カテゴリー: 言いたい放題でとりあげた本

『ひみつの犬』表紙

ひみつの犬

ヨシキリ:岩瀬さんの作品は、どれも人間がしっかり描けていますよね。それも、形容詞で表現するのではなく、黒い色にこだわる羽美、狭いところにはまる細田くん、時間割が好きなお姉ちゃん、子どもにビラ配りを頼む整体医の佐々村さん等々、具体的なことで人物をあらわしている。良いところも悪いところもあり、一風変わったところもあるという、一面的でない人間像が魅力的です。同じ作家の短編集『ジャングルジム』(ゴブリン書房)も、人間がしっかり描けているという点では同じですが、この作品は犬のトミオがどうなってしまうのかというサスペンスと、いったい佐々村さんとは何者なのかというミステリーで、最後まで読者をひっぱっていく。かなりページ数はありますが、小さい読者もしっかりついていけると思いました。また、トミオを守りたい一心の細田くんと、佐々村さんの正体を探りたい羽美の気持ちのすれちがいが描かれているところもおもしろかった。それにしても、人間の気持ちをしっかり分かって我慢しているトミオの姿が切ないですね。ラブラドール・レトリバー好きの私はじーんときました。

西山:すごい作品だと思いました。岩瀬さんは次々と新作を発表されるけれど、そのたびに新しい人間が出てきて、本当にすごいと思います。ちょっと常識からずれたような不思議な行動をとる大人と子ども。コミュニティって、こんなふうに不可解で、気に食わない人たちもいっぱいいるものだというのが、図式的でなく、人間のおもしろさとしてすくい取られていて本当に興味深かったです。「子どもの権利」という観点でも、「先生が怒ると生徒があやまる」(p3)とか、「もしかしたら大人に利用されているんじゃないか、と、子どもはいつも注意を払ってなきゃいけない」(p62)とか、随所ではっとさせられて、徹底して子どもの側に立っている作品だと思いました。

花散里:一つ一つの文章が読ませる内容ではある、というのが全体的な印象でした。登場人物、一人一人を実にうまく描いていると思います。細田君の犬など、はらはらさせられるところや、カイロプラクティックの箇所など。ほっとするところと、そうではないところのつなげ方も上手だと思いました。図書館員のお父さんがスマホを片手に川柳を作っているというところは、そういう見方をされているのかとも思いましたが…。読後感としては、大人は共感するけど、子どもはどんなふうに読むのかという点で、手渡し方が難しい本のようにも感じました。

ヒダマリ:とても魅力的な本でした。今まで読んだ岩瀬成子さんの作品のなかで、一番好きかもしれません。ものごとの善悪をシンプルに考える時期、自分もあったなぁ、と子ども時代を思い出させる本でした。それぞれの登場人物の心理がていねいに描かれています。主人公は思い込みが激しく、プライド高く、大人に対して疑いを持っています。強いキャラだけれど、揺れ動く。そのブレがとてもよく掴めました。また、細田くん、お姉さん、そしてお母さんも、さらに犬のトミオまで、それぞれの生きづらさが伝わってきました。犬がどうなっちゃうのか、脇山さんに見つかっちゃうのか、佐々村さんは、本当はどんな人なのか、椿カイロプラクティックを攻撃しているのはだれなのか、なぞが重なって、一気に読ませる工夫もありました。そういう引っ張る力が、他の岩瀬さんの作品よりも強かった気がします。1つだけ気になったのはp154「煮詰まる」という言葉が誤用されているところ。「二人とも煮詰まってるぞ。煮詰まっちゃいかん。ろくなことにならんよ、煮詰まると」。煮詰まるは、話し合いなどでじゅうぶん意見が出尽くして、そろそろ結論が出る、という意味合いが本当ですよね。お父さんが間違った意味合いで使っているにしても、フォローがないので、作者が誤用しているというふうにしか読めません。編集者、校閲が気づくべきだと思いました。

アカシア:子どものときに、こんなふうに子どもの感受性を子どもの視点で書ける人の作品を読みたかったなあ、と思います。羽美は黒いものばかりにこだわり、細田くんは狭い隙間にはさまるのが好き。どちらもちょっと変わっていますが、羽美については、担任がきっちりした人で小言ばかり言う描写があったりしますね。細田くんのほうは犬のトミオを飼っていることを秘密にしなくては、なんとかトミオの居場所を確保しなければ、といつも緊張している。子どもは、ちょっとしたことで他と同じ規格品にはなれないんですよね。羽美が、ササムラさんを疑ったり、証拠をつかまないとと焦ったり、探偵ごっこまがいのことをしたりするのは、この年齢ならではの正義感をもつ子どもらしいし、それよりトミオが心配な細野くんとの距離があいていくのもよくわかります。ただ、怪しい人物についての謎が、前にこの会でも取り上げたシヴォーン・ダウドの『ロンドン・アイの謎』のように解明されていくわけではなく、羽美の勘違いという結末になるので、そこを多くの子どもが読んでおもしろいかというと、そうでもないように思います。いろいろな人が出てきて、物語の本質からしてどの人も善悪では割り切れないので、くっきりしたイメージを持ちにくいですね。ただ、好きな子どもはとても好きだと思います。さっき、『春のウサギ』が岩瀬成子的とおっしゃった方がありましたが、私はそんなふうには思いませんでした。岩瀬さんの言葉には、ひとことで10か20の背景を思い起こさせるふくらみがあり、そこが『春のウサギ』とはかなり違うんじゃないかな。

ニャニャンガ:これまで読んだ岩瀬成子さんの作品の中で、いちばんおもしろく読んだのは大人目線だからでしょうか。犬を飼ってはいけないマンションで犬を飼っている状況にドキドキしながら読みました。細田くんのトミオを思う一途さがかわいかったです。この作品には大人のずるさや利己的な面が書かれている一方で、狭い世界で生きる羽美が、自分のものさしの短さに気づいてゴムのようにのばすことができたのがよかったなと思います。人にはさまざまな面がある(羽美の姉、羽美のお母さん、佐々村さんなど)のを学んだのではと思います。羽美が犯人探しに夢中になるあまり、細田君の犬のトミオの引き取り手探しがおろそかになるあたりは子どもらしく感じました。大道仏具店のおばあさんがトミオを引き取ってくれそうだなというのは薄々わかったものの、そこから椿マンションに引っ越せるとわかるまでは想像できませんでした。学校の先生の指導に違和感を覚えたり、正義感を通そうとしたりする羽美に共感しつつ、こだわりの強い子だなと思うのは自分にも似た面があるからかもしれません。

まめじか:大人の欺瞞にだまされまいと気をつけていたのに、それでも自分は見抜けなかったと、羽美がくやしさをおぼえる場面があります。そうやっていろんな経験を重ねる中で、羽美は自分をふりかえり、また周囲のことも少しずつ理解していきます。正義感から突っ走ってしまう羽美に対し、親は事なかれ主義の対応をしますが、子ども対大人の単純な構図にしていないのが、すばらしいなあと思いました。子どもにも大人にも、見えているものと見えていないものがあるんですよね。それがとてもよく描かれていますね。時間割をつくることで何かと戦っているようなお姉ちゃんは、子ども時代と自分を切り離そうとしているようで、羽美をとりまく人たちもそんなふうに、厚みのある人物として感じられました。

ネズミ:岩瀬さんの物語は、登場人物を一方的に決めつけないというのが徹底していると思いました。黒い服を着ている主人公とか、狭いところに入る細田君とか、奇妙に見えるけれど、だからといって特別視しないし、何かの型にはめたりもしない。分断しないから、読んでいると、こういう見方もあるなと、目をひらかされていきます。物語としても、犬がどうなるかというのと、左々村さんの謎があって、先にひっぱられていきますね。主人公の論理は、やや独善的にもなるのですが、それがまわりにも本人にも自然に伝わり、ゆるやかに本人が変わっていく書き方がみごとだと思いました。冒頭の先生との掃除の場面と、仏具屋のおばあさんのネコの場面に、呼応する場面が最後にあるのもいいですね。

ルパン:岩瀬成子は好きなんですけど、この作品はちょっとすっきりしませんでした。私の理解力が足りないのかもしれませんけど。まず、最後のほうでお姉ちゃんが突然饒舌になるところに違和感があったのと、あと、この子の「黒」へのこだわりや、細田君が狭いところにはさまりたがるところなども、おもしろいんだけど、それが何につながっているのかなあ、という不完全燃焼感がありました。佐々村さんはちょっといやな大人で、疑われたってしょうがないじゃない、と思ってしまいました。

雪割草:次が気になってどんどん読めました。羽美とお姉ちゃんとの会話など、この年代の子の心もようの描写が上手で、いつもすごいなと思います。佐々村さんは理解できなかったし、子どもの権利的にも批判されるべきだけれど、こういう大人はいると思うので、リアルに感じました。それから良い、悪いについても、役に立ちたいと思って相手を傷つけてしまったお姉ちゃんの話があって、それに対して羽美は、最初は自分のことばかり考えてやっていたことが、結果的に感謝されるなど、良い、悪いは見方によって変わるのだということが体験を通じて理解できました。岩瀬さんの動物へのまなざしも好きです。

アカシア:細田君は、犬のトミオのことがものすごく心配で、それが棘のように心に刺さっているんですね。それが、はさまるという行為につながっている部分もあるんだと私は思いました。羽美が黒い服を来ているのも、感受性が鋭くて、何かを棘として感じてるからじゃないかと思います。わけのわからない変わってる子を出してきてるというより、どの子にもありうることなんじゃないかな。細田君は、羽美が同じような棘を抱えていることを感じたから、ひみつの犬のことを話したんでしょうね。私は、『春のウサギ』よりこの作品のほうが、ずっと印象に強く残りました。

ヨシキリ:『春のうさぎ』には棘のようなものは書かれていないので、あまり印象に残らないのでは? ヘンクスは、子どもの本なので、そこまでは書かないと決めているのかも。

アカシア:ヘンクスには引っかかりが少ないっていうことですか。

ヨシキリ:子どもの読者には、ゴミを捨てるおばあさんや、佐々村さんのことを、「いやな人だな!」と思ってほしくないな。岩瀬さんも、そう思っているんじゃないかしら。まだ文学を読む力が育ってない子は、そういう感想になるのかもしれませんが。

西山:細田君がすきまにはさまる理由は、p75に出てきますよね。「ぼくは成長しているでしょ。(略)大きくなると入れなくなるんだよね。そして一度入れなくなったら二度と入れないの」って、子どもは子どものままでいられないという、成長とは何かを失っていくことでもあるという、深遠で切ないような真実がふいに突きつけられた気がしたところです。

ヨシキリ:「成長をたしかめる」というのは、細田くんがついたウソですね。細田くん自身も、うまく説明できないのでは? 自分の部屋や戸棚に閉じこもって、うずくまっているのではなく、真昼間に街なかではさまっている。実は私、この作品の中で一番気に入っているところです!

西山:はさまるとか、黒い服をいつも着てるなんていくところがおもしろいので、子どもはそういうところに惹かれて読めるかと思います。

アカシア:岩瀬さんは日本からのアンデルセン賞作家部門の候補ですが、翻訳が難しい作家かもしれません。余白とか行間を読み取るという部分がかなりあると思うので。

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エーデルワイス(メール参加):これまた主人公の石上羽美ちゃんの心の声がずっと聞こえる本でした。冒頭で担任の先生から注意される羽美ちゃん。p62「大人に利用される・・・・」もうこれだけ読んでいて心がめげそうになりました。5年生の羽美ちゃんは黒にこだわり、4年生の細田君は狭いところにはさまろうとする。二人とも相当のものです。飼ってはいけない家でなんとか犬と一緒にいたいと思う子どもの物語は、岩瀬さんにかかるとこのような独特な物語になるのですね。正しさを振りかざす脇山さん、綺麗好きで孤独な今井さん、時間割にこだわるお姉ちゃん、いつも疲れているお母さんなどなど大人がたくさんでて、善悪をひとくくりにできないことを伝えていますが、ちょっと教訓っぽい感じです。最後、犬のトミオと細田君が離れることなく、が幸せになれてとにかくよかった。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

Comment

『春のウサギ』表紙

春のウサギ

雪割草:おもしろく読みました。「エピファニー」という言葉とその描写には、懐かしい児童文学のにおいを感じました。たとえばp72には、「一瞬」のなかに、アミーリアが自分という存在や世界との出会いを見出すさまが描かれています。それから、父の恋人のハナを通じて、アミーリアは、記憶にも残っていない母と向き合うことができます。ケイシーと恋愛もして、父を一人の人間としてみることができるようになります。オブライアンさんのような、寄り添ってくれる大人がいてよかったです。ときどき、ケイシーの発言は無神経に感じることはありました。原題は”sweeping up the heart”のところ、邦題はいいなと思いました。

ルパン:オブライエンさんは何歳なんだろう、というのが気になりました。70代のお友達をぞろぞろ連れてくるのでおばあさんなんだろうなと思って読んでいたのですが、p128に「結婚してすぐだんなさんが亡くなり、そのことがきっかけでオブライエンさんとアミーリアのお父さんとのきずなが強くなった」とあります。アミーリアのお母さんが亡くなったのはアミーリアが2歳のときで、アミーリアは今12歳か13歳。オブライエンさんの夫が「結婚してすぐ亡くなった」のが10年前ならオブライエンさんもお父さんと同年代ということになります。ところが、そうかと思うと最後のほうでアミーリアはオブライエンさんが死んでしまうことを心配している。いったい、この人は何歳でどういう人なんだろう、というのが引っかかります。それから、アミーリアは友だちから「変人」と呼ばれているけれど、どういうところがどのくらい変人なのかがわからず、ちょっとストレスでした。以上2点が気になりましたが、お話はおもしろかったです。

ネズミ:繊細なお話だなと思いました。お父さんが外に出かけるのが好きではなくて、どこにも行けない春休み。母親が亡くなってから立ち直れない父親が描かれていて、こういう父親像って日本の作品ではあまり見かけないけれど、前にこの読書会で読んだ作品にもあったので、海外では一定数あるのかなと思いました。陶芸教室の場面がよかったです。ただ、ときどきちょっとぴんとこない文章がありました。たとえば、p40からp41で、名前をつけて、どんな人物か考えて遊ぶところ。「なんて楽しいんだろう」とあるのですが、会話を読むと、そんなにおもしろいと思えなくて。状況はわかるのですが。

まめじか:子どもの頭の中で想像がどんどん広がっていき、それが現実と混ざってしまったり、茫漠とした不安やよるべなさを感じていて、これから続く人生の大きさに圧倒されていたりする感じは、よく伝わってきました。ただ、好みの作品かどうかというと、全体としてなんかぼんやりした雰囲気で、あまり印象に残らず…。

アンヌ:最後はすべてうまくいく、とてもほっとする物語だとは思うのですが、どうも私はこのお父さんが受け入れがたくて、納得がいきませんでした。「かわいそうにとみんながいう」ような家庭状況におかれていて、母が死んでから10年以上、旅行にも連れて行ってもらったことのいない小学生である主人公。そうなったのは、お父さんがずっと辛い思いをして動き出すこともできないからなんだと思っていたら、とっくに、自分自身は新しい恋をしていたという話になっていくので、あれれと思いました。オブライエンさんについても、実の祖母のように賢く主人公を愛し保護してくれているようだけれど、先ほどルパンさんがおっしゃったように、子供が欲しかったという記述から見ると、何か年齢的なずれがあるようで、ここら辺の関係も奇妙に思えて、主人公自身の物語に入り込めませんでした。

ニャニャンガ:ケヴィン・ヘンクスの読み物が大好きで、本作は翻訳された4冊目だと思います。刊行後すぐに読んだものの内容が思いだせず、今回読み直したところ、ヘンクスらしいナイーブな作品で新鮮に楽しめました。口数の少ないお父さんは存在感が薄いですが、お向かいに住むオブライエンさん、陶芸工房のルイーズさん、親が離婚間近のケイシーたちの、包み込まれるような愛に囲まれているアミーリアは幸せだと思いました。それでも、2歳で母親を失ったことはアミーリアにとっては欠けたピースのようにいつまでも埋まらない穴であり、埋めたいのだなと感じます。ケイシーの突飛な発想には少しハラハラしましたが、ふたりの距離が縮まり恋に発展するようすをほほえましく読みました。エピファニーと名付けた人が父親の交際相手でハナだったことは偶然の幸運といえるし、ちょっと出来過ぎとも思いました。読み始めではオブライエンさんの年齢がわからず、もしかして父親のことが好きなのかもと想像しましたが、詩のサークル仲間が70代ということからそれはないとわかりました。それでもアミーリアに無償の愛をささげ続けてきたオブライエンさんが、父親の再婚を機に疎遠になったとしたら、少しかわいそうな気もします。

アカシア:出てすぐに読んだのですが、タイトルのせいもあってか、どんな話だかぱっと思い出せませんでした。どんなウサギの話だったけと思ったりして。で、もう一度読んだのですが、いつもの原田さん訳の作品と違って、すっと入ってこないもどかしさがありました。もしかしたら、それは共訳のせいかもしれないですね。若い翻訳者を育てるという意味では共訳も必要なのかもしれませんが、私はもっとなんというか言霊みたいなものがあると思っていて、その作品のエッセンスをどうとらえるかは人によって微妙に違っているので、ばらばらの言霊が聞こえてきてしまうのかもしれません。子どもの言語感覚が分かる人に下訳をしてもらうという人もいますが、共訳の場合たいていは波長の違うちぐはぐなうねりを感じて、とまどいます。p66に「わたし、名字なしで名前だけの人が好き」とありますが、そういう人はめったにいないので、「名前だけのほうが好き」くらいでしょうかね。それと、冒頭で、オブライエンさんがアミーリアのことをしょっちゅう「かわいそうに」と言う、とありますが、本文では言ってないみたいだし、それですますような人にも思えないので、ちょっとひっかかりました。まあ、私が「かわいそう」って上から目線だと思っていて好きではないからかもしれませんが。でも、アミーリアの心情に沿って読めるところはたくさんあって、たとえば父親からこれまで声に出してほめられたことのなかったアミーリアが、ハナも呼んでの食事のとき、二人からほめられてうれしくなったり、そのあと自分の意見が否定されたと思って怒る気持ちなどは、寄り添って読めますね。

ヒダマリ: うーん、読んでいるときは先が気になるし、読後感もさわやかなのですが、あまり残らない作品でした。実は、1年半前に1度読んでいるんだけれど、今回、内容をすっかり忘れてしまっていました。印象が弱い理由を考えて、2つあるのではないかと思いました。1つは、主人公が恵まれていること。2歳のときにお母さんが亡くなって、お父さんは理解がない、ということが冒頭で強調されていますが、オブライエンさんは、おそらく実の母以上に優しく、常に理解してくれるし、途中から現れる父の交際相手のハナ・バーンズさんも理想的ないい人です。友人のケイシーは、元気づけてくれて、工房の先生も優しいんですよね。もう1つの理由は、主人公が常に受け身であること。内向きな性格でさびしい思いをしている、というのはわかるんですけど、自分から行動せず、常に与えられるものによって、少しずつ変わっています。特に気になったのは、ハナ・バーンズとの件が佳境にあるとき、一度たりともケイシーのことを思い出さないんですよね。この子の視野の狭さが浮き彫りになっているストーリーならいいのですが、頑張ってるいい子として描かれているので…物足りなさを感じました。

花散里:2021年に刊行されたときに最初に読みました。その時、評価が高い本だったと記憶していますが、今回、タイトルを聞いたときに物語がすぐに思い出せませんでした。読み直して、1章「かわいそうなわたし」から、お母さんが亡くなっていることなどを思い出しました。お父さんが前半ではオブライエンさん任せきりで、子育てに関心がないように描かれていますが、p165、後ろから5行目の文章「あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いていたこと。(中略)すぐに泣いてしまうから」が印象的でした。お父さんがうまく愛情表現できないのを、上手にオブライエンさんがカバーしてくれているということが全般的に良く伝わってきて、お父さんにとってもオブライエンさんが欠かせない存在であることも良く描かれていると思いました。アミーリア自身、友だちの作り方がうまくいっていないなかでケイシーと出会ったことなどが、子どもたちにも好感を持って読まれるのではないかと感じました。『春のウサギ』、このタイトルと表紙がそぐわないように感じました。子どもたちが読んでみようかなと本を手にするとき、タイトル、そして表紙の画は大事だと思います。どうして「春のウサギ」なのかなと。この物語を子どもたちに手渡すときの印象からすると、違ったほうが良かったのではないかと思っています。

西山:今回、岩瀬さんの作品と抱き合わせにして続けて読んだせいもあるでしょうが、すごく岩瀬成子的と思いながら読みました。大きな事件が起きるわけではなくて、筋は忘れてしまう気がしますが,読み返したら随所がおもしろくて、何度でも味わえそうです。人間観がやわらかくて好き。子どもの身体性を伴った、包まれている安心感というのが描かれていて、その温かさを新鮮に感じました。『春のウサギ』というタイトルは、全体を覆う温かなものに包まれた安心感にあっているのかもしれません。私も、最初はオブライエンさんと「教授」の関係が気になっていましたが、「教授」との恋愛感情があるとかないとか、そうじゃないんだなと思うに至りました。愛し合う男女がペアになって子どもを育てるという定型ではなく、お向かいのおばさんがこんなにアミーリアを無条件に受け止めてくれる、こういうあり方は新鮮でした。「教授」の不器用さはひどいとも思いましたが、p175の6行目ではっきり自覚されているように、アミーリア自身お父さんに似ています。おもしろい人間像を見せてもらったという感じです。「教授」の「あの子がおまえと遊ばなくなって、よかったと思っている。意地の悪い子だと思ってたんだ」(p177)というひとことなど、普通言うかそんなこと、とびっくりしましたが、そういう、馴染んだ人間観をこえてくるところがおもしろかったですね。

ヨシキリ:主人公の心の動きを繊細に描いた、温かくて、感じのいい物語だと思いました。ふと見かけただけ女の人を、実のお母さんであってほしいと思うアミーリアの心情は、両親が離婚寸前というケイシーに影響を受けているんでしょうね。お父さんはアミーリアを虐待しているわけではなく、鬱状態にあるだけだと思います。不器用な人なんですね。また、オブライエンさんも、アミーリアたちに無償で尽くしているのではなく、きちんとした雇用関係に基づいて働いていて、そのうえで春のようにアミーリアを包みこむ愛情は本物だと思いました。タイトルも表紙も、私は好きですね。こういう名前のカフェがあったら、入っちゃうかも。後漢の歴史家がのこした「養之如春(これを養うこと春の如し)」という言葉を思いだしました。春のように子どもをふんわりと見守るというのと、ウサギのように一歩前へ跳びだすという意味を兼ねているような感じがして…。原書のタイトルに使われているエミリー・ディキンスンの詩は、物語の結末とは違うような気がして、なかなかトリッキーなタイトルだと思いますので、そのまま訳しても読者に届くかどうか。まあ、私は子どものときに読んだ本でわからないことがあっても、大人になって「ああ、そうだったのか?」と思うことがよくあり、それはそれで読書の楽しみのひとつだと思いますが。訳書のタイトルのつけ方は、本当に難しい!いくら子どもが手に取りやすいからといって、「謎」とか「秘密」とかいう言葉をやたらにつけるのもどうかと思いますし…。

花散里:子どもたちが本を選ぶとき、タイトルは大きいと思います。

サークルK: 4月の課題本として3月半ばから読み始めたので、イースターの季節にぴったりのタイトルと表紙の緑色やウサギの絵に手に取った時から心が和みました。様々な表情のウサギたちは、アミーリアの作る粘土のウサギのことだったのだと読み始めてわかり、あらためて眺めることになりました。作中の表現で特に心に残ったのは、登場人物たちの「ふれあい」です。p28で友達になったケイシーが「2度ほど、自分の腕をアミーリアの腕を軽くかすらせた」とかp162-3ページでは「ハナの腕がアミーリアの肩に触れたが、やわらかな感触がびっくりするくらい心地よかった。」とか、p165「知ってる?あなたが小さいころ、お父さんは、あなたをねかしつけるために毎晩抱っこして歩いてたこと」など、さびしい心持をしているアミーリアに温かい人の手が何度も差し伸べられ、実際に「手当されている」ということがよくわかります。彼女は決して放っておかれているわけではなく、皆さんの感想にもあったように実はとても恵まれているのだと思えます。p112でオブライエンさんの手が「急にあわただしく動きはじめ」、「アミーリアの髪をなで、両肩をぎゅっとつかんだかと思うと、シャツについていたごみをはらいおとし、ほほにふれた」とあります。髪にふれるという行為は、p167にはハナが「なにも言わずにポケットに手を入れ、小さな青い玉のついたヘアゴムを取り出して(中略)ベッドの上ですわりなおすと、アミーリアの髪の毛をていねいにたばね、おだんごにまとめた」という形で再現されています。大人の小説だと、官能的な愛情表現につながるような行為ですが、親しいものがこのようにして子どもの髪をなでるという表現には独特の親密さや言葉にはしにくいながらも優しさや温かさが表現されていると感じました。続く最後の行、「きつすぎず、ゆるすぎず。ちょうどいい感じに」という表現は特に素敵でした。大人がべたべたと、あるいはずかずかと子どもの心に入ろうとしているのではないことがよくわかったからです。

すあま:このタイトルだとどんな話かわからないので、ブックトークなどで紹介しないと手に取りにくいかな、と思いました。夏休みの物語は多いけれど、春休みの話はあまりないかも。日本とは学校の学期の始まりや休みが違うからかもしれません。春であり、1999年という年であることに意味がありそう。アミーリアとケイシー、一人はお母さんが亡くなっていてお父さんしかいない、もう一人は両親が離婚しそうな状態で、どちらも家族についての悩みや痛みを抱えています。そこに家族ではないけれども、支えてくれる大人がいるというのをきちんと書かれているのがとてもよかったです。家ではない居場所があり、そこでは家族ではない人が自分を見守ってくれている。物語の最後、何もかも解決したわけではないけれど、アミーリアの成長が感じられて、この先いろんなことがうまくいきそうな予感を残していたので、読後感がよかったです。

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エーデルワイス(メール参加):時代設定は1999年。確かに携帯(ガラケー)もまだまだこれからでした。主人公のアミーリアは寡黙なお父さんとあまり意思に疎通がないようだけれど面倒をみてくれるオブライエンさんいて平和な日常をおくることができています、オブライエンさんの手作りマフィン、クッキー、ケーキ、アミーリアの通う陶芸教室などゆったり感満載ですね。両親の離婚問題で悩むケイシーとカフェに行くなんて。12歳なのにオシャレです。通りかかる人に勝手に名前をつけてその物語をつくる遊びは高度。二人とも成熟していると感じました。アミーリアのお母さんは亡くなっているはずなのに、見かけた女性をお母さんかもしれないと想像を膨らませるところはいじらしいです。その女性はお父さんの恋人でしたが、この本の続編が書かれるのかもと思ったりしました。アミーリアの心の軌跡が丁寧に書かれていると思ったし、装丁と挿絵はいかにも日本らしいと思いました。

(2023年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

Comment

『笹森くんのスカート』表紙

笹森くんのスカート

すあま:さらっと読みやすかったので、小学校高学年くらいでも読みやすいだろうと思いました。1章ずつ主人公(語り手)が変わっていく手法に新しさは感じないけど、クラスのいろんな子の視点で描いていくのは嫌いじゃないので、よかったと思います。セリフなど、今の高校生という感じはよく出ているけれど、はやりの言葉や道具は賞味期限が短いので、時がたつと古さを感じてしまうことになるから難しいですね。テーマ的にも、今読んでもらえればいいということなのかもしれないけど。ストーリーについては、笹森君がスカートをはいたことで、周りのみんなが自分に引き付けていろいろと考え、それぞれの性格の違いが直接質問したりできなかったりする行動の違いに表れていたところはおもしろかったです。最後は、笹森君がスカートをはくことにした理由がわかり、ある意味解決したように思うので、この後はどうなるのか、スカートをはくのをやめるのかな、と気になりました。この学校は校則もゆるそうなので、ある程度レベルの高い学校なのかな。物語の設定なのでこれはこれとして、制服を選べるようにするくらいなら、私服にすればいいのに、というのが私の考えです。

ハリネズミ:笹森君(ひろ)のキャラが、理想的ないい人として描かれていますね。彼は、リアルな人物というより、まわりの人の思いを映す鏡的な存在なので、あえてそういう設定にしているのかもしれません。いろんな視点から描かれているので、中高生にも多様な考えがあるということが伝わると思います。高校生男子を主人公にした作品だと、たとえば川島誠とか昭和初期の男性作家の作品とか、性を描かないとおかしいくらいのスタンスで描かれたものもたくさんあって、それは逆に多様じゃないなと思っていたので、この作品に性的な要素がほとんど登場しないのが逆に新鮮でした。

コアラ:おもしろく読みました。装丁や文字の大きさが、高校生が主人公にしては幼いと思ったし、登場人物たちの恋愛も、高校生にしては幼く感じたので、どのくらいを読者対象にしているのかな、と思いました。さわやかなイケメンがスカートをはいてきた、とか、ぽっちゃりして外見にコンプレックスを持っている女の子が面食いで告白しまくっては振られるとか、ありがちな設定だけれど、ありがちだからこそ、さらっと読めてメッセージが伝わりやすい物語になっています。読みやすい中で、ところどころに、目が引っかかる、心に引っかかる言葉が挟まっていて、たとえばp28の後ろから3行目の「敗北感」とか、p39の終わりから3行目からの「傲慢」とか、さらっとしているだけじゃない成分が入っているのはいいと思いました。制服で、女子がスラックスをはいたり、男子がスカートをはいたりするのに、特段の理由がなくてもいい、自由に選べるようにすればいいんじゃないか、というようなメッセージが書かれていて、新鮮な感じはないけれど、こういうメッセージが増えれば、固定観念に縛られずにラクになる人も増えるかもしれないと思います。それから、今回の読書会のテーマが「他者の靴をはいてみる」ですが、この本はどんぴしゃりだと思いました。

マリオカート:多視点の物語で、それぞれの登場人物の事情や個性がよくわかり楽しく読めました。特に私は、「わかるわかる」を繰り返す倉内さんというキャラクターが興味深くて注目していました。あとは、つるまない女子の西原さんが、カラオケに強引に連れていかれる場面も好きです。p76「部屋にはタンバリンやマラカスもあり、ここは鳴らして盛り上げるべきなのかもと一瞬迷ったけど。スクールバッグを人質に取られている私がすることじゃないな」という文章から、西原さんって根はやさしくてユニークな子なんだなというのが伝わってきました。最後、笹森くん自身が登場し、スカートにした理由も納得できる展開だったのですが、お父さんとお母さんが妙に物分かりがよすぎる気がしました。あと、私が注目していた倉内さんが、最後の章にまったく登場しなかったのが残念です。ところでひとつお聞きしたいことがあります。p86の最後の行で、「「カッコいー」」と、カギかっこが二重になっていますよね。これは、2人が同時に言っているという表現で、児童文庫では当たり前になってますが、いわゆる普通の児童書でも、スタンダードになってきているんでしょうか?

コアラ:たまに見かけるようになりました。

ハリネズミ:私も見たことはありますが、そっちが多くなったということはないと思います。

マリオカート:エンタメ特有の表現かと思っていましたが、だんだん広がっているのかなぁ、と。

花散里:制服のことを取り上げていて、性的マイノリティがテーマである作品かと思いました。中・高校の図書館に勤務しているので、今の高校生のことを、しっかりと描けているのだろうかと感じながら読みました。スカートをはいた笹森君に対して、章ごとに変わる主人公が、どのように考えているのかという構成はおもしろいとは思いましたが、それぞれの登場人物を描き切れていないように感じました。p83「母親が二人いるの」というところなど、もっと踏み込んで書いてほしかったと思いました。登場人物は高校生ですが、グレードは中学生くらいからでも読めるような軽い感じがしました。

サークルK:『ロンドン・アイの謎』(シヴォーン・ダウド著 東京創元社)を先に読んで盛り上がってしまって、特別な感想が持てない状況になってしまいました。軽く読めるけれど,言葉の使い方が今風すぎてついていけないな、中高生とは話ができなくなっているかも、とあきらめにも似た気分になりました。笹森君はかっこいいし、中学生だったらおもしろく読んでしまうのかもしれませんが、軽さと内容の繊細さの微妙なライン上にある作品だと思いました。繊細な内容というのは細野さんの体形にまつわる「ルッキズム」、笹森君は単純にはいてみたかった“スカート”が象徴する「セクシャリティ」のカミングアウトのことです。もう少しそれぞれの心の内をしっかりした筆致で読みたい気持ちがしたし、確実なことが言えないところが中高生らしいのかもしれないし、悩ましいところです。中高生のアイドル的な存在の人の中にも最近では自分に正直に生きる、自分の嗜好/志向を表明する人が増えてきているようなので(例えばりゅうちぇるさん、ぺこさんのカップル等)、重たくならずに多様性の問題を考えるきっかけとするには手に取りやすい本だと思います。

雪割草:読みやすかったです。ひとつのことについて、違う人物の視点で語る構成で『ワンダー』(R・J・パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)を思い出しました。同じ外見のことでも、服と身体的なこととの違いのためか、『ワンダー』に比べて内容も軽く感じましたし、スカートをはくという行動は勇気がいったと思うし、もっと深いところを知りたくはなりました。でも、他人の目を意識する日本の若者のリアルさは伝わってきました。私も小学校に入ってすぐに、絵の具セットを買うので青を選んだら、全校の女子はみんな赤で、男子はみんな青だったのでいじめられたことがありました。ジェンダーレスな制服より、私服でいいのではと思ってしまいます。

西山:地元の図書館でずっと貸し出されていて,読み返せていません。手元に本がないので、具体的に話せなくてすみません。この作品、高校生が主人公の割に、造本が幼いという指摘がありましたが、中身としては、高校生だからこその物語だなと思い、そこがもっとも印象的だった所です。これが、中学生たちだったら、「ふつうじゃない」同級生に攻撃的に干渉してしまったのではないかと思うんです。『笹森くんのスカート』の高校生たちは、やはり、中学生とは違う「おとな」であって、違いを認めなければならないという価値観を持っています。ですから、排斥などしないけれど、でも確実にかき乱されている。そこが新鮮でとてもおもしろかったです。違いが攻撃される軋轢をドラマにして、「違ってもいいんだよ」というメッセージに行くのではなくて、いろんな人がいることは当たり前の前提なのだけれど、そこでどうしてもざわざわしてしまう自分の正直な現実をまず受け止める物語は、新しい切り口だと思います。

エーデルワイス:楽しく読みました。「ぼくもわかるよ 篠原智也」の章が好きです。思い込みの強い倉内さんが責められても仕方ないところを、それでも倉内さんのことを好きだと思う篠原君はいい子だと思いました。ただスカートをはいてみたかったと淡々と言ってのける笹森くんが、本当の理由が従妹のためだということが分かり、推測していなかったので新鮮でした。最後のバンド演奏でバンド名「スカーツ」で全員スカートをはいてのステージは素敵です。「きみなら話せる 西原文乃」の章には、二人の母、母親と同姓のパートナーの話がでてきます。『君色パレット(2)いつも側にいるあの人』(岩崎書店)の中にあった、いとうみくの「にじいろ」と同じ設定ですね。私の中高は普通の公立でしたが、北国のせいか女子はスカートのみということはなくスラックスをはいても全くかまいませんでした。また昔はそれほど服を買えなかったように思います。私など高校まで服を買ってもらえず母の手作りの洋服を着ていました。そういう意味では制服は、昔は必要だったのかもしれません。

アンヌ:去年の九月くらいに一度読んだのですが、LGBTQXに触れているようで触れていないような話で、最後に「笹森君がなぜスカートをはいたのか」という種明かしもされていないなと思って、がっかりしました。でも、こうやって皆さんのお話を聞いていると、主題はそこではないのですね。今回読み直してみると一応は、いとこの真緒が制服を選ぶには強制的なカミングアウトのような状況に追い込まれると知って不登校になった。その苦悩を知るために、あえてカミングアウトと誤解されるようなスカートをはいたのだと語られていました。でも、「スカーツ」の演奏を聴きに行った真緒は、突きつけられた自分自身への疑問や学校の体制への不満から、果たして自由になれるのかな?などと、いまだに思い悩んでいます。

ルパン:おもしろく読みました。残念なのは、最後の笹森君のところがほかの子のところほどおもしろくなかったこと。「笹森君」は、それまで、みんなの目からミステリアスに描かれていたので、最後まで出てこないほうがよかったかも。まあ、ないならないで文句を言われるだろうから仕方ないですが。出すなら思いっきりドラスティックな理由でスカートはいたか、逆に「え、それだけでそこまでやっちゃうの?」という肩透かしくらいならおもしろかったかな。中途半端に優等生な理由で、おもしろくなかったです。それならいっそ冒頭に出しちゃって、「たったそれだけのことなのにまわりがめちゃくちゃふりまわされる」というほうがよかったかも。

まめじか:笹盛くんは苦しんでいるいとこを見て、スカートをはくってどんな感じなんだろうと思って、はいてみるんですね。笹森くんがスカートをはく経緯が、少し軽いのではないかという意見もありましたが、私はこの軽やかさがいいと思いました。理解してあげなきゃって思いつめると、みんなが息苦しくなってしまうので。さわやか男子の笹森くん以外の登場人物も、眼鏡を取ったら美少女とか、声が高くて人気のある女の子とか、少女漫画っぽさが少し鼻につく感じはありました。

ハリネズミ:この作品はジャンルからするとエンタメだと思んです。LGBTQとか、友人関係の問題を深く追求しているわけではない。でも、エンタメでこういう作品が出ることがおもしろいし、とってもいいなあ、と思います。他者の立場になってみるためにちょっとやってみました、っていうのも新鮮でした。マイノリティの描き方にしても、深く考えるばかりじゃなくて、さりげなく出てくる作品も必要だと思っています。たとえば、椎野直弥さんの『僕は上手にしゃべれない』(ポプラ社)は吃音の中学生が主人公で、自分の悩みや困難や、それを乗り越えていく過程を語っていきます。つまり吃音の克服をメインテーマにしてその問題と正面から取り組んでいます。一方ヴィンス・ヴォーターの『ペーパーボーイ』(原田勝訳 岩波書店)も同じ年頃の吃音の少年が主人公ですが、吃音は作品の多様な要素の中の一つにすぎません。でも、伝わるものはあるし文学としてもすぐれています。LGBTQにしても、翻訳作品だとさらっと登場する場合が多いですよね。そのほうが多様な世の中をあたりまえに感じることができるような気もします。
それから制服なんですけど、最初は私も制服をジェンダーレスにするより撤廃したほうがいいと思ってたんですけど、貧困問題の側面から考えると、そうばかりも言えないような気がしています。制服だと「あいつ1週間同じ服着てるよね」と言われたりはしない、ということもあるかと。私自身は制服は大嫌いですけど。

雪割草:通っていた高校が旧制男子中学校だったので、男子だけ制服で女子は私服でした。でも、制服がほしいというニーズもあり、今は女子の制服もできたと聞いています。

すあま:経済状況との関わりでいうと、逆に制服が高いので私服にしてほしいとの声もあり、制服のリサイクルもあるそう。制服があって同じ格好をしている方が安心とか、おしゃれな制服で学校を選ぶというのもあり、制服はなくならないのかもしれません。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『ロンドン・アイの謎』表紙

ロンドン・アイの謎

エーデルワイス:作者がこの作品を発表してから2か月後に47歳で亡くなっていることにショックを受けました。ミステリーの犯人捜しが苦手な私は、読んでいて謎を解き明かすことができません。作者の独特な言い回しのせいか、なかなか読み進めませんでしたが、中盤から一気に読めました。読み終えてから、あそこにここにとヒントがあったのですね、と。主人公テッドの口癖「んんん」は原文でも「nnn」なのでしょうか?出番は少ないのですが私服の女性警部、ピアース警部が素敵です。グローおばさんとサリムのニューヨーク行き飛行機のチケットを待ってもらうなんて、良心的な飛行機会社ですね。サリムのパパがインド系、サリムの親友のマーカスの母がバングラデッシュ、父がアイルランド……というように他民族そして差別も描いています。サリムの行方不明事件の顛末は、日本でしたら親が世間から非難されそうですね。

西山:おもしろく読みました。いきなりの「序文」で「真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らずこの本のなかに書かれています」しかし、謎を解くのは「一度読んだだけでは至難の業でしょう」って、なんだ、いきなり読者への挑戦状か?! と思いまして、受けて立とうじゃないのと身構えて読み始めたのですが、そのうちそれも忘れて、ただおもしろく読んでいました。あ、でも、ロンドン・アイでサリムが乗り込んだはずのカプセルから降りてきた人の数は数えて、乗り込んだのと同じ21人であることは確認しましたけれど。“症候群”のテッドの感性と考え方から生まれるユーモアや、例えば人がかっこいいかどうかとか分からないテッドは「ぼくには、どの人もその人にしか見えない」(p25)というところなど、すてきな人間観として読めて、謎解きだけで引っ張られるわけではない、細部を楽しめる読書となりました。

雪割草:おもしろくて、先が気になってどんどん読み進めることができました。序文で、「テッドが真相にたどり着くための手がかりは、ひとつ残らず本のなかに書かれています」とあったので、細部に注意したつもりでしたが、いろいろ気が付けず、仕掛けが見事だと思いました。また、ミステリーでありながらそれだけに終始せず、サリムが母とふたり暮らしだったり、父はインド系だったり、学校でいじめにあったり、社会的な背景などいろいろ描きこんでいるのもわかりました。それから、テッドは「症候群」と自分で言っていて、あとがきにはアスペルガー症候群と書かれていますが、その率直な観察視点で描かれるのも、ミステリーやこの作品に合っていると思いました。p33でテッドとサリムが会話しているのが描かれていますが、サリムはおとなっぽいというか、ミステリアスなところがあり、それも魅力的に思いました。

サークルK:ミステリーとしても子どもの成長物語としても、本当におもしろい内容でぐいぐいと引き込まれてしまいました。これぞ本を読む喜び!という感覚で、あまりのおもしろさに続編(ダウドが亡くなってしまったので原案のみで、本書の序文を書いたロビン・スティーブンスが本編を執筆した『グッゲンハイムの謎』)も一気に読んでしまいました。テッドが自閉症スペクトラム「症候群」であるために、家族の心配りがどうしても必要でそのしわ寄せを引き受ける「きょうだい児」の姉カット、母親の姉であるグロリアの家族の問題も盛り込まれて、現代のロウワーミドルクラスにあたるような一家の状況は一筋縄ではいかないのですが、お互いに文句を言いながらも温かい家庭であることが伝わってきました。そこにいとこの行方不明事件が勃発!これはおもしろくならないわけがありません。お互いに面倒くさいなと思いながらも姉弟が協力して、ひとつひとつ可能性をつぶしながら真実に近づいていく様子がていねいに描かれていました。ダウドご本人の作品がもう読めないのが残念でたまりません、もっともっと読みたかったです!

花散里:『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)など、40代で逝去してしまったシヴォーン・ダウドの作品はとても心に残っていたので、本作も注目して読みました。2022年に読んだ本の中で、特に印象深い作品でしたが、続編の『グッゲンハイムの謎』(シヴォーン・ダウド原案 ロビン・スティーヴンス著 東京創元社)もとてもおもしろく読みました。自閉スペクトラム症のテッドが鮮やかな推理で解決していくというミステリーで読み応えがありました。

マリオカート:ロンドンにはずいぶん長いこと行っていないので、このロンドン・アイのある風景を知らず、見てみたいなーと思いました。物語の途中まで、ミステリー的にそんなに絶賛されるほどの作品かな、と思っていたのですが、終盤で一気にたたみかけてくる展開に圧倒されました。主人公のキャラクターが秀逸ですよね。“症候群”の様子が、気象をモチーフにした本人のモノローグでよく伝わってきます。彼が何か言おうとしても、大人たちは聞いてくれない場面が多々あります。前回の読書会で読んだ本には、物理的に会話できない主人公が登場していました。今回の主人公も、言葉を発することはできるけれど実質大人に届いていないわけで、少し近いものを感じました。それでもあきらめない主人公が、最後はとてもカッコよくて、読み応えがありました。著者が早く亡くなられたのがとても残念です。

コアラ:おもしろかったです。自分で推理するつもりで読んでいきました。私も、サリムがそもそもロンドン・アイのカプセルに乗らなかったんじゃないかと最初のうちは思っていました。でも途中でその説が却下されたので、あとはいろいろな可能性を考えながら読みました。サリムがどこにいるか、ということでは、父親の家に行っているんじゃないかと思っていました。最後の解き明かしは、読者が本文中に明かされた手がかりだけでは推理できないことだったので、ミステリーとして素晴らしいというほどには感じなかったのですが、やっぱり子どもが活躍するというところで、おもしろかったです。気になったところと言えば、訳文がちょっと気持ち悪いところがありました。たとえばp27の後ろから8行目などですが、ストーリーに引き込まれてからは気にならなくなりました。印象に残ったのはp33からの「夜のおしゃべり」の場面。テッドは、グロリアおばさんや姉のカットからも、変てこな存在だとみなされていますが、サリムはテッドと同じティーンエイジャーの男の子同士として話をしていて、とてもいいなと思いました。あと、テッドがよく「んんん」と言いますが、その、唸っているという、言葉になっていないけれど、ちゃんと反応しているというのが、テッドらしさを表している表現に思えて、しかも字面が「んんん」ってなんだかかわいらしくて、やさしい気持ちで読むことができました。すごくプラスになっている翻訳というか表現だと思います。

ハリネズミ:ミステリー仕立てというだけでなく、人間模様がていねいに描かれているのがすばらしいですね。ダウドがすごい作家だということがそこからもよくわかります。アスペルガー症候群(とあとがきに書いてあります)をかかえ、ひとりで電車に乗ってこともなかったテッドが、その推理力で、いとこの命を助ける活躍をします。アスペルガー的な数へのこだわりや、決まった手順へのこだわり、ウソがつけないなどの特性を活かしながら、事件を解決していくところがいいなあと思いました。テッドの意見に家族が聞く耳を持たないときに、女性刑事がちゃんと話を聞いて解決に役立てるという設定もいいですね。人種のからむいじめの問題、アスペルガーの人が抱える問題、労働者階級の子どもの教育の問題なども描かれています。教育の部分は、バングラデッシュ人の母とアイルランド人の父を持つマーカスは、スクールカーストの最底辺にいるし、兄のクリスティは警備員の仕事もまじめにはやらず、いつもお金に困っていることなどから感じました。グローおばさん(グロリア)は、最初はとんでもない人かと思ったのですが、p224からの描写にはこうあります。「マーカスがドアへ向かおうとしたとき、グロリアおばさんが立ちあがった。/『マーカス』部屋は静まり返った。マーカスは立ち止まったけれど、振り返りはしなかった。/『聞いてちょうだい、マーカス。サリムの母親として言います。あなたは何も悪くないから』この一言でイメージを逆転させているんですね。見事だと思いました。

アンヌ:私は推理小説が好きで『名探偵カッレ君』(アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)や江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズで育ってきたので、おもしろいと評判だったこの本を選んでみました。読んでみたらおもしろくて2冊目の『グッケンハイムの謎』(ロビン・スティーヴンス著 シヴォーン・ダウド原案 越前敏弥訳 東京創元社)も読んでしまったのですが、やはりこちらの方が、主人公のテッドのASDについて、特性や苦悩がていねいに書いてあると思いました。インド系のサリムやその友達が受けている差別など、今のイギリス社会の状況もしっかり描かれていると思います。推理小説としては謎が二つもあり、特に後の方は時間との戦いというスリリングな要素もあって実に見事だと思いました。また、大人たちが誰も話を聞いてくれないのに、女性の警部に電話して問題が解決されるという展開は、警察への信頼感があって、古き良きミステリーのようなほっとする感じがありました。

まめじか:よくできているミステリーだと思いました。家族の目は発達障碍のあるテッドに向きがちで、そんな中、姉のカットが感じている思い、サリムを見つけようと奮闘する中で二人の心が近づいていく過程もていねいに描かれていますね。若干気になったのは、p67「ナースは女の人の仕事だけど、ぼくは男だ。ナースにはなれない」とか、p68「よくあるのとは逆で、女の人のほうが責任者だっていうことだ」など、ジェンダーバイアスを感じさせる部分です。この本では、女性の警部がとても好意的に描かれていますし、きっと作者にそういう意図はないのでしょうが、読んでいて引っかかってしまいました。この本が書かれたのは2007年なんですよね。今の児童書だったら、こういう書き方はしないと思います。そういうところは、日本語版を出すときに訳で工夫してもよかったかもしれません。

すあま:この著者の作品は以前『ボグ・チャイルド』(ゴブリン書房)を読んだことがあります。生前発表された作品が少ないので、翻訳されたのがうれしいです。『ボグ・チャイルド』とは違う雰囲気ですが、ミステリーとしても楽しく読みました。登場人物がそれぞれ個性的で、どんな人なのかくっきりと描かれていました。主人公のテッドは発達障碍なんですが、読んでいてそれが才能や個性だと感じられるような描き方をされていたと思います。特に、お姉さんのカットは、テッドのような弟がいる姉の気持ちがよく伝わってきて、ていねいに描かれているな、と思いました。それから、テッドが仮説を立てて一つ一つ検証していくところは、調べ学習の進め方のようでもあり、おもしろかったです。

ルパン:おもしろかったです! ただ、謎解きの点でいうと、この主人公、いつもいろんなものの数を数えていて、サリムが観覧車に乗るときもちゃんと人数を数えてるんですよ。なのに、降りたときはわざとのように数えてない。それで、降りた人の数を足してみたら21人だったから、絶対変装だ、ってわかっちゃったんですよね。だから、推理小説としては私の勝ちだな、って思っちゃいました。

(2023年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『たぶんみんなは知らないこと』表紙

たぶんみんなは知らないこと

アンヌ:大変感動して読みました。作者が特別支援学校の先生ということも知り、心の中で生徒の言葉をずっと聞いていて書いたのだろうと思いました。物語の中で成長していく子どもの様子が見えてくるのは感動的です。けれど、すずもらん君もそれぞれ状態が悪くなる可能性も書かれています。そんな子どもたちがフェスタで披露する劇に対する親たちの思いや、子供の成長を促してフェスタで見せようとする先生たちの活動も胸に迫りました。みのり小学校とかなで特別支援学校との交流会の後の、男の子の手紙は理想的すぎると思いましたが、水族館で携帯電話に夢中になる父親の様子とか、バスの中のおばあさんとか、ダメな大人もしっかり描けているし、さらにそれぞれを救い上げているところも素晴らしいです。少し理想郷じみたこの支援学校ですが、すずが転校することも最初から描かれています。そして、少しずつ成長しているすずだから次の場所でも頑張れるだろうなという希望と共に読み終えられるところも、素晴らしいと思いました。

さららん:福田隆浩さんの本をはじめて読みました。「わたし」の語りで始まる文章が最初は読みにくく、例えばp10~11はオノマトペのオンパレード(ばらばらばら、びりびり、どんどん、くるくる、ぐるぐる、ぶるぶる、くねくね)で、うーんと立ち止まってしまいました。でも、主人公すずちゃんの独特の感覚は、きっとそういうふうにしか伝えられないんだと割り切って読み進むうちに、だんだんおもしろくなってきました。p64の、「ぺんぎんさん」を見ている「わたし」の現実と想像の折り重なり方など、うまいなあと唸りました。すずちゃんのふわふわした語りの中で「いったいなにが起こってるんだろう?」と読者を宙ぶらりんにさせ、連絡帳や学級通信、お兄ちゃんの辛口のブログで、出来事をきちっと補っていく構成が巧みです。「かなでフェスタ」では、子どもたちの発達と興味に合わせたおはなしを先生が考えて、大勢の人の前での発表につなげ、子どもたちが一歩先に踏み出せるようにするところなど実際の指導のための手引書のようでもありましたp125にはステージ配置図までついていたので、福田さんの勤務する特別支援学校で、これに似た発表があったのでしょうか。機会があれば確認してみたいです。

ニャニャンガ:しんやゆうこさんの表紙が、ふんわりしていていいなと思いました。実際の保護帽子は、残念ながらかわいい感じがしないので配慮されたのかもしれません。小学5年のすずちゃんの心のうちを描けるのは、特別支援学校勤務の作者ならではと感じ、子どもによりそった作品を作られていた絵本作家のかがくいひろしさんを思いだしました。すずちゃんをとりまく環境はリアルですし、複数の視点で書かれることで全体が見え、考えさせられました。障碍のある子が身近にいない、まったく知らない人に読んでもらうことで距離が縮まる可能性を感じます。

ハル:おばあさんが蝶の髪飾りをくれる場面、思い出しても泣けてきます。バスの中で急に後ろから髪の毛を引っ張られたら、驚きますよね。ただ、思わずどなってしまうまではあるとして、登場人物のひとりであるおばあさんに、ここまでひどいこと言わせなくてもいいじゃない、とも思いましたが、人間、カッとなったり、心に余裕がなかったり、追い詰められたりすると、想像以上にきつい言葉を吐いてしまうものですね。野間児童文芸賞の講評を読みましたが、「登場人物が並べて理解ある人々であることに、わたしは違和感を覚えた」「善意に支えられた世界」といった意見があり、確かに、良い人ばかりで、もしかしたら現実はもっと冷たいのかもしれませんが、読者である子どもたちに、善意だけを見せたらいけないんだろうか、とも思います。特に、普通学級の子供たちとの交流で、「お世話をする」「何かしてあげる」のではなく、いつもと同じように接する、という考え方は、読者にとってもなかなか得がたい発見になったのではないかと思います。

サークルK:当事者のすず、母親、その兄、支援学級のクラスメート、担任の先生、交流先の子どもたちなどの様々な視点からの語りによって一つの光景を作っているので、それぞれの文体に読み慣れるとわかりやすかったです。すずの周囲の人がみな、“良い人”(妹を持て余して時折意地悪をしてくる兄もブログでは妹への理解を吐露しており)で、温かい気持ちで読み進められました。しかし、すずにとって近しい人であるはずの父親だけが一人称の語りには登場せず、鈴鹿らも物語からも遠い存在に感じられました。経緯は不明ですが母親と離婚が決まり、すずと2人だけで水族館に行った時に、彼女を置いて誰かからの電話に出てしまう(しかも楽しそうに!)というエピソードに、それまで築いた家庭が彼にとって重く、それらから逃避したかったのではないかという気配を感じました。
交流先の子どもたちの作文に、すずを邪険にしてしまった反省文らしきものがありました(p55)が、その中の「[すずのような仲間をお世話するという意識を持たないように]もっとがんばりたい」という一節があり、子どもにそういう心持にさせてしまう社会の息苦しさを少し感じました。起承転結の求められる良い作文、先生に褒められる作文の最後の締めの言葉として「もっとがんばります」という言葉はとても都合の良い言葉と思えます。それだけに、p98~99の「…そんなことより早く家に帰ろうと思った。だからおれは妹と手をつなぎ、ゆっくりと歩いた。」という兄の言葉はとても意義深く読みました。矛盾する言葉が並んでいるように思われますが、本当に人に寄り添うということの難しさと行動はシンプルでよいのだという安心感が伝わりました。

雪割草:私もすずの擬態語の多用が気になって、最後の方になってやっと慣れる感じでした。でも、作者が特別支援学校の先生だけあって、連絡帳のやりとりや、かなでフェスタなどから学校の様子がよくわかりました。この作品は、どんな読者に向けて書いているのだろうかと正直わからなかったのですが、お兄ちゃんの視点が、読者が共感しやすいところなのかなと思いました。お兄ちゃんはブログを書いていて、p27では、もっと妹はひとりでできるはずなのにと愚痴っているけれど、p151では歩いているように見えるけれど、妹にとっては走っているのが兄だからわかると自信をもって言っているところなど、妹に対し反発しながらも、ちゃんと大事に思っているきょうだいの距離感をうまく描いていると思いました。中学の頃に読んでとても心に残っている『ぼくのお姉さん』(丘修三作 偕成社)のことをふと思い出しました。

ANNE:学級だよりの文面や、連絡帳の書き方など、現役の学校の先生ならではの世界観が随所に感じられました。主人公のすずちゃんの一人語りで淡々と描かれていますが、転倒用のヘッドギアを装着しているとか、オムツをしているなど、彼女の障碍がとても重いものだということが読み取れました。私の勤務している公共図書館にも、さまざまな障碍を持った方が来館されます。皆さん、それぞれお好きな本も違うし図書館での過ごし方もいろいろですが、自由にこの空間や時間を楽しんでいてくれると嬉しいなぁ。

しじみ71個分:読書量が少ないせいではありますが、自分が読んだ日本の子どもの本では、障碍のある子の一人称語りの物語を読んだことはなかったんで、すごい!と思って、大きなショックを受けたというか、感動しました。実際、福田さんは特別支援学校の先生だとのことで、そうでなければここまでは描けないのではないでしょうか。表現も見事、本当にうまいなと思うところが随所にありました。たとえば、p6に「でもこの帽子はとくべつの帽子。ふつうのお店とかにはきっと売ってない。病院の先生が頭のあちこちをなんどもはかって、……かぶってると、どんとぶつかってもごろんとひっくりかえっても、だいじょうぶなんだって」とこの部分だけで、すずちゃんにてんかんがあるらしいことがわかりますし、子どもの読者も転んだり倒れたりする子なんだと伝わるのではないでしょうか。また、おしゃべりができない、おむつをしているなどの描写から、かなり重度の障碍がある子どもなんですね。
本当に先生として細かく子どもたちを観察して、こういうときにいやと言うんだな、こういう勉強をいやだと思っているんだな、と反応をひとつひとつ見て記憶しているからこそ、その時々のすずちゃんの思いを代弁できるんだなぁと、ただ感心してしまいました。また、子どもの一人称語りの物語だと、その中に大人の気持ちを描きにくいように思うのですが、それを連絡帳やおたよりといった形にすることで、大人の気持ち、周囲の状況などをうまく説明して、不自然さがありません。これもすごくうまいし、とてもいいと思いました。
以前読んだ『家族セッション』(辻みゆき著 講談社)では、主人公のお母さんの一人称の語りをはさむことで、赤ちゃんの取り換え事件や病院の立場などを説明してしまったため、とても違和感がありました。それと比較すると、非常に自然に大人たちが子どもたちを思う気持ちが表されていると感じました。ランちゃんやリュウちゃんについても、どんな症名でどんな障碍で、ということを説明しなくても、行動からどんな障碍があるのか、どんな気持ちなのかが読み取れ、障碍のある子の気持ちをうまく描いていて本当に感動的です。バスの中で髪を引っ張られて、つい意地悪なことを言ってしまうおばあさんも再登場させて、すずちゃんを救う場面を設けることで、おそらく彼女自身の老いの辛さや孤独から、お兄ちゃんとすずちゃんに意地悪を言ってしまった、彼女自身も傷ついた存在だったんだと読者に想像させるのも優しいなぁと思いました。
ただ一点、惜しいのは、みのり小学校の5年生の男の子の反省文です。ちょっとあまりにも正しい、前向きなことばかり書かれていて、子どもの反省文らしさが欠けてしまったところが残念でした。作者が言いたいことを登場人物に書かせてしまったのかなと思います。ですが、この交流会の最後の場面で、ミヤ先生が「みんなはもっとソーゾーリョクを持ちましょうね」(p53)と話すところは素晴らしくて、先生が具体的に語った内容は少しも書かれていないけれど、想像力を持つってどういうこと?と考えさせる問題提起になっていると思います。障碍のある人たちばかりではなく、ありとあらゆる困難を抱える人たちと共に生きるには「想像力」を持って相手を思うことが必要なんだと端的に伝えてくれていると思います。すずちゃんの両親が離婚しているという設定も、実際に当事者の人たちや支援している人たちから話を聞いたところ、障碍のある子どものいる世帯では本当に離婚率が高いそうで、しかもかなり重度の場合も多いとのこと。こういった実情もおそらく現場の先生として見てこられたんだろうと、本当にリアルだなと思いました。

ルパン:私もこのお兄ちゃんがいいなと思いました。現実には障碍を抱えた子のきょうだいには重い課題があるのだと思いますし、「いい子すぎる」という意見もあるかと思いますが、同じ境遇の子が励まされ、そうでない子に少しでも理解が深まったらいいなと思います。それにp98に「すぐに根にもつうちの妹のことだから」とあるように、ちゃんとすずちゃんの性格というか、個性をちゃんとつかんでいて、こういうところは兄ならではだなと思います。ずっと以前ですが、NHKで、実際に脳性麻痺の子どもたちが演じるドラマがあって、アフレコでその子たちの気もちが語られるんですけど、それを見て、見かけだけで判断してはいけないことがよくわかりました。話せなくても、動けなくても、知能や感情はハンデのない人と同じだけあるということをそのとき初めて知りました。この本もそのような手がかりとなるといいなと思います。

サンマリノ:主人公の一人称のほか、家族、担任などいろんな視点から語られているので、物語を理解しやすかったです。特別支援学校勤務という著者のプロフィールから、実際にたくさんの経験をされているのだろうなと、説得力を感じました。でも逆に、だからこそ書きづらいこともあるのでは、と思います。交流する小学校の子たちが、よだれに対して嫌がる反応をするけれど、すぐに反省しますよね。その感じが、ちょっといい子過ぎる気がしたのです。が、教育の現場にいる人として、子どもを「悪意のある存在」としては描きづらいのではないかな、と思いました。あとは、ラストの部分がちょっと残念です。こういう子は、環境が変わって適応するのがすごく大変な気がするので、引っ越すところで終わっているのが消化不良でした。物語の2/3あたりで引っ越して、その先を見せてほしかったなと思います。

コアラ:優しい物語だと思いました。すずの目で捉えた世界と、それを補う大人やお兄ちゃんの文章のバランスがとてもよかったです。p105あたりから、かなでフェスタで行う劇について、リュウちゃんやすずが好きなものを登場させる『セッケンくんのぼうけん』を新しく作ったというところは、先生たちはすばらしいなと思いました。嫌なことを言われたおばあさんとも、最後に仲良くなれたし、みんないい人で、がんばりすぎず、できる範囲でやっている、というところも、優しい、癒しのある物語でした。障碍のある子どものことを、何をしでかすかわからない、とか、何を考えているかわからない、と関わりを避けるのではなく、こういうことを考えているのかも、と内面を想像してみる、という意味では、いい本だと思います。仕事で教育関係の雑誌に携わっているので、インクルーシブ教育システムというのはよく目にします。障碍のない子どもたちと特別支援学校の子どもたちが交流することは増えていくと思うので、子どもたちがこの本を読んで、相手のことを想像するといいなと思います。ただ、一人称で、すずに感情移入できるように書いてあるからこそ、私は、障碍のある人が本当にこんな風に考えているかわからないな、と用心してしまいます。科学や技術が進歩して、コミュニケーションが取りづらい人が何を考えてどういう感情を持っているか、直接知ることができるようになればいいなと、この本を読んで改めて思いました。

ハリネズミ:言葉が出せない子どもがどんなことを感じ、どんなことを考えているのかを書くのはとても難しいと思うのですが、この本は、いつもそういう子どもたちを間近に見ている人が一人称で代弁し、それに加え、親や教員からの連絡帳、お兄ちゃんのブログ、学級通信などを用いて立体的に表現しているので、状況がよくわかり、すずの気持ちも伝わってきます。この作家は、たくさん作品を書いておいでですが、障碍を持った子どもを主人公にしているのは、これだけでしょうか? そうだとすると、職業柄接しているだけでは書けない難しいテーマなのでしょうし、ずっと考えておられて作品にしたのかもしれませんね。
このお兄ちゃんにはすばらしいという声が多く出ていましたが、お兄ちゃんはp97でまず「役に立たなかったらだめなんだろうかって。生きていく意味がないのだろうかって」と自問します。ここで私は相模原の事件を思い出し、作者はあの犯人に反論したい気持ちも強かったのだろうなと思いました。でも、その後すぐに、p98で「妹が将来、人の役に立とうが立つまいがそんなことは関係ない。/妹がこれから、たくさんの人の世話になっていくかなんてそんなことも関係ない。/妹がこうやって、同じ世界に生きていることが自分にとっては大事なことなんだ。雨音をこわがったり、雨粒を手にうけて喜んだり、ときどき大声をあげたり、窓をたたいたり、空を見上げたり、首をかしげたり、息をすいこんだり、そんなことすべてがおれにとってはとても大事で大切なことなんだ」と思うのですが、ここは読者に考える暇をあたえず、やや性急に結論を出してしまっている気がして、ちょっと残念でした。その思いに至るまでのさまざまな葛藤は、丘修三さんの作品のほうがていねいに描いているかもしれません。この作品だと、読者もそうだな、と思うことはあっても、自分の体験として深く考えてみる機会は持てないかもしれません。書名は作品全体にかかっているのでしょうが、2度目に読んだときは、最後にすずが、誰にも知られずに「ばい、ばい」と言えるようになった部分が強く浮かび上がってきました。

西山:すっごくよかったです。すずたちの外から見た様子(たとえば耳を覆ったり、急に声をあげたり)に、こういう理由があるのかと教えてくれたのは、まさに物語の力だと思いました。発話に困難がある子どもを主人公にした作品としては、灰谷健次郎の『だれもしらない』(長谷川集平絵 あかね書房)を思い出しますが、今回、初めてそういう障碍を抱えた子どもに出逢った気がしました。『だれもしらない』は短い作品ですから、一概に比較はできないと思いますが、読み直して違いを考えてみたいと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』というタイトル自体『だれもしらない』を意識しているようにも見えますね。
それはともかく、この作品の多声的なところがとても良かったです。すず、兄、お母さん、離婚したお父さん、学校(先生)、そして、保護者同士のやりとりもあり、バスでトラブルになったおばあさんという同じコミュニティに住む他人をちゃんと登場させている。世界の膨らみがそこから生まれていたように思います。「子どもの権利」をテーマにイベントを企画していて勉強中なのですが、子どもにとって最善のことをするのが基本だけれど、「子どもにとって最善のこと」とは何か、それは子どもに聞かなければ分からないんですね。おとなの思惑を押しつけることではない。でも、自ら意見表明できる子ばかりではない。赤ちゃんの声も、すずのような子どもの声にも耳を傾けなくてはならない。そういうとき、こういう作品の意義が大きいのだなとしみじみ思いました。
気になったのは、好きな色とか、この子に選ばせていないことです。ヘッドギアの色について、すずは車の色とおそろいの赤で結局良かったと思っていますが、青が好きとも書いてあるんですね。父親とのお出かけの場面でのパンケーキも、すずが好きな方が用意されるわけだけれど。彼女が言葉で答えられないとしても、結局それを選ぶとしても「どっちがいい?」と問うステップが書かれたらよかったのにと思います。あと、作者が現場にいる方だから問題ないのでしょうけれど、劇でねずみたちがわっと出てくるサプライズ演出や照明がぴかぴかするのは、パニックを起こさないか、ちょっとヒヤヒヤしました。あと、らんちゃんの進行する病状は、丘修三さんの『ぼくのじんせい シゲルの場合』(ポプラ社)を思い出します。未読の方は、ぜひお読みください。長くなってごめんなさい。

オカピ:まわりの人が向ける思いが、その人を唯一無二の存在にするという、作者の姿勢を感じられたのはよかったです。ただ、障碍のある子もない子も、みんなががんばったり、一生懸命理解しあおうとしたりしている感じが、なんか教師目線の描写というか……。グスティという絵本作家は、「ぼくたちは天使じゃない」(未訳)という作品を描いていて、そこではダウン症のある子たちも決して天使などではなく、同じ子どもなんだという姿勢をはっきり打ち出しています。この本にはなんだか、大人が望む健気な子ども像を感じてしまいました。またペンギン王子と出会ってハッピーエンドという劇のお話は、今のジェンダーの視点からは問題があるのでは?

小方:帯に「おしゃべりができない」、カバー見返しに「みんなには聞こえないけど、大きな声をあげた」と書かれているにも関わらず、読み始めた最初のほうで、「クジラ号って呼んでいる」とか、本当に声で表現できているのかなと思ってしまいながら、読み進めていました。表紙の絵も、そうと感じられないけれど、たしかに帯に「重度の知的障がいのある小の女の子」とありましたね。すずちゃんの心の中で、こんな風にすずちゃんは言っているよ、という作者の虚構の世界なのだということに、皆さんのお話を聞いていて改めて気づきました。なので、すずちゃんに赤のヘルメットをつけてあげるのも、ペンギンのピンクの手袋を用意したのも、まわりがその子のことを特別に考えている「思い」なのですね。
先生を良く描く児童書が少ないのは残念です。でもこの先生たちはすごい。すずちゃんたちが成長を表現できるように、とことん考え直します。この結果として3人がかけがえのない成長を表現することができたのはとてもうれしかったです。ひとつ、お父さんが発表会の最後のシーンで、すずちゃんのことをずっと「あの子」と呼ぶのを、なんでかな?と思いました。普通なら、「すず、がんばったなあ」とか言うんじゃないかなと。

ルパン:遠くから見ているからじゃないかな。客席から舞台を見ているので。この距離だと自分でも言うかな、と思うので、違和感はありませんでした。

ハリネズミ:障碍を持っている子どもは、障害の種類によっても違い、また同じ障害でも個々に違って様々だと思うので、この作品を読めば知的障害についてわかるとか、こっちを読めば自閉症についてわかる、ということではないように思います。だからもっといろいろな作品がこれからも書かれるといいですよね。

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エーデルワイス(メール参加):特別支援学校勤務の作者ならではの内容でした。主人公のすずちゃん、すずちゃんのママ、すずちゃんのお兄ちゃんの目線。学校での様子。どれも説明し過ぎずに内容が素直に伝わってきました。すずちゃんや、同級生の嵐くんの身体的ことには胸が痛みました。すずちゃんのママの、医学は日々進歩しているから希望を持ちたいとの件はその通りと思いました。バスの中でいじわるしたおばあさんが、一人で外へ出かけて家に戻ることができなくなったすずちゃんを助けてくれます。あの時は悪かったね、と。説明はこれといってありませんが、おばあさんの境遇が分かるような気がします。タイトルですが、大抵の人が特別支援学校に通う子どもとたちについて知らないのだと思いました。何度か特別支援が学校へおはなし会に伺ったことがあります。コロナ禍になり事前の打ち合わせ訪問はできませんが、電話で先生と打ち合わせをして、一人一人の子どもたちの好みや様子を伺います。年齢問わず楽しめる内容を心がけています。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『チェスターとガス』表紙

チェスターとガス

小方:主人公が自分の気持ちを表現できない。そういう状況の物語をどんな風に描くんだろうと思って読みました。自閉症だったり、障碍があったりする子が身近にいる作者だから描けるのでしょうね。この物語は、チェスターの視点から語られます。なんとこの犬はテレパシーのようにガスなどと気持ちを伝えることができるという、おもしろい発想ですが違和感がなく読めました。むしろ夜外に出て、吠え声を返してくる犬より、人間を仲間に感じているところがおもしろいです。アメリカを発見したのはコロンブスではない、というような流れから、犬なんですが人間みたいな存在に読者が感じられるようにしているのがうまいですね。チェスターはガスを描く語り役ですが、チェスターもまた、いくら吠えても気持ちを交わすことができないという悲しみを抱えた存在です。チェスターもガスも、ボキャブラリーはあっても伝えられないというくだりがとても悲しいと感じました。

ハル:随所、随所で、泣けて泣けて仕方なかったです。ひとくくりに自閉症といっても、ひとそれぞれ違いがありますよね。『自閉症のぼくが飛び跳ねる理由』(エスコアール出版部)の著者の東田直樹さんは、著書の中で、壊れたロボットの操縦席にいるような感じなのだとおっしゃっていました。この物語の中でさえ、ガスの心の本当のところまではわかりませんが、障碍のあるなしにも関係なく、誰と接するときにも、思い込みを捨てて、想像力を持つことは大事だと改めて思いました。ラストの手前でペニーが、まるでアメリカのアニメ映画にありそうな雰囲気で、にわかに暗黒面に落ちたような雰囲気になったときは、ああ、こういう展開はいやだなぁと思いましたが、ペニーの気持ちにも寄り添えるようなラストでよかったです。子どもたちにもぜひ読んでほしい1冊でした。

アオジ:ガスに心のうちを語らせるのではなく、犬のチェスターから見た(感じた)ガスの姿を描いている点がユニークなんでしょうね。犬が語るという物語は、ほかにもたくさんありますが。私は、アメリカの学校の現場を目に見えるように描いているところが、いちばんおもしろかったし、勉強にもなりました。作品のために取材したのではなく、自閉症の子どもの親である作者の体験がもとになっているので、痛いほどよくわかりました。
ただ、ガスの両親をはじめ、登場人物がどちらかといえばシンプルに書かれているのに、ペニーさんだけが複雑。読みはじめたときに、言葉遣いが乱暴で、どういう人となのかなと思いましたが、ハルさんがおっしゃるように後半にいくにつれて「悪者感」が増してきて、この本の対象年齢の子どもには理解しがたいのかなと思うし、裏切られたような感じがするかも。また、後半でペニーさんの母親が、知っているはずもない「ガス」という名前を口にする場面は、いくらなんでもやりすぎかな
あと、犬が人間の役に立ちたいと思っているのは本当だし、チェスターのひたむきさには拍手をおくりたいけど、「断然イヌ派」の人間としては、もっと犬の体温を感じさせるような書き方はできなかったのかなと思いました。ひたすらガスの役に立ちたいと思っているチェスターの姿が、だんだん生きている犬ではなくアイボに思えてきて……。

ハリネズミ:私もおもしろく読んだのですが、引っかかったのは、ペニーの人物設定でした。言葉遣いがほかの人とは違うので、そこで特殊性を出そうとしているのかもしれませんが、普通に社会で仕事をして生活していながら、平気で人を騙そうとします。最初からそれを匂わせる書き方、訳し方をされているならともかく、ちょっと日本の子どもには人物像が伝わりにくいかと思いました。それと、犬のありようが、リアリティとはかなり離れていて、どこまでリアルな存在としてとらえればいいか戸惑いました。人間の心理を読むことはできても、人間と同じような思考はしないと思うので。犬と人間の結びつきを書いた本はいろいろありますが、この本はファンタジーとリアリティの境目がよくわからず、自然を超えたスーパードッグというふうに私は読みました。そうすると、今度はガスのほうのリアリティもどうなのだろうと思えてくるので、設定にもうひと工夫あるとよかったかな。

アンヌ:表紙がさみしいような水色の背景に、窓の外の鳥を見ているガスとその足元のチェスターの姿で、読後にこの絵の意味が分かる仕組みもあるのがいいなと思いました。ガスの状態を理解するまでとても時間がかかってしまい、今でも、てんかんの症状だと言葉が出てくるというのがよくわからないままです。この物語で印象に残ったのは、サラがガスには学校で教育を受ける権利があって学校側はそれに対応しなくてはならないと言うところです。どの子供にも人権があるのだという主張を感じます。ペニーについては、犬の訓練士のプロなのかどうか、よくわからない感じで、少し捉えどころがないですね。チェスターがペニーのママとテレパシーで通じ合うところや、ガスともテレパシーが働いてしまうところは、ちょっとファンタジーだと思いましたが、移民のマンマが言葉以外の方法で、身振りや感じでガスを理解するように、たぶん言語だけがこの世界の生き物のコミュニュケーションの全てではないのかもしれないとも思いました。

コアラ:とてもよかったです。ガスが少しずつ変化していくのが、チェスターの目を通して語られます。人間だったらもっと直接的なコミュニケーションになりそうなところですが、犬と人間だからこその寄り添い方、心の通わせ方が描かれていて、心温まる物語でした。食堂のマンマもよかったし、チェスターを介したアメリアとのコミュニケーションの場面、ガスの変化がとてもよかったです。p135の5行目から、初めてアメリアに手をのばすところ、それから、p257の最終行から、チェスターのベストの「仕事中です、さわらないで」という文字をかくして、いつでもさわっていいよと伝えようとしたところ。両方とも、アメリアと目を合わせなかったというところがとてもリアルで、目を合わせないけれども、手が内面を伝えている、というところが感動的でした。p215では、ガスが疲れたせいで言葉が出てくる、というように書かれていて、実際にそうであればいいのに、と思いネットで少し調べたのですが、現実はそんなに簡単に言葉が出るわけではないようです。それでも、著者あとがきを読むと、ストーリーのきっかけは全くのフィクションではないようだし、希望の持てる物語でした。自閉症でなくても、人との関わりに疲れた、というときでも心を癒してくれるような本だと思いました。ただ、p244の3行目あたり、犬の言葉をペニーのお母さんが聞き取ったというような場面は、ちょっとやりすぎかなと感じました。

しじみ71個分:優しくて、愛にあふれた物語でした。読み終わってほわほわとあったかい気持ちになりました。人と犬との関わりの深さや信頼がよく表現されていると思います。自閉症のガスがチェスターと出会って、少しずつ周囲とコミュニケーションができるようになっていくのと同時に、補助犬の試験に落第したチェスターはある意味、落ちこぼれともいえると思うのですが、ガスと出会って、ガスのパートナーになると決意して、仕事をがんばり、てんかん発作を起こしたガスの危機を救い、ガスのパートナーとして自信をつけ、家族としてなくてはならない存在になっていきます。そういう意味ではチェスターの成長物語でもありますね。すごく気持ちのいい物語でした。テレパシーでガスと会話できてしまうのは、確かにちょっと便利すぎかなとも思いますが、「こうだったらいいな」という気持ちで、作者が書いたんじゃないかなと思います。ただ、ちょっと、p132で、ガスのクラスメートのアメリアの名前が、誤植で「アメリカ」になっていたのは残念でした。あと、もう一か所、p133の6~7行目に「そのうちガスは口はしをつりあげた。僕の知るかぎり、ガスはこの顔をママにしか向けたことがない。笑顔だ」とありますが、ここは「ママ」ではなくて「マンマ」じゃないかと思ったのですが、どうでしょう? ガスが笑顔を人に対して見せるという記述は、p96の、ガスがマンマと笑顔でしゃべりあっているという箇所以外、見つけられなかったような気がするのですが……。

オカピ:チェスターもガスも感覚が過敏で、また自分の中にうずまく感情を他者に伝えられません。そんなチェスターとガスが、相通じるものを感じて心を通わせていくのはわかるのですが、p61でガスの声がチェスターに聞こえるのは、少し唐突に感じました。また、お祈りのポーズをするように、チェスターがガスに伝えたり、会ったばかりなのに、ペニーのお母さんと意思疎通できたりするのはなんだかテレパシーのようで、リアリティが感じられませんでした。人とうまく関係を築けないペニーにも、なんらかの特性があるようですね。もう少し魅力的な人物として描かれていたら、感情移入しやすかったような……。母犬が子犬といるのがつまらなそうだったというのは、ドライな親子関係でおもしろいなと思いました。

西山:たいへんおもしろく読みました。犬のチェスターを通して、ガスの「頭の中」が伝わらないもどかしさを追体験した感じです。食堂のマンマとの交流など、周りのおとながちゃんと見ていない。いつもスマホばかり見ているクーパー先生なんて、ちょっとダメすぎて本当にもどかしく思いました。ガスが怪我をさせられた件も連絡帳に書いただけだったり、ちょっとそのへんは非現実的ではないかと思います。チェスターの能力に関しては、非現実的だとひっかかってしまうことはなかったのですが。ペニーもなにか困難を抱えているらしいけれど、あまり伝わってこなくて共感しづらかったのは皆さんと同じです。

さららん:チェスターはガスの感情の変化や、てんかんの発作の匂い(「ガスの体から薬品みたいなにおいがしている。ガスがもえてしそうなにおい。」p212)まで察知します。以前読んだことのある『おいで、アラスカ!』(アンナ・ウォルツ作 野坂悦子訳 フレーベル館)のアラスカもてんかん犬の資質を持っていましたが、そちらは二人の人間の視点から交互に語られ、犬の内面は描かれなかったので、犬の感覚描写が私にはおもしろく感じられました。チェスターは弱点のせいで正式な補助犬にはなれなかったけれど、ほかの人には聞こえないガスの心の声が聞こえるようになります。障碍のあるガスはもちろんですが、学校で働く移民のマンマ、認知症のペニーのお母さんに至るまで、弱い立場のものたちへの愛情と、その可能性を信じる作者の目に揺るぎないものを感じました。p220で再登場するペニーがらみの意外な展開をのぞくと、ストーリーに起伏が少ないように感じられましたが、言葉数の少ないガスの変化や成長を、チェスターが読み取ることで読者に伝わるこの物語を子どもたちが読むとき、障碍のある友だちの心を想像する良いきっかけになりそうです。とはいえ、犬の一人称で書きとおすには、相当の苦労が必要だったと思います。

サークルK:人と犬とが補い合って一緒に想いを通わせようとする物語で読んでいて楽しかったです。ガスを取り巻く社会だけでなく、どうやら問題を抱えているらしいペニー、学校の問題など言葉が通じるからこそかえって相手を誤解したりわかってもらえないことに苦しんだりする場面が多いので、それを解決するために時々チェスターの声がガスに聞こえ(ているらしい)、ガスの声がチェスターに届いている(らしい)描写が盛り込まれているように感じました。そんな閉塞感に満ちた部分と、ファンタジーな解決の部分が物語の中心になる中でチェスターがガスのところに引き取られるまでの個所で、犬の母親、兄弟たちとのやり取りが(ここは全くのフィクションでしょうが)軽妙でおもしろかったです。母犬は心配性なチェスターに、訓練士の前では堂々とふるまうようにと有益なアドバイスをしてくれますが、そのうちに次々と生まれる仔犬のことや自分のことで頭がいっぱいなのか、チェスターのことにいつまでも心を向けなくなります(p15)。動物の本能的なふるまいに人間のような愛情を読み込みすぎず、あっさりとした犬の親子関係が逆に気が楽な面もあるのでこの最初の場面はとてもおもしろかったです。
ペニーのことを乱暴な口調や振舞いからはじめは女性とは思わずに読んでいましたが(「あたし」という訳がついていてもLGBTQの人なのだろうか、などとも)彼女の母親の病室にチェスターを連れて行ったときにようやくはっきり女性だとわかりました。

ANNE:チェスターを引き取って訓練するペニーがいい人なのか、そうではないのか、ずっとあいまいでしたが、最後にはきちんとチェスターをしつけてガスのもとに戻してくれたので安心しました。ペニーには、きっと別の犬が見つかると思います。犬が主人公の物語なので、2021年に出版されたセラピードッグの絵本、『いぬのせんせい』(ジェーン・グドール作 ジュリー・リッティ絵 ふしみみさを訳 グランまま社)を思い出しました。

ニャニャンガ:まめふくさんの表紙が、やわらかくてすてきですね。犬の視点で進行する本を訳したとき、犬が考えそうもないことや知るよしもないことを書いてしまうとリアリティを感じられないので、どのように犬らしさを出すかが難しかったのを思い出しました。本作はもう少し犬らしい感じがあってもよかったのではと思いました。

サンマリノ:あとがきに熱量があって、ちょっと泣きそうになりました。ハッピーエンドだし、いいお話です。ただ、非常に息苦しく感じました。犬のチェスターがあまりにも孤軍奮闘しているからです。サラやマルクや先生に考えていることを伝えられず、ガスとも最低限の会話しかできず、近所の犬たちとも交流しないまま、思いが溢れた状態でずっと過ごしています。自閉症の子も、同じような状況なのだということを説明するためなのだとしたら、非常に効果的だとは思うのですけども。できれば、となりの家の犬と、ちょこっと1日数分でもおしゃべりするとか、猫か鳥と雑談できるとか、ほんの少し安らげる場面があったら、と思いました。いいなぁと感じたのは、ガスには好きな大人マンマと、お気に入りの女の子アメリアがいるところ、そしてエドのようなイヤなやつに魅力を感じてしまう部分です。一方、気になったシーンもあります。p186で「ガスはおもしろい音が大好きだから、まわりでおもしろい音がしないときは、自分で音を立てる」と書いてありますが、p54では、「ぼくがほえたり、つめでカチカチ音を立てて部屋の外を通ったりすると、こわがる。音で耳が痛くなるんだ」と書いてあって、ちょっと矛盾するようにも思えてわかりづらかったです。あと、先生が数人でてきますが、描写が最低限すぎるので、特にクーパー先生の存在がイメージしづらいなと思いました。『たぶんみんなは知らないこと』(福田隆浩著 講談社)とは逆に、先生があまりいい存在として描かれていないことが印象的でした。

雪割草:おもしろく読みました。でも、ガスの声をもっと聞きたかったという、もやもや感が残りました。作者が実際に母の立場だからというのもあると思いますが、ガスよりもサラの方が不安など気持ちの起伏の細かなところまで描かれていてよく伝わってきました。チェスターが犬らしくないという感想がありましたが、p163のカバーを洗わないでほしいなとつぶやいているところは、犬らしさが描かれているごく少ないひとつだと思います。それからペニーについては、チェスターをスターにしたいという欲があって、その時はチェスターの声が聞こえない。でも欲が消えると、不思議とチェスターの声が通じるようになる。確かにちょっとテレパシーの域かもしれないけれど、ペニーの母にはチェスターの声が届く。食堂のマンマには、ガスの思いが何となく通じている。そして、ガスとチェスターも通じあえる。思いが通じ合えるかどうかというのは、本当はみんなできるはずで、欲だったり不安だったり、他のことが邪魔をしているのかもしれませんねということを、ペニーを通じて描いているように、私は感じました。

ルパン:仕事で探知犬について調べたことがあって、犬の能力のすごさがわかっているので、かなりリアルに近い感じで読みました。また、犬の訓練所とか南極の犬ぞりのことなどについて書いた本によると、犬も人間のように感情とかプライドとかがすごくて驚かされます。飼い主の発作を事前に感知するというのも現実の事例としてかなりあるようです。これを読む子どもが、本当のことと思って読んでくれたらいいなと思います。みなさんから「やりすぎ」と言われるシーンも、私はけっこう心に残りました。

ハリネズミ:犬の能力が高いというのはその通りですが、なんでもできるわけではないですよね。たとえばp240の「可能性は低いけど、サラやマルクやガスが来ているかもしれない」とチェスターが思うところ。可能性の低さを犬が云々するなんてことは、ないんじゃないかな。p188にもチェスターが「ガスもぼくも口でちゃんとしゃべれないよね。心の中だけでしゃべっているんだ。まわりの人にはあんまり伝わらない。ていうか、ほかのだれにも伝わらない。会話の方法としてはあんまりよくないんだ」と思ったりします。これもおとなの人間なみの客観的な思考ですよね。

しじみ71個分:チェスターの言葉があまりにも人間っぽいというのは、実際に自閉症児の母である作者の視点が、サラの視点と、チェスターの視点の双方から描かれているからではないでしょうか。チェスターから語りかけ過ぎてガスが黙ってしまう様子などは、実際の母親としての作家の経験から生まれた表現のように思えました。なので、チェスターがやたら人間っぽいのはそういう理由かなと思ったり。あと、ペニーについてですが、ペニー自身もチェスターが最初の試験で落第したことで、犬の訓練士としての能力が低い、と否定された気になって、チェスターに文字を教え込んで特別な犬だと証明することで自分の価値を認めさせて自信を持ちたかったんだろうなぁと思いました。最後にチェスターはそんなペニーにも自信を与えて立ち直らせていますよね。あとでネットで調べましたが、アメリカでも日本でもドッグトレーナーには国家資格などなくて、ただ経験の積み重ねによるんだそうです。だからなおさら人からの評価が気になるという設定なのかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):とても好きな作品です。心がホカホカします。犬のチェスターの目線の物語。自閉症でてんかんの発作を起こすガス、ガスのママとパパの様子、犬の訓練士のペニーの性格がよく伝わってきます。フィクションなのに、ノンフィクションかと思われるほどチェスターとガスが心の中で会話しているのが当たり前のように思われ、他にもたくさん例があるのではと、思いました。犬って人間に尽くしてくれるのですね。チェスターが余りにも健気です。日本でも補助犬がもっと普及するといいなと思いました。

(2023年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『君色パレット1』表紙

君色パレット(1)ちょっと気になるあの人

すあま:『マンチキンの夏』の後に読んだせいか、物足りなさを感じました。「日傘のきみ」は、設定はおもしろいと思ったけど、最後になぜ別の傘に乗り換えたのかわからないままで、もう少し長い話であればよかったのに、と思いました。「恋になった日」は、ノートでやりとりした相手が想像通りで、意外性がなかったのが残念でした。「Hello Blue! 」は、ファンタジーで、洋品店の男の子が実在の人物ではないのかと思って読んでいたら、そうじゃなかった。短編なので仕方ないけど、もうちょっと登場人物がしっかり描かれていれば共感して読めるのに、と思いました。多様性というテーマは、短編では語りつくせない難しさがあると思います。

アンヌ:「日傘の君」は、よくわかりませんでした。アリガトウと言ったのは傘なのか谷岡なのか、タピ岡でなくなったのは友情が芽生えたという意味と捉えていいのかどうかとか……。「親がいる」の状況は、実はもう現実にいろいろな家庭で起きている話だと思います。主人公と親の過去の関係が全然見えてこないので、ほんの一瞬を切り取ることで、コロナ下の物語としたのかなと思いました。「恋になった日」は王道の恋物語で、同じものを見るというところから恋は始まるという感じで、すみれ色のテレビ塔の伏線はなかなかうまいと思いました。「Hello Blue!」は完全にファンタジーとして読んだのですが、多様性という意味では一番うまく描かれていると思います。特に帽子の青を空や海の色として説明するところは、目が見えない人でも同じ世界にいて、その人が見えないからといって理解できないわけではないということを見事に語っています。服を拾ったり、強盗に服をあげたりするところも、現実にはあり得ないけれど、お伽話の世界につながっていくような心地よさがありました。

コアラ:4つの短編のどれも、心になにかしら引っかかりを作る感じで、よかったと思います。テレワークで、家で仕事をしている親を見る、というのは、子どもにとっては知らない親の一面を見るという意味で、新鮮な体験だろうなと思ったし、物に恋をするという人の存在を本当に受け入れたら、その物がただの物とは思えなくなる、というのも、リアリティを持って感じることができました。多様性というところではないけれど、「恋になった日」のp105『好きです。』とノートに書いて消す場面が、私はけっこう好きで、中学生の恋心がよく表れていると思ったし、消しゴムで消しても跡が残るところが、ノートに書くということの特性だと思いました。SNSで告白するとしたら、SNSならではの迷いとか言葉の使い方とかの描き方があると思うし、この物語では、ノートに書くという特性を生かしていてよかったと思います。ただ最後、両思いになったときにp113「カバンが、急にずしんと重く感じた。」というのは、ちょっと違うんじゃないか、別の締めくくり方をしてほしかったと思いました。イラストは、全体的に人物が大きく描かれていて、けっこう主張しているように感じました。4人別々の作者の短編集だけど、イラストのテイストが共通しているのが、短編集にまとまりを持たせていて、私はいいなと思いました。男の子なんだけど女の子にも見えるような描き方とか、決めつけない感じにも好感を持ちました。装丁には一言言いたい。図書館から借りてきた本は、背の部分がもう色が褪せてきています。ショッキングピンクは褪色しやすいので、残念に思いました。

まめじか:「日傘のきみ」は、登場人物が対物性愛者というのが新しいと思いましたが、タピ岡の心変わりの経緯がわからず、消化不良でした。「恋になった日」は、好きな人ができた主人公が、「たいせつなこと、考えてた」と言ったとき、友だちの琴子がさみしそうに笑いながら、それ以上なにも聞かないというのに、二人の関係性がうかがえました。「Hello Blue!」では、目の見えない主人公はたくさんのことに気づいていて、それに対し、男の人はスカートをはかないなど、固定観念のある母親には見えないものがあるというのがおもしろかったです。強盗が出てくるのは、ちょっと唐突では……。

サークルK:挿絵がかわいらしく、中学生が手に取りやすい厚さの本だと思います。「多様性を見つめる」という今の時代にふさわしいテーマがどのように語られているのかを楽しみに読みましたが、全体的にふわふわとした感じでとらえどころがないように感じられました。たとえば1作目「日傘のきみ」では、セクション1がポエムのような始まり方で、主人公の出自や両親、ふるさととの関係が紹介されているのに、セクション2以降それはあまり深く掘り下げられることなしに話が進行して、友達が「対物性愛者」であることの衝撃に関心がさらわれて行ってしまいます。2作目「親がいる。」は挿絵の幼さと内容のギャップに驚き、しっくり頭に入らないまま話が終わってしまいました。各掌編の終わりに1行コメントを置き、心に残ったことを読者に考えてもらうような呼びかけがあるのは、おもしろい試みでした。ただ余白が多すぎるのではないかなと少し気になりました。

しふぉん:「日傘のきみ」のタピ岡は、将来結婚したいとも思っていた日傘・キョウコさんの柄に〈イママデアリガトウ〉と彫りつけて、渚とよく会っていた場所にどうして捨てたんだろう? キョウコさんとの出会いがネットショッピングだったからなのかな? そして新しい相手・黒い日傘とはどうやって出会って、恋に落ちたんだろうか? よくわからないまま終わってしまいました。「恋になった日」は、なんだか懐かしい青春時代を思い起こさせてくれました。昔は、駅に伝言板があったり、いろいろな所で伝言ノートを見たような気がします。家庭科室の教卓の中におかれたノートの書き込み。相手がどんな人かもわからずに、書かれている言葉の中に、自分と共通する感性にふれる喜びが伝わってきました。そんな風に恋が芽生えた島本くんと星那がずっとうまくいくといいなあと願いました。「Hello Blue!」はどうしてこのタイトルなんだろう? Blueって元洋品店の子・国崎蒼のことなのかな? だとしたら上手いタイトルだなあって思いました。それとも話の中に、青いシャツ、裏地が青のフェルト帽、青いデニムのジャンバースカートと出てきてくるからなの? お話全体に、この蒼の優しさが溢れていました。莉紗が怒りに任せて公園の屑籠に捨ててしまったジャンバースカートを 拾って洗濯し、糊付けまでしてショウウィンドウに飾ったり、蒼は服が好きなんだろうなと思いました。自分に対してひどいことを言う強盗にまで、食パンや牛乳を出し、服も一式プレゼントして、心もお腹まで満たしてあげて……。そんな中学生がいたらすごいと思います。今は学校に行けてないみたいだけど、とてもいい子なので、服飾関係に進んだりして、蒼の未来が明るいものであればいいなと思いました。

ANNE:見返し用紙が透けていたり、余白が多かったりと、装丁が今風だと思いましたが、背表紙はすぐに抜けてしまう色合いなので、図書館員としては少し気を使うところです。オムニバス形式は私にはちょっと物足りない感じですが、子どもたちには読みやすくていいのかもしれませんね。ひこ・田中さんや魚住直子さんなど、ベテランの児童文学作家さんが、世相に合わせた作品を発表されているところがすごいと思いました。

花散里:中・高校の図書館に勤務していて、中学生が「3分間」や「5分間」で読めるようなシリーズ本を好んで読んでいるので、「ショートストーリー」と題した短編小説だったので関心を持って読みましたが、全体的にとても物足りなかったです。読み終わってから、しばらくするとどんな物語だったか記憶に残っていないような読後感でした。作者はそうそうたる方たちですが、こういう短編シリーズの依頼が来た時にどのように取り組まれているのかと思いました。本のタイトルは「読んでみたい」と思わせましたし、多様性を取り上げていて、テーマは斬新だと思いましたが、どの作品にも魅力は感じられませんでした。絵がどの作品も同じなのも受け入れられませんでした。図書館員として手渡したいと作品と、実際に好まれ、読まれている作品とのギャップについて改めて考えさせられました。

シア:非常に読みやすい本なので中学生の朝読書などにいいかもしません。絵も本の薄さもかなり中学生好みにしている感じがしました。色の褪せやすいショッキングピンクですが、書棚でも本屋でも目に入りやすいと思います。内容も薄めだし、退色したら捨てるくらいの消費物的な本だと思います。本の読めない子、嫌いな子がアクセスしやすい本だと思うので、不読者対策としてこういう軽めな本が出回るのは仕方のないことかもしれません。こういった本から入って、しっかりとしたものまで読めるような呼び水になればと思いますが、厳しい内容のものも多く、選ぶのは困難を極めます。さて、この本なんですが、1作目がかなり人を選ぶ話なので、ここでつまずく子どもが出そうです。なぜこれを1作目に持ってきてしまったのか……。対物性愛者の話は珍しいですが、タピ岡が日傘を捨てる心境に至った理由をテスト問題にしたら誰も答えられないと思います。でも、4作目の洋服で繋がる友達というのは良かったです。服というアイテムは多様性を表しやすいし。ただ、やけっぱちになっていたとはいえ、男のしたことは犯罪なので、そんな男に一番価格が高くなるワンセットをあげてしまうというのはなんだか釈然としませんでした。個人的には2作目が一番おもしろく読めました。コロナ禍を扱った物語は多いけれど、テレワークで両親の仕事をしている姿を垣間見て世界の広がりを感じるという観点の本はあまりなかったと思います。身近な人間の働いている姿を間近で見ることは、子どもの視野を広げるという意味でとても重要だと感じます。紛らわしかったのは、1作目のタピ岡と4作目の国崎蒼が挿絵も似ていることもあって同じに見えてしまったことです。日傘が好きなのは服屋さんだからかと妙な納得をしていたんですが、よく考えたら名前も違う別人で、作者も違いましたね。

伊万里:最近のアンソロジーは、テーマで勝負する方向が強くなっていて、その結果、極端というか過激というか、怖いお話を集めていたり、驚かせるような強めのテーマが多くなったりしています。そのなかで、このアンソロジーは、「ちょっと気になるあの人」という、ゆるめのテーマなのがいいなと思いました。戸森さんの作品は、非現実的にも思えますが、後から頭に絵が残る作品だなと感じました。ひこ・田中さんの作品は、コロナ禍のリアルを取り上げています。親の別の一面を見る展開が、地味ではありますが好きでした。魚住さんの作品も、童話とリアルの境目のようなところが興味深かったです。吉田さんの作品は、ほのぼのしてますが、島本くんをいったん否定して、けれどやっぱり島本くんだった、とわかったときに、サプライズ感のまったくないところが少し残念でした。

アカシア:「日傘のきみ」ではp26で「お前なんかよりも日傘の方がたよりになると、見限られたような気がした」という表現が出てくるのですが、この段階では主人公は谷岡に思い入れがあるように書かれていないので、「見限られた」という表現が浮いてしまっています。「親がいる」は暮らしの表面をなぞっているだけで、インサイトがもっとあればいいのにと思いました。「恋になった日」は、p95に「いびつな文字」とか「右上がりになるくせのある文字」と文章にはあるのにp94の挿絵はどちらも書体が同じ。こういうのって、入り込んで読んでいた読者を裏切ることになるので、もっとちゃんと考えて本造りをしてほしいです。島本くんを好きでも嫌いでもいいのですが、言ってみれば花占いのような短編を読まされて、読者の子どもは何かがわかったりするのでしょうか。クリシェに寄りかかっていて意外性がなくて、新しい世界は見えてきません。「Hello Blue」はちょっとおもしろいと思ったのですが、泥棒が出てこなくてもいいように思いました。短編は一面しか描けないとしても、もっとその奥がうかがえるような書き方だったらおもしろいと思うんです。でもこの本は、そうそうたる作家さんたちの良さも生かされていなくて、編集者の気配が感じられません。どれも文章や表現に緊張感がありません。さっき「不読者対策が必要」という声もあり、それはわかるのですが、ただ短い時間で読めるというだけでは、本のおもしろさを知って読者になっていくということにつながらないと思います。もっとちゃんと本をつくってほしいです。

エーデルワイス:1つのテーマで複数の作家が短篇を書くのは大変なことと思いました。また作家の力量がでますね。テーマに沿った内容はもちろん織り込みつつ、独自性をだすのですから。文学の香りもほしいです。『日傘のきみ』が好きです。『Hello Blue!』さすが魚住直子さんと思いました。「多様性」ということを子どもたちに知って読んでもらうには、このような本の作りは効果があると思いました。けれど子どもたちはゲーム、コミック、アニメなどから「多様性」がすでに浸透しているような気がしています。

ハル:戸森さんの「日傘のきみ」以外は、「多様性」のテーマに答えているのかどうか、ちょっとよくわかりませんでした。サブタイトルにはあっていますけどね。それで「日傘のきみ」は、さすが戸森さん、一歩先に進んでいるなぁと思ったし、文学としてはおもしろかったのですが、おそらく道徳的な狙いでつくられたこの企画としては、それに応えられているのかどうか……。愛していたキョウコさんの柄に文字を彫るのはありなのかなとか、この感覚も「◯◯性愛者」だとくくってしまってはいけなくて、人によって違うのかもしれません。対物性愛とか、動物性愛とか、小児性愛とか、どこまでが多様性なのかもちょっと考えてしまいますが、とにかく、共感できなくても理解はしようとする姿勢は、どんなケースにおいても必要なのかもしれません。

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さららん(メール参加):どの話も日常の中でほんの少し視点をずらすことで、まったく見えなかったことが見えてくるところが、マンチキンとつながると思いました。でも描き方は全く別。本の作りも、挿絵がたくさん入っていて、子どもたちが手に取りやすい工夫を感じました。本を返してしまって、また借りるのが間に合わなかったので、あまり細かく書けないのですが、戸森しるこさんの対物性愛者(と呼んでいいのか)のお話は、それほどいやらしさはなく、目の前にこんな人がいたらちょっとたじろぐけれど、これを読んでいたら、少し受け入れやすくなるかもしれない、と思いました。短編ならではの「落ち」を生かした書き方でしたね。どれも良かったのですが最後の魚住さんの「Hello Blue!」の男の子の話は、物語性で読ませます。『自分を生きるのは自分』という言葉はきっと子どもたちに届くと思います。

西山(メール参加):読んだことを忘れていました。全部読み始めたら思い出しましたけれど、また忘れそうです。

(2023年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『マンチキンの夏』表紙

マンチキンの夏

ハル:まだ途中までしか読めていなくてすみません。でも、うまくまとまりませんが、テーマにしても、書き方にしても、日本の作家さん書いたら、なかなかこうは仕上がらないだろうなという作品で、こういう本こそ、翻訳書として日本の読者に紹介する価値があるんだよなぁと思いました。どっちがいいというのではなくて、日本の作家さんに書いてもらったほうが読者に届くテーマもあるでしょうし、海外の作家さんでないと書けない作品もあるだろうな、ということです。(後日談です。全部読んでみても楽しかったですが、たしかに、ちょっと冗長で散漫に感じる部分もありました。でも、この先自分が、平均身長くらいまでは背がのびることを知って泣いた主人公の気持ちは、私は違和感なく読みました)

アカシア:いいなあと思ったところは、いろいろな意味で多様な人たちが登場してくるところ。オリーヴは茶色い肌で、大人だけどとても背が低いので、差別する人もいるけれど、堂々と生きています。そして主人公のジュリアは、このオリーヴをお手本にするのですね。ほかにも中国系のチャンさんや、イタリア系だろうジャンニなど、さまざまな背景の人たちが登場してきます。登場人物の紹介が最初にあるのは、翻訳物を敬遠する子どもも多い今、助けになると思います。細かいところでひっかかったのは、p93の「ギルバートとサリバン」はギルバート・オサリバンのことだと思うので、それがわかるような注があるとよかったですね。p173の「マンチキンのくつをはいてみた。ぴったりだ」は、p108でもはいてみてぴったりだということがわかっているので、違和感がありました。p232で、犬用のビーフジャーキーがしょっぱいとありますが、犬用のジャーキーは人間用のと違って味付けがされていないのが普通です。原文が間違っているのでしょうか。p250の「チャンさんがいただくなら」は日本語として違和感がありました。「チャンさんが召し上がるなら」じゃないかな。あと、原書の出版年が記されていないのも気になりました。それと、原題はShortですよね。Shortだと背が低いという意味はもちろんあるでしょうが、足りない、不足というニュアンスが強く出てきます。そう思って読むと、子どもなので社会のことがまだよくわかっていない主人公が、はじめてのことが多い大人の社会に接して、自分はまだ子どもでいろいろなことが不足していると思いながらも、子どもの視点で社会を観察しているというテーマがくっきりするのかと思いました。そこがこの本のキモだと思うのですが、どうでしょうか? 原文が饒舌体だとすると、ていねいに訳すことでリズムが失われているのかもしれません。

エーデルワイス:映画の脚本、監督などを手掛けている作者らしい作品と思いました。主人公のジュリアが愛犬ラモンの死を必死で乗り越えて成長していく姿、練習風景やリハーサル本番含め演劇の舞台は映像になります。オリーヴが魅力的です。最初にプロの役者、背が低い、おしゃれ・・・とだんだん様子が明らかになっていき、オリーブが黒髪、有色人種、低身長の女性だと分かりハッとしました。p131のオリーヴが黙って一緒にアイスクリームを食べながらジュリアの話を聴くシーンは素敵です。別れ際の「じゃあ明日ね」のオリーヴの一言で、ジュリアの悩みは吹っ切れているのですから。登場する大人はみんな子ども扱いせず、同じ次元で対応しているところがいいですね。うんちくや格言がやたら多くて後半ちょっと食傷気味でした。アカシアさんが仰るように訳のせいかもしれません。

伊万里:あまり積極的でなかった女の子が、ひと夏、大勢の人と出会って、大きく成長します。魅力的な大人がたくさん出てくるのが、この本のポイントだと思いました。後半で、大人たちの三角関係というか、恋愛の状況をいろいろ目撃して、子どもなりに解釈していくのも新鮮でした。お芝居を作り上げる過程が徹底的に描かれ、リアルに感じられるところもよかったです。ただ一人称なのが、一長一短な気がしました。主人公は、物事を決めつける傾向があって、それが覆されたときに成長します。なので、もともと傍若無人な発言が多いわけです。冒頭p14「脊髄が真っ二つに折れちゃったとしたら、一生歩けなくなるわけでしょ。」と語っていますが、これ、かなり無神経ですよね。あと、最後に、身長が162センチまで伸びることがわかった、というくだりも、なんとなく残念です。この物語を読んでいた低身長の子が、がっかりするのではないかと。低身長のままではダメだったのかな、とちょっと思いました。

シア:主人公がペットロスから立ち直っていく姿はとても良かったです。ただ、全体的に登場人物が身勝手な印象で話に入り込めませんでした。冒頭のジュリアの背丈に対する両親の会話でショックを受けてしまって、なんて空々しい家族なんだろうと嫌な気分になりました。おばあさんは千秋楽に来ないし、お母さんは仕事に夢中だし、読み終わってもどうにも希薄な家族関係に思えました。自分が愛されているのは感じつつも、そういう家庭のせいか自己肯定感が低いジュリアは、心の拠り所だったラモンを失って、その穴を埋めるかのようにショーン・バーに怖いほど心酔していきます。ジュリアはお父さんが言ってたことを実践し、大切な木彫りのラモンをショーン・バーにあげてしまうんですが、自分にとって大切なものでも相手にとっては違うと思うんですよね。ほんとにこの家族はろくなことを言いません。だいたい、ショーン・バーという男はかなりうさんくさいんですよ。木彫りの犬なんて誰にもらったかも忘れて捨てるんじゃないかと思います。もう少しエピソードがあれば違ったのかもしれませんが、私はショーン・バーはどうにも信用できませんでした。それから、チャンさんは空飛ぶサルの役がやりたいと言い出すんですが、それがチャンさんの人生にとってどういう意味なのかわからないので、ただのわがままにしか見えませんでした。しかも、大学生の卒業制作であるライオンの衣装を勝手に手直しするのはいかがなものかと。でもされた側の大学生は喜んでいて、不正がまかり通っていることに不満を覚えました。この大学生は自分のアートに対する気持ちとかないんでしょうか。それに、チャンさんの役のことを差別の話を持ち出すほど引っ張るから、てっきりオリーヴかジュリアが役を失うと思ったのにそのままというのは展開的にどうなんでしょうか。嫉妬の話はなんだったのかと。その気持ちを乗り越えるとかないんでしょうか。差別の話を無理やり入れたいだけだと思えました。そもそも、ブンブン飛んでいるのが大人ひとり分プラスされたら、安全面とか見栄え的に邪魔だと思うんですけど。演出のこと何も考えてないなって。やっぱりショーン・バーは信用ならないです。そして、ジュリア自身は自分の力ではないのにトントン拍子に進んでしまい、いびつな成功体験をしてしまったと思いました。自分は特別と思い込んで、弟やマンチキンの子など周りを見下すことは終始変わりませんでした。また、章ごとに入る挿絵が使いまわしでテンションが下がりました。ラストや表紙にも描かれているマンチキンの靴が文章と形状が異なるのも気になりました。つま先はポンポンではなく輪っかなはずです。こういうところはしっかり本文に合わせて欲しいと思います。それから、ジュリアがWikipediaの内容を引用するシーンがありますが、そもそもWikipediaは引用するものではないので、児童書で使わないでほしいです。と、終始イライラしながら読んだのですが、弟のランディだけは伸びやかに過ごしていると感じました。ジュリアと違って誰かに頼ったりしませんでした。自分でオーディションを望んで、自らの才能で役も親友も手に入れました。ランディこそが夏を満喫しました。ランディが真の主役ですね。

ANNE:ジュリアの一人称で語られることで、本人の気持ちがそのまま伝わってくるように思いました。死んでしまった愛犬ラモンの毛をスクラップブックに貼っているのは、いつか科学が発達してその毛のDNAから本物のラモンが作られるかもしれないからなのですが、p51「それって大きな夢だけど、小さな夢をたくさん見るよりよくない?」、苦手だったピアノのレッスンを辞めた時は、p25「刑務所の刑期を終えたときってこんな気持ち」など、彼女の独特の言い回しが、この本の魅力だと感じました。少女のひと夏の成長物語ですが、背景にある『オズの魔法使い』の世界観を知っていて読むのとそうでないのとでは、ずいぶん受け取り方も違うのではないかと思いました。

しふぉん:ひと夏で、子どもってこんなに大きく心が成長するんだなあと思わせてくれました。でも、それには日常とかけ離れた出来事や、素晴らしい大人との出会いは不可欠なんだろうなと思いました。オーラを放つ監督・ショーン・バーや、かつて多彩な芸術性で活躍したヤン・チャンさん、身長差別とたたかっているプロの歌手・ダンサーのオリーヴと関わりながら交流を深めていくうちに、ジュリアの内面が豊かに大きくなっていったのだと思います。初日が終わった後、劇評論家・ブロック・パットの酷評を目にした後、自分を失いそうになったジュリアに対して、弟のランディは「だんだんうまくなるよ」「そいつがどう思ったかなんて、どうして気にするの?」と意に介さない様子はどうしてなんだろうと考えました。ランディは、3人兄弟の末っ子で、みんなから愛情をたっぷり注がれていただろうし、何より人に誇れるものを持っているからなのかなあ? たとえば、甘い歌声とか、正確にメロディを歌い上げることができちゃうことか。自分に自信があるから人から何を言われても動じないのかもしれないなあって思いました。それに対してジュリアは、劣等感を持っている子ですよね。背が低いこと、音楽が苦手なことをとっても気にしています。ちょっと上の兄さんは何をしても許されるのに、自分は弟の面倒を見なきゃいけない。両親は自分のことをどう思っているのか、不安も感じていただろうなって思う。そんなことも、2人の反応の違いにつながっているのかなと思いました。それと、ジュリアのこの芝居にかける情熱の大きさも関係しているんだろうなと思います。また、ジュリアは言葉に対して鋭い感覚を持っている子だと感じました。p167「わたしには、耐えられない言葉がいっぱいある。(中略)そういう言葉は使わないようにしてる。なにがいいって、言いたいことを言う言い方はひとつだけじゃないってこと。だから、言葉って大事なんだと思う。それどころか、そのために言葉は発明されたのかも」とか。リーダーダンサーになって重責に押しつぶされそうな時、オリーヴがただ黙って一緒にアイスクリームを食べてくれた時に出てくるp131「話を聞いてもらうために、しゃべる必要はないのかもしれない。こんなにいろいろなことを語る沈黙は、はじめてだった」とか。ミトンおばあちゃんから聞いた言葉として出てくるp127「これ以上、重荷を背負うのは無理だね」、p153「人生は学びの連続だよ」、p215「その人がおもしろいかどうかは、背を見ればわかる」という言葉を自分が体験したことと結び合わせて思いだしたりしてるから。そして、あんなに嫌がっていた芝居に出たいと思ったのも、監督ショーン・バーの放った初日の言葉によってだったから……。

サークルK:原題の「Short」が『マンチキンの夏』と具体的になり、劇中劇の「オズの魔法使い」のあらすじの説明されたページが始めについていることで、それを知っていても知らなくても、読者にとても親切だと感じました。主人公は自分の背が伸びないのではないか、ととても心配しています。ジュリアが劇中劇でマンチキンの役を与えられ、みんなで練習する喧噪の風景は、昔見たことのある大道芸やサーカスで活躍していた、まさに「マンチキン」の人たちを思い出させてくれました。映画『オズの魔法使い』でドロシーを演じたジュディ・ガーランドの栄光と悲劇を描いた『ジュディ:虹の彼方へ』を観たので、虚構の世界が作り出す癒しや、虚構の世界があることで少しずつ前向きになっていく主人公の姿に救われる思いでした。

まめじか:原書が出たときに読んで、そのときは小人症の話なのかと思って読みはじめたら、主人公のジュリアはこれから背がのびると告げられる場面があって驚きました。ジュリアがオリーヴに憧れるところはいいなあと思いましたし、芝居を通してものづくりの喜びを感じ、芸術にふれ、いろんなことを感じて、それをスクラップブックに残すというのはおもしろかったです。最後に「わたしは今年の夏、成長した」(p362)とあるのですが、成長物語として読むと少し物足りなくて……。ジュリアがオリーヴの恋愛模様など、大人の世界をのぞいて、それが成長だと思っているように感じたのです。大人の中に入りたがる子もいるので、リアルではあるのですが、「この一か月で、わたしはなぜか自分のことを大学生だと思いはじめていた」「ここにいるほかのマンチキンたちは、子どもだって」(p287)とあるように、お芝居をやっている同年代の子とは交わろうとしないんですよね。ジュリアは知らない言葉の意味を推測します。p286で、お芝居をはじめてずいぶんたつのに、「公演」の意味がわからなくて、それを「公園」だと思うのは、若干無理があるような。p232に、犬のビーフジャーキーがしょっぱいとありますが、犬用のジャーキーに塩気はないはずです。各章のはじめの絵は何パターンかあり、とてもすてきです。内容に合わせて変えているのか、ランダムなのかはわかりませんでした。

コアラ:おもしろく読みました。12歳の特別な夏を、一人称で語られる主人公ジュリアと一緒に体験することができました。ジュリアは少しひねくれているというか、言葉の捉え方が独特で、例えばp71「舞台の上にいると、しょっちゅう『背中に目をつけろ』って言われる。もちろん背中に目なんかついてない。そうじゃなくて、うしろをちゃんと見ろという意味だ」こういう表現がよく出てきます。それが、最後の部分に生きていて、p362「わたしは今年の夏、成長した。外側じゃなくて、内側が。そう、大切なのは内側の成長なのだ」ここが本当にいいと思いました。原題は「Short」。私も背が低いので、とても共感しながら読みました。子どもも、大人に比べると背が低いわけで、その背が低い時期の子どもに読んでほしいな、心の成長を、この本で一緒に味わってほしいなと思いました。それから、p266などに出てくる「スタン」は、ハリウッドの特殊メイクで有名なスタン・ウィンストンだと思うので、作者が登場させているのにびっくりしました。

アンヌ:以前読んだ『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーク著 三辺律子訳 小学館)の時もそうでしたが、この作者の物語の中で何かがうまくいきだすきっかけというのが、どうも納得がいかなくて苦手です。だから主人公の像がつかみにくく、例えば背が低いのが悩みのはずなのに、背が伸びると知って泣き出すところなどは、なんでこんな風に書くのだろうと思いました。ただ、ひと夏の劇団体験というのは実に魅力的な設定で楽しく読めました。今回大人はとてもよく書けていると思います。オリーヴの初々しい恋の模様や、ジャンニのくれた薔薇への扱いで、オリーヴがその恋を終わらせたとわかるところなど見事です。チャンさんもどういう人なのだろうと思っていたら、元プリマバレリーナで、なるほど最初から着地がうまかったわけだとわかるところや、ショーン・バーがケガで休んでいる間にそのすごさがわかるところなどは、うまいと思いました。

すあま:おもしろかったし、読んでよかったです。ずっと一人称で語られ、ジュリアのおしゃべりを聞き続けているようで途中でくたびれたけど、ジュリアの気持ちはリアルに感じられました。背が低いのがいやだったのが、しだいに受け入れられるようになって、今度は背が伸びると言われて逆にがっかりするところは、何となくわかる気がしました。大学生や大人たちと会話する中で、意味がわからない言葉が出てきたときに、自分なりに解釈しているところもおもしろかったです。自分も子どものとき、本を読んでいて意味がわからない言葉を勝手に解釈して、大人になってから思い違いに気づくことがあったことを思い出しました。タイトルについては、読み終わらないと意味がわからないので手に取りにくいんじゃないかな。『オズの魔法使い』は知っていても「マンチキン」と結びつかない人が多いと思うので。

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さららん(メール参加):細部まで行き届いた訳のおかげで、主人公のおもしろさが際立っていました。いろいろ経験した夏だったよねー。私自身、芝居を一度プロデュースしたことがあるので、なんだかひとごととは思えない部分がたくさん! ホリー・ゴールドバーグ・スローンは『世界を7で数えたら』の作者でしたね。饒舌な主人公の語りによるスピード感と、障害をむしろ恵みに変えてしまう書き方は一貫してます。子どもたちも出演する「オズの魔法使い」上演をめざすストーリーなので、最後はみんな舞台に立つんだろうな、という安心感があるけど、マンネリになっていないのは、脇役やエピソードが鮮明に描けているから。たとえば舞台監督のショーン・バー。p223で語られる演劇論には感動します。例えば「われわれは世の中に、自分やおたがいを別の目で見てくれと訴えているんだ」という言葉。読んでいるうちに、本音で子どもにぶつかるショーン・バーが、オズの魔法使いに見えてきました。それから、オリーブは主人公の憧れの人なんだけれど、例えばp222にオリーヴの立場が書いてある。つまり「背が低い」「有色人種」「女」のトリプルパンチ。その中でどう生きるかも見せてくれる。大人たちの恋愛のくだらなさまで主人公はしっかり見ている。大人と子どもの両方の見方を生かしうことでお芝居は大成功するし、この世界もずっと暮らしやすいところになるんだ、ということを実感させてくれた物語でした。一番好きなところはp165のこの文章です。「わたしはうれしくてさけんだ『そう、わたしは空飛ぶサル!』うしろの座席かランディが身をのりだして、なんでもないみたいに言った。『ぼくはマンチキン国の市長だよ』と」

西山(メール参加):たいへんおもしろく読みました。寒い中ですが、「マンチキンの夏」を過ごしたような充足感です。ジュリアの一人称がうるさく感じたり、奇をてらっているように感じたりということがなく、「子ども」の良さを思い出したというような印象を持ちました。芝居作りにのめり込んでいくどきどきとわくわく、愛犬を失った喪失感で一杯だった彼女の胸の内が、思いもしなかった新しい出来事(おもしろい、興味深いおとなたち)でいっぱいになっていく様が愉快でした。ジュリアの感覚になんども、こっそり吹き出しました。例えば『オズの魔法使い』の作者名を初めて知って「作家って腰が低い」って、想像を超えたリアクションでした(p186ページ後ろから3行目)。「異議あり」が「意義がある」かもしれない(p220L-7)など、原文はどうなっているんでしょうか。

(2023年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録

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『この海を越えれば、わたしは』表紙

この海を越えれば、わたしは

ルパン:これもおもしろかったです。ハンセン病ということで、『あん』(ドリアン助川著 ポプラ社)を思い出しました。世界中で、ハンセン病患者はこういう扱いを受けていたんだなあ、と……。ところで、ミス・マギーはいったい何歳くらいなのでしょう。とてもいい人で、苦労をしてきたことはわかるのですが、年齢とか風貌とかがいっさいわからない。はじめはすごく年とった人をイメージしていたんですけど、それにしては元気がいいなあ、とか、オッシュのこと好きなのかなあ、とか。そもそもオッシュもどんな年齢・外見なのかわからなくてイメージできないし。あと、泥棒のミスター・ケンドルも、いったいどうしてペキニーズ島に宝があるとわかったのか、とか。ほかにもいくつか「あれ、これはどうなってるんだろう?」と思うところがちょこちょこあり、そういうストレスをところどころで感じながらも、とりあえずストーリーのおもしろさで最後まで一気に読んじゃいました。

しじみ71個分:最初、表紙の絵とタイトルを見て、難民を取り扱った作品かと思ってしまいました。タイトルが、海を越えた先に何かが展開するというような印象を与えてしまうような気がします。内容は、アイデンティティの問題だったので、「海を越える」んではないんじゃないかと思い、ちょっと違和感がありました。同じ著者の『その年、わたしは噓をおぼえた』(さ・え・ら書房)より、ずーーーーっとおもしろかったですし、内容もハンセン病とそれに対する差別という非常に重くて、大事なテーマを扱っている点は非常に挑戦的で評価できると思います。また、クロウ、オッシュ、マギーといった人物もそれぞれ大変魅力的で本当におもしろいんですが、なんだか、どうしてかわからないのですが、ローレン・ウォークの何かが好きじゃなくてモヤモヤしています……。何なのかもう少し考えたいです。登場人物の人柄もとてもよく描かれていますし、後半は特に冒険譚としてドキドキしながら読めるんですが、ハンセン病そのものについてはあまり深い掘り下げがなく、材料にしてしまったという印象がぬぐえないのと、ミスター・ケンドルが悪者としてとても小さくて、ちゃちい感じがしてしまいました。木から落っこちて終わりだなんて……。宝も最後はみんな配ってしまうというオチですが、たとえば、ケンドルに追い詰められたクロウが財宝を使って窮地を逃れ、ケンドルは財宝もろとも海に落ち、海の藻屑となるくらいの、ちょっと壮大なイメージの、もう少し、人の悪そうな終わり方でもよかったなあという印象です。ですが、クロウが自らの出自を知ってアイデンティティの揺らぎを乗り越え、島での3人の生活がもどり、オッシュとマギーの間のつつましやかな愛情や、クロウの成長が希望を感じさせてくれる結末になっていて、読み終わってさわやかな気持ちが残り、ホッと安心できました。

ANNE:テーマがハンセン病ということで、私もドリアン助川さんの『あん』を思い出しました。隔離されている人々の心の切なさがひしひしと感じられる反面、キャプテンクックの宝探しという冒険譚の一面もあり、いろいろな読み方ができる作品だと思いました。主人公の女の子の頬にあるという「羽」がうまくイメージできませんでした。

まめじか:ルビーの指輪とともに小舟で流された赤ん坊。その子が12歳になって、対岸の無人島で燃える火を見る場面は、色鮮やかで強いイメージを残します。海賊の宝をめぐる冒険物語と、偏見や差別のテーマがうまくからみあっていますね。ペニキース島は、さまざまな国からアメリカに来た、ハンセン病患者が送られた場所です。クロウの肌は浅黒く、またペニキース島から来たのではないかと、カティハンク島の住人からは疑われ、避けられています。それまでペニキース島に近寄ろうとしなかった人々が、宝があるかもしれないといううわさを聞いたとたん、島に行って宝を探すというのはリアリティがありました。人間の欲や身勝手さがあらわれていますね。「わたしがこの島のくらし以外のことに目をむけると、オッシュは月そのものになってしまい、必死にわたしを引き戻そうとする。まるで、わたしの体が血ではなく海でできているかのように」(p11)、「ヴァインヤード海峡とバザーズ湾が出会い、大あばれで危険なダンスをする場所」(p47)、「雨と海が自分だけのおしゃべりをするのを聞いていた」(p269)など、文章が詩的です。

マリオカート: 序盤は、主人公の名前もいっしょに住んでいる人の素性も、いろいろ曖昧でわかりづらかったけれど、p100を超すあたりから引き込まれて、最後までおもしろく読むことができました。ペニキース島が実在して、史実をベースに書かれていることもあり、物語に重みがあります。ハンセン病の物語ということで、皆さんと同様、ドリアン助川さんの『あん』を思い出しながら読みました。ただ、物語を盛り上げるための謎が解決されないまま終わってしまい、1つならともかく2つ疑問が残ったので納得いかない気持ちです。1つめは「お兄さんはどこにいるのか」。たまたま船で手を振り合った人が兄だった、というのも安直なので、別人とわかったのは悪くないと思います。ただ、もう1つの「ミスター・ケンドルが、なぜここまで執着して逃げずに何度も現れたのか」が明らかにならないまま終わったのは不満です。さっさと姿を消せば、逃げ切れる可能性はあったのに、どうしてここまでしつこくしたのでしょう。わたしは、途中から、もしかしてこの人こそが探していた兄だったのではないか、恵まれない幼少期の生活のためにこうなってしまって、でも妹と会えたことでこれから改心していくのではないか、とまで妄想してしまいました(笑)

エーデルワイス:若い時、北條民雄の『いのちの初夜』を読んで感銘を受けたことを思い出しました。それはハンセン病を患った本人が書いた大人の小説でしたので、今回ハンセン病を扱った児童書は初めて読みました。物語をおもしろくするためにいろいろエピソードを盛り込んでいて、風景も美しく、ロマンチックな印象です。映画になりそう。主人公のクロウは、今が幸せでも自分のルーツをどうしても知りたいと願う、その切実さがよく伝わってきました。

ハル:謎に導かれて最後まで読みましたけど、途中からどうも、特にセリフの硬さが気になって、つっかかってしまいました。なんだか文字から想像する映像に人物がうまくはまらないというか、字幕みたいな話し方だなぁと思って。日本語の問題かなとも思いましたが、もしかしたら、先ほどご意見があったように、登場人物の様子が細かく描かれていない、という点も関係があるのかもしれません。オッシュも、最初は高齢の男性を想像していましたけど、どうもマギーはオッシュのことが好きなようだし、まだ恋愛するくらいの若い……って、今のは失言! 別に高齢だから恋愛しないわけじゃないし、いくつだろうと関係ないですよね。すみません。話題を変えます。宗教観の違いなのか、お母さんが残してくれた宝を、手放さずに貧しい人にほどこさないことが愚かだ、という考え方に「世界名作劇場」っぽさを感じました。お母さんが残してくれたものをお金に換えて、自分のことに使ったっていいじゃないかと思うのですが。でも、そういったお説教くささというか、重たさもふくめて、読み応えのあるお話ではあったので、もうちょっと、読みやすかったらなあと思いました。

雪割草:内容はおもしろかったけれど、言葉やプロットなど、生意気ながら意見したくなるところがあって、以前図書館で借りたのだけれど、読み進められず返してしまいました。でも今回読み終えて、オッシュのクロウへの愛情やふたりの絆があたたかく描かれているところがよかったです。この作品では、名前が大きな役割を果たしていて、例えばp374には、オッシュは「お父さん」、クロウは「娘」という意味だと言っています。そして、クロウがお母さんからもらったものの一つが「かがやく海」という意味のモーガンという名前で、自分が何者かというアイデンティティにも関係しています。なので、この作品の原題に「かがやく海」という言葉が入っているのを、意味も含めて残した方がよかったようには、思いました。同じくp374の、「おまえのすることが、おまえになる」という日本語も、日本語だけで読むとよくわかりませんでした。私自身も恥ずかしながら、大学に入って、母校の先輩でもある神谷美恵子の展示をすることになってはじめて、ハンセン病のことを知りました。特に若い世代は知らない人も多いので、編集部からのコメントで少し触れていますが、日本でのハンセン病政策について、これを機に読者にも知ってもらえるよう、もう少し情報を含めてほしかったです。

アンヌ:表紙を見て想像していたものよりファンタジーっぽいお話でした。この宝物は母親の形見で、ドイツのユダヤ人迫害の時のように、実はハンセン氏病の患者のものを取り上げたのではないかと最初は思っていたのですが、違うようですね。宝探しとそれを狙う悪者との戦いというのは実に典型的な冒険ものですが、奇妙に心躍らないのはなぜかと思いながら読み終わりました。深い言葉をぼそりという東洋の仙人じみたオッシュとの奇妙につながらない会話とか、お兄さんのような船員さんとの会話とか、泥棒の正体とか、判然としないものがいろいろあったせいかもしれません。

アカシア:私はおもしろく読みました。p20に「オッシュと、オッシュの前にわたしにさわっただれかをのぞけばだけど、わたしにさわったこともある手はミス・マギーの手だけだった。わたしは、わたしにさわった手をいつも数えていた」という文章があるのですが、ここからクロウが避けられていることが実感として伝わってきました。ただ、クロウ自身も、島の全員が自分を避けているわけじゃない、と考え直す場面もあります。p292「たぶん、一人ずつ別々に、考えるべきなんだろうね」なんていうところです。で、なぜクロウは避けれているのか? どこから来たのか? ペニキース島で何があったのか? クロウの頬の羽のような形のあざはどういう意味を持っているのか、野生保護員は本物なのか、文字が消えかかった手紙は何を語っているのか、など謎がたくさん用意されていて、それを解いていく楽しみもありました。さっき、泥棒がドジなだけで終わっていいのか、という声がありましたが、もともと小者の泥棒なのだと思って読みました。テーマはハンセン病とか、アイデンティティとかいろいろ出ましたが、私は何よりオッシュとクロウとミス・マギーという、背負っている背景がまったく違う血のつながらない3人がひとつの家族になっていくという物語として読みました。そうすると、無駄な部分はなくて、どの箇所も必要なのだと思えました。翻訳で気になったのは、「ビスケット」という言葉がたくさん出てくるのですが、これはアメリカの話なのでスコーンとか丸パンくらいに訳していいんじゃないかな。p107の「眠ったりしたことがない」は、誰かの腕に抱かれて眠ったりしたことがない、という意味なのでしょうから、もう少しつながるように訳したほうがいいかも。p188の帆船のルビなど、誤植がいくつかありました。それから、さっきオッシュとミス・マギーの年齢が書かれていないという声がありましたが、書いてしまうと、じゃあ、この二人は付き合ってもいいよね、とか、あるいはもう恋愛なんかする年齢じゃないだろうと読者が思うかもしれないので、あえて書いてないのかもしれません。

西山:急ぎ読む必要のある本があったせいで、途中で一旦何日か読まない時間をはさんでしまったのですが、そのせいかもしれませんが、表紙とタイトルと最初の部分で得た印象と、続きを一気読みした読後の印象が乖離しています。一気に読み終えて感じたのは妙ななつかしさ。なんだろうこの感じ、と思ったら、たぶん小学生のときにあれこれ読んだ宝探し冒険物語のノリなんですね。ハラハラ・ドキドキ・ヒヤヒヤ。不完全な手紙、宝探し、宝の発見、悪漢の登場、追跡、危機一髪、危機からの解放……。表紙の雰囲気とタイトルはずいぶん違いますけど、そのイメージが残りました。ただ、お兄さんが見つかっていたら、完全にエンタメで終わっていたのですが、彼の行方が知れないのは、過去を断ちたいという彼の意志があったからではないかと考えると、ハンセン病患者への政策と差別のことを思い出させられて、そうだ、ただのドキドキ冒険小説ではなかったのだと我に返った感じでした。あと、島の荒々しくも素朴な暮らしぶりがおもしろかったです。野趣溢れるけれど、あれこれおいしそうでした。

シア:メモしながら読んでいたのですが、それが途中から先が気になってもどかしくなってくるくらい読ませる作品でした。訳文のせいなのかはわかりませんが、淡々とした文章がとても心地良かったです。p36の「十一月のような声だった」、p220の「そよ風が、軽くおじぎするように、吹きぬけていった」など、比喩表現がたくさん出てきますが、そのどれもが美しいものでした。今回に限らず、海外作品は日本の児童書と比べて全体的に大人っぽいものが多い気がしますが、p25「あるものを食べ、ないもののことは考えなかった」や、p46「『人が何かをどうしてするのか? そんなことより、自分自身のことに注意をはらったほうがいい。人のことは人のこと』」のように、時に真理だったり、心に重々しく響くことを書いてくれると感じます。主人公のクロウも、p138「でも、わたしの勘は違うと言っていた。そして、わたしはそれを信じることに決めた」と、非常に意志が強く、12歳にしては大人顔負けの貫禄です。話の内容は『あん』もですが、なんとなく『ハイジ』(ヨハンナ・シュピリ著 岩波書店)みたいだなあと思いながら読んでいました。オッシュが、クロウが離れていくことに怯えるところはおじいさんのようですし、ミス・マギーはロッテンマイヤーのような人かと思っていました。でも、物語後半にはミス・マギーの乙女チックなところが見え隠れしたり、二人がクロウを慈しんで育てていることが表れていて、とても心温まるお話でした。オッシュの過去の話が出てこなかったところも謎めいていて良かったと思います。自分のルーツを知らない人がそのことを気に病む物語はよくありますし、いろいろ見聞きしてきました。私はなんらかの事情で子どもを手放した本当の両親よりも、育ててくれた人の方がよっぽど大変だし、大切なのではないかと思っています。たいていの場合は物語もそこに帰結します。でも、p65の「『後ろを見はじめると、自分の行く先を見のがすかもしれない』自分がどこでいつだれから生まれたのか、正確に知っている人だから言えること」というクロウの一言で、オッシュの言うことはもちろん、クロウの思うことのどちらも腑に落ちました。自分の生まれが不確かな場合、その足元は私が思うよりも不安定なんですね。その苦しみは当事者じゃないと理解できません。ハンセン病になった人もそうですが、無理解が人をバラバラにすると思いました。コロナ禍という、今の世の中でも情報が錯綜したり、未だに論争が続いていたりします。そうやって伝播していく人の恐怖心が伝染病よりも恐ろしいと感じました。と、真面目なことを考えながらも、やっぱり私は島の自然に圧倒されました。満天の星空や、動物たちが自由に歩いている町中など、都会育ちの私にとっては全てが新鮮かつ非日常で楽しかったです。ただ、雨水タンクからの水を清潔と表現したり、服を乾かしただけなのに綺麗だとか、果てはノミがついているかもしれない猫と寝ているというのは……。今回のテーマの違和感をこういうところに抱えてしまいましたが、まさにこれが大自然の中での生活なんですよね。

(2022年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『セカイを科学せよ!』表紙

セカイを科学せよ!

ネズミ:ミックスルーツのことやステレオタイプからの解放など、意欲的なテーマだと思いました。ただ、いろいろなやり方でミジンコの写真を撮ろうといくところからはおもしろく読みましたが、中学生同士のやりとりにはしゃいだ感じがしたり、先生たちがあまりにもひどかったりというところは、ついていきにくかったです。こういうテーマなので、重くならないようにという配慮なのかもしれませんが。

アンヌ:生物の授業が好きだったので、題名といい目次といい、この物語はおもしろいぞと読み始めました。期待通り山口さんの虫好き度合いは普通ではなく魅力的でした。けれども、ミックスルーツの主人公が同調圧力につぶされそうな日本の中学生として、物語が始まっていくのは意外でした。梨々花の母親といい教頭といい、担任も校長も含めて、いい大人が全然出てこない物語でしたね。それだけに主人公たちの成長が気持ちよく読んでいけましたが……。ロシア語のことわざにもう少し解説があってもよかったのではないかと思いましたが、調べるといろいろおもしろくて、楽しむことができました。それから、お父さんがお兄さんに「ロシアには兵役があるぞ」という場面には、どきりとしました。

雪割草:学校の書き方が少しベタには感じましたが、虫という生きものをとりあげているのがおもしろかったです。敬語で話す山口さんや堅物な感じの校長先生は、キャラクターが漫画っぽいとは思いましたが、山口さんが風変わりな「好き」を貫く姿は、気持ちよかったです。自分の見方に固執して人のことを考えていない発言もあった山口さんが、パソコン班の人たちと一緒に研究に取り組んだり、と交流するうちに、相手の立場に立てるようになっていくのが、よく描かれていると思いました。それから、虫を気持ち悪いと言っていた子たちが、ちゃんと観察することで、案外かわいいじゃないと気が付くなど、「偏見」というものの見方について随所で描いているのも巧みだと思いました。

ハル:前回の『スクラッチ』(歌代朔作、あかね書房)と並んで、いま私のなかではトップクラスに好きな1冊です。今回のために読み直せなかった自分にがっかりするくらい好きです。p198で、「もしかして、お兄さん! 自分のことを外来種とか、外来種との雑種って思ってるんですか?」「違いますよっ」「人間は、同じひとつの『種』ですから」と山口さんが言うそのセリフを読んだときのわたしの高揚感! あの高揚感をいつも思い出します。人種とか、多様性とか、偏見とか、重たくなりがちなテーマだし、陰湿にもなりそうですが、それをここまで痛快に、そして読者の好奇心も焚き付けながら書き上げて、すばらしいなと思いました。もちろん、人間の社会は科学では割り切れないところもあるはずですが、「細胞が」とか「種が」とかで突破できるんじゃない? と思わせてくれるところが楽しかったです。

エーデルワイス:とっても楽しく読みました。表紙の絵が主人公たちの人間標本になっているところがおもしろいです。山口葉菜が何かと「ニマニマ笑う」表現がお気に入りです。
葉菜は虫女子ですが、小さい頃子どもはたいてい虫好きのように思います。ダンゴムシやミミズなどを触って。それがだんだん好きな子と嫌いな子に分かれてしまう。特に女の子は好きでも周りに併せて「虫キャー!」と、虫嫌いキャラになるのかもしれません。
ロシアの格言興味深いです。人間はホモ・サピエンス……の件は感動しました。

マリオカート: 昨年読みました。今回は再読できなかったので、当時書いた感想を話したいと思います。全体的にストーリー展開はユニークでおもしろく、引き込まれました。虫やマイナーな生物の話のなかに、人間のミックスルーツなどの話が組み合わされていますね。印象的な言葉が多く、ロシア語のよくわかるような、わからないようなことわざが、ちょいちょい入ってくるのも興味深かったです。ただ、敢えて言うと、物語の仕掛けを作ったときの力技な部分のしわ寄せが、全部、山口アビゲイル葉奈さんに行っている気がします。キャラとして、そんな子いるかなぁ、という若干の不自然さをまとっているように思いました。

まめじか:葉奈は生きものの分類にこだわっているわけですが、人間というのは、分類できない複雑さをもっています。それは、科学部のメンバーをはじめ登場人物のいろんな面が描かれることで、主人公のミハイルにも読者にもだんだんわかってきます。「人種」は社会的に創られた概念だという考え方もありますが、この本には、人間はみなホモ・サピエンス種なのだとはっきり書かれていますね。ちょっと気になったのは、実は研究発表はしなくてよくて、研究テーマさえ決めればよかったというオチです。校長はブツブツとつぶやくようなしゃべり方で、聞きとりにくかったと書いてあるものの、p148には「研究成果が出ることを期待しています」とあるので。ミハイルたちにはそういうふうに聞こえたということなのかもしれませんが、若干無理があるような。

シア:この本、とてもおもしろかったです。ラストの「他人の言うことにとらわれるな」というロシア語のことわざに全てが詰まっていると感じました。共感性というものが生活の軸になっている、今の子どもたちや社会をしっかりと表現していると思いました。ルーツに揺れる主人公たちの気持ちもていねいに描かれていて、第一印象が大事だとか、人は見た目が9割だとか言うイメージ先行型の考えを持っている人を柔軟にしてくれそうです。話の展開やキャラクターたち、そして読後感も良いので、中高生にぜひ読んでほしいと思います。JBBYのおすすめ本選定でほぼ満点を取った本というのもうなずけます。生徒たちがパソコンを使えないというのもリアルでした。今、学校で配布しているのもタブレットだし、保護者ですらスマホ中心の生活に移っているので、パソコンが家にない子もいるんですよね。小学校でパソコンの授業が必修化しましたが、若い教員やベテランでもパソコンが使えなかったりしますし、どうなることやら。それにしても、保護者にしても誰にしても、意見を言いやすい世の中になったと思います。ただ、それは意見というよりは言ってもいい相手に放つ言葉という感じがします。今の時代、共感を持たれやすい言葉を使うことが求められていて、ミハイルのように周りに合わせることが重要だと思う子が多くなりました。だから良いとは言えませんが、ミハイルの生き方は日本社会、こと学校では間違えていないし、梨々花がこんなにいろいろ言えるのは周りに受け入れられているからだと思います。でも、ミハイル本人の思いとは裏腹に今後彼は顔で受け入れられていきそうですね。理不尽が横行しがちな義務教育を乗り切れば、あとは顔面偏差値がものをいう世界でもありますから。何を言ったかではなく、誰が言ったかというところを重視されがちな世の中ですし。ユーリ兄ちゃんも日本にいればいいのになあ。個人的にすごく良かったのはp179の「俺たちは意味不明に張り切った」というところで、自分で決めた納得のいく目標が出来れば、この頃の子ってそれこそ意味不明に頑張れるんですよね。学校に限らず、そういう機会や選択肢を増やすことが大事だと思います。気になったのは蚊のところですね。p125で「誰かが、わざとはずしたんじゃなくて」と言っていますが、これはわざとと言えるのではないかと。根底に悪意が完全にないわけではないんじゃないかなって。悪意ある風評によって、「肝試し」「魔界」というマイナスな印象を持っているわけだし。それを否定せずにいること自体、悪意と言えるのではないでしょうか。そもそも忍び込むということ自体まずいですよね。謝ってすむとか、中1だからという風潮は良くないと思います。虫めがねを隠した子たちも含めて、軽い気持ちのいたずらがどういうことになるのか、ここで教師の出番のはずなのに何もフォローがないのが気になりました。嫌な教師や悪いことをした子たちが物語を展開するだけの道具になっていることが残念です。メグちゃんも新人だとしてもイライラするレベルです。それに生徒用(しかも科学部)のパソコンなのにノートパソコンで、しかも防犯用に固定もされていないなんて、この学校の危機管理はどうなっているのか問いたいくらいです。他にも部活動や教員関連で問題にしたい部分も散見されましたが、前回わりと散々言ったのでもういいかなって感じです。

アカシア:ユーモラスに問題を展開させていくという意味で『フラダン』(古内一絵著 小峰書店/小学館文庫)を思い出しながら読みました。あっちは高校生が主人公なので、もっと心理的には複雑なんですけど。おもしろくする工夫はいろいろあって、p11のミハイルが作ったチラシですが、不必要なアキがあったり、点が2つあったりなど、わざと間違いがあるままに出しています。p79の最後の文章とか、p122のボウフラのネットをはずして謝りにきた中1の男の子たちの描写とか、父親はこの人だと言って葉奈の母親がウィル・スミスの写真を見せるところだとか、笑える文章も随所にありました。ミハイルは考え方も話し方も日本的なんだけど、ところどころにロシア語のことわざがはさんであって、「あ、ミハイルのお母さんはロシア人だった。ダブルルーツの子だった」と思い起こさせてくれます。空気を読むことばかり気にして無難に世渡りしようと思っているミハイルに対し、空気を読むことに興味がない葉奈。両方外国ルーツも持つという共通項がありながら正反対の主人公を出しているのがおもしろいですねえ。そして、ステレオタイプに考える人たちと、それに反発するミックスルーツの人だけではなく、p110で「もっと深刻な悩みを持ってる人はいっぱいいるんじゃないかな。不治の病とか、親に虐待されてるとか、すんごい貧乏だとか」「こっちもいそがしいんだからさ。な、いちいち甘えんな」などと言ってしまう仁のようなキャラクターも出してくるので、読者も複合的な思考を迫られます。仁の存在はけっこう大きくて、その影響もあってミハイルも兄に対して「つらいのは自分だけみたいな顔しやがって。十八にもなって情けねーんだよ! 誰だって悩みのひとつやふたつくらいあるだろ。俺だってなー」(p194)という言葉をぶつけるわけですが、兄が本当に苦しげにギュッと拳を握りしめていることに気づいてハッとします。ここで、ミハイルは(そして読者も)さらに複雑な思考を獲得できそうです。山口葉奈の小動物についての蘊蓄も、ミジンコの心拍数をどう計測するかを考えていく過程も、おもしろかったですし、他者と合わせようとしない葉奈の存在そのものも、葉奈の発言も小気味よかったです。

ANNE:この会に初めて参加させていただきました。皆さんの感想が本当にそれぞれでおもしろいですね。私は2009年まで学校図書館にいましたが、当時の中学生はパソコンをもっと使いこなしていたイメージがあります。この十数年で子どもたちのIT環境もずいぶん変化してるんだなぁと改めて思いました。個性豊かな登場人物の中でも印象に残ったのは、主人公ミハイルの兄ユーリです。なかなか自分のアイディンティティを見いだせず、バイトもうまくいかない、いっそロシアに行って暮らそうかなどと考えているユーリの存在がこの物語の大きなキーワードになっているように思いました。ロシアで暮らしたいという長男に向かって母が言う「ロシアには徴兵制度があるのよ」という言葉が、現在の社会情勢とも相まって大変心に残りました。

しじみ71個分:この本はとてもおもしろかったのですが、残念なことに最初の出会いで失敗してしまいました。研究会の課題本になっていて、まだ読んでいないときに、先に人の意見を聞いてしまったんですね。なので、その印象が強くて…。多くの研究会参加者がおもしろいと言っていたのですが、葉菜の外見的な特徴で彼女のルーツについて表現しているという点で、こういった表現は既に海外では受け入れられないだろうという指摘もありました。なので、その印象に引きずられて読んでしまったかもしれません。でも、自分で読んでみたら、テーマも大変に挑戦的ですし、お話の内容もテンポも軽快で明るいですし読みやすく、やっぱり物語の作り方が非常にお上手だなと思いました。すべてのキャラクターも個性がはっきりしていてとっても読みやすいです。ただ、葉菜の「コーヒー色の肌」とか、「紅茶色」とか複数回出てくるので、キャラクターの紹介が既に終わっている段階だったら、肌の色についてはそんなに何回も記述しなくてもいいんじゃないかと思ったところはありました。また、アフリカにルーツのある人たちはバスケがうまいとか、そういったステレオタイプなイメージを破るために、あえて正反対の、虫好きの、運動が得意ではない人物を立ててきたおもしろさはあるのですが、それがある意味、逆にステレオタイプになっているかもしれないなとも、ちょっと感じてしまいました。ですが、後半にミハイルや葉菜のルーツの問題は置いておいて、生物班の存続のために、みんながミジンコの心拍数をどうやって計測するかについて、実験してトライアンドエラーを繰り返すあたりの場面はとても新鮮で、科学的な視点を持つことの重要性やおもしろさを伝えてくれましたし、葉菜のホモ・サピエンスについての考え方に表れているように、偏見とか先入観、思い込みといったものを科学的な視点で乗り越えていくこともできるんだと気づかせてくれ、読んで明るい希望も湧いてきました。

ルパン:おもしろく読みました。はじめ、「なんだ、部活ものか」という感じで、大仰なタイトルに合わないんじゃ、と思ったのですが、後半からぐいぐい来て、さいごはこのタイトルがぴたりとおさまりました。普通だったら腫れ物にさわるように避けてこられたようなテーマを正面から取り上げていて、すごいな、と思いました。しかも、誰も傷つけずにデリケートな問題に向かい合うことに成功している。「国際児童」「こじらせ系ハーフ」「コーヒー色の肌」、しまいには「北方領土をどっかの国からまもらなきゃ」まで言っちゃって、まさに「あっぱれ」です。

しじみ71個分:ネットで、バスケのオコエ桃仁花選手や、八村阿蓮選手が、日常的にTwitterなどで人種差別を受けているという記事を読んだり、自らのアイデンティティについて苦悩する八村選手の短編映画などを見たりしました。彼らに対して投げかけられた差別発言は目を覆うばかりの酷さです。この本は、そういった差別意識を乗り越える一つの方法を提示しているように思いますし、気持ちよく読んで、ミックスルーツ問題について考えるきっかけを得ることができると思うのですが、一方で、その前に、本当にひどい差別が社会に横行している事実や、差別で傷ついている人がいることを知らせる必要があるとも感じました。自分では気付かない差別意識が自分の中にあるのではないかと常に問いかけることを伝えてくれるような、そんな本もあったらいいなと思います。

アカシア:日本には差別がないと思っている人は多いんですけど、そんなことはないですよね。私は、若い時に反アパルトヘイト運動をやっていた方から、「子どもが好奇心をもって、アフリカ系の人の髪の毛にさわろうとしたりするのは差別ではない。それを差別だからとやめさせようとすると、見て見ないふりばかりするようになってしまう」と聞いて、なるほどと思ったことがあります。自戒を込めていうと、日本は、差別してないと思っている人でも、アフリカ系ならダンスがうまいだろうとか身体能力がすごいだろうなどとステレオタイプで見る場合が多いし、見て見ないふりの人も多いと思う。

西山:最後まで再読しきれなかったのですが、やっぱりおもしろかったです。「科学」の取り込み方が絶妙! 生きものの分類に対する興味とミックスルーツの自分の問題がかっちりはまっている。情緒的に「差別はいけません」「いじめはいけません」と説くより、よほど説得力があって、同調圧力のうっとうしい壁に風穴を開けてくれるのではないかと思います。課題図書にもなって、多くの中学生の手に取られることは喜ばしいと思いました。ボウフラのネットが外された事件も、山口さんの「よかった」「誰かが、わざとはずしたんじゃなくて」というつぶやきに、ミハイル同様「悪意というものがなかったことに救われた気持ち」(p125)になりました。この展開を結構大事なメッセージだと思っています。あと、ロシアのことわざがキュートですね。ロシアのウクライナ侵攻の前にこの作品が出ていてよかったと思います。ロシア人を、そういう文化を持っている人たちなんだ知っていることが、妙に重要になってしまったと感じています。

(2022年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『5番レーン』表紙

5番レーン

西山:本作りはきれいだけど、どうにも読みにくくて入って行けませんでした。冒頭の3行ですでにつまずいて……。「ナルは5番のスタート台にあがった。……ひとつだけちがったのは、ナルのレーンが5番じゃなかったということ」タイムが速い順に4番、5番なのかということがなんとなくわかって、なんとか理解はしましたが……。部活や学外のスポーツクラブの在り方が日本と全く違うのだなと、こういうことを知ることができるのが翻訳作品のおもしろさだなとは思いました。

コアラ:おもしろかったです。ただ、韓国のことをあまり知らなくて、いろいろわからないまま読み進めて、いろいろひっかかりながら、少しずつわかっていく、という感じで読みました。名前では、誰がどういう人なのかわからなくて、例えば、主人公のナルと仲のいいスンナムについては、p23で「オレが買った」とあったので、男子だったのかとようやくわかりました。年齢と学年についても、最初のほうで、小学校の水泳部でナルは小学6年生と出てきますが、p19の最後のほうで13歳となっています。日本でいうと中学1、2年生かと思いましたが、p44の中ほどの括弧で「(韓国は生まれたときを一歳とする数え年)」とあって、結局日本と同じ、小学6年生の12歳だとわかりました。これがわかるまで、年齢と学年はひっかかりになっていました。あと、小学校の水泳部とありますが、日本でイメージするような、ただの学校のクラブ活動でなく、オリンピックを目指す選手がお互い切磋琢磨するような、すごくハイレベルなところだとわかってきます。それから、水泳のこともよく知らなかったので、5番レーンの意味もよくわからないままでした。たぶん、4番レーンが予選で1位だった人、5番レーンが予選で2位だった人、ということなのかな、とは思いましたが、はっきりとは書いていなかったように思います。読み飛ばしてしまったかもしれません。それでも、いろいろわかってくると、すごくおもしろくなったし、p132の3行目の恋の始まりの表現など、すてきな表現がいくつもありました。ただ、どちらかというと大人びた表現のある物語なのに、絵がとても幼く感じられて、そこに違和感を感じました。絵が全部カラーで贅沢なつくりだし、きれいな本だとは思います。

アマリリス:ひたむきなスポーツ小説かと思ったら、ナルが水着を盗むシーンがあって、そっちの方へ行くのか! と度肝を抜かれました。そこからの展開は非常に読み応えがありました。幼馴染のスンナムが実はチョヒと付き合い始めていた、というオチもおもしろかったですね。チョヒが、もっとイヤな子なのかと思ったら意外と素敵なライバルとして描かれていたのが印象深かったです。子どもたちがそれぞれ、過去に盗んだものの話をして主人公を励ますのもよかったと思います。ただ文章自体は、ツッコミどころが多い気がしました。以前、すんみさんの別の翻訳を読んだときはスムーズに楽しめたので、今回の作品は原文に問題があるのでしょうか。特に気になったのは、三人称のブレ。ナルとテヨンの視点が、章ごと、段落ごとに入れ替わるぶんにはいいのですが、1行ごとにブレている場面がありました。あと、最初にチョヒの水着の描写があったとき、色は書いてなかったように思うのですが、途中から急に「ピンクの水着」と出てくるので、同じ水着の話をしているのか、遡って確認作業をしなくてはなりませんでした。午後の練習時間の長さもはっきりわかりづらいんですよね。放課後に練習を始めるけれど、毎日夕方6時に公園で月を見ることはできるなら、練習時間は短いのかしら、と気になりました。ところでカラーのイラストが文中にたくさんあるって素敵ですよね。これ、印刷のコストはかなり高いのではないでしょうか。

ニャニャンガ:当初は一部の挿絵を使う予定だったのが、すばらしい絵なので、すべての挿絵を使うために担当編集者が頑張られたと伺っています。

シア:冒頭の「テイク・ユア・マーク」の一文が真っ先に目に飛び込んできて、クールさにしびれました。訳さずにそのままなんですね。よく文章内でフルネームで呼ばれていますが、これはどういう意味合いなんでしょう? 日本やアメリカではフルネームはわりとネガティブな印象なので不思議でした。物語の内容以前に、国の教育レベルが全然違うことに衝撃を受けました。PISA調査でも結果は出ていましたが、日本は世界から完全に後れを取っていることを改めて突き付けられました。小学生のうちからこんな高度な特別チームで一生懸命練習をしていて、中学に入る前の時点でふるい落とされる……それが国全体でのレベルを上げるということなんでしょうね。p 221「国旗が描かれた名札」をつけるなど、強化選手でもないのに仰天なのですが、国を挙げて教育しているんだなと感じました。『スクラッチ』を読んでからこちらを読んだので、余計に日本の部活システムが子どもだましに思えました。部活なんかでお茶を濁しているのにオリンピックでメダルだなんて、日本は負けましたと言っているようなものです。日本でもプロを目指している子はそもそも部活には入らずに、地域のチームに所属しています。素人の教員(ほぼ無償)が指導する部活なんていります? 熱い思い出だけじゃ、世界と肩を並べる力になりませんよ。この作品に出てくるコーチは精神的な暑苦しさがなくて冷静でまさにプロです。揺れ動く子どもたちに余計な口出しもあまりしません。青少年育成のために運動をさせるなどという名目もありますが、世界を見据えるなら早急に考え直していただきたいです。部活動というものにメスを入れるために、学校関係者はぜひ『スクラッチ』とあわせて読んでほしいと思いました。とは言ったものの、小学生なのに古典的な恋愛模様を繰り広げていて、さすが韓ドラの国だと笑ってしまいました。挿絵はかわいらしいのに、トレンディドラマのようなシーンの数々に少々居心地が悪くなります。水着事件の際、一生を棒に振る覚悟で大騒ぎするような年齢相応の子どもなのに、色恋沙汰はレベルが高く、韓国は本当にいろいろ進んでいるなと思いました。

アカシア:こう来たか、と、私はまず本づくりに感動しました。新しい風が吹いてきた感じがします。絵やレイアウトもすばらしいです。韓国は、児童書に対しての国のバックアップがすごいんですよ。それで、こんなに勢いがあるんでしょうか。文章にはそんなにひっかかりませんでしたね。小学校6年生らしい子どもたちが登場して、その心理がとてもうまく書かれています。おとなは、出来心で盗ってしまったなら謝って早く返せばいいじゃないって思うけど、この年齢の子どもだから悩むんですね。恋愛も初々しい感じだし。p111に「だったらお姉ちゃんもいかせない、とアタシが水着をかくしたりしたから」は、みごとな伏線になっていますね。

サークルK:みなさんおっしゃっているように、たくさんの挿絵がとても素敵でページをめくるのが楽しかったです。全部カラーなんて贅沢ですよね。表紙をめくった見返しのところが水玉で(裏の見返しは緑色の水玉に変えてあって、おしゃれすぎます!)さわやかなソーダ水のようです。放課後の水泳部は決して甘いものではありませんが、友達との関係やほのかな恋心などが、重たくなりすぎず展開していくことを示してくれているみたいでした。私が特に気に入っているのは、ナルの姉ボドゥルです。水泳から飛び込みに競技変更した姉に対しナルは納得がいかず、ひどい言葉で姉をなじりますがそんな妹に対して素敵な言葉で今の自分の気持ちを語ります。「競技をやめたって世界は終わらない」(p192)、「あたしはやれることを全部やったから、もう心残りがないの……」(p193)、「水に落ちてるわけじゃないの。……自分で飛んでるの」(p194)、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてる事じゃなくて、飛んでることになるわけだから」(同)、これらの言葉はこの作品にとどまらず、手帳に書き留めておきたいくらいの珠玉の言葉と言えるでしょう。「飛び込み」は競技のひとつではありますが、いわゆる「飛び込み」は「死」を連想させる言葉にもなりえます。この本を手に取る子どもたちが、ボドゥルの前向きな「落ちてるんじゃなくて飛んでるんだ」という言葉に救われると良いなあとも思います。また、ナルの友だちテヤンが書く手紙(p 210)にある「僕はいつもナルの味方だよ。ナルが自分の味方になれないときでもね。わかった?」という言葉もこれ以上の励ましはないほどの温かい心のこもったもので(ラブレターと言ってしまっては陳腐な表現になってしまうので、あえてそうは言いたくないのですが)、落ち込んでいる人にはこんな言葉をかけてあげられる人になりたいものだ、と思いました。最後に、この本の中で扱われているテーマの一つに「成長期の子どもがはまり込むスポーツの弊害」もあるような気がします。最近読んだ平尾剛氏のコラムを思い起こしましたので以下をご参照ください。「勝つたびに『俺は特別だ』と思い込む…巨人・坂本勇人選手のような『非常識なスポーツバカ』が絶えないワケ」(PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/63326?page=1 2022年11月14日15:00)

アンヌ:まず挿絵が素晴らしいなと思いましたが、人物については線が柔らかすぎて、体形がスポーツマンというより、ふんにゃりして幼い気がしました。実は私は水泳部に少しだけいたことがあるので、主人公からプールのにおいがしたり、コーチが、p124で「一番遠くにある水を引っ張ってくると考えて」というところなど聞き覚えがある気がして、懐かしい気持ちがしました。p70のお姉さんがサイダーで飛び込みをたとえるところなど、想像できて美しいです。韓国と日本との部活の意味の違いとかに興味を持って読み進んでいたのですが、ナルが自分と勝ち負けだけにこだわっている子なので、だんだん飽きてきてしまいました。それでも、周囲の人々はみんな優しく、彼女を見守っていてくれるおかげで物語は進んでいきますが、もう一つ釈然としないまま、スポーツマンとして成長していこうというナルの意思が語られて終わったなあという感じでした。

ネズミ:私は最初からナルのキャラクターにひきつけられて読みました。水泳のことばかり考えていたナルが、テヤンが現れたことや、姉の変化などを通して少しずつ変わっていく微妙な心理が描かれていてとてもよかったです。はしばしの描き方もよかったです。p104の三日月を見るシーンで、「ああ、でも……月に行っても泳げる?」とナルが言い、テヤンが宇宙の知識を出してくるところ、それぞれの性格が会話の中にそれとなくにじみでています。p133の1行目「いいよ、いいね、どうしよう。このうちどれが、いまの気持ちにぴったりなのかがわからない」と思って、結局スタンプを送るなど、心の動きがうまく表現されているなと。

エーデルワイス:表紙、挿絵が水色と黄緑色を基調とした綺麗な本です。読む前にページをめくって楽しみました。以前リモートの「オランダを楽しむ会」に参加してオランダと日本の小学校教育の違いを丁寧に説明していただいて、どちらが良いとか悪いとかではない、というお話が心に残っていましたので、『5番レーン』を読んで、韓国と日本の教育や部活の違いを考えてしまいました。小学生のまだ体ができていないときに、過酷なトレーニングはどうなのだろうか? 英才教育も大事だけれども、仲間と共に楽しむ部活もいいのではないか? 全国のそんな部活の中から才能のある子たちが出てくるのでは? 世界的バレエコンクールで日本のバレリーナが毎年のように上位に入賞するのは、日本国内に大小たくさんのバレエ教室があるためと聞いたことがあります。子どもたちは楽しんでバレエレッスンしてその中から才能ある子が伸びてくるのだそうです。ナルたちがスマホでやりとりしていますが、日本の小学生はまだスマホは持てないと思うので(それともキッズ携帯?)、どうしても中学生のような設定の物語に思えます。11月15日付日経新聞に「お隣の韓国で、初の絵本が出版されたのは1980年代末。ソウル五輪のころ経済成長をとげ、言論や出版の自由が広がったのが背景だという。日韓の絵本を紹介する、千葉市美術館で開催中の展覧会で知った。大正期から100年超の日本とくらべ歴史の短さに驚く。」(春秋 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65984750V11C22A1MM8000/ 日本経済新聞 2022年11月15日2:00 ※会員限定記事)という記事がありました。韓国での児童書に対する手厚い保護については聞いたことがありますが、なるほどと思いました。

さららん:思うようなタイムを出せず、今までの地位から落ちたカン・ナルは、自分で自分を受け入れられない葛藤を抱えています。そんな閉塞感とは対照的な、透明感のある広々とした空間のある絵が、物語の風穴になっているのかもしれないと思いました。そして幼馴染で水泳部部長のスンナム、親友サラン、転校生で水泳部に入ってくるテヤンをはじめ、群像がよく描けています。焦っているカン・ナルと反対に、テヤンは前向きでマイペース。ナルの姉ボドゥルも、葛藤を経てきたはずなのに、とにかく明るい。ナルの母親も、自己実現のために子どもに何かをさせている親ではありません。そんな周囲の人々が重いテーマの救いになっています。p224で、ナルは苦しい秘密をチームメートに告白しますが、みんなが「とにかくごはんを食べよう」と誘ってくれるところなど典型的です。またテヤンが科学者になりたいと思っていたり、ナルとスンナムとテヤンが公園に1か月通って、月の観察をしたりする章があることで、水泳がテーマの物語に思いがけない奥行が出ています。泳ぐことと空中遊泳の類似など、宇宙への広がりを覚え、気持ちのよい部分だなあと思いました。気になったのは、視点のギアチェンジが時々ぎくしゃくするところです。テヤンと交互に話が進むのかと思いきや、主人公はやはりカン・ナル。ほぼカン・ナルの気持ちに寄り添って読めるのですが、ただその視点が大きく揺れることがあるのです。例えばずっとナルの心理に寄り添った描写だったのに、急に突き放すような「八年の友情に危機がおとずれた」(p45)」という客観描写があって……「八年の友情もこれで終わるのだろうか」と書いてあれば、ついていけたのですが。

ニャニャンガ:ご近所なのに、あまり知らない韓国の学校事情がわかり興味深く読みました。水泳部の女子エース、小6のカン・ナルの目を通して、本気で水泳をすることの厳しさが伝わってきます。ライバルの水着を盗んでしまう場面にはドキドキしましたが、きちんと始末をつけていさぎよかったです。挿絵が豊富にあるおかげで読み進められる読者もいるのではと思いました。

まめじか:物語全体をとおして、ナルは水の中でもがきながら、前へ前へと進もうとします。競泳から飛込に転向した姉が、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてることじゃなくて飛んでることになる」(p194)とナルに語るのが、心に響きました。ボーイフレンドのテヤンやチームメイトとの関わりもよく描かれていますし、あたたかみのある絵がいいですねえ。最後の行にある「見てろ」は、日本語で読むと少し強いというか、闘争心をストレートに感じました。

ハル:私は、何人かの方がおっしゃっていたような、大人っぽさは感じませんでした。恋愛も、初恋の初々しい範囲かなと思います。それに、大人の私でも、もし自分がライバルの水着をとってきちゃったとしたらと考えると、それをいろいろ言いつくろって自然に返せる自信はないなぁ。シューズとかラケットとかだったらまだ「間違えちゃった」でごまかせるかもしれないけれど。なので、ナルが「もう水泳もできないかもしれない」というくらいに追い詰められたのも理解できます。全体的にはいいお話だったけれど、デビュー作だからなのか、皆さんがおっしゃるように、読みにくいところはあって、もう少しブラッシュアップできそうだなと思いました。そもそも、4番レーンと5番レーンの説明ってありましたっけ? 予選でいちばん速い子が4番レーンを泳げるんですよね? たぶん。その説明は、必要だったと思います。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『スクラッチ』表紙

スクラッチ

まめじか:不要不急という言葉が押しつける我慢、大人が求めがちなものわかりのよさに、中学生が全力で抗う様子が頼もしく、気持ちよく読みました。災害やコロナなど、人生にはいろんなことがありますよね。思いがけないところから墨が降ってきて絵を汚されちゃったりもするし。でも、なんど闇が訪れても、光さす暁の瞬間は必ずあって、それはこの手でつくっていける、浮かびあがらせていけるというのに、ぐっときました。主人公たちが、ぜんぶ人になんとかしてもらおうとか、だれかのせいにするとかじゃないから、応援したくなるんですね。鈴音はディズニーランドに行こうとしている友人を非難したことで、それは帰省した姉を避ける近所の人と同じだと諭されて反省していましたが、そうやって自分のことを省みたり、千暁(かずあき)が絵を通して自分と向きあったりする様が、すがすがしかった。鈴音がすぐに泣いたり怒ったりして、生の感情をストレートに表せるのに対し、千暁はいつも冷静で、人との距離をはかりかねているようです。感情をむきだしにした鈴音の絵と、千暁が洪水のあと避難所で暗い感情を押し殺し、鮮やかなクレヨンで描いたタンポポの絵の対比が、見事だなあと。若干気になったのは、登場人物がみんないい人というのと、手の皮がむけるような過酷なトレーニングは、今の中学では行き過ぎた部活指導にあたり、指導として認められないのではないかということです。

シア:そういう指導の仕方は今の時代アウトですね。でも、残念なことにこういう学校がないとは言い切れないので、今後の部活動の在り方が問われますね。

まめじか:p. 3の「肌色」という言葉は、使わないほうがいいのでは……。「そんなキャラやったっけみのり?」(p 73)、「なんだそれふつうにひどい男じゃないかって思ったけれど」(p104)、「千暁みたいに頭よくないよどうせ」(p277)などは、読点がないのが少し気になりましたが、このほうが一気に読めて勢いが出るのかな。p191の千暁の章で「二宮(みのり)さん」とあるのは、千暁の心の声として「みのり」を括弧書きにしてるのか、それとも二宮さんがみのりのことだと、読者にわかるようにしているのか?

ハル:私はこの「(みのり)さん」の感じ、わかるなぁ。こういう子、いませんか? 親しみは感じているけれど、名前呼びするのは気後れするから、わざわざ括弧をつけて呼ぶ。ちょっと二次元的な表現なのかな。

ニャニャンガ:千暁にとって、この時点でまだ下の名前で呼ぶほどには打ち解けていない相手なので、括弧付けで名前を入れたのだと思いました。

まめじか:「べたべたとネットをくぐって」(p53)、「きゅっと僕を見た」(p104)、「きゅっと姿勢を正して」(p266)、「ペンギンのようにでべでべとかけて」(p149)、「雲が空をごんごん流れてきて」(p331)など、表現が独特ですね。「片手でわしっとつかんで」(p105)、「目元をにこにこさせて」(p109)などは日本語として正しいのかわかりませんが、そういうことを気にしすぎると、表現として窮屈になるのでしょうね。

アマリリス:一人称で書かれているので、この登場人物自身のボキャブラリーなのだと認識していました。だから、違和感なく読めましたよ。

ハル:久しぶりに、っていうと語弊があるかもしれませんが、久しぶりにいいYAを読んだなぁという読後感に浸りました。中学3年生の内面が、実際にそうなのか、本当のところはわからないけれど、表現されているこの子たちの心情や行動が、すべて真に迫っている、圧倒的なリアリティを感じました。体感をともなって想像したり、共感を覚えたりしながら読むことができました。もしかしたら、主人公たちと同世代の読者には、ちょっと長かったかなぁというのは少し気になりましたが、ぜひ、中学生、高校生に読んでもらいたい本です。

ニャニャンガ:とてもおもしろく、ほぼ一気読みでした。スカッと気持ちのいい青春物語という印象です。題名の「スクラッチ」の意味がわかってからは、さらに物語に入り込みました。じつは表紙の絵があまり好みでなかったために読んでいなかったので、今回みんなで読む本になってよかったです。翻訳作品にはない日本語の自由さを感じたので、翻訳者としてうらやましく思いました。p237「によによ笑う」、p247「す、っと、はっかのような空気が僕の肺に流れこむ」などの表現がとくに印象に残りました。またp255の絵を描くシーンにはドキドキしました。千暁が転校してきた理由や、その後、人と深くかかわりをもってこなかった理由などがわかり、鈴音と文菜、健斗との交流を経て少しずつ心がほぐれていくようすがよかったです。千暁の読み方がなかなか覚えられなかったけれど、千の暁という名前が物語とつながり、ぞくぞくしました。最後は、浸水被害の被災を乗りこえる家族の姿に感動しました。

エーデルワイス:とてもよかったです。今どきの中学生が、ため口で本音を語り、清々しい。コロナ禍になって3年ですが、子どもたちにとって1か月でも1日でもかけがえのない日々です。制限や我慢の連続の影響が今後どのようにでるのだろうかと心配です。主人公の鈴音、千暁たち中学生のいらだち、希望がストレートに伝わりました。印象的な場面はたくさんありますが、鈴音の中学生活での最後のバレーボールの試合終了後の場面は青春! でした。千暁が両親と美術館へ行った帰り、カップラーメンを食べたいと提案すると、いつも完璧に美味しい食事をつくる母が賛成して震災直後よく食べていた銘柄を言うところは、震災を体験して心に傷を負いながらそれを言葉にしてこなかった家族がようやく復活した素敵な場面だと思いました。

ネズミ:コロナ時代の中学生活を描いていて、もやもやのたまった感じがよく出ていると思いました。中学生同士のやりとりは、中学生は「あるある」という感じで読むのかもしれませんが、この会話がリアルなのか、戯画化や誇張があるのか、私には判断がつかず、ちょっとやかましく感じられて、途中はとばして読んだところも。あと、途中で説明的と感じられるところもありました。千暁は賢くて、自分で説明をつけていくだけかもしれませんが、p160の4行目で「この病気は仮病だと疑われて理解されにくいこともある、みたいなこともレポートされていたっけ、と思い出す」、p161の6行目「僕自身も親が、特にお母さんが小さい子どもに注意するようにいまだに口うるさいことにうんざりすることもあったけれど……」とか、この子の説明ではなく、物語でわからせてくれたらいいのになと。

アンヌ:よくこのコロナ下の現状と被災者の気持ちというのを描いてくれたなと思いました。きれいな絵を描くことで、母親の期待に添い、過去から目を背け自分を押し殺していた千暁が自分自身を取り戻し、真の創作衝動を取り戻す。それに対して、並行した主人公であるはずの鈴音は魅力的な個性なのに、狂言回し的役割なのが残念です。ただ、千暁の冷静さが、おもしろさを阻んでいる気がしました。あまりに自分や家族を冷静に分析しすぎで、中学生というより作者が顔を出して語っているのをずっと聞いているような気がしました。恋愛的要素を実に繊細に排除しているのも少し不思議でした。

アカシア:私はアンヌさんと違う風にとっていました。千暁はコミュニケーション障害を持っていることを自覚していて、一つ一つをピンダウンしていかないと次に進めないんだと思うんです。それで、友だちもできにくいので、親もそれを心配しているわけですよね。だから、必ずしも理想的な家族じゃないと思うんです。それと、最初ざっと読んだときは、美術の先生が男性だと思ってたんですが、もう一度ちゃんと読んだら、女性だったのにびっくり。全体に、生きのいい日本語ですよね。翻訳ではなかなかこういうわけにはいきませんね。このくらい自由な日本語で翻訳もできるといいんですけど。リアルにコミュニケーションを取った時、人は他者の立っているところに気づき、その人ならではの困難に気づき、自分をより客観的に見ることができるようになっていくんですね。最後の部分ですが、はじめは「私は行くんだ」ですが、次は「私たちは、行くんだ」になっているのが、象徴的ですね。好感をもって、おもしろく読みました。

シア:気になっていた本だったので今回読めてよかったです。スクラッチ技法も好きなので楽しく読めました。流行りの言葉遣いや物、時代を反映したフランクな一人称ものってすぐに古くなるので苦手で、最初は抵抗があったんですがリズムのよい文章でテンポよく読めました。ラストに天気が自分の気持ちに寄り添わないというのもよかったです。虹がかかるとか、心地よい風とか締めの定型みたいなものを壊してもらえてすっきりしました。そして田舎の広さに憧れました。お庭でバーベキューができるとか、家庭菜園というレベルではないものを毎日食べられるなんて羨ましい限りです。この作品では羽化に例えていましたが、中学生くらいは体も心もさまざまな変化が訪れる年齢ですよね。それを汲み取ったよい成長ストーリーになっていると思いました。今の学校生活や学生に求められるものというのは、理不尽ですが明確な正解があって、それをなぞっていけばなかなかよい生活が送れてしまえるんですよね。そういうことをわかっている子は優等生として優遇され、そのレールに乗れば社会でも無難に過ごせます。でもそのせいで、早くから一芸に秀でるということができません。それが今の日本が世界から一歩、もしくは何歩も遅れ気味になっている原因の一つかもしれないですよね……。という風に、子どもたちの成長の話に関してはとても興味深く読めましたが、教員に関しては世間一般ではまだまだアップデートがされていないと感じました。読んでいてもかなり負担が大きくて、千暁のお母さんが言っていたような「呪いをかけ」られている感じです。教員のプライベートを度外視した、“生徒に寄り添うよい先生”が全体を通して描かれているんです。生徒や保護者にとってはよいことだし、今の世間的にも受け入れられていることなんですが、そういうひとつひとつが現在の教員を追い詰めていると感じます。粉骨砕身、滅私奉公、一人の人間としてではなく“生徒優先の正しい教員として過ごすべき”と価値観を押し付けてきた結果が、今日の教員不足に繋がっていると痛感します。聖職と考えて個人的に行う分にはいいと思います。これもフィクションだし、いいと思います。けれどこれを教員の「正解」として求められてしまうのはかなり苦しいと感じました。

アマリリス:今回、自分のなかでは、まったくノーマークだった2作を読む機会をいただけてよかったです。『スクラッチ』は、非常におもしろいと思いました。最初は、ネット用語的なものを盛り込みすぎて、読みづらく感じたのですが、慣れてくると違和感なく、むしろ心地よく読めました。何年か後に古びてしまうことを恐れないで“今”を切り取っているところに覚悟を感じます。美術やバレーに携わる人の成長を描く青春小説としては、そんなに大きく新しい要素はないと思いますが、コロナ禍の閉塞感が再現されていて、今の子どもたちが親近感を持って読めるお話だなと思いました。表紙が、ぱっと見ただけで岡野賢介さんのイラストだとわかりますね。インパクトがすごい。ただ、読み終わってみると、千暁の絵のイメージと、表紙の絵があまりにも違うので、千暁の絵のタッチに近いものを見てみたかったな、という気もしました。あと、文章の細かい表現がいろいろよかったです。たとえばp195「ふつふつとした炭酸のような笑いが、あとからあとから、体の内側に湧き上がってくる」、p314「俺らが全部やったんスよ。仙ちゃんは漂ってただけ」などがユニークだと思いました。

西山:すっごくおもしろかったです。教員像、仙先生が女性なのがおもしろいと思っていた程度で、出てくる教師たちの働き方は気にせず読んでいましたが、確かにアップデートは大事ですね。抑え込まれた痛みを、痛みとして受け止めることの大切さが書かれていて、『フラダン』(古内一絵/作 小峰書店)を思い出しながら読みました。人物やエピソードがばらけずにきちんとつながっていて、読み終えるのを惜しいと思うほど楽しみました。出だしは、少々エキセントリックな感じが鼻についたのですが、p17の5行目で「マシだマシだと思いながらやり過ごすことは、何の意味があるんだろうな」と出てきたとき、一気にこの作品は信用できるというモードに入りました。「被災っていうのは、ずっと続いていくんだな」(p284、6行目)とか、共感できる価値観や感覚が随所に出てくるだけでなく、p305で鈴音の渾身の一撃が決まって勝つわけですけれど、ページをめくると「でも。これが勝負か? これで勝負決まったって言えるのか?」と続いていて、いろいろ制約はあったけど、やれることはやったよね、めでたしめでたしとまとめなかったところ、中学生たちの悔しさに徹頭徹尾寄り添っていて、本当によかったです。千暁と鈴音、仙先生と高瀬先生のことも恋バナにおとしこまないところもよかったです。読めてよかったです。

コアラ:おもしろく読みました。まず文体がいいと思いました。内容に合っています。内容が本当によくて、p267の最終行に、千暁が描いた絵のことを「2020年の、僕たちの姿だ」とありますが、この作品そのものが、2020年夏の中学生を、コロナ禍の暗闇から削り出すように描いています。最近毎年のように起こっている災害についても描かれていて、2020年という年の姿を作品として残してくれて、作者に「ありがとう」という気持ちでいっぱいになりました。ひとつ気になったのが、浴衣姿の鈴音が下駄を履いているところですが、最近は草履でなく下駄を履くんですね。

一同:浴衣は下駄ですかねえ。

シア:草履は履かないですね。足が痛いので下駄風サンダルなどで済ませることも多いです。

アカシア:この本、カバーをとると、表紙の絵はマスクをしてるんですよ。

シア:凝っていていいですね! 図書館の本なのでわからなかったです。カバーをとったらマスクもとれた、の方が仕掛けとしてはおもしろそうですが。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『シリアからきたバレリーナ』表紙

シリアからきたバレリーナ

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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『パンに書かれた言葉』表紙

パンに書かれた言葉

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『13枚のピンぼけ写真』表紙

13枚のピンボケ写真

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『タブレット・チルドレン』表紙

タブレット・チルドレン

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『りぼんちゃん』表紙

りぼんちゃん

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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『ペイント』表紙

ペイント

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙

サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと

ルパン:全般的にはおもしろかったのですが、シャロンの描かれ方がどうも…リブは、ほかのだれからも仕事をもらえないのに、シャロンだけが雇ってくれるんですよね。信頼もされていた。なのに、シャロンがずいぶん悪者みたいに描かれているのが違和感ありました。それから、この夫婦が離婚してしまうほど決定的な事件が、ジョージの怪我だったというのも「え?」という感じです。この父親と母親、責任のなすりあいして離婚してしまうわけですよね。ジョージはそのことでいっそう傷ついているのではないでしょうか。

ミズタマリ:正直、前半は間延びしているように思いましたが、読後感はとてもよかったです。犬との友情をはじめ、いろんな形の友情、人間関係が描かれています。ギズモ、つまり犬の一人称だと思っていた章が、最後まで読むと、ジョージとリブが書いたお話を分散して載せていたということがわかります。その仕掛けがとてもおもしろかったし、犬の一人称としては人間に寄り過ぎではないかという疑問も解決しました。気になるところはいくつかありました。まず、犬の腎機能の衰えなのですが、こんな急激に悪化するでしょうか。あと、p.123で、ローザは犬の毛のアレルギーなのだと言います。でも、正確には犬アレルギーは、皮脂などに含まれるたんぱく質由来のはずです。なので、ローザがいい加減なことを言う大人なのだというイメージが焼き付き、後半で誠実な人柄とわかって驚きました。また、p.133で、リブが「約束通り、来てくれたか」と言うシーンがあるのですが、これが男っぽくて、リブは女子だと思っていたけれど本当は男子だっけ、と遡って確認してしまいました。あともう1つ、p.331にギズモが語ることとして「ある種類の肉を買い忘れてしまった」とあるのですが、ある種類、という言葉が不自然に思えました。

西山:最初私はなかなかのっていけなかったんですが、p.81でシャロンがギズモにキスされて声をあげて笑う場面で、ああ、この人は本当に犬が好きな人なのだと好感をもって、やっと作品に入れた気がしたのです。ところがどうもそうじゃなかったということが早々に分かって、好きになれるポイントがなくて戸惑ったままでした。いじめっ子側にべったりになってしまったマットにしてもシャロンにしても、日本の創作だったらこれほど切り捨てなかったのではないか、もっとこまやかに彼らのことも嫌いになれない背景がちらりと書き込まれていたのではないかと思うと、そもそも読み方を変えなきゃいけなかったのかなと、テイストの違いを感じます。安楽死の提案には驚いて、不当な感じがしました。後半がばたばた。そこまでの長さと、後半のエンタメ的なドタバタの連続が不釣り合いに感じて、もっと薄くて、勢い良く展開する本でもよかったのに、と思ってしまいました。1つ質問です。リブの人種って、言葉上では書かれていませんが、表紙の絵で有色人種とわかります。あとp.155に肌の黒いリブが登場しますし、あえて言う必要はないとは思うんですけど、どうしてこういうことになっているのでしょう。

ルパン:p.232ページの挿絵、リブですよね? ここだけリブの肌が白いんですが。

アカシア:そこは私も違和感がありました。そこだけ白い肌で、あとはそうじゃないんですよね。

アンヌ:私は、ギズモの話す章をジョージが書いているとしばらく気づかず、漱石の『吾輩は猫である』の犬版だなあと思いながら読んでいました。リブがシャロンをだましたりけなしたりする場面でも、シャロンは実はリブの母親だから平気なんだろうと思ってしまいました。シャロンは解雇するとき恩着せがましいことを言っているけれど、きっと、リブはかなり劣悪な条件で働かされていたんだろうと思います。ジョージのパニック発作の原因が両親のけんかというのはもう一つすっきりしない説明だと思いつつ、とにかく、老犬の割には大活躍のギズモが楽しくて、ジョージの腕の中で眠る最後でほっとしました。私は『ヘリオット先生奮戦記』(ジェイムズ・ヘリオット著 大橋義之訳 早川文庫)が大好きで、あのシリーズでは、獣医である主人公が動物に苦痛を与えないための決断だとして安楽死を行う場面がいくつかあるのですが、今回はあまり必然性がないようで、それを迫る親たちの態度に疑問を感じました。ジョージはきちんと別れの儀式を組んでいるのですものね。

花散里:いじめられっこのジョージと愛犬ギズモの物語はおもしろさが伝わり、子どもたちもとても読みやすいのではないかと思いました。作者はイギリスの学校をまわって文芸創作のワークショップをしているので、子どもたちを見て作品づくりに生かしているのが伝わってくるようでした。後半に向かって、どんどん読ませる構成がとても上手だなと思いました。犬との触れ合いがよく書かれていて、表紙画とともに子どもたちが手に取りやすいのではないかと感じました。この作者の新しい作品、『ぼくたちのスープ運動』(渋谷弘子訳 評論社)も読んでほしいと思います。

まめじか:タイトルは「ギズモにさせてあげたい」となっていますが、丘に登るとか、有名になるとかは、主人公がしたいことですよね。飼い主目線というか、飼い主の思い出づくりのように感じてしまって……。p.59に、「このころから、ジョージは文字を書くのがあまり得意じゃなかった」とあるのですが、ジョージはディスレクシアなのでしょうか? お話はずっと書いているようなのですが。

花散里:パニック障害はあるんですよね。そういうところとつながっているのかな。

アカシア:ディスレクシアではないんじゃない? スペリングが苦手なのかも。

まめじか:p.98で、マットに対して「きみ」という二人称を使っていたり、「こっけい」(p.248)という言葉で表現していたり、13歳らしからぬ言葉づかいなのは、この子が周囲から浮いてるから?

エーデルワイス:日本語の書名は原題とは違うので、翻訳はおもしろいですね。「死ぬまでにしたい10のこと」という映画 がありましが、それもどきでしょうか? 読んでいて想像する部分が多かったです。両親の離婚は、ジョージの事故がきっかけに過ぎず、前々より隙間風が吹いていたのかもしれないし、親友だったマットがこれでもかこれでもかといじめる理由が全くわかりませんでした。ジョージの何か言った一言が気に障ったのかな? それどもジョージが幼すぎたのでしょうか。p.339の12行目「この一瞬を生きるんだよ」はいいですね。雑種犬コンテストの賞金が400ポンド。1ポンドを164.35円に換算すると65,740円になります。確かにジョージにとって大金ですね。

ネズミ:非常にうまい構成の物語でさっと読めましたが、物足りなかったです。ゴールデンビーチに行くことで、めでたしめでたしのように見えるけれども、両親の離婚でパニック障害気味でひとりぼっちというジョージのかかえている問題も、ヤングケアラーとしてのリブの問題も、それで本質的に解決したわけではない気がして、後半は特に都合のよい展開が多く感じられました。エンタメと思いましたが、それにしては言葉が多く、よく読める読者じゃないと読みとおせそうにありませんし。でも、p.230の高い丘から町を見下ろすシーンは好きでした。視野を広げるのって大切だなと。ただ、気にかかったところがところどころにあって、たとえばp.48の「中華料理を注文した」。少し言葉を足さないと、バーベキューができなかったから出前を頼んだと、読者にわからないかもしれません。また、p.190の5行目など数箇所で「いつぶりだろう」は違和感がありました(参加者から「若者言葉だ」という発言あり)。あと、どうかなと思ったのは、ギズモの一人称の部分の文体。人間の年でいえば78歳の老犬なので、私はもっとおじいさんぽい口調になるかなと思ったのですが、書いているのは主にジョージなのでこれでいいのでしょうか。みなさんがどう思ったか、お聞きしたかったです。

アカシア:読む前にネットで梗概をを見たら、ドタバタって書いてあったで、ああ、ドタバタの話なんだなと思って読み始めました。ジャックは、中学生なのに昔のヒーローの衣装を着て犬にも着せて友達のパーティに行ったりするところを読むと、もしかすると発達がゆっくりなのかもしれません。そのジャックが、空気が読めなくて仲間はずれにされたり笑われたりするシリアスな場面と、老犬ギズモがやらかすドタバタな部分の落差はかなりあります。そこをどう評価するかは、人によって違うかと思うのですが、私は子どもの本として絶妙なミックス具合だと思いました。愛犬が高齢で体力もなくなったときに、死ぬまでに何をやりたいかを考えてリストを作り、一つ一つ実現していくというのも、いいですね。ギズモに何かをやらせてあげるというよりは、ギズモと自分で思い出をちゃんと作ろうということなんだと私は理解しました。医者も家族も安楽死を勧めたのに、それを拒否してもっとすばらしい最期を迎えさせてやれたところも好きでした。タイトルですけど、「9のこと」はすわりが悪いので「9つのこと」くらいでいいような。あと、ギズモがコンテストで優勝するとか、悪党を退治するなんていう部分は、ちょっとできすぎかもしれません。

しじみ71個分:前の選書当番のときに、なんとなくエンタメっぽいかと思ってやめた本でしたが、改めてちゃんと読んでみると案外おもしろかったです。犬の看取りの物語なのかと思えば、そこにちゃんと主人公の成長も重ねてあってよかったです。ジョージがみなさんのおっしゃるように、ちょっと発達に遅れのある子なのかなと思うほど、ちょっと幼くて、友だちのマットの心変わりに気付かず、いじめの対象になってしまいますが、ギズモと思い出作りをしながら過ごす中で、もう自分を大事にしない人は友だちでないと思えるようになり、たくましくなっていくのが心に残りました。リブもヤングケアラーで、貧困のせいでいじめられたりもしますが、ギズモの活躍のおかげで行政の支援が受けられるようになってホッとしました。物語の中では、子どもが大怪我をしたからといって離婚にまでなってしまうかなと思ったし、リブがギズモとコンテストに出ると言った時点で、本番にはリブは来ないなと読めてしまうのでありがちかなとも思いましたし、ギズモが強盗の急所にかみついて御用になるとかは、ちょっとご都合主義だなと思いましたが、最後にゴールデンビーチで夕陽を見ながら家族が和解する中ギズモが旅立つというシーンは、ちょっとぐっと来ました。痛快だったのは、ジョージとギズモが仮装してパーティーにいってみんなに笑われて帰るところ。マットの靴の中にギズモが糞をしてしまうのは最高に痛快でしたね。あと、タイトルが「ギズモにさせたい」というより、「ギズモとしたい」の方がしっくりきたんじゃないかなと後から思いました。

さららん:前半では、何度いじわるされてもまったくめげずに、かつては親友だったマットと仲直りできると信じて突き進むジョージに、どうしても共感できませんでした。現実に起きていることと、ジョージの認識の間に差がありすぎて……。「おいおい」と、つっこみを入れながら読んでいたのですが、ジョージには何か障害があって、人の感情を読み取るのが苦手な子なんだと思いなおすと、違う視野が開けてきますね。ともあれp.131で、ジョージがマットと決別する決心をしてくれて、ホッとしました。両親の離婚は自分のせいだと抱え込んでいる部分もあるジョージですが、一方で、なんとかなるさと前向きに行動するところが大きな長所です。リブに助けながら、ギズモが「死ぬまでにやっておきたいリスト」の項目を1つずつ実現させていく。そしてジョージはリブとの友情を深めるなかで、それまで知らなかったいろんなことに気づきはじめる。最後にギズモは死んでしまうけれど、全体として悲しくてたまらない物語にはなっていないところがいいな、と思いました。物語の終盤で、ギズモが泥棒に果敢に食らいついてやっつけるエピソードでは、瀕死のギズモにそんな体力が?と、つっこみを入れたくなりましたが、ともあれ死を迎える愛犬との暮らしをコミカルに明るく描いた、ユニークな物語です。細かい部分をあまり気にせずに読んでいければ、読者の子どもたちも「ギズモと知り合えたぼくは、よりよい人生を勇敢に送っていかなきゃ」(p.359)というジョージの言葉を素直に受け止められるでしょう。

アカシア:シャロンのキャラクター設定が揺れてるんじゃないか、という声がありましたが、最初は笑ってますけど、あとは「うすら笑い」となっているので、一応ちゃんと書いているかな、と思いました。今回のテーマは「アウトローと友だちになる」ですが、この作品でも『スネークダンス』でも、両方ともアウトローは女の子です。どちらも社会に反発を感じて、家族という点では大変なものを抱えていますが、この女の子のアウトローたちが男の子たちを成長させていき、それによって自分たちも少しずつ変わっていくという設定がおもしろいなと思いました。

まめじか:ジョージは「ウルトラボーイとワンダードッグ」のお話をずっと書いていて、そのことはギズモの章にも出てきます。最後にギズモの自伝をリブに見せる場面があるので、つまりそれは、ワンダードッグのお話とは別に、ギズモの自伝も書いていたということですよね?

アカシア:そういえば確かに、そこははっきりしませんね。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『スネークダンス』表紙

スネークダンス

アカシア:とてもおもしろく読みました。イタリアと日本の文化の違いに、人間の生き方を重ねているのがおもしろいですね。同じ建物に住むバスケ仲間には、日本人やイタリア人のほかにインド人、韓国人、スコットランド人などもいて多様なのもいいですね。個人的におもしろいな、と思う表現がいろいろありました。[数をかぞえる単位がヨーロッパは3桁ずつ、日本は4桁ずつ]というところは、そういえばそうだと再認識しましたし、[母語や母国語ではなく母校語がいちばんしっくりくる]とか[日本の男子中高生の一人称は「オレ」]、[大理石の国から、木とたたみの国に来たんだ][イギリスはイタリアより差別が厳しい]、[ローマでは美術館などは無料で入れる]などというところ、著者の視点で私も新たに文化を見直すことができました。著者がふだんイタリアに住んでいる方なので、編集のほうでもう少しアドバイスすればいいのにな、と思うところもありました。たとえばp.11の「もちろんさ。マッテオは日本のアニメ大好きだもんな」は、二人称ではなくマッテオと言っているところが日本的な会話になっていて、さすがと思ったのですが、p.7の「いらないってば。この悪魔め!」は翻訳調ですし、p.120の歩のセリフ「あんがと。あとであたしが取りに来る」は、日本語だと「取りに行く」になるんじゃないかな。それと、p.165の圭人の独白「まっぴらごめん」は、今の子は使わない言葉かもしれません。そうそう、圭人(けいと)という名前ですが、ヨーロッパだとKateが女性名なので男の子にはつけない名前かも。著者はあえてそうなさっているのかもしれませんが。今回のテーマで言うと、アウトローの歩を圭人が惹かれたり否定したりしてとても気がかりな存在になっていく、というのがおもしろいと思いました。

ネズミ:私もとてもおもしろかったです。まず、主人公に寄り添って読んでいけるのがうまいなと思いました。そして、タイトルと表紙を見てダンスの話かと思ったら、そうじゃなくて、ストーリーもどんどん思いがけない展開があって、思ってもみないところに連れていかれます。予想がついてしまう物語も多いなか、自然な形で予想を裏切ってくれて、楽しめました。同じ作者の『アドリブ』(あすなろ書房)は音楽でしたが、この本ではローマの建築や絵の蘊蓄が盛りこまれていて、多分作者が意識的にしているのだと思いますが、10代の読者に新しい世界を受け止めやすい形で差し出しているところも好感を持ちました。

エーデルワイス:表紙のイラストとカバーイラストが違っていてオシャレです。題名の『スネークダンス』とカバー絵で主人公の杏里圭人と山中歩が踊っているので、ダンスの話かと勘違いしました。法隆寺の話になるとは! 圭人が宮大工になろうと意思を固める展開に驚きました。作者が住んでいるイタリアならではの内容で、読みごたえがありました。かつてコロッセオでは公開処刑を行っていたものの、今は死刑を廃止しているイタリア。世界中のどこかで死刑が廃止されると、コロッセオでセレモニーが行われることを本文で初めて知り、感銘を受けました。杏里圭人(あんりけいと)の名前は西洋風ですが、日本に「杏里」という苗字があるのでしょうか? 作者がアンリ・マティスが好きなせい? 終盤、圭人の父親を引き逃げした犯人が逮捕され、圭人の心にやっと平穏をもたらしますが、歩の家庭問題は解決していません。歩を理解してくれるおばあちゃんと古き良き家屋に住んでいますが、愛情を全く感じられない父親、若い義母、母親。続編があるのでしょうか?

まめじか:最初のほうでローマの建築の話が続くのですが、それに十分なページを割いてていねいに描いているから、圭人が建築に興味をもち、やがて宮大工を目指すようになる過程にも説得力がありました。先ほど歩の家庭の問題が解決されないという話がありましたが、こういうふうに親が子どもを養育しようとしないことって、現実の世界にもたくさんありますよね。歩は父親とわかり合えず、圭人は父親をひき逃げ事故で亡くし、ままならない現実にそれぞれ直面している。そこでつぶれてしまうのでなく、人との出会いや、好きなことや夢を、前に進む力に変えていく。レジリエンスというか、逆境の中でもちこたえる力を、五重塔の耐震構造に重ね、スネークダンスという言葉で表現しているのが見事だなあと。日本の景観の問題や、イギリスの差別のことなど、長くイタリアに住んでいる作家の方ならではの視点ですね。視野の広さを感じました。

花散里:ローマの古代建築と東京・下町の建築などの対比の中で物語が展開していくので、とても関心を持って読みました。父親を交通事故で失い、日本に帰らざるをえないときの主人公の心の機微も伝わってきました。日本に帰国してからの歩との出会いも興味深く展開して行き、作品の構成も上手だと思いました。法隆寺や宮大工についてもよく調べられていて、法隆寺の心柱の考え方を「スネークダンス」に繋げているところなどが印象的で読後感がよく、日本の作品のなかでも読み応えがある1冊だと感じました。

コアラ:私もおもしろく読みました。前半にローマのことがたくさん書かれているのがよかったと思います。p.26の後ろから4行目、「数は何語で数える?」以降が特に興味深かったです。圭人が日本に来てからは、歩のしゃべり方に少し違和感がありましたが、アウトローだからこういうしゃべり方もアリかなと思えたら、圭人との会話がおもしろく感じられました。p.131からの「11 心柱ゆらゆらゆらり」の章は特におもしろくて、p.133の最後の歩の発言には、そうそう、とうなずいてしまいました。読んでいて、歩の考え方に染まってしまいそうな勢いがありました。p.216の8行目から10行目については、私も以前、揺れることによって揺れを吸収するという方法を知って衝撃を覚えたので、「背筋がゾゾッとした」というのはよくわかると思いました。この本を読んで初めてこういうことを知った子がいるとしたら、やっぱり驚きがあるのではないかと思います。最後もうまくまとめられていて、子どもにおすすめの本だと思いました。

ミズタマリ:冒頭にタバコを吸うシーンがあって、攻めている児童書だなと、いい意味で驚きました。イタリアの文化、日本との違いを知ることができ、異文化に触れられる作品です。イタリア以外に、イギリスや周辺国のことにも言及していて、興味深く読みました。ただ、説明的に感じられる部分もありました。建造物についての説明が続く場面では、興味を持てない子もいるのではないか、そういう子はページをめくる手が鈍らないか、と、ちょっと気になりました。2人の友情は魅力的だし、最終的に、主人公が希望を見つけて終わるので、読後感はとてもいいです。1箇所だけ気になったところがありました。p.93で、「外見の似た女の子同士がうなずきあう」という場面。主人公が「この二人の名前を覚えるのに苦労しそうだ。」となっています。でも、主人公は写真のような詳細なスケッチを得意にしているのですよね。一般の人が、似ている女子同士、区別がつかないと思っても、主人公はぱっと違いに気づく、というようなキャラクター設定に思えたので、ここは若干矛盾を感じました。

ルパン:いい本だとは思いますが、おもしろかったかどうかというと、ちょっと…。最初の部分に説明が多くて、おもしろくなるまでに時間がかかってしまいました。子どもの読者は最後まで読み通せるでしょうか。すてきだと思った言葉は、p.217の「名をのこさず匠をのこす」です。あと、歩が親元を離れているのに、制服を着なかったり悪いことをしたりして、遠くから親の気をひこうとしているところが何とも切ないと思いました。

アンヌ:前半がずっと美術館やイタリアの遺跡の話で長いけれど、私は言葉だけでここまで景色を表現できるのか、住んでいる人の視点からの案内は違うなとおもしろく読みました。イタリアで温かい人間関係を築いていて、イギリス社会の構造とかを友人を通して知っている圭人が、なぜ日本ではこんなに消極的な姿勢で目立つまいとしているのかは少し不思議でした。先ほど、まめじかさんおっしゃっていたように、この作品は今までの作品よりさらに人物の奥行きが深くなっていて、その点も素晴らしいと思います。例えば、死んだ父親像を生きていた時の思い出だけではなく、本当は絵を描きたかったのじゃないかと考えさせて、もう一つ掘り下げて描いているところとか、歩のおばあちゃんがケイトの嘘を見抜いていた場面で、あれ?と思っていたら、あとからこの人は実は塾の先生で、ただ者じゃない人だったとかわかるところとか、ですね。また、建物の構造も、授業で見学に行ったと聞いた形でうまく説明されていると思いました。それにしても、法隆寺の構造とスネークダンスがつながるとは意外でした。歩のペイントが、いたずら書きからシャッターペイントに変わり、町の人とつながりが出てくるところ、それによって圭人も変わっていって最後に大声で叫ぶところなど、読後感もよかったです。

アカシア:今、圭人がなぜそこまでびくびくして構えているのか、という疑問が出たのですが、日本の同調圧力はすごいし、日本人学校などでも「目立つとたたかれる」なんていうことを聞いてたからじゃないかな、と私は思いました。父親がいないし、帰国子女だしなど、マジョリティと違う部分を圭人は持っているので、たたかれることを警戒したんじゃないかな。それから、なんだかこの作品を弁護しているようですが、ミズタマリさんがおっしゃったp.93の2人の女の子違いがなんだかはっきりしない、という場面ですが、私は人物より建物に興味をひかれている圭人ならありかと思ったし、イタリアだと髪や目の色も、着てる服も、肌の色もみんなそれぞれ違うでしょうから、日本人が同じような外見で同じような意見を言うのを前にして圭人がそう思うのも当然のように思いました。

ミズタマリ:私もそれはそう思うんですけど、キャラクター設定としてどうかな、と思ったんです。

アカシア:歩が、好きなことは徹底的に追求するところとか、アウトローぶりを発揮するところがとてもおもしろかったです。圭人も最初は嫌がっていますが、影響を受けていきますよね。それに、たぶん歩は圭人が好きなんじゃないかと思いますが、圭人がそれに気づいてないところも、おもしろいな、と思いました。

ネズミ:親じゃなくても、わかってくれる人がいることを書いているのかなと思いました。おばあちゃんは後になって、面倒見のいい塾の先生だったことがわかって、わが子はエリート弁護士になったとしても、孫の成長を見守っている大人だというのが想像されますよね。

ネズミ:谷根千では古い建物を生かしながらやっていこうとしている建築家の人たちがいます。佐藤さんともその人たちとつながりがあるのかもしれないと思いました。

アカシア:建物も、観光地として売り出すところまでいかないと、どんどん壊されていきますね。もったいないです。古い建物をリフォームして住んでいる人が、耐震はどうなのかときいたら、昔の建物のほうがしっかりしているんじゃないか、と言っていました。

花散里:奈良の宮大工棟梁の西岡常一さんの本など読むと、日本の建築の良さがよくわかりますね。

さららん(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルなので、ダンスのお話かと思って読み始めたら、作品のモチーフは建築。しかも大地が揺れると心柱も動くという、法隆寺の心柱の仕組みから来ていることがわかりました。その意外性がおもしろく、またローマと東京の町の景色の違い、文化の保存に対する意識の違いやなど、蘊蓄もふくめて興味深く読めました。圭人は、日本の中学校では周囲と同化するために、一人称を「ぼく」から「おれ」に変えなくてはと考えます。イタリア語だけを使って生きていれば、存在しない気苦労ですよね。そんなふうに、イタリアから帰国したばかりの主人公のナマの感覚、違う視点を、読者が自然に共有できる作品だと思いました。日本への帰国後、できるだけ目立たないようにする圭人と、父親に反発してグラフィティを続ける歩は対照的な存在です。けれど、古い町並みへの愛情では共通していて、ふたりが友情をはぐくむ過程は王道の児童文学という感じ。歩の父親とその恋人の描き方は漫画的ですが、この作品のエンタテイメント性というか、軽快さを保証するためには、そのぐらいでちょうどよかったのかもしれません。最後に帯のことを少し。「芸術の都ローマで生まれ育ったアンリは」とありますが、主人公の名前は圭人(けいと)だったはず。確認したところ、p.88にフルネームの「杏里圭人」が初めて出てきました。「アンリ」は間違いではないけれど、読者にとってはやはり「ケイト」か「圭人」でしょう。

しじみ71個分(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルから、どういうところに話が落ちつくのか期待を持ちながら読み進めました。はじめはイタリアの観光案内みたいだなと思ったところもありましたが、日本とイタリアの間で主人公のアイデンティティの揺らぎを描くには必要だったんだろうなと後から思いました。最後まで読んでいって、やっと主人公の揺らぎを法隆寺の心柱の揺らぎに重ねて、揺らぎながらしっかりと立つという、柔軟な強さにつなげたんだなと腹落ちしました。主人公が将来の夢を見つけて希望を感じさせて終わり、読後感もさわやかです。圭人の将来を決めさせてしまう、宮大工さんがかっこいいですね。「わたしたちは名を残さず、匠を残す」(p.217)の言葉は胸に沁みました。p.218の「和」の解釈で、「つかず離れずの間合いの『離』を保つことが『和』の前提」というところなどは本当にそのとおりと思いました。おもしろかったのですが、ただ、歩の家族の問題は解消されないで途中で消えてしまったのがちょっと残念だったのと、圭人と歩の怒りはどこで消えてしまったのかという、なんとなく不完全燃焼感はありました。若者が怒りをもって立ちあがるということを伝えるのはとても大事だと思って読みましたが、それをどうやって自分たちで解消したり、解決したり、折り合いをつけていくのかという示唆がないままだったのが気になったのと、「抵抗と抗議のちがい」について掘り下げがもうちょっとあってもよかったのかなと思ったりもしました。

アカシア:この作品は13歳の少年の一人称なので、抵抗と抗議はどう違うかは書けないでしょうね。

しじみ71個分:なるほど。語り手の人称の視点は、読んだときには欠けていました。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『博物館の少女』表紙

博物館の少女〜怪異研究事始め

すあま:とてもおもしろく読みました。古道具屋の娘のままでもよさそうだけど、博物館で働く、というところがユニークでした。実在の人と建物が出てくるところもよいと思います。シリーズ前提の1作目ということなのか、まだ明らかになっていないことがいろいろあります。タイトルはちょっと古くて、魅力のない感じがしましたが、あえて少女小説のタイトルに寄せたのでしょうか。サブタイトルと合わせれば興味をひかれるということなのかもしれません。主人公は13歳ですが、すでにかなりの知識をもっていて、ちゃんと目利きができる。古道具屋で仕事をおぼえるところも読みたかったです。付録があって、地図が載っているので、読む時の助けになると思いましたが、とじ込みではないので図書館の本だとなくなってしまうかもしれません。

しじみ71個分:最初にこの本を知ったのは新聞広告で、富安さんの10年越しの作品ということでとても興味を持ち、出てすぐに買いました。最初から最後まで、流れるようななめらかな文章で、ワクワクしたまま最後まで読み切りました。これは子ども向けの本なのかしら、と思うほどに枠を感じさせないおもしろさでした。個人的には、上野界隈で数年過ごした経験があるので、東京国立博物館の裏手の木々の鬱蒼とした感じなど、とてもリアルに感じることができ、怪異研究所はあの広い敷地のあの辺りなのかな?など想像も膨らみ、本当に、とてもおもしろく読みました。明治の上野界隈のノスタルジックで、少し怪しげな雰囲気は、『夢見る帝国図書館』(中島京子著、文藝春秋)にも共通するところがありますね。明治になって世の中が変わって、大阪から東京に出てきて、すべてにわくわくする感じがすごくよく伝わってきました。主人公の少女イカルがまた大変に魅力的で、大人を負かすほどの文物に関する知識や、鑑定のできる感性を持っていて、とてもお茶目な女の子で、主人公と一緒になって物語の中で冒険できました。どういう怪異がこのあとのシリーズで起こってくるのかがとても楽しみです。今回の物語も、黒手匣の紛失から隠れキリシタンと不老不死の島にまでぶっ飛んでしまうというのも、展開やスケールがとても大きくて、驚くやら楽しいやらで、物語のおもしろさを存分に堪能しました。この先は、まだ登場してきていない町田さんがどう物語の軸に関わって動いていくのかが楽しみでなりません。怪異研究でも、文物の鑑定でも、イカルちゃんがこれからどんな出来事に出会って、苦難を乗り越えて、どう成長していくのかが楽しみです!

コアラ:おもしろかったです。明治時代がよく作り込まれていて、今では使われなくなったものや事柄や言い回しも使われていて、その時代の物語として堪能できました。1回読んだだけですが、細かいところまで読み込んでいくと、もっとおもしろいかなと思いました。子どもには馴染みのない言葉も出てくるので、本をたくさん読んできた子どもで、子ども向けの本に飽き足らなくなったくらいの子にちょうどいいかなと感じました。

西山:すっごくおもしろかったです。この作品には大きな謎があるけれど、その興味にただひっぱられてページを繰るのではなくて、読んでいる間ずっと楽しかった。途中の景色、風物、主人公の発言や感性、ぜんぶおもしろかった。たとえばキリンの場面。初めて見るイカルの目を通したキリンの姿、それへの驚き、それだけでもおもしろいのですが、「イカルの知らない、どこか遠い国の草原で、この麒麟という動物たちが走ったり、歩いたり、草を食べたりしているのかと思うと、それだけで愉快になった」(p.34)と続くところで、なんてひろびろとした愉快な感性だろうとイカルのことがすっかり好きになりました。あと、女の子が働くことへのエールになっているところもうれしかったです。アキラが「男だからとか、女のくせにとか、つまらないことにこだわらず、どうすれば仕事がはかどるか考える頭」を持っている(p.96)というのもうれしかったし、「生まれて初めて、自分自身でかせいだ一円二十三銭だ。自分自身で働いて給金をもらったのだ。そう思うだけで胸がわくわくした」(p.340)というところから、これから広がる人生へのときめきで閉じるラストもよかったです。

ルパン:ごめんなさい、前評判もすごかったし、富安陽子さんだし、ということで期待しすぎたせいか、私は正直そこまでおもしろいという感じではなかったです。好みの問題だと思いますが。歴史的な背景と怪異現象とが中途半端にまざっている感じで、うまく波に乗れないまま終わっちゃいました。

マリナーズ: 非常にさわやかで、魅力的な本でした。大変な境遇にある女の子が、いきいきと前に向かって進んでいく、元気の出る作品です。特に前半3分の1は、新しい場所で冒険が始まり、いろいろな人たちとの出会いが続きます。楽しく読ませよう、という読者サービスが徹底していることに感嘆しました。もっとも、黒手匣が登場してからは、長く感じるところもありました。話の展開上、同じ場所に2度忍び込まなくてはいけないのはわかるのですが、何かを見つけるとすぐ足音が聞こえてくる、など、似たパターンの描写が多くて、若干ダレました。あと、文章で間取りを説明するのは難しいのだな、と感じます。どこかへ必死に逃げているのですが、建物全体の作りが把握できていないので、緊迫感を感じられないところもありました。読み終わってから別添の資料に気がつき、意外とシンプルな間取りだったのだなと思いました。最後まで来るとカタルシスがあるので、そのあたりの冗長な部分も必要なものだったのだ、と納得できます。おみつの存在が非常に印象深かったです。あと、細かいところですが、p.171の上野動物園の「ケンゴロウ」ってなんだろうと一瞬考えて、カンガルーか! と気づいたときは笑いました。

サークルK:とても楽しく読み進みました。登場人物がいきいきしているし、私も上野の博物館界隈はとっても好きなので。黒手匣の謎解きが、最後に凝縮されているので読む速度のピッチが上がりました。表紙の雰囲気も裏表紙とつながっていて、実は重要な登場人物もさりげなく書き込まれているところが、読後に「そうだったのか」と思わせてくれる粋な図らいに感じました。朝ドラのヒロインのように、主人公が周りの人の温かさに応援されて自分の境遇に負けずに成長していくというところが爽快でした。続編が待ち遠しいです!

花散里:私も『夢見る帝国図書館』を思い出させるようなおもしろさを感じました。上野の国立博物館から寛永寺辺りは好きな場所ですが、図書館で借りた本には付録の地図はなかったので、子どもたちには歴史的な設定など物語の雰囲気が想像しにくいのではないかと思いました。13歳で目利きの才があるというのも無理があるように感じました。アキラの存在などはもっと伏線があってもおもしろかったのではないかと思いました。物語の結末が分かってからの最後の章はなくても良いように思いましたが、富安さんの作品の中では個人的にはいちばん好きな作品だと感じました。

さららん:生まれ育った場所と作品舞台が近いせいで、タイトルを聞いたときから、この本を身近に感じていました。両親を失ったものの、よき人たちに囲まれ、父親から叩き込まれた審美眼で自分の力で人生を切り拓いていく主人公のイカル。トノサマ、アキラなど脇役の描写も巧みで、怪異研究所という設定や、事実を積み重ねながら黒手匣の謎を解明していく展開にもそそられます。親友となる川鍋暁斎の娘トヨも頼もしい存在で、続編では暁斎も活躍するのかなと、期待がふくらみます。実在の人物名(例えば博物館の初代館長の町田さんや、二代目館長田中さん)を物語に取り込んだうえで、架空の人物を存分に活躍させる構成はよくありますが、その人間関係やセリフに厚みがあり、引きこまれました。見事な日本語で紡がれた物語で、優れた書き手から十分なおもてなしを受けたという感じがします。

アカシア:黒手匣、明の正体、ロッシュやおみつの存在など、謎がたくさん用意してあって、それで引っ張るし、時代考証もちゃんとしてあるので、フィクションは苦手という子でもどんどん読めるんじゃないかと思いました。イカルは、西山さんもおっしゃっていたように、この時代にあっても積極的で勇気ある存在に描かれているのがいいですね。舞台が明治期の博物館というのも、「怪異」を研究する場所だというのも、おもしろい! ただp.247-248で、アキラが床の下で会話を聞いているだけなのに、「黒手匣があるとしたら、聖堂以外は考えられない」というのは、ちょっと無理があるかもしれません。1つ1一つの文章を味わいながら、極上の読書体験ができました。

アンヌ:とてもおもしろくて、続きが待ちきれないほどです。始まりの座敷の怪異現象のところなどは、よくある話なので少しがっかりしたのですが、そこに超能力者らしい前館長が絡んできて、おまじないをし、手を開かない工夫を母がしてくれたという記憶をたどるところが、新鮮でとても素敵でした。わたしも、しじみ71個分さんがおっしゃったように、前館長に早く会いたいです。黒手匣の怪異話もあまり意外性がなく、この事件に絡む神父は、1人にしておいた方がすっきり読める気もしました。でも、それよりなにより、この主人公が魅力的でした。道具屋の女も認めるほどの目利きで、独りで知らない江戸も歩く勇気がある。私の持論に「孤児はお屋敷の扉をたたく」というものがありまして、たった1人で知らない場所に行くから物語は始まると思うんです。そのお屋敷が博物館!これは最高の物語になるぞと思いました。イカルは沈黙を強いられる養家から古蔵に行き、様々なものの知識をペラペラしゃべりだします。このお喋りな女の子には見覚えがあるぞと思い出したのがモンゴメリの『赤毛のアン』でした。先ほど、すあまさんが「少女小説」のような題名と言われたのにも納得がいきます。そして、p.333で唐突に義姉妹の約束を交わすトヨはダイアナではないでしょうか?ダイアナのようにトヨもちょっと体の大きいふっくらした女の子でした。実は私はのちに河鍋暁翠になるこのトヨに興味があります。『がいなもん 松浦武四郎一代』(河治和香著、小学館)では松浦から話を聞かされる狂言回し役として登場しますし、去年の直木賞の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、文芸春秋)の主人公でもあります。この時代の女の子にしては父親の弟子として様々なところに出入りをし、自分1人でも仕事に出かけるトヨは、明治の東京をイカルに案内するのに最適な役なのだろうと思います。続編には、暁斎も出てくるのだろうかとか、稀代の収集家である松浦はどうだろうかとか、ワクワクしながらこの2人の活躍を楽しみにしています。

ネズミ:刊行されたすぐに手にとったのですが、まず登場人物が魅力的でした。たとえばイカルの人物像が、博物館に初めて入ったときの驚き、古道具屋に入ったシーンなどで、説明的な言葉を使わないでくっきり浮かびあがるといったふうに、随所の描き方がすばらしい。大人の存在感が希薄なことの多い日本の児童文学作品の中にあって、まわりを固めている大人の人物が立体的に描かれているのもすごいなあと思いました。フェミニズムとは書いていないけれど、物語全体が女の子を応援するものであり、男女や年齢、職業その他で人を差別しない意識が感じられます。富安さんは現代のお話も書いていますけれど、この物語は少し昔の時代に舞台を置くことで、登場人物を自由に遊ばせられたのかなと思います。もちろん時代考証のためにたくさんの資料にあたられたとは思いますが。イカルとアキラとトヨとトノサマなど、一部の名前にカタカナが使ってあるのは、ひらがなでも埋もれてしまうからでしょうか。音だけで響いてくる感じがよかったです。

雪割草:冒頭から物語の世界観に引き込まれました。道具屋だった父親の商いの様子を、主人公がよく見て自分なりの感性で受けとめていることがわかり、道具屋を知らない読者にも、空気感含めその場がよく伝わってくる描写でした。物語の時代への興味がかきたてられましたし、時代は違っても、不安やわくわくする気持ちなど主人公の心の動きに読者もよりそいながら味わうことができました。この年齢にしては能力がありすぎにも思いましたが、マニアックなところはよく、そういう好きなものがある子への応援のメッセージにもなると思いました。付録がついていたのを今の今まで気がつきませんでしたが、地図はいいものの、登場人物まで視覚化しなくてもいいかなと思いました。

オカピ:仕事ものであり、成長譚であり、ミステリーや怪奇小説の要素もあり、ほんとうにおもしろく読みました。作者がこの時代のことを詳細に調べて、自分のものにして書いているのもすごいのですが、なにより文体の美しさに魅了されました。所作をあらわす言葉ひとつとっても、香るような言葉が物語にぴったり。これはYAなので、難しめの言葉を使えたというのもあるかと思いますが。富安さんの渾身の作だと思いました。大阪弁がぽんぽんはいってくるのも、作品の勢いにつながっています。人の生と死について考えさせるラストもよかった。人知を超えた不思議もこの世にあるという、希望のある結末で、これは書き手の力だなあと。ちょっとわからなかったのは表紙の英語タイトル。”A Girl at the Museum” となっているのですが、これはイカルのことなのだから、”The Girl at the Museum ” のほうがしっくりくるように感じました。

アカシア:この時代のどこにでもいる少女、というニュアンスを出したかったのかもしれませんよ。

エーデルワイス:最初の構想では少年「アキラ」が主人公だったと聞いてびっくりしました。主人公が少女「イカル」でよかったと思います。表紙を見たとき一瞬、富安陽子さんは時代劇小説に移ったか?!と思いましたが、明治を舞台に実在の人物も盛り込み、本当におもしろく読みました。附属のリーフレットを見た時はわくわくしました。登場人物のイラストと紹介や上野界隈の地図など、この本を読む子どもたちにもよい導入と思います。続編が楽しみです。

シア:とってもおもしろかったです。人気が高いのもうなずけます。絵や装丁も凝っていて、偕成社さん力を入れているなと感じました。付録のおかげで裏表紙におみつがいることに気づきました。明治時代のレトロな感じがしゃれていて、関西とは違う異国情緒真っ盛りの上野の輝きをイカルの驚きで表現してくれています。イカルの目利き能力や好奇心旺盛な性格も楽しめました。目利き能力については、こういう環境で育っていたらそうなるんじゃないかなと思います。似たような時代物の『はなの街オペラ』(森川成美著、くもん出版)よりも想定年齢は高いので、幅広い年齢層が読めそうです。ただ、読書家にとって満足度の高い本なので、本にあまりなじみのない子で、とくに女の子だと、もしかしたら『紙の心』の方がおもしろいかもしれません。イカルの幼少期の体験などから見知った怪異が出てくるのかと思っていましたが、珍しい方面からの話だったので意外性が高かったですね。そのおかげで大人っぽい余韻の残る良い話になりました。日本書紀は知らなくとも、有名な玉手箱の話で子どもも納得できる展開になっていると思いました。中高生に人気のある漫画にも非時香果が出てくるので、知っている子はより親近感がわくのではないでしょうか。そして、実在している人物や場所が登場するので、そのことについて調べたり、その場所に行ってみたくなると思います。教養を得るきっかけになりますね。とくに上野博物館は社会科見学や地方だと修学旅行などで行くことが多いと思うので、児童文学として出してもらえてとても嬉しく思います。神田天主堂はカトリック教会だからレノーも神父と表記しているところも細かいですね。また、付録がよくできています。図書館側からするとこういう本から離れてしまう付録は面倒ですが、補足や博物館の敷地や地図などわかりやすく書いてあります。視覚的な図は文章だけでは追いつかない子どもの理解の助けになります。地方や上野を知らない子の支えにもなったと思います。カラーなのも良かったですね。話の内容だけではなく、文体がとにかく綺麗で、言葉遣いもそうですが立ち居振る舞いが古風で美しく、目をみはりました。奥ゆかしさを始めそういう表現が随所にあり、イカルの育ちの良さを思わせます。関西弁も滑らかでした。後半のアキラとの関係も慎ましくて、明治の女の子らしさが垣間見えて良かったです。そしてそういう表現ができる作家さんは貴重なので、ぜひ続編をと、期待しています。ただ、この時代考証がしっかりしているため、「新しくお仕えする者は、だれより早く仕事場におもむき、上役のお出ましをお待ちするのが筋ですからね。」(p.122)という部分に、日本の仕事に対する姿勢の歴史の古さを感じて、少し頭が痛くなりました。とはいえ、女性のイカルは低く見られているのでボランティアなのだろうかと思っていたので、お給料がもらえてほっとしました。ところで、ケンゴロウというのは、カンガルーの過去の和名かと思ったのですが、カンガルーの聞き間違いなのですね。

ハル:みなさんのご意見がうかがえてよかったなぁと、いつも以上に、今日はしみじみ思います。読みやすく、時代設定も好きで、わくわくしながら読みましたが、「おもしろかった」以上の感想を持てずにいましたし、一方では「児童書なのかな?」とも思っていましたが……『赤毛のアン』! そう言われてみると確かに、枠というのか、ある種の様式美的なものも感じますね。わぁ、すごく腑に落ちました。著者も意識していたのでしょうか。そんな観点で、もう1回読みたくなりました。ありがとうございました。

西山ところで、ちょっと気になったのは、p.262の「あったりまえのコンコンチキや!」というところ。「あったりまえのコンコンチキ」って、ちゃきちゃきの江戸っ子の口調のイメージがあるのですが……。

シア:確かに「こんこんちき」は関西では聞きませんね。そもそも、今の時代使っている人がいないのでなんとも言えませんが。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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『紙の心』表紙

紙の心

ハル:顔を合わせない相手と、文字だけのやりとりでどんどん盛り上がっていって、口では言えないようなことも、文字でなら言葉にできて……そういう初々しさというか、瑞々しさというのは、わかるなーと思いながらも、ちょっともう見てらんないような気持ちにもなり、序盤で「えー、まだこんなにページ残ってるのに、どうするの?」と思ったのが正直なところです。もう少し早めに物語が動きだしてほしかったです。だけど、「訳者あとがき」の情報によると、イタリアの中学生の支持を集めているということなので、同年代の子たちにしたら、飽きるなんてこともないのかなぁ。そして、ここまで我慢して読んだんだから、これはきっと、とんでもないホラーが待っているのだと期待しすぎてしまったのもあって、結末にも驚きを感じませんでした。主人公以外の子どもたちは、どうなったんでしょうね。

シア:非常におもしろかったです。表紙に原題を大きく入れていておしゃれだと思いました。絵もさわやかな感じで良かったです。内容はさわやかではありませんでしたが。もっと近未来の話だと思っていたのに現代なので驚きましたし、ありえそうな話なので余計に考えさせられました。海外ではロボトミーを元にした話は結構多いので、わりとトラウマなのかなと思いました。半分以降からは一気に読みましたが、もどかしい恋愛ものは苦手なので、序盤はかなりイライラしながら読みました。ユーナがダンに会おうと言い出したので、これはページをめくったら急展開して、やっと研究所の謎についての話になるんだなと思ったのに、やっぱり会えないなんて尻込みするユーナがめんどくさすぎです。チラ見せは上手いのですが焦らされるので、惚気はいいから早く研究所の謎を! と別の意味でハラハラしてしまいました。「ウイルスのせいで全人類が滅亡して、ぼくたちだけが生き残った、そんな映画の一部みたいだ」(p.42)とあり、世界は平和なのかと肩透かしをくらいました。研究所内に鏡がないこととか白い制服や謎の薬など、いろいろと怪しい要素はあったのですが、蓋を開けてみればそこまで大仰な話ではなくて、少々やりすぎな感じもしました。シャワーが10分だけとか、職員が急に乱暴な口調になったりするところは管理される怖さが表れていると思います。この本は書簡体なので2人のタイムラグのようなものが出るところはおもしろかったです。メールなどで展開しそうですが、場所が場所なので手紙というのが研究所の異様さが出ていて好きですね。ただ、偶数時と奇数時でやり取りし合うというのがよくわからなくて、1時間いたら会ってしまうじゃないかと思ったんですが、2人は図書館あまり利用しないんですかね……。それにしても、最近はいわゆる毒親の話が増えてきたように感じます。親の影響力や圧力が注目され始めたのは、親子の関係性や教育を見つめ直す良い機会だと思います。「涙の壺」という表現もとてもロマンチックですが、涙が流れるような状態にしなければいいのではないかとユーナのお父さんに問いたいです。また、若者にはスポーツをさせておけば良いという今の学校教育の甘さも指摘されているように感じて、この辺はもっと主張したいですね。室内で読書をしている子がいたって良いと思います。「ぼくは、本を読めばいろんな場所に行けるんだ、って言い返したかった」(p.85)というダンの台詞がこの本の真のハイライトだと思います。この本には有名な児童文学がたくさん出てくるので、まさに『紙の心』だと思いました。あとがきで各作品について説明してくれているので、子どもたちが興味を持ってくれると良いと思います。でも、メインとなる『プークが丘の妖精パック』は日本人になじみのない本なので、子どもならさらに厳しいのではないでしょうか。題名を読めるのかどうかも心配。『プーク“が”丘の妖精パック』などと読みそうで不安です。気になったのは、「それから、トン川は食いしん坊に」(p.34)という訳がよくわかりませんでした。豚でしょうか。トンカツ? こういうときに訳者の苦労が窺えます。それから、「傷跡は、インディアンが戦いの前に描いて、誇らしげに見せつける、戦いのしるしみたいなものだ」(p.227)とあるのですが、“インディアン”という言葉は今は使わないと思います。

エーデルワイス:おもしろく読みました。主人公たちが暮らす施設を想像しました。清潔だけど、無機質で同じような部屋を移動するのですね。迷いそうです。「××をダンより」のように、形式的な手紙のやり取りをしていますが、顔が見えないほど想像力が働いて心が燃えていくのかもしれないと思いました。そして今どきの若い人のSNSの恋のやりとりも同じようなことかもしれないと思いました。終盤、研究所が火事(放火)で焼けて施設にいた子どもたちが助かるのですが、子どもたちはどうなっていくのでしょう? 元の家に戻るの? ちゃんと生きていけるのでしょうか? 心配です。親にとって都合の良い子ども、デザイナー・ベイビーなど問題提起のお話と思いました。主要なダン、ユーナたち5人は友人同士で、名作の登場人物からつけた仮の名前で、施設では番号とアルファベットで呼ばれ、本名は最後まで明かされませんでした。あえて必要なかったのでしょうか? 5人は元気に幸せに生きていけそうで安心しましたが。

オカピ:管理された場所にいる主人公たちが、人を愛することで、その生活に物足りなさを感じるようになる過程が描かれていて、おもしろく読みました。記憶すること、文字に残しておくことについて考えさせます。何を忘れて、何をおぼえておきたいかが人をつくるのだなと。「興味津々な人よ」(p.16)、「興味津々なこと」(p.107)という言い方は、話し言葉としてなじまないというか、ちょっとしっくりきませんでした。

雪割草:読んでいて最初の方でうんざりしてしまい、途中で休憩しました。イタリアだから情熱的なのかな、精神的に辛い経験をした子たちだから、心の拠りどころをもとめているからなのかなとは思ったものの、お互いを求めすぎていて、ついていけませんでした。近未来のテーマで人間がなんでもコントロールしようとするところから、『泥』(ルイス・サッカー著、小学館)を思い浮かべました。この研究所では、辛い経験を忘れさせるための治療をしていますが、それに対して主人公らが、忘れる以外の方法で生き抜く方法があることに、気がついていくところはいいなと思いました。あとがきにイタリアの中学生に支持されているとありましたが、日本語訳では訳はしっかりしているのはわかるのですが、若い人には受けない文体・言葉遣いだと思いました。それから、手紙でやりとりしている設定ですが、やりとりがすごく頻繁で手紙によっては長文で、ほんとに手紙なの?と思ってしまいました。

ネズミ:秘密をさぐりだそうとし始める後半からは、それがフックになってどんどん読めたのですが、2人のやりとりが中心の前半は、内容の問題なのか、文体のせいなのか、途中であきて、投げ出しそうになりました。後半はひきこまれたものの、都合のよい展開が気になりました。たとえば、骨形成不全症のポルトスが走るなど、ありえないだろうとか、どこかに潜入する計画が、たいがいうまくいくとか。体裁としては、ダンとユーナの手紙の書体を変えてあったらもっと読みやすかったかと思ったのですが、この本はキンドルでも出ているので、電子版を出すにあたって、書体が限られていたのだろうかと思いました。

しじみ71個分:書体に変化を持たせられるのが紙の本だけなのであれば、紙の本ならではの魅力になりますのにね。

シア:『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著、岩波書店)では文字の色が変わっていましたね。

アカシア:紙の本ならではの工夫が、もう少しあってもよかったのにね。

アンヌ:書簡体小説は好きなので、それなりにおもしろく読み進んでいったのですが、いきなりp.14で「キスとハグを」と出てきたのでびっくりしました。これがただの挨拶なのが、外国小説という感じですよね。全体にSF的な設定が実に曖昧で、この研究所のセキュリティの甘さとか、最後に種明かしされた後も納得できないことが多いです。2人が実際に会わないところも、薬が効いているせいなのかと思ったりしたのですが、でも、それにしては男の子が3人いればやるような冒険に、あっさりダンは出かけたりしますよね。意志までが削られているわけではないらしいので、不思議です。最後まで行きついても、この5人がこれからどうなるのか、放火の罪に問われたりしないかとか、そのハッカーは大丈夫かとか、親との関係は何も解決してないままだとか、いろいろ後味が悪い思いが後を引いてしまい、読み返す意欲がわきませんでした。

アカシア:この本は時間的なリアリティがおかしいんじゃないですか? 手紙の交換で物語が進んで行きますが、1人が書いてから、休み時間にそれを図書館に持っていって本に挟む。それが偶数時だとすると、もう1人は、顔を合わせないために奇数時まで待ってから取りに行って、それから返事を書いて、次の奇数時の機会に図書館に行ってその返事をおく。そういうまだるっこしい方法でやりとりをしているので、たとえばp.115の最初の5つの文章はどれもユーナが書いたものですが、5つ目の文章を書くまでに、どんなに少なくとも9時間くらいはたっている計算になります。でもね、そういう計算だと成り立たないところがいっぱい出てきます。私は物語の構築を支えるリアリティにこだわる方なので、最初のときは途中で読む気がなくなって放り出してしまいました。それから、ダンたちは決死の覚悟で保管所に入ろうとするのですが、そこまでの展開では、保管所に何か重大な秘密があるというふうには読み取れなかったので、なぜそこまで?と思ってしまいました。全体としてすぐれた作品とは、残念ながら思えませんでした。

さららん:今回に関しては、訳者の文体と原文のスタイルが合わなかったのかな。私もみなさんと同じで、書簡体の形をとっているとはいえ、この世代の子たちの日常会話にリアリティがないように思えました。また研究所の中では、子どもたちの動きを阻止しようとする大きな敵は現れません。ダンたちに敵対心を燃やすカーという少年はいるけれど、それは体制側とは関係がない。戦う相手の顔が見えず、豆腐の中に手を埋めるような頼りなさを覚えました。でもひょっとすると、そこがおもしろさなのかも。色々な本の要素が出てくるところもいいし、あとがきも優れているけれど、ディストピアとしての物語に既視感があって、未知のものを解き明かす興奮がなかったのは残念です。

花散里:岩波のSTAMP BOOKSは出版されると期待して読むのですが、この作品が出版された2020年に読んだとき、書簡体で物語が進んで行き、今どきの中高生がどう読むのかなと思いながら読んだことを思い出しました。今回、読み直して、スマホに常に依存している日本の子どもたちが、図書室の本に挟んだ何通もの手紙のやり取りに対して、果たしてどう読むのかなと改めて感じました。前半の書簡体で続くストーリーは、今回も読みにくいと思いました。研究所の秘密が分かっていたということもありましたが、物語のおもしろさが感じられませんでした。巻末に本文に出てくる文学作品の紹介が入っていたり、図書室でのやり取りが舞台だったりしますが、読み返そうという作品ではないと思いました。

サークルK:手紙の部分のやり取りが長かったので、少しもどかしい思いをしながら物語を読み進めました。なぜこんなやり取りや状況に子どもたちが置かれているのだろう、という読み始めからの疑問が次第に解き明かされていくところは、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を思い起こしました。誰に恋しているのかも実際にはわからないのに、よくこんなに妄想をふくらませながら、手紙で情熱を傾けられるなあと苦笑する表現もありましたが、イタリアの中学生にとても人気があったというので、興味深く感じました。こうやって練習(!)して、愛情表現の達人になっていくのかしら、と。小さな世界に閉じ込められて、監視されたり、洗脳されたりするさまは残酷なディストピア小説のミニチュアのようで、『1984』(ジョージ・オーウェル著 早川書房他)をほうふつとさせましたし、39章で「ワールドニュースオンライン版」という記事を使って、状況が説明されている構成は、『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著、早川書房)の掘り起こされたカセットテープをめぐる研究者のレポートを思い出しました。物語を読んだ子どもたちがやがて上に挙げた大人の小説に巡り合った時、こんなイタリアの児童文学があったっけ、と逆照射されて思い出してもらえるかもしれません。

マリナーズ:お国柄の違いを感じながら読みました。日本で、中学生くらいの男女が同じように文通し合う物語だったら、こんなふうに恋の駆け引きっぽい言葉をやりとりして楽しむ感じにはなかなかならない気がします。実は、以前、1度読みかけたのですが、p.111あたりからの、お互いの容姿についてあれこれ想像し合うところでうんざりしてしまって、いったんやめたのでした。今回、読み通せてよかったです。後半に行くにつれて、主人公2人の苦しみや、ここに入るまでの経緯が明かされて行きますが、その明かし方が説明的なせいか、切実さがどうも伝わりにくいように思いました。でも、性格を変えることについて、身内が了承している、ということのせつなさ、やるせなさは感じました。自分のアイデンティティを考える、というテーマ自体はとてもよかったです。

ルパン:しょっぱなでつまずいたのは、このやりとり、イタリア語なのにどうして相手が男か女かがわかるんだろう、ということです。見知らぬ相手なのに、はじめから男女の区別がついているのって不思議でした。しかもすぐに恋に落ちるし。そのうえ、やたらに容姿の話が出てきますよね。相手がその子がどうかもわからないのに「赤毛の女の子が好きなんだ」なんて言ったり、デブだったり青白かったりしたらどうするの、みたいな文面もあるし。ヨランダが実際のポルトスを見て思いっきりけなす場面では本当に気が滅入ってしまいました。容姿に自信のない子がこれを読んだらどう思うんだろう。

アカシア:イタリア語だと形容詞などに女性形と男性形があるので、相手が男か女かはすぐわかるんじゃないかな。

西山:ほとんど言い尽くされている感じです(笑)。この研究所にどういう秘密があるのかという興味で読み進めましたけれど、先が知りたいだけでその場その場の描写とか、感覚とかを楽しむという読書の快楽はありませんでした。イタリアのお国柄というのもあるのかもしれませんが、こんなにすぐ男の子と女の子が恋愛感情で盛り上がり、延々それを読まされるのにうんざりしたというのが正直なところです。若い読者なら誰もが恋バナ展開にのめり込むかというと、そうでもないんじゃないかなと思っています。というのは、ジェンダー関連の授業で、何かの問題を男の子と女の子が一緒に取り組んで解決してきた物語で、最後の最後に性的な視線を差し込んで、「恋の始まり」みたいな展開にするのに出会うたびにがっかりするんだよねということを、おそるおそる話した回があったのですが、思いの外共感のコメントが多くて、恋愛テーマじゃないのに恋バナにするドラマとか多すぎるとか、子どもの頃仲のいい男女がからかわれることで気まずくなったとか、嫌な思いをしたとかそういう体験が続々とあがってきたのです。「10代は恋バナ好きにきまってる」という思い込みもそろそろ相対化した方がよいと思っていたところでこの作品を読むことになったので、否定的な感想になっています。あと、ユーナがどんどん受け身になっていって、つまらなくなっていったのが不満でした。本に手紙をはさむというユーナの魅力的な行動から始まったのに、ただただ、「待つ女」になってしまって……。ヨランダといっしょに研究所の秘密に迫っていけばよかったのに……。図書室の本を介した手紙のやりとりとは思えない、ラインのようなやりとりになってしまうところも興ざめでした。

コアラ:以前、本屋さんでこの本を見かけたときに、はじめのほうをちょっと読んで、いまいちかなと思ってすぐに棚に戻してしまったんですけれども、今回最後まで読んで、悪くはない本だと思いました。書簡体小説だと、お互い相手を騙すこともできるし、作者と読者の関係としても、作者は読者を騙すこともできるけれど、ダンもユーナも騙すことなく、お互い誠実で、作者と読者という関係でも作者から騙されることがなかったので、その点ではすっきりしてよかったと思います。研究所の謎とされたことが、少年少女たちの人間的な欠点の除去で、親の望み通りの人間に作り変えられてしまう、ということだったんですが、読んでいてそこに大きな衝撃はあまりありませんでした。そもそも、記憶を無くす薬を飲んでいる研究所というのが不気味で、そこがそもそもディストピアだなと思いました。訳者あとがきに、この本に出てくる本の紹介が書かれてあるのは、よかったと思います。

しじみ71個分:私も、みなさんが既に言われたのと同じように、前半の2人の手紙のやりとりがちょっとかったるいなと思い、読んでいて休憩をはさんでしまいました。また、ユーナかダンか、どっちがしゃべっているかわからなくなっちゃうところがあり、見た感じでパッと分かりやすい工夫があったらよかったなと思います。手紙のやりとりが頻繁すぎて、時間の経過もわかりにくい点がありました。ただ、著者はこういう書簡のやりとりで、心をかわし合うという形を描きたかったんだろうなと思います。頻繁すぎて、チャットのようではありましたが。作品を通じていいなと思ったのは、2人の書簡体の形をとりながら、過去の児童文学作品の紹介をしているところです。また、人と人とのコミュニケーションのツールとして本を使うという設定にも共感しました。『紙の心』というタイトルには、手紙に乗せた自分の心というだけではなくて、本を通じて交流するという意味もあったのかなとも思います。大人にとって都合の悪い、「いらない子ども」を除去してしまうっていうのは恐ろしいことで、本のテーマとしてとても重いと思ったのですが、結果が意外にソフトで、もう少し、ドラマチックな、誰かが死んだり、廃人にさせられてしまったりとか、おどろおどろしい展開があった方が、テーマがもっと生きて、物語も生き生きとしたのではないかなと思います。『私を離さないで』くらいのディストピアがあってもよかったかなと。また、表紙の絵を見ると、ガラス張りのとても近代的な建築物として描かれているのに、火事で燃えちゃうんだ、木造なんだ、というところはちょっと拍子抜けしてしまいました。建物が燃えただけで逃げられちゃうんだなというところは、少しあっさりしすぎていたかもしれません。前半の書簡体の恋愛部分が重くて、後半のスリリングな展開とのバランスがあまり取れていないのかもしれないと思いました。

すあま:読みながら、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 講談社)を思い出しました。忘れたい記憶をなくすことができる薬があったなら、犯罪被害者や虐待にあった人など、飲みたいと思う人がいるかもしれない。この物語では、さらにエスカレートして親の望む子どもに変える、という恐ろしい話になっています。逆に子どもが望む親にすることができたら、と思う人もいるのでは、とも思いました。現代の子どもが抱えている問題を解決することができる近未来の世界を描いているようで、実は大人にとって都合がよい、純粋無垢な子どもに変えようとする、時代を逆行するような話になっていきます。近未来の世界のようなのに、紙に書いて本にはさむという、古典的な文通の形をとっているのがおもしろいと思いました。メールやラインでコミュニケーションをとっている今の子どもたちにはかえって新鮮なのかなと。ラストはあっさりしていて、結局は親から逃げ出した、ということで終わったようで、ちょっと物足りない感じがしました。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『荒野にヒバリをさがして』表紙

荒野にヒバリを探して

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『夜叉神川』表紙

夜叉神川

ネズミ:とてもおもしろかったです。人によっていろんなふうに読める作品だと思いました。悪意とか無関心とか憎悪とか嫉妬とか、どの話も負の感情を扱っているんですね。普段しちゃいけない、言っちゃいけないと言われている感情をうまく顕在化させて、善悪ということではなく考えさせてくれます。オーディションとかカードゲームとか沖縄旅行とか、今の子どもたちも興味をもちそうなことをきっかけにして、不思議なことに広げていくのがうまいなと思いました。情景の描き方が美しく、p.230あたりからの「果ての浜」の文章は特に魅力的でした。いろんな人にすすめたい作品です。

アンヌ:読んでいて一番怖かったのが、最初の「川釣り」です。霧の中の女の人みたいな怪異や川の主みたいな魚の化け物が出てきててんこ盛りなんだけれど、それよりも前半の心臓を取り出すのに夢中になっている辻君に感じる恐怖心の方が上でした。そのせいか、辻君の横暴な物言いや異常性格的な描写はなくてもいいような気もします。川の怪異が懲罰みたいな役割なのも少し残念な点です。「青い金魚鉢」は特殊な能力を持つ「物」に魅入られる話として読みましたが、家に閉じ込められていた昔の人と金魚鉢の能力の関係に説明がないのが残念でした。「鬼が森神社」は、p.100のアイドルを目指すリョウの魅力をちょっと百合的な描写で感覚的に描いているところなどとてもうまいと思うし、宝塚ファンの人たちの暴走のニュースなど昔から聞いたことがあるので、苺の行動もまあ、あるんだろうなと思いました。最後には呪いも解いたし、未来に向かって進もうとしている主人公が橋のところで語り掛ける描写もよかったし、なんといっても、鬼が情けない顔をしているラストがよかったです。「スノードロップ」は少年の心の中にある、他者の死を願う気持ちの変遷の話だから、これにはあまり興味を感じませんでした。私は怪談好きですが、幽霊は苦手です。怪談というのはこの世の物語で、この世には人間などの測り知れない世界もあるというのが魅力だと思っていますが、幽霊は人間とその死後の世界のことなので……。うらみはらさでおくべきやと化けて出るような、目的を持ってこの世に帰る幽霊ならともかく、自分たちが死んだと気づいていないような子どもの幽霊は、とてもつらい。だから最後の「果ての浜」は、戦争の悲劇や理不尽さを伝えている点は素晴らしいと思うし、さらにそこから徹底的に目をそらそうとする主人公もリアルでおもしろいと思うのですが、子どもたちの幽霊から弟を守ろうと戦うような感じのところは、受け入れがたい気がしました。

オカピ:これまでに読んだ安東さんの本の中で、いちばん好きでした。鬼神である夜叉はけして、まったくの悪というわけではなく、そうした善とも悪ともいえないような、人間の複雑な部分をとらえた作品です。欲とか暴力とか戦争とか、人の業の深さを思いました。どの話の中でも生と死のドラマが展開するのですが、一話一話がおもしろい。水源から河口に向かい、やがて海に出るという全体の構成もみごとでした。

アカシア:私も、安東さんの作品の中でいちばんおもしろかったです。人が、ふとしたときに見せる怖いものが、どんどん肥大化していくことを、とてもうまいストーリーテリングで表現していますね。さらに怖くする工夫もあるし、はぐらかしもあります。文章表現がとてもじょうずだと思いました。「鬼ケ守神社」の最後の一行は、実は鬼より人間のほうが怖いということを言っているようです。「スノードロップ」のp.158から最後にかけての「自分の命を自分で決めて悪いか?」をめぐるぼくと松井さんとのやりとりは、表面的ではなく深いところからの知恵が湧いてきているように思えて、道徳の教科書とは違ってひきつけられました。「果ての浜」では、子どもの自然な発想として、受験後につらい話をしないでほしいという気持ちをもつ岳が、弟をさがしているうちにトウキビ畑で昔の子どもたちの声を聞いたのがきっかけで、変わっていくのですが、その気持の変化に無理なく寄り添うことができました。p.231の「くりかえし蹴っていた山下の靴。あの靴を自分も履いていたのかもしれない。/今もずっとくりかえし、あの少年を蹴っているような気さえした」という部分は、沖縄の歴史を知らない子どもたちにもすんなり伝わるでしょうか?

シア:おどろおどろしい雰囲気でおもしろかったです。生徒にも気に入られるのではないでしょうか。本の厚みはないし、表紙もダークメルヘンで好まれそうです。オムニバス形式で人の心に棲む鬼を描いているんですが、形式のせいでばらけた感じがしました。最後の「果ての浜」が秀逸だったので、この話だけで書いても良かったかなと思いました。というのも、夜叉神川で繋げるのはいいにしても、夜叉神川の由来など川自体の話が出てこないなと思いまして。「果ての浜」では山下だけでなく、主人公の無関心さを鬼にしたのは良かったと思います。実際、戦争の話は悲惨だし関係ないからと嫌う子も多いし、昔のことや酷い話は自分には関係なくて、もっとハッピーな気持ちでいたいという今の若い世代の気持ちをよく表現していると感じました。愚痴やら暗い話は嫌がられるんですよね。生徒たちの好きなSNSでもとくに嫌われる行為です。でも、暗い気持ちになるようなことをしでかすのも大体この年齢が多いので、その矛盾をこの本はうまくついていると思いました。また、さんぴん茶の名前や味でツボるのはわかりますし、そういう意味でもこの作者は10代っぽさの表現が上手ですね。出てくる子は現代っ子や都会っ子なイメージを受けるのですが、全体的な田舎っぽさもうかがえます。例えばp.184に「女にまるめこまれ、きげんよく鼻歌を歌っている弟が情けない。」とあるのですが、ここは「大人にまるめこまれ」で良かったのではないかと思いました。1話目の辻くんはそういうキャラクターということで主人公から指摘もされていましたが、この岳くんの言葉は田舎の男女差別を思わせます。また、2話目の引きこもりの子の表現なのですが、琴ちゃんは「こだわりが強い」「変わっている」などと発達の問題を疑わせる部分はちょっとどうなのだろうと思いました。引きこもってしまうのは基本的に繊細な子が多いので、そういうことで良かったのではないでしょうか。琴ちゃんのお母さんも食前に害虫の話をするなど変人すぎると思います。そのせいで発達障がいの遺伝について考えてしまいます。それに、敏感な子を大なり小なりこういう状況に追い込む加害者がいけないのに、愛奈ちゃんは「おとなしめになった」というだけで事態の責任に関して何も気づけていません。1話目の「川釣り」のような物事の繋がりを考えた上での罪悪感が生まれないのではないかと思いました。3話目の主人公も改心しているのに、連作の繋がりに違和感を覚えました。違和感といえば、この本は助詞など文章に気になるところも散見されたので、児童書ですし編集者もとくに注意して見てほしいと思いました。p.215「ヌギリヌパ教室が楽しかった」「ヌギリヌバと呼ばれる岩かげに」など、パとバがどっちなのかわかりませんでした。

ハル:1話目で、グッときました。2話目の「青い金魚鉢」は、ちょっと私がつかみきれていないのですが、「末代まで」の怖さが印象に残っています。もしかしたら、強者への無自覚なあこがれもあるのかなぁ。……などなど、ときどき面食らうようなところもありつつ、川さながらに緩急つけながら全体のうねりを高めていって、最後に「果ての浜」に到達する構成が、もう、すごいなぁと思いました。読者、つまり子どもに寄せた書き方ではないのに、非常にこの不安定で繊細な時期の、今の子どもたちに寄り添っているように思え、なんというか、ほんとにグッときました。すごみを感じます。

マリナーラ:タイトルから、本格的なファンタジーかと思っていましたが、日常からちょっとはみ出た別の世界を描く物語で、個人的にはとても好みでした。人が一瞬垣間見せる悪意が、どのお話にも書かれていました。映像的で、ガラスの金魚鉢がゆがんで見える、というのも想像つくし、サトウキビ畑で姿が見えなくなる、というのもイメージが容易だし、その空間に浸らせてくれる物語だと思います。序盤の2話と3話は、夜叉神川をめぐる連作であることがすぐ掴めるように、川の名前が早めに出てきてわかりやすかったです。最後の戦争の話は、工夫を随所に感じました。そういう話は聞きたくないのだ、という主人公の気持ちに寄り添いながらも、戦時中の出来事に少しずつ引き込んでいきます。当時の波照間島、西表島のことは知らなかったので、勉強になりました。

雪割草:主人公の負の感情を超自然的な現象と結びつけて書いていて、おもしろいなと思いました。割と年配の作家さんなのにヤングな設定を描けていて、すごいなとも思いました。なかでも私は「スノードロップ」と「果ての浜」がよかったです。「スノードロップ」は、なぜ松井さんは怒ってばかりいるのかを、子どもの視点で無理なくときほぐして描いていると思いました。「果ての浜」では、まず戦争中の波照間のことを私は知りませんでしたし、その出来事を主人公らが知る方法も、奇妙だけれどリアルでなるほどと思いました。

ヒトデ:1話目の『川釣り』からひきこまれて読みました。辻くんの純粋な悪意みたいなものが本当に怖くて、でもそれが自分の身に引きつけられないものではない、というか。絶妙なバランスで書かれていました。2話目の「青い金魚鉢」も最後のきつねの伏線で、う~ん、さすがだな、という感じでした。4話目の「スノードロップ」、5話目の「果ての浜」は、1話~3話から少しテイストを変えて、闇の中から光へ進んでいく話という印象でした。とくに5話目の「果ての浜」では、主人公の「どうして戦争の話をきかなければならないのか」という問いに、物語のなかでしっかり答えを出しているところが、とってもいいなと思いました。

しじみ71個分:映画でも本でも、私は本当に怖いものが苦手で、1話目を読んで、やっぱり怖くなって後悔したのですが、読み進めるうちに本当に文章がうまいなぁとつくづく思わされ、読み通してしまいました。この本は「子ども向け」に分かりやすく書いてないし、大人向けといってもいいほどです。1話ごとに、表現や構成が練られていて、短い連作集なのに大変に読みごたえがありました。夜叉神川の上流から物語がスタートし、中流、下流へと流れていき、最後に「果ての浜」をもってきて、海に流れ込んでいくという構成にはうなりました。テーマを「光と闇の境」としたのは、各話で日常生活に生じた、ちょっとした亀裂から、登場人物の悪意が溢れて出てきてしまうのですが、その日常の中の善悪の紙一重な感じが、光と闇の世界の薄い境目のように思われたからです。各話で、悪意が吹き出していく人物がいろんな形で描かれ、そのまま「あっち側」に行ってしまいそうなところを、視点になっている主人公が、「こっちに戻っておいで」というように境目で止めてくれて、それが児童文学としての救いの部分なのかなと思いました。1話目の「川釣り」がいちばん怖かったです。魚の命を奪うことを楽しみ、残虐性が発展して、「ぼく」をも脅して楽しんでいた辻くんが、さらに恐ろしい人間になってしまいかねないところを川の神か山女魚の妖怪かに襲われ苦しむ姿を見て、「ぼく」が「クツクツクツ」と笑い、「ぼく」も喜んで闇を発露させるのですが、ここがいちばん怖かったです!「ぼく」は我に返って辻くんを助け、「清らかな流れを見ていたら、なぜだか祈るような気持ちになった」(p.41)、「そしてこの先、ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうかまもってほしい」(p.42)、という場面で終わります。残虐性は誰もが持っていて、あちらに行ってしまうか、こちらにいるかは紙一重だという恐ろしさを突き付けるとともに、それに自分で気づいた「ぼく」が境目で踏みとどまり、闇に落ちないように祈って終わるという、この展開の鮮やかさは素晴らしいと思いました。あとはやはり最後の「果ての浜」にやられました。この話では、善悪の境を突き破るのは、島にやってきた山下という青年教師で、突然、豹変し、日本刀で島民を脅して、波照間島から西表島に強制疎開させたため、西表島で病や飢えで島民がたくさん亡くなるという惨劇が起きます。でも、境目に立つ主人公の「おれ」は、残虐さに落ちた山下ではなく、西表に追いやられ、亡くなった子どもたちの魂に、ヤギの人形をあげることで浄化させ、連れて行かれそうになった弟を助けますが、海へと川が流れ込み、浄化されるという大きな構成になっていて素晴らしいと思いました。戦争という大きな悪意に、目を向けないこと自体が大きな悪だという強いメッセージを感じますし、そこに主人公が気付くところで、人間性への期待を持たせる物語だなと思います。

ルパン:とてもおもしろく読みました。最初の「川釣り」に出てくる、川の神なのか化け物なのかが言うセリフ、「命をとったら食べてやらなくちゃねえ」というのが名文句だと思いました。ただ、この人(神?)がこのあとも出てくるのかと思ったらこれっきりで、いったい何者だったのかが気になりました。「青い金魚鉢」は、愛奈さんが何の気づきもなく終わるのが消化不良。ちほちゃんの善意で救われてそれで終わり、本人は何の反省も成長もないまま。何の話なのかな、と、ちょっと首をかしげました。「鬼が守神社」は、p.126の「リョウがいない時のわたしたちには、話すことがほとんどなかった」というのが、女子の関係をよくつかんでいると思いました。「スノードロップ」はいちばん好きな話で、「松井さんが死んだらゴンに悪いです!」とさけぶ男の子に好感がもてました。「果ての浜」は…またそういうことを言う、と言われそうですが、この塾の先生たち、こんな南の果ての病院もないところに子どもたち連れて行っちゃって、何かあったらどうするんだろう、とか、この夫婦にまかせてそんな遠くに子ども行かせちゃう親とかが気になっちゃって、お話にすっぽり入ることができず。でも、こういう歴史を知ることができてよかった、と思いました。ちょうど『アジアの虐殺・弾圧痕を歩く』(藤田賀久著 えにし書房)という本を読んだところだったので、それもあって、自国や近隣の国の歴史の闇についてあまりにも無知だったと考えさせられました。

サークルK:どのエピソードにも畏敬の念という気持ちを子どもが感じられるような不思議な存在が表現された、興味深い作品でした。神様と化け物は紙一重の存在であるとか、川そのものも、普段のあそび場と同じ感覚でいると全く違う表情を見せる怖い場にもなりうるとか、二項対立には収まらない「何だかわからないけれど確かに存在しているもの」への畏れ多さが良く伝わりました。またp.16、p.36の血にまつわる表現はとてもエロティックで大人が読んでもぞくぞくっとしました。古いところでは、映画「禁じられた遊び」に描かれた子どもにも残虐性があることを思い起こすならば、子どもだからと言ってエロス(という言葉は知らなくても)がわからないはずはないのですよね。残虐性とエロスの表裏一体なところをこのような形で表現しているところはすばらしいと思います。これらは最後のエピソード「果ての浜」に出てくる「血の島」につながるのでしょうから、伏線としてもとても心に残りました。

西山:まず「川釣り」で、すごいところをお書きになったなと、いろんな意味でどきどきしました。以前、高校の国語の教材で釣りに関するあるエッセイの一部「姫(ヒメマス)殺しの快感」だったか、そういう表現がカットされていたのを思い出しました。釣りは自然との交歓でありつつ、でも、殺生は殺生。幼児期にどれだけ虫を殺したかが命を尊ぶことにつながるといった発言を目にしたことがありますが、命への興味が「殺す」という行為になっているとして、それが命を尊ぶことにどうつながるのか……。とっとと道徳的に無難な出口を目指すのではなく、すごく危ういところのぎりぎりを見せつけられて、「ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうか守ってほしい」(p.42)という祈りが深く刺さります。そして、作品を重ねて最後にまさか『ハテルマシキナ』が出てくるとは! この構成全体で光を見せていっていると思いました。余談ですが、「青い金魚鉢」で、皿海達哉の短編集『EE’症候群』(小峰書店 1998年)を思い出しました。先生が落ちこぼれの子どもを金魚に変えてしまうんです。こちらも怖いですよ。

エーデルワイス:最近好きな何名かの作家の短篇を読みましたが、長編でおもしろく読んでいた作家も、短篇は?と、思いました。短篇ならではの難しさがあるようです。それに比べ、この作家さんは本当にうまい!と思いました。「川釣り」は怖かったです。個人的には「青い金魚鉢」が好きです。情景が美しいと思いました。

すあま:私はこのタイプの話が苦手で、最初の話から読むのがつらかったです。怖さというよりも、悪意がむきだしなところや、最後に救いがあるのかと思ったら、あるような、ないようなところも、読みづらかったんです。「果ての浜」まできて、これを描きたかったのかなと思いました。夜叉神川をモチーフにしているので、出てくる子どもたちの間に何かつながりがあったらおもしろかったかもしれません。読み手を選ぶ話だと思うので、うまく手渡すことができれば、合う子もいるのかなと思いました。

しじみ71個分:この物語の中ではすべての登場人物が、改心するどうかはわからないまま、オープンエンドになっていますよね。で、主人公の子たちは人間の善性に対して祈るだけなんですよね。実際に、祈っても悪意から帰ってこられない人はいっぱいいるわけで、そこがオープンになって結末まで書かれていないところがミソだし、リアリティなんじゃないかなと思います。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

Comment

『タフィー』表紙

タフィー

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『サンドイッチクラブ』表紙

サンドイッチクラブ

アンヌ:表紙も題名もおいしそうだったのに、残念ながらサンドは砂でした。それでがっかりしたせいか、おもしろく読めませんでした。特に勝田家の兄弟が苦手で、弟のアイネとハイネたちは傍若無人で、葉真(ヨーマ)もヒカルに「一生負け犬だ」なんて言う。彼の言動を「すがすがしいほど自己中心的」なんていう風に肯定的に感じられませんでした。砂像作家のシラベさんは、ホッとする人格で、最後に「きれいなのは砂が砕かれた地球の一部だからじゃないかな。ひと粒一粒にこの星の誕生から今日までの記憶が宿ってるんだ」(p.236)なんて、心に残ることを語ってくれて、砂は悪くないと思えました。物語の舞台は高級住宅地でしょうか? 500円のクロワッサンが飛ぶように売れて、2つの塾に通わせて私立校を受験させる親がいる安全な場所。そこに、シラベさんの海外での体験や現実の隣国のミサイル実験から、ヒカルの祖母の「戦争はまだ続いている」という言葉が現実として入り込んでくる。けれど、その戦争に関する意識がヒカルや珠子のなかで、どうなって行くのかわからないまま終わっている気がしました。

雪割草:あまりおもしろいとは思えませんでした。さわやかで、砂像というアイディアはおもしろかったけれど、キャラクター設定が漫画っぽい感じがしました。葉真が好きなことがわかっていて、それをやるんだと決めている姿は気持ちよく映りました。でも、家族みんなアーティストで、だから自分もアーティストになるんだという決め方にはなぜ?と思いました。それから、ヒカルがおばあちゃん子なのはわかるけれど、戦争のかぶれ方が極端だと思いました。最後までお母さんも登場せず、ヒカルはどんな家庭の子なんだろうと気になったので、もっと早く家族関係を描いてほしかったです。そして、主人公の珠子の心の整理を受験や塾で表現するのに違和感を覚えました。実際、今の子はこうした環境に置かれているのかもしれないけれど、いいとは思えませんでした。

エーデルワイス:前に読んだきり内容を忘れて慌てました。主人公の珠子とヒカルの対比がおもしろかったです。ヒカルはおばあちゃんの影響が大きくて、おばあちゃんの言葉に囚われているようで心配になりました。現代は塾が大きく存在を発揮して、塾は当たり前のこととして書かれているので、改めてそうなのかと思いました。小学校6年生女子の会話がまるで中高生のような会話に聞こえ、ずいぶん大人びていると感じました。砂の彫刻について知らなかったので、そこが新鮮でした。

ハリネズミ:ずいぶん前に読んだので印象が薄れているのですが、この本は小学校高学年の感想文の課題図書なんですね。私がおもしろいと思ったのは、見えているものだけで判断しないほうがいい、という考え方がずっと一貫しているところです。それと、著者が今の子どもと、歴史とか外の世界を結びつけようとしているのもいいな、と思いました。砂の彫刻については私も知らなかったので、へえ、そうなんだと思ったし、時間をかけてていねいに作ったものでも崩れてしまうとか崩してしまう、というところもおもしろいですね。ヒカルが戦争にここまでこだわるのは、もちろんおばあちゃんの影響もあるのでしょうが、私も少し疑問に思いました。キャラクターは、あえて少しずつデフォルメしているのだと思ったので、リアリティに対する違和感はあまりありませんでした。

さららん:タイトルのつけ方が秀逸で、読むまでは、ずっとサンドイッチの話だと思っていました。目次の言葉選びにも意外性があって、読者を惹きつけます。作者は、少しずつずらしながらイメージの関連性をつくるのがうまくて、例えば珠子がタマゴと呼ばれ、そのタマゴの持ってきたのが「ポンデケージョ」という丸いパン。そのパンも小道具として効果的に使われていますね。ヒカルの家の「漂白剤」の匂いも、ヒカルや祖母の潔癖さの象徴のように感覚に残りました。そして砂像づくりという、まったく知らないアートの世界を通して、子どもたちの成長を伝える点がとにかくユニーク。違う時間軸の中に生きるシラベさんと出会えたことが、人生の岐路にある子どもたちにとって、大きな意味をもちますよね。お金はあるけど、やりたいことがわからない珠子と、貧乏だけれど、頭がよくて、「大統領になったら、戦争のない世界を作りたい…(中略)…世界があたしを置きざりにするつもりなら、ダッシュして先頭に立ってやる」というほど、つっぱったヒカル。2人の立場もキャラクターは対照的で、この2人にちゃんと共感できれば、勝田葉真との砂像づくり対決の物語に夢中になれるはずなんですが、2人の切実さに私はいまひとつ、ついていけなかった。作者には、社会にまず伝えたいメッセージがあり、それに合うキャラクターを持ってきてドラマを作ったのではないかと感じてしまったんです。最後の頁のタマゴの思い、「変わらない景色の中で、砂はたえず動いている。毎日は同じことのくりかえしのようで、そうではないはず。見えない変化が積みかさなって、新しい自分になっていくはず。明日のわたしは今日のわたしじゃない」(p.237)は、少しまとめすぎに感じられ、お話全体の中でこのことを感じさせてほしかったです。このセリフは、ややテレビドラマ寄りだと思いました。

オカピ:塾と学校という、狭い世界で生きていた珠子は、新たな友だちと砂像彫刻に出会い、視野を広げていきます。シラベさんが海外で、銃弾や赤ちゃんのおしゃぶりを砂の中に見つけたという話を聞く場面では、近所の公園から、戦争や難民の問題につなげているのがいいなあと思いました。ペンギンの骨格を調べ、それを砂像づくりに生かすのは、それまでやらされていた勉強が、知りたいことに結びつく瞬間ですね。ヒカルが「ケンペー」という言葉をよく口にするのは、少し違和感がありました。もし今の時代に戦争が起きて、憲兵のような人たちが出てきたとしても、それはべつの名前になるだろうから。p143にあるように、ヒカルは「心だけ別の世界に行ってしまう」ということなのでしょうが。

ネズミ:中学受験や塾に行くのが前提になっている日常というのが、今の小学生にはあたり前のものなのかなと思いながら読み始めました。地方でもそうなのでしょうか。

エーデルワイス:東京とは違い、私が住んでいる地方では、私立中学受験がないわけではありませんが、少ないです。小学生は『くもん』に通っていますね。

ネズミ:そうなんですね。小学6年生にして進路選択を迫られるとこうなるのかもしれませんが、ヒカルや珠子の心持ちや人物像を私は今ひとつはっきりととらえられず、物語に入り込めませんでした。だからか、作者がいろんな問題意識を読者に投げかけているのは好感を持ちますが、やや全体にごつごつした印象というか、取って付けたような感じがしてしまいました。たとえば、p133の、マルタ島の赤ちゃんのおしゃぶりに始まる難民の説明とか。思いがけないところで私たちのすることは世界につながっているというのを、作者は示したかったのかもしれませんが。

ヒトデ:「砂像」というテーマに、著者のセンスが光っていると思いました。タイトルの付け方も魅力的で、著者ならではのものだと感じました。「現代の子どもたちに、戦争のことをどう伝えるか、どう考えてもらうか」という難しい課題に、ハムと祖母とのやりとりや日常に影を落とすように出てくる「ミサイル」という装置を使いながら、この物語ならではの方法でアプローチしているところがいいなと思いました。現代が過去とつながっていること、戦争が決して、断絶した「過去」の話ではなく、現代そして未来にも起こり得るものであることを伝えているところが、とってもいいと思いながら読みました。

カタマリ:初めて読んだときは、砂像の話に引き込まれつつ、要素がいろいろ盛り込まれ過ぎているため、少し散漫かなと思いました。今回再読したときは、散漫には感じず、とてもおもしろく読みました。砂像のはかなく消えてしまう、という特質が物語全体にいい味をもたらしています。登場人物の女の子たちの書き分けもうまいなと思いました。塾で女の子たちがわちゃわちゃ会話していても、誰かと誰かがごっちゃになることもなく、スムーズに読めました。敢えて1つ言うとすれば、砂像バトルが盛り上がりに欠けるんですよね。それは、大会などではなく、私的な勝負だからということもあるのですが、いちばんの理由は、主人公とヒカルは成長しているのに、ライバルの葉真が成長していないからではないかと考えました。最初からすごくできる人で、ずっと似たものを作り続けているんですよね。彼が壁を突き抜けてさらに成長するシーンがあると、主人公たちの頑張りも際立つのかなと思いました。

シア:砂像アーティストというのを知らなかったので、おもしろく読みました。受験期の子どもがストレスから別のものにハマるという話は多くありますが、この本は保護者が適度な距離を持って接している理想的な形だと思いました。そのため、主人公はそれを理解したうえでゆとりを持って自分の進路を考えることができました。現実ではなかなかこうはいきまません。実際、中学説明会の教師ひとりの面談で決めるというのは微妙ですしね。だからそういった意味でもフィクションな面が強いし、戦争や貧困などいろいろな問題も盛り込まれていましたが、どれもふわっとさせていて、なんとも小綺麗なまとめ方をしたなと思いました。まあ、そういうのは嫌いじゃないので、それはそれでありかなとは感じました。まるでサンドイッチの断面のような、作られた美しさではありますが。「サンドイッチクラブ」という題名も“サンド”と“砂”とひっかけていて、ここも上手くまとめていますね。

ルパン:これは、申し訳ないけれどおもしろいと思えませんでした。いろいろ盛り込まれているんですが、何もかも中途半端な感じで。砂像、中学受験、経済格差、ミサイル問題、友人関係……。唯一筋が1本通っているのは葉真かな。「教室の中でじっとしていられないから外に出て砂像をつくる。そして世界的なアーティストになる」という。でも、それも、誰かに何かを伝えたいとか、何かを主張したい、という感じではなくて、ただ有名になりたいだけみたいだし。それでも、よくわからない方向転換を繰り返すヒカルや珠子よりはましかな、という気がしました。葉真の弟たちもなぜふたごの設定なのかよくわからない。このお洒落な名前を出したかっただけかも、と思っちゃいました。ただ、砂像というのはいいモチーフだと思いました。検索したら、すばらしい砂像がたくさん出てきて、感心しました。砂像の迫力とはかなさの魅力をもっと物語の中で活かせたらよかったんじゃないかな、と思いました。

ハル:いろいろな要素がからまっていて、とてもおもしろかったけれど、すごく上手かといったらそうでもないような。ところどころで「どうしてこういう表現になるのかな?」と浮いてしまうような部分もあり、それは私の読み込みが足りないだけじゃなくて、書き込みも足りないんじゃないか……という感じがしました。印象に残っているのは、「世界にはばたくリーダーとなれ」なんてスローガンをかかげている学校の先生が、とてもいい大人だったこと。ヒカルのような子がいる一方で、珠子のように、将来の夢なんてわからない、という読者のことも、それでいいんだと包んでくれて、とても心強く思いました。もうひとつは、ヒカルのおばあさんは、実は戦争を体験していなかったというところ。隔世の感がある、と言うと語弊があるかもしれませんが、ぞくっときました。呪いのように残り続ける憎しみこそが、次の戦争の種になるんだということでしょうか。

西山:どうも腑に落ちない……。長江さんは他の作品でも戦争をめぐる題材を持ち込んで書かれていて、それ自体は賛成だし、題材の選び方も珍しかったりするし、そういう問題意識には共感するのですが、作品というまとまったイメージとして、捕まえ切れません。なんでだろう……。たとえば、ヒカルは最初アニメ的なエキセントリックな設定と感じたのですが、おばあちゃんの呪いに囚われていて、ミサイルへの異様なまでの危機感(危機感を持っていない方が「異様」とも言えると思いますが)とか、その辺がアンバランスで、どう読めばよいのかよくわかりません。ヒカルにさんざん戦争体験を語り聞かせていた祖母が実は戦後生まれだと知った後の、「たぶん、昔話として孫に戦争を語っても、伝わらないって思ったんじゃないかな。自分が体験したように話したほうが迫力でるでしょ」(p55、1行目)は、相当強烈な皮肉と平和の語り方に対する問題提起になっているけれど、この件はこれで放り出されているまま。戦争に怯えているヒカルの状態は病的と言って良いほどだと思いますが、それもほったらかされている。ヒカルは自分に敵対する言動に対する反撃として「ケンペー」を口にしますし、「そうだね。あたしたち、シャベルの使い方がうまいから防空棒を掘るときに重宝されるよ。ケンペーだって、あたしたちに一目おくにきまってる」(p142-143)ともあって、憲兵が味方みたいな位置付けなのも腑に落ちません。おばあちゃんは「戦争体験」どんなふうに伝えたんだろうと。すごくアグレッシブに問題提起しているんだろうけれど、つかみあぐねる感じです。絶妙な表紙絵ですし、ハムとタマゴで「サンドイッチクラブ」なのも楽しい仕掛けではありますが、おいしそうなサンドイッチの話でないことにがっかりする子どももいると思います。小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)が、全然「小説の書き方」の本じゃなかったことにがっかりした経験を思い出しました。

しじみ71個分:この本は再読ですが、料理に関する本かなとタイトルで手に取りましたので、「やられたな(笑)」と思った記憶があります。1回目に読んだときは、砂像を作る話だという以外は、あまり印象に残っていなかったのですが、JBBYのイベントで、長江さんのお話を伺い、こういうことを考えておられる作家さんだったのかと思い、今回、興味を持って改めて読み返しました。はじめて読んだときは、メッセージを伝える素材である砂像から世界が見えるということや、戦争のイメージを刷り込まれた子どもが登場するなどということはあまり記憶に残らなかったのですが、読み直すと、少し作家の考えやメッセージがストーリーから飛び出している感じを受けました。なので、背景やら、物語の彩りの部分を除けば、珠子という主人公の朗らかな女の子が、ヒカルと出会ってサンドアートを体験し、自分で自分のことを考えるようになり、孤独だったヒカルも友だちを得て、日常とのバランスを取り戻していく、というシンプルな友情の物語だな、という印象です。サンドアートはおもしろい着眼点だと思いますが、世界や戦争などの要素が、2人の少女たちの関係や心持ち、成長といった物語の柱に対して、それほど効果を生んでいないのかなという気もしました。表現はところどころ、とてもいいなと思いました。たとえば、ヒカリがライオンの砂像にまわし蹴りをくらわすところで、「ふりあげた足からビーチサンダルがぬげて、雨の中をロケットみたいに飛んでいく。」(p.42)とか、「光の粒子がまぶたをすりぬけて、星のように暗闇の中でチカチカとまたたいている。」(p.128)とか、体感的ですてきな表現がありました。美しい表現をされる作家さんなので、これからの作品にも期待しています。

サークルK:受験を控えた6年生女子のモヤモヤが言語化されていて、受験することがつらくなって逃避していく展開なのかと思いましたが、砂像をめぐる新しい友人たちとの出会いによって自分を見つめなおす機会が生まれていくという物語になっていたのだとわかりました。(ただ、夏休みをここまで使ってもう1度受験勉強生活に戻っても、時間的に間に合うのだろうか、やる気だけでは乗り切れないのではないのかという現実的な心配がありますが。)p.57ページのヒカルの独白は、2022年4月の現在に起きているウクライナでの戦争を踏まえれば、より一層重いものと受け止めました。ヒカルが、だからアメリカに行きたい、と短絡的に発想する所には、世界を救うために飛び出していく行先がやっぱり欧米が主体になってしまうのだな、と少々苦笑してしまいました。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『家族セッション』表紙

家族セッション

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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『ラスト・フレンズ』表紙

ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間

しじみ71個分:ページを開いてみて、はじめからびっくりしました。作者の実体験にもとづくコメントや、「いのちの電話」の紹介などがあって、また、タイトルも「ラスト・フレンズ」なので、どんな展開になるのか、ちょっと不安を抱きながら読みました。ですが、物語を読み進めていくと、3人の女の子のキャラクターもきっちりと書き分けられ、それぞれの苦しみが、リアルに嫌というほど伝わってきて、3人にとても共感しました。自分が若い頃、非常に精神的に不安定だったことも思い出されてきました。最も共感してしまったのはミーリーンで、わたしはリストカットまではしませんでしたが、自己を否定するネガティブな言葉が頭を支配する感じや、大勢の中で非常に強い孤独を感じるあたりは、すりむけたところがヒリヒリするようで、読んでいていたたまれなかったです。でも、ティーンエイジャーだったら、実際に鬱だったり、性的虐待にあったり、障害があったりしなくても、3人のどこかに共感する点を見つけられるのではないでしょうか。
それから、編集の荻原さんに原文がどうだったか、おうかがいしたかったのですが、例えばオリヴィアの章では、段頭がわざわざずらしてあったり、ミーリーンについても現状の認識と頭の中のネガティブな言葉とでフォントが変えてあったり、見た目の行の配置でも心の状況が分かるようになっていますね。これも、緊迫感を醸し出してとてもよかったと思います。自殺幇助のサイト、メメントモリの存在も物語にじわじわと恐怖感を与えていて、インターネットの危険性も伝わりますね。途中までは3人が自殺してしまうのではないかとドキドキし、後半はメメントモリからの攻撃でスリリングな展開になり、結局最後までドキドキしながら読みました。大変におもしろかったです。

コゲラ:表紙を見て、ていねいな前書きやインフォメーションを読み、おっかなびっくり読みはじめました。3人の少女の性格や、置かれている状況がしっかり描かれていて、それだけにページをめくる手が、ともすれば止まりそうになりました。でも、3人そろって服を選ぶ場面から明るい兆しが見えてきて、ほっとしました。前半とうってかわって、後半は悪意のあるネットのサイトの所有者との闘いで、まさに手に汗にぎる展開。一気に読めました。
作者はもちろんのこと、編集者、訳者の細かい心遣いと熱意が感じられる、よい本だと思います。ただ、図書館や学校で子どもたちに手渡す立場にある方は、神経を使うだろうなと思いました。むしろ、読書会などグループで読むときの課題本としたら、とてもよいのではないでしょうか。先日のニュースで、自殺をしたい子をネットで誘って監禁した事件を報道していましたが、日本の10代にとっても他人事ではないので。p12で、主人公のひとりのカーラ言っていっていますが、「サマリア人協会=サマリタンズ」は日本の「いのちの電話」のことで、カーラがふざけていっているということが、日本の読者にはわかりづらいのでは?

雪割草:展開が気になり、引き込まれて読みました。作者のメッセージが冒頭にあることで、読者への配慮や届けたいという思いが伝わってきました。3人それぞれが、母親との関係によって前に進めるようになるのもよく描かれていて、思春期の読者には伝わるものがあると思いました。それからメメントモリというサイトですが、グループワークを通して自殺をやめさせるいいサイトなのかもしれない、と最初は思ったりしてしました。でも実際は違って、ネットの恐ろしさや世の中の悪意、その子どもたちへの影響を考えさせられました。長く、内容もセンシティブで、出版社にとっては挑戦だったのではと思いました。

エーデルワイス:表紙イラストの3人の少女たちの顔に目鼻口がありません。物語を読む前から少女たちの心情がすでに伝わってくるようです。本文の文字の配列が視覚的に変化して、ミーリーンの苦しい心の叫びが伝わり、つらくなりました。オリヴィアの性的虐待に母親が正面から向き合ってくれてほっとしました。こういう状況の子たちを大人がいち早く気づいて守ってほしいと願います。問題を抱えている子どもに即刻ソーシャルワーカーがつくところがすばらしいですね。最後にミーリーン、カーラ、オリヴィアの3人が、自殺サイトの罠にも負けず、生還できたことにほっとしました。

キビタキ:カバー前袖の文章と、物語の前に「いのちの電話」などのサイトの紹介があるので、ちょっと身がまえてしまいました。読者は高校生くらいだと思いますが、ここを見て読んでみようと思う子と、逆にちょっと引いてしまう子がいるのではないでしょうか。それぞれの少女の一人称で語られる章が入れ替わりで出てくるという構成が、最初は読みにくくて、3人のことを把握するのに少し時間がかかりました。それぞれの抱えている苦しみや心の叫びがうまく描かれていましたが、その分、読み進むのはとてもつらくて、途中でやめたくなりました。後半は、やっと気持ちをわかってくれる相手が見つかったことで3人が楽になっていくので、読んでいるほうも救われるのですが、そう思う間もなく急展開が待っていて、ハラハラし通しだったと思います。3人の主人公は16歳なので、同世代の読者には響く部分が多いのではないかと思いました。

アンヌ:最初に「いのちの電話」が提示されて自殺について書いてあるとわかるので、戦争が始まったという今の状況でこの物語を読み始めるのはきつく、その上事故による下半身まひ、鬱、性的虐待という状況が描かれるので、もうそこから進めなくなってしまいました。でも時間をおいて読み直し始めたら、それからは一気読みでした。3人はごく普通の仲よしのティーンエイジャーのような生活、チェア・ウォーカーになったカーラができるとは思っていなかったような生活を楽しみます。まず、ショッピングモールでお買い物をし、ランチをとる。ここで、普段はグッチを着ているというオリヴィアの言葉に階級を感じましたけれど、でも、彼女のように服を見立てるのが得意な友だちと買い物に行くとお互いが満足できて楽しいですよね。ランチではミーリーンに、ちゃんとしたハラルのお肉を食べさせる店を見つけてあげる。好奇心から宗教上の禁止事項は訊いてくるけれど、そこから先に踏み込んでくれない人たちとは違って、カーラは解決法を一緒に見つけてくれる。いつも遠慮しているミーリーンが気を使ってもらえて喜ぶところは、読んでいて楽しくなりました。それから、性的虐待を逃れてするジャンクフードだらけのパジャマパーティ。ここも楽しくて、このマイナスとプラスの場面構成は、とても動的でリズムがあるなと思いました。ミーリーンが母親に絵を描くことを認めてもらう場面では、現代のムスリム女性が子どもたちには自由に生きてほしいと思っていることも知ることができました。ただ、ここから先のサイトからの反撃などが出てくる場面はスリル満点ですが、少々つらく、まだ読み返す勇気が湧いていません。私の好きな場面は、カーラが救急車に乗せられるミーリーンにスカーフを巻いてあげ、その気持ちが救急隊員の女性にも伝わるところです。他者に想像力をもって接することの大切さを訴えかける見事な小説だと思いますが、実際に死の誘惑を感じている子どもに手渡すのには注意が必要だとも思います。

オカピ:今、日本で、子どもの自死はとても多いですよね。最近、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵 岩崎書店)という絵本の特集番組を見たのですが、「子どもの自死をテーマに児童書を出す上で、伝えたいのは “死なないで” ということだけど、それをそのままぶつけても届かない」と、編集者の方がおっしゃっていました。それをどうやって絵本とか、この本の場合はYAという作品にするのか、ということですよね。その番組で、「人間社会内孤独と自然宇宙内孤独がある」という谷川さんの言葉も印象的でした。私は中学のとき、「とくに悩みがあったわけじゃないけど、死にたいと思ったことは何度もある」と友人に言われて、驚いた記憶があります。いじめとか虐待とか、そうした具体的な理由がなくても、ふっと死に引きよせられることがあるんだなって。この『ラスト・フレンズ』では、鬱、性的虐待、父親の死に対する罪の意識など、死に向かう理由が示されていて、もちろんそういうケースもあるのですが。詩の形で書かれた本が今たくさん出ていて、この本でもオリヴィアの章はそうなっています。p115「ミーリーンが床からパソコンを拾って/いう」、p317「ミーリーンはぱっと顔を上げて、ちょっとだけ/ふら/ふら/歩いてから、いう」など原書通りの改行なのでしょうが、そのまま日本語の作品にするのはなかなか難しいのかなと。訳はp6の「ムリやり」「大っキラい」、p8「フツー」、p11「キツい」、p13「アガる」など、カタカナが多いのが古く感じられて、私にはちょっとしっくりきませんでした。地の文なんかは心の中で思っていることなので、今の言葉をそんなに使わなくてもいいような……。シリアスなテーマの本というのもあって、訳が少し浮いているように感じました。

みずたまり:近く感じる死を回避して、生きることに向かっていく少女たち、という大きな流れはとてもよくて、3人のやりとりを興味深く読みました。それぞれの背負っているものはとても重いけれど、友情があれば乗り越えられる、という力強さを感じました。ただ、自殺サイトのハッキングについて詳細が語られていなくて、カメラがいつも都合よく見たいものを撮影しているような気がしました。そのあたり、もう少し仔細に書いて納得させてもらいたかったです。あと、わたしは、3人が中盤で生きる決意をして、自殺サイトの正体を協力して暴いていく展開なのかと想像してしまいました。死と生に対して、よりポジティブに向かう方向を勝手に期待しすぎたので、ああ、そっちではないのね、と途中で軌道修正しながら読みました。

ハリネズミ:苦しい場面がずっと続くので途中で休み休み読みました。もう少しユーモラスなところとかがあると、休まず読み続けられたと思うんですけど。育った環境も文化も違う3人が自殺幇助サイトで知り合って、しだいに友情を結んでいくというストーリーですけど、こういうサイトは実際にありそうで怖いですね。そういう意味では、とても現代的な作品だと思います。性的虐待に関してですけど、この作品では、虐待をしていた男はすぐに逮捕されます。被害者の証言が重視されているということですよね。日本は伊藤詩織さんの件を見ても、まだまだ加害者に有利で残念です。下半身マヒのカーラが、過保護な母親をうるさいと思っていて、独りにしてほしいとあれだけ言っているのに、母親に恋人ができたのかといちいち気にして逆に母親の一挙一動に目を光らせるのは、ちょっと私の中では人物像が結びにくかったです。著者が一所懸命に書いているのは伝わってきましたが、あらかじめこういう流れで書こうという設計図があるせいか、ちょっと堅苦しさを感じました。もっと自然に登場人物が動いていくと、きっとユーモアも入ってくるのかもしれません。

サークルK:表紙の3人の肖像画を額縁に入れて図案化したものを、各章の名前の下に毎回入れている工夫がなされ、3人それぞれの事情を読むときに迷子にならずにすみました。冒頭に「いのちの電話」の案内などが書かれていることもあって身がまえる読者もいるかもしれませんけれど、あえて原題と異なる『ラスト・フレンズ』というタイトルになっているところに(ラストという語には動詞なら「続いていく」という意味もあるので)、これからも3人が友達関係を続けられるという希望を読める気がしました。作中の16歳の少女たちが巻き込まれている日常(たとえば自分と異なる宗教観や結婚観、人生観、罪悪感、性的虐待といったヘビーな内容)に想像力が追いつかないとしても、不気味な自殺幇助団体の「契約」に取り込まれていく様は、現代の日本でもうっかりWebをクリックして思わぬ犯罪に巻き込まれてしまう子どもたちへのリアルな警鐘となると思います。つらい展開のところもありましたが気がつくとぐいぐいと引き込まれて読んでしまいました。

ヤドカリ:読み終わったときに、読めてよかったと思えるような小説でした。著者の伝えたいという思いが強く出ていて、力のこもった作品だと思いました。3人のキャラクターそれぞれに、日本の読者もいろいろなポイントで共感できるのではないかと思います。母と娘の関係が大切な小説で、帯にいとうみくさんが言葉を寄せられているのも、それでなのかしら、と思ったりもしました。編集の面でも非常にていねいに配慮されているなと感じました。

コアラ:タイトル、特にサブタイトルの「最後の13日間」で手に取る人がいるのではないかと感じました。物語に入る前に、「いのちの電話」などの相談先が載っていて、この本を出版する上での気配りがされていると思いました。途中までは自殺に向かって準備を整えていくストーリだし、p5にあるように、よくない引き金を引いてしまわないとも限らない。最初に載せたら、読んでいる途中で気持ちが揺れても、相談先を思い出すことができるので、まず相談先を載せたというのは、とても配慮されていると思いました。カバーの人の絵が、版ズレしているようで、けっこう気になったのですが、p13で自殺サイトのデザインが「微妙にレイアウトがずれてるメニューバー」とあるので、そのイメージからきているのかなと考えたりもしました。性格も環境も全く違う女の子3人が自殺サイトのマッチングで出会います。最初の出会いのぎこちなさはよくあらわれていると思うし、それぞれのつらさも、読んでいて我が事のように迫ってきました。特に、ミーリーンの章の、太字のフォントで書かれている「カオス」の声は、こんな声がずっとしていたらたまらないというか、本当に死にたくなると思いました。p351のカオスの声に囲まれているようなレイアウトは、頭の中の状態、苦しさが、レイアウトでよくあらわれていると思いました。この物語では、自殺サイトで知り合った人や親が救いとなったけれど、現実の世界でも、苦しい状況では、友人や親からの救いを欲していると思うし、そういう生きることへの引きとめも心の底ではかすかに願って自殺サイトで人と知り合うことがあるかもしれない。でも現実では、小説のように心を打ち明けられる関係にはならず、お互いに死へと進んでしまうのかもしれない。そういうことを重く考えながら読みました。苦しんでいる人が、この本を読んで自分の気持ちを誰かに打ち明けられるようになればと思うし、周りの人も、苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるようになればいいなと思います。

花散里:この本が出版されたとき、3人の顔が描かれていない表紙画、「自殺」やSNSの問題などを取り上げていることが話題になっていたのですぐに読みました。そのときに本書が著者のデビュー作であり、自身の体験をもとに書かれた作品であるということで力作だと思いました。今回、読み返してみて、中盤までは自殺のサイトで知り合った3人が次第に自殺を思いとどまっていくところ、SNS利用の怖さや、仲よくなった3人の中での葛藤などをていねいに描いていて、とても構成がうまいと改めて感じました。ブリティッシュ・ムスリムの著者は自身と重ね合わせて、後半の追いつめられていくミーリーンをいちばん描きたかったのではないかと思いました。最後にカウンセラーの対応の上手さなど、生きることへ希望をもたせ、読後感がさわやかに感じました。自殺サイト、性的虐待などを取り上げている点で大人にも読んでほしい作品であり、YA世代にはぜひ読んでほしいと思います。

荻原(編集担当者):「サマリア人協会」や「ほっぺ」、そのほか、皆さまご指摘ありがとうございます。オリヴィアのパートは原書のレイアウトになるべく近づけてみています。なかなか同じようにはいかなかったですけれども。また、相談先のリスト(日本語版は国内の各団体にご協力いただきました)は、原書では巻末にありました。それを巻頭にもってくることで、入り口に壁をつくってしまった点も課題になりましたが、今この主人公たちと同じような苦しみを抱えている読者が、もし、途中で本を閉じてしまったら……と考えて、巻頭に載せました。この作品は、著者自身がティーンエイジャーだったときに読みたかった本だ、とのこと。著者が求めた本の力を私も信じて、日本の読者にも届けたいと思ったのではありますが、本当のところ、読者にどんな影響を与えてしまうのか、不安もありました。この作品を選んだそのほかの理由のひとつとして、死生観が信仰に反することに苦しむ、という心情は、日本ではあまり触れる機会がないのではないかと思ったこともあります。カバーイラストの画風と、作中に登場するサイトのレイアウトとの関連は……全然考えていませんでした(笑)。実は、編集担当として、はじめて自分で選んでオファーした作品で、ボリュームも考えずに買っちゃったので、なんとかページ数をおさえようと、文字もぎっちぎちですみません。訳者の代田さんの力を借りて、ようやく形にできたという感じです。皆さまのご意見を、今後の編集の課題にしてがんばります。今日はありがとうございました。

しじみ71個分:この物語で行頭がずらしてあったりするのは、詩的な表現というよりは、頭の中の思考が千々に乱れたり、自分で考えたことを自分で否定したり、心の中で瞬間瞬間に湧き上がる苦悶や葛藤、思考の乱れを視覚的に演出しているだけなんじゃないでしょうか? たとえば、オリヴィアの思ったことに取り消し線が引いてあるのは、自分で考えたことを自分で打ち消しているのを表現しているのだと思いましたし、3人で打ち解けているときは行頭が揃っているので心の落ち着きを表現しているのかなと思いました。

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ネズミ(メール参加):読み応えがありましたが、読むのはつらかったです。この子たちがどうなるのか気になって読み進めましたが、話し言葉で展開するとはいえ、ページ数も多く、読者を選ぶ、ある程度本好きな読者でないと読み通すのがきびしいかなと思いました。
3人それぞれのかかえている問題が重たく、当事者となる読者に手渡してよいか、ためらわれます。むしろ、まわりの大人に読んでほしい。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『キケンな修学旅行』表紙

キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『ジークメーア』表紙

ジークメーア〜小箱の銀の狼

まめじか:子どものとき、斉藤さんの『ジーク 月のしずく日のしずく』(偕成社)がとても好きだったので、この本が出たときはわくわくして読みはじめました。斉藤さんはアーサー王伝説を子ども向けに書き直していらっしゃいますよね。この本では、アーサー王の要素を上手に入れていて、すらすら読み進めたのですが、作家の中にすでにあるものをパッチワークのようにつなげているというか。オリジナルの世界が立ちあがってこないように感じました。

ハル:これはシリーズものの1巻目ですよね? 最後まで読んで「やっぱり、1巻じゃ終わらないよね」と、がくっときたのですが、それでもやっぱり開幕感がありましたし、今月のもう1冊(『キケンな修学旅行』ほるぷ出版)と読み比べても、物語が豊かだなぁと思いました。セリフが少しかたく感じるところもありましたが、ジークメーアも少年とはいえ冷静で賢く、そもそも特異な存在ですし、読者とはやや距離のあるキャラクターなので、それはそれでいいのかもしれません。挿絵も独特の雰囲気がありますが、入れる位置は、あと少し後ろにしてー! と思う箇所もありました。たとえばp183の元海賊の男が再登場する場面。ハラハラしてページをめくって、先に挿絵が目に入って「あの海賊がいる」と思ったし(顔はちゃんと描き分けられているのです)、p229も箱を開ける前に狼の挿絵が目に入ってしまった。素直に文字だけを追っていればぴったりの場所に入っているので決して間違ってはいないのですが、できればちょっとずらしていただければありがたいです。しかし、つづくにしても、ラストはすごいですね。ショックとともに、続編を渇望させる、これも作戦でしょうか?

アンヌ:魔術と魔物がいる世界にマーリンとかが絡んでくる。そんな、よくあるファンタジー世界を新たに書きだすのに、相変わらず女性は魔女というか賢い女の占い師で、それ以外は宿屋のおかみさんしかいないんだなと、あまり期待せずに読み始めました。フランク王国とか、キリスト教の進行とか、歴史で習う前の小学生にはわからないことが多いのが気になりました。まあ、私自身、ローズマリー・サトクリフの物語で、イギリスにおけるローマ軍の侵略を知ったので、物語さえおもしろければ、そこらへんは理解できなくとも読めるとは思いますが。挿絵は独特で、例えばp15のイグナークの顔など、昔読んだ『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー編 新井皓士訳 岩波文庫)のギュスターヴ・ドレの絵のようなグロテスクさがあって、怖いもの見たさの興味がわきました。物語全体は何か盛り上がりに欠けるような気がするんですよね。続き物だとしても、第1巻を1つの世界として楽しめないといけないと思うのですが、もう少し読者が主人公に感情移入できるような場面がほしい気がします。最後の冒険場面でも、例えば魔物はあまり怖くないし、閉じ込められていた場所の謎解きとか、もっと書き込めないのかとも思いました。手に入った小箱の狼とかについての記述もあまりなくて終わってしまうし、ラストを盛り上げてこそ、次回に繰り広げられる世界への期待がわくのじゃないかと思いました。

エーデルワイス:斉藤洋はさすがうまいストーリーテラーだと思いました。おもしろく読みました。斉藤洋氏が20年ほど前に盛岡にいらしたことがあります。講演会場の小学校の体育館の舞台に立たれると、舞台の端から端ヘと左右何度も移動されながらお話している姿が思い出されました。ストーリーの中では、村に11歳以上の子どもがいない。この解明に続編を期待しています。キリスト教にも触れていますが、多神教の方が柔軟という印象を受けました。

雪割草:書き方や表現、トーンはどちらかといえば好きかなと思います。世界観があるし、小箱の中に狼などエンディングが不思議で、続きがあるなら読んでみたくなりました。ただ、世界観は少々ベタな感じで、登場するのが男性ばかりなので、続きでは女の人にも光を当てて描いてほしいです。人のあたたかさもちゃんと描かれていると思いました。

ルパン:急いで読んだからかもしれないんですけど、全然お話の世界に入っていかれないまま終わりました。長編の1巻だとは知らずに読んだので、ページが終わりかけていても全然クライマックスが来なくて、「え? だいじょうぶ?」と心配になりながら読み、最後は「あれ、これで終わり?」というキツネにつままれたような感じでした。おとなだから読み終わってから、「まあ、斉藤洋だし、『西遊記』みたいにこれから続くんだろう」と思いましたが、子どもはわからないんじゃないですか? いろいろ伏線みたいなことも散りばめられていますが(11歳以上の子どもがいない、とか)、そういったことの理由も明かされないままで、不完全燃焼でした。せめて「続く」とか書いてあげてほしい。

ハリネズミ:私はエンタメだと思って読みました。斉藤さんは、子どもがおもしろいと思う本はどんな本か、ということを調査し、研究してそのセオリーに則って書いている部分もあるように思います。1巻目なので山場はまだこの先にあるのでしょうね。一神教と自然神の対立などが描かれているのも、私はおもしろいと思いますが、今後その辺ももっと描かれてくるのでしょう。斉藤さんがどのように考えているのか、続編が楽しみです。

ニンマリ:佇まいがとても魅力的な小説ですね。イラストも素敵で、世界名作全集を想起させます。1巻はまだ序章で、これから物語が大きく展開していきそうですね。今のところジークメーアは母とランスの言うとおりに動き、受け身なので、主人公への感情移入はまだ薄いです。いつか、ジークメーアが自分の意思で羽ばたいたときに、魅力が高まるのでしょう。個人的には2巻は気になるけれど、とても待ち遠しいというほどではないです。その理由はやはりジークメーアの心情がわかりづらいところにあるかと思います。とても静かな物語なんですよね。ジークメーアに相棒のリスでもインコでも犬でも、何かいて、話しかけることで気持ちがわかったりとか、お茶目な一面が見えたりとかするとぐっと引き込まれるかと思うのですが……。そうするとエンタメになってしまって、この佇まいが台無しになるのかもしれませんね。

西山:斉藤洋って、こういう文章だったっけと驚きました。雑すぎやしないかと……。例えば、p100、半弓が手元にすでに城にあるというのは、ある種のギャグかと思ったくらいです。ふつう、そういうアイテムを1つ1つ手に入れていく冒険が展開されるのではないかと思ったのですが、あれもこれも「実は家にありましてん」という漫才台本になりそうと勝手に笑ってしまいました。ていねいに書かれた本を読みたいなぁというのが読了後一番に感じたことでした。

コアラ:装丁が、ヨーロッパの中世のファンタジーという感じでとてもいいと思います。挿絵も、ヨーロッパの昔話やファンタジーの挿絵っぽくて、よく見ると、左下にドイツ語で挿絵タイトルが書かれていて、右下には画家のイニシャルが入っているんですよね。凝っているなと思いました。ザクセンが舞台だから、ドイツ語で書かれているとそれっぽくていい感じだと思いました。中世のドイツを舞台に、アーサー王伝説を組み合わせたファンタジーで、その設定だけでもワクワクするし、途中まではおもしろく読みました。ただ、最後のほうで、なんだか煙に巻かれたような、すっきりしない、腑に落ちないような形になって、それが残念でした。「洞窟」というのが、大ムカデの口、あるいは腹の中、というのは、ちょっと納得できないし、それより何より、ランスはずっと、「小箱の銀の狼」というのは馬だと言っていたんですよね。p99の最終行からp100の1行目にかけて、「『小箱の銀の狼』という名の、たぶん馬が、どこかにいる」と言っています。ところが、p232の後ろから3行目「小箱を見た瞬間、わたしは、この中に狼がいると直感した。だから、さほどおどろきはしなかった」などと言っているんです。「馬」と言っていたのはどうなったんだと、すっきりしない感じが残りました。それ以外は、おもしろかったです。シリーズ物のようなので、続きが楽しみです。

ハリネズミ:このタイトルとサブタイトルは、続きがあることを想定させていますよね。

シア:オビに「新しい冒険の物語がはじまる」とありますし、偕成社のWebサイトにも「ジークメーア1」と題名の上に書いてあります。だから続くと思いたいのですが、この著者の『ルーディーボール エピソード1 シュタードの伯爵』(斉藤洋著 講談社)が2007年のエピソード1以降音沙汰なしなので、売れ行き次第なところがあるのでしょうか。この本を初めて見たときに、『ジーク 月のしずく日のしずく』の続きだと思いまして、『ジークⅡ ゴルドニア戦記』の2001年からの超ロングパスで続編を書くなんて、児童書界のアイザック・アシモフか! と喜んだのですが、全く違いました。しかし、挿絵も描いている人は違いますが『ジーク』に似ている感じがしますし、『テーオバルトの騎士道入門』(斉藤洋著 理論社)に「ランス」という名の従者が出てくるので、最近流行りのクロスオーバー作品かなと混乱しながら読みました。そのため、この本自体にはあまり大きな感動はありませんでした。最後の川の辺りの描写が読みにくいというか、いまいち想像しにくく、しかも肝心のラストも別にそこまで盛り上がらず、往年の輝きがなくなってきてしまっているようにも感じました。久しぶりに会った方がお爺さんになっていたような感覚です。個人的に大好きだった2シリーズと勘違いしたので、期待値が大きすぎました。とはいえ、最近はアーサー王伝説を知らない子どもが多いので、その辺りを知るのに良い本ではないかと思います。この方の本はどれもおもしろいですし、とくにファンタジーは最高にクールなので、中高生にも薦めやすい本です。p21、p22に「さほど」という言葉が集中的に3か所も出てくるのでここは訂正してほしいと思いました。

さららん:たとえば、洞窟の中に住む主人公は、満潮のときは泳いでいかないと外には出られません。そんなときのために、乾いた服を別の場所に用意しておく、といった描写などに、手触りのある世界を感じました。物語の構成はクラシックですが、マンネリとは思わなかったです。キリスト教、アーサー王伝説についての知識がちりばめられ、その中で登場人物たちもしっかり動いているように思えました。例えば新しい弓をもらった主人公は、古い弓をどう処理するのか。作者はそこまできちんと書いています。母親に対する深い信頼、ランスへの不信感などが、言葉というより、むしろ主人公の行動で表されているため臨場感があります。なお文章は、少し時代劇っぽい感じがありました。例えばp198「ジークメーアはそう思った」までで、心の変化を数行かけて説明したあと、「川で魚がはねた」と、突然短い風景描写を入れて、章を締めくくるあたりなどです。テレビドラマでもよく場面転換に使われる手ですが、作者はそこで、間を取りたいのかもしれませんね。

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しじみ71個分(メール参加):日本人作家による、ヨーロッパを舞台にした時代劇という点におもしろさを感じました。未読ですが、アーサー王物語シリーズを先に書いておられるので、そのスピンオフというところなのでしょうか。ジークメーアの暮らしぶりや能力を描き、続いて冒険物語がサクサクと展開していくので、するすると読めました。ですが、時代物の典型のような話運びなので、斬新さや深い感情移入などはなかったという印象です。まだシリーズ第1巻のせいもあるかとおもいます。何より一番気になったのは、話の終わりどころでした。えー、狼見つけただけで終わっちゃうの?という感じで、もう一つ狼との関わりを語る逸話が欲しかったなぁと思ってしまいました。振り返ると、そこまでにあまり盛り上がりが足りなかったということなのかな…すんごい大冒険をして、苦労して狼を得たという感じがあまりしなかったのでした。でも、とにかく第2巻以降に期待というところです。挿絵はとてもいいと思いました。ヨーロッパの古い銅版画をおもわせるようなイメージは好もしかったです。

(2022年02年18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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『青いつばさ』表紙

青いつばさ

ヤドカリ:映画でも本でも「ロードムービー的」なお話に弱いので、熱中して読みました。兄弟が移動していくなかで、主人公が考え、いろいろなことに気づいていくという構成が、よくできているなと思いました。最後のママの決断については、驚くと同時に、これでいいのかしら、とも思いましたが、この物語のなかでは、説得力のある終わり方だったように思います。物語をとおして「翼」や「飛翔」というモチーフが、効果的に使われていたことが印象的でした。読めてよかったです。

ルパン:おもしろくて一気に読んだのですが、気になるところが多すぎて入りこめない部分もありました。まず、ヤードランのことがそんなによくわかっているなら、翼をつけて一緒に高いところに登ったら危ない(そもそも登ること自体が危ないし)でしょうし、10メートルの高さから落とされて骨折だけですむというのもちょっとリアリティがない。奇跡的にそういうことがあったとしても、ギプスをつけて座った姿勢で長時間トラクターに乗って長旅をするなんて考えられない。私も足にギプスをつけたことがあるけれど、ずっと下におろしていたら鬱血してしまうので、読みながら気が気じゃなかったです。こんな大事件があったのに、弟の体よりもツルを野生に帰すことのほうを優先しているヤードラン、そのヤードランを愛情をもって受け入れてくれる施設があるのにまだ家庭においておく決断・・・あまりにもヤードラン・ファーストな気がして、ジョシュのこれからの人生はどうなるのかな、母親はどう考えているのかな、と思ってしまいました。

さららん:2回読み返してみました。作者はベルギーの人で、舞台もベルギーかオランダ、そのあたりか。スウェーデンやフランスにもツルを見にいったと「作者より」に書いてありますので、いろんな土地の要素が混じっているのかもしれません。ともあれジョシュとヤードランのロードムービーとして移り変わる景色が見え、どんどん読み進められました。ジョシュは障碍のあるヤードランを決して嫌わず、自分が守ってあげなくちゃと思い続けている。すごい愛の物語だと思います。11歳というジョシュの年齢の設定(思春期に入る直前?)も巧みですね。兄弟が暮らすのは、障碍のある子をそのまま受け入れる学校や社会があるところ、インクルーシブ教育の進んだ国という印象を受け、ツルの子どもを連れて2人が旅に出る、という設定はもちろん、ジョシュの心の動き、ヤードランの障碍の在り方も含めて、この物語は日本では絶対に書けないものを書いている、と思いました。ヤードランの通う施設の指導員ミカ、ママの再婚相手のムラットやヤスミンも温かい人たちなのですが、ヤードランは「兄弟はいっしょにいなきゃダメなんだ!」(p102)という考えに縛られています。思いこみに加えて、ヤードランはいろんな人の言葉を口移しのように話すタイプで、例えば「ごめんね、ごめんね、ごめんね」と何度も子どもっぽく謝ったあと、「……だぜ」という男っぽい口調になります。昔、パパとママがお芝居で歌っていた歌も丸ごと覚えています。荒っぽいようで、実は繊細なヤードランが初めて見えてきました。ミカの語調が少し変わっていて、最初は男っぽいように感じたのですが、あとで、女らしい口調になっています(p73「みんなに提案があるの」など)。この人物の造形はあえてトランスジェンダー的にしているかな、と思いましたが、どうでしょう?

