ作 野沢佳織訳 徳間書店)は、「死」が身を切られるほど切実なものとして迫ってくるんだけど。なんていったらいいか分からないけれど、物語がすべて作家の掌の中にあるっていう感じ。心を揺さぶられる作品って、登場人物が作家の手に余るというか、勝手に掌から飛び出していくような感じがあるんだけれど、みんなお行儀がよすぎるというか……。

ハリネズミ:『カラフル』は、死んだ人が生き返ってきますね。

トトキ:『カラフル』は設定がうまかった。出たときは、こっちとあっちを行き来する作品もそんなになかったし。

ハリネズミ:でも、この作品では行ったり来たりを肯定してるんじゃなくて、無駄ですよって言ってます。

ajian:うーん、私にはあまりおもしろくありませんでした。突拍子もない設定や展開など、お話をつくるのはうまいと思うんですが……。この作者の『カラフル』もあまり私好みではなかったので、合わないのかもしれません。登場人物も好きになれないというか、みんな書き割りのようにパターンで分けられていて、今ひとつ物足りなさを感じます。「キリストもブッダもアッラーも一休さんも言ってなかったんだよね」とか、作者は冗談のつもりで書いているんだろうけれど、とくに笑えないってところもいっぱいある。「生きていかなきゃ」というテーマにつなげた、全部がオハナシな感じがする。

ハリネズミ:大人が読むとそうかもしれないけど、中学生くらいの子どもはおもしろいんじゃないかな。深く考えることはできないかもしれないけど、考えるきっかけにはなるように思うな。

ajian:長いので読むのもたいへんだけど、読み終えたあとは呆然とするというか、徒労感があって。最近日本の作品はあまり読んでいないから、感覚が違ってしまっているのかもしれないですが。

レジーナ:作者はきっとこの作品で、それぞれ悩みを抱えたり、傷つけたり傷つけられてりしながら、生きている人は生きている人たちで、何とかやっているということを伝えたかったのでしょうね。生者も死者も、お互いに気がかりだけど、心配しなくてもいいというのは、子どもというより大人の視点ではないかと思いました。桜並木を走る場面では、新しいことを始め、止まっていた時間が動き出す様子、家族のことを少しずつ忘れていくことへの恐れが伝わってきました。おもしろく読みましたが、生者の世界と死者の世界がもう少し絡み合っていれば……。二つの世界があまりにもかけ離れているんですよね。最初は重要人物に見えた紺野さんも、途中から存在が薄くなります。家族が亡くなり、紺野さんも引っ越してしまい、紺野さんのくれた自転車のおかげで、死んだ家族に会える。理屈は通っているんですが、頭で書いているのかもしれません。家族に会うためにマラソンを始めた主人公を非難し、自分の考えを一方的に押しつける大島君には、腹が立ちました。後から反省はしますが。同居を始め、「タマ」と呼んだおばさんに、「猫を飼うような気分なんじゃ……」と思ったり、おばさんを「装甲車」と表現しているのはおもしろかったです。文章はちょっとくどいですが、高校生くらいの読者には読みやすいのかな。

ajian:いや、「生者は生者で生きていきましょう」とか、浅いと思ったんですよね。そんなに簡単な人間観とか死生観でいいの? と思ってしまいました。私にとって小説が魅力的なのは、そこに描かれている人物に、どうしようもない人間味を感じてしまうときで、正直に言って、ここに出てくる人物たちが死のうが生きようがどうでもいいと思ってしまいました。一言でいって、心に迫ってくるものがなかったんです。

ヤマネ:森さんの作品は好きなんですが、『カラフル』と『ラン』はあまり好きではありません。『リズム』『宇宙のみなしご』などは、きらきらした少女の気持ちがよく描かれていて大好きなんです。軽さが受け入れやすいのか、小学校高学年の女の子たちからも人気がありました。ただ生と死の話になると、設定から受け入れるのが難しくて。また、タイトルが『ラン』なのでもっと走ることが描かれた話かと思ったら、そうでもなく期待外れでした。読む人の好みにもよるかもしれませんが、苦しいことをもっと深く描いてそこから立ち上がる主人公の姿を読みたかったな。主人公の置かれている状況は、すごく辛い状況なのに、それがあまり伝わってこないから。一方で、生と死の世界をつなぐレーンの説明はつじつまが合うようにうまくできているとは思いました。

すあま:子どもの本ではなく、大人の小説だと思って読みました。自転車があの世に連れて行く、という設定や描写をうまく頭の中に描けず、話に乗り切れませんでした。天涯孤独の主人公があるきっかけで走り始める話、ではだめだったのか、新しい人間関係ができていくところを丁寧に書けばよかったのではないかと思いました。はたして死んだ家族のところを行き来する必要があったのか、と考えてしまいました。1冊にいろいろなことを盛り込みすぎのような。おもしろいキャラクターも出てくるので、ちょっともったいない感じがしました。

げた:今回は私が選書係だったんですが、最初の2冊が決まっても、あと1冊、日本の本がなかなか見つけられなくて、本屋さんの棚で見つけたんです。最初の部分で、紺野さんと主人公の出会いと別れの箇所を見て、テーマにつながるかと思って読み始めました。ストーリーとしてはありえないこだし、言ってみれば荒唐無稽ですよね。ありえないけど、ランニング仲間とのやりとりは現実的な、ありそうなストーリー展開でリアルなファンタジーですね。エンターテイメントとしては、おもしろかった。死んだ人がファーストステージにいる段階で溶けていき、次のステージに行って、生まれ変わるというのもなるほどと思いましたね。人間年をとると、死ななくても、実際既に溶けているんじゃないかなって。

プルメリア:『ラン』なので『DIVE!!』(森 絵都 講談社)のようなスポーツ青春ものなのかなと思ったら、そうではなかったです。真知栄子さんとのバトル、どちらも譲らない強い女の人ですね。猫が死んだときに猫と椅子をうめ、庭を掘り返したときに作業着姿の男に「猫がいませんでしたか」って尋ねると、「わからない方がいい」と答えられ意味深な感じでしたが、何故かネコは紺野さんがお骨として持っていました。奈々美さんと真知栄子さんは意思も口調も強くおばさんパワー?がたくましい感じ。「穴熊(アナグマ)さん」名前の設定もおもしろい。

ハリネズミ:私、ユーモアは大事だと思うんですけど、おやじギャグみたいなレベルでも中・高生に受け入れられるのかどうか、ちょっと疑問でした。あと、ネコは紺野さんの飼い猫だから、息子のところにまず行くんじゃないかな、なんていう疑問もありました。

げた:ちなみに、醤油は、戦前、徴兵逃れのために体の具合をわざと悪くするために飲んだ人がいたということを聞いたことがあるんですが、死ぬためじゃなくてね。

トトキ:江戸時代に醤油飲み競争をして亡くなった人がいるって話は聞いたような……。

ハリネズミ:エンタメだと仕方ないんだけど、マチエイコを除くと、人物像がステレオタイプかな。

げた:エンタメとして書いたんじゃないですか。

ajian:マチエイコが主人公のほうがおもしろいんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


あたしって、しあわせ!

げた:この本の主人公ドゥンネは決して恵まれた境遇にいるわけじゃないですよね。お母さんは「遠くへ行っちゃてる」しね。けれど、とっても前向きなんですよね。1日の終わりに、ひつじの数を数える代わりに、幸せだったことを思い出すなんて素敵だな。絵がいい。絵を見てるだけで、十分楽しめますよね。

ハリネズミ:いっぱい入っている絵から、雰囲気が伝わってきますね。

げた:とっても、気に入った本の1冊です。読後感がいいです。自分も幸せな気持ちになれるような気がします。

すあま:北欧の作家ってうまいな、と思いました。訳者の菱木さんがよく訳しているウルフ・スタルクの作品を思い出しました。中学年くらいの子ども向けでしょうか。

ハリネズミ:主人公のドゥンネは1年生ですね。ちょうどこの頃の子どもの気持ちがほんとにじょうずに書けています。

すあま:大事なことを年齢の低い子どもにもわかるような形で上手に書いている。悲しいこともあるけれど、楽しいこともいっぱいあって、その時その時の主人公の気持ちがていねいに書かれてるので、そこに寄り添って読んでいくことができました。時代や国に関係なく、だれにでもあるようなことを書いているので、読みやすいのでは。最後も幸せな気持ちで終わるので、とてもいいお話でした。

ヤマネ:淡々としたことばで進んでいくけれど、すごく打たれる箇所があって、ああやっぱり児童書っていいなあと心から感動しました。仕事でもお薦めの本にしました。年齢設定はちょっと難しくて、出版社HPでは小学1、2年生からとあるけど、小学2年生の後半から3、4年生ぐらいがこのお話を理解するのにふさわしいかな。はじめは主人公の女の子の幸せなエピソードが続いていきますが、p52ぐらいから、ママが亡くなった時の話が出てきたり、クラスメートの永久歯を折ってしまって悩んだり、子どもの悲しみや辛さがうまく描かれている。自分が子どもだった時に感じていた気持ちをたくさん思い出しました。一番ぐっときたのは、親友のエダフリータが転校してしまった後に、転んだ場面で、転んだことが悲しいのではなくて・・・というところ。

レジーナ:作者は、子どものときに感じたことや不思議に思ったことを、よく覚えているのでしょうね。入学したばかりの頃、せっかく楽しみにしていた宿題がなくて、がっかりしたり、仲良しの友達と物の取り合いでけんかをしたり、入れ歯を見てびっくりしたり…。私も子どものときに、同じように感じたのを思い出しました。エッラ・フリーダが引っ越した後、主人公は転んでけがをしてしまいます。なにもかもうまくいかないような、やりきれない気持ちがよく伝わってきました。スウェーデンの学校には、「くだもの週間」や「やさい週間」があるのですね。他の国の暮らしを知ることができて、おもしろかったです。日本では、6月が食の教育月間ですが。エヴァ・エリクソンはすばらしい画家ですね。表紙では、どんよりとした雨空の下を、二人で一つの傘をさして楽しそうに歩いていて、黒い傘の内側から、光と花がこぼれています。ふたりでいたら、どんなときも幸せなんでしょうね。エッラ・フリーダの長靴の模様がドクロなのも、彼女の性格が分かるようで、おもしろい。お調子者のヨナタン、エッラ・フリーダが引っ越した後、空っぽの机をじっと見つめるドゥンネ、そんな様子をちゃんと後ろから見ている先生……文章に寄り添い、作品世界を生き生きと浮かび上がらせています。ちょっとした仕草や表情で、登場人物の気持ちが伝わってくるんですよね。2014年は惜しくも国際アンデルセン賞画家賞を逃しましたが、次回はぜひとってほしい!

さらら:短い物語なのに、子どもの気持ちをよく表しています。絵本から読みものに移っていく過程で、安心して手渡すことができる本だと思う。この世代向けの翻訳作品の難しさは、日常に身近な物語であればあるほど、海外の日常生活を、どう日本の子どもに自然に理解してもらうかという点です。ここでも、「クネッケ」などの食べ物に、少し説明が加えられています。また、日本とは違う学校でのできごと(たとえば「くだもの週間」など)は、括弧に入れて、さらりと繰り返しています。なじみのない言葉の説明は、翻訳の過程で入れている部分もあると思いますが、押し付けがましくなくて好感が持てます。入れ歯が出てくるところで、「入れ歯が痛いときは、水につけておくといいよ」と、ドゥンネが友だちにアドバイスしたり、パパにモルモットを買ってもらったときには、「モルモットはウンチばかりしているのです」という描写があったり。そういった小さな部分にユーモアがあり、さまざまなエピソードにも、大人の子どもに対するさりげない愛情を感じました。子どもだってけんかするし、けんかをしたあとは、苦労して仲直りもする。そんな子どもの内面までしっかり描かれています。親友のエッラ・フリーダが引っ越してしまったあと、ドゥンネはすっかり落ち込んでしまいますが、でも少しずつ自分で友だちを作り、自分で何かを考え、まわりに気持ちを伝え、うまくいくという経験を積み重ねます。その、自分ひとりでがんばった時間があったからこそ、親友と再会できる喜びが、いっそう大きく読者に伝わってくる。構成のうまい作家で、スウェーデンの児童文学はやっぱり奥が深いと思いました。

ハリネズミ:これだけ子どもの気持ちをしっかりわかって書いている人って、日本だと神沢さんくらいでしょうか。

さらら:ひとつだけ、「復活祭」に注が入っていないことが、気になったのだけれど……。

ハリネズミ:ここは、お祭りなんだなということがわかればいいと思ったんじゃないかな。

トトキ:ほとんど全部言われてしまいましたね。私も、すごい作品だなあと思いました。小さい人たちの心の動きを、本当に繊細に描いていますね。

さらら:ほんとうに、品がいい物語。

トトキ:ずっとふさぎこんで、ひっこんでいた主人公が、思いきって積み木の山に腰かける。ここもいいけれど、その騒動で男の子の歯が折れてしまう。そのときの主人公の、奈落に突き落とされたような、目の前が真っ暗になった気持ち、よくわかります。そのあとの入れ歯のくだりや、主人公が一所懸命に書いた手紙も、じんわりとしたユーモアがあっていいですね! それから、ちょっとADHDっぽい男の子がクラスにいて、先生がじつに親身になって面倒を見ているということもさりげなく書いてあって……。

ルパン:とてもよかったです。『わたしって、しあわせ!』のタイトル通り、幸福感でいっぱいになります。子どもの本はこうあるべき、っていう見本みたいで、ひさびさにスカっとした読後感でした。出てくる人がみんないい人で。

さらら:しかも、ひとりひとり個性が強くて、味がある人たち。

ルパン:そう、それぞれに不満や事件もあるのですが、根がいい人ばかり。そこがすごくいいと思います。

ハリネズミ:私もみなさんと同じ感想を持ちました。特におもしろかったのは、p101で、ヨナタンとドゥンネがリンゴやバナナに貼ってあるシールを食堂のマットの裏に貼ってるでしょう? この年代の子どもらしさが生き生きと浮かび上がってくるところですけど、こういうエピソードって、なかなか日本の児童文学には出てこない。リンドグレーンにしてもマリア・グリーペにしても北欧の作家は特にこういう場面を書くのがうまいですよね?

すあま:本質的なところを書いているので、古くさくならないと思います。

プルメリア:子どもの日常生活がわかりやすく、身近に感じます。今、シングルマザーやシングルファザーが増えていますが、お父さんの少女に対する関わりがさりげないようだけどとっても温かいです。お父さんとの暮らしで、子どもが幸せだって感じているのが作品から伝わってきます。p116ではモルモットが大きくなっており、モルモットたちから少女を見ている挿絵が素敵。いろんな子がいて、それがいいなって思います。表紙の挿絵 どくろの長靴もかわいく外国の感覚がわかるので気に入りました。

ハリネズミ:幼年童話って、学校での生活体験が国によって違うから、翻訳が難しいってよく言われます。でもこの本を読むと、ドゥンネの通っている学校では、<パン週間>で、パンについてのあらゆることを習ったり、<ジャガイモ週間>で、ジャガイモのことをいっぱい習ったりしてます。日本とは違う勉強の仕方があって、それも楽しそうだなって思えたら、日本の子どもの視野も少し広がりますよね。

げた:余計なことかもしれませんが、学校で子ども同士のトラブルで歯を折ったりしたら、日本では大変でしょうね、保護者対応の後始末なんかでね。

ajian:本国では、同じ主人公が出てくる次回作も出ています。

さらら:この本は、緑陰図書に選ばれてますね。幼年童話のジャンルでは、原書を見て「この本なら訳したい!」と思うことがなかなかないんですが、そういう意味でも、うらやましい作品……。

さくま:絵を見ればいろいろわかるから、1年生でも読めるかも。

さらら:レイアウトは原作のまま?

ajian:原書をちらっとみたかぎりでは、だいたいそのままだったと思います。

ハリネズミ:大人も子どももちゃんと書けているのがいいですね。

さらら:単純な文章のようですが、じつは会話よりも描写文が多く、心に深く入ってきます。力がある作家ですね。

ハリネズミ:菱木さんの翻訳もいいですねえ。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


ロス、きみを送る旅

トトキ:キース・グレイの作品を読んだのは、これが初めでですが、とてもおもしろかったです。友だちの遺灰を盗んで、その少年の行きたかった場所に撒きに行くというストーリーですが、主人公ひとりで旅に出る設定にすると、なんとも暗くてやりきれない物語になったのではと思います。ズッコケ3人組みたいな、それぞれ個性の違った少年たちが旅をすることで、ユーモアもあれば奥行きもある話になっていると思いました。翻訳が上手なので、人物がそれぞれくっきりと描かれていますね。読みはじめたときは、「ったく、男の子って!」と思いましたが、亡くなった少年が果たして事故死だったのかどうかという疑問が出てきて、それぞれの少年に対する後ろめたさが描かれていく中盤から、男の子も女の子もない、普遍的な物語になっていきます。そのへんも上手いなあと思いました。ただ、死んだロスという少年は、「いじめ」のように何か強い理由があって死にたくなったというより、いろいろなことが重なって死に魅かれていったような感じがします。だから、事故だったのか、自殺だったのかは、なんとなくぼんやりしていて、はっきりと書いてないですね。そこのところが、かえって妙にリアルな感じがしました。作者のあとがきを読むと、その点がはっきりしてくるんだけど、創作ものは作品のなかで完結してほしいという気持ちが、ちょっとしました。作者が自分の作品を解説するのって、あんまり好きじゃないです。

レジーナ:登場人物がくっきりしていて、ひとつひとつの場面が印象的で、とてもおもしろく読みました。自分の体形を時々皮肉り、場に合わせて人とうまくやっていける主人公は、3人の中では一番大人ですね。旅と友情がテーマになっていたので、『シフト』(ジェニファー・ブラッドベリ著 小梨直訳 福音館書店)を思い出しました。p283に、「今までは、自分たちがどんな目にあうかということだけ心配していて、ほかの人をどれだけ傷つけるかという点は、あえて考えないようにしていたのだ」という文章があり、自分の行動が周りの人にどれだけ影響を与えるかを考えることができ、他者性をきちんと持っているのが、『シフト』のウィンとは違いますね。大切な人を亡くしたとき、周りの人たちの言うことが見当違いに思えたり、自分だけが、その人を真に理解していたのだと思ったりするのは、よくありますよね。「周りは分かっていない」という気持ちが、「大人は分かっていない」となるのは、この作品の主人公が15歳だからでしょうね。旅を経て、鉄壁だと思っていた友情も変わり始めます。「ロス」という名前には、「失われたもの」や「二度と戻らない子ども時代」の意味が、こめられているのでしょうか。「果たして自分が何を求めているのか、はっきり分かっているわけではないが、旅を通じて失われたものを取り戻そうとする」というのが、作品の骨組みにあるのでは……。翻訳も読みやすかったです。p40の「窓にハマらないで出てこられる?」は、「窓につかえずに」「引っかからずに」でしょうか。少し不自然に感じました。

ヤマネ:3人組の男の子がいて、一人亡くなって、お葬式が納得いくようなものでなくて、自分たちだけがロスのことをわかっている、まわりはわかっていないという思いから、骨壺をもって、亡くなった友達と同じ名前の「ロス」という場所をめざすというストーリーの根幹がおもしろかった。最後まで止まることなく読めました。なんとなく感じることなのだけれど、男の子のほうが、女の子よりも表面的に友達を見ているところがあるかもしれないと思います。自分は友達の深いところまで見ていないということを、男の子のほうがあとになって気づくのかなあと、このお話を読みながら感じました。旅を通して、友達の深い部分に気づいていったり、自分自身も嘘をついているということに気づいていくところがおもしろかった。ロスのため、と言いながら、それぞれがロスに後ろめたいことがあってその気持ちからロスの灰を運ぶという行動に向かったことを、自分自身も最初は気がついていない。最後に気がつくところが心に残りました。男の子(少年)同士の精神的なところでの友情の亀裂を描いた作品を、これまであまり読んだことがなかったんです。日本の『夏の庭』(湯本香樹美著 新潮文庫)と少し設定が似ていると思いましたが、こちらで描かれている友情はもっとさわやかで読後感がすがすがしい。今回、男の子同士のぐちゃぐちゃした気持ちの揺れやぶつかり合いが新鮮でした。

さらら:ロードムービーを見ているようでした。最初、主人公がロスの家に骨壺を盗りにいく時、姉のキャロラインの存在が気になっていて、ためらっているけれど、結局、彼女の目の前で持ち出してしまう。ぬけぬけと馬鹿な行為を始めてしまうところに、思春期の少年らしさを感じました。道中、お金を落として、主人公たち3人組がにっちもさっちもいかなくなるあたりは、まさに定番の流れですね。その後、親切な青年たちの出会い、いきあたりばったりのバンジージャンプと、盛りだくさんの出来事のなかで、仲間同士のわだかまりが少しずつ明らかになっていく。死んだ友達のことを、どう受け止めたらいいのかわからない、というのは永遠のテーマで、その死に対して周囲の人間が罪悪感を抱くのも自然なことなのだけれど、それをどう描くか。キース・グレイは、書きながら自分でもロスの死に立ち会い、泥まみれになって、結末までなんとかたどりついたのではないでしょうか。答えが最初からあるのとは違う、体当たりの書き方が、ティーンエージャーの共感を呼ぶのでしょう。個人的には、もう少し思考を深めたところから書かれた作品が好きですが、これはこれでありだと思います。

レジーナ:ロザムンド・ピルチャーの短編で、上の方の階級の女性が亡くなったとき、火葬にすると死亡広告にわざわざ書いてある場面がありましたね。骨壷の出てくる話では、『ヴァイオレットがぼくに残してくれたもの』(ジェニー・ヴァレンタイン著 冨永星訳 小学館)もあります。

さらら:骨壷という「物」があることで、死を具体的に感じられる。死というものの分からなさを、なまのまま、ぶつけることができる。死体を運ぶのは大変だけれど、自分たちのやり方で骨壷を盗んで弔おうとする行動なら、実現可能だし、若い読者にも想像しやすいのでは?