しじみ71個分:私はとてもおもしろく読みました。弟が兄のケアをするという設定は、韓国ドラマにもあります。お母さんに兄の面倒を見るように言われて、滅私奉公のように世話をするというのは、洋の東西を問わずテーマに取りあげられているのですね。物語の中に流れている感情が本当にやさしくて、いい話だなぁ、と思いました。弟のジョシュが兄のヤードランのことを本当に好きで、いやがりもせず、兄の性質を理解して献身的に世話をしますが、その兄のせいで大怪我をしてしまうというのはつらい。でも、愛情の裏付けがそこにあるので、つらくなく読めました。寝るときに落ちつけるように、息を合わせていく遊びを「呼吸の橋」と呼ぶのもとてもすてきだと思いました。離婚したお父さんがロシア人、お母さんの恋人がトルコ系ベルギー人などなど、家族関係が複雑だったり、国籍や人種の違う人がさまざま登場したりするのがごく自然にあたりまえのように描かれているのは、大変にヨーロッパっぽいなと思った点です。また、私もミカは最初男の人かと思い、ヤードランはゲイの要素も持っているのかなと勘違いもしたのですが、支援施設で働くしっかりした女性で、オオカミの入れ墨を入れているなんていうのもかっこよく、魅力的です。2人の南への冒険を黙って見守りながらついてくるところも、信頼がないとできないことだと思うのですが、ヨーロッパ式のなんというか、個を大事にする視点を感じました。日本だったらすぐ通報されて、連れもどされてしまうだろうなぁ。また、支援施設の名前が「空間」という名前なのも象徴的で、オープンな感じを与えるのもいいなと思いました。そういう文化的な背景の違うところをたくさん感じた物語です。2人は、ツルの子のスプリートを群れに戻すためにあてもなく南に向かいます。ゲーテの詩「ミニヨンの歌」に「君よ知るや南の国」と歌われるのはイタリアですが、この物語の中ではスペインですね。南というのは、ヨーロッパ北部の人にとっては、暖かくて豊かで幸せのあるところみたいな、特別な意味があるのですね。

コアラ:カバーの絵が、なんとなく昔の物語風に思えました。トラクターの絵というのがよくわからなくて、1920年代の車のように見えてしまいました。それで、読みはじめてみると、スマホが出てきて現代の話だったので、びっくりしました。さらさらっと読んでしまって、訳者あとがきのp226の「〈南〉は(磁石の南のことではなく)、いま自分がいる場所よりもっとよいどこかのことです」というところが、いちばん印象に残りました。そういう意味合いがあったんだなと。物語の中では、美しい場面はいろいろあったと思うのですが、ツルの子が糞まみれになる、という場面が強烈で、あまりきれいな印象をもてずに読み終わってしまいました。とにかく、最後に家族でまた暮らすことになってよかったと思いました。それから、私もミカが男性か女性かあやふやに感じました。フィンランドには、「ミカ」という男性がいますよね。登場した最初のほうでは、ミカ先生が男性だと思ってしまいました。

コマドリ:圧倒的な兄弟愛というか、どんなことがあろうともお互いのことが大好き、という気持ちが貫かれているのがよかったと思います。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花著 くもん出版)のほうも、兄弟がそういう絆で結ばれているので、共通しているところがあり、今回一緒に読めてよかったです。ツルがトラクターの後ろから飛んでくるシーンは映像を見ているようで好きでした。タイトルの「青いつばさ」が象徴的に使われており、ツルの翼と、お母さんの舞台衣装の青い翼が、どちらもヤードランにとっては大きな意味を持っています。またヤスミンが、壊れた翼を縫い合わせて再生させるのも、象徴的な感じがしました。表紙の絵は、たしかに古めかしい感じがしますね。兄弟の顔がリアルに描かれていますが、自分の想像とは違っていたので、ここまでリアルな顔ではないほうがいいように思いました。

雪割草:人への作者のあたたかなまなざしが感じられる作品で、ぐいぐい読ませる語りでした。母親がジョシュに甘えすぎかなと感じたのと、障碍をもった兄とその弟であるからかもしれませんが、兄弟の絆の強さに驚きました。ヤードランが、自分のせいで家族と離れ離れになってしまったツルのスプリートを、家族の元に連れていこうと躍起になるのが、父と母の離婚も自分のせいだと心の傷として負っていたからだったのだということが後半でわかり、胸に迫ってくるものがありました。気になった点としては、装丁がひと昔前のようで、伝えたいポイントがわからなかった(トラクターの絵は必要でしょうか?)のと、「大男」や「チビ」という訳語もイメージに合ってない気がして、古く感じられたのが残念でした。

花散里:障碍を持った兄とその弟という関係ですね。ヤングケアラーが今、いろいろととりあげられていますが、障碍をもつ兄弟がいるとき、親に何かあったときには兄弟に負担がかかっていくので、社会が保障していかなければならないということが言われています。そのあたりのことを考えさせられました。兄のことを「大男」という言い方は気になりました。母親と暮らすことになる新しい男性とその娘である女の子を受けいれて新しい家族を作っていくという感覚も新鮮で、こういう新しいスタイルの家族というのが児童文学の中でも描かれていくのかと感じました。

ネズミ:おもしろく読みました。障碍のある兄弟をもつ子どもの視点から描かれている作品は多くないと思い、いろいろ考えさせられました。お母さんは、『背景パンクノットデッドさま』の母親と対照的で、どこまでも子どものことを思っていて、それでも見えていないこともある。10メートル上から落ちて足を折るだけですむとか、トラクターで公道を走るとか、外国の話だからそれもありかと思って、このテーマに目を向けることができる気がしました。この物語では、最後にヤードランは施設に行かず、家で暮らすことになるわけですが、私は、それが最良だと作者が言おうとしているのではなく、人にも条件にもよる難しい選択を当事者が迫られることを示唆し、読者に問題を投げかけているように思いました。

まめじか:ヤスミンは、兄弟が築いてきた親密な世界に入っていけないさびしさを感じていたと思います。そんなヤスが、ヤードランが壊した青い翼を直し、鉄塔の上にいるヤードランのもとに、はしご車に乗って届ける。あざやかなイメージが強く心に残りました。それまでジョシュがヤードランの世話をしていたのが、ジョシュが怪我をしたり、また2人で旅に出たりしたことで、ヤードランがジョシュの世話をするのも印象的です。p140でジョシュは、車椅子が置きっぱなしになっているのに、だれも心配して見にこないなんておかしいと感じるのですが、そんなふうに思える社会っていいなあと。ムラットとヤスミンはトルコ系だと後書きにありますが、本文には書いてないですよね。もし作者に確認してわかったことなら、それも後書きで説明したほうがいいのでは?

しじみ71個分:私は、ムラットという名前と、ヤスミンについて、p53に「黒い髪の毛と眉毛」とあったので、金髪碧眼ではないからアラブ系の人かなと思って読んでいました。

オカリナ:原書を読む子どもにとっては、名前でどういう人かのイメージがわくのだと思います。私はアラブ系の人かと思いましたが、日本の子どもの読者はわからないので、トルコ系の人だと後書きで書いてあるのはいいな、と思いました。異文化を背負っている人だということがわかれば多様な人たちの家族というイメージを、日本の子どもも持てるので。

まめじか:「大男」という呼びかけや、「空間」という場所の名前は、日本語で読むと、ちょっとぴんときませんでした。

ハル:私は、読んでいてとっても苦しかったです。障碍のある人の自立をどう考えるかという問題については、当事者でないとわからないことも多いでしょうし、口を出すのは気が引けるような思いもどうしてもあるのですが、それでも、「兄弟や家族は絶対に離れてはいけない」なんて、特に本人の強い希望として言われたら、とても苦しくなる人も、少なからずいるのではないかと思います。施設で、家族以外の人とも暮らせるようになることも、自立のひとつだと思いますし、施設で暮らすギヨムたちの家族に愛がなかったとも思いたくありません。ほとんど死人が出てもおかしくない状況ですし、2人に連れまわされたツルの子・スプリートが下痢をしてしまうのもいやでした。お母さんが「ヤードランのことはジョシュが見ていなきゃだめじゃない」といった態度なのもいやでした。ただ3か所、家族に愛があるところ、特に「呼吸の橋」はいいなと思いましたし、p65でムバサ先生がジョシュに「あなたのお兄さんはとても特別な人だけど、あなただってそうなんだからね」と言ったところ、p210でジョシュが「脚が治ったら、たとえヤードランがどんなにうらやましがっても、潜水クラブに通うことにしよう」と心に誓うところ、その3点だけが救いでした。

アンヌ:私も、ミカが、名前だけでは男性か女性かわかりませんでした。でも、ヤスミンがスカーフをかぶっている場面で、今の時代の女の子でスカーフをしているのはイスラム系なんだろうと気がついて。こんなふうに推理しながら読むところも、海外小説のおもしろさだと思います。実は、野生のツルが頭上で飛んでいるのを見て、なんて大きいのだろうと驚いたことがあるので、ギプスの足の上に雛とはいえ、ツルを抱いての道中は大変だろうなと思いました。いちばん驚いたのは、ママの決断です。それでも、ヤードランがママと2人でミュージカルを演じる箇所を読むと、ヤードランには、施設に入って農業をする以外の道や能力が、まだいろいろあるのかもしれない。それを見つけるためにも施設ではなく、家族で暮らすという道も必要なのだろうなと思いました。

マリンゴ: ツルの子どもが登場して、途中からその子を群れに返そうとするロードムービーになることもあって、非常に視覚的で美しい作品でした。障碍をもつ家族が登場する他の多くの本と違うのは、どれだけ愛情があっても、手に負えないほど体が大きくなり力も強くなってしまったとき、リスクが伴う、ということを描いている点だと思います。その解決法は難しくて、外部の専門的な団体に委ねるのが最もいいと思われますが、主人公ジョシュは違う選択をします。ハッピーエンドのように見えるけれど、ハッピーエンドではない。これからどうなるのか、続編を読みたくなる物語でした。特に胸に残った言葉は、p187の「自分の気持ちを話すのは、脱皮するようなものよ」です。一つ気になったのは、ツルの描写です。途中、ツルが車に乗ったり降りたりするシーンで、描写がなくて、今、ツルはどこで何をしているのか、と気になる部分が何か所かありました。もう少し描写が加えてあるとなおよかったかもしれません。

オカリナ:ハードな内容ですが、ツルの子スプリートがそれを和らげているし、トラクターに乗って南を目指すのが冒険物語になっていて、おもしろく読みました。ジョシュとヤードランとお母さんという一つの家族と、ムラッドとヤスミンというもう一つの家族が一つにまとまろうとしている、もともと誰もが不安定になっている時期に、ヤードランが青年期になって力も強くなり意図しなくても暴力の加害者になりうるようになって、さらに不安定になっているという設定です。なので、最後にみんなが一つの家族になっていこうという方向性で安定感を出しているのは、作品としては納得がいく結末なのだと思います。ただ、現実を考えると、ヤードランをどうすれば家族が幸せになるのか、というのは難しい問題だと思います。障碍を持っている子どものきょうだいというのは、丘修三さんの『ぼくのお姉さん』(偕成社)をはじめいろいろな作品で書かれていますが、たいていは世話係や我慢をさせられている方がどこかで切れて、障碍を持っている子にひどいことを言ったりしたりする。そこを乗り越えて次の段階にいくという姿を描いています。でも、この作品では、p143に、ジョシュがスケートボードをしている中学生を見て「一瞬、ぼくはいっしょにやりたくなった。ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみた……」と出てくるだけ。これって不自然じゃないか、と思ってしまいました。それと、障碍を持っている者は、愛情をもった家族が世話をするのがいちばん、という間違った印象を子どもの読者にあたえるのではないかという危惧も感じました。
細かいところでは、p187に「ヤードランにひどいことをしようとしていたママに、ぼくは猛烈に怒っている」とあるのですが、p184ではジョシュも、ヤードランは「空間」に行くのがいちばんいいと悟った後なので、文章の流れとしてあれ? と思ってしまいました。

西山:読み始めて最初に、『ぼくのお姉さん』、『トモ、ぼくは元気です』(香坂直著 講談社)を思い出して、障碍のあるきょうだいを持つ子どもの葛藤が出てくるのかなと思ったんですが、そうではありませんでしたね。冒険がはじまってスプリートを死なせちゃうんじゃないのか、とか、ひやひやしながら先へ先へと読み進めたわけですが、全体としてうーんどうなのかなと思わなくはないです。p23の「お兄ちゃんが困っていたら、助けてあげてね」と母親は言うわけですが、いいのかなこれは、と。この家族は、ヤングケアラーや共依存じゃないのと思いもしました。p143に「ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみたい……」と考えるシーンもあるにはあるのですが、そこだけで、こういう思いが主題となる日本の先の作品とは方向が違っています。ミカがすごくすてきだったから、最終的に施設におちつくんだろうなと思っていたのですが……。ただ、『ぼくのお姉さん』や『トモ、ぼくは元気です』の弟が障碍を持つ姉、兄を負担に感じるのは、周りのからかいやいじめがあったからで、オランダだとそういうことはないのかなと、社会全体の違い故かもとも思いました。あと、ヤードランがソーラーパネルの向きで南を知ったり、いろいろできてしまうのは、物語としてはおもしろいのですが、危うさを感じます。いろいろできない人だったらどうなのか、とても負担を与える症状をもっていたらどうなのか。それでも共に生きる姿を見たいと思います。

しじみ71個分:私は、それまでは、幼いジョシュに甘えて、主に家族だけでなんとかしようとしていたのが、ジョシュの大怪我や2人の南への逃避行という大事件をとおして、さらにもっと、みんなで助けあおうという方向に行くのだと漠然と感じていました。そう思ったのは、p184ページのミカの「うまくいかなかったのは、わたしたち全員の責任だよ」「たとえだれかがいやだと思っても、みんながお互いを守る天使なのよ。全員がね。」というせりふや、p217のお母さんの「ミカがきっとじょうずにたすけてくれるはずよ」というせりふがあるからです。具体的には方法は示されませんが、家族で暮らすという選択肢を大事にしつつ、もっとオープンに「空間」やミカ、ムラットやヤスミンほかたくさんの人の助けを借りて、自分たちの希望を実現していくんじゃないかなという期待をもって読みおわりました。日本だとどうしても、家族だけで頑張るような、閉鎖的な印象を受けがちですが、そうではないと思いたいですね。

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エーデルワイス(メール参加):障碍をもつ16歳ヤードランの面倒を見る弟の11歳のジョシュが主人公。ママがジョシュに兄『大男』の面倒を見てあげてなんて、なんてことだろうと、腹がたちましたが、兄弟愛の強さに胸を打たれました。ヤードランが魅力的。ツルの子スプリートを『南』にいる群れに帰そうとするトラクターでの冒険の旅も臨場感にあふれています。盛岡にツルではありませんが、白鳥が越冬する『高松の池』(湖のような大きさ)があり、たくさんの白鳥でにぎわっているので、ツルの集まる湖の様子が身近に感じられました。ママの恋人の娘のヤスミンの気持ちもよくわかりました。ママが最後に、ジョシュがヤードランの面倒をみてきたのだからと、もう何もしなくてよいというところにホッとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『拝啓パンクスノットデッドさま』表紙

拝啓パンクスノットデッドさま

オカリナ:とてもおもしろく読みました。今回は兄弟愛というテーマで、もちろんこの作品は晴己(はるみ)と右哉(みぎや)の兄弟が中心なのですが、私は非血縁の人のつながりを描いているという意味で新しさを感じました。2人の母親は、兄弟をネグレクトしていて家にもあまり帰ってこない。晴己は弟のめんどうも見ながら家事もやり高校へ通っているという設定です。母親は「あんたたちのせいで、こんな人生しか生きられなかったんだよ」というのが口癖で、晴己はそれだけは言われたくないと思っているし、弟にもどなったりしてはいけないと自制している。兄弟の父親がわりになっていたのは、まったく血のつながりのない「しんちゃん」という母親の昔の友達。晴己はそのうち血縁へのこだわりを捨てて、「親でなくてもだれかに大事にされていれば大丈夫なのではないか」と思い始める。p166「母親じゃなくたってよかったのか……。/少しだけ、あきらめがついたような気がした。/たとえこのまま離ればなれになってしまっても、右哉はきっとだいじょうぶだ。自分はじゅうぶん、右哉を大事にした」と。そして自分も周りの「しんちゃん」をはじめいろいろな人に大事にされていたことに気づきます。そのうえ、母親にいったん引き取られた右哉が家出して自分の前に姿をまた現したときは、p182「自分が右哉の世話をしているんじゃない。右哉が自分をかろうじて、いまの自分にしてくれているんだ」と認識を新たにします。血縁ではない人と人のつながりが、これからは大事になってくると、欧米の児童文学はかなり前から言ってきたわけですが、日本にもこうした点に焦点を当てて描いた作品が、しかも上質の作品が出てきたという点でとても感慨深かったです。この作品に勇気づけられる子どもも多いと思います。

マリンゴ: 石川宏知花さんは、もともと文章、構成とも抜群にうまい方です。この作品は、テーマが重いですが、文章の疾走感に引っ張られて自分も高揚していく感じがありました。私の興味はハードロックどまりで、パンクの世界はほぼ知らないのですが、知らないなりに心地よく読めました。主人公が、受け身のキャラクターでありながら、世界を広げていく様がユニークで、私も中学、高校時代に音楽をやりたかったな、と思ったほどです。随所にうまいなと思うところはあります。たとえばp126で、加藤さんを菊池さんだと思いこんでいたことがバレますが、p189で「ようやく菊池さんから加藤さんへの修正が完了した」となります。主人公の思いこみの強さや、2人の親しさの深まりなどがうまく伝わります。p218で、あっという間に失恋するところもおもしろかったです。ヤングケアラーの問題として読むと、物語の最初と最後で、状況が変わっていないことは気になります。ただ、実際に似たような立場の子が読んだとき、物語のなかだけで希望の持てる展開が起きるよりも、この終わり方がリアルなのではないかと思いました。

アンヌ:今は、こういう音楽小説を読むのに、YouTubeでその時代の映像まで見られるので、音楽を聴きながら読んでいけるのが楽しかったです。そういう意味で、新しい時代の小説だなと思いました。ガンガンに音楽をかけながら疾走感を持って読み進んでいけたのですが、少し気になったのは場面が変わったことがすぐにわからないかったところです。たとえばp68からp69の電話の場面からスタジオの場面に移るところなど、2回読めば気にならなくなるのですが、最初はひっかかりました。こわれた家族のために食事をつくったりするのが、女の子なら当たり前だとされてきたので、主人公が男の子だから物語となるのかなとも思いましたが、現実に同じ立場にいる子どもたちにとって救いになるかもしれませんね。主人公も弟も物語の中で成長していくので希望を感じます。また、主人公も泣きますが、しんちゃんが泣く場面が多い。そこで、男なら泣くなとか男泣きというような従来のジェンダー的な縛りがないのも、新しい男性像のようで、いいなと思いました。

ハル:以前にしじみ71個分さんがこの本を薦めてくださったときに、早速読んですっかりハマってしまいました。しじみ71個分さんが推薦コメントとして「パンクじゃなきゃダメなんだというのがよくわかる」とおっしゃっていたと思うのですが、まさにそのとおり。パンクについての主人公たちの思いや、メロコアじゃないんだよな、というところとか、登場人物の人間性についても、もう、いちいち共感の嵐。たとえわからない曲でも、音が頭に響いてくるようで、ワクワクしました。愛があふれている作品ですね。作者のパンク(に限定せず、題材そのものかも)への愛、そして作中人物への愛もあふれていますよね。今の中学生にかけてあげたい言葉、見せてあげたい景色、とか言うとこういうのも大きなお世話なんでしょうけど、それが、全部、全部、つまっているようで、読後は快哉の声をあげたくなるような、そんな気分でした。

まめじか:晴己にとってのパンクは、まわりの世界との交点というか、それがあるから社会とつながれて居場所ができたのだな、と。「アイ・フォウト・ザ・ロウ」の歌詞も、ラストのフェスの場面で雨の中演奏しながら、「寿命が半分になってもいいから、一秒でも長く、このままでいたい」と思うところなんかもそうですが、パンクって刹那的な要素もありますよね。でも、この本はそこで終わってなくて、世界への信頼にしっかりと根ざしていて、それが児童文学の描き方だと思いました。主人公は、自分をつなぎとめている存在に気づくんですよね。自分も右哉に支えられているとか、自分にとって必要だったのは母親でもなく父親でもなく、大人になりきれていないしんちゃんだったとか。自分のまわりにも可能性が広がっていると思う主人公の姿に、「手が届かなくても、月に手をのばせ」という、クラッシュのジョー・ストラマーの言葉を思いだしました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。同じ作家の『墓守りのレオ』(小学館)は、あまり得意じゃなかったのですが、こちらを読んでよかったです。大事にする人は親じゃなくてもいいということを言うp166、「自分だって、大事にされてきた。しんちゃんにも、万田ちゃんにも。母親じゃなくたって、自分を大事にしてくれるおとなはちゃんといた」というところが、心に残りました。説教くさくならずに、行き詰まっている中学生や高校生の視野を広げてくれそうです。バンドメンバーの羽田さん、園芸委員会で、ラップを歌う女の子など、脇役の登場人物に思いがけないところがあるのもいい。親が不在のこのような兄弟がいたら、現実には福祉行政によって施設に収容されるでしょうから、そうならないところはファンタジーですよね。勢いがあり、中高校生に薦めたい作品でした。

花散里:最初、このタイトルと表紙の装丁にひきつけられました。石川宏千花さんは「お面屋たまよし」シリーズ(講談社)など、これまでの作品から小学校高学年向けの本を書かれている人だと思っていました。ハードコアパンクなど、全く未知な音楽でしたが、晴己や右哉にとってパンクという音楽がかけがえのないものであることが伝わってきました。育児放棄のような母親との関係など、兄弟愛というより家族のありかたを描いた作品だと思いました。これまで児童文学にはタブーだったことが描かれるようになってきていると感じながら読みました。右哉が自分にとってどんな存在なのか晴己が気づいていくところなどを印象深く感じました。子どもの貧困が問題になっていますが、自分が生活費を稼がないといけないと考えながら生活をしている人たちがいることなど、YA世代に読んでほしい作品ですね。

雪割草:このジャンルの音楽には詳しくないのですが、ひきこまれる語りでした。タイトルも装丁もインパクトがあって、対象の読者が手にとってくれるのではと思います。大変な状況におかれた晴己にとって、音楽が、ここではないどこかに行ける、自分の居場所として描かれているのも、たとえそれが読者にとっては音楽でなくとも、共感を呼ぶのではと思いました。だめな母親との関係やその中での心の傷や悩み、右哉に生かされているという気づきなども、リアルに描かれていると思います。色々な困難に直面しながらも、自分はこの世界で生きていける、と晴己が世界への信頼や希望を自ら見つけていく姿も、よく伝わってきました。しんちゃんはおもしろい人で、その存在もいいなと思いました。ヤングケアラーという現代の問題も含まれていて、多くの人に読んでほしいです。

コマドリ:いろんな人物が登場するけれど、うまく特徴がとらえられていました。第一印象でこういう人だと思ったら、そうじゃないとだんだん気づいていくところもよく書けています。主人公が自分の状況を冷静に分析しながら物事に対処していく、冷めたような感じがよく出ていました。親ではない、信頼できる大人の存在も大きいですね。大人にも欠点や弱いところがあるところが描かれているのも良かったと思います。弟が、中2にしては子どもっぽいと感じましたが、これは晴己から見ると弟はいつまでも母に置き去りにされた小2の弟のままだからなのかな、と最後になって思いました。弟が歌をうたう場面はかっこいいんですけどね。歌詞のせりふになりそうな言葉を付箋に書いて柱にはっていくのはおもしろかったです。最後に晴己が小学校の同級生で「コミュ障」とあだ名されていた男子の姿を駅で見かけ、おしゃれな女子高校生と一緒に笑っている様子がごく普通の高校生らしい、と思ったあとに「オレたちは本当に、これからどんなふうにでも生きられるし、どこにでもいけるんだ」と書かれていて、希望が感じられるのがよかったと思います。一つ疑問だったのは、p37で田尾さんを紹介されたとき、「タオさん」のイントネーションからてっきり中国出身の人かと思った、というのですが、田尾さんのイントネーションって田にアクセント? 尾にアクセント? ちょっとわかりにくいと思いました。

コアラ:まずカバーが派手だな、というのが第一印象です。カバーの下の方の出版社名が斜めに配置されていますよね。デザイン的にタイトルなどが斜めになっていても、出版社名はまっすぐに配置されている本が多いので、これはおもしろいな、と思いました。カバーやタイトルで、これはパンクの本だとアピールしていて、中身もパンクの用語がいろいろ出てきますが、パンクを知らなくても意味合いがわかるように書かれています。私はパンクはあまりよく知らなかったのですが、知らなくても全然問題なく読めたし、“パンク、ちょっと聞いてみようかな”という気持ちになりました。p89からの、晴己がしんちゃんにバンドをやることを言ったときの、しんちゃんの反応が印象的でした。それまでの、保護者と保護される子ども、という関係性が変わった、という変化を感じた場面でした。物語は途中まで順調に進むのですが、後半になって、弟の右哉だけが母親に連れていかれます。ここで、主人公も読者も、一度どん底に落としておいて、その後、右哉が戻ってきて夢のステージで演奏する、という盛り上げ方。作者はうまいなと思いました。パンクを知らなくても楽しめる本だと思うので、お薦めです。

さららん:右哉と晴己の人物像も、目に浮かぶようだったけれど、私はしんちゃんという大人のリアリティに魅かれました。パンク好きで、昔好きだった女性の子どもの面倒をずっと見ているしんちゃんは、どこか成熟してないから、晴己がしんちゃんに相談なしにパンクのグループを集めていると聞くと怒りだす。しんちゃんより晴己のほうが大人、というか、大人にならざるをえないのでしょうね。たとえばp142に、自分たちを置いていった母親でも「きらいには、なれなかった。ただの一度も」という描写があります。ここには複雑な思いが描かれていて、母親を嫌うと、自分自身も否定してしまうような、危ういバランスの中で生きている。憎みぬいてもいいような母親を許しているのは、バイト先の花月園の店長もふくめ、晴己の状況を理解して支える周囲の大人たちがいるからだし、特に少々頼りないしんちゃんという他人の、底抜けの善意があるからだと思いました。貧困というテーマも、親子関係や大人と子どもの関係もステレオタイプが洗い流されていて、それがパンクという反抗の音楽を通して、力強く立ちあがってくる作品でした。この世界は捨てたもんじゃない、という希望が、素直に胸に落ちました。晴己が大人になったら、どんな人になるんだろう。右哉にはなにか障がいがあるように思えましたが、それもあえて名称を出さず、右哉は右哉なんだと、型にはめていないところがいいです。

しじみ71個分:とてもおもしろくて深い印象が残った本です。もう、大好きです。パンクについて詳細に書きこんであるのが、登場人物のありようと密接に結びついていて、人物像が際立って浮かびあがってきます。なので、人物をみな頭の中で映像として思い描けるんですね。頭の中で音楽も聞こえてきて、主人公の晴巳と右哉がどれほどパンクロックが好きで、なんでパンクじゃなきゃだめなのか、という必然性が随所に感じられました。これは、モチーフとしてパンクロックそのものについて、とても細かく描きこんであるからなんだろうと思いました。人物の根幹を定義するものになっているのですね。そこが素敵でした。2人の面倒をみてくれる、しんちゃんの人物像もとても魅力的です。2人の母親にぞっこんで、相手にされていないのに、2人の面倒を独身のまま見ているという不器用な優しさや、音楽をあきらめたと見せて、晴己がバンドを組むと知って、すねてしまうところとか、大人になり切れない大人のリアルな柔らかい部分を感じます。平気で右哉だけ連れていく母親も本当にひどくってリアルで。それがあるからこそ、晴己の受けたショックがどれほど大きく、しんどいことだったのかがまたザクっと胸に響いてきます。音楽を通じて、やさしい人々の関係や、晴己の成長がしっかり描かれているので、本当におもしろかったです。不器用な人物の代表格の、擬態でギターを持ち歩いていた海鳴も切なくてよかった。クライマックスの雨の中のライブの描写も本当に、読みながらドキドキ、ワクワクして、演奏が終わって晴巳といっしょにカタルシスを感じ、泣けました。本当に読んでよかった、おもしろかったです!

ルパン:とてもおもしろかったです。ひどい母親なんですが、晴己が右哉を支えているようでいて、実は精神的には右哉の存在が晴己を支えている、というところにぐっときました。子どもたちを世話することで好きな相手とつながっていたい「しんちゃん」の存在も大きいし、「あじさい祭り」や「コミュ障の尾身」のような細かいネタが最後にひとつに収斂するところもよかったです。パンクは全然知らないけれど、それでも楽しめる物語でした。「ワン・ツー・スリー・フォー!」の高速カウントが聞こえてくるようで。「菊池さんあらため加藤さん」がたくさん出すぎて逆にどっちがどっちかわからなりましたが、名前って1度インプットされるとなかなか修正できない、という経験、私にもあります。

コマドリ:晴己は成り行きで園芸部に入るけれど、パンクバンドの世界と正反対にあるような園芸部で自然に自分の場所を見つけていくのもおもしろいと思いました。

ヤドカリ(担当編集者):石川先生との打ち合わせの場で、「パンクロック」の話を書きたいというお話をいただいたことがきっかけになって生まれた物語でした。私からも「なにか音楽モノを」という話をするつもりでしたので、「ぜひ!」ということで動きだしました。どの登場人物たちにも、きちんと眼差しが向けられていること、好きなものがあれば大丈夫なんだよ!というメッセージが、行間からひしひしと伝わってくることが、この作品の魅力だと思っています。デザインの面でも、デザイナーの坂川さんが、一目で「パンクっぽい」と思えるとっても素敵な装幀にしてくださいました。よく見ると、晴己の足がタイトルの「デッド」を踏んでいたり……などなど、色々な遊びを入れてくださっているので探してみてください。ひとつ裏話をすると、ピンクではなく黄色のカバー案もあったのですが、それはそのまますぎる……ということで、現在のデザインになりました(笑)

コマドリ:パンクの曲がわりと古いものが出てきたり、ライブの観客にもおじさんたちがいたりするのですが、パンク好きの世代は幅広いのでしょうか? そういうのはいいなと思いました。

西山:何度か読んでいますが、ますますいい、という感じです。最も印象的なのは「誘われてなにかする分にはしかたがない」「だれかに誘われてすることだったらノーカウントだ、と考えてしまう傾向がある」(p34~35)晴己の感覚です。そういう風に、自らリミッターをかけて自分を守っている様子がほんとに、厳しくて胸に刺さります。ただ、今回、バイトについて「自分がそれを望んでするのはよくても、強制されるのはいやだった」(p220)という、ここはここで分かるし、今までひっかかったことはなかったのですが、前者の考え方と合わせてちゃんと考えると、晴己像はもっと深まるのかも知れないと感じています。あと、やはり、しんちゃん、海鳴のありかたがとてもおもしろく、世界を広げていると思います。間接的にしか出てこないけれど、保健室の先生「万田ちゃん」の存在もよいです。

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エーデルワイス(メール参加):読むのが苦しかったです。現在高校生の晴己がほとんど家に帰ってこない母親の代わりに小学生の時から弟の右哉の面倒をみて生活しています。最低限の生活費なのでアルバイトをしながら学業、家事をこなしています。しんちゃんという愛情もかけくれる支援者がいなかったらと思うとぞっとします。母親に対して過度な期待しない、後で苦しくなるからという、晴己の気持ちが嫌というほど伝わってきます。それでも兄弟は母親を慕っているというのも現実ですね。若者たちの群像劇と受け止め、最後がさわやかに希望の持てる終わり方でほっとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『海を見た日』表紙

海を見た日

ハル:ここ何回か、里親と里子の家族のお話を読みましたが、今回はだめな里親というか、里親自身も成長していった点が新鮮でした。理想的ではないのかもしれませんが、それでいいようにも思うんですよね。「だめ」の程度にもよるとは思いますが、心が成熟した素晴らしい大人しか里親になれないというんじゃなくてね。p184の観覧車から海を見るシーンが印象的でした。「きっと世界は、そんなにひどいところじゃない」という1行には、励まされもするし、この子たちのこれまでの日々を思ってつらくもなります。

ネズミ:それぞれの声で語りながら、4人の里子や里親の様子がだんだんと見えていく構成、物語としての盛り上がりなど、非常によくできていて、おもしろく読みました。ただ、声をかえての一人称語りは、すぐには状況がつかみにくく、特に日本では、読者を選ぶだろうとも思いました。父親だけ国にかえされてしまった、エルサルバドルからきたヴィク。言葉が出ない、スペイン語圏出身のマーラの状況など、外国から来たということも、よくわからないかも。とてもいい作品だけれど難しそうだなと。

アンヌ:以前読んだ同じ著者の『変化球男子』(杉田七重訳 鈴木出版)では、作者が読者に伝えたい知識──ホルモン剤とか支援団体の存在とか──がかなり盛り込まれた作品でしたが、今回はあとがきに作者の「里親制度」についての思いが書かれてはいるのですが、表立ってはいません。物語も登場人物もおもしろくて、その中で、絶望させない、偏見を持たせないような感じで、里子のことを分からせてくれます。なんと言ってもヴィクの持つスパイ妄想がおもしろくて、夢中で読んでいると話がクエンティンをママに合わせようという「作戦遂行」に移っていき、気がつけば子どもたちがみんな揃って旅に出ていました。ナヴェイアの視点でイライラしながら進んでいく道中の途中で、子どもたちが思いがけず遊園地や海で「楽しむ」ということを知ったり、大声で笑いあったりする場面に行きつきます。クエンティンに母親の死という重要なことを知らせるのに、海辺で砂遊びをしながら話すというところでは、海の持つ力が見事に生かされていると思いました。家に帰った後、ヴィクもナヴェイアもミセス・Kもそれまでと変わっていて、気づかないまま肩の力が抜けている。家族として互いに肩を貸しあって、少しずつ楽になっているという終わり方には感心しました。

マリトッツォ: 読み終わってから、『変化球男子』の著者の方か、とびっくりしました。作風がまったく結びつかなかったです。この本は今回、課題本にしてもらってよかったと思っています。もし自分でたまたま手に取って読み始めていたら、途中、かなりしんどくてやめてしまっていたかもしれないからです。終盤で、ぱっと未来が開かれていくような、なかなか他の本では味わえない満足感があります。これは中盤までの閉塞感があってこそですね。里親を称賛するわけでもなく否定するわけでもない、このリアルさは、著者がこういう活動をしている方だからか、とあとがきを読んで深くうなずきました。クエンティンのような自閉症の子の一人称は、掴みづらいことが多いのですが、他の二人のパートで状況が説明されているのでわかりやすく、バランスが絶妙だと思いました。いろいろ好きな表現があります。たとえば細かいところですが、「足にまだ砂がついていて、シーツにも砂がこぼれてるのがうれしい。ビーチもぼくたちのことが好きになって、それで家までついてきたみたいだった」(p260)という部分、素敵ですよね。一つだけ戸惑ったのは、観覧車の部分です。え、安全バーが必要で何周もするの? と、驚きました。

さららん:里親のミセス・Kのもとで暮らす年齢も境遇も異なる4人の子どもが、1つの家族になっていくまでのお話です。数か月ぶりに読み直してみたのですが、いいものを読んだという印象は変わらず、4人それぞれの在り方がずっと心に残っています。自分も「お姉ちゃん」として育ったので、特にナヴェイアに心を寄せて読みました。しっかり者のいい子に見えますが、自分の未来の夢をかなえるために、ある意味打算的に手の焼ける年下の子たちの世話をしています。でも、クエンティンのママの病院へみんなで行くという1日の冒険を通して、ナヴェイアは大きく変わり、他の子の在り方をまるごと受け入れていくのです。みんなで観覧車に乗って初めて海を見る場面、そのあともう1度病院を抜け出して海にいく場面が、ほんとに効果的で、象徴的です。会話のなかで、4人の関係が少しずつ変化するのがわかり、互いにいたわりあえるようになっていきます。(最後はミセス・Kに対してまで!)自分のことで頭がいっぱいのクエンティンが、英語がほとんど話せないマーラと心を通わす場面など、とてもよかったです。ロードムービーのような展開のため、刻々と場所が移るにつれて感情や考えもゆれ動く、いってみれば「目に見える」物語なので、読者の記憶に深く残るような気がします。それまで英語をほとんど話さなかったマーラが、最後のほうで「まったくうちの家族ときたら」(p277)と首をふりふり言うところ、そこが実に自然で、マーラを抱きしめたくなりました。

雪割草:この作品は、里子の子どもたちを通して新しい家族のかたちを描いているのかなと、読んでみたいと思っていました。最初の印象は、ヴィクがうるさくて口調が老けているように感じました。でも、口調は父親を尊敬しているからでは、と言われて納得しましたし、2回目に読んだときは、ADHDの特徴がよく描かれていると思いました。作品全体を通じては、厳しい状況にある子どもたちが、海の美しさに圧倒されるシーンのように、世界を肯定できるような、希望をもてるような体験をすることや、仲間の存在が生きる力につながるということを、改めて感じることができました。また、原題にある「漂流者」や、「わたしたちは、ひとりでやっていかないといけないの……。」(p161)にあるように、子どもたちの心情もよく描かれていると思いました。私の友人や友人の親が里子を育てていますが、そういった家庭は日本では少ないと思うので、里親制度や、子どもを社会やコミュニティで育てるといった考え方が広まっていくといいなと思いました。「オナカスッキリ! ナヤミスッキリ!」(p180)は子どものセリフとして違和感がありました。

アカシア:これは、吊り広告の言葉をそのまま繰り返してるんじゃないですか?

まめじか:いい作品なんだろうな、とは思ったのですが……。シビアなテーマの作品なのに、今ふうの軽い言葉がいっぱい入ってるのが浮いてるようで、二次元のキャラみたいに感じてしまいました。たとえばヴィクのせりふで、「当ててみ?」(p6)、「オタク、ちょっとヘンタイ趣味入ってます?」(p8)、「タルい」(p30)、「マジ、こわいんですけど」(p155)。一方で「世を忍ぶ」(p11)、「迷惑をこうむる」(p179)など、11歳にしては大人っぽい言葉づかいをするのが、どうもしっくりこなくて。そんな感じで読み進めたので、訳者あとがきの「この世界には、こんなにも、こんなにも素晴らしい子どもたちがいる」という最後の一文でひっかかってしまいました。もちろん、この本に出てくる子たちの状況はとても大変なものですが、そうした子はほかの本の中にも、現実にもいっぱいいるし。あと些末なことですが、マーラがホームレスの男の犬にチョコレートをやっていますが、チョコレートって、犬に絶対食べさせちゃいけないものの1つですよね。p3のクエンティンの語りで、「女の人はこまった顔になって」とあるのですが、アスペルガーのクエンティンは人の気持ちを読みとるのが難しいと思うので、どんな表情が悲しい顔なのか習ったからわかったということですよね。

アカシア:普通は、学習を経てわかるようになると言われていますよね。これまでの多くの作品は、ハンデを持っている子どもが1人という作品が多かったのですが、この作品は、ADHDとアスペルガーの子が登場し、マーラという小さな女の子も何らかの発達の遅れを抱えているのかもしれません。なので、書くのが難しいかと思ったのですが、年齢や性別や障碍も違うのでちゃんと書き分けられ、ひとりひとりが独立した存在に描かれているのがすごい、と思いました。ナヴェイアは、成績のいい子で、ハンデを持っているわけではないと思いますが、黒人なので生きにくさはやっぱり感じています。ナヴェイアがクェンティンを連れていこうとしたときに、白人の女の人に疑念をもたれる場面もありました。生きにくさをそれぞれ抱えている子どもたちだからこそ、お互いとを自分のことのように感じてわかり合えるのだと思いました。ナヴェイアが優等生の自分の殻を脱ぎ捨てて海辺でみんなで楽しもう、という場面は、とても印象的でした。この作品には助ける大人が出てこないので、子どもがお互いに助け合います。しかも、やっぱり問題を抱えている大人のミセスKに子どもたちが保護者的な視線を送っているのもおもしろいと思いました。4人でクエンティンのお母さんを探しにいこうというあたりからは、展開も速くなるのでハラハラしましたし、子どもたちの関係がだんだん密になっていくのもわかって、おもしろく読みました。わからなかったのは、さっきまめじかさんもおっしゃった犬にチョコレートをやるところ。それからp15にミセスKが「養母」として出てきますが、養子ではないので「里親」なのでは?

西山:一気に読みました。作者のあとがきで、現実のことがくわしく書かれてて、これがロサンゼルスの里親制度の抱える問題ということは明示されているわけですが、日本の読者が読んだときに、日本の里親制度にネガティブな印象をもたないかな、とちょっと危うく思いました。海を見た幸せな1日を経て、子どもたちの関係が親密に変化してからの様子に、『かさねちゃんにきいてみな』(有沢佳映作 講談社)を思い出しました。抱えている背景の深刻さは違うとはいえ、異年齢の子どもたちのその年齢らしさや、互いへの気遣いが重なって、状況が違っても普遍性を持っている子どもの本質的な部分を見せてもらえた気がします。(以下、言いそびれとその後考えたことです。クエンティンが他者の中でなんとかやっていけるように、お母さんがたくさんのアドバイスをして、クエンティンがことあるごとに、その言葉を思い出すことでパニックを回避している姿がとても印象的でした。読書会が終わって、つらつら思い返していて、こんなに彼を導いていたお母さんなのに、どうして自分の死を受け入れられるようにする手立てをしていなかったのかとふいに思い至りました。癌を予期できないとしても、いきなりの事故死ではないし、病気にならなくても、いずれ自分の方が先に死ぬのだという現実を、クエンティンが受け入れられるように用意することは最大のミッションなのではと。そう思うと、ちょっと冷めました。)

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ニャニャンガ(メール参加):クエンティン、ヴィクの視点ではじまるため、物語に入るのに少し時間がかかりましたが、ナヴェイアが登場して全体像が見えはじめ、さらにクエンティンのために旅に出たところかにはすっかり引き込まれていました。ミセスKが心を閉ざして子どもたちの世話をしないせいで、ナヴェイアが年下の子たちの面倒を引き受ける姿には胸をしめつけられます。ほかの3人の面倒をひとりでしていたナヴェイアが限界に達したとき、ヴィクが頼りになる存在になり、子どもたちの絆が強くなって、ほんとうによかったです。しらこさんによる表紙も、とてもいいと思いました。ロサンゼルスの里親制度をよく知る作者だからこそ書けた作品です。

しじみ71個分(メール参加): ロサンゼルスの里親制度の実態をリアルに描写していて、子どもたちの切実な実情を伝える本だと思いました。養育に欠ける子どもたちがたくさんいるために、里親にあまり向かないような状況の人のところにも里子が引き取られることがあるというのは、ロサンゼルスに特徴的な事象なのか、全米的な問題なのでしょうか。いずれにしても大変な状況だとまず思いました。最年長のナヴェイアが我慢を重ねて小さい里子たちの面倒を見て、大学に進学して自立することを願う姿はいじらしく、特にp95で、突然「涙が目に盛り上がってきた」という場面には共感して、こちらもウルウルしてしまいました。いろんなことに疲れてるんだろうなぁって思い……。ADHDのヴィクは頭の中に言葉があふれていて、うるさいですが、私には可愛らしく見えて、とても好きなキャラクターです。新入りのクエンティンがアスペルガーで、小さいマーラはスペイン語しか話さないという、それぞれ異なる難しさを抱えた子どもたちがどうなっていくのか、興味に引っ張られて最後まで読み通しました。海を初めて見たシーンは特に印象的で、困難にある子どもたちには子どもらしい家族とのあたたかな思い出や楽しい経験がない、あるいは奪われたりかもしれないということに気付かされて、胸がつまりました。クエンティンの母を探して旅をして、海と出合ったことが、4人の共通の喜びの経験となり、家族として結びついていくきっかけになっていて、そこはとてもうまい装置になっているなと思いました。失意のために、養母としての役目が果たせてこなかったミセスKが、最後に子どもたちのおかげで気力を取り戻し、立ち直るという結末も読後感がよかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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岩瀬成子『もうひとつの曲がり角』表紙

もうひとつの曲がり角

まめじか:英語を習わせるのも家を買うのも、子どものためだと言いながら、実は親の自己満足なんですよね。そうした大人の一方的な思いや、遠いのに自転車通学を許されない不条理な学校の仕組みの中で、朋もお兄ちゃんも窮屈な思いをしています。そして子どもの自我が目覚め、そういう大人の押しつけに反発すると、やれ反抗期だとかなんだとか言われてしまう。そんな中で言いたいことを言えない朋の気持ちが、「先生はいっぱい言葉をもっているのに、こっちにはなにもない」(p88)という語りにこめられていると感じました。朋はひとりの時間に日常のすき間にはいりこんで、そこで不思議なできごとを体験するわけですが、秘密をもつことが成長につながるのは、E.L.カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)にも通じます。曲がり角の先は別の道がつづいてる、ここ以外の世界もきっとあるというのを、こういう形で描けるなんて。作者の力量を感じる作品でした。

雪割草:今回の選書係だったのですが、最近読んだなかでとてもよかったので、選びました。まず、私は兄がいるのですが、兄とのやりとりの描写にリアリティがあり、親しみを感じました。しれっと妹に洗いものをさせたり、中学になって変わっていったり、兄も案外考えているんだなと感心させられたり、なんでも兄には話せたり。それから、この作品のように、日常の中でふと、異空間や異次元といった非日常にいくことのできる物語が好きで、子どもの頃から憧れていました。「心って、いつおとなになるの?」(p183)や「ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの……。」(p239)とあるように、オワリさんとその子ども時代のみっちゃんを通して、一人の人間のなかに子ども時代が生きつづけていることを感じることができました。また、このふたりをつなぐ存在として、センダンの木を登場させているのもいいなと思いました。ネギを背負った人など、ところどころユーモアがあるのも楽しかったです。ただ、表紙の女の子の絵は、私の想像とは違うと感じました。

アカシア:どんなふうに違ったんですか?

雪割草:本では、もうちょっとおてんばなイメージでした。

まめじか:私も、この子はもっとはっきりものを言える子だと思うので、イメージとは違いました。絵はおしとやかな感じがします。

アカシア:酒井さんの絵は、静的で内容から受ける印象より少し幼い感じがいつもしますね。だから人気があるのかもしれませんけど。

シア:私もイメージと異なって、酒井駒子さんの絵は大人好みになりすぎると思っています。YA辺りならいいのかもしれませんが。表紙から抑えめなのもあって、描写はていねいで良かったんですけれど、心は打たれませんでしたね。将来役に立つから、という言葉がそのとき限りの大人の言葉として扱われていて、悲しく思いました。みっちゃんがそろばん塾を辞めたその後がわかったりすると、大人の方便にも聞こえるような“将来役に立つ”という言葉の意味が生きてくると思うんです。お母さんに隠れて読んだ漫画はどうだったかとか、ダンスはどうなったのかとか、全然わからなくて。大人の言うなりになることと、自分で決めることの本当の違いがオワリさんの人生を通して見えなかったので、このタイムリープで学べるものや成長がなかった気がします。英語にしても、同音異義語の不思議とかいい視点を持っているのに、笑われるからと委縮して言えなくなっていてもったいないと思います。フォローしてくれない人たちがたまたまいただけで。アメリカ人なのに鷹揚に接しない先生も珍しいけど。心を開いたり勇気を出せば、耳を傾けたり足りない言葉をくみ取ってくれる大人もいるという役割をオワリさんがやってくれていないので、見えない将来に時間をかけたくない、で話が終わってしまっていて、結局オワリさんがロールモデルにならず、今回の経験は気持ちが若返ったオワリさんにしかメリットがなかったと思います。子どもが読んだらおもしろいんじゃないかな。「うん、でも、たぶん、わかってないと思うけど」(p250)と最後まで周りと壁を作って、大人と子どもの境界線をはっきりつけてしまう子どもの視点で書かれているので、「だよねぇ!」「わかるぅ!」と今を見ている子どもたちが共感できる作品にはなっていると思います。保護者が読めば気づきみたいなのは得られるかもしれません。気になったのは、なぜ主人公が元の時代に戻れなくなるとか、昔の時代に行けなくなったとかがわかるのかということです。つるバラが決め手なのでしょうか?

まめじか:私は、オワリさんの人生とか、習いごとが将来役にたったかどうかなんていうのは、この本にはなくていいのではないかと。主人公の朋が、今ここだけじゃない世界を知るというのが、この本のキモなので。

さららん:ふつうの家族、絵空事じゃない家族の中にある無数の違和感を、岩瀬さんはいつもうまくとらえています。大人も子どもも、そしてその関係も、ありきたりではありません。いま生きている人間が感じられるところ、そして子どもの反骨心が、岩瀬作品の魅力です。新しい家に引っ越したあと、願いをかなえたママはやけに張りきっているけれど、空回り気味。「わたし」やお兄ちゃんとの関係はもちろん、パパとの微妙にすれちがう関係も会話の中に巧みにとらえていて、「うちとおなじだ……」と驚きました。中学生になったばかりのお兄ちゃんは、コーヒーフロートを勝手に作ってひとりで飲んでいるのですが、そんなエピソードにも妙なリアリティがあります。でも現実の話だけで終わらず、オワリさんというおばあさんが朗読する物語の世界や、時間を超えて主人公が迷いこむ世界など、重層的にいろんな要素が入っていて、かなり凝った造りになってますね。「英語でなにかいおうとすると、普段自分の中にある日本語のいろんな言葉の意味がすうっとうすくなっていくような気がした」(p12)など、英語を学び始めたときのもどかしさを表現する言葉には膝を打ちました。「よりよいって、それはだれがきめるの? 人によって、それはちがうんじゃないの。そんなあいまいなもののために、いまの時間をただがまんして無駄にしろっていうの」(p221)と、主人公がパパにいうところでは大喝采。これが言えないがために、今の子どもたちは炸裂するくらい苦しんでいるんじゃないかと思うのです。「わたし」はほんとに頑張った! オワリさんとの出会い、まったく違う時間、違う角度から自分を見られことが、主人公の力になったのだと思いました。

マリトッツォ:安定の岩瀬成子さん作品という感じで、引き込まれて最後まで読みました。児童文学は、「続ける」「頑張る」「達成する」というテーマがどうしても多くなるので、大人から見て正当な理由がなくやめる状況に寄り添っているこの本は、子どもの味方だなと思います。また、一般的なタイムトラベルものだったら、なぜそこに行ってしまうのか、というロジックが明確でないと入り込めないのですが、この作品は描写がていねいなので、明確な説明がなくてもそんなに気になりませんでした。あと、主人公の「わたし」の一人称と、おばあさんの創作の文章がはっきりと違うので、そういうところにもリアルさを感じました。「わたし」の文章は、同じ言葉を重ねることが多くて、たとえば、「わたしはリモコンで部屋の明かりを消した。リモコンで部屋の明かりを消すのも、この家に来ておぼえたことの一つだった。」(p24)というふうに、重複が多いんですよね。この年頃の子の思考、表現を忠実に再現していると思います。なお先ほど、そろばん教室を辞めて、その結果どうなったのかが書かれてない、という話題が出ましたが、「そろばん塾を辞めても喫茶店の経営はちゃんとできた」ことが、もしかしたらひとつの答えなのかもと思いました。

アンヌ:今回はテーマが「非日常の経験」だったので、てっきりファンタジーだと思っていたのですが、p60まで読んでやっと異世界が現れるので、もしかすると異世界より現実界に比重がある物語なのかと気づきました。なんとなく『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)を思わせるタイムスリップ物なのですが、ファンタジーにある謎とき的要素は全然ないまま終わります。異世界で、犬を連れた男の子やいじめっ子をやっつけることができて自由にふるまえる自分に気づいて、そこで現実世界でも家族に自己主張できるようになるという話がていねいに語られていくのは魅力的でしたが、やはり私としては異世界の方に興味があったので、せっかく、みっちゃんに現実世界で会えても、主人公は相手が自分に気づくかとドキドキしたりしないし、みっちゃんであるオワリさんの方も気づかないままでいるのが、なんだか不思議な気がしました。どちらかというと、朗読している庭に入っていくときの方が、過去にタイムスリップするときよりドキドキ度が高かったり、オワリさんが作る話がおもしろくて謎があったりするので、この現実世界の方がおもしろい気もしました。最後は、主人公がこれからも、またオワリさんに会いに行こうと思っているところで終わるから、いつか、二人がお互いに気づくというか名乗りあう時が来るかもしれません。そんな風に、読者がいろいろ考えて、この物語が続いていく感じで終わるところがこの作品の魅力なのかもしれません。でも、ファンタジー好きの私にとっては、少々不満がある物語でした。

ネズミ:私はとてもおもしろかったです。英語塾をやめたいと言えるまでというのがストーリーの中心だと思います。こうなって、こうなったから、こうなったというふうに結果が差し出されて「はい、終わり」となる本もありますが、岩瀬さんの本は、この物語の前にも後にもお話が続いているのを、ここだけふっと切り取ったような印象があって、そこがほかの書き手と違うなと。曲がり角の向こうに、思いがけない世界があるすてきさ。p8で、マークス先生の言う「エイプウィル」が「四月」のことなんだとわかったあとに、「なんだあ、と思った。それから、疲れる、と思った。」とか、p250のお風呂に入りなさいと母親に言われたおにいちゃんが、「おれはあとで」と答えて、「わたしも」と、わたしがいうところなど、何気ない表現に日常や人となりが透けてみえます。こういう表現が物語を支えているのだと思います。

さららん:会話を「作ろう」とは思っていないのかも。登場人物が頭の中で、いつのまにか動き出して、勝手に話しているんでしょう。

ネズミ:この子が、大人にグサッとささるようなことを言うのも、そういうことなのかも。最後に、英語塾に行かないというのを言えてよかったです。

ハル:作家は皆さんそうだと思いますが、岩瀬さんの小説は、岩瀬さんにしか書けないものだということを特に強く感じます。なんてことなさそうな表現のひとつひとつが素晴らしい。p54で描かれている、お父さんとお母さんのけんかの、端で聞くとうんざりな感じとか、p100で犬をけしかけてきた高校生くらいの男の子に「YTっていうのはおぼえたからね!」とか。いかにもちょっと大人になりはじめた時期の子どもという感じ。p157は、朋がみっちゃんのいる世界は自分がいてはいけない世界だと気づきはじめる場面ですが、p156では「ばいばーい」って無邪気に手を振り合って、p157の3行目でいきなり「後ろはふりむかなかった。ふりむけなかった。ふりむいちゃいけない気がしていた」とくる。そこで読者は朋も気づいていたことを知ってぞっとするわけです。この1行が効いているなぁと思います。そして初読のときから何げに強く印象に残ったのは、作中作までおもしろい! というふうに、あげたらきりがないんですけど、子どもは将来のためでなく「今」を精一杯生きているんだと改めて思い出させてくれるところとか、物語の構成もテーマももちろんなのですが、技巧を楽しむという意味でも繰り返し読みたい1冊です。それから、先ほど、朋がタイムスリップした意味についてのご意見がありましたが、たとえば、みっちゃんが習わされていた「そろばん」だって、今の世界の朋にとったら、学校でちょっと習うくらいのもの。こんなこと言ったら反対意見もいただきそうですが(笑)、朋が習わされている「英語」だって、そのうち同時通訳機みたいなのがもっと優秀になって、いやいや勉強する必要なんてなくなるかもしれない。大人のいう「将来役にたつ」は案外あてにならないぞということを知っただけでも、タイプスリップさせた価値はあるんじゃないでしょうか。

アカシア:岩瀬さんは、言葉の使い方がほかの作家と質的に違いますよね。梨屋アリエさんの『エリーゼさんを探して』(講談社)という作品も、親にものが言えない子どもというテーマですが、梨屋さんのほうは、主人公がお母さんとはすべて「です・ます調」で会話しているという設定で、抑圧された状態を表しています。岩瀬さんの方は、子どもの気持ちをそのまま描いていくという書き方。岩瀬さんは、自分が子どもの時の気持ちを忘れてないんですね。このテーマは、思春期の子どもにとってはとても大きいのでしょうね。嫌なことはしなくてもいいというふうに子どもの背中を押してくれる本なんですね。岩瀬さんは今アンデルセン賞候補になっていますが、このおもしろさを100%楽しめるのは、日本の現代に生きている人たちかもしれないと思ったりもします。岩瀬さんの作品はストーリーラインだけで読ませるものとは違うので、翻訳するのはそう簡単じゃないでしょうね。日本語の堪能なとてもじょうずな翻訳者が岩瀬さんに乗り移ったみたいになって翻訳してくれるといいな。

まめじか:前提となる生活のこまごました背景を知らないと、ね。

サークルK(後から参加):とってもおもしろかったです、主人公と曲がり角の先にいるみつほさん/みっちゃんの関係が、まるで『トムは真夜中の庭で』のトムとハティの関係に似ているのかな、と思ったので。初めての環境に慣れていく子どものドキドキ感が伝わってきました。現代的な両親の期待に(違和感を感じながらも)応えようとしてもがく主人公の姿や、一足先に思春期になってあまり自分の気持ちを話さなくなっていくお兄ちゃんとの関係に、読者は共感できるのではないでしょうか。p30で、お母さんが(賃貸住宅ではない)初めての持ち家に愛着があって、たとえ不在であってもきれいにしておかないと「(台所が)ママに告げ口をするような気がした」という文章にハッとさせられました。人間が不在でも、その人が大事にしているものがその人本人に代わって、人間を見張っていると感じてしまうことは時々あるような気がするから、そういう表現はとても興味深かったです。大人が子どもの先回りをしてどんどんことを進めていくことへの批判――子どもが間違えたり傷ついたりする自由が奪われるべきではない――をこめた主人公の成長物語になっているように思いました。

西山(後から参加):以前読んだんですけど、再読しはじめて、ああこの路地の雰囲気知ってる、この景色見覚えある、この登場人物たちも知ってる・・・と思うのですが、初読時の感想も、ストーリーも思い出せません。自分の記憶の情けなさを棚に上げてなんですけれど、岩瀬成子の作品は、一言一言をおいしく味わう、そういう経験になっている気がします。たとえば、「わたしは塾に行く途中で、急に気が変わる予定だった。」(p30)などという一節がたまらなくおもしろい。そうやっておもしろく読んだのに、覚えていないと……。

アカシア:大テーマのある作品じゃないからですかね?

西山:岩瀬作品は、読書の快を感じる作品ですね。

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しじみ91個分(メール参加):新しい家に越してきて環境に慣れない主人公の朋が、ふと思い立って英語塾に行かずに小道の先の曲がり角を曲がったら過去の空間に行ってしまい、一人の女の子と出会うというお話ですが、嫌なことがあったり、くさくさしたりしたときに、ふっと「どこかに行っちゃいたいな」と思ってしまうときの、「どこか」の感じをありありと体験させられるような物語でした。読んで、子どもの頃、マンションの一室の自宅に帰るとき、いつもと違うの入口から入ったら、角度の加減で廊下の突き当りにあるはずの自宅が見えず、家がなくなったんじゃないかと怖くなった小学生のときの経験を思い出しました。朋が、朗読をするオワリさんと仲良くなって異空間に入り込み、みっちゃんという女の子と仲良くなりながらも、帰れなくなるんじゃないかとこわくなり、こちらの世界に戻ってくる感じは、日常の裂け目に入り込んでしまったときの、空恐ろしい不安をリアルに感じさせてくれ、ちょっと背中がぞわぞわしてしまいました。でも、朋が感じたその恐怖感は、逃避を選ばず、きちんと日常に向き合って行こうとする生命力の裏返しでもあるのかなと思って読みました。また、ほかの方もおっしゃっていることですが、全編を通して、『トムは真夜中の庭で』へのオマージュを感じました。モチーフになるのは双方1本の木で、あちらはイチイの木で、こちらはセンダンの木などと、さまざま両作品間の違いはありますが。過去の異空間にタイムスリップして、おばあさんの若い頃に出会うというしかけには共通するものを感じます。岩瀬さんの物語は、子どもの日常に生じたちょっとしたズレや断層から、日常がゆらいでいく様子を描いているように思うのですが、それを読むと心がざわざわします。でも、それが気持ちよくて、岩瀬さんの物語が好きなんだなぁと自分で思います。お兄ちゃんの晴太の思春期の親離れが進行していく様子も好ましく読みましたが、同時に賢いお兄ちゃんだなとも思いました。岩瀬さんのリアルな描写と、タイムスリップファンタジーとの組み合わせが大変におもしろかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『神さまの貨物』表紙

神さまの貨物

しじみ71個分:これを読んだのは3度目です。この作品は寓話の形を取りながら、背景としてユダヤ人の迫害とホロコーストの歴史的な事実を題材にとって描いています。ホロコーストの事実を訴える文学は多々ノンフィクションにありますが、ホロコーストを描きつつ、寓話として壮大な愛を描くというのはほかにないタイプの作品だと思います。最初に読んだときは、話がとてもハードで、硬質で、大きなテーマを持っているのに対して、翻訳の言葉がところどころ優しすぎるところがあるのではないかと、一瞬違和感を覚えました。そのときは、同様に寓話の形を取っている、『熊とにんげん』(チムニク著 上田真而子訳 徳間書店)を思い出していたのですが、上田さんの訳が、物語とあまりにも融合していたので、その幸福な感覚とつい比較してしまったのですね。ですが、2回目に読み直したときは、大劇作家による、ストレートでかつ壮大な愛の歌い上げが、物語の最後でドカンと胸に迫り、すごく感動しまして、翻訳云々生意気なことを考えたことを反省しました。特に好きなのは、きこりが、最初は赤ん坊を避けていたのに、おかみさんの導きで赤ん坊の胸に手を置いた瞬間に、愛を感じ始めるシーンです。また、きこりも、森に住む戦争で顔が崩れたおじさんも、おかみさんと赤ん坊のために命を擲ち、戦って死んでいくシーンは何度読んでも胸にぐっと迫ります。赤ん坊のお父さんがホロコーストを生き延びて、娘を見付けたけれど名乗らずに去っていくシーンも哀切です。赤ん坊は美しい少女に育ちますが、ソ連で生きていくことになるという未来が、本人にとって幸せなのかどうかは分からないというところにもまたひとつ仕掛けがあると思うのですが、結果はどうあれ、1つの命を守るためだけに、次々と命を投げ出すことになった人たちがあったかもしれない、という寓話に込められているのは、偶然によってでも繋がれていく命への畏敬の念と賛歌、愛なんだなぁと思い、作家自身の深い思いに圧倒されました。

花散里:私も今回読んだのは3回目ですが、改めて胸を打たれました。ホロコーストの作品はたくさん読んできましたが、心に残る1冊になりました。「むかしむかし…」とおとぎ話のように始まりますが、雪の中に貨物列車から投げられた赤ちゃんが、子どもがほしいと願い続ける、大きな暗い森に住む貧しいきこりのおかみさんに拾われていくという物語は、惹きつけられるような作品で、読んでいて重厚な印象が心に深く残っていきます。巻末の「エピローグ」と「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」は、最後にドシンと心に響き、この胸に迫る感じはなんだろうと考えさせられました。装丁もとても良いと思いました。歴史を伝えて行くためにも大事な作品かなと思いますが、内容を紹介して手渡していくことが大切ではないかと感じました。

コアラ:感動しました。この本も電車の中で読んでいたのですが、エピローグの最後、p149の「たとえどんなことがあっても、どんなことがなくても、その愛があればこそ、人間は、生きてゆける」のところで涙ぐみそうになってしまいました。でも、ちょっと冷静になって考えると、読者に読み取ってほしいことを、作者が最後に言ってしまっているというのは、どうなんだろうと。「愛だ」と一言で明かしてしまっているんですよね。ただ、そのエピローグを読んで、私は感動したわけだし、やっぱりこの形でいいんだろうとは思います。出だしは昔話風ですが、読んでいてすぐに、これはナチスの強制収容所に送る列車の話だとわかる。歴史を知っているからこそ、幼い命や、赤ちゃんを守ろうとする大人たちの思いとか幸福感とかが、美しく感じられました。やさしい言葉で書かれていて、子どもから大人まで幅広い読者層に訴える本だと思いました。ただし、私はひねくれた子どもだったので、寓話の形で書かれたこのような本を、子どもの私は、好んで手に取ることは、しなかったかもしれません。大人になって読んだからこそ感動したのだと思います。

カピバラ:今回2度目に読んでみたら、1度目に気づかなかったことに気づきました。p4の冒頭の文章です。「むかしむかし、大きな森に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた。おっと待って、これはペローの童話じゃないから大丈夫。出だしは『親指小僧』に似ているけれど、貧しくて子どもたちを食べさせられないからって、自分の子どもを棄てる親の話などではない。そんな話はたまらない」。ストーリーを知った上で読むと、すごいことが書いてあるなと、衝撃を受けました。そして結末がわかっているのに、ページをめくる手が止まらず、また最後まで引きこまれてしまいました。ひとつひとつの文章が、そっけないくらい短くて、客観的でありながら、登場人物の心情が読者に向かってどんどん迫ってくるような感じを覚えました。最後の著者の言葉「そう、ただ一つ存在に値するもの、それは、愛だ。」、このことを言うための物語だったんだな、と納得しました。いろんな立場の人が出てくるんだけれど、その行いがいいとか悪いとかは一切書いてないんですね。だからこそ、最後にこの言葉が生きてくるんだと思います。胸を打たれたのは、木こりが最初は赤ん坊を邪魔者扱いしていたのに、赤ん坊の肌に触れ、心臓の鼓動を感じてから一転してその命の輝きに心をうばわれる場面でした。これも最後の言葉に結びついているんだと思います。物語だけでも衝撃的なのに、エピローグを読んでさらに衝撃を受け、覚書を読んでもっと衝撃を受ける。そして訳者あとがきが静かに全体をまとめてくれる。1冊全体の構成がみごとにまとまった本だと感じました。

ハル:最初に読んだときには、戦争を伝えていく小説は、新しい形の段階に入っているんだなぁと思いました。ただ、胸に迫るし余韻が残る作品ではあるけれど、私はどうとらえて良いのかわからないというのがいまの正直なところです。戦争によってもたらされた小さな贈り物によって、木こりが愛を知っていく場面はほんとうに美しいのですが、その向こうには残酷な背景があって、「戦争によってもたらされた」なんていうことはあってはいけないと思うし、描かれていることは一貫してグロテスクでもあり。小さな贈り物を守るために斧をふるう場面は作品の中でも見せ所でもあるけれども、やっぱりそれが「斧でよい仕事をした」と言い切れるのかというのも苦しい。おかみさんや木こりや小さな女の子は、無垢ではあるけれど、人々の無知であることのかなしみも感じます。おかみさんが最後には神様を妄信はしなくなるのも印象的ではありましたけれども。この子の父親が列車から赤ん坊を投げ捨てたのは、この子を救ったのではなく、もうひとりを救うためでしたし……。一言に「泣ける」「心温まる」「美しい」では片づけられない作品だとは思います。

マリンゴ: ホロコーストを描いた物語は、いかに残酷であったか、という描写に重きを置かれることが多いと思います。そのなかでこの本はおとぎ話のような語り口で、残酷な描写を最小限にして、本質的な部分を抽出しています。作者の祈りのようなものが、伝わってきました。ホロコーストのことをよく知っている大人と、ほとんど知識のない子どもとでは、だいぶ読んだ印象が変わってくるのではないかという気がして、子どもの反応も聞いてみたいなぁと思いました。細かいところですが、p77の「まっ黒な胆汁をペッと吐いた」の部分、黒い胆汁を吐くことがあるのか、と調べたのですが、そういう事例があまり見当たらず、気になりました。

雪割草:胸に迫ってくると同時に、美しい情景の浮かんでくる作品だなと思いました。ホロコーストという酷すぎる状況の中で、生と死、子どもを愛しむ気持ち、希望を上手に浮かび上がらせているなと思いました。おかみさんの揺るぎなさだったり、貧しいきこりが「人でなしにも心がある」と仲間の前で叫ぶまでに変わったり、顔のつぶれた男の心の美しさだったり、人間味がよく描かれているとも思いました。運命のような偶然のようなめぐり合わせとしての構造は人間の人生ってこんなものかなと、本質的なところをついているように感じました。ただ、たまに展開が急だと感じたり、時代背景を知っているからわかる部分も多く、ホロコーストを知らない子ども向けではないかな、どう感じるかなと気になりました。

ネズミ:読むのは2回目でした。とてもよくできたお話でしたが、『三つ編み』(レティシア・コロンバニ著 齋藤可津子訳 早川書房)を読んだときと同様、作為や感動させるための仕掛けを感じてしまい、手放しに深く感銘をおぼえるということはありませんでした。きっと私がひねくれた読者なのだと思います。絶対悪としてのナチスを描いた作品はもう無数にあります。ファシズムと抵抗した人々という構図を示すだけの作品で、ヨーロッパの悲劇ばかりに私たちの目を向けさせることはないだろうという気持ちもあって。大人が読んだら時代背景がわかりますが、何も知らない子どもに読ませるのはどうかなと思いました。

アカシア:ある司書の方が、この本を読んだけど何言ってるかよくわからないとおっしゃっていたのですが、読んでみると、私自身はわかりにくくはなかったし、深いものがあるとも感じました。ただその司書の方がなぜそうおっしゃっていたのかも、わかるような気がしました。たぶんいい意味でも悪い意味でもフランス的なのではないでしょうか。最初に親指小僧が出てきますが、英米の作家ならこういう書き方はせずに、もっと一直線に書いていきます。フランスの作品は斜に構えて書く場合が多いと思うのですが、これもその一つだなあ、と感じてしまったのです。「子どもの本なのにそんなに斜めから書かなくてもいいじゃないか」と思う人はけっこういるんじゃないかな。まあ、この本は、子どもじゃなくて大人向きに出ているのかもしれません。味付けが一風変わっている作品なので逆にひと目を引くし、だからこそこの作品もよく売れているのではないでしょうか。こういう作品もあることは、とてもいいと思いますが、たぶんホロコーストを知らないと、フランス風の斜めの味付けが前面に来てしまって、嫌な感じがしてしまうのかもしれません。ちょっとひねった書き方がおもしろいと思う大人のほうが、この作品はより深く理解できるようにも思います。この作品は1つの命を救うためにほかのいくつもの命が消えていくという大変な状況の話でもあるので、ネズミさんと同じように私も、それを斜めから巧みすぎる技法で書いていることにちょっと抵抗がありました。でも、そこに惹かれる人も多いようなのでこれでいいのかもしれません。

エーデルワイス:みなさんも何度か読み直していらっしゃるのですね。読み直すことは大事ですね。この『神さまの貨物』を1回目に読んだとき、歴史的なこと、後世に伝えていくべき大切な内容と理解できるのですが、どうにも好きになれませんでした。何度か読み直して、戯曲として読めばよいのだとなんとか納得しました。アカシアさんの「フランス文学」の特徴、「斜めにみている世界」、をお聞きして、ようやく胸のつかえが降りたようです。最後に生き延びた女の子が旧ソ連の「ピオネール」として国の機関誌の表紙を飾る。その写真を見た医師になった父親が会いたいと手紙を書いた。その後会えたかどうだか分からない。で終わっていて、すっきりしません。第二次世界大戦後の米ソの混沌とした世界を提示したのでしょうか。

アンヌ:1度図書館でこの本を借り出して読もうとしたとき、どうしても読み切れなかったので、今回やっと読めました。お伽話を読んでいるつもりが、少し進むと現実に頬を叩かれる、というような構造のせいで読めなかった気がします。それでも、きこりが赤ん坊を愛さずにいられない瞬間は実に美しく心が温まる思いがしました。父親が娘に名乗らない場面は謎でしたが、エピローグや覚書が続く中で、収容所で亡くなった双子の家族が現実にいたことを知り、もし自分が父親だったら、こんな風に娘の命を助けられたなら僕は何もいらないと祈り夢見ただろうなと思いました。権力がデマで人心を惑わすことへの警告とか、旧ソ連の体制の欺瞞性とか様々な啓発に満ちた物語でもありますが、子供たちにどう手渡せばいいのかわからず、かなりの註や説明が必要になるのではないかと思っています。

西山:はじめてだったんですけど、一気読みでした。すごく興味深かったです。やはりユダヤ人が移送列車から赤ん坊を助けようと投げ出す絵本『エリカ 奇跡の命』(ルース・バンダー・ジー著 ロベルト・インノチェンティ絵 柳田邦男訳 講談社)をすぐに思い浮かべました。しかし、こういう形があるかと驚きました。今の子どもたちにとっては、すでに「歴史」である戦争ですから、昔話のような書かれ方をしてもいいと思います。一方で、抽象化した戦争ではなく、やっぱり事実っていうものを伝える必要もあると思うので、この方法、どうするんだろうと思いながら読み進めてきて、「エピローグ」で「ほんとうにあった話? いやぜんぜん」だなんて人を食ったようなことが書かれていて、しかも、それに続けて「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」が来る。年月日と地名と固有名詞の箇条書きのようなこの部分を読むと、私が子どものころこの作品に出会っていたら、虚構もなにも、まるごと、書かれていることは全てほんとだったんだ!と思った気がします。著者の祖父が出てくるのですから。そういう手があったかと驚いたのですけれど、これがいいのか悪いのか、どう考えればよいのかよく分かりません。新鮮だと思ったのは、木こりが自分のやっていることを知っていたという点です。おかみさんの無知ぶりから、木こりも、何も知らず作業にかり出されているのかと思っていたら、十分差別意識をもっている。これは、なかなか厳しい指摘で衝撃でした。生き延びた赤ん坊が長じてソ連の機関誌の表紙を飾るというのも、なかなか皮肉な感じで、そういう展開もはじめて読みました。

さららん:ホロコーストは書きつくされているように思えるけれど、そうか、この手があったか、と私も思いました。昔話のような世界と厳しい現実が1章ごと交代で現れるこの作品を書いたのは、きっと手練れの作家だと思ったら、やっぱりそうでした。短い章をつないでいく言葉が硬質で、寓話の言葉と小説の言葉を巧みに混ぜています。硬質の訳がまたいいですよね。1回目に読んだときは、強烈な後半部分にショックを受けました。木こりの夫婦が女の子の命を救い、愛情をもって育て始めたという話の前半に対して、その木こりが斧で仲間たちを殺すし、情け深い森の男もあっけなく銃で打ち殺されるし、なんて血まみれで残酷な話だろうと、思ったんです。でも2回目に読んだときは、そこはあまり気になりませんでした。エピローグには、この話が作り話だったとわざわざ断りがあり、せっかく読んだものが無に帰すようでしたが、「ただ一つ存在に値するもの――(中略)それは、愛だ。」の締めくくりで、やられちゃいました。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話のように最後に教訓をつけるふりをしたかと思うと、「覚え書き」まで加えて、現実に起きたホロコーストの記録の一部を伝えている。作者は、文学のジャンルを超える実験を試みたんでしょう。この本の意味がまったくわからない子どもも多いと思います。でも、ひと握りの子どもたちには、忘れられぬ印象を残す作品かもしれません。ここに描かれていたことはいったいなんだったのか?と。

まめじか:収容所の中で起きていることも理解していない素朴な村人のおかみさんは、「列車の神さま」が赤ちゃんを授けてくれたのだと信じています。しかしやがて「列車の神さま」のおかげではなく、雪の中に赤ちゃんを投げた手や、その子を守った人たちの力で赤ちゃんは生きのびたのだと思い至ります。作品にこめられた人間への信頼を感じます。収容所にいる父親の心に希望が生まれ、たとえ当の本人がそれを笑ったり、涙でぬらしたりしても、その芽はのびつづけたという箇所なんかもそうですよね。木こりが赤ちゃんに手をあげようとする場面では、体がふれたときに2人の心臓が響きあい、そのとき木こりは恐怖をおぼえます。いとしいという感情がわきあがってくるのに抵抗しようとするのですが、愛情とかいとしいとか、そういう直接的な言葉をつかわずに表現しているのがすばらしいですね。またおかみさんが赤ちゃんのことを、「わたしの生きがい」ととっさに言うのですが、そんなちょっとしたせりふが真実をあらわしていると思いました。

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ニャニャンガ(メール参加):読みはじめてすぐに、『エリカ 奇跡のいのち』(講談社)の話だと気づき、子どもに伝えるには絵本の方を勧めたいと思いました。この本は、ポプラ社から出ていますが、2021年の本屋大賞、翻訳小説部門 第2位だとすると、大人向けでしょうか。大人向けに感じた理由は、p.25 ひどいことのルビにポグロム、p.135人間性にユマニテとだけあるのは若い読者には親切でないと思ったからです。文章が頭に入らない部分は私の読む力が足りないのだろうと思ったのですが、翻訳についてAmazonレビューに細かい指摘があり驚きました。
https://www.amazon.co.jp//dp/4591166635
フランス語はわからないので翻訳に関してはなんとも言えませんが…名のある方の訳でもあり、有名になると細かくチェックされるのかなと怖くもなりました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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花形みつる『徳次郎とボク』表紙

徳次郎とボク

アンヌ:児童書というよりすべての世代でそれぞれ共感を持って読まれる本だと思いました。祖父の病院嫌いの場面とか、介護について姉妹でもめる場面とか、今の現実を映していると思います。最初作者が男性だと思っていたので、長女のケイコおばさんの描き方はひどい、介護を担う人の苦労はわかっているのか等と思ったのですが、作者のインタビュウを読んで女性だと知ってからもう一度読みなおしました。主人公の語り口が実におもしろく、p91 の「決まりかな、とボクは思った……決まったな、とボクは思った」とか、p148 の「お母さんの忍耐の結界にはられたお札は今にもはがれ落ちそう」とか、独特の魅力を持つ書き手だなと思いました。主人公が成長しながら死に向かう祖父の気持ちを理解していくという物語よりも、つい介護問題の方に目が行ってしまう世代なので、祖父と3人の息子だったら、こんな風に尊厳を守られたのだろうかとか考え込んでしまいました。

エーデルワイス:「花形みつる」というと『巨人の星』(梶原一騎原作 川崎のぼる作画 週刊少年マガジンコミックス)を思い出し、作者が女性と聞いて驚いています。おじいちゃんと孫の交流を描いていますが、介護をリアルに描いていて、児童書で「介護」を具体的に描いた画期的な内容だと思いました。作者の体験が盛り込まれていたのですね。私事ですが義父母を介護中なので、孫よりも介護する徳治郎さんの娘たちの気持ちに寄り添ってしまいました。97歳になる私の義父も意思が固く、耳は遠くて徳治郎さんとそっくりなんです。徳治郎さんは寝たきりになりますが、最後まで頭はしっかりしていました。世の中たくさんの人が認知症を患っています。今度は的確に認知症を扱った児童書を読みたく思いました。

アカシア:この作品は、子どもの視点で徳次郎をくっきりと浮かび上がらせるのが、とてもうまいなあと思いました。作者は実体験に基づいて描いているのでしょうが、ボクが途中で徳次郎のところに行くより友達と遊ぶほうがおもしろいなと思ったり、母親のきょうだいの言い合いにうんざりしたり、徳次郎の歩く速度が遅くなったのを見て祖父の体力の衰えに気づいたり、などという描写がとてもリアルです。脇役の使い方もうまいですね。エリカちゃんも問題を抱えながらも長所を持った子として立体的に描かれているし、犬のシロは来訪者にぎゃんぎゃん吠えるのに、いつのまにかおじいちゃんの枕元にすわっているし……。最後のほうにヨシオさんという人が出てきて、徳次郎の戦争体験を親族は初めて知るのですが、その出し方も秀逸。死がテーマなのでシリアスですが、文章の随所にユーモアがあるのもいいですね。同じように耳の聞こえない隣の畑のおじいさんとのとんちんかんな会話なんか、想像すると笑えます。この本が産経児童出版文化賞の大賞を取ったときの記事を読むと、徳次郎のモデルは花形さんのお父さんで、お父さんの子ども時代の話がとてもおもしろかったので、それを書こうと思ったのが作品が生まれたきっかけだと語っておいでです。

ネズミ:とてもおもしろかったです。特によかったのは文体で、それぞれの登場人物のせりふや書き分け、特におじいちゃんの口調が巧みで、翻訳ではなかなかできないことだと思いました。高齢者が増えていて、介護と尊厳は大きな問題です。体の不具合をなおすことに熱心になって、クオリティオブライフが後になるというのはよくあることですよね。P.208の1行目に「あのとき、ボクは、わかってしまったんだ、お祖父ちゃんがなにを望んでいるのか。お祖父ちゃんの望みは、自分のやり方で死んでいきたい。多分そういうことなんだ」という言葉があります。また、だれにでもその人なりの人生があるということが見えてくるのが、いいなあと思いました。

雪割草:大変よかったです。読んでいて、懐かしい気持ちになったり、じんわり温かくなったり、電車の中で読んだので泣きませんでしたが、泣きそうになる場面がたくさんあり、いろいろ感じることができる作品でした。おじいちゃんではなく徳治郎としているタイトルからも、ボクがおじいちゃんと一人の人間として出会っているのだと思いました。ボクがおじいちゃんのことをよく観察して、寄り添い慕っているのが本当に見事に描かれていて、こんなふうによく観察して寄り添う力は大切で、ぜひ子どもたちに読んでもらいたいし、おとなにとっても味わい深いと思います。所々、クスッと笑えるところがあったり、親しみがわくところもあったりするもよかったです。特にp60の鳥の巣の場面では、鳥の巣の美しさがわからないいとこたちに向かって「こいつらバカじゃないか」というボクの心の中のつぶやきに、なんだかこう思ったことあったなと妙に共感してしまいました。私は子どもの頃、両親や兄弟、祖父母や曾祖父母と暮らしていて、曾祖父母が老衰のため自宅で亡くなるのを見ました。今は家族で死を看取ることが少なくなっているので、身近な暮らしの中での死を描いているのもとてもよいなと思いました。

マリンゴ: この本は1年以上前に読んでいたので、今回が2度目の読書になりましたが、1回目と2回目で印象がかなり変わった本でした。大前提として、とても読み応えのある本で、人が生きて死ぬリアルが伝わってきますし、3姉妹や姪っ子のエリカちゃんなど、脇のキャラクターも魅力的です。あと、横須賀は多少土地勘があるので、急勾配の坂とか山の上にある畑だとか、そういう風景も目に浮かびました。特に前半、自然の中で虫をつかまえたりおじいちゃんの子どものころの話を聞いたり、そんな場面が鮮やかでした。タマムシが、小道具としてラストに再び登場するのも素敵ですよね。ただ、1回目は、自分が子どもの頃だったらどんなふうに受け止めたか、という視点を持ちながら読んだので、この本に描かれている死への道のりがリアルすぎて、ここまでまだ知りたくなかった、という気持ちになるのでは、と思ったのでした。昨日2度目に読んだときは、その記憶を持って読んだせいで逆に、いやいや素晴らしいじゃないか、死に方の一つの理想じゃないか、と感じました。周りであわてふためきながらも何とかしようとしている大人たちも含めて、みんなが精一杯生きているのもいいですよね。でも、それはわたしが大人として、身近な人の死を経験した後で読んでいるからではないかとも思ったのです。この本の初読と同じ頃に読んだ『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』‎(椰月美智子著 小峰書店)のほうが、児童書としての死との距離感はちょうどいいかも、と感じたのでした。

ハル:ひとが生きて死んでいくさまをおかしみとかなしみをまじえて愛情深く描いた、ありそうでなかった児童文学作品で、わかったような言い方で恐縮ですが、初めて読んだときに、「これぞ文学!」と思いました。おじいちゃんの死が迫る終盤で、「ちっせぇとき」のお月見の話が入ってくるところや、作品の中でのおじいちゃんの最後のセリフが「あくしゅ、してくれ」なところがなんとも美しくて、素晴らしいなぁと思いました。と同時に、版元の理論社は「おとながこどもにかえる本」の位置付けでこの本を出しているのだと思うのですが、まさに、大人が読みたい児童文学なんだと思います。現在中学生のボクの目線がだいぶ大人ですし。だけど、「こども」世代にも、ぜひ、このわめきちらす頑固者のおじいちゃんの魅力や、それをとりまくおばさんたちの愛を想像できるような年頃になったら、ぜひ読んでほしいと思います。

カピバラ:『おじいちゃんとの最後の旅』(ウルフ・スタルク著 キティ・クローザー絵 菱木晃子訳 徳間書店)のおじいちゃんと孫の関係にどこか似ているなと思いました。どちらも頑固でへそ曲がりで、周囲に迷惑をかけることもあるけれども、孫にとっては信頼できるおじいちゃん、大好きなおじいちゃんでもあるわけです。徹底して孫から見たおじいちゃんを描くことで、おじいちゃんの人生を浮き彫にする描き方も似ているなあと思いました。子どもの視点から書かれているという点で、これは子どもにぜひ読んでほしい、子どもの文学として位置づけたいと思います。徳治郎がボクに語る昔の悪ガキぶりが生き生きとしておもしろく、戦争体験もありつつ家族の歴史が伝わってきました。3人の娘たちの会話もリアリティがあって、おもしろかったです。最後に別れのときがくるけれども、ボクにとってはおじいちゃんの人生を肯定して終わることができて、さわやかな余韻が残りました。

コアラ:電車の中でサラサラと読んでしまって、あまり興味をひかれないまま読み終わってしまいました。最初のほうで、竹とんぼが出てきたし、p23で「黒い固定電話」が出てきたので、1970年代くらいかなと思っていたのですが、p75では携帯電話が出てくる。そうすると2000年代くらいになりそうですが、それにしては時代的にしっくりこない気がして、そういうこともあって物語に入れなかったのかもしれません。大人の目で読めば、カピバラさんがおっしゃっていたように、大人同士の会話はリアリティがあっておもしろいなと思ったし、主人公の男の子が祖父の死を見つめるのは大切な物語だと思うんですけれど、心が動かされないまま読んでしまいました。

花散里:徳治郎おじいちゃんのことが印象深く残っていたので、ウルフ・スタルクの『おじいちゃんとの最後の旅』が出版されたとき、この『徳治郎とボク』みたいだと思いました。今回読み直して、改めてとても良い作品だと感じました。孫の視線から見たお祖父ちゃんがとてもよく描かれていて、ボクが成長していくとともに、お祖父ちゃんに対する見方が変わっていくところが伝わってきます。母親と離婚した父親への思いが、お祖父ちゃんの子ども時代とも重なって描かれているのも印象深く思いました。お祖父ちゃんと畑に行くときの様子、昆虫、植物のことなど自然の描き方や、登場人物の描き方も見事だと感じました。言葉の表現の仕方など日本の児童文学のなかで花形さんの作品が好きですが、特に子どもたちに読んでほしい1冊だと思いました。海外の作品で1991年に刊行された『リトルトリー』(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーく)も環境、家族の絆、人間関係などが描かれた作品ですが、この本と一緒に紹介して前出の『おじいちゃんとの最後の旅』などとともに勧めたいと思います。

しじみ71個分:これを読んだのは2回目です。1回目もすごくいいなと思って、2回目もやはりよかったです。私は生まれたときには既に祖父は2人ともいなくて、祖父のリアルな存在感がまったくないんですね。なので、この徳治郎とボクの関係は私にとっては、とてもすてきで、こんな関係が持てたらいいなと、ちょっと仮想おじいちゃんを頭に描きつつ読みました。自分の父は9人兄弟の末っ子ですし、母方の祖母が大正12年生まれなもので、なんとなくいろいろ自分の状況を重ねて読んでしまいました。ウルフ・スタルクの『おじいちゃんの最後の旅』でも感じたのですが、親子とは違って、微妙な距離感がある、おじいちゃんと孫という関係がこれだけすてきなストーリーを生み出せるのだなぁとしみじみ思いました。親は近すぎて重たくなるのかな。昨今、子どもに、身近な人の生き死にを見せられるのは、祖父母しかないのかなと思いますので、万人にとって共感できる話なんじゃないかと感じました。孫がおじいちゃんを観察して、大変に人間くさく、魅力的に描いていますよね(親だとただ面倒なのだろうと思います 笑)。徳治郎が、自分が生きたいように生き、死にたいように死んでいくという、人間の尊厳を貫き通す姿は魅力的だし、そんなふうに私も残りの人生を歩みたいと思わされました。大人が読んで胸に沁みるのはもちろん、決して子どもに読めなくはないと思います。リアルな死を描きつつ、とてもいい話で、私の好きな本です。人間の死は生前の人間関係に負っているのだということが描かれているのも、重要なポイントだと思いました。

西山:おもしろくは読んだんですけど、けっこう出だしでひっかかってしまいました。80に近いお祖父さんの孫が幼稚園児という年齢でひっかかったり、例えば、p27最後の段落で、「ササゲもみっしり実っていた」と野菜に詳しかったり、「畑は,荒々しいジャングルに出現した勤勉に手入れされた小さな庭園のようだった」とたとえたりというのが、「ボク」がいつの時点から回想しているのか、幼稚園時代を回想しているけれど、かといっておとなの口調ではないし、いったいいくつの子だ?と気になってしまったのでした。先月の、ウルフ・スタルクと読み比べるのもおもしろいと思いましたけれど、身体的に弱っていくことにあらがっている人の最終ステージを淡々と記録した、というそれ以上でもそれ以下でもないというふうに読み終えました。

さららん:おじいちゃんはできることは少しでも自分でやろうとし、気に入らないことには癇癪を起こします。その理由を考え続けたボクが、おじいちゃんは「自分のやり方で、死んでいきたいんだ」と悟るところがとてもいいと思いました。文章も全体に抑制が効いています。例えば、おじいちゃんが死んだ場面でも、死んだとは書いていない。「こうしてぼくは『冒険』を手に入れ、お母さんは『安心』を買いに走った。」(p74)など、切り取り方も巧みです。この作品の良い点は、老いること、死ぬことを、できるだけ具体的に書いてあり、単に孫とおじいちゃんの良い話にはなっていないところ。死に向かう過程をひとつずつ重ねるように描いていて、実際の「死」に触れる体験の少ない子どもたちにとって、学びの多い作品だと思いました。ただ前回の『おじいちゃんとの最後の旅』に比べると、ユーモアやひねりに欠け、エピソードの組み立てが立体的でない気がします。p196で、おじいちゃんが兵役についていたこと、さらに上官に盾ついて、リンチにあったことがヨシオさんによって明かされます。それは家族にとって意外な事実で、権威や押しつけに対するおじいちゃんの反発の根っこであったことが、明らかになるのです。おじいちゃんを理解するうえで大事な要素なので、具体的にどうして盾をついたか、私は書いてほしかった。そこが気になって、クライマックスに気持ちがついていかず、説得力がやや弱いように思えました。作家はあえて書かなかったのかもしれませんが。

まめじか:お祖父ちゃんが畑まで行くのにひと休みするようになるとか、歩くのが遅くなるとか、そういう日常の場面を重ねて、老いることや人生の終わりを迎えることがていねいに描かれています。歳をとって人の手を借りることが増えていくお祖父ちゃんが、主人公やエリカちゃんの心を救う存在になっているのがとてもいいですね。

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ニャニャンガ(メール参加):孫とおじいちゃんの交流を描く物語なので、好みの作品でした。徳次郎じいちゃんが、畑仕事が趣味の自分の父親と重なるところが多く、共感しながら読みました。昔の話をするおじいちゃん、大好きです。父は今年89歳で、わたしはたまにしか帰省せず会っていなかったのですが、父が数年前に大病をして入院お見舞いのため数日通ってつきっきりで話をしたときのことが懐かしくなりました。口の悪さにかけては、徳次郎は『おじいちゃんとの最後の旅』のおじいちゃんに負けず劣らずだと思いました。3人姉妹による介護分担での攻防や、長女の娘エリカちゃんの変化、徳次郎おじいちゃんが弱っていくようすなど、身につまされるようにリアルで読み応えがありました。主人公の語り口について、後半は違和感なく読みましたが、4歳からスタートするにしては大人っぽい語り口なのは仕方ないのでしょうか(わたしは4歳のときの記憶はおぼろげなので少しひっかかりました)。両親が離婚したのに、父親が直接登場する場面がないのは気になりました。唯一登場するのはp62の離婚後の面会日。主人公にとって父親はそれほど薄い存在だったのかと考えてしまいました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『大林くんへの手紙』表紙

大林くんへの手紙

まめじか:p7でカレンダーを机に置いて、「ノートだけ机に置くより、ずっとかわいい」というところでまず、「かわいい」という表現でいいのかなと思いました。宮子が大林くんの手紙にひとこと「小さい!」と書くのもそうですが、全体的に言葉足らずの印象です。p22で先生が宮子に学級委員の仕事を手伝わせるのも唐突だし、突然訪ねてきたクラスメイトを前に、大林くんのお母さんが平身低頭で謝るのも理解できなかった。人物像や行動が不自然で入りこめませんでした。「~だもの」「~よ」「~わね」というフェミニンな言葉づかいや「あの馬鹿」なんていうせりふも、小学校高学年の子どもにはそぐわない感じがします。また、小学6年生の子が友だちのことを思い描いたとき、「体は細くて胸はないけれど」(p 64)っていうふうになるでしょうか。文香のお母さんは不登校について「たくさん休むといろいろとめんどうなことになる」「なぜたくさん休んでいたのか、何度も説明しないといけなくなる」「役に立たない人間だと区別されるかもしれない」(p107)と言うのですが、あまりにも乱暴な説明にとまどいました。

シア:私も話に入りこめませんでした。テンポが全体的に緩慢で、どこか漫画的でした。そのせいで悪くするとギャグ寄りになってしまう場面もあって、私は卯沙ちゃんの言葉や態度などのちぐはぐさに失笑してしまうこともありました。どこをとってもドロドロしそうな展開なのにしていなくて、あっさりしています。これが現代的で、現代の小学生なのでしょうか? それなのに、先生はいつも役立たずのテンプレで描かれているので悲しいです。気になったのは、大林君のメールアドレスは了解を得て回しているのかというところ。このネットリテラシーはいただけません。それに、空いている席には誰が座ってもいいんですよね。単なる便宜上のもの。移動教室とかクラブ活動もありますし。すべてをていねいに使えばいいんです。マーキングしたい日本人の感覚だなと思いました。ウルフ・スタルクの本を先に読んだので、すべてが狭く感じました。日本的というべきなのでしょうか。最後にツッコミたいところがあって、p172「携帯を開き」とあるんですよね。スマホじゃないのかと。パカパカケータイなのかと。小学生だからなんですかね。

カピバラ:自分の本心を作文に書くことができない主人公の気持ちが正直につづられているから部分部分には共感する子もいるのかもしれませんが、物語としては一向に先に進まないのがもどかしかったです。結局、手紙もメールも書けないまま終わるという結末は中途半端で、大林くんが何を感じ、どうして学校へ来ないのかわからないし、物足りなさを感じました。宮子、中谷くん、卯沙の描き方ももう一つつっこんでほしかった。最初にクラス全員に大林君への手紙を書かせ、全員で家に届けるなんてこと、本当にやっている学校があるのでしょうか。私はここでまず引いてしまいました。大林君とお母さんの態度も後味が悪いです。歴史好きのお母さんとの会話は、おもしろくしようとしているのだろうけど、効果がないし、違和感がありました。

ハリネズミ:感想文や手紙でついつい思ってもいないことを書いてしまうことはあるし、文香が大林君の席にすわって考えてみるという展開はいいかもしれませんが、物語の流れから見て不自然なところが随所にあって、入り込めませんでした。たとえば、宮子がまわりを巻き込む押しの強い性格だとわかっているのに、文香が大林君のメアドを渡してしまうところとか、大林君の席にだれかが荷物をおいているのを見とがめて文香は自分が席にすわりつづけるわけですが、ほかの生徒が荷物をおくより、ほかの生徒がすわってしまうほうが大林君の存在を無視してしまうことになるような気もします。しかも文香はp129で中谷君が文香の席に座っているのを見ると、「他人(ひと)の席に平気で座るなんて」と文句のような言葉をつぶやくのは変。それと、最後の場面が唐突で、ただ情緒的な言葉でまとめたようで気持ちが悪かったです。物語世界がもう少しちゃんとつくってあれば、いい作品になったかもしれませんが。

マリンゴ:発売されて間もないころに、話題になっていたので読んだ記憶があります。そのときは、いい作品だけれどそんなに尾を引かないないなぁ、と思っていました。学校生活っていろんなことがあるけれど、物語があまりに「大林くん」と「手紙」に集約されている印象だったからです。今回、再読したときのほうが、おもしろく読めました。主人公は、ちょっとADD(注意欠陥障害)気味なのか、部屋の整理整頓ができない子で、周りの人はどうなのかあまり気にしていません。でも終盤、人の部屋はどうなのだろう、と関心を持つようになるなど、視野がゆっくり広がっていく感じがいいと思いました。ただ、これは好みの問題かもしれませんが、最終章の六章がまるごとなくていいのではないでしょうか。五章から、時がほとんど進んでないので、そこで終わっている方が、余韻を残したのではないかと思います。あるいは、六章を入れるなら、何カ月かあとに飛ぶとか、そのくらい話が展開したほうがいいような気がしました。

しじみ71個分:読んでなんだかイライラしてしまいました。学校のクラスのとらえ方が古くさいなぁと思いまして……。不登校の子に対してみんなで手紙を書くことを強制して、みんなで届けにいくなんて、ひと昔まえの教室運営ではないかなと……自分の子どものときの話を思い出してしまいました。先生に大林君へ手紙を書くことを強制されるのも不快でしたし、リーダー格の女子の宮子に強制させられるのも、読んでいて本当に嫌でした。宮子から「小さい」とか言われて、一方的に、こうあってほしい大林くん像を押しつけられるというのもいい迷惑だなと感じてしまい、物語の後半で宮子が少しいい子に見えてきた、という表現もあったのですが、ぜんぜんそのように寄り添った気持ちにはなれませんでした。唯一、共感できるとすれば、主人公の子が思ってないことを書けないというのは正直だと思ったことですが、その先の展開がなく、大林君の席に座って、大林君の椅子の傾きを感じ、彼が見ていたものを見る努力をするというのは、わかるような、わからないようなで……。断絶も含め、不在の人への思いや働きかけがあってこそ、読者の心が動く何かが生まれるのではないかと思いました。主人公の中で、不在の人への気持ちや思いがどう深まっていったのか、まったくわからなかったんです。大林くんが禁じられた屋上に上がって、しかられたけれど、なぜ一人だけ反省文を書けなかったのか、という点をきっかけにもっと大林君の物語を深められたのではないかと思うし、彼のお母さんが必要以上に自己肯定感が低いことにも背景があるはずなのに、それがまったく描かれていなくて、もやもやしたままです。結局、椅子に座ることも、手紙を書くことも、彼の気持ちには迫らず、自分たちの自己満足でしかないのではないかと思えてしまいました。『12歳で死んだあの子は』(西田俊也著 徳間書店 2019)にも感じたのですが、亡くなった子のお墓参りをすることに終始して、その人の不在が訴えかけてこなかった点に共通したものを感じ、思い出してしまいました。人の不在に対する心の動きがないと、物語が成立しないんじゃないのかなぁ……。

すあま:主人公は、感想文や反省文と同じように、手紙も嘘を書いていいと思って、きれいな文章の手紙を書く。先生がいいって言ったので正解だと思ったけれど、そのあとでほかの人の手紙を見て、ハッとする。手紙は相手に気持ちを伝えるものだから嘘ではだめだ、ということに気づいたことから物語が展開していくのだと思ったのですが、うまくいっていないように思いました。共感できる登場人物がいないことや細かい描写がちょっとうるさく感じられることなどで、読みづらく感じました。会話の間に頭の中で考えていることが入っているのもわかりにくかったです。登場する大人である先生や親がきちんと描かれていない大人不在の物語で、今回読んだスタルクの本とは対照的でした。あまりおもしろさが感じられませんでした。

サークルK:p47で「いつかちゃんとした手紙」を書く、と書いた文香の「最後の手紙」がp170で「板、ぴったりでした!」で落ちがつく、という展開に肩すかしをくった、というか愕然としてしまいました。もうちょっと、何か言葉はないのかな。ショートメールなどのやり取りになれているイマドキの子どもたちは、短ければ短い方が心に響くと思っているのかしら、ととまどいました。そしてこの物語が今を生きる小学校高学年の子どもたちに「あるある、だよね」という形で受け入れられているのだとしたら、小学校の現場の寒々しさというか、子どもたちがとても気を使って毎日を送っている息苦しさを思ってつらくなりました。これからを生きる子どもたちがもっと言葉を豊かに紡ぐことができるようになってほしいなあ、と願いながら読みつづけるしかありませんでした。

ハル:今、サークルKさんの意見を聞いて、ハッとしたのですが、確かに私はこの本を、今の子がどう読むかという視点では読めていなかったです。それに、2017年の刊行から少し時間が経っていますので、もしかしたら当時は画期的なテーマだったのかも知れず、あくまで2021年11月現在の感想になってしまうことも、考慮しなければいけないとも思います。そう先に断りつつも、これはいったい、いつの時代の、誰の話なんだと思うような、アップデートされていない感じが、私は受け入れられませんでした。仮にこれがノンフィクションだったとして、すべてが実際にあったことだったとしても、それを描き出して「大人ってほんといやよね」「先生って全然わかってないよね」「同調圧力、ほんといやね」で終わるのではなく、じゃあどう変えていこう、どうしたら未来が変わるだろう、というところまで感じさせてほしかったです。ただ、不登校になる理由が明確でないというのは、現実の世界でも往々にしてあることだとは思います。

ネズミ:正直な気持ちを書けない主人公というテーマはいいなあと思いましたが、物語は残念ながらあまり楽しめませんでした。p15で大林くんのお母さんが、パート先で自分の息子が学校であったことを話すところで、こんなことあるのかなと思ってしまって。不登校のことが、p108で「学校に行かないのはとんでもないことらしいのはわかった」と書かれたあと、それ以上に深まらないのも、物足りませんでした。閉塞的な息苦しさを超える、新たな気づきや共感がもっとあったらと思いました。

ニャニャンガ:主人公の文香が嘘を書きたくないという点には共感しましたが、全体的にどうかといえば共感できませんでした。気になったのは、大林くんが不登校になった本当の理由が明かされない点です。また、担任の先生の行動が怖かったです。立ち入り禁止のところに入ったくらいで反省文を書かされ、学校に行かなくなった大林くんの心の傷を理解しているのだろうかと思うほど、子どもたちに無言の圧力をかけ、無神経な行動をとるなど既視感がありました。クラスのみんなで不登校の生徒に手紙を書くとか、宮子を教師の「使える子」として学級運営をしているのは、わが子が小学生だったときと重なったのでリアルだと思います。でも、大林くんのお母さんは謝りすぎ、文香のお母さんはマイペース、友だちの卯沙はふわっとしているようでしっかりしているなど、マンガのようにキャラ立てしようとしているのかなと感じました。

さららん:この作者は言葉にすると壊れてしまう感覚を、書こうとしたのかなあと思いました。主人公は、最後まで手紙を書かず、読者としてはもどかしい感じ。そして大林くんの気持ちが主人公に少し伝わるのは、親友を通しての伝言と間接的なメールの画面だけ。主人公は大林君の席にすわって、その気持ちを想像する毎日なのですが、そんな主人公を大林くんはちょっと意識していて、最後のほうで「板」をくれます。椅子の傾きを調整するために。関係性に踏みこまないで人物を描いているから劇的な展開もなく、開けられた容器に、読者が「大林君はどう感じているんだろう」「どんな子なんだろう」「なぜ学校を休んでいるんだろう?」と自分の想像で埋めるほかない物語でした。そこには空白があって、書きこみが足りないといえばそれまでなんだけれど、今の子どもたちの感覚に通じる部分があるのかも……そういう意味では現代的なんでしょうか? 友だち同士のコミュニケーションが取れているような、いないような関係は理解できませんが、代わりに物の手触りをていねいに書いている点がおもしろかったです。

ンヌ:読みながら、事件と事件との間に物語としてのつながりがなく、読者が詩や和歌を読むときのように、間を埋めながら読んでいく作品のような気がしていました。実に繊細な感じで。だから、具体的なイメージがうまくわいてこない部分も多く、ハンカチが選べなくて2枚差し出す意味とかは、うまく読み取れませんでした。手紙を書き直すというのはわかるのですが、やっと本当の手紙が書けたのに、それを出す前に中谷君と大林君とのメールのやり取りが始まってしまうという第六章は、先ほどマリンゴさんからもご指摘があったのですが、時間の経過が速すぎる気がして奇妙な感じがしました。歴史おたくの文香の母親は、ユーモアとして描かれているのでしょうが、p107で不登校について「何度も説明しなければいけなくなる」は親の立場の説明だとしても、「役に立たない人間として区別される」という発言をするのには疑問を持ちました。

ルパン:私は今回の選書係だったのですが、この本はある意味傑作だと思って選びました。たしかに小学生としてはおとなびた感があり、中学が舞台のほうがよかったなと思いますが、ものすごくリアリティを感じます。みんな、もやもやしていて、方向性なんてないんですよ。定着して方向がつけられた学校制度の中に閉じこめられた子どもたちの現実です。そして大人たちの現実でもある。子どもが不登校になって、どうしたらいいかわからない自信のない親。自分がどうして学校に行かれなく(行かなく)なったのか自分でもわからない子ども。感想文や手紙を書けと言われてどうしたらいいかわからない友だち。旧態依然の価値観をもち、マニュアルに頼る自信のない(あるいはありすぎる)先生たち。この中の登場人物に似た人たち、私のまわりにはたくさんいます。物語の中で不登校の理由がはっきりしたり、それを解決できる大人がいたりしたら、そっちのほうがよっぽど非現実的です。「個人の自由」や「個性の大切さ」を声高に言いながら、足並みをそろえることを強いる「学校」という社会の中でみんな困っている、という現実をあぶり出した作品だと思っています。みんなが先生に言われて書いた手紙の中で、大林君は主人公の手紙だけに反応した。それを知った主人公は何か自分ができることはないかと模索した。ここで二人はちゃんと繋がりました。答えがなくてもいいじゃないですか。りっぱな大人が出てきて解決しなくてもいいじゃないですか。現実ではむしろそんな大人が都合よく出てきてくれることのほうが少ない。この主人公は何もしなかったわけでも何もできなかったわけでもない。私は「理想の大人や理想の子どもが描けていない」と思う人こそ「大人目線」なのだと思います。もやもやして困っている子どもたちはきっと共感し、「こんな自分でも、できることをさがしていいのかもしれない」と一歩、いや、半歩でも踏み出せるかな、と背中を押されるはず。文章の細かいところで課題はあるかもしれませんが、今回はそういう理由で選びました。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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ウルフ・スタルク『おじいちゃんとの最後の旅』表紙

おじいちゃんとの最後の旅

アンヌ:私はおじいちゃん子だったので、主人公と祖父が性格の一致を喜ぶ場面には、心がギュッとつかまれました。船の中で、手と手を重ね合わせるところとかを読んで、相手の温かさを感じるだけで幸せな気分になる感じとか、いろいろ思い出してしまいました。題名からわかるように、この物語は祖父が妻の死を受け入れ、自分の死も受け入れていく物語であり、主人公が祖父の死を受け入れていく過程が描かれています。でも、ユーモアたっぷりの物語で、その中にスウェーデンの典型的な食べ物、ミートボール、シナモンロール、コケモモのジャム等が姿を現し、その食べ物にも一つ一つ意味があって、おいしそうで温かくて魅力的な物語となっています。アダムという頼りがいがある大人が出てきて、p131で祖父を病院から連れ出した自分を責める主人公を、おじいさんはああいう人だろうとなだめてくれるところでは、たとえ老人でも病人でも障碍者でも人権があるということを教えてくれます。嘘が嘘を呼ぶ苦い味も12章の「カンペキなうそ」でしっかり描かれていて、実に見事な物語だと思いました。キティ・クローザーの挿絵も一目見た時からあまりに魅力的で、目が離せませんでした。

ニャニャンガ:ウルフ・スタルクは好きな作家なので、刊行後まもなく読んだので再読です。スタルク最後の作品ということで読む前から胸が熱くなりました。おじいちゃんと孫、人生の悲哀をテーマにしたスタルク作品は最高です。ただ今回は、おじいちゃんがあまりに口が悪くて偏屈だったので、物語世界に入るのに少し時間がかかりました。島から帰ってきたあと、天国で妻と再会するときのために言葉遣いを直そうと努力するおじいちゃんが大好きです。ただひとつ残念なのは、キティ・クローザーの挿絵をスタルクさんが見られなかったことです。対象年齢の読者がどのように読むのかを知りたいと思い「読書メーター」を見てみたところ、勤務校の男子生徒にすすめられたという書きこみを見つけ、きちんと届いているんだなとうれしくなりました。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。はじめから、おじいちゃんが死んじゃうんだなとわかるのですが、それでも読者を思いがけないところまで連れていってくれます。ストーリーや人物に無理がなく整合性があって、ほころびがない、完成度の高い作品だと思いました。改めていいなと思ったのは、この本に出てくる人たちが、誰ひとりとして、いい人になろうとしないところ。こうじゃなきゃいけない、というような道徳や偽善がない。看護師さんも、おじいちゃんが患者だというのに悪口を平気で言うんですね。日本の子どもの本とは、人間の描き方がずいぶん違うと感じました。

ハル:皆さんの感想を聞いていて、思い出し泣きしそうです。本を閉じてからしばらく泣いてしまったのですが、もしかしたらこんな体験は初めてかも。私は小さいころ、おじいちゃんのことがあんまり好きじゃなかったので、子どものころにこの本を読みたかったなぁと思います。子ども時代に読んでいたら、愛する人を失うという体験を、この本で初めて覚えたのかもしれませんね。登場人物、ユーモアもたっぷりの表現、イラスト、訳文……そういった全部、この本のすべてに愛があふれている感じがします。そして今度、北欧を旅することがあったら、お皿に添えられたコケモモのジャムも大事に食べようと思いました(以前に旅したときは、なんでおかずにジャムがのっているのかよくわからなくて、よけちゃったので)。

雪割草:あたたかくて素敵な作品だなと思いました。おじいちゃんは、古風で怒ってばかりですが、人間味あふれる描写で、「訳者あとがき」にもあるように、作者の、おじいちゃんのことが大好きという気持ちが伝わってきました。それから、「死」の描き方もいいなと思いました。カラスがオジロワシになって飛んでいくラストシーンへ向かって、p149にはウルフの見えないものへの気づきが書かれていますが、子どもの等身大の体験に近く感じました。ほかには、ウルフとおじいちゃん、ウルフとお父さんの関係が、p59にあるように世代の違いだけでなく、一人ひとりの違いとして描かれているのもよかったです。人生のはじめの方にいるウルフと人生の終わりの方にいるおじいちゃんの交流が、味わい深かったです。

マリンゴ:タイトルから、重い展開をイメージして、今まで敬遠していたのですが、想像とは違ってとてもハートフルで、楽しい部分もある物語でした。「嘘」が出てくるお話って、それがバレたらどうしよう、とハラハラする流れが一般的だと思いますが、この作品は、嘘を言うことを楽しむ少年が主人公で、ピンチに陥っても、仲間のアダムがすらすらと嘘をつくなど、嘘を肯定する展開がおもしろかったです。お父さんの前で、おじいちゃんとの冒険の事実を主人公がぶちまけると、お父さんがまったく信じてくれない、という場面が印象的でした。p126「合宿でなにがあったか、話してみなさい」と言われて、「……寝袋の中にゲロを吐いた子がいた」と答える場面はユーモラスで、笑ってしまいました。事実がすべて正義とは限らない、と考える作者の想いが伝わってきます。大きなことではないのですが、唯一引っかかったのは、p114からp115にかけて、アダムが卓球の試合ですぐに負けた話をしたあとの主人公のコメントです。「すぐに負けて、よかった」「ビリだっていったほうが、うけがいいでしょ」「負けた人のことは、みんな、かわいそうだと思うよね。で、ふだんよりやさしくしてくれる」などと続くのですが、これが、物語の流れのなかで若干唐突なので、後の伏線かと思ったらそうでもなく、少しとまどいました。

ハリネズミ:p114からのところは、ウルフの人となりをあらわしている表現だと思って読みました。融通のきくちょっとちゃっかりした性格の子なんじゃないかな。ウルフ・スタルクは角野さんと同じ時期に国際アンデルセン賞候補だったんですけど、選考期間の間に亡くなられたので、候補から除外ということになってしまいました。さっき、ハルさんが泣いたっておっしゃったのですが、私は、あっちこっちで笑いもしました。しみじみさせながら笑わせもする作品って、すごいです。文章にも絵にもあちこちにユーモアがちりばめられています。たとえば、汗臭い女の人に寄っていくっていうエピソード+p20の絵で、私は噴いてしまいました。子どもらしい視点も随所にあります。たとえばp10「ぼくは、まえからずっと、おじいちゃんが怒りだすときが好きだった。その場にいると、ものすごくドキドキする」とか、お父さんに「わたしの目を見ろ」と言われて、p122「ぼくは見なかった。パパの眉毛を見ていた。目でも眉毛でも、パパにはわからない」とか。p130で、パン屋の店に入って「店の中に入ると、あたたかくて、うす暗くて、いいにおいがして、ぼくはからだがふるえた」とか。スタルクには、上から目線や猫なで声がまったくない。あと、短い文章の中で、じつに的確に表現しています。たとえばp72「ぼくがジャムの瓶を持ってもどると、おじいちゃんはしばらくのあいだ、その手書きの文字をじっと見つめていた。それからふたをあけ、パラフィン紙の封をナイフでそっとはがした」というところですけど、あれだけ罵詈雑言を連発していたおじいちゃんが、おばあちゃんの作ったコケモモのジャムには万感の思いを抱いていたことが伝わってきます。それと、どのキャラクターにも奥行きがある。下手な作品だとお父さんを悪者にしてしまうところですが、お父さんも、p146のお菓子を買ってくるくだりや、そのとなりの絵を見ると、ただの堅物ではないことがわかりますよね。最後のカラスとオジロワシのところも伏線がちゃんとあるし。キティ・クローザーの絵も、ほかのにも増してすばらしいので、スタルクを敬愛していたことが伝わってきます。

カピバラ:私もスタルクは大好きな作家なんですけど、大好きなスタルクの最後の作品だというさびしさと、おじいちゃんの最後の旅という悲しさとが重なって、なんともいえないしみじみとした読後感にひたった一冊でした。スタルクの持ち味はユーモアとペーソスだと思いますが、それが十分に味わえる作品だったと思います。時代も国も違うのに、こんなに親しみを感じる人が出てくる本っていうのは少ないものですが、先ほど「登場人物がみなほかの人に自分を良く見せようとしない人たちだ」という感想がありましたが、なるほどと腑に落ちました。何度も何度も繰り返し読みたい作品です。

まめじか:登場人物が人として立ち上がってきて、この人たちはページの向こうにちゃんといると感じられました。主人公のウルフはおじいちゃんのことをよく理解していて、たとえば「死んだ人を愛しつづけることって、できる?」(p60)ときいたときに「だまれ、ガキのくせに!」なんて言われても、それは「できる」という意味だとちゃんとわかってる。わざと汚い言葉を言わせて、その罰として薬を飲ませるのも、おじいちゃんへの想いが伝わってきます。ウルフは人生がはじまったばかりの子どもで、一方おじいちゃんは人生を終えようとしている。夢と現実の境があいまいになって、おばあちゃんとかオジロワシとか、そこにはいないはずのものが見えるようになったおじいちゃんの目に映るものを、ウルフはときどき感じながら最後の時間をともに過ごして、やがておじいちゃんは船のエンジン音のようないびきをたてて向こう側の世界へと出航していく。たった2日間の冒険が、主人公の心にかけがえのないものを残したのですね。冒頭に出てくる紅葉した葉は、次の世代に命をつないでいくことを思わせるし、コケモモのジャムは生きることそのものというか、人生という大きなものを日常のささやかなものにぎゅっとこめるように描いていて、そういうのも見事だなあと。おじいちゃんが弱っていく姿を見たくなくて病院に来たがらないお父さんの描写には、リアリティがありました。あと、ウルフがバスの中で、汗のにおいがうつるようにおばさんにくっつく場面なんか、ユーモアがあっていいですね。挿絵も物語にとてもよく合っています。キティ・クローザーは現実と想像が入り混じった世界を鮮やかに描き出す画家で、私はとても好きです。死をテーマに扱った作品も多いですね。

さららん:しばらく前に読みましたが、ほんとに短いけど、どこもかしこもおかしいような切ないような、魅力的なお話でした。おばあちゃんのお葬式のときに、汚い言葉を吐いてしまったおじいちゃんは、天国でおばあちゃんと再会するときのために、これからはきれいな言葉をしゃべれるようにがんばろう、と決意します。そんなところに、おじいちゃんがおばあちゃんに伝えきれなかった、深い愛を感じました。そして、この本はあえて直訳風にした翻訳の仕方がすごくおもしろくて! p44の「かわりに息子と、とてつもなく愉快なわたしのおいがまいります」とか、下手にやったら目も当てられない表現ですが、それがものすごく笑えるんです。これは菱木さんのマジックかなあ。シナモンロールはよく食べるけれど、カルダモンロールは食べたことないので、食べてみたいです。おじいちゃんが静かにいびきをかきはじめた場面では、涙が出そうになりました。

サークルK:読書会に参加させていただくようになっていちばん涙を流した作品でした。タイトルがすでに物語るように、主人公のおじいちゃんの死に向かっていくお話ではありますが、悲壮感がなく「命がゆっくりと尽きていくときの時間」ということを作者が尊厳をもって温かい言葉で語ってくれていて、素晴らしかったです。その素晴らしさを翻訳と挿絵がさらに引き立てていました。p61のおじいちゃんと孫がまったく同じポーズで船室の椅子に座っているところはユーモラスで思わず笑みがこぼれましたし、p159の挿絵で孫の男の子がおじいちゃんの大きな手を握りながら最後の時を過ごしている様子には、胸を打たれました。ベッドサイドテーブルにおばあちゃんの写真とほんの少しだけ残ったコケモモのジャムの瓶が置かれていることが描かれていたからです。大好きな妻の作ったコケモモのジャムはおじいちゃんの生きるエネルギーそのものになっていたはずなので、挿絵に空っぽの瓶ではなく、ほんの少しジャムが残された瓶が描かれたことによって、おじいちゃんが明日もまた生きておばあちゃんのジャムを食べたいと思っていたのかもしれない、という希望のようなものが感じられました。p90で示唆されていた「オジロワシ」にp161で見事に姿を変えたおじいちゃんの最期は悲しみに満ちたものでなく誇り高いものであったのだなあ、としみじみ感じ入りました。

すあま:最後に登場人物が死んでしまうことがわかっている話は子どものころからあまり読みたくないのですが、スタルクなら絶対おもしろいだろうと思って読みました。ウルフが両親をだましておじいちゃんを連れ出すところは、途中で見つからないか、おじいちゃんは具合が悪くならないかと、ハラハラする冒険物語を読んでいるようでした。アダムがいたのも大きかった。家族じゃないけど助けてくれる大人が出てくる物語はいいですね。出てくる大人がちゃんと描かれているし、アダムも魅力的な大人で、おじいちゃんとわかりあえている感じもよかったです。日本でも、子ども向けに老いや死、認知症をテーマにした本がいっぱい出ているけれど、ウルフ・スタルクにかなう人はいません。泣かせる、感動するだけでなく、やっぱり笑えて楽しいところもあるのが良いと思います。ウルフはいい子だけど、それだけじゃなくて嘘もつくし、個性豊かで生き生きしている。おじいちゃんが亡くなってしまうのも自然に描かれていて、いいなと思いました。死を描いていると、怖かったり悲しすぎたりするものも多くて、そういう話が苦手な子にも読みやすくて受け入れやすい話だと思いました。来日されたとき講演会でお話をうかがったのですが、物語のウルフに会ったようで、とても楽しい時間でした。訳については、汚い言葉を話す人たちを、キャラクターが伝わるように訳すのは難しいのではないかと思いましたが、すばらしい翻訳でした。

シア:『うそつきの天才』(ウルフ・スタルク著 はたこうしろう絵 菱木晃子訳 小峰書店 1996)という本が大好きでしたので、ウルフ・スタルクだ! と思いながら読みました。「最後の旅」という題名を見て、また題名ネタバレをしている……とガッカリしたのですが、結果的にかなり泣かされました。日本版はこの手の題名多いので、なんとかしてください! おじいちゃんの汚い言葉がかえって生き生きしていて、本当におばあちゃんを愛していたんだなというのも伝わりましたし、変わっている人なんですがとても素敵な人だと思えました。こんな人生いいなと思いながら読みました。子どもに是非読んでほしい本です。挿絵は色鉛筆ですかね、きれいな色合いでした。小学生くらいから読むのにいいと思います。夜に読んだので、シナモンロールとかコケモモのジャムなど、誘惑にかられる1冊でした。

しじみ71個分:読んでもうとにかく感動しました。短い物語の中で、どうして人間関係がここまで書けるんだろうと驚くばかりです。詳細な説明は書いていないのに、おじいちゃんとの関係ばかりか、お父さんとウルフ少年との関係など、全部わかってしまうんですね。キティ・クローザーの絵もすばらしくて、最後のおじいちゃんとおばあちゃんの二人がよりそっている後ろ姿の絵を見て、涙腺崩壊しました……。アダムも看護師さんたちも脇役ながら、人がらがみっちりと描きこまれていて、とても魅力的です。著者はキティ・クローザーの絵を見ることなく、出来上がった本を手に取ることなく、亡くなられたとのことですが、自分が老境にあって、おじいちゃんのことをどういう心境で書かれたのかなと思うと、また泣けてきます。汚い言葉を使うけれども愛情深い人で、短い言葉や行動の中におばあちゃんへの愛情があふれていますね。病院を抜け出して島にわたる際におばあちゃんの姿を見たり、おばあちゃんの腰かけていた椅子に座って窓の外を眺めたり、と不在の人を見る、またその人の見ていたものを見ようとするという行為が、不在の人を思う深さを直接的な言葉でなく語っているところに、ウルフ・スタルクのすごさを感じました。それから、ウルフ少年の嘘も、自分の苦しまぎれの保身とか自分勝手とかではなく、おじいちゃんを楽しませるためで、自分の力で考え、アイディアで難局を切り抜けていくという、この物語に代表されるような、西欧の活力ある子ども像は大変に魅力的ですし、そういう物語が日本のお話でも描かれていくといいなと思いました。

さららん:キティ・クローザーが日本に来たとき、お話ししたことがあるんです。そのとき、日本で何をしたいですか? ときいたら、島に渡りたいと言ってました。このスタルクの本の中に出てくる多島海の風景は、ベルギーとスウェーデンの両方を行き来して育ったキティの原風景でもあるんだ、と思いました。

ニャニャンガ:原書の表紙では、おじいちゃんの足元にタイトルが入っていますが、邦訳では上に移動していますね。空の部分が原書の倍くらいになっていますが、どうやってつけ足したのかなと思いました。

ハリネズミ:日本語版には帯がついているから、タイトルを上にしたのでしょうね。原画が大きかったのかもしれないし、コンピュータ処理で空の部分を伸ばしたのかもしれません。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『わたしが鳥になる日』表紙

わたしが鳥になる日

ヒトデ:物語のカギとなるビートルズの曲や、ロバート・フロストの詩など、モチーフの入れ方が、とても巧みだなと思って読みました。嫌味なく物語にはまっているというか。こういうのが読めるから、やっぱり翻訳文学っていいなと思いました。「鳥」というモチーフも新鮮でしたし、物語にしっかりハマっていてよかったです。

雪割草:すてきな作品だと思いました。「エリナー・リグビー」がテーマ曲として描かれていますが、知らなかったので調べて聴きました。それで、登校時にエリナーが歌っているこの曲が、悲しい歌詞とメロディーだったことを知り、エリナーのキャラクターをより深く味わうことができました。あとがきにもあるように文章は詩的で、また色でさまざまに表現するところも好きでした。主人公は、自分は鳥だと思っていて、鳥になれば自由になれるのだと、自分の物語(日記)を持ち歩いていますが、ミミズを食べるシーンなどはやりすぎではないか、読者はついていけないのではないかと思いました。ただ、それだけ主人公の傷も深いのだとも思いました。そして、エリナーは献身的で素晴らしい人物だと思いましたが、素晴らしすぎるのではないかと思いました。

カピバラ:デセンバーには、一つ一つの物事がどう見えているのかを、時に詩的な表現を使ってていねいに綴っているのがよかったです。ただストーリーを追うのではなく、一人の少女のものの見方や感受性を共に味わう、といった読書の楽しみがありました。またすべての事柄を鳥の生態や習性と結びつけて考えるのが新鮮でおもしろかったです。オリジナリティがありますね。周りの人々を鳥になぞらえて表現するのもデセンバーならではの見方でおもしろいです。いろいろな辛い体験をしているので、最初はもっと年齢が上の子のような印象でしたが、まだ11歳なんですよね。11歳の身に余るつらい体験を重ねてきたから、自分は鳥なんだと思い込もうとするところが痛ましいです。やっと出会ったエリナーの押しつけがましくない愛情や、シェリルリンのストレートな友情に救われるところはほっとします。あと、意外にソーシャルワーカーのエイドリアンが最後に涙するところは、感動しちゃいました。ずっと見守ってきたんですものね。エリナーが傷ついた鳥を保護して自然に帰す仕事をしているのが象徴的に描かれていると思いました。

さららん:もうすぐ鳥になれると信じ、そのたびに木から落ちて傷つくデセンバー。妄想とか精神障害ではなく、想像を現実とごっちゃにできる、ぎりぎりの年齢として11歳の主人公を設定したのは、正解だったと思います。何が起きているのか見当もつかぬまま読み始めましたが、カウンセラーとの会話を通して、デセンバーが、自分の行動が人から変だと思われることをちゃんと理解している子だと知りました。デセンバーは自分の行動や感じ方を説明するとき、様々な鳥の例を具体的にあげます。その表現がおもしろく、独特な言葉の用法で、ここにしかない世界が作られています。ブルー、ピンクなどの色彩が象徴的に使われ、音楽も聞こえてきました。里親エリナーとデセンバーの気持ちが通じ合うにつれ、エリナーへの共感が増し、飛ぶたびに傷つくデセンバーの姿に、もうこれ以上自傷行為は繰り返さないで!と願う気持ちになりました。大切な友人になるトランスジェンダーのシェリルリンの存在によって、現代に生きる子どもの物語としての厚さが増しています。デセンバーのために、なんとか居場所を探そうとするソーシャルワーカー、エイドリアンの描き方も好ましく、新鮮でした。

まめじか:デセンバーは聡明な面を見せる一方で、空を飛べると思っていたり、自分も剥製にされると思ったりするようなところもあり、そうしたアンバランスな内面がよく描かれていると思いました。ここから飛び立ちたい、自分の居場所を見つけたいという強い思いは、「ある場所に属している」というアカオノスリの学名に呼応し、また渡り鳥の帰巣本能にも重ねられています。餌のネズミをていねいに扱うエリナーを見て、ネズミの運命がわかっているから優しくするのか、自分のことも過去を知っているから優しくするのかと考える場面など、心の動きが繊細に表されています。校長室までデセンバーにつきそってきたシュリルリンが、「あなたはどうしてここにいるの?」と聞かれて、「心のささえになるためです」と答えるのですが、シュリルリンやエリナーやエイドリアンがデセンバーの心に寄り添う姿には胸が熱くなりました。

しじみ71個分:今回の選書係としてこの本を選んだきっかけは、図書館の書棚に並んでいるのを見て、表紙の装丁が素敵だなと思って手に取ったのでした。読んで本当に良かったと思います。前回読んだ『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス著 千葉茂樹訳 あすなろ書房)と内容は似ていて、家族がいなくて里親を転々とし、最後に家族を得るという点は共通しています。スーパー・ノヴァでは主人公は自閉症で、求めているのは最愛の姉でしたが、この本は失われた母親で、その母親が主人公を虐待して大怪我を負わせていなくなるというより厳しい内容でした。里親になるエリナーの名前の由来は、The BeatlesのEleanor Rigbyで、その歌の寂しい雰囲気が物語を通底していると思い、イメージが広がりました。とても切ない歌詞で、教会で結婚式でまかれる米を拾う老婆エリナー・リグビーをはじめ、すべての孤独な人々を歌っていますが、この寂しさを極めたような歌が物語のカラーになっていると思います。里親になるエリナーが娘を亡くし孤独を抱えた人であり、デセンバーも孤独で、孤独な人同士が探り合い、最後に寄り添うというイメージは美しいと思いました。デセンバーが鳥になって飛ぶことに取り憑かれているのも、そういうふうに思わざるを得ないほどに追い込まれた、11歳の体につまった悲しい思いであって、自分を虐待した人でも母と思って慕う姿は読んでいてもつらかったです。お母さんも連れ合いを亡くして精神的に不安定で、それゆえにネグレクトと虐待をしてしまった、ある意味支援の手の足りない人だったのも切ないです。文章が詩的で美しく、言葉からのイメージをたくさん受け取れた物語でした。

アンヌ:最初は本当に「鳥になる」物語かと思っていたのですが、これは飛ぶ話ではなく繰り返し木から落ちる話で、何度も自殺未遂を見させられているようで、読み進めるのが苦痛でした。種しか食べない偏食を自分に課しているデセンバーに、アイスクリームを山盛り食べさせてくれるエイドリアンとか、ゆったり構えて無理強いをしないエリナーとか、まっすぐに友情を示してくれるシェルリリンとか、良い人たちとの出会いがあるけれど、その裏に母親の虐待の事実が少しずつ現れたり、学校のいじめが描かれたりする。その構成は本当に見事だと思うけれど、読んでいてつらいものがあって、後半を読み進めながら、ここでもう一押し誤解があってそれから木から落ちるのかと思うと、つらいなあ、長すぎるなと感じました。詩的表現が心を打つ場面も多いので優れた作品だとは思いますが、読み進められる年齢層はどれくらいなのでしょうか?

アカシア:今日読んだ作品で比べると『いちご×ロック』(黒川裕子著 講談社)が図式的だったのに対して、これは個性をきちんと描き出していると思いました。文学って、こういうもんなんじゃないかな、と。読んでいてたしかにつらいですが、こういう子どもがいるというのは確かなので読んで心を寄せたいと、私は思います。木に登って飛ぼうとするのはこの子の無意識の自傷行為だと思ったし、最後で自分は人間だと何度も自分に言い聞かせているところで、それだけこの子の心の傷が深かったのだと思い至りました。欲を言うと、新人ならではの部分もなきにしもあらずです。たとえば冒頭はどういう状況かつかみにくいし、p54で「剥製にされるんじゃないか」と主人公が本気で思うところで、私はついていけなくて、最初に読んだ時はそこでやめてしまいました。今回もう一度読んだら、作品の深さもわかってきたのですが。それと、里親のエリナーが出来すぎですよね。つらい子どもを受け容れるには、こんなにすばらしい人じゃないとだめなのかと思ってしまいます。

虎杖:同じ訳者による『スーパー・ノヴァ』に設定が良く似てるなと私も思いました。千葉茂樹さん、同じ時期に訳されたのなら大変だったろうなと思ったり、さすがだなと感心したり……。ただ、『スーパー・ノヴァ』の主人公は、お姉ちゃんにとても愛されていたという経験があるのに、この作品のデセンバーにはそれがない。愛されなかったことをナシにしようとおそらく無意識に思いつめたことが、「自分は鳥になる」という思いにつながる。そこのところがなんとも悲惨ですね。作者のあとがきには、実際にいろいろな人に話を聞いたと書いてありますが、このデセンバーもモデルがいたのかなと推察しました。それにしても、色彩にあふれた詩のような文章が素晴らしい。パンプキン畑の描写が特に美しい映画を見ているようで印象に残りました。ただ、エリナーはちょっと出来すぎというか、作りすぎというか……。『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)のように、守られている子どもと守っている人が、お互いに影響しあいながら変わっていく様子が見たかったなという気がしました。『スーパー・ノヴァ』の表紙も好きだったけど、この本の表紙もすてきですね!

ハル:私も雪割草さんと同じで、「エリナー・リグビー」がタイトルでピンとこず、読み終わってから調べて「ああこれかぁ!」と思ったので、先に調べてから続きを読めばよかったです。これは失敗でした。作品全体としては、実はちょっとトラウマになりそうなくらい陰鬱な部分もある作品ですよね。たとえば、いじめっ子に追い詰められてミミズを食べる場面とか、繰り返し木から飛び降りる場面とか。それでも、構成力や表現力、人物の魅力で、ぐっと物語に引き込む力をもった作品で、読後はいいお話を読めたという深い満足感がありました。YAとしては、やや読解力を必要とするタイプの作品かなぁと思います。

ネズミ:いい物語を読んだという満足感がありました。心にしみるお話です。鳥がこの子にとっての鎧であり、逃げ場だったのだろうなと思って、胸が痛くなりました。表現のひとつひとつがとても繊細だと思いました。「わたし」が「わたしたち」に変化していくことに象徴されているものがあったり。11歳にしては、全体に大人っぽい感じがしますが、p143からの魔法の杖で遊ぶ場面は、シェリルリンといることから子どもっぽい部分が引き出されているのか、とても印象的でした。タイトルは感じがいいですが、ミスリードしないかなとも思いました。「鳥になる」のが目標なのかと思って読み進めてしまったのですが、そうではなかったので。原題のExtraordinary Birdsというのは、訳すのが難しそうですね。作者の〈謝辞〉に「中級学年むきの作品を書くべき」と言われたとありますが、日本の子どもが読むなら、この作品は中学年より高学年ですよね。

アカシア:日本ではページ数が多いだけで、高学年向けとかYAになってしまうのではないでしょうか。

カピバラ:翻訳もののほうが、設定になじみが薄い分、グレードが高くなるのかもしれませんね。

マリンゴ: 非常に魅力的な本でした。デセンバーが、エリナーのもとに来て、信頼関係を結んでいく物語なのだろうなと、序盤で容易に想像つくのですが、それでも、複数の不安定な要素があって、どういうふうに着地するのか、と引き込まれました。冒頭だけは読みづらくて、数ページ読んでから、人間じゃなくて鳥が主人公の物語なのかな、といったん最初まで戻って読み直してしまいました(笑)。鳥にまつわるさまざまな蘊蓄が随所にあふれていておもしろく、また鳥の一生と人間の人生を重ねている部分なども、説得力があってよかったです。特にp130に出てくるシャカイハタオリという、世界で一番大きな巣をつくる鳥が気になって、調べました。なぜかミサワホームのホームページにくわしい情報が出ていましたよ。デセンバーは、8歳か9歳くらいの幼さを見せるときと、12歳以上の知性を見せるときと、ばらつきがありました。それは、デセンバーのPTSDの深刻さを意図的に見せているのだろうな、というふうに受け止めました。敢えて言えば、エリナーの人柄があまりに優れていて忍耐強いので、デセンバーのような子の信頼を得るためには、里親はここまで頑張らなければならないのか、とちょっとしんどさもありました。なお細かいことですが、「リーキ」という食べ物が登場しますけれど、この呼び方はあまり日本ではなじみがない気がします。ニラネギ、もしくはポロネギと訳してもらったほうが、イメージが湧きやすいかなと思いました。

西山:最初は読みにくかったですね。だんだん加速していって後半は途中で止められなかったのですが、それは、デセンバーに何が起こったのか、その不幸な過去を知りたいという興味で読み進めていて、我ながら、それはちょっといやしい読み方だなと思っています。読みにくかったのは、例えば、鳥が好きなのだったら、ヒメコンドルが不細工だと言ったりする(p38)のかなとか、デセンバーという少女の像が一本に結べず、ついていきにくかったからかと思います。過去の過酷な体験が原因で、彼女の感情面の振幅が激しいのかとも理解しますが、それが読みにくさになっていたかなと。ソーシャルワーカーのエイドリアンが好きでした。デセンバーが彼の心遣いをしっかり受け取っているから、それが読み手に伝わったのだと思います。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『いちご×ロック』表紙

いちご×ロック

ネズミ:非常に勢いのある作品だなと思いました。思った高校に行けなかったこと、母との関係、父親の事件への戸惑い、よくできた姉への劣等感など、いろんな要素がからんでいます。高校生のさまざまな要素を盛り込もうとしているんだなと好感を持ちました。ただ、私の好みの問題かもしれませんが、その勢いについていけない部分もあったかな。特に、ひっかかったのは父親の事件をめぐるやりとりは、すっきり解消せず、消化不良感が残りました。

虎杖:エアギターというのは、テレビでコンテストの風景を見たことがあったけど詳しくは知らなかったので、おもしろいなと思いました。楽器を弾けなくてもできるというのがいいですね。でも、人前で演奏するには、楽器を弾くより勇気がいるかも。濱野京子作『フュージョン』(講談社)を読んだときも、ダブルダッチとか縄跳びの技を知ることができておもしろかったのを思いだしました。文章は軽くて、すらすら読めるし、登場人物もマンガチックだから、中学生は手に取りやすいかな(高校生となると、疑問だけど)。ひっかかったのは、主人公の苺の設定で、受験の失敗で暗くなってる優等生が、たとえモノローグでも、こんな風に話すかなということ。それに、成績が251人中25番で落ち込んでいるらしいけど、ここまで読んだら251人中224人の読者はカチンときて読みたくなくなるかも。お父さんが痴漢で捕まったという事件は、十代の子にとっては大変なことだと思うけど、結局やってたのか、どうなのか曖昧なまま終わりますよね。これって、絶対やってるよね。冤罪だったら、最初から猛烈に怒るだろうし、闘おうとするだろうから。作者も、そのへんのところは気になっているとみえて「このひとは、嘘をいっているかもしれない」なんて主人公に言わせている。いっそのこと、本当にやったという設定にすればおもしろい展開になったのかもしれないのに。変な言い方かもしれないけれど、作者の覚悟が足りないなって気がしました。当然いるだろう被害者(あるいは、被害を訴えた人)のことも、この主人公はまったく考えていないんだよね。実際に痴漢の被害にあった中高生が読んだら、カチンどころじゃなくて猛烈に怒るだろうなと思いました。

アカシア:私はあまりおもしろく読めませんでした。シオンの父親は韓国人なのですが、その設定がうまく生かされていませんね。ただのどうしようもない父親というだけで、それならわざわざこういう設定にする必要がなかったのでは。父親が痴漢を疑われるのですが、もし無実なら最初から家族にはっきりそう言うだろうと私は思ったんですね。最後の娘との和解の場面になって初めて言うなんて、リアリティがないように思います。また娘のほうも高一でそう父親と親しくなければ、父親が痴漢の疑いをかけられたくらいで、これまでとまったく違う人間になろうとするくらいまでぶっ飛ぶこともないように思います。いろんな意味で、文学というよりマンガのストーリーじゃないでしょうか。またエアギターやエアバンドについては、おもしろさを文章で伝えるのは難しいかもしれないですが、この作品からは私はおもしろさを感じられませんでした。出てくるキャラクターも図式的で、魅力を感じるところまで行きませんでした。

アンヌ:一度読んだだけでは、最後がどうなっているのか分からなくて読み返しました。一つ一つの場面では完結しているのだけれど、物語として納得がいくような流れ方をしていないなと思いました。ロクは魅力的だけれど、たぶん難病ものなんだろうなと予感がしてしまって、もう少し別の設定はないのかなと思います。実は裏表紙にUGの絵があったので、最後には出て来てかっこよく弾いてくれると期待していたので、出番がなくて残念でした。

コアラ:おもしろく読みました。ただ、最後のページが、何を言っているか全然分かりませんでした。最後のページの4行目、「さあ、わたしの十五秒はどこにある?」って書いてあるのですが、〈EIGHTY-FOUR〉のパフォーマンスを力いっぱいやり終えたばかりでしょう。「どこにある?」って、これから探すように書かれていて意味が分からない。最後がうまく締めくくれたら、もっと後味がよかったのにと残念でした。全体としては、表現はいろいろおもしろいと思うところがあって、表現に引っ張られて読んだ感じです。エアギターを取り上げているのも、おもしろいと思いました。高校生ならリアルギターもできる年齢ですが、あえてリアルではなくエアギターというところで、リアルな世界での姿とのギャップや、リアルでは出しづらい反抗心とかを描きたかったのかな、とも思いましたし、人目を気にしないでやりたいことをやってみろ、とか、そういうことを描きたかったのかなと思いました。シオンくんが最後にエアドラムを叩く場面は、おお、やるなあ、と思いました。エアだから表現できることって確かにありそうだなという気がします。読み終わってから、YouTubeでTHE STRYPESの〈EIGHTY-FOUR〉を聴いたんですが、この曲を知っていれば、この物語に流れるエネルギーみたいなものをもっと感じられたかなと思います。エアであれ、ロックをやる若者を描いているんですが、文体としてはロック感がなくて、優等生的という感じを受けました。そこが作品としては残念かなと思います。

まめじか:ラストの「わたしの十五秒はどこにある」は、今弾いた曲ではなく、人生の十五秒という意味では? 音楽というのは本来、ほとぼしるような感情の発露なのだということが、エアギターというものに表されていると思いました。自分の思いをぶつけて、自由に表現するというか。一度失敗したらぜんぶだめなのかと、ロクは苺に言うのですが、それは苺が志望校に落ちたことやシオンにふられたこと、父親の痴漢疑惑やUGのアルコール依存症などにつながります。価値観を押しつけ、決めつけてくる大人に対し、苺が自分にとっての真実を見つける物語ですね。ロクが病弱だという設定は、吉本ばななの『TUGUMI』(中央公論社)に重なります。病弱だけど強い魂をもった少女に男の子が思いを寄せ、それを主人公が見守る構図だなあと。

カピバラ:いろんなモヤモヤをかかえた高校生がエアバンドに出会って解放されていく感じがよかったし、高校生らしい比喩とか心の中での突っこみがおもしろいと思いました。でもこの人の描写があまりにも説明的で、新しい人物が出てくるたびに、どういう髪型でどういう服でと、あたかもマンガの絵を上から順に説明するように書かれているんですよね。新しい場所に行くたびに、場所の説明も事細かに書いてあって、ちょっと疲れると思いました。それだったらマンガを読んだほうがいいんじゃないかな。文章を読んでいろいろ想像するような楽しみっていうのがあまりないのが残念です。見た目だけを解説しなくても、雰囲気や性格は伝わると思います。それが文学なので。

雪割草:読みやすかったです。外国籍の背景やいろんな家族のかたちをとり入れていたり、消しゴムのかすに自分を例えている主人公が、エアギターを通して自分を出していく変化を描いていたりするのはいいと思いました。ただ、恋愛模様の描き方や登場人物の設定が表面的なところなど、コミックチックだと感じました。例えば、UG(ロクとシオンの祖父)はヒッピーっぽく、一風変わっていておもしろそうな人物ですが、ダメな感じにしか描けていないのが残念でした。裏表紙の絵の描かれ方も風格がなくてびっくりしました。人生の先輩の年齢の人なので、もっと深みがあって学べるところがあるはずなのに、もったいないと思いました。

ヒトデ:「音楽系」の児童文学が好きなので、今回、推薦させていただきました。「音楽」「バンド」を書いたものではあるんですけど、「エア」というのが、個人的におもしろかったです。「エア」だからこそ、現実の部分をこえて、表現することができる。その着眼点は、この作者ならではのものだと思いました。キャラクターの造形など、マンガ的ではあるんですが、こういった形だからこそ読める読者もいるんじゃないかなと。好みもあるとは思うのですが、ハマる読者はいると思います。私はハマりました(笑)。勢いが楽しいです。

ハル:最後まで一気に突っ走っていくような、疾走感が心地よい作品で、いいねぇ、青春だねぇと、勢いよく読みました。とか言いながら、対象読者よりもだいぶ歳上の私にしたら、途中「ちょっと長い……」と思ったのも正直なところです。でも、青春ってこういうことなのかもねと思います。傍から見たらダサくて全然いけてなくても、何かに熱くなれた時間が、いつか大きな財産になると思うので、読者が何かしら影響を受けて、何かに夢中になってみたい!と思えたら、それはいいことなんじゃないかなと思いました。苺のママと流歌さんがすぐに友達になっているのは意外でしたけど。

しじみ71個分:私は、ああ、青春の爆発だなと思って、その点は好もしく思って読みました。心の中に言い出せないモヤモヤがいっぱい詰まってて、いつも怒りか何かわからないものを抱えていたなぁ、とか自分の若い頃が思い出されました(笑)。制服に口紅でバツを書くなんていう気持ちはとてもよく分かりましたね。苺は受験に失敗したりとか、父親が痴漢の容疑者だったりとか、事件はあったけど割と普通で、ほかの人物は父親の国籍が違うとか、病気を抱えてるとか、それなりの背景があるのに深掘りされないので、苺の視点から見た普通の子の鬱屈は分かるんだけれども、その対比となる部分がない感じがします。エアギターもおもしろいとは思ったんですけど、もうちょっと魅力的にエアギターを書いてほしかったなぁと思いました。そこまでエアギターに入り込む必然性、どうしてエアギターじゃなきゃだめなのか、というところまでは感じませんでした。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花、くもん出版)は、ネグレクト、ヤングケアラーといった重いテーマを背景にしつつ、パンクへの愛がこれでもかというくらいに描かれていて、なぜパンクなのか、パンクでなければダメなんだという点がとても心にしみて、ぐっと入り込めたんですね。主人公が好きなものは書き込んである方が気持ちに寄り添えるし、設定に入り込めるなと感じました。それと、UGの造形がちょっと物足りないかなと。千葉にはジャガーさんという伝説のヘビメタロッカーがいて、読みながらそういうロックなおじいさんを想像していたんですけど、わりとすぐにUGがエアギターを教えてくれて軽い感じがしたし、ロッカーというよりわがままなおじいさんにしか見えなくて、物足りなさはありました。あとで、The Strypes見ましたが、ちょっと物語のエアギターと結びつかなかったな…残念…。

西山:率直に言ってしまうと、わたしはあんまり好きじゃなかったです。まず、苺が高校生に思えなくて。もちろん、1年生だし、16歳とあるので、実際のところはそんなものかもしれませんが……子どもの本の世界でこんなふうな造形は中学生として読み慣れてきたので違和感があるのかもしれませんが……。作者は、存在しないギターを弾いて見せるエアギターを、映像ではなく言葉で描写するという、「見えない」を二重にして書くこと自体がチャレンジというか、おもしろかったのではないかと勝手に思っています。でも、読者としてそれを楽しむという風にはならなかったわけです。ちょこちょこひっかかりが多くて……。たとえばp76の最後の行で、シオンくんのお父さんが離婚して出ていったことを「クラスメートだけど、そんな話きいたことなかった」とあるけれど、そりゃそうでしょと思います。どんな親しい子だってめったにそんな話はしないし、苺はクラスの中で壁を作って閉じこもっているし、なおのことそうでしょうと。お姉ちゃんに対して屈折していて内心反発していて、心中「夏みかん」と呼んでいるというのもピンとこない。憂さを晴らすためなら違う言葉じゃないかなとか。ラストは説教臭く感じてしまいました。例えば、カラコン外して「素のままの自分」という感覚は大人好みの気がしたのでした。

マリンゴ: 黒川さんの本は、取り上げられる素材がバラエティに富んでいて、次は何かと興味深く読んでいます。『奏のフォルテ』(講談社)はクラシック音楽でしたが、今回はロックですね。いろんな要素が詰め込まれていて、高校生の主人公が混乱してもがきながら、どうにか前へ進んでいく様子が描かれています。いいなと思ったフレーズはp184「百まで生きるより、ずっとかっけー十五秒もあるよ」です。ただ、ストーリーとディテールにそれぞれ気になるところがありました。まずストーリーについてです。父が「自分はやってない」と最後の最後で語るのですが、本当にやってなかったら、引きこもったりとか帰宅したときに謝ったりだとか、そういう言動にならないのではないでしょうか。これは主人公と父が理解し合うシーンを最後に持ってきたいから、敢えて事実を伏せて引っ張っているように思えるんですけども、そのせいで逆にリアリティから離れた気がします。また、ディテールですが、都会の女子高生の一人称のわりに、そういう子のボキャブラリーとは思えない比喩が多くて気になりました。たとえば、p10の「水田の稲の高さくらいは跳んだだろう」とありますが、都会暮らしの女子高生がぱっと思いつく言葉として、「水田の稲」は違和感がありました。もう一つ挙げるなら、p28の「おでんの鮮度でたとえるなら、三日目夕方のはんぺんだ」。16歳の主人公がおでんを食べるとすると、主に家庭でだと思うのですが、お母さんはp104で「潔癖性の気のある」と書かれていて、おでんを三日出すキャラクターとは違いそうです。そうすると、三日目夕方のはんぺんをどこで見たのかな、と。見たことないのであれば、大人ならともかく女子高生が「イメージ」だけでこういう比喩を出すのは少し不自然かなと思いました。三人称で書かれていれば、さらりと読めた気がします。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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岩瀬成子『おとうさんのかお』表紙

おとうさんのかお

マリンゴ: 自分の子どもの頃の記憶が引っ張り出されるような作品でした。小さいことの連続なのですが、環境になじめなかったり、期待して裏切られた気になったり、想像をふくらませて変なことやったり、年の近い子と、いわゆる仲良しこよしじゃないけれど、独特の関係を持ったり、そんなことを思い出させてくれるような、生活感のある物語だと思いました。小学生の子が「あのねあのね」と言ってきて、その話を聞いているような感覚ですね。ストーリーはじきに忘れてしまうだろうけれど、また読み返したくなる気がしています。

ニャニャンガ:ほんものの小学3年生の子どもが書いた作文のように感じながら読みました。主人公の利里の視点で描かれているので、そのまま受け止めようと思ったものの、雪ちゃんの友だちが石で、その石に書いたのがマジックではなく絵の具でなければならない理由を知りたかったです。また、母子家庭という設定から背景を考えていたのですが、よい友だちとして終わったので、勘ぐりすぎでした。余談ですが、娘(成人です)に概要を伝えて主人公の年齢を聞いたところ小学3年生と答えたので、中学年のありようを的確にとらえる作者はすごいと思いました。

カピバラ:小3から小4くらいの女子を主人公にしているのがこのところあまりなかったのでそこがまずおもしろかったです。この年代の女子は、自分で結構いろんなことを考える力があるし、大人の言動に敏感なところがありますよね。お父さんは、突然やってきた娘を楽しませようと、無理して仕事を調整して、アスレチック公園や花見に連れていこうとしたり、本を買ってくれたりするけれど、利里はお父さんの思い通りには楽しめないんですね。それどころかお父さんときたら、留守中に部屋を片づけてあげたのに気づかないし、「本はね、さいごまで読まなきゃだめだよ。集中力と根気をやしなうことはだいじだよ」(p44)とか、「おいおい、きょうだいなかよくしなきゃだめだよ」(p44)、「花を見たらきれいだなあって思える心がそだってくれればなって、おとうさんは思うんだよ」(p67)とか、つまらないことしか言わず、利理の気持ちとは随分ずれているのが、よくありそうな感じで、おもしろいと思いました。公園で偶然出会った雪は石に顔を書いて友だちにしている変わった子ですが、利里とはすぐに仲良くなります。随分大人っぽい考え方もするのに、石の人形が本当に生きているみたいに感じて夢中で遊ぶところは、とても子どもらしい。小3でも、まだごっこ遊びを真剣にやったりするので、そういったギャップもよく描けています。ナイーブで傷つきやすいところもあるけれど、ちょっとしたことで気分が変わり、楽しく過ごすこともできる、そんな年頃の主人公が生き生きと感じられました。特に大きな出来事もないし、結末らしい結末もないのですが、日常の細かいところを淡々と描いて共感を得るタイプの作品で、岩瀬さんらしい世界観だと思いました。

雪割草:お父さんが前半うるさくて主人公の気持ちに共感でき、お父さんの描き方がある意味上手だと思いました。お父さんの睨んだような顔を描き直しておどけた感じにすると、お父さんが後半良いところもある感じがしてきて、切り返しがうまいなとも思いました。こういうちょっとしたことが日常に影響を与えたり、自分が変わることで何かできたりすることはあるのだろうなと改めて思いました。

さららん:利里の気持ちになりきって読み終えました。すこーしいろんなことがわかってきて、大人のイヤなところが気になる子どもの目線から見えるお父さんを、実に的確に描いています。たとえば単身赴任の自分の家に泊まりにきた利里に、お父さんこう言います。「・・・会社を休まなきゃいけなくなっただろ。それは会社のほかの人にめいわくをかけることにもなるんだよ。そういうことも、だんだんわかるようにならなきゃだめだ」(p46-47)。利里が泊まることを許した時点で、お父さんは腹をくくらなきゃいけないのに・・・子どもへの甘えを感じます。「利里はこうならなくちゃだめだ」と言える親の立場を使って、子どもに理解を強要しているようです。そんなおかしなことをしている大人に、利里は「しーらない」といえる子で、ほんとによかった。利里は正しい、と思いました。大人って変だな、と思いはじめた利里と同じ世代の読者は、うんうん!と思うでしょう。大人と子どもが少し視点を変えあうことで、お互いが違って見える。そんなテーマと、雪ちゃんという友だちの存在もしっかり結びついています。子育てに関して近視眼的だったお父さんが、かつて自分の言った言葉を、利里の口から聞くことで、自分が何を考えていたかふたたび気づかされる、という結末も、大人と子どもの関係の相互性がくっきり浮かび上がっていて、いいなと思いました。

ネズミ:おもしろかったです。子どものころ私は、日本の児童文学を読むと、「うそ」「こんな楽しいことばかりのわけがない」と思うことが多かったのですが、この作品ならリアルに感じただろうと思います。カバー袖に、(お父さんが)「やたらと口うるさくて、うんざりしてくる」と書いているのですが、本文で利里は、肩に手をのせられたとき「わたしはその手をはらいのけました」「ふーんだ、とわたしは思いました」「あーあ、と思いました」などと言うだけで、「うんざり」とは言っていないんですね。あいまいなまま描いてあるのを、こんなふうにまとめるのはどうかなと思いました。何もかもいいことばかりじゃないけれど家族は家族でいいこともある、と自然に思わせてくれる作品で、いいなあと思いました。

虎杖:岩瀬さんの作品はとても好きなのですが、描くのに難しい年頃の子どもたちのことを、こんなふうに生き生きと、リアルに描けるなんてすばらしいと思いました。単にあたたかいとか、ほのぼのとした物語というのではなく、岩瀬さんの作品には、なんというか頭の上がすうすうしているような寂しさというか、奥深いものを感じています。特に利里ちゃんと雪ちゃんが公園で初めて出会うときの会話がいいですね。子どもっぽいところが十分に残っているのに、自分ではまったくそう思っていない年頃の理屈とか感情がよく描かれていると思いました。雪ちゃんが石ころを集めて、友だちにしているっていうのも。子どもに石ころは付き物って、私は思っているんだけど! お父さんについては、私はそれほど嫌な感じは持ちませんでした。いいお父さんになりたくって、悪戦苦闘しているっていうか、じたばたしているっていうか。最後に、自分が言ったのに忘れていた言葉を娘に言われて、ふたりの気持ちが通じ合う場面もいいですね。「子どもは大人の父である」という、ワーズワースの詩を思いだしました。

まめじか:親という存在を1歩離れたところでとらえはじめるのが、10歳くらいなのではないかと思います。そうしたことを考えると、父親の絵をなかなかうまく描けず、その後部屋に貼った絵がにらんでいるように感じるのは象徴的だと思いました。この本の主人公は父親と離れて暮らしていることもあり、なんとなくお互いぎこちなくなってしまっているのですが、そんな2人があらためて関係を結びなおす過程がたくみに描かれています。利里が部屋を掃除したことには気づかないくせに、「利里にはよく気がつく人になってもらいたい」と言ったり、かわいらしい絵本を押しつけてきたりする父親には、大人の身勝手さがよく表れています。この子は昔、自転車の練習中に「遠くを見ろ」とお父さんから言われたことをふと思い出します。そんなふうに、大人が子どもを支えるようなことを何気なく言って、それがずっと子どもの頭の片隅に残っているのもリアリティがあると思いました。石に顔を描くのはユニークでいいですねえ。石の友だちをつくるのも、父親の絵を描くのも、自分が感じたこと、考えたことを大切にすることでは。そして利里はその価値を知っていくのですよね。

アンヌ:内容紹介に「不器用な父と娘の愛情物語」と書いてあったんですが、どうも父親の勝手な思い入れとか押し付けとかが気になってしまいました。お兄ちゃんが好きそうなアスレチックに連れて行こうとしたり、女の子はこういうものと思い込んでいるような本を買ったり、洗濯物を入れるくらい気を利かしてほしいと言ったり、一緒に暮らしているのに娘のことを全然見ていない。あげくに、桜の花の美しさのわかる人間になれとか。ここまで書かれると最後の「どこまでも考えつづける」とかの長いセリフを素直に受け取ることはできなくなってしまいます。主人公の利里の話はおもしろいのになあと残念に思いました。

ハリネズミ:岩瀬さんの本はどれも好きで、日本からの今の国際アンデルセン賞候補にもなっておいでなのですが、この本、外国語に翻訳するの、きっと難しいですね。この子の心情にぴったり寄り添って訳していくのには、相当な腕前が必要かと思います。それに、物語の焦点がどこにあるのかも、わかりにくいし。岩瀬さんの作品は1+1=2といった式からはずれたりこぼれたりする繊細な部分がおもしろいと思うので。お父さんと娘の利里ちゃんの間には気持ちの行き違いがあって、それが徐々にほどけていく様子が描かれています。昔、自転車の乗り方を教えてくれたときのお父さんの言葉が、ほどけていくきっかけになるんですけど、「目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ」とか、「利里、遠くまで行くんだよ」「おとうさんも、遠くまで行きたいと思うよ」なんていう言葉ですね。利里がそれを思い出し、お父さんもその時の気持ちを思い出して、ああ、忘れてたなあと思ってそこから関係が変わっていく。ここは、うまいと思ったし、いいなあと思いました。ただ、p92あたりで、お父さんが道徳の教科書のようなことを言っているのは、どうなんでしょうか? 教育ママらしい母親をもつ雪ちゃんは、将来何になりたいかと聞かれて、「郵便局強盗」と言います。雪ちゃんが石をイマジナリーフレンドにして遊んでいるのも、即物的な世界を押しつけてくる母親に無意識のうちに抵抗しているのかもしれないですね。それと、オビに「近づきすぎると見えなくなる」って書いてあるんですけど、これはいいんでしょうか? 本質をとりこぼして的を射てないような気がしますが。あと、表紙ももう少しなんとかならなかったでしょうか?

ハル:お父さんの長台詞は、もしかしたらお父さんが、ここでもズレてる、ってことを表しているのかなと思いました(笑)。素直に読むべきか、おもしろがってしまっていいのか、ちょっと迷います。

まめじか:やっぱりちょっと口うるさくて、言うことが教訓くさい。急に変わらないところもリアルだなと。

ハル:はじめて岩瀬成子さんの作品を読んだときは、好きだなぁと思いながら、でも、読者は子どもじゃなくて、児童文学が好きな大人かな? なんて思っていました。もしその時の私がこの本のオビ文を書いたら、こういう感じになっていたと思います。でも、岩瀬さんの作品は、読めば読むほど、主人公と同じ年齢くらいの小さい人たちにこそ、ぜひ読んでほしいと思うようになりました。今回の『おとうさんのかお』も、わかるー!!! というくらい、思い出の中の自分との共感が半端ないです。作者はどうしてこんなに鮮明に覚えているの⁉ と驚いてしまうくらいです。このお父さんと利里のすれ違い、お父さんにそんなこと言ってほしいんじゃないんだよな、とか、そうじゃないんだけどなっていらいらする気持ちが、私もそうだった‼ と、ほんとはそんな経験なんてなかったとしても錯覚してしまうほどリアルに響きます。お父さんと娘なんて、もうまったくすれ違っているようなんだけど、ラストで、お父さんは自分が過去に娘に言った言葉に、自分ではげまされて、ふっと肩の力がぬける。娘もお父さんの言葉やそのときの思い出にふっと心がやわらぐ。とてもいいラストですね。何が大きく変わるわけではないけれど、家族ってこんなふうに近づいたり離れたりしながら、子どもも大人も成長していくんだなぁと思いました。

コアラ:お父さんと利里の会話が、大人と子どもの立場を本当によく表しているなあと、どちらの気持ちもよく分かって、おもしろかったです。皆さんもおっしゃっていましたが、p42からの「しーらない」の章は、お父さんは大人の立場でものを言っているし、利里は子どもの立場で考えていて、それがよく表れていました。私が特に好きだったのは、p46の利里の「おにいちゃんがわるいの」というセリブでした。私には姉がいて、よく「おねえちゃんががわるいの」と言っていたので、利里にすごく共感しました。あと、p90あたりもいいなと思った場面です。子どもは、親の言ったことを後々までよく覚えていて、親にそれを伝えることで、親も昔の自分を思い出すことができる。そういうのっていいなと思いました。ただ、この本で一番気になったのは、カギカッコが字下げになっていないことです。字下げされていない、ということでは統一されているんですが、たとえば、p9の1行アキの後の、「木にのぼっちゃいけないのよ」とか「ほら、ここに書いてあるでしょ」というところのカギカッコが字下げされていなくて、とても違和感がありました。字下げしていないのはどうしてなのかなと気になりました。

ルパン:私はこの本は、あんまり印象に残らなかったんです。岩瀬成子さんに期待しすぎたのかもしれないし、大人目線で読んでしまったからかもしれません。はじめ、雪ちゃんがリアルじゃないって思っていました。おばけか宇宙人か何か異世界の子だって。ふつうに隣の子でしたね。私も石ではないけれど何かに名まえつけてかわいがってたり、心の中で自転車とかと話したりしていましたが、そのことを人には言わなかったなあ。雪ちゃんと利里は初対面の日からうまく共有できてよかったな、と思いました。

しじみ71個分:読み終わって、本当に「岩瀬さんになりたい!」って思いました。この家族の中には、誰も変わった人がいなくて、お父さんが単身赴任しているっていう事情だけで、どうしてこんな物語を書けるんだろうって、もう本当に衝撃です。お父さんが単身赴任で離れて暮らしていることから、お父さんとほかの家族との間にちょっとしたずれが生じたり、かみあわなくなったりする。子どもの期待と現実のずれが生じてしまうのだけれど、同時に、自転車の練習のエピソードを思い出して「遠くを見る」ことについて語りあったり、ちょっとした宝物のような瞬間も見つけたり。だけど、きっとそれもまた、日常に埋もれたり、見えなくなったりするのだろう、という家族の間の機微が、子どもの気持ちに立って、子どもの視点から非常にリアルに書けているのがすごいです。3月のJBBYの講演のときに「子どものときのことをおぼえている」って岩瀬さんがおっしゃっていたのが印象的でしたが、それがこんな表現になるんだなぁと改めて思い知ったというか、衝撃的でした。最後の最後で「おとうさんのところに行ってよかったなと思いました」なんて、本当に絵日記の終わりみたいにサクッと落としちゃうんだというのも「ヤラレタ!」という感じでした。本当におもしろかったです。

エーデルワイス:単身赴任中の普通のお父さんと娘の一コマ。大きな事件はないけれどその時々で思うこと、モヤモヤを描いているようです。幼い子どもでも普段から家族以外の誰かに心のうちを話せたらいいと思います。私の文庫に1年生から来ている女の子がいて、よくいろんなことを話していましたが4年生なってあまり話さなくなりました。いろいろな日常があって、思うことを話して、そして少しずつ大人になっていくのかな・・・と思いました。

ヒトデ:子どもの心情の描き方の巧みさが、さすが岩瀬さん、というべき作品でした。子どものころに感じたいろいろな心情、おとなになるにつれて忘れてしまうあれこれを、思い出してしまうような、そんな作品でした。お父さんが、どうしても好きになれないキャラクターだったので、最後の「自転車のエピソード」で、いい感じにまとめなくてもいいのにな・・・という気がしました。表紙は、これがベストだったのかは、やや疑問です。

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鏡文字(メール参加):岩瀬さんの作品を読んでいつもすごいなと思うのは、語りの目の位置です。作家というのはおおむね大人なので、どうしても目の位置が上にある状態で書いていると感じる(善し悪しではなく)のですが、岩瀬さんは子どもとフラットだな、と感じることが多いです。この作品もそうで、なかなかこういうふうには書けないと思います。それはキャラ設定(こういう言い方が岩瀬作品には馴染まないのですが)でもそうで、利里のある意味利己的な感じがおもしろかったです。少しの変化は描かれているのですが、家族との間でも疎通が深まったりしているわけでもないところがリアルでした。私の感覚としては、もうすぐ4年生という年齢の割に、少女たちは幼く感じました。(おまけ)挿絵で見る利里の絵は初めからうまいなあと思いました(画家さんが描いているからある意味当たり前ですが…)

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『スーパー・ノヴァ』表紙

スーパー・ノヴァ

まめじか:本当に好きな本です。いい本をいい訳で読める幸せを感じました。周囲からなかなか理解されない状況が、酸素がなくて息苦しく、静謐で孤独な宇宙空間に重ねられています。里親の家から脱出したい気持ちがチャレンジャー号の打ち上げにつなげられていたり、ノヴァが母親のもとから連れ出されるとき心の中でカウントダウンをしたり、そうした描写もうまいな、と。この本の大きな魅力の1つは、一貫してノヴァの視点で描かれていることです。感覚が鋭いノヴァが抱えている生きづらさ、妙を得たあだ名をつけるような聡明さも十分に伝わってきました。ブリジットがいない中で自分は楽しいと思っていいのか、新しい家族と幸せになっていいのか悩むなど、ノヴァが胸の内で感じていることには普遍性があり、多くの人が共感できるのでは。1か所、p77の「色のときとおなじことをするから」で、「色のとき」というのがなにを指しているのか、わかりませんでした。

虎杖:とてもおもしろく読みました。三人称とモノローグが交互に出てくる構成が、秀逸ですね。それにしても、これだけの知性の持ち主である主人公が、自分の思いを周囲に伝えられない悲しさと悔しさは、想像を絶すると思いました。帰ってこないブリジットと、宇宙船の打ち上げの日が刻々と迫るスリリングな展開も素晴らしい。チャレンジャー号のことは、アメリカの子どもたちはよく知っていると思うけれど、日本の読者はどんなふうに読んでいくのか、ぜひとも知りたいと思いました。表紙は、私は好きです。違う表紙だったら、本全体の印象がずいぶん違ってくるでしょうね。

ネズミ:とてもおもしろかったです。虎杖さんがおっしゃるように、三人称とモノローグを組み合わせた構成がみごとだと思いました。モノローグの部分が、実は落書きのようにしか見えない字で書かれているというのが途中でわかって、衝撃を受けました。ほかの人には見えない豊かな内面の見せ方がうまい。一方で、読者を選ぶというのか、ある程度読書慣れしている子どもでないと読みにくいかなという気もしました。表紙のかわいらしさにひかれて手にとるとギャップがありそう。アメリカの子どもにとっては、宇宙開発とかチャレンジャーなどに親近感を持つのかもしれませんが、日本の子どもだとそれほどでもないのかなというのもあって、間に立つ図書館員などがうまく手渡してほしいです。

さららん:冒頭からブリジットの不在を知らされて、なにか大変なことが起きているのがわかりましたが、ノヴァの里親のあたたかさが救いとなり、安心して読み進められました。チャレンジャーのカウントダウンへまっすぐに向かう現実の時間と、三人称の過去の描写、ノヴァの手紙を通して思い出を語る部分がうまく絡まりあっているのは、回想への入り方が巧みだからでしょう。ノヴァは「考える」子どもで、手紙には整理された文章が書かれています。けれども、ほかの人の目にはただの落書きにしか見えない、という状況はすごくおもしろいフィクションの作り方ですが、理解するには相当の読解力が必要です。p254~256はゴシック体なので、ブリジットへの手紙という前提ですが、実際には現実の緊迫する時間を書いているので、ここは普通の書体で地の文にしてもよかったのでは、と思いました。

雪割草:とてもいい作品だなと思いました。言葉によらないコミュニケーションの深みを感じることができました。「ムン」という言葉1つをとってもいろんな意味があり、この言葉の響きも気に入ってしまいました。ノヴァというキャラクターも、ユーモアがあり想像力もあり、親しみがもてました。それから作者のモチーフの使い方も上手だと思いました。宇宙への1歩と里親からの脱出、チェレンジャーの事故とブリジットの事故、それでも諦めない宇宙計画と生き続けるノヴァ。生還し、スーパー・ノヴァからノヴァとして生き続ける描き方も巧みだと思いました。少し気になった点としては、後半の展開が早く感じられ、前半とテンポに差があるかなというのと、原書のタイトルがデヴィット・ボウイの歌詞から引用していると思うのですが、‘planet earth is blue’の後に続く言葉の、人間の限界を示唆する含みが、タイトルを変えることで消えてしまわないかということです。答えは出ていないのですが考えています。

カピバラ:同じ訳者による『ピーティ』(ベン・マイケルセン作 鈴木出版)を思い出しました。脳性麻痺で重度の知的障碍と他者から思われている主人公の豊かな内面世界を描いた作品です。『スーパー・ノヴァ』も、ノヴァの一人称部分を読むことによって、自閉症といわれる人たちがどんな世界にいるのかについて理解を深められる本でした。言葉がわからないと思われて、簡単な言葉をゆっくり話しかけられたり、幼児向けの絵本を使われたりすることの辛さ。字が読めるし、書けるのに、理解されない辛さ。パニックを起こすことを、フランシーンは「メルトダウン」と表現していますが、どうしてそういう状態になるのか、ノヴァの一人称部分を読むとよくわかりました。父も母も亡くし、ついには最愛の姉まで亡くしたことが最後にわかるのはとても辛いですが、里親のビリーとフランシーンの愛情のこもった態度に救われます。特に娘のジョーニーは、今後ノヴァにとってブリジットの穴を埋めてくれる存在になるだろうという希望がもててホッとしました。またこの作品はやはり時代性が色濃く、チャレンジャーの打ち上げや、デビット・ボウイの歌や、ドクター・スースの絵本など、80年代の雰囲気が出ています。障碍者への理解やソーシャルワーカーの姿勢が、今から見るとずいぶん遅れているのもこの時代だからこそと思います。その点、今の日本の子どもたちには最初のうちピンとこないのではないかなと、ちょっと心配しました。タイトルと表紙の絵からイメージしていたのとは全く違う内容でした。

ニャニャンガ:自閉症の人たちのことが自然にわかる良本だと思います。ノヴァをいとおしく感じ、感情移入して読みました。里親家族がいい人たちで、本当によかったです。スペースシャトル・チャレンジャー号の発射のカウントダウンとともに、ブリジットがノヴァの前から姿を消した理由にたどりつくまでを、読者が予想しながら読み進めるのがつらいです。私はあまりにつらくて結末を先に読んでしまいました。子どもがどのように読むのか知りたいです。とくに好きな場面は、p240から241にかけての、ノヴァが自分から同じクラスのマーゴットの手をにぎる場面で、ノヴァがさらにいとおしくなりました。

マリンゴ: 障害をもつ子のお話は、何かができるようになっていく、あるいはできることを周りが気づいていくという物語が多いと思います。でも、この作品は真逆で、何かを失うことを自覚する場面がクライマックスになっています。そのため、とてもひりひりするけれど、引き込まれました。チャレンジャーの事故の当日、主人公が「姉ブリジットはもういない」と気づく、という構成なのだろうと予想はできます。でも、打ち上げまでのカウントダウン、という形でストーリーが進んでいくので、緊張感がありました。日本の小学生の場合、チャレンジャーのことを知らない子も多いですよね。そうすると、事故の描写のところで、え?と驚いて、史実を調べたりするのかな、と思いました。

コアラ:私は大泣きしました。p179の、ノヴァがブリジットのカードを胸に抱いてふるえるところとか、ノヴァは自分の感情を言葉にして出すことができないから、体にあらわれるんですよね。読んでいて本当に胸にせまってきて、ブリジットがいなくなってノヴァがどんなにつらいだろうと、涙が止まりませんでした。ノヴァがブリジットの十字架のところに行く場面のp286も、涙なしでは読めませんでした。この本を読み始めるときに、カバーの袖の部分を読んだのですが、「スペースシャトル・チャレンジャーの打ち上げを心待ちにしていた」とあって、私も皆さんと同じように、チャレンジャーの爆発事故のことを覚えていたので、この本のどこかで悲劇が起こる、ということが初めから分かっていた状態で、読んでいてずっと気持ちが重かったんです。それに、タイトルが「スーパー・ノヴァ」なので、この子が超新星のように爆発するんじゃないかと、本当に心配していたのですが、この子は生き延びて、いい家族にも巡り合ったので、それだけはホッとしました。チャレンジャーの事故を知らない今の子どもが読んだら、また別の読み方をするかもしれません。あとがきを読むと、著者はアスペルガー症候群かもしれないと診断されたということですが、ノヴァの圧倒的な存在感というかリアリティは、当事者としての感覚からくるのかもしれないと思いました。自閉症スペクトラム障碍のことを知る上でも、いろんな人に読んでもらいたいです。

ハル:この本の好きなところ、心に残ったところはたくさんありますが、ひとつは表現力です。ノヴァが初めてプラネタリウムを見たときの感動や、初めて想像の宇宙に飛び出した、その平穏な世界、安心感が、真正面から迫ってくる感じ。ノヴァの空想の宇宙の真ん中に自分がいるような、表現がサラウンドで迫ってくるような感覚がありました。これは、原文はもちろん、きっと翻訳の力もとても大きいのだと思います。そして、自閉症(だと思いますが)や障碍のある子のことをもっと知りたいと思わせてくれるところも良い点ですが、私にとっては、里親や養子について考えさせてくれたという点も大きかったです。p108のラスト、ノヴァが姉のブリジットから自分の名前の由来を聞いた場面ですが、「自分がスーパーなんだって知ってからは、もうあんまりこわいものはなかった」という一文が心に残りました。障碍のありなしもどんな家庭に生まれたかも関係なく、人生は何があるかわかりません。突然ひとりぼっちになるかもしれない。けれども、特に子どものころに、特定の誰かに守られ、愛されていた記憶、自分が誰かのスーパーだった記憶があるということは、きっと大きな助けになるんだと思いました。もちろん、施設に携わる方たちは精一杯に子どもたちを見守っているのだと思いますが、やはり、子どもには愛情のある家庭が必要なんだと思うようになりました。

ハリネズミ:著者が自分も広範で多様な感覚障碍と言われていたという体験に重ねて書いているせいか、リアルで、ノヴァに感情移入して読めました。日本でも、今は施設より里親を奨励するようになっていると聞いています。この物語に登場する里親のフランシーンとビリーは白人と黒人のカップルですが、そういう設定もいいですし、その娘のジョーニーもノヴァをあたたかく受け容れてくれる。真剣に理解しようとしてくれる人が少数いるだけでも、ノヴァのような子どもが強くなれるということを示しているのだと思いました。お姉さんのブリジットは、学校の成績もよく、ノヴァやお母さんの世話をし、まわりの偏見と闘い、しかも妹の分まで背負って里親との諍いや、里親への期待や、失望にもてあそばれてきた存在です。それなのに、ろくでなしのボーイフレンドにふらふらと休息の場所を求めてしまったのですが、それはそれでリアルなのかもしれません。先ほどチャレンジャー事故を知らない日本の子どもにとってどうなのか、という疑問も出ましたが、私は、知らなくても読めるのではないかと思います。ノヴァがいろいろな人からお姉さんは亡くなったと聞いても、どうしても現実のこととして向き合うことができない。でも、ノヴァもチャレンジャー事故によって「死」と直面し、人は死ぬ存在だということを受け容れられるようになっていくというストーリーなので、爆発事故をあらかじめ知らなくても、物語にはついていけるんじゃないでしょうか。また先ほどから出ていますが、ノヴァが、スーパーなんだと聞かされて育ったのは自信をもつうえで大きいと思います。でもスーパー・ノヴァだったら超新星爆発を起こして終わるのですが、最後のところで、自分はスーパー・ノヴァじゃなくてノヴァだ、というふうに思うところがあります。そう思って生きのびていくという点も、とてもいいと思いました。それと、チャレンジャーの事故で亡くなった教師の地元では、子どもたちもみんな学校のテレビでリアルタイムの実況を見ていたんだとわかって、子どもたちのショックの大きさが並大抵ではなかったのだと知りました。

アンヌ:この本を読む直前に、脳梗塞で失語症にかかった人の記事を週刊誌で読んでいたので、相手が言う言葉も自分で話したい言葉もわかっているのに、それを話せないノヴァのもどかしさやつらさが、いつ大人の自分にも起こるかもしれなという思いがしてドキドキしながら読みました。ブリジットへの手紙で、これまでの経過とブリジットがいない絶望感がわかっていきます。それでも、特別支援学級での友人や高校生のボランティアとのコミュニュケーションが少しずつ取れていき、最後には、里親にも文字が書けることにも気づいてもらえるようになる。よかったとホッとしたところで、チャレンジャー号の爆発事故が起こり、ブリジットの事故の記憶が同時に蘇るところは圧巻でした。それでも、爆発後も生き残る白色矮星ノヴァという終わり方は静かで詩的で、ノヴァという一人の人間の力を感じられて読み終えることができました。

ヒトデ:はじめは、どうしてデヴィッド・ボウイのこの曲を使ったのかわからなかったのですが、読み進めていくうちに、曲のもつ「よるべなさ」のようなものが、ノヴァの状況とリンクしてきて、物語を象徴する1曲として使われることに、説得力を感じました。物語の最後に光の見える、巧みな作品だと思いました。「チャレンジャー」のエピソードは、おとなの読者でしたら、知っている話ですが、子どもたちは、これをどう読んでいくのか、気になりました。描かれているモチーフが、どれも好きな作品でした。

エーデルワイス:はじめ、映画の「スーパーノヴァ」と同じ話かと思いましたが違いました。表紙の絵と内容がこれまた違いました。読み進めていくうち主人公のノヴァの気持ちがズンズン伝わってきて、息苦しくなりました。最近認知症本人の視点から描いた「ファーザー」を観ましたが、発達障碍をもつ本人から見た世界を描いたのだとすると、映画のシナリオのように読めばよいのかと思いました。ラストはデビッド・ボウイの歌で締めくくられたなら決定的。ノヴァを母親のように守り育てたお姉さんにとても惹かれます。

しじみ71個分:今日は奇しくもアポロの月面着陸の日でしたね。図書館関係でも、欧米では自閉症への意識が高いです。自閉症の子ども専用の図書館利用日を設けるなど、さまざまな自閉症の子たちと本を結ぶ活動をしています。イギリスの司書さんが東田直樹の『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール出版部, 2007)を挙げて自閉症の人の内面がよくわかる本として紹介していたことも印象的でした。それくらい、自閉症の人たちの内面を言語化するのは非常に難しいことなのだろうと思います。それをものすごく丁寧に描きこんでいるところに惹かれました。話せないために重い知的障害があると思われている主人公の葛藤から、おはなし会で、特別支援学校関係者から、2歳くらいの知能だから赤ちゃん絵本を読んでください、と言われた事例を思い出し、ますます悩ましさが深まりました。外見と内面のギャップを周囲の人がどう理解するのか・・・。とても素晴らしい視点を与えてくれた本でした。1つ気になったのは、こういった自閉症やアスペルガー、ディスレクシアなど障碍のある子どもを主人公とする物語の傾向として、外見からは分かりにくかったり、コミュニケーションが取れなかったりするけれど、みんないつも内面が賢くて、理解のある大人の助けを得てさまざまな問題を乗り越えていくというパターンが多いことです。自閉症の場合、重度の知的障碍がある場合ももちろんあると思うし、実際はいろんな子たちがいると思うので、そこはちょっと気になるところです。スーパー・ノヴァについては、ネットの辞書で、大質量の恒星が一生の最後に一気に収縮して大爆発を起こす場合と、主星が伴星から移ってきったガスの重さに耐え切れずに大爆発を起こす場合があると書かれていましたが、ノヴァが影のようにいつも一緒で、頑張り続けたブリジットがはじけてしまい、結果事故死するというストーリーなので、スーパー・ノヴァはブリジット、ノヴァは生き続けるノヴァを象徴しているのかなと思いました。また、ちょっといい加減な引用ですが、スーパー・ノヴァは、爆発した後に水素より重い元素を放出して、それが新しい星の元になるというようなネットの説明もあり、ブリジットの事故がきっかけで、ノヴァが里親と出会い、新しい家族が始まるという結末もスーパー・ノヴァはブリジットを象徴しているようです。通奏低音になっているデヴィッド・ボウイのSpace Oddityの歌詞も不穏じゃないですか。これもブリジットを象徴しているのかなぁとか思ったり。いろいろ考えさせられる要素の多い本でした。

ハリネズミ:ノヴァのお母さんはどうなっているんでしたっけ? 亡くなっているのかもしれないし、施設に入っているのかもしれない。書いてないので、子どもの読者は気になるんじゃないでしょうか。

まめじか:施設にいたら「いたむ」という言葉は使わないから、亡くなっているんじゃないかな。

ハル:私は、お母さんは亡くなっていると思っていました。p85の最後から始まる場面で、ブリジットは里親から「養子にならないか」と言われることを期待しています。もしお母さんが生きていたら、里親と「ほんものの家族」になりたいとは思わなそうですし、アメリカの法律はわかりませんが、お母さんが2人を手放さないんじゃないかなと思います。

ハリネズミ:ああ、たしかに。なるほど。

ニャニャンガ:ところで、この作品は謝辞が長いですが、基本的にすべて訳さないといけないのでしょうか? 大量の個人名は、日本の読者に必要な情報なのかなと思うことがあります。今、訳している作品も謝辞に人名が多いので伺いたくなりました。

ハリネズミ:本によって違うと思います。省いてもいいと著者や原著出版社が言う場合もあるし、契約によってはすべて載せなければいけない場合もあります。

ルパン(遅れて参加):ブリジットがかわいそうでなりませんでした。ノヴァのよき理解者で、優しい心の持ち主なのに。生まれてきた親によって人生がこんなに大きく変わってしまうなんて。ノヴァにはブリジットの分も幸せになってもらいたいです。ブリジットもいっしょにビリーとフランシーンの子どもになれたらよかったのに。「ときには、約束をまもれないこともある」「ときには、宇宙飛行士も星に手がとどかないこともある」ということばに涙が出ました。子どもがみな幸せに過ごせる世界にしていかないと、と思いました。

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『イルカと少年の歌』表紙

イルカと少年の歌〜海を守りたい

マリンゴ: プラスチックの海洋ゴミの問題という、堅いテーマを、イルカの妖精にまつわるアイデアでくるんでいます。その世界観に、力技で読者を引っぱり込んでいる気もしますが、学校の仲間がフィンの変貌ぶりに驚く場面に心情を重ねられるので、違和感なく読めました。気になるのは、イルカや海中の描写が最低限しかないことですね。私の友人にドルフィンスイムをやる人がいるので、動画などいろいろ見せてもらったことがあります。その動画の迫力を思うと、イルカが目の前に迫ってきたり、仲間として一緒に泳いだりするリアルさに欠けている気がします。さらに、なぜ1頭のイルカとだけ友達になるのかもよくわかりませんでした。スーパーのイベントで風船をいよいよ飛ばす、という場面で、南京錠という小道具が生きてくるのは意外でした。最後の最後で偶然によって解決するというのは、若干肩透かしをくらった感じになりましたが、ステレオタイプな展開になるよりも、いっそいいのかな……とも考えました。

ニャニャンガ:テーマありきという印象を持ってしまったので、読者が純粋に物語を楽しめるのかなと思いました。それでも後半、風船が飛ばされるのを子どもたちがどうやって阻止するのかが気になり、読むスピードが増しました。挿絵のピーター・ベイリーの絵が昔話風なのに対し、現代が舞台の物語でファンタジー要素がからむ物語とのアンバランスさが残念でした。自戒を込めて訳文に対してコメントしますと……p32のほか全体的に読点が多いこと、主人公のお父さんの表記が段落内で不統一なのが気になりました。初出はミスター・マクフィー、ほかの場面ではフィンのお父さん、フィン目線ならお父さんなどにしてはと思います。p105で、フィンの視点で語られている段落内で「~イルカのなだめ方を心得ているらしい。やさしく~」が第三者の視点なので混乱しました。

雪割草:エディンバラにいた時にスカイ島に行ったことがあり、こじんまりした北の離島の雰囲気が似ていて懐かしくなりました。子どもたちが自ら行動して、偶然もあるけれどやり遂げるまでを描いているのはよいと思いました。でも、後半に出てくる二人組の男やサッカー選手など、登場人物のセリフがプツプツ切れていたり、不自然に感じるところが多々ありました。言葉のせいか、絵のせいか、作品の雰囲気がひと昔前の感じがしました。そして、セルキー伝説をもとにしているとあとがきにありましたが、それならばそうした要素をもっと取り入れるべきだと思いました。

アンヌ:まず、この副題は何だろう?と思いました。いきなり主題を手渡された感じです。最初のうちは、『月のケーキ』(ジョーン・エイキン著 三辺 律子訳 東京創元社刊)を思い出すようなさびれた漁村が挿絵でも描かれていて、ファンタジーの舞台として魅力を感じながら冒頭の詩に思いをはせていたのですが、どうも違ったようです。なんだか、ファンタジーが道具として利用されているような気がする物語でした。出てくる子どもたちは現代の子どもたちで、パソコンやスマホを使い、サッカー選手がスターで、環境問題も知っている。だから、このフィンの変身が全然説得力がない。いじめにあって海に落とされて、泳いでみたら泳げた。気が付いたら海と一体化した気分になっていた。イルカと遊んだ。風船を飲んだイルカが助けられなくて悲しい。これくらいは伝説や魔法がなくてもできることだと思います。さらに気になるのが、もう秘密がなくなったと言って、いきなり育児放棄をやめる父親のことです。彼だけはフィンと同じように伝説の中を生き、さらにフィンの母親殺しでもあるんだから、いっそこのまま身を持ち崩していても不思議ではないのに、妙に中途半端に救済されている感じです。後半のサッカー選手との絡みをワクワクする展開と言えば言えるけれど、そういう物語として終わらせるのなら、ますます伝説は必要ないと思えてきて、ファンタジー好きとしては納得がいかない感じでした。

エーデルワイス:アザラシ伝説の語りを聴いたことがあります。日本の羽衣伝説と似ています。挿絵は好きです。ファンタジーとしての物語と考えると、この挿絵は合っているのかもしれません。ですが、物語は海の環境問題とアザラシ伝説を無理やり組み合わせたようで、しっくりきません。主人公のフィンがイルカの乙女と漁師の間に生まれた子どもにしなくてもよかったのではと思いました。設定は別にいろいろと考えられます。p94の1行目から「わたしを見てよ。わたしのお母さんはアフリカ人。この村の人たちから見れば、これはすごく変わっているのよ。」……多種多様なお互いを認め合うシーンのようで好きです。余談ですが作家は素敵な挿絵をつけてもらえて(『きつねの橋』も)羨ましいと思いました。

ハリネズミ:私は、社会や子どもを取り巻く問題をテーマにして書く本は、とくべつおもしろく書かないといけないと思っています。そう考えると、この作品は、プラスチックの海洋汚染というテーマばかりが前面に出てしまい、キャラが立っていないもどかしさがありました。また訳も、あちこちに穴があってすらすら読めない。編集の点でも、もっと工夫する余地がある、という残念な本でした。私は、せっかく子どもが考えるよすがになるような本が、いい加減に出されていると、大変辛口な感想になってしまいます。
まず編集の点ですが、会話が原文どおりのサンドイッチ方式([ 「A」○○は言った。「B」] という形。AとBは同一人物の言葉)に訳されていて、しかもそれが日本語版では3行に改行されているので、何人もで会話している場面だと、誰の発言だかわからなくなります。たとえばp172の「そのとおり! まさにそういうこと」って、誰の台詞でしょう? また、挿し絵はピーター・ベイリーという昔から活躍している画家ですが、日本語版にはその名前がない。
つぎに原著の問題だと思いますが、海洋汚染といっても、イルカと風船に特化された話になっています。風船は毎日は飛ばさないと思いますが、ペットボトルやレジ袋などは毎日使い捨てにしている人がいるので、そっちの方が大きな問題かもしれない。入り口は風船でも、読者をもう少し大きな問題へと誘う書き方のほうがよかったのではないかと思いました。また、ほかの方もおっしゃっていますが、伝説と現実問題がうまく融合していない。それと、ジャスが防波堤から落ちる場面ですが、結構な高さがあるらしいのに、水深は浅いとあり、それなら溺れないのはいいとしても逆に首の骨を折るんじゃないかと心配になりました。挿し絵が少し昔風なのはいいとしても、ジャスがアフリカ系、アミールはパキスタン系なので、肌の色は白くない。でも、挿し絵からはそれがわからない。英語圏の人は名前から、ルーツを推測することができますが、日本の子どもにはそれができないので、肌の色の違いは絵からもわかるようになっている方がいいと思いました。
最後に翻訳の問題です。最初に出てくるドギーですが、ドギーって犬のことなので変だなあと思ってアマゾンで原書のLook insideを見てみました。するとDougieだったので、それなら「ダギー」だな、と。それからp9のチャーリーの台詞が「父ちゃんが家のちっちゃい舟で」と訳されているのですが、原文はin my own wee boat。家の舟ではなく、チャーリーはペギー・スー号という小型のヨットをもらっていて、それのことですよね。後でそのヨットで子どもたちが海に出る場面が出てくるので、それの伏線になっている。ほかにも、p32には、「フィンはひとりでいてもへいっちゃらなので」という訳がありますが、前の場面ではフィンは友だちがほしいと思っているわけだし、それで誕生日のパーティものぞき見しているわけですから「へいちゃらを装っているので」などの訳にしないとまずいし、p284の「言葉をかける前に」は、「答える前に」なんじゃないか、など随所に引っかかって、スムーズに読み進むことができませんでした。

ハル:ファンタジーとリアルが融合した構成自体を否定するつもりはないのですが、この作品に関してはちょっと、どう読んだらよいのかというとまどいがありました。イルカの妖精だったお母さんの死についても、どうとらえて良いのかわからない。お母さんが海に向かった理由も、歌の内容とはどうも違うようですし、作者は漁そのものを否定的にとらえている可能性もあるけれども、これが、イルカ漁やクジラ漁に限定してのことだったら、さまざま意見はあるだろうとは思います。それよりも、プラスチックごみは今現在、関心が高い事柄だと思うのですが、風船を飛ばすことの是非については、既にだいぶ認知されていることだと私は思っていました。なので、子どもはともかく、大人もそのことを知らないということは、このお話は30年前とか、少し前の時代の設定なのかな? でも読んでいくと、やっぱり現代の話だよなぁ……と、その点がいちばんひっかかりました。スコットランドがどうかは置いておいて、舞台は「片すみのとても小さな村」(p7)ということなので、もしかしたら、そういった情報が少ない土地ゆえの認識のズレ、ということもあるのかもしれませんが、ちょっとよくわかりません。フィンが、自分のもつパワーを知ったあとで、確かに切羽詰まった場面ではあるのですが、「ちがうよ、バカ」(p142)とか、「ばかじゃない?」(p260)とか、急に言葉がきつくなっていることにも戸惑いました。フィンを見直した友だちの、手のひらを返したような態度もしっくりきません。全体的には、悪者と良い者をはっきり決めて描くタイプの、子ども向け映画のような作品だと思いました。主人公たちと同じ年ごろの読者にとっては、わかりやすく、義憤というか、強い問題意識を芽生えさせるお話なのかもしれず、これはこれで良いのかもしれませんが、どうかなぁ……。

西山:伝説の詩からはじまるので、抒情的な世界を期待して読み始めたのですが、あっという間に伝説はそっちのけで現実の話だけになってしまって、ちぐはぐな印象を受けました。ファンタジー部分を全部削って、長さもずっと短く、子どもたちがおとなを「ぎゃふん」と言わせる小学校中学年ぐらい向け作品にしてしまったほうがよほど納得できます。タイトルもThe Song of a Dolphin Boy なのに、「イルカと少年の歌」でいいの?と思ったのですが……。でも、歌も、ドルフィンボーイも単なるつかみの設定だけのようだから、どちらにせよ大差ないとも言えますが。「イルカくん」(p62)には、びっくりするほど違和感を感じて、え?いつから「イルカくん」呼ばわり?と思い、読み直してしまいました。サッカー選手がちんぴらの暴力を止めるときの「がまんがならないことのひとつが、いじめだ」(p250)と言うセリフにも同様の軽薄な幼さを感じました。

まめじか:p188で、子どもたちが環境保護の運動をしようとしていると知ったら、大人はきっと応援してくれるはずだという箇所は、社会の問題や政治から子どもを遠ざけないあり方が透けて見えて、好意的に読みました。訳文については、三人称の文体の中に一人称が入るときの接続がうまくいってないのか、ぎこちない印象を受けました。現代の話なのに「きまってら」(p9)、「不公平ったらありゃしない」(p121)、「お食べ」(p162)、「へんちくりんだ」(p220)、「わしら」(p250)など、昔の児童文学に出てくるような言葉づかいも気になったし、「ドギーにはふさわしくない」(p8)、「スリッパでひっぱたいてやる、まちがいなく」(p66)、「ここはほんとにすばらしい」(p89ページ)、「家にいてくれなくちゃ!」(p107)などは原文をそのまま訳したようで、もっと磨けたのでは。一番ひっかかったのはp94の「アフリカ人」。エチオピアのルーツをもつジャスのことですが、大雑把にひとくくりにするような言葉にとまどいました。

サークルK:プラスチックごみという公害問題をあまり道徳臭くならないように、イルカと人間から生まれた男の子フィンの日常に託して描こうとしたのだろうと感じました。子どもたちの日常のなかには、仲間外れと和解、友達への尊敬、家族の交流も含まれますが、私はストロムヘッドという架空の漁村にいる、様々な親子の描き分けに魅かれました。母親を亡くしたフィンと愛妻を失った漁師のマクフィー氏、2人の子どもたちを溺愛するラム夫人、複雑なルーツを持つジャスとジェイミソン教授という親子関係など様々でおもしろかったです。ストロムヘッドの村の様子がわかる挿絵はノスタルジックで良かったのですが、登場人物のルーツのわかるような書き込みが少なく残念でした。

シア:ルーツや自分探しのファンタジー小説かと思ってワクワクしたんですが、いつの間にか頑張る環境保護少年団な展開になってしまい、ああ、これいつもの海外児童文学だとガッカリしてしまいました。イルカのお母さんという設定は素敵だったので、もっと生かすか、いっそなくすかしてほしかったですね。フィンは陸と海の架け橋的な存在になるのではなく、イルカのことしか頭にない少年になっています。「海を守りたい」という力強い副題を日本版はつけていますが、完全に「イルカを守りたい」でした。どちらかというとイルカとの交流よりも友達との交流がメインでしたし。フィンがやっと泳ぎ出してからなかなかドキドキしながら読んでいたんですけど、p60まできたところでイルカの挿絵があったので変身のネタバレされた! と思ったんですが、フィンは変身しておらず、そのことも加えて肩透かしを食らいました。p142でフィンは「体が引っ張られるような気がした」とあるんですが、その後は何も触れられることもなく、半分イルカであることの必然性が後半は皆無です。海の大切さについても、プラスチックごみの問題についても今話題になっているのでそれを書きたいのもわかるんですが、なんともテンプレ気味で、全てにおいて消化不良でした。

ルパン:正直、おもしろくなかったです。全体的に訳文が読みにくかったし、フィンが泳げるようになるところも、イルカが漁師と結婚するところも、唐突すぎてなんだか話に入り込めなかったし。

さららん:ファンタジーの設定のなかに、環境問題を取り上げた意欲作だとは感じました。背景の異なる子どもたちが、力を合わせて、環境を守るために行動をはじめるところは好感が持て、昔ながらの児童文学を読む楽しさがありました。ただ前半で何か所か、疑問を感じるところもあって……。ひとつは、海に落ちたフィンを見つけられないまま、子どもたちがあきらめて家に帰ってしまうところ(p52)。大人の助けをなぜ呼ばなかったのか?と疑問でした。もうひとつはp78で、息子に対して謝罪しつつ、母親の秘密を告白する父さんの心理の変化の早さです。作者はお話をどんどん先に進めたかったのでしょうね。

カピバラ:セルキー伝説はとても魅力的な題材なので、イルカと猟師の間に生まれた子どもというファンタジーの要素が取り入れられているのはいいなあと思ったのですが、ファンタジーよりも海洋プラスチック問題のほうが、著者の言いたかったことのようです。とまどった方が多かったようですが、私はおもしろいところもあったと思っていて、最初は仲間外れにされていた少年が、次第にまわりの子どもたちもまきこんで、環境問題に目を向けていくところや、親と子が一緒に取り組んでいく様子はおもしろかったと思います。

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『きつねの橋』表紙

きつねの橋

まめじか: 貞道がキツネの葉月を助ける一方、葉月は大極殿のもののけを追いはらって貞道を救い、また斎院の姫のためになんとか扇を手に入れようとします。人と妖狐が境を越えて助け、助けられる古の世界のおおらかさ、そこに生きる者たちの懐の深さがいきいきと描かれていますね。手柄をたてたいと思いつつも損得考えずに行動し、義理堅くもある、若い三人の仲間関係もほほえましく読みました。

ハル:やっぱり、鬼や、人を化かすキツネがいた時代の物語には、ロマンを感じますね。このお話そのものもおもしろかったですし、カバーも挿絵も本当にお見事で、目でも楽しめました。読者対象は「小学高学年」になっているようですが、実際、5~6年生でどのくらい楽しめるものなんでしょうね。中学で『今昔物語』を習うころになったら、より楽しく読めるのかも? ほんとうのところはどうなんでしょう。とっても知りたいです。

ハリネズミ:エンタメとしておもしろく読みました。ただキツネというと、どうしても『孤笛のかなた』(上橋菜穂子著 理論社/新潮文庫)を思い出してしまうのですが、あっちはキツネの哀しさなども浮かびあがるように描かれていたのに、こっちの作品は3人の若者が大盗賊をとらえるのに策略をめぐらせ、キツネの力も借りるという設定で、深みはあまり感じませんでした。リアリティに疑問な点もいくつかありました。牛車の乗り心地の悪さなどは読んでいてなるほどと思ったのですが、当時牛車というのは身分の高い者しか乗れなかったのに、身分が高くない若者が君主の息子の牛車にためらいもなく乗ってしまうという設定。また上橋さんには人間とキツネは異種であるという視点が強くありましたが、これはそうでもない。それから、そもそもキツネの葉月はどうして斎院のお姫さまを可哀想に思ったのか、というのが、描かれてはいませんでした。当時は、庶民の中にもっともっと可哀想な子はいっぱいいたと思うし、キツネは神社につきものと言っても、斎院がいるのは賀茂神社で稲荷神社ではないのに。まあ、そんなことはさておいて、エンタメとして読めばいいのだと思いますが。

エーデルワイス:キツネの出てくる物語は好きです。これは時代を超えた青春ものと思いました。「麦縄(むぎなわ)」(p137 10行目、小麦粉と米粉をねって棒状にしたもの)が出てきて、当時から小麦粉があったのかと驚きました。(後日調べたら前弥生時代中期頃から日本で稲作と共に小麦粉は栽培されていたとか。)作者は貞道と葉月(人間とキツネ)の関係をもっと描きたいのでは? 続編がありそうで、楽しみです。

アンヌ:始めに貞道って誰だろうと調べてみたら、子どもの時から大好きだった『今昔物語』の牛車で酔う話に出てくる貞道で、<頼光の郎党共紫野に物見たる語>の季武、公時の3人が活躍する話なんだ、と思ってワクワクしました。『今昔物語』に出てくる女性は大声で笑ったり自分自身の足で出歩いたりしていて、他の物語のお姫様とは違う姿で登場します。ここでは葉月はキツネではありますが、『枕草子』の清少納言が定子に仕えたように、斎院に仕えて働くことに喜びを感じているようです。女房や女官や下働きの女性に化けたりする姿も、この時代の働く女性を映しているようです。五の君の姉上が斎院の扇や衣装をあつらえることに夢中になる様子に、この時代のお姫様は実はお針も使えなくちゃいけないんだということも思い出しました。ちょうど『御堂関白記』の周辺を調べていて、馬を献上することの重要性や、道長が物の怪を自身で調伏したことを知ったところなので、この作品の頼光や頼信と多田の領地の話や、鬼に対峙する五の君の姿には納得がいきました。『今昔物語』には盗賊の話が多くありますが。その中のスターと言えば袴垂。うまくキツネの話<高陽川のきつね女と変じて馬の尻にのりし語>と合わせて楽しい物語になったと思います。できれば続編で、鬼か酒呑童子が出てくる物語も読んでみたいと思っています。

雪割草:別の時代を舞台にした作品が好きなので楽しく読みました。人と動物という異なるもの境を超えて描いているのもいいと思いました。でも、当時の暮らしならではの言葉がたくさん出てきて、対象年齢の子どもはうまく想像できるのかなと疑問でした。聞いたことがあるものもいくつかありましたが、調べてやっとわかるものの方が多かったくらいです。地図や、「侍所」がどこにあるのかなど住まいの配置図がほしくなりました。この作品はすぐ映像になりそうだけれど、言葉で感じさせる世界が弱いなと思いました。

ニャニャンガ:恥ずかしながら物語が書かれた背景を知らないため、新鮮に感じるとともに、物語に入るのに時間がかかりました。貞道がキツネの葉月に出会い心を通わせて互いに助け合う点に集中することで物語に入れました。佐竹美保さんの絵が大好きなので楽しめました。「階(きざはし)」「渡殿(わたどの)」「殿舎(でんしゃ)」「蔀戸(しとみど)」など、なじみのない言葉にたびたび出くわしたので、注がほしくなりました。本文前に略図や周辺図があるので、同じように解説図があれば読む助けになったと思います。会話がわりとくだけた感じだったのが読みやすさに通じる一方、地の文とのアンバランスさを若干感じてしまいました。

マリンゴ: とても引き込まれる本でした。時代背景やこの物語の設定をうまく説明しながら、ストーリーに引っ張り込んでくれていると思いました。1つだけ気になったのは、五の君が大極殿に侵入したシーンです。キツネの葉月に会った後で、得体のしれない影に襲われるので、葉月に化かされているのかと思って気軽に読んでいたら、そうではなくて鬼のしわざ、と後でわかります。緊張感が薄れてもったいないなと思いました。ついでに言うと、終盤のクライマックスに至るところでは、おとりと本物の話がいくつも出てくるので、交錯してちょっと紛らわしかったです。動物としてのキツネの生態の描写がほとんどなかったのに、そこがまったく気にならなかったのは、「キツネが人を化かす」ということについて、日本人の共通認識があるからかなと思いました。外国語に翻訳されるときは、説明や注釈がかなり必要になるのかもしれません。

サークルK:最近の読書会では、いじめや青少年期に悩む子どもたちが主人公のお話を読む機会が多かったので、登場人物の冒険を共有しながら爽快な物語展開を楽しむことが出来ました。端正な挿絵も美しく、物語にぴったりです。貞道とキツネの葉月の出会いに始まり、五の君と鬼の遭遇や斎院の美しい扇をめぐる怪盗袴垂との戦いなどのエピソードが次々に繰り出されて宮部みゆきさんの時代物の作品を思い出しました。因縁のできた袴垂や、陰陽師にまたもや都への出入りを禁じられた葉月について、それでもまだ決着のついていないエピソードもあったので、これから続編が発表されるのであれば楽しみに待ちたいと思います。

西山:同じ年にでた『もえぎ草子』(久保田香里、くもん出版)と比べると、なんだか物足りないというのが、以前読んだときの印象でした。再読して、さらさら読めてしまうことが強みでもあるかもしれないけれど、平安時代にどっぷりつかりたいと思うと物足りなさになるなと思いました。例えば、3人が公友の家でくつろいでいるp137のシーンなど、アニメか何かで見たことあるような印象を受けます。繰り返しになりますが、それを敷居を低くしている利点と取るか、濃厚な物語世界を削ぐ欠点と取るか、分かれるところだと思います。

しじみ71個分:帰りの電車の中だけでツルツルッと読めてしまいました。歴史物としてはとてもおもしろかったのですが、貞道の人物像やキツネの葉月の内面が見えてはこなかったので、読んで深く感動するようなことはありませんでした。また、ルビはふってありましたが、子どもどころか、大人の自分でもわからない難しい言葉も多くて、説明や注がほしかったなとは思います。歴史好きな子たちが知らないことを楽しんで調べつつ読むような物語なのかな、と思いました。

カピパラ:今回は課題本を選ぶ係だったのですが、リアルな現代ものは最近ちょっと辛いものが多いので、純粋に物語を楽しめるような作品を読みたいなと思って探したところ、この表紙の絵と帯の文句がとても魅力的でこれに決めました。上橋さんの『鼓笛のかなた』のような話なのかな、と期待して読みました。一条大路を進む牛車とか、侍所での郎党たちの様子とか、内裏の御簾の奥にあかりが灯り、姫君や女房たちの姿が浮かんでいる情景とか、そういった舞台装置や装束の描写が多く、平安朝の雰囲気が味わえます。時代背景は平安だけれども、頼光に仕える若者たちの熱い青春物語といった雰囲気があります。会話が現代風なのは、厳密にいえば突っ込みどころですが、等身大の若者の気持ちが伝わるので、あまり難しく考えずに楽しめばよいと思いました。時代物は小学高学年にはわかりにくいという意見がありましたが、小学生でも漫画で昔の時代にタイムスリップする話などが人気なので、結構楽しめると思います。

さららん:最後まですっと読めました。主人公の平貞通と、親友で弓の名手の季武、大柄で人のいい公友の三人組の描かれ方が気持ちよく、心理的深さはなくても、活劇の登場人物としてちょうどよく感じました。平貞通はただがむしゃらなのではなく、主君たるべきものについて、考えることもあります。きつねの葉月に対する感情も、最初は人を化かす狐に対する警戒心が感じられましたが、葉月の斎宮に対する思いやりにほだされ、少しずつ、変化していくのがわかります。「まずはためしてみる。だめならほかのどこでもいってやる。西でも東でも、北でも南でも」(p213)という貞通の言葉に、葉月に対する深い理解と愛情が感じられました。体制の中で差別される弱いものを守ろうとする姿勢、共に行こうとする姿勢が自然体でいいな、と思いました。

シア:大変おもしろかったです。さすが時代物がお得意な久保田さんの作品という感じでした。頼光が主君というところでテンションが上がり、これはアクションものに違いないと確信し、楽しく読めました。頼光四天王が登場しているし、髭切も盗られたままなのでシリーズ化する気なのかなと期待しています。牛車の乗り心地までは考えたことがなかったので笑ってしまったりもしました。ただ、調度品が名前だけでは古典を習う中学生以上じゃないとわからないと思うので、巻頭の地図みたいに解説や絵があると良かったかもしれません。それから、ラストシーンで葉月は人間の姿にもかかわらずしっぽが出てしまうのですが、挿絵ではしっぽではなく耳が描かれていました。構図的に描きにくかったのでしょうか?耳についての表現は文章中になかったので、少し混乱しました。また、「そういう間柄だからこそ、姉君は手を差し伸べられるのだ。立場を競い合っているといっても、べつに相手を蹴おとしたいわけじゃない。けれど、家の隆盛はうつっていく。むかしはときめいていた家が、主をなくしてさみしくなる。それを姉君はかなしいと思われるんだ。」(p133)という五の君の台詞ですが、こんな綺麗事を言っているけどこれが後の満月オジサンなのかって感じですね。そしてこの姉君は詮子のことだと思われますから(彼女はかなり政治に介入して中宮定子を追い落としたのは有名な話なので)、いや、蹴おとしてるよね!と突っ込みを入れたくなりました。いくら子ども向けの本とはいえ、美化しすぎではないかと思います。久保田さんの作品の『もえぎ草子』では清少納言がかなりキツい性格に描かれていたので、もしかしたら久保田さんは式部派なのかもしれないと思いました。

しじみ71個分:源頼光というし、四天王も出てくるので大江山の鬼退治とかの華やかなエピソードが語られるのかと思ったら、割と地味な話の連続だったので、拍子抜けしたところがあったのかもしれません。ですが、終わり方を見ると、確かに続きがありそうな感じですね。そうすると、この先に貞道たちが試練を超えて強くなっていくような、盛り上がる話が出てくるのかもしれませんね。

ルパン:これはおもしろかったです。p14の4行目で「貞道は立ちあがった」とあり、8行目でまた「貞道は立ちあがった」とありますが、そのあいだにいつ座ったのかな?

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『チェリーシュリンプ』表紙

チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし

まめじか:日本の中学生が読んだら、お隣の国でも同じようなことで悩んでいるのだとわかって親近感をおぼえると思うので、それはとてもいいと思いました。ただ、ここで描かれている友人関係の摩擦やモヤモヤした思いは日本にもあるので、日本の物語の韓国版という感じ。韓国の街の様子や食べ物が描かれているのはおもしろかったのですが。一読者としては、翻訳ものだったら、日本では書かれないような、違う景色が見られるような作品を読みたいなと思います。たとえば絵本の『ヒキガエルがいく』(パク・ジォンチェ作 申明浩・広松由希子訳 岩波書店)は、カエルたちが行進する姿に普遍的なものを感じますが、その一方で、作品の背景にはセウォル号の事件で真実が解明されていないことへの憤りがありますよね。p158で「バスの中でのことがずっとひっかかっていた」とあるのですが、話し続けるヘガンに冷たい態度をとったダヒョンは、そのことをそんなに気にしていたのですか? 数ページ前ではそんな様子はあまり感じなかったので。

けろけろ:p155で、イヤフォンをはめて、ヘガンの話を拒絶してしまったことを言っているのでは?

西山:韓国の絵本はたくさん出版されていますが、読み物はめずらしいなと思って手に取り、大変興味深かったので、この会で取り上げようと思いました。韓国でも、こんなに同調圧力が強いのかと、同じであることにまずびっくりしました。同時に、友だち関係で神経をすり減らしている10代は日本の創作で見なれているものの、悪口などここまであからさまに描かれていないと思い、違いにも驚き、とても興味深かったです。あと、とにかく、食べ物がよく出てきて、いちいちおいしそう。これが、けっこうな魅力となっていますね。文化の違いを最も感じたのが、やけに簡単に物をあげることです。誕生日とか何かの理由もなくプレゼントなんかしようとして、きっと拒絶されるぞと思いながら読み進めると、相手はすんなり喜んで受け取ってしまう。贈り物の考え方が違うのでしょうか。韓国文化に詳しい方がいたら教えてほしいと思いました。韓国のイメージがアップデートされた感じでおもしろかったですね。

カピバラ:韓国の中学生の日常を描いた物語は初めて読んだので新鮮でした。最初は人物名が男子か女子かすぐにわからないので読みにくかったけど、それぞれの描き方がうまく個性を表現しているのですぐに慣れて物語に入り込めました。仲良しグループに入る、つるむ、違和感を感じる、はずれる、という関係性がうまく描けていたと思います。日本の中学生女子にも「あるある」なことが多く、読者は共感を持つと思います。でも、人をけなす言葉がずいぶんときつく、はっきりしているのは韓国だからでしょうか。主人公が、自分の気持ちを素直に表現していて、友だち関係から複雑な心境に陥ってしまい、そこからなかなか抜け出せなかったり、逆にちょっとしたきっかけで妙に単純に立ち直ったりするところなど、この年頃の女の子の心理が手に取るようにわかります。どの子にも友だちに見せる表面の顔と、裏の顔があることが描かれていて、人の言葉に左右されずに自分で本当の姿を見極めることが大切だということが、読者にも伝わると思います。韓国の食べ物がいろいろ出てくるのが興味深かったし、コスメショップでいろいろ買い物するのも韓国らしいのかなと思いました。中学生だけでコスメや洋服を買いに行ったり、しょっちゅう食べ物屋で食べたりするんですね。文章にはいいなあと思う表現が随所にありました。「ものすごく楽しみで、通りに飛びだしていって拡声器でお知らせしないといけないくらいだ。」「その日以来、幸せウイルスのアプリが体にインストールされたみたいだった。」(p99)、「地球はわたしを攻撃する方向に自転しているようだった。」(p200)とか。この本も、読者は女子だけなのかな? 副題に「わたしは、わたし」が付くと女子しか手を伸ばさないのではないかと気になりました。女子は主人公が男子の本でも読むけれど、逆はあまりないようなので、もっと読んでほしいからです。

アカシア:前半はダヒョンが使い走りをさせられているのに、どこまでも合わせよう合わせようとしているという状態にいらいらして、早くなんとかしなさいよ、と言いたくなりました。でも日本と同じように韓国にも同調圧力やいじめがあることはよくわかりました。後半ウンユと知り合いになって、自分は自分らしくと思い始めてからは、周りの人々のことも、表面と実際はかなり違うということがわかっていく。そういうところはとてもおもしろく読んだのですが、前半がもう少し短くてもいいように思いました。食べ物がたくさん出てくるのもおもしろかったです。ただ、これは読者である私の問題なのですが、ここで初めて見る名前がいっぱい出て来て、すぐにイメージがわきにくかったんです。たとえば同じ名前の人を知っていれば、それを思い出して、同じでなくてもイメージがしやすいんですけど、女性名か男性名かもわからず、古い名前かキラキラネームかもわからないので、とまどいました。欧米の名前だと読み慣れているからそうでもない、ということを考えると、いかに自分が韓国の作品を読んでこなかったか、ということですね。それから最初のコピーライト表示ですが、書名が英語で書いてあってハングルでないのはどうしてなんでしょう?

コアラ:おもしろく読みました。グループ内での立場とか、そういうところは日本も韓国も変わらないんだなと思いました。ダヒョンの恋心がかわいかったです。印象に残ったのは、p190の6行目から、「わたしたちはみんな木と同じように独りぼっちなの。いい友だちなら、お互いに日差しになって、風になってあげればいい。自立した木としてちゃんと育つように、お互いに助け合う存在。」これはとてもいいと思いました。私が中学生なら、メモ帳にメモして持ち歩きたくなるいい言葉です。この木のたとえは、ダヒョンがチェリーシュリンプのブログに書くところでも出てきます。ページで言うとp206以降ですが、このあたりはどれもメモしたくなるくらい、いい言葉がありました。それから、この本に出てくる大人が、ちゃんと大人として存在しているのもいいと思いました。子どもにしっかりしたアドバイスをしているのが印象的でした。あと、ヘガンの口癖の「ヤバい」という言葉ですが、韓国語ではどういう意味の言葉なんだろうと興味を持ちました。

マリンゴ: とても魅力的な本でした。思春期の子たちのぐちゃぐちゃした人間関係、大好物です(笑)。特にいいなと思ったのは、ヒロインのダヒョンのウザい部分が書き込まれているところですね。とてもいい子なのにわけもなく嫌われる、のではなくて、ああ、こういう子はたしかに疎まれるかもしれないな・・・と思わせる部分をしっかり描いています。たとえば仲間に好かれるために積極的に悪口を言うところ、しゃべりだしたら止まらなくなるところなど、リアルです。日本が舞台ならば、少しユーモアを入れ込まないと、しんどい物語ですけれど、よその国のお話として距離を置いて読めるから、重苦しくても楽しめました。韓国の子たちのおやつ事情、食生活などもいろいろわかってよかったです。終盤、オトナがいいことをいろいろ言っていて、その言葉が印象に残りました。「世の中の人全員に好かれるのは不可能」(p188)、「憶えていてあげること、それが愛」(p193)などです。最近、一般書の韓国文学をちょくちょく読んでいます。チョン・セランなどがとても好きです。この本にも出会えてよかったと思っています。

ルパン:韓国の名前がなんだか耳に心地よかったし、翻訳ものといえば欧米の名前、という感覚があるからか、とてもエキゾチックに感じました。それにしても、実によく食べ物が出てきます。これと化粧品ネタがなかったら、このまま日本を舞台に置き換えてもいいくらい、日本の中学生と通じるところがあり、共感がもたれるのではないかと思いました。この読書会、リモートになって遠方や地方の方も参加できてよかったな、と思っているのですが、唯一対面でなくて残念なのが、みんなでおやつを食べられないこと。いつもアンヌさんが課題本にちなんだおやつを差し入れてくださっていたので、今回もし対面だったら何を買ってきてくれたかなあ、なんて想像しながら読んでました。

イタドリ:これから韓国の作品が、絵本だけでなく、どんどん紹介されていくんでしょうね。みなさんがおっしゃるように、食べ物のことやコスメのことだけでなく、子どもたちの暮らしの様子がわかるようになるので、楽しみにしています。『ハジメテヒラク』(こまつあやこ著 講談社)は、自分が一歩外に出て実況することで、物事を客観的に見られるようになるし、この本の主人公も新しい友だちを得ることで、人間関係を新しい視点から見ることができるようになる・・・テーマは、似通っていますね。ただ、日本の作品には母親を厳しい目で否定的に描いたものが多いような気がするんですが、この本のお母さんは、なかなかいいですね! こういうお母さんに育てられても、ウジウジしちゃうのかな?

ヒトデ:なによりも出てくる食べ物の描写がおいしそうで、「胃袋」に響く小説でした。韓国の小説は、一般書でも何冊か読みましたが、どれも「身体的な描写」にハッとさせられることが多かったように思います。この物語も、そうした意味でとても「身体的な(内臓的な)」小説だと感じました。大変な状況にあっても「食べる」ことで、主人公の身体にエネルギーが通って、物語が進んでいくような、そんな印象を持ちました。物語のなかに描かれている「高校入試」のシステムが複雑なのにも驚きました。アラムとの「落としどころ」は、読む人によって意見が分かれるのかもしれないなと思いつつ、私は好きな終わり方でした。

雪割草:とてもよかったです。登場人物が、家族やその子が置かれている環境とともによく描かれていると思いました。主人公や友だちのウンユが変わろうとする姿もていねいに書かれ、リアルに感じました。読んだ後に心に残る言葉のある作品が好きですが、この作品はまさにそうで、木や風を使った表現の箇所がよかったです。おとなの存在、おとなの視点が、作品でよく作用しているとも感じました。タイトルのチェリーシュリンプという生きものを知らなかったので調べてみました。日本では見慣れないこの生きものは、主人公がブログのタイトルに使って説明している以上の意味が韓国で何かあるのか、少し気になりました。

けろけろ:韓国料理がとてもたくさん出てきて、主人公たちがそれをエネルギーにしている感じがおもしろいですね。帯の表4側に作者の日本の読者へのメッセージがありますが、作者は日本の作品を読むときに、その街並みや食べ物をとても楽しんでいたようで、韓国の話を書くときに、それを意識して書こうとしていたんだなと思いました。友人関係がすべてというこの世代に、国を超えてエールを送っている感じに、とてもじんと来ました。韓国の女子のいじめが、日本とあまりにも似ているのに驚きました。ただ、翻訳ものであることが、いい距離感を生んでいて、日本の作品だとリアルすぎるところが少し薄まって読めるんですね。私の好きなシーンは、主人公のダヒョンがウンユに、亡くなった父親について話すところ。ふたりの関係がしっかりと結びついていくのが、視線などでうまく描かれているなと思いました。SNSのいじめって、残酷ですね~。文字の会話が続いていくなかで、そこで発言していない子がいることにみんな気づいているのに知らんふりしている。透明人間みたいになってしまう。日本でも、こんなシーンがきっとあるんだろうな、と思うと、胸が痛みます。魚住直子さんの作品も韓国で人気ですが、なにか通じるものを感じました。

ハル:「ザ・中学生あるある!」という感じで、実際にこういう経験をしたかどうかはおいておいても、主人公の心情表現は、まるで中学生、高校生のときの自分の日記を読み返しているようなリアルさを感じました。「私の日記か」というのはつまり、リアルなだけに、浅く散らかっているというか、文章が上滑りしていく感じもあり、「ときどきこういう、リアルなんだけどどこか軽くなってしまう小説ってあるよなぁ」と思いながら読んでいたのですが、後半の10章あたりでぐっと引き込まれて、主人公が書き溜めていたブログを公開したところで、ああいいなぁ、と思いました。特に主人公たちと同世代の読者たちは、身近な解決策やヒントをもらったような、勇気づけられた気持ちになるのではないでしょうか。ただ、結局、チェリーシュリンプは特にキーとして登場するわけでもないし、全体的にすごくよくまとまっているかというとそうでもないようにも感じましたが、良い作品だと思います。「日本の小説を読むのと変わりがないんじゃない?」というと、そうでもなくて、やっぱり、日本と似ているようで違う文化もおもしろく、韓国の子は買い食いの習慣があるんですね、いろんな食べ物が出てきておいしそうでした。

ネズミ:主人公が、学校での人間関係を克服して、ブログを公開できるようになるまでの成長を描くというテーマはいいですが、『ハジメテヒラク』と同じで、こちらも読むのが苦しかったです。同調圧力がどうにも苦手で。苦しいのは、それだけ真に迫っているからでしょうね。そんなことがあるの?と、驚くようなことが次々あってもどうにか読み進められるのは、舞台が日本ではなく韓国だとわかっているからでしょうか。

ニャニャンガ:『きらめく拍手の音』(イギラ・ボル著 矢澤浩子訳、リトル・モア)、『82年生まれ、キム・ジオン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳、筑摩書房)などの一般向け韓国作品は読んだことがありますが、子ども向けの韓国作品ははじめて読みました。本作では韓国の様子がわかり興味深かったです。ただ、特定の子を嫌った理由が冒頭の人物紹介に書いてあったのはネタバレではないかなと感じました。韓国の大気汚染がひどいことは本書を通して知りました。聞きおぼえのある食べものが多く登場しますが、キムパグはキンパのほうが一般的かもしれません。「目がふっと震える」(p135)はすてきな表現と思った一方で、「バスが無表情」(p195)という表現には引っかかりました。「アナジュセヨ」(ハグしてください)の勘違いのくだりについては、最初に出てきたところで詳しく書いてくれたらわかりやすかったです。まじめ虫という表現は、『82年生まれ、キム・ジオン』のママ虫を思いだして韓国特有の表現なのかなと思いました。

さららん:登場人物たちがみんな食べることに執着しているのがおもしろく、私もそこにバイタリティを感じます。特に主人公は、仲良しグループに気を使い続け、次第にハブられていきますが、これだけ食べることが好きなら、この子はきっと負けない!と感じられ、そのおかげで読み進めることができました。友だち同士言葉で激しく言い合い、傷つけあうところも描かれ、陰湿な場面もありますが、主人公は自分の意志で、仲良しグループのトークルームを抜けることを選びます。クラシック好きなことも隠していたけれど、自分が選んだものを肯定し、表に出していける環境をだんだんに作っていきます。このぐらいタフで楽観的でありたいと願う読者は、韓国はもちろん、日本にもたくさんいるかもしれない。また江南からの転校生は優秀だという妬みや、うどん屋でクラシックをかけるのはヘンだ、といったものの見方に、日本よりさらに階級化された社会を感じました。

アンヌ:最初はいじめの話だと、いやいや読みだしたのですが、おいしそうな食べ物が次々と出てくるので、読んでいて楽しくなってきました。つらい思いをしている主人公の話で、どうもおなかも弱いらしいので、まさかこんなにおいしそうな話になるとはと意外でした。作者がこんな風に食べる場面がたくさん出しているのは、子供の生命力を読者に感じさせるためではないかと思います。それにしても、中学生や高校生の頃って、本当に嫌になるほどおなかがすいていたなと思い出します。私は食べ物で本を読み解く主義なので、試しに数えてみたら食べ物が出てくる場面は28場面。食べ物は全部で60品目以上ありました。そのうちダブっているものや中華街の食べ物や日本でも手に入る食べ物を抜いたら、24品目が韓国固有の食べ物でした。まずいとされるのはハンバーグ屋のハンバーグと飲み物だけというのもおもしろいところです。また、先ほどご指摘があったように、同じページ内に注がついていて、どういう食べ物かすぐわかるのも魅力でした。作者と翻訳者の、韓国を紹介したいという気持ちが感じられるところです。今、日本の若い人が夢中の韓国コスメの話も楽しく、こんなに若い時からお化粧品を買うんだなとか、p194のコスメ屋さんに4人で行く場面で、お父さんにも乳液をプレゼントするんだとか、韓国では父母の日というのがあるんだとかいうことを知りました。知らない生活習慣や韓国のおいしそうなものが出てきて、外国文学を読む楽しさを堪能しました。ダヒョンがこんなにつらい生活の中でも自分を見失わなかったのは、やはりブログという形で一度言葉にして心の中のものを外に出して、自分の好きなもの、自分を形作っているものを見つめていたからだろうと思います。課題をこなすために集まったグループのうち、3人が将来は記者になりたいと言っていて、作者は言葉が好きな人間を応援しているとも感じました。ダヒョンもウンユも言葉を知っている子だなと思います。p190のウンユの言葉で始まる木と風のたとえは実に詩的で、さらに、ダヒョンのブログの中でそのとらえ方が変わっていくところも、ダヒョンの成長が感じられていいなあと思いました。それぞれつらい別れを知っているからこその言葉だと思いました。私はいじめっ子にもいじめるわけがあるという擁護はあまり好きではありません。作者はアラムがウンユにまとわりついてうまくいかなかったことや、つらい境遇にあることを最後の方に記しています。だからといって関係をどうにかするということではなく、アラムが困っているのを察したダヒョンがポーチを机の上に置いて、そのことを相手がどう思ってもいいと立ち去るところは、実に爽快感があってよい終わり方だと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):女の子特有のグループでのいじめの問題は韓国も日本も同じようです。ほとどの子が塾に行っていることや、音楽、映画、恋心も。コスメの浸透にはちょっと驚き、韓国の美味しそうな食べ物がでてくるのは楽ししかったです。ページ内に小さく注釈があるのはいいですね。「大気汚染注意報」も驚き。マスクを付けて登校とは。最初に登場人物の名前の一覧があるのは助かりました。韓国の名前に馴染みがなく、途中で誰か分からなくなり時々確かめながら読みました。ボス的な女の子のアラムが実は寂しい家庭環境にあることを知った主人公のダヒョンが、アラムの席に整理用品をそっと置くラストは爽やかです。コミュニティ新聞つくりグループの4人中3人が将来は物を書く人になりたいというのは作者の投影でしょうか。

しじみ71個分(メール参加):中学生女子の「あるある」な物語で、自分が中学生のときのことを思い出しました。中学生のあたりは、まだ自我の確立なんて全然できていないし、自分が何者かもまったく分からない時期で、自分の周りの小さな世界に所属したくても、どうしてか世界と自分とが、食い違ってしまう、自分は周りと何か違う、息苦しいと気づき始める頃なのだろうと思います。誰でもこんなことあるよね、と思わせてくれる物語で、チェリーシュリンプに象徴される、自分らしさを大事にすることの気づきを得て終わってくれたので、読み終わってスカッとしました。中学生女子の間の同調圧力の理屈の無さ、未熟さ、想像力の欠如から、なぜか自然に誰かを無視したり、仲間外れにする仕組みがリアルに描かれていると思います。理由が分からないけど、友だちが嫌っているから私も嫌いと思い込むとか、空気を読んだつもりで悪口を言ってしまうとか、なんて馬鹿馬鹿しいことかと思いますが、結構、大人でもあるなと居心地の悪さも感じさせてくれました。また、韓国の中学生のコスメ事情など、関心事も細かく描かれて、とても興味深かったです。また、とてもおもしろいなと思ったのは、結構、ウジウジした内容なのに、主人公のキャラクターのおかげか、物語が湿っぽくなく、カラッとドライな印象のあることでした。日本の物語だともう少しじめっと湿っぽくなるかもしれません。そのドライさは、主人公の思考や受け止めに表れる芯の強さや朗らかさから来るのかなと思ったのですが、書き方の客観性かもしれないですし、そこに作者の気持ちや意図ががあるようにも思いました。

鏡文字(メール参加):登場人物紹介で、ある程度の筋が見えた感じで、どう物語を決着させるかという興味で読み進めました。ラストのシーンはなかなかいいのではないかと思いました。韓国でも今時の中学生はいろいろ大変なんだな、とも。学校生活など、日本の子どもにとってもさほど違和感がないように感じました。その分、あまり新味もなかったかも。ベトナム戦争のことなどがチラッと出てきて、やや唐突な印象。本筋にからまないことで出てくるのはいいのですが、あとほんの少しだけ踏み込んでいいような気がしました。p216で母親が語る「生きていれば、疎遠になったり、思いもよらない時期にまた会ったりするの。人間関係なんて、みんなそういうものじゃないかしら」という言葉は、子どもがどう受け止めるかはともかく、大人としては多いに納得です。翻訳物は、書かれた背景など、訳者のあとがきを読むのが好きなので、それがないのが残念でした。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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こまつあやこ『ハジメテヒラク』表紙

ハジメテヒラク

アンヌ:とてもおもしろかったけれど、わかりにくかった点が1つあります。脳内実況と現実の実況の違いについてなんです。二重カギ括弧で濃い文字が脳内実況、カギ括弧で濃い文字が現実の実況、と気づくまでに時間がかかりました。声に出して実況しているところは、普通の会話と同じ文字にしておいて二重カギ括弧でくくれば、十分通じたのではないかと思います。主人公は他人の恋心や秘密を勝手に話してはいけないということが、ある意味最後までわかっていないようで、それを主人公の個性としてとらえていいのかどうか気にかかるところです。小学生のうちは、ついうっかりということですむのですが。でも、そんなことはどうでもいいくらい元気な気分で読み終えられたのは、このコロナ禍の中、大声で叫べないことが増えていて、例え脳内でも読みながら叫んでいて気持ちよかったからもしれません。競馬の実況中継が絶叫系だからでしょうか。華道部のところの二十四節気は何となく知っていたのですが、七十二候の話はよく知らなかったので、いろいろ調べるきっかけになっておもしろ読めました。

さららん:主人公の一人称の語りに、「おーっとどうする」のような、つっこみも交えた三人称的実況が入り、おもしろい効果をあげていますね。次章への好奇心をそそる章の切り方も上手です。心情を風景に投影した描写、例えば「家庭科実習室の壁紙が貼り替えられたように、白くまぶしく見えた」(p131)も、わざとらしさがなく好感がもてました。仲間外れ、ジェンダー、差別といったモチーフが重くなりすぎずに編み込まれ、いやだった自分を変えたい、という主人公の願いも、自分らしさを否定せずに実現させることができて、よかったと思います。文化祭での生け花の実況中継をやめたいと思いはじめる主人公を、無理強いせず、あえて後ろに引いて待つ姿勢の野山先生(p149)に、大人のあるべき姿を感じました。

ニャニャンガ:クラスの人たちを実況中継することで孤立感を紛らわせる発想は、斬新です。友だちから浮きたくなくて目立たないようにしている主人公に、共感する子どもたちが多いだろうと思いました。学生時代の私は孤立するのがいやで無難に受け流した記憶がありますが、今では「浮いていてなにが悪い」と思うので、主人公もその結論に達したのがよかったです。1つだけ気になったのは、頭の中で考えるだけでも、するっと実況中継できるようになるのかしらという点です。もともと才能があったのかもしれませんが、私には無理だと感じました。

ネズミ:私は、友だちづきあいや部活を中心においた本は苦手なんですよね。学校生活で、友だちや部活ありきと思いたくないという気持ちがあって。でも、実況によって自分を客観視していくというのは、目のつけどころがおもしろいと思いました。人のことをよく見ることにもつながっていくので。生け花部を通して、まわりの先輩や同級生のことを知っていくというのはよかったし、作者が成長物語としていろんなテーマを盛り込もうとしているのも好感が持てました。

ハル:まさに今回のテーマの「中学生あるある」という言葉がぴったりの本ですね。2回読みましたが、やっぱり楽しいし、おもしろかったです。なぜか著者の姿が浮かんでしまうのですが、デビュー作の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(講談社)と同じく、とても楽しんで書いているなぁという感じがします。物語から得るメッセージもさまざまありますが、言葉のおもしろさも感じさせてくれるのが、こまつさんの作品の好きなところです。1点だけ、最初に読んだときも思いましたが、肝心の、文化祭の実況が、実況としてはあまり上手じゃないというか、言いたいことが前面に出てくるとリズムが普通になってしまって、実況口調がうすれてしまったのは、読んでいてちょっとひっかかりました。といっても、ほとんど影響ないぐらいのつまずきでしたけど。読後感がさわやかで、心が落ち着くし、ぜひ中学生に読んでほしいです。あ、もう1点ありました。巻末に「『立冬』の『山茶始開』は、ふつう『つばきはじめてひらく』と読みますが、この『つばき』はツバキ科の山茶花(さざんか)のことなので、『サザンカはじめて開く』といたしました」という断り書きがありましたが、これはどうしてツバキのままじゃいけなかったんでしょう?

イタドリ:普通、椿は冬から春にかけて咲くけれど、文化祭のある秋に咲くのは山茶花だからでは?

アンヌ:p198で部長が活けるのが山茶花だからでは?

ハル:なるほど! ありがとうございました。

けろけろ:こまつあやこさんは、力のある、これからの作品が楽しみな作家さんだなと思って、今回選書させていただきました。先日も、児童文学者協会の新人賞を取られましたね。小学校高学年で、自分の失言から仲間外れになって、中学になっても踏み出せずにいる主人公。仲間外れになったときに、「実況中継をしたらいいんじゃない」というアドバイスをされるというところがおもしろいですね。人間関係の外にいったん出るというのは、的確なアドバイスだったかもしれないと思います。中学で、うっかり入った華道部の部員の個性がうまく描けてますね~。特に私の推しは、城先輩。絶対いなさそうな人物だけど、描けちゃうのがフィクションのいいところですよね。私も華道を教わっているのですが、枝を切り落として姿を見つける感じとか、枝はひとつとして同じものがないなど、テツガク的なところがあり考えさせられます。お花をいけるシーンが伏線としてもう少し入ってもいいのかなと思いました。カオ先輩の進路の問題、マイちゃんの出身の問題など、結構盛りだくさんなのですが、バランスを考えたら、枝をもう少し切ってもよかったのではないかと思いました。

雪割草:全体としては、おもしろく読みました。特に、「実況」という語りの手法は、新鮮でした。生け花ショーの実況をするのに、生け花部の部員それぞれを観察するなど、「実況」が一人ひとりを知ろうとする切り口になったり、生け花ショーなので、お花を使ってそれぞれの個性を表現しながら実況したり。でも作品の最初の方は、「実況」がうるさいと感じてしまいました。それから、マイちゃんのお母さんがベトナムの出身であるなど、外国にルーツのある子どもを登場させているのもよかったです。友だちとの関係のところは、仲よしグループのような関係が苦手だったので、実感というより大変だなと思って読みましたが、主人公が、友だち関係のなかで負ったトラウマを乗り越えようと挑む姿は、同年代の読者の共感をよぶだろうと感じました。生け花のことはわかりませんが、日本の伝統文化でもあるし、もう少し踏み込んで描きこんでほしかったと思いました。

ヒトデ:今回の課題になった『ハジメテヒラク』と『チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし』、舞台になる国はちがいますが、どちらも中学生たちの「友人関係」を描いた物語として読みました。はじめは、「脳内実況」に少し乗れないところもありましたが、p20を越えたあたりからグイグイ読み進めることができるようになりました。何よりもまず「実況」という装置が発明だと思いました。地の文と同じ「描写」をおこなっていても、それがより深まっていくというか・・・これまでに読んだことのない「読み口」の文章でした。物語の運びは定石通りではありますが、「人間関係を生け花にたとえていくこと」や「クラスの外で居場所を作ることの大切さを描いている」など、良い所がたくさんあった物語でした。城先輩の恋がむくわれなかったのは、少々残念でしたが(笑)

イタドリ:私もアンヌさんとおなじように、脳内実況しているところと実際にしゃべっているところが同じ活字なので、わかりにくいと思いました。内容についていえば、私が子どもの本を読んだときの感想って、おおざっぱにいえば3つに分かれるんですね。①『彼方の光』のように、「ぜったい読んだほうがいいよ」と、子どもに熱烈に押しつけたい(?)本 ②「なにかおもしろい本ないかなあ」といわれたときに、「これ、読んでみたら」と手渡したい本 ➂「ちょっとやめといたら」と言いたくなる本。これは、②の本かな。さわやかで、明るくて、楽しく読める作品だと思います。生け花については、もうちょっと掘り下げて書いてもいいかなと思ったし、いとこのお姉さんが、最初と最後だけちょこっと出てきて、主人公のヒーローというには、あっさりしすぎてるかな。その軽さが読みやすさに通じるのかもしれないけど。

ルパン:私は何回か競馬場に行ったことがあるのですが、あの馬たちの疾走の迫力に取り憑かれる人がいるのはわかる気がします。地鳴りのような馬の駆ける音とともに観客の歓声と怒号が鳴り響くあの雰囲気をことばで伝える実況放送はすごいと思います。なので、競馬放送の話になるのかな、と思ったら生け花部、というのはちょっと驚きでした。はじめはなかなか入っていかれませんでした。ストーリーはよかったのですが、私は主人公のあみちゃんに、正直あまり感情移入できませんでした。小学校のときにクラスの輪から外れたいきさつも、もう少し同情させてくれるシチュエーションだったらよかったな。というわけで、自分で好きで手元に置きたいという本ではなかったのですが、これを文庫に置いて、悩める年ごろの小中学生に手渡すにはいい作品だと思います。勇気づけられる子もいるかもしれないから。この作者の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』はとてもよかったので、またほかの作品が出たら読んでみたいです。

マリンゴ: 地の文、心の声の実況、会話をうまく重ね合わせていて、新しさがありますね。最後、たたみかけるように感動を連鎖させてクライマックスを作っているところも、本当にうまいと思いました。文化祭当日、大事な実況がぐだぐだになっていくのも、テンパっている感じが伝わってきてリアリティがありました。相手のことを知ると見方が変わり、いじめ突破の一歩にもなる、とエールを送っているのもいいと思います。先ほど、生け花の描写が物足りないという意見がありましたが、これ以上深く踏み込むと、どこの流派かを描かざるを得ないことになります。流派を選ばずに、ある程度、お花のことをちゃんと表現しているという点でも、この作品は巧みだと思いました。また、七十二候の入り方もおもしろく、知らなかったことを教えてもらえました。

コアラ:タイトルではどういう話かまったくわからなくて、カバー袖を見ると、実況の言葉だったので、放送に関する部活の話かと思ったんです。ところが、本文はバスケ部のマネージャーの話で始まり、仲間はずれのことが語られ、いじめの話かと思ったら、突然競馬場に連れていかれるし、バラバラで話が見えなくて、この本は興味が持てないかもしれないなと、ちょっと投げ出したくなりました。それでも、部活で生け花というのは新鮮で、主人公の行動にハラハラさせられながら、飽きずにおもしろく読み終えました。生け花の実況、というのは、私もおもしろい発想だと思います。実況というとスポーツの絶叫を思い浮かべますが、将棋のテレビ放送では実況のように解説していますし、静かで表に出ないものにこそ実況というのはアリだと、この本を読んで思いました。マイちゃんがベトナム人のハーフというのも、物語を奥行きのあるものにしていますよね。それから、主人公の「あみ」の欠点というか、人の代わりに告白してしまうクセが、結局治らなかったのが、私はおもしろいと思いました。欠点を直すことが成長、ではなくて、生け花に出会って人を見る目が変わって世界が広がったことで成長する姿を描いていると思います。中学女子にぜひ読んでほしいですね。

アカシア:職業や部活を取り上げた作品はけっこうあるけど、これはその隙間をついていますね。実況アナと生け花ですもんね。実況っていっても、種類はいろいろあると思いますけど、これは古いけど古舘一朗のプロレス実況みたいなノリ。そこが笑えました。居心地の悪い現実に、突拍子もない実況で切りこんでいく感じが爽快でした。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』にも、マレーシアからの帰国子女が登場していましたが、ここにもベトナムからやってきた口数の少ない少女が出てきます。この作家さんには何らかの志があって、意識して出しているのだと思います。内容は、リアルな物語と言うよりは、マンガ風というかエンタメ的なおもしろさ。私はこの部長がそれほど魅力的な人物には思えなかったせいか、あみがその恋を応援しようとして頑張る下りも、ちょっと白けてしまったし、早月がどこかへ引っ越して音信不通という設定にもリアル物なら無理があると思いました。中学生くらいの年齢だと同調圧力を必要以上に意識してしまうので、共感を呼ぶ作品だと思います。

カピバラ:ひとり実況の形で見たこと感じたことを語っていく部分になると急に生き生きとしておもしろかったです。テンポがよくてどんどん読めました。友だちづきあいにいろいろ悩みはあっても、自分なりに考えながら少しずつ前に進んでいくところに好感がもてました。友だち、先生、親など、それぞれの描写はそれほど深くないけど、特徴をとらえていて人物像が浮かび上がってきました。現代の子どもたちの学校生活を扱った物語って、最近は特にひりひりとつらいものが多いんですけど、この本はそこまで深刻ではなく、気楽に読めて楽しめるし、この薄さもいいですよね、ちょっと読んでごらんってすすめるのにちょうどいい。お母さんがベトナム人の女の子が出てきますが、それがわかってからも、違和感なく同じように接するところもよかったです。タイトルはなんのことかなと興味をひくのでいいと思いますが、表紙のデザインはどう見ても女子向きで、男子は手にとらない感じなのが残念です。男子も登場するし、男子にも読んでもらいたいのに。

西山:表紙がすごくきれいでいいと思っていたのですけれど、「女の子向けの本」の顔になってしまうことのマイナス面もあるのですね。実は・・・こんなに個性がある、特徴的なことがいっぱいでてくるわりには、前に読んで、内容をすっかり忘れていました。言い訳的にいえば、盛りだくさんで、私にとってこの作品が1つの像を結んでいなかったのかなと思います。実況が心の声でもあるんだけども、隠している自分の本音とかいうのではなく(ふと思い出したのは、『ぎりぎりトライアングル』(花形みつる著 浜田桂子絵 講談社)です。おどおどした主人公コタニの内面の声が、がらっとイメージの違う歯切れのいいツッコミ満載だったのとおもしろさでは共通しつつ、質は違うなと)、自分事を他人事にしてしまうというのが、つらい子どもにとってはすごい提案なのかなと思います。「脳内実況してみると、まるで人ごとのようにこの状況に何だか少し笑えてしまった」(p51)とあるように。 人ごとにしちゃうっていうところで、そこに救われる子どもの実情を思うと、闇は深いなという気がします。競馬といえば、『草の上で愛を』(陣崎草子著 講談社)は、広々とした競馬場の空気みたいな印象が残っています。そういうのがなかったかなぁ。

まめじか:この本では、友だち関係にとらわれていた主人公が実況によって、いったん自分を外に置いて、客観的に見られるようになっていきます。友人との距離感がつかめず、自意識にふりまわされていた子が、余分な枝葉を取り払うように心を整えていく過程に好感がもてました。ジェンダーのステレオタイプを破るような男子の華道部部長、ベトナムにルーツのある同級生など、多様な登場人物が出てくるのもよかったな。中学生が手に取りそうで、しかも品のある表紙がすてきですね。後ろのカバー袖に小さく描かれているのはなんでしょうか。スポイト?

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鏡文字(メール参加):意識的に外国ルーツの子を登場させていることに好感が持てました。着眼点がおもしろいし、するすると読めました。ちょっとマンガチックかな、という気もしましたが。けっこう長い間、なぜ従姉に連絡しなかったのかが謎です。

エーデルワイス(メール参加):以前の課題で読んだ『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』が印象に残っていて、今回もよかったです。さわやかで。それこそ胸がキュンキュンしました。『ハジメテヒラク』は華道からきたタイトルなのですね。花を生ける様子に実況をつけるなんて、おもしろいです!中高の部活ですから流派は出ませんでしたが、華道には池坊、小原流など、伝統と子弟制度があり面倒だと思っていました。この物語の華道の様子は自由でいいなと思いました。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』ではマレーシアの帰国子女。今回はベトナムにルーツのあるマイちゃんが登場。アジアが身近に感じられます。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『ワタシゴト』表紙

ワタシゴト〜 14歳のひろしま

ネズミ:前に同じ作者の『3+6の夏』(汐文社)を読んで、これも意欲的な作品だとは思ったのですが、私はうまく入れませんでした。それぞれの物語で、今の現実の中でいろんな問題を抱えている子どもが中心になって展開するのですが、現実の問題は解決されないまま。どれもがハードで重い問題なので、苦しくなったのかもしれません。あえてこういう描き方をしているとは思ったのですが。

サークルK:本の扉を開けると、タイトルについて掛詞(私のこと、記憶を手渡すこと)になっているという説明がなされ、手に取った子どもたち、まさに14歳くらいの人たちが読むときには、大きなヒントになることが書いてあるのだろうと思いました。1つ1つ読み進めるごとに、パズルがはまっていくように登場人物と彼らをめぐる出来事が明かされ、よく練られたお話だなと思いました。とくに「ワンピース」は、展示されているワンピースからの声がみさきだけに聞こえてきますが、その声がすべてひらがなで、句点もない独白になっているところ、そしてその内容が素朴で温かくて、最も心を打たれました。ただし、全体に思春期の子どもが抱えている問題がてんこもりのように詰めこまれている感じなので、よく言えばすべて装備されているけれど、すきがないというか、かっちりしすぎている印象があって。いいお話の連作だとは思ったけれども、もうちょっと遊びがあって、読者が想像できる余地を残しておいてくれてもいいのかなというふうに読みました。

西山:まずは、タイトルに、なんと絶妙な!と感心した作品です。戦争に限らず、体験者と非体験者をどうつなぐか─それが大きなテーマだと思うのですが、それが「ワタシゴト」という言葉で、要点を押さえている。5話のうち最初の3話は、今までもあった構造だと思うんです。現代の子どもの今の生活や抱えている問題が、何らかの物やことを通して、戦争体験と重なってつながるという構造。後ろの2話は新しいと思いました。感情的に迫っていくという仕立て方じゃなく、石に対する知的好奇心で被爆瓦にせまっていく。教師たちも一緒に動いていくし、風通しの良い刺激的な作品でした。最終話は、わかっていない子どもにわかっている大人が伝える、という関係に一石を投じていて新鮮でした。子どもの方がよっぽどわかっている場合があるとか、辛すぎて向き合えないことがあるとかいったことは、「伝えたい大人」は頭の隅に置いておいた方がよいと思っています。

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。戦争や原爆を伝える児童書として、これまでの作品とはひと味違うと感じました。子どもたちが頭で知るのではなく、自分の実感を通して追体験するというコンセプトがいいなあ、と。現実の問題が解決しないという声もありましたが、そこがテーマじゃないですよね。たとえば最初の「弁当箱」だと、母親が嫌味を言いながら渡した弁当箱を俊介が払いのけると、弁当箱は下に落ちてしまう。その俊介が被爆資料の黒こげの弁当箱を見て、時間がたってまっ黒にアリがたかっていた自分の弁当箱とその黒こげの弁当箱の両方を頭に思い浮かべる。よくあるタイプの日本の児童文学だと、そこで母親をババア呼ばわりして弁当を無駄にしたことを俊介が反省したりするわけですよね。でも、この作品はそうじゃない。「くそっ、あの日、弁当箱を抱いて骨になったあいつは、どんなやつだった?」(p27)とそっちへ想像をもっていく。そっちへ視野が広がる。ここがすごいところじゃないでしょうか。アーサー・ビナードが『さがしています』(岡倉禎志/写真 童心社)という絵本でやろうとしたことを、これは物語でやろうとしている。戦争や原爆を今の子どもに伝えるのに教訓や説教や脅しじゃなく、とてもいいバランスでこの物語はできている。それに、先生たちがちゃんと大人に描かれているのにも好感を持ちました。赤田さんの後書きに「『ひろしま』には絶望や悲しみだけでなく、人を惹きつける力のようなものがあると、私はこのとき思いました。学校の日常生活ではけっして掬いあげることのできないものが、『ひろしま』にはあるのだなあと思ったのです」(p121)とありますが、私はこの後書きが物語を裏から支えていると思いました。

ルパン:これは、傑作だと思いました。そして、どのお話にもそれぞれにドキッとする言葉がありました。たとえば石のところでは、「あの熱で人も焼かれたのよ」とか、ワンピースのところでは「レースがやけなくてよかった」とか、靴のところでは、「口うるさい妹へのおみやげゲット」とか。中学生の心情が自然体で書かれていると思いました。こういうテーマの作品だと、まじめすぎてひいちゃうことがあるんですけど、これはそれぞれ物語として独立しているので、子どもたちにも自然に手渡せると思います。原爆を目撃していない作家が、新しい形で語り部になっていくんじゃないかと思いました。あと、赤田先生のあとがきは、私はけっこう好きです。「花買って来いよ」と言った男子中学生のエピソードとか、ぐっときました。

まめじか:今の子どもたちの内面と過去の戦争を、原爆の遺品をとおしてつなげる手法がすばらしいと思いました。資料館に入った俊介が「腹を立てながらも、前に進むしかなかった。ここを出るためには、ともかく前へ」と思いながら歩くのを、つらい環境の家を出たい気持ちと重ね、お弁当がなくてカレーパンを食べているのをからかわれたときの思いを「怒りはカレーの味がした」と表すなど、描写が見事です。亡くなった人たちがたしかに存在していたのを感じ、戦争や原爆を自分の問題としてとらえられるようになる過程がよく表されています。黒田先生が「考えていることがみんな同じなんて、ありえない。正解なんて、どこにもない」と思うのも、ひとりひとり受け止め方やその深度が違うことを認めているようで好感がもてました。高校のとき、平和記念公園の慰霊碑の前ではしゃいで写真を撮るクラスメイトを見て、「たくさんの人が亡くなった場所なのに」と言って怒っていた友人がいて、そのときはその気持ちが十分に理解できなかったのをふと思い出しました。中澤さんと赤田さんとの出会いがあって、このような作品が生まれたのはわかるのですが、最後の「私のひろしま修学旅行」は作品の中で浮いているというか・・・。内容はいいのですけど、新聞記事か副読本を読んでいるみたいで。知らない先生が突然出てきた印象です。赤田さんについては、中澤さんがあとがきの中で書けばよかったのではないかと。

カピバラ:原爆資料館に展示された遺品を見たことで、今の中学生が自分の抱えている問題とつなげて考えるという構造がうまいと思いました。過去の出来事と切り離すのではなくて、当時の同世代の子どもが何を感じたかを今につなげることで、何かが生まれることを期待する、著者の希望が伝わってきます。まさに、追体験ですよね。1話ずつがとても短いけれど、会話をうまく使って印象に残る光景を切り取っていく書き方は印象的なのですが、短いだけにちょっと乱暴な描き方だと思うところもありました。短編連作は読みやすいし、今の子どもたちには、どの話かに共感できる部分があるだろうと思います。

エーデルワイス:『ワタシゴト』のタイトルが新鮮で、ささめやゆきのイラスト、表紙、背表紙、タイトル文字がおしゃれでセンスがよく、好きです。この本の出版社の汐文社は『はだしのゲン』(中沢啓治/著)のように、平和を考える本を出しているのですね。5話のうち、「いし」「ごめんなさい」は共感できました。他の話は、子どもの抱える問題と戦争を考えることを無理やり押しこめた感じが否めないように私には思えました。子どもの本は目に見えるところで解決策を提示してほしいと思っています。

ハル:この本も、タイトルどおり、戦争を自分のこととしてとらえさせてくれる作品です。もう少し幼い子に向けた本なのかなと思って読みはじめたら、1話目の出だしからなかなか衝撃的で、ぐっと心をつかまれました。5つある物語は、中には私の中で少し消化不良というか、共感までいかないものもありましたが、「いし」がいちばん好きでした。平和記念資料館をつくった長岡省吾さんのことを彷彿とさせるようなお話で(長岡省吾さんについて書かれたノンフィクション『ヒロシマをのこす』佐藤真澄著/汐文社 もおすすめです)。最後の「わかっています」の重みが、ずんと心に響きます。人それぞれの感じ方、表現の仕方があってよくて、この子はこの子なりに「わかっている」んですよね。小説はここで終わっていますが、きっと、その場にいた子どもたちも本当に絶句するほど、重みをもって響いた一言だったんだと信じたいです。1話、1話、とても余韻の残る作品だったので、巻末の「後付」があれこれあって、ちょっと、饒舌すぎたかなぁ、もうちょっと余韻を味わいたかったなぁという感じもしました。

しじみ71個分:私はたくさん読んだ中から選ぶということができないので、選書担当として、タイトルから当たりをつけて読むしかないのですが、この本は薄いし、『ワタシゴト』というタイトルは、人の痛みを自分事として考えることだろうから、分かりやすすぎるかなと思ったものの、ささめやゆきさんの表紙絵で手に取って読んでみました。読んで「すっごい本だな!!」と思いました。全て、修学旅行で中学生たちが広島の平和記念資料館で亡くなった人たちの遺品を見て、その人たちに思いを寄せ、痛みを感じ、自分にフィードバックして考えるという内容になっている短編集です。短編はシーンをどれだけ鮮やかに切り取るかが命だと思うのですが、すべてが鮮やかでした。すっごくおもしろいなと思ったのは、児童文学の役割そのものを書いているということです。子どもの体験に言葉を与え、誰かが書いた言葉を通して子どもたちが追体験するのが児童文学の一つの機能だと思うのですが、子どもたちが広島の遺品で故人の思いや痛みを追体験したのを、さらに追体験するという構造で書いているところに新鮮なおもしろさを感じました。遺品のバックグラウンドを想像し、自分の中にある言葉にできないもやもやとしたものと照らし合わせて考えるという営みといいましょうか。また、「いし」の章はとくにおもしろかったです。恐らくアスペルガー等の障がいのために、人とのコミュニケーションが苦手な子が、瓦を焼く実験を行い、瓦が溶けるのを見て、どれくらいの高温で人々が焼かれたのかを理解するというアプローチには、斬新さを感じました。追体験させ、語り継ぐという児童文学の役割を正面から考え、書かれた作品だと思いました。でも、何人かがおっしゃったように、たしかに巻末の先生の文章はそんなに長くなくてもよかったかなという気はしました。

マリンゴ: 人よりも「モノ」を切り口に、戦争に対して自分なりの共感、共鳴をしていくところが、非常に新鮮でした。とはいえ、第1話は人物造形がつかみづらくて、読むのに苦戦しました。この主人公の男の子の友だちが出てこないので、それなりに友だちがいるタイプの子なのか、孤高の子なのか、あるいは男子にも疎んじられているような子なのか、そのあたりがよくわかりませんでした。第2話でようやく、この物語の魅力に気づいた次第です。なお、1、2、3話は、自分の持ち物の記憶と、現地で見たものの記憶を照らし合わせるという同じ構造になっているので、違うアプローチの作品を挟みこんでもいいのに、と思いました。タイトルの『ワタシゴト』はとてもいいと思います。戦争を、現代の自分のことに結び付けて考えられるお話はなかなかないのですが、それが伝わるタイトルだと思いました。

さららん:私も『さがしています』を思い出しました。原爆と修学旅行に行った子どもたちを結びつける物の印象が、とにかく鮮明でした。たとえば「くつ」の章で、雪人は優等生の印象を壊そうと、ハイカットのカラフルのスニーカーを履きます。それが黒づくめのおばあさんに「その靴はええね。千羽鶴の柄は、ここを歩くのにぴったりじゃ。やさしく歩くのに、ちょうどええ」と言われたり。思春期にある子どもたちの反抗心や悩みと、広島で見る物、触れる物がどの話でも意外な結びつきを見せるのがおもしろかったです。「ワンピース」の中の、えんじ色のレースの襟のエピソードは、それが声として聞こえてきたりします。物語のそれぞれに埋めこまれた場面の印象が強く残れば、その「塊」を頼りにストーリーを思い出せるんじゃないかと思うのです。五感を通して、子どもたちの記憶に残りやすい物語じゃないでしょうか。新しい取り組みの1冊って感じがします。

アンヌ:私はこの物語の現代と過去がうまくつながらなくて、みなさんがどう読んだのかを聞いて、なるほどなと思っているところです。最初の「弁当箱」で、凛子たちがお弁当の中身を再現した話とその味わいから、作った母親の気持ちにまで至るというところと、俊介が投げ捨てたお弁当に自分の嫌いなおかず以外の何かが入っていたのではないかと思うところには感じ入ったのですが、間の凛子の母親のエピソード等が多すぎて、物語の行方がすぐにわからなくなったのかも。「いし」はおもしろかったのですが、最後の一言にどれほど真実味があるのかと思ってしまったり、「弁当箱」の俊介が最後の赤田圭亮さんのH君のように思えたり、変な読み方をしてしまったようです。

ハリネズミ:さっきから何人かの方が「問題が解決しない」とおっしゃっていることについてです。第一話には、ふだんはお弁当を作ってくれないネグレクト気味のお母さんが出て来ます。14歳だと、客観的にどうなのかは別としてこのお母さんが主観的に唾棄すべきものとして巨大な存在になっている。それ以外考えられないという状態になっているかもしれない。そういう場合、一歩引いたところから状況が見られるようになると、気持ちの上では楽になることもある。たぶんひどいお母さんなんでしょうけど、そこはなかなか変わらない。でもちょっと引いて少し距離をおくと、自分の人生をもう少し広い視野でみられるようになってくる。そうしたら、気持ちが楽になるかもしれない。実体験を通して他者にふれた子どもたちは、日常は変わらなくても別の視点を獲得して生きやすくなっていくんじゃないかな。だとすると、ある意味ではこの作品も、視点を変えるとか視野を広げるという解決策を提示しているのかもしれません。

しじみ71個分:私は解決しないままでいいと思いました。解決したらきっとお話がもっと軽くなってしまっていたのではないかと思います。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『ぼくたちがギュンターを殺そうとした日』表紙

ぼくたちがギュンターを殺そうとした日

アンヌ:主人公のフレディが農家のおじさんの家で暮らしていた時の様子が、丁寧に描かれていると思いました。たとえばp135でレオンハルトの母親と黙々とジャガイモの選別をして、レオンハルトが出てきても、箒で泥をはいて最後まで仕事を終わらせるという描写に、フレディには、もう農家の仕事が身についているんだなと思いました。それにしても、村中の大人がこの子たちがギュンターをいじめたと知っているようなのに、なんでレオンハルトだけは、殺せばバレないと思いこんでいるのか不思議です。難民であるこの一家には、村の様子が入ってこなかったからでしょうか。大人たちも戦争で人を殺し、ユダヤ人を追放した迫害者でもあったのに、自分の村では正しい大人として子供を厳しく罰しようとする。この矛盾に、戦後すぐのドイツという国の葛藤を感じられる物語だと思いました。ただ、それがうまく書けているかと言うと、奇妙などっちつかず感がありました。フレディが物語の終わりごろから妙に傍観者的になったり、作者が大人の話者として顔を出したりするせいかもしれません。

さららん:ギュンターへのいじめからまずいことになり、リーダーのレオンハルトの、「あいつを殺そう」という言葉にフレディは反対できません。力の強いものに弱いものが徐々に支配されていく恐ろしさは、ほかの児童書でも読んだことがありますが、この本の背景、戦後すぐのドイツに東プロイセンから難民が押し寄せた時代のことは知らず、その点だけでも自分にとって新しい1冊でした。親類も復員してきて、フレディのまわりにはナチスのSSだった青年たちがいます。その1人のヴィリーにフレディたちは救われ、グスタフにもフレディは変わらぬ好意を持ち続けることが最終頁(p149)でわかりますが、そこで複雑な思いにとらわれました。SSというだけで偏見の目で見られる時代が続いたのかと思う一方、少年の素朴な感情の中でSSの行為を許して、それですむのかという疑問です。ドイツはホロコーストだけではなく、こういうふうに同国人を受け入れ直してきたのか、という発見がありました。ギュンターはなにかの障がいがあるようですが、最後まで謎の少年で、欲を言えば、もう少し彼の内面を知りたかったです。

マリンゴ: ヒリヒリし過ぎる物語で、途中で何度、本を閉じて深呼吸したかわかりません。普段はそんなことしないんですけど、後ろのほうをめくって、ギュンター死なないよね?と確認してから読み進めました。子どもたちの非常に短絡的な、浅はかな考え方、計画、そういうものがリアルです。大人たちは既にじゅうぶん疑っていて殺したら即犯人はわかるのに、逃げ切れると思いこんでいる視野の狭さが表現されています。そして時代性。大人たちだって殺し合いをしてきたんだから、自分たちがひとり殺したっていいだろう、と子どもが思ってしまう・・・。大人は「戦争は別だ」と考えますが、その理屈が「正しい」わけでもないんですよね。これを読んで思い出した作品があります。まったくタイプが違う小説なのですが、去年末の「このミステリーがすごい!」で1位を取った辻真先さんの『たかが殺人じゃないか』(東京創元社)です。根底に流れる感情が似ていると思いました。これからお読みになる方のためにネタバレは避けますが、御年89歳の作家が書いた昭和24年の物語です。戦争の頃、たくさん人が殺し合った記憶が鮮明で、だからタイトルの『たかが殺人じゃないか』という考え方が生まれるわけなのでした。

しじみ71個分:自分が少年時代に実際にあったことを描いている、と作者の後書きにありますが、第二次世界大戦直後のドイツの雰囲気が大変に理解しやすく、その中で子どもたちの心理をヒリヒリと描きだしているのがすばらしいと思いました。東プロイセンからの難民や、お父さんを亡くした子などが、疲弊と貧困の中で労働させられ、大人から体罰を受けるなど困難を抱えるなかで、行き場のない怒りをいじめとしてぶつけてしまい、それがエスカレートしていく様子にはドキドキさせられました。ギュンターを寄ってたかっていじめたことは、周囲の大人たちにはみんなバレているにもかかわらず、子どもたちは近視眼的になって、ギュンターを殺すことでいじめの事件を隠蔽しようとします。それは家を追い出されてしまうかもしれないなどという不安からでしたが、こういった子どものときの卑怯な気持ちは自分の中にもあったと思い出され、それをえぐり出されるような気分でした。でも、作者は、いじめや同調圧力や、戦争と殺人の境界線など、複雑な難しい問題を大きなあたたかい目で見ていると感じます。大人が戦争で殺した殺人は殺人ではないのかという問いは、決して解決しません。SSにいた従兄のグスタフもいい家庭人であるにもかかわらず、ユダヤの人たちに残酷なことをしてしまったという事実を透明な視線で見ているようです。普通の人が殺戮を行えるという、その細い境界線をいかに考えるか・・・。今にも通じる重要な作品だと思いました。

ハル:原書は2013年発表ということで、最近の本というわけでは決してないのですが、とても新しいものを感じました。こういうふうに戦争を伝えていく必要があるんだな、というか、これからはこういう形で戦争を伝えていくようになるんだろうな、と思いました。戦争を過去のひどく恐ろしい出来事として認識させるのではなく、自分の心の中にもあるものとしてとらえさせ、自分のことに置き換えて想像させ、より身近な問題に落としこんでくれる作品です。ぜひ、主人公たちと同じくらいの年頃の子にも、その子たちを取り巻く親世代の人にもおすすめしたいです。でもひとつだけ・・・注釈は、なければないで不親切だし、あればあったで煩わしいし。特に最初のほうは、注釈で気が散ってなかなか集中できませんでした。巻末とか章末にあるのがいいような? でも、うーん、難しい! 注釈は悩ましい問題です。

エーデルワイス:ショッキングな題なので、覚悟して読みましたが、とてもおもしろかった。作者の実体験に基づいていることに興味を抱きました。宣教師の父親とは何があったのでしょうか? 戦争が背景にありますが、時代を超えた青少年の危うさを描いていると思います。異質なものを排除するいじめの問題、親から子どもへの暴力の連鎖。この本のおかげで同作者の、『川の上で』『ふたりきりの戦争』(どちらも徳間書店)も読んでみました。また同時代、第二次世界大戦末期のドイツと旧ソ連の国境が背景の『片手の郵便配達人』(グードルン・パウゼヴァング/著 高田ゆみ子/訳 みすず書房)、『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール/著 河野万里子/訳 ポプラ社)も読みました。

カピバラ:この著者の『川の上で』を前に読んだのですが、とてもおもしろくて力強い本で、今でも印象深く残っています。今回の本も重厚な作品でした。たくさん子どもたちが出てくるんですけど、どの子もやり場のない不安をかかえ、不安と隣り合わせに生きている。だから自分よりも弱い者が目障りで、いじめてしまう。それがどんどんエスカレートして、後戻りできないところまで行ってしまう怖さがよく描かれていました。大人たちも疲れ果てていて、子どもを虐待したり、理不尽に押さえつけたりしようとする。大人たちも戦争で多くの人を殺しているんだから、ギュンターを殺したぐらいで大騒ぎしないだろう、と少年たちが思ってしまうところは背筋が凍りました。でもそれが戦争の真実なのでしょう。しかしこれは戦争中の異常な空気の中でだけ起こることではなく、今の社会でも起きているので、それが怖いと思いました。私も、殺さないんだよね、殺さないんだよね、殺しちゃったらどうしようと常に緊張しながら読んでいきました。ちょっとホッとしたのは、ギュンターが馬のことに詳しいとわかって、フレディがちょっと見方を変えるところと、ルイーゼという元気な女の子の存在です。戦争の時代の事実をもとにした話として、貴重な本だと思うんだけど、今、日本の子どもたちにどんなふうにすすめたらいいのか、難しいところだと思いました。

まめじか:戦争といじめを重ね、組織的に行われる暴力を描いた作品で、とてもおもしろく読みました。子どもは戦争でひどいことをした大人に不信感を抱き、また家庭によっては体罰や脅しで子どもを押さえつけようとし、そんななかで暴力が連鎖していく。同調圧力から抜け出せない人間の弱さ、フレディが自分の目で見て判断しようとする過程がよくとらえられています。チェコやポーランドの旧ドイツ領だった地域で暮らしていた住人が戦後、土地を追われたことは、ドイツの他の児童文学や絵本でも見たことがありますね。

サークルK:迫害されていたのはユダヤ人だけではないことがわかるので、子どもたちが『アンネの日記』などを読んでナチスに迫害されたのはユダヤ人だけだ、というように思いこんでいるとしたら、ことはそんなに単純ではないのだと気づくことにもなり、新しい想像力の目をひらかれると思いました。ただ、タイトルがショッキングなので、こわいもの見たさに手に取った子どもがどんな衝撃を受けるのかは心配になりました。映画で言うと『スタンド・バイ・ミー』の世界を彷彿とさせるのですが、この物語はみんなが協力してひどいことをしそうになる、その過程で大人になっていくという物語だと思います。最後に「日本の読者のみなさんへ」の中で、作者は物語のフレディなのだと告白しています。日本の、と書いてあるので、原作では語られていないのかもしれませんが。一般的には、一人称の「私」語りであっても、それを作者そのものと重ねて読むことをよしとしないこともありますが、子どもの本の場合、このようなカミングアウトは作品そのものの評価にはあまり影響がないのかしら、ということも気になりました。

ハリネズミ:日本の子どもたちにも共通するテーマが描かれていると思いました。主人公のフレディは、みんなでギュンターをいじめた後気分が悪くなる、お姉さんに相談の手紙を書こうとするけれど実行できない、ギュンターが学校を休んでいるのを知って様子を見に出かけて行くと同じく様子を見に来ていたレオンハルトに遭遇するなど、心のもやもやを抱えて右往左往する過程がとてもリアルに描かれていると思います。いとこがたくさん出てくるので、あれ、いとこの名前が違うじゃないと、最初ちょっと混乱しました。いじめがばれないように殺人を考えるというのは極端な気がしますが、著者の実体験だと知って、戦争が影を落としているこの時代には本当にあったことなのだと怖くなりました。そういう意味では後書きがものを言っていると思います。

西山:ナチスの時代を描いた作品はいろいろと読んできましたが、ドイツの戦後の時期を描いているのを新鮮に受けとめました。あれだけのことを起こし、モラルが崩壊して、それがその後の人生や子どもに影響を及ぼしていないわけがないのに、ハッとさせられたという感じです。隠しているつもりの行動がおとなたちにバレバレとか、子どもらしい迂闊さ?は普遍的で、でもやっていることの桁が違って、怖さひとしおという感じでした。障がい児をいじめて、それを隠すために嘘をつき口裏合わせをする「歯型」を書いた丘修三さんに、読んでみるようすすめたいと思いました。津久井やまゆり園の事件も思い出しました。

ネズミ:物語に入りこむまでに、ちょっと時間がかかりましたが、事件が起こってからは一気に読みました。当時の農村部の暮らしぶりの描写に、『アコーディオン弾きの息子』(ベルナルド・アチャガ/著 金子奈美/訳 新潮社)を思いだしました。ちょうど時代も同じくらいで、人々が手仕事で暮らしている様子が似ています。生活の手触りが伝わってきて。『アコーディオン弾きの息子』では、フランコ側の思想を持つ父親が内戦中に人殺しに関わっているのではということで、主人公は苦しむのですが、大人のやっていることが子どもに反映するというのも同じです。それから、この大人たちの子どもへの接し方は考えさせられました。何が起きたか勘づいているのに口を出さないんですよね。なかなかこういうことはできそうにないので。内容とは関係ありませんが、もう少し字組みがゆるいと読みやすいかなと思いました。

ハリネズミ:ルドルフおじさんが脱走兵だということを、村の人たちは知っているわけですが、密告したりしないんですね。日本だと逃亡兵だとか義務を遂行しない者に対して厳しく糾弾たり密告したりということもあったと聞いていますが、ここにはもっと大らかな人間関係が存在しています。ある意味、村人のその大らかな目は、ナチスに荷担したりSSだった者たちを無条件に許していることにもなるわけですけど。そういう大らかで普通の「いい人」たちが、戦争となると否応なく殺人あるいは殺戮へとつながる行為をしてしまう。そのことをこの作品は浮き彫りにしていると思います。

アンヌ:村の人たちは、だれがナチスの親衛隊だったとか、あの人はダッハウにいたとかも知っているんですよね。でも、駐留軍に密告されたりしないで村で暮らしていける。

しじみ71個分:この本を読んで、先日、JBBYのノンフィクションの学習会で取り上げた『命のうた~ぼくは路上で生きた 十歳の戦争孤児~』(竹内早希子/著 石井勉/絵 童心社)という本を思い出しました。その本の中にも終戦直後の困難を抱える子どもたちの姿が描かれており、それと共通する点を感じました。戦争直後の姿というのは、あまり読んだ経験がなかったので、重く受け止めました。

さららん: p22に、男の子が着るのに恥ずかしいものとして、「股割れズボン」がでてきますが、どういうものか知りませんでした。できれば、注が欲しかったです。

ハリネズミ:私は中国の保育園で子どもたちが股割れズボンをはいているのを見たことがあります。寒い地方や季節だとズボンを脱がなくてもトイレができるので便利なのかな。でもヨーロッパにもあったのは知りませんでした。まあ文字を見ればどういうものかは想像がつきますが。

ルパン:ハラハラしながら読みました。タイトルが「殺そうとした」だから、きっと殺さないんだろう、とわかっていても、やっぱりドキドキしました。どう解決するのか、ギリギリまで引っ張ってくれましたが、私としては大人が出てきて収めてしまうのはちょっと拍子抜けでした。ここで女の子が銃をぶっぱなしてくれたらもっとよかった。せっかくフレディが一生懸命考えたことだから。とてもおもしろくて一気読みだったのですが、登場人物が多すぎてちょっと混乱しました。

西山:子どもはそういうことをするという面がありますよね。昔、元教員から聞いた話です。川で遊んでいて、一人がおぼれてしまった。でも、一緒にいた子どもたちは、禁止されている場所で遊んでいたことを叱られると思って、おぼれた子をそのままにしてしまったというのです。とんでもないけれど、でも、子どもの一面ではある。

しじみ71個分:いじめの果てに殺してしまうのは今の世の中にもありますね。生死の境界、やっていいことと悪いことに関する認識がとても薄く、感情が育っていなくて、結果として殺してしまうというようなことが今でも起こっているのを思うと、本当に難しい問題だと思います。

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鏡文字(メール参加):薄い本だったのですぐ読めるかと思ったのですが、予想以上に時間がかかりました。固有名詞も多く、特に前半は読みづらかったです。イジメの発覚を怖れて殺してしまおうという発想に驚かされますが、事実に基づいた物語とのこと。第二次世界大戦終結直後という、多くの大人たちが人を殺すことに手を染めた時代背景ゆえのことなのかもしれません。父の不在や難民の存在が当たり前という社会状況にあって、だれもが傷を負っており、良きロールモデルもなかなか見出せない子どもたちの姿が痛ましく感じました。終盤ははらはらしながら一気に読めました。おそらく自身も心の闇を抱えつつ、軌道修正を提示するヴィリーが印象に残ります。少年たちのその後を知りたくなりました。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『王の祭り』表紙

王の祭り

まめじか:時代の波の中で様々な制約を受けている人々が、それでもその中で自分の人生を生きるということが描かれています。主人公のウィルは自信のない子です。父親の仕事を継ぐのが当然だと周囲からは思われているけれど、その覚悟はできてないし、じゃあ何をしたいかというと、自分でもわからない。でもウィルは詩と物語が好きな子なんですよね。だから型通りの言葉を並べただけの暗唱で失敗してしまったのかな。この本に描かれているのは、権力争いの中で庶民が翻弄される、混沌とした闇の時代です。目の前で雑兵が母親の腕を切り落とすし、育てられない子どもが売られていく。そうした記憶が内にたまっていっても、こらえて吐き出さないお国に、狐は「秘めたる怒りを怒れ。心の奥底をわめけ」と言う。お国は舞い、人は芝居をし、あるいは見世物を観て、胸の内に煮えたぎる思いを吐き出すのでしょう。舞台は現実の対極にある夢の世界であり、現実を映したものでもある。「この世は舞台」というシェイクスピアの言葉にもつながりますね。実在の人物では、信長が外に開かれた精神をもち、新しい風を吹かせようとする人として描かれているのがおもしろかったです。複雑な筋の物語なので、中高生はどこまでついていけるのでしょうか。女王を愛しているがゆえに、ほかの人と結ばれるくらいなら殺してしまおうとするレスターの想いの強さ、ハムネットのぎらぎらした生命力というか、どんな状況に置かれても生きのびようとするしぶとさは、もう少し筆を足さないとピンとこないような。これだけたくさんの登場人物を、このページ数の中で掘り下げて描くのは難しいのでしょうが。女王がなぜローマ教会からにらまれているのか、その背景にある国教会とローマ教会の対立は中高生の読者にわかるでしょうか。

ハル:ローマ教会との関係はp15に説明がありましたよね。「女王の父・ヘンリー八世は彼女の母アン・ブーリンと結婚するために、妻のキャサリン王妃と離婚しようとしたが、離婚を禁じているローマ教会はそれを認めなかった。そこでヘンリー八世はローマ教会を切りすてた」。それから「ヘンリー八世は新しくイングランド国教会を設立し、国内のカトリックの教会や修道院を廃し、その財産を取りあげた」とあります。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですが、信長像はこれでいいのかな、と思ってしまいました。信長は立派な君主のように描かれていて、エリザベスは信長に出会って王とは何かを知るということになっているんですが、実際の信長はとても残虐で評判が悪いという側面もあるようなので、ギャップがありました。ウィルの不思議なおばあさんがいろいろと話をしてくれて、妖精と遊びなさい、という部分は作者の想像だと思いますが、おもしろかったです。革手袋とエリザベス女王を結びつけるくだりもおもしろかった。最初の方はぼんやりでぼんくらなウィルが後半になると別人のようにしっかりするのは、どうなんでしょう? 登場人物が多すぎるので、もう少し整理してもいいのかな、とも思いました。トリックスター的な存在だけでも、パック、死の馬車の御者、ハムネットと複数出てきます。女王の暗殺をねらう勢力は2派あるんでしょうか。それとも司教とレスターは手を結んでいるのでしょうか? 急いで読んだせいか、そのあたりが頭の中であいまいになっています。リアリティという点では、一座の主のお豊がスペイン語が話せるのはありか?と思ってしまいました。それから、ふつうこういう物語では異世界に行っている間は時間がたたなかったりしますが、日本は異世界ではなく現実世界なので、ちょっとひっかかりました。

アンヌ:また信長かと読み始めましたが、イギリスのウィルの話になってからは、とてもおもしろくなりました。おばあさんのおまじないの方法とかパックの帽子とかの仕組みもうまく仕込まれているし、手袋の古びをつけるためにウィルを城に連れて行くとか、おもしろく話が進んで行きます。エリザベートが出て来てマンガの『ベルサイユのばら』(池田理代子/著 集英社 )のような宮廷の恋かとおもしろくなったところで、日本にワープしてしまうのは残念でした。お国については、怒りを踊りにするところとかがうまくイメージできなくて、出雲阿国へのつながりが読み解けませんでした。ただ、お国たちや河原にいる人たちがみんなで今様を謡い踊るところに『梁塵秘抄』の歌も出て来て、いつかこれを読んだ人が学校で古典を習うときに、「あれ、この歌、いつか読んだ物語の中に出てきたな」と思えたらすてきだと思いました。『平家物語』や後白河法皇との関連で知ってしまうと、白拍子が権力者のために舞い踊る歌のように思いがちですが、もともとはこんな風に大衆の中から生まれてきた歌だという事が感じられる場面です。コンフェイト(金平糖)や抹茶がこの時代のものとして出てきますが、そんな風に物語の中で無意識に味わった食べ物や古典文学に、大人になってから再び出会い、気付けたらすてきだと思います。

はこべ:アイデアがおもしろいですね。特に前半は、ささっと読んでしまいました・・・が、思いだしてみると、訳がわからない箇所が出てきて(ラベンダーの花模様の小箱は、いったいどうなったのかなとか)、まめじかさんにメールで訊いたりしました。総じて、イングランドが舞台の部分は、すらすらと物語が進んでいるし、よく調べて書いているなと思いましたが、日本に舞台を移してからの後半は、盛りだくさんの上に駆け足で書いているという感があって、不満が残りました。どうしたって日本史のほうが馴染みがあるので、しょうがないかもしれないけれど。それと、登場人物がとても多いので、最初に登場人物の紹介を書いたほうが良かったのでは? さてさて、読みおわってから、作者は何が言いたかったのかなと考えてしまいました。おもしろかったら、それでいいのよ・・・と、言われそうですけどね。わたしはアメリカの少年がタイムスリップしてシェイクスピアの劇団に入るスーザン・クーパーの『影の王』(井辻朱実/訳 偕成社)が大好きで、あの作品にはファンタジーのおもしろさだけでなく、ずっしりと心に響くものがあったと記憶しているけれど・・・。

コアラ:おもしろく読みました。歴史上の実在する人物を書いているのに、窮屈さがなくて、自由に想像をはばたかせている感じがとてもよかったと思います。エリザベス女王と織田信長を対面させるというのも、一見無理がありそうですが、なんとなく設定を受け入れて読み進めることができました。作者がうまいのだと思います。お国たちの小屋にエリザベス女王がかくまわれるというのは、さすがに無理があるとは思ったのですが、それでも読み進めることができたのは、それまで、それぞれの人物や生活がしっかり描かれていて、物語の中に入り込めていたからだと思います。信長がカッコよく描かれていますが、作者は信長が好きなんじゃないでしょうか。好きな物事を書いている、という感じがあって、好感を持って読みました。シェイクスピアにまつわる部分も楽しめたし、歴史上のことを知っていると、より楽しめると思いますが、知らなくても、不思議な体験をするファンタジーとして、おもしろく読めると思います。織田信長さえ知っていれば十分楽しめる。小学校高学年くらいからおすすめです。

エーデルワイス:私も楽しく読みました。よくも、よくもこんなに盛りだくさんの内容を、と感心しました。NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていたので、明智光秀も出てくるこの本はタイムリーでした。映画「エリザベス」やエリザベスの母アン・ブーリンの映画「1000日のアン」も思い出しました。細かいことを言えばうーんと思うこともありますが、時空を越えて日本の歴史とイギリスの歴史をドッキングさせるなんて、こういう発想はおもしろいと思います。

マリンゴ: 評価が難しい作品だと思いました。よく評価すれば、幻想的で先が読めなくて、生きる力強さと儚さが同時に感じられる物語であると言えます。ウィルが後のシェイクスピア、というのもおもしろいです。劇中劇も、あ、ロミオとジュリエットっぽい、と仕掛けがわかるのも楽しいと思いました。ただ、悪く評価すれば、バランスが悪いようにも思います。イングランドのパートはおもしろいのだけれど、織田信長の時代に移ってから読むスピードが落ちました。7年のタイムラグがあるのは、お国を登場させるためだと思いますが、そのせいで、信長がすぐに暗殺されます。王同士がわかり合うには時間が短すぎる気がしました。ウィルとお国、信長と女王の両方の巡り会いを1冊に入れて、盛りだくさんではありますが、多少無理が出ているように思いました。あと、装丁からは「洋」の香りがあまり漂ってこないので、少しもったいないかなと感じました。

さららん:とても読みやすい文章で、おもしろくて一気に読みました。エリザベス朝の詩や、日本の曲舞、古い言い回しもいろいろ出てきて、言葉の重層感を楽しみました。設定もダイナミックで、かっこいいキャラクターも出てきます。ただ伏線が複雑にからまりあい、せっかくの魅力的な登場人物(例えばエリザベス女王の女性の護衛など)が使いきれていないように思われ、盛り込みすぎの印象を受けました。エリザベス女王は自ら決断して行動する存在としてではなく、悩める人として登場します。日本に来たあと信長に強烈な印象を受け、王たるものはどうあるべきかを考えはじめるのですが、私には人物像として物足りませんでした。女王暗殺の陰謀をイギリスで企んだイエズス会のエセルレッドが、日本で女王に再会するなど、手の込んだ設定もあります。ただ、エセルレッドは物語の本筋から離れたあと、「弾圧される日本の信者とともにあれ」と禁教後も逃げつづけたといいます(p311)。浅薄な敵役のイメージだったので、そこまで書く必要があったのか、わかりませんでした。

すあま:時間の流れについては、p5が「1575年日本」、p18が「1575年イングランド」となっていて、ここは同じ時。イングランドから日本に来たときに、日本の方の時が進んでいたので、お国は年をとっていたのですが、ウィルは11歳のまま。イングランドに帰るとまた1575年だったということで、ウィルは行って帰っても年はとらなかった、ということだと思います。この著者は2010年に『けむり馬に乗って〜少年シェイクスピアの冒険』(叢文社)という本を出していて、あらすじを見るとほぼ同じだったので読み比べようと思ったのですが、この読書会には間に合いませんでした。物語については、やはりちょっと登場人物が多すぎて、それぞれの人物についての物語や描写が中途半端になっていると思いました。登場人物たちがこの後どうなるのか、続きがあってもよいような話なので、これだけでは物足りない感じがします。お国が出雲の阿国でウィルがシェイクスピア、というのは、大人はおもしろいけれど、子どもにはわからないのでは。

サークルK:すごくおもしろかったのですが、p45あたりになってようやくウィルとはウィリアム・シェイクスピアのことだったのだ、とわかりました。そこまで読み進むまでは信長の話に、エリザベス女王がどのように絡んでくるのかつかめずに、気の弱いウィルの存在をつかみかねました。たしかに信長とエリザベス女王は同時代の人なので、目の付け所はおもしろく、歴史を習い始めてそれが好きな子どもたちにはぐいぐい引っ張られる展開だと思いますが、あまりに勢いに任せて進んでいくので、読後はそのスペクタクルだけが残ってしまうのではないかと気になりました。登場人物も日英それぞれ歴史上重要な人物なので、その人たちが架空の世界でこれだけ動いてしまうと、一通りの日本史、世界史を知っている大人でさえも、頭を整理するのが大変かもしれません。ですので、表紙にもなっている「死神の馬車で女王一行が信長の城に突っ込んでいく場面」以降は史実の整合性よりもタイムスリップとかエリザベス女王はちゃんとイギリスに帰国できるのか、というところに集中して読むようになりました。革手袋を作る職人階級のウィルの祖母が、上流階級風の口調で語っているところも気になりました。けれど、エリザベス女王が、王としての風格十分で国を引っ張る女性としての描写が多かったので、読者の女の子たちへのエールになることも感じられました。

西山:前の『けむり馬に乗って』も読んでいます。かなり手を入れたとは聞いていますが、構成や登場人物は変わっていないと思います。何度読んでも、その都度読む快感を感じる作品です。いちばんに魅力を感じるのはパックですね。人間とまったく違う理屈で生きている存在が、愉快です。場面場面に演劇的なおもしろさがある気がしています。例えば、p32最終行の、母親がウィルを抱きしめて、口に干しアンズを押し込む場面など、どきりとして、映画のワンシーンのように思い浮かびます。お金をつぎこんで作った実写映画が見たいとかなり本気で思います。建物、装束、人物などなど、極上の歴史エンターテインメント映画になると思うんですよね。手袋を届けに訪れたケニルワース城でウィルたちの部屋が調えられていく様子とか、見たいシーンがたくさんあります。教科書に名前が出てくるけっこうな有名人が、続々と登場するオールスターキャスト的おもしろさもあります。それも、世界史は世界史、日本史は日本史で習うことが、クロスするのが中学生ぐらいの読者にとってもエキサイティングだと思います。絢爛豪華な名前が出てくるだけじゃなくて、ウィルの人物造形としては、父親の抑圧で自己肯定感がもてないことなど、時空を超えた普遍性があります。その点でも、子ども読者に伝わる作品だと思っています。日本に行ってからのウィルがちょっとしっかりしすぎなのは、興ざめかもしれません。最初のときは、細かな年表があったけれど、なくなったのがよかったのかどうか。表紙は断然よくなっていると思います。サブタイトルの「少年シェイクスピア」がなくなってしまったので、『王の祭り』で初めて読む人が、ウィル=シェイクスピアと気づくのに時間がかかってしまうのは、マイナスだったかもしれません。シェイクスピアと最初から知っていて読むと、あの作品の元ネタはこれ?みたいなマニアックな楽しみも出てきますので。

木の葉:改稿前の作品『けむり馬に乗って』と比べると、『王の祭り』は30ページ分ぐらい増えています。物語の大筋は変わってませんが、かなりの加筆修正を施しているようです。私はどちらも刊行直後に読んでいます。今回、読み直す時間がなかったのですが、読みやすくなったと思った記憶があります。一度出した本を別の形で出版するというのは、よほど愛着があったのでしょうね。為政者である信長とエリザベス1世、そして文化を担う者である出雲阿国とシェイクスピアを同時代人として物語に登場させるという着想を得た時、作者は夢中になったのかも、などと想像してしまいます。盛りだくさんのエピソードで、印象に残っているのは、手袋をめぐるくだりです。とはいえ、やはり読者を選ぶかな、という気もしました。歴史的なことにある程度の下地がないと、世界に入りづらいかも。信長はファンも多くラジカルな人ではあったようですが、どうしても叡山焼き討ちなどが頭に浮かんでしまいますし、為政者としての魅力を私はあまり感じていません。もともと権力者の話にあまり関心がもてないこともあり、信長とエリザベスの邂逅? それが? みたいに思ってしまう自分もいて、よく作り込まれてはいるけれど物語世界に心惹かれる、というわけではないというのが、正直なところです。

ハル:私はとってもおもしろかったです。遠い昔に生きていた人たちの物語を想像することで歴史が立体的に見えてきますし、悠久の時の流れのロマンを感じます。ロマンといえば、信長って、やっぱり作家にとっては、こうもロマンを掻き立てられる人物なんだなあと思ったり。でも、皆さんがおっしゃるような信長の残虐性については、時代性も加味しないといけないとは思います。登場人物としては「お国」がちょっと弱いかなぁと思いました。ときどきズバッと庶民代表みたいなセリフを言ったりもしますが、なんでこの子がこういうことを言うんだろうと、共感できるほどには人物に深みを感じませんでした。そのほか、物語上気になる点はいくつかありましたが、全体的にはおもしろかったです。ただ、この本を、いったい何部、誰に売ろうか、と我がこととして考えると頭が痛いというか・・・。YA世代の読者にどうしたら届くのかなぁって・・・。余計なお世話ですけど。

ルパン:この本に関しては最初に発言してしまいたかったんですけど・・・でも、みなさんのご意見を聞いてからでもやっぱり感想は変わらないです。まったくおもしろいと思いませんでした。「みんなで読む本」でなかったら40ページくらいでやめてたな。次々いろんな人を出してくるけど出しっぱなしだし、実在の人物も架空の人物もごちゃまぜで、何しに出てきたんだかわかんないのばっかりだし。エリザベス女王と信長を会わせてどうすんだ、っていう感じで。いろんな通訳が都合よく出てくるのも無理があるし。好きな子のために異世界にとどまることもないし、イギリスへの帰り方もよくわからないし。しかも主人公はシェイクスピアでしたとか、あとがきで、劇中劇は実は『ロミオとジュリエット』だったんですよ、とか、なんかもう作者がひとりで遊んでるのにつきあわされた、っていう感じで腹立っちゃって。しかたなく最後まで読みながら、「あ、そうか、この作品にはきっと続きがあるんだな?! 第2巻で、この三つ子とか〈ばばちゃん〉とかが出てきて活躍するわけね」って思ったんだけど、これで終わってるし。みなさん「おもしろかった」とおっしゃっているので、なんか水族館の回遊水槽のなかで1匹だけ反対向きに泳いでるイワシみたいで申し訳ないですが、はっきり言ってつまんなかったです。ゴメンナサイ。

ネズミ:非常に意欲的な作品だと思いました。私はファンタジーが得意ではなく、途中で頭がこんがらかりそうになりましたが。イギリスの場面と日本の場面とで、イギリスの場面のほうはウィルの気持ちにそって読んでいけるのですが、日本は、お国がそれほど前面に出てこなくて、群像劇のような感じがしました。それだからか、場面によってテンポに乗りづらく、読みにくく感じるところもありました。1箇所だけ気になったのは、p11の「青い目の伴天連」という言葉。伴天連はポルトガル人かスペイン人かではないかと思うので、だとすると、目の色は茶色や黒だったのではないかと。裏をとっていないので、間違っていたらごめんなさい。

花散里:とてもおもしろく読みました。先程、YA世代はどう読むかと言われていましたが、小学校上級くらいで読めるように書かれていると思います。ウィルと妖精パックが物語の中心であり、ファンタジーとして読んだときのおもしろさが非常にあり、日本児童文学の中でもとても良く書かれている作品だと思いました。物語はシェイクスピアがウィルと呼ばれていた少年時代にパックと出会い、エリザベス女王の暗殺事件に巻き込まれ、女王を助けよう馬車に乗り込んで、時空を超えて降り立った所が日本の都であり、少女の頃の出雲のお国と出会うというストーリーは壮大な歴史ファンタジーだと思います。エリザベス女王と信長、イギリスと日本の戦国時代を結ぶ物語は、ペスト菌や手袋の挿話などを盛り込み、庶民と権力者の生活を対比させて世相を描き、飽きさせない趣向が随所に感じられるなど、題材が独創的であると思います。参考文献が多く挙げられ、物語の時代背景について充分に調べてうえで丁寧に物語が描かれたことが伺われます。日本の児童文学としては稀にみるスケールの大きなファンタジーとして高く評価できると思いました。子どもたちに向けて書かれた「あとがき」からも、子どもたちがそこから歴史や文学に関心を広げていくように書かれていると思いました。佐竹美保さんの挿絵で新しく刊行されたことにはとても意味があると感じました。

カピバラ:おもしろいことを考えたよ~という本だなと思いました。いろいろとつっこみどころはあるんですけど、信長も、出雲のお国も、エリザベス1世も、シェイクスピアも、真偽のはっきりしない逸話が多い人たちなので、どんなふうに料理しようとも自由だ、というところがあるのだと思います。そしてこの4人が同時代に生きた人物だというところに目をつけたのがおもしろいと思います。『江戸でピアノを〜バロックの家康からロマン派の慶喜まで』(岳本恭治/著 未知谷)というおもしろい本があって、私は時々開いてみるんですが、上の段に徳川15代将軍が順番に紹介されていて、下の段には同じ時代のヨーロッパの音楽家のことが書かれているんです。綱吉とバッハ、家重とモーツアルトといった具合にね。日本とヨーロッパで同じ時代に生きていた人たちということで、『王の祭り』もこれと同じ発想ですよね。この物語の時代にはグローバル化なんて概念は当然ないわけですが、今の子どもたちは今この地球上で世界にどんなことが起こっているかを知って、地球はひとつという意識をもっていかなければならないので、この本のような視点をもつことは大切だと思います。実在の人物が登場する物語ということで、歴史に興味をもつきっかけになるといいなと思います。

さららん:最後にレスター伯爵が、女王に箱に入った手紙をさしだします。前にレスターからの箱を開いて森に入っていく場面があったけれど、これは別の手紙なんですね?