トトキ:もしかして、上流階級の人たちは今でも土葬だけど、庶民は火葬になったのかも。

ハリネズミ:東京は今は土葬はできなくなってますよね。広い場所が必要だからかもしれないけど。でも地方にはまだ土葬できるところがあるようですね。

すあま:読み終わったばかりなので、まだ感想がまとまっていませんが…。身近な人が亡くなって、残された人がいろいろと考えたり、つらさや悲しさを乗り越えていく物語は他にもあるけど、事故だと思ったら自殺だった、という展開がめずらしいと思いました。これを読んで思い出すのは、『だれが君を殺したのか』(イリーナ・コルシュノウ作 上田真而子訳 岩波書店)。両方を読み比べしたらおもしろいかもしれません。ラストは、少し物足りない感じでした。最後にあえて3人をばらばらにし、そのうち一人はそのまま出てこないで終わってしまう。余韻を残して途中で終わるので、ラストの良し悪しの感想が人によって違うのではないかと思いました。家を飛び出してお金がなくなり、でもそのまま旅を続ける、というひと夏の思い出のような楽しい話ではなく、主人公たちが友人の死という大きな問題と謎を抱えているのが、似たような物語とは大きく違うところだと思います。旅でそのつらさが癒されるわけでもなく、何度も思い出してしまう。日本は、自殺する人が多いし、もし自分の身近な人だったら、何かできたのではないかなどと自分を責めたりすると思う。この物語は残された人たちの心情がよく描かれているのではないかと思います。結局ロスは自殺だったのか?と思いながらあとがきを読むと、作者自身が死のうと思った経験があることが書かれていて、やはり自殺なのか、と思いました。

ハリネズミ:徳間書店は、日本の読者へのメッセージを著者にたのんでいるようですね。

すあま:この本は、感想文を書いたり、ディスカッションをするための課題図書に向いているかもしれない。いろいろなテーマを取り出すことができるので。

げた:タイトルを見て、「きみを送るって」なんだろうかと思って手に取りました。男の子3人組がハラハラドキドキしながら、読者を連れて「ロス」まで行くんですよね。3人の関係性が、いろんな行動の中で、明らかになっていくんですね。ロスまでの道のりが遠くて、どんどん曲がり道に行っちゃうし、最後までハラハラさせてくれました。結局ロスが自殺だったかどうかはわからないのだけど、最後の部分で修理したパソコンのデータからロスの遺書かもしれない書き込みが出てきたんですね。本当に自殺したのかは、よくわからないですけどね。作者のあとがきはなくてもよかったんじゃないかな。言わなくてもわかってますよ、と言いたくなりましたね。

さらら:父親が、自分の夢をロスに押し付けていたことも明らかになります。ロスが、父親の書きためていた原稿のデータを消してしまったということも。あとがきの件は、確かにげたさんの言うとおり!

げた:ストーリーを追うだけでもおもしろかったです。主人公たちは中3か高1ですかね、日本の同年代の子たちに比べると行動力があるような気もしますね。

ハリネズミ:私は骨壺を盗んでいくっていうところに引っかかりました。死者を忌む感覚っていうか、そういうものがないんでしょうか? 日本の子はこういうことはしないと思うけど。ロスについては具体的にどういう人物だったのかが、あんまり書いてないので、この子たちが骨壺を盗んでまで旅に出ていくだけの背景がよくわからなかったのですが、読んでいくうちにわかってきますね。じつは後ろめたさがあったということなんですね。

さらら:だれかが死ぬと、周囲の人間はその理由付けどうしてもしたくなります。亡くなった本人にも実際にはわからない理由であっても、理由を付けることで、周囲はその死が自分の心におさまる場所を作り、「そうだったのか」と自分を納得させます。ロスの死も、単純に誰かが、何かが悪かったのではないわけで、そのわからなさを抱えて生きていくことが、大人になっていくことなのかもしれません。読者をここまでひっぱってきて、解決のあるようないような結末には、やや物足りなさを覚えますが、現実の感覚にできるだけ忠実に書かれた作品なのでしょう。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


2014年06月 テーマ:友だちをなくして考えたこと

 

日付 2014年06月27日
参加者 トトキ、さらら、ハリネズミ、レジーナ、げた、プルメリア、すあま、ル
パン、ヤマネ、ajian
テーマ 友だちをなくして考えたこと

読んだ本:

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Youssou: Nelson Mandela

ミュージシャンたちの反アパルトヘイト

アフリカ子どもの本プロジェクトのメルマガに載せたものを、ここにも載せておきます。加筆してあります。

世界中でアパルトヘイトに反対する運動が盛り上がり、マンデラを釈放せよという要求が高まったとき、ミュージシャンたちもその運動に加わったり、率先して活動したりしていました。

今回調べてみると、ずいぶんいろいろな人たちが、反アパやマンデラについての曲を歌ったり演奏したりしていることがわかりました。そのいくつかをご紹介します。

アパルトヘイトに反対するミュージシャンたち:サン・シティ /  Artists United Against Apartheid : Sun City


「サン・シティ」とは、南アフリカにあった白人専用リゾートの通称で、南アにおけるアパルトヘイト(人種隔離政策)の象徴。そこでは、多くの有名ミュージシャンたち(クィーンやエルトン・ジョンなど)が多額の出演料にひかれてコンサートを行っていました。このアルバムは、そのサン・シティに象徴されるアパルトヘイトに抗議する世界中のアーティストたちによって制作された作品。マイルス・デイヴィス、リンゴ・スター、ボノ、ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ピーター・ガブリエル、ジミー・クリフ、ホール&オーツ、ルー・リード、ジャクソン・ブラウンほか合計49人・組のアーティストが参加し、「こんなリゾートでは演奏しないぞ」と歌って、当時大きなニュースとなりました。政治的に保守的なラジオ局などではオンエアされませんでしたが、ビルボードでは最高38位を記録しました。

スティービー・ワンダー:イッツ・ロング(アパルトヘイト)/ Stevie Wonder : It’s Wrong (Apartheid)


「アパルトヘイトは、奴隷制やホロコーストと同じように、間違っている」と歌っています。この動画ではスティーヴィーが日本人を持ちあげるコメントをしていますが、「ほんとにそうだといいんだけど」としか言いようがありませんね。

ユッスー・ンドゥール:ネルソン・マンデラ / Youssou N’dour:Nelson Mandela

ユッスーはセネガルの歌手で、この間まで大臣を務めていました。私はこのCD持ってますよ。(上のCDジャケットがそれ。ユッスーが若いですね)

ザ・スペシャルズ:ネルソン・マンデラを釈放しろ / The Specials: Free Nelson Mandela

ザ・スペシャルズは、イングランドの2トーンバンド。

ジョニー・クレッグ:アシンボナンガ / Jonny Clegg: Asimbonanga

ジョニー・クレッグは、イギリス生まれでローデシア(現ジンバブエ)やザンビア、南アで育ち、マンデラと同じウィトワーテルスランド大学に学んだ白人ミュージシャン。アパルトヘイトに反対していただけでなく、自分のバンドにも黒人と白人の両方がいました(それが危険だった時代にも)。アシンボナンガは、「彼(マンデラ)の姿を見ていない」という意味で、ロベン島に収監されていたマンデラのことを歌っています。
この動画では最後のほうに自由になったマンデラさんが出て来て、踊っています。

カシーフ:ボタボタ(反アパルトヘイトの歌)/ Kashif: Botha Botha (Anti-Apartheid Song)

カシーフは、アフリカ系アメリカ人。イスラム教に改宗してからマイケル・ジョーンズという名前をカシーフに変えました。
ボタは、人種差別政策撤廃を求める国際世論に対して、アパルトヘイトを死守しようとした南アフリカの首相(1978〜1984)、大統領(1984〜1989)

ヒュー・マセケラ:マンデラを返せ / Hugh Masekela : Bring Back Nelson Mandela

ヒュー・マセケラは、南ア出身のトランペット、フリューゲルホーン奏者、歌手。ミリアム・マケバと結婚していたこともある人です。

ピーター・ガブリエル:ビコ / Peter Gabriel: Biko

「黒人意識運動」を唱えてアパルトヘイトに反対し、1977年に拷問による脳挫傷で死去した南アフリカの活動家スティーヴ・ビコについて歌っています。ガブリエルは、ライヴで反アパルトヘイトを聴衆に訴え、この曲をアンコールの最後の曲としていつも歌っていました。

ヴーシー・マーラセラ:きみたちが帰ってくるとき / Vusi Mahlasela: When You Come Back

ヴーシー・マーラセーラは、南アフリカのミュージシャン。この歌は、1994年のマンデラの大統領就任式でも歌われ、2010年のFIFAワールドカップのテーマソングとしても使われました。「きみたち」は、南アを逃れて政治亡命した人々を指しているそうです。

ミリアム・マケバ+レディスミス・ブラック・マンバーゾ:コシ・シケレリ / Miriam Makeba & Ladysmith Black Mambazo: N’kosi Sikeleli

1987年ジンバブウェでの映像。後に新生南アフリカの国歌となるコシ・シケレリを歌っています。まだマケバも南アフリカに帰国することはできていません。ポール・サイモンやヒュー・マセケラの姿も。

<h2ミリアム・マケバ+ヒュー・マセケラ:ソウェトブルース / Miriam Makeba & Hugh Masekela: Soweto Blues

1976年のソウェト蜂起の時に警官に撃たれて亡くなったり逮捕されたりした子どもたちのことを歌っています。「子どもたちがたくさん死んでいるのに、ちょっとした騒ぎがあったとしか報道されない」と。マセケラが作った歌です。

◆ミリアム・マケバ:愛する人たちに / Miriam Makeba: To Those We Love (Nongqongqo)

アパルトヘイト体制をくつがえそうとして逮捕され牢獄にいるネルソン・マンデラやウォルター・シスルたちのことを思って歌っています。An Evening with Belafonte/Makebaというグラミー賞をとったアルバムの中に入っています。

ノムフシ&ザ・ラッキー・チャーム:ネルソン・マンデラ・ソング / Nomfusi & The Lucky Charm: Nelson Mandela Song

ノムフシは、ケープ州東部のタウンシップで生まれた新世代のミュージシャン。父親は21年間投獄され、サンゴマをしていた母親はメイドをしながらひとりでノムフシを育てました。


デボラ・ノイス『「死」の百科事典』

「死」の百科事典

『「死」の百科事典』をおすすめします。

若い時って、大人になってから以上になぜか「死」が気になるものです。私は、中学生・高校生の頃、北村透谷とか有島武郎とか芥川龍之介とか太宰治とかヘミングウェイとか、自分が読んだ本の作家の自殺が気になって仕方がありませんでした。

で、この本です。まず扉をあけると「死ぬのって、きっとすごい冒険なんだろうな」というピーター・パンのかなり挑発的な言葉が目にとびこんできます。そう言えば『影との戦い』(ゲド戦記1)の冒頭にも、「光は闇に/生は死の中にこそあるものなれ」という言葉がありましたっけ。生と死は背中合わせだとすると、生が冒険だった人は死も冒険なのかもしれないし、よりよい生き方をした人にはよりよい死(ぽっくり逝くとか)も待っているのかな、なんて思ったりします。

で、もう一度この本です。開いて見ると、「連続殺人犯」、「黒魔術」、「死体泥棒」、「生贄の未亡人」、「アンデッド」(これは吸血鬼やゾンビやバンパイアなんかのことですね)なんて、おどろおどろしげな項目もあります。「死神」という項目があるかと思うと、「死神をだます」という項目もあります。興味をひく図版もたくさん入っています。でも、出版社と翻訳者を見ればわかるとおり、センセーショナルに売ろうとする本ではなく、これはまじめな本なのです。「自殺」という項目を読んでみたら、国連の世界保健機関によれば、年間の自殺者は世界で100万人といわれ、戦争と殺人による死者の数を上回っている、なんてことも書いてありました。

エッセイ風の文章を拾い読みしてみても、逆に「生」を考えるきっかけになりそうです。

(「トーハン週報」Monthly YA 2014年6月9日号掲載)


2014年05月 テーマ:昔の物語をよみがえらせる

 

日付 2014年05月29日
参加者 ハリネズミ、げた、ヤマネ、ルパン、すあま、レジーナ、プルメリア
テーマ 昔の物語をよみがえらせる

読んだ本:

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今昔物語集

ルパン:物語ごとにテイストがずいぶん違いますね。会話ばかりの章もあるし。子どもにはこういうほうがわかりやすいんでしょうか。

げた:令丈さんの言葉で語っていて、とっつきやすいですね。今の子どもたちには、伝わり易いんじゃないかな。『紫の結び』は、原典に忠実に再現しているけど、この『今昔物語』は令丈さんの作品になってる。この本に収められているお話の中では「瓜とふしぎな老人」が楽しめました。CGとかアニメでもおもしろく再現できそうですね。「羅生門の老婆」は、気味悪くて、小さな子どもにはわかりづらいかもしれないけど。

ルパン:『芋粥』のあとで、『まんじゅうこわい』を引き合いにだしているのはどうしてでしょう。ちょっと話が違うんじゃないかと思うんですが。

げた:私もそう思いました。言葉づかいは今の言葉で、とっつきやすい。

ハリネズミ:最近はストーリー中心の再話が流行っているようですね。外国のものだと、中には原文を参照しないで再話する人もいるみたいです。一時は、子どもの本の抄訳や超訳が批判されて、完訳で読みましょうと言われていたのにね。文学ってストーリーを追っただけじゃ本当の良さがわからないと思うんですよ。この本は、それとはまた違って、令丈節がしっかりできていて、そこがおもしろいんですね。

ヤマネ:日本の古典の現代語訳もさかんで、今度河出書房新社から「日本文学全集 全30巻」が刊行される(2014年11月刊行開始)ようです。そこでは『古事記』が池澤夏樹さん訳で、『源氏物語』が角田光代さん訳だそうです。古典を現代の作家によって今の人たちに読みやすいものとして受け継いでいく流れがあるんですね。この『今昔物語』は、世田谷区の図書館は所蔵が1館だけだったので、借りることができませんでした。公共図書館では、この本を入れるかどうか選書でゆれているのかもしれません。私は以前学校図書館で働いていたんですけど、子どもにはまず出会わせることが必要だと思うので、この試みには賛成したいです。古典はきっかけがないと、子どもたちはなかなか手に取らないから。出版社も、子どもに出会わせることを目的として出版したんでしょうか。

レジーナ:表紙に現代的な美男美女が描かれていますが、当時の美的基準は、今とは大分違うのでは? 「芋粥」の五位殿も、「もっさりしている」と悪口を言われていますけれど、そうした男性が、当時はもてたかもしれませんし。p9では、女性の容姿を、「スタイルがいい」とほめています。体のラインを隠す着物を着ているのに、スタイルも何もないのでは……?

プルメリア:昨年小学校5年生の担任をしました。私がこの本を子どもたちに紹介したら、歴史好きの男子がこの本を購入して読んでいました。古典にはあまり目が向かなかった子どもたちがこの作品を読み始めています。令丈さんの名前で興味を持ったことや表紙がかわいいとかも手にとる大きな理由かも。令丈さんの文はわかりやすく、目次にもまとまりがあり、一話一話の後に書かれている説明文もとってもよかったです。このシリーズは10巻ありますが、この作品がいちばんいいなと思いました。

ハリネズミ:令丈さんなりのまとめ方をしているところがいいですね。一話一話の後のあとがきで視野が広がるし、モデルはどんな人だったのかとか、ほかの作品へのつながりなどおまけの情報もあるので楽しい。ちゃらちゃらした会話がふんだんに出てくる話とそうでもない話があってトーンがいろいろですね。欲を言えば、もう少しトーンを統一してほしかったけど、古典への架け橋と思えばそれもいいのかも。学校図書館には、古典のシリーズが入っているんですか?

プルメリア:私が勤務している小学校の図書館には『21世紀によむ日本の古典』(ポプラ社)が入っています。

すあま:『今昔物語』は読みにくい話ではないので、ここまで今の会話風の文体にしないで、普通の現代語訳でも楽しめるのではないかな、と私は思いました。このシリーズでは、金原さんの『雨月物語』も、おもしろかったです。あまり手にとられない古典、知られていない古典の場合にはこういう工夫もありですけど…。時代を今に置き換えているんなら、こういう会話でもよいと思いますが、そうではないし、無理に言葉遣いを現代風に変える必要はないのでは? はやりの言い回しを使った場合、時間がたつとかえって古くさく感じてしまうこともあるし。

ルパン:わざわざ「メインストリート」に直さなくても、「大通り」の方がわかるのに。

げた:手に取りやすさはありますよ。内容も言葉も読みやすい。

ハリネズミ:「わらしべ長者」の話にはキャピキャピした会話が出てきませんね。

すあま:令丈さんの本が好きな子だと、令丈さんが書いているから、という理由で読むこともあるかも。

ハリネズミ:入り口になればいいですよね。

ルパン:今回読んだ3冊の本は、これが「令丈ヒロコ 著」、『紫の結び』が「萩原規子 訳」、『はじめての北欧神話』が「菱木晃子 文」となっていますが、文、著、訳はどう違うんでしょう?

すあま:原作を元にして創作したら「著」、原作をそのまま翻訳したり現代語訳にすれば「訳」、北欧神話の場合は複数の本を参考に書かれたので「文」なのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


紫の結び(一)

ルパン:古典をやさしく書くということにおいて、どんなところがポイントになるのか、今日はみなさんのご意見をうかがいたいと思って来ました。これは小学生向けなんでしょうか?

ハリネズミ:中学生じゃないですか。

ヤマネ:対象年齢は、出版社の表記だとヤングアダルト〜一般のようです。

ルパン:もともと知っている話だから読めたんだと思います。『源氏物語』をまったく知らない中高生が読んでもわかるのかなあ。実は、私は知っているといってもマンガで読んだんですよ。『あさきゆめみし』(大和和紀 講談社)。あれはよくできてました。これを読みながら、マンガの絵がうかんできちゃいました。ところで、この『紫の結び』の中では、歌の部分は現代語訳だけ書いてあるのですが、私としてはもとの和歌を書いてほしかったです。著者の萩原さんは古典に強いのかな。ご自分で原典を読んで歌も訳したのでしょうか。

一同:国文科出身の方ですからね。

レジーナ:マンガの『あさきゆめみし』は、源氏物語の大筋を知るには良いけど原典と異なる部分もあると、聞いたことがあります。一方『紫の結び』は、荻原さんが、原典になるべく忠実に語ろうとしている様子が感じられますし、読みやすい現代語になっています。源氏物語は、大学受験でも、これが読めれば他の古典は読みこなせると言われるほど難しいので、古文を学ぶ受験生が一読するのに最適の副読本になるのでは。注釈をなくしたのは画期的ですが、「上の局」「斎院」「わらわ病み」等、日常では耳にしない言葉を、子どもがどこまで理解できるか……。古典オタクの高校生・大学生ならばともかく、自ら進んで読んでもらうのは難しいかもしれません。

プルメリア:地元の渋谷区の図書館でこの作品を予約したところ1冊しか入ってなくて私はリストの3番目でした。残念ながら順番がきませんでした。

げた:以前、与謝野晶子の現代語訳を文庫版で読み始めたことがあったんですけど、すぐに諦めました。今回やっと読み通して楽しめる本に出会ったと思ったんだけど、これまでの本と同じくらいしかわからなかった。筋はなんとなくわかるんだけど。楽しい読み物として読むまでいかなかったな。読まされているという感じがあってね。和歌が訳しか掲載されていないんだけど、元歌があった方がいいな。感じがつかめるから。

ヤマネ:まずパッと見て装丁がいいなと思いました。美しい本。おそらくこの本を一番手に取るのは、大人の女性ではないかと思います。もしかしたら古典好きの子は手に取るかもしれませんが…。『源氏物語』は、実はこれまで読み通せたことがないので、ようやく読み通せるかもしれないと期待しているところです。和歌を省いているところについては、止まらずに読めるのでスムーズに進むと思いました。和歌のところで立ち止まって想像するのも楽しみの一つではあるんですけど。

すあま:『源氏物語』は、日本人として読むべきだと思っていて、これまでもいろいろな人の現代語訳を読んでみたけれどなかなか読みきれず、今度こそ…と思ったけど、やはり今ひとつ話に乗り切れませんでした。これは紫の上を中心にして、読みやすくなるように再編しているのが特徴だけど、結局この話自体がおもしろくないのではないかと思ってしまいました。光源氏にしても、マザコン、ロリコンで、行動が共感できないし…。登場人物に共感したり、光源氏をかっこいいと思えればおもしろいけれど。全体的に不幸な人や満たされない人ばかり出てくる印象があります。すでにあるけど、マンガにして登場人物を美しく描いた方がおもしろく読めるのではないかと思いました。もちろん荻原さんの作品が好きな人は読むと思います。

ルパン:光源氏って、あんまりおもしろくない男ですよね。美人が好きで、若いのが好きで、ステレオタイプすぎる。

ハリネズミ:勝手気ままに楽しんでいた光源氏が晩年にしっぺ返しを受けていく。そこがおもしろいんじゃないですか。年をとって真剣に悩み、深みが出てくる。実はね、私はある時田辺聖子さんが源氏物語について講演なさっているCD(新潮CD 講演)を聞いて、全体像をつかんだんですよ。30枚以上のCDを、少しずつ家事をしながら聞いたんです。でも最初の方だけだと、女たらしが出てくるだけで女性が読むと反発を感じるだけなのは、よくわかります。

すあま:講演のCDでしょうか?