カピバラ:細かいことを気にしないで楽しめばいい本なんじゃないかな。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『彼方の光』表紙

彼方の光

木の葉:読み応えがありました。2人の逃亡を助けてくれるのは善人ばかりではないし、現代の考え方だと肯定できない人もいることにリアリティを感じました。黒人差別を扱った読み物では、主体的で向上心のある人物像が描かれることも多いですが、この本の主人公はそうではなく、境遇ゆえに、とくに最初の頃は無知で無力。いつまでも奴隷主をだんな様と言い続けるのが切なかったです。彼らを助けるさまざまな人の中では、川の男が心に残りました。とても苛烈ですが魅力的です。このところ日本でも多く翻訳されている黒人の苦難の物語を、アメリカの白人の子どもたちはどんな風に読むのか興味があります。というのは、日本の読者にとって、黒人差別の問題はホロコースト同様、ある意味では良心の呵責なく読むことができるからです。日本人がもっと取り組まねばならない日本の問題がある、ということでもあるのですが。それから、逃亡先としてのカナダという国について、もっと知りたくなりました。

ハル:それがもっとも悲しい部分なのかもしれませんが、主人公の少年が逃亡すること自体に消極的だったためか、劣悪な環境に私の気持ちが引っ張られすぎたからか、期待したほどハラハラドキドキはできませんでした。小説としてのおもしろさは、私にとっては満点じゃなかったです。木の葉さんもおっしゃっていましたが、白人の子や、いまの子たちが、どう読むのかなというのは、私も気になりました。

ルパン:私はとてもおもしろかったです。はじめ、サミュエルが、白人の所有者から逃げ出す意味が全然わかっていないところにイライラして、「ちゃんと言うこときいて!」とか「つべこべ言わずにハリソンについて行け」とか「なんでこの子を連れてくんだ!?」とか思いながら読んでいたんですけど、最後の最後で機転をきかせて、一緒にいたおとなたちも助かっちゃうところでは、「よーし!よくやった!」と、思わずガッツポーズでした。あと、せつなかったのは、白人のドレスを何枚も盗んで重ね着して逃げていく黒人女性が、「川の男」に、それを脱いで置いて行けと言われるのに脱ぎたくなくて、最後は川に流されてしまうところです。死と引き換えてでもきれいなドレスを着ていたかったのかな、と思うと・・・この女性も記録に名前が残っているんですよね。実在の人物とあるだけに、このあとどうなったかと思うと心が痛みます。

ネズミ:物語として楽しんで読みました。きっとカナデイにたどり着くのだろうと思って読み進めたのですが、途中で思いがけない展開があって、ドキドキしながら先を読まずにいられませんでした。当時のさまざまな事情が物語にとりこまれていますが、その一方で、予備知識がなくても楽しめる作品になっていると思います。ハリソンの冗談めかした口調など、登場人物の言葉づかいがていねいに訳され、物語としての豊かさを感じました。

花散里:表紙画から感じる重たい暗い印象が、読んでいてもずっと続いているような気がしました。顔を傷つけられたり、ろうそくの火に手をかざさせられたり、人としての尊厳を奪われ、まるで物や道具のように売り買いされ、家畜のようにこき使われた奴隷たちについて、現代の子どもたちはどのように読むのかと思いました。現在でも問題になっている黒人差別について、このような歴史的背景を知り、この本からも考えてもらえたらと思いました。川の男や、たくさんの服を着て香水をつけた女の人など、登場人物も印象的な人がいて、物語の厚みを感じましたが、「シゴーコーチョク」は子どもに意味がわかるのでしょうか。「あとがき」の字が小さくて大人に向けて書かれているのかと思いました。地下鉄道についてなどを知るためにも最後の地図は役立つと感じました。

カピバラ:タイトルから、きっと最後は光が見えるのだろうと予測できたのですが、それでもやはりハラハラどきどきの連続で、帯に書いてあるとおりまさに「一気読みの逃亡劇」でした。非常に過酷な状況が描かれていますが、主人公サミュエルの子どもらしい見方や考え方がときにほほえましく感じられるのに救われました。情景描写が細やかなので臨場感がありますが、すべてサミュエルの目を通して描かれているのが良かったと思います。たとえば、p165真ん中あたり、「頭の上には、大きな鉄製のランプが天井からさがっていた。思わず、黒いクモがあおむけになって、足の一本一本に白いロウソクをもっているところを思いうかべた」。情景がとてもよくわかると思います。
印象に残った描写が随所にありましたが、中でも、p113で川を渡してくれた男が語ったことです。「老人と旅をしたことがある」というんですね。8歳の時、年寄りの黒人と鎖でつながれて歩かされた。「その老人は、おれたちをつないでる鉄の鎖をもちあげて、その重さができるだけおれにかからないようにしてくれた」という部分です。ハリソンはぶっきら棒でサミュエルに優しい言葉などかけはしないけれど、この老人と同じ気持ちを持っていることを暗示していると感じられ、印象に残りました。だからこそ、ハリソンがおじいちゃんだと気づくところは感動しました。地下鉄道を扱った物語は今までもいくつか翻訳されており、私もそういったものを読んで初めてその歴史的事実を知りましたが、まだまだ数は少ないので、この本が翻訳されたことはとても良かったと思います。今またBlack Lives Matterで日本でも関心を寄せる人が増えてきたので、子どもたちにも知ってほしいと思います。一般文学では、奴隷制度を扱う場合にどうしても事実を知らせるという意味で残忍な描写を描くことが多いですが、児童文学は、奴隷制度に抵抗する活動として「地下鉄道」にかかわる人々の勇気や人間愛を描いて、過酷な運命や差別を乗り越える力を伝えようとすると思います。それが大人から子どもへのメッセージになっていると思います。

まめじか:サミュエルは物音に驚いて急に逃げだすような臆病な子で、絶対に川に入らないと言い張るなど、強情な面もあります。そんなふつうの、等身大の姿が描かれているのがよかったです。農場の狭い世界で育ち、トウモロコシ畑より先には行ったことのなかったサミュエルは、「わしらのもんはなにひとつない」「池という池、魚という魚はぜんぶ白人のもんだし、連中は、わしらのもってるもんはなんであれ取りつくそうとする」というハリソンのせりふに集約されるような状況で、自分の人生を取りもどすための旅に出ます。命がけの逃避行のあいだ、深い悲しみの中にあって現実と幻の境がつかなくなったテイラー夫人やグリーン・マードクなど、いろんな人に出会います。決して善意で動いているような人たちだけじゃないし、黒人谷で暮らす人々も、中には助けてくれる人もいれば、見捨てる人もいる。サミュエルは人に会うたびに、信用できるかを判断し、その過程で人を見る目が養われ、最後には知恵を働かせて危機を脱する。そこに説得力がありました。

ハリネズミ:アメリカの国内だとまだ奴隷所有者に雇われた追っ手に捕まる可能性があるので、別の国であるカナダに逃げるのですね。では、カナダが過去に人種差別のまったくない国だったかというと、そんなことはなくて、先住民に対する差別はずいぶんあったと聞いています。アメリカやカナダには、Black History Monthという黒人の歴史を学ぶための月があって、アフリカ系の人たちが連行されてきたことや、社会の中で果たしてきた役割を、学校などでも勉強するんですね(あとで調べたら、今はイギリス、アイルランド、オランダなどでも同様の月間があるようです)。そういう際には、このような本も使って、白人でもアジア系でもみんなアフリカ系の人たちのことを学び、多様な見方を身につけていくんですね。そしてそういうところから、たとえばローラ・インガルス・ワイルダー賞という名前も、白人の歴史しか見ていなかった作家の名前を冠しているのはまずいんじゃないかという意見が出てきて「児童文学遺産賞」に変わったりする。一方、社会を変えていくための様々な工夫が、日本ではとても少ないので、女性差別にしてもなかなか変わらないんじゃないかなと思います。この本で何を日本の子どもに伝えるか、という点で言うと、いちばんはカピバラさんもおっしゃっていたように、「地下鉄道」のことかと思います。実際に鉄道があったわけではなく奴隷を逃がすための人間のネットワークですが、この「地下鉄道」にかかわったいちばん有名な人はアフリカ系のハリエット・タブマンという女性で、「車掌」(案内人)になって、多くの奴隷の逃亡を手助けしました。タブマンは20ドル札の絵柄になることがオバマ政権で決まっていたのですが、トランプがストップさせ、今はまたバイデンが実行しようとしているようです。タブマンは黒人ですが、白人も先住民も逮捕覚悟でこの「地下鉄道」の担い手になっていたのです。中には金儲けになるからと考えた人もいるのでしょうが、それにしても見つかれば重罪になるわけですよね。そうした危険にもかかわらず、人間を人間として扱わないのはおかしいと考える人たちがいたことを知るのは、日本のこどもにとっても希望になると思います。斎藤さんの訳もいいし、ずっとこの子の視点から旅路を追っていくのがとてもいいと思いました。希望はなかなか見えてきませんが、「光」という言葉があるのでそれを頼りに読み進めることができると思います。

アンヌ:読み始めた時はサミュエルたちがカナダを目指しているとは気付かず、暗闇の中を行くような逃避行だと感じて読むのがつらく、何度か本を置きました。川の男に会って「自由黒人」という言葉を知り希望を持て、そこからは一気読みでした。黒人谷で病床のハリソンの枕元でベルが「沈黙は永遠の眠りを招く・・・だから、あたしは家のなかをたくさんの言葉で一杯にするの」と言う。このp235のベルの言葉は、言霊で命を結び付けようとするようで、好きな場面です。そして、そんな瀕死の時でもハリソンがサミュエルに祖父と名のらないほうがつらくなくていいと思い込んでいることに、とても悲しい思いがしました。読み終ってから地図があるのはよかったと思いました。表紙の絵は、原書では三日月と身をよじる少年の絵だったけれど、日本語版は満月と影絵で、なんとなく希望を感じられて、いい表紙だと思いました。

はこべ:最初は頼りない主人公が、逃避行をつづけるうちに成長していく様子と、史実に基づく重みが2本の柱になっている力強い物語で、一気に読んでしまいました。冒頭の、主の息子が主人公を残酷な目にあわせる場面にあるように、観念的ではなく、すべて細かい描写で綴っていく手法が効果的で、素晴らしいですね。特に、川の男。こういう人物を創り上げる作家はすごいと思ったら、実在の人物なんですね。主人公たちを救う活動に協力しながら、銃をつきつけて相対する未亡人も、実際にモデルがいたのではないかしら。克明な描写で登場人物の背景や心の内まで浮かびあがらせているのは、優れた翻訳の力があってこそだと思います。たしかに描かれている事実は暗いものだけれど、子どもの目で語られているので理解されないということはないし、暗いから、難しいからとためらわずに、ぜひ子どもたちに薦めていただきたい本だと思います。

コアラ:地下鉄道のことは、この本で初めて知りました。多くの人がサミュエルとハリソンを助けてくれますが、相手が本当に味方なのか、裏切られるんじゃないかという状況が、サミュエルの側に立って書かれています。ハリソンでさえ、途中で、訳のわからないうわごとみたいなことを言うんですよね。何を信じたらいいかわからない状況に放り込まれた感じで読みました。印象的だったのが、p169で、ハリソンが「紙に書いたものが嫌いだ」と言って、牧師が書いた自分たちの物語を破って捨てたこと。善意が相手に喜ばれるとは限らないことがよくわかったし、それほどハリソンがつらい思いをしてきたということが、読んでいてつらかったです。p266の4行目では「あのときのぼくはカナダのことを考えようとしていた」という文章が出てきます。あ、助かったんだな、助かった後でそのときのことを振り返った文章なんだな、と思いました。それで、そのあとの場面でつかまった時も、どんな風にこの絶体絶命の危機を乗り越えるんだろうと期待して読むことができました。「あのときのぼくは〜」のような文章は、けっこう大事だと思います。あと、花散里さんと同じように、私も「あとがき」の文字が小さいと思いました。地下鉄道という言葉は「あとがき」にしか出てこないんですよね。この文字の小ささだと、本文を読み終わった子どもが「あとがき」まで読むのかな、とちょっと残念でした。暗い感じの物語だけど、日本の子どもたちにも知ってほしいと思いました。

エーデルワイス:サミュエルが、賢い機転の利くような子ではなく、逃亡に引きずられるようについていくような、好奇心と少年らしい危うさがあり、そこが好きです。そして最後の最後でみんなを救うところが素敵。購入した本には「史実に基づいた・・・」とあるようですが、図書館の本には帯がないので、あとがきを読むまでそのことはわからない。地図は最後でよかったのか、最初にあった方がよかったのか、疑問に思いました。サミュエルが追い詰められる、不安な心境の表現に、p12に「ぼくはのどがつまるような気がした。まるで、大きなヘビがのどに巻きついたみたいだ」とありますが、この表現は度々出てくるので、いかに厳しい逃亡かわかります。ハリソンはサミュエルの母親の合図の毛糸玉を見て逃げることを決意するのですが、果てしない距離を、人から人へと繋いで運ばれてきたことを想像すると、すごいネットワークだと思います。またカナダまでの逃亡ルートがわかっていて底力みたいなものを感じました。

マリンゴ: 教育をあまり受けず、常に威圧されながら育った黒人の少年の、いつも怯えて追われているような、自由とは何かを考えたこともないような感じが、とてもよく伝わってきました。人に恵まれて、裏切られることがないので、逃亡劇としては順調だけれど、ハリソンが病気になったり、白人のパトロールが来たり、最後の最後、船に乗る前にクライマックスがあったり、山場が作られているので、ハラハラしながら一気に読めました。どうでもいいことをしゃべり倒している白人の行商人など、キャラクターがそれぞれ立っているので、物語がより魅力的に思えます。地図を見たい!と思ったら最後に用意してくれていたのもありがたいです。

しじみ21個分:大変に重厚で、読み応えがある作品でした。アメリカの作家が主にはアメリカの子に向けて自国の歴史について書いているのだろうと想像したのですが、今のブラック・ライブズ・マターを考える上で必ずアメリカ国民として知ってなければいけないことなのではないかと強く感じました。私は察しが悪くて、なんでハリソンが足手まといになるサミュエルを連れて逃げるのか、全然わからなかったのですが、あとで謎解きがあって、「あー!」と思いました。私も川の男の印象はとても強くて、ドレスにこだわって駄々をこねるヘイティの乗る舟を足で川にけり戻してしまうシビアさに、逃げる方も支援をする方も命懸けだったということを感じるとともに、彼がサミュエルに伝えた言葉が最後にサミュエルを鼓舞し、みんなを救ったという結末に結実してさらに印象深くなりました。逃避行の間、サミュエルとハリソンが暗い中でずっと息をひそめ、身を隠していなければならなかったつらさは想像を絶します。でも、逃げおおせて最後に「ヒャッホー」と終始気難しかったハリソンが歓声を上げて、青い空を見上げている場面には大きな解放感があり、とても読後感が気持ちよかったです。黒人奴隷の歴史の事実は、おそらくもっと陰惨で、家畜よりもかんたんに殺されていたのかもしれません。その過酷な事実を日本の子どもがどこまで感じ取れるかというのが肝だと思いましたが、歴史を知るということは非常に重要だと思います。あとは、これも察しが悪かったのですが、「カナデイ」が「カナダ」だとはじめはわからなかったし、レバノン川がどこなのかとずっと気になっていました。後半で突然、カナデイはカナダとして文章の中で通用し始めたところには少し違和感がありました。また、シゴーコーチョクというようにハリソンの喋りは、カタカナで傍点が、どういうなまりや言い間違いがあってこうなっているのか、元の英語がわからないので気になってモヤモヤしました。

さららん:自分が黒人の歴史をどのくらい理解し、自分のものとして捉えているかが、この本を読んで問われますね。BLMの報道を見るときの目が変わり、その意味でも読むべき1冊でした。主人公たちの状況はとても過酷です。命を失うことになっても、人間として生きてほしいとの思いから、老人ハリソンは大きな賭けに出たのですが、その怒ったような口調にも、サミュエルへの深い愛情を感じました。それは優れた訳だからこそですね。船を漕いで渡してくれた男は冷酷な一面を見せますが、同時にサミュエルにとても大事な教訓を与え、人間の複雑さを感じさせる魅力的な脇役でした。モデルがいたと聞いて、納得しました。最後に、サミュエルの機転を認めたカナダ国境の警察官の粋な計らいも忘れられません。

すあま:だれがいい人か悪い人かわからないため、最後まで読み終わらないと安心して眠れない、という感じでした。地下鉄道など、物語の背景についての知識があった上で読んだ方がいいのかな、と思ったけれど、逆にこの物語を読むことによって知ることができればそれでよいとも思いました。主人公が泣いてばかりでだめだったのが、次第に生き抜く力をつけ成長していくのがよかったです。お母さんについては、だんだんと何があったかわかってくるようになっていますが、だいぶ想像で補わなければならないので、もう少し明らかにしてほしかったと思います。最後は、後から回想する形であっさりした感じでした。ずっと重苦しいので、読むのはちょっとつらかったです。もう少しユーモアがあってもよかったかな。

サークルK:図書館に本が届いたのが当日だったため内容についての細かな個所はパスさせていただきますが、人種差別ということから、最近の映画で『ドリーム』(原題: Hidden Figures マーゴット・リー シェタリー/原作:邦訳『ドリーム〜NASAを支えた名もなき計算手たち』 山北めぐみ/訳 ハーパーコリンズ・ジャパン)というNASAで優秀な仕事をした黒人女性の実話を思い出しました。また、作中の「地下鉄道」という奴隷たちを逃すための秘密の手段についても、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(斎藤英治/訳 ハヤカワepi文庫)の続編『誓願』(鴻巣友季子/訳 早川書房)に登場する「地下の逃亡路」を思い出し、『彼方の光』に描かれる実話が大人向けのフィクションにもつながっていくことを実感しました。これを児童図書として読む子どもたちの想像力を深く刺激して問題意識を持つきっかけになるのだろうな、とみなさんの感想を伺って思いました。

カピバラ:p180の「ボンネットをかぶると、つばが大きくて、目の前の小さな丸いすきま――大皿くらいの大きさだった――のほかにはなにも見えなかった」ですが、小さな丸い隙間なのに大皿ぐらいというのがよくわかりませんでした。

はこべ:顔の周囲をぐるっとおおうくらいつばが大きいボンネットだと、そういう状態になるんじゃないかな。

ハリネズミ:目の前が大皿の大きさくらいしかあいてないということなんじゃないかな。

カピバラ:「小さな」「すきま」だともっと小さいんじゃないかと思うのにどうして大皿?と思ったんです。

ハリネズミ:先日のイベントでは、翻訳者の斎藤さんが、この本での黒人の人たちの会話は、南部の黒人言葉でふつうの英語とは違うのでどう訳すか悩んだけれど、カナダをカナデイと言っているところだけはそのまま残したとおっしゃっていました。さっき、地図が前にあったらいいか後ろにあったらいいかという話が出ましたが、地図が前にあったらカナダまで行けるのがわかってしまうので、後ろでいいのだと思います。それから地下鉄道で逃げた人で、子連れというのはめずらしいようです。

ルパン:今、テレビ番組でアイヌを侮辱する発言があったということが問題になっていますが・・・「あ、イヌ」というダジャレを言った芸人だけでなく、番組を作るスタッフとか、テレビ局の人が誰もアイヌの歴史を知らなかったというところに問題を感じます。アイヌの人たちがそう言われて差別を受け続けてきたという事実を誰か1人でも知っている人はいなかったのかな、と。私は子どものときに『コタンの口笛』(石森延男/著 東都書房など)という本を読んでそのことを知りました。その時は意味がわかっていなかったけれど、ずいぶんあとに、大人になってから気がつきました。あの本を読んでいなかったら私もこういうことに鈍感になっていたかもしれない。児童書の役割って、そういうところにもあるのかな、と思います。ですから私はこの本は文庫の子どもたちに読んでもらいたいと思います。

ハリネズミ:『コタンの口笛』はよく読まれて映画にもなったと思いますが、批判もあります。今ならアイヌの人が書いた作品も読めるといいですね。BLMについては、アフリカ系の多くの作家が書いていますが、ピアソルは白人の作家です。だから白人の子どもたちにも読みやすいということも、もしかしたらあるのかもしれません。

エーデルワイス:逃亡中の食べ物の話はリアリティがあります。列車で逃亡したら、トイレにも行きたくなると思いますが、それは出てきませんね。大人の本だったらその辺も書くのでしょうか。私たち東北人は震災の時トイレで苦労したので。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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アラン・グラッツ『明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち』表紙

明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

花散里:時代も場所もちがう3人の登場人物が、交互に語っていく物語ですが、各ページ上の柱に場所と年代が記されているのが、読んでいくときの助けになりました。ホロコーストの話は過酷で、この物語のヨーゼフの話も、読んでいていたたまれない思いでした。カストロ政権下のキューバから逃れる少女イサベル、内戦中のシリアで爆撃を受けて難民となりヨーロッパを目指すマフムード。それぞれ故郷を追われ、海路、陸路で困難に立ち向かいながら、やがて最後につながっていく構成の上手さに圧倒されて読みました。難民のことを取り上げている作品が多い中でも、特に印象深く感じました。日本の難民受け入れ問題を取り上げた『となりの難民』(織田朝日/著 旬報社)や、空爆が続くシリアの町で瓦礫の中から本を救い出し図書館を作った『戦場の秘密図書館』(マイク・トムソン/著 小国綾子/編・訳 文渓堂)などとともにブックトークなどで紹介して、ぜひ、日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

サークルK:3人の主人公たちの置かれた立場、年代、環境は全然ちがうのに困難にあることだけは同じで、この次の展開はどうなるのだろう、と思うところで次の子どものエピソードにつながっていき、よく言えばリズミカルに、別言するとあわただしい感じがしました。後ろの地図をたどって、こんなに移動をしなければならなかったのか、家を追われて故郷を捨てなければならなかったのか、と納得できました。現代の読者は、2015年のスマホを持っているマフムードに共感しやすいように思いますが、彼を入り口にして、単なる年号と出来事でしかなかった歴史が共時的につながっていることを実感できると思います。2度と繰り返してはいけない戦争、ということをうまく伝えているなあ、と心を動かされました。

さららん:3人のエピソードが、ひとつずつ順番に終わるたび、私も展開がすごく気になりました。ヨーゼフ、イサベル、マフムードの話をつなげて、飛ばし読みしようと思ったけれど、作者の意図を尊重して我慢しました。3つの話は時間も場所もばらばらで、いったいどう絡み合うのか? という期待が最後まで続きます。どこが史実で、どこがフィクションか、迷いながら読み通したけれど、編集部による断り書き(p386)と「著者あとがき」を読んで納得しました。難民受け入れを拒むハンガリーの兵士は催涙弾を撃ち、沿岸警備艇はボートに乗ってマイアミ直前まで来た人々を捕らえて、キューバに送り返そうとする。今起きている現実は強く心に響き、よくぞ書いたと思いました。ストーリーを時系列に進めながら、主人公に過去の思い出を語らせる難民の物語はワンパターンになりがちだけれど、この本の、刻々と3つの「今」を伝える重層的な作品づくりはお見事。それが現在につながって山場を迎えるところに、物語の醍醐味を感じました。

木の葉:本自体も内容も重い本でした。ドイツ、キューバ、シリアの異なる場所の異なる時代の物語ですが、ベルリンに始まってベルリンで物語を閉じます。構成的にとてもよくできていると思いました。少し前に読んだ『三つ編み』(レティシア・コロンバニ/著 齋藤可津子/訳 早川書房)を思い出しました。同時代ですが、インド、イタリア、カナダの女性の視点で交互に物語が進みます。視点が変わることで、いいところ(悪いところ?)で次の視点に移ります。狙いはわかるのですが、少しストレスでした。銃口をつきつけられたところで章が切り替わっても、このあとも物語は続くので大丈夫、というのが前提で読んではいても、ちょっとあざといな、という気がしました。いろいろ考えさせられる物語でした。2015年は、ヨーロッパで難民が大きくクローズアップされた年で、そのことを思い出しました。ホロコーストをひきおこしたドイツがいちばん難民を受け入れています。どうしても、では日本は? と思ってしまいますが、あとがきの訳注でさりげなく日本の状況についての情報がフォローされています。日本の入国管理局の問題なども、作品化できないものだろうか、などと思うのですが・・・。ただ、若い頃にキューバ革命を熱い目で見ていたことのある立場からすると、ナチス、シリアと並列的に語られることが、なんだ切なく感じました。革命家と為政者とは違う、ということなのでしょうか。

ルパン:すみません、まだ3分の1くらいまでしか読めていないんです。でも、ここまでのところでいちばん印象に残ったのは、p92です。「どっちの側だ」と聞かれ、答え方をまちがえたら殺される、という緊迫した状況で、子どもが「爆弾を落とす人たちには反対です」と声をあげて、一家が救われる、というところ。場所と年代の違う3つの物語が交互に語られ、時系列が行ったりきたりするので読みにくいなあ、と思っていましたが、さっき花散里さんが「ページの上に場所と年代が書いてある」とおっしゃったので、「あ、ほんとだ!」と思いました。ここから先は読みやすくなりそうです。

まめじか:安住の地にたどりつけなかったヨーゼフがいて、友人を失い、祖父を残して上陸したイサベルがいて、妹と生き別れたマフムードがいて、その3人の人生がつながる構成です。現実に起きたこと、起きていることの厳しさがきちんと書かれていますが、ひとり助かったヨーゼフの妹が、何十年もたってからマフムードの家族を助けるなど、結末に希望があり、とても好きな作品でした。イサベルは新しい土地で、ずっと探していたキューバのリズムを見つけ、これからも故郷とつながっていくのでしょう。平澤さんの装画もすてきで、物語にぴったり。ただ、いかにも社会的なテーマを扱ったという感じの、お行儀のいい装丁なので、もう少しポップなほうが、子どもは手にとりやすいのでは? と思います。

ハル:まず、構成が見事だなと思います。最初に1938年のユダヤの少年の話からはじまり、すぐ2章に移ったかと思ったら、1994年のキューバの少女に飛ぶ。そこでハッとさせられ、さらにすぐ3章に移ると、今度は2015年のシリアの少年へ。ああ、第二次世界大戦で終わったと思っているような出来事、子どもが、もちろん大人もですが、故郷で安心して暮らせないような出来事が、今もまだ続いているんだと、一気に身近な問題として胸に迫り、終始、他人事ではないような思いで読みました。そしてやっぱり、子どもたちのたくましさ。難民たちの行進が始まる場面は、思い出しても胸が熱くなります。「著者あとがき」で、著者が〈あなたにもできること〉を提案してくれているところもありがたいです。「自分は何をどうしたいだろう」と考えるきっかけになります。内容も、ボリュームも、重たい本だけど、主人公たちと同じ世代の読者にもぜひ読んでもらいたいです。

西山:親切な本作りだなと思いました。目次を見て、一瞬混乱しないかと心配になったのですが、ページ上部の柱を見れば、すぐに「だれ・どこ・いつ」が分かるようになっている。気になったら、巻末の地図も見られる。ストレスなく読み進めました。キューバのイサベルのおじいさん「リート」が、ヨーゼフたちの船に関わっていたらしいということがだんだんと分かってきますが、だからといって、劇的な安っぽい再会にしなかったのに厳粛さを感じて好感を持ちました。シリアのマフムードのパートがあることで、現在進行形の今の問題なのだとより身につまされました。p30で、「あの子を助けないと」とつぶやいたマフムードは結局自分の身を守るために「見えない存在」になってその場を去ります。爆撃による破壊や、本当に生きるか死ぬかの危険性はもちろんだけれど、日々魂がそがれていくこういう傷つき方があるのだということが、胸に刺さり、また、今の日本に生きている子ども読者にとってもそれは知っている感覚で受け止めるのではないかと思いました。やめろって言えてこそ、健やかに生きていけるのだと思います。この、マフムードが、見える存在になる決意をしていきますね。「シリアでは、目立たない存在になることで生きのびてきたからだ。でも、マフードは今、ヨーロッパで見えない存在になると、それは自分にとっても家族にとっても死を意味するのではないかと思いはじめていた」(p262)と。それが、国境を越えようと歩く子たちの群像の表紙とひびきあって、今の世界への問題提起となっていると思いました。また、p130で物事は「変わっていくんだから」「待ってるほうがよかったんだ」と言っていたリートがp339で「世界が変わってくれるのを待っている間は、チャベラ、何も変わらないんだ。わたしが、変えようとしなかったからだ。もう同じまちがいは、二度としないぞ」と海へ飛び込む。ここに強いメッセージを受け取ります。

マリンゴ:さっき電車のなかで読み終わって、最後の章で泣いて鼻をぐずぐずさせていたので、時節柄、周りのひとに「こいつ風邪か?」という目でにらまれてしまいました(笑)。3つの強力な物語が折り重なってくるお話ですね。章の最後でたいてい何か悪いことが起きるので、だんだん章末に近づくのが不安になりました(笑)。3作が同時進行するので、登場人物が多いのが若干ややこしいですね。本の3分の1まで行ったあたりで、「リート」って誰だっけ、と最初までさかのぼって確認しました。でも、このリートが一番印象的な人物になりました。キューバでは傍観者だったのが、時を経て当事者になってしまう・・・読者も、これは他人の物語ではなくて、自分もいつか関わる物語なのかもしれないと考えながら読めると思います。帯に、この3作がひとつにつながることがにおわされているので、冒頭からいろいろ想像しちゃいました。最後みんなマイアミにたどりつくのかな、とか。そんなシンプルな形じゃなくてよかったです。ユダヤ人を迫害したドイツの人が、贖罪の気持ちもあって、シリアからの難民を受け入れる、という構図をなんとなく想像していたので、ラストで「ああユダヤ人に救われたのか」と意外に思ったりもしました。長いあとがきが素晴らしいですね。細かいところまで事実をすくい上げるおもしろさが伝わってきます。3つが絡まりあっているので、フィクション度が高いのだと思い込んでいました。あと、無気力になった人たちが何人も出てくるのが、印象的でした。精力的に立ち向かえる人ばかりではない。それがリアルさを感じさせました。

トマト:交互につづられる3つの物語が、それぞれ強い力を持っています。でも、どの話も危機一髪のイイところで中断されてしまうので、読んでいてかなりイライラしました。次にくる物語を飛ばして、同じ主人公の話だけを一気に続けて読んでしまおうかと思ったくらい。その気持ちを抑えるのが大変でした。いじわるな本ですよ。でも、しばらくすると、気にならずに読めるようになったのが不思議です。結局、読み終えてみると、この構成で良かったのかなあと思うけれど、ひとつの物語に一気に入り込める構成ではないので、よほど本が好きな子でないと途中でいやになってしまうのではないかと・・・。また、日本の多くの若い人は、ホロコーストのことは知っていても、キューバのことは知らないと思うので、知識不足と3つの物語が混在する複雑さが加わって、読み終えることが出来ないのではないかと。そこがいちばん気にかかります。表紙は、悪くない。いいと思います。

カピバラ:3つの時代、3つの国を舞台に、3人の話が入れかわり立ちかわり出てくるのが最初は読みにくかったけれど、同時進行で進む構成は、緊迫感を出すのにとても効果的だし、描写が具体的で目に見えるように書かれているので、臨場感もありました。最初から緊迫した状況が続き、つらいことがあまりに多く読むのをやめたくなるほどだったので、これを翻訳した訳者はさぞやつらい思いだったろうと推察します。それが最後にきて、3つの物語が決して別々のものではなく、すべてがつながっているとわかり、衝撃を受けました。そこで一気に、難民問題は現在進行形であることを感じさせる、うまい構成だと思います。いろんな人が出てくるけど、ひとりひとりの小さな決断が積み重なって、大きく歴史を変えていく不思議さ。ドラマチックなおもしろさも感じました。読者は高校生以上でしょうか。日本の子どもにぜひ読んでほしいけれど読書力が必要だと思います。

さくま難しいという声もあったのですが、原書の読者対象は9歳からで、アメリカではベストセラーになっています。日本ではこのページ数があるだけで小学生向きにはなりませんよね。日本語版は読者にわかりやすくという工夫を編集部でもいろいろしてくださっています。原書には挿画もないし、柱やカットもないのですが、多くの子どもたちが読んでいるようです。中学年の子がみんな読めるとは思いませんが、高学年や中学生だったら十分読めるのかと思います。そう考えると、日本の子どもがいかに長いものを読めなくなっているのか、ということでもあるような気がしています。
私も最初に読んだ時は、次々にこれでもか、これでもか、とつらい状況が出てくるなあと思いました。セントルイス号の話に出てくる警官がキューバから脱出する話に出てくるおじいさんだということもちゃんと意識できていませんでした。それがセントルイスという名前でつながるということがわかり、ルーティとマフムードがつながるということもわかって、感動して、翻訳したいと思ったのです。難民という共通項を持った3人の物語が並列されているだけかと思ったら、そうじゃなかったんですね。固有名詞はそれぞれの地域の専門家にカタカナ表記の仕方をうかがいました。訳すときはまず最初はこのとおりの順番で訳し、見直すときはそれぞれの人物の話に沿って流れを見ていきました。難民を、どこか別のところで起こっている出来事としてではなく、自分にもう少し近い存在として日本の子どもにも意識してもらえるような本があればと考えていたので、それには長いけどこの本はいいのではないかと思ったのです。
1つの章がはらはらどきどきさせるクリフハンガーの状態で終わり、別の人物の章に変わるというのはどうなのかと思ったのですが、訳しているうちに全体を通していくつかのキーワードがあるのもわかりました。たとえばマフムードは「見えない存在」になりたいというのがp30に出てきますが、次のヨーゼフの章でも「見えない存在」になったみたいだというのが出てきたりします。あと章から章への音のつながりみたいなものも感じました。
原文を読んでいて細かいところで疑問に思ったところもありました。たとえばヨーゼフがユダヤ人であることを示す紙の腕章をつけていたというところですが、紙の腕章というのは聞いたことがなかったので、ホロコースト教育資料センターの石岡さんにうかがってみたりしました。石岡さんがドイツの専門家にきいてくださって、この時代はまだ腕章は一般的ではなかったし、紙の腕章が絶対になかったとは言えないけれど今のところ聞いたことがないと言われました。最終的に著者に問い合わせたところ、「多くの資料にあたって書いたのだが、今はほかの作品を書いているので、どの資料だったのかということは今すぐ言えない。しかるべき団体に問い合わせて疑問があるなら「紙の」という部分を取ってもかまわない」と言われました。ユニセフについても、数字がちょっと違うと思ったので、日本のユニセフに問い合わせて少し変えたりもしました。それからキューバがとても悪く書かれているところは少し気になりましたが、お父さんが逮捕されそうになっているのを子どもの視点で見ているので、そこはそのままにしました。家族の問題にしろ、家が破壊されたにしろ、社会の抑圧があったにしろ、子どもは翻弄されてしまうんだと思いました。何か疑問やおかしいところがあったら、直しますので教えてください。

西山:p47の3行目「見ててくれたといいんだけど」は、ひっかかりました。あと、p173ほか何か所かで、おぼれないように「足をける」という表現が使われていますが、私は違和感を覚えます。どういう動作かはちゃんとわかりますが。「水をける」という表現も使われているので、使い分けがされているのかとは思いますけれど。

さくま:ありがとうございます。考えてみます。

花散里:イザベルの物語の中でパピ(お父さん)、リート(おじいちゃん)というのが、最初に記されている(p21)だけだったので、その後、読み進みながら、パピは名前? リートは? と、何度か前のページをめくり返しました。セニョール・カスティージョ、セニョーラ・カスティージョというのも、ページが進むと、父親とか、お母さんの、とか記されていなくて、子どもにはわかりにくいのでは、と感じました。

さくま:なるほど。

トマト:この作品は、アメリカでは中学年以上向きに出版され、売れているんですか! 日本の子どもは、移民問題を身近に感じていないから読めないのでしょうか。

さくまテーマが何にしろ、日本では300ページ超えると出版がむずかしいと言われます。アメリカとかドイツとかだと小学校高学年向きくらいから、この本に限らず厚い本がたくさん出てるんですけどね。漢字の難しさもありますが、日本の子どもの読解力、読み取って考える力も落ちているかと思います。

トマト:母国語が英語ではない家庭が多いニューメキシコ州で、school librarianをしている友人を訪ねたときのこと。そのときはブッシュ政権だったのですが、学校が国の要請を受け、英語が苦手な子ども向けの読書指導をしていました。朝や放課後に、教師全員がそれぞれ少人数の班を受け持ち、絵本を読み合う授業なのですが、そのプロジェクトに取り組む学校には、学校図書館用にかなりの額の予算をつけてくれると言っていました。その結果、学校全体で読書指導を活発に行えるというわけです。国が、学校教育の中で、読書の授業を大切にしているという点が、日本と違うと感じました。

さくま:それと日本では国語の教科書に載っているのは短い文で、先生が独自に1冊の本を選んで生徒たちみんなで読み合うなんてことも、ふつうは出来ない。だから長い本を丸ごと読むことなしに大人になる場合もあるわけです。でも、アメリカとかドイツでは、長い本をクラスで読んで、それについて討論するということをやっていますよね。文学は正解を追い求めなくて住むので、多様な意見を受け入れることにつながっていくから、日本でもやればいいと思うんですけどね。

木の葉:「今の子どもは」、と思いすぎのような気もします。小学生でも、読む子は読むと思いたいです。思い切って手渡してみてもいいのかも。読み通せたら自信になるのではないでしょうか。

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エーデルワイス(メール参加):緊張感あふれる内容ですがとても読みやすかった。国も年代も違う3人の主人公とその家族が過酷な旅をしますが、読んでいて移動を一緒に体験しているように思えました。つらい場面が多く、どうなるかとハラハラしながら最後まで読み通しました。イラストも効果的で、多くの人に読んでほしいと思います。ドイツ兵が、ヨーゼフとルーティのどちらかを選べと母親に迫るところでは、映画「ソフィーの選択」を思い出しました。シリアからドイツに逃れたマフムードが年をとったルーティと会う場面は感動的でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『オオカミが来た朝』表紙

オオカミが来た朝

カピバラ:オーストラリアを舞台にした物語を久しぶりに読んだ気がします。時代が少しずつ新しくなっていく構成がおもしろかった。最初は、1編が短すぎて、もっとその主人公のことが知りたいのにすぐに次の話へ移ってしまうのが物足りないように思いましたが、しだいにこの本の全体に共通するテーマが現れてきました。貧困、老人、ディスレクシア、障害のある人、難民、移民といった人々を登場させ、そういう人たちにくもりのない目で接していく子どもたちが、人間とは単なる見た目とちがう面をもっているということや、大人の価値観の裏にちがう真実がかくされているということを、ふとした瞬間に気づく。そういうところをとてもうまく描いています。その子どもたちが大人になったときにきっと良い効果をもたらすだろうことを予感させるので、つらい場面も多いけれど希望をもって読めるというところが良かったです。そして大人になってから再登場する人物もいるのでおもしろかったです。

さくま:私もとてもおもしろく読みました。4代の家族の物語ですが、児童労働、難読症や貧困や有色人種への差別、他者への無関心などかなりシリアスな問題が入ってきています。でも語り口がユーモラスで、短い文章の中で、その人その人が浮かびあがるような描写をしてます。たとえばp21ですが、ケニーとダンは父親が亡くなった次の日、母親につらい思いをさせたくないと、そっと物干し紐から父親の衣類をはずします。ちょっとしたエピソードですが、家族を思いやる心情をうまく表現しています。エピソードのつながりも随所でうまく使われています。ケニーは入れ歯なので弟にからかわれたりするというエピソードが最初の章に出てきますが、世代が変わっての章にも、ケニーはそれがゆえに弟にも会わないというところが出てきたりします。またクライティとフランシスはケンカすると頭を冷やすために外を別々に走ってくるというのが第2章に出てきますが、5章では大人になった二人が、別の国に住んでいるにもかかわらず同じことをする。そんなつながりがいっぱいあるので、前のエピソードを思い出しながら読めて深みが増すように感じました。最初の物語に登場するケニーが、最後の物語では曾孫の前に少年の姿であらわれて励ましてくれるのもいいですね。翻訳もじょうずだと思いました。

花散里:『オオカミが来た朝』というタイトルが印象的で読んでみたい作品だと感じました。6つの話がひとつひとつちがうようでいて、つながっていくという構成がおもしろいと思いました。「オオカミが来た朝」のケニーが仕事を探そうと古自転車で荒れ地を行く場面にハラハラし、次の「メイおばさん」ではケニーの2人の娘、クライティとフランシスがおばさんに振り回され、「字の読めない少女」ボニーの話と続き、世代を越えて物語が進んでいき、後半では一層、引き込まれるように興味深く読みました。

サークルK:本の最初にあるファミリーツリーの人物像をたどりながら読み進めることができました。生没年などもはっきり書いてあることで、物語に登場しない人たちも多数いましたが、その不在がかえって、登場人物の人生を下支えするようにも思えました。姉妹の喧嘩の描写も親密だからこそ傷つけてしまう関係であることが分かりましたし、ケニーの父親が亡くなってその洗濯物を母から見えなくするという思いやりも、後半のストーリーに生かされていて、書き手のうまさを感じました。エピソードとしては、列車から投げられた赤ちゃんの個所は、ほんの2~3行でありながらあまりにも残酷で、何度も読み返してしまうほどでした。

さららん:ひとりひとりの人物像がとても印象的です。なかでも字の読めないボニーの存在が心に残りました。すごく意地悪な部分と優しさの混然一体としたところに実在感があり、予定調和的でない結末が気に入りました。この本のどの話もナラティブが自然で、作為を感じさせません。章末にある注のつけ方もいい。「思い出のディルクシャ」では、物語の最初に登場したケニーが、脇役の大人として再登場し、バラバラに見えた話を静かにつなげています。父親の洗濯物を隠すケニーたち、赤い服を着た妹のことを親には話さないカンティをはじめ、悲しみを抱える大人をさらに傷つけないよう、心を配る子どもたちの繊細さを見て、大人と子どもは、互いに守り、守られながら生きているんだと思いました。p156で、カンティは憎むべき兵士のことを思い出し、あの若い兵士は洗脳されていて、でも洗脳されたらだれでも暴徒になるんだと、考える。善人と悪人、敵と味方を単純に分けないこういう考え方、想像力こそ、今の時代に必要なのだと思います。

木の葉:よくも悪くも自己主張の強くない本だなと思いました。読んだのはそれほど前ではないのですが、強く印象に残っているものがないのです。たまたま英語圏の翻訳ものを続けて読んだせいもあるかもしれませんが。かなり深刻なテーマもあり、優れた短編連作なのだとは思います。文学的な香りもします。が、もともと長編が好きなので、ここに書いてない部分の物語を読みたかったな、と思いました。そんななか、字を読めないボニーという少女のことは立ち上がってくるようで記憶に残りました。この中では、「メイおばさん」の話が好きです。

ルパン:いちばん強烈に残ったシーンは、インド人の家族の女の子が列車の窓から投げ捨てられるところです。映像が浮かんでしまって、ほかの場面がかすんでしまうほどショックでした。このできごとを引きずって生きなければならない遺族の悲しみ、さらに、知的で豊かな生活を取り上げられ、貧しく差別される人生、それでも故国に帰るよりまし、という悲惨な人々が今もたくさんいるのだろうと思いました。最後の「チョコレート・アイシング」の章では、毎晩激しいケンカをしている両親が心配ですが、ふたりを案じている息子のジェイムズが、ひいおじいちゃんのまぼろしを見ますよね。その光景がとても感動的でした。自転車に乗って仕事を探しに行く、少年だった曽祖父の姿を見て、自分もがんばろうと思うんですが、きっとケニーの物語が代々語り継がれていたからですよね。親の話、祖父の話、曽祖父の話を子どもに伝える親がいるから伝わっていく。日本では、戦後まだ75年しか経っていないのに、語り継ぐということがほとんどできていなくて、みんなすっかり遠い昔の話だと思っている気がします。私自身、父から戦争の話を聞いているのに、そういうことをほとんど子どもには伝えてきませんでした。自戒をこめて、伝えることの大切さを訴えていかなければならない、と思いました。

まめじか:カンティがおかれた状況は、いまの難民の人たちにも通じますね。弟がうそをついたと決めつける先生に反発しながらも、カンティがなにも言えない場面では、子どもの自尊心がよく描かれています。また列車の窓から妹を放り投げた兵士を思い出したカンティは、戦争になると、ふつうの人も洗脳されてひどいことをするようになると気づき、また迫害は憎しみや軽蔑からはじまるのだからと、意地悪な隣人も見下すまいと思います。世界に対する子どもの洞察や、憎しみに心を奪われない善性は、時代を経ても変わらないのだと、どの章でも感じました。ジェイムズは、海に入った母親がもどってきたときに大きな喜びをおぼえ、自転車に乗ってやってくるケニーの姿を月の中に見て励まされます。ボニーをかばったフランシスは、だからといってボニーが感謝することはなく、おびえた姿を見られたために、よりいっそう自分を憎むと悟ります。フランシスとケイティは、認知症のおばさんが想像の世界で幸せそうなのを見て、頭が混乱するのもそう悪くないと考えます。子どもたちの日常はそれぞれ厳しく、甘ったるい、ただのいい話でない中で生の断片を切り取っているのが、クラウス・コルドンの『人食い』(松沢あさか/訳 さ・え・ら書房)を思わせますね。障がいのあるデフィーに、ディスレクシアのボニーが読み方を教える場面なんかも。

ハル:この表紙と、「前書き」なのか「献辞」なのか、わかるようでわからない冒頭の1ページの感じや、何世代もの謎の家系図から、どうも最初は入り込めなくて。1話目のオオカミが登場するあたりまでは全然頭に入ってこなくて、これは困ったなと思っていました。でも、そこから一気にぐっと引き込まれましたので、読まず嫌いしなくてよかった! と思いました。この本が書店の目につくところに並んでいたとして、私のような人もいるだろうと思うと、もったいないなぁと思います。そして、のめり込んで読んでからは、家系図がいいなと思いました。大人に振り回されて犠牲になるのはいつも子どもたち。戦争もそうですし、家庭内の争いごともそう。「字の読めない少女」のボニー・ケニーも、とばっちりで前歯が欠ける大けがをしたジェニーも、子どもたちをとりまく環境は、ほんとうに理不尽です。そこから立ち上がる子どものたくましさ、生きる力を感じました。「想い出のディルクシャ」に登場する妹のようなことは、少なくとも当時、実際にこういうことがあっても不思議ではなかったということですよね。3歳の少女を目の前にして、こんな残虐なことができるとは、信じたくない気持ちです。

マリンゴ: 一家の家系図が冒頭にあるのだけれど、それでも章ごとに主人公が変わり年代が変わるので、少しつかみにくかったです。逆に、家系図があるがゆえに、登場人物がどこにいるか毎回探してしまったり、この人が今回取り上げられる意図は? とチェックしすぎてしまったかもしれません。普通に短編集だと思わせておいて実はつながっていると、気づく形でもよかったのではないかなぁ、と。これは読書が大好きな子ども向けの本で、読み慣れていない子が手に取ると、難しく感じる可能性もあると思いました。なお、最近読んだ『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン/著 岸本佐知子/訳 講談社)も、断片的でひりひりしたエピソードが続き、最後まで読むと作者の人生が立ち上がってくるので、『オオカミが来た朝』が好きな人は、こちらも好みかもしれませんよ。

トマト:すごく好きです。でも表紙が暗い印象で、これでは読んでもらえないのではと思い、とっても残念。第1話のケニーの入れ歯の話が印象深いです。急死した父親の葬式のとき、ケニーは悲しむよりも、自分が入れ歯だと知られたくないという気持ちが先行してしまうけど、そんな自分をひどい人間だと責めている。子どもは、大人が思う以上にいろいろ苦悩しながら一生懸命生きているんだということがよく分かります。ケニーがどれほど入れ歯のことで傷ついていたかは、ケニーが死にそうになるまで入れ歯を外さず、娘すら父親が入れ歯だと知らなかったというエピソードで裏付けされますが、このケニーの心情が実に細やかに、いい感じのユーモアを交えて描いてあるから重くなりすぎていません。姉妹の出てくる話は、イギリスの兄弟姉妹を描く古き良き物語のようで、楽しく読めました。あんたバカね、と言われていた妹のほうが、賢そうにしていた姉より機転がきくというエピソードがおもしろくて、ユーモアのある会話に魅力があります。私は、家系図が冒頭にあっても気になりませんでした。読みながらたびたび家系図を見て、それぞれの物語の登場人物のつながりも確認できたから、良かったと思います。すべての物語の中で、子どもたちが心を痛めたり、自分を励ましたりしながら一生懸命に生きています。この本の最後の物語は、両親の激しい言い争いを毎晩2階の子ども部屋で聞いておびえるお兄ちゃんと弟の物語です。それまでの物語では、貧困や戦争に翻弄される家族と子どもを描いていましたが、この「両親の不仲」という問題は、子どもにとって最も身近で、最も怖くて、誰にも相談できない重大な問題だと思うので、これを最後にもってきたことがスゴイと思いました。自分だって怖いのに、弟を不安がらせまいとして一生懸命なお兄ちゃんの気持ちがよく伝わってきます。最後に、このお兄ちゃんの祖先であるケニーが、自転車に乗って現れる場面は、「子どもだってたくさん辛いことがあるんだよな。分かるよ。頑張れよ!」と応援しているのだと思い、深く感動して泣いてしまいました。

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エーデルワイス(メール参加):作者の意図することは充分に分かりますが、この構成は読みにくかった。「メイおばさん」の章で認知症のメイおばさんを、子どものクライティとフランシスだけに預けて母親がでかけてしまうところとか、「チョコレート・アイシング」で、ケニーが出て来て両親の不仲に胸を痛めているジェイムズに「くじけるな」というところなど、腹が立ちました。何の解決にもなっていないのに励ましてどうする、という気持ちです。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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『思いはつのり、言葉はつばさ』表紙

思いはいのり、言葉はつばさ

木の葉:きれいな本だなと思いました。タイトルも好き。テーマもいいと思います。おもしろいものを見つけたな、と。ただ、まはらさんの作品としては、ちょっと物足りなかったです。私はたぶん中国への関心が高いほうなので、女書(ニュウシュ)というのも聞いたことがありましたが、改めてちょっと検索してみました。女書は湖南省江永地方に伝わるものとのことで、この地域は、漢民族と、少数民族であるヤオ族が混ざり合って暮らしている地区だそうです。ヤオ族は、歌や踊りが上手で女書もヤオ族の影響を受けて七言句の韻文だとのことです。作品の中で、少数民族はハル族という架空のものにしています。そのため、女書という実際のものを使いながら、いい意味でなく、ファンタジーっぽいものになってしまった気がして残念でした。時代設定が明確でないことも、もやもやさせます。それから、人名ですが、多少中国語がわかる人間は、どうしても裏の漢字を探りたくなるけれど、あまり見当がつきませんでした。

さくま:女書(ニュウシュ)については知らなかったので、テーマに興味をもって期待して読んだのですが、内容はちょっと物足りなかったです。ニュウシュのことは男性には(父親にも)知られないようにとさんざん言っておきながら、父親はすぐに認めて筆まで買ってきてくれるし、警察が来た時にはこの主人公は「そこはニュウシュの勉強をするところです」と言ってしまいます。シューインとの仲も、憧れだけで深まらないうちにシューインは嫁入りをしてしまう。またシュウチーとのことも、大変だと思わせておきながら、「ワン」ではなく「ヤン」だという言い訳と、纏足の臭い靴をぶつけられただけで警察は引っ込んでしまう。もう少し綿密に物語世界を構築すれば、もっとおもしろくなったはず。それにニュウシュが役立ってチャオミンが活躍するという場面がないのは残念でした。結婚するシューインに三朝書を書くという場面は出て来ますが、それで辛さそのものが解決されるわけではなく、辛さをまぎらわせるため、となっています。結局、縛りや枠の中でなんとかやっていくということが大事という価値観になってしまっているように思いました。巻末に参考資料が3点上がっていますが、舞台となる場所も見に行かずに他の文化のことを書いてしまっていいのかなあという疑問が残りました。ストーリーが深まっていかないのは、そのあたりにも原因があるのではないでしょうか 。

花散里:まはら三桃さんのこれまでの作品とはちがった印象を受けました。装丁がきれいで美しく、タイトルも印象的で、中国の暮らしなどが分かり、好きな作品でした。女書のことを知りませんでしたので、見返しの模様が女書だとはわかりませんでした。纏足のことも、子どもたちはこの作品で詳しく知ることができるのではないかと思いました。少年、ワン・シュウチーとの出会い。シュウチーがいろいろな事情を抱えていて、後半の展開は興味深く読めました。女の子にすすめたい作品ですが、男の子には難しいでしょうか。

カピバラ:女書という、表舞台には登場しない文化についてとても興味をひかれました。だれにも言えない想いを、言葉につづって相手に伝える、ということは、今このデジタルな時代にかえって新鮮に感じられます。でも物語としては登場人物の造形が通り一遍で深みがなく、展開も盛り上がりに欠けて印象が薄かったと思います。一昔前の少女小説みたいな感じがして、作りものめいたというか、うそくさい感じを受けました。中国の民族間のちがいや文化についても、もうちょっと知りたい気がしたし、フィクションじゃなくてノンフィクションだったらよかったのにと思いました。見返しのデザインが女書だということも、どこにも書いてないので物足りなかったです。

トマト:読む前にネットの情報で、中国で女性だけが使っていた女書という文字のことや纏足を扱うものだと知り、期待して読み始めたのですが、予想していたのとちがい、軽く読める本だという印象でした。

マリンゴ: 私は非常に魅力的な物語だと思いました。辺境の部族のことをよくこんなに徹底的に取材されてるなと思ったら、あとがきで、登場する民族が「一部私の創作」と書かれていて、ひっくり返りましたけれど(笑)。それでも、がっかりという感じではなく、魅力は失われないと思いました。女文字は実在するわけで、事実とフィクションの境目をうまく描いた作品だと思います。ただ、この本の後で、『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ/著 さくまゆみこ/訳 福音館書店)を読むと、その境目の描き方がさらにうまいので、違いはあるなと感じました。シュウチーが村に帰っていくシーンでは、ひとりでは抗えないことに対してあきらめないで戦っていくことについてのヒントを、チャオミンが得た気がしました。とてもいい言葉だと思ったのは、p239 「生活をするために必要な分以上のお金は、贅沢のために使うのではない。人の命を救うときに使うんだ」です。

西山:まず、装幀が美しい! ♯KuTooと絡めて、ちょっと書くつもりだったので、これは外せない作品だ、と嬉しく読みました。よくこんな題材を見つけてきたなと、感心したのですが、編集者からの働きかけだったんですね。まはらさんは、作品ごとにいろんな題材で書いてこられているけれど、本当に目のつけどころがおもしろいなと思いました。ただ、この物語の時代がいつなのかが気になります。前近代イメージで読み進めてきて、p103で「いいアイディアだね」の台詞が出てきて、へっ?! となっちゃったんです。あとで「警察」が出てきて、決定的に、いつの話だ? となってしまいました。「反体制」で警察に追われ、けれど、ジャコウという高価な賄賂でなんとかなるというのは、気になりすぎて、ちょっと物語から気持ちが離れてしまったのが残念です。でも、全体としては、豊かな女性の文化を感じさせてくれるし、「結交姉妹」というシスターフッドが、女同士の支え合いを見せてくれたし、女の子の育ちを応援しようという感じで共感をもって読み終わりました。

まめじか:エンタメとして読んだので、細かいところはあまり気にせずに楽しみました。文字を知り、世界を広げていくチャオミンの姿がすがすがしいですね。気持ちを言葉にしたいという想い、はじめて文字を書いたときの神聖な気持ちと胸の高鳴り、書き終えたあとのつきあげるような喜びが伝わってきました。纏足に象徴されるような、女性が力を奪われた社会にあっても、喜びや悲しみをつづることで支えられ、自由になれるのだと感じました。けして豊かではないグンウイやシュウチーが、貧しいわけでもないチャオミンのために落花生をくれたり、お母さんがチャオミンをあたたかく見守っていたりするのも、読んでいてあたたかな気持ちになりました。

さららん:私もエンタメとして楽しみました。ニュウシュという素材をとりあげ、子どもたちを楽しませながらも、少し考えさせる作品だと思います。文字を書くことで女性が自己表現を知り、生活の辛さから解放されるという要素がよかった――書き方は軽いかもしれないけれど。主人公チャオミンのはずむようなかわいらしさにひっぱられて、読み進めました。フィクションとしての中国は、作り物めいているかもしれない。でも、子どもが安心して中に入っていけるという面もあります。漫画を多く読んでいる子が、本の世界に向かうのにちょうどいい橋渡しになるかも。チャオミンの字がだんだんうまくなっていき、素朴だけれど心が伝わる表現ができるようになるところに、成長を感じました。珊瑚の筆があたたかかった。

コアラ:中国の女書というのは初めて知りました。見返しに飾りのようなものが印刷されていて、最初は単なるデザインかと思ったのですが、読み終わってみると、これが女書かもしれないと気がつきました。とても繊細ですよね。カバー袖の「わたしのちいさなサンゴの筆で、あなたへ言葉を送ります」とあるのも、最初はあまり意味がわからなかったのですが、読み進めていくと、とても思いのこもった手紙の書き出しだとわかって、胸が熱くなりました。日本人が、中国の女書のことを書く、というのがおもしろいと思いました。あとがきを読んで、作者がいろいろ調べたことがわかったのですが、調べて書いたことをあまり感じさせないのが、いいとも言えるし、時代設定をきちんとしていないとも言えると思います。登場人物、特にチャオミンがとても生き生きしているのはいいと思いました。「結交姉妹」というのもいいですよね。年上のお姉様への憧れがよくあらわれていると思います。女書の背景には、女性たちのつらい結婚生活があったということですが、現代の子どもが読むときには、仲間内だけで通じる暗号のようにとらえてもおもしろいんじゃないか、子どもたちが女書のような暗号を作ってみたりしたらおもしろいかも、と思いました。

ハル:チャオミンが覚えたての文字で書く手紙が、まっすぐで、言葉に綴る喜びにあふれていて、初々しくて、絶妙に胸をつき、作家はうまいなと思いました。題材も、お話も、大人の私はおもしろかったのですが、纏足しかり、前を向いて歩き続ける希望や、自由を求めての抵抗ということよりも、つらくてもこっそり文字に綴って耐える、というほうが強く印象に残り、子供が読んだときに「つらいときは書きましょう、歌いましょう」そして耐えましょうと、秘めてたえることが善策なのだと思わないといいなと思いました。

ルパン:おもしろく読みました。私が読んだこの著者の作品のなかでは、これが一番よかった気がします。ただ、『思いはいのり、言葉はつばさ』というタイトルが優等生すぎて、自分からは手に取らなかったかもしれません。中身のほうがずっとよくて、最後までふわっとした感じで読めました。耐えていた女性たちの歴史とか、知らない人のところにお嫁に行ってつらい目にあう中国女性の悲しみとか、ほんとうはつらいことがたくさんあるのでしょうが、少女たちの友情、親子の愛情などで美しいもので包まれている印象です。漢族の中にも貧富の差があったり、ほかの民族に対する差別意識があったり、それぞれプライドがあるのですが、いじめや争いにつながらず、友情で結ばれていくところがよかったです。「軽い」というよりは、本当に「ふわっとした」感じが全編にただよっていると思いました。纏足の靴を投げつけたらあまりの臭さに警察が逃げていく場面で笑っちゃったんですけど、そんなに簡単に脱げたのかな、という疑問が残りました。脱ぐのはたいへんだったんじゃないんでしょうか?

木の葉:時代背景については、近現代だとは思いました。纏足がいつごろまであったのか、というのはひとつのカギかなと。実は清代には禁止されていたものだそうです。清王朝は満洲族なので。ただ、実際には行われていました。辛亥革命後の1912年に纏足禁止令が出ますが、なかなかなくならず、1950年代まで続いたようです。物語に警察も出てきますので、イメージとしては解放前(1949年)ぐらいでしょうか。

さくま:当事者しか作品は書けないとは思いませんが、自分にルーツがない場所を舞台にするときは、やっぱり細心の注意をはらったほうがいいように思うんです。アイヌをとりあげた菅野雪虫さんの『チポロ』(講談社)にも同じような違和感を感じたのですが。ノンフィクションでなくても他者の文化を大事にしながらもっと対象に迫っていってほしいです。おもしろいテーマ、というだけではまずいんじゃないか、と思いますが、考えすぎでしょうか。

西山:歌や衣装は実在の民族のものを下敷きにしてるんですよね、きっと。

トマト:装画がかわいいですね。若い女性が手に取りたくなる本だと思う。この作品は、時代をさかのぼった中国の奥地の村を舞台とし、主人公は漢民族と少数民族の間に生まれた少女なのだけれど、読者はこのイラストのイメージで読んでいき、例えば私が思い浮かべるようなリアルな中国ではなく、中国の雰囲気が漂うふんわりとしたアニメーションのような世界を思い浮かべて読んでいるのだと思う。それはそれで悪くはないのだけれど、少し物足りない気がしています。

マリンゴ: まはらさんの作品だと、徹底的に取材して事実に基づいて書いたもの、と思ってしまうんですよね。

西山:カタカナ名前より、漢字にルビのほうが、その人物と漢字が表す意味が結びついて入っていきやすかったかなと思います。見た目は紙面が黒々としてしまうけれど。それぞれの名前に当てられる漢字が分かるなら知りたいです。

木の葉:ですよね。漢字が見えない。たとえば、「チャオ」というカタカナから考えられる中国語の音は4種類あって、カタカナでは多種類の音を統合してしまいます。昨今は、映画などでも、カタカナ表記が一般的ですが、もともと漢字は表意文字なので、漢字にルビをふってくれたほうが、しっくりきます。

花散里:結交姉妹になったシューインは、美人で裁縫も文字も上手、という魅力的な女性のようなので、どんな漢字なのかと思いました。

西山:「〜さんにわたしは書きます」という手紙の書きだしがなんとも愛らしい! 中国の手紙の書き出しの定型として、こういう形があるのでしょうか?

木の葉:私は、歌なのではないか、と思いました。

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エーデルワイス(メール参加):美しい文体です。「ニュウシュ」は文字や書というよりなんだか模様のようですね。女性同士で手紙を交換していたなんて、子どもの頃に読んだ吉屋信子の少女小説(母世代のベストセラー作家)を思い出しました。女学校の憧れの先輩に「お姉様になって」と告白するなんていうこと、書いてありましたよね。漢族の女性は『纏足』するけれど、ハル族の女性は『纏足』をしないとか、民族によって違うのですね。それにしても痛そう。切ないけれど爽やかな読後感でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『ルイジンニョ少年』の表紙

ルイジンニョ少年〜ブラジルをたずねて

まめじか:角野さんの『ブラジル、娘とふたり旅』(集英社、あかね書房)が大好きで、子どものころに何度も読みました。はじめて見たブラジルがニューヨークみたいだと思ったというのは実感があり、昔に書かれた本ですが新鮮みがあります。叱られたルイスが壁に向かって立ちながら手と足を鳴らす場面が好きです。心臓に響くようなオノマトペは、角野さんだから生まれた言葉ですね! 気になったのは最後の「ブラジルについて」です。日本人がアマゾンを開拓したことが肯定的に書かれていますが、今はアマゾンの開発も種の絶滅も深刻な問題になっていますよね。ブラジルの人が日本人を尊敬しているという文章もひっかかりました。こうした部分は、復刻版として出すときにはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。

ハル:文章がもう、イキイキしていて、みずみずしくて、あんまり上手で楽しくて、感激して泣きそうになってしまったくらい。「なんて素敵なエッセイだ!」と読み切って、「復刻版あとがき」の冒頭で、小説だったことを知りました。もちろん、小説だったとしても良いものは良いんですけどね。でも、気持ちはとてもわかりますが、この表紙が……どうなんでしょう……。絵も、とてもいい絵だとは思います。装丁も、当時の雰囲気をそのまま再現することは、思っている以上にきっと繊細な作業なんだろうとも思います。でもやっぱり、いま読んでほしいと思ったら、どうなんでしょう・・・。本文に手を加えない以上は、やっぱり絵も装丁も当時のままで、外側だけ新しくするのもつじつまがあわないでしょうか。復刻愛蔵版としてコレクションにしておくのはもったいない気もしますが、でも、復刊の意図がそこにあるんだとしたら、やっぱりこのままが正解なのかな。

ネズミ:復刻版って、ほんとにそのまんまなんだと、出たときに驚きました。今のように情報がいくらでもあるわけじゃない時代に、見たことのない世界に飛び込んでいくようすがとても新鮮でした。50年以上前の経験に基づいたお話とはいえ、ラテンアメリカの人たちに今の感じる気質を伝える部分がたくさんあります。ブラジルの人びとの暮らしぶりを伝えるフィクションは少ないので、貴重な作品だと思います。角野さんの作品では、『ナーダという名の少女』(KADOKAWA)もブラジルが舞台ですが、こちらのほうがより日常のようすが伝わってくる気がします。p44のサンバを踊ろうと誘いかけてルイジンニョが「立てるんでしょ。あるけるんでしょ。それでどうしておどれないのさ。ほら、ちゃんとうごいているじゃないの。」と言うシーンが印象的でした。サンバを、白人も黒人もインディオもみんな踊るというのが、生き生きと伝わってきます。

マリンゴ:1970年の本なのですが、角野さんの幻のデビュー作の復刊ということで、とても興味を持って読みました。装丁が、自分が子どもの頃に読んでいた本と同じ、とても懐かしいデザインです。そういえば昔の本は、作家紹介のところに住所まで書かれてましたよね(笑)。ただ、一方で、当時と同じ体裁で出したため、新刊の印象がなくて、今の子どもが手にとりにくい気がします。そして内容についてですが、ブラジル移民と聞いてイメージするもの、たとえば農地開拓とそれに伴う苦難など、と、サンパウロでの角野さんの体験がまったく違うことにびっくりしました。こんな大都会への移住もあるのですね。角野さんのエッセイをよく拝読して、好奇心旺盛であちこち出かけられるエピソードは知っていましたが、ここまで行動的とは。角野さんの創作の源泉に触れられた気がしてよかったです。

サンザシ:絵は古い感じが否めませんが、文章はみずみずしいですね。ただブラジル語とか、今は差別語と言われているインディオという言葉が出て来て、ええっと思いました。たぶん角野さんも変えたい箇所とか言葉はあったと思うんですけど、それを始めると際限がないので、思い切ってそのままの形で出したんでしょう。p81に「わたしは日本人、あなたはブラジル人よ、という区別をしていたのです。なんてちっぽけな、なんてみみっちい気もちでしょう。わたしはこの国のめずらしいものを見に、観光旅行にきたのではなかったはずです。ごちゃまぜの生活をするためにきたのです。わたしの顔の色が、きいろで、あいてが黒でも、白でも、オレンジ色でも、わたしの国が東でも、北でも、西でも、そんなことが、なんだというのでしょう。たいせつなことは、もっと大きな、やさしい気もちをもってくらすことだと、このときはっきりとわかりました。やっと、ごちゃまぜの生活をするということの意味がわかったような気がしました」とありますが、多文化共生の視点がちゃんとあって、それを子どもにわかるように書いてあるのがいいと思いました。とはいえ、これを出したときの角野さんは若いので、欠点も長所もきちんと見たうえで受け入れると言うよりは、長所を評価して、わくわくしながらそこに飛び込んでいくというスタンスですね。今は森林破壊の問題など欠点も見えているでしょうから、今あらためて書いたら、もう少し違うスタンスになるでしょうね。

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西山(追記):読書会後に読みました。サンバの場面に限らず、なんだが、「たのしい!」がうずうずして、じっとしていられないという感じの文章ですね。ルイジンニョの落第が発覚して、エイコさんが気をもむほどの修羅場になっていたのに、下の道路で起こった事故にすぐ興味を移して親子三人仲良く野次馬になっている様子、吹き出しました。ところで、「ルイジンニョ」って、今なら「ルイジーニョ」と表記するのでしょうか。角野さんのルーツであることが実感されて、多くの読者が感慨深く読むと思いました。

しじみ71個分(メール参加):大人の「えいこ」の目線で描かれるブラジルの暮らしと人々は本当に生き生きとしていて、読んでいると心が浮き立ってきます。擬音の魔女というべきか、決して本当のサンバのリズムを音写したような、とまでは思わないのですが、擬音がうきうきわくわくとした雰囲気を伝えてくれます。学校の成績の件でえいことルイジンニョ少年は仲たがいをしてしまい、少年はえいこを許さず、なかなか元通りにはなりませんが、この点には非常に深いリアリズムを感じます。最後は幸福なサンバの祭りの中で修復されていきますが、ある意味甘さを廃した、人の現実を見つめる鋭い視点が貫かれていると思いました。えいこの目を通して描かれるブラジルの美しさ、雄大さ、おおらかさは本当に魅力的で読むほどに引き込まれていきます。ブラジルはこんなに素晴らしい国なんだということが、えいこの一人称で語られるので、個人的体験から導き出されたものとして非常に深い強い説得力を持って伝わります。こんなものを20代で初めての作品で書いてしまうなんて、やっぱりすごい人だなぁと心から思いました。

エーデルワイス(メール参加):角野栄子さんの1970年デビュー作なのですね。分かりやすいし、温かいお人柄が滲み出る文章です。さすがに挿し絵は古いかな。1959年に東南アジア、アフリカそしてブラジルに2年間滞在。それからヨーロッパ9000キロ自動車旅行。驚きです! アクティブな海外旅行が珍しい時代。グローバルな見方を確立されたのですね。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『あたしが乗った列車は進む』表紙

あたしが乗った列車は進む

ハル:胸に迫るラストでした。思い出しても込み上げてくるものがありますね。素敵な物語でした。長距離列車や、広い大地や、人間関係も、海外の小説ならではの魅力もあって、読み応えもありますが、全体的に少しおしゃれというか、詩的な部分もあって、ところどころ、わかるような、わからないようなという部分もあったように思います。もともと機知とユーモアに富んだ、魅力的な主人公なんですよね。列車の中で出会ったひとたちが、みんな夢中になっちゃって、多少いい人が多すぎると思わないでもないですが、この子がここに至るまでを思うと、古い自分の殻を破るには、このくらいの応援が必要なのかもしれません。

ネズミ:すごく好きでした。地味な本ですが、いろんなことを考えさせられるいい作品だと思いました。列車に乗っているときって、できることは限られていて、景色を見ながら内省的になりますよね。そんな旅の最中の心の動きにそって物語が進んでいき、父親がわからず、母親が死に,おばあちゃんも死に居場所がない、この子のよるべのなさが浮かび上がっていくのがうまいなと。受けとめてくれる人が早く見つかってほしいと思いながら読み進めました。列車の中での人との出会いはどれもおもしろく、とくにテンダーチャンクスに詩の本をもらうというのが、意外性もあってとてもいい。ただ、この子の目の高さが違うという設定は、そうじゃなければならなかったのかなと思いました。『ほんとうの願いがかなうとき』(バーバラ・オコーナー/著 中野怜奈/訳 偕成社)のハワードが、足が悪かったのを思い出し、優しい声をかけてくれる人にそういう特徴を持たせなければならないのかなと。だけど、次に踏み出していく物語として、とてもいいなと思いました。求めている子どもの手に届けたい作品です。

ハル:私は最初、「目の高さがちがう」とあるのは、初恋の特徴的なものというか、意識しはじめた男の子の顔のこまかな特徴を、チャームポイントとしてロマンチックにとらえているのかな? と思っていましたが、読み進めていくと「いいほうの目」(p183)とあって、そこで初めて、そういうことかとわかりました。

西山:列車で移動していくという仕掛けが生きていると思いました。回想にふけったり、あちこちに思いが飛んだりすることで、ライダーの抱えているものが見えてくるのだけれど、それが、読者を謎で引きつけ続ける思わせぶりな方便では無く、長距離列車に揺られながらの物思いとしてとても自然です。車窓の風景が変わっていく様子、せっかく親しくなってもやがて訪れる別れ・・・人生の比喩としてまとまった世界でした。この本を読んでいるときに、ちょうど卒業生にメッセージを伝える機会があって、この中から1節を紹介しました。「悪いことはいっぱいあったけど、それでどうにかなったりしない。あたしは、自分で選んだふうにしかならない」(p162)。もう1カ所カルロスさんの言葉「もっともすばらしい人たちは、いろいろ感じることができて,心に希望を抱いている人間だよ。まあ、それはときに、傷ついたり失望したりするということだけれどね。ときにどころか、つねに傷ついたり失望したりしているのかもしれない」(p226)。望むからこそ傷つくこともあるけれど、「こうしたい」「こうありたい」という思いを捨てず、自分で自分の人生を選んでいってね、と伝えました。あと、心が解放されていく過程でトイレをめちゃくちゃにしたり、恋のめばえがあったり。一色でない心の動きが物語を味わい深くしていました。来年度、学生にすすめようと思います。

マリンゴ:ずいぶん前に読んだのですが、ぼろぼろ泣いてしまって困ったのを覚えています。どこで泣いたんだっけ、と思ってざっと再読してまた泣いてしまいました(笑)。やっぱりラストですね。深刻な内容ですけれど、電車の走る疾走感のおかげか、どこか爽やかさが漂うところが魅力だと思います。ヒロインが、お菓子やパンを手に入れると、計画的に少しずつ食べないで全部一気に消化してしまうシーンが印象的です。身体的な飢餓感は、精神的な飢餓感と直結しているのだなと思いました。

サンザシ:私もかなり前に読んで、読み直す時間がなかったので、細かいところは忘れています。日本は自己肯定感の低い若者が多いって言われてますけど、この本の主人公の少女も自己肯定感がとても低いんですね。『太陽はかがやいている』という小さな本をお守りのように持っているものの、自分は太陽と縁遠い存在だと思っています。助けはいらないし自力でなんとかしようと気を張っているけど、ひ弱でもある。読んでいくと、ドラッグ中毒の母親とニコチン中毒の祖母にネグレクトされた少女だということがわかるんですが、嘘もつくし万引きもします。しかもあったことのない大おじさんの住むシカゴに行かなきゃならない。読者もそれは大変だと思って読んでいくことになります。過去の出来事と現在の出来事の両方で物語は進みますが、現在の流れの中で出会うのはいい人たちばかり。列車の中の出会いがすべてプラスに働くというのは現実にはあり得ないかもしれないけど、まったく希望のなかった少女が未来への希望を取り戻していく物語としてはよくできていますね。鏡を割るのは、自分の存在を否定しようとしている自分を壊す行為なんだと私は思いました。そこが象徴的でとてもおもしろいと思いました。自己肯定感を持てない日本の子どもにも読んでもらいたいな。

まめじか:自己肯定感が低く、自分にも周囲にも価値を見出せないライダーはアレン・ギンズバーグの『吠える』を読んで、「生き残れない人たちは、べつにどこも悪くない」「正されなきゃいけないのは、その人たちを破滅させる世界のほう」だと悟ります。ライダーの怒りと心の叫び、それと汽車の警笛が響きあうラストが圧巻です。ライダーのような、困難な状況下の子どもが出てくる本を書いているアメリカの児童書作家のジェイソン・レノルズが前に「自分の中の人間的な部分のスイッチを切ってはいけない。泣いたり怒ったりするのを恐れるな」と若者に語っていたのを思いだしました。

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アンヌ(メール参加):実に、鉄ごころ、鉄道好きの人の心を打つ小説に出来上がっていて、だからこそ、男の子が主人公ではなくてよかったと思える作品でした。というのはラストの運転手席で警笛を鳴らす場面などは、まさしく鉄の夢だから。主人公を男の子にしてしまうと、ずっと鉄道に夢を抱いてきたということになってしまって、主題とはずれてしまうからです。そうではなくて、このラストは、主人公が怒りを吐き出しつつ近づいてくるシカゴに、未来に向かっていく場面で、でも、少し鉄の私にはうらやましい場面です。読んでいて主人公のつらい過去の出来事にも身をさいなまれたけれど、何より途中で本を置きたくなってしまうほどつらかったのは、主人公が飢えていて、それが相当深刻なものだということを、誰も本人でさえ気づかないということ。せっかく手にしたお金をブレスレットに変えてしまうところを読んで、もう、地団太踏んでしまうほどでしたが、でも、ここら辺から物語はかなり詩の世界に物語が滑り込んでいて、この現実感のない行動はまさしくティーンの物語だとも思えてきたし、まあ、ニールにプレゼントできるものがほしいよね、仕方ないなと思いました。おばあちゃんが作るパンケーキの場面はおいしそうで最高なのに、それが死と結びついてしまうところも、おいしいもの好きの私にはつらいところでした。

しじみ71個分(メール参加):カリフォルニア州パームスプリングから、シカゴまでの数日間で、肉親を亡くし、傷だらけの心を抱く少女“ライダー”が、車内で出会った人々とのつながりの中で心を開き、自分を見つめ、芽生えた新たな希望を持って新天地に向かうという話で、温かで穏やかな読後感をもたらします。車内での数日の間に、母は薬物中毒でそのために亡くなり、その後共に暮らした祖母は決して優しさを前面に表す人でもなかったこと、恐らく互いに思い合っているのに表せないまま死を以て家族と隔てられたこと、詩を解し、知恵があり、心優しく、美点を多く持ちながら、求める愛を得られなかったために自己肯定感を持てずに育ったことなど、ライダーの持つ背景が明らかになっていくと同時に、列車に同乗する人々が交流の中で、家族のようにみなライダーを応援し愛し支えていくという展開は巧みで引き込まれました。少女ライダーが詩を媒介にボーイスカウトの少年テンダーチャンクスとつかの間初恋を経験するくだりも美しいし、旅の途中で母の遺灰をまき、別れを告げる場面も非常に心に残ります。ニール、ドロシア、カルロスなど見守る大人も大変に魅力的です。短い文を重ねていく文体で、回想と現在の場面を鮮やかに交差させ織りなしていく手法も見事だと思いました。愛は肉親でなくても長期間でなくても子どもに自信と希望を与えうるという力強いメッセージも感じます。
ただ、しばらくして、もし、ライダーが特段賢くもなく、詩も愛さず、心優しくもなく、自己肯定感を持ちえず自暴自棄で粗暴で他人を傷つけることを厭わない子だったら、こんなに車内の大人たちは彼女に共感し、同情し、支えようとしただろうか、また、同乗する人々がこのように好人物でなければライダーはシカゴまでの間で希望を持てるだろうかとふと考えてしまいました。そう思うとこの物語は痛ましい経験を持ち傷だらけだけれども、素晴らしい才能を秘めた「選ばれた」子どもが、偶然にも包容力のある大人たちに囲まれて自分を発見し傷を癒し愛することを知る、非常に「幸運な」物語のように見えてきます。児童文学の向日性というのは時に大事な要素だと思いますが、そんなにうまくいくことが現実にどれくらいあるだろうかと思うと逆に切なくなり、少し白けた感が残りました。

エーデルワイス(メール参加):「あたし」の過酷な生い立ちがどんどん分かって、(特にp201の12行目など)列車を降りてからの生活が必ずしも幸せになるかどうかが分かりませんが、読後感が爽やかです。車中で出会った人たちが皆温かい。誕生日を祝ってくれ、ママの遺灰を森に撒くのを見守ってくれる。初めての恋と共にたくさんの愛情を知って、さらに詩人になると目標をもちます。列車の中でお腹をすかしたところはなんとも可哀想ですが、あれこれ考えお金を稼いでいるところがたくましいですね。精神科医ローラがp79で「なりたい自分になれるよう努力して。そして自分を愛するの。それができてはじめて、自分の気持ちや他人の意思を、心から信用できるようになるの」と言いますが、ここがこの物語で一番言いたいところかと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ゴードン・コーマン『リスタート』表紙

リスタート

マリンゴ:非常に引き込まれる作品でした。この物語では、記憶を失った自分が「素」の自分で、記憶を失う直前の自分が、環境に影響された自分なんですね。どんな環境にいるかによって人は変わるし、その環境を自分がどういうふうに生かせるか、あるいは生かせないかによっても、人は変わるのだ、というメッセージが伝わってきました。一番悪いやつ、首謀者、と思われている人物も、周りがそうさせている部分が大きいかもしれないと思います。気になったのは、音楽室のチューバが泡だらけになるバトルシーン。描写は細かいのですが、具体的にどこに誰がいて何が起きたのか、わかりづらかったです。なので、後で動画で誤解が解けたときも、「なるほど!」という鮮やかな印象には至りませんでした。あと、ラストの裁判シーンが出来過ぎというか、うまくまとまり過ぎているように思います。

西山:『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳 徳間書店)のラガーマンの父親を思いだしたりして、マッチョな価値観が満ちている場は本当にいやだなと思いました。本筋とは関係無いのだけれど、「お前のかーちゃんでべそ」的、女親を蔑む悪口って、世界共通であるのだなと思うと、男親ではそういうのは聞かない気がして興味深いですね。たまたま最近読んだラテンアメリカの小説で久しぶりに「イホ・デ・プータ(売春婦の息子)」を見ていたので、気になったのですけれど。老人の戦争体験を今の子どもが知るというのは、よくあるパターンですが、ソルウェイさんの屈折の仕方がとてもおもしろかったです。勲章をもたらした戦場での活躍の実態が書かれていて、それを誇れない過去として無意識に封印しているらしいところに共感を覚えました。

ネズミ:うまいエンタメだなと思って読みました。章ごとに語り手が入れ替わって、その人の視点で語る手法は『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン/作 三辺律子/訳 小峰書店)に似ていますね。これまでの自分をチャラにして、全く新しい自分で生き直したいというのは、誰しも一度は思ったことがあるのでは? なので、あり得ないハチャメチャな設定だけれど、おもしろく読めるだろうと思いました。ただ、日常の食べ物や生活ぶりなど背景はアメリカの文化が色濃いので、海外文学を読み慣れていない中学生にはややハードルが高いかな。わからないところは読みとばしてしまえばいいのでしょうけれど、たとえば、p277 「見た目は列車相手にチキンレースをして負けたみたいだ」のチキンレースとか、私もわからないところがありました。主人公は13歳だけれども、高校生ぐらいに思えてしまうし。ラストはできすぎているけれど、元気が出ますね。

サンザシ:最初にエンタメ系だと思って読めばよかったんだけど、そうじゃなかったので、記憶喪失した人の性格がまったく変わるなんてあり得ないし、ストーリーラインが漫画風だなと思ってしまいました。チェースのお父さんががらっと変わるのもどうかなと思ったし、最後にソルウェイさんの証言で少年刑務所行きを免れるのも出来すぎだし、昔のワル仲間のベアとアーロンが勲章を盗んだんじゃないかと疑うのも短絡的だと思って、物語の中に入り込めませんでした。あと、ブレンダンがユーチューブの企画をするわけですけど、三輪車で洗車マシンを通るとか、全身タイツにシロップをかけてローラーブレードで葉っぱの山に突っこむなんていうのが全然おもしろいと思えなくて。つまり、最初にイメージした物語と違う展開だったので、私は楽しめなかったということだと思います。青いドレスの少女の謎、というのはうまいなと思いました。ちょっとひっかかったのは、ソルウェイさんが戦争で手柄を立てたことを少年たちがすごいと思っているところと、ベアとアーロンがどうしてワルなのかという裏側が書かれていないところでした。

ネズミ:ユーチューバーになりたいとか、再生回数をあげようとかは、今の中学生は共感できるのではないでしょうか。

サンザシ:気持ちはわかるけどね。最後のだけはちょっとおもしろいだろうなと思いましたが。

まめじか:ランチルームをサバンナにたとえている箇所なんかすごくおもしろくて、ユーモアがありますよね。チェースは記憶をなくして自分探しをはじめるんですけど、自分という人間がわからなくなったり、自分という存在にも恐怖を感じたりするのは思春期の若者の普遍的な姿ですよね。そんなチェースが自分に似たソルウェイさんにシンパシーを感じ、必要とされる経験を通して成長していくのはいいなと思いました。ただ戦争で勲章をもらって英雄視されるのは、児童書・YAとしてどうなんでしょうね。アメリカの本にはときどきありますが。そういうところはなんだかマッチョな感じが鼻について、あんまり好きになれなかった。p132に「死んだ人間は、自分がどの軍服を着てたかなんて気にしない」とは書いてありますけど。

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しじみ71個分(メール参加):主人公チェースは中学アメフトの州大会チャンプであり、チームのキャプテンであるという輝かしい経歴を持ちながら、一方、暴力的で悪事を好み、学校の同級生たちを苛め抜き、転校させるまで追い込み、教師も止めることができないほどの暴君であったが、屋根から落ちた衝撃で記憶喪失となって性格が変わり、まっさらな他人の目で自分のやってきたことを見つめ、失敗したり誤解されたりしながら、学校の仲間や過去に迷惑をかけた老人たちの応援を受けて人生の再スタートのチャンスを得る物語で、そんなことってあるかと思いながらも面白く読みました。ただ、自分の犯した悪事に向き合うのは記憶喪失にならないでもできるのではないかとも思います。記憶喪失という装置を使って、半ば他人の目で自分の悪事を他人事として振り返るのと、自分の犯した罪に自覚的に向き合うのとでは葛藤の深さが違うようにも思われ、記憶喪失を利用したところは、作家のちょっとしたずるさを感じました。主人公は最後に全てを思い出して、正しい行動をとろうとするのですが、改心とか葛藤など心の揺れや苦しみをそのまま普通に描くことはできなかったのだろうか、と思います。ビデオクラブ部長のブレンダンの人物造形は魅力的です。YouTubeにのめり込んで何とか面白い動画を撮ろうとする姿は滑稽でありながら真摯で、今時のアメリカの若者の雰囲気を感じます。このビデオクラブの存在がチェースの再スタートのきっかけを与える重要な役割を果たしていますし、力は弱くともブレンダンの聡明さがチェースを救う構図もとても良く、昔のアメリカ製ホームドラマで描かれていたようなアメリカの良いところを思い起こさせられました。

エーデルワイス(メール参加):三谷幸喜監督の映画『記憶にございません』も同じ設定ですね。記憶喪失になって、良き人間になるという発想はよくあることなのでしょうか? 主人公のチェースはアメフトの花形スターですが、やはりアメフトのスターだった父親にコンプレックスを持ち、本当の愛情を求めていたのかもしれません。アメリカらしい大人気のアメフト、スマホ、ユーチューブと現代的ですね。父親の妻と娘(チェースの妹)に助けられるところに、新しい家族像が出ている気がします。チェース、ショシャーナ、ブレンダンが交互に一人称で語るのは、面白いと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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『希望の図書館』表紙

希望の図書館

たんぽぽ:おもしろかったです。最初は、差別を描いた本かなと思いましたが、違っていました。主人公に、心なごむ場、図書館があり、本当に良かったと思いました。個人的には、お母さんが好きな詩の作者の名前を自分につけてくれたことを、お父さんにも話し、心ゆくまで語り合ってほしかったです。

マリンゴ:非常に落ち着いた静かな筆致で、素敵な作品だと思いました。母が詩人ラングストン・ヒューズをとても好きだったことを主人公は知って、でもそれを父には言えない、というくだり。「本」に出会って、世界の見え方が変わってくる象徴的な場面で印象的でした。ほぼパーフェクトな本ですが、少し気になったのは、終盤まで、ラングストンが小学中学年くらいにしか思えない点でした。たとえば、階段を上がるフルトンさんのおしりを見るシーンが、幼い子の反応のように思えたりして。クレムと話すようになって、ライモンと対決するあたりで、急に中学生らしくなる印象がありました。

まめじか:ラングストンは11歳ですね。

マリンゴ:なるほど。11歳だと、小学中学年とは誤差の範囲内と言えますね。うーん、やはり幼い気はしちゃいますけども。あと、最後の7行くらいが、物語を総括しすぎていて、ないほうが余韻が残ったかもしれないとは思いました。

サークルK:原題は“Finding Langston”(ラングストンをさがして)というものですが、邦題は読者にわかりやすいように、主人公にとって図書館が希望そのものになっていくテーマそのものを表現していて良かったと思います。実在する詩人のラングストン・ヒューズの詩を知識として知っていたら、さらに重層的に楽しめるのだろうと思われました。フィクションの中に、このような形でノンフィクションをうまく取り込んでいるところがうまいと思います。母・妻を亡くして田舎から都会へ引っ越してきて、息子と父親がすれ違ってしまうのかと思いきや、徐々にまた歩み寄っていく描写や、フルトンさん(パール)が単なる隣人ではなくなっていく描写も行き届いていて、しみじみとさせられました。

カピバラ:まず、なんて素敵なタイトルでしょう。日本の読者はタイトルに「ラングストン」という名前があってもピンとこないでしょうから、変えたのだと思いますが、良いタイトルだと思います。本を読むのが好きな子どもが、はじめて図書館に行ったときの気持ちは想像しただけでワクワクするものがありますが、ラングストンは、帰り道がわからなくなったので聞こうと思って、偶然に図書館を見つけるわけですね。その場面の描写がとてもリアルで印象に残りました。閲覧室に通され、「図書館の空気を吸いこむと、古い紙や糊のにおいと、木のにおいがした。母さんがよく作ってくれた、ピーチパイよりいいにおいだ。ここにある何もかもが新しくみえ、ぼくのくたびれたくつが、もっとくたびれてみえた」(p46)と、目に入ったことと、においを描写しているのがリアルで良かったです。いちばん好きなところは、その後の「ぼくは本棚に近づいて片手ですうっとなで、帰り道をきくことなんてすっかり忘れていた」というところと、「どれでも好きな本を、借りられますよ」と司書に言われ、「どれでも好きな本」と、誰に言うともなくささやいた、という描写。気持ちが手に取るようにわかり感動しました。お父さんや亡くなったお母さんの描写もとてもうまく、どんな人なのか、息子とどんな関係性だったのか、よくわかりました。特にお父さんは、妻を失った悲しみが大きく、働くことにいっぱいいっぱいで、息子への愛情をうまく伝えられない。でも父と子は、たった2人の暮らしの中で、少しずつ理解しあっていくのがうれしかったです。ラングストンは、ラングストン・ヒューズの詩に大きな共感をおぼえ、勇気づけられていくのですが、優れた詩、あるいは文学には、どれほど子どもの背中を押す力があるのかがわかり、印象に残りました。2020年に読んだ本の中でいちばん好きな1冊でした。

木の葉:出版からほどなくして読んだのですが、今回再読する時間がとれず、あまり内容は覚えていません。ただ、とても読後感がよかったことだけは、よく覚えています。今回、パラパラと本をめくって、フルトンさんも素敵だったな、と思ったり。それから、ラングストン・ヒューズの詩をちゃんと読んでみたくなりました。本のサイズと形はどうなのでしょうか。私は広げて読むのに、ちょっと持ちづらいなと思いました。

さららん:私もp46の図書館に入ったときの描写、「図書館の空気を吸い込むと・・・ピーチパイよりいいにおいだ」というところが、いいなあと思いました。そこに至るまで、アラバマから父さんと2人でシカゴに来た主人公ラングストンの、暗い日々の描写が続いただけに、図書館で初めて解放された主人公の心情に、強く揺さぶられたんだと思います。リサ・クライン・ランサムはすごくいい作家だ、と感心しながら読み進めました。ラングストンが詩の中に見つけた母さんの秘密を、父さんにあえて明かさないところが、父さんと息子の関係に奥行きを与えています。そして物語全体を通して、言葉の力を信じる気持ちが強く伝わってきます。p136でフルトンさんの朗読を聞いたあと、ラングストンが「今夜はぼくの頭の中の〈声〉がぎこちなく詩を読むのをききたくはなかった」という一文がありましたね。フルトンさんの声をしみじみ味わっていたかったと感じる主人公は、そこで音の芸術としての本物の詩に出会ったんでしょう。司書のクックさんもふくめて、未知の大人との出会いにより、知らない世界に目を開かれ成長していく主人公を描き、その主人公が今度は父さんをも変えていくところに惹かれます。

まめじか:スコット・オデール賞を受賞したときから気になっていた本です。そのとき調べたので、11歳だということがわかった上で翻訳を読むことができましたが、たしかにラングストンの年齢はわかりにくいですね。言葉づかいも少し幼く感じました。p183で、なぜ詩が好きなのかときかれたラングストンは、「だれかがぼくだけに話しかけている感じがする」「ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかっていてくれている感じがする」と言いますが、これはまさに詩の本質ですよね。自分の心に直接語りかけてくるような親密さというか。北部への黒人の移住とか、ポートシカゴの事件とか、アメリカの歴史を背景に、南部にくらべてにぎやかすぎて寝つけないとか、ラングストンが五感で感じたことがしっかり描かれています。

しじみ21個分:コロナで読書会が延期になる前に読んで、今回読み直しましたが、ますますこの本いいなあと思いました。ラングストンの視点にずっと寄り添ってお話を読むことができました。また、表現が非常に体感的でリアルだったので、図書館の中に初めて足を踏み入れたときの感覚、中を見回す感触、図書館の請求記号がわからなかったり、図書館で知らない言葉をおぼえていくときの頭の中の動きの感じだったりとか、ラングストンの感覚を追体験することができ、映像が眼前に広がりました。また、息子から見たお父さんの姿っていうのもリアルで、田舎から大都会シカゴに出てきて働き詰めで、不器用で、不愛想で息子への愛情もうまく表現できないという人物像もしみじみと胸にしみてきました。アメリカと日本とで文化的な背景が異なるなと感じたのは、詩の描かれ方で、アメリカでは詩や詩人がより高く評価され、浸透していると感じました。ラングストン・ヒューズの詩も多く引用されていましたが、自分が好んで聞いていたブルースから受ける印象と全く同じで、物語の後ろにブルースが聞こえているような感じを受けました。図書館司書の描かれ方も親密すぎず、でもきちんと利用者のニーズに応えているという点がリアルで好感が持てました。また、フルトンさんが読んだ詩を思い出し、つっかえつっかえになった自分の声を思い出さないようにするというのもいじらしくて、胸にぐっときたところでした。

アンヌ:私はラングストン・ヒューズの詩を知らなかったのですが、以前読んだ『リフカの旅』(カレン・ヘス/作 伊藤比呂美+西更/訳 理論社)と同じく、児童書の中で詩と出会うと主人公になって詩を読めるので、この物語のおかげで国も言葉の違いも関係なく詩と出会うことができてうれしいです。引用されている詩を調べようとしている途中なのですが、元の詩の省略されている部分とかを知ると、なるほどこういうふうに作者は物語の中に生かそうとしたのだなと仕組みがわかってきてさらに楽しめます。図書館に行くと偶然手に取った本に運命を感じることがあるのですが、この主人公も図書館で詩に出会い、その中に自分に語りかけてくれる言葉を見つけることができたし、母の秘密を知ったりもするし、父や周囲の人と会話できるようにもなる。そんな図書館と詩の魅力が詰まった読み応えのある本でした。

エーデルワイス:『ソロモンの白いキツネ』(ジャッキー・モリス/著 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)の設定によく似ているなと思いました。主人公の男の子が母親を亡くし、父親と都会に出て、学校でいじめられ、居場所がないという。この本の主人公ラングストンは図書館に居場所を見つけました。酒井駒子の絵の表紙が素敵で好きなのですが、原書にも元々の表紙があると思います。日本人に合わせて表紙を変えているのでしょうか?そこのところを教えて頂きたいです。都会にいる黒人が田舎から来た黒人を差別することもあるのですね。黒人を蔑視する言葉に、北部の「ニグロ」に対し、南部の「カラード」の言葉があるということも今回初めて知りました。ショックでした。あと、詩が日常的に、家庭でも暗唱、朗読されるというのが素敵でした。p152~153、p163、p164など印象に残っています。

サンザシ:原書のFinding Langstonの表紙には、日本語版と同じような服装のアフリカ系の少年が大都会のビルの狭間で立ち尽くしているところが描いてありますね。それだと図書館や本とのつながりがわからないから、酒井さんに依頼したのでしょうね。判型も小学校高学年から手にとってもらいたいということで、敢えてYAとは違えているんでしょう。ただ主人公のラングストンは、最初は寂しいんですけどかなりのエネルギーを持った子どもなんで、この表紙絵とはちょっとイメージが違うように私は思いました。それから当時のアメリカ南部と北部はずいぶん違ったのですね。南部のアラバマでは、黒人が図書館を利用できなかったことは、初めて知りました。それから、黒人の貧しい少年にとって、自分と同じような境遇の作家が書いた作品を読むと、そこに自分がいるような気になるし、主人公といっしょになって本の世界が体験でき、そこから次の一歩が踏み出せるようになるということが、よくわかりました。p183でクレムが「詩のどんなところがいいの?」ときいたのに対して、ラングストンが「そうだな……だれかがぼくだけに話しかけている感じがするのが好きだ。それに、ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかってくれている感じがする……ぼくの気持ちを」と言っているのですが、ここはとても重要だと思いました。p10に「まるで立派な住まいみたいに〈アパート〉って呼ぶけど」とありますが、日本のアパートのイメージとアメリカのアパートメントとは違うので、ちょっと違和感がありました。それから、ラングストンが親の手紙をこっそり読む場面で、p116「読めない部分もあるけど、読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか」とありますが、どうして読みたくないのかがよくわかりませんでした。

まめじか:自分の両親がストレートに愛情を示し合っているのが気恥ずかしかったんじゃないですか?

サンザシ:日本人ならそうでしょうが、アメリカ人だし、母親が亡くなっていて、2人が愛し合っていたということがわかるのはうれしいんじゃないかな、と思ったんですけど。

しじみ21個分:父と母との秘密、2人の心の奥底、に踏み込みたくはなかったということですかね?

サンザシ:主人公の年齢は、私も中学生かと思っていました。

アンヌ:p130に、「あと二年したら、ぼくも高校生になる」とあります。

サンザシ:私も中1だと思って、それにしては幼いなと思っていました。特に前半部分は小学校中学年くらいのイメージですよね。アメリカの学校制度は地域によっても違うのですね。この本だと中1だと思って読む読者が多いかもしれないので、もう少し工夫してもよかったかもしれませんね。

すあまラングストンに共感して読み進めることができました。自分が初めて大きな図書館に連れて行ってもらったときのうれしかった気持ちを思い出しました。そして、ラングストンが図書館で手にした本が物語ではなくて詩なのがよかったと思います。詩であったことで、ブルースの好きなお父さんにもわかってもらえたのでは。そして、一緒に図書館に行くというラストもいいなと思いました。フルトンさんは、最初はいやなおばさん、という印象だったのが、ラングストンの目を通してだんだん素敵な女性に思えてきました。表紙の絵の印象で、幼い男の子の話なのだと思って、これまで手にとっていませんでした。実際に読んでみたら、もっと男同士の親子の話で、ラングストンも体格がよくて、いい意味でイメージが違いました。それから、物語には出てこなかったけれど、ラングストンがいつか詩人のラングストンと図書館で会えるといいなと思いました。

花散里:この本が出版されたときにすぐ読んで、とても良い本だったという印象が今も強く残っています。今回、読み返して、やはりとても良い作品だと思いました。酒井駒子さんの絵はあまり好きではないので表紙画は気にかかりました。この作品に登場してくる図書館司書は良いと思いました。シカゴ公共図書館ジョージ・クリーブランド・ホール分館についても作者あとがきで知ることが出来て良かったです。ラングストンという名前を付けたお母さんのことは最初、読んだ時から印象に残っていましたが、今回、読み返して、お父さんがとても印象に残りました。フルトンさんも最初に登場した時の印象が段々と変わり、ラングストンに詩を読んでくれるときのフルトンさんの様子がとても良いと思いました。ラングストン・ヒューズの詩を読み返したりしたいと思い、本を購入しました。絵本『川のうた』(E.B.ルイス/絵 さくまゆみこ/訳 光村教育図書)も読み返しました。詩を読んでいくことなど、この作品を子どもにどうやって手渡すのかは難しいと感じていますが、読んでほしい作品だと思います。

ルパン:こちらは先ほどの作品と反対に「おもしろかった」ということしか覚えていないくらいです。最初から最後まで夢中で読みました。いちばん印象に残っているのは、フルトンさんのお尻が揺れる描写。インパクトありすぎて、なんかすごいおばさんというイメージだったので、お父さんと再婚する可能性があるとわかってびっくりしたことです。

シア:すごくいい本で、丁寧で心情豊かな描写で、文句の付けようがありません。話の軸もぶれていないですし、内容も素晴らしい。フィクションですがリアリティがすごいです。アメリカの当時の文化や歴史について理解しやすいし、興味がわいてきます。背景描写まで細かく書き込まれています。お母さんはかわいそうな設定ですが、「すきっぱ(透きっ歯)」という表現がされているので、幸せであることがわかります。「すきっぱ」はアメリカでは幸せを運んでくると言われていて、人気があるんです。そういうところが細かいなと。この本は図書館というものが古くから地道に社会に与えてきたものや及ぼす影響など、その偉大さについて伝えてくれます。最近の図書館は指定管理者制などが取り入れられ方向性を見失ってきているので、ぜひ、みなさんに読んでいただきたいと思います。図書館が連綿と守ってきたものを今一度教えてくれる1冊です。

ハル:先ほど話題に出たp116の「読みたくない言葉」(~読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか。)のところですが、私なんて一瞬「やだ、お父さん不倫?」とか勘違いしてしまいました(笑)。こんな人は少ないと思いますけど、やっぱり「読みたくない」は、もうちょっと気を使った表現でもよかったのかなと思いました。全体として、ラングストン少年の目で見た景色や感覚、なつかしいアラバマの描写も美しくて、引用されている詩もとても効果的で、良い本に出合えたなあという気持ちになりました。私はあまり「詩」にはなじんでこなかったので、私もこの本で、「詩」というものに出合えたような気がします。ただ、邦題の『希望の図書館』はちょっと違う話を連想させるような・・・。「希望の~」って、ちょっとテーマと違うんじゃないかな・・・と違和感を覚えました。でも、このタイトルで、この判型で、この装丁で、いかにも名書!という感じでまとまっていて。これも読者の手に届けるための工夫なんだろうなぁと、勉強になりました。

ネズミ:とてもよかったです。アメリカという国で図書館がとても大事にされているということを痛感しました。知というのか、知識に誰もがアクセスできるという、図書館の精神や理念というものがしっかりあるんだなと。私は、お父さんがラングストンと話すときに、妻のことは「お前の母さん」とか「母さん」と呼んでいるのに、自分のことを「おれ」と言っているのが、ちょっと気になったのですが、みなさんは気になりませんでしたか? 子どもと話すとき、自分のことを「父さん」と呼ぶかなと。全体にラングストンが幼い印象だったからかもしれませんが、なんか、ちょっと突き放した感じがして。

サンザシ:そこは日本人になじみやすい表現を使うか、文化を伝える方を前面に出すかで違ってくると思います。アメリカ人なら、日常会話の中で自分のことをyour fatherとは言わずやっぱりIを使いますよね。そういう文化だということを伝えるのも大事だと私は思います。PTAなどでも「○○の母です」と言う人が多いですが、欧米ではたいていファーストネームでやりとりしてますよね。○○の母、○○の父、○○の夫という規定の仕方がいいのかどうか、そこも考える必要があるのではないでしょうか。翻訳者の悩みどころの一つですね。それからこの本はシリーズになっていて、ライモンが主人公のとクレムが主人公のが出ています。あとの2冊も読みたいな。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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しずかな魔女の表紙

しずかな魔女

ネズミとてもおもしろく読みました。こういう図書館はないだろうと思いましたが、子どもを受け入れる場所としての図書館、ひとつの居場所というのが提示されていて、いいなあと思いました。魔女の修行の中で、ところどころに印象的な言葉がありました。たとえばp142の「魔法にはね、ひとつだけやってはいけないことがあるの」「それはね─人を操ること」というセリフ。生きることを後押しする、こういう部分にひかれました。それに、文章がとてもきれいでした。

ハル子どものころは特に、おとなしいことをネガティブにとらえがちなので、どちらかというと控えめなタイプの子は読んで励まされるでしょうし、ひかり側に共感できるような元気のいいタイプの子にとっても、新しいものの見方を示してくれる1冊なのではないかと思いました。構成やストーリーそのものも、決して目新しいものではないかもしれないし、時々ふと、そういえばこれは司書の深津さんが書いた小説(の体裁)なんだったな、と思い出すと、若干「いま、わたしは何を読んでるんだっけ?」という気持ちにもなりましたが、表現の豊かさによって、作品として成立しているのかなと思いました。みずみずしい描写で、刺激を受けました。子どもにとって夏休みがどれだけ特別か、「夏休み」の大きさをしみじみ感じます。

シア不登校の話で始まったので、またこの手の話かと思って読み始めました。市川さん、よく不登校の話を書いているなという印象です。『西の魔女が死んだ』(梨木果歩/著 楡出版ほか)を思い出しました。でも、作中の物語はすごくおもしろくてのめりこみました。肝心の主人公のことはすっかり忘れてしまっていました。蛇足だったかと思うくらい。キラキラなエンディングを迎えたのに、野枝ちゃんの将来が冴えなくてがっかりしました。しかし、レファレンスの回答として出典が明らかにされていない自分の小説を渡すというのはちょっと乱暴すぎではないでしょうか。それから、「図書館は静かな場所」というステレオタイプな考え方が、今の時代に合っていなくて古いと感じました。まるで『希望の図書館』(リサ・クライン・ランサム/著 松浦直美/訳 ポプラ社)と同じ時代みたい。

ルパン半年くらい前に読んだんですけど、「おもしろくなかった」ということしか覚えていませんでした。このたび読み返したら前よりは印象がよかったのですが・・・不登校の子の話が中途半端で不完全燃焼としか言いようがないです。作中の物語では「ひかりちゃん」のキャラクターがすご過ぎて、私はついて行けませんでした。

花散里私は図書館司書をしていますが、読んでいて、この設定はあり得ないと思うことが多く、いろいろと気にかかりました。司書が登場してくる作品としては『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ/作 宇野和美/訳 鈴木出版)が大好きで、あの本の中の図書館司書が理想だと思っています。作中の物語も構成が弱いと感じました。ユキノさんの存在もわかりにくいと思いました。友達の両親が離婚してしまうかもしれないというときに手紙を書くということもあり得ないのではないでしょうか。読後感があまりよくない作品でした。

すあま市川さんの物語では、主人公を家族ではない大人が見守って助けてくれる。この本でも、司書の深津さん、ユキノさんがそういう大人です。物語としては、作中の物語が終わったところで今度は外側の話を忘れていました。中の物語はおもしろかったし、登場人物も魅力的だったけど、この話だけだったら物足りないかもしれませんね。中学生の草子が小学4年生の物語を読む、ということなんですが、実際に中学生が小学4年生に共感しておもしろく読めるのかな、と思いました。物語全体で、いい人ばかりが出てくるので読後感は悪くならないのですが、この著者の他の作品と比べると何か足りない気がしました。

サンザシ:不登校の草子に寄り添って読み始めたら、間に野枝とひかりの話が入っていてそっちの方が長いんですね。私には、間のこの物語を読めば草子が元気になるとは思えなくて、ずっと草子が心配でした。市川さんは文章がいいので、それにひかれてどんどん読み進められるし、間に入っている話にも共感はできるんですけどね。私は『小やぎのかんむり』(市川朔久子/著 講談社)がとても好きだし、あれは第一級の作品だと思っているのですが、それに比べると、この作品はちょっと小ぶりの佳作でしょうか。それから、p166の「あざやかな色のリュック」の若い男は、p15で「館長」に「ここの机って、勉強とかダメですかね? レポートちゃっちゃっと終わらせて、ついでに試験勉強もやりたいんスけど」とたずねる男だと思うのですが、ということは、この「館長」が自分の息子に一般利用者を装わせて、草子の前でたずねさせた、ということ? そこまで行ったらやりすぎじゃないかな。

エーデルワイス作者の市川朔久子さんは、この先、大人向けの小説家になってしまうような気がします。p144の9行目から12行目にある、「ひとつだけやってはいけないこと、人を操ること・・・」や、p145の13行目の「じぶんの心はじぶんだけのものですからね」のように煌く言葉がたくさんありますね。でも、ストーリーが凝り過ぎている感じもしました。

アンヌ初めは主人公の草子に興味が持てず、つらい場面も多くてなかなか読み進められなかったけれど、作中の物語が始まると楽しくて、ユキノさんをはじめとしたお年寄りの生き生きとした様子も魅力的で、近所に昔あった古い団地を思いだしました。洋服の色彩について鋭い感覚を持つリサちゃんについても、家族が「美大出身の友人は雷が鳴るとまず稲妻の色を見たがる。世界の見方が違うね」と話していたので、そんな風に様々な視点で世界を「見る人」がいるということが描けていて良かったと思います。1か所いらないかなと思ったのが、館長と息子の小芝居の場面。p15はともかく、それがバレるp165は、必要はあるのかなと。ただ、不登校の子がコロナ下のネットの授業は参加できたのに、対面授業になったら出られなくなったという話を聞いているので、草子がこんなふうに守られているのはよかったなと思いました。

しじみ21個分やさしい表現の、とても好もしい作品だと思いました。まず、図書館で働く者として、図書館が子どもたちにとって居心地のいい場所として肯定的に描かれているのはうれしいです。不登校の子が図書館で過ごすという描写は、やはり、鎌倉市立の図書館が夏休み明け前の8月に発信した「つらかったら図書館においで」というメッセージを踏まえているのかなとも思いました。ただ、p12に、図書館の司書は静かな人と描かれています。それはいかにもステレオタイプで、静かじゃない図書館員もいるしなぁ、とちょっと固定的な捉え方だとは思いました。見た目としても、物語の中に白いページがはさまっていて、目次もあって、さあ、これから物語が始まるというぞ、という工夫もおもしろかったですし、物語の入れ子構成も凝っていました。作中の物語も2人の女の子の理想的な夏休みが描かれていて、とても好ましいのだけど、正直好ましいというだけで終わってしまったかなという感じです。なんというか全般にリアリティがなくて・・・。図書館の可能性が表されているのはとてもありがたいし、ユキノさんという理想的な大人像も素敵で、こういう風に子どもに接したいとは思うのですが・・・。それから1点引っかかったのが、図書館でおばあさんに「学校はどうしたの?」と問われて、心の中で「くそばばあ」という言葉が浮かんだにもかかわらず、それを小学校のときの同級生の男の子の言葉にすり替えてしまっているところです。それはちょっと主人公がいい子すぎてずるいと思いました。自分の言葉で「くそばばあ」と心の中で言ってほしかった。作中の物語に任せてしまうのではなく、本編の物語で主人公の心の中の葛藤みたいなのがもっと深堀りされてもよかったんじゃないかなと思ったというところです。

まめじか草子は幼稚園の運動会で転んでしまったとき、大人の目を気にして自分と一緒に走りだした先生の欺瞞に拒否感を示していますが、深津さんや館長やユキノさんはそれとは対照的な存在として描かれていますね。おもしろく読んだのですけど、おばあちゃんとの魔女の修行というのが『西の魔女が死んだ』に重なり、あまり新しさは感じませんでした。視点を変えると新しいものが見えてくるとか、日々を丁寧に生きる生活の豊かさとか。中学生は子ども時代を思い出し、ノスタルジーを感じながら読むのでは。中学の1年1年ってとても大きくて、自分がガラッと変わってしまったように感じますよね。私はそうだったな。

西山市川さんの作品は、まず言葉が好きです。p57の「いいないいなあ」など、ほんのちょっとしたところでひかりの体温の高い感じが伝わってきたり、読むことの「快」を感じます。ベースとしては、草子の、学校という場に合わないというメンタルな部分ですが、お話の中で2人が迷子になるまでずんずん歩いたり、アリを見たり、ツリーハウスもどきを作ったり・・・この、中身だけでいいと私は思ってしまいました。読者対象の年齢によって違うのでしょうけれど、魔女修行が結局は心の持ち方を変えさせるという着地点は、本気で魔女になりたい子には肩透かしになるなあと思いました。自分が小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)にがっかりした経験を思い出してしまいました。入れ子構造が活かされた装丁もきれいだけど、どうなんでしょう?『コロボックル』シリーズ(佐藤さとる/著)とか、過去にいくつか例がありますが、全体を入れ子にしたことで、疎外される印象を受けたのを思い出しました。作り込んだフィクションのおもしろさも好きなのですが、この作品では、私は作中の物語だけの方がよかったかな。子どもが減った団地の有り様は、それとなく見まもる「小さなおばあさん」の存在含め、とても興味深かったです。

さららん前に読んだ時には悪い印象をもたなかったのに、あとから中身をよく思い出せませんでした。読み返してみて、文章の美しさを再認識。おいしいお菓子を食べているような気がしました。先ほども指摘があったけれど、草子の幼稚園の運動会のときのエピソードの出し方が見事で、それひとつで、大人のぶしつけな行動に耐えられない草子という子どもが見えてきました。中の物語も、子ども時代のきらめきにあふれていて、楽しかった。ただ、入れ子の外と中が組み合わさったときの感動が薄く、それが印象の薄さにつながったのかもしれません。中の物語では、最後に野枝がひかりの両親宛てに手紙を書いたことが功を奏して、ひかりが団地にもどってきてくれます。2人の時間のきらめきは、その時間の喪失を描くことでいっそう際立ち、読者の心に残ると思うので、2人が10年後に再会してもよかったかなーと思いましたが、でもそれでは大事な「魔法」の意味が描けなくなりますね。ひかりのすこし芝居がかった言葉遣いがほほえましく、赤毛のアンの姿が重なりました。また、子どもたちの体温の高さという点では、森絵都さんの本を思いだしました。

木の葉市川さんの文章が心地よくて、このまま草子さんの話としてずっと読んでいたかったです。作中の物語はアイテムとしても定番というか、割と平凡な印象でした。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉はとても素敵ですが、それが生かされているかというと、微妙です。入れ子にしたために、どちらも中途半端となってしまったような気もします。『西の魔女が死んだ』は、私も連想したのですが、あのおばあさんが苦手だったことを思い出しました。それから、野枝という名前は、私はどうしても伊藤野枝を連想してしまうので、少し違和感がありました。私も市川さんの『小やぎのかんむり』は好きな作品で、あちらの方がいいと思います。

カピバラ:2015年に鎌倉市中央図書館が「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」というツイートを出し、大きな反響を呼んだ、ということを思い出しました。これには賛否両論ありましたが、図書館側では、図書館はそういう子の居場所になれるんだという意識が生まれた、ということを聞きました。あくまでも見守るという姿勢は変えず、平日に毎日来る子がいたらなんとなく気にかけるようになったそうです。図書館はそういう場所であってほしいという思いが、著者にもあったのではないかと思います。深津さんは、まさにそういう子どもを見守る存在ですが、現実にこんな司書がいるのかな、とは思いました。やはり自分の水筒を貸すのはありえないし、図書館は出版物を扱う場所なので、いくら自分が書いたものだからといって、出版されていないものを渡すことはありません。でも、図書館はこうあってほしい、という意識が現れているのかな、と思いました。入れ子になった物語がある形式は、2つの物語がどういうつながりがあるのか、謎解きのおもしろさもあって魅力的です。「しずかな子は、魔女に向いてる」というのはすてきな言葉で、きっと著者はこの言葉がとても気に入っているのでしょうが、言葉の魅力が先に立って、それがどういうことなのか、という点は意外とあっさりしていたかなと思います。野枝とひかりのように正反対の子どもが仲良くなれるのか、という意見がありましたが、私は、ひかりのように屈託がなく、思ったことをすぐに言葉にできる子に野枝が惹かれるのはよくわかりました。

サークルK書き出しが柔らかい感じで表現が美しいので、読み出しやすかったです。表紙も本の森のページに入っていく感じがして、挿絵もかわいらしいですし。優しく詩的な日本語に触れられる作品だと思います。p163の「絶海の孤島に来ています」という司書さんの草子への手紙でストーリーを終わらせても良かったのではないかとは思いました。そのあと、「館長さん」とその息子とのやり取りや、司書さんとのやり取りなどは冗長に感じました。すべてに落としどころをつけようとしすぎている感じがして、もったいないと思いました。

マリンゴとても魅力的な物語でした。本編が実は、長い長い序章で、別の物語がすっぽり入り込み、最後にまた本編に戻るという構造が、わたしは非常にうまく機能していると思いました。自分の気持ちを伝えられるのは自分だけなのだ、というメッセージもとてもよかったです。あと、行こうと思えば世界のどこにでも行けるし、誰とでも会えるのだ、と不登校の子に、世界を広げるメッセージを伝えているのもよかったのではないかと。唯一、私が引っかかったのは司書さんですね。不登校のひとりぼっちの女の子に、実話と思われる2人の女子のかけがえのない友情の物語を読ませる司書さんって、デリカシーがどうなんだろう、と。とてもデリカシーある人として描かれているだけに、ちょっと気になりました。

たんぽぽ表現がきれいだなと、思いました。ラストは、「ああ、こういうことだったのだ」と、すっきりしましたが、そこにたどりり着くまで、ちょっと長かったです。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉が、少しイメージしにくかったです。

木の葉図書館を舞台にした作品は結構あって、私も、図書館の存在によって救われる物語は好きです。とはいえ、「図書館=いい場所」という描かれ方が前提となっているようで、そのことには少し疑問も感じています。すべての図書館がすばらしいわけではないですし、現実に問題や矛盾はあるはず。職員の待遇面もどうなのか、なども。本好きは本にまつわることをつい善的に捉えてしまいがちであることにも、注意が必要かな、という気がしています。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ソン・ウォンピョン『アーモンド』表紙

アーモンド

マリンゴ:非常に読み応えがありました。主人公と、ゴニ。どちらも、非常に極端なキャラで、一歩間違えれば非現実的な物語になりそうなのに、現実のなかに落とし込んでいるのがすごいと思います。人それぞれに成長のしかたやスピードは違って、考えることをあきらめなければ、少しずつ変わっていけるのだと、感じられる本でした。ただ、実在の本と架空の本を取り混ぜているのは、あまり好ましくない気がしました。p125で、『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー著)とおぼしき内容の本が登場します。でも、p126のP.J.ノーランという作家は架空の人物なんですよね。注釈はついているのですが、別ページにあるため、それを見る前に、ノーランの名前を一生懸命検索してしまいました。少しくやしいというか腹立たしいですね(笑)。

サークルK:タイトルを見たとき、何のことだろうと不思議に思いました(読み進むうちに解明されましたが)。挿絵が斬新で、モダンな感じでした。(皆さんがおっしゃっていた、男の子の顔色が明るく変わっていくことには気づきませんでした。)始まりが衝撃的なシーンで、映画を見る思いで読みましたが、あとがきで作者が映像関係にも造詣が深いことを知り、納得しました。脱北者を扱った韓国映画では「クロッシング」(2008)があり、(「母をたずねて三千里」の父子・悲劇版とお考えいただければと思います)今回の3作品を読んで、その映画のことも思い出しました。

ルパン:おもしろく読みました。まず、プロローグがいい。「アーモンド」が何をさしているのかわからないのだけど、「あなたの一番大事な人も、一番嫌っている誰かも、それを持っている」という一文に心ひかれました。そしてp29でそれが脳の中の「扁桃体」であることがわかると、「アーモンド」が物語全体を支えるキーワードとなり、作者の言いたいことがひとことで言い表されている気がしました。ストーリーは映像的というか、殺人事件など非日常な場面がまるでテレビドラマか映画を見ているように目に浮かんできました。そういう意味ではエンタメなのかもしれませんが、この主人公がゴニに対する友情や、自身が生きるよろこびを感じ始めるところはとてもいいと思いました。

ハル:私自身も読んでおもしろかったし、YA世代の子が読んだらよりいっそう感じるものは多いと思うのですが、積極的にYAとしてその世代の子にすすめたいかというと、そうでもないのかなぁと思います。設定だったり、突然の悲劇だったり、ラストのもっていきかただったりが、うーん、これは一般文芸かなと思いました。いつも読む英米の翻訳の本とは違う文化に触れられたのも、新鮮でおもしろかったです。

さららん:どんどん読めてしまった。エンターテイメントとして見事でしたね。冒頭で、「怪物である僕がもう一人の怪物に出会う」との断りがあり、そのあと「その日、一人が怪我をし、六人が死んだ。・・・・・・」と事件の描写から、第1章が始まったので、猟奇的な物語かな?と覚悟をきめて読み出しました。でもすぐにトーンが変わり、むしろ感情のない少年の透明な悲しみに包まれた物語でした。p50-p51の描写(意味が心に響かない少年には、本の楽しみ方もほかの人とは違う)のところなど、この少年の感覚を表していて、リアリティを深めるのに役立っていたと思います。余談になりますが、私には、韓国の小説や映画は血が出て終わる、という印象があって、この作品もやはりそうでした。

アンヌ:主人公は扁桃体異常と言われるし、目の前で祖母も母親も襲われるし、この子はどうなっちゃうんだろうと思いながら読み始めましたが、意外に母親が周到に彼を守る方法を考えていてくれたので、ほっとしました。脳の異常ならば、成長と共に変わって行くだろうと推測がついていたので、ゴニが出て来てからは、そっちの方が心配でした。せっかく再会した親に、また捨てられていますよね。作者は最初にバーンと映像を出すような描き方がとてもうまくて、映画のようにぞれぞれの場面が目に浮かんできます。おばあさんが襲われるところとか、映画だったらここで、不意に無音になるだろうな、なんて思いました。けれど、逆にそれがちっとも怖くなかったりすることもあって、たとえば、不良の親玉のようなまんじゅうはともかく、針金の顔が美しいのは、ありきたりに思えてつまらない気がしました。ぼくは死んだと言いながら話が続いて行って、最後はちょっと拍子抜けという感じもしました。

木の葉:おもしろく読みました。主人公のユンジェと思われる表紙の少年が、章タイトルにも描かれてますが、だんだんと背景の色が明るくなっていくことに、今気がつきました。社会のありようは日本とさほど変わりなく、祖母を失い母を植物人間状態にするクリスマスイブの殺傷事件やそれへの反応なども、日本でもありうると感じたのですが、この物語のようなタイプの作品は日本では見かけない気がしました。タイトルのアーモンドは、扁桃体のことを差しますが、食べ物のアーモンドが上手く使われています。翻訳書も茶やオレンジが基調でどことなくアーモンドトーン。作者は映画関係ということで、視覚的にイメージしやすかったように思います。対比的に描かれるユンジェとゴニの緊張が終盤に向かって加速し、ちょっとドキドキしました。暴力シーンは苦手なので、つらいところもありましたが。ただ、ラストの母親のエピソードはやりすぎというか、快復の兆しぐらいで抑えてくれたほうが私の好みです。

ネズミ:入りづらかったです。感情を持たない主人公の1人称で書かれていますが、自分が幼かったときの出来事を、他人のせりふも再現しながら、3人称のように書いているのが、どうもしっくりこず、どうとらえていいかわからない感じでした。ゴニとの関係はおもしろく、こういう題材をとりあげることは、なるほどなあと思いましたが、かなり読者を選ぶ作品でしょうか。

西山:作者が映画畑の人だからということもあるのでしょうか、映画を観ているようでした。映画にすれば結構流血シーンの多い映画になるでしょうけれど、人は人との関係の中で変わるんだというところが作品の芯になっていると思うのでYAとして非常に好感を持って読みました。脳ってわからないから、身長が9センチ伸びたら「頭の中の地形図がかなり変わったんだと思う」(p198)というところや、「自分でも気付かないうちに僕の頭を追い抜いてしまった体が、夏に着る春のコートのように不必要でうっとうしく感じられた」(p199)といったところが、1年間で10センチぐらい軽く延びてしまう年頃の子どもにとって、とてもしっくりきます。おもしろいなと思ったところは、数々あるのですが、たとえば人の心がわからないから、根本的な問いを発する。「ほかの人と似てるって、どういうこと? 人はみんな違うのに、誰を基準にしてるの?」(p71)と、スマホとの対話アプリで質問しているところ、その行為自体が切ないのですが、ものすごくプリミティブな問いかけですよね。あと、p244で、テレビでとても不幸なニュースが流れていても、平気でチャンネルを変えたり、笑えるのはなぜかという疑問。これも、そもそも共感って何?という根源的な問いで、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)のフィギスの逆パターンなんだなと思いました。フィギスは異様に高い共感能力で憑依を招くわけですから。設定の奇抜さで目を引くということではなく、深く読める作品だと思います。あと、中学生くらいで共感をよぶんじゃないかと思いまして、p87の心ない質問に「別に何ともないよ」と答えてしまうところ、いかにも中学生のリアクションだと思いながら読みました。その直前、レンギョウの芽に日が当たるように枝の向きを変えてやる場面に、なんてやさしい!と思いました。感情が分かるとか、優しさって何?と考えさせる場面があちこちにあって、ハッとすることが多かったです。ゴニもいい子で、たとえばp142の最後のところで、「褒めてるんだ。商売上手だって」と。「ぼく」に分かるように説明を加えるなんて! 蝶を使った感情教育のところ、―あれ、対人間の暴力シーンより怖かったんですけど―そういうことを思いつくゴニが愛しい! ティーンエイジャーにいいなと思った作品でした。

カピバラ:感情がないっていうのがどういうことか、なかなかすぐには理解できず、私も最初は違和感があったんですけど、次第に主人公の独特の世界に入り込んでいくという不思議な感じがあり、それがほかの本にはない体験でした。章の切れ目に、次を読まずにいられないような予告的な表現があるんですよね。p54で、母さんの顔にしわを見つけ、「母さんも、これからは歳をとっていくだけってことよ」と母さんが言いますが、そのあとに、「でも母さんの言ったことは間違っていた。運命は、母さんにそんな機会を与えなかった」と書いてあります。これはもう、母さんに何が起こるんだろうと、次を読まずにいられないじゃないですか。そういった予告的な表現が次へページをめくらせる効果を出していると思います。また、季節の変わり目を表す描写がとても美しく、記憶に残りました。例えばp151「季節の女王は五月だというけれど、僕の考えは少し違う。難しいのは、冬が春に変わることだ。凍った土がとけ、芽が出て、枯れた枝に色とりどりの花が咲き始めること。本当に大変なのはそっちのほうだ。夏は、ただ春の動力をもらって前に何歩か進むだけで来るのだ」 こういった美しい描写が節目ごとに書かれていて時の流れを伝えてくれます。また、章のはじめの絵のバックの色が変わったのには3章くらいで気づき、おもしろいなと思いました。これは原書にはなくて日本の装丁者の工夫なのかな。センスがいいですね。

さららん:1カ所だけ疑問に思ったところがありました。p65で「こうしてぼくは十七になった」と書いてあったけれど、p82で、アーモンドは高校に入学していますよね。17歳で入学なのでしょうか?

ルパン:数え年だからじゃないですか? 12月にうまれたときが1歳で、年が明けてすぐに2歳になるから、満年齢と2歳の差ができるのでは。

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エーデルワイス(メール参加):文学的に質の高い作品。児童書ではなく一般書の棚にありました。村上春樹、カズオ・イシグロのような印象を受けます。好きな作品としか感想がかけないのですが、この作者を今後も読みたいと思いました。

サンザシ(メール参加):とてもおもしろく読みました。ユンジェとゴニはどちらも怪物と呼ばれる人間で、足りないものを持っています。その2人が対立し、理解しようとし、友だちになっていきます。リアルであると同時にエンタテイニングで、先へ先へと読ませる力があります。しいてテーマを示すとするなら、愛による変化・成長といったところだと思いますが、フィクションだからこそ書ける作品かもしれません。文学が持つ力をひしひしと感じることができました。訳もとてもいいと思います。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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リ・ソンジュ『ソンジュの見た星』表紙

ソンジュの見た星〜路上で生きぬいた少年

カピバラ:あまりにも過酷な状況に目を背けたくなるところがこれでもか、これでもかと続いていくんだけど、目を背けてはいけないという思いで読み進みました。実体験だとわかっているのでよけいにつらいけれど、主人公は、今は脱北してこの本を書けるようになったんだ、という事実を希望にして読みました。北朝鮮の状況を書いたものを読む機会は少ないので、関心もあったし、日本にも責任があるところがつらくもありました。政府によって洗脳されるおそろしさや、子どもたちがまず犠牲になるのは多くの国が経験していることだけれど、これがついこの間のことだということ、現在もどこまで状況が改善されているかわからないことに胸をつかれました。つらい中でも、おもしろいと思った点は、子どもたちが、子どもなりの知恵を働かせ、団結して1つの小さい社会を形作っていくところ。〇〇はぼくらの目だ、〇〇はぼくらの声だ、というように、それぞれの長所を生かした役割でお互いに認め合っていく。そしてそれが実の家族よりも強い絆になっていくところです。

西山:何が衝撃的と言って、つい最近のことという事実です。読みだしたら止まりませんでした。p190の、子どものころの夢を語り合っている部分は、軍の指揮官という夢は、社会背景を映したその時のそこだからこその内容ですが、それを、「そんな夢を持ってたなんて、別の人生っていうか、ぼくじゃないだれかの人生みたいな気がするよ」というところがすごく切なかったです。(追記:エルサルバドルの内戦下を舞台とした映画「イノセント・ボイス 12歳の戦場」で屋根の上に逃れて星空を見ているシーンを不意に思い出しました。この映画、ものすごくつらい内容ですが、一見の価値あります。作者の境遇と言い『ソンジュ』と共通する部分が多いと今気づきました。)p261の「人間が別の人間に対してする最悪のこと」を「尊いものや、いいものや、純粋なものを信じられないようにすることじゃないかな」と語り合っているところも本当に胸にしみました。普遍性のある作品だと思いました。

ネズミ:ノンフィクションみたいなフィクション、と思って読んだのですが、ノンフィクションだったんですね。事実のすさまじさに圧倒されました。文学的な企みではなく、そこにある事実の重さが迫ってきて。主人公がどうなるか知りたくて、最後まで読まずにいられなかったけれど、凄惨な場面もあるので、子どもだと、怖くて途中で投げ出してしまう読者もいるかも。父親から教わった、小石を3つ使った戦術が主人公を何度も危機から救うというのが印象的で、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のかくれんぼを思い出しました。

まめじか: キム・イルソン主席の伝説や国の偉大さを信じこんでいた主人公は、しだいに自分の頭で考えるようになります。なんの疑問ももたずに命じられたとおりにするのが、権力者にとって都合のいい人間だという文章にハッとしました。一番ひどい仕打ちは、家や仕事や親を取りあげることではなくて、善なるものや希望を信じられないようにすることだというせりふは、人は何をよりどころにして生きるのか、何をもって最悪の時を乗りきるのかを考えさせます。北朝鮮には、メディアから得たイメージしかなかったのですが、p291の景色の描写はほんとうに美しいですね。主人公の移動した経路がわかりにくいので、地図があったらよかったです。

木の葉:今回、選書係だったのですが、翻訳ものは欧米、特に英語圏のものが圧倒的に多いので、できるだけアジアの作品をと、思いました。とはいえ、これは原書が英語ですが。北朝鮮の脱北者の体験を描いたもので、体制糾弾目的のものだったら、やめようと思っていましたが、読了後に取りあげることにしました。すでに意見として出ていますが、脱北が成功していることがわかっているので、ある意味では安心して読むことはできたのですが、それにしても、前半はきつかったです。ただ、読み進めるにつれて、子どもたちのギャングぶりにたくましさを感じて、ワルといってしまえばワルなのですが、生き抜く知恵と力を感じました。野沢さんが訳者あとがきで「朝鮮半島はアメリカとソ連によって南北に分断され、七十年以上たった今もふたつの国に分かれたままです。歴史は「現在」につながっています。もし、朝鮮半島が日本の植民地ではなく、ひとつの独立国だったならば、こんなことは起こらず、社会のしくみや人々の暮らしも今とはちがっていたかもしれないのです」(p372)と書いてます。読者にはここもしっかり読んでほしいと思いました。朝鮮半島が分断国家になったことに、日本が深く関与していることをちゃんと理解してほしいと思います。

アンヌ:以前に、北朝鮮を渡った在日の女の子が出てくる小説を読んだことがあったので、悲惨な状況を覚悟して読みました。主人公が頭を使ってたくましく生きていく場面は格好がいいけれど、前にパンを恵んでくれたおばあさんからパンを盗む場面は読んでいてつらいし、収容所でも看守に乱暴される女の子たちとは違う。だから、生き抜くたくましさに感動するというより悲惨さを感じながら読み続けました。おじいさんとの再会と、その後の場面は天国のようにのどかで、ほっとしました。でも、おじいさんはこの後も生活が続けていけたのか心配です。韓国での扱いを見ると父親はかなりの機密を知っていた軍人だと思うので。身元がわからないようにするために、原文から削ったりした場面は多いのだろうとも思いました。例えばp308「その老人の横の貼り紙」といきなり出てきますが、何の貼り紙か全然状況がわからない。あとの方でどうもガラス瓶が置いてあったり自転車もあったりしたようなことがわかるけれど、情景描写の部分が変に抜けているように思ったのでそう感じました。

さららん:テレビのニュースに映る平壌の都会の人は幸せそうですよね。けれども農村は疲弊しているはずで、その関係がどうなっているのか想像できなかった。この本を読んでその空白部分が埋まりました。形はあっても稼働していない工場。山のリスまで捕まえて食べる生活。生活は限界を越えていても、父親が、次に母親が家を出て消えてしまっても、この主人公は自分を投げ出さない。盗みは日常茶飯事だし、ときには麻薬に手を出し、自暴自棄になって危ういところまでいきます。それでも仲間には公平で、強い正義感を持っています。ぎりぎりの生活の中でこそ、人としての品格が問われるのだと思いました。その点で、ホロコーストをテーマにした作品と共通するものを感じました。国外への脱出劇が、また実にリアルで印象深かったです。父さんの友だちと称する人を信じられるのかどうか。著者は最初は国境を越えて中国に行き、それから韓国に行き、そして今は脱北者の救済活動をしているということです。少年の日々を、長いスパンで克明に描いたものだからこそ、具体性があって読み応えがありましたが、このとき、あなたは本当はどう感じたの?と聞きたい部分はありました。人物の心の奥深くまで入りたかったです。

コアラ:これが最近の出来事というのがショックでした。1997年頃、北朝鮮が飢饉でひどい状態だというのはニュースで聞いた記憶がありますが、ここまでひどい状態だとは知りませんでした。一番印象に残ったのは、p103からの第9章の、母親がおばさんのところに食料をもらいに行くと行って、ソンジュが起きたら母親がいなくなっていたところ。父親がいなくなり、母親までいなくなって、どんなに悲しく心細かっただろうと思うと、本当に読んでいてつらくなりました。鍋におかゆがつくってあったというのも、もしかすると父親が帰ってきた時のために残しておいた食料だったかもしれず、最後に母親がそれを使い切って、ソンジュの食べるものを作ってあげたのかもしれないと思うと、子どもを残して行く母親の思いはどうだっただろうとか、読み終わってからもいろいろ考えてしまいました。少年たちがコッチェビ団を結成して生き延びていく様子も、胸が痛かったのですが、語弊がある言い方かもしれませんが、フィクションだったらおもしろく読めた部分かもしれません。それでもやはりノンフィクションだからこその凄みを感じました。途中で、少年たちは、強くなるために体を鍛えたりします。これは、日本の子どもたちにも通ずるというか、想像を絶する状況にあって、意外と健康的な普通の子どもたちのように思えて、ちょっとほっとした部分でもありました。北朝鮮のことを知る機会はほとんどないので、貴重な本だと思います。子どもに読んでほしい本だと思いました。

ハル:衝撃的でした。ああ、こういうことだったのか、と、長年の疑問や誤解がとけていく、本当に衝撃的な1冊でした。北朝鮮のこととなると、でたらめで、どこかおもしろおかしくなってしまっているニュースも多いように感じますが、その向こうにはこんなに苦しんでいる人々がいる。中盤は読み進めるのに勇気がいるような、つらい場面もありました。そして、こんなに過酷な環境なのに、ヨンボムのおばあさんは、日本の植民地時代に比べれば「まだまだ」(p141)だと言っています。私たちは日本人として、世界の中の一人として、一体何ができるんだろうと考えさせられます。

ルパン:まさに衝撃でした。「路上で生きぬいた少年」というサブタイトルがついていますが、生き抜けなかった少年や少女、そしておとなもいたと思うとたまらない気持ちです。現実にはもっと悲惨な状況もあると思うし、政治によってこうも人生が変わってしまうかと思うと、それだけで戦慄をおぼえてしまいます。平壌にいれば資源が豊富でいいかというと、ソンジュの父のようにある日突然追放される恐怖と向き合って生きなければならない辛さもあるでしょうし。『九時の月』(デボラ・エリス著、もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房)を読んだ時にも思いましたが、ある国に生まれただけで不幸になる、というようなことが21世紀になってもまだなくならないことが悲しいです。

サークルK:北朝鮮の文学ははじめて読みました。話題の映画「パラサイト 半地下の住人」(2019)を見たばかりなので、過酷な暮らしをしている人々の物語に入り込みやすかったです。映画では現代の貧困家庭と上級家族の対比が視覚化されていました。

マリンゴ: 知らなかったことが多すぎて、圧倒されました。物語の展開がシビアで凄まじくて、波乱万丈すぎますよね。もう終盤かしらとページ数を確認してみたとき、まだ全体の1/3までしか進んでいなくて、これからどうなるのー!と怯えました(笑)。北朝鮮の地方都市の普通の生活を描いたものを読んだことがなかったので、こんな大変な状況なのか、と、重い現実を感じました。敢えて言えば、序盤がやや読みづらいでしょうか。夢の話と現実が交差するせいかもしれません。あと、主人公はリーダーシップがあるのだということが途中、急にわかって驚きました。それまでは塩をなめ続けて体がふくれあがってしまうなど、トラブルの多くて、助けてもらう側の子かと思っていたので。そのあたりは、自分がリーダーシップがある、と早いうちから書き込むことに遠慮があったのかもしれませんね。ノンフィクションだけに。

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エーデルワイス(メール参加):実話なのですが、まさに生き抜くサバイバル。忘れないように付箋を付けながら読み勧めたら付箋だらけになりました。食べ物を探しに、父、母といなくなり、妹もさらわれ一人ぼっちになるところで宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を思い出しました。それにしても子どもを大事にしない国家は滅びると思います。11歳で信じていたものが崩れ、何を信じて生きるのか自問していく苦悩が伝わってきました。韓国での差別を体験し、北朝鮮は韓国より劣っているという偏見を覆し、平和な南北統一を目指したいとの作者。その日が来るといいのですが。

サンザシ(メール参加):ノンフィクションだと思いますが、疑問点もありました。著者が、韓国や大韓民国を中国の一部だと思い込んでいたというのがわかりません。脚色なのでしょうか? また父も母も出ていったあと、著者は自分の家で寝泊まりせず野宿をしているうちに、ピンチプパリ(仲介業者)に家を売られてしまいますが、なぜ自分の家で寝泊まりしなかったのかがわかりませんでした。コッチェビのことは日本でも報道されて知っていましたが、これほどたくさんいたのは知りませんでした。サバイバルのための壮絶な苦労話が中心で、p216やp261後半のような洞察がもっとあるといいのに、と思いました。拉致被害者については日本人も知っていて憤慨していますが、プロローグにあるような朝鮮半島の歴史はほとんどの人が知らないのではないでしょうか。そういう意味では、この部分について書かれた文学がもっとあるといいですね。『1945 鉄原(チョロン)』や『あの夏のソウル』(イ ヒョン/著 影書房)は1945年からの時代を描いていると思いますが、もっといい翻訳で出さないと文学として読めないので残念です。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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李慶子『バイバイ。』表紙

バイバイ。

さららん:2002年初版の本だとは知らずに読み始め、すぐに『じゃりン子チエ』(はるき 悦巳/作)の世界を思い出しました。主人公「和ちゃん」の家族も、親友のホルモン焼き屋のスナちゃんの家族も朝鮮の人たち。そんな子どもたちをとりまく人間模様が描かれています。「朝鮮人のおとうちゃんなんかうちはいらんや」という日本人の女の子もいるし、同じ区域には、もっと貧しい暮らしをしている朝鮮部落もあります。和ちゃんは家族が大好きだけれど、自分が朝鮮だとは、学校では明かせません。朝鮮人ってからかわれたスナちゃんをかばえない。戦争中に日本人として無理やり日本に連れてこられたのに、戦争が終わったとたん外国人登録が必要になった朝鮮の人たち。126号という特別な居住許可のことを、父さんは和ちゃんにちゃんと説明します。国に帰りたくても、今の生活を全部捨てなくてはならない背景が読者にもわかってきます。政治にふりまわされる庶民の悲しみや怒りが、のどかな子ども時代のエピソードに織り込まれ、なんども考えさせられました。大人の社会の差別をそのまま映し出して、子どもたちは傷つけあうこともあるのですが、たくましく旅立つ親友のスナちゃんを見送り、和ちゃんが朝鮮人としての誇りを持って生きようと思うところで物語は終わります。大人の自分には理解できるし、読んでよかったと思います。でも今の子どもたちが予備知識なしで読むのは相当難しい作品ではないでしょうか。学習の一環で、在日二世や三世がなぜ日本にいて、どのように生きてきたか、ということを知るのには良いかもしれませんが・・・・・・。対象年齢は5-6年生ではなく、ずっと上の世代になると思いました。

アンヌ:なんだか昔読んだ『綴方教室』(豊田正子/著)を思い出すようなリアリティのある日常生活の描写が続いていくなと思いながら読みました。男の子の跡継ぎが生まれないと、お妾さんを囲って生ませたりする。そんな理不尽な大人の世界を描いていくので、3人姉妹の主人公の家も最後は酒乱のお父さんが暴力をふるって家庭を壊してというパターンになるのかなと思っていたら、逆に、謝り方を教えてくれ、「父さんの自慢の子や」と言ってくれて、主人公が自己肯定できたのにはほっとしました。最後にスナちゃんとお別れが言えてよかったと思えた、後口のいい物語でした。

木の葉:本の出版は2002年ですが、書かれている時代はそれよりかなり前。作者の実体験が含まれているのかどうかはわかりませんが、主人公が生まれたのは1949年で、作者自身の子ども時代とほぼ重なります。まず思ったのは、今の子どもが読んでもなかなか理解できないだろうな、ということでした。時代背景と在日の韓国・朝鮮の人たちの状況という二重のわかりづらさがあるな、と。大人でも、理解できない人も多いですから。これは、子どもが読むには解説が必要なのではないかと思いました。想像力だけでは無理で、そういう歴史を学んだ上で、読むことに一定の意味はあるように思いました。内容は、文学的というのか、女の子たちの心情をていねいに追っています。せつなさを感じる物語です。大阪などでなく地方都市が舞台というのもいいですね。ただ、韓国・朝鮮に対して加害者である日本人という立場を負わずに、作品に向き合うことの難しさをちょっと考え込んでしまいました。けっして正しい態度ではないことは承知の上ですが、かまえができてしまうというか、ある種の批評しづらさというものがあるような気がしてしまうのです。なので、いろいろ不自由というか窮屈だな、という感が否めません。歴史を知ること、学ぶこと、アイディンティティを大切にすることは重要ですが、外国ルーツの人からも、多様な切り口の「日本語」文学が出てくればおもしろいし、日本人(定義は難しいのですが)作家も、この作品の背景のようなテーマに、取り組むことができたら、という思いもあります。

まめじか:その時々の主人公の心の動きを追っている物語だからでしょうか。三宅君が唐突に現れた印象をうけました。「男のやることに、女ががたがた口出すな!」と父親が言うのは、昔の話だからということもあるのかな。

西山:『児童文学10の冒険 自分からの抜け道』(偕成社、2018)の解説を書くのに読み返した時、確かに作品の背景は古いけれど、今も読めると思ったんです。みなさんおっしゃるように、いろいろ説明が必要なことは多いと思います。解説で外国人登録の指紋押捺がいつなくなったとかは書きました。そういう補足は必要だと思います。でも、出だしのほうのシーンで、ウェディングドレスが着たいというのがごく自然に出ていて、ある時代のある女の子の生きたようすというのは普遍的に読めると思うんです。過酷ですけれど、「在日」の置かれた状況を肩肘張らず淡々とリアルに伝えている。李さんには、今の話をさらに書いていってほしいと思います。

コアラ:まず本のつくりが古いなと思いました。刊行が2002年ということですけど、もっと古く、昭和時代に刊行された本のように感じました。物語の設定が1960年代なので、狙ってその時代のように作ったのかもしれないとも思いました。内容は、1960年代の在日朝鮮人の生活を子どもの目から見ていて、今の子どもに知ってほしいから書いたんだなという作者の思いが伝わってきました。p87では、徴用という言葉も出てきて、今の日本と韓国の問題としてニュースで出てくる問題だし、意外と今が読むのにいいタイミングかもしれないと思ったりしました。タイトルも本のつくりも、子どもが手に取りたいと思わせるような感じではないのが残念です。クラスに在日の人がいるとか、過去を知りたいとか何かのきっかけで今の子どもが読んでくれるとうれしいなと思います。

ネズミ:在日に対する考え方が、1960年代と今では変わってきているでしょうね。

ハル:こういう時代が、こういう社会が、あったんだなと、知りたいことが書かれているお話で、全体の雰囲気も私は好きでしたが、ところどころ「この人はどのひとの誰だっけ?」ということがわかりにくかったり、ちょっと頭の中で推察して補いながら読まないと状況がわかりにくかったり。もうちょっと書いてほしい、もうちょっと読みたい、という部分も感じました。もしかしたらこの作品は、大人向けなんじゃないかなと思いました。

ルパン:先に『アーモンド』(ソン・ウォンピョン/著 矢島暁子/訳 祥伝社)を読んでしまったので、こちらは、最初なんだかちょっと退屈というか、ゆったり話が進んでいる気がしましたが、読み進めていくうちに、鉄浩おじさんのこととかスナちゃんの家のこと、そして最終的に在日朝鮮人の生きにくさなど、リアルに迫ってきてつらくなってきました。そのなかで、子どものもつたくましさや前向きな気持ち、そしてスナちゃんとの純粋な友情も生き生きと語られていて、すべてハッピーとは言えないなかで、読後感のいい作品でした。

サークルK:挿絵が世界観をよくあらわしていると思います、既視感のある風景が内容を助けているように思います。また、焼肉屋さんの匂いまで伝わってくるような描写がいいな、と思いました。大人の事情がだんだん呑み込めていく様子がていねいに描かれていて、一種のビルディングスロマンなのだろうと思いました。

マリンゴ: この本のこと知らなかったので、今回読む機会をいただけてよかったです。戦後の地方都市で、在日朝鮮人がどういう生活を送っていたのか、知らないことが多くて、描写を隅々まで味わいました。選択肢が非常に少ない生活だったのですね。日常をていねいに綴っていて、物語が立ち上がってくる印象があります。もっとも、中盤以降、若干冗長に感じる部分もありました。今日話し合うことになっている他の2冊が波乱万丈すぎるので、これが静かに感じられたのかもしれません。

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エーデルワイス(メール参加):作者の自伝でしょうか。在日朝鮮人の家族の物語ですが、貧しい時代の日本の家族の物語ともいえるかも。優秀な勝ち気な姉とわがままな妹にはさまれた主人公は、自分ばかり損をしているのではないかと思っています。裕福な鉄浩おじさんと春子おばさんの養子に行っていれば・・・それでも両親は養子に応じなかったことは嬉しいことでした。スナちゃんを二度も裏切った形の和子。だがラストが爽やかだったので救われました。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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アラン・グラッツ『貸出禁止の本をすくえ』表紙

貸出禁止の本をすくえ!

西山:ほんっとにおもしろかったです! 架空の作品も混ぜているのかと思っていたので、最後に驚きました。アメリカの図書館で「異議申し立て申請」という制度が日常的に活用されていること、貸し出し禁止措置が取られることがあるということへの新鮮な驚きがあります。日本の図書館のことも、私は知らないことだらけだと思うので、いろいろうかがいたいです。図書館の蔵書に対して「異議申し立て」という発想自体が私には無かったので、ギョッとするような申し立てもできるシステムがあって、それに反論なりしながら、図書館の自由を守るというのは、鍛え続けられる人権意識だなと思いました。あいトリ「表現の不自由展」への、見もしないで行われた攻撃、『はじめてのはたらくくるま』(講談社ビーシー)への異議申し立てを出版社相手に行ったこと、堂々と売られ続け棚に並び続ける『かわいそうなぞう』(土家由岐雄作 金の星社)、『ママがおばけになっちゃった』(のぶみ作 講談社)批判、少し前の『はだしのゲン』(中沢啓治作 汐文社)閉架措置問題など、いろいろ思い出しながら読みました。「異議申し立て」が「貸し出し禁止」(ひいては発行禁止)に及ぶのではなく、中身への論理的批判が無いところに、「配慮」や「忖度」による、議論抜きの決定事項としての「禁止」が来るのではないかと思いつきましたが、どうでしょう。作品から離れた事ばかり考えさせられたというのではなく、もちろん、どきどきひやひやワクワクしながら読みました。エイミー・アンの家の騒々しさには、読んでいてこっちまで「わーっ」となりそうでしたし、多分、ものすごく表情を変えながらのめり込んで読んでいたと思います。『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作 岩波書店)を「今は、冒険みたいにわくわくするところが気に入っている」(p321)と、同じ作品でも読み手の経験やその時々で変わってくるという、読書とはどういう行為なのかということを語っているところ、共感しながら読みました。一つだけひっかかるのは、この本を読んでいいとかいけないとか言う権利が保護者にはあるのかということです。それで行くとマービンは『スーパーヒーロー・パンツマン』(デイブ・ピルキー作 徳間書店)その他を読めないことになります。「子どもの権利」という観点からどうなのだろう。「憲法修正第一条」は成人の成人のみを対象にするということになるのでしょうか。あと「行儀のいい女に、歴史はつくれない」(p298)という名文句が、オリジナルのフレーズなのか、そういう慣用句があるのか、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。

ハル:おもしろかったです。私は子どもの頃、両親に漫画を禁止されていましたし、私の家だけでなく、大人が下品だと思う本やテレビ番組が禁止されるというのはよくあったことで、また禁止されると余計に興味がわくものです。隠れてこっそり読んだり見たりしていました。なので、もしかしたら日本の子には、ある本が学校の図書館で貸出禁止になったところで、ここまで大問題に思うかどうか、新鮮に感じるかもしれないなぁと思いました。p39で司書のジョーンズさんが「教育者としてのわたしたちのつとめは、子どもたちにできるかぎり多様な本、多様な視点にふれさせることです。~~」と、語ってしまうのですが、これは読者の子どもがあとから知ればいいことで、先に明かさなくてもいいんじゃないかと思いました。でも、今回この本を読んで、私もついつい「こんなことを子供が読んで真似したら危ないんじゃないか」と臆病になってしまうところがあるなぁと反省しました。もっと子どもを信頼しないといけませんよね。

マリンゴ:とても読み応えのある本で、ほぼ突っ込みどころがなかったです。子どもにこんなことを伝えたいと、与える側は思うけれど、子どもがどう受け止めるかは全くの自由で、それこそが読書の醍醐味なのだと改めて感じさせられる作品でした。主人公は家で、やっかいな妹たちのこととかで大変なんですけど、それが絶妙な匙加減で、「ユーモラス」と「かわいそう」の境目にあるため、深刻になりすぎないのがよかったと思います。それと、『スーパーヒーロー・パンツマン』の作者のデイブ・ビルキーさんが実名で登場する、その仕掛けが興味深かったです。実際に作者同士、知り合いなのでしょうか? 主人公が、この作者を別に好きじゃないというスタンスなのがおもしろかったです。普通、こうやって作品に登場してもらうからには、もう少し配慮して、主人公が大ファンという設定でもおかしくないと思うので。

カピバラ:主人公は、たくさんの本を読んでいるだけじゃなくて、気に入った本は何度も読みます。こんな子がいるって、なんてうれしいんでしょう! しかも実在の書名がたくさんでてくるので、その本を読んだことのある読者はうれしくなりますよね。例えばp197「本の山は、宝の山。わたしはきゅうに、自分が『ホビットの冒険』(J.R.R.トールキン作 岩波書店)に出てくる竜のスマウグになって、金や宝石の山の上にすわりこみ、ホビットやドワーフたちに宝をとりかえされないよう、必死にまもっているような気がしてきた」という引用など、感じがよくわかるし、同じ本を読んでいればこその楽しみがあります。読書好きの子にとってはたまらない1冊でしょうね。逆に読んだことのない本ならば、これをきっかけに手にとってくれればいいですね。『クローディアの秘密』なんて、おもしろそうだな、って思うんじゃないでしょうか。主人公はとても感受性が豊かで、いろんなことを考えているけれど、それを口には出さないんですね。頭の中でいろいろ妄想するところは子どもらしい発想でおもしろかったです。読者の共感をよぶと思います。また、大人が子どもから遠ざけたいと思う理由のくだらなさも皮肉です。西山さんがおっしゃった「貸出禁止の権利があるのは保護者だけ」というのは、ジョーンズさんが言っていることなのでは?

ハリネズミ:私はおもしろくずんずん読んだんですが、メール参加のアンヌさんの意見をさっきちらっと見たら、「これは設定が変だ」って書いてあったんですね。それで、ああなるほど、と思ったりはしました。最初からちゃんとした手続きをしてもらえばよかったのに、となると、子どもの活躍はなくなってしまうんですよね。多作の作家は、あまり緻密じゃない部分もあるのかもしれません。それと、エイミー・アンが、いろいろなことが言えるように変化するのはすてきだけど、最後は「理不尽なことには抗議するけど、親の言うことは聞く」というふうになるので、だとすると道徳の教科書みたいで、予定調和的。そこはちょっと物足りなく思いました。それから、アメリカは学校図書館や公共図書館に「こんな本を置いておいていいのか」と抗議ができるようになっていて、抗議が多かった本については、書棚から引っこめるというのを州単位で決めるんですね。そのリストは毎年発表されるんですが、それを見るとみなさんびっくりすると思います。マヤ・アンジェロウもだめだし、ハック・フィンもだめになっていたりする。信心深い人は、「ハリー・ポッター」は子どもが魔法を信じるようになるのでダメとか、性的な言葉が出てきたり、汚い言葉が出て来たりするのもダメになったりします。でも、逆に、そういう本を読みましょうという運動もあったりするのがおもしろいところですね。

コアラ:タイトルで、おもしろそう!と期待して読みました。期待に違わず、おもしろく読んだのですが、途中で、教育的なニオイがするなあとも思いました。p57で、作者はレベッカに「(貸出禁止になった本は)おもしろいに決まってるじゃない」「だから大人が、貸出禁止なんかにするんだよ」と言わせていますが、“本はおもしろいから読め読め”という作者の意図を感じるというか、作者が子どもに本を読ませたいから、そう書いているんでしょ、と思えてしまいました。権利章典について調べる学習も、それで権利や自由を学ばせるのね、子どもにその視点を持たせたいのね、と思えてしまって、押し付けがましさを感じました。それでも、クライマックスの教育委員会の会議での、レベッカやエイミー・アンの発言は、痛快でした。自由を侵されたら、異議を申し立てる、自由を守るために戦う、というアメリカ精神が前面に出ている本だと思います。後ろに本のリストがありますが、この本から別の本に手を伸ばしていけるといいと思いました。日本では、貸出禁止問題はどうなっているのでしょうか。

すあま:久々におもしろい本を読んだという感想です。最初からいきなり衝撃的な事件が起こり、大人に対抗して子どもが団結するという話で、おもしろく読めました。この物語の中で貸出禁止になる本は、長く読み継がれてきたもので、禁止した大人も子ども時代に読んだ本。実際の本が登場するので、この本をきっかけに読んでくれるといいと思います。禁止になった本を子どもたちがこっそり読んでいるのは、禁止されると読みたくなる、ということで、本を読んでもらうために禁止したのでは、とすら思えてしまいました。解決策に図書カードの貸出記録を使ったところは気になりましたが、学校司書がフォローしていたのでちょっと安心しました。この本は、大人が子どもの読む本を制限するということだけでなく、言いたいことが言えなかった子が、言いたいことをちゃんと言えるようになる様子を描いているのがよいと思いました。

ルパン:p275で、エイミー・アンが家族への不満をぶちまけるところで、泣けて泣けて。ちょうど電車の中で読んでいたのですが、「これはまずい」と思えるほど涙があふれてしまいました。ただ、荷物をまとめて家を出て行くところまでは拍手喝采だったのだけど、ママが追いかけてきたとたんにすぐにあやまってしまうところで、ものわかりよすぎるなあ、と、ちょっと拍子抜けでした。この両親にはもうちょっとわからせてやらなければならない、と。しかも、結局エイミーは自分の部屋をもらうんですが、もともと客間だのトレーニングルームだのがあったことに驚きです。妹のひとりは個室をもっていたのだから、この子ももっと早く自分の部屋をもらえてもよかったのに。貸出し禁止をやめさせるアイデアはスカッとしました。大人の論理を逆手にとって、たいした逆転劇でした。スペンサーさんの読書記録を晒さずに、これだけで勝ちにもっていったらもっとよかった。たとえば、ネットや本で簡単に調べられるような、有名人や偉人の読書経験などを引き合いに出すだけでも、この論理で行けたはずなので。

彬夜:これは、今回の3冊の中でいちばんおもしろかったです。大人に対峙して、子どもたちだけで工夫をしながら抗うのが痛快です。エンタメ作品で子どもが活躍するというのはいくらでもあるでしょうが、暴力的な反抗などでなく、子どもたちだけで大人に一泡吹かせるというか、刃向かっていく、という物語は、あまり日本で見ないような気がします。それをリードするのが、言いたいことが言えないエイミー・アンという子であるのが、またいいですね。家族の中での立ち位置についても、特に読み手が長女だったら、共感できる子が多いのではないでしょうか。物語の方向はある程度見えてしまって、まあ、予想通りのハッピーエンドと成長が語られるわけですが、それでも、読後がよかったです。保護者が子どもの読む本を禁止できるというのは、私もちょっとひっかかりました。あと、校長のリアクションが書いてなかったので、そこもちょっと知りたかったです。

まめじか:「本は宝の山」と言う主人公が、本を大切に思う気持ちが伝わってきました。主人公は最後に、「本でおそわったからやったんじゃない。本を貸出禁止にされたから、うそをついたり、ぬすんだり、大人にさからったりしたんだ」と言っています。ブラジルの画家のホジェル・メロさんは国際アンデルセン賞を受賞したとき、かつて軍事政権が本を禁じるのを見て、「彼らが恐れるほどの力が本にあるのを知った」と語っていました。自分が好きではない本も守るのが、多様な意見や表現の自由につながりますし、図書館は知る権利を守る場ですよね。アメリカには毎年、禁書週間があって、撤去要望の多かった本を展示するキャンペーンを書店や図書館が行っています。あと物語について言えば、あたたかな家庭なのに居場所のない感じがリアルでした。p229「だれも、わたしのことを、いわれたとおりにするいい子だって、思ってくれない」という文を読んだときは心配になりましたが、そのあとp246「なにも意見をいわず、問題もおこさないエイミー・アンがいい子? それとも教育委員会のまちがいをだまって受けいれず、それを正すために行動をおこすのがいい子なの?」とちゃんと言わせているのもいいですね。

ネズミ:すごくおもしろかったです。主人公が、人に言えないけれど、心の中でああでもない、こうでもないと考えているところ、大人がすることに対しても、それでいいのかと、いろんな方向から考え、立ち向かっていくところがとてもよかったです。ロッカー図書館がだめになったり、大事な紙をシュレッダーにかけられてしまったり、困難にぶつかりながらも、それでくじけないところは、子どもに勇気を与えてくれそう。「三つ編みをしゃぶる」など、深刻にならず、ユーモラスに感情が表現されているのもいい。長いけれど、読んでほしい本だと思いました。

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しじみ71個分(メール参加):以前、中野怜奈さんが子どもの読書の制限に関するニュースを国際子ども図書館のサイトで紹介してくださったのですが、「差別的表現」「暴力的な場面」「薬物・飲酒・喫煙」「同性愛」「性描写」「対象とする読者の年齢に合わない」「宗教上ふさわしくない」等が理由で、学校等で利用制限が要望された本のトップ10をALA(米国図書館協会)が4月に発表しているとか、子どもたちの読んだ本を保護者に公開している、というような事例が実際に米国であるということを情報として得、子どもの読書の権利について以前から問題意識があったので、とても興味深く読みました。
話の筋としては、思ったことを口に出して言えない女の子が貸出禁止の本を貸すロッカー図書館を始めたことで、大事なことを言えるように成長すること、本や読書への愛情、本の中で子どもがさまざまな事柄を体験し、時には閉ざした心を揺らし、動かすといった、本が子どもに与える影響などが描かれていて、おもしろく読みましたが、図書館員としてどうしてもこれはダメだと思うのは、スペンサーさんの読書歴をエイミー・アンが暴露することです。図書館の自由に関する宣言では、図書館活動に従事するすべての人は、利用者の読書の事実を守らなければならないと述べています。なので、多くの図書館では、貸出記録が利用者の目に触れる方式はもう採用していないと思います。読んでいる最中で、エイミー・アンが重要証拠としてスペンサーさんの貸出記録のあるカードを見つけて、それを逆転劇の場面で使うことは容易に想像できてしまいました。この利用者の読書の秘密を保持する件については、教育委員会での演説のあと、司書のジョーンズさんがエイミー・アンに読書の秘密を守ることについて一言述べるだけに留まっているのにはどうしても大きな違和を感じます。また、ジョーンズさんが繰り返し、子どもの読書について制限していいのは保護者だけ、と言い、エイミー・アンもそれについて納得しており、最後の場面では親から子の本は早すぎる、と言われて抵抗しないのもちょっと納得がいきません。国際子ども図書館の同僚間でも、子どもは未熟な存在だから大人が導き、優れた本を紹介するのだ、という議論が定着していて、そのような発言を聞いて、子どもの読書の権利をどう考えるべきか、ずっと疑問に感じていました。子どもたちは大人の薦める良書のみを読まねばならないのだとしたら、それはどうなのか、と今でも悩んでいます。大人からしたら悪書でも読みたいときがあるのではないかと思います。
展開もスピーディーでハラハラ、ドキドキもあり、お姉ちゃんの我慢とか家族の問題もあり、主人公の成長もありで、物語自体はおもしろく読めたのですが、図書館の自由と子どもの読む権利の2点において、とても大きな引っ掛かりを覚えた本でした。

アンヌ(メール参加)本好きにはたまらなくおもしろい本だと思うのだが、少々疑問点がある。まず大前提である、「本を貸出禁止にする仕組み」を、なぜ教育委員会が無視したかということだ。スペンサーさんが独走することを、校長を含め、なぜ教師たちが許したのかがわからないまま話が進む。結局、もともとの規則に従おうということで終わるのだから、教育委員会という名のPTAの暴走への戦いの物語なのだろうか。まあ、それはそれとしてとてもおもしろかった。本以外に行き場のない主人公、クラスでも家庭でも言いたいことを胸にためたまま、人の言うなりに過ごしてきた少女が、唯一の居場所である図書館と、心のよりどころである本を取り上げられたら、それは変身するしかないだろうと納得がいく。それにしても主人公は注意深いというか、一概に人を決めつけるところがないのがいい。私は特に、偽の表紙と題名をつける場面が好きだ。聞いたことがあるようなでたらめな題名がおもしろいし、p204の『17番目のお姫様』の表紙にあったお話を作る場面を読みながら、 私なら『おれの指をかげ』をどんな話にするかと考えて楽しんだ。 そうしていたら、耳は聞こえず目も見えない愛犬の起こし方というネットの動画が流れてきて、そっと鼻先に指を出して、匂いをかがせて起こすというのがあって、 これで感動的な物語ができるなと思った。
二度目の教育委員会の会議で、「禁止本を読んでいた」と、スペンサーさんを指摘するところで終わらず、 でもいい人に育ったというところは、
いいような悪いような落ちつきのない気分にさせられた。うまく丸くまとめたという感じがする。でも、そこで終わらず、主人公の家庭内での関係も変わったのだから、いいことにしようというめでたしめでたしの物語で終わったので、まあよかったと言えるかもしれない。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ジェイソン・レノルズ『ゴースト』表紙

ゴースト

コアラ:タイトルを見て、幽霊が出てくる話だと思って期待して読み始めたのですが、主人公の男の子が自分につけたあだ名ということで、がっかりしました。タイトルで期待させて、ずるいと思いました。私はアラン・グラッツの『貸出禁止の本をすくえ!』の後でこれを読んだのですが、家族に向かって発砲するというショッキングなことが書かれているし、主人公が靴を盗んだりするので、これこそ「貸出禁止」になりそうな本だと思いました。アメリカの、銃の問題や暴力や家庭の問題は、今に始まったことではないと思いますが、アメリカの社会の現実を表している本なのかなと思います。「訳者あとがき」には「ノリのよさ」とありますが、全体的にちょっと荒っぽいなあという感想です。でも、p251の最終行、「自分という人間からは逃れられない。だが、なりたい自分に向かって走っていくことはできる」という言葉は、すごくストレートで、好感を持ちました。それから、アメリカの、学校の部活でない、地域のクラブチームとはどのようなものなのか知りたくなって、少しネットで調べたりしました。原題に「Book1」とありますが、シリーズものだったら、続きが読みたいと思いました。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。今日11時に図書館で借りてきて、引きこまれてずっと読み、電車の中でも読んで読み終わったんです。こういう境遇の子どもはいっぱいいると思うんですが、まわりに手を差し伸べる大人がいるのがいいですね。お母さんもいっしょけんめいだし、おばさんとか、応援を派手にやるサニーのお母さんとかも。それぞれに背景があることも読んでいるうちにわかってきて、うまく作られているなあと感心しました。中華料理店で注文するものも庶民的だし、リアリティがうまく出ています。耳の遠いチャールズさんもいい味を出しているし、主人公のまわりに盛り上げ役の人たちがいっぱい登場するのも、おもしろかったです。シリーズだとすると楽しみです。

カピバラ:私もとてもおもしろかったです。主人公はものすごくシビアな状況を抱えているのに、明るくユーモアをもって語っているところがよかったです。ひとつひとつの描写が具体的で、例えばひまわりの種の食べ方でも、よくわかるように描かれているので、主人公が感じることを一緒に体感できると思います。また、母ちゃん、監督、チャールズさんなど、まわりの大人がよく描きわけられているし、主人公が口ではいろいろ言っていても、大人に対して意外に素直なところも好感をもちました。アメリカの児童文学では以前は白人は白人だけの社会、カラードはカラードだけの社会で別々に描かれていたけれど、今は普通の暮らしの中で自然に混ざり合っているんですね。この主人公はアフリカ系ですが、登場人物には白人もいて、そのような状態が日本の読者には、ちょっとわかりにくいかな、と思いました。本を読むときは姿かたちを想像しながら読むけれど、よくわからない場合もあるのではないかと思います。肌や髪の色がヒントにはなるけれど、すぐにわからないことも多いので。ジェームズ・ブラウンが白人だったらこんな顔、というような表現はわかりやすかったけど、ジェームズ・ブラウンってどんな顔かわからない読者もいますよね。

ハリネズミ:今、ジェームズ・ブラウンがわからなければYouTubeですぐ見られるので、わかると思います。

カピバラ:調べれば、ね。

ハリネズミ:興味があれば、とくに映像はすぐ検索する人が多いんじゃないですか。あと白人か黒人かというのは、どっちでもいいというふうに、この界隈ではなっているんじゃないでしょうか。だから、そこを書かなくてもいいんじゃないかな。

マリンゴ: 私も、選書しようかと、以前候補に入れていたことがありました。なので、読んだのが少し前で記憶が遠いのですが、よかったと思ったのは覚えています。ただ、本の帯やあらすじ紹介が、ちょっとミスリードしている気がしました。帯は、「銃声が聞こえたら走れ!」。あらすじの説明は、「あの銃声をきいた瞬間、逃げ足がいっそう速くなったってことだ。」。それを先に見た私は、足がとてつもなく速くなるファンタジーなのかと思ってしまい、当初戸惑いました。あと、監督が地元出身の五輪メダリストであることが後々わかるんですけど、こういう人って地元ではみんなが知る有名人なのではないかしら? 物語の都合上、知られていないことになっているのか、あるいはアメリカという国はメダリストも多くて、日本ほどメダルの価値が高くないから知らないのか、そのあたりがわからなかったです。

ハル:読み始めてすぐに、この主人公のことが好きになりました。ゴム製のアヒルを世界一たくさん集めるなんてブキミだと言ってみたり、いちいち口は悪いし、くすぶってるし、ひやひやさせられますが、とっても魅力的で、応援したくなります。他の登場人物たちもイキイキしていて、いろいろと映像を思い浮かべながら楽しく読めました。靴を万引きしたあと、なかなか発覚しないので逆にハラハラしました。でも、この決着のつけ方は、読者である子どもたちにとってはきっとうれしいでしょうし、味方になってくれる大人がいるんだと心強く思うかもしれませんが、お母さんからしたら、黙っていてほしくはなかったでしょうね。余談ですが、「歌手のジェームズ・ブラウンが白人だったらこんなだろうって顔をした人」(p9)というような表現は、白人の作家、あるいは白人の主人公のセリフとして書かれてあったら、読者の反応はどうなんだろうと思いました。

西山:どうなるのだろうという興味で読み進めましたが、全体としてはあまり賛成できなかったです。ディフェンダーズの新人食事会、それぞれの「不幸話」(敢えて言います)を打ち明け合うことで、一体感ができてしまう。監督も含めて。その展開はぺらぺらすぎる気がします。修学旅行の告白大会か?と言いたい。

ハリネズミ:私はそこはぺらぺらだと思わなくて、たとえばアン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社)だって、自分だけが特殊だと思っていた子どもたちが偶然集まった時、少しずつ話していくうちに、自分ひとりじゃない、ということがわかってくる。こういう界隈だと「自分ひとりがまわりと違う」と思っている子も多いと思うんですよね。それに告白大会ではなくて、ただ現実を話してるんですよ。

西山:だいたい、料理が来てから、あれを始めてしまう監督のやり方がとても嫌でした。温かいうちに食べようよ!

ハリネズミ:でも、料理が出てきて、うれしい気持ちにならないと、緊張はほぐれないし、言ったとしても表面的なことだけになってしまうのでは?

まめじか:監督も同じような過去を抱えているし、この子は、これまで心を開くということをやってこなかったんですよね。で、これがきっかけで初めて相手を信頼して自分の過去を出すことができる。たしかに軽いタッチでは書かれているけれど、シリアスにならずにどんどん読ませて、でもやっぱりとても考えてそこは出しているんだと思います。

ハリネズミ:ごちそうが出ているから、あったかいゆとりのある気持ちになっているんだと思うのね。教室で、ひとりずつ何か言いなさいというのとは違う。

西山:ところで、北京ダックって、どうやって食べればいいのかわからない料理の一つだと思うのですが、アメリカではそうではないのでしょうか。お高くて難しいメニューというイメージをもってしまっているので、それをするっと注文し、とまどいも無く食べるゴーストって?とひっかかりました。万引きも、解決としてあれで良いのか?と思います。盗んだ靴を履き続けることに抵抗はないのか。こちらも扱いの軽さに釈然としませんでした。現実問題として自分だけじゃないという共感はとても大事だと思いますが、作品を読みながら思ったのは、重い過去をもっていない子がいたら、どうなるのか、ということです。

ハリネズミ:そこは監督がわかってるんだと思いました。詳しいことはわからないでしょうが、監督も同じような育ちなので、バイブレーションのようなものは感じてるんだと思います。だから、最初は嫌がっていたゴーストも、p185「みんな、自分の家族についてすごく個人的な話をした。だからひょっとしたら、うちの話もだいじょうぶかも」となり、話した後はp186「おれは・・・・・・気分がよかった。さっぱりした気持ち。みんな、ぎょっとしたみたいだけど、おれのことをわかってくれたような気がした。やっとみんなと同じレースで、同じスピードで走ってるって気持ちになった」となる。それに、子どもたちから責められて、監督も自分の過去を話さざるを得ないという展開に、作者はもっていっています。

西山:監督も、負けず劣らずハードな過去を持っていることを明かすことで、ゴーストの反発が消える展開から、つまるところ、同じ境遇の存在同士しか本当にはわかり合えないのだという認識を突きつけられたようで、私は反発したのだと思います。

ネズミ:おもしろく読みました。『貸出禁止の本をすくえ!』もそうですが、はっきりとした声が伝わってくる文章がよかったです。貧困地区に住んでいるというだけで嫌な思いをさせられ、しかもこの子は怒りをコントロールできず、すぐに爆発してしまう性格。一度かかわった子どもを見放さない監督に出会えてよかった。ドキドキしながら、一気に読んでしまいました。靴を盗んだことがわかったp210からp211にかけての「罰をくらったり、母ちゃんともめたりするのがこわいわけじゃない」から始まるパラグラフは、口には出せない主人公の複雑な思いが言葉にしてあってとてもよかったです。外に出せずとも、いろいろなことを考えていること、人間の感情の複雑さが集約されていて、こういうことを文字で読めるのはすごくいいなあと。

まめじか:「体のなかに悲鳴がうずまいている」主人公は、怒りやフラストレーションをコントロールできず、自分をもてあましています。そんなゴーストが、過去と向きあうなかで自分と向きあいます。それまでは発砲する父親や、靴を盗んだ店から逃げるために走っていたのに、最後は未来に向かって走りだすのがいいですね。訳は読みやすかったのですが、p98「完全無欠の人間」はちょっと固いかなと思いました。またp30「かけっこの得意なミルク色のぼうや」、p85「かんべんしてよう」とか、p135で靴を「シルバーのかわいいやつ」と呼ぶのは、中学生っぽくないと感じました。バカにしたり、ふざけて言っていたりするのでしょうが、日本の中学生がそんなふうに言うのはあまり聞かないので。

彬夜:まず、タイトルだけ見みたら、まったく違う物語と誤解されないかな、と思いました。おもしろくなかったわけではないですが、いかにも若い作者が書いたのかな、という荒削りな印象がありました。それは、けっして言葉使い云々ということではありません。登場人物の中では、チャールズさんがよかったです。監督は良い人物なのですが、明かされる過去のことばかりでなく車の中が汚いことなども、いかにも「感」があって、あんまりおもしろい人物造型とは思えなかったです。ハリネズミさんがおっしゃるように、個々の子どもたちの裏までわかっているのだとしたら、りっぱすぎて却って興が削がれる。それに比べるとチャールズさんの人物造型は好感度が高くて、その差が何かと考えたら、言葉の量の差かも。語りすぎないほうがいいんですね。自戒を込めて。こうしたクラブがどの程度の水準なのかはわかりませんが、それにしても陸上競技の描き方が適当すぎるのでは?大会の位置づけもよくわからないし、スニーカーで走るの?とか、当日に出場種目の発表?とか。ブランドンの走力もわからないまま、いきなりラストで出てきて、そういうところが、読んでいてストレスでした。読後の自分のメモに「軽妙が持ち味だが、深刻な問題を軽妙に書けばいいというものでもないのでは?」と書いてあり、そう思ったのは、なんとなく大味な感じがしてしまい、ストンと腑に落ちる感がちょっと足りなかったのかもしれません。

ルパン:おもしろく読みました。靴を盗むシーンでは、読書会で「人のものを盗んではいけません」って発言するのを期待されるだろうなあと思いながら読んでました。確かに「いけないわ」とは思ったんですけど、だんだん本人が、後ろめたさを感じはじめる、罪悪感が芽生えてくるプロセスが読み取れて、好感がもてました。一番いいなと思ったのは、物語中でずっと「監督」と呼ばれている監督が、最後の最後に「オーティス」という名前だ、というのがわかったところです。主人公が急に監督に親近感をもったであろうことが感じられました。父親から銃を向けられるというのは、ありえないような体験ですが、実の父親に発砲されたことで足が(逃げ足が)速くなった、というこのストーリー仕立てはすごい、と感服しました。リアリティとお話の力を同時に感じながら読みました。

すあま:お父さんに銃を向けられその結果お父さんは牢屋に入っている、という日本の子どもでは体験することのない設定だけど、主人公の気持ちは共感して読めるだろうなと思いました。お父さんはいないけど、チャールズさんや監督という親ではない大人が見守ってくれる。ゴーストが、けんかをしたり万引きをしたりと陸上を始めてすぐに変わってしまうわけではないところも、よかったです。万引きの解決方法はちょっと甘い感じもしましたが、読後感がよく、おもしろく読めました。ただ、ラストの方でけんか相手の男の子が選手としてでてくるのは、ちょっとできすぎだったように思います。

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しじみ71個分(メール参加):読後感のさわやかな、気持ちいい本でした。ゴーストがどのように走って成果を出すかの直前のわくわく、ドキドキするところで終わっているのも心憎いなと思いました。父親と貧困の問題を抱えた少年が、理解のあるコーチとチームのメンバーとともに陸上に喜びを見出していくさまは読む人に希望を与えます。存分に走りたい気持ちから靴を盗んでしまう場面では胸が痛みますし、そのことから生まれる気持ちの悪さ、罪悪感を一緒に背負って読みました。監督に盗みの件が露見して、謝罪しに行き、許されて、監督に靴を買ってもらうというのはとてもでき過ぎのような気もしますが、読みながら自分の気持ちをゴーストの気持ちに重ねて、罪を犯してしまった苦悩とその昇華を疑似体験できたように思います。翻訳の面でいうと、他の作品を読んでも、どうしてもリズミカルなアフリカ系アメリカンの英語のポップさ、リズムを再現するのは難しいと感じる点はありますが、引っ掛かるところなくすいすいと読みました。人物として魅力的なのはチャールズさんでした。ジェームズ・ブラウンを白人にしたら、という表現は言い得て妙というか、人物像が浮かんできてとてもいいなぁ、と思ったところです。チームのメンバーもアルビノ、養子、片親等々さまざまな背景を抱えているだけでなく、個性的で魅力的だと思います。苦しい練習を仲間と乗り越えていく中で、心中に渦巻く嵐を抑制できるようになり成長するストーリーに重点があるのかもしれませんが、欲を言えば、せっかくスポーツを題材にした物語なので、走ることのすばらしさをゴーストの感覚を通じてもっと描写してくれたら、もっと表現が胸に迫ってきたのではないかなとも思います。

アンヌ(メール参加):これは痛快で、今回の3冊の中で一番好きだし、歌のような作品だと思った。アルコール依存症とはいえ、実の父親に拳銃で撃たれて、その時自分が足が速いと気づくなんて、ラップが聞こえてきそうな感じだ。でも、彼はPTSDで自分の部屋で眠ることができず、毛布を敷いてい寝ている。食堂で働く母親との生活も貧しい。あっという間に監督を信頼するところとか、監督もお金持ちの道楽ではないところがいい。母に心配をかけまいとする監督を叔父に仕立てるところとか、クラスメートを殴った理由をきちんと説明できるところとか、自分を開いていくことができる主人公に信頼感を持って読んでいけて楽しい。万引きのところもドキドキしたが、きちんと解決がついたところでホッとしたし、監督の出自も語られて同じ痛みを知っている人なのがわかるところもすごい。最後も勝ち負けを書かずにいるところで、未来が開けていく感じがしてよかった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題の会)

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西田俊也『12歳で死んだあの子は』表紙

12歳で死んだあの子は

まめじか: 亡くなった子への思いも距離感も様々なクラスメイトが、その死をあらためて考える話です。主人公は受験に失敗したこととか、友だちをつくらなかったこととか、自分の過去に向きあうのですが、言葉にしがたい部分を丁寧にすくいとっています。p202「自分の手でつかんだものは裏切らない」「受験や学校のことなんて、自分の手でつかんだうちに入らない」というせりふからは、主人公たちは自分で考え、鈴元君の死を悼んだ経験をとおして、そう思い至ったのだなぁと思いました。鈴元君が亡くなったときに、クラスメイトに迷惑をかけたとわびた母親に、迷惑なんかじゃなかったと言う場面はいいですね。弱い立場にある人を排除したり、あるいはその人たちが、自分は足並みを乱しているのではないかと遠慮してしまったりする風潮を感じるので。

ネズミ:友だちが死んでしまったという状況を書くのは、おもしろいなと思いました。でも、ちょっと息苦しくて、課題本でなければ途中でやめてたかも。主人公は付属小学校から付属中に上がれなかった中学生で、付属中に行けないと「島流し」と呼ばれているという設定。そういうエリートの世界を書かれてもな、と思ってしまったところもありました。それまであまり関係してこなかった子どもたちが集まって、こういう空間を共有するというのは、現実にはありえなく思えるけれど、つくってみたいという作者の願いのようなものがあったのか。最後のほうは、結末が知りたくて一気に読みました。

ハル:ごめんなさい。ちょっと・・・私は人にはすすめられないです。主人公含め、ここに登場している人たちがどういう人物なのか、全然見えてこなくて、どれが誰のセリフかわかりにくい場面もありました。ところどころで、このセリフは本当に必要なのかなというのもありましたし、どこか座談会のテープ起こしを読んでいるような。人物像があやふやなところも、同級生の死に何かしらの意味を見出そうとやっきになってしまうところも、その同級生とは特別親しかったわけでもないところも、とてもリアルだとも言えますし、きっと著者にとっても思い入れの強い題材だったのだと思いますが、もっと、小説として読ませてほしいと思いました。受験の真っ最中に息子が死んだことで同級生に動揺を与えたことを「迷惑をかけた」という母親に対して、(同級生の死により)「学校では教えてくれない、大事なことを学びました」「感謝してるんです」(p195)って、これもちょっとないなと思います。

マリンゴ: 私は非常にいい物語だと思いました。主人公が、死んだ同級生とそれほど親しくなかったところがよかったです。同窓会で、その同級生の話題が出ないで終わるところも、リアルだと思いました。前向きな姿勢があちこちに見えて、死のことを描いてるのに希望がありますね。たとえば「告白しなかったから、始まる未来もあるんだ」(p148)とか。相手が生きていた頃にもっとああすればよかった、こうすればよかったと考えがちですけど、今からでもできることがあるんだ、という提案が伝わってきます。また、鈴元くんの父が登場するシーンですが、クライマックスなのに会話が静かなのが、押しつけがましくなくてよかったです。1つ気になるのは、修学旅行の場面。単身赴任している父に会いに行きたい場合、普通は学校に相談しませんかね? 学校もそういう事情なら許可を出すだろうし、親が堂々とホテルのロビーに面会に来るなり迎えに来るなりするのではないか、と。小学生がこっそり会いに行くのは、不自然な気がしました。

ハリネズミ:私は、小学校の頃ひたすら死というものが怖かったんですね。祖母が亡くなったからかもしれませんが。なので、こういう計画を立ててちゃんと送ってあげるということが子どもに可能なのかと、まずびっくりしました。ずいぶん大人っぽい行為のように感じたし、登場人物が老成していて、みんなきちんと考えているんだなあ、と。いいところは随所にあるけれど、私にはリアルに感じられなかったし、物語全体は少し長いかもしれません。表紙は、ちょっと不気味という印象を受けました。

コアラ:作者と物語の距離が取れていないように感じました。あとがきで、実際の体験をもとに書いた、とありましたので、やっぱりそうなんだ、と思いました。死の受け入れ方、向き合い方は人それぞれ、というようなことを、中学の先生が言っています。でも、この物語からは、同調圧力を感じるところもありました。「みんな」とか「友だち」などの言葉の使い方から、そう感じたのかもしれません。誰が話しているのかわかりにくい会話もあったし、◯◯がいった、という表現が続いたりして、たどたどしさを感じる作品でもありました。それでも、言いにくいことをきちんと言葉にしている場面もあって、特に、p158の7行目、「ぼくのことを怒ってませんか? 友だちがいのないやつだって」という発言は、胸にささりました。同じクラスの子の死、というものを真正面から描いたという意味で、こういう本もあってもいいとは思いました。

彬夜:静かな物語だなと思いました。読み手の感性によって、印象が分かれそうですね。ただ、私には合わなかったかな、という感じです。正直なところ、けっこう読むのがきつかったです。そもそも、2年後に、親しくもない子の墓参りにみんなで行くとか、あんなふうに、あちこちたずね歩くといった行動に、ついていけませんでした。親しくはなかったけれど、若死にした元同級生について、何かの折にしんみりと考えるとか、一人ひっそりお墓をたずねてみる、というのならわかるんですが。終盤、p249の「おーい、鈴元!」という箇所では、あ、だめ!と思って、思わず本をパタッと閉じてしまいました。会話と独白だけで進むのですが、なかなか物語に没頭できなずに、ちょっと油断すると迷子になってページを前に戻ったりしました。それから、だれの会話かわかりづらい箇所もあります。どの子も老成していて考え深そうに見える。けれど、感情の折り合いの付け方がとても整理され(仕分けされ?)ていて、そんなもんじゃないでしょう、と思ってしまいました。もっともやもやしたものがあるはずだし。作者自身の体験を踏まえた物語のようですが、なんでこの年代の子として書いたのでしょう。

西山:何を読まされているのだろうという思いで、とにかく読み終えはしました。まず、中学2年の秋に、小6の時の「同窓会」をやるという設定自体で、どうしても乗れませんでした。中2が、2年前を懐かしみ集まりたがるというのがどうしても腑に落ちない。それも、「参加者の多くは、そのまま同じ大学の附属中学に通っていた」(p6)のに、です。ぴんとこないまま読み進めると「ピンクのワンピースのえりからのぞく白いうなじを見て、どきっとした。」(p12)、で、また出たよ、何を読まされるんだよと、鼻白み、あとは「女子だけなのかと思ってた。男子もそうだったなんて」(p46)に始まり、やたらと、女子だ男子だという(p37,66)のに、古くさい印象を受けて、14歳の男子が世慣れた大人のように、初対面の自転車屋のおじさんに「めずらしいですね、これ」と話しかけたり(p131)、花屋さんに死んだ友人云々をきちんと話したり、鈴元くんの家族とも結構話せて、もう、今まで読み馴染んできた児童文学やYAの中ではお目にかかれない14歳男子で、かちんと来ることが多すぎました。生きていたら友だちになっていたかも知れないという思い方はいいと思ったのですけれど、その何倍もなんだこれ?が多すぎて、なかなか苦しい読書となりました。

ネズミ:昔自分が感じたやり場のなさや中途半端な思いを作者が完結させたくて、14歳にしたんでしょうか。

すあま:小学6年のときのクラスメイトが2年後に同窓会で再会する話ですが、内容としては高校生や大人でもよかったのではないかと思いました。クラスメイトがそれぞれ違う思い出を持っていて、次第に亡くなった同級生がどんな子だったのかがわかってくるところはおもしろいと思いましたが、物語自体は全体的にセンチメンタルな感じでおもしろいと思えませんでした。スマホとかメールを使っているのに、水着のアイドルのテレカとかバナナシェイクとか、どうも古くさい感じで、いつの時代の話なのかと考えてしまいました。作者の思い出が元になっているので、作者が中学生のころの話を今の時代に持ってきたのかな、と勝手に解釈してしまいました。

ルパン:私は、まったく受けつけませんでした。なんでこんな本が出ているんだろう、と首をかしげたくなるくらい。読書会の本でなかったら絶対すぐに読むのをやめていたと思います。この主人公、いったい何なんでしょう。読みながらもう腹が立って腹が立って。最後に、作者が自分の経験を書いた、とあって、「ああ、やっぱりな」という感じでした。おとなが少年の口を借りてしゃべっているようで、どのせりふも気持ち悪い。そもそも、仲良くなかった子のお墓参りにどうしてそんなにこだわるんでしょう? 要は、「夏野」っていう女の子が好きで、「島流し」にあっているのに同窓会に行ったのもその子に会いたいからで、死んだ子のことを思い出したのも、その子が卒業文集に彼への追悼文を書いたことが気になっていたからですよね。お墓参りなんてひとりですればいいのに、みんなで行くことにこだわったのも、企画すればその子と話す機会がふえるからじゃないですか。それに、夏野と亡くなった鈴元との関係も気になっているから、そこも知りたかった、というところでしょう。ともかく、卒業して2年たって、同窓会で夏野と再会して「白いうなじを見てどきっと」してから急に死んだ同級生のことで動き始めるんですが、そのプロセスのなかで何度も「彼とは、生きていたときには仲が良かったわけじゃない」ということを繰り返し言ってるんですよね。何が言いたいのかと思ってしまいます。仲良くなかった子のことを思い出している自分がえらい、っていうアピールをしたがっているとしか思えない。物語が、タイトルの『12歳で死んだあの子は』の続きにも答えにもなっていないんですよ。主人公だってまだ14歳なんだから、たった12歳で死に向き合わなければならなかった同級生がどんなに怖かったか、悔しかったか、悲しかったか、想像して寄り添うところがあってもいいはずなんですが、そこがまったく出てこない。この子の「お墓参りしよう」という発案を大人たちがほめるところも気に入らない。私がこの子の親だったら止めると思うし、死んだ子の親だったら「イベントにしないで」と言いたくなると思います。亡くなった子を知らない友達まで来て墓参りするところもなんだかいやでした。

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しじみ71個分(メール参加):あまり仲が良かったとは言えない同級生が6年生の3学期に亡くなり、その子の亡くなった2年後にみんなでお墓参りに行くことを企画する中で生や死、友情とは何かを改めて見つめなおし、新たに友情が育まれていくという物語と受け止めました。ただ、私は、今回、この本を読んでもおもしろさを感じることができず、読み進めるのに珍しく困難を感じました。すべてぼんやりしている印象を受けます。
物語でも再三書かれているのですが、特に親友でもなかったクラスメートの死を彼の不在によって同窓会で改めて再確認したというだけで、みんなでお墓参りに行こうといいうモチベーションになるかなという疑問と、行きたきゃ一人で行けばいいじゃん、という腹立たしさを拭えず、共感が湧いてこなかったということがあります。須藤という主人公に魅力を感じることができませんでした。
また、文体がどこかもったいぶっているように感じられ、結果的に全体的にどの子もキャラクターの輪郭がぼやけてしまっている気がします。また、中学2年生の台詞としては練れすぎた印象もあります。附属中学に行くか行かないかという子たちなので、賢いのかもしれませんが。
みんなが故人に対する思いを寄せあうことで、故人の違った側面や魅力が改めて見えてくるという仕組みはあって、それは一つサブストーリーとしてあるように見えますが、小野田を除いて誰一人として深い関係を持っていなかったために、喪失の思いが深く掘り下げられることがないのが残念です。小野田が主人公ならもっと苦悩が深まり、お墓参りで苦悩が昇華されるという物語にもできたのではないかと思ってしまいます。なので、読むと須藤がお墓参りで何か得ようとする自己満足にしか見えず、それが主人公の心情の発露としてなされるというよりは作者の想い先行のような居心地の悪さを感じます。合田里美さんの表紙の絵とタイトルから想起させられるイメージよりだいぶ小さな物語になってしまったように思います。

アンヌ(メール参加):死者を悼むということは思い出すということ。そういう大前提はわかっているのだが、苦手な物語だった。主人公の少年は、行動力がないようでふらっといろいろなところへ行ったりする。その人間像が最後までうまくつかめないままだった。まあ、それはともかく書き方で気になった点は、p147で主人公をあざ笑う渡辺が、p240でいきなり現れるところ。そうとう悪役で、家まで上がり込むんであきれるとか、「腹を抱えて笑う」という、変な表現で主人公と小野田をあざ笑っていたのに、唐突に現れるところがまあ、居心地が悪い。公園での望遠鏡とお父さんのやり取りとか、主人公のお父さんとのやり取りとかもなんか居心地悪い。だいたい、p60のかなりの高熱が一日で治るところも、奇妙だ。普通はこの時点で、親も気付くというか、気にしださないか? 高見順の詩の引用も、スタンダールの『恋愛論』も、かなり高度の読み解きがなされていてすごい。全体に、ひこ田中の『ぼくは本を読んでいる』(講談社)の
作者の変容でしかない主人公を思い出す。とにかく、何をいおうとこれは事実なんだと言われると、批評できないようでつらい物語だった。

(2019年12月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』表紙

リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ

鏡文字:タイトルがいいですね。これを読んだ人は、マレー語で5と7は、言えるようになるのでは? 講談社の児童文学新人賞の受賞作らしい、読後感のよいさわやかな物語だと思いました。いくつかの謎が提示されながら物語が進むので、さくさく読んでいけます。謎のうち、母親の浮気を疑って探る、というのは、ありがちなエピソードかもしれません。比喩的な表現が私には少しうるさく感じました。p4の「新種の生き物を見つけたみたい」、p8の「お湯のなかで溶けきらなかったスープの粉」、p10の「飼い主に命じられた犬のように」などなど、てんこ盛りで、比喩が好きな人にはいいのかもしれませが、私はそこで比喩として提示されているものに感覚がひっぱられて読書が停頓してしまい、かえって妨げになりました。もう少し数をしぼって、ぴりっと効かせたほうがいいのではと思います。日本の学校についてのネット情報等に翻弄されるところはおもしろかったのですけれど、銀行強盗への連想は、ちょっとやりすぎかな、という感じで笑えませんでした。ときどき出てきた語尾の「~もん」というのが舌足らずというか、いささか幼稚な感じがしました。私は自分が非宗教的人間なので、なにも子どもが親に従うこともなかろうと思ってしまい、そのところは、ざらっとした違和感が残ります。それから、朋香ちゃんがいいキャラで、こういう子、好きなので、もう少し出番が多いとうれしかったです。

まめじか:必死に日本の学校生活になじもうとしている帰国子女の主人公が、マレーシア語を入れた短歌を詠むというのが新鮮でした。杉並区は、ムスリムの生徒には、豚肉を使わず、豚肉を調理した油などもまじっていない給食を提供しています。この本の学校では、お弁当を持っていかなくてはいけないんですね。

マリンゴ:ずいぶん前に読んだので、記憶が遠くて、あまり細かいことは語れなくて恐縮です。文章が非常に読みやすくて、マレーシア語の言葉のまざり方もいいなと思いました。タイトルも好きです。唯一気がかりだったのは、イスラム教徒の描かれ方。私が中学生なら、この本を読んで、「イスラム教徒と結婚したら大変だな」と、ネガティブに受け止めてしまう気がするんですよね。義母がイスラム教徒で、自分も改宗に同意したとしても、ここまですぐストイックに学校でお祈りなどを実行するだろうか? という疑問もありました。作者はイスラム教にくわしいようなので、一般的な日本人が知らない、ムスリムのポジティブなところも描いてもらえたらなと思いました。

リック:私も、比喩表現が多用されているのは気になりました。「スープの粉みたいに」「ベーキングパウダーみたいに」など、作家の個性だけれど、どうも気になってしまします。その点以外では、さわやかで、とってもいいお話です。マレーシア語の響きもかわいく、マレーシアへの興味関心が高まりました。でも、イスラム教徒になる港くんが素直すぎませんか。港くんのお父さんも、息子がイスラム教徒になるのは抵抗あったのでは? そのあたりが何も書かれてないのは不自然に感じます。

カピバラ:まずタイトルがなんのことかな、と手にとってページをめくりたくなります。表紙の絵やデザインも気軽に読めそうな感じがしますね。帰国子女が日本で暮らしていくときの小さな違和感がよくわかるし、短歌のおもしろさも伝わってきます。マレーシアの食生活など、文化の違いも興味深い。深く掘りさげてはいないけれど、今まで知らなかった世界を垣間見ることができるという意味で、中学生に気軽にすすめられる本だと思います。

イバラ:最初の、督促女王にギンコーに行くと言われ、何も聞かずについていくというところ、長すぎるしリアリティがないように思って残念でした。マレーシア帰りの沙弥が、先輩にどう話していいかわからず、ヘンテコな敬語を使うところは笑いました。書名はどういう意味かと思って謎のまま読んでいくと、途中で種明かしされるのがおもしろいですね。2年半いたマレーシアから帰国した沙弥も、父が新たにマレーシア人と結婚してイスラム教徒になった港も、音大の附属中学から途中で転校してきた莉々子も、学校で疎外感を感じています。沙弥は周りに合わせようとしていますが、莉々子は開き直って学校以外の短歌の世界に居場所を見出そうとし、港は自分の状況をわからせる方向で社会に向き合わず、あきらめて孤独のなかに身を置くことに甘んじています。ひとりひとりが違う、ということをこの作品はきちんと伝えていて、好感がもてました。タンカードNo.1が港の机の中からでてきたのはなぜか、など途中で謎も設けてあって、新人の作品にしては、とてもよくできていると思いました。これからが期待できますね。

コアラ:タイトルではどんな内容かまったく見当がつきませんでした。カバーの袖のところでも、「魔法の言葉みたいな響き」としか書いていないので、なんだろうと好奇心を持って読み始めました。途中で、マレーシア語の「57577」、つまり短歌の文字数とわかって、なるほどと納得できたし、音の響きもおもしろいので、いいタイトルだと思いました。マレーシア語やマレーシアの食べ物、宗教のことも出てきて、読むなかで無理なくマレーシアのことがわかるようになっています。マレーシアのことはあまりよく知らなかったので、新鮮でした。私は2回読んだのですが、p26の4〜6行目で、「『マレーシア……? 花岡さん、マレーシアにいたの?』(中略)きっと、どんな国か、イメージがわかないんだろうな」とあって、最初に読んだ時には、確かにマレーシアがどんな国かイメージがわかないな、と読み進めていったのですが、ここで「督促女王は呆然とした顔になっていた」と書いてあるんですね。後で判明するけれど、少し前まで督促女王は藤枝港と短歌を詠んでいて、藤枝港はマレーシアと縁がある。それで、呆然とした顔になるわけで、そうだったんだ、と2回目に読んで思いました。作者は設定がわかっているから、「呆然とした顔」と書いて、でもその理由を「きっと、どんな国か、イメージがわかないんだろうな」という方向に読者を持っていっているんですね。タネを明かさないというのは、うまいなと思いました。
いろいろな短歌が出てきますが、そのままの感情を詠んだものも多いし、「これだったら自分も作れそう」と思う中学生もいるのではないでしょうか。本が好きだったり言葉に敏感だったりする子どもが、短歌という形式を知って自己表現の手段を手にいれることができれば、とてもいいことだと思いました。それから比喩がいろいろ出てきますが、私は独自の表現でおもしろいと思いました。鏡文字さんがあげたp8とp10のほかにも、p17「歯が生え変わるように、同じ場所に別のお店が自然におさまっている」、p29「ベーキングパウダーを注入されたみたいに、やってみたい気持ちがぷくぷくと膨らんでいく」、p139「嘲笑と好奇心を混ぜた言葉のボールが、窓ガラスを割るように藤枝の後頭部に飛んできた」など、印象に残りました。
全体的には、自然体で、マレーシアの帰国子女というちょっと変わった設定が無理なく展開していき、終わり方もさわやかで、とてもよかったです。

ハル:主人公=作者ではないですが、初々しく、表現することの喜びがはしばしから伝わってくるような、読んで楽しい1冊でした。私は、大人が選んだ宗教に子どもが縛られていくということに抵抗を覚えるので、両親の再婚によってイスラム教徒になった藤枝に、やはり不自由なものを感じました。日本での仏教と、マレーシアでのイスラム教では、そもそもの考え方や在り方がまったく違うのかもしれませんし、それこそ、自分のものさしだけで考えてはいけないのかもしれませんけどね。

しじみ71個分:とにかくタイトルの音がかわいくて、それにひかれて、期待をふくらませて読みました。最初から期待しているので甘く読んでいるかもしれないけど、とてもおもしろかったです。夏に児童文学者協会のがっぴょうけんに参加したのですが、その際、コピー用紙に印刷された未発表原稿を拝読しました。それはとても新鮮な経験でしたが、この作品にそれと同じような新鮮さを感じながら読み終わりました。主人公がマレーシアからの帰国子女であるという設定がされていますが、それだけにこだわらず、和歌、恋、イスラム教など幅広な要素を取り入れてかつ破綻せずにうまく物語の多様性として生かしているところがとてもいいと思いました。主人公の恋が失恋に終わるのもビターでいいなと思います。結末も気持ちよく、読後感もさわやかでした。全体にマレーシア語の音のおもしろさが生きていて、物語の魅力をふくらませていると思います。

すあま:タイトルの意味に意外性があっていいと思います。短歌は短い言葉で豊かなことを伝える反面、言葉が足りなくて誤解を生んでしまうこともある、という両面を描いていておもしろかったです。主人公とお母さん、佐藤先輩と藤枝くん、イスラム教など、いろんな誤解と理解の話を、短歌をうまくつかって書いている。部活ではなく、二人で交換日記のように短歌を詠みあうのも新鮮でした。それから主人公が失恋するのも意外だったし、おもしろかったです。でも国際交流、異文化交流もテーマとなっているとはいえ、学校司書まで国際結婚させなくてもよかったのでは。それから、クラスメートの朋香ちゃんはもうちょっと物語にからんでいたらおもしろかったのではと思いました。

西山:マレー語がおもしろくて、マレーシアへの関心を刺激する作品だと思います。例えば赤という意味の「メラメラ」、もしかして火が燃え上がる様子の擬態語の語源? などと思ってしまいました。自分だけ違っていることに神経質な今の若い人には共感できる部分が多いだろうと思います。その分、今いる場所がすべてではないというメッセージは力を持つと思います。p105の歌「それぞれの午後二時四十三分に左の指で歌を唱える」の「二時四十三分」にはどきりとしました。東日本大震災が「2時46分」その3分前。これは、意識してのことなのではないかと勝手に思っています。

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エーデルワイス(メール参加):不思議な書名は、マレーシアの言葉からだったのですね。響きがいいし、しゃれています。物語から体験がにじみ出ているように感じたのですが、作者はマレーシアに言ったことがあるのでしょうか? 帰国子女としての体験もあるのでしょうか?

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『ソロモンの白いキツネ』表紙

ソロモンの白いキツネ

アンヌ:きれいな、いい表紙絵だとは思うのですが、なんとなく手に取った時からこの絵で先入観を持ってしまって、アニメの『あらいぐまラスカル』のように野生の白狐を飼う話だと思いこんでしまいました。p29~p30の見開きの絵からも、この父親は白人だと思って、なかなかイヌイットの人々の話だと気づけませんでした。10年以上も、学校でも父親とも会話を交わしていない少年が、不意にソロモンのように知恵者のような発言ができるところは腑に落ちません。読んでいくと、最後のほうは「信太の狐」の伝説のようで、前半の野生のキツネの話がイヌイットのおとぎ話に移行していくのかなと思いましたが、リアリティのある感じからそれも違うように思えて、うまく物語の中に入りこめませんでした。

コアラ:絵本のようなつくりだと思いました。読み終わって改めて見ると、絵は最初と真ん中と最後の3枚しかなかったのですが、情景が思い浮かぶような物語で、本の形と内容が合っていると思いました。白いキツネとソルは深いつながりがあるということが、読むにつれてだんだんわかってくるし、父親の悲しみも描かれていて、しみじみと深みのある物語だと思います。じいちゃんとばあちゃんが先住民族だったことや、読み書きができないことが出てくるけれど、それがあまりたくさんは書かれていないので、逆に読み終わってからあれこれと考えをめぐらせることになりました。余韻と深みのあるいい本だと思います。大人にもおすすめですね。

イバラ:最初読んだときは、私もソルが先住民の子どもだということがわかりませんでした。読み直してみて、よくわかりました。p53に「民族」という言葉がありますが、これを「先住民族」としてくれると、最初からもっとくっきりわかったように思います。都会で居心地悪く暮らしていた先住民の父と息子が、ホッキョクギツネの導きで故郷に帰る話なんですよね。祖父母の自然に近い暮らしの中で子どもが癒やされるという話はたくさんありますが、これは、それだけでなく、ソルが文字の読み書きのできない祖父母に文字を教えるという場面もあり、お互いに補いあっていくのがいいですね。父と息子も、故郷に帰ることによって理解しあうようになるんですね。それに、文章がもつイメージが、すばらしく美しいですね。私はタイトルだけ違和感が少しありました。ソルが、キツネは自分のものではない、自由な存在だと言っている場面があるので、「ソロモンの」じゃなくて「ソロモンと」のほうがいいかと思ったんです。

カピバラ:とても静かな印象の物語。言葉少ないけれど、その裏にいろいろなことが隠されていて、あとから物語の背景がわかってくるようなところがあります。小さな作品ではあるけれど、大きなことを伝えようとしていると思いました。黒い髪に黒い目でいじめられるのですが、主人公が先住民族だということは、日本の読者にはわかりにくいと思いました。心に残る作品でした。

リック:とても美しい物語。絵も素晴らしい。読後、じんわりと心に残り続ける、出会えてよかった作品です。ただ、主人公の男の子もお父さんも、ちょっと語りすぎなのが気になります。いじめと戦う必要はない、という主人公の言葉はとてもいいと思いました。これはいじめがメインテーマの話ではないけれど、いじめられている当事者が読んだら、勇気づけられる言葉だと思います。ずっと本棚においておきたい1冊です。

マリンゴ: 絵がとにかく素敵でした。作者がイラストレーターというプロフィールを見て、この人の絵かと思いこんでいたら、違うんですね。途中でそれを知って、実はショックでした(笑)。本の装丁などが、モーパーゴの『だれにも話さなかった祖父のこと』(あすなろ書房)を想起させました。版元も一緒ですものね。旅をするうちに、距離が近くなっていく父と息子、いいなと思います。あと、子どもが、いじめのある学校に行かない、と主張できるようになるところも印象的でした。p49 「あいつらとたたかう必要なんてない。ぼくがいじめてくれってたのんだわけじゃないんだから」という言葉が頭に残っています。1つだけ気になるのは、ホッキョクギツネがすべてのキーワードであることを、ストーリー上の随所で強調されている点。ああ、すべてがつながっているんだなぁ、と読者が気づいて余韻を感じるスペースがないように思えて、わずかに残念でした。

しじみ71個分:今回読んだのは2回目で、1回目はいい話だと思ったけれども、あっさり読んでしまいました。今回、さらりとおさらいしたくらいですが、ページをめくっている間にもじんと心にしみてくる静かな感動がありました。その魅力はなんだろうかと考えました。白いキツネも主人公のソロモンも都会に似合わないものとしてやってきて、一緒に故郷へ帰る旅をする中で、母親を失った後、おかしくなった父親との関係も修復されていくというのもよかったし、また、故郷の祖父母の背景まで理解が深まっていきました。白いキツネは象徴的な存在で、自然と共生するイヌイットの、ソロモンのオリジンの文化や民族の血脈の高貴さが美しく表されていると思いました。学校で黒い目や髪を理由にいじめられたりする日常を脱し、故郷に帰るにつれて、自分の中の民族のルーツに気づいてだんだんと強くなり、彫刻家になりたいという気持ちに気づき、前向きに考えられるようになるという流れが表現されています。気持ちよく感動して読みました。絵も著者が描いたと思っていたのですが、違いましたね。で、絵を見て、車に乗っているお父さんは白人っぽいなと思い、ソロモンはハーフなのかなと思って読んでいました。

さららん:読んでいて、うれしくなった作品です。引き締まった訳がいいですね。ソルの視点ではじまりながら、短い文章の中ですっと第三者の視点に移行し、父親の感情に入っていく。たとえばp9など、その移行が自然で見事です。p13「ソルは息を長く吐きだした。ほんとうにいたんだ。シアトルの波止場のどまんなかに、まいごになった場ちがいなホッキョクギツネが、ぽつんと一匹。まるで、ソルとおなじように」。この最後の文章で、「まるで自分と同じように」とは訳さず、「ソル」と名前を出すことで、読者は主人公の気持ちにうまく近づけるように思います。ほかにも、そのキツネを、波止場の男たちがピーナッツバターのサンドイッチでつかまえるところなどに、さりげないユーモアを感じました。ソルは学校での疎外感、父親は妻を失った悲しみを抱え、二人とも都会の暮らしになじめずにいるのに、それを内側に抱えこんでしまうタイプです。鍵となるホッキョクギツネ(母親の愛の象徴?)の登場により、物語が動きはじめ、自分らしい生き方をとりもどしていくまでが、センスよく描かれています。読後感もさわやか。こんな作品もあるんだよと、本をあまり読んでいないYA世代にすすめてみたいです。個人的には、イヌイットのテーマを掘り下げた、もっと書きこんだ作品も読みたくなりました。

鏡文字:とても美しい物語だと思いました。絵がきれいというだけでなく、文章から惹起されるイメージが視覚的にきれいです。白いキツネ、森、オーロラ・・・・・・。冒頭、ソルがソロモンの愛称だとわからなかったんです。これは、英語圏ではあたりまえのことなんでしょうか。

イバラ:p33に出てきます。ソロモンの愛称がソルだって。訳者の千葉さんがここで入れたんでしょうね。

鏡文字:p33というと、ほぼ中間なので・・・・・・。まあ、見返しをちゃんと見ればすむ話でしょうが。12歳というのも、見返しには説明がありますが、そこを読まずに本文を読み始めてしまい、人物設定を理解するのに戸惑ったこともあって、冒頭部分がちょっと入りづらかったです。後半はテーマが盛りだくさんです。先住民のこと、いじめのこと、文字のこと・・・・・・。いじめのことは前半でも触れられますが、先住民=いじめられる対象、ということでいいのかな、というのが少し疑問でした。だれ一人、味方してくれなかったのでしょうか。ある種、象徴的作品ということだからなのかもしれませんが、どことなく二項対立的に描かれているようにも思えて。美しい作品ですが、物語として読むと少し舌足らずで、詩的で象徴的な作品とすると、やや饒舌かな、という印象です。

ハル:コアラさんもおっしゃっていましたが、私も今改めて見直して、あれ? こんなに絵が少なかったんだっけ、と思いました。全ページに絵が入っていたような感覚で、文章もイラストも、心に視覚的な余韻が残るような、味わい深い本だなぁと思います。今回の3冊の中では、このお話は、異なる世界、文化が受け入れられなかった話ですね。今いる場所が自分に合わない場合、逃げるのでも、戦うのでもなく、自分に合う場所を選択していくこともできるんだというメッセージは、とても大事なことだと思います。それでも、異なる文化との断絶ではなく、少しずつ変わっていくのではないか、これから始まってくのではないかと思わせる、優しいラストでした。

すあま:スターリング・ノースの『あらいぐまラスカル』のように野生のキツネを飼って最後に野生に戻す、という話かと思って読み進めていったら、キツネには名前もつけずにあっさりと山に帰したのが意外な展開でした。でも、ふるさとがアラスカであるということが、なかなかわからなかったので、日本の子にはどこの話なのかぴんとこないのではないかと思いました。アラスカとシアトルの位置関係もわかりにくいのでは? 登場人物が少なく、文章も少ないので、長編がまだ読めないような中学生にもすすめられると思いました。読後感もよかったです。

西山:いま、うかがって、ああそういう読者層が想定できるのかと思いました。展開が早いのに驚きつつ読んで、絵本ではないけれど、たっぷりのドラマがあるはずだけれど、文章は少ないし・・・・・・と、だれがどのように楽しむのかイメージできなかったんです。半ば、散文詩を味わうような感じでさらさらぁっと読んでしまった感じです。

まめじか:「まいごになった場ちがいなキツネ」と、都会になじめなかった母親、学校で居場所のないソルの姿が重なります。「子どもの人生だって、そんなに気楽で楽しくなんかない」(p34)というセリフには、深くうなずかされました。「オーロラのなかにはかげもあって、そこには死者の魂が宿っているとも信じられている」(p58)という文章をはじめ、全体をとおして人生の美しさと苦さを見据えています。作者のまなざしの深さを感じました。母親とキツネは特別な絆で結ばれていたと、イヌイットの祖母は語りますが、ジャッキー・モリスの『こおりのなみだ』(小林晶子/訳 岩崎書店)も、人と動物の魂の結びつきを描いています。これは、クマの赤ん坊が人の子として育てられる話です。

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エーデルワイス(メール参加):12歳のソロモンの心の動きがていねいに描かれていますね。ソルがおばあちゃんに「はじめるのに遅すぎることはないよ」というところが、とてもいい。今年読んだ本のマイベストになりそうです。

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『野生のロボット』表紙

野生のロボット

しじみ71個分:とてもおもしろく読みました。AI、ロボットの物語ということですが、お母さんの心を持って、ガンの子どもを育てる話を主軸として、最後は島の動物が一致団結してロボットを回収に来た戦闘用ロボットと対決する。ロボットの話というよりは、血のつながらない親子の物語や、文化の異なる移民がコミュニティに受け入れられていく物語など、いろんな読み方ができると思いました。ロボットがふわふわした梱包につつまれて箱の中にいたものがパカンと出てくる描写など、赤ちゃんが生まれた様子の表現の暗喩とも見え、赤ちゃんみたいな状態から、学習を経て賢く愛にあふれた大人の存在になっていくのも、人間の成長過程をトレースしたようにも読めます。物語の中で、ロボットは当初、インプットされた情報から声色を選んで、自然なしゃべり方になるように努めたことがきちんと書かれていますが、異質なもの同士が共生し、ガンの親として機能する中で、ロボットがあえて生き物らしく行動するという記述は減って、どんどん普通に感情を持った生き物のように自然に行動するように語られます。読んでおもしろいのですが、物語として、だんだん何を言いたいのか、わからなくなってしまいました。

西山:それは例えば、p85の1行目、親鳥を死なせてしまったことをテレビショッピングみたいなしゃべり方で「なあんと、この子だけが生き残りましたあ!」なんて言っているところでしょうか。あそこは、笑いました。ハリネズミの針が刺さってしまったキツネのカットとか、絵も好きでした。先が気になってどんどん読み進めたわけですが、最終的には釈然としない思いが残っています。これは、野生化したロボットの話なのかな? 文明化された野生動物たちの話なのでは? と思うんです。動物たちが火を操るということがどうしてもすとんと来ない。レコたちは、暴力をふるうことがプログラミングされているらしいし、作中唯一の完全な悪役ですが、なんの躊躇もなく破壊する=殺すことに抵抗を感じました。初めのほう(p43)で、「ロズは、プログラムのせいで暴力をふるうことはできない。でも、相手をいらいらさせることならできる」と松ぼっくりをしつこくクマに落とすところが好きだったんですが、そのくらいのゆるい闘いならよかったのに、と思います。ロズがキラリの母親となると、言葉づかいが「わ」「よ」で女言葉を強調しますが、原文でいかにも女性の台詞であるように表現されているのかどうか気になります。

マリンゴ: 非常に興味深い物語で、読めてよかったと思っています。変化が多くて、次はどうなるのかと、ストーリーに引きこまれました。一般的に、ロボットと人間を描くと、人工知能が人間の知能を超えるか、敵対してきたらどうするのか、といったあたりが焦点になりがちですよね。でも、このロボットのように、人間に害をおよぼさない範囲で、自由を求める、ということがあるかもしれません。こういう素朴なロボットに対しても、人間は、「人の命令に背いて自分の意志を持つ危険なやつ」と判断するのでしょうか。そんなことを考えさせてくれる作品でした。それからp141「うちは変わった家族だね。でも、ぼくはけっこう気に入ってる」というフレーズ、アメリカのYAなんかでよくありそうなセリフですけれど、この小説のなかだと新鮮でした。ほんとに変わった家族ですものね。また、ガンのクビナガが目の前で倒れて死んじゃったり、冬の寒さで凍死した森の動物たちも多かったり、と死をためらいなく書いているのがいいな、と思いました。児童書だと、そのあたりを匙加減して、みんななんとか冬を乗り切りましたぁ! とハッピーエンドになりがちなので。ただ、1つだけ気になるのは、ロボットのスペックがどの程度なのかよくわからないということ。たとえばp132 では、見たものを脳で検索して「あれは船」と言っています。でも、p76では見たものを検索できず、「あなたはオポッサム・・・・・・」と名前を知ってから情報を検索しています。何ができて何ができないのか、わかりづらいなと思いました。

リック:AIなのに、母親らしくなっていくのがおもしろいですね。子育てするママが成長していくお話でもあります。ロボットゆえに、いかなる困難も乗り越えるスーパーウーマンなのが痛快だけど、なんでも解決できちゃうのはおもしろみにかけます。ロボットでは対応できない問題点に突き当たるような展開があったら、もっとおもしろかったのではと思いました。

カピバラ:1章1章が短く、次の章を読みたくなるような書き方がしてあり、絵もたくさんあって、この厚さでも読みやすくする工夫がみられます。小学5~6年生から読める本になっているのが、うれしいです。今の子にとってAIは身近な存在になっていますが、人間社会でどう共存していくか、といったよくある設定ではなく、逆にロボットが野生に入っていくというところがユニークですね。作者は、プログラミングされたロボットと、本能によって動く野生動物は似ているといっていますが、おもしろい着眼点です。たくさんの動物たちが登場しますが、名前のつけ方がその動物に合っていておもしろいし、イタチのチョロリとか、アナホリーとか、翻訳も工夫していますね。セリフもうまく訳し分けていると思います。子どもたちにすすめたい物語です。

イバラ:とてもおもしろく読みました。この本の動物たちはお互いに会話したりして擬人化されていますが、ロズも単純に擬人化されたロボットという位置づけでしょうか? それともSF的に未来のロボットとしてここまで人間化が進んだということなのでしょうか? 物語世界の設定としてそのどっちなのかが、よくわかりませんでした。今のところロボットには感情がなくてプログラミングされたことしかできないはずなのですが、このロボットは人間世界に触れていないので人間らしい会話はできないはず。でも、人間世界の人間らしい口調で話します。さっき原書を見せてもらったのですが、原書はフラットな言い方ですね。訳者が、子どもに読みやすいようにということで、こうなさったのでしょうか? いったいどこまでが科学で、どこからがファンタジーなのか、知りたいです。ロズは、『オズの魔法使い』に出て来るブリキの木こりと同じようなファンタジーの産物なのか、それともサイエンスフィクションの住民なのか、興味があります。著者はどのような物語世界を作っているのか、続刊があるとのことなので、期待して待ちたいと思います。

コアラ:ロボットものは好きでよく読んでいましたが、ロボットが野生化するという物語は初めてで、おもしろかったです。絵がいいですね。p176~p177の見開きの絵とか、飛んでいくキラリを見送るp190~p191の絵とか。あと、シカのキャラメルとか、名前がいいですよね。ロズとキラリの親子関係もいい。キラリが、母親がロボットだということを受け入れていくのがいいし、お互いに支えあっているのがいいですね。最後、ロズが島に戻れる見込みは、私はほとんどないと思っていて、ロボットだから初期化されれば終わりですよね。でも、続編があると聞いて、希望が持てました。続編も読んでみたいと思います。

アンヌ:動物たちの描かれ方が、夜明け前の協定とかなんとなく宮沢賢治的な世界を感じたので、SFというよりファンタジーなんだと思いながら読みました。けれども、動物が火を使うのにはびっくりしました。あげくにライフル銃を使って戦ってしまうし、なんだか受け入れがたい設定です。ロボットのほうは自己保存の法則を生かして言葉を習得し、動物社会の中で生き残っていくというストーリーには納得しましたが、なぜ女性で母親という設定なのか疑問を持ちました。でも、あとがきを読むと作者は最初から女性のロボットを書くつもりだったのですね。ガンの渡りの中で島の外の社会を見せ、他のロボットの働く様子を見せるところなど実にうまいと思いましたが、最後にレコが死にかけながらいろいろ忠告するところは、急に仲間意識を持つロボットに変身したようで、矛盾を感じました。すべてのロボットはロズも含めて実に人間的な存在なんだという落ちを予感させます。続巻があるようなので、そこで解き明かされるのかもしれません。

すあま:読みやすかったです。設定については疑問に思わず、楽しく読みました。ロボット版『ロビンソン・クルーソー』かな。知らない島に漂流した人間の話はあるけれど、ロボットだとこうなるのか、とおもしろく読みました。本をあまり読まない子にもすすめられるのではないかと思います。

ハル:読んでいてとっても癒されました。動物たちの様子が生き生きとしていて楽しかったです。お話も書けて、絵も描けて、多才な著者ですね。でも、これは動物たちにとっては無害なロボットだから、この世界に入っていけたんですよね。捕食・被食の関係にある動物たちが、この時間だけは交流できるという「夜明け前の協定」はおもしろかったのですが、後半、魚たちがクマを助けたところで、クマが「ありがとう! もう魚は食べないことにするわ!」って言うんですよ。これはいただけません。野生の動物同士、食う、食われるというのは、胸が痛むことではありますが、生きていくための手段で、憎しみとか、和解とか、仲直りとか、そういう話じゃないんだから、そこは一緒にしちゃいけないんじゃないかと思います。せめて「魚は今日から3日は食べないわ!」とか、そのくらいじゃだめですかね(笑)。ラストで急に殺伐とした戦いが始まってしまったのも、ちょっと残念でした。私は、ロボットが女性という発想がなかったので、他の方もおっしゃっていましたが、ロズがキラリのお母さんになったとたんに、急に女性的な話し方に変わったように思い、母親役だからって女性にならなくてもいいのに、と違和感を覚えたのですが、あとがきによると、著者は最初からロボットに女性的なものを感じていたのですね。母親になったからと話し言葉を変えたわけではなさそうですが、私は気になりました。

鏡文字:厚い本だったので、時間がかかると思ったら、絵もとても多く、以外と文字数もなかったので、すぐに読むことができました。絵がいいですね。

イバラ:著者は絵と文の両方で表現したかったんでしょうね。日本語版のレイアウトがきっと大変だったと思います。

鏡文字:野生と対極にあるロボットという取り合わせがおもしろかったです。「~んだ」という語尾がちょっと気になって、それで、よけいにだれかに語っているという印象を与えます。だれが、だれに向かって語っているのかと、ちょっと思ってしまいました。それから、無人島でインターネットに接続できるのかな、とかエネルギーは? なんて言うのは野暮というものでしょうか。

イバラ:きっとソーラー・エネルギーを使ってるんじゃないですか。

鏡文字:ソーラーかな、とは思いましたが・・・・・・。動物が火を使うことへの抵抗、という話が出ましたが、そもそもここの動物って、どういう存在なんでしょうか。

イバラ:野生の環境、野生のロボットと言ってるのに、擬人化されている。

鏡文字:それぞれの動物同士は、会話が可能。でもロボットは学習が必要で・・・・・・と考えだすとちょっとわからなくなってくるのですが、まあ、あんまりこだわらずに、物語を楽しめばいいのかもしれません。イワヤマが、突如、温暖化の影響について言及するところが、やや唐突で、「語ってる」感があったのですが、これは作者の文明批評なのでしょう。ラストは思いがけない展開で、ちょっとびっくりしました。

しじみ71個分:そもそもの設定で気になってしまうのが、工場で似たようなロボットがたくさん製造されているのであれば、そんな量産型のロボットを回収する必要はないんじゃないか、と思います。そこに矛盾を感じてしまう。

さららん:字の組み方、改行が読みやすく、文字の見せ方も工夫していますね。たとえばp279「どさっと/ロズのわきに/たおれた」と、ワンフレーズずつ改行してあって、レコ(敵のロボット)がガクリと倒れていく時間を感じました。全体に絵と文のレイアウトのバランスが見事です。小さな事件が次々に起こり、お話の展開が早い。絵も多く、子どもは早い展開が大好きなので、小学生の読者もどんどん読める作品になっていると思います。ただ、ロズと動物たちが暮らす島が、一種のパラダイスなのかと思ったら、終わりのほうで雲行きが変わり、ディストピアのようにも思えてきました。オープンエンディングであるものの、レコたちの追跡が執拗だったので、人間から絶対に逃れられないロボットの宿命をロズが変えることができるようには思えず、疑問が残りました。人間の世界で必要な修理をしてもらい、ロズが島に帰る方法を見つけたとしても、待っているのは、「正義」のために敵を葬り去ることのできる動物たちです。作者にとって「野生」とはなんなのか? 論理の矛盾をどう解決するのか、続編に期待しています。

まめじか:『トラさん、あばれる』(青山南/訳 光村教育図書)の絵本で有名なピーター・ブラウンが児童書を書いたというので、アメリカでたいへん注目を集めていた本で、私は出版後、わりとすぐに読みました。移民も、血のつながらない家族も、いまアメリカの児童書界が手渡そうとしているテーマなので、広く受け入れられたのも納得です。絵と文がよく合っていて、物語の運びに勢いがありますね。ビーバーが義足を作ってくれる場面ではじんとなりました。少し気になったのは、ロズが小屋を作り、動物たちを迎えるところです。異常気象で例年になく寒い冬だったとしても、厳しい自然の中で生きる動物の生き死にを、人工的なもので変えてしまっていいのか。ファンタジーだからそれでいいのかもしれませんが、だとしても、その世界の中でのルールは必要ですよね。あるいは、そういうことは気にせずに楽しいお話として読めばいいのか。どうなのでしょう。

アンヌ:自分の足を直せないところとか、変ですよね。木で直してもらうなんて。ある程度の修理能力を持っていないなんて、おかしい。

鏡文字:木で足を直すのは、私はおもしろかったです。絵的にもいいな、と。ただ、ほかのロボットの部品を使えないのかな、とちょっと思いました。

しじみ71個分:ロボットが動物の言葉を理解するまでは設定として認め得るとしても、動物同士は異なる言語を話すはずなので、意思疎通できないはずじゃないかと思うのですが、その辺はさらりと流してある感じがします。

カピバラ:楽しい動物物語として読めばいいんじゃないかな。

イバラ:それだったら、なにもロボットにする必要はないと思うんだけど。

しじみ71個分:そうなんです。まさに思ったところはそれで、タフな血のつながらないお母さんの話でもまったくよくて、あえてロボットである必要性がなくなっていると思うんです。ロボットでなければならない必然性が物語にない。なので、ロボットがただ素材にしかなってないように感じられました。

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エーデルワイス(メール参加):同じ作者なので、絵と文がよく合っていた。主人公のロボットは、ジブリ映画「天空のラピュタ」に出てくる巨人ロボットのイメージかなと思いました。ばりばりのAIの話かと思って読み始めたら、ばりばりの生身の物語でした。自然素材の足をつけるなんて、ね。

(2019年11月の「子どもの本で言いたい放題」)

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村中李衣『あららのはたけ』

あららのはたけ

アンヌ:手紙形式の物語というのが、懐かしい感じがしました。のどかな田舎生活の話があって、そこに謎のけんちゃんが姿を現わしてくる。その一種緊張する展開があって、そこはとてもうまいと思うのですが、いじめと引きこもりの話だと分かってからは、加害者のカズキにも寄り添う感じになっていくのが釈然としませんでした。最後もはっきり解決するわけはないままで置いておかれた気がします。挿絵は独特の味があって、最近毛虫にやられた家族がいるので、p28の絵などはむずむずするほどリアリティがあって楽しい絵でした。

すあま:手紙の形式で書かれていて、話が進んでいくのはおもしろかったです。でも、けんちゃんについての話が隠れていて、想像しながら読み進めなければならないので、本を読みなれている子じゃないと難しいのではないかと思いました。今の話と回想で過去の話がまざっているのも難しいかも。ラストは、解決に向かう明るい感じかもしれないけど、これで終わり?という感じでした。どうしてもけんちゃんのことが気になって、楽しく読めなかったところがあります。

彬夜:私はこの終わり方は良いと思いました。物語全体に流れるゆったり感が魅力でした。ただ、ある種の約束されたいいお話に誘導されているような思えて、そういうところは読んでいてちょっとつらかったです。畑ものというと最上一平さんの『七海と大地のちいさなはたけ』シリーズ(ポプラ社)が浮かびます。細部は忘れましたが、あちらは都市の市民農園での畑作りで、土とのふれあいが丁寧に描かれていたような記憶があります。この作品は、手紙形式で書かれているせいか、薄い紙を1枚挟んだ状態で見せられているような感なきにしもあらずで、感覚的な思いが今一つストレートに伝わらなかった気がします。知識としては、雑草のこととか台風のこととか、クモの巣のこととか、とてもおもしろいことがたくさん書いてあるのですが、何となく、教えてもらってるような感じというのか。それから、お母さんの描き方が少し気の毒で。ある種の敵役を担わされているような役割感を抱いてしまったのです。2人の少女のうち、エミの、あんた、という呼びかけがちょっと乱暴な気がしました。意図的に使っているのかもしれませんが、この子の物言いが、少し偉そうというのか、えりに対しても、プールでのトラブル(p37)とか、大風で泣き出したこととか(p83)、あまりいい思い出とは思えないことをなぜ語るかなあ、と。まあ、2人の信頼関係の上でのことといえばそれまでですが。エミとけんちゃんのシーンはおもしろかったし、けんちゃんが少しずつ変化していくのもよかったです。まるもさんは、いいキャラだなと思いました。

まめじか:植物は、手をかければうまく育つかというと、そうじゃない。やってみると、自分の力ではどうしようもないことがあるのがわかってくる。だから、若いときに何かを育てる体験をするのって、大切なんじゃないかな。そんなことを思いながら読みました。石川さんの絵がいいですねぇ。のびやかで、あたたかみがあって、出てくるとほっとする。

西山:おもしろく読みました。植物や小動物がいろいろ教えてくれるというのは、ともすれば教訓的な、べたっとした話になりかねないと思います。人間とは関係ない生きものたちの営みを人事のあれこれに引きつけて、生き方を学んでしまったり・・・・・・。でも、そっちに行かないように、ぱっと相対化したり、別のエピソードを出してきたりして、絶妙だと思いました。例えば、クモが風が強く吹きそうな日には大ざっぱな巣をはるという発見はそれ自体ものすごくおもしろくて、「なにがあっても、まじめにせっせせっせとはたらくんじゃないんだと思ったら、なんかホッとしちゃった」(p79)というえりの感想にも共感するのですが、次の手紙でエミが「クモは風のとおり道をつくったんじゃないか」と書いてよこす。絶妙な、それこそ風通しの良さだと感心します。えりがじいちゃんに「ザッソウダマシイっていうやつ。ふまれてもふまれてもたちあがるっていいたいんでしょ?」と言うと、じいちゃんは「もういっぺんふまれたら、しばらくはじいっと様子見をして、ここはどうもだめじゃと思うたら、それからじわあっとじわあっと根をのばして、別の場所に生えかわるんじゃ」という。こういう、ひっくり返し方が本当におもしろい。教訓話になりそうなところがひょいひょいとかわされていると思ったけれど、暑苦しく感じる人もいるいるということでしょうか? ところで、中身の問題ではありませんが、登場人物の名前が紛らわいのは、なんとかしてほしいと思いました。けんちゃんとカズキも、どっちもカ行だし。えりとエミだなんて・・・・・・。

彬夜:おもしろい情報を提供するのは、おじいちゃんとエミなんですよね。先ほど、お母さん像についてもふれましたが、そこはかとない序列を感じてしまいました。手紙形式なのでどうしても情報が限定的になります。この形式でなければ、もっと人物も多角的に語れるから、今のキャラでもそれなり腑に落ちるのかもしれません。むろん、こうした手法の物語があっていいとは思います。

マリンゴ:植物の蘊蓄をこんなに魅力的語る方法があったか、と、この物語を読んで感銘を受けました。さあ畑を作ります!という物語だと、読者を選ぶだろうけれど、手紙のやり取りの中に少しずつ出てくると、興味深く思えます。たとえば、p50に出てくる小松菜のエピソード。葉っぱの話を自分自身のことに、ナチュラルに結び付けているのが印象的でした。2年前のフキノトウみそを古くなったから捨ててしまったお母さんが怒られる、というエピソードがp108にありましたけど、私も捨ててしまいそう(笑)。親近感を覚えながらも、フキノトウみそをいつか作ってみたいかも、と思わせてくれる作品でした。自然を、今までより1歩近寄って見る、そのきっかけをくれる作品とも言えるかなと。あと、まるもさんの存在がいいですね。2人の少女は近いところでわかりあっているけれど、まるもさんというわかりあえないキャラクターが入ってきて、去っていく、そのバランスがいいなと思いました。

ハリネズミ:とても楽しく、おもしろく読みました。畑をめぐる生きものの生命力みたいなことを、言葉で出すのではなく、実際にものが育っていくとか、クモが巣をつくるとかいうようなことを出して来て語っているのが、説教臭くなくてすごくいいな、と思ったんです。いじめの問題ですが、けんちゃんの名前は早くから出て来ますが、どういう状態なのかはだんだんにわかってくる。そういう出し方もうまいと思いました。引きこもりで長いこと外に出ないという子は周りにもいましたが、けんちゃんは、カエルを介在にして外に出て来る。だから、大きな一歩をすでに踏み出しているんだと思います。まるもさんは、私もいいなと思ったのですが、けんちゃんとのバランスで出て来ているのかもしれないと思いました。空気を読んでしまうと苦しくなるけど、全然空気を読まないまるもさんみたいな有り様もいいんじゃないか、と。絵はとてもいいですね。p48のヒヨドリとかp68のカエルとか、すごくないですか? えりとエミは両方とも作者の分身かもしれませんね。だから似たような名前なのかも。今は子どもでもメールでやりとりすることが多いと思いますが、あえてタイムラグがある手紙でやりとりしているのも、いいな、と思いました。

マリンゴ:手紙を書く楽しさを、前面に押し出すのではなく、最後にふっと感じさせてくれますね。

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エーデルワイス(メール参加):畑のあれこれは、村中李衣さんの体験でしょうか? さりげなくリアリティが伝わってきます。文章と絵がとても合っていて、好感がもてました。p181~p182の「友だちって近くにいていっしょに遊ぶだけじゃないよ。いつまでも心の中にいてくれてだからひとりでもだいじょうぶなんだよ」というところに、作者の言いたいことがあるように思いました。私はふと数年前に亡くなった親友を思いました。

オオバコ(メール参加):とても好きな本でした。街と田舎で離れて暮らすことになった仲良しの手紙のやりとりで物語がつづられていきますが、自分の手で畑仕事をしながら発見していくえりと、本で学んでいくエミの違いもおもしろいし、イチゴや小松菜や毛虫の話をしながら、幼なじみのけんちゃんのことを語っていくところも自然で、本当によく書けていると思います。イラストや章扉(でいいの?)に入っている緑色のページもいい。植物を育てるのや虫が大好きだった小学生のころ読みたかったな。(あまりにも虫に夢中だったので、誕生日にクラスの友だちがマッチ箱にいれたオケラをくれました)

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

 

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蒔田浩平『チギータ!』

チギータ!

西山:まさかの小選挙区制と比例代表制をわかりやすく説いて、民主主義ってなに、多数決ってなに、という話でびっくりしました。おもしろかった。今回のテーマが何だったか案内を見直しもせず、子どものエンパワーメントが3冊の共通テーマかと思ったぐらいです。何かを実現していくための知恵をつけるというのは、とても良いと思います。ただ残念なのが、女の子と描き方。4章のタイトル「リーダーは女の子」になんだ?と思ったり、ホームルームでも、卓球の試合でも共に戦った同志のはずの松林に対して、美人かどうかとか顔立ちのことを言う(p158)のに、かなりがっかりしました。作者の那須正幹さんに対する思いには共感してあとがきを読みましたが、女の子の描き方は那須さんには学んでほしくないと切に思います。

まめじか:楽しく読みながら、民主主義のありかたや、いろんな意見を尊重することの意味を考えさせる物語です。男の子のせりふは生き生きしているのですが、女の子はアニメのキャラみたい。「あまいわ」(p68)、「勝負しなさいよ」(p124)「あなたが決めなさい」(p139)、「あら」(p157)など。こんなしゃべり方をする子に会ったことがないので。

彬夜:卓球ものというよりは、多数決の是非を問う物語として読みました。その問題意識はおもしろかったですが、いろいろひっかかる点もあったし、物語に奥行きを感じませんでした。別の本で、チキータという技は、小学生にはむずかしいというようなことを読んでいたので、まずそこから疑問だったし、卓球は、昔と違って日本はけっこう強く、けっして不人気な地味なスポーツという認識ではなくなっているのでは? 選択肢でも、ポートボールが人気、というのも今一つピンとこなかったというか。ポートボールは小学校の体育の授業だけといってもいいスポーツで、話題になることもあまりないし。それから、最初に登場する人気女子、四条と高沢の2人はいったい何だったんでしょうね。もっと話にからんでくるかと思ってました。他の人物たちも、何というのか、それぞれの役割を演じている感じで、物語としてはちょっと物足りなかったかな、という印象でした。たしかに、小さい声を届けることは大事で、そこが達成できたことはよかったですが、「ふみだすべき『前』という方向があっただけだったんだ」(p150)という寛仁の述懐も、今一つしっくりと落ちなかったです。

すあま:最初につまずいたのは、「上忍」と「下忍」が何かわからなかったこと。こういう言葉って、今の子たちにはわかるんだろうけど、時間がたつと古くさくなることもある。登場人物が、食べるのが好きな太めの子や気の強い女の子などステレオタイプで、主な3人以外の子たちや担任の先生に魅力がないと思いました。卓球は人気が出てきているから、子どもたちも興味を持って読めるはずなので、ちょっと中途半端で残念な感じがしました。

アンヌ:私は松林さんの描き方が大人っぽくて、母親的役割を求める感じがしてしまいました。松林さんが算数を応用していくところは、なかなかおもしろいぞと読んで行ったのですが、そこ以外での描き方は疑問です。卓球の作戦も冷静で強引ですし、最後の方の場面で、水商売の年上の女性の言葉にこんなふうに返すことが小学生にできるでしょうか? 同じマンションの男の子を訪ねていく場面にはとてもリアリティを感じたので、作者の女の子への視点に、疑問を持ちました。

ハリネズミ:一気にさらっと読めましたが、まず主人公がさえない男の子、友だちが太った男の子、もう一人はできる女の子というのが、ステレオタイプだなあと思いました。民主主義という考え方もできると思いますが、声の大きい「上忍」の男子たちに対して、千木田たちは「小さい声」に正義ありとして少数派をまとめていくのですが、裏で多数派工作をしている点では同じだと思えて、私はあまり好感が持てませんでした。タイガが秘密にしているらしい家庭の事情を、原口があっさり千木田に話してしまうところは、嘘っぽいように思いました。マッスーのキャラ造形はこれでいいのでしょうか? デブがバカにされているように思ってしまいました。

マリンゴ:小学校のクラスの物語に「小選挙区制の弊害」の話が出てくるのがとても興味深いと思いました。多数決は絶対正義だという考え方に疑問を呈して、子どもたちの視野が広がる物語なのではないでしょうか。ただ、ラストの卓球の試合は、盛り上げようとする意図はわかるのですが、後味が悪いですよね。0-8までわざと技を封印するということは、相手を舐めている、という意味になりますから、最後に惜しくも負けても「自業自得」という感じになってしまいます。それでも、デビュー作で、選挙の多数決について取り上げる、というユニークさがとてもおもしろかったです。著者の次作が気になります。

彬夜:実体験も含まれているようなので、作者の学校ではそうだったのかもしれないですが、私は、小学校の体育は男女一緒でした。それでちょっとネットで調べてみたところ、小学校では一緒、というところが多いみたいです。

西山:名前が古くないですか? 虎一って・・・・・・。

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エーデルワイス(メール参加):とにかく自分たちで考え、決めて実行するところが素晴らしい。スポーツ根性ものとは違うところがいいですね。「少数の意見を小さな声をつぶすのはやめてください」という言葉が何度も出てくるので、ここが作者の大切に思うところでしょうか。爽やかなラストで嬉しかった。

オオバコ(メール参加):スポーツものと思ったけれど、実は多数決について考えさせる、おもしろいねらいの本でした。クラスの話になると、どんどん内向きになっていく息苦しい物語が多いような気がしますけれど、こういう外へ、外へと広がっていく、社会性をもった物語は、とてもいいと思います。ただ、作者が25年前の自分の記憶から綴った物語ということですが、今の小学生が読んだときに違和感はないのかな? 今の学校の様子を知らないので、わかりませんが・・・・・・。

さららん(メール参加):このタイトルが何を意味するのかわからず、それが知りたくてまず手に取りました。主人公の名前が千木田くんだったので、たぶんあだ名だろうと予想はしたのですが、それだけじゃあなかった。(個人的な話ですが、選挙で自分が投票した候補者が当選した試しがほとんどありません。1度だけ、参議院選で中山千夏に入れてしまい、彼女がほぼトップで当選したときには、失敗したと思ったぐらい)。選挙の意味と虚しさを同時に感じている身としては、1票の格差が違憲、と判決が出ても行政が変わらない世の中に歯ぎしりするばかり。少しでも公正で公平な選挙が実現してほしいと思うのです。というわけで、小学校の「レク」でのスポーツ人気投票を素材に、何が正義かという正面からの問いをぶつけ、「ぼくらの小さな声がみんなに届く」ようにがんばるぼく、マッスー、知的な松林さんの奮闘ぶりを、応援したくなりました! 「上忍」でスポーツ万能の榎元派が脅し(?)を使えば、無記名の投票で対抗する知恵合戦も工夫され、最後は卓球で真正面から勝負! キャラクターの立て方が類型的、漫画的かもしれませんが、「最初からあきらめないで。きみの手でクラスを、社会を、変えることができるかもしれない」そんな可能性を、具体的にリアリティをもって、しかも楽しく子どもたちに伝えていく作品として評価できると思います。

ルパン(メール参加):これは、私は正直あんまりおもしろくなかったです。まず「上忍」「下忍」で引っかかりました。言いたいことはわかるけど、知らないマンガだし。知っていたとしてもあまり好感はもてなかったと思います。p16の「ナンバーワンの火影」というのもマンガの登場人物でしょうか。こういう言葉を使わずに表現することはできないのかな、と最初に思ってしまいました。あと、ミヤコさんもねー・・・「50をかなりこえてる」ってあるけど、私と同世代か若いくらいでこれはあんまりだ、と思いました。80歳くらいなら許せるかもしれませんが。クラスのヒエラルキーとか「親友」という言葉に対する思いとかはよく書けているなと思いましたが、なにしろクラスのレクリエーション決めというストーリーが退屈で、この先どうなるんだろうというわくわく感やドキドキ感に欠け、電車の中で読もうとしたのですがすぐに眠くなってしまって、なかなか最後までたどりつけませんでした。

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

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エレン・クレイジス『その魔球に、まだ名はない』

その魔球に、まだ名はない

アンヌ:表紙が妙に女の子っぽくて奇妙な気がしました。少し全体的にいろいろな要素が見えるのに物足りない感じがしました。お母さんだけではなくお姉さんの物語があってもいいのに、とか。昔、女子野球があったことに気づいてからは、わくわくと楽しかったのですが、資料を送って来てくれた人との交流が少ない気もしました。後半は資料負けした気もします。

彬夜:まず気になったのは、タイトルです。どうしてこういうタイトルにしたのかが、よくわかりませんでした。5章の章タイトルと同じなんですね。物語の冒頭部分で、注意深く主語を書いてません。p15になって、「わたし」と出てきますが、こういうところ、原文はどうだったのかな、と思いました。女子が「女子らしくない」ことをやる物語は嫌いじゃないです。とはいえ、リトルリーグが女子に門戸が閉ざされているという認識を持ってないはずもなかろうと思うと、ちょっと設定が不自然だな、と。それを言ったら始まらないのですが。前半、物語に入りづらかったのは、2章の経緯説明がごちゃごちゃしていることも原因の一つかもしれません。p16~20にかけて時系列が入り組んでいて、時期をあらわす言葉がたくさん出てきます。「事の発端は去年の夏休み」「それから一週間」「野球といえば、七歳のときから」「去年の六月からは」「こうして去年の夏は」「九歳の誕生日の一ヵ月前」「四年生に進級するころには」「今年の夏休み」これが出てくる順。ほかにも引っかかった箇所がけっこうありました。p16の「ジュールズ本人は背が低くて、運動神経が鈍い。ピアノだけは例外で、ピアニストとしては優秀だが、スポーツは苦手だ」というのも不思議な文章。p17に「男子が空き地で野球をしていた」とあるのですが、これはピーウィー・イシカワ1人だったんでしょうか。p18の「良い意味で、バイキングに似ている」「髪も目も黒くて、見た目はコミックのキャラクターのようだ」というのもよくわからないです。p21に「ジュールズのママは専業主婦で、テレビに登場する母親のようにエプロンをして料理する」というのは、ふつうエプロンはしない、ということなのかな、と思ってちょっとおもしろかったです。p31「韓国で従軍したぼくのように兵役にもつけない」とあって、なぜ可能形なのかな、と。これは、従軍を肯定的に捉えてのことなのでしょうか。でも、このセリフで、ああ、ハーシュバーガー先生は朝鮮戦争に参加したのか、と思うと、ふいに物語が近づいてきたようで、ハッとなりました。と、前半は乗れなかったのですが、後半はおもしろかったです。こういう風に物語が展開するの? と。いい意味での裏切られ感がありました。p234の「そのときには、この手紙も、野球界の貴重な歴史の一ページとなる」というのがいいと思いました。お母さんはちょっとかっこよすぎるでしょうか。いやなやつも登場しますが、基本的には善意に支えられた作品ですね。物わかりのいい人とそうではない人ときっぱり別れすぎかなという気がしないでもなかったですが。

すあま:アメリカのメジャーリーグ、しかも時代が古いので、日本の今の子どもにはわからないのではないかと思います。これが日本の話だったら、王さんや 長嶋さんが出てくるような感じかな? 日本では当時のアメリカのことがわかるような大人じゃないと楽しめないかも。途中、主人公が元選手の人たちにインタビューして、いろんな人がいろんな立場で話をするところは、おもしろいけれども、物語全体の中ではちょっと長く感じて飽きてしまいそうになりました。主人公は女子でそのクラスメートは日系人、アフリカ系アメリカ人など、この時代のアメリカでは不自由な思いをしている人たちを代表しているところはよくできていると思いました。この本を薦めるとしたら、アメリカの野球が好きな子で中学生以上、そして本をよく読んでいる子。読み手を選ぶ本だと思いました。

まめじか:タイプライターやアンゼンハワー大統領の時代って、今の子は簡単にイメージできるのでしょうか。p67で、戦時中、爆弾の製造に関わったと母親が誇らしげに言うのが、アメリカの物語らしいですね。チップのお母さんの言葉づかいが、「わかるんだい」「聞かしとくれ」など、やけにぞんざいなのが気になりました。原文のスラングをそう訳したのかもしれませんが、わざわざこんな言い方をさせなくてもいいのでは。p224で、お父さんが「ご主人さまのご帰還だぞ!」と言うのもひっかかりました。いくら昔の話でも、読むのは現代の子どもだし。女の子が社会の不平等に直面する物語にも合わないですよね。

マリンゴ: 女子が野球を続けられない状況に陥って、闘ったり葛藤したりする物語なのだろうとは想像ついたけれど、その闘いの方向が意外でした。自分で調べてみる。過去の歴史をさかのぼってみる。その結果、アメリカのプロ野球界に女子選手がいたことなど、私自身知らなかった事実がいっぱい出てきました。調べる、学習する、知識を得るということが大きな武器になる過程が描かれいます。人はなぜ勉強するのか、という問いに対する、1つの答えが出ている作品なので、読む価値があると思います。以前読んだ『変化球男子』(M.G.ヘネシー作 杉田七重訳 鈴木出版)では、主人公がスーパーガールで、そのすごさに説得力が欠ける気がしたのですが、この本では、そのあたりもリアルに感じました。野球の物語というより、何かを学んでいく物語だとも思いました。

ハリネズミ:私も、女の子がただ男の子と張り合うというだけではなく、調べていくところがおもしろかった。ただ、いろいろな資料に当たって調べていくので、ある程度のスピードで読める子じゃないと、根気が続かないかもしれません。アメリカはいろいろな手を使ってジェンダーの問題を取り上げていますが、こういうふうに実証的に書いていく本もいろいろ出ていて、興味深いです。

西山:公民権運動の渦中にあった50年代末のアメリカの物語だとは、途中までわからなかったので、一瞬とまどいましたが、ものすごく興奮しながらの読書となりました。最初から時代背景を言わないほうが、いまの問題として感じられるからいいのかも、と思うに至っています。学生と読み合いたいと思います。#Me Too, #With You的今日性に血が騒ぐ1冊でした。

彬夜:野球の常識が日米では違いますよね。日本では、中学生以下は軟式が多いんじゃないかと思うので、ちょっと戸惑うかも。

すあま:著者紹介に、この物語の前日譚にあたる作品があると書いてあったので、読んでみたいと思いました。お母さんの話なのかも。

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エーデルワイス(メール参加):1957年のアメリカで、リトルリーグに女子を入れないのはおかしいと、断固として引き下がらないケイティ・ゴードンと、図書館で調べるところがいいですね。(「ニューヨーク公共図書館」が、やっと私の市でも上映され、見たばかりなので興奮中です)女子野球の存在を浮き彫りにしているが、内容が盛りだくさんでした。もうこれ以上の母親はいないと思うほどの素晴らしい母親は、挫折を味わいながらも自分の仕事に誇りを持っているキャリアウーマンで、夫と離婚しても子どものことでは連絡を取り合っています。ケイティの二人の姉のうち一人は養子だというのも素晴らしい。

オオバコ(メール参加):アメリカの女子野球には、150年もの歴史があるんですね! 主人公のケイティの物語かと思ったら、途中から女子野球の歴史の話のほうがメインになっていきますが、どっちにしても「男しかできなかったことを、初めてやった女の子の話」って、痛快で、おもしろい。『ライディング・フリーダム:嵐の中をかけぬけて』(パム・M・ライアン作 こだまともこ訳 ポプラ社)も、死ぬまで女だということを隠して幌馬車の御者をしていた人の実話でしたが、「初めてやった女の子の話」のシリーズがあったらおもしろいと思いました(もう、あるかもしれないけど)。

ルパン(メール参加):タイトルがとても魅力的でいいと思いました。でも、「魔球」と話のテーマがどう結びつくのか、とまどいました。「まだ名はない」というところが、「まだ女子は出ていない」という意味なのかな。子どもにわかるでしょうか。子どもにわかるかといえば、はじめ、いつの時代の話かわからず、それもとまどいました。私の認識だとp51に「1957年」という年号が出てくるまではっきりしないと思うのですが。アメリカの子なら野球チームの名前ですぐにわかるでしょうし、日本人でもおとななら黒人差別のところで「あれ?」と思うかもしれませんが、子どもは今の話だと思って読んでいて混乱するかも。はじめ『変化球男子』とかぶりましたが、知られざる女子メジャーリーガーの話でおもしろかったです。しかも、話の舞台は50年以上前ですが、今もまだ続いている問題で、あきらめない気持ちや今後の課題など、本から得るものがたくさんあると思いました。

(2019年10月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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マカナルティ『天才ルーシーの計算ちがい』表紙

天才ルーシーの計算ちがい

アンヌ:この物語は大好きで、落ちこんだときに読むと元気になれる本です。このところ主人公が天才という本を何冊か読みましたが、たとえば『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳 小学館)に比べたら、数字で頭の中が混乱する描写等で、天才でもできないことがあるというイメージがわかりやすく書けています。3回も座りなおさないと座れないとか、除菌シートを手放せない等というのは、日本の小学生や中学生にもよくあるので、周囲が慣れてしまえば大丈夫だろうとあまり深刻にならずに読んでいけたし、いじめにあっても先生から理解されなくても、いっしょに教室を出てくれる仲間が2人もいれば怖くないなと思いました。苦手な犬に好かれたせいで世界がどんどん広がるというところは、私も身に覚えがあって、初めてなめられたり、犬の糞を拾ったりするときの気持ちとか、笑いながら楽しめました。いじめっ子のマディーが受けているストレスも書きこまれていて、ルーシーが気づくところまでいくのは見事でした。気になったのは、p54、p272で、パソコンのチャットにルーシーの気持ちが書きこまれているところ。チャットの書き間違いかと一瞬思いました。字体は変えてあるけれど、つまっていてわかりにくいです。欲をいえば、もう少し数学的な挿絵とか用語解説があればいいのにと思いました。

ハリネズミ:後天的なサヴァン症候群の子どもを主人公にして、リアルな描写でとても読ませる作品だと思いました。どの子も悪く書かないとか、助けてくれる大人も出て来るというところが王道の児童文学で、安心して読めますね。この子がわざとらしくない自然なきっかけで視野を広げていくのがいいですね。翻訳もとても軽快でどんどん読めました。

マリンゴ:数字が得意、という天才的主人公の物語はときどきありますが、天才ぶりについていけなかったり、数式の羅列が読みづらかったりするので、この本もそうかな、とちょっと警戒しました。でも、実際にはそうではなく引きこまれていきました。ルーシーの数学の活用法が非常に物語にうまくはまっていると思います。犬が引きとられるまでの日数の分析、数値化など、とてもわかりやすいし、親近感のわく数学ですよね。友情の輪が、わざとらしくなく、変に感動的ではなく、静かに温かく広がっていくのがいい感じで、読後感もとてもよかったです。気になるのは表紙のイラストですが、主人公の実年齢よりも幼い気がして、ギャップを感じました。あとは、助けてくれる先生のハンドルネームが「数学マスター」だったというところですが、たしかに数学マスターは出てきているんですけれど、印象が薄い登場だったので、「ああ、あの人か!」と手を打つ感じではなかったです。もちろん、わざとらしくならないよう、あえて著者がそうしたのだとは思いますが。

ハル:中学生くらいのときに、こんな本を読みたかったなぁと思いました。ルーシーは数学の天才だけれど、実生活に生かせるような数学的とらえ方を紹介してくれているので、当時の私が読んでいたら、数学の授業ももう少し頑張れたかもしれなかったです。ウェンディやリーヴァイも「いい子」ではなく、それぞれ何かしら癖があるところもリアルでいいですね。おもしろかったです。

西山:みなさんのお話を聞くまでページの多さは気にしていませんでした。意外と長かったんですね。今回の選書テーマが何だったのか、案内を見返しもせず、『たいせつな人へ』に続けてこれを読んで、「兵士」つながり?なんて思ってしまいました。アフガニスタンに2度も行っているポールおじさんの話にハッとして、ハロウィンでもルーシーがおじさんのお古の戦闘服(あ、いま、「せんとう」と打ったら、まず「銭湯」とでました!平和~(^_^))を着ますよね(p181)。「退役軍人の日の振り替え休日」(p237)とさらっと出てくるし、ものすごく異文化を感じました。日常の風景の中に「軍人」がいるんですね。もどかしかったのが、先生に事情を明かさないこと。ストウカー先生は話せば理解してくれるだろうことが、最初から結構はっきりしていますよね。おばあちゃんだって、うまい具合に伝えてくれてもよかったのに、おとなたちはもっと適切な連携やサポートができるはずなのにと、思いました。それによって全てが円満解決するはずもなく、しんどさは依然として残るでしょうし、新たな困難も生まれるかも知れません。それをドラマ化した方が読みたいと私は思います。対人関係ぬきにも、潔癖というのはルーシーの不自由さでもあって、でも、その点はパイがほどいていく。文学的ドラマが無くなるわけではないと思います。ルーシーがパイのうんちをひろったとき、おばあちゃんが感動するのはよくわかります。誕生日パーティーで友だちを招待してスイートルームにお泊まりなんて、これまた異文化体験でしたが、自分だけ簡易ベッドでそれだけでも十分惨めなのに、そこに悪口が聞こえてくるなんて、どんなにつらいか・・・・・・そういう感覚が素直に伝わってきました。スライダーも意外とおもしろかったりなど、ルーシーを設定優先でない、ひとりの女の子として伝えてくれる場面がたくさんあったと思います。全体に読みやすかったのだけれど、p268〜p269の仲直りのシーンはちょっとおいていかれた感じはしました。

まめじか:成長物語というだけでなく、子どもたちが自分たちにできることを考えて、社会をよい方向に変えていこうとする姿が描かれているのがいいですね。p201、クララがパイを里親に出せないと言いながら、「子どものころね、大人たちが『人生は公平じゃない』っていうのが大きらいだった」と語るのが、そうだよなぁと思いました。ウィンディはルーシーの秘密をついしゃべってしまいます。こういうのって、子どものころありましたよね。それで傷ついたり、傷つけたり。なにかひとつでもそういうことがあると、もうこの人は信じられないと、子どもは思ってしまいますが、けしてそうではなくて、許すことを学んで大人になっていくんですよね。

しじみ71個分:表紙の絵がポップだったので、割と小さい子向けの本なのかしらと思ったら、字が小さくてビッシリ書いてあったので、ギャップにびっくりしました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいのある子たちが天才的な能力や賢さを持っていて、周囲との軋轢を超えて、友だちや家族の中で成長していくというような物語は、『レイン 雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳、小峰書店)、『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳、小学館、2016)、『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント著、中井はるの訳、講談社)など、前例が多いので新鮮味はないなぁ、という感じはありました。ディレクシア、主人公と心を通わせる重要な存在としての「犬」も、既視感があったのは否めませんでした。でも、過去に読んだ作品より、主人公がポジティブで力強いところは新鮮味がありました。ウィンディが誕生日パーティで、ルーシーは天才なのだと周囲にバラしてしまったときにも、怒りを表して立ち向かっていくし、自分は天才だから、と自認もしています。最後のパイとのお別れの場面で糞を拾わざるを得なくなって、「わたしの犬じゃないし!」と正直に言ってしまうところなどとてもユニークでユーモラスでした。ただ、こういう作品によくある、障がいのせいで周囲となじめない、理解されない場面は読むと切なくなってしまって、理解ある先生なんだから正直に事情を話せばすむのに、とはいつも思ってしまいます。言わないことでドラマを作るのが英米文学なのかな。でも、この作品はそういった点も含めて明るく読めました。それから、友だちのリーヴァイの人物像は非常に好ましかったです。

鏡文字:おもしろく読みました。物語の方向が予想を裏切るものではなく、ある意味、安心して読み進めることができました。動物が苦手な私としては、また犬か、というか、犬のエピソードに長くひっぱられた感はあったものの、全体的に一つ一つのエピソードがうまくかみ合っていたと思います。人物像という点では、中学生としては、全般的に幼いな、という印象を持ちました。カバーイラストのイメージで、小学校中~高学年向けかと思ったのですが、中学生の物語で文字量も多く、なんと1ページ17行。きつきつ感が否めず、かなり無理して詰め込んでいますが、たとえページ数が増えたとしても、ゆったり作ってほしかった気がします。翻訳物にはたいてい添えられている、訳者のあとがきも読みたかったです。

ルパン:一気読みでした。とてもおもしろかったです。読み終わってから、サヴァン症候群について調べてみたりもしました。習ったことも聞いたこともないことがわかったりするって、とても不思議なことですが、実際に存在するんですね。

田中:この本の訳者として裏を明かすと、原書はかなりのボリュームがありますが、仕上がりのページ数を減らすために、編集部からの注文で原作を削ったところがだいぶあります。字が小さいのも、行間を取ったほうがいいところで取ってないのも、ページ数を減らすためです。一部分を削ると前後のつながりがおかしくなるところが出てくるので、そこは流れがつながるように文章を工夫しました。それと、p275の数学マスターの顔文字「T_T」ですが、原書では「:(」となっています。悲しいという意味だそうで、日本式に涙の顔文字になりました。

ハリネズミ:教育現場の人たちが読むと、障碍があることを言えばいいのに、と思われると思いますが、そうすると「障碍があるから助けなくては」という認識になります。ところが、この本の中ではサヴァン症候群と言わなくても、ウィンディやリーヴァイは、折に触れて助けようとしたり、思いやったりしていますね。そこがすばらしいと思いました。今、日本の学校では、この子はこういう問題をもってる、あの子はこういう障碍をもってるという腑分けが進んでいて、先生たちもそれを知って配慮していく。それが悪いとは言えないですが、その子の前面に問題や障碍が出てしまうような気もします。文学作品ではあえてそれを取っ払って人間を描くというのもありだと思います。それから、リーヴァイにはお母さんが二人いる家庭だというのがさりげなく出てくるのが、いいなあと思いました。

西山:べつに、全員にカミングアウトしろということではないんです。この作品では、先生も感づいているので、もっと助けを求めてもいいし、理解者のサポートがあってしかるべきだろうと思いました。『きみの存在を意識する』(梨屋アリエ作 ポプラ社)を読んだばかりなので、なおのことそういう風に考えたのだと思います。理解し、適切な支援ができる教師がいても、それでも困難は残るし、生徒同士の関係は複雑なまま残るでしょうから、ドラマはそこから始まってもいいのではないかと思います。これは、様々な作品に対して常々思うことです。現実とリンクする困難を描くときには、それに対する現実の制度やなんとかしようとしている存在も描いてほしい。学童の運営に苦労していたとき、学童などなきがごとき作品にがっかりした体験を思いだして、そんなことを考えます。

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ネズミ(メール参加):特殊な状況にある子どもを主人公にした作品って、近年英米ではよく書かれるのでしょうか。おもしろく読みましたが、こういうテイストのものに、やや食傷ぎみです・・・・・・。4年間も人と交わらずに過ごしていたなら、適応にもっと苦労しそうなものだけれど、そこはエンタメだから、おもしろおかしいところだけとってきているのかな。アメリカの文化を知らないとわかりにくいなと思うところや、文章としてひっかかるところがちらちらとありました。読書量の多い子どもには勧めてもいいけれど、年間に何冊かしか読まないような子どもには、勧めようと思わないかなと思いました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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佐藤まどか『つくられた心』表紙

つくられた心

マリンゴ:装丁が非常に魅力的で、目を引きます。導入部で一気に引きこまれますし、AIという、児童書として比較的新しい材料を料理しているそのアイデア力は素晴らしいなと思います。ただ、全体的に描写が少なくて、どういう世界なのかわかりづらい部分がありました。サイエンスフィクションは、ディテールが緻密で、目に浮かぶように描かれないと、プロットっぽい感じになってしまうのかもしれません。もっとも、物語の分量的にはちょうど子どもが読みやすいボリュームだとは思います。あと、誰がアンドロイドなのかという謎で引っ張ると、読者はミステリーとして読むと思うので、はっきりとした結論がある、もしくは結論のない理由が明確であるほうが、ミステリーのルールにはかなっている気がしました。ちなみに、わたしはミカかなと思って読んでいました。

西山:おもしろく読みました。最初に座席表を見て、日本以外のルーツと分かる名前が16人中3人もいて、まずおもしろそうだと思って、期待とともに読み始めました。出だしの会議の様子は、なかなか現代社会に対して批判的で小気味よさを感じました。ITがらみの未来小説として『キズナキス』(梨屋アリエ著 静山社)を思いだして、『キズナキス』のいろんなことをぶちこんだ重層的なボリュームと比べて、一つのテーマだけでドラマを引っ張っていることから、薄い印象を持ってしまいました。p154「冷酷な人と慈悲深いアンドロイドなら、どっちを信用する?」というところを子どもにも考えさせることになるでしょうか。私は、p150の最後の行のミカが「いいにおいのするあたたかい母の胸」に顔を埋めて泣き止む場面で、瞬間的にアンドロイドはミカだと思ったのですが、中学生の読書会で使うと、誰がアンドロイドだろうと盛り上がるだろうと思います。

まめじか:AIと人間はどこが違うかという議論は、バーナード・ベケットの『創世の島』(小野田和子訳 早川書房)にも出てきますね。『創世の島』では、人類はすでに滅びていて、人間の記憶を移されたAIだけがいる世界だと、最後にわかります。

しじみ71個分:子どもたちが学校にいる監視用アンドロイド探しをする中で、友だちとは何かとか、心とは何かなどいろいろ考えるストーリーが、冒頭と末尾にある、大人の会議描写に挟まれる形になっていて、種明かしをすれば大人の思惑どおりになりました、という物語になっていて、正直、読後感はあまりよくなかったです。伝えたいのが、監視社会の恐怖や不安なのか、それを乗り越える力なのか友情なのか、子どもに何を伝えたいのか、今ひとつ重点の置きどころがはっきりしなかったような印象です。表現は、抽象性が高くて、『泥』(ルイス・サッカー作 千葉茂樹訳 小学館)を思い出しましたが、欧米のフィクションっぽいという印象を受けました。人物の背景等を書きこみ、心情を描写して人物像や関係性を描くいう手法をとらず、ほぼ子どもたちの背景を語らないまま、会話だけでアンドロイド探しの話を読ませていくという表現は新鮮でした。抽象性が高いので舞台劇にしたらおもしろいんじゃないかとも思いました。大人との対話があるのは、物語終わりかけのお母さんとミカとの会話の場面だけですが、その中で人の心とはとか、友情とはとかについて話すのですが、あまり深く掘り下げないまま薄い感じで終わらせ、かつ大人の会議の場面が最後に結末として呈されて、友情やら心やらの問題が重要だったのではなかったんだと、もやもや感を残したまま終わるようになっています。テーマの重要性はよく分かるのですが、最終的に子どもたちがそれをつかめるかなぁ、という疑問は残りました。

鏡文字:再読する時間がなく、細部は忘れてますが、全体の印象は残っています。座席表というと、『なりたて中学生』(ひこ・田中著 講談社)を連想させますが、名前に外国ルーツの人が何人も入っているところなど、イタリア在住の作者ならでは、と思いました。はっと目につく表紙で、中表紙もきれいですね。現代の監視社会への問題意識に共感します。冒頭とラストの会議の場面がいかにも嘘くさくてリアリティを感じなかったのですが、でも、現実はもっと嘘くさいことがまかり通っているという気もします。監視社会といっても、きれいな監視社会・・・・・・エネルギーは太陽光だったりと、今風な部分もありますが、会議のいかにも昭和なイメージ(ザ男社会!)は、敢えてのことだったのでしょうか。冒頭とラストが、真ん中に挟まれた子どもたちの物語とは、必ずしもうまくリンクしていないような印象でした。どんな物語が始まるのかな、と期待しながら読んだけれど、やや肩すかしをくらってしまったという感じでしょうか。子どもたちがある意味、無邪気なんですよね。その分、人物造型が薄く物足りない気がしました。こういう社会の下で、それなりに友情が育まれるけれど、それを希望と呼べるのかどうか、作者の意図はどうだったのでしょうか。アンドロイドが誰かということが話題に上りました。読み手としては知りたいところかもしれませんが、私は、それはどうでもいいような気がしました。人間そっくりのアンドロイドなんて、これまでいくらでもフィクションに登場しているし、恋愛の対象にさえなり得るもので、それを否定できるものでもありません。現実には、監視社会がアンドロイドという形を要求しているわけではなく、監視や管理はもっと違う方法で進行していると認識しています。物語に会議が入る構成に『泥』を思い出しました。あれは怖かったけれど、この物語からは、あまり恐怖は感じませんでした。

サマー:おもしろく読みました。監視社会や管理社会ということで思い出したのは『ギヴァー:記憶を注ぐ者』(ロイス・ローリー著 島津やよい訳 新評論)でした。『ギヴァー』は色のない世界で、いらなくなった人間はリリースされるという恐ろしい未来社会でした。『つくられた心』はそこまで恐ろしくはないけれど、子どもたちが疑心暗鬼になってアンドロイドを探す構造になっています。推理、なぞ解きを楽しむ要素があるので、教室で読書会をするといろんな意見が出ておもしろいのかなと思います。登場人物が大勢出てきますが、作者は工夫してそれぞれ口調を変えたりして、人物がキャラ立ちしていると思います。ただ、この物語は何年先の設定にしているのか。50~60年先のことだとしたら、主役に近い仁の口調が今どきすぎないでしょうか? はたして数十年後に今の子どもたちが使っているような口調がそのまま残っているのかな? と疑問を感じました。

ルパン:タイトルにすごく惹かれたんですけど・・・・・・私はこれは失敗作かと思ってしまいました。テーマは何なのか・・・・・・。読み始めてすぐにミカがアンドロイドなんだな、と思ってしまったので、ガードロイド探しの部分も楽しめなかったし。時代設定のちぐはぐ感もあります。スマホを「おばあちゃんがもってる長方形のもの」といったり、レストランや介護の従業員がみなアンドロイド、など、未来社会を思わせる設定で入ったわりには、家が飴屋とか、昭和感があったり、生活ぶりが今と変わらなかったり。物語の世界に入り込めませんでした。最後の会議のところも今ひとつピンときませんでした。ガードロイドがいなくても、子どもたちはこうなるのでは? 信じられないような理想教育クラスというほどでもないので中途半端に終わった感じです。物語世界のイメージがわいてこなかったんです。

アンヌ:わたしは、アンドロイドは鈴奈だと思いました。読者もいっしょにアンドロイドを探す推理小説仕立ての作品だと思い、それならば作者が出したヒントを使おうと考えて、親が役者、でも現実には姿を現わさない、そして実生活が話すことと違うという点がアンドロイドっぽいかなと推理しました。でも答えはないし、大人の会議場面は妙に薄っぺらくて管理社会の恐さがそれほど見えてこないし、どこに向かっているのかわからない奇妙な物語だと感じました。

ハリネズミ:今私たちが気づいていないけれど、確実に存在するAI社会の危険性を提示してくれているという意味で、とてもおもしろかったです。日本にいると自分がいる場がすごい管理社会だということは見えにくいですが、イタリアにいる著者だからこそ見えるのかもしれません。この作品で象徴的に描かれているのと同じようなことはすでに起こっている、あるいはもうすぐ起ころうとしているのではないでしょうか? 一時AIが人間を超える時代は来るのかということが問題になりましたが、今見ていると人間のほうがどんどん劣化して、感覚も麻痺してきて、自分の頭で考えることをやめて、管理社会に対しても疑問を持たなくなっている。人間にはAIにはできない複雑なことができるはずなのに、考えるのは面倒臭いと思って「まあいいか」と思ってしまうと、AIにのっとられる。あるいはAIを使って権力を握ろうとする人の思うままになってしまう。たとえば見守りロボットは、いじめを防止するという目的で導入されますが、盗聴や監視を行うスパイで、それを管理する権力者は、いくらでも都合のよいようにまわりの人間を操作していくことができるわけです。無邪気にアンドロイド探しをする4人の子どもたちは、結局友だちは信頼するしかないという結論に達します。でも、怖いのはその後で、p172では、人間と見分けがつかないようなアンドロイドをつくって、その心もリモコンで操作し、しかもそのアンドロイドには自分は人間だと思い込ませるという仕掛けまでしていたことが明かされます。このシステムは、「友だちを信頼しよう」と思っている子どもたちをあざ笑っている。ガードロイドの正体はわからないままですが、作者はあえてそうしているのでしょう。だからこそよけいに管理社会が子どもを裏切っていく様子が浮かびあがってきて、読んでいてゾッとしました。『ギヴァー』とは時代もつくりも違ってきて、スマート管理が進んでいる社会の恐ろしさ。深読みかもしれませんが、子どものうちから思想を管理しようとする権力者のありようを、鋭く描いているように思いました。日本もこのままいくと、ちょっと先にこれが立ち現れるような気がします。

西山:「深読み」かも知れないとおっしゃっていたけれど、ものすごく「深い読み」だと刺激されました。ベンサムの円形監獄の世界なのですね。監視塔を中心にぐるりに作られた監房。囚人からは看守の姿は見えないので、たとえ監視塔の中に看守がいなくても、囚人は監視されていると考える。これ、「パノプティコン(全展望監視システム)」という言葉があるようです。監視されていると思わせるだけで行動を自粛させ管理下に置ける――本当に怖い現代批評になっていると思います。ただ、エピローグ的最終章の「理想教育委員会」の会議内容が、ガードロイドを紛れ込ませなくても生徒の管理はできるという成果を語るのではなく、最新型アンドロイドの存在の拡大を不穏な未来像として示して終わるので、監視社会の気持ち悪さより、AIの進化の方に目が向くように思います。学生の読書会テキストにしたとしても、私のようにアンドロイドは誰?みたいな興味に議論が集中してしまう気がします。

しじみ71個分:誰がアンドロイドなのかはどうでもいいという描き方ですよね。アンドロイドが紛れているという情報の効果はすごく出ていて、大人の掌の上で子どもの心を弄んでいる感じですよね。最後のところでも親が言いくるめて終わっていて、子どもたちは完全に大人たちにやられちゃってますよね。事実としてアンドロイドがいてもいなくても、相互に監視し合って、それを納得させられてしまって、完全に管理されてしまっていますよね。そこが何とも気持ち悪いですよねぇ。

サマー:子どもの本は、もっと後味がいいものだと思っていたのですが。

ハリネズミ:起承転結がはっきりしてハッピーエンドの物語も必要ですが、考える種をまいているようなこんな作品があってもいいと思うのですが。

しじみ71個分:この作品の気持ち悪さは、子どもたちの力で問題を乗り越えるとか、何か問題を解決できたり、超越できたりという希望がないところなのかなぁ。『泥』は、まだ、友だちを助け出せたというところにカタルシスがあったような気がするのですが・・・・・・。

西山:ものすごく未来の設定のはずなのに、会議の「昭和感」がすごい。それこそブラックですよね。

ハル:これはまた、いかにも課題図書的なタイトルだなぁと警戒しながら読んだのですが、おもしろかったです。このままAIが進化していったら、未来の世界はこうなっているのかな? と考えさせられるところもありますし、このごろなんでも「厳罰化」そして「監視強化」に世論が向かっているようで、それも怖いなと思っていたところでしたので、とてもタイムリーな感じもしました。いじめにしても、監視カメラや会話の録音で管理すれば、子供たちが守られる面も当然あるでしょうし、反面、表面的に抑圧されるだけなのかもしれません。実際にいま現在、いじめや暴力に苦しんでいる人の前ではきれいごとかもしれませんが、そうやって管理されることによって育まれていく心は、アンドロイドとどう違うのか。タイトルの『つくられた心』も、アンドロイドは誰か? ではなく、私の心はつくりものではないと、本当に言えますか? という問いかけなんだと思います。

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ネズミ(メール参加):管理された社会のおそろしさ、薄気味悪さを感じながら、ぐいぐいとひきこまれて一気に読みました。後味が非常に悪かったのは作者の意図したことでしょうから、それだけ作者の力量があるということか。あとで振り返ると、登場人物たちはみな立場と状況だけしか与えられていなくて、中学生の頃のぐちゃぐちゃした感情は描かれていません。観念的に書かれた作品という感じがしました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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マイケル・モーパーゴ『たいせつな人へ』表紙

たいせつな人へ

ルパン:これはノンフィクションなので、事実の迫力はやはりすごいな、と思いました。一番食いついて読んだのは登場人物のプロフィールです。

アンヌ:モーパーゴは私の苦手な作家で、いつも感動の波にうまく乗れません。今回は主人公が平和主義者で徴兵拒否者として農場にいられたのに、なぜ戦争に行ったのか、ということばかり考えてしまいました。戦中の日本では考えられない権利ですよね。それなのに、戦死した弟の復讐ではないにしろ、遺志をついで戦争に行き、人を殺したくないと言いながらも対独協力者のフランスの民兵は殺してしまう。老後は英雄としてフランスの村に迎えられているけれど、主人公のプロフィールを読むと、実人生では戦争に行ったことを悔やんでいたのではないかとも思えます。そこが書かれていないようで、何か物足りない感じがしました。

マリンゴ:モーパーゴの本の多くは、語り手と著者が近くて本人の体験が投影されている印象を受けます。実際は違うんですけれど。でも、今回は本当に自分の親族の話なんですね。いつもよりさらに、リアリティを感じました。登場人物のプロフィールが巻末にありますし。ただ、実際の話だからこそ、普段より登場人物が多いし、実在の人物だからキャラ立てがしづらいせいか、人物像が立ち上がってこない人が何人かいたように思います。ところで、レジスタンス、スパイ活動をやった人は、何かの戦いで華々しく活躍した人と違って、戦後に報われないのだなぁ、と感じました。デンマークの少年たちのレジスタンスを描いた『ナチスに挑戦した少年たち』(フィリップ・フーズ著 金原瑞人訳 小学館)のことを思い出しました。なお、1つ誤植と思われる個所を見つけました。p104の6行目「合った」は、正しくは「会った」ではないかと。

西山:表紙のこれ、オオカミの顔なんですね。子ども時代の父親と弟のピーターと3人で森をハイキングしたときのエピソードから来ていますよね。オオカミが来たら戦って追い払うのだといつも棒を持っていたというピーター。「ぼく」は「戦う必要なんてない、ふりかえって正面から堂々とむきあい、手をパンパンと打ち鳴らしてやれば、逃げていく」(p17)と。この2つの考え方が、その後ファシズムとの戦いに自ら飛び込んでいったピーターと、兵役免除審査局へ行って平和主義を貫こうとした「ぼく」という対照的な行動につながるわけですが、結局、「ぼく」は非戦を貫けなかったわけです、叔父が背負ったその生き方をモーパーゴも背負って、それが作品に通底しているのかなと思いました。今までの作品をふりかえらせるような作品だと思います。兵役拒否という制度の存在を子どもに知らせるのも意味がある作品だと思います。レジスタンスの過酷さを読むに付け、抵抗の闘争が冒険の延長のようだった『ナチスに挑戦した少年たち』はのんきだったなあと改めて思い返しました。それと、ヨーロッパでのナチスへの市民の抵抗の規模を垣間見て、作品からは離れるのですが、オリンピック会場で旭日旗なんてひらめかせたら、ヨーロッパの人々に「ナチスと組んでいたファシズム国家日本」という記憶を呼び覚まさずにはおかないだろうと思いました。あと、クリスティーンの最期が悲しすぎる・・・・・・。p96でレジスタンスにおける女性たちが「無名の勇者」で「こういった女性たちを讃える勲章はない」と書いていることとで、モーパーゴがクリスティーンに深く心を寄せ、苦い記憶として継承しているのだと思いました。

ルパン:クリスティーンの最期は本当に切ないですよね。そこがノンフィクションのつらいところ、重いところ、ということでしょうか。

まめじか:まず、いいなと思ったのは、インドから来た移民の女の子が出てくるなど、時代とともに変わっていく村の様子が描かれていることです。モーパーゴは細部にまで心を配る作家ですね。女性に光を当てているのはいいのですが、その人たちも戦っていたわけで、それを考えると複雑な気持ちになりました。読者がいろいろ感じて、考えればいいのでしょうけど。

アンヌ:ドイツでも反ナチスの本は多く翻訳されていますか?

まめじか:はい、英米文学児童文学にはホロコーストものが多いし、英語からの翻訳はドイツではメジャーなのでドイツ児童文学賞の青少年審査員賞にもよくノミネートされていますよ。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)とか『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝訳 あすなろ書房)とか。マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳 早川書房)は同賞をとっていますし。

しじみ71個分:モーパーゴの物語はいつも比較的短いですが、この作品も短い物語の中で、90歳のおじいさんが自分の人生を振りかえるという形式になっていて、語られる内容は大変に壮絶なので驚きました。おじいさんが寝床でしゃべる話を孫が聞くような淡々とした語り口ですが、平和主義の人が教練を受け、命をかけて軍事スパイになるという、とてもハードな内容ですね。でも、オブラートがかかっているように、読み終えた後の印象が割とソフトです。一人の男の一人称語りで、戦時中に関わった様々な人々の人生を描きつつ、それを通じて戦争の時代を描いていて、うまいなぁ、手慣れているなぁ、と感じます。まさに老練という感じですが、読んでいて、物語の中身よりもその印象が先に立ってしまうなとは思いました。それから、私は、大変にお恥ずかしいことに、原題まで考えが及ばなかったので、表紙の白い顔をキツネだと思ってしまって、なんでキツネの顔が表紙に描いてあるんだろうと思っていました・・・・・・。オオカミなんですよね。

ルパン:原題のほうが、手に取りたくなりますよね。

鏡文字:150ページ程度と短めで挿絵もとても多いけれど、内容はYAといってもいいような作品です。読書対象をどのあたりに設定しているのかが、本の作りから少しわかりづらい気がしました。ノンフィクションなので、正直なところ、内容についてあれこれ言ってもしかたがないかなと思う一方、もしも、児童書としてでなく、一般向けのものとして書かれたらどうだったのだろうか、そのほうが読み応えがあるものになったのでは、という思いがぬぐえませんでした。クリスティーンとの関係など、人間ドラマや心のひだのようなものをもっと知りたかったです。回想形式なので淡々としていますが、さすがに手練れというか構成などはよくできている、とは思いました。スパイというものをどう捉えるか、レジスタンスとしての暴力をどう考えるか、悩ましい問題で、『ナチスに挑戦した少年たち』のときも思いましたが、自分の中でも明確な答えが出せていません。結局暴力なのか、という割り切れなさがどうしても残ってしまいます。ただ、『ナチスに挑戦した少年たち』は、当事者が子どもでしたが、こちらは大人の行動なので、より緊迫感や切実さがありました。とはいえ、また反ナチスか、という思いもあって、欧州は、多かれ少なかれ、ナチスを台頭させたことへの後ろめたさがある分、「絶対悪」ナチスに対置する物語(創作という意味でなく)は作りやすいのではないかと思ってしまい、いつももやっとします。

しじみ71個分:軍事スパイとして殺し、殺されという凄惨な経験をした人が、終戦後には学校の先生になるわけですよね。自分のおじいさんという、とても身近な存在の人が、戦争中の暴力に加担していたのを知るのは、考えると非常に重くて深いことなので、そういう意味で、自分たちの身に置きかえて考えてみるきっかけとして読むのはおもしろいとは思います。

ルパン:そのわりには葛藤の部分が描かれてないような。

サマー:表紙の絵が動物の怖そうな顔なのに、タイトルがふわっとしていてマッチしていないような気がします。内容としては、言葉としてしか知らなかった「レジスタンス」がどういう活動をしていたのか、武器や食料などの荷物をどんなふうに投下していたのかがわかって、大人としては興味深かったです。ただ、これを日本の子どもたちが読んで、背景が理解できるのか疑問です。日本の子どもたちのどの年代に向けているのか? ヨーロッパの子どもたちなら、歴史教育で勉強しているでしょうから、背景がわかるのでしょうけど。

ルパン:子どものころドーデの『最後の授業』を読んだのですが、時代背景などまったくわからないなりに、強い印象を受けました。後年、世界史やほかの小説などで「アルザス・ロレーヌ」という言葉を聞いたときに、小説のイメージがまざまざと浮かび、歴史も物語もリアルに迫ってきました。歴史を知らなくても物語の持つ力が強ければちゃんと心に残るのだと思います。それにしても、今90代の、戦争の生き証人がひとりもいなくなる時代がすぐそこに迫っていますよね。10年後、20年後、世界大戦を知っている人間がひとりもいなくなったときが怖いです。その時代に向けてこういうものはできるだけ残していかなければ、と思います。

ハリネズミ:それぞれの章がべつの人に向けて書かれていますね。最初の「フランシス」は自分の紹介ですが、「子ども時代のイギリス」はお父さんに宛てたメッセージ、「スター街道まっしぐら」はピーターに宛てたメッセージ、それ以降も妻のナン、ハリー、オーギュスト、クリスティーン、ポールと、それぞれフランシスが深くかかわった人を思い出してその人に対して何か言うという形を取りつつ、そのなかで彼がやってきたことや彼が考えていたことを浮かびあがらせる。それがまずうまいなと思いました。それに、ただ出来事を紹介するのではなく、p44やp71など想いをところどころにはさんで物語に深みを持たせています。この作品にどの程度フィクションが含まれているのかはわからないのですが、この本にも戦争に反対するというモーパーゴのポリシーが通奏低音のように流れていると思います。「心を凍らせないと戦場には出ていけない」という言葉があったと思いますが、フランシスは軍事スパイとして戦場に出て行く。そして戦争が終わったとき、日常生活に戻るのに苦労します。ナンのおかげで自分はなんとか日常の暮らしに戻ることができますが、とても勇気のある、戦場で大活躍していたクリスティーンというワルシャワ生まれの女性は、平穏な日常には戻れないという姿も描いています。それでも、このテロリストをカッコいいと思う子どもも出て来るかもしれません。訳し方もあるけど、自分の叔父の生涯というノンフィクションにしばられている部分もあるかもしれません。
表紙の絵は原題に即しているので、日本語の書名にはちょっとしっくりしませんね。あと星空の絵が何度も出てきますが、そううまい絵でもないので、どうして繰り返し同じ絵が出てくるのかな、と思いました。ドイツでは小学生にも戦争で何をしたかを教えているという話を聞きますが、日本の子どもはほとんど教わっていません。なので、この本を読んでも日本の子どもにはピンと来ないところが多いかもしれません。でも、だから出版しないでいいのかと言ったら、それは違う。ちょっと違和感をおぼえたのは、p11でパンジャブ州からの転校生の女の子が、カウラは大切な人を呼ぶときにつける敬称だと言うんですね。アジアの子が自分の名前を言うときにこうは言わないような気がして原文を見たら、カウラはプリンセスという意味だとなっていたので、親がこの子につけてくれた名前がこうだったということなのかな、と。ただ、アマゾンでは最初の部分しか読めないので、実際がどうなのかはわかりません。

しじみ71個分:p144で戦争から帰ってきて、主人公が戦争の後遺症に悩まされ苦しんだことや、妻のナンのサポートでやっと日常生活に復帰できたということが植物の比喩を通して短く語られますが、表現が非常に抽象的なので、それがどれほど大変なことだったのかが想像しにくいです。これを読んでその大変さが分かる子どもがどれほどいるかなぁ、という疑問を感じますね。

ハリネズミ:語りのうまさには感心しますが、日本の子どもがこの作品からどれほどのものを読み取れるかは、もう少し説明がないとわかりにくいかも。まあ、手渡す人にかかっているかもしれませんね。

ルパン:クリスティーンはどうしてもとの生活にもどれなかったのでしょうか。

西山:クリスティーンの母国ポーランドは「新たにソ連が占領して」「帰る国はなく」(p144)なってましたから。

ハル:私は、長く生きて、一緒に生きたひとがみんな先に逝ってしまうというのはこんなにも切ないものなんだなぁと、童謡の『赤とんぼ』のような感覚で、しんみりひたってしまいました。幼いころ、弟に冷たくあたってしまったことへの後悔とか、レジスタンスの太陽だった、今は亡き女性についての思いとか、後から振り返れば、あのときああすることもできたんじゃないか、こうすればよかったんじゃないかって思うけど、仕方ないよね、みんなそのときを精一杯に生きていたんだから・・・・・・なんて、戦争の場面すら、若かりし日々の1ページのように読んでしまって、これでよかったんだろうか、と読後に思いました。これ、日本語版のタイトルが『たいせつなひとへ』だからっていうのもあるんじゃないかなぁと思います。原題の“IN THE MOUTH OF THE WOLF”(章タイトルに「オオカミの口の中」がありました)に近いものだったら、また違った入り方で読めたのかも。でも、『オオカミの口の中』というタイトルだったら、私はちょっと手に取らなそうだし・・・・・・難しいところです。あと、「兵役免除審査局」で、なぜ自分は軍服を着て戦場で戦うつもりはないのかを説明し、それが認められたところがとても印象的でした。

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ネズミ(メール参加):そつのない語りでさらさらと読めましたが、モーパーゴの作品の中でとびきりよいとは思いませんでした。冒頭のフランスの場面で「フランシス・カマルツ大佐殿」とありますが、p.64は少尉なので、どこで大佐になったのかと疑問に思い、なぜ、人生の終わりにフランスにいたのかは、プロフィールを読むまでわからず、やや消化不良でした。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」

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『エヴリデイ』表紙

エヴリデイ

彬夜:読み直すことができなかったので、少し前に読んだままの印象ですが、それぞれのエピソードは、リアリティがあって、おもしろく読みました。せつない物語だなと。ただ、やっぱり設定そのものが納得しきれなくて、そもそもこの子はいかにして誕生したのか、という点が腑に落ちませんでした。

コアラ:おもしろかったです。通勤途中の、10分くらいの細切れの時間で読んでいったのですが、それがよかったのかもしれません。とにかく先が気になってしかたなかった。毎日違う体に宿って生活する、というのは独創的だと思いました。カバーに描かれている赤い服の女の子がリアノンだとすぐに分かったのですが、たくさん描かれているのは宿った人たちのはずなので、なぜ宿った人たちの中にリアノンがいるのか、読み進めるまで謎でした。最後は結局Aが去ることになって、寂しい終わり方でしたが、愛に溢れたおもしろい話でした。

ぶらこ:「これからどうなるのだろう?」と予測がつかなくて、一気に読んでしまいました。 奇抜な設定だけど、ルールが細部まで作り込まれているからリアリティを持って読めるし、主人公が憑依する人々の生活が細やかに描き分けられているのがおもしろかったです。プール牧師の中にいた人物のことやAという存在の謎については全く明かされないまま終わるけれど、それよりも著者は、Aを通して見るいろいろな人生の厚みのほうを伝えたかったのかな、と思いました。ただし、Aがリアノンに素敵な男の子を紹介して去って行くというラストは、恋愛の結末としてリアノンはそれでいいのか?と気になりました。

ハル:設定からしてすごくて、どうなっちゃうんだろうと思いましたが、とてもおもしろかったです。人を内面だけで愛せるのか、環境が違ったらどうか、性別が違ったらどうか、恋愛対象の性別が自分と違ったらどうか、薬物やお酒に溺れていたらどうか、容姿が違ったらどうか、触れられなかったらどうか・・・・・・など、思いの外いろいろと考えさせられます。そしてYAってなんだろう、と改めて考えさせられました。でも、ラストがよくわかりません。これは、私の読解力のなさのせいか・・・・・・。残念です。

須藤:だいぶ前に原書で読んで、残念ながら翻訳には目を通せていないので、そういう感想として受け取ってください。いや、自分は、最初はけっこうおもしろくて読ませると思いました。ただ、彼らがそもそもどういう種族なのかが、最後まではっきりしないので、そこがどうしても気になってしまったんです。アメリカではSomedayって続きが出ているので、その辺のこともフォローしてくれているのかもしれません。その後日本語版が出て、とても評判がよいので、自分の目は節穴かもしれないと思っています・・・・・・。 デイヴィッド・レヴィサンは『ボーイ・ミーツ・ボーイ』(中村みちえ 訳、ヴィレッジブックス)の作家ですが、ジェンダーに関する問題意識がこんな形で出てくるんだ、というところはおもしろかったですね。見た目や性別、どういう階層、グループに所属しているのか、そういうことがアメリカ社会ではより意識されるんじゃないかと思うんですが、そこに属さないアイデンティティみたいなものを、ある意味追求してるんだと思うんですよね。

しじみ71個分:おもしろかったです。1日ごとに同じ宿主が変わる身体のない主人公という設定が斬新でしたし、宿主の生活を変えないように生きてきたのが、リアノンに出会い恋をして変わってしまうという、Aの心を縦軸にして、横軸にAの視点を通して、16歳という年齢で輪切りにされた、現代のアメリカを生きる若者たちの様々な生活や内面が描かれているのが非常におもしろいです。一人ひとり異なる、いろんな高校生の今が見えます。穏やかな子もいれば、薬物中毒や経済的な困難を抱えている子もいる。レズビアンの恋人がいる子もいれば、ゲイのバンド仲間の友人がいる子も登場して、LGBTをめぐる日常も普通に織り込まれていたり、若者群像がとても色彩豊かにリアルに感じられて好感を持ちました。Aが宿主のおじいさんのお葬式で人生を学ぶなど、他人の生活を通して人間を知っていくという表現も繊細で良かったです。ただ、訳の点でちょっと分かりにくいところもあり、もうちょっと分かりやすくしてほしいなという箇所がいくつかありました。
Aの存在を知って利用しようとする悪意に満ちたプール牧師が登場するところから緊張感が高まり、物語がどこに向かって終焉していくのかドキドキしましたが、最後はAがどこにどう逃げるのか全然分からないし、最後の宿主にされたケイティはどうなってしまうのかも分からないし、尻切れトンボな印象を受けました。結末がオープンというのもひとつの手法なのかもしれないけど、もうちょっと何か分からせてほしかったです。章立てが〇日目という日数になっていて最初は何だろうと思いましたが、割り算をしてみると、16歳になってから154日目から話が始まっていることになっているみたいですね。16歳が終わると17歳の子たちに憑依するのかな。人生を年単位の積み重ねで考えるのではなく、日ごとに考えないといけないAの生を象徴しているようです。

シア:衝撃的で素晴らしい本でした。最高の純愛。ここ数年で一番のお気に入りです。読み終わった後、表紙の人物を眺めるのが楽しかったです。設定がとにかく特異で、非日常の連続、先が気になって一気読みしてしまいました。すごいYAです。さすが海外としか言いようがありません。この年齢の子が持っている“もしも自分じゃなかったら?”という変身願望を見事にストーリーにしていると思います。LGBTも盛り込んで、“自分”という個性を徹底的に掘り下げています。自分を愛するということ、人を愛するということ、そしてその人の何を愛するのか、何を求めるのかということについても一石を投じています。数人のメインメンバーと大勢の人生の一日を通して、人間の欲望と傲慢さ、繊細さを描いています。ラストシーンの「生まれて初めて逃げ出す」というのは、ずっと抑圧されていた自己の解放を意味しているのかなと思いました。その人の人生を邪魔しないで生きてきたけれど、Aは新たなスタート切ると決め、全てを捨てることを選択します。逃げるという言い方をしていますが、解放ではないかと。依存や執着からの脱却というか。ただ、訳した際のニュアンスなのかなという気もしてきました。逃げ出すなのか、走り去るなのかとか。Aがどうしてこういう体質なのかとかそういう理由付けは明かされていないけれど、それでいいと思います。他でも幽霊や魔法もそこにあるものとして描かれていますし。続編があるので読みたいですが、この1冊で終わっても構わないくらいです。というくらい感動しましたが、ヒロインのリアノンが最悪でした。
Aが人間の精神で、リアノンが肉体を表しているのならば納得もいきますが。リアノンは平凡な上に狭量で、16歳なら仕方ないのかもしれないけれど狭い世界しか知らないので思考に柔軟性がありません。にもかかわらず性欲だけは旺盛で、DV被害者にありがちな典型的なメンヘラ女です。すぐに電話に出てくれないと嫌、すぐに来てくれないと嫌、そばにいてくれないと嫌、面倒くさいこと極まりないです。アレクサンダーが心配です。スクールカースト上位にいることが価値であるような女子高生。ジャスティンも同じで、リアノンのことをアクセサリーと考えて付き合っているような男ですよね。

しじみ71個分:リアノンについては、きれいで芯が強そうくらいのことしか描かれていないですけど、Aはなぜリアノンを好きになったんでしょうね?

シア:リアノンがAとは正反対の平凡、ドがつくほどのド平凡だから。そして、どこか寂しげだったからかもしれません。Aは自分にないものと、自分と似たような寂しさに強く惹かれたのかなと。Aはリアノンに入ったときお風呂にも入らず、体も見ないばかりか中身も詮索しませんでした。つまり、外側しか見えない幼い恋愛の愚かさを説いているのかなと思いました。リアノンの狩猟小屋での第一声はp285「今日はすごくかっこいいね」です。ここで130kgのフィンが現れたら、上着だって脱がなかったに違いありません。しかも、この時点でまだジャスティンと付き合っているという事実。色欲の罪ですね。p349「わきあがる怒りに自分でも驚いた。『リアノンのためならなんでもできる。でも、リアノンは、そうじゃないんだね?』」とありますが、結局この恋愛は二人が作中でバカにしていたシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』のような結果になってしまって、なんだか空しいです。

ツルボ:YAって、とっても実験的なことができるなと思いました。YAの可能性っていうか、若い翻訳者たちが競ってYAを訳したがる気持ちが分かるような気がしました。私としては、もっと小学生向けの作品を一所懸命訳してもらいたいなと思うけれど。それはともかく、日ごとにいろんな人の身体に宿るというあらすじを読んだときに、なんだかお説教くさいことを言われるんじゃないかと警戒して、あまり気が進みませんでした。でも、実際に読んでみると、主人公の恋の行方や、正体が明かされるのではないか、というサスペンスで、どんどん引き込まれました。最後のところは、私はシアさんとは全く別で、結局、作者がまとめられなくなってしまったので、強引に決着をつけたという感じを持ちました。Aの恋するリアノンが言うことがまともで、恋にしても何にしても、人間同士の結びつきって、精神だけではなく姿や声や体温や匂いや、あらゆることが関わってくるものだと思うので。ティーンエイジャーの群像はよく描けていると思ったけれど、最後の方になると、あまりにもいろんな人に宿るから、コメディみたいになってきて笑えてきました。

まめじか:Aに何ができて、何ができないのかが、いまひとつ掴めなかったんですよね。自我があって、恋もするのに、p152で宿主の感情はコントロールできないとか・・・・・・。読解力がないのか、意味が分からないところがありました。p97で「おれは踊りにきたんじゃない。飲みにきたんだ」って言うジャスティンに、リアノンが「そうだよね」って言って、それは「ネイサンへのフォロー」に聞こえたとあるのですが、なぜそうなるのでしょう?

コアラ:ジャスティンの連れとして来たけれど、ここではもうネイサンに気持ちが向いていて、「うん、そうだよね」の発言は、ジャスティンに対してというより、ネイサンに対して「この人(ジャスティンのこと)踊る気ないから」と言っているような気がした、というようなことでしょうか?

ネズミ:どうなるのか知りたくて読んだけど、途中で疲れてしまいました。主人公の気持ちにあまり寄り添えなかったからか、リアノンとの逢瀬のために宿主たちが利用されていくのが苦しくて。「ぼく」は、もともと男性で書かれていたんでしょうか。もっと中性的だとしても、日本語だと話し言葉で男女がすぐ分かるので、訳すのが難しそうだなと思いました。それから、リアノンを好きになるところから物語が展開する割には、リアノンとの出会いはあまりインパクトがなくて、そこが不思議でした。書店では、海外文学の棚に並んでいることも多いですね。後書きの解説もないし、出版社がそういう読まれ方を狙っていたのでしょうか。

須藤:あと毎日違う人生、違う人物に転移するけど、なぜアメリカのこの狭い地域限定なのか・・・・・・とは思いました。レヴィサンは、さまざまな背景の人物を出すことで、多様な人物に成り代わってみる、というおもしろさも出したかったんじゃないかと思いますし、それはある程度成功していると思いますが、一方より広く見て暴論を言えば、どんなに複雑な背景を持っていても、「アメリカの高校生」って点ではみんな同じ文化的背景の中にいて、それって実はすごく狭いんじゃないかと・・・・・・。

ツルボ:Aのような存在が複数いるというように読めるから、それぞれにテリトリーがあるのかも!

ネズミ:ちょっと前に「ニューヨーク公共図書館」という映画を見たのですが、そのときに、この作品に出てくる宿主ってこんなに多様な人たちなんだと気付いて、テキストから自分がアメリカ人の肉体感覚を想像しきれていないのを痛感しました。アメリカ社会を少しでも知っている大人のほうが、より楽しめるかもしれませんね。

西山:最初は読みにくくて、おいおい、これがずっと続くのかと、『フローラ』(エミリー・バー 著 三辺律子 訳 小学館)のとき同様の戸惑いを感じました。でも、他に読まなくてはならないものがあって中断して、数日ぶりに開いたときにものすごくおもしろい体験になりました。「私はだれ?ここはどこ?」となったんです。これは、Aの人生の追体験みたいなものですよね。本を読むことで、自分というものの輪郭を持てるというところもあったし、『本泥棒』(マークース・ズーサック 著 入江真佐子 訳 早川書房)が出て来たり・・・・・・。読書というのは、そもそも他人の人生を暫し生きるような行為なわけで、それを思い出させるメタ読書のようなところがおもしろかったです。もちろん何より設定の珍しさに目を引かれたわけですが。アイデンティティを保つツールとして自分宛のメールがあるわけですが、パソコンが使えるかどうかでその日の宿主の生活状態が端的に説明できる。すごいなと思います。また、こういう手法でLGBTについて考えさせるのも巧みだと思いました。身体的な性別はどこまで重要なのか。設定と乖離しない問題提起になっています。自分のアカウントにアクセスすることでアイデンティティを保つというのもそうですが、人は見た目じゃなくて中身だという「正論」の究極をリアノンに突きつけていて、リアノンの葛藤は肉体的な接触を含めて人間の身体性を問い直すようで、とても現代的なしつらえでありながら問いは普遍的です。続きは読みたいとは思うけれど、それは別の話かな。謎への興味に応えることはエンタメとして必要な展開だと思いますが、私はこの作品にエンタメ的な満足感は特に求めません。恋愛の在り方にもいろいろ意見が出るだろうから、学生の読書会テキストにしたら盛り上がるだろうと思っています。

アンヌ:読み終って、逃げたのは作者だなと思いました。こういうSF仕立ての小説は、物語を楽しみつつ、頭の別の部分ではこの世界を解き明かそうとフル回転させながら読んでいるので、牧師が現れてAの同類の者がいる、謎が明かされる、というところで中途半端に終わったのにはがっかりです。続き物にするから書かなかったのでしょうか。それにしても粗略な感じの最後です。一つ一つの話は楽しめたし、麻薬や肥満や自殺願望やLGBTの恋等、様々な世界を垣間見られるのも楽しかったけれど、同時に、例えば宿主の自殺願望について、これだけの判断ができるAの成長過程に疑問を持ちました。それなのに、正体が解き明かされないで終わるので、いろいろ推理していた身には辛かった。さらに、これだけ恋について書いておきながら、リアノンにぴったりの男性を紹介してベッドの横に寝かせて消えるなんて、失恋した娘に自分の推薦する相手と見合いさせる親父のようで、これで終わるんなら、恋に落ちたなんて言わないでほしいと思いました。

マリンゴ:最初は読みづらいと思いました。私はロジカルな“仕組み”を知りたいタイプなのですが、なぜ、こういうことになったのか説明がないので・・・・・・。それで各章をまとめるメモを取りながら、業務的に読んでいたのですが、徐々に引き込まれてメモもいらなくなりました。肉体があるから縛られること、肉体があるからできること。ひとつの人生だけを生きること、いろんな人生を体験すること。様々なことに考えが及んで、余韻が残る作品です。気になったのは、設定のブレではないかと思われる部分。p8で「事実にアクセスすることはできるけど、感情にアクセスすることはできない」とあります。けれど、p90では「これまで感情がふるえた経験はひとつしか見つけられなかった」となっていて、矛盾を感じました。あと、p383で「アレクサンダー」の文字が4行続けて横並びになっているんです。偶然なのは分かるんですけど、一瞬、何か意味があるのか、暗号的なものなのかと疑ってしまいました(笑)。できれば接続詞でも助詞でも入れて、バラしてほしかったです。

ルパン:ものすごく疲れる本でした。一生懸命読みすぎたのかもしれませんが、次々とAが憑依する人間が変わっていくので、ついていくのが大変で。リアノンはAの姿かたちや性別までが変わってもずっと好きでいられるのはむしろあっぱれだと思いましたが、Aがリアノンに入るところはさすがにぞっとしました。ひとつだけ共感したのは、p149の「生きる目的が見つかってしまったときに陥る罠・・・・・・その目的以外のことが、すべて色あせて見えてしまう」という一文です。それから、もしも自分がひとつのからだ、ひとつのアイデンティティを持ち続けることができずに意識だけがずっと同じであったら、どんなに辛いだろう、という悲しさ・せつなさは感じられました。

ハリネズミ:発想がすごくおもしろいですね。Aのような存在はひとりしかいないのかと思っていたら、もしかしたら複数いるのかもしれないと思わせたりして、意外性もあって読ませますね。ただ、リアノンのような、一歩引いてボーイフレンドを受け入れて後をついていくような女の子が、しょっちゅう姿の違うAと会ったりするところはリアリティを感じられませんでした。恋愛は見た目と関係ないのか、というのは「フランケンシュタイン」以来のテーマでもあるけど、「フランケンシュタイン」のほうが現実味があるな、と思いました。それと、私には最後がよくわかりませんでした。どうしようとしているのでしょうか? 「逃げる」というのは、どういうことなのでしょうか? それと、Aはリアノンに自分らしさを持ってほしいとか、自立してほしいと思っているはずなのに、Aが「いい男の子」を選び出して、その子とリアのンをくっつけるのは、上から目線のパターナリズム。エンタメだと思えば楽しいけど、ジェンダー的には問題のある作品ですね。続編でいろいろなことがもっとわかってくるのかもしれませんけど。

しじみ71個分:最後にちょっと気になるところが・・・・・・。p129に急いでご飯を食べる姿を「即行」と書いていますが、こういう場合はカタカナでいう「ソッコー」で、漢字にしたら「速攻」じゃないですかね? ネット辞書では「即行」もすぐやるという意味で「速攻」と同じとしていますが、あまり見慣れない感じです。

ルパン:小見出しに○日目、とありますが、どこからどうやって数えているのだろうと思いました。

須藤:なんで正確に分かるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):主人公が、毎日違う人物に入り込んでしまうところが新鮮でした。LGBTやジェンダーについても盛り込まれています。最後が分かるようで分からないので、続編があるのでしょうか?

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『レイさんといた夏』表紙

レイさんといた夏

彬夜:再読でした。最初のうちは、なんだか作者の決めたラインで引っぱっている印象で、物語に入れなかったし、莉緒という子にあまり共感がもてなかったんですよね。割とダメダメな感じの子に描かれていますが、実はとても言葉巧みで分析的。一人称だとそこがちょっと不自然なので、三人称にした方がすんなり入れたかもしれません。が、後半は割とおもしろく読めました。阪神大震災につながるのかと分かった時には、ハッとする思いがありました。ここを描きたかったのかな、と。ただ、読んだ後では、震災からの年月を思うと、この長い期間、レイはどうしていたのか、と気になってしまいました。ずっと一人だったのだろうかと思うと、なんだかやりきれないというか、かわいそうすぎるなあ、と感じてしまいました。母とのつながりという点では、なるほどと思いはしたものの、兵庫に戻ってくることになり、母親は、震災のことを全く語らなかったのでしょうか。はっとはしたけれど、裏を返せば、やや唐突でもあったということでしょうか。母像に震災の影が感じられなかったせいかもしれません。

ハリネズミ:わたしもそう思った。

ツルボ:とても読みやすくて、心に響く、いい作品でした。レイさんが生涯で巡り合った人たちを思い返すことで、自分なりの人生を生きてきたと思えるようになるところなど、私の大好きな池澤夏樹さんの『キップをなくして』(角川書店)に通じるところがありました。レイさんが出会った果物屋のおっさんとか、莉緒のアパートの隣のおばあさんとか、生き生きと描けていると思いました。茜ちゃんって嫌な子ですね。こういう子って絶対変わらないから、莉緒ちゃんも連絡を取ろうなんて思わないでほしいな!