ハリネズミ:連続講演で、途中で冗談なんかも入るので、楽しくてわかりやすいんです。この本の歌のところですけど、やっぱり私も訳だけでなく、カッコつきでもいいからオリジナルの歌があったほうがいいと思いました。リズムや言葉のもつ力のようなものは、訳だけだと伝わりませんからね。たとえばp223ですけど、直訳風なので「たいそうかわいい」感じがなかなか伝わりませんね。そういう意味では歌だけでも原文があると、雰囲気がもっとわかるんじゃないかな。これから角田光代さんの現代語訳も出るとのことですが、そちらは歌はどうなっているのかしらね。

すあま:人物相関図があるとわかりやすいんだけど。

ハリネズミ:書ききれないのでは? 『北欧神話』でもそう思ったけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


はじめての北欧神話

げた:北欧に伝わる神々のお話ですね。世界に何もなかったときから、神様が生まれて、神様が鬼になったり動物になったり、そのあげく、世界中が焼きつくされ台地が海に沈んでしまい何もなくなってしまう。けれど、最後は大地がよみがえり、今生きてる人々の先祖が登場し、次々と新しいいのちを生み育てていった。今いる自分たちは生まれ残ったすばらしい人間の子孫なんだという、誇りを持ってもらい、楽しく読んでもらえるようなお話になっている。神様が突然タカになったり、ヘビになったり、ビジュアル性があるので、アニメーションになったらおもしろいんじゃないかな。テレビも本も無かった昔から、語り伝えで、伝わってきたんじゃないかな。当時は大きな娯楽の一つとしてあったんでしょうね。北欧の子どもは、この本にのっているようなお話を常識として知っているのかな。日本の神話は民族主義的で、楽しむところまでいかない気がするけど。

ハリネズミ:私たちが子どもの頃は、日本の神話は国家神道と結びついているというので教えるのをためらっていた人たちがたくさんいました。でも今は、右翼の出版社だけでなく、普通の出版社が、特に古事記はお話としておもしろいんじゃないかというんで、出版しています。松谷みよ子さんが再話した『日本の神話』(のら書店)もあるし、竹中淑子さんと根岸貴子さんが再話した『はじめての古事記』(徳間書店)や、こぐま社の『子どもに語る日本の神話』もあります。絵本も、舟崎克彦さんが再話して太田大八さんが絵をつけたものなど、いろいろ出ています。

げた:こんな感じで楽しめるならいいですね。

ハリネズミ:2年前に出た『はじめての古事記』は、スズキコージさんの絵がいいんです。

ヤマネ:北欧神話は、これまで岩波少年文庫で出ているものなど高学年のものしか見たことがなかったんです。ちゃんと評価しようと思ったらそういうのと比較しないと分からないところもあるので、難しいほうも読んでくればよかったですね。しかし低・中学年向けに出されたということで、ふりがながふってあるし字が大きめで、読みやすかったです。神様とはいえ、いたずらや争いがあり、人間と変わらないところに子どもたちも興味をもって読めるのではないでしょうか。出てくる登場人物がカタカナの名前ばかりで、覚えづらい点はありました。

ハリネズミ:登場人物リストがあった方がいいのかな。菱木さんは、ラグナロクを「ほろびの日」、ユグドラシルを「宇宙樹」、アースガルズを「神の国」というふうにずいぶんわかりやすく言い換えています。ブリージンガメンも「首かざり」としていますけど、そう言えばアラン・ガーナーの作品に『ブリジンガメンの魔法の宝石』(芦川長三郎訳 評論社)というのがありましたね。あれも北欧神話が下敷きになってたのかな。それと、菱木さんは本文でも、ただ神様の名前をぽんと出すのではなく「みのりの女神フレイヤ」とか、「海の神ニョルズ」とか、「いたずらもののロキ」「うつくしい光の神バルドル」などとちょっとした説明をつけて書いています。ずいぶんと工夫されているので、私はとても読みやすかったです。

レジーナ:読みやすい文体で、北欧神話の魅力が伝わってきました。太陽がなくなって、世界が滅びるというのは、北欧ならではの世界観ですね。主役の神々の敗北があらかじめ定められた神話は、ほかにあまりないのでは。C・S・ルイスは、上級生にこき使われた辛いパブリックスクール時代、北欧神話が支えになったそうです。運命を知りつつ、最後まで誇り高く雄々しく振舞う姿に、惹きつけられたのでしょうか。横暴な巨人に抵抗する神々に、自分の姿を重ねていたのですね。J・R・R・トールキンは、北欧神話を下敷きにファンタジー世界を創造しました。今回の作品は、北欧神話の重厚な世界を映す挿絵であれば、もっとよかったです。しかしルイスも、自分の読んだ北欧神話の挿絵はよくなかったが、それでも心惹かれたと語っているので、物語としての力を持つ神話を語るのに、挿絵はあまり問題にならないのかもしれません。ゲームや映画をきっかけに北欧神話に興味を持つ子どもは、結構いるのではないでしょうか。北欧神話を探していた中学生に、K・クロスリイ-ホランドの『北欧神話物語』(山室静・米原まり子訳 青土社)をすすめたことが何回かあります。

ハリネズミ:私は神話を読むのが好きなので「エッダ」や「サガ」も読んでおもしろいと思ったんですけど、原典のままだと流れやつながりがよくわからない。この本は、菱木さんがまとまりをつけて読みやすくしているので、流れもつかめていいと思いました。北欧のことや北欧神話のこともよくわかったうえで、言葉をかみくだいているのがわかって安心できます。

ルパン:まだちゃんと読んでいないんですけど、おもしろかったです。ぱらぱらと見たなかで、カワウソに化けて殺されちゃう家族のお話があったんですが、なにも悪いことしていないのに、かわいそうだと思いました。神話とか名作とかを低学年向けに書くのはむずかしいと思うのですが、これはたいへんよくできていると思います。

プルメリア:岩波書店の『北欧神話』(P.コラム作 尾崎義訳 岩波少年文庫)とは、違う感じ。寒い場所にもかかわらず神様がダイナミックで迫力があります。登場人物の性格がはっきりしていてわかりやすい。いろいろな神々や巨人族、小人族などが次から次へと登場してくるのでおもしろさがありますが、読み進めるとだんだんいたずらもののロキ以外はわからなくなりました。登場人物の紹介があると読みやすかったかなと思います。素敵な表紙で、男の子はゲーム感覚で読むのではないかと思いました。

すあま:北欧神話やギリシア神話は一般教養として知っていないといけないものだと思うので、読みやすい本があるのはよいと思います。ただ、小学校中学年向けの本だと思うけれど、登場人物の名前が難しいので、キャラクター紹介のようなものがあるとわかりやすくなるのでは? 小人族、巨人族などが出てくるので、『指輪物語』(トールキン著 瀬田貞二ほか訳 評論社)の好きな子に薦められます。巻末に北欧神話の本の紹介があるので、興味を持った子は、そこからさらに読み進めることができるのではないでしょうか。

ハリネズミ:ただ置いておいても子どもは手に取らないかもしれないので、手渡す人が重要ですね。

すあま:教科書にも昔話や神話が出てくるので、出版も増えているのかな。古典だけでなく、文豪の作品なども読みやすい本が出てくるとよいと思います。

ハリネズミ:夏目漱石を、ストーリー中心に書き換えるとか?

すあま:書き換えるっていうより、芥川龍之介の短編などを手に取りやすい形で出してくれたらいいな、と。太宰治の作品も、最近ではマンガ風のイラストを表紙にしたのがありますよ。

ハリネズミ:そこまで軽くしなくても、文豪は文豪でいいんじゃないの。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


村山純子『さわるめいろ』

さわるめいろ

『さわるめいろ』をおすすめします。

目の不自由な子どももそうでない子どもも、一緒に楽しめる絵本。

いくつかの出版社から出ている「てんじつきさわるえほん」の1冊で、シリーズのほかの絵本はロングセラー絵本の点訳化だが、本書は内容もオリジナル。市販の点字絵本はこれまで、印刷・製本上のさまざまな問題から、かなり高額な値段をつけざるをえず、だれもが買えるようなものとはなっていなかった。

今回のこのシリーズは、平成14年から出版社、印刷会社、作家、画家、デザイナー、点訳ボランティア、研究者などが定期的に集まって話し合いを重ねたなかから生まれたもので、絵に重ねて樹脂インクで盛り上げ印刷をし、蛇腹式の製本を取り入れてコストを抑えている。

本書は、日本の伝統模様などを使い、そこに樹脂の点々をのせているが、実際に目の見える子と不自由な子が一緒に遊ぶと、見える子が教わるという場合も多い。

このような試みが今後も続いていくことを願いたい。

(「第61回産経児童出版文化賞大賞 選評」産経新聞 2014年5月5日掲載)


スターリンの鼻が落っこちた

アカザ:とにかく迫力があって、終わりまで一気に読みました。おもしろかった。ずっとリアルな場面が続くんだけど、最後のほうで主人公が追いつめられて、大変な精神状態になるところでスターリンの鼻の幻影が出てくるでしょう? 一気に全速力で駆けぬけるような作品の終盤でそういう場面を入れるところなど、うまいなあと思いました。最後、どうやって終わらせるのかなと思っていましたが、ウソっぽくなく、それでいてほんの少しだけど胸のなかがあたたかくなる終わり方で、よかったなあと思いました。以前はロシアの児童文学ってたくさん翻訳されていたけれど、今はどうなってるんでしょうね? リュードミラ・ウリツカヤなんかも児童文学を書いているって聞いたけれど。

アカシア:ロシアの児童文学は、今はあまり出てないんでしょうか?