まめじか:人間関係の糸はからまったりもつれたりして、ときに面倒ですが、それが人をつなぎ止めもすることが伝わってきました。テーマを前面に出すのではなく、物語の中に自然に落とし込まれているのがいいですね。レイさんを思い出す人たちの中で、くだもの屋のおじさんだけ少し違いますよね。深い関わりとか、人生を変えるような影響があったわけではないので。

ネズミ:『ぼくにだけ見えるジェシカ』(アンドリュー・ノリス作 橋本恵訳 徳間書店)と比べると、文体の統一感があって、ずっと読みやすく、ぐいぐい読めました。構成や言葉づかいもうまいなと。物語がどう落ち着くんだろうと思っていたら、阪神大震災につながっていたのに意表を突かれました。自分が何者か分からなくなっていた主人公が、レイさんとの関わりの中で変わっていく。思い出した人々からレイさんが浮かび上がってくることと、自分に意識が集中するあまり、自分が分からなくなっている主人公とが対比的に描かれているのかなと。後で考えてみると、荒れた中3女子だったレイさんが、p223でかなり悟った物言いになるのは不自然なのでは、という気もしましたが・・・・・・。中学生くらいで読めたらいいですね。

西山:新鮮だと思ったのが、この子の生理的な感覚です。p59「誰か知り合いの人が手作りしたものが苦手。その家の匂いとか、その人の体温とかが、しみこんでいるような感じが嫌」など、この身体感覚が一貫していて、息がくさいとか手がねばっこいとか、生理的に他者を拒否している感じが、神経を逆なでするような感性なのだけれど、とても興味深かったです。八百屋さんの桃のエピソードはレイさんのものだけれど、この作品を貫く一つの感触として生きていると思います。あと、レイさんが美容師になろうとしていたところで、阪神・淡路大震災で亡くなるというのは、理不尽に断たれた命を悔やませるのだけれど、だから、生きているあなたは好きなことが出来るのだから頑張れ、という方向に着地するのではなくて、お母さんが出てきて、学校に行かなくていいと言う。この展開には共感しました。あと、p206「ええかげんにさらしとかんと殺すぞ」なんて、「できるだけ悪い言葉を使って、精一杯ドスをきかせ」たという枠の中でですが、ここまでパンチの効いた大阪弁も新鮮で、笑えました。

ネズミ:お母さんが息継ぎしないでまくしたてるところも、笑っちゃいますね。

アンヌ:最初はレイさんに興味を持ち、病院で成仏していく幽霊は見えるんだな、とか楽しんでいたのですが、あまり幽霊界の話はなくて残念でした。主人公がもうレイさんの正体が分かっていながら写真を見せずに絵を描くあたりが、犯人が分かっているのに主人公が罠にはまりに行く推理小説のようで、イラッとしてしまいました。人は他者との関係性において自己を確立するという事を、幽霊と主人公に悟らせるためだろうけれど、少々しつこかった気がします。お母さんにとっては、レイさんも会いに来てくれたし、子どもに過剰な期待を押し付けてはいけない、生きていてくれればいいという真実に、また気付くことができて良かったね、と思いました。

マリンゴ: p224の「あたしはあたしが、出会った人らでできている」というところは、シンプルで非常にいい一文だと思います。自分というものが、周りの人の存在で作られているというのは、中高生の読者にとって、大きな気付きになるのではないでしょうか。あと、ヒロインのいじめられた原因が、自分が嘘をついたことにある、というのがいいと思いました。いじめる側が100%悪くて、いじめられる側にはなんの非もない、という設定はありがちなので。ただ、お母さんから教えられたことやアルバムの話を、レイさんに伝えないというか、伝えるタイミングを逸したまま終わってしまうのが、一抹の後味の悪さにつながっている気がします。

ハリネズミ:とてもおもしろく読んだのですが、よーく考えてみたら、お母さんたちの描き方がどうなのかな、と思いました。まずレイさんのお母さんが再婚して最悪の状況になってネグレクトされるというのは、いかにもステレオタイプ。莉緒のお母さんは、みなさんの評判はよかったのですが、結局自分の理想に他者を当てはめようとする人で、そこは変わってないように思いました。p232には、「夢や目標とか、素敵な友人たちとか、きらきらした青春の日々とか、そういうものを莉緒にも持たせたい、持たせなくちゃと思ったの]と言っていますが、作者が、それは勉強をちゃんとやったり、きちんと学校に行ったりすることでかなえられると思っているから莉緒の母にこういう発言をさせているのでしょうか。p231では莉緒の母は、「どうかどうか生きていてって。これ以上のことは、一生なにも望みませんって思ったはずなのに・・・・・・」と言っていますが、[生きている]は、母親の言う幸せより下に位置しているように取れてしまいました。

コアラ:まず、文字が小さいな、と思いました。文字の大きさを測ってみると、『ぼくにだけ見えるジェシカ』と同じだったのですが、ずいぶん小さく見えました。書体の違いは大きいですね。挿絵は、私は結構好きでした。p69のおじさんなんかはいい味出してる。莉緒がレイさんに言われるままにスケッチブックに描いた似顔絵が、挿絵になっているのがおもしろいと思います。p162で、阪神・淡路大震災が出てきますが、もう20年以上前なんだと改めて感じました。今の中学生は知らないんですよね。p222の「あたしはこの人らで、この人らがあたしやねん」という言葉はいいと思いました。そして、その後、それぞれの人が、レイさんからメッセージを受け取る展開になるのかな、と期待したのですが、そういう展開にはならなかったので、少しがっかりしました。新学期まで物語を続けずに、夏休みで話を閉じているのは、終わらせ方としていいと思います。

ぶらこ:周りの人たちとまっすぐ関わることが、「自分とは何か」を知る手がかりになる、というメッセージがストレートに描かれている作品だと思いました。脇役の意地悪なおばあさん、おもしろかったです。ものすごく嫌味な人として描かれるけれど、手作りの煮物が実はおいしいとか、主人公からはまだ見えないところがたくさんある人という感じがして。幽霊のレイさんと莉緒を結びつけたのは、実は莉緒のお母さんだったということでお母さんが重要な役割を果たしていますが、私はこの人が苦手で、後半の展開にあまり乗れませんでした。また後半、震災というすごく大きなテーマが出てきたのは、少し唐突にも思えてしまいました。

ハル:今回の3冊の中では一番「幽霊」感がありますよね。怖さもあって引き込まれて読みました。モンタージュのページなんか、夜に読んでいると、パッと出てきてドキッ!としたり。ラストp222の「この人らが、あたしや」という発見はとても新鮮で、深く感じ入ったのですが、その後でまたp225「あんたも、自分が誰か、探しや……」で、今度は莉緒の自分探しが始まってしまう。「この人らが、あたしや」で止めても良かったんじゃないかと思いました。もう1点は、震災を回想する場面ですが、ここは、読んでいて恐ろしく、苦しくなりました。ただ、幼なじみがレイを探しに来たのは、土砂崩れが起こってからどのくらいの時間が空いている設定なのかは分かりませんが、本当にこんなふうに、中学生が一人で現場まで来られるものなんだろうかと思いました。取材の上でしたら大変申し訳ないのですが、少しドラマチックになりすぎた感じもします。そもそも、この物語で震災を扱わなければいけなかっただろうかという気もしました。

須藤:現在の学校内の人間関係でトラブったりして、前に進めなくなっているような状況にいる主人公の女の子が、幽霊のレイさんと関わることで、前に進めるようになる、という方に主眼があるのか、それとも、20数年前に断ち切られた人生の物語の方に主眼があるのか、どちらなんでしょうね。神戸の震災のことが出てきて、20年も経つのかと思いました。20年経っても、震災というのは、こうして災害に遭った人の心にさまざまな傷というか、思いを残すものなのだなと改めて思います。自分としては、震災のことが出てきた後半がおもしろかったですね。前半は、主人公の子がちょっとひがみっぽくて面倒くさい子だなあと思ってしまったので、いまいち乗り切れませんでした。面倒くさい、やや暗い性格の女の子が、一風変わった他者との関わりを通じて良い方に変化する、という物語に、自分はやや食傷気味です。

シア:スケッチ風というのは分かるのですが、表紙にはいまいち惹かれませんでした。題名もなんだか無個性で読書感想文みたいです。テンポ良く読めましたが、内容というよりもレイさんの個性で読み進めていくという感じでした。全体的に田舎の昭和感が溢れてしまっていて、いじめの辺りも、桃の件でのおじさんとのやり取りも、なんともじっとりとしていて息苦しさを感じてしまいました。日本のホラーのような湿度の高さを思い起こさせます。自分の価値観を押し付ける母親や、近所のおばあさんなど鬱陶しさしかありません。お父さんは空気だし。児童書を読んでいると日本のお父さんっていつも空気ですよね。大丈夫でしょうか。この本で印象に残ったのは、お母さんのp231「これ以上のことは一生なにも望みませんって思ったはずなのに、時がたつとどうしてこう忘れちゃうんだろうね」という言葉ですが、20年経っても成長していないってのはどうなのかな・・・・・・。気になった表現でp62「素敵にすずしかった」とあるんですが、こう言いますかね?最後レイさんが、p222「あたしはこの人らや」と言って成仏していきますが、もう少しエピソードがないと分かりにくいと思います。というか人数が少ない気がします。阪神大震災を入れようと思ったからなんでしょうが、扱いが中途半端ですよね。確かにここから話はおもしろくなりましたが、美談として震災を感動的に扱おうとしている気がしました。震災ものは子どもたちに伝えていくべきものではあるけれど、記憶にある方もいらっしゃるので難しいですから、安易に扱うものではないと思います。

ルパン:この物語のキーパーソンは実は主人公のお母さんですよね。でも、このお母さん、最後に急にクローズアップされて、それまでは存在感が薄いんです。なんだかちょっと作者の都合で動いているような。それよりも、主人公の「私」が引きずっているのは、前の学校の茜ちゃんですよね。この茜ちゃんとの関係が自分の中でどこまで整理されたのか…茜ちゃんとの確執から始まって、汚部屋になったり学校に行きたくなくなったりしているのに、最後はレイさんとお母さんの話になってしまって、消化不良のまま終わりました。そもそも、あまり主人公に好感が持てませんでした。隣のおばあさんを極端に嫌っているのだけど、その理由が「痩せてくぼんだ頬に、ピンクの頬紅をさしているのが気持ち悪い」。挨拶されても返さなかったことをたしなめられたのに逆恨みしているし、茜ちゃんとの関係にしても、レイさんやお母さんに対する態度にしても、共感できる部分があまりありませんでした。

ハリネズミ:p142にイタリックが出てきますが、縦書きにイタリックって違和感あります。物語世界の設定でいうと、レイさんは人の顔は克明に覚えているし描けるのに、病院や町の名前はまったく覚えていないんですね。それでいいのかな、とちょっと疑問に思いました。

ツルボ:幽霊って、作者の都合でどうにでも作れるからね。

須藤:そういう意味でいうと、お化けを出すにしても、いつだったか読んだ魔女の話にしても、既存のイメージを便利に使いすぎなんじゃないかと思います。

ハリネズミ:どの作品でもそうですが、物語世界は、ていねいにちゃんとつくってほしいです。

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エーデルワイス(メール参加):『ぼくにだけ見えるジェシカ』の日本版ですが、こちらのほうがもっと深刻です。母子の問題やいじめや自分探しが出てきますが、関西弁で書くことによって深刻さが緩和されています。幽霊の「レイ」さんが本当に「怜」だったのにびっくり。レイさんの人生が過酷で辛い者であっても、希望を捨てなかったことや、明るい性格だったことなどに読む者は共感できると思います。阪神淡路大震災のところではハッとしました。体験した者にとっては、いつまでも忘れられないことなのですね。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『ぼくにだけ見えるジェシカ』表紙

ぼくだけに見えるジェシカ

彬夜:まず、タイトルが変だなと思いました。ぼくだけって? ほかにも見える子がすぐに見つかるのに、なんでこういうタイトルにしたのでしょうか。それから、表紙の絵のジェシカ。最初の登場がモノトーンのミニドレスとあって、あれ?と思いました。その後、この服、いつ出てくるのかな、と。文章的にもところどころ引っかかるところがありました。たとえば、p20「そんなふうに動けるのは、けっこう楽しめたはずだった」とか、p106「恐怖心はなくなり、興味津々になってきた」とか。ほかにも何ヵ所か「?」と思うところがありました。アンディのことを母親が「暴れんぼ」と呼ぶのも、違う言葉がなかったのかな、と。人名で、ローランドとローナというのは、音が重なるので(元の言語では別の音なのかもしれませんが)、違う名前の方が読みやすかったと思います。まあ、翻訳だから仕方ないんですけど。ストーリーは、開かれていく痛快さがあるので、それなりに読み進めることはできましたが、フランシスたちが自殺を考えるような子には見えなくて、全体的に粗っぽい物語だな、という印象でした。ストーリーだけでなく、人物も、特に親たちの造型が粗いな、と。最大の謎は、ローナになぜジェシカが見えなかったかということ。それから、ラストの後日談的な部分はいらないのではないかと思いました。作者のあとがきによれば、普段は筋立てを決めて書くが、この作品ではストーリーの行き先を決めずに書いた、と言っていますが、この物語は、しっかり決めて書いたほうがおもしろくなったかもしれませんね。

須藤:読後感はよかったんですが、ちょっと地味というか、ページをめくらせていくような力が弱いように感じました。まあただ、子どもにとって、学校で嫌なことをされたときにどう対処したらいいか、とか、あるいはみんなから笑われるかもしれない心配、というのは切実な問題なんですよね。そこをテーマにしていて、それは大事なんだと思うんですが・・・・・・。親をやっていて思うのは、子どもが小学校に上がってそういう問題に直面した時に、なかなか有効なアドバイスを与えられない。要するに、あんまり気にしなくていい、とか、ある意味タフに、大人になれ、とか、大したことは言えないわけです。で、この本は、そうした「子どもにとって切実な問題」をテーマにしてはいるんですが、しかし、この本を読んで子どもがどこまで共感して、自分の問題に引きつけてくれるのかくれないのか、ってことは気になりました。子どもにとって「役に立つ」本であり得るんでしょうか。『西遊記』みたいにいじめや鬱といったテーマとも何も関係ない、ただおもしろい本のほうがあるいは救いになるのかもと思ってしまいました。

ぶらこ:鬱や自殺といった重いテーマを扱っていますが、人間関係がドライで、軽く読める作品だと思いました。でも、p209の「不思議なことに、こっちがまわりの目を意識しなくなると、まわりもたいてい、かわっていてもとやかくいわなくなった」というメッセージは、本当に鬱になるくらいいじめで悩んでいる子には響かないような・・・・・・。それよりももっとライトな層に向けて書いているのかな、という印象でした。子どもたち同士の友情によって人生を楽しむ力を獲得していくお話だけど、もう少しまわりの大人との関係性も読んでみたかった。子どもたちの母親のキャラクターがどれも似て見えてしまったのは残念でした。ファッションについての会話などは楽しく読みました。

コアラ:読んでいる途中では、あまり印象に残らないような内容だな、と思っていましたが、読み終わってしばらくしても、案外印象に残っています。ファッションに興味があって裁縫が得意という男の子が主人公なので、そういうものに興味を持っている男の子の励ましになると思いました。後半は自殺がテーマになってきますが、悩んでいる本人に役立つというよりは、周りで悩んでいる人がいる子にとって、接し方など参考になるかもしれないとも思いました。装丁がなんとなく女の子向けのように感じますが、男の子にも読んでほしい本です。136pからp138までで、「学校に行かないと法律違反」というような会話があって、「え?」と思ったのですが、「訳者あとがき」にそのことについて触れられていたので、その点は良かったと思います。

ハリネズミ:さっき須藤さんが「おもしろくない本でも役に立つのか」と疑問を出されたのですが、私は、おもしろくない本は読まれないので、結局役に立たないと思っていて、子どもの役に立てようとする本ほどおもしろくしないといけないと思っています。この本は物語世界のつくり方が中途半端かな、と思いました。原題は「ジェシカの幽霊」ですが、日本語タイトルは「ぼくだけに見えるジェシカ」。ぼくだけじゃなくてすぐ他の子にも見えるようになるので、どうなんでしょう? それから、この物語では、ジェシカは、自分と同じように穴に落ちて死を考えるようになった子に見えるという設定だと思いますが、それならローナにも見えるはずじゃないかな? また、ジェシカの声は他の人に聞こえないので、人がいない場所で会話をしているはずですが、p32では、みんなのいる教室で会話をしています。それと、ジェシカのミッションは自殺を思いとどまらせることだとすると、そんな子はいっぱいいるでしょうから、永久に成仏できなくなります。そんなこんなで、物語世界の決まり事をきちんと作ったうえで、それを最後まで守って物語を進めてほしいな、そこが残念だな、と思いました。引きこもりのローランドが追いかけて来てp103では「あの、ごめん、きみの言うとおりだ。ものすごく失礼だった」と言うんですが、日本のひきこもりの問題を抱えている子たちは、普通はこんなふうにすぐ出て来た謝ったりしないですよね。それからアンディという子が男の子っぽい格好をしているんですけど、友だちができたりローランドとつきあうようになったら、普通の女の子っぽい服装になるのはつまらない、と思いました。

マリンゴ: 私はおもしろく読みました。今回の課題本としてまとめて読んだことで、『レイさんといた夏』(安田夏菜著 講談社)と比較できて興味深かったです。幽霊のスペックや目的が似ていますよね。この本は、キャラが立っていて引き込まれました。幽霊の本のわりに明るいですね。クラスで浮いている子、はみ出している子が実は魅力的なのかも、と読んでいる子どもたちが気づくといいなと思います。ただ、ファンタジーって、最初に作った設定を守らないといけないはずなんですけれど・・・・・・クライマックスでそれが破られているのが残念です。ジェシカは、死にたいと思った子に見えて、そうじゃない人には見えない設定のはず。でも、クライマックスでは、自殺しようとしている子には見えない。主人公たちを活躍させるための“言い訳”に思えるのです。そして逆に、今まで見えなかったはずのおばさんが、急にジェシカの存在を“感じる”ようになる。これもストーリーの都合ですよね。それが残念でした。最後まで楽しく読むことはできたのですが、架空の世界の作り方と守り方は大事だと思います。

アンヌ:以前から題名だけ知っていて読むのを楽しみにしていた作品だったのにp47で「ぼくにだけ」どころかアンディにまで見えてしまって、がっかりしました。ここから、フランシスとジェシカの物語ではない話がドタバタと始まって行きます。アンディはカッとなったら暴力を振るってしまう問題児のはずが、転校先では冷静な武闘家のように効果的に暴力を振るって問題解決をする。自殺寸前まで落ち込んでいたようには見えません。ローランドについても同様です。さらに自殺寸前のローナにジェシカが見えないというのも奇妙です。学校の行事で展覧会に行った時に、いじめに遭っているローナにジェシカが見えていないのもおかしい。作者が自分で作った設定を守っていない作品ですね。ジェシカが消えた後に物語が延々と続くのは、ジェシカが一番必要だったフランシスが救われていく過程なんでしょうが、エピソードは衣装係の話ぐらいでよかったかもしれません。もともとフランシスは自分の世界を持っている子ですから。でも、その世界の中で、彼はこの先ずっとジェシカのイメージで作品を作って行くのだろうなと思うと、少し切ない気がしました。

西山:文章の弾まなさが興味深かったです。具体的に分析できていないのですが、弾まない文章でドタバタが描かれていて不思議な感触でした。表紙に関してはみなさんのご指摘同様です。裏表紙を見て、ああ、あと二人こういう子が登場するなとも思っちゃっていました。次々にジェシカが見える子が登場して、これはギャグだと思ったんですよ。どんどんみんな見えちゃって、ワヤワヤになることを期待しましたね。那須正幹さんの『屋根裏の遠い旅』(偕成社、1975)で、パラレルワールドに迷い込んでいるのが主人公だけじゃないというのが新鮮だったのを思いだしたりして。ローナにジェシカが見えない理由は書いてありましたよね。まあ娯楽作品としてはサーッと読めたという感じです。

ネズミ:ジェシカが現れてから主人公フランシスの周囲がどんどん変わっていって、いったいどうなるのだろう、ジェシカは過去を思い出せるのだろうか、という興味に引っぱられて読みました。アンディやローランドの誇張気味なキャラクター設定からエンタメだと思ったので、細かいことはあまり気にせずに。学校社会って、どこに行ってもいろんな人がいて、ぶつかり合っていくものだけど、フランシスが味方を得たり、自身も別の角度から考えられるようになったりして、我慢するだけではなく、自分らしくやっていく方法を見つけていくので、読後感はよかったです。子どもに力をくれる本だと思いました。

まめじか:エンタメとして読んでいたら、鬱や自殺というテーマが途中で見えてきました。その重さと、ちょっと緩い設定がちぐはぐというか・・・・・・。フランシスの言葉は、学校で浮いている子だからなのかもしれませんが、年齢より大人っぽいですね。

ツルボ:タイトルが内容と合っていないとかは、みなさんに言われてしまったんですけれど・・・・・・。作者の言葉を読むと、コメディを書いていた方なのでエンタメっぽくなったのだと思うのですが、やっぱり自殺をテーマとして書きたかったのでは? それだったら、一番ジェシカを必要としているローナに見えないのは、何としてもおかしい。鬱という「穴」に入ってしまったから、と作者は説明しているけれど、そういう子どもたちこそ救われるべきじゃないかな。それに比べて、フランシスのように自分の好きなもの、進みたい道がはっきりしている子どもが、内心は死にたいと思っているというのも説得力がない。いまどき、パリコレのデザイナーは男の人のほうが多いと思うし、母親にも認められているのに。三人称で書かれているので、いろんな登場人物の目線が交錯して、煩雑で読みにくかったけれど、これは原文の問題? それとも訳のせいなのかな? 全体に妙に固い文章と会話などの軽やかな部分が入り混じっていて、すっきりしない。p45の「あっけらかんとほほえんだ」とか、p140の「ホームスクールは両親に認められた法律上の権利」とか、「えっ!」と思って読み返す箇所が多々ありました。

しじみ71個分:読みやすくてサクサクと進みました。男の子がファッションに興味があるせいでいじめられるという設定でしたが、イギリスでもそんな問題があるのかなぁ?と思いました。主人公のフランシスの他にもジェシカが見える子たちが登場してきますが、その共通点は後からだんだん分かってきます。ジェシカはスーパー幽霊で、賢くて可愛くて優しい。で、そんな子がそう簡単に自殺するのかなぁ?とも思ったり。ジェシカが成仏できずにこの世に留まっている理由が子どもの自殺防止という割には、自殺リスクの最も高いローナの内面が描かれているわけでもないし、ローナにジェシカは見えないし、ちょっと理由付けとしては弱いかなと思いました。それから、ジェシカの死を悔やんでカウンセラーになったおばさんとの関係があまり書かれていないので、もっと堀り下げてもいいと思いました。西洋の子ども向けの物語で子どもの自殺をテーマにするのは珍しいのでしょうか? テーマ先行な気はします。それと後半、盛り上がりには欠けていますね。ジェシカとの出会いで3人の子どもたちがポジティブに元気になっていくという展開は爽やかでいいし、気付きを得ていく過程も破綻なく書かれていますが、問題が解決して、ジェシカが成仏していくところに盛り上がりがありません。後書きをちらっと読んだら、普段は考えて緻密にプロットを考えてから書くが、今回はあまり考えないで書いたとあって、だから盛り上がりに欠けたのでしょうか。もうちょっと考えて書いてもよかったのでは・・・・・・。残念です。

ハル:タイトルや表紙の雰囲気からして、少し小さい人向けの本かなと思って開いたら、文字が小さい! 文字数も多いし、内容からすると文章も結構、硬い印象があって、全体的にちぐはぐな本だなぁと思いました。「作者あとがき」を読むと、作者自身も普段とは違う書き方をしたと書いているので、ちぐはぐ感が生まれたのは、それも原因だったんじゃ・・・・・・。日本語版の編集では、どのくらいの年齢の、誰に読んでほしくてこの本を作ったんだろうと考えてしまいました。

しじみ71個分:一方、死にたくなるほどの落ち込んだ気持ちは、「穴に落ちたような気持ち」という程度で非常にあっさりしています。死を考えるほどの欝状態の辛さはもっと言葉を割いて掘り下げてちゃんと書いた方がいいのではないかと思いました。全体的に重いテーマの割に掘り下げが浅い印象です。

ネズミ:そこまでの穴に見えてこない。

しじみ71個分:あと、ローナへのいじめについてすぐに警察が介入して、いじめの首謀者の女の子二人を退学にするというのには驚きました。問題のある子たちを指導もなく、ただ野に放つというのもすごいなと思って。

須藤:ゼロ・トレランス方式っていいますよね。ただ賛否両論ありますが・・・・・・。

シア:感動的で最後泣けました。p211「陽光があたたかい。太陽のあたたかさが、ブレザーを通して両肩に広がっていく。おだやかなぬくもりに、心が安らぐ」というところが、ジェシカがフランシスの肩を揉んであげたシーンとシンクロして、目頭が熱くなりました。終始温かい感じの文章でした。でも、表紙がそぐわないように感じました。ジェシカとの出会いのシーンだとすると、フランシスは帽子をかぶっているはずだし、そもそも彼が眼鏡をかけている描写はなかったと思います。いじめられっこは眼鏡、というバイアスがかかった見方はどうにかしてほしいですね。それに、とてもおしゃれなはずのジェシカの服装も全く素敵ではありません。海外のファッションニュースを見ているようなファッショナブルな描写もこの本の魅力の一つですから、画家さんにはもっとがんばってほしかったですね。いつも美しい挿絵を描かれるのに、残念です。
それから、題名も気になります。「ぼくにだけ見える」ではないじゃないですか。全く詐欺です。邦題によくある“ヤクヤク詐欺”です。そもそも、原題は『Jessica’s Ghost』で『ジェシカの幽霊』となり、p187「自分のほうが肉体のない幽霊のように感じられたのだ」というように、生きているけれど自殺願望のあるフランシスたちのことをも示しているように思います。だから読後に深い味わいのある題名になるはずなのに、もったいないです。しかもですね、カバー袖でまた盛大にネタバレをしているんですよ。もう読む前から「ぼくにだけ見える」ことはないとバラしている。本当にこういうカバー袖や帯は読んではいけない時代になりました。最近、若い人を中心にネタバレされても平気だし、むしろ大いに、そして好意でネタバレをする人が増えています。生徒たちも内容を全て知ってから安心して読んだり見たりしています。想像しなくなっているんでしょうか? 焦りを感じます。
とはいえ、話としては良かったです。幽霊話だと成仏してお別れというラストは見えていますが、この本はそうではなくて成仏したのは閉ざされていたみんなの心、という落としどころだったので新しいと感じました。どんなに人生がガラリと変わっても、楽しく過ごせていても、どうあがいてもジェシカはいないという事実がとても切なくて、幸せな未来を断つという自殺いうものの重さを説教するでもなく伝えてきていました。ラストシーンの切なさは一見の価値がありました。中高生にはよくありますが、漠然と死にたい子はいるんですよね。積極的に死にたいというのではなく、生きたくないというレベルの。そういう子に、「穴に落ちる」とか、「太陽と雲」とかのわかりやすい比喩や、p129「じつは、わたしもいわなかったの。いま思うと、それがまちがいだったのね」というジェシカの言葉など交えながら、この本で落ち込んだときの心の処理法が伝わればと思います。

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エーデルワイス(メール参加):ファッションの才能をもつ男の子フランシスも、アンディもローランドも幸せになってよかったです。ひどいいじめは世界中にあるのかとため息が出ます。後半はちょっとお説教臭いと感じました。ユーモアもあり、ファンタジーぽくて、小学校高学年から中学生の女の子が読みそうです。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題)

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M.G.ヘネシー『変化球男子』

変化球男子

ルパン:とてもいいと思いました。読み始めたときは、「また性的マイノリティの話かぁ」と思いましたが、ストーリーに引き込まれ、主人公の立場に立って考えることができました。もし、今だれかから「あなたは男だから男のトイレに行きなさい」と言われたらとてもいやだろうなぁ、と。トランスジェンダーの気持ちがリアルに感じられました。

きび:タイトルの訳がうまいですね。いちばん感心したのは、このタイトルです。中身も、主人公の気持ちに寄り添って読めました。トランスジェンダーであるということが周囲の友だちにいつ分かってしまうか、そのスリリングな展開で最後まで一気に読ませる作品ですね。知らないこともたくさんあって、興味深く読みました。章ごとに入っている主人公が描いたマンガが、重苦しくなりがちなストーリーに爽やかな風を送っているようで、効果的だと思いました。主人公の新たな出発と、マンガの主人公たちの出発が最後のところで重なっているんですね。

木の葉:トランスジェンダーものとして、おもしろく読みました。ただ、翻訳版のタイトルに反して、内容は直球だな、と思いました。私はあまり多くの知識がないので、医療的な処置のことなども興味深かったです。こうしたことは国によってどんな違いがあるのでしょうか。そのあたりも知りたいところです。こういうテーマを書く場合、人称代名詞をどうするか、興味深かったです。一人称が多様な言語とそうでない場合の翻訳、それぞれのやりづらさがあるかもしれません。細かいことですが、初っぱな、p1「そこが野球のいいところで、いつも自然体でいられる」というのがひっかかりました。それと、ニコという子が、軍隊式中学校に送られたということですが、これはどんな学校なのでしょうか。ここに、懲罰的な意味合いがあるのか、ちょっとわかりませんでした。それから、胸毛を求める主人公。この辺は、ちょっと違和感がありました。ラスト、部屋に引きこもってしまった後の物語の流れ・・・野球の試合に出ることになるのだろう、そして暴投の後に、変化球で打ち取ることになるのだろうと、予測できてしまいました。

さららん:3冊の中で、一番、すっと読み終えました。男子として通い始めた新しい学校で、前の学校では女子だったということを暴露され、シェーンは友達に自分が嘘をついていたように感じて、自分を責めます。思春期真っただ中のヒリヒリする気持ち、居場所がなくなったシェーンの絶望がよく理解できました。親友ジョシュが、野球部のみんなの前で、「ズボンをちょっとおろしてみんなに見せてやれ」という場面など、具体的で生々しいですが、シェーンが絶望のどん底に落ちる理由として説得力がありました。ごたごたの中のp182で監督は、優れた野球選手としてのシェーンを認め、「きみが女子であろうと、男子であろうと、なんならカンガルーであってもかまわない」と言い放ちます。デリカシーのない監督だけれど、価値観と立場のまったく違う人間の発言によって、物語に風穴がひとつあきます。まわりの大人たちが全体にうまく配置されています。巧みに構成された物語だと思います。

ヘレン:大好きな本です。上手に作られています。漫画と話の隙間がとてもおもしろく感じました。

まめじか:安心できる場所を求める切実な思いが伝わってきました。読み終えたあと「心の風通しがよくなる」と、あとがきにありますが、本当にそんな本ですね。気になったのは、p183で「めそめそ泣いてて一番つらいのは、自分が女子みたいに思えることだ」と言っていることです。女性の体で生まれたシェーンが、男らしくなろうとするのはリアルですけど、こう書いてしまうと、泣くのはやっぱり女々しいのだと、子どもの読者は思ってしまいます。性の偏見から自由になるという思いから書かれた本なのに。同じページの「ろくでなし」という台詞は、現代の日常会話としてちょっと不自然では。

西山:私も最終的にマッチョだなぁという印象。試合のおわり方とか、ですね。『ジョージと秘密のメリッサ』(アレックス・ジーノ著 島村浩子訳 偕成社)では、本当に主人公の切なさを共有する読書だったのですが、こちらではそれはありませんでした。主人公の年齢の違いもあるでしょうけれどこちらは思春期に入って、カミングアウトするのかしないのか、どんな反応が待っているのかというドラマでドキドキひやひやしながらページを繰る読書だったので、トランスジェンダーがエンタメとして消費するネタになりかねないと危うさを感じたのです。当事者への想像力を育まれ、共感によって、辛さを追体験していく読書ではなく、自分からは距離を持ったまま、傍観してどきどきしながらページを繰っていく、という感じです。もちろん、ホルモン療法の具体的な記述や、様々なサポート団体の存在を教えてくれることなど、有意義な啓蒙性だと思いますし、この作品が性的マイノリティを消費的に扱っているとは考えませんけれど。ホルモン治療を始めるなら10歳ぐらいがリミットで、それには保護者の承諾が必要、というのが『ジョージと秘密のメリッサ』にも出て来ていましたね。お父さんの変化がどうも腑に落ちないし、3歳のときに性別に違和感を持ったのなら、すごく辛かったと思うけど、それはあまり描かれていない。思春期のカミングアウトに焦点化されているから、それは無いものねだりなのかも知れませんが、主人公の苦しみにこちらも胸が痛くなるという『ジョージと秘密のメリッサ』のような読書にはなりませんでした。

ハル:読んでよかった! と思いました。主人公の感情が胸に迫ってくるので、自分が主人公だったら、その親友だったら、恋人だったらと、いろんな角度から想像して考えることができます。ところどころに入ってくる漫画も、全然意味はわからないんだけど、癒されました。「テイストは宮崎駿に似て」ないですけど。でも、男だったらズボンをおろしてぱっと見せちゃえっていうのは、これは仮に男の子同士でも暴力ですよね。

シア:読後感がすごくいい話でした。この本はタイトルが秀逸だと思いました。でも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』など旬の映画名やゲーム名をそのまま文章内に入れるのは、作品が古くなりやすいので個人的には好きではないです。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は劇中劇としての漫画に似せる意図があったんでしょうが、「アサシンクリード」に関しては描写に違和感があったので、作者がゲームは未プレイだけど若い読者のために書いているように感じてしまいました。『ハリー・ポッター』(J・K・ローリング著 松岡佑子訳 静山社)の文章を引用するのも気になりますが、みんな知っている作品だろうからいいのかな。ネタバレが嫌で帯など何も見ないで先入観なしに読み始めたので、表紙だけで野球少年ものだと思って読みました。だから、サマーの花嫁の付き添いの「女の子」という辺りから、一気に引き込まれて読みました。知らずに読んで良かったです。理解することの難しさや、人間の排他性がよく描かれていました。頑なで変わろうとしない人間からは離れていくのがいいと思います。アレハンドラの底抜けの明るさの裏に隠された苦労を思うと胸が苦しくなりますが、過去や辛さを乗り越えた人間は強いし、弱い人間に優しくなれますね。この子がどういうキャラクターなのか、過去に何があったのか、子どもにわかるのかなと思ったんですが、そこを書き込むと暗くなってしまうかもしれません。日本の本、とくにティーン向けのだと辛いことがあるとすぐ死のうとしたり、死んでしまった人が出てきますが、この本だとどんなに辛くてもシェーンにそういう発想がなくて良かったです。キリスト教圏だからでしょうか? それにしても、父親が薄っぺらいですね。クリスもペラッとしてます。マデリンもめんどくさかったし、大人の恋愛もめんどくさそうですね。友情最高です。それにしても、マデリンの「ピンクのスカート、オレンジのレギンス、青いコンバース」ってすごい配色ですね。これだから海外文学はおもしろいですよね。

マリンゴ:とても魅力的な物語でした。まず主人公を男子と認識させてから本題に入っていくので、主人公の戸惑いや悩みがダイレクトに伝わってきました。ただ一つ気になるのは・・・野球に関して、主人公がスーパーマンのように描かれている点ですね。この年齢だと、治療が進んでいない段階では、体格的に、体力的に、男子に追いつかれそうになるなど、焦りがあるのがリアルなのではないかな。突き抜けたピッチャーとして描かれているため、そこはちょっとファンタジーっぽいと思いました。

カピバラ:トランスジェンダーに関していろいろ知らなかったことがわかる本でした。一口にTといっても多様なケースがあることがわかりました。特にp156の「トランスジェンダーの子のなかには、自分がこういうふうに生まれてきてラッキーだという子もいた。トランスジェンダーであることが、自分をユニークでスペシャルな存在にしてくれるから、もし変われるとしても変わりたくないとまでいった」という部分、そうなのか、と認識を新たにしました。そういう子どもを受け入れるまわりの大人たちにもいろいろなスタンスがあることもわかりました。理性ではわかっていても感情が追いつかないところなど、よく描かれています。

ハリネズミ:自分の性に違和感をもつ子どもの気持ちや、親のとまどいと受容の過程が、ていねいに描かれていると思いました。いつも子どものそばに立とうとするお母さんがいいですね。ただ、トランスジェンダーを取り上げた作品で気になるのは、古い男らしさ(たとえばマッチョ)や古い女らしさ(たとえばかわいらしさ)が、前面に出てきてしまうところ。シェーンは胸毛が生えてきたらいいと思うし、アレハンドラはハイヒールの靴をはく。今は#kuTooというハッシュタグまで登場して女たちはハイヒールを拒否しようとしているのに。これまで苦しんできたトランスジェンダーの人たちは、抑えていた気持ちを爆発させて、肥大化した逆の性のイメージに同化しようとするんでしょうけど、それだとさっきまめじかさんが言った「めそめそ泣いてて一番つらいのは、自分が女子みたいに思えることだ」みたいな発言も登場してしまう。トランスジェンダーの人がみんなそうかどうかはわからないのですが、文学作品がそこでとどまると、間違ったイメージを子どもの読者にあたえかねませんね。レヴィサンの『エヴリデイ』(三辺律子訳 小峰書店)には、女の子と男の子との中間が居心地いいみたいな人が出てきますが、もっといろいろ描かれるようになるといいと思います。それとp68で、シェーンが「ぼくが通った学校だ」と言ってしまう場面ですが、この訳し方だとうっかり口をすべらせたというより、宣言しているみたいなイメージにとれてしまいました。

きび:「ひどくなんかない」が先に来たら、うっかりいってしまった感が出るんじゃないの?

カピバラ:翻訳では最初から主人公の一人称は「ぼく」ですが、原文では「I」ですよね。読者が受ける感じは違ってくると思います。日本語の一人称は性別や年齢で固定されてしまうので、どれかに必ず決めなきゃいけないところがあります。それを考えると、LGBTの人は日本ではもっと生きにくいんじゃないかと気づきました。

花散里:最初、このタイトルと表紙を見て読みたいとは思えませんでした。読んでみて、とても読後感が良かったので、このタイトルはどうなのかと思いました。表紙画も野球少年に読んでほしいのかと感じたくらいでした。トランスジェンダーの子どもの気持ちが細やかに丁寧に描かれていて、両親との関わりも印象深く残りました。最近、LGBTなどを扱った児童文学の作品が多く、この作品を読んでいても医学的にも知らなかったことが多かったので、多様性などについて理解を深める意味でも、たくさんの人に読んでほしい作品だと思いました。

コアラ:「作者あとがき」で、「同じ状況にある人が、必ずしもシェーンと同じようにするわけではない」として、今の性領域にいるのを大事にしている子もいる、医療的処置を受けてもどちらでも個人の自由、としているのがいいと思いました。あと、背表紙のタイトル文字が読みづらかったです。

アンヌ:おもしろくて、そして、読むたびに泣いてしまう本です。主人公だけではなく親の葛藤もよく描けています。母親が助産師で、他の親よりは事情が分かる人という設定ですが、それでもシェーンが最初に打ち明けた相手は、母親ではなく母の友人だった。親子であるからこそ微妙な問題だということがわかります。この問題に向き合おうとしない父親と再度治療についてもめた後に、母親はPFLAGに行こうと言い出す。たぶん離婚に至る過程を思い出して辛かったのではないかと思わせるところで、親も含めて支援する団体があって親も支援を求めていいということが描かれているところが素晴らしいです。父親は婚約者にもシェーンの秘密を打ち明けていないし、医者からも逃げてしまう。社会的通念で生きている男性は、たぶんこういう問題から目をそらしがちなんでしょう。子どもに捨てられる前に改心してくれてよかったと思います。p275の結婚式のスピーチで、大人も弱い存在なんだと気づいているシェーンのスピーチがけなげで、パパもよく成長したなと涙ぐんでしまいます。シェーンは、親友に打ち明けられないことでずっと葛藤しています。その過程で描かれるマデリンとの淡い恋やジョシュとの一塁の会話もおもしろい。そして、ニコのセリフの「レズってやつですか」はLGBTQのうちの二つをも侮辱する言葉で、いかにも男性優位者という感じです。この場面とアレハンドラがカソリックの学校で教師に殴られたというところを読むと、アウティングの卑劣さや宗教の問題などを知ることができます。見事で本当におもしろい作品だとは思いますが、専門用語について、カタカナや英語表記のままのものが多く、何も解説がないのが気になりました。

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エーデルワイス(メール参加):書名のThe Other Boyの邦訳が「変化球男子」になるとは、うまい!と思いました。PFLAG(レズビアン・ ゲイの家族と友人の会)について丁寧に書かれていて、主人公のシェーンの気持ちが伝わってきます。さすがアメリカで、選択権は本人にあると、子どもの頃から意思表示するのですね。宮崎駿アニメは、世界的に有名なのだと改めて思いましたが、シェーンが描いたとされる漫画は、今一つよく分かりませんでした。

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題の会」より)

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ジュリアが糸をつむいだ日

さららん:主人公ジュリアは思いやりのある子ども。楽農クラブの自由研究で「カイコを飼う」という選択をした二人だけど、ジュリアはそれが韓国っぽくないかと悩みます。パトリックとはすごく仲良しなのに、口には出せない微妙な心理があり、子どもの内面と外面が違う部分がうまく描けていました。一方で、ジュリアは黒人のディクソンさんに対するお母さんの反応を観察し、お母さんにも人種を差別する気持ちがあるのではと悩んだり、自分をチャイナと呼ぶまわりの子たちは、知らないことを知らないんだと気がついたりします。アイデンティティの在り方や差別というモチーフを、ステレオタイプとは違う形で提示し、答えが出ないままの部分も残ります。そこがいい。「カイコを飼う」経験を通して、読者もジュリアとともに考えることを促されていきます。ものの考え方が閉ざされがちな日本の子どもに、読んでもらいたい1冊だと思います。

木の葉:カバー袖の説明を読んでしまったので、カイコを飼い始めるまでが長く感じてしまいました。ここは本の作り方として少し工夫してほしい気がします。編集としては、どこまでネタバレにするかは頭が痛い問題とは思いますが。物語全体としてはおもしろく読みました。解決しすぎない終わり方がいいと思ったし、最初、ずいぶんな態度だなと思った弟への感情もいい感じに収まりました。でも、中学生と思うと、人物造型や行動が、とても幼く感じられてしまいました。それから、p12の「郵便日記」という箇所は、原文がどうなっているのかな、と気になりました。パトリックがジュリアをジュールズと呼ぶことが、どうカッコいいのか、私にはイマイチわかりませんでした。p40に「チャイナチャイナ」とはやしたてられる箇所がありますが、ここは少し説明不足なのではなかと感じました。高学年ぐらいの読み手だったら、チャイナじゃなくてコリアでしょ、と思うんじゃないでしょうか。

ハリネズミ:東アジア系の人を「チャイナ」と呼ぶのは、世界のいろんな場所で耳にします。たぶん昔から華僑の人たちが世界のあちこちに住み着いているからでしょうね。でも、今の日本の子どもにはわかりにくいかもしれませんね。

木の葉:p108で、刺繍するものとして国旗という発想に、おっと、と思いました。国のありようの差でしょうが、日本の創作で、日の丸刺繍なんて書かれたらレッドカード出してしまうかも。アメリカ的ということでしょうか。母が人種差別者なのかと悩むくだりは、おもしろかったです。そして、差別される側である黒人のディクソンさんが、ジュリアたちを中国系と間違えるのも、物語としていいなと、思いました。ただ、中国系や日系に間違われる時の感情をもう少し知りたかったです。有機農業の自然循環の話題は、テーマとしてはあまり新鮮味がないという気もします。今日的にはどう議論したらいいのかわからりませんが。ただ、そこに経済的な視点があるのはいいと思います。できあがった刺繍については、うまくイメージできませんでした。

きび:リンダ・スー・パークは、テーマを見つけるのが本当に上手ですね。この作品も、主人公のカイコを飼うというプロジェクトと、アジア系住民と黒人のあいだの微妙な差別意識、循環型農業のことなどがうまくからみあって、楽しいだけでなく考えさせられる作品になっていると思いました。『となりの火星人』(工藤純子 講談社)もそうだけど、日本の児童文学はとかく内向きになりがちだと思うのですが、こういう風に社会に向かって開かれた作品をもっと読みたいと思いました。『モギ~ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房)がニューベリー賞を受賞したあと、著者にアメリカで話を聞いたのですが「これからは、アメリカじゅうの子どもたちがお母さんの本を読んで作文を書かなきゃいけないんだね。かわいそう」と自身の子どもにいわれたとか。まあ、これは笑い話ですが、教師も図書館員も安心して子どもたちに薦められる、アメリカの児童書の高い水準を示しているような本だと思いました。ただ、一人称で書かれているものって、訳し方によってはちょっとうるさい。この本も、ストーリーに引きこまれる前は、少々うるさい感じがしました。

ルパン:とてもおもしろく読みました。子どものときにカイコを飼ったときのことを思い出しました。昆虫が痛みを感じないということは初めて知りました。

コアラ:まず、カイコを飼うことが「韓国っぽい」というのに驚きました。日本で昔、養蚕が盛んだったということを習っていたので、むしろ日本のものという感覚で、韓国でも養蚕が盛んだったというのは知りませんでした。それから、「楽農クラブ」というのが出てきますが、アメリカの4Hクラブみたいだな、と思いました。子どもの頃、4Hクラブの子のいる家庭にホームステイしたときのことを懐かしく思い出しながら読みました。内容のことで言えば、ジュリアとその家族は韓国系アメリカ人で黄色人種、パトリックはヨーロッパ系の白人、ディクソンさんは黒人と、いろんな人種が「アメリカ人」として暮らしていて、すごくアメリカらしいと思いました。そして、それぞれに対する意識をジュリアが感じ取って、考えを深めていくのがすばらしいと思いました。ジュリアとパトリックの友情もいいですね。パトリックが正直にイモムシが怖いとジュリアに打ち明けたり、ジュリアもカイコの研究をやりたくなかったのにやりたいふりをしていたということをパトリックに話したり、そしてそれをお互いきちんと受け止めたりするのがすごくいい。中学生という年頃だったら、男女の友情として、こういう相手がいるといいなと思うかもしれませんね。ジュリアがカイコを手にのせてかわいがる場面も出てきたので、「あとがき」で作者が「イモムシ恐怖症」と書いてあったのにはびっくりしました。この物語はカイコを飼う話ですが、イモムシの挿絵は1箇所(p185)だけしか出てこないんですね。それも、イラスト的でリアルなものではないし、カイコガもp231でチョウチョみたいにかわいく描かれています。これなら、虫恐怖症の人でも怖がらずに読めますよね。本文の漢字には小5以上で習うものにルビが振ってあるようなので、小学校高学年から読めるように作られていると思いますが、カバーの絵がちょっと幼いと感じました。カバーの絵は、桑の葉ではなく、みんなで桑の実を摘んでいるんですよね。裏表紙はお菓子の絵なので、桑の実でお菓子を作る話のように見えるとも思ってしまいました。物語の中に、パソコンは出てくるけれど、スマホは出てこないんですよね。オリジナルが出版されたのが2005年で14年も前だから、ちょっと古い感じもしましたが、技術の進歩が重要という内容ではないので、これはこれでいいと思いました。全体的におもしろかったです。

アンヌ:ジュリアがカイコを飼う決意をするまでが全体の4分の1もあって、主人公に興味を持てないまま、なんだか飽きたなあと思いつつp104までたどり着いた感じです。そこから先はおもしろかったし、有色人種同士の微妙な差別感とかが描かれていたり、知っているようで知らないカイコについても知ることができたりして、読んで良かったなと思いました。お母さんの黒人への差別意識について突き詰めていないところは、少し気になりました。

花散里:リンダ・スー・パークの作品は好きで、特に『モギ~ちいさな焼きもの師』が大好きでした。『木槿の咲く庭』(柳田由紀子訳 新潮社)などを読んで、韓国系アメリカ人である作者にとって韓国が作品の原典であるのではないかと深く心に残りました。この作品では現代の子どもたちのことが描かれて、ジュリアの成長物語として読みました。自由研究でカイコを飼うというときに関わっていく人たち、特にディクソンさんに対する母親の思い、ジュリアがいろいろなことを考えていくということが作品から伝わってくると思いました。カイコの繭から絹糸を、絹糸から刺繍の作品へと見事に描いていることも印象的でした。

ハリネズミ:主人公は、カイコの卵を取り寄せるところから絹糸を取ってそれで刺繡をするところまで体験するわけで、そこがていねいに描かれています。著者も、同じような体験や観察をながら書いたのだろうな、と思いました。ジュリアのお母さんが黒人のディクソンさんを警戒していて、それは韓国にいた若いときに何か嫌な思い出があるんじゃないか、という推測が出てくる。それと、ディクソンさんが、韓国だと聞いても中国と間違えたりする。この設定からは、ディクソンさんは「嫌な兵士」として韓国に行ったことはないのがわかります。循環型農業についても書かれていますが、ほとんどは先生が言葉で説明してしまいます。ただ、イメージがはっきりわかるように説明しているのがいいですね。パトリックとジュリアは7年生(日本だと中学1年生)ですが、ほかの男子たちとつるむことなく、ジュリアとカイコの研究に精を出しています。そこがちょっとリアルではないかも。パトリックは、世の母親たちが描く男の子の理想像っぽいですね。ジュリアがお母さんに「どうして黒人を嫌うのか?」と面と向かってたずねたりしないのが、ちょっと気になりました。韓国風の家庭ということなのでしょうか?。私は、リンダ・スー・パークのほかの作品と比べると、ストーリーがちょっと弱い気はしました。それと、この表紙には、ジュリアのお母さんらしき女性が描かれていますね。ということは、物語の後日談みたいな絵で、とうとうお母さんもディクソンさんと親しくなり、クワの実を摘ませてもらっている場面を描いたんじゃないでしょうか。

カピバラ:ジュリアは自分が差別されていやな思いを体験しているので、自分の大好きな母親が人種差別をしているとは思いたくないんでしょう。だから面と向かって聞けない。その微妙なところをうまく描いていると思います。私は一人称で書かれているのがうるさいとは思わず、ジュリアの気持ちに添って読めました。良いところも悪いところも素直に語る姿勢に好感が持てました。パトリックとジュリアは、確かに中学生よりは幼い感じだけれど、男女を意識することのない仲良しぶりがさわやかでした。弱点をかばいあい、相手を尊重しつつ、目標にむかって協力しあっていく過程がとても楽しかった。卵から大事に育ててきたのに、殺さなきゃいけないと知ったときの衝撃はよくわかり、先生の話で納得するところも自然に描かれていました。いまの日本の子どもはカイコがどういうものか知らないと思うので、挿絵にもっとカイコや、卵のパックに繭をつくる様子などが描かれていればよかったと思います。この本を読んでカイコに興味を持った子は、次に科学的な本に手を伸ばすと思うので、それならそれでもいいんですけど。パトリックがインターネットも使うけど、何でもまず本を読むところから始めるのに好感を持ちました。ジュリアが弟をうるさく思う気持ちも共感できるし、その弟の扱いをパトリックが心得ていて、ちゃんといい仕事をさせるようになるのも愉快でした。とても好きな作品だったけど、唯一不満なのはタイトルの邦訳。この題を見て、女性が手に職をつけていく話なのかと全く違う内容をイメージしてしまいました。女子の話ではなく、魅力的な男の子が出てくるし、一緒に計画を立てる過程やジュリアのスパイみたいな作戦は男女を問わずわくわくするのに、このタイトルだと男の子にはすすめづらいので残念です。

マリンゴ:非常にひきこまれました。虫の描写がまずリアルですよね。カイコを殺さないと、絹糸が取れない。その逡巡の場面で、命の大切さと、命をいただいて人間が生きるのだ、ということを伝える――とてもいい描写だと思いました。コンテストのシーンで、1等賞をもらってばんざーいじゃなくて、ノミネート数が少ない中での2等賞というあたり、リアルでいいですよね。気になるのは、タイトルです。『ジュリアが糸をつむいだ日』って、ネタバレもいいところ。中盤、この計画はうまくいくのか、とハラハラさせるストーリーなのですが、タイトルを思い出すたび「でも結局うまくいくんでしょ」と冷めてしまう。原題も同じだったらまだあきらめもつくのですが、まったく違うし、もう少し考えられなかったのかと思います。

シア:すごくおもしろくて感情移入して読みました。リンダ・スー・パークの本って大好きです。だけどタイトルはつまらなそうだし、完全にネタバレですね。本来ならカイコを殺すのか殺さないのかハラハラしながら読むところで、『ジュリアが糸をつむいだ日』。これはもう完全に殺してるじゃないかと。しかも、つむいだシーンなんて半ページもなかったし、つむぐと言ったら糸車とか連想しますが、そういうのではなくただ鍋でぐるぐるしているだけでそんな重要シーンでもなく。とくにその日がこの本のメインというわけでもないし。タイトルはどうにかしてほしかったです。この本の登場人物はいい人ばかりですね。弟も後半にはコインをあげたりと可愛い行動を取るし。パトリックのさりげない優しさや、貧乏を気にしているところなどにもキュンときました。無駄な恋愛要素がなく、爽やかなところも良かったです。でも、p160「日本人に間違えられる」というのが不思議でした。日本人はマイナーで、多いのは中国人か韓国人だと言われていたので。ジュリアが語っていた、人々は「知らないのに決めつけ」て、「わかったつもりになっているのが問題」というところに大いに共感します。根深い人種差別にも切り込みつつ、もう一つの見えない差別という裏テーマも語っています。

ハル:私も、このタイトルとこの表紙の雰囲気から、こんなに元気のいい物語が始まるとは思いませんでした。表紙の絵はとても素敵ですが、手にとったときは、対象読者よりもう少し小さい学年の人向けの本なのかなと思いました。おじいさん(ディクソンさん)に桑の実を見せている男の子(パトリック)の表情なんて、ほんとにかわいいですけどね。物語のなかでひとつ疑問だったのは、ディクソンさんの情報をくれたガソリンスタンドのお姉さんを「歯が汚い」という設定にしたところ。どんな意図があるんでしょう?

シア:生活水準のことが言いたいんですかね。アメリカは歯に対する意識が高いし。クリスのホワイトニングの描写もあったし。

ハル:そういうことなんですね。

西山:先ほどからカイコの飼育の話が出ていますが、今回のテキストとは関係ありませんが、思い出した作品をご紹介しておきます。ときありえさんの『クラスメイト』(ときありえ著 文渓堂)で、学校でカイコが配られてそれぞれ飼育するエピソードが出てきます。四半世紀前の作品ですけれど、おもしろく読めると思います。さて、テキストですが、正直なところまどろっこしかった。p79の「うちの母さんは、黒人が好きじゃない」から前のめりの読みになりました。それまではちょっとうるさく感じていました。私もp161からの2ページは、大きなテーマで共感を持って読みました。p177の「もしかすると、問題はいつでも存在していて、真剣に考えたときにだけ見えてくるんじゃないかな」なんかもいいですね。でも同時に、翻訳作品でも、こんなにはっきりストレートにテーマを言葉にしている作品があるんだと、ちょっと新鮮に思いました。『となりの火星人』は歯の浮くような表現もあったかもしれないけれど、やっていることは同じではないでしょうか。要は生なテーマのストレートな表現だから良いとか悪いとかではないということでしょう。あと、マイノリティVSマイノリティという構図が新鮮でした。南米のスペイン語圏で、中国人という意味の「チノ」がアジア人への別称として使われる場面にはちょくちょく出会いましたが、「チノ」と呼ばれて腹を立てた日本人青年の「武勇伝」みたいなのを聞かされたのを思いだして、「チャイナ」と言われるのがいやなんじゃないかと、ちょっとひやひやしました。アジア人同士の差別意識とか、ここに書かれているのは違うとは思いますが……。

まめじか:世代が違うと、別の国や人種への感情も異なり、じゃあ自分はどう思うのかと考える子どもの姿は、ロザムンド・ピルチャーの短編などにも出てきます。この本の舞台のアメリカは、日常的に人種問題を考えられる環境ですね。ジュリアは、人生や社会の負の部分を、隠された玉どめに重ね、また、それを考えぬくことが大切なのだと思い至ります。子どもたちを見守るディクソンさんが魅力的ですね。養蚕や刺繍という韓国の文化に加えて、参政権を得たアメリカの女性による織物の話も出てきます。カイコを殺したり、循環型の農場を訪れたりする場面では、人と他の生き物の関わりについて考えさせます。いろんな要素を組みこんで、タペストリーのように美しく織りあげた作品です。p235~p236に「あの五つのさなぎのおかげで、ほかのカイコがちゃんと生きのびて、交尾して、卵も産めたんだということを、カイコたちが知ってくれていたらいいなと思う。もちろん、知っていたはずはないけど。だから、かわりにわたしが学ぶんだ」は、最後の一文がぴんときませんでした。「かわりにわたしがおぼえておく」という意味ですよね?

ヘレン:日本語のタイトルは好きではありません。かと言って、原題もおもしろくなさそうですね。内容はわりとおもしろく読みましたが、テーマを入れすぎたきらいがあります。話があちこちにいっている印象です。もっと絞った方がいいと思いました。実は日本版では削られていますが、原書では各章の最後に作者とジュリアの会話が入っています。そこではジュリアが作家に文句を言ったりしています。ケニーはなぜこんな風に描かれているのかとか。それをうるさく感じていたので、日本版は削って良かったと思います。

一同:ええっ、日本語版で省いたところがあるんですか? 知りませんでした。

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エーデルワイス(メール参加):ジュリアとパトリックの親友同士がカイコを育てるという物語で、カイコの育て方と二人の心の軌跡が丁寧に伝わってきました。二人ともこれからの素敵な人に育つであろうと感じて嬉しくなりました。人が本当に理解し合い差別をなくすのはなかなか時間がかかるのですね。希望はまだ充分にあると爽やかに伝わる内容でした。

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題の会」より)

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工藤純子『となりの火星人』

となりの火星人

シア:公共図書館での予約者がたくさんいて延長できずに返してしまったので、あやふやな記憶ですみません。タイトルからSFかな? と思って読み始めたのですがそんなことはなく、現代の学校に通う子供たちが抱える問題を描いたお話でした。腑に落ちることが多く、なかなか面白く読めました。p.25の「ゆるみそうになる気持ちを」というところがとても辛くて、学校でずっと緊張しなければならない子どもがいるということは間違っていると思いました。でも、これは事実なんですよね。学校というところは窮屈な存在になってしまっています。そういうところはどうしたらいいのか、暗澹たる思いでいっぱいです。本を休み時間に読んでいると変だというのは、他の本にも出てきましたが決めつけのように感じます。本など読まないでみんなと話してみようと言う人もいますが、人と話ができないとか人前で話せない子どももいますよね。でも、それも決めつけなのかもしれませんね。干渉してくるわりに寛容でない世界ですよね、学校って。親以外は放っておいてほしいと思います。p.28辺りの「相談室ってネーミングが悪い」というのはわかります。「何か困っていることはない?」と突然聞かれた子も困るのではないかと思います。急に近づかれても、距離感を持って接していかないと難しいのではないかと思います。p.38の「悪いところばかり注目していると」というのは子どもにわかりやすいメッセージだと思います。強くてわかりやすい言葉というのは、読解力不足が叫ばれている昨今では、とくに必要なのではないかと思います。引用する側としても使いやすくていいですね。しかし、他の海外の2冊は「ありのままの自分」を大切にして、周囲もその子を分け隔てなく受け入れようというのが今後の展望も含めて感じられるのですが、この本はあくまでその子は「火星人」ではあるけれど地球人として受け入れてあげようという、異質は異質として扱うという感が否めません。お国柄の違いなのでしょうか? まあそうだとしても生徒たちに読んでほしいと思います。

マリンゴ:テーマはとてもいいなと思いました。困らせている子じゃなくて、困っている子。さらに何に困っているのか自分でもわからない子。そういう子をすくい上げていくのは非常にいいし、火星との紐付けも、うまくいっていると思いました。ただ、全体的にリアリティのない部分が多くて、物語に寄り添えない感じがしました。たとえば富士山に登るシーンですが、雨音が聞こえるほどに降っているのに、数時間後はめちゃくちゃ晴れています。雨雲を飛ばすほど風がとても強いという描写は特になくて・・・。物語をこういうふうにする、というのがあらかじめ決まっていて、そこに向かってストーリーを引っ張っていっている印象がありました。

花散里:読後感から言うとよくありませんでした。確かに上級ぐらいの子が読めるのかもしれませんが、p60からの会話の後の美咲の「そんなつもりはなかったのに、声をかけていた」、「やっぱりね、という意地悪な気持ちが頭をもたげる」とか、p64「いい気味だった」など、美咲の気持ちの表現の仕方に後味の悪さを感じました。特に前出の表現だけではなく全体的に読み進んでいって、子どもたちに読んでほしいという感じが持てない作品でした。

コアラ:私は、読みやすくておもしろかったです。クラスのあの子はこの登場人物に似ているとか、子どももおもしろく読めるのではないでしょうか。強く見える人の弱さとか、感情とか考えとか、他人には見えにくい部分も描かれているので、自分と違うタイプの子のことも理解できるようになるかも、と思いました。ただ、感情の描き方が荒っぽい。特にp40〜p41、和樹が泣くのが唐突で、話の運びが強引だと感じました。それから、火星の大接近について調べたら、2018年7月31日。今となってはあまりピンときませんが、発行日を見ると、2018年2月6日となっているので、発行のタイミングはよかったと思います。火星の大接近というのは、小・中学生にとって、どのくらいのイベントだったのかな。あと、p221の3行目、「同級生の四人」とありますが、湊はp14で「隣のクラス」となっています。同じ学年、という意味で「同級生」と言うのでしょうか? 私はひっかかりました。

アンヌ:初読の時は何もかもぴんとこなくて、最後に山に登らせて終わりとは、なんて古風なつくりだろうと思いました。2回目に読んだ時は、物語がうまく噛み合っていく感じはうまいなと思ったけれど、やはり登場人物の抱える問題に納得がいきませんでした。分かりやすかったのは聡くらい。これだけ問題がある子供同士が山に登るのに、カウンセラーの教師がついていかないところも奇妙に感じました。

ルパン:前に1回読んだんですけど、内容がまったく思いだせななかったので、もう1度読み返しました。そうしたら、前とまったく同じ感想を持ちました。前半はともかくうるさい。ずっと説教されている感じ。でもまあ、読んでいるうちに慣れてきちゃいました。「これ言葉に出して言っちゃうんだ」っていうところが多々見られて、演劇の台本を読んでいる印象でした。ただ、ストーリーから汲み取る力がない子どもにとっては、わかりやすくていいのかもしれません。他に気になった点は、おばあちゃんが年取りすぎていること。小学生のおばあちゃんならもっと若いと思います。この感じ、ひいおばあちゃんだったらわかるのですが。

きび:さっき予約がいっぱいというお話がありましたが、私の住んでいる区の図書館では、最初に借りたときも2度目も予約はゼロでした。地区によって違うのかしらね。いろいろなタイプの子どもが登場するし、作者がいいたいことがずばりと出てくるので、すらすら読める本だというのはわかります。でも、こういう子どもたちを登場させよう、こういう風にまとめようという作者の構想があって、その枠の中から出ていない作品だと思いました。物語って、作者の作った枠を飛びこえて、作者自身も思いがけなかったものに育っていくというところがあるんじゃないかな。小さいころも今も、私はそういう作品に感動してきたような気がします。それから、スローガン的な、生な台詞が、特に後半は目立っていて気になりました。たとえばp205の「同じように生まれたのに、どこかがちょっと、人と違う。それでも、同じように生きていきたい。誰かを大切にし、大切にされて、幸せになりたい」という3行とか。「この3行を物語で書いてよ!」と思ってしまいました。子どもは、たしかにこういう下りが好きかもしれないけど、なんだか危険な気がします。内容こそ違っても、戦時中も少年雑誌などの「決め台詞」で愛国心を奮いたたせた子どもたちがたくさんいると聞いていますので。それから、主人公のおばあちゃんと、駄菓子屋のおばあさんの話し方が気になりました。今時のおばあちゃんは、こんな話し方をしないと思うし、いくら同じ町で育っても、同じ話し方をするかな? ちょっと変わった人を「火星人」というのも、ひと昔まえの言い方じゃないの?

木の葉:再読です。出版後すぐに、おもしろく読んだ記憶があります。「困っている子」という設定がいいな、と。再読して印象が変わることはありますが、気づかなかったことに気づける場合と、気にならなかったことが気になってしまう場合があるような気がしています。今回は、ちょっと残念ですが、後の方でした。先ほどから出ているおばあちゃん問題については、この作品に限らず、創作における祖父母の類型的な表現は前から気になっています。今時のおばあちゃんを考えてよ、と思うんですね。表紙のイメージは、中学年の印象でしたが、高学年の物語なんですね。キレる少年の和樹のボキャブラリーが豊富なのに少し驚きました。三人称ではあっても視点はあくまで和樹なんですが、配慮、無罪放免、職務怠慢、痛感、自暴自棄、ちなみになどなど、難しい言葉がたくさん。これを新鮮と採るかミスマッチと感じるかは人によって違うかもしれません。視点が変わる短編連作風な構造なので、読み通した後で、あまり強い印象を残さないかもしれません。それから、初めに決められたストーリーがあって、それに合わせて引っ張っているという感じが否めませんでした。言いたい言葉が先行しているというか。たとえば、p120の駄菓子屋のおばあさんのセリフ。「どんな子だって、未来であり、希望なんだ」といった唐突な印象の言葉です。それから、ラストp217の「誰もが、生きていることに感謝した」みたいな言葉は不要だなと感じました。

さららん:自分も空気が読めないタイプなので、登場人物の中で、かえでの気持ちや行動に共感できました。善意で、言ってはいけないことを言ってしまうところや、しまったと思うと、「ごめんなさい」と、つい言ってしまう気持ちもわかります。ただ全体に作者の意図が強く出てしまって、そこが残念。特に和樹のお母さんの造形に無理を感じました。かえでのおばあちゃんも大事な存在ですが、物語の流れで必要な言葉を並べた印象が残ります。オムニバス形式なのでテンポは軽快だけど、今の文体だと一人の心理にあまり深く入っていけないです。とはいえ、一日中、学校で気を使っている子どもたちが読みたくなるテーマ。読んだあと、救われた気分になる子もいるかもしれないです。

ヘレン:まだ読み終わっていません。今日の3冊のテーマの繋がりを感じました。表の表現と裏の表現が異なりますね。一人称、三人称が混ざっていて読んでいて混乱しました。p38「言葉は魔法だ」というところ、そういう影響はあるし信じることができます。和樹は大人っぽい、むしろ子どもらしくないと思いました。でも、自分の体が衝動的、直感的というのはいいことだと思います。いろいろな場面の説明はいいと思うのですが、時々冗長すぎますね。

まめじか:あまりひっかからず、さらっとおもしろく読みました。伝えたいことがはっきりあって、書かれた本ですね。同調圧力とか、外からは見えなくても、ひとりひとりがいろんなものを抱えていることとか。

西山:おもしろく読んだのですけれど、その印象だけで具体的な中身を思いだせないという情けない状態です。一話一話すっと切っていくから、浅くなる部分はあるのかも知れないけれど、ハードルの低い易しさはマイナスばかりでもないと思います。「空気が読めない」かえでの側から語られているのは、新鮮に読みました。

ハル:私の好みの問題なのかと思っていましたが、全体的にすごく、お芝居の中の人たち、という感じがしました。お芝居の中の人たちでも、その中で成立していればいいんでしょうけど、この子がどうしてこういうことを言うのか、いったいこの子はどんな子なんだ? と、登場人物の像が結べない感じがありました。たとえば、駄菓子屋さんのおばあさんの「どんな子だって、未来であり、希望なんだ」とか、台詞がいちいちかっこいので、こういう言葉が胸に響く読者もいるのかもしれませんが、とくに、普段小説をあまり読まない子だったら、「これだから小説は・・・」と空しく感じないだろうかと思いました。

ハリネズミ:様々なタイプの子どもたちが、お互いに認め合い、仲間になっていくのを書こうとしているのは、いいと思うのですが、それぞれのタイプがいまいち描き切れていない、というか、つきつめられていないように思います。そのせいで、ウソっぽくなっている。特に和樹とか岩瀬美咲は、こんな子リアルにいるのかな、と疑問に思ってしまいました。中学生と湊の会話もウソっぽいです。生徒たちに「みなさん仲良くしましょうね」と、無神経に猫なで声で言っている教師のイメージが浮かんできてしまいました。こんなにゆるゆるのキャラだと翻訳物では出版してもらえないですね。実際の子どもと面と向き合うことなく頭の中だけで書いているようにもとれてしまい、そうだったら、子どもに失礼だなとも思いました。この表紙ですが、変わった子のことを今でも「火星人」って言うのでしょうか? 今は、火星にはこんな姿の生命体は存在しないとわかっていますよね? そして、ひょっとすると理科の時間にそういうことも習うかもしれないのに、こんな表紙でいいんでしょうか? 子どもには、知識の点でも物語の点でも、できるだけ本物を提供してほしいと私は思っているのですが、この作品には「子どもだまし」的な甘さをいろいろな面で感じてしまいました。p65の「貸したものは返さないと」は、「借りたものは返さないと」かな。

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エーデルワイス(メール参加):文章構成力はさすが!と思いました。「火星」をキーワードにかえで、湊、和樹、美咲、聡のそれぞれの生き辛さをくっきりと浮かび上がらせています。最後に富士山登山の頂上で終わらせるとは・・・。残念なのが表紙の絵(裏表紙はいいけど)と挿絵です。内容としっくりこない。『セカイの空がみえるまち』のような表紙、挿絵の方がよいかしら?

(2019年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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山本悦子『夜間中学へようこそ』

夜間中学へようこそ

ネズミ:とてもテンポがよくて、優菜の行動にそって一気に読みました。夜間中学がどんなところか、よくわかりました。さまざまな事情から学校に行けなかった人、海外につながる人など、多様な人の存在に気づいて、優菜が変わっていくところがいいなと思いました。中学生の話ですが、小学校高学年くらいから読めるでしょうか。p140で、おばあちゃんが優菜の漢字を知って、「これからは、優菜を呼ぶときには、漢字で呼べる」というところが強く印象に残りました。

西山:たいへんおもしろく読みました。中学入学前の小学生の不安がとてもよく書かれていると思いました。たとえば、「カラフルだった小学校の教室に比べ、中学の教室の暗さときたら驚異的だ」(p30)なんて、ほんとにそうだと思う。でも、不安が具体的に書かれているわりに、入学したとたん、部活の仮入部期間休んで、夜間中学に行くことになったのに、そのことへの葛藤がなさ過ぎるのが気になりました。中学入学直後、人間関係をつくるのに大切な時期のことはあまり書かれていない。戦争がいつごろの出来事で、おばあちゃんがそのとき生きていたということに改めて気づくところも、新鮮でした。でも、おばあちゃんが学校に行けなかったことをきいても、結構しつこくさぼりだとか不登校だとか、疑っているところは不自然に感じました。先月のテキスト『むこう岸』(安田夏菜著 講談社)や、今回の『ガラスの梨』(越水利江子著 ポプラ社)もそうですが、実態を調べて知ったエピソードが、どれだけフィクションの中でなめらかに、なだらかに取り込まれているか、という課題が出てくると思います。この作品も、ときどき生な情報が顔を出しているように感じてしまうところがありました。文章の質の違いを分析できない限り、読み手である私の側の感覚の問題とも言えますが。(補足:ちなみに、私が生な情報に感じたのは読み書きができなくて一番困ったのはお通夜というくだり。p40)駅員さんが応援してくれたり(p28)、電車で席をゆずってもらったり(p59)、というところはよかったです。こういうテーマだと、無理解な人を出す書き方もできるわけだけれど、後半で松本さんと高校生のトラブルもありますけれど、全体として人の良い面を前面に出しているところに好感をもって読みました。

マリンゴ:発売間もない頃に読んだのですが、今回再読できませんでした。記憶が遠いので、あまりコメントできずすみません。知らなかったことを学べるいい1冊で、子どもにおすすめしたい本ですよね。ただ、女の子がおばあさんに対していい子過ぎて、「こんな子、本当にいるのかな」と思ったことは覚えています。個人的には、同じ著者の『神隠しの教室』(童心社)のほうが好きです。

コアラ:タイトルがまじめな感じで、おもしろくないんじゃないかと思ったのですが、最後まで飽きずに読めました。以前、在日朝鮮人のお母さんの手記を担当したことがあって、その中に夜間中学のことも書かれていて、夜間中学の存在は知っていたので、イメージとそんなに違わなかったです。戦中戦後の混乱で学校に行けなかった人を身近に感じる設定、この本では、主人公のおばあちゃんという設定ですが、そういう設定で夜間中学を取り上げることができるのは、今がギリギリのタイミングだと思いました。でも、山あり谷ありの人生の人たちが登場するのに、さらっと読めてしまったせいか、あまり印象に残らない作品でした。

カボス:夜間中学のことをよく知らなかったので、様子がよくわかりました。調べてみたら、東京にも8校あるんですね。そのうちのいくつかには、日本語を学ぶクラスも併設されているそうです。いろんな人が来られる多国籍な空間なんですね。さっき西山さんが「おばあちゃんが学校に行けなかったことをきいても、結構しつこくさぼりだとか不登校だとか、疑っているところを不自然に感じた」とおっしゃったのですが、私はおばあちゃんがなぜ学校に行けなかったかを詳しく書いてあるのがおもしろかったんです。戦争のごたごたで行けなかっただけじゃなくて、おばあちゃんの場合はこうだったし、80歳を超えている松本さんの場合はこうだったということが具体的に書かれているのが、いいなあと。具体的に戦時中の様子が説明されている部分がないと、今の読者には逆に伝わらないのではないか、とも思いました。優菜が昼間の学校に通いつつ、祖母の付き添って夜間中学も体験するという設定なので、空気感の違いがわかるのもいいですね。和真は性格が悪いからいじめられたんだろうな、とわかりますが、その和真を、優菜を出入り禁止にしても担任の先生が大事に守ろうとする場面からは、夜間中学にかかわる人たちの覚悟をが伝わってきました。元の学校の先生も和真を気にかけている場面が登場しますね。各章の冒頭のカットの入れ方がおもしろいですね。また、優菜が昼間の学校へのこだわりがあまり書かれていないという意見も出ていましたが、優菜は夜間中学を体験して昼間の学校の同調圧力はどうでもよくなったんじゃないですか?

西山:だったら同調圧力なんて実は無いんだ、そんなもの気にしなくていいんだと書いたほうがいいのでは?

カボス:そう書いたら説明っぽくなってつまらないんじゃないの?

木の葉:それは書き方によりますよ。

花散里:作者は元小中学校の教員なので、子どもを学校現場で実際によく見ていた人が書いている物語だと思いました。外国籍の子どもたちに日本語を教えている元教員の知人から話を聞いていたので、日本の学校で学んでいる子どもが増えている今こそ読んでほしい作品だと思います。作者の『神隠しの教室』(童心社)は、本書を読んだ後に手にしたので、子どもたちや家庭の描き方に多少、違和感を覚えました。主人公、優菜が周りの人たちから、自分がいい子だと言われていることに対しての思い。その優菜が和真の心を傷つけてしまったときの先生の対応。自分は分かっていなかったと気づいていく主人公の心のあり様などがていねいに描かれていて、人の立場に立って物事を考えるということが作品から伝わってきます。子どもたちに読んでほしいと思いました。祖母の幸という名前の意味、祖母との関わりなどを「夜間中学」を通して、上手に物語の中に組み入れていると感じました。読み継がれていってほしい1冊だと思います。

アンヌ:読み終えてから、おばあちゃんがp246で優菜の名前を漢字で呼んでいるのがいいなと思って前の方を調べたら、p11では確かにひらがなで呼んでいて、それに対してp17ではお母さんは漢字で呼んでいるのに気づいて、おお、と思いました。いろいろとおばあちゃんの心を思って涙ぐむ場面も多かったのですが、名前の意味を知らなかったというところには疑問を持ちました。童謡や流行歌の中にも歌われる名前なので。ただ親に愛されていないと思っていたというので、無意識に意味を聞くことを避けていたのかもしれませんね。p200の松本さんのせりふは、不登校児に届くといいなと思いました。いじめや暴力にあった子に、自分を守ることは重要なんだと大人が伝えるいい場面です。何も知らないなりたての中学生がいろいろな国や年齢や事情を抱える大人から学んでいくというところがすばらしい話だと思いました。駅員さんや周囲の人たちの優しさにもほっとしました。そして、戦争のことを文学で伝えていくことの重要性も感じました。

ルパン:中学生の気持ちがリアルに描かれていたと思います。おばあちゃんを送迎していることをほめられて晴れがましい気持ちや、とりかえしのつかないことを言ってしまって、それまでの幸せ感がうちくだかれた時の気持ち、などです。「夜間中学について教えられている」と思うと楽しめないのですが、「調べて書いてる感」があまりなくて、自然に楽しむことができました。ただ、唯一にして最大の残念は、タイトル。

花散里:逆に、「夜間中学」そのものを子どもは知らないから、このタイトルで手に取るのではないでしょうか。

ハル:読んでよかったなと思うところがいっぱいあったのは確かなのですが、私にはちょっと、優菜という主人公が見えてきませんでした。学級委員的な優等生っぽさや、勘の良さがある一方で、夜間中学の生徒と先生の関係を「マジックみたいだ」と表現するところなどは妙に幼い感じもしますし、ちぐはぐな感じがして、どういう子なのかいまいちつかめません。特に後半、優菜が和真に言ってはいけない言葉をぶつけてしまう場面あたりから、いろいろと疑問が湧いてきます。あの失敗のあとでまだ「和真がまた『じじい、電話くらい出ろよ』とか言いだすのではないかとひやひやしたが、さすがに言わなかった」(p197)とか。この場面でそういう想像する?と思いますし、松本さんにどうして少年時代に中学校に行けなかったのかを聞くのも「今なら聞けるような気がした」(p197)って、ここは優菜が聞いちゃだめじゃないですか? この中学校に来ているひとはいろんな事情を抱えているって、痛いほど学んだばかりなのに。母親に車で送ってもらっていた和真に「電車で来ればいいのに」(p217)って言うのも。「先生、和真くん、すごく変わったと思うよ」(p237)も、最後まで、和真くんはいやな子、いやなやつだった子なんだなというところが、気になってしまいました。
あともうひとつ、生徒に「にんべん」の漢字を書かせる場面で、なんで著者はおばあちゃんに「優菜」の「優」を書かせなかったんだろう。おばあちゃんはこの後の場面でお父さんの「健治」も書けてますし。だったら、「木へん」とか違う字にすればよかったんじゃないかなと思います。でも、実際、黒板の前にたったら、ぱっと浮かばないものかもしれませんけどね。

木の葉:夜間中学という素材がとてもいいと思いました。ファンタジーっぽい構造の作品だなという気もしました。往きて帰りし、というか。ただ、あらかじめ決めているストーリーラインにのって物語が進んでいくという印象で、テーマ性を重視したためか、冒頭が誘導的で、優菜という子が見えないまま、読まされてしまったかな、と。特に前半、優菜が夜間中学のガイド役的に感じられて、もし、具体的なモデルがあってのことならば、むしろノンフィクションで読みたかったです。それにしても、今の中学生ってこんな感じなんですかね。作者の方は教師をされていたそうですので、私よりもずっとリアルな子どもについてはおわかりなのだから、これが現実なのかもしれませんが、優菜が幼く感じました。国の場所を知らないことにもびっくりでした。

ネズミ:中学生はわからないでしょうね。大学生でも、わからない子はたくさんいるので。

木の葉:国の場所ですが、地図帳を見ながら、ブラジルを日本の裏側と発想できますか。地球儀だったらわかるのですが。それから、戦争についてこんなに無理解なのかなと、ちょっと悲しくなりました。後半の戦時についての話題は少し唐突かな、と。優菜も、戦争のことなど何もわかってないはずなのに、すんなり入っている感じがしました。気になった箇所は、p209の「栄養失調で死んだ子どものほうが多かったかもしれないですよねえ」というところ。会話としてはありうる言葉と思いつつ、本当に? と思ってしまいます。裏付けがあってのことなのか。そうでないなら、何らかのフォローがないと、あやまった認識を生むことになります。「そうやって引き揚げの船に乗るまで、全部の赤ん坊が殺された」というのも、自分が乗った船では、ということを強調しておかないと、引き揚げ者のすべての赤ん坊が殺されたような誤解を招きます。
一番気になったのは、優菜のリアル中学との関係です。夜間中学での学びの意義はとても理解できます。そここそがこの作品の肝というか、書きたかったポイントでもあろうかと思います。けれど優菜には現実の学校生活が長く続くのだから。たとえば、一度は出入りを禁じられ、中学で部活を始めます。ところが、再びつきそいをすることになってから、昼間の部活はどうなったのかが気になって。リアル中学生活、ないがしろにならないかな、と思ってしまったんです。
それから、父親ですが、自分の母が漢字を読めないことに気づかなかったというのは鈍すぎるのでは? そのうえ親の気持ちを理解しようとしない。かなり終わりの方になっても無理解のままで、「本当はおばあちゃんのことが好き」という言葉だけではしっくり落ちませんでした。無理解な人としての役割を負わされたようで、なんだか気の毒に感じてしまいました。

さららん:以前、海外に住んでいたのですが、そのとき通った夜間の語学学校を思い出しました。いろんな人種、いろんな価値観の人がいて、意見がかみ合わないところがおもしろかったんです。思い出の扉が開かれ、自分の経験とひとつになって、一気に読んでしまいました。

まめじか:「星に名前があることなんて、学校で教えてもらわなかったら知らないままだった」と、おばあちゃんが語る場面がありますが、学ぶというのは、世界の見え方を変えていくことですよね。優菜が学校生活から一歩外に出て、違う世界を知っていくのもよかったし、夜間中学やフリースクールなど、いろんな学びの場にふれているのも好感がもてました。いい人ばかり出てくるな、とはちょっと思ったけど。

西山:夜間中学を通して学ぶことの意味に気づいたことを、優菜のいる中学での学びへの捉え直しに還元してほしかったです。今自分が昼間の中学で学んでいることがどれだけ意味を持っているのか、夜間中学の紹介だけでなく、もっと普遍化した学ぶことのドキドキを書いてほしかったという思いはあります。敢えて欲を言います。

カボス:だけど昼間の中学って、おもしろくないと思います。だってよっぽどの先生じゃないと、組織にがっちり組み込まれていて、自由な発想が禁じられてるんだもの。

西山:だけど、夜間中学は夜間中学、昼間の中学は昼間の中学と分けて、夜間中学にはすてきなエスニックの世界がありますね、だけじゃあもったいない。昼間の中学でも学びのおもしろさに気づくとか。

花散里:部活を休んだら好きな楽器ができなくなるとか、昼間の中学のことが書かれてないわけじゃないですよね。

木の葉:昔、菅原克己さんから識字学級の話を聞いたことがあるのですが、字を習得して作文を書いたおばあさんが、今まで夕焼けがきれいだと思ったことがなかったけど、字をおぼえたから夕焼けがきれいに見える、と書いたんですって。

カボス:さっき優という字も習ったから書けるんじゃないかとおっしゃったのは、p140の場面ですよね。でも、そこでは先生が書いたのを見ながら書いているから、黒板に出て書きなさいといわれたら、やっぱりすぐには書けないのかもしれませんね。

西山:孫の名前をもっと画数の少ない、簡単に書ける字にしとけば感動が増したかも、ですね(笑)。

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エーデルワイス(メール参加):読みやすくてさわやかでした。孫と祖父または祖母の話は児童文学では不滅ですね。私は、「えっ、夜間高校じゃないの?」と思ったくらい夜間中学の存在を知らないかったのですが、とてもよくわかりました。今では外国人の学びの場所になっていて、国際交流してるんですね。

しじみ71個分(メール参加):夜間中学というところが、どのような場所か、どのような人たちが学びに来ているのか、知ることができるよい作品だと思う。定時制高校はよく知られていても、夜間中学に対する認識は全国的に低いと思うので、周知のためには効果があると思う。夜間中学の自由で、国際的である雰囲気や、昼間の中学と違う主体的な学びの場でまた、どんなに年齢を重ねても、国籍が違っていても、学ぼうとする意欲はとても尊いということも伝わる。一方で、物語としてはときどき、何か事を起こすために設定した感じが見えてしまって、作家の意図が見えてしまって興ざめに感じるところがいくつかあった。例えば、p82~84で漢字が書けないことをからかうような言動を中学生が言うあたり、ちょっとわざとらしさを感じてしまった。主人公の優奈が、おばあちゃんの付き添いで学校に通うことになったという流れも、作家の取材経験が透けて見えて感じられた。全体的には、夜間中学を知らしめるにはよかったけれど、お話としてはまあまあ、という印象だった。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ホリー・ゴールドバーグ・スローン『世界を7で数えたら』

世界を7で数えたら

コアラ:出だしは、内容がすっと入ってこない文章で、数ページで投げ出してしまう子もいるんじゃないかと思いました。p4のソフトクリームを食べている場面ですが、チョコレート液にワックスが入っていて、「もっと正確に言えば、食用流動パラフィン・ワックスというものだけど」という文章は、専門的すぎるというか、話の方向が変な気がしました。同じp4の後ろから5行目、「あたしたちの役目は、それをまた外に出してあげること」という文章も、意味がよくわからない。翻訳のせいかと思ったりしたのですが、読み進めるうちに、主人公の性格のこだわりが原因というか、興味を持つところが人とは違っているということがわかってきて、納得しました。慣れてくるとおもしろくなってきましたね。登場人物が生き生きとしていて、特に後半のクアン・ハがとてもよかったです。人や出来事がつながっている展開がとてもいいと思いました。ただ、最後が納得できなかったです。親権を取得してウィローの家族になるんですが、ウィローのことを思うなら、事前にウィローにそのことについて相談したり、「あなたはどうしたいの?」と聞いたりするはず。それを聞かずに本人に秘密にしたまま進めるのはどうなのかなと思いました。それ以外では、心に残る印象的な場面や文章はたくさんありました。p79の12行目、「あたしは、自分でない人間のふりをしていない。その上で、ふたりはあたしを仲間に入れてくれている」とか、p169の真ん中1行アキの前、「かかってこい。ぜんぶいっぺんに。かかってこい!」とか。p205のビール瓶を割ってステンドグラスのようにする場面とかも印象に残りました。気になったのは、p234の3行目「かんそう機」。ひらがなだと逆に読みにくいと思いました。読み終わってみればおもしろかったので、人にすすめたいですね。

マリンゴ:勢いよく読めるし、整った物語だとは思いました。でも、整い過ぎて、ゲームっぽくも感じてしまったんです。たとえば、最後の最後、パティが実はたくさんお金を貯めててマンション一棟買えるという部分などですね。え、そういうミラクルなお話だったの、と印象が変わりました。あと、いろんな人の視点で描いているのが特長ですが、終盤は切り替わりが早すぎて、ちょっと面倒くさいと思ってしまいました。映画やテレビドラマのシーンを起こしたような作りで、脚本的というか・・・・・・。そんなところが目につきました。

西山:1日で読みました。時間が無かったというせいもありますが・・・・・・。おもしろくは読んだんですけど、出だしのところでは、これは学生と一緒に読もうと思っていたのだけれど、だんだん、まあいいか、となりました。エンタメとして、おもしろく読めるよと紹介はできますが、ことさら読み合いたいとは思いませんでした。その理由の第一はウィローが、コミュニケーションに差し障りがないということです。人物としてはデルがおもしろかったです。ここまでダメダメな大人も珍しいけれど、ウィローとの関わりのなかで徐々に変わっていく。でも、終盤の方でもまだ「デルは『人に奉仕する』ってことの意味がわかってないらしい」(p296)と思われるような行動を取って、クスッと笑えました。なかなか消えないダメっぷり。彼女の天才的な「高い能力」が随所で発揮されてはいるけれど、でもそれで大金を手に入れてハッピーエンドという展開ではなかった点には好感を持ちました。

ネズミ:日本にはない作品で、おもしろく読みました。語りに、ウィローの独特の感性、世界の捉え方が表れているのがおもしろく、勢いがあって、ぐいぐい先を読みたくなりました。ただ、最後にいくほどに、何もかもがあまりにもうまくおさまりすぎて、ついて行き難くなりました。1つ1つの文章が、どれもとても短かったのですが、これはもともと原文がそうなんでしょうか? ダメだったりチャンスに見放されていたりしている大人たちがたくさん出てきますが、普通の日本人とはかなり違う状況なので、読者をかなり選ぶのではと思いました。外国文学を読みつけていない読者がいきなり読むのは、ちょっとハードルが高そうです。

まめじか:ウィローは集団になじめず、親を亡くす前から大きな孤独を抱えています。心を開ける人たちと出会ったことで解放されていく様子が、ひしひしと伝わってきました。ウィローの悲しみに、クアン・ハは彼なりに、いろんな人がいろんなふうによりそうのがいいですね。デルの成長は、いくつになっても人は変わっていけるのだと教えてくれます。以前読んだときほどは引っかからなかったんですけど、それでも、よくわからない箇所がところどころありました。p52「デューク氏はまず、あたしのテストの点のことは話題にしたくないと言った。でも、そこで話は終わった」は、なんで「でも」なのでしょう。p118の「黒いほお」は、人の肌なので褐色のほうがいいのでは。

ヘレン:英語で聴きました。笑うためにはいいと思いますけど、書き方はあまりよくないと思っていて。ウィローはアスペルガーということですが、そういう人だと他の人の気持ちはわからない。なので、ウィローがいつも他の人の印象を書いているのは、リアリティがないと思いました。好きだったのは、人のつながりということ。一人のやることが別の人に影響していく。

さららん:主人公のウィローが黒人の女の子だとは、初めは気づかなくて、途中で、ああそうか!とわかりました。テストの成績が良すぎたため、学校でカンニングを疑われたのは、彼女の外観でそう思われたのかも。いっぽうカウンセラーのデルは白人、こんがらがった、不潔で劣等感の塊のような人です。初めのうちはウィローの親友のマイやクアン・ハやベトナム人の家族を、どこかで見下していたんだろうけど、だんだん巻き込まれていくうちに、デルが変わっていくところがよかった。デルの殺風景なマンションに、ベトナム人一家が好き勝手な家具を持ちこみ、一家が前から住んでいるように変えてしまうところが、具体的でとてもおもしろかったです。

木の葉:アスペルガー? といったことを意識せず、頭が良すぎる子の話かな、と思い、わりとすらすら読めました。ある程度の長さがあってしかも初読だと、あまり引っかかっている余裕がなく、あれ? と思うところもややすっ飛ばして読んでしまったかもしれません。物語がどこかファンタジーっぽいなと思いました。主人公の頭が良すぎることへの周囲の無理解は描かれていても、あまり苦労している感がなくて、痛手になるような失敗も挫折もなく、お金も降ってきちゃうんですね。ウィロー以外の子、マイにしてもクアン・ハ(この兄妹の名前の付け方が私にはよくわかりませんでした。慣習的な意味があるのか?)にしても、能力の高い子なのだと思いました。とにかく、いろんなことがうまく行き過ぎだな、と。ハッピーエンドの物語を否定する気はまったくないです。とはいえ、物語の途中でこういう終わり方になるだろうなと思ったら、そのとおりになってしまったので、もう少し、いい意味での裏切られ感がほしかったです。庭が大きな役割を果たしているのですが、私には視覚的につかめませんでした。

ハル:この表紙とこのタイトル! ずっと気になっていた本だったので、今回読めて嬉しいです。どんな人も、ダメに見える人でも、お互いに影響しあっていて、ぐるっと輪っかにつながって、世界が変わっていく様子や、それぞれの成長、特にデルの成長に勇気づけられました。「突然変異型」っていいですね。「そう、おれは変われるのだ」(p267)、「もっとすごいことだ。内側の変化だから」(p268)なんて、わくわくしました。ああ良かったな、と読み終えてから、あんまりタイトルは関係なかったんじゃない?と思いました。ただ話題性ということだと、タイトルの勝利もあるのかなと思います。

ルパン:ずっと前に読んで、とってもおもしろかったことは覚えているんですけど、実は話の内容をすっかり忘れていたんですよね。今回読み返したらやっぱりおもしろかったです。エンタメなのかもしれないけど、ここまでやってくれたらエンタメ上等、っていう感じです。物語にしかできないことをいっぱいやってくれていて、つぼにはまりました。ハッピーエンドだし、子どもが読んで楽しめるんじゃないかと思います。登場人物が、大人も子どももみんなが成長していて魅力的です。ご都合主義でも、ストーンとめでたしめでたしで、いいと思います。これだけの分量を読ませる力のある本だと思います。しばらくしてまた忘れちゃったらまた読んで楽しみます。

さららん:どんなに絶望的なことがあっても、この世界は信頼にたるものなんだ、希望は持っていていいんだと、ファンシー的な設定の中で伝えていますね。

ルパン:この子は養父母の庇護のもとにいたときはそれで自分の世界が完結していたんですけど、保護者がいなくなって外の世界に出なければならなくなった。でも、みんなの助けを受け入れてみごとに乗り越えていく、そのプロセスがとても気持ちをあったかくさせてくれるんです。

アンヌ:読み始めたら止められなくて一気読みをしたのですが、逆に読み返す気にはなれない本でした。すべてがハッピーエンドに向かって突っ走っていくような感じで。天窓のガラスの破片は美しいけれど、風が吹いたら危険だろうなとか、挿し木で庭を造るという魅力的なプロジェクトがだめになると、プロの植木屋さんが好意で庭を造ってくれるというのは何か違うだろうとか、気になることがいろいろあるのですが、なおざりのまま進んでいく感じです。15章の養母が癌を病院で宣告される場面は必要ないと思いました。映像として交通事故の場面がほしいから描いたのでしょうか? ガレージに住んでいたパティが実は大金持ちで、しかもタクシーの運転手さんまでくじを当てて、その上二人が恋に落ちるとは、いくらなんでもうまくいきすぎと思っています。

花散里:2016年に出版された児童文学のなかで、表紙の画とともにとてもおもしろい作品だったという印象が今でも残っています。タイトルが特に良かったと思いました。小学校の図書館に勤務していたとき、アスペルガー症候群の子でよく図書館に来る子がいたので、その子のことを思い出しながら読んだという記憶があります。主人公のウィローが好きな場所も「図書館」でした。エンタメというよりもこの本は読ませるところが多く、私は人の絆についてなど、いろいろな意味で本書は奥が深いのではないかと感じていました。登場人物が群像劇風で、特にベトナム人女性、パティがとても魅力的で印象に残りました。寒冷地体で生息する木、柳という名前の主人公のウィローが物語の中で成長していく、その変わっていく描き方もうまくて、後半の里親探しなども興味深く、今回、読み返してみても、やはり子どもたちに読んでほしい作品だと思いました。

カボス:社会にうまく適応できない人たちが、コミュニケーションをとって影響し合い、変わっていく姿を描いているところは、たしかにいい。ただ、主人公のウィローは、7にこだわりがあるのと能力がとても高いだけで、アスペルガーという規定はできないですよね。それと訳が荒っぽいように感じました。たとえばウィローの養母の名前は、ロバータじゃなくてロベルタになってますが、イタリア系かなんかでしたっけ? 私は言葉によって物語世界に入りこみたいタイプなので、細かいところが気になるんです。p102に「超音波検査のあと、もとの服に着がえてからようやく、ロベルタはなにかおかしいと気づいた。医師にもう一度部屋にくるように、言われたからだ。さっき一度いったのに?」とありますが、日本だと検査のあとまた呼ばれて説明を受けるなんてよくあるから、えっと思うし、「それから、医師は『おひとりになる時間を』と言って立ちあがった。『ご主人に電話したほうがいいでしょう』」っていうのもよくわからない。p134では女の人について「姿勢から、下部腰椎に痛みがあるのがわかる」とあるのですが、p135では「背中に問題のある女の人は」となっている。下部腰椎は背中じゃないですよね。またそれぞれの章には視点人物の名前が書いてあるのですが、一人称と三人称が混在していてわかりにくかったです。p152「ふたりの姉弟が家出して、ニューヨークの美術館にかくれるっていう、むかしの本みたいにはいかない。ベッドが必要だし、しょっちゅうおふろやシャワーにだって入りたい」というのは、カニグズバーグの『クローディアの秘密』のことを言っているのでしょうが、クローディアはベッドもある、シャワーもあると考えたうえでメトロポリタン美術館に家出をするんじゃなかったですか? この訳(原文かもしれませんが)だとしっくりきません。p197の「デルが大きな声で言った。/『ヘイ!』/クアン・ハは全身に緊張が走るのを感じた。ハという名前の人間にむかって、『ヘイ』とはふつう言わない」もわからないし、p199にはクアン・ハの台詞で「まるで脱獄かなにかみたいだ」とありますが、脱獄?と思ってしまいました。そういう違和感をあちこちで感じてしまって。
それに、ウィローは肌が褐色でメガネもかけているのですよね? p129でクアン・ハも「だいたい、あの子は変だ。みんな、わからないのか? 服とか、髪とか、メガネとか、〜」と言ってます。そこはこの物語にとってたぶん大事な要素だと思うのに、この表紙はその特徴を消してしまっています。

ルパン:そういうことは編集者が指摘するべきでは?

カボス:そうですね。翻訳者だけだと気づかないところもたくさんあるので、編集者の役割は大事だと思います。エンタメだからこそ、もっとていねいに訳し、もっとていねいに出してほしかったな、と思いました。

花散里:デルの「変人分類法」について、ウィローが、「この数か月でわかったことがあるとすれば、(中略)人間をグループや等級にわけることはできないってこと。世界はそんなふうにはできていない」が印象に残りました。一人ひとりが違っていいのだ、ということが。

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エーデルワイス(メール参加):デル・デューク式変人分類法(DDSS)1.不適応型 2.型破り型 3.一匹狼型 4.イカれ型 5.天才型 6.暴君型 7.突然変異型、というここがとても好きです。作者は脚本家、映画監督でもあり、すでにこの作品も映画化が決まっているといいます。本を読んでいて、映像が次々にうかぶので、映画、きっとおもしろいと思います。だからなのか、脚本を読んでいるかのようでした。最初から映画ありきで書かれた児童書ではなく、純粋?に児童書として書かれた作品を読みたいと思いました。

しじみ71個分(メール参加):以前、読んで今回再読したが、私はこの本はとても好きだし、おもしろいと思う。天才的な知能、あふれるほどの知識を持つがゆえに、周囲とのコミュニケ―ションがうまくいかない少女ウィローが、最愛の両親を一度に亡くし、世界を喪失し、悲しみのどん底に陥るが、彼女と出会い、なぜか心を通じ合わせたベトナム人親子のパティ、クアン・ハ、マイ、うだつの上がらないカウンセラーのデル、タクシー運転手ハイロたちが巻き込まれ、ウィローを助け、かかわりあっていく間に、変化がもたらされ閉塞していた自分たちの状況をも新たに切り開きチャンスをつかみ、最後には大きな幸運がもたらされる話で、最後にパティとハイロが共同でウィローの親権を獲得し、ともに暮らせるようになるハッピーエンド。それまでは、最愛の両親を喪失した悲しみと、心を通わせる仲間たちといつか別れなければならない悲しみとが底辺にずっと流れているが、ラストでそれが昇華され、感動が迫る。モチーフとして、植物が重要な位置を占めているが、例えるならウィローは春のようで、周囲の人々は植物みたいだ。ウィローに触れて少しずつ変わっていき、芽吹いて花開いていくように幸せになっていくのが、読んでいて清々しい。植物が種から目を出し、花開いて枯れていくのと同じように、人生もめぐっていく、その中での人と人との関わりを愛おしみ、生きていくことの喜びが伝わってくる。なので、この本はとても好きだ。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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越水利江子『ガラスの梨』

ガラスの梨〜ちいやんの戦争

ルパン:戦争の話はほかにもたくさんありますが、この本で新しく知った現実が多くありました。特に焼夷弾のところは、とてもリアルに描かれていて、そういうものだったんだということがよくわかりました。油が飛んでくるので火が消えない、これなら逃げられない、ということが実感として伝わってきて、震え上がりました。戦争を題材にしたお話というのは、多く出版されているわりには、敬遠されがちだと思うので、今の子どもたちが読んでくれるといいなと思いました。一点だけ気になったのは、アメリカがしたことについては詳しく書かれているんですけど、同じことを日本がやったということについてはトーンダウンしていることです。p326「もし、日本が攻めていた中国で、日本軍が同じことをしていたら・・・と思えば、やっぱりゆるせない。いや、アメリカのような兵器も物資もなかった日本軍は同じことはできなかったはずだとは思う。」「アメリカ軍とはちがってたとしても、もしひとりの兵、一部の連隊だけだったとしても・・・」という書き方だと、これを読んだ子どもは、結果的にやってないと思ってしまうかもしれません。あとがきで何かフォローがあるかと思ったけれどそれもなくて残念。あと気になったのは、お兄さん夫婦に対して笑生子(えいこ)がちょっとものわかりよすぎるところかな。優等生すぎるコメントで。この夫婦は戦時中でなくても、もともとそれほどやさしい人ではなかったのだから。

アンヌ:出征する時に「行ってきます」では帰るという意味を含むので言えなかった、そんな言葉狩りがされていたんですね。主人公の兄や姉が手紙を書くときの暗号をあらかじめ決めていたというのは、そんな戦時下をいかに生き延びたかの証言だと思いました。焼夷弾の描写には震え上がりました。米軍の爆撃機のパイロットと、戦後にチョコレートを渡そうとするアメリカ人軍医の姿が描かれています。どちらも普通の人間なのに戦争中はまるで違ってしまう。私の世代まではこういう形で戦争を記憶して折に触れ語ってくれる人が身近にいたけれど、もうすぐこんなふうに戦中戦後を生き延びてきた世代がいなくなってしまう、本当にこういう本は必要だなと感じました。その他には「冷やし馬」の場面がとても魅力的でした。

花散里:読めて良かったと思いました。「あとがき」に、この作品は自分の母親をモデルにしていると書かれていますが、笑生子の娘、小夜子が主人公として書かれた『あした、出会った少年』(ポプラ社)など、他の作品も読んでみたいと思いました。これまでの戦争児童文学は被害者としての視点で描かれている作品が多かったと思いますが、この作品は今までの児童文学になかった視点で書かれているのではないかと感じます。巻末の「参考書籍・戦時資料」も詳しくて、たくさんの資料に基づいて描かれた作品であるということが解りました。対象としてはルビが振ってあるので小学校上級から読めると思いますが、描かれている家族の絆など、親子で読んで話し合ってほしい作品だと思いました。動物の描き方、自然描写とか、文章がとても良いと思いましたが、表紙の装丁、挿画も読書を助ける役割を果たしていると感じました。これからの時代を担う子どもたちに手渡したいと思う作品でした。

カボス:モデルにしたお母さんから聞いただけではなく、巻末の参考書籍や戦時資料がいっぱい挙げてあって、いろいろな目配りをしながら書かれているのだと思いました。主観的に身近な人の体験を書いただけのものではないんですね。悲惨な状況の描写が続くなかで、牧野さんのあたたかい絵には、それを和らげる効果があると思います。天王寺動物園で飼われていたヒョウやゾウ、冷やし馬をしてもらっていたのに戦火をあびて燃えながら走った馬のクリ、供出を命じられたのに隠した犬のキラなど、動物に対する愛情が現れているところも特徴のひとつですね。p339には、戦争で殺された生き物と平和時に死んだ生き物の対比も描かれています。またp293では「国家と国家の憎しみは根深く残っても、人と人が心を交わす一瞬は、雲間から差しこむ光のように、たしかに、そこにあったのかもしれない」と、軍と人は違うという視点も出しています。一方でp325では、「あのチョコレートをくれた優しげなアメリカの軍医さんだって壊れてしまうかもしれないし、成年兄やんだって、もし、もっともっと長く戦場で戦えば、壊れてしまったかもしれない」という文章で、戦争で戦うこと自体が人間を壊すことになるとも言っています。
あと、私は米軍が日本全国の数多くの中都市を爆撃していたことや、原爆模擬弾パンプキンが日本の30都市、50箇所に落とされていたことをこの本の後書きであらためて知りました。令丈ヒロ子さんの『パンプキン』(講談社)も読んでいたのですが、そこは頭に入っていなかったんですね。大人も子どもも読めるようにしたいという著者の覚悟を感じました。中学生くらいから読んでほしい本です。

コアラ:大阪の空襲については知らなかったので、こんなにひどかったんだとわかりました。戦争を知るには大切な本だと思います。でも、子どもが手に取って読むだろうか、という印象でした。分量も多いし、難しい言葉や漢字も多いし、内容もつらい。それでも、イラストがやわらかくて、内容をやわらげているんだなと私も感じました。p24〜p25の冷やし馬のイラストとか、すごくいいと思いました。気になったのは、p50のゾウのイラスト。切り抜き方が、なめらかでなくて、境目がなんか気持ち悪いんです。もう少し上手に切り抜いてほしい。

マリンゴ:非常に読み応えがありました。戦争を後世に伝えていきたいという強い思いを感じる本でした。戦闘機「P-51」や焼夷弾の詳細など、私自身、知らなかったことも多く勉強になりました。ぜひたくさんの子に読んでほしいのですが、そう考えると少し文章量が長くてしんどい、という子もいるでしょうか。あと、第8章の「それからの地獄」というタイトルなど、大変さを煽る文言がいくつか見受けられました。ここまでが地獄なのにさらに地獄か、と読むのがつらくなる子もいるかと想像します。見出しなどで煽り過ぎないほうがよかったのではないか、と。そんななか、キラはこの物語の救いの存在ですね。個人的には、児童文学なのでキラが死ぬところまで描かなくてもよかったのかな、と思いました。

西山:キラのことで言えば、この物語はキラに始まり、キラに終わる。最後のキラの死も納得のいく展開です。キラが死んでしまうのではないかとはらはらする場面がいっぱいあったのに、死なせることなくキラの命を全うさせたのがすごくよかったと思います。書き込まれたたくさんの情報はすでにどこかで読んだり、映画で観たりしたことがある内容で新しいことを知ったという事はなかったのですが、主人公が心を寄せる犬を戦争で死なせなかった点は「戦争児童文学」として新鮮に受け止めました。そういう存在を死なせてお涙ちょうだいにしてしまい(補足:まさに『かわいそうなぞう』土家由岐雄著 金の星社)、子ども読者を悲しみで打ちのめす(補足:椋鳩十の『マヤの一生』もなかなかのダメージを与える)のではなく、最終的に打ちのめさない(補足:モーパーゴの口当たりの良さを少し思い浮かべていました)。どんなに惨い人の死が描かれても、キラが無事だったことで子ども読者に決定的なショックを与えないようにしていると思いました。あと澄恵美姉やんがなにしろ魅力的でした。「子どもは泣くもんやっ!」(p242)、とばんと言ったり、とてもすがすがしくカッコイイ女性でした。キラを死なさなかったことと、澄恵美姉やんの魅力をこの作品の美点として読みました。動物園の動物殺害の真相についても、あとがきでフォローしてほしいポイントでした。最初に読んだとき、「ヒョウが、かわいく鳴いた」(p47)というのにひっかかって、あと付箋を貼りそびれて今見つけられないのですが、たしかおばあさんのことも「かわいい」と表現したところがあって、違和感を覚えました。字が大きくて、カットが入ってくるタイミングもいいし、けっこう小学校高学年くらいで読めるかと思いますが、表紙は大人っぽすぎるかな? でもともかく、キラに引かれて最後まで読めると思います。

カボス:動物園の動物のことは、p136でねずみのおっちゃんに「空中があったら、動物園の檻が壊れて猛獣が逃げ出すんで、それを防ぐために、猛獣を殺すようにって、大阪市から命令があったんや。(中略)もともと、うちのキリンやらカバやらは飼料不足のせいで死んだり、餓死したりしてたけど、十月になってからは、市から、オオカミやヒグマ、トラやライオンにも、毒入りのえさを食べさせて頃競って命じられたんや」と言わせていますよ。

ネズミ:こわいほど迫力がありました。笑生子を視点人物として、一人称にとても近く書かれているので、笑生子がどう生き抜いていくのかが気になって、最後まで一気に読みました。『世界の果てのこどもたち』(中脇初枝著 講談社)もそうだろうと思うのですが、一人の個人の体験ではなく、たくさんの資料にあたって複数の人の体験を登場人物にもりこんだり、今の読者の視点から知りたいこと、書くべきと思ったことを強調したりできるところに、当事者本人ではない作家が書く強みを感じました。当事者だと、自分が思ったことに忠実にあろうとして、こういうふうには書けないかな、と。一方で、p326の後ろから4行目からの「今も決して、アメリカをゆるせないと思う笑生子の気持ちと同じに・・・」のあたりは、この時代を本当に生きた人が、この時点でこのように考えられただろうかと思いもしました。

まめじか:自分の家族の体験があって、それをもとにひとつの作品を書いているのですが、今の時代、その意味はすごくあると思いました。ただ、淡々と出来事を連ねていくような文体に、p172「めちゃくちゃよろこんで」とか、p283「ハグハグ食べて」とか、今の言葉が入ってくるのに違和感をもちました。空襲の描写も、こんなに擬音語を使わなくてもいいのではないか、と。カタカナが多いと目立つし、表現として軽くなるような気がします。

マリンゴ:表現について言うと、私はp307 「死ぬほどおいしかった!」という部分が気になりました。ここまで「死」について重厚に描いてきたのに、この場面ではずいぶん軽く使われている気がして。

西山:焼夷弾の「ザーザー」(本文中は「ザーッ、ザーッ」)は、よく言われる擬音で、多分実際の音をよく表しているのでしょうから、それを他の表現でというのはうまくイメージできません。ただ、おっしゃるように「ハグハグ」といった擬態語が全体の印象を軽くしているというのはあるかも。表現が軽いから、読みやすいというのもあるのかもしれない。それを良しとするか、評価は分かれるだろうけれど。

さららん:語り手の言葉のほかに、戦歌や爆弾が落ちる時の生々しい擬音、玉音放送の天皇の言葉とか、さまざまなレベルの言葉が入っています。そんないろんな要素が全体を形作っていくのに、この長さがあってちょうどよかった。というより、このぐらいないと書けない作品だと思いました。最近、外猫の最期を看取ったばかりなので、キラが命を全うして死ぬ瞬間の描写に共感を覚えました。「魂虫」が最初のほうと、最後にまた出てきますが、作者は現実とむこう側の命がつながっていることを、目に見える形で表現したかったのでしょう。体験したことを少女がどのように感じたか、それを中心に書いた作品なので派手な擬音もありかと。空襲の場面は映画館で映画を見ているような臨場感を覚えました。p272に玉音放送の言葉があり、今読むと、今と全く違う天皇の立場に、強い違和感があります。でも歴史の勉強ではなく、主人公と一体化しながら、その生の言葉に今の子どもたちが出会うのは大事なことかと思うのです。それからアメリカが舞台の児童文学でも、戦死者が出た家に栄誉の印を出す場面があり、日本もアメリカでも国の巧妙な仕掛けは同じなんですね。

木の葉:表紙ですが、ちょっとバラバラとした印象を受けました。中扉の絵の方が好きでしたが、こっちだと、いかにも戦争物、という感じになってしまうかもしれません。

カボス:中扉はよくある日本の児童文学という感じです。この表紙だからこそ新鮮な感じがして、私はこの表紙でよかった、と思いましたよ。

木の葉:まず形式的なことですが、大阪の地図があるといいと思いました。それから、ルビはページ初出のようですが乱れているところがいくつかありました。タイトルは、どうしても『ガラスのうさぎ』(高木敏子著 金の星社)を連想してしまうので、もう一工夫あってもよかったのではないでしょうか。この物語はご本人のお母さんの体験がベースになっているということで、書かなければ、という作者自身の強い使命感があったのだと感じました。その思いの強さはよくわかりましたし、それが物語としての勢いにもなっていると思います。その反面、勢い故にか、若干粗さが残ってしまったというか未整理な文章が気になりました。たとえば、p13の「天王寺動物園の仕事も、ときどき手伝っているので、山仕事や手伝いでいそがしい」とか、「宇治からの帰りは、宇治の山から採った柴を運んでくる柴船に乗って帰ってくるので」とか。p54「お母さんとおばあちゃんと、うちだけで、男手が全然ないんで、澄恵美さんがきてくれはって、ほんま、助かってます!」(←澄恵美さんは女性!)とか。p112の「ぼうぜんとした笑生子には、お母やんをなぐさめる言葉さえ浮かばなかった」というのもちょっと気になりました。小学生にその役割を担わせるのか、と。擬音については、使うことはともかく、少し多すぎるのでは? ウウウウ ジャンジャンという言葉など、いささか鬱陶しく感じました。
冒頭のポエム的な部分は、必要だったのでしょうか。私は今一つしっくりきませんでした。ここも含め、いい悪いということでなく、書き方が情緒的だなと思いました。「情」は感動に繋がることなのでとても大事な要素だけれど、私は「情」が全面に出てくるものに、どうしても警戒感が働いてしまいます。なので、感情が表に出た描写が続くと、少し苦しくなります。
戦争に関する記述では、私はあまり新味を感じなかったです。が、それは私が大人だからなので、子ども読者にとっては意味があるかもしれません。いちばん残念だったのは、加害への言及が弱いことです。被害を書くことを否定はしませんが、p41でドーリットル空襲への言及があって、先生が「国際法では、兵隊でない人を攻撃することは禁じられていのに」と言います。そういうことは実際にあったかもしれません。でも、あとがきなりで、重慶爆撃などに触れてほしかったです。無差別空襲はナチスによるゲルニカや、日本軍による重慶が先です。重慶爆撃は、アメリカの日本への空襲の口実になったと言われています。加害への言及としてp325に「かつて、日本が攻めていった戦地では、日本軍はなにをしたのだろう」とありますが、具体的なことは一切触れてません。p326「アメリカのような兵器も物資もなかった日本軍は、同じことはできなかったはずだ」というのも、当時の感情としてはありえるかもしれませんが、ここもあとがきなどでフォローしてほしかったです。加害に対する記述は終始、抽象的で具体性を欠いているのが残念です。なぜ私が加害ということにこだわるのかといえば、被害体験では、厭戦(反戦ではなく)にしかならないことを危惧するからです。そのことは、敗戦前にすでに清沢洌が指摘しています(『暗黒日記』)。お兄やんが戦地に向かう際も、生きて帰ってほしいという切実な思いは伝わるものの、お兄やんが殺ししてしまう可能性への言及はありません。当時のこととしては仕方がないのかもしれませんが、回想としては描き得たのではないでしょうか? 殺す側への想像は、この読書会の3月の課題だった『マレスケの虹』(森川成美著 小峰書店)には書かれています。

カボス:タイトルはわざと『ガラスのうさぎ』をイメージさせるようにしてるのかと思いました。

ハル:もし私がこの本の編集者で、この原稿を預かったとしたらどうしただろうと、わが身の反省も含めて、考えてしまいました。著者の意図として「あとがき」に「この本を、おとなだけが読む本にも、子どもだけが読む本にもしませんでした」とありますが、私が編集者だったら「子どもの本としては描写が残酷すぎないか」とか「削ってはどうか」とか、余計な提案をしてしまったんじゃないかと思うんです。実際に戦争を体験した人の話を聞いているようなこの生々しさが、それこそが大事だと思う反面、本当にそうだろうかとも思いますし・・・。本の中でも、動物園の職員だったねずみのおっちゃんが笑生子に、かわいがっていた動物を殺したことを臨場感たっぷりに泣きながら語るシーンも、「子どもに向かって容赦ないな」と思いました。うーん、でも、残酷な描写をどんどん削ってしまって、ますます戦争の痛みがうすれてしまうのも怖いことですね。そ
れとは別に、さまざまな描写が多少、冗漫というか、ちょっと過多な感じはしました。ちょうどいい例が浮かびませんが、目に見えた景色を「あれはきっとにいちゃんのなんとかや」みたいに、いろんなことをつなげて考えるところとか、たとえば「(隆司も、ここに引きとられるみたいやし・・・。きっと、一休さんもよろこんではるはずや!)」(p324)とか、ラストの「それは、欲望の金色でもなく、空を制す銀色の比翼でもなく、大きな希望の青い空と~」(p346)だったり、冒頭の「わたしは、川を知っている」「あっちにもこっちにも、光る鳥が飛び交うようにせせらぐ川面のきらめき」(p2)だったり・・・。

カボス:「安穏に暮らしている子ども」は、地球上にはそんなにいないんですね。残酷で悲惨な状況に日々さらされている子どもたちもたくさんいる。「安穏に暮らしている子ども」に、そうでない子どもたちのことをどう伝えていくか、は確かに難しいところです。残酷だから読みたくないと本を閉じられては意味がないので。ただいろいろな工夫をして、やっぱり世界の現実を伝えていかないと。あんまり小さい子だと無理ですが、中学生くらいなら視野を広げてもらう必要もあるかと思います。

花散里:本書は作者がたくさんの資料を基に徹底した取材で描かれた作品であるということが「あとがき」を読んでもよく分かりました。7章「生と死」、昭和20年6月1日の空襲で笑生子が見た、「赤ちゃんの頭がなかった」というのは実際にあったことが書かれているのだと思います。勤務していた小学校の学校図書館では広島の原爆の写真集など所蔵していました。高学年は授業で資料として使用していました。丸木美術館の「原爆の図」も、広島の原爆資料館も過去に実際にあった事実として子どもたちに見てほしいと思います。「怖いところを削るよう提案」するということ、実際にあったことを見せないのは、大人の判断として良いのでしょうか? 削っていいのかと疑問に思います。

ハル:痛いことを痛く書かないことも問題ですね。勉強になりました。ありがとうございます。

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エーデルワイス(メール参加):実母をモデルにして、戦争中の生活が克明に描かれています。ノンフィクションとしても書かれてもおかしくないのが、敢えて児童読み物としたところに、戦争を決してしてはいけないと、子どもたちに伝えたいという作者の強い気持ちと願いが伝わってきました。表紙と挿絵がとてもいいですね。

しじみ71個分(メール参加):最初、子ども時代の戦争体験本か、と思わされたが、過去に多く著されているので、どう違うのかを意識的に読むことになった。ユニークだったのは、随所で米軍の非人道的な行為を語りつつ、日本の行為にも思いをいたしている点だった。また、空襲の場面はリアルで、読み進めるのがつらかった。なんと焼夷弾の威力が凄まじいことか、と恐ろしさがずしんと重くのしかかってきた。作家のお母さんが主人公のモデルとのことなので、ていねいに、ていねいにお話を聞いて、このリアリティがもたらされたのだなと実感した。長兄の正義の意地悪さも含め、きょうだいの描き方はみなとても魅力的で、人物像が目に浮かぶようだった。成年兄やんは特に素晴らしく、自分の父が京都で9人兄弟の末っ子で、2番目の叔父が沖縄で亡くなったが、やはり一番、やさしくて優れた人だったと聞いており、ついつい重ねて読んでしまったが、隣り合う京都と大阪では空襲の有無でこんなにも状況が異なっていたのだということをつくづく思い知らされた。また、最後のあとがきに胸を打たれた。作家の想いが詰め込まれていて、あとがきも一つのエッセイのようだと感じた。日本では戦争を全く知らない大人たちが増え、戦争の記憶が消えかかっている今、子どもたちにどのように戦争の事実を伝えていくかは大きな課題だと思う。その課題に敢えて取り組まれたことは本当にすばらしい。

(2019年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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キャサリン・アップルゲイト『願いごとの樹』

願いごとの樹

マリンゴ:樹の1人称の物語ということで、非常に興味深く読みました。序盤、1つの章が短くて読みやすいなと思いました。p174、175の白黒反転や、p192、193の全面見開きのイラストなど、レイアウトも工夫されていて、物語の盛り上げに一役買っています。樹が切り倒されるかも、という主軸の話のなかに、ひとりぼっちの女の子の友情の話など、他の要素も入ってきて多層的ですね。気になったのは、p9「クラスの全員が『マイケル』という名前だったら、と想像してごらん」の部分。いくら人間の話をよく聞いて博識とはいっても、樹が1人称で語る比喩としては、自然ではないと思い、そこでちょっと引いてしまいました。あと、メイブの日記帳に何が書かれていたのかが示されていない。それが少し物足りなく思いました。

西山:最初はちょっと読みにくかったです。表紙から得た印象ではYAかと思って読み始めたので、童話的なテイストとのギャップに戸惑ったという感じです。今のアメリカの排他性を憂えている人たちの存在を思うと、切実すぎて切ない感じがしました。でも、しっとりしんみりという空気で覆うのではなくて、ユーモアが覆っていてそれは好きでした。カラスのボンゴの「ムリー」と「カワイー」の使い方や、動物ごとの名前の付け方とか、仕返しが「落とし物」だったり、世界を柔らかくしていてかなり好きです。ただ、まぁ、長さ的に無理とは分かりますが、本のつくりとして、もっと違ってもよかったのではと思ってしまいます。p192、193の見開きの挿絵はじめ、絵の主張も強いし、ずっと文章を刈り込んで、絵をもっとふやして、寓話的なきれいな大判の絵本でもあうだろうなぁなどと。

ネズミ:私はちょっとお話に入りにくかったです。樹が声を出すことで、物語が動くというのになじめませんでした。願いごとの樹、動物が住んでいる樹のイメージが先行して、物語ができたのかなと。人間の心の変化そのものは、あまりつっこんで書かれていないようで、やや物足りませんでした。

まめじか:レッドもコミュニティも、いろんな人、いろんな動物を受けいれ、ときに軋轢が生まれるのを見ながら歴史を重ねてきました。レッドとサマールの想いは、「ここにいたい」という願いに結晶化されていきます。居場所をもとめる切実さが、この物語の底にありますね。アイルランド系のメイブのところにイアリア系の赤ん坊が来て、その子が家庭をもって、というふうに、異なる人たちが家族になって連綿とつづいてきた、命のつながりが描かれているのもいいです。少年が「去レ」という言葉を樹に刻んだのは排外的な風潮からですが、その子のバックグラウンドが少し気になりました。あえて書いていないんでしょうけど。

彬夜:とても好きな作品でした。私は、今回読んだ3冊の中ではこれが一番よかったです。寓話的な作品ってなかなか日本の今の作家は取り組まないようですが、もっとあっていいのかもしれません。この物語の静かで、でもどこか人間くさい(樹なのに)語り口が好きです。からすのボンゴとの会話もいいですね。イスラムの女の子の背景については、もう半歩書いてほしいような気がした一方、そうすると物語の良さを壊してしまうのかも、という思いがあります。日記が出てきた時点で、これが、樹が切られてしまうのを防ぐのかな、という風に予測が立ってしまいました。実は、そこの箇所を読む前に樹に動物たちが集まっている挿絵がちらっと見えてしまって、オウンゴールをしてしまったみたいな気分でした。自責のネタバレですね。ああ、動物たちが助けるのね、と。それから、樹が切られるという方向の物語ってありえたかな、というのもちょっと夢想してみました。

アンヌ:ファンタジー好きとしては楽しみに読んだのですが、樹に話をさせたところで拍子抜けしてしまいました。ここは樹が語らなくても、子どもたちに日記を読ませても樹の成り立ちを伝えられるので話す必要はないと思います。樹の代弁者としてのカラスのボンゴもいますから、日本の作家なら樹のそよぎや気配で書ききるかもと思いました。フランチェスカが家族の言い伝えを思い出さないのも不自然ですし、日記を読むというのが当日だというのも駆け足な気がします。ただ、双方の家族がこれだけ奇跡的な状況なのにまだ溶け合わないとしているところは、現実も描いているなと思いました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。ただ日本の読者を考えると、もう少しわかるように出してくれるとよかったと思いました。たとえば、レッドに彫られた「去レ」という言葉ですが、日本だと「出て行け」くらいの言葉かなあと思ったり、レッドが2軒の家のまん中にあるので、どうして家じゃなく、樹に彫るんだろうとも思いました。原書の読者は、サマールという名前が出て来たとき、イスラムっぽいとわかるのかもしれませんが、「去レ」がサマールの一家に向けられているということが日本の読者にも最初からすっとわかるでしょうか? アマゾンで一部を見ただけですが、原書には、願いごとを書いた布がいっぱい樹に巻き付けられている絵がありましたが、日本語版にはないんですね。どうしてなんでしょう? ヘイトの行為として、卵を樹にぶつけるという場面も出てきます。樹に?と思いました。

まめじか:p52で、サマールの家に生卵を投げていますよ。そのあと樹にぶつけるから、サマールの家族に対してだとわかったのかな。

ハリネズミ:家にぶつけるのはわかりますが、2軒の間に立っている樹にぶつけるでしょうか? いいところは、樹を主人公にしている読み物という点がおもしろいと思いました。樹が人間だけでなく動物にとっても大きな存在だということが伝わってきます。それと、動物と樹のやりとりにユーモアがありますね。絵も助けになっています。p202に「とはいえ。」とありますが、ここは句点でいいんですか?

彬夜:「とはいえ。」といった書き方をしてみたくなる時はあります。が、誤植に思われそうで結局辞めてしまうかもしれません。

花散里:サマールの思いがよく描かれているところがよかったと思いました。この本は樹に語らせているのが大切なことだと思います。とても情感豊かな作品だと思います。こういう作品を子どもに手渡したと思いました。主人公の樹の思い、去年読んだ本の中でも忘れられない1冊です。本の創りがとても良いなと思いました。白抜きの箇所、挿絵も作品のよさを支えていると感じました。

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エーデルワイス(メール参加):樹を主人公にして、カラスやリスなど動物たちが登場し、ファンタジーのように思えますが、じつは移民をテーマにもしている奥の深い作品だと思いました。美しい文章だが、全体的に少しわかりにくいのが残念でした。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ファブリツィオ・ガッティ『ぼくたちは幽霊じゃない』

ぼくたちは幽霊じゃない

まめじか:『神隠しの教室』(山本悦子作 童心社)を読んだとき、日本の義務教育は外国籍の子どもにはあてはまらないと知って驚きました。イタリアでは、難民の子どもにも教育が保証されているのですね。警察に見つからないように生活していても、学校に行けば居場所がある。すばらしい教育制度だと思いました。ヴィキは、7歳にしてはちょっと幼く感じました。p181で、共産主義の意味をきかれて「トマトをダメにするもの」と言ったり、p144で、下のほうがせまくなっている黒板に文字を書くと、下にいくほど文字が小さくなるため、文を書くときは必ずそう書くと思っていたり。おとな目線の子ども像というか・・・。

ネズミ:とてもおもしろくて、読み出したらやめられず圧倒されました。聞き分けのない5歳の無邪気なブルニルダと、まだ7歳なのに兄としてがんばるヴィキ。この年ごろの子どもにとって、外国とはこのくらいぼんやりとした認識しかないだろうと自分の体験からも思い、私はとてもリアルに感じました。難民船で海を渡る家族の体験は壮絶ですが、今も危険をおかして海に渡る人々は同じような体験をしているのではないでしょうか。理由はどうあれ、難民として国外に逃れる人たちがどんな気持ちで、どんな目にあっているのか、これを読むと、いくらかでも想像できそうです。読めてよかったです。

西山:このシリーズでこの束で、読むのに時間がかかるかと思っていたのですが、かまえたほど長くなかったですね。紙が厚いのかな。手が止まらなかったからでしょうか。本筋ではありませんが、子どもが質問して、それにちゃんと答える文化というのが一番印象的でした。なんか、このタイミングでそれ聞く?とか、ちょっと黙ってて、とか結構ひやひやというか、イライラというか、読んでる私は思うわけですが、ちゃんと相手をしてるんですね。p223とか、あんなに大変な状況のあとで明日のクリスマスの劇、見にきてくれるのかって、お母さんは丁寧に答えているけれど、私なら無理。日本では、幼い子もものわかりがよく描かれているのか、あるいは、作品以前に社会全体のおとなと子どもの関係のちがいなのか・・・。とにかく、次から次に困難と直面する極限状況にありながら、おとなを質問攻めにする子どもに私はストレスを感じたというのが正直な感想です。もちろん移民や難民の問題を考えるに当たって、学ぶべきところは随所にありました。p79、で「いい人はたくさんいる」止まりでなく「悪いのは法律」と書いているところに信頼を感じましたし、p188の「働きたいなら文句は言うな。非正規だろうが仕事がもらえるだけありがたいと思え。」が、今の日本と重なったり、p243の「問題はおもちゃじゃない」という下りは支援のあり方を厳しく問うていましたし。

マリンゴ:非常に読み応えのある本で、よかったです。移民の旅の物語は、ずっと大変なことが起きて結末近くで少しほっとする、というような展開が多いかと思います。でもこの物語は、いいことがあって、悪いことがあって、というコントラストが強くて、それぞれの場面がより印象的になった気がします。海のシーンは、非常にリアルで怖かったですね。弱者が犠牲になりますけど、その弱者というのが“ひとりぼっちでいる人間”であるのは、衝撃的でした。ミラノに着いて、都会的な美しい風景に癒されて、でもバラックに着くとそこは大変な場所で、とこれもまたコントラストが強いんですね。ラストが若干、尻切れトンボ感がありましたけれど、実在の子の体験をもとにしているから、そこはやむを得ないのかなと思いました。

ハリネズミ:読んでよかったとは思いましたが、お父さんは、イタリアで最底辺の暮らしをしていて、なんの保障も得られていないのに、どうして家族を呼び寄せようとするのか、読者にはわかりにくいんじゃないでしょうか? 戦争や飢餓だとなるほどと思うんでしょうが、この本では「共産主義だったから」としか出てきません。アルバニアで農業をしていれば現金収入は少なくてもずっと人間的な暮らしができるのに、と普通は思うんじゃないでしょうか。国を出る理由がよくわからないままだと、物語に入り込めないように思います。イタリアの子どもなら、アルバニアからたくさん人が入ってきたのを知っているのかもしれませんが、日本の子どもはわからないので。イタリアの学校の先生は、すばらしいですね。不法移民だとわかっていても「学校にいるあいだは心配いりません。イタリア人の子どもも外国人の子どもも、分けへだてなく受け入れるのが、私たち教育者の役目ですから」(p222)なんて言える先生、すてきです。本としては出だしのつかみが弱いように思いました。作文のテーマが、ヴィキだけじゃなく、何を書けばいいのかだれもわかりませんよね。最後のヴィキのメッセージは、ヨーロッパではなくても「正義」と「法律」は一致しないだろうと思います。日本の読者向けと考えると、あと一工夫あるとよかったと思いました。

彬夜ここは「ヨーロッパでは」じゃなくて、「ヨーロッパでも」だとよかったのに。

アンヌ:海を渡る場面の過酷さに、何度本を閉じたかわかりません。非常に迫力に富んだ描写で、しかもその状況が少年の目を通して描かれているのがつらかった。無事たどりついた時に親切なイタリア人に手助けしてもらえますが、その後も過酷な生活状況やお金を巻き上げる警官や悪徳不動産屋の姿など、なかなか読むのにつらい場面が続きます。そのなかでまるで『クオレ』(エドモンド・デ・アミーチス著 偕成社文庫)のような幸福な学校生活にほっとしました。でも、保育園では冷酷なお役所仕事で移民を受けいれません。同じ国の中に残酷さと優しさが同居しているのを感じました。これを読んだ後、日本の人々にも、人に優しくできる誇りというものを感じてほしいと思いました。

彬夜:ノンフィクションっぽい作品だなと思いました。冒頭部分の位置づけは、どうなんでしょう。主人公が中学2年生になってます。ボートで海を越えるシーンの緊迫感がすごいのに、冒頭のシーンのために、ああ、無事に渡れたのね、と思ってしまいます。それでも、あのシーンは読むのがつらかったです。トラウマにならないかも心配でした。ただ、子どもが幼く感じられました。妹はまだしも、主人公の少年は、ああいう緊迫した状況だったら、もう少し聞きわけがいいのではないかと感じてしまいました。学校に行ってからのシーンでは、これでいじめに遭ったりしたらいやだなと思ったのですが、そうならなくてよかったです。彼らはいわば経済難民のようで、これは少しわかりにくいので、もっと説明があってもいいのかもしれません。ラストはちょっと駆け足で、はしょられた感がありました。その後、どんなことがあったのか、なぜ、お母さんだけがうまく仕事が得られたのか、もっと知りたかったです。警察の扱いはひどいですが、日本人には腹を立てる資格はないかもしれませんね。受け入れ政策も貧弱だし、入国管理局の問題点も指摘されている。それを下支えしているのは私たち自身の無関心なので。

花散里:私は今回選書係だったのですが、海外の作品ですぐに思いついたのがこの作品でした。難民もひとりひとりが個人であるということを、『風がはこんだ物語』(ジル・ルイス作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)と重なるように読みました。人形がなくなったり、海をわたっていくボートのところは、読んでいてもとても辛かったですが、とてもよく描かれていると思いました。
父親が呼びよせたときの思いや、お金を搾取される状況。それでも海をわたりたいと思う一家。日本にも外国籍の子どもたちが増えている今、実話をもとにしているという、こういう作品を読んでほしいと思います。難民・移民の話がひとつの作品として読めたのはよかったと思いました。

西山:さっき、おとなと子どもの関係の違いかもと言いましたけれど、普段おとな向けの作品を書いている作家が書いているから、登場する子どもが子どもっぽすぎるのか、とも疑っています。一般の小説家が書いた子ども向け作品では、妙に子どもが子どもっぽく書かれていると感じることがちょくちょくあって。ああ、でも子どもだけでもないかなぁ。あんなに町へ出るのが危険だと言っているのに、お母さんの教会に行きたがりようが呑気すぎるように感じたし。(そこもイライラしたポイントです。笑)おばけが出るぞという軽口に、お父さんには、妻子がどんな困難をこえてきたのかがわかっていないのだなと、体験の断絶の残酷さを感じました。そうでなければ、単にデリカシーがなさ過ぎですけど。

彬夜:船が着いた場所で助けてくれた人たちのことなども、もっと知りたかったです。

ハリネズミ:組織なのか、個人なのか、この本ではわかりませんね。

彬夜:幼稚園と学校の管轄の違いなどは、興味深かったです。

花散里:難民、ひとりひとりが個人であり、それぞれの思いがあると思います。すべてを手放して難民となった辛さ、父親はどういう思いで家族を呼び寄せたのか、日本の子どもたちにも知ってほしいと思いました。

しじみ71個分:今のヨーロッパの情勢をよく映す作品だなぁと思いました。私は、この主人公のヴィキや妹のブルニルダの幼さは、ときどき危機を招くのでハラハラさせられましたが、アルバニアでの暮らしが素朴なものであったことを想像させられて、素直に読みました。一番いいなと思ったのが、イタリアの学校の先生たちです。教育は子どもたちにとっての権利であり、難民であろうがなかろうが、教育を等しく受けさせるのだ、という強い意志が感じられ、感動しました。保育園の園長は反対に官僚的で意外でしたが。また、特に心に残ったのは、学校の初日、クラスの子どもたちが一所懸命に歓迎のために歌を歌ってくれたり、ハグや握手をしてくれたりしたのに、言葉が分からなくて、逆に孤独と不安でヴィキが泣いてしまったところでした。その心細さ、切なさはリアルに胸に迫りました。異国に暮らすことの難しさ、心細さを子どもの視点でとてもよく描いていると思います。言葉に慣れるのがおとなよりも早い、というのも後で分かりますが。密航の船上の恐怖や、不法滞在ゆえのひどい暮らし、警察に見つからないように幽霊のように忍んで暮らす日々、ミラノには居られなくなって郊外に引っ越すなど、厳しい現実がこれでもかと突きつけられ、問題提起のまま終わった感じもしますが、実話に基づくがゆえに簡単に解決の見つからないことなんだと思わされます。このこと自体がとてもリアルだと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):7歳のヴィキの目線で話が進むので、苛酷な密入国の場面にハラハラしました。5歳のブルニルダがあまりにも無邪気で、やりきれなさが何倍にもなります。「幽霊」や「おばけ」という表現は、子どもにとってはとても怖いと思います。イタリアでは学校はすべての人に開かれているんですね。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

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安田夏菜『むこう岸』

むこう岸

彬夜:再読です。直球勝負の意欲作だなと思います。このテーマをとりあげたことに共感するし、いい作品だとも思いました。ただ、再読すると、ちょっと気になることも出てきて。いちばん悩んだのは、むこう岸とは? ということなんです。和真と樹希、この2人は対比ではなく、同じ側にいるように感じました。だから、むこう岸は誰にとっての何なのかなと。それから後半、生活保護の解説書めいた感なきにしもあらず、かなとも。もちろん、それあっての物語なので、中学生が読むのにはいいのかもしれませんが。それに「居場所」というのは今、まさに求められる居場所なのですが、まるで樹希たちのためだけに存在するようにしか思えなくて。ここの場の奥行きが見えない、というか。ほかに客がいるの? マスター、生活大丈夫? とちょっと心配になりました。あとは、放火してしまう人ですが、人としてのいやな部分をひとりで背負わされているようで、ちょっとかわいそうでした。いい人と悪い人がやや類型的というか、人が仕分けされてしまっているような印象もありました。人物でおもしろいと思ったのは和真の母親です。父親に対しては、和真の側に立ってかばおうとする、その直後に、生活保護の子とつきあっていないと知って安心する。「総論賛成各論反対」的なリアル感がよかったです。ふつう気がつくでしょ、というツッコミはともかく、梅酒の誤飲でふたりを出会わせるのもおもしろかったです。

アンヌ:私も同じく直球勝負の作品だと感じました。生活保護法の条文を詩のように感じる少年を描いてくれたことに感動しました。政治家が率先して生活保護受給者を非難するような情けない時代に、働いて社会保障費や税金を払うことの意義を知って欲しいと思っているので、うれしい作品です。最初はアベル君以外の人物の描き方が単純な気がしたのですが、再読したときに構造の巧さに舌を巻きました。

ハリネズミ:すごくよくできた小説だなと思いました。生活保護家庭の樹希は母親に対し「もっと根性だしたらどうだ」と思っていますが、和真のお父さんは和真に対して同じように思っているという構造もおもしろい。さっき彬夜さんは「同じ岸にいるんじゃないか」とおっしゃったのですが、最初はやっぱり別の岸にいるんだと思います。樹希は最初、和真のことを「ものすごくお腹がすいている横で、美味しそうなパンをまずそうに食べているようなやつら」の一人だと見ている。和真も樹希を見て、小学校で自分をいじめた子どもたちのことを思い出し、「生活レベルの低い人たちが苦手だ。怖いし、嫌悪感がある」(p63)と言っているし、樹希に「金持ちのおぼっちゃま」だと言われて嫌な気持ちでいる。それが最初の状況じゃないでしょうか。そのあと、元の同級生の桜田という能天気な人に会って、「きみ(樹希)にとってのぼくは、ぼくにとっての桜田くんなのかもしれない」(p92)「哀れんでいるものは、自分の放つ匂いに気づかない。哀れまれているものだけが、その匂いに気づくのだ」(p93)と感じるようになる。最初は向こう岸にいた子どもたちが、だんだんに近づいていく様子がとてもよく描かれていると思いました。
もう一人のアベル君は、ナイジェリア人の父親の暴力がトラウマになっている存在だと思いますが、こういう存在の出し方もうまいなあと思いました。ナイジェリア人の父親も、ただ暴力をふるっているのではなく、どうしようもない状況におかれて、そうなったというところまで書いています。その結果、アベル君の方は言葉が出なくなり筆談しかできずに、自分はバカだと思っています。和真はそこで、アベル君にも進学校で落ちこぼれた自分を重ねていく。実体験をしたからこその気づきを書いているのも、うまいです。生活保護のところは、必要不可欠な部分だけを書いているように私は思いました。できるところをやっていこうという意欲は書かれているので、それ以上書く必要はないと私は思いました。結局、ほかの人とちゃんと関わりをもてたときだけ、人間は変わっていけるということなんですね。西ヨーロッパだと、必要最低限のお金は生活保護で得て、弱者のためにボランタリーな仕事する人がいますが、日本では生活保護はまだ白い眼で見られているのですね。「カフェ・居場所」のマスターみたいな人はいるので、私はリアリティがないとは思いませんでした。和真の父親やおばあさんはステレオタイプかもしれませんが、やっぱり日本にはこういう人いると思います。

マリンゴ:非常によかったです。テンポがよくて章が終わるたびに、次がどうなるのかと、引き込まれました。こういう物語って、ひとりのキャラが強くて、もうひとりが弱い、というのがよくあるパターンかと思うのですが、本作ではふたりとも強いんですよね。それがとても魅力的です。私自身は、進学校で苦労した経験があったので、和真のほうに自分を重ねてしまう部分がありました。読んでいて思い出したのは、数年前にネット上で物議をかもした生活保護の家庭。ひと月の携帯電話の料金が1万円を超えていて、それはいかがなものか、と批判されたんですよね。でも、既に携帯がないと生活できない時代になっていたし、自分だけでなくキッズ携帯なども必要となると・・・やむを得ないし、「これ、いらないんじゃない」と他人が簡単に言っていいことでもない。私がそんなことを思い出したように、この本をきっかけに生活保護について考えることができるのではないかと思います。

西山:ペンクラブ子どもの本委員会で困難を抱えた子どもたち向けた本を企画中なのですが、その企画の中で学んでいることがこの本の中にあれもこれも詰まっていると思いました。ふたりが互いの理解を進めていく過程が丁寧に積み上げられているという指摘も、ふたりともおなじ岸にいるのではないかという指摘も、どちらにも共感します。結局、和真と樹希たちが同じ岸にいるという指摘を、若干の不満として敢えて指摘するなら、1カ所だけひっかかったところがあります。p66で和真が自分とアベルくんを重ねるところ。「きみは、バカではありません」と和真が思わず発したこの一言はとても重要なわけですが、そんなに重ねられるものだろうか、同じ立場なのに、越えきれない骨の髄まで刷り込まれた差別意識こそがとっさに出てしまうのではないのか、と思ってしまったのです。そんなにすぐにアベルくんの側に立てるのかと。でも、ここで飛躍して、こういうペースで進んでいかないと物語の中での展開は書いていけないと思うので、これはこれでありと思いはします。

ハリネズミ:ここはアベル君を頭で理解するのではなく、自分も進学校の先生や親にバカだと思われたり言われたりする実体験を持ったからこそ言えた言葉なんじゃないですか。

西山:重なる構図は分かるのです。でもこんなに端的にそれを自覚して言葉にできるのか。和真は価値観の彼岸にはいないと思ったんです。育ってくる中でしみついてきた差別意識というものはものすごく根深くて、そう簡単には行かないんじゃないかなと私は思います。それはさておき、生活保護のことを調べるのは、この作品の価値のひとつだと思います。うまく書き込まれている。現実と重ねると、生活保護について調べたいと訪れた中学生に「生活保護手帳」を出してくるって、カウンターの人のチョイスおかしいですよね。でも、p170の「この本のわかりにくさに、怒りすらわいてきた」という一文は大事だと思うから、まぁ、これを出してくるために仕方なかったのかな。子ども学科で、ある先生から「障がいのある人にとってわかりにくさは暴力ですから」と言われてはっとしたことを思いだしたんです。制度自体の至らなさを、お勉強的に生な情報の羅列にすることなく、自然に物語にとけこませて、でもしっかり指摘している。新人作家を比べて言うのは酷ですが、『15歳、ぬけがら』(栗沢まり著 講談社)では、生な情報がつめこまれた印象がどうしても残ってしまったので、やはり、こっちはうまい。生活保護をうけている側を「けなげ」で捉えずタフさで描いたところも好きです。細かいところですが、p177で、「しがない下っ端の、助教だけどね」って、安田さん、いろんなことに気をくばって(笑)。すみずみまで異議申し立てが詰まっていて、すごい作品が書かれたと思います。

ネズミ:意欲作だと思いました。とてもおもしろくて一気に読みました。体は大きくなっても、それぞれの環境によって知っていることも限られ、制約の中で生きている中学生が、周囲との思いがけないかかわりによって世界を広げていくようすに説得力を感じました。いろんなおとなが出てくる物語って、日本の作品では珍しいのでは。頼りない担当ケースワーカーもそうですが、この人はこういう人と、決めつけてしまわないを描き方がいいなあと思いました。生活保護についてていねいに描かれ、個人の努力が足りないせいではないとよくわかります。テーマ性があるけれど、和真と樹希がどうなるか知りたくて、読まずにいられない、物語としての力のある作品だと思いました。

まめじか:すごくよかった。和真も樹希も、相手は自分とは違う側、むこう岸にいると思っているけど、その境界は曖昧なものなんですよね。若いうちは特に、この人はこうだと決めつけて壁をつくってしまうことがあります。でも、お店でアベルが暴れたときに「斎藤のおばさん」が助けてくれたり、エマがおじさんを紹介してくれたり、実は思っていたのとは違う人だったことって、現実にもけっこうありますし。樹希がけなげでなく、かといって敵意まるだしのひねくれた子というわけでもなく、その人物造形もうまい。p135「アベルくんは、泳げない魚で、飛べない鳥なんだろうか? ・・・嵐が吹き荒れる中、物陰でじいっとしているうちに、泳ぎ方も飛び方も忘れてしまったとしたら?」とか、p119「そんな時間があるおかげで、あたしは少しだけ楽に呼吸ができている」とか、心に残る文章もありました。

しじみ71個分:同じように困難な生活を送る子どもを描いた『15歳、ぬけがら』とどう違うのだろうと思い出しながら読んだのですが、登場人物の魅力や、心情の描き込み方の違い? そうなると、作家としての経験や筆力の違いなのかなと思ったりしました。生活保護に関する難解な説明については、和真が学んだ内容として紛れ込ませて、うまいこと読ませるなと思いました。それから、「うまいなぁ」と思ったのはp162~163で、和真の母親が、父親に叱られる和真をかばい、高圧的な夫に対する自分の想いを見せたところで、母親は和真の気持ちに共鳴するのかと一瞬、読者に思わせておきながら、直後に生活保護世帯についてあからさまな差別意識をのぞかせ、和真を失望させるところは二重三重に展開があってあっと思わされました。その効果で、和真のおとなへの失望、おとなの嫌らしさとともに、子どもである自分も含めた差別意識の根深さ難しさがよく伝わるなと思って感心しました。いろんなおとなたちとの対比で、子どもたちの抱える困難や苦しさが分かりやすく描かれていると思います。家庭内での抑圧と自己肯定感の喪失、虐待、貧困とか、さまざまな形で子どもたちが抱える困難を分かりやすく伝えていると感じました。
『むこう岸』というタイトルもとてもいいと思いました。何が向こう岸なのか、って考えさせられます。最初はこの世とあの世の岸のことかと思って、幽霊話か何かと思ったのですが心の問題でしたね。1本の線のような境界を越えて、むこう岸を知ろうとするか、しないか、ということが共生する世界には大事なのかなと思って、よいタイトルだなぁと思いました。「対岸の火事」という言葉もありますが、他人ごとと思って見ないふりをするかしないか、と考えるところが大事かなと。そういう意味で、和真がアベルに勉強を教え、生活保護について調べることを通して学びの喜びに気づく成長や、樹希の進学への希望などはこれからの可能性が最後に見えて、読後も気持ちよかったです。

まめじか:樹希は最後、看護師になる夢をもちます。「むこう岸」は人間関係だけじゃなく、それまで手に届かないと思っていたもののことも含んでいるのでは。いろんなことを考えさせるタイトルですよね。

花散里:昨年読んだ日本の児童文学の中で特に印象に残った作品でした。どうして12月にこういうよい作品が出るのかと思って読みました。一年のまとめをもう書いてしまったのに、と。タイトルもよいし、表紙の絵もとても作品の内容を表していると思いました。和真は名門中学で成績が低迷し、公立中への転校を余儀なくされますが、樹希が母親と幼い妹と生活保護を受けながら暮らしていることを知り、勉強の中だけで生きていた自分自身を見つめ直していく様子がよく描かれていると思います。カフェでふたりはつながりますが、子どもの居場所って大切だと思いましたし、マスターの存在がとてもいいなと思いました。世の中に、親とは違う存在があることが大切だと思いました。
生活保護を受けていたら看護士になれないと思っていたのが、なれることがわかり、勉強していくようになっていくところなど、子どもが読んで共感できるところがあるのではないかと思いました。作者の安田さんは、図書館員にはこういう人がいるのかと、見ているのかと思いましたが、ひとりひとりの人物をよく書いているなと感じました。作品を読んで、無料塾とか子ども食堂とかにも希望があると思いました。

ハリネズミ:p90に「ピアノがべらぼうにうまくて」とありますが、べらぼう、って、今の子どもも使うんでしょうか?

アンヌ:他にもいくつかp111の「なかなか窮屈です」のように子どもらしくない言い方があるので、p128で「山之内くんのしゃべり方って、おじさんぽくて、おもしろーい」とエマが言うように、個性として使わせているんじゃないでしょうか。

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エーデルワイス(メール参加):表紙が暗すぎて、読むのを敬遠したくなりました。しかし、和真と樹希の境遇が、時にはユーモアを交えながらリアルに伝わり、希望を持って終わっていたので、読後感がよかったです。学びたいと思う気持ちが伝わってきます。生活保護についてもよくわかりました。

(2019年04月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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フィリップ・ロイ『ぼくとベルさん』

ぼくとベルさん〜友だちは発明王

カピバラ:描写が細かくていねいで、情景が伝わってきました。ディスレクシアがどういうものが理解できてよかったと思います。両親がそれぞれのやり方で、息子を理解しようとしていくのが嬉しかったです。

西山:時代が時代だからが、父親がエディに障碍があると思って接しているからなのか、エディの父親に対する口調が敬語なのに違和感を覚えて最初はなかなか物語に入れませんでした。なんの話なのだろうと。読み進めたら、いろんな情報が入ってきて、それぞれを興味深く読むことになりましたが、ライムの説明はなかなかむずかしいですよね。p70〜77あたり、興味深いけれど、ついていくのが大変。こういうの、訳すの大変なのではないですか? 今回「世界が変わる」というテーマを得て、エディ本人の抱えているものが変わるわけではないけど、ベルさんという理解者との出会いからエディを包む世界が劇的に変わって開かれた。そういう作品なのだということがクリアになったと思いました。

ネズミ:小学校高学年向けの読み物として、ドキドキしながら読めるよい作品だと思いました。自分はだめだと思っていた少年が、ベルさんやヘレン・ケラーとの出会いのなかで、好きなものを見つけて前に進んでいくのを応援したくなります。少年と大人との出会いは、『ミスター・オレンジ』(トゥルース・マティ作 野坂悦子訳 朔北社)を思い出しました。ただ、話し言葉は全体に古風で、ところにより説明的な感じがしました。特に気になったのは家族の中でのお母さんの口調。「書いてごらんなさい」などは、時代感を出すために、わざとていねいにしたのでしょうか。お行儀のよい感じになりすぎるのは、もったいない気がしました。

まめじか:昔の上流階級だからじゃないですか?

カピバラ:ここは口調が変わっていくところです。最初は「書いてごらんなさい」だけど、次は「じゃあ、書いてみて」そのあと「さあ、書いて」になってますよ。

西山:エディがおつかいに行ったところは、字が書けないなら口で言えばいいのに、と思ったりしました。

ネズミ:数字の8を書いたっていいのに。

まめじか:おもしろく読みました。p134「思いちがいをされているんでしょう」など、父親への言葉遣いはていねいすぎるような・・・。昔の話だとしても。ところどころ、わからないところはありました。p13で、お父さんは主人公の字が読めとれず遅れて到着します。hとnをまちがえたようですけど、どうまちがったら、8時が9時半になるのか・・・。翼の形について友人と議論しているベルさんに意見を求められ、エディは「よくわかりません。もしぼくが飛行機で空中にうかんだとしたら、たぶん次に知りたいのは無事に地上にもどれるかってことです。でもぼくも、あの見た目はすごくかっこいいと思います」と言います。私は、エディがどちらの側についているのか、このせりふからはわかりませんでした。次のページで、ベルさんが「二対二で同点だな」と言っているので、エディはベルさんに同意し、その形の翼では飛べないと言っているんでしょうが。それと、畑の石を掘りだすのは、「大人の男がするような仕事」みたいですが、父親は、なんでそんな大変なことをエディにさせたんですか?

ネズミ:そんなに石が大きいとは思ってなかったんでしょう。

サンザシ:お父さんは、この子は勉強もできないから畑仕事のプロにしなくちゃと思ったんじゃないかな。

さららん:テーマも、出会いの描かれ方もすごくいいし、応用数学を使って、主人公が大きな岩を滑車とロープで運び出すところなども、大変おもしろかったんですが、例えばp122、p208のロープと滑車のつなぎ方は、文章だけでは想像できない。だからp125に挿絵があって、ほっとしました。ただp124に「馬たちは丘を上り始め」とあるのに、挿絵の絵は平地に見えます。またp103の「馬房」はなじみの薄い言葉ですね。p126の「主はアルキメデスだ」という文章も、スッとわからない。対象年齢を考えると、少し言葉を補ったほうがよいのかもしれません。

まめじか:アルキメデスの原理で、石を動かしたからですよね。

サンザシ:アルキメデスはp113-114にかけてずっと出てきていますよ。滑車の法則を発見した人だっていうのも出ています。もう一度ここでも補うってこと?

さららん:メッセージもストーリーも素晴らしいだけに、訳語でひっかかるのが残念だったんです。物語の魅力をさらに輝かせるためには、p70-72にかけての「ライム」についてヘレンが話す場面も、もう少しわかりやすくなるといいな、と思えました。

鏡文字:正直なところ、前半が読みづらかったです。物語に入れないな、という感じで。冒頭から、プツンプツンプツンと言葉を投げられているような気がしてしまったんです。物語そのものはいい話だなと思いましたし、エピソードもいいんです。なんというか幸福感のある話ですよね。ただ、表現面でいろいろひっかかりを感じてしまったんです。『マレスケの虹』(森川成美作 小峰書店)はちょっと改行が多すぎると思ったのですが、この本は、ここ改行なしにつなげちゃうの? と思うところが何か所かありました。それから、p20の終わりに、「そんなある日、ある人との出会いが、すべてを変えたのだった」とあり、p43には「そしてこの本が、ぼくにとってすべてを変えるきっかけとなった」とあります。すべてを変えるのがそんなにあるの? とか。それから、ベルさんって、今の子たちにピンとくるのでしょうか。

サンザシ:p4に、「世界じゅうでその名を知られる発明家、アレクサンダー・グラハム・ベル」とか、お父さんのセリフで「ベルさんは、この世でいちばんかしこい人なんだぞ」と、書いてありますよ。

まめじか:電話を発明した人って、どこかに書いてありましたっけ?

サンザシ:それは別になくてもいいんじゃないですか。この作品の本筋にはかかわらないから。

マリンゴ:作家はカナダ人ですけど、カナダではだれでもベルを知ってるんでしょうね。

鏡文字:これってまるっきりフィクションなんですか? それとも、エディにモデルがいるんでしょうか。それを知りたいと思いました。

ハル:奥付ページの上のほうに、「この物語は、史実を考慮して書かれたフィクションです」と書いてありますよ。

カピバラ:「考慮する」って微妙ですね。

ハル:まだp108までしか読めていなくて、そこまでの感想ですみません。ヘレン・ケラーに会って「かしこさの正体」に気づいた場面がぐっときました。子どもの頃には「この授業が、実生活でなんの役にたつのか」「なんでこんな勉強をしてるんだ」なんて、つまらなく思うこともあると思いますが、自分の中で賢さとは何かという答えが出ると、世界がガラッと変わるんじゃないかと思います。エディは、賢さとはp68「ぜったいにわかってやるという強い想い」だと知りますが、はたして読者はどう思うか。それぞれの答えが見つかるといいなと思います。なんて偉そうに言いますけど、私ももっと勉強しておけばよかったと今になって思っています。一か所、勉強ができないことの引き合いに、過去に事故にあったフランキーという少年が登場しているのは、嫌だなと思いました。最後まで読んだら、違う意図があるのでしょうか。

アンヌ:以前に読んだ時は、実在の人物ばかりが気になっていたのですが、今回は主人公の気持ちになれました。読み書きがうまくできないということだけで、差別されたり、何を言っても「うそだね」と否定されたりするのが読んでいてとてもつらかった。けれど、数学や問題が解けた時のさわやかさを主人公と一緒に感じられて、再読できてよかったと思います。私も左利きで矯正された世代なので、この視察員には不快さを感じました。お父さんが怒ってくれてよかった。

鏡文字:100年以上も前の1908年に、左で書くことを親が認めてくれるというのは、うらやましいことですね。

アンヌ:p68のヘレン・ケラーの知りたいという強い思いを感じるところも素晴らしいと思いました。主人公の語り口が大人っぽいのは、ディスクレシアではあるけれど、内面にはすぐれた知性があるという事を示すためなんだろうと思います。

サンザシ:これ、読書感想文の課題図書なんですね。感想文が書きやすいのかな、やっぱり。会話とかあんまり気にせずに読んだけど、そういえばそうですね。エディは10歳の子で、何も習っていないのに滑車の道具を考えだしたりする、ものすごく賢い子なんですね。普通のディスレクシアの子は、もっと大変なんだろうなと思いながら読みました。家族の外にいる人との交流の中で、子どもが自信を得ていくというテーマはいいですね。現地音主義で言うとグレアム・ベルでは? ケネス・グレアムはグレアムになってますけど、この人はずっとグラハムですね。

一同:もうそれで定着してるから。

アンヌ:ベルが飛行機まで発明していたとは知りませんでした。

マリンゴ:今回のテーマは「世界が変わる」なのですが、選書をする段階で、「史実とフィクションのさじ加減」というテーマでもいいかなと、担当者で話し合っていました。この本はまさに、史実とフィクションの混ぜ方が興味深い作品だったのです。グラハム・ベル、ヘレン・ケラーという実在の人物が重要な役割を果たす一方で、エディという主人公はどうやらフィクションらしい、と。その辺の作り方がとてもおもしろいなと思いました。カナダ人にとっては、ベル氏は英雄だし、ヘレン・ケラーは世界的に知られている人だし、どちらも一切悪く書かないで、物語にうまく取り込むのは難易度が高い気がしたのです。もっとも、著者もカナダの方なので、リスペクトする気持ちがもともと高いのでしょうけれど。先ほど、ディスレクシアの症状をつかみにくいという話がありましたが、大人になってからディスレクシアだと気づいた人が主人公の漫画があります。やはり絵で表現されると、伝わりやすくて症状がよくわかるんですよね。活字で症状を語るのは難しいのだなと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):主人公のエディと発明王ベルさんの友情がさわやかです。ベルさん、魅力的ですね。普通の人には理解できない、ディスレクしあの人の苦労がていねいに書かれていました。エディの観察力の鋭さと数学的な思考の優秀さも。

(2019年03月の「子どもの本でいいたい放題」)

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森川成美『マレスケの虹』

マレスケの虹

ハル:文学で戦争を伝えていくことの意義は、この「虹」を探すことにあるのかなと思いました。戦争の恐怖、悲劇、残酷さを伝え、絶望を知り、だからもう2度と繰り返さない、というところからさらに1歩踏み込んで、その恐怖や絶望の芯に何があったのか、戦争による恐怖の本質をいろいろな角度から考え、学び、簡単には言えないけど、やはり未来の希望へつなげていかなければいけないんじゃないかと、そんなことをこの本を読みながら考えました。

アンヌ:すぐには物語に入り込めなかったのですが、裸足で学校に通う描写のあるp25のあたりから、ハワイでの戦前の移民の生活が感じられてきました。一見封建的なおじいさんもハワイで生きてきた人だから、ハワイ人を差別しアメリカに勝つと言っている日本語学校の校長先生とは違う。p88「じいちゃんはたしかにぼくのじいちゃんだ」の意味が、だんだんわかっていきました。疑問なのが母親で、姉や兄に連絡を取らないのはなぜかと思っていたら、実はスパイと一緒だった。時代の緊迫感を感じました。「何人も令状なしに逮捕されないと、憲法に書いてあるでしょう」とp136でミス・グリーンが口にする憲法の下での人権の話がとても心に残ったのですが、戦争が始まると超法規的なFBIが子どもにまで手をのばす。こんな仕組みを作ってはいけないと思います。ハワイの海にかかる「雨の後の虹」をめぐる思いが美しい物語でした。

サンザシ:ここには、白人も日系人もハワイ人もいるという設定ですが、周りの人たちをちゃんと観察して分析しているところがおもしろかったです。たとえばマレスケはハオレ(白人)について「怒れば怒るほど、一歩ひいて、冷静になろうとする。皮肉を言っておしまいにするのも、文句を言うより、相手に響くと考えるからだろう」と思う一方で、日系一世のおじいちゃんについては、「直情径行で、頭にきたらかっかとして、自分の気のすむまで、どなりちらす」と見ています。日系人でも一世と二世はメンタリティが違って「一世はまじめで、やることはとことんやる」けれど、二世についてはもっとのんき。でも二世でも「シェイクスピアを読んでもすごいなって関心はするけど、ハオレのものだという気持ちがどうしてもぬぐえなかった」り、「俳句を読むと、ところどころ意味はわからなくても、なんとなく気持ちがわかるもんなあ。しっくりくる、って感じだ」とハジメさんに言わせたりもする。先住民のレイラニには「私たちハワイ人は、いつだって、あせらないのよ。雨が降れば雨があがるのを待つし、風が吹けばやむのを待つの」と言わせる。それがステレオタイプになるのはまずいと思うけど、いろんな人が混じり合って暮らしている場所ならではの描写だと思うと、おもしろかったです。パールハーバーの事件があって、日系の人たちが右往左往するというところも、よく描かれています。ただ私はマレスケの母親が一体何だったのかがよくわかりませんでした。スパイだったのか、だまされたのか。本の中で明かされないので疑問として残りました。一か所ひっかかったのは、p157で、マレスケが「ぼくは日本人を見殺しにしてしまった」と言ってるんですが、別に見殺しにしたわけではないのでは? マレスケが服をとりにいったあいだに、いなくなっただけなのでは?

まめじか:p124に「生きて虜囚の辱めを受けず、という男の言葉が、ぼくの頭の中をかけめぐった。捕まるぐらいなら死ね、ということだ」とあるので、このあと自ら命を絶ったと、主人公は思ってるんですよ。

さららん:その日本人を助けられなかったことを、見殺しにしてしまったとマレスケ本人が強く感じているんじゃないですか?

ハル:でも、p121に「ぼくらといっしょに、カヌーで戻ります?」とも誘っているので、たしかに曖昧な感じもします。

サンザシ:マレスケの心自体が揺れているように思い、迷っているのかなと思っていたんですけど。

マリンゴ:児童書で、ハワイの日系人の戦争関連の物語。切り口がとてもいいなと思いました。全体の3分の1のところで、パールハーバーが始まるのもとてもいいバランスだと感じました。それ以前とそれ以後と、空気の変わり方がとてもよくわかります。とても読み応えありました。ただ、最後は作者の言いたいことが全部書かれ過ぎていて、余韻が消されている気がしました。正直、p239「美しい虹だった。」で終わってくれたらよかったのにと思うくらい。あと、風景描写がほとんどないのが残念でした。読み始めて序盤で1度ストップして、本当にこれハワイの物語なのかな、と確認してしまったほどです。美しい海とヤシの木と・・・そういう美しい風景があれば、戦争とのコントラストがよりくっきりしたかと思うのですけれど。

カピバラ:戦争中の話で、暗く厳しい現実を描いていますが、主人公がまわりのいろいろな大人たちをよく見て、14歳という年齢なりに考えていく姿に好感がもて、明るい気持ちで読めました。2つの祖国の間でアイデンティティに悩むというのは、どの国の移民もかかえている問題ですが、どちらかに決めることはない、という考え方は納得ができました。現在の日本でも外国籍の子どもが多くなっているし、今の子どもたちの問題でもあるので、ぜひ読んでほしいと思いました。ただ、この表紙の絵はどうなんでしょう。何だかとっても素敵な男の子が描かれていて、ちょっとこっちを向いて、と言いたくなるような感じなんですが・・・。

ハル:足の付け根あたりの描き方がちょっと変・・・?

カピバラ:物語の中身と合っていないと思います。

サンザシ:書名の後ろじゃなくて前に虹が来てるのはわざと?

西山:最初に何の情報もなく本を手に取って、このおしゃれな表紙に「マレスケ」、またまたなんでこんな古くさい名前と思いながら読み始めると、主人公自信がこの名前が嫌だと語っていて、その由来やハワイの日系の世代間の感覚の違いまでそこで伝わってきて、かゆいところに手が届く感じで、うまいなぁと、すっと作品の中に入って行けました。日本の児童書の中で、日系移民のことを正面から書いた作品は、私は思い出せません。こういうドラマで現代の子どもに史実をお勉強的でなく伝えています。ただ、過去の伝達だけでなく、たとえばp37あたりの、マレスケが自分の進路を考えるところなど、今の子にとっても、自分はこれからどう生きていくのかという普遍的な14歳の不安につながっています。戦争についても、p136の後半の部分は、非常時は人権が制限されるという、戦争を過去の出来事としての戦闘だけでとらえない、本質を伝えてくれています。移民のアイデンティティの複雑さを象徴的に伝えてくれる、p161~162にかけての露店のシーンも印象的です。あっち、こっちと立場を2分できない複雑さに沖縄を重ねて思いを馳せました。貴重な過去のことを題材にしているけど、現代的なことも描いていて、大事な1冊が書かれて良かったと思います。先にご指摘があったように、五感に訴える描写があったら、もっとよかったのでしょうね。

カピバラ:最後のお兄さんの手紙、この時代にこんな手紙文は書かないと思ったのですが、これは英語で書いてある設定のものを日本語にしているからなんだと気づきました。

さららん:日本とアメリカでは状況が違うので、なんともいえないけれど、こんな内容の手紙を、軍人のお兄さんが自由に家族に出せたんでしょうか? 検閲にひっかからなかったのかな。

ネズミ:意欲的な作品だと思いました。戦時中の北米の日系人の状況もそうですが、100年前の移民政策によって海を渡った人々の歴史を書いた本はとても少ないので。同じ北米でも、ハワイとアメリカ大陸では違ったのでしょうか。ハワイの日系人はこうだったのかと、興味深かったです。カピバラさんと西山さんがおっしゃったように、マレスケには、今の同世代の子どもも自分を重ねられそうなところがありますね。将来どうしようとか、自分は何をしたいんだろうとか、迷っていて。なので、最後まで目が離せないところがうまい。アイデンティティについて、ありのままの自分でいい、どちらでもいい、と着地したのがいいなと思いました。ひとつだけどうなのだろうと思ったのは、p100のJAPS GO HOMEという言葉。「日本人は国に帰れという意味だ」と書いてあるだけですが、JAPSに差別的な意味合いはなかったのでしょうか。

サンザシ:最初は略語だったのが、戦争の中でどんどん日系人迫害に使われるようになって、蔑称として定着したんじゃないでしょうか?

ネズミ:解説がほしいなと思いましたが、創作だとつかないのでしょうか。翻訳ものでこういう内容だったら、必ずつきますよね。

マリンゴ:たしかに日本の本だと、巻末にあとがきを入れるかどうかは、作家次第ですね。入れたとしても、だいたいは謝辞が中心でしょうか。

まめじか:伝えたいことがあって書かれた、意味のある作品だと思うんですけど・・・。静かなドキュメンタリー映画を観ているようで。入り込めなかったのは、主人公が、思ったことをぜんぶ言葉にしていて、撓めがないからでしょうか。作家をめざすのも、先生の言葉だけでそうしたように読めて、私は納得できませんでした。

さららん:マレスケはあるとき日本人スパイとの関係を疑われ、マレスケの立ち寄ったホテルにFBIが調べに行きます。でもドアボーイは、そんな少年は知らないと答えたんです。それを「かばってくれた」としっかり感じたところに、ハワイという多民族社会の戦争時代に生きるマレスケを感じました。

まめじか:そうした場面で、主人公が自分の特性に気づく様子が書かれていたらいいんですけど、それがないので、最後がちょっと唐突に感じました。

さららん:戦争中の日系人の話は関心のあるテーマです。収容所に入れられた一家の話かなと思ったら、そうじゃなかった。私自身は、物語に起伏がないようには思いませんでした。「しかたがないものは、しかたがない」というのがおじいちゃんの口癖。戦争をテーマにした別の作品で、愛犬が連れていかれたあと、母親が子どもに「戦争なんだからしかたがないのよ」と言う場面があり、その「しかたがない」に強い反発を覚えたことがあります。でも、ハワイに移民したあと苦労を重ねてきたおじいちゃんの「しかたがない」には、人生の重さを感じました。前に読書会で読んだ『ミスターオレンジ』(トゥルース・マティ作 野坂悦子訳 朔北社)の主人公にも、出征した兄さんがいて、『マレスケの虹』の時代や状況と共通するものがあります。今の日本の子どもたちに必要な点を与える、良い作品だと思いました。

アンヌ:小峰書店のサイトでは、読者対象が小学校高学年・中学生向けとなっていますね。

鏡文字:再読です。私はこの本のオビが好きです。色もいいな、と。表紙はオビがあるとないとで、だいぶ感じが違いますね。オビの1941年12月、ハワイという言葉で、描かれる世界がすっと入ります。カバーをとった中もいい感じです。物語としては、まず、題材がとてもいいなと思いました。共感できることがたくさんあります。森川さんの作品の中では一番好きです。が、再読でちょっと気になるところが出てしまって。さっき西山さんが言ったp136。グリーン先生の問いかけに、マレスケ本人がすべて答えを持ってしまっている。「それは、戦争になったからだ」以下の記述です。ずいぶん達観しているな、と。たしかにいろいろ考える子ではあるけれど、他の記述からとりたてて早熟さは感じないタイプです。おそらく作品を描くためにいろいろ調べたことのだろうと思うけれど、「調べました感」が顔を出しているという印象もありました。それと風景描写や身体的な表現も少ないから、潤いがない。冒頭からそのことでつまずきました。p9の「14歳にしてはじめての失恋だ」以降の3つの文はいらないと思います。

さららん:「マレスケは」と三人称で書いてあったら、どんな印象になるでしょう?

鏡文字:そう、三人称にした方がよかったのかも。一人称で描かれている割には、距離があるというか、客観的すぎるんですよね。だからドラマチックなことがあるのに、平板な印象になってしまう。あ、でも、再読で新たに思ったのは、グリーン先生がいいなということで、「本を貸してあげるから」というところは、ちょっとグッときます。最後のお兄さんの手紙、p229「だけどね、ぼくらが殺そうとしている相手は親も子もいるんだ」というのは、日本兵には書けなかったことかもしれない、と思いました。アメリカの兵隊はこういうことを書けたのだとしたら、やっぱり日本の軍隊は・・・と思ってしまいます。ただ、「お母さん ぼくはあなたをあいしています」というのがラストに来て、それが実感なのかもしれないけれど、私は「母か・・・」と少し引いてしまいました。

サンザシ:翻訳だと『そのときぼくはパールハーバーにいた』(グレアム・ソールズベリー著 さくまゆみこ訳 徳間書店)というのもありましたね。その本でも、日系ハワイ人のおじいちゃんやお父さんが収容所に入れられていました。

西山:植民地下の朝鮮人が、日本軍の兵士として戦地に立った皮肉な悲劇も重なりますね。長崎源之助『あほうの星』を思いだします。

サンザシ:アメリカの海兵隊に入る人たちも、貧しくて自分のお金では大学に行けないような人たちが多いと聞いています。そういう人たちが、自分たちはB級市民じゃなくて一人前だと認められたいがために、志願するようですね。

西山:最初に上陸して戦闘に入っていく人たちなので、洗脳というか感情をもたない人間に改造されるんですよね。

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エーデルワイス(メール参加):とても印象に残る作品でした。日本とアメリカの間に戦争が始まり、その最中のハワイでの日系人の生活が書かれています。主人公マレスケの心の軌跡もていねいに書かれていて、伝わってきます。母親への思慕と嫌悪感が切ないですね。兄の広樹のような気持ちで戦争に参加する日系人が多いと思うと、それも切ない。「ノーレイン、ノーレインボウ」という言葉が印象的です。希望がある終わり方ですがすがしいです。

(2019年03月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ルイス・サッカー『泥』

さららん:『穴』(幸田敦子訳 講談社)以来、久しぶりのルイス・サッカーの作品です。動きの描写がきっちりした翻訳のおかげで、安心して読み進めることができました。同じ学校に通うマーシャル、タマヤ、チャドの3人の人間関係を核に、森の中である事件が起こります。チャドのいじめを避けようと、マーシャルがタマヤと入った森で、パンデミックが始まるのです。フランケン菌とあだ名のつい「エルジー」の不気味な増殖と、帰ってこないチャドを救いに森に戻るタマヤ、タマヤを追って森に戻るマーシャル。単純なからみあいだけれど、説得力がありました。物語には、事件の前から始まる大人たちの聴聞会での証言が織り混ざり、現実の描写と、最初は意味不明の過去の証言が交差して、初めのうちは?だらけですが、途中から、聴聞会の時間が現実の事件を後追いする形になって、真相が明らかになっていきます。巧みな構成です。説明抜き、視点が刻々と変わるところなど、サスペンスのようですが、ホッとするところ、クスっと笑ってしまうところもあって楽しめました。結末はオープンエンディングで、やや不気味。でもこのぐらいの軽さ、辛さがちょうどよく、文明への警告として今の十代にすすめたい作品です。私自身、どっぷり物語に浸って楽しみました。

まめじか:環境問題とサスペンスをくみあわせたのがおもしろいですね。社会派エンターテイメントというか。日本の作品にはなかなかないです。徐々に数が増える掛け算の数式は、正体不明のものと向きあう恐怖をかもしだしています。この本では、若い力が立ちあがり、それが世界を変えていくんですね。今、アメリカでは銃規制、欧州では環境問題をめぐる若者のデモがひろがっています。先日は、JBBYの子どもの本フェスティバルで、作家の古内一絵さんが、福島について考えるだけでなく、行動を起こさないといけないと語っていました。読んでいて、そんなことを考えました。いろいろと思いをめぐらすことのできる本でした。

ネズミ:構成や書き方がうまい。アメリカの売れるYAというのは、こういうところ、抜かりないですね。人物造形がそれほど深いわけではないけれど、物語とからみあって人物像が見えてくるからか、とってつけた感じはせず素直に納得できました。泥にはまっていくシーンと、そこから抜け出すところの臨場感は、作者も訳者も見事です。文学好きの読者にとってもおもしろいし、あまり物語を読み慣れていない読者も、どうなるのだろうとひきこまれるのでは。いじめっ子がいじめていた理由や、いじめを放っておいてしまう周囲など、日本の子どもも共感できそうです。はじめての海外文学の一冊にいい、間口の広い作品だと思いました。

カピバラ:やはり構成が緻密でうまいと思いました。たとえば計算式とか、途中途中にはよく意味がわからないところがあるけれど、あとになってだんだんわかってくるというおもしろさがありました。どうなっていくのか、先へ先へと読ませるんですけど、聴聞会の部分など難しいので、私はむしろ読書力が必要ではないかと思います。

ネズミ:聴問会の部分は、私は最初の1つ2つを読んだ後は、飛ばしてしまって、あとで最初から読み返しました。

さららん:子どもたちの描写の部分だけ読むんだと、飛ばしすぎでは?

まめじか:読んだ中学生が、すごくおもしろいと言ってましたよ。それまでファンタジーなどは読んでなかった子ですけど。

カピバラ:計算式は何かを表してるんだな、と思いながら読んでいき、先へ先へと得体の知れない恐怖が増してきます。ひりひりする感じがあり、私はあまり好きになれない作品でした。いじめっ子が、実はだれにも愛されていない子だった、という設定はちょっとありきたりかな。

ネズミ:そこが初心者向けかなと。

カピバラ:でも初心者だと、やっぱり聴聞会の部分を理解するのは難しいんじゃないかな。

マリンゴ:架空の世界なのにリアルに描かれているのが、さすがだと思いました。少しずつ悪くなっていく症状が、手に取るようにわかりました。私は、実は聴聞会の部分がとてもおもしろかったんです。対応の遅さや隠蔽しようとする行動がうまく表現されていて。これらを読んで、東日本大震災や第二次世界大戦中のさまざまなことを連想してしまいました。でも、児童書だから、ここから一気にハッピーエンドに持っていきます。その筆力がすごいです。そして最後に、こんなひどい事故が起きたというのに、製造をやめない、今度こそは大丈夫と言い張る・・・これも何かを想起させる象徴的なシーンですよね。大人にとっても読み応えのある作品でした。

サンザシ:私もとてもおもしろかったです。本を読み慣れた子だったら、聴聞会の部分もおもしろいと思います。読み慣れているかどうかというより、社会問題に対する視点があるかどうか、かもしれないけど。今の問題と重ね合わせて読めますからね。バイオテクノロジーの怖さもよく出ています。安易に技術開発して使うことのおそろしさや落とし穴がちゃんと書かれている。人物は、厚みがあるというよりは、状況のなかで動くものとして描かれています。展開のおもしろさにぐぐっと引っ張られました。すべて解決したと思ったところで、p218にまた2×1=2がまた出てきます。これ、また同じことがくり返されるという暗示ですよね。怖いです。今はバンパイアとか妖怪を持ち出して変に怖がらせるだけの作品も多いので、そういうのよりよっぽどいい。聴聞会とタマヤたちの話が無関係だと思っていると、だんだんつながってくるのにワクワクしました。テキストみたいな文章ではなく、このくらいおもしろい物語で環境問題を考えると、社会に意識をむける中高生も増えるのではないかと思います。

アンヌ:子供の時からSF好きなもので楽しく読みました。取り返しがつかない発明の恐さは、アレクサンドル・ベリャーエフの『永久パン』(西周成訳 アルトアーツ刊)を思いださせます。皮膚炎の描き方はかなり怖いなと思います。チャドのいじめの原因を家族から疎外されているからだと説明していますが、チャドのふるう暴力場面もかなり怖いです。p157、p160あたりですね。助けに来てランチを食べさせてくれるタマヤがここまで我慢する描写に、作者はタマヤが女の子だからそうさせたのかなと、ちょっと怒りを覚えました。男の子だったらここまで世話を焼くようには書けなかったでしょう。

サンザシ:いじめっ子だったら、これくらいするんじゃないですか? これが現実なんじゃないかな。タマヤをがまんさせると言うより、むしろタマヤを冷静な存在として描いているのではない?

アンヌ:32章のp197「カメ」で、あ、助かるんだと未来を見せハッピーエンドを予感させるところはうまい。ユーモアのある作風とはこういうところかと思いました。気になったのはp232「風船を膨らませる方法」の活字です。らの字がとても読みにくいので、なぜこの書体を選んだのかと。

サンザシ:手書きっぽくしたいんでしょうね。そういえばp233に誤植が。

ハル:あとがきに「パニック小説」という言葉もありましたが、まさにそういう、パニック映画を見るような感覚で、読んでいるときは純粋に楽しみました。2×1=2、2×2=4の数字の意味に気づいたとき、見出し回りの泥がどんどん増えていくことに気づいたときの、うわぁぁぁと背筋にくるような気持ち悪さ。ラストもお約束的で(これは、雪が解けたら、そこには突然変異でさらに進化したバイオリーンがいるんですよね?)、もう、きたー!という感じ。だけど、読み終わってから、ただ「おもしろかった」だけでは済まないものがついてくる。そこがいいですね。やはり、ていねいにつくられた本は、読者にも伝わるんだなと思いました。

西山:7章の最後から登場する数式が、エルゴニムが36分毎に倍に増える様を表しているのだけれど、「2×〇〇」という数式になっています。「〇〇×2」とした方が倍々に増える恐怖が出ると思ったのですが・・・。

サンザシ:アメリカの計算式の書き方なのかしら? でも2つに分裂したものが〇〇個あると考えれば、同じかも。

西山:まさかパンデミックものだとは思わずに読み始めたので、皮膚のただれる様子とか想定外の怖さでした。再読する時間がなかったので、ていねいに読みかえしたら、あらためて気づく絶妙な伏線とかあるのだろうなと思っています。

鏡文字:雪解け後のことを考えた時、園子温監督の『希望の国』のラストシーンを思いだしました。逃れて海辺に出てマスクをとり、晴れやかな気持ちになる。と、手元の線量計がピーピーと鳴ります。あの怖さにちょっと類似したものを感じました。この本は、物語そのものはおもしろく読みました。ただ、p131の聴聞会の記述で、瀕死の状態とあって、そこで死ななかったとわかる。前半の緊張がここで一気に緩んでしまいました。それから、バイオリ-ンの設定。これがファンタジーになってしまったかな、と。ファンタジーが悪いわけではないのだけれど、ちょっと説得性が不足してしまうというか。ところで、ラストの風船をふくらませる方法は、みなさんはどう感じましたか。

サンザシ:助かると思うと緊張が途切れる、というのは、大人の読み方かも。それに、いったんはほっとさせますが、それで終わりではないし。

アンヌ:天才のフィッツマンの頭の中にあるものと実際に生まれてくるものの違いでしょうか? 言葉で表していても、実際はその発明を実現する技術は追いついていない。突然変異に対処できるのか不安が残ります。

さららん:恐ろしい話として読んでいても、これは創り話だから、と、どこかで安心していられます。やっぱりファンタジーっぽいのかも。

鏡文字:人間関係はリアルな緊張感があるのに、バイオリーンがファンタジーなので、怖いんだけど、そんなに怖くない。という感じがしました。

サンザシ:私は逆に、バイオリーンが今の社会のもろもろを象徴的に表しているような気がして、逆に怖かったです。

さららん:装丁もいいですね!

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エーデルワイス(メール参加):私はこの作家とどうも相性が悪いようです。『穴』も読後感が悪かったのを思い出しました。この作品も、内容はおもしろいし主人公が魅力的なのですが、構成が懲りすぎているように思いました。

(2019年3月の「子どもの本で言いたい放題」)

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リタ・ウィリアムズ=ガルシア『クレイジー・サマー』鈴木出版

クレイジー・サマー

アンヌ:知らないことばかりで驚きながら読んで行きました。ブラックパンサーがこんな風に人民センターを運営し、食事やサマーキャンププログラムで夏休みの子どもたちの世話をしていたんですね。いろいろと調べながら読まなくちゃと思っていたんですが、それにしても、なぜここまで注をつけないんでしょう。セシルはなぜ子供たちに来させたんだろうと読んでる間中思っていました。水一杯飲ませるのに、ここまで子供を怖がらせるとか、理解できないことが多すぎて。例えばp144でセシルが言う「わたしたちはつながりを切ろうとしているんだよ」の私たちは誰なのか?とか。勝手につながろうとするなと言いながら、デルフィーンにもっとわがままを言ってもいいと言うのはなぜなのかとか。セシルの言葉の中に、手掛かりを探していました。セシルの生い立ちを知っても、すっとわかるというわけでもなく、いまだ釈然としません。物語としてはおもしろく、とてもパワーがあってどきどきしながら読めました。ただ、時代についてもセシルについても本当にわかりにくく読みづらい本でした。

彬夜:物語そのものはおもしろく読みました。3姉妹のキャラもいいし、前半、ちょっと読むのがきついけど母親像もおもしろい。ラストもいい感じです。ただ、いまの日本の子どもが読んでわかるのかが疑問でした。主人公は11歳ですが、かなり大人びています。読者も高校生ぐらいなら、読めるんでしょうか。薄手の紙を使ったのか、見た目よりページ数も多く、けっこう長い物語です。いきなりカシアス・クレイが出てきて、まず、今の子知らないよ! と思ってたら、少し経つと、50年前の話であることがわかってくる。でも、公民権運動についての説明もないし、これ予備知識なしに、理解するのはハードル高いんじゃないでしょうか。私が読んでも、「世界の反対側」という表現には戸惑ったし、「有色人種」と「黒人」という言葉に、当時どういう意味を持たせていたのか、わかりません。注釈も少なく、読者を選ぶというか、あまり親切な作りになってないと感じました。こなれてない訳文も散見しました。日系のヒロヒト・ウッズという少年が出てくるんだけど、どういう考えがあって、ヒロヒトと名づけたんでしょうね? この少年の描写もちょっとひっかかりました。p147の「そんなに目が細くて~」というところ。そして、当時の職業観といえばそれまででしょうが、ジェンダーバイアスたっぷり(158p)で、やっぱり、今読む子への配慮がほしいな、と。
あとがきの文章を読むと、ワシントン大行進より先にケネディ暗殺があったような印象を与えてしまいます。それから、訳者は「ユーモアがあって」と解説していますが、そのユーモアは感じ取れなかったです。好きなところは、p173の「公園に名前をつけてもらうより、自分が公園にいたかったんじゃないの?」という言葉です。

ルパン:これは読むのが難しかったです。読んでいるときは、この母親がどうして子どもたちにこんな態度でいられるのか、そもそもどうして家庭を捨てたのか、というところがさっぱりわからなくて。全部読み終わってから、「きっとセシルは、白人に頭を下げて生きていくような姑や夫の生き方がいやだった…んだろうな」とか「子どもには、民族の誇りを表すような名前をつけたかったのに、ちがう名前をつけられていやだった…んだろうな」とか「父親はセシルの生き方を一度見せておこうと思ってわざわざ会いに行かせた…んだろうな」とか、「セシルは政治活動にかかわっているから、子どもに累が及ばないようにと思って冷たくした…んだろうな」とか、いろんなことを一生懸命考えたんですけど、それが合っているのかどうかもわからず、フラストレーションがたまりました。そもそも、これ、小学生が読んでわかるんでしょうか。せめてあとがきに「アフア」という名前のこととか時代背景のこととかを含めてもっとわかりやすい物語解説を書いてもらえたらよかったと思うのですが。さらに、あとがきに「全編がユーモアと愛とさりげない感動に満ちて」いるとありましたが、そうかなあ…? 少なくともユーモアはあんまり感じられませんでした。訳し方の問題かな? ネイティブが原語で読めばユーモラスに思えるのでしょうか?

ハル:日本の本にはなかなか登場しない母親像だなと思いましたが、とても難しかったです。時代背景のこともですが、母親が娘を置いて家を出た理由も、わかるような、わからないような……。自分の思想、信念を守るためにこういう選択をしたのかなとは思いますが。いつもなら「こんな難しい本じゃ伝わらない」とばっさりいくところ、この本に関しては、先ほどの「日本の本にはなかなか登場しない」母娘関係という意味で、わからないながらも読んでみて、世界にはこういう母娘もいるんだろうかと想像してみるのも良いのかなと思いました。とはいえ、末の娘の名前のところは、どうしてその名前にこだわったのかが、少なくとも日本語版からはまったくわからなかったので、そこはわかりたかったです。

ネズミ:お話として、とてもおもしろかったです。とても濃い。すべてを言語化しようとしていくところは、日本の作品にはないものですね。サンフランシスコに遊びにいくところ以外、舞台はほとんど変わらず、大きな山場のないストーリーなのに、この子がどうなるのか、読まずにいられなくなってくるところがすごい。我慢強いお姉さんのデルフィーン。感受性が豊かで、思いを外に出さず、どんどんひとりでためこんで、手のつけられない妹たちと一生懸命生きていて、いったいどうなるんだろうって。印象に残ったところがいくつもありました。たとえば、p100の6行目の「妹たちとわたしが話をするときは、いつもかわりばんこだ。……デルフィーン、ヴォネッタ、ファーン、デルフィーン、ヴォネッタ、ファーン」とか、p116の8行目「だれの心にも、ラララがある」とか。でも、訳文が不親切だと感じるところもぱらぱらありました。小学校高学年から中学生くらいの読者なら、もっとドメスティケーションしてよかったんじゃないかと思います。訳語だけ出されても、わからないところなどは。

まめじか:日本の作家は書かないテーマですし、骨太の作品だと思いました。でも、わからない部分がところどころあって。p84で、ブラックパンサー党の人が「この絵がどうかしたか」ときくんですけど、Tシャツの絵のことですよね? そのあと、主人公が、答えはわかってるというのは、どういう意味でしょう。この3姉妹は、かわりばんこに、歌をうたうみたいに話すと書かれていて、だから、原文でもそうなのかもしれませんが、p80やp170は、だれの言葉かわかりませんでした。子どもの本だったら、だれのせりふかわかるようにしたほうがいいかと。あと、母親の口調が乱暴なのが気になりました。品がないだけの人のように感じられて。p73「いいから、おまえ、さっさと飲みな。一滴も残すんじゃないよ」とか。男っぽい服を着て、詩人で、ほかのお母さんとは違うにしても、この言葉づかいでいいのかな・・・。

ツチノコ:当時の文化や固有名詞があまり分からないなりに、独特の空気感を楽しみました。公民権運動が盛んな時代のオークランドでのひと夏を疑似体験した気分で読書しました。社会背景を知らないと理解しづらい部分があるので、注や説明が少ないのは不親切だと思います。黒人だから誇り高くきちんとしないといけない、万引き犯に間違えられないように堂々としないといけない、といった自制心が痛々しくも健気で、11歳の女の子にここまで考えさせる社会の空気や人種差別の根深さが伝わってきました。一生懸命に健気に生きるデルフィーンたち3姉妹の姿がまぶしいです。この本でブラックパンサー党やハリエット・タブマンについて初めて知り、少し調べてみました。人種問題に興味を持つきっかけとしても、いい本だと思います。

ケロリン:昔の話だと思わずに読みはじめ、あ、昔なんだな、と思い軌道修正しながら読む感じでした。アメリカの1960年代でさらに黒人問題となると、子どもの読者には、物語に入っていくのに、かなりハードルが高そうだと思いました。しかし、大人の読者だと、緊張感を強いられながら生活している様子など、当時の状況を知ることができておもしろいと思いました。ただ、わからないのがセシルの気持ち。ここまで子どもたちに冷たく当たる理由を、文章から読み取ることができなかったです。特にデルフィーンは、母の行動にいちいち深く傷ついていく。だから最後に、娘たちが詩を朗読したり、犯人を見つけたりして大喝采を浴びたあと、娘たちと別れるシーンで娘たちをハグするシーンが、ちょっと嫌な感じに思えてしまいました。うまくやったから娘たちをハグしたように思えて・・・。物語がよく読み取れなかったのかもしれません。でも、日本の作品だったら、これだけわからないところがあると、けちょんけちょんに言われるのに、翻訳だと「わからないけど雰囲気はいい」みたいに言われたりするんですよね。それが、下駄履かされてるみたいで、嫌です。翻訳物って、もともと自分がわからない世界だから、想像で補って成立するところはあるんだけど、このお母さんのことは、もっとちゃんと知りたかったですね。

ネズミ:でも、p145の「デルフィーン、もっとわがままをいっても死にはしないよ」って声をかけるところなど、お母さんの変化が感じられますよね。

マリンゴ:なぜだか読みづらかったです。終盤、引き込まれていって、盛り上がってよかったなとは思うのですけれど。文体の問題なのかどうなのか、お母さんのセリフにも馴染めないものがあって、中盤までスムーズに読めなくて、しんどい読書体験でした。描かれている社会背景は興味深かったです。キング牧師やマルコムXについてはそこそこ知っているつもりでしたが、ブラックパンサー党の具体的な活動や人民センターの様子など、初めて知ることもたくさんあり、勉強になりました。

アカシア:クレイジーって言葉ですが、タイトルだけじゃなくて、お母さんもクレイジーだし、クレイジー・ケルヴィンも出て来るし、原書ではそれで全体の雰囲気もかもしだしているんでしょうね。ただ日本語にするのが難しい言葉なので、訳文ではそのまま「クレイジー」だったり「どうかしている」だったり「頭のおかしな」だったり、いろんな訳し方がされています。私も、お母さんがなぜ家を捨てたのか、なぜ3人の娘に会っても冷淡なのかというのは、最後まで読んでもわからないままでした。
この作品は、ニューベリー賞オナー、全米図書賞ファイナリスト、コレッタ・スコット・キング賞、スコット・オデール賞などすごくたくさん賞をとっているんですね。続編もあと2冊あって、そっちも賞をとっている。だから、もっとおもしろい作品のはずなんです。それが、日本語で読むとそれほどおもしろくない。その理由の一つはもちろん、アフリカ系の人たちの歴史や文化が日本ではあまり知られていないからだと思います。でも、もう一つの理由は、翻訳なのかなと思いました。原文の一部がアマゾンで読めるんで、読んでみたら、けっこうニュアンス違うなあとか、訳をもう少していねいにしてもらえれば、と思うところがありました。たとえば、p3の「自分と妹たちを力いっぱいシートに押さえつけて」は日本語として変だし、p5の「(父親が)自分もいっしょにくるわけじゃない」だと、父親も母親も娘たちに冷淡なようにとれますが、原文では「私たちを行かせたいわけじゃなかった」となっているので、父親はもっと思慮深いイメージです。全文を比較したわけではないので、この先は単なる想像ですが、もしかしたらセシルについても、原文ではちゃんと理解できるように書かれているんじゃないでしょうか。この訳者の方は、うまいなあと思う作品もいっぱいあるのですが、この作品は相性が悪かったのかな。セシルの口調も荒っぽく訳されているせいか、考えの足りない人のように思えて、最後のハグも、ケロリンさんのおっしゃるように自分で想像力を思いきり膨らませないかぎり、とってつけたように思えてしまう。残念でした。
あと、ブラックパンサー党が政治活動だけじゃなくて、貧しい人たちのための活動をいろいろとしてたことは伝わってきますね。ただ、英語だとpeopleだけど日本語だと「人民」と固い語になってしまいますね。

ネズミ:注があまりないと思いました。入れない方針だったんでしょうか。

アンヌ:固有名詞については、前半のp6、p7、p9、p63、p91等に、かっこで注が入っているものもありますね。でも、例えば「赤い中国」(p103)などの歴史的事実について、どこかに注があればもっと読みやすかったと思います。

カピバラ:わからないところはいろいろ、たくさんありましたけど、デルフィーンがあまりにも健気なので、この子が最後に幸せになるところを見たい一心で、深く考えずに先を急いで読んでしまいました。今回の課題3冊は、主人公が同年齢ですが、日本の2冊とは外の世界に対する気持ちのはりめぐらし方、緊張感の度合いに雲泥の差があります。日本の主人公たちには、デルフィーンに比べたら、あなたたちの悩みなんて何ほどのものでもないよ、と言いたくなるほどでした。私も最後がいちばんわからなくて、ハグさえしてもらえば、それでよかったのかな、と疑問に思いました。細かいところでは、情景をわかりやすくするために固有名詞を使った比喩がふんだんに使ってあるのですが、スニーカーを「原始家族フリントストーン」のフレッドみたいに引きずってピタッと止まった。(p202)、マイクをダイアナ・ロスみたいに握ると(p254)、ハリウッドの黒いシャーリー・テンプルだといわれたみたいに舞い上がった(p262)など、日本の読者にはかえってわかりにくくなってしまっています。

彬夜:読者対象はどうなんでしょうね?

カピバラ:5、6年から中学生を対象にしていると思いますが、中学生でも難しいんじゃないでしょうか。

ケロリン:ルビの付け方を見ると、中学生向けのようです。

カピバラ:サラ・ヴォーンとかスプリームスとか言われても全くわからないでしょうからね。それに、スプリームスって、シュープリームスですよね。

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エーデルワイス(メール参加):主人公のデルフィーンがとても健気だし魅力的ですね。まだまだ黒人差別がはっきりある時代に、毅然として態度をとり続けるのは並大抵のことではないのだと思いました。最初はセシル(ンジラ)のことを何様?と思っていましたが、だんだん素敵に思えてきました。幼い娘三人を残してなぜ家を出たのか、ジュニアに理解できるのかな?

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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魚住直子『いいたいことがあります!』

いいたいことがあります!

ツチノコ:読みやすくてメッセージも分かりやすく、おもしろかったです。自分が子どもの頃にこの本を読んでいたら、すごく感銘を受けたと思う! 子どもの頃は自分の親を一人の人間として客観的に見ることが難しいから、母親の悩みや過去に思いをはせることで何か気づきがあるかもしれない。家事分担や将来、友人関係についても絶妙なリアルさで描かれていて、読者が身近な問題を考え直すヒントになりそうだと感じました。

ケロリン:この作者は、女の子が主人公のお話が上手ですね。ハシモとのやり取りとか。スージーが出てきたとき、すぐに正体はわかったけれど、とても上手につないでいると思います。いつの世も、母親は自分の失敗を繰り返してほしくなかったりもして、いろいろアドバイスをするけど、うっとうしがられる。そんな気はちゃんちゃらないつもりでも、どこかで自分の付属物のように思ってしまっているのかもしれません。

マリンゴ:すっと頭に入ってくる物語で、とても読みやすかったです。魚住さんはほんと、女性と女性が関わりあう物語が特におもしろいなぁと思います。『Two Trains―とぅーとれいんず』(学研プラス)もそうですね。仲良くなったお姉さんが、実は昔のお母さんで、自分と今のお母さんをつないでくれる存在になる、という構造がとても効いているなぁと思いました。

アカシア:母親と娘の日常がリアル。リアリスティック・フィクションですが、ファンタジーの要素も入っている作品。そういうのは、うまくまとめるのが難しいと思いますが、これはとてもよくまとまっています。それに、子どもの側からだけじゃなくて、母親の視点もちゃんと描かれている。とてもおもしろく読みました。陽菜子は最後に自分の道を見つけたわけですが、それが具体的には塾にちゃんと通うだけというのはちょっと寂しいけど、主人公が成長したことは伝わってきますね。家事の分担に焦点をあてた書評もいくつか見ましたが、もっといろんなことを扱っている作品じゃないでしょうか。

カピバラ:子どもを思い通りにしたい母と、反発しながらも直接ぶつかれず、塾をさぼってしまう娘。6年生は母親に対していろいろ疑問を持つ年頃で、モヤモヤした気持ちを自分でももてあましている感じがよく描かれ、共感するところが多いと思います。スージーがお母さんの分身とはすぐにわかるけど、今のお母さんとはあまり結びつかないですね。スージーがお母さんだというのが、妹である恵おばちゃんの話でわかるわけですが、陽菜子自身がちょっとずつ「もしかしたら?」と気づいていくほうがおもしろかったんじゃないかな。気づく伏線がもっとあったらよかったのに。お兄ちゃんには家事をさせない、専業主婦を選んだ母親の、夫へのなんとなくの負い目など、男女差について読者に問いかけている部分がありますが、それがこの作品の主眼ではないですよね。6年生女子の微妙な友だち関係はうまく描けていると思いました。p 22 に、スージーが紺色のポロシャツを着ているとありますが、挿絵はどう見ても紺色には見えません。文と絵を合わせてほしかったです。

アンヌ:「あのさ、ごはんってだれでもたべるよね」(p179)で始まる言葉が、この物語を通しての陽菜子の成長のあかしだと私は感じました。家事は母親の仕事だと兄が言うのに対して、家事は生きていくための能力であり平等に誰もが身につけなくてはいけないものだと気づいて口にすることができたのは、よかった。陽菜子が日々感じてきた不満や不平等感が、母だけの責任ではないこと、男女間の不平等の問題に気づいたのだと思います。でも、兄にはその言葉が届かずただ怒っているように書かれているので、これでは母と娘だけの物語で終わってしまっていますよね。兄がこうでお父さんも同じだったら離婚かな?なんて心配しながら読み終りました。

彬夜:中表紙の紙が好き。これも再読でした。母子対立はあっても、重くなく、さらっとおもしろく読みました。ゆるやかにリアルという感じでしょうか。責められる子が出てこない。母子の対立を含みながらも、疲れている時でも読める本かもしれないですね。嫌な子は出てこないし。ご指摘のとおり、スージーはすぐにお母さんだとわかるけれど、それでいいと思いました。徐々にわかるほうがいいというカピバラさんのご意見には、なるほどと思いましたけど。おもしろい言い回しだなと思ったのが、「難しい大学」という言葉と、単身赴任の父を指して、「家族のレギュラーじゃない」という言葉です。

ハル:子どもの立場としては、一度くらいは親の子どもの頃を見てみたいと思うことはあると思います。「お母さん(お父さん)だって子どもの頃があったくせに、どうして子どもの気持ちがわからないんだ!」って。このお話は、ファンタジーとしてその願いを叶えてくれています。本を読むことの醍醐味だなと思います。手帳に書かれていた言葉は、自分にも確かにこういう時代があったなと思い出させてくれる、リアルさと力強さがありました。同世代の読者ならなおさら、「そうだ! そうだ!」と勇気づけられるだろうと思います。

ネズミ:おもしろく読みました。私もこんなふうに思われていたことがあったんだろうなって思いました。娘はずいぶん煙たがっていただろうなって。この本は、絶対的な権力者だった親が、ひとりの「人」になるときの感じを、とてもうまく表現していると思いました。スージーがお母さんだというのは、最初から読者にわかるように書いているのだろうと私も思ったんですけど、p141の、物置の屋根にあがって二階の窓から入った、というところで結びつくのがうまいなと思いました。登場人物の中で、陽菜子だけが、ここで「あっ」と思うでしょう。お兄ちゃんだけ甘やかしてという母親の行動は、私もちょっと古い感じがしましたが、友だちの描かれ方は好きでした。友だちに誘われて遊びにいくけど、実はその子たちには別の意図があったというところや、ハシモが絵をほめてくれるところ、心の機微が現れています。よかったです。

まめじか:この年頃は、親だって間違えるのだと気づきはじめ、少しずつ自立に向かう時期です。親に一方的な正しさを押しつけられれば、反発もします。親子といっても、別の人間なのだから、自然にわかりあえるわけではない。主人公の心の動きがていねいに描かれていて、感じのいい作品だと思いました。手帳にスージーが書いた言葉も、ストレートに胸に届きました。中学2年生で、ここまで自分の意見を整理して、言語化できるのかな、とは思いましたが。この子はしっかりしているので、できたのでしょうね。

西山:さらっと読めてしまったのだけど、変な言い方ですが、たぶんすごく上手。深い謎で引っ張っていくというわけでもないし、妙にとんがったところがなくて、でもそれを物足りないとは思いませんでした。多分すごく上手というのは、あのスージーの手帳の文章が、手書き風にフォントを変えて何度も出てきますよね。それが、そのたびに、ちゃんと読まされたように感じてはっとしたんです。コピぺに思えたら、中身は知っているわけですから飛ばし読みもできたはずなんですけど、その都度改めて読めて、腑に落ちていった気がします。これは絶妙な繰り返しなのじゃないか。作為を感じさせないけれど、そうとう練り上げられているのかもと思った次第です。お兄ちゃんにだけは、いらつきましたね。ドラマにはよく出てくるけれど、今更なパターンに思えてしまいました。

アカシア:母親がそういうふうにしむけているわけですよね。確かに古いですが、まだまだ実際はこういう家庭も多いんじゃないかな。じゃなかったら、日本はもっとよくなってるはずだもの。

西山:お父さんの描き方も絶妙ですね。p97で陽菜子がわかってくれるかどうか迷うけど、電話してみると案の定だったとか。それと、p132の挿絵があるところと、p153で、スージー/母親は両方とも丸い椅子に座っているんですよ。さらっと読めちゃうけど、細かい所までちゃんと考えられてるんですね。

ケロリン:ぜんぜん関係ないんですけど、スージーが最初に出てきたとき、とてもやせている絵だったので、やせていたので「スージー」っているあだ名になったというオチでは!?と思って読んでいました。(笑)

アカシア:この本には悪い子が出て来ないってところですけど、悪い子を書くと、悪いってだけで終わらなくなります。今は、なんで悪いのかを書かなきゃいけなくなるからね。『ワンダー』(R.J.パラシオ著 中井はるの訳 ほるぷ出版)だって、1巻目ではいじめっ子でしかなかったジュリアンから見た物語を2巻目の『それぞれのワンダー』で描かなきゃいけなくなる。悪い子を登場っせないのは、もちろん作家の「こうあってほしい」という願望もあるでしょうけどね。

西山:ひと昔、ふた昔前は、もっと陰湿でどろどろに展開するいじめ物語も多かったけれど、この本では「地元の中学に行く子をふやそうキャンペーン」(p114)だなんて、言葉選びもうまい。陽菜子に塾をサボらせた子たちも、それを伝えてくれたここちゃんも、不信感をこじらせて引っ張らない展開も、どれも私は好感を持って読みました。

ルパン(終わってから参加):今日話し合う3冊の中では一番おもしろかった作品です。主人公の陽菜子と昔のお母さんが出会う、という設定もいいと思います。ただ、息子には何もさせなくて、娘には家事をたくさんやらせる母親って、ちょっと古いかな、とは思いました。あと、陽菜子は行きたくなかった塾にまた行くようになりますが、ここちゃんの告白がなかったらどうなっていたかな、とも思いました。どちらかというと、小学生より保護者に読んでもらいたい作品かな。無意識に自分の思いを子どもに押し付けている親は今でもたくさんいると思うので。自戒もこめて。

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エーデルワイス(メール参加):これも、従来からある手法を使っていますが、読ませますね。p240の「子守歌をいつやめたらいいのか、つなぐ手をいつ離したらいいのかそれがわからない」など印象的な言葉も多いし。あれもこれもできないといけない女の子って大変ですね。流されない自分をもつことの大切さを感じました。

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

 

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安東みきえ『満月の娘たち』講談社

満月の娘たち

彬夜:安東さんの作品は、ほとんど読んでいて、これも再読です。3組の母娘が出てきますが、基本的に繭の物語かなという気がしました。安東さんは比喩表現なども巧みで、とても文章が上手。たとえば、「プリンが崩れたみたいに、てれっと笑った」(p10)とか、「(サバが)アメリカンショートヘアーみたいな模様」(p142)とか。私は動物に詳しくないので知らなかったけれど、ネットでアメリカンショートヘアーを検索して、とても納得しました。随所にまだまだおもしろい表現があります。繭の物語と感じてしまったのは、一番深刻そうだからで、語り手=主人公である志保は、ある意味、母とけんかできる時点で健全だなと感じてしまったからでしょうか。志保はすごく冷静な子だと感じました。達観しているというか、冷めた目で世の中を見ているな、と。それから、ちょっと書きすぎ感があるかな、という気もしないではありませんでした。野間児童文芸賞の受賞作だし、おもしろく読みましたけれど、私はやはり、安東さんの短編作品の方が好きです。

アンヌ:うちの家族が珍しく表紙を見て「わあ、ヒグチユウコだ。おもしろい?」と訊いてきて、若者に人気のあるイラストレーターなんだと改めて思いました。私は、残念ながら前半のおもしろそうなやりとりに乗りそびれてしまったようです。そこに繭さんが出てきて、釈然としない人物だなと思っているところに、幽霊らしきものが出てくる。それなのに、助けたのかあの世に引きずり込もうとしたのかわからない、という展開では、幽霊も出てきた甲斐がなく、この親子の問題は曖昧なままで役割を終えた感じです。前半部については、p112の祥吉への恋心を書いておいて、ふと外すところとか、p153の月の話とか、いい場面や言葉がたくさん山あって附箋だらけなんですが、全体については、楽しめませんでした。

カピバラ:中学1年生の志保と美月と祥吉は保育園からの幼なじみで母親同士もよく知っている。3人の会話がテンポよく描かれており、時にアハハと笑いながら読めてドラマでも見ているようでした。幽霊屋敷を探検するというのも中学生にはおもしろいストーリーだし、ちょっとホラーっぽい、謎めいた独特の雰囲気があって、読ませる作家だと思います。でも繭さんの描き方は不自然なところもあり、実在する人のリアルな感じがしませんでした。作者が伝えたかったことは結局何なのか。母親のたった一言の呪縛から逃れられずに苦しむ娘の葛藤? 娘を愛しすぎるために娘を束縛する母の葛藤? 問題提起はいくつかありますが、解決するところまでは行っていないので物足りなさを感じました。タイトルや表紙デザインは魅力的でよかったけれど、男子をシャットアウトしているのが残念。

アカシア:私も安東さんの短編は好きですが、うますぎて子どもにはわかりにくい作品もあると思っていました。この作品のほうが子どもにもわかりやすいんじゃないでしょうか。幽霊話で引っ張っていくので一気に読めるし、ユーモアもあるし。私は、繭さんのことよりいろんな親子関係があるっていうことを書きたいのかと思いました。中心にいる3人は、それぞれ何かしら問題を抱えています。志保と美月は、母親としっくり行っていない。祥吉のお母さんはちゃんとしていて、祥吉は反発も感じていないし家の中に居場所がないとも感じていませんが、お父さんがそばにいません。私は、この本から、「家族はいろいろだ」し、「母親を全面的に正しいと思わなくてもいい」というメッセージを受け取りました。最近は、親子が無条件に絆で結ばれているわけではないと子どもの本でも言っていますが、ひと昔前までは、親子は愛の絆で結ばれているのが当たり前という書き方でした。そうでないのは、たとえばルナールの『にんじん』のように、とても稀な例外だった。だから私は、子どもの頃にこの本を読みたかったと思いました。こういう本がもしあったら、私は救われていたと思うんです。今だって、救われる子はいっぱいいると思います。最後の場面ですが、繭のお母さんが娘を守ろうとしたのか、それとも自分がいる死の方へ引っ張ろうとしたのかわからない、という意見がありましたが、私はわからないからこそいいんだと思います。どっちかに結論づけていたら、月並みになるか、オカルト物語かどっちかになる。わからないからこそ、割り切れない母子関係が立ち現れるんじゃないかな。私にとっては、好感度がとても高い作品でした。

マリンゴ: 素敵な作品でした。娘と母親を描く小説って、2人が向き合うタイプのものが大半だと思うのですが、この小説のなかには「月」という、象徴的なものが1つ加わるので、母娘関係を客観的に描くことができているのだと思います。とても余韻が残ったし、自分自身、母とのことを少し思い出したりもしました。先ほどの話にも出ましたが、私は「解決しない」のがいいと思いました。読者にはそれぞれ違う母娘関係があるから、何かピシッと結論を出されると、「自分とは違う・・・・・・」と感じてしまう人も多いのではないでしょうか。唯一、物語で気になったのは“匂わせ”部分。たとえばp19「でも、笑っているこの時には気づかなかったのだ。残り一パーセントの可能性ともうひとつ、怖いのは幽霊だけではないことに」を読んで、異世界に飛んで行ってしまうなど、よほど恐ろしいことが起きるのだと思ってしまいました。だから、警察署に連れていかれるという実際の展開も、本当ならじゅうぶんショッキングなのですが、自分の想像が激しすぎたので、なーんだそういうことか、と少しがっかりしてしまったのです。こういうふうに先を匂わせなくても、じゅうぶん怪しげな雰囲気は漂っているので、ないほうがかえって読者には親切かなと思いました。

ケロリン:母と娘とは、永遠のテーマなんでしょうね。反抗期からまだ抜け出ていない娘を持つ身としては、胸がイタタタとなりながら読みました。特に、繭さんをなぐさめるつもりで言った、「もしも私なら、最後に大嫌いって言われたってどうってことないわ。子どものついた悪態なんてなんでもない。覚えてもいないわ!」というセリフですが、母親ならなんてこともなく受け止めてるよ、という意味にも取れるのに、美月と志保には、子どもの言ったことを覚えてもいないなんて、勝手だと言われてしまう。母と娘ってこんなことの繰り返しなんでしょうね、とさらにアイタタタとなりました。しかし、今はフルタイムで働く母親も多く、本当に覚えてなかったりするのかも、と思うと、母と娘の関係も、少し前とずいぶん違ってきているのかもしれません。

ツチノコ:かなり好きなお話でした。文章のディティールや、表現で、いいなと思うところがたくさんありました。ヒグチユウコさんの表紙イラストや装丁の色遣いも素敵ですよね。幽霊の描写が中途半端だったり、作中に登場するいくつもの親子関係がどれも似通っているような気がしたり、なんだかしっくりこない部分もありましたが、最後の急展開で吹き飛びました。ラストシーンでは「サスペリア」という古い怪奇映画を思い出しました。館の崩壊と共に母娘関係の呪縛も解けたかのような不思議な爽快感、カタルシスがあります。繭さんがミニチュア作家というのも箱庭療法のようで象徴的ですよね。オビにある、「まるで神話のようだ。新しい時代の母娘の。」という梨木香歩さんのコメントが印象的でした。

西山:子どもたちのぽんぽんとしたやりとりがおもしろくて、ところどころ吹き出しました。例えば、p25の「孤独死」の勘違いなんておかしいし、はっとさせられる新鮮さもあります。p62後から4行目の「美月ちゃんのおばちゃんとうちのママは仲がいいけれど、意見の割れることも多いみたいだ」というくだりなんかも、母親たちの描写として新鮮に思いました。そうやっておもしろく読んでいたのですが、どうも繭さんが出てきたあたりから、つまらなくなってしまった。「お茶飲む? っていうみたいに、『ネコ、だく?』」(p73)と言う繭さん、これはまたおもしろい人が登場したぞと思ったのですが、彼女が危うくなってくるにつれて冷めてしまった。森絵都の『つきのふね』(講談社、角川文庫)と構図が似ているな、と思って。中学生の女の子ふたりと男の子ひとりが、心が壊れはじめた大人をなんとかしようとじたばたする、月が象徴的なモチーフ、クライマックスは火事だし・・・・・・と、そういう構図の類似性を興味深く思って読んでいる段階で、もう作品自体からはちょっと引いた読書になっていたんだと思います。美月ちゃんと志保が再会してせっかく仲良くしていたけれどぎくしゃくするといった、月並みな展開でなかったことなど全体的に好感は持っているのですが、私は、子どもたちが中心のドラマが読みたかったのかなと思います。

まめじか:母娘の複雑な関係性を繊細に描いた作品ですね。さきほど、表紙が女の子向けだという話がありましたが、私は、この本は女の子が読めばいいんじゃないかと。p245の、美月の母親の台詞は、パトリック・ネスの『怪物はささやく』(シヴォーン・ダウド原案 池田真紀子訳 あすなろ書房)を思いだしました。状況はまったく違いますが、『怪物はささやく』では、母親が死を迎えつつある現実を受けとめられず、怒りをぶつける子どもに、あなたの気持ちはぜんぶわかっていると、母親が言うシーンがありました。「子どもが自分のことをどう思ってるかなんて、気にしてらんないの。そんなひまはないのよ。きっとあんたのおかあさんも娘の言葉に傷ついたりしてないと思うわ。だからだいじょうぶ。なんにも悲しむことなんてない」(p245)という美月の母親の台詞は、どんなにわかりあえなくても結局母親の愛は絶対だという前提ですよね……?

彬夜:親の側から見ると、そう感じるということなんじゃないですか?

まめじか:子どもの気持ちがあって、それとは別に親の想いがあるのはわかるんですけど。母親は子どもを愛するものだという前提にこの本が立っているとして、でも、そうじゃない家庭も現実にはありますよね。子どもを愛せない親もいるし。それを書かなきゃいけないということではなくて、思ったのは、その前提は日本的だなと。血縁重視というか。いいとか悪いとかじゃなく。

西山:現役の中学生がどう読むのかとても興味深いですね。私たち大人が気にも留めないところに反応するのかもしれない。親世代子世代混ざって読書会をしたらおもしろそう。

ネズミ: 100ページまでしか読めてません。でも、まだ物語が本格的に始まっていないんですよね。会話のテンポはいいんですけど、『いいたいことがあります!』(魚住直子著 偕成社)と比べると、主人公に特徴があまりなく、読者をひっぱっていく機動力にやや欠ける感じもしました。あまり強引じゃないというのか。でも、日本の作家だからできる技だと思ったのは、美月を関西弁にして、主人公の会話と区別させているところ。こういうのは、翻訳だとできません。

アカシア:しかも中途半端な関西弁と断っているので、ちょっと変でも大丈夫なんですね。

ハル:はじめて読んだときは、「いいなぁ」と思いながらも、読後はどこかほんのり、古いというと語弊があるかもしれませんが、懐かしい感じもあって、少し前に出ていた本かな?と思った記憶があります。今回改めて読み直してみたら、会話もとてもおもしろく、生き生きとしていて、「古い感じ」という印象は抱かなかったのですが、強いていえば、繭さんというキャラクターが、ちょっと昔懐かしい感じがするのかなと思います。母親は母親で、これが親のつとめだと思っているし、娘は娘で、こんなに繊細なのかと思うほど、母親の何気ない一言に傷ついて、親子の関係って、どこの家も似たりよったりで、ずっと模索し続けていくものなのかなと思いました。

彬夜:ラスト近くの、繭の母親が引きずりこもうとしてるんじゃないかというシーン、怖いですね。結果的には、救うことになる。そこがおもしろいです。意図はわからなくていいと思います。ちなみに、安東さんはあるインタビューで「親は完全じゃない。不手際も、失敗も、言っちゃいけないことも言います。子供がそれを全くわからないまま『毒親』だと子供に言ってほしくない」と語っています。親から見る、という視点はかなりあったかと思います。

ルパン(みんなの話が終わってから参加):正直、あまり感動できませんでした。私には、志保とママとの確執があまりピンと来なかったんです。よその家の子に生まれたかったと思うほどの深刻な問題が見えてきませんでした。また、キーパーソンとなるべき繭さんの魅力があまり見えてきませんでした。繭さんが母親の呪縛にどう立ち向かってどう戦ってどう勝ったか、というプロセスがきちんと描かれていないと思ったんです。結局、母親や熊井さんがいないと生きていかれないことを露呈しただけのような。さらに、その繭さんを救うひとことになるはずだったと思われる美月ちゃんのお母さんのp245の言葉も、結果的に美月や志保を傷つけて終わったという、なにかとんちんかんなエピソードに思えてしまいました。さいごに志保はママに抱きしめてもらってよかった、というあっけない結末も、志保がそこまでママを嫌っていたことと結びつかず、拍子抜けしてしまいました。それに、繭さんや美月ちゃんはこれからどうなっていくのか、という疑問が残り、不完全燃焼的な読後感でした。

アカシア:志保のお母さんは管理的なので、感受性のするどい子どもにとっては嫌だと思います。客観的に見るとそうでなくても、子どもにとっては翼をもがれたみたいな気がするんじゃないかな。私にはその確執はリアルでしたが、そのあたりの感じ方は読者によって違うかもしれませんね。

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エーデルワイス(メール参加):会話がスマートで、どんどん読み進められました。印象に残った新鮮な文章がたくさんあり、すぐれた作家だと思います。表紙もいいですね。

(2019年02月の「子どもの本で言いたい放題」)

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ベッツィ・バイアーズ『トルネード!』

トルネード!〜たつまきとともに来た犬

西山:今回の3冊の中で一番おもしろかったです。気に入った話を何度も聞く、家庭内のおなじみのエピソードがある、その場面がとてもよかったです。好感をもって読みました。ほかの本だと、入れ子構造が余計な仕掛けに見えたり、効果が上がっていないと思ったりすることがありますが、これは違和感なくおもしろく読みました。(当日言いそびれ。竜巻は本当に恐ろしいことで、津波や地震、あるいは空襲まで含め、おびえる子どもを安心させたいという思いがこの構造そのもので、そのことが最後の一行「また、トルネードが来たときにな」で強く感じられて、子どもへの愛にあふれた本だと思いました。)ただ、『レイン』(アン・M・マーティン著 西本かおる訳 評論社)を思いだして、「バディ」として「トルネード」を飼っていた女の子の気持ちを思うと……。そこだけは複雑です。

ネズミ:物語の中に物語がある構造が、効果的に使われていると思いました。カメのことも、手品のことも、五時半のことも、毎日の何気ない話だけれど、どれも楽しいし、何度も聞きたがるぼくたちのおかげで、楽しさがさらに増すようです。挿絵がとてもよくて、最初と最後だけカラーだけど、全部色がついているような錯覚に陥りました。p72の「あの男はれいぎ知らずで、自分の名前も、いわなかったしな」というのだけ、ちょっとひっかかりました。p62-63の場面で「あの男」を、それほど「礼儀知らず」と感じなかったので。ともかく、物語の楽しさを味わえる作品だと思いました。

レジーナ:絵がお話にぴったり! トルネードが愛らしく、生き生きと描かれています。カメが口に入って困った顔とか、大事な穴を猫にとられて呆然としている表情とか。最後のカラーの挿絵は、ほかとは少しタッチが違いますが、これもまたすてきですね。トランプの手品の場面はよくわからなかったです。トルネードがいつも同じカードをとるのは、においがするとか、なんか理由があるのだと思いますけど。「ハートの3だったら、カードを捨てない」というのが、手品なんですか?

西山:ちっちゃい子が、わけもわからない手品をやってみせることがありますよね。ボクとトルネードが自分たちでも「それがどんな手品なのか、さっぱりわからないんだ」(p30) と、一人と一匹が困った様子で顔を見合わせているp31の絵と相まって、本当におもしろいと思いましたが。

アカシア:そこはおもしろいんだけど、p78では弟が「トルネードは、ほんとのほんとに、トランプの手品ができたの?」ときくと,ピートが「ああ、できたとも」と答えるので、だったら、もう少しわかるように書くか、訳すかしてもらえると,スッとおもしろさが伝わるのではないかと思いました。つまり、本当は手品じゃないんだけど、やりとりがおもしろいんだということが伝わるように、ってことですけど。

レジーナ:手品っぽいというのはわかりますけどね。

鏡文字:また犬か、とちょっと思ってしまいました(前々回も犬の話があったので)。トルネードにいちいち「たつまき」のルビがふってあるのが気になりました。自然現象は、「たつまき」だけではだめなのでしょうか。物語は、ちょっと中途半端な感じ。竜巻が来ているという緊張感があまり感じられなかったんです。話をするのがピートで、この人との関係がつかめなくて。まあ、読んでいけば子どもたちと信頼関係があることは伝わるんですが、これまで子どもたちとどんな風に関係を築いてきたのか。親だったら、安心させようとして、こういう話をする、というのもありかもしれませんが、雇われている人、なわけですよね。ピートのことがよくわからない(人となりだけでなく、どういう雇用関係なのかな、とか)ので、なんでここまで子どもがなついているのかな、と・・・。私は子どもたちが話を聞いている間中、お父さんはどうなったかが気がかりでした。大事なくてよかったですが。あと、p48「じゅうたんをほりまくってあなをあけた」というのがちょっとひっかかりました。

アカシア:家の中でも前足で地面を掘るようなしぐさをする犬がいて、じゅうたんには実際に穴があきますよ。そういう犬を飼ってないとわからないかもしれませんが。

鏡文字:女の子のことは、私もかわいそうだと感じました。挿絵は、猫の絵が好きでした。

ルパン:おもしろかったです。トルネードは犬小屋ごと飛んできたんですよね。竜巻はたいへんなことだと思いますが、場面を想像するとなんだか笑えてきました。絵もすばらしいです。トルネードはピートと7年過ごしたとあり、最後(p79)の絵はピートがずいぶん大きくなっているんですよね。そういうところがいいなあ、と思いました。ひとつだけ気になったのは、トルネードの前の飼い主のこと。おじいさんから孫への贈り物だったんですよね。とてもかわいがっていた女の子と、プレゼントしたおじいさんが気の毒で・・・そこのくだりはないほうがいいと思いました。

アカシア:うちにも犬がいるんですけど、トルネードは、せっかく掘ったお気に入りの穴をネコにとられる。その時の顔(p51)、たまりませんね。犬の表情を挿絵はとてもうまく捕らえて描いていますね。暗くて狭いところにみんなで避難しているときにお話を聞けて、いつもそれを楽しみにしているという設定も、とてもいいなあと思いました。ほかの方と同じで、ひっかかったのはトランプの手品のところです。客観的に手品っていわれると、よくわからない。『レイン』では、発達障がいの子が、飼い主を自分からさがそうと懸命になります。この本では、もとの飼い主の女の子がトルネードを抱きしめている場面があるのに、ピートは、トルネードが戻って来たのを知らせないどころか、隠している。前の飼い主は意地悪だから返さなくていい、という理屈ですが、そうなら、前の飼い主をもっとひどい人に描いておかないと、読者もちょっと納得できないんじゃないかな。『レイン』を読んでなければ、そこまで思わなかったかもしれませんけど。

西山:『レイン』の主人公は、発達障がいがあって、嘘がつけない、融通が効かないという子だから、黙って自分のものにしてしまうというようないい加減なことができなくて、それが哀しい。そこを、あの作品の切なさとして読んでいたのですが。

アカシア:でも『レイン』のローズは、クラスの他の子の事は考えられなかったのに、あんなふうにほかの人のことを考えられるようになるのは、やっぱり成長が描かれているんじゃないかな。

ネズミ:この本では、ピートたちが犬を奪ったわけじゃなくて、トルネードが自分で戻って来たんですよね。

アカシア:本の前のほうに、犬が行ったり来たりするのもありだ、みたいなことも書いてあるので、そうすればいいのに、と私は思ってしまいました。

カピバラ:飼い主のわからない犬に出会い、かわいがるうちに元の飼い主が現れるという話はほかにもあるけれど、トルネードという自然災害とからませ、避難中にピートから昔の思い出話を聞くという枠物語に仕立てて、読者をひきこむ工夫をしていますね。読者もピートの話を聞きたいという気持ちで読んでいきます。ストーリーの組み立て方がうまいですね。元の飼い主の女の子がかわいそうだという意見がありましたが、読者はこっちに残ってほしいと思いながら読むから、この結末には満足すると思います。元の飼い主のことはほんの少ししか書いてないので、子どもの読者は女の子のほうにはあまり感情移入しないでしょう。大人の読者はそちらの状況もいろいろ想像できてしまうけれどね。とてもおもしろい作品でした。

マリンゴ:とてもおもしろかったです。短い文章なのに、いろいろなことが伝わってきます。私は、語弊があるかもしれませんが自然現象のトルネードが好きで(笑)トルネードのドキュメンタリーとか映画とか、必ず見てしまいます。が、日本の子どもたちはそこまで知識がないかもしれません。「台風」「地震」などは共通の認識がありますが、「トルネード」はそこまでぴんと来ないと思うので、訳者あとがきなどで知識を補足してあげたら、なおよかったのではないかと思います。物語については、エピソードの小さいところがいいですね。カメのこととか、五時半の猫とか・・・。一つだけ気になるのは、p76-77の見開きのイラスト。廃墟感が強くて、一瞬、すべて吹き飛ばされてしまったのかと思いました。そこまでの被害は受けてないので、もう少し、それがわかる絵だと、なおよかったのかなぁ、と。

西山:活字を変えているのもわかりやすいですが、実はそれに気付かないぐらい自然に読んでいました。これからお話が始まるというのがはっきりしているから、混乱はしないと思います。

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エーデルワイス(メール参加):表紙と挿絵が降矢ななさんだ!と、期待して読んだのがいけなかったのか、読後感が今一つ。アメリカの竜巻の発生する地名が書いてないのですが、日常に竜巻が襲ってくることや、避難の備えをしていることをもう少し書いてほしかったです。この本の薄さは低学年向きかと思いきや、語り部による過去と現在のお話が交互に進み、高学年向きなのか・・・。なんだか中途半端に感じました。犬のトルネードの物語の骨組みだけ残して、降矢ななさんの『絵本』にしたらどうかしら・・・なんて思いました。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ケイリー・ジョージ『ねずみのモナと秘密のドア』

ねずみのモナと秘密のドア

カピバラ:ホテルの従業員やお客さんが、ひとりずつ順に登場して、どんな人物か紹介されていくのですが、それぞれの動物の特徴を生かした性格付けがされていて、おもしろかったです。挿絵は単純な線だけれどユーモラスに動物たちを描いています。こわいと思ったクマさんと友だちになり、そのことがオオカミを撃退する場面の伏線になっているなど、小さなエピソードや、ちょっとした事件がそれぞれ関連をもちながら語られていくので、どんどん読んでいけると思います。泊まるのを遠慮してほしいコガネムシが実はホテル評論家だったというのも愉快。ここに昔泊まったねずみ夫婦が、モナの両親かもしれないのですが、モナが再会できるかどうかは1巻目には書いてありません。続きを読みたくなりますね。中学年の子どもたちにすすめたいと思いました。

マリンゴ: とてもかわいらしい本で、おもしろかったです。イラストがすばらしいですね。特にモナとトカゲ。著者本人が描いたのかと思うほど雰囲気に合っています。物語では、オオカミが悪役でクマがいい役なのですが、オオカミは肉食で、クマは7割くらい植物を食べる雑食で、小動物に少し近いからかな、などと構造の設定を想像しました。もっとも、ホテルの従業員とお客が草食ばかりというわけではなく、たとえばアナグマは雑食、ツバメは肉食だそうなのですが。なお、表紙ですが、左下に著者、翻訳者、画家の名前があって、帯がかかると完全に隠れてしまっているのはよくないと思いました。『トルネード!』(ベッツィ・バイアーズ作 もりうちすみこ訳 学研)も同じ位置にありますが、こちらは帯に名前が表示されているので、問題ないですね。

ケロリン:中学年向けの、エンタメではなくきちんとしたストーリーのある物語が始まったといううれしい気持ちで読みました。動物が登場人物ですが、人間関係ならぬ動物関係がとてもよく描かれています。注意するとしたら、動物の実際からあまり違うことが起きたりすると、違和感が増してしまって物語に入りこめなくなるということですね。高橋さんの挿し絵もとても合っていますね。今後のシリーズ展開が楽しみです。

西山:かわいらしい本ですね。中学年くらいに読まれるシリーズになるのでしょう。小さいものの世界がこまかく描かれていて、シルバニアファミリーのようなミニチュアの世界が提供する楽しさがあるように思います。小さきものはみなうつくし、です。ネズミとリスの大きさの違いが意外とこだわられていたり、はまる要素はたくさんあるのでしょう。だけど、私自身は、この世界の人間観や構図がすごくクラシックで、なんだかなぁと入りきれません。親がいなくて、かわいそうな女の子、いじわるな同僚、理解のある上役、お客さんには徹底した敬語で、人間関係が古くさい。それはそれで安定感のある古典みたいなよさがあるのかもしれないけれど、このシリーズが大好きになる子はいるのでしょうけれど、退屈せずに読みましたけれど、特に推したいと思う作品ではありませんでした。

カピバラ:「ダウントンアビー」のメイドの世界みたいですよね。

ネズミ:女の子っぽい本だなと思いました。悪くはなかったけれど、健気な女の子ががんばるというのは、どこか古臭い感じもして、これをぜひどうぞ、とまでは私も思いませんでした。森のいろんなアイテムを想像する楽しみはあるけれど、どこまでがリアルで、どこからがファンタジーか、よくわからないところも。たとえば、ペパーミントでにおいを消すというのがありますが、動物のにおいは、ほんとうにペパーミントで消えるんでしょうか? ハリネズミがハリでメモをとめるなど、おもしろいですが、p84の最後から2行目「ずっとひとりきりで生きてきたモナは、相手に思いを言葉で伝えることに、まだなれていませんでした」と言われると、動物だか人間だか、わからなくなってしまいます。また、登場人物同士のせりふがあけすけで、人間だったらぎょっとしてしまうような直接的な表現があるなあと思いました。たとえば、p154の冒頭の「このままだと、わたしよりモナのほうが評価されるようになるんじゃないかと不安だったんです」とか。悪くはないけど、私はもっとほかの本を子どもに読ませたいかな。

レジーナ:飽きさせない展開で、一気に読みました。ティリーがモナをかばう場面は唐突で、なぜ急に態度を変えたのか、わかりませんでした。読みやすい訳ですが、ひっかかったのはp91「止まり木のかわりにみじかい小枝が打ちつけてありますが、ねむるにはおぼつかないのか、すみに小さなベッドが置いてあります」。「おぼつかない」は、物には使わないかと。あと、p70「あなたがのろのろしてるのは、わたしのせいじゃないし」で、これは、仕事に手間取って食べるのが遅くなっても、自己責任だという意味でしょうか。ちょっと意味がとりづらいので、中学年向きの本ならば、ここはもう少していねいに訳したほうがいいと思いました。

鏡文字:私は、基本的に人間至上主義なので、動物ものはちょっと苦手です。でも、いろんな意味で、安心して読めました。表紙の絵はすごくかわいいんだけど、字体もいろいろで、字面がおちつかない気がしました。このグレードだと、本のサイズももう少し大きいほうが一般的なのかな。もっと上の子向けの話かと思いました。私も、これが人間だったら、きつかったかも。ご指摘があったように、古典っぽい感じもしました。意図して、なのかもしれませんが。言葉づかいもクラシック。ストーリーとしては、結局はモナ一人(一匹)が活躍しているのが気になりました。

ネズミ:文字量からすると、高学年じゃないと難しいですか?

ケロリン:中学年向けソフトカバーだと、この判型と厚さはよくあります。

カピバラ:タイトルの「秘密」が漢字なので高学年向けでしょうか? 本文にはルビがありますけどね。

アカシア:楽しく読みました。全体にかわいらしいお話だし、オオカミ以外は本質的にいいキャラだし、ハッピーエンドなので安心して読めます。ただ、ものすごくおすすめとは思いませんでした。物語世界のつくり方が不安定だからかもしれません。擬人化の度合いはこれでいいのかな、と疑問に思うところがありました。たとえばモナですけど、お話の中ではネズミではなく擬人化の度合いが高く、まるで人間のように描かれています。でも、両親の記憶もないくらい小さいときに孤児になって、どうやって生きのびたのか、そこは不明です。このホテルに到着するまではネズミ的で、ホテルに到着してからは人間と同じような存在ってこと? うーん、どうなんでしょう。私は、小さい子どもが読む本でも、作品世界はきちんと作ってほしいと思うほうなので、そのあたりが中途半端で残念でした。ストーリーが都合よすぎるところもありますね。ハートウッドさんはホテル評論家に来てもらって新聞にいい記事を書いてもらいたいと思っていますが、そうすると、知られたくないオオカミにもホテルの場所は知れてしまいますよね。オオカミがホテルのありかを探しているところで、においが漏れるからホテルでは料理しないとか、火を使わないと言ってますが、それでばれるくらいなら、夜に灯りをつけなくてもとっくにばれているようにも思います。ティリーの改心もとってつけたようで。あと、モナはいつも前向きで、応援したくなるキャラなのですが、ひたすらいい子なんですね。中学年くらいまではこれでいいのかもしれないけど、年齢が高い読者だと,嘘くさいと思うかもしれません。

ルパン:私はおもしろく読みました。リアリティのなさにはあまりひっかかりませんでした。ひとつだけ・・・モナやティリーはお金をもたずに迷い込んできたらメイドになるのに、ツバメのシベルさんだけお客さん扱いなのはなぜだろう、と思いました。けがをしているからかな。 モナの両親は生きているみたいですね。2巻も読んでみたいと思います。

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エーデルワイス(メール参加):とてもかわいいお話で、挿絵と文章がよく合っています。女の子が喜びそうですが、だからといって甘ったるい感じはなくおもしろく読みました。続編も読みたいです。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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佐和みずえ『拝啓、お母さん』

拝啓、お母さん

鏡文字:この作者の『パオズになったおひなさま』(くもん出版)には問題が多いと思っていたので、それよりはよかったかな、とは思いました。ただ、活版印刷ということを除けば、ありがちの話のようにも感じました。その活版印刷のことがどのくらいわかって書いているのかはちょっと疑問で、仕事の様子が今一つ伝わってきませんでした。活版印刷の工程を縷々説明していますが、抜けている作業があります。家内工業の印刷屋さんなのに、1日じゅう、がっちゃんがっちゃんと印刷機の音がずっとするというのも不自然。それから、活字を投げるところ、気になりました。そんなことしますか? あれは、活字を大切に扱わなくては、と告げるために無理に作ったシーンだな、と。ということで、決められた筋に則って引っ張っていくという感じがして、私はあまり楽しめませんでした。活版印刷をはさみこむなのど、本作りの工夫は感じたんですけどね。

レジーナ:活版印刷や職場体験など、テーマありきの印象をうけました。p28で「妹なんかいらない」と言ったゆなに、お父さんは、「そんなことしかいえないのか、なさけない!」と言いますが、やりとりが紋切型で、血肉のかよった登場人物には感じられませんでした。

ネズミ:私はそれほど批判的には読みませんでした。小学校中学年くらいに親しみやすい本だなと。ゆなが、思っていることをうまく表現できず、行ったり来たりする感じ、はりきっているのに空回りしてしまう感じがよく伝わってきて、小学生は共感をおぼえるのではないでしょうか。実際にお手紙がはさみこんであるのもいいなあと思いました。ただ、感情を表現した部分で、しっくりこないところがありました。p65「六年生のお兄さんとお姉さんが、まぶしくてたまりませんでした」は、そのあとに説明的な文で補足してあるので、どこかとってつけたような感じがしましたし、p70の「ぱあっと顔を赤らめて」の「ぱあっと」も、わかるようでわからない。個人の語感の問題かもしれませんが、そういう、ちょっとひっかかるところが、ちらほらとはありました。でも、全体としてはいい作品だと思いました。

西山:私は冒頭からひっかかってしまったんですよねぇ。「暑い……」とあるから、空港の建物から外に出たと思っていたのに、通路のガラス窓に飛行機の翼と夕焼け空が広がっているというし、「通路は冷房がきいていますが」と続くので、今どこにいるの?! となってしまった。出だしからひっかかったせいか、九州のラーメン=とんこつなので、わざわざ看板に「とんこつラーメン」とは書かないだろうとか(大分県は違うのかもしれませんが、未調査)、小さなことまでちょこちょこひっかかってしまいました。内容的に抵抗を感じるのは、お父さんやお母さんのあり方です。子どもに相談もなく祖父母の所へ行かせるのは、この作品に限らずよく見かけます。だから常々感じているのですが、児童文学も、子どもの権利にめざめてほしい。子どもを困難に直面させるための設定として人を動かしているように見えると楽しめません。せっかく中学年向きに、ていねいな本作りをしているのに、人間の描き方がていねいじゃないと感じました。

ネズミ:祖父母の家に行くのは、別に無理やりじゃなくてもいいかもしれませんよね。

西山:孫がいるのに、何年も行き来していないなんて、よほどの確執があるのかと思いましたよ。帰省が経済的に厳しい家とは思えませんから。なにしろ、お父さんは自らゆなを大分空港に送ってとんぼ返りするのですから。子どものひとり旅サービスを使うでもなく。

ケロリン:うーん、違和感はあるものの、描ききれていないということについては、ちょっと反論。小学校中学年向きの本は書くのも選ぶのも難しいと言われます。テーマもそうですが、文章量の問題もありますね。何を書いて何を書かないか、高学年向けの本よりも気を使うところかもしれません。お父さんやお母さんの描き方は、祖父母との関係に軸足を置くために、ここまでしか書かなかったということなんでしょうね。でも、お父さんが、最初はゆなとがんばろうとするけれど、やっぱり危険だと感じていくところは、けっしてゆなを責めるのではなく、自分へのいらだちも含めて、とてもわかりやすいシーンとして描かれていると思いました。とんこつラーメンは最後のシーンの伏線ですね。活版についてもどこまで書くかですが、このあたりでちょうどいいんじゃないでしょうか。よくある祖父母のもとに行って成長する話かと思いきや、ステロタイプの流れではなく、おばあちゃんが自分の人生のなかで後悔をしていることを話したりするところや、後悔を「穴ぼこ」と表現するところなどは、おもしろいと思って読みました。

マリンゴ: 冒頭を読んだ時点では、古いタイプの物語なのかなと思いました。お母さんの出産前に、よそに預けられる。行った先には、とてもやさしげなおじいちゃん、おばあちゃん。ちょっとステレオタイプかな、と。でも、そこから活版印刷の話に集約されていくので、そっちか!と興味深く読みました。作者の、活字に対する愛情が伝わってきました。おじいちゃんの後悔、おばあちゃんの後悔に、ゆなの後悔を重ねる、という描き方がとてもいいと思います。読んでいる子どもにとって、わかりやすい。何か後悔していることがある子は、ここに自分を重ねられるのではないでしょうか。

カピバラ:活版印刷のよさを伝えたい、という熱い思いからつくった本ですね。職人さんの心意気や手仕事のすばらしさはよく伝わってくるんですが、物語の設定はそれを説明するために作ったという感じがします。中学年向きだからとはいえ、描写が説明的なのが気になりました。さっきも出てきたp65の「……ゆなには、六年生のお兄さんとお姉さんが、まぶしくてたまりませんでした」ですが、お兄さん、お姉さんらしさをもっと仕草や素振りで伝えていれば、「まぶしい」と言わなくても、ゆなが「まぶしい」と思う気持ちが読者にも感じられる。そういう残念なところがすごく多いと思いました。また私も冒頭は読みにくかったです。読者は最初からゆなの目線で読みはじめるのに、p4に、「遠い九州までつれてこられたという緊張もあってか、ゆなのせなかは、汗でじっとりとしめっています」というナレーター目線の描写が出てくるのは違和感がありました。ノンフィクションではないので活版印刷のしくみはそんなにくわしく書かなくてもいいと思いますが、p72、p73の図解はわかりにくいです。印刷機がどうなっているのか、よくわかりませんでした。実際に活版印刷をした紙をはさんでいるのは、よかったと思います。最後に親子3人で赤ちゃんの名前の活字を拾う部分、ゆなが「あった!」と声をあげるのですが、一体どの活字だったのか、どんな名前なのか書いてほしかった。なんとなく美しげに終わらせているけど、不満が残る終わり方でした。それと、表紙の絵はどう見ても幼稚園児にしか見えず、心理描写も4年生にしては幼すぎるように思いました。

アカシア:今カピバラさんがおっしゃった夢の部分ですが、私もひっかかりました。「三人は目をこらして、文字の海を見つめています。/『あった!』/ゆなが声をあげました。/そして、うまれたばかりの赤ちゃんの名前の活字を、そっと拾いあげたのです」ってあるんですね。ここまで具体的な行為を書くのなら、やっぱりなんの字を拾いあげたのかを読者は知りたくなります。まだ赤ちゃんは生まれていませんが、それならゆなは、こういう名前がいいと思ったくらいのことは書いておかないと、この文章が宙に浮いてしまうように感じました。それから西山さんと同じように、冒頭の「暑い」と繰り返されるところですが、機体の中や空港は時として寒いと感じるくらい空調がきいてますよね。普通は空港から外へ出たときに暑さをはじめて感じるので、私も違和感がありました。私がいちばん気になったのは、あとがきの「言葉は、ときに人の心につきささるトゲとなることもあります。どうしてでしょうか。それは、真剣に言葉を選んでいないからかもしれません」という文章でした。ゆながお母さんに、「妹なんていらない」と言ってしまったことに対してこの文章が向けられているとしたら、とても残酷だなあと思ったんです。子どもは、自分より力がある存在に対して、トゲのような言葉をぶつけるしかないこともあるじゃないですか。それを「真剣に言葉を選んでいない」なんてお説教されても、子どもの心はすくいとることができないんじゃないでしょうか。活版印刷については、その魅力が伝わってくると思いました。私は、活版印刷はもうなくなったと聞いていたので、この本をきっかけに調べてみて、まだあちこちに残っているのがわかったのは収穫でした。活版で印刷したハガキがはさみこまれているのもいいなあ、と思いました。でも、これって、実際のハガキサイズの紙じゃ小さすぎてだめだったんでしょうか? 技術的に難しいのかな? あと「拝啓」ってずいぶん固い言葉ですが、手紙はこの言葉で始めるって学校で習うのかしら?

鏡文字:この作者は一卵性双生児だそうですが、二人で書いているので、決められた設定ありきになってしまうんでしょうか。

アカシア:物語が自然に生まれてきて、登場人物が動き出すというより、最初からきっちり流れを決めておいたうえで、分担して書いていくんですね?

マリンゴ:コンビで1つの作品を書かれるといえば、たとえば岡嶋二人さんもそうでしたね。

ルパン(みんなが言い終わってから参加):なにかの職業について調べて書く話としては、よくできていると思いました。が、主人公の葛藤や後悔が活版印刷とどう結びついているのか,私にはよくわかりませんでした。おじいちゃんが昔ながらのやり方にこだわっている理由もはっきりわからなかったし。ゆなが職人の手作業を見ることによって成長をとげる物語であるのなら、おじいちゃんの技術もほかの人にはできない特別なものでなくてはならないと思うし、ゆなの気持ちを変えるきっかけも活版印刷でなければ成り立たないものでないと、読者の共感が得られないと思いました。文字が反転することとか、紙に凹凸ができることとか、手で文字を組むこととか、活版印刷ならではのものがストーリーのカギになって何かが起こることを期待して読んでいたので、最後は拍子抜けでした。これならべつに活版印刷でなくてもいい話ではないかと思ってしまいました。ただ、ゆなが作った活版印刷の紙がはさまれているのはいいと思いました。これを読んだ子はきっとさわってみるでしょうし、図書館で古い本に出会ったときに活版の手ざわりを確かめるようになるかもしれません。

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エーデルワイス(メール参加):素直に読めました。挿絵がかわいすぎて、文章と合ってないような気がします。印象が深刻にならないように敢えてそうしたのでしょうか? 活版印刷にスポットを充てたのが新鮮でした。結菜の葉書が、活版印刷とはっきりわかるとよかったのに。私には違いがよく分かりませんでした。

(2019年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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大竹英洋『そして、ぼくは旅に出た。』

そして、ぼくは旅に出た。〜はじまりの森 ノースウッズ

コアラ:とてもよかったです。読んでいる間中、旅をしている気持ちになりました。カバーの写真がとてもよくて、これから旅に出るという気分にさせてくれます。内容も構成もいいし、要所要所に読者の理解を助ける説明が入っていて、写真家のジムに会う前になぜ写真だったのかを説明する章があったり、スムーズに読み進められるようになっています。いろんな人に薦めたいと思いました。個人的にはp290からの「センス・オブ・ワンダー」、名前も知らない花を見て、新鮮なまなざしで写真を撮っていくところ、試行錯誤の話がおもしろかったです。終わり方もすばらしいと思いました。進路を考える時期の高校生くらいの子どもにも、大人にも、多くの人に読んでもらいたい本です。

ハル:この本に出会えてよかったです! 最初に本を開いたとき「わぁ、文字が小さい。文字が多い。時間がない~」と思ってしまったことを反省しました。心に余裕がないときこそ、良い本を読もう! 進路を考えはじめる年代のひとたち、受験や就職活動などでいちばんいそがしいころかもしれませんが、そんなときこそ、読んでほしいです。著者は思い切った冒険の旅に出ますが、謙虚で礼儀正しく、若いときにありがちな無邪気な傍若無人さもなくて、たとえば、「弟子にしてくれるまで帰らない!」なんて言わないところとか、そういったところも安心してひとに薦められます。「『一日というのはこんなふうに美しく始まっていくのだ』ということを、ずっと覚えておきたいと願ったのでした」(p120)。私も覚えておきたいです。もう、絶賛。

さららん:池袋のジュンク堂のトークに行って、作者のサインをもらってきたんです。そのときオオカミや、さまざまな動物の呼び声の真似をしてくれ、ノースウッズに行ってきた気分になったものでした。人は、目で見えるものにとらわれることが多いけど、この人は、目に見えないものをとらえようと、もうひとつの感覚を磨ぎすましています。それがとても気持ちいい。何気ないひとことがいいですね。読んでいるうちに、自分の心もひらいてきて、生きていくのも悪くないと、思えるようになりました。自然の描写と内省的な文章のバランスが見事。かかわっている編集者の腕もあるかもしれませんが。

レジーナ:すっごくよかった。勇気を出して一歩踏みだせば、未来はひらけるのだと、ストレートに伝わってきて、ぜひ中高生に読んでほしいと思いました。著者は、夢で見たオオカミに導かれるようにして旅に出ます。今は、ここまで行動力のある若者は少ないですよね。大学に入ったばかりのころは体力がなかったというのも、親近感がもてるし。著者は自然をもっと近くに感じ、新たな目でとらえたくて、生きていることを感じたくて、写真を撮ります。そのなかで、「人間は何者で、どこへ向かおうとしているのか」と考えます。人としてのあり方が、すごくまっとうというか・・・。自分の足で歩き、考えを深めているので、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要でない」というレイチェル・カーソンの言葉にも説得力がありました。写真は選択の連続だと言っていますが、人生も同じですね。この本のもとになっているのは、2011年からの連載で、旅から何年もたって書いたものです。なのに、ひとつひとつの印象がくっきりしていて、においまで伝わってきます。写真家という、ものをよく見るお仕事をされているからでしょうか。p320で「ビジョンが大切だ」と言われる場面では、わたしも若いとき、ビジョンは何かときかれて、やりたいこととビジョンは違うと言われたのを思いだしました。道を示してくれる年長者の存在って、大きいですねぇ。

ネズミ:時間切れで第3章までしか読めなかったのですが、まず文章にひきつけられました。ナチュラリストって、こういう人のことだなと。バーチャルの対極にあるというのか。実体験から、感性が開いていくようすが魅力的でした。

さららん:星野道夫さんの文章を思い出しますね。

ネズミ:ただ「はい、見ました」「知りました」ということじゃなくて、すべて体と心にしみこんでいるんですよね。

西山:読了していないのですが、とても気に入りました。星野道夫だなぁと思いながら読んでいたら、出てきましたね、星野道夫。しっかり影響関係にあったのですね。中学の国語の教科書に、星野が正確な住所も分からぬままに写真で見た村に手紙を出して行ってしまうという、エッセイが載っていた(いる?)のですが、大竹さんのとりあえず行っちゃうという決断は星野のやり方と同じです。こういう歩き出し方は、若い人の背中を押すと思うので、この本も中学3年生ぐらいから出会うとよいなぁと思いました。とにかく、文章がここちよい。p95の湖の水を飲んで「その水が体のすみずみにまで染みわたっていくようで、そのまま自分の体がすぐ真下の湖へと溶け込んでしまうような、そんな感覚がしました」なんて、本当に素敵。自然の描写をはじめ、決して「うまいこと言ってやったぞ」というドヤ顔じゃない。感じのよい文章だと思いました。また、考え方としても大事なことがたくさんあって、たとえばp166の中ほどの、「聞いているだけで澄んだ気持ちになり、明日を生きる活力がわきあがってくるような情報が、あまりにも少ない」という指摘は、児童文学というジャンルは、そうした情報(言葉)を発するものではないかと省みたり・・・。立ち止まり、味わい、様々な連想に思いを馳せ、時間をかけて楽しむ本。帰りの電車で続きを読むのが楽しみです。

マリンゴ:言葉の紡ぎ方、情景描写の美しさ、一途な想い、構成の緻密さなど、すべてに引き込まれました。過去の話の出し方のタイミングがとてもうまいなぁ、と。ジム・ブランデンバーグに会えたところがクライマックスではなくて、そこから物語がもう一度始まるところもいいなと思いました。読み終わりたくなくて、大事に少しずつ読んでいました。写真もきれいですね。

サンザシ:この本に載っているのは、この時期にとった写真で、今撮ったのとは違いますね。ちょっと素人っぽいところがまたいい。

マリンゴ:『Into the Wild』という映画を思い出しました。頭のいい青年がアラスカに魅せられて、野生の地に入っていって悲劇的な結末を迎える話なんですけど、この本の場合、同じ自然に魅せられる話でも方向が真逆です。ポジティブに、前向きに未来へ向かっていきますね。

サンザシ:この本の中では、大きな事件がおきるわけではありません。嵐は出てきますが、それが中心でもなくて、日常体験したことを時系列で書いているだけ。それに、石牟礼さんみたいに考え抜いたうまい文章とか玄人好みの凝った文章でもない。ちょっとがんばれば、このくらい書けるよね、という文章なんだけれど、嫌味がないし、とても素直。探検家や冒険家や写真家って、やっぱり自分を前に出そうという人が多いように思いますけど、そのなかでこれだけ素直な文章で、しかも読ませるっていう人はなかなかいないと思います。素直な心で書いているのが、いちばんのポイントなのかもしれません。余分な思惑がないっていうか・・・。ほかの方もおっしゃっていましたが、ずっと読み続けていたい文章だし、もっともっと読みたい気持ちになる文章です。構成は行って帰ってくる物語ですね。子どもや若者が冒険の旅に出て、もどってきたとき成長をとげている、という。スピリチュアル・クエストという言葉も出てきますが、その言葉どおりです。自然が人間にどんなものをもたらすかについても、とてもていねいに書かれています。これから星野さんみたいに、写真と文章の両方で大いに活躍してほしいです。表紙の写真ですが、ジム・ブランデンバーグの写真の中に同じ構図の写真を見つけました。でも、こっちは自分のカヌーですから、そこにも意味があって、ジムへのオマージュになっているんだなあと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):美しい写真にまず目を奪われました。「スピリチュアル・クエスト」の旅。作者の人柄なのか素直な文章ですね。作中に出てくる人たちは、浄化されて、なんというかその人の役目を果たしている。生き方は自分で選ぶのだと思いました。これを読んだ若者がきっと『旅』にでますね。p395の「不快さを無視せよ」「子どもになれ」とか、p403の「ジムに限った話じゃない。誰かを見上げすぎるのは危険なことだ。その壁が障害となって、成長できなくなる。大切なことは、自分の道をみつけることだ」など、印象的です。盛岡ではこの本は一般書の棚におかれていました。

 

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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小手鞠るい『ある晴れた夏の朝』

ある晴れた夏の朝

さららん:ディベートという形式で、原爆の是非を知的に問う展開が珍しく、おもしろかったです。舞台はアメリカ。原爆肯定派、否定派に分かれた登場人物ひとりひとりが個性的で、異なる文化的背景を持っています。主人公の日系のメイに肩入れしながら一気に読み進み、「原爆ノー」に深く共感しながら、気持ちよく読み終えました。小さな点ですが、冒頭の原爆否定派の挿絵を見ると、メイのチームのリーダー、ジャスミンの顔が、日本人にも見えるというイメージとは違っていますよね。人物像をじっくり描く書き方ではないため、たとえばメイの母親には、人間としての厚みがあまり感じられませんでした。でも、この作品に出会えてよかったと思います。十代の子どもたちに薦めたい。

鏡文字:この本は夏に読んでいて、いろんな人に薦めています。戦争を扱うのに、こういう書き方もあるんだな、という点で参考になる本だと思います。ディスカッションする高校生たちの配置が絶妙ですよね。ただ、物語という点で若干、物足りなさもつきまとう。あと、大人になったメイから始まりますが、そこに戻ってはこないんですね。細かい内面とか書く物ではないんですが、年表がおもしろかったです。最初と最後の事項に作者の意志を感じます。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、主語がない、と批判的にとらえる見方もあるので、ここは、みなさんがどう感じたのか、興味がありました。

サンザシ:かつてはあいまいだと言われたけど、今は、この文章の主語は人類全体だと広島市などは公式な見解を述べています。

ハル:こういう方法があったのか!と勉強になりました。このごろ「戦争ものは読まれない」と聞きますが、読書としてのおもしろさもしっかりあって、きっと主人公たちと同年代の読者も、さまざまな刺激を受けるんじゃないかと思います。本のつくりもていねいだし。ただ、日本人の私が読めば“we Japanese”の解釈のところで「あれ?」とひっかかってしまいますし、そこで否定派が打ちのめされてしまうのが、どこかぴんとこない感じはあります。最後まで読めば、ああそういう文化の違いがあるんだなとわかりますし、逆に印象にも残りましたので、これはこれでいいのかもしれません。いずれにしても、子どもたちにもぜひ読んでほしいと思う1冊でした。

コアラ:フィクションでディベートをするのがおもしろいと思いました。アメリカの高校生が、原爆について肯定派と否定派に分かれて意見を戦わせるという内容ですが、その中でアメリカの学校で習ったことというのが出てきますよね。たとえば、p44〜p45のスノーマンの原爆についての数値的な説明。私は日本の学校で、原爆の悲惨さについては教わりましたが、彼が説明したような数字的なことは習った記憶がありません。アメリカと日本の教育の違いというものがわかって興味深かったです。読み進めながら、原爆について考えられるいろいろな議論を上手にまとめていると思ったし、肯定派、否定派それぞれの意見にうなずいたり、考えさせられたりしました。p73の日本兵に殺された中国人という視点は忘れてはいけないと思います。「過ちは繰り返しませぬから」という言葉には、凝縮されたものがあると思うので、メイの母親が解釈する場面には胸が熱くなりました。日本の子どもたちがこの作品を読んでそれぞれの意見を追っていって、自分の考えを深めていければいいなと思ったし、そういう子たちが社会に出ていくのは頼もしいと思いました。

サンザシ:アメリカの高校生がこんなふうに討論し、途中までは勝ち負けにこだわっているんだけど、最後は勝ち負けをこえて次の段階に進んで行くのがいいなあと思いました。日本の高校生ではあまり体験できないことなので、うらやましい。ひっかかったのは、「過ちは繰り返しませぬから」に関して、スノーマンが、日本人は懺悔しているんだからそれに報いるために原爆を落としてよかったんだ、と言う。それを聞いて反対派が負けたと思うのがどうしてなのか、私は納得できませんでした。たとえ語句の解釈が正しいとしても、日本人が反省してるってことと、原爆を落としていいってことは、やっぱりイコールで結びつかないから。p184で、お母さんが日本語の世界はそんなふうにできてないと言うところも、ちょっと気になりました。日本語は、自己主張することなく相手や世界にとけこむようにできているとあって、ちょっと先にも個人より仲間の調和を重んじるということが美徳として書かれています。アメリカではそれが美徳かも知れませんが、日本ではこういうのが強い同調圧力となって子どもたちを苦しめている。その点は、日本の読者が対象だとすると、もっとつっこんでほしかった。賛否両論がとびかうのは新鮮ですが、頭をつかう読書になるので、読者対象はかぎられるかもしれません。本を読んで考えるという習慣がない子だと、ハードルが高いかも。

マリンゴ:アメリカ在住の小手鞠さんだからこそ、書ける作品だと思います。ディベートがどう展開するのか気になって、一気読みしました。さまざまな角度から、日本の戦争について語っていて、中高生なら知らないことも多いのでは?と思います。ただ、各キャラクターの描写が最低限で、どんな人物かがあまり立ち上がってこない。青春小説の読みすぎかもしれませんが(笑)、主人公の葛藤や頑張って準備する様子などをもう少し読みたかったです。登場人物が、物語を動かすための駒として使われている感じもあります。けれど、推察になりますが、きっと「敢えて」なんでしょうね。ディテールを描いていくと分厚くて読みづらい本になるので、そこはもう描かない、という判断をしたのかなと思います。なお、ラストのほう、「過ちは繰返しませぬから」の部分、アメリカ人だったら、なるほど、と思って読むでしょうけど、日本人ならミスリードに気づくんじゃないかな・・・と感じました。でも、みなさんの感想を聞くと、わたしが疑り深すぎるのかな・・・。今のままでいいのかも、と思い直しました。

西山:これはディベートではありませんよね。p19からp20にかけて「ディスカッション」と説明しています。「どちらかといえば、ディベートに近いものになるかもしれないな」とは書いてあります。私は自分ではディベートをやったことはありませんが、中学の国語で積極的に取り組んでいる教師もいましたが、自分の意見とは関係なく賛成反対の役割で議論するのが、私にはどうしても好きになれません。でも、これはそうじゃない。まず自分の考えがあって、そこから議論しているので、共感して読みました。原爆に限らず、原爆、太平洋戦争、いろんな事実関係をイロハから、啓蒙的に書いて伝えている。すごいなと思いました。赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)が天皇の戦争責任について、アメリカの高校に通う日本人の少女がひとり矢面に立たされる話だったように記憶しています。並べて読み直すと何か見えてくるのかも知れないなと思います。p57「反対意見を主張するときには、まず、相手の意見のどの部分に反対するのか、ポイントをはっきり示してから反論に取りかかること。/学校で習ったこの教えを守って、私は主張を始めた」というところに、感心というかうらやましいというか、反省させられたというか・・・。あと、〇〇系〇〇人とか、単純に「〇〇人」と国籍で人をくくれない様を見せてくれているのもいいなぁと思った点でした。

サンザシ:ディベートについて今ちょっと調べてみたんですけど、大統領候補が討論したりするのもディベートですよね。そっちは広義のディベートで、狭義のディベートが、今西山さんがおっしゃった教育現場で使われているもので、賛成・反対の説得力を競い合う競技を指すみたいですよ。

さららん:でも、この本の中のは、ディベートじゃないと言ってますね。

レジーナ:中学のディベートの時間では、基本的に肯定派と反対派に分かれるけど、自分の意見は反対だとしても肯定派として話してもいいし、自由に選んでいいことになっていました。

ネズミ:昔、友だちがESSでディベートをやっているのを見ると、参加者は賛成と反対の両方の論を用意しておいて、くじを引いてどちらの側かを決めていました。

サンザシ:それだと考える訓練にはなっても、自分の意見を言う練習にはならないんじゃない?

西山:かえって隠れ蓑になってしまう。

さららん:教育で使うディベートというのは、もしかしたら、アメリカから伝わってきたのかもしれませんね。

ネズミ:ESSでディベートやってた人たちは論が立つようになって、外交官になったりしてますよ。

サンザシ:欧米だと、でたらめな論理でも堂々と自己主張する人もいるので、敢えて別の視点に立ってみるというのも必要なんだと思いますけど、日本はもっと自分の意見を言える練習をしたほうがいいんじゃないかな。

さららん:この本には、アメリカに住んでいる作者の実感がこもっていますよね。国籍で人をくくるのではなく、ひとりひとりに光を当てて考え、取り上げています。物事の多面性を見る入口として、こういう本は必要。

ネズミ:この本は、アメリカのことを学べる感じがしました。原爆のアメリカでの捉え方の話をアーサー・ビナードがするのを聞いたことがありますが、本当なんだなあと。でも、英語の論理をそのまま日本語にしたような会話文には、かなり違和感がありました。たとえばp27「まあまあ、スコット。今はそれくらいにしておかないか。そのつづきは討論会の会場で正々堂々と」とか。わざとつっかかるように書いたのかな。だとすると、この表紙にひかれて手にとった中学生は、すっと入れるのかなと心配になりました。8人の同じような年齢の人物を書きわけるのは大変なので、チャレンジングだと思いますが。あと、内容について、これは書かないのかなと思ったのは被曝のこと。放射能で土地や物が汚染されて被曝したり、あとあとまで病気の危険を負ったりといったことは、反対の理由になるのではないかと思うんですが。

サンザシ:もう一つ。ダリウスというアフリカ系の人が、自分たちは抑圧される一方の人間だから「ほんとうに罪のない人間というカテゴリーに入ると思う」って言うんですけど、ちょっとノーテンキすぎるように思いました。

ネズミ:最初の方は、罪がないかあるかという話になっているので、そういう意見が出たんじゃないかな。

レジーナ:私もおもしろく読みました。真珠湾攻撃は宣戦布告するはずだったのに、大使館の対応の遅れで不意打ちになったとは知りませんでした。「日本には、国民が一丸となって戦うという法律があったのだから、罪のない市民が犠牲になったとはいえない」と言う中国系のエミリー、「有色人種の土地にばかり核兵器が使われたのは、人種差別だ」と説くジャスミン、アメリカで差別されてきた黒人の視点から、原爆投下を非難するダリウスなど、多様なルーツをもつ高校生が、それぞれの視点から語っていておもしろかったです。口調が、ひと昔まえの翻訳ものや外国のテレビ番組のテロップみたいで、それは少し気になりました。p107「とんでもない!」「とびきり楽しい午後を過ごしてね」とか、p126「いまいましい!」とか。翻訳物は文体で敬遠されるって言われているのに。意図的にこういう口調にしたのかもしれませんが。

サンザシ:小手鞠さんが若い頃に読んだ翻訳小説がこういう口調だったのかしら?

ネズミ:やっぱりわざとかも。

西山:舞台が日本じゃないっていうことをはっきりさせたいから、こうしたんじゃない?

鏡文字:だとしたら、すごい技術ですね。

レジーナ:でも、あえてそうする必要はあるのでしょうか。翻訳ものでも、今はなるべく自然な文章にしますよね。そうじゃないと、読まれないので。

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エーデルワイス(メール参加):今年度の「マイベスト」になりました。感動でいっぱいです。物語としてもぐいぐいひっぱってくれるので、あっという間に読み終えていました。中高生に是非読んでほしいですね。国、人種、戦争、あらゆる困難な問題もこうして解決できたらいいですね。

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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フィリップ・フーズ『ナチスに挑戦した少年たち』

ナチスに挑戦した少年たち

ネズミ:デンマークのこうした事実を知らなかったので、そういう意味では興味深かったです。少年たちがあまりにも無謀なことをするのでドキドキしましたが、著者がインタビューした時点で生きて話しているので大丈夫だろうと。ただ、聞き書き部分と地の文が区別しにくく、物語のような文章のおもしろさ、わくわくする感じはあまりありませんでした。ノンフィクションを読み慣れないからか、読みにくいところや、実際にどういうことかよくわからない箇所が多少ありました。

西山:とにかく少年たちがあまりにも無謀。最初の写真の何人かは亡くなるかもしれないとずっとはらはらして読みました。クヌーズの語りとそうでない部分は、縦線を入れて形上は区別してますけれど、文体が同じだから、かなりわかりにくかったです。「カギ十字」という名称の方がなじんでいるのに、「逆卍(ぎゃくまんじ)」というのは、矢印を書き込んだ抵抗の落書きを視覚的にも説明するためでしょうか。違和感がはありました。それにしても、なんでこんなに無事だったんだろう……。金髪碧眼のアーリア人だったから? などとちょっと皮肉っぽく見てしまいました。たとえば、p154の並んで撮られた写真など、私の目にはヒットラー・ユーゲントの少年たちと風貌的には一緒に映ります。ところで、ドラ・ド・ヨングの『あらしの前』『あらしのあと』(吉野源三郎訳 岩波書店)では、オランダが早々に降伏したことは、国民が死なずにすんだということで否定的ではなかったと記憶しているのですが、実際のところどういう感じだったのでしょう。怒りつづける若者たち、という点ではYA文学として共感して読めるとも思いました。別の場所、時代だったら彼らが次々とやらかすことは、ハックやトムや、たくさんの児童文学作品の中のエネルギーに満ちたいたずらをする子ども像ともとれる・・・とはいっても、やっぱり命がかかりすぎていて、複雑な思いで読みました。そういう意味では新鮮でした。

サンザシ:私も、クヌーズが話している部分と地の文の区別がもう少しはっきりするといいな、と思いました。たとえばクヌーズの部分はですます調にするとか、何か工夫があったらよかったのに。クヌーズの部分は始まりの箇所は名前が書いてありますが、終わりはちょっとした印だけなので、そこに注意していないと、あれ?となってしまいます。それと、この少年たちは、ナチスの犯罪についてわかっているわけではなく、自分の国が侵略されたから破壊活動を始めるんですね。それに書きぶりが、戦争に行って敵を殺すのとあまり変わらないところもあって、同じ「敵をやっつけろ」というレベルじゃないかと私は思ってしまったんです。

さららん:私もそこは気になった。

サンザシ:少年だから上っ調子なのはしょうがないとしても、この作品が新しい戦争反対文学だとはなかなか思えなかったんですね。銃が暴発する場面など、戦争ごっこみたいだし。落ち着かない気持ちを抱えながらの読書になってしまいました。訳は、p34の「クヌーズ大」は「大クヌーズ」のほうが普通なのでは? フォークソングという言葉が出てきますが、この言葉を聞くと、私はどうしてもアメリカのプロテストソングを思い浮かべてしまうので、ちょっと違うのかなあと思ったり。あとp125の4行目の「相手」は、これでいいのかな? p189の収監されている部屋の鉄格子を切る場面は、私だけかもしれないけど、実際にどうやったのかよくわかりませんでした。

コアラ:p192の写真を見てもよくわからないですよね。

サンザシ:そういうところまでわかると、もっと臨場感が出るのに。細かいところですが、p240に「練り歯みがきが容器からぴゅっと出てくるようにしたらどうだ」とありますが、今の子どもは容器からぴゅっと出てくるのしか知らないから、よくわからないと思います。p246「頭を撃ちぬいた」は、射殺した人の頭を、とどめをさすために打ち抜いたのか自分の頭を撃ちぬいたのか、言葉を補った方がいいかと思いました。

コアラ:まず、本のつくりが変わっていてちょっと読みにくかったです。地の文があって、黒い線で区切られた注釈が入って、さらにクヌーズ本人が話す形式の文章も挟まっていて、断片的な感じがして最初は戸惑いました。内容としては、デンマークの状況や抵抗運動のことは知らなかったので、そういう面ではおもしろかったです。ただ、少年たちの破壊活動は、読んでいてあまりいい気持ちはしませんでした。ここまでやるか、という感じで。それでも、少年たちの行動が、あきらめていた大人や他の子どもたちが立ち上がるきっかけや刺激になったということで、こういうことがあったというのは、知っておいていい話だと思いました。

ハル:こういう少年たちがいたということを私も知らなかったので、タイトルを読んでわくわくしました。でも、本の中身からは、それ以上のものは得られなかったかなぁと思います。少年たちがどうやって武器を盗んだかとか、どうやって破壊活動を行ったかとか、そういうことを知りたいわけではないですし。記録として必要な本だと思いますが、子どもの本とするなら、題材が題材なだけに、本のつくり自体、もう少し配慮や工夫があってもいいのかもしれません。ノンフィクションがいいのか、小説がいいのかということも含めて考えたほうがいいのかも。キャプションも、もうちょっとていねいに教えてほしかったです。

鏡文字:彼らに直接関係する写真と、そうでないのが混在しているのでちょっと戸惑いますね。この本は、いろいろ考えさせられました。でも、おもしろいかっていうと、そうでもないな、というのが正直なところです。特に、前半が退屈でした。子どものごっこ遊びめいているのに、けっこうヘビーで、それが読んでいてきつかったです。ギャングっぽい、というか。ナチスというものを絶対悪として置いてますよね。悪の自明性というのか、そのことに寄りかかった作品だと感じました。もっと問いがほしい。それから、結局暴力なのか、という思いがどうしても拭えなくて。絶対的な非暴力という考えもある中で、彼らの暴力性をどうとらえたらいいのだろうと、考え込みました。レジスタンスを否定するわけじゃないけど、これでよかったんでしょうか。もう一つ、カールの遺書を読んで、ああ、戦時中の日本の若者と変わらないではないか、と思いました。デンマークにこういうことがあったと知ることができた、という点で、読んで無駄だったとは思いませんでしたが。あとがきに「無鉄砲さがおそろしくなってしまう」という言葉があったことにちょっとほっとしました。

さららん:読んでいて、どこかすわりの悪さを感じました。無抵抗で占領されたデンマークの大人たちに反発して、ナチスへのレジスタンスを始めた少年たち。骨のある子たちだと思ういっぽうで、「こんな活動をしていたら、いつか君たち、敵の誰かを殺しちゃうよ」と思いました。だから誰も殺さないうちに逮捕されて、少しほっとしたんです。戦争という暴力に対するレジスタンスは、良いことなのかもしれないけれど、つきつめれば暴力性は同じ。主人公たちが敵の武器を奪い始めたあたりから、暴力で悪をやっつけることの危うさが気になりました。戦争を描いた他国の作品でも、戦後まもなく出たものでは、しばしばレジスタンスに協力する子どもが一種の英雄として登場します。権力への抵抗そのものは大事な価値観。でも「レジスタンスをしているオレたちは善」というスタンスのノンフィクションを、子どもは今もカッコいいと思って読むんでしょうか?

ネズミ:みなさんの話を聞いているうちに、こういうふうにふりまわされて、よくわからないけどあれこれやってしまうというのも、戦時を生きる子どもの悲劇のひとつか、という気がしてきました。

サンザシ:でも、子どもがこの本を読んでそこまっでくみ取れるでしょうか?

鏡文字:そこを読み取ってほしいなら、そういう書き方が必要ですよね。現状だと、「やったぜ」という書き方ですから。

さららん:そういえばドイツの隣国、オランダの歴史を読んだことがあります。ナチスが侵攻するやいなや、政府と国王一家はロンドンに亡命。ユダヤ人の強制連行に、市民が連帯してストライキをするなど、デンマークの大人たちよりはがんばる人たちが多かったようですね。

サンザシ:ロイス・ローリーの『ふたりの星』(講談社/童話館出版)は、デンマークの市民や子どもが、ナチスの目を盗んでユダヤ人をスウェーデンに逃がすという設定でしたね。7000人くらいは同じようにして逃がしたらしいので、デンマークにもがんばる人たちがいたようですよ。

レジーナ:サンディー・トクスヴィグの『ヒットラーのカナリヤ』(小峰書店)も同じようなシチュエーションだったと思います。

さららん:知らないことばっかりだった、という意味では、とてもおもしろい本。

レジーナ:レジスタンスというと、まずフランスを思いだしますが、似たような状況でたくさんの人が亡くなっていますよね。この子たちが無事だったのは、少年だったから? 政府の姿勢が違うから? 西山さんがおっしゃるように、金髪碧眼だから? 人を傷つけかねないことをしているというのは、そうなのですが、今の日本に、ここまで行動力のある若者はいるでしょうか。それを考えると、大人から見ると無鉄砲だったり、考えが足りなかったりしても、ナチスに抵抗しない大人をふがいなく感じてアクションを起こす姿は、今の子どもたちに刺激をあたえると思います。

マリンゴ:デンマークが戦争中にどういう状況だったのかよく知らなくて、スウェーデンと似たような感じだったのかな、と思っていたのですが、この本でいろいろな事実を知って、とても興味深くて、引っ張られるように勢いよく読了しました。少年たちのやっていることは、今の日本ならただの不良というか、破壊行為です。だから、読んでいて後味は決してよくない。ただ、だからこそ戦争というものが、いかに破滅的で何も生み出さないものであるか、ということを改めて感じました。このヒーローたちの後日談が、必ずしも幸せではないところもリアルでした。おとなの文学で、こういう少年たちを取り上げるほうが読み応えがあるかも。児童文学だと、どうしても「このヒーローたち、すごいよね」という方向に行くので。ちょっとせつないですけれど、でも「その後」を知ることができてよかったです。

西山:p142、これはなんですか? イメージ写真?

さららん:レジスタンス博物館に展示されていたものでは?

西山:ああ、なるほど。しかし、それならそうとキャプションを付けてくれないと、いつだれが撮ったのかとひっかかりました。まさかとは思いつつ、戦争中にこんな武器の記念写真撮ってたの?と一瞬考えました。さっき言い忘れていました。p174の最後、罪を軽くしようとする弁護士を全く無視して、同じ証言を繰り返す、言うこと聞かないにもほどがある様子は一瞬笑えました。でも、殺されるかもしれないという恐怖感、危機感のなさに、やっぱり複雑な気分になったところです。

サンザシ:デンマークの少年だから生意気なことも言っても殺されないけど、ドイツの白バラの人たちは、どんどん殺されて行きますよね。クヌーズたちは「どうせたいしたことにはならないさ」と、多寡をくくっていられたということなのかな。

西山:これだけのことをして無事な話は初めて読みました。

サンザシ:グループの中にはユダヤ人の少年もいて、とっても危ないんじゃないかとはらはらしましたけど。

ネズミ:疑問に思った箇所を思い出しました。p88の4行目、「クヌーズとイェンスは、チャーチルクラブのことを家族からかくすのに大変な苦労をしていた」とあるのに、2つ先の文は「ただ、秘密がばれないようにするのは、いくつかの点で、そうむずかしくはなかった」となっています。最初の「大変な苦労をしていた」というのは、「なんとしても家族に知られまいとしていた」というようなことでしょうか。気になりました。

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エーデルワイス(メール参加):題名は『ナチスに挑戦した少年たち』ですが、その中心はクヌーズなんですね。時代背景、作者とクヌーズとの出会い、交流、クヌーズ自身の証言、当時の写真の数々。読んでいくとあれこれ散乱していて、落ち着かなくなりました。まだあどけない15,6歳の少年たちはデンマーク政府に抗議を込めてレジスタンスを始めます。若さゆえの正義感ですね。その後捕まって刑務所へ。その後遺症で生涯悩まされます。クヌーズの晩年の写真は、いいお顔ですね。好きな美術の仕事を得てよかった。比較的背が高く金髪、青い目が多いデンマーク人にヒトラーが理想人種をみたというのは、やりきれません。この本、読書感想文の課題本にいいですね。書きやすいと思いました。

(2018年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ライナー・チムニク『熊とにんげん』

熊とにんげん

マリンゴ:普段、YAなど長めのものを選んで読むことが多いので、こういう短くていい本を紹介してもらえてよかったと思っています。イラストがとても素敵。この絵のおかげで、世界にぐっと入りやすくなりました。24歳のときに書いた作品とは思えないです。もっと老成した作家の作品かと。不条理があっても、時にはひとりぼっちでも前を向いて生きていく、という内容は、大人にもぜひ届いたらいいのにと思います。今だからこそ読んでよかった。子どものころはこういうヒリヒリする本は苦手でした。1か所だけ気になったのは、p54「いく百いく千の小さいくもが巣をはり、田園に魔法をかける季節がきた」の季節が秋だということ。蜘蛛が巣をはりまくるのは春から夏で、秋は弱い蜘蛛が淘汰されて強い蜘蛛だけが生き残るイメージがあるので、外国の蜘蛛は生態が違うのかな、と。ファンタジックな物語なので、事実に沿う必要はもちろんないんですけどね。

西山:イラストが好きです。ものすごくしっかりしたデッサン(p4の熊とか)と、デフォルメしたユーモラスな線(p8など笑ってしまった)と、かなり好きです。切なさ、人間の根源的な寂しさというのは、幼いながらに抱えるもので、今にして思えば、「幸せな王子」や「泣いた赤鬼」でくり返し泣いていたのは、ある気持ち(うっすら切ない、とか)を掬い取ってくれていたのかもしれないと思います。子どもの時、この物語に出会っていたら、私にとって大事な1冊になっていたかもしれない、と思います。

ネズミ:物語の太い線があるわけではありませんが、熊とおじさんの静かな生が描かれていて、惹きつけられました。子どものときに読んだら、なんだか分かんない、と思ったかもしれませんが、サン=テグジュペリの『星の王子さま』がそうだったように、どこか気になって、後でまた手に取るような本になったのではないかと。p5におじさんの「とくべつなこと」が書かれていますが、それが、「熊のことばがわかること、心根のいいこと、それから七つのまりでお手玉ができること」と、ごくごく普通のことなんですね。一大スペクタクルのような、目を奪う事件が起きないところがいい。生きていく手触りというか、素敵だなと思う箇所がいっぱいありました。ときどき読み返してみたくなる、普遍的なもののある作品。こういう物語も子どものそばにあるといいですね。読者対象は小学校低・中学年と書いてありますね。

ハリネズミ:低学年は無理じゃないかな。

レジーナ:人が生きるというのがどういうことなのかを、静かに、自由に考えさせる本です。「ひと呼吸に三歩の歩み」など、リズミカルで品のある文章がすばらしくて、日記に書き写しちゃいました。文と、素朴で味わい深い絵とが合わさって、読み終えたあと、一遍の美しい詩を読んだような、しばし角笛の音を聞いていたような気になりました。子どものときに読んだら、ちょっと難しくても、文章に惹かれたと思います。

さららん:生きることの厳しいルールと悲しさが描かれています。私も小さい時「泣いた赤鬼」とか「幸せの王子」とか妙に好きだったんですね。「ごんぎつね」は残酷で嫌だったんですけど。自分が最初に童話を書くとしたら、こういうのを書きたかったけど、書けない自分に失望してきました。好きなところはいろいろあるけれど、たぶん一番好きなのは人間と熊の愛情が描かれている点かと。熊はおじさんを愛し、熊の仲間のところに戻っても、また人間のところに戻ってしまいますね。求めても求められないものを求めて、振り子のような二者の心の揺れが繰り返される静かな物語だと思いました。

鏡文字:絵もいいですが、全体的にすごくきれいな本ですね。絵の配置や余白の量、手書きっぽい文字など、本当に美しい本だと思いました。もし、子どものときに読んでいたら、よくわからないところがあっても、なんかずっと気になって好きになった本かもしれません。ただ、おじさんのパフォーマンスを、お手玉と記されると、どうしても日本のお手玉が浮かんでしまいました。

ハリネズミ:上田さんが最初に訳されたのが1982年ですから、ジャグリングという言葉はまだ日本では一般的ではなかったんだと思います。

鏡文字:神さまと友だちって、最強ですね

ハリネズミ:素朴でシンプルな人って、神さまとお友だちなんじゃないですか。

すあま:ずっと読まずにきてしまっていたので、よい機会となりました。よく復刊してくれました。文庫だと絵が小さくなってしまうので、やはりこのサイズがよいと思います。子ども時代に読むと、すごく好きになって大事な1冊になる、という可能性のある本だと思います。紹介しないと手に取ってもらえないかもしれないので、読んであげれば自分でも読んでみたいと思うのではないでしょうか。タイトルの『熊とにんげん』が、子どもには手に取りにくいかもしれません。かといって『熊とおじさん』でもないし・・・。

ハリネズミ:そこは原題がLeuteだから、おじさんじゃないですね。

すあま:でも、日本語版ではタイトルも変えたりするじゃないですか。

ハリネズミ:おじさんに限定していないんだと思います。だから「にんげん」じゃないと。

すあま:平仮名だから、少しやわらかい感じもしますね。派手な絵のにぎやかな本が多い中、こういう静かな本も読んでほしいです。

コアラ:私が子どもだったら、どう読んだだろうか、とまず思いました。子どもの頃は、冒険ものが好きだったので、自分からは手に取らなかったかもしれませんが、もし読んだら、たぶん、よくは分からないけれども何か気になる本になったと思います。大人になってから読んだ方が、私にはしっくりくる本でした。原著の初版が1954年ということですが、ちょっと古い感じが、かえって目立っていいと思いました。いろんなものが含まれている作品ですよね。人間の一生や、人間の手で自然の状態から引き離された動物のこと、動物の幸せや、人とのふれあい。子どもが読んでも何か心に残るのではないでしょうか。

アンヌ:生きてこの本に出会えてよかったと思える1冊です。この本を読むと、犬とか無口な友人とかと一緒に、山や月や海の向こうに耳を澄ませていたときを思い出します。おじさんがロシア語やフランス語を知っているのは、様々な国の国境近くまでさまよっているからでしょうね。それで、「ドゥダ」というのはどこかの言葉で「ジプシー」の意味かなと思って調べてみましたが分からなくて、これは苗字でしょうか? その後に「ロマ」という言葉が出てくるから「ジプシー」とも違いますよね。

ハリネズミ:この家族の苗字じゃないでしょうか。

しじみ71個分:ウィキペディア情報ですが、ポルトガル、ブラジル、スロバキア、ルーマニア出身でDudaの姓を持つ人がいると確認できました。)

さららん:「ロマ」も、昔は「ジプシー」と訳されていましたね。

アンヌ:本の中に書かれた楽譜を実際に弾いてみると確かに角笛のようだったり、クマがせがんだ「お話」はどんなのだろうとか思いを馳せたり、読み直すたびに魅力が深まって行く感じがしています。

ネズミ:熊がおじさんのふくらはぎをひっかいてお話をせがむところとかいいですよね。

しじみ71個分:大変におもしろい本でした。ほんの数行で一気に物語の世界に引きずりこまれました。すべての言葉が美しく、胸にしみて、まるで詩のようです。また、ブックデザインがいい! 余白が多くて視覚的に白が効いていますね。このデザインはすごいです。絵も素晴らしいです。お話もシンプルで、民話のような書かれ方をしていますが、すべての表現が胸にぐっと迫りました。おじさんは流浪の民で、定住の人々の共同体の周縁にいて、熊も熊の共同体から外れた周縁にいて、それぞれの社会に定着できないふたり組みの、社会からちょっと離れた、孤独な中での強い結びつきが描かれていると思って読みました。マレビトの寂しさとでも言いましょうか・・・。また、この物語の中に描かれる、民話とか寓話に通底する暴力性も好きです。犬だけは我慢ならないと、追ってくる犬を叩き殺すという場面にも表れていますが、生を見つめるとそこには残酷な暴力もあるわけで、それをきちんと描いているところに迫力を感じますし、静かな物語の中に激しいドラマチックさをもたらしています。熊とおじさんに張り合って、ドゥダの女たちが裸で踊るというくだりも、挿絵のおもしろさも加わってプリミティブな、強いエロスの力を感じます。暴力も性も「生」に直結していますから、そこを若いチムニクが描いたというところがすごい。

レジーナ:私はそこでアマテラスの話を思い出しました。

ハリネズミ:さっき「幸せな王子」とか、「泣いた赤鬼」が話に出てきましたが、この作品は、そういうのとはぜんぜん違うと思います。生きるってどういうことなのかという視点の深さがが違うんじゃないかな。甘ったるい話ではないし、そこはかとない寂しさというだけではないすごさが、この本にはあります。p77でヨショーという人がこう言っています。「熊はみんな森で生まれるんだよ。でもね、ときどき人間がやってきて、ほら穴の前のしげみにかくれてね、夕方親熊が川へおりていったすきに、穴にしのびこんで子熊をぬすむんだ。そして鼻に鉄の輪をはめてくさりにつなぐ。そのくさりを高くつりあげる。子熊は痛くてたまらないから、あと足でつま先立ちになる。そうやって、二本足で歩くことをしこむのさ。二本足で歩けるようになると、こんどは、熱い鉄板の上を歩かせる。熊は足の裏がやけついちゃたいへんだから、かた足ずつとびあがる。そのとき、音楽を聞かせるんだ。こうしておどりをおぼえさせる。しばらくすると熊は、音楽が鳴りだすと、足をあげなきゃやけどをすると思って、おどりだすというわけさ」と。その後で熊が、おじさんはそんな人じゃなかったというので、子どもの読者はほっとするわけですが、おとなになって読むと、おじさんは直接手を下しはしなかったかもしれないけど、そういうふうに訓練された熊がいたからこそ暮らしが成り立っていたと思って、ぞくっとするわけです。単に深い愛情などという言葉ではすまされなくなってくる。普通子どもの本だと、そこまで書きませんが、チムニクはそこまで書いてしまう。年齢が高くなって読んだほうが、いろいろと考えるでしょうね。それと、この本の翻訳は、これで完璧という気がしています。上田真而子さん、すごい、と。それに、この本にはユーモアもありますね。p27の「おっと、演歌師をわすれていました。そう、演歌師もいましたよ」なんて、どうして手書き風の文字にしてるのかわかりませんが、なんとなくおかしいじゃないですか。p51の渡り鳥の絵も。チムニクの本の中では、私はこれがいちばん好きです。

レジーナ:p56の手書きの部分もおもしろいですよ。丁寧につくられた本ですよね。

西山:補足します。さっき「泣いた赤鬼」とか「幸せの王子」を出しましたが、同じような物語と思っているわけではないんです。もし、幼いころ、こちらに出会っていたら、私が「泣いた赤鬼」にすくいとってもらっていた感情のようなものを、もっと深く受け止めてくれていたのではないか、子どもの頃出会いたかったな、という意味です。心の居場所になってくれたかな、と。

ハリネズミ:なにかがわかる本というより、心の中に種のようなものが残る本なんでしょうね。

しじみ71個分:熊の口輪について一言言いたいです。口輪は、熊が人間に飼いならされた証として描かれていて、人間による残虐な調教の果てに付けられたものです。おじさんは熊をつないだりはしないけれど、口輪は外さなかったですよね。熊の調教を誰がやったかは書いていないので、違う人かもしれないし、おじさんかもしれない。熊は、口輪のせいで熊の群れから排除されもするので、非常に重要な象徴的な意味を持っていて、それは熊と人間の明らかな境界なのですが、でも、それを越えた結びつきが描かれているところが非常に深いと思います。熊は口輪を外して、熊の群れに帰属できるようになるけれど、おじさんの角笛だけは首から下げたままでおじさんとのつながりを持ち続けますよね。人間でもありますよね、そういう関係、なんというか暴力を受けたのに離れられない共依存とか…違うか…?

ハリネズミ:「共依存」だと、お互いに好きというのとは違いますよね。

しじみ71個分:そうなんですよね。熊と人間との間には深くて大きな溝があるはずなのに、熊とおじさんは互いに大好きなんです。たぶん人間一般は好きじゃないだろうけどおじさんは好き、なのかな。(子どもも好きですね。)ただ、いい話というだけでなくて、シンプルなのによく読むと実はとても複雑な構造になっていて、いろいろなことが幾層にも重なって描かれているのではないかと感じます。何回読んでも如何様にも深く読めるんですね。

ルパン(遅れて参加):いい話だと思いました。熊おじさんの名前が出てこないところが好き。ラストがちょっと切ないところも。初めて読みましたが、懐かしい気持ちになるお話でした。

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エーデルワイス(メール参加):詩のような文章と、魅力的な絵。作者と訳者は1930年生まれの同い年なんですね。熊おじさんのできる三つが、とてもとても尊いことに思えます。熊に芸を仕込む為に、まず洞穴から小熊を盗む。鉄の鎖をつけ引っ張り、二本足で立たせる。熱い鉄板に乗せダンスを覚えさせる。これらのことはきっと事実で、なんて残酷なことだろうと思いました。

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ディオン・レナード『ファインディング・ゴビ』

ファインディング ゴビ

さららん:犬のゴビの視点が出てくるノンフィクションで、主人公のディオンと一緒に走っている気持ちになりました。読みやすかったです。ノンフィクションだけれどフィクションの部分もあり、読んだことのないタイプの本でした。ウルムチを始め、文化の違う知らない土地を旅行する楽しさがあります。ゴビは見つかるのかな、と、砂漠の中の一粒の砂を探すような気持ちになり、ハラハラしました。クラウドファンディングという現代の手法を使ったら、普通ではできないことができることが、子どもたちにも実例として分かります。よい中国人たちに助けられて、主人公はゴビを見つけた一方で、目立つ外国人として尾行されたというエピソードでは中国のこわさも感じました。

レジーナ:実際にあった出来事の重みがあり、それをうまく物語にしています。マラソンを走り抜いたあと犬は連れて帰れないことがわかり、ようやく一緒に暮らせると思ったら今度は犬が行方不明になるという展開に、引きこまれました。p120の「いやはや、かわいい犬ですなあ」など、せりふはところどころ不自然に感じました。

ネズミ:ノンフィクションだと気づかずに読み進み、p53の犬の写真を見て、「あれっ」と思い、作者と登場人物が同じ名前なのに気づいて、「ああ、ノンフィクションなのか」と。(帯に「奇跡の実話」とあるのを、他の参加者が見せる。)なるほどー。なので、途中でとまどいました。犬好きの人は好きなのかもしれませんが、ここまでして犬を連れて帰るかなと思ってしまいました。また、中国でゴビがいなくなって、探しに行きますが、中国は中国の論理があるだろうに、西洋人の勝手な印象で中国をとらえているようなところが引っかかりました。言葉が分からなければ、そりゃあ得体の知れない感じがしてしまうだろうなと。誤解もあるだろうし。あと、地図がほしかったです。

西山:帯をちゃんと見ないで、ノンフィクションだと思わずに読み始めて、先ほどネズミさんがおっしゃったのと全く同じタイミングで、同じように気がついた口です。活字のフォントを変えながら、犬の話を入れていくというやり方ですが、p7の5行目「小犬はすっかり落ちついて、のっぽさんといっしょに走った」とありますので、犬の一人称というわけではない。なんだか作りがピンとこないなぁと、最初は読みにくかったです。でもそのうち、ヒヤヒヤしながら読めるようになりました。タイトルからして、ゴビ砂漠でいなくなった小犬を探す物語かと思いきや、ウルトラマラソンは本の半ばで終わってしまったのに、まだまだ後が長い。びっくりでしたね。これは、物語の長さが物理的に分かる紙の本だからこそのドキドキだったと思います。えーまだ何か起こるの?と翻弄されたのが楽しい読書となりました。ノンフィクションだから仕方ないのですが、p147の、あのゴビを隠しもせずエレベーターに乗るところ、迂闊すぎますよね。私、登場人物の迂闊さが生み出すスリルにはストレスを感じるんです。ちょっとイライラしましたが、実話なんですよねぇ。

鏡文字:一般書の『ゴビ〜僕と125キロを走った、奇跡の犬』(ディオンレナード著 夏目大訳 ハーパーコリンズ・ジャパン)を先に読みました。あすなろ版は、子ども向けに編集されたものの翻訳ですが、なぜ、同時期に出たんでしょうね。でも、あすなろ版もコードは一般書ですけど。

マリンゴ:あすなろ書房は、中学生以上向けのYAは、すべて一般書コードだと聞いたことがありますね。

鏡文字:ハーパーコリンズ版の方は、ディオンさんの生い立ちなどにも触れています。父親が亡くなった時のこと、母親のこと、奥さんとの出会い、ウルトラマラソンをはじめた経緯が書いてあって、そっちを先に読んでしまうと、こっちは、どうしてもダイジェスト版のように感じてしまいました。

マリンゴ:一気に勢いよく読めました。ただ、気になるところも多かったです。私は元々、ウルトラマラソンやアドベンチャーレースをテレビで観戦するのが大好きなんですけど、景色とかレースの熱量とか、そういった描写がもう少し読みたかったので、物足りなさを感じました。もっとも、レースが物語のすべてではないので、ページを多く割くことができなかったのでしょうけど。本文は、人間の目線と犬の目線が交互になっていますが、ノンフィクションであるからには、犬の目線はいらなかったように思います。人間が知り得ないこと、気づかなかったことを犬が語ってこそ、視点を切り替える意味があると思うので。あと、この作者の、アジア人に対する不信感を随所に感じました。特に、ホテルに犬を連れて入ってやったぜ!と出し抜いたことに喜んでいるシーンは、共感できませんでした。ホテルがどうしても犬を受け入れられないというのは、この地方の文化であって、やはり尊重すべきかと。違反するにしても、もっとこっそり「申し訳ない」という感じだったら、理解できたのですけれど。あと、一般向けの本には書いてあるのかもしれませんが、こちらの児童書版では、ディオンの仕事がどんなものなのか、そういう部分が一切描かれていないのが残念でした。

ハリネズミ:ディオンとゴビの2つの視点で書かれているのは、私はおもしろかったです。ディオンは最初は「別に飼い主じゃないし」とか、「しかもいびきをかく犬だし」とか、「勝手についてきただけだし」と思っているんですが、犬のほうは最初からディオンを気に入っています。2つの視点があることによって、双方の気持ちの差が出ていて、それがだんだんにお互い離れがたくなっていく過程がうまく描かれていると思います。ウルトラマラソンの苛酷さは知らなかったのですが、その部分はサバイバル物語のように読めますね。ノンフィクションならもっと写真があったらいいのに、と思いました。YouTubeを見るといっぱい映像があるから、入れようと思えばいくらでも入れられたのに、と思ったんです。それに、ゴビは足の短い小さな犬でちょこまか走っていて、ディオンさんはひょろっと背の高い人で大股で走っているので、写真があればその対比のおもしろさもよくわかるのに、と。契約上の制限があったのでしょうか? ウルムチは新疆ウィグル自治区の首都ですよね。ウィグルの人たちは中国政府に抑圧されていますが、それについてはこの本は一切触れていませんね。そこを思うと、犬好きの私でも「人間が大変なのに犬かよ」と思ってしまいました。まあ、ゴビの捜索に中国人もかかわっているし、中国政府の尾行もついていたみたいだし、これからハリウッド映画にしてまた中国でロケしなくちゃならないとすると、政治的なことは書けないのかもしれませんが。

しじみ71個分:表紙の犬の絵があまり可愛くないなぁと初めは思ったのですが、主人公と一緒にレースを走る様子を読んでいる途中から、可愛く思えてきて、犬に感情移入して読みました。犬の視点で表現する箇所は、フォントを変えてありますが、一人称で書かれていたり、行動を客観的にト書き風に書かれているところもあったりで、ちょっと中途半端でした。文筆が専門じゃない人か書いたからか、と後で納得しましたが。表現が淡々としているところは好感が持てました。ウルムチは、中国でも北京や上海とは異なるし、政治的にも微妙だし、おそらく英語も都市部より通じにくいでしょうし、ノンフィクションだから西洋人の不安な視点そのままで描かれているんだなと理解しました。また、おもしろかったのは、ゴビ発見の知らせを受けて写真を見た主人公はゴビではないと思ったのに、友人が絶対ゴビだから確認しに行くように促した点です。フィクションだったら逆に、ほかの誰もが違うと言っても、主人公だけは自分の犬だと分かる、となるのでは? 都合の悪いところも脚色しないで、正直に書いているところがおもしろかったです。クラウドファンディングで捜索費用を集めるとか、中国内でインターネットを使う際には気を遣うとか、お話の筋以外でもいろいろおもしろい情報が得られました。また、主人公が犬を探すために会社が休みをくれるなんていうのも日本では考えにくいなと、物語とは別なところで感心しました。

アンヌ:私も実話とは知らずに読み始めたので、この小さい犬が岩場を身軽に走る姿や、主人公がただ競争するのではなく、過酷な自然の中で助け合いながらマラソンに参加している姿がとても新鮮で、前半はおもしろく読みました。でも、ホテルに犬を連れ込むシーンとか、所々に相手の国を尊重していない言動が見られて、後半は、素直にイギリスへ犬を連れ帰る冒険の物語とは読めませんでした。この本は子ども向きに書き直したものだそうですが、それにしては、説明不足の点が多いと思います。そこらへんが、何か奥歯にものが挟まったような感じがします。

コアラ:私はおもしろかったです。カバーの犬は、私は可愛いと思いましたが、p53に実物のゴビの写真があって、口元が黒くてモサモサしていて、カバーの絵よりもユニークな顔つきですよね。でもこの大きな目でじっと見つめられると、虜になってしまうんでしょうね。犬目線の文章は、ちょっとちゃちな感じがしました。子どもに身近に感じてもらいたくて、こういう文章を入れたんだろうなと思いました。イギリスに呼び寄せるのにクラウドファンディングで費用を集めたり、中国ではだんだん話が大きくなって、スパイ映画のような感じになったりと、ハラハラさせられたけれど、ハッピーエンドになってよかった。これが作り事でなくノンフィクションだというところに読む価値があるように思いました。

すあま:私も、ゴビの写真が出てきて、初めてノンフィクションだと気づきました。また、出だしに「お嬢ちゃん」と呼んでいることから雌犬なのか、と思いましたが唐突な感じもしました。ウルトラマラソンのことは知らなかったので、読み進めながら競技について知っていく、という感じでしたが、もう少し説明がほしかったと思います。また、地図もあれば良かったのに。後半、ゴビを探して連れて帰るまでが長いので、ちょっと飽きてしまいました。また、ホテルに犬を入れるとその後は誰も泊まらなくなる、と言われているのに、ルールを守らずに連れ込むのはどうかと思いました。

鏡文字:先ほど言ったように、一般書を先に読んだので、特にゴビ視点に違和感がありました。行方不明中の真相は人間には分からないけれど、ゴビ自身は分かっているのだから、ゴビ視点を入れるなら語ってほしいと思ってしまいます。もちろんノンフィクションなのでそれはできないわけですが。子どもが読むために、安易に犬視点を入れちゃった、という印象がありました。ところで、犬は見てすぐに、雄雌のどちらか分かるのでしょか?

ハリネズミ:わかりますよ。毛がとても長い犬以外はね。

鏡文字:犬好きのハリネズミさんから「犬かよ」との発言があったので、安心して言いますが、たかが犬1匹のためにここまでするかと思って、いささかうんざりしました。マラソンや駅伝を見るのは好きですが、過酷なウルトラマラソンについての描写も、読んでいて少し疲れました。それから、少しおかしな箇所があるな、と。p63に「妻がどう反応するか読めずに不安」とあるのに、次のページで「イエスというのがわかっていた」と書いてあります。また「ウルムチのような小さな町」とありますが、ウルムチは、人口135万の中国西部最大の都市です。ちなみに一般書の方には大きな町という記述があったかと思います。p106の「携帯電話がバイブした」という言葉にもひっかかりました。あと、西洋的な視点という何人かの方の意見に私も同意します。たしかに、中国はいろいろ矛盾を抱えた国だとは思いますが。

ルパン(遅れて参加):私はあまり感情移入できませんでした。犬を飼っていたことはあるんですが・・・いくら過酷なレースをともにしたとはいえ、犬1匹のためにここまでやらなければならない理由が伝わってきませんでした。ニュラリはゴビを押し付けられたうえに悪者にされて気の毒でした。

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エーデルワイス(メール参加):ノンフィクションで興味深く読みました。ゴビ砂漠の250kmを7日間で走るなんて、極限状態での自分が試されるレースですね。そこになぜ、かわいい犬が迷いこむのかが、よくわかりませんでした。ゴビ側から見た文章がしばしば出てきますが、どこからやってきたのか、行方不明のときはどうしていたのか、誘拐だったのか、なども語ってほしくなります。それは無理なのですが、だとすると、ゴビの気持ちをあらわす文章はいらないかと思いました。ゴビが中国を出るまでが、こんなに大変だとは知りませんでした。フィリピンから飼い猫を連れ帰った知り合いがいるので聞いてみたところ、猫はスムーズに連れ出せたそうです。犬は狂犬病などがあるから移動が難しいのでしょうね。

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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泉田もと『旅のお供はしゃれこうべ』

旅のお供はしゃれこうべ

アンヌ:たいへん好きな作品でとてもおもしろく読みました。時代ものは武士の話が多いので、商人という設定もよかった。気になった点だけを言いますと、最後に助佐が人間の姿で別れを告げに来るところは、霊となってあの世に行く途中だから、わざわざ十六夜に変身させてもらわなくてもよかったと思います。幽霊が最後に昔の姿で別れを告げにくる話はよくありますから。後半は前半に比べて少しすっきりしていません。おもしろいので続き物にして、お春の話は次の巻にしてもよかったかもしれません。

しじみ71個分:私もおもしろいと思いました。人情の温かみもあって、いい話だなと。しゃれこうべと旅をするというのも変わっていますし、そのしゃれこうべがしゃべるという設定もおもしろかったです。ひ弱な商家の跡取り息子が旅の途中で様々な事件を体験して成長していく物語ですが、父親から受け取りに行ってほしいと言われた茶碗が道中でお供に盗まれ、それを探す謎解き要素もあり、読む人を飽きさせない展開になっていますね。しゃれこうべの助佐が最後に人の姿を現すのも感動的なのですが、やはり、ちょっとお茶の間の時代劇的な安易さもあって、そこは少し引っかかるところでした。例えば、助佐が、妹のお春のことが気にかかって成仏できないでいたのを主人公が解決して成仏させるあたりとか、終わりの読めてしまう分かりやすさがあるような・・・・・・。

ハリネズミ:気の弱い意気地なしの惣一郎が、しゃれこうべの言うことを聞いて体験を重ねるうちに成長していくという流れで、講談みたいなストーリー展開だなと思いました。表紙や裏表紙からもエンタメ作品だということはわかるので、リアリティにこだわらなくてもいいんでしょうけど、父親が自分の焼いた茶碗を息子の初出張として遠いところまで息子に取りに行かせ、それが盗まれるという展開はリアルではないと思いました。得意先なら、ほかのを買い付けに行ったついでにもらってくるのが普通でしょう? そこは、お約束ごととしてスルーするのであれば、後で惣一郎が怒ったりする場面を詳しく書いて読者の注意を惹きつけない方がいいのに、とも思いました。作者のデビュー作を書き直した作品ということで、応援したいなと思っています。

マリンゴ:ユニークな作品で、とてもおもしろく読みました。賞に応募した時のタイトルは『野ざらし語り』なんですね。このタイトルだったら、受ける印象がまったく違っただろうなぁ、と興味深かったです。内容はポップで元気なので、『旅のお供はしゃれこうべ』というタイトルのほうが、イメージに合っていてよかったとは思いますが、野ざらし語りという言葉の響きがとてもいいので少し残念な気も。ストーリーで唯一気になったのは、しゃれこうべのスペックですね。p15に「ひょこひょこ近づいてくる」とあるように、多少自分で動けるけど、遠くまでは行けない。何ができて何ができないのか、その境目って明確になっていたかな? 私、読み逃してしまったかしら……。

西山:ちょっと転がれるんだから、転がり続けたらどこでも行けそうな、とか?

レジーナ:転がって長距離を移動するのは、難しくないですか。坂とか障害物とかあるでしょうし。

西山:私は、この本を読んだのは2度目だったんですけど、前に好感を持って読んだ記憶はあるのですが、まぁすっかり忘れていて、2017年に同じ画家の表紙で出ている『化けて貸します!レンタルショップ八文字屋』を続編かと思って今回読んでしまい・・・。ラストを忘れている証拠ですよね、続きだと思ってしまうって。さらに、恥をさらせば、この2冊目も読んだことを忘れてました。失礼な話ですみません。ジュニア冒険小説大賞は、竜頭蛇尾の印象を得るものが多かったのですけど、この作品はバランスよくまとまっていると思います。たとえばp79に出てくる「目かづら」。「江戸で百目の米吉っていう男がそういう目かづらをつけて歯磨き粉を売り歩いてずいぶんと評判になってたんだ」とありますが、そういう江戸の風俗はきっと正しい情報なのだろうなぁ、この作者は江戸の風俗に詳しくて、それが作品の強みになっているのだろうなと思いました。(検索してみたら、「コトバンク」に出て来ました!)エンタメ系の作品はシリーズにしがちですけれど、シリーズにしようと思えばできる作りなのに、しっかり1冊で完結させているところが潔くて好感を持ちます。

ネズミ:パパッと読みました。おもしろく読んだけれど、エンタメだからか、特に印象に残らなかった感じです。成長物語だと思いますが、説明的に感じたところ、説教臭く感じたところがちょこちょこありました。最後に助佐が人間になって出てくるところや、p162からあとの惣一郎が若旦那になるところは、ややとってつけたようで、なくてもよかった気がました。その前の冒険で十分楽しめたので。

レジーナ:物語づくりがうまいなと思いました。おもしろかったです。しゃれこうべと旅をするという設定に引き込まれて一気に読みました。表紙の絵はちょっと古いような……。気弱な感じに描いたのでしょうが、顔立ちが女の子みたいでもあるし。

さららん:タイトルを見たときに、「うーん、どうなんだろう?」って思ったんですけど、読み始めたら設定がすごくおもしろい。江戸の浅草の商売をはじめ、知らないことを知ることができました。最後、キツネの十六夜が生きているから、しゃれこうべの助佐と別れたあとの惣一郎の喪失感はやわらいでいますね。甘っちょろいところもあるけれど、日本ならではのエンタメ物語です。父親が焼き物の本当の価値を惣一郎に知らせず、惣一郎の言葉が誤解を生んだ結果、出来心で盗んでしまった奉公人の市蔵が救われなくて、そこだけちょっとかわいそうでした。

鏡文字:表紙に画家の名前がないんですね。絵が少ないからでしょうか。すべて確認したわけではないですが、この賞(ジュニア冒険小説大賞)の受賞作シリーズは、ふつう表紙に名前があります。このグレードでエンタメのつくりとしては珍しいと思いました。物語はおもしろく読みました。西山さん同様、ジュニア冒険小説大賞は、「うーん」と、思う受賞作も結構ありますが、これは読みやすかったし、よくまとまっていると思いました。この人の文章は、読点が少ないですね。見せ物をする場面で、しゃれこうべに話させますが、観客は怖がったりはしてません。どう認識していたのでしょうか。

しじみ71個分:たしかに驚きはするけど怖がってはいないですね。

ハリネズミ:自然の中にしゃれこうべがごろんとあったら怖いけど、見世物は最初から怖いものを見せるという趣向なので、観客の好奇心が勝っているのでは?

鏡文字:基本的に惣一郎の視点だけど、視点がずれるところがあるのが残念。p89には市蔵の視点が出てきます。それから、大人になってからのシーンはありますが、その後、惣一郎はどう生きたのでしょうか。助左にとらわれて生きているのかも、と。結婚したのか、子がいるのか等気になりました。途中では春と結ばれるのかなと思ったのですが。あと、十六夜がスーパーすぎるのが、ちょっと気になりました。

すあま:読みやすく、さーっと読んでしまいました。おもしろかったのですが、時間が経つと気になることも出てきました。惣一郎は13歳ということでしたが、人前で話をするところなど、もう少し年が上のイメージでした。時代が古いので、早くおとなになるのかもしれませんが。盗まれた茶碗に何か意味があるかと思っていたら、父親の作ったもので価値がなかったのでちょっとがっかりしました。終わり方としては、しゃれこうべが成仏して終わりでもよかったかも。大人になった惣一郎の部分はなくてもよかったのではないかと思いました。

コアラ:おもしろく読みました。最後までユーモラスで、少しほろりとさせて、うまくまとめていると思います。しゃれこうべが話すというアイディアが、まずおもしろい。ただ、それだけではストーリーにならないところを、こういうストーリーに作り上げたのは見事だと思います。登場人物の中では、父親の人物像が少しつかみにくかったです。あと、主人公が最初は弱気だったのに、急にアイディアマンになったりするところは、ちょっと作者の都合を感じました。デビュー作ということですが、安定感がありますよね。

アンヌ:最後に十六夜と語り合うところで、続編があるのではと思い期待しています。

すあま:しゃれこうべとはいいコンビになっていたので、成仏しなければ続編も書けたのではないかと思いました。

ハリネズミ:子どもの本だと、そこは成仏させるんだと思うな。次の巻があるとしたら、やっぱり十六夜との話でしょうか。

ルパン(遅れて参加):楽しかったです。今日話し合う3冊のなかでいちばんおもしろかった。ユーモアのセンスもいいし、話もスピーディーで現代的。好きなテイストの物語です。

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エーデルワイス(メール参加):おもしろく読んで、よくまとまっていると思いました。日本の昔話「うたう骸骨」からヒントを得て書かれたのでしょうか?

 

(2018年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョン・ボイン『ヒトラーと暮らした少年』

ヒトラーと暮らした少年

カピバラ:純粋で無垢な少年の心情、周りの人々の人物描写が巧みで、次々と場所が変わるけれど情景描写もうまく、まるで映画を見ているようにおもしろかったです。後半、次第にヒトラーに心酔していくのですが、どんなところに惹かれたのかという部分が描き切れていないと思い、そこは少し物足りませんでした。だから唐突に変わっちゃった気がしました。最後にアンシェルと再会するところに希望が感じられてほっとしました。最初にアンシェルとの仲良しぶりがほほえましく描かれているところが、伏線としてここで生きてきます。物語として納得のできる終わり方でした。ベルクホーフは本当に美しいところだったようで、絵本作家ベーメルマンスの伝記にも、少年時代に暮らしたこの土地の美しさが出てきます。時々山の家にヒトラーが来て、人々が興奮する様子もありました。美しい場所だけに、そこで行われていることの恐ろしさが際立っており、その対比もうまいと思いました。

ハリネズミ:『九時の月』を読んでいる時と違って、翻訳にいらだつことなく、すーっと物語の中に入っていけました。文学作品は、こんなふうにていねいに訳してほしいと思います。原作もいいのでしょうが訳もいいので、登場人物がそれぞれ特徴をもった存在として浮かびあがってきます。ヒトラーはそんなに魅力的な人物ではないかもしれないけれど、ピエロはついつい惹きつけられて、間違った判断をしてしまうんですね。その怖さがリアルです。ピエロは孤独で、名前も変え、アイデンティティも失っている。そんなときに、ちょっと親切にしてくれのがみんなが崇拝している強くて偉い人だと、すっと取り込まれてしまう。子どもは、周囲の熱狂に左右されやすい、とも言えるのかもしれません。最後は希望も見えて、展開もおもしろく、子どもに手渡したいなと思いました。

コアラ:今回のテーマを聞いた時には、漠然といい出会いをイメージしていましたが、これは悪い出会いというか、恐ろしい出会いでした。読み進むについれて、主人公のピエロが、横柄で権力的に変化していくのが怖くなりました。7歳という年齢で、ヒトラーという、権力を持つ圧倒的な存在に出会って影響を受けていく恐ろしさを感じましたね。主人公に共感しながら読むというよりは、主人公を一歩引いた目で見るというか、少年が変化していくのを大人の目で読んだという感じですが、この本の対象年齢は何歳くらいでしょうか。本のCコードは0097となっていて一般向けなので、YA扱いでしょうか。最後のほうで、この本を書いたのがアンシェルだという展開になりますが、p280の後ろから3行目の「だが、もちろん、すぐに彼だとわかった。」の行のところから、主語がアンシェルの一人称になるところは、劇的でしたね。いい終わり方だったけれど、p282で、この本のテーマを全部言ってしまっているのが、ちょっと残念でした。読み取り方をまとめてくれているから、わかりやすいといえばわかりやすくなっているけれど、読者の自由な読み取りに委ねてもいいのではないかと思いました。

花散里:原書のタイトルには「ヒトラー」とは書かれていない。この日本語のタイトルでは、読む前から少年が出会ったのがヒトラーだったと解ってしまう。第1部の第5章ぐらいから読み進んでいって、その人物が「ヒトラー」なのではないかと思えるような場面の緊張感が削がれてしまっているのではないかと感じました。第2部からのヒトラーと出会ったことで性格が変わって行く様子は恐ろしいほどで叔母さんの死などは特に壮絶で一気に読ませます。同じ著者の『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)は結末が衝撃的で印象深かったのですが、この作品ではピエロが〈ピエロ〉に戻るエピローグまでを読んで救われる思いでした。ヒトラー死後の戦後までを、子どもたちはどのように読むだろうかと思いました。

アンヌ:タイトルを見て、ヒトラーと向き合うことになるんだなと思うとなかなか手が出ませんでした。過酷な孤児院生活の後、状況もわからないまま叔母に引き取られ、あっという間にヒトラーに取り込まれて行ってしまう。まあ、理解はできるのだけれど、釈然としませんでした。愛情をもって引き取ってくれたはずの叔母さんが、使命を持った二重生活を送っているから、ピエロと本当に話し合えなかったせいでしょうか。とにかく、最後のエピローグでアンシェルが出てきて、ほっとしました。

たぬき:タイトルと袖文句で、どういう本かわかっていまいます。なぜヒトラーにひかれたのか、だからこそこわいという見方もあるけれど、もっと子どもにわかるように書いてもいいのかと思います。

しじみ71個分:非常におもしろく読みました。フランスで孤児となった少年のアイデンティティが、ベルクホーフのヒトラーの山荘で家政婦として働くおばさんに引き取られ、ヒトラーと出会ってしまったことにより変貌していくさまが痛々しく、胸に刺さりました。ピエロのアイデンティティの喪失が、ペーターとドイツ風に呼ばれるようになり、父母がつけてくれた名前を奪われることや、自分の物として唯一持っていったケストナーの『エーミールと探偵たち』がいつのまにかどこかに無くなってしまって、代わりに『わが闘争』を含むヒトラーの書斎の本を読むようになっていくなど、いろいろ細かく描きこまれて、読み応え十分でした。また、おばさんのベアトリクスとか、それぞれの登場人物のキャラクターも明確に描かれていて、それぞれの役割がわかりやすいですし、料理人のエマがいい味を出していて魅力的です。メイドのヘルタは、最初は運転手のエルンストに懸想するような、軽い人物として描かれているのが、ヒトラーの死後、山荘を去るときには、ピーターに重々しい台詞を残して行くところが、急にりっぱな人間になったようで、おかしかったですが、戦後のピエロの魂の彷徨のきっかけにもなっていて、重みがありました。
子どもでも戦争の加害者になり、重い十字架を抱えてしまうという姿が描かれていますが、このピエロは、最初は間違いなく、第一次世界大戦の被害者です。父親が大戦後に心を病み、事故死し、働きずくめになった母親も死んで孤児になってしまいます。誰でも加害者にも被害者にも、簡単になり得るわけで。少年が力もなく、身寄りもなく、経済的にも困窮し、何もないところで強大な力にあこがれ、ヒトラーに自己を同一化していきますが、そのヒトラーという力へのあこがれは、常に恐怖に裏打ちされてもいるわけで、恐怖による支配としても描かれていました。なぜ人が戦争犯罪に加担していくかを考えさせられましたし、本当に読むと痛くて、胸にせまる物語でした。

オオバコ:『縞模様のパジャマの少年』は、作者も言っているように寓話として書かれているから、雪崩をうつようにエンディングに落ちていく迫力がありましたが、この本はもっとじっくりと描かれていて、より大きな物語の世界を創っています。序章と終章が円環のように結ばれている構成も、見事だと思いました。大変な作家ですね。心優しい、ケストナーを読んでいた少年がどんどん変わっていく有り様が恐ろしい。メイルストロムの大渦巻みたいに大きな力に吸いこまれていく人たちと、それに必死にあらがっている人たち。そんな群像に、現在の日本にも通じるものを感じました。だって、文書をなによりも大事にしている官僚たちが、平気で国会に提出する書類を差しかえたり、偽造したりするのって、身震いするほど恐ろしいと思いませんか? それと、良い意味でショックを受けたのは「加害者としての子ども」を描いているところです。戦時下の子どもは戦地に赴いて人を殺すこともないし、自分から戦争をはじめたわけでもない被害者であり、文学のなかでもそういうふうにしか描けないと思っていました。日本の創作児童文学も、圧倒的に被害者としての子どもを描いたものが多いですよね。中国に赴いた少年兵が主人公の乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』はありますが。でも、これほどドラマチックでなくてもピエロのような少年は日本にもいただろうし、こういう形で子どもたちの戦争を描くこともできるかもしれないと思いました。その点も、とても新鮮でした。原田さんの訳はいつもそうですが、今回も翻訳の上手さに圧倒されました。特に会話の訳が見事で、登場人物のそれぞれがありありと目に浮かび、生き生きと動いている。「まいった、まいった!」という感じでした。

レジーナ:主人公がヒトラーにひかれたのは、父親的な存在を求める気持ちからでしょう。無垢な少年が変わっていったという意見もありましたが、私はそうは思いませんでした。ピエロが特別、無垢なわけではなく、ふつうの子どもの純粋さをもち、成長してもその部分は残っていて、だからこそヒトラーに影響されたように見えました。p198でカタリーナにさとされても、「今のやりとりを記憶の中からとりのぞき、頭の中の別の場所に入れなおした」ように、良心がわずかに痛む瞬間はあっても、気づかないふりをしてやりすごします。以前読んだ本で、ドイツ人が、収容所から生還したユダヤ人に、「そんなことが起きていたなんてまったく知らなかった」と言い、「わたしたちはみんな気づいていたのだから、知らなかったなんて、ぜったいに言ってはいけない」と、奥さんに言われる場面がありました。p261のペテロとヘルタの会話で、そのシーンを思いだしました。ナチスがユダヤ人のまえに殺したのは、障がいのある人たちなので、アンシェルの耳が聞こえないことにも深い意味がありますね。場の雰囲気に流されるうちに、アンシェルや伯母やエルンストを切り捨てていくピエロにも、草花を愛するような優しい人だったのに、戦争で心が傷つき、暴力をふるうようになる父親にも、人間としての弱さがあり、それは私たちだれもがもっている弱さなのだと思います。p172で、エーファとフロライン・ブラウンと、表記が分かれているのですが、なにか意味はあるのでしょうか。

オオバコ:YAだから、原作のままに訳してもいいんじゃないかしら?

ハル:これは、ピエロが引き取られた先にいたのがたまたまヒトラーだったというだけで、ヒトラーに魅力があったということではなく、たとえば村長さんとか、そういった戦争に関係ない人だったとしても、権力があって、こわくて、ときどき優しくて、なんていう人の前に突然立たされたら、誰だってなびいてしまうんじゃないかと思います。戦争に限らず、学校や社会やいろんな日常で、いつのまにか強い力に染まっていた、という危険はいつもあると思います。純粋無垢であればあるほど。そうならないためにはしっかり勉強をしなければいけない。でも、その教育がすでに毒されていたら…?と、恐ろしくなりました。戦争が終わって、ピエロも自分の犯した罪を背負い、償いの日々を生きていかなければなりません。でも、そこに希望を見つけたような思いがしました。戦争があった(または、たとえばいじめの加害者になってしまった)。最悪だった。許されない。で終わるのではなく、過ちを認め、罪を背負い、償いながら生き続けることで、次の世代か、いつかの希望につながっていくんだなと思いました。

西山:希望とか絶望とかは考えませんでしたね。取り返しのつかなさをつきつけられて呆然とする感じ。ピエロの変質は不自然とは思いません。「力」にひかれていく様子がとてもわかる。近くにいる人たちをぴりぴりさせ、まわりの人間の生殺与奪をにぎっている総統と一緒に出掛けている自分を「羨望のまなざしで見るだろう」(p198)という場面、汽車の中で自分をいたぶったヒトラーユーゲントがその場にいたらどんなに驚き、恐れるだろうかと考えているだろうと、ピエロの高揚感が想像できてしまいました。権力のそばにいて得意に思う快感を理解してしまった瞬間、私もピエロと同じ側に立っているわけで、そういう意味でも実に怖い読書でした。

ハリネズミ:ピエロは、取り返しのつかないことをしてきたのですが、ぐるっと回って振り返ったときに、そこに自分を理解してくれるかもしれない友だちが確かにいる、というのは希望だと私は思ったんです。

マリンゴ:前作の『縞模様のパジャマの少年』は、あまりに衝撃的でした。後半、かなり力技になるんですけど、それに気づいたときはもう物語に引きずり込まれているんですよね。なので、今回の作品も期待したのですが、こちらのほうが早い段階から力技な感じがしました。決して、物語に入れなかったわけではないのですが、少し距離を置いて読みました。主人公が変わらなくて、まわりの人間たちが変わっていくのを観察する、という物語はよくありますが、主人公が変わっていってしまう、という展開になっているのはすごいと思います。変わっていって、そして自分がやってしまったことに気づく。幅広い世代に読んでもらえたらいいですね。今の日本でも、ネットなどを見ていると、大きな声に引きずられがちなように感じることがあります。この物語を、自分に置き換えて読んでもらえるといいのではないでしょうか。

オオバコ:これから主人公は自分の罪に向き合って、贖罪の人生を送っていく。そこに魂の救いがある……というところに、ちょっとほっとしました。

西山:『九時の月』でも、解説で、モデルになった女性が生きのびたことがわかってほっとしました。これもまた、一つの希望のある終わり方だと思います。

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エーデルワイス(メール参加):p261の「でもあんたは若い。まだ16なんだから、関わった罪と折り合いをつけていく時間はこの先たっぷりある。でも自分にむかって、ぼくは知らなかったとは絶対に言っちゃいけない。・・・それ以上に重い罪はないんだから」というヘルタの言葉が印象的でした。レニ・リーフェンシュタールも登場しますが、自伝を読んだり展覧会に行ったりしたことを思い出しました。『縞模様のパジャマの少年』と同様に映画になりそうな気もしますね。8月にNHKBS3でヒトラーを題材にした映画『ブラジルから来た少年』(1978年アメリカ・イギリス製作)を観ました。グレゴリー・ペックがメンゲレ博士を、ローレンス・オリビエがナチハンターの役を演じていました。サスペンス調でおもしろく、現代に警鐘を鳴らしていて、古さを感じませんでした。当時、この映画を観た人はどのくらいいたのでしょう? 地方でも今はマイナーな映画も上映されるようになったけれど、当時は上映されていなかったように思います。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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デボラ・エリス『九時の月』

九時の月

ルパン:読み終わって、おなかいっぱい、という感じでした。いろいろな意味で、濃かったです。まずはイランのことですが、15歳の子が死刑になるとか、それも、同性の子を好きになったから、というのは衝撃的でした。2代にわたって自分の子どもを見捨てる親の存在も。実在のモデルがいるとわかって、ほんとうにショッキングでした。イランの政情のことと同性愛の問題と、重いテーマがふたつあって、うまく絡み合っていると思いましたが、どちらが主軸のテーマなのだろうと考えながら読んでしまって、ちょっと感情移入しきれなかったところもありました。

アンヌ:革命後のイランについては漫画の『ペルセポリスI イランの少女マルジ』(マルジャン・サトラピ著 バジリコ)ぐらいしか読んだことがなくて、この作品で改めて革命防衛隊が学校や家庭の中にまで入り込んでくる生活に恐怖を感じました。空爆が行われている街で、王党派の人々を集めて毎日のようにパーティをする両親に反発する主人公。ユダヤ教のラビとも友人として語り合える学者の父親を持つサディーラ。普通なら反政府的な行動をとった娘の命を助けてもいいんじゃないかと思える両方の親がとる行動が衝撃的でした。宗教や社会が断罪する世界で、同性愛者が受ける過酷な状況には震え上がりました。冒頭のファリンが描く悪霊の物語が稚拙で入り込めない感じなのに、2人の恋の場面はとても繊細です。特に古都シーラーズで過ごす場面の描写はとても美しく、イランの古い文化の魅力を感じました。

花散里:ずっと読みたいと思っていた本で、読み終わったときには衝撃を受けました。ファリンがサディーラと出会ったことで変わるというストーリー展開は、まさに今回のテーマ通りですが、イランやイラクとの政治状勢、宗教のことなどがまだ充分に理解できていない世代の子どもたちは、どのように読むのでしょうか。爆撃が続き、死との隣り合わせのような日々の中で、親たちの開くパーティーを見つめる子どもなど、紛争が続く国で生きる人々のことを描いた作品を日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

コアラ:原書の書誌情報(コピーライト)が入っていないですよね。2章以降は章タイトルがないのも変な感じがしました。章番号の下のデザインはペルシア文字のようで興味を引きました。ネットで調べたら、「章」という意味のペルシア語にこのような文字が入っていて、いいデザインだなと思いました。イランというあまり馴染みのない世界が舞台なので、知らない世界を知るという点ではおもしろかったけれど、内容としては、ちょっと冷めた目で読んでしまいました。障害があればあるほど愛は燃え上がるよね、とか。サディーラは理想化されすぎという気がします。ただ同性愛というだけで死刑になる国があるということには、驚きました。問題提起という面では意味があるけれど、子どもが読んで、特に同性愛の傾向のある子どもが読んで勇気付けられるかな、というと、ちょっと暗すぎる内容だと思います。あと、物語に著者の考え方が現れているようなところがあって、例えばp92の7行目など、ちょっとついていけない感じがしました。気になったところは、訳者あとがきのp285の2行目、「イギリスのM16」となっていますが、これは「イギリスのMI6(エムアイシックス)」ですよね。

ハリネズミ:私は、訳のせいか、ファリンにあまり共感できなかったんです。最初の方で、ファリンがパーゴルへの復讐に凝り固まっているように取れてしまい、またこの訳だとアーマドをさんざんに利用しているようにとれます。p37やp45の訳も、アーマドをバカにしたような無神経な発言に取れるので、結末についても自業自得感が出てきてしまいます。また原文はもっとリズムのいい文章なのだと思いますが、もう少していねいに、細やかに訳さないと、メッセージだけが前面に出てマンガ的になってしまい、物語の中に入り込みにくくなります。ファリンがサディーラをどれだけ深く思っているかとか、サディーラの魅力を読者にも納得できるようにもう少し表現してほしかったです。でないと、一時の熱に浮かされてヒステリックになっているだけのようにもとれてしまうので。悪霊ハンターの物語も、この訳だととてもつまらないですね。

カピバラ:1988年のイランという日本の読者には遠い状況でありながら、前半は居場所がないと感じている十代の少女らしい心情が描かれて共感できると思います。紙に好きな人の名前を書く、お互いの秘密を打ち明け合う、離れていても毎晩9時に月を見る、というような、好きな人への溢れる思いが描かれ、相手が同性でも異性でも同じと思わせる描写が多くありました。後半は死と隣り合わせの緊迫した状況に、読者も緊張を強いられ、苦しくなります。最後はあまりにも理不尽でむごいのですが、実話をもとにしているので、今の日本の読者にも知っておいてほしいと思います。また、当時のイランの富裕層の考え方がよくわかりました。70年代後半にイギリスに行ったとき、イランの金持ちの子弟が大勢留学していて、首からさげたロケットには国王の写真、家には国王一家の写真を飾っていたのを思い出しました。ファリンの母親と同じ世代かなと思います。

マリンゴ:ラストが衝撃的でした。脱出できて、サディーラとは会えないのだろうなとは思いつつ、みんなとの再会のシーンを想像していたので、その斜め上を行くエンディングにびっくりしました。でも、アーメドの態度が徐々に変わってくる様子がうまく描写されているため、リアリティを感じて、うまいなと思いました。ここで終わる?というところで放り出されるわりに、読後感が悪くなかったのは、そのリアリティのおかげかもしれません。p121「戦争によって得たものはかえさなければならない」という部分が印象に残りました。文章に矛盾を感じる箇所がありました。

たぬき:日常の雰囲気や生活感が伝わるのはいいと思いました。基礎知識がないと理解しに口と思うので、巻末に説明をいれるとか、子どもにやさしい設計にしたほうがいいのではないでしょうか。

西山:帯に「あたしたち、悪いことしてない。ただ一緒にいたいだけだよ! LGBTとは、恋とは、愛とは。」とあって、一見恋愛小説として押し出しています。それは、ひとつの作戦だけど、違和感がありました。明日をも知れぬという状況下で、そこから目をそらして享楽的に暮らすファリンの両親の感覚には共感できません。そういう革命前の支配階級に近い富裕層への反発が、革命を支持したのだろうということも理解できるとも思いましたが、圧倒的に理不尽な暴力が伴っている原理主義革命にはとうてい共感できない。書き割り的にならないで、複雑な状況を割り切れないまま突きつけられて、そこに小説のおもしろさを感じました。複雑な状況がからまりあう中で、いろんな登場人物を見せています。いちばんショックだったのは、サディーラのお父さんが変わってしまうところでした。サディーラの家でラビや娘たちとお茶を飲みながら穏やかに詩編の言葉などを語り合う場面は印象的で、すごく知的で、教養のある感じの良い父親の印象だったのに、サディーラとファリンのことを知ったあとで娘を完全に拒絶しますよね。そこまで同性愛は受けいれられないものなのかと、愕然としました。ドキュメンタリー風に作られたイラン映画『人生タクシー』で禁止されている英米の映画DVDなどが闇で流通する様子とかできてきたのを思い出しました。この映画はおもしろかったので、機会がありましたら、ぜひ。

ハル:恋愛小説の部分も味わいながら読みましたけど…どうしてこの(性格がきつい感じの)ファリンにサディーラは惹かれたのかなと思っていたのですが、翻訳で人物の印象が変わっていたのかもしれないですね。それ以外の面では、女の子たちが、学ぶことで自我に目覚め、それが破滅につながったのだとしたら、本当に恐ろしいこと、あってはならないことだと思います。実話を元にした物語だということですが、自分を偽ってでも、生きてほしかった。そうしたら、いつか…ということもあったかもしれません。信念のために死を選ぶことをすばらしいとせず、読者は自分だったらどう生きるかを、考えてほしいなと思いました。ショックな結末で、中高生などの若い読者にはどうなのかなという気もしましたが、いまだにこういう社会もあるんだと知ることも必要だと思います。

レジーナ:表紙画がすてきですね。p198の「あなたを選ぶってことは、わたし自身を選ぶってこと」という一文は胸に響きました。ファリンは、刑務所で、自分は成績がいいから助けてもらえるはずだと考えます。全体を通して考え方が幼いので、この主人公には共感できませんでした。p119の「おまえなんか、無だ」をはじめ、訳文に違和感があり、ところどころひっかかりました。

オオバコ:この作者は、実際に取材したことを何故ノンフィクションではなくフィクションで書くのかと疑問に思っていましたが、来日したときの講演を聞いたとき、ノンフィクションでは実際に取材した人たちに危険が及ぶのでフィクションで書くと聞いて、目を開かされる思いがしました。今まさに起こっている、それくらい深刻な、命にかかわる現実を書きつづけている作家なんですね。この作品もフィクションというよりノンフィクションとして読みました。ですから、登場人物の言動や、物語の結末を、こうしたほうが良かったのにとか、こう書いてほしかったというのは、ちょっと的外れのような気がします。わたしも西山さんと同じように、この本はLGBTをテーマとしているというより、多様性を認めない国家体制や社会の恐怖を描いていると思ったし、読者もそんなふうに読んでくれたらいいなと思いました。女子高のロッカールームの様子や、明日どうなるかわからない日々を過ごす金持ちの奥様方や、アフガン難民の運転手のことなど、とてもおもしろく読みました。ただ、主人公がちっとも好きになれない、軽薄な女の子で、感情移入できなかったのが残念。これは、翻訳のせいじゃないかな。級長のパーゴルの言葉づかいも乱暴で汚いから、かえって滑稽な感じがしたし。せっかくの重みのある、大切な作品なので、もっとていねいに訳してほしかったと思います。

しじみ71個分:私はこの本を読んでどう受けとめたらいいかわかりませんでした。テーマの重点が、戦争にあるのか、文化多様性や差異にあるのか、LGBTにあるのか、人権問題なのか…。そもそも、厳しい境遇にある強い、新しい女性を描くなら、主人公のファリンが人物として魅力的である必要があると思うのですが、彼女がノートに書き綴る悪霊ハンターの話が、非常に表層的で、アメリカずれした感があり、まったくおもしろくないので、主人公に感情移入することができず、彼女の心情にそってお話を読み進めることができませんでした。主人公が魅力的ではないので、恋の相手となるサディーラと恋に落ちるさまが簡単すぎるように思えたし、思春期にありがちな、恋と憧憬の誤解とか、のぼせ上がりにしか読めませんでしたので、命をかけるほどの恋になるのか?とつい思ってしまいました。本の中の登場人物の心のひだが深く描かれていないと、読み手の心がついていかないものですね。同性愛に厳しい国であることは十分分かっているはずだろうに、ふたりの逢い引きも不用意すぎてすぐに見つかって、つかまってしまうというのもなんだか軽薄な感じを受けました。それと、カナダの人が書いたということに、微妙にひっかかっています。訳のせいなのかもしれませんが、今の世の中全体が、西洋的な価値観で動いていると私は日頃感じているのですが、西洋的な視点から見た物語の中で、この本を読んだ子どもたちが、イランは悪い国、人権を無視する文化的に遅れた国みたいに、簡単に思ってしまうのではないかと心配になりました。1980年代の物語として書かれていますが、体制派反体制派の反目の中で密告が常態化していることや、同性愛で死刑になるというような社会を支持するわけではもちろんないですが、その国の文化の成り立ちや、歴史的背景等に思いを致さないでそういった点ばかり強調してしまうと、子どもたちは偏った印象を持ってしまわないか、という心配が残りました。日本でも死刑はありますし、ほかの国でも同性愛が禁じられている国はあります。一方、物語の中でも、詩を吟じ合う場面などは、とても美しく、ユダヤ教のラビとの交流も描かれていてとてもよい部分があったので、非常にもったいない気がしました。

すあま:私は、この作者の他の作品も読んでいますが、これは読後感がよくなかったです。児童文学として書くなら、やはりラストは救いがあるもの、明るいものでなければと思います。悪霊の話で終わってしまい、落ち着かない気持ちのままになってしまいました。最後の4分の1が捕まってからのことで、だれが密告したのかもわからないままでつらい場面が多く、長く感じました。友だちを作ってこなかったファリンにとって、初めての友だちであるサディーラに夢中になるのは共感できましたが、それが恋愛感情とは思えませんた。また、パーゴルの言葉づかいがあまりにも乱暴で、違和感がありました。

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エーデルワイス(メール参加):イランにアメリカ文化(映画ビデオ)が入っていたり、戦争で爆撃を受けながらも金持ちはパーディを開いていたりすることに、驚きました。主人公のファリンが、裕福な暮らしや親のことを疎ましく思いながらも、学校の成績が優秀なことや名門を誇りに思っているところなどがよくわかりません。運転手と結婚させられたファリンがその後どうなったのかをもっと知りたいと思いました。両親は、娘の命は助けても、見捨てたのですね。

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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茂木ちあき『空にむかってともだち宣言』(課題図書)

空にむかってともだち宣言

コアラ:読みやすかったです。内容がよくまとまっていて、ミャンマーのことも難民のことも子どもが読んでわかるようになっていますね。特に、難しい話になりがちな難民の説明について、男の子たちがナーミンをからかったという事件から急遽難民についての授業になるという展開は、うまいなと思いました。気になったところがいくつかあります。p14の8行目、「どおりで」は「どうりで」の間違いですよね。あとp36の挿絵で、あいりが男の子のように描かれていて、どの子があいりなのかパッと見てわかりませんでした。

花散里:こういう作品から外国のことを知ることができるので良いと思いました。今、日本のどこの地域の学校にも、外国から来た子どもたちが在籍しています。日本語がまだよく理解できていない子どもたちとのやり取り等が伝わってきますね。共感して読める子が多いのではないかと思います。

アンヌ:今の日本は実際に殆ど難民を受け入れていない状態なので、この一家がNGOのサポートを受けている難民だという設定が気になりました。給食の時の勇太のいじめは、あいりが暴力をふるいたくなるほどひどいので、この「難民を知る授業」で、どれほど理解できたのか疑問です。だから、先生がいうp72の「ありがとう、航平くん」は、皮肉に聞こえました。クラス全体でミャンマーの民族舞踊を踊るというところは、音楽や振りつけでその国を体で感じて子供たちも見ている親の方も楽しくミャンマーの文化を知ることができる、いい場面だと思います。少し疑問だったのはp117の「ハグとハイタッチ」。ハグはどれくらい日本語になっているんでしょう。

ルパン:さくっと読めました。ミャンマーのことをあまり知らなかったので勉強になりました。テーマありきという感じで、登場人物の子どもたちがそれに合わせて動かされている感はありましたが、あまり期待していなかったので、その割りには楽しめたということかもしれません。期待しなかった理由は、ひとえにタイトルです。読書会のテキストになっていなかったら、まずは手に取らなかっただろうと思います。子どもたちは手を出すんでしょうか…あ、課題図書だったんですか? なるほど。課題図書なら読むのかな。でも、これ、小学生が読んでおもしろいんでしょうか。

オオバコ:先日、「おもしろい……といわないと怒られそうな本がある」という発言を聞いて思わず笑ってしまいましたが、この本は「良い本……といわないと怒られそうな本」だと思いました。課題図書に選ばれたということですが、なぜ選ばれたのか、どんな感想文が出てくるのかすぐに分かってしまいそう。テーマだけで本を選んで感想文を書かせていいのかな? みなさんがおっしゃるとおり、小学生向けにサラッと書かれていて読みやすいけれど、物語としておもしろくない。社会科の、あるいは道徳の教科書みたいな書き方をしていますね。それでも、「難民」を取りあげているところに意味があるのかな・・・・・・と思って、ネットで作者のインタビュー記事を読んでみました。そうしたら「(ミャンマーから来て主人公のクラスに入った)ナーミンを、わたしは難民だとは書いていません」といっているのね。だから、作中で「難民とはなにか」を、主人公の母親の友だちが子どもたちに説明しているけれど、この本は「難民について書かれた物語」じゃないんですね。たしかに日本は難民申請をしてもほんの少数しか認められない、難民を受け入れないといっていい国。昨年も2万人申請したのに、認可されたのが20人だったと新聞に出ていました。そういう事情もあって、作者は前記のように述べたんでしょうけれど、そこのところをサラッと書き流してしまっていいものなの? それにミャンマーといえばロヒンギャを迫害して多くの難民がバングラデシュに流れこんでいるというニュースが海外のテレビ放送では毎日のように流されているし(日本ではほとんど報道されないけれど)、先日の朝日新聞の歌壇にも<アウンサンスーチーと今は呼びすてにしておこう・・・・・・>という歌が載っていたばかり。いったいナーミンのお父さんはアウンサンスーチーが政権を取ってから警察に捕まったの? それとも、軍政時代の話? サラッと書いてあるから、ますますモヤモヤしてきて、ひと言でいえば「みんな仲良し、みんな良い子」的な、のんきな物語だなというのが、率直な感想です。

レジーナ:日本で難民認定されるのは非常に難しく、この本でも、ナーミンの家族が難民だとは書いていなくて、それについてはぼかしてある感じがしました。p26で、ゴンさんも「いろいろと事情があるんだ」と言うだけで、あいりにきちんと説明しないですし。海外にルーツをもつ子どもは、言葉の問題を抱えているケースが多くあります。そんなにすぐに言葉もうまくならないそうです。p69で、ナーミンは自分の過去を流暢に語りだすのですが、たった数か月でこんなに話せるようになるのでしょうか。

ハル:たしかに、言葉の壁だったり、偏見だったり、実際にはこの本には描かれていないような苦労がもっとあるんだろうなとは思いましたが、物語全体をとおして、知らなかったこと、無知であることを攻めるのでははなく、知らなかったなら、これから学んで理解を深めようよ、と呼びかけるような、作者の姿勢に愛を感じました。給食の時間に男の子たちが悪ノリしてしまうシーンも「軽い気もちでいったいたずらが、思いがけず大さわぎになってしまい、とまどっているようにも見えた」(p61)り、先生も、二度とそういうことは言うな! とかその場で叱りつけそうなところを、そうせず、子どもたちに学ばせて考えさせる、そういう姿勢がよかったです。

西山:いま、みなさんが出している本を見てびっくりしたのですが、私、同じ作者の『お母さんの生まれた国』(新日本出版社)を読むんだと思い込んでました! 主人公の小学生が、カンボジア難民という母親の過去と向き合う物語ですが、こちらの方が、読みごたえはあります。『空に向かってともだち宣言』も出てすぐに読みましたが、申しわけないけれど、すっかり内容忘れています。移民や難民の問題を、小学生を読者対象として書いたことは意味のあることだと思っています。ノンフィクションとして書かず、フィクションにするからには、事実関係の伝達だけでなく、むしろ、当事者は、周りの子どもの感じ方や考え方を捕まえたいと思っているのでしょう。その点で、人物描写には課題もあるとは思います。

たぬき:課題図書としてこれが選ばれたということですが、二、三十年前の本としても通用しますね。これを選んだ人たちは低学年向けの難民ものを探していたんでしょうか? 難民だから給食いらないよね、っていうのはひどすぎますね。傷つけるつもりはないけど、そうしてしまうとか、いろいろな場合があったほうがリアル。この文字量で描こうとしたのはいいなあと思いました。非常にさわやかで、いい人がでてきて、さっと読めるんですが、ひっかかりがない。だから読んでも記憶に残らないのかもしれません。そこはもっと攻めてほしかったです。

マリンゴ:さらりと読めました。著者の、ミャンマーへの愛情が伝わってきます。テーマもいいと思います。ただ、先が気になって惹き込まれるタイプの物語ではないなと感じました。その理由の1つとして、ナーミンが控えめでいい子で、受け身すぎるキャラクターであることが挙げられるかも。こういう転校生なら、クラスに受け入れられて必ず好かれるよね、というタイプなので。最初はおとなしく見えても、徐々にユニークな発言をし始めたりしたら、目が離せなくなったと思うのですが。後半はミャンマーの文化紹介になってますね。そのせいか、なかよし大使に選ばれた場面でも「よかったね」とは思うのですが、カタルシスを得られるところまではいきませんでした。

カピバラ:今日話し合う本は3冊とも、大人がひきおこした政治情勢に翻弄される子どもが描かれています。日本の作品にはこういったテーマがまだ少ないので、そこにチャレンジする姿勢に好感をもちました。知らない外国で起こっている出来事ではなく、自分の身近なクラスメイトから考えるのは読者にもわかりやすいと思います。これからもこういう本がどんどん出るといいですね。でもやはり物語としての魅力はいまひとつなのが惜しい。タイトルや表紙の雰囲気も、もう少し考えてほしいです。

ハリネズミ:こういう本があってもいいとは思いますが、たとえば、このお父さんは日本ではジャーナリストになれないとか、子どもだってすぐには日本語が話せるようにならないだろう、とか、リアルな日常の中ではもっと葛藤があるはずなのに、それが書かれていないので、「よかったですね」としか言えないなあ。タイトルからして能天気な気がします。最後はめでたしめでたしですが、これを読んだ子どもたちは、本当に難民のことを考えるようになるんでしょうか? 疑問です。いい意味でも悪い意味でも、日本の作家が社会問題を扱うとこんなふうになりがちという一例だと思います。ドイツは申請した人の半数以上は受け入れているのに日本は申請数が少ない上に認定数は0.6%だそうです。そういうことを考えると、難民について、あるいは国を脱出した人について考えるにしては、これだけだと弱い気もします。p64に「難民は、世界中に1500万人以上いて、日本に避難してきている人も、1万人以上いるという」とありますが、いつの時点の話なんでしょう? 日本は、1978年から2005年末まではインドシナ難民をたくさん受け入れたのですが、今はごく少数です。また、ナーミンたちはどうして国を脱出せざるをえなくなったのでしょう? 現代のミャンマーから日本への難民は主にロヒンギャで、ロヒンギャはミャンマー語を話さないようです。また、この本の記述からは、ミャンマー人は箸を使わないように思えますが、ミャンマー人も麺類を食べるときは箸を使うそうです。ナーミンがただのかわいそうな女の子ではなく、生き生きとして能力もあり、まわりの人たちにも文化的な影響をあたえる存在として描かれているのはとてもいいと思ったので、身近なところにもこういう人がいるよと知らせる入り口としてはいい本なのかもしれないけど、もうすこし考え抜いたうえで書くと、さらによかったのに、と残念に思いました。

しじみ71個分:さらっと読みました。難民をテーマとして取り上げたことはとてもいいなと思います。うまくいきすぎだったり、周りの人々の理解がやたらあったり、日本語がうますぎたり、と教科書的に都合のいいところはたくさんあるのですが、こういうテーマを扱う本が増えていくことに意義があると思っています。どんどん増えていくうちに、内容も深化していくのではないでしょうか。とてもおもしろかったのですが、この本を図書館で借りたところ、ページの途中に、「あいりちゃん、すごい!」と、小学生らしい子どもの字で書いたメモがはさまっていて、この本の中身をちゃんと受け止めたんだなぁ、と感動してしまいました。大きなテーマを小さい子どもたちにどう伝えるかは一つの大きな課題だと思います。この本は中学年向けでしょうか、難しいテーマを難しく伝えると読むのを放棄して逃げだしちゃう子どももいるように思います。こういう教科書的な表現もひとつの子どもへのアプローチの仕方かと思いました。今後、バリエーションが出てくることに期待したいです。

すあま:すっかり難民の家族の話だと思いこんでいました。難民ではなくて日本にやってきた子どもの出てくる本は他にもあり、難民問題をテーマにするなら、ナーミンの家族はどちらなのかもう少しはっきり書いてもよかったんじゃないかな。巻末に解説があるといいのではないでしょうか。日本が国として難民に冷たいということなど、もっと書いてほしかった。ちょっと物足りなかったです。

花散里:日本の児童書は、巻末に解説のない作品が多いですね。難民のことを中学年くらいに伝えるには、この内容以上に盛り込むのは難しいと思うので、解説で補うしかないと思うんですけど。

ハリネズミ:日本の作家の本だけ読んでいても、世界のことはなかなかわかってこないような気がするのは、私だけでしょうか。日本の出版人は、子どもはまだ社会の問題に触れなくていいと思ってるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):読みやすくさわやかで、希望が持てます。授業で「難民地図」を示し、子どもたちに説明したところが印象的でした。以前、アウンサンスーチーの『ビルマからの手紙』を読んだことがあります。そのアウンサンスーチーが、今はロヒンギャ問題で批判されています。ミャンマーの民主化はまだ遠いのでしょうか?

(2018年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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日本児童文学者協会編『迷い家:古典から生まれた新しい物語・ふしぎな話』偕成社

迷い家

すあま:これは「古典から生まれた新しい物語」というアンソロジー・シリーズの1冊です。古典というので、いわゆる「古典」と呼ばれるものをイメージしていたら、昔話や国内外の名作もモチーフとなっていたのが意外でした。この『迷い家』でも、作家がかなり自由に発想しているので、読んだ後に元になっている原作を読みたいと思うのかどうかは疑問に思いました。短編としておもしろければよいのですが、物語の後に作者の説明があるものの、うまく古典への橋渡しになっているとは思えませんでした。

ヘレン:まだ読み終わっていないのですが、けっこうおもしろかった。『絵物語 古事記』(富安陽子文 山村浩二絵 偕成社)より読みやすかったです。オーストラリアの学生にも読ませることができるかも。古典というと日本のものかと思っていました。4編の中では「迷い家」がいちばん日本的でおもしろかった。別の話もおもしろかったです。

レジーナ:p106の「カチューシャ」の、名前の説明は不要では? 本の造りとしては、ほかの巻にはどんな作家が書いているか、わかったほうがいいと思いました。

ネズミ:住んでいる区の図書館にはなく、隣の区の図書館で借りました。100ページしかないのに、この束を出して、読んだ満足感を与えるような造本ですね。お話自体は、さらっとおもしろく読めるけれど、それほど印象には残りませんでした。「作者より」という形で、それぞれの作者が原作との関係を説明しているのは、もとの本を知っている大人が読めば、そう変えたかと、おもしろがりそうですが、子どもは、そこから元の作品に行くかというと、そうでもなさそうな気がします。大人と子どもでは、この本の楽しみ方が違うかもしれませんね。絵や文字組などは、読みやすそうでした。1か所気になったのは、p36のせりふのなかの「手も足も出せない」という言い方。「手も足も出ない」では?

須藤:その前に「手が出せない」とあるから、わざとかも。

さららん:慣用表現じゃなく、遊びで持ってきたのかもしれませんね。

マリンゴ:1つ1つのお話は、とてもおもしろく読みました。ただ、おもしろかったからといって、ネタ元の古典にまで遡ってみたいと考える子は少ないかもしれませんね。あと、児童書のアンソロジーについて常日頃気になっているのが、表紙に著者の名前を入れないという習慣です。一般書だと、もちろん入っているので、「この作家さんの作品があるから読もう」と、買うきっかけになります。でも、児童書では大半のアンソロジーが名前を載せない。表紙の文字が多くなって子どもが見づらいとか、子どもは作家の名前で本は選ばない、などの理由があるのでしょうか? この本の場合、出版社のホームページの書籍紹介にさえ著者名が出ていない。村上しいこさん、二宮由紀子さん、廣島玲子さん、小川糸さんに加えて宮川健郎さんの解説だったら、喜んで読みたい、と思う人は多いと思うのですが。この本は、地元の図書館にも近隣の図書館にも入っていなくて、結局買ったのですが、図書館に入ってない理由は、こういうところにもあるのかもしれません。

カピバラ:「古典から生まれた新しい物語」というのは、作家さんたちが書きやすいように一つのテーマを設けた企画だと思います。これをきっかけに古典に手をのばしてもらおうというよりは、ちょっとしゃれた短編集、軽く読める本という感じを受けました。有名な作家たちが手慣れた文章で書いていますが、それぞれの書きぶりは個性もあり、古典との取り組み方もそれぞれでおもしろく読めました。デザイン的な挿絵も好感を持ちましたが、本の造りはあまり子どもが手に取りやすいとは思えません。

アカシア:私は、古典に向かわせる本というより、これはこれで楽しむ本かなと思って読みました。村上さんの物語はとてもおもしろかったけど、あとはそんなに惹きつけられませんでした。「迷い家」は、もっとリアルな現実と接点を持たせて、なるほどと思わせてほしかったです。「三びきの熊」は昔話そのものの方がおもしろい。どうして蛇足みたいな続きをつけてるんでしょう、と、失礼ながら思ってしまいました。

花散里:住んでいる所の図書館には所蔵されていなかったので他の図書館から借りました。小学校の図書館に入れても、紹介しないと手に取らないだろうし、読まないのではないかと思いました。「迷い家」はおもしろいなと思ったけど、子どもたちに遠野物語のおもしろさが伝わるかどうかは疑問です。日本児童文学者協会は最近、アンソロジーを結構、続けて出しているようですね。

西山:アンソロジーはよく企画に上がってきます。

花散里:日本児童文学者協会の人たちと話をしたときに、外国の児童書を読んでない人が多いなと感じました。外国の作品も読んで、書かれているのかなと思っていたのですが・・・。

さららん:古典的なものを読んでないってこと?

花散里:最近の新しい作品もです。YAなど特に読んでないですね。よい作品がたくさんあるのに。

アカシア:べつに外国の作品を読んで書かなくてもいいんですけど、いろいろ読んでいる作家のほうが視野が広くて、国際的にも通用する作品になってくるんじゃないかな。

須藤:いま読んでいたのですが、「やねうらさま」はおもしろかったですね。あまりにサキっぽいから、サキの元ネタがあるのかと思ったけど、オリジナルらしい。解説で引かれている「開いた窓」はサキの有名作ですが、それとこの「やねうらさま」はストーリーとしてはまったく違う話なので、サキらしさをうまくつかんだ、ほんとうのオマージュになっている。

カピバラ:子どもは、パロディには興味持つかもしれませんね。

アカシア:私も「やねうらさま」がいちばんおもしろかったのですが、ほかはパロディとしてもイマイチのように思います。

マリンゴ: このシリーズは、テーマの縛りが二重になっているのですね。古典を元ネタに書く、というのと、「ふしぎな話」を書く、というのと。だから著者は、自由に書く場合に比べて、制約があって不自由ですね。

ネズミ:花散里さんが、これだと手に取らないとおっしゃったのは、どうしてですか? 表紙を見ても、小学生がおもしろそうと思わないということですか?

花散里:書架に並んでいるときに、この背表紙だけでは内容が分からないし、面出ししていても、この装丁では作家の名前も分からない。

カピバラ:「古典」を強調せず、「ふしぎな話」をもっとアピールしたほうがよかったですね。

マリンゴ:小学生も、作家の名前を見て、本を選びますか?

花散里:勤務していた学校図書館では児童書の書架は著者名順に配架していたので、富安陽子さんとか、好きな作家の棚の下に座り込んで選んでいる子もいました。シリーズ本などは次から次へと読んでいるようでした。

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アンヌ(メール参加):『遠野物語』は大好きで、時たま読み直しては、あれは本当はどうなんだろうと色々考えてしまいます。「迷い家」は、家そのものが意志を持つようで、無機質なものに対する恐怖と、その家について知っている人々がいて、後であれこれ言うというところに、村という共同体についての恐怖を感じます。今回は、家の主のおばあさんが出てきて説明してしまうので、わかりやすいけれど、家への恐怖が薄れてしまうのが残念な気がしました。けれど、その分、家の主と主人公のおばあさんへの恐怖が増して、おもしろい後口になっている気がします。

エーデルワイス(メール参加):4人の作家が古典を題材に自由に書いている感じがしました。どの作家も大好きなのですが、子ども向けの短編って難しいと思いました。なんだか中途半端な感じがしました。個人的に気に入ったのは「迷い家」で、すっきりと読めました。昔話だと残酷に思いませんが、現代版『迷い家』では、真に嫌な人間ではあるものの園子がこの世から消えてしまうのは、怖いと思いました。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ピウミーニ著 ケンタウロスのポロス

ケンタウロスのポロス

しじみ71個分:残念ながら手に入らず、途中まで図書館で読んで終わってしまいました。しかし、最初を読んだだけでも本当に格調高い翻訳で、お話自体もとてもおもしろくて、途中までになってしまったのは残念でした。これも、挿絵がついていますが、絵が気になることはまったくなく、逆に引き込まれるようでした。お話は素直に頭に入って来て読めました。

花散里:登場人物が多かったので、最初は「おもな登場人物」の紹介を何度も開いては確認していたのですが、読んでいったら気にならずどんどん読み進めました。小学校の図書館で「ギリシャ神話の本はありますか?」とよく聞かれたのですが、その「ギリシャ神話」が好きな子どもたちにこの本を薦めたかったです。善人と悪人がわかってしまうのはそれほど気になりませんでした。空想上の生き物ケンタウロス、神様と人間、半神半人と登場人物が不思議な話で、図書館に入れたら、特に男の子たちがおもしろがって読むんじゃないかなと思いました。

アカシア:私もとてもおもしろかった。男の子が旅に出て様々な研鑽を積んで、賢くなって帰ってくる、という定型ではあるけど、物語としてよくできていると思いました。ギリシア神話をある程度知っていると、ゼウスとかアルテミスとかヘラクレスなどなじみの神様が出てくるのに加えて、オリジナルなキャラクターが出てくる、そのバランスがおもしろい。欧米の子どもたちだと、そんな楽しみ方もあると思います。日本の、ギリシア神話を知らない子どもたちは、カタカナ名前が多すぎると思うかもしれないけどね。冒頭がケンタウロスの走っている場面で、最後も、違うシチュエーションではあるけど、やっぱりケンタウロスが走っている場面。そういうところも、おもしろいなと思いました。佐竹さんの絵もとてもいいですね。最後のところは、異類婚姻譚ですよね。上橋さんの『孤笛のかなた』(理論社/新潮文庫)を外国に紹介しようとしたとき、「西洋の人は、人間が非人間になることを選択するという結末は受け入れられないんじゃないか」と言われたんです。でも、これも、人間がケンタウロスになる道を選んでるじゃないですか。女の子が勇気をもってそういう道を選択するのも、『孤笛のかなた』と同じですね。

カピバラ:神話に出てくる神々は、荒くれ者だったり、怪力だったりと単純な性格づけで表されるけれど、ポロスは粗野で熱しやすく冷めやすいというケンタウロスのなかにあって、思慮深く深みのある人物像として描かれているところにまず惹きつけられます。数々の試練にあいながらどうやって生き延びるか、このポロスにぴったりくっついて先が知りたいという思いでページをめくりました。佐竹さんの絵もとても合っていて、大自然の中にケンタウロスを小さく描いているのがいいと思いました。「行きて帰りし物語」と書いてありますが、一昔前に多かった児童文学のように懐かしい感じもあり、久しぶりに読み始めたら止まらない読書ができました。

マリンゴ:すごくおもしろかったです。1つ1つの章がびっくりするほど短いのだけれど、それがとてもよくまとまっていて、次の話が魅力的に展開するので、小学校の“朝読”などにも向いているのではないでしょうか。わたしは、ときどきギリシャ神話をもう1度ちゃんと勉強しなきゃ、っていう病気にかかることがあるんですけど(笑)、この本はギリシャ神話を一味違う切り口から紹介してくれていて、勉強ではなく楽しく読めます。絵は、まるで原書に添えられているイラストのように、世界観に合っていますね。あと、地図があってよかった! キリキアからドドナってこんなに距離があるのか!とか、細い海峡ってこんな感じなのかとか、地図のおかげでよくわかりました。

西山:文体がおもしろいと思いました。例えば、以前ここでも読んだ『チポロ』(菅野雪虫著 講談社)はアイヌの神話はあくまでも素材で、ファンタジーを読んだという感触を得ます。けれども、これは、創作作品なのに神話を読んだという感触でした。ヘラクレスとか、「荒くれ」ぶりといい、そしてそのとんでもない展開が「・・・・・・した」「・・・・・・した」とぐいぐい進むのが、近代の小説的でない。あまり描写をしないせいでしょうか。ていねいに文体を分析したらおもしろそうだと思いました。

ネズミ:とてもよかったです。きびきびとした緊張感のある語りに惹きつけられました。ヘラクレスが襲ってきた男たちをいきなり殺してしまう場面など、ぎょっとしながら、どんどん先が読みたくなりました。ちょっと前に読んだのに内容をぜんぜん覚えていない本がときどきありますが、この本は途中でしばらく休んでも、前の内容をわすれていなくて、物語の力の強さを感じました。金の羊毛とかアマゾンとかをきっかけに、ギリシャ神話も読みたくなります。佐竹さんの絵はすばらしかったです。波乱万丈の物語のなかには、この辺でおもしろいことを出して読者を惹きつけようとばかりに山場が次々と用意されている作品がありますが、この物語は変化にもお話の必然が感じられて説得力がありました。

レジーナ:神話の登場人物を使いながら、それに負けない壮大な物語をつくりあげています。物語に勢いがあり、格調高い訳文です。神々もケンタウロスも人間くさくておもしろいですね。佐竹さんの絵は、楽しんで描いてるのが伝わってきました。賢者マウレテスのどことなくユーモラスな感じ、ポロスとネポスの戦いが、盾に映っているかのように丸く切りとられているのとか、魅力的な挿絵です。最後の場面は、ゼウスの視点で俯瞰しているかのように描かれています。このアングルで描こうと思ったのがすごいです!

さららん:よく知られているヘラクレスと、あまり知られていないポロスを最初に登場させるあたりに、作家の選択の巧みさを感じました。おなじみの神の名やふるまいで読者を惹きつけ、一方でポロスを主人公にさせたからこそ、自由にお話をつむげる。1つずつのエピソードで読者をはらはらさせながら大団円に向かっていく、お話創りが見事でした。一方で「神は、ひさしぶりに地上に降りる口実を見つけたことに満足していた」(p193)「ゼウスはこれまで、こんなに楽しい思いをしたことがなかった」(p195)という細かい表現を通して、ゼウスのいたずら心も十二分に伝わってくる。短い文章に、脇役としてのゼウス像もしっかり立ちあがってきます。ピウミーニを、無駄のない、ひきしまった翻訳で読むことができてよかったです。

すあま:ケンタウロスを主人公にしたというのがおもしろいと思います。ポロスが本当にギリシャ神話に登場するとわかり、もう一度読んでみようかと思いました。ポロスはケンタウロスというなじみのない存在ですが、馬扱いをされたり、様々な苦難を乗り越えていくところが共感を得られると思います。でも、「古事記」同様、やはり登場人物の名前が難しいですね。子ども時代の読書では、神話,伝説を好んで読む時期があるということなので、うまく手渡せるとよいと思います。挿絵については、一時期ファンタジーと言えば佐竹美保さん、という感じでしたが、この本ではまったく違うイメージで描かれ、しかも作品にとてもよく合っているのがすごいと思いました。ケンタウロスを大きく描いていないのも、読み手の想像を邪魔しないのでよいと思います。

さららん:裏表紙に、子ども時代のケンタウロスのポロスがいるのがかわいい。

須藤:これは佐竹さんによれば、ポロスとイリーネの子どものつもりだそうです。最後の場面の絵もすごい。ドローンで撮影しているみたいだと思いました。

西山:わあって女のケンタウロスの方に向かって行くところですよね。所詮ギリシャ神話って、女好きの神々の狼藉だらけだったよなとか思って、なんか笑ってしまいました。

アカシア:いかにもケンタウロスらしいし、あえて女の方を描いてないのもいいですね。

さららん:この左のほうのにじみは、ゼウスにも見えるけれど…。

カピバラ:あ、ほんと。顔のように見えますね。

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アンヌ(メール参加):ケンタウロスは思慮深い生き物だと思い込んでいたので、少しびっくりしました。悪役が少々卑小で、あまりスケールが大きい話ではないのが残念でした。

エーデルワイス(メール参加):ケンタウロスのポロスを主人公にした物語で、嫌みなくすっきりとおもしろく読めました。最後にイリーナと結ばれるところに好感が持てました。『絵物語 古事記』にも出てきますが、大事な時に心と体を清める「みそぎ」は古代から西洋東洋共通なのが興味深いですね。佐竹美保さんの挿絵は、とても合っていました。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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富安陽子文 山村浩二絵 『絵物語 古事記』偕成社

絵物語 古事記

西山:諸般の事情で借りられずに買いましたが、山村浩二さんの絵の力で繰り返し読んでも楽しい本かなと思っています。子どものころ、今のように創作児童文学があふれている状況ではなかった時代、物語好きにとっては日本の神話やギリシャ神話はごく普通に親しむもので、神話や伝説をファンタジーとして楽しんでいました。でも、娘は日本神話とか多分、読んでないと思います。すっごく久しぶりでなんだかなつかしく楽しんだのですが、絵がなくてお話だけで伝わってほしかったなという気もしてしまう。なんだか、物語の記憶の仕方が絵や映像に主導されがちなことにうっすら抵抗を感じます。視覚的に思い浮かべるばかりが、物語を受け取る想像力ということでもないだろうと。例えば「内はホラホラ、外はスブスブ」という言葉自体がものすごく印象深く残っていて、妙に好きなのですが、これは、映像の記憶ではありません。あと、さらにプライベートに懐かしかったのは、私は、生まれが「天の岩戸」の岩戸で、アマテラスがこもったのはここで、神様たちが集まって騒いだのは狭いけどこことか、引っ越した先は高千穂の峰が近くて、小中学生のスケッチの題材だった高千穂の峰はまさにp188の挿絵の形だったとか、またまた引っ越した先は、鵜戸神宮が近くて「うがやふきあえずのみこと」が祭神で、その意味はp243で今回初めて知りましたが、なんか久しぶりと感慨深かったりでした。普遍性のまったくない思い出話ですみません。

ネズミ:「古事記」は恥ずかしながらこれまで手にとったことがありませんでしたが、富安さんの語りは読みやすく、すっと入れました。でも、だんだんと神様の名前が増えてくると、頭が飽和して混乱しながら追っていく感じ。そんなふうに物語にとりこまれていくのも神話の楽しさかなと思いました。毎ページ入っている絵は、ユーモラスだけれどグロテスクな面もあって、好みが分かれるかな。私は好きでした。話の展開に奇想天外なところも多くて、こんな世界だったのかと驚きました。最後まで楽しいと思って読みとおすか途中で離れてしまうかは、子どもの読書力によるでしょうか。岩波少年文庫の福永武彦の『古事記物語』と比べてみたいと思いました。

レジーナ:昔の人の豊かな想像力にふれ、神話という物語のおもしろさを堪能できる1冊です。絵の連続性は絵巻のようで、いきいきとしたイメージがひろがります。くさびで木に割れ目を入れ、そこにオオナムヂが入る場面など、言葉だけではイメージできないですよね。ページ数はありますが、半分は絵ですし、今の子どもたちが手にとりやすい形で出たと思います。勤め先の中学校でもよく借りられていますよ。

ヘレン:はじめは、オーストラリアの大学の学生に読ませようと思ったのですが、神様の名前が複雑で、漢字ではなくすべてカタカナなのはどうしてなんでしょう? 展開も予想できないので、日本語に慣れていない学生だと難しいかもしれません。

アカシア:原文はすべて漢字ですが、たとえばイザナミは伊邪那美で、音を漢字にしている部分もあるので、漢字で書くと逆にわかりにくくなるからじゃないでしょうか。

さららん:絵の魅力に補われて、お話が語られているのを強く感じました。文章だけではよくわからず、これはどういうことだろう?と思う部分を、絵の中に読みとることができました。空飛ぶ船の絵が出てきますが、これは自由な想像なのでしょうか? それとも調べこんだからこその絵なのか、どっちなんでしょうね。

レジーナ:最初上がってきたのは普通の船の形をしていたのが、もっと自由に描いてほしいと言われて、こうなったそうですよ。もしかしたら、そこで調べられたのかもしれないけど。普通、船を描いてと言われて、この形は出てきませんね。

さららん:なんか宇宙船みたいですね。海にもぐるのも、潜水艦みたいで。そういうのも、子どもにはおもしろいでしょうね。絵があるから、文章をこれだけシンプルに保てたのでしょう。子どものころは、稲羽の白うさぎのお話が大好きでした。昔読んだ本では、うさぎを助けたのはオオクニヌシノミコト。この本の中ではオオナムヂと書かれていて、同一神なのだけれど、出世魚のように神様の名前が変わっていく。それがおもしろくもあり、やや煩雑にも感じました。死んだ妻をさがしに黄泉の国にいったイザナギの話は、オルフェウスの話に通じるし、ヤマタノオロチの首は8本あるけれど、他の西洋の物語の竜の首と数が共通しておもしろいと思いました。ちなみに古事記の特にアマテラスのエピソードが大好きな友人が海外に何人かいるのですが、日本人の自分は古事記と聞くだけで、警戒する部分がありました。天皇制に利用された物語、という印象が刷り込まれているからですが、そのあたりを、みなさんはどう思って読んだのか伺いたいと思います。

アカシア:「古事記」は上中下と3巻あり、中と下は天皇の系譜につながる部分がたくさんありますが、これは上だけなので、物語としておもしろく読めるんじゃないですか。

しじみ71個分:「古事記」は、子どものころに、1つのお話ごとの絵本がうちにあって、昔話として慣れ親しんでいました。もう少し大きくなってからは神話物語として読むことがあって、学生時代は日本思想の分野の研究対象として読んだ経験があって、向き合い態度を変えながらずっと触れていたものでした。なので、子どもの読み物として改めて読むと、自分の持っていたイメージとずれてくることがあって、それはおもしろいと思いました。改めて読んでみると、基本的に、神話=神様の物語の形式となっていても、中身を読むとほとんどは部族間の戦争みたいなもので、部族戦争が神の物語として描かれているのかな、という印象を持ちました。「人間」の話だとしたら、神様といっても人間くさくて、怒ったりすねたり、プリミティブな感じの、人間らしい正直な気持ちや素朴、粗野な行動が書かれていても納得できるなと思いました。
「古事記」の物語世界は、何をどう頑張っても空想するしかない世界なので、いろいろな解釈もできると思います。ですが、こうして絵がついてしまうと、イメージは限定的になるかなと思いました。日本列島のつくり方とかは、私の頭の中ではまったく違っていたし、神様がこんな服を着ているのは事実なんだろうか?とか引っかかるところはありました。また、山村さんの絵は白黒だけなのに、相当にインパクトがあって、タッチにも臨場感があるので、ヤマタノオロチの血が川に流れ込むあたりは怖いくらいだし、逆にヤマタノオロチ自身はけばだった感じが自分のイメージと違うと思いました。絵の力があるだけに、これを真実と思い込むことはないのかな、という疑問を感じます。白うさぎに騙されてうさぎの皮をはぐのはワニかサメかという論争があったけれど、ここではサメを選択して絵で書いていますね。原文ではワニになっているので、どうなのでしょうか?いずれにしても、この本文では絵と本文でサメ説を採ったのだなぁと思いました。全体的には、この物語は内容も絵も本当に力強いので、改めて読むと、ただの昔話と思って読んでいたのより、とてもおもしろいと感じました。

花散里:絵がとても気にかかりました。小学校高学年からを対象に作られた本かなと思うけれど、p34の「黄泉の国」の絵など、絵のインパクトが全体的に強すぎると思います。学習指導要領に伝統的な言語文化に触れる学習指導が求められ、昔話、神話・伝承など、たくさんの本が出版されています。何故、今、富安さんが古事記を取りあげたのか、山村さんの絵はどうなのだろうかと考えてしまいました。古事記は、稲羽の白うさぎなど絵本でもいろいろな形で出ています。この本を子どもたちは、どう読んでいくのでしょうか。古事記は発達段階が進んで、もっとよく理解できるようになってから別の形で読んでもいいのではないかと思います。

さららん:もともと山村浩二さんはアニメーションで「古事記」を制作しています。そういう形で、映像から古事記に入る人もあるだろうし、漫画の『ぼおるぺん古事記』(こうの史代著 平凡社)から入る人もあるのが現状です。入り方はさまざまでいいんじゃないかな?

アカシア:今は「古事記」ばやりなので、いろいろ本が出ていて、漫画やラノベにもなっています。復古的な意識のもあるし、そればかりじゃまずいと言うんで『松谷みよ子の日本の神話』(講談社)なんかもある。ちょっと前ですけどスズキコージさんの挿絵で『はじめての古事記』(竹中淑子+根岸貴子文 徳間書店)も出ています。そういう流れの中に、この本もあると考えたほうがいい。この本で最初におおっと思ったのは、イザナミとイザナキが夫婦になる場面なんですけど、原典では女神のイザナミが先に声を掛けると、女性が先に声を掛けるのはよくないとイザナキが言って、交わってもひるこが生まれる。高天原の偉い神様に相談すると、そこでも「女が先に行ったのが悪い」と言われる。そこでやり直して、イザナキが先に声を掛け、今度はうまくいく、ということになってるんですね。そこを読んだときは、ずいぶん女性差別的だなあ、と思ってたんです。でも、富安さんもそう思われたのかどうかはわかりませんが、この本では「女が先だったらだめ」という部分は省いてあるんです。ただ単にわかりやすくしてるだけじゃないんですね。
それからさっき神様の名前が多すぎるという声がありましたが、原典と比べると、マイナーな神様の名前はずいぶんと省かれています。そして、p97の「さて、これでひとまず、スサノオの話はおしまいとしよう」みたいに、途中で言葉を入れてわかりやすくしているのも富安さんの工夫だと思います。地獄に言ったら振り返っちゃダメとか、三枚のお札みたいな話とか、異界の食べ物を食べたら戻れないとか、世界の神話や昔話に共通するモチーフが、とてもわかりやすく語られているのも、いいですね。山村さんの絵ですが、私はこの本はグラフィックノベルだと思いました。ひどい絵の本もたくさんあるなかで、私はいい絵だと思いました。神様を人間っぽく描いていて、裸ん坊の姿も出てくる。あえてそう描いているのだと思うと、好感がもてます。

カピバラ:この本は5、6年生の子どもに読んでほしいと思って作られた本だと思うんですけど、「古事記」を今の子どもに楽しんでほしいという気持ちが表れていていいと思います。富安さんの文章はおもしろいし、全ページに絵をつけてあるので文章がページの半分しかないのも読みやすい。短編集のように、おもしろそうな話だけ読んだっていい。私たちが子どものころって、絵本などで「いなばの白うさぎ」「やまたのおろち」などの話を他の日本昔話と同じように知る機会は多かったのですが、今はそうでもないですから、「古事記」に触れる、という意味でこういう本を今出す意味をわたしは買います。もうちょっと大きくなってから、ちゃんとしたのを読むとっかかりになると思いますね。それと、私はこの表紙がとても好きです。何か変な人や、怪物みたいなのや、動物がちりばめられていて、ちょっとおもしろそうって子どもが手にとるんじゃないかな。

マリンゴ:最近の「古事記」ブームを私は知りませんでした。今、刊行数が増えてるのですね。私は「古事記」そのものにあまり馴染みがなくて、この本のおかげで、「やまたのおろち」や「いなばの白うさぎ」など、今まで断片的に記憶していたことが物語としてつながって、とてもよかったです。もともと山村さんの絵が好きなので、イラストが全ページに入って、しかも富安さんの文章なんて、奇跡のコラボみたいな本だなぁと思いました。絵のインパクトが残る子どもは多いでしょうけど、これで「古事記」に興味を持った子は、ほかの本も読むでしょうし、読まない子は、この本で「古事記」を知っておいてよかった、ということになるでしょうし、存在意義のある本だと感じました。

須藤:とてもよくできていると思いました。全ページにわたって絵が入って、そのため文章は短くかりこんでいるんですが、ちゃんとお話はまとまっているし、何よりおもしろい。いい本だなと思います。「古事記」自体は子どもの頃、赤塚不二夫のまんがで読んだっきりで、実はきちんと読んだことがあんまりなくて……。個々のエピソードがこういうふうにつながっていったのか、と改めて思いました。どぎついところはうまくごまかしたり削除されていたりして、それでいて神様がみんなめちゃくちゃなところはよく出ているし、子どもに「古事記」の世界を紹介したいときに、この本があるととてもいいんじゃないでしょうか。それから、途中から来たので前半聞けなかったのですが、絵については意見が出ていたんですか? ぼくはとても好きな絵でしたけど……。p202で、木花咲耶姫が燃えさかる産屋の中で赤ん坊を産む場面の、この迫力ある顔とか。

西山:絵の好きずきというより、物語に絵で触れることはどういうことなのか立ち止まって考えてみたいと、私は思ったんです。絵にしなくても物語は理解できるのに、視覚的「わかりやすさ」がそんなに大事かなと思います。入りやすいのは確かにそういう面はあるだろうけれど、物語の流動的なイメージ世界が限定されていかないか気になります。

しじみ71個分:好き嫌いというより、頭の中の造形と絵のイメージがちょっとずれるところはありますね。

西山:絵にしなくても、物語は理解できる。くまなく目に浮かばなくたっていいと思うんです。いつもいつも視覚的な理解が先立っているような気がします。

レジーナ:昔話は、絵にすると残酷だったり、絵では伝わらない要素があったりするので、絵本にするのは難しいという意見は昔からありますね。神話についても、同じように思われる方がいらっしゃるのかもしれません。私は、お話と絵の出会いが良い形であれば、それでいいように思います。「古事記」のお話を生で語れる人は、あまりいませんし。

しじみ71個分:おもしろいなと思うのは、ギリシア神話だと文字だけの本でも子どもが読んで、おもしろいって言うんですよね。特に男子でその傾向が強いような気が…。

花散里:今は歴史読物でも、織田信長がイケメン漫画の主人公のような表紙だったり、どうかと思うような児童書が出版されています。「古事記」も、登場人物がイケメンのような絵のものも出ている。学校図書館にもそういう本が入って行くのか、そういう出版の流れはどうなのかと思います。

しじみ71個分:最初のひる子流しの話は省かれていますよね。どろどろしたような話は省かれているのでしょうか。なので、個別のお話はある一定の方針で選ばれているんだなとは感じました。あの話は子どもの頃からいちばん気にかかっていた部分だったのですが。

須藤:絵のことでいうと、p169で事代主がのろいの逆手を打つ場面などはおもしろかったですよね。「手の甲と甲をうちあわせ」とあるけど、こうやって打つのか!って思いますよ。

アカシア:ここは絵がないとわからないですね。

しじみ71個分:だけど、これは本当にそうなんでしょうか?これも一つの解釈だと思うのですが…。

アカシア:調べてもわからないことはいっぱいあるかとは思いますが、監修の先生がついているので、今の説ではこうなっているという点は、おさえてあるのではないでしょうか。

すあま:「古事記」の話って、1つ1つ別々に知ることが多いですけど、この本ではすべての話がつながっているところがいいなと思いました。読みやすくてわかりやすかったです。絵については、第一印象ではあまりよいと思わなかったけれど、読んでいくうちに話の雰囲気に合っているように思えてきました。「絵物語」ということですが、大人だとある程度わかっているようなものも、子どもにはなかなかイメージしにくいことが多いので、全部注で説明するよりも絵でわかる方がよい、ということだと思いました。神様がとんでもなくてユーモラスなところもおもしろく読めます。でも、神様がいっぱい出てくるので、わからなくなってきました。人物の名前がおぼえられなくて海外文学が読めない、という人が多いようなので、登場する神様の紹介があるといいと思います。

アカシア:旧約聖書もそうですけど、系譜を長々と書いていくのは、そういう形式でリズムを作っているのかと思うので、いちいち紹介がなくてもいいように、私は思います。ちょっとわからなかったのは、私がコノハナサクヤヒメとおぼえていたのが、ここではコノハナサクヤビメとなっていて、他にもスセリビメというふうに「ビメ」があるかと思うと、クシナダヒメのように「ヒメ」もある、というところ。

しじみ71個分:Wikipediaで見ると、コノハナサクヤビメは木花之佐久夜毘売、スセリビメは須勢理毘売命・須世理毘売命、クシナダヒメは櫛名田比売となっているので、もとの漢字が違うのかもしれませんね。私も昔はみんなヒメと読んでいました。監修が入って厳密になっているのかもしれませんね。絵も物語も、神々が非常に人間くさく描かれていますが、もしかするとあえて、神性を否定的に描いているのかなとも思いました。

西山:原田留美という私の仲間が『古事記神話の幼年向け再話の研究』(おうふう 2017.12) https://honto.jp/netstore/pd-book_28883127.html というのを出してます。ワニかサメかについても、大変詳細に分析、考察されていますよ。

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アンヌ(メール参加):せっかく語り手が富安陽子さんなのに、最初の出だしがとても男性口調なのにはがっかりしました。古事記の語りは女性というイメージだったので(さくま:稗田阿礼については、一時期女性だという説が強かったのですが、今は男女両方の説があるようです)。絵については神々を極力美しく書かないで、身近な感じにしようとしたのかなと思いました。私は、伊藤彦造とか池田浩彰の挿絵で読んでいたので、神話の神々は美しく色っぽい神々という印象が残っています。

エーデルワイス(メール参加):絵物語ということで、全ページ挿絵があることに感心しました。読みやすかったです。ただ絵が大人好みなので、子どもが手に取るかな? 偶然ですが、こちらのグループで毎月『えほんの読書会』をしています。今月とりあげたのが山村浩二さんで、たくさんの絵本の絵を描いていて、有名なアニメーション作家であることも知りました。2002年『頭山』で国際アニメーショングランプリをとったことは記憶にありましたが。横道に逸れますが、山村浩二著『アニメーションの世界にようこそ』(岩波ジュニア新書)はおもしろかったですよ。

(2018年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョン・デヴィッド・アンダーソン『カーネーション・デイ』

カーネーション・デイ

さららん:たった半日の小さな大冒険ですが、最後まで読むと、3人の人間関係、悩みなどいろんなことがわかってきて、内容的には正道の児童文学だと思います。読み始めて、造語がうまいな、と思いました。どうしようもない人のことを「ナシメン」と名付けるとか、今っぽい。また主人公3人が、社会のいろんな層から出ているところもいい。ただ最初の方で、3人の語りというルールがよくわからなくて、ときどき混乱しました。3人の性格がわかってくると読み解けるのですが、トファーとスティーブの語り口が似ています。もうすこし文体の面や、小見出しを大きくするとか、子どもが入りやすい工夫が必要かも・・・。ダブルミーニングをちゃんとダブルで訳しているところはいいですが、訳がわかりにくいところもありました。ひとりひとりの子どもをよく見ていて、必要な言葉や手をさしのべるビクスビー先生は素敵。やっと会えた先生に、ブランドがどんな励ましの言葉をかけたか書いていないところが、逆に物語の世界の奥行を広げているなと思いました。

アンヌ:私はとても読みづらくて、最初のうちは3人の区別がうまくつかないまま話が進んでいく感じで苦労しました。『二十四の瞳』(壺井栄著 岩波文庫)みたいに苦労しながら先生を訪ねていく話なんだと了解してから、やっとすらすら読んでいけました。古本屋の場面とか、あきらめて帰ろうと乗ったバスにお酒を盗んだ男が乗ってくるとかは、うまい作りだなと思いました。でも、ケーキや音楽の謎がやっと解けるのがエピローグなので、全体としてはわからないままいろいろ進んでいく感じが強かったです。読み終わってみると、良い物語だったなと思えるのですが、先生が亡くなる話なのはつらいですね。

アカシア:この先生が魅力的に描かれているので、おもしろく読みました。世界には6種類の先生がいる、なんていうところも、なるほどと思ったりして。ただ残念なことに、最初の出だしにひっかかってしまった。「謎の菌」は、アメリカの子どもたちがよく使うcootieという普通名詞だと思いますが、「謎の菌」だとうまく伝わらないかも。「菌急事態」も、会話だと「緊急事態」と同じになってしまうので、もう一工夫あったほうがよかった。訳者が苦労されていることは伝わってきますが。それに、ほかの方もおっしゃっていましたが、前半部分、3人の少年が同じような口調で語るので、だれがだれだかわからなくなります。もう少し区別できるような工夫があるとよかったですね。P26の「レッド・ツェッペリンのリードは?」に対して「ツェッペリン飛行船が鉛(ルビ・リード)でできているわけないですよ」と返す部分。鉛の発音はリードじゃなくてレッドなので、変です。もう一つ気になったのは、少年たちが「最後の日に何をしたいか」という話を先生が授業でしたのをおぼえていて、それをそろえてお見舞いに行こうとします。この先生はまだ入院したばかりで、回復する可能性だってあるんじゃないかと、私は思ってしまいました。それなのに「最後の日」に食べたいといったケーキやポテトチップスを持って行ったりする。日本の子どもだったら、たぶんしないでしょうね。でも、前にこの会でとりあげた『クララ先生、さようなら』(ラフェル・ファン・コーイ作 石川素子訳 徳間書店)も、死を前にした先生に子どもたちが棺桶を送るという設定になっていました。だから、外国では、そんなに不思議なことではないのかもしれませんね。

マリンゴ:いい話だと思ったし、読後感もとてもよかったです。ただ、みなさんがおっしゃっているように、視点の切り替えが頻繁すぎて、特に序盤は誰目線なのかわからなくなりました。3人の感情表現が似ている上に、ゴールが一緒であるため、混同しやすくなるんじゃないかと思いました。みんな先生が大好き! なんですけど、たとえば1人は、先生に対して何か複雑な感情を抱いているとか、そういう違いがあれば、視点が変わっていく意味も大きくなったかもしれません。序盤の1人の視点を長めにするか、あるいは全体を三人称にしたほうが読みやすかったかも。著者には叱られるかもしれませんが、もしかしたらスティーブの視点固定でも一応成立は可能な物語だったかな、なんて考えながら読んでいました。あと、「すい管せんがん」と先生がはっきり病名を言うところは、日本ではなかなか考えられないシーンで、印象的でした。私はすい臓関係の病気、少しくわしいので、ラストの部分、「すい臓の病気で、フライドポテトそんなに食べたらあかんー!」と思わず悲鳴を上げたくなってしまいました。でも、自分が言ったことを、子どもたちが覚えてくれていた、というのは大きな喜びでしょうね。

ハル:私も、ブランドの節に入って、一人称が変わって、初めてそういう構成なんだと気づきました。見出しでページを変えるとか、本づくりにもう少し工夫があってもよかったのかなと思います。でも、物語自体はとても良いお話だと思いました。高価なケーキや未成年では買えないワインを一生懸命買おうとするのも、大人になった今だから「そんなのいいのに!早く会いに行って!」と思うけど、子どもたちにとったら一大事で、大冒険で、ゆずれないところですよね。全体的に、あからさまに書かないというか、まわりくどい書き方というか、大人っぽい書き方だなとは思いました。余談ですが、学校をさぼらなかった子たちにも、『指輪物語』の最終章、聞かせてあげたかったな。

西山:感想は、みなさんとまったく一緒! え、ちょっと待ってと立ち止まった場所もたぶん一緒です。最初は、ちょっと腹を立てながら読みました。自分がレポーターか何かなら、登場人物メモでも作りながら読むけれど、一読者としては、そんな手間をかけなくてもページをくっていけなければ読書は楽しめません。それど、彼らのうかつさは、リアルなんだとは思います。だから、子ども読者には共感を持って読まれるかとは思いますが、正直なところ、次々と繰り出される失敗は若干ストレスでした。いや、ケーキ背負って走ればぐちゃぐちゃだろ、とか。もう少し読みやすければよかったのに。原書もこういう作りなんですよね? だとすると、勝手に三人称にすることはできないし・・・。

アカシア:話者が替わるところで、ちょっとずつ違うそれぞれの男の子の似顔絵をつけるとか、それくらいはできるでしょうけど。

花散里:がんの宣告を受けた先生を思う3人の少年たちの物語で死を描いた作品として、人の死をしんみりと思わせてくれると紹介され、1回目は一気に読みました。2回目に読み返した時には、目次がないし、p89のスペイン語がそのまま書かれていたり、登場人物が区別しにくいなど、日本の子どもたちが読んだときにどうなのか、と、気になってきました。3人の少年たちにとって特別な1日であったというこの作品に、このタイトルでいいのか、と思ったり、表紙の絵や装丁にも引っかかりました。編集や翻訳の方も、日本の子どもたちが読むときのことをもっと考えてほしいな、と思います。私は、優れた海外の翻訳作品を日本の子どもたちに手渡したいといつも思っています。そのためには、こなれた日本語にする翻訳者の方、編集者の方の力が大きいのだと改めて思った作品でした。

アカシア:今おっしゃったp89のスペイン語は、日本の子ども向けだったらアルファベットで出しておく必要がないですよね?

花散里:そう、そういうことろは、編集者の人に目配りしてほしいですよね。日本の子どもたちがどういうふうに読むか、をちゃんと考えてほしいものです。読んで、すっとわかるようにしておいてほしいです。

さららん:翻訳物の場合、中身を全部わかるようにするのは難しいけれど、でもだからこそ、訳者と編集者が一丸となって、読みやすくする配慮が不可欠だということですね。

花散里:会話で文章が続いていくところは、とくに気になりました。「世界には6種類の先生がいる」と、先生のタイプをあげていくところなどはおもしろく読みましたが・・・。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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エミリー・バー『フローラ』

フローラ

アンヌ:最初は苦手な設定だなと思っていたのですが途中から夢中になり、よくできた推理小説を読み終えたような気分になりました。恋をすると今まで使わなかった脳の部分が活性化するんだとどきどきしながら読んでいきましたが、でもそれは精神安定剤のような薬を飲まなかったせいで一種の躁状態になったからなんですね。少し、残念です。でも、記憶がなくても記録をすることで生きていけるという事がわかって、予感していたような嫌な話ではなく、親友のペイジと仲直りもできてほっとしました。

ととき:ミステリーとしてのおもしろさで、はらはらしながら最後まで一気に読みましたが、主人公があまり好きになれなくて・・・。フローラは、10歳までの記憶はあるんですよね。お兄さんが、自分をとてもかわいがってくれたことは覚えている。でも、重病で死ぬかもしれないお兄さんのところに行くより、キスしてくれた男の子のほうに行っちゃうんですよね。それがYAといえば、それまでだし、海外でよく売れている理由でもあるんでしょうけれど。なにかに突き動かされて書いたというより、こういう障がいのある主人公をこんな風に動かせばおもしろいものを書けるんじゃないかという作者の意図がまず先にあったような感じがして。まあ、エンタメというのは、そんなふうに書くものなのでしょうが・・・。小川洋子の『博士の愛した数式』(新潮社)は、おなじ障がいを扱っていても感動したし、大好きな作品ですが。

アカシア:フローラは、お兄さんがどこに住んでいるかはわかっていないんですね。キスしたことを覚えているのは、忘れないようにノートに書いて、それをいつも見ているからだと思います。それに、そこが自分が生きることにとってとても重要だと思ったから。私は、エンタメだからこの程度とは思わず、この作者はその辺まできちんと目配りをして書いていると思いました。

さららん:3部構成が、とてもわかりやすかったです。記憶を留めておけないフローラの語りが断片的で、でもその感じ方と一体化すると、自分とはまったく違うフローラの感覚で世界が紐解けてくる。そこがすごくいいですね。例えば心は10歳のままなのに体は大人、その違和感を伝える語りが実に巧みです。キスの記憶、タトゥーなど、記憶と体の関係を描いているところにも注目しました。後半で登場する兄ジェイコブの存在は、読者に(そしてフローラ自身にも)隠されている家族の秘密を解き明かすに重要な存在。でも、危篤のはずの兄から、フローラに届く手紙やメールの翻訳文体が元気だったので、私の中では兄の人物像がうまく結べませんでした。1部、2部で残された謎が、3部ですべて手紙を使って種明かしされる。フローラ自身のハンデを思うと、それしか読者に伝える方法がなかったのかもしれない。ただ1部、2部までの展開と盛り上がり、息をのむほどの面白さを考えると、これ以外に物語を終わらせる方法はなかったのかな、と思いました。

花散里:物語の展開にドキドキしながら衝撃を受け、精神的には怖いようにも感じながら読みました。「自分探しの物語」というYAの作品のおもしろさを充分に感じました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいを持った主人公の作品が最近のYAには多いですが、記憶が短時間しかもたないという記憶障害を抱えた少女フローラの語りに引き込まれていきました。自分に記憶を与えてくれたドレイクを追って北極へと旅立つ第2部、妹を思う兄からの手紙で物語が大きく展開していく第3部へと、構成もうまいと思いました。わが子が可愛いばかりに、という母親の思いは複雑でしたが・・・。友人のペイジ、ノルウェーの人たちなど、フローラに関わる登場人物も魅力的に描かれていて印象に残りました。

西山:読み始めは、うわーまたこういう認知が独特な主人公の一人称で内面に付き合わされるのか、つらいなぁと思ったのですが、投げ出す前にぐんぐんおもしろくなりました。今回、テキストにしていただいて本当に良かったと思っています。『カッコーの巣の上で』を思い出しました。じつは、映画と芝居を見ただけで原作は読んでないんですけどね。結局、奇をてらった難病ラブロマンスではなく、思春期の親子関係の物語だったんですね。普遍的な物語だとわかって、とても共感しています。いつまでも、フローラを10歳のままで止めて庇護したい母と、17歳の思春期に入っている娘の確執。フローラが外に出ていくという展開がすごくおもしろかった。スヴァールバルの人たちの寛容さの中では障がいが障がいでなくなっている、その在り方も素敵でした。ドレイクのやったことは、障がい者に対する性加害を考えさせられました。相手が被害を告発する力がないと思うから、そういう行動を取る卑怯さといったら! 障がいの有無に限らず、セクシュアルハラスメントの構造ですね。

ハル:私は・・・こういった記憶障害の例は確かにあるんだと思いますが、なんだかちょっと言いにくいですけど、正直言って「子どもが考えそうな筋書きだな!」と思いました。ドレイクとの関係は恋愛ではありませんでしたよね。友達もそれをわかっているのに、そのドレイクとキスをしたことが「あなたは頭のいいかっこいい男の子とキスだってできる」とフローラに自信をもたせる理由になるのがわかりません。なんで?「頭のいいかっこいい男の子」って、だれが? これ〈ラブストーリー〉ではないですよね。なんで? なんで? と、イライラしながら、なんだかんだで結局一気に読みました(笑)。その、「一気に読ませる」力はすごいと思いました。

マリンゴ:同じことの繰り返しで読みづらいかなと最初は心配だったのですが、あまり苦にならず、むしろ惹き込まれて読んでしまいました。すごい筆力だなぁ、と思います。ドレイクのクズっぽさがいいですね。中途半端に改心せずに、最後までクズでいてくれてよかった気がします(笑)。物語の皺寄せが全部ジェイコブに行きすぎてるかなとは思いましたけど。事故で大やけどを負って、ゲイで生きづらくて、20歳そこそこで肝臓がんですものね。過酷すぎます。フローラのような高次脳機能障害というと、私は料理研究家のケンタロウさんを思い浮かべます。高速をバイクで走っていて6メートル下に転落して、奇跡的に命は助かったけれど、記憶障害になって・・・。でも、当時は寝たきりだったのが、今は車椅子で動けるようです。少しずつよくなるという希望があるのではないかと思います。この本と同じように。なお、北極の街として登場するロングイェールビーンですが、NHKの特集で見たことがあります。世界最北の街で、(スヴァールバル条約に加盟している国であれば)どこの国籍でも無条件で移住してきていい、自由に商売をしていい、という特別な地区で、活気があってみんなフレンドリーでした。だから、フローラにみんなが親切にするのは、ある意味、とてもリアリティがあるなと思いました。ただ、物語で唯一気になったのは、メールのアカウントをフローラが自分で作ったという件ですね。どうしても、そこもドレイクがやったのだと思いたい自分がいます。1~3時間の記憶しか持たない中でどうやってやれたんでしょうね。

アカシア:おもしろく読みました。私の感想は、ほぼ西山さんと同じです。最初は、困難を抱えた人の一人称はしんどいな、と思ってさまよいながら読んでいたんだけど、だんだん引き込まれて、フローラが手ひどい目にあうのかと心配になり、そのうちフローラが自立するのを応援したくなり・・・と、読みながら気持ちが変わっていきました。アマゾンには小学館からのセールス言葉で、「絶対忘れられないラブストーリー」と書いてありますが、それはこの本のテーマからはずれているし、内容とも違いますね。障がいを持っていながら自立していく少女の物語で、考えさせる要素をいっぱい含んでいます。この母親は客観的にはひどい親ですが、なぜこうなってしまったかが書かれているのでリアリティがあります。最初は怒っていたペイジが、フローラに「本当の自分」を取り戻させようとするようになるのも、納得できるようにリアルに描かれています。他の方たちが、リアルではないと疑問を投げかけた点は、私はすべて説明がつくように描かれていると思っています。でも、一つだけ疑問だったのは、この母親が、フローラを置いて夫とフランスに行くという設定です。最初はパスポートがないと言うので、ああそうか、と思っていましたが、パスポートは結局あったわけですよね。だとすると、フローラがこれまでにも2回家出をしていたこともあり、自分のそばに四六時中おいて監視しようとするほうが自然なんじゃないかと思いました。ネットで前向性健忘症についてチェックしてみましたが、何かのきっかけで直る場合もあるようですね。でも、抗うつ剤などを飲ませて不活発にしておいたらダメらしいですね。そういう意味では、この本の終わり方には希望が持てます。

 

エーデルワイス(メール参加):18歳で自立できるなんて、日本と比べて感心してしまいます。主人公フローラの未来を明るく見せているので、読後感がさわやかです。p273でお兄さんが、「もう精神安定剤を飲まされないようにしろ。おまえはおまえでいるんだ」と述べているのが心に残りました。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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中澤晶子『さくらのカルテ』

さくらのカルテ

マリンゴ:とてもおもしろいアイデアで、魅力的だと思いました。桜を診察して治療する、というのがいいですよね。リアルな樹木医ではなくファンタジックな世界観なのも興味深かったです。それだけ思い入れを持って読んだぶん、ちょっと残念だなと思った部分がいくつかありました。p11で「ばかでかい鏡を立てた」「さくらの木の不眠症は、治りました」という事例が書かれていて、なるほどそういうパターンの物語が出てくるのね、と思いながら続く1つめのお話を読んだら、まったくこの事例そのまんまで・・・。なぜ先にネタバレしてしまうのか! オチを知らなかったら楽しく読めたのに。子どもには、概要をあらかじめ説明したほうがわかりやすいと考えたのかなぁ。あと、p20「池の端に立っているさくらならば、水面に映った自分を見ることができるのでしょうが、ここに池はないのです」という一文があることによって、あ、オチの部分、鏡を立てるより池を作るほうが、もっと風流なエンディングになったんじゃないか、と思ってしまいました。あとは、全体のバランスですね。1話目がほんわか昔話風なのに対して、2話目がベルリンで、3話目が福島。全部で5話くらいあって、2話がベルリンと福島ならバランスいいと思うのですが、3話だったら、うち2話がほんわか系のほうがよかったんじゃないかなぁ、と。

ハル:私は、1話目のようなお話をもっと読みたかったです。これが2話目、3話目から始まっていたら、そういう本なんだなと思ったんだと思いますが、1話目から読んでしまったのでそう思うんだと思います。きっと、2話目、3話目を書きたくて始まった企画なのだろうとは思いますが・・・教訓とか「人間とは」とか、そういう勉強のために読むのではない、読んで楽しい(だけでなくてももちろんいいですが)子どもの本をもっと読みたいと最近思います。

西山:再読する時間がなくて発売後すぐに読んだきりですが、一番印象が強いのは「太白」ですね。p21の5行目「自分の考えなど、たずねられたこともない小坊主」が「さくらの何がうつくしいと感じますかな」と問われて、ほおを「濃いさくら色」に上気させて答える場面が好きでした。何かがうつくしいと心奪われる、苦しいような切ないような感触が思い起こされます。でも、ベルリンと福島の物語が『こぶたものがたり』『3+6の夏』(ともに中澤晶子作、ささめやゆき絵)と同様に、中学年ぐらいで読めるコンパクトさで書かれていることは貴重だと思っています。歴史的、社会的テーマを扱った作品はどうしてもボリュームのある、高学年向き、YAとなりがちなので。

花散里:ささめやゆきさんの表紙絵から中学年ぐらいの子がこの本を手に取るのではと思いましたが、京都の太白のお話など、最初の展開から、もう少し上の学年の子でないと物語に入っていけないのではないかと感じました。作者が描きたかったのは、ベルリンや福島のことでは、と推測される「さくらの物語」だと思いますが、読者対象を選ぶのが難しいと思いました。福島のことや、「さくら」をテーマにしたブックトークの中で紹介するなど、子どもたちに手渡して行きたい作品だと思います。

さららん:「さくらのカルテ」というタイトルのつけかたといい、導入といい、全体的によくつくりこんだ本だと思いました。あとがきのかわりの「さくらノート」がとてもおもしろかった。この物語を書くきっかけになったのか、あとから調べてわかったことを付け足したのか・・・その両方かも。3つの物語が成立していく過程はそれぞれ違っていたはずで、想像する楽しみがさらに残ります。なにしろ第1話の「京都・太白」と、2話の「ベルリン・八重桜」の味わいが全然ちがっている。3話の「福島・染井吉野」まで読んで、あーこれが書きたくて前の2つも書いたのかな、と思いました。さくら専門の精神科医とその助手を狂言回しに登場させることで、味わいの違う3つをぴったりくっつけたかというと・・・そこはやや疑問ですね。意欲的な失敗作というと言いすぎかも。意欲作であることは確かです。

ととき:いい作品ですね。芭蕉の俳句「さまざまのこと思いだすさくらかな」を思いだしました。そういう桜に対する思いって、外国に紹介したとき分かってもらえるかな? みなさんがおっしゃるように、作者が書きたかったのは第3話の夜ノ森地区の桜の話だと思いました。第1話は、落語の『抜け雀』を思わせる展開でおもしろく読ませ、第2話の斎藤洋さんの『アルフレードの時計台』のような雰囲気の話で、ちょっとしっとりと考えさせて、第3話に続ける構成がいいなと思いました。小学生にはわからないのでは? ということですが、おもしろい物語だなと思って心に残っていけば、今はベルリンのことや福島のことが理解できなくても、やがて大きくなって「ああ、そうか!」と思うときが来るんじゃないかしら。私自身も、そういうことがよくありました。それもまた、本を読むことの素晴らしさだと思います。戦争を体験した世代が、いろんな形で戦争のことを書きつづけてきたように、福島のことも書きつづけて、次の世代へ、また次の世代へとつなげていってほしいと切に思います。それも、児童文学の使命のひとつなんじゃないかな。ただ、狂言回しのお医者さんと看護師さんのネーミングがいやだな。じつをいうと、最初にそこを読んだときにうんざりして、読むのをやめようかなと思いました。

アカシア:さっき花散里さんが、これだと背景が分からないから小学生には難しいとおっしゃっていましたが、難しいと読んでもらえないということですか?

花散里:さくら専門の精神科医「ビラ先生」とか、ネーミングはおもしろそう、と子どもは読んでいくのかもしれませんが、作者が伝えたいと思っているベルリンの八重桜や福島のお話に入っていけるのかなと感じたんです。

アンヌ:私も、マリンゴさんがおっしゃったように5話くらいあればと思いました。ベルリンと福島の桜の話が書きたかったというのは分かるのですが、私はもっと第1話の「京都・太白」のような物語をあと2つくらいは読みたかった。絵から抜け出る話はよくありますが、花びらがひらりと飛んでいくというのはとても美しく、錯覚としても起こりそうな感じです。こういう不思議な話の形でメッセージ性のある作品を書くのであれば、せめてもう1話ぐらい語り手にまつわる話とかがあってもよかった気がします。私はこの語り手の語り口にはとてもはまってしまい、ネーミングも好き、大好物が桜餅で2つ食べちゃうところも好きです。だから、「ベルリン・八重桜」でビラ先生が活躍していないのが物足りなくて残念でした。

ととき:あと2話あったら長すぎない?

アンヌ:確かに、5話入れるには最初の1話が長すぎますね。さくらふりかけさんが先に鏡の治療法を話してしまうのを削って、絵師が絵を描く話と治療の話に分けて最初と最後に入れるのはどうだろうかとか、いろいろ考えてしまいます。

アカシア:私は、この作家・画家のコンビによる『こぶたものがたり』(岩崎書店)がとても好きなので、それと同じような作品かと思って読み始めたのですが、あっちはチェルノブイリと福島の子ブタがそのまま出てきて、その2箇所を子どもの手紙が直接結ぶという設定だったと思います。こっちは、それができないので、サクラハナ・ビラ先生とか、助手のさくらふりかけ、といった狂言回しのような存在を出してきたんでしょうか。この狂言回しの2人は、時空を超える存在なので、いかにも人間というかっこうで出てきちゃっていいのかな、と思いました。もっとスーパーナチュラルな存在(たとえば妖精とか小人)として描いたほうがよかったのでは、と思ったのです。1つ1つの桜のお話はなかなかおもしろかったのですが。たぶん作者がいちばん書きたいと思われたのは、福島の桜なのかなと思いましたが、それぞれにテイストが違うので、ちょっとちぐはぐな感じがします。2番目のお話に出てくるエヴァは、ドイツ語だと普通はエーファあるいはイーファになるのでは?

西山:作者の経験から考えて、「エファ」の発音をご存じないはずはないと思います。日本の読者の耳なじみにあわせて、ということありますかね?

ととき:登場人物の名前の呼び方は、難しいですね。いろんな読み方があるときにも、作者の好みがあるし…。

アカシア:でも今はほとんどの本では現地音主義になっているように思っていたので。

 

エーデルワイス(メール参加):ささめやさんの絵が好きです。この表紙もインパクトがありますね。内容は、ささやかなようで壮大なテーマを扱っているようです。特に最後の「福島・染井吉野」は、作者の一番つたえたかったことでしょうか? この本のように、一見幼年童話のように見えて、中身は重厚な本が最近増えているように思います。

(2018年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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小俣麦穂『ピアノをきかせて』

ピアノをきかせて

ルパン:主人公の響音は、ほかの2作の主人公とくらべて、ずいぶん大人びた5年生だな、と思いました。けなげというか、こんな子いるのかなあ、と・・・。ここにいる子どもたちはみな千弦のためにがんばるのですが、みんながそれほどまでに尽くす相手である、千弦の魅力がよくわからない。母親の関心も、初恋の相手であるシュウの関心も、みんな千弦に向けられているのに、妹である響音は、嫉妬はしないのでしょうか。音楽を文章で伝えるのはとても難しいことだと思います。よく挑戦したな、とは思いますが、あまり成功しているとは言えないと思いました。

さららん:物語は、響音の世界の描写、響音が色をどう感じ、音がどう聞こえるか、から始まり、響音はおねえちゃんの千弦の弾くピアノの音が精彩を欠いてきたことに気がついていて、心配しています。千弦も少し後に登場しますが、物語の中で、その千弦の影が薄いように感じました。響音や親友の美枝が憧れている秋生も、千弦に魅かれているようですが、読者にとってその理由がピアノの音だけでは納得できず、さほど魅力的な少女には感じられません。千弦に対して過干渉になっていたお母さんは、距離を置くことで自分の子育てを考える時間を得て、響音、千弦との関係を少しずつ立て直そうとします。大人の弱さ、頼りなさが正直に書かれているところは好感が持てました。発表会に向けての練習で、響音は自分の才能を踊ることに見出します。ダンスが大好きな女の子は、あこがれて読むのかもしれませんねい。全体として、ちょっと少女漫画的なお話だと思いました。

レジーナ:音楽が聞こえてくると、体が自然に動き、自分の世界に入ってしまう響音は、今の子どもにしては天真爛漫で、のびのびしていて、そこが気に入りました。みやこしさんの挿絵がすてきですね。千弦の心をとかそうとする響音をゲルダに重ねるのも、新しさはないのかもしれませんが、美しいイメージです。

ネズミ:私もさらっと読みました。でも、5年生の子どもが姉のピアノを聞いて「しずんだように、重い音」と感じるかなあというところにすごくひっかかりました。少女漫画のようだと感じたのは、登場人物に各自の役割以上のふくらみが感じられなかったかな。感じのよい作品ですが。

西山:表紙がきれい。グレーと赤がすてきです。全体的に好感をもって読みましたけれど・・・。あっという間に忘れるかも。ピアノにあわせて思わず踊るところ、異性への憧れ方など、読みはじめる前に思っていたほどYA寄りではなく、好感を持ちました。肝心の音楽劇の舞台があまり見えてこなかったのはちょっと残念。ピアノコンクールの演奏の様子は、言葉を尽くして描かれていると思いましたが。最後、終わらせられなくなっている感じがします。もっと早く切り上げてもいいんじゃないかな。

マリンゴ:冒頭、音楽の難しい話かと身構えたのですが、そんなことはなく、平易で分かりやすい物語でよかったです。ステージやコンクールの場面が細かく描かれているのもいいなと思いました。気になったのは、p51「ジャイアンみたい」。ジャイアンって『ドラえもん』のジャイアンのことですよね? 突然出てきますけど、日本人の一般教養として説明なしに出してかまわない単語なのかしら。あと、千弦の音が機械的であることを、美枝までもがうっすら気づく描写がありますが、美枝はちっとも気づかなくて、響音をはじめ分かる人だけが分かる、というふうにしたほうが、ハイレベルな音楽の物語なのだということが伝わるのかなと思いました。全体的に心理描写が丁寧ですが、丁寧すぎる気もします。たとえばラストの部分、p221の「おそろいのマグカップとお茶わんが秋空にかかげられた」で終わったほうが、余韻が残ったかもしれません。

カピバラ:音楽を文章で表すのは限界がありますね。いろいろな楽曲が出てくるけれど、作者の意図がどこまで読者に届くのか、難しいところです。お姉ちゃんのことは表面的にしか描かれていないので、そもそもなぜピアノが好きなったのか、なぜ今は重い音になっているのか、わかりにくかったです。たったふたりの姉妹の関係は、子どもとはいえいろいろ複雑で、妹は姉に辛辣だったりするけれど、この子はお姉ちゃんに文句をいったりせず、ぜんぶ受け入れているというのが珍しい。最近、辻村深月の『家族シアター』(講談社)を読んだのですが、その一編に出てくる姉妹の物語は、心理描写が非常によくできていました。だからなおさら、そのへんを物足りなく感じました。おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんの台詞が、ちょっとつくりすぎている感じがしました。

アカシア:音楽を文章であらわすのは難しいけど、この作家は、音楽の雰囲気を言葉であらわそうとしている、その努力は買いたいと思いました。ただ文章が、文学ではなく情報を伝える文章なので、お行儀はいいのですが、うねりみたいなものはないですね。それから、特に最後など、ひと昔前の青春ものみたいなところがあって、そこはどうなのかな、と思いました。

花散里:姉に対する思いなど、響音の描き方が5年生らしくないと思いました。逆に、表紙絵といい、p137の挿絵などは幼い子が描かれているのかと感じました。姉が妹を思っていくというのは分かるけれど、妹が姉に対して、こんなふうに思っていくだろうか、ということを感じながら読みました。叔母の燈子の人物設定にも無理があるように思いました。松本市で行われているコンサートなどが背景にあるのかと思いましたが、音楽についてあまり知識のない小学校高学年の子どもたちには入っていきづらい世界ではないかと感じました。後半から最後まで、読後感があまりよくなかった作品でした。

コアラ:「戦場のメリークリスマス」は大好きな曲でしたが、雪と結びつけたことはなかったので、曲を思い浮かべ、雪をイメージしながら読みました。作者は「あたたかい雪」と書いていたので、音楽を聞いて呼び覚まされるイメージというのは人それぞれだなと。ピアノコンクールの場面では、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』(幻冬社)を思い出しました。ただ、コンクールやステージでの発表という華やかな場面を描いているわりに、地味な作品というか、平坦な印象でした。「ふるさと文化祭」が終わって、「市民芸術祭」への出演依頼の話になったのが、最後まであと20ページくらいしかないところで、どんな風に盛り上がるんだろうと思ったら、あっさり終わってしまったし、どこでこの物語が閉じられるのだろうと心配になりました。終わり方があまりよくなかったかなと思います。

アンヌ:最初から主題がはっきりしていて、姉がピアノを楽しい音で弾ける日を取りもどすという目的が一瞬も揺らがないのが、ある意味単調でした。「戦場のメリークリスマス」のように映画のストーリーを背負った曲を使うのは、音楽を描く物語としてはまずいのではないかと思います。音楽についてより、色彩を描く記述のほうがうまい作品だと思いました。ストーリーとしては、家族関係の問題が実にあっさり解決されていて、物足りない感じがしました。

オオバコ:西山さんの言葉どおり、ちょっと前に読んだのに、すっかり忘れていました。たった1行でも1か所でも、心に響く言葉や場面があれば覚えていたのに。自分の音が出せなくなった演奏家(学習者でも、その道を目指しているのなら演奏家だと思います)が、いかにしてそれを取りもどすかというテーマはおもしろいと思うのですが、人物造形がはっきりしません。演奏家=千弦の内面を描かなければ書けないのでは? だいたい、音楽は感性の芸術だから、みなさんがおっしゃるように言葉で表すのはとても難しいことだと思います。それに、千弦が学んでいるのはクラシックですが、妹の響音が素晴らしいと何度も言っているのはポピュラーで、そこのところにも違和感がありました。p5に、どこからか流れてくる、たどたどしい弾き方の「エリーゼのために」を聞いた主人公が「つまらなそうな音でつっかえつっかえ弾くピアノに、ぼそりと文句をいう」場面で、「なんて嫌な子!」と思っちゃいました! 私の大好きな安西均さんの『冬の夕焼け』という詩に同じような場面が出てきて、どこかでモーツァルトのK311番を弾いている子が、いつも同じところでつっかえるのを「淡い神さまのようなお方が、忍びよってきて、なぜか指をつまづかせなさるのだ」と、見知らぬ家の子の、そんないぢらしい努力にふと涙ぐむ・・・。かたや老詩人、かたや小学5年生の女の子だけど、ずいぶん心根が違うなと・・・。

須藤:あまり物語に入り込むことができませんでした。登場人物が揃ったあたりで、だいたいどんなストーリーか予想できてしまうし、また何でもかんでも台詞で説明しすぎではないかと思います。たとえばp131で秋生が、主人公の姉の千弦を、アンデルセンの「雪の女王」に重ねながらこんなふうにいいます。「土屋さんのピアノをきいたとき、(中略)なんて楽しそうな音で弾くんだろうって。それがいつのまにか、つまらない音を出すようになっててさ。(中略)土屋さんは、カイなんだよ。(中略)カイの心をとかすのがゲルダのまごころなら、土屋さんの心をとかすのは、ぼくたちの音楽だ」これまでの流れとこれからの展開、全部説明してしまってますよね。正直、ここまでいちいち言わなくてはならんかと思います。それから、主人公の響音と、お姉さんの千弦がおじいちゃんの家にいるあいだに、両親の話し合いでいつのまにか問題が解決しているというのも、ちょっと納得できません。そもそも、この両親は、どんなふうに子どもに向き合っているのでしょうか。最初の方で、父親が「響音のことをちゃんと見ているか」とか母親にいう場面がありますが、ここは腹が立ちます。子どものことを「ちゃんと見る」のは父親の責任でもあるからです。後半で、母親が、響音にむかって「千弦に、すごく会いたいですって、伝えてね」という場面も釈然としません。いくらうまくいかない関係になっていて、おじいちゃんの家に一時的に預けている状態なのだとしても、こういう大切なメッセージを、もう一人の子どもに託して伝えようとする姿勢には、疑問を感じます。子どもに負担を与えないでほしい。こういう親たちなので、最後に子どもたち二人に向かって謝って話す場面も、私は白々しく感じました。

 

エーデルワイス(メール参加):コミックの小説版のようなイメージですね。ちょうどベストセラーが原作の映画「羊と鋼の森」(原作は宮下奈都著)を見たばかりなので印象がダブり、ピアノの音が頭の中で響いていました。「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲が何度も出てきます。この静かな反戦映画では、イギリス兵の捕虜役のデヴィッド・ボウイが、美しい歌声を持つ弟を学校内のいじめから助けることができなかった過去を長い間悔やんでいて、死ぬ間際に夢の中で、美しいイギリス田園の家で、弟と分かちあう場面が印象的でした。兄弟の心のつながりという視点で、この作者は「戦場のメリークリスマス」の曲を選んだのでしょうか。

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ケイト・ビーズリー『ガーティのミッション世界一』

ガーティのミッション世界一

西山:スピード感のある文章がおもしろくて、出だしからノリでひきこまれました。ロビイストが出てきて驚いて、原発の問題と重なって・・・この場合ガーティは東電社員の子どものような立場で、どう展開していくのかとひやひやしながら読み進めたんだけど、結局、日常のいろんなことの、ひとつのエピソードとして流れていきましたね。そこを焦点化して注目してしまうと物足りなく感じたというのが正直なところだけれど、でも母親に認められたいというのがテーマだから、仕方ないかなとは思っています。あまりはしゃいだ文体は好きじゃないけれど、これはおもしろく読みました。例えば、「ローラースケートで歩道の継ぎ目の上を通るときに鳴る、かたん、という小気味いい音みたい」以下の比喩の畳みかけなど、嫌みじゃなくて、5年生の感覚のサイズ感が出ている気がしておもしろかったです。日本の作品と翻訳ものでは同じ5年生でもかなり違うだろうなと思っていたのですが、意外にも「おバカさ加減」はてつじと一緒でしたね。とはいえ、とにかく目立ちたい、それで一目置かれたいというメンタリティには、やはり日本とは違う価値観を感じました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。ガーティの母親への想いや、メアリー・スーとのやりとりなど、どこもうまいなあと。脇役では、ジュニアがよかったです。普段は目立たないけれど、肝心なところでいつもガーティに寄り添って助けにきてくれる。ただ、ガーティは、さっきの本のてつじのように、時に突拍子もないことをやってしまうハチャメチャなキャラクターのようですが、人物像が少しとらえにくいというのか、はっきりしない感じがしました。それから、内容としては5年生が楽しめる本なのでしょうけれど、翻訳だとグレードが上がりますね。タイトルにもある「ミッション」という言葉や人物名など、カタカナ語がたくさん出てきて、日本の5年生が読むには読者を選ぶと思いました。

レジーナ:カエルを蘇生させる冒頭からひきこまれました。メアリー・スーを席どろぼうと呼んだり、p126で、パーティに潜入したジュニアを待つあいだ、小さなオードリーが、むしった葉っぱを埋葬していたり、女子にばかりいい役をあげると、いちいち文句を言うロイみたいな男の子がいたり、細かなディティールがおもしろかった。ガーティははりきっては空回りして、でも、その中で、人の注目は一時的だということ、世の中にはどちらが正しくて、どちらが間違っているとは言えない問題もあること、そして、どんなに願っても、手に入らないものもあるということなど、人生の真実に気づいていきます。p115で、ガーティを無条件に信じるレイおばさんなど、まわりの大人の描写もあたたかいですね。全体的にリアリティがあるのですが、チョコレートをシャツに入れる場面は気になりました。10歳にしては、ここだけちょっと子どもっぽいかな。

さららん:冒頭では、ガーティの一人称に近い三人称の視点でウシガエルを登場させ、最後ではウシガエルの視点でガーティの姿を描写するところが、合わせ鏡のようで、凝っていますね。まもなく町から引っ越ししてしまうお母さんの関心をひきたいがために、世界一の5年生になりたいと思うガーティの健気さ。最初は、ガーティの言動が大げさで、ちょっとやりすぎのように感じたけれど、内的な動機がわかってくると、お話が俄然おもしろくなってくる。ガーディの父さんや、「一発かましてやりな、ベイビー」を口癖にしているレイおばちゃん、家で面倒を見ているオードリーの存在が脇をかため、ガーディの持つ弱さや複雑さも十分に伝わってきました。作者独特のユーモアのセンスがあちこちで光っています。敵のメアリー・スーの髪を解かして和解する描写でも、「一回くらいはわざと髪をひっぱってやるかもしれない」というクールさがいいですね。ガーティの息遣いを感じさせる、勢いのあるリズムにのって読めれば、高学年の女の子や男の子が、おもしろく読めるお話。ただ、そのリズムにのるのに少し時間がかかるかもしれません。

ルパン:おもしろかったです。一番好きなキャラクターはレイおばさんです。p178~179で「あんたはいっつも、持ってないものを手に入れようとして、やっきになってる。でも、持ってるものにはろくに感謝しない」という言葉が印象的でした。また、p241「あたしは、あの人にとことん感謝しなきゃいけない。だって、あんたをあたしのところへ置いていってくれたんだから。あれは人生で一番幸福な日だった」とか、脇役のはずなのに、一番シビレるセリフを言うところが好きです。

オオバコ:今回の3冊のなかでは、いちばんおもしろい本でした。「てつじ」と同じに最初のうちは饒舌な文体になじめなかったのですが、ガーティのミッションがどういうものか分かってからは一気に読めました。ただ、そこにたどりつくまでに何ページも読まなければいけないので、小学生の読者には難しいのでは? 石油ステーションのところは、問題を安易な形で解決に導かずに終わっていますが、このほうがリアルなのでは? 最後の場面も、ガーティは必死にやりとげようとしていたミッションがどうでもよくなって、自分のなかで母親との問題を乗りこえている。状況は変わらなくても、自分の心のありようが変わることで乗りこえていくという、ジャクリーン・ウィルソンの作品にも通じる姿勢が素晴らしいと思いました。ちょっとテーマを盛りこみすぎ=張り切りすぎ・・・という感もなきにしもあらずだけれど、作者の第1作と聞いて、なるほどねと思いました。ガーティの友だちも、おばさんも、きっちり描けていますね。

アンヌ:私は、リンドグレーンの作品の中では『長くつ下のピッピ』が少々苦手で、似たような過剰さを感じました。次から次へと事件が起き、ジェットコースターに乗っているかのようなどきどきする展開がつらかった。お母さんとの関係や状況がわかってきて、ミッションの重要性は理解できましたが、自分のミッションに夢中で、友人にとって大切なものより優先するところや、オードリーを捨ててパーティに忍びこむところとか、やはり読むのがつらい場面が多い物語でした。でも最後にカエルが怒っていないらしいとわかるエピローグは好きで、救われた感じで本を閉じました。

コアラ:おもしろかったです。5年生らしさというか、5年生ってこういうことを思ったりしたりする年代だなと思いながら読みました。子どもらしさがよく表されていると思います。おもしろく描かれているけれど、設定は辛い。同じ町に母親が住んでいるのに会えないし、引っ越していってしまうという設定で、胸が苦しくなるように感じました。でも、たぶん子どもが読んだらあまり辛さは感じなくて、めげずに生きていくところに共感するのではないでしょうか。

アカシア:日本は子どもが同調圧力を過剰に感じてしまう国なので、そういうものに影響を受けない子どもの話として、好感をもちました。でも、5年生がこの長さの物語を読むかというと、難しいですね。その難しさの一つは、シリアスな作品として読ませたいのか、それともユーモアを楽しむものとして読ませたいのか、訳者のスタンスが決まっていないからかな、と思いました。後ろの宣伝のページに『マッティのうそとほんとの物語』とか、『落っこちた!』が載ってますけど、それと同じような書きぶりの作品なんじゃないかと思うんですね。そっちもなんですけど、これも自己中心的なガーティのドタバタをおもしろく読ませるには、もっとユーモア寄りの翻訳文体にしたら、日本の5年生にももっと読みやすくなったかもしれないと思いました。ほかの方もおっしゃっていたように、途中からこの子のミッションは、お母さんに自分を認めさせることなんだとわかりますが、そこまでは何を手がかりに読んでいったらいいのかがちょっとわかりにくい。一つの物語の中に、お母さんに自分はすごい子なんだということを見せつけたいという情熱と、学校でのいじめと、環境問題と、母親が果たして劇を見に来るのかというサスペンスなど、いっぱい要素が入っています。環境問題は、すぐに解決し得ないというのはその通りだとしても、「うつり気」という言葉で終わらせているのはどうなんでしょう? チョコレートを全部食べてしまうところは、5年生がここまでやるのかな、と思ったし、「さえない負け犬」だと思われている子たちのためにやったとガーティは言っていますが、それなら他の子にも分けたほうがよかったのでは? 最初の方がわかりにくかったのは、ガーティが「歯みがき粉」をつけて歯を磨いているところで、私は粉の歯磨きをつけているのかと思って、特殊なこだわりがあるんだなあと思ってしまったんです。

みんな:今は、チューブでも歯磨き粉って言うとか、どうしてそういうことになっているのかとかの議論になる。

アカシア:それからp117行目に「ただのウシガエルじゃない」も、最初読んだ時、おばさんは騒いでるけど「ただのウシガエルじゃないか」と言ってるのかな、と思ったら、意味が通じなくなりました。こういうところは「ただのウシガエルじゃないよ」などとしたほうが誤解されなくてすみますね。そのあと、ガーティが「いい」も、どういうニュアンスかつかみにくかった。5年生らしくない会話もところどころにありました。

カピバラ:おもしろく読みましたが、同じ5年生が読むとしたら、『ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!』(ゆき作 朝日少年新聞社)のほうがずっと読みやすいのかなと思います。やはりカタカナの名前は、子どもにとっては、男女の区別もつかないし、どれがだれだか覚えにくいですよね。手がかりは表紙の絵だけで……。せっかくはたこうしろうさんの魅力的な表紙絵があるのだから、挿絵も入れてほしかったし、冒頭に人物紹介図があるとよかったですね。授業中に手をあげて、先生に一番にさしてほしいとか、ちょっとしたことで気分がころころと変わるところとか、5年生らしいところがうまく描けていると思いました。鼻持ちならないメアリー・スーと対決する図式もわかりやすい。ガーティは想像力豊かな子どもで、一生懸命なんだけどやることなすこと裏目に出る。ちょっと『がんばれヘンリーくん』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学習研究社)シリーズの女の子、ラモーナが大きくなったらこんな感じかな、なんて考えました。ヘンリーくんシリーズは今読んでもおもしろいんですが、やっぱり古めかしさは否めない。だから、ああいう本の現代版があるといいですよね。ガーティと友だちとのやりとりは子どもらしくて笑えるし、おばさんとのやりとりもおもしろい。一文一文が短いので、テンポよく読めるし、文章に勢いがあって良いと思いました。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。3冊のうちこの本を最後にしていて、昨日から今日にかけて読んだのですが、ページを繰る手が止まらなかったので、焦ることもなく読了できました。いじめがスタートする場面では、ストーリーが一気に動き出す緊張感がありました。あと、p190で、ガーティがオードリーを邪魔者扱いしようとして、やっぱり事情をきちんと説明する場面がとてもよかったです。ラストが、あれ、ここで終わるんだ!?と、ちょっとびっくりしましたけれど。ウシガエルを挟んで、もう1章あるのかなと思っていたので。あと少し、続きを読みたかったです。訳者あとがきで、これは著者の大学院の卒業制作で、出版社5社が競合して版権を争った、と書いてあったことに驚きました。

 

エーデルワイス(メール参加):冒頭の「ウシガエルはちょうど半分死んでいた」に惹きつけられました。今を生きているガーティの心情がリアルです。実の母親とのシーンは少ないのですが、いろいろと考えさせられます。劇の主役を勝ち取ったにもかかわらず、降ろされ、ふたたび主役になれそうなときに宿敵メアリー・スーの真の姿を知って彼女を舞台に立たせるなんて・・・憎いぜ、ガーティ! と思ってしまいました。とてもおもしろかったし、はたこうしろうさんの表紙絵もいいですね。ガーティはお父さんとレイおばさんから愛情をたっぷり受けていますが、実の親に愛情をかけてもらえない子どもたちが、それに代わるたくさんの人の愛情に恵まれて健やかに育ちますようにと祈らずにはいられません。

 

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ゆき『ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!』

ゆくぞ、やるぞ、てつじだぞ!

さららん:語りに特徴がある文体で、主人公のてつじはおもしろい子。そのことを自分でも自覚している。「……だな」「……もんだよ」という語尾や、自分で自分につっこんだり、ぼけたりしながら、読者にむかって話をつむいでいくところに落語の文体を感じました。事実、「ありがとよ」の章には落語家のおじいちゃんが出てくるし、「なぞかけごっこ」の章でも笑点でおなじみのなぞかけを、クラスのみんなが楽しんでいる。好き好きはあると思いますが、この独特の文体で物語を進行していくところが、今の児童文学ではめずらしい。ただ、てつじの行動や言動には少し古くさいところ・・・たとえば「まったく男というやつは、どうしようもないもんさ」(p72)・・・もあり、また五年生なのに「うらない」(p205)という言葉を知らないなど、リアリティに疑問を感じる部分も残ります。とはいえこの作品には、てつじと友だちの妹のひとみちゃんの関係をはじめ、こうだったらいいな、というような、無欲で風通しのいい人間関係がありますね。この本に出てくる大人の多くが、てつじに代表される子どもの「おもしろさ」や「突拍子のないところ」を受け入れていて、そこも落語の世界に似ています。つっこみどころはいろいろあるが、現実というよりひとつのフィクションとして、子どもと子ども、子どもと大人のゆったりした関係を、読者の子どもたちは楽しむのではないかと思います。

レジーナ:おもしろく読みました。話の展開や装丁は、ひと昔前の雰囲気ですね。今の子は、ひとりだけ目立つのがこわいと思っているようですが、てつじは、あたたかな人たちに囲まれて、生き生きと楽しそうにしています。今の時代を写しとっているというよりは、本当にこうだったらいいのにな、と思いながら読みました。

ネズミ:同じ5年生でも、今回とりあげたほかの作品とはずいぶん違うなと思いました。先月読んだ『金魚たちの放課後』(河合二湖著 小学館)とも、全然違います。話し言葉で、楽しく読めるようにしたのだと思いますが、このユーモアを小学生がおもしろいと思うのか、私はよくわかりませんでした。たとえばp8に、強く思い続けると、どんなことでもそのとおりになると本に書いてあるからと、髪の毛が短くなるように念じるというのがありますが、こんなことをする5年生はいないかなと。みゆき先生とぬまちゃんのキャラクターも、実際の学校にいそうにないし。現実離れしているけれど、子どもはすっと受け入れられるのでしょうか。

西山:5年生もいろいろ。その違いを感じてみたいと思って、登場人物の年齢でそろえるテーマを提案しました。特に、この本のテイストは、この読書会とは結構違っている気がするので、みなさんがどうお読みになるか、ものすごく興味があります。去年の日本の新人作品の中で、この本のノリはなんだか異次元で、安心できる人間関係と全体を覆っている緩くあったかい感じが結構好みなんです。たとえば、「どっかーん」をやってみせろと6年生から言われても、「するもんか」(p34)と拒否する。軽いノリのいい奴というのではなく、てつじにはてつじの道義というか、芯が通っている。そういう子ども像に好感を持ちました。あと、「こぐまのポン吉」がキュート。あの、やんちゃなひとみちゃんは魅力的な女の子です。かなり多動な子ですけれど、てつじがしっかり受け入れている。古風ではあるけれど、現実になさそうだからこそ、こういう子どもたちが書かれているのは愉快です。

マリンゴ:「ゆき」という著者名から、20代の作家さんかと思ったら、違っていて驚きました。タイトルと表紙の印象から、自分で積極的に手に取るタイプの本ではなかったので、今回の選書に入れていただいてよかったです。楽しんで読みました。文章力があって、勢いがあって、テンポよく読み進められました。ストーリーの盛り上がりがさほどなくて、小さな出来事の積み重ねなのですが、そういう本って意外と最近見ない気がして、逆に新鮮でした。てつじとポン吉の関係性など、温かみがあってよかったです。

カピバラ:このような5、6年生対象の物語は、YAとちがって、大人として読むとあまりおもしろいとは思わないかもしれませんが、その年齢の子どもたちがどう感じるか、どう読むかを考えることが大切ですね。これは新聞の連載なので、各章が短く、ちょっとした小話的にまとまっているので、おもしろく読めると思います。でも、一人称の語りですべてを説明しているので、饒舌になりすぎて、うるさく感じてしまいます。てつじは、正直に自分の気持ちを出していく子なので、好感はもてるのですが。タイトルも表紙の絵も、子どもはおもしろそう、と興味をひかれると思います。ところが表紙をめくると、冒頭に「たとえばこの ちいさなものがたり そのどこかから あなたのもとへ ひとつのいのりが しずかに しずかに とどきますように」と書いてあり、「は? こういうタイプのお話だったの?」と、妙な違和感がありました。内容とは全く合わないし、この部分は不要だと思います。1か所、よくわからないところがありました。林間学校のお寺で縦笛を鼻で吹くと、別の笛の音が聞こえ、それを吹いたのは、林間学校に来ていない子だったとわかる。ここだけいきなりファンタジーって、変じゃないですか?

何人か:そこは私も変だなと、思った。

アカシア:翻訳は、どうしても情報を伝えるための文章になりがちなので、もう少し文体を工夫できるといいのにな、といつも思っています。そういう意味では、この文体は軽快でおもしろかったんです。リアリティからは離れるけど、新聞連載だから、みんながおもしろく読んで、次も読みたいと思って待つんだろうな、と。最初の「たとえば〜」はとばして読んでいたけど、もう一度見てたら、これが目に入って、私も「なに、これ?」と思いました。著者が書いているのか、出版社が売ろうと思って書いているのか? この作家はこんなことを思って書いてるわけ? と思ったら気持ち悪くなりました。ただ、これがなければ、エピソード的な短いお話がまとめられているので、あまり本が好きじゃない子も楽しく読めるんじゃないかと思います。それに、さっき西山さんがおっしゃったように、ただおもしろがらせるだけじゃなくて、てつじが魅力的なキャラに描かれているのがいい。金魚を川に逃がすところは、金魚にも環境にも悪いと思われているので、ちょっとまずいんじゃないかな。マンガ的な表紙や挿絵は、あまりじょうずだと思えませんでした。私も子どもだったら、この作品をおもしろく読んだと思いました。

コアラ:おもしろく読みました。p135に「てつじくんはいっぱい物語を持ってるのね」というセリフがあって印象に残りました。一つの章が短いので、細切れの時間でも読めて、読みやすくていいと思います。てつじもいい子だけど、ひとみのキャラクターがとてもいいですね。主人公は小学5年生ですが、本のつくり、特に文字の大きさは、中学年向きといってもいいくらいで、本を読み慣れていない子にも読みやすいと思いました。

アンヌ:古風なユ―モア小説を読んでいる気がしました。誰も嫌な人が出てこなくて、強面の先生もすぐ別の顔が現れるし、困ったこともすぐ解決する。連載だからでしょうが。ウエディングドレスをなぜ着せられるのかとか、金魚を川に流したら、すぐ釣られるのは都合がよすぎるとか、突っ込みどころが山ほどあるけれど楽しい。ただ、何度も読み返したいかというと、そうでもない。昔読んだのは何だったっけと思って調べたら、佐々木邦の『いたずら小僧日記』(「少年少女世界の名作文学」 小学館)でした。同じように主人公は、なぜ人が驚いたり困ったりするのかわからないという設定ですが、この物語のてつじは、人の心がわかる子です。ゆきさんと仲良くなり、不思議な縁をつなぐところが新鮮でした。ぬまちゃんがコマの職人のところに修行に行くというのも安易な感じで、ここも、少々突っ込みをいれたいところです。

オオバコ:昔からよくあるワンパクもので、古くさいなと思いました。佐々木邦が訳したオールドリッチの『わんぱく少年』(講談社)とか。子どもは、くすぐるとついつい笑ってしまうからおもしろい本だなと思うかもしれないけれど、もっと上手にくすぐってほしいなと思いました。ひとみとの関係はうまく書けていたけれど、笑わせよう、笑わせようとしているところが鼻につきました。自分ってこんなにおもしろいんだぞっていっているみたいな……。一人称で書いてあるせいでしょうか。三人称だったら、てつじについて周囲の人たちがどう思っているかも書くことができたのでは? おじいさんの噺家の落語を聞いて、みんなが泣く場面があるけれど、なんで泣いてるの? 何に感激しているのか、分からなかったけれど……。子どもの読者も、なんで泣いてるのかなって思うんじゃないの?

アカシア:ここは笑い泣きですよね。おじいちゃんが行っちゃったと思ったら、おもしろい話をしてくれたから。

カピバラ:ぽろぽろと泣いている、というのは、悲しんでいる表現だから、読者はどうしてかな、って思うでしょうね。

オオバコ:こういう外向的な語り手が前へ、前へと出てくると、ほかの人物に深みが出なくなるんじゃないかな。こういうエンタメの作品に深みなんていらないよっていわれれば、それまでだけど。

須藤:やんちゃな男の子の語りで圧倒的に読みやすいですね。ただ日常の出来事をスケッチしていくような感じで、通して読んだ時に今ひとつ全体的に起伏がないというか、物足りなさを感じます。同じように少年の日常を切り取った感じの本で、台湾に『少年大頭春的生活日記』っていう作品があるんですが、これは同じように少年の日記というか、日々の出来事の記録が描かれているようにみえて、じつはその時々の世相とか、少年の目から見た台湾がさまざまな角度で挿入されているんですよね。だから、もちろん日常のスケッチふうな作品があってもいいのですが、その場合でも描かれている中身にバリエーションがちょっとほしいなと感じてしまいました。
 あと、何人かの方が指摘されていますが、モチーフがレトロというか、ちょっと昭和っぽい感じがします。パープーって音がする自転車の警笛とか、林間学校だとか縁日だとか。この子どもたちは、たとえばスマホなんて持っていなさそうです。総理大臣になりたいという設定も、いかにも昔風ですね。もちろん物語の中でも珍しがられてるんですが、いま総理大臣といえばあの男なので、あれに憧れる小学生などいるのか疑問に思ってしまいました(笑)。いや冗談でもなくて、物語の名かでも総理大臣が登場して、主人公の学校にやってくるでしょ。どうしたって安倍のことを連想してしまうので、いろいろ考えてしまうんですが、とくに意味がなくて・・・・・・もうちょっと時代というものを考えてほしいです。主人公の男の子と小さい女の子ひとみとの関係性や、やりとりなどがおかしくて、そういうところには魅力がある作品だと思いました。

ルパン:私は、これ、すごくおもしろかったです。電車の中で読んで吹き出しそうになるくらい。『ピアノをきかせて』の子どもたちより、こっちのほうがずっと実際の5年生に近いと思います。鼻でリコーダーを吹いて、浮いちゃうところとか、想像したらおかしくて。その一方で、「おとうさんとおかあさんがなかよくなりますように」という七夕の短冊を読んでしんみりしてしまうところとかもいいし。あまり深く考えずに、一気に読んでしまいました。

エーデルワイス(メール参加):一見やんちゃで、独創的で奇抜なようなてつじですが、気持ちは繊細で誰よりも人の気持ちを思い、気を遣っているように思います。こんな子はたいていクラスから浮き、いじめられるのですが、クラスメートも教師も理解があり、生き生き暮らす・・・。子どもの目線で書いているようですが、こうあらねば、こうなってほしいというある種の大人の理想願望を感じてしまいました。

(2018年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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サラ・ペニーパッカー『キツネのパックス』

キツネのパックス〜愛をさがして

カピバラ:擬人化されていない動物物語って私はとっても好きなんです。これは冒頭がパックスの立場からの話なので、最初からぐっとひきこまれる感じがありました。ピーターの側の描写と交互に出てくるので、重層的に考えられておもしろかったです。情景描写や行動がわかりやすい描写で細かく書かれているので、頭の中で思い描きながら読んでいきやすい書き方だなと思いました。離れ離れになってしまうところから始まるんだけど、きっと最後には再会するんだなとうすうす分かりながら読んでいけて、ほんとに最後に再会の場面があって満足感がありました。クラッセンの挿絵はそんなにリアルな絵ではないところがよくて、ほのぼのとした感じを醸し出していて好感がもてました。表紙の絵も魅力的で、読みたい気持ちになりました。映画化されるんですね。サブタイトルの「愛をさがして」って、どうなの? ないほうがよかったですよね。

シア:ニューヨークタイムズベストセラーに48週連続ランクインし、紹介文には感動的と書いてあります。でも、読んでみるとひたすらピーターが犠牲になったなと思って、途中で読むのが嫌になってしまいました。骨折までして飼いギツネに手をかまれても、ピーターだけが報われません。後日談などがないと救われないと思いました。戦争は全てを壊してしまいます。野生動物だけでなく人間すらも。戦争が2人の絆や運命を引き裂いた、と言いたいのでしょうか。基本的に引き裂いたのは父親なんですけど。サカゲやスエッコやハイイロは確かにわかりやすい犠牲者ですし、彼らは人間を許す必要ないんですが、パックスはピーターと過ごした時間をもっと信じてほしかったなと思います。信じないと永遠に反目しあうだけですよね。人間がいつも悪いんですけど、でも個人としてのピーターは違うので、そこをもう一歩踏み込んで、戦争に飲み込まれない絆を描いてほしかったなと思います。切っても切れない絆というには切れたなと。本能に負けたなと。ピーター目線だとp334でサカゲは明るい毛と書いてありますけど、パックス目線だとp42で輝く毛になっているし。この本の根本的な話として、パックスを野生に返さなきゃいけないということが漠然としている。p18の「そろそろ野生に返す頃合」というくらいしか作中では触れていませんが、野生に返すということが自然であるというなら、それを見越した育て方というのもあるはずだし、施設もあるし、その辺りのケアをしていないのに、簡単に野生には返せないと思います。そこを描かないと、野生動物に手を出して、殺してしまう人間が読者にも増えてしまう気がするんです。犬猫と同じではないのです。そこがパックスとデュークの差であり、この本の独特なポイントだと思うんです。そこを掘り下げてほしかったなと。それだとこの本のテーマがぼやけてしまいますが。パックスにとって何が一番の幸せなのかがわかりません。野生動物は野生で暮らすことが一番というメッセージ性の強い作品でもないし、中途半端な「ラスカル反戦物語」みたいです。お父さんと飼い犬の話が盛大な前振りかと思ったら、別にお父さんはその件については改心もしないし、おじいちゃんは空気だし。ヴォラもいろいろ助けてくれたし、今後のやり取りも見えるけど、それにしても大人がみんな頼りにならなくて、戦争のせいだというのは本当に救いがありません。モーパーゴと違い救いがなく、暗い気持ちになる本でした。「ににふに」って日常使わないし大人でも聞かないなと思いました。他の訳はなかったんでしょうか。

ハリネズミ:訳者はわざとこの言葉を使っていると思います。p229に、ピーターも「どういう意味かわからない」と言っていて、それに答えての説明もありますよ。

アンヌ:最初のほうをぱらぱらめくりながら、野生動物との別れの物語なんだろうなあ、読むのは辛いなあとか、あ、最初に頑固爺さんが出て来る、いやだなとか思っていたのですが、読み始めると意外な展開で夢中になりました。主人公はおじいさんの家を2日目には家出してしまうし、怪我して出会うのが退役軍人の女性で、仙人っぽい人なのかと思ったらそうでもない。このPTSDを抱えたヴォラとピーターが、意外なくらい早くお互いを理解しあう。ピーターが母の死後カウンセリングを受けた経験が生かされている感じでしたが、優しい言葉で大人の女性と語りあえるのは意外でした。また、ピーターの語りとパックスの語りとに時間差があったり、パックスが空腹で動けなくなるまで3日間かかったりしているところ等に、人間の時間と狐の時間の違いというリアリティを感じました。けれど、ふと、この戦争って、いつのことで、どこの国のことかが気になりました。テレビがあるし、ピースサインをしたりするから第二次世界大戦ではなく近未来なのかとか、場所はアメリカのようだけれど、古狐にも戦争の記憶があるからアメリカ本土ではないなとか。どこと戦っているのかもわかりません。現実世界の設定の方にSFのような奇妙な曖昧さがありました。

ハリネズミ:三人称語りですけど、キツネの視点とピーターの視点が交互に登場するのがおもしろいですね。各章の数字が、男の子かキツネの影絵になっているのもよかったです。さっきカピバラさんは「擬人化されていない」とおっしゃったけど、生まれてすぐに人間に養われることになったキツネが、どれだけ本能でキツネの社会で生きていけるのか、と考えると、やっぱりフィクションが入って擬人化もされているんだろうと思います。キツネが「南」「戦争病」と言ったりする部分も、当然擬人化されているフィクションでしょう。ただし、後書きで、自然の生態のままに書いている部分と、物語の組み立てを優先させたがために生態にそぐわないところもあると著者が言っているので、それはそれでいいのかと思いました。p109でヴォラが「人間が飼いならしたキツネを野生に返したら生きてはいけないってこと、わかるだろう」と言い、それに対してピーターが「わかります。ぼくのせいです」と言っているので、作家がそこをちゃんとおさえて書いていることがわかり、このケースが例外なのだということが逆に読者にも理解できるように思います。パックスがどうやって自然の中で生きのびたかについては、スエッコに卵を3個ももらったり、人間の食料をくすねたりして生きのびるという設定も、それなりに納得できるように書かれているのではないでしょうか。
 さっき、ピーターに救いがないという意見も出ましたが、それまで孤独だったピーターはヴォラと出会ったことで確実に成長していき、世界も広がっているんだと私は思います。p281でヴォラがピーターに、「ポーチのドア、いつでもあけておくからね」と言うんですが、これは「あなたの人生はあなたの人生だけど、いつでも訪ねてきていいんだよ」と言っているんだと思います。p339ではピーターがパックスに「おまえは行きなさい。うちのポーチの戸はいつでもあけておくから」と、同じセリフを言っています。作者はここで、絆が全く切れてしまったわけではないと言っているんじゃないでしょうか。
 よくわからなかったのは、ピーターのお父さんは「ケーブルの敷設をしている」とありますが、実際には何のために何をしていたのかが、私にはよくわかりませんでした。触れると何かが爆発して、ハイイロが死んだりスエッコも大けがをしたりするのですが、ケーブルだから地雷ではないですよね? 翻訳は細かいところがちょっと気になりました。p200「足をひきずりやってくる」は「足をひきずりながら〜」だと思うし、p267の「お父さんは知ってたんだ」も、何を知っていたのでしょう? p336「黒い鼻先がつき出す」は「〜つき出る」じゃないかな?

マリンゴ:過酷な物語ですよねえ。ピーターもパックスもつらすぎる状況が続いて、読んでいるうち、しんどくなりました。でも、目線が頻繁に切り替わるおかげで読み進めることができました。ピーターが、何がなんでもパックスを探しにいこうとあまりに一途でブレないので、物語の構成上そうしたのかな、とちょっと違和感がありました。でも、最後まで読むとその違和感も解消できました。パックスに執着することが、彼の生きる目的でもあったわけですね。最後、パックスと離れることを決断できました。つまりこれはピーターの成長を描いているわけですよね。この物語の終わりとして、満足感がありました。なお、先ほどカピバラさんがおっしゃったように、わたしもサブタイトルはないほうがいいと思います。

ハル:とてもおもしろかったです。コヨーテの声におびえながら眠る、とか、夜の庭でホタルに囲まれて桃をかじるとか、自分が体験できない世界を追体験させてくれる、本の力を痛感しました。戦争で殺した兵士のポケットから愛読書が出てきたというシーンもそう。戦争ってそういうことなんだと身に沁みました。ピーターとの出会いで、ヴォラも救われていくところもよかったです。p246「昔どんなに悪いことがあって、挫折したとしても、不死鳥みたいにやり直すことができるって」というピーターのセリフに胸を打たれました。ですが、キツネの生態ってこうなのかな?と疑問に思うところもありながら読んでいたら、「あとがき」に“物語を優先して実際のキツネの生態とは変えている部分もある”といった説明があり、実写映画を見るような気持ちで読んでいた私としては、それってありなのかなぁと思いました。

西山:キツネの言葉を人間の言葉に翻訳しているという趣向が「謝辞」の追記でで書いてありますが、成功とは言えなかったのではないでしょうか。けっこうひっかかってしまって読みにくかったです。今出ていた、「南」や「戦争病」もそうですし、p2で「涙」の概念がないらしいということは分かるけれど、「目から塩からい水」と言いつつ、次の行では「涙」という単語を使っている(使うしかないと思いますが)とか、なかなか読みにくかった。p44の「サカゲ」の呼び名が出るところも、え? どこで女狐は「サカゲ」と言ったとか、記述あったかしらと戻ってしまった。あくまでも人間の都合で、呼び名が必要だから、呼び名を付けているだけでしょうかね。とにかく、キツネの章は、とまどいながら読む部分が多かったです。何より気になったのは、どの大陸のいつの時代のどの戦争なのかわからなくて、それが一番気になって仕方なかったです。地雷が埋められていることを知らずに、ピーターが山道を進むので、クライマックスの危機が、コヨーテとの戦いだったことに拍子抜けしました。

ハリネズミ:コヨーテとの戦いをなしにすると、ピーターとパックスが暮らす、という結末にしないとおかしいのでは?

西山:そっか。パックスは人間界に決別して、自然界に戻るから? なるほど。でも、いろいろ不満を述べましたが、読んでよかったと思ってます。戦場で足を失い、それよりなにより人を殺したという罪の意識がPTSDとなっているヴォラの存在が本当に印象深く、魅力的でした。兵士がどのように心を壊されるか、自分が好きだった食べ物すら思い出せないという状態から、少しずつ自分を取り戻していったというヴォラの話が身にせまりました。シンドバッドの人形も本当に素敵。ヴォラの胸中を思うと切なく、そして、どんなにすばらしい人形か見たい、と思いました。映画化されるなら、これはすごく興味深いです。

ネズミ:おもしろく読みました。きびきびした文章で、章はじめの影絵のカットを見ながら先へ先へと読ませられました。戦争が一番のテーマなのだなと思います。キツネの名前がパックスだし。戦争病にかかって、正義の名のもとに殺し合いをする人間と、自然の営みとしてのみ他者を殺す動物というのが対比されているのかなと。だから、最後は仮にコヨーテに殺されてしまってもいいのかも。私も最初、戦争の実態がはっきりしないなと思っていたのですが、あとから、わざとそんなふうにあいまいに書くにとどめたのかもと思いました。寓話的な戦争として。保護した野生のキツネをピーターが12歳まで飼うというのは長いなと思いましたが、強い意志力や理解力があって、世間ずれしすぎておらず、いざとなれば生きる力があるためには、主人公は12歳じゃなきゃいけなかったかもしれません。ヴォラが魅力的だし、いろいろ考えさせられます。エージェントや編集者がサポートして、よくつくりこまれた作品なのかな。

ハリネズミ:お父さんは、妻を亡くしてそれがトラウマになって、息子にも暴力をふるっている。近未来なら、ピーターがいなくなったことも携帯かなんかで聞いているでしょうし、ドローンか何かで行方をつきとめるでしょうから、近未来とも言えないように思います。p326ではじめて父親は息子を抱きしめます。p327の描写も、お父さんのピーターに対する態度が変わったことを書いています。p330に「月日を経て弱まったお父さんの悲しみ」とあるので、お父さんの悲しみをパックスが感じたのはここがはじめてなんですね。「月日を経て」だから、妻のことを言ってるんですよね? お父さんも妻を失った悲しみを初めてここで表現することができて、今後変わっていくことを示唆しています。すごくうまくできている物語だと思いますが、私も最初読んだときはそこまで読み取れませんでした。深いところまで読み取るには、私の場合は2度読まなくてはなりませんでした。

ネズミ:いろんなところに伏線がありますね。

ハリネズミ:日本語版の編集者にはもっとがんばってほしかった。たとえばp8に1行だけ「パックス」とあります。ここは敢えて強調するためにしているのかと思ったけど、ほかにも最後のページに1行だけというのがいくつもある。普通の編集者だったら、前のページに追い込んで見栄えをよくし、ページ数をなるべく少なくします。p34も。ほかに、言葉のおかしいところもそのままになっているので、目配りをもう少ししてもらえれば、さらにいい本になったのに、と思いました。

ネズミ:p52も。あ、p177もですね。

レジーナ:とてもおもしろく読みました。ピーターは、母親を亡くしたあと、パックスを見つけ、心を通わせます。でも、父親に言われて山に放してしまい、それを深く悔やんで、迎えにいこうとするのですが、その心の動きが細やかに描かれています。ヴォラが、ピーターの無謀な計画を止めるのではなく、だまって松葉杖を作る場面は、武骨で温かな人柄がよく表れていますね。ヴォラは、戦争からもどってきたあとは、自分がどういう人間で、何をしたいかもわからなくなるほど、心に傷を負っています。ピーターがヴォラに不死鳥の話をしたり、人形劇をしたりして、それでもやりなおせると伝える場面は、胸に迫りました。ピーターはヴォラに助けられ、ヴォラもまた、ピーターに救われたのですね。p131で、ヴォラはピーターに、あんたは野生なのか、それとも飼われているのか、と問うのですが、これはピーターとパックスの関係に重なります。結末は、別れてからも、お互いに愛情をもちつづけ、ゆるやかにつながっていくあり方が示されているようで、希望を感じました。p256ですが、父親は、このキツネがパックスだとわかったのでしょうか。

ハリネズミ:お父さんは、パックスだってわかったんじゃないですか。ほかのキツネだったら、このお父さんだからけとばしてると思う。ここは「けるまね」だもの。

レジーナ:パックスのことを思いだし、一瞬、心がゆるんで、蹴らなかったのかと思ったのですが。

ハリネズミ:一緒に暮らしてたら、パックスの癖とかわかってるんじゃないかな。

レジーナ:ピーターならそうかもしれませんが、父親はパックスをかわいがっていたわけではないので、そうとも言えないのでは。

ハリネズミ:お父さんはよくこのしぐさを使ったからパックスにはわかったって、書いてありますよ。お父さんは通じると思ってやっているんだと思うけど。

ハル:お父さんは「ぎこちなく笑った」とも書いてありますね。パックスだとわかったんだと思って読みました。

レジーナ:そうすると、この再会は、ちょっとできすぎではないでしょうか。飼っていたキツネに、戦場で偶然会うなんて。

ハリネズミ:普通のキツネだったら、あまり意味のない描写になってしまいますよ。

ルパン(メール参加):おもしろかったです。ピーターとパックスが、突然の別れによってそれぞれ成長し、そのうえできちんとお別れするために再会するプロセスが丁寧に描かれているとおもいました。さいご、ピーターが兵隊人形を投げるシーンは泣けました。ただ、ヴォラの操り人形がちょっと唐突な気がしました。ヴォラも成長しますが、そこにピーターとパックスの関わりが絡んでいないので、なんだかそこだけ違和感がありました。ピーターがヴォラのところに戻るのかどうかも気になりました。

エーデルワイス(メール参加):この物語も戦争ですね。主人公のピーターとキツネのパックスの章が交互にあらわれ、最後再会して別れていくシーンは感動的です。ヴォラの再生には希望が持てました。ここにも図書館が出て来て、その司書を通じて、人形劇を一式寄付します。心に残る言葉がいっぱいありました。

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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マイケル・モーパーゴ『図書館にいたユニコーン』

図書館にいたユニコーン

ネズミ:ツボを押さえた「鉄板」の物語だなと思いました。本や図書館をめぐる物語というのも魅力的です。モーパーゴはうまいなと思ったポイントが2つあって、1つは子どもの気持ちをとてもうまくすくいあげているところ。たとえばp22の「ぼくは、のろのろと、せいいっぱい、ふてくされて歩いた」から数行の表現など、子どもの心情が生き生きと伝わってきます。2つめは、主な読者層にうまく伝わる表現で書いていること。シンプルな言葉でわかりやすいけれど、ある程度格調も高い。原文のそういう点を、翻訳もうまく再現しているのでしょう。中学年向けの物語として、とても感じがいいと思いました。

西山:絵がきれいですね。モーパーゴというのは、こういう作家なのかなぁ。安心して手渡せる戦争もの。深刻にしない。結構ひやひやさせても、最悪の事態は回避される。中学年くらいの心のキャパはこれくらいで、受け入れるにはほどよいのかもなあとは思いつつ、どうしても私は甘く感じてしまいます。冒頭は『日ざかり村に戦争がくる』(ファン・ファリアス著 宇野和美訳 福音館書店)を思いだしたのですが、展開は対照的でした。中学年くらいの心理に決定的な傷を負わせない、このくらいの戦争ものも必要なのかなぁと、読者を考えると、これでいいのかとも思うけれど・・・・・・という感じです。くり返しちゃいますけど。

ハル:この作家で、このテーマなのに、感動しませんでした・・・とは言いにくいような感じもしますが、正直なところ、いまひとつぴんときませんでした。このお話から、そこまで「本の力」というものは感じなかったし、お父さんが先頭に立って図書館から本を運び出すシーンも、どうしてここでお父さんなんだろう?と不思議でした。でも、みなさんのお話を聞いていて、誰に向けて書いている本なのか、対象となる読者のことも考えながら読まなくちゃいけないなと反省しました。もう1回、読み直してみたいです。

マリンゴ:今回「生きものと私」というテーマで3冊選書したのですが、この本に出てくる木彫りのユニコーンは生き物じゃないということで、いったん外しました。が、まあいいんじゃないかということで復活させてもらいました(笑)。 モーパーゴの作品、比較的長めのものを多く読んできましたが、こんなに少ない文字数でも、中学年向けに戦争の物語をしっかり伝えているのが、すごいな、と。たくさんの描写を重ねなくても、小さい子どもに届く書き方をしていますね。同じモーパーゴの『最後のオオカミ』(はらるい訳 文研出版)は、今年の夏の課題図書になりましたね。そちらのほうがよりドラマチックだけど、オオカミの生態に関して本当にそうなのかな?と、ひっかかるところがありました。それに対して、この本は、自然な流れで読めるので、私としてはこちらのほうが好きです。

ハリネズミ:さっきもちょっと出てきたんですが、子どもの心理描写がうまいですね。この子はちゃんと愛されてはいるけど、嘘はすべて見抜きます。また学校に行けとか、牛乳を飲めとかうるさく言うお母さんと、この子の関係をうかがわせる箇所が、さっきの場所以外に、p53にも「そうかんたんにお母さんを喜ばすつもりはなかった」とあります。1回ならず出てくるこの言葉で、母と子の関係をうまく浮き上がらせています。気になったのは、p90の文章「さいごのさいごに、先生とお父さんがユニコーンをかかえて出てきたのだ」とあるけれど、絵を見ると、まだ本を抱えた人たちが出てきている。文と絵にズレがあるんですけど、子どもが見たら疑問に思うんじゃないかな。それからお話にはまったく関係ないんですが、挿絵を見てもユニコーンの角がとがっています。で、子どもが来る図書館にこれを置いたら危険なんじゃないか、と心配になりました。
 イラク戦争の時に図書館の蔵書を守った司書さんの話は『バスラの図書館員』(ジャネット・ウィンター作 長田弘訳 晶文社)などで英語圏では有名なので、この物語もそれも下敷きにしているのかもしれません。でも、これは架空の場所だし、名前もいろいろで、舞台が特定できないようにわざと設定しているところとか、作者が顔を出して20年前のことを思い出して書くとか、「私も今はその図書館に行って時々お話をしまう」などという仕掛けにしているのは、モーパーゴならではのうまさですね。まあ、でもうますぎて、つるっとして印象が薄くなるという点もあるかもしれません。あと、モーパーゴにしては、メッセージが生の形で出てきているように感じました。ユニコーン先生が、いかにもみたいなメッセージを生の形で伝えてしまっています。ただ3,4年だと、生のメッセージも好きなので、これでもいいのでしょうか。大人が読むとちょっと物足りないですが。

アンヌ:以前に1度読んでいて、その時、さらりと読めるけれど何か物足りないと感じました。読み直してみても、主人公が夢中になっている山の生活の描写が魅力的だったぶん、図書館で本にひかれていくところが、もうひとつ納得がいきませんでした。お父さんがなぜ、火の中に飛び込んでいってまで本を救おうとしたのかも疑問です。たぶん、初めて声に出して家で本を読んだときに、両親ともすごく感動したというところに関係すると思うのですが……。一角獣の神話のところも、もう少しひねってあればおもしろいのにと思いました。

シア:マイケル・モーパーゴなので安心して読み始めました。読後感の良い作品で、さすがモーパーゴ、良くも悪くもできあがっている感じです。もう児童文学界のディズニーだなと! 絵も叙情的で合っていると思いました。学校図書館では、こういう厚さだといろいろな年齢層に読んでもらえますね。『カイト』なども置いていますが、手軽なので人気があります。モーパーゴはあまり多くをつめこまないから、基本的に厚みのない本になりますが、その分読者に考えさせると言うか訴えかけると思います。彼は表現というか、やり場のない苦しみは残さない感じがします。前向きさを感じます。反戦の話でも、悲惨さを強調するのではなく事実として捉えつつ、人の思いの強さを描いています。逆に悲惨な描写があることで、人々の良い行いが押し付けがましくなく自然な流れとなっていて、子どもにも善と悪のわかりやすい対比になっていると思います。本がちゃんと回収されて図書館が立派に再建されたりしていますからね。p49のユニコーンは現代ではイッカクになっているというくだりはおもしろいと感じました。実際、昔はイッカクの角がユニコーンの角として売られていたそうだし、角と歯という差はありますが、夢があって良いと思います。ユニコーン先生みたいな先生には憧れますね。子どもに本の良さを伝える意義深さを改めて感じます。こうやって本嫌いが治っていくのを見るのはうらやましいですね。小さい子への働きかけは大事ですよね。それがなかった子たちへの対応は本当にもう残念としか言いようがなく……。しかし、先生だけでなく子どもたちもみんなの前で話していくようになるのは海外では普通のことなんでしょうが、日本とは異なります。これが今後の日本の目指す教育のあり方なんだなと思ってしまいました。p14で、お父さんは、トマスをかばっているときは学校なんか行っても役に立たないとか言っていたけれど、トマスが読むようになって泣くほど喜んでくれたのには驚きました。p59の物語や詩を読むと夢を持ちたくなる、というのはすごくわかります。こういうのを知らない人はかわいそうだし、知らない人代表の冒頭のトマス少年は完全に未開人だったので、お母さんとユニコーン先生のおかげで文明人に成長できて、しかも小説家にまでなれて本当に良かったと思います。本嫌いは文化的な生活において致命的だということがわかりました。

カピバラ:モーパーゴということで期待して読みました。元図書館員としては、このタイトルは何て素敵!と思いました。モーパーゴは書きたいことがはっきりあって、それを上手に構成して物語として差し出す作家だと思います。私たちがなぜこんな読書会をしているかというと、それはひとえに、子どもに本の楽しさを伝えたい、と思っているからですよね。だから、全く本を読まない子が本の世界に目覚めるというところは、とにかく嬉しかったです。お母さんに無理やり引っ張られて図書館に入ってみたら、ユニコーンがいる! そしてきれいな女の人がいる! ちょっと司書が美化されていて偶像みたいになっているのはどうなのかと思いましたが、こういうところから本に導かれるというのも、この年齢の子どもならあるのかな。この文章量なので詳しくは書いていないけれど、さすがうまくまとまっていると思いました。本を読まずに野山をかけまわっていた子どもが、図書館の存在意義を知る。それだけでもよかったと思います。戦火の中で命がけで本を守った人々の実話はいろいろ伝わっており、本にもなっているので特に目新しくはないけれど、ドラマチックに盛り上げて希望をもって終わるところは、中学年向きのお話として良いと思います。

ネズミ:ユニコーンや司書のことですが、その前のp25にまず、ほかの子たちが前に行こうと、押し合いへし合いしているのを見て、「見たがっているものは、いったい、なんだろう?」と主人公が興味をひかれるシーンがあるので、私は美化されすぎているとは感じませんでした。

レジーナ:このテーマを、この分量で書くのは難しいと思うのですが、さすがモーパーゴですね。しぶしぶ親についていくときに、わざとゆっくり歩く場面は、私も子どものとき、同じようなことがあったのを思いだしました。子ども時代の記憶を持ちつづけ、作品にできるのはすごいですね。この子は学校が好きではなかったようですが、何か問題を抱えていたのでしょうか。さきほど、西山さんが、読者に決定的な傷を負わせない戦争ものだとおっしゃっていましたが、ユニコーンとか、本とか、そういう美しいものが失われていくのが戦争で、この本はそれを描きたかったのだと思います。時代も場所もはっきりとは明かされず、どこででも起こりうる話として描かれていますね。

西山:この子がかかえている問題ですけど、p65に、「カ行やタ行の音がだめで」と声を出して読むのが苦手だったというのが書いてありますね。

ハリネズミ:ちょっと吃音とかあったのかもしれませんね。

アンヌ:さすがモーパーゴ、仕掛けはあったんですね。読み落としていました。

 

ルパン(メール参加):聖書のアレンジなのでしょうか? ユニコーン先生のお話をそれほどおもしいと思わなかったので、どうしてそんなに任期になるのかわかりませんでした。図書館に引きずっていったのはお母さんなのに、本を命がけで守ったのはお父さんだったのも、びっくりしました。

エーデルワイス(メール参加):モーパーゴは大好きな作家です。この本は戦争がテーマですね。本のユニコーンにすわって絵本を読むのはすてきです。小さな村なのに図書館があって、司書がいて、子どもたちのためのお話会があるなんてすばらしい。図書館の充実がうらやましいです。

 

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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河合二湖『金魚たちの放課後』

金魚たちの放課後

アンヌ:転校生が来ると同級生の男の子たちが金魚畑に連れていくという始まりはとても楽しくて、何が起きるのだろうと期待したのですが、金魚がうまく飼えない悩みで、ちょっとがっかりしました。動植物を死なしてしまう「死の指」の持ち主なんて悩む割には、それほどのこともなく曖昧な現実を受け入れて終わるという感じです。2編目の「さよならシンドローム」の方がまとまっていますが、主人公の語り口が中学生というより30過ぎの女の人のようでした。あまり感情の波がなくて、金魚との別れについても淡々と終わる。2編とも、こんな話かなという予想を裏切られる意外な終わり方ではあったけれど、少し残念でした。

カピバラ:何か月か前に読んで、そのときはおもしろいと思ったんですけど、今思い返したらあまり覚えてなくて……印象に残るところが少なかったように思います。ペットを飼う話は多いですが、金魚というのはおもしろいと思いました。現代っ子らしい生活が描かれていると思います。

レジーナ:美しい装丁の本ですね。金魚畑という言葉は、おもしろいと思いました。ただ、盛り上がる場面が特にないので、全体的にぼんやりしているというか、あまり印象に残る本ではありませんでした。

ネズミ:金魚畑というのがおもしろいと思いました。さいしょの話は、お父さんは描けない漫画家、お母さんは夜家をあけることの多い看護師、お姉さんもかなりぶっとんでいて、家族設定にも新しさがありました。でも、さらっと読めて、今の子どもが読むと、うん、うんって思うのかもしれないけど、全体的になんとなくこぢんまりした感じがしました。なんでそう思うのかなと考えてみると、主人公が自力で動いて発見していくのではないからでしょうか。後の話も、主人公が金魚を連れていこうとするときに、案外人まかせで解決したり、友だちとの関係をとらえなおすきっかけが、母親の会話だったり。子どもたちを応援しようという作家の姿勢は感じましたが。

ハル:言いづらいですが……この本に出会って最初に思ったのは「仲間がいた!」ということです。確かに私も子どもの頃、金魚を飼ってはすぐに死なせていました。でも、恥ずかしいし「死なせてしまった」と考えると怖いし、私はそこに気づかないふりで通してきましたが、主人公はこのことを真剣にとらえている。さらに転校生の遠藤さんは「たくさん経験してみないとわからないんだから、何回でも金魚を飼ってみろ」と言う。優しいようでいて、なかなかドライな発言だと思います。金魚のふわふわしたかわいらしさと、どこかひんやりとした怖さというか、グロテスクさというか、そんなイメージが、思春期の少年少女の気持ちとからまっていくようで、とてもおもしろかったです。同じように「仲間がいた」と思う読者も、実は多いんじゃないかと思います。

マリンゴ:最初に読んだとき、これはすばらしいな、いい本だなと思いました。特に前半が印象的でした。物語に死の匂いがたちこめているのに、どこかさわやか。金魚というテーマだからこそだと思います。次々死んでいっても、金魚だと凄惨な感じがしませんし。多くの子どもが金魚を飼った経験、あると思うんですよね。なので共感しやすい。私も昔、職場で飼っていたグッピーの水を換えたら、一気に大量に死んだことがありました。ちゃんと一晩汲み置きしたんですけど……。そういう記憶をよみがえらせてくれる力が、この作品にはありました。後半、女の子が外国まで金魚を連れていこうという場面には驚きましたけれど。自分だったら、こんなに執着しないでさっさと誰かにあげてしまうかな。あと前半の主人公の男の子が、自分の指は死を呼ぶんじゃないかと、不安にかられているところがいいなと思いました。根拠のない不安感って、あると思うんです。何をやっても死なせない友だちをうらやむ感情。そういう心の描き方がうまくて、とても気に入った作品だったので、みなさんはどう読まれるか、感想をお聞きしたいなと思って。とても参考になっています。

ハリネズミ:金魚を飼うって、小学生くらいでほとんどの子が体験するように思います。だから、そのくらいの子が読むと、おもしろくて共感をもつのかも。でも、私はあまり文章にひきこまれませんでした。転校生の遠藤さんの言葉ですが、p100に「わたし、しょっちゅう転校ばっかりしてるような気がするけど、冷静に考えたらまだ二回しかしてないし、学校だって三か所しか知らない。もっともっとたくさん……せめて百回くらいは転校しないと、法則とか傾向なんて見つけられないのかもなって、最近思ってる」とあるんですが、ませた感じの女の子だとしても、小学生らしくないなと思ってしまいました。第1部と第2部の間に、3年が経過してますけど、子どもがあまり成長していないのも気になりました。金魚畑はおもしろいけど、それ意外にもオリジナリティや新鮮みがあるとさらによくなるように思います。たとえば家族は従来型だし、インド人の同級生がせっかく出てきても、カレーを食べてるというだけ。私はそういうところが物足りなかったのかもしれません。p138の「女の子は、かわいくてきれいなものが好きなはずなのに」もステレオタイプ。この作者は何歳くらいの方ですか?

レジーナ:77年生まれのようです。

ハリネズミ:それにしては、ちょっと古い感じがしてしまいました。自分では書けないのにこう言っては失礼ですが、さらにもう少しがんばっていただけるといいな、と。

シア:私は金魚が好きなのでワクワクしながら手にしました。表紙もとても可愛くて。でも、2話収録で意外と少なく、淡白な1冊でした。この方、『バターサンドの夜』(講談社)の作者ですよね、前作もそんな感じの印象を受けたんですよね。内容が軽くて、まるでメレンゲみたいにふわふわしています。YAなので「迷い」みたいなのがテーマになるのはわかりますが、続きのないシリーズもののような感覚に陥ります。答えがなくてはっきりしないので座りが悪い印象です。主人公の灰原くんも遠藤さんも目立って反抗するわけでもなく淡白。生きていても死んでいても静かな金魚が題材なせいなんでしょうか、淡々としています。「死神の指」という表現の仕方とか、灰原君のお姉さんは深刻な感じで、おもしろくなりそうな感じだったんですが。いじめられる子は自分に原因があると思ってしまうけど、そうではないんですよね。今は偶然でターゲットが決まる世の中。そこはうまく掬えていると思います。ただ、この子たちは私とは反応が違いますね。みんなそうだと思いますが、私もいろいろ飼ってもすぐ死んでいました。オタマジャクシを飼っていましたが、日々どんどん数が減っていきました。なんだろうと思ったら共食いしてたんですね。人間が寝ている間に、彼らは壮絶なバトルロイヤルしていました。最後に勝ち残った1匹は、足や手は出たが巨大になってカエルになりませんでした。なぜ、と調べたらヨウ素が足りなかったことがわかりました。私は原因を追及しながら自分のせいなど思わずに飼っていたので、灰原君の反応とは違いました。この作者って、窮屈な世代の子どもたちを扱って、窮屈な日常を切り取るのはとてもうまいと思います。中高生が読んで私もつらいなと共感するにはいいのではないかと思います。

西山:おもしろく読みましたが……。収録2作の間に3年たっているんですね。「サヨナラ・シンドローム」の冒頭で「期末テスト」「数学」とあって、誤植か、姉が主人公になるんだか、なんだ?と思って立ち止まったのですが、まさか、3年後の話だとは……。小学5年生と中学生の関心事はちがう。なにが切実なのかは大きく変わる時期ですよね。どちらの読者に読んでほしいのでしょう。後半でアメリカに金魚を送れるかどうかで、検疫だのなんだの調べたりするして、村上しいこの『こんとんじいちゃんの裏庭』(小学館)を思いだして、子どもが自分でいろいろ調べていくおもしろさ、情報の具体性がおもしろかったのですが、でも最終的に、思春期の心のほうにウェイトがいってしまうのっで、調べるワクワクを追求していく方は二の次になってしまう。そこが作品の個性になると思うのに。だから部分部分はおもしろかったけれど、あいまいな印象になってしまう。転校ものとしても興味深く読めたけれど、そこも主軸ではないんですよね。これ、という像を結ばないので、おもしろく読んだのに記憶から消えやすい、そういう作品の一つのように思います。

レジーナ:今の母娘は距離が近いので、友人関係の悩みも話すのでしょうね。それをこういう形で物語に入れて、読者がおもしろいと思うかはわかりませんが、リアルなのだと思います。

ルパン(メール参加):おもしろかったです。「水色の指」と「さよなら・シンドローム」、語り手が交替するパターンはよくありますが、これは時間がずれているのでおもしろいと思いました。「水色の指」は、私も生き物を育てたり死なせたりと、いろいろあったので、灰原くんの気持ちがよくわかりました。

エーデルワイス(メール参加):水色の涼しげな地にユーモラスな金魚の絵の表紙ですが、ほのぼのとした内容ではありません。前半は灰原慎、後半は遠藤蓮実と、2人に絞った展開がすっきりしています。金魚を取り上げているところがユニークだと思いました。飼った体験がある子は、確かに金魚の死や埋めたことなどに共感すると思います。金魚を外国に送ることなど知らないことばかりで興味を持ちました。慎は、なんでもそつなくできる子なのに、生き物を上手に育てることができません。家がバラバラゆえの心の不安定が影響しているかもしれないことにもどこかで気づいています。蓮実との交流で生き物に接する何かが変わっていくところがいいですね。慎とは違い家族は安定しているけれど転校をくり返す蓮実。学校での居場所や友人関係などは、社会の荒波にもまれているような大変さを感じます。本当の友だちとは、と投げかけている気がします。

 

(2018年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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佐藤まどか『一〇五度』

一〇五度

さららん:「椅子をつくる」というテーマを新しく感じました。モックアップ(原寸模型)など専門用語がいっぱい並び、覚えきれないほどでしたね。主人公の真と出会い、椅子づくりの同士となるのは、スラックスをはいて登校する女の子梨々。梨々の造形が理知的でさわやかでした。真はというと、「LC4」という歴史的な椅子に座って、その良さと悪さを自分の頭と体を通して考えます。大好きな椅子であっても、そうした分析的な目がクールでいいな、と思いました。でも一方で、二人ともお金持ちの通う私立の学校に通っていて、真は勉強もできるし、椅子のデザインまでできる。真の強権的な父親以外、まわりがほぼみんな二人に協力的で、フィクションとはいえ恵まれすぎた環境のようにも思えます。椅子職人だった真のおじいちゃんが、まっこうから父親とぶつかる真に、そのときどきに必要な言葉を(「オヤジをだましときゃいい」などと、ときにはどきっとするような言葉も)発してくれるのがうれしかったです。

アカシア:著者がプロダクトデザイナーだけあって、イスがどのように考えられて作られているかがわかったり、現場での工程がわかったりする部分は、とてもおもしろかったです。一〇五度が少しリラックスしてすわるイスの背もたれの角度だとわかって、なるほどと思いました。真の祖父はそれに加えて、人間もおたがいに軽くよりかかるのがいいと言ったりして、象徴的な角度としても使われているんですね。できる子の真と、できない子の力という兄弟の対比が描かれ、できる子だって「なんでもできるんじゃなくて、無理してるんだよ。がんばっても認められない。それでまた無理をする。ストレスがたまる。この悪循環から抜け出せないんだ」と、そのつらさを書いています。そのあたりもいいな、と思いました。できる子の真は、勉強もがんばる、イスのコンクールでも高評価を得る、弟や梨々の勉強の面倒もみる、と「できすぎ」少年ですが、これだけ出来過ぎだとリアリティがなくなってエンタメになるかも。出来過ぎくらいにしておかないと、成立しない物語なんでしょうか?

コアラ:おもしろく読みました。椅子のことがかなり詳しく書かれていて、こういう世界があるのかと、知らない世界を知る楽しさがありました。ただ、主人公が中学生で、確かに中学生でも職人的なものに興味を持って詳しい人もいると思いますが、レベルが高校生くらいのような気もします。p134の7行目「結局女ってヒステリーだよな」という言葉は気になりました。p220で偏見を自覚する場面があるので残しているのかもしれませんが、p134では無自覚に言っていて誰も注意をしていません。そのほか、ご都合主義なところもいくつかあって気になりました。例えばp139で梨々の家に行こうとしていた真の前にちょうどおじいさんの早川宗二朗さんが現れるところとか。梨々についても、できすぎな女の子のように思いました。それから、タイトルになっている一〇五度という関係について、ちょっと寄りかかったほうがいい、というのは大人の関係かなという気がします。椅子の製作の過程はいいのですが、弟や父親との関係は、ストーリーにあまりなじんでいないというか荒っぽい感じがして、勢いで書いているようにも思えました。

アカシア:p134のところは、この子がそういうことを言うのはふつうじゃない、とそこでおじいさんが気づくというストーリーの運びになっているので、あえて言わせているのだと思います。それと、梨々ですが、私は女の子のオタクとして登場させているんだと思いました。ふつう、オタクは男の子がほとんどなので。

アンヌ:大人でも知らない、「プロの椅子づくりの世界」が描かれているのが楽しくて、モデラーという仕事や、工具や材料の名前などに漢字にカタカナのふり仮名をふってあるところとか、ある意味SFを読むときのように、わからなくてもどんどん読める感じがおもしろかった。主人公が15歳だとすると、お父さんは40代。おじいさんは70代かな。少し、おじいさんが年寄りに書かれすぎているかもしれません。真がまっすぐすぎて、勉強まで頑張って上位に入るなど、葛藤がなくて納得がいかない気もします。友人に失敗話をさせようとしたり、コンペで賞を取っても喜ばないお父さんというのは、あまりリアリティがない。親も未熟なんだろうなというのは大人にはわかりますが。少し一面的に感じました。

ルパン:「105度」については、なるほど!と思いました。でも、椅子を作るシーンは……空間図形に弱いせいか、イメージがわかず、あまり物語に入り込めませんでした。恵まれた環境にいる中学生が、大人の手を借りてやっている、という感覚がぬぐえず、等身大の共感は得られないと思いました。

アカシア:大人の手はできるだけ借りないようにして、この二人はがんばってた、というふうに私は理解しましたけど。

ルパン:それから、p251で真の父親が「将来は飢え死にする覚悟でやれ。茨の道を自分で選ぶ以上、泣き言を言うな」というところ、あれ、椅子づくりの道を選ぶことを許したのかな、と思ったのですが、次のページではどうやらそうではないような感じで、よくわからないまま終わってすっきりしないものが残りました。

アカシア:このお父さんは、一見子どものためを思ってアドバイスしているかのようですが、本当の真のことは、何も見ていないですね。真や、弟の力が、今何をおもしろがり、何に情熱を注いでいるかはまったく見ていない。賞をもらっても、まだ気づかない。だから真はがっかりするのだと思いますが、でもそれでもやろうと最後には思う、という終わり方なんじゃないでしょうか。

ルパン:ラストシーンで父親に「途中で放り投げても、助けてやるつもりはないぞ!」といわれた真は、「よし、放り投げずにやってやる!」ではなく、「ワクワクしていた気分が一気に萎えてくる」といっています。なんだか、助けてほしかったのかな、と思ってしまうシーンです。

アカシア:そこは、それでもこの子はやろうとしている、というところを浮き彫りにするための布石だと思います。

ハル:特に同世代の読者が読んだら、好きなものがあるってかっこいい! オタクってかっこいい!と思うでしょうし、自分も何か見つけてみたいと思わせてくれる本だと思いました。失敗しながら学んでいく姿にも、父親の反対を押し切って突き進んでいこうとする姿にも、読者は勇気づけられるだろうと思います。ただ、なぜか、登場人物の会話が無機質というか、血が通っていないような印象を全体的に受けました。いかにもせりふっぽいというか。そこが私は気になりました。

レジーナ:美大の工業デザイン学科に入学した友人の、初めての課題が椅子でした。4本の脚で体重を支えなきゃいけないから、椅子は難しいと言っていましたね。この本は、専門知識に基づく描写を通して、ものづくりのおもしろさが伝わってきました。家族の描き方は少し物足りなかったです。子どもを理解しない父親、そっと応援するおじいちゃん、というふうに、大人の描写が一面的で、生身の人間に感じられなかったからかな。

ネズミ:職業小説や部活ものというのでしょうか。『鉄のしぶきがはねる』(まはら三桃作 講談社)を思い出しました。椅子にのめりこんでいくのはとてもおもしろいけれど、こんなに成績にしばられている中学生や、ここまで子どもに期待する親がいる家庭って実際には1割もないんじゃないでしょうか。とすると、この主人公にどれだけの中学生が気持ちを寄せて読むのだろうと思ってしまいました。個性があるゆえに肩身の狭い思いをしている子どもは共感できるのかな。

西山:すごくおもしろく読みました。生身の子っぽくないのは、たしかにそうだけど、それは中学生らしくなかったということでは?と思ってます。高校生っぽい。進路の問題としては、中学生という設定が必要だったのでしょうけれど。中学生らしい「おバカさん」さがなくて、生身な感じを欠いている気がします。p47のスラックスをはく理由を語る梨々のせりふは、中学生としてはなじまないかもしれないけれど、「権利を行使した」と書いてくれたのは気持ちよかったです。なにより、物語が椅子にまっすぐ進んでいくのがすがすがしかったです。冒頭のからかいとか、梨々のスラックス姿とか、学校の友人関係のぐちゃぐちゃに展開するかと思いきや、すぱっと見切って、椅子づくりに進む潔さが新鮮な印象でした。病弱で、親から溺愛される弟への屈折が出てきて、あさのあつこの『バッテリー』を思いだしもしましたが、真と対照的な存在として、うまく書かれていたのか、最終的に二番煎じ感は消えていました。賞もとったのに、じゃあやっていい、と最後まで言わない父親も新鮮な気がしました。好きなもので食べていけるわけじゃない、ということを子どもにつきつけているシビアさが新鮮。昨今「子どもの夢を応援」する物わかりのよい親像が、実際はどうかは別として、建前としては主流のように私が感じているからでしょう。でも、真は負けていない。そこが、児童文学としての、作者の子どもへのエールかもしれない。あと、なにしろ、本がきれい! カバーをはずすと地模様が方眼紙だし、見返し遊び紙や扉がなんか上等だし、おしゃれな造本だなぁと愛でました。

ネズミ:お父さんの昔の友だちが死んでしまうというエピソードは、そこまで言うかなと思いましたが。

西山:それでも好きなことをやる方を選ぶんですよね。

マリンゴ:今回の3冊のなかで一番好きでした。佐藤さんの『リジェクション 心臓と死体と時速200km』(講談社)には、いまいちハマれなかったのですが、これはとても好きです。登場人物たちが高校生レベルなので中学生の読者が共感できるのか、といった話が先ほど出ていましたが、私はこれは、自分に重ねるのではなく、突き抜けたものとして読めばいいのだと思います。ここに出てくる中学生たちのことは、要するに藤井聡太六段だと思えばいいのです(笑)。椅子界の藤井聡太。読者は、そのエネルギーに引っ張られて、自分も何か打ち込めるものを見つけたいと思うのではないでしょうか。ただ、唯一、気になったのは、最後のコンテストの場面。エンタテインメントとしての盛り上がりを期待したんですけど、ライバルの描写が少ないんですよね。p240「繊細なラインで、ひと目見てすわりたくなるイスだ。斬新なアイディアはとくにないけど、細部まで気を抜かずに徹底して計算されてデザインされている」。具体的な描写がないので、どんな椅子かわかりません。ライバルの人物造形もない。敵が強く、ちゃんとイメージが湧くほうが、盛り上がるのに……とそこは残念でした。いずれにしろ、全体的に読みごたえがあるので、これが夏の課題図書として、たくさんの中学生たちに読まれるのはいいなと思います。

エーデルワイス(メール参加):「105度」ってなんだろう?と思っていたら椅子の角度だったのですね。新鮮です。椅子のデザイナーを目指す主人公は新しい視点。作者がプロテクトデザイナーらしいからその道を描いたのでしょうか。椅子に関するエピソードは興味深いです。父と息子の対立や、その父と祖父の関係も描かれてはいますが、この二人は対話を避けて逃げている感じです。もうちょっと深く描かれたら、もう少し納得できる感じがします。ところで、「スラカワ」こと早川梨々は女子ながらいつもスラックスをはいて目立っている設定ですが、私の中高生時代、あたりまえに制服の下に女子がスラックスをはいていました。ただの寒冷地ということかもしれませんが。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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三輪裕子『ぼくらは鉄道に乗って』

ぼくらは鉄道に乗って

さららん:ちょっと昔っぽい印象を受けたけれど、物語自体は好感が持てました。昔っぽいのは、時刻表を使うという理由だけでなく、人物造形のせいかもしれません。ともあれ、時刻表を具体的に使って、子どもたちが自分の頭と足で歩こうとしているところはいいですね。悠太の近所に引っ越してきた理子が、なぜ時刻表を見ていたのか、その謎が後半で解けます。離れ離れになった弟に会いに行きたい理子。親の都合で、がまんを重ねている子どもはいっぱいいますよね。子どもだって、自分で動いていい。心理の描き方は地味かもしれないけれど、次の電車に乗り遅れないように主人公の悠太がじっと待つところなど、よく理解できました。

レジーナ:インターネットで調べる場面を見て、鉄男もそういうのを活用するんだなと思いました。弟に会わせてもらえなくて、会いにいくというのは、ひと昔前の児童文学にありそうですね。

ネズミ:時刻表や図書館がきっかけになるのがおもしろいなと思いましたが、お話自体、とりたてて驚きや感動はありませんでした。理子は、案外活発で面倒見のよさそうな女の子なのに、弟に会ったあとに泣き崩れるというのが、ピンとこなくて、登場人物にもっと魅力があればいいのになと思いました。

マリンゴ: かわいらしい話で、好感を持ちました。好きなものがある子たち同士で惹かれあう……そういう人間関係の広がりが、いいなと思いました。読んでいると、電車に乗りたくなります。青森に行ったとき、気になっていたローカル線に乗らなかったことが今さら悔やまれたりして。ただ、小道具の時刻表ですけど、見ている時間が長すぎるのではないかと思いました。引っ越し当日、つまり冬休み最後の日に見ていて、春になって学年が上がってもまだ見ている。そんな何か月も時刻表を見てたら、さすがに千葉への行き方、わかるのでは?とツッコミを入れてしまいました(笑)。それはともかくとして、読書をする子はやっぱり女子が多いので、この本のように、男子に向けて書かれた本はとてもいいと思いました。この本をきっかけに読書好きになる男の子もいるかもしれませんよね。

カピバラ:今回のテーマ「好きなものがある子どもたちの話」っていいですよね。物語の設定として魅力があると思います。悠太は日本の児童文学に良く出てくるタイプの男の子。主人公がどういう子かというのは、物語を読んでいくうちにその子の行動や言葉を通して少しずつ見えてくるのがおもしろいのに、冒頭でぜんぶ説明しているのはつまらないですね。鉄道ファンにとって時刻表はとても魅力あるものだけど、その魅力があまり伝わってこないのが残念でした。鉄一のことを1歳しか違わないのに「鉄一センパイ」と呼ぶのはどうかと思いました。理子は自分のことをしゃべる子じゃないのに、p110では自分の境遇を聞かれもしないのにぺらぺらしゃべっているのがとても不自然でした。会話でぜんぶ説明しようとするとリアリティに欠けてしまいますね。

アカシア:私も時刻表などのおもしろさがもっと書かれているといいな、と思いました。それから、物語世界のリアリティをもう少し考えてほしいと思いました。鉄男の二人が、理子の弟に会いに行こうとするのも不自然だと私は思ってしまったし、保育園の先生が知らない子どもから受け取ったものを園児に渡すなんて、現実にはありえません。

コアラ:鉄道が好きな子どもの心理がうまく描かれていると思いました。例えばp39の「古い車両の列車が、夜じゅうかけて遠い町まで走り続けていくって想像すると、心がときめくっていうのかな」という隼人のせりふ、好きな気持ちがこちらにも伝染して、確かにいいよね、と思います。気になった場面は、p139からp141あたりの、保育園で悠太がヨッチに理子からのプレゼントを渡して、写真も撮るところ。ヨッチにとって悠太は知らない人なわけで、知らない人から物をもらって写真を撮られる、というのは危険だと思いました。それから、p55で悠太が「鉄道ファン」付録のメモカレンダーの2月のところに、隼人の名前と電話番号を書くところも気になりました。「鉄道ファン」は自分では買わずに図書館で読んでいますよね。誕生日に買ってもらったのは8月なので、その号には2月のメモカレンダーは付いていないはず。いつ買ったのかなと思いました。全体としてはおもしろかったです。

アンヌ:私は、鉄な従弟がいて、時刻表の魅力や乘った電車について語り合った事があるのですが、鉄は一日中でも時刻表を見ていられるそうです。もう少し、時刻表を見る楽しみなど書いてあると、その後の理子を鉄子と間違えたあたりがスムーズに展開したと思います。今回、そんな鉄の心を打つ名場面をあげますと、p20のパソコンの乗り換え検索と時刻表で「これで日本中どこでも旅ができるんだ」と思う場面、p38からp39の寝台車とローカル線という隼人と悠太のそれぞれの趣味を語り合う場面、p44からp47にかけての、大曲まで行くルートについて話すところ等があげられると思います。また、もはやない寝台電車での幻の旅を語り合うところも素敵です。気になったのは、理子についての描き方です。しっかりしているようなのに後半泣いてばかりいて、家族関係なども古風だと感じました。その他には、子どもにとって、鉄道博物館に行く在来線のルートもドキドキするものだという事が描かれているところも、うまく後半の大原行につながっています。ここは、東京以外に住んでいる子にとってもおもしろいかもしれません。隼人も悠太も何か事故があった時の対処法とかを考えていて、電車の道は一本ではないという事が書き込んであるところもいいなと思えました。

ルパン:おもしろく読みました。私は全然鉄道に興味がないのに、ワクワク感を共有できました。一番好きなシーンは、p25で理子の家が千葉の大原から越してきたと聞いた瞬間、それまでふてくされて黙っていた悠太が、「大原? いすみ鉄道が通ってる?」と反応するところです。こういう、何かひとつのことにマニアックに精通している小学生とかって、すごくおもしろい。今回のテーマにもある「好きなもののある子ども」の、魅力全開シーンだと思います。

ハル:私はもうちょっとワクワクしたかったなと思いました。鉄道博物館に行ったところとか、時刻表のこととか、鉄道好きじゃない読者も巻き込むほどのインパクトはなかったかなと思いましたが、鉄道好きな子が読むとまた全然違うでしょうか。理子の弟が登場したシーンはぐっときました。結局解決はしていないけど、線路でつながっているというところが、鉄道のロマンなのかな……。

カピバラ:目次の章見出しを読むだけで筋が全部わかってしまいますね。もっと工夫してほしいです。目次ページは右と左でフォントの大きさが違っています。それからもう一つ気になったのは、悠太が新幹線を見たことがないという点。これだけ鉄道が好きな子どもなら、お父さんと見に行ったりするんじゃないかな。

エーデルワイス(メール参加):私の文庫にこの本を入れたら、鉄道大好きな小6の男の子が借りていきました。挿絵もよかったのでしょう。家庭の抱える深刻な問題も、『鉄道』というフレーズで暗くならずにすんでいます。鉄道が大好きで乗り継いで目的地までゆくドキドキ、ワクワク感が出ています。東京の新宿の圧倒的な人混みを、子どもだけでよく頑張りましたね。小学生の頃、電車というより汽車に乗り一人で祖父母の家に行ったことを思い出しました。一日がかりだったように思います。冒険感でいっぱいでした。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジョー・コットリル『レモンの図書室』

レモンの図書室

さららん:本だけが友だちのカリプソが主人公です。お母さんの死後、お父さんとの二人暮らしが始まり、カリプソはお父さんに暮らしの面倒を見てもらえません。でもメイという本好きの友だちが現れて、物語の世界を通して、カリプソの心の扉が開きます。レモンの研究書の執筆に打ち込むお父さんが、非常に子どもっぽいと感じましたね。現実を逃避するお父さんの心の問題が次第に明るみに出て、閉ざされた家庭に外からのケアが入ります。イギリスには、大人の世話をする子どもの会があることを初めて知って、新鮮でした。p188に「正常か異常か、その判断は人によってちがうんじゃない」とメイが言います。そんな言葉がこの物語を単純なものにせず、救っていますよね。幸せの形を自分で探すカリプソの物語になっています。ただ、いいところもたくさんあるけれど、わかりにくいところもありました。私にはお父さんが謎の人で、共感を抱けず、血の通う人間としての像が結べませんでした。子どもが大人をここまで理解し、包容する必要があるのかと、疑問も感じました。なお本文に出てくる本のタイトルが巻末にリストで出ているのは、とても親切ですね。でも文中には「未邦訳」の注をつけなくてもよいと思いました。それを見たとたん作品の世界の外に、放り出されてしまいます。

アンヌ:とても魅力的な表紙で、レモンの背景の地色の灰色がかったベージュの色に不安が表わされているようで見入ってしまいました。二人が出会う場面で、メイがカリプソの名前を木で組む場面とか、授業で、言葉を知っていることに尊敬の念を抱くところとか、古典的な児童文学について二人が夢中で話すところとかに、とても惹かれました。でも、カリプソはいつも空腹で、食事だけではなく洗濯も自分でしなくてはならない状況で、読んでいてつらく、父親への怒りを感じました。物語の後半は、あまりうまく描かれていない気がします。父親の状況を、父親とカリプソが交互に物語を書き合う事で説明してしまうところや、大人の面倒を見ている子供たちを支援する組織が妙に無力だったりするところとか。そして、これだけいろいろあったのに、最後はカリプソも父親と家庭を作るという結論には、なんだか昔『ケティ物語』(クーリッジ作、小学館)のラストを読んだ時のように、がっかりしてしまいました。気になった言葉がp10『少女ポリアンナ』(エレナー・ポーター作 角川文庫)の「よかったさがし」。本の内容を知っていても違和感のある感じがしました。村岡花子版では「喜びの遊び」「喜び探し」だったので、最近の訳はどうなんだろうと調べたら「幸せゲーム」「幸せさがし」などの訳があり、確かに「よかったさがし」としている本もありました。

ネズミ:p10のせりふだけ見ると、「よかった探し」と『少女ポリアンナ』は結びつかないですね。

コアラ:主人公は10歳ですが、本のつくりは大人っぽいと思いました。カリプソが赤毛でメイが黒髪で、物語の中でも『赤毛のアン』(モンゴメリー作 講談社他)が出てきますが、他にも『赤毛のアン』を思い出させるところがありました。例えばカリプソが学校を休んでメイがさびしがるところや、p239からの部分で大切なことに気付くところとか。それから、物語の中で本がたくさん出てくる割には、あまりワクワク感がありませんでした。やっぱりp10の「未邦訳」で気持ちが削がれたのかもしれません。それでもカリプソが本を大切にするところとか、共感できる部分もありました。巻末の「読書案内」は親切だと思いました。

アカシア:原文は、よく練られた美しい文章だったのですが、訳はかなりはずんだ元気な調子になっていますね。訳文の文体に私はちょっと違和感がありました。お話はおもしろく読んだのですが、いくつか引っかかる点がありました。一つは、この父親の状態ですが、大人なら想像がつきますが、子どもに理解できるのかな? 母親の本を全部外に出して、書棚にレモンを並べていたところも、父親が母親の思い出と訣別したかったのか、それとも単に精神が錯乱しているのか、そのあたりもよくわかりません。二つ目は、ダメ親と子どもの関係なのですが、現実では子どもが、「親がダメなのは自分のせいか」と思ったり、「自分がしっかりしないと家庭が崩壊する」と思ったりして、がんじがらめにされてしまうことも多いのではないでしょうか。たいていの児童文学では、作家はそうした子どもの側に立って、「もっと自分のことを考えてもいいんだよ」というメッセージを送りますが、この作者は逆に父親の側に立って愛情をもっと注ぐことを娘に奨励しているように見えます。そこに引っかかりました。表紙やカットの入れ方はいいですね。

カピバラ:10歳の子どもらしい感覚が描かれていると思いました。対象年齢がYAよりちょっと下に思えたのは、弾んだ訳文のせいかもしれません。子どもの気持ちや、パパやメイの描写は、ありきたりではなくおもしろかったです。例えばp198、パパの様子を「つかまるとわかって、身をかたくするハムスターみたい」という表現とか。自分にとってメイがどんなに大切な存在かと気づくことによって、パパには自分が必要なんだと気づくところが、すっと理解できました。ゲームに夢中になる子ども、パソコンから目が離せない大人など、今の子どもを取りまく現実がよく描かれ、その中にいながらカリプソは紙の本の価値を信じている昔ながらの子というのがほほえましかったです。知っている本のタイトルがたくさん出てくるのも読者にはうれしいと思います。

マリンゴ: 非常によかったです。冒頭で実在のいろんな本が紹介されていたので、図書室で子どもたちがさまざまな本を読む話かと思っていました。こんな物語だったとは! 親が大変な状況にあって、子どもが苦労する……こういうことは日本でも身近にあると思います。この子自身も相当個性的なのですが、そういうキャラクター、そして親との関係性を、一人称なのによく描けているなあと感じました。三人称のほうがきっと書きやすいはずですけど……。先ほど話題になっていましたが、「レモン」の解釈が日本と欧米で違って、ネガティブな意味があるところも、おもしろいですね。あと、余談ですけど、メイのお母さんのアイコって日本人ですよね。ステレオタイプな東洋人ではない描かれ方をしているのが、ちょっとうれしかったです。

ネズミ:母親が亡くなってから立ち直れない父親や、子どもの面倒を見られない親は、『さよなら、スパイダーマン』(アナベル・ピッチャー作 偕成社)や『紅のトキの空』(ジル・ルイス作 評論社)、『神隠しの教室』(山本悦子作 童心社)にも出てきますね。子どもがそれぞれの環境でそれぞれに親と向き合って生き延びていくというのは難しいテーマだけど、必要だと思うし、おもしろく読みました。ですが、この主人公は10歳で、感じ方など小学生が読んで、うんうんと思いそうなところがいっぱいあるのに、本のつくりが大人っぽくて、小学生が手に取るかどうかが疑問です。一人称の語りが、せりふの部分はいいけれど、地の文ではしっくりこなくて、三人称のほうがすっと入れたのではという気もしました。作者はこの子の目線を大事にしたかったのでしょうか。それと、結局、カウンセリングのゆくえがよくわからないですよね。リアルなのかもしれないけれど。日本だとマンガ『Papa told me』(榛野なな恵作 集英社)が1988年に出て、新しい親子像が描かれてきたけれど、この本のような父親は今もよくいるということなのかな。

カピバラ:カウンセリングは、与える側と受ける側にずれがあるところをうまく描いていると思います。受ける側は、なんとかしてほしい、と思って行くんですけどね。

レジーナ:とてもきれいな表紙です。YAにしても、大人っぽいつくりだと思いました。「大人を世話する子どもの会」というのはおもしろいですね。せりふはところどころ、しっくりこなかったです。p24「だめだめ! いえない!」「読んでる本の先をバラされるって、すっごく頭にくるよね。ほんとうにごめん! お願い、ゆるして!」、p133「もちろん知ってたよ! ここには本なんて一冊もないの。ふざけてみただけ! 怒らないで!」など、感嘆符が多いのは原書のままなのかもしれませんが、日本語で読んでいると、浮くというか、大げさに聞こえて。本棚のレモンを投げる描写もヒステリックで、読者はついていけるのか……。父親も、そういうのが嫌いなのはわかりますけど、カリプソがハロウィーンのお菓子をもらいに行きたがっているのに、頑なに反対します。いくら精神が不安定だとしても、自分の本をだれかが買ってくれたと喜んでいるカリプソに対して、ひどい態度をとるし。一人称は、その人の目に映る世界なので、すべてを描けないとしても、描写によっては、立体的な人物像になると思うのですが。

アカシア:このお父さんは出版業界にいるんですよね。だから、新人の原稿がそうそう採用されないのは知っているはず。なのに、送った原稿がある社から採用されなかっただけで、こんなに落ちこむなんて。リアリティという点でどうなんでしょう?

ハル:すごくきれいな装丁で、しっとりとしたお話かと思って読み始めたら、予想外の展開で。そのためか、お父さんは「おかしい」人なのか、ただ「心を閉ざしている」人なのか、どっちを意図して書かれているんだろうと少し戸惑いました。本を捨てていたことがおかしいのであって、レモンの歴史をまとめることや、レモンを棚に並べていたこと自体は「異常」ではないですよね? 絵面は衝撃的ですけど、レモンを研究していたわけですから。……でもやっぱりおかしいのかな。よくわかりません。でも、こういう、子どもが自分のことに集中できず、家のことや親の面倒を見なくてはいけないというような問題は確かにあるんだと思うし、このお話よりもっと切迫した状態の家庭もあるということも、この本を読んで想像することができました。主人公の女の子はとても大人びたところもあり、年相応に幼いところもあるので、読者には主人公の考え方や答えを丸のみにしないで、自分だったらどうするだろう、友達だったらどうしてあげることができるだろうと考えながら読んでほしいなと思いました。

ルパン:私はのめりこむようにして読みました。父親が書棚いっぱいにレモンを並べているシーンは、まるで本当に目に飛び込んできたように残像が残りました。強烈なシーンだったので、よほど書き込まれていたのかと思いましたが、あとで見返したらほんの半ページほどの出来事なんですね。それだけでリアルに壮絶さを見せる筆力はすごいと思いました。ところで、お父さんがここまで壊れてしまう原因はお母さん、つまり奥さんの死にあるわけですが、このお母さんも有名な画家で、ふつうの主婦ではないですよね。どんな女性だったんだろうと興味がわきました。それから、メイがとてもいい子ですね。カリプソに寄り添うメイの姿にとても共感がもてました。見守るメイのお母さんにも。p222にあるように、星を「濃紺の空にピンで刺したような穴が五つほど点々と光っていた」と表現するように、うまいなあ、と思えるところが何箇所もありました。救いがあるけれどご都合主義が鼻につくことはなく、後味も悪くなくて好感が持てる本でした。

カピバラ:p182の4行目の改行位置は、間違いではないでしょうか。カットの上ではないのに短く改行されています。

エーデルワイス(メール参加):親が心の病気で、その子どもが親を世話をする「ヤングケアラー」がいるんですね。そそれで「大人を世話する子どもの会」をつくっている。イギリスは進んでいるのか深刻なのか。日本も同じです。子どもは衣類を洗濯もしてもらえず食事も作ってもらえない。子ども時代を安心して過ごすことができない子が増えていることに怒りを覚えます。カリプソのように父親に対し憤りを覚えながら自分がなんとかしなければならないと頑張ってしまうことが本当に切ない。レモンに「欠陥品」「困難」という意味があることは初めて知りました。すっぱいからかな? カリプソは親友のメイとその家族の温かさに触れ、幸せになる・・・。良き人間同士の触れ合いが大事とのメッセージでしょうか。

(2018年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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今村夏子『こちらあみ子』

『こちらあみ子』より「こちらあみ子」

さららん:一人称の物語なので、すみれの花を一生懸命掘って小学校の女の子にあげようとしている冒頭の場面、これだけの描写ができることができる主人公は、十分に考えることができる人物だと感じました。しかし読み進むうちに、あみ子のイメージが変わっていきます。周囲からは、どこか障害のある子どもといった見方をされていることがだんだんにわかってきました。あみ子には、義理の母さんの悲しみも、父さんや兄さんの気持ちも理解できない。長い間、慕っていたのり君に、ついに思いきり殴られたあみ子は、けがをして歯も抜けてしまう。しかしその歯をあえて直さず、歯茎に触るたびにのり君のことを思い出すあみ子の感覚に、唸らされました。だれかが初めて本気で、人間としてのあみ子に丸ごとぶつかってくれたことは、あみ子にとっては喜びなのです。たとえ完全な否定であれ、憎しみであれ、その瞬間生まれて初めて、「こちらあみ子……」と発信しつづけていたあみ子は、だれかと本当の意味でコミュニケーションできたのだと思います。淡々とあみ子に話しかける別のクラスメイトの少年がいることが、この話の救いになっています。児童文学ではなく、大人が読む本だけれど、人間の生きる矛盾、切なさ、その奥にある輝きを感じました。

レジーナ:発達障害か、何かそうしたものを抱えている子を主人公にして、その目に映る世界を描いているのはおもしろいと思いましたが……。子どもに向けて書いているわけではないですし、これは大人の本ですよね? 坊主頭の少年はあみ子のことを気にかけているようですが、全体としては救いがなく、目の前の子どもに手渡したいとは思いませんでした。

ネズミ:すべてを言葉で表していく『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント作 講談社)と比べると、情景を切り取って、人物の心情をそれとなく浮き彫りにする、とても日本的でこまやかな作品だと思いました。何を考えているか状況もわからず、登場人物たちの動きを追っていくうちに、だんだんと全体像が見えてくるというのは、文学としてはおもしろいけれども、子どもに手渡したいとは思わないな。どうしようもないコミュニケーション不全が根底にあって、父親は存在感が薄く、継母も精神を病んでしまうわけだし……。高校生ぐらいだったら、他者と理解し合うことを考えるきっかけになるかもしれないけれど、それでも非常に読者を選ぶ作品なのでは?

ハル:今回の選書係として、この読書会の趣旨に添わず「子どもの本」ではない本を選んでしまいました。申し訳ありませんでした。あみ子は変わっているし、勉強もできないし、何も学習していないようにみえるけれど、じゃあ、みんなとどこがちがうだろうと言われると、案外、みんな似たようなところがあるんじゃないかと思うのではないでしょうか。本当ならあみ子に応答してくれそうな坊主頭のクラスメイトのことは名前すら覚えず、助けも求めない。あみ子はあみ子のまま、ありのままであるからこそ、人の心をざわつかせ、隠していた嫌な気持ちを引き出してしまう。 暴力はいけないけれど、殴りたくなるのり君の気持ちもわかります。それでも、読後振り返ってみると、あみ子はあみ子なりに確実に成長しているんだなとわかります。「子どもの本」ではないですね。

アザミ:子どもの本と大人の本の違いを考えてみるには、いい本だと思います。あみ子は、15歳になっても周りの状況がまったく把握できないので、今なら発達障碍とかコミュニケーション障碍などと言われるのだと思います。この本は、そのあみ子からは、周りがどう見えるのかを書いているのがおもしろい。ただ、子どもがもし読んでも、あみ子になかなか共感できないと思います。共感するのは、大人ですよね。継母は、あみ子が「弟の墓」を見せた時点で神経を病んでしまうけど、一緒に住んでいるのだから、あみ子が普通とは違う感覚を持っているとわかっているはずなので、リアルに考えると解せない気がします。それに、父親は仕事で子どもをまったく顧みず、兄は暴走族で、あみ子はドロップアウト。こういう状況が他者の介在もなくずっと続くのは実際にはあまりないと思うので、ある意味寓話的な設定と考えてもいいのかもしれません。

コアラ:大人向けの小説だと思いました。主人公は子どもで、母親が自宅で開いている書道教室をのぞいたり、チョコレートクッキーの表面のチョコだけなめとったりと、子どもがやりそうなことはよくわかっている作者だなと思います。ただ、あみ子がなめとったあとのクッキーをのり君が知らずに食べた場面は、ぞっとしました。全体としてどう読んでいいかよくわからなかったというのが正直なところです。

ルパン:なんか、衝撃的でした。せつなすぎるし……どう表現すればいいのか、読了してしばらく絶句でした。成長があって、救いがあって、希望があって、という児童文学に浸りすぎていたのか?と思ったほどに。ただただ、あみ子の姿が哀れで、読後感は「つらい」という感じでした。最終的にあみ子は家族と離れておばあちゃんのところへ行くことになりますが、おばあちゃんはあみ子の良き理解者なのでしょうか。そうだとしても、あみ子よりずっと先に死ぬだろうし、今の唯一の友だちらしき「さきちゃん」も、いずれ大きくなればあみ子を相手にしなくなるであろうことも想像がつきます。救いといえば、あみ子に親切だった「坊主頭の男の子」の存在があったけれど、あみ子のほうでは彼に興味がなく、もう忘れてしまっているし……。それでもあみ子は傷つかないのに、まわりにいる人々は父も、継母も、兄も、のり君も、みなあみ子のせいで傷ついてしまう……そのことが悲しすぎて、やはり子どもたちに読ませたいとは思わないです。いろいろなハンデを背負った人がいることは、いつかは知ってもらいたいけれど、いきなりこれを渡すことはできない。やはり児童文学とはいえないのでは、と思います。

オオバコ:私は、児童文学とはまったく思わないで読みました。児童文学は最後に希望があったり、もう少し生きていこうと そういうのを伝えたいというのがあるから、これは違いますよね。学習障害のある子どもの物語としても読まなかったな。もっと普遍的な、人と人とのコミュニケーションの物語として、身につまされるような思いで最後まで読みました。善意で、ピュアな気持ちを伝えたつもりが、不幸な結果になる。たいていの人は、少しずつ学んで世俗的な知恵を身につけていくのに、あみ子はまったくそうならない。読んでいくうちに、なにか天晴れというか、聖女のような存在に思われてきました。トランシーバーが、じつに効果的に使われていて切ないですね。暴走族になってしまったお兄ちゃんが、窓の外の鳥の巣をぶんなげるところも目に見えるようだし、あみ子にまともに話をしてくる隣りの席の男の子や坊主頭の子(このふたりは同一人物?)、いい子だなあと胸が熱くなりました。竹馬で近づいてくる子ども、なんの暗喩なんでしょうね? 最後の一節、ぞくっとしました。

アザミ:児童文学は最後に希望があったり、それでも生きていこうと思わせるというのは、ひと昔前の言い方のように思います。YAだと今は希望がない終わり方作品がけっこうあります。私は、大人の文学と子どもの文学の違いは視点だと思っていますが、この作品はあみ子の視点のように思えて、じつはもっと複雑なのだと思います。

エーデルワイス(メール参加):優れた小説だと思いました。文章に魅せられました。書かれていないところに、なんともいえない余韻があります。あみ子が「発達障がい」らしいことがだんだん分かり、あみ子自身の思考が伝ってきます。家族が崩壊してしまうのだけれど、あみ子自身がちっとも失望していないで、前をみている。中学校の同級生の坊主頭が、「おれだけのひみつじゃ」「卒業しても忘れんなよ」と言うのが温かい。きちんとあみ子と向き合ったのは彼だけかもしれない。

しじみ71個分(メール参加):非常に残酷なストーリーで、読んで苦しくなりました。大人を描いた本であれば、大概、どんな残酷なことが書かれていても割と平気で読めるのですが、子どものことになると、誰かに助けてほしい気持ちでいっぱいになってしまい、これも読んでいて非常に辛くなる物語でした。あみ子本人は辛くもなく、不幸でもなく、いつでも純粋な愛情や欲求のままに行動しているだけで、何で周りがうまくいかなくなるのかが分からないけれど、周りはあみ子のために傷つきどんどん壊れていくさまを、ぎりぎりと追い込んで書けるのは大変な作家の力量だと思いました。また、お兄さんと保健の先生、名前すら覚えてもらえない隣の席の男子などの造形は物語の中で救いになって、読んで少し息がつけるところでした。隣の男子があみ子の問いに真摯に向き合う一瞬も非常に深い余韻を残しました。また、ライオンのような金髪のお兄さんが鳥の巣を放り投げ、巣が壊れていく場面は非常に映像的で美しく、見事にそれまでのあみ子と家族の物語が昇華され、クライマックスとなった感があり、読み応えがありました。しかし、他の2篇も読みましたが、やっぱり今村夏子は怖いです…読んでいて苦しくてたまりませんでした…。

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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さとうまきこ『魔法学校へようこそ』

魔法学校へようこそ

ネズミ:うーん、子どもたちに読ませたくないことはないけれど、積極的に読ませたいとも思わなかったというのが正直なところです。ため息をついていた3人の子どもが魔法使いのおばあさんに出会って、その後どうなるのかと読み進めました。おばあさんが時を9秒止める、9センチ物を持ちあげる魔法を教えるというのは、少しのことで人生は変わるということの象徴なのでしょうか。おばあさんが最後に3人に言葉ですべて説明してしまうのが残念でした。物語のなかで気づかせてくれるといいのになあと。

西山:ネズミさんはこの言葉を避けておっしゃってた気がしますが、言っちゃいますね。あまりおもしろくなかった。魔法を使って、もっと楽しめばいいのに。にょろにょろした矢印はおもしろいのに、と。いぬいとみこが『子どもと文学』(福音館書店)で、小川未明の幼年童話「なんでもはいります」に対して、「ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです」(p31)と批判していたのを思い出しました。『子どもと文学』の主張を全面的に支持するわけではありませんが、これは中学年向きに作られていると思うので、そのぐらいの子どもにとっては9秒時間を止められる、9センチ物を浮かすことができる魔法で、どきどきわくわくすることこそ大事なのだと思います。作家の主張がストレートに書かれてもいいけれど、それと同じだけ、というか、それ以上に、読者の心を自由に遊ばせることはおざなりになってはいけないと思います。

ハル:書き手の「伝えたい!!」という熱意が前面に出ている感じがしました。物語の始まりはわくわくするし、魔法が妙に限定的なところもおもしろいと思いましたが、メッセージがわかりやすすぎるので、読者も「あ、これはおもしろい本と思わせて、お説教しようとしているな?」と気づくと思うんです。「だまされないぞ!」という気持ちにならないでしょうか。読書感想文は書きやすいかもしれませんけど。

アザミ:私もあまりおもしろく読めませんでした。昔の時代劇みたいに、リアリティから遠い感じがしてしまって。現実には、三人の異質でこれまでほとんど話もしたことのない主人公が、おばあさんにちょっとくらい魔法を習ったからって、すんなり仲良くなったりしないでしょ。作者には、もう少し真剣に子どもと向き合ってほしいと思いました。紅子の口調が「〜だわ」というのも、現代の子どもにしては不自然です。

コアラ:さらっと読んで楽しむ本だと思いました。舞台となっている千歳船橋は、よく行く場所なので、駅前を思い出しながら読んだりして個人的にはおもしろかったです。

アンヌ:主人公にまったく個性がなくて、普通の子という設定なんでしょうが、なんだか人間像が浮かび上がってきません。物語自体はかわいくておもしろいけれど、お説教くさい。魔法も9という数字がおもしろいのに、最後にどうなるかというところで、全然違っていて拍子抜けする感じです。魅力的な要素があるのになぜか退屈な感じにおさまっています。それでも、もし動く矢印がいたらどうするかと問われたら、追いかけますと答えます。嫌いな世界ではないけれど、物足りない感じですね。

ルパン:とりあえず最後までさらっと読みました。いちばん気になったのは、子どもたちを名前でなく特徴で呼ぶことです。「背の高い少年」とか。ほかにもたくさんいるうちのひとりのような、十把ひとからげの呼び方ではなく、ちゃんと名前で呼んでもらいたいです。良かったのは、クラスで相手にされていない紅子と男の子たちがだんだん仲良くなるところ。はじめのうち、「学校では口をききたくない」と言っていた子たちが、堂々と仲良くするようになるまでのプロセスは好感がもてました。ただ、ストーリーがありきたりすぎて、結局あまりおもしろくない。時間が止まる魔法も、ほかの人の動きが止まってその間に何かするとか……発想が古いなあ、と思います。

オオバコ:図書館にある本をかたっぱしから読むような、とにかく読むのが好きな子が、するするっと読むような本だと思いました。作者は、みみっちい魔法を書きたかったのかしら? それだったら、みみっちさに徹すれば良かったのに、終わりのほうでなんだか壮大な話になってしまった。魔法使いのおばあさんの長い演説ですが、こういうのは演説で書かないで物語で書かなきゃね。まあ私も、小さいころは、けっこうこういう演説が好きだったけど……。

アザミ:私は大人が何らかの意図をもって猫なで声で迫って来るような作品は大嫌いでした。

さららん:私もするするっと読みきりました。最後に魔法使いのおばあさんの家が空にむかって発射されるところは、ひと昔前に書かれた児童文学、例えば1953年に書かれた『アーベルチェの冒険』(アニー・M・G・シュミット作 岩波少年文庫)や、1963年の『ガラスのエレベーター 宇宙にとびだす』(ロアルド・ダール 評論社)を思い出しました。おばあさんが3人の子どもたちの名前を覚えないのは、どうしてでしょう。紅子のことを「顔をかくした少女」と呼ぶのには意味がありそうだけれど。ちょっとした悩みのある、どこにでもいる子、ということを強く打ち出し、そんな3人を主人公にすることで、読者に身近な物語にしたかったのかもしれません。

アザミ:どうしてこの子たちは、おばあさんに呼び出されたんでしょうか?

オオバコ:わたしも、この3人がどうして選ばれたのかなと思いました。特に「ぼく」なんて、なんの悩みもないような子なのに。

アザミ:特に問題がない子どもたちを呼んだのだとすると、このおばあさんは問題がある子がたくさんいて忙しいわけだから、物語世界が破綻するのでは?

レジーナ:同じ作者の『9月0日大冒険』(偕成社)はおもしろく読みましたが、この本は、登場人物もステレオタイプですし、絵もクラシカルで、ひと昔前の本を読んでいるような……。

エーデルワイス(メール参加):ユーモラスな絵が、シリアスな内容の物語を助けていると思いました。ちょっとお説教臭いかな?

 

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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リンダ・マラリー・ハント『木の中の魚』

木の中の魚

アンヌ:アリーが自分は字が読めないということを言い出せるまでに、すごく時間がかかっているのが印象的でした。お兄さんも同じ難読症だとすると、2人そろって学校でそのことを指摘されないのは奇妙なので、そのことが不自然ではないように、7回も転校するという設定にしたのだろうと思いました。最初に校長室で読めなかったポスターの内容が「人に助けを求める勇気」で、最後にはアリーが自分でその字を何とか読もうとして、さらに絵が示すようにお兄さんに手を差し伸べるまでになる。1つの物語の中で、問題をすべて回収して見せているのは見事だと思いました。最初のうちジェシカがシェイにあまりに従うので、シェイは男の子なんだと思っていました。翻訳の作品では名前だけでは性別が分かりません。子どもたちの会話が『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ作 集英社)風なおばあさんっぽい言い方に聞こえたり、アルバートのけんかの場面のせりふが逐語訳的で、はきはきしていなかったりするのが気になりました。p241の「たより」のしゃれのように、苦労して翻訳したのだろうけれど、通じるかなと疑問に思うところもあります。『レイン〜雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 小峰書店)や『モッキンバード』(キャスリン・アースキン作 明石書店)を思い浮かべたのですが、あの2冊の本を読んだときには、過酷な状況を描きながらも未来に進む子どもへの信頼が感じられて、海外の作品の構造はすごいなと思ったのですが、ちょっと、この作品には物足りなさがありました。もう少し、どのように難読症を克服していったかの描写がほしかったと思います。難読症へのサポートを知る人は少なく、例えば高校受験の際のiPadの持ち込みは、まだ2県でしか認められていないそうです。難読症が、もっといろいろな人に知られる手掛かりが、註とか「あとがき」にあればいいのにと思いました。

オオバコ:おもしろく読みました。主人公のアリーが、難読症に悩みながらも矜持を保ちつつ生きているところが、とても良いと思いました。でも、アリーのお母さんは、どうして子どもが難読症だって大きくなるまで気づかなかったのかしら? お母さん自身にも、なにか問題があったのかな。7回転校したという話だけど、教師もここに至るまでなんで気づかなかったんでしょうね。内容については以上のほかにはあまりないのですが、本作りに関しては「どうしてだろう?」と思うところが多々ありました。タイトルがおもしろいので原題はなんていうのかと思って調べたんだけれど、クレジットというのかしら、原題、著者名、原出版社などが、どこにも書いてない。また、作者自身が難読症だったのか、あるいはそういう子どもに接した経験があるのか知りたかったけれど、「あとがき」もない。ふつう、こういう本って、専門家に訳文をチェックしてもらったり、難読症がどういうものかという説明があったりするのだけれど、なぜなんでしょう? 日本語の場合と、英語の場合の難読症のあらわれ方の違いなど知りたいと思いました。良いテーマの本なので、特別の事情があって超特急で作ったのなら、もったいない話ですよね。タイトルの『木の中の魚』のもとになった言葉も、アインシュタインが言ったと広く信じられている言葉で(本当はそうではないという話ですが)、アメリカの読者は、タイトルを見たときになんの話かすぐに分かるのかもしれないけれど、日本の読者にはちょっとピンとこないのでは? あと、良い悪いの問題ではなく、単純におもしろいと思ったのは、アリーの父親が軍隊の戦車隊の隊長と知った男の子が「マジ? すごいや!」と言うところ。アメリカの作品だなあ!と、つくづく思いました。日本やイギリスの作家だったら、こんな風にさらっと、呑気な書き方はできないんじゃないかな。

レジーナ:日本語は1文字1音なので、読みの困難があっても、なんとか読めてしまう場合があるのに対し、英語は音韻の変化が複雑です。だから、英語圏ではディスレクシアが表面化しやすく、周囲の大人が気づくという話を聞いたことがあります。アリーは2年生のとき、先生の前で、自分の名前が読めなかったようですが、それでもディスレクシアだと気づかれなかったのでしょうか。今は学校現場でも、理解が進んでいるのではないかと。ディスレクシアだけでなく、多動の傾向の少年など、いろんな子どもが出てくるのは良かったです。でも、p89の「ばっちい」や、p128の「おっかない」など、読んでいてひっかかる箇所がありました。今の子どもは、こういう言い方はしないですよ。全体の文体は今風なのに、そこだけ浮いているような……。すぐに意味がとれない箇所も、ところどころにありました。たとえば、p102の「『バカ』と『赤ちゃん』って言葉なんかを考えて、やっぱりアルバートはまちがってるよ」ですが、これは、字が読めない自分は赤ちゃんかバカみたいなものだと、アリーが思っているということでしょうか? p146の詩は、そんなにいい詩ではないので、それで賞をもらうのには違和感があります。p110の「一週間に一度までしか」は、「一度しか」では?

ネズミ:日本の作品にはあまりない良さだと思ったのは、主人公のディスレクシアの少女だけでなく、クラス内にいろいろな子どもが出てくるところです。アルバートとキーシャのことも含めて、先が知りたくなる展開でした。ただし、「難読症」を扱っているので、テーマ的にとりあげられやすい本だと思いますが、この本の登場人物と年齢が重なる5、6年生が読むのは厳しいのではないかと思いました。会話が多用されていますが、表現の仕方が日本人とかなり違います。違っているからおもしろい部分もあるのですが、もともとの文章の問題か訳文の問題か、どういう意味かすぐにわからず、前後を読み返すことが何度もありました。たとえば、p115の5行目からの「あのね……五年生で」で始まるせりふ。チーズクラッカーをだれが持ってきたのか、なかなかわかりませんでした。描かれている内容からすると、中学生よりも5、6年生に近い感じがしますが。難読症に関しては、本の上にスリット状の補助器具をのせて、1行か2行だけ見えるようにすると読みやすくなるという話を聞いたことがあります。難読症の子どもがそれとなく使えるように、「集中して読みたい人へ」のような表示をして常備している学校図書館もあるそうです。そういった日本の難読症の事情をあとがきなどで説明するとよかったと思います。章ごとの改ページも、目次もあとがきもないというのは、ページ数を抑えようとしたのでしょうか。

西山:たいへんおもしろく、学生と一緒に読んでもいいかなと思っていたんですけど、今のご指摘を聞いていると、ちょっと立ち止まってしまうかなぁ。でも、難読症の人がどんな困難をかかえているかは示してくれる気がして、そこは意味があるかなと思います。それと、アリーが浮いてないでみんなと一緒のようにしたいと思うのは、若い人には近しい感覚で、共感できるところが結構ある気がします。『ツー・ステップス!』(梨屋アリエ作 岩崎書店)のサヨちゃんを思い出しました。空気が読めないと疎まれる子が、何も感じていないのではなくて、本人も苦しんでるんだということ。それを、この作品も伝えてくれるかな。箱の中のものをあててごらんとか、ちょっとワークショップでやってみたくなるような材料もたくさんありますし。難もあるけど、やっぱり捨てがたいかなぁ……。学生に勧める場合は、最初は、次々人名が出てきて、しかもそれぞれに病名がつきそうな子どもたちでわかりにくいけれど、とりあえず、何ページかがまんして読みすすめるよう声かけしたいなと思います。解説がほしかったというのは、確かにそう思います。詩のところはやっぱりまずいかな。すばらしい詩だとはまったく思えなかったので、同情で賞をあげたのかと読む子ども読者も出てくると思います。個性的でいい詩じゃないと成立しませんよね。学生も、とまどうかなぁ……。難しいですね。

ハル:難読症という、特に日本ではあまり知られないハンディについての理解を深めるだけでなく、他人は自分のものさしでははかれない、さまざまな困難や大事なものを抱えているものだ、という発見を読者に与える、そして助けを求める勇気についても気づかせてくれる、良いお話だと思います。ただ、難読症だから天才で才能豊か、ということではないですよね。そこを誤解してしまうと、難読症でなくても勉強が苦手だったり、ほかの不得手なものを抱えている読者からしたら、救いが半減してしまうのではないかと気になりました。あんまり先生が「アリーはすごい、アリーはすごい」と言いすぎるのもちょっと心配。天才じゃなくてもいいじゃないですか。みんながみんなと同じように可能性をもっているということだと思うんです。アリーが、自分だけじゃなくてみんなも何かしら重石を抱えていることに気づく場面がありましたが、そこが大事だと思います。シェイの今後も心配です。そして、全体的になんだか読みにくいのは、子供たちの独特な言い回しやユーモアを含んだ会話が続くからかなと思っていましたが、皆さんの意見を聞いていると、もう少し、翻訳で努力できるところもあったのかなと思えてきました。

アザミ:なんだか余裕のない本づくりだな、と私も思いました。この訳者は、「グレッグのダメ日記」シリーズも訳している方ですよね。口調が同じようなので、作家は違うのにイメージがダブってしまいました。難読症を主人公にした本は、アメリカやイギリスではたくさん出ていますね。しかも、難読症の子どもも読めるように書体や配列が工夫してあります。私は、障碍を持った子どもや特別な状況におかれた子どもの本に「かわいそう」という言葉が出て来るのは好きじゃないのですが、この本にはいっぱい出てきますね。アルバートが不良をやっつける場面は、ご都合主義的な感じがしましたし、女性を守らなきゃという発想に、マッチョ的な思想がにじみ出ているようにも思いました。詩で賞をもらう場面は、意外な展開になるのでおもしろいところですが、肝心の詩をもっと日本の子どもでもなるほどと思うように訳してほしかったです。翻訳については、p48の「水だって? マジ? それだけ?」というシェイのセリフは、意地悪というより驚いているようにしか感じられないし、p79の「靴の上をはじいた」は?でしたし、p194でアリーがアルバートの面前でアルバートについて「食べ物がないんでしょ。冷蔵庫にも。おなかがすいても食べられないなんて、かわいそうだよ。それに、アルバートは恥ずかしいでしょ。たぶん。きっとそうだと思うんだ。でしょ」と言っているのは、自分も差別されてつらい思いをしているアリーのセリフにしてはあまりにも無神経で、ひっかかりました。作り方、訳し方しだいでは、もっとみんなに読まれる本になったのではないかと、ちょっと残念です。

コアラ:最後の方は感動的でした。ダニエルズ先生は理解のあるいい先生だし、キーシャもアルバートもいい友達として描かれています。ただ、この本のあちこちにちりばめられているたとえや表現が、ユーモラスにも思えますが、私にはあまりピンとこないというか、おもしろく感じられなくて、読み始めてしばらく慣れるまでに時間がかかりました。あとは、タイトルが少し地味かな、と思いました。

さららん:アルバートにもキーシャにも主人公のアリーにも、いいところはいっぱいある。テーマや展開も悪くない。ただ表現面で少しひっかかりを覚えました。まずは献辞。「ヒーロー」という表現は確かに海外の本でよく使われますが、「あなた方はヒーローです」で日本の読者に受けいれられるのか? またトラヴィス兄ちゃんの「おれのお気に入りの妹は元気か?」という言葉も、日本語として固い。翻訳のとき、どうしても日本語にならない言葉は、「トゲ」として固い表現のまま残すこともあると聞いていますが、「お気に入り」を生かす意味があるのかどうか、わかりませんでした。

オオバコ:「ヒーロー」は単に「中心人物」っていう意味でも使いますよね。

さららん:例えば「ヒーロー」を使わず、「あなたがたの勇気をたたえます」など別の表現があったかも。全体にバタ臭さの残る本だと思いました。

ルパン:ディスレクシアの友人がいるので、だいたいどういうものか知っているつもりでいましたが、これを読んで、「ああ、本人はそういうふうに見えているのか」と認識を新たにしました。この本にあるアリーの描写が医学的にも正しいのであれば、多くの子どもたちや学校の先生に読んでもらいたいと思います。実際、この作者かあるいは家族がディスレクシアなのか、それとも調べて書いたのか、知りたい気がします。先生が理想的すぎる気がしましたが、逆にひとつの理想像というものがあって、これを読んだ教師がそれをめざす、というのであれば良いと思います。

エーデルワイス(メール参加):ダニエル先生の授業が魅力的です。「ひとり」と「ひとりぼっち」の違いについて質問したり。「難読症(ディスレクシア)」の文字の学び方が視覚的に進むところも興味深いですね。「IM  POSSIBLE」 不と可能も、何度も発音してしてみました。スペルは同じですが、Ally=アリー Ally=仲間も素敵です。いじめは世界中にあるのだと思うと乗り越えるのは並大抵ではないですが、アリーはきっと素晴らしい芸術家になるだろうし、アルバートは科学者に、キーシャは料理家になるだろうし、アリーのお兄ちゃんもディスレクシアを克服するだろうと思わせて、読後感がよかったです。余談ですが、友人の息子さん(27歳)がADHD(注意欠陥、多動性障がい)で、最近2回にわたって、自分のことをみんなの前で話されました。同じ症状をもつ小学生や中学生もきて熱心に話を聴いていました。一人の勇気がみんなに伝わった瞬間を目の当たりにしました。

(2018年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジェイムズ・ハウ『ただ、見つめていた』

ただ、見つめていた

しじみ71個分:とても沈鬱なストーリーだという印象です。でも、作者がからみ合わない視線をテーマにして書いたのはとてもおもしろいと思いました。全くからみ合わないで互いに見ているだけの存在の3人の視線で描かれていて、からみ合わないがゆえに互いにさまざまな妄想を抱いたりするわけだけれども、それが父親から虐待されている女の子の精神が追い詰められ、幸せそうに見えた男の子の家に思わず入って物を取ってしまい、その取られた物が見つかるところから急激にぐぐっと、からまなかった視線の三角形が急に縮まっていき、その3つの視線がぶつかり、集まった点になった地点が、女の子が父親に殺されそうになるぎりぎり寸前のところで助けに入るという構造になっていて、それはとてもスリリングでおもしろいと思いました。でも、家族から虐待されている女の子が、現実逃避で空想の物語をつくるところで、テンポがクッと変わってしまうので、そこはちょっと読んでいてつまずくところがありました。ミステリーっぽいしかけはどうなるのか、興味をひかれました。いろいろなところで、伏線が効いています。また、最後のクライマックスで、父親に殺されかけているところで、幽体離脱みたいに苦しい思いをしている自分を客観視するというシーンは、リアリティがあると思いました。虐待を受けている自分を客観視することで、今苦しめられているのは自分じゃないと思おうとして、切り抜けようとするところは非常に切実ですね。主な登場人物は、女の子を除いて、それぞれアイデンティティの獲得とか、家族の問題とか、あれこれ困難を抱えていて、そのどこがどのようにその後からんでくるのか、わかりませんでしたが、そこが最後につながったのがとてもおもしろいと思いました。

アンヌ:この本はどうとらえていいかわかりませんでした。それぞれが語っていくところが、まるで映画の予告編を見せられ続けている感じで、最後にマーガレットの父親が出てきて、ああ、そういうわけだったのという感じでした。

ルパン:ところどころに別の物語がはさまっているのが、読みにくかったです。最後まで行ってからもう一度読み返してみれば、マーガレットの空想物語のところだけ活字がちがう、ということがわかるのですが、初めのほうにクリスの想像物語もぽん、と入れられているので、何がなんだかわからなくなります。しかも、活字がちがう挿入物語部分も、それがマーガレットの空想だということは伏せられているのですから、ますます混乱を招きます。最後のほうまでわけがわからないまま読み続け、これは最初から読み直さないとだめだ、と思ったあたりで、突然衝撃のシーンと種明かしがあって、ようやくなるほど、と合点がいったのですが・・・果たして子どもはこれを最後まで読めるのかな、と、はなはだ疑問に思います。ラストでどんでんがえし、みたいなものを狙ったのでしょうが、狙いすぎて流れがぎくしゃくしています。子どもでなくても、中高生でも理解しにくいストーリーだと思います。苦境にいる若者の内面世界を描きたかったのかもしれませんが、私の文庫で薦めたいとは思いませんでした。

オオバコ:マーガレットが盗みに入るところから、やっと物語が動いてきますね。そこからは、とてもおもしろくて一気に読みましたが、それまでがおもしろくない。特に、章の初めにあるおとぎばなし風の物語がわけがわからなくて、つまらなくて、途中で飛ばして読みました。読み終わったあとで読めば、なんのことかわかるけれど・・・。大人の私でもそうだから、子どもの読者は肝心の事件までたどりつけるかどうか。心より頭で書いた物語という気がしました。

コアラ:最後が思いがけない展開でした。ミステリアスで不思議な雰囲気だと思いながら読み進めましたが、マーガレットが他人の家に忍び込んだところで、気持ち悪くなって・・・。見つめていた段階から一線を越えてしまったという気がしました。最後はマーガレットにとっても解決になったし、クリスにとっても人助けができたので、とらわれていたものから解放されたし、エヴァンも、妹が悪い夢を見ていてオペラが流れていた家がここだとわかって解決とも言える。ラストで一応3人それぞれの解決になったと思いました。

レジーナ:同じ作者の『なぞのうさぎバニキュラ』(久慈美貴訳 福武書店)は子ども時代の愛読書で、何度も読みました。p119で、母親は、父親との不和について語ろうとしません。アメリカだったら、エヴァンくらいの年齢の子には説明すると思うのですが。

ピラカンサ:そこは、自分たちもはっきりわかっていないからでは?

レジーナ:この両親がどういう状況にあるのか、最後まで明かされないので、しっくりこないのかも。p28で、クリスは「願ってもしょうがない」とつぶやくのですが、台詞として唐突ですし、十代の子はこういう言い方をしないのではないでしょうか。p13の「けだもの」も、虐待している親を指しているので、「けもの」ではなく「けだもの」としたのでしょうが、はじめて読む人にはそれがわかりません。選ぶ言葉がうまくはまっていないように感じました。

西山:またこの形か、と私は思いました。視点人物を変えながら、謎を明かしていく。日本の創作だけじゃないんですね。この形の利点もおもしろさもあることはわかりますが、視点人物の年齢も違うとき、どの年齢の読者に寄り添って読んでほしいのかわからない。7,8歳のコーリーの不安、そこから生まれる虚言。14歳のエヴァン。18歳のクリス。それぞれにおもしろいところはあります。例えば、p52の真ん中あたりで、シェーンのひざを見て、「何度もサーフボードから落ちたりしたんだろうな・・・そう思うと、自分のことがひどく恥ずかしくなった」なんていう思春期の自意識にははっとさせられます。マーガレットの物語の隠喩がわかると、呪いをかけられた人形というのが母親なのもおもしろいと思いました。でも、全体としては満足の読書にはなりませんでしたね。

マリンゴ:抒情的ですけれど、わかりづらさに途中までイラッとする内容でした。3冊のなかでは最後に読んだのですが、正直苦手ですね。前に一度読みかけていて、途中で挫折してやめたこと、中盤になってようやく気づきました。ただ、伝わってきたテーマ自体はいいなぁ、と。「ただ見つめているだけ」でも、人間関係は知らないうちに生まれている。見つめられている側が気づいていたり、第三者が見守っていたり。自分はひとりぼっちだと思っていてもひとりきりじゃない。しかも、そこから一歩踏み出せば、さらに周りの人間とつながれる。そんなメッセージが伝わってきたように思いました。ただ、だからといって感動はできなかったんですけど(笑)

ピラカンサ:私がいいなと思ったのは、人間は見た目と内実が違うというところをさまざまな人間を通して描いているところです。幸せそうに見える家族とか、なんの不足もないように見える若者だって、いろいろな葛藤を抱えているということがわかってきます。ただ、視点が3つあり、しかもマーガレットが書いている物語と、クリスが思い描く昔話風の物語まで出てくるので、物語の構造が複雑で、子どもの読者は戸惑うのではないかと私も思います。p134あたりの描写も、なぜそんなことをしているのか最後まで読まないとわからないので、ストーカーみたいで不気味です。マーガレットが書く物語も最後まで読むとなるほどと思いますが、そこがわからないとあまりおもしろくありません。主人公の3人は、おたがいに見ているだけで親しいわけではないのに、マーガレットが虐待されているのを窓からのぞいたエヴァンがクリスを呼んできて一緒に助ける。そこは、物語のリアリティとしてどうなんでしょう? また、この父親ならマーガレットへの虐待は長く続いていたのかと思いますが、町のだれもそれには気づいていないというのも、どうなんでしょう? 物語世界のリアリティがもう少しあるといいな、と思いました。

エーデルワイス(メール参加):衝撃のラストでした。クリスとエヴァンとマーガレットの3人の様子が坦々と綴られていて、確かに3人はそれぞれ悩みがありそう。最後にこうくるか!という感じでした。本筋の間に出てくる架空の物語は、マーガレットが父親に秘密にしていたノートに書いていたものだったことも分かりました。マーガレットは無言で助けを求めていたのが、その無言ゆえにクリスとエヴァンに伝わったのでしょうか。マーガレットは救われましたが、クリスとエヴァンその後はどうなったのでしょうか。彼らの心も救われたのでしょうか。マーガレットの母親は自分夫が娘を虐待することを止めることができない。ただ音楽を鳴らし部屋に閉じこもるだけ。それがとてもやりきれない。母親も被害者と言えるのだけれど、本当にやりきれない。娘を救うことができないことが。原作は20年前に書かれているのですね。これも映画になりそうと、思いました。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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中川なをみ『ひかり舞う』

ひかり舞う

ピラカンサ:場所が点々と移って、様々な人に出会っていくので、細切れに読むとよくわからなくなりますね。一気に読むと、おもしろかったです。特にいいなと思ったのは、男の子が女の仕事をしようとするというところ。逆のケースはいろいろ書かれていますが、こういうのは少ないですね。物語の中のリアリティに関しては、武士の妻である主人公のお母さんが、子連れで出ていって、洗濯だの料理だのをしてお金を稼げるのかな、とか、おたあを引き取ることにする場面で、身分の低い縫い物師が主人のいる前で、そんなことを言い出すのはありなのか、とか、疑問に思いました。p229の6行目にここだけ「彼女」という言葉が出て来ますが、浮いているように思いました。

マリンゴ:おもしろく読みました。最初は、女性の仕事をする男の子の、お仕事成長物語なのかと思っていました。でも仕事の話が中心ではなく、住む場所がどんどん変わり、物語もいろいろなところに飛ぶので、ラスト30ページになってもどうやって終わるのか想像がつきませんでした。小西行長だけでなく、この女の子・おたあも実在の人物をモデルにしていると、あとがきで知って驚きました。あと、最後のほうは、キリスト教の思想がたくさん語られていますが、小学生がこれをどう読むのか、興味深いです。私自身、小学生の頃に『赤毛のアン』を読んで、ストーリーはわかるのだけど、いたるところに出てくる聖句の意味がさっぱり理解できなくて・・・。キリスト教系の学校に入学してから、ああなるほど、と意味を知ることができたので。小学生はこの文章の意味がわかるのか、あるいはわからないなりに読了するのか、単純な興味として気になりました。なお、知り合いに歴史小説を書いている作家さんがいるのですが、作品を発表すると、郷土史研究家はじめ、たくさんのマニアから時代考証について突っ込まれ、その戦いが大変だと聞きました。その点、この作品は、私の推察ですけれど、児童書だからということで自由に書いているのかな、というふうに感じました。もちろんそれはそれでよくて、おもしろかったです。

西山:まず、男の子のお針子がおもしろいというのがありました。吉橋通夫の『風の海峡』(講談社)を思いだして読みました。同じ時代で対馬に焦点を当てて、小西行長が出てきて、雑賀衆が魅力的で・・・複数の作品で、その時代に親しみが出てきたり、立体的に見えてきたりということがあるなぁと改めて思います。(追記:「望郷」の節では、村田喜代子の『龍秘御天歌』(文藝春秋)、『百年佳約』(講談社)も思いだしました。言いそびれましたが、これ、おすすめです。朝鮮から連れてこられた陶工たちのコミュニティの悲喜こもごもが、悲壮感でなくおおらかに物語られていてものすごく新鮮だった記憶があります。)
時代考証的にはちょこちょこ気になるところがあったのですが、当時「日本国」と言っていたのでしょうか。p187に「日本国は、この戦で人も金もつかいきってしまったんだ」という言葉があるのですが、「いま」がぽんと顔を出した気がしてひっかかりました。布や食べ物は丁寧に描写されるのに、父親が死んでもけろっと話が進む。妙に潔いというか・・・。そういうところに、いちいち立ち止まらないから、平史郎7歳から37歳までを駆け抜けられるのか、賛否わかれる気がします。また、別のことですが、p331の「五万ものそがれた鼻が塩づけされ、後日、京都にある耳塚に埋葬された」とありますが、確かに「鼻塚」とは聞かないから、そうなんでしょうけれど、読者は「鼻なのに耳?」となるのではないでしょうか。あと、捕らわれた朝鮮人が連行されるところで、p185では「人々の泣きさけぶ声が大きくなってくる」とあるのに、p186では「多くは押しだまって目だけをぎらつかせていた」と書いてあると、え?となってしまう。捕らわれた同郷人に胸を痛めて身を投げるおたあ(p208)とp248の「こづかれたりどなられたりしながら働いている子どもたち」を「笑って見ている」「貴族のむすめ」の感覚が矛盾するように思います。編集担当者はひっかからなかったのかなぁ……。

レジーナ:男性の縫い物師という設定はおもしろいのですが、それが歴史の動きとからむわけではなく、私はあまり入りこめませんでした。タツとの再会や、周二との出会いはうまくいきすぎていて、ご都合主義な印象を受けました。

西山:私は結構最後の方まで、お母さんに再会するのかと思ってました。出て来ませんでしたね。

コアラ:話がサクサク進むのがよかったです。ただ、いろいろなところで粗いというのは私も思いました。歴史的に調べていない気がします。でも、縫い物で身を立てるのはおもしろいと思います。今の時代、縫い物や編み物が好きな男の子もいますが、好きなことをしていいんだよと背中を押してくれているようにも思えます。気になったのが、p57に「慈しめよ」という言葉が出てきますが、唐突かなと。わかりにくい言葉だと思います。ただ、読み進めていくと、キリシタンが異質な者として描かれていて、この言葉もキリシタンの異質さと重なるようになっているのかなと思いました。全体的にはおもしろく読みました。

ピラカンサ:この「慈しめよ」は、主人公もわからなくて、そのうちだんだんわかっていく、という設定なので、これでいいんじゃないかな。

さららん:自分自身、子どもだった頃に、道で配られていたパンフレットでキリスト教に触れ、その教えをどう理解したらよいか、すごく悩んだ時期があります。教会に通う勇気もなかったので、文学の中で出会うさまざまな登場人物を通して、理解を深めてきました。もともと「百万人の福音」誌に連載された『ひかり舞う』には、キリシタンの生き様も背景に描かれ、「神はわれわれに最善を尽くしてくれていると信じるしかない」とストレートな表現も出てきます。歴史物語という枠組みのなかで、こんな言葉が子どもに届けられてもいいんじゃないかと思います。主人公は父親を早くに亡くしていて、どんな人物だったかよく覚えていない。でも母から伝えられた「慈しめよ」という言葉、そして成長のなかでキリスト教に触れることで、もしや父も信者だったのではと次第に気づいていく。父親捜しの物語も用意されていたんだと、発見がありました。描き方は深くはないかもしれないけれど、大きな枠の中で、こういうことがあったと子どもに伝える本であり、縫い物師の少年の目を借りて、小西行長を描いた試みとしてもおもしろかったですね。

オオバコ:最後までおもしろく読みましたが、「おたあ」を主人公にして書いたら、もっとよかったのにと思いました。朝鮮との交流や、侵略、迫害の歴史を児童書で書くのは、とても意味のある、素晴らしいことだと思います。ただ、周二が出てくるところまでは、あらすじだけを書いているみたいな淡々とした書きっぷりなので、途中で読むのを止めたくなりました。かぎ括弧の中の言葉遣いも「?」と思う個所がいくつかありましたね。ひとつ疑問なのは、男の縫物師が、当時それほど侮蔑されていたのかどうか・・・。これは、ちゃんとした着物の仕立てではなく、繕い物をしていたからなのか・・・。縫い物をしていたからこそ、お城の奥まで入りこめるし、いろいろな事柄を知ることができるので、そこはおもしろい工夫だと思いましたが。みなさんがおっしゃるように、歴史的な事柄に破たんがあるとしたら、もったいないなと思いました。

ルパン:飽きずに最後まで読みましたが、男が縫い物師であるという設定が、ほとんど生きていないように思いました。平史郎が針子であったがために物語が大きく動く、ということがないんです。しかも、盛りだくさんすぎて、作者が何を描きたいのかがよくわかりませんでした。明智光秀の衣裳係だった父、あっけなく死んでしまう妹、武家の妻なのに首洗いをして生きていこうとする母、そこまでして息子を守ろうとしている母から離れてしまう平史郎。さらに、男の針子として珍しがられたこと、雑賀の鉄砲衆のこと、小西行長のこと、朝鮮のこと、キリスト教のことなど、どれひとつとっても、それだけで一冊の本になりそうなものを詰め込みすぎて、結局どれも中途半端なのでは? そして、後半、おたあが主人公だっけ?と思うほど、おたあへの愛情はこと細かに描かれているのに、最後は突然現れたるいと幸せになります、で終わってしまう。読み終わってきょとんとしてしまった、というのが正直な感想です。

アンヌ:とにかく私は絵描きの周二が魅力的で好きです。主人公と二人で同じ海の夕焼けの赤に見とれている出会いの場面、一緒に組んで京都に出て店を開き周二がモテモテになる場面、周二がこの時代の風俗図のもとになるような人々の姿をスケッチしていくところなど、生き生きと描かれています。どんな絵を描いたのだろうと思い、美術史の本を見たりしました。そこにあった南蛮人渡来図などを見て、天鵞絨のマントや金糸の飾りをつけたズボンなどを見た日本人は驚いただろうなと思い、布地の魅力というものにはまった主人公の気持ちがわかる気がしました。専門職の仕立て屋というのは昔から男性もいたように思うのですが、とにかく主人公が女の仕事とされてきた繕い物から仕立てを覚えていくのが、独特の筋立てです。そして、時代を描いていく。歴史でキリシタン迫害のことを習っても、なかなか、こんなにキリシタンの人が沢山いたこととか、その人々の思いとかを知ることがありません。物語として描かれる意味を感じます。朝鮮への侵略戦争やその後の外交の復興と朝鮮通信使の魅力的な様子までが描かれていて、そこも、いいなと思えました。ただ、主人公がキリスト教にどう惹かれていったかはもうひとつはっきりしませんでした。朝鮮から連れて来られたおたあへの気持ちも、よくわからない。キリスト者として生きるおたあは孤独ではないですよね。だから、それでいいのかとか、もやもやした気持ちが残ります。

しじみ71個分:私は一気に、おもしろく読みました。これは、出会っては別れ、出会っては別れ、という男の一代記になっていますね。楽とは言えない人生の中で、出会う人がみんな魅力的で、その中でいろいろな気づきを得て成長していくというところはよかったと思いました。わたしも周二という人物はとても魅力的で好きなキャラクターでした。キリスト教系の雑誌に連載されていたと今日教えていただき、納得がいきました。キリスト教にはこだわって書かれていて、平史郎が当初はおたあなどキリシタンの考え方を理解できずにいたのが、おたあからクルスをもらって、最後にやっとはじめて理解でき、そこでキリスト教に対する共感や信仰が生まれているという心情の流れは、宗教に対する人の心の動きとしておもしろいと思って読みました。情景描写がとても美しいところが数か所あって、時々、うるっとなったところもありました。例えば、おたあを連れて、山に登り、海の向こう側に釜山が見えたというところなど、ところどころにキラッとする情景描写がありました。また、おたあを守ってるつもりで、実はそれが自分のためだったと気づいたり、など、主人公が自分の心と対話しながら考えていく内省的な表現はおもしろかったです。

エーデルワイス(メール参加):明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、小西行長、キリシタン、雑賀の鉄砲衆、二十六聖人・・・盛りだくさんの歴史読み物でした。琵琶湖、近江、京、対馬、壱岐、長崎、釜山と西日本縦断というスケールです。主人公は平四郎で武士で男でありながら針子として苦難の道を生きるのですが、様々盛り込み過ぎて、主人公の魅力が不足のような気がしました。父に死なれ、自分の責任のように妹を死なせてしまい、母と別れ、様々の人と出会い助けられ成長するのですがステレオタイプ。豊臣秀吉の朝鮮出兵と朝鮮の人々の悲劇、キリシタンのことを描きたかったら、いっそ「おたあ」を主人公にして、運命的に平四郎に出会う設定にしたらよかったのでは・・・と、思いました。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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栗沢まり『15歳、ぬけがら』

15歳、ぬけがら

アンヌ:いろいろなことがぶちまけられたまま終わった感じがして、あまり読後感がよくありませんでした。けれども、ところどころに胸を打つ言葉がありますね。例えば、p92からp102にかけてのマイナスの掛け算をどう考えるかのところ。主人公の「理解したい」という気持ちを見事にひろいあげていくところは、素晴らしいと思います。ただ、母親や優香さんのおこなっている出会い系の疑似恋愛じみた売春や、裏に暴力団の存在が見える中学生の援助交際や、それに絡む中高校生男子の中間搾取やカツアゲとか、これからも主人公の周りにある暗い淵は変わらないままで終わるこの物語を、誰にどう手渡せばいいのかと思う気持ちがあります。

ルパン:最後まですーっと読んでしまいました。あまり良くない前評判を聞いていたので身構えていたのですが、読み始めてみたら不快感はなく、こういう状態はきついだろうなあ、と、むしろ共感をもって読みました。ただ、ここに出てくる大人たちがなんとも情けなくて・・・主人公の麻美は一応成長して終わるのですが、ダメな大人はダメなまま。麻美をいじめる女子三人組とも、交流はないまま。そういった、ちょっとした口の中のえぐみのようなものは残りました。麻美が、部屋も制服や靴が汚れたままでいて、そのことに嫌気がさしているのに、自分で何とかしようとはしないところなど、イラっとさせられる部分もあるのですが、やはり自分でやる気を出すまでには時間が必要だったのだろうとも思いました。救われない部分が残るところが、リアリティを出しているのでしょう。読後感は悪くはありませんでした。

さららん:テーマを知らないまま、表紙には好感がもてず、タイトルもなんなんだろう?と読み始めましたが、一気に最後まで読み通してしまいました。自分が断片的に知っていた子どもの貧困の問題が、主人公の麻美を取り巻く状況の中に、これでもかというほど詰めこまれていましたね。麻美の立場なら、お腹もすくし、夜、町にも出たくなるだろうし、気持ちを重ねることができました。ときどき情景描写に心理を映し出す象徴的な表現がでてきて、それが強く印象に残りました。例えば学習支援の塾で食べた久しぶりのハンバーグ。フライパンを洗うとき、主人公はぐるぐる回る水を見つめながら、自分の整理のつかない感情をそこに重ねますよね。タイトルになっている「ぬけがら」もそうで、「声を出すその日まで、セミはこの体で、この形で生きていたんだ。ぬけがらに生き方が刻まれてるって、たしかに言えるかもしれない」と、「強いぬけがら」の象徴するものをきちんと言葉にしています。こんがらがった心のなかで、だれかのために何かすることの喜びを主人公は知っていき、そのための勇気もふるう。貧困の中の少女の成長物語として、道筋が見えている感じはするけれど、読んで嫌だという印象はありませんでした。

コアラ:強烈な印象を受けました。以前『神隠しの教室』(山本悦子著 童心社)を読んだときにも、貧困家庭の男の子が出てきて、給食を目当てに学校に行くような感じでびっくりしましたが、これは全編貧困が描かれていて本当に強烈でしたし、いろんな人に知ってもらいたい作品だと思いました。目次が全部食べ物になっていて、空腹だと食べることしか考えられなくなるんだなと思いました。麻美が、お腹をすかせた和馬を見てもお弁当を譲らず、自分ひとりで食べてしまって自己嫌悪に陥っていることに対して、p198で塾長が、「自分が全部食べることで、それをエネルギーに変えることもできるんだよね」「もっとたくさんの食料を手に入れて友達に提供できたら、こんなにすごいことはないんじゃないかな」と言っていて、塾長、いいこと言うなあと思いました。後半で麻美が「強いぬけがらになる」と言ったことについて、p185で男子学生が「ふつう、そういうふうには使わないんじゃないかなぁ」「マイナスの意味で使うんだよ」と言ったり、p218で優香さんが「『強いぬけらがになりたい』っていいな、と思ってさ」「『ぬけがらの意地』みたいな感じ?」と言ったりして、かなり説明されていて、タイトルの意味がわかるように書かれていると感じました。そういうぬけがらの話も、p169の、ぬけがらについての塾長の話、「ぬけがらって、そのセミの生き方そのもの、って気がするんだよね」という言葉で生きてくると思いました。装丁は好ましいとは思えませんが、力強い作品で、書く力のある人だなと思いました。問題が解決されているわけではないけれど、希望のある終わり方もいいですね。

西山:今回読むのは3回目になるのですが、失礼な言い方になるかもしれないけれど,再読して、評価が上がりました。どうも最初は、子どもの貧困にまつわるさまざまな情報のパッチワーク的な感じがしてしまって、このエピソードは聞いたことがある、とかあまり素直な読者になれていなかった気がします。物心つくときからこの状況というわけではないのに、こんなにものを知らないものかと、違和感を覚えてしまったり・・・。でも、今回、時間がない中どんどんページを繰ったのがよかったのか、でこぼこを感じずに読めました。どうしようもない汗臭さなど、生理的な感触と、あと、これは、学生と読んで気づかされたのですが、目次からして食べ物の話—−空腹と食欲の話として、一貫しているということで、作品としての背骨が通っていてよかったと思います。

マリンゴ:日常的な貧困をテーマにしたこの作品は、著者のデビュー作ですよね。これから、どんなテーマを取り上げていくのか、とても気になります。楽しみです。タイトルの「ぬけがら」がいいと思いました。ネガティブな意味で使われがちですが、ポジティブな意味も含めている。そういう発想の変換がよかったです。ただ・・・タイトルに「15歳」とあるので、15歳15歳、と自分に言い聞かせながら読んでいたのですけれど、どうしても12歳くらいの子の物語に思えてしまいました。例えばp60。お母さんが汚し放題で片付けをしないことへの不満が書かれていますが、「じゃあ、あなたがやれば」と読者はツッコミを入れるのではないかなぁ、と。15歳だったら、「出ていく」ことを考えるか、あるいは「自分でやる」ことを考えるか。何かリアクションがある気がしたのです。あと、余談になりますが、セミのぬけがらってたしかに美味しそうだなと思いました(笑)。調べたら、去年の夏、ラジオ番組で小学生が「セミのぬけがらは食べられますか」と質問したそうで、大阪の有名な昆虫館の方が回答しているのですが、「ぬけがらは、ワックスのような、油のようなものでコーティングされているので、生のままでは食べないほうがいい」とのことです(笑)

ピラカンサ:私は出てすぐに読んだのですが、家の中を探しても本がなかなか見つかりませんでした。それで、図書館で借りようと思ったのですが、私が住んでいる区の図書館はすべて貸し出し中。よく読まれているんですね。読み返すことができなかったので、最初に読んだ時の感想のメモですが、私はこの主人公があまり好きになれませんでした。私も、15歳なんだから、被害者意識ばかりもつのでなく、出ていくなり、自分で掃除やご飯づくりをしたりしたらいいのに、と思ってしまったんです。日本の状況だけを見ていれば共感する部分もありますが、海外にはもっとひどい状況のなかで生きている子もいるから。それに、貧困のリアリティも外から描いている感じがして、敬遠したくなってしまいました。

しじみ71個分:あまりひっかかるところなく、すっと読み通しました。年齢よりも幼く見えたり、何でも人のせいにしてしまったりすることに私は逆にリアリティを感じましたね。以前、医療系のシンポジウムで医師のお話を伺った際、貧困は、何をしても無駄、という諦めが続くことから、後天的な無能感、無力感が植え付けられるということを知りました。貧困の非常に難しい問題はそこにあるように思います。例えば、子ども食堂に関わって聞くところによると、フードバンクにお米があっても、家に炊飯器がないからお米が炊けない。家で調理しなくてもいいものでないと、なかなかもらわれていかないそうです。鍋と水があればご飯は炊けるし、ご飯じゃなくてもおかゆでも食べられるのに、調理方法を知らないからそれができないし、学ぼうという意欲もなかなか出てこないということがあります。生活保護の申請も、やればできるのに、それに気づけないし、何か言われるのが嫌で申請をする気も起きないということが実際にあるようです。なので、学習塾の支援があって、人との関わりの中で気づきが生まれてよかった、ダメなまま終わらなくてよかったと思いました。
貧困によって困難な状況にいる子、お金持ちの家の子なのに、親からの愛情を注がれず生活が崩れて困難な状況にいる子が、社会のはきだめみたいなところに寄せ集まって、互いに傷つけ合いながら、その中で互助、自助で生きていく様は理解できました。

ピラカンサ:私はこういう社会問題を扱った作品こそ、状況がわかるだけじゃなくて、だれもが読みたいと思えるように書いてほしいと思っているので、ちょっと点が辛いのかもしれません。

しじみ71個分:今、思いましたが、もし貧困ということを全く知らない子どもがこれを読んで、例えば同じクラスに、外見的にそう見える子がいたら、どう思うだろうかなと気になりました。あえて、経済的に困難な子を探したり、ことさらに意識したりという逆効果が生まれる恐れというのはないのでしょうか? 貧困という現象を、背景まで深く考えて想像できるかどうかどうかわからないかもしれませんね。大人であれば、社会現象として、こういうこともあるよな、と理解できるかもしれませんが。子どもが貧困ということを理解するのに、この本がどれぐらい助けになるかと考えています。

オオバコ:子どもの貧困というテーマを取り上げたのは、意欲的でよいことだと思いましたが、p14まで読んだところで「こういう展開で、こうなるだろうな・・・」と予想がつきました。戦後まもなく、セツルメント活動が盛んなときがあって、そういう活動をしている学生たちのなかから児童文学を書きはじめた人たちも大勢いたように思います。わたしが関わっていた児童文学の同人誌の同人にも、そういう方がいらっしゃいました。子どもの貧困は、ある意味、日本の児童文学の出発点のひとつだったような気がします。でも、日本全体が貧しかった当時の貧困と、いまの貧困は、ちがうんじゃないかな? 現在の子どもの貧困は、もっと構造的なものなのではないでしょうか? 村上しいこさんの『こんとんじいちゃんの裏庭』(小学館)には、多少とも現実の社会とのつながりがありましたが、この作品には、そういう社会的な広がりが見えないのが物足りなかった。塾長の描き方も曖昧ですし……。「お金持ち」の意地悪をする子たちの書き方もステレオタイプだと思いました。

しじみ71個分:作者は学習支援にも携わっていたということなので、子どもの困難をあれもこれも知らせなければと、現象を詰め込みすぎてしまったのでしょうか?

ピラカンサ:作者に、書かなきゃという意識が強すぎたのかもしれませんね。状況だけではなくて、もっと個を書いてほしかったと思いました。

ルパン:貧困の中にある人たちだけで閉じてしまっているような閉塞感があるんでしょうか。

しじみ71個分:自分の身近な例だと、母子家庭でどんなに経済的に苦しくて、働きづめで疲れていても、子ども食堂に来ないし、あまりつながりたくないようなんですね。子ども食堂なんて頼ったら終わりと言われたらしく、人に頼りたくないという意地もあるようで、そういうのは理解できます。閉塞といえば、それは実態として閉塞しているんじゃないかなと思います。

エーデルワイス(メール参加):作者が現在の子どもたちと関わったことがベースになっているのか、リアリティがありました。育児放棄しているだらしのない心の病気の母親。空腹の描写は本当に辛いですが、最低限の料理も掃除も教えられないとできないのですよね。かったるい様子の主人公15歳の少女の表紙と「ぬけがら」の文字は、マイナスイメージでしたが、実は前向きのメッセージがこめられていました。最後まで読まないと分かりませんね。いわゆる「子ども食堂」が児童読み物に登場したのですね。
こちらにも「こども食堂」が定期的に開かれています。一度お手伝いにいきました。
その日に集まった食材を、その日に集まった初対面のお手伝いボランティアで黙々と手際よく料理を作るのです。前もって献立が決まっていることは易しいですが、その場で決めるのは並大抵ではないと思いました。小学生、中学生が大学生に勉強を教わったりお喋りして楽しそうでした。自分の居場所があるのは本当に大切と思います。定期的に文庫の本を貸し出して、子どもたちに見てもらっています。

(2018年2月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ルータ・セペティス『凍てつく海のむこうに』

凍てつく海のむこうに

しじみ71個分:本屋で表紙を見たときからおもしろそうだと思っていましたが、本当におもしろかったです。まず、東プロイセンに取り残された人々を海路でドイツ本国へ住民を避難させる「ハンニバル作戦」があったということを全く知りませんで、その知識を得たことは有益でした。お話は、登場人物が代わる代わる語る形式で、全員が何か秘密を抱えており、各人のストーリーが結末に向かって集約されていくという構成で、スリルとサスペンスでずんずんと読んでしまいました。それぞれの秘密は、各国の美術品の略奪の補助をしていたところから美術品を持って逃げだしたことや、迫害されていたポーランドから逃れてきたこと、従妹を死に追いやる原因を作ったことなど、それぞれに重く、読んでいてドキドキしました。お話の中では悪役のアルフレッドの描き方も秀逸でした。手に赤く湿疹ができていて、ぼりぼりとかきむしるという描写に象徴される気持ち悪さ、不気味さが何ともいえませんでした。ヒトラーを狂信し、夢想と現実とのバランスを失いかけていて、精神の不均衡の象徴的存在で、手紙の中で好きだという隣家の少女もユダヤ人として告発したということが少しずつ分かってくるのもおもしろかった。この人物によっていつ、どんな破綻が起きるのか、ドキドキさせられて・・・。非常に大事なキーマンで、その暗黒さで話をおもしろく引き締めていたと思います。エミリアと筏に乗ったところで、ポーランド人のエミリアを殺そうとし、結局自滅して死んでいくことで、ここでカタルシス効果があるように思います。さまざまな人々が人種、国籍、体の特徴、性的指向等個人でどうにもならないことを迫害の理由とすることは今となっては理解しがたいですが、アルフレッドのような不気味さで、復活して来ないとも限らないという恐ろしさも感じました。

アンヌ:とてもおもしろくテンポもいい小説ですが、ある意味映画のように一瞬一瞬がくっきり照らされて、説明不足のまま進んで行ってしまうところを感じました。ナチスの美術品強奪に対してフローリアンが何をしたかったのかとかいうことも、もう一つはっきりしない感じです。ただ、ヨアーナのようにドイツ人とみなされて働かされた人々や様々な民族へのドイツやソ連の迫害等については知らなかったので、これからいろいろと調べて行きたいと思いました。

サンザシ:この本は出版されてすぐに読みました。長い小説ですが、人間がちゃんと書けているので、とても読み応えがあります。様々な人生が出会って、その交流からまたそれぞれの人が力をもらって生きていく様子も描かれています。冷たい海で命を落としたエミリアは哀れですが、最後の章に、おだやかに幸せ感あふれる描写が出てくるのは、悲しいし美しいですね。ドイツ人のアルフレッド(正しくはアルフレートでしょうね?)だけが極めつけのどうしようもない存在に描かれていますが、それでも、手をかきむしるなど、どこかに無理が出ているのですね。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。知らないこともたくさん書かれていて、勉強になりました。4人の登場人物の一人称なので、緊張感が途切れることなく、話が展開していきます。たとえとして正解かわかりませんが、ドラマ「24」を見ている感覚に少し近かったです。エミリアの出産に関するミスリードについても、他の人の一人称がうまく使われています。真相が明らかになったとき、登場人物たちも驚くので、「だまされた」という不快感がなく読めました。そのあたり、とても巧みだと思います。よかったところをいくつか挙げていくと……。まず67ページの「ポーランドの家庭では、コウノトリに巣をつくってほしいと思うと、高いさおのてっぺんに荷馬車の車輪を打ちつけておく」。非常に印象的で、なるほど、そうやってコウノトリといっしょに生活しているのか、と。すると、後ろのページでも「コウノトリ」が登場し、最後、エミリアが死ぬ前に見た夢(?)のなかにも出てきて、効いてるなぁ、と思いました。166ページの、混乱のなかでドイツ人が整然と列をつくるシーンは、国民性が現れていて、絵が浮かんでくるようでした。288ページで、靴職人が赤ちゃんにも「靴を見つけてやらんとな」というシーンも、登場人物の個性が端的に表れていていいと思いました。もっとも、擬声語が2か所、気になりまして……。冒頭の銃声の「バンッ」、船が沈没するシーンの「ドンッ」。この2つの多用は、せっかくの作品を幼いイメージに見せている気がしました。なお、最後の参考図書一覧は、著者が参考にした本、ではないのですよね? 翻訳の方、編集の方が使われた文献なのかしら。

須藤:作者のルータ・セペティスさんがあとがきに書かれているように、この本をきっかけにして、歴史に興味を持ってもらえたらうれしいので、訳者の方と相談して、参考になる本を紹介するつもりで入れました。

しじみ71個分:擬音は私も気になりました。最初の方の章で、銃声が場面転換のきっかけになっている箇所がありますが、カタカナで「バンッ!」と書くと少々野暮ったく、映画などであれば、少し乾いた「パン!」(再現不能)という音になるのではないかと思うのですけど、頭の中の銃声と字面が一致しなくて、少し引っ掛かってしまいました。擬音は表現が難しいですね。

西山:私は同じ作者の『灰色の地平線のかなたに』(野沢佳織訳 岩波書店)がすごく好きなんです。それで、読まなくてはと思いつつまだだったので、今回とても楽しみでした。で、長かろうが、絶対読み始めたら一息に読めるだろうからと、最後に取っておいたんです。そうしたら、まぁ、期待とは全然違って、どんどん読めなくて・・・・・・読み終わらなかったのを作品のせいにするのは、身勝手だとは思いますが、まぁ、敢えて言ってしまえば、私の期待した作品ではなかった、と。言葉は悪いですが、一人称の4人の切り替えが思わせぶりというか、あざといというか、凝りすぎと感じてしまった。『灰色の地平線のかなたに』は、ソ連のリトアニア支配、シベリアへの強制連行という、私は知らなかった出来事、舞台でしたけど、時間も空間も単線だったんですね(もちろん、多少の回想部分もありますが)。ぐいぐい読めた。中身がひっぱっていく作品でした。造り=語り方で引き回すのでなく。(補足:この後、最後まで読みましたが、皆さんの話をうかがったうえでも、この時点で抱いてしまった不満は払拭されませんでした。うまい作品を読ませてもらったという感触は、『灰色の地平線のかなたに』で、出来事とリナたちの姿を突きつけられてしまった、そこに投げ込まれ圧倒されたという感触ととても違っています。今回は、作品が最後まで「本」だった。いっそ、歴史ミステリーと割り切って読めば素直に楽しめたのかもしれません。この辺は、一人称の語りの功罪とあわせていずれじっくり考えてみたいと思います。)
真実を隠した話者たちの切り替えは、こういう史実に基づく重い事実を伝えるうまいやり方でもあるとは思います。同時に、その造りがかえって「むずかしい」にもなりはしないかと思ってしまう。素直な造りの『灰色の地平線のかなたに』の方が案外、読みやすいとう面もあると思います。

サンザシ:この作品は、さまざまな一人称でしか書けませんよね。それに今は英米ではこういう複数の視点で書いた作品はいっぱいあるので、凝った造りとは言えないと思います。私は読みやすかったな。

西山:3分の1ほどしか読み終わってませんけど、アルフレッドは密告したのだろうなと思っていたら当たりましたね。嫌な人がちゃんと描けるのが、この作者の魅力の一つだと思っています。『灰色の地平線のかなたに』のスターラスさんが何しろすごいと思っているので、それに準じるのが、「悪いけどエヴァ」でしたね。アルフレッドは新しい怖さでした。

ルパン:私は一気読みでした。冒頭だけは、入りこむまでに時間がかかりましたが。やはり、エミリアが一番せつなかったです。いとこの代わりに犠牲になり、レイプされて妊娠し、思いを寄せたアウグストからもフローリアンからも女性としては愛されないまま死んでしまうなんて。ただ、エミリアは、死んだあとは、自分の子どもが、憧れの「騎士」フローリアンの娘として愛されて育てられ、オリンピックの選手になるし、自分のなきがらも見知らぬ土地で手厚く葬られるという救いがあります。救いのないのはアルフレッド。だれからも愛されず、理解されず、嫌われ、さげすまれたまま冷たい海に落ちて死んでいくのですから。デフォルメされているけれど、こういう人はきっといる、というリアリティがあって、それだけに読んでいて苦しい気持ちにさせられました。脇役では、靴職人と少年がいいですね。ただ、「少年」は名前で出したほうが、よかったのでは。盲目の少女イングリッドは名前で出てくるので、とちゅうで亡くなってもインパクトがありました。「少年」はこのグループを和ませる存在でもあり、のちにヨアーナとフローリアンの子どもにもなるのに、ずっと「少年」と呼ばれたままなので、存在感が薄くなっていたと思います。

サンザシ:こういう船で避難する人たちは、おそらくいろいろな背景を背負っているので、すべての人に名前を聞くということはもともとしなかったのでは?

ネズミ:おもしろく読みました。『リフカの旅』(カレン・ヘス著 伊藤比呂美・西更訳 理論社)もそうでしたが、自分の親や親族の過去の体験を聞いて、若い作家がこれだけの作品に昇華させているというのに感服します。構成が巧みですね。『いのちは贈りもの』がひとりの視点で描かれているのに対し、この本は複数の声でいろいろな角度から物事を見えてきます。緊張感を保ったまま、最後までぐいぐい読ませられました。アルフレッドは極端ですが、このような人物を出してこないとナチスの宣伝文句を言わせられなかったのかなと、複雑な思いがしました。たいしたことではないのですが疑問に思ったのは、エミリアが船で赤ん坊を産む何日も前、106ページに「陣痛が始まっていて」という言葉が出てきます。陣痛って産む直前の痛みなのでは?(他の参加者から、「前駆陣痛」というのがあるから問題ないという声あり)。

レジーナ:昨年カーネギー賞をとったときから気になっていた作品です。歴史の中に埋もれた人たちに声を与えたいという作者の想いが、全編を通して感じられます。みんなが必死になって乗船許可証を手に入れようとする姿は、現代の難民の人たちに重なりますね。アルフレッドは一面的に描かれていますが、人間の悪の部分を表しているのだと思ったので、気になりませんでした。アルフレッドがはじめ、エミリアをアーリア人種だと思う場面からは、人種という枠組みがいかに表面的で、あてにならないかがよく伝わってきます。緊迫した状況が続きますが、乳母車にヤギをのせ、たくましく生き抜こうとする「ヤギ母さん」など、ちょっとほっとできるユーモアがあるのもいいですね。

花散里:私も『灰色の地平線のかなたに』が好きで、作者のルータ・セペティスさんが来日された折に、講演会でお話を聞かせてもらいました。過去にあった出来事を伝えたいという思いを表現され、丁寧に語られる姿も印象的な方だったので心に残っていて、この本が出るのをとても楽しみにしていました。

エーデルワイス(メール参加):4人が入れ替わり一人称で語りながら展開していく物語なので、まるで映画のシナリオのようですね。いつか映画化されるのではないでしょうか。ヴィルヘルム・グストロフ号沈没のことは全く知りませんでした。その沈没に向かう展開の物語を読んでいると緊張感でいっぱいになり、酸欠状態のようになりました。4人の一人称での文章はこの物語には必要だと思いましたが、私には読みにくくて、なかなか読み進めませんでした。ソ連兵に乱暴され妊娠したエミリアが、妄想で恋人を作り出し、その子どもを宿したと自分に思い込ませたところでは、人は生きるために「物語」が必要なのだと思いました。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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朽木祥『八月の光』

八月の光〜失われた声に耳をすませて

アンヌ:「石の記憶」を読んで本当によかったと思っています。実は小学校の林間学校で原爆のニュース映像を見させられて「核戦争が始まったら、自分はただの黒い影になって永遠に焼き付けられてしまうんだ」と恐怖を感じたのと同時に、その年齢なりの虚無感に襲われたのですが、その時の自分にこの物語を手渡したいです。主人公が黒い影に温かみを感じて寄り添う場面を読むと、生きていくことも死んでいくことも、空しいものではないと思えました。

コアラ:私は「石の記憶」では泣いてしまいました。「水の緘黙」でも泣いてしまいました。朽木さんの本は初めて読みましたが、ひどいことが書かれてあっても、しっとりとして後味は悪くないと思いました。特に言葉が美しいと思います。174ページの「あの日を知らない人たちが、私たちの記憶を自分のものとして分かち持てるように」という言葉が印象に残りました。戦争や原爆の本はたくさんあって、きっかけがないと手に取らない本かもしれませんが、なるべく多くの人に読んでほしいと思いました。

サンザシ:この著者は、広島のことを書くと心に決めて、原爆で亡くなった方たちを一人一人生き返らそうとしているように感じます。言葉や表現が立っていますね。被害者意識だけにとらわれることなく、ある日とつぜん人生が奪われるということはどういうことかを考え、つきつめていっているように思えます。そこからまた生を見つめ直すことも始まるのかと思います。偕成社版は「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」の3点のみだったのですが、この本ではエピソードが増えて、より立体的になったと思います。どの短編にも喪失の哀しみが通奏低音のように流れていますが、そこにおさえた怒りがあるのも感じます。ただ重苦しいだけじゃないのは、明るい陽射しを感じるような情景が差ししはさんであるかと思いますが、それに加えて広島弁がやわらかくてあたたかいリズムを作っているように思いました。最後の短編は、「あなた」を外国人と想定していますが、なぜでしょうか? 日本の子どもには向けられていないのでしょうか?

マリンゴ: まず装丁ですが、子どもが親しみやすいものに仕上がっていて、とてもいいと思いました。偕成社版(『八月の光』)と小学館文庫版(『八月の光・あとかた』)は、格調高い装丁ではあるのですが、子どもがちょっと手に取りづらいのかなという印象があったので。内容については、朽木さんの他の本でも感じますが、広島についての想いがとても伝わってきました。で、先ほど話題にあがっていた「カンナ あなたへの手紙」ですが、わたしは、翻訳されることを前提に書かれたのではないかと、勝手に想像しています。海外の読者、そして日本の子どもたちのなかにも、広島の原爆がどういうものか、知識のない子は多いと思います。そういう子どもに向けて、広島の説明をていねいにしている章というのは、非常に効果的であると思いました。ただ、1つだけ疑問があって……。222ページに「私の国では、夏はとても暑くて、花はあまり咲きません。それなのに、不思議に赤い花だけがたくさん咲きます」という部分。私はこれを読んで、へえ、どこの国の話なんだろう!と、興味を持ったんですけが、え、日本の話?と驚いたのでした。日本の夏は、ピンクの葛の花や芙蓉、紫のルリマツリ、白いオシロイバナなど、さまざまな色の花が咲き乱れるイメージがあるので……。著者の体感として、夏にそういうイメージがあるのか、あるいはカンナの花を際立たせるために意図的にこのような描写にしたのかなぁ、と。

西山:今回、新しく加わった作品も含めて収録順も変わっているとは聞いていたので、どう変わったか楽しみにしていました。「雛の顔」と「銀杏の重」が並んでいるのもとても腑に落ちて、しっくりきました。色のある表紙になったことについては、装丁の中嶋香織さんのお話を伺う機会があって、表紙の桜が、裏ではカンナになる。桜もカンナもこの1冊の中で象徴的な花ですし、よく考えられているなと、改めて感心しました。いつもそう思うんですが、言葉がおいしい! それぞれの語り出しや、かなり息の長い一文が好き。「雛の顔」の冒頭なんて、繰り返し口の中で転がして味わってしまいます。広島弁が全体を和らげている。それぞれの一文が流れるようで、息づかいが感じられます。その点では、「カンナ」は、広島弁が生かされていなくて、ちょっと物足りない。「水の緘黙」は詩のようで、わからなくてもかまわない話かなと思っています。「カンナ」はちがって、伝達性を重視している気がします。どこかで辛い思いをしている人と連帯したいと思っているのでは、と思って読みました。「三つ目の橋」がちょっと異質かな。

サンザシ:私は異質だとは思わなかったんだけど、どういう意味で異質?

西山:「三つ目の橋」がつなぎになっているのかもしれません。最初のほうの短編は詩のよう。そこに生きた人たちのことを、土地の言葉で語って立ち現せている。それに対して、「三つ目の橋」から、情報を伝えようとしていると感じます。

しじみ71個分:短篇の編成は、概ね時系列になっているのではないでしょうか。原爆投下のその日までと直後を描く作品から、「水の緘黙」「三つ目の橋」も戦後の物語へとつながっていくように見えます。「八重ねえちゃん」は、途中までは子ども時代の当時の視点で描かれていますが、終わり近くで視点が変わっていて、現代の地点から振り返るという表現になっているので、そこで雰囲気が変わっています。2回目の改版で、新たに途中で現代の視点に移行する「八重ねえちゃん」と、孫の世代から見た「カンナ」が加わったわけですが、それには著者の必然性があることなのだろうと思います。

ルパン:ひたすら、「すごいなあ」と思いながら読みました。現実に自分が見ていないものを、こういうふうに伝えられるんだ、という筆力に驚きました。「カンナ」の冒頭は私もひっかかりました。夏に赤い花しか咲かない国ってどこ?って。私の中では、夏の花といえばひまわりだし。ところで、広島弁ってやわらかいですか? 私はあんまりそうは思わないのですが。

ネズミ:すごく好きな本です。普通の人の暮らしぶりが語られる一方で、原爆後の地獄絵のような場面が繰り返し執拗に描かれています。作者自身は見ていないのに、おそろしさがずんと伝わってくる描写で、これを描かなければという作者の強い意志が感じられました。前の出版社のものが絶版になったあと文庫本で出たけれど、子どもに手渡したいというので今回この版で出たと聞きました。原爆を描いた本として、ぜひ海外に紹介したい1冊です。でも、方言も用いたこの文体は、訳すのがたいへんでしょうね。文学的な書き言葉の物語で、読書慣れしていない子どもにはややハードルが高いかもしれないけれども、少し読んで聞かせたら読みたくなるのでは。子どもたちに手渡していきたい短編集です。

サンザシ:「石の緘黙」は原爆投下から4年後で、「三つ目の橋」は3年後ですから、時系列的に並んでいるわけではありませんね。

西山:被曝者がてのひらを上に向けて歩いてくる、という描写に今回はっとしました。大抵幽霊のような手の形で書かれ、描かれていた気がしてました。あるいは、勝手にそう思い描いていたのかも。

レジーナ:広島の記憶を文学として昇華させた、すばらしい作品だと思います。広島弁の会話がいいですね。あの日一瞬で消えていったひとつひとつの生に、くっきりした輪郭を与えています。不器用だったり、身びいきなところがあったりもする登場人物が、生き生きと描かれていますよね。ふつうの暮らしが失われることが戦争なのだと、あらためて思いました。「いとけないもんから……こまいもんから、痛い目におうてしまう」という八重ねえちゃんの台詞は、戦争の本質を鋭くついています。わたしも高校の時に原爆資料館に行き、「原爆は自分の上に落ちていたのかもしれない」と思って衝撃を受けたのを、「カンナ」を読んで思いだしました。

花散里:今回のテーマで、日本の作品を考えた時に、すぐに思い浮かんだのが本書でした。『八月の光』(偕成社)は2012年に刊行されたときに読んだ3編がとても衝撃的でした。特に「雛の顔」の真知子の印象が強く心に残りました。今回の本書、全7編を改めて読んで、「失われた声」を丁寧に描いた朽木さんの文学が、戦争被害者の心の奥深くまでを表現していて、いろいろな思いを伝えたいということが胸に迫ってくるような印象を受けました。『八月の光』とともに『光のうつしえ』(講談社)も印象に残る作品で、子どもたちにどのように手渡していったら良いのか、記憶をつないでいくということの大切さを改めて感じました。「カンナ あなたへの手紙」など新しい作品が加わり、表紙の装丁もカンナが描かれていて、新たに伝わってくるものがあり、多くの人に読んでほしいと思う作品でした。

サンザシ:読むのは、小学生だと難しいですか?

花散里:『光のうつしえ』(講談社)も、難しいかなと思います。

須藤:またこういう形で刊行されることになって本当によかったなと思います。私はまず朽木さんの書く文章が好きで、作品中に描かれている人間にもいつも好感を持ってしまうのですが……。ちょっと余談ですが、古い小説を読んでいると、同じ日本語を話していても、生きている時代によって人間というのはこうも変わるのかと思うことがあるんですよね。そして、過去のことを今の作家が書くと、登場人物が今の人間になってしまいがちなんですが、この短編集はちがう感じがして。いろいろな資料を読みこんで、またご自身の体験もあって書いているからでしょうか。教養や豊かさにささえられた品のよさのようなものを、朽木さんの書く人間からはいつも感じます。作品の感想を一つあげると、「八重ねえちゃん」が私は心に残りました。周りからはちょっとトロいと思われているけれど、おかしいものをおかしいと言える人。大人の理屈に染まっていない人というか。大人はすぐにわかったような理屈をつけてしまうんですが、そこに対抗する子どもの倫理観、「いけないものはいけない」という倫理観に、いまやっぱり立ち返ってみるべきなんじゃないかと思うんですよね。

しじみ71個分:『八月の光・あとかた』(小学館文庫)を読んだとき、これは本当に子ども向けなのかしら?と思いつつ、泣きながら読みました。言葉が非常に美しいです。本当に丁寧に、広島の市井の人々の暮らしが描かれていて、生きていた人、ひとりひとりの人生にリアリティを感じます。言葉一つ一つに文学的なきらめきがあるとでも言えばよいのか、本当にすごい文章力だと心から思います。描写が本当に繊細で、皮膚の裏を針でつつくような、チクチクした切ない痛みのある文章で、たとえば「銀杏の重」の、長女の嫁入り支度をする親戚のおばちゃんたちの場面など、ああ、いかにもおばちゃんたちが集まったらこんな話をするだろうなぁという自然なおばちゃんトークが描かれ、短く詰めた疋田絞りの着物の袖を婚礼用にほどく際、母がしぼをつぶさないで上手に上げてある手際に感嘆したりする、そんなセリフ一つ一つで人々がどれほど丁寧に暮らしていたことなどがよく分かり、心にズンと響いてきます。一発の爆弾が落ちて、それが一瞬で失われてしまう、というその酷さ、非人道性が、つつましくも温もりある生活の描写との対比でありありと表されるように思います。戦争は人の命だけでなくて、暮らしの文化みたいなものも奪ったのだなという感慨もわきました。
 被爆した人々の表現も凄まじく、手のひらを上に向けて、焼けた皮膚が垂れ下がる腕を持ち上げて歩くさまが繰り返し描かれるところや、48ページにある、被爆した人がやかんを拾って歩くけれど、ぽとんと落とし、それを後ろの人がまた拾う、というような表現など、朽木さんがその場にいたのかと思うような凄まじい表現です。個人的に言えば、「水の緘黙」がいちばん好きです。記憶をなくした人の頭に、イメージが断片的に浮かんで、夢幻を漂うような感じはとても美しくあり悲しくもあります。「三つ目の橋」は、被爆経験がスティグマとなって生き残った人にのしかかるさまが淡々と描かれ、切なさが胸に迫ります。あと、「八重ねえちゃん」についていえば、184ページの子犬の表現は確かにとても素敵なのですが、全般を通して他の作品と比較してみると、割と表現が大雑把なように感じました。短いからそういう印象になるのでしょうか。最後の、「帰ってきてほしい。」という切実な叫びに全てが集約されていると思いますし、それは理解できるのですが、展開が急がれているような、何か少々物足りない感じを受けました。189ページから言葉が変わっていて、190から193ページまでを通して、「今も」とか「今なら」とか現在の視点から振り返っていることを明示していて、時間が経過した後だから言えることが書いてあります。その点が少し他の章と異質なように感じました。「カンナ」は表現がとても説明的ですが、今の子どもたちや外国の人々に向けて書くという意図がはっきりとしている作品だと思うので、そのように理解して読みました。いずれにしても、広島にこだわり続ける覚悟をもって、これだけの筆力で書き続けられるということは本当に素晴らしいことだと思います。

ルパン:私は「三つ目の橋」が好きです。同時代に生きていても戦争体験を共有できない人がいる、という現実は悲しいけれど、そういうことも伝えていかなければならないのだと思いました。

しじみ71個分:お付き合いしていた人との別れ話の場面の表現などは本当に秀逸です。袖口を伸ばしたところの折線がくっきりと見え、地が赤茶けた服を着て恋人の親に会いに行ったりしなくて良かった、と諦めようとする辺りの描写がとても繊細で、本当に切ないです。

サンザシ:朽木さんは被曝二世と敢えてはっきりおっしゃっていますが、差別を心配してなかなか言えない方も多いのかと思います。福島も同じですけど。前に原爆資料館の館長さんにお会いしたことがあるのですが、館長の仕事につくまでは被曝したことをずっと隠していたとおっしゃっていました。「三つ目の橋」の主人公は「親のない娘はもらわれん。まして妹つきでは」と言って婚約破棄されて身投げも考えるけど、いつも妹の久子が待つ家に帰ってくる。その妹が、死んだお母さんと同じように、夜玄関に走り出て、戦死した父親が帰ってきた音がした、と言うようになる。そこで終わったら、悲しいだけのお話ですが、その後、主人公は「私はしゃがんで久子を抱きよせました。父も母も逝ってしまったけれど、幼い久子のなかに、父のあとかたも母の声も残っているのだと思いました」と言って、次の休みには妹とよもぎを摘みにいく約束をする。そして、よもぎ団子をつくって「お父ちゃんおかえりなさい、って言うてあげよう」という方向へ持って行く。そのあたりなど、文章だけでなく構成もほんとにうまいですね。

西山:236ページの「今は〜」は、「その頃は」が正しいように思ったのですが、急に時制をひきもどされた感じがして、立ち止まりました。多分、故意にやってらっしゃるのでしょう。ふつうじゃなくしている効果があるのかな。

エーデルワイス(メール参加):地元の図書館には偕成社版しかなかったのですが、無駄のない美しい文章で、すぐに読み終えました。読後になんともいえない余韻が残ります。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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フランシーヌ・クリストフ『いのちは贈りもの』

いのちは贈りもの〜ホロコーストを生きのびて

アンヌ:たいへん内容が重く、戦争の現実に打ちのめされた思いがして読み返すことができなかったのですが、文章が詩的で美しい本だと思いました。ジュネーヴ条約のおかげで捕虜の家族である主人公母子がユダヤ人であっても、人質として最初のうちはフランスに留め置かれたという事実に驚きました。日本の兵士や家族でこの条約を知る人はいたのでしょうか。ここに書いてあるソ連兵と同じように、日本人も捕虜になることが許されなかったことを思うと暗澹としてしまいました。

コアラ:この状況をよく生き延びたと思いました。子どもの視点で、子どもが追体験できるように書かれていると思います。私も子どもの視点で読んでいったので、後半、列車に乗って母親が食べ物を探しに行って戻ってこなかった場面、胸が苦しくなるような恐怖を覚えました。ホロコーストの全体像はこれ1冊を読んで分かるものではないと思いますが、現実の子どもにとってどうだったのか、ということが生々しく書いてあるので、ホロコーストを知らない子どもにとっても、リアリティを感じながら読むことができるのではとないか思いました。

サンザシ:とても読みやすい訳で、多くの子どもに読んでもらいたいけど、もう少し編集の目が行き届くとさらにいいなあ、と思いました。お母さんは精神に異常をきたすのですが、p289の注を見ると、1974年にはお父さんとお母さんの共著で本を出しているようなので、回復したのでしょうか? そのあたりのことも、子どもの読者だと気になると思うので、後書きにでも書いてあるとよかったと思います。p99のユダヤ教についての注も「世界でいちばん古い宗教」とありますが、もっと古い宗教ってありますよね。それから、解放されたあとトレビッツに行って、村の人たちを追い出して家を占拠し、勝手に飲み食いするのですが、「自分たちがひどい目にあったのだから当然だ」というドイツ人全員を敵視している視線を感じました。少女時代にそう思ったというのは十分あり得ることですが、この本は後になってから書いているので、大人の視線としてはどうなのでしょうか? ユダヤ人が迫害された事実は、本当にひどいと思いますが、「だから何をしてもいい」ということにはならない。この著者はそうは言っていませんが、ちょっと今のイスラエルがパレスチナに対してやっていることとつながっている気がして、個人的にはぞっとしました。

マリンゴ: 少女の一人称で書かれていますけれど、最初は漠然とした表現が多くて、少し物足りない気がしました。でも、中盤からどんどんリアルになってきました。年齢を重ねたから記憶が鮮明になってきたのか、あるいは大変なできごとだから特に記憶に残っているのか……とにかくそのコントラストがくっきりしていて、かえって臨場感につながりました。これだけひどい状況なのに、「自分は恵まれている」と少女が思っているところが、重い読後感につながっています。先ほどのお話、わたしはさらっと読んでしまったのですが、たしかに言われてみると、カーテンで洋服を作って、持ち主の家族に逆ギレしているシーンは、小さな違和感を覚えました。

西山:つい最近、今ドイツで親ナチの人の発言がふえている、という記事を見た記憶があります。(「論説室から 寛容をむしばむ毒」『東京新聞』2018年1月24日5面)難しいなと。そういう視点は、巻末の解説なりでフォローすることもできるのかなと思います。この本自体は、非常に興味深く読みました。特に子どもの目線で覚えていたことを書いているというので、新鮮さがありました。今回とにかく衝撃だったし読んでよかったと思ったのは、56ページで「丸刈りにされた男の人がひとり、折りたたみ式のポケットナイフが地面に落ちているのを見つけ、ふと立ちあがってひろうと、のびた爪をそれで切った」という場面。非人間的な扱いを受けて、爪どころではない状況に投げ込まれているのに、人は、爪を切る……。なんだか、とてつもない真実を突きつけられたようで、くらっとしました。子どもならではの問いも、例えば、55ページの「ママ、小さな子たちにあんなにひどいことをする人たちも、自分の子どもたちには、やさしい笑顔でキスするの?」なんて、ドキッとする。作家が、こういうのにはっとしてフィクションを書くと、作品の陰影を深くするかもしれない。そういう生な素材として(ということ語弊があるかもしれませんが)興味深い1冊だと思いました。

ネズミ:最初はおもしろく読み始めたのですが、同じようなトーンで続いていくからか、途中で疲れてしまいました。ユダヤ人の少女の視点で書かれているので、ただ一方的にユダヤ人はかわいそうと読まれてしまうのでは、という懸念も。語りつがれるべきテーマだとは思いますが。

レジーナ:子どものときの記憶をたどっているので、ぼんやりした記述もありますが、母親が他の囚人たちを送りだしながら罪悪感をもつ場面など、真に迫る場面がたくさんありました。これは、大人になってから、当時を思い出して書いた本ですよね。子どもの言葉づかいの中に、たとえば282ページ「老いてしまった気がするけれど、子どもです」など、大人っぽい言い方が混じるのが少し気になりました。

マリンゴ:フィクションだと、何歳の視点から書いた物語なのか、あるいは大人になってから振り返って書いた物語なのか、厳密に設定を決めます。でも、この作品の場合は著者も最初に書いているとおり、著者の体験を小説のかたちでまとめたものなので、そこが混ざっていてもいいのではないかと思いました。

花散里:今回の選書担当で、テーマ「魂の記録が残したものは」を考えているときに取りあげたいと思ったのが本書でした。フランス国籍でユダヤ人の少女が9歳から11歳までの間、収容所を転々とし生きのびた「魂の記録」であり、著者自身の伝記で、冒頭に「『文学』というものではありません」と記されていますが、子どもに手渡したい1冊として本書をあげたいと思いました。訳者の方から、もとは大人向けに書かれていた本で、子どもに手渡す本として、地図や年表を入れたり、章立てにしたとお聞きしました。ドイツやポーランド、東欧を舞台にして書かれたホロコーストの作品はたくさんありますが、著者がフランス国内のユダヤ人収容所を転々と移動させられたことが地図などで、分かりやすく描かれていると思います。訳注について先程、いくつか指摘がありましたが、読んでいるときは、訳注が参考になり、子どもたちにも内容を理解する助けになると感じていました。著者や母親は戦争捕虜の妻子として国際条約に守られ、収容所でも離れることなくいられたれたこと、父親の存在が、生きる希望に繋がっていたことなどが、強く印象に残りました。差別や戦争が人間の尊厳を傷つけ、大切な人生をいかに奪ってきたかを、小学校の高学年くらいから理解するのによい本ではないかと思い、「伝えていく」という意味を感じながら読みました。

須藤:大前提として、こういう経験をした人が、自分の記憶を書き残すのは、とても大事なことだと思っています。ホロコーストに限らずですが……。第二次世界大戦のことも、遠くなってきているじゃないですか。ある非常に大きな出来事があった場合に、それを経験した一人一人の視点を残しておいて、参照できるようにしておくのは、とても意義があることだと思います。その意味で貴重な記録だと思いますが、今回児童書の読書会だという趣旨に沿っていうならば、これは子どもの視点で書かれているけれど、子どもが読んでわかりやすい本ではないですよね。収容所を転々とするので、どんどん場面が変わっていきますし……、注釈も子どもが読むには難しいです。それから子どもが読むとした場合に、ちょっと気になったのは、「ドイツ人はきっちりしている」とか、この方の、ある種ステレオタイプな思い込みが、そのまま書かれていることですね。さまざま経験を経た上で、そんなふうに思われるようになったと思うので、別にそう思われること自体は否定したくないですけど、予備知識がない読者が読んでそうなんだと思われると困るというか。194ページで、各収容所にいた人たちが一つの場所に集められる場面があって、そこで一口にユダヤ人といっても実に多種多様な人がいる、という事実に実感として気づくのですが、そこはとても興味深かったです。

しじみ71個分:子どものときに書いた日記を、大人になってから書き直したとありますが、そのとおり子どもの視点から書かれているため、記述は断片的で、戦争の全体像は見えないと思いました。ただ、同時に、戦争を俯瞰で表現できるのは、大人の著者の後知恵であるんだなとも感じました。なので、はじめは違和感というか、読みにくさがあったのですが、後半に向かうに連れて、人の生き死にが切実になってくる中で、表現がどんどんリアルに立体的になってくるのがすごかったです。ドイツにいたユダヤ人への迫害というイメージが強かったのですが、フランスにいたユダヤ人の迫害について知れたのは大きな収穫だった。著者は戦争捕虜の家族ということで特別な地位にあったということですが、戦争捕虜が優遇されていたことなども初めて得た知識でした。それでも、あれほどまでの過酷な環境に投げ込まれたという事実は本当に痛いものでした。後半の描写は本当に臨場感あふれるもので、みんながおなかをすかせているのに、子どもの傍若無人な本能とでも言うのか、お母さんに「おなかがすいた」と言い募るあたり、お母さんの立場を思うと本当に切ないし、絶望的な気持ちがしたと思うけれど、子どもの側からしか書いていないあたり、リアルに子どもの無邪気な残酷さがそのまま描かれていると思いました。お母さんが食べ物をくれない、変な顔をして私を見ている、と言って逆恨みを感じる辺りなども同様です。
虐殺された人々の苦しみも想像を絶しますが、生き残ることさえ本当に大変だったことも良く分かります。シラミがわいて、チフスになるとか、列車の中に排泄物がたまるとか詳細に書かれているので、一つ一つの描写が体感的に突き刺さってきました。また、戦後の様子が描かれているのも画期的だと思いました。強制収容所の地獄を体験して、大きな心の傷、喪失を味わってしまったために、故国フランスの同年代の友だちが幼稚に見えて、全くなじめなくなってしまい、その深い苦悩が何十年も続いたこと、そして年老いてベルゲン・ベルゼン強制収容所に戻ったとき、生き残り、家族を作り、子孫を残し、命の贈り物をつないだことで、やっと勝利したと宣言するという記述から、戦争が人の命を奪うだけでなく、生き残った人にも心身の大きな傷を残し、その後の人生を奪い取ってしまうのだということを知りました。これは私にとっては新しい気づきであり、読んでよかったと思いました。

ルパン:真実の迫力だなあ、と思いました。衝撃的と言っていいほどリアルな描写が続き、感情移入してしまって胸が苦しくなるほどでした。訳は、読みにくいと思いました。ところどころ表現に引っかかったり、原文が透けて見えるような無生物主語の訳文があったり。それでもやはり私は文庫の子どもに薦めたいと思いました。多少の読みづらさを超える力強さがありますから。先ほどから話題になっている注ですが、私は注があるのが懐かしいと思いました。昔の本は注がいっぱいあったなあ、と。私自身は子どものころ注を読むのが好きでしたし、今でもそうです。

(2018年1月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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キャサリン・ランデル『オオカミを森へ』

オオカミを森へ

コアラ:おもしろく読みました。日本とは全然違う世界で、引き込まれました。深い雪や「極みの寒さ」という吹雪など、寒さの描写が印象的でした。翻訳も読みやすくて、かなりの分量なのにすらすらと読めました。「オオカミ預かり人」というのは架空の職業だそうですが、オオカミとの触れあいはとても生き生きと描かれていたと思います。

アンヌ:とにかく表紙も挿し絵も素晴らしくて、楽しみながら読み進めました。オオカミとの生活にリアリティがあって引き込まれましたし、イリヤという兵士が突然現れてオオカミに魅了されて共に行動し、最後には彼の目指しているものもわかって行くというところも、おもしろく読みました。革命の場面で、演説に賛同するのも刑務所に一緒に行くのもまずは尼僧たち。作者はロシア革命の発端である女工たちのデモを踏まえて、この場面を書きたかったのではないかと思います。疑問に思ったのは、刑務所の中にもオオカミを連れた男たちがいるという場面。番犬替わりなのでしょうか? 少し説明がほしかったところです。ラストのエピローグはもっと民話的な語り口にするとか、違う形にしてほしかった。物語と地続きな語りのまま終わるという感じは、少しあっさりしすぎている気がしました。

西山:最後も敬体にすれば、入れ子で昔話のようになったのかな。

アカシア:一応、全体を昔話風にしているんじゃないですか。

冬青:導入部が敬体で始まっていて、最後も昔話のような語り口で終わっているので、敬体のほうが良かったかもね。

アカシア:でも、そうすると、ドラマチックな場面の緊迫感やスピード感に欠けるから、これでいいんじゃないかな。

しじみ71個分:とてもおもしろく読みました。ワイルドな女の子という設定は好物です。前半の展開はスピード感があって、とても気持ちがいいし、敵のラーコフの描き方もとてもいい。これでもか、というほどの極悪人に描かれていてメリハリが効いています。オオカミとの触れあいは胸に迫りますし、脱走少年兵のイリヤがバレエが好きで最後には願いが叶うという点も好もしいし、少年少女の革命というのも、現実味はないけれど、作者からの子どもたちへの激励として受け止めました。

冬青:こういう才能にあふれた若い作家が彗星のように現れるなんて、イギリスの児童文学会はすごいと思いました。“Rooftoppers”もおもしろそうだし。まず最初に「オオカミ預かり人」という仕事を思いついたところが素晴らしい。飼いならされたオオカミを侍らせているロシア貴族の邸宅なんて、ぞくぞくしますね。登場人物が大勢出てくるけれど、それぞれが個性豊かに描かれているので、まったくごちゃごちゃにならずに読めました。ラーコフの憎たらしさがちょっとマンガ的だけれど、これくらいに書かないとドラマチックにならないのかもね。フェオのしゃべり方が、森の中で暮らしているにしては女の子っぽいけれど、これはお母さんが貴族の出だから? 世にも美しいお母さんの背景が知りたいと思いました。

花散里:この本を手にしたとき、表紙画や装丁から絶対におもしろそうだと思って読みはじめました。「野生動物を救う」というテーマで4冊の本を取り上げて紹介(科学技術館メールマガジン)した時に、上橋菜穂子さんと獣医師、齊藤慶輔さんの『命の意味 命のしるし』(講談社)を読みました。齊藤さんは「野のものは、野に帰してやりたい」という思いで猛禽類を野生に帰すために取り組んでいて、上橋さんは「リアル『獣の奏者』」に会いに行くために北海道を訪ねています。この本では、オオカミを野生に帰すという設定にかなり無理があるのでは、と思いながら読みました。91ページのオオカミが仲良く寝ている挿画は、「これがオオカミ?」と気になりましたし、オオカミはもっと獰猛で獣っぽいのではないかと、全体を通して感じました。『鹿の王』で上橋さんは飛鹿とトナカイの違いや、狼に似た黒い犬の怖さとか、よく調べた上で書かれていると思いました。後半、革命扇動者のアレクセイが登場し、子ども達が革命を動かしていくような行動を起こしたり、フェオが演説する場面になると、「オオカミ預かり人」としての前半のストーリー展開から違ってしまったような印象で、読後感はあまり良くなかったです。

冬青:革命にしては、ちっちゃいけどね。

レジーナ:きれいな装丁の本ですね。極寒の地の静謐な美しさや自然の厳しさ、オオカミの息づかいが感じられるような本です。43ページ「家の周囲の森は命の気配にふるえ、輝いている。森を通る人たちは、どこまで行っても変わらない雪景色を嘆くが、フェオに言わせれば、そういう人たちは読み書きのできない人たちだった。森の読み方を知らないのだ。積もった雪は吹雪や鳥たちのことをうわさし、それとなく教えてくれている。朝が来るたびに新しい物語を語っている」、177ページ「雪景色は見わたすかぎり足あとひとつなく、まだ若い木々があちこちで雪に埋もれ、祈りを捧げる北極グマのように見える」など、ところどころに詩的な文章があるのもよかったです。フランスの革命では、何度も覆されてようやく民衆が力を得ます。これはハッピーエンドで終わっていますが、実際にはロシアの革命でも多くの血が流れたのでしょうね。一か所気になったのは、45ページ「今いるオオカミたちのうちの二頭は、人間で言えばちょうど自分と同い年くらいの女の子」です。同じページに「ハイイロは、フェオより数か月だけ早く生まれた雌」とあります。犬は人間の6~7倍はやく年をとるので、オオカミもだいたいそうだと思うのですが、そうだとすると、「人間で言えば同い年くらい」にはならないのでは。

ヒイラギ:「人間で言えば」の部分がちょっとちがうかもしれませんね。

西山:大変おもしろく読みました。いろんな意味ではじめての世界でした。題材も、ちょっとした描写もとても新鮮で。気に入ったポイントがいくつもあるんですが、まず、随所に笑える箇所があるのがいい。例えば、8ページ、5行目から、「オオカミのいる家には幸運がやってくる」として、列挙しているのが、「男の子は鼻水をたらさず、女の子にはニキビができない」という思いもよらない次元で、始まって2ページ足らずのこの段階で「これはおもしろい!」となりました。168ページ「オオカミのところはわからないけど、あとはわかる」とか、全体としてはシリアスで、張りつめていて、血のにおいもするけれど、クスッとさせるところがちょこちょこ出てくる。それを読む楽しさがありました。子どもたちの革命は魅力的だけど、後ろの方は急に軽くなる気はしました。ユーモアを味わいつつも、戯画的には読んでいなかったので、子どもたちが殺されても不思議はないと思っていたから、ホッとするけれど、分裂したイメージになってしまった気はします。アジテーションも浮いてるかもしれない。
カバー折り返しのところに引用された一節「世界でいちばん勇敢で賢いオオカミが死んだ。だからわたしは…」の一節は、自身を奮いたたせるための言葉だと思って、いつ出てくるかいつ出てくるかと思いながら読んでいたので、演説の一節だったことは、少々不満ではありました。軽くなったようで。それでも、演説は魅力的で音読したら気持ちよさそうと思ってしまった。あと、新鮮だった表現、48、49ページ「唇に凍りついた鼻水をかみくだいて吐き出すと」とか。182ページで感情が表れやすい「眉や鼻の穴、口や額がぴくりとも動かないから「表情が読めない」なんて、目以外で心を読もうとするのが新鮮でした。296ページの「罪を犯す覚悟を決めた美しい子どもたちの一団」なんて表現も好き。唯一引っかかったのは、307ページ、「三十分後〜」のところ。時制があれ?と。オオカミを感じさせるシルエットなど、私はイラストにも魅力を感じました。全体に厳しい寒さが感じられるのもいい。訳者おぼえがきで、どこが創作なのかが書いてあるのも親切。満足の一冊でした。

ヒイラギ:さっき花散里さんがオオカミは挿絵とはちがってもっと獰猛なイメージなのではないかとおっしゃったのですが、私はオオカミが好きなので動画や画像もいっぱい見たことがあるのですが、そんなことないです。安心している時はかわいい表情やのんびりした表情を見せるものです。それに、このオオカミたちは人間に飼われていた歴史をもつ者たちですからね。挿絵もぴったりだと思って見ていました。ただ、野鳥を自然に帰す活動をなさっている齋藤先生の本は私も何冊か読みましたが、この本の場合は、生まれてすぐに人間に飼われたオオカミだから、私もリアリティを考えれば野生にかえすのは無理なのではないかと思います。
私はおもしろい冒険物語として読んだので、そういうリアリティとの齟齬はあまり気になりませんでした。これは楽しく読ませる作品なので、これでいいじゃないか、と。原題にもなっているwolf wilderは直訳すると「オオカミを野生に返す仕事をしている人」というくらいの意味でしょうが、訳者の原田さんもそのあたりも含めて考えられたのでしょうか、「オオカミ預かり人」という訳になさっている。リアリティという点でいえば、革命家と言われるアレクセイは15歳で、そのほかの子どもたちはみんなそれより年下です。だから、この子たちが革命を起こすというところにもリアリティはあまりないかもしれない。私は、じつはリアリティにはかなりこだわる方なのですが、この作品ではあまり矛盾を感じませんでした。たぶんこの作品なりの世界がうまくできていて、訳者もうまくそれに沿って訳されているからだと思います。舞台は100年ほど前ですが、今描かれている物語なので、ジェンダー的にもきちんと配慮されていますね。主人公のフェオはおしとやかとはほど遠い嵐のような少女だし、兵士のイリヤはじつは踊るのが好きでバレエダンサーをめざしているなんて。

西山:たしかに女の子が強く描かれているのもいいですよね。

アンヌ:実は読み始めた時はもっとロシアの幻想文学的な物語だと思っていました。特にお母さんについては、とても高貴な顔をして威厳があるというので最初は魔女なのかなと思いました。お母さんについての謎解きもしてもらいたい気がします。

冬青:続編があるのかも。

西山:少年兵のイリヤが、オオカミの出産を見たがるところ。子どもにもどる様子がきゅんとするほどよかった。

アカシア:あの場面があるから、イリヤが兵士の身分を投げ捨てて将軍にたちむかうことを決意する場面も納得できるんですよね。

西山:32ページの真ん中あたり、「さげすむような目でにらんだ。少なくとも、そのつもりでにらんだ。本で読んだだけなので、どういう顔をすればいいのか、じつはよくわかっていない」という、ここもハッとさせられ、すごくおもしろく読みました。読書体験と実生活での体験にこういうベクトルがあることを端的に示してくれたことは意義深いと思います。

エーデルワイス(メール参加):好きですね、めちゃくちゃ。わくわくしました。ロシア皇帝時代オオカミをペットにしていたなんて。なんということをしていたのでしょう。マリーナとフェオの親子が魅力的で、フェオがかっこいい! 作者はまだ若い方で、アフリカジンバブエで幼少期を過ごしている。こんな物語を生み出したのですね。今後も期待したいです。訳もとても読みやすくてよかったです

(「子どもの本で言いたい放題」2017年12月の記録)

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上橋菜穂子『鹿の王・上』表紙

鹿の王(上/生き残った者 下/還って行く者)

西山:出てすぐに買って読みました。それっきりで、今回読み返す時間がなかったので、その時の印象だけでごめんなさい。もちろん、おもしろかったけど、期待ほどではなく、少しずつ冷静に読んだという感じでした。先が気になってしょうがない、というほどのめり込まず、淡々と少しずつ読み進めたという感じ。冒頭は、なにが起きるんだろうと、とてもドキドキしながら読んだんです。坑内の描写はすごいと。でも物語が進むと、説明的な世界になってしまった。下巻303ページ、真ん中あたりの「ひとりひとり、まったく違うの。どの命も」といった上橋菜穂子の基本的価値観に共感しつつ読んだけど……という感じです。アンデルセン賞受賞直後で派手な帯とか、テレビで騒いでたりとか、何を今更、上橋菜穂子はずっと前からおもしろいわい!と、拗ねていたせいかもしれませんが、上橋作品の中では、私にとっては評価はあまり高くないんです。

レジーナ:謎解きのおもしろさの中に、なぜ死ぬ者と生きのびる者がいるのか、病や死を得ながら生きるのはなぜか、という大きな問題を扱っています。民族間の対立や抑圧は、上橋さんのほかの作品に通じるテーマですね。この本の世界には、混血のトマのように、混じり合いながら血をつなげていく人がいる一方で、火馬の民のように、国を奪われた痛みを忘れられない人たちがいます。オタワルのように、自分の国を失ったあと、知識や技術を活かして国の中枢に入りこみ、したたかに生きのびる人々もいます。国や民族の複雑な関係性を、人の体に広がる宇宙に重ねているのは、ユニークでおもしろい視点ですね。自然を支配しようとする人間の傲慢さ、人知を超えた自然のしくみについても考えさせられます。本のつくりですが、いろんな種族が出てくるので、地図があるとよかったです。

花散里:出版されて、すぐに読みました。自分が大人だからかもしれませんが、主人公のヴァンがとても魅力的に描かれていると思いました。岩塩鉱で出会ったユナを助け、育てる姿は印象的で、ユナを見守る眼差しなどが目に浮かぶようでした。医術師ホッサルが懸命に治療法を探す様子や、愛する人々を救うために奔走していくヴァンの生き方など、下巻の後半がおもしろかったです。謎の病の恐ろしさなどが、とても上手に描かれていると思いながら、惹きつけられるように読みました。『ゲド戦記』(アーシュラ・K.ル=グウィン作 清水真砂子訳 岩波書店)の4巻目が出たときもそう思いましたが、これはYA以上の、むしろ大人の本ではないかと思います。「守り人」シリーズや『獣の奏者』は小学校の図書館でも、とても良く読まれていて子どもたちに人気があります。

冬青:くりかえし読んでも、その度に発見があって面白い本ですね。大人向けのエンタメ本でもエピデミックものは沢山出ていますが、わたしが読んだかぎりでは、たいてい近未来の世界や現代を舞台にしています。でも、この作品はいかにも上橋さんらしい世界を舞台にしているので、魅力があります。自然の描写も美しくて緑の空気をいっぱい吸ったような気になるし、飛鹿を柵の中に入れるところの描写など、実際に動物をどう飼いならすかを見てきた人でなければ書けないような箇所があちこちにあっておもしろかった。でも、地図を見返しにでも入れてくれれば、もっと分かりやすかったのに。病気や免疫についての記述は必要な部分だと思うけれど、ちょっと退屈でした。冒頭は衝撃的で、印象的な場面ですが、それがどういうことか分かるまでがちょっと長くて、年若い読者には辛いのでは?

ヒイラギ:ルビの振り方は、一般書ではなくYAですね。

アンヌ:人の名前が難しいので、今回は読み直しながら、登場人物のページに人物関係表を作って書き込んで行きました。1回目に読んだ時は謎解き中心で読んで行ったので、2回目の今回の方がずっと楽しめました。とにかく私はファンタジー世界を作者が戦争で壊してしまうというのが嫌いで、この作品では戦いはあるものの全面戦争はないので、世界の隅々まで楽しめたという感じです。家族を失っている主人公のヴァンが、一人の幼女を助けたことによって、すんなりと移住民の家族の中に入って行くことができ、その家族は結婚によって別の民族とつながっている。様々な形で家族が形成され、新しい世界が出来上がっていく可能性を示しています。支配層の王たちが、それぞれの妥協点を常に探っているという感じもよかった。もう一人の主人公のホッサルが中心の医学の場面も、推理小説のようにおもしろく読めました。病に抗体がある者はトナカイの乳でできた食品を食べていて、トナカイは地衣類を食べていて、その地衣類でできた薬は、超能力を得たユナの目には光って見えると描かれているところは、ファンタジーならではのとても美しい謎とき場面だと思います。気にかかるのは、後追い狩人サエです。すぐれた能力がある女性なのに、子どもができなくて婚家から身を引いていたり、「あれは寂しい女だから気を付けろ」なんてホッサルに言われたり、やたら顔を赤らめる場面があったりして、かなり女らしく描かれています。封建主義の国の物語だから仕方ないとしても、少し物足りない気がしました。

コアラ:物語の世界に浸っておもしろく読みました。下巻の438ページから440ページくらいで、〈鹿の王〉とは何かという話があるのですが、英雄的な話を否定して、残酷さや哀しみを語る父親のセリフ、仲間を救うのは出来る者がすればいい、ひよっこは生き延びるために全力を尽くせ、という話は、まさに若者たちへの大人からの言葉だなと思いました。それから、音と漢字のあてはめ方がいいですよね。「飛ぶ鹿」と書いて「ピュイカ」と読ませるのは、いかにもピュンピュン飛ぶように駆ける鹿を思わせて、うまいなと思いました。ただ、上下巻の大作のわりには少し印象の薄い物語でした。

しじみ71個分:長編で、世界も人物も複雑な構成になっているのに破綻がない。これだけの世界を構築できる筆の力がまずすごいと思います。ローズマリー・サトクリフのローマ帝国時代のブリテンの物語シリーズを思い出しました。あとがきに、上橋さんはご両親の介護や、ご自身の更年期障害といった、命、生死、病といった問題の中で向きあう中で生まれた物語だと書かれていましたが、上橋さんの思いがよく伝わる作品だと思います。柳澤桂子さんの著書にも言及しておられましたが、私も『われわれはなぜ死ぬのか : 死の生命科学』(柳澤桂子著 草思社 1997)を読んで生物の生死について考えたこともあったので、自分の関心に重なるところの多い作品でした。人の手の水かきが出来ては消えていくように、個体の中で生滅、生まれては死ぬことを繰り返しているという命の不思議さを描くことに挑んだ上橋さんの思いに強く共感します。政治的な面でも、あの国がモデルかしら、とか想像できるのもおもしろいポイントでした。いぶし銀の大人のラブストーリーとしても読めるし、医療、政治、家族等多面的な読み方ができる作品ですし、いろんな知識がもりこまれていておもしろかったです。想定する読み手は高校生以上くらいでしょうか?

ヒイラギ:最初に読んだときは、医学の部分や政治の部分は難しいなと思って、いい加減に飛ばし読みしてしまいました。登場人物がたくさんいて関係も複雑だし、政治の部分も、最初読んだときは私自身の頭の中がうまく整理できなくて、表面的なおもしろさだけを追ってしまったんです。でも今回は、自分で地図も人物関係リストも作りながら読んでいったら、前よりずっと頭に入ってきて、おもしろさも深まりました。構成もよく考えられていて、医学や政治の部分の理屈や説明が続く後にはユナのかわいい言葉や自然の描写があって、うまく調和がとれているんですね。そのあたり、すごくうまいと思います。動物と人間の結びつきもおもしろくて、そのあたりもじっくり考えて書かれているように思います。
ユナが子どもの実像と少し違う、という意見も聞いたことがありますが、この本の中ではこれでいいじゃないかな。知らない親族のところで暮らしたり、ホッサルのところに行ったり、がまんしているところはわずかしか描かれていませんが、ユナが主人公ではないからね。生物の死については「病の種を身に潜ませて生きている。身に抱いているそいつに負けなければ生きていられるが、負ければ死ぬ」というふうに書いてあったりするところで、1回目に読み飛ばしていたのが、今回はああ、なるほどと思ったりもしました。非血縁の人たちが家族をつくっていくというところもおもしろいなあ、と思って読みました。

アンヌ:文庫版には地図がついているようですよ。

しじみ71個分:私は科学的な硬い記述と、ソフトなストーリー部分が交錯することによって、読み方にリズムができるので、それがおもしろいと思いました。ユナについては、ウィルスに感染した生き残りなので、突然変異して新しい人類となってもっと活躍したりするのかと期待したけれど、そこはそうではなかったですね。

アンヌ:たしか親戚の伯母に預けられたとき、ユナは頑固に誰にもなつかないで家を抜け出してばかりいると描かれていますよね。

レジーナ:ユナの舌足らずなしゃべり方は、ところどころ幼すぎるというか、ちょっと不自然に感じるときがありました。

ヒイラギ:私はそれは引っかかりませんでした。この異世界にはいろいろな言語や方言があるのかもしれないし、様々な種族の中で育っているので、最初からすらすらとはしゃべれないんじゃないでしょうか?

冬青:ユナは、リアルな人間の子どもというより、少しばかり神性を持った存在として描かれているような気がしたけど……。

しじみ71個分:確かに、ユナのしゃべり方はその年齢の実際の子どもとはちょっと違った感じは受けました。大人が見た小さい子ども像的な印象。そういえば、私は、描写からユナの絵柄が思い浮かんでこなかったですね。

エーデルワイス(メール参加):以前読んでから読み返していません。文庫でも人気で、予約が続きました。読み応え充分で、浸りたい作品です。日本でもないヨーロッパでもない、架空の時代と世界がなんともたまりません。ただし、私はNHKで放送中の「守り人」を見る気になれません。上橋さんの世界観を出すのには、テレビドラマではむずかしいのかな? ところで、『鹿』ですが、日本中増え過ぎてこまっています。岩手でも問題になっていて、駆除されつつあります。11月下旬に処理されたシカ肉がよそから我が家に届きました。夫がシチューにしてくれましたが、山での姿が思い出されると夫は口にしませんでした。私は「鹿の王」など忘れペロリと食べました。牛肉のようで美味しかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年12月の記録)

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キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

わたしがいどんだ戦い1939年

西山:これだけのかたくなさは、なかなかない、というのが一番の印象です。ひどい扱いを受けている子が描かれている作品は読んできましたが、「丸太をなだめているようだ」という表現があったと思いますが、心も体もここまで硬直している登場人物というのは、私はちょっと記憶にありません。幼児期に当たり前に面倒を見られない、それどころか、暴力も振るわれていたわけですが、それが、知識が足りないという次元ではなくて、自分が何を感じているのか感情自体が自分のものでないようなことになるのだと衝撃を受けました。例えば、p266の中ほど、「スーザンへの怒り(略)母さんへの怒り(略)フレッドへの怒り(略)」何事にも怒りとしてしか出てこない。未分化な感情に混乱するばかりの様子が繰り返し出てきて、圧倒されながら読みました。そういうエイダの内面もそうだけれども、どうなるか、どうなるかと先が気になって読み進めるタイプの本ですね。イギリスの戦時中の感じが、灯火管制とか、人を見たらスパイと思えとか日本と同じだなと思う部分と、それでもクリスマスを祝う様子とか、やはりまるで違う部分とか興味深かったです。

マリンゴ: 全体的に、すばらしい作品だなと思いました。引き込まれて、一気に読了しました。もっとも、穏やかな気分で読み終える直前に家が焼けちゃって、ええっ、ここで終わるの!?というショックはありましたが。あとがきを読んだら、続編が出るとのことで、それなら納得です。続編を早く読めたらいいなと思います。あと、1か所だけ気になったのは、2度目に会ったときの母親の態度。前半とあまりにも変わらないので、どうなんだろう、と。娘の変化と息子の成長を脅威に感じて、辛く当たるにしろ、もう少し態度が変わるのではないのかな、とちょっとだけ気になりました。

ハリネズミ:同じ時期のイギリスの子どもの疎開を書いて、同じように虐待されている子どもが、偏屈なつき合いの悪い大人と心を通わせていくという作品に『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)がありますね。最初に『おやすみなさい〜』を読んだときは、こんな母親がいるのだろうかといぶかったのですが、これを読んで、ああ、やっぱりいるんだな、と思ったりしました。また『おやすみなさい〜』は物語が直線的に進んでいきますが、こちらはやっといい方向にむかったと思うと、またパニックになったりして、とんとんとはいきません。後書きを見ると、著者はご自身も虐待を経験しているとのことなので、こちらのほうが、よりリアルなのかもしれませんね。それから、イギリスは階級社会ですから、労働者階級のエイダと中流階級のスーザンとは、日本語版で読む以上に隔たりがあるんだと思うんです。日本語に訳してしまうと、そのあたりはよくわからなくなってしまいますけどね。さっき、『春くんのいる家』(岩瀬成子著 文溪堂)の日向は大人っぽいという声がありましたが、この作品のエイダはもっと大人ですね。おかれた状況から、早く大人にならざるを得ないということがあるのかもしれません。

アンヌ:私はこの本に夢中になってしまい文字通り一気読みしました。列車の中から馬に乗った女の子を見るところから始まる、馬に乗り自由に走れることへの憧れや、馬との一体感がとてもうまく描かれていて、K.M.ペイトンの作品、例えば『駆けぬけて、テッサ』(山内智恵子訳 徳間書店)などを思い浮かべ、どんどん読みすすんで行きました。はっきり書かれていませんが、スーザンは多分レズビアンの恋人を失い、その関係性ゆえに村人や父親から疎外されたと感じているのだと思います。その喪失感から鬱状態になっていたところに、エイダたちが来て、だんだん立ち直っていく。子供たちの世話をしながら時々ひどいことを口にしてしまうのも、そのせいだと感じました。エイダは母親の虐待にひどく傷ついている子どもで、何度も何度も拒絶されたときの思いが甦って、相手を信じることができません。無知で人と会うこともなく育っているので、他人を拒絶する言葉をつい言ってしまいます。そんな彼女が変わったのが第36章のダンケルクです。自分が他者に対して何かできると知った時変わることができるのだと作者は言いたかったのだと思います。そうでなければ、ロンドンでもパニックになり立ち直れなかっただろうと思います。この本はとても心に残るので、ついつい続きを考えてしまって、早く続編が出ないと心が安まらない気がしています。

ルパン:たいへんおもしろく、夢中になって読みました。いちばん気に入っている場面は、エイダが警察官に向かって「足は悪いけれど、頭は悪くありません」と啖呵を切るところです。主人公に早く幸せになってもらいたい、という一心で読んだので、お茶の招待になかなか応じないところでは、「早く行け~」と心の中でさけんでいました。

よもぎ:とても読みごたえのある、いい本でした。冒頭の母親があまりにもすさまじくて、ディケンズの小説を読んでいるような……。こういう貧困家庭に育った子どもたちが、ミドルクラスの家に預けられるということがあったんですね。激しい虐待にあってもエイダが心の底に持っていた清らかな魂というか、それは弟に対する愛情によって辛うじて保たれていたものだと思いますが、その魂が馬や、スーザンや、村の人々によって、やがてほぐれて育っていく様子に感動しました。日本の学童疎開にも、いろいろなドラマがあったに違いないのですが、このごろはあまりテーマとして取り上げられないですよね?

ヘレン:この本も『春くんのいる家』のように、子どもの気持ちがよく感じられますね。

レジーナ:私も『おやすみなさい、トムさん』を思いだしながら読みました。p110に「わたしたち、暴風雨にもてあそばれてるね」とありますが、主人公は、戦争や家庭環境など、自分の力ではどうしようもないことに翻弄されます。でもp103に、自由とは「自分のことを自分で決める権利」とあるように、最後には自分で人生を選びとっていくんですね。それまでスミスさんと呼んでいたのが、p184ページからはスーザンと呼ぶようになります。主人公の気持ちが変わる重要な場面だと思いますが、どうしてここでそうなるのか、気持ちの変化についていけなくて、ちょっと唐突な印象を受けました。

何人か:そこは、それでいいんじゃないかな。

ネズミ:ひきこまれてぐいぐい読みました。エイダがどんなふうに成長していくか、目が離せない。「外国の小説」という感じがしました。日本の作品だと、相手はこう思うだろうと思いながらも、人と人があまり直接的に思いをぶつけあわないけれども、この作品の場合、エイダとスーザンが、面と向かって言葉で伝えていく場面が多いですよね。人間関係の作り方の違い、関係性の違いなのでしょうね。そういう違いがおもしろくもありますが、時には息苦しくなるほど。英米の作品に慣れている子どもじゃないと入りにくいかなと思いました。

ヒイラギ:疎開を取り上げた日本の作品は、いじめとか空腹などがテーマで、こんなふうに、それを機会に成長するとか、新しい出会いがあるなんていうのは少ないですね。角野栄子さんの『トンネルの森 1945』(KADOKAWA)はちょっと色合いが違いましたが。

よもぎ:『谷間の底から』(柴田道子作 岩波書店)は、疎開児童が初めて書いた作品として出版当時は話題になりましたが、今でも読まれているのかしら?