さらら:『愛について』(ワジム・フロロフ著 岩波書店)とか。

アカシア:昔はロシア語の児童文学の翻訳者はたくさんおいででしたけど、今は少ないのかもしれませんね。大人の文学の翻訳者は、亀山郁夫さんとか沼野充義さんとか、おもしろい方が活躍なさってますが。

アカザ:きれいな絵本を見せてもらったことはあるけれど、読み物は読めないので、どうなっているかよくわかりませんね。

さらら:モスクワにいい書店があるんです。翻訳物がたくさん並んでいました。『くつやのねこ』(いまいあやの作 BL出版)もロシア語で出ていました。

アカシア:ロシアには文学の伝統ってずっとありますもんね。

アカザ:ボローニャやフランクフルトの見本市には、ロシアの本は出品されないんでしょうか?

さらら:ロシア語を読める編集者が少ないから、商売にならないかも。

レジーナ:それまでピオネール団に入るために頑張ってきた子どもが、父親の逮捕をきっかけに、価値観が揺らぐ様子を手加減せずに描いています。日本の敗戦にも通じますが、国家に翻弄され、それまで信じてきた理想が根本から崩れる体験です。絵の力にも圧倒されました。

アカシア:グラフィックノベルではないんでしょうけど、絵がたくさん入っていてそれに近いですね。

レジーナ:ニューベリー賞オナーに選ばれたということは、文章で評価されたのですね。アメリカの子どもは、どう読むのでしょう。

:昔、『ビーチャと学校友だち』(ニコライ・ニコラエヴィチ・ノーソフ作)というソ連の児童書がとても好きでした。ピオネール団や共産主義も出てくるのですが、とてものんびりした楽しい雰囲気の本で、そことのギャップをすごく感じました。

アカシア:時代はどうなんでしょう? 『スターリン〜』より前じゃないですか?

:『ビーチャ』は、もっと昔の話だったのかしら。『スターリン〜』の方は、大変な問題意識を持って書かれていますね。児童文学は、ザイチクが列に並ぶ最終場面のあたりから書き始めて、「昔、こんなつらいことがあった」と回想するタイプが多いように思うのですが、この作品は、その「昔」の部分をぐいぐい書いています。これから疑似家族をつくっていくのかもしれませんが、それにしてもしんどい経験ですよね。戦争児童文学やアフリカン・アメリカン児童文学だと、目に見える形で異質とされる人が攻撃されますが、ここででは、誰が誰を裏切るか分からない。怖いです。

げた:タイトルから、もっとユーモアのあるおもしろい話かと思ったけれど、全編怖い話でしたね。少年の信じるものがひと晩で崩れていく話ですよね。少年にとって英雄だったお父さんが、いきなり逮捕されて、スパイにされてしまう。いつも、大人の争い事に子どもが巻き込まれて、悲惨な結末になるのが、あわれでしょうがないです。なんとか、そうじゃない社会であってほしいですね。日本の子どもが読むならば、歴史を勉強してからじゃないとわからないんじゃないかな。中学生くらいじゃないと難しいかな。ホラーに近い挿絵は効果的ですね。

アカシア:確かにそうですね。

げた:読んで、つらい気持ちになりました。

プルメリア:以前読みましたが、今回もう1度読みました。暗いストリーですが、挿絵と手に取った感じと大きさが気に入りました。密告して利益を得る人や人間のあさましさが出ている社会が描かれています。資本主義と共産主義の違いも。にんじんがおいしいのは、ひもじいから? 鼻が欠けて空気が凍るような場面、鼻がしゃべり出す場面の設定には驚きました。挿絵が突飛です。最後に、自分らしく生きることが出てくる。

アカシア:自分らしい決断はしますが、それで生きていけるのかしら?

プルメリア:でも同じような思いの人との出会いは、よかったのでは。

アカシア:共産主義じゃなくて、ここは全体主義のことを言ってるんですね。日本だって、そうなるかもしれないわけです。この作品でも、当時の社会を支配していた恐怖が実感をもってひしひしと伝わってきます。この作品に出てくる人たちは、みんな脅えていて、ぎすぎす生きている。どんな時代にも、そうじゃない人はいたと思うんですが、ここには愉快な人、人間らしい生き方をしている人は出てこない。アメリカで出ているので、スターリン時代の恐怖政治が強調されているのかもしれません。

アカザ:私も、アメリカで出版されたということで、どう読まれるのか少し気にかかりました。だからロシアは……とか、だから共産主義は……というふうに読まれるのではないかと。それよりも、あとがきにあるように、今の日本でこういう本を出版するということに意味があると思いました。

げた:日本の戦前の「隣組」もそうですよね。資本主義でもありうる話ですね。

アカシア:それって、今の世界の構造そのもので、それがわかりやすい形で小規模に行われているんじゃないですか?

:(検索して)『ビーチャ』は1951年なのでスターリンの時代に書かれていました。真実は『ビーチャ』と『スターリン』のあいだくらいにあるのかもしれませんね。

ルパン(遅れて参加):今回読んだ3冊の中では、私はこれが一番おもしろかったです。ただし、funnyではなくinterestingの意味で。マッティは別の意味で子どもたちが生き生きと動いてはいましたが…でも、ママのかわりに寄付しちゃうお茶目なマッティと対照的に、先生の机のなかにスターリンの鼻を入れてしまうのは…。とんでもない先生なのだけど、考えてみたらこの先生もかわいそう。おとなも子どももみんな社会の犠牲者ですよね。こんな時代が本当にあったのだと思うと身震いしたくなります。『ワイルド・スワン』(ユン・チアン著 土屋京子訳 講談社)の児童文学版を読んでいるかのようでした。ただ、それでいて最後まで子どもの目線できちんと書けていると思いました。理屈ではなくストーリー運びの中で両親と引き裂かれた悲しみが描かれています。ところで、アメリカ人のお母さんは結局どうなったのでしょう。

アカシア:お母さんはお父さんが売っちゃったんですよね。子どもを生きのびさせるために。今『ワイルド・スワン』の話が出ましたが、私はあの作品には反共プロパガンダ的なところがあると思っています。

ルパン:子どもたちのひとりひとりに個性がありました。フィクションのなかでリアルに子どもたちが動いている。最後はハッピーエンドではないのですが、ピオネール団は入らない、というザイチクの決意に好感が持てました。ザイチクはこのあと知らない女の人の子になるのでしょうか。この女の人の子どももきっともう帰ってこないのでしょうね。御都合主義ではなく、悲しい結末だけど、このお話には未来があります。たぶんこの女の人と寄り添いながら、ザイチクはこれからも社会に流されず自分の足で生きていくのだろうと思わせる余韻がいいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


マッティのうそとほんとの物語

プルメリア:表紙がとってもいいなと思いました。『湖にイルカがいる』ことには驚きました。エイプリルフールに嘘の情報を載せる新聞ってあるのかな。

アカザ:日本の新聞でもちょこっと載せることがあるじゃない。

プルメリア:岩波書店もいろいろな作品を出版するんですね。驚きました。お家が当たったと嘘をついたり、おじさんが誘拐犯に間違われたり、動物にお金を送ったりなどはらはらさせる場面が展開し、でも読ませる作品でした。最後にほっとしました。湖がでてきたり、フィンランドの森がでてきたりとのどかな自然が落ち着かせるのかな。お母さんのおじさんが安定剤になっているような存在感がありました。

げた:最初に湖のほとりで途方に暮れる家族がでてくる。一体これはなんなんだろうって思って読み進むと、最終的には、嘘から出たまことのような結果になって、ハッピーエンドで終わっているので、まあ、よかったかなという感じですね。『林業少年』『スターリンの鼻が落っこちた』と続いて最後に読んだんですけど、最後に安心して、素直に楽しめました。ドイツとフィンランドは遠いような気もするけど、近いのかな? いずれにしても、国境にこだわらず、行ったり来たりする感じがいいな。愛国的になってないのがいい。国際的にならなくっちゃね。

さらら:フィンランドの人って、オランダにけっこう多いんです。母音と子音が多いから、オランダ語の習得も早くて、発音がきれいだった。

げた:ドイツの高層アパートってどの程度の広さなんでしょう。とっても狭苦しい感じで書かれてたけど、日本じゃ広いほうだったりしてね。フィンランド人のお父さんがほとんどしゃべらないんですね。おとなしいんですかね?

アカシア:でも、ほら話はしてますよ。

さらら:ほら話はすごく好き。弟も、ちょっとしか出てこないんだけど、幼稚園のやんちゃな感じがおもしろかった。基調は友情物語ですよね。友だちの別荘に夏休みに遊びに行きたいのに、お金がないからだめって言われて、マッティは妄想でいろいろとやっちゃって。でも世界を正すかという正義感がおもしろい。価値観は人それぞれで、それに気づくって、大切なこと。あと、ここがいいなって思ったのは、パパとボートをこいでいるときに、マッティとパパは向かい合って話をする。嘘をついて、あやまりにこなかったのは、パパもマッティも同じで、それをパパが認めている。大人と子どもが対等なのが気持ちいい。

:努力をしなかったことでいいものが転がりこんでくるというところがとても素敵。人生について考えが深まるというのもあるけど、幸運が最後に手に入っちゃうおもしろさがいいですね。わたしもフィンランドに住みたいなあ。あと、これは、いろんなきょうだいの和解や変化の物語ですね。お母さんとクルトおじさん、お父さんとユッシおじさん。マッティとサミの関係も変わっていきますし。北欧というとドライなイメージがありますが、きょうだいという血のつながり方がいい方に作用しているように思います。

レジーナ:子どもたちは、自ら世界を正そうと考えます。大人の理屈と、それとは異なる子どもの理屈を等しく扱っている点は、とても好感が持てました。はじめの場面に「水切り石」とありますが、「水切りのための石」「水切りするときの石」「水切りに使う石」と訳した方が、わかりやすいのではないでしょうか。

アカシア:石切り遊びをしたことがある人は、ぴんとくると思うけど。

げた:石が自分で水切りするという意味にとれるということかな?

さらら:「水切り」を知らない子だと想像できない?

アカシア:すぐ次のページに、実際にやっているところが出てきますよ。

レジーナ:今の子どももするのでしょうか。 

:やりますよ。

レジーナ:弟の幼稚園で、カエル組の方がトラ組より年長なのがおもしろいです。

アカシア:子どもが自分たちでクラスの名前を決めるのかも。日本では、すみれ組とかたんぽぽ組とか、りす組とかうさぎ組とか、かわいい名前が多いですが、子どもが決めるとなると、突飛な名前が出てくるかもしれませんね。ドイツも、子どもに何でも決めさせようという意識が高い国だと思います。

レジーナ:早くから民主主義社会のやり方に慣れるのは、いいことかもしれませんね。

アカザ:収拾がつかないかも。

アカシア:ドイツには「ミニミュンヘン」というのがあって、30年も前からミュンヘンでは夏休みの間、子どもが自分たちで町を作って、自治をするんです。暮らしていくにはこれが必要だと思ったら、自分たちでそれもやっていく。子どもの自発性を重んじるので大人は脇役で、指導したりはしないみたいです。日本でも「こどものまち」という名前であちこちで似たような試みを行っています。四日市の書店メリーゴーランドの増田さんもずいぶん前から日本のミニミュンヘンをやっているとおっしゃってました。今は、子どもに何でも決めさせるというのがはやりですが、一方には、あまり小さいうちから決断を強制していくといつも不安を抱えるような子どもになってしまうという考え方もあります。

プルメリア:学校現場でも、やってみたいですね。

さらら:発想はキッザニアみたいな? 