ネズミ:この本の表紙はすてきですが、中身のイメージと違うかな。飛行機乗りみたいで。

エーデルワイス(メール参加):読み応えがあって、一気に読みました。まるで昔話の継母のような、主人公エイダに対する実母の仕打ちは、無知なる生い立ちのせいでしょうか。最近いとうみく作の『カーネーション』を読んだばかりですが、母親に愛されないというところは、なんともいえない切なさがありますね。エイダが、虐待による後遺症で、呼吸困難になったり、人に触られる恐怖を感じるところは、具体的でリアルでした。弟のジェイミーが環境の変化でおねしょをする場面では、どんな母親でも恋しいのだろうと思わされました。里親のスーザン・スミスは最初は頼りないように思えましたたが、毎晩エイダとジェイミーに本を読んでくれたり、ジェイミーが学校の担任に左手を矯正されるのに対し毅然とした態度で言い負かすところに惚れ惚れしました。ラストは感動的。続編はどのような展開になるのでしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題」2017年11月の記録)

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岩瀬成子『春くんのいる家』表紙

春くんのいる家

ルパン:おもしろかったです。岩瀬成子さんの作品はどれも好きなので、期待していました。複雑な人間関係や心の綾はとてもよく書けていて、さすがだと思いました。ただ、もう少し春くんの魅力が伝わってもよかったのかな、と思います。おもしろかったけれど、印象が薄いというか・・・。

アンヌ:なんだかまるで詩を読んだように感じました。特に心に残ったのは、春くんが夕方まで自転車を乗り回し、日向もまねをするところです。この子たちの孤独と自由と未来への不安が感じられました。ネコを拾ってきた場面では、家族の会話が開かれていく予感がとてもうまく描かれています。でも、こんな風に分析していかないほうが、読んだ後に、ふんわりとしたひとつの世界を感じ続けられるような気がしています。

ヒイラギ:大きな事件は起こりませんが、日向は親が離婚したために母親と一緒に祖父母の家で暮らすことになるし、春くんは父親が病死して母親が再婚し、祖父に請われて「跡継ぎ」として祖父母の家にやってくる。みんなが新しい環境の中で最初はぎくしゃくしているんですが、だんだんにそれぞれがそれなりの居場所を見つけて行く過程が、とてもうまく書けていると思いました。たとえばp34「お客さんみたいだ、わたしと春くんは。いいのに、いいのに、とわたしは思う。親切にされると、親切にされている自分が特別な子になったみたいな気がする」と日向が思うところとか、p46で春が「自転車で走っているとね、なんか、自分が軽くなる感じがするんだよねえ。たとえば、名前とかさ、どんな学校にいってるかとかさ、たとえば家族とか、そんなもんがだんだん消えていって、かわりに体に空気がはいって軽くなるような、そんな気がね、する。それが、たぶん気もちいい」と言うところなんか、うまいなあ、と思いました。日向の母親が離婚の原因を子どもに言わないで何となくごまかすことろは日本的ですが、でもこの母親も家族の今をよく見ていて、「うちは今、なんていうか、たいへんなときじゃないの。今までべつべつに生活していた人間がこうやってあつまって、なんとか家族になろうとしているのよ。つまり、たいへんなときであるわけよ。でしょう? この際だから、ね、ネコも飼いましょう。みんなでいっしょに家族になればいいんじゃないのかな」なんて言ったりするのも、いいですね。最後に、日向がなんだか笑えるような気持ちになって安心するという場面も、言葉で状況を説明してはいないのですが、読者も一緒に明るい気持ちになれますね。

マリンゴ: 岩瀬さんの作品は、小学高学年以上向けのものは何冊も読んでいるのですが、中学年向けは初めてでした。言葉にしづらい感情を言葉にするのが岩瀬さんならではの作風だと思いますが、それを中学年に対してもできてしまうところがすごいと思います。どの年齢の子にも言葉にできない感情はあるでしょうけど、学年が下がるほど、ボキャブラリーが少ないために表現できない気持ちが増えると思うんですね。そういう子たちが、本作を読んで「それってこういう気持ちなのか」と、ハッとすることもあるのではないか、と。また、会話の文体ですが、普通は小学生同士の会話って、くだけた現代的な方向に行きがちですが、この作品では、佐伯さんが丁寧語でしゃべってたりして、そこがとてもユニークだと思いました。

西山:文学だなあ、と思います。岩瀬成子の作品は、筋は忘れちゃうんです。というか、説明しろと言われても、筋が浮かぶわけではない。でも、読みはじめると、岩瀬成子の世界だ!と思う。たとえばp21の「わたしは春くんの青いソックスを見た。春くんとなにか話したいのに、でも、なんのことを、どんなふうに、話せばいいのか、わからない。」「春くんは、わたしが春くんの足を見ているのに気づいて、青いソックスの指先をぴくぴくと動かした。」こういうところ、理屈で説明できない、これ以上でもこれ以下でもない描写に、岩瀬成子だなぁと思ってしまいます。こういう一つ一つが、子どもの心をいい方向に複雑にしてくれる、その複雑さはもやもやを抱えた子どもの救いになるんだろうと思います。佐伯さんの丁寧語も独特の味を出していて、p27の「猛然と腹が立った」とか「それはね、思い過ごしでしょう」とか、こういう話し言葉は、岩瀬成子の世界を作っていると思います。子ども読者がそういう言い回しに出会うことはとても良いことだと思いますし、こういうのはおもしろがると思う。そこここに散りばめられたユーモアも好きですね。「おばあさんになったら、だれでもネックレスを好きになるんじゃないのかな」(p29)なんて、笑ってしまった。刺身を応接間の高そうな壺の中に隠してた思い出話のところもおもしろい。p49の「おれら、悪い子だなあ」「うん、悪い」「わたしは急にうれしい気もちになった。もっと、ずっと悪い子になれそうな気がしてきた。不良とかになろうと思えば、なれるかも、と思った。そしたら、おじいちゃん、きっとすごく怒るだろうなあ。/くふ、くふ。わたしは笑った。」なんて、おもしろくてたまらない。独特で、硬直した子どもにまつわる問題意識みたいなのをゆるめてくれる気がする。一言一言がおいしい1冊でした。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。大きな事件が起こらないのに、物語が成り立っているのがすごいなと。だれが何をしたという筋を楽しむ物語と、岩瀬さんはまったく違うアプローチなんですね。行ったり来たりする思いや細やかな気持ちを見せてくれる作品。p36の「ほんとは気もちがごちゃごちゃしたのだけれど、ごちゃごちゃする気持ちをうまく伝えることなんて、できそうになかったから。」と、p61の「おじいちゃんのなかにも、いろんな気もちがごちゃごちゃとあって、怒りたいとか、心配だとか、もっとべつの気もちもあって、そのいちいちが、すんなりでてこないんだ。」、こういうのを読むと、言葉にできないこともすべてひっくるめて表されていてすばらしいなと思いました。一人称で書いているのに、この子の世界や家族のひとりひとりのようすが自然に伝わってくるのもうまい。大きな事件が起こるのを求めている読み手はとまどうかもしれないけれど、手渡せば好きな子はいるだろうなと思います。「しっかりしろよ、娘」とお父さんが言う父娘の関係が今風で、ステレオタイプな人が出てこないのがおもしろいな。

レジーナ:祖父母といっしょに暮らすようになって、そこに従兄もくわわって、どこかぎくしゃくしていた関係性が、猫を飼いはじめたことで少しずつ変わっていきます。子どもの心を繊細にとらえて、くっきりと描いていますね。

ヘレン:すごくやさしくてわかりやすい話です。子どもの感じとか大人の感じが描写されていて。はっきりした筋があるというより、雰囲気を大事にしている作品です。日向ちゃんは大人のことをよくわかってくれていますね。

よもぎ:わたしも、西山さんとおなじに「文学を読んだ」という感動をおぼえました。悲しいとか、辛いとか、嬉しいとか……そういう感情の底というか、とっても薄い幕の向こうに透けてみえる心の動きを掬いとるのがうまいなと、いつも思います。わたしがいちばん好きなのは、春くんが夕日の沈む瞬間を見たというところ。最後に、日向ちゃんといっしょに朝日を見ようというところと呼応していて、見事だと思いました。それにp85の日向ちゃんの「だってしょうがないじゃん」という台詞。10歳の子に、こういうことをさらっと言わせるなんて、すごい! わたしは常々、ひとりひとりの人間が描けていれば、たいした筋がなくても、それだけで文学として成立すると思っていますが、この作品でも同じことを感じました。日向ちゃんの家族はもちろんのこと、友だちの佐伯さんや合田くんも、ページからくっきりと立ち上がるように描けている。会話が上手いってことでしょうね。佐伯さんの「なめとこ山の熊」の話、とってもおもしろかった。筋がないという話が出ましたが、実は、ゆったりとした、大きなストーリーが流れているんじゃないかな。

エーデルワイス(メール参加):小四のひなたと中二の春くんは、大人の事情で翻弄されているように思いました。それでも子どもは、自分の居場所を見つけていくのですね。淡々と生きて行く春くんと、それを見つめるひなた。悲劇になってもおかしくない物語ですが、明るい方へもっていきましたね。佐伯さんの「なめとこ山のくま」の話がおかしかった。岩瀬さんは賢治がお好きなのでしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題2017年11月の記録)

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図書館の神様

きゃべつ:瀬尾さんは好きな作家です。瀬尾さんの作品では、いつも主人公が、自殺したくなったり、恋人が死んでしまったり、どん底の状況になることが多いですよね。でも、生老病死は避けられないけれど、だからといって救いがないわけではないということを、いつも全力で言っていて、そういうところが児童書らしいなと思います。この作品でも、最後のところで、救われる場所や人はちゃんといる、ということを書いていますよね。作品の根が明るいところが、森絵都さんの作品に通じている気がします。

オカリナ:私、この本のよい読者ではなく、身につまされるところがあってそこを中心に読んでしまいました。この主人公は本嫌いなんですね。で、私も今、本嫌いの人たちと付き合わなければならない立場にいるのです。だから本嫌いの人って、そうか、こんなふうに思うのか、こんな反応をするのか、だったら、こっちはどうすればいいのかな、なんて考えながら読んでしまいました。

きゃべつ:瀬尾さんは、たしか司書さんでいらっしゃいますものね。もしかしたら、そういった読書嫌いの子と日々向かい合っているのかも知れません。

オカリナ:読後感のいい小説ですね。

アンヌ:頭痛を逃れるためにスポーツに打ち込むという設定には、じんましんの痒さを逃れるためにスポーツを始めたと言っていた人がいたので、リアリティを感じました。ただ、ここまで本を読まない国語の先生なんているはずがないと思ったのですが。

一同:いっぱいいるんじゃないでしょうか。

アンヌ:垣内君が、高校生にしてはできすぎているようで。夜中に電話をしても怒らないし、なんだか主人公のことを、呆れながらも見守ってくれている老紳士のようでした。弟も心配して5年間毎週のように様子を見に来てくれているし、3人の男性に守られて時間とともに更生していく話と感じました。ただ、夏目漱石の『夢十夜』をとても怖がりながら読んだり、授業で生徒たちと語り合ったり、生徒の書く物語を読む場面は好きでした。先生には、こんな楽しみもあるんだなと思いました。

ジラフ:この作家は好きで、わりとよく読んでます。自殺未遂だとか、この作品もそうですけど、何かつらいことがあって、水の中でじっと息を潜めているみたいにやり過ごしている時間のことがよく書かれていて、読み終わった後にある種のカタルシス、清々しさを感じます。淡々としていて、地味な作品が多いのに、この読後感にもっていけるのは、作者に力があるんだと思います。主人公が恢復していく場所が、この作品では図書室で、ここで「袖振り合う」というくらいの淡い出会いがあって、でも、たがいに必要以上に深くは踏み込まないで、また別れていく。そのあっさり加減がいいんです。でも、「袖振り合うも多生の縁」で、やっぱりそれはかけがえのない、再生に不可欠な、ひとつの出会いのかたちなんだと思います。

レジーナ:さらっと読みました。主人公はバレーに一生懸命で、正論を語りますが、正しさというのはひとりよがりになることがあるし、人を追い詰めることもありますね。特に悩みを抱えた人は、正しさを求めているわけではなく、自分の気持ちを受け止めてもらいたいだけだったりしますよね。でも高校時代の主人公には、それがわからなかった。不倫についても、相手に嘘をついてないから裏切ってないかというと、そうではないように、人間関係や人生には白黒つけられない部分があって、この作品はそこを描いているのだと思いました。浅見さんは自分の教え方に問題があるから、生徒が料理教室をやめていくことにも気づいていません。子どものような大人ですね。魅力が感じられませんでした。主人公と垣内君が、日本十進法から教科別に、本の並びを変える場面があります。一時、赤木かん子さんの提唱で、すべての本を内容別に並べる学校が増えました。しかし非常に使いにくく、今、困っている学校がたくさんあります。特定の主題にくくれる本ばかりではないですし、ひとりの担当者の考えでその本の主題を決めても、どう分類したのか、後から配属された人にはわかりません。p122(※単行本)に、10年以上寝たきりだったおばあさんがサナトリウムに入ったとありますが、ホスピスではないでしょうか。今の時代、結核患者のサナトリウムはあまり見かけませんが。

レン:さらっと読みました。大人の童話だなと思いました。高校生も読んでると思うけれど、大人が懐かしんでいる感じがして。主人公は社会人になってもまだ自分探しをしていて、大人になりきれない大人が、中高校生に寄りかかる。そういうのを私は、積極的に中高校生にあまり勧めたくないなあと。親が子に不満をぶつけるとか、高校生に頼ってしまうという状況がいやなんです。

紙魚:私も大いにそう思います!

レン:大人に守られるべき18歳以下の子にもたれるというのは逆だろうと。

オカリナ:この主人公は浅見さんには寄りかかっているけど、垣内君には寄りかかってないと思う。不満をぶつけたり、悩みを打ち明けたりはしていないから。

レン: 最終的に主人公は救いを見いだすし、読者も希望を抱けるのかなと、みなさんの話を聞いているうちに少し思えてきたけれど、それでも、大人の童話かな。

オカリナ:いや、この主人公もまだ大人にはなってないんじゃないかな。20歳で自動的に大人になれるわけじゃないから。垣内君は、何か問題を抱えていそうな主人公にやさしいけど、それだけで、別に負担に感じたりはしていない。一定の距離をおいて対応しているんだと思うな。

紙魚:物語の印象が非常に軽やかでふわふわしていて、やや頼りない文体、あいまいな人物設定には、個人的には信頼しがたいなと感じてしまいました。自殺とか、不倫とか、病とか、通常、ごくごく気をつけて扱うべき事柄を、あっさりと書いてしまうことにも、ちょっと違和感を持ちます。でも、もしかしたらそれも、作者の意図なのかもしれません。というのも、この小説には、深刻さの押し売りがなかったなと。読み進めるにしたがってだんだんと、登場人物の事情がちらっと見えてきたり、人がどう本から影響を受け変わっていくかということが伝わってきたり。人間関係はすごくやっかいでめんどくさいことは、もちろん作者だって承知のうえで、でもそれを最初から書かず、解像度が低い景色から、だんだんと識別可能な精密さへ持っていこうとしているのかなとも思います。ただ、正直なところ、この主人公はあんまり好きになれなかったです。大人とは思えなくて。
オカリナ:主人公は垣内君に頼ってはいないですよね。

紙魚:確かに、頼っているわけではないんですよね。このような大人と少年の関係性は、山田詠美の初期の作品などにもちょっと似ている感じがあります。

きゃべつ:先ほど、森絵都さんの『ラン』(角川文庫)と作品が似ているという指摘がありましたが、たしかに『ラン』の主人公も22歳で、児童書の主人公になる年齢ではないし、子どもでいていい年齢でもないと思います。ただ、肌感覚として、社会人1、2年目って、ほんとうにぐらぐらしていて子どもだし、森さんにしても、瀬尾さんにしても、大人として描いていないのではないでしょうか。このお話のユニークなところは、文芸部の顧問と生徒だったら、顧問が詳しくて、生徒がやる気ないのがふつうだけれど、それが真逆なところですよね。立場が逆転しているからこそ、先生と生徒という関係性でも、対等でいられるのではないのかなと。だから、精神的に依存しているわけではないのだと思います。たしかにその軽重を理解せずに、安易に生老病死を扱ってはいけないですよね。そのことは、新人賞の選考会でもよく話題になりますが、瀬尾さんの場合は、その重みはよくよく分かっていて、わざと問題そのものを真っ正面から描かず、回復していく心に焦点をあてているのではないかなと思います。生老病死に苦しむ気持ちは読者の内側にあるから、それを借景にして、そこから先を書く、というような……。

パピルス:読みやすくてパッと読むことができましたが、特におもしろいとは思いませんでした。人物描写が薄っぺらいというか、例えば、最初に不倫相手が出てきたときの会話では、「不倫相手」(男性)と会話してるというのがわかりませんでした。同性との会話か、ファンタジーみたいに人間じゃない生き物と会話をしてるのかな? って思ってしまいました。主人公は過去に傷があり、再生していく物語であると帯で謳われていました。その傷というのが同級生の自殺でした。傷を表現するためにとってつけたように死を持ってきたような印象を受けました。

ルパン:これ、半分くらい読んだところで、ようやく「前にも読んだことある!」って気がつきました。

オカリナ:印象が薄い本なのかしら。

ルパン:エンタメとして読んじゃいました。同級生の死に責任を感じている、っていう設定なのに、いまひとつ「重さ」が伝わってきません。国語の教師が、高校生に触発されて本を読み出す、というのも、まじめに考えたらちょっと……。とりあえずおもしろかったけど、マンガみたいな感じでさらっと読んじゃったからだろうな、と思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


マークース・ズーサック『本泥棒』

本泥棒

ジラフ:とにかく文体が新鮮で、語り口が魅力的でした。ナチス政権下のドイツっていうシチュエーションで、こういう女の子が主人公の話は、ほかにもあるかもしれないし、あり得ると思うんですけど、作者がノートに自由に書きつけていったみたいな、みずみずしいアプローチにぐいぐい引かれて、読み進んでいく感じです。訳者のあとがきによると、最初は100ページくらいの、もっと短い話を書くつもりが、ナチス時代のドイツというシチュエーションを得たことで、物語がふくらんで、こんなに長くなってしまったそうです。登場人物の心象風景がすごくビビッドに伝わってくる表現もいっぱいあって、それは、物語の展開を、語り部の死神が「上から」見ているせいかもしれません。

アンヌ:とても読みづらく、苦戦しました。特にプロローグ。死神のモノローグで始まるので、SFなのかと思ったりしました。その後も、まさか語り手として死神がずっといるとは思わなかったので、なかなか物語の中に入り込めませんでした。死神というものが、神なのか神のしもべなのか、よくわからないせいかもしれません。いきなり、かくまわれているユダヤ人の青年が絵本を書き、それがそのまま文中に出てくるのも斬新でした。主人公のリーゼルが本を読むことを覚え、やがては防空壕の中や隣家のおばさんに朗読するようになる物語には感動しました。養父母が実は優しい人だとわかってくるとホッとしました。特に、お父さんがとても魅力的でした。飢えている人にパンを与えずにいられないとい人。けれど、それが、罰せられる社会に震撼しました。ヒトラー・ユーゲントについて書かれていることも衝撃的で、このように、与えられた言葉を唱えることの方が重要だという教育を受けると、自分でものを考えない大人になっていく、自分で物事を判断しない、ただの兵士が出来上がるのだなという怖さを感じました。

パピルス:読みにくい本でした。中盤までは一文一文読んでいたのですが、後半は斜め読みをしてしまいました。ちゃんと読めていなくて消化不足なので、あれこれいうのは気が引けますが。まずは文体が特徴的でした。短文でパッパと展開していく印象を受けました。死神の視点で物語が進んでいくというのがおもしろいと思いました。主人公が預けられた家の人たちは、最初は冷酷な人たちに思え、主人公には悲惨な日々が待ち受けていると思われました。ツライ物語かと。が、実は皆良い人だったので安心しました。予想も裏切られておもしろかったです。本を通して主人公が文字を覚えていくところが好きな部分です。ナチス政権下に生きる人々を描いた作品では、『ベルリン1933 』(クラウス・コルドン著 酒寄進一訳 理論社)を読みました。コルドンの作品では、時代背景の描写がもっとしっかりしていてよく伝わり、その時代に懸命に生きた人々の姿が鮮明に描かれていました。なぜ「ナチス政権下のドイツ」をテーマにしたのかがわかりました。ちゃんと読んでないので間違っているかもしれませんが、今回の作品は「皆さんご存知の絶対悪のナチスや、皆さんご存知の絶対悪のヒトラーが」というように、小説を書くための単なる要素の一つとしてナチスを扱っているような印象を受けました。

オカリナ:ここ10年でいろいろ読んだ中で、私はこれがいちばんといっていいほどおもしろかった。死神とあるけど、英語では大文字のDeathでしょうね。日本語では神となっているけど、一神教の場合は神のほうが位が上。だから、別に矛盾はないと思います。それから、ナチスはドイツでも絶対悪というふうには捉えられていないと思います。悪魔のしわざではなく普通の人がああいうことをする流れになっていったのが怖いのです。この作品も、そのあたりをうまく書いています。生と死、愛と別れ、狂気と正気、そういうものをとてもうまく書いている。そして死神にも個性や情をもたせているのもうまい。この作品は言葉の問題も扱っていますが、ヒットラーの言葉と、庶民がつながっていく言葉が別種のものだということがわかる。それから、登場人物の一人一人がとても個性的で、ちょっとしたことから性格やその人の世界観がわかるようになっています。一つ気になったのは、小見出し(死神の言葉)の扱い方。原書でセンター合わせになっているからといって、日本語でもセンター合わせにしたら読みにくい。あんまり考えないで編集してますね。

紙魚:これはきっと、原書がそうなっていたんでしょうね。横書きだとセンター合わせでよいでしょうが、縦書きでこうするのは間違いだと思います。

オカリナ:人物像もそれぞれがくっきり現れてきます。養母も悪態ついてるけど、実はいい人だというのも読んでいるとわかってきます。ヒトラーの言葉と、ふつうの人がつながっていく言葉はちがう、と書かれている部分なんかも深いです。リーゼルの父親への愛情も心を打ちます。だから死神もリーゼルを特別扱いするんですね。

ルパン:すみません、まだ途中までしか読んでいないんですど、出だしのところから、「死神が語っている」という設定が子どもにわかるのかなあ、と思いました。あと、各章のはじめに見出し? みたいなものがあるのですが、これがわかりにくかったです。ストーリーの先取りのようですが、じゃまをして話の世界にどっぷりつかれないように思います。

オカリナ:ここは必要だと思いますけど、訳が不十分なので、有機的につながっていないんじゃないでしょうか。

紙魚:そもそもは一般書だったのに、アメリカでヤングアダルトとして刊行したらすごく売れたという話を聞いて気になっていたので、じつは映画を観てしまっていました。なので、すでにあらすじが頭にあり、みなさんよりは読みづらくはなかったと思うのですが、それでもやはり難航しました。この本の印象は、読み手がどう死神とつきあうかで変わると思うのですが、本のつくりのせいなのか翻訳のせいなのか、どうも死神にうまく引っ張ってもらえなかったように思います。でもこの本は、死神を語り手にしたからこそ、時間も場所も自在に移動できたんですよね。好きだったのは、地下室でリーゼルが本を読む場面です。そのシーンが読みたくて、読み進められたといってもいいくらいでした。弟も死んでしまい、両親とも別れ、なにも持っていない女の子が、言葉を手に入れることで生きる力を得ていくということが書かれている物語です。ああ本っていいものだなあとあらためて素直に思えました。私も本の世界にたずさわる者として、なんだったら、盗んででも本を読んでほしいなあとさえ思いました。実際のところ、状況はまったく別ですが、もしかしたら将来、本の世界がやせ細り、読みたい本が読めない時が来てしまうかもしれないと、最近、危機感を抱くこともなくはないんです。

きゃべつ:売れる本だけをつくろうとすると、多様性が細っていくような気がするので、そうならないようにできればと思います。

紙魚:自由に好きな本が読める喜びを、本の中で感じました。途中、マックスの書いた寓話が入っていますが、あの部分、よいリズムを生み出していますよね。それにしても、アメリカでベストセラーになった本で話題性もあったというのに、なぜ日本では売れなかったんでしょうかねえ?

オカリナ:日本語版の体裁や、死神の台詞の部分が読みにくいですよね。私は、小見出しをとばし読みしました。私も映画をDVDで見ましたが、映画より本のほうがおもしろかったです。せっかくの内容なのに、編集の仕方で損をしてるのかもしれませんね。

ルパン:もし書店や図書館でプロローグだけ立ち読みしたら、そのまま棚に戻していたかもしれません。

アンヌ:字を太くして強調されると、逆に読みにくくなってしまうと思います。

オカリナ:英語で太い字になっている部分を機械的に太くしているのでしょう。もっと配慮した編集をしないと、いい本だって売れないですよね。もったいない。

きゃべつ:字を大きくしたりするのは、ハリーポッターから目立つようになった気がしますね。

ルパン:アスタリスクも気になります。内容はいいんですけどね。気に入っているのは町長の奥さんが「盗んででも本を読んでもらいたかったの」というところです。

レン:ごめんなさい。まだ3分の1くらいしか読めていないんです。おもしろいと言われたので、どこかですっと読みだせるだろうと期待してきたんですけれど、まだ入りこめていなくて。語り手が死神であることも、50ページくらい行ったところで、ソデの「わたしは死神。」というのを読んで初めてわかったのですが、それがわかっても、やっぱりなかなか進みませんでした。
 
レジーナ:数年前に読み、非常に心を動かされました。しかし、日本語が読みにくい部分もあるので、それを含めて考えたくて、この読書会で読みたいと思っていました。語り手は、人間らしい感情を持つ死神です。毎日のように空襲があり、収容所へ向かうユダヤ人の行進が町を通る時代です。どこにも希望が見出せず、死さえも救いとなるような状況は、いわば神なき世界であり、そうした中では、神は死神となるしかない。しかし、この死神は死をもたらすだけではなく、人間らしい生き方を貫いた者、他者への思いやりを持ち続けた者に目を留めます。言葉に生かされるリーゼル、死んでいく敵国人パイロットのそばにクマのぬいぐるみを置くルディ、ユダヤ人にパンを差し出す父親……。死神は、瓦礫の中に最後まで残る人間性を照射しているのです。リーゼルを支える周りの人々の描写が温かいですね。父親は、煙草を売って本を手に入れ、読むことを教え、出征の前には、「防空壕で本を読み続けるように」とリーゼルに言います。この時点では自分でもまだ気づいていないのでしょうが、リーゼルにとって物語がどれほど大切か、父親はちゃんとわかっているんですね。リーゼルを愛する母親やルディも、深い悲しみの中を生きるフラウ・ホルツアプフェルも、粗野で武骨で、文学に関心があるわけではありませんが、豊かなものを持っている人たちなのでしょう。

 この本には、人がいかに言葉に生かされるかが描かれています。一番心に残ったのは、リーゼルが、収容所に向かうユダヤ人の列の中にマックスを見つけ、「ほんとうにあなたなの?」「わたしが種をとったのは、あなたの頬からだったの?」とすがりつく場面です。マックスはリーゼルに物語を書き、リーゼルは、病気のマックスのために石や羽を拾っては、それにまつわる物語を聞かせます。そんなマックスが収容所に送られたことで、リーゼルは、言葉というものを信じられなくなったのではないでしょうか。人は嘘をつくし、上っ面だけの言葉を言うこともあります。マックスはどうしようもなく去っていくのですが、それでもリーゼルは、マックスを失って、世界は生きるに値しない、言葉で語るに値しない、言葉は役に立たないと感じたのではないでしょうか。

 私は4歳の時から毎日、日記を書いていますが、数年間どうしても書けなかった時期がありました。本当に絶望したとき、人は言葉を失い、自分のことを語れなくなります。リーゼルは、町長夫人の言葉をきっかけにして、悲しみを乗り越え、自らの物語を書きはじめました。長田弘さんの詩に、「ことばというのは、本当は、勇気のことだ。人生といえるものをじぶんから愛せるだけの」とあります。言葉は、世界や人生への信頼に根差したものなのだと思います。リーゼルという名は、ドイツ語の“lesen”(読む)という単語に少し似ています。言葉を渇望し、物語を愛した少女にふさわしい名前です。国際アンデルセン賞の受賞スピーチで、画家賞を受賞したホジェル・メロさんは、「言論の自由が奪われた時代に育ち、政府に好ましくないことを書いたために連れて行かれる人々を目にする中で、言葉がどれほど力を持つかを知った」と語っていました。言葉には大きな力があり、だから権力者は言葉を恐れて焚書を行う。ナチスは中身のない言葉やスローガンを植え付け、考えない国民を育てる。先月、『ベルリン』三部作を書いたクラウス・コルドン氏が来日しました。若い人に向けて歴史小説を書く意味についてお話され、「歴史的な出来事の真実を書きたい」とおっしゃっていました。真実を語ること、同時に、真実を語れる環境を守っていくことが必要ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)

Comment

とびらをあければ魔法の時間

アンヌ:花柄模様の陶器の犬が出てきたので、『とびらをあけるメアリーポピンズ』(P.L.トラヴァース作 林容吉訳 岩波少年文庫)の「王さまを見たネコ」を思い出し、きっと、この犬もきっと動きだすぞとわくわくしながら読み始めました。思ったとおり、クッキーの甘さにほっとできるような別世界が開く物語でした。ただ、もう少し物語の展開をのんびりしてもらいたかったような気もしました。本の中から出てくるのが、動物とお菓子。これを1日にしないで、動物の日、お菓子の日、音楽の日、で、もう1度音楽、くらいな流れはどうだろうと考えてみたりしました。でも、3回もサボったら、先生から電話がかかって、レッスンをさぼっているのがばれるから、2回が限度かもしれませんね。こんな風にあれこれ構成を考えてしまったので、他の作品を読んでみたくなり、『あひるの手紙』(朽木祥作 ささめやゆき絵 佼成出版社)を読んでみたら、これもおもしろく、見事な構成の作品でした。

レジーナ:おもしろく読みました。子どもの時に出会っていても、きっと楽しく読めた本です。ファンタジーの場合、世界を作り過ぎる作家もいますが、そうではなく、曖昧なままで終わるのが見事ですね。

レン:すいすい読めました。おもしろいけれど、どこか既視感がある感じ。賢治の『注文の多い料理店』と似ているかな。ピアノ教師の知り合いの話を聞くと、この主人公みたいに、まじめに練習しているのにできなくて追いつめられるような子は少なそうなので、書きだしのところでどこまで今の子が物語にのってくるかなというのは、ちょっと思いました。

きゃべつ:こういうふんわりとしたお話をどう読めばいいのかわからなくて、読んでいて、気になるところがずいぶんと出てきてしまいました。まず、気になったのが、情報が後出しじゃんけんになっているところです。最初に、音楽の練習に行きたくないという話が出てくるけれど、次のページをめくって絵を見るまで、主人公がなんの楽器をやっているのかがわからず、とまどってしまいました。「メヌエット」という言葉だけで、バイオリンとわかる人が多いのでしょうか。「谷戸」や「☆のように急がず」という言葉に、注訳が入っているのも気になりました。主人公がこの言葉を理解できていないのに、読者だけがわかるだなんて、へんな気もします。あと、「鳥ノ井驛」も旧字をすんなり読んでいたりして、そういったところに、作者の存在を感じてしまいました。この物語で不思議なのは、人が出てこないところで、たとえばすずめいろ堂にはじめて入るとき、他人の家に入るのに、主人公は住んでいる人の姿を熱心に探しません。そして、勝手に人の本を手に取ってしまう。なぜ、そこには本しかないのか、なんのために存在する場所なのか、など気になることはたくさんあります。たとえばそこにおじいさんでもいたら、そのあたり違和感なく、また注釈での説明を必要とせず、伝えられたのではと感じました。
この作品がいいのは、「すずめいろどき」という言葉(概念)を使っているところだと思います。でも、すずめいろいろどきってどんなだろう、ってうまくイメージができなくて、そのせいか、世界にひたることができませんでした。すずめいろどきのあいだだけの魔法というのが魅力的なのに、最後のところで主人公が「営業時間をのばしてくれるかも」と安易に言っているのが、少し興ざめでした。あと、小見出し、2行取りで鳥が2羽以上いるのは、窮屈な感じがすると思いました。でも、高橋和枝さんの絵は、やっぱり素敵ですね。とてもよかったです。

オカリナ:この本屋さんは異空間なので、現実的でないところがあってもいいんじゃないかな。かえってその方が、異空間にさまよいこんだ感じが出るので、著者はきっと敢えてそうしているのではないかと思います。人が出てきたりしたら、リアルな日常空間になってしまいそうです。子どもって、どうしていいかわからなくなったとき、自分で視点を変えることってなかなかできない。それが、本という異世界で別の視点を獲得すると、何か見えてくる。そんなことをこの本から感じました。

レン:あさのあつこさんの『いえでででんしゃ』(佐藤真紀子絵 新日本出版社)も思い出しました。いやなことがあって家出したあと、おかしな人といっぱい会って、そこから戻ってくる。ストレスをかわすのに、こういうお話はいろいろあっていいのかもしれないですね。

オカリナ:この作者の方は、研究などもしておいでだったようなので、谷戸などにもちゃんとわかるように注が入ってるんですね。

ジラフ:楽しかったはずの習いごとがいやになって、でも、「自分で(楽器が)ひけたら、どんなにうれしいだろう」という、習い始めの楽しかった気持ちを思い出すまでのことが、とてもうまく書かれていると思いました。見知らぬ駅が、不思議な異空間への入り口になっているのもよかったです。ただ、このファンタジーの背景になっている「すずめいろどき」という時間が、具体的にどういう時間なのかイメージできなかったので、最後まで霞がかった感じがぬぐえなくて、そのことはずっとひっかかりました。「すずめいろどき」という言葉に、私はこの本で初めて出会いましたけど、どこかの地域の言葉なんでしょうか。

オカリナ:空の色ではなく、暮れなずんできたときの街並みがすずめの色みたいに見えるんでしょうか?

レン:スズメの色を、あらためて見てしまいますね。

アンヌ:こうやって本を読んだ後に、ある時ふと黄昏に、「ああ、これが『すずめいろどき』なのか」と思ったりする楽しみがありますよね。

紙魚:朽木さんの本なので、もしや教養がぎっしりつまっている物語なのかしらと思いながら読み始めたところ、いえいえ、とってもおもしろくて、物語の中にどんどん入っていくことができました。感銘を受けたのは、音楽という、文章で表現するのがもっとも難しいものが、まるで自然と音がきこえてくるかのように表現されていたことです。ふだん私たちは音楽を、美術など芸術の範疇のなかで語りがちですが、朽木さんは、そこから見事に解放されて、音楽をおかしや動物との対比によって表現している。そうか、音楽って、好きなもの、楽しいものという範疇の中に入れて、こんなふうに表現すればよかったのかと、すがすがしく感じました。

ルパン:既視感があるお話なのだけど、不思議とそこがよかった気がします。子どもの本の王道、という感じですよね。斜に構えていないところがとても好感がもてました。大傑作ではないけれど、珠玉の佳作というか、くせも気取りもなくて、読み終わったあと幸福感があって、とてもいいと思いました。

オカリナ:読者対象を考えると、あまりひねっても仕方がないですもんね。

ルパン:「お約束どおり」にストーリーが進んでいく安心感が得られます。「平凡」なのではなく、「安心感」。おさまるべきところにすとんとおさまるうれしさ、みたいなものがありました。

紙魚:p84に、「そうだった。ずっとわすれていたけど、わたしもまえはそう思っていたのだ。大すきな音楽を、きくだけじゃなくて、自分でひけたらどんなにうれしいだろうって。」という文章がありますが、この本をずっと読み進めて、ここにたどりついた時、本当に心がふわっとして、私まで、ああそうだったという気持ちになれたんです。おそらく作者は、この境地を描きたかったのではないでしょうか。私も子どもの頃ピアノを習っていたのでわかるような気もするのですが、子どもの時って、どんなにピアノが好きでも練習はいやだし、うまくなろうと地道に練習しようと考えたりもしないんですよね。でも、お稽古をやめるときかれれば、やめたいわけでもない。小さい時って、先のことを考えずに、そのつど今を生きていますから。ただ、ふと「そうだった」と思う時もやっぱりあったりするんです。このあたりのことが、なんとも自然に描かれていて、すごいなあと思いました。

ルパン:最後のところで、ピアノを始めたばかりの頃の気持ちにもどるところ、「そう、そのせりふを待っていたの」と言いたくなりました。このお話のすべては、そのひとことに至るまでの道だったんだね、という、いい意味での予定調和ですよね。結末はわかっているのだけど、そこまでのプロセスがちっとも飽きさせなくて。

オカリナ:お話の長さもちょうどいいですね。これ以上長くなると、冗長になります。

パピルス:主人公の女の子の気持ちがよく伝わり、おもしろく読みました。高橋さんのイラストも可愛く文章とぴったりで、お話の世界に自然に入り込めました。年末は仕事だったり家庭のことで忙しくて落ち着いて読書ができないのですが、時間があるときに再度ゆっくり読みたいと思いました。主人公の女の子が本から「文字」を通してメッセージを受け取るのではなく、本を開くとクッキーが出てきたり、音楽が流れてきたりして、それらがメッセージとなって女の子に伝わるという設定に感心しました。対象読者である小学校低・中学年の子に、本を読む楽しさがわかりやすく伝わるなと思いました。

きゃべつ:あっ、今調べてみてわかりましたが、「すずめいろどき」ってほんとにあるんですね。たそがれどき、夕暮れどきのことを言うようです。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年12月の記録)


アンナレーナ・ヘードマン『のんびり村は大さわぎ!』表紙

のんびり村は大さわぎ!

レジーナ:薪を積んで世界記録に挑戦するとか、八本足のテーブルで「スパイダー・クラブ」のひみつ会議をするとか、ユーモアのあるお話ですね。p33「わたしたちの脳みそ、ゆるんでたのか、とけてたのか?」など、主人公のちょっとした言葉づかいもおもしろくて、楽しく読みました。

よもぎ:とてもおもしろかった! おもしろい本をおもしろく訳すのって、なかなか難しいと思うのですが、さすがは菱木さんだと感心しました。子どもといっしょになってギネスに挑戦して、鼻の穴に棘を刺してしまうお母さんなんて、日本の物語には登場しませんよね? 主人公の女の子が養女だってことは最初に書いてあるのですが、後半になってスリランカから来た子どもだとわかる。そして、同じスウェーデンの南部から来たおじさんが「おまえとおれはよそものだ」という。日本の物語だとおおごとになりそうなことを、実にさらっと書いてあるところなんかいいですね。ああ、よその国ではこんな風に暮らしている人たち、家族もいるんだなと、小さな読者たちも自然に分かるんじゃないかしら。登場人物が多いけれど、それぞれキャラクターがはっきり描けているので、「あれ、この人は?」と迷わずに読めたのもうれしかった。

ルパン:これも、とってもおもしろかったです。挿絵の雰囲気が気に入りました。p63の、ストローを口いっぱいにくわえた顔とか、p155の、おじいさんたちが必死で薪を積んでいるところとか。お話とぴったり合っていると思います。薪を積むというミッションと、世界記録への挑戦を組み合わせたアイデアがいい。ただ、宝くじがあたって豪華客船の旅に出ているという設定はいらないんじゃないでしょうか。回想シーンにする必然性がなく、わかりにくくなるだけのような気がします。

ヒイラギ:旅行をしている間に回想したことを録音していくという設定ですよね?

アンヌ:最初の船旅のところで主人公と一緒に退屈してしまい、なかなか読み進めませんでした。村の話になってからは楽しく、北欧の生活や日本と違う価値観を知ることができてよかったと思いました。例えば、年金生活者のおじいさんがのんびりしていたり、けがをして働いていないロゲルも生活は保障されていたりするところ等ですね。後になって主人公が養女で肌の色も違うとわかり、船旅で娘だと思われなかったのはそのせいかと分かったりしました。

ヒイラギ:今回の3冊はどれも主人公が10歳という同じ年齢なのですが、テイストがずいぶん違いますね。この作品がいちばん子どもっぽい。アッベたちが、無邪気にギネス世界記録に挑戦するんですが、そこで自分たちも無理かな、とは思わないし、周囲の大人も無理だからやめろとか、せめて練習してから本番にのぞめ、なんて言わないんですね。お国柄かもしれませんが、今のスウェーデンは子どもらしい時期を大人がちゃんと保証しているってことかも、と思いました。最初のほうは常体と敬体が混じっているのですが、それに違和感を感じないですっと読めるのは、さすが菱木さんだと思いました。挿絵はおもしろかったのですが、主人公のアッベはスリランカから来たので肌の色も茶色いんですよね。その子が問題なく周囲にとけこんでいるようすをきちんと出すには、挿絵の肌ももう少し茶色だったいうことがわかるようにしておいたほうがよかったのではないかと思いました。表紙だけは少し色がついていますけどね。

マリンゴ:個人的なことなのですが、わたしはリンドグレーンの「やまかし村」シリーズが本当に大好きで。特に『やかまし村はいつもにぎやか』(大塚勇三訳 岩波書店)は、村の風景と子どもたちを描いた表紙で、少しだけこの本の装丁に似てるんですね。イラストのタッチは全然違うのですが。同じスウェーデンの作家ということもあり、そっちの方向で期待していたら、全然内容が違ったので、「コレじゃない感」がどうしてもありました(笑)。テンポよく、たくさんの登場人物がうまく書き分けされていると思います。また、子どもって先走ってどんどんしゃべってから意図を説明するような、そういうまだるっこしいしゃべり方をしがちですけど、それが文体に反映されていて、10歳の子らしい一人称だなと思いました。ただ、豪華客船の設定がうまく生かされていない気はします。普通に時系列じゃダメなのかな? 1年前の出来事と、今の豪華客船でのことがどこかでリンクする――たとえば気に食わない乗客のギュンターさんが実はギネスの記録保持者で少しだけ分かり合えるとか――そういう仕掛けがあるほうが、個人的には好みです。

西山:ルパンさんやマリンゴさんがおっしゃっていたのと一緒です。入れ子にして、回想にして、物語をわかりにくくしていると思います。豪華客船のクルーズという大枠に必要性を感じない。中でやっていることの単純明快さや、絵の雰囲気とから考えると、小学校中学年ぐらいの子が楽しく読めるはずの本だと思うので、複雑な構造はそぐわないと思いました。それはそれとして、スウェーデンの人の感性の違いを感じられたのはおもしろかったです。母親が娘のイベントの邪魔するのにはびっくりした。なんのかんの言っても、力を貸すとか何か展開があるかと思いきや、本気で対抗していて、本当にびっくり。「火薬のカッレ」の「本物の〈薪爺さん〉」ぶりも笑えましたね。p171の「どこが薪がたりないっていうのよ!」って、内心一緒になって突っ込み入れてました。いやぁ、なんか、本当にのどかなのんびり村でした。

ネズミ:私も、クルーズに出て、1年前の出来事を書くという設定がなくてもいいのに、と思いながら読みました。客船でのお母さんとギュンターのやりとりなどなしに、のんびり村の出来事を楽しめてもいいのにな、と。記録をつくろうとがんばるところとか、マムスマムスを食べて気分が悪くなるとか楽しかったです。おもしろさや子どもらしさは、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』に通じるところもあるかな。

ヒイラギ:この作品では、人種の違う養子がごく普通に受け入れられている。お母さんが娘と張り合うところも、日本だったら継母なのになんて思われるだろうと考えると、遠慮してこうは書かないですよね。そんなの一切関係なく、普通の遠慮のない親子関係になっているのが、またおもしろいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):親が離婚しようが再婚しようが恋人ができようが明るくて、スウェーデンらしいおおらかさですね。「ギネス世界記録」に挑戦するところや、薪を積み上げるところが神泉です。親友のアントンがいじめにあうところは日本と変わらないなと思い、ナージャがアッベの一時的な正義感に意見を言うところではジンときました。p52で、マッチ棒を鼻の穴にいれるところは笑ってしまったし、p53の「ギャーギャーわめく人がいる家にはいられないもの。耳は大切にしないとね。とくに子どものときはね。」というアッベの台詞が気に入っています。会話をこんなふうにユーモアで返したいなあ。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年11月の記録)


山本悦子『神隠しの教室』

神隠しの教室

レジーナ:ネグレクトや虐待など現代のテーマが盛りこまれていて、気になっていた作品です。バネッサが、「母親の通訳をするのを負担に感じている」と打ち明ける場面が印象的でした。義務教育に外国籍の子どもは含まれないんですね。知らなかったです。今いろんな家庭があるのに、全員の母親が来ないと帰れないというのは、少しひっかかりました。電話はつながらないのにインターネットは通じるなど、ファンタジーのつくりとして気になる点もありました。

ネズミ:こことは別の世界に行きたいと思っている、学年もばらばらの5人の子どもたちが別世界に行ってしまう。帰ってこられるのかとかドキドキしながら、ぐいぐいと読まされました。字がけっこう小さい長い本だけれど、会話が中心なので物語に入りこむとどんどん読めてしまうというのがいいですね。こんなにたいへんな状況の子ばかり集まるか、と最初は思ったけど、こういう子は1クラスにひとりはいるだろうし、十分ありうることかもしれませんね。読んでいると、いろんな状況の子がいることが見えてくる。乱暴だけど優しくて、時に悪ふざけがすぎてしまう聖哉とか、一人一人のいろいろな面が描かれているのもいいですね。苦しい状況にある子どもたちを応援しようとする作者の姿勢が感じられる作品でした。子どもだけでなく、養護の先生の視点が混じってくるのですが、先生もいじめられていたことがわかることが作品に厚みを与えている気がしました。p314「逃げることも恥ずかしいことじゃない」というせりふは、作者が言いたかった言葉でしょうね。いろいろな問題を抱えながらも、なんとか自分の力で生きていくことを応援していて、いいなと思いました。

西山:バネッサが出てくるところで、おおっと思いました。保健室に連れていく係として、あたりまえのように「日本人」名前でない人物が出てくる。日本の児童文学作品では、登場人物の国籍は多彩とは言えないので、とても新鮮でした。『児童文学』7-8月号の特集<〝壁〟を超えて>で、そういう観点で触れたのですが、現実社会では、地域差はあるとは言っても、様々な国や民族のルーツを持つ子どもがいるのに、 日本の創作児童文学の中ではほとんどお目にかからない。これは、良いこととは思えません。ともかく、一息に読みました。多数派からはじかれたのか、自分がはじいたのか……排除されたかわいそうな子どもたち、ということではなく、たてこもっているとも取れて、外と隔てる壁が両義的で新鮮です。学校自体が、いじめがあったり、子どもたちが抑圧されるマイナスの舞台として焦点化された作品は多かったと思いますが、この作品は、学校がシェルターでもある。大人にもできること、やらなきゃいけないことがあるというのも早苗先生のあり方を通して描かれていて、メッセージとして好感をもちました。

ハリネズミ:著者の山本さんは、やはり2016年に出した『夜間中学へようこそ』(岩崎書店)もおもしろかったですね。さっき、レジーナさんが電話は通じないのにパソコンは通じるのでファンタジーの約束事がどうなっているのか、とおっしゃいましたが、この本に出て来るのは有線電話で、パソコンとはシステムが違うので、私は全然気になりませんでした。ファンタジーの約束事が壊れているとも思いませんでした。児童文学の流れで言うと、親が子どもにちゃんとした居場所をあたえられない場合、親以外の大人が登場して支えることが多いのですが、この作品では「学校」という建物が子どもたちを助ける。そこがとてもおもしろいと思いました。みはると聖哉以外は、「もう一つの学校」に緊急避難したときに、自分たちでなんとかしようという意欲も意志も生まれてくる。でも、年齢の低い1年生のみはるは、母親の恋人に虐待されているのを自分の意志だけではどうすることもできない。6年生の聖哉はネグレクトしている母親が不在なので衣食住すべてに困っていて、これまた自分の意志がどんなに強くても解決できない。だから、外からの助けが必要なのですね。
様々な問題を抱えた子どもたちですが、問題の一つ一つがリアルだと思いました。最初読んだときは、「母親がそろわないと戻れない」というところで、子育ての責任は母親にあるというメッセージが出てしまっているのではないかと思ったりしたのですが、もう一度ていねいに読んでみると、そう言い出したのは母ひとり子ひとりの聖哉で、聖哉の気持ちが強く反映されているだけだとわかりました。p225に、もう一つの世界に行ったものは戻って来ないとあって、そういう設定だと思って読むと、カレーパンだけ行ったり来たりしているな、とちょっと不思議に思いました。バネッサが自然に出てくるのはいいですね。そのバネッサと加奈は同じクラスですが、それ以外は触れあうことのなかった子どもたちが、時間と空間を共にするうちに触れあっておたがいに思いやったりするようになる。

アンヌ:「神隠し」の物語は多いけれど、この物語は「神隠しにあってしまった」側の冒険談ですね。なんといっても冒険物語に必要なのは、どうやって食物を確保するかという事です。この物語では、「神」ではなく「学校」からの一種の贈り物のような「給食」という食べ物がまず与えられます。けれども、それだけでは一日一食になってしまうから、畑からプチトマトを採集したり保管倉庫から非常食を取って来たりして、生き残るための冒険がなされて行く。そういうところが、気に入りました。でも、実は引き出しの中のロールパンに気づいた時、ここで外界につながっている、きっとここでやり取りをするんだと思ったので、パソコンで通信するというのは意外でした。異世界の中で子供たちは成長していく。外界の大人も変わって行く。でも、それと同時に、大人である早苗先生の中には、まだいじめが影を落としていて、完全に和解するとは書かれていません。納得がいくけれど、ある重さも感じました。

よもぎ:なによりおもしろかったのは、学校という建物が生命を得た存在のように子どもたちを守るという設定でした。長い年月、ずっと子どもたちを見守りつづけてきた古い校舎だからこそ、そういう力を持ったということなのでしょうね。いろいろな状況で苦しんでいる子どもたちを守りたいという作者の思いが伝わってくる作品だと思います。ストーリー自体も、子どもたちがこれからどうなるのか? なぜ聖哉だけ、行方不明になった子どものリストに入っていないのか? など、いくつかの謎が次々に出てきて、最後まで一気に読んでしまいました。長いけれど、小学生の読者がしっかりついていける作品ですね。ただ、文体が重苦しくて、古めかしい感じがしたんですけど、こういう内容だったらしかたがないのかな? ユーモアがないというか……。

ハリネズミ:この作品はテーマがテーマだけに、ユーモアを入れるのは難しいですね。自分のことだけで精一杯だった子どもたちが、「もう一つの学校」に行って少し心がリラックスすると、やさしい面を見せていく。そこの描き方もすてきです。

ネズミ:学校の先生を批判的に描く本も多いけれど、この本では、子どものことを思い、それなりに職務を果たそうとしている先生が描かれてますね。

ハリネズミ:アン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり訳 評論社)も、それまでは触れあうことのなかった、それぞれに問題を抱える子どもたちが、宿泊旅行をきっかけに出会って、おたがいを知り、元気になっていくという物語でした。似た設定なので、比較してみてもおもしろいかも。

ネズミ:この作家は愛知県の方なので、身近に日系人を見てきたのかもしれませんね。

西山:テーマとして焦点を当てて描かれているのではなくて、そこにいる子どもの一人として当たり前に出てくるのがいい。

ネズミ:今はいろんな国籍の子どもがいますよね。親が外国籍かどうかは、名前だけではわからないし。思った以上に外国とつながる子どもは多いと思います。

ルパン:今、本が手元になくて、細かいところについてはお話できないんですけど、前に読んだとき、とてもおもしろかったことを覚えています。ただ、別世界の作り方がちょっとご都合主義的に思ったところはありました。給食は出てくるけど、お盆は返せないとか。ただ、読んでいてつまずくということはなかったですね。ストーリー性があってよかったです。神隠しにあった子どもの母親のなかに、保健の早苗先生を昔いじめていた元の同級生がいるわけですが、そこの家庭が、その後どうなったのかも知りたいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):5人の問題(親の虐待、育児放棄、いじめ、在日外国人)を抱えた子どもたちと、小学校時代にいじめを受けたことのある養護教諭が登場します。子どもたちのサバイバルとミステリーと、再生へと繋げて見事な展開でした。聖哉についてはもう胸がつぶれそうに切ない。食べ物の確保からして自分ではんとかしなくてはならないのですから。子どもが一人で、心の弱い母を保護し、そこから一歩越えて生きて行こうとするんですね。早苗先生が、かつて自分をいじめた多恵と向き合うところは、綺麗ごとに終えてなくて、迫力がありました。p381に「これからはずっとこの空のしたにいる。もう逃げない」という言葉があります。希望のあるラストですが、弱い私は逃げてもいいのでは・・・と、思ってしまいました。

さららん(メール参加):いじめ、虐待、ネグレクト……今の子どもたちの問題を、学校というもっとも日常的な場を使いながら、そこに「神隠し」という非日常の穴をあけて、子どもと大人の両方の心理からうまく描いている作品だと思いました。重く、暗くなりがちなテーマですが、サバイバル物語の要素、謎解きの要素に助けられ、どんどん読み進みました。「もうひとつ」の学校からどうしたら出られるか、あるいは救い出せるか、子どもの側と大人の側の両方から推理し、パソコンでやりとりしながら、解決を探していくところが面白く、「行方不明」になった子どもは「5人」でなく「4人」だと思われている点がずっと気になります。それは聖哉のせい。彼以外の子どもたちは、自分が「変わる」ことを決心して外の世界に帰り、聖哉はむこうの世界に残ってしまう。けれども最後の最後で、現実に生死の境にあった聖哉が救われる。
子ども時代にいじめにあい、「神隠し」にあった早苗先生自身も、いじめた側の多恵(亮太の母親)と対峙することで自分を乗り越えます。P349の「お母さんが来ないと帰れないなんて、この世界のルールを決めて、自分をしばりつけているのはあなたなの。あなたは帰れるのよ!」という早苗先生の言葉が、とても良いと思いました!

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


まはら三桃『奮闘するたすく』

奮闘するたすく

アンヌ:ケガだけではなく認知症にもなったおじいちゃんがデイサービスに通うのについて行き、夏休みのレポートを書く。自分からボランティアに志したわけでもない小学生がデイサービスに行くという設定がおもしろくて、介護職の人や調理師さんとか、うまく描かれているなと思いました。祖父といる時のつらい思いやせつなさと同時に「お年寄りのやることには意味がある」と理解しようと変わって行くところ等、いいなあと思いながら読みました。花の部屋への推理小説じみたストーリーも、うまい仕掛けです。p.231-232の、死について考えつつ、人には死の間際まで生きようとする力があるという感じ方や、死者が心の中に生きていくというふうに繋がって行くところも、いいなと思いました。なんといっても、お年寄りと小学生の男の子たちが古い歌謡曲の「食べ物替え歌」で盛り上がって行き、最後は大笑いのうちに幕を閉じていくというところが、本当に意外で傑作だと思いました。

レジーナ:デイサービスでの経験を通して、死や老いについて考える小学生の等身大の姿がユーモアたっぷりに描かれていて、好感がもてます。「宇宙が存在するのも、考える自分がいるからだ」と思う場面が印象的でした。p137で、祖父が、「自分ではできないとわかっているけど、世話にはなりたくない。なのに、『どうしたいか』ときかれても困る」という台詞には実感がこもっていますね。ただ「やきもち」や「ケチ」など、お年寄りの姿が少しキャラクター的に描かれている感じがしました。リニが初対面でハグする場面もちょっとリアリティがないように思えて違和感がありました。

西山:たいへんおもしろく読みました。もう少し低学年向けかなと思いながら手にとったら、『伝説のエンドーくん』(小学館)くらいのグレードかなと。読み始めたら、大人として普通に楽しむ読書となりました。最後、あのおばあさんを死なせなかったのがよかったな。大笑いで終わらせたっていうのが、たいへん賛成でおもしろかったです。レジーナさんが今挙げたところとか、私もなるほどと思って読んでました。あと、p167の「佑の思考は、妙な具合にカーブした」とか、おもしろい軽い書きぶりがあちこちあって、でも、ただ奇をてらったという感じじゃなくて、「人間ってぜってー、死ぬんだよな」(p231)「でも、死んでからもたまに生きてるぜ」(p232)なんて、軽いけど、妙に深い。一つ難をいえば、早田先生がこの課題を与えた意図というのが、単なる思いつきなんだか・・・・・・。何か、深い意図が明かされるかと思いながら読み進めたけれど、別に説明はありませんでしたね。そのへんはエンタメ的に読み流さないとだめなのかな。有無を言わせない目力って、教師のパワハラでもあると思うと、ちょっとひやひやしました。1カ所文章で気になったのは、p173のまんなかあたり、「自分が怒鳴ったくせに、祖父は引っ込みがつかなくなっている」のところ、「くせに」じゃなくて、怒鳴った「から」ではないのかと思いましたが、ここ、どう思います? インドネシア人のリニさん、言葉がたりない分、あけすけで、おもしろかったです。

レジーナ:「自分が怒鳴ったくせに、祖父は引っ込みがつかなくなっている」ですが、ここは佑が、「自分が怒鳴ったんでしょ?」「自分でやったんじゃん」と思っている箇所なので、これでいいのではないでしょうか。

西山:なるほど!

よもぎ:ユーモアがあって、テンポの良い作品で、楽しく読みました。高齢化社会になって、ゆくゆくは介護職を選ぶ子どもたちが大勢いると思うので、良いテーマを選んだなと思いました。外国から来る介護士の方たちも、ますます増えてくると思いますし。細かいところですが、蝉が羽化するところを見たいと願っていたおばあさんの話、いいなあと思いました。幻のように白く透きとおった蝉が、だんだん緑色を帯びてきて、最後に茶色い蝉になる……本当に、何度見ても飽きないですよ!

ハリネズミ:さっき、西山さんが教師のパワハラか、とおっしゃったのですが、私はそうは思いませんでした。この先生は、たすくがいつも中途半端に流しているのを見ていて、もっと突っこめばおもしろいよ、ということを分かってもらうために、この課題をあたえたのだと思います。ほかの子どもたちのこともよく見ていて、それぞれに別の課題を与えているのかもしれません。老人クラブの老人たちは、すぐに「ひごの~もっこす~」と歌ってしまう坂本さん、言葉を普通とは違うところで切って話す北村さん、女子力の強いよし子さんなど、個性的な人がそろっているし、インドネシアから来たリニさんも、いい意味で存在そのものがユーモラス。だから私もおもしろく読みましたが、たすくの祖父までおどけさせなくてもいいのに、とちょっと思ってしまいました。p61で「大内警部補、出動だ」とたすくが言うと、「はっ」と言って敬礼までするところなど、やりすぎのように感じました。それから「花の部屋」についての謎も、盛りすぎ、引っ張りすぎの印象を持ちました。そうまでしなくても、充分おもしろく読めるのに、と。

ネズミ:父のデイサービスに、最近私も何度かついていきましたが、そこでも東南アジア系の人が入浴介助を担当してました。こういう世界のことは、以前はわからなかったのですが、自分が行くようになってから、認知症の高齢者を扱った本がちょっと気になるようになりました。子どもに伝えるのが難しいテーマなのか、「これはいい」と思う本になかなか出会えません。この物語は、老人のなかに小学生が入っていきます。戯画化と感じるところもあるけれど、明るくしないと描けないテーマでもあるのかなと思いました。認知症になっても誇りはある、こんな子どもじみたことはできないという「おさるのかごや」の場面だとか、すごく大変な介護の現場での、働く人たちに優しさが伝わってくるところがいいなと思いました。ブルー・コメッツの歌で、おじいさんや母親にも青春があったことを知るというのもうまいです。難しいテーマですが、こういう作品がもっと書かれてほしいです。

ルパン:個人的には母も認知症が始まっていたので、せつないところが多々ありました。おじいちゃんが作品を額に入れられてプライドを傷つけられるところとか、時折正気になったときに悄然としてしまう場面とか。そう思うと、自分たちの世代にはダイレクトに響くけど、今の子どもたちにとってはどうなのかな。小学生のおじいちゃん、おばあちゃんは最近若いですから、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん世代の話かな、と思います。いずれにしても、こういう本を通して、子供たちに介護現場の情報が入るのはいいことだと思います。

西山:介護が子どもに身近な話題になっているのは確かだと思います。親が介護でたいへんになると子どもにはねかえるし・・・・・・。

さららん(メール参加): 目力のある早田先生から、夏休みの宿題としてデイサービスに通い、様子をレポートしてほしいと頼まれた佑(たすく)と一平。警察官だったおじいちゃんの認知症がすすみ、デイサービスにつきそいはじめます。おじいちゃんの認知症の描き方(受け答えがすごくはっきりしていたかと思うと、びっくりするぐらいわからくなることの繰り返し)に、リアリティがありました。佑たちの通っているデイサービスは、かなり自由で、さまざまな人生を経たいろんな老人たちが暮らしている。入ってはいけない『花の部屋』もある。その部屋の謎はあとで明かされますが、すこーし肩透かしの印象がありました。インドネシア人のリニさんも登場し今の介護の現場の雰囲気を伝え、インドネシアではお年寄りが大切にされていると語ります。最後は替え歌の大合唱と、笑いのうちに大円団……なんですが、ここはちょっとついていけなかった。年をとることや、デイサービスがどんなところか理解するうえで、良い本かと思います。大人も子どもも生き生きとした言葉遣いとエピソードの積み重ねで描かれ、まはらさん、うまいなあと思うのですが、面白い読み物かどうかというと……どうなんでしょう?

しじみ71個分(メール参加):とてもいいと思い、気持ちよく読みました。前に、まはらさんが選挙をテーマにした本を読んだときは、社会のテーマを子どもに伝えるお気持ちは分かるものの、保守の議員の孫という設定に、馴染めない感じがありましたが、今回は、馴染めないところを感じることもなく、重いテーマを、笑いとペーソスを織り交ぜ、軽やかに、きちんと子どもに届ける本になっていると拝見し、大変に気持ち良く読了しました。話の筋が明快で、簡略ながらもご老人たちの個性がきちんと書き分けられ、愛情と尊敬ある筆致で描かれていると思います。誰もが迎える老いと死を子どももきちんと知ることは重要だというメッセージもきちんと、花の部屋のエピソードで届いていますし、とても効果的になっていると思います。介護する家族の視点もあり、外国人労働者の問題もあり、社会問題をきちんと子どもに届けるという作家のお気持ちが分かりました。自分の関心のあるテーマでしたので、ますます心に沁みました。現実は、こんな素晴らしい、明るい介護施設ばかりではないと思いますが、拘束、虐待、人権無視のような施設が存在する現実を変えていくために、子どもも大人もみんなが普段から老いや人生を考えていくために、必要な本だと思いました。

エーデルワイス(メール参加):前回の『こんとんじいちゃんの裏庭』に引き続き、老人問題ですね。デイサービス、老人福祉施設、外国人福祉士・・・と、今どきのことがきちんと書いてあります。私の世代では親の介護をしている者がほとんど。私の場合、現在87歳の母は12年前にアルツハイマー病と診断され、『要介護1』と認定されました。その後父を説得して3年前にデイサービスの手続きをとりました。今年の9月、今度は89歳の父が肺の病気で入院、認知症もでてきて、『要介護1』の認定を受けました。病院は治療を終えると退院しなければなりませんから、施設の入所を検討中です。何を言いたいかというと、「奮闘するたすく」の物語が私の現在とリンクしたわけです。年寄りは子どもに戻ります、「二度わらし」はいい言葉ですね。はじめと終わりに歌謡曲の替え歌で、明るくてちっとも悲惨でないのがいいです。現在母は私の家にいますが、文庫や親子わらべうた会に連れて行きます。子ども好きの母は楽しそうに遊んでいます。子どもたちも違和感ないようで、母に懐いています。佑や一平のように、子どもの力は大きいと思います。介護保険で日本の介護は随分変わったと思います。家族以外の力を借りての親の介護は助かります。もう一言いいますと、今どき一人が一人の介護ではありません。私には夫の両親も健在(92歳93歳)です。また今年独身の叔母(母の妹)を看取りましたし、もう一人の独身の叔母も施設に入っているので看ています。夫も入院中の独身の叔父を看ています。長寿国家で、子どもの出生率が低い日本の行く末は如何に・・・!?

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


ニール・シャスタマン『僕には世界がふたつある』

僕には世界がふたつある

ハリネズミ:読み始めたはいいのですが、どこまでいっても入っていけなくて、どうしようかと思いました。病を持った人が見ている世界が描かれているんだと思いますが、苦しいんだろうなあとは思っても、長い作品なのでえんえんと不可解だったりして、楽しい部分がない。それに原書はYAですが、日本語版は大人向けに出ていますね。よほど本好きな子でないと読むのが難しいのではないでしょうか。それにこれを読んだから、統合失調症のことがすべてわかるわけでもないし。物語ではなくレインの『引き裂かれた自己』(ちくま学芸文庫)を読んだほうがまだわかる。こういう本は、だれが読むのかな?と、思ってしまいました。

ネズミ:読むのがつらい物語でした。正直、途中ななめ読みした部分もありました。こういう世界がある、ということを知らせるという意義は感じますが、多くの読者の共感を呼ぶのは難しいだろうと思いました。言葉遊びの部分は、日本語だと音も意味もつながらずおもしろくありませんが、原文だとおもしろいのかな。

西山:いやぁ・・・・・めくりはしました。でも、船の世界の方はほんとに、斜め読みで、一応めくっただけです。この作品が、だれかの救いになるのかなぁ。不安定な精神状態で読んだら、病を深くしないかしらと思ったり・・・・・・。うーん、しんどかったとしか言えません。

レジーナ:数年前、3分の2くらいまでは原書で読んだのですが、それも読みにくかったです。いろんなテーマの本があって、いろんな子どもが生きやすくなるといいな、とは思いますけど。看板など目に映るものが、そんなことあるわけないのに、なにか重要なメッセージを送っているように思えて、その指示に従わざるをえなくなるなど、主人公の心の描写にはリアリティがあります。でも、心を病んだ人の目から見た世界を、そうでない人が入っていけるように描くのは、なかなか難しいですね。夜の病室で、キャリーと僕が抱きあう場面がありますが、そんなことは本当にできるものなんでしょうか。

西山:『レイン~雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳 小峰書店)は、主人公の女の子のことがいとしくなったけど、これが子どもに読まれても異様なものとしか思われないんじゃないかと思ってしまった。

レジーナ:『レイン』は、1章まるごと同音異義語について書いてあるのを日本語版では省いたり、パニックをおこした主人公が同音異義語をさけぶ場面ではそれを数字に変えたり、訳も編集も工夫しています。

よもぎ:たしかに妄想の場面などわかりにくいのは当たり前だと思うのですが、間に挟まれている現実の場面とのギャップが痛ましくて、最後まで突きはなさずに、きちんと読まなければという気持ちになりました。仲の良い友だちと一緒にやっていたことができなくなる、友だちが後ずさりして自分の家のドアから出て行く……本当に深淵に突きおとされたような気持ちになるのではと思いました。古い作品ですが、乙骨淑子作『十三歳の夏』の15章に、主人公の13歳の利恵がたまたま精神疾患のある青年と電車で乗りあわせる場面があるんです。怯えたように大声で泣く青年を、隣にいる年老いた母親がおだやかな口調でなだめている。青年が泣いている理由など、ほかの人たちには理解できないものなのでしょうが、母親はその悲しみに寄りそっている。その母親の姿に、主人公は心を打たれるのです。作者が亡くなったあとのことですが、知的障害の娘さんを持つ方が、この箇所を読んだことで乙骨淑子の大ファンになったと聞いたことがあります。ニール・シャスタマンも、乙骨淑子と同じ姿勢で精神疾患のある息子や、おなじ病を持つ若い人たちに向かいあっているのではと思いました。最後に船長から船に乗れといわれた主人公が「もう乗らない」とか「絶対にいやだ」ではなく、「今日は行かない」といったところがリアルで、なかなか良かった!

アンヌ:半分くらい読んで、これはファンタジーではなくて悪夢だぞと気づき読めなくなりました。統合失調症について知らないからだろうと思って、精神科医の著作等を読み、改めて読み進めたのですが、現実世界と著者が深淵と呼んでいる別世界との関連がわかりませんでした。病院での主人公の行動も、例えばなぜ薬を飲まなかったのか等も、医者側からのアプローチが書かれていないので読み解くことができないままでした。読んでよかったと思えるのは、精神の病というものを普通の病気と同じように見ていく視点が与えられたことです。

西山:よかったところもありましたよ。「98あったはずの未来」の「こうなれたかもしれないのに」のほうが「こうなるはずだったのに」よりずっといいから。死んだ子どもは偶像化されるけど、精神を病んだ子どもはカーペットの下に隠される」(p194)、これは胸に刺さりました。

ルパン:何がどうなっているのか、わからないまま読みました。精神を病んでいる人にとってはこう見えるのか、ということがおぼろげながらわかったような気がしますが…。今回の課題でなかったらきっとすぐに投げ出していたと思うのですが、がんばって最後まで読んだら、空色のパズルピースの場面がぐっときました。精神を病んだ人の気持ちを知るにはいいのかもしれないけど、これは児童書なのか、考えるとかなり議論の余地があるかと思います。子どもに読ませたいかと聞かれたらノーです。そもそも、どこの、なんの話か、イメージがまったくわかない。「カラスの巣」というのがマストの上のバーの名前であることなど、しばらく読まないとわからないし、空間としての理不尽さも、スヌーピーの家のようなワクワク感がなく、ただ理解不能のフラストレーションがたまるだけ。船も白いキッチンもそれがどういう場所であって何を表しているのか最後までわからない。ただ、最後まで読むと、精神疾患の人に世界がどう見えているか、そして現実の友人には精神を病んだ友達がどう見えるのかということが書いてあって、主人公が妄想と現実の間を行ったり来たりしているということがわかります。心の病を持つ人に共感はできなくても、これを読むことで、少しでも理解しようという気持ちにはなれると思います。いずれにしても、読み終わったときは、どっと疲れました。再読したらもっとよくわかるのかもしれないけれど、これを2度読む元気はないかな…。

さららん(メール参加):ここまで深く、精神疾患を持つ少年の心の世界に入った作品は読んだことがありません。海賊船のエピソードも、主人公ケイダンにしてみれば、エピソードでもなく、夢でもなく、現実そのものなのでしょう。深い海溝にもぐりこみ、浮き上がってくるまでをケイダンと共にし、意味がわからない部分もたくさんあるのですが、ページを繰る手が止まりませんでした。病院、海賊船の航海、白いプラスチックのキッチンの世界を行き来しながら、なんの前触れもなく病院にいるカーライルが、海賊船の乗組員のカーライルになったりします。本を読んでいる間じゅう、なにかにしがみついていと、体が振り落とされてしまうジェットコースターに乗っているような気分でした。いっぽうで、薬とその効き目の関係や、病状につける名前は便宜的なもので、一人一人全部症状が違うことなど、多くの学びのある作品でした。

しじみ71個分(メール参加):まだ、全部読めてなくて申し訳ありません。しかし、何と言っても残念なのがタイトルです。あまりにも説明的過ぎて、浅くなってしまい、つまらないです。深海の、海淵の底から見上げるような、孤独を表すタイトルではないと思いました。お話自体は、フィクションながら作家自身の息子の経験を下敷きにしているので、耐え難い苦悩に満ち溢れて、深海をたゆたうようつかみどころなく、内容は理解しようとすると難しいように思いますが、訳のおかげか、主人公の現実と非現実を行き来する恐怖が、幻想的かつ淡々と伝わりました。悲劇の終焉が待っているのだと思いますが、家族が救いになることを期待して読み進めます。

エーデルワイス(メール参加):宮沢賢治作『小学校』のきつね小学校の校長先生が、授業を参観し終えた主人公に「ご感想はいかがですか?」と訊ね、主人公が「正直いいますと、実はなんだか頭がもちゃもちゃしましたのです」と答えると、きつね校長が「アッハッハッハ、それはどなたもそうおっしゃいます。」と笑います。そんな感じの感想です。 作者は脚本も手掛け、自ら映画化の脚本も進行中とか。観たいかどうか今のところ分かりません。この本は確かにヤングアダルトコーナーにありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年10月の記録)


ジェリーフィッシュ・ノート

さららん:親友を失った少女が主人公。どうしてあの子は死んだのだろう?という問いかけに隠された罪悪感が、あの子が死んだわけを知っているのは私だけ、という思い込みにすり変わっていきます。クラゲの存在を通して、少女時代のひりひりする思い出と喪失を描いたユニークな作品です。ゴシックと明朝で、現在と過去(回想)を分け、細かい章立てをして読者に読みやすくしていますね。論文を書くときの構成を借りた点が凝っています。科学的な知識とストーリー(友人の死と、取返しのつかない過ちをどう受けとめるか)が絡まりあいながら進むところがこの本のおもしろさなのですが、私の力不足か、読みとれない部分が残りました。友だちの死を受けいれようともがく主人公の苦しさはよくわかったのですが、行動のすべてには共感できませんでした。

レジーナ:全米図書賞にノミネートされたときから気になっていた作品です。主人公はこうと思ったら、それしか見えなくなるので、おしっこを凍らせてクラスメートのロッカーに入れる場面などは、その気持ちについていけないところもありました。文章は読みやすかったんですけど。あと、p92「時間と空間は同じものだということを知っている。時間のすべての瞬間は同時に存在する」など、ところどころわからない箇所がありました。こうした部分が理解できたらもっとおもしろいんでしょうね。 

ネズミ:まず構成が凝っているなと思いました。論文の書き方を頭に持ってきて章がはじまり、書体が変わっていたり。アメリカのYAのこういうところは感心する反面、ここまでしなきゃいけないかと思う部分もありますが。ストーリーは、友だちを失ったという事実をこの子なりにどう受けいれていくかがメインですね。自分なりに理屈をくりだして、試行錯誤するようすをおもしろく読みました。でも、日本の中1の子とくらべると考えていることが大人っぽく感じて、日本の中1の子が読めるのかなとは思いました。あと、おもしろかったのは家族のようす。ただ両親と兄弟がいてというのではなく、お兄さんにゲイのボーイフレンドがいることがさらっと出てきたり、土曜日だけ父親に会いにいったり、さまざまな感じ方、暮らし方、価値観があるのを見せてくれる本だなと思いました。 

西山:出だしから、最初は観念性についていけませんでした。p4の「三十億」をどんな数字か考えようとして、「三十億時間さかのぼる」という置き換えから置いてけぼりを食った感じです。すごい時間だ、とポーっとするでもなく、ピンときませんでした。いかにもきれいな表紙の感じと、奇妙に観念的な思春期と、先ほどから話題になっているおしっこの復讐場面が、うまく、統一したイメージとならなかった。感覚としては既視感があるけれど、研究レポートの仕立てとか、部分部分にハッとさせられ新鮮さも感じつつ、読み始めたら加速してあとは一息に読んだんですが……どうも心に定着しない感じです。

カピバラ:私はとてもおもしろかった。心に傷を負った子どもを描く作品は多いので、共感してもらうためにどう表現するか、作者は工夫をする必要がありますよね。そうでないと皆同じような雰囲気になってしまいます。その点、この作品には新しい工夫が感じられ、意欲作として評価できると思いました。リアルタイムの生活を描いているところ、亡くなった親友との幼いころからの思い出を書いているところ、クラゲについてなどを自分で調べていくところ、と三つの局面から構成され、1章1章が短いのでテンポよくどんどん進んでいきます。つらくて読めない部分は飛ばしたり、逆にじっくり読んだり、いろんな読み方ができるし、読後感がいいですね。

ハリネズミ:私もおもしろく読みました。時間を前後させる書き方ですが、書体が変えてあるのでわかりやすいですね。ゲイのお兄さんのアーロンが、家族にすんなりと受け入れられているという設定もいいですね。p54の理科の教え方なんかも、楽しくていいな、と思いました。ただ、主人公のスージーは12歳なので、無謀なこともするとは思いますが、シーモア博士に手紙を書きもせずに、家族のお金を盗んでひとりで会いにいこうとします。計画のほかの部分は綿密に計算されているので、そこはなんだかちぐはぐな感じがしました。自分のおしっこを凍らせてフラニーのロッカーに入れておくという部分は、それほど切羽詰まっていたのかと思う反面、強烈なイメージが残るのでストーリーから浮き上がっている感じもしました。イルカンジクラゲのことがずっと出てくるので、最後は、そのせいでフラニーが死んだということが証明されるのかと思っていましたが、肩すかしでした。p56に「大事なことは話し、それ以外は話さない」とありますが、すぐその4行後には「わたしはもう決めたの、話はしないってね。その夜だけじゃなく、たぶんもう二度と」とあって、実際スージーは一切話さなくなる。「大事なことは話す」んじゃなかったの?と不思議でした。ところどころで女性の会話の語尾に「わ」がついていますが、今「わ」をつけて話す人はいないのでは? 

コアラ:小学校高学年から中学生にかけての、女の子同士の関係が変わっていく話で、仲良しグループの付き合いとか裏切られた思いとか、ヒリヒリするような感じがよく表れていると思います。主人公スージーの、フラニーに対する執着は度を越していて、恋愛感情に近いと思いました。フラニーがクラゲに刺されて死んだということを証明してもらうために、クラゲの研究者に会いにオーストラリアに飛行機で飛んでいく計画を立てて、家族には別れの挨拶をするという展開は、支離滅裂だと思いましたが、もしスージーが同性愛の傾向を持っていて、それに苦しんでいる状態だったとしたら、理解できるようにも思いました。もちろんこの話は、フラニーの死が受けいれられなくてもがいているものだと思うので、最後の方でスージーが飛行機に乗なくなったとき、「フラニーはもう帰ってこない」「二人の友情は、あのときああいうふうに終わったままだ」とあって、主人公もフラニーの死を受けいれられたんだな、ということがわかって、ほっとしました。クラゲのことについては、あまり驚きもなく読んでしまいましたが、クラゲという透明感のある生き物のおかげで、陰湿ないじめが描かれていても、少し幻想的な、透明感のある物語になっていると思います。学術書っぽい本のつくりや、過去のストーリーが現在のストーリーに挟まっていて、過去のできごとがだんだんわかってくるという形式はおもしろいと思いました。 

アンヌ:クラゲのこととか、論文のような構造とかおもしろい仕組みのある物語なのですが、最初の、親友の溺死と海というイメージが強すぎて、私はなかなか物語の中に入りこめませんでした。後半のタートン先生とのやりとりとか、ジャスティンとの友情とか、父親が恐竜のことを言いだすあたりとか、好きな場面はあるのですが、おしっこ事件のところが強烈すぎて、飛んでしまいました。また、主人公の言葉がきれいで知性を感じるのに、オーストラリアに行こうとして挫折するあたりの子どもっぽさとかに、複雑な年ごろを描いているなと感じました。 

ハル:私はとてもおもしろかったです。クラゲや原子の世界の神秘的な話と、スージーの現在と、最悪の別れを迎えるなんて知らなかった、平和なころの回想と、交互に入る展開にも引きこまれました。こういった友達とのすれちがいに、実際に悩む子も多いのではないかと思うので、スージーはどういう答えを見つけるんだろうと、とても興味深かったです。欲を言えば、「おしっこ」のインパクトが強いのが残念でした。ちょっと共感のハードルが上がってしまったかなぁという感じがします。また、ラストではジャスティンだけでなく、サラという新しい友だちもできそうで、ここでも胸が熱くなりましたが、読後しばらくしてからふと、サラの顔がきれいだという描写は必要なのか?と、ちょっとひっかかりました。これからおしゃれや恋も、サラと一緒に覚えて成長していけそうだ、ということなんでしょうか。 

マリンゴ: 冒頭の部分で、二人称の小説かと思い、読みづらそうだと警戒してしまいました。そうではなくて助かりました。100ページを超えるあたりから惹きこまれて、最後までおもしろく読みました。主人公の危うさがよく描かれていると思います。おしっこを凍らせるところとか。小さなエピソードだと思っていたナイアドさんが、クライマックスをもりあげる要素として再登場したのが興味深かったです。あと、あとがきに、クラゲのノンフィクションを書くつもりがボツになって、この作品に生かしたという裏話があって、とても興味深かったです。 

ルパン: 友だちとけんかしたまま死なれたら、十代の少女はどれほどつらいだろうかと考えさせられました。死因がわかってもフラニーが帰ってくるわけではないことに気づいたスージーは、きっとフラニーが死ななくてももう帰ってこない、ということを、心のどこかで知っていたのかもしれません。一番好きな場面は、スージーがフラニーのママに電話するところと、サラ・ジョンストンと仲よくなるところです。 西山:おしっこの件は、もしオーブリーみたいになったら「秘密のメッセージ」を送って、と言ってた(p69)、そのメッセージなんですよね。いや、これではわからないだろう、と思いますが、それはそれとして、絶対なりたくないと思ってた女の子に向かって思春期の階段を上っていってしまうフラニーと、取り残されたスージーのとまどいと悲しみ、怒りは印象的です。そういう意味で、スージーは「普通」の成長から外れているといえるのかもしれない。その生きづらさは相当なものだと思います。 

アンヌ:おしっこの事件についても学校側は特に追及していないのが不思議でした。 

西山:フラニーはみんなが知っている、クラスの子なのに、新学期に先生が特に触れないのが、私には解せない感じがありました。別の学校だっけと、読み返したぐらいです。(読書会の席では言いそびれましたが、こういう風に同じ学校の生徒の死について触れないのは、悪しき日本的やりすごしだと思っていました。「日本的」とは言えないのでしょう。) 

ハリネズミ:アメリカの学校では、個人的なことを話したりしないんでしょうか?

アンヌ:ちょうど『ワンダー』の続編にあたる『もうひとつのワンダー』(R・J・パラシオ/著 ほるぷ出版)を読んだあとだったので、学校のかかわり方の違いを感じました。あの作品では、学校がいろいろな場面でかかわっていますよね。公立校と私立校の違いなのでしょうか。

しじみ71個分(メール参加):素晴らしい成長物語だなと思いました。アスペルガー症候群を思わせるところもあり、感情の表現やコミュニケーションが不得手で繊細で、精神的には幼さを残しながら、同時に高度な知性にあふれた少女が描かれており、最初は遠いところにいるように感じられる主人公にいつの間にか寄り添って読み終えられるという作品でした。彼女の行動は大人には理解しがたいところもたくさんあって、痛々しく切ないのですが、親友だった少女の死を受け入れて乗り越えるために、クラゲの生態調査に没頭し、最後には外国のクラゲの専門家に会いに行く冒険を企てて失敗します。その落ちはなんとなく予想できるけれども、冒険の失敗が判明したときには共に落胆している自分がいました。そして、失敗したときに、家族のあふれるような愛に改めて気づかされる場面では、心がじわりと温かくなりました。理科の授業を通して、孤立していた教室で新しい友達を見つけられますが、その友達がADHDだったり、お兄さんの恋人が同性の青年だったり、背景にインクルーシブな社会への志向が見える点も好きです。現在の物語と並行して、亡くなった親友との出会いから最悪の別れまでが描かれ、その別れの方法は読む側の想像を超えて盛り上がりを迎え、とても成功していると思いました。何よりクラゲの知識が一杯詰まっているのはとてもおもしろかったです。クラゲにも興味がわくし、クラゲの絵も素敵でした。

エーデルワイス(メール参加):理系女子に憧れます。私自身感覚的、情緒的なので、こんなふうに理論的に考えられたらと思います。小学生、中学生の話すことをありのままに黙って聴くことにしていますが、スージー・スワンソンのように、感じることを克明に語ることができたら(心の声ですが)いいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


こんとんじいちゃんの裏庭

コアラ:最初のコンビニの場面で、主人公の見方に全然共感できず、一人称で進んでいくので、物語にずっと共感できないまま、頭の中で批判しながら読んでしまいました。p4に、「急いでいたわけじゃない。別の通路を通ればいいけど、できなかった」とありますが、ただ「できなかった」でなく、もうちょっと何か表現してほしかったと思います。ここで何か表現されていれば、主人公に寄り添えたかもしれないと思いました。少し残念でした。最初の、暴力を振るった場面が宙ぶらりんのまま、加害者である主人公が被害者として行動すること、それと三津矢さんの加害と被害の話もあって、加害と被害は白黒はっきりつけられない部分がある、ということを描いているのかな、と思いました。裏庭に出てきたじいちゃんが何だったのか、明らかにされないまま終わってしまいましたが、何らかの決着をつけてほしかったと思います。実際に事故にあったときに、もし相手から恐喝まがいのことをされたら、こういう方法がありますよ、という知恵を授けてくれる話としてはいいと思いました。 

アンヌ:初めて読んだ時、あまりにも主人公やほかの登場人物の印象が悪い上に、この先もっとひどいことが起きるんだろうなという予感がして読み進めず、しばらく置いてから読みなおしました。読んでみると、不登校に動じない母の強さや、父親が昔は実はワルだったかもしれないという意外な話や、おじいちゃんと出会う裏庭の話、保険屋の北井の豹変ぶりとか、おもしろい要素がたくさん出てきてほっとしました。 

ヨモギ:私も冒頭の場面でぎょっとなって、主人公にいい感じを持てませんでしたが、作者はかなり考えたうえでこうしたんでしょうね。あとは、村上さんらしいテンポの良い文章で、一気に読めました。途中に入ってくるおじいちゃんとイチジクの場面が、快い緩衝材になっていると思います。ジューシーなイチジク、食べてみたい!坪田譲二の短編『ビワの実』を思いだしました。ただ、絵を描くことの魅力が、あまり書かれていないのが残念でした。闇を描くことについて、もう少し掘り下げて書いてあれば、もっと奥行きのある作品になったのでは? あと、保険会社のお兄さんの変わりっぷりが、ちょっと唐突なのでは? 

ハル:みんな、いろんなことを抱えて生きているのだし、いい面もあればわるい悪い面もあるというのはわかるのですが、登場する大人がみんなどこかちょっと変。「上手に生きていくには」とか「生きづらさ」ばかりで、いわゆる正論をいう大人が誰もいないので、私が中学生のときにこの本を読んだら、主人公にも共感できず、とまどってしまいそうです。世の中、良いか悪いかだけじゃない、というのは、その年齢だからこそ、学びたかったではありますが。 

マリンゴ: 非常に問題があって共感を呼びづらい男の子を主人公に据えて、しかも一人称で書いた著者の勇気に感動しました。なかなか書けないものだと思います。共感できないものの、次々と事件が起こり、それに対して主人公がどう反応するのかなと興味をひかれて、どんどん読み進めることができました。暴力、不登校、介護、そして大人の世界の不条理がてんこもりで、読みごたえありました。特にいいと思った文章がいくつかあります。p188「新しい関係、それを物語というんだ。物語のない人生なんてつまらん。」、p191「ここにいると、体臭も、口臭も、涙の臭いまでまったく同じになっちまう」、p244「いいとか悪いとかで判断するのはもうやめなきゃ。みんなそこを超えたところで、もがきながら懸命に生きている」といったところです。もっとも少しだけ違和感もあって、最後に近いところで、美術部の先生に「暗闇」について話すシーン。いくら人の死を経験して成長したといっても、ここまで素直なキャラに変わるかな? 私としては、主人公が暗闇の絵を描いてみせて、先生に「お! おまえの絵、なんか変わったな」と言わせるくらいの歩み寄り方が自然かなと思いました。あと、タイトルに、もう少し小説のなかのヒリヒリ感が出ると、内容がつかみやすいのかな、と。 

さららん:最初の「いらねえよ、こんなもん」で、いったいどんな乱暴な子なのかと、驚きました。強烈な言葉でした。でも読んでいくと、少しずつ心の中が見えてきて、いいところもいっぱいある子だとわかりました。とんがった言葉をときどき使う悠斗という少年の造型に、中学生や高校生の読者は自然に共感できるのか、聞いてみたいところです。「おりこう」な児童文学には出てこない言葉やモチーフが盛りこまれている部分が、逆にこの本の良さ! 大人の本音とか、だまそうとする部分とか、「善悪を決めようとするためにこの仕事をしているわけじゃない」と弁護士に言われることもあり、人間というものの複雑さを見せてくれる作品でした。おじいちゃんの存在は不思議なままです。混沌状態になったおじいちゃんの裏庭に、作家はどんな意味をこめられたのか、もうすこし考えみないと……。 

レジーナ:冒頭の暴力の場面で、この主人公に最後までついていけるか不安になりましたが、とても好きな作品でした。この年代って、なにかの拍子にキレちゃう子っていて、p213に「自分の心の在りかがわからない」とあるように、自分の心をもてあましていて、でも、世界の中に自分を落ちつかせようとしているというか、なんとか自分の立ち位置を見つけようともがいている時期ですよね。自意識も強くて、ひとりよがりの正義をふりかざして突っ走ることもあるし。p201で、空を見て永遠を感じたり、急にむなしくなったり、そういう振れ幅の大きさや感性の鋭さもよく描かれています。そして、そんな主人公のまわりには、三津矢さんのような大人がいて、失敗を許す社会のありかたが描かれているのもとてもいいと思いました。若いときって、「いい人か悪い人か」とか「正義か悪か」という枠組みでしか見られないけど、主人公もだんだん、謝らせれば解決するわけではないと気づきます。そして、保険屋の前で怒りをこらえたり、三津矢さんが父親を看取れるようになんとかしようとしたり、少しずつ成長していきます。成長することの尊さが描かれている作品だと思いました。認知症の描写も、p68「じいちゃんは、認知症になってから、物と一緒に、たくさんの言葉も失った」、p69「じいちゃんの頭の中で、いろんな言葉と映像が重なり合うことなく浮遊している」など、リアリティがありました。 

ネズミ:おもしろく読みました。最初の場面は衝撃的で、私も「え、蹴ってたの?」と二度見しましたが、前の日に美術部でいやなことがあって、むしゃくしゃして突発的に暴力をふるってしまったというのがわかって、なるほどと思いました。こういう中学生っていますよね。一見とんでもない不良みたいだけれど、中学生同士は「あの子あんなことしちゃって」って思いながら、結構その子を理解している気がします。この作品でいいなと思ったのは、たくさんの大人が描かれていることです。村上さんの『うたうとは小さないのちひろいあげ』(講談社)もそうでしたが、この子の父親、母親のいろんなところを描いています。警官もコンビニのおじさんもそう。両親や大人を批判的に見ながらも、一方で愛されたい、認められたいという気持ちもある、この年頃の子の心の揺れをすごくうまく描いているなと思いました。p14の最後の文「母親はぼくの怒りの理由に興味がない」とか、いい先生だと思ったら、劇場型の指導だったと思いこんで荒れるとか、p107の「ねえ、悠君の中には、いいやつと悪いやつの、二通りしかいないのかな」というせりふとか。混沌としていて、善悪の論理も何も超えちゃっているおじいちゃんが、この子を救うキーになるというのも、なるほどなと思いました。 

西山:非常におもしろく読みました。とても新鮮な感じがした。というのは、近年感じのいい子がでてくるYAが多くて、思春期の若者とおばさんが同じ本で心温めてていいのか、と思うこともあったので(作品を通して世代を超えて感動を共有できるのは素敵なことで、児童文学のよさだと思ってはいるのですが)、久しぶりにとんがった子がでてきて新鮮だった。好印象です。また、最近のYAは、部活とかお仕事もので詳細でリアルな情報自体がおもしろさになっている作品が多いと思いますが、事故処理や法律相談は読んだことない。これって、けっこう大事なとこだと思います。子どもに力を与える。本当のことを知りたいというまっすぐな正義感も王道の児童文学という感じで、好感をもちました。それでいて、きれいごとを出していないのが新鮮。公的なところに行ったときに全然受けつけてもらえない、子どもの無力さが書かれていたのもいいし。清水潔の『殺人犯はそこにいる』(新潮社)をたまたま直前に読んでいたので、調査してどんどんわかっていく展開のおもしろさが、ここにもあってちょっとうれしかったです。表紙とタイトルは、私が感じたおもしろさとはイメージが違うなと感じています。 

カピバラ:私がいちばんおもしろいと思ったのは、警察とか保険屋さんとか弁護士とか、中学生が普通なら関わりのない場所にふみこんで調べていくところです。学校、家庭、部活以外の社会を垣間見るのが新しいと思いました。そして事件の真相が少しずつわかっていきます。冒頭の場面は、えっと思ったけど、いい子が主人公の話はおもしろくないですからね。ほほう、そうきたか、と思いました。でも、どうしてこの子はこんなことをしたのか、読んでいくうちにわからないといけないといけないと思うんですが、あまり納得いく説明がなかったと思います。おじいちゃんとのふれあいとか、いいところもあるけど、最後まで腑に落ちなかった。悩みを抱えた主人公が出てくる話って、かならずどこかにいい大人が出てきて助けになったりするんですが、この作品に出てくる大人たちって、両親も含めてどこか嫌な感じだと思いませんか? 三津矢さんにもはリアリティがないですよ。 

ルパン:おもしろく読みました。この本を読んだあと、人を「いい人」と「悪い人」に分けないようにしよう、と思いました。ただ、主人公には最後まで共感できない部分がありました。特に、p192「あなたはもう、死んじゃう人なんだから」と、面と向かって言うのはひどすぎると思いました。こういうせりふを子供が読むことを思うと……。事故については、はっきりと証明できないままで終わり、これが現実ということで、リアリティがあるのかもしれないけど、読後感はすっきりしないものがありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかった。主人公のこの年齢の少年が成長していく姿をとてもリアルに描いていると思いました。最初は何事も一面的にしか見ていないのだけれど、人間存在というのは多面的なものだということを段々に理解していく。この年齢の子は嫌なら嫌と思う気持ちも強いし、悠斗も、 三津矢さんや担任のムトユラや、奥谷さんや北井さん、そして自分の両親のことも最初は嫌悪の対象でしかない。でも、様々な側面を見ることによって他者のことも自分のことも客観的に見られるようになっていく。最初の暴力シーンはショッキングですが、あまりにも一面的にしか見ずに自分の気持ちに振り回されてしまう少年の状態をあらわしているのだと思いました。この年齢の子どもは、同調圧力に負けてしまう場合が多いと思うけど、この子はそういうことがないのも、ユニークです。子どもが事件解決に乗り出していく冒険を、ファンタジーではなく飽くまでもリアルに描いているのもおもしろい。わからなかったのは、裏庭のおじいちゃんの存在。最初は悠斗が幻影を見ているのかと思ったのですが、父親が若かったときは同じように暴力的だったという事実を初めて知らされたりもする。かといってファンタジーでもないので、そこをどうとらえればいいのか、よくわかりませんでした。

よもぎ:外国の作品には、裁判所などもけっこう出てきたりしますよね。

ハリネズミ:外国のものだと日本の子どもにはいまひとつリアルにとらえきれないところがあると思うのですが、この作品は現代の日本だし、保険会社、警察、病院、弁護士など、日本の今の社会制度がとてもリアルに出てくる。相当調べて書いたのでしょうね。

しじみ71個分(メール参加):とても共感して読みました。主人公の中学生がコンビニの店員を蹴飛ばすという衝撃的な始まりで、まず少年の持つ毒というか闇に魅かれました。店長にとがめられて、決して悪びれもせず、大人のようなずるい言葉がするする出てくることの違和感のなさを、絆創膏のなじみ方に例えた表現はとても好きです。一方、コンビニの一件から警察が自宅に訪ねてきた間に、認知症のおじいさんが家を出てしまって交通事故に遭う。意識不明に陥ったにもかかわらず、轢いた側から損害賠償請求されるという理不尽な出来事から、大人の嘘やずるさを、子どもであることに傷つきながら、正義感に駆られて追究していくという、少年のアンビバレントな心持ちが描かれていて、思春期の頃の自分を思い出し、「あるある」と思いながら読みました。美術部のトラブルから不登校を始め、友だちや担任の行動の裏を読んで疑ったり、自分の子どもらしい素直さを恥ずかしがったりと、揺れ動く心のさまには多くの思春期にいる当事者の子どもたちにも共感できるところがたくさんあるのではないでしょうか。彼を支えるのが、おじいさんと一緒に庭を手入れしてイチジクを育てた経験だったり、友だちのストレートな友情だったり、というのもとても愛おしいです。少年の思うようには問題は解決もしないし、おじいさんも回復しないですが、きちんとした少年の成長物語だなぁと感銘を受けながら読了しました。

エーデルワイス(メール参加):老人性認知症と、交通事故処理が児童文学で直球で取り上げられたのは極めて珍しいのではと、注目しました。私も認知症の母を抱えていますし、父も数年前に運転中に交通事故を起こし(その後説得して運転免許証を返還)、長女の私が処理をしました。身につまされます。主人公の尾崎悠斗が「僕はどうしたら優しくなれるのか?」と、これまた直球! 村上しいこさんの文は説得力があり読みやすいです。イチジクの生える裏庭に、じいちゃんがときどき姿を現す。好きなシーンです。イチジクはヨーロッパ、中東などの昔話にも登場しますが、特別なくだものだと感じています。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


バイバイ、わたしの9さい!

さららん:世界は不幸でいっぱいなのに、自分にはなにができるんだろう?と焦ったにときの感じを、思いだしました。大人が突然、バカみたいに見える時期が、よく描かれています。自分はまだ大統領になれないことに気づいた主人公が、大統領宛に加え、ジダン宛てに手紙を書いたところがおもしろい。十歳の誕生日にジダンから手紙が来て、友だちと会いにいくときの幸福感!全体を通して、少女のあたふたぶりが自分自身の子ども時代に近く(爪を噛む癖もふくめて)、共感をもって読めました。手紙をもらって、世界中の不幸が解決するわけじゃないけれど……一種の夢物語なんでしょう。

マリンゴ:幼いころの、すっかり忘れていた感情を思い出させてくれる作品でした。小学1年生のときに『マザー・テレサ』の伝記を読んで、こうしてはいられない! と衝撃を受けたのですが……あのときの気持ちは、今はどこへ(笑)。ただ、主人公がいろいろなことを考えていくのはいいんですけど、その結論として、権力をもつ3人の有名人に手紙を送って、そのうちの1人から返事をもらう、というのがこの本のなかでの“解決”になっていることについて、どうも、うーん、と首をかしげてしまいました。

ハリネズミ:英米の児童文学だと、ここでは終わらなくて、もう少しジダンとこんなことを話し合って希望が見えてきました、くらいのところまで書くと思うんですけど、書かないのがフランスの作品だなあと私は思いました。

マリンゴ:あと、ジダンから受け取った返事の内容が具体的に明らかになっていますが、これは、ジダンが自分で書いたもの……ではおそらくないと思うので、著者が書いて本人の許諾を得たものなのか、それとも信頼関係があって許諾なしでやっているのか、リアルとどういうふうにシンクロしているのかが興味あったので、あとがきで触れてほしかったです。

ハル:心が洗われました。ジダンが扉を開けたところで、じーんときました。この先が書いてないのは、「さぁ、あなたなら、ここからどうする?」という読者への問いかけのように思って読みました。ジダンが架空の有名人ではないところがいいんだと思います。自分たちでも何か動かせることがあるんじゃないか、と思えそうです。でもちょっと、これは実話なのかな? 実話だったら、その後なにか展開はあったのかな? と、気になりはしますよね。

ヨモギ:前半は、とてもおもしろかったです。9歳の子どもの心情が、生き生きと描けていて、なかなかセンスがいいなと思いました。なかでも、世界の飢えた子どもたちをなんとかしたいという主人公の話を聞いて、ママがパソコンで10ユーロ寄付しておしまいにする。そんなママの姿が悲しい……という下りなど、鋭いなと思いました。ところが、後半でがっかり。えっ、ジダンに手紙を出して対面できるところでおしまい? なんだかストーリーが途中でねじれて、妙なところに行き着いてしまったという感じがしました。これでは、パソコンで寄付しておしまいっていうママと同じじゃないかと。もっとも、フランスの子どもたちが読めば、感激するかもしれませんけれどね。アルジェリア系移民二世のジダンに対戦相手のイタリアの選手に人種差別的な発言をしたから頭突きをした事件があったのが2006年、この本が2007年に出ているので、とりわけ印象が強かったと思いますが、日本の子どもの読者にはまったく伝わらないのでは? まして訳書が出たのが2015年ですからね。日本で出版しようと思うなら、編集者も訳者も、もう少し日本の読者に配慮しなければいけなかったのではと思いました。

アンヌ:かなり以前に読んで、その時も今回も、最後をどう受けとればいいのか途方にくれました。悲惨な社会状況に気づいた時、この主人公は9歳だから、思春期のように妙に世にすねた感じの受けとめ方をしないで、まっすぐに単純に考えていく。主人公が一人でものごとを考えていく力をつけていくのを応援するように描いているところが、いかにもフランス的だと感じました。とまどったのは、歌手のコルネイユとかジタンとか現実にいる人間を引きいれているところです。コルネイユは日本では思ったよりヒットしなかったようなので知られていません。ルワンダの現実とかも含めて、この短い註だけではなく解説が欲しかったと思います。

コアラ:私はすごく好きで、読んでよかったと思いました。成長をいい形で書いていると思います。出だしで心をつかまれました。p7に「十さいって、「もう二度と、二度と、二度と」の年。きっとこれから、なにか深刻なことがはじまるんだ。」とあって、10歳をこんなふうに考えたことはありませんでしたが、そう書かれたら確かにそうだと思えて、すごく新鮮でした。『こんとんじいちゃんの裏庭』(村上しいこ作 小学館) のあとにこれを読んだのですが、「すべての問題を解決することは無理」とあきらめを語る大人にがっかりするようなところは『こんとんじいちゃんの裏庭』と同じですが、この話で大人は、考えることをやめろ、とは言わないので、そこが『こんとんじいちゃんの裏庭』と違うところだと思いました。日本の子どもが読んで、ジダンがどういう人かわからなくても、なんかすごいことなんだということはわかると思います。ささめやゆきさんの絵が、すごくよくて、この本の雰囲気に合っていると思いました。

ハリネズミ:私もささめやさんの絵がとてもいいなと思いました。世界の様々な出来事に胸を痛めて深刻に考えるこの年齢の子どもの気持ちがよくあらわれています。この子は大統領になって解決したいと思うわけですが、そういうとき首相になって解決したいと思う子どもが日本にどれくらいいるでしょうか? うらやましいと思いました。ただジダンに手紙を書いて、ジダンに会えて喜んでそれで終わり、というのは、私には物足りません。それから、最初に10歳になるとどんなことが起こるのか、という点が大きなテーマとして出てくるのですが、その糸は途中で消えてしまっている気がします。p7に、「(十さいは、)もう二度と、二度と、二度と自分の年を一文字で書けなくなる」とありますが、日本だとここにも出ているように漢数字で十と書けますよね。つづいて「もう二度と、二度と、二度と、両手で年を数えられなくなる」とありますが、ふつう指は十本あるので10までは数えられる。どういうことかわかりません。もう少し日本の子どものことを頭において訳してほしかったですね。

ルパン:読後感は悪くなかったのですが、あとでふりかえって、おもしろかったかというと、そうでもないなあ、というのが正直なところです。この子の頭のなかでいろいろなことが進んでいくのですが、大きなストーリー展開がなくて、さいご、ジダンとどんなことをして世界を変えていくのかが見えてきませんでした。

西山:ささめやさんの絵は好きだけど、ラストで、表紙のこれはジダンだったのか!と思った衝撃が強すぎて、感動とはいきませんでした。私は、手紙を出して満足しているとは思わなかった。ここからはじまるのだろうと自然に受けとめていました。(当日読書会では言いそびれましたが、p97で、お気にいりの絵本をシモンが「めちゃめちゃいいよね!」と話しかけてきて好きなページを言いあう場面、とてもよかった。そうやってつながったシモンとジダンのところへ出かけることに意味があるのだと思います。世界を動かすことは、そこから始まっている気がします。)ネットで募金するママの姿が飢えている男の子より悲しく思えたという場面(p40)にはドキッとさせられました。爪をかみ、「自分の先っちょを切ったのに、ちっともいたくないんだよ」(p28)とか、「ハッピー・バースディ」の歌を「バカ丸だし」だと思ったり(p90)、そういう感性おもしろかったです。p54で、どうして平気でいられるのか、どうして何もしないのかと問いつめられた母親が、「寄付もするし、選挙では、いちばんよい政治をしてくれそうな人たちに投票する。よくないと思うことがあれば、デモをするし……」というところ、何もしない大人を批判している部分なので、日本との民度の高さが違うことに愕然としました。このぐらいの分量で、中学年くらいから読めて、世の中のことを考えられる、いい作品だなと思います。

ネズミ:この本は、私の住んでいる区の図書館にも、隣の区の図書館にもありませんでした。ジダンじゃ日本の子にはわからないと、はじかれたのかなと邪推しちゃいました。終わり方が中途半端ですが、9歳の子がパパとママとニュースを見て、この社会がどうにかならないかと思い始めるというのはおもしろいなと思いました。「自分はどうしてここに生きているのだろう。死んだらどうなるんだろう」とか、私も10歳くらいのときに、ぐるぐるいつまでも考えました。個人の心情を描いている本は多いけれど、こういう社会への問題意識を扱った本は日本では少ないですね。ヨーロッパでは、アフリカや中近東のニュースもよく流れますね。

レジーナ:子どものとき、湾岸戦争やフランスの核実験のニュースにすごく衝撃をうけたので、そのときの気持ちを思いだしながら読みました。ささめやさんの絵はあたたかみがあっていいですね。でも、結末はちょっと唐突。あと、ジダンはもう引退していますが、こういうふうにスポーツ選手やスターが前面に出てくる作品は、あとになって古くならないでしょうか。

エーデルワイス(メール参加):読み終わって、フーッと心の中でため息をついていました。主人公タマラに「あなたはどうなの?」まっすぐの目で見つめられているようです。真摯に受け止めました。著者のヴァレリー・ゼナッティはユダヤ人としてフランスで生まれ、13歳で両親とイスラエルに移住。兵役につき、今はパリ在住。この経歴を見て、なるほどこのような本を書けるのだと思いました。実際、作者はジダンと交流があるのかもしれませんね。ささめやゆきさんの挿絵も効果的です。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年9月の記録)


いたずらっ子がやってきた

コアラ:最初に「1911年デンマーク領ボーンホルム島」とあるのですが、何か事件があったわけでもなく、なぜその時代設定なのかわかりませんでした。単に今より窮屈な時代というだけでしかなく、なぜ今、この現代に、その時代の物語が必要なのかわかりませんでした。読んでいていろんなところで『赤毛のアン』を思い出しましたが、『赤毛のアン』の方がずっと心に残ると思いました。最後まで読みましたが、私はあまりおもしろいとは思いませんでした。

アンヌ:時代設定が1911年というのは、作者が古い時代の話をデンマーク人の夫の親戚等から聞き書きして書いたからではないかと思いました。題名に「いたずらっ子」とありますが、主人公が自主的にいたずらをするのはp.182のアンゲリーナのブルマーを取る場面だけかもしれません。この場面で、おばあさんなんだと思っていた島の女性が思いっきり走ったあげく、みんなで昔を思い出して女の子のように笑い転げて、それから「おばあさん」であるのをやめてしまう。型にはまった大人から、女の子だった自分を取り戻していく感じがして好きです。註が見開きの左ページの端に載っているのは、読みやすく感じました。

ルパン:おもしろく読んでいるところですが、まだ途中です。これまでのところでおもしろかったのは、死んだ七面鳥が生き返る場面です。夜中にひとりで生き返っているところとか、想像するとゆかいです。今、気になっているのは、母親が死ぬまでどういう暮らしをしていたかということです。父親が亡くなって、この時代の母子家庭のはずなのに、お手伝いさんがいたり。けっこう裕福な暮らしをしていたらしいので、財源はどこにあったのかなあ、とか。いずれにしても、都会のぜいたくな暮らしをしていた女の子が、その価値観を田舎の生活に持ち込むわけですが、ここから先、そのへんのところ、どう折り合いをつけていくのか、続きが楽しみです。絵は、好き嫌いがあるかなあ、と思いますが、私はレトロな感じで悪くないと思いました。

レジーナ:全体的に私には読みにくく、作品の世界に入っていけませんでした。たとえば33ページの「なによりうれしいのは、おばあちゃんがわたしに帽子をあんでやりたいと思ってくれたことだ」で、子どもの側から見たときに、「(祖母が自分に)あんでやりたい」という言い方をするでしょうか。先生への手紙で、上着が変だと書いていますが、この書き方だと無神経な感じがして、主人公に共感できません。昔の話なので、体罰のシーンもけっこうあり、この時代設定にした意味もよくわかりませんでした。

ハリネズミ:「あんでやりたい」は、それでいいんじゃないですか。私はひっかかりませんでした。文が長いから読みにくいというか所はありましたけど。

ネズミ:おもしろい本なんだろう、と思って読みました。母親の死をどうのりこえるかというのがテーマでしょうか。互いになじみのない主人公と祖母が共に暮らすなかで死を乗りこえて生きていくというのはすてきで、いつの時代にも通じるテーマですね。でも、どこか違和感がある。前後がつながらない表現がちょこちょこあって私はすっと物語に入れなかったので、おもしろいと言い切るのはちょっと、という感じです。たとえば、p33で、毛糸の帽子のボンボンのことを、「おばあちゃんがあんでいた毛糸の玉だ」と言っていますが、ボンボンは編むのでしょうか? p36の5行目「わたしはすごくうれしくなって、そのあとはもうおしゃべりができなかった」というのは、どういう意味なのでしょう。また、シチメンチョウがガボガボゴボゴボ鳴く、という表現が出てきますが、この擬声語でいいのかなあと思いました。p187の後ろから3行目「元気で、型やぶりな子だったんだよ」の「型やぶり」と「子」の組み合わせも、私にはしっくりしませんでした。ニシンの燻製の小屋に入って、ネコがついてくるなど、想像するとすごく楽しいのですが。全体のリズムや盛り上げ方をもう少し工夫してくれると、もっと楽しい作品になったんじゃないかと思いました。字組みやルビを見ると、高学年からの作りに見えますが、主人公と同じ10歳くらいの子どもでも、内容としては楽しめそうな気がしました。レイアウトのことを言うと、p7の最初、「一九一一年 デンマーク領ボーンホルム島」は四角で囲まなくてもよいのでは?

ハリネズミ:北欧の国はジェンダー的には進んでいると思っていたのですが、この本では女の子がずいぶん差別されているみたいですね。この時代の田舎だからでしょうか?

西山:ノリがわからない、とういうのが全体的な印象です。失礼な言い方にはなりますが、応募原稿にときどきある感じ。書きたいこと、醸し出したい雰囲気はあるけど、笑わせたいというのもわかるけど、それが一つのまとまった印象にならない感じです。文体の問題かなと思います。燻製小屋のところがおもしろくて、そこあたりからは笑えるようになったのですが。冒頭のおさげをヤギに食べられてしまうというのが、笑うところなのか、どう受け取ればよいのか本当に戸惑いました。p13のおばあさんに手を叩かれたシーンは一瞬で心が冷えたというか、とても深刻にショックを受けて、だから、なかなか書かれているあれこれがユーモアとして受け取っていけない。どう読んでいいかわからないということになっていたと思います。それから、七面鳥の大きさを「お茶箱くらい」とたとえている(p21他)けれど、日本のお茶箱を想像すると大きすぎるし、ましてや今の子どもがお茶箱を思い浮かべられるとは思えません。伝えるための比喩のはずがそうなっていない。

ハル:みなさんのご意見をうかがいながら、確かにそうだなぁと思っていました。あとになって、いろいろな場面を絵にして思い浮かべるととてもおもしろいのに、読んでいるときは笑えないというのが残念ですよね。物語の中で学校の先生に宛てた手紙が出てきますが、子どもが書いたとは思えないような手紙です。大人が、子どもの頃に大人から受けた不愉快な出来事を思い出しながら、「あのとき、ああ言ってやればよかった、こう言ってやればよかった」っていう思いの丈をぶつけたような。手紙だけじゃなく、全体をとおして、主人公の女の子の向こうに大人が透けて見えるような感じがしました。

ハリネズミ:あの手紙は、とても10歳の子の手紙とは思えませんね。いくら賢い子だとしても。

ハル:絵も、攻めてるなぁと思います。ダメというわけではないですが、どうしてこの絵を選んだのか、編集の方にお話を聞いてみたいです。

ハリネズミ:インゲが前向きに生きていこうとするのは、いいですね。物語もなかなかおもしろい。死んだと思っていたシチメンチョウのヘンリュが生き返るところとか、燻製ニシンの小屋で寝たらいつまでも匂いがとれなくてネコがついてくるところなど、愉快です。ただ、インゲのいたずらが、子ども本来の生きる力から出てくるものと、単なるドタバタ(アンゲリーナのブルーマーを持って走り回り、追いかけてきたアンゲリーナのスカートを犬が食いちぎる場面など)と両方あって、それがごちゃまぜに出てくるのが気になりました。それと、舞台はデンマークで、デンマーク語の世界だと思うのに、原書が英語のせいかブロッサム、チャンキー、プレンティなどいくつかは英語のままで出てきます。できたら著者に問い合わせるなどして、全部デンマーク語でそろえてほしかった。みなしごのクラウスに対するところは、昔のチャリティの精神ですね。

ネズミ:カタカナ名の部分ですが、番ねずみの「ヤカちゃん」みたいに、意味をとって日本語にするとか?

ルパン:p78に「民衆学校」とありますが、これは何のことでしょう?

ハリネズミ:ところどころ、注があった方がいいな、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


日小見不思議草紙

ハル:お話はおもしろくて良かったので、気になったのは本のつくりのことだけです。飯野さんの絵は私も好きなのですが、結構、なんというか、しっとりとしたきれいなお話のときに、飯野さんの絵がバーンと出てくると、笑いたくなってしまうというか。物語と絵が合っているのかなぁ?と思わなくもないです。それから、本がとても重たいのが気になりました。ランドセルに入れたら重たいだろうなぁと思います。

西山:この作品、大好きです。今年度の日本児童文学者協会新人賞受賞作です。入れ子にしている作りが効いていて、人を食っている感じ、「騙り」をおもしろがっている感じが本当に読んでいて愉快で好きです。例えば、「三の巻 おはるの絵の具」は本題の話自体はどこかで見たことがあるような印象ですが、「日小見美術散歩 その七」とした絵の解説が本当に愉快。「(日小見市役所観光課発行 季刊『ひおみ見どころガイド』春号より)」(p108)なんて、もう楽しいなあ! 話で一番好きなのは「一の巻 立花たんぽぽ丸のこと」です。子どもの頃、多分学研の「学習」だったと思うのですが、今江祥智の「たんぽぽざむらい」を読んでとても、好きだったんです。これも、戦意を喪失させる、ゆるさがある。子どもの殿様が楽しそうに笑っているのが、しみじみと幸せな景色。人を殺したくない六平太のこの物語を、私は、自衛隊員に読み聞かせしたいと、結構真剣に考えています。

ネズミ:私もおもしろく読みました。納得のいくまで時間をかけて、じっくりていねいに書いた作品という印象がありました。地図までのっているので、自分が今いる町にも、昔こんなふうに、いろんな感情を持ちながら生きていた人がいたんだろうな、って思えてきます。物語の楽しさ、理だけでは片付かない不思議を味わえる作品だと思いました。

レジーナ:ずっと読書会で読みたいと思っていました! とても好きな作品です。人と動物が入り交じって暮らす不思議な町を舞台に、血のつながらない親子や、恋人たちが心を通わせる様が描かれています。人も虫も動物も、いろんな命を等しいものとしてとらえている感じがします。生きることの美しさやヒューマニティを、声高にではなくそっとうたう作品です。読みおわったあと、世界が少しだけ違って見えて、自分が住む場所にもこんな不思議がかくれている気がしてきました。「おはるの絵の具」はちょっとセンチメンタルで、昔の日本の児童文学にありそう。でも、気になるほどではありませんでした。かんざしをさした熊など、飯野さんの絵はユーモアがあり、作品の世界にもよく合っています。p35で、サルが「おなじだよ。おなじ」というのですが、その意味がよくわかりませんでした。

ハリネズミ:どんな理由にしろ人を斬ったという点では同じ、ということじゃないでしょうか。

アンヌ:最初は、サルがそれまでもいろんな人に刀を渡してきていて、そんな人たちとおまえも同じだったんだなという意味で言ったと思っていたのですが、猿が刀を取り戻すわけではなく刀も埋められてしまうので、違うようですね。

西山:「おれは……おれは……。」の「……」には、「斬りたくなかった」とか「斬るつもりはなかった」が入るのが自然な気がするので、「おなじ」というのは、やはり、人を斬ったことに変わりはないという突き放した一言ということになるのかな。考えさせますね。

ルパン:うーん、おもしろかったけれど、私はまあ、ふつう、っていう感じでした。どの作品も既視感があって。たとえば、「おはるの絵の具」の章は、あまんきみこの『車のいろは空のいろ 白いぼうし』みたいだ、とか。

アンヌ:おもしろかったけれど、それぞれの作品を読み込んで行くと、全体にうまく収まりをつけてしまっているところが逆に残念な感じがしました。一の巻では忠臣だった侍が四の巻では実は熊だったりする意外性や、その奥方や女中が熊の姿なのに紅を指していたりするという物語にしかありえないリアリティがおもしろいと思いました。作品としては、三の巻の「おはるの絵の具」の話が心に残りました。主人公が師匠の言うとおりに、おはるがくれた絵の具の色を再現できるように努力したり、江戸に上がって修行して御用画家として藩に仕えたりすることもなく放浪し、水墨画家となり色を使った絵を描かなくなってしまう。稲垣足穂が『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』(ちくま日本文学全集)で、この話のようにこの世ならぬものに意味もなく愛されてしまう経験によって「主人公たちは大抵身を持ち崩してしまう」と言っているのを思い出しました。

コアラ:すごくおもしろく読みました。連作の物語を読むおもしろさを1冊たっぷり味わいました。物語の前後に挟まれている文も、現代から江戸時代の物語にすっと入っていけるようになっていて、うまいなと思いました。「立花たんぽぽ丸のこと」では、六平太の鼻にたんぽぽがぱっと咲く場面、挿絵もおかしくて、電車の中で読んでいて笑えてしかたなかったです。「草冠の花嫁」で「おこん」という女の子が出てきてキツネだったので、「おせつネコかぶり」で「おたま」という女性が出てきたのでネコだなとピンときました。「龍ヶ堰」の上田角之進がクマでハチミツづくり、というのも納得です。「おはるの絵の具」は「おはる」という女の子なので春の精霊かな、と思ったら蝶で、意外だったし切ないラストで、私はけっこう好きでした。「おわりに」も日小見の観光ガイドのようになっていて、行ったら楽しそうと思いました。一番最初の地図を見返すと、物語で馴染みになった由庵の診療所があったりして、また物語を思い返したりしました。本を読み終わって電車を降りたら猫が通っていて、「あ、ネコガミかな」と思ったりして、読む前と読んだ後では、世界が違って見えました。

ハリネズミ:私もおもしろく読みました。最初は人間だと思っていたのが、獣だということがわかってくるんですね。幽庵先生もネコだし。飯野さんの絵はいいですね。登場するのが人間界と動物界をいったり来たりする者たちなので、ぴったりの気がします。一つ一つはよくある物語ですが、時空を超える仕掛けがあって、過去の歴史と今がつながるように書かれていますね。その仕掛けが見事だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


きみのためにはだれも泣かない

ルパン:これは…いまひとつでした。人物がいっぱい出てくるし、ひとりひとりがデフォルメされすぎてるけど誰が誰だかわからなくなるし。しかも、なんだか大人が中学生のかわりに書いています、っていう感じがしてしまって。と思ったら、これは別の物語の続きの話だったんですね。なるほど、って思いました。もとの話を読んだらもっと共感できるんでしょうか。

レジーナ:登場人物の会話や心情にリアリティがあり、今の中学生に届けようとして書かれた作品だという印象を受けました。でも、私はちょっと入りこめませんでした。デートDVなど現代のテーマは入っていますが、1冊丸ごと、誰が誰を好きで、誰と誰がくっついて……という内容で。人を愛することの喜びや、好きになったときに世界が一瞬で輝くような感じが伝わってこないからでしょうか。ロジャーをなくしたおばあちゃんの気持ちがわからない鈴理は、アスペルガーかなにかの発達障がいがあるようです。描き方次第でもっと魅力的な人物になったのに、この本ではあまり共感できませんでした。

ネズミ:私は苦手でした。どう言っていいのかわかりません。人物ひとりひとりがデフォルメされて、スペックのなかで動いていく感じで、人物の展開に意外性がなくて。現役の中高生が読んで、どんなことを思うのだろうと思いました。共感できるのか、安心するのか、警戒するのか、読んで救われた気持ちになるのか。それがよくわからなかったので、みなさんの意見を聞きたいと。一人称って、みんなおしゃべりになってトーンが似てきてしまいますね。どんなふうに手渡せる本なのか、私はよくわかりませんでした。

西山:章ごとに語り手を変えるというやり方はこの10年、あるいはもう少し前から本当によく見ますが、主体が変わっても、あまり別の人格に思えない場合も多いと感じています。そんな中、梨屋さんの作品は、例えば『夏の階段』(ポプラ社)にしても、本人が思っていることが、他の人からはぜんぜん違って見える、ちゃんと別の人間を見せてくれるので、この手法が生きていると思っています。今回の作品もそう。ただ高校生の複数の恋愛感情が交錯すると、ちょっと、誰のセリフかわからなくなってくるところは何箇所かありました。鈴理ちゃんは、なにかの障がいを持っているのかなと思いながら読みました。でも、それがp240あたりで、そういう次元の話でなくなる。鈴理ちゃんに障がいがあるとかないとかは関係なくなる気がしました。月乃が他者と決定的に分かり合えないことを思い知らされたことで、新しい関係の持ち方へ回路が開かれている。ここがタイトルにも直結していて、メッセージの要だと思います。p29の「他人に迷惑をかけないためには、自分の心に迷惑をかけるしかない」という月乃の感覚とか、多少自己陶酔的な気分にさせちゃうかもしれないけど、共感する中高生は多いのではないかと思います。

ハル:みなさんがどんな風にこの小説を読まれるのかなぁと、いろいろご意見をうかがいたいと思っていました。確かにたくさんのさまざまな人物が出てきますし、実際にはこんなに特徴が顕著な子っていうのはいないのかもしれないけれど、とてもこまやかに練られているので、物語の世界ではリアリティをもって、きちんと生きている感じがします。日常の中で、中高生だけじゃなく大人も抱くような、友情間でのいろいろなモヤモヤに対して、ひとつの答えを示しながら描いているので、読者は「私が言いたかったのはこれなんだよね」「あのとき私があんな風に思ったのは、変じゃなかったんだ」と、安心できるんじゃないかと思います。若い不確かな心情に寄り添おうとする作家の姿勢が、強く感じられる作品だと思いました。

コアラ:私はあまり入りこめませんでした。出だしが鈴理だったので、鈴理に沿って読んでいたら、あまりにも周りが見えていない言動が多くて、読むのが辛くなりました。寄り添っているのでなく突き放すように書いている感じがしました。それでも、中学生が読んでも高校生の気持ちがわかるように書いてあるし、高校生が読んでも中学生の時はそうだったというように自分の成長がわかるように書いてあるとは思いました。どきっとするタイトルですが、後書きを読んでもどういう意味かよくわからないというか、あまりピンときませんでした。ただ、カバーの絵は、何か物語がありそうで手に取りやすいとは思いました。

アンヌ:最初は月乃さんの視点から書かれているのかと思って読み始めたのですが、途中でそれではついていけなくなりました。他人を突き放してみているような姿勢をとりながら、実は自分を整理できていない。ああ、こういうところが中学生なんだという感じがしました。とても古典的なぐらいに能天気に書かれている彗が物語を動かしてするところにも、リアリティを感じました。とにかくこれだけの人数の登場人物を短い言葉でよく書き分けたと思います。うわべは幸せそうだったり素晴らしい人に見える人間でも、心の中に闇を抱えていたりすることが語られていて、デートDVについては被害者だけではなく、加害者へのメッセージもあります。新しいヤングアダルトの書き手だなと感じました。

ハリネズミ:私はおもしろく読みました。たしかに登場人物は多いですが、デフォルメされて特徴がはっきり出ているので、読んでいて混同することはありませんでした。各章がそれぞれの人物の一人称なので、文体も違いますし。普通ギャルメイクをしている人は自分の素を出したくないと思ってわけだから、周りの人の世話をしたりしないと思いますけど、夏海は違いますね。鈴理だけちょっと浮き上がっているように思いましたが、それはこの子が何かハンディを抱えているからでしょうか。それぞれが個性的ですが、表紙の絵はどれも同じ顔なのが残念。私がいちばん気になったのは未莉亜ですが、未莉亜の章はありません。別の巻で出てくるのかな。全体にユーモアもあって、楽しく読めます。このタイトルは反語的な表現なのでしょうね。

西山:人が混ざるというのではないんですが。単純に、会話が続いているとだれのセリフがわからなくなるところがありますね。

ハリネズミ:どうしてこういう書名なのかなあ、と私も思ったのですが、後書きに「自分の心の動きを感じ取れることは、だれかの心をおもいやる力にも他人のために心を動かせるやさしさにもつながるんじゃないのかな。(中略)悲しかったりさみしかったり苦しかったりしたときに、だれかが代わりに泣いてナカッタコトにしてくれるわけではないのですから。そんな意味を込めて、逆説的ではありますが『きみのためにはだれも泣かない』というタイトルをつけました」とあって、納得しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2017年7月の記録)


ミスターオレンジ

ナガブチ:「ミスターオレンジ」がモンドリアンであるかどうか微妙で、ずっと読みながらひっかかっていて、最後の解説で、ああやっぱりそうだったのか、と腑に落ちました。モンドリアンの絵画は解釈が難しいですよね。一瞬、教育色の強い、戦争の愚かさを前面に伝える本かと思ったのですが、三原色とは何か、といった哲学的なところ、絵画の見方の提案にまで踏み込んでいっていて。それから印象に残ったのが「ミスタースーパー」です。狂言回し的な役回りで、読み易く、技法上必要なのかもしれませんが、どこか既視感もあって、本筋にとってどれくらい意味があるんだろうと思いながら、読んでいました。しかし、消滅後、もう出てこないと忘れていたら、最後に再登場し、驚きました。「想像力」の二面性を体現する存在として、どこか懐かしさを感じさせながらの登場に感動しました。最後ではっきりとこのキャラクターの意味が分かった気がします。ミスターオレンジは初登場の雰囲気から、この人は最後は死んじゃうんだろうなと予測しながら読んでいたので、それとは対照的でした。

ルパン:とてもおもしろく読みました。親友のリアムが悪い先輩と仲良くなってしまって気まずくなったあと、仲直りするシーンが印象に残りました。孤独なデ・ウィンター夫人の最後はせつなかったです。

アンヌ:以前に読んで、とてもいい本だけれど同時に心が重くなる本でもあるなと思っていました。作者はオレンジひとつで読者を物語の中に引き込むのを成功していると思います。その色、味わい、香り、形や重さを感じることによって、読み手は主人公の少年の日常からニューヨークでのモンドリアンの生活やその絵画にまで引き込まれます。作者はそれだけではなく、ブギウギというダンス音楽によって、当時のニューヨークの音と動きを本の中に引き込み、さらにモンドリアンの絵の象徴するものを感じさせることにも成功していて、実に手の込んだ作品だと思います。ただ、この時点で、ヨーロッパからやって来たモンドリアンには戦争はもう終わるとわかっているのに、この後、原爆が落とされたのだなと思うと暗然とする気分があります。ニューヨークの自由のまぶしさと戦争の残酷さが同時に感じられる物語でした。

カピバラ:とてもおもしろく読みました。この主人公の男の子の気持ちがとても素直に描かれていると思います。最初のうちは大好きなお兄さんが出征していくことを誇りに思っていたけれど、お母さんの微妙な反応に気づき、お兄さんからの手紙の中に父母だけが知っている真実があったことをだんだん知っていくのが自然と描かれていて、読者も主人公と一緒に成長していけるのがよかったです。お兄さんが出征している弟の話はほかにもありますが、ミスターオレンジに出会うことでまったく新しい自由な発想や、未来への希望といったものを絵や音楽から感覚として知っていくという感じがとても新しくてわくわくするようなものがあって、そこが今まで読んできたものにはない、新鮮な印象を与えてくれました。このミスターオレンジはナチスの手を逃れて新天地アメリカにわたってきたんですけど、「おさるのジョージ」の作者レイ夫妻も同時代にアメリカに渡ってきました。その当時のニューヨークの雰囲気がもっと描かれていてもよかったんじゃないかな、と思いました。日本版の装丁は、内容をよく表していていいですね。

アカザ:本当に、装幀は原書よりずっといいですね。物語の雰囲気をよくあらわしていて素敵です。物語そのものも、素晴らしい。英国や日本の児童文学では、実体験としての戦争が描かれていますが、参戦していても本土での戦いがなかったアメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどの国の子どもたちがどのように戦争を見ていたかがうかがえて、おもしろかったです。『ペーパーボーイ』(ヴィンス・ヴォーター作/岩波書店)と同じように、主人公のライナスがまったくの他人だけれど素晴らしい大人にめぐりあって、新しい考え方に触れ、変わっていくところが、とてもいいと思いました。お兄さんが描いた漫画の主人公と頭の中で会話をかわしながら少しずつライナスの戦争に対する考え方が変わっていくところも、とても上手い書き方をしているし、家族の描写もおもしろかった。ただ、想像力についてのくだりは感動的だけれど、ちょっと理屈っぽいかな。モンドリアンがモデルだということは物語の最後まで明かされないけれど、どこかに絵を入れたほうが良かったのではと、ちょっと思いました。口絵とか、栞とか……。

カピバラ:これは創作だから、はっきりした作品を出してないのでは?

アカシア:ヴィクトリー・ブギウギなんていう絵の名前が出てくると、モンドリアンだってわかりますけどね。表紙もモンドリアンの絵をモチーフにしてますね。

野坂:この本を訳しながら、何度も繰り返しテキスト全体を読み。読むたびに新しい発見がありました。そのつど、ひとつひとつのシーンが映画のように立ち上がってくるんです。でも実はライナスは、考えている時間のとても長い少年です。地の文、ライナスの意識の流れ、思考から地の文にもどるときの自然な着地・・・思考の部分は、二倍ダーシュを使ったり、括弧に入れたり。それに加えて、自由間接話法をかなり取りいれました。また空想の中でのミスタースーパーとのやりとりが際立つように、地の文とは違うゴシック系の書体を使いましたが、ライナスが空想から徐々に覚醒していくところでは、あえて明朝とゴシックを数行おきに混ぜて使いました(p184-p188)。
 これまでにも、いろいろな方から感想をいただいています。例えば、第二次世界大戦中の日本の子どもの日常は、山ほど読んできたけれど、海の向こうのアメリカの子どもが戦争をどう感じていたかは、ほとんど知らなかったとか。それから、「モンドリアンはもっと気難しく、複雑な人だと思っていた」と、画家さんに言われたこともありました。でも、正確なモンドリアン像を伝記のように描こうと、作家は意図したわけではありません。芸術や音楽、戦争とはなにか、ライナスにとって新しい視点を開いてくれる「だれか」として、その姿は描かれている。子どもの本として、このような書き方もありではないかと、私は受け止めています。家族や友人ひとりひとりの性格も、きちんと肉付けされている。迷いながら自分で考えを深め、自分なりの答えを見つけていくライナス。全体として、ライナスに象徴される「子ども時代」への応援歌になっている作品だと思っています。一方で、本来自由であるべき想像力が、戦争賛美の方向へコントロールされることもある。今も世界中で繰り返されている、そうした無言の圧力に、子どもがどう抗していくか、という物語にもなっています。
 それから、念のため作家に確認したところ、ライナスの一家はドイツ出身だそうです。「ミュラー」という名字が、本文にでてきます。お話のなかでは、何系の移民か、ということは大きな意味を持っていませんが。

レジーナ:装画がすごくすてきで、それに惹かれて読みました。とてもおもしろかったです。全体をとおして、空襲など、直接戦争の被害を受けない状況で、子どもが感じている不安がひしひしと伝わってきました。志願して戦争に行ったアプケが、目の前で人が死んでいくのを見るうちに、なんのために戦っているのかわからなくなるのも、戦争のリアルな現実を表しています。想像力についてのくだりは、私はそんなに理屈っぽいとは思いませんでした。「自由を奪われたら、人はかならず抵抗する」という台詞は現代にも通じます。困難な時代になにを信じ、たよりにするか、そういうとき、想像力や目に見えないものがどれだけ力になるか、そんなことを考えながら読みました。ブラジルの絵本作家のホジェル・メロさんが、「言論が弾圧された時代、ペンで権力に抵抗した人々が次々とどこかに連れていかれるのを見て、言葉がどれほど大きな力をもつか知った」と語っていたのを思いだします。ナチスがモンドリアンの絵を飾ることを禁じたと語る場面では、エリック・カールが、学生時代、美術の先生の家に遊びにいき、そのときナチスに禁じられた画家の絵をこっそり見せてもらって、それが自分の人生を決めたと言っていたのを思い出しました。

ネズミ:おもしろく読みました。最初は、戦争に行くお兄さんをかっこいいと思っていたライナスの戦争観がだんだんと変わっていき、お父さんやお母さん、そしてミスターオレンジと、それぞれの立場からの戦争の受けとめ方が見えていくところ、「ぼく」の描き方がよかったです。最初は、ミスタースーパーってなんだろうと思いましたが、ミスタースーパーがいるから、戦争の虚像と実像の対比があざやかになっていくのかなと思いました。ただ、読者を選ぶ本かなとは思います。最初と最後が1945年で、物語が展開するのは1943年。本を読みなれた子じゃないと、構成がすぐにはわからないかもしれませんね。

西山:共謀罪が成立しようとしていたとき、ちょうど95ページを読んでいたんです。「こうしたことは、長いプロセスなんだ。わたしが生まれるまえからはじまっていて、このあともずっと続いていく。もっともっと大勢の人の努力が必要で、そこがまさにすばらしいところなんだよ」と、ここが、あまりにも現実の政治状況と重なって、くさってる場合じゃないな、と、諭されたような気持ちになりました。全体に、今、この状況下で読むことで考えさせられる場面が多かったです。先ほど『あらしの前』『あらしのあと』(ドラ・ド ヨング著 吉野源三郎訳 岩波書店)の名前が出ていましたが、私もあの作品では、異年齢の子どもたちのそれぞれの感覚も好きな所の一つで、例えば、22ページ「アプケはいろんなことを子どもっぽいと感じないぐらい、大人なんだ」というちょっとしたところなどに、とてもおもしろさを感じました。みなさんがおっしゃっているように、勝った側のアメリカの戦争の子どものものの感じ方が新鮮でした。ミスタースーパーの両義性が、戦場へ人を送り込むのか、戦争に反対するのかどちらにはたらくのか、雑誌など、児童文化財の問題としても興味深いと思いました。(でも、この作品は「戦争に参加すること=正義」の側に立っていて、にわかに日本に置き換えられないなと、読書会を通して考えさせられました)ライナスの感性のするどさには、感心して読みました。部屋を見て、陽気な感じがする、と感じたり。「教わったばかりの、いままでとはちがう考え方を、ライナスは頭の中でごちゃまぜにしたくな」くて階段をゆっくり降りる(p97)とか、そういう細部を楽しみました。

ハル:とても良かったです。「ライナスはかけていく。水たまりをとびこえ、歩道のふちでバランスをとり……」という、リズミカルな冒頭の1行目から引きこまれました。爆撃を受けたり、防空壕に避難したりという実体験の戦争の恐ろしさを伝える物語とはまた違い、想像から始まる戦争の恐ろしさ、絶望も希望もうむ「想像力」のパワーを、物語を追いながらとてもわかりやすくイメージできました。この画家は誰だろうと思いながら、読み終わって改めてカバーを見たら「ああ〜」とわかりますね。素敵な装丁です。そして、先ほどアンヌさんがおっしゃっていましたが、私も読後は「1945年3月」には、ニューヨークではもうほとんど戦争が終わっていたんだなぁと、何とも言えない切なさも覚えました。

マリンゴ: とても素敵な物語だと思いました。お母さんの反対を押し切って戦争へ行ったお兄ちゃんは、主人公にとってヒーローでした。でも、お兄ちゃんが向こうでつらい思いをしていると知り、主人公は戦争の現実を知ります。その流れがとてもよかったです。あと、描かれているのが「戦勝国」の考え方だなぁと思いました。p207の「アプケは未来を想像できたから、戦争に行ったんだ。想像したのはいい未来だよ」に象徴されるように、戦争は正義なのだと捉えているところが少し気になりました。戦争には勝つ国と負ける国があるわけなのですが……。日本の戦争児童文学とはまた違う心理描写で、興味深く読みました。それと、「訳者よりみなさんへ」の部分で、この本が作られた経緯について紹介されていて、とても驚きました。「モンドリアン展」のために作品を書いてほしいと依頼された作家が、このような作品に仕上げるとは。普通なら、もうちょっとモンドリアンに寄せて、主人公として書くと思うのですが、ここまで大胆に作り上げたことがすごいと思いました。

すあま:非常におもしろかった。お兄さんが戦地に行ってしまって、家でのライナスの役割が上になり、がんばって背伸びをしている。でも戦争をすべて理解しているわけではない。ライナスはミスターオレンジに出会うことで成長していく。ミスターオレンジがライナスを子ども扱いせずにきちんと語りかけ、ライナスの世界が広がっていく。私はミスターオレンジのモデルがモンドリアンだと気付かなかったので、あとがきを読んでびっくりしました。読み手は、モンドリアンという画家にも興味をもつのではないでしょうか。

アカシア:いい作品だと思って、私がかかわったブックリストでも推薦しています。オランダでのモンドリアン展に際して依頼されて書いた作品とのことですが、モンドリアンとの距離が絶妙なのもすばらしい。ライナスの感受性の強さを「においには名前がない」のを不思議と思ったりする描写であらわしているのも、いい。1945年3月の出来事が最初と最後にあって、つながっているのですね。ただ2回目に読んで、もし自分が編集者だったら相談したいなというところが少し出てきました。たとえばp5に「ポスターに書かれている住所は、西五三番地十一番地」とありますが、これはニューヨーク近代美術館(MOMA)の住所です。でも、オランダの子ども以上に日本の子どもには、それがわからない。そことつながっている最後の章は、ライナスがこの美術館にやって来たところから始まりますが、「ビル」と訳されているのでそれが美術館かどうか読者にはまだわかりません。日本の子どもだとビルと美術館は別物だと思う子も多いと思います。ようやくp238で「こんな立派な美術館」と出てくるのですが、おとなの本ならこれでもいいと思いますが、子どもにとってはイメージがうまくつながらなくて盛り上がれないようにも思います。「ビル」じゃなくて「建物」とするとか、最初の章で、ライナスがこの住所にこれから向かうことをもっとはっきり打ち出すとか、何か工夫があるとさらによくなると思いました。p5には「ライナス、中へお入り・・・」という言葉が太字になっていますが、後のほうを読まないと、これがモンドリアンのいつもの台詞だということがわからない。謎が1箇所に1つなら子どもはその謎を抱えて読み進めますが、いくつも謎があると、わけがわからなくなってくるのではないかと危惧します。p52の「ヨードチンキの小びんを、ぐるりとまわした」は、ひょっとすると小瓶で、ぐるりと周りをさした、ということ? ちょっとよくわかりませんでした。p183の「ウィンドウに飾られたもう何個かの青い星」は、前に星が2個と出てくるのですが、それが増えているということ? だとすると、なぜ増えているのかよくわかりません。p187の「だったら、わたしにひとつ、例を見せだまえ!」も、もう少しすっとわかる表現になるといいな。p204の「あいつはだいじょうぶなんだよ」も、戦地でひどい目にあっているのですから、「まだ生きているんだよ」くらいの方がよかったのでは?
 それからこれは、この作品に限ったことではないのですが、欧米の作品の多くは、戦争にはひどい部分がたくさんあるけれど、それでも正義の戦争は必要だというスタンスですよね。そこに、今回気づきました。この作品でも、お兄さんの友だちが戦死したり、お兄さんが「こんなはずじゃなかった」と思うなど戦争への疑問は書かれていますが、p197「戦争に勝つことは、未来のために戦う意味があるんだよ」p207「アプケは未来を想像できたから、戦争にいったんだ。想像したのはいい未来だよ。敵のいうなりにならなくちゃいけない未来じゃなくて、別のやつ。みんなが、自分のしたいことができる未来なんだ。だからこそ、アプケは戦いに行った。そのためには戦わなくちゃいけないって、わかってたんだ」などというところがあって、ああやっぱり、と思いました。

ネズミ:登場人物のせりふにそういう表現が出てきたとしても、それは時代を反映して描いているからかもしれないし、作者のスタンスはわからないんじゃないでしょうか。批判をこめて書いている可能性もあるし。

アカシア:著者を責めているのではなく、欧米の著者はそういう視点にどうしても立ってしまう。兵役がある国では当然そういう教育がなされるので、それが普通なのだと思います。日本の子どもが読んだときに、どういうメッセージを受け取ってしまうか、ということを考えると、ちょっと不安です。

しじみ71個分(メール参加):モンドリアンを素材にして、戦時中のアメリカを描いていた点、とてもおもしろく思いました。未完の遺作になった「ヴィクトリー・ブギ=ウギ」の画像を確認してみて、物語の中でこの絵が非常によく表わされているなと思って感心しました。アメリカを、特にニューヨークを自由の象徴として描ており、自由をもとめてヨーロッパから逃げてきたモンドリアンと、自由を守るために戦地に旅立ったお兄さんとの対比がそのまま少年の葛藤になるあたり、おもしろく読めました。架空のヒーローが自分の心との対話にもなっていると思いますが、戦争賛美がまやかしであり、お兄さんが命を賭けていることに気づいた段で、ノートを縛って片づけるところが良かったと思います。兄弟が修理して靴を使いまわすところなど、「物がない」ということを具体的にイメージしやすく、生活臭があって良かったです。

エーデルワイス(メール参加):読みやすい訳ですね。心に響く言葉がたくさんありました。p99「未来にはだれもがみんなこんなふうに暮らせるはずなんだ」p197「自由を奪われたら人は必ず手行こうするものだ」などです。ピート・モンドリアンがとても重要な人物として登場しますが、あくまでライナス少年の成長を描いているのがいいですね。平田さんの挿絵もすてきです。モンドリアンをよく知らなかったので、図書館で大きな美術本を借りてカラーで印刷された作品を見ました。オランダでの初期の作品は風景画が中心で、具象から幾何学抽象への過渡期があり、新造形主義を確立していったようです。作品はニューヨークにもあるようですが、オランダに行く機会があったらハーグ市立美術館へ行って作品に会いたいです。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スピニー通りの秘密の絵

ナガブチ:テンポもよく、読み進めるほどに、楽しく読めました。最後かなり加速しますが、中でもナチスについてのくだりでは、存命者リストの話や施設の話など、非常に具体的な情報が出てくるのが印象的です。1枚の絵が持っていた真の意味、重さを知った時、とても感動しました。

ネズミ:いろんな要素が盛り込まれている本だなと思いました。セオとボーディが仲良くなっていくところがおもしろかったです。でも、あまりに盛りだくさんすぎて、ここまでしないとおもしろい本にならないのか、読者はのってこないのかと、やや食傷気味にもなりました。こういうのが今風なんでしょうか。ナチスのことも出てきますが、実際の収容所の様子などはうかんでこなくて、筋だてのひとつの道具なのかなという感じ。冒頭で、ジャックがセオのおじいさんだということに、途中まで気づきませんでした。前のほうに書いてあったんでしょうか。

アカザ:わたしも、すぐに分からなくなりました。たしかに前のほうにおじいさんだって書いてあるけれど、1か所だけだとつい見落としてしまいますね。

西山:美術館に行きたくなりました。単純に絵画の読み解きは面白いなと。最初、私も貧困の話かと思いました。スピーディーに繰り出される情報と謎解きでだんだん加速してきたのですが、実はあと少しで読み終わっていません。謎解き部分なので、直前に慌ただしく目を通すのももったいないかと、帰りの電車を楽しみにしています。でも、お構いなく、語ってください(笑)

ハル:子ども向けといっても、こんなにおもしろいミステリーがあるんだ、と夢中になって読みました。絶望的な環境にもめげず、たくましく、しかも天才的な才能をもつ主人公の女の子も痛快です。終盤になって、もう残り何十ページもないけどほんとにお話が終わるのかな?というくらい駆け足になってしまったのがちょっと残念ですが、新しい発見もあり、勉強にもなり、絵画への好奇心もくすぐられて、とてもおもしろかったです。

マリンゴ:最初、読みづらいなと思っていたのですが、途中から一気に引き込まれました。ただ、ラストの部分、捜しまわっていた人が隣に住んでいた、というところで、びっくりするというか、それはちょっとないよ、と思いました。作者のサービス精神が旺盛すぎたのでしょうか。伏線がはられていなくて、後で弁解のようにいろいろ経緯が語られるスタイルで、ミステリー作家さんとかが読むと、いわゆる「ルール違反」ではないのかな、と思いました。あと、p114で、「超オタクの奇人レオナルド・ダ・ヴィンチは卒業総代をねらっている」など、画家たちを高校の生徒にたとえて説明する部分はとてもうまくて、読者もわかりやすいのではないかという気がします。

すあま:ちょっと主人公の境遇がひどいのではないかと思いながら読み進めましたが、主人公の世界が広がっていくにつれて、おもしろくなりました。終盤で話が急展開してちゃんとついていけず、探していた人物はおじいちゃんがとなりに住まわせていたのかと思ってしまいました。最後におじいちゃんの手紙を見つけるところは、なくても物語としては十分だったかもしれません。手紙を読まなかったのに、おじいちゃんの希望をかなえることができた、というところはおもしろいと思います。

アカシア:最初の展開から、ジャックが収容所で一緒だったマックスの話になり、マックスが娘の命を助けるために高価な絵を使ったのが明らかになる。そこまでの展開はみごとだと思いました。でも、最後が『小公女』みたいにご都合主義になってしまった。p252には「収容所を生きぬいたとしても、パリの死刑執行人の手から逃れるのは無理だったんじゃないかと思う」とありますが。p246では、その「パリの死刑執行人」ハンス・ブラントが、アンナの出所申請をしたと書いてあるので、流れに無理が。p252には「ボーディがラップスターのまねみたいな話し方をやめるなら」とありますが、ボーディの口調はそういう訳にはなっていないので、ひっかかりました。マダム・デュモンが自分の名前をおぼえていないということで、最後の展開につながっていくわけですが、自分ではおぼえていなかったにしても、「アンナ・トレンチャーを知らないか」ときかれれば、普通は思い出すのではないかと、そこもひっかかりました。あと一歩でおもしろくなりそうなので、ちょっと残念。

ルパン:とてもおもしろく読みました。エンタメとしては最高だと思います。そう思って読むと、となりの奥さんがさがしていた少女だったとか、最後にお金がたっぷり出てきて一安心、というのも、「どうぞどんどんやって」という感じで楽しめました。ただ、児童文学作品として考えると、あまりにご都合主義なのが残念。あちこちに『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店)のオマージュなのかな、と思われるシーンがありますが、それにしてはちょっとお粗末な気がします。

アンヌ:主人公がニューヨークのど真ん中でビーツを育て酢漬けの瓶詰を作ったり、祖母の残した服を再利用したり、『家なき娘』 (エクトール・マロ作 二宮フサ訳 偕成社文庫)のように生活をやりくりする様子がとても楽しい物語でした。ナチスによる美術品の略奪話は推理小説にも多いのですが、この作品では、絵の謎だけではなく、祖父が盗人ではないということを解き明かすというスリルがあって、主人公と共にドキドキしながら読み進められました。絵の謎を解くために、ボーディがスマホを駆使し、図書館員がパソコンで調べてくれる。このいかにもスピーディーな現代の謎とき風景と、これに対比するように描かれる主人公が現物の絵画を見、参考資料を読みこんで謎を解こうとするところが実に魅力的で、作者の思い入れを感じます。愕然としたのはp264から始まる隣人と絵の関係がわかる場面です。あまりに描写が省略されすぎていて納得がいかず、作者がもともとは長々と書いていたのを削られたのかなと思いました。

カピバラ:この本で一番いいと思ったのは、ふたりの女の子の関係性です。育った環境も性格も全く違うのに、初対面から拒否反応を起こさず、すっと相手を認めていくところがすがすがしい。この年頃の女の子の、大人っぽくしたい、背伸びしている感じもよく出ています。図書館で調べるところもよかった。

アカザ:とてもおもしろくて、一気に読みました。主人公の女の子が魅力的だし、貧しいといっても豊かな貧しさというか、庭で飼っているニワトリに名前をつけたり、読者が憧れるような貧しさですよね。美術史を学んだ作者ならではの贋作の見分け方とかラファエロの絵の話とか、細部がとても魅力的な物語だと思いました。ただ、やっぱり最後ができすぎというか、やりすぎじゃないのかな。

野坂:作者はもともと美術研究者で、その専門を生かした、力のこもったデビュー作ですね。友情物語、謎解き物語として夢中で読みました。主人公セオは相棒ボーディと力をあわせ、死んだおじいちゃんが遺した絵の謎を探るのだけれど、最終的に絵の中にも失われた家族が描かれていたことがわかり、いくつもの家族の喪失と再生の物語が層になっている点、うーんやられたという感じ。絵そのものにも見えない層があって、絵の秘密を探るため、病気のふりをしてレントゲンにかけるところも、奇想天外な子どもたちのパワーを感じました。ただ、大円団の部分で、マダム・デュモン(いじわるな隣人)が、急にきれいな言葉で話しだし、人格が変わったように感じたのは残念。そして、セオはものすごく貧乏なんですが、ただの貧乏ではなく、そうしたことがアートのように感じられるのは、売れない画家だったおじいちゃんのセンス、生き方のおかげ。そんなおじいちゃん、セオの人物像にも、それなりに苦労しているセレブの娘ボーディの描かれ方にも、好感が持てました。

レジーナ:私も『クローディアの秘密』を思い出しながら、おもしろく読みました。ところどころわからない部分がありました。映画『黄金のアデーレ』は、ナチスに奪われたクリムトの絵を取りかえそうとした実在の人物の話ですが、奪われた絵を取りもどすことが、失われた過去を取りもどすことにつながっていて、その点ではマダム・デュモンの人生に重なりました。

しじみ71個分(メール参加):美術の専門家が書いただけあって、絵にまつわる謎解きがとてもリアルでしたし、モニュメンツ・メンという存在も初めて知り、非常におもしろく読みました。貧しく、頼りのおじいさんを亡くし、母は生活力がないという厳しい環境にありながら、知恵をフル回転させて、アナログを旨として生きる主人公のセオと、珍しい家族環境を持ち、ネット検索に非常に長けたボーディ(bodhi、菩提=悟り、知恵)という女の子の二人組が、本とネットという現代に必要とされる知性をそのまま象徴しているようで、その二人が絵にまつわる謎解きをするという構成がとても巧みだと思いました。私が特にいいなと思ったのは図書館員のエディで、タトゥーがあって型破りでありながら、図書館情報学修士号を持ち、専門的なサポートをしてくれる存在として描かれています。また、いかにも司書らしい容姿として描かれる専門図書館員の彼女もプロフェッショナルなスキルをフル動員して子どもたちを助けるというところで、アメリカにおける図書館員の認知度の高さが良くわかり、日本とは違うなぁと実感しました(多くの専門家がそこを目指しているとしてもまだ社会全体でそこまで到達していないという意味で)。セオがおじいさんの宝の絵を売って生活の足しにすることばかり考えて、途中、絵の持ち主探しに消極的に見えるように思えた点はちょっと残念にも思いましたが、生活に困窮しているという意味でリアルだったなとも思います。最後の、お前はニワトリだ、地面をつついて真実を探せ、というおじいちゃんのジャックの言葉はぐっときました。真実を探求する人の姿勢を端的に表した言葉だと思います。小学校高学年くらいの子どもには、ミステリ的な要素に知的好奇心をくすぐられておもしろいのではないかと思いますが、もしかしたらちょっと難しいでしょうか?

エーデルワイス(メール参加):極貧で、家の仕事と母の世話をするセオドラはたくましくもけなげです。言語と図書館と美術館とミステリーがあわさって、おもしろい作品に仕上がっています。訳もいいですね。ナチスの奪った絵画を洞窟から奪い返すという映画を何年か前に見たことがあります。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


オイレ夫人の深夜画廊

ナガブチ:この作品は、難解でした。日本人の作家さんとは思えない文章でした。ただ、難しいところや描写を読み飛ばしても、なんとなく読める、ストーリーは追えるなと思いました。

レジーナ: 同じ作家の『ドローセルマイアーの人形劇場』『アルフレートの時計台』と同じように、雰囲気のある作品です。ドイツの冬の静謐さ、重苦しい感じはよく出ているのですが、物語でぐいぐいひっぱっていくような作品ではないので、読み手を選ぶ本です。わたしはあまり入りこめませんでした。雰囲気を味わうようなこういう本も、あっていいとは思いますが。

ネズミ:物語の世界にすっと入っていけました。確かなイメージが浮かんできて、うまいなと思いました。夜だけ開く画廊で、出会うべきものに出会って、最後に主人公の人生の方向が変わるというのも魅力的。物語の世界を楽しめました。このあいだ読んだ同じ著者の『アリスのうさぎ』(偕成社)よりも好きでしたが、主人公が青年というのは、子どもにはとっつきにくいでしょうか。こういう本がたまにはあっていいと私は思いますが。

西山:特に付箋をはることもなく、さら〜っと読んでしまいました。なぜか、安房直子をふと思い出して、ふわっと懐かしい気分を味わいました。だから、なに、という感想も特になく、すみません。

ハル:なんだかこれからおもしろいことが起こりそうなんだけど……眠い、と何度も心地よい眠りに誘われながら読んだら、ラストでぞくっとくるほど感動したので、こう言うのも変ですが、最後まで読んでよかったです。出版社のホームページでは読者対象が小学5〜6年生となっていましたが、どこまで読めるんだろう? というのは判断が難しいところだなと思います。

マリンゴ:最小限の言葉で、異国の不思議な空間を描き出すのは、さすが斉藤さんだと思いました。ただ、広場に行ったあたりから、私の想像力が追いつかず、イメージが曖昧になってしまいました。読後感はいいです。ただ、さらっとしていてあまり後には残りませんでした。p134の「だれだって、ヒントに出会うのです。ヒントは連続してあらわれますからね」は、「わかるわかる」と、とても納得できました。

すあま:私は『アルフレードの時計台』よりもおもしろかった。ただ、前半がまどろっこしい感じで、物語にうまく入っていけなかった。主人公が子ども時代にサモトラケのニケの頭と首がないのがこわかった、と感じたことに共感できた。著者はたくさんの作品を書いているが、これはあえて海外の作品のような感じにしている。登場人物の名前が難しいので、日本の物語を好んで読む子どもには読みにくいかもしれない。

アカシア:これは連作の3冊目ですね。1冊目の『ドローセルマイアーの人形劇場』には、ふしぎな人形と人形遣いが出てくるし、2冊目の『アルフレートの時計台』にはタイムファンタジーの要素もあって、どちらも不思議さの度合いがもっと濃厚です。この3冊目は、それに比べると、オイレ夫人のキャラもそうそうくっきりはしないので、単発の作品としては弱いかもしれません。また、リヒトホーフェン男爵が現れて、フランツが小さい時グライリッヒさんにあげた木のライオンを取り戻すという要素と、サモトラケのニケの顔がわかるか、という要素が入り交じっているので、読者がくっきりとした印象をもてない理由は、その辺にもあるかもしれません。ただ、前の2作に登場したクラウス・リヒト博士、時計台やアルフレートの絵、ドローセルマイアーさんなども再登場してきたり、2作目で不気味な役割を果たしていたフクロウがオイレ夫人と重なっているなど、連作で読むと、よりおもしろいのかと思います。
 画廊に立ち寄った哲学の学生であるフランツは、彫刻家になる決心をします。1作目では高校の数学教師だったエルンストが人形遣いになり、2作目でもやはり別の道を志していたクラウスが、親友の死に直面して小児科医になるなど、主人公たちはみんな、ふとしたきっかけをもらって、これまでとは別の道を歩み始めるというところも、3作に共通しています。p32の「どういたします?」は「どうなさいます?」かな。

ルパン:こういう雰囲気の物語は好きなのですが、オイレ夫人に魅力がなく、期待外れの感がありました。また、サモトラケのニケとかミロのヴィーナスの「失われた部分」に想像力がかきたてられる、というのは言い古されていることなので新鮮味がなかったです。でも、子どもにとってはおもしろいのかもしれません。p31の「複数形」に関しては、そこまで翻訳風に作らなくてもいいんじゃないかと思いました。ちょっとやりすぎ。

アンヌ:カフカやカミュを思わせる静かな始まりで、医師の言葉に、主人公はもうこの町から出られなくなるのかなとか、深夜画廊の客の様子に、『おもちゃ』(ハーヴィイ・ジェイコブス/作 ちくま文庫『魔法のお店』収録)を思い浮かべ、さあ、怪奇に行くかファンタジーに行くのかとワクワクしながら読み進めました。普通、過去の何かに出会う主人公は、取り戻せない時間に苦い思いを抱くのですが、この物語では未来を手に入れるところが新鮮でした。ただ、町見学の場面やオイレ夫人の描写に今一つ魅力がなく、主人公が若い大学生というより中年男性のようで、物語の謎もそのままで淡々と終わってしまったのが残念でした。

カピバラ:1作目から読んできたけど、異国の街で、時計塔、古いホテル、人形劇場、画廊などを出して、いかにも謎めいた、これからなにかが起こりそうな雰囲気を上手に出していると思います。3部作として読むと、前に出てきた人がまた出てくるなど、読者を楽しませる工夫があるんですが、出版の間隔があいているので、前作のことをほとんど忘れてしまって……。おもしろい作品というより、おもしろそうな作品という感じです。

アカザ:3部作のうちでは、私は『アルフレートの時計台』がいちばん好きで、いまも心に残っています。この作品も、とても上手く書かれていて、男爵があらわれる前に景色が少しずつモノクロに変わっていくところなど、素敵でした。ただ、フランツにどうしても木彫りのライオンを返したかったグライリッヒさんの思いとかがあっさりしすぎていて、強く伝わってこないんですね。美しい物語を読んだという気はするけれど、感動とまではいかなかった。

野坂:物語世界はよく構築されているので、すうっと読めました。でも、子どもにはどうなのか、少しわからない部分があります。前作の二つも読まないといけませんね。「どうせ考えたって、わからないんだから、奇妙だと感じても、まあ、そういうことなんだって、そうおもうしかないのよ」という少女の言葉に、主人公フランツは、自分には何か思い出せねばならないことがあるのだろうか、と考えこみます。そんなところに、虚構の世界に読者をからめとるレトリックの巧さを感じました。また「クルトがきみに何を思い出してほしいかは来るとの問題だし、きみが何を思い出すかは、やはりわたしの問題ではない」と明言する男爵の論理が、個人主義、ヨーロッパ的でおもしろく、男爵の存在感を際立たせていますね。YAとしても読める作品では。アカシア:ルビの振り方をみると、YA対象ではないですね。しじみ71個分(メール参加):まず、本を開いて、文字組みの視覚的な効果に感動しました。頭を揃えて、ほぼ1行1文で描かれた文章ですが、その形式だけで、幻想的な物語であることを端的にわからせる効果があると思いました。そこだけでぐっと引き込まれます。子ども向けというよりは、ヤングアダルト、もしかしたら大学生とか、就活中の人とか転職模索中の人とかでもいいような、青年層向けの自分探しの童話として受けとめました。主人公が木彫りのライオンとニケの像を見付けて、自分の夢が何だったのかに気づくという割とストレートなプロットですが、途中途中で描かれる美術品や街の表現が美しいのも良かったです。エーデルワイス(メール参加):さすがストーリーテラーの斉藤さん。おもしろく読者を引っ張って最後にすとんと落とす。わかりやすくて読みやすいです。挿絵もいいですね。ルーブル美術館には行ったことがあります。「サモトラケのニケ」は入口でお出迎えしてくれるようですね。どんな美女だったのか興味があります。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


チポロ

コアラ:おもしろかったです。読みながら、矛盾に気がついたり、この伏線はこうなるのかなと思ったのにそうならなかったりして、あまり計算されていない物語なのかな、と思いました。でも終盤に一気に迫力が増して、チポロのせりふの「人間なめんなよ」と魔物ヤイレスーホの「魔物をなめるなよ」、このふたつは結構気に入りました。このあたりから、細かいところはどうでもいいと思えるおもしろさでした。チポロの母親がどうして死んだのかということについてずっと説明がなくて気になっていたのですが、最後のところでいろいろ説明がつけられていましたね。p252の「(人間に)なにか与えたいと願うならば、おまえの命と引き換えだ」というところから察しがつきました。そして、柳の木になって、柳の葉を人間の糧となる魚にしたというところで、そうだったのか、と。本の扉の絵も柳で、愛を感じる扉だなと思いました。ほかにもすごくいいなと思う場面はp250。相手を殺すのが嫌で「ほかに方法があるんじゃないか」と言ったり、「なぜ、死をもって償わせようとしないのだ」と問われてチポロとイレシュが(なんでだろう?)(なんでかな?)と顔を見合わせたり。戦いのさなかにあって「殺すのが嫌だ」と立ち止まって考えるのはすごくいいと思いました。ただ、伏線についていえば、p74。チポロがシカマ・カムイの家来になると決心して、そのあと右手がだめになったときのために利き腕でない左手で弓を射る練習する場面。このあときっとシカマ・カムイの家来になって、右手がだめになるというピンチが来るけれど、練習の成果で左手を使って切り抜ける、という展開になるだろう、と期待したのに、家来にもならなくて…。シカマ・カムイはなぜかp223でいきなり再登場してくるし、右手がダメになるピンチはチポロでなく、なぜかレプニにふりかかる。せっかく期待させたのだから、もう少しうまく展開してほしかったと残念でした。魂送りの矢についても、体を鍛えただけで射ることができるようになってしまって、もうちょっと何か特別なことを絡めてほしかったです。でも読後感はよかったです。ちなみに「チポロ」とはアイヌ語でイクラのことだそうです。

アンヌ:おもしろくて本当に読んでよかったと思える本でした。アイヌ文学で忘れられないのは知里幸恵編・訳『アイヌ神謡集 』(岩波文庫)ですが、あのふくろうの神様と同じように、物語は鶴が貧しい子どもであるチポロの矢に打たれるところから始まります。この自ら撃たれた鳥が神としてその家を富ませるという不思議な物語を、殺された鶴が神として儀式を求め、それからあの世に旅立っていくというふうに書いています。アイヌのアニミズムを、すべての生き物に宿る神様と人間との関係として実にうまく描いていると思いました。イレシュがさらわれ、手に触れるものが凍ってしまう魔法をかけられるというところは、アンデルセン著『雪の女王』を思い浮かべました。家族がアイヌの物語について調べたことがあって、巻末にあげている資料が家にあり、これを機会に山本多助著『カムイ・ユーカラ』(平凡社)なども読んでみました。ミソサザイの神様や怪鳥フリューのユーカラがあり、優しい姫神様の名前がイレシュだったりして、この物語をさらに奥深く楽しめました。この作品を読んだ後、私のようにアイヌの世界に興味を持って、独自のアニミズム的世界観を知ってほしいと思います。子どもたちが、世界の人々が様々な自然観を持っていることや、一神教の宗教だけが宗教のあり方ではないと知ることは重要だと思うからです。よもぎ:わたしも、『雪の女王』を思いだしながら、最後までおもしろく読みました。アイヌの神話が巧みに取りいれられていて、興味深かったです。子どものころ、知里幸恵さんの伝記と、神謡集のなかのお話を子ども向けに書いた物語を読んで、とても感動したのを思いだしました。ただ、どこまでが神話から採ったものか、どこが作者の創作なのか、あとがきかなにかでもう少し詳しく書いてくださるとよかったかな。読者も、もっと知りたい、読みたいと思うでしょうし。けっこう難しい単語を使っていますが、敬体で、易しい語り口で書いてあるので、けっこう年齢の低い子どもたちも、おもしろく読めるのではないかと思いました。ミソサザイの神が、かわいい!

メリーさん:下敷きになっている物語がいくつかあると思うのですが、読ませるなあと思いました。これは男の子が女の子を探しにいくので『雪の女王』の逆パターンですね。それにしても、この限られた分量の中で、紋切型ではない人間が書かれているのがすごい。どんな人にも善と悪、ふたつの面があることが描かれているので、物語に深みが出ていると感じました。自分を傷つけようとする相手にも思いをめぐらせて後悔するイレシュや、強さと弱さの両方を持つチポロ。どちらかというと、やさしいけれど強い、イレシュに感情移入して読みました。チポロはちょっとかっこよすぎるかな? ミソサザイの神様など、サブキャラクターたちはかわいくて好きです。

レジーナ:『天山の巫女ソニン』(講談社)の舞台は韓国風の異世界でしたが、今回はアイヌの伝説を下敷きにしていて、どちらもおもしろく読みました。チポロがかっこよすぎるという話が出ましたが、神話の主人公だと考えれば、それでいいのではないでしょうか。敬体で書かれているので、戦いの場面は少しまどろっこしく感じました。盛り上がっているときにテンポが落ちるようで……。p78「魔物の手からはにゅーっと黒い粘り気のある汁のようなものが伸びています」や、p248「わーっ!」はラノベっぽい表現で、p82「黒いコウモリのような魔物は地面に落ちると、砂が崩れるように散ってゆきます。そしてそれは何百何千という黒い虫になって、飛び去っていきました」も非常にわかりやすいのですが、漫画っぽい描写で、少し気になりました。ヤイレスーホはなぜ人間になりたかったのでしょう?

ネズミ:成長物語としておもしろく読みました。主人公が10歳で、小学校中学年くらいからが対象だと思うので、意識的に敬体で書いたのだろうと思います。こういうやわらかな語り口もいいなと私は思って、それほどひっかかりませんでした。弓がじょうずになっていくところ、おばあさんのありがたさ、自然を大事にすることなどがいいですね。ところどころに印象深い表現もありました。p262の「人間の『弱さ』を助長させる『甘さ』だとオキクルミは思いました」とか。ただ、戦いの場面で鳥が助けにくるところはやや唐突な感じがしたし、p211でイレシュが「出来心よ」というのは、12歳くらいの女の子としてはどうかと思いましたが。

西山:おもしろく読みました。でも、なんとなく、全体にちぐはぐした感じ。「ソニン」シリーズは、文体に感心したんです。上橋菜穂子的世界でもあるのだけれど、それがこんなに易しい文体で書かれているということに驚いた。結構あれこれ入り組んでいる世界なのに、ものすごくなめらかに伝わってくる「前巻のあらすじ」にとにかく驚いた印象を強く持っています。だから、この作者の敬体自体に私は、批判的どころか好感を持っているのですが、今回の敬体はアニメ的に感じてしまう瞬間がそこここにあった気がして、そういう感触はソニンにはなかった気がしています。「人間なめんな」とか、おもしろいんですけど、どうもでこぼこして感じる。読み直して比べたわけではなくて、印象の記憶だけで言ってます。アイヌの世界を下敷きにしたファンタジーとしては、たつみや章の『月神』シリーズを思い出しながら読んだのですが、あちらは神への祈りとか、ものすごく厳かで、ゆるがせにできない感じがあったのに、こちらでは、チポロが「空腹のあまり、〈魂送り〉の儀式を忘れてい」(p124)て注意されたりして、なんか、軽い。自分の中にエキゾチズムっぽいアイヌ文化ロマンみたいなのが前提としてあったから軽薄に思ったのか…。切なく放り出されたままの感じのヤイレスーホは、私は続編への伏線かしらと思っています。

マリンゴ:おもしろく、勢いよく一気に読みました。半年くらい前に読了して今回再読できなかったので、少し記憶が遠いのですが、会話がちょっと軽い気がしたことを覚えています。ラノベ感、と言いますか……。読んだのと同じ時期に、友人に『ゴールデンカムイ』(野田サトル作 集英社)という漫画を勧められ、これがとても重厚な描写で重いので、『チポロ』がちょっとライトな気はしました。テーマがテーマだけに、重厚感を期待する人もいるのではないかな、と。あと、終盤はこれでもかこれでもか、と戦いがあって、途中で、文章を読む速度に想像力が追いつかなくなりそうだったことを覚えています。

サンザシ:物語はおもしろかったんですけど、どの程度アイヌの伝承に基づいているのか、わかりませんでした。オキクルミやシカマ・カムイといった名前は聞いたことがありますが、伝承に基づいたキャラ作りをしているのでしょうか? 魔物との戦いは勇壮ですが、どれくらい伝承に基づいているのでしょうか? そのあたりを知りたいと思いました。引っかかったのは、チポロの言葉が妙に現代風で、神様に対してもタメ口だったりするところ。想像の世界から急にリアルな現代に引き戻されるような気がしたんですね。オキクルミの妹とイレシュのイメージがダブるように作られているのはおもしろいですね。

レジーナ:オーストラリアのパトリシア・ライトソンも、先住民の伝承に基づいた物語を書いたとき、批判されたのを思い出します。

アンヌ:でも、アイヌの人たちは、書いてもらって広く知られればうれしいと思うのでは? そういう声も聞いたことがあります。

サンザシ:ライトソンも先住民を抑圧する側の白人だったので、批判的な意見が出たんですね。だとすると、同じようにアイヌの人たちから言語や文化を奪った側の日本人としては、勝手に解釈したりねじ曲げたりするのは許されないということになります。菅野さんは勝手にねじ曲げてはいないと思いますが、そういう意味では、アイヌ文化とどう向き合ったかという後書きを書いてほしかったな。

ネズミ:さっき言い忘れましたが、ヤイレスーホを殺せばイレシュの呪いがとけるとわかっているのに、殺さない方法を探すというところは、大きなテーマを投げかけていると思いました。敵を殺せばいいというのではないのは。

ルパン:今回読んだ3冊のなかでは一番わかりやすくて、おもしろく読みました。ただ、「ですます調」が気になるんですよね。語尾は、敬体より常体のほうがスピード感があっていいのではないかと思いました。エーデルワイス(メール参加):アイヌの神話を題材にしたのが新鮮ですが、なんだか軽い。高橋克彦原作の「アテルイ」をNHKドラマで見たような印象でした。しじみ71個分(メール参加):アイヌの物語をなぜ菅野さんが書かれたのか、そこにまず興味を持ちました。自然とともに生きるアイヌの人々が自然や命への謙虚さや感謝を忘れ、神から見放されてしまった時代に、頼りなかった少年が魔物にさらわれた女の子を救い出すために強くなっていく、という筋書きは、素直におもしろく読めました。アイヌ文化のモチーフそのものにとても魅力があるので、それが物語をさらにおもしろくしているのだと思います。ところどころ台詞が現代風で、ふっと我に返ることもあったのですが、それ以外は楽しく読みました。少年が神の血を引くとわかると、なんだやっぱり普通の弱い子じゃないじゃん、と残念にも思ったのですが、旅をして、戦って、達成して、帰還するという成長物語はわかりやすくていいなと思いました。ヘビの化身の少年がちょっと哀れでしたが、敵役なので仕方ないのかもしれません。

(2017年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)


水はみどろの宮

マリンゴ: 描写がとても美しくて魅力的です。自然の生き物、植物が緻密に描かれていて、自然に対する畏敬の念が伝わってきます。ただ、石牟礼さんの本に物申すのは畏れ多いところもあるけれど、登場人物の気持ちの描き方が少なくて、感情移入しづらい部分もありました。たとえば、107ページの「お葉はそれから三日も帰らなかった」の部分。爺さまがどれだけ心配し、再会したときどれだけ喜んだか、というあたりは描かず、さらっと流しているところが気になりました。一方、非常に素敵な表現も多くて、特に111ページの「片目じゃの、片耳じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけのものに遭うたら、神さまの位をもった人じゃと思え」が、とてもよかったです。

西山:最近、うまいなと思う作品の多くが、読者にレールの上を走らせるのが巧みで、伏線の仕込み方や、引っ張り方はうまいんだけど、少々どうなんだろうと思うところがありまして。この作品は、そういうタイプとまったく違いました。ひたすら文章に惹かれて、そこにたゆたう心地よさで、世界を受け入れながら読みました。とにかく、言葉がおいしい! 「気位の美しかものども」(14ページ)の気配が言葉として満ちている感じ。111ページの「片目じゃの、片耳じゃの、……神様の位をもった人じゃと思え」などなど、九州の方言(私は親戚のいる博多弁で響かせながら読んでましたが)のやわらかさとも相まって、本当によかった。猫もよかった。「どうなるの?」という「読まされ疲れ」みたいなものが最近あるので。こういう作品を読めるキャパが育つということも、とても大切だと思います。この先もときどきひたりたくなる世界だなと思いました。

ネズミ:文章が濃い物語だと思いました。パソコンではなく、手書きで書かれた感じ、言葉のひとつひとつが作者の体から出てきているように思いました。こういった自然を実際に体験して、五感で書いている感じ。ただ、物語は起承転結が見えてこないので戸惑いました。爺さまと暮らすお葉がごんの守と出会って、そのあとどうかなるのかと思ったらそうでもなくて。それに「水はみどろの宮」と「花扇の祀」は、別々の話なのか、ひとつの物語なのかも、よくわかりませんでした。

コアラ:第一部(「水はみどろの宮」)と第二部(「花扇の祀」)は、単行本では続いていますね。

レジーナ:五感に訴えかける描写が多く、体で書いている作品ですね。長谷川摂子さんの『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。石牟礼さんがテーマにしてきた水俣についての言及もありましたが、自然の中でつつましく生きるあり方が描かれていて、人は自然の中で生かされているのだと全編を通して伝わってきます。恐竜まで出てきたときは驚きましたが、人間が地球に暮らしているのは、途方もなく長い歴史のわずかな時間にすぎないのだということでしょうか。少女の視点で書いていたのが、第二部では猫の視点になり、時間も前後するので、読者を選ぶ本です。

メリーさん:石牟礼道子さんがこういう話を書いていたことは知りませんでした。とてもよかったです。この本を子どもにそのままどうぞ、というのはちょっとむずかしいかなと思いますが、何とかして読んでほしいなと思います。たとえば語り聞かせるのはどうでしょう? 方言を多用した歌のような文体がすごくいいし、オビのコピーに「音符のない楽譜」とあるように、やわらかなトーンが物語の世界に読者を誘う気がします。これというストーリーはないのだけれど、日常のすぐ隣にあるもうひとつの世界に、知らぬ間に入り込んでいく心地。それでも、お葉とごんの守の間には、明確な境界線があって。生活と幻想のあわいの部分が何ともいえずよかったです。

よもぎ:言葉の力を感じさせる作品でした。たしかに、お葉と千松爺の話は、ストーリーがはっきりしないから子どもたちには読みにくいかもしれないけれど、音読してもらったら、好きになる子もいるんじゃないかな。わたし自身も、子どものときにわけがわからないまま暗誦した詩や古文が、ときどき、ふっと蘇ってくることがあります。ぜひ、子どもたちに手渡して、日本語の美しさを味わってもらいたいと思いました。マリンゴさんがおっしゃった111ページのお爺の言葉、わたしもいいなあ!と思いました。この2行だけでも、読んだ子どもの心に残るといいなと……。後半の、猫のおノンの話は、物語もしっかりつながっていて読みやすく、胸を打たれる話でした。地の文だけではなく、会話がとてもおもしろい。猫も、狐も、恐竜も、それぞれキャラクターにあった言葉遣いをしていて、いばっていたり、かしこまったりしていても、どこか間が抜けているところなど、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を思いだしました。先月の読書会で話題になったオノマトペも、例えば子猫が「ふっくふっくと息をしている」とか瞳孔が「とろとろ、とろとろ糸のように細く閉じていく」とか、昔からある言葉なのに、ここにはこのオノマトペしかないと感じさせる使い方をしている。このごろよく見る「ぶんぶんと首を横に振った」とか、「ふるふるとうなずいた」というような表現より、ずっと新鮮でした。本当に、読めてよかったです。

アンヌ: 久々に、小説を読んだなと思いました。日本のどこかにあるかもしれない、あったかもしれない場所が、実に見事に作られていて、映画でも観ているかのように見入っているうちに、気が付いたらファンタジーの物語の中にいたという感じでした。読んでいて心地よく、すごくほっとしました。言葉でこの世や自然、自分の体の中に流れているものを見つけて書いていっているという感じがします。最初の何章かだけでも子どもたちが読んで、この不思議な世界を感じてほしいと思います。後半猫が主人公になり、鯰が口をきき始めてからは実に奔放な物語になっていき、それもとてもおもしろく読みました。著者も亡くなった飼い猫を再創造できて楽しかったんじゃないかと思いました。

コアラ:文学にひたった感じです。最初の一行で、文学の香りがどっとおしよせてきて「これは違うぞ」と思いました。「他とは違う」でもあり「今読む気分じゃない」でもあったのですが、気持ちを整えてから読むと、けっこうさらさらと読めました。方言が出てくる作品は読みにくいなと思うことが多かったのですが、これは読みやすかったです。お葉と千松爺の会話がとてもいいと思いました。お葉はよく「ふーん」と言うんですが、お葉の感じが出ていると思います。千松爺がお葉を大切にしていることも、いろいろなところから伝わってきました。「花扇の祀」のおノンと恐竜のところで、ちょっとついていけない感じがありましたが、これは、掲載していた雑誌が出なくなって、物語の筋から自由になってというか、自由に想像をめぐらせたのではと思いました。全体としてユーモアもあるし、比喩もいい。例えば57ページの「雨蛙の子が木にはりつくようにして」というのは本当に目に浮かぶようでおもしろいと思います。メリーさんがおっしゃっていたように、語りでもしないと、子どもにはとっかかりがないかもしれないけれど、ぜひ読んでほしいと思います。

サンザシ:私もたいへんおもしろかったです。自然と人間が共存していて、不思議なものや畏怖するものがたくさんあったころの、生きることの有りようを描き出していると思いました。この文体も、その内容と深くかかわっていますね。今は、どこもかしこも偽の明るさに彩られて、そういう不思議なものが消えてしまいました。最近の物語は、場面展開を早くしたり、人目をひくアイテムを出してきたりすれば読者を獲得できると思われているようですが、この作品にはそういうのとはまったく違う、言葉そのものの力があります。言霊がひびいているような物語だと思いました。その力を少しでも感じ取れる子どもなら、この作品に入っていけると思います。

「花扇の祀」のほうが、時間が行ったり来たりするので難しいかもしれません。冒頭におノンが恐竜たちと遊ぶ場面がありますが、著者が楽しんで書いたことはわかっても、何もここで恐竜を出して子どもにサービスしなくても、と思ってしまいました。

西山:p241に、「六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある」とあります。p114では地の文で、「いまではアロエというが」なんて書いてある。作品の時間なんておかまいなしに書いていらっしゃって、そういうこともおおらかに受け止めればいいのかなと。

サンザシ:時間があっちへ行ったりこっちへ行ったりするんですね。

よもぎ:九州の言葉の力強さを感じました。

西山:動物でひっぱれられて、結構子どもも読めるんじゃないかと思います。犬、狐、猫。たとえば14ページなど、山犬らんのしぐさが目に浮かびます。しぐさとか声とか、全編に生き物が目に浮かぶように出てくるので、子どもに難しいというわけではないのではないかと思います。音読したら、結構入り込むんじゃないかな。子どもが小さかったら、試してみたかったと思うくらいです。

エーデルワイス(メール参加):美しい文章でした。ただ、意図的なのでしょうが、内容の進行が散漫なのが残念でした。盛岡の図書館にあったのは平凡社版でした。福音館版とは挿絵が違うので、印象も違うかもしれません。

しじみ71個分(メール参加):言葉の力を存分に味わうことができました。あまりに言葉が美しすぎて、我知らず泣いていました。言葉が色鮮やかに、人、動物、虫、木、花、風、水、音を描き、頭の中に世界が浮かびました。方言もたくさんあり、読んで難しいのかなと一瞬思ったのですが、とんでもなく視覚的な物語で、あっという間に読み終わってしまいました。お葉が山犬のらんとともに白藤を見に行ったところで、白い蝶がひらひらと舞うに至っては、心がふるえて、もう涙がぽろぽろ出ました。非常に静かな表現なのに、とても強く、深く染みいります。ごんの守とお葉の歌の掛け合いのところなどは、まるで能か狂言のようで、どのように立って言葉を交わしているのかが、まざまざと目に浮かびました。猫のおノンと白い子猫の話も素晴らしかったです! 時空を超えて、すべての行きとし生けるものが自然の中で命を循環させるその切なさ、強さ、美しさを心底から理解できる作品だと思います。子どもたちにとっては、方言がとっつきにくいでしょうか? 子どもの感想を聞いてみたいです。

(2017年6月の「子どもの本で言いたい放題」より)


タイムボックス

ネズミ:私は本当にファンタジーが苦手なので、最初に発言するのが申し訳ないです。時間を止めることがどういう結果をもたらすのかと、最初はおもしろく読みだしたのですが、途中でふたつの話の筋についていけなくなってしまい、最後はどうなってもいいという気分でした。シグルンは結局どうなったのでしょう。感想しか言えずごめんなさい。西山:ふしぎな話ではある。けど、読書感想文を書きやすいと思っちゃいましたよ。テーマがはっきりしている。最後にバタバタと終わるのは、うーんとも思いますが、ま、そういう話かと。スペイン映画『ブランカニエべス(白雪)』を思いだしました。これ、グリムの『白雪姫』を下敷きにしているのですが(白雪が七人の小人と闘牛士になる!)、とんでもなくブラックで残酷(描写がグロテスクというのではなく、展開が皮肉で救いがない)で、この寓話に通じるものを感じました。

マリンゴ:書店に買いに行ったら、児童書コーナーではなくて、一般書コーナーにありました。読んだ感想は……すばらしいと思いました! 自分では、もし同じストーリーを思いついたとしても、書けない物語です。近未来の架空の設定から、過去の架空の設定に飛ぶ――なぜそんな、いびつな構造なのだろう、と思っていると最後に理由が明かされます。架空の設定がふたつあるのに、読み分けしやすいと思いました。過去のほうの物語を寓話風に描いて、描写を少なめにしているため、近未来とうまく差別化ができています。こういう書き分けのできる筆力がすごい、と感じました。

ルパン:なんだかグロテスクな描写が多くて辟易しました。あちこちに教訓めいたというか、思わせぶりなところがたくさん出てくるんですけど、何が言いたいのかさっぱりわからないし。そもそも最愛の妻を亡くした悲しみを世界征服で癒そうとするところから、すでにダメでしょ。可愛い赤ちゃんが生まれたというのに置き去りにして戦争しに行っちゃって。こんなに長い話の結末が、「時間には勝てない」という、子どもでもわかるあたりまえの結論だなんて。正直、どこがいいのかさっぱりわからない作品でした。あ、でも、挿画はすごくいいと思います。

サンザシ:おもしろくは読んだんですが、謎の部分が残ったままになってしまいました。たとえば、なぜ子どもだけがタイムボックスの外に出られるのか? アノリは結局どういう経過を経て最後にまた登場するのか? そういうことは、わからずじまいです。作者は過去と近未来をつなげようとしているのでしょうが、両方ともあり得ない世界なので、今の子どもが自分と重ね合わせて読むことができるのでしょうか? タイムボックスのセールスマンは『モモ』の灰色の男みたいですが、この著者はそういう糸をいっぱいつなぎ合わせて物語を紡ぎ出しているのですね。原文はアイスランド語だそうですが、日本語版は英語版から訳されています。アイスランド語の翻訳者がいなかったということでしょうか。訳者は、著者が英語版にもちゃんと目を通しているからだいじょうぶだというようなことを書いておいでですが、重訳の問題は、書かれている内容に間違いがなければそれでいい、というものじゃないんですね。さっきの石牟礼さんの本じゃないけど、最初に書かれたものには言霊を感じさせるものがあったとしても、訳した段階でそれは減ってしまうので、本当はやっぱりオリジナル言語から訳したほうがいいのだと思います。それと、この作品はやっぱり長いですね。たとえばピーターとスカイラーのエピソードなどは、なくてもいいんじゃないかと思いました。

コアラ:読んだのは2回目でしたが、それでもよくわからなかったです。最初のページで「あの人、経済学者?」「そんなわけないでしょ。経済学者ならスーツを着ているはずよ」とあって、風刺だとは思うけれど、文章の端々にあるそういう表現のほうが気になって、ストーリーに入れませんでした。作者は口承文芸研究家ということで、後半に、口承文芸の昔話風の挿入話があって、「昔、あるところに王女がいました」で始まる話なんですが、そこはいわゆる昔話の型にのっとっていたので、そこだけは読みやすくておもしろかったです。あと、カバーの絵と本文中の挿し絵もかわいらしくてよかったです。

アンヌ:読むのがつらいファンタジーでした。この暗澹たる感じはフィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』(新潮社)から始まる「ライラの冒険」シリーズを読んだとき以来です。出てくる人々が少しも心を通わせない。最初の大前提で、王さまは戦争に動物を使ってはいけないと言われていたはずなのに、全然罰せられないで何十年も闘い続けられているのもおかしいと思いました。

サンザシ:いちばんすごい罰が下ってるんじゃないですか。

アンヌ:でも、その間におびただしい数の動物や人が死んでいきます。えせ魔術師たちの目的も能力も明らかにされないままです。エクセルがとても残酷に殺されていく意味も謎のまま。姫は空腹を感じるのに、なぜ人々が飢えないまま時間を超えられるのか、など説明されない設定が多すぎます。さらに、著者の「日本人読者へのメッセージ」と「訳者あとがき」が両方ともネットでしか読めないというのには驚きました。これは読者に対してあまりに不親切です。

メリーさん:皆さんの感想を聞きながら、いろいろな意見があるんだな…と。タイムトラベルものはいろいろありますが、時間を止める箱というのはおもしろいな、と思いました。しかも、自分の手で愛する人を傷つけてしまったけれど、タイムボックスのおかげで、とりあえずは死なせずにいられるという、その二律背反がユニーク。後半、グレイスの正体が明かされてびっくりしました。個人的には最後の場面「きっとまた会える!」というアノリの姫への手紙が一番好きです。
レジーナ 寓話のような作品なので、描写が残酷だとは思いませんでした。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)や、ソーニャ・ハートネットの作品など、戦争や現代のテーマを寓話のように描いた作品はほかにもありますが、寓話には寓話にふさわしい長さがあるので、これは長すぎるのでは……。オブシディアナが父親を恋しく思っていることが描かれていますが、現代の寓話だとすると、こうした感情描写はいらない気もします。グレイスがビデオ映像を見せるのが不自然だったり、急にオブシディアナ姫をまつりあげるようになった理由がわからなかったり、ファンタジーのつくりとして気になりました。p124で、なぜ奇跡が起きたのか、あるいは実際には起きていないのかもしれませんが、なぜみんながそう思いこんでしまったのか、アーチンの意図はなんだったのか、よくわかりませんでした。p196でオブシディアナ姫は目覚めますが、なぜこのタイミングで箱から出すことにしたのでしょう?エーデルワイス(メール参加):アイスランドといえば、火山と温泉の国、トロルの国でもありますね。壮大なファンタジーといっていいと思いますが、著者が口承文芸の研究家で、自然保護活動家と知って納得しました。今に至るまでの歴史にみる人間の愚かさと希望、再生、永遠の愛がテーマですね。一気に読んでしまいましたが、お説教臭いのが残念でした。しじみ71個分(メール参加):読んでびっくりしました。これは本当に子ども向けのお話として書かれたのかなと何度も思いましたが、最後まで読んで、やっぱりそうなんだと思いました。昔話と現代の話がパラレルに進んでいきますが、両方とも怖かったです。自分では絶対に手に取らない類の本だったので、好き嫌いはさておき、いろんな意味でおもしろく読みました。昔話のほうは、小人の首がはねられるところはグリム童話みたいに残酷だし、お姫様は愛されるあまりか、おとなの様々な邪な思い出虐待され誤解され恐れられ憎まれてしまいます。楽しいお話とはいえない。表現は、白雪姫や眠り姫やシンデレラやかぐや姫まで、あらゆるお姫様物語の典型が要所要所に盛り込まれているように思え、そのためお父さんがベッドで子どもに読み聞かせる物語のような印象を受けました。現代のお話の方は、明らかな政治・経済批判だと思って読みました。経済不況を理由に、人々、特に国会議員がすべてを無責任に放り出してタイムボックスから出てこないとか、遠方に苔むす銀行ビルが象徴的に出てくるところも、明らかに銀行・国際金融資本、グローバル経済批判を基調にしていると受け止めました。そういったものが、タイムボックスに人々が逃避したせいで崩壊し、自然が凌駕していくさまは、怖いように思いました。
 余談ですが、アイスランドは、サブプライムローン問題、リーマンショックで経済破綻に陥り、IMFの管理下になるところでしたが、政府の決定に大統領が拒否権を発動し、国民投票も行って介入を否決、イギリス・オランダからの借金を踏み倒し、アイスランドクローナの価値は暴落したものの、そのおかげで観光が増え、経済が持ち直しました。国民が政治にノーを突きつけ、腐敗した既存の政治勢力を否認し、市民活動を基盤として政治参加をしたと聞いています。
 子どもたちがタイムボックスを開けるために奮闘するのは、拝金主義の愚かなおとなにならないように、傍観主義や無責任に陥らないように、いろんなことに関わり合って楽しんで生きろ、という作者のメッセージのようにも思います。時間や老いの中で生きることを選び、最後に愛を獲得した姫と少年は、時間泥棒や拝金主義の大きな流れに抗う市民の力の象徴のようです。子どもたちの成長というよりは、人類全体がタイムボックスから出てこい、というほうが、テーマとして際だっているように思います。
 これも余談ですが、「アイスランド無血革命:鍋とフライパン革命」という映画をご覧になってみてください。Youtubeでも見られます。とてもおもしろいです。民主主義をどうやって作るのかがわかりますし、政治への市民参加、市民活動に希望が持ててくる映画です。この作品はこの映画ととても印象が似ています。

(2017年5月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ぼくたちの相棒

コアラ:とてもおもしろく読みました。翻訳ものは最近読んでいなくて、そのせいか乾いた文章という印象でしたが、たくさんの情緒を表現している物語だと思いました。実在の科学者のルパート・シェルドレイクさんが、物語の中で架空の登場人物の質問にメールで答えるという設定がおもしろいし、フィクションなのに、犬の実験という現実の世界でもありそうな科学的好奇心を刺激するものでストーリーが進んで、フィクションでありつつノンフィクションでもあるというのがおもしろかったです。物語としては、大好きな友達が引っ越していって、そちらでの生活も応援したいけれど、自分はすごく喪失感があってたまらない、とか、喪失の穴を埋められないという複雑な感情を持ちつつ友達になっていく過程とか、繊細な感情を表現していると思いました。特にいいと思ったところは、p123の3行目から5行目、「だけど、そこは神聖な場所なんだ」というところです。それから、気になったのは、p133の終わりから3行目から。なんとなくドイツのユダヤ人の強制収容所を思い出して、著者が意図したかどうか知りたいと思いました。あとは最後の方で、ジョージが飼っていた犬のバートが死んでしまった後、新しい犬にすぐに気持ちを移すところが、ちょっと気持ちについていけないような気がしました。全体的には、友情とか犬と人間の心のつながりとかが描かれていて、とてもよかったと思います。ずっと飼い主を待っている犬、というので、忠犬ハチ公を思い出しました。

アンヌ:2人の少年の口調が同じで、最初に読んでいる時は混乱しました。2 度目に読み直してみると、それぞれの持つ孤独が身にしみてくる感じがしました。全体にゆったりと時間が流れている物語で、翻訳ものを読んでいる気がしませんでした。p217の、お母さんだから何でもお見通しだというわけではなくて、人として感じ取っているのかもしれないという所や、博士がジョージの質問にしっかり答えている所など、心に残りました。最後に犬が死んでしまうところで終わらず、2匹目の犬に出会うところで終わる。きちんとお別れをして悲しんで次に踏み出すという感じが素敵でした。

げた:レスターは「うつろうは楽し。変わりゆくもよろこばし」というマントラを唱えてる、ちょっと変わった子で、美徳リストも作ってるんですよね。1つずつ自分が考えて、自分がそうありたいっていう言葉を書く、上から教え込まれる、例えば「教育勅語」なんかじゃなくてね。こういう事って、自分で考えることに意味があるんで、道徳教育って本来こういうものであるべきだと思うし、こういうあり方を提示しているっていうのはいいなって思いました。一方のジョージが始めた「犬が飼い主の帰りの時間がわかるか」という実験って、私知らなかったんですけど、いろいろ本が出てるんですね。これも子どもたちが自分自身で実験して確かめていくって姿勢がいいなって思いました。バートが死んじゃうんですけど、死ななくてもいい筋にはできなかったのかなと思いますけどね。でも、次のスニーカーという子犬との出会いの場面もとってもよかった。子どもたちに読んでほしい本だなと思いました。

西山:最初に2人が出会うまでのところが、ものすごくおもしろかった! 読みながら、あなたたち絶対友達になれるからって、わくわくしていたのですが、出会ってからは、2人のイメージが混濁してしまって、一気にわくわく感が失速してしまいました。もっとすぐ意気投合するのかと思いきや、なかなかそうも展開しないし。おもしろくは読んだのですが、出だしで抱いた期待感は裏切られた印象です。伊藤遊の『ユウキ』(福音館書店)を思い出しました。これも、親友が転校していって残される側と、転校してやってきた子が出会う。去る側、去られちゃった側、双方の辛さが、どちらも作品も良く書かれていると思いました。

りんご:2人の描き分けができておらず、私も読みにくかったです。それはこの本の残念な点ですが、それを補って余りあるおもしろい本でした!この本当の研究者、シェルドレイク博士とのメールのやり取りがベースになっているのがいいですね。博士が子どもの目線に立って主人公に語りかけているんですが、上から目線ではなく、子ども扱いせずに、対等に話しかけていけて、すごく好きです。ユーモアもあるし、こんな大人がそばにいたらいいですよね。p2から出てくる「美徳」という言葉には違和感がありました。口語では使わないですし、かたすぎる言葉に感じました。自分の犬で実験したり、記録ノートを作ったりと、子どもがマネしたくなるヒントがたくさんあるのもいいですね。

マリンゴ:みなさんもおっしゃっているように、2人の少年と2匹の犬を混同しやすくて、表でも作りたいと思いました。一目でわかる差別化がされていると、読みやすいのですが……。おもしろいと思ったのは、本文の中で優等生のような答えをする科学者が、実在の人物だという点です。ストーリーの展開のための優等生っぽい答えではなくて、科学者自身の考えなのだなとわかって、とても親近感がわきました。最後、犬の安楽死のシーンは、「あぁ……来た」という感じで。海外の文学ってよくこういうのがありますよね。海外在住の友達も、病気の猫を一生懸命介護してたら、どうして安楽死させないのかと現地の友人に言われたそうです。文化の違いもありますから、完全否定するわけじゃないけれど、当たり前のように描かれていることに、若干戸惑いを覚えました。

ルパン:すてきな物語でした。ただ、やっぱり出だしのところはどっちがどっちだかわからなくて、お話の中に入って行くのに時間がかかってしまいました。2人の区別がついてからは、一気に読めたのですが。私もバートが死んだことは悲しかったのですが、p229「ぼくが死んで天国に行ったとき、バートが気づいてぼくのことを待っていてくれたらいいな、と心から思います」というジョージのセリフが、このお話のクライマックスだと思うんです。だから、やっぱりバートはここで死ぬ必然性があったんだと思います。ただ、ここの訳文、「天国にいったとき」ではなく「天国にいくときは」にしてもらいたかったですね。ジョージはまだ死んでないし、子どもだから死は遠い将来のことだと思うので。それから、p108の挿絵がとても好きです。いいですよね、レスターとビル・ゲイツが抱き合って眠っているこの絵。

サンザシ:日本語の「た」は必ずしも過去形ではないし、「行ったとき」は、現時点で見て過去でなくても使えるので、そこは間違ってないかと思います。これ、もちろん悪い本ではないんですけど、レスターとジョージは口調が同じなんですね。育ったところが違うので、原書だと話し方にも違いがあるのでしょうか? 年齢も同じだし、どちらも雑種の犬を買っているし、同じような実験をしているので、まぎらわしかったです。もう少しキャラに差異を出してもらうと、イメージがくっきりするのではないでしょうか? それから、簡単に安楽死が出てくるのは、文化的な違いなんですけど、私は嫌でした。アメリカの作品には、ケガをしたり病気になったりしたペットを安楽死させる情景がよく出てきますよね。人間の安楽死は、その人の意志が反映されるけど、犬や猫は自分の意志を伝えられないのに。いい作品なんですけど、想像力をかきたてられたりはしませんでした。博士は子どものメールに毎回ちゃんと答えてくれますけど、『ヘンショーさんへの手紙』(B.クリアリー著 谷口由美子訳 あかね書房)では、作家が子どもの手紙に答えるのが面倒になって、作家に書いたつもりで日記をつけなさいって言うんですね。現実にはそっちのケースの方が多いんだろうな、と思います。これは博士が著者のひとりなので、最後まで誠実です。だからかもしれないけど、とても教育的な臭いもしてきました。

ネズミ:おもしろく読みました。小6の男の子の気持ちが伝わってくるなと思いました。ほかにも、p125「それにしても『魂』ってなんなんだろう? 魂や霊魂みたいに、はっきりとは定義しにくいことばってあるものだ。自分自身の魂を感じることはときどきある……」のような、考察や実存への問いかけが挿入されていて、作品の幅を感じました。こういうところで、この作品への信頼感が増します。博士に手紙を書く展開で、私も『ヘンショーさんへの手紙』を思い出しました。米国ではこういうのは児童文学の伝統としてあるのかしら。

よもぎ:わたしも、読みはじめたときはレスターとジョージの区別がつかなくって(まったく違っているんだけど!)なかなか物語に入れませんでした。なにかちょっと工夫があっても良かったんじゃないかな。でも、2人の姿がはっきりしてくるにつれ、がぜんおもしろくなりました。犬を使った実験がおもしろいし、実際にいる学者との手紙のやりとりを入れたアイデアが、秀逸ですね。いくつも、いいなと思う文章がありました。p125の「星空は科学と魂が出会う場所」その通りですよね! p132「おれも鳥みたいに、口笛が吹きたいよ」「嘘ばっかり」という兄と妹のビビアンのやりとりがおもしろい。p151「スツールをぐるぐるまわすと目がまわってしまった」子どもって、本当にこんな風ですよね。p194「たしかに成長を見ることはできない。あんまりゆっくりすぎて……」読者の子どもたちは、ぜったいにこんな風には考えない。これは、大人の作者が子どもに贈る、愛に溢れた言葉で、おおげさにいえば児童文学の本質をあらわしているような気がしました。とてもいい本でした。

さららん:2回読みました。2回目はすうって読めたんですけど、1回目はやっぱり入りにくかった。ジョージの妹のビビアンがかわいい。ジョージとレスターの仲を取り持つ、欠かせないキャラとして書かれてますね。レスターに対して素直に打ち解けられないジョージだけれど、ビビアンに口をはさまれて、じゃあこっちでもいっしょにキャンプをやろうよ、と思わずレスターに言ってしまう。その言葉がうれしくて、レスターが家出を思いとどまる場面が好きです。そして家に帰ったレスターは「引っ越しも新しい言葉をおぼえるようなものだ」としみじみ思います。子どもらしい、それでいて哲学っぽい表現がところどころにあり、心の微妙な動きが会話ににじみでている。感情表現の言葉をあまり使わず、それをできごとや行動で表現して、読者に想像させるように書かれている点が、うまいな、と思いました。目で見えるものと見えないものの関係も大事なサブテーマで、博士は科学者だから実験を通して実証するのが仕事だけれど、決して証明できない動物の予知能力も否定しない。「それは研究できるようなことじゃない」と言いながら、科学と人間の気持ちのバランスを否定しないで認めてくれることが、物語そのものの奥行きにつながっているような気がします。

ハル:ジョージもレスターもどちらかというと個性的な子たちなので、作中の登場人物と同じく、私もこの子たちの人物像をつかむまでに時間がかかりましたし、どっちがどっちで誰が誰かを把握するまでに時間がかかりました。でも、読み終えればとてもおもしろかったです。ただ、この情緒的なお話を、子どもが読んだらどう思うのかなというのは疑問です。子ども向けの本というよりも、大人が読んで味わい深い、というタイプの本じゃないのかなぁと思います。

サンザシ:この本の翻訳者は本来とてもじょうずな方なのですが、たとえば13pの「人間や動物は」は「人間と動物は」じゃないかなと思ったり、少しわかりにくさと違和感がありました。それに2人の主人公の差を出すところなども、編集者が最初の読者としてアドバイスするなど、もう少しがんばってほしかったかな。エーデルワイス(メール参加):レスターが繰り返し唱えるマントラの「うつろうは楽し。変わりゆくもよろこばし」って、深いですね。ジョージは、飼い主がいつ帰って来るかを犬が察知するかどうかの実験をしていますが、ルパート・シェルドレイクの回答が機知に富んでいます。物語全体が哲学的だと思いました。犬のバートが死ぬくだりは切ないです。訳者の千葉さんも、後書きに、子どものころ愛犬エルを失った悲しみを書いていますが、経験した人にしか分からない深い悲しみがあるのだと思います。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


川床にえくぼが三つ

ルパン:まあ、どっちかといえばおもしろかったんですけど、それはただ、何年も前のバリ旅行のことをなんとなく思い出したからかもしれません。文庫の子に手渡したいかと聞かれたら、手渡したいとは言えないですね。そもそもこのお話、小学生が読んで楽しいんでしょうか。なんだか誰かの旅行記を読んでいるみたいでした。主人公の文音と友だちの華、中2の女子がふたりでインドネシアまで行って発掘隊に加わって、原人の足跡まで見つけちゃうんですけど、古代への思いや情熱がまったく伝わってこないんです。いっそのこと古代人が現れでもしたらおもしろかったのに。それに、文音がかかえている問題も「引っ込み思案」くらいで、何に悩んでどう成長したのかも感じられないし。こういう設定のお話って、ふつうは読者がいっしょに旅をしていっしょに感動していっしょに成長したような気もちにさせてもらえるものだと思うんですけど、この物語にはそういうワクワク感がまったくありませんでした。

マリンゴ:昨年、小学館児童出版文化賞を受賞したのをきっかけに読んで、うーん、どうなんだろう? と。評価が難しい作品だという気がしていたので、みなさんの感想を聞きたいと思っていました。女の子の他愛ない友情のもつれと仲直り、というテーマ自体は、よくあるもので珍しくない。でも、旅先のジャカルタの風景とか、雨とか、匂いとか、リアルに立ち上がってきていて、紀行文的な読み方をすると、魅力的な部分もあります。自分が子どもの頃に読んだら、シーンが鮮やかに胸に残る本で、けっこう好きだったかなと思います。

りんご:子どもが海外に行くのって、衝撃的な体験だと思うのですが、主人公たちの驚きや発見が生き生きと描かれていません。インドネシアの空気が伝わってこないのが残念でした。淡々と物語は進行していきます。小説としての読み応えがないです。主人公が発掘作業を手伝って「50万年前から友達」というアイデアはおもしろいのですが、そこ以外は特別におもしろさを感じませんでした。せっかく発掘というロマンあふれる題材を使っているのに、ロマンも伝わってこず、もっとそこを書いてほしかったです!

西山:再読しきれなかったんですけど、あまり強い印象を持てずにいます。良くも悪くも。最初に読んだときに気になったのが、視線を「するどい」と形容する文章がものすごく多いこと。編集者は気にならなかったんだろうかと。p17、「視線がとてもするどい。思わず顔をふせた」。p47で現れた島尾先生が「笑顔なのに、先生の目はとても鋭かった」。p54「その視線がとてもするどく感じられる」。p56「するどい視線になれずにたじろいでいるあたし」と・・・・・・。なにか、すごく悪いことが起きるのかと身構えるような気分になっていました。それだけでなくて、例えば、p33、4から5行目、「いらいらしていて見ていた華が横から手をだして」という場面や、p34からp35の、イスラム教に関して「そのくらいなら知ってるわ」、という言い方の突き放した感じ。p36「当然だけれど、他の人は全員外国の人。じろじろとあたしたちのほうを見ていた」とか、たたみかける拒絶感というのか、私にとってネガティブな緊張感ばかりを作品から受け取ってしまった。まぁ、はじめて外国に行く、それも日本的な快適さとはほど遠い、不便で、不快なインパクト強烈な行き先では、主人公の感覚としてはこれがリアルなのかもしれないけれど、警戒している感じ、不安な感じばかりが前面に出ています。不便や不快もおもしろがってしまう異文化体験のわくわくを私が期待しすぎなのかもしれないけれど・・・・・・。

げた:私はあんまり鋭くなくて、気がつきませんでした。私はどっちかっていうと、そのことよりも異文化理解だとか、多文化理解へのきっかけづくりに使える、副教材的な本としても、さらっと読めていいかなという気がしています。マンディ、ナシゴレン、日本とは全然違うインドネシアの食文化だとか、アザーンが1日5回だとか、勉強になりますよね。中学2年生の女の子たちを通してだけど、インドネシアの人々の心情なんかが、深く表現されているわけではなくて、通り一遍で、さらっと説明されていて、深みがないといえばないんですけどね。インドネシアに比べて、経済力が日本のほうが上なので、遺跡発掘調査もなんとなくしてやってる感があって、対等ではない関係がただよってきて、そういうところがまだまだだなとという感じはもちましたけどね。テーマの友情ですけど、女の子2人が、お互い嫉妬から生まれたいさかいを超えて友情を育んでいくという展開も楽しむことができました。

アンヌ:今回1番おもしろかった本で、作者の書きたいことは見えてくるのですが、うまく書けているかという点には疑問が残りました。主人公の一人称で書かれていますが、内向きな性格で自分を閉じているし病気もしてしまいます。そんな主人公が周囲を見回しても、鋭い視線で見返される場面が多すぎてその先になかなかいかない。「タイムマシンみたい」などとおもしろいことをよく言う人で、頑固な性格であるとされていますが、華の言うように人から相談をされるような人柄には見えてこない。研究者たちの中で過ごすという魅力的な設定なのに、肝心の研究内容がよくわからない。もう少し説明してほしいし、註を入れてもよかったのではないかと思います。いっそ、楓子さんを主人公として大人向きの小説にした方がおもしろかったかもと思いました。書き方で気になったのは、p83アボカドの木に登るダングさんを「いや、サルそのものだ」というところ。その他p87の「あたしはふるふると頭をふった」マンガではよく見られますが、三人称的表現だと思っていたので気になりました。

コアラ:そういえば、途中でいろいろ違和感があったんだったと、今みなさんの話を聞きながら思い出していたところです。私は、出だしのところは、旅のワクワク感で読み始めました。中学2年生の女の子の友情の物語なんですが、一人称で気恥ずかしいところもあって、p191から、文音と華がお互いのわだかまりをぶつけあう場面は、ちょっと恥ずかしくて読めなくなってしまいました。私自身が一番共感したところは、p201の7行目、「果てしのない研究が未来につながっていくに違いないって思えたのよ。」という楓子さんの言葉でした。子どもの目というよりも、大人の目で読んでしまったような気がします。タイトルは、強いタイトルではないのですが、読み終わるといいタイトルかなと思いました。

ハル:正直なところ「50万年前からあたしと華はつながっている」というところがよく理解できませんでした。仮にそうだったとしても、だから私たちは特別な絆がある、という考え方はちょっと、私の考え方とは相容れませんでした。だけど、そこを抜いてしまうと、女の子同士のやきもちとか、素直になって仲直りとか、そういうのは日常の中で発見できることで、何もジャカルタまで2人を飛ばさなくてもいいんじゃないかなと思ってしまいました。一人称なのも気になります。中学2年生の女の子らしさが少なかったり、主人公の性格からか、日常から飛びだした割にのびやかさがなかったり。せっかくの舞台がもったいなかった感じがします。

さららん:華と文音が異文化に出会い、自分たちの物の見方を相対化していく過程を通して、読者もまた異文化を体験してほしいという作者の意図は、よくわかります。狙いはいいんですが……。現地の言葉に、自分たちで耳をすまして、「バギ」っておはようっていう意味なんだと発見するところなどは、良い描き方だと思いました。現地の人は文音を「ヤネ」と、華を「ナ」と呼ぶ。違う名前を得ることで、2人は違う視点から見た、今までとは少し異なる自分を感じる。「帰ってきたよ、50万年前からの友、ナよ」「うん、帰ってきたね。五十年後までの友、ヤネよ」と、帰国後2人がちょっと芝居がかって言いあうところで、盛り上がるはずなのですが、作者の計算が見えてしまって…残念。あと、リアリティっていう点で、果物とか生野菜を、主人公たちは危ないって言われずに食べてるんですけど、大丈夫かしら。洗い水には注意したほうがいいかも。旅のあいだ、華と文音の気持ちがすれ違い、「嫉妬」という人間の永遠の問題にぶつかるけれど、あまりこじれることなく解決してしまう。お話の構造に、盛り上がりがない。確かに文音はジャワ原人の足跡を見つけるけれど、心に響く、大きな何かとして感じられない。外国に行っても日本人の大人に守られ、日本食に舌鼓を打ち、本当の異文化に出会っていない印象が残りました。

よもぎ:題材は、とてもおもしろいと思いました。知らない国に旅立ち、未知の研究に携わるところなど、だれもが経験できることではないから、読者はわくわくすることと思います。狭い教室のなかで、あの人が意地悪したとか、いじめたということだけでなく、こういう物語がもっとあってもいいんじゃないかしら。主人公と華の気持ちも、よくわかるように書けていました。ただ、アンヌさんがおっしゃったように、説明不足のところが多すぎるのでは? たとえばp53の「テレビで見たことのある南国の大きな葉っぱ」とか、ちゃんと名前を教えてもらいたいし、「研究者のなかに西洋の人もいる」というような表現も荒っぽいですよね。いまどき、こんな風にいう? なかでもひっかかったのが、p120の栗山さんの話。もともとオランダの植民地だった蘭印に、太平洋戦争をはじめた大日本帝国が表向きは独立を助けるという名目で、本心は資源欲しさに進軍したというのは歴史的な資料でも明らかになっていることだし、もっときちんと書くべきだと思います。ただでさえ、近、現代史を教えない学校があるという話ですから。作者の書き方だと、日本とインドネシアという国が、第二次世界大戦で直接戦ったように誤解するのでは? だいたいインドネシア共和国ができたのは、大戦後なのに。どうしてこんなに大事なところをさらっと書きながしてしまったのか、なにかの配慮が働いたのか、ぜひ作者に訊いてみたいと思います。あと、p105の4行目「やさしが」は「やさしさが」、p145の2行目「あたしは」は「あたしが」ですよね?

ネズミ:4か月くらい前に読んで、今回ちらちらとしか読み返せなかったのですが、前に読んだとき、やや全体に物足りない感がありました。外国に行っても日本のものさしをひきずっていて内向きで鈍感な感じがするのは、地層学者のおばさんに誘われて中2の夏休みになんとなくついてきてしまった女の子という設定だからかなと思ったのですが、そこからもっと成長するのを期待してしまうと、そうでもなかったかなと。またクライマックスの足跡の発見も、都合よすぎる感じがしてしまって。でも、このくらい受け身でぼやんとしているほうが、今の中学生には現実味があって親近感が湧くのでしょうか。説明的な会話が多い気もしました。みなさんはどう読むのだろうと思っていた本だったので、今回とりあげられてよかったです。

サンザシ:異文化に触れた子どもたちの新鮮な驚きは描かれていますが、文章にオリジナリティがないと思いました。そのせいか、作品世界に引き込まれるというよりは、道徳の教科書に出てくる「いい話」を読んでいるみたいな感じがしてしまいました。不満だったのは、リアリティの欠如と、上から目線です。そもそも大事な調査を抱えて忙しい研究者が、初めて外国に行く観光気分の子どもを2人も現場に連れていくでしょうか? それに帰るときも、田舎から危険がいっぱいのジャカルタ空港まで行って、そこから帰国便に乗るのを楓子さんは最初子どもだけでやらせようとします。それもちょっとあり得ないな、と。日本まで一緒に帰れないとしても、普通はジャカルタで飛行機に乗せるところまでは大人の責任でやるでしょう。またp18で栗山さんが荷物チェックが厳しいので、カウンターを蹴って子どもたちをどきっとさせるのですが、私自身は飛行場でカウンターを蹴っている人なんて見たことがないので、栗山さんのキャラ設定としてこれでいいのか、と疑問でした。
 上から目線というのは、たとえばp83でダングさんが木に登るのを見て「サルみたい、いや、サルそのものだ」で終わらせているところ。それから「〜をしてあげる」という表現が随所に出てきます。p117「やさしくしてあげると、ぜったいに気持ちで返してくれる」p118「親切にしてあげると返してくれるのよ」。こういう言い方って、この作家は欧米人に対してもするのでしょうか? もう少し寄り添った書き方ができるとよかったのに。p185「あわてて車にもどるダングさんがすべって転んで、どろまみれになった。思わず、笑ってしまった」というところも、ダングさんがみんなの傘を届けようとしているところなので、これで終わらせてはまずいでしょう? それと、p224の「話しているうちに、わけがわからなくなってきた」というところですけど、ここは二人の友情話にとってはキモになる部分なので、もっとちゃんと書いてほしかった。小学館児童出版文化賞をとった作品なので評価する人も多いと思いますが、私には題材を生かし切れていない、もったいない作品だと思えました。

ルパン:p118はさすがに「上から目線」が気になりましたね。「ダングさんに運転免許をとらせてあげたのよ。」とか「小さいことでも親切にしてあげると返してくれるのよ。」というセリフ。「〜してあげる」ということばづかいだけでなく、ダングさんが色々よくしてくれるのはこちらに恩があるからだ、という楓子さんの考え方には共感できませんでした。エーデルワイス(メール参加):題名の「川底にえくぼが三つ」って、なんのことだろうと、惹かれました。女の子の友情と初の海外体験や、カルチャーショックと成長が描かれています。作者の体験がもとになっているので、リアリティはありますが、もう一つ何か足りない感じがします。私事ですが、23年前に初の海外旅行をしました。図書館員チームに入れていただいての、タイ・ラオス図書間交流の旅でした。1週間の平均睡眠時間は4時間。ハードだけど終始笑っていて、濃密で幸せな時間を過ごしました。最後はもちろん涙、涙・・・。その体験が、その後の私の方向性を決めたような気がします。中2での体験は大きいですね。パックツアーではなく、子どもたちもどんどん日本を出て海外体験をしてほしいな。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ぼくたちのリアル

げた:現実として、リアルのような、ここまでいいやつがいるかなってところはありますけれどね。完璧じゃないから、またそこがいい、こんな子がいるクラスだったらいいなっていうふうに思いました。先生もすごくクラス運営やりやすいんだろうなって。今でも現実にいじめって一定数あるんですよね。こういう子がいてくれたら、いじめもなくなるのにね。それとサジくんって、前の学校ではいじめられたけど、けっこう行動力があって、頼もしい感じがしました。リアルのお母さんを笑わせようと漫才のDVDを持っていくなんて、ちょっと想像を超えてますよね。リアルとアスカとサジの3人トリオ、すごくいい感じですね。

アンヌ:とても繊細に書かれていると小説だと思いましたが、それだけに息が詰まるようで読み返せませんでした。リアルが背負わされているものが大きすぎて、弟の死だけではなく母の病とか。アルトの様ないじめが趣味みたいな人間が出てきても、兄としての責任の問題に話が流れていくところとか、つらさが先立ちました。

コアラ:友情だけでなくて、恋と失恋の話にもなっていておもしろかったです。他人のことを思いやったり行動を理解したりして、繊細だし、無意識にやっていると気づかないことだと思うんですけれど、自覚的に友達同士でも配慮しあっているんだなと思いました。タイトルもおもしろいと思いましたが、装丁がちょっと地味かなという気がしました。

ハル:とてもよかったです。同性愛者の男の子が登場しますが、そうなるとこういうお話はだいたいそこに集中しがちで、道徳的にもなりがちだと思っていました。でも、戸森さんの場合は、そこは話のひとつで、道徳的にもならず、読書のおもしろさが存分に味わえる。夢中で読めて、読み終わってからもいろいろ思い返して心や頭で想像したり、考えたりできる。課題図書(第63回青少年読書感想文全国コンクール・小学高学年課題図書)に選ばれたのも納得の、いい本だと思います。

よもぎ:とてもおもしろかった! 会話といい、一人称で書いている地の文といい、こんなに上手い作者が出てきたんだと感動しました。特に、サジの書き方がいいですね。ちっともめそめそしていなくて。こういう書き方だったら、いろんな子がいて、どの子もみんな普通の存在なんだと読者の子どもたちも感じるのではと思いました。p201のサジのせりふ、「うそばっかり」なんて、いいですよね! あえて難をいえば、あまりにも上手くて、すっきりまとまりすぎているところかな。こういう言い方をすると叱られるかもしれませんが、女の人の書き方だなあと感じてしまいました。作者が自分の体験から書いた『ジョージと秘密のメリッサ』は、もっと激しい、胸に突きささるようなところがありましたけれど。

ネズミ:「ワケあり」のさまざまな事情をかかえながら生きていく子どもたちに共感しながら、ぐいぐい読まされる作品でした。おもしろかったです。p147に「いいたいことをいえばすっきりするから我慢するななんて、おとなはたまにそんなことをいうけど、そういうのってちょっと無責任だ。すっきりするだけじゃすまないってことを、ぼくたちはけっこうちゃんと知っている」という文章がありますが、子ども社会のたいへんさに作者がよりそっていて、もがきながら出口をさがしていく子どもたちを応援しているのが伝わってきました。

サンザシ:主人公のリアルは、あえてリアリティからちょっと離れたスーパーボーイにしているのだと思ったので、私はあまり気になりませんでした。とてもいいな、と思ったのは、サジが同性愛者だということが嫌な感じなしに書かれているところです。サジはそこだけではなく別の面もちゃんと描かれているので、一人の人間として浮かび上がってくる。またそのサジの思いを大事にしようとする渡の視点もいいな、と思いました。同性愛者とどう付き合っていいのかわからない子どももたくさんいるので、こういう作品が出るのは評価したいです。またこの作家は、文章にリズムやうねりがあって、会話のテンポもいい。これからが楽しみです。

ルパン:文句なくおもしろく読みました。いちばん良かったのはp201「だって、ふたりで外国にいけるほどおとなになるまで、ぼくとリアルは友だちでいられるだろうか。これだけははっきりわかるけど、五年になってぼくとリアルがなんとなく仲がいいかんじになれたのは、サジがいてくれたからだ。」というところです。地味キャラの「ぼく」の気もちがほんとうに“リアルに”伝わってきました。

マリンゴ:この本は、昨年刊行されて間もなく読みました。文章がとてもうまい。そして、リアルくんにしろ、サジくんにしろ、華やいだキャラクターなのが、他の児童文学と大きく違う点だと思います。一般的に日本の児童書に出てくる登場人物って、素朴なイメージの子が中心で、こういうふうに、オーラを持つ子が描かれているのは珍しいですよね。同世代の小学生の読者が憧れるような魅力的なキャラで、惹きつけられて読めそうだな、と。戸森さんのブログなどによれば、LGBTはこだわりのあるテーマだそうで、今後も書き続けたいようです。2作目の『11月のマーブル』(講談社)も読んで、わたしは『ぼくたちのリアル』のほうが好きでしたが、1作1作がほかの作品にない独特な雰囲気をまとっていて、これからも新作が楽しみです。

りんご:最初のリアルの描写にすごくひかれました。リアル、完璧すぎるんじゃないかとも思いましたが、嫌味じゃないし、こんな男の子いたらいいな、と素直に思います。3人の男の子たちも愛情深く描かれていて、しかもお父さん、お母さん、学校の先生もリアルに描かれているところが好きです。カバーに使われている紫色は、お話のなかで大事なモチーフになっているラピスラズリの色だそうです。

西山:私は『11月のマーブル』と続けざまに読んで、正直に言うと、初読のときは印象がよくなかったんです。2作の印象があっという間に混濁しちゃって。再読したら、ここ好きっていうところをあげていくと、驚くほどいっぱい出てくるんです。目に付いた一例を挙げるとp45「友だちの数が多いやつは、たいていベルマークを集めるのがうまい」とか、こういうのすごくおもしろいと思う。冒頭は、後藤竜二の『大地は天使でいっぱいだ』(講談社)を思い出しました。文章が生き生きしてる。うまい。でも、後藤竜二始め、先にたくさんいるし、こういうヒーローを出すのはとてもいいなと思ってるんですけれど、石川宏千花さんの『UFOはまだこない』(講談社)の彼がいたよなと思ったり。では、どういう点が新しいのかと考えると、トランスジェンダーの子どもを意識的にテーマとして取り込んでいる点かだろうけれど、2作の印象が混じってしまったのも、まさにその点が原因だと思うので、あまり手放しで賞賛できない感じです。お母さんの問題、リアルの問題、こんな重たいものを背負わせなくてもと、物語が過剰な感じもして、もっとものすごく日常のリアルたちを読みたいと思いました。作者が描きたいと思っている、目を向けている問題を入れることが過剰で、止めた方がいいと思うのではなくて、それらがもっと普通にさらりと書かれたのが読みたいという勝手な感想です。

サンザシ:さっき『川床にえくぼが三つ』(にしがきようこ著 小学館)を読んだとき「ふるふると首をふる」という表現はいかがなものか、という意見が出ていましたが、この作品にもp80に同じ表現が出てきます。はやりなのでしょうか?

よもぎ:いま、マンガやアニメに使われているオノマトペが、文学作品でもよく使われるようになってきてますよね。いいのか悪いのか、それともしかたがないのか分からないけれど、わたしとしては児童文学作品には昔からの美しい言葉を使ってもらいたいという気がしています。児童文学って、そういう言葉を次の世代に伝えていく船のようなものだと常々思っているから。その反面、作者独自のオノマトペを創造してほしいとも思うんですよね。

エーデルワイス(メール参加):よくあるテーマですが、構成がしっかりしていて、ぐいぐい読めました。同性を好きになる川上サジの内面はどうだったのか、深くは踏み込まないで、爽やかに終わっていますね。日本には昔からマンガにBL(ボーイズ・ラブ)の分類がありますが、やっぱりマンガのほうが進んでいる気がします。登場人物の名前が魅力的で、璃在の璃はラビスラズリでお母さんのるり子にたどりつくところとか、サジはスプーンで広い心をもってすくい取るだとか、最後に意味が明かされるところが憎いと思いました。

(2017年4月の「子どもの本で言いたい放題」より)


てんからどどん

げた:さらっと読めちゃったんですけど、なんとなく道徳の副教材を読んでいるような気がしてきました。そうはいっても、最後まで楽しく読めたし、話の筋を楽しみましたよ。入れ替わることで、お互いのいいところとか悪いところとかを客観的に、見つめることができるんですよね。まあ、そんなに深く読み込まなきゃいけないって感じの本じゃないなと思いましたけど。嫌いじゃないな。まあ、そんなところです。

コアラ:体が入れ替わる、という話はよくあるだろうと、ネットで調べてみたら、入れ替わりが出てくる作品をまとめたサイトがあって、やっぱりコミックでも小説・児童書でもたくさんありました。その、よくあるモチーフで無難にうまくまとめた作品という感じでした。カバーや人物紹介の絵がいいなと思いました。今井莉子の絵にけっこうウケて。よく特徴をとらえているなと思いました。森田くんは、今井莉子だけの関係で出てきたのかと読み進めていったら、かりんとの恋の話になっていって、少ない登場人物をうまく使っているなと思いました。ただ、中学2年生の女の子なのに、かりんも莉子も親に反抗していなくて、いい子だから、ちょっと違和感がありました。全体に、かりんも莉子も入れ替わりでいい方に変化するし、あまり深く悩まず、軽く誤解が解けたり自分を見つめ直したりして、いい子たちだな、と思いました。かりんと森田くんは恋がうまくいきそうなので、莉子にも恋が訪れたらいいなと思いました。

ルパン:いい話だな、と思いました。まあ、実際に入れ替わったらこんなもんじゃないだろう、とは思いましたが。読後感がとても良かったです。さっぱりしてて。私は道徳くささは感じませんでした。みんな良い方向におさまって、すかっとしたし。中味が濃いわけではないですが、それだけに清涼飲料水的なさわやかさで楽しく読ませていただきました。

カピバラ:入れ替わりの話っていうのは、状況自体がおもしろいんですよね。だから読者も、入れ替わったらどうなるんだろうという興味で引き込まれて読んでいけるということがあると思います。この話は、入れ替わるところだけが非現実なんです。だからちょっと嘘くさく感じるけれど仕方ないかなと思いました。軽いノリで読めば楽しめるタイプの話なんじゃないかなと。入れ替わったときのギャップとか、他人がそれに対してどんな反応をするのか、というところがおもしろく書けていればいいと思います。その意味では実際の中学生にも読めるし楽しい話だなと思いました。

さららん:軽いノリの「かりん」と、内気でもさもさしている「莉子」の対比がおもしろかった。最後にみんなでダンスを踊る大円団は、できすぎかもしれませんが、素直に好感が持てました。どうしてかなあと考えると、この物語、全体のトーンは軽くても、魚住直子さんらしい、身体性を感じさせる文章がところどころにちゃんとあって(例えば、入れ替わった体の重さを伝えるのに、「水の中を歩いているみたい」のような表現をするとか)、重しになってるんです。クリシェを重ねることの多い、ラノベの文体とは違っているみたい。マンガはいっぱい読んでいるけど、もう少し何か読みたいって子に、ちょうどいい本かもしれませんね。最後のほうで登場する「いかずち」は、もう少しフォローがあったほうがよかったような気もしますが……。

サンザシ:「いかずち」は、稲妻の化身みたいなものなんでしょうか。

ルパン:183ページのうしろから4行目に、入れ替わりから戻ったときの感覚を「指先のあまらない手袋をはめたときみたいにすみずみまで自分だという感じがする」とありますよね。こういうところ、すごくうまいと思います。

ネズミ:最初は「もしかして、これ、苦手かも」と不安でしたが、読み進めるとそんなことはなくて、楽しく読めました。このくらいの子って、自分はこんなふうと決めつけて、その枠からなかなか出られないところがあるじゃないですか。ドタバタふうだけれど、この本は他人になることで見えてくる発見や新しい視点を通して、もっと自由にものを見ていいよ、大丈夫だよと背中を押してくれる気がしました。莉子はだめだと決めつけていたのに、かりんが説得したらお母さんはコンタクトにしたり美容院に行ったりするのを許してくれるとか。シンプルな文体でややベタに(とはいえ、ベタベタではなく)書かれているので、普段それほど本を読みなれていない読者でも、マンガタッチの表紙にひかれて手にとっておもしろく読み通して、何か感じてくれるんじゃないかしら。読書へのいい入口になる本だと思いました。

西山:みなさんおっしゃるのを、そうそうと思いながら聞きました。出だしは結構どろどろしていて、莉子がネット掲示板について「どこもぐちやなやみであふれていて、読むたびうんざりしながらもほっとする」(p6)なんてある。そういうことを書くのが魚住さんだなと思いました。かりん像が新鮮で、「その日もしゃべって走りまわっているうちにあっというまに学校がおわった」(p12)とか、いたいたそういうタイプって、笑っちゃいました。ほんっとに話を聞いてなかったり……ああ、あの子たちの頭の中こんなふうだったのかと妙に納得しました。リアルな世界にはこういう落ち着きのない子がいるのに、物語ではあまりお目にかからなくて、新鮮でおもしろかったです。だから、入れ替わったときのギャップもあって、だからこそ入れ替わりが生きてたんだなと。あと、好きだったのは例えばp66の後ろから2行目。「待たなくてもいい。掃除しろといえばいい」と、部屋を片付け始めたのに感動して「いつ気がついてくれるか、待ってたの」と目をうるませている莉子のお母さんをバサッと切っている。こういうところ、ずいぶんタッチは変わったけれど、最初の頃の魚住さんの厳しさを見るようで好きでした。中学生が読んで、おもしろかったよと口コミで広げることのできる本だなと思います。

ハル:私も、すごくバランスのいい本だなぁと思いました。お話自体は軽くてさらっと読めてしまいますが、表現のおもしろさはちゃんとあって、文学すぎず、軽すぎず。普段本を読まない子が読書のおもしろさを知るきっかけになるような、ちょうどいい本なんじゃないかなと思いました。キャラクターの設定もなかなかリアルですよね。だいたいこういうのって、外見が地味な子は内面がすごくいい子で、派手な子は改心する、というケースが多いように思いますが、そのパターンにはまっていないところもよかったです。コアラさんに同じく、莉子にも最後、もうちょっといい思いをさせてあげたかったけど、この1歩を踏み出せただけでも、莉子にとっては大変身なんですよね。

サンザシ:私も、表紙を見てラノベかなと思ったのでそんなに期待しなかったのですが、おもしろく読みました。まったくタイプの違う二人が入れ替わって、それぞれ普段ならできない体験をしてみるというところは、うまく書けているなあ、と思います。登場人物は、かりんのお父さんなどステレオタイプの人もいるので、ラノベっぽいですが、その割りに教訓的ですね。お互いのいいところを認め合うようになって、次の1歩を踏み出すことが奨励されているみたいな。でも、この内容をすごくまじめに書くとだれも読まないと思うので、こういう書き方もありだと思います。中学生くらいだと、自分の存在に自身がない人も多いので、おもしろく読んで考えるきっかけをつかむにはいい本だと思います。

レジーナ:私は物足りなかったです。さらっと読みました。謎の男の正体が最後までよくわからなくて、消化不良です。かりんの父親の描き方もステレオタイプで、人物造形や展開がラノベっぽくて……。エンタメならもっと楽しく読めないと。こういうのが好きな子もいるのでしょうが。

リス:その“なぞの男”は一応登場人物の一人ですが、中身がない。そのため、現実には起こり得ないことを可能にする力は持っていても、作品全体の中では存在感が薄い。創作上、彼にあたえられた役目、意味合いは、この作品がファンタジーというジャンルに属していることのアリバイとか、象徴を成しているだけだと思えます。便宜上、とってつけたと言う感じがしなくもありません。また、文体については、日常生活での会話がそのまま文字化されていますので、わざわざ、字を追って行くことにまどろっこしさを覚え、読書になかなか気乗りがしませんでした。それで読後の印象も薄かったです。同じ作者の『園芸少年』(講談社)は作品世界に引き込まれ、印象深く、すごく良かったんですが、この作品は、読み始めた時の第一印象は、作家になりたい人にとって、お手本とみなされる、ある種のパターンにそって書かれているみたいだと感じてしまいました。
 読後の“発見”としては、この話は、ファンタジー仕掛けになっていますが、これって、いわゆる、新聞、雑誌、ネットなどでの“人生相談欄”を別の形式にしたものではないかと思ったことです。相通じるものがありませんか? 違うところは、回答者(作者)が一方的にアドヴァイスを与えているのではなく、主人公が自ら答えを見い出して行く、という形になっています。その点が主人公に前向きな姿勢を与えていると思います。ただ同時に、教育的なねらいも感じられます。作者が言いたいことは、他の方法でも良かったのでは?

サンザシ:読書なれした子どもには確かに物足りないと思うんですけど、今は骨があって質が高い本だけを子どもに勧めていたのでは読書教育は成り立たない時代だと思います。イギリスでもアメリカでも日本でも、本嫌いの子どもや、そんなに本が好きじゃない子どもをどう読書に誘うか、ということが問題になっています。だから私は、そういう観点から次の読書のステップになるような本を選んで手渡すのも必要だと思うんです。

リス:中高生向けの小説には学校生活を背景にして、登場人物たちの心理や感情が綿々と綴られている作品が多く見られますが、それは多少なりとも日本独特の私小説の伝統から来ているのでしょうか……? また、それを好む読者がかなりいるのだろうか……、と。この本を読んでいるうち、なぜか、ふと、そんな疑問を持ってしまいました。『園芸少年』が2009年に、『くまのあたりまえ』が2011年、そして『てんからどどん』が2016年に出ました。『くまのあたりまえ』という本にちょっと目を通しましたが、ジャンルも内容も文体も他の作品と全然違っています。無駄な言葉はそぎ落とし、非常に簡潔。結局、この作家さんはいろいろなものを書けるのでは……?

よもぎ:魚住さんの『園芸少年』は、アイデアも、内容や文体もおもしろい傑作でしたけど、この作品はそれほどではなかったですね。すらすら読めて、普通におもしろいというか……。私はお説教くさいとは思いませんでした。この年頃の子どもたちは、周囲の友だちが自分よりずっと優れているように思えて、憧れたり落ちこんだりすることがよくあると思うのですが、そういう子どもたちには真っ直ぐに届く作品だと思います。こういう読みやすい本を何冊も読んで、そのうちに自分の心に本当に響く1冊に出会えばいいのでは? ただ、「雷」と「ほかの人と入れ替わる」というのがどう結びつくのか、あいまいでよくわかりませんでした。

クマザサ:めちゃくちゃ早く読み終えてしまったんだけど、あまり印象に残りませんでした。私はたぶん、この本のいい読者ではないというか、すごく本好きの子どもだったので、こういうさらっと読めるような本は、あまり必要としてこなかったんだろうと思います。かりんの父親が「女の子は勉強しなくてもいい」みたいなことを言い出すじゃないですか。こういう思想はほんと撲滅したいですね。作中でもそれは否定されていて、ちょっとほっとしました。短くてテンポがいい、なんというか手に取るのに敷居が高くない作品だと思いますが、そんななかに、現代的なテーマも一応盛りこまれている。大事なことだと思います。

西山:ラノベって、定義がむずかしいですね。表現の特徴とか、物語の形式などで分類できるカテゴリーではないみたいです。どのレーベルから出ているかという、外的な要因で言うしかない。以前、ラノベに詳しい方と話していて、そういう理由で西尾維新はラノベではないと聞いてびっくりしたことがあります。

リス:かりんとか、莉子とかと、主人公に名前が付けられていますが、だからといって、彼女たちにそれほど個人性が与えられているわけでなく、同じ、あるいは似た悩みを持った子どもたちの代表格、典型として扱われています。その意味では表紙のマンガ的な絵はぴったり合っていると思います。人物をマンガ的に描くと、個性が欠けて、みな典型化されるでしょう。でも、それがさまざまな読者の共感を呼びことになるのでしょう。とっつきやすいし。

カピバラ:本を読まない子どもに手渡す本が必要ってことですよね。ステッピングストーンになればいいと思います。でもラノベに群がる子どもは一生ラノベしか読まないのかな?

西山:読む子は、ほんとに何でも読む。たしかに、ラノベだけで、それ以外に手が延びない子もいることはたしかですが、右のポケットに岩波文庫、左のポケットにラノベという生徒にも出会ってきました。片や、小説を読まないだけでなくマンガも特に読んでいないというパターンがはっきりあることに気づいたことがあって、物語好きかどうかという気がします。

サンザシ:今はほかに子どもの興味をひきつけるものがたくさんあって、放っておくと子どもたちは本の楽しみをまったく知らないで大人になってしまう。それはもったいないので、楽しい入り口になるような本も必要じゃないかな。

さららん:前に読んだ『フラダン』(古内一絵著 小峰書店)も、タイプは違いますが、ノリのいい本という意味では共通しているかも。エーデルワイス(メール参加):魚住さんの作品を読んだのは、『非・バランス』以来です。軽いタッチですがお説教臭くなく、見た目だけではない主人公それぞれの悩みを、読者にも共感できるように書いていると思います。莉子とかりんの親にはやれやれと思っていましたが、莉子とかりんが変わっていくと親もよい方向に変わっていったのでホッとしました。「黄色い帽子のおじさん」はここでは恐い存在として登場しますが、なぜか「おさるのジョージ」に登場する黄色い帽子のおじさんを思い出しました。

しじみ71個分(メール参加):同性間のとりかえばや物語で、思春期の女子なら一度は考えたことがありそう。特に、容姿や性格に自信がなく、コンプレックスを持つ子の気持ちには共感できた。逆に、すらっと可愛い、快活な子が目立たない子と入れ替わりたいというモチベーションにはそんなには説得力を感じなかった。それと、「鹿児島の黒豚」を連呼して悪気がないというのは、ちょっとあんまりにも鈍感すぎやしないかなと思った。しかし、立場が変わることで、家事や勉強の大事さとか、人との付き合い方とか、気付かなかったことを発見したり、自分の良さを見出したりしていく過程のエピソードは丁寧に描かれていて、主人公たちの心情から離れることなく読めた。かりんの友だちも人が良く、実は莉子を認めていたり、森田くんもかりんのことを思っていたという辺りは、うまく行き過ぎだけれども、読んで文字面から不必要に傷付くことがない、安心できる展開だった。一方、家族や、黄色い雷の描写は必要最低限であっさりしているが、書き込み過ぎないことで、2人の心情から目が逸れにくい効果があると思った。
 最初の掲示板への依頼殺人の書込みが招いたのが、現実の殺人者ではなく、しかも莉子が1人で退治したという筋は、莉子がコンプレックスを自分で克服するということの比喩だろうと思うが、単純で分かりやすいので、小学校高学年の子たちがサクサクと読むにはちょうどよいかもしれないと思う。深くえぐらない分、感動はしないが、立場を変えて、相手のことを考えてみたら、と子どもに気軽に一声かけるのに良さそうな作品だと思った。

マリンゴ(メール参加):魚住直子さんの、ユーモラスでちょっとシュールな物語。前から面白いと思っていました。優等生と、劣等生、というようなありがちな対比ではないところがよかったです。特に、かりんの人物造形が面白かったと思います。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ジョージと秘密のメリッサ

ネズミ:とてもおもしろく読みました。気持ちよく、後味もとてもよかったです。本当の自分をなかなか外に出せないジョージに、ずっとケリーがよりそっているのもいいし、最後にお母さんが認めてくれるところがいい。悩んだり悲しんだりする、いろんな心理描写が子どもらしく納得のいく表現で描かれていて、説得力があると思いました。

レジーナ:ジョージの描写にリアリティがあって、胸がいっぱいになりました。ケリーが友だちとして支える姿もよかったし、スコットが、はじめはトランスジェンダーをゲイとまちがえたり、とんちんかんなことを言いながらも受けとめようとする場面もとてもよかったです。

リス:この本のテーマを知って、作家が創作活動を通して、どれだけ社会に貢献していることかと、改めて意識しました。タブーとなっていた、いろいろなテーマが作家によって本となり、子どもも大人も、現実世界に生じている事柄や問題に目を向けることができます。例えば家族関係や、子どもの自立性などでは、両親の離婚問題から始まり、老人問題、パッチワークファミリー……などと、家族、子ども像が変容して行くさまを。性に関わる児童書も出るようになりました。優れた児童書はいろいろな社会現象や問題について自由な目で、深く取り下げ、啓蒙的な役割を、時には積極的に、あるいは大胆に担ってくれていると実感しました。
それにしても、子どもが離婚した父親に対して、「いい人だけど、父親向きじゃない」と言うくだりに、新鮮ながらも、ある種のほろ苦い感慨を覚えました。今の子どもたちは親をそんなふうに批判できるのかと。あるいは人間の幸せのために作家が本の中でそのように言わせているのかと。さまざまな人間の生き方や考えを読者にアプローチしていく作家の姿勢が印象的でした。

西山:たいへんおもしろく読みました。トランスジェンダーの人がどういうときにストレスを感じるか、ああ、こういうことがこんなふうにつらいんだ、ということを初めて知った気がします。テーマとは全く関係ありませんが、食事の場面や、学校の送り迎えの場面で、おお、アメリカ!と思って、いやぁ食事がひどいなぁと、翻訳もので異文化に出会うというのを改めて実感しました。ひっかかったのはp94、「英語」と訳しているのは、「国語」の方がいいのでは? 子ども読者は自分たちにとっての「英語」と同じように捉えるのではないかと思うので。この作品を読んでいたとき、トランスジェンダーの多さを新聞記事で読んで、ふと、性別なんて血液型占いみたいなものじゃないかと思ったんです。血液型どころか、すべての人間を女性か男性かというたった2つの型に分けて、こういうものと決めつけるのは、ものすごくナンセンスに見えてきました。でも、世の中はまだまだ、一人一人をありのままで受け止めるには至っていないから、いかに生きにくいかを伝えてくれるこの作品はありがたいです。日本の最近の作品でも、「オネエ」とか「オカマ」とか、身をくねらせて女言葉で笑いを取るとかいう場面が結構あると感じていて、ものすごく認識の遅れを感じます。

サンザシ:「国語」か「英語」かというのは難しいところです。そもそも「国語」という表現は、国家の言語という意味で、ほかの国では使いませんから。日本の子どもになじみのある表現を大事にすれば「国語」になるかもしれませんが、異文化を伝えるという方を重んじれば「英語」という訳語にするかもしれません。

クマザサ:この本はかなりぐっときました。男の子らしさや女らしさの押しつけというある種の規範のなかで、息苦しさを感じている子は、きっとたくさんいると思う。主人公の心の揺れをていねいに追っていくところがいいですよね。翻訳もののYAなんかを読んでいると、LGBTをテーマにした本が最近はいろいろ出ていますが、同性愛をあつかった作品が比較的多くて、トランスジェンダーをテーマにしているのは珍しいと思います。動物園にいく場面も、すごくいいですね。この子の解放感がすごく伝わってきます。読んでいて切なく、苦しいところが多いけど、最後に自分らしくあることの喜びを感じさせて終わっているところに、とても好感をもちました。私は志村貴子さんの『放浪息子』(エンターブレイン)というマンガが好きなんですが、このマンガも、男の子になりたい女の子と、女の子になりたい男の子の話を描いています。ジェンダーのことや、子どもの気持ちをすごくていねいに拾ったいい作品です。ただ、こういうことを伝えるチャンネルは、マンガだけじゃなく、たくさんあってほしい。とくに子どもの本にこそ、あってほしい。そういう意味で、この本が出たことは率直にうれしいです。

ハル:すてきな本ですね。ケリーもお兄さんもお父さんも、みんなそれぞれに違う形の愛があってすごくいい。愛があふれてる。ジョージと親友のケリーは1週間ほど話せない期間がありましたが、もしかしたらそのときケリーには、ジョージの告白をどう受け止めるかという葛藤もあったんじゃないかと思います。でもそこを書かないでいてくれたことで、もし自分がこういう場面に出会ったら、こんなふうにぴょんと垣根を飛び越えて受け止めちゃえばいいんだよっていう例を見せてくれたような。LGBTだとかなんだとかあれこれ考えないで、ケリーみたいに受け止めればいいんだって。……すごくいい本だと思いました。

サンザシ:作者自身もトランスジェンダーということなので、心理描写がリアルです。ジョージの母親や兄との関係も、だんだんよくなっていくんですが、それも自然な流れで描かれているのがいい。それと、女性の校長先生が、校長室に「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの若者が安心してすごせる場所を」と書いたポスターを貼っていたり、ジョージの母親との面談で、「親は子どものあり方をコントロールできませんけど、ささえることはまちがいなくできます。そう思いませんか?」(p138)と言ったりする。そういうちゃんとした教育者に描かれているのもいいな、と思いました。最後のほうにジョージ(メリッサ)が女の子の服を着て女の子になって動物園に行ったときの解放感や高揚感が描かれているんですけど、私は、それほどまでに自分を抑圧しなくてはならなかったんだということを感じて、胸を打たれました。ジョージは、シャーロットの役を演じれば、家族にも自分が女性なんだとわかってもらえると思いこんでいるわけですが、そこはちょっと疑問でした。英語では女性の台詞と男性の台詞に日本語ほど差がないし、シャーロットは人間ではなくクモで見た目も人間ほど性別がはっきりしないので、そんなに効果があるのかな、と疑問に思ったのです。

げた:認識不足で申し訳ないんですけど、私はゲイとトランスジェンダーの区別がついていなかったんです。でも、違うんだってことがわかりました。そういうことがわかるってだけでもいいんじゃないかな。こういうテーマを扱った子どもの本を読むのは初めてなんですけど、もっと出てくるといいなと思いました。

コアラ:今回のテーマ(「自分ってなに? 心と体のずれのなかで」)にぴったりで、とてもよかったと思います。トランスジェンダーの子の気持ちもよくわかりました。ケリーがすごくいい対応で、本当にいい親友がいてよかったね、と思いました。なんでこんなに作者はジョージの気持ちが書けるんだろうと思っていたけれど、あとがきに作者はトランスジェンダーとあって、納得しました。あとがきには、この本の完成まで12年もかかった、ともありましたが、時間をかけただけあって、よくできていると思います。気持ちよく読めました。ジョージがシャーロットを演じた後とか、ケリーの洋服を借りるところとか、p213「メリッサは、おなかの底からぬくもりがこみあげてきて、指先へ、つま先へと、波のようにひろがっていくのを感じた。」というところとか、幸せ感がとてもよく伝わってきて、読んでいて顔がほころんできました。でも、訳は、ところどころ気になりました。p11の4行目「よお、弟」は、日本語では「弟」とは呼ばないだろうと。p38の1行目「わお、ケリー」も、英語の言い方そのままだし、もう少しうまく訳してほしいと思います。全体として、トランスジェンダーの人にどう接したらいいかがわかる本だと思いました。どんなきっかけでもいいから、子どもや親に読んでほしいし、どう接すればいいかわからないから変だと排除したりすることも、このような本を読めば、かなり減るのではないでしょうか。装丁も、読み終わってから見ると、口元を隠しているようにも見えるし、バツでなく丸の中にジョージがいるようにも見えて、深読みのできるおもしろい装丁だと思いました。

リス:表紙の白の余白が効いてますね。タイトルの中の一語“秘密”って、どんなことなのかしらと、読者の想像を駆り立てるように。私は、コアラさんがおっしゃった「弟」という訳語には違和感を持ちませんでした。日本ではあまり耳にしない言い方でも、外国ではよく使われる、ということで、訳文に取り入れれば、日本語の表現がまた一つ豊かになると思えますが。お兄ちゃんはそんな言葉使いで威張っているのでしょう。

よもぎ:とても良い本ですね。感動しました。この本を読むまでは、LGBTを取りあげるのはYAからと漠然と思っていたけれど、トランスジェンダーの人たちは、小学生のころから悩んだり、悲しい思いをしたりしているんですものね。小学生を対象としてこの物語が書かれているということに、大きな意味があると思いました。トランスジェンダーの子どもたちにとっても、そのほかの子どもたちにとっても、読む価値のある作品だと思います。作者自身の体験にもとづいているので、主人公のジョージはもちろん、お兄ちゃんやママやパパ、ケリーや校長先生も、生き生きと描けている。それから、『シャーロットのおくりもの』に全校で取り組むというプログラム、すてきですね。日本の学校でも、こういう取り組みをしているところがあるのかしら。中島京子さんの『小さいおうち』(文藝春秋)もそうですが、こんなふうに名作を下敷きにしている作品って、なんともいえないハーモニーをかもしだして、感動が倍増されますね。ただ、日本の子どもたちは「シャーロット」を読まないうちにこの本を読むと、なんというか、もったいない気がするけれど……。

アンヌ:題名に引かれて手に取って、何度も読み返しました。誰かとこの本について語り合いたかったので、ここで読めて嬉しいです。なんといってもこの本には、トランスジェンダーである苦しみとともに、ジョージの喜びについて書いてあることが素晴らしい。女の子としての自分を想像するときのジョージの幸せな気分、「ごきげんうるわしくていらっしゃる」という言葉から浮かび上がるシャーロットの象徴する女性像に憧れる気持ち、舞台でシャーロットを演じる時の役者としての喜び。そして、女の子の服を着てお出かけをするという喜び。普通ならお芝居の場面ぐらいで終わるところですが、この最終章があるのが重要なのだと思います。ここを読むと、トイレの問題が描かれていて、今アメリカで問題になっている「だれでもトイレ」などの必要性もわかります。親友のケリーだけではなく、ゲイと勘違いはしているものの、父や兄も見守ってくれているところに、学校でつらいことがあっても見てくれている人はいるんだよという作者のメッセージを感じます。その他にも、メッセージを感じるところは多々あって、p54のトランスジェンダーの女性がテレビで語る場面で「手術をして取りたいのか、取っているのか」と訊かれるところ。これは、p157で兄もジョージにたずねますが、ジョージのこれからの人生で何度も訊かれる事を、「それは自分と恋人以外の誰にも関係ないことだから答える必要はない」と知るのは重要だと思います。さらに、ホルモン抑制剤のことも2回出てきます。この本が、小学校3、4年生が対象なのは、思春期前の間に合ううちに子供たちにそのことを知らせたいからだと思います。トランスジェンダーの問題は多様です。体を変えなくては生きていけない人もいれば、異性の服装をすることによって解放されて生きていける人もいる。恋愛対象も様々です。ジョージの恋の対象がまだわからないと書いてあるのも、自分で選べる時まで決めつけなくていいんだよという、メッセージだと思います。感動して『シャーロットのおくりもの』(E.B.ホワイト作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)も読み返したのですが、ここで描かれる農場で繰り返される生と死の物語に託して、作者はジョージに短い生の中で、幸福にせいいっぱいに生きて欲しいという気持ちを表したかったのだと思いました。

ルパン:これは、何かすごい迫力のある作品だな、と思いました。この主人公は、「女の子になりたい」とはひとことも言っていないんです。「自分は女の子なんだ」って言いきってるんですよね。自分が信じていることを理解されない孤独感や苦しみもしっかり伝わってきます。動物園のシーンでは、初めて身も心も女の子になれた喜びが描かれていますが、この先のいばらの道を思うと読者としては手ばなしに「よかったね」と言えない気もしました。そういうことも覚悟のうえで自分を解放したということでしょうか。やっぱり真に迫るものがありますね。『てんからどどん』(魚住直子作 ポプラ社)はスカッとした清涼飲料水でしたが、これはあとあとまで残るコクのある飲物のようでした。

サンザシ:この子の将来は決して楽ではないと思いますが、それでも、理解してくれる人がゼロから複数人に増えたんだから、希望のある終わり方なんだと思います。

ルパン:アメリカ人の友人が、自分の息子が「女の子である」ことを早くから認めて、5歳くらいからsheと呼ぶようになったんです。服装もスカートやドレスで。男の子なのに女の子として生きさせることにする、と親が決めるのは早すぎる決断だ、と今までは思っていたんですけど、この作品を読んだあと、本人が実際にこのように感じているのであれば正しい選択だったのかもしれないと思うようになりました。

カピバラ:アメリカではラムダ賞やストンウォール賞など、LGBTを取り上げた本に与えられる賞もあって評価されているけれど、日本ではまだまだ手をつけていない分野です。この本は多様性を理解する本としてすばらしいと思いました。LGBTに限らず、人間関係の中で、思い込む、決めつける、ということがどんなに理解をせばめているか。そこに気づかされるところがいいと思いました。またこの本の読み方は2通りあって、ジョージと同じような子どもが読む場合と、それ以外の子どもが読む場合が考えられます。前者の場合、トランスジェンダーといってもいろんなケースがあるので、全部に共感するわけではないかもしれませんが、細かい部分の描写がリアルなので共感を得られると思いますし、後者の場合も、知らないことを知る、理解することができると思います。どちらもある程度成功しているといえるんじゃないでしょうか。

さららん:トランスジェンダーの人たちに対するテレビのドキュメンタリーで、「シスジェンダー」と言う言葉を使っているのに出会いました。「生まれた時に割り当てられた身体的性別」と「自分の性自認」が一致している人を指す言葉だそうで、こういう言葉ができたこと自体、すごい進歩ですよね。私たちが当たり前だと思いこみ、その当たり前を要求することが、トランスジェンダーの人を傷つけていく。異質な者を差別する根の深さと、理解することの困難を改めて思いました。トランスジェンダーとは違いますが、同性同士で結婚できるオランダでも、性のあり方の違いが受け入れられない人はまだまだいて、ひそかな偏見は残っています。この作品は、みなさんの言うとおり、子どもたちにトランスジェンダーを届けるのに、とても良い物語でした。ただp33の「午後の短い影が、大通りを走るジョージの前をすすんでいく」など、自然描写の訳にややわかりにくい部分があり、惜しいな、と思いました。

エーデルワイス(メール参加):新訳の『シャーロットのおくりもの』は私も大好き。シャーロットの気持ちを思って涙を流すジョージが素敵です。この作品を題材にした小学校での授業はいいですね。それだけアメリカでは普遍的な物語なのですね。小学校の劇でもオーデションをするところがさすが! ジョージがシャーロットの訳を熱望するところが胸を打ちます。ジョージの心の動きが丁寧に書かれていて、トランスジェンダーを理解する1冊だと思いました。親友のケリーと兄のスコットがとてもいい。トランスジェンダーで悩んでいる多くの人にもケリーとスコットのような人たちが寄り添ってくれますように・・・。「親は子どものあり方をコントロールできませんけどささえるこれはまちがいなくできます」と、ジョージのママに校長先生がいう言葉は名言だと思います。

マリンゴ(メール参加):とても興味深く読みました。私自身が、いわゆる「女子力」が低いこともあり、そこまでスカートを履きたい? そんなにお化粧したい?など、若干、ぴんと来ないところもありましたが、著者ご自身が、トランスジェンダーなので、説得力があって、ああ、そうなのかなと納得した次第です。p191で、雑誌の入った手さげを、そのまま返してもらえるという、効果的な小道具の使い方が、とてもいいなと思いました。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


リトル・パパ

ルパン:まったくもっておもしろくありませんでした。ほかの2冊(魚住直子の『てんからどどん』とアレックス・ジーノの『ジョージと秘密のメリッサ』)は、入れ替わりによって主人公が成長していく物語ですよね。でも、これはおとなと子どもが入れ替わったことに何の意味があるのかさっぱりわからない。結局、入れ替わってよかったと思えるのはパパの絵が出版社にウケたことくらいでしょ。最後はいきなりヘンなマンガになっちゃってるし。この本のなかで唯一良いと思えるのは、あとがきの中にある、訳者の叔母さんがそっくりの双子で、ある日制服を交換して互いの高校に行った、というエピソードです。この作品全体より、このあとがきのほうがよっぽどおもしろいです。

カピバラ:パパがクマになったり、金魚になったり、中学年向きの本によくあるんですけど、それでどんなに大変なことになるのか、どんなに家族がドタバタするのかがおもしろいわけですよね。でもそこがあまりおもしろく書けていなかったと思います。ドタバタだけではなく、入れ替わったからこそできることとか、予想外の効果とかがないと物足りない。それに、赤ちゃんってこんなしゃべり方するかな? 赤ちゃん言葉がありきたりで、つまらなかったです。

さららん:すぐに読めてしまったけれど、全体的に「荒っぽい」印象を受けました。なにが荒っぽいのかなあ。赤ちゃん言葉のつくりかた? 中身はパパだけど、外見は2歳児の存在を、子どもはおもしろいと思うんでしょうか?

カピバラ:おもしろいと思って書いてるんじゃない?

ネズミ:何も言えません。おもしろいと思えませんでした。お父さんのセリフもおっさんくさくて、入れ替わった弟にもお父さんにも気持ちを寄せられませんでした。

レジーナ:人間が別のものに変身する話は、それをきっかけに、自分という存在や、まわりの人たちとの関係性を見なおすことに意味があると思うのですが、この本はドタバタでおわっている気がしました。p93で子どものホリーが言っている「みすみす」や、p30の父親のセリフの「おねしょの心配はご無用です!」など、言葉づかいもところどころ不自然で、のりきれませんでした。最後の場面がマンガになっているのはなぜでしょう?

リス:高齢で、脳の働きがゆらいでしまった人でも、時にはしっかりとした自意識があり、思いがけない反応ぶりを見せるということを私は実際に体験しています。私は外国に住んでいてこの本は一度も見ていないので、どんな文脈や文章の中にあるのかは分かりませんが、一つの言葉にとらわれないことも大事だと思います。でも何といっても、このようなシビアなテーマには、ユーモアの質が問われますね。

西山:読みにくかったです。どっちのことをさしているのか、うけとりにくくて若干イラつきました。体の大きなお父さんが、身体的にはいろんなことができなくなるわけですが、それがドタバタのネタになるのか。障がいのある人のことが浮かんで、ぜんぜん笑えなかった。むしろ、ざわざわさせられて、不快感を覚えました。みなさんの感想を聞いていて、『お父さん、牛になる』(晴居彗星作、福音館書店)というのを思い出しました。フンの始末に困るシーンとか強烈だった。あのくらいシュールだとまだいいように思うけど・・・・・・。

ハル:わたしは、おもしろくないどころか、読んでいて傷ついてしまいました。「グロテスク」という表現が使われていましたが、そのあたりからどんどん気持ちが暗くなってしまって。高齢者の自動車事故のニュースなどもよく話題になりますが、それに限らず、こういう現実だって身近にあるでしょう? なんにも考えずに、わあ大変だ!って、ドタバタを楽しめばいいのかもしれませんけど……やっぱり、ただ楽しければいいってもんじゃないと思います。

サンザシ:この物語の家族像は、ジェンダー的にみるととても古いですね。父親=家長という図式です。それから、突飛なシチュエーション設定にするのだったら、入れ替わったときのリアリティもちゃんと書いてもらわないと。ベンジーは2歳という設定なのに、体が大きくなったとたんパパの靴や服をどんどん脱いでしまう。大人の服にはボタンやジッパーやひもなどいろんなものがついてることを考えれば、たとえ体は動かせるようになったとしても、実際には無理ですよね? また、パパは「おむつを外せ」と何度もどなるんすが、出版社に受け入れられるだけの絵が描けるくらいなら、おむつなんか自分ではずせます。p74には「こんなおにいさんがいるのもいいわね」「そうだね。ぼく、ずっとおにいさんがほしかったんだ」ときょうだいが会話をしていますが、前とのつながりがないのでそこだけとってつけたように浮いています。物語の中のリアリティがぐずぐずなので、えっ?と思ってしまってちっとも笑えませんでした。

げた:絵がもう少しかわいいといいのにね。赤ちゃんになったお父さんが全然かわいくなくって、気に入らないなあ。それに、赤ちゃんになったパパは結構「赤ちゃん」の状態を楽しんでいるのに、赤ちゃんになったお父さんはそうでもないですよね。赤ちゃんになったお父さんが活躍する場面を登場させたらよかったのにね。

コアラ:p10の「きったないタオルケット」は、関西弁のようでおもしろいと思いましたが……。

よもぎ:単なる強調じゃないかしら?

コアラ:あまりいい絵ではなかったけれど、p104からのマンガの部分は、子どもが読んだらおもしろがるのではと思いました。最後、p126で、「パパは今、新しい本にとりくんでいる。題名は『リトル・パパ』」とあるので、この本がまさにそのパパが書いた本、という設定にすればよかったのに、せっかくのアイデアがうまく生かされていなくてもったいないと思いました。

よもぎ:お父さんと赤ちゃんが入れ替わるドタバタがおもしろいと思って、作者は書いたのかしら? ちっともおもしろくなかったし、読んでいるうちにどっちがパパか赤ちゃんか混乱してきました。原書にも最後のほうのマンガがあるのかどうかは知らないけれど、おもしろさが足りないと思って、サービスで入れたのでは? いちばんまずいなと思ったのは病院の場面。どうしても、認知症などの障がいのある方たちとダブってしまって(入れ替わったことを知らない、ほかの人たちには、当然そう見えたことでしょうし)さららんさんは「荒っぽい」とおっしゃったけど、ずいぶん無神経な作者だなと思いました。子どもたちに薦めたい作品ではないですね。

アンヌ:ネットで原作の表紙絵を見ましたが、すね毛だらけで、もっとひどい感じです。こちらの絵はあごの線がないところが松本かつぢ風で、特に赤ちゃんの絵がかわいい。でも、マンガのところは原作と同じ仕組みなのでしょうか?あまりマンガとしてもおもしろくありませんでした。しじみ71個分(メール参加):楽しいエンタメ物語だと思った。入れ替わりによって成長も何も起こらないところが気楽だった。教育テレビでやっているアメリカのホームコメディのようだ。ドタバタがあって、ドキドキがあって、やっぱり元に戻って良かったというだけの話だけれど、この単純明快さは小さい子にも楽しめるのではないか。言葉や訳にも気になるところは特になかった。

マリンゴ(メール参加):かわいらしい物語でした。入れ替わってからのドタバタが、ちょっと長い気がしましたが、子どもはこういう繰り返しが好きだろうから、いいんでしょうね。

エーデルワイス(メール参加):日本人の挿絵が原作とピッタリ合っていたが、原作には挿絵がなかったのだろうか? パパの体になったペンジーのやり放題がおかしい。赤ちゃんとパパの体の入れ替えのお話は、珍しいかも。楽しく読めた。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ただいま!マラング村〜タンザニアの男の子のお話

さらら:「ただいま!」は、挨拶の言葉だったんですね。「只今現在」の意味かと、思ってしまいました。不安な気持ちや様々な感情表現が、きちんと書き込んであるのは、好感が持てました。お兄ちゃんとはぐれた後、ストリートチルドレンになるのが少し唐突かな、と思ったのですが、描かれている部分と描かれていない部分でうまくバランスを取っている。主人公は途中で、シスターに惹かれて施設に入る。でも、どうしていいかわからず飛び出してしまう。そうした心理もよく描かれていますね、短いページ数の中で。派手なところはないけれど、誠実に描かれた物語という印象を受けました。1箇所だけ、「二年前から(犬が)しずかなねむりについている」という訳語にひっかかりました。これでは犬が死んだことが、子どもにはわからないのでは?

アカザ:とても好感が持てました。こういう作品は年代の上の子どもが対象でないと難しいと思っていましたが、低年齢の子どもたちにもよくわかる書き方をしていて、はらはらしながら最後まで読みました。世界にはいろいろな子どもたちがいて、いろいろな暮らし方をしているということを幼い子どもたちに伝える作品が、もっともっとあってもよいのではと思いました。

ジラフ:人ってどんな時代に、どこに生まれるか、本当に選べない。その与えられた環境の中でいやおうなく生きていくしかない、というあたりまえのことをひしひしと感じて、胸にずしんときました。この男の子の場合は、寄宿舎に入って勉強することで人生ががらりと変わりますけど、実話がうまく物語に昇華されていて、自然に読むことができました。ただ、時間の経過が、路上生活から寄宿舎に入るまで4年、それから村に帰るまで5年と、いずれも章がかわってページをめくると、それだけの時間が経っていて、男の子は外見的にもずいぶん成長しているはずなので、そのあたりを読者の子どもがイメージできるのか気になりました。

たんぽぽ:中学年から、世界中の子ども達に目を向ける導入としてもいい本だなと、思いました。3年生ぐらいだと、後半の時間の経過が、理解できるかなと、少し気になりました。

夏子:皆さんが指摘されたポジティブな部分は認めた上の話ですが、西洋人が見たアフリカという感じが、すごくするんですよね。難しいことは承知のうえで、アフリカの人が書いたアフリカの本が読みたいと思いました。タンザニアの状況は苛酷ですが、日本の子どもたちだって苛酷な状況に陥ることはある。とはいえまったく違うことがあって、それは、日本の子どもに援助の手を延べるのはたいてい日本人(=同じ文化の人間)だけれど、タンザニアの子どもに援助の手を延べるのは、たいていは西洋人(=異文化の人間)ということ。結局、主人公の少年は、西洋化するしかないんでしょうか? 本当にそれしかないのか、私にはわからないんです。私は15年ほど前に、タイの人が書いたタイの本を読みました(後で思い出しましたが、ティープスィリ・スクソーパー作『沼のほとりの子どもたち』[飯島明子/訳]で、1987年に偕成社から出た本でした)。9割くらい読み進むまで退屈で退屈で、何度も途中でやめようと思ったんです。でも読み通したら、最後の部分が、忘れられないほどおもしろかった。ああ、時間の流れがわたしたちとは違う、と体感できたことが、読後の満足感につながっているんだと思います。もちろん最後だけ読んでもダメで、これを味わうには、退屈に耐えないと。となると今の日本の子どもたちはなかなか読みきれないでしょう。子どもたちが読める本で、アフリカやアジアの人が書いた本は、そうはないですよね。西洋の目から見たアフリカであっても、まずそれを知ることが必要なんだと思いますが……。

レジーナ:西洋から見たアフリカの本というのは、確かにそうですが、書き手は西洋の側にいるので、慈善団体の人がいい人に描かれているのは、仕方がないかもしれません。最後のインタビューで、寮ではペットを飼えないと語っているので、寄宿学校にドーアを連れていく部分は、フィクションでしょうか。私が少し気になったのは、挿絵です。ユーモラスなタッチだからかもしれませんが、目鼻が大きく、唇が厚い姿を、必要以上に誇張して描いています。これはポリティカリー・コレクトという観点からは、どうなのでしょうか。フランク・ドビアスの描いた『ちびくろさんぼ』(ヘレン・バンナーマン作 岩波書店/瑞雲社)があれほど物議を醸した後ですし、今の時代の本ということを考えると……。アフリカの人は、どう感じるのでしょうね。

コーネリア:最初は実話とは気づかなくて読み進めました。盛りだくさんに小道具を使ってドラマチックに創作されているつくりものの世界に慣れていると、最初は物足りなく感じました。でも男の子の視点がぶれずに書いてあるので、好感をもって読み進めることができました。半ばくらいから、ツソといっしょになって、応援しながら読みました。ハッピーエンドの方がいいから、最後にお兄ちゃんと会えてよかったのだけれども、村でお兄ちゃんが暮らしていたというラストには、ちょっとしっくりきませんでした。どうして、お兄ちゃんが先に帰っていたのか? はぐれたら、お兄ちゃんの方が弟を探すのではないか? 疑問が残ってしまいました。最後のインタビューで、お兄ちゃんがどうしていたのか、聞いてもよかったのでは。読者対象が、2年生ぐらいだと、これくらいストーリーをシンプルにする方が読みやすくていいのでしょうか?

カボス:みなさんがおっしゃるように、一見良さそうな作品で、好意的な書評もいろいろ出ているのですが、タンザニアに詳しい人に聞いてみると、あちこちに間違いがあるのがわかりました。遠いアフリカの話なので日本の人には間違いがわからないかもしれませんが、こういう本こそ、ちゃんと出してほしいと思います。
 まずスワヒリ語をドイツ語読みのカタカナ表記にしてしまっています。カリーブ、ドーア、カーカ、バーバ、バーブと出て来ますが、スワヒリ語ではカリブ、ドア、カカ、ババ、バブと、音引きが入りません。白人のこともワツングとしていますが、ワズングです。ほかにも、p9に「ツソが水をくんでこないと、おばさんが、トウモロコシをつぶしてお湯でねった晩ごはんをつくれないのだ」とありますが、これは主食のウガリのことだと思います。とすると、乾燥してから碾いたトウモロコシを使いますから、不正確です。p12には「ツソは、大いそぎで、手のなかのおかゆを口にいれた」とありますが、これもウガリのことなのかもしれませんが、おかゆとは形状が違います。おかゆのようなものもありますが、それは手では食べずにコップに入れて飲むそうです。p10にはカモシカが出てきますが、アフリカにはカモシカはいません。
 翻訳だけでなく原文にも問題があるかもしれません。p24に「お日様が昇る方向(東)にいけばモシがあり、ダルがある」とありますが、目次裏の地図を見るかぎり、モシはマラング村から西南の方向にあるようです。バスがダルエスサラームにつく場面では海が見えるとありますが、バスステーションからは海は見えないそうです。現地をよく知っている人は、バスの座席にもぐりこんで旅をする場面が、モシからダルまでは7〜8時間もかかるのに、ずいぶんとあっさりした描写だな、とおっしゃっていました。またp106には「アルーシャのまわりの村には、まだ学校などないのがふつうだった」とありますが、アルーシャは大きな町なので、周辺の村でも学校はあるのではないかという話でした。欧米の作品だとみんないろいろ調べて訳すのに、そうでない場所が舞台だと、そのあたりがいい加減になってしまうのでしょうか? そうだとしたら、とっても残念です。こういう作品こそきちんと出してほしいのに。訳者の方は、現地に詳しい人に聞いたとおっしゃっていたのですが、どうしてそこでチェックできなかったのでしょう? たとえばウガリのことなどは、だれでも知っていることなのに。そういうせいもあってか、全体に、「かわいそうなアフリカ人の子どもが西欧の慈善団体のおかげで一人前になりました」という感じがにおってきて、私はあまり好感を持てませんでした。著者がどの程度、ちゃんとインタビューして、場所なども取材したのか、それも疑問です。
 前に、『ぼくのだいすきなケニアの村』(ケリー・クネイン文 アナ・フアン絵 小島希里訳 BL出版)が課題図書になったとき、スワヒリ語が間違いだらけで困ったな、と思ったのですが、それと同質の違和感をこの本にも感じます。今はアフリカ人の作品もあるのだから、欧米の作家の中途半端なものを翻訳出版しないでほしいと思います。アフリカ子どもの本プロジェクトでもこの本を推薦するかどうか検討したのですが、推薦できないということになりました。ちなみに、編集部には再版から直してほしいとお伝えしてあります。(後に再版から推薦)

一同:そうなんですか。ちょっと読んだだけじゃ、わかりませんね。

プルメリア(遅れて参加):表紙をはじめ挿絵がいいなって思いました。活字も読みやすいし。目次も関心を引きました。作品からタンザニアの人々の生活や村の様子がよくわかりました。わくわくしたけど、でもあまりにもハッピーエンド。カモシカって、寒いところにいるのではなんて思いました。書名『ただいま!マラング村』の意味は、インタビューを読んで納得しました。

アカザ:さっき、レジーナさんが絵は問題があるのでは、と言ってましたが。

コーネリア:子どもたちの手に取りやすい絵にはなっていると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年1月の記録)


空飛ぶリスとひねくれ屋のフローラ

アンヌ:献辞のところから読み始めたので、マンガも作者が書いたのかと勘違いして、驚きながら読みました。大人がみんな孤独で、子どもも孤独で、それなのに大人は子どもを傷つける。ハッピーエンドだからいいけれど、ちょっと理解できない話でした。リスだけがかわいくて自由で詩人で、理想の子どものようです。この本を読んで楽しかったのは、マンガに描かれている本の題名がしっかり読めたこと。哲学者ミーシャムさんの本棚にあるのは、『ホビットの冒険』(J・R・R・トールキン著 岩波書店)で、『指輪物語』(同著、評論社)じゃないのに納得したり、テイッカムさんの名詩選集の最初の名前が2冊とも女流詩人なのを発見したり、リスに読んであげるリルケの詩が『時祷詩集』(リルケ全集・河出書房新社)だ等と、調べて考える楽しみがありました。

コアラ:私はおもしろく読みました。内容もおもしろかったし、マンガで表現しているところと文章で表現しているところがあって、文章も明朝体で人間のフローラを主人公にした場面と、ゴシック体でリスのユリシーズを主人公にした場面がある、という形がおもしろかったです。フローラはアメリカのコミックを読んでいて、アメコミのスーパーヒーローと重ね合わせてリスを見ているので、もっと話が大きくなるのかな、と思ったら、意外とこぢんまりとしたスケールで終わってしまったので、もうちょっと盛り上げてほしかった。p227の2行目で「母さんが何よりもだれよりも愛しているのは羊飼いの電気スタンドだ」とあるから、この悲しい誤解の道具が重要な場面で使われるのだろう、と思っていたら、猫をたたいただけで終わってしまったので、もっとキャラクターも含めて設定を生かしてほしかったです。主人公のフローラは、変わっている子という設定ですが、フローラみたいな子は案外いっぱいいるんじゃないかと思いました。p153の絵で本のタイトルなど全部日本語に変えていて、本の背の見えにくい文字もそれっぽく変形させた活字にしているので、うまいなあ、おもしろいなあと思いました。とにかくリスの絵がすごくかわいかったです。

レジーナ:今回選書係として、社会や時代の制約を受けながら生きている女の子が、動物との関わりの中で周囲から受け入れられていく物語を選びました。この本は2014年にニューベリー賞をとったときに原書で読みました。主人公は個性的で、母親からも変わった子だと思われています。そこに空飛ぶリスが現れたことで、しっくりいっていなかった人間関係が少しずつ変わっていく過程が描かれています。作者が自分のためではなく、子どもに楽しんで読んでもらおうとして書いた本ですね。ところどころマンガになっているのも、おもしろいアプローチなのでは。

ネズミ:得意ではない作品だったけどおもしろかったです。マンガがところどころに入って1章1章が短い構成で、私は落ち着かなかったけど、読書が苦手な子どもにはとっつきやすいかなと思いました。たよりない親と、ちょっとませた子どもと。どんな親でも子どもは折り合いをつけて生きていくんだなというのが伝わってきます。掃除機に吸い込まれそうになって特殊能力を得たリスが出てきたり、フローラがいつも参考にする本があったり、お話としてのうまさが感じられて、子どもが読んだら楽しく読めるのでは。人物は戯画的ではあるけれど、お母さんもお父さんもとなりの人も、いろんな面が見え隠れする描き方で好感を持ちました。

西山:目次を見たときは苦手だと思ったのだけど(散文的なこまかい目次、あまり好きでなく・・・・・・単に好みの問題です)、読み始めたらおもしろかった。子どもを楽しませると思いました。難を言えば、マンガと本文の関係がわからないので、本文出だしを読んでいるマンガの内容だと思ってしまうのではと思いました。読み進めて、仕組みがわかってくればそれでいいのですが、本を読み慣れていない子にとって、ある種の難しさになってしまうかもしれないと、ちらっと思いました。恋愛小説家の母親が、いかにも現実的なのは皮肉?ちょっとおもしろい。信じることによって失うものはないという「パスカルの賭け」がでてくるところ(p158)や、ユリシーズが心にもないことを打ち込んで石のようになってしまうところ(p218)など、考えさせるところもあってそれも好感を持ちました。p15のリスが食べ物のことばかり考えているというところ、もっとリスっぽい?口調、リスの動きを思い起こさせるような、いかにもリスっぽいと思えるような口調にして、もっと楽しませてほしいと思いました。フローラに人生の教えをくれるマンガ、私もほしいと読んだ子どもが思うんじゃないかな。子どもをもてなす作品だと思いました。

マリンゴ: おもしろく読みました。軽快なタッチなので、少女を取り巻く環境が実は苛酷だということを、終盤まであまり感じず、重くなりすぎずに読むことができました。哲学的な内容が随所に入りますが、主人公のお気に入りのマンガからの引用なので、子どもに難しく感じさせないのではないかと思います。リスのスペックが、「空を飛ぶこと」「タイプライターを打つこと」と、明確なのがユニーク。最後、ファンタジーの世界を閉じて、日常に戻るのかと思いきや、ファンタジー全開のままで終了したのが少し意外でした。子どもたちにとっては、想像がふくらむ楽しい終わり方なのかもしれません。

:マンガの部分は、マンガというよりも挿絵のバリエーションのように感じました。なくてもストーリーを理解できるので。p15で、おなかがすいたことをリスの気持ちでいろいろに表現しているところは、マンガ形式だからいっそうおもしろく見えますね。『はみだしインディアンのホントにホントのはなし』(シャーマン・アレクシー著 エレン・フォーニー画 さくまゆみこ訳 小学館)も思い出しました。私は、子どもが子どものロジックのまま不満を言うタイプの本があまり好きではないのですが、そういうところを差し引いても、案外楽しく読めました。フローラを受け入れられない母親がありのままの娘を受け入れるようになるという話ですね。いろいろな人が出てきますが、p217の「家に帰りたい」というスパイヴァーのセリフに主題が凝縮していて、ここで、この本がきわめて正統な児童文学であることがわかります。あと、メアリー・アンという電気スタンドも、猫をたたいておしまい、なのではなく、それで壊れることにより、母親が初めてフローラの方を向くという結果につながっているので、重要なアイテムだと思います。

ハリネズミ:ドタバタの割りには理屈っぽいところがあるな、というのが私の第一印象です。こういうのを訳すのは難しいですね。私の好みとしては、もう少しドタバタ寄りで訳してもらったほうがおもしろくなったと思います。このお母さんはタイプライターで原稿を書いてますから、舞台は現代じゃないんですね。。そういう時代に設定したのはなぜなんでしょう? このマンガのテイストは、日本の子どもとそんなに相性はよくないと思います。2回読んだんですが、私はみなさんがおっしゃっているほどおもしろいとは思いませんでした。

カピバラ:マンガを挿絵としてではなく文章のかわりに入れているのがおもしろかった。この絵のせいで現実離れした人々のように思えるけれど、実はそれぞれが深い悩みをかかえていることがわかってきます。p234の最後に、「フローラは変わってる? そうかもしれない。でも、それのどこが悪いのかな?」と書いてあり、これが作者の言いたいことなのでしょう。各章が短くて読みやすく、視点もどんどん変わって子どもを飽きさせないようにという工夫が感じられるところに好感をもちました。個性的な人物が出てきて、特にドクター・ミーシャムと巨大イカの話はおもしろかったです。リスの視点で書かれているところは楽しいから興味をもって読むのですが、リスの存在がひとりひとりにどんな影響を及ぼしているかというところまではよくわかりませんでした。私はアメリカの出版社のパーティーでこの作者に会ったことがありますが、明るくてとにかくよくしゃべる人で、小柄なのに存在感があり、いつも人に囲まれていました。人を楽しませたいというサービス精神にあふれている人だと思います。それが作品にも表れているんですね。

ルパン:物語の方向性がよくわかりませんでした。読書会で取り上げなかったら読み切れなかったかも。ニューベリー賞とあったので期待して読みはじめましたが、すぐに「どうしてニューベリー賞?」と思い始めてしまいました。最大の疑問は、やはりリスの役割です。リスを特別にしてしまう掃除機も、最初に出てきただけで、何だったんだろう、という感じだし。マンガまじりの構成も、私はあんまりなじめませんでした。挿絵だと思っていたのに、マンガのなかに重要なストーリー展開があったんですね。しばらく気づかずにマンガを飛ばして読んでいたので、途中であわてて最初に戻りました。好きな登場人物はフローラのお父さんで、印象に残ったのは電気スタンドの女の子かな。ラストは、フローラはお母さんと心が通じ合ったのに、ウィリアムは家族に見捨てられたままだったのが気になりました。目が見えないふりをするほど悲しんでいたので、もう少し救いがあってもよかったと思います。大好きなフローラと仲よくなれたのはよかったですが。ティッカムさんの家で幸せになってもらいたいと思います。

しじみ71個分:おもしろく読み、最後のリスのフローラを思う詩には涙ぐんでしまいました。傷ついたり、うまくいっていない人たちが、スーパーリスの存在でかき回され、冒険があり、事態が変わっていくという展開になっています。本文中、絶対にありえないと言い切れることはないんだよ、という趣旨のセリフがありますが、それはスーパーヒーローの空飛ぶリスでもあり、無理なように見える壊れた家族の和解をも象徴していると思いました。リスの存在が未来への希望を表わしているようで、気持ちよく読めました。ストーリーを挿絵で表しているのもとてもおもしろいですね。

さららん:表紙とタイトルでは一瞬腰が引けましたが、読み出したらおもしろかった! 不安、満足、喜び、そういった様々な感情が、「物」で具体的に象徴されていて、つじつまがあうように作られている。子どもには納得がいくお話だと思います。例えば・・・孤独の象徴としての絵の中の巨大イカ、夜中に訪れたフローラを大歓迎するおばあさんが用意するオイルサーディンのクラッカー、父さんと食べに行くドーナツなどなど。それから、リスがなぜ詩が好きなのか、最後まで疑問に思っていたのですが、最初の漫画を見たら、なんと詩集といっしょに吸い込まれていた! 絶対にありえないお話だけれど、テーマは正統派で、ところどころに詩情を感じます。リスの書く詩が、単純なドタバタコメディに奥行きを作っていて、胸がきゅんとなるところもあり、楽しめました。

マリンゴ:余談ですが、うちの実家の庭に、ここのところタイワンリスがたくさん現れます。タイワンリスは外来種で、謎のウイルスがいるかもしれないから絶対素手で触れてはいけないそうです。自治体のホームページなどでも注意喚起しています。なので、主人公のお母さんの言っていることは理にかなっている、と思いながら読みました。

エーデルワイス(メール参加):表紙や裏表紙の色やカットも素敵です。中身にもマンガを入れたり、フローラの章とリスの章とで書体を分けたりと、読みやすく工夫されていると思います。なかなか斬新だと思いました。寂しさを抱えた少女を主人公にし、ドタバタやユーモアを交えて描かれた、いかにもアメリカらしい作品ですね。日本にはちょっとなじまないように思いました。いっそ全部マンガになっていた方がすっきりしたかも。マンガは、日本のほうがずっと進んでいますね。p153の挿絵はおもしろかったです。『ホビットの冒険』『シェークスピア』『ホーキング宇宙を語る』『オルフェウスへのソネット』にまじり、『盆栽の世界』なんていうのもあり、本当に盆栽が置いてあります。世界中で盆栽はブームなのかと笑ってしまいました。この書斎は、著者ご自身の書斎がモデルになっているのでしょうか?

(2017年2月の言いたい放題)


レイン〜雨を抱きしめて

:アスペルガー症候群や高機能自閉症が重要なモチーフになっているので、いわゆる「問題」でひっぱっちゃう話かと思い、最初はちょっと入りにくかったのですが、『空飛ぶリスとひねくれ屋のフローラ』(ケイト・ディカミロ著 斎藤倫子訳 徳間書店)よりはるかにおもしろかったです。ローズは、同音異義語と数字に長けていますが、それが感情表現に結びついていくあたりはとてもリアルでした。友だちができるのがいいですね。ローズの「ことば」を受け入れて、せっかちにならない。それがていねいに描かれています。結果的に、お父さんがローズを手放すことが愛情になるのが切ないですね。お父さんの気持ちを考えちゃう。背景はくどくど書かれていないのですが、いろいろ想像してしまいました。

マリンゴ: 非常によかったです。今回読んだ3冊のなかでは、いちばん好きでした。ただ、章タイトルがネタバレになってしまっているのが、いかがなものかと気になりました。たとえば、p134の「悲しすぎる話」、p152の「うれしい知らせ」、p169の「つらい決断」など。ストーリーは、大人が読むと心地よい苦さを感じますが、子ども時代の私だったら、もう少し甘いエンディングがいいなと考えただろうと思います。たとえば、ヘンダーソン家は避難所生活でしばらく犬が飼えないから、月に1度、ローズのところに会いに来ることを取りきめる、とか。

西山:とてもよかった。犬を手放すのはつらいのに、ルールに従わなきゃいけないから返す。そういう融通が効かないところが、幾重にも悲しいけど、腑に落ちました。レインを手放す辛さから、自分と別れる決心をした父親の気持ちに理解の窓が開くという展開も、とても胸にしみました。最近『ぼくと世界の方程式』(モーガン・マシューズ監督 2014)という映画を観ました。自閉症スペクトラムの少年が主人公で数学オリンピックを目指すという話で、母親像とか、とてもよかった。あと、やはり同じ症状を抱えた主人公の作品として思い出すのが『夜中に犬におこった奇妙な事件』(マーク・ハッドン著 小尾芙佐訳 早川書房)ですが、『レイン』は同様の症状の主人公が女の子で、私はそういう作品は初めてだった気がしました。知らないだけなのか、実際発症に性差があるのか・・・・・・作品と直接関わる事ではありませんが、何かご存じだったら教えてください。

しじみ71個分:非常におもしろく、切ない気持ちで読みました。高機能自閉症、アスペルガーの人たちについての理解が深まる作品だと思います。ルーティンでない事態に出遭うとパニックを起こしやすい、こだわりが強い、感覚が過敏であるなど、様子が具体的にていねいに書かれていて、こういった障碍を理解する上でとても有効だと思います。お父さんも主人公の子をどう扱っていいかわからないとか、主人公のこだわりの様子を友達がからかってしまったり、学校の先生も理解できなかったりなど、周囲が理解できなかったり、受容に苦労したりする様子もきちんと描かれていて素晴らしいと思いました。犬のレインがこの作品でもキーになっていて、レインが主人公についてきて教室に入ってくるシーンから、友だちとの関係が少しずつ改善していったり、いなくなったレインを探すことで主人公が成長したりしている。ストーリーの悲しい優しさが身にしみました。父親の弟であるおじさんが主人公のよき理解者であり、そのおじさんがいなかったら非常に辛い物語になるところでした。彼が、主人公に「今どういう気持ち?」と確認するなど、感情のコントロールができないとか、人の気持ちを読みにくいというアスペルガーの人の特徴をよく表わしながら、受容の仕方を示してくれているのもとても良かった。人との距離感をつかむことや、感情がコントロールすることが苦手な父親が愛するゆえに娘を置いていくという最後は悲しく、苦いけれど、感動して読みました。

ネズミ:私も、とてもおもしろく読みました。ほとんどの読者はローズとは違う感じ方で生きていると思うけれど、これを読むと、こんなふうに感じる子もいるんだなとわかってきます。犬がとてもうまく使ってあるなとも思いました。犬がいるからこそ、日本の子どもも親近感を持ってお話にひきつけられるだろうなと。表紙も手にとりやすそう。お父さんの描き方もよかったです。p199からp200にかけての、お父さんがなぐるまいとしながらこぶしを震わす部分が胸にせまってきました。ローズの目線で書きながら、お父さんの人となりがよく伝わってきてうまいなと思いました。

レジーナ:2年くらい前に原書を読んで、とてもいいと思った作品です。人を愛すること、愛ゆえに手放すところは、ルーマー・ゴッデンの『ねずみ女房』(石井桃子訳 福音館書店)に通じますね。原書では、ところどころ同音異義語が併記されていたり、同音異義語についてえんえんと説明している章があったりするのですが、そこはカットして、日本語版として読みやすい形に工夫されています。だけど副題の「雨を抱きしめて」は作品に合ってないのでは。

カピバラ:帯の「心の中が痛い。これがさびしい気持ちなの?」というのもいただけないですね。

コアラ:読みながらいろんなことを考えました。ローズと父親との関わりで言えば、p219に父親の言葉がありますが、そこに至るまでのいろいろなことを思いました。愛情を持ってローズを育てたいのに、どうしてもそうならない、いらだちとか、楽しい日常でなく、父親としてほとんど何もしてやれていない、という負い目もあったんじゃないでしょうか。p198には、お互いの思いが相手に受け取られていない、気持ちの交流ができない、つらい会話があります。p25に、父親とローズの、うまくいっていない会話がありますが、p34からはウェルドンおじさんとローズの会話があって、ウェルドンおじさんみたいな会話をすればうまくいくのかな、と思いました。ただ、これはフィクションなので、現実だとアスペルガーの子との会話はこんなにうまくいかないんじゃないかと思います。p133に、「わたしたち3人の名前の数を合計して、レインの名前の数を引いたら177で、素数じゃないって知ってた?」というローズの言葉があって、つまり、レインがいなくなって良くない未来になるということを素数じゃないということで言い表していて、作者がそこまで考えて名前を設定したのもすごいと思ったし、素数に意味がありそうな気がしてきて、宇宙の真理に触れたようなぞくっとするような気がしました。そして、ローズが「素数じゃないの」と断定する言い方をせず、誰かから返事をもらいたいという言い方をしていることで、素数じゃないという発見とレインがいない未来に、ローズ自身がたじろいでいるように感じました。

ルパン:おもしろく読みました。いちばん好きな場面は、p192〜193。友だちが「同音異義語を思いついた!」と言ったとき、ローズが「前から知っていた」と言わなかったところ。アスペルガーで空気が読めないはずのローズが、友だちの気もちに寄り添った瞬間。ローズが同音異義語が好きになったのは、自分の名前がローズだからでしょうか。亡くなったお母さんがつけた名前なのかもしれませんね。

アンヌ:ローズの方から見る世界が描かれていて、見事な作品だと思い、とてもおもしろく読みました。学校の先生も介助員も、ローズの立場に立つより、他の人の迷惑にならないように排除する立場をとっています。ローズは、お父さんにびくびくしながら育っていて、その孤独が身にしみました。お父さんは、自分の怒りでローズを支配しているし、特別支援クラスに行かせようとしない。もっと早く、援助を求めてくれればいいのにと思いました。特に、ローズのママの死を隠して、自分たちを捨てて行ったと教えていたことは、ひどいと思います。それでも、ローズはどんどん成長していって、他の人の心の中を想像できるようになっていく。自分なりのやり方でレインを見つけたりする能力もある。でも、お父さんは成長せず、お酒におぼれるまま。出て行ってくれてよかったと思ってしまいました。

ネズミ:ミセス・ライブラーはわかっているんじゃないかしら。外に連れ出したりしてますよね。

:お父さんにもアスペルガーの要素があるとしたら、もしかして、小さいときからずっと一緒だったおじさんは、扱いに慣れていたのかもしれませんね。ちょっと深読みかもしれませんが。

カピバラ:いちばんいいと思ったのは、高機能自閉症とはどういうものかを、ほかの人からみた様子ではなく、ローズ本人の感じ方をていねいに描くという手法で伝えているところです。名前のスペルを数字に置き換えたり、素数かどうかを常に気にしたり、時間は何時何分まで正確に言ったり、といったことが繰り返されるうちに、読者は自然にローズの考え方や感じ方に慣れ、おもしろくなってくるんですね。まわりにはローズを持て余している大人も登場するけれど、読者はローズの感じ方を体感して理解できるようになる。とてもいいやり方だと思いました。先生とは違って、生徒たちはもっと子どもらしい興味をもってローズに近づくところもよかったです。レインが来たことで打ち解けて、同音異義語を見つけようとしてくれたり、子どもなりに仲よくなっていくんですよね。それからお父さんとおじさんは全く違う性格のように見えるけれど、家庭の辛い事情をたった2人で乗り越えてきたので、きっとものすごく絆が強いんだと思います。似ているけど、陰と陽のように異なる現れ方をしているのでしょう。本当はお互いをいちばんよくわかりあっている兄弟なのだと思います。会話だけで、そのあたりのいろんなことが感じられて、うまいと思いました。レインがいなくなったとき、ローズはひとつひとつよく考えて、対処の仕方をリストにし、たったひとりで実行しようとします。つらい結果になったけれども、自分で選んで決断し、それを受け入れようとする。だからかわいそうな感じで終わらず、すがすがしさが残るところがよかったです。p44〜45に、ローズが教室で、魚の数え方は4匹が正しく、4つは間違いだと言い張る場面がありますが、英語では数え方は同じですよね……どうなっているか原書で見てみると……数え方ではなく、Iとmeの違いを指摘するということになっています。訳文は日本の読者にわかりやすいように工夫されているんですね。

ハリネズミ:登場人物の心理がうまく描けていますね。ローズの特異性がなかなか理解できず、愛してはいても不器用な対応しかできない父親の切なさも表現されています。低学年の子どもが読むと、父親の心理までは伝わらないかもしれないけど、少し年齢が高くなると、この父親は愛してはいても不器用なんだな、ということが伝わってくると思います。父親がローズに対してどなったり嘘をついたりする場面もあってはらはらさせられますが、ローズと別れる場面では、p224には[「さあ、行け」パパはそう行ってから、ほんの一瞬、わたしを抱きしめた。もうずいぶん前から、抱きしめられたことなんてなかった。ほほがふれたとき、パパのほほがぬれているのを感じた。パパはすぐに体を離して前を向いた。あごがぶるぶるふるえている。]とあり、最後でも弟のウェルドンにこう言わせています。「きみのパパはいつも正しかったわけじゃないけど、いつだってきみのことを大事に思ってたんだよ」「たぶん、ローズはぼくと暮らすほうが幸せだと思ったんだろうな」(p228)。ローズが同音異義語やルールにこだわる場面は、それでまわりがうんざりする気持ちと、それでもこだわらずにいられないローズの気持ちが、両方わかるように書かれていますね。レインを元の持ち主に返そうとするところも、ローズのルールにこだわる性格と相まって、自然な流れで読めます。自信のない父親が「せっかくプレゼントした犬を返しちまった」(p218)と恨む気持ちもわかります。視点が一つに偏っていないのがいいですね。孤独な子どもに犬が寄り添ってくれるという場面も目にうかびますし、その犬を一所懸命探そうとするのもよくわかります。でも、みつかったところでハッピーエンドではなく、もうひとつの展開によって、ローズはただの弱い存在じゃないところが前面に出てくる。かわいそう目線がないのがいいですね。 サブタイトルは私も安易な気がします。

ルパン:本来は漢数字で書くべきところがすべて算用数字で書かれていますね。ローズの頭の中に近いかたちにしようという工夫でしょうか。

ネズミ:素数を読み上げるところは、算用数字のほうがピンときますよね。

コアラ:「一歩」が、「少し、ちょっと」というような慣用的な使い方の場合は漢数字で、「1歩、2歩」と数えられるときは算用数字、というルールで編集段階で統一したのかもしれませんね。

ハリネズミでも、英語の小説だと普通は算用数字ではなくone, twoなどという表記が多いように思います。この作品の原著はどんなふうに書かれているのでしょうね。

さららん:ローズは、自分の論理で動く子どもです。だから犬を返すために、動きはじめたことは、思いやりというより、自分のものでないものを持っていてはいけないという、杓子定規的な、正にローズの論理そのものなのでしょう。でもそのあと、ハリケーンにやられたヘンドリックスさん一家をローズが見つけだす。ハリケーンで何もかも失った一家の子どもたちにとっては、犬が返ってきてどんなにうれしいだろうかとローズが想像する部分で、ローズが大きく成長したのを感じました。

エーデルワイス(メール参加):高機能自閉症を扱い、同音異義語に拘る主人公が興味深かったです。日本語だったらと言葉をあれこれ考えていました。思いつめた時、素数を数える時、ローズは自分の頭をたたきます。心の声が伝わり、たまらない気持ちになりました。父親は愛情を素直に表せない不器用な人なんですね。最愛の犬のレインを元の家族に返すまでの行動はなかなか緻密です。『マルセロ・イン・ザ・ワールド』(フランシスコ・X.ストーク著 千葉茂樹訳 岩波書店)を同時に読んでいたのですが、多様な人間の存在が認知されてきているのだと確認できました。100%ORANGEの表紙装丁が好きです。

(2017年2月の言いたい放題)


駅鈴(はゆまのすず)

しじみ71個分:古代史のことはよくわからないけれども、史実はきちんと描いているのだろうという印象を受け、筆力のあるきちんとした作品だと思いました。天平時代の史実を脇に置きながら空想とも言える古代の世界を描き、かつジェンダーの問題も含めていたりしておもしろい。表現はかっちりしているけど、おもしろかった。馬が盗まれたり、山火事があったり、地震があったりと、途中からは展開もスピーディになり、読んでドキドキ感もありました。今回は3作品とも、動物が非常に大きなキーポイントになっていたのも興味深かった点です。

西山:私の勝手な読み方なのですが、あちこち現在のあれこれの隠喩のように読んでしまいました。例えばp112の70年前の戦。p249の双六にはまってしまうところでは、「カジノ法」を思い出したり・・・・・・。同じ著者の『氷石』(くもん出版)でも、そういう感触を覚えた記憶があるので、この作家は奈良時代を舞台にしても、現代への見方を結構込めている気がします。

さららん:小里が、女にはなれないと言われている「駅子」になりたいと強く願い、それをかなえていく過程が描かれていて、ジェンダーの視点からは好感が持てるお話でした。淡い恋の物語に、和歌がひと役買い、相手の好意に無頓着だった小里が、少しずつ目覚めていく。ふたりの想いがひびきあう。そのあたりも、さらっと描かれています。若見はかなり頼りないけれど、逆に今の若者っぽい感じがしました。

マリンゴ:この作品は、古文や歴史に興味をもつきっかけの1冊になってくれるかもしれません。ただ、その場合、もう少し補足的説明があってもいいのではないでしょうか。たとえば、新羅、渤海、という国名。中学生以上なら習うでしょうが、小学高学年の子が読む場合、まだ習っていない可能性も高いですし……。あと、序盤から中盤にかけて、話がループしているように感じられました。もう少し、ギュッとコンパクトにしたほうが読みやすいかと思います。

ハリネズミ:駅の読み方が、はゆま、うまや、えきと3種類あるんですね。気にしないで読み飛ばせばよかったのかもしれませんが、いちいち、これはなんだったけと立ち止まってしまいました。総ルビにしてくれればよかったのに。小里が馬を早く駆けさせるのに魅力を感じているのはわかりますが、この時代に恋人の誘いを断っても駅長になりたいとまで執着するのであれば、駅そのものの魅力をもう少し書き込んでもらいたかったです。小里と若見がこの先どうなっていくのかが、私にはよく見えませんでした。安積親王や安人はとても個性が強くておもしろいのですが、物語の本質にかかわるわけではないので、メインストーリーから焦点をそらすことになっているような気もします。

カピバラ:この時代のこの職業への興味からどんどん読めるし、男がやる仕事を一生の仕事にしようとする主人公はなかなかかっこいいです。文章はナレーション部分が簡潔で歯切れがよく、好感をもちました。後半は馬が盗まれたり山火事などが起こり展開がありますが、途中までちょっとまどろっこしい感じでした。若見さんはすぐどこかに行ってしまい、またちょろっと現れるんだけどたいした進展もなく……というのが続いていくので。全体を3分の2くらいの分量にしてもよかったのでは?
アンヌ:とても楽しく読みました。奈良時代が舞台の小説はあまりないような気がします。女帝となる内親王を皇太子とした時代で、今の感覚と違う社会であることが、父親が駅長に返り咲くのではなく、小里が駅長になれる仕組みとしてうまく使われていると思います。ちょっと若見に魅力がなくて、歌も下手なのが残念です。でも、万葉集に「鈴が音の早馬駅の堤井の水を賜へな妹が直手よ」というのを見つけたので、長じた若見がこれを歌ったのなら楽しいな、などと考えました。表紙の絵の色も独特で、奈良の色彩感覚で描いたのだろうと思いました。

ルパン:小里が駅子になりたい気もちはとてもよく伝わってきました。飛駅が近づいてくるときの緊張感、近づいてくる蹄の音、駆け出してくる威勢のいい男たち・・・ものすごい高揚感です。登場人物たちの名前がまたいい。十喜女、恵麻呂、若見・・・聞きなれない分、日本の話なのにエキゾチックな感じがします。最後、小里が駅長になるところはものすごくかっこよかった。「おわりじゃない。」と啖呵切るところ。「あたしについておいで!」みたいな。こんな女の子がいたら惚れそう。惜しむらくは、クライマックスで小里が飛駅走らせるところ。若見といっしょに走ってもらいたかったなあ。なんで豊主なんだろう。思いっきり脇役なのに惚れそう。惜しむらくは、クライマックスで小里が飛駅走らせるところ。若見といっしょに走ってもらいたかったなあ。なんで豊主なんだろう。思いっきり脇役なのに。

コアラ:王道のストーリーで、読み応えのある物語でした。奈良時代の駅家(うまや)という設定もよかったと思います。知らない仕事の世界を知るおもしろさと、万葉集の歌とか歴史上の人物とか知っているものが登場するおもしろさがありました。ただ、細かいところで引っかかるところも多くて、作者が都合よく登場人物を動かしてしまっているのが残念でした。ルビについては、ページ初出にルビを振っているようですが、私も通常の読みでないものは全部にルビを振ってほしいと思いました。本文の組み方は、1行の文字数を少なくした組み方なので、ページを増やして読み応え感やずっしりとした感じを出した本の造りにしたのかな、と思いました。本文中の挿絵はちょっと幼い感じがしましたが、装画や装丁はいいですね。

レジーナ:馬の疾走感や、そのときに埃が立つ様子が目に浮かぶ本です。馬が盗まれたり、地震や火事が起きたり、読者を飽きさせない展開ですね。苦しい生活の中、大仏を作る市井の人の生きる姿も伝わってきました。

ネズミ:それなりにおもしろかったのですが、時代背景がよくわからず、もやもやしました。出だしから、駅家というのはわかったけれど、駅はどんな役割なのか、駅子は何をするかなど、なかなかつかめませんでした。また人の位や階層も、都の役人なのか地方なのか、どちらが上なのかなどつかめず、途中で頭がこんがらかってしまいました。登場人物の大人たちが、この物語の中から出てきたというよりも、ストーリーの都合に合わせて出てきた感じがして、今回のほかの2作品とは大人の描き方に違いを感じました。

:あえて設定を古い時代にしたのに、男の子の領域に挑戦する女の子、という、ずいぶんと昔ながらの物語になってしまっているのがいまいちかな。時代的な習俗や雰囲気はとてもよいのに、作者が現代を背負ってしまっているので、逆に、不自由な女の子、という古い価値観を無意識的に示してしまっています。

西山:時代がさかのぼると、ジェンダーのしばりが逆になかったりするのにね。

(2017年2月の言いたい放題)


セカイの空がみえるまち

西山:新大久保のヘイトデモが出てくるというので、出た直後から話題になっていて気になっていた本です。ここでみなさんの意見をうかがいたいと思って、この作品から今回のテーマ「いつどこ固有の物語」というのを考えました。一言で言えば、ヘイトスピーチをとりあげたということは賛成したいと思います。物議をかもしそうなことを、どちらかといえばエンターテインメント性の高い作品を多く書かれている作家が取りあげるということは、子どもの本に関わる人たちにいい影響があるんじゃないかなと思ったので。書く題材が広がるということでは賛成。ヘイトというものを、学校裏サイトの言葉の暴力とつないだのは、問題意識を持っていなかった読者に近づけるやり方として有効だったと思います。ただ、新大久保のアパートの人たちが一様にいい人たちだったのがどうにも残念です。被差別者、偏見でレッテルを貼られている人を、そうじゃない「いい人たちなんだ」と描く物語は今までもたくさん書かれてきたと思いますが、それは事態を裏返しただけで、結局は壁をくずさないというか、そういう展開の仕方はまたかという感じがしました。基本賛成だけれど、不満が残ったというところ。野球部の男の子が繰り返される慣習を変えようとする点は、大事な提案だと受け取りました。

マリンゴ:発売直後、ネットでいくつかレビューを見かけたので、これは読まなくてはいけないのかなと思って買いました。今回、再読ができなかったので、記憶が若干遠いのですが、新大久保を舞台にして、ヘイトスピーチや在日韓国人の人たちとの関係性を取り上げた、という試みはとてもいいと思います。読み応えのあるテーマです。著者の工藤さんの小学生向けの本を読んだことがありますが、口語調のライトな文体でした。今回はYAだし、これまでの作品とは一線を画した重厚なテイストになっていることを期待したのですが、読んでみると、文体はラノベ的というか……。期待が大きかっただけに、やや失速感があった気がします。みんなはどういうふうに読むだろう、と思っていたので、今回の読書会の課題本として取り上げてもらってよかったです。

ピラカンサ:私も、こういうテーマを取り上げることは評価できると思ったし、たがいに異質の存在である空良と翔がだんだんうちとけていくのは、よく書けていると思いました。ただ、こういう作品こそ普通の本以上にうまく書いてほしいと思っているので、私はどうしても辛口になります。だって、子どもがせっかく読んでも浅かったりつまらなかったりしたら、社会に目を向けた作品をますます読まなくなりますからね。15-16pにヘイトスピーチのサンプルが出ていますが、実際はこんなもんじゃないですよね。新大久保のヘイトデモのプラカードも、ネット上にも、「死ね」とか「殺せ」なんていう言葉があふれている。でも、この本ではマイルドな表現しか使っていないのはどうしてなんでしょう? さっき、ラノベという言葉が出ましたが、キャラクターも、翔はまだしも空良は不安定な気がします。1章ではあかねに押される一方なのに、2章では酔っぱらいに声をかけたり、割って入った翔に文句を言ったりするので、どんなキャラ設定なのかわからなくなりました。知り合うきっかけとして翔が別のホームからわざわざ駆けつけてくるのも、わざとらしいですね。それから、空良の両親にしても翔の父親にしても、おとなが書けていません。著者の人間理解が浅いのかと思ってしまいます。それから例えば146pのように、ここに住んでいるやつらはけっこう図太くてたくましいよ、と状況を説明している部分が多いのも気になります。空良が、自分の一言で父親が出ていったと思い込んでいるのにもついていけない。主人公が物語の中で生き生きと動き出すというより、作者が書きたいことに沿ってキャラを動かしている感じがしてしまいました。残念です。

げた:たいへん厳しい言葉のあとに、甘い感想を言うのは気恥ずかしい感じがしますが、新大久保も上北沢も馴染みのある場所なんで、何となく親しみのわく話でした。新宿の職安も20年前には毎月仕事で通ってましたから。実は、私も翔くんと同じように野球部に入っていて、全く同じような経験をして、野球部内にはびこっている悪習をなんとかしたいと思っていました。でも、翔くんのように先輩に突っかかっていくことなんてできませんでした。すごいなと思いました。なかなか野球部の男子がこの本を手にするってことはないかもしれませんが、もし、読んだとしたら、きっと共感するんじゃないかな。ヘイトスピーチや父の失踪をめぐる家族との関係、同級生との関係など考えさせられる話題の詰まった本でした。買って読んだけど、よかったなと思いました。

コアラ:すごく読みやすくておもしろかったけれど、さらさらと読んでしまってあまり印象に残らなかったのは残念でした。複雑な家庭環境とかヘイトスピーチとか重いテーマを含んでいるので、さらっと読めるほうが重苦しくならなくていいのかもしれないとは思いました。作者の問題意識が強すぎると、物語がつまらなく感じたりするのですが、この作品はそういう作者の主張が浮き上がった感じはなかったと思います。トランペットの女子と野球部の男子、という設定はどこかで聞いたことがあるような、と思ってネットで調べたら、『青空エール』(河原和音作 集英社)という漫画が同じ設定だったことがわかりました。映画にもなった作品のようです。『青空エール』は高校生が主人公なので、それの中学生版ということでこの本が出版されたのかもしれませんが、同じような設定でいいのかなあ、とちょっと疑問に思いました。物語の最後のほうで、あかねと別れた野上先輩が急にイヤな奴に描かれていて、それもとってつけたようにありがちな描き方で残念。全体的に、自分と違う国の人たちのことを「あいつらは」と一括りにせず、一人一人と個人的に仲良くなっていこうというのが感じられてよかったと思います。でも、ちょっと物足りない。

アンヌ:主人公たちは中学生という設定なんですが、セリフが高校生という感じで、その割りにラブシーンが控えめなので、ああ、やっぱり中学生なんだと思いました。

げた:えっ!これ、中学生の話? ずっと、高校生だと思ってた。

アンヌ:酔っ払いに話しかける危険性とか感じていないところも、空良が中学生だからかもしれませんが、翔とのやりとりとか少し奇妙な場面でした。会社を辞めて失踪してしまうお父さんも、家族と話し合えない人なんでしょうが、子どもっぽくていい人には思えなかった。最初はいい話でおもしろいと思ったけれど、2度目に読むと、こういう矛盾ばかりが目に付いてしまいます。

ルパン:おもしろく読みました。が、どこがおもしろかったのかな、と後からふりかえってみると、正直なところあまり思い出せないんです。ただ読みやすかっただけ、ということでしょうか。翔くんの野球部の場面ですが、私はそんなに良いとは思いませんでした。やり方が稚拙で一人よがりだなあ、と。たとえば、2年生になったとたんに何でも自由にできると思って、勝手に1年生にグローブを持たせた結果、その1年生が3年生に怒られてしまうとか。練習をすっぽかしたあと、山本君が好意的に迎えてくれたのにひどい態度で応えるとか。部活の場面がとてもいい感じで始まっているのに、あっというまに「自分のためだけに野球をしているんだ」「ただ勝てるチームにしたいんだ」となり、それでいて、「山本君が成績のために野球をするのは気に入らない」と言い……部活動に対する理想が低く、ものすごく自分中心のせりふが多くて興ざめでした。
 冒頭でヘイトスピーチをとりあげていますから、「ことばの暴力」がテーマなのかな、と思ったのですが、そのわりに主人公の空良ちゃんも翔くんも、けっこう人に対してひどい言葉を使っていて、それに対する反省が見られない。ほかの登場人物の性格もまったくのステレオタイプか、野上先輩みたいにストーリーの都合でとちゅうで豹変してしまうかのまっぷたつで、奥行きが感じられませんでした。空良ちゃんのお父さんも翔くんのお父さんも自分のことしか考えていないし。一番の問題は、ヘイトスピーチがどこの方向にとんでいったのかわからないままであること。言う側にも言われる側にも、何の答えも出していない。ヘイトスピーチをするほうの問題にはまったく焦点があてられていないし、言われる側も、どう立ち向かっていくかという方向性が見えていないので。「言っている人が悪いので、言われているほうは何も悪くないんだよ」というメッセージだけでは、問題提起にすらなっていない気がしました。

しじみ71個分:自分の息子が中学生なのでそれと比べると、主人公の翔くんの言葉が中学生にしては大人っぽすぎて、腹落ちしない感じがしました。実際に子どもがしゃべる言葉と違うかなというところで、違和感が最後までありました。新大久保に関する最初の描写については、ヘイトスピーチへの理解と取扱いが薄くて、軽いかなと感じました。実際にはもっと暴力的だろうと思います。ヘイトスピーチを作品のモチーフに扱ったところは挑戦的だなと思いましたが、非常に重いテーマのはずなのに、最後の方ではそれがどこにも見えなくなってしまうなというところも気になりました。民族の違いにかこつけて、全く理不尽な、言葉や実際の暴力として投げつけられるヘイトと、翔くんが抱えている、自分を捨て、顧みない親に対する憎しみは全く異なる種類のもののはずですが、親に対するヘイトを乗り越えるというところで終わってしまって、筋がすりかわってしまっており、最後には触れることもなくなってしまっているのが残念に思いました。空良ちゃんとの関係も、結局は、学校や部活のはみ出し者同士がくっついちゃうんだな、あーあという感じを受けて、かなりステレオタイプなストーリー展開だと感じました。あと、中学2年生にしては、部活改革で戦うというのも大人っぽすぎるなと思って入り込めず、あまり気持ちが動かされることが最後までないまま終わっちゃったのが残念でした。

よもぎ:私も、「主人公たちは中学生なんだ!」と、びっくりしました。それはともかく、数年前までは、読書会で取りあげる日本の創作といえば、登場人物の半径数メートルのことばかり書いたものが多かったので期待して読んだのだけれど……。ヘイトスピーチも新大久保のことも、風景程度にしか描いていなくて、ちょっとがっかりしました。ヘイトスピーチ、どこに行っちゃったの? 作者の中で熟していないまま、作品として出してしまった感じがします。それから、説明で書いてあるところが多くて、もっと動きや情景で描いて欲しかったなと思いました。こういうタイプの話によくあるんですけれど、新大久保に住んでいる人たちはみんないい人みたいな書き方も、薄っぺらい感じがしました。空良のお父さんも、翔のお父さんも、けっきょくはいい人だったみたいな書き方もね。『きみはしらないほうがいい』(岩瀬成子著 文研出版)は、人間の心の深みにまで踏みこんでいて、感動しましたが。

さららん:私も主人公は高校生だと思っていました。装丁がアニメ風でしょ。自分で本屋に行っていたら、手にとらなかったと思うので、今回読めてよかったです。なんの予備知識もなしに読みはじめたらヘイトスピーチが出てきて、『おっ、これは第一印象とは違って骨のある話かな』と思ったんですが……。疾走感があり読みやすく、漫画を読んでいるように、どんどん先へ連れていかれるけれど、よくわからない部分が残ります。特に翔のお父さんや、ヒトミさんなど大人の造型がパターン化されていて、感情移入できないままでした。

レジーナ:ヘイトスピーチという、今の社会が抱える問題を扱った点では意欲作だと思いました。でも登場人物にリアリティがなく、感情移入できませんでした。217pの野上の発言ですが、こんな無神経なことを言う人は現実にいるのでしょうか。ヒトミもいい人すぎますよね。ゴミの分別にこだわるキムさんもそうで、「ちゃんとゴミを分別する、こんないい外国人もいる」ということを伝えたいのはわかるのですが、ステレオタイプを反対側から書いて終わっているので、ヘイトに抵抗する力は感じませんでした。ジェニー・ヴァレンタインの『迷子のアリたち』(田中亜希子訳 小学館)も、社会からはみだしている人たちが暮らすアパートが舞台ですが、そちらの登場人物のほうが深みがあります。

ネズミ:さまざまな家族のありようやヘイトスピーチを扱っているのはいいなあと思いました。翔と空良、それにほかの登場人物たちもさまざまな問題を抱えている。今こういう状況は実際めずらしくないだろうと思います。でも全体に、トラブルをかかえている人とそうでない人がステレオタイプで描かれている印象がありました。それにお父さんが出ていったからといって、それでいじめにあうのでしょうか。私がこれまで見てきた中学生は、難しい家庭の事情に対してむしろ同情的というのか、そこはいじらないという暗黙の了解があるような子が多かったのですが、この本ではそれも「普通ではない」という意味でトラブルの発端になるので、今はこういうことがあるのならおそろしいと思ったし、そういった子を真の意味ですくいあげる方向には向かっていない印象がありました。118pにある「世間からはみだした人は、案外いい人が多いんだよなぁ」というセリフは、言ってほしくなかったです。意欲作だけど、私は中高校生に積極的に手渡すのはためらうかな。

エーデルワイス(メール参加):市内のどの図書館にもなくて、県内の所蔵刊から取り寄せてもらおうとしましたが、新刊は半年以上たたないと他の図書館に貸し出しできないと言われてしまいました。で、仕方なくアマゾンから取り寄せたのですが、すぐ自宅に届き、複雑な思いを味わいました。読んでみて、韓流ドラマブームとか、従軍慰安婦像の設置問題とか、大統領の罷免問題などがわっと頭にうかびました。日本で起きているヘイトスピーチの怖さも感じました。表紙が、今話題のアニメ映画「君の名は」い似ていますね。中高生が手にとってくれるようにという配慮でしょうか。藤崎空良と高杉翔の章が交互に登場するなど、工夫されていると思いました。異文化の差別はもちろん、この物語にあるような学校での重苦しいいじめも、なかなかなくならないのですね。

(2017年1月の言いたい放題の会)


『フラダン』表紙

フラダン

アンヌ:言葉でダンスや歌を説明するのは難しいことですが、この物語では、ハワイアンの奇声のような掛け声とか踊りの用語とかを知らないままに、まるでSFを読んでいる時のようにどんどん想像して読んでいくことができました。部活動で、男子のいない部に男子を強引に勧誘する場面等も、あるあるなどと思いながら読みました。ただ、読み直してみると、詩織の母親との関係や、木原先生の話などいらないと思う場面もいくつかあった気もします。私が一番心を打たれたのは、マヤが犬のジョンのことを悲しむ場面です。文学にできることは、こういう論理的に説明したり解決できない何かについて書くことじゃないかと思っています。心にいいものが残る小説だと思いました。

コアラ:文章がおもしろかったです。26から27ページの転入生柚月宙彦の自己紹介の場面とか、13から14ページの会話とか。あと薄葉健一の発言の書き方、53ページの12行目とか、聞き取れない小さな声を小書き文字で表現していて、あの年頃の男の子の言葉が全部「いいっス」みたいに「ス」が付くのも表していて、すごくおもしろかったです。フラガールズ甲子園で、詩織が観客席にきっといると信じて、戻ってこいと踊りで呼びかけるシーンが感動的でした。ただ、装丁がキョーレツで、手に取ることをためらわせるのでは、と思ってしまいました。もっとかっこいいほうがいいと思います。

げた:工業高校の生徒たちが、仲間同士小競り合いをしながら成長していく物語ですよね。フラダンスって、今や地域でも職場でもすっごく流行っているんです。高校生がスポーツとしてやってるのはとっても新鮮でした。とってもユーモラスなキャラクターが登場する話なんだけど、震災と原発がずっと裏に流れているんですよね。高校生たちが震災と原発によって歪んだ社会をなんとかしようとしている姿に感動しました。それにしても、原発は無くならないものでしょうかね。皆が生活を一段切り下げれば原発が無くたってなんとかなると思うんだけど。

ピラカンサ:原発の方が電気代はかえって高くつくことがわかってきたのに、辞められないのは利権に群がる人たちがいるからですよね。

げた:ラストで仮設の老人が咽び泣く詩織の背中に掌をそっと添えたってとこはよかったな。

ピラカンサ:この作品は、何よりもユーモアがあふれているところが素晴らしい! あちこちで笑えますけど、その中で福島の原発事故の影響なども描かれていて、考えさせられます。たとえば85pには「以前なら気軽に聞き合えた質問を、同じ福島県に住む穣たちはできなくなっている。互いの過去の重さの予測がつかないからだ。ほとんど被害のなかった自分が気軽に問いかけたことが、相手を深く傷つけてしまう場合だってある」とあります。父親が東電に勤めているという健一の視点も出てきますね。ストーリーには意外性も随所にあって、うまいですね、この作家。私はユーチューブで男子のフラダンスというのを見てみたんですが、本場のは体格のいい人がやっていて立派なのですが、日本の男子はほとんどの人が細身で、しかも腰に大きな飾りをつけてたりするので、とてもユーモラスでした。表紙も、中を読んでから見ると、とてもおかしかった。フラダンスは笑顔が大事ということで、みんな笑顔なのですが、その笑顔にそれぞれのキャラクターの思いが入っている気がします。キャラクターの書き分け方も、喜劇的なラインに寄ってはいますが、うまいですね。

マリンゴ: 毛色の変わったスポーツ小説に、原発や福島の問題を絡ませる……そのバランスがとてもいい本だと思いました。印象的なシーンとしては、85pの「うかつな質問はできない」以降の部分。高校生って傍若無人でいい時期なのに、まるで社会人のように、相手のプライバシーに踏み込みすぎないようにしていて、気苦労が伝わってきます。全体的によかったのですが、一部、芝居がかった文章が気になりました。たとえば180p。「だがこのとき穣は、まだ少しも気づいていなかった。〜衝突を生もうとしていることに。〜プラズマが潜んでいたことに」と、煽りすぎていて、そんなに煽らなくても続きはじゅうぶん気になってるから大丈夫なのに(笑)と思いました。またクライマックスでは、詩織が来ているかどうかまったく確認していないまま、みんなで演技をします。連ドラの最終回だったら、こんなふうに詩織が来るか来ないか!と煽りがちですけど、現実だったら、事前に来るかどうかだけでも確認するとか、来るように仕向けるとか、なんらかの行動を起こすかと思います。そのあたりが少しイメージ先行な気がして、最後の演技の部分、後味はよかったのですけれど、感動とか泣くとか、そういうふうにはなりませんでした。

西山:ほんとにおもしろかった!「3・11」から5年目の福島であることが、必然の物語だと思います。テーマを取って付けたような分裂がなくて、ひとつの小説として大満足の読書となりました。210pの真ん中あたり、「震災を経てから、自分たちは家族や出身地について明け透けに語ることを控えるようになった。」というところなど、実際にあるんだろうなと胸を突かれました。傷が生々しすぎる時期、もちろん語れないということも理解できる。でも、語れないことで、傷がいつまでもじくじくしているということもあると思うから、これは、本当に、何度も言うようですが、「5年目の福島」を言葉にしてくれていると思います。一方で、ほんとに笑える! 羊羹の一本食いとか……。それでいて。203pの羊羹を切るシーンで、実は意外にも繊細に扱われていたと分かるところなど、本当におもしろく読みました。こういうところが何か所もあって、読書の快を満喫しました。他に例えば258pの「成人よ、責任を抱け。」とか、共感できる価値観がいくつも言葉になっているし、よい1冊でした!