アカシア:でも、キッザニアはおとな側が全部お膳立てしちゃうじゃないですか。お母さんに楽をさせて、その分お金を吸い上げる商売ですよね。ミニミュンヘンでは、子どもに親切だったおとなを子どもが選んで表彰したりもするんです。ところで、この本ですが、日本の作品にはないおもしろさがありました。最後はうまくいきすぎと思ったけど、そうか、それも嘘かもしれないと思うと、さらにおもしろいですね。

さらら:最後のメールのやりとりは、ほんとなのか嘘なのか、読者の読み方に任せている。だから、オープンエンディングじゃないですか?

アカシア:翻訳はところどころ引っかかりました。p8ではマッティが「ああ、またもや、皮肉だ」って言ってますけど、子どもの台詞らしくなかったし、この場面では皮肉にはなっていない。p15の「そんなこと、あの人には関係ないでしょう」も場面にしっくりこない。p19のパパの台詞は「イエス」だけど、ドイツ語じゃなくていいのでしょうか? 訳者あとがきの「未知の国フィンランドに出会えるのも」って、誰にとって未知の国? などなど、いくつか突っ込みたくなりました。

ルパン(遅れて参加):最初は笑ったらいいのか怒ったらいいのかわかりませんでしたが…最後は大笑いして終わりました。もう、めちゃくちゃですよね。でも、そのなかにピリリとスパイスが効かせてあるのがいいなあ、と思いました。

さらら:ただの馬鹿話じゃない。

ルパン:ええ。すごく鋭いところがありますよね。主人公は「世界を変える行動」に出るんだけど、それは「動物保護のために寄付をしている」、って嘘をついていたパパとママのかわりに寄付しに行ったり…ユーモラスで奇抜なんだけど、子どもに嘘をつくおとなを見事にやりこめてます。子どもに林業をなんとかさせようとして空回りしている大真面目な『林業少年』より、一見ふざけまくっている『マッティ』の方が、よっぽど子どもの視点できちんと世界を見ているような気がします。

レジーナ:良かれと思ってしたことが、とんでもない結果につながります。こんなにやりたい放題の子どもたちは、ネズビット以来。

ルパン:お母さんは理不尽に怒ってるのにお父さんはにやっと笑ったりしてるところもおもしろいし。

さらら:いいお父さんですよね。

アカシア:そういうところに存在感が出てる。

ルパン:エイプリルフールに、おとなたちもみんなだまされて池のイルカを見に集まるシーンもよかったなあ。

レジーナ:私も信じました。

ルパン:A型で学校の先生である私としては、これ、怒らなきゃいけないんじゃないかと思って読んでたんですけど、途中から笑いをこらえきれなくなっちゃって。さいごに家が当たる、っていうどんでん返しも、ここまで徹底的にリアリティなかったらむしろスカっとしますよね。

レジーナ:一番最後のメールで、家が当たったというのは、嘘かと思いました。もはや誰を信じていいのか……。

ルパン:でも、ただのドタバタに終始しているわけじゃなくて、たとえばマッティが新しい家に引っ越すんだ、ってはしゃいでたときに、親友のツーロは寂しく思ったりするシーンとか、全編通して、ちゃんと子どもの心の機微をとらえているところがよかった。理屈で説明するのでなく、それがストーリーのなかにさりげなく織り込まれているから。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


林業少年

げた:タイトルは流行の「なんとか少年」や「なんとか男子」を使って、目をひこうとしたのかな。内容は社会科の林業の副読本を読んでいる感じで、登場人物も画一的な物言いだし、それぞれの登場人物の立場で台詞が決まっている点でおもしろみに欠けますね。楓は卒業後の進路海外留学ではなく林業を選んだけど、そうさせたものが先輩との出会いだけなのは弱い気がする。林業の行く末に関しては具体的なイメージさえ提示されず、これで楓ちゃん大丈夫なの?と思う。具体的に何に惹かれたのか分からない。いまいち見通しがはっきりしないのに大丈夫かなと思ってしまう。時代的に設定は今なのだと思うけど、50年前の話みたいで古い感じがしますね。私が子どもの頃から林業をめぐる状況はこうだったように思います。私自身の話ですが、田舎の姉が山持ちの方と40年前に結婚したんですよ。当時はすごいなと思ったけど、結局、今は山もあるだけで切り出すのにお金がかかる現状で、お金にはならないんですよね。それに、私の身内に「相対」を仕事にしている人がいるんですけど、あんまりいい感じの人じゃなくて、ふっかける感じの人なんですよ。あんまり、いいイメージはもってないんですけどね。全体に現実味に欠けるかな。

アカシア:学生に環境について伝えようと調べてるときに、PARCのビデオ『海と森と里と つながりの中に生きる』っていうのを見たんです。それでわかったんですけど、日本の政府の林業政策はひどいですね。日本では戦時中に木を乱伐したので、戦後は政府が拡大造林政策というのをとって、もともとあった広葉樹林を伐採して建材に使う針葉樹をめいっぱい植えなさいと指導したんです。必ず儲かるからと言って。で、どこもかしこも人工的な針葉樹林にしてしまった。でも、その後政府が方針を転換して安い木材をどんどん輸入するようになる。それで、日本の林業はたちゆかなくなったんです。おまけに広葉樹林の実を食べていた獣たちも食べるものがなくなって村里に出て来るようになるし、花粉症も広がるということになったんです。今、クマとかイノシシなんかが人家の近くまで出てきますが、昔は山と里の間に広葉樹林があって木の実がたくさん落ちていたからそんなことはなかったんですって。林業が衰退するのも当たり前ですよね。1本切り出して50万円じゃ割りに合わないですよね。

げた:最後の百年杉としたらなおさら。

アカザ:だから、主人公のお母さんは怒ってるんですね。

アカシア:ふだんから下草刈りとかいろいろあるでしょうし、切るとなっても伐採のお金とか馬の運搬費などかかるから、100万円でも割りが合わないんでしょうね。

アカザ:年金をもらいながらの道楽でないとダメってわけですね。

アカシア:この本では未来に希望を持たせるような書き方ですが、実際には難しいのかもしれません。作者も林業をやっている方のようなので、作者の希望も入っているのかも。

さらら:人物がステレオタイプ化している気がしました。強烈なキャラクターが、ひとつくらい入っていてもいいのに。おじいさんも穏やかだし、お母さんもちょっと怒りっぽい程度。少年は姉の選択にドキドキしますが、すぐに解決してしまう。少年が家族思いで、お利口すぎて、悪くないけど読んでいて先が見えてしまう。物語としての計算が透けていて、おもしろさが今ひとつ。描写は一生懸命だけど、「ずんだもちの甘さで…(p12)」など、ていねいに書こうとしているけど少し浮いてしまっている。家族がなんとか持ち直すところに積み木のたとえで出てきますが(p148)、少年の意識を追った表現としては不自然な気も。このたとえを入れるなら、せめて位置をもう一工夫してほしかった。「女でも(傍点)林業ができる」という発想が女性の側から出ていますが、さらにつっこんで、「女だからこそ」できる新しい林業を書いてほしかったな。ただ、はっとさせるほど、いいところもあります。たとえば、p69の喜樹とかえでが杉に抱きつく場面。切る直前の、杉のいのちを感じるところはとても好きです。悪い本ではないけれど、手法の点、視点の点で、全体にちょっと古い印象を受けてしまいました。

:私が古いと感じたのは、楓が美人なところです。美人じゃないとうまくいかないのかと。十人並じゃだめなのかと。作者は、女性ですか、男性ですか?

さらら:女性です。

:そうなんですか、おじさんみたいな視点を感じました。お父さんもお母さんも仕事を持っているから、暮らしのお金には困っていなくて、道楽のように山を持ててますよね。でも、山や林業に希望を持たせるためには、お姉ちゃんをあれほどまでに美人に仕立てないといけないのかと思いました。だけど、林業の実際については納得しましたし、おもしろかったです。家が古くて立派なところがよかったです。磨き上げられた床とか銘木とか。

レジーナ:『神去なあなあ日常』(三浦しをん/著 徳間書店)も林業を扱っていますね。

アカザ:私、こういう仕事の詳細をしっかり描いた作品って好きなんです。子どもたちも、物語の中ほどの林業の実際を描いた場面なんか、興味を持って読むと思います。私も、生き生きした描写だと思っておもしろく読みました。でもでも、そこにたどりつくまでがね! 文章が古くさくって、なかなか物語に入りこめませんでした。なぜかなって考えたんですけど、主人公が小学5年生で、地の文もその子の目線でずっと書かれているんだけど、どう考えても小学5年の男の子の感性じゃないんですね。たとえば、p30のお姉ちゃんの部屋の描写でも「ドアのすき間から、安っぽい化粧品の匂いがただよってきそうで」とか、その後に出てくるおばあちゃん手作りのサツマイモのかりんとうが「素朴な甘みとかりかりとした歯ごたえが後を引いて、いくらでも手が伸びる菓子だった」とか、おばさんぽいっていうか、おっさんぽいっていうか……。それから、この物語の芯になっているのは楓っていうお姉ちゃんで、主人公の喜樹はずっと傍観者というか観察者なんですね。それなら、いっそのこと楓を主人公にしたほうがよかったのでは? それから、林業の現在とか未来が、この一家の問題だけに終わってしまっているような感じがして、「大変そうだけど、山を持ってて、立派な家に住んでて、跡継ぎも決まったようだし、よかったね」という感想を、ついつい持ってしまいそうで。もっともっと大きな問題があるんじゃないかな。そういう、広い世界の、大きな問題につながるようなところまで書いてほしかったなと思います。

アカシア:最初が法事の場面で、そこに親族の名前がわーっと出て来ます。そこに関係性の説明がほとんどないので、ちょっと混乱しました。主な登場人物は後を読めばわかるのですが、主な人だけでも少し説明をいれてもらうと、最初からイメージできるのでいいんじゃないかな。

アカザ:編集の問題かな。

ルパン:正直あまりおもしろくなかったですね。おもしろくない理由は皆さんがおっしゃるとおりで…そう、そう、と心のなかでうなずきながらお話を伺っていました。やっぱり、林業の将来性が感じられないというのが致命的ですよね。林業の抱える問題点を伝えたい、というのが前面に出てしまっていて、どきどきさせるようなストーリーがないですから。あとから「どんな話だっけ?」と思っても何も思い出せないほど起承転結がなかったです。

さらら:するする進んでしまうけど。

ルパン:問題提起だけで終わったら、読んだ人は林業がやりたくなくなってしまいますよね。残念ながら、私はこれを読んでも森に対する愛着はわかなかったです。自分が子どものときに読んで「ああ、木を植えたい」と心から思ったのは 宮沢賢治の『虔十公園林』でした。あれは山に木を植えなければ、などとはひとことも言っていないのですが、ものすごく心を打たれ、木への心をかきたてられました。ジオノの『木を植えた男』とかも。それに対して、こちらは一生懸命語っているのにもかかわらず、50年後の山の姿がまったく見えてこないのは残念でした。あと、主人公の喜樹の語りが妙におとなっぽくて、途中でランドセルを取りにいったときは「あ、小学生だったのか!」と、びっくりしてしまいました。

プルメリア:12月頃に男子(小学校5年生)がこの作品を学校図書館で借りて読んでいました。5年生では3学期に林業を学習します。身近な生活とかけ離れているため、なかなか理解することができない内容なので、林業をしている人々の生活にふれてほしくて子どもたちに紹介しました。主人公も5年生でぴったり。資料集とは異なる実生活がありました。作品を読んでお姉ちゃんの気持ちも少年の気持ちも感情移入ができたようです。教科書や資料集には木を運ぶ道具として馬が出てこないので、そこが違和感があったかな。教科書ではトロッコでした。実際に馬を使っているのかどうかと。

アカシア:馬で木を出すのは今日で最後か、って言ってるから、もうあまり使ってないんでしょうね。

さらら:作者には、そんな馬が残ってほしいという願いがあるんだと思いますけど。

プルメリア:林業に誇りを持って仕事をしているおじいちゃんの姿がいいなと思いました。木材は輸入が多いけど、国産品への意識もあります。杉は嫌われているけど花粉を出さない杉が開発されたことを最近ノンフィクションの作品で読みました。戦後植林をしたことによって花粉症がふえたこと、自然の影響ではなくて人工的なもの。「杉が悪いのではなく植えた人間が悪い」と書かれていました。

アカシア:国の林業政策が場当たり的だったせいもあって、たぶん今まで通りのやり方だと林業で生計を立てていくのは難しいと思うんですけど、たとえばただ木材として売るのではなく、家具などに加工するところまで自分たちで会社をつくってやって成功している人たちはいますよね。そういうオルターナティブの道筋も示してくれるとよかったな。

プルメリア:自分が夢中になれるものがあるのはいいですよね。

アカシア:でもルパンさんは、これを読んでも林業につきたいとか木を植えたくなったりはしないと言ってましたよ。

プルメリア:5年生の子どもたちは好きな仕事ができていいなと言っていました。私のクラスの保護者の職業はほとんど同じ職種なので。「自分で自由な仕事を選べるのはいいね」ってよく言っています。

げた:(検索して)プルメリアさんがさっき触れたのは、『花粉症のない未来のために』(佼成出版社)。斎藤真己という研究者の本ですね。

プルメリア:取引の場面もおもしろかった。

さらら:海外でものを値切る交渉は、100のものを、10といい、中間の50で手を打つことが多いと聞きますが、この取引はそんなに差がないところから始まる。その辺どうなのかな。

アカシア:この地域の人たちは木1本の相場もわかってるんでしょうから、それと桁が違うような所からは始められないでしょう。

さらら:なるほど、日本人はやはり常識的!

アカシア:挿し絵はどうでしょう?

レジーナ:50年前の話のようだというお話がありましたが、絵は、今の子ども向きなのでは。両親と姉の会話を、主人公と祖父が聞く場面では、解説の図のように、文章をそのまま絵にしていますよね。工夫してほしかったですね。

さらら:表紙はいいですね。

プルメリア:この作家は、『チョコレートと青い空』(そうえん社)を書いた人ですよね。

さらら:「季節風」でずっと書いていた人です。

アカシア:農業をしながら作品を書いている方ですね。 私はこの本は、現場を知っている人ならではのディテールがあって、おもしろく読んだんですけど、できれば個人のレベルでがんばるだけじゃなくて、もっと広い視野で書いてもらえるとよかったと思いました。

さらら:そういう視点のある人物がいるとよかった。

アカシア:この作家は福島の方ですか?

アカザ:生まれは福島。

レジーナ:現在は、宮城県在住のようですよ。

アカシア:こういう実体験をもっている人に、もっともっと書いてほしいですね。この作品はとてもまじめですが、社会科の教科書だけではわからないことがわかったりするので、副読本に使ってもらうといいんじゃないですか。

プルメリア:イメージがわいて理解しやすくなります。

アカシア:作品そのものの出来については、もう少しがんばってと言いたいですが、現場にいる人にしか書けないことはありますからね。

さらら:知らないことは新鮮に映ります。

レジーナ:農家に嫁ぎに来るアジアの人も多いですよ。年金をつぎ込んで、荒れていく山を維持しようとする様子から、林業の切実な状況が伝わってきました。『神去なあなあ日常』の登場人物は個性的でしたが、この作品は美男美女ばかりで漫画のようでした。林業の仕事に情熱を燃やし、サルのように木を切る青年も、いまどきの外見でかっこいいという設定でしたし……。その木がどれだけ手をかけられてきたかが年輪から分かることや腐りにくい木の種類、「相対」「トビ口」という特殊な言葉を知ることができたのは、おもしろかったですね。林業の仕事の内容は、『林業少年』の方がていねいに描かれています。子どもに手渡すのだったら、こちらをすすめたいです。

アカシア:そこが、インタビューして書く人と、自分で見聞きしていることを書く人の違いですよね。

レジーナ:取材して書いたのではなく、著者自身が農業に携わっているから、描写にリアリティがあると私も思いました。在来種の馬の足の太さに気づく場面をはじめ、実体験にもとづいて書いている印象を受けました。人物は、もう少し深く描いてほしかったです。はじめから林業を継ごうと考えている男の子が主人公ですが、現実を映していないのでは……。自分がかなえられなかった夢を娘に押しつける母親は、あまりに身勝手で、読んでいて腹が立ちました。

アカザ:娘に英文科に行って、将来は海外に行ってもらいたいって思うお母さんって、いまどきいるのかしら? 半世紀前なら別だけど。いまは、農学部のほうが人気だと思うけど。

アカシア:今は英文科など閉鎖している大学もあるくらいで、バイオテクノロジーなどを扱う農学部は花形なんじゃないかな。

さらら:私の息子は農学部ですけど女の子が多いですよ。

アカシア:お母さんが家つき娘で、自由なことができなかったというのは、今でも地方だとあるんでしょうか。

レジーナ:山ではなくても、家を継ぐという意識は、田舎では今も根強いのでは。

アカシア:それはそうでしょうけど、好きな勉強もできなかったし、サラリーマンと結婚するのも反対されたんですよ。そのあたりはもう今はあまりないのかな、という気もします。

アカザ:日本の児童文学ってお母さんをすごく悪く書く作品が多いですよね。目の敵みたい。もう少し深く描けないものかな。

アカシア:お母さんだけじゃなくて、人間そのものをあまり深く描写していないものが多いと思います。

さらら:たとえばオムニバス形式の『きんいろのさかな・たち』(大谷美和子作 くもん出版)は、どの話も人として生きようとするお母さんがユニークでした。

レジーナ:p147の母親の台詞「これだけ大騒ぎしたんだ。お前、絶対合格してみせなよ!」は、言葉が強過ぎると思いました。字面から受けるよりもう少し柔らかいニュアンスなのでしょうか。

アカザ:私も、ちょっと乱暴な言い方だと思ったけれど、この辺だとそういう言い方をするのかと……。

アカシア:ふだんの口調が荒っぽい地域もありますよね。

レジーナ:母親が方言を使っているとは、あまり感じませんでしたが……。

アカシア:全体として、林業のことを書こうとするあまり、人間を描くことがちょっとおろそかになった感がありますね。

レジーナ:林業理解には、いいけど。

:知らなかったことを教えてもらった楽しさはありましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


2014年04月 テーマ:少年の信じるもの

 

日付 2014年04月24日
参加者 アカザ、アカシア、さらら、レジーナ、慧、げた、プルメリア、ルパン
テーマ 少年の信じるもの

読んだ本:

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In the Heart of the Moon

In the Heart of the Moon(月の真ん中で)

ミュージシャン:Ali Farka Touré & Toumani Diabat(アリ・ファルカ・トゥーレ & トゥマニ・ジャバテ)
レーベル:World Circuit
(日本版はライス・レコード)

 

 

アリ・ファルカ・トゥーレ(1939-2006)はマリ北部の生まれの、ブルーズを演奏するギタリスト。トゥマニ・ジャバテ(1965-)は、コラ奏者で、マリ南部生まれの伝統的な家系のグリオ。この二人が、マリの首都バマコにあってニジェール川を見下ろすマンデ・ホテルの最上階で録音したアルバムです。北部の民族ソンガイ/プールの曲と、南部の民族バンバラの伝統曲などが入っています。リハーサルなし、編集もなしだそうで、流れるように演奏したままが録音されています。4曲目の「ニャフンケの市長さん」は、ちょうどニャフンケの市長に就任したアリを、グリオのトゥマニが賞賛している曲になっています(グリオはほめ歌を歌ったり演奏したりするのも仕事の一つ)。ちなみに市長になったアリは私財をつぎこんで、地域のインフラ整備に努めたそうです。

アリ・ファルカ・トゥーレはアメリカのブルーズに魅せられて欧米で活躍したミュージシャンですが、音楽で身を立てる前はタクシーの運転手や自動車の整備工もしていたとのこと。トゥマニ・ジャバテは5歳の時からコラ(ヒョウタンに動物の皮を張った21弦の楽器)を弾いていたそうですが、子どもの頃ラジオから流れてくるアリの曲を変わった音楽だなあと思いながら聞いていたと言っています。

このアルバムは2006年にグラミー賞を受賞しますが、アリはすでに亡くなっていて、授賞式に出席できたのはトゥマニだけでした。このアルバムの日本版はライス・レコードから出ています。

以下の動画には、当時の録音風景や2005年にブリュッセルで行ったコンサート風景などが入っています。

トゥマニ・ジャバテは、今年5月に息子のシディキ(トゥマニのお父さんと同じ名前なんですね)と新しいアルバムを出すのですが、そのプロモーションビデオがこちら。トゥマニは700年続くグリオの71代目だそうです。私と同じようにコラの音色が好きな方には、こちらもお薦め。


2014年03月 テーマ:読書感想画の課題図書

 

日付 2014年03月31日
参加者 慧、ルパン、アカシア、プルメリア、レジーナ
テーマ 読書感想画の課題図書

読んだ本:

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