ネズミ:とてもよかったです。福島の人々、高校生みんながこういう問題を抱えているということを、部活を切り口に説教臭くなく伝えています。3人称だけど限りなく1人称に近い書き方で、主人公の穣の気持ちによりそって読者をひきこんでいます。あらゆる立場の部員が集まってるというのはフィクションらしい設定だけれど、あざといと感じはせず、気持ちよく読めました。一人一人が、この物語のどこかでとてもいいところを見せるのもいいなと。健一くんが、甲子園に「うまくなったから出たい」と主張するところとか。いいなあと思う文章もちらほらありました。125pの「別にどこかに出ていかなくても、意外なところに世界を広げるヒントは隠れていたのかもしれない」とか、255pの「少しだけ、男子だらけの工業高校に通う女子の気持ちが分かった気がした」とか。113pの「ナナフシから瀕死のマダラカミキリのようになった健一や」では爆笑。

レジーナ:登場人物が生き生きしていて、ユーモアがあって、何度も読みかえしたくなる本です。読んでいてすがすがしく、一人一人を応援したくなりました。羊羹を丸かじりする大河も、底抜けに能天気な浜子も、いちいち芝居がかったしゃべり方の宙彦も、これだけ強烈な人間はそうそういないし、フラガール甲子園で詩織が舞台に上がる場面も、現実だったらこんなにうまくはいきません。でも登場人物の心の動きや、福島の人たちが抱えている想いにすごくリアリティがあって、胸がいっぱいになりました。ひとくくりに福島と言っても、その被災状況はさまざまで、踏みこみすぎないように被災者同士気をつかったり、震災のことを話さないように学校で指導されたり、そういうどこにも出口が見つからない閉塞した状況も透けて見えます。原発事故で突然土地を奪われる理不尽さは、ハワイの歴史と重なりますね。弱い立場の人を切り捨てるあり方に作者が疑問をもっていることが、水泳部のいざこざをはじめ作品全体を通して伝わってきました。

さららん:引用しようと思ったところは、みなさんからもう出ているので、あまり言うことがないです。原発事故後の、分断化され、どこに住んでるのかさえ気軽に聞けない現実の重苦しさを、福島で暮らす高校生の、ありのままの重さにして書いているのが見事だと思いました。読者を笑わせながら、すうっと福島の問題に移れるのは、人物が人間として動いているから。テーマなんてものではなく、登場人物たちのおなかを通した言葉として「今」が語られているからなんでしょう。クライマックスで、サークルのみんなが大会の舞台で踊りながら、詩織を呼ぶシーンを電車の中で読んでいて、泣いてしまいました。『ウォーターボーイズ』や『フラガール』といった映画もあり、決して新しい素材ではないけれど、読者を楽しませつつ、考えさせる虚構の作り方の巧さに感心しました。

よもぎ:『チア男子!!』とか『ウォーターボーイズ』みたいな話かなと思って読みはじめたのですが、福島のいろいろな立場の子どもたちの心情が、きめ細かに書かれていて、おもしろいだけでなく深みのある作品だと思いました。これだけ登場人物が大勢いるのに、「これ誰だっけ?」と思わせずに、見事に描きわけている。本当に上手い作家だと思いました。思わず吹きだしながら最後まで読み、フラダンのクラブも順調にいきそうだし、敵視されていたおじいさんからも花束を贈られ、「良かったね」で終わりそうなのですが、「でもね……」という「もやもや感」が残る。その、どうにも解決できない「もやもや感」が現実の福島の姿なんじゃないかな。そこまで描けているような気がします。

しじみ71個分:さっき表紙がどうも、という意見がありましたが、私はこの表紙がすごく好きです。裏表紙の二人の顔の絵も意味深で、何で、何で?と、本筋ではないながら興味を掻き立てられながら読み進められて、うまい装幀だと感心しました。『セカイの空がみえるまち』の後、これを読んだのもあって、福島の問題をよくぞここまで貫徹して書いたなと作者の強い意志に感動しました。同じ県内でも被災しなかった地域の子、被災して帰宅困難地域から避難してきた子、加害者の立場にある父を持つ子、犬を置き去りにしたことで悲しんでいる子など、いろんな立場の子を通して、福島の今の問題にきちんと話の筋を返していこうという作者の意図が素晴らしいと思いました。また、言葉のセンスがすごくいい。言葉のうまい人だなと思いました。特に、主人公の穰が心の中で入れる突っ込みの言葉などは非常におかしくて、笑いを誘われました。著者の古内さんは、日大の映画学科を出たということですが、そのせいか表現が非常に映像的で、どの場面も映画のように画像が思い浮かびますし、穰が老人ホームで最初の男踊りを披露したときに、健一の背中に塗ったドーランですべって大コケするところとか、細かい描写が非常に場面を想像する助けになりました。あとがきに、実際の高校のフラダンス部に取材したとありましたが、ダンスのテクニックの詳細が書いてあって、『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著 講談社)の表現にも通じるかと思いますが、スポーツやダンスの様子に非常にリアリティを感じられたのも良かったです。福島の原発のせいで生じた閉塞感の中で苦悩しながら、部活に懸命に取り組む中で世界観が広がっていく過程を描くことで、非常に明るい希望を持てる作品になっていると思います。子どもたちに本当に薦めたいです。最後のフラガールズ甲子園のところは、仮設住宅に住まうおじいさんが花束を持ってきてくれたりして、和解につながるなどは少々都合よい場面と思うところもありましたが、それも含めて良い映画を見るように気持ちよく読めました。ヤンキーな浜子のキャラクターも良かったですし、男の子たちがお弁当を交換する場面で、宙彦がパクチーについてデトックスになると言ったのを健一が言葉尻を捕まえて「福島だから?」と鋭い質問を入れるところなども表現に緊迫感があり、宙彦が言葉に詰まるところを穰が救うところなども、高校生なりに難しい問題を語るときのもどかしさをうまく表現していたと思い、感心しました。

ルパン:まだ2017年が始まったばかりなのに、すでに「今年のイチオシ!」と言いたくなるような作品でした。これは傑作だと思います。3・11後の福島という場所にいるいろんな立場の子どもとおとなが描かれていて、すばらしいと思いました。特に、「原発問題後の福島にいる東電社員の子ども」である健一君のいたたまれない思いが非常にうまく書かれていると思います。でも、ちゃんとそこに寄り添う友だちもいて、心があったかくなります。情景描写もすごい。踊りを文章で表すのは難しいと思うのですが、地味なメガネ女子のマヤちゃんが、フラダンスを始めると「キエエエエ!」って掛け声をかけるあたりなど、目に浮かぶようでした。動いているものとか目に見えないものを文章にするのはすごい筆力だと思います。大絶賛です。268pの歌の歌詞で、「踊り上手なあなたに……」「踊り手がそろったら……」というところは、何度読んでも泣けてしまいます。

エーデルワイス(メール参加):福島原発の事故で、故郷に住めなくなった方や仕事をなくした方、そして子どもたちがどんな思いでいるかを、きちんと書いていると思いました。福島のフラダンスは有名ですが、笑わせてくれるところもたくさんあって、おもしろく読みました。自分の中では今年度読んだ本のベストの中に入ると思います。p241「・・本当にリーダーになれるのは一番弱い人のことまでちゃんとかんがえられる人だもの」p249「・・自分の悲しみを人と比べることなんてないんだよ」っp250「この世は自分たちの手には到底負えないほど大きくて深い悲しみと理不尽さでできている」などの名台詞もよかったです。

(2017年1月の言いたい放題の会)


おいぼれミック

ルパン:おもしろく読みました。原題のOld Dog, New Tricksというのを見て、どんなお話なんだろう、と思いました。

しじみ71個分:いいお話だと思いました。でも、訳の問題だと思いますが、主人公のハーヴェイの話し言葉にしばらくの間ひっかかってしまいました。15歳のイギリスの男の子というと、もう少し大人っぽいだろうと想像しますが、ちょっと女の子らしいというか、幼いという印象がぬぐえませんでした。話が進むにつれて、気にならなくなってはきましたが。人種に対する偏見のある老人が、若者との日常のつきあいの中で、事件をはさんで和解に至るというシンプルですが、大人っぽい話だと思いました。くさくてかわいい犬が二人をつなぐ大事な装置になっているというのもうまいと思います。表紙の少年の挿絵もインド人を感じさせないし、サモサが登場する以外は、「善良なるインド人一家」と帯に書いてあるほどインドらしさは登場人物には感じられないのですが、作者自身も既に移民意識が薄くなって、定着している世代ということはないかなと思いました。舞台となる街自体が、移民の方が多数派になっており、旧来の地元住民が少数派になっているということで、逆に老人のミックの方が弱者という、逆転した状況に既になっており、ミックの人種差別的な発言は弱者の強がりといった感じの印象を受けました。ハーヴェイのぞんざいな言葉遣いも、ミックがハーヴェイの話すのを聞けば自然な英語を話していることを認めざるを得ないという点にも表れているように思いました。移民の第一世代が地元住民との間の摩擦を起こす、という段階を過ぎた状況を描いており、そういった意味では新しいと思います。複雑な状況を軽妙にさらっとおもしろく書いている点を大人っぽいと感じました。

よもぎ:以前は差別される側だった移民の人たちと、差別意識を持っていた白人とが、ここでは逆転しているんですね。だから「人種差別主義者」とずばりといっても痛切に響かず、かえってユーモラスな感じになっている。そこは、おもしろいと思いました。ただ、主人公のミックに対するしゃべり方がぞんざいなのが気にかかりました。「おいぼれ」という言葉も。原書のタイトルOld Dog, New Tricksのもとになっている諺のOldにも、「おいぼれ」のような侮蔑的な意味あいは、あまりないんじゃないかな。

さららん:軽いけど、テーマは明確です。すぐに読み終えた作品でした。102pで「心臓がいくらよくなったって、人生が破綻していたら意味ないじゃないか!」と、主人公はいい放ち、ミックの秘密にふみこんで娘さんを探し出します。一線を越える行動ですが、そういうことがあってもいいんじゃないかと私は思いました。だいたい主人公の気持ちに沿ってんでいけましたが・・・ちょっとひっかかるところも。原題のOld Dog, New Tricksという表現が、締めくくりにも使われていますが,「おいぼれ犬が新しい技をおぼえた」という訳は、どうなんでしょう? となりの老人ミックを、「おいぼれ」&「犬」と呼ぶことが気になります。愛情を込めた冗談だとは思うのですが、そう感じさせるためには、日本語にかなり工夫がいるのでは?

レジーナ:『おいぼれミック』というタイトルでは、読者が手に取りづらいのでは? けんかの場面では、主人公の言葉づかいは今どきの15歳っぽくて生き生きしているのですが、30ページの「〜だもの」など、語りになると幼くなりますね。93ページのネルソンの台詞も、「おれ様」なんて言う人は現実にいるのでしょうか?

ネズミ:偏見に満ちた寂しい隣のおじいさんのことを主人公がだんだんと心配するようになって……というストーリーはよかったのです。ですが、最後に手紙を開封するほどミックのことを心配する、そこまでして見たいと思うようになるというところまで、主人公の気持ちが動いていくようすが、物語のなかで今ひとつ迫って感じられなかったのが残念でした。原文の問題か訳文の問題かわかりませんが。犬と音楽の使い方はいいなと思いました。インドからの移民といっても、そのなかで対立もあることが描かれているのもよかったです。手紙を開封するという行動は規範から外れているけれど、戦争のときでも、お上の言うことに唯々諾々と従わなかった人が生き残ったり人を救ったりした例もあるので、こういう逸脱は時に現実にはありうることかと思いながら読みました。だからこそ、そこまで説得力のある盛り上がりがほしかったですが。主人公の口調は全体に年の割に幼い印象でした。

西山:時と場所が限定されている話を翻訳作品からも探さねばとなったとき、翻訳ものって、大抵そうなんじゃないか、と気づきました。日本の作品の中ではいつどこを限定しないように書いている作品の方が多いのに。ちょっと、考えさせられます。この作品は、マイノリティが差別されているわけではない。人種差別主義者のほうがマイノリティ。娘が黒人と結婚したから差別するというのは、ヘイトはちがうから、『セカイの空がみえるまち』とは同じ図式で考えられないと思いました。訳者あとがきで「シク教徒」について詳しく知ることができてよかったです。

マリンゴ:表紙から、ミックは完全に犬だと思い込んでいたので、「人間かよ!」と最初は大きな戸惑いがありました(笑)。みなさんも既におっしゃってますが、主人公が知的な15歳の子のわりに、冒頭でのミックに対する物言いが粗雑すぎると思いました。たとえば14ページの「サモサだよ」ですが、「サモサですよ」だと丁寧すぎるとしても「サモサっすよ」くらいにするなど、翻訳で調整できたのではないかなぁ、と。ミックはわかりやすいキャラだし、驚くような展開ではないけれど、イギリスの移民の実情が伝わってきましたし、時代に取り残されていく人の淋しさや、主人公のいろんな感情が描かれていていいと思いました。なお、版元の方によれば、15歳の子が主人公のYAで、これだけ短い本というのは、通常イギリスではありえないけれど、これはディスレクシアの子を対象としたシリーズのなかの1冊だから、簡潔な文章なのだそうです。

ピラカンサ:原書がディスレクシアの子どもを対象にした本だったら、日本でもそういう出し方の工夫をしてほしかったな。現状ではだれのせりふかすぐにはわからないところもあり、読むのが苦手な子どもには向いていませんね。改行のしかたなど、もっと工夫してほしいです。普通の本としては、ストーリーにご都合主義のところもあり、ちょっと大ざっぱすぎますね。ミックの入院中にハーヴェイたちがミックの家を勝手に片付けていて、テーブルの下の段ボール箱に開封されていない手紙があるのを見つけて断りもなく読んでしまうところなんか、どうなんでしょう? かわいそうなおいぼれだから面倒を見てやらないと、という上から目線に思えます。どうしてもやむをえず、ということであれば、「こういう状況ならやむをえないな」と読者も思えるように訳して(あるいは書いて)ほしかったです。結果オーライだからいいだろう、ではまずいと思います。

さららん:私は物語の主人公と主人公の家族が、インド系だとあまり感じられなかったんです。頭の中で、典型的なイギリス人の男の子をついイメージしてしまい……もしかしたら挿絵があったほうが、よかったのかも。

レジーナ:表紙の少年も白人っぽいですよね。

ピラカンサ:シク教徒はカースト制を否定していて皆平等だという理念をもっていることなど、この本から知ったこともありました。そういう意味では読んでよかったとも言えるのですが、気になったのはミックが単なる弱者で、ハーヴェイたちは同情して上から目線で「かわいそう」と思っているところです。書名からして「おいぼれ」ですから、よけいそう思えてしまいます。対等なつき合い方をしていません。たとえばp104「だって悪いやつじゃないよ。ただのおいぼれ犬だよ」p114「ぼくらがこんなに色々やったのに、相変わらずいやなやつのままだったのか」など気になりました。それからp110には、ジェニーが入院中のミックに会いにいったとき、「父は、私と会うのがこわかったんですって。私に憎まれているとおもっていたから」とありますが、ジェニーは返事がなくてもずっとミックに手紙を書き続けていたわけで、つじつまがあいません。リアリティがないように思いました。

げた:「ついに、おいぼれ犬が新しい技を覚えたぞ」ってのはちょっとひどいと思うな。ミックは人間で犬じゃないんだから。そんな思いを持ってて、本当に仲良くなれるんでしょうか?

さららん:おそらく英語の表現にはユーモアがあったはずだけれど、「老いぼれ犬」という日本語にしたとたん、ユーモアが消えて、差別的なニュアンスが出たんじゃないかしら。

げた:移民といえば、日本ってもっと受け入れた方がいいんじゃないかな。観光客じゃなくって、一緒に日常生活を営む仲間として。そのためにも、子どもたちがいろんな国やその国の人々のことを知るってことが必要だと思う。

コアラ:ミックのほうに感情移入して読みました。それで、くさい犬を飼っていたり散々な描かれ方で、あまりいい気持ちにはなれませんでした。7ページで、ミックが「人種差別ではない」と言っているのに、それを無視するかのように、人種差別主義者のミック、という扱いをするのが残念。移民の問題として、移民をする側の思いと、移民を受け入れられない、でも受け入れざるを得ないという側の思いの両方をすくいとって描いてほしかった。YAに分類されていましたが、装丁も内容ももっと幼い感じがしました。

アンヌ:このレスターという町の様子がうまくイメージできなかったので、同じ作家の『インド式マリッジブルー』(東京創元社)を読みかけています。そちらも舞台はレスターで、通りによって、ここらは90パーセントがアジア人の街で、この通りの反対側はスラム街で高級住宅街とか白人街もある等の説明があったので、たぶんこの本の舞台は、古い家のある街にアジア系の移民が増えていった地区なんだろうなと、見当がつきました。この本では、シク教徒や寺院の場面がおもしろかった。お父さんが「まるで小さなブッダだな」という場面には、非西洋的な理解の仕方を感じて、こういう風に子どもの言うことを受け止めてくれるお父さんがいていいなと思いました。

ルパン:66ページで、目をつぶればみんな同じ(移民もイギリス人も)、と言っていますが、ここはどういう意味なのかな。みな同じ人間だということ? それぞれの文化を尊重しあうべき、という異文化交流的なものがテーマだと思いましたが。そのうえ、文脈的に、ここは英語に訛りがないことを言っているらしいので、イギリス人に同化していることに価値があるようにもとれて、ちょっとひっかかりました。

アンヌ:この子なりに、同じイギリス生まれで同じ口調で喋っているんだよと説得しているのでは?

エーデルワイス(メール参加):原題はOLD DOG, NEW TRICKSで、おいぼれ犬に新しい技を教えてもむだ、というところから来ているのですね。物語は予想どおりの展開で、安心して読みました。シク教徒については、今回初めて、だれもが平等という精神を持っていると知りました。世界中に散らばっているインド人の3分の1がシク教徒だということや、イギリスのレスターは移民の町で、人工の40%がインド・パキスタン系のひとたちだということも。白人の方が押され気味で、そんなところからトランプ大統領のような人も生まれるのかと思いました。

(2017年1月の言いたい放題の会)


きかせたがりやの魔女

よもぎ:今回取りあげる本が発表されたときに、「いまさら岡田淳さんの作品?」とか「いい本に決まってるのに、どうして?」という声もあったかと思いますが(笑)、やっぱり読んでよかったと思いました。特に素晴らしいと思った点を2つあげると、ひとつは学校が舞台の物語ですが、教室とか運動場のように広い場所だけでなく、踊り場とか、校庭の端にある茂みとか、隅っこにある小さな場所にスポットを当てているところです。はるか昔、小学校の図工の時間に、先生に「学校のなかの、誰も見ないような場所の絵を描きなさい」といわれて、みんな目を輝かせて階段の下とか、校舎の裏とかを探しまわったことを思いだしました。子どもって、そういう場所が好きですよね。その先生、このあいだ亡くなった、画家の堀越千秋さんのお父さんなのですが、その堀越先生も岡田淳さんも、子どもの心を良くわかっているなと思いました。もうひとつは「はずかしがりやの魔女」にあるように、この年齢の子どもが感じとれる抒情を見事に書いているところです。涙線をくすぐる感傷ではなくって……。最近、児童書に携わりたいと思っている若い人たちの話を聞くと、とかく絵本とYAにばかり興味が向いているような気がしてならないのですが、児童書の核になるのは、やはりこういった小学生向けの読み物だと思うんですよね。

ネズミ:今日みんなで話し合う3冊の中ではこれが一番すっとなじみました。小学校中学年くらいの子どもにわかりやすい、美しい言葉で書かれていて、安心して読める本だと思います。大きな話の中に、いくつものエピソードが入っているというつくりは、岡田さんの『ふしぎの時間割』(偕成社)と似ていますね(『放課後の時間割』か、どちらかと、やや議論あり)。ただ、1つ1つのエピソードは前作のほうが印象的だった気がします。もしも岡田さんの作品を1つも読んでいない子どもに薦めるなら、『ふしぎ〜』のほうかな。でも、こういうテーマを好きな子にはこの本もいいですね。

西山:児童文学の王道のプロの書き手だなあと改めて思いました。時々岡田さんがとる入れ子の構成はちょっとどうなのか、回想によって生じる感傷は今おっしゃった抒情とは違って、子ども読者にとって必要なのかどうかと、思います。くすっとしたり、おもしろかったところはたくさんあります。ちょっと挙げれば、「タワシの魔女」のぼんやり好き(p103)、「しおりの魔法使い」の「探検家になりたい」「なればいいではないか。」というやりとり(p134)とか好みです。1カ所だけあれ?と思ったのは、126ページの虫眼鏡を取り出して手帳の細かい字を見るところ。はたこうしろうさんの絵ではっきり描かれているように、体の小さな魔法使いが、彼からすれば巨大な手帳を見ているのだから、虫眼鏡はいりませんよね。ま、小さなことですが。

マリンゴ: 岡田淳さんの作品はすばらしいと思っています。児童書に携わるようになってから読み始めました。もし児童書と関わってなければ、岡田さんを読むことがなかったのだと思うと、なんだか怖ろしい気がします。この作品もよかったです。魔女の語るお話がことごとくおもしろくて、満足度が高かったです。敢えて言えば、40ページに「もっとクロツグミのことをよくみておけばよかった」と書いてあるのが伏線だと思って、次の章でクロツグミばかりみる展開になるのかな?と期待していたらそうでもなくって。それが、わずかに肩透かしでした(笑)

げた:この魔女はさし絵では若く描いてあるんで、お姉さんに見えちゃうんだけどな。定年退職した魔女という設定なんでしょ?

ピラカンサ:定年退職したといっても、そこは魔女だから、年の取り方が普通の人間とは違うんじゃない。

げた:そうか、なるほどね。まあ、そんな魔女が突然現れて、小学校の日常の時空に入り込み、魔女ばなしを20年前のぼくに聞かせたってわけですね。一読した時はそんなにおもしろいとは思わなかったんだけど、2回目読んだら、まず、踊り場の魔女では、踊り場を通った人全員が踊りだす。45分間踊りっぱなしで、終わったら、拍手が起こったなんて、とっても素敵な風景じゃない? はずかしがりやの魔女とシュウのはなしも、かわいくって好きだな。タワシの魔女もよかった。タワシが、タワシが・・・にも笑ってしまいました。ためになる本じゃないんですけど(笑い)楽しくなれる本ですね。

ピラカンサ:岡田さんの連作短編集は定評があり、傑作もたくさんあるので、それと比べてこれが特におもしろいということはなかったのですが、安心して読めます。どうしてこの魔女が話をしたかったのかという理由も最後に説明されていて、おもしろかった。はたさんの絵もすてきです。私がちょっと引っかかったのはp109のリミコのシーンなのですが、確かにこの子は嫌な子ではあるんだけど、こういう書き方だと子どもにさらに同調圧力をかけてしまうのでは? 「目立つな」というメッセージにも読めてしまいます。それと、「ぼく」がチヨジョさんという魔女に会ってびっくりするという外枠の中に、さまざまな学年の子が魔女や魔法使いに会ってまたびっくりするというお話が入っています。そのイメージがダブってしまうので、ちょっと残念な気がしました。

あさひ:今日の3冊のうち、一番おもしろく、読みやすかったです。はたこうしろうの絵は元から好きで、この本もいいなと思ったのですが、魔女のチヨジョさんだけは、お話を読んでイメージした印象とずいぶん異なりました。もう少し年配の女性かと思っていましたが、絵はとても若く、現役で活躍している魔女のように見えました。特徴として書かれている青いアイシャドウも、カラーイラストで見られなかったので、あれ?と思いました。ストーリーでは、「はずかしがりやの魔女」がとてもよかったです。さりげなく子どもに寄り添った内容で、読んだ子どもも、うれしい、いい気持ちになるのではと思います。一方、「たわしの魔女」の内容は、ピンとこないところがありました。それから、ラストのストーリテリングの先生をなぜあんなに意地悪な人にしたのか、と少し不思議に思いました。

ノンノン:このところ絵本ばかり読んできたので、久しぶりに児童書を読みました。岡田淳さんの作品、なつかしいです。子どもの頃に『放課後の時間割』を読んで、ものすごく引き込まれたのを思い出しました。岡田さんの作品は求心力がありますよね。大人になってを図書館で見つけて再読したのですが、やっぱり引き込まれました。対して、この作品は、『放課後の時間割』に比べて軽い印象でした。さくさく読めるというか。『放課後の時間割』は、子どもの心が描かれていて、それがぐっと引き込まれるポイントだと思うんですが、『きかせたがりの魔女』は感情移入できる部分が弱いのかも。『放課後の〜』に比べて、もっと低年齢を対象にしてるんでしょうか? その割に厚いように思いますが。この厚さなら、もう少し書き込めるんじゃないかな…? 章ごとに子どもが抱える問題が取り上げられていますが、それを1つ1つもう少し掘り下げるとか。でも、さらっと書かれているので、さらっと読むのにいいかなと思いました。

アンヌ:実は、岡田淳さんの作品は、処女作の『わすれものの森』(BL出版)しか読んだことがなくて、あの作品にみられる破天荒さがないのが残念でした。それぞれの物語は魅力的だと思うし、特に「はずかしがりやの魔女」は、とても詩的で好きです。ただ、魔女がストーリーテリングをしたかったからという種明かしのような話や、30代の僕が聞いた話という設定でつじつまを合わせる必要はなかったような気がします。

ネズミ:書き込み方ということに関してですが、今の本は昔の本より全体的に書き込みが少ないというのはあるかもしれません。でも小学校中学年くらいのグレードの本だと、あまり書き込みすぎても子どもがついてこられないから、ほどほどが大切な気がします。同じ岡田さんでも『二分間の冒険』は、もう少し上のグレードだからもっと複雑になっています。この書き方は対象年齢ゆえではないでしょうか。

レジーナ:岡田さんは安心して読める作家ですね。強く心に残る本ではないので、岡田さんの著作全体で見ると傑作ではないのかもしれませんが……。ひとつひとつの章がおもしろく、さっと読めるので、朝読書の時間に読むといいのでは。

くまざさ(メール参加):いきなりですが、どうして「魔女」をいま描くのか、という点が気になりつつ、今回の課題図書を読んでいました。中世の「魔女狩り」を持ち出すまでもなく、「魔女」という存在の造形の根底には、社会や規範から逸脱してしまった女性への蔑視がふくまれていると思います。ジャンヌ・ダルクが「魔女」と呼ばれたように、いったんあいつは魔女だと決めつけられてしまえば、人は平気で石を投げつけても火炙りにされてもいい存在に落とされてしまいました。それはまた終わったことではなく、いまでもたとえばタンザニアでは「魔女狩り」という理由で、女性が殺されるという事件が起きています。私は、魔女というキャラクターは、そうした蔑視の目線を最初からふくんで成立してきたものだと思います。「恐ろしいもの」や「異端」を排除しようとする民衆のヒステリーと、社会への不満のはけ口としてそれを利用してきた体制があったということも抜きにはできません。魔女という古びたモチーフを、敢えて今使うのであれば、魔女とは何なのか、現代社会においてそれはどういう存在なのか、歴史的背景もふまえた上で、再検討する必要があると私は思います。『きかせたがりやの魔女』では、そういったことが考察されているとはとても思えません。なんとなく流通しているイメージを無自覚になぞっているだけです。私はこれを「楽をしている」と思います。ここに出てくるのは、「不思議なことを起こせる便利な存在」であって、おばけでも精霊でも妖怪でもいいはずです。ならなぜ敢えて魔女を選ぶのか。たんに「不思議でおもしろい、ちょっと怖い」みたいなイメージを再生産しつづけるのは、少なくとも21世紀を生きる作家の仕事ではないはずです。内容についてちょっとだけ触れると、最後にストーリーテリングの話が出てくるのは謎でした。ストーリーテリングなんてそんな用語、児童書の関係者にしか通じない言葉です。何が言いたいのでしょうか。

(2016年12月の言いたい放題)


賢女ひきいる魔法の旅は

ネズミ:私はもともとファンタジーは苦手で、ダイアナ・ウィン・ジョーンズもいつも最後まで読み進められないのですが、この本は読めました。叔母さんが賢女だと思っていたら、旅の途中からエイリーンががんばらなきゃならなくなって、どうなるのかと物語にひきこまれました。10代の読者もエイリーンを応援しながら読むのかな。でも、次々と出てくる登場人物やキャラクターが頭の中でごちゃごちゃになったので、人物紹介に絵があってよかったです。

よもぎ:わたしは、ただもうおもしろく読んでしまいました。おっしゃるように、登場人物が多いので、佐竹さんのイラストでしょっちゅう確かめていましたけれど……。エイリーンが憧れていたアイヴァー王子が、旅の途中でわがままな駄々っ子だとわかり、バカにしていたオゴのほうが頼もしく成長するというところなど、おもしろいと思いました。ただ、スコットランドらしき島から出発して、アイルランド、ウェールズらしき島を経てログラ島=イングランドに向かうという旅は、イギリスの読者にとっては楽しくても、日本の読者にはピンと来ないかもしれませんね。

アンヌ:ダイアナ・ウィン・ジョーンズは全作品読んでいますが、当たりはずれがある作家だと思います。この作品は以前に2回読んでいるはずなのに全然思い出せなくて……。たぶん、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ特有の大団円の醍醐味がないせいだと思います。彼女の作品にはいつも、様々な伏線やたくさんの登場人物について落ちがつく驚きと満足感があります。いつだったか『ファンタジーを書く: ダイアナ・ウィン・ジョーンズの回想』 (徳間書店)を読んで、彼女が写真記憶の持ち主だと知って、なるほどと思いました。今回はメモもなかったということなので、妹さんには細かい落ちまでは書き上げられなかったのだと思います。賢女の賛歌で謎を解いてワルドーの隠れ場所の噴水へ昇っていくところなど、かなり無理があるし、聖獣の存在の意味も、もう一つはっきりしていない。P.303の<お父さんは頭のてっぺんにキスをして(それで私は早くも冠を頭にいただいたお妃の気分に…)>のように意味が分かりづらい文章も多い気がします。

ピラカンサ:ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、私は苦手な作家です。自分のテイストには合わないということかもしれないけど。この作品もプロットだけのおもしろさで引っ張っていくように思えて、どうしてここでご都合主義的に風が吹くのだろうとか、アイヴァー王子がここまで排除される理由がよくわからないとか、いろいろ疑問を持ちました。ハリポタ的というか、キャラクターの厚みもあまりないし、才気あふれる作家なんでしょうけど、思いつきでプロットを推し進めていっているように思えてしまいました。

ノンノン:『ゲド戦記』とか「守り人」シリーズとか、もともとファンタジーが好きなんですが、ダイアナ・ウィン・ジョーンズは読んだことがなかったので、どんな作品を書く人なんだろうと楽しみに思って読みました。でも、これは引き込まれるところが弱かったです。文章が推敲途中なのかな? 中途半端な感じがありました。人物造形描写が甘いのかも。たとえば主人公のエイリーンは、自分はダメだと思っている割には、王子様と結婚できると思っている。変な自信があるんですよね。賢女の才能が目覚めたところも、どういう風に目覚めていくのか、自覚していくのかなどの描写が足りなくて、分かりにくかったです。島ごとの聖獣の特徴や、その存在価値、島を旅する理由なども伝わってこなかったし…。あと、途中で王子を救いにいく話はなくなって、お父さんに会いたいというところが繰り返されて、「あれ? 王子は…?」と思いました。

あさひ:登場人物たちの性格がつかみきれず、物語の途中で、この人こういう行動をとる人だっけ? とつっかかりながら読みました。ファンタジーで描かれる異世界は好きなのですが、本書では、独自の設定、ルール、詳細などが、楽しめるほど書き込めていないのかな、と思いました。主人公の恋物語の流れはおもしろかったです。

アンヌ:『魔女集会通り26番地』(偕成社)(新訳『魔女と暮らせば』《徳間書店》)とか、『グリフィンの年』(東京創元社)などは、本当におもしろくて見事なんですが。

げた:この本が読めないという方もいらっしゃって、私だけじゃないとわかってちょっと安心しました。これってロールプレイイングゲームみたいな感じでしょ? ビデオゲームって苦手なんですよ。魔女については、この本ではあんまり深く考えなくていいんじゃないかな。昔図書館で児童担当だったとき、『ハウルの動く城1 魔法使いハウルと火の悪魔(徳間書店)』を同僚におもしろいよって勧められたんですけどね、読めなくって挫折しちゃいました。今回はよまなくちゃと、メモを取りながら読んで、話の筋としてはうまく書けているのかなとは思いました。どこまでをダイアナが書いたもので、どこからアーシュラが書いたのかはよくわかりませんでした。なんとか読み切りましたけどね。結局こういうファンタジーってたいした内容はないわけですよね。勧善懲悪的で、これも、悪の権化みたいなワルドーを魔女としての才能を開花させたエイリーンが懲らしめるという、そんな冒険の過程を楽しめばいいってことかな。

マリンゴ: 私もだいぶ苦手でした(笑)。もともと、ハイファンタジーが得意ではないのですが、それでも楽しく読めるものもある中、これは厳しかったです。描写がそこそこあるのですが、イメージが湧かない。この作家さんの描写のスタイルが自分と相性よくないのかと思います。キャラクターもちょっと掴みづらくて、たとえばベック叔母さんは、みんなを引っ張っていく賢女のはずが、あんまり賢いと思えなかったり。あと、最後のほうは文章の流れがギクシャクしていて、テンポよく読めなかったのが残念でした。作者のことをくわしく知っていたり、作品の背景となったイギリスをよく知っていたりすると、また味わいが違ったのかもしれませんが。

レジーナ:私もダイアナ・ウィン・ジョーンズは苦手な作家で……。何か伝えたいことがあるとか、胸の奥底の思いに突き動かされて書いている作家ではないように思います。作って書いているというか、頭で書いているというか……。70ページで、「キンロス公(アイヴァ―王子の称号だと思われる)」と注がついています。作者が亡くなっていて、確かめようがなくてこうしたのだと思いますが、子どもが読むことを想定しているならば、この注は不要だと思いました。名前は統一した方が読みやすいです。

西山:苦手と言いつつ、みなさん読み切ってらっしゃるのに・・・・・・すみません。何日か持ち歩いたのですが、読み進められませんでした。ごめんなさい。

くまざさ(メール参加):この作品も、なんとなく流通しているイメージに安易に頼っているという点で、「楽をしている」作品だと思います。ファンタジーを描くのに、中世っぽい世界や、魔法が生きている世界っぽい道具立てを、これでもかと詰め込んでみせていますが、そのイメージを根底のところから作りあげているのではなく、あちこちから借りてきているだけで、深みも革新性もないと思いました。しかも作者の頭のなかでだけつじつまが合っていることを、それほど説明する気がないらしく、後出しじゃんけんのようにいろいろな設定が明らかになり、一々それに合わせて頭を切り替えなくてはならなかったので、そういう意味でも読者に不親切な作品だと思いました。主人公がまるで傍観者で、事件が起きても、あっさり流していくので、狂言回しとしてはこれでいいのでしょうけれど、物足りないです。たとえば、この主人公は、設定からいって海に船出するのははじめてのはずですよね。だけど、潮の香りや海に出たときの感激といったことはいっさい描かれず、ただたんたんと船内の描写などが続きます。彼女が物語を進めていくコマにしか過ぎないことがよくわかります。『アナと雪の女王』は魔法が生きている世界を描いていますが、すばらしいと思ったのは、危機一髪の時に男性の勇者があらわれて事態を収拾してしまうといった、紋切型のクライマックスをいっさい拒否して、姉妹の物語に収斂していくところです。『ズートピア』は動物たちが暮らす架空の世界を舞台に、エディ・マーフィーの『48時間』のストーリーをなぞったようなバディムービーですが、人種と偏見の問題に一歩も二歩も踏み込んでいて、作り手の志の高さを感じました。この2作品には、ファンタジー、あるいは異世界を描く意味がはっきりあります。『賢女ひきいる魔法の旅は』は、ファンタジーの皮をかぶった、あまりおもしろくないドタバタもの+自己評価が低い女の子と、実は王子さまだった男の子との、ありがちなロマンスもちょっとあるよ、といった感じで、異世界である意味もなく、モチーフは借り物か、あるものをつぎはぎにつなげた作りもの。こういうのわかるでしょ?という感じで想像力の多くの部分を、よくあるイメージにゆだねてしまっていて、残念な作品だと思います。

(2016年12月の言いたい放題)


王様に恋した魔女

西山:おもしろく読みました。調べもしてないのですが、これって、どこかに連載していたものを集めたのかしら。基本設定を繰り返したり、文体が不統一だったり・・・・・・。メモでも取りながら読めば、それぞれの物語がどう絡んでいるかがもっとはっきりしてもっとおもしろいのかもと思っています。さらさら普通に頁を繰っていくと、どこの誰だったかということは混ざっていって思い出せない。柏葉さんは、このタイプの、西欧中世的異世界のファンタジーを時々お書きになっていると思うのですが、私は、現代日本がベースとなっているファンタジーが柏葉作品の中心と理解しています。今日のテキストの中で魔女の歴史性を踏まえているのはこの作品。血でつながらない家族の有り様(p26)は、『岬のマヨイガ』(講談社)も思い出させて、柏葉さんのテーマの1つなんだろうと思います。でも、魔女の魔法の力は血で継がれるので、魔女は、血縁の抗いがたさと、そこからの解放を考えさせる絶妙の存在なのかもしれません。「カッコウの卵」の「竜まきの姫君」好きでした。(追記:「ラ・モネッタちゃん」を思い出しました。)

マリンゴ:とてもよかったです。『岬のマヨイガ』は、ストーリーがてんこ盛りだったのに対して、こちらは抑制されたトーンで、少ない言葉でたくさんのことを描いていて、正直、こちらの作品のほうが好きでした。大人向けの短編連作集のような作り方で、子どもに対して遠慮がないので、読む子たちは新鮮に感じるのではないでしょうか? ただ、最後の2編が「ですます調」になっていることに違和感がありました。世界観も違うので、これは省いて別の本に収録すればよかったのに、という気が。あと、説明の重複が多いですね。子供へのわかりやすさのためにわざとやっているのか、別々の時期に書いた短編をまとめたときに重複が生じたのか、わからないのですが。あと、どうでもいい余談ですが、74ページのイラスト、「真珠色の豊かな髪」という文章から想像する髪の毛とまったく違って(笑)。こんなソバージュっぽくはないかな、と思いました。

げた:魔女ってなんだって、あんまり考えたことなかったんですね。魔女って、歴史的にみれば、ものすごく能力のある女性が男性社会にいいように使われて、都合が悪くなったら、魔女狩りと称して抹殺される、そんな悲劇的な存在・・・だった。そういうことだったのかと今更ながらわかったような気がしました。新鮮な感じではありましたね。この魔女話集はどれも悲しいものばっかりですよね。私は基本的に楽しいお話が好きなんですけど、終わりの3つが、ハッピーエンド的で比較的楽しめるお話で終わってよかったかな。

ピラカンサ:お話はおもしろく読んだんですが、どこか落ち着かない気持ちになるのは、実際の魔女をめぐる歴史との齟齬があるからかもしれません。魔女狩りの時代は、「魔女」というレッテルを貼られた「普通」の女性が逮捕されたり処刑されたりしていた。でも、この作品では、かなり強い魔法を使える魔女が権力者につかまるのを恐れて隠れたりしている。子どもの読者が読んだら、びくびく隠れてないで魔法でなんとかすればいいんじゃないの、と思うんじゃないかな。佐竹さんの絵は素敵ですが、表紙の右上にあるネコだけコミカルに描かれていて、ちょっと笑えました。

あさひ:柏葉幸子の作品は、『霧のむこうのふしぎな町』(講談社)をはじめ何冊か読んでいて、どれも好きでした。今回、久しぶりに読むということで、楽しみにしていました。1章ごとに、お話がそれぞれバラバラで、これらがどう1つにまとまるのか、つながるのか、と期待して読んでいったら……最後までそのままで、拍子抜けしてしまいました。まさか、短編集とは……。全体で1つの物語になると思っていたので、個別のお話ごとに繰り返される、背景、状況の説明を、少しくどいかなと感じながら読みました。でも、物語の世界観や1つ1つのお話は、とてもおもしろかったです。なので、余計に、1つの物語としてつながった作品を読んでみたいと思いました。個人的には、このように、魔女狩りを設定にいかしている作品を他に読んだことがなかったのですが、子どもがどう受け取るかなどは気になりました。歴史を知らなかったら、魔女狩り自体が物語の世界のこと、と思ってしまう子もいるのでは?
先ほどお話があった、魔女という設定に関しては、個人的にはいろんな意味を持たせて描かなくてもいいのかなとは思っています。不思議な能力がある存在というだけで、物語に登場してもよいのではと思います。

ノンノン:読み応えというところで、もう一歩踏み込んでほしい印象でした。自分が編集担当だったら、読者が読み終わって、「短編が鎖のようにつながり『ああ! なるほど!』とすとんと落ちるようにつなげてください」とお願いするかも。そうすると、何度も読みたくなる作品に仕上がると思うので。文章がとても上手いと思ったんですが、少し書き足りてないところがあるのかも? 何回か戻らねば分からないというのが何か所かありました。あと、せっかくこの世界観で、佐竹美保さんの美しい絵でまとめていくのなら、短編すべてを淡々とした常体でまとめてもよかったのではと思いました。説明の重複も削ってもよかったかも? この本は魔女の話ですが、女性の気持ちも描かれているので、全編、わかりやすい形で掘り下げられたらすてきかな。本書のなかではシルバの話が好きでした。最後にお嫁にいくかどうかのシーンで「私を認めてくださった 好きになれる」というセリフ、すごくよかったです。小学生の自分の価値を認められていないと感じている子どもにすごく響くのではと思いました。あと蛇足ですが、たくさん姫君がいて嫁に出す話がありましたけど、息子いないのに全員嫁に出して跡継ぎどうする?と思いました(笑)。佐竹さんの絵も好きなんですが、想像したのと違う表情・しぐさの絵があって…。石工の奥さんのプラチナブロンドの長い髪がちりちりに描かれているところとか、あーん、違う〜と思いました(笑)。やっぱりさらさらヘアじゃないと、金髪は女子の憧れなので。

アンヌ:今回の作品の中では一番好きです。ロシアの怪談や民話から題材をとった短編集『魔女物語』(テッフィ著 群像社)を思い出しました。この物語の向こうにも日本の古典の物語が見えてくる気がします。「カッコウの卵」「魔女の縁談」の竜まきの姫君には、『虫めづる姫君』を思い出しました。もしこれを読んだ子どもが大きくなって『堤中納言物語』や『とりかえばや』『宇津保物語』などを学校で習った時、何か共通するものを感じるといいなと思います。私は魔法戦争が出てくる話が嫌いなのですが、この物語では実際に戦争で戦う場面はありません。いかにそれを避けて生きるかという話の方が多い。杖殿の説明が毎回あるのも、昔話の始まりのような繰り返しの心地よさを感じます。私は魔女について考えるのがとても好きで、それは同時にミソジニーとか異端であることについて考えていくことになると思っています。「ポイズン・カップ」の母も、弟を眠らせたら城主となることも可能だったろうに、女装して魔女のふりをして暮らす。闘わないことを選んだ一種の異端者のように感じます。残念なのは、最後の2つの話が魔女というより竜の話になっていったこと。この2つには違和感があります。

よもぎ:最後の2つの物語だけ敬体で書かれている点にも、違和感がありましたね。いろいろな雑誌に掲載した物語を集めたので、しかたがないのかしら? 私は、最後の2つが好きなので、こういう物語を集めた別の作品集を読みたいなと思いました。そしたら、対象年齢も、もっと低くなって、楽しい本になるんじゃないかな。物語自体は、読んでいるときは、それぞれおもしろかったし、美しいとも思いました。史実にある魔女(魔女と呼ばれた女たち)や、ジェンダーの問題も意識して書かれていると感じましたし。ただ、それぞれの話がつながっているような、いないような……。読み取れていないのかなと思って、何度も読みかえしてみたのですけれど。

ネズミ:カバーそでを読んで、1つの話だと思って読み始めたので、短編集だと認識するまでとても戸惑いました。会話の言葉遣いや、描写の美しさなど、さすがだなと思うし、女のさまざまな生き様が1編ずつに浮き彫りになるのはおもしろかったです。ただ、「名を名のらぬ魔女」がいる世界という共通点があっても、最後の2編だけ敬体になっているので、本づくりで疑問が残りました。雑誌などで発表されたお話を集めたのかなという印象を私も持って、巻末に何か書いていないかと探しました。あと、結婚とか、これからの生き方とか、この本で描かれているテーマは、小学生よりも中高校生が悩むことかなと思うと、体裁と対象年齢がずれている気がしました。四六版で、もう少し大人っぽいほうが、そういう人たちが手にとったかなと。

レジーナ:柏葉さんの本は子どもの頃大好きで、『霧のむこうのふしぎな町』(講談社)、『りんご畑の特別列車』(講談社)、『かくれ家は空の上』(講談社)など、何度読みかえしたかわかりません。この作品は短編集だからかもしれませんが、少し物足りない印象を受けました。描かれる恋愛の形もすごく古典的です。おとぎ話風に語るにしても、現代の問題への洞察があったり、『逃れの森の魔女』(ドナ・ジョー・ナポリ/著 金原瑞人・久慈美貴/共訳 青山出版社)が「ヘンゼルとグレーテル」を魔女の視点で描いているように、ジェンダー等の問題について現代の文脈で見直していたりすると、より深くなると思いました。

(2016年12月の言いたい放題)


アポリア〜あしたの風

さららん:何度か書評で紹介されていたので、読みたかった本です。過去の現実として書くと、震災の描写が読者にとって生々しすぎるので、近未来を舞台にしたんでしょうね。それでも東日本大震災のとき、テレビやネットで見た画面が次々と浮かんできて、「あのとき」に投げ込まれた感じがしました。片桐という男性に主人公は津波から救われたけれど、それは同時に母を見捨ててしまう行為だった。「生きる」意味に真正面から取り組んだところに、作者の気概を感じます。汚れた水の中をボートで行くところなど、リアリティがあり、感情が揺さぶられる場面もあるいっぽうで、よく理解できないところも残りました。そのせいか、どこか未消化のまま読み終えたんです。ひょっとしたら、自分の心をガードしていたのかも。震災を体験した人はもっとガードがかかって、この物語は読み通せないかもしれません。でも、読んでよかったなあと思ったのは、情報の伝わり方が実感としてわかったことかな。現場にいる人には切れ切れにしか伝わってこないし、避難所に行って初めて情報が固まりとしてつかめるけれど、それももちろん十分じゃない。新聞で読んだいたときには、ピンとこなかったことが、理解できました。

西山:「3.11」を書いたということには賛成。本になるのはいいことだと思ってます。それは前提として、どうして近未来にしたのか。それが腑に落ちません。未来として書くならこれからの未来をどうしたいのか、という構想が必要だと思うんです。それを決定的に感じたのは、自衛隊のヘリが助けにくるシーン(p247)で、実はがっかりしちゃった。ああ、2035年も自衛隊が救助に当たるんだって。もう海外派遣で忙しくて、国内の被災地支援なんてする余裕はないと皮肉に思ったりもするんですが・・・・・・。もともとテレビで自衛隊の救援映像の露出が増えていてとても違和感を持っていたので、がっかりしたんです。<子どもの本・九条の会>で『9ゾウくんげんきかるた』(ポプラ社)を作ったとき、これは「3.11」の前に作ったんですが、そのとき私は「人助けするならあかるい色を着て」という読み札を考えていた(使いませんでしたけど)。レスキュー隊員の蛍光オレンジとか目立つ色と比べて、迷彩色の目的は人助けではない。近未来も、結局迷彩色が活躍しているんだ、それが現状を容認しているようで・・・・・・。地震の時の様子をリアルに書くということは時間が経つに従って必要になってくると思うので、5年経ったいまこういう作品が出るのは意味があるのだとは思います。連続テレビ小説『あまちゃん』では、津波の場面をジオラマに水がかぶる様子で表していました。あの日がまだ近かった時点では、被災者でなくてもそれで十分だったと思います。でも、時間が経って、また、あの時の記憶を持たない子どもたちにとっては、はっきりと描写されることが必要になってくると思います。

マリンゴ:東日本大震災を想起させる災害を東京で、という試み、いいと思います。東京が舞台だと、震災の記憶がなくても自分に身近な物語として読める子どもたちもいるでしょうから。ストーリーに勢いがあって、一気に読めました。ただ、文章の表現に関することですが、擬声語への依存度が高く、それが気になりました。ガタガタ、ゴー、プープープーなど。小学中学年くらいの読みものだったら、擬声語で伝えるというのは効果的かもしれませんが、この本の対象年齢は高学年から中学生以降だと思うので、それにしては幼い印象を受けました。また、いろんな人物の視点で描くことによって、群像劇を立ち上がらせていますが、少しめまぐるしい気もしました。たとえば冒頭のお母さんの視点は、主人公の見ているものとあまり変わらないので、なくてもよかったのかな、と思ったり。

アンヌ:同じ作者の『二日月』(そうえん社)と違って、詩的な表現やユーモアがない作品でした。読んでいて登場人物の名前がうまく憶えられませんでした。松永と北川の口調が同じだったり、片桐と伯父さんも似たような感じだったりして、その他のわき役もあまり肉付けされていないと思います。トラウマがあってもう死んでもいいやと思っている大人が3人もいて、厚木は孫まで殺して心中するつもりでいた。そんなすごいことの告白も唐突で、なぜここで保育士に話すのか奇妙に感じました。近未来の設定のわりに、未来が描かれていません。例えば、この時代には避難所に必ずボートの設備があり、その装備はこうだとか書きこまれていないと、映像が浮かんでこないし未来の感じがしません。主人公の今後についても、方向性がないと感じました。避難所もいつかは閉鎖されるのだから、その後のことが気になります。

クマザサ:近未来に設定したのは、やはり東京で起きたらどうなるか、ということを書きたかったからではないでしょうか。でもその割に、地名が架空になっているせいか、臨場感がないんですよね。たとえば,,区ではなにが起きて、××区ではどうなって……とか、実際の地名が出てくればよかったかもしれない。東日本大震災のあとで震災を書くということは、作家としては非常に力が入ることだと思いますし、事実野心的な作品なのだと思います。ただ申し訳ないですが、やっぱり物足りなさを感じてしまいました。まずそれぞれの人物について、設定以上のことが立ち上がってこないんです。余計なことが書かれていないためか、人物像にふくらみがない。またトラウマを抱えている人が多すぎて、人名を覚えるのにもちょっと苦労しました。ざっくりまとめてしまえば、引きこもりである主人公の一弥が、震災を経験して、さまざまな人に出会い、徐々に他人に対して心を開いていく過程を描いた小説となるのでしょうか。乱暴にまとめてしまえば「震災」が主人公の成長の糧にされてしまっている。きわめて個人的な問題が、震災という大きな世界の危機に直結しているという点では、これも「セカイ系」の物語の変奏といえるのかもしれません。草太という小さな男の子が、地鳴りに似た音をきいたのがきっかけで、さけびつづけて止められなくなってしまう場面など、印象的なところもありました。この草太のおじいさんで厚木という人物がでてきますが、後半、この人は持病で長くないので、地震が起きる前は、孫を殺そうと決意していたということがわかります。非常にたいへんなことというか、この人物一人の物語だけでも、きちんと書けば一冊分の長さになるのじゃないかと思いますが、この本ではあっさりと流れていってしまいます。そういうふうに、いろいろな興味深い素材は入っているのですが、未消化であるという印象が否めません。取材もされたでしょうし、作家として大きなテーマに向き合って書かれたのだと思いますが……。千代田区の図書館では児童書棚ではなく、大人の本棚に分類されておかれていました。

アカシア:みなさんがおっしゃるような欠点もありますが、私はおもしろかった。近未来にしたのは、東京を舞台にしたかったからだと思います。被災地、とくに福島の方たちと話すと、たくさんマイナスを背負わされっぱなしで、それが悔しいとおっしゃる方もいます。なんとかこれを自分たちにとってプラスの体験にできないかと。この作品は、マイナスをプラスに変えていく部分を書いています。被災地を舞台にした柏葉幸子さんの『岬のマヨイガ』(講談社)が野間賞を受賞しましたけど、あれは被災地の人たちが読んだら気持ちの整理ができそう。こっちはそういうものではなくて、距離のあるところから書いている。他者も自分も信じられなくなっていた一弥が、否応なく人と生のつき合いをせざるをえなくなる。その過程で自分だけでなくほかの人も困難を抱えていることを知り、後ろ向きで死の方を向いていたり、人とつながれなくなっていたりするその人たちが、なんとか生きる方を向いていくのを見て、自分も生きるほうを向いていく。そこは、上手く書けていると思います。登場人物のだれがだれだかわからなくなったという声もありましたが、年齢も特徴も違うので、私は見分けがつきました。

レジーナ:近未来の東京を舞台にしたのはなぜでしょうか。意欲作だとは思いますが、東日本大震災を背景にしているのに、正面からぶつかっていない印象を受けました。東日本大震災の写真も使われていますが、生々しくならないようにしたかったのか、ほとんどの写真は見開きではなく、ページの端だけに使われています。主人公は母親を置いて逃げますが、ほかにもいろんな人が出てきて、それぞれ苦しんでいるので、全部を描くには無理があるように思いました。主人公の葛藤だけでも、非常に大きなテーマなので。

アカシア:大震災なので、重たいものを抱えてしまっている人が多いのは当然かと思います。生死を目の前にしたとき、それまでは見ないですませていた重たいものが大きく立ち現れてくるのでは? 近未来の東京にしたのは、東京の人たちの多くがもう福島を忘れているので、それなりに意味があると私は思います。それから写真は、近未来の東京が舞台だけど、東北大震災ともつながっているんだよ、ということで敢えて使っているんだと思います。

げた:不登校になった中2の野島一弥が、大地震の後の津波による大災害の避難生活のサバイバルな状況の中で、生きる方向性を見つけ出し、改めて歩き出す物語ですね。一弥の周りには震災前に既に生きる死ぬを考えていた人たちが集まってきてるんだけど、きっと作者が取材する中で、そういう人が多くいたんだろうと思う。でも、一弥が生きる力を持てたことで、ある意味、ハッピーエンドになってよかったよね。自分も被災地に10日間派遣された経験があるんだけど、毎朝の自衛隊員を含む災対本部会議の緊張した雰囲気は今でも思い出すとドキドキしますね。あの頃は余震も頻繁にあったしね。確かに、迷彩服でなくてもいいかも。この話は近未来20年後の東京湾周辺が舞台なんだけど、東京オリンピック前に地震来ないとも限らない、オリンピックが中止にならないとも限らないよね。来ないことを祈るばかりです。

ネズミ:パーッと読めて意欲的な作品だなと思ったけれど、ひっかかるところもいろいろとありました。1つは、心に何か傷を負った人ばかりがここに集まっていること。極限状態だからそれが噴きだしてくるとも考えられるけれど、人物があってその人が抱えた過去というよりも、過去を語るための人物として、みな一弥を動かすために登場しているように、不自然な感じがしてしまって。また、こういうところで小さな子から元気をもらえるのはわかるけれど、草太君が主人公を動かす1つの道具のように思えて読後感がすっきりしませんでした。回想ではなく、起きていることを描写する形で現実を描くにしては、主人公の葛藤や不安があっさりしている気もしました。

すあま:いろいろと引っかかるところがありました。まず、東日本大震災から24年後の東京、という設定でしたが、未来であることも東京であることも読んでいて忘れてしまうくらい、伝わってこなかったです。東京で24年後に大地震が起きたらどうなるのか、についてのリアリティが感じられませんでした。それから、主人公に共感できませんでした。引きこもりだった子どもが、外の世界に出ざるをえない状況に置かれたらどうなるか、ということですが、あまり主人公を応援したい気持ちになりませんでした。そして、読み終わったときに感じたのは、津波の被害を受けた人たちは読めない本なのではないかということです。ただ、東日本大震災を知らない、実感がわかない人に人たちには疑似体験できるのかもしれません。作者もそこがねらいなのでしょうか。

ルパン:災害の話、として読みました。作者がほんとうに書きたかったのは、主人公の成長物語だったのだろうと察しますが、残念ながらそちらはあまり感情移入できませんでした。一弥にはあまり共感できないまま終わりました。それよりも、初めは3.11の話だと思って読み始めたのに、近未来の東京が舞台だということに驚きました。意欲作だとは思います。大災害が実際に来たらどうしよう、と、読み終わってからそのことばかり考えてしまいました。できれば、災害は舞台というか脇役というか、モチーフとしての役割にとどまり、主人公の葛藤と、悲しみの克服をメインに感じさせてくれるような、そういう力のある物語だったらよかったと思います。

アカザ(メール参加):まず最初に「健介叔父さん」問題。お母さんの弟なら「叔父さん」ですが、兄さんなら「伯父さん」のはずですね! これは、まずい! 東北大震災のあと、私もなにか書きたいという作家の気持ちは、良くわかります。なにを、どう書いたらいいか、作家なら、みな考えたと思います。木内昇さんの『光炎の人』(角川書店)を読みましたが、木内さんは原発の事故のあと、科学者の良心について懸命に考えたそうです。ベストセラーになったとは聞きませんが、電気学について、明治から満州事変に至るまでの時代背景について入念に調べた、じつに読みごたえのある作品でした。『アポリア』の作者は、「ひきこもりの少年が、大震災のときに触れあった人たちとによって、生きる希望を取りもどした」ということを書きたかったのでしょうか。それとも、さまざまな登場人物のそれまでの人生を書くことによって「それでも生きていく」ことの大切さを書こうと思い立ったのでしょうか? 戦争や原発事故などの人災とはちがう、誰のせいでもない大惨事や、難病、障碍などを感動に結びつける物語って、あまり好きじゃないんですよね。それなら、ノンフィクションのほうが、ずっと胸に迫るものがあると思います。福島から避難していじめを受けた子どもの手記の「しんさいでたくさん死んだから、ぼくは生きていきます」という一行のほうが、この本一冊よりずっと重い。小説なら、もっと思索を深めて、物語を熟成させてほしいと思いました。それから、近未来に、東京に起きる震災という設定ですが、東京に起きることの特異性や、原発のことが書かれてないのはどうしてでしょう? おとといの地震のときも、みんなの頭をまずよぎったのは、福島の原発はどうなっているかということだったはずなのに。エーデルワイス(メール参加):読み終わって次の朝、強い地震がありまさかの津波も。東日本大震災を思い起こしました。2011年4月上旬、気仙沼のお寺の一角に設けられたSVA(シャンティ国際ボランティア会)の事務所に一泊したことを思い出しました。雪がまだ時折舞い、プレハブ住宅がそれは寒くて、布団にくるまっていてもなかなか眠ることができませんでした。仮設トイレは外の少し離れたところにあるので、行くのがおっくうでした。震災直後、濡れながら一夜を明かした方々はどんなに寒かったろうと思います。
 『アポリア』の中の場面もリアル感が出ています。ただ食料のことは出て来ましたが、トイレのことには触れていません。敢えて避けたのでしょうか? 震災という中での生死を扱いながら、個人の抱える悩み、悔い、悲しみを描いて、それを乗り越えようとしている人びとや、主人公の一弥の心境がよく伝わってきます。どうして不登校、引きこもりになったかを母親や健介に説明できないのか、と思うのは大人ばかり。説明できないのが思春期。黙って見守ることの難しさを感じます。一弥が、自分を助けてくれた片桐を怨み、母親を助けられなかった自分に対して罪悪感と絶望感を抱いているところは、震災後生き残った多くの方の気持ちを代弁していると思いました。自分でも被災しているのにも関わらずボランティアをしている人をたくさん見ました。それで自分も元気になっていったのですね。再生を感じますが、5年たっていても被災地の方はまだ読めないだろうなと思いました。

(2016年11月の言いたい放題)


最後のゲーム

ネズミ:こういうの私、苦手で。すみません。エンタメが悪いというわけじゃないけれど、人形の謎を追う不思議な物語ありきで、登場人物も出てくるものもすべて面白いストーリーのための小道具のようで楽しめませんでした。それと、最後に3人が図書館から電話をするところで、どの親も怒らないのに納得がいきませんでした。

げた:選書当番だったんですけど、表紙とタイトルで選びました。1回読んで、軽いけどミステリアスな部分もあるし、子どもから大人への成長物語でもあるし、おもしろいと思って、みんなで読もうと思いました。人形遊びに夢中だった、幼馴染3人が大人になることで、それを止めさせられる状況になった。不思議な夢を見たポピーがきっかけで、「最後のゲーム」となるイースト・リバプールのクイーン=エレノアの墓を探し、骨を埋めるという冒険をすることになり、結局、やり遂げたってことになるわけですね。その冒険の過程でアリスの秘密やなぜ、ザックがゲームを止めざるを得なかったのかが、3人の中で明らかになって、新たな3人の関係が始まる。また、ザックと父親との関係も新たな段階が始まる予感がします。でも、クイーン=エレノアのお墓探しが最初感じたほどは、再読後はおもしろくなかったかな。バスステーションで、必ずしも逃げる必要がなかったのに、逃げたりして、歯がゆい感じがしました。まだ子どもってことなのかな、とも思います。

レジーナ:昨年から気になっていた作品だったので期待して読みましたが、一連の不可解な出来事は人形のせいだったのか、はっきりと明かされない終わり方で納得できませんでした。

アカシア:千葉さん訳の本は、いつもすぐに引き込まれるのですが、この本は入り込めませんでした。生まれるべくして生まれてきた物語というより、苦労して作り上げた物語だからなのかな。ザックのお父さんがフィギュアを捨ててしまったことを、ザックはポピーとアリスに言えない。その言えないという点がずっと最後の方まで引っ張っていくキーなんだけど、なぜそこまで言えないのか、よくわからない。その理由が納得できるようなかたちで出ていないので、不自然に思ってしまう。ほかにも、自然に入り込める流れじゃないなと思ったところがありました。私はホラーでも、もっとひそかに怖いようなのが好きなので、この本みたいに、表紙から「どうだ、不気味だろう」みたいに迫って来るのは苦手です。

くまざさ:千葉さん、こういうのもお訳しになるんだと。『スタンド・バイ・ミー』(スティーヴン・キング著、山田順子訳、新潮文庫)みたいな子どもたちの家出とその顛末。自分の好きなこと(この本の場合は人形遊び)と、世間一般の価値観が対立した場合に、迷わず自分の好きなほうを選べっていうのは、千葉さんが選ぶ作品らしいなと思いましたが、いっぽうでホラーはあまり千葉さんっぽくないですよね。じつはとくに前半なんですが、日本語の文章をもうちょっとすっきりテンポよくできないか……ということにばかり引っかかってしまって、なかなか入り込むことができませんでした。12歳の男の子と女の子2人が主人公で、男の子は、自分もいい加減大きいのに、女の子たちと人形遊びをしていていいのか、と悩むわけですが、こういう感じの悩みって個人的にはもっと早く来たようにも思います。お父さんと電話するシーンはよかったと思いますね。最近、年のせいか、児童文学を読んでいても、子どもたちのことより、登場人物の大人のふるまいに心惹かれることが多いんです。自分が悪いと思ったことは受け入れてきちんと謝罪する、そういう大人になりたいものだと思います。

アンヌ:ダーク・ファンタジーは大好きなのですが、この作品にはそういうおもしろさが感じられませんでした。最初の人形遊びの場面にもあまり引き込まれなかったし、実際の冒険が始まってからもリアリティがなくて楽しめませんでした。ヨットを盗んで川を渡るところなど、かなりいい加減な感じです。図書館からの電話で、家出によって大人の状況が変わるという所も、ポピーについては書いていない。3人の主人公も、アリス以外はあまり描き切れていない気がします。現実との対比で際立つはずのファンタジー要素も妙に曖昧で、謎が深まったり謎が解けたりする醍醐味がありませんでした。この旅のきっかけとか、エレノアがなぜ図書館の地下にいたのかとか、すっきりしないことが多かったと思います。

すあま:表紙の絵が怖いので読まずにいた本でした。全体的に中途半端な印象です。ファンタジーならファンタジーで、人形がしゃべるとか、もう少し工夫がほしかったと思いました。最初のところで登場人物の子どもたちの関係とその空想世界がどうなっているのかを理解するのに苦労しました。最後も尻切れとんぼでよくわからないまま終わってしまいました。

マリンゴ:とてもおもしろかったです。もっとも、読み始めの冒頭の部分では、人間と人形が同時に多数出てきたので、把握できるか不安になりました。整理して覚えるのに何度も読み返したりして。で、人間が人形の世界に連れて行かれるハイファンタジーかと思ったら、そのまま人間の現実のなかで話が進むローファンタジーだったので、その意外性もあってストーリーに引き込まれ、楽しめました。ラスト、結局どうだったのか曖昧なまま終わることへの批判が先ほどありましたが、私は敢えて曖昧にしている部分も好きでした。お父さんの気持ちがジャックに伝わるシーンもいいなと思いました。

西山:今、聞きながら、私だけじゃなかったんだと安心しました。私は、この表紙とタイトルでおもしろそうだから、通勤の往復で読めると思ってたんですが、出だしでつまずいた。誰がなにやら、となっちゃっていきなり失速して結局読み終わりませんでした。家出したところあたりで、雰囲気として『スタンド・バイ・ミー』を連想したりしました。

ルパン:ひとことでいえば、「気持ち悪かった」です。表紙の不気味さもさることながら、人形に子どもの遺骨を入れるとか、死んだ子供の個人的な思いだけが生きている子どもを動かしているとか…読む前に、この作品に期待した一番の理由は、「翻訳者が千葉茂樹であること」だったのですが…。今までは、「千葉さんが訳すものにまちがいはない」という信念があったのですが、やっぱり間違えることもあるんですね。

アカザ(メール参加):ホラーは大好きなので、期待して読みました。今まで千葉さんが訳したものとは雰囲気が違うという興味も。ハラハラしながら読みすすんでいきましたが、おもしろかったです。冒険の道すじが怖いですね。難をいえば、エレノアの真実が、ポピーやザックの夢にあらわれるというのは、ちょっとどうでしょう? 夢は夢でもいいのですが、真実は3人が調べていって分かってくるというほうが、すっきりすると思うのですが。ホラー、あるいはミステリーと成長物語をからませるという狙いはいいと思うのですが、ホラーなのかミステリーなのか、はっきりしてほしい。それから、アリスとポピーの生活環境のちがいは分かるのですが、性格のちがいが、いまひとつはっきりしませんでした。

(2016年11月の言いたい放題)


ペーパーボーイ

ルパン:ものすごくよかったです。ゆうべ、「明日読書会だから急いで読まなきゃ」と思って開いたのですが、1ページ目からもう時間を忘れ、何もかも忘れて、最後まで読みふけりました。唯一、「四つのことば」が今ひとつ明快にわからなかったことだけが残念ですが。student, servant, seekerはなんとなくわかるのですが、“seller”には、どんな哲学的な意味が隠されているのでしょう。でも、その謎もまた余韻として心に残ります。ところで、あとがきを読むと、これは自伝的小説なのですね。途中まで、昔の話だと気づかずに読んでいました。黒人がバスの座席などで差別されているという描写で、初めて現代が舞台でないことに気が付きました。でも、こういう時代って、それほど遠い過去の話ではないんですね。だってそれを経験した人がまだたくさん生きているのですから。この物語は、すべての登場人物が実に活き活きと描かれているところが一番よかったです。まるで今、そこにいるかのように、それぞれの姿が目に浮かんできます。

西山:気持ちよく、ストレスなく読みました。いつの時代か、意識せずに読んでいて、いま言われたように、私もバスのシーンで、あれ?となって裏表紙を見て1959年と気づきました。148ページの、大人になりたい理由など、とてもおもしろく読みました。吃音という困難を抱えているからこその部分と、その特殊性を超えた、普遍的な思春期の考え方や感じ方が分裂していなくていいなと思いました。言葉そのものが中心で、英単語自体のちょっとずらした言葉遊びや、お母さんの言い間違えなど、日本語に移し替えるのはものすごく大変なことだと思うんですけど、説明が挿入されるという感じではなくて、自然に読めたので、これは、すごいと思いました。

マリンゴ:岩波書店のスタンプブックスシリーズ、大好きです。なので、今回もとても楽しく読みました。装丁もとても素敵ですね。実は、私も数カ月新聞配達をしていた経験があるので、この本の新聞配達のシーンを読んで、いろいろと思いだすことがありました。たとえば、夕刊を毎日、門の外で立って待っている人がいたなぁ、とか。そういう触れ合いがあったので、この少年が配達を通してさまざまな人と出会っていく展開はリアルだと思いました。そして、何よりも文章がすばらしい。全文を通して読点が1つもないんですよね! それでいてまったく読みづらさを感じさせない、翻訳の技がすごいと思いました。

アンヌ:読点がなかったのですね。今の今まで気づきませんでした。「人が刺されたあの事件のこと……」と始まるのに、読んでいる最中は主人公の吃音の悩みに夢中になっていて、そういう事件に向かっていることも忘れていました。スピロさんに名前を聞かれて気絶する場面では、主人公の痛みを体中で感じました。2人が詩を一緒に朗読するところは、言葉を声に出す喜びと吃音の不可思議さを同時に感じられ、本当に素晴らしい場面だと思いました。マームが動物園で写真も撮ってもらえないということに、差別が様々な形で人を支配していたことを知らされました。スピロさんの変わった話し方とか、文章全体の不思議な一本調子とか、この翻訳者にしては変だなと思い、原文を読んだ人に教えてもらおうと思って今日来たのですが、読点なしだったとは……。すごい翻訳だと思います。うまい小説という書き方ではないけれど、本当に心に残る物語だと思います。表紙のポーチのベンチ型ブランコの絵もとても魅力的で、物語のイメージがうまく伝わっていると思います。続編があるなら読んでみたいと思っています。

アカシア:本の構造自体は『アポリア』と同じで、周りとのつき合いに困難を感じている少年が、否応なく周りの人と知り合うことになり、そこから成長していくという作品です。でも、こっちの方が、主人公に寄り添って一緒に成長していくような気持ちで読めますね。まだヴィクターは吃音を持っているので、しゃべるときには必要以上に息継ぎをしてしまうことから、文章を書くときは息継ぎなしで書きたい。だから原文もカンマなしなのですが、それを日本語でも、読点なしでいてちゃんと流れる文章にしている翻訳者の原田さんの腕がすばらしい。また脇スジとして、ヴィクターが父親とは血がつながっていないとわかる場面があるのですが、そこもとてもうまく書かれていて破綻がない。周囲にいる人たちがまた個性派ぞろいで、しかも味がある。うまい作家だし、うまい翻訳者。何度も読みたい作品に仕上がっています。

レジーナ:主人公はテレビ少年との出会いで、人は見かけより複雑で、いろんなものを抱えていると気づきます。主人公もマームもスピロさんも、1人1人が生き生きしていて魅力的です。誤解されたり、想いをうまく言葉にできなかったり、人と心を通わすことの難しさは、だれもが日々感じていることです。吃音の少年が主人公ですが、多くの人に届く普遍的な成長物語だと思いました。

げた:吃音の大変さを改めて、知りました。皆さんが言うように、スピロさんは知的で、カッコいいですよね。子どもの人格を認めて、1人の人間として接する。自分も常にそうありたいと思ってます。ワージントンの奥さんについては、主人公の少年が彼女を大人の女性として憧れる気持ちがなんとなくわかるような気がします。マームは母親以上の存在ですよね。マームの存在に比べて、父母の存在が薄いのが気になりました。R・Tとの戦いの場面は手に汗握る感じで、とっても、おもしろく読めました。本の装丁もかっこいいですね。

ネズミ:ほんとうにおもしろかったです。日本人の書いた作品と、外国の作品の違いというのも考えさせられました。吃音のことなど、日本のリアルな環境で描くのはかえって難しくて、現実との違いが気になってしまうのではと思うのですが、外国だとこういうものかと、かえってすっとその世界を受けとめて読める気がします。そして視野を広げることもできる。海外文学のよさですね。作品のおもしろさについては、みなさんのおっしゃるとおりですが、特に私の心に残ったのは「言葉」と表現をめぐるくだりです。言葉を出したからと言って、それですべてを表現できるわけじゃないというのが、書かれていますよね。80ページでは、自分が言おうとしたときに、思うように相手が受け止めないもどかしさや、人が発した言葉が、文字通りの意味だとは限らないことが書かれています。また246ページでは、マームが「パチリと大きな音をたててハンドバッグの口をしめた」のが「すべて終わってけりがついたことを宣言したみたい」というふうに、行動から読み取られる意味を語っています。お母さんの言い間違いは、それでお母さんの性格を露呈したり。いろいろなことを考えさせられました。

アカザ(メール参加)今日みんなで読んだ3冊のなかで一番良かったばかりでなく、最近読んだなかでも最高でした。原田さんの訳も本当に好きな作品を訳しているという感じが、ひしひしと伝わってくる見事なものでした。子どもの友だちに吃音の男の子がいましたが、これほどの苦しみを抱えているとは気づきませんでした。吃音を克服した作家ならではの悩みが細やかに描かれていて、興味深かった。医学的に吃音を治療するのではなく、人と人とのつながりで克服し、成長していく有様が描かれていて感動しました。程度にかかわらず障碍に悩む人たちにとって、心強いエールを送っている作品だと思います。どの登場人物もしっかり描かれていて、それだけでも素晴らしい。マームが素晴らしいですね。黒人が市民権を得る前の社会で誇りたかく、しかも賢く生きている姿が、とても美しいと思いました。

エーデルワイス(メール参加):IBBY主催「バリアフリー絵本展」(盛岡巡回展)の中に展示されていた1冊で、興味を持ちました。筆者の自伝的物語というのは納得。吃音症の少年の言葉を発音する心理がよく伝わってきました。黒人のメイド、マームとのやりとりやマームがヴィクターと呼ぶところが好きです。深い愛情が伝わってきます。R.T.とのやりとりはらはらしました。解決してよかった! スピロさんとのやりとりはまるで禅問答ようです。含蓄がある言葉の数々ですね。心に残った言葉がたくさんあります。1959年のアメリカの南部の様子、特に映画に出てくるようないかにも南部のアメリカの家の様子が分かります。まだ人種差別が色濃い中、ヴィクターの家は裕福で両親も人格者のようです。出生証明書の欄に「父親不明」と書いてあった件については解決されていないので、続編に明かされるのでしょうか。このことも筆者の事実なのかと気になります。

(2016年11月の言いたい放題)


モンスーンの贈りもの

マリンゴ:ついさっき読み終わったばかりなのですが(笑)、全体的にとてもおもしろかったです。「お金」を否定せずに、使い道によっては役立つものなのだ、と提案しているところも、いい視点だなと思いました。ただ、あちこち、細かいところに突っこまずにはいられないというか……。たとえば、ダニタに求婚してきた男性が、あまりにステレオタイプすぎて。こういう、性格が悪くてビジュアルのひどい人だから、断って当然、となるのか。じゃあ、素敵な人だったらどうなるのか、と気になりました。あと、「虫」の扱い方がひどい(笑)。毛虫と1か所書かれているほかは、どんな虫なのか描写がまるでなくて。最初は、いい「小道具」だなと思ったので、拍子抜けしました。毛虫はいつまでも毛虫じゃなくて、数週間でサナギになるはずですしね。少しは描写がほしいと思うのは、やっぱり日本人だからでしょうか。欧米の人は、虫はひとまとめにbugの傾向が強いのかなぁ。

げた:基本的に楽しく読みました。やっぱり、話はハッピーエンドでなくちゃ。主人公の女の子ジャズは15歳の高校1年生なんですよね。大人の世界に踏み込もうとする男女が、お互いの気持ちを確かめ合う様をじれったく思いながら、ドキドキしながら、恋が成就することを願いつつ、楽しく読めました。それと、インドの人々の暮らしぶりも垣間見ることができて、1度行ってみたくなりました。でも、この年じゃ耐えられないかな。昔学生時代に、仲間の1人がインドに行って、大変な思いをしたというのを聞いていますから。人口もあの頃よりさらに増えているし、もっと大変だろうと思います。ジャズのお家で働くことになったダニタはなんとか自立したいと思い、お金をかせぐことを考え、ダニタのアドバイスを求めたんですよね。ダニタの3人姉妹を応援したくなりました。子どもたちに薦めたい本です。やっぱり、アメリカの高校生って、すごいですよね。自分の寄付金で基金まで作っちゃうんですものね。

ハリネズミ:とても楽しく読みました。インドの孤児院が出てきますが、かわいそうという視点がないのがいいな、と思います。それに、血縁ではない家族のありようが、すてきな形で描かれています。サラの養父母が、サラを孤児院に置いて行った生母に対して、「こんな宝物をくれた」として感謝の念を持っているのもいいですね。ダニタが幸せな結婚をしてめでたしではなく、事業を成功させようとするのも現代的。ただ、いくつかのキャラクターがステレオタイプというかマンガ的なのがちょっと気になりました。エンタメだと割り切ればいいのかもしれないですが。スティーブは、スポーツも勉強もできて、ルックスもいいし、ビジネスの才能もあり、礼儀正しくて、まじめ。こんな人、現実にいるんでしょうか? ダニタも出来過ぎですよね。翻訳もちょっとだけ引っかかるところがありました。たとえば、ジャズがスティーブを見て「わたしのおなかはドラムビートに合わせるように、のたうち始めた」(p4)とありますが、恋心をあらわすのにこういう言い方は、私にはあんまりぴんときませんでした。それから、「わたしという、ボディーガードがいなくなった今、ミリアムはきっと行動に出るだろう。とにかく、自分の気持ちをさとられずに、ミリアムがどこまで進んだか、できるだけぜんぶ探らなくちゃ」(p67)とあるんですけど、これだと中年女の確執みたいになる気がして、もう少し軽やかなほうがいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても生き生きとして色彩や香りに満ちていて、おもしろい本だったと思います。サルワール・カミーズというインドの普段着の美しさや感触、モンスーンの雨の中のジャスミンの香り、インドの家庭料理を作る場面等は、知らない土地を五感で味わう気分にさせてくれました。よく理解できなかったのが、主人公のママです。特にアメリカでの活動内容について、有名な社会事業家というのは何をする人なのかとか、ママがどう魅力的なのかあまり伝わらない気がしました。それから、スティーブとの恋のまだるっこさがしつこかった。すでに飛行場の場面で両想いなのはわかってしまっているし、スティーブもミュージカルの『オペラ座の怪人』で、いびきをかいて寝ちゃうような人ですしね。

ハリネズミ:でもジャズにとっては、恋敵と行ったミュージカルで寝ちゃうんですから、そこも理想像なんですよ。完ぺきなの。

ルパン:美しさの基準は文化によってちがう、という視点は良いと思いました。が、読み終わってみると、腑に落ちない点が多々あり……。まずは、お母さんのサラ。主人公の言葉で「すばらしい人」と何度も力説されているけれど、何がそんなに魅力的なのか、いまひとつ伝わってきません。ジャズが抱えている最大の問題は、ホームレスのモナの裏切り、というできごとです。ジャズは、母親であるサラをお手本にし、サラのように弱者に手をさしのべようとしたのに失敗するんですよね。それなのに、このお母さんは、ジャズにはまったく手をさしのべていません。ほかの人たちには一生懸命尽くしているのに。そして、ジャズはインドに行って変わるわけですが、インドで友だちに愛されるのは、容姿がいいから、ということになっています。ジャズ自身の魅力や、インドの少女たちとの心の交流ができているわけではなくて。ダニタと出会うことで、ジャズは前向きな気もちにはなりますが、モナのことは何ひとつ解決しないまま物語は終わっています。ジャズは、モナの事件について、自分のなかでどう決着をつけたのでしょう。それが書かれていないので不完全燃焼のようなすわりの悪さを感じます。

ハリネズミ:モナのことは、ほかの人が教えられるようなことではないような気がします。自分で学んでいくしかないんじゃないかな。でもわだかまっていたのが、インドに行って心が自由になり、本来の自信を取り戻していくんですよね。

ルパン:ジャズの中で、モナのことは終わっていないと思うのですが。

ハリネズミ:後に他のホームレスの人たちを雇ったりもしていますよ。

ルパン:ホームレスの人を雇い続けているのはスティーブであって、ジャズ自身の中では何も解決していないと思うんです。

アカザ:モナについては、掘り下げて書いていないですね。そうしなくてもいいと作者が思ったんでしょう。

ハリネズミ:ジャズとしてはその体験も乗り越えることができたと書いてるんじゃないかな。ただ雇ったりするんじゃなくて、ビジネスの元になるお金を寄付して、そのビジネスがうまくいったら、次のビジネスもサポートできるようなシステムを考え出したんだから。人を見る目も出来てきたんじゃないかな。まあ、マンガ風な点があるのは否定しないけど。

アカザ:エンタメというか……。

ルパン:確かに、ダニタのことは助けるわけですが……なんだか「いい子は助ける。助け甲斐がある人は助ける」みたいですっきりしません。モナみたいな人ではないから助ける気になったのでしょうか。モナのような人とは今後どのように向きあっていくつもりなのでしょうか。それに、母親のサラも含め、夏が終わればアメリカに帰るわけですし。「モンスーンの狂気」が「一時的な善意」でなければいいのですけど。

エーデルワイス:主人公のジャスミンとスティーブは幼いころから波長があって、価値観があって、友情を育んで、同じ目的をもってビジネスパートナー。まさしく理想的な恋人。いろんなものが織り交ぜてあって、おもしろく読みました。3か月も家族で夏休みをとって海外へ行くなんて、日本じゃ考えられない。容姿で悩み、女の子は仕草とか、媚びるというのじゃないけど、アメリカの女の子にもあるんですね。主人公は性格的にそれができない。好感がもてます。そして、本当は美しいということにインドに行って気づかされる。

アカザ:エンタメとしては、おもしろく読みました。インドの衣装やダンス、食べ物も魅力的だし。主人公の恋の話も、ハッピーエンドに終わるということが最初からわかっているような書き方だけれど、同年齢の読者にとっては面白いかも。善意のアメリカ人がボランティアをするときって、こんな感じなんだろうなと、読み終わってから思いました。「いいことしちゃった!」感というか。英語に“cold as charity”という言葉がありますが、善意の行動をする側の後ろめたさというか含羞というか、そういうものが感じられないのですが、ないものねだりなのでしょうか。訳者あとがきの、ひとりひとりが誰かのためになることをやっていけば、社会が変わっていく云々という言葉にも、違和感を覚えました。あと、読み始めたときに、なかなかシチュエーションが理解できなかったのですが……。なにか全体にざわざわと落ち着かない感じで文章が流れていくのは、軽い訳と固い訳がまざりあっているせいかしら?

ハリネズミ:ジャズが寄付したお金は孤児院の基金になって、その基金でビジネスを起こした人が利益を挙げてそのお金が返せれば、次の人がビジネスを起こす資金になる、というふうに、うまく考えられています。作家もインド生まれだし、ただ白人がいいことしちゃった、と自己満足するような本とは違うと思います。

レジーナ:ボランティアの難しさや高校生のビジネスなど、興味深いテーマではあるのですが、訳がところどころひっかかってしまって入りこめませんでした。「爪をかむことは、彼をイライラさせることのひとつだ」(p10)、「わたしはパパに過度のストレスがかかっているようすがないか、注意深く見ていた」(p108)等、原文をそのまま訳してる感じで、大急ぎで訳したような……。15歳のちょっと皮肉っぽい視点で書かれているので、エンタメとしておもしろく読む作品なのでしょうが、「『あなたなら、だれでも巻きこんでやる気にさせられるわね』……『自分家族以外はね』ママはため息まじりにつけ加える。わたしに怒った顔を向けながら……あれがあってから、ママは完全にわたしを身放した」(p19)という文章からは、母親が単純でひどい人間のように感じてしまいました。『もういちど家族になる日まで』(スザンヌ・ラフルーア/徳間書店)は読みやすかったのですが。孤児院の院長が集まってきた子どもたちにバナナを配る場面とか、47ページの、妊娠した貧しい女の子の描写は、西欧のステレオタイプに感じられます。インドなどでは、小学生くらいで結婚させられるのが問題になっていますが、この女の子はそこまで幼くないですし、結婚の年齢は文化によって違うので……。

ハリネズミ:バナナを配る場面は、日本のバナナを連想すると違うと思う。バナナの房はもっと大きいのを買い求めて、お金をあたえるんじゃなくて栄養になるものを与えている。そこは、私はなるほどと思いました。さっきも言ったんですけど、国際援助という観点からはほんとに考えられて書かれている。女の子が早くに結婚するのは、国連もやめさせようとしています。女の子が教育を受ける機会を失うと、貧困の連鎖になってしまうからです。

まろん:瑞々しく、五感を刺激されるような文章で、魔法にかかったような読後感がありました。インドの貧しい人も裕福な人も、みんな生き生きと描かれているのがいいですね。私が一番印象に残ったのは、主人公が外見に非常にコンプレックスを持っている点です。周りから見ると気にしすぎにも思えますが、15歳という年齢は必要以上に見た目を気にしてしまう年頃なのかもしれません。私自身も同じように「私なんかがお洒落をしちゃいけない」と思っていた時期があったので、感情移入しながら読んでしまいました。私の場合は友人に「優越感を持つ必要はないけど、劣等感を持たなくてもいいんじゃない」と言われてはっとした経験がありますが、ジャズも外見の劣等感が消えたことが、自分が変わるひとつの大きなスイッチになったのではないでしょうか。

シア:図書館で借りられたのが最近だったので、軽くしか読めませんでした。10代の女の子による恋の思い込みがよく描かれていると思います。それから、貧困による負の力がどれだけ強いものかということも改めて感じました。カースト制度というのは本当に根強いですね。でも、物語ではそれよりスティーブとのことばかりが前面に押し出されている感じでした。もうちょっと現実の悲惨さを掘り下げて欲しかったんですけど。あとは、女の子が自信を取り戻していく姿もよく描かれていました。女性の自立には必要なことなんだと感じます。自立している女性として母親が出てきますが、彼女は養子であるので自分の生みの親を気にしています。養父母から「いっぱいの愛情しか与えられなかった」のは、最高の育てられ方だと思うんですが、それでは何故か不満らしいですね。それで家族でルーツ探しの旅行に行くわけなのですが、これでは養父母の立つ瀬がありません。自分のやりたいことを達成しようとする力を持った人に育ったことは非常にアメリカ的なのですが、行動の理由がはっきりせず、養父母がかわいそうなだけです。主人公は以前、良い行いのつもりでしたことで人に騙されてしまうんですが、良い行いをするには「脇役を務めた方がいい人も」いると諭されてしまいます。そこまで考えなくても良いのではないかなと思います。騙されないようにするのは当然ですが、立場によっては悪い人とわかっていても助けなければならない場面もあります。関わらないようにするのは、解決ではないと思います。また、ダニタとの友情も物語の軸なのですが、これがかなり力関係のある友情で、全く対等になっていません。何かこの力関係がひっくり返るようなイベントでも入れればいいのに、上っ面の友情が延々と続いて終わります。スティーブとの恋愛模様以外、どれも中途半端な印象です。ハリネズミ:養父母との関連は、どんなに満たされている子でも産みの親のことが気になるということは事実としてあるんだと思います。たとえばバーリー・ドハティの『蛇の石 秘密の谷』なんかにも、客観的にはなんの不満もない養親でも産みの親のことが気になる少年が描かれています。いったん会ってしまうと、それで満足して次の段階に行けるんじゃないでしょうか。

(2016年10月の言いたい放題)


小やぎのかんむり

シア:表紙がとても可愛かったのですが、内容はそれに反してつらいものでした。どうしようもない人や感情を「手放すこと、断ち切ること」を伝えています。でも、断ち切れるものかなとも、断ち切っていいものだろうかとも思ってしまいました。とくに雷太の母親は自分の気持ちだけで行動しています。この母親は感情で自分の子どもを捨てていきましたが、親の義務はどうなっているんでしょう。この子の法律的な立場や、将来的に高校や大学はとか、これで苦労することになるんではないかとか、いろいろと考えてしまいました。何を言っても親に捨てられたという事実は雷太には残りますので、人の関係などは法律的に切れることはあるかもしれませんが、気持ち的に切れるものでしょうか。まあ、親子って言っても、他人程度の関係しか築けない人も多いですよね。この本は児童書だけあって、子どもが納得するための本だと思いました。中高生向きですね。

西山:市川朔久子の作品はいい! 最初から、どれも好きです。今回も、気になりながら読み出さずにいたのですが、最初タイトルを聞いたときは幼年向けかと思ってました。違いましたね。市川さんの文章がまず、心地いいです。そこはかとないユーモアも随所にあって。今回も冒頭から心鷲づかみにされました。いきなり父の交通事故で、え? と思った次の文で、「横断歩道でもないところを堂々と渡っていて」とあって、なんだ? とおもしろく感じて、でもすぐに事故を起こしてしまったおじいちゃんへの横柄さに、なんかおかしいぞ、となる。この父親像が主人公の抱える問題の中心にあるわけで、もう、なんてうまいんだろうと思います。ただ、この作品に限ったことでなく最近ちょっと考えていることがあって、このうまさ――例えば、この子に何があったのか伏せて書いていく。引っ張っていく、だんだん手持ちのカードを開いていく手順は、あざといというか少々品のないやり方と紙一重なのじゃないか、と。市川さんの作品は文体からして好きなのですが、この作品は、半分は、なにが起こるだろう? っていう伏せられた真相で引っ張られた部分もある気がします。小説はどんなに純文学的なものでも、多かれ少なかれそれはあると思うのですが、その度合いが文学とエンタメの違いかなと最近考えたりしています。住職のオチのない話では、『よるの美容院』(市川朔久子/講談社)の古本屋のおやじでしたっけ、ひょうひょうと食えないじいさんが、思春期の少女が抱えて張り詰めているものをふっと解き放つ緩さがいい。状況としては重いけど、こういう隅々に軽さがあっていいですね。『紙コップのオリオン』(市川朔久子/講談社)でも感じたのですが、幼い子を、いとしいという気持ちにする描き方も好きです。市川作品には、読書の愉しみに満ちています。

まろん:表紙の可愛さからほんわか優しいお話かと思いきや、かなり思いテーマを描いていて驚きました。「自分から離れようとしているんだね。」という箇所がありますが、これは家族の問題だけでなく、学校だったり、仕事だったり、色々なものに当てはまると思います。辛いんだったら思い切ってそこを離れて別の場所に行ったほうがいいというのは、今悩んでいる多くの人たちを励ますメッセージになるのではないでしょうか。ただ、家族というのはとても密な関係であり、このお父さんは主人公から離れようとしていないので、そう簡単にはいかないのでは、と心配です。あと余談ですが、ことあるごとに「セイシュンねぇ」と冷やかす大人たちが、可笑しくて好きです(笑)

レジーナ:「主人公がこの先どうなるか心配」という意見がありましたが、私はそうは思いません。夏芽が抱える問題は、決して簡単に解決するようなものではありませんが、心の中に帰る場所があるのは、人が生きる上で本当に大きな力になります。虐待を受けた子どもは、どんなにひどいことをされても親をかばおうとしますが、この本は「許さなくていい」と子どもに伝えています。許す必要はまったくないけど、いつか折り合えるときが来るかもしれないし、状況は何も変わってないけど、この子ならきっと大丈夫、と思える結末で、子どものもつ力への作者の信頼を感じました。

アカザ:重いことを書いているけれど、さらさらと読めました。重みを感じさせない書き方が、うまいなあと感心しました。なかでも、雷太が実に生き生きと描けていますね。生命力にあふれた、かわいい男の子が、虐待をする実の父親があらわれたとたんに大人しくなってしまう。実際にそういう現場に居合わせたことはありませんが、そうなんだろうなと身に染みて感じました。いくら血がつながっていても、こんな親なら絆を切ってもいい、逃げてもいいというメッセージを、しっかりと伝えている、今の子どもたちにとってとても大切な本だと思います。読みはじめたときは、また田舎で癒される話か、うんざり……と思いましたが、いい意味で裏切られました。でも、東京育ちのわたしとしては、地方で住みにくさを感じていた子どもが、都会で癒される話も読んでみたいな!

エーデルワイス:ひりひりと、きつかった。主人公が心配です。いい大人に恵まれて再出発しそうなのですが、ストンと落ちない。もうちょっと解決策がほしかったと思いました。『三月のライオン』(羽海野チカ/白泉社)を読んでいて、漫画の方が先を行っているかもと思います。

ルパン:かなりあとになるまで、物語がどこに向かっているのかわからず、そこはおもしろく読めました。一番印象に残っているのは、川遊びのシーンです。「このきれいな水と、わたしのなかみを、ぜんぶ取りかえられたらいいのに。そしたらわたしも、香子みたいになれるだろうか。」(p91)ここではまだ、夏芽の問題は明らかになっていないのですが、自己嫌悪に陥っている中学生の少女の気持ちが痛いほど伝わってきます。結局、父親から暴力をふるわれていることが徐々にわかってくるのですが、ものごころついたときからそういう目にあっていると、「自分が悪い」と思ってしまうんですね。そこのところも良く描かれていると思います。一歩まちがえば優等生的というか、ただの「いい子ぶっている子」になってしまう危険があるのに。ただ、距離の問題が気になりました。家から遠く離れた山村で、この子は勇気をもって父親と向きあう決意をかためるのですが、このあと、どうなるのかが心配です。結局、未成年のうちはこの父親が保護者のわけだし、母親は夫に絶対服従で、この子の味方にはなってくれない。そういう環境にまた戻っていかなければならないことを思うと、やっぱり重苦しいものを感じます。

アンヌ:情景描写がよく描かれていて、私の家のお寺を思い出しました。山の上で、黒い木の引き戸がとても重くて大きくて、縁の下も高くて広い。子どもがいくらでも遊べるような広い空間がたくさんある。そこに着いただけで、少し閉塞感から抜け出せるような所が思い浮かべられます。最初から、女子高の制服を着ているだけで痴漢やぶつかってくる男たちが書かれていて、雷太の父親の暴力の場面もあるので、これはたぶん主人公の父親の暴力の問題が物語の底にあるなと、推理小説的に感じながら読んで行きました。重い小説だけれど、サマーキャンプらしい憩いの瞬間もあり、読み返しても楽しめる小説だと思います。主人公の問いかけにふと外す感じの住職のセリフや、葉介との青春場面にはユーモアを感じました。若住職の過去や美鈴さんのモラハラ体験など必要だったのかなと思いつつ、つきつめて書いていないところはよかったと思います。主人公がいい場所にたどり着いてよかったと思いながら、何度も読んでしまいました。

ハリネズミ:とてもおもしろく読みました。今回の3冊の中では、私はこれがいちばんでした。親の虐待にさらされている子どもの数は、日本でも増えているんですよね。主人公は、親に殺意を抱いたことで自責の念に駆られて、自分を信じることができなくなっている。それがサマーキャンプに来て、自己肯定できるように変わっていくんですよね。親って、生物的に親になる次の段階として、どうあってもこの子を受け入れてとことん付き合っていく覚悟がないとできないっていう話を聞いたことがあるんですけど、その覚悟が持てない親が増えてるんだと思います。夏芽は、家に帰ればまたとんでもないお父さんがいて、頼りないお母さんがいるわけですけど、もうしっかりと自分を肯定できるようになり、自分のことを「宝」と思ってくれる人もいるし、自分以上に弱い雷太を守ろうという気持ちにもなっているので、もうだいじょうぶだと思います。同じ状態に戻ることはない。タケじいが、「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でも以下でもない」(p235)とか、「堂々と帰りなさい。子を養うのは親の務めだ」(p237)とか「くれぐれも言っとくが、『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」(p238)と言ってくれたことで、夏芽はどんなに救われたことか。子どもはみんな、どんなに虐待する親でも尊敬しなくちゃいけないし、好きにならなきゃいけないし、かばわなきゃいけないと思ってるんです。だから、これくらい強くはっきり言ってもらってはじめて、違う道もあることがわかって歩き出すことができる。雷太もけなげですが、この先居場所を見つけて生きていけそうだと感じさせる終わり方です。

げた:子どもへの虐待がテーマなんですが、虐待に遭っている2人の子どもが優しい3人の大人と、ひとりの高校生に巡り合って、ひょっとしたら、救われるかもし
れない世界の扉が開いたという話ですね。サマーステイなんて、50年前に経験したことを思い出しました。もう1度体験してみたいなと思いました。夏芽にとっては、現実の状況は全く変わっていないんですよね。今後の行く末については、読者に想像させるかたちになっていますよね。父親があまりにひどいのでびっくりしました。本当に嫌味なやつです。作者は取材して話を書いているでしょうから、実際にいるんでしょうね、こんな父親。母親もひどいですけどね。「自分を生かす我慢と殺す我慢」という言葉はなるほどと思いました。

マリンゴ:とても素敵な作品でした。キャラクターが魅力的で、特に雷太、住職は、個性が際立っていました。あらすじを語らせるだけのご都合主義の会話じゃなくて、生きた会話になっているところも、よかったです。ただ、一つだけ気になったことがあって。女子校に通う中3の女の子が、高1の男の子と出会って、途中からは一つ屋根の下で過ごすようになるのに、異性を意識する描写がないのが、不自然な気がしました。男子として好きか嫌いか、まで行かなくても、父親と同性なのだから嫌悪感があるのかないのか、とか比較したりするのが自然では? で、その理由についての想像なのですが……私は、著者が意図的に恋愛パートを排除したんじゃないかと思っています。さっきの「スティーブ」じゃないけど(笑)恋愛が描かれていると、クライマックスで、読者の興味はそこに行ってしまいます。けど、この物語では、ラストで処理しないといけない要素がとてもたくさんあって、恋愛に傾くとバランスが悪くなる。だから、要素が増えないように、あえて排除した気がします。だから、すべてが片付いた後で、急に意識し始める描写が登場。そこが違和感あります。たとえ雷太と3人でも、夜、いっしょにお墓とかを歩いていたら、何かしら意識はすると思うんですけれど。

ハリネズミ:自己肯定感がない子だからでは?

マリンゴ:それもあるかとは思うのですが、やっぱり「男性」というものに対して、なんらかの感情は持つのが自然ではないかと。

アカザ:最初のほうの、通りすがりに制服を触ってくる人のエピソードを読んでも、主人公が異性に対して持っている負のイメージが感じられるけれど、それが父親に対する感情となにか重なっているのかも。そこまでは書いていないけれど……。

西山:最初に1回だけ、葉介が白桐云々言ったときに、バシンと怒ってますよね。最初にきっぱり怒って、葉介に謝らせて、この先に、通学路で寄ってくるような男たちとは完全に違う存在として葉介を書くことが可能になっているのかもしれません。

シア:罪の意識に苛まれているから、ときめいてる余裕がないんだと思います。

(2016年10月の言いたい放題)


二日月

げた:すごく重いテーマですよね。自分の家族に起きたかどうなるか? 自分がママだったら、あんな風に堂々とできるか、自信がありません。でも、日本も、社会環境とか人々の意識も変わってきているから、昔ほどはつらいことはなくなっていると、思いますけどね。医者は患者に対して、最悪の状況を率直に話さなきゃいけないんでしょうけど、5歳まで生きたら表彰ものだなんて、言い方が間違っていますよね。

マリンゴ:この作品は、発売されて間もない頃に読みました。今回、再読できなかったので、記憶が遠すぎて。いとうみくさんの作品はそこそこ読んでますが、他の作品のほうが好きだなぁ。この本はそんなに……と思ったことは覚えています。

シア:3冊の中で最初に読みました。この作者の本は非常に読みやすいですよね。でも、私はこういう話は苦手です。あまり言いたくないんですが、どの話でも変に前向きで、無駄にキラキラした内容になってしまうので、読んでいて苦しくなります。いかにも課題図書な本ですよね。たった1年間の話なのに、主人公はこんなにつらい思いをしています。でも、周りは弱い大人ばかり。この先どうなってしまうんでしょう? なのに、主人公は無駄に前向きさを振り絞っています。なぜ、上の子が恥ずかしく思っていることを親が汲み取れないのでしょう? 見ないふりをしているのは親の方です。親が弱い分、主人公が強くならなければならない。それが家族のバランスです。本当にこの先がんばれるんでしょうか? 主人公はどんどん自分を抑制していきます。そのうち搾りかすになってしまいそうです。例えば公園での場面ですが、母親は溶け込むことに必死で、生意気な子どもたちの態度や言葉遣いを否定しません。仲良くなろうとすることは良いと思いますが、これでは言葉の暴力の恐ろしさを、この子たちも読者も学びません。主人公が飛び出していってもいいくらいの場面です。弱者は世の中の横暴を黙って受け入れるしかないんですか? 自分が前向きで良い人になれば、あたたかい人ばかりに囲まれてキラキラ生きていけるんですか? 描きたい主人公の強さとはなんなのでしょうか? 子ども向けの作品には今後のための教訓が必要だと思います。題材的に納得いきません。

西山:前に読んだとき題名が全体に生かされきってないと思った、ということと、公園のシーンだけは覚えてました。私は、現実的な作品を論じるときに、作品の外の「実際は……」という実例で語るのは違うんじゃないかと考えるんですが、でも、シアさんの発言を聞いていて、おかしいものはおかしい、というのがほったらかしになっているのはまずいんじゃないかと思いました。結構、それは犯罪だろう、とか、人権問題としておかしいだろうというような言動が、ドラマのひとつの山場として結構でてくる気がして、ダメなものはダメといわなきゃいけない。書いちゃいけないと言うことではなく、相対化はしてほしいと。でも、やはり、ひどいことを言う子どもたちから逃げないあのシーンは印象に残ります。それから、p172で真由が「女々しい」という言葉を使っています。これ、気になりました。いまさらこの嫌な言葉を使う必要があるのかな。p196で「芽生を学校につれてこないで」という思いを「いっちゃダメ」とするのは、新鮮でした。そういう思いをはき出させるのが読み慣れてきた児童文学のやり方だったと思います。

ハリネズミ:とても意欲的な作品ですが、私は、この主人公の心の揺れに、すんなりついていけませんでした。『ワンダー』(R・J・パラシオ/ほるぷ出版)を読んだときは、お姉さんが障がいを持った弟にやっぱり来てほしくないという気持ちについていけたんですけど、これも同じシチュエーションの割りには、すっといかなかった。

西山:香坂直の『トモ、ぼくはげんきです』(香坂直/講談社)も、同様のテーマでしたよね。

ハリネズミ:確かにそうだと登場人物に寄り添えるだけの必然的な流れが感じられなかったのかな。

まろん:対象年齢が小学校中学年くらいとのことで、全体的に読みやすく、障がいについて考える良いきっかけになる本だと感じました。私がこの本を読んで怖いと感じたのは、登場人物が誰も悪気がない、というところです。最後に春菜ちゃんが芽生を抱っこする場面がありますが、これはきっと春菜ちゃんにとって無意識のうちに変わるきっかけだったのではないでしょうか。こういう気付きがないまま大人になると、きっとレジで会ったおばさんのように、自分が言った言葉の重さを知らずに人を傷つけてしまう人になってしまうのだと思います。そういった意味では、この本は子どもたちにとってそうした気付きの役割を持つのではないでしょうか。

レジーナ:ひどい言葉でからかわれる場面ですが、私はそういう言葉を本の中で書いてもいいと思います。日本の児童書は「こういうことは書いてはいけない」というタブーが多いですが、大切なのは作者のスタンスと描き方ではないでしょうか。作者のスタンスがはっきりしていれば、どんどん書いていいし、そこで問題提起をしてほしいですね。難しいのは描き方で、私はこの場面はそこまで教訓的だとは思いませんでしたが、そう感じる人がいたなら、伝え方をもっと工夫したほうがよかったのかもしれません。

エーデルワイス:主人公は自分も構ってほしいという思いを、障がいをもっている幼い妹のために我慢している。その気持ちが伝わってきて、とても切ないです。わたしが開いている文庫に以前、障がいをもっている兄と、その弟が来ていました。弟はとてもおとなしくいい子でした。兄は小学4年生で亡くなりましたが、弟はどんな気持ちだったのかと思います。

ルパン:いとうみくの作品はどちらかというと苦手で、しかも課題図書。というわけで、まったく期待しないで読み始めたのですが……結局、かなりはまってしまいました。良い意味で期待を裏切られました。障がいをもった妹が生まれた、という事実と向きあわなければならない少女の葛藤がとてもよく描かれていると思いました。何も悪いことをしていない友人たちの言動にいつのまにか傷ついてしまう、その微妙な心の動きが、「ちょうど薄紙でスッと指を切るような痛さ。」(P83)という一文で、絶妙に表現されています。杏は、健常者の弟や妹がいる真由、障がい児に親切にする藤枝君、芽生の世話でいっぱいいっぱいのママ、といった存在に、少しずつ少しずつ傷つけられていくのだけど、相手を責められないもどかしさ、苦しさと戦わなければなりません。結局は自分自身との戦いです。それに、芽生が普通の妹だったらやりたかったこともたくさんあったことでしょう。赤ちゃんのときはたくさんかわいがり、大きくなったらいっしょに遊ぶ、とか、勉強を教えてあげる、とか。そういう夢がこの先ずっとかなわない、という切なさもあると思います。まだ幼い杏が、大きすぎる問題とせいいっぱい向きあっている健気さに胸を打たれました。ただ、せっかく、とても自然体に描かれているのに……この陳腐な帯の言葉はいかにも余計だなあ。「あたしと妹。ずっとずっと大切な家族。」だなんて。

アンヌ:最初に読んだ時には、障がいについての物語として読んでいたのですが、読み返して、これは、生命の力についての物語だなと思いました。先程、医者がこんな言い方をするのだろうかというお話が出ましたが、現代の医療場面では、生存確率とかが具体的に示されて治療方針が説明されると思います。患者の家族にとっては、それは余命宣言であり、過酷なものだと思います。赤ちゃんが生まれて喜びに満ちているところに、いきなり「死」というものが来てしまった。死ぬかもしれない家族がいるという状況はきついものです。世界がガラッと変わってしまう。だからこの物語の父親のように、必死で本やインターネットで病気について調べてくたくたになって、ふとしたはずみに主人公をぶってしまうような混乱も起きる。いろいろ大変ななか、父親も母親も変わっていく様子が描かれていき、そんななかでの主人公の動揺がていねいに描かれていると思います。赤ちゃんが生きていき、その命の温かさが、いろいろひどいことも言っていた春奈ちゃんの心にまで「かわいい」と思う気持ちを起こさせる。生きる力というものが、とてもうまく描かれていると思いました。最後も詩的で、何度も読み返すにはきつい本ですが、心に残る物語だと思います。

ハリネズミ:作家のサービス精神が旺盛なのでしょうか。p168で勢い何かが飛び込んできて怖い怖いと思ったら真由ちゃんだったというところ、マンガならいいんですが、シリアスなストーリーで急にリアリティのない場面が出てくると、ちょっと残念。p194で真由が「杏は杏のことをきらいでも、あたしは好きだよ。杏はうわべだけなんかじゃない。一生懸命お姉さんしてる杏も、そうやって自分のこときらいっていう杏も、あたしはどっちも好き」というところも、子どもの言葉というより作者のメッセージが前面に出すぎているように思いました。さっきも言ったんですが、杏が障がいをもった妹に学芸会に来てほしくなくて学校にも行けなくなるというところ、それまでにだいぶんいろんなことを乗り越えて進んできたように思えていたので、ちょっと不自然に思ってしまいました。p186には「友だちに障がいのある妹がいることを知られたくない」と言ってますけど、そんなのは学芸会を見に行くことには関係なく知られるわけだし。一所懸命に書いてる作家さんには悪いのですが、メッセージを伝えたくてストーリーを作ったせいか、人物がいまひとつ生きてこない感じがしてしまったのです。それから、公園の場面では、男の子たちが「キモイのがきた」とか「エンガチョー」とか「こいつヘンなの」と言うんですが、シアさんや西山さんが児童文学に書くべきじゃないとおっしゃっているのは私は違うと思います。言うべきじゃないというのも違うと思うんです。子どものこういう暴言は、かかわりの一つなんです。それを大人が受け止めて人と人のかかわりが始まり、理解も広がるんです。それを「言うな」「見るな」と言うと、障がいを持った人やホームレスや気の毒な人たちを見なくなります。かかわりも一切持とうとしなくなります。そのうちそういう人たちが存在しないかのようにふるまうようになるんです。むしろ、子どもがそう言ったときに、まわりの大人が「だめ」というのではなく、このお母さんのような反応ができるかどうか。そういう意味では、ここはよく考えて書かれていると思います。

(2016年10月の言いたい放題)


レッドフォックス

さらら:久しぶりに動物の物語を読みました。レッドフォックスの視点に、ぐんぐん引きこまれます。鋭い観察眼に基づく情景描写が的確。野生動物の動物らしさにも魅かれます。人間と動物の視点を分けて書き、複数の価値観が響きあうところも好きです。対象年齢は高学年以上とありますが、本をたくさん読んでいる子でないと、読みこなせないかもしませんね。

ルパン:なんだか懐かしい思いで読みました。子どもの頃読んだ椋鳩十を彷彿とさせる感じで。数十年ぶりにこういう作品を読んだ気がします。動物にいっさいせりふがなく、くどくどと心理描写をしていないところがいいですね。

アンヌ:最初にこの本を見た本屋では表紙を見せて飾ってあって、なんとなく、クリスマスのプレゼントに魅力的な本だなと思いました。実に淡々と成長の過程や狐の生活が描かれています。ジャック・ロンドンの『白い牙』とか『荒野の呼び声』(新潮文庫)、ニコライ・アポロノヴィッチ・バイコフの『偉大なる王(ワン)』(新潮文庫)を読んで育った身としては、たまらなくおもしろかった。けれど、火事の場面やキツネ狩りの場面など、いくらでもドラマチックに盛り上げられる場面もそうせず、静かに終わっているのには、驚きました。大人でも、読み続けていくのは難しいかもしれない量で、今の子どもには無理かもしれません。たとえ全て読み通せなくても、狐の見事な死んだふりの場面とかを読むと、「狐のルナール」(『狐物語』 岩波文庫)とか、日本の民話とかを読み返したくなったので、そういう物語の入口になればいいと思います。動物好きの子どもに手渡したいなと思います。

マリンゴ:子どもの頃、家に『シートン動物記』の完全版がありました。大人向けだから小学生にはちょっと手強かったんですが、それでもおもしろく読んだのをなつかしく思い出しました。『シートン動物記』が、「オオカミ王ロボ」など、動物に固有名詞をつけて感情移入させやすくしているのに対して、『レッド・フォックス』は、人間に寄せて書くのを極力排除しています。それが、とても興味深くて、楽しく読みました。ただ、大人の今だからそう思うのであって、子どもだったら、もしかして読みづらいのかな?という気もしました。あと、1905年に刊行された本が、なぜ今、日本で発売されるんだろう、ということが不思議です。あ、決して悪い意味じゃなく、素朴にどうして「今」なんだろう、と。

アカシア:とてもおもしろく読みました。「まえがき」で、「レッド・フォックスが示す感情は、人間の感情ではなくキツネ本来のものだ」とか、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物にあてはめているのではない」と繰り返していますね。シートンの動物物語にもそういう批判があったと聞きますが、その批判は当たっていないということをまず言っておかないと、という意気込みが感じられます。これだけの物語を書けるのは、森林がある環境で小さいうちから動物を身近によく見て観察した人ならでは。一定のスピードで読むと引き込まれてどんどん読めますが、今の子どもの読むスピードだと、ふんだんにある自然描写に手こずるかもしれませんね。オリジナルの絵の下に文字をいれたりして、クラシックな感じですね。表紙ももともと布張りに箔押しで金を使ってあるのでしょうけど、それを生かそうとした装丁ですね。

さらら:情景描写の翻訳は難しいんじゃないですか。翻訳者は見ていない情景を想像し、目に見えるような場面にして読者に差し出すわけですから。

草場:おもしろく読みましたが、高学年でこういう話が好きな子じゃないと読まないかも。レッド・フォックスは頭のいいキツネで、死んだふりをするんですね。サバイバルできてよかったです。それにしても、野生の動物なので、最後に環境が変わってもいきられるのでしょうか?

アカシア:まったく同じ場所でなくても、似たような環境の場所なら充分生きられるのではないでしょうか。

パピルス:著者が森に住む動物たちをとても細かく観察しているため、様子が目に浮かぶようです。1章ごとに日々の森での生活が描かれていますが、出会いと別れ、そして成長があり、物語として上手に組み立てられているなと感心しました。翻訳本を多く手がける出版社の編集者が、「翻訳本の良いところの一つに、古い作品でも訳を変えればまた新しくなることだ」と言っていました。この作品は1905年に発表されましたが、日本では2015年に出版されました。100年以上前の作品にはなりますが、表現や言い回しで「古い」ということで、読んでいて気になることは全くありませんでした。

西山:久しぶりに、こういうものを読みました。全体を通していちばん思ったのは、自然界では、若いというのは愚かということで、愚かでは生きていけないんだなぁということ。人間の話だったら、特に児童文学では、若者の好奇心や、無謀な行動も、それで失敗することがあっても、根本的には価値あるものとして捉えられていると思うんです。それに対して、自然界は、若さは馬鹿で命を落とす。翻って考えれば、人間の社会は、弱くて愚かでも生きていける、それが人間が作ってきた社会なわけで、弱肉強食的自己責任論とか、人類の歴史に逆行しているのだなと改めて思いました。「那須正幹の動物ものがたり」(くもん出版)と、並べて読んでみるとおもしろいかもと思いました。272ページの、捕まってしまった場面で、つながれた鎖から逃れようとして、干し草に埋めて、見えなくしたら、鎖をなくせるんじゃないかと試みるところがありますよね。あれなんか、ものすごくおもしろかったです。そういう行動をするんでしょうね。見えないと存在しないと思うのは、幼い子ども同じでしょうか。あと、みなさんもおっしゃっているように、挿絵の下に文章をそえてあるのが、懐かしくて、その懐かしさが新鮮でした。『岸辺のヤービ』(梨木香歩/作 福音館書店)もそういうクラシックな作りにしていましたよね。福音館の本作りのポリシーの表れでしょうか。

レン:とてもおもしろかったです。文章がいい。きびきびしていて、ひっかかるところがなく、すっと入ってきました。すごい観察力ですね。今の子どもがどのくらい読めるかはわからないけど、小さなエピソードを読んで聞かせたら、ひきつけられて読むのではと思いました。絵はやや地味な感じもしますが、しっぽの付け根とかヤマアラシのとげとか、絵があるおかげでよくわかってよかったです。狐でもかしこいのとかしこくないのがいるんだ、というのがおもしろかったです。テレビのように映像でぱっと映せるものがなかった時代に生きていた人はすごいですね。よく見て、すべて言葉で情景を浮かび上がらせていく。そういう力や辛抱強さを、私たちは失いつつあるなという気がしました。

さらら:テレビや映像に浸かっていると、言葉に再構成された情景を、自分の頭で想像するのが苦手になり、まどろっこしいと感じるかも。

レン:すぐにはイメージできないこともあるでしょうね。事件が立て続けにおきて、ひっぱっていくようなストーリーじゃないし。絵本、幼年童話、中学年と、物語を読むことを積み重ねて、こういう本を読めるようにしていきたいですね。

アカシア:本をいろいろ読むだけでなく、実体験もないと情景が浮かびませんね。深い森に入った体験とか。

レン:ああ、そうですね。何が進歩だろうって思います。

レジーナ:キツネの視点で描いていて、しかも、ほかの動物との関連性の中でキツネの生活を描いているのがおもしろいと思いました。ちょっと長すぎる気もしますけど。表紙も美しく、献辞のページで、挿絵が逆三角形に配置されたデザインも素敵です。クラシカルで好きな文体ですが、今の小学生が読むには難しいかもしれませんね。大人が少しずつ読み聞かせてあげるといいのでは。

紙魚:最近の本は、会話や心理描写が多くて、そこまで聞こえてこなくてもと感じることも多いですが、この本はそうでないので、読んでいて静かな興奮を味わいました。人は、小さな声にこそ耳をすませることもあると思うからです。動物を主人公に三人称で書くということは、作者がどれくらい、その動物に自分が想像した感情をのせるかということが問われると思うのですが、ところどころレッド・フォックスの感情は書かれているものの、それが大袈裟すぎない塩梅が絶妙でした。文章での執拗なまでの情景描写と、時折差し込まれる挿絵が、充分に想像を助けてくれたと思います。ただ、今の子どもたちがこれをおもしろがるかと考えると、疑問も残ります。なぜ今、刊行したかということを、ぜひ版元さんにきいてみたいところです。

花散里:学校図書館に勤務していて、かなり読書力のある子どもたちもいますが、この本は中学生以上だと思います。「シートン動物記」シリーズとも比べられるかもしれませんが、動物物語としてレッド・フォクスが描かれているのだと思います。椋鳩十の作品のおもしろさを知っている子は読めるのではないでしょうか。最近、刊行された『ゆうかんな猫ミランダ』(エレナー・エスティス作 津森優子訳 岩波書店)のように、動物を描いていておもしろかった本もありますが、この本は自然の中でのサバイバル物語として、動物たちが描かれていると思いました。スカンクにとびかかって呼吸困難になるほど強烈な一発をくらい、その臭いのために巣にも入れてもらえなかったけれど、そのあと狩りがしやすくなど、動物の世界のおもしろさが、楽しめました。「シートン動物記」などとも、一緒に薦めてみたいと思う印象的な本でした。

さらら:物語はキツネの父親、母親と子どもたちの話から始まるのですが、主人公となる「レッドフォックス」の名前を出すタイミングが、絶妙でした。

アカシア:原文は最初は小文字のred foxで、途中から大文字のRed Foxになるのでしょうか? 椋鳩十さんの動物物語はもっと情緒的で、ぎりぎりの冷徹な観察に基づいたものとは違うように思います。ただ椋さんの物語を入口にして、こういう作品にも向かってくれればいいですね。

西山:情緒過多じゃないのが、逆に、本が苦手な子には読みやすいということもあるかもしれません。気持ちを読み取るのが苦手で、本が苦手という声を聞くことがありますから。

紙魚:まえがきで、作者が、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物に勝手にあてはめているのではないのです。」と書いていて、その気持ちはよくわかるものの、子どもが最初にこれを読まされたら、あまりおもしろくはないのでは。原書はまえがきなのでしょうが、あとがきに持っていってもよかったのではと感じました。

さらら:この作品は、シートンより少しあとに発表されています。シートンが当時受けた批判をかわすために、こんな前書きをつけたんじゃないでしょうか。

アカシア:一つ一つの文章も、今の子にすると長めなんだと思います。だからといって、今の子に口当たりのいいものだけを出していればいい、というもんじゃない。裏表紙には「小学校上級から大人まで」となっていますね。

(2016年9月の言いたい放題)


いま生きているという冒険

さらら:生きるというのは、世界を経験すること。今生きている普通の世界のむこうにある、さらに広い世界を作者は経験し、若い世代に伝えようとしているんですね。南極まで行けて、よかった! 様々な冒険で広がった想像力を通して、この作者は日常もほんの少し視点を変えればまったく違うものが見えてくることを、併せて伝えています。写真の割り付けに特徴がありますね。写真を文章とは切り離して出すのは、不親切からではなく、その写真を前にして、読者がまず感じることを大切にしているのでしょう。

ルパン:わたしは、これはすばらしい本だと思って読みました。インドひとり旅やエベレスト登山など、個々の冒険だけでも1冊の本になるのに……アラスカ、北極、太平洋横断挑戦など、世界をまたにかけた数々の冒険の末、最後の3行「家の玄関を出て見あげた先にある曇った空こそがすべての空であり、家から駅に向かう途中に感じるかすかな風の中に、もしかしたら世界のすべてが、そして未知の世界にいたる通路が、かくされているのかもしれません。」で、もう胸がいっぱいになってしまいました。KOです。そこだけ切り取ると、言葉だけでは陳腐になってしまいそうなのに。こんなにいろんなものを見てきた人だからこそ説得力のある3行です。ここまでくると、中途半端なフィクションでは太刀打ちできない、と思いました。

アンヌ:若者の冒険談だと思って読み進めていたのですが、p116の白クマとの遭遇あたりから、おやっと思い始めました。ここら辺ではまだ、Pole to poleだったので、冒険ものとして読んでいたのですが、足が震えて白クマが去ったとも動けなかったと恐怖について書かれているところから、成果を語るのが目的ではないと気づきました。特に星の運行術を学ぶあたりからは、冒険ではなく自分自身の中にある先人が持っていた能力を掘り起こす旅になっていき、この章ではとても感動し、羨ましく思いました。ところが、次の空への能力を身につける気球の旅はあまりに無謀で、あっけにとられました。最後の章では、冒険とは何かという考察で始まり、宇宙を内部に持つことが語られていきます。古代の人々が描いた岩壁画や洞窟画、様々な聖地で、別の未知なる世界が自分の中から開かれていく可能性について語るところは、共感するものがありました。現実の世界とは違う世界を探すことは、精神の、想像力の冒険という見解には、実に心を揺さぶられました。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。写真が、カメラマンだから当然ではありますが、すばらしいし、文章も読みやすい。石川さんの文は、他でも読んだことがあるのですが、この本では彼のルーツを順にたどることができて、そういう意味でもよかったです。クラスでいじめを受けたり、イヤな思いをしている子が読んだら、そんな狭い世界のことは大したことない、と励まされるような気がします。外にはもっともっと、広い世界があるのだ、と。もっとも、自分がこれを読んで旅に出たくなるかというと、全然そんなことはなくて(笑)、旅のレベルが桁違いなので、ただただぼう然としながら読み進めていました。自分とこの著者は、生まれ持ったDNAがまったく違うんだなと痛感させられたりもして……。ただ、巻末に近いところで、日常的な生活のなかにも旅はあるのだ、とフォローしてくれている一文があるので、ホッとした次第です(笑)。余談になりますが、この「よりみちパン!セ」というシリーズ、読んだことがなかったのですが、とてもおもしろそうなラインナップで、他にも手に取ってみたいなと、いまさらながら思いました。

アカシア:とてもおもしろく読みました。最初はちょっと疑問を持っていたんです。たとえば、日常は退屈で戦場のような非日常の空間にいると生きてる気がする戦場ジャーナリストっていますよね。この人もそんな感じで冒険アドレナリン中毒なのかな、と思ったんです。でも、最後の「未知の領域は実は一番身近な自分自身のなかにもある」というところに、20代の後半ですでにたどりつく。それはすごいことですね。ところどころにイラスト入りのコラムがあって、その入れ方も楽しめました。

紙魚:今回、選書するにあたって、いちばんはじめに『レッドフォックス』が決まったのですが、日本の作品でそれに並ぶものをと考えると、なかなか浮かばず、違う物差しでスケールの大きなものをと考えて出てきたのが、この本です。石川直樹さんご本人が、なにしろスケールがどでかくて、身体能力も高ければ、強調性もあり、人類学の知識もあり、文学・音楽など芸術にも造詣が深い。どの分野にもつねに能力を伸ばしている、希有な人だと思います。しかも、エベレストに登る1歩と、三軒茶屋の街を歩く1歩は変わらないと、本気で考えているというのも、素晴らしいと思うんです。さきほど、写真の入り方について話が出ていましたが、おそらく、その場にいてその世界を感じるということを、写真でも表現しているのではないかと思います。その場に行ってシャッターを切るだけで、世界はなにも説明してくれない。私たちも、この本を読むことによって、何かしらそこに立ち合っているのではないかと思います。

パピルス:わくわくしながら読みました。高校時代や大学時代。自分も異文化や大自然へ飛び込むチャンスは絶対にありましたが、石川さんのように1歩踏み出す勇気がなかったと思いました。留年して同級生から取り残されるとか、就職活動できなくなるとか、いろんなしがらみがあって、それを振り切ることができませんでした。石川さんは、十代の頃から見ていたものや目指していたものが違ったのでしょう。山への信仰は、畏敬の念からはじまっているというお話が特に印象に残りました。

草場:すごくおもしろく読みました。団塊の世代にはフラッと旅に出る人が多くいましたが、今の学生は保守的ですね。この人みたいに、命ぎりぎりのところに行く人はあまりいない。あの頃は、植村直巳が山だけでなくバラエティに富んだ冒険をしていました。今の若い人も、少しでも冒険をしてほしいですね。留学したくない若者が今は多く、最近は消極的だとききますが、こういう本を読んで刺激を受けて世界に出て頑張ってほしいです。

西山:前にどこかで今の若い人が留学にも消極的とかそういう話が出たときに、30代ぐらいの人だったかな、近年の貧困の問題もあるから経済的にも冒険に行くのが許されない状況があると述べられたことがあります。経済的に上向きのときには、若者がふらふらしているのが許されるのかもしれない。だいたい今の日本で、高校の先生がインドへの一人旅をすすめるというのは、かなり難しいと思います。

レン:状況によるのかなと思います。私が教えている大学では、休学して自費で留学する学生が昔より増えているみたいです。一方で、学生が行きたがっても、親が止めることもあるし。一概に言えないかな。

アカシア:この本でも、「それぞれの街で最安値の宿に行き着くと、そこには必ず日本からのバックパッカーが泊まっています」と書いてあるから、今でも行く人は行ってるんだと思います。ひとくくりに今の若者が保守的とは言えないかも。

西山:本文のおまけのような、カット入りの注釈がおもしろかったです。例えばp16のバックパッカーの説明とか、笑える。ちょっと気になったのは、気球で高度をあげる危険を語っているところで、「死ぬ前の一瞬の恍惚だったといいます」という記述がありますが、体験者は死んでいるのでは。全体としては、おもしろく読みました。p264の1行目に出てくる「見晴らしのよい静寂なところ」という言葉が気に入って、今回合わせ読んだほかの2冊にも出てきたなぁと。なんか、作品とは離れて、そういう場所が出てくる作品って素敵なんじゃないかと思ったりしました。p124の最終行に「マヤ」とあるのは、インカのまちがいですね。ちょっと残念。

レジーナ:私は勤め先のブックトークで紹介しました。犬ぞりの操縦者の家の前に並ぶたくさんの犬小屋の写真や、気球で生活するときの小さなゴンドラの写真を拡大して見せましたが、中学生は喜んで見ていました。私は中学のとき、学校で長倉洋海さんや辺見庸さんの話を聞いて、とてもおもしろかったのを覚えています。今、「この国はこう」と決めつけるメディアが増えていますが、世界に飛びだして自分の目で確かめることができなくても、こういう本を読んで世界を広げてほしいです。

花散里:今回の課題本になるまでこの本を知りませんでした。「よりみちパン!セ」シリーズが、薦めてみたい本のシリーズではなかったから読んでいなかったのかもしれません。読んでみて、世界中を旅してすごいと思いましたし、たくさんの写真が紹介されているとは思いましたが、文章に引っかかるところが、かなりありました。個人的には「深夜特急」(沢木耕太郎著 新潮社)で、アジアを知り、「旅とは何だろう」と思ってきました。この本は中高生向きだから、こういう書き方なのだろうか、という感じがしました。「深夜特急」以降バックパッカーが多くなり、紀行文やノンフィクションの書き手も増え、藤原新也さんの作品などが多く世に出たという時代の流れもあるのかもしれませんが……。小学校では、「グレートジャ―二―」のシリーズを借りて読んでいる子もいます。

アカシア:文章がひっかかったというのは、どこ?

花散里:全体的な印象ですが……。中高生に向けて書いているから、ちょっと浅いというか、こういう表現なのかしらと、思える文章が気になりました。

マリンゴ:沢木さんの『深夜特急』は全巻読みましたし、藤原新也さんも読みましたが、石川さんとは、アプローチが違う気がします。むしろ真逆なのかな。前者の方々は、自分探しの旅といいますか、自らの内面に向けて書いているところがあるように思うのですが、石川さんは外に向けて書いているのではないか、と。

アカシア:この著者が子どもだからこの程度でいいと思って書いているとは、私は思いませんでした。最初は好奇心でどんどん進んで行って、次々に新しいことに挑戦しているから、一つのテーマや場所を見つめて深く、というのとはもともと違うんだと思います。「よりみちパン!セ」は、いろいろな分野の入口として存在してるから、入口の役目が果たせればいいんだと思うし。

レジーナ:昔の中高生はちくまプリマーなど新書を読んでいましたが、今は大学生が読んでいるので、「よりみちパン!セ」はより読みやすい中高生向きの新書として作られたのでは。大学のとき、論文で新書を引用した人がいて、先生が激怒していましたが、新書が学術書でないように、このシリーズも高度な読書にはならないけれど、そこから広げていける本ではないでしょうか。

アカシア:昔は岩波新書が中・高校生の学問の入口だったと思うんです。今はそれじゃあ難しいので、こういうもう一段わかりやすいシリーズになってるんじゃないかな。

花散里:「インド一人旅」のp29「地獄におちてもらうぜ!」などの書き方が、これでいいのかしらと思いました。世界中を旅して、この1冊にまとめるのには無理があり、全体的に盛り込みすぎな印象でした。

アカシア:深いところにおりていってそれを伝えるというのとは、やり方が違うし、このページ数で、しかもあちこち行っているから、それは仕方がないのでは? 「深夜特急」も「グレートジャーニー」も大部ですから、もっと細かい観察ができる。藤原新也もたとえばインドだけで400ページ以上あるわけですから、当然のことながら細かく観察しつづけている。こっちは、同じような好奇心でも、どんどん違う方向に行くので、一つのことについてが浅いといえば浅いですが。沢木さんや藤原さんの本は著者と一緒に地面を這っていくような感覚になれますけど、これはここと思えばまたあちら的に陸から海、海から空みたいに飛ぶので、しみじみ観察するということはない。でも、好奇心をこういう形で持続させるのもありだと思うんです。また、若い勢いのあるうちは、先人がすでにやっていることを繰り返すのは嫌なんだと思うんです。だからインドならインドをじっくり歩いたりしても、それは他の人がすでにやっているので、二番煎じになる。そういう意味では、判断力にしても身体能力にしても、いろいろな場面で自分を試してみようと思って、しかもそれを可能にしていくのはやっぱりすごいと思います。

花散里:p17の、旅に出るということはどういうことなのかの説明にも私は違和感が…。

アンヌ:私は、この1冊の中で著者がどんどん年齢を重ね、その過程で考えを深めていく感じがしました。いわゆる冒険家とは違う人だなと思い、とても新鮮でした。

(2016年9月の言いたい放題)


エベレスト・ファイル〜シェルパたちの山

ルパン:ストーリー性豊かで、読んでいるときはおもしろかったのですが……読み終わってから、どうも釈然としないものばかりが残ってしまいました。まず、大統領候補のブレナンが選挙戦中に悠長に登山していていいのか、という疑問。ブレナンに雇われているカミが、ブレナンが休んでいるのに自分は働くことに不平等感を持つのはそもそもおかしい。ジャーナリストであるサーシャが取材相手のブレナンとどなりあったり、ブレナンを面とむかって批判するのもリアリティがない。最後は、カミは全身麻痺、サーシャは死に、ブレナンは世捨て人になり、ニマはブレナンでなくカミを恨んだままアル中に。ともかく救いのない物語。読後感が悪く、登山の様子はよく描かれていますが、子どもに薦めたいとは思いません。物語の意図が、シェルパという職業の人たちにスポットライトを当てたい、ということだったのであれば、完全な失敗だと思います。カミの悲惨な運命には、シェルパへの敬意が感じられません。

アンヌ:最初の語り手が、ギャップイヤーという大学生以前の男の子で、何も知らない様子なのに、いきなり単独行で山奥の村まで医薬品を運ばせるという設定には驚きました。行方不明のカミがほぼ全身まひになっているというところからカミが語る物語が始まるので、ひどいことが起きるのだろうと思いながら読んでいくのはつらく、一度は読むのをやめてしまったほどです。これだけ人が登っているエベレストで、嘘をついてなんとかなると思ったりするのも変で、償いの仕方ももう一つ納得がいきません。最後がエベレストの魅力で終わるのも、奇妙な感じです。山への畏敬の念がない人が書いたんだなと思い、価値観の違いを感じました。お坊さんの話の引用も中途半端で、いかにも「悟り」とか好きそうな欧米人という感触でした。

マリンゴ:惹きつけられる内容で、一気に読みました。ただ、著者のサービス精神が旺盛すぎるように思います。シェルパが山を登って降りてくるだけでも、じゅうぶん読ませるのに。でも、シェルパ族が主人公では、読者がとっつきにくいと思ったのかなぁ。出だしはイギリス人のナビゲーターにしたほうが、イギリスの読者には親しみやすいと考えたのかもしれません。それにしてもシェルパが主人公というのは興味深かったです。これまで登山成功のニュースを読んでも、私自身、関心をもつのは山を登った“外国人”のほうでした。シェルパは高地に強くて、黙々と荷物を運び続ける職業の人、という程度の認識しかなかったので。また描写は、著者本人が実際に登頂しているだけあって、リアルでした。山に遺体があちこち放置されたまま、というのは知らなかった……。遺体を収容できなくても、その場に埋めると思い込んでいたので……。第2弾も出ているとのこと、ぜひ読みたいので、早く翻訳してほしいです。

アカシア:謎に引かれて一気に読みはしましたが、そんなに好きになれませんでした。西欧的な価値観と世界観で書かれているような気がしたんです。たとえばユキヒョウを助ける場面ですけど、自分の生存が脅かされているような地域の人たちは、普通は自分や恋人や家族の命の危険を冒してまで、野生生物を救おうとは思わない。そんなぜいたくはできないんです。それがシュリーヤもカミも、計画もなしに危険を冒す。カミだって携帯電話やメモリーカードを使われたらどうなるかわかっているのにすぐに返してもらおうともしない。この作者はシュリーヤやカミのことを、ピュアだけど知恵なしだというふうに描いているのかと思いました。そうでなければご都合主義。それからカミが頂上まで行けなかったのはカミのせいじゃない。ブレナンが命じたからだし、高山病にかかっていそうなブレナンを支えなきゃと思ったからです。でも、著者はカミに「神様たちにむかって『ごめんなさい』と叫びたい、ばかげた衝動にかられた。あんなに近くまで行ったのに、信仰の証を示せなかったことが申しわけなかった。シュリーヤからあずかった捧げ物を、神々の手にあずけることができなかったことも。そして、ブレナンを頂上に立たせてやれなかったことが申しわけなかった」と言わせている。著者はその後もさんざんカミに悩ませて、雪崩という罰まで加えている。カミはブレナンにはめられたわけですが、首から下が麻痺して寝たきりになり、はめた本人のブレナンが「カミは特別な人間だ」なんて言いながら隠者顔してそばにいる。それなのに著者はカミに「よくきてくれたね」などと語り手に笑顔で言わせている。私は読んでいて気分悪くなりました。歴史的に欧米人に命令されて動くしかなかったシェルパの人たちは、本来ならどこかで生きる知恵を身につけて、割り切り方も知っているはずなんです。もしカミにそれでも申し訳ないと思わせたいなら、遠征隊とは違う理由でカミなりにヒマラヤ(という名前からして西欧的で、この著者の意識を表しているような気がします)の頂上に登らなくてはならない理由があったと著者は書くべきです。それもないので、ご都合主義的に見えます。

パピルス:読んでみたいと思っていた本です。おもしろく読みました。他の方がおっしゃるように、ブレナンがエベレストに登ることで、大統領選にどう影響するのか、おかしいと言えばおかしいですが、そういうものだと思って気にせず読みました。著者がエベレスト登山を経験しているため、ペース配分や酸素ボンベの使い方など細かいところまでリアルに描かれていて、展開を盛り上げたと思います。また、純粋なカミの十代ならではの苦しみがよく伝わってきました。サーシャとの友情や、ブレナンへの忠誠心、シュリーヤへの想いなどです。こういった部分はヤングアダルトならではだと思いました。

西山:おもしろくて一気読みしました。おっしゃる突っ込みどころは、聞けば同感ですが、そういう心理を気にせずに読みました。謎解きで引っ張られてるんですね。ツッコミどころ満載だけど、気にしなければ読める、という読み方自体どうなんだという問題は残ると思います。ただ、テキストだから読みましたが、この表紙で、このタイトルでは、山に興味のない私は手を出さなかったと思います。ノンフィクションだと思っていましたから。

レン:先が知りたくで、どんどん読めました。ストーリーの強さがある作品ですね。ただ、腑に落ちないことがいろいろありました。獣医になる前の社会貢献をする機会としてネパールにやってきた「ぼく」が、いきなりグーグルアースにも出てこないような村に一人で向かうというところで、まずひっかかって。作者はブレナンを嫌なヤツに描きたかったのだろうけれど、あまりに一面的かなとか。内容的に、こんなこと言うかなあ、するのかなあと思ってしまうことがたくさんありました。「シェルパたちの山」と副題にあるのが、あまりピンとこず。山を甘くみちゃいけないということ? 読ませられるけれど、積極的に薦めたいとは思わない本でした。

レジーナ:展開が早く、次々に事件が起きるので、一気に読んでしまいました。副題に「シェルパたちの山」とありますが、シェルパの人たちの人間性は深く描かれていません。作者は、エベレストの厳しさと、社会の不均衡が書きたかったのではないでしょうか。ユキヒョウを助けようと突っ走るシュリーヤのような人物は、ハリウッド映画にときどき出てきますよね。『ジュラシック・パーク』とか。

パピルス:ユキヒョウのところは、カミとシュリーヤが深くつながるきっかけですよね。

花散里:今回の3冊の中で、私はこの本がいちばんおもしろかったです。本書は少年カミを描きたかったのだと思います。ユキヒョウが登場する第3章は、設定が上手いと思いました。シェルパたちの話は、新田次郎の『強力伝』(新潮社)など、山岳小説を思い出しながら読みました。アメリカ人のブレナンなどは物語の登場人物であり、人物像などは、豊富な資金を提供する人間、そういう設定なのかと気にはなりませんでした。ネパールの僻地に医薬品を届ける若者を登場させてストーリーを展開していくことで、カミとシュリーヤの関係性がわかっていくという構成もうまいし、お金がほしくてやってはいけないことをやってしまったという、カミが罪の意識に苛まれていくところも、最後まで一気に読ませると思いました。原田勝さんが訳されたということも、この本を読んでみたいと思った一因でした。

アカシア:でも、この状態で罪の意識をカミに感じさせるのは、西欧的な視点だと思いませんでしたか?

花散里:お金を得るには、それしか考えられなかったのでないでしょうか。

アカシア:だったらなおさら、著者はなぜカミに罪の意識を感じさせるんでしょう?

花散里:ブレナンに対して拒絶できなかったこと、シュリーヤとの約束を守れなかったことを、「捧げ物を、神々の手にあずけることができなかった」と表現したのではないでしょうか。

アンヌ:シェルパの人たちが持っている信仰は別のものではないでしょうか。カミは雇われて山に登っただけ。それなのに、嘘をついたことへの罪の意識とか、罰が当たったことを受け入れているところとか、何か同じ価値観を押しつけている気がします。

花散里:愛情表現ではないでしょうか。

アカシア:カミは遠征隊の中では自由意志が発揮できない存在なんです。シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけないんです。「純粋だけど愚か」という設定にしているんじゃない?

ハックルベリー:児童文学の山登りものといえば、山を登るのは感動的で、基本的にいい人という描き方がほとんどでしたが、名誉名声のために登るとか、シェルパをお金で買って登るとか、汚いものがリアルにからんでいる、というのがおもしろいと思いました。シェルパの人たちの価値観は描かれていると思いますが、なにぶんカミは若いです。お金がほしいとか、愛を貫きたいとか、思いが単純で、まだまだ未熟で、シェルパの地域の価値観もわからない中で、どんどん悪い方に巻き込まれている感じが悲しい。カミはそのつど純粋に悩んで決めているんだけど、ひとつひとつどこかずれていく。カミとニマが山に置き去りにされる場面など、衝撃的で、胸に迫りました。簡単に人の命が犠牲になる、そうして世の中から置き去りにされていく人たちを描いている文学という気がします。山に登るピュアな気持ちとか、感動とかいうより、この世界に置き去りにされていく、というのを描いていると思いますし、それは実際にあることです。そういう社会構造そのもののおかしさとか、愚かなことがつみかさなっていって、こうなりたくないという例の物語として読みました。

アカシア:だれも幸せにはならない物語ですね。

ハックルベリー:「山登りの汚さ」も見るべき、と思いますし、そういう物語があってもいいと思います。

(2016年9月の言いたい放題)


<翻訳者・原田勝さんからのコメント>

バオバブのブログの読書会の記録で『エベレスト・ファイル』をとりあげてくださってありがとうございます。
この物語は世界最高峰をめざす過酷な登山を背景にしているだけに、つらい描写もたくさんあるのですが、読書会に参加なさった方の発言の中には、少し、訳者であるわたしの理解と異なる点があり、メールをさしあげました。また、原作者のマット・ディキンソンの社会的な批判の目や、また自ら登山や冒険、過去の取材を踏まえた彼の執筆活動も尊敬していますので、そういう面でもいくつか訳者からの補足情報を以下に書きたいと思います。読書会のメンバーの方にお伝えいただけると幸いです。

1)大統領選中の登山
たしかに、少し無理もありますが、ブレナンは本選挙前の、そして、党指名を勝ち取る予備選挙の、さらにその前の時期に登山しているという設定です。

2)サーシャがブレナンとどなりあう
これは、ブレナンがサーシャの報道の自由を侵害するような行為に出たからで、ジャーナリストとしては極めて当然のことです。実際にこういうことはあると思います。日本の記者クラブの御用記者体質がむしろ批判されるべきでしょう。

3)カミが全身麻痺で終わることについて
これは、じつはわたしもつらいと思っていたのですが、もともとこの作品は三部作の一作目で、先月来日していたマットと会った際にきいたのですが、三作目の完結編で、このつらい状況を補うような方向での結末が用意されています。残念ながら、これは現時点ではネタばれなので、ここには書けません。訳せるといいのですが……。

4)シェルパへの敬意が感じられない
ニマのアル中のことや、カミの容体などを見るとたしかにそうもとれますが、しかし、そもそも、シェルパを主人公にした作品が大人向けの山岳小説にもほとんどないことを考えると、原作者の強い思いを感じます。マット本人から聞きましたが、イギリスの大手の出版社は、主人公がシェルパであることがネックで、なかなか出版が決まらず、結局、版元はアウトドア関連の本を出版している比較的小さな出版社になったそうです。
また、海外の登山隊が落とす外貨がシェルパの収入源になっているのは事実で、お金をめぐるトラブルも多々あると聞いています。また、同じように命がけで登山しているのに、その配慮がないこともあります。お金のために、過剰な荷を背負って事故にあうこともあります。作品中で、カミとニマは撮影後、クレバスの中に取り残されますが、これは実際にあった事件を題材にしているそうです。
カミがあまりに純粋なので、ばかにしている、というような意見もあったようですが、いくつかのネパールでの旅行記などを読むと、シェルパ族の人たちの人の良さというのがうかがわれ、決して馬鹿にしているのではなく、民族の美点として抽出していると、わたしは考えています。

5)自然への敬意
シュリーヤがユキヒョウを守りたい一心で行動することに対して、そんなぜいたくはできない、という意見もあったようですが、とても残念な意見です。たしかにそれどころではない人も多いでしょうが、ネパールの人たちが自分たちの暮らす地域の自然を守ろうとする気持ちで行動することはきわめて当然ですし、もちろん、フィクションなので、こんな危ないことはしないと思いますが、彼女の気持ちはわたしにはとてもよく理解できます。

6)山への畏敬の念と山の魅力
カミがエベレスト(ネパール語ではサガルマータであることが、きちんと作中ふれられています)に登りたいと思い、ライアンがラストシーンで、エベレストの姿にどうしようもない引力を感じ、また、そもそも、世界中の登山家がエベレストに登りたいと思う気持ちは、あらゆる危険や犠牲を超える不思議なものだとわたしは思います。
じつは、ライアンがエベレストを遠くに望むラストシーンは、第二作の “North Face” で、彼自身が主人公となって、今度はチベットでの冒険が描かれることへのつなぎでもあり、それはこの作品を読むだけでは感じられないかもしれませんが、理屈抜きの魅力を夕日のあたる山頂で表現したのは、とてもうまいと、わたしは感じています。

7)カミの罪の意識
シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけない、という意見がありました。そうでしょうか? たしかにお金で雇われてはいるのですが、きちんとした遠征隊で、立派なシェルパであるならば、エベレスト登山は単なる仕事ではないはずです。シェルパの人たちにとって、エベレストは信仰の山でもあり、また、世界最高峰でもあるし、なにより、人間の限界に挑む命がけのチャレンジであるはずです。
その神聖な山に登っていないのに登ったと嘘をつくこと、また、ベテランのシェルパであれば、もっと早くテントを出発するよう助言できたのではないか、あるいは、もっと早く引き返す決断を下せたのではないか、そういう悩みがあるがゆえに、カミは罪の意識を覚えるのです。

8)だれも幸せにならない物語
これも、三作めの一作目であることが大いに関係しているとは思いますが、たしかに厳しい物語です。しかし、エベレスト登頂がやはりとても大変な事業であり、頂上を目前に引き返した無念さを味わった登山家も多く、また、無理をして登頂には成功したものの下山中に命を落とした登山家も数多くいるのです。それでもなお、なぜ、世界中の人たちが登頂を目指すのか、答えはひとつではないでしょうが、少しでも、その危険な魅力を読者に感じてもらえればと思います。

9)ご都合主義について
たしかに、ちょっと無理があるんじゃない、という設定はありますが、エンタテインメント性を備えた小説には許される範囲だとわたしは思っています。これは、この作品に限らず、とくにヤングアダルト作品には、こうしたアドベンチャーもの、SF、スリラー、ホラー、サスペンスなど、がもっとあっていいと考えています。大人だけがこういうジャンルを楽しんでいて、若い読者はつじつまのあうものだけを読まされるのはどうなんだろう、と前から思っています。わたしの訳したものの中では、ケネス・オッペルや、ガース・ニクスが、もっと日本で評価されるとうれしいのですが。

10)原作者の意識
マット・ディキンソンは、BBCやナショジオの映像作家をやってきた関係で、自然保護やアドベンチャー、社会正義といったテーマにとても敏感な作家です。ヤングアダルト作家としての最初のシリーズは、いわゆるバタフライ現象をもとにした、エコロジカルなサスペンスでした。この「エベレスト・ファイル」のシリーズは、すでに “North Face” という二作目が出ていて、三作目、”Killer Storm” は来年出る予定。訳せるといいのですが。
今年は “Lie, Kill, Walk Away” という、政府による内部告発者の抹殺を背景にした(実際にそうではないかと疑われている事件がイラク戦争にからみ、イギリスでありました)、ヤングアダルト向けのサスペンスものを書きました。
ただ、これも大手の出版社からは出してもらえなかったそうです。
こういう作家がいてもいい、と思います。


霧のなかの白い犬

ルパン:読みでのある本なのだろうと思いましたが、すぐに訳でひっかかってしまって、物語の中に入れませんでした。語り手は小さな女の子のはずなのに、おとなの男性のような話し方をしていたり、2、3ページの中に何度も同じ言葉がでてきて興ざめだったり。登場人物も多すぎて、結局どんな話だったのかつかめず、いいのか悪いのかよくわかりませんでした。原文で読んだら全然違うんでしょうか。ただ、最後のおばあちゃんが昔ナチスだったというのは、そこまで衝撃的なことなのかな、と思いました。ヨーロッパの子どもにとっては、ナチスだとわかることがそんなに恐ろしい大変なことなんだ、というのは初めて知りました。

アカシア:あの時代は、ナチスの洗脳がすごかったので、ほとんどの子どもたちがヒトラー・ユーゲントに入っていたんじゃないですか。後には強制加入にもなるし。

ルパン:ともかく、日本人にはあまりピンと来ないことで、子どもならなおさらそうでしょうから、もし本当にこの本のとおりであるなら、ヨーロッパの子どもの感覚を知るうえではいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても盛りだくさんな物語で、うまく読み解けず、みなさんのご意見を聞いてみたい作品でした。身近に移民がいて、父親が彼らに仕事を奪われてフランスに出稼ぎに行っている生活。今という現実を映している物語だと思いました。親の離婚で傷ついたいとこが、人に嫌がらせをしたり移民をいじめたりする。祖母に認知症の傾向が見え始め、主人公が不安に思っている。そのうえさらに、違う名前で送り続けられる郵便の謎があって、最後の最後にナチスの話が出てくる。それらがうまく絡み合っていき雪だるまのように大きくなるかというと、そういうわけでもない。いきなり最後に大物がドンと出てくる感じで、話が終わっていく。特に、私に読み解けなかったのが、おとぎ話の課題です。全然物語と絡み合って行かなくて、どういう風に読んで行けばいいのか、教えてもらいたいと思いました。

アカシア:この訳者の方のほかの作品を読んでじょうずだなって、思っていたのですが、この本は読みにくいですね。編集者がもっとアドバイスしたら違ってたのかな、なんて思いました。ヒトラーがユダヤ人にペットを飼うのを禁じて、飼っていたペットは殺処分にしたという事実は知らなかったので、びっくりしました。ホロコーストやヘイトの問題を、過去のナチスと現在の外国人労働者に対する感情とを比べることによって浮き上がらせようとしている著者の心意気はいいのですが、問題をベンのおばあちゃんがほとんど言葉で語ってしまっているのは、どうなんでしょう? 主人公はいい子すぎて、なんでも親にすぐ打ち明けなきゃいけないと思っているのは嫌ですね。盛り込みすぎなせいか、一つ一つの問題が深く掘り下げてなくて情緒的に終わってしまうことも気になります。私は、ホロコーストものにある種の欺瞞性を感じてしまうのですが、今はアメリカに住んでいるベンのおばあちゃんが「いいえ、そんなことはさせない。自分たちが許さない。わたしたちが愛してきたものや、いまも愛している者を、すべて壊す権利なんて連中にはないのよ。そういう事態がひき起こされる兆候をいまではわたしたちもわかっている。今度はとめられる。・・・」と話したりする場面にも、そうした無意識の欺瞞性を感じてしまいました。たとえばイスラエルがガザで何をしたのか、とか、アメリカがイラクで何をしたのか、と考えたとき、こういう本って、きれいごとで子どもを騙してることにもつながるんじゃないのかな。それから、外国人排斥が戦争の原因であるように描かれていますが、戦争の原因はもっと経済的なものであることが多いので、そこも短絡的だと思いました。表紙の絵は、ホワイトジャーマンシェパードの子犬には見えないですね。耳の先がちがうのかな。

マリンゴ:今の発言の後に言いづらいんですが(笑)私は今日読み終わったんですけど、電車の中で号泣しました。クライマックスの、こういう盛り上げに、涙腺が自動的に反応するんです(笑)。海外から来た労働者の問題、ケイトのことなどを、ナチスとユダヤに重ねていく手法って、現代の子どもたちが戦争を考えるきっかけになるのかな、と思いました。ただ、気になったのは構成上の問題。白い犬の少女がおばあちゃんだというのは、読者はわりと早く気づくわけなんですが、終盤に来ても「おばちゃんがわたしたちをナチスの一員にしたかった」と、ミスリードしています。これは不要では? ミスリードが効果を発揮していると著者の方が思われてるなら、少し計算のズレがあるかと。あと、おとぎ話から始まったので、ラストをおとぎ話でシメるのはカッコイイはずなんですが、あまり効いてない……。内容が抽象的でピンと来ませんでした。少女が書いている文章(という設定)なのだから、もっと直截的でもよかったのかもしれません。

レン:読み始めたとき、認知症が出始めたおばあちゃんのことや、いとことのぶつかりあいが話の中心になるのかなと思ったんですけど、そのあと犬を飼うこと、おばあちゃんが隠してきた秘密、外国人の移民のことなど、どんどん話がふくらんでいって、全体に盛り込みすぎという感じがしました。犬にからんでおばあちゃんとベンのおばあちゃんが出会うところがクライマックスですが、あまりにも都合よく偶然が重なりすぎでは? リアルに感じられませんでした。文章もところどころひっかかりました。まず、あれっと思ったのは、冒頭とラストのお話を書くところで出てくる「英語のハンター先生へ」。これは「国語」ではないでしょうか? 自分の言語の授業の時間に作文しているんですよね? 「英語」となっていると、子どもの読者は外国語の授業をイメージしてしまいます。そんなわけで、積極的に子どもに勧めたいとは思いませんでした。

アカザ:テーマをあれこれ盛り込みすぎた作品ですね。それぞれのテーマは、とても大切だし、心を打ちますが、おばあちゃんと犬の話だけをしっかり書いたら、それだけで十分だったのではないかしら。みなさんがおっしゃるように、翻訳についてはポストイットがいくらあっても足りないくらい、おかしな個所がたくさんあるけれど、一つだけ言わせてもらえば、登場人物の呼び方が統一されていないのが、まずいですね。たとえば、主人公の母親が義理の母親のことを「お義母さん」と呼んだり、「エリザベス」と呼びかけたり。ベンの母親も、「ベンのお母さん」といっていたかと思うと、少し後ろの行では「ミセス・グリーン」といったり。これでは、ただでさえ複雑な物語がますます分かりにくくなってしまう。大人の私でさえ、「えっ、エリザベスって誰だっけ?」「ミセス・グリーンって?」と思ってしまいました。そのあたり日本語ではわかりやすくしておくことは、児童書の翻訳のイロハだと思っていたけれど……。

さらら:翻訳の読みにくさの続きですが、p51の5行目「マーク叔父さんが突然やってきて、学校で課題が出たから、フランを自分の両親のところへ連れて行くって…」の部分、何度読んでも主体がだれなのかよくわからないんです。

アカザ:p50の「手をのばして、毛皮に指を通してみたかったけれど」って、毛皮って毛のついたままの皮のことだから、指を通したりしたら大変!

さらら:そう、どうせ犬を描くのなら、目の前に本物の犬がいるのが感じられるように、生き生きと訳してほしいところです。なにしろ、犬が大切な要素を果たす物語ですからね。それから、物語の筋道が読者にちゃんとわかるように、するべきではなかったかと……。例えばp161の「できることなら、あの時にもどって、あのドイツ人の女の子を探したい。」は、前の文脈とそこで大きく変わり、この物語の真髄に入っていくところなのだから、それがわかるように「けれども」を足すとか、一工夫してほしかったなあ。

ルパン:訳すときに適切な接続詞を補うべきところを怠って、そのまま訳しているな、というところが随所に見られますね。たとえば、逆説的なところでは、日本語なら「しかし」「それなのに」などの言葉がないと不自然なはずですが、そういったところへの配慮がないので、子どもは読んでいて混乱するのではないかと思いました。

さらら:翻訳の文体が定まらないのも気になりましたね。メインストーリーだけに注目すれば、悪くないお話なんです。ナチスドイツの時代を、なんとか生き延びたユダヤ人少女と、その飼い犬の命を救ったドイツ人少女の、引き裂かれてしまった友情。その友情が孫たちの手でふたたびよみがえる、というお話でしょう? 原作と翻訳、その両方の整理不足によって、残念なことになってしまいましたね。

〔西山〕:読書会が終わってから、地元図書館でやっと借りだして読みました。皆さんが指摘していましたが、p28の3行目で一人称なのに、自分とケイトのことを「ふたり」と書いているところなど、やはり、立ち止まるところが多々ありました。これが応募原稿だったら、「気持ちはわかるけれど、もっと整理して」と言いたくなりそうです。ただ、難民の子、車いすの子、ダウン症の子(?)を登場させているのは、それらがナチス的な価値観で排除される存在だから、どこかに絞りたくなかったのかもしれません。p106で、過去にしろ現在にしろ、悲しい気持ちにさせる事実を突きつけられて、そういう気分を振り払いたいけれどできない、という感じには共感しました。奇しくも相模原の事件と平行して読み終えることとなり、石原慎太郎などのヘイト発言が野放しにされている日本で、優生思想が実は遠い過去のものじゃないという恐ろしい現実を突きつけられた気分です。

(2017年7月の言いたい放題)


ぼくのなかのほんとう

マリンゴ:サラのシリーズを原文で読んでいて、とても好きで。英語がとりたてて得意でない私にさえ、とぎすまされた文体だというのが伝わってきます。その著者の作品ということで、読む前から好感を持ってしまっていて、だからちょっと甘めの採点になりますが、楽しく読了しました。もっとも訳者の方のあとがきが、本文をなぞることに終始した内容だったのが残念でした。もう少し、作家さんの情報を知りたかった……。読書感想文を書きたい子どもたちには、こういうタイプのあとがきが、参考になるのかもしれないですけれど。

レン:表紙や字組が小学生には読みやすそうで、さっと読めるには読めたのですが、私はこの子の悩みがくっきりと見えてこなくて、気持ちを寄せられませんでした。音楽家の両親のもとで、この子がどう感じているとか、おばあちゃんのことを両親がどう思っているとか、書かれていますがよく見えてこないというのか。どう読んでよいのか、よくわかりませんでした。

ルパン:正直、あんまりおもしろくありませんでした。先ほどから翻訳のことが取り上げられていますけど、私は、こちらの本は訳文以前に、ストーリーというか内容にいちいちひっかかってしまって、楽しめませんでした。それは訳の問題だったということでしょうか。たとえば、きょうだいがほしいという子どもに向かって母親が「どうしてもうひとり子どもがいるの? あなたがいるのに」と答える。それが、ひどい母親、ということになっているのですが、どうしてひどいんだろう?と思ってしまいます。「あなたがいてくれるだけでじゅうぶん」という母親、別の子どもはいらないという母親は、むしろ愛情深いんじゃないかと思えるので、子どもが不満に思う理由がよくわからない。ここは、「あなたひとりでたくさんよ」とでも訳せば、「そんなのひどい」という子どものせりふとつながると思うのですが。それから、これはオリジナルの問題だと思いますが、「マッディには不思議な力がそなわっている」「マッディがすばらしい」「ヘンリがすばらしい」とかやたら出てくるんですけど、どこがどうすてきなのか、ぜんぜん伝わってこないので、そういう言葉が重ねられることで、かえってどんどんつまらなくなってしまいました。

レン:おばあちゃんが骨折したのは、どういう意味があったんでしょうね? この子が一人でがんばるということ?

アカシア:この子と、お母さんと、おばあちゃんが最初はいろいろ気持ちが食い違っているんだけど、最後には理解し合うようになるっていうのがこの本のテーマだと思うんですけど、それがうまく伝わってこないので隔靴搔痒感がありますね。

アンヌ:すごく好きな作家の本だったので、後に余韻が残る感触を楽しみたいと読み始めたのですが、そうはなりませんでした。きっと、気づいていないだけだと思い5回ほど読み直して、やっと、作文の意味とか練習風景を見るロバートの視線とかで、ロバートをクールな少年という風に書こうとしているのかなと思いました。それにしても、ヴァイオリニストのママが、自分の親が動物に好かれる能力があるのに気づいていないところとか、少し無理があるような気もしてします。マッディの骨折の場面も、ロバートが大人になるというより、ヘンリーがクマやボブキャットと交流できるマッディの真実に気づくということの方が重要な気がして、どうして、ロバートが自分の中のほんとうに気づくのかうまく読み込めませんでした。生活の中の音楽の重要性もロバートが気づくことのひとつなので、「死と乙女」を何度も聴いて見たりしたのですが、すっきりしませんでした。

アカシア:マクラクランは微妙な心の動きを書いて読ませる人なので、ロバートはクールというより、熱でいっぱいなんだけどそれを抑えざるをえなくなってるっていうことなんじゃないのかな。こういう作品って、行間を読ませる訳にしないといけないから難しいんですよね。この訳だと、そこまで行かないのでちょっと残念。p31に『ちいさなくま』という本が出てきますが、これはミナリックとセンダックのLITTLE BEARでしょうから、『こぐまのくまくん』とちゃんと邦題で訳してほしい。そうすれば、子どもがもっとイメージを思い浮かべやすくなります。犬の名前もエリノアじゃなくてエリナーでしょうね。

(2016年7月の言いたい放題)


墓守りのレオ

アンヌ:題名を見た時から、ピーター・S・ビーグルの名作『ここちよく秘密めいたところ』(創元推理文庫)に似た話かなと危ぶみながら読み始めました。まあ、「吸血鬼」の例もありますから、いろいろなバリエーションで拡がって行くのもおもしろいとは思います。『ここちよく秘密めいたところ』は、霊園の中の霊廟に住みついた男が主人公で、幽霊と話ができます。カラスが運んできた食物で生きていて、カラスは男とも幽霊とも話ができる。『墓守りのレオ』では、主人公の少年レオは正式な墓守として霊園に住み、同じように幽霊と話ができて、一緒に住んでいる犬は彼とも幽霊とも話ができる。そして、その霊園での生活に、殺人事件が絡んでくる。似ているのはここら辺までです。『墓守りのレオ』では、幽霊は自分が死んでいるのだと気づいた時にあの世へ行かないと、幽霊としてこの世を永遠にさまようという決まりがあります。他にも、これは少し反則ではないかと思える仕組みがあって、幽霊が物を持てたり、書類を書いたりできます。まあ、飴買いの幽霊とか、物が持てる幽霊はたくさんいますが、書類を普通に書ける幽霊は初めてです。幽霊にこんなことができたら、遺言書も書きかえられちゃって推理小説などは成り立たなくなるんじゃないかと思いながら読みました。第1話が自覚のない幽霊の話で、幽霊が自分の死に気がついた時にあの世へ行くというきまりがここで説明されます。第2話では、犬が語り手になって、レオの生い立ちが説明されます。ここまででなんとなくこの物語世界の仕組みが分かり、第3話は、いよいよレオが幽霊と話せる特殊能力を持って、生きている殺人者を改心させます。一応おもしろいけれど、この少女を狙い続ける連続殺人者にあまり同情心はわきませんでした。3話中2話が殺人事件ですから、暗澹たる気分にもなります。生きている者や死んでいる者、それぞれの世界での独自の物語がまだ始まっていない気もします。シリーズ化する予定があるからでしょうか? 主人公に魅力はあるけれど、構造や物語の方向性に不満が残る感じでした。

ルパン:私も、幽霊が物をさわれる、というのにひっかかりました。ご都合主義で、物語が台無しになっている気がします。唯一、最初の「ブルーマンデー」は、女の子が死んでいる、という設定にドキっとさせられましたが、あとの2編はおもしろいと私は思えず、好感も持てませんでした。文庫の子どもに読ませたいとは思えませんでした。

さらら:まんがの原作を読んでいるみたいな、人物像のうすっぺらさが気になり、お話の中に入ろうとしても、入っていけなかったんです。最初のほう、p14の「彼は、特別な男の子。理由なんてわからないけれど、そんな気がした」というエミリアの語りに、まずつまずいてしまいました。こういう文体がはやっているのかなと思いなおし、そういう視点で読むことにしてみました。翻訳調ですよね。p169の「彼は、わたしの理解の範疇を超えていた」を例にあげるまでもなく。もってまわった文体は別にしても、幽霊が普通なら許せない存在のパパを「許すわ」って、すぐに言ってしまったり、ママが娘の昇天にすぐ納得してしまったり、これで読者は満足するのかなあと、疑問が残りました。

レン:書き割りのような場面で、輪郭だけの人物が動いているような感じで、あらすじを言えば足りてしまうお話だなと。最も違和感をおぼえたのは、主人公のレオに迷いや感情がないこと。思春期というのは迷うものだと思うのですが、レオは全能者のようで、まったくリアリティが感じられませんでした。文章も感覚的で生硬の感があり、違和感のある表現がちらほらありました。たとえばp143の後ろから4行目「わたしが置いたときとまったく同じ位置に、行儀正しくおさまっている」の「行儀正しく」とか。表紙がかっこいいので、黙っていても中高校生に手にとられそうだけれど、私は勧めたいとは思わないかな。

西山:ものが持てるという設定に、ちょっとひっかかりつつ読み進めたけれど、墓守ひきつぎの書類が書けてしまったところで、ご都合主義すぎるだろうと、決定的に覚めてしまいました。最初読み始めたときに、濱野京子さんの『ことづて屋』(ポプラ文庫)――死者の声を聞いてしまって、伝えるという――を思い出して、時代の要求みたいなのに応えているのかと興味をもちました。ただ、ご都合主義的な設定があると、切なさにいかないというのか。どう読めばいいのだろうと。「パパのことを許す」というのは、妙な理屈なんですが、そういうのが好きな高校生がいるんじゃないかなと思いました。最後の話で思い出したのは『悪の教典』(貴志祐介著 文藝春秋)で、サイコパスというのでしょうか、表はとても感じのいい顔を持っていて、実は非常にゆがんだ理屈で殺人を重ねるという人物が出てくる作品をおもしろく読むのと同じ感覚で読めるかも。このお父さんが殺してきた側のほうに、ちょっとでも気持ちが行けば読んでいけないから、想像力をシャットアウトしないと楽しめないじゃないかなという気がしました。表紙はきれいで、黒い瞳の美少年って萌どころかも。出版社側もチャレンジャーだなと、思いました。

さらら:ある世代の、世間に対して漠然とした憎しみをもっている人たちは、安易だけれど、少しダークで、でもダークすぎず、妙に筋道がひかれたものを読むと、ちょうどいい気晴らしになるのかもしれません。墓守りのレオ自身は、言葉少なで、いかようにも読めるキャラクターとして書かれていますが、1話目の幽霊にも、3話目の教授にも、自己陶酔的なところがあり、私はそこがすごく気になりました。

マリンゴ:6月に発売された『あまからすっぱい物語』(小学館)というアンソロジーに書かれていた、石川さんの短編を読みました。他の人たちが、日常を舞台にしているのに対して、石川さんは近未来が舞台。味覚がテーマのアンソロジーでこういう設定を選んでくるのは、非常におもしろい方だなと思っていました。今回の小説については、3章にいいセンテンスがあると感じました。「いずれは崩壊するのだとしてもそれが明日でなければいい」というのは、現代への警鐘になると思いますし、「呪われている人生を終えて、呪われていない人生を始める」というのは、たとえば死刑制度の是非を考えるときに、参考になる考え方かと。大きな罪を犯した人に、なぜチャンスをあげなくてはいけないのか、1つの答えの掲示だと思いました。ただ、1章で気になる点が2つありまして。1つはみなさんが既に言われている、死んでいる人が物をさわれる件。このロジックの説明がほしいと思いました。でないとご都合主義に聞こえてしまう。もう一つは、母がエミリアを送り出す(天に召される)ことに同意するシーン。同意の前に、「私も死ねば今すぐあなたのそばに行けるのよね」という発想があるのが自然ではないか、と。そこを母に言わせて、「いや、ダメ。なぜなら……」と潰す必要があるのでは? それがないので、母が同意するのがテンポ早すぎるように思えました。

アカシア:私はこの作家の本を読むのが初めてだったので、これでいいのか?と疑問に思ってしまいました。私が編集者だったら、これでは出せない、と思ったんですね。まず文章や使われている言葉が、どこかで聞いたことのある常套句ばかりで新鮮みがない。どの文章も「寝て」いて、屹立していない。設定も特に目新しいわけではないのに、そこに寄りかかっているので、キャラも浮かび上がらないし、読ませる力が弱すぎる。確かに、こういう雰囲気が好きな読者もいるでしょう。でも、雰囲気を出したいなら、文字だけでなく、音楽とか画像とかも使って、マンガでもアニメでもいいので、べつの形にしたほうがいいんじゃないかな。本のおもしろさってこの程度か、と読んだ人に思われたら逆に残念です。もしかしたら作者の方にもっと深い意図があるのかもしれませんけど、このままではどうも。

アカザ:これは、ラノベというか、コミックの原作というか……。そういうと、ラノベやコミックの好きな方に怒られてしまいそうな本だと思いました。雰囲気と、センチメンタリズムだけで読ませようと思って書いたんでしょうか。好きな人は読めばいいと思ったんですが、自分を殺した父親を許す……なあんて平気で書いちゃうのは、どうかな。

(2016年7月の言いたい放題の会)


ぼくたちに翼があったころ〜コルチャック先生と107人の子どもたち

レン:志の高い本だと思いました。「こういうことを知らせたい」というのがある意欲的な作品。ただ、このタイトルはどうなのかなと思いました。足を悪くして盗みをできなくなった主人公がだんだんと変わっていくさまがおもしろいのだけれど、このタイトルだと、最初からすばらしいコルチャック先生ありきな感じがして、よい子の本っぽく見えてしまい、手にとる読者の幅を狭めてしまわないかと思いました。文章はところどころ読みにくいところがありました。「ねつ造」とか「えん罪」とか「みかじめ料」といった語も難しいなと。新聞記者志望だからかもしれないけれど、どこか唐突な感がありました。

西山:コルチャック先生というと、子どもたちと絶滅収容所で死んでいったという最期のエピソードしか知らなかったので、とても新鮮に読みました。失われたものの大きさが身にしみます。いかに豊かな生が断たれたのか。物語がどこまで書いているのかなんの情報もないまま読み進めていたので、ほんとにドキドキしながら読みました。最期の部分まで行かなかったら、その後どうなったかは、あとがきで書いてくれるだろうなとは思っていました。「戦争児童文学」で、いかに生きたかを書くことの大切さを改めて思い知らされた気がします。言葉の難しさの件ですが、「新聞派」の「記者」の言葉だから、いいんじゃないでしょうか。ごつごつしてるとは思わなかったけれど、でも、読者に理解が難しいような言葉が投げ出しっぱなしだとしたら、ほかにやりようがあったかもしれないとは思います。

スナフキン:主人公の設定からして、もっと反発する方が自然なのではと思いました。タイトルは良書感あっていいけれど、内容とはちょっと違うような……。

マリンゴ: 今回の3冊のなかでいちばん好きです。1章が短くて、負荷なく読めるところがいい。主人公が“生まれ変わった”あとの部分は、「人間が成長するためには」的なHOW TO本を読んでいるように思えてしまうところも若干ありましたけれど。物語の閉じ方(主人公はパレスチナに行き救われる)と、あとがき(コルチャック先生の不幸な末路の現実)のバランスがとてもいいと思いました。ただ、裁判を受けるシーンで、写真家くんの強い意志で裁判になったわりに、終わった後、写真家くんのリアクションが描かれていないのが気になりました。

ハル:私は、鈍感にも読んでいる途中にハッとタイトルの意味に気づいて、「翼がもがれてしまうところまで物語は進んでいくのかな、どうなるのかな」と途中からハラハラしながら読みました。主人公の少年ヤネクの成長に従って、だんだん言葉づかいも大人っぽくなっていきますよね。そのせいか、ヤネクに寄り添うような目線というか、不思議な立ち位置で読めた本でした。

ハリネズミ:コルチャック先生の、子どもの家での一面を知るという意味では、おもしろく読みました。ただ、翻訳が和訳調で、特に会話に生き生きした勢いがないのが気になりました。それと、もう少し適切に訳してほしいところがありました。たとえばp 204の「それきりでその警官のことは忘れられ」なんていうところですね。ヤネクがベイリスのことを調べていて、ジニアという少年に想いを寄せていくところとか、最後の場面なんか、いいところはたくさんあるんですけどね。ヤネクのお姉さんに対する感情のぶれとか、迷いなど微妙なところがあまりうまく訳せていないので、この子のリアリティが迫ってこない。そこをもう少しうまく訳せれば、もっとよかったですね。

アンヌ:映画になったことは知っていましたが、本で読むのは初めてです。作者はとにかく、この「孤児の家」について描きたかったのだと思います。子どもたちだけで運営される家と聞いて、なんとなくソ連時代の児童文学を思い浮かべていたら、カメラ泥棒の騒ぎの時のロージーの態度が、その頃のソ連や中国の児童文学作品の中の子どもたちのドグマティックな言動のようで、ぞっとしました。ところが、この孤児の家は、規則や言葉で縛られているのではなく、コルチャック先生の愛情で隅々まで目を配られて運営されている。その事が、コルチャック先生の爪切りの場面とか、告発の掲示板での猶予期間の長さのわけとかで、うまく描かれていると思いました。だから逆に、主人公のヤネクの人物造形や物語がうまくいっていない気もします。実家を訪ねないことや、姉の病気を聞いても見舞いに行こうとしないこととか、釈然としない感じでした。翻訳で、ヤネクのセリフが奇妙に大人びているのも気になりました。例えば、p 36のセリフ「大人は、昔は自分だって子どもだったのを、忘れちゃったんだろうか?」。これは思わず口走った言葉だから、もうちょっと単純な言い方じゃないと次のお姉さんの言葉につながらない気がしました。

ルパン:不勉強のためコルチャック先生について知りませんでした。実在の方なのですね。とても魅力的ですばらしい人物だと思います。女の子を棚に乗せて泣かせるところだけ、ちょっとなあ……と思いましたが。良い物語だと思いますが、文章はあちこち気になりました。p 54「ばれちゃったか、というふうに照れ笑いをした」とありますが、一人称のお話ですよね。「というふうに」というのは誰の目線なのでしょう。それから、p 69「とくに、貧しいと、裕福な人たちみたいにいいチャンスに恵まれないわ」のようなところ。大人が読めば文脈でわかるのでしょうが、私は子どものころこういう文に行きあたると「裕福なひとたちはチャンスに恵まれない」のか、「貧しいとチャンスに恵まれない」のか、どちらなんだろう、と考え込んでしまったものでした。ほかにもところどころ内容というよりは文章でひっかかるところがありました。テーマもストーリーもなかなか良いので残念です。

アカザ:ルパンさんにうかがいたいのですが、こういう本を子どもたちに手渡すとき、予備知識は与えないものなのですか?

ルパン:ふつうに手渡すときには、読む前に予備知識を入れる、ということは、基本的にはしないですね。ブックトークの時間であればやりますけど。

アカザ:知識があるかないかで感想も変わってくるのかもしれませんね。わたしもコルチャック先生が子どものための施設を作っていて、子どもたちが強制収容所に送られるときに、猶予の書類があったのに自分もいっしょに行ったということは漠然と知っていましたが、収容所に送られる前のことは全く知らなかったので、読んで良かったと心から思いました。事実に基づいて書かれているのだと思いますが、主人公は作者が創りだした少年なんですね。そのために、主人公の少年だけではなく、コルチャック先生もふくめて登場する人たちの心の奥底までしっかりと描けていて、とても良いと思いました。ノンフィクションで書いたら、もっとよそよそしくなるのでは? ただ、みなさんがおっしゃるように、翻訳はもっとどうにかならなかったのかと、歯がゆい感じで読みました。冒頭の主人公は、相当な悪ガキなのに自分を「ぼく」と呼んでいて、あんまり悪くなりきれていないようだし、後半は会話が説明文を読んでいるようで……。せっかくの素晴らしい本なのですから、もっと丁寧な本作りをしてくれないと、もったいない!

花散里:『子どもと読書』(2016.1・2月号)の「新刊紹介」の原稿で、「姉さんに入れられた孤児院で体罰を受け」という紹介文を読んで、“姉さんに孤児院に入れられた”ということが気になって、読んでみたいと思いました。「かけこみ所」と呼ばれる孤児院だったことが読んで分かりましたが……。作者、タミ・シェム=トヴの『父さんの手紙はぜんぶおぼえた』(母袋夏生訳 岩波書店)を以前に読みましたが、とても心に残る1冊でした。本書の訳者は高校の時に外国に渡ったようですが、日本語の表現については、分かりにくいところが多かったように感じました。対象は中学生以上だと思いますが、原作をしっかりと読者に手渡してほしいと思いました。コルチャック先生について知るためにも、この物語が読めて良かったですが……。

レン:福音館のホームページでは対象は対象は小学校高学年以上になってます。

レジーナ:6年前明治大学で、国際コルチャック会議があったとき、コルチャック先生が子どもたちに「きみは何になりたいのか? 人間になりたいのか?」と問いかけた、という話を聞きました。コルチャック先生の本は日本でもいろいろと出ていますが、この本は、孤児院の子どもたちが収容所に送られる前の幸せな時代を描いているのがおもしろいと思いました。悪いことをした子どもがいたら、子どもたちが民主的に裁き、大人は子どもの自主性に任せ、信頼し見守ります。そうした環境の中で、ヤネクは人を信じることを学んでいきます。困難な時代にあっても、子どもをひとりの人間として尊重する、そんな場所があったのだとあらためて思いました。4年前ミュンヘン国際児童図書館で、『ブルムカの日記』(イヴォナ・フミェレフスカ作 田村和子・松方路子訳 石風社)の展示を見ました。作者のフミェレフスカさんはいろいろと調べた上で、煙草を吸っているコルチャック先生や、先生のベッドの下におかれたお酒の瓶を本の中で描いています。『ぼくたちに翼があったころ』でも、コルチャック先生は聖人ではなく、ひとりの人間として描かれています。装画とタイトルがすてきな本ですね。訳文はところどころ気になりました。

西山:けさ、「元少年」の死刑判決が出たけれど、更生を期して少年法で守られる必要がなくなったから、実名報道にしました、とかテレビで言っていて、この本を読んだばかりのところだったから、比べて、なんなんだこの国は、と暗澹たる気分になりました。人としてこれだけ手厚く育てようとしていることと比べて、24歳の若者を、もう良くならないから、殺すことにするって……。

(2016年6月の言いたい放題)


いのちのパレード

アンヌ:ふた昔前の少女漫画のようなイメージでした。妊娠、カンパ、転校。ただ、違うのは現代なので、性教育の授業を男女一緒に受ける場面があり、妊娠と出産の重要性がここで書かれていること。さらに主人公の母親が産婦人科の看護婦ということで、出産と死産についても描かれています。また、心療内科の医師も、セナと倫に別れる必要は全然ないと言い、不要な罪悪感を取り除こうとしている点も目新しい。でも、全体に、女性に対して厳しい視点で書かれすぎている気がしました。死産や堕胎に対し、死は死として受け入れ生き直せと言うのではなく、ずっと背負って生きろと言われているようで、少女に対して懲罰的な気がします。気になったのは、倫という男の子の描き方。普通、大切な女の子を家庭内暴力で隔離されている兄と暮らす家に連れ込むでしょうか? 避妊もしないこんな男の子に愛を語る資格はないと思うのですが……。

ルパン:残念ながら私は合わなかったようです。語りすぎている感があったり、今どきすぎる言葉づかいなどに好感がもてないまま終わってしまいました。

アカザ:私はとても好きな作品でした。文章もユーモアがあって、力強いし、中高生にぜひ読んでもらいたいなと思いました。いろいろな登場人物の目から書いているのも、成功している。こういう書き方だと、誰が誰だか途中で分からなくなることがあるけれど、それぞれの性格や、家庭の事情がはっきり書けているので、そういう心配もなかったし。女の子だけに背負わせているとか、女性蔑視だとか、そういう感じはしなかったですね。倫もセナも、これまでのことを背負って生きていくのだろうと、最後のところで思いました。表面には出ないけれど、さまざまな事情を、さまざまなやり方で背負って生きている中高生は大勢いるでしょうし、親にはいわなくても身近にいると思うので、十代の読者の心に届く作品だと思いました。

花散里:構成がとても良いと思いました。八束さんの作品が好きで、この本も出版されてすぐに読みました。作者が『ちいさなちいさなベビー服』(新日本出版社)も出されましたので、その本を読んでから、今回また2度目に読んで感想が違ったように感じました。セナが妊娠してしまったところとか、腑に落ちないところもありましたが、全体として好きな作品です。『いのちのパレード』というタイトルは少し気になりました。『子どもの本棚』(2016.3)の「複眼書評」でも取り上げています。中学生が自分の問題として読める作品ではないでしょうか。これまでの八束さんの作品とつながる1冊だと思います。

レジーナ:「命」というテーマをいろんな視点から上手に描いていて、おもしろく読みました。ただ、複数の視点から描くと、どうしても印象が薄くなるように思います。日本ではまだ少ないですが、海外では十代の妊娠を描いたヤングアダルトはいろいろと出ていますよね。この本に出てくるセナは、母親に問題はあっても、家庭としては一応機能しています。今、公衆トイレで出産した、という話もニュースで聞きますが、そこまでいかなくても、だれにも気づいてもらえず、だれのサポートも受けられない、ぎりぎりの状況で子どもを産むということもあると思います。この本は安全ネットの上を描いているので、そうではない状況も、日本の児童文学の中でもっと描かれていくといいのではないでしょうか。

レン:とてもおもしろく読みました。今の中高生が読んで、すっと入っていけそうな会話がうまいなあと。それぞれの心情がよく伝わってきます。以前、『学校では教えない性教育の本』(ちくまプリマー新書)の著者で産婦人科医の河野美香先生の講演を聞いたことがあるんですけど、女子中高校生は、大人が思っているよりずっと多くを経験していて、望まない妊娠もあとをたたないと。だから、こういう問題はとても身近なことだと思います。まわりの家庭を見ていると、高校生が妊娠してしまったとき、自分もそれに近いことを経験している親だとそれほど動じず、まあ仕方ないと受け入れやすいようですが、セナみたいに、いい大学に行って、いい会社に入って、みたいに親が思っている家庭の子はより大変な状況に追い込まれるようです。だから、こんなふうに悩まないといけない。ラストの、修学旅行のシーンがいいなあと思いました。たまたま同じ班になった同士が、新しい関係を何げなく結んでいくようすが、生きることを励ましてくれるようで。

西山:八束澄子は好きだし、おお、デモの話か?と勘違いしてすぐ読んだんですけど、今回読み返す時間がなくて、すみません。怖いほど、思い出せない。

スナフキン:倫君はとんでもない男だと思います。セナの中絶の決意も描いてほしかった。あえて群像にした意味は? 群像にしている理由をあまり感じられませんでした。

マリンゴ:冒頭の、セナの告白が本人のセリフではなく、万里のリアクションのみで語られているところ、盛り上がりに欠けるなと思いました。でも、徐々にそれは意図的なものであることに気づきました。いのちと死を淡々と重ねていく手法によって、生きること死ぬことを、特別視せず、誰にでもどこにでもあたりまえにあるものであることを見せているのだなぁ、と。そのスタンスにとても共感しました。セナが出産しない選択をすることで、がむしゃらにいのちを讃美しないことを示し、でも、別の章でいのちの大切さを伝える……とてもバランスいいと思いました。ただ、読後しばらくすると本の印象がちょっと薄れてしまったかも。視点が次々変わる構成のせいかしら……。

ハル:この本の中に登場する性教育の授業のような、子どもの立場を理解して幸せを願うというスタンスで書かれた、とてもいい本だと思います。表紙はどうなんでしょう。大人が見れば良い絵だと思いますが、今の中学生にとっては? 興味深いテーマだと思いますし、もうちょっと気軽に手に取れそうな……アニメっぽい表紙がいいとは言いませんが、せっかくなので、手をのばすきっかけになるように、中学生の好みに寄せても良かったのかも?とも思います。難しいところですが。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。出てくる家族がどれもぎくしゃくしていて、ステレオタイプではないのもいいですね。生後4日目で亡くなった昴のまわりを家族が取り囲んで、似ているところをさがす場面も、いいですね。そこだけじゃなく、全体に様々な人の思いや心情がうまく書けていると思いました。セナが決心するに至るまでの心の動きが書かれていないという意見が出ましたが、それはセナたちの気持ちがどうであろうと親が無理矢理動いてしまった結果なので、書けないと思います。同年齢だけで悩むのではなく年代的な広がりもあります。美月先生が、「人間はそんなに弱くない」というメッセージを伝えているのも、自然に書かれているので伝わります。最後のパレードの夢も私は好きです。個々の人間が孤立しているのではなく、みんな一緒にパレードしている場面を著者は書きたかったんだと思います。

花散里:『糸子の体重計』(いとうみく作 童心社)とか、こういう章立ては今の子どもたちには読みやすいと思います。お母さんも自分のことを語っています。それをセナに語るという筋立てもうまいと思います。登場人物の名前の付け方も良いなと感じました。倫君の想いがセナの心の中に残っているところも。希望を持たせる読後感が爽やかだと思います。中高生が、「読んでよかった」と思える本ではないでしょうか。いろいろな家庭がありますが、この本に共感する子は多いのではないかと感じました。

アカザ:亡くなっていく赤ちゃんが多いなか、美月先生の授業のときに後ろでお母さんに抱かれていた赤ちゃんの描写が、とてもいいですね。命そのものが輝いているようにキラキラしていて、感動しました。

西山:うーん、母と娘の確執がおもしろかったというのは、思い出しました。章ごとに語り手や、視点人物を変えてそれを重ねていく作りは今、本当に多いんです。先月も言ったかもしれませんけど、人が変わっても語り口や考えが同じだったり……。この本じゃなくて一般的には、それが必ずしもうまくいっていないところに、問題を感じてます。

(2016年6月の言いたい放題)


あの花火は消えない

マリンゴ: まず装丁がすばらしいですね。丹地さんのイラストも美しいし。本文は、描写がとてもきれいで、風景を想像しながら読みました。だからとても印象はいいのですが、少しだけ違和感を覚えたのは、一人称だというところ。主人公の女の子は、今の発達障碍の区分だとボーダーラインにある子かと思うので、見えている風景がもう少し違うのではないかと感じました。何かが目についたら、そのことしか考えられない、とか。非常に整った抑制された描写なので、少し気になって……。物語の途中で、ああ、これは大人になってから振り返ったものなのだ、とわかるので、なるほどとは思うのですけれど。

スナフキン:このおばあちゃんや自然がいきいきと色彩豊かに描いているのが魅力。おばあちゃんの声を、せんべいに例えていておもしろいと思いました。思い込みがはげしい透子がお母さんのことを祈る場面は切なかった。とてもおもしろく読みました。透子はぱんちゃんを気に入ってるけど、なぜ気に入ったのかをもっと書いた方がいいのでは。

西山:マリンゴさんがおっしゃったのと、全く同じことを言おうと思ってました。初めて読んだ時から、こういう子は、こういう風に考えてこういう風に話すのかな、と思ってしまったんです。長崎に連れて行ってしまうのはひどい。ぱんちゃんのような人をサポートしてきた人が、そんなに簡単に環境を変えるかな。ドラマを盛り上げるためだとしたら、作中に理不尽なことを持ち込むのは違うと思う。美しくしちゃっているところがひっかかってます。

レン:若狭の海辺の町の情景に引き込まれて一気に読みました。人それぞれの人生があるんだな、自分とは違うけど、それぞれに苦しみつつなんとかかんとか生きているんだな、というのを最後に感じられるのがいい。ぱんちゃんみたいな人のことは、身近にそのような人がいないと知る機会がないから、こんなふうに作品の中で出会うのは大切だと思いました。

レジーナ:発達障碍の傾向のある主人公が、友だちとトラブルになったり、周囲になじめなかったりするところにリアリティがあります。風景の描写もきれいですね。私がいちばん気になったのは、ぱんちゃんの描き方です。知的障碍のあるぱんちゃんは、無垢で純粋な存在として描かれているのですが、人間にはもっといろんな面があるし、欠点もあってこそ人間の魅力だと思うんですよね。しかも最後で、唐突に死んでしまうので、主人公の成長にとって必要なだけの存在になってしまっているように感じました。でも気になるところはあっても、どこか心に残る本です。一人称で描くことの難しさについては、自分では気づかなかったので、なるほどと思いました。

花散里:高学年の子どもたちが読むときに、チャボが生き返ったように書かれていたりして、リアルな箇所と空想的な部分が混在しているようで分かりにくいように感じました。父親との関係も、祖父母に預けることになった経緯は分かりますが、父親の会話などが気にかかりました。主人公や家族が障碍を持った人を描いた作品が、昨年も多く出ましたが、この作品には腑に落ちない点も多く、どのように子どもたちに薦めていったら良いのかと感じました。

アカザ:私は、発達障碍がある子どもの話とは、まったく考えずに読みました。だから、目くばせしている友だちを、いきなりビート板でなぐったりするのは嫌だなあと思ったし、おばあちゃんがそんな孫のことを、おまえは悪くないという場面も、そんなに甘やかしていいのかと不愉快になりました。読み方、まちがっていたのかな? ぱんちゃんも、どうして死ななきゃいけないのかしら? うまく言えないけれど、物語の展開のために、特にこういう障碍のある人たちを死なせてしまう話って、あまり好感が持てないんですよね。今回のほかの2冊は1度読んだだけで「いいな!」と思ったのですが、この本はよくわからなくて、読み返したんです。でも、やっぱり何をいいたかったのか分からない。回想の中の風景を、抒情的に書きたかっただけじゃないのかと……。

ルパン:私は、これは傑作だと思いました。一人称がすごく効いています。一人称でなければ、宇宙人を呼ぶシーンなどリアリティが出せないと思います。おこづかいでチャボを買ってあげる友だちも、それを生き返ったのだと信じる主人公もいとしく感じました。ぱんちゃんが死んだところもせつなく読みました。父親は、「ぱんちゃんは生き返らない」と言ってやったとき、初めて父親らしいことをしたのだな、と思いました。ハッピーエンドではないけれど、とても心に残る物語でした。

アンヌ:とても魅力的な作品で、何度も読み返してしまいました。表紙も、挿絵も素晴らしく、特にp23。一瞬の驚きと恐怖と音がうまく描かれていると思いました。主人公の繊細な感覚や世界に感じている違和感が、てんぷらの皮やおそばのだしの濃さで描かれていて、食べ物の描写の場面がとても好きです。主人公が、誰もが好きな賑やかで砂がくっつく砂浜が嫌いだけれど、水と戯れられる磯遊びは好きと描かれていて、夏の魅力とともに主人公の感覚がわかっていく感じも素晴らしいと思いました。暴力に走る場面でも、心の中にあるスイッチが入り暴力を振るう、その瞬間の喜びが見事に描かれています。けれども、暴力を受けた側については描かれていない。主人公が落ち込んだ姿はあっても相手への思いやりがないので、この主人公への共感が生まれにくいと感じました。主人公は、最終的に、学校へ通えないまま成長していき、おばあさんの言うように「人の心をいやすため」ではなく、自分のために絵を描き続けています。作者は、こういう主人公を描くことによって、普通の人間でなくても、それでも生きて行っていいのだと伝えたいのではないかと思います。

ハリネズミ:私は、一人称で書いていいんじゃないかと思いました。一人称だから、主人公が発達障碍だったとしても、それをはっきりさせなくてすむし。でも私はこの子が発達障碍だとは思いませんでした。このくらいの年齢って、普通でも感情の揺れによってこれくらいのことはあると思います。それに、ぱんちゃんが添え物だとも思いませんでした。愛される存在として書かれていますからね。ただ見守りが必要なのに一人で長崎に行くことになったところは、あれっと思いましたけどね。おばあちゃんは普段一緒に住んでいないし、この子のことを心配しているのでかばう気持ちが強いのは仕方がないです。いちばん気になったのは、チャボの替え玉にぱんちゃんもとこちゃんも気づかないところです。特にぱんちゃんは、とても気に入ってかわいがっているんだから、違う鳥だってわかるでしょうに。とこちゃんだって、これだけ感受性が強い子だったら、わかるはず。そこはリアリティがないな、と思いました。

花散里:チャボが生き返ったと子どもが信じているような表現は、私もどうかと思いました。

レン:この年齢で、死んだ生き物が生き返るとは普通は思っていないだろうから、これは「信じたい」ということなんだろうと、私は読みました。

ハリネズミ:だったら、一人称なんだから、信じたいという気持ちを書けばいいんじゃないかな。

ハル:一人称か三人称か、どっちがよかったということではないんですが、読んでいる途中で「あれ、最初から一人称だっけ?」とちょっとつっかかったので、気にはなりました。回想なので仕方ないんですけど、当時のとこちゃんとの精神年齢的な乖離があるからでしょうか。装丁も表現も、風景や色の「とうめいみどり」とか、とてもきれいで、美しい本だなぁと思いました。でも、やっぱり、ぱんちゃんを死なせないでほしかった。長崎に連れていかれたところでも、いつの時代の話?とは思いましたけど、あそこでとこちゃんと別れさせただけじゃだめだったのかな。でも、とこちゃんに「大丈夫や」って、「だからもう、呼びもどさんでもええのや」って言わせなきゃいけないから、この設定は仕方ないのかなとも思いますが……。

花散里:おばあさんの手紙も気にかかりました。児童文学はそのように終わらせなくても良いのではないかと感じました。

レン:でも、回想で書いていることで、希望があるのでは? 今は平坦ではない道も、いつかは切り拓いていけるという。ぱんちゃんが来るのは、この子が来る前から決まっていたことだから、そんなに不自然な感じはしませんでした。

西山:回想形式に私はもともと懐疑的です。叙情と切り離した回想はあまりない。どんなに大変なことも、回想の額縁の中で語れば、喉元過ぎればすべてよしとなってしまう。重松清がそう。どんなに凄惨な暴力を書いても、なんでもオッケーにしてしまう。この作者の持っている叙情性がどうも気にかかります。好みの問題と言ってしまえばそれまでですが。口の感覚の鋭敏さとか、一人称で書くしかないとは思うのですが……。

アンヌ:回想として語ってはいますが、主人公は「今」でも人との関係を築けるようにはなっていません。まだ、何も解決しているわけではないけれど、この子は世界に美しさを感じ、絵を描き、生きている。そのことが重要な気がします。この本を必要とする人の手に、ぜひ手渡してほしい本だと思います。

(2016年6月の言いたい放題)


ラミッツの旅〜ロマの難民少年のものがたり

アンヌ:ドイツの赤十字でボランティアをしている女の人が、父親はナチスだったと語っているのが印象的でした。ラミッツたちが難民と認められるまでの、内外からの様々な妨害や彼らに援助の手を差し伸べる人々の姿が、短い物語の中にくっきりと描かれていますね。父親が語るロマの人々の姿、ダンスや音楽の話に、あまり知られていないこの民族の生活を知ることができました。ボランティアのドイツ人が語る贖罪の思いに、ドイツ政府の移民や留学生への手厚い保護の源泉を見る気がします。これからの難民の受け入れも変わっていくだろうなとか、ラミッツがこれからも二重の差別を受け続けるのだろうか等の不安は感じましたが、明るい気分で読み終えられました。

ルパン:読みやすく、最後まで一気に読みました。事実にもとづいている、ということで、内容も重く受け止めました。主人公が、口がきけなくなるほど人が信じられなくなる、ということが移民の現実の悲惨さを語っていると思いました。唯一の救いはお父さんと再会できたことです。この家族の未来が明るいものになるように、すべての難民問題が一日も早く解決するように、と願わずにはいられません。

さらら:原著はスウェーデンで出たんですよね。私の知人のクルド人の一家も、難民としてスウェーデンに逃れたので、さまざまな苦労を具体的に知ることができました。北欧はもちろん、ベルギーやオランダでもそうですが、先生はクラスの子どもたちに、難民の子どもたちがなぜ「ここ」にいるのか伝える必要があります。こんな本をきっかけに、お互いの理解を深めていけるのでしょう。主人公ラミッツにはスウェーデンに到着する前に、ドイツからいったんコソボに送り返されるなど、複雑なバックグラウンドがあります。紛争中のコソボを逃れるため、偽造パスポートを用意し、業者にお金をわたしてトラックに乗せてもらったり。私の友人が決して話そうとしない闇の部分がよくわかり、興味深く感じました。ラミッツたちが収容されるのは「難民宿舎」ですが、宿舎とは名ばかり。それを「宿舎」と名付けたところに、翻訳上の配慮を感じました。日本の子どもによくわからない「難民」という存在を知るうえではいい本かもしれませんが、作品としては掘り下げが足りない。例えばストレスのせいで、ラミッツは言葉を失い、お姉ちゃんは歩けなくなってしまう。そうした心の動きを子どもに共感できるように、もっときちんと書いたほうがよいのでは。事実にひっぱられ、物語としての深みに欠けるのが残念です。

レジーナ:以前、難民の人たちの持ち物の展示がありました。鍋など、生活に絶対必要なものだけでなく、歯ブラシやヘアワックスもあって、人間というのは、ぎりぎりの状況でも人間らしくあろうとし、人としての尊厳を失わずに生きようとするのだと感じました。この本を読んでそうしたことを思いだしました。これは実話に基づく話ですが、ノンフィクションとして書かれてもよかったかと思います。私は、この主人公の気持ちに寄り添って読めなかったので……。

レン:テーマ的にはおもしろかったです。日本にないけれど、知っておきたいことだから、出すのは意義のあることだと思いました。ただ、物語を読んでいくうえの味わいが今ひとつかな。一つには、ヨーロッパ全体の地図がほしかったです。ドイツからコソボ、スウェーデンの移動を実感するのに、子どものためには特に必要ではないでしょうか。それと、この作品の場合、一人称で書くのが果たしてよかったのかなと思いました。一人称にしてしまうと、その子が見たこと、知っていたことは書けるけれど、まわりの人たちのことは書けないですよね。援助している人たちや家族の思いなどは、三人称のほうが伝わります。15歳の少年の語りの限界のようなものを感じてしまいました。

さらら:文章に、つっかかるところが多い本でした。「〜だった、〜だった」と描写され、過去のことかと思ったら、「〜なんだ」と、急に現在にひっぱられたりして。

ハリネズミ:過去形と現在形が混じっているから、よけい時系列がごちゃごちゃになるってことですか?

レン:日本人の作家の中学生向けの一人称の作品は親しみやすく、読者が手にとりやすいものになっていると思うんですけど、これはちょっと違うかなと。読んでいても主人公の印象が固まってこないんですよね。

ハリネズミ:トーンが統一されてないのかな。

ハル:知らなかったことを知るという意味で、読書体験としては「読んでよかった」と思うんですけど……これはてっきりご本人が書かれたんだと思っていました。別に作者がいるんですね。冒頭から「こんな嫌な先生っているの!?」って、いくらなんでも信じられないと思うけど、このたどたどしい雰囲気で綴られると、「実際に体験したことなんだな、本当にこういう先生もいるのかもな」という気にもなりました。でもやっぱり、この後で読んだ『生きる:劉連仁の物語』(森越智子著 童心社)と比べると、心に迫ってくるものがなくて残念です。世界を知るための勉強として読む分には、貴重な本なのかなぁと思います。

マリンゴ: 2013年、ギリシャのロマ人の夫婦のもとに金髪の白人少女がいる、と通報があったニュースを思い出しました。誘拐や人身売買の疑いで夫婦は逮捕されたんですが、後日、DNA鑑定で実子とわかって釈放されたそうです。そのときに、ロマ人というのはそういう扱いを受けているのか、と驚いたのですが、掘り下げて調べなかったので、今回の本でとても勉強になりました。しかし読むのが気の進まない本でした。理由は二つあって、まず一つは、本の内容の問題。『リフカの旅』(カレン・ヘス著 伊藤比呂美他訳 理論社)みたいに、過酷であっても自分の意志で決めながら前に進んでいく本は読みやすいのですが、本書のように、運命と家族に翻弄される物語はしんどかったです。でも、実話をもとにしているので、これは仕方ないと言えます。もう一つは、構成の問題。父親と主人公の男の子、二つの話が混ざっていて、どちらの話なのか一部わかりづらくなって、ややこしかったです。父親の過去については会話形式で語るか、あるいは書体を変えるか、工夫して差別化してもよかったのでは、と思いました。あ、これは翻訳ではなく、原文に対しての意見ですが。

西山:内容とは直接関係ないんですけど、扉に「登場人物の名前は変えてあります。」に続けて「ラミッ・ラマダニーの本名は、マーション・ペイジャです。」と書いてありますよね。いいんですか、これ?

ハリネズミ:そこ、おかしいな、と私も思いました。コピーライトを見ると、この作家の名前に加えて主人公の名前も入っている。だったら、日本語版の作者名に仮名でも実名でもいいから入れておくべきなんじゃないかな。難民はいろいろな立場の人がいて、実名を出すとまずいという人もいると思いますが、そうだったら、すぐに実名を書いてしまっているのは変ですね。どっちにしてもその部分に配慮がないような気がしました。

さらら:実体験した人から、作家が話を聞いて書いた作品なら、その両方の名前を作者として出すべきですよね。

レン:『夢へ翔けて: 戦争孤児から世界的バレリーナへ』(ミケーラ・デプリンス, エレーン・デプリンス著 田中奈津子訳 ポプラ社)も、本人と養母の共著で、両方の名前を出していますね。

西山:翻弄される様子はどんどん読めて、事実を知るおもしろさはありました。

さらら:この本では、ロマの子どもが学校に来てほしくないと言われたり、意地悪されたりします。でも日本の子には、ロマがなぜそんなふうに差別されるか、よくわからないはず。バックグラウンドがないだけに、簡単なようで読むのがむずかしい部分があります。白紙の状態で読んでいく子どもに、マイナスの刷り込みをするべきじゃない。この本は、ロマの家族愛や伝統も描かれていて、そこがよさでもあるけど、どうしてこんなに意地悪されるんだろうって読者は思うでしょうね。

ハリネズミ:ロマの人たちが自分の国を持っていない、ふるさとのない人たちだということは、この物語からも伝わってきましたよ。

西山:別の話になりますが、アンリ・ボスコの『犬のバルボッシュ』(天沢退二郎訳 福音館書店)に出てくる「カラク」って、ロマのことでしょうか。

ハリネズミ:ロマについてですが、たとえば、エミリー・ロッダの「ローワン」シリーズには「旅の人」というのが出て来ますね。定住しないで移動して暮らしている人たちで芸術を愛している。そして、定住民からはうさんくさいと思われている。でも、彼らには彼らにしかないいいところがある、という書き方です。ああいう形で子どものための物語に登場させるやり方もあると思います。この作品は、ロマの難民を描くという意味では貴重ですが、私は、こういうものこそ、すぐれた質のものを出してほしいと思ってるんです。だから、そういう目で見ると物足りない。何よりも気になるのは、人物像がステレオタイプで、しかもそれを支えるリアリティが薄いということ。たとえば、冒頭でドイツの学校の先生が「この中のだれかが、クラスのお金をぬすんだのよ。クラス旅行のためにみんなでためていたお金を。これで旅行はなくなったわ」と言い、ヒルダという子が「ラミッツとメメットが犯人だと思います」と言い出すところなど、日本だってここまでひどい状況は考えにくい。ケータイ小説じゃないんだから、もっとリアルに書いてほしいものです。かわいそうなロマのラミッツという設定を打ち出したいがために、リアリティから離れてしまう。それによって、読むほうはラミッツの心の中にまでは入っていけない。それに、この作品を読んだ日本の子どもたちは、スウェーデン人は親切だけどドイツ人はひどいという感想をひょっとすると持つかもしれない。 
 訳にももうちょっと工夫がほしかった。p38には子どもの会話の中に「アルコール依存症」という言葉が出てきますが、この年齢の子がこうは言わないでしょう? 第2章ではラミッツが学校へ行かなくなっていますが、p44のお父さんの言葉をこう訳しただけでは、お父さんの複雑な気持ちは読者に伝わりません。ラミッツの親の結婚についての話でも、お父さんのバイラムは、妻のジェミーラはとても貧しい家庭の出身だったのに、ジェミーラの親が結婚に反対したとあります。それがどうしてか、よくわかりません。ジェミーラがロマではなかったからなのか、あるいは後で「はじめの部分は、ちょっと変えているけどな」とお父さんが言っているので、同じロマでも貧しいのはバイラムの方だったのか、あいまいなままです。p76の「よく気がついたな」も、会話の流れがわかりません。
 また実際にはロマの宗教は様々でイスラム教の人はむしろ少ないと思いますが、ロマのことを知らない日本の子どもたちはみんなイスラム教なのだと思うかもしれません。そういうことは、後書きででも触れてくれるとよかったなと思いました。それから、日本は極端に難民を受け入れない国ですが、そういうことも後書きで触れられれば、日本の子どもももう一つ考えるきっかけをもらえたのに、と思います。

(2016年5月の言いたい放題)


そして、ぼくの旅はつづく

マリンゴ: 苦手です。以上。なんて(笑)。こういう右脳で書いた純文学っぽい本が、もともと不得手でして。いや、それでも、興味深く読めるものもあるのですが、この本の場合は、主人公に特別な才能があって、“特殊な物語”というふうに読めてしまうので、感情移入しづらい。自分が子どもの頃でも、あまり入り込めなかったと思います。

ハル:単館上映の映画のような雰囲気のある作品ですね。世界が優しくてきれいで、出てくるひともみんなあたたかくて、読後に余韻が残るような。だけど、これは好みの問題なんだと思いますが、読むのが退屈でした。どうしてこの子は人前でヴァイオリンを弾きたがらなくなったんだろうといったことにはじまり、さまざまな登場人物たちのさざ波のような心の機微に寄り添えなくて、これは一体なんの話なんだろうと、実はラストの手前あたりにくるまで、よくわからないまま読みました。

西山:すらすらとページはめくれませんでした。地名は出て来ますけど、ロードムービーのような移動していく旅の感覚は無かった。あくまでも音楽の物語で、おじいさんと孫のお話。そのおじいさんとメールや電話でつながっていても、やはり物理的に離れている切なさはありましたが。あんまり、のめり込んでは読めませんでした。

レン:私は、時間はかからず読めました。でも、ヴァイオリンの才能があって、外国に行っても、わりにすぐ英語も話すようになって順応して、6歳の頃からわがままも言わず、お母さんにもこれほど思いやりを持っている、こういう優等生というのか、天使のような子のどこに、ごく普通の日本の子どもは心を寄り添わせるのかしらと思いました。何をおもしろがればいいのか、私はよくわかりませんでした。だれにでもぜひ、と勧めたいとは思いませんね。

レジーナ:口当たりのよい作品ですが、淡々と描かれているので、捉えどころのない印象を受けます。おじいさんの死を予感させる場面から、死んだあとの場面への切り替えは映画的ですね。おじいさんの死についてははっきりと描かれていなくて、読者にはそれでもわかるし、作者はわざとそうしているのでしょうが、作品の中で重要な部分なので、正面からぶつかって描いてもよかったのでは。福音館は、読み物の装画(小林万希子)もすてきですね。 

さらら:翻訳の工夫なのか、ドイツ語のあとにかならず日本語の訳が入っている。主人公のアイデンティティは、ドイツにあるのかな。

ハリネズミ:でも、ドイツ語はだんだんに忘れてしまいますよ。

さらら:ところどころに入る音楽や心情の描写は、とても巧みだったけれど。

ルパン:音楽を文章で表現することはとても難しいと思うのですが、それが成功しているところが随所にあって、その点ではものすごい筆力だと思いました。ただ、残念なことに、それとストーリーがリンクしていなくて、物語の奥行きを広げることにつながっていない気がします。読み終わったときに、いったい何の話だったのか、というのがよくわからない。ものすごくドラマチックでなくてもいいんです。日常の小さな場面をつなぎあわせたような物語はたくさんありますから。ただ、この本は、その小さな場面がつながっていないし、メリハリもない。一人称の書き方がまずい気がします。地の文に統一性がないので、読者に語っているのか、オーパへのメールなのかがわかりにくかったり…これは翻訳の問題なのでしょうか? それから、時系列が行ったり来たりするのも、手法の使い方がうまくない気がします。混乱を招くだけのような。クライマックスは、亡くなったオーパに宛てたメールを継父のジェイミーに見つかる場面なのでしょうが、それのどこがいけないのかがわからないから説得力に欠けますよね。実父へのメールであれば継父が傷つくであろうことも理解できるのですが…おじいちゃんなのだから、いつまでも慕っていても、別にいいですよね? あとから現れた継父があれこれ言うのは筋違い。そう思うと、この場面、むしろ興ざめになってしまいます。

アンヌ:なんというか、ピンと張った糸のようなうまい物語ではないと感じました。エピソードが絡み合っていなくて、最初の方に出てくる金曜日の少年も、もう少し子供同士の物語があればいいのに、もったいないなと思いました。各章で繰り返されるドイツ語の言葉は、外国に暮らすとこういう感覚になるのかなと興味深く感じました。ヴァイオリンの練習場面がとても多く描かれ、それでも教師とうまくいかないエピソードとかもあり、生まれつきの才能を持つこの主人公が、じっくり音楽家として成長していく過程を描きたかったのだろうかと思いました。

ハリネズミ:確かに才能のある子どもの話だし、もっとドラマチックな物語と比べると盛り上がりに欠けるかもしれません。私も最初読んだときはそう思ったのですが、訳者の方の後書きにはこうあります。「新しい土地、新しい言葉、新しい父親――これほどまでに環境が変わったのでは、身がまえない子はいないでしょう。かたくなにならないほうがふしぎです。それにアリは、大好きなオーパからも引き離されているのです。自分を抑え、目立つまいとするあまり、ヴァイオリンを弾くことを、学校ではみんなにないしょにしていました。そして、ひとり、カフェの庭でヴァイオリンを弾きながら、幼いころを振り返り、出会いを思い、別れを思い、時の流れを行きつ戻りつするうちに、閉ざされていた、一枚の、心の扉の前に立つ……。」そうなんですね。感受性の強いアリのような子どもにとっては、生き死にがかかわらないことでも、やはり大きな問題で、いい子でいるのも、自分をなるべく抑えようとしているからなのかもしれません。そう考えてもう一度読んでみると、いろいろな点でなるほどと思うところがありました。

レン:これほどバイオリンのうまい子でも新しい先生になじめないんだと思ったという意見がさっき出ましたが、この子は手作りの練習曲集でおじいちゃんに習うのに慣れていたから、普通の音楽教育に近いリー先生のやり方になじめなかったのではないでしょうか。

(2016年5月の言いたい放題)


生きる〜劉連仁の物語

アンヌ:この物語を読んで驚いたのは、過酷な拉致と労働の事だけではなく、戦争が終わったのも知らないまま主人公が13年間もたった一人で生きていたことです。横井庄一さんや小野田さんを思い出します。でも、劉さんは特殊訓練を受けた軍人などではないただの農民。それなのに、雪の北海道という過酷な土地で、恐怖が彼を穴から出さなかったと知り慄然としました。そして、物語があっさり終わり、エピローグと資料が50ページあるという作りにちょっと茫然としました。そこに書かれたドイツとの戦後補償の仕方の違いとか、いろいろ考えさせられました。

ルパン:劉さんの物語を全部読み終わったあとで、それを裏打ちする資料がついているところが私はいいと思いました。これなら子どもでも興味をもって史実の資料に目を通します。地図もついていてわかりやすいし。劉連仁さんは、過酷な運命のなかでも、生きて帰れて家族と再会できたけれど、命を落とした人がたくさんいたと思うと心がいたみます。これは実話ですが、物語としてもよく書けていると思います。よけいな感情移入がほとんど感じられないし、それでいて人物や情景の描写がゆきとどいています。時系列も一直線で迫力があります。ともかく、圧倒されました。

ハリネズミ:プロローグとエピローグをのぞくと、物語は一直線に進みますもんね。

さらら:谷口正樹さんの装丁が、とてもきれい。以前に、茨城のり子が詩を書いた『りゅうりぇんれんの物語』を読んだり舞台で見たりして、劉連仁の人生は知っていました。描写が細かくて、白菜みたいなのにニラまいて食べるところなど、具体的にどんなものを食べていたかがわかりますね。炭鉱から逃げて、どのように生き延びたか、実感を持って読むことができました。また説明的なところは一字下げてあったり、資料を入れるバランスなど、編集としての工夫にも拍手したい。でも物語として読み始めたのに、エピローグでがらっと文章が説明調になり、少し違和感を覚えました。例えば、エピローグには劉さんが日本国の強制労働の不法性を訴える声明文が出てきますが、これも劉さんの肉声なのでしょうか。物語で深く劉さんの心に入っていただけに、エピローグで急に外側から伝えたいことに内容が変わり、「エピローグ」という言葉の使い方がふさわしかったのか、よくわかりませんでした。さらに読者の子どもに感じてほしいことまで、エピローグに盛られている気もします。

ルパン:子どもに史実を伝えるためには、それも必要だと思いますが。

レジーナ:加害者としての日本は、日本の児童文学ではなかなか描かれないので、意欲的な作品だと思いました。肥だめにもぐって逃げたという話はときどき聞きますが、連仁が体験したことのにおいや寒さも伝わってきました。よく調べて書かれていますし、ていねいにつくられている本ですね。事実に基づく話なので、物語としてのおもしろさとは少し違いますが、こういう本を子どもに手渡していきたいと思いました。

レン:私もおもしろく読みました。中国から連行されてきた人がいたのは知っていましたが、その内実は知らなかったし、私はこの人物のことも知りませんでした。たくさんの資料を、よく整理して、わかるように書いているのがすごいなと。子どもの読者に伝わるように書かれています。ルビが多い黒々とした字面でつらそうな話だけど、劉さんが生きのびるとわかっているので安心して読めます。エピローグの部分は、物語の中に入れるという方法もあるのでしょうけれど、これはそうしないで成功していると思います。これを全部物語に盛り込んで途中で説明していったら、リズムも出てこなくて、物語がつまらなくなってしまいそうです。劉さんの苦闘に焦点をしぼっているから、生き生きとして臨場感が出ているのだなと。要所要所で心の声を地の文に入れた自由間接話法もとても効果的です。こういう難しいテーマの本をていねいに作って出し続けている版元さんがエライと思いました。

西山:茨木のり子の詩をいつ読んだのか、どう知ったのか・・・・・・なんとなく「りゅうりぇんれん」という名前は切なく懐かしく親しく感じてきました。強制連行の事実を認めようとしない発言などに対抗できる具体性が印象的です。例えば、軍服?着せて写真撮れば一般人じゃないと言えてしまうからくりとか。ともかく、一冊の本としての作りがすごいと思います。内容的には、好みの問題ですが、例えば、p138の短文を重ねていく描写とかが、意地悪な言い方かもしれませんが自己陶酔気味に感じられて、かえって作品の重厚さを損なっているようにも感じました。もっと押さえて書いても良かったのではないかと。あと、p226で同じ歴史を繰り返さないために中国人も日本人と一緒に努力しなければならないというのは、劉さんは、何の反省も必要じゃないと思うので、ひっかかりました。

ハル:「課題図書」ってこういう本のためにあるんだと思います。ドキュメンタリーではなくて物語として書き上げることの意義を強く感じました。日本はほんとうにひどいことをしてしまったのに、劉さんがとても優しくて、それがまたつらい。苛酷な環境でも、仲間を思うとき「思い出すのはなぜか笑顔」だったというところや、憎たらしい日本人の鬼監督のことまで「本当は怖かったんじゃないか」と思いやるところとか、思い出すだけでも胸がつまります。最後の「エピローグ」は、「資料編」として別にする手もあったと思いますが、そうすると読まなくなっちゃうから「エピローグ」にしたのかな。おかげで飛ばすことなく読めてよかったです。だけど、せっかくここまで著者の伝えたいことを表現のなかに織り交ぜてきたのに、最後で少し意見を押し付けられたような印象を受けました。この本で読書感想文を書こうと思いながら読んでいたら、「もう、いま自分もこういうことを書こうと思ったのに!」って思う子もいそう。自分なりの考えがもてるように、読者に時間を与えてほしかったです。

マリンゴ:劉連仁さんの史実を知らなかったので、勉強不足で申し訳ないと思いながら読みました。これが課題図書になったのがすごいと思います。臨場感があって、北に向かってしまうときは、「あー、そっち行っちゃダメ―!」とさけびたくなりました(笑)。ただ、エピローグで、少し盛り込みすぎている気がしました。小説のなかの強制雇用を、現在の非正規雇用の問題につなげて、さらに原発問題につなげて、これらが劉さんの働かされていた炭鉱と「大きなちがいがあるでしょうか」と結びつけてしまうのは、やや乱暴に思えました。この本では、あくまで劉さんの話に終始しておいたほうが、伝わりやすかったかなと感じています。

ハリネズミ:私も、日本の子どもの本で、加害者としての日本の側面を書いた本は少ないので、貴重だと思いました。童心社は日・中・韓平和絵本も出していますね。それについての話をうかがったとき、たとえば従軍慰安婦などについても右翼からクレームが来るから、クレームが来ても対応できるだけの事実をきちんと押さえておくと編集の方がおっしゃっていました。この作品も日本軍の強制連行を扱っているので、そういう配慮もちゃんとしながら、それでも出すというところが素晴らしい。私は小野田さんや横井さんについては知っていましたが、劉さんについては何も知らなかったので、初めて知って申し訳ないという気持ちと、この方の強さにも胸を打たれました。誤解を恐れずに言うと、劉さんの逃避行はサバイバル物語としても読めると思うんです。でも、エピローグには、奇跡の生還を遂げてからも「言語障害や対人恐怖症などの後遺症に、劉さんは長い間苦しめられました。また、悪夢にうなされ、山林に入るとパニックを起こす逃亡生活の後遺症は、終生癒えることがなかったといいます」と書いてあるのを読んでドキッとしました。実人生は、ふるさとに帰れればハッピーエンドってわけにはいかないんだと。欲を言えば、物語として読んだ時に、一緒に逃げたほかの人たちは見つかった後無事に故郷に帰れたのだろうか、なんていうことが気になったので、エピローグでもちょっと触れてくれると、さらによかったかな、と思いました。最後のところなど、ちょっと浪花節っぽい記述もあるんですが、とにかくこんな方がいたんだという事実に圧倒されてしまいました。あと、作者が劉さんの足跡をていねいにたどっているので、劉さん=善 日本人=悪という図式にとどまらないリアリティが『ラミッツの旅』(グニッラ・ルンドグレーン著 きただいえりこ訳 さえら書房)より感じられます。

ルパン:p182に、「隆二は戦争を知らない。日清・日露の戦争は教科書で習った。でも、父さんたちが知っている戦争がどんな戦争だったのかは、だれもちゃんと話してくれたことがない」とあります。これは、現代の子どもにも通じるのでは。今でも、日本の子どもや中高生は、現代史は学校でほとんど教わらないのです。

西山:「戦争児童文学」という言葉を使い始めた石上正夫さんが東京大空襲の被害が激しかった地域の小学校に赴任したとき、子どもたちが東京大空襲のことを知らなかったとおっしゃっていたことを思い出しました。校庭の隅を掘れば白骨が出てくるような時代に。親たちはあまりにも辛い体験で、口を閉ざしていたというのですね。近すぎると返って語れないというのがあると思います。

ハリネズミ:広島や長崎の被爆者の中にも、子どもの結婚などを考えると自分が被曝したことをなかなか語れなかったとおっしゃる方がいます。

ルパン:戦争が終わって10年以上が経っても、劉さんの中で戦争はずっと続いていたのですよね。ものすごく切なく感じました。

ハリネズミ:さっき、西山さんがp226の「劉さんはその生涯をかけて、子孫たちが再びこうした目にあわないことを願い、同じ歴史をくり返さないために、中国人も日本人と一緒に努力しなければならないことを説いて、幽界の人となりました」というところで、「中国人にはなにも責められる点はないのに」とおっしゃいましたが、私はちょっと違うように思います。ナチスにあんなに苦しめられたユダヤ人が、今パレスチナ人に対して同じような理不尽な扱いを平気でしているのを見ると、劉さんは、日本人が悪いという気持ちを最終的には超えて、中国人だって同じような状況におかれれば同じような過ちをすることがあるかもしれない、というところまで認識が深まっていたんじゃないでしょうか?

(2016年5月の言いたい放題)


世界の果てのこどもたち

マリンゴ:非常にいい物語だと思います。私自身、満州での生活など、知らないことがいろいろあって勉強になりました。ただ、児童文学として子どもに積極的に推す気にはなれないかも。やっぱり大人向けの文学だと思います。というのも、引き揚げのとき、中国の人がいかに残酷だったかを描いているシーンがあまりに鮮烈で、そこが強く頭に残りそうだから。高校生以上だったら満州ができた経緯など、基本的なことを知っているので、その上でこの小説を読めるでしょうが、そのあたりの歴史をほとんど何も知らない中学生だと、日本はひどいことをされた被害者だ、という印象のみを強く持つようになってしまうかな、と。

ハル:途中読むのがつらくなるくらい、ドキュメンタリーのような写実性を感じるけど、小説として素晴らしい作品だと思います。一方で、日本人ってこんなに素直だったのかなぁとも思いました。当時のこの悲惨で過酷な状況の中で、「自分たちはこんなにひどいことをしたんだ」と、加害者としての立場をこんなに素直に受け入れられたのかなと、ちょっと主人公たちが都合よくまとまっているような感じもします。この作品にかぎったことではないですが、この先、戦争体験者もどんどんいなくなっていくなかで、記録や体験として残していかなければいけない。でもそこには、伝承者にも読者にも、主観や政治的思想もからんでくるので、戦争を語り継いでいく意義と責任と、改めてこわさも感じました。

カピバラ:育ち方や性格がまったく違う3人の少女が、3人3様の強さをもって困難を乗り越えていくところに感動しました。子ども時代は子どもの視点でよく描かれていて、例えば満州の広い広いトウモロコシ畑で働くシーンなど、ありありと情景が目に浮かびました。子ども時代の部分は児童文学でもいいかなと思ったけど、全体としては児童文学ではないと思います。とてもよく調べ、事実をもとにして書いていると思いました。わたしの母が子どものころ、叔父が朝鮮人の奥さんを連れて引き揚げてきた。その人が翡翠の腕輪をはめていたことや、「チョーセンジンと馬鹿にするな」とよく言っていたことを覚えているそうです。けれどそういう記憶をもってる人は、今はもう2世代前になってしまった。だからこういう本は貴重だし、広く読んでほしいと思います。

レジーナ:児童文学でないというのは、どういう点でしょうか。

カピバラ:戦争や人種のことなど、歴史的背景を知ったうえでないと、偏った印象をもつかもしれないという意味です。

アカシア:出し方が、子どもの本じゃない?

ルパン:出し方が児童文学じゃないというのは?

カピバラ:子どもには隠した方がいいというのではなくて、やはり描き方だと思う。後半、ショッキングな場面が続きますからね。

レン:非常に意欲的な作品だと思いました。最後にたくさん参考文献があるので、こういうことをこの作家さんは書きたいと思ったのだなと。でも、児童文学ではないと思いました。戦前、日本も貧しくて、国内では食い詰めて外国に出て行く人がいたこととか、学校でも政治の場でも暴力がまかりとおっていたのだなということなど、改めて考えさせられました。ただ、私もうは少しウェットに書いてくれるといいのになとも思いました。作者が意図的にそうしたのかもしれませんが、事実が積み重ねられていく感じの部分が多くて。読みながら、ロバート・ウェストールの『真夜中の電話』(原田勝訳 徳間書店)の、触ったものや匂ったものの感じが伝わる文章を思い出して、ひとつひとつの体感がもうちょっとあるとよかったなと。でも、朝鮮だから、中国だから、というのではなく、どこの国の人でもいい人もいれば、そうでない人もいるというのは、よく伝わってきました。もう少ししぼって書いたらYAになるのかなと思う反面、3人を描くことで、この当時の満州の群像劇になっているとも思います。なかなかないテーマに取り組んだ、力のこもった作品だと思いました。

レジーナ:この本は一般書として出版されているので、今回、みんなで読む本に選んでよいか少し迷いましたが、クラウス・コルドンの『ベルリン』(理論社)3部作や、マークース・ズーサックの『本泥棒』(早川書房)のように、戦争というものが多面的に描かれていること、日本人が中国人や朝鮮人の土地を奪ったり搾取したりしたことにも触れていて、加害者としての日本が子どもの目で捉えられていることを考えると、ぜひ中高生に読んでほしいと思ったので選びました。人が生きるというのはどういうことか、国を越えて人と人とが心を通わせるというのはどういうことなのか考えさせる作品です。日本がアジアの中で近隣諸国とどのように向き合っていけばいいか、そのヒントがここにあるように感じました。ウェットな描き方ではありませんが、凍りついたトイレなど、満州での生活の描写はリアルですよね。3人は、おにぎりのことを人生で何度も思いだしていて、その場面がリフレインのようにくりかえし出てくるので、最初はさらっと描かれているからこそ、あとになって胸に迫るように感じました。戦争の時代はすべてがつらかったように思いがちですが、けっしてそうではなくて、のどかな日常もあって、それを奪うところに戦争の悲劇性があるんですよね。

きゃべつ:日本の戦争児童文学では、これまであまり触れられてこなかった部分を描いています。角田光代さんの『ツリーハウス』(文藝春秋)は同じく満州から始まる親子三世代の話ですが、それが縦軸だとすると、これは立場の違う3者を主人公にしていて、横軸的。その当時の中国や朝鮮の人の暮らしを知らなかったので、とても新鮮でした。これだけのものを書きあげてくださったのは素晴らしいと思います。読んでいて、よく調べて書いたことが分かりますが、事実を積みあげていけばリアルに近づくのか、という疑問も持ちました。どんなに日本人の加害行為が描かれても、どこか、読んでいる日本人がほっとできるというか、やむをえないなどと責任転嫁できてしまう余地を残してしまうのでは? それが虚構だとしても司馬遼太郎の歴史小説のように、事実を積みあげているからこそ、読んでいてその部分を見抜くことができない。戦争を知らない世代が描き、戦争を知らない世代が読むということは、その恐れがつねにあるかもしれない。戦争に関する本に携わるとき、自分自身、事実を詰めこめば嘘にならないだろうと思ってしまうところがあります。まじめになりすぎて、当事者だったら入れられたであろうユーモアを入れられなくなってしまったりします。どうやって、軽みを出していくのがいいのか、考えていくきっかけになりました。

レン:先日、浅田次郎さんのお話を聞く機会があったのですが、戦争を知らない人間が戦争を書くのはおこがましいという人もいるけれど、生の形で伝わるように書かねばならないと言っていました。書くことは貴重だと思います。

アカシア:たとえばアメリカのアフリカ系でレズビアンの作家ジャクリーン・ウッドソンは、たとえば白人が黒人の問題を書くとか、レズビアンじゃない人がレズビアンを登場させるといったことについて、書いた人が自分の問題としてとらえているのなら、いいじゃないか、と言っています。表面的にとか、ファッションで書くんじゃなくてね。

きゃべつ:もっと、コミカルに描く作品があってもいいかと思います。

アカシア:当事者でも、そうでなくても、ユーモアを持って書ける作家はいます。ウーリー・オルレブなんか、ユダヤ人で戦禍に脅えているのに戦争ごっこなんかやってる子どもを描いているし、ソーニャ・ハートネットも『銀のロバ』(主婦の友社)で死にそうな脱走兵を子どもたちが興味津々で見に行ったりする。子どもはいつでも子どもだと捉えれば、そこにユーモアもおのずと出てくるような気がします。

アカザ:とても力のこもった作品で、感動しました。現代史を十分に学んでいない中高生もいると聞くので、ぜひ読んでもらいたいと思います。被害者としての子どもたちを描くだけでなく、バランスをとって書こうとしている作者の心配りが感じられました。3人の少女の個人史を語っているので、視点が広がっていると思います。児童文学として書かれたものではないけれど、3人が優等生すぎるというか、健気すぎるところが児童文学的。この作者には、もっともっと子ども向けの作品を書いてもらいたいと思いました。戦後の部分が駆け足になってしまった感じはしますけれど。

ルパン:たいへんな意欲作だと思います。子どもが読んでも、それほど善人悪人という色分けは感じないのではないかと思います。中国人が悪いとか日本人が悪いとかいう偏った書き方はしていないから。私がいちばん強烈に印象に残ったのは、にぎった手をこじあけられて、たったひとつのキャラメルを奪われる場面です。いろいろな意味で、リアルにぞっとしました。その記憶を持つ少女がおとなになって好きな人との結婚に踏み切れなかったのはせつなすぎました。児童文学という観点からすれば、主人公が必ず幸せになる予定調和がほしかった。

アンヌ:かなり読むのに時間がかかりました。児童文学だと思い込んでいて、ロシア兵に襲われる場面で違うと気づきました。3人のうちでいちばん心の傷が深いのが、ずっと日本にいた茉莉という設定には、少し納得がいきませんでした。孤児になってからの他人の仕打ちが心に残って、迎えに来た兄と慕う人と結婚しない。ここで茉莉が拒絶したかったのは何なのかが、うまく読み解けませんでした。私は祖父母や親の世代が、引き揚げてきた人たちについてこっそり話しているのを聞いた世代ですが、そういうことを次の世代にどう手渡せばいいのか、この小説を読みながら、考えさせられました。

げた:最初は、これってノンフィクションかなあと思いながら、読み始めました。フィクションなんだけど、ドキュメンタリーみたいだなあと思いつつ、一気に読みました。全編、泣きながら読みました。生命力の弱い幼い子から順番に亡くなっていくんですよね。ひどい話です。大人がいがみ合い、そのつけを幼い子たちが支払うなんてひどいです。許せません。こういった事態を作ったのは為政者、権力者ですよね。がそういう状況をつくってしまう。中国の人だけがひどく描かれているという風には思いませんでした。開拓団の土地はもともと中国の人たちのもの。それを奪ったのは日本人でしょ。作者は私よりずっと若い人なんですが、そんな若い人に書いてもらって申し訳ないという思いもありますね。この本は、歴史の勉強をしながら、高校生ぐらいの人たちに読んでほしいですね。

アカシア:おとなは、戦争はひどいことが常時行われていると知っていますけど、それさえほとんど知らない若い人が読むとどうなのか、という点に興味があります。さっき中国人の残虐性が強く印象にのこるんじゃないかという話がありましたが、珠子は、p265で「もうわらえない。わたしも日本人だから。酷いことをした日本人のひとりだから」と言ってるし、茉莉もp289から次のページにかけて「わたしの手を無理やりに開いてキャラメルを取っていったおばさん。わたしのお皿のじゃがいもを食べたおじさん。かっちゃんにみつけてもらうまで、だれもわたしを助けてくれなかった。養護施設ではひどい目にあわされた。/自分だけじゃない。道ばたで死んでいる人たちの懐から財布を盗んでいった人。空襲で親を失い、不自由な体になってなお、守られるどころか、いじめ抜かれた戦災孤児たち。/こんな日本人なんていらない。この世界に、憎むべき日本人を増やしたくない。/そして。/茉莉にはわかっていた。/日本人。それは、わたしも。/日の丸の旗を振って、進一お兄ちゃまをフィリピンに送り込んだ。鉄を集めて、弾丸切手を買って、鉄砲の弾を送った。シンガポール陥落のときも提灯行列をして祝った。『陥落』されたシンガポールの人たちがどうなったのか、考えもせずに」と思っています。だから二人の頭の中には中国人の酷さより日本人のひどさの方が強く印象づけられているんだと思います。でも、飢えの経験がない読者の中には、キャラメルやジャガイモを取られるより、権力者の宣伝に乗ってほかの国を侵略するより、引き揚げの際に満人が襲ってくる怖さの方を感じてしまう人がいるのも確かかもしれない。マリンゴさんがおっしゃるように。戦争が実感としてない世代にどう伝えればいいのか、難しいところだと思います。
 実際には戦争になると国家がおとなに加害し、おとなが子どもに加害するという弱肉強食の世界が生じる。で、より弱い立場の者がいちばん犠牲になるってことを、この作品はちゃんと書いてます。それと、立場も国籍も育ち方も違う3人の女性の生きていく様子を書いているので、視点が複合的になって全体がよくわかる。それがすばらしい。時代の流れの中で個々に人間の生き方を書くのは、日本の児童文学作家が苦手とするところだと思って来ましたが、この作家は書けますね。これからが楽しみです。それと、残虐なシーンがあるから子どもには読ませないというんだったら、『マザーランドの月』もだめですよね。あっちはもっと訳のわからない残虐さだから。

きゃべつ:『マザーランドの月』は、子どもがわかるだけの範囲で切りとられているので、そういう作品はもっとあってもいいのではないかと思います。読んだときにそれが何を指し示しているかわからなくても、大人になってからわかることもあります。興味を持つきっかけになればいいかと。

西山:私は、これは児童文学じゃないと考えています。私にとっての線引きは、残虐な描写があるかどうかとかいうことではなく、その作品の中心部分が、どういう世代にとっての切実か。それで考えたいと思っています。この作品は、子どもの切実がメインではない。ただ、児童文学を刺激する作品だし、作者も児童文学の人だと思うから今回みんなで読む本になったことにまったく異論はありません。好きな作品です。長いスパンで近現代史を描いているところが新鮮です。戦争を描くときにそれは必要だと思ってます。この作品には、いくつも屈折があって、戦争と人間の様がほんとうに多様で複雑だということを感じさせてくれるから、ネトウヨ云々の心配は感じません。珠子を育てた中国人の両親の印象が強いから、中国の兵隊が残酷だったなんていう印象がひとり歩きすることはない気がする。それと、過ごしてきた時間で家族ができるという家族観も貴重だと思いました。戦争を背景とする物語には、引き裂かれた家族の悲劇とか多いと思うんです。日本に帰ってきて母親含め肉親と再会したにもかかわらず、日本語をすっかり忘れてしまっている珠子の物語は厳しくて新鮮でした。3人の生活の違いもおもしろく、貴重だと思った点です。食い詰めて満州に行くような高知の寒村の暮らしと同じ時代に、おふろあがりにイチゴをつぶしてミルクをかけて食べるような暮らしもあったという。ほんとにおもしろいと思います。中高生と付き合ってて、戦争中は昔で、昔はみんな貧乏で、食べ物もなかったと思っているらしいと気づいたことがあるので、戦前のハイカラな生活が出てくるのは重要だと思います。あれが丸、バツというようにはならない、たくさんの側面が書かれているからこの作品を支持します。身体感覚に寄り添った表現がないと読むのがつらいという話もでてますが、私は、作品始まってまもなく、前の道路が広くて子どもたちが走ってしまうところなんかにあっという間に、心がわしづかみされた口です。多くの10代にはハードルの高い作品ではあるけれど、3人の人生に寄り添って読めるし、誤解しそうな子は最初から読まないから、どんどん紹介していっていいと思います。

レン:印象的な部分を2,3分朗読すると、読んでみようと思うかもしれませんね。この作品は方言がとてもいいですよね。

きゃべつ:きれいな日本語を話す美子が、方言をいっしょうけんめい覚えるところはおかしかったし、かわいかった。

アカシア:気の毒な人たちのことを代弁して書いてあげるという態度だと、自分のものにならないからだめですよね。子どもの時遠いお寺に三人で出かけて雨に降りこめられておむすびを分けあったエピソードですが、何度もくり返し思い出しては語られます。でも、最初の場面で、私はそれほど強い印象を持たなかったので、それを3人3様にことあるごとに思い出すのかなあ、と疑問に思ったんです。そこをキーにするなら、飽食の時代の若い人たちにももう少し強い印象が残るように書いたほうがよかったんじゃないかな?

きゃべつ:私も、饅頭の材料が小麦粉だと上等で、コーリャンだとあまりおいしくない、といった違いが、あまりよくわからないというか、身に迫ってきませんでした。

カピバラ:おにぎりを食べたとき、茉莉は特になにも感じずに大きいほうをもらって食べたけど、あとになっていろいろな体験を経るうちに気づくんですよね。それが美子たちとの唯一の記憶になるくらい大きなものになっていく。

アカシア:飽食の時代の読者にアピールするには、そこをもっと書き込んだほうがいいように思ったんだけどな。

西山:雨の中でのんきに歌ってる。あの場面も大好きです。おとなたちは村を挙げて生死を心配して駆けつけたというのに。そして、歌声を聞いて、おとなたちも笑ってしまう。あの、ほがらかな感じがとても好き。だから、そこにでてきたおにぎりも、場面丸ごとで重要な意味を帯びていくんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


先生、しゅくだいわすれました

げた:今の小学校には宿題の点検係っていう係があるんですかね。それはともかく、宿題を忘れた時、言い訳を話すことで許してもらえる。子どもたちにそれが受けて、わざと忘れてきて、おもしろい話をしようするようになるという展開になって、お話の発表会の場のようになってきちゃうんですよね。現実には、こんな風にはならないでしょうけどね。職場でも月曜の朝礼の時に、順番にフリーテーマで話すということをしていたことがあったんですが、なかなか大変だったことを思い出しましたよ。おもしろいと思わせる話をするのは難しいですもんね。

アンヌ:物語の枠にとらわれない「ウソ」というのがおもしろいお話でした。ファンタジーの決まり事では、物語の最後に何か証拠が残るような仕組みを置くのだけれど、ここではウソなので何もない。例えば、お話の中で頭をぶつけても「目が覚めたらたんこぶがあって昨日の話は本当だった」となるところが、ウソなので「たんこぶもありませんでした」 となるのが新鮮でした。先生のお話も、生徒たちが引き込まれていって新しいウソの目撃談を誰かが口にすると、それも物語の中にとり込んでしまう。そして、ぐんぐん伸びていく物語は「宿題が出来なかった、作れなかった」 という着地点に収まる。なんだか、一瞬の夢が言葉で語られ教室の中でふっと消えていく感じが、伝承されない物語という感じで新鮮でした。表紙の中にも隠し絵があるし、p.64、p.67の竜のお母さんの挿絵も、 みだれ髪といい裸足といい、怪しそうにおもしろく描けていると思いました。

ルパン:私はあんまりおもしろくありませんでした。子どもたちが「宿題をやらなかった言い訳」として作るお話が、つまらないんです。どれも陳腐でたいしたことないから、宿題忘れが帳消しになっていいと思えるほどの説得力がない。やっぱり、宿題って、やらなきゃいけないものなんです。ましてや、先生が自分で出した宿題を「やらなくていい」というからには、それでもいいやと思えるほどのあっといわせるものがないと。そこが中途半端だと、むしろ「読ませたくない話」になってしまいます。

アカザ:子どもがすらすら読める本だと思いました。特にいやだなという点はなくて気持ちよく読み進めましたが、おもしろかったかときかれれば、ちょっとね。宿題を忘れた言い訳を考えさせるというのはいいのですが、肝心のウソの話がつまらない。ウソ話が奇想天外にふくれあがって、学校が大変なことになるとか、いくらでも冒険できると思うのだけれど、肝心のファンタジーの部分がおもしろくないので、すぐに忘れてしまいそうです。

レジーナ:たわいのない話で、『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・』(市川宣子作 ひさかたチャイルド)に少し似ていますが、私はこういう本はいろいろあっていいと思うし、読んだあとに満足感が得られる短い作品というのはなかなか見つからないので、積極的に子どもに手渡していきたいです。表紙にも工夫がありますね。今の学校現場は、いじめや貧困などいろんな問題を抱え、児童文学でもそうした問題が描かれることが多いですが、この本は、先生と子どものやりとりをほのぼの描いていて、「そういえば学校って楽しい場所だったよね」と思いださせてくれる作品です。

レン:さっと読めましたが、私はそんなにおもしろくありませんでした。宿題忘れちゃうというだけで、おもしろそうと思って子どもは手に取るのかな。中に出てくるつくり話を、私は楽しめませんでした。やらなくてもいい宿題なら、最初から出さなくていいのにって思っちゃいます。子どものときに読んだら、好きじゃない本だったと思います。生活童話のたぐいがとても苦手だったんです。そんなこと言ったって、学校なんて楽しくないのにって思っているヘソ曲がりだったから。

カピバラ:4年生の学級の話なので中学年向けですが、幼年童話かと思うほどの造りですね。4年生向けの本だともっと文章量のある本を想定してしまうけど、今の4年生の読書力が落ちていることを考えると、この薄さ、いかにもおもしろそうなタイトル、ほとんどのページに挿絵入りで、カラーページもたくさんあり、挿絵なしのページは下に余白をたっぷりとって字がぎっしり詰まっていない……読書が苦手な子も何とか読めるように、と考えたところに努力賞をあげたいです。

ハル:そうか、この本は、中学年向けなんですね! もう少し下の子向けかと。ちょっと今そのことに感心してしまって、感想が飛んでしまいそうです。えっと、タイトルから何か、古典的な名作といったものを期待しすぎてしまって、ちょっと物足りなかったなというのが正直なところです。つまらなくはないんですけど。途中で「宿題、もう忘れたくない!」という展開になったところで、新たな展開やオチを期待してしまったんですけど、そこで先生のつくり話がきて終わってしまったので、やっぱりちょっと、ぼやっとした印象を受けました。

マリンゴ: シンプルな話っていうのはこういうものなのだな、と。決して悪い意味ではなくて、むしろいい意味で、お手本になると思いました。自分だったら、みんなのついたウソが一つの物語につながる、というような、もう一段階凝ったストーリーを考えてしまいがちですが、そうなると文章が長くなって本が分厚くなって、中学年向けではなくなってしまう。このくらいの文章量と絵の多さが、中学年の子が楽しく読めるスタンダードなのかも、と感じました。今の子は読書力が落ちていると聞くので……。

西山:読みましたけど、よそに差し上げちゃって手元になくて、地元の図書館では貸し出し中で読み返せませんでした。いまさっとめくって、学校の息苦しい現状が進行していて、学校は重くなりがちだから、こういう軽さは意外と技が必要なのかもと思います。それと、「仕方ないねぇ」っていう緩さが、今回のテーマに沿うんだなと納得。先日テレビで「エイプリルフールズ」という映画を観ました。出てくる人物が全員ウソをついてて、それがちゃんと絡んでいくし、こっちが思っているウソと真相が逆だったり、とてもおもしろかった。作り話がからんでいくとか、どんでん返しがあるとか、中学年向きでも試みてもよかったのではと、欲が出なくもないです。

アカシア:さあっと読めて楽しかったんですけど、後には残らなかった。市川宣子さんの『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは・・・』と同じつくりですが、あっちは、一人のお父さんがほら話をするので、お父さん像もだんだん浮かび上がってくる。こっちは、一人一人ばらばらに話をするので、ばらばらな感じ。小学生が次々にこんなうまい話を長々とするわけもないので、リアリティもない。想像力の訓練として、あなただったら、どんな話をする? という方向に持って行ければ、それもおもしろいのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


ワンダー

さらら:去年3月オランダの本屋さんで、とにかくこれがおすすめと、『ワンダー』の原書を手渡され、そのあと日本語版を読みました。そして日本人の作家がなかなか書けないこと、日本語では語られてこなかったことを巧みに書いているな、という印象を持ちました。オーガストは素直でとてもいい子。温かい家族の中でまっすぐに育っているけど、自分の障碍のことは常に意識しているし、傷つくことだってあれば、自分を「奇形」と呼ぶことだってある。でも全体に自分のとらえ方がクールであまり感傷的にはならず、そこに好感が持てました。いじめがあっても陰湿じゃなくて、解決に向かって動き出す。日本の現状のなかで、もしこんな男の子がいたらまわりはどう受け止めるだろうかと考えると、そこからリアリティを持って書こうと思ったら、もっとストーリーも暗く、文章も重くなりそう。とにかく、いいお話でした。ただ最後のほうで展開が速くなり、オーガストをいじめている男の子が転校しちゃったという解決が、やや安易な気がしました。

アカザ:なぜワンダーというタイトルをつけたのかと思っていましたが、最後まで読んで、主人公のオギーがワンダーなのだと分かりました。こういう障碍があるのに、真っ直ぐに育つなんて。何ページか忘れましたが、「自分には障碍はない」という言葉が印象的でした。障碍は、むしろ周りの人たちにあって、その人たちが試されている。そういう様々な人たちの視点で書かれているところが、この作品が成功した理由だと思います。サマーという女の子は出来過ぎだし、ジュリアンはステレオタイプ。わたしも含めて、ほとんどの人たちは、サマーとジュリアンの間にいると思うので、ジャックにいちばん共感をおぼえました。リアルな作品に見えて、実はファンタジーだと思うのですが、読んだ子どもたちがどんなことを考えるか、聞いてみたい気がします。

さらら:『ワンダー』という言葉をタイトルにするにあたって、ナタリー・マーチャントの詩が一部冒頭に引用されていますね。ロアルド・ダールの『マチルダ』のミュージカルも、冒頭に、新しく生まれてきたどんな命も「ミラクル」という詩があって、すごく似てるなーと思いました。
 https://sites.google.com/site/qitranscripts/matilda-act-1
 http://www.azlyrics.com/lyrics/nataliemerchant/wonder.html

ルパン:原書で前半を読んで、途中から日本語訳で読んだのですが、そんなに違和感なく移行できました。私はこれはすばらしい物語だと思って読みました。ただ、最後でオーガストが表彰されるのは、なかったらよかったのにと思います。彼はうれしいのだろうかと、腑に落ちない部分がありました。

アンヌ:初めて手に取った時、目次も註も後書きもなく、「第一章」ではなくpart1と書いてあるのに驚いて、小学生対象なのに読めるのかなと気になりました。各章の冒頭に詩や文学作品の引用が書かれているのですが、この本では歌詞も多く、YouTubeで音楽を聞きながら楽しみました。ジャスティンの章(part5)の最後で、ジャスティンがオギーのことを考え暗い気持ちでいる時に、ふと民族音楽の音階を思い浮かべて心が和らぐところがあります。ここは、音楽で世界をとらえている少年の気持ちがとてもうまく描かれていて、好きな場面です。野外学習で、仲が良くないクラスメイトが、よその学校の子供たちからオギーを守り、それをきっかけに学校中の生徒がオギーにうちとけるという展開には、『町から来た少女』(リュボーフィ F.ヴォロンコーワ著 小学館他)のけんかの場面を思い出し、外敵から守ってそこで身内になるんだなと納得しました。ラストは少しくどいと思いましたが、初めて学校に行き、ブドウでさえ半分に切らないと食べられないような体で1年間を生き抜いたのだから、スタンディングオベーションを受けてもいいと思いました。

アカシア:おもしろく読みました。オギーについて書いた本と言うより、オギ-を鏡にしての周りの人たちの反応やそれぞれのスタンスを書いた本だと思います。最後の部分は余計じゃないかという声もありましたが、私はこれは必要だと思います。大勢がスタンディング・オベーションをしたということは、多くの人が最初は奇妙な顔でしかなかったオギーを、一人の人間として認識するようになったということを表してる。こういう本は、下手な人が書くと「かわいそう」という視点がどこかに入ってきてしまったり、主人公に肩入れするあまりほかの人間が書けていなかったり、ということが多いけど、この作品には「かわいそう」という視点もまったくないし、さまざまな人間も書けている。それがすばらしい。最初のほうで、おならばかりしてる看護師さんが登場したり、校長先生がおしりという名前だったりと、笑わせるところがあります。読書が苦手な子もこういう手で作品に引っ張り込もうとしてるのかな、と思いました。ジュリアンとその家族だけはステレオタイプにしか描かれていないと思ったんですけど、考えてみれば現実にもこういう人っているんですよね。

西山:すっごくおもしろかったです。視点人物を変える書き方は、日本の創作文学ではやりすぎというほど増えているけど、この作品を読んだらこの方法が生きている思いました。たとえを思いついたんですけど、語り手がライトを持っていると考える。例えば、語り手を変えていっても、人(語り手=ライトの持ち手)はかわるけど同じ方向に光をあてているパターンの作品。これは、世界の広がりは立ち現れないし、結局語り手を変えた意味が無い。あるいは、それぞれが照らす方向がみんなばらばらでリンクしていかないパターン。これまた、作品世界は広がった大きなひとつのまとまりにならない。でも、『ワンダー』は、一人称の語り手を章ごとに変えていく手法がとても有効だと思いました。それに、あくまでこういう等身大の子と思って読めました。これから書こうと思う人は勉強になる本だと思いました。それと、いじめは許さないというのは、日本の小説の中では、犯罪に近いものでもけっこう許されているんじゃないかと、気づかされました。処罰されるべきことだというのが足りないかも。たいへん新鮮でした。たくさんの人に読んでほしいと思います。

マリンゴ: 発売直後から書店でよく見かけてましたが、帯の文字が大きすぎて、タイトルは「きっと、ふるえる」だと当初思い込んでました(笑)。とてもおもしろくて、いい作品だなと思いました。オーガストの視点で進むのかと思ったら、次々他の人の視点に代わって、さまざまな角度から物語が進んでいくところがよかったです。312ページに、誰もが一生に一度はスタンディングオベーションを受けるべき、と書いてあって、ああこれは伏線だな、と思っていたのですが、そのことを程よく忘れた頃、ラストに再び出てきて、うまいなと思いました。さらに最後の最後、格言で締めているところも。あと、終盤の映画と森のシーン。物語の展開として、そろそろ主人公に「友達を助ける」経験をさせたいと思うのが、一般的かと思うんですけど、この物語は「友達に助けられる」ことで輪が広がっていきます。その流れが興味深く、とてもリアルだと思いました。

ハル:これはもう、一晩で読んでしまいました。読み終わって最初に思ったのは、「あぁ、こういう本を選べる出版者になりたいなぁ」って。障害にからんで結構きわどい表現もありますし、本のつくりも大胆なところもあるので、こういう本をつくれるようになりたいと思いました。中でも印象的だったのは、ハロウィンのシーンで、ジャックがなんの理由もなく、たとえば嫉妬とか、むしゃくしゃしてたとか、そういったわかりやすい理由もなく、ぽんっと意地悪を言ってしまうところです。児童書の世界って、いい子はいい子、悪い子は悪い子、悪い子もだんだんいい子になって……、というふうにはっきりしているように思いますが、その意味でジャックの行動はとてもリアル。こういった描かれ方をしているのをこれまで私は見たことがなかったので、良い意味で、すごくインパクトがありました。読者の子供たちはこの場面をどう受け止めるのかな、共感されるのかな、というのは興味深いです。

カピバラ:だいぶ前から持っていたんですが、帯の「きっと、ふるえる」を見て、あまりふるえたくはないなと思い、なかなか読み始められませんでした。たまたま今朝のNHK「あさイチ」で中江有里さんがこの本を紹介しており、この本は「普通」というのはどういうことなのかを考えさせてくれる本でしたとコメントしていました。確かにそういう面はあると思います。いろんな子どもたちが出てきて、それぞれの視点から書かれているのがおもしろかったです。一人の人間の中にも、良い面も悪い面もあるところが描けていますよね。オギーが明るすぎるくらいに明るく描かれているんだけど、障碍のある登場人物を描くときによくありがちな、かわいそうとか、哀れむ感情を排除しているところが良かった。たまたまオギーは外見に障害があるけれど、他の人たちは外見ではなく性格に障害があったりするわけですからね。オギー以外では、おねえちゃんの気持ちに共感できましたね。それとお姉ちゃんの彼氏の気持ちも。

レン:半年ほど前に読んだまま、読み返さなかったので細部を忘れてしまったのですが、いろんな子どもの視点で書かれているのがおもしろかったです。共感するところがあったり、そうでもなかったりしながら、さまざまな立場や考え方に触れていける。一度読み始めると、ぐいぐい引きこんでいくストーリーの強さがある。どの子も共感したり、そうでもなかったりしながら、ひきつけられて読み進められるから、全世界で300万人も読んだのかなと思いました。

レジーナ:私は今回の選書係でした。この本は4年前に原書で読んで、日本でも出版されるといいなと思っていました。ドイツ児童文学賞の青少年審査員賞も受賞しています。オーガストをどう受け入れるか、周囲の人間も悩みながら成長していきます。難しい主題の作品ですが、家族の温かさに救われますね。外見が派手になっても、オーガストのことをずっと気にかけているミランダなど、人物造形がしっかりしています。複数の人物の視点で書かれた物語は、内容が薄くなることもありますが、この本はそうではなく、ちゃんと残るものがあります。ナルニアの引用は、瀬田さんの詩的な訳文を使ってほしかったです。最後の表彰の場面は、なくてもよかったのでは。全体的にもう少し短くてよかったかな。オーガストは、悩みながらも障碍を明るく笑い飛ばしていて、すごく強い人間ですよね。私にはとてもできないので、共感しきれない部分もありました。

アカシア:さっきも言ったんですけど、私は最後の場面には二つ意味があると思います。そこまでしないと認められないってことじゃなくて、一つは、周りの人がオギーと付き合った結果外見じゃなく一人の人間として認めるようになったこと。もう一つは、この本は広範な読者に読んでもらおうとしているので、読書嫌いの子どもにとっては、スタンディングオベーションがあったほうがイメージがはっきりしてわかりやすい、ということ。

レジーナ:p130に「ゲームのせいでオギーがゾンビみたいになっちゃうのは、すごくイヤ」とあるのは、どういう意味でしょうか。

西山:ゲームに夢中になって反応しないっていう様子じゃないかな・・・。

さらら:さっき、「ワンダー」や「ミラクル」のという言葉の話が出ましたが、どんな命も神の奇跡、というキリスト教的な意味が、この『ワンダー』に入ってるんでしょうか…? 欧米の読者は、タイトルからして、すでにそう感じるのかしらね。

アカザ:入っているんじゃないかしら。

アンヌ:註を入れないと、小学生にはわからない表現がありますよね。たとえばインクルーシブ教育とか。

アカシア:そこは文中でうまく説明してあります。註は子どもの読者にとっては物語の流れを邪魔する場合も多いので、入れないほうがいいこともあります。これは、そのあたりがよく考えられています。それから、オギーは体も弱く、差別の対象にもなってしまいがちな子ですが、親がちゃんと意志を尊重しようとしている。そこもいいな、と思いました。

げた:ごめんなさい。まだ、最初の100ページくらいしか、読めてないんです。この後、読了したいと思います。楽しみにしています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年4月の記録)


スモーキー山脈からの手紙

シャーロット:自分が選んでいない道を進まざるをえない寂しさや戸惑い、不安、怒りが細やかに描かれていて、それらの心情が痛いほど伝わってきました。これからの人生に心配事を抱えている3人のなかで、ロレッタの存在は異質です。この少女にはあまり魅力を感じませんでした。前半の登場人物の心理描写にはひき込まれましたが、その後の展開では心がほぐれていくエピソードが少し弱いと思いました。アギーと暮らしても良いという父親のセリフや、それをアギーに伝えたときの返事があっさりしすぎていると感じ、物足りなかったです。

アンヌ:今回は、各章ごとに違う登場人物の視点で書かれている作品ばかりでしたが、これは、うまくその方法がはまっていて、バラバラに示された問題が最後にすとんと落ち着く読後感が良く、何度も読み返したくなる本でした。最初、亡くなった実の母親の形見の腕輪のチャームを探す旅に出たロレッタについて、作者が「ピースがはまる」と書き、アギーさんに「ピースを探しに来た」と言わせているのがぴんと来ませんでした。でも、読み返しているうちに、ロレッタは、実の親を亡くしたということだけではなくて、自分のルーツについても知ることができなくなっていることに気づきました。だから、実の母親の腕輪のチャームを見つけられたこの場所が、ロレッタの故郷になったのだとわかりました。一見ふわふわして幸せそうに描かれたロレッタの心許なさが、伝わった気がします。どんどんワルになっていくという、悪循環にはまっていたカービーが、ここでは信じてもらえることによって変わっていく。そのことを、ブローチを「拾って、盗んだ」から「拾って、見つけてあげた」に転換して読者にくっきりと見せる場面には、感動しました。「ノサ言葉」とか、知らない人を排除して意地悪することもできるけれど、仲間内で使うと楽しくなる暗号風の言葉遊びも、うまく使われていました。

ルパン:私は、このなかで一番かわいそうなのはロレッタだと思いました。ほかの3人の悲しみはとてもわかりやすいのですが、ロレッタだけは満たされない思いを口に出すことができないからです。ロレッタの養母はことあるごとに「わたしたち、幸せね」と繰り返します。そのなかでロレッタは、産みの親に育ててもらえなかったから寂しい、とは言えません。実の母親が訪ねたであろう場所をすべてまわっても、この子は産み捨てられたという根本的な悲しみから抜け出せないのではないかと思うと、心配でたまりませんでした。でも、初めて訪れた場所がここで、そして、「母が来た場所だから」ではなく、「みんなに会えた場所だから」もうここにしか来ない、そして何度でも戻ってくる、と決めたロレッタに、心から「良かったね」と言いたい気持ちになりました。
 それから、冒頭のアギーの章では本当に泣けました。ハロルドが二度と帰ってこないことを1日に何度も思い出さなければならないアギーに、胸がしめつけられるようでした。

ハリネズミ:私はロレッタが一番かわいそうとは思いませんでした。日本の人は血のつながりを大事だと思っているから、養子のロレッタがかわいそうに見えるのかもしれないけれど、この子は、ママというのはずっと育ての母のことだと思ってきたわけですよね。そこに疑問を持って生きてはいない。自分を憐れんでもいない。今、英米の児童文学では家族は血のつながりより一緒に生きた時間だっていうのが前面に出ているから、著者もかわいそうな子として書いているわけじゃないと思います。でも、産みの母親が亡くなったという知らせを聞いて、自分のルーツを確認したいと思うのは当然のこと。ここは、バーリー・ドハティの『アンモナイトの谷』(『蛇の石 秘密の谷』中川ちひろ訳 新潮社)なんかと同ですよね。養父母が時としてやりすぎになるところも似ていますね。父親に不満で母親の愛情を確認できないウィロウや、家族から見放されているように思えるカービーは、どちらも血のつながりのある家族ですが、どの子が一番子どもとして守られているかを考えると、それはやっぱりロレッタだと思います。だからロレッタが一番幼いし、子どもらしい。ただしロレッタも、自分のルーツが確認できないという意味では、パズルのピースがきちんとはまらないような気持ちを抱えている。そこへ長い人生を生きてきたけど今は元気をなくしているアギーが加わって、孤立していた生身の人間同士がつながっていく。
 オビには「奇跡みたいな物語」とありますが、さまざまに満たされない思いを抱いている登場人物たちが最後にはお互いに補い合って、次の段階へと踏み出せるようになるというのは、それだけで今は奇跡のようなものかもしれません。でも、それぞれの人物の特徴が浮かびあがるように翻訳されているので、リアルに感じられるし、物語がすっと心に入ってきます。読むと温かい気持ちになるし、人間を信じられるようになるという意味では、クラシックな児童文学と言えるかもしれません。一つ疑問だったのは邦題の「手紙」で、この人たちはみんなが手紙を書いているわけではないから、どうして?と思いました。

パピルス:冒頭部分のアギーの描写にひき込まれ、アギーのことを親身に思いながら読み進めました。いろんな背景を持つ人がモーテルに集まり、それぞれの心情の変化が丁寧に描かれています。読後感も良かったです。モーテルというのは、ボロ宿、安宿のイメージですが、表紙画にはおしゃれな感じのモーテルが描かれていて、中学校時代にこういった感じの世界観が好きだったのを思いだしました。

マリンゴ: 今日話し合う3冊のなかで、一番好きでした。モーテルの情景、映像では見てみたいけれど、自分で泊まったらカビやサビが気になる古びた建物……そういうリアリティがあって良かったです。もっとも、視点が章ごとに次々変わっていくので、最初は何人出てくるのか、覚えきれるのかと戦々恐々でした。4人で良かった(笑)。人との出会いをポジティブに描いているところも、とてもいいと思いました。子どものなかには、新しい出会いを怖がる子もいると思うので。出会いは面倒なものや怖いものではない、むしろ素敵なものなのだ、というのが伝わるかと思います。ラスト、アギーが一人悲しみを引き受けるのかと思いきや、彼女にも救いがあってホッとしました。

ペレソッソ:最初にタイトルだけ聞いたとき、フィリピンのスモーキーマウンテンの話かと思いました。表紙を見たらそうじゃないことはすぐわかりましたけど。映画で観たいと思いました。景色や登場人物を映像として浮かべながら読めたからだと思います。ウィロウのお父さんが一番わからなかったんですが、全体として登場人物それぞれの過去を説明的に描いていないですよね。背景を描きすぎない。現在の様子を描くだけ。あと、目の端に子どもの存在が映るだけで、その場の景色が明るくなる。ふさぎ込んでいたアギーさんが、子どもが庭で駆けている姿を目にするだけで、ぱぁっと明るい気分に変わりますよね。なんだか、児童文学の初心に帰ったような気がしました。

カピバラ:4人それぞれの視点で描かれ、章ごとに別の人になる形なので、一人あたりの分量は4分の一になりますね。だから一人ずつの背景はじゅうぶん書かれているわけではないんだけれど、それはあまり気になりません。なぜなら、今その人、その子が何をどう見ているか、ということが読者に伝わってくるからだと思います。小さなことでも、各人のものの見方がわかり、ああこういう子いるな、と思わせる、上手な書き方だと思いました。アギーの家ではオレンジ色のカーペットにアギーの普段歩く道がついているところなんて、生活感があって、アギーの暮らしぶりが目に浮かびます。翻訳で、アギーの章では「アギー」なのに、子どもたちの章では「アギーさん」と訳されています。原文ではすべて「アギー」ですが、日本人の感覚に配慮した細やかな翻訳だと感心しました。

レジーナ:複数の視点から語られる物語というのは、少し物足りなく感じることがあります。でも、この本は、登場人物のせりふや行動から、それぞれの人生が透けてみえて、ひなびたモーテルの様子もリアルで、とても心に残りました。去年読んでから時間が経っていますが、みなさんのお話を伺っていたら一気に思い出しました。いろんな背景を抱えた人がホテルに集まり、それをきっかけに人生が動きはじめる話は、映画でよく見かけますね。児童文学ではめずらしいのでは。温くて、読後感のいい本なので、勤め先の学校のブックトークで紹介しています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


戦火の三匹〜ロンドン大脱出

マリンゴ:最初はなぜか読みづらかったのですが、終わってみれば登場人物がとても多いわりによく整理されていて、読みごたえがありました。空襲を受けていない時点のイギリスで、こんなに大量のペットの安楽死があったという事実を、初めて知りました。ただ、動物の心理を描く部分が、微妙に書体と字の大きさが違って、そこが読みづらいと感じました。出てくる回数が少ないので、いっそ違いをなくしちゃえばいいのに、と思って。翻訳ではなく原文に対しての意見なのですが……。あと余談ですが、読む前は表紙の印象から、3匹が人間を時に批判しながら、ぺちゃぺちゃしゃべりつつ旅する話だと思っていたので、若干「思っていたのとは違う」感がありました。

パピルス:私もペットの安楽死については知りませんでした。登場人物が多く、気を抜いて読んでいるといつの間にか知らない名前が入っているので、何度かページを戻って読み直しました。ロバートと妹のルーシーが疎開して、3匹がそこに向かうのが意外でした。

ハリネズミ:戦争が動物に与える影響が、うまく描かれています。動物の周囲にいる人間の様々な心情も描かれているしね。ただ、登場するキャラクターが多くて、視点がどんどん変わっていきます。これが映画だったらいいけど、文章だけだと読者の子どもたちがうまくついていけるかどうか、ちょっと心配になりました。動物だって犬、猫、馬のほかに伝書鳩まで出てきますからね。犬2匹と猫1匹の脱走ドラマと、捨てられたペットの保護活動だけでも物語は成立したように思います。それ以外にも、疎開先でのいじめだの、認知症の問題、脱走兵の問題など、テーマが盛りだくさんで、ちょっと間をおいて続きを読もうとしたら、メインの流れにうまく乗れない感じがありました。

ルパン:まだ最後まで読み終わっていないのですが、今のところ一気に読んでいるので、登場人物の多さはそこまで気になっていません。ローズは祖母の家の近くで生まれた、とあるので、帰巣本能(?)で、これからそこを目指していくのだろうと察しはつきます。動物が主人公のようですが、しゃべらないんですね。それから、今日話し合う3冊のタイトルを見たときは、これが一番ひきつけられました。

アカザ:でも、3匹は戦火をあびてないわけだから、変なタイトルですよね?

アンヌ:なんだか、散漫で、予測がつくエピソードだらけという気がしました。戦争を動物で描きたかったというのはわかりますが、これだけのストーリーのなかに、ナルパックや戦場の動物の話など盛り込みすぎな気がします。例えば戦場での伝書鳩の話は、途中まではリアルなのですが、そこでお父さんが無事に戻るところまでくると、おとぎ話風になってしまう。3匹の動物の大冒険だけでもおもしろいのに、戦争中の動物の話や、学童疎開や戦争のせいで認知症になったおばあさんの話とか、チャーチルの飼い猫とか山盛りすぎて。これは、もっと短い話の短編集にして、一つ一つのエピソードを混じり合わせず、積み重ねていったほうがおもしろかったかもしれません。

シャーロット:動物を主人公にした戦争の物語は、子どもが受け入れやすいと思いました。作者は動物たちに弱音を吐かせていないので、読者は辛い気持ちに押しつぶされず客観的に状況を捉えることができます。「戦争で傷つくのは兵士だけではない、愛する者を失う悲しみは人を変えてしまう」ということが、おばあさんの言動から伝わりました。動物たちの理不尽な死に対しては、登場人物が「動物たちが死ななければならない理由なんてどこにもない」というセリフを繰り返しています。この動物という言葉が、人に置き換えても読めました。戦争という過酷な状況のなかにたくましさや優しさが描かれていて、子どもたちに読んでほしいと思う作品です。

アカザ:最初は登場人物が多いし、それにつれて視点が移り変わっていくので読みにくいと思いましたが、3匹を擬人化せずに書くには、こうするよりほかなかったのでしょうね。エピソードも盛りだくさんで、ちょっともったいない気がしました。もっとも、他国の戦時下の様子がわかって、おもしろかったけれど。チャーチルのエピソードは、私もちょっと余計だなと思いましたが、英国の子どもたちにとっては身近な歴史的人物なのでしょうから、おもしろいと思うのでしょうね。安楽死させられた無名の犬や猫のほかは、登場人物(動物)の誰も死ななかったところに、良くも悪くも子どもの本の書き方を作者はよく心得ていると思いました。もうすぐ空襲が始まるロンドンに、母親に連れられて帰るチャーリーの話など、大人が読むと母子とも死んでしまうのでは……と思うのですが、そこまでは書いていない。特にこの作品についてということではないのですが、被害者にも加害者にもなる戦争を、被害者にしかなりえない子どもの目でどう描いていくかというのは、いつの時代も児童書の作家が抱える大きな課題だと、あらためて思いました。
 それからp89とp100にある「ご馳走にむしゃぶりつく」という表現は、明らかに誤用ですので、増刷のときに訂正されたほうがいいと思います。

レジーナ:一気に読んだので、話がわからなくなることはなく、盛りこみすぎだと感じることもありませんでした。動物を擬人化せず、3匹の行動から、それぞれの性格や特徴がちゃんと伝わってくるのがおもしろいですね。犬が木に登る場面は驚きました。

カピバラ:子どもの頃に『三びき荒野を行く』(シーラ・バーンフォード著 山本まつよ訳 あかね書房)という本があり、ディズニー映画にもなったんですが、やっぱり犬が2匹と猫が1匹で飼い主のもとへ苦難の旅をするというおもしろい話だったんですね。なので、タイトルからそういう話だと思って読みました。人間社会のなかにいる動物たちが、動物だけにしかわからない言葉で会話する物語って好きなんです。みなさんがおっしゃるようにエピソードが盛りだくさんではあるけれど、とにかく飼い主のもとに帰るという大きな目標に向かってただひたすら進んでいくという、1本大きな筋があるので、読みやすいと思いました。3匹が出会う人間には、動物が好きな人もいれば、そうでない人もいて、いろんな関わり方があるところがおもしろかったです。戦争が、いかに普通の人や動物の運命を変えたかがよく伝わってきました。チャーチルや伝書バトは、そんなことがあったのかと、私はそれなりにおもしろく読みましたけど。

ペレソッソ:動物の動き、個性、猫らしさはおもしろく読みました。立ち止まって戦争児童文学として考えてみると、「うん?」という感じです。第六章で、飼い主たちがあれこれ言い訳を並べながら、ペットを安楽死させるために列に並んでいる、あの部分が一番重く問題提起させられた部分でした。戦争と人間を描きたいなら、ここをもっと描くべき。本当は、あの人たちが抱え込んだものとか、どろどろしたことはたくさんあるはずだけれど、全体のトーンとしてはシビアな方向には行きませんよね。読みやすさ、軽さで読ませています。エンタメとして読めばいいんだと思いました。つい先日『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著 金の星社)を読み直す研究会をやって、そこでも話になっていたのですが、動物だと、辛くならずにかわいそうがっていられるという面は確かにありますね。エンタメとしては、たくましく生きのびる3匹の様子がおもしろい。どんどん狩りがうまくなっていくところなど。あと、おばあちゃんの穴掘りの背景って書いてありましたっけ。よくわからなかったのですが。

ハリネズミ:さっきシャーロットさんがおっしゃっていたように、戦争の悲惨さや残酷さだけを描くと、子どもは恐怖感が先に立ってなかなか物語に入り込めなかったり、先を読むのが嫌になったりします。身勝手なおとなの有り様をもっと追求するべきという意見もわかりますが、これくらいでも子どもは十分感じとれると思います。『かわいそうなぞう』は、かわいそうを売り物にしているし、史実とも全く違うので論外ですが、今の子どもたちに戦争を伝えるのに、動物を持ってくるのは、私は「あり」だと思います。

ペレソッソ:兵役につきたくなくて自殺を選びそうになる青年がちょろっとでてきたり、戦争の側面があれこれ入れ込まれてはいますよね。

ハリネズミ:やっぱり盛り込みすぎなんじゃないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


しゅるしゅるぱん

ルパン:タイトルがおもしろくて、前から読んでみたいと思っていたのですが、読んでみたらどうにも期待外れでした。急いで読んだせいか、腑に落ちないところが多々ありました。太一(三枝面妖)という作家の奥さんは人間なんでしょうか? 聡子は早死にしたそうですが、それには意味があるのでしょうか? そもそも、恋人同士がそれぞれ別の人と結婚し、互いの恋心だけが残ってしまって、「二人の子ども」として妖怪のしゅるしゅるぱんが生まれ、その別々の結婚によって生まれた本当の子どもたちの前に現れる、という物語のわけでしょう? 妖怪を産んでしまうほど想い合っていたのなら、なぜ結婚しなかったのかさっぱりわからないし、そこまで強い想いがありながらほかの人と結婚して、しかも近所に住んでいて…というのは、児童文学としていかがなものでしょう。面妖は妙さんを裏切る必要はまったくないのだから、しゅるしゅるぱんが生まれる必然性もないはずだし。『ユタとふしぎな仲間たち』(三浦哲郎著 新潮社)に出てくる座敷童のような悲しみがないから、共感できず、読後感も気分のいいものではありませんでした。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですけれど、大きな疑問が残りました。解人が、川で溺れかけている自分の父親を助ける場面があります。p203には解人の思いがこんなふうに描かれています。
【(そうだ、パパは川でおぼれかけたことがある。それがこの時だったんだ。助けないと、ぼくが助けないといけないんだ。ここでパパが死んだら・・・。この手を放すわけにはいかない。ぜったいに放さない)/「きら、死んじゃダメだ!」解人はあらん限りの声をはり上げた。】
だけどね、解人が実際にこの世に存在しているということは、父親はこの時に死ななかったという事実が既にあるわけですよね。歴史的事実としては、父親の彬は、息子の存在と関係なくこの事故を生き延びている。そのあたり、時間的ファクターが矛盾していて、いい加減な感じです。それと、この家系の者ではない宗太郎には、しゅるしゅるぱんは見えないのですが、なぜか溺れかけている子どものときの彬の幻は見える。それもファンタジーの文法としてどうなのだろうと、疑問に思いました。ラノベだと時間軸の有り様を無視した作品がいっぱいあるでしょうけれど、これはラノベじゃないですからね。

アンヌ:SFでは過去の改変はいけないということが前提ですが、例えば『時間だよ、アンドルー』(メアリー・ダウニング・ハーン著 田中薫子訳 徳間書店)のように、過去の少年を現代に連れてきて病を治して過去に帰すというような物語もないわけではないので、私は、この場面にはそう疑問を持ちませんでした。ウェールズに直接影響を受けたネズビットも、かなり自由なタイムトラベル物を書いています。

ハリネズミ:ネズビットは家計の必要からじゃんじゃん書いた人なので矛盾もいっぱいあるのですが、この作品と同じような矛盾は私は感じなかったけどな。

パピルス:タイトル、表紙や目次がユニークで、この本は一癖二癖あるぞと思わせてくれる作りになっています。登場人物の名前(主人公の「解人」など)は意味がありそうで意味が無く、残念でした。描き方が中途半端と言う意見もありましたが、自分にはちょうど良かったように思います。活字を読むのが久しぶりで億劫になっていましたが、おもしろく一気に読みました。印象に残ったのは、太一と妙の出会いのシーンでした。

マリンゴ:たたずまいが素敵な作品でした。人から人へ、命が伝わっていくこと、遠い昔の誰かがいて、今の私がいるのだということ――そんなメッセージを受け止めました。ただ、これだけ丁寧な文章なのに、一部駆け足になっているところがあって、そこをもっと読みたいと思いました。例えばp189ですが、“同い年のいとこに去年負けたから、今年は勝ちたいとあせっていた”とさらりと説明していますが、もっとその部分を読みたかったです。ついでに言うと、結局リレーのシーンで、いとこに勝ったのかどうかわからず、そもそもいとこがまったく出てこない、というあたりはとても気になってしまいました。

ペレソッソ:冒頭を読んで、「好き!」と思ったのですが、読み進めると人物関係がこみいっていて、わかりにくかったです。一つの物語として、何がしたかったのかはっきりとした像を結ばないという印象です。それから、たとえばp203に出てくる「やばくね?」といった言葉は、全体の言葉の雰囲気を乱している気がします。

カピバラ:日本の古い村の風景、山、川、木などを見たときに、その風景を見ながら生きてきた人々の思いを感じるということがありますよね。特に古い家屋敷のなかに自分の身を置いたときに、そこに代々暮らしてきた人の息遣いを感じることがあると思います。私も子どもの頃父の故郷にあった古くからの家に泊まったり、蔵のなかを見たり、そばの川で遊んだりしたときにそんなことを感じたのを思い出しました。そういった、一つの場所に代々息づいて、今につながっている人々の思い、というものが描けていると思います。解人という現代の少年が主人公で、おばあちゃんが口にする「しゅるしゅるぱん」という言葉に読者もすぐにひきつけられる導入はうまいですね。聞いたことのない言葉なので、タイトルから「何だろう?」と興味をもたせます。この言葉の響きには不思議さもあるけれど、ちょっとユーモラスな感じもあって、悪いものではない、という印象があるのが良かったです。表紙のデザインもそういう感じを出していて好感をもちました。2章目で急に道子という読者には全然誰かもわからない少女の話に代わるのがちょっと唐突ですが、すべてはしゅるしゅるぱんという存在の謎ときにつながっていくことがわかり、だんだんおもしろくなってきます。この正体は、座敷童とか、風の又三郎的なものかなと予想しながら読むのですが、だんだんにそうではなく、予想以上に複雑な事情がからんでくるわけですね。これは小学校5、6年生から読んでほしい物語だと思いますが、子どもにとって両親、祖父母までの流れはわかるけど、さらに上の人の子ども時代の話までさかのぼるのはちょっと複雑すぎるのではないかと思いました。おばあちゃんが家系図を書いて説明してくれるのはとても良い工夫ですが、もう少し早めに説明してくれたら良かったのに。謎ときにつられておもしろく読めたのですが、最後に振り返ってみて何か釈然としないことが二つ。まず、結局しゅるしゅるぱんは、三枝面妖と妙の思いの強さから生まれた存在なのですが、この二人のことが、ほかのどの人たちよりもうまく書けていないのです。

ハリネズミ:祖先の因縁だけではなくて、群青池に身を投げたあやめという娘がたたるという伝説まで出てくるので、よけい複雑になっていますね。

カピバラ:お父さんであるアキラや、おばあちゃんである道子の子どものころの情景はよく書けているのに、現代まで死んでも死にきれない存在を生み出してしまうほどのことか、という点が伝わってこないんですよ。桜の木の使い方もいまいち。もう一つは、やはり読者にとって主人公は解人なので、解人の気持ちになって読むと思うのですが、結局解人にとってしゅるしゅるぱんは何だったのか。最後は競技会のリレーで友だちとの友情を確かめ合うわけですが、結局何がどうなったのかな…という疑問は残りました。細部をうまく書ける作家で、例えば道子のかすれたような低い声がしゅるしゅるぱんと似ているとか、そういうところはおもしろいと思いましたが、ゆるぎないストーリー性という点ではまだ弱いのかな。

レジーナ:妖怪が人の情念から生まれるものだとしても、面妖と妙が、それだけ強く想い合っているようには感じられなかったので、しゅるしゅるぱんの正体がわかった場面では拍子抜けしてしまい、違和感が残りました。桜の木としゅるしゅるぱんのつながりも弱いような……。

アカザ:私も、しゅるしゅるぱんの正体は、いったい何なのだろうと思いつつ最後まで読みましたが、肩すかしを食わされたような……。太一と妙の出会いと別れも、よくあるようなもので、座敷童が生まれるほどの執着というか、激情というか、念のようなものを感じなかったので、違和感がありました。そんなことで座敷童が生まれるんだったら、日本全国そこらじゅう座敷童だらけになってしまうのでは? 母を慕う子どもと、その子の気持ちに気づかない母の話というのは涙をそそるし、それに桜の木がからんでくると、なんとなく美しい場面になって、「ああ、いい話を読んだなあ」って感じるのかもしれないけれど。p175からの面妖の独白も、自己陶酔しているようで、あまりいい感じはしなかった。今の妻の正体が今でもわからないが、それでも彼女のおかげで小説が書けるようになった……なんて! 東京から連れて帰った、芸者さんをしていた妻の描き方に作者の愛情が感じられなくて、かわいそう。

カピバラ:伏線もないしね。

アカザ:解人にとってなにより大事なリレーと、しゅるしゅるぱんが結びついていないのよね。

カピバラ:解人中心に描かれているけど、現在父親との関係が悪いわけではなく、父親の子どものころを知ったことで何か関係が変わるわけではないし……。

シャーロット:挿絵に登場人物が描かれていないことで、想像がふくらみます。友だちの父と自分の母が恋人同士だったことがあり、しかも母は捨てられたのだということがわかってしまう場面では、児童文学でこの設定はいかがなものかと思いました。小学校高学年を読者対象としているようですが、系図や時間軸など小学生には理解しづらいところがあると思います。母親に気付いてほしくてイタズラをしていたしゅるしゅるぱんの心情を思うと、切なかったです。

アンヌ:この物語は、現実生活の場面、例えば、都会からの転校生である主人公が田んぼの泥に足を取られたり道に迷ったりするところとか、リレーのエピソード等は、とてもうまく書けています。川の場面等の情景描写も美しい。でも、肝心のファンタジーの謎がうまく描けていない気がします。しゅるしゅるぱんの存在の謎がうまく解けていかない。大人向けの怪奇ものなら、死んだ赤子の霊に桜の木の霊が混じり合うなんて感じですが、ここでは、妙と面妖の思いをもとに桜の木の霊が生み出したもののようです。でも、その割には二人をはっきり父母としている。どこでどう育ったのかもはっきりしないし、しゅるしゅるぱんが消えても桜の木が倒れたり枯れたりしないのも、なんだかすっきりしません。そのほか、面妖の妻の謎も解けないままです。「おひこさん」は、ひいおばあさんとか妙おばあさんで通していれば、家系図も必要なかった気がします。

ハリネズミ:私は、この作者はあえて最初は家系を説明してないんだと思います。バラバラに存在しているように見えた人物たちが実はつながっていたということが読んでいくうちにわかってくる。そこを狙っているんだと思うけど。

アンヌ:名前の謎は、キラ=彬だけでじゅうぶんだった気がします。作者は、面妖という作家を描きたかったのかもしれないけれど、その正体も謎のままなので、私は勝手に、今市子作の『百鬼夜行抄』(朝日コミック文庫)という漫画に出てくる蝸牛という作家と水木しげるさんを合わせたような人だと思って読んでいました。妖怪を見たり接触できて、描くこともできる人。でも、ここでは、その能力で何かしたとは書いていない。面妖や妙おばあさんの若い頃のこの土地はものすごく危険で、霊や妖怪がうごめく場所として描かれているのに、その後どうなったのかはわかりません。面妖が小説を書いたせいで変わったのかもしれませんが、蔵のなかの本もなくなってしまうので、何もわからないまま終わってしまうのが残念でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年3月の記録)


リフカの旅

ペレソッソ:アメリカへの憧れがさんざん書かれた果てに、入国審査で髪の毛が無いことで足止めを食うとか、「ロシアの百姓」への恨みに反して、目の前の少年を世話してしまうとか、いろんなものが相対化されていくのがおもしろかったです。「百姓」呼ばわりには、違和感を持ちつつでしたが・・・。でも、そうやって、目の前の隣人に憎悪や差別をすり込むのが国のやり方だったわけですね。

紙魚:同じ時に読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)が散漫な点のような物語だとすれば、これは一直線の物語。主人公の視点が一貫していて、とても読みやすかったです。過酷な場面が続くので、主人公に寄り添って読んでいくのはつらいものの、ところどころで、つぎの一歩を進める力を感じることができたのもよかったです。p62の「手が、リュックの中の、プーシキン詩集にふれた。取り出して、考えてることを書きとめたくなった。トヴァ、この本のページはどんどん埋まっていくよ。こんなに小さい文字で細かく書いてるのに。」で、読むことと書くことが同時にあるのを感じ、胸にせまりました。人がたいへんな思いをしているときに、読むことと、書くことの両方が力になるのを感じました。p85で、シスター・カトリナがリフカに触れるシーンでは、ああ、この一瞬があってよかったと感じました。

アカシア:確かに主人公に寄り添って一直線に読んでいける作品ですね。辛いことはたくさんありますが、ベルギーでの人々との出会いとか、イリヤを助けるところとか、あたたかい部分も出てくるので、心に届きます。今問題になっている難民がテーマなので、そんなことも考えながら読みました。ユダヤ系の作家って、どこかで必ずホロコーストの物語を書きますよね。そのうえこの作者は多文化を体験しているから読ませる作品になる。日本でもホロコーストものはたくさん翻訳されています。でも、それが、今イスラエルがしていることから目をそらさせることにもなっている気がして、私は手放しでいいとは思っていません。でも、この作品はよかった。この本を読んで、今問題になっているシリアなど中東の難民の人たちにも思いを馳せられるようになるといいですね。ユダヤ系の人たちは行った先々で作家になっていたりして声が届きますが、今渦中にあるアラブ系の人たちの声はまだまだ届いてきません。書けるような状態にないので当然のことですけど。

ルパン:私がこの作品のなかで一番好きな場面は、p97〜99、リフカが道に迷って牛乳屋のおじさんに送ってもらうところです。リフカは外国語を覚えるのが得意なのですが、ここでは言葉が通じないまま心が通い合っています。とても心に残るシーンでした。悲しかったのは、髪がないリフカのことを好きだと言ってくれた船員の少年が亡くなってしまうところです。ずっといじわるだったお兄さんがラストで迎えに来るところもよかったです。ただ、物語中ずっとくりかえされているキーワード「シャローム」の意味が、さいごの註にしか出てこないのは残念でした。物語のはじめに意味がわかっていたらもっとよかったののに。私はもちろん知っていましたが、これを読む子どもたちはさいごまでわからないわけですから。

アカシア:註はわざと最後においているんじゃないかな。物語そのものをまず味わってほしいと考えると、途中で注が出てくるのは邪魔になりますからね。その場その場でわからなくて疑問を抱いたまま読んでいっても、ストーリーそのものが強ければ、大丈夫です。最後までいって、ああそういうことか、とわかってもいいと思うんです。物語は勉強ではないので。

カピバラ:作者の前書きに主人公のモデルであるルーシーおばさんが元気に電話に出てくる様子が書かれているので、どんなに過酷な状況にあっても、この子は今でも生きているのだ、死なないんだ、と安心できてよかったです。リフカのその時どきの気持ちがとてもリアルに綴られているので、最初からリフカにぴったり寄り添って読めました。とくにうまいな、と思ったのは、リフカが目で見たことだけでなく、耳から聞こえたこと、鼻でかいだ匂い、体で触れたこと……五感で感じたことを、子どもらしい表現で書いているところです。例えば55ページで、モツィフの人が「ワルシャワ」を「ヴァルシャーヴァー(はー)!」っていうふうに言うから、ワルシャワってきっとすばらしいところなんだと思う、という描写。大人は聞き逃すようなことですが、子どもの感性にはそういうところがひっかかる。そこをうまくとらえていて、リアリティがあると思いました。

シア:こういう本を求めていました! これは、第27回読書感想画中央コンクール中高生の部の指定図書なので、だいぶ前に読みました。今回一番安心して読める1冊でした。優しい表情で手に取りやすい表紙ですね。やはり生徒たちには一番人気がある指定図書でした。用語解説などもついていてわかりやすく、内容も重すぎません。『マザーランドの月』を読んで思いましたが、時代背景がわからないとやはり子どもたちには難しいように感じます。手紙形式なので、生徒たちには『アンネの日記』のハッピーエンド版だと紹介しています。時代のせいもありますが、「ハゲは結婚できない」というくだりが何度もしつこく、ジェンダー論まっしぐらなところは気になりました。生徒たちもその部分を気にしてそれを題材に絵にしている子もいました。しかし、このような歴史があるということもわかりやすいし、主人公もいい子で、イベントの起伏も少女漫画的な盛り上がりでおもしろく、かっちりとまとまった円熟した作品です。つらいシーンは、この本ぐらいのショッキングさが子どもには良いです。頑張るとか、希望を捨てないという意味を良く描けていると思います。ユダヤ人は元々とても勉強する民族ですが、リフカはさらに前向きさと迫力を持って勉強しています。こういうお手本になりそうな子が主人公の本が良いと思う私は、嫌な大人でしょうか? リフカとイリヤのやりとりの場面では、たとえ国同士が争っていても、個人間での敵対の無意味さも表していました。リフカは信じられないほどいい子です。隙があって苦労するけれど、親切で、知的好奇心のある少女は大好きです。YAのラストはハッピーエンドでお願いします!

マリンゴ:非常にまっすぐでひたむきな、冒険小説であり成長小説であると思いました。満足度はとても高かったです。ただ、作者がとても優しい性格の方なのか、冒頭でネタバレしすぎてくれているような気がしました。ルーシーおばさんが生きている、のみならず作者が直接会って、髪の毛を「おだんご」にしているのを見るシーンまであるので、終盤の、髪にまつわるハラハラする場面のときにも、「でもこの後を知っているからな〜」とつい思ってしまいました。

さらら:「この物語が生まれるまで」がとても親切だけど、いっぽうで主人公が生き延びることが最初にわかってしまいますよね。原書でも前書きとして、加えてあるんでしょうか?
ペレソッソ:カットが親切とも思いました。解説的なタイミングで。

レジーナ:紙さえ十分にない逃避行の間、たった1冊持っていたプーシキンの本の余白に、手紙や詩を書く場面には、胸がいっぱいになりました。トヴァへの手紙なのに、p91で、「トヴァの背中が曲がっているから結婚できない」と書いているのが、少し不思議でした。表紙の色合いや題字は、ちょっと古めかしい印象です。とても素敵な作品なので、もう少し、子どもが手に取りやすいデザインの方がいいのでは……。

アカシア:余白に書いていても、実際には手紙として出せないから独白みたいなもんなんじゃないかな。

レン:昨年の秋ごろに読んで、今回また読みましたが、好きな本でした。ところどころに、いいなあと思うすてきな表現があります。ユダヤ人なのにカトリックのお祈りを教えられるところが示唆的でした。自由な国アメリカなのに、髪の毛がないと結婚できないから入国が許されないというのは初めて知って、へえーと思いました。まるで最初から日本語で書かれたお話を読んでいるみたいで、訳文はみごとでした。伊藤さんはどんなふうにお嬢さんと共訳したのかなと思いました。

さらら:アントワープの牛乳屋のおじさんに親切にされたリフカは、そのおじさんと別れるとき、お別れのいえなかったゼブおじさんにお別れをいえた気がする。さりげない一文なんだけど、誰かと、別の誰かがどこかでつながっているように感じられる人生の瞬間を、見事にとらえています。最後のアメリカへの入国審査の場面で、それまでリフカが守っていたロシア人の子どもが、「リフカには詩が書けるんだ!」と言ってくれる。立場が逆転して、その子がリフカを守ってくれたところも嬉しかった。残念だったのは、例えばp99に出てくるアントワープの「キングストリート」という表現。名前のせいで、英語圏にある通りのように感じられます。翻訳の際に、「コーニング通り」(オランダ語でコーニング=キング)とか「王様通り」等に変更する配慮が必要だったかもしれません。また、あとがきに「フラマン語はオランダ語に近い」と出ていますが、フラマン(フレミッシュ、フランドル語とも呼ばれる)はオランダ語と言語的には同じです。関西弁と関東弁程度の違いしかないんです。ともあれリフカの目を通して、19世紀初頭の、人の行き来の要所となった、経済的にも豊かなアントワープを実感することができたのは、予想外の収穫でした。

ペレソッソ:今のお話を聞いて、インド映画『きっとうまくいく』(ラージクマール・ヒラニ監督)を思い出しました。これ、主人公たちがそれぞれに安定した生活を送っている現在から回想で過去のことが描かれるので、何があっても「きっとうまくいく」と安心して見ていられるんです。最初にハッピーエンドになると示しておくことで安心させる、エンタメのひとつのハードルの下げ方かもしれません。

シア:子どもは、本を読む前に最後を知りたがります。だから私は、ハッピーエンドだよ、くらいは教えてあげます。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


マザーランドの月

ペレソッソ:気になっていた本なので読めてよかったです。勤め先の司書さんから薦められていたんです。読みはじめるとやめられない。読んだことのないタイプで、どう読んだらいいのか、戸惑っているままです。何が子どもに、核となって残るか・・・・・・。勤め先の学校では、司書さんのおすすめで中学一年生が何人も読んでいて、最後に泣いたと言っていた子もいるそうです。

さらら:造本に工夫があり、数字の位置や、ページごとにレイアウトが変わります。内容のきついところを、装丁でやわらげようとしたのでしょう。ただ、左下に頻出する、ボールを蹴る男の子のイラストは不要だと思いました。近未来というか、ありえたかもしれない別の現実を舞台にした作品は、私は大好きなんです。ディスレクシアで、学校では知的に遅れていると思われている男の子が主人公なんですが、体制が嘘だと気付き、最後には自力でそれを暴きにいく。先生が生徒に対して振るう暴力が半端でないのに、驚きました。この作品は、単に暗い味わいのエンタテイメントではないでしょうか。とはいうものの誇張された架空の世界の中に、私たちの生きる管理社会と通じるところがあり、このまま沈黙を守り体制に押しつぶされてよいのか、という問いかけも潜んでいますね。

ペレソッソ:数字が上下したり、空き方が違ったりするのに、法則性はあるのでしょうか。気になったけれど、分からなくて。

レン:今回選書係だったのですが、この本は世界的に非常に高く評価されているのに、どう読んでいいか、まったくわからなかったので、ぜひみなさんの意見を聞いてみたいと思ってとりあげました。人や社会のシステムはどこまで残酷になれるのかとか、暴力でおさえつける支配社会の恐ろしさとかを訴えているのかなとか思いましたが、読者に何が伝わるのかよくわかりませんでした。最後どうなるのか気になって読んでしまったのは、この作品の力なんでしょうけれど。読みにくかったですが、短い章だてなので、なんとか読み続けられました。それから、この物語を一人称で書かねばならなかったのはなぜかなというのも思いました。これは手記ではなく、フィクショナルな語りですよね。主人公は最後死んでしまうのだから。これって死んでしまったんですよね?

ペレソッソ:読みにくいのは、主人公が難読症という設定だからでは。

レジーナ:ガードナーの本は、『コリアンダーと妖精の国』(斎藤倫子訳 主婦の友社)も好きです。『マザーランドの月』は、数年前にコスタ賞をとったときから、気になっていました。原作は、タイトルが「Maggot Moon」で、ウジ虫が月から出ている表紙です。気づいたときには取り返しがつかないほど、権力が大きくなっていて、民衆が情報操作される世界が描かれています。現代性があり、今、出版する価値のある作品ではないでしょうか。「ナチスが第二次世界大戦で勝ったとしたら、どうなっていたか」を想像する中で生まれた作品だと、作者は語っています。月面着陸の都市伝説を取り入れているのも、おもしろいですね。主人公が死んでしまう結末を含め、読者に妥協しないので、賛否が分かれる作品かもしれません。スタンディッシュの口調は、15歳にしては大人っぽい気がします。また、ディスレクシアのスタンディッシュの語りは、ときどき一字違う言葉になっていたりします。ディスレクシアの人は、読み書きが苦手なのだと思っていましたが、言い間違いもするのでしょうか? この本は、スタンディッシュの一人称で語られるので、書き間違いというより、言い間違いをしているような印象を受けます。

マリンゴ:最初、苦手でした。どこからどこまでが現実で、どの部分が妄想なのかわからなかったからです。たとえば、へクターも想像上の友達なのかと。それで、普段はこういうことはしないのですが、今回はあとがきを先に一部読んで、妄想ではないのだということを確認してから、先を読みました。100ページ目あたりから一気に引き込まれて、ページを繰るのが早くなりました。一般的に児童書は、ラストに救いがあって読後感のいいものが多いですが、これは読後感が悪いぶん、逆に尾を引きました。数日たっても「あのシーンはああいうことかな」と考えたり。そういう意味では異色のYAだと思いました。

シア:表紙を一目見て、少年たちの冒険小説かと思いました。しかし、場面がぶつ切りで非常に読みにくく、物語の時間の流れもわかりにくいと感じました。主人公が難読症ということでこの書き方なのでしょうが、果たしてこの設定はいるのでしょうか。難読症で文字が読めないというのはわかりますが(P53「4歳児並みの〜」)、それだから想像力が発達しているというのがよくわからないし、難読症ならではの想像力の持ち主であるから、主人公が重要人物であるという動機づけがどうも納得いきません。あとがきにありましたが、作者も最初から主人公のこの設定を意識して取り入れていたわけではないようですし、都合がよすぎて、RPGのお手軽な勇者設定みたいです。それでも、途中からサスペンス要素が多くなって俄然おもしろくなりましたが、内容としてはかなり大人向きだと思いました。あまりにも残酷なシーンが多すぎますし、おじいさんとフィリップス先生のラブロマンスなどもはいらないのではないかと思いました。フィリップス先生の行動が信念に基づいていたり、先生として生徒を愛するものであったりしてほしいのに、この設定では「愛する人の孫だから可愛がる」ようにも見えてしまいます。自分が教師なせいか、教師に対する目は厳しいかもしれません。とにかく、YAなわりには内容が難しいので、子どもには不可思議な気味の悪さくらいしか通じないではないでしょうか。この手のテーマの本では、『茶色の朝』(フランク・パヴロフ 藤本一勇訳 大月書店)くらいが丁度良いのではないかと思います。この本は1956年に起きた話という設定なのですが、だいぶ昔なのでこの年に何があったのか調べました。ロシアが無人宇宙船で月の裏側に行ったようです。アポロの月着陸は1969年です。作者は1954年生まれです。『カプリコン1』(真鍋譲司 新書館)や『20世紀少年』(滝沢直樹 小学館)など、月着陸の話が出てくる話は多くあります。この時代に生きる人々には、多大な影響を与えたんだなと思います。子どもたちには時代背景についての知識がないとわかりにくいかもしれません。訴えるテーマは重いし、個人的にはおもしろい本ではありましたが、YAと言われると違うのではないかと思いますし、子どもにはおすすめ出来ない本です。エンタテイメント性は高いのでサスペンス映画になったらおもしろいのではないかと思います。

ルパン:これは仮想世界ということでいいのでしょうか? 私の読解力不足なのかもしれませんが、理解に苦しむところが多々ありました。生理的に受け付けられない場面や表現も。子どもが目をえぐられて死んだり、母親の舌が切り取られたり、救いようのないシーンばかりだし。唯一興味をひかれたのは、アポロ着陸演出説。月面着陸が虚構だったかもしれないという説があるというのは初めて知りましたし、それに着想を得たらしい設定はおもしろいと思いました。

アカシア:私はサリー・ガードナーとは相性が悪いのかもしれませんが、大きな賞をたくさん取って世界各地で翻訳されているこの作品にも、あまり感動できませんでした。一つは、月着陸などのセッティングがあまりにもちゃちだったりして、物語中のリアリティが上出来とは言えないこと。1956年という設定で、米ソの宇宙開発競走が始まるのは翌年だとしても、室内の子どもの細工みたいなセットで人体を吊して撮影しているなんて、信憑性がないでしょう? アポロ陰謀説と照らし合わせれば笑えますが、子どもはそれも知らないから笑えないですよね。56年だと宇宙競争をするくらいの国なら録画もできてもおかしくないのに、どうして実況にこだわるのか、とか。放射線が着陸の障害になるはずと言っているところはヴァン・アレン帯のことを言っているらしいけど、障害があるとしても着陸時ではないし、今は影響がほとんどないと思われているわけだから、わざわざ持ち出す意味はどこにあるのか、とか。あと、家の中は盗聴されているかもしれないので、おじいちゃんが孫を外に連れだして話をする場面がありますが、後の方では大事なことを家の中でべらべらしゃべっていたりもします。
 二つ目には、この作品にはほとんどあたたかみがないこと。ユーモアもありませんね。それも楽しめなかった理由の一つかもしれません。三つ目は、訳のおさまりが悪いところがいくつかあって、気になりました。地下室、地下室通り、トンネルなど似たような言葉が出て来るので、どれがどれだかわからなくなりました。原文どおりなのかもしれませんが、少し整理してわかりやすくしてもらえるといいな、と思いました。それから例えば32ページに「気のきいた考え」と出てきますが、しっくり来ませんでした。たぶん、現実にはどこにも一度もなかった過去の話で、私たちは過去にこういう空間・時間はなかったと知っているわけだから、どっちにしても居心地悪い気がするのかもしれません。

紙魚:今回のテーマは、「わたしの声は伝わりますか」ですが、これは、主人公の声が読者に伝わるかということに加えて、はたして作者が伝えようとしていることが読者に伝わっているかどうかということでもあると思います。そういう意味では、3冊のうち、この本だけは、伝わりにくいと感じました。数々の賞をとっているので、おそらく、「伝わった」人も確かに、しかも大勢いたのだと思いますが、どうしても私には受け取れませんでした。読書って、読み進めながら、小さな納得が積み重なっていくと、作者への信頼につながっていくと思うのですが、この本は残念ながら最後まで、作者を信頼しきることができず、物語のかたちが見えないまま終わってしまいました。

レン:これって、気持ち悪がらせようとして書いているわけじゃありませんよね。

さらら:日本の若者に比べ、欧米の若者は不満を外に発散させることが多いですね。たとえば誰かの車に火をつけるなど破壊行為、暴力行為は日常茶飯事です。ひょっとしたら海外のほうが、暴力描写に対する感じ方が、日本より鈍いのかもしれません。話は変わりますが、ロアルド・ダールは『マチルダは小さな大天才』(宮下嶺夫訳 評論社)で、鞭をもって日常的に生徒に暴力をふるう校長先生を登場させ、コミカルなストーリーの中で猛烈に批判していますよね。

アカシア:でもYAものの受賞作でここまで暴力的な表現が積み重なったものって、ほかにないんじゃないかな。

シア:残酷な描写を好きな子もいますが、この作品の知的レベルにはついていけないでしょうね。

ペレソッソ:閉塞感とグロテスクな場面ということで『進撃の巨人』(諫山創 講談社)を連想しました。映画しか観てませんけど。そういうところが今の若い人の何かにフィットするということはあるのかもしれない。あと、勤め先の司書さんは、現在のきな臭い動きに危機感を抱いていて、生徒にも全体主義的な動きに問題意識を持ってほしいという気持ちもあって、この作品を薦めたと言ってました。それに共感もしますが、どうしてこういう世界になったのか、その課程が書かれていないので、戦争や平和を考える事ができる児童文学としては挙げないかな。

アカシア:今の時代に切り込もうという意図は見えていますが、そういう意図があるイコールいい作品だ、とは言えないですよね。私は、なぜこの作品が受賞したのか、よくわかりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


うたうとは小さないのちひろいあげ

ペレソッソ:しばらく前に読んだきりで再読していなくて、みごとに忘れてます。部活ものだなというのと、歌がよかったという印象だけです。

レン:読後感のよい作品でした。好きなところもたくさんありました。この年代の主人公を扱った日本の作品は大人の存在が希薄なものが多いけど、この本は自分の親は出てこないけれど先生だとか清らさんの家族とか大人の存在感があって、信頼感を感じさせてくれるのがいいなと思いました。頼りなさそうな先生だけど、いいところもある。ただ、彩はなくてはならない登場人物ですけど、どうしてそこまで綾美を気にするか納得がいかなくて、わざとらしい感じがぬぐえませんでした。古の人が読んだうたに今の私たちも何かを感じる、時代も場所も超えて言葉で伝わるものがあるというのが、いいなと思いました。

レジーナ:おもしろく読みました。「うた部」というテーマも新しいですし、登場人物にリアリティがあって、キャラクター的でなく、等身大の姿を切り取っているように感じました。短歌は、わたしの好みとは少し違いましたが、詩や短歌は、人によって好き嫌いがありますもんね。

マリンゴ:最初の50ページくらいまでは、どの子がどういうキャラクターなのか、ちょっと掴みづらかったです。でも、その先は楽しく読みました。一番大事なシーンで出てくる大事な短歌の上の句が、本のタイトルになっているのだと、気づいたときに、そのリンクのおもしろさにゾクッとしました。とても効果的だったと思います。また、最初はヘタな歌が少しずつうまくなっていくなど、短歌の内容で成長を描けているのがすごいと思いました。たとえばスポーツものの小説だったら、いろんな技術を習得していくなど、成長の過程を描きやすいのですが、歌がうまくなっていくのを描くのは非常に難しいと思うので。

シア:最初の印象は、読みにくくてつまらないというものでした。同じ会で読んだ『マザーランドの月』(サリー・ガードナー 三辺律子訳 小学館)とは違う形ながらこちらも文章がぶつ切りなのが気になってしまって。ラノベや、今は懐かしい携帯小説のような感じで苦手でした。細かいところも気になってしまいました。高校行くのに片道410円って高すぎではないでしょうか。それから名前も、「清ら」というのは名前としてどうなんだと思ってしまいました。頑張っても「きよら」じゃないのかとか。女子の名前は多く見ていますが、漢字仮名交じりはさすがに見たことがありません。業平というのも安直ではないかなとか。ブログの台詞回しが痛いなとか。内容としては、短歌を取り上げたのはとても良かったと思います。古典嫌いの子が多いので、少しでも興味を持ってもらえるきっかけになれば嬉しいし。今の高校生の目線を大事にして描いているのを感じました。つまらないことで引きこもっていたり、「犯した罪は背負わなければならない」などの中二病なくだりは苦笑してしまいました。でも、「リス顔」はあまり聞かない言葉です。いつも思うのですが、リアルさを追求して今の時代の言葉を出すと、後で読んだときに古臭さが出るのが心配です。近頃の本はすぐ絶版になって消費されていくものだから、あまり気にしないのでしょうか。本がそこまで回転しない学校図書館としては少々困ります。それに、そのリアルさは作者のフィクションなので、現実とのズレや引っ掛かりを感じるときがあります。若い作家の感覚がリアルなどと言われて受賞したりしますが、単に読んだ側が知らない世界なだけではないかと思ってしまうんです。この本にしても、歌のせいか、恋、恋、恋、と男女関係が生々しく、なんだかんだ言って、そうではない子の方が多いのにと思ってしまいました。中高生がこれを読んで、学校生活の物差しにはしてほしくないと思います。最近、この手の青春ものが多い気がします。高校生を知っている側から見ると、妙な違和感がありました。中高生なら共感するでしょ、というのに悲しいズレ。ドロドロさせて引っ張ったわりにはあっさり終わりました。歌が大変だったのか、イベントが少ない気がしました。最後に、表紙の女の子はちょっとどうにかならなかったのでしょうか。いじめの話かと思いました。

カピバラ:この時期の子どもって、大人から見ればささいなことで身動きが取れなくなってしまう。そのこわばった心が短歌で少しずつほぐれていく様子がよく描かれていたと思います。今回の選書のテーマ「わたしの声が届きますか」にぴったりな内容でした。短歌とブログという二つの表現方法を対比させるような感じで、言葉の可能性を問いかけているかのようでした。ブログが気持ち悪いという意見があったけど、わざと軽々しい口調にして痛々しさを出しているのではないかと思います。登場人物たちのかかえているものは重いけど、書きぶりにユーモアがあるので楽しく読めました。部活ものは昨今たくさん出てきていますが、いろいろなタイプの生徒たちが出てくるのはどれも似たり寄ったりで、おもしろく読んでもすぐに忘れてしまう。その中で印象に残るのは、やはり部活の内容に興味が持てるものじゃないでしょうか。うた部というマイナーな部活をとりあげて、短歌のおもしろさを書いているところがとてもよかったと思います。

ルパン:おもしろく読みました。ただ、表紙の写真がなんだかぞっとするんですけど。教室で自殺した子の亡霊なのかなあ、と思っちゃいました。あと、彩という友だちがちょっと余計な存在に感じました。やたらと解説口調で、いろいろ語るし。作者が調べたことをそのままこの子に説明させている、というのが透けて見えていて、興ざめでした。

カピバラ:そういううざい子を描いているんじゃない?
ルパン:でも、この彩っていう子にはリアリティがない気がするんです。こういう子もいるかもしれませんが、いてもうまく仲間になれないでしょう。それから、競技会の高校生のアルビノーニの歌はものすごく気障で気に入りませんでした。清らの歌のほうがずっとよかった。あと、最後に先生がうた部のみんなを送っていかなきゃならなくて、そのために好きな人にフラれてしまうのが気の毒でした。

アカシア:私はこの本が出たときに借りてすぐ読んだのですが、だいぶん忘れているので、もう一度借りようと思ったんですね。でも、私の区の図書館は全館に入っているのに、すべて貸し出し中でした。多くの人に読まれているんですね。だからもう一度読むのに苦労したんですが、いちばんすごいと思ったのは、登場人物それぞれの短歌がだんだんじょうずになっていく段階をちゃんと書いていること。その上達ぶりが読者にもうまく伝わります。最後のまとめ方もうまい。短歌甲子園というのは知らなかったので、具体的に書いてあって、それもおもしろかった。それから、この年代はいろんな形ではみ出す子がいるので、綾みたいにおせっかいでうざい子もいると私は思って、リアリティがないとは思わなかった。表紙については、この子の表情が強すぎて、中身を読むときのじゃまになるんじゃないかと心配しました。

紙魚:読み終えて、いい本だなと思いました。最近、児童書にも、ネット上の人間関係を描いたものなどがみられるようになってきましたが、こうして、人と人が面とむかってぶつかり合うのは、やっぱりいいものだと思います。ユーモアいっぱいの幼年童話を書いてきた作者が、こうした長い読み物でも、読者を懸命に笑わせてくれるし楽しませてくれる。ちょっと謎があったりもして。いわゆる純文学とエンタテイメントのいい融合というような本でした。ひとりの作家として、幼年童話ではないものを書こうとした作者の姿勢にも、胸をうたれます。それから、作中の短歌が、だんだんうまくなっていくのが上手に表現されているという話が出ましたが、さらに、ひとりひとりの登場人物らしい歌になっていることにも、驚きを覚えました。

アカシア:さっき、今風にしたいつもりで、ちょっと古い表現になってしまっているという話がありましたが、使う言葉や言い方は地域によって違いますよね。ある場所では古くても、ほかの場所では違う。

紙魚:それに、現実の高校生をトレースしたようなリアルさがあればいい本なのかというと、必ずしもそうではないと思います。たとえ、完璧なリアルがなかったとしても、作者の真摯な願いがこめられているものにこそ、私は信頼を抱きます。

シア:あとがきのところですが、「嬉しい」という書き方について、ここまで編集者の方はツッコむんですね。驚きました。

紙魚:この本、多少、読書が苦手でも、読みやすいので読みきれるんじゃないかな。だけど、読み終えた後には、かならず、その人のなかに何かが残ると思います。

シア:高校生なら、もっと受験のことも短歌に読んだりするんじゃないかと思うんですが。3年生もいたのに、全然進路の悩みとか出てこないのが不思議でした。高校生の短歌コンクールの作品集なども見るのですが、そういうのには受験の歌が入ってますし。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年2月の記録)


まほろ姫とブッキラ山の大テング

レジーナ:物語の中に、昔話を織り込みながら、新月という現代の要素も上手に入れていて、日本のファンタジーのおもしろさを味わえる本です。砧やたる丸など、名前もおもしろいし、登場人物が、物語の世界を、自由に生き生きと動き回っていて、小学校中学年の子どもが楽しんで読める本だと思いました。「カチカチ山の刑」なんて、いかにも、単純でそそっかしいタヌキが考えそうなことです。狛犬に乗って滝をのぼったり、天狗の鼻が天井につかえたり、わくわくする描写がいっぱいあって、柏葉幸子さんの初期のファンタジーに通じます。挿絵も、なかがわさんが書いているので、物語の雰囲気によく合っています。目次の下の挿絵、砧の影がタヌキになっているんですね! 男の子もおもしろく読めると思いますが、表紙がピンクで、タイトルにもお姫様が出てくるので、手に取りづらい男の子もいるのでは? クダギヅネの存在感があまりないのが、少し気になりました。あとがきを読むと、続刊がありそうなので、これから活躍するのかもしれませんね。

アンヌ:ファンタジーの作りがゆるい気がしました。聞いたことがあるものを使って作り上げた感があります。昔の冒険ものにあるような、月蝕にうろたえるタヌキとか、最初に見たものを親と思う動物の習性を使ったクダギツネのところとか。今日欠席のルパンさんからも、p.135の子安貝の説明が「イヤホン」だったり、p.136の遠めがねで「テレビの生中継をみる」とあったりして、時代設定のしばりがゆるいというご指摘がありました。きれいだなと思ったのは、赤い皆既月食の中で砧が踊る場面です。ここは、挿絵も魅力的でした。

サンショ:さあっとおもしろく読んだし、子どもにも楽しめると思いましたが、欲を言えばお話の中のリアリティがもう一歩考えられているとよかった。たとえば天狗の鼻は、人に教えるとどんどん急激に低くなることが絵でも表現されていますが、だったら長い修行なんてしなくてもまたちょっと知識を仕入れれば急にまた長くなるんじゃないの、なんて突っ込みを入れたくなりました。あと、どのエピソードもどこかで聞いたような気がするのは年齢対象が低いからしょうがないのかな。

マリンゴ:第1章の登場人物の紹介が見事で、あっという間に惹き込まれてしまいました。まほろと、たぬきの茶々丸、母親の砧の関係って、ちゃんと説明しようと思うと、かなりややこしくページを要する気がします。それを、会話中心に無駄なくさらりと説明しているのがすごいと思いました。テングと出会ってからも、先の読めないのびのびとしたストーリーで、最後まで楽しめました。

ミホーク:かわいらしいお話ですね。昔話だけど、会話のやりとりは現代的なスピード感を感じました。「音楽は呪文のようなもの……とてもすてきなおまじない」など、ところどころ素敵なセリフが心に響きました。

ペレソッソ:出たときに読んでるんですが、今回きちんと再読できていません。ごめんなさい。絵は好きで覚えていたんですけど、中身はすっかり忘れてた。ただ、好感はもっていたとは思います。「イヤホン」とか「テレビ中継」というのが出てくるのは、昔話風の世界にそういうのが混ざるのは嫌いではないので、たぶん反感は抱かなかったと思います。

レン:するする読みました。読みはじめるとすぐ、こういう世界がありそうに思えて、物語世界にさっと入っていけるところ、どこも子どもに伝わるように表現されているところがうまいなあと。カステラやチョコリットなどのカタカナ語は、遊び心かなと思って、私は気になりませんでした。ただ、おもしろいことはおもしろいのですが、メタフィクショナルなたくらみをぶっちぎるような意外性を私は感じられず、物足りない感もありました。これは、私が大人だからかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


動物のおじいさん、動物のおばあさん

アンヌ:全体の構造がよくできていると思いました。履歴書があって、本文である飼育員のお話があって、それから、その動物の写真がある。まず写真を持ってくるとイメージができてしまうけれど、履歴書で最初にその動物の生きてきた軌跡が見えるのがよかったと思います。好きな食べ物や、好きなことの項目もあって、例えばカバがプールの底の落ち葉を食べるとあって、動物園のプールではカバはただ泳いでいるだけと思っていたのに意外だったり、サイは角を磨くことが好きなんだなどと分かったりして、おもしろいと思いました。一番初めのシロクマのところで、生まれたのがドイツの動物園とあって、捕まえられたのではないと知りました。今動物園の役割は、動物を保護し繁殖することにあるのだなということが、色々な動物の履歴書を読んでいくうちにわかっていきます。ただ、今日欠席のルパンさんから、サイの出産履歴のところとか、ゾウのところの後継者争いとか、本文で説明されていないことが書かれているのがわかりにくいとのご意見もありました。私は、飼育員さんの「こわい」という気持ちについての説明や、動物が死んだ後に解剖し標本にするのも仕事だという言葉に、動物園で働くことへの思いや人間以外の生き物への尊敬の念を感じることができました。動物園についていろいろ知り、動物とともに生きることについて考えられるようになる本だと思います。

サンショ:この本は、老齢の動物だけを取り上げているのがおもしろいし、しかもラクダのツガルさんが前足だけで歩いていたなどという具体的な記述もあるので興味がわきます。ちょっと気になったのはバシャンの履歴書で、何匹かの子どもについてはどうなったのか記述がなかった点です。ルパンさんが指摘した「ラニー博子との別居を開始」という部分は、別に詳しく書かなくても状況がわかるだけでいいんじゃないか、と私は思いました。おもしろい本でした。

マリンゴ: すばらしい本ですね。小説でも成立したかと思いますが、やはりノンフィクションでよかった。国内最高齢にこだわって、本が出た時点で2頭死んでしまっているというリアルさに、子どもたちは動物の「命」を実感するのではないでしょうか。大人が読むと、老いた生き物の、人間に共通するせつなさを感じますね。子どもも大人も、それぞれの年齢で楽しめるという点でも、とてもいい本です。また、「動物園の動物」であることが大前提で、動物園を全面肯定している点を、面白いと思いました。動物園に閉じ込められた動物たち、というニュアンスで、否定的に描かれることも多いので。

ミホーク:「天才!志村どうぶつ園」を本で読んでいるようで、おもしろかったです。飼育員さんが、動物がいかに自然に死ねるか、というところを追求しているのが、興味深かった。ペットじゃないので、死んだら悲しいだけじゃなくて、解剖したりデータを残したりする。飼育員と動物の絶妙な距離感。どの飼育員さんも共通して動物に畏敬の念を持っているのが印象的でした。物語より図鑑好きの子どもは楽しめそう。

ペレソッソ:今回読んだ本の中では一番おもしろかったです。介護や子育てをしている人の読書会のテキストにしたらおもしろいんじゃないかななどと思いながら読みました。例えば、檻に入ってくれないクロサイでしたっけ? それを待つエピソードなど、自分の思いどおりに行かない他者としての老人とか、子どもとかとつき合うときの忘れてはいけない基本を教えてくれている気がして。こわいというのを忘れないということが、異口同音に出てきていましたが、それも、どんなに仲良くなっても、他者は他者ということを忘れてはいけないということだと思いました。
 履歴書の部分は、おもしろく読んだのですが、もしかしたら、少し「お話」っぽくなって、愛玩っぽくなっているかもしれない。履歴書を読んで、ほほえましいと感じた感覚は、本文で受けとった、敬意を持って、他者であることを肝に銘じてつき合うべき動物というイメージとはちょっと違うベクトルかもしれない。あと、まったく余談ですが、わたしは、わりと動物園は好きな方で外国へ行くと、その国の動物園にはなるべく行ってます。もう27年も前ですが、リマの動物園では、ゾウに芸をさせてましたよ。ボリビアのラパスの市内に動物園があったときは、ライオンとか猛獣はいなくて、そのえさになるはずだったヤギしかいなかったり・・・。サバンナの動物が標高4000近いところで馴化できずに死んじゃったとか聞いてますけど、正確なところは調べてません。動物園は、その国の親子の様子を観察出来たりして、おもしろいですよね。全然関係ない話でごめんなさい。
(追記:介護や子育てをしている人、つまり大人におもしろそうということを述べましたが、例えば認知症になってしまったおじいちゃんおばあちゃんと同居して戸惑う子どもたちにとって、老人問題は他人事では無いので、子ども読者にとっても、視野を広げてくれたり気を楽にしてくれたりする本だと思います。年を取っていずれ死んでいくという生をどううけとめるかという大問題とも向き合わせてくれる本だと思います。
 あと一つ言い忘れ。「交尾」があっけらかんと連呼され、写真まで出ていたので、なんだかおもしろかったです。フィクションではここまで言うかな?とか、学校での「性教育」はどの程度受けている子がこれを読むのかなとか・・・・・)

レン:感じよく作られている本だなと思って、おもしろく読みました。どこかゆったり感じるのはなぜかなと思っていたのですが、みなさんのご意見を聞いて、飼育員さんと動物の関係が人間の親子の関係とは違って、相手に対する敬意に基づいているからかなと思いました。自分のもののように支配したり、コントロールしたりしようとしない。あくまでも他者なんですね。92ページの「ぼくは、ハナが勝手に生きていてくれるときが、一番うれしいんです。」というサイのハナさんの飼育員さんの言葉が心に残りました。

サンショ:それでも、動物園の中で暮らすのと、自然の中で野生のままでいるのは全然違いますよね。だから、そこは違うと思って読まないと間違えるかも。サイのハナさんのところでも、ケニアで捕獲されたので、動物園で生まれた2代目、3代目とは違うことがはっきり書いてあります。人間とほかの動物が違うだけじゃなくて、飼われているのと野生のとではまた大きく違うんですね。私も、今日の3冊の中ではこれがいちばんおもしろかったです。普通の動物園の本と違って、お年寄りの動物を対象にするという視点もよかった。

レジーナ:ゴリラのドンが、重い扉を軽々と開けてしまうエピソードは、動物の圧倒的な力の強さを感じさせます。けれど、どの動物も、できないことが少しずつ増えていき、死を迎えるまで、飼育員の人たちは世話をします。ラクダのツガルさんは、注目されるのが好きで、年をとり疲れやすくなっても、プロ根性でお客さんにサービスしますが、初めから人間と信頼関係を築けたのではなく、動物園に来る前は、世話をしてもらえないまま、観光牧場に放置されていたそうです。サイのハナは、野生で生きていた時に、ハンターに捕まり、体を深く傷つけられました。それぞれの動物に歴史があり、人間と動物の関係性も考えさせられます。質素で少なめの食事の方が、ハナの健康にいいと書いてありましたが、先日、新聞で、粗食の方が、サルの毛艶がよくなるという記事を読みました。

サンショ:昔は自分の家でもいろんな動物を飼っている人がいましたね。中野の駅の近くにはトラを飼ってる人がいたし。先日は、都会でカイマンという種類のワニを飼っていた人に会いました。飼うのは研究に必要なのかもしれませんが、できたら自然の中で暮らしているのがいい。そのほうが動物も美しいように思います。私はずっと動物園というものに疑問を持ってきましたが、だれもが自然の中の動物を見られるわけではないので、異種の動物の存在感を子どもが知ったり、絶滅しそうな動物の保存を図ったりするには動物園も必要かもしれないと、今は考えるようになりました。ただ、捕獲はもうしなくなっているのでしょうね。それはいいことだと思います。それと、なるべくもともとの生態系の中で生きられるように工夫されるようになったのもいいと思っています。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


ウソつきとスパイ

ペレソッソ:もとの言葉を、どう翻訳したのか、数字を織り込んだ暗号のような文とか、手が込んでいるなと思いました。今回のテーマ(選書のテーマは「困難を抱えた他者に寄り添う」)との関連はどういうことなのだろう?とそれが気になりました。

レジーナ:選書係ふたりで、まず読みたい本を挙げ、それから共通のテーマを探しました。『動物のおじいさん、動物のおばあさん』では、人間が、年をとった動物の世話をし、『まほろ姫とブッキラ山の大テング』では、主人公が、孤独な天狗を助けます。また『ウソツキとスパイ』では、母親が病気で倒れたとき、主人公は、その事実を受け入れられず、母親に会いに病院に行くことができません。どの話も、人や動物を助ける場面があったり、あるいは、大切な人が困難な状況に置かれたとき、どう向き合うか、主人公が試されたりするので、「困難を抱えた他者に寄り添う」というテーマに決めました。

ペレソッソ:冒頭はおもしろいと思ったんです。味覚のこと――そんなにはっきりと分けられるものではないということが、もっと全編を通して生かされていたら良かったのに・・・・・・。

ミホーク:日本語版の装丁は素敵だと思います。最後のどんでん返しは、そうだったんだ!とは思ったけど、引っ張った割にはインパクトが弱いといわれれば、そうかなぁ……。言葉遊び、暗号の部分は、原書ではどうなっているのか、気になります。セイファーの家族がヒッピー的で魅力があると思いました。「ウソか遊びか」の境界線はすごくあいまい。ここまで引っ張って「遊びだ」っていわれても、私ならその子に対する信頼がなくなっちゃう気がします。

マリンゴ: タイトルと装丁から、大活劇、こだわりのミステリーなのかと勝手に想像しすぎちゃいました。そのせいか、中盤まで同じことの繰り返しで、冗長な気がしました。ディテールの描き方がうまいので、読み進めることは苦ではないのですが、少し長すぎてダレた気が。もう少しストーリー的に、ミスリードするとか、読者サービスがほしかったかな。登場人物のなかではセイファーが魅力的で、主人公含めみんなが少しずつ扉を開けていくのがよかったと思いました。

サンショ:私も最初のスパイのところが引っ張りすぎだと思いました。子どもはスパイが好きだと言っても、ほかにおもしろいスパイ本はいっぱいあります。テーマは「困難を抱えた〜」だけど、この本の場合、セイファーが困難を抱えた子ってこと? 私はセイファーの状態が今ひとつつかめなかったんですよね。他者と話ができるんだから引きこもりってわけでもないし、ちょっとしたわだかまりで行かないことにしていたのなら、「困難」というほどのこともないと思って。翻訳も、ニュアンスがつかみにくいところがいくつかありました。たとえばp98の「行儀の悪いやつがいるよな!」ですけど、日本だと大人に子どもがこうは言わない。P264の「ほら、きた!」、p265の「もうそっとしておいてだいじょうぶ」という看護師さんの言葉も、ちょっとニュアンス違うんじゃないかな。すすっと入ってこないので、よけい読みにくかったかもしれません。クラスで存在の薄い子たちが団結するところは、『びりっかすの神様』(岡田淳 偕成社)のほうがずっとうまく表現できてるように思いました。

アンヌ:私は楽しくて何度も繰り返して読みました。1回目は、題名に引きずられて、スパイもののような謎解きの気持ちで読んでいったのですが、謎が解けてから主人公が絶望の淵に沈んでいく感じが独特の味わいでした。ひたすら受け身でものごとを曖昧なままにしている主人公の姿勢が不思議だったけれど、実は、親の病気という恐怖から目をそらすために上っ面だけの日常生活を必死にこなそうとしていたということがわかって、せつない気持ちになりました。読み直してみると、外食場面の多さに、日常生活が壊れていることに気づいてもよかったのにと我ながら思いました。父親といじめについて本当に語り合えるのが、初めて自分の家で食事をとる場面というところとか、食卓の情景をうまく使って書いていると思いました。そして、事実を受け入れた後に、セイファーの本当の姿を知って、少し手助けできるようになる。読者もちょっと騙されるところがおもしろい本だと思えました。

レジーナ:数年前、イタリアの翻訳者の人に、PDF版をもらい、おもしろく読みました。孤独な主人公が、風変わりな少年と友だちになり、スパイごっこをする内に、友だちの嘘に気づく、という流れは『魔女ジェニファとわたし』(E. L. カニングズバーグ 松永ふみ子訳 岩波書店)を思い出させます。実際、「カニングズバーグに影響を受けた」と、著者も言っていました。母親が不在の理由を、最後に明かす手法は『めぐりめぐる月』(シャロン・クリーチ もきかずこ訳 偕成社)に似ています。『めぐりめぐる月』では、私は「だまされた」と感じてしまい、やはり児童文学は、そう感じさせてはいけないように思いましたが。母親が倒れたという事実を認められず、病気の姿を見るのがこわくて、どうしても病院に行けないという気持ちは、よく伝わってきました。「ひとつひとつの出来事は辛く、理解できなかったとしても、スーラの絵のように、離れて見ると、その意味が見えてくる」というメッセージには、好感が持てました。決して甘いだけではなく、苦かったり、渋かったり、さまざまな経験を経て、ジョージは、最後は勇気をもって、自分の問題と向き合い、人生を丸ごと味わう喜びを知っていきます。先ほど、ペレソッソさんもおっしゃっていましたが、味覚障がいとストーリーがうまく絡み合っていれば、もっとおもしろい作品になったのかもしれません。スパイごっこも、楽しい要素ではあるのですが、中学生にしては、幼すぎるような……。登場人物の言葉づかいは、ところどころ気になりました。p112に「気を悪くしないで」「相手にしない」とありますが、十代の男の子が、こういう言葉を使うでしょうか? p146の「よっぽどキャンディが好きなんだね」は、前の文章とつながっていないのでは……。

レン:私はかなり苦手でした。出だしの「まちがいだらけの人間の舌の図がある。」というところから、つまずいてしまいました。まちがいだらけの人間って、なんだろうって。だからか、あとも素直な気持ちで物語にのっていけませんでした。名前の最後にsがついていることでからかわれることも実感として伝わってきにくかったですし、母親が不在で父親だけだからといって、何もいつも外食しなくてもいいのにとか。スーラの絵のエピソードはなるほどと思いましたが。

ペレソッソ:私、父親は心の病かと思ってました。お母さんは実はもう存在しないんじゃないかと思ったり、もっとヘビーな内容を想像してました。

(「子どもの本で言いたい放題」2016年1月の記録)


ネコのミヌース

マリンゴ:非常にかわいらしくて、洗練された、構成の練られた作品だと思いました。ミヌースのしぐさの描写から、ネコらしさが伝わってきて、魅力的でした。ウッディ・アレンの映画のようなイメージで読んでいたので、「エレメートさん」という大きな悪が出てきた後半の展開に少しびっくり。でも、甘いだけではなくスパイシーな仕上がりになり、児童書としてもわかりやすい作品だったと思います。

パピルス:ストーリー、挿絵、装丁、どれをとっても可愛らしく、とても好きな本です。悪役も出てきますが、最終的に可愛らしくまとまってハッピーエンドのおはなし。安心して読めます。

ヴィルト:ネコから人間になったミヌースですが、ネコらしいしぐさが自然に描かれていると思いました。子どもが読みやすいストーリーかつ児童書らしい結末という、みなさんと同じような感想を持ちました。2000年刊行だったのに、どうして今まで読まなかったのか不思議なくらいです。気になったのは33ページ。ティベさんがミヌースに対し「あわれなネコを〜」と言った場面。この時点で、ティベさんはミヌースのことをネコとは思っていなくて、人間と思っていたのではないでしょうか?

ルパン:特に突っ込みどころなし。文句なく楽しめました。小さいときに本を読んでいたときの感覚を思い出しました。何も考えないで、全面的におはなしの世界にのめり込んでいたあの感じを、久しぶりに味わいました。児童文学の王道っていう感じですね。スカーっと一気に読めました。

アンヌ:リンドグレーンのカッレ君シリーズ(『名探偵カッレくん』他、アストリッド・リンドグレーン著 岩波少年文庫)を思い出しました。小さい町の中で物語が始まり、すべて終わってしまう。原作が1970年刊ということなので、「悪」というのが公害や環境問題。そういったところに時代を感じました。

ルパン:こういう本って懐かしいよね。

アカシア:ネコが人間になったけど、ネコっぽさが残っているという描写がおもしろかったですね。箱で寝たり、屋根づたいに移動したり、ほかの人の身体に頭をすりつけたり…。だんだん自分でも人間がいいのか、ネコのほうがいいのか、わからなくなっていくんですね。ストーリーがシンプルなので小学校中学年くらいで読むといいのかなと思うのですが、分量が多いのでその年齢だとなかなか読めない。たかどのほうこさんあたりだと同じ素材をもっと短くおもしろく料理できそうな気がしました。

ルパン:高学年が読んでもおもしろいと思いますが。

アカシア:たとえばミヌースは犬に追いかけられると、ハイヒールをはいて一気に木に登ったりしますよね。そういう部分、高学年になるといろんな現実がわかるから、しらけたりしないですか? 

ルパン:おなじ内容で中学年向けがあれば、長編を読み始める良い導入になるでしょうね。

アカシア:けっこうむずかしい漢字もルビ付きで使ってあるし、この文字の大きさだと中学年はしんどいかも。

アカザ:前からタイトルは知っていて、読みたいと思っていた本です。とてもおもしろく読みました。まさに児童文学の王道をゆく作品で、こういう作品で子どもたちは読む力を育てていくのだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


なりたて中学生 初級編

マリンゴ:テンポが非常に遅い作品です。250ページの本で、中学校の入学式が100ページあったり、っていう。ストーリーに特別な構造は何もありません。でも、だからこそ、小6、中1の子たちの心境に寄り添った作品になっていると思います。わたしも、中学に入学する前に不安だった記憶があるので、こういう本があれば勇気をもらえたかな、と。ただ、さっき『ネコのミヌース』(アニー・M.G.シュミット著 徳間書店)のところで、この本を小学校中学年の子が読めるのか、という話がありましたが、こちらの『なりたて中学生』も分厚いので、小6の子ならだれでも読めるのか、ちょっと心配。本が苦手な子にこそ読んでもらいたいのですけれど。文章は、関西弁がいい味を出していると思いました。地域性があると物語がよりリアルになりますし、トボけた感じもよく出ていて楽しめました。

ペレソッソ:私は中高一貫校で教えているのですが、中1の担当者に読ませたいと思いました。制服を着ている子たちをすっかり「中学生」として見てしまって、ついこの間までランドセルを背負って、半ズボンを履いていたということを忘れがちな気がするんです。ランドセル離れできない感じとか、小学生気分をひきずっている子どもの内面を大人に伝えてくれる作品だと思います。
ただ、マリンゴさんがおっしゃったように展開が遅いです。読むのに時間がかかりました。主人公のぼやきの一つ一つが大切で、それを楽しめるどうかでこの遅さへの評価も分かれると思います。あと、関西弁が音として聞こえる人とそうでない人とでは読みやすさが違うのかもしれません。勤め先の学校には、中一にぴったりだからということで、図書室に入れてもらいました。生徒にも勧めようと思います。「さすがひこさん」と思ったのは、子どもの身体感覚をしっかり書いているところです。例えば、バスに座るとき、「ランドセルを背負ったままだと、ちょうどよくて気持ちがいい」(10ページ)というような描写は興味深かったです。あと、一人称の作品は、語り手の主人公が賢く、どんどん洗練されている気がするので、『なりたて中学生』では哲夫の等身大のアホぽっさが良かった。中級編も読みたいと思っています。主人公の名前が成田哲夫で「なりたて」は絶妙。おもしろく読みました。

アカシア:学校の名前も土矢(どや)、瀬谷(せや)、南谷(なんや)、御館(おかん)、御屯(おとん)など、ユニークな命名ですよね。

アンヌ:ひこ田中さんは、書評しか読んだことがなくて作品を読んだのは初めてですが、おもしろさがわかりませんでした。校長先生の挨拶や送辞や答辞が、いくらヴィデオを見て書いたという設定であれ、全部で6ヶ所も一言残らず書かれている。退屈な儀式の言葉を延々と読まされて、読者が投げ出さないか気になりました。おもしろさを知りたいと、作者のファンの方のブログや書評も参考にして、もう一度読み直しました。例えば、登場人物のネーミングが絶妙との評があったのですが、やはり、あまりそういうふうには感じられません。ひたすら受け身の主人公の姿もうまく見えてこない。ただ、敵対関係だった隣の小学校出身の後藤君たちと仲直りするのかどうか揺れているというところには、リアリティがあるなと思いました。

ルパン:いつもはアンヌさんと意見が正反対になるのですが、今日はまったくの同感です。おもしろく読めませんでした。気になる部分もたくさんありましたし。たとえば73ページあたりの、突然天井と壁の間のカビをスプレーで取ろうとする場面などです。新築の家に引っ越したはずですよね? 新しく越してきた家に住んでいるのに、使わなくなった小学校の参考書が1年生の分から積み上げてあるのも不自然です。ふつうは引っ越すときに処分しますよね。それに、全体的に理屈っぽいところが鼻について。いかにも大人が書きました、というのが透けて見えるような。灰谷健次郎作品みたい。『天の瞳』(角川文庫)よりはずっとマシですけど。よく書けていると思える部分もありました。主人公が後藤の出方を伺う様子はおもしろかった。でも、やはり全体的にリアリティがないと思います。小学生が、「卒業式って保護者のためじゃん」とか言わないと思うし。ともかくあんまり楽しくなかったので、読むのに時間がかかりました。

ヴィルト:関西弁かつ、学校の仕組みなどが土地柄のせいか私の経験と違うので、異文化を知るような新鮮な感覚で読みました。教室の席順のイラストに名前が入っていく後半からだんだん乗ってきたのと、主人公である成田くんのこれからが気になるので「中級編」も読みたいと思います。成田くんのキャラが頼りなくてかわいらしかったです(「なりたて」が主人公の名前とかけていたり、学校の名前に遊びが入っていたりしたことには気づきませんでした!)。お母さんが入学のしおりを入学式当日に渡したせいで、事前情報がない成田くんが戸惑うところが気になりました。当地では、小学校在学中から同じ中学に進学する予定の小学校と交流して、中学進学後の生活がスムーズに送れるような配慮や、親子向けの中学校ごとの説明会もありました。入学のしおりが1部しか渡されていなければ、コピーするなどして本人に渡してあげればいいのにと思いました。母親目線で読むと気になる点があるものの、対象年齢の人たちには気にならないかもしれません。

パピルス:おもしろかったです。ひこ田中さんの作品は初めて読んだのですが、ひこさんの書評と似ているというか、斜に構えながらもしっかりと本質を捉えているような、ユニークながらも鋭さを感じました。展開の遅さは全く気にならずに、自分の中学時代を回想しながら夢中で読みました。「あのときもっとこうすれば良かった。」とかいろいろ考えちゃいました。そう考えると、主人公の成田くんは冷静すぎるというか、大人の視点が入っているのでしょうね。

アカシア:ひこさんの幼年童話は、おとなの視点だなあと思うところがあったんですけど、この作品はもっと自然でおもしろかった。関西弁もひこさんの文体も、私には合ってるのかもしれません。同じ台詞を標準語で書かれると、単なる饒舌になる場合でも、関西弁だから独特のノリとリズムがあって、おもしろくなる。それに、私の体験では、女の子より男の子のほうが変化に弱い場合が多いと思うので、小学校の参考書をいつまでも持っていたり、ランドセルと別れがたかったりするのも、わかります。お母さんは、ちょっと抜けたところもある人ですが、この子のことを愛しているのは伝わってきます。学校からのお知らせには注意が及ばないかもしれないけど、子どものことはちゃんと見ている。そこもいいな、と思いました。学校の関西弁的命名については、ちょっと悪ノリって気がしないでもないけど、気づかなかった人もいるならいいですよね。
 江國香織さんが好きな人っていますよね。大きな事件は起こらないし展開はゆっくりだけど、毎日の気持ちのひだみたいな描写を読みたい。男子の中にもいるそういう読者にはアピールすると思います。

ルパン:わたしの文庫にも、こういうのが好きそうな小学生の男の子がいます。わたしが好きでないだけ。

アカシア:送辞と答辞を延々と読まされるのはどうか、という意見がさっきありましたが、ここは、子どもたちの日常の会話とはまったく違う文体だし、学校の一面を描いているんですよね。形式的な儀式の退屈さを表現したいんだと思います。

アカザ:ていねいに書いてあるとは思いますが、正直いって退屈でした。以前にわたしが住んでいた地区は、二つの小学校から同じ一つの中学校に進学するので、熾烈な勢力争いがあって大変だという話は聞いたことがありますが、そういう読者にとっては身近でおもしろいのかもしれません。ひこさんの作品は、オモシロサビシイような雰囲気があって、そこが好きなんですけれど、この作品からはそれが感じられませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


岬のマヨイガ

マリンゴ:東日本大震災を描き、その心の痛みを正面から取り上げた骨太な作品です。発売された直後から気になっていて、みなさんの意見もいろいろ聞いてみたいと思いました。見知らぬ3人が出会って、一緒に暮らし始める序盤部分はとても魅力的でした。ただ、後半に行くにつれ、ちょっと要素が多すぎないかな、と感じました。もとは連載作品だったので、読者が楽しめるよう、サービス精神を発揮されたのかな。カッパ、狛犬、地蔵さま、そして遠野にも行くし……。それでも、メッセージはとても伝わってきました。特に、人の後悔、さびしさ、やりきれない思いを、アガメと海ヘビは喰らって化け物になっていく、という部分はひびきました。

パピルス:好きな作家さんですが、自分にとって柏葉さんの文章は独特で、慣れるまでに時間がかかります。本作も冒頭から言い回しに慣れなくて何度も読み返してしまいました。慣れたらどんどん世界に入り込めて、夢中で読みました。震災を物語として伝えようとしていますが、岩手の伝承と相まって深く心に刺さりました。

ヴィルト:柏葉さんの作品では『つづきの図書館』(講談社)が大好きです。本作は地元新聞に連載された作品ということで、震災を経験した子どもたちが辛い経験を乗りこえられるよう、被災地を舞台にしたのだろうなと想像しました。個人的には震災はまだ生々しいので、津波の場面など子どもたちは辛くないのかな?と心配になりました。おばあちゃんはとてもお元気そうなので、冒頭で遠野から老人ホームへ入居することになったといういきさつに少し違和感がありました。他の参加者からのご指摘により、核となる登場人物の3人とも、被災した地元の人たちではなく、たまたまその場にいて被災民になったんだとあとから気づきました。これだと、被災地に根差した物語とはちょっと違うような……。実は、挿絵がとても残念な印象を受けました。

ルパン:おもしろく読みました。残念なのは挿絵。物語の不思議感に合っていません。挿絵がよければ、もっと独特の世界をイメージできたかもしれないと思うと気の毒です。私には、この作品は震災を正面から捉えたものとは思えません。主人公3人のうち、一人はDVから逃げた横浜の人。一人は関東から来た女の子。おばあちゃんは遠野の人。3人とも震災とは関係ない孤独な人です。震災の時に居合わせたことによって出会うので、この3人にとっては、震災はむしろ都合が良かったことになります。これは被災地の人が読んで、いい気持ちのするものではない気がします。私自身は、この作品は不思議なものが存在する世界を描いたファンタジーだと思って読みましたが、ところどころ現実に引き戻される描写もあり、盛りだくさんすぎて何を書きたいのかがぼやけてしまっているところが残念です。

アンヌ:『遠野物語』(柳田国男著 岩波文庫他)が好きなので、手元に置いて読み進めました。まず「マヨイガ」の話がおばあさんの昔話として語られます。河童や、座敷童が出てきたり、動物系の妖怪たちにおばあさんが「ふったちさん」と呼びかけたりします。これも『遠野物語』に「ふったち(経立)」は獣が年を経て異様な姿や霊力を持つ姿になったものを表すと出てきます。こんな風に、その土地にある不思議な話、怪談や伝承をもう一度語り直して伝えていくということに、物語の力を感じます。明治時代に柳田国男が危惧したように、怪談なんていうものは、時代とともに消えてしまうかもしれません。だから、作者がこのようにその土地にある怪談や伝承を、物語の中に再編することには意味があると思っています。物語の中で、もう一度言い伝えを語り、語る者の解釈を付け加える。そうやって怪談や伝承は再構築され、読者に伝わっていくと思います。前半は津波の話や避難所の話で、題名と作者名がなかったら、読み続けられなかったかもしれません。最後に、家族がいったんはバラバラになっても、ひよりとおばあちゃんが「不思議を見る力」で繋がっているから、この不思議な世界は続いていくのだろうなと思わせて終わるのが、とても嬉しく、物語を伝えることの素晴らしさを感じさせる見事な作品だと思いました。気になったのは挿絵で、河童が本文の描写と違って、とても子供っぽく描かれていることです。

アカシア:河童はいろんな絵が伝わっていますよね?

アンヌ:ここでは、いろいろな川の主のような形で河童が書かれているので違和感がありました。ただ、地図があるのは良いですね。

アカシア:遠野は私も好きな場所です。物語の舞台になっている地域は、震災や津波の被害で大勢が亡くなっています。大きなトラウマを抱えている子もいます。柏葉さんはそういう子どもたちの心の傷をどうやったら癒せるのかと考えて、恐ろしい魔物に対して子どもや河童や地蔵や動物たちが力を合わせて戦って勝利をおさめるという、この物語をつくったのだと思います。そういう意味では激しい戦いのシーンも必要だったんでしょう。読んだ子どもたちが物語の主人公に気持ちを合わせて一緒に戦い、勝って魔物を退治するという展開が必要だと思われたのではないでしょうか。震災と正面から向きあってないとさっきどなたかがおっしゃいましたが、それは時間がたたないとできないことだし、傷が深いうちはなかなかできないことだと思います。これは、柏葉さんなりの子どもへの寄り添い方で、私は大きな意味があると思いました。挿絵は、ある意味目を引きすぎて、物語に集中できなくなるようで、そこは残念。それに、被災地の子どものことを考えずに純粋に物語だけを見ると、いろんな要素が入りすぎかもしれません。だけど私は、血のつながりのない者たちが家族をつくっていくという展開も好きです。

アカザ:読んでいる時はおもしろかったし、柏葉さんでなければ書けない作品だと思いました。つぎつぎに登場してくる妖怪たちも魅力的だし、血縁のない3人が新しい家族として暮らし始めるところも良かった。でも、読み終えてから2、3日たつと、おばあちゃん+妖怪たちの連合軍に対するウミヘビが哀れに思えてきてなりませんでした。なまじアガメとウミヘビの背景が描かれているだけに、なんだか可哀そうで……。そう思うと、夜空を飛んで出撃(?)していく光景が、空爆を思わせたりして。村上春樹がパレスチナ問題について語ったときでしたか「わたしはいつも弱者や少数者の側に立ちたい」と言っていたのを思い出しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年12月の記録)


だれにも話さなかった祖父のこと

アンヌ:モーパーゴはうまいと思うけれど、なぜか苦手で、今回も設定の不自然さばかり気になって物語の中に入り込めませんでした。例えば、マイケルのお母さんは、生まれおちた時から自分の父親を見ているはずで、そういうものだと受け入れていると思うのに、大人になってからは目をそむけ続けているというところに納得がいかなかった。第2次世界大戦後に、もっと他の傷痍軍人にも出会っているはずだと思うし。ただ、この作品のように、戦争によって傷つけられ人生も変わってしまうのは兵士だけではない、その時代にその場にいた、ありとあらゆる人に起きるのだ、ということを語り続けるのは、とても意味があると思いました。

ハリネズミ:R.J.パラシオの『ワンダー』(中井はるの訳 ほるぷ出版)にも、顔が普通とは違う子どもが出てきましたね。その本でも、みんながチラッと見てすぐ目をそらすと書いてありました。よほど親しくなって表面の向こうの中身が見えるようにならない限り、普通の人は目をそむけるのではないかな。そこまで親しくないと、逆にそっちの方が礼儀だと思うんじゃない? この子のお母さんは、自分も心にわだかまりのある母親から接触を禁止されていたし、父親もアル中だったことから、そこまでお父さんと親しくなれなかったんでしょう。私はそこは不自然だとは思いませんでした。

ペレソッソ:単純に綺麗な本だなというのが第一印象です。先月『月にハミング』(杉田七重訳 小学館)を読んだばかりなので、ああ同じテーマと思って読みました。『月にハミング』もそうでしたが、モーパーゴは和解の話が得意なのだなあと思いました。読者を不快にさせない。そのあたりを甘く感じてか、『戦火の馬』(佐藤見果夢訳 評論社)をあまり好きになれないと言っていた人がいました。単にいい話で終わると・・・・・・うまさにちょっとひっかかったりします。

ハリネズミ:モーパーゴってうまいんですよ。最近とみにうまくなってます。戦争を自分のテーマにしている作家で、これもその一つだと思いますが、確かにうまいから綺麗に収まってしまうところがありますね。

ペレソッソ:そう言うのって危ない気もします。

レジーナ:私も、顔に先天的な異常のある男の子を描いた『ワンダー』を思い出しました。おもしろく読みましたが、大きなテーマを扱っている割に短い話なので、展開が早過ぎるように思います。主人公とおじいさんが心を通わせていく様子を、もっとじっくり書いてほしかったです。またテーマに対し、絵が少し浮いてしまっている気がしました。テーマの重さとバランスがとれるように、シンプルで、デザイン性の高い挿絵を使っているのかもしれませんが。モーパーゴの他の作品の挿絵を描いている、マイケル・フォアマンやピーター・ベイリーのように、温もりのある抒情的な挿絵の方がしっくりくるような……。

マリンゴ:とても味わい深い作品だと思いました。絵のトーンも好きです。不幸に見える人に会ったとき、じろじろ見たら失礼だ、というのは「本当に失礼だと思って遠慮する」のと「避けて通りたいから目を逸らす」のと、2種類あるのだということが、改めて明確に伝わってきました。当人が聞いてほしがっている、聞いてくれる人がいるなら話したい、と思っていることだってあるのですよね。そのとき、何もできないからと目を逸らすのではなく、向き合って話を聞くことだけでもできる……そんなことを考えさせられました。ちなみに、挿絵に1つ疑問が。人口80人の島と書いてあるわりに、島に戻ったときに訪ねた病院が大きすぎますね。別の大きな島の病院なんでしょうが、文と絵が合っていない気がします。全体的な絵のタッチは好きなのですが、大人の絵本のようなテイストなので、売れるのか、ちょっと心配です。余計なお世話ですけど。

アンヌ:これはヤングアダルト扱いですか?

ハリネズミ:ルビがたくさんふってあるので、小学校中学年くらいから読んでもらいたいんじゃないかな。

マリンゴ:中学生くらいが主に読むのかなぁ、と思いました。

ハリネズミ:主人公は大人になってから思い出して書いているという設定ですが、シリー諸島まで一人でおじいちゃんを訪ねて行ったのは12歳ぐらいとなっていますね。テーマは『ワンダー』と共通したところがあって、まわりの人々とのコミュニケーションを断たれている人がこの場合は祖父で、孫がその祖父とコミュニケーションを取る。親世代を飛び越えた祖父と孫の関係がうまく書かれています。きれいに終わりすぎているという意見も出ましたが、若い人の中には本当に悲惨なものは読みたくないという人も多いので、こういう作品から入るのもいいと思います。戦争は抽象的に描かれていて、絵も怖くないので、そういう人たちには入りやすいと思います。

ペレソッソ:原書もこのイラスト?これが原書のままだとしたら、縦書きだから、開きが逆ですよね。絵は裏焼きみたいに刷るんですか?

ハリネズミ:原書は当然横書きですよね。日本で出す場合は、縦書きにする場合もあります。出版社によって違いますね。絵はこの本の場合は、左右逆にはしてないんじゃないかな。縦書きにすると絵を左右逆にしなくちゃならない場合もありますよね。とくに動きが大事な絵だったりすると。その場合は、原著の出版社に断ってそうしていると思います。
*画家名の表記はこれでいいのか、という疑問が出たので出版社に問い合わせたのですが、原著出版社に確認した上でこの表記になったそうです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


高橋邦典『戦争がなかったら』

戦争がなかったら〜3人の子どもたち10年の物語

マリンゴ:とてもいろいろなことを考えさせられました。戦争中の悲惨さのみならず、その後の後遺症……肉体的な障害やPTSDはもちろん、甘えや逃げなども起きてくるのですね。また援助の善意で歯車が狂う、という描写にはギクッとさせられました。写真は、さすが素晴らしい。ただ、個人的には、ノンフィクションのタイプとして好みではなかったです。ジャーナリストとしての視点と、エッセイストとしての視点が、入り混じっている気がして。

ペレソッソ:今おっしゃったのと逆になるんですが、例えば、ジャーナリストが初めて子ども向けにノンフィクションを書いた場合など、児童文学の新人賞の対象になることがあるんですが、そのときは、客観的なものより、語り手が表に出ている物語になっている方が、読み物として読めることで評価が高かったりするんです。子ども向けのノンフィクションのあり方について、詳しくはないんですけど。本の作りとしては、地図がほしかったですね。子どもが対象ならば、本の中でわかるようにしてほしかった。それとやはり、援助のあり方について問題提起されていることは意義深いと思います。あと、映画『イノセント・ボイス 12歳の戦場』を思い出しながら読んでいたのですが、ご覧になりました? 1980年代のエルサルバドル内戦を背景にした実話に基づく映画です。(2004年度メキシコ作品。2006年に日本公開)政府軍、反政府軍ともに少年を誘拐して、兵士にするんです。同じことがおきているんです。それで、『戦争がなかったら』と合わせて強く考えさせられたのは、同時代性とでも言うことです。日本で日本の戦争を題材とした戦争児童文学を書くとき、それは過去の話になる。それは、もちろんとても幸せなことです。それが、そう行かなくなるかもしれない状況ですが・・・・・・『戦争がなかったら』で、同じ地球を移動すれば、内戦で疲弊したリベリアと物にあふれたニューヨークが同時に存在しているんですね。『イノセント・ボイス』もそう。自分の体験を脚本にした俳優のオスカー・トレスは、13歳でアメリカに渡っています。同じ時代に、別の価値観で出来ている世の中がある、日々生き死にを迫られることのない世界があるということを知ったときの、安心と、そちらのアメリカならアメリカの人々には自分が経験してしまったことを想像すらしてもらえないことからくる乖離観・・・・・・。イランのマルジャン・サトラピのマンガ『ペルセポリス』(園田恵子訳 バジリコ)のことも思い出しながら読みました。

レジーナ:同じ作者の『ぼくの見た戦争』(ポプラ社)、『戦争が終わっても』(ポプラ社)を思い出しながら読みました。ムスの義手は、92ページに「金属のカニの爪のような二本指の機械」とありますが、98ページの写真では、手の形をしているのが不思議でした。

パピルス:平和ボケと言いますか、社会人となってから身の回りのことで頭がいっぱいで、こういったことはどこか遠い世界のような感覚でいました。この本を読んで目が覚めたと言った感じです。戦争をテーマにした「小説」はいくつか読んできたのですが、やはりノンフィクションは衝撃度が違います。リアルでした。

アンヌ:かなりきつい読書体験でした。片腕をなくしたムスという少女の話が一番胸にこたえました。実はこの読書会の前に『夢へ翔けて』(ミケーラ・デプリンス、エレーン・デプリンス著 田中奈津子訳 ポプラ社)という本を読んでいたのですが、そちらも内戦下のシエラレオネで孤児になった少女がアメリカ人の養女になる話でした。彼女は伸び伸びと育ち、バレリーナへの夢を叶えることができるのですが、この本でも、同じように両親を内戦で殺されてアメリカで養女になった少女たちが出てきます。彼女たちは、両親がいるムスが留学してくると、いじめたりします。その後、彼女たちはPTSDで苦しみ、著者は彼に会うことで戦場の記憶が甦るからと、養母に面会を断られます。豊かな環境を与えるだけでは救いきれない人の心を見させられた気がしました。それにしても、アフリカの国は内戦だらけで、これだけ貧しいのにどうしてこんなに武器だけはあるのだろうと思いました。

ハリネズミ:子どもの兵士を描いた本は、ほかにも後藤健二さんの『ダイヤモンドより平和がほしい』(汐文社)とか、『ぼくが5歳の子ども兵士だったとき』(ハンフリーズ&チクワニネ 汐文社)とか、イシメール・ベアの『戦場から生きのびて』(忠平美幸訳 河出書房新社)などいろいろ出ていますね。この本の著者は本職がフォトグラファーですが、写真の仕事とは別に文章でも書きたいという思いがあったのだと思います。『戦争が終わっても』では、戦争の被害者とも言えるリベリアの子どもたちに出会いますが、普通のジャーナリストやカメラマンだったらそれを報道して終わるところを、高橋さんはその後も追い続ける。そこが本当にすばらしいと思います。それによって、例えばムスとギフトはアメリカの善意の人に出会って養子になったり里子になったりするわけですが、だから幸せになったわけでもないというところまで伝えることもできる。少年兵が日常の生活に戻って終わりではなく、どうしても取り戻せないものがあることを伝えている。子どもの兵士はさまざまな心の問題を抱えてしまいますが、貧しい国だとその後のケアも万全にはできない。一度きりの報道で終わってたら、そこまではわからない。そこが高橋さんのすごいところだと思います。アメリカという国は、片方で銃を売って戦争をさせ、もう片方では犠牲者の子どもを引き取っているわけですが、それも大きな矛盾ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


路上のストライカー

アンヌ:書評を読んだ記憶があるのに、このつらい国境を越える旅の終わりには、プロのサッカー選手となって活躍する結末が待っていると思い込んで読んでいました。そうじゃないと気が付いたのは、ようやく後半の主人公がシンナー中毒になりかかっている場面でした。ストリートサッカーについても知らなかったので、慌てて調べました。

ハリネズミ:日本のストリートサッカーのチームは野武士ジャパンというみたいですね。

アンヌ:一番気になったのはグリーンボンバーという少年兵に連れていかれるのを阻止するために、主人公が古来から伝わる歌を歌って、イノセントに何かの霊を憑依させるような場面。少年兵たちはもちろんその歌や現象を知っていて、怖がって逃げ去る。こういう文化も、戦争が起きると消えていくのだろうと思いながら読みました。国境の強盗団や違法移民を搾取する農場など、違法な移民が常態化すると、どちらの国も荒れていくということにも気づかされる物語でした。ストリートサッカーを通じて、スターになれなくても救われていく子どもたちがいる。読後感がよく、感動して何度も読み返しました。

パピルス:同じマイケルなので、この作品も著者はモーパーゴだと思って読んでしまいました。あとがきに、取材のために2ヶ月間、カフェで店員として働いたと書いてあったので、「モーパーゴってイメージと違ってフットワーク軽い!」ってびっくりしちゃいました(笑)。内容は面白かったです。人物描写も一人一人厚みがあってよく描けていて、ストーリーも無駄が無い。今まで読んできた小説の中には、ストーリーを繋ぐために登場人物を死なせたと思うような、無理のある描写のものもたくさんありました。しかしこの本は違います。イノセントが死ぬ場面は自然にストーリーの中にとけ込んでいました。終盤、イノセントの死をデオが告白する場面では、デオの気持ちに共感して、ミスドで読んでいたのですが店内で号泣してしまいました。

レジーナ:次々に場面が展開していきますが、主人公の気持ちに寄り添って読める作品です。イノセントの存在が光っていますね。ナチス政権下で最初に虐殺されたのは、障がいのある人たちでしたが、戦争で一番犠牲になるのは、イノセントであり、ポットンじいちゃんであり、子どもであり、弱い立場にある人なのだと改めて思いました。勤め先の中学校では、特に男の子が自ら手に取り、よく読んでいます。シリア難民のへの攻撃や、日本のヘイトスピーチのように、ゼノフォビアは今、実際に起きている問題なので、ぜひ多くの子どもに読んでほしいです。

ペレソッソ:モーパーゴが書いたのだったら、お父さんが出てきますかね(笑)。私もホロコーストを頭に浮かベながら読みました。ユダヤ人が自分たちの生活を圧迫していると考えることがエスカレートしていって一般市民の暴力行為に及ぶというのが。大きな問題として、ヘビーなのは読めないと言われることについて、改めて考えさせられています。私にも課題なんです。戦争児童文学は恐いから読みたくないと、子どもが避けてしまう、それをどうすればいいか、長年、学校の先生含め課題だと思います。そこで例えば、『ヒトラーのむすめ』(ジャッキー フレンチ著 さくまゆみこ訳 鈴木出版)のような手法が必要になってくるのではないかと、学習会なんかも重ねてきました。一方で、あまりにも戦争の現実がわかっていないということの危うさがあります。それは、残酷な描写をどう考えるか、ということにつながります。戦場ジャーナリストの方が、「戦争は、血であり、脳漿だ」と定義されたのですが、それが現実でも、それが描かれていると読まれない可能性が高くなる・・・・・・。「半袖がいいか、長袖がいいか」というシーンは、本当にわからない子どももいる。だからといって注を付けたりして明らかにすればいいという問題でもない。わからないけれど、なにか不穏なものは感じて、心に残り続けるということも大事だと思います。難しいです。
 あと、やはり、イノセントの存在がうまい。極限状態のさらに極限が現れる。かといって、エンタメ的な起伏でひっぱるのではなく、あくまでも少年の心に寄り添って読むことになるので、真摯な読書体験が出来たと感じています。

マリンゴ:タイトルと装丁で、貧しいながらもサッカーを頑張って成長していく話だと思っていたので、こんな物語だったのか!とびっくりしました。でも、終盤、たたみかけるように練習と試合のシーンが続き、サッカーという競技そのものの躍動感と相まっていて、読み終わってみれば、間違いなく『路上のストライカー』でした。わたしのように、勘違いして、中高生たちが本を手に取ってくれたらいいな、と思います。ジンバブエのこと、南アフリカのこと、残像は頭に焼きつきますから。あと、チームメイトがそれぞれの身の上話を語るシーンが、効いていると思いました。地の文でひとりずつ紹介していくと散漫になるところが、緊迫した場面で一気に語られるので、読み応えがありました。余談になりますが、『水曜どうでしょう』というバラエティで、ケニアの自然保護区をドライブする様子が放送されていました。のん気に見ていたのですが、その保護区を、車ではなく自分で、しかも裸足で走り抜けるとなると、どれだけおそろしい思いをするのか、と。すさまじい緊張を感じるシーンでした。

ハリネズミ:日本の戦争児童文学だと「こんなにひどいことがあった」というのを押しつけて来る作品が多いように思います。そう迫られると、読者はひいちゃう。でも、この本は、冒険物語として読めるのがいいですね。読ませるストーリーのつくり方をしてます。最初から、人が死ぬけど。

ペレソッソ:原題と日本のタイトルが違いますね。

ハリネズミ:原題そのままだとなんだかわからないし、状況としては重たいので、未来に向けた面を強調したほうがいいと思ったんじゃないですか。

マリンゴ:タイトルとストーリーに、たしかに最初ギャップを感じますが、「だまされた」という感覚は決してありませんでした。ストーリーに引き込まれて、どんどん読み進めてしまいましたから。

ペレソッソ:松谷みよ子の作品などに、たとえば猫の描写にひかれて読み進んでいたら、いきなり重いものが出て来て、ああ、これは子どもにとってだまし討ちじゃないか、これでびっくりして引いちゃう子もいるんだろうなぁと思ったことがあります。その点、最初からヘビーな出来事で始まり、読み進める子はそれを承知で進んでいくのだから、これは、だまし討ちにならないと思います(笑)。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年11月の記録)


コービーの海

アンヌ:この物語は、いきなり大海原でモーターボートを自由に操る少女、コービーが登場するところから始まります。いきなり、コービーが義足であることや、片足だけ「ひれ」をつけて自由に泳げる場面が描かれていますが、そのことに読み手が慣れる前に、コービーがゴンドウクジラ(以下クジラ)と出会い、さらに出産を手伝うことになりました。そのあまりの展開の早さについていけず、物語にうまく入り込めませんでした。彼女の両親が喧嘩している理由も、いま一つはっきりしないまま離婚騒動が進んでいきます。ニッケル・ジャックとの友情も、学校での孤独な状況も掴めないままどんどん話が進んでいき、やっとコービーの気持ちに沿うことがきたのは、114ページに出てくるマックスが、「このクジラの赤ん坊の出産は昨夜ではない」とぴしゃりと言う場面でした。ここで、初めてコービーの体験やクジラとの友情は、専門家の人たちにとっても特殊なものなのだということが理解でき、コービーの立場に立って物語が読めるようになりました。コービーが、普段義足を着けている足の切断された部分を級友たちに見られてしまう場面。その時に、トレーシーが「コービーの心を見て」と語る場面からは、まるでパズルをはめるように見事に物語が展開していくと感じました。最後、クジラが海に帰る場面はとても美しく、ここでやっと、クジラの姿がちゃんと見えた気がします。コービーとパパのユーモアのセンスはなかなかきつくて、物語にうまく入り込めなかったのは、この感覚の違いにもあるようです。

アカザ:最初のうちは、私も物語になかなか入りこめませんでした。分かりにくいというより、「こういう物語は前にも読んだことがあるけれど、たぶんこんな展開になるんだろうな」という気がして先を読む気分になれず、途中で他の本を読んでしまいました。その後、また読み始めたら、クジラの親子が怪我をするところからハラハラしながら一気に読めました。ユーモアというか、ふざけ方はたしかにきついですね。それと、登場人物に奥行きがないのでは? ニッケル・ジャックにしても、どこかで読んだような……。テスだって、客観的に見れば親切で人のいいおばさんなのに、こんなに嫌っていいのかしら。

レジーナ:野生の生き物や障がいをテーマに書いている、マイケルセンらしい作品です。陸に打ち上げられ、動けなくなったクジラと、義足を使っていることで、いつもどこか窮屈な気持ちでいるコービーが重ねられています。学校では義足を気にして、のびのびと振る舞えないコービーも、海では体の不自由さを忘れ、ヨットを意のままに操ります。またコービーは、みすぼらしい身なりにとらわれず、ニッケル・ジャックと親しくしています。クラスメイトは、コービーという人間を「義足をつけている」ということだけで見ている――少なくとも、コービーはそう思っている。でもコービー自身も、はじめは人間性ではなく、外見で人を判断し、ベッキーをミス・パーフェクトと呼ぶんですね。しかしクジラはそうではなく、クジラと触れあうことで、コービーの心も自由になっていきます。クラスメイトが全員、片足でシャワーを浴びる場面は、描き方によっては嫌な印象を与えるかもしれませんが、さすがマイケルセン! とても好感が持てました。ローラースケート場で、義足をつけたスケートを滑らせたり、魚の頭を枕に入れたりするユーモアには驚きました。

:なくした足のこと、両親のこと、クジラのこと。いろんな要素が出てきますが、どれも深められきれずに並んでいる感じです。一番思ったのは、この子は足をなくす必要があったのかということ。何の喪失がなくても、クジラとはふれあえたのではないか、そのほうが、クジラとの関係がもっとクリアになるのではないかと思いました。でも、全体には海のイメージがとてもきれいで、フロリダを想像しながら読むことができました。

マリンゴ: とても好きな物語です。舞台となっているフロリダは前から“憧れの地”でしたし、船が家なんてうらやましいですし、自分用のモーターボートがあるなんて夢みたい、と冒頭から入り込んでしまいました。クジラの臭気が立ち上るシーンも印象的でした。匂いを強く感じさせる小説は、そう多くはないと思うので。主人公がクラスメイトと正面からぶつかるシーンは、アメリカならではの解決の仕方だと思いました。日本の児童文学でこれをやったら、リアルじゃないかもしれません。でも、だからこそ翻訳ものとして面白く読めました。映画化したら、一番“オイシイ”役はニッケル・ジャックですね。日本人がやるなら三上博史さん!と思いました(笑)

ハリネズミ:ぶつかるところが日本と違ってアメリカならではというのは?

マリンゴ:主人公がクラスメイトと、言いたいことをはっきり言い合って和解していくのが、アメリカ文学らしいな、という意味です。日本だったら、こんなふうにパーンとぶつからず、もっと婉曲的にやりとりして和解していくと思うので。

ルパン:主人公が片脚を失ったことが原因で、両親が不仲になるんですよね。でも、そのことを全然乗り越えられていないのが気になりました。クジラを助けたことと、家族のきずなの問題がきちんとリンクしていなくて、ちぐはぐな感じのまま終わるため、読後感がすっきりしませんでした。

ハリネズミ:コービの両親は、これからは経済的にはうまく行きそうなので、家族関係も好転しそうですよね。舟が沈んで保険金も入るし、お父さんも陸で働くことにして契約をとっているし。

アンヌ:そう、船の保険金や、お父さんは建築関係の仕事がたくさんできて、お金の問題は解決していますよね。

ルパン:たまたま経済的にどうにかなりそうだから一緒に暮らそう、という感じですよね。このままでは、「自分のせいで家族のきずなが壊れた」というコービーの罪悪感はなくならないと思います。

レジーナ:物語の中でコービーは成長するけれど、両親はきちんと問題に向き合っていないから、根本的な解決になっていないということでしょうか。

ルパン:そういうことだと思います。要は、家族の問題は何も解決していないし、クジラを助けたことも、そこでは何の役にも立っていない。お母さんも、テスの家がなくなったから仕方なく帰ってきたみたいだし。また家計が苦しくなって、そこへテスが戻ってきたら、お母さんは簡単に出ていってしまいそう。

: 寂しかったといいますが、ちょっと唐突ですね。

ハリネズミ:私はベン・マイケルセンが大好きなので期待して読んだのですが、『ピーティ』(千葉茂樹訳 鈴木出版)や『スピリットベアにふれた島』(原田勝訳 鈴木出版)と比べると、ちょっと弱い気がしました。もっと前に書いた作品というせいもあるでしょうが、様々に盛り込みすぎていたり、メロドラマみたいなシーンがあったりね。『ピーティ』や『スピリットベアにふれた島』は焦点が当たる場所がもっとはっきりしていたので、ぐんぐん引き込まれました。同じ時期にジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)も出ていましたね。イルカが登場するばかりでなく(※注:『コービーの海』にでてくるゴンドウクジラはマイルカ科の一種。クジラとイルカの明確な区別はされていない。)、障がいを持った子どもが出てくるし、主人公の家庭が不安定だし、女性の獣医さんも出てくるところなどもよく似ていました。『白いイルカの浜辺』のほうは作家が獣医でもあるので、イルカの吐く息を浴びると黴菌に感染するかもしれないとか、この先海に放すのであれば人間とはなるべく親しくしないほうがいいなど、もっとリアルに描かれていました。

パピルス:僕はこの本おもしろかったです。『クジラに乗った少女』という映画が好きなのですが、この話も同じ年くらいの女の子が、クジラと心を通わせて交流しますよね。主人公の状況や、家庭のトラブルなどいろいろ盛り込み過ぎているという感想もありましたが、YA小説として「このくらいの年齢の子は、こういうことを考えるんだろうな」と思いながら読んだので、気になりませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


月にハミング

マリンゴ: もしかして『コービーの海』より好きかもしれない!と思いながら、夢中でページをめくって、一気に読了しました。が、しばらくたってみると、意外と後に残らなくて、少し熱が冷めました。戦争はいけない、人種間で争いあってはいけない、という、いいテーマではありますが、そのためにストーリーが終盤やや教訓的すぎる気もしました。潜水艦に助けられるシーンも、意図が透けて見えてしまうというか。

レジーナ:ルーシーは、母親やセリアを助けられず、ひとり生き残ったことに負い目を感じています。今、国際児童図書評議会(IBBY)も、難民の読書支援プロジェクトをいろいろと行っており、別の国に逃れ、ルーシーのように感じている子どもの心を、本や読書で支えようとしています。辛い体験をした子どもが、異なる国に渡り、人との交わりの中で少しずつ立ち直っていく様子は、マイロン・リーボイの『ナオミの秘密』(若林ひとみ訳 岩波書店)を思い出しました。ルーシーの心を開く助けになるのが、馬や音楽です。音楽は、言葉や国を越えるものですが、戦争の中でそうではなくなり、敵国であるドイツの音楽を聴くことも許されなくなります。モリソン牧師の演説の場面は、言葉のイデオロギーを振りかざす怖さを感じました。しかし、そんな厳しい時代にも、心ある人はいて、イギリス人の家族や、ドイツの潜水艦の乗組員、アイルランド人のブレンダン、カナダ人のウォルターのように、国を越え、さまざまな人がルーシーを助けます。モーパーゴは、人という存在、人間のあり方や、その生きる姿を描ける作家ですね。素姓のわからない少女が発見される冒頭から、英国北部に伝わるセルキ―伝説が、物語にからむのかと思ってしまったので、そうではなかったのが少し残念でした。

アカザ:わたしは、もともと「モーパーゴびいき」なのですが、やっぱり3冊のなかではこれがいちばん好きでした。初期のモーパーゴの作品は「なんだかなあ!」と思うようなものが多かったけれど、どんどん上手くなっていますね。ちょっと上手すぎで、できすぎって感じもするけれど……。特に、最後のダメ押し的な部分は、くどい気もしました。それでも、ルーシー、ジム、お医者さんと、いろんな人の目線で書いているのに、ちっとも読みにくくなっていないし、ストーリーもはっきりわかる。翻訳が上手いせいもあるんでしょうね。ルーシーの毛布にヴィルヘルムというドイツの名前が書いてあったのは何故かというミステリーの要素もあって、長い物語なのに一気に読めました。戦時下の暮らしが細かく描かれているのも、興味深かった。

アカザ:盛りだくさんだけれど、それぞれの出来事がうまく絡みあっている。物語がしっかりと構築されているという感じがします。

アンヌ:ものすごくおもしろい本で、読んでいる最中は、もうワクワクして物語にひたっていたのですが、もう一度読み直したい気分にはなりませんでした。推理小説仕立てのせいかもしれません。島での生活をしていく場面はすべて魅力的で、島が霧でホワイトアウトになったり、裸馬に乗って島中を歩きまわったりする様子は魔法の世界のようなのですが、謎が解けた後では二度とその魅力が味わえないような気がしています。思い出すと、セント・へレンズ島の廃墟とか、海に浮かぶグランドピアノの上の少女とか、その向こうに浮かぶ黒々とした潜水艦とか、実に鮮やかに映像が浮かぶ場面が多く、それだけに、作者の頭の中が見えてしまうような気がしてしまい、作者と語り手の違いがとわかると、作り物じみておもしろ味がなくなった気がしました。

パピルス:おもしろく読みました。主人公にとって辛い部分はしっかり辛く描かれていて、幸せな部分は読み手の心が十分満たされるくらい幸せに描かれていまた。そういうストーリー構成が気持ちよかったです。読後感も良く、さわやかな気持ちになりました。あえていえばルーシーのお母さんの描き方に違和感を感じました。戦時中、お父さんにわざわざ会いに行くものでしょうか。あの状況下で娘と二人で。

アカザ:危ない、と言われても、そんなに危なくないと思っていたのでは?

ハリネズミ:私も前に読んでその時はたいへんおもしろかったのですが、後で思い出そうとしたら、かなり忘れてしまっていました。モーパーゴはうますぎて、仕掛けはあるし、謎もあるし、後日談もわかるようになっているし、物語の作り方にもすきがないので、落ち着くところに落ち着くので、読後の満足感も強い。だから、というのも変ですが、妙にひっかかるところがないので、忘れてしまうのかもしれません。本当にうまくできた、いい話です。モーパーゴは、これと同じ時期に『走れ、風のように』(佐藤見果夢訳 評論社)というグレイハウンドを主人公にした本も出て、そっちもとてもおもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


岸辺のヤービ

:すごく好きな作家さんなのですが、当たり外れはあるかも。これは久々の新刊なので期待して読んだんですけど…。いろいろ考えたり、まな板に乗せたりする分にはおもしろいという感じでしょうか。翻訳風の装丁といい、イギリス好きの匂いといい、パロディというか、作者の遊びのような本でした。当然、『床下の小人たち』(メアリー・ノートン著 林容吉訳 岩波書店)とか『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる著 講談社)とかいろいろ浮かびますね。そういう素地があって生まれた話として海外に紹介してもおもしろいかもしれません。ただ、タガメのこともミルクのことも、いろんな問いかけをしていますが、答えを出さないところがいまどきというか、落ち着いているというか、投げたところで終わっている感じです。

レジーナ:わたしは、海外の児童文学を読んで育ちましたが、そうした翻訳作品に通じる雰囲気で、すらすら読みました。文体も、ネズビットやC・S・ルイスを思わせます。少しまどろっこしい言い回しもあって、子ども向けというより、梨木さんの作品が好きな二十代が読む作品だと思いました。ポリッジが出てくるような、イギリス児童文学の世界で、日本が憧れる、かわいらしい西洋が描かれていますが、実際の西洋とは隔たりがあるのでは……。佐藤さとるさんの『だれも知らない小さな国』と重なり、語り手は男性だと思っていましたが、女性なのでしょうか? 来年のカーネギー賞には、いぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』(福音館書店)がノミネートされています。海外に伝えるとすれば、そうした日本独自のファンタジーの方が良いのではないでしょうか。

アカザ:美しい本で、流れるような文章で、かわいい小動物がいっぱい出てきて、梨木さんファンには、たまらない一冊だと思います。でも、ずっと昔に読んだような……。ムーミンみたいな、『床下のこびとたち』みたいな……。梨木さんの世代の方々には、戦後の優れた翻訳児童文学が、すっかり身体のなかに入りこんで、それこそ血となり肉となっているんでしょうね。でも、わたしはファンタジーでもリアルな物語でも、今の日本の作家が今の日本の子どもに向けて書いた本を読みたい。でも、これって児童文学ではなくって、もともと大人向けの作品として出版したのかも。

ルパン:最初から最後まで、既視感がぬぐえませんでした。はっきりいって、新鮮さがまったくないです。すべてどこかで見たことのある設定・筋立てばかり。まさに私と同世代の人が、好きなように趣味で書いたみたいな作品、というイメージでした。今の子どもたちにとってはおもしろくないでしょうね。欧米文化へのあこがれがありませんから。それと、語り手として登場するこの人間は、いらないと思いました。

ハリネズミ:私はコロボックルより『床下の小人たち』を思い出しました。『床下〜』は冒頭で語り手の男の子が登場するので、それにならったのかもしれませんね。

ルパン:この作品では必要性がないと思うんです。ヤービの世界とかかわっていませんから。それに、随所に教訓を入れようとしていますよね。これも、言い古されたことばかりで新しさがないんです。テーマ自体は古くてもいいと思うんですよ。環境問題とか平和とか、永遠の課題ですから。でも、切り口は新しくしなければならないと思うんです。そうしないとせっかくの教訓が陳腐になってしまいます。

アンヌ:西洋の小人ものプラス佐藤さとるさんの『だれもしらない小さな国』のコロボックルという印象を受けました。冬眠の場面とか、様々な場面にトーベ・ヤンソンのムーミンを、語り手とボートの関係に、アーサ・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』(岩波書店)のシリーズを思い浮かべました。また、「おっそろしく」という言葉にモンゴメリーの『赤毛のアン』の村岡花子訳(新潮社他)を、お隠り谷の白い崖に宮沢賢治のイギリス海岸を思い起こし、それらへのオマージュなのかと思いました。作者が好きな世界をここでおもいきり展開してくのだ、いいなあと、読み手としてより書き手としてうらやましく感じました。けれども、地名が中途半端にカタカナ英語で、まるで外国の小説を翻訳しているような調子で語るのは、なぜだろうと思いました。佐藤さとるさんたちが始めたような、日本の新しいファンタジーを作るというわけではない気がします。小さなミルクキャンディをめぐる、小人ものにお決まりの食べ物場面や、思春期特有の拒食症じみた行動を、パパ・ヤービがさりげなく解決する言葉等は魅力的でした。後半に、環境の変化が物語の中で語られていて、ヤービの世界も変わっていく予感に満ちているのが残念です。もう少し、一つ一つの物語を積み重ねていき、この世界をしっかり作り上げてからでも良かったのではないかなと思います。

パピルス:時間がなくさっとななめ読みした後、他の本に移ってしまいました。すてきな本ですね。装丁も挿絵もフォントもしっくりきます。丁寧につくられているなと感じます。ストーリーは、自分のチャンネルを本の世界に会わせることが出来ず、字面は追っていても、内容が頭に入ってきませんでした。もう一度じっくり読み直します。

マリンゴ:文体も装丁も外国文学っぽいのは、「このまま外国語に翻訳して海外でどれだけ受け入れられるか」ということを考えて、戦略的につくられたためなのかな、と想像しながら読んでいました。ちょっと考えすぎかな? 緻密で素敵な物語だと思いました。ハイ・ファンタジーが苦手なので、語り手のウタドリさんがいてくれるおかげで、入りやすかったです。ただ、読みやすかったか、というとそうではなく、何度も読み返さないと頭に入ってこないシーンもありました。児童文学っぽくないと感じるのは、ミルク売りの仕事ができるのかできないのか、という部分が解決しないまま終わっているせいかと思いました。鳥の描写、虫のディテールなど、さすが説得力があって、魅力的な描写でした。

ハリネズミ:こういう世界をていねいにスケッチしているし、描写がうまいので梨木ファンは喜んで読むでしょうね。どこかで聞いたお話をもう一度読んでいる心地よさがあります。でも淡々と進んでいくので、子どもがおもしろいと思って読むかどうかは疑問です。さっき、慧さんが、いろいろな問題を取り上げているとおっしゃったのですが、ほんとに軽くふれているだけで、作者がそれについて一緒に悩んだり考えたりしているわけではないように思います。イギリスの伝統的な児童文学は、中流階級以上の作家が、中流階級以上の子どもに向けて書いてきたわけです。この本は、その部分のテイストを再現しようとしているように思えます。昔こういう本を読んだ人がなつかしく思って読む本なのかも。イラストがいいので子どもも手に取るとは思いますが、子どもが未来を切り開いていくための本とは思えませんでした。続編があるようなので、この先、もっと広がっていったりもっと焦点がしぼれてきたりするのかもしれませんが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年10月の記録)


大江戸妖怪かわら版1、2〜異界から落ち来る者あり

アンヌ:1巻ではこの世界の仕組みが破たんしていて、2巻でそれを補っているので、余力のある方は、2巻を読んでくださいと提案しました。私自身は、おもしろくて7巻まで読んでしまいました。主人公のかわら版屋の雀という少年が、この不思議な世界のおもしろさや美しさを言葉で描いて見せるという物語で、この作者特有の食べ物についての場面も多数あり、主人公が夢中になって食事をとり、活き活きと生きていく糧とするところなど、好感を持って読みました。ただ、主人公の年齢設定が気になりました。15歳で、現実世界ではそれなりのワルだったという設定。それにしては、幼すぎる気がしました。それなのに、江戸時代からこの異界に落ちてきた人間の女の子の場面では、あまり勉強もしてこなかったような現代人の雀が、江戸時代の商家のお店事情を知っている。その他の登場人物も、外来語や現代語を何の疑問もなく理解している。少しご都合主義的だと思いました。雀が、妖怪や魔人等の異形の者に出会った時の恐怖も、2巻にならないと書かれていないので、読者にとっては1巻だけでは、この世界を想像しにくいと思います。

レジーナ:私の勤め先の中学校の生徒にもよく読まれています。若い読者がさっと読むのにはおもしろいのかもしれませんが、台詞が多いエンタメで、児童文学として読むと、何度もひっかかりました。15歳の雀が妙に幼く、お小枝の言葉づかいも不自然です。6歳の子どもが「ありがとう、桜丸。嬉しい!」と言ったり、鰻を食べて「うん、ふかふか! お口でとろけそう」なんて言ったりするでしょうか。口から紙を出すキュー太をはじめ、登場人物はマンガっぽいですね。百雷がゲームのキャラのようだと、雀が言う場面がありますが、まさにその通りで、たとえば雪坊主という登場人物についても、詳しい説明がないのでイメージできない。カフェがあり、魔人や化け鳥がいる江戸という場所についても、はっきりと心に描けない。虹のような蜃気楼も、よくわからなかった。百雷が地虫を捕まえる場面で、百雷が追っていた事件は、結局何だったのでしょうか? 江戸ならではの言葉遊びがあり、子どもが読んでわかるのだろうかと思っていたら、巻末に用語解説がありました。私が読んだのは講談社文庫の初版ですが、2巻の用語解説も1巻と同じになっています。

レン:今月の課題の本でなかったら手にとらなかったと思います。この手の本は慣れていなくて。「ふーん、こんなふうに書くのか」と珍しがって読みましたが、どう判断したらよいのかわからない感じでした。中学生は、こういうのだと手にとる気になるのかなあ。文体として、台詞が多いですね。台詞で物語が進んでいくところがマンガみたいでした。地の文は必要最小限で、マンガの絵で表されている部分を文字化しているような感じ。長音の使い方など、文字づかいも漫画的。体現どめが多くて、案外漢字が多いですね。最初は、江戸時代の話かなと思っていたら、読んでいるうちに違う世界の話だとわかって、変だと思うところもあるけど、この手のエンタメはこういうものかと思って読みました。先日ある編集者が「1000冊読むと、子どもの本が分かる」と先輩に言われたという話を聞きましたが、もっと幅広く読まないといけないと思いました。翻訳の講座で、関西出身の人に、「絵本を標準語で訳すのに違和感がある」と言われたことがあるけれど、この作者は和歌山の方。関西人なのに江戸の言葉で書くというのは、本当にこの世界が好きなんだなと思いました。自分の世界があるというのはいいことですね。

アンヌ:江戸言葉は、落語や時代劇、歌舞伎などで、音として残っているから、作りやすかったと思います。

アカシア:ひと昔前はテレビでも時代劇をしょっちゅうやっていたから、この作者の年代だとそういうものを見ていて、なじみがあったのかもしれませんね。それに今、エンタメ界は江戸ブームなので、結構読み慣れているのかもしれません。

ルパン:『妖怪アパート』を読んだことがあるのですが、そのときは児童文学とは思いませんでした。この作品も、エンタメとしてはよくできていると思います。挿絵がないけど、情景が浮かんでくるし。なにか、台本っぽい感じもしますね。短く、ポンポンせりふが進んで、テンポがいいと思いました。スピーディーで、畳み掛けるようで、江戸っ子っぽさが出ています。もったいなかったのは、6歳の子らしくないせりふとか。まあ、エンタメだと思って、リアリティは気にしなかったんですけど。子どもらしくなくて、作者の顔がかいま見えちゃうところが残念でした。

アカシア:雀は、幼いかと思うと老成している部分もあって、キャラとしてちょっと不安定ですね。

ルパン:「子どもは〜」と言っているのは誰なんだろう、とか…ところどころ違和感がありましたね。でも、「妖怪の目から見たら人間が異端」という着想はおもしろいと思いました。

アカシア:いろんな妖怪が登場しますけど、百鬼夜行絵巻とか鳥山石燕の妖怪の絵とか、小松和彦監修の『日本怪異妖怪大事典』(東京堂出版)なんか見ると、もっとおもしろいのがいっぱいありますよね。妖怪ならではのおもしろさのディテールがもっと伝わってくるといいのにな、って思いました。そういう意味では物足りなかった。それから、2巻目では1巻目より前の雀の過去が語られて、それから1巻目が終わった後になるわけですが、どこが境目なのかよくわかりませんでした。また、雀の過去がいったいどういうものなのか、あんまりよくわからない。だから後書きで「雀の成長」って言われても、とってつけたような感じがしました。それと、この作品では雀は現代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動し、小さい女の子は江戸時代の人間世界から江戸時代の妖怪世界に移動してますけど、この物語の中のきまりごとってどうなってるんでしょうね。もっと後の巻を読むとわかるんでしょうか? 日本語としても「相撲をとったり甲羅干しをしている」(p40)など、気になるところがありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


『あまねく神竜住まう国』表紙

あまねく神竜住まう国

アンヌ:この本を読んで、自分はなんて、頼朝について知らないのだろうと思いました。『風神秘抄』(徳間書店)の続きなのだと知り、そちらも読んでみました。ストーリーとしては、伊東で捕虜生活を送る少年頼朝が、土地神の人身御供になる運命を逃れて、鎌倉幕府を作る青年となっていく、というもので、明るさのある終わり方や、途中で村娘や白拍子に化けて、舞台で鼓を打つ羽目になるところなど、ユーモアのある冒険談はとてもおもしろく読めました。けれども、肝心のファンタジーの仕組みの部分が、もう一つ釈然としませんでした。2匹の龍と、2匹の蛇というこの物語の根底にあるファンタジー要素がうまくかみ合っていない気がします。もう少し、龍の踊りの意味を頼朝自身が言葉にして語ってくれたら、読者もわかりやすいのじゃないでしょうか? 蛇との闘いについても、万寿姫が変化した方と闘うのは、本当は草十郎の仕事なんじゃないか、いいのか頼朝?と、思ってしまったので。『梁塵秘抄』の選び方は、わかりやすくて、うまいと思いました。こういう物語の中で、読者が、少し古典の詩歌に触れて、調べたり、心の片隅に歌が残っていったりするというのは、いいなと思います。

ルパン:古典ファンタジーって、食わず嫌いで今まで読んだことがありませんでしたが、楽しく読めました。ただ、あとがきに行き着くまで、独立した話だと思っていました。終わり方が唐突で、あれ?と思ったのですが、前作を読んだ人にはわかるのでしょうか。単発の話として読むと、なぜ頼朝が主人公なのか、よくわかりませんでした。頼朝って、ダーティなイメージのはずですし。

アンヌ:『風神秘抄』では、頼朝は早々に草十郎とはぐれてしまって、物語の中に出てきませんでした。同じ登場人物が出てくるわりに、こちらの物語では『風神秘抄』の烏の王国のようなファンタジー要素や、はっきりした展開のおもしろさがありませんでした。曖昧模糊とした頼朝の意識のせいでしょうか。

レジーナ:いとうひろしさんの表紙画は、物語の雰囲気によく合っていますね。上下に2本延びた赤い線も、大蛇を表しているようで、センスを感じます。荻原さんは、伊豆という土地や、そこにまつわる歴史をよく調べた上で、矛盾なく丁寧に書いていらっしゃいます。ただ全体的にぼんやりした印象です。闇の中で竜と対峙する場面は物語の中で重要な部分ですが、少し盛り上がりに欠けます。自分のせいで周りの人が不幸になると思っている頼朝は、ぼんやりした性格で、あまり印象的な主人公ではありませんでした。

レン:つくりとして、袖にも「続き」とは書いていませんよね。読者には、わざと言わないようにしているんですね。途中までしか読んでこられませんでしたが、いつもながら端正な文章に魅せられました。

アカシア:作家ってどの方もそうなのかもしれませんけど、書けば書くほど文章がどんどんうまくなっていく気がします。私はじつは、他の人から「期待してたけどイマイチだった」と聞いていたので、逆に期待せずに読みました。なので、とてもおもしろかった。歴史上の人物って、教科書に出てくるだけだと無味乾燥でつまらないんですね。だから、こんなふうに生き生き書いてもらうと、イメージがいろいろ湧いてきていいなって思うんです。義経のほうはいろいろな形で物語になってみんながよく知っているけど、それに比べて頼朝は人間としてつまらないキャラ。それを敢えて取り上げ、しかも資料があまりない伊豆に流されていた頃を、想像力をふくらませながら書いてます。冒頭に登場する頼朝は、肉体的にも精神的にもとてもひ弱ですが、最後には自分を客観視し、意志をはっきりもち、死んだ姉の万寿姫の化身である大蛇とも対峙できるようになっていく。そういう意味ではおもしろい成長物語になっていると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


緑の精にまた会う日

アンヌ:妖精も妖怪も、その土地に根差したものとして考えられているのに、この物語のロブさんは、野菜畑が潰されると、道に出て歩き出します。こんな風に、新しい場所へ出かけて行く妖怪は、宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』(宮沢賢治全集8 ちくま文庫 他)くらいしかないなと思いながら読みました。道中の冒険談も、捕まえて利用しようとする人が現れたり、川に投げ捨てられたり、なかなかハラハラさせられておもしろかった。ルーシーがロブさんを待ちわびて、その存在を否定したり、ロブさんの美しいコラージュを作り上げていくところなど、失恋が人を詩人にしたり芸術家にするという作用のようで、作者はとても魅力的に書いているなと思いました。ロブさんがまっすぐルーシーのもとに現れるのではなく、市民農園のお隣さんのところにいるという結末もさりげなくて、いい感じでした。死と再生を繰り返すこの地球という場所で、妖精と共存する魅力を伝えた物語だと思いました。

ルパン:私はロブさんの設定がよくわかりませんでした。見える人には見えるけど、見えない人には見えない…?おじいちゃんとルーシーにだけ見えるんですよね。あと、ロブは素早く移動したり消えたりできるのに、閉じ込められたり、ちょっとつじつまが合わない気がしました。あと、「グリーンマン」というものがよくわかりませんでした。

アカシア:グリーンっていうのは、イギリスでは妖精の色なんですよね。で、妖精っていうのは、いると信じている人にしか見えないんじゃないですか。

レン:私もそこでひっかかりました。神出鬼没だから、どこでも通れるのかと思ったら、ふたが閉められていると出られないんですよね。物質的に存在するってことですか? 体積がある、ということですよね。

ルパン:服も着ていますよね。フランキーが心配しているように、転んだりするし。でも、不死身。見えないだけで普通の人と変わらないとすると、矛盾する点がたくさんあります。

アカシア:旅をしていなくなったから、見えないのでは。

ルパン:「見える者」と「見えない者」の線引きががはっきりしないんです。

アカシア:『妖精事典』(キャサリン・ブリッグズ著 冨山房)を見ると、ロブはブラウニーの一種だって書いてあります。だから場所は移動するんでしょうね。イギリス人は妖精が好きで文学にもよく登場するし、妖精を撮った写真がまことしやかに出回ったりもしますよね。ここでは、いい人間だけに見えるわけじゃなくて、存在を信じている人になら見えるっていう設定になってるんだと思います。

レジーナ:以前、作者のホームページを見て、気になっていた作品です。日本語版は平澤さんの表紙画で、子どもが手に取りたくなるような表紙ですね。フラワーショーの場面は、女王様と庭という要素が、いかにもイギリスらしいですね。話の筋はシンプルで、絵本にもなりそうです。ストーリーがシンプルな割に、小さい子どもが読むには長めなので、大人が読み聞かせてあげるといいのではないでしょうか。

レン:表紙からして、最初に手に取りそうな本ですが、ちょっと物足りなかったです。ルーシーがおじいちゃんをなくし、おじいちゃんが住んでいた家もなくなったあと、ロブさんのことを思いつづけて、最後に市民農園で再会するというのは、よかったなと思いました。でも、ルーシーが喪失感をのりこえていったり、成長するところがが描かれるていると期待して読んだんですが、出会ってそこでおしまいという感じ。喪失感はどう決着がつくのだろうと、ちょっと期待はずれで残念でした。ネイティブの読者には、グリーンマンが歩くという冒険だけでも、おもしろいのかもしれませんが。

アンヌ:いろいろな人が、見たり、匂いを感じたり、声を聞いたりして、様々な感覚で、この妖精の存在を感じるところもおもしろいと思いました。

アカシア:妖精っていうとティンカーベルを思い浮かべる人が多いけど、さっきの『妖精事典』を見ると、日本なら妖怪の類に入りそうなものもたくさん出てきますね。自然の中にいるものはむしろ、かわいらしくはないかも。
 おじいさんが亡くなった後、ルーシーのところにすぐ行くのかなと思ったら、そうじゃなくて、星の王子さまみたいに、いろいろな種類の人間と出会って旅をする。そこが私はおもしろかったです。いつルーシーに会えるんだろうと、やきもきしながら読みました。ルーシーはロブさんに会いたいとずっと思っているけど、ロブさんのほうは妖精だから、なんとなくそっちの方には向かうけど、べつに会いたいわけでもない。そこもおもしろいと思いました。結局ロブさんは、ルーシーのもとへ行くのではなく、市民農園の、目の見えないアフリカ系のコーネリアスさんのところに落ち着く。えっ、ルーシーには会えないで終わるのかな、と思うと、最後の最後でうまく会えるように持って行く。その流れもうまいと思いました。私は子どもが読んでもおもしろいと思いましたが、妖精が両義的でとらえがたい存在だということを知らない日本の子どもには、わかりにくいでしょうか?

レン:タイトルはネタばれですね。

アカシア:だけど、会えると思わせておいて最後の最後になるまで会えないから、これでいいんじゃないかな?

アンヌ:ロブさんが歩き出すのは、ロブさんの本能と同時に、自分を求めるルーシーの声を聞いたからだと思えます。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年9月の記録)


ブロード街の12日間

ゴルトムント:歴史ものです。実在の人物や出来事をうまく取り入れています。コレラを研究した先生の実話が元になったとあとがきにもありました。もちろん主な登場人物は創作されたわけで、基本的にはフィクションですけれども。こういうお話は歴史上の事実をうまく取り入れるのが大事ですね。今日のもう一冊の『庭師の娘』(ジークリート・ラウベ著 若松宣子訳 岩波書店)も。伏線を結構たくさん置いて家族のことや、いろんなことがだんだん分かってくるようになっています。どんなことだろうと気になりながら読み進めました。コレラの原因が空気ではなく水だったこと。博士の研究成果をうまく伝えている本とも言えます。少年に関しては、明るい未来を暗示しつつ終わっています。

ひら:主人公が「小さな大人」として登場している状況から「子ども」として書かれていく描写がおもしろかった。フィリップ・アリエスは『〈子供〉の誕生』(みすず書房)という本の中で、16世紀以前は「子供」という概念(=世の中から庇護される社会的な存在)はなく、「小さな大人」という存在だけだった、と論評しています。その本の中では、かつて人間は7歳ぐらいから小さな大人になり、大人と一緒に労働力として働いていたし、逆に7歳以前はコミュニケーションも取りづらいし、当時は高い確率で死亡したため、大人は将来の労働力を効率的に確保するために、できるだけたくさん子どもを産み、7歳以前の子供は育児コストを下げるために「大きな動物に近い感じで養われていた」と書かれていたように記憶しています。この本の舞台になっているイギリスの世界はちょうど近代市民社会が成立し始める頃で、裕福な市民の家ではいわゆる「子供」という概念が誕生して普及していたと思いますが、まだ社会の底辺には「小さな大人」もたくさんいた時代でしょう。一方で、16世紀からなぜ「子供」という概念が誕生し、子供は大切にしなければならい、という社会通念、倫理観が普及したのか、社会的、経済的な合理性があったからだと思います。つまり自分の子供を「小さな大人」として育てるよりも、産業革命によって職業が高度化し、医療の進歩によって子供が死ぬ可能性が低くなった等から、一人ひとりの子供を丁寧に育て、学習させ、ある一定レベルの職業につけた方が親として(極論すれば人間の個体として)生存確率が上がり、楽ができる。そこから後付で倫理体系が組み立てられたように思います。儒教を広めた孔子やキリスト教を広めたコンスタンティヌスしかり、基本的には治世者の統治しやすさのニーズ、一人ひとりの個体の生き残るためのニーズの後追いの形で倫理感が構成され、経済的、社会的に合理性が高い倫理がその後自然淘汰的に普及していっているのではないでしょうか。主人公は物語の前半で「小さな大人」として非常に大変そうに描写されていますが、その後「子供」として保護されていく状況(倫理観の変遷のような状況)がうまく拾い上げられていて、おもしろく読めました。

レン:去年読んでおもしろかったので選びました。読み返せなかったので、細かいところは忘れてしまったのですが、コレラの謎、イールの家族のことをつきとめていくというミステリーの仕立ての展開でぐいぐい読めました。イールのまわりに、さまざまな大人たちが登場するのも印象的。大人の姿がくっきりと描かれていると思いました。

レジーナ:19世紀のロンドンの暮らしも、「青い恐怖」の謎を追う過程も、おもしろく読みました。イールがスノウ博士の研究を手伝い、助手としての仕事を認められる中で、周囲の大人に心を開いていく様子が、納得できるように描かれています。イールは少し、いい子過ぎる気もしますが…。平澤さんの装画も素敵で、日本の子どもが手に取りやすい本です。以前、ハリネズミさんがおっしゃっていたように、ジョーン・エイキンと比較すると、作品の弱さはあるかもしれませんが、この本はステッピングストーンになるのではないでしょうか。今の中学生を見ていると、エイキンまで読める子がなかなかいません。私は、この本が気に入った子には、エイキンの『ウィロビー・チェースのオオカミ』(こだまともこ訳 冨山房)を勧めています。

夏子:プロットが派手で、ミスエリーを読むような勢いで、先へ先へと読み進むことができました。翻訳も読みやすいと思います。伏線がいろいろあって、ひとつを除くと、後でよく活かされています。うまく活かされていない一つというのは、継父(母親の再婚相手で悪漢)に誘拐されたところ。主人公が最も恐れていた通りの結果となり、絶対絶命の危機を迎えたわけで、いちばんハラハラドキドキする場面ですよね。それなのに友人に救出されると、それだけで終わってしまって、悪漢の継父がその後どうなったのか、言及がまったくありません。最大の敵である継父との関係は、きちんと決着をつけておいてほしかったです。もうひとつクレームを言うと、主人公のイールは高潔で、ひたすら弟を守っていますが、いくらなんでも高潔すぎるのでは? また何もかもがイールの活躍で解決するのでなくて、ひとつの活躍だけで充分ではないかと思いました。そのほうがリアリティがあったのにね。時代やプロットにディケンズ作の『オリバー・ツイスト』の影響が見られますが、時代は『オリバー・ツイスト』の20年後で、ロンドンでコレラが大流行したころですよね。当時のロンドンの雰囲気、不潔さとか匂いが伝わってくると、もっとよかったな。無いものねだりで申しわけないけど。

アンヌ:私にとっては大変読みにくい本でした。まず、第一部で引っかかってしまい、なかなか前に進めませんでした。最初に提出される謎が多すぎるような気がします。ロンドンのテムズ川のどぶ浚いという仕事からして、うまくイメージがわきにくいのに、周りの大人たちや主人公がとても恐れているフィッシュという男の正体も、よくわからないまま話が進んでいきます。ビール醸造所というところもなかなか想像するのが難しいのに、舞台がすぐ近所の仕立屋さんの病人の部屋に移ってしまう。だから、主人公が何のためにお金をためているかという謎ときに行き着くまでに、時代や舞台が頭の中にうまく構成されていきませんでした。ディケンズから類推して何とか想像しましたが、そういう知識なしに、いきなりこの物語でその時代を感じるのは難しい気がします。その後、推理小説のようにコレラと水の関係を解き明かそうとする物語になっていくと、一気にすらすら読むことができました。ただ、フィッシュという悪人は捕まっていないのに、「スノウ博士が偉いから大丈夫」というような博士の家政婦さんの言葉で終わったり、どうみてもひどい引き取り手に思えたベッツィの叔母さんが実はとてもいい人だったりとか、物語を進めるために都合よくしてしまうように感じられる所には、疑問が残りました。

夏子:中流の家庭なんじゃないかな。

ルパン:今日みんなで話す三冊のなかで、私はこれが一番おもしろいと思いました。スピーディな展開でで飽きさせないし。コレラという深刻な問題を扱ってはいるのですが、どちらかというとエンタメっていう感じでした。ただ、いろんな大人がたくさん出てきすぎて覚えられないんですよね。最後、エドワードさんといういい人に引き取られることになり、めでたしめでたしなんですけど、このエドワードさん、最後しか出てこないじゃないですか。名前は出て来るけど、出かけてることになっていて、そのあたりは何ともいえずご都合主義ですよね。そもそも、こんないい人がそばにいたなら、これほど苦労しなくてよかったし。帰りを待っていればよかったわけで。あと、エイベルさんとエドワードさんが、紛らわしくて、どっちがどっちだかわからなくなったりしました。この話のなかでいちばんキャラが立っていたのは、博士の家政婦で、チョイ役のウェザーバーンさんです。

マリンゴ:これが課題図書!と信じられなかったほど、中盤まで過酷なストーリーでした。でも、途中から、現実(歴史)とリンクしていくおもしろさを感じました。ただ、物語のインパクトが強すぎて、これが真実のような気がしてしまうので、現実と架空の人物をブレンドする手法は難しいと改めて思いました。

ハリネズミ:出てすぐに読んで、なかなかよくできた物語だと思いました。庶民の人たちの人間模様がうまく描けているし、コレラをめぐる謎解きもおもしろかった。ディケンズに似ているという方がおいででしたが、私はむしろエイキンだと思いました。ディケンズは今読むと、とても冗長でわきのお話も詳しく書いたりするので、メインストーリーで読ませるエンタメとしてはエイキンに近いかと。気になったのは、著者が作り出した人物は生き生きと描かれていたのに、歴史上の人物のほうは厚みが欠けていた点です。実在の人物なのでウソは書けないため、想像にも限界があったのだと思います。

レジーナ:伝記も書いている作家なので、史実を変えるのには抵抗があったのでは。

夏子:この作家は、ディケンズの伝記も書いているのよね。

レン:イギリスの子どもが読んだら、人物名もぱっと覚えられるんでしょうね。

夏子:この本がすぐれた賞に価するとは思えないなぁ。サトクリフの作品だと、主人公の個性が歴史のなかに生きているでしょ。本当に過去にこういう少年がいたんだろうな、と深く納得させてくれるけれど、この作品はそこまではいっていない。作家はアメリカ人で、ロンドンの街にくわしくなかったのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


庭師の娘

夏子:この作品は、作中に登場するメスメル博士に興味を持っていたので、ぜひ読みたいと思って選びました。メスメル博士は、英語のmesmerize(催眠術をかける、魅了するという意味)の語源となった人物です。1768年にウィーンで10歳上の裕福な女性と結婚。お金持ちになったので、モーツアルトを初めとする芸術家たちのパトロンとなりました。「動物磁気」という概念と治療で知られていた医者です。今で言うと、「気」で直すという感じで、手かざしで治療したのね。当時の学会で否定されてしまったため、彼の晩年については何もわからないんです。ちょっと怪しい人物ではあるのですが、非常に興味深いですよね。作品のなかでどんな風に料理されるのか期待して読んだんですが、おもしろくも何ともない人物像に描かれていますね。メスメル博士も凡庸だし、せっかく登場するモーツァルト少年も、いきいきと迫ってこない。脇役に魅力がありません。主人公も、この子がなぜ庭師になりたいのか、という肝心なところにリアリティがありません。幾何学的なフランス式の庭園から、(自然な感じがする)イギリス式庭園へと流れが変わる、それを主人公は先取りするわけなので、この子はモーツアルトに匹敵する天才なんだわね。そこがうまく描かれているとはいえず、残念ながら力のある作品とは思えなかった。翻訳もちょっと硬い感じでした。

レジーナ:「主人公がなぜ、庭を好きなのかが描かれていない」というお話がありましたが、マリーは造園に関して、天才的な素質を持った少女なので、私はその点は気になりませんでした。マリーは夢見がちで、庭のことでいつも頭がいっぱいです。この物語では、マリーとモーツァルトという、ふたりの天才の姿が捉えられています。それぞれ豊かな才能を与えられていますが、周囲の環境は必ずしも、それを発揮できる場ではありません。モーツァルトは、周りの大人に実力を疑われたり、妬まれたりします。一方マリーは、父親が庭師ですが、女性のマリーは仕事を自由に選べません。ヤーコプとの恋はうまくいきすぎる気がしました。この時代、マリーが庭の仕事をするには、結婚するしかないので、仕方ないのかもしれませんが……。庭の描写は、「こんな庭を見てみたい」と読者に思わせるように、もっといきいきと描いてほしかったです。マリーが造ろうとしているのは、イギリス式庭園です。この時代、啓蒙主義という新しい考え方が入ってきて、博士のような先進的な人物を通じて、人々に広まっていく。人や社会の考え方が変わり、新しい時代になっていく。それが、このイギリス式庭園に象徴されています。ジャガイモやトマトがヨーロッパにもたらされ、食卓に上るようになるところや、ウィーンの町の描写も興味深く感じました。原書の表紙にはピンクと紫の花が描かれ、ポップな印象ですが、日本語版の装画には味わいがあり、より作品の雰囲気に合っています。

レン:ちょっと読みにくかったです。冒頭で、修道院で看護の仕事をするのではなく、庭師になりたいというのはわかりましたが、その後、造園に打ち込む描写は少なくて。修道院で薬草の世話をさせてもれえることになったとき、私はよかったなと思ってしまったんですね。そしたら、そうじゃなかった。火をたいて花を守る場面はおもしろかったけれど、結局好きな人と結ばれてハッピーエンドかって。後書きを読んではじめて、職業や結婚相手を選ぶのにも自由のない時代だから意味のあることだったのだとわかりましたが、ただお話を読んだだけだと、それが伝わらないかな。それに、人物のイメージがつかみにくい気がしました。せりふから、こういう人かと読んでいたら、次のせりふでは印象が違って。特にブルジがそうで、どういう立ち位置の人かがつかめず、落ち着きませんでした。

ひら:「好きなこと(仕事)をあきらめなくていいんだよ、そのうちうまくいくからさ」という物語で、教訓的なトーンが強くリアリティがなくて感情的に入り込めなかった。逆に言えば、よくある「主人公が、環境的なハンデを克服しようと努力し、成功した」というハッピーエンドストーリーでもないんですね。作者もあとがきで書いているように、「親の言う相手と結婚して、女性として決められた仕事をするのが普通(つまり倫理的)だった時代」において、「当時としては異端の価値観をがんばって持ち続けた」ということがテーマなんでしょうね(ある意味それだけではあるが・・・)。また「好きな仕事をする」という当時としては異端の価値観が、なぜ児童文学として成り立っているかというと、現代では一般的に流布していて、安心して親や教師が子供に伝えられる価値観だからでしょう。例えば同じ手法を転用すれば、人種差別について「昔は皮膚の色で仕事や結婚も決まっていたんだけど、そんな時でも、皮膚の色でなくその人の能力や性格で物事を色々と判断した人がいたんだよ」という美談を若干の事実も踏まえて50年後に児童文学として書くこともできる。文学と倫理の関係で考えると、例えば同性愛は今の時点で倫理的に広く受け入れられている価値観ですが、まだ児童文学としてはこなれていない価値観ですよね(逆に純文学が扱うテーマとしては少し弱すぎるかも。例えば「自殺」を「尊厳死」として肯定する価値観は十分に異端なので純文学として切り立つ可能性があるのでは)。

ゴルトムント:ドイツ語の作品ですが、筆者のアイデンティティは、オーストリア人でウィーンの人。推測ですが、モーツァルトは、本人の実態に近く描かれているのでは。天才ですからね。息をするようにメロディーが出てくる。楽譜に書くのが追いつかない。

レン:モーツァルトは12歳というわりに幼く感じました。私は、なぜモーツァルトを登場させないといけなかったのか疑問でした。時代性を伝えられますが、あれだけの天才のモーツァルトがひきあいに出されると、マリーのことも「結局、ものをいうのは才能」と読めてしまい、そうなると、平凡な読者は親しみを持ちにくいなと。

ゴルトムント:小説というのは描写が命。だけど今は、描写が細かいと読者はなかなかついていけないでしょう。例えば植物の具体的な名前がいっぱい出てくるけど、知らないと読者は飽きてしまいます。マリア・テレジア、モーツァルト、実在の人物をやはりうまく配しています。オペラのコシファントゥッテに博士が出てくるそうで、もう一度聴き直さなくては。主人公の女の子は、時代に負けずに自分の人生を歩もう、というテーマでしょうね。

アンヌ:何か、とても不器用な感じのする物語でした。前半の修道院生活に対する嫌悪感にはとてもリアリティがあるのですが、ウィーンの街の様子、モーツァルトの使い方、メスメル博士の言葉の中に現れる啓蒙思想やブルーストッキングなどの新思想などが、なんだか取ってつけたようで、それぞれについては、描いているけれど、物語の中で活きていない感がずっと最後までしました。ヤーコブとの恋も、一昔前の少女小説じみていて、もう一つ効果を発していない気がします。マリーの心の中が、夢みがちな少女という設定なので、はっきり描かれていないからなのかもしれません。マリーは、庭をスケッチし縮尺を使って設計図を描くことができたり、霜を防ぐ方法を考え出したりすることができる女の子には、到底見えません。もっと自然そのものへの愛着を示す場面などがあれば、いきなり彼女がイギリス式庭園を作り上げられるだけの考えを持っていることに納得がいくのにと思いました。何もかもメスメル博士が言い換えて説明し直して話が進んでいくという感じで、マリーの中にもうまく入り込めないまま、どんどん物語が展開していきました。メスメル博士は、もっと魔法使いのような人間に描かれてもおもしろい人なのに、市民階級のパトロンという役割ではもったいない気がしました。なんだか物語を回していく役割だけなのが残念でした。せっかくモーツアルトが登場するのに、マリーはモーツアルトへの反感を抱くばかりなのも奇妙な感じがしました。もっと、活き活きとお互いの人格を感じ合える場面があればよかったのにと、思いました。

ルパン:可もなく不可もなく、という印象をもってしまいました。メスメル博士は、皆さんのお話を聞いていると、どうやら本物のほうがおもしろそうですね。描かれた人物がみんな平坦で…。いちばん期待してしまったのはプレッツェル売りです。でも、「この人、何者!?」って思わせておいて、結局何者でもなかった。

アンヌ:このあたりから、モーツアルトがもっと活躍してくれるのかと思ったのですが、そうではなくて、がっかりしました。

ルパン:気になったのはP194のところです。寒いから火をたいて植物を温める、っていう発想は、「へえ」って思いましたが、火を燃やしたまま、草花を見守るでもなく、主人公もほかのみんなも家に入っちゃうんですよね。火事になるんじゃないかと心配しちゃいました。しかも、あとで見に行くのはマリーでなく、ほかの人。これでは庭園への愛も感じられず、クライマックスという気もしないまま終わってしまいました。それに、伯爵夫人の依頼はどうなったんでしょうね。結婚によって修道院に入らなくて済んだ、という結末は、マリーの夢とうまくリンクしていなくて、ひどくちぐはぐな印象でした。父親も、マリーの才能を認めているのかいないのかはっきりしないし。

ゴルトムント:父親は、女は庭師になどしないという古い価値観の持ち主。啓蒙専制君主のマリア・テレジア。ウィーンのシェーンブルン宮殿はベルサイユそっくりに作っているわけで、18世紀にはフランス的なものに高い価値を置いた時代だったのでしょう。その当時の空気をベースに書いているんですね。

ルパン:「その当時の空気」がきちんと描けてないから、よけいわかりにくいですよね。でも、本質的な問題は、そこではなくて、ストーリー展開にあるのだと思います。主人公に魅力があって、物語がおもしろければ、多少歴史的背景がわかりづらくても、子どもは気にしないですから。ファンタジーやSFみたいに、ありえないような設定であっても楽しめるものはたくさんあるわけだし。

夏子:庭というと、『秘密の花園』のイメージが強烈よね。『秘密の花園』では、主人公のメアリーの内面と庭が強く結びついているでしょ? ところがこの本では、読み進んでも、主人公と庭とがうまく結びついてこない。主人公の自立心や個性が感じられないために、魅力がないのだと思う。現代の読者が読むのだから、当時の時代背景は今とは違うとはいえ、読者が主人公に共感できるところがないと、読めないなぁ。

マリンゴ:何かがうまくいかないと日常で悩んでいる子どもが読めば、もっと“ままならない”時代もあったのだと感じ、自分も頑張ろうと思えるかも。ただ個人的には、マリーが天才すぎることに共感できませんでした。天才だからマリーは救済されたのか、そうでなければ修道院行きだったのか、とイマイチ感が残ります。ごく特例を描いた物語のような気がしています。

ハリネズミ:原題は、Marie mit dem Kopf voller Blumenですから、頭の中が花でいっぱいになっているマリー、というような意味だと思いますが、マリーの花に対する愛が、そんなに描かれていないし、しょっちゅう花のことばかり考えていました、という描写がもっともっと出てきてもいいんじゃないかと思いました。現状では、介護よりはガーデニングが好きだと思っているうちに、自分の努力ではなく運がよくて「足長おじさん」のような人が現れて憧れの仕事につけた、というふうに思えてしまいます。メスメル博士も癖があっておもしろそうな人物なのに、この作品では単なる好々爺になっていますね。ひらさんが児童文学はその時代の倫理観に左右されるとおっしゃっていましたが、私はあまりそうは思っていません。それよりも、どんな世界になったらいいかと考えて書いているのが児童文学なのではないでしょうか。

ひら:「米国人を殺すのは正しい」という価値観は現代では異端ですが、戦時では流布するべき価値観として成り立っていて、児童文学として成立できたと思います。逆に現代の日本において「米国人を殺すのは正しい」という価値観の児童文学を書く(売る)のは難しいのではないでしょうか。

ハリネズミ:戦時中は多くの児童文学作家も、お上の政策に協力してしまいましたね。ただ児童文学なるものが目指すものがあるとすれば、それは「お上に迎合して売れればいい」というのではなく、もっと本質的なものなんじゃないかと思いますが。

ひら:児童文学の主な消費者は親や図書館であり、ユーザーが子どもであるケースが多いと思っています。その際、例外はもちろんありますが、基本的に親や公共機関は保守的な価値観(言い換えればラジカルでない価値観)を再生産する本を購入、勧めることが多いと思います。

ハリネズミ:今の価値観を肯定してそれにのっとって書く人もいますが、一つの理想の姿を意識したうえで書く作家もいますよね。現状肯定してしまうと、未来には向かいませんからね。

レン:児童文学は、さまざまな考えの間の揺らぎも伝えているのでは?

夏子:児童文学は、既成の価値観を無力化するためにあるのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


どろぼうのどろぼん

アンヌ:詩的な表現に満ちていて、すごいなあと思いながら読みました。盗みの場面で、どろぽんが口ずさむ歌が好きです。読み終った後、この感じに似ているのは何だろうと思っていたら、ふと、別役実の戯曲を初めて読んだ時のことを思い出しました。どろぽんの歌の原点に祖父が歌った歌があるんじゃないかという謎ときのような場面とか、生き物の声も、ものの声も聞こえる矛盾とか、後半にはいくつか、いらないと言えばいらない場面もありますが、あまり気にせず、好きな個所を読み返して楽しみました。

ひら:p204に「何をうばっても盗んでもイイ、良いこともないし、悪いこともない」とありますが、主人公のどろぼんの仕事は、全ての価値を相対化したうえで、世の中に善悪はないし、(たとえ相手にとって価値があるモノでも)それ自体本当に価値があるか分からないから、奪ってなくしてあげてもいい、という前提で存在する仕事。ただ、自分の人生ではじめて「よぞら」という絶対的な価値が出来たことで「世界が主(つまり神)のいない森だとしたら、じぶんであるじになるように生きるしかない」と、考えるようになる。つまり自分自身が自分の神として世界に対して意味づけし、価値体系を構築しなければならない立場になってしまう。今まで自分の価値体系を持っていなかったからこそ、そのために色々な人の価値体系の中からいらないモノの声を聴くことが出来たどろぼんにとって、「どろぼんはうまれてはじめて『いきる』とは恐ろしいと思った」と思うに至った(ここでの『いきる』というのは意味づけされた価値体系の中で生きる、という意味)。同項に「ひたすら道に迷いながら、いろいろなことをかんがえた」とも書いてあるが、よぞらという絶対的な価値に初めて出会うことで「迷い」が出てきているのがうまく表現されています。迷いというのはある価値体系から自分でそれぞれの価値に意味づけして、優先順位をつけて選択して行く際の心理的な難しさを表す言葉だと思いますが、そもそもどろぼんにとっては、あらゆる事象がすべて相対化されたまったく同価値だったので、「迷う」という行為そのものが存在しなかった。だからこそ、他の人の様々な価値を俯瞰的に見ることができ、相手にとっていらないモノの声がいつも向こうから聞こえてきた。ただ、自分で意味づけした「よぞら」という絶対的な価値を「どろばんは探し続けた。だって探すしかなかったからだ」という状況になってしまった。つまりどろぼんは相対的な価値だけでは世の中を生きていくことが出来ない、と初めて感じてしまった(あるいはそのような生き方に出会ってしまった)、それは児童文学として考えると、読者である子どもが自分の価値観、価値体系を模索しながら探していくプロセスにとてもうまく呼応しながら表現しているように思います(ちなみに「黒い犬」はエジプト神話ではアヌビスと呼ばれ死を導く神の使いの人型の犬で、黒い犬を探すプロセスはある意味、今までのどろぼんが死んで、新しい自分を探す、死と再生のプロセス=子供の成長も象徴しているように感じます)。また、どろぼんは価値を相対化することで、本当はその人にとって価値のないものを取り除くのが仕事なので、p4「いつも何かの中間にいるべきだし、どっちつかずでだれにもおぼえられないようになっている」という外見や、219ページの「みんなだれかの子供で、だれかのこどもじゃないひとなんで一人もいない、ということに驚いてしまう」プロフィールは、普通の人としてのアイデンティティーを持たないキャラクターとしてうまく書かれていると思います。逆に言えば、もしどろぼんがだれかの子供であれば、その生まれた背景のためになんらかの価値観を引き継ぐことになってしまうため、物語の整合性から言えば、どろぼんには例え拾ってくれたとしても両親は生きていてはいけないと思いますが、拾ってくれたお母さんが、どろぼんがいらないモノの声が聞こえてきた時から「声が出なくなった」こと、つまり声や言葉(=合理的な価値体系の象徴)を奪われる生贄となったことで、うまく物語のバランスを取っています。この続編はないと思うけど、この続きがあるとしたら、最終的にどろぼんはよぞらともう一人の女性パートナーを見つけることで、自分自身の絶対的な価値(と全体性)を手に入れ、モノの声は聞こえなくなって、そしてお母さんの声も戻って来るはず。どろぼんはその人が本質的に気にしなくてもいい、気にしない方が幸せな価値(それはある人にとってはお金、出世、結婚等かもしれない)を取り除いてくれる(あるいは軽くしてくれる)一種のカウンセラーのようなキャラクター。深く詩的で、好きな物語です。

レン:最初読んだとき、不思議な話だなと思いました。どろぼんがどうなるのか気になって、どんどん読めてしまうフィクションの力を感じますが、登場人物は大人ばかり。児童文学としてどうなんだろうと、みなさんの意見を聞いてみたくて今回の課題に選びました。どろぼんが「拾われた子」であることは、大事な要素だと思います。なぜ、親がわからないという設定にしないといけなかったのか。親子の関係を、所有から解き放ちたかったのか。「モノを持つこと」と、「モノを持つことから生まれる束縛」「大切にすること、されること」などを、考えさせられる物語だと思いました。

レジーナ:物語に雰囲気があり、装丁の美しい本ですね。以前『おうさまのおひっこし』(牡丹靖佳 福音館書店)を読んでから、気になっていた画家の方が挿絵を手がけています。とぼけた挿絵が、作品の雰囲気にぴったりです。物語の最後で、警察が泥棒を救おうとするところにおかしみがあります。ファンタジーの要素を入れながら、家族をテーマにしているのは、近年の柏葉幸子さんの作品を思わせます。公園もそうですが、「ただ存在すること」の意味を考えさせる本です。ものに魂が宿るというのは、日本に古くからある考え方ですが、この作品では、ものが人の心と結びつき、時に縛ってしまうのをどろぼんが解放してあげます。ところどころ気になる点はありました。ヨゾラを殴る場面で、混乱して思わず殴ってしまったのでしょうが、ここでどろぼんが殴る必然性や、そのときの気持ちが理解できませんでした。その後、228ページに「それは、ただしいとか、ただしくないとかじゃない。ただ、だれでもみんなまちがうし、その小さな無数のまちがいがあつまって、世界はできているというだけ」とありますが、人や生き物の関係では、決してしてはいけないことがあって、ヨゾラを殴るのも、してはいけないことだったのではないでしょうか。キジマくんのペンケースを見つけたどろぼんは、自分に聞こえるものの声は、「持ちぬしが、あったことさえおばえてもいないもの。なくなっても気づきもしないもの。そして、持ちぬしのところから、消えてしまいたい、と、願っているもの」と気づきます。忘れられたものと、なくなった方がいいものは違うので、分けた方がいいのではないでしょうか。またフリーマーケットで、がらくたのようなものがなぜ売れるのでしょう。44ページに「あわてて、キジマくんに向きなおった瞬間に、ゴミ箱が、立てかけてあったグラウンド整備のトンボに当たって、がーん、と鳴り、とおりかかった一年生の女の子たちが、わっといって、たおれた」とあります。よく読めば、倒れたのはゴミ箱だとわかるのですが、はじめは女の子が倒れたのかと思いました。「ころして」と、ものの声が聞こえる場面はこわいですね。

夏子:物の声が聞こえて、しかし生き物の声が聞こえるようになると、物の声が聞こえなくなるという設定は、すごくおもしろかった。「ヨゾラを盗む」など詩的イメージも豊かで、歌もなかなかおもしろかったです。でもどろぼんは、実の親ではないとはいえ、ギャンブラー夫妻に愛されて育ったんですよね? それなのに人間の声が聞こえず、人間とはコミュニケーションがないわけで、う〜ん、人と対応しないところが、いかにも現代の日本の作品らしいのかな。でも、そこに問題を感じます。嫌いな本ではないし、魅力のある作品ではあるんですけど・・・。あさみさんの話し方が「〜ですわ」というのは、古くさいですよね。それから勾留された場所では、もっとさまざまな声が聞こえるはずでは? ヨゾラを愛すると、ものの声が聞こえなくなって、そうなると普通のどろぼうになってしまうんですね。

マリンゴ:独創的ですばらしいと感じました。ファンタジーだけど、宙にふわふわ浮いていない、不思議なリアリティがあると思いました。ただラスト、新しい価値観をもって未来に踏み出す物語だと思っていたので、「まだ泥棒を続けるのかい!」とツッコミを入れたくはなりました。

ルパン:すみません、私はおもしろくなかったです。そういうことを言う私がおもしろくない人間なのかな。「人もものを盗るのはいけません」って思っちゃって。持ち主がいらないモノなら盗んでもいい、というのが、どうしても受け入れられないんですよね。犬の「よぞら」に愛情を感じるようになって、連れ戻そうとするのはいいんだけど、「よばれていくのではなく、自分の意志で」と言いながら、盗んだ指輪を売ったお金で買い取ろうとするわけですよね。それって、ぜんぜん正攻法じゃないです。そもそも、盗品を売って生計を立てるというのはいかがなものかと。

夏子:工場で働いていますよ。

ハリネズミ:どろぼうが仕事なのでは? 私は、「どろぼん どろぼん どろろろろ〜〜」というこの呪文みたいなものをおもしろいと思えるかどうかで、この本は評価が違ってくるだろう、と思いました。私はダサイな、と思ってしまったので、作品そのものにも乗れませんでした。なのでよけいにいろいろなところにひっかかったんだと思いますが、まず浅見さんの台詞が「〜ますわ」なんて、いつの時代なんでしょう? 44ページの最初の3行については、倒れたのはゴミ箱なんでしょうけど、女の子たちが倒れたようにも取れるので、なんでこの文が必要なの、と思いました。それから、モリサワのリュックを盗んだ件はそのままでいいのか、とか、いじめられているキジマ君が昔のことを思い出して、いじめっ子のモリサワに謝るんだけど、そういう解決の仕方でいいのか、なんていうところも引っかかりました。犬のよぞらが前の虐待した飼い主に「ふさふさ、ふさふさ。いっしょうけんめい」尻尾を振ったんだけど、実は犬が尻尾を振るのは不安な時や恐ろしいときも尻尾を振るということがわかって、どろぼんが取り返しにいくという場面も、なんだかリアリティが希薄だなあと思いました。犬は全身で感情を表現するから尻尾以外からも見てとれることはあるはずなのに。最後も、生きものの声が聞こえるようになってきたどろぼんなのに、「遠いまちに引っ越して、どろぼうをがんばってみようとおもいます」なんていう終わり方でいいんでしょうか? とにかく疑問がいっぱいわいてくる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年7月の記録)


ぼくとヨシュと水色の空

アンヌ:心臓病のヤンの気持ちに同化してしまって、文字通り、胸をどきどきさせながら読みました。同時に、ヤンのママの気持ちも、痛いほど感じました。手術の前で、体を大事にしなくてはいけないのがわかっているけれど、大事な本が入っている重い鞄を持って歩いて行く、という冒頭の場面から、引き込まれました。全編を通して、命あることの美しさや温かさを感じる物語です。家族もいい感じに描かれていて、手術に向かって息をつめているというのではなく、ごく普通のドタバタする日常が、うまく描かれています。その中で、いじめで傷ついたヤンに、姉がソファで寄り添う場面などで、家族の温かさが感じられます。また、猫の出産場面とか、川で遊ぶ場面とかで、ヤンが感じている命や世界の輝きが伝わってきます。手術で命が終わる可能性がありながらも、ヤンがそのぎりぎりまで、いきいきと生きているということを感じられる物語で、いわゆる難病ものとは違います。ただ、今回は、あまりにヤンに魅力を感じてしまったので、ヨシュの苦しみや孤独などに、うまく注意が向けられず、早く出てきてくれればいいのに、などと思ってしまいました。 

ヤマネ:この本を今回、課題本に選んだのは、まずタイトルに惹かれたからです。ドイツの原題では、ただ『ヤンとヨシュ』というだけですが、邦題では『ぼくとヨシュと水色の空』となっていて、より気になる、いいタイトルになっていると思いました。表紙も綺麗で惹かれます。お話は、ヤンの病気の重さやヨシュの家庭問題、後半でネズミばあさんが刺される事件が起こるところなど、重い内容が多く出てきますが、ヤンの家庭の温かさや、ヤンとヨシュの気持ちの繋がりや、ネコの場面がうまくお話の中に散りばめられていることで、お話がやわらかくなり温かみが感じられるように思います。ヤンは体は弱いけれど、ものをはっきり言えるところが気持ちいいですね。94ページで、ヨシュに「ぼくは友だちだよ」とはっきり伝える場面や、215ページで、ネズミばあさんにけがをさせたのがヨシュだとみんなに疑われる場面で、ヨシュをかばう場面など、読んでいて気持ちがよかったです。それにしても、ヤンに対するアキとフィルの嫌がらせがひどくて驚きました。中でもナイフを手術の跡に突きつけるところは、本当にひどすぎる。女の子のララゾフィーの存在が気になりました。算数を教えてほしいと言いながら、実はヤンに恋心を抱いているのでしょうね。ヤンは、最後の方では少しララゾフィーのことが気になるようになるけれど、最初はヨシュの方が大事で、男の子らしいなと思いました。ララゾフィーが、最後に大事な役割を果たすところがよかったです。

ハリネズミ:会話からすると主人公は4年生くらいに思えますね。ほほえましいことはほほえましいのですが、182ページに「今はまだ親に話せない」とあって、ずっと大人たちには内緒にしているんですね。ヨシュがネズミばあさんを刺したのではないかと疑われるところは、後半の核になっている部分ですが、大人に知らせないのがなぜなのか、とか、大人を信じない理由などがきちんと描かれてはいないと思います。だから、読者はいらだつかもしれません。ネズミ婆さんとか、ララゾフィーといった脇役が立体的に描かれているのがいいですね。それにしても、表紙のヤンはあんまりやせていない。 

ひら:「「普通」の意味」と「5、6年生特有の、大人になるためのイニシエーション」、「命の質感」がテーマだと感じました。3つを軸に重層的に読めるすばらしい本です。たとえば10ページで、コガネムシの死がいの表現において、命の質感が軽く描かれていて、(主人公のヤン自身の持病のこともあり)物語を通して、ヤン自身が納得できる命の質感を手に入れていく様がいい。またヤンは、肉体的には特殊な心臓の病気を抱え「普通(一般的)でない」が、社会の中心的な価値に対する「周辺(普通ではない)」という意味では、温かで豊かな家庭に育ったヤンは、社会的には「普通」に位置しています。一方、ヤンの親友のヨシュは、お母さんが昼間からビール臭かったり、母子家庭なのに、息子に何も言わずに家出をして、いつ帰ってくるかわからない状況。しかもエレベーターにはトルコ人が乗ってくる貧困エリアのマンションに住んでいるという意味で、社会的に「普通ではない(社会の中心部にいない=周辺に位置している)」。物語の中で、このふたりの「普通でない」が並走していきます。児童文学は、色々な意味で周辺部にいる子供が、主人公になるケースが多く、いくつかのイニシエーションを通して、「普通でないもの」を受け入れていくことが多いけど、この物語では、色々な社会的なセーフティネット(家族の愛情や社会的支援)が普通でないもの(周辺部にある人や事柄)を中心部へ導いていきます。また、普通でないもの同士のコミュニティー(ここではヤンとヨシュ)では、どちらかが中心部に近づくことによって(ここでは、ヤンが、ララゾフィーとデートした瞬間に)、もう片方のヨシュが、シーソーのように、辺境へ離れていく力学が働いています。その意味でこの物語の普通(社会的な中心部)、普通じゃない(周辺部)、のせめぎ合い=出し入れもおもしろい。また、物語の前半部分では、登場人物として、個性を持たない未分化な人物像が出てきます。例えばいじめっ子のアキとフィル、それと呼応するように、2人の姉の個性も見えにくい。一般的に大人になる過程で、悪の中にも正義があるということ(ある事柄には、常に両義性があること)がわかってきますが、未分化な原型としての悪や女性性が、物語の前半に現れ、後半のいじめっ子の四人組(象徴としての悪)がヤンをいじめる場面では、ふたりのいじめっ子(アキとフィル)に加えて、やや友好的な女の子や金髪の子のような、悪の中の個性が描写されるようになります。ふたりの姉も同様で、ジーンズをはくシーンでは、ふたりの肉体的な成長の差が象徴的に語られます。特に秀逸なのは物語の前半で、狂った人間(=最も社会の周辺にいる人間)の象徴として登場しているネズミばあさんに対して、ヤンは、自分と同じ普通でない(と思っている)人間として、親近憎悪を感じていたけれど(無意識的に、より周辺に引き寄せられることに、恐怖を感じている)、物語の後半では、ネズミばあさんに、人としての固有名詞がつけられ、一人の人間として受容されていくプロセスが、とてもうまく書かれていると思います。 

ルパン:すみません、切れ切れに読んだせいか、話の流れがいまひとつしっかりつかめませんでした。手術の前と後で、ヤンが劇的に成長した、ということ? 手術前の緊張感や、無事に成功して終わった後の内面的な変化があまり伝わってこなかった気がします。もう一度読まなければ……。ヤンの年齢については、エレベーターで、「8階のボタンに手が届かない」というシーンが出てくるので、小学校3、4年かな、と思いました。 

ハリネズミ:子どもがひとりでは解決できない問題を抱えている。そういう年齢なんでしょうね。ヤンは、もう何度も手術を受けているので、そうそう悲愴な思いは抱いていないのでは? 

ルパン:ヤンだけでなく、まわりの子までいつのまにか変わっているのが、なんだか理解しづらかったですね。ララゾフィーは自分で算数ができるようになっているし、アキとフィルも手出しをしなくなるみたいなんですが、それもヤンが大手術を乗り越えたことと関係があるのであれば、それがわかるように書いてもらいたい気がします。 

アンヌ:「水色の夢」の章が、よくわかりませんでした。天国や神様のイメージが少しちらつく場面ではありますが、ネズミばあさんが優しく歌を歌ってくれる意味などが捉えきれませんでした。 

ひら:物語中の夢の話は、基本的に、何かを象徴的に表しているように感じます。ネズミばあさんの子守唄は、ヤンにとって、ネズミばあさんが「恐怖」から「受け入れられるもの」への変容を象徴しているのでは。ヤンの中で未解決だった何かが、手術というイニシエーションを通して(あるいは夢を通して)、消化されていく様子がうまく書かれていると思います。 

ルパン:ヤンは幼く見える一方、223ページには、「ヤンはママのそういうところがすきだ」という一文がありますよね。大手術を受けなければならないヤンに、ママが気を回している。回しすぎて失敗したことを反省しているママに、今度はヤンが気を回している。そういう大人びたところもあるので、年齢がつかみにくいんです。ほかの子どもと違う問題を抱えていることで、自然と精神的に早熟になるのかもしれませんが。 

ハリネズミ:ここは、ヤンを病院に連れていく途中で話しているところですね。母親のほうは、ヤンが万一のことを考えて話しているのかと思うわけですが、ヤンの方は母親の勘違いを察してしまう。2人の思いが交錯して、それぞれの心理が読み取れるおもしろいところですね。 

アンヌ:病気の子供は、医者から自分の病気について説明を受け、理解しようとします。ある意味、大人びているところもあると思います。
 
レジーナ:でも、自然の中でのびのび育っているからでしょうか、子どもたちが素朴で、すれていないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


なんでそんなことするの?

ひら:絵が綺麗。久々に、こんなに綺麗な本を読みました。文章のディティールの表現がうまい。「人と違ってもいいんだよ(いじめはダメよ)」ということがテーマの本ですが、「心理的に他人と違う」というケースと「社会的に他人と違う」ということがあると思います。心理的な違いの部分で、最もいじめにつながりやすいのは、自分の心の中で抑圧している価値(行動、感情)を、相手が言動として表してしまっているケース。今回のケースでは、この主人公(トキオ)の年齢は、母親に甘えたいという感情を(特に人前では)かなり抑圧している年齢ではないか。それにも関らず、主人公のトキオは、甘えの象徴であるぬいぐるみを学校に持って来ていて、そのためにいじめられている(幼稚園児に人気の「しまじろう」をモチーフにした「トラのぬいぐるみ」を、象徴として使ったのはうまい。また、いじめは集団を維持するために、些細な差異を指摘することによって、集団の同質性を維持するための儀式だと思うので、特に学校のような「逃げ難い集団」では起こりやすいと思う)。一方、物語の後半で、他のクラスメートが「切手集め」や「おし花」を趣味として持っているケースが、「社会的に人と違う」こととして語られるが、上記の心理的な抑圧部分(自分の影=シャドー部分)を持つ場合に比べれば(「違い」の質が違うので)、いじめられる可能性や強度は低いと思います。そのあたりの「「人と違うこと」の差異」への視点がなく、「自分と違うからといって、その人をいじめてはダメよ」という一般的なテーマに物語が収斂していくため、読後感としては、やや教訓的すぎる感じがしました。 

レジーナ:ちょうど、松田さんが訳されたカレン・ラッセルの『狼少女たちの聖ルーシー寮』(河出書房新社)を読んだところです。『なんでそんなことするの?』は、人と違っていい、というメッセージをはっきり打ち出し、いじめられていることを認めたくない気持ちや、ちょっとしたからかいがどれほど人を傷つけるのかが描かれています。主人公がトラのぬいぐるみを持ち歩く理由も、ネコの正体もはっきり明かされず、不思議な世界が広がっています。シュールで、ナンセンスで、現実の枠組みの外にある世界です。教訓的という話がありましたが、あまりそう感じさせないのは、色鮮やかで魅力的な絵に助けられているからでしょうか。 

ハリネズミ:ミケはトキオの潜在意識だと思って読みました。いじめる相手に、トキオ自身は向かっていけないけど、ミケならどんどんやっつけてくれる。ひらさんは、周辺とおっしゃいましたが、私は特にトキオが周辺の存在だとは思わなかった。中心・周辺と関係なくだれにでも起こることなのではないでしょうか。「がまんしないで理不尽なことに対しては抗議すれば、すべてはうまくいく」と教えている本ですね。 

ヤマネ:初めて読んだときに、自分の気持ちを言えない子が言えるようになるのが、すっきりしてとても好きだと思いました。いじめについて書かれている本はたくさんあるけど、いじめられている側が、どうしたらいいか発見して自分の行動を少しだけ変えていって、いじめる人たちに立ち向かっていく、というところがおもしろかった。トキオは、はじめはミケに対して、「なんでそんなことするの?」と言っていたのが、46ページではじめて自分をからかう友だちに向かって「なんでそんなことするの?」と言います。ここに大きな転換点があり、はっとさせられました。タイトルの『なんでそんなことするの?』もここに繋がっているのか、なるほどと思います。ミケの言葉の中で、教訓的なところが繰り返し出てきて、少し言いすぎる感じもしましたが、この部分が作者のもっとも伝えたいところなのでしょう。トキオは、すごく悩んでいるわけではないけど(少なくとも悩んでいることに本人が気づいていない)、学校から帰ってきてモヤモヤしています。それはいい状態ではないですね。いろいろな問題が解決していった後、最後のページで、寝そべってマンガを読んで笑いながらポテチを食べている、これが子どもの平和で幸せな状態なのだと思いました。

アンヌ:最初から、これはホラー小説だと思いながら読みました。奇妙に昭和な感じの家のつくりとか、しんとした台所、部屋の扉の向こうには、ミケという、ぬいぐるみか、猫か、化け物なのか、よくわからないものがいるという設定。しかも、そのミケが学校について来て、ぬいぐるみのトラを持ってくるトキオのことを、変だと言っていじめる子供たちを、食べてしまったり変身させたりしてやっつける。ここら辺がホラーなのだけれど、妙に可愛いものに変身させるところが、絵の魅力とともに、恐怖よりユーモアを感じさせる作りになっています。ミケにやっつけられた子どもたちが、自分の異変に気づいているような、いないような感じも、奇妙でおもしろい。トキオが、「なんでそんなことするの?」とミケに訊き、いじめようとする子どもたちにも、同じ言葉を言うことができて初めて、トキオもみんなも変わっていくという話。もう一つ釈然とはしませんが、自分の気持ちをごまかし続けたトキオ君が、そういう辛さを抜け出せてよかったなと思いました。それにしても、一番怖かったのは、ミケの復讐する場面などではなく、10ページの「ぼく、トキオくんのことを思って言っているんだよ」という、コウキくんの言葉でした。 

ルパン:ちょっとストーリーと関係ないところですが、ひらがなと漢字で、字体が違うのって不思議じゃないですか。内容的には、なんだか中途半端な感じ、というのが正直な感想ですね。おもしろくないわけではないのだけど、絶賛したいほどでもなく。8ページで、「ぬいぐるみ=トラ」というのがよくわかりませんでした。絵がなかったらわからないですね。ミケはほかの人には見えないのは、しばらく読んでいるうちにわかってきました。46ページで、初めて友だちに「なんでそんなことするの?」って言えたとき、言われたレイコちゃんが、「ふしぎなものを見たような顔をする」という場面、ファンタジーのなかにリアリティが垣間見えて、とてもいいと思いました。 

ハリネズミ:文学というより、伝えたいメッセージをだれにでもわかるように書いた作品ですね。絵はとてもおもしろいけど。 

ルパン:これ、対象年齢はどのくらいを想定しているんでしょうね。ルビのふり方も、簡単な字にふってあるかと思うと、初出以降はふってなかったり。小さい子対象なのかな、大きい子なのかな。ちょっとピントがぼやけている気がします。
 
ハリネズミ:もう少し説明的な部分を省いて、文章を短くするともっとおもしろくなるかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


コケシちゃん

レジーナ:特に気になるところもなく、さらっと読みました。地域にもよるのかもしれませんが、スイスの学校は、そんなにアジア人の生徒が少ないのでしょうか? 佐藤まどかさんはイタリアにいらした方で、以前、ミラノが舞台の『カフェ・デ・キリコ』(講談社)を読みました。 

ハリネズミ:異文化交流の話ですね。ただし、こけしちゃんはスイスのイタリア語圏の学校に行っていたという設定です。それなのに、ホット・エア・バルーンとか、イエロー・モンキーとか、イタリア語ではなく英語ばかりが出てきます。最後のくるみちゃんの手紙の最後の言葉もなぜか英語。そのあたりにちょっと引っかかりました。こんなふうだと、外国人はみんな英語で話しているという間違った概念を子どもがもつようになるかも。人物造型は、わかりやすいといえばわかりやすいけど、ヨーロッパ文化圏だから個人主義的という典型みたいな図式的な描かれ方ですね。もっと立体的に描いてほしいところだけど、中学年くらいが対象だとこのくらいでよしとしてしまうのでしょうか? 自分の意見が言えないくるみちゃんが、少しずつ変わっていくのはいいな、と思いました。 

ヤマネ:まず、表紙は子どもが好きそうで手にとりそうだと思いました。しかしカバーを取ると、表紙とのギャップに驚きました。中は、お話の中でクラス全員で描いた絵になっているのですが、それならばクラスの子全員描かれていればよいのにと思います。異文化を知る入口としていい本かなと思いましたが、とくに大きな感動があるわけではありません。出井君は、スイスから来た体験入学生の京ちゃんをあれこれいじめるけど、カラっとしていてあまり陰険に感じませんでした。それはなぜかと考えたところ、ひとつは、女同士、男同士のいじめの方が陰湿になりやすいのでは?ということと、いじめられている側の京ちゃんがきちんと言い返せる子で、出井くんの行為に対していじめだと思っていないからだと思います。 

アンヌ:比較的構成がはっきりしていて、すらりと読めたのですが、それだけ、特に思い入れを感じるところがありませんでした。一人一人について見つめなおしていくと、奇妙なところが、いろいろありました。主人公のくるみちゃんは、かなり内向的な性格で、自分も転校生でつらい思いをしたのに、京子ちゃんは、はっきりものが言える強い人間なんだと決めつけて、転校したての時でさえ、親切にしません。いじめっ子の出井くんは、日本では協調性が必要だと、もっともなことを言って、京子ちゃんをいじめ続けます。出井君が、家庭の事情で辛い思いをしているのがわかっていくのですが、だからといって、人をいじめていいわけではなく、出井君のいじめは曖昧なままです。京子ちゃんについては、コケシのストラップを買って、くるみちゃんに気を使う性格と、スイスで後天的に得た論理的な性格とが矛盾するような気がして、このストラップの場面が、すらりと飲み込めない気がしました。唯一、くるみちゃんが指導役になって、絵を描く場面が素敵でした。美術製作を個的な世界としてとらえる京子ちゃんに対して、ちゃんと反論し、共同作業で絵を描き上げるところがおもしろかった。それだけに、船を新聞紙で折って作るとか、廃物利用をするところが、まあ、現実なんでしょうけれど、なんで最後まで完全に美しいものに仕上げなかったのだろうかと残念に思います。 

ルパン:これは、異文化交流の話だと思うと、そんなにおもしろくない本です。掃除当番がない、給食がない、というのは、へえ、そうなんだ、とは思うけれど、それ以上のものではない。そこがポイントなのではなくて、この物語のこけしちゃんは、もっともっと壮絶な人生を体験しているのだ、ということに読者が気づかなくてはならないんだと思います。たとえば、金髪で青い目の本物のヨーロッパ人の子どもが「日本とヨーロッパは違うよ」と言うのであれば、確かに異文化交流の話であり、クラスの子も喜んでそういう話を聞くのだと思う。ところが、日本人以上に日本人っぽい「こけしちゃん」がそういうことを言うことでいじめられてしまう。自分たちと同じ顔をしている人間が、「ヨーロッパは違う」と言ったことで、自分たちの文化が否定された気がしていじめるんです。いっぽう、こけしちゃんは、ヨーロッパでは、地元の文化にはなじんでいるのに、みんなと外見が違うからという理由でいじめられている。ヨーロッパでも日本でもいじめられているんです。ただ、もったいないことに、そのシチュエーションの悲惨さが、この物語ではいまひとつ伝わってこない。これで読書感想文を書かせるのならば、おとなが問題提議をしてあげなければいけない、ちょっとわかりにくい作品だと思います。 

ハリネズミ:ツメのあまいところがあるんでしょうね。 

アンヌ:いじめも、例えば、出井君と原君のようなコンビでいじめるところなど、まるでジャイアンとスネ夫のようで、典型的で紋切り型のような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年6月の記録)


わたしの心のなか

アンヌ:冒頭から言葉のイメージが、美しい物語だと思いました。機械で話せるようになるという展開は、今の段階ではSFですが、やがては夢でなくなると思います。現在でも、ホーキング博士のように発声できる機械もあります。ただ、この物語のように、多くの援助や補助金を得て必要な人の手元に届くだけでなく、安価に手軽に届くといいなと思っています。実は最近、自閉症の方の意志疎通のための絵カードを、自閉症の子どもを持つ女性がスマートフォンのアプリとして開発した製品があるということを、ネット上で知りました。その話を友人にしたところ、携帯電話やスマートフォン等の情報端末の活用が障害を持つ子どもたちの生活や学習支援に役立つことを目指した、東大先端研究所の中邑賢龍教授の「魔法のプロジェクト」について話してくれました。スマートフォンと身近なテクノロジーの組み合わせによって、視覚障害のある高校生が音によって金環日食の研究ができたという話に驚嘆し、身近で手軽な製品で子どもたちの世界が広がっていってほしいと思いました。そんな時にこの物語を読んだので、主人公が言葉とコミュニュケーションを獲得していく過程にとても感動しました。ただ、普通のクラスに行ったら、子どもたちに、機械を使うことを不公平だと言われたり、付き添いの大学生の補助職員がいることにもずるいと言われたりする場面が多いのには驚きました。メロディが、最後に、あげると言われたトロフィーの安っぽさに笑うところや、そんなものをもらったから喜んだと勘違いするクラスの子どもたちに、背を向けて出ていく場面は痛快でした。人や音楽に関するメロディ独特の感覚、レモンイエローが溶けたり、パープルが漂ったりする場面はとても美しいと思いました。もしかすると、古代の人や自分が子どものころ持っていた、オーラのように色彩を感じる感覚かもしれないなと思い、ゆったりと広がる色のイメージを楽しみました。

ルパン:いちばん泣いたところは、11年間1度も言葉を発することができなかったメロディが、初めて機械の力を借りて家族に話しかけるところ。第一声が「ありがとう。」そして「愛してる」。ほんとうに感動しました。それから、置き去りにされたあと、学校でみんなにその理由を聞きますよね。あの場面は緊張感にあふれていてよかったです。メロディの誇り高く負けない姿勢が伝わってくるようで。それから、音楽や感情を色で表すところもいいですね。「きれいなうす紫色を感じる」のように。意地悪な子たちがステレオタイプなのがちょっと気になりましたが、その分、愛情深い人たちがクローズアップされているので救いがあってよかったです。『ピーティ』(ベン・マイケルセン 千葉茂樹訳 鈴木出版)は最後まで誰にも理解されない悲しさがありましたが、メロディは言いたいことを伝えられるようになって、読んでいてうれしかったです。

マリンゴ:障碍の種類は違いますが、物語の展開が、現在放送されているドラマ『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス 小尾芙佐訳 早川書房)に近いと思いながら読んでいました。『アルジャーノン〜』では、主人公の障碍が“回復”した後で、周囲との関係が悪化していきます。この本も、そういう部分があるので。とはいえ、この本は児童文学だし、ハッピーエンドになるのだと思ってました。なので、後半のとんでもない展開にびっくり。現実は甘くない……でも、主人公が立ち向かう強さを持っていることが伝わってきます。力強い読後感でした。

レン:とてもおもしろかったです。声で表現できなかったのが、言葉を得る過程の心の変化がよく描かれていて。それに、よかったのはまわりの人々の揺れが詳しく描かれていること。両親はこの子を愛しているけど、時々疲れたり、理解できなかったり。ただ愛しているというところだけを描いていない。隣のヴァイオレットや、インクルージョンクラスの補助についた学生の存在はとても示唆的ですし、特別支援学級の先生も人によってさまざま。友だちになったローズの二面性も、私はそうだろうな思いました。前にここで読んだ岡田なおこさんの『なおこになる日』(小学館)を思いだしました。子どもに手渡したいと思いました。

レジーナ:それまで、自分の気持ちを伝える術を持てなかった主人公は、機械の力を借り、自分の声を見つけ、人との関わりの中で成長していきます。メロディの活躍によりクイズ大会で優勝するのかと思いきや、チームメイトから置き去りにされてしまいます。障碍のある主人公の物語の中には、寓話のようなハッピーエンドのものもありますが、この作品はそうではありません。リアリティがあり、一筋縄ではいかない人生の中でやっていく、という主人公の姿勢が明確で、ハッピーエンドではないけれど、結末に救いがあります。とてもおもしろく読みました。

イバラ:私はほかの子がわざと電話しないところに、大きな悪意を感じてしまいました。周囲の目を気にする、というんだけど、そこがよくわからなかった。ほかの子にとっては、これで物語が終わってしまっていいんでしょうか。

つばな:たしかに良い本だし、大勢の読者に読んでもらいたい作品ですけれど、正直いって少々退屈でした。心の中を延々と書いてあるところが長すぎるような感じがしましたし、クイズの問題と答えのところも。アメリカの読者には、おもしろいのかもしれませんが。それから、登場人物の周りの意地悪な子どもたちの描き方も、ちょっとステレオタイプじゃないかな。 私の乏しい経験からいうと、障碍のある友だちに接することで、周囲の子どもたちは確実に変わっていくと思うけれど……。

イバラ:周囲の人が、主人公をどう受け入れてどう変わっていくかは描かれていないんですね。作品の質としてどうなんでしょう? シリアスなテーマを扱う作品は、ただ楽しいだけの作品より質も高くないとなかなか読んでもらえないという現状があるような気がします。

レン:戯画的かもしれないけど、子どもはそういうのを見て、自分ならどうしようと考えるのでは?

イバラ:私は人生の一部を切り取って手渡すという覚悟が作家にも必要だと思うんです。こういう作品って、作家の人生観がもろに反映されるでしょ。

つばな:登場人物を描くのに力を入れたので、そこまで書けなかったのかも。それから、この主人公はとても頭のいい子だけれど、そうじゃない子もいるのになと、ちょっと思いました。

イバラ:乙武さんの本のときにも、みんながこうなれるわけじゃない、という反発はありましたね。

ルパン:メロディを置き去りにして、代わりにほかの子が出たから勝てなかったんですよね。みんなはそれがわかって後悔したんでしょうね。9位のトロフィーなんていらない、と言ったメロディは毅然としていてかっこよかったです。ただ、メロディ抜きでも優勝していたらどうなったんだろう、ということがちょっと気になりますが。

レン:コンクールに関しては、予選大会のときにメロディに注目が集まって、彼女にとってもそれが本意ではないのに、みなとの間がぎくしゃくしてしまう。そこは、そうだろうなと思います。

イバラ:先日『みんな言葉を持っていた〜障害の重い人たちの心の世界』(柴田保之 オクムラ書店)という本を教えてもらったのですが、気持ちを表に出したり伝えたりするのが無理で、思考がないんじゃないかとさえ思われていた重度の障碍の方たちでも、コミュニケーションの方法が見つかれば、気持ちを伝えることができるんだそうです。

レン:『みんなの学校』は大阪市内の大空小学校を1年にわたって撮ったドキュメンタリー映画ですが、あの学校にはいろんな子どもが通ってましたね。私の子どもの小学校にも車いすの子が通ってました。でも、担任の先生がその子だけに手をとられることができないので、お母さんがずっとつきっきりでした。

パピルス:登場人物の設定やストーリーが良い意味でも悪い意味でもシンプルでわかりやすく、さっと読めました。クライマックスで妹が交通事故に遭いますが、あそこは無くても良かった気がします。とってつけたようで、映画化でも狙ってるのかな?と勘ぐってしまいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


クララ先生、さようなら

つばな:とてもおもしろい本で、読んでよかったと思いました。なによりも、おとなも子どももいろんな人が出てきて、それぞれが生きること、死ぬことについての考えを述べているところがいい。知らない人のお葬式に出て、式のあとのコーヒーとケーキをちゃっかりごちそうになるおばあさんとか。こういう人、山本有三の『路傍の石』にも出てきますよね。最初は、涙なしでは読めない悲しい物語なのかなと、ちょっと警戒したんですが、どんどんおもしろくなりました。クララ先生にお棺を届けにいった子どもたちが、坂道で遊んでしまうところなんて、「ああ、子どもって!」と思ったり、「本当は、行きたくないから、先延ばしにしているのかも」と思ったり……。私がとてもいいなと思った箇所の一つです。それから、それこそ片足を棺桶に突っこんだようなおじいちゃんが、棺桶を作ることでまた生き返る。ひとりの死が、ひとりを生きかえらせるというところも、深い味わいのある作品だなと思いました。

マリンゴ:実は、クララ先生のパートナーであるマインダートさんに一番感情移入しました。亡くなる前の数時間を独占したい、という気持ちがとてもわかります。子どもが来てクララが喜んだ、という満足感と、自分が最後に言いたいことを言えなかった、という残念な気持ち、その二つを一生抱えていくんじゃないかと、物語が終わった先まで想像しました。わたしが今おとなだから、そう感じたわけで、小学生の頃に読んでいたら、まったく違う感想になっていたと思います。そういう意味でも、読みごたえのある作品でした。

ルパン:ずっと「死を前にした人にお棺をプレゼントしていいのか!?」と思いながら読み進め、最後の最後で泣きました。ご主人のマインダートさんの「きみの旅のためのものだよ」というせりふにすべて収斂された気がします。「たったひとつの人生」ということはよく言われますけど、「たったひとつの死」ということばはあまり聞かれないですよね。死は誰にでもやってくるけど、ひとりひとりにそれぞれの死があることを思い出させてくれる不思議な魅力の物語だと思います。ただ、すばらしいんだけど、子どもに手渡すのには勇気がいりますね。何歳くらいの子が対象なのでしょうか。どこまで理解できるだろうかと思うと安易に手渡すのがこわい気もします。私のなかではまだ結論が出ていません。

アンヌ:西原理恵子さんのテレビ番組(NHKBS「旅のチカラ」)で、ガーナで、とても派手で色々な形の棺桶を作るところを見たことがあるので、国によってはいろいろな棺桶があるのだろうと思っていましたが、オランダではまっ黒なのですね。主人公は自分が夢で黒い棺桶が嫌だと思ったのに、先生がそう言ったと思い込んで棺桶を作るという展開に、もう一つ納得がいかないところがありました。普通の人が棺桶をプレゼントするなんてと怒るのは理解できるし、作る楽しさやおじいさんのたくらみとかはおもしろかったのですが、納得できないところが後を引いて、わくわく読めませんでした。

イバラ:子どもが担任の先生の死をどうとらえて、それをどう乗り越えていくかを描いています。現実を子どもにも隠さず見せるという文化なんですね。日本の作家は棺桶をプレゼントするとは書けない。こういう作品は、違う価値観や世界観を日本の子どもに紹介するという意味があると思います。子どもが先生を大好きだったことも伝わってきます。主人公ユリウスのお母さんについても、単なる事なかれ主義ではなく、死から子どもを遠ざけようとする理由が書かれています。そういう意味で、キャラクターも平板じゃなくて立体的。いい作品だと思いました。

パピルス:おもしろく読みました。先生が「死」と向き合う中での言葉がジーンと響きました。でも、お母さんが子どもを亡くした気持ちに共感できず、途中話についていけませんでした。挿絵自体は良かったのですが、一面ところどころにすべて挿絵のページがあり、余計かなと思いました。

イバラ:私はこの本の挿絵はすばらしいと思います。シリアスな重い内容を、温かなやさしい挿絵がうまく中和している。

パピルス:先生が自分の病気を「モンスター」と表現してますけど、小学4年生くらいの子には病名を言ってもいいんじゃないかな?

レジーナ:クララ先生は、「奇跡が起きるなら、自分ではなく、病気の子どもに起きてほしい」と言い、子どもたちは水着になって授業を受けます。こんな先生だったら好かれるだろうな、と読者は思うし、子どもたちが先生のことをどれほど大切に思っているかが、しっかりと描かれています。だから棺桶をプレゼントするという突飛なアイディアも、読み手が納得できる形に収まってるんでしょう。子どもたちを見守るおじいちゃんも、存在感がありますね。あえてカモではなく、ハトにパンくずをやる場面をはじめ、偏屈だけど人間味あふれる人柄が伝わってきます。エレナは思いこみが激しく、人任せで、もう少し魅力的だったら良かったのですが……。思い出のつまったリンゴケーキを、ひとりで食べたくないと思うマインダートさんに、胸がいっぱいになりました。人の死という厳粛な場に生まれる、独特のおかしみが描かれた場面もあって。たとえば、死者がリスに生まれ変わったと信じて、葬儀でヤシの実を墓穴に入れるなんて、ユーモアがありますよね。作者はオランダ生まれですが、オランダは世界で初めて安楽死が法律で認められた国です。死を描いたユニークな本も早くから書かれていて、ドイツもその影響を受け、ヴォルフ・エァルブルッフの『死神さんとアヒルさん』(三浦美紀子訳 草土文化)のような作品も生まれました。先日、ニューヨークで行われた、児童書の翻訳に関するパネルセッションの記事を読んだんですけど、この絵本は、米国で出版された当初は戸惑う人が多くいたものの、結果的に大きな成功を収めたそうです。死については、おとなも子どもと同じくらい知らないので、この作品のように、子どもが受け止める力を過小評価せず、子どもと一緒に考えていくような本がさらに増えればいいですね。

レン:とても興味深く読みました。日本だとなかなか書かれない作品だろうとまず思いました。暗いこと、ネガティブなことは避けられがちだから。でも、生があるところには死があります。うちの子どもが通っていた中学校でも、3年間の間に二人の先生ががんで亡くなりました。お通夜に行くだけでも年頃の子どもたちは考えるところがあるけど、こういうお話を通して死について考えるのは大事ですね。この作品では、おじいちゃんがおもしろいですね。だんだん元気になってきて。

つばな:子どもは死から遠いところにいると、ついつい思ってしまいますけれど、子どもも大人と同じように死や、つらい現実に直面しているんじゃないかしら。長谷川集平さんだったかな、子どもと大人は同じ現実に立ち向かっている同志だといっていましたが、そういう姿勢をこの作品にも感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


きみは知らないほうがいい

アンヌ:いじめにあっている人を書く意味は何なのだろうと思いながら読みました。この物語のテーマは、「学校、そんなにえらいのか」に尽きるのかな、なんて思いました。

ルパン:これのテーマは「学校、えらいのか」ではないと思うんですよね。そうではなくて、どうしようもない、どこへも持っていかれない子どものつらさ、悩み、そういったものに寄り添う本だと思うんです。学校に行きたいのに行かれない、しかも暴力にあっているわけでも悪口を言われてばかりいるわけでもない。目に見える被害がないから、自分でも「これはいじめじゃないんだ。わたしはいじめられているわけじゃないんだ」って自分に言い聞かせながら、それでも学校に行こうと思うと具合が悪くなってしまう。おとなにも相談できない。自分でも解決できない。先生がかかわると逆効果になる。そんな八方ふさがりの子どもの状態がリアルに描かれていると思います。私は、この本は、こういう目にあっている子にもあっていない子にも、すべての子どもに手渡せる物語だと思います。だれもが「自分に関係ないこと」とは思わない。ほんの少しであっても、共感できる部分があると思うんです。一瞬たりともこういう思いをしたことがない、という子はいないと思うから。でも、ただ堂々巡りをしているだけではなくて。ホームレスのクニさんに憧れているようなことを言いながら、実はクニさんは社会から解放された自由人なのではなく単に社会から「逃げている」のだということに、主人公たちは気がついています。だから、この子たちは今つらくても、きっと前向きに生きていくんだろう、という希望がもてます。あと、タイトルがいいですね。『きみは知らないほうがいい』。どんなお話なんだろう、と興味をひかれます。

マリンゴ:本当に学校へ行きたくない子どもの心に寄り添う物語だと思います。私のまわりにも、周囲のおとなから見て大きな理由がないのに、登校しない子どもがいます。じゃあ、小さな理由はあるのか? そもそも「大きい理由」「小さい理由」ってだれが決めるのか……。その子自身、登校しない理由をはっきりと言葉にできないのかもしれない。この本は、そういう子が読んで、「私の気持ちをわかってもらえている」と思える物語かも。あと、個人的には、調子が良くて明るい叔父さんのキャラが好き。無責任なようでいて、いい味を出していました。ただ、夜中に来た子どもをちゃんと家に送って行ったほうがいいとは思いますが(笑)。

つばな:岩瀬さんの作品はどれも好きだけれど、これは大傑作だと思います。主人公のふたりだけじゃなく、おばあちゃん、お母さん、ホームレスのクニさん等々、ひとりひとりの人物を実に生き生きと、しっかり描いている。児童文学に限らず文学の価値って、大事なテーマを投げかけているとか、いいこと言っているとかそういうことじゃなくって、人間をしっかり描けているかどうかだと、あらためて思いました。だからこそ、昼間くんが最初に「きみは知らないほうがいい」といった意味が、最後に心にストンと落ちました。

レン:びっくりしました。今日取り上げたなかでは、これがいちばん印象深かったです。私自身何度も転校したりで、義務教育の9年間はずっとアウェー感の中で苦しんだ経験があります。いじめてくるクラスメートに対して、こんなことをして何が楽しいんだろうって思って、なんとか学校に通っていた。「xxちゃんが言ってたよ」ということからいじめが始まる感じがすごくリアルです。携帯電話やメールで、学校外の時間にも陰口が進行している今の子どもの息苦しさも描かれているし。お母さんも絶妙です。見ていなさそうでいて、おいしいものを作ったりしてくれる。味方だよと口にしなくても、孤立しているときにふっと同感だというのを示してくれる柳本さんのような存在って、いじめられている子には大きな救いなんですよね。白黒じゃなくこういうふうに書いているのがすごいです。おじさんとか、周りの大人もそれぞれの顔を持っているし。

レジーナ:問題に正面から向き合い、主人公の気持ちをていねいにすくい取った、力のある作品です。以前、「大人がわかったように書いていないのがいい」と書かれた書評を読みましたが、同感で、簡単に結論を出すのではなく、一貫して子どもの視点で、気持ちの揺れをそのまま描いていて、すばらしい作品だと思いました。ホームレスの人と交流する話では、中沢晶子さんの『ジグソーステーション』(汐文社)を思い出しますが、この本は、主人公の問題に焦点を当てています。学校という閉塞した空間で、みんなから外れてはいけないという圧力は、以前は森絵都さんの作品のように、中学生以上を主人公に描かれてました。でも今は、この本にもあるように、小学生から携帯電話も持ってるし、人間関係が複雑化してて、そうした集団の圧力は、小学校中学年ぐらいから感じるんでしょう。ついにここまで来たか、と思います。日本の子どもが抱えている、こうした問題は、海外の子どもにはピンとこないかもしれませんね。それでも、ぜひ多くの国の子どもに読んでほしい本です。「みんなと仲良く」と学校で言われるかぎり、いじめはなくならないでしょう。大人だって、全員と仲良くなんてできませんよね。苦手な人とも、少し離れれば、同じ集団の中でもやっていけるんだから、学校は、社会で生きていく上で、人との適切な距離の取り方を学ぶ場になればいいんじゃないでしょうか。

レン:小学生は逃げ場がないんですよね。中学生よりもさらに。

イバラ:一貫して子どもの視点で、書いてますよね。いじめの解決策が書かれてるわけじゃないけど、いじめられている子がどう感じているかがリアルに描かれてるし、二人が自分なりの乗り越え方を見つけようとしてるのも伝わってくる。

アンヌ:実際には、どういう子がこういう本を読むんでしょうか?

レン:いじめのあるなしにかかわらず、小学校の教室の生きにくさはだれもが何となく感じてると思うので、だれでも読んだら共感する部分があるのでは?

パピルス:傑作だと思いました。学校の何とも言えない空気感が非常によく伝わってきました。これは自分が日本の学校を経験したから伝わるんでしょうか。翻訳で出たら海外の人は理解できるのでしょうか。昼間君はホームレスのクニさんに近づいて行きますが、その理由は、クニさんは「社会から外れた人」で、昼間君は「小学生としての社会から外れた人」というように感じていたからだと思いました。仲間外れにされていても、それを認めたくないという気持ちもあると思います。でも、昼間君はそのことを認めて、さらにクニさんを通して客観的に自分を考えようとしていたのではないかと思いました。

イバラ:私もとてもおもしろく読みました。ステレオタイプじゃなく、ひとりずつをリアルに描いてるのがいい。心の中の描き方もうまいですね。たとえばp172では「どの言葉にも嘘がまじっている。言葉は、レストランの前に飾ってある本物そっくりの合成樹脂のハンバーグステーキやオニオングラタンや焼きそばみたいだ」というふうに違和感を表現してます。おばあちゃんも立体的に描かれてて、さすがです。

レン:子どもたちを自分のところに引きこんではいけないと思って、離れたのかもしれませんよね。作者が、本当に子どもに向けて書いた本だなと思います。子どもや中高校生が主人公でも、彼らに読ませようというのではなく、著者が自分の思いの丈をぶちまけただけの本もあるけれど、これは今の子に手渡したい本です。これで救われる子はたくさんいると思います。子どもの頃の自分に、読ませてやりたいくらい。

アンヌ:子どもの心に寄り添うリアリティがあるということでしょうか。

イバラ:さまざまな人間を紋切り型やいい加減に描くんじゃなくて、それぞれが生きているそのままを個性的にしかもリアルに描ける作家って、そうはいないと思います。いい加減なものや、それらしいまがいものでは、子どもの心の中までは届かない。自己満足的に寄り添ったつもりのおとなも多いけど、この作家は本物を見せようとしてるんだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年5月の記録)


アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー

レジーナ:昨年スコット・オデール賞をとった時から、興味があった本です。エスキモーや鉱夫という、文化的背景の異なる多様な人々との交流が、幼い少女の目を通していきいきと描かれています。さびれた金鉱の町での、心の浮き立つような日々の喜びが伝わってきました。温かな挿絵は文章によく合っていて、とても魅力的です。読者になるのは、小学校中学年から高学年の子どもでしょうか。主人公が幼いので、年長の子どもは共感しづらいかもしれません。大人が読み聞かせてあげれば、年少の子どもも楽しんで聞けると思うので、手渡す側に工夫が必要だと思いました。気温が上がると雪が降ることや、エスキモーの人が足を伸ばして座る様子など、知らないことも多くありました。以前、調べたところ、作者はアラスカ出身で、多くの本の中で、アラスカが誤って捉えられていることに不満をおぼえ、創作を始めたそうです。そう考えると、日本語版のタイトルにはアラスカという地名が入っているのが、いいですね。アービッドとジャックは同性愛者ではないかと考える読者もいたようですが、作者にそうした考えはなかったようです。ジャックの口調で「おいら」となっているのが、気になりました。ひと昔前のテレビや映画の字幕は、黒人の口調が白人に比べると荒っぽく訳されることがありましたが……。p250で、ウナクセラクがナクチルークの夫だと分かりますが、ウナクセラクの名前は、もっと前の箇所にも出てきているので、この説明がもっと早くにあれば、わかりやすいのではないでしょうか。p215で、「冬にぬれた服を着るほど最悪なことはないと、ボーはジャックとアービッドに教わっていました」とありますが、ジャックとアービッドから聞いて、ボーはちゃんと知っていたということなので、もう少しわかりやすい表現の方がいいように思いました。p31で、赤ん坊のボーが「顔の片っぽでにこっとした」とありますが、どのように笑ったのでしょう。それから、p253の「この人がだれかっていうのを調べるのが、こんなにたいへんだとは思わなかったよ」で、「この子」ではなく「この人」となっているので、これは父親について言っているのでしょうか?

アンヌ:この人というのは、男の子のお父さんのことじゃないですか?

ルパン:「よしきた」っていうくらい好きな作品です。最近使われなくなった「エスキモー」という言葉が出てくるのも、なつかしい気もちで読みました。小さいときに、そういう人たちがいるんだと思った、と思いをはせた言葉です。童心に帰って読みました。うちの文庫の子たちも、5、6年生なら読むと思います。地域の人たちがみんなでボーをのびのび育てているところがたまらなくいいですね。ラストシーン、みんなが別れてそれぞれに旅立つシーンでは、感情移入しすぎて、泣きたくなるほど寂しく思いました。

アンヌ:物語の中に食べ物が出てくるのが好きなので、このエスキモーのアイスクリームについて、早速ネットで調べたりしました。でも、物語の中でこの食べ物についての説明はあるのですが、実際に作ったり食べたりする場面はないので、注があってもいいのではと思いました。アメリア・イアハートの写真や初めて飛行機がやってきたとあるので、日本では昭和初期に当たる時期だな、と大人にはわかってくるのですが、子供の読者のためには、やはり注があってもいいと思いました。エピソードが盛りだくさんで、各章は濃いけれど、物語性において、何か物足りない気もしました。特に最後は、とてもあっさりと移住の話になるので。ここは、第2巻に続く期待を持たせる感じなのでしょうか。弟になる少年が喋らないのは、お父さんの耳が聞こえなかったからだけではなく、先住民だからその沈黙で民族性を表しているのかなと思いました。登場人物が大勢いるので、エスキモーの名前なのか、鉱夫の名前なのか、よくわからなくなって、混乱しました。

きゃべつ:いちばんかわいそうなのは、犬のドッグ。そのまますぎて。

ヤマネ:じっくり味わいながら読める作品でしたが、いまいちお話の世界に没頭できず、夢中では読めませんでした。見返しのあらすじのところに、ポーにちょっと変わった方法で弟ができるとあったので、それはいつ出てくるのだろうと思ったらかなり後ろの方でしたね。でもその弟になる小さな男の子が出てくるところから、先が気になってぐっとおもしろくなっていきました。アービッドとジャックがとてもいい大人で、愛情深くボーを育てている様子が良いですね。ボーがお母さんを恋しがる場面が全くないのが不思議だと思いましたが、地域全体で育てているから、寂しさを感じないのでしょうか。全体としてほのぼの温かい雰囲気に包まれていて、ボーがクマに襲われるところも、あまりハラハラせずに読めました。そうそう悪いことは起こらないだろうと思わせるような幸福感に包まれたお話なんですね。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。テイストは、ローラ・インガルス・ワイルダーですね。でも、こっちはお父さんが二人。しかも一人のお父さんはノルウェーからやって来た人で裁縫がじょうず、もう一人のお父さんはアフリカ系で料理がじょうずというのがいいですね。それだけでなく、村には多様な背景や文化をもつ人たちが一緒に暮らしていて、助け合っている。生みの母に捨てられて二人のお父さんに引き取られたボーのことも、エスキモーをはじめとするみんなが助けてくれるんですよね。そのあたりはインガルス・ワイルダーと違って、新しい家族が描かれているし、先住民への尊敬もあっていいですね。私は暮らしをていねいに描いたこういう作品は大好きですが、若い人のなかには、ヤマネさんのように、事件が起こらないからつまらないという感想をもつ人がいるのもわかります。気になったのは、ボーが5歳なのに5歳とは思えない言葉遣いをあちこちでしていたりするところ。p48などは、もしおしゃまだから言っているのであれば、もう少し訳し方に工夫があればいいな、と思いました。絵がその風土ならではのことを伝えながら日本の子どもにもじゅうぶん受け入れられるので、とてもすてきです。書名はちょっと地味で、手にとってもらえるかな?

花子:(編集担当者):1920年代の話ですが、新しい地域社会、家族像が描かれていると思います。二人の父さんたちが娼婦の生み捨てた子どもを拾い、社会全体で育てています。国も言葉も違う人たちが、物のない時代に、円滑なコミュニケーションを取り社会を形成しているんですね。原書は子どもの書いたような短い文が続く厚い本だったので、挿絵を小さくしたり、改行を工夫したりしたものの、はやりボリュームが大きくなってしまいました。長いので対象を5、6年生以上としたんですけど、主人公は5歳で、現地のエスキモーと鉱夫の間で通訳のようなことをやったり、ラブソングも分からないなりに理解したところで話したりしています。小さな子にも読んでほしい本ですね。「エスキモー」という表記については、2巻目に著者が注釈を入れているので、それを本書に使用させてもらいました。自らを「エスキモー」と呼ぶ人たちがいる、とのことなので。文中のできごとはリアリティがあり、地名もバラードクリーク以外は、実在します。少し変わった感じの、温かいストーリーだと思います。

ルパン:読み終わったときには、ぴったりくるタイトルだと思いましたが、子どもは手にとりづらいかもしれませんね…。

きゃべつ:日本のいまの児童書にはない、ゆったりとした時間が流れています。もしかしたら、日本の児童書は、なにか盛り上がりがなければならないと、物語に起伏を求めすぎなのかも知れません。オラフの家に行く、というとても小さなできごとに、3章も使ってます。大人が読んだら、まどろっこしいところもあるかもしれませんが、子どものときの世界観って、これくらいの大きさだったよなあと懐かしくもなります。鉱山が閉まって、みんなが失業するシーンも、あまり暗くならないよう引き算されていて、好印象でした。名前の出し方は、翻訳物でなじみにくい名前ばかりが出てきて、登場人物も少なくない、というときには難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


ラ・プッツン・エル〜6階の引きこもり姫

レン:自分からは手にとりそうにない本だったので、今回読めてよかったです。ただ、この子自身が否定しているからでしょうけれど、いきなり状況だけ語られて、主人公にしてもレオくんにしても、家族との関係性が見えてこず、入っていけませんでした。事実の積み重ねより、だれかの説明で理由が語られてしまうことが多くて、はぐらかされた気分になって。現実感に乏しい感じがしましたが、登場人物と同年代の読者は主人公によりそって読めるのか疑問に思いました。私が苦手なだけかもしれませんが。

レジーナ: 主人公は、おとぎ話の主人公になりきり、自分の世界に閉じこもってしまう中二病です。きっと現実もそうなのでしょうが、主人公の暴力性の原因は、はっきりとはわかりません。自分でもどうしていいかわからない、モヤモヤとした中学生の気持ちを表そうとした作品ですが、火事の場面はご都合主義ですし、ほかにも矛盾を感じる箇所が多くありました。「自分の耳に聞こえるものだけを信じる」と言いながら、音楽プレイヤーを破壊していますが、音楽も「耳に聞こえるもの」ではないですか? 音楽を含め、現実逃避になるようなものは排除するということでしょうか。リモコンも壊していますが、主電源を入れれば、テレビは使えますよね? 母親が作ったお惣菜の味に、ずっと気づかないのも不自然です。心に問題を抱えた人の中には、自分のストーリーを作り上げる人もいますが、この作品も、人の心の中の、道理や理屈の通じない世界に分け入っていくようで、読むのに体力を使いました。p198に「よろめいたとたん、隣の601号室の窓を破ったのかその振動で、棚が倒れてきた。」とありますが、何が窓を破ったのでしょうか? 人がよろけた衝撃で、窓が破れるわけはないですし。もう少し、文章を練ってほしかったです。

きゃべつ:この本は、私が関わった賞の最終選考にも残りました。この本の閉塞感は、中高生読者にとってリアルなのではないかと思います。世界から疎外感を覚えて、自分だけが違う(特別な)存在と思いこんでしまうところなどが。でも、魔王が実際に何をしたのか、どうしてこうなったのか、もう少し説明が必要なのでは? p15に、妻は実の母親だと書いてあるけれど、その後で、弟を「妻の息子」と書いているので、後妻なのかと疑ってしまいました。リーダビリティはあるけれど、瑕疵もまた多い作品だと思います。最後のシーンで、レオが消防服を着て助けにいくのは、すごく不自然。そして、あれほどまでに家族を憎んでいた姫が、母親がずっと自分を気遣ってくれていたことに気づいた瞬間に、悔い改めるなんて単純、と思ってしまいました。

レン:グリムのラプンツェルのお話が、最初にもう少し説明されているといいですよね。

ルパン:こういう魔王みたいなタイプの変な人って、実際いるんですよね。そういう人が家族を持つとどうなるか……身近な実例と重ねて読んでしまいました。娘に「魔王」と呼ばれるこの父親が、一番、キャラが立っている気がします。

アンヌ:お父さんから、かなりの虐待を受けていると感じました。内側から、窓もドアも空けられない仕組みはひどいと思いました。お母さんが、鍵を架け替えたのに、ドアが開けられるようにしておかなかったのは、不自然な気がします。

ハリネズミ:お父さんは遠いアメリカにいるのに、お母さんは助けてあげないんですよね。

アンヌ:お母さんが作った料理だということに気づかなかったのは、最初のうちは寝てばかりで、あまり食べていなかったり、興奮状態でいたりしたからだろうと思ってあまり矛盾を感じませんでした。これに対して、少年が、他人に対して自分を開いて行く過程が、もう一つ釈然とはしませんでした。特に、火事現場では、運動もしていない体力のなさそうな少年が、棚をどけたり、姫を抱き上げたりするのは、あまりにリアリティがなさすぎると思いました。例えば、いつも隠していた左手で抱き上げるのはいいけれど、同時にその左手で姫とハイタッチするというのは、いくらなんでも無理だろうと思います。駐車場の少年をいじめる同級生に6階のお風呂場から水をかける場面も、いったいどんなホースなら水が届くのだろうと不思議に思いました。

レン:なぜホースが家にあるのかも不思議。

ヤマネ:名木田恵子さんといえば、講談社青い鳥文庫で出ている『天使のはしご』や『星のかけら』などが、小学校高学年の子どもたちによく読まれていて人気の作家という印象がありました。ただ『星のかけら』のあらすじを読むと、事件の連続でストーリーが激しい印象があったので、こちらの作品はどうなのかな?と思い読み始めたんでっす。思っていたよりもずっとおもしろく読めました。皆さんの指摘にもあるように破綻しているところもありますが、エンタメと思えばそれほど気になりません。おとぎ話のラプンツェルをモチーフにしていることもあり、主人公が登場人物を「魔王」「魔王の妻」「カラス男爵」など物語に出てくるような呼び名で呼んでいたところもおもしろかった。p20で、主人公が心理カウンセラーの肥満椙世さんに「告白していないことがある」とあり、それが何なのかずっと気になって読んだのですが、結局最後まで分からなかった。主人公がひきこもった決定的な原因があるのだろうと思っていたんですが、最後までそれが分からないままだったのが残念です。母親が、閉じられたマンションの部屋に、双眼鏡やお気に入りのティーカップを置いていったのは、娘に対する愛情ではないかと思いました。客観的におもしろく読む子もいるだろうし、何かを抱えている子にとっては、共感する部分があったり、何か救いになる部分があるのでは?と感じました。

アンヌ:全体に話がするするとほどけていかない感触でした。

ハリネズミ:私は、潔癖症の男の子にはリアリティを感じたんですけど、姫のほうは、どうなんだろうと疑問でした。父親が暴力をふるっていたためにこの子がおかしくなってしまったという設定だと思いますが、この子の独白には異常なところはほとんどないんですね。だから、父親が不在になった今は、すぐに立ち直れるんじゃないかと思ったんです。それに、長いホースでジャクを助けたり、自分でつくったロープでカラス男爵たちとも服やタオルを渡したり返してもらったりして、それなりのコミュニケーションを取れるようになってるわけですから、かなり立ち直ってるのに、メールができないという設定も不自然に思えます。
 実のお母さんが食べ物を持ってきたりしているのに、相変わらず窓もあかない、ドアも内側からあかないままなのも、不自然に感じました。それと、ホームレスのカラス男爵が姫からいい服をもらって単純に感謝しているように書いているのは、作者の人生観・世界観が浅いせいかな、と思いました。最後も安っぽいメロドラマみたいで、いただけない。作者には困難を抱えている子に寄りそおうという意図はあるのでしょうが、こんな物語では、救われないと思います。外側から猫なで声で何か言われている薄気味悪ささえ感じてしまいました。

花子:作品全体のパワーを感じました。ゲームのようなシチュエーションから始まって、ぐいぐい引き込まれます。中二病の気持ちで読んでいくと、おもしろいです。他人との関わり方もゲームみたい。だけど、お金持ちで何でも与えられ何でも可能なのが、非現実すぎて気に入りませんでした。作品の賛否はありますが、実際似たような状況で少女が友達を殺してしまう事件もありました。レオくんの成長譚も良いと思いましたが、火事は必要だったのか疑問が残ります

ハリネズミ:父親のDVについては、ノルウェーの絵本も翻訳されていますね。『パパと怒り鬼』(グロー・ダーレ文 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり・青木順子共訳 ひさかたチャイルド)という絵本ですが、ほかの家族が父親に脅える気持ちがよく出ています。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


はじまりのとき

きゃべつ:こんな重い内容の本とは思いませんでした。ほかの国で起きた戦争の伝えかたとして、こういう方法があるのかと興味深く読みました。基本的には、女の子の視点で身近なことだけを書いているので、読んでいると、その環境に身をひたした気持ちになります。食べ物や学校生活もきちんと描かれているし。細かいことですが、マージンの取り方が気になりました。横書きでもいいけど、やっぱり少し読みにくい。内容は新鮮でした。英語がわからないので馬鹿だと思われるというところとか、マイノリティーとして異文化に入りこんだときのギャップがうまく描かれていますね。ただ、文化を知らないために、読み解くことができないところも多かった。

ハリネズミ:散文詩ですべて説明されているわけではないので、わからないところもありますが、難民としてやって来た人が自分の言葉で語っているのがいいと思います。アメリカっていろんな立場の人がいて、ALA(アメリカ図書館協会)はマイノリティの人たちの文学もちゃんと認めて賞をあげて、普及させようとしているのがいいですね。白人でもいろいろな人がいて、ミセス・ワシントンや「カウボーイ」のようなまるごと善意の人もいれば、「カウボーイ」の妻のように途中までは白い眼で見ている人もいる。それも、ちゃんと書かれています。ただアメリカで出ている作品は、アメリカを悪く書かないですね。ベトナム戦争では、アメリカは枯れ葉剤をまいたり市民を大量に殺す北爆をしたりと、さんざんひどいことをしているし、南ベトナムのゴ・ジンジェムの政権は腐敗していてどうしようもなかったわけだけど、この本ではホー・チミンが悪者になっている。南ベトナムから逃げてきた難民の子どもの視点だから、どうしてもそうなるのかもしれませんね。

きゃべつ:助けてくれるのは、アメリカの船ですからね。

ハリネズミ:主人公の父親は、その腐敗政権で要職にあった人なんですよね。

ヤマネ:すずき出版の「海外児童文学」シリーズは、海外の子どもたちの姿を描いた重いテーマの内容が多いのですが、この本はまず表紙が美しくて、重い印象がありませんでした。ただやはり内容は、戦火のベトナムを逃れて難民としてアメリカにわたった家族のお話なので重いんですけど、横書きの日記風になっているので、それほど重く感じないで読めました。マララさんの手記(『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』道傳愛子訳 岩崎書店)でも感じましたが、ひとりの女の子として考えていることや悩みや喜びは変わらないということが伝わり、遠く離れた場所にいる主人公を身近に感じられるように思いました。またたとえば、自分の悲しい気持ち(涙)を、パパイヤの種が落ちる様子で表現しているところなど、文章が詩的で美しいですね。近年、こうした横書きの本が増えているように感じます。メールも横書きだから、今の子どもたちは横書きの方が読みやすいところがあるんでしょうか。

きゃべつ:ケータイ小説は横書きだったけど。

アンヌ:最初は、横書きのブログのような日記という感覚でスラスラ読めると思っていたのですが、ふとこれは詩なのではと気づいて、じっくり読み込んで、その美しさを味わって行きました。ベトナムについては、同じサイゴン陥落時を描いた『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一著 文藝春秋社)しか知らなかったのですが、その中でベトナム人の特性として植物との強い親近性が描かれていて、印象に残っていました。この本にも植物の種が贈り物として描かれている場面があって、ああ、やはりと思いました。アラバマでのいじめの場面は、読んでいてつらく感じました。それと、この子が熟れていパパイヤを捨てた場面には驚きました。

ハリネズミ:私は、このパパイヤは象徴的な意味あいも持っていると思います。故郷を恋しがるようにその味を夢見ていたのに、もらったのが本物の味とはほど遠い乾燥パパイヤだとしたら、捨てる気持ちはよくわかります。でも、くれた人の善意を否定しているわけではないので、あとで拾おうとするんですよね。

アンヌ:主人公はかなり感性が研ぎすまれた少女で、勝ち気です。食べ物への感じ方も違うんでしょう。少年にいじめられると分かっていても、自分がわかっている答えを書いてしまうところとか、自分への矜持を持った少女だと思いました。3人の子どもたちをエンジニアと医者と詩人と護士にしたがっているお母さんは娘が弁護士に向いているなと思っているのに、詩人になるだろうなという予感で終わっていく章が、とてもいい感じでした。

ルパン:私もいいなと思って読みました。横書きだったので、手に取りづらい感じがしましたが、読み始めたら一気に読んでしまいました。難民の子どもである主人公が、プライドを忘れないところが気に入りました。物質文明のアメリカに来て、素直に喜べばいいところでも、食べ慣れていたものと違う、と思う箇所や、お祈りの場面や、ベトナムのものを大事にしていて、それを自分の感覚として持っているところに、好感が持てました。

レジーナ:3年前に全米図書賞をとった時、英語の試し読みで数ページ読んだことがあり、今回一冊通して日本語で読みました。詩は、実感として受け止められないと理解するのが難しいですが、この本は散文詩の形で自然に書かれていて、すらすら読めました。横書きなのが気になりましたが、日記だと思えばいいのかもしれません。アメリカで生のパパイヤが食べられないのは、この本の時代が数十年前で、輸送事情が今とは違うからですね。主人公は、ベトナムにいた時に隣の席の子をいじめたり、アメリカに来て悔しい思いをしながらも、いじめっ子に立ち向かっていったりする少女です。芯が強く、勝気なんですね。この本では、本人の努力と家族の理解があり、また息子をベトナム人に殺されても、主人公の家族に温かく接するミスェスゥ・ワシィントン、お金をもらってはいるけれど、お金だけのためだけではなく細々と世話をやいてくれるカウボーイなど、周囲に支えてくれる人がいて、主人公はアメリカの社会に溶け込み、作家として成功できましたが、これは非常に幸運なケースです。実際にはヨーロッパでも、言葉でつまずいた移民の人が学校をドロップアウトし、仕事に就けず、貧困の中でISに行ってしまう。一方でそういう人々がたくさんいることを、心に留めながら読みました。p166で、自転車のバーに座るというのは、自転車のハンドルとサドルの間ということでしょうか。

レン:おもしろかったけれど、散文でたたみかけるように事実を説明することがないので詳しいことがわかりません。子どもが読んで、なんのことかわかるのかなと思いました。右も左もわからない場所に放りこまれて、言葉ができないために馬鹿な子と思われたり、習慣の違いからからかわれたりする悔しさなど、イメージは伝わってきますが。かなり読者を選ぶ本だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


太陽の草原を駈けぬけて

ハイジ:途中で終わっちゃった感じがしちゃって、えっ?て思いました。けっこう長く読んで来たのに、ここでいきなり終わるのか、って。あとがきを読まなかったらよくわからないところでした。あとがきにイスラエルのことが書いてありましたが、イスラエルではどうだったのかな、と思いました。あと、お父さんが死んだところをはっきり書いてもらいたかったです。戦争で殺されたのではないらしいのだけど、なぜ死んだのかよくわかりませんでした。

アンヌ:読み始める前には、悲惨な難民生活の物語だろうと思っていたのですが、バラライカの音が聞こえてくるような生き生きとした物語でした。特に、お母さんが魅力的で、子どもたちを守って食料を手に入れたりして生き抜くための手段が、音楽だったり、タロットカードの占いや薬草の薬づくりだったりして、魔女のようなところがおもしろかった。子どもたちも遊びながら働いていて、牛糞を拾ってきて乾かし壁上に積み上げて燃料にする。それだけではなく、そこへカッコウが巣を作り、そのヒナを手に入れて食料にする。思いがけない生活があって、とてもおもしろかった。ただし、お父さんという人については、いろいろわかりづらかったと思います。その頃のスターリン信望者の人たちのこととか、粛清とか、歴史的背景がないとわからないことが多いと思います。全体の印象としては、ゆっくり丁寧に書いてあるという気がするので、惜しいなと思いました。

アカシア:楽器が弾ける人とか、絵が描ける人は、どこへでも行って生活できそうですよね。

ルパン:歴史をよく知らないと、理解が難しいなと思いました。子どもたちは理解できるんでしょうか? お父さんはスターリンに心酔していて、お母さんは批判的なのですが、根拠がよくわからずどちらにも共感しにくかったです。でも、お母さんはなかなか魅力的ですね。私はタロット占いをしてもらって、気味悪いくらい当たったことがあるので、そのあたりは不思議なリアリティを感じました。

アカシア:私はフィクションっぽくないなあ、と思って読みました。フィクションならもっとメリハリをつけてもいいし、起伏を大きくしてもいいのに、それをしていない。ノンフィクションみたいな書き方ですよね。ところでお父さんもユダヤ人なんでしたっけ?

アンヌ:お父さんはポーランド人じゃないかと思います。p31の結婚の物語のところで、お祖父さんが土地持ちの資産家とあったので、ユダヤ人ではないと思いました。

アカシア:なるほど。この家族はポーランドから中央アジアに行くんですけど、そういえばシュルヴィッツの『おとうさんのちず』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)でも、確かユダヤ人の作者はポーランドから逃れて中央アジアで極貧の暮らしをするんでしたね。私はそっちも見ていたので、ああそうかと納得しましたが、そうでないと、どうしてそんなに遠くまで行くのかと不思議に思ったかもしれません。お父さんの死については、もう少し説明があってもよかったかな。スターリンの粛正ということを知っていれば想像はつきますが、知らないとここもよくわからないかも。あとね、後書きを読んで気になったのですが、ひとりでに紛争が起こっているわけではなくて、イスラエルが起こしているんですから、このような書き方でいいのかと疑問を持ちました。いちばんよかったのは、主人公の男の子が時には危険な目にあいながらも子どもらしく成長していく様子が、生き生きと描かれている点ですね。

ヤマネ:時間がなくてちょっと急ぎめで読んでしまったのですけど、急いで読める内容ではなかったのでもっと時間をとるべきだったと反省です。歴史や国のことなど知らないことがたくさん出てきたので引っ掛かるところも多くありましたが、冒頭に舞台が分かる地図があったので理解の助けになりました。一家は大変な状況に置かれているけれど、終始明るく描かれているのが良いなと思いました。主人公の男の子は、母親に外に出るなと言われても勝手に出て行ってしまったり、好奇心が旺盛で、とても子どもらしいと思いました。男の子が約束を破って外に出てしまったり他の人と関わってしまっても、食べ物を持ち帰ると家族が全く怒らず、喜ぶ場面に、食べるものに本当に困っていた暮らしぶりがうかがえました。牛糞のトルテやペチカがどんな感じなのかがなかなか想像できなくて気になりました。子どもたちに手渡すときには、子どもたちが読んで分からなかったところを大人がちゃんと答えられるよう勉強しなければいけないなあと思いました。

アカシア:ここに出てくるペチカは、ただの暖炉じゃなくて、オンドルみたいに上で寝られるようになってるんですね。

ルパン:私はまるっこい家を想像したのですが…それだと「中庭」がわかりにくいですね。挿絵があったらよかったのに。ペチカとかも。

レジーナ:日本語版で省略されている部分は、ドイツ語版で読みました。ドイツ語版は本文が280ページありますが、そのうちのp220以降は日本語版にはありません。主人公はイスラエルに行って、敬虔なユダヤ教徒をはじめて目にしたり、中東の食文化に馴染みがないのでオリーブの実を好きになれなかったり、冬にオレンジの実がなるのに驚いたり、様々な新しい経験をします。周りの人が、主人公は収容所から生還してキブツに来たと思う箇所や、スターリンや戦争に対して、キブツの養父母が異なる意見を持っているところからは、同じユダヤ人でも、人によって背景や政治的見解は随分違っていて、ひとくくりにできないことがよくわかりました。庭の手入れや動物の世話など、大人も子どもも役割を担い、何でも自分で作るキブツの生活や、村や家の描写も興味深く読みました。1947年のパレスチナ分割決議のニュースをラジオで聞いた人々は、喜びにわきますが、すぐに次の戦争が始まります。イスラエルに着いてハッピーエンドになるのではなく、それがまた新たな紛争の歴史へと続いていく。そういう想いが作者にあって、生まれた物語だと感じました。そう考えると、最後の部分は日本語版でもやはり必要ではないかと……。なぜ日本語版では削られたのか、みなさんのご意見をうかがいたく、今回みんなで読む本に選びました。それまで都会に住んでいたのに、文化も風習もまったく違う地にやって来て4人の子どもを育てるお母さんは、たくましいですね。バラライカを弾き、占いや薬草療法で稼ぎ、テルアビブではすっかり都会的な服装になります。家に押し入ろうとするブタの鳴き声で目覚めたり、言葉が通じない中で友情を育んでいったり、難民としての生活にも喜びや楽しみがあって、そうしたすべてを経験しながら成長していく姿に、子どものしなやかな力を感じました。普通の暮らしの尊さが丁寧に描かれているので、政治や戦争でそれが壊され、家や生活を失った時の痛みがひしひしと伝わってきますね。

レン:おもしろく読んだけど、物語として起承転結がないからか、最後を省略してあるからか、読後の満足感が今ひとつ。でも、一つ一つの描写は手触りがあって、どれも生き生きとして楽しめました。実感がある。主人公の少年が母親との約束を守れず、親の見ていないところで冒険をしたり、牛糞タルトの間からとったカッコーのひなを料理したら、弟が骨をしゃぶっていたり。多民族がいっしょに生きている感じが伝わってくるところもいいなと思いました。p157で、ムスリムの人とユダヤ人とで、服喪の習慣が同じようだと言うところだとか、p177で、お母さんのバラライカでロシア、ポーランド、ウクライナ、カザフスタンの歌を歌ったり、混ざり合っている感じが出ていておもしろかったです。お母さんのたくましさもよかったです。主人公もいろんなことを体験しながら成長していって、物がなくても工夫していくし。お話の筋を楽しむタイプの本ではないと思いましたが。最初に手ばなしてしまったクルマのことが最後に決着するというのは、いい仕掛けだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


机の上の仙人〜机上庵志異

ヤマネ:本を手にした時には、タイトルから漢字続きで難しい話かと思いましたが、読んでみたら、はじめの作家の大そうじの部分からおもしろく、ひきこまれました。少し読んでいくと小さい仙人が出てきたので、「コロボックル」シリーズのように小人が出てくるお話なのかなと思ってワクワクしました。異界のものがたくさん出てくるところがおもしろかったです。岡本順さんの絵は佐藤さとるさんが描く不思議な世界にとても合っていると思いました。

アンヌ:初めて読んだときは、再話かとがっかりしたんですが、2度目には、再話には、作者が物語のどこに感動し、自分の物語を構築したか、作者の秘密を見つけることができるような気がしてきて、できるだけ原典に当たって読み直していきました。この中で私が見つけられたのが、『小奇犬』と『侏儒の鷹狩』については『小猟犬』、『石持の長者』については、『石清虚』で、この二つは、最近の怪奇小説のアンソロジーにも選ばれていますし、私も子どもの頃に読んだことがあって大好きな話です。違いは、小さな犬が、原典ではただ残されるのですが、こちらでは、はしゃぎ切っていて仕方ないから預かるとか、リアリティのある感じになっています。さらに犬のねぐらが、どうも古くて表紙の読めない『聊斎志異』らしい本のようだ、とか、うまく変わっています。原典では、最後に寝台の上で主人公が寝返りを打ったとたん、子犬が紙のようにぺちゃんこになってしまうという終わり方なので、この『侏儒の鷹狩』のように、いつの間にか消えていく方がいいなと感じました。『石持の長者』は、岩の中の文字と、最後の方がごたごた話が続くのをすっきりと終らせているのが違う点です。原典では、狐や遊女の話が多いのですが、こちらでは、夫婦愛に変えてある物語が多いと思いました。特に、『衛士の鴉』と『侍女の鴉』の原典の『竹青』は、主人公には別の妻がいるので、鴉の妻が「私は漢水の妻でいい」といいと言ったり、子どもができたりいろいろあるのだけれど、こちらの二つの物語は鴉への変身と、空を飛ぶことへの憧れに物語をそぎ落としてあって、実にすっきりとしたものとなっています。最後まで読んだ読者が、中国にはこんな不思議な話があるんだと知り、世界が広がっていけばいいと思います。

ルパン:うまいなあ、と思いました。さすが佐藤さとる。小人を書かせたら天下一品ですよね。コロボックル世代としてはたまらなかったです。本家本元、真打出ました、という感じ。机の上の仙人が登場したとたん、小人が出てこないかとドキドキしながら引き出しをあけたあの頃の感覚がよみがえりました。ただ、「佐藤さとる」の名前がなかったらどうかなあ? ひとつひとつのエピソードが際だっておもしろいというわけではないですが、上質の小品を読んだという満足感はありましたね。ありきたりなお菓子でも、上手な人が作ると本当においしいじゃないですか。そんな感じ。昔話の再話の仕方もほんとにうまいし、安心して読めました。

ハイジ:仙人がほんとにいるみたいでおもしろかった。短編集のようで、ひとつひとつのお話が短いので読んでて飽きませんでした。恋愛の話はとくにおもしろく読みました。動物は、昔ながらの描き方なのかなあと思いました。

アカシア:表紙の書名にもふりがながないので、小さい子は読者として想定していないんでしょうね。コロボックルを子どもの時に読んだ大人に向けて書いたのかな?

レン:読者は中学生くらいからかもしれませんね。歴史を学校で習ってからじゃないと、時代の感じがわからないから。

レジーナ:長く語り継がれてきた力のある物語が元にあり、それが上手にまとめられていて、ぐいぐい読ませますね。舞台を日本に変えているので、日本の読者にも馴染みやすいのではないでしょうか。それぞれのお話に挿絵が添えられているのがいいですね。この本と『シャイローがきた夏』(フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)、どちらも岡田さんの挿絵です。偶然ですが、一緒に見てみるとおもしろいのではないかと思います。

アカシア:これは昔出ていた『新仮名草紙』に加筆した本なんですね。原典も読みたくなりましたが、前の作品との比較もしてみたいですね。それと、どうせ創作の部分も入れるなら、この小さな犬をもっと登場させたら、もっとおもしろくなるのにと思いました。

アンヌ:最近出た佐藤さんの自伝的小説『オウリイと呼ばれたころ〜終戦をはさんだ自伝物語』(理論社)を読んだのですが、小人についていろいろな物語を探していたころに見つけた物語が体の中に残っていて、それを整理して書いておきたかったのではないかと思いました。

ルパン:名作の続きは、それぞれが心の中に持っているものですよね。百人が百通りの続きを持っているのがいいと思うんですけど。

*この後、「コロボックル」シリーズの続き(『コロボックル絵物語』 村上勉絵)を有川浩が書いているということについての話題で盛り上がる。

ヤマネ:佐藤さとるさんが、有川浩さんにバトンを引き継いだのは、中高生にとても人気のある有川浩さんに書いてもらうことで、今の中高生に「コロボックル」シリーズを読んでほしいという思いがあったのでは?

アカシア:『机の上の仙人』は、公共図書館に入っている冊数が少なかったですね。

レン:『聊斎志異』は、岩波少年文庫にもありますね(立間祥介編訳)。もちろん抄訳ですが。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


フィリス・レイノルズ・ネイラー著 さくまゆみこ訳 『シャイローがきた夏』

シャイローがきた夏

レジーナ:主人公が、犬を飼いたいとどれほど強く思っていて、シャイローのことをどれほど大切に思っているか。シャイローと心を通じ合わせていく過程が丁寧に描かれているので、最後にやっと犬らしくほえて喜びを表す場面が、胸につまりました。主人公の首筋に妹が顔をくっつけ、まつ毛をパチパチさせるのを「バタフライ・キス」と表現していますが、素敵な言葉ですね。岡田さんの挿絵は、温かでな物語の雰囲気によく合っていますね。いかにも西洋といった雰囲気に描かれていないので、日本の子どもも親しみやすいのではないでしょうか。

ハイジ:隠して飼うというのは、大変だけど、楽しかったのでは。ジャドが約束を守ってくれるかわからないのに、マーティがちゃんと働くところが、尊敬できました。

ルパン:私もそう思いました。最後に、ジャドも根はいい人だとわかって、読後感がとてもよかったです。

レン:ちょっと前に読んだので、細かいところを忘れてしまったのですが、いいなと思ったのは、男の子の気持ちに添って読めたところ。それと、大人の姿がくっきり描かれていること。ジャドも、両親も。大人の世界がきちんと描かれているのが、翻訳もののいいところですね。そして、日本の親子だったら、なかなかしないような会話が出てきます。英語圏だと、こういう会話を日常的にだれもがするのかはわからないけれど、自分の意見をきちんと言い表しています。いい意味で新しい世界を見せてくれると思います。

アンヌ:最初に読んだ時から、ラストのジャドの言葉にひかれました。善悪を決め付けるのではなく、曖昧さを許しているところが、意外でした。何度も読むうちに、もう、ジャドの気持ちになって読んでしまいました。普段は犬以外に誰もいない生活の中で、毎日主人公の少年と話す。すると、自分の子供時代の寂しさをつい口にしたり、虐待していじめるつもりが、水を用意したりするようになる。最後に、首輪を差し出す時のセリフには、シャドの代わりに泣きたくなりました。また、主人公の周りの大人たちの描き方も意外でした。狭い共同体の中で生きる大人たちは会話の仕方も独特で、直接話し始めるのではなく、回りくどく話しながら本題に入る。生活に困っている人のために、こっそりパイとかケーキを郵便ポストに入れてささやかな生活の援助をしようとする。なんだか白黒はっきり決めつけるようなところがなく、私自身のアメリカに対する偏見が、変わりました。

ヤマネ:とても好きなお話でした。主人公の男の子の気持ちになって読めるところが良いと思いました。シャイローを守るために、周りにどんどん嘘をついて苦しくなっていったり、お母さんに知られてしまってハラハラしながらも少しほっとするようなところなど、子どもの気持ちがよく描かれているので、読む子どもたちは主人公に深く共感しながら読めるのではないかと思いました。小学校高学年の子にぜひ薦めたいと思います。“日本の児童文学は、宗教と政治を書かない”と言われているようですが、p86で主人公の友達のお母さんが、普通の会話で、主人公に選挙の結果の話をしていて、このへんのところは日本の物語にはない要素だなと思いました。

ハリネズミ:私もとても好きな作品です。以前は同じ作品が『さびしい犬』(斉藤健一訳 講談社)というタイトルで出ていましたね。表紙に、ジャドと思われる人の顔にビーグルの胴体がついている絵が載っていて、私にはちょっと不気味でした。今回はイラストも変わって、原作のさわやかさがよく出ていますね。これはシリーズになっていて、続きがあるようです。日本ではまだ一巻目しか出ていませんが。映画化もされて、アメリカではとても人気がある作品のようです。約束はきちんと守るとか、自分でできることは子どもでもちゃんとやるとか、アメリカがもつ価値観の肯定できる部分を体現した作品だと思います。

アンヌ:いきなり主人公の少年がライフルを持って散歩し始めるのは衝撃でした。銃で撃たれたウサギの肉を食べるのもためらう性格なのに、ライフルを打つ練習をするのが日常というところに、銃社会を感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年3月の記録)


光のうつしえ〜廣島 ヒロシマ 広島

アンヌ:この本を読み終えた後、最後に記載された「作中の短歌の出典」のところに、短歌の作者の方への問い合わせがあり、ああ、もう関係者の方々も亡くなられているのかもしれないのだなと気付きました。そして、この出典のところまで読んで、この本を読んだ意味が初めて分かるという気がしました。短歌が書かれたのは、戦後と1970年代。この物語の舞台は、戦後25年の1970年。それぞれの時代を、もう一度、さらに時が流れた現代から見直す必要性を感じます。作中におかれた短歌を読みながら、作者は、まざまざとこの物語にある光景を見たのだろうと思いました。短歌の意味をすくい取って物語とし、そしてその歌い手たちの心を救済する手段として、子供たちが絵を書く行為を物語の中で提案する。そういう形で、書かずにはいられなかったのではないかと思います。今、ちょうど、イスラム国の事件があったり、空爆が行われたりして、無辜の死こそが戦争の本質だと感じています。今、読む意義のある作品だと思いました。

レジーナ:広島生まれの被爆二世の方が書いていらっしゃるので、実感のこもった作品です。方言の台詞は、温かみがあっていいですね。主人公は、被爆者の子どもの世代です。自分たちは実際に戦争を体験したわけではないけれど、周囲の大人の多くが深い傷跡を抱えている環境で、子どもたちはしだいに、そうした人々の心に寄り添って生きるとはどういうことなのかを考えるようになります。ひとりで答えを出すのではなく、文化祭の絵をみんなで描き、友人たちと一緒に問題に向き合う姿が印象的でした。最後にみんなで灯篭流しをする場面もそうですが、人が引き起こした戦争で受けた傷を、少しでも癒せるものがあるとすれば、それはやはり他者と交わり、つながっていくことなのでしょう。声高に平和を叫ぶのではなく、ひとりひとりの小さな物語を通して、普通の生活や平和の尊さ、それを突然断ち切る暴力について読者に考えさせます。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』に関しては、ちょうど数日前の新聞で読みました。記事には、芸術はときに、画家本人の思いから離れてひとり歩きをしてしまうと書かれていました。

レン:大変丁寧に書かれた作品だと思いました。杇木さんの『八月の光』は、当事者である四人の被爆者を直接描いていたけれど、これは自分が体験したのではない子どもが、親や祖父母の世代のことを知るという形で、体験していない子どもとヒロシマをつなぐ作品ですね。両方読むと興味深いです。未曾有の悲劇の中で想像を絶する体験をして、痛みを抱えた大人がたくさんいて、杇木さんはこの主人公の女の子の年代でしょうか。この子が感じていることは、作者の体験なのかなと思いました。子どもたちがかかわることで、悲しみを封印していた大人たちが心を開き、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していく姿も印象に残りました。人為的な戦争という行為による死が、明日を奪い、思いを断ってしまう、そんなことを引き起こすのはやめてくれというメッセージ。美しい灯籠の場面のイメージにのせて、いろんなことを考えさせられました。
 登場人物の子どもたちが、身の回りにいる、一世代上で原爆を経験した人たちのことを、「知っているつもりで知らない」とよく言います。それから、その人たちに直接話をきくのではなく、その回りの誰かからきくという形で、それぞれ何があったのかを知っていきます。このあたり、非常にリアリティがあるというか、よくわかると思いました。祖父も入市被曝をしていて、原爆投下間もない長崎に入っています。おそらくすさまじい光景を見ていたはずです。でも、その時の話をあまり聞いたことがない。いま、長崎や広島で、ボランティアで被爆体験を語ってくださっている人のなかには、何十年も経ってからやっと話せるようになったという人もいます。それほど傷が深い。この作品の舞台になっている時代は、被爆二世が中学生という時代ですから、記憶は、よけいに生々しいものとしてあったでしょう。
 いまはそれから年月が経ってしまって、また別の意味であの時のことが伝わりにくくなっているのではないかと思います。おそらく私の子どもの世代では、直接お話をうかがうということは、もう無理になっているでしょう。起きたことを伝えていく手段は、できるだけたくさんあったほうがいいし、伝え方もアップデートしていかなくてはならない。そういう意味では、朽木さんよく書いてくださったなと、感謝のような思いがあります。
 語りにくい当事者の思いを代弁するように、ところどころに挿入される短歌がきいています。短歌や手記にたどりつけるように、こういうアプローチをしてくださったのは、有難いことだと思いました。
 読んでいて胸が衝かれるようになったのは、それぞれみんな、あの日以来、心残りがある人なんですよね。美術の吉岡先生は、変わった雰囲気の先生として登場して、色黒で歯が白くて、笑い顔が歯磨きの広告のようだといわれたり、最初はちょっと滑稽な印象ですよね。生徒が帰るのを、窓際でずっと見送ってくれるのも、ちょっと変わった人のように思われている。ところが、その見送りの理由があとになってわかる。滑稽だったイメージが反転する。こういうところは、読んでいて巧いなと思いました。

アカシア:同じ朽木さんの『八月の光』と一緒に読むといいな、と思いました。『八月の光』は被爆体験を実際にした人たちが主人公ですが、こっちはその次の世代の人たちがその体験をどう受け継いで自分のものとしていくか、という物語。ストーリーにも工夫があって、灯籠流しの時に声を掛けてきた年配の人はいったいだれなのか? 吉岡先生はどうしていつも窓からじっと見ているのか? お母さんはどうして何も書いてない灯籠をいつも流すのか? などの謎で読者を引っ張っていく。灯籠流しの美しい場面から始まって、最後も灯籠流しで終わり、主人公はその間に確実に成長している、という構成もうまい。朽木さんはご自身で被曝二世とおっしゃっていますが、だからこそリアルに書けることってあるんですね。この作品では、作者が子どもたちに伝えたいことも、かなり前面に出てきていますね。

レン:前にこの会で松谷みよ子さんの本をとりあげたとき、子どもの頃タイトルから、「戦争」ものだと思わずに読んであとでだまされた気がしたと言っていた人がいたけれど、これは最初から「広島」と構えて、未来を担う子どもに投げかけていますね。余談ですが、うちの母が「子育てで一つだけ絶対心がけていたのは、朝子どもを叱って送りださないこと」と言っていたのを、この作品を読んで思い出しました。戦時中を生きていた人だから。

ajian:登場する子どもたちは、身の回りの人たちがどういうことを体験したのか調べて、それをそれぞれ絵にするなど、ある意味で理想的な形で受けとって、引き継いでいるんですよね。実際そういうふうに持っていくのは難しいとしても、「重い」とかハードルを感じずに、どうやって引きつけたものか、ということは常々考えます。

レン:『はだしのゲン』(中沢啓治著 汐文社)は、子どもたちは夢中になって読みますよね。

ajian:『はだしのゲン』はおもしろいです。たんにサバイバルものとして読んだとしてもおもしろい。新しいアプローチは、これからもいくらでもあるべきだと思います。

レン:『さがしています』(アーサー・ビナード文 岡倉禎志写真 童心社)とか。数は少ないですけど。

アカシア:共同で教科書をつくりましょうという動きはアジアでもありましたよね。それに童心社の日・中・韓平和絵本シリーズの試みなんかも。

レン:こういう本を手渡していくのは必要ですね。

アカシア:京庫連(京都家庭文庫地域文庫連絡会)が、定期的に「きみには関係ないことか」というタイトルの、戦争と平和を考えるための児童書のブックリストを出してますよね。そういうのを参考にして、もっと平和教育をやらないと、政治家がどんどん変な方向に舵を切って、そのまま持って行かれてしまいますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


さよならを待つふたりのために

ajian:ジョン・グリーンは学生時代に、 病院付きの牧師として働いていたことがあるそうです。そのときの体験も元になっているらしい。

アンヌ:最初に読んだ時、とてもリアリティがあったので、誰か患者さんのブログを基にしたものなのかなと思いました。誰かが癌になったと聞くと、他の病気とは違い、もうその人は一つの橋を渡って別の世界に行ってしまったように思う人がいますが、この作品では、死というのはすべての人に訪れるものだということを最初に主人公の口から言わせていて、そこがとてもいいと思います。アイザックが、立ち去った恋人のモニカの車に卵をぶつける場面もとてもいい。たとえ、がん患者であったとしても、悟りきった向こう側の世界の人間などではなく、怒ったり恋をしたり、死ぬ寸前まで普通に生きているのだということを語っています。サポートがあれば旅行にも行けるし、病気になっても自分は自分なのです。死ぬのはみんな同じ。恋もするし、その過程に意味があるのだと言っている物語だと思えました。少し気になったのは、母親がモニカの死後も生き抜くために、社会福祉の学位をとってソーシャルワーカーになる勉強をしていることを、ヘイゼルが知って喜ぶところ。ここは逆に、ヘイゼルがあまりに自分の死後について物分かりがよすぎるのではないかと気になりました。もっとも、そのために、ダメになった親代表のヴァン・ホーテンの物語があるのかもしれないと思いました。

レジーナ:フリースローをしていて、なぜこんなことをしているのかと、ふと人生に疑問を感じたり、自分が病気になったことで、両親が悲しんでいるのに心を痛めたり、「自分の存在を覚えていてほしい」「生きた証を残したい」と願ったり、病を得た十代の少年と少女の感覚がリアルに伝わってきました。主人公は、アンネ・フランクの家でキスをした時、病気の身体にずっと苦しめられてきたけれど、この身体があるからキスができると気づきます。ひとりで背負わなければならないと思っていた苦しみを理解し、分かち合える人と出会えた幸せが伝わってきました。ただ、どうしてふたりが惹かれあったのかが、よくわかりませんでした。また関係が長く続けば、それだけいろんなことがあります。「死別したことで愛が永遠になる」というのは、ヤングアダルトのラブストーリーならでは、ですね。そういう風に感じるのは大人の読み方ですが。ようやく会えた作家は嫌な人間で、ふたりはがっかりします。うまく行き過ぎない物語展開や、酸素の濃縮機にフィリップと名づけるユーモアが、作品のおもしろさにつながっています。残念だったのは、「至高の痛み」がおもしろい小説だと思えなかったことと、ところどころ翻訳が読みづらいことです。p42の「酸素吸入が不足してるほど冷たくはない」は、「酸素が行き渡っていないと、手の先が冷たくなるけど、それほど冷たくなってはいない」ということでしょうか? p145の「アイザックがしたことだって、モニカに全然優しくなかったよ」は、「アイザックが視力を失ったことで、モニカだって傷ついた」ということでしょうか? p154の「オーガスタスはおじさんとおばさんのクッションの格言をうんざりしてても受け入れてる。か弱くて珍しいものは美しいって思ってるんでしょ」ですが、格言がか弱いのですか? 格言を刺繍したクッションを家中に飾る、そういう態度が女々しいということでしょうか? またp27で、お互いに夢中なアイザックとモニカを見て、主人公はなぜ「病院までラストドライブするときのことを考えてみて」と言ったのでしょうか。

アカシア:話としてはおもしろいし、こういう本を出す意味はあると思います。ただ私は共訳とか下訳ということに疑問を持っているのです。その作品世界をどう受け取るかは人によって違うので、一緒に訳している人の間に違いがあると(たいていあるものですが)、特に文学性の強い作品だとどうしてもぎくしゃくしてしまう。アメリカではベストセラーですが、シチュエーションだけが興味深いのではなく、原文では会話にもとても味があると思います。翻訳では、キャラクターとその会話がところどころ合っていないように思えて、ちょっと残念でした。

アンヌ:ヴァン・ホーテンは、ヘイゼルが感動するような娘の物語を書き上げたのに、その後アルコール中毒に陥ってしまい、成長しませんでしたね。

ajian:映画では、ヴァン・ホーテンを演じているのは、ウィレム・デフォーです。

アカシア:たとえばp85の「よかった」がぴちっとはまらないように思ったり、p97の「骨の間がばらばらになってしまう」もすっきりとはわかりません。わからない部分が多くて、止まってしまう。今風の言葉があるかと思うと、古い表現も出てきたりして、ちょっとアンバランス。そんなに無理に今風の言葉にしなくてもよかったのでは、と思ってしまいました。「サイテーの女」なんて訳されると、ガスのキャラクターが揺らいでしまう気がします。

ajian:とてもいい作品だと思うので、伝わりにくい部分があったとすれば、それは残念です。仕事でヤングアダルトの原書をいろいろ読んでいますが、ジョン・グリーンは際立って文章がいいです。今風の生きのいい会話が、テンポよくつづいていく。日本語版では、そういう今風の会話を成立させつつ、この子たちの知的レベルの高さも表現しなければいけない。そこに難しさがあるのかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


真夜中の電話〜ウェストール短編集

ajian:これはとてもおもしろかったですね。これだけおもしろいと「おもしろい」以上の感想が出て来なくて困ります。どれもよかったけれど、「吹雪の夜」が一番好きかもしれません。猛吹雪をようやく切り抜けたと思うと、今度は子どもが産まれそうで、たいへんな状況が次から次につづく。最後はホッとしますが……。吹雪のなか、火を焚く場面で、「男は臆病だからこそ命を危険にさらすことができるのだ」とあるじゃないですか。しびれますよね。こういう断定が、くさくならずに説得力を持っているのはどうしてなんでしょうね。ウェストールがそういうなら、そうなんだろうなあ、と……。ほかに印象に残ったのは「ビルが見たもの」でしょうか。目の不自由な人が感じる世界を詳細に、リアルに描いている。これもページをめくらずにはいられない展開です。そして短いなかに、寂しさや、うち震えるような怒りや、感情の濃密な部分が克明に描かれている。収録作がこれだけバラエティに富んでいるのもすごいですね。ゴーストストーリーも、ハートウォーミングな話も、ほんとうにどれもおもしろかった。

レン:先月、原田さんの朗読会に行きました。短編集ができるまでの話などもお聞きしましたが、それはこの本の後書きに詳しく書かれていますね。人間って、どこに行っても変わらない。ぶざまなことをしたり、いい加減だったりしながら生きているというのがうかびあがってきて、ひとつひとつの話がおもしろかったです。原田さんの訳は丁寧で、それでいて男っぽくてすてきでした。日本のオリジナルでこういう本が出るというのはいいですね。さすが徳間書店児童書20周年です。10代の心理がよく描かれているので、高校生に読んでほしいです。大人の外国文学への橋渡しにもなりそうです。

ajian:あ、あと好きだったのは「最後の遠乗り」です。主人公の最後の独白部分。「おれはこの先も、少しずつジェロニモから遠ざかっていく。そして、髪にカーラーをつけ、油ぎった熱い包みをかかえてフィッシュ・アンド・チップス屋から出てくるばあさんたちに近づいていくんだ。電気屋のショーウィンドウをのぞきこんでいる中年男たちに……」。中年に近づいている自分としては、この台詞、非常に身にしみて感じます。

レン:細部がリアルですよね。ちゃんとみんな体験してきた人なんだろうなと思いました。やわらかい羊のフンが、踏むとつぶれて靴につくところとか。線を引いておきたくなるような、いい言葉もたくさんありますね。p106に「夜中、ビルは眠れぬまま横になり、不安に思うことがある。世界じゅうの人たちがあまりに排他的になり、真の平和は日々遠のいているのではないかと……。」とか、今読んでもドキリとしました。

レジーナ:中学の時に、ウェストールの『海辺の王国』(坂崎麻子訳 徳間書店)を読みました。当時、中学生向きの読み物はあまり見つけられなかったのですが、この作品は甘いハッピーエンドで終わらせず、少年の成長していく姿をしっかり書いていて、とても心に残りました。すぐれた作家の中には、長編はすばらしくても、短編になると弱くなってしまう人もいます。ウェストールは、長編も短編も書ける作家ですね。それぞれの話は、登場人物の年齢も、置かれた状況も全く異なりますが、どれも人間の生きる姿を伝えています。特に好きなのは、「吹雪の夜」と「ビルが「見た」もの」。吹きすさぶ風や吹雪の激しさは、ロンドンの都会ではなく、まさにイギリスの北方の厳しい自然ですね。土地の描写に、力があります。p165に「革ジャンの背中のベルト」とありますが、革ジャンにベルトはついているのでしょうか?

アンヌ:「吹雪の夜」は本当におもしろく、イギリスの獣医ジェイムズ・へリオットの著作の中のイギリス高地の物語を思い出しながら、何度も読み返しました。

レン:私たちは、あまりに多くの情報にさらされて、感覚が鈍って、こういう観察眼を持てなくなっているように思いました。

アンヌ:ただこの短編集にあるホラー3篇は、他の物語に比べて、そんなに見事な出来だとは思いませんでした。最初の「浜辺にて」も、夢落ちで終わっているし、「真夜中の電話」も、ハリーが幽霊と20年も電話し続けているというのが少し納得がいきません。最初はいろいろ調べたというのに、メグのように引きこまれたりはせず、幽霊も手出ししないで、毎年繰り返していたのはなぜかとか、疑問が残ります。「墓守の夜」も、設定が、ピーター・S・ビーグルの『心地よく秘密めいたところ』(創元推理文庫)と、同じなので

アカシア:とてもよくできた短編集だと思いました。「真夜中の電話」だけでなく、ひとつひとつの話が、「生きること、死ぬこと」を考えさせますね。描写もリアルです。私はホラーとは思わなかったんですけど、「浜辺にて」では、アランも死んでいるのかと少し思っていまいました。バイクで疾走する場面とか、サマリタンが電話を受ける場面とか、屋根裏に潜んでいるお父さんを見つけた場面など、自然描写も心理描写も情景がありありと思い浮かぶように書かれているのがすばらしいです。翻訳もうまい。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


落っこちた!

アンヌ:ユーモアのセンスが合わない本というしかありませんでした。老人ホームに放火して燃やしてしまうようなおばあさん、という設定を面白いとは思えなくて、最初からつまずきました。最後も、それなりに家族が自分自身に合う仕事を見つかって幸せになり、ほっとした後に、新たな騒動を予感させる感じで終わる。この感じが、私の苦手な作家の誰かに似ているなと思っていたら、あとがきに、「ロアルド・ダールは最高の模範」という作者の言葉が載っていて、なるほどと思いました。

:構造は前作と一緒で、混乱の種がまかれるけれどどんでん返しで幸運がもたらされる形。しかし、やっぱり読みにくかったです。うーん、「町一番のすてきな家族」を装っていたのならおばあちゃんがかきまわすことにも意味がありそうですが、実際は本当にただのトラブル好き。マンガの「いじわるばあさん」みたいでした。好きなおじいさんと両想いになると意地悪しなくなるのも「いじわるばあさん」に似ていて、ちょっと安易でした。

レジーナ:主人公が、とんでもない状況に置かれているところから始まり、その理由を回想の形で説明し、最後にオチがあるのは、『マッティのうそとほんとの物語』(森川弘子訳 岩波書店)と似ていますね。ヘンリックが穴に落ちた時、ナーゼは、言われた通りにヨナスを連れてきて、得意気に穴に突き落とします。命じられたものを必ず取って来るようしつけられたのが、裏目に出てしまう――おもしろい場面です。金ののべ棒を探したり、地面の下に機関車が埋まっていたりするのは荒唐無稽で、子どもは楽しめるのではないでしょうか。最後は、主人公が、金ののべ棒を自分だけの秘密にする終わり方です。E. L. カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子/訳 岩波書店)もそうですが、子どもは、何か秘密を持つことで、それまでとは違う自分になったように感じます。自分だけの秘密を持つことは、子どもの成長において、とても大切ですよね。おばあちゃんは個性が際立ち、あくが強いけれど、憎めない人です。先ほど、漫画の『いじわるばあさん』みたいだという話が出ましたが、私も同じように感じました。おばあちゃんがいなくなった後、主人公は、おばあちゃんをとても好きだと言っていますが、いつ頃からそんなに惹かれるようになったのか、その心の動きがつかめませんでした。翻訳は、ところどころ、よくわからない部分がありました。p27の「軽薄そうな灰色の毛糸の帽子」は、どんな帽子なのでしょう。p67に「ナーゼは二枚目のゴルトボンバー・デラックスの金色の包み紙を、穴からほりだしていた。」とあります。この書き方だと、チョコバーの包み紙を、すでに一枚、掘り出しているように読めます。「もみの木」の歌は、「もみの木、もみの木、いつも緑よ」となっていますが、私の知っている歌詞では、「いつも緑に」です。

アカシア:私は最初からリアルな話じゃなくて、荒唐無稽なほら話を楽しむようなテイストの物語だと思ったので、違和感なく読めました。おばあちゃんは家族を騙そうとしたり、もめ事を起こそうとしたりするんだけど、認知症でもないのに施設に入れられたってことが前提としてあるので、なんとなく恨めないし、おかしい。でも、まあ独特のユーモア感覚なので、日本のどの子も楽しんで読めますって、作品ではないでしょうね。1800円っていう高い値段だしね。

レン:最初からかなりつっかかりながら読みました。ハチャメチャなおばあちゃんがやって来て、家族が引っかきまわされて、お宝のことが新聞にのっちゃったり。ユーモアだろうと思いつつも、これがおもしろいのかな?という疑問がずっと消えなくて。おばあさんはかなり皮肉っぽい印象を受けたのですが、本当にこんな感じなのかな。外国語って、そのまま訳すと嫌みったらしく聞こえるじゃないですか。イメージしにくい描写もあって、たとえば75ページの「輪ゴムをおばあちゃんのあごの下にひっかけると、そっと上にあげて、大きくてしわしわの耳のうしろに、またひっかける」って、どんなことなんでしょう。

アンヌ:レンさんは、実際に日本語に翻訳なさる時には、別の言葉に変えてしまいますか?

レン:どういう行為を描いているか、イメージしやすいように多少書きくわえたりすると思います。それからp59 に「ヘンリックは目を見はった」とあるのですが、「目をみはる」というのは、驚いて目を大きく開くことですよね。秘密を話してやるよと言って手招きされて、驚くかなって。「目をきらきらさせた」とか「目を輝かせた」ということかしら。こういうことが、ほかでもちょこちょこ。それと、太字や大きな文字になっている部分がありますが、どうして書体を変えるかわかりませんでした。

レジーナ:原文では、イタリックということはないでしょうか。

アカシア、慧:原文も太字なんじゃない?

アンヌ:例えば、p96には、大文字で表記されている言葉と、太字で表記されている言葉があります。大文字は会話文が大声で述べられていることを表しているのかもしれませんが、太字の方はどうしてそうなのか、よくわからない。日本語としては、どちらも、表記を変える必要はないような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


さよならのドライブ

:アイルランドの話ですが、日本の幽霊奇譚にも似ているようでひきこまれました。病院に向かうところでおばあちゃんの死が予見されますが、4世代のいろいろな思いが最終的に統合されるのはいいなあと。p228で、タンジーがエマーに「謝りなさい」というと、お母さんに言われたのだからとおばあちゃんが素直に謝りますよね。この場面が好きです。

レジーナ:一年前、読んでいて、「死んでいくことはこわいし、後に残されることは悲しいけれど、生きることはすばらしく、さよならの後にも続くものがある」と感じ、非常に勇気づけられました。とても好きな作品です。真夜中のドライブでアイスクリームを食べる場面を始め、ひとつひとつの場面が印象的でした。親しくしていた友人が引っ越してしまったさびしさを、足を切断した人が、切った後も足があると感じるのにたとえていますが、細かな描写が的確で、引き込まれました。力のある作家です。自分の意見を主張する、溌剌としたメアリーは、反抗期に入りかけの年頃です。死に向かいつつある祖母を前に、メアリーや、母親や、兄たちが、戸惑ったり、自分の気持ちを素直に表せなかったり、病院に行きたくないと思ったり、それぞれの立場で悲しんでいるのが、よく伝わってきました。タンジーが、井戸に落ちかけたエマーを救ったように、亡くなった人がそっと見守りながら、さり気なく手を貸してくれるのは、ユッタ・バウアーの絵本『いつもだれかが…』(上田真而子訳 徳間書店)を思い出しました。タンジーの死は、幼いエマーの胸に刻まれ、ずっとその心にひっかかっています。グレイハウンドは、エマーにとって、タンジーの死と結び付いた忌まわしい存在で、長い間避け続け、見ないようにしてきたものです。でも、かつて住んでいた農家を訪ねたら、あれほど恐ろしかったグレイハウンドはもういない。原題の “A Greyhound of a Girl” には、「目を背けず、しっかりと向き合ってみれば、死もそれほど恐ろしくない」という意味が込められているのはないでしょうか。以前、訳者の方がおっしゃっていましたが、四人の女性の口調をかき分けるのに心をくだかれたそうです。

プルメリア:表紙や挿絵が気に入りました。この作品は3冊の中でいちばん読みやすかったです。登場人物によって活字が太くなっていたりするのもわかりやすかったです。おばあちゃんの幽霊は若いけれど、親しみやすく感じました。作品ところどころにユーモアがあります。おばあちゃんが病院のベットから車椅子に乗る時、「コケコッコー」といったりアイスクリームをもって煙突から出てくる場面など。四世代の作品はあまり読んだことはありませんが、世代や年齢が異なる4人ひとりの性格がよくわかりました。p53の「みょうちきりん」の意味が私にはちょっとなじみませんでした。

アンヌ:とにかく、挿絵が素晴らしいなと思って読みました。特に、p135にある家系図には助けられました。これがないと、4世代の母と娘の関係がこんがらがって来そうなところに描いてあったので。物語としては、まずタンジーという幽霊があまり納得のいく描き方がされていない気がしました。主人公である曾孫のメアリーや孫のスカーレットの前にさえ現れることができるのに、80年もの長い間、娘を見守っているだけで、何もしてこなかった。この幽霊は25歳の若い女性のまま成長できずにいたということなのでしょうか? 死についてもあの世についても、この世をさまよっている幽霊だから語れないのか、臨終寸前の自分の娘に、「大丈夫よ」と言える根拠が、最後まではっきりしない。タイトルについても、ある意味、一番面白い部分を語ってしまう題名になっていて、どうしてこう変えたのかがわからない。それから、メアリーのセリフでよく出てくる「なまいきいっているんじゃない、なまいきいっているんだよ、」の言葉のあやがよくわからなかった。幽霊が鏡に映らない時の「気味わるーい」のところも。メアリーの心の中の感じをすべて会話にしているのは、作者独特の表現なのでしょうが、そのたびに引っかかりました。

レン:いつ亡くなるかわからないおばあちゃんがいて、4人の女性それぞれの親子関係がある。訳すのがとても難しそうな作品だと思いますが、よく感じが出ていて、訳者がうまいなと思いました。好きだったのは、p94に出てくるエマーと母ちゃんの遊び、「ふんふん、わかったぞ。このキスしたのは……」というところ。その家族や親子だけの特別な言葉とか遊びってあるじゃないですか。そういう日常の生活が描かれていて、幸せ感がありました。筋じゃなくて、人間と人間の関係が描かれているところが読ませますね。

アカシア:今挙げられたようなところはとてもいいし、4世代の会話もおもしろい。女性4人で夜中にドライブして昔住んでいた家を見に行くという設定もおもしろい。でもね、同じ家族の4人だってことが原因なのか、細切れの時間の中で読むと人物に取り立てて強い特徴があるわけじゃないし、時間も行ったり来たりするので、途中で誰が誰だかわからなくなっちゃった。エマーがキリンのようにのっぽっていうのは、物語のあちこちに出てくるので、つかめたんだけど。p135の家系図がもう少し前にあったらよかったのに。それと、物語の基盤をなす設定に疑問を持ちました。タンジーが、アイスクリーム屋のドアを透明人間のように通りぬけて中に入り、でも出てくるときはアイスクリームを持って煙突から出てくるというシーンがあります。で、タンジーは「わたしはドアを通りぬけることもできたのよ。たぶん、なんというか実体がないから〜でも、アイスクリームは、ちがうでしょ。とけてしまうまでの何分間かはね。だから、アイスクリームを持ったままドアを通りぬけることはできなかったの」と言ってます。これ、変ですよね。たとえ手に持っていても実体のある物はドアを通りぬけられないなら、アイスクリーム代として持っていたお金も無理のはず。物語の中のリアリティがきちんと構築されていない。細かいですけど。それと、もう一つ気になったのは、ジェイムズのこと。姉のエマーのほうは突然の母の死に動揺し、死の間際にキスしてあげられなかったのを後悔しているとしても、結婚もして子どももでき、それなりに充実した日常を送ったように思えます。でもジェイムズはずっと「ジェイムズぼうや」と呼ばれていたせいで結婚もできないし、先に亡くなっている。タンジーは、うんだばかりのジェイムズがちゃんと育つかどうか心配じゃなかったのかな。死の間際にもあらわれていないみたいだし。どうせこの世にぐずぐずしているのだとしたら、ジェイムズの死の間際にもあらわれて言葉をかけてあげないと不公平だと思いました。

レン:「いやーっ」と言ってしまったことで、エマーのほうに悔いがあったから、幽霊を呼び寄せたのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


かあちゃん取扱説明書

アンヌ:最初に題名を見た時から、最後の一文は予想が付いたのですが、そこまでどうたどり着くのだろうと楽しみに読みました。相手を観察し分析して対処法を決めていくという設定は、他人相手なら冷酷な気がしますが、家族それぞれを再発見するという物語になっていて、おもしろく、安心できる感じの物語でした。少し気になったのは、お友だちのカズ君のお母さんの話。子離れできない母親をやさしく成長させてやる男の子という設定は、ちょっと親の方にとって、都合がよすぎる気がしました。

レン:テンポよくおもしろく読みました。幸せなお話ですね。最後、お母さんが機嫌良くやっていたのが、実は自分のため、母ちゃんの方が一枚上手だったというのもおもしろい。地元の小学校でも、片親の家庭が結構多いのですが、そういう家庭の子でも楽しんで読めるかな。最初は、自分の得になることばかり考えていたのが、これまでと違う視点で相手を見るようになるところがうまく書けていると思いました。書き込みすぎない、シンプルさがいい。

アカシア:おもしろく読めは読めたんですけど、このお母さんは、家事、子育て、パートの仕事と大忙し。お父さんは、のんびりしていて1週間に1度食事をつくるだけ。この家庭のあり方は今の日本の平均的な姿かもしれないけど、この作者はそれを肯定しているような気がして、そこが気になりました。日本の女性は社会的な地位も低いし、いろんなことを背負わされすぎなんです。だから子ども向けの作家だったら、未来の社会はどうあるべきか、ということも頭に思い描きながら書いてほしいな、とちょっと思ったんです。だって、同窓会で韓国旅行に行くだけで、これでもかこれでもか、と家庭サービスをしないといけないんお母さんなんですよ。それをおもしろおかしく書くだけではちょっとさびしい気がしたんです。

レジーナ:冒頭の作文は、大人が子どもに似せて書いた字ですね。作文の内容は、4年生にしては幼すぎませんか? やるべきことを書いた表を作り、「やっていなくても、,をつけておけば、お母さんは満足するだろう」というのは、子どもが考えそうなことですね。

:自分がしょっちゅう子どもに言っているようなセリフが出てきて笑っちゃいました。「これは私の物語だ」と思える人が多いと大衆性につながる、という話を聞いたことがありますが、そういう意味で大衆的。とてもおもしろかったです。ただ、パティシエになりたかった夢を思い出すカズのお母さんのほうが類型的すぎ。やりたいことも忘れて子どもに関わってきたことが否定されて、子どもに「ヒマ」っていいきられちゃうのはせつないな。

レン:p106の「お母さんはカズのことを思って、わざわざ学校にとどけてくれたんじゃん」と気づくところで、カズくんのお母さんがきっかけになりますよね。

:そういえば、うちの子どももおもしろがっていました。

プルメリア:この作品を学級の子どもたち(小学校4年生)に紹介したところ、子どもたちは今順番に読んでいます。会話文が多く、字も大きくて子どもたちには読みやすい作品だと思います。最近子どもたちの読書傾向として、本を家庭に持って帰らない、家庭で読書しない、学校で本を読む子どもたちがふえてきています。家庭では塾やおけいこ事などすることが多く子どもたちが読書する時間がなくなってきています。この作品は子どもたちにとって身近な人物や内容であり、おもしろくすぐに読める本なので人気があります。主人公のお母さんは「私のお母さんと似ているよ」「ぼくのお母さんはもっとこわいかも」「料理をほめてもぼくのお母さんは変わらないよ」など自分の母親と比べて読む子どもも多く、「ラブリーなお母さん」では、女子は「かわいいお母さん」といっていましたが、男子はそのままラブリーについては気に留めず読んでました。カズくんのお母さんについて男子は「おやつを作ってくれる」「家にいてくれる」「いつもやさしくていいな」「家のお母さんもこんなお母さんになってほしい」、女子は「ちょっとしつこい」など思いが分かれました。子どもたちには読みやすく手に取りやすい作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年1月の記録)


14歳、ぼくらの疾走〜マイクとチック

プルメリア:表紙を広げると1枚の絵になるつくりがよかったです。最初は淡々とした内容でしたが、読んでいくうちにひきつけられました。主人公は登場人物と関わりながら成長していく。作品全体に会話文が多いせいか、場面や状況がよく分かり心情に寄り添えるので気持ちに入っていけました。日本にありそうでない作品でした。登場人物の考え方が変わっていくのがいいですね。

レジーナ:同級生に「サイコ」と呼ばれる主人公は、クラスでも浮いた存在です。走り高跳びでかっこいい姿を見せられると思っていたのに、実際はそうではない。酔っ払って登校したり、車を盗んだり、チックは主人公以上にアウトサイダーです。ふたりは旅の間、さまざまな人に出会います。オーガニックのものを食べ本に詳しい大家族、浮浪児の少女、人里離れた沼地で暮らすおじいさん、事故にあったふたりを助けてくれるおばさん……みんなどこか風変りですが、実に魅力的です。麦畑を車で走り、ミステリーサークルのような跡をつける場面をはじめ、ドイツの景色も鮮やかに描かれています。『シフト』(ジェニファー・ブラッドベリ著 小梨直訳 福音館書店)を思い出す設定です。『シフト』はすらすら読めて、映画を思わせる場面展開でしたが、『14歳、ぼくらの疾走』はもっとていねいに、時間をかけて書いている印象を受けました。書き急いでいない小説ですよね。もとの文体がくだけた表現なのかもしれませんが、p6の「僕のいってること、わかりにくい? ですよね、スミマセン。あとでまたトライする」といった言葉づかいには、慣れるのに時間がかかりました。

パピルス:児童文学を読むのが久しぶりだからか、序盤は文章が全く頭に入らず、何度か一から読み直しました。文章が頭に入ってくるようになると、終盤までおもしろく一気に読めました。二人が旅に出た理由がよくわからなかったのですが、通して読むと理解できました。最初は自他共にさえないと思われていた主人公でしたが、だんだんと魅力があることがわかってきました。私は主人公に気持ちを入れて読んでいたので、そのところでとても爽快な気持ちになりました。一部、ジャンク的な表現があり、10代の子が理解できるかな?という部分がありました。また、冗談を言い合う場面で、「ユダヤ系ジプシー」など、日本人には分かりづらい表現があったのが気になりました。

アンヌ:出だしの部分が入りづらかったのですが、病院に入院して、看護婦さんと話し出すあたりから読みやすくなりました。読み出すと、勢いづいてどんどん読み進めました。読み終えてから、この物語を思い出すたびに、尾崎豊の『15の夜』の曲が頭の中に流れ出すような疾走感を感じました。主人公とチックとの二人の旅は、いかにもバカンス中のドイツらしく、男の子二人でうろうろしていても、誰も変だとは思わない。どきどきするけれど、実は、悪いことがあまり起きない。会う人も、皆いい人ばかりで、その中で、東ドイツのソ連との戦闘の物語を知ったりする。この作者がうまいと思うのは、例えば偶然出会ったイザという女の子について余計な身の上話などさせずに別れさせるのだけれど、でも、その後、手紙が届くところ。冒険が終わった後も、続いていく未来を感じさせる気がします。

アカシア:確かにおもしろい。スピードもある。変わった人も出てくる。ドイツには珍しいのかもしれませんが、ドイツ以外なら、この手の作品は結構あるかな、と思いました。この作品は、たぶん今の若者のスラングでリズムよく書かれているんでしょうし、話の仕方でその人の人となりを表している部分もあるんでしょうから、訳が難しいですよね。子どもたちのやりとりは、とてもじょうずでおもしろく読めましたが、たとえばヴァーゲンバッハ先生のp287あたりの嫌みな話し方は、そのいやらしさが今一つ伝わってこない。難しいところですよね。日本語でこんな話し方をする人はいませんから、どういうニュアンスでこの先生はこんな話し方をしているのかが、伝わらない。
 それから原題は『チック』ですね。『チック』とつけたかった著者の気持ちはよくわかります。この作品で書きたかったのはチックなんですよね。だとすると、とんでもなくイカレテるけど、とっても魅力的、でも、自分はゲイじゃないから越えられない一線もあってとまどう、というマイクの気持ちがもう少しぐいぐい迫ってくるとよかったのにな、と思いました。それは翻訳では難しくて、ないものねだりになるのかもしれませんけど。

ルパン:今回の3冊のなかではこれがいちばん読みごたえがありました。最初は主人公の自己否定が極端で、ちょっと読みづらかったのですが、話が進むにつれ登場人物がどんどん生き生きとしてきて、結局一気読みしてしまいました。リアリティもありますし読ませる作品です。ただ、あとがきに「これを読まなくては、ドイツの児童文学は語れない」とあったのですが、そこまで言うほどのものかなあ…?

アカシア:ドイツは比較的理詰めの本が多いので、こういうスピーディーなロードムービー的な作品は珍しいのかもしれませんね。そういう意味では、ドイツの中ではこれを読まないとYA文学を語れないという位置づけになるのかも。

ルパン:出だしはほんとにつまんなかったんです。ただ、チックが出てきて女の子に絵を届けに行くあたりから、ぐいぐいひきつけられました。一番よかったのは、チックに「(君は)つまらないやつじゃない」と言われる場面でした。人生って悪くないと思うようになるプロセスがとてもうまく描けていて、楽しんで読めました。それだけに、チックが同性愛者じゃなくてもよかったのに、と、残念に思いました。

アカシア:私も、なんだかその部分はとってつけたような気がしました。でも、考えてみると日本と違ってドイツなら14歳だと普通は女の子と旅をしたいのかもしれないから、チックが近づいて来る自然な理由になっているのかもしれません。

ルパン:純粋に友達として好きになってもらった方がよかった。同性愛者の目で恋愛対象として見るのではないところで、魅力を見つけてもらいたかったです。

アンヌ:特に物語の中で、チックが同性愛者だとは気付かなかった気がします。普通に友達という感じで。

ルパン:18歳ならまだよかったんですけどね。14歳の同性愛者っていうのがどうも…。

アカシア:性的な関係を持つのが目的ではなく、マイクが魅力的だから最初はそこに惹かれたというだけのことかもしれませんよ。日本なら18歳が妥当かもしれませんが、ドイツは14歳なんじゃないかしら。

ルパン:全体的にスケールの大きな話ですよね。次どうなるんだろう、というわくわく感で最後まで引っ張られました。あと、好きな箇所は、山の上で昔の人の落書きを見つける場面です。自分だけの閉鎖的な世界から大きな世界の一部としての自分に目覚めていく瞬間が印象的でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


わからん薬学事始 1

アンヌ:最初は、題名から江戸時代の漢方薬の話かと思いました。漢方薬も出てきますが、主に生薬の話という設定はおもしろいだろうな、という期待を持って読みだしました。先が気になって、3巻とも読んでしまいました。表紙に薬草の絵とそれぞれの巻の物語の中に出てくる動物の絵が描いてあり、薬草辞典も付いているという装丁が素敵でした。ただ、気になったのが、マンガのような会話の言葉遣いです。75歳の下宿の管理人が 「じゃぞ」とか言っていて、さらに、2巻の中国人のセリフが「〜あるよ」となっていて、現代の作品でこれでいいのかと思いました。嵐のセリフもバンカラ風で気になりました。数々の謎が提示され、それが各巻ごとに解決されていきます。例えば、下宿の住人についての謎や、管理人やその家族についての謎とか。最終的には、新・気休め丸を作る過程の中で、草多の父親はどうなったのか?久寿理島とはなにか?という謎を解いていく仕組みなんだろうなと思いました。主人公に薬草や薬の原材料の声が聞こえる能力があるという設定に、なんとなくマンガの『もやしもん』(石川雅之作 講談社)を思い出しました。下宿の設定には『妖怪アパートの幽雅な日常』(香月日輪著 講談社)も。

レジーナ:都会に出てきた主人公が、個性的な仲間とともに下宿し、学校生活を送る物語はよくありますが、薬学というのがユニークですね。動物実験が苦手なために留年し続ける嵐など、登場人物の設定もおもしろかったです。草多が新しい環境で奮闘する中で、彼の出自や「気やすめ丸」をめぐる謎を少しずつ明かしていく手法も上手です。まはらさんの『鷹のように帆をあげて』『鉄のしぶきがはねる』『たまごを持つように』はどれもよくて、多くの人に読んでほしい作品ですが、本を読まない子どもが、なかなか手に取らないのが残念です。この本は表紙も洒落ていて、子どもの目にとまるようです。読みやすく、内容もしっかりしているので、この本をステッピングストーンとして、まはらさんの他の作品へと読み進めていってほしいですね。

プルメリア:書名を耳にしたとき時代物かと思いましたが、違いました。本の装丁が洒落ているなと思いました。また薬草の紹介も気に入りました。作品の内容が、イメージしていたこれまでのまはらさんの作品と違っていたので驚きました。テレビドラマのように展開しているような感じで読みました。次作も読みたいですが、3巻で完結なんですね。

アカシア:私はおもしろくずんずん読めたんです。でも、立ち止まって考えてみると、まはらさんはこれまで念入りに取材をして現場のリアリティを読者に伝えようとして作品を書いてきたように思うんです。これは、最初からファンタジーの要素が入り込んできているので、この読書会で以前とりあげた『鷹のように〜』とも『鉄のしぶき〜』とも、そこが違うように思いました。登場人物もステレオタイプで、漫画っぽい。リアリティを捨て、ドタバタ的なおもしろさも入れて、読者にサービスしているのかな。それとも、作家ご自身がちょっとリアリティから離れたいと思われたのでしょうか? 私はリアリティを追求するこれまでのまはらさんの作品がとても好きだったので、ちょっと拍子抜けでした。まあ、薬草についてはいろいろと調べられたと思いますが、こういう作品はほかの作家にも書けるように思うので、まはらさんにはリアリティを追求しつつおもしろいものを書いてもらえればうれしいというのが、正直な気持ちです。

ルパン:私は残念ながらおもしろいとは思えませんでした。リアルでもファンタジーでもなく、何もかもが中途半端に思えて。薬学の学校は『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔法学校を思い出させるものの、そこまで書けていない感じでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


川かますの夏

ルパン:時代設定がよくわからず、なかなか話に入れませんでした。お城の中に住んでいて、伯爵もいるようなので昔なのかなあ、と思うとスクールバスが出てきたり。

アカシア:現代のものか一昔前のものかは、携帯電話が出てくるかどうかで判断できますね。これは、出てきませんよ。

ルパン:たまたまなんですけど、直前に『庭師が語るヴェルサイユ』(アラン・バラトン著 鳥取絹子訳 原書房)っていう本を読んだんです。ちょうどヴェルサイユ宮殿のなかに住んでいる庭師が書いた作品で。そのイメージがあったので、「お城に住んでいる子どもたち」の特別なおもしろさを期待してしまったら、ちょっとはずれました。ただ、お城の敷地のなかだけの生活で、男の子としか遊べない主人公が、「女の子の友だちがほしい」と思うあたりはよく描けているなあ、と思いました。ただ、この子のお父さんはとてもいい父親のようなのに、離婚後はまったく会いに来ないのはどうしてだろうという疑問は残りました。

アンヌ:私にとっては、残虐な場面が多い物語という感じで、読み返せませんでした。孔雀の足はとれてしまうし、川かますは無意味に殺される。川かますの神様とか言っているので、アイヌの神のように何かその命を送りだす儀式とか意味とかあるのかと思ったのだけれど、そんなこともない。まともな大人が、現実の中に出てこない。離婚して今はいないお父さんの思い出と、病気のゲゼルおばさんだけで。がんの描き方も、あとがきを読まない限り30年前の話だとは分からないので、ショックを感じる読者もいるのではないかと思いました。これが映画だと美しい景色を外から眺めて楽しめたかもしれないけれど、本だとその中を生きるような気がするので、気が滅入った物語でした。それから、ラッドとは何か、どんな魚なのか、すぐにわかるように、注を入れてほしかった。

ルパン:アンナは不治の病のおばさんに最後までお礼が言えないままで終わるんですよね。そこがほんとうに残念でした。アンナも残念だったはずなので、感情移入したということかもしれませんが。

パピルス:7年前に読んだのですが、内容を全く覚えていません。読んだ当時、よく理解できていなかったのだと思います。

レジーナ:先ほど残酷だという意見がありましたが、私はそうは思いませんでした。子どもには残酷な面があり、虫の脚をちぎることもあるし、取り返しのつかない瞬間を繰り返し、後悔を重ねながら生き物との距離感を学んでいくのだと思います。巨大な川かますは、母親の死、死の不可解さや不気味さを象徴しているのでしょうか。ダニエルが川かますと向き合う様子は、幼なじみの少女の目を通して描かれます。当事者にしかわからないことがある一方、当事者じゃないからこそ見えるものがあり、アンナの視点をとることで、それが見事に捉えられています。ダニエルやギゼラおばさんに対して何もできず、アンナは無力感を感じます。また女の子である自分は、母親には望まれていないのではないかと感じたり、離れて暮らす父親を恋しく思ったり、友人関係に悩んだりしながら、父親のお話に出てくる「バカルート人」のように振舞うのではなく、自分の頭で考えることを学びます。この本のテーマは、失われた子ども時代への追憶です。目をこらし、川底の川かますを見つめるかのように、2度と戻らない瞬間を切り取っています。「読者はこうした本も理解できる」と信じて書く作者には、子どもの持つ力への信頼があるのでしょうね。

プルメリア:渋谷区の図書館には残念ながら蔵書がありませんでした。
 
アカシア:いつも児童書を出している出版社ではないので、図書館の方がじっくり読んでから判断しようと思っているうちに、品切れになってしまったのかもしれませんね。内容ですが、私も残酷な話だとは思いませんでした。もっと残酷なシチュエーションにおかれている子どももいっぱいいるし、子どもそのものも残酷な面を持っていますからね。全体としては、私は子どもの心理がとてもうまく書けているし、この年齢ならではの、つらいけれどもきらきらと輝くような子どもたちのありようが描写されていて、すばらしい作品だと思いました。ただ、最初のほうは、登場人物の関係性がわからなくて、とまどいました。この子どもたちはきょうだいなのか、と思って読んでいたら、途中でどうも違うらしいとわかったり。子どもにすり寄らない、つまりお子様ランチ的ではないこういう作品は、訳すのが難しいですね。フランス在住の方のせいなのでしょうか、p60には乱暴な言葉使いのお母さんが「〜かしらん」と言ったりしています。まあ、その辺は編集がフォローしなくてはいけない部分だと思いますが。いい本を読んだという満足感がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年11月の記録)


かさねちゃんにきいてみな

アンヌ:読んでいるうちに、これはいつまで続くのだろうとだんだん耐えられなくなって、途中でラストを読んでから、読み直してしまいました。自分でもそれはなぜなのだろうと思って、いろいろ調べて、劇団ひまわりで上演されているのを知り、ああ、そうか、ユッキーの一人称で、一人の視点で延々と物語が続くのでなければ、おもしろいのかもしれないと思いました。読み直してみると、一つ一つのエピソードはとてもおもしろいので。最後にリュウセイが戻って来ていますが、どうやって戻ってきたのかとかが、なぜ描かれていないのだろうと思いました。

ワトソン:今回のテーマである子どもたちの日常にあてはまる作品として、私はとても楽しく読めました。登校班だけてこれだけの作品を書くのはすごいと感心しました。一番魅力的だったのはユッキーで、彼の語りの良さがこの作品を支えていると思いました。その分、かさねちゃんに物足りなさを感じました。かさねちゃんの「ちゃんとして」が魔法の言葉のように描かれていましたが、そこにはユッキーのかさねちゃんへの憧れがかなりプラスされているので、実際は魔法のようには効かないのではないでしょうか。また、小学生が読者と考えるとこの量は多すぎる気がしました。

ルパン:私はあんまりおもしろくなかったです。『アナザー修学旅行』(有沢佳映著 講談社)は、場面が動かないわりに、まだおもしろかったんですが、今回は、通学路という限られた場面のなかで、かさねちゃんの魅力が伝わってきませんでした。かさねちゃんだけでなく、どの子も、「この子のことが読みたい」というものがなかったし。強いていえば、語り手のユッキーが毎回日記のさいごに間宮さまへの語りかけを書いているのがおもしろかったけれど。ただ、登校班だけで、よくここまで書いたなとは思いました。結局、「かさねちゃん」とインパクトがある名前だけでひっぱってきた感があります。ふつうの平凡な名まえだったら手にとらないんじゃないかな。印象的に目に浮かぶものといえば、牡丹の模様つきのランドセルでしたが、かさねちゃんの個性とどうリンクするのかわかりませんでした。

レン:私は今回選書係だったのですが、この本は、私自身よくわからない本だったので、みなさんの意見を聞きたいと思って選びました。この著者の『アナザー修学旅行』の時もそうでしたが、私は最初はおもしろくひきこまれたけれど、途中でちょっとうんざりしてきて、「修学旅行だとか、集団登校の班長って、そんなに大事?」と思ってしまい、最後まで読めなかったんです。今の子どもの話し言葉をそのまま移したような会話が続くのも、うまいなあと感心する一方で、当の子どもが読んだらどう思うんだろうと思いました。写真そっくりの絵を見ているような感覚というのか。この数カ月で確かにユッキーは少しずつ成長するけれども、こういうそのまんまの一人称の語りで子どもに伝わるのかな、ふんふんと読んで終わってしまわないかなと。今回読み返しましたが、やはりわかりませんでした。リュウセイのエピソードを盛り込んでいるのは、いいなあと思いましたが。

ヤマネ:話題になっていたので、とても気になっていた本です。まず設定について、これまで集団登校を場面の中心として書いている人はいなかったので、斬新だなと思いました。1日1日、ユッキーの日記で綴られていて、日記の最後が「間宮小の守り神」と言われているホコラの中の間宮さんに何かを祈ったりお願いする形で終わっている。日記をうまく終わらせるために間宮さんは登場するのではないかと感じました。お話は3分の2ぐらい読み進めたところで、ようやくおもしろくなってきました。全体を読み終えて感じたのは、子どもも大人も、一定の時間一緒に過ごす体験をすると、情が湧いたり連帯感のようなものが生まれるのだなと思いました。対象年齢は小学校高学年向けに出されているようですが、正直、小学生がおもしろく読むのかどうかは疑問に思いました。そうかといって、大人が懐かしいと思って読むには自身の子ども時代とは違う現代っぽさがあるし、どのあたりの層がおもしろいと感じて読むのかが分からないと思いました。また、かさねちゃんは大人で冷静なように描かれているけれど、言うべきことや不満などは、全て班員で4年生のマユカが全部言ってくれるので、かさねちゃんは言わなくて済むようになっていると感じました。

ハリネズミ:私は日常と違う世界だと思いました。小学生が集団登校する姿はよく見るけど、たいていはまったく話をしないで黙々と歩いている。だから、この作品はフィクションの世界で書いてると思ったんです。『アナザー修学旅行』もそうだったけど、子ども同士はあまり直接のコミュニケーションをとらない。有沢さんは、わざとコミュニケーションをとらせて直接的なやりとりをさせている。そこが書きたいところじゃないかと思ったんです。

ルパン:地域性もあるかもしれませんね。うちは小学校が目の前なので言葉をかわすヒマもないのですが、甥のところでは2キロ歩くんだそうです。毎日それだけの距離を一緒に歩いたら、会話もはずむだろうし、集団登校も子どもたちの生活の一部になるかも。

ハリネズミ:主人公はかさねちゃんではなくユッキーで、すべてユッキーの視点だから、かさねちゃんは実像じゃない。

アンヌ:もし私が子どもの時読んだら、たぶん、班長をする自分を想像して、こんなにキレる子が二人もいたら、嫌だと思うだろうなと感じました。

ハリネズミ:賛否両論あるとは思ったんですが、私はおもしろくて、後になっても印象に残った本です。子ども同士のやりとりもおもしろくて、今の子どもたちの人間関係が狭くなってきているだけに貴重な作品だとも思います。

すあま:私のまわりの人の評判がよかったのですが、私は全然読み進むことができませんでした。登場人物がなかなかおぼえられず、苦労しました。この作品の特徴は、話し言葉でかかれていること、そして場面として登校するシーンだけを描いていること。脇明子さんの『読む力が未来をひらく』(脇明子著 岩波書店)に、話し言葉と書き言葉についての記述がありましたが、話し言葉で書かれた会話が続くと、読みにくいんだな、と思いました。子どもがおしゃべりしている感じは伝わるけれども、読んでいてうるさい、わずらわしい、と思ってしまいました。マンガのように吹き出しのセリフをどんどん読んでいくのと似ているけれど、絵がないので頭の中でイメージするときに混乱したのかも。読む前は、かさねちゃんが主人公なのかと思っていたら、リアリティがなくて、もっと魅力的に描いてほしかったです。登場人物のだれに寄り添って読めばよいのかがわからず、それも読みづらさの原因かもしれません。かさねちゃんが小学生らしくなくて、感情を爆発させるところがあれば、と思いながら読み進めていましたが、ずっといい子のままだったのも残念。リュウセイくんの問題も、あえて入れる必要があったのか、扱い方が中途半端なように思います。

ajian:私はこの文体っていうか会話はすごくいいと思ったんです。物語はちょっと物足りないものを感じたのですが……。読んだのが結構前なのであやふやですみません。

レジーナ:人口芝の上を歩きたがる場面では、私も昔、同じように感じたのを思い出しました。作者は、子どもの時のことをよく覚えていて、それを素材に書いたのでしょうね。リアリティを追求したのかもしれませんが、実際に子どもが話しているような文体が続くと、少々読みにくく、またリュウセイの複雑な家庭環境には胸が痛くなりました。読み終えて、作者が何を伝えたいかがわかりませんでした。この作品は児童文学なのでしょうか……。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


クラスメイツ(前期・後期)

ヤマネ:この本は発売された時に、とてもおもしろく読みました。前期の巻は登場人物の紹介という感じで軽い感じでしたが、後期では前期で謎のまま終わっていた問題が1つ1つうまく解決されていったり、クラスメイツ同士の関係の深まりを感じたりして、後期が特に読み応えがありました。知り合いの中学生にも薦めたのですが、クラスにこんな子いるいる!と共感できたり、自分と同じ悩みを見つけてホッとしたり、など楽しく読めるのではと思います。大人が読んでも、中学生の頃を思い出したり、中学校時代の自分と似ている子はどの子だろうと考えてみたり、などいろいろ楽しめると思いました。

レン:おもしろかったです。24人のそれぞれの営み、変化が伝わってきて、本当にうまい文章。ユーモアもあって、堅苦しくなく、読者を選ばず読んでもらえそう。現役の中学生もいいけれど、これから中学に行く6年生に手渡したいですね。自分のクラスのだれに似ているとか、だれが好きとか読めて、中学校生活への希望がもらえます。

ルパン:これはすっごくおもしろかったです。『ラン』(森絵都 講談社)よりこっちのほうがずっといいなと思いました。『かさねちゃんにきいてみな』を読んだあとこっちを読んだのですが、『かさねちゃん』のほうは「今どきの小学生事情」みたいな一時的、同時代的な感じでしたが、こっちは根底に「永遠の中学生」のような、どの時代にも共通する中学生らしい感情、という筋が一本通っていて、大人が読めば郷愁感、子どもが読めば等身大。それに現代っ子らしさがほどよく加わっていて好感がもてました。24人が対等に出てくるのもいいし。どの子のも全部おもしろくて。最初に出てきた子たちは、吹奏楽部に入る話なんだけど、それが最後にまた出て来て演奏する、というつなげ方もうまい。いちばん笑ったのは、レイミーちゃんが泣いたのは、ネズミがシューマイではなくシューマッハだから、と言ったところ。あと、印象的だったのは、ガラス破損の犯人さがしになったとき、ヒロが「でも、ぼくじゃないよ」と言ってすんでしまうシーン。そういう子って、確かにいますよね。文庫で子どもたちを見ていると、いつの時代にも変わらない小学3年生らしさ、5年生らしさ、中学生らしさ、といったものが確かにあります。この話は、リアリティらしさとお話らしさがマッチしていて私は好きです。

ワトソン:森絵都さんはこの年代の子どもを書かせたら本当に上手だなと、期待通りの作品でした。こういった構成自体は最近多くて新鮮味という点はあまりありませんが、それでも読ませるおもしろさがありました。一人一人が個性的に書き分けられ、クラスに起きた事柄をそれぞれの視点で捉えそれがまた全体としてつながっています。だれか一人に寄り添って読む作品も良いけれど、「自分はこの子に近いな」とか、「この子のこういう部分はわかる」というように、何かしら共感を得られるところがあるのではないでしょうか。そういった面で、同年代の子どもたちが読むのに意味がある作品だと思いましたし、この年代を過ぎた人には懐かしく読めるのではないでしょうか。

アンヌ:この作者の本を読むのは初めてでしたが、私は苦手でした。とてもうまく書けているし構成もいいけれど、ある意味、物語が始まったところ、人物の紹介だけで終わってしまっている気がして。読んだ後に、24人分のそれからのことを考えて、眠れなくなって困りました。虫博士の陸くんとか好きな子もいたのだけれど。

すあま:森さんが、大人向けの小説の方に行ってしまったように思っていたので、久々に中学生が主人公の物語を書いたんだ、と思って読みました。語り手を変えて物語が進行する形式の本はいろいろと出ていますが、1990年に出た『トリトリ』(泉啓子著、草土文化)という作品が一番印象に残っています。そのときは新鮮に感じたのですが、今はよくある形式なので、特に新しさは感じませんでした。とにかく人数が多いので、だんだん混乱してきました。印象に残る子はいるんだけど、やはり誰か一人に共感しながら読むことができず、一気に読んだ後に物足りなさを感じました。

アカシア:読んだときは、「ああおもしろかった。森さんのYAの中では一番おもしろかった」と思ったんです。でも、あとでふりかえると、細かい内容は思い出せなかったんですよ。この世界で完結しているから後々まで引っかかる必要がなくて、思い出せないのかもしれません。その時その時で読者が受け取るものがあれば、別に思い出せなくてもいいんですけど。一つ一つの話が全体としてつながっていくのがいいですね。

ajian: 森絵都さんの作品はじつはちょっと苦手だったんですが、これは文句なしにおもしろかったですね。自分の中学生時代のことなんかを思い出します。一口にクラスメイトといっても、仲がいい連中もいれば、あまり会話したことのないやつなんかもいて、同じクラスでもよく知っているといえるのは、何人かなんですよね。この作品は、そういうクラスの子たちの、それぞれの視点から書かれていて、自分が中学生だったらたぶん交わらなそうな子もいるんだけど、そういう人の事情にもちょっと踏み込んでいけるようでおもしろい。前期後期に分かれていて、いろいろな事件があって、1年が動いていく構成もうまいなと感心しました。ビートルズも知らなかったハセカンが、後半の別の章ではクラッシュを聴くようになってたり、ああUKロック好きになっていったのかなあとか、書かれていない部分での成長と変化を想像できるのも楽しい。一番好きだったのは吉田くんですね。吉田くんがいちばん変貌を遂げるんじゃないでしょうか。モテたいから東大に行くとかいっていましたが、中高モテなくて勉強にばかり時間を捧げていると、仮に東大に行けたとしてもあとから「中高のときにモテなかった」というルサンチマンをこじらせることになるので、吉田くんはほんとうに水泳部に入ってよかったな、と思います。完全に感情移入していますが。震災のことがちらっと出てくるのも今の作品だなという感じがします。正直にいって読む前はこれほどおもしろいとは思っていなかったので、食わず嫌いはいけないなと思いました。

レジーナ:中学に上がったときのことを思い出しながら読みました。なかなか学校になじめなかったり、いつも小さな気がかりや悩みがあり、「これまでは何も悩みがないのが幸せだと思っていたけれど、きっとこれからは悩みがなくなることはなくて、それが大人になるということなのか」とふと感じたり……。いじめに負けず学校に通い続けたしほりんが、「強くなった半面、弱くなった部分がある。なにかに勝ったつもりで、なにかに負けたのかもしれない」と思う場面がありますが、「今、辛い」とか「今、楽しい」とか、その場の感情ではなく、こんな風に、ちょっと離れた場所から自分のことを振りかえって客観的に考えられるようになるのが、中学1年くらいの年齢ではないでしょうか。老人ホームでボランティアをする場面は、家族や学校で完結しない外の社会とのつながりが描かれていておもしろかったです。美奈の父親が倒れた時、そういうプライベートなことを、先生が他の生徒に教えてしまうのは、現実ではありえないでしょうね。タボの章に、蒼太が給食のデザートをおかわりしないことが書いてあり、その後の章で、レイミーが、甘いものが苦手な蒼太のための特製チョコレートを作ります。細かな伏線の張り方は、さすが上手ですね。ひとりひとりの人物像がくっきりしていて、『ズッコケ三人組』シリーズ(那須正幹著 ポプラ社)の6年1組を思い出させますが、もう少し深く描かれていると、よりよかったかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


ホープ(希望)のいる町

ルパン:私は今回読んだ3冊のなかではこれがいちばんよかったです。日本の物語にはない設定、場面、ストーリー。翻訳青春モノの珠玉作だなあ、と思いました。

アンヌ:食べ物が出てくる本が好きなので、私も今回の本の中ではいちばんおもしろく読みました。主人公が17歳なのにプロのウェイトレスということに驚きました。高校生の政治参加の場面にも。発達障害の疑いのある赤ちゃんに、哺乳瓶でミルクをあげながら「あなたには愛してくれるお母さんがいる」という場面や、ウェイトレスとしていろいろなお客と接する場面とかに、いい場面がそれほど山ほどあり、感動しました。人と人との関わりを、職業を通して描くのが好きな作家なのだなと思いました。唯一気になったのが、GTが白血病で最後は亡くなり、お弔いの場面が延々と描かれていること。ここが必要かどうか考えたくて、別の作品『靴を売るシンデレラ』(ジョーン・バウァー著 灰島かり訳、小学館)も読んでみましたが、そちらも理想の父親像のような登場人物を交通事故死させお弔いの場面を描いているので、作者は、作品の中で、死を描く必要を感じているのではないかと思いました。

レン:今回の他の2冊とタイプの違う本ですね。話が上手にできていて、読み応えがありました。主人公の気持ちに寄り添って読んでいきましたが、母親に捨てられ、父親も分からず、おばさんに引き取られた女の子が、なんとたくましく、大人なんだろうと。お母さんが自分に残してくれたものが、ウェイトレスの才能と名前というのがおもしろいですね。名前は途中で捨ててしまうけれど、その才能を極めることで、この子は周りの人と人間関係をつくって生きのびていく。おばさんも魅力的。主人公が発達が遅れているかもしれない赤ちゃんに話しかけるシーンなど、上手だと思いました。愛されているということがあると、子どもは強く生きていけると。選挙のことも詳しく書かれているけれど、これって一種の職業小説ですよね?

一同:そうそう。これは職業小説ですよね。

レン:選挙の仕組みはよくわからないところがありましたが、選挙に絶対行かないと言っている人のおかげで、不正がばれるというのもうまい。読ませますね。

アンヌ:原題は過去形なのに、なぜ現在形にしちゃったんでしょうね?

レン:装画は日本の人なんでしょうか? 文章で受けたのとイメージが全然違いました。

ajian:挿画はちょっと安っぽい印象がしますよね。

すあま:日本で出版する場合は、タイトルだけだと内容がわかりにくいので、登場人物のイラストが必要だったのでは。

ヤマネ:読書会で取り上げられなかったら、おそらく手に取らなかった本でしたが、すごく良かったです。

アカシア:自分からは手に取らない本ってありますよね。「新しい場所は新しいものの見方を授けてくれる」なんていう台詞がいいですね。児童書には、希望を感じるまっすぐな言葉がところどころに見つかります。自分でのそれを見つけるのも、本を読む楽しみですね。選挙のところですが、あんまりおもしろく書いた小説が他にないなかで、これはおもしろかった。中高生でもおもしろく読めると思います。

ヤマネ:一筋縄じゃない。感情の表現もいい。ボクシングのサンドバッグをたたきながら、悔しさをあらわす場面が良かった。主人公はお父さんが迎えにくるのをずっと待ち続けていて、けれどそれが全く違う形でやってくる。中高生が読んだら、人生にはそういうことだってあるのだと気づくのではないでしょうか。電車の中でカバーをして読んでいたのだけれど、カバーを取って表紙の絵に驚いた。中高生向けに受け入れやすいように狙ったイラストではないんでしょうか? 文章から感じる表紙のイメージは、あたたかな風景画のイメージだったので、この表紙には驚いたけれど、話の内容は良かった。ウェイトレスの仕事のおもしろさもよく伝わってきました。

レン:混みあってきたらコーヒーをつぎ足すとか。

ajian:原書の表紙、調べてみましたが、こっちのほうが全然いいです。

(一同、表紙の画像を見る)

すあま:日本で出版する場合は、タイトルだけだと内容がわかりにくいので、登場人物のイラストが必要だったのでは。

アンヌ:この表紙絵(日本版の表紙)、他の二人に比べて、GTはうまくイメージがわかなかった。

レジーナ:バウアーの作品にはいつも、置かれた環境で努力する主人公が出てきます。病を抱えながら選挙に立候補するGT、名前を変えるホープ……ままならない現実を受け入れた上で、困難な状況を全力で変えていこうとする登場人物の姿が、押しつけがましくなく描かれているのがいいですね。不正を働いたり、家族や社会の責任を果たさなかったりする人々がいても、ホープはそれにめげず、大切なものをゆずりわたさず、ウェイトレスとしてお客さんを笑顔にします。そしてアナスタシアとの関わりの中で、母親との問題に向き合います。娘のことを顧みない母親も「あんたの人生のたいせつな一部」というアディの台詞がありますが、人を形作るのは、手に入ったものや勝ち得たものだけではなくて、望んでも手に入らなかったものや失ったものもまた、その人の大切な1部だという、作者の生きる姿勢が表れていますね。

アカシア:バウアーは職業とかキャリアを追求している作家ですね。ウェイトレスなんて、おもしろそうな職業じゃないのに、わかってくると「すごいなあ。おもしろそうだなあ」と思えるように書けるところがすばらしい。日本の児童文学の世界では、政治は書かないほうがいいと言われているそうですが、選挙だって、中学生くらいを対象にした本だったら書いたらいいし、世の中はどうなっているかというのも書いた方がいいでしょう。この人はそこもうまく書ける作家ですね。話のもっていきかたもすごくうまいから、選挙のところだけ浮いているようなこともないのがいいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年10月の記録)


濱野京子『石を抱くエイリアン』

石を抱くエイリアン

ルパン:自分の娘と同じ学年の少女が主人公だったので、身近な感覚で読みました。ちょうど中学卒業のときに震災だったり。ただ、辞書を切り取るシーンから始まるところがちょっと……。辞書も本ですから、よほどのことがないと切ったりしないんじゃないかと思ったんですけど、たいした理由もなく家族全員分の辞書を切っちゃうところが、なんだか生理的にいやな感じがしました。あと、いかにも「作家が調べたことを登場人物に言わせている」というのが透けて見えるようなところが随所に見られるのが気になりました。『レガッタ!』よりはこちらのほうがいいですけれど。説明的なところが多いと、お話のわくわく感が止まっちゃってつまらなくなるのがもったいないところです。偉生はけっこう好きでした。キャラがしっかり立っていて。 

レジーナ:私たちの電力は原発に依存しているのではなく、原発は一度稼働すると止めるのが難しいという事実は、これまで知りませんでした。原発を地方に押しつけていることへの作者の強い問題意識が、全面的に押し出された作品ですね。頭で書いている印象を受けました。人物像にもう少し厚みがあり、生き生きと動いていたら、もっとよかったと思います。夏希の存在が、途中から急に薄くなります。原発の問題に気づいた登場人物の一人は弁護士を目指しますが、動機がよくわかりませんでした。これについては、主人公も理解できないと言っていますが……。 

レン:けっこうおもしろく読みました。翻訳だと、こういう文体にはなかなかもっていけないんですね。創作ならではの、中学生のリアルな空気感があって。主人公もほんとうに普通の子で、優等生でもなく、とりたてて取り柄もなく、そして、ふしぎ君の偉生君。こういう子っているよな、と。べったりせず、でも毎日学校で顔を合わせる中学生の感じが出ていると思いました。中学生の読者が読んだら、どう思うかな。何気なく手にとって、震災のことをふりかえって考えるんじゃないかな。いい印象で読みました。 

:日本の児童文学として、とてもおもしろかったです。今どきの文体で始まってありきたりかと思いきや、途中からどんどん引きこまれて。成熟した偉生がとっても好きになったので、死んじゃうのがショックでした。偉生と姉さん以外の子どもたちの関係も良かったですね。青春群像というか、集団の楽しさがあって、足を引っ張り合うでもなく、仲がいい。中学生の現状というのはよく知らないのですが、クラス全員の前で告白をしてもすぐに交際に発展することもなく、まわりも静かに見守っている感じが大人っぽいなあと思いました。キュンとしました。 

アンヌ:なんだか題材が並べられているだけのような気がして、もう一度書き直してもらいたいような気分になりました。辞書を切る気持ちとか、うまくつながっていかなかったです。主人公は、人から見たら面倒見のいい「姉さん」で、偉生から、こんなところやあんなところがいいと言われるのだけれど、どうも一致しない。少女漫画にして、外からこの主人公の魅力をもうひと描きしてくれたらいいんじゃないかと思いました。削られた部分があったのかもしれないとも思えました。偉生は何となく宮沢賢治を思わせる鉱物少年で、魅力的でした。 

ワトソン:今回の3冊の中では私はこれが一番読みやすかったです。文章がすんなりと入ってきました。登場人物の苗字から原発関連の話になるのかなという予想ができました。辞書から「希望」を切りとるところは、新しい版の辞書買うというラストへ結びつけるためのものという印象が残ってしまいました。あとがきから、1995年生まれの子の物語をという依頼だったようなので、この時代について残すという意味で書かれた話なのかなと思いました。そういう意味では意義ある作品と言えると思います。ただ、同じ年に生まれた娘にも感想を聞いたら、幸いこの話のように友達を亡くすというようなつらい体験もしなかったし、ゆとり世代といわれるけれど、世間が思うほど自分が生まれた年を意識することはないと言っていました。 

アカシア:おもしろかったです。2010年から11年という一年間の友だち関係の出来事に、チリの鉱山の落盤事故、ニュージーランドの地震、新燃岳噴火、はやぶさの帰還、タイガーマスクのランドセル寄贈なんていう折々の社会の出来事を織り交ぜて書いているのもいいですね。内側だけの心模様だけじゃなく外の出来事にも目を向けてほしい、という著者の気持ちが表れているのかもしれません。そしてもちろん地震と原発事故が3月には起こります。3.11の後、日本中が動揺していたことを、読みながら私もまざまざと思い出しました。欲を言えば、原発について話し合うところが、やっぱり硬い表現になってしまっているのが残念。やわらかい表現では話せないことだというのはわかりますが、もう少し技術用語を超えたものになっているとよかったかな。もっとも著者は意図的に日常になじまないことをわざと強調しているのかもしれませんが。それから、さっき他の方がおっしゃっていましたが、私も会話の文体のテンポのよさに、翻訳文学だとここまでできないなあと差を痛感しました。たとえば最初の方に「ねえよ、そんなの」という市子の独白があるのですが、翻訳だったら女の子の台詞はこうは訳せない。ここまでやれるとおもしろいですけどね。ちょっと疑問に思ったのは、会話の中では苗字で言い合っているのに、地の文では名前になっている。どうしてなんだろうな、と思いました。それと、辞書を破くというのは、この年代の子どもなら大いにあり得ると思います。 

ルパン:でも、切っちゃったページ、裏に大事な言葉が載っているかもしれないのに。 

アカシア:子どもって、大人の想像の範囲を軽々と超えていく存在だと思うんです。で、児童文学作家なら当然のことながら、そこを書きたいんじゃないかな。 

レン:はやぶさの帰還に「希望、感じるよね」という同級生に反発を感じるのは、わかりますよね。 

夏子:「希望」という歌が上手に使われていますよね。岸洋子さんという歌手は、上手なこともあって、ねっとりとせまってくる感じ。 

:薄っぺらい希望は切り取ったけど、震災や苦しみを越えた後に自分の希望は見える、ということでしょうか。 

アカシア:辞書も後で同じのを買うわけじゃないんですよ。切り取ったのは、岩波国語辞典第六版横組だけど、最後に自分のお小遣いで買ったのは同じ辞典の第七版普通版なんです。だから一歩前に進んでる。 

さらら:濱野さんの作品はもともと大好き。だから期待して読みました。原発事故や、その後に起きたことを書きたいという気持ちはよくわかり、意欲的な作品だと思いました。いっぽうで、冒頭で「希望」という字が出ている辞書のページを冒破った主人公が、最後に、辛いこともあったけれど、行方不明になった友人の「希望」を受け入れる決心をして新しい辞書を買うところに、計算が透けてみえて、やや残念でした。会話は生き生きしていて、軽妙です。なのに、どこかテーマにあわせて書かれたのでは、という意識が読み手の私の心にひっかかって、人物がしっかり動いてこなかった。特に、大震災の後の主人公の心理の動き、喪失からの立ち直りが、すこし早すぎるような気がしました。中学生や高校生が実際に読むと、違う感想を持つのかもしれません。でも大きな喪失、そこからの再生、その肝心のところがまだ十分に書けていない気がします。もともと連載だったので、しかたがない部分はありますが、作家のなかで人物像が完全に熟していないうちに、外に出してしまった印象を持ちました。このテーマで、もう一回書いてほしいな、濱野さんには。 

ワトソン:どうして「石を抱いた」なんでしょうね。

アカシア:「石」と「意志」は掛詞になっています。p178-179に「洋一、変なやつだった、っていわなかったな。洋一の思いが、今ごろになってじんわりと伝わってくるようだった。臆面もなく語る夢。気恥ずかしくなるような希望。/偉生は、意志を抱いていた」ってあります。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


田中彩子『石の神』

石の神

:とてもおもしろかった。差別を受ける人たちの集落の様子も、石を彫るようになる過程も、石の神に魅入られるさまも、模索も。全部。 

夏子:この作品は、時代はいつになっているんでしたっけ? 

:江戸時代ですね。18世紀の終わりです。 

夏子:この作家さん、まだ新人と呼んでいいのかしら? 応援したいと思いました。でも同時に、欠点も目につきます。主人公のひとりの寛次郎は、モーツアルトに対するサリエリではないけれど(素直な若者なので、サリエリとは似ていません)、常識的で優等生的。もうひとりの捨吉は破天荒な天才であって、まさしくモーツアルトですよね。こういう二つのキャラクターの絡み合うような対立が、つまらないはずがない。ただ捨吉のような子どもは、自ら内面を語ったりしないでしょう。だからこちらに視点が移って、捨吉の側から語られるところになると、無理が生じるのでは? 捨吉は、差別されている地域で育てられ、しかしそこの出身者ではないことから、周りの人々が村に戻れるようにと努力する。でもそれを振り切って、放浪の旅に出てしまう。これは、説得力に欠けると思いました。また周りの大人の個性が、もう少し描き切れているといいですね。育ての親、職人の親方、流れの職人と、それぞれ援助者の役割を果たしますが、みんな似ているんです。どの大人も粒立っておらず、平面的な感じがします。 

レジーナ:日本の児童文学の独特の空気感があり、長谷川摂子の『人形の旅立ち』(福音館書店)を思い出しました。人を守るだけでなく祟りもする石神は、土着の信仰の対象であり、善悪を越えた荒ぶる神ですね。ひとつひとつの場面が印象的でした。捨吉の彫った地蔵の気迫、洞窟の中、石仏という圧倒的な力を前にして、自分が空っぽになる感覚にはリアリティがあります。石神に取り憑かれた捨吉が、並はずれた力ですばらしい作品を次々に生み出すことに快感をおぼえる一方、「こつこつと人の世を生きる道に戻れなくなるのではないか」と恐怖を感じる場面には、狂気と紙一重の芸術のこわさがよく描かれています。

ルパン:うーん、これは一度読んだだけではよくわからなかったですね。『天狗ノオト』(理論社)よりはだいぶすっきりしていて、ずっとよいとは思いましたが。私にはちょっと難しかったです。これ、読者対象年齢は何歳くらいなんでしょう。視点が捨吉になったり寛次郎になったりするのだけど、そのバランスがよくないように思います。主人公は捨吉でしょう、たぶん。最初と最後は捨吉なんだけど、間はほとんど寛次郎。どちらが主人公なんだろうと思いながら読み、結局どちらにもあまり感情移入できないまま終わりました。特に、主役であるはずの捨吉の気持ちがよくわからなくて。石神の役割も。結局、捨吉は今後、人を感動させるものを作っていくのでしょうか? 

:もう作らないと思いますよ。 

ワトソン:『天狗ノオト』よりは大分読みやすくなっていて、よかったです。日本古来に伝わる畏怖につながる世界観を書くのがとても上手な作家だと思います。個人的には好きな世界観です。ただ、これを理解するのはなかなか難しいという印象は否めません。特に前半は入っていきにくく、そこを乗り越えれば物語の世界に入っていけると思いました。年齢を考えなければこの作品でよいのかもという印象です。 

アンヌ:石神の謎を解き明かそうと読みこみました。けれど難しくて、参考に前作の『天狗ノオト』も読みました。その結果、太古の神の存在が作者の中心にあるのではないかと思いました。そのうえで、「先生」が龍の絵を描いて説明したときに語られたような、要石のように、太古の神を止めるために、石神があるのではないかと思いました。村を出た捨吉が八つ当たりをするようにいくつも石神を倒したから、自由になった太古の神が捨吉の中に入ったのではないかと。寛次郎にも山の中の神社に行ったとき、そこに閉ざされていた太古の神の誘いがあったのだと思います。捨吉が、仏ではなく、太古の神を思わせる異様な風貌の石神を彫ってしまったり、洞窟の壁を彫りたくなってしまったりするのは、捨吉の中にいる太古の神のせいだと考えました。ただ、そう考えていくと、p203の「石工の掘るのは、神でも仏でもない、こうありたい、こうなるといいという、ただその、ひとのこころでしかないのだ」とある、作者自身の謎ときにうまくつながらない気もします。捨吉が、村から連れ出そうとしてくれた先生から逃げ出し、さらに村に戻らなかったのはなぜか。それは、役人が切り殺された夜に連れ出されたことや、労働をしたことがない先生のぬるりとした手を触ったとき、全然違う別社会に連れ出されそうになると感じたからではないかと思いました。中央とつながりのある、けれど、社会の裏側にあるような世界を暗示しているようで。石工の親方の家で場面では、職人の生活を自由に書いていて、そこを主に会話で成り立たせている所など、池波正太郎の作品にあるような楽しさを感じました。

アカシア:序章の最後で、「はたしておれは、そちらに行かなくてよかったのだろうか」と寛次郎が思っているのですが、これは、捨吉のような天才になれなかったことへの後悔も少しあるっていうことなんでしょうか? 

:寛次郎は捨吉に嫉妬していたけど、石神による力だったと分かって、やっぱりこれでよかったのだと納得しているのではないでしょうか。 

アカシア:p217に登場する背の高い翁は石神なんですね。ここで、寛次郎は申吉を人間の世界に引き戻して、申吉も普通の人になるってこと? 私はおもしろく読んだのですが、序章にもその後にも道に迷う場面が出てきて紛らわしかったり、双助が村に侵入した賊に匕首で切られて負傷したとき、又五郎が村の差別に憤慨するが、具体的に何があったのか書かれていないので、読者はとまどうだろうとか、細かい表現に疑問を感じるようなところ(たとえば、p21の「体を丸めた龍は目を剥いて、頭の後ろをにらもうとしている」)はあって、まだまだ荒削りだなとは思ったのですが、これからきっとおもしろい作品が書ける人だろうな、という予感はありました。カットの絵もいいですね。 

さらら:『石の神』は、『石を抱くエイリアン』よりおもしろく読めました。それは、完成までにかかった時間と関係する部分もありそうです。受賞から8年かけて、単行本の形になるまで、編集者とがっぷり組んで、文章を練り上げていったはず。加筆しては削り、また加筆しては削り、形を変えて、そこからまた書き直して……と繰り返された時間は、「石を刻む」作業に似ている気がします。作者は、書きこむことで、少しずつ見えてきた「像」をさら彫りこんでいったのではないかしら。捨吉が住んでいた「荒れ地」――そこに歴史的な裏づけがあるのかどうかは、わかりません。史実としては疑問をさしはさむ余地はあったけれど、私は、歴史に場を借りた一種のファンタジー、ひとつの物語として読みました。「荒れ地」から放り出された捨吉が、石を彫る親方のもとに転がりこむ。そして寛次郎との友情を育んでいく。「友情物語」として紹介した書評もどこかで読んだけれど、単なる友情物語ではない。そうくくってしまっては、多くのものが抜け落ちます。寛次郎が石を彫るなかで、いつしか求めた素朴な祈りとしての神仏と、捨吉の表現した、闇の中に引っ張りこむ力としての神仏。石があって、人があって、神仏がいる。その三つが、それぞれ「存在」としてリアルに描かれている点に魅かれました。荒削りだけど、「もの」の手触りのあるところが、良さになっているんじゃないかな。 

夏子:もしかして非差別部落が成立するより前の時代なのかな? 被差別部落が成立する以前には、差別を受けているグループがもう少しぼんやりとした形で、あちこちに点在していたということはありませんか? そういうグループのひとつかな、と思って読んでいました。 

アンヌ:おじいさんは、首切り役人の手伝いをしていたとあります。ここが、被差別部落の出身を示唆しているのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


アンドレアス・シュタインヘーフェル『リーコとオスカーともっと深い影』

リーコとオスカーともっと深い影

ルパン:今回の3冊のなかでは、私はこれが一番よかったです。ただ……すごい冒険ですよね。障害のある子どもに一人称で語らせることにまず驚きました。ストーリー性があるので、最後までおもしろく読みました。ただ、最後まで今回のテーマである「石」が出てこないので、この本でよかったんだっけ?と気になっちゃいましたけど。あと、この、リーコのお母さん、いいですよね。

アンヌ:とても、おもしろい本でした。石の謎を知りたくて、続きの2つの巻『リーコとオスカーとつぶれそうな心臓たち』『リーコとオスカーと幸せなどろぼう石』も読みました。楽しくて、何度か読み返しました。オスカーは、リーコを上から見ている部分があったりして最初は嫌な奴だけれど、繊細な部分がわかってくる。知能が高すぎる子どもの立場の難しさもよく書いてあると思いました。本当はうまく文章が書けないリーコだけれど、作者はパソコンで日記を書かせることによって、文章訂正機能で訂正されることにしていて、うまいと思いました。子どもの心の中では、矛盾しないような情景がいくつかあって、例えば、この巻ではないけれど「石を育てる」ことができるということを、すんなり受け入れるところとか、立ち止まらずに、ストーリーがどんどん進んでいくところがよかったと思います。デーナーというファストフードが出てきて、トルコ料理のデーナーケバブ風の食べ物という註が付いていたので、トルコの移民の文化がドイツに根付いているのだなと感じました。 

ワトソン:障害のある子どもを主人公としているけれど、物語の流れとして無理なく読むことが出来ました。四角で囲ってあるところの説明がリーコ的な独特な表現で興味深かったです。翻訳の作品を久しぶりに読んだので、日本のものにはないおもしろさを改めて感じました。ぜひ、続きを読んでみたいです。 

レジーナ:「モグモグちゃん」等、リーコの独特の言葉づかいは本来、作品の大きな魅力になっているのでしょうが、日本語版からは伝わってきませんでした。p18で、リーコがマカロニをフィッツケに見せると、フィッツケが「落ちてきただけか?」と聞き、リーコは「だれが、ですか?」と聞き返すのですが、これはきっとリーコが、名詞の性を人だと勘違いしたのでしょうね。もう少し訳を工夫しないと、日本の読者にはわからないでしょう。p104の「衝立(パラヴェント)」を、リーコは「スペインふうの壁」と説明していますが、何のことかよくわかりませんでした。p122の「ミスター・ストリンガーはミス・マープルのいちばんの友だちなんだけど、太りすぎているだけじゃなくて、ミス・マープルの結婚相手にしては頭が悪すぎるんだ。でも、ミス・マープルにはそうなんだ。」や、p153で部屋が散らかっていることをビュールさんに謝られて、リーコが「かたづけが習慣になっているなら、ママと結婚することになった場合、大歓迎だからだ」と考える箇所は、前後の文脈がつながっていないように感じました。元の文章がそうなのか、翻訳の問題なのか……。リーコの目で捉えた世界を、翻訳にも生かしてほしかったのですが。周囲の大人が、リーコに対等に接しているところや、夜の仕事をしつつも愛情深くリーコを育てている母さんが、道に迷うリーコのために、家からまっすぐ歩いたところにある学校を見つけてくるところは、とても好感が持てました。リーコも愛情を受け止めながら育っているから、すぐに大人に頼るのではなく、自分で問題を解決しようとし、「友達になりたかったのではなく、事件を解決したくて近づいた」と告白したオスカーを、許すことができるのでしょう。3巻まで読み進める内に、私もリーコをそばで見守っている気持ちになり、最後の場面では、数々の冒険をくぐり抜けたリーコの、何てことはないけれど、でも確かな成長の一歩が感じられて、胸が熱くなりました。 

夏子:こういう子どもの一人称で書くのは、冒険ですよね。でもすぐれた作家だということは、よくわかります。完成度の高い優れた作品だと思う。主人公ふたりはもちろん、周りの大人も個性がくっきりとしていて、それぞれ魅力がありますよね。地面に落ちていたマカロニを、おじさんが食べちゃったのには、びっくり。ところが問題は翻訳で、私はまったく気に入りません。何も考えずに訳しているんじゃないかと疑ってしまうほど。リーコの一人称で書かれているわけだけど、いかにも知的障がいのある子どもの文章という風ではいけないと思う。だけどね、一方でこの設定に無理がない、と感じさせてくれないと話が成り立たないでしょ。ところが日本語は、努力した跡が見えません。小学生の男子が絶対に使わないような言葉のオンパレードじゃないですか! 少しだけ例をあげると、p177「足の速い小型車」とか、p178「あまり悪くはない男前」とか、どうしてこういう言葉が出てきちゃうの! 

レン:原語の形をそのまま素直に訳したのかしら。よいと思ったのは、大人も子どももいろんな登場人物が出てきて、リーコがその中で暮らしている感じがよく出ていること。だけど、私も文章に引っかかって苦労しました。冒頭のp5にある「日本の読者へ」から引っかかってしまいました。3行目の「でたらめの思いつきの産物」という言葉、子どもがピンとくるかなと。リーコが、「ときどき頭の中がビンゴマシーンの中みたいにゴチャゴチャになる」という表現も、大人にはパッとわかるおもしろい比喩だけれど、ビンゴマシーンを見たことがない子はイメージしにくそう。p135の「階段室は死にたえたように静かだった」とか、p142「いまいましい6階め」とか、「ン?」と思った表現はほかにもいろいろ。翻訳の問題ではなく、リーコだからこういう表現なのかしら。 

:これ、障がいを持っているという設定にする必要があるんでしょうかね。障がいと冒険の関係の焦点がぼけているし、翻訳もものすごく読みにくかった。つまらなくてわかりにくかった。素直にいいキャラクターだと思ったのは刑事さんだけで、アパートの住人にも魅力がなかったです。 

アカシア:私も、主人公が障がいを持っている設定にする必要があったのか、と疑問を持ちました。この長さで小学生に読ませるとなると、よほどおもしろく翻訳しないとまずいですよね。リーコには知的障がいがあって、オスカーの方は人並み外れて高い知能があるという設定の難しさはあります。でも、残念ながら翻訳や編集にもう一工夫必要ですね。おそらく原文はおもしろく書けていて構成もいいんでしょうけど、それが現状の日本語版では伝わってこない。 

夏子:障がいとプロットの絡みとしては、リーコが人の家に入りたがって、どんどん入っていくところでは? そういう子じゃないと、この話は成り立たないわけなので。 

アンヌ:四角で囲ってある註のような文章は、難しい言葉の説明なんですが、リーコが書いたことになっていて、巻末ではなく、そのまま文章の中に入っているんですよね。リーコのお母さんって、ロシア人でしたっけ。名前がターニャですけれど。 

レジーナ:ドイツ人にもターニャっていう名前がありますよ。

アカシア:このコラムみたいな部分も、本文との関係がぱっとわからないところがあって、もう一工夫したらよかったのにね。ドイツでは小学生が読んでいるのかもしれませんが、日本の小学生は最初の「みっけマカロニ」のところで「何これ?」とつまずくでしょう。かといってプロットが単純だから中学生は読まないでしょうし。難しいですね。タイトルも、「もっと深い」って何と比較して?と、思いました。

アンヌ:作者の「日本の読者へ」が巻頭にありますが、いきなりショーペンハウアーの引用文で始まって、たじろぎました。これは巻末でいいのでは。子どもの時、翻訳小説のわからないところは棚上げにして読んでいた気がします。今回も、読み返すときは、四角に入った註は、飛ばして読んでいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年9月の記録)


ローズの小さな図書館

アカシア:ずいぶん前に読んだので思い出す部分と思い出さない部分があります。5部構成になっていて、4世代のそれぞれの物語をそのうちの4部をつかって書き、第5部で亡くなった登場人物以外の全員がそろうという構成がおもしろい。すべてのエピソードの舞台が図書館ではないけど、本や図書館にまつわる人を4世代にわたって描いています。アメリカの十代の普通の人たちがどんな暮らしをしていたのか、世代をまたがってたどれるところもおもしろかったです。わなにかかった犬の話など印象的なエピソードも登場します。おまけのおもしろさとしては、ホームレスの人が図書館でハリー・ポッターを読んでいるなんていうところ。平日の昼間、行き場のない人が図書館にいくのは、日本もアメリカも同じなのかと思いました。系図があるのでそれを見ながら読んでいけるのもいいですね。大傑作とは思いませんでしたが、佳作。気持ちのよい本でした。

ウグイス:4世代にわたる家族の物語で、最終章で79歳になった主人公ローズの現在が語られています。とてもつらい境遇にありながら、本が大好きで、移動図書館の運転手として本にかかわっていくローズ。どんな運命も受け入れていく主人公の芯の強さに共感を覚えました。最初の章の展開がおもしろく、この子がどうなっていくのかと期待が高まります。その後の章で、ローズの生き方や本に対する気持ちが、次の世代の家族にどう伝わっていくかが描かれています。2章以降は三人称で書かれているのでより客観的に物語が進み、描かれている期間もローズの章より短いので、ちょっと物足りなさも感じるのですが、読み進むにつれ、書かれていない部分にどんなことが起こったのかを想像する楽しみもあることに気づきました。例えば「アナベス」では3人の男性が出てきますが、次の「カイル」の章を読むと、アナベスの結婚相手は別の男性だとわかります。結局アナベスが選んだのはどんな人なのか、「カイル」を読んで知ることになるわけですが、その間の出来事は読者の想像にゆだねられているのです。人物描写は短いながら的確で、読者の想像をかき立てるので、十分に物語の中にひきこまれます。ローズの子ども、孫、曾孫の中には、ローズと同じように本が好きで図書館に通う者もいれば、本とは関係のない生活をする者もいるけれど、どこかで必ず本にかかわっていくところがおもしろい。どの章にも常にどこかにローズの存在があり、最後にローズの夢がかなうというのは、幸せな余韻が残る終わりかただと思いました。
 各世代の描写の中からは、それぞれの人生のほんの一部を垣間見ることしかできませんが、前の章からのつながりが随所に見られるので、読者は満足できます。そういった小さな描写が、その後の章への大切な伏線となって物語に深みを与えていると思います。たとえば、ローズは後に夫となるルーサーに出会ったとき、しわくちゃなシャツが気になるという描写があって、次の章では、ルーサーが「糊のきいたシャツのボタンをとめていた」という1文があり、結婚してローズがパリッとしたシャツを着せていることがわかるわけです。そういうのが、物語を読む楽しみのひとつだと思うし、読者を満足させてくれると思います。また、その時代にはやっていた小説や、図書館の様子にも時代性が見られ、「本」を通してアメリカの時代の移り変わりを感じることができます。日本でも翻訳されている書名が数多く、それを読む人々がより一層身近に感じられました。『大地』から『ハリー・ポッター』まで登場する本は他にないですよね。本や図書館をキーワードにして描いた家族の歴史というのは珍しく、本好きな人の心をくすぐる描写が数多く散りばめられています。図書館がなくてはならない存在であり、図書館員は本の好みを知り尽くした一生の良き友人として描かれているのもよかった。ローズが最初、ぜんぜん本を読まない人に『大地』を紹介して失敗するけれど、そのあともっと軽い本や料理のレシピ本などを手渡したら、その次に行った時には借りたい人を5人も連れて待っていてくれたところなんか、ぐっときました。
 原題、Part of Meはどう訳すか難しいところですが、「ローズの小さな図書館」とすると、ローズだけの物語にも思えるので、ちょっと内容と違うかなという気がしました。時の流れや家族の歴史というニュアンスがほしかったと思います。

ルパン:私もいいお話だと思いました。はじめにローズが出てきて、そのあと何世代にもわたる何十年分かのエピソードが出てくるんですけど、最後にまたローズの物語が出てくる、というのがすごくいいですね。ときどきちょっとわかりにくいところもありましたけど。たとえば、p16。「風車を回して、畑に水をやるのをやめた」という描写があるんですけど、これ、風車は回ったのか回らなかったのか、って悩んでしまいました。それから、ローズと図書館司書をやっていたアーマがずっと独身なのは切ないなと思いました。ローズの家系はつぎつぎに子どもが生まれてそれぞれの幸せをみつけていくのに、この人はずっと移動図書館のなかで人生を過ごしていくんですよね……。

シオデ:良い本だと思います。本でつながる4世代の物語というのも、本や図書館を愛する大人たちには文句なしに受け入れられるテーマですし、章ごとのエピソードも良く描けている。第1章と第2章は、特に良く書けていると思いました。ただ、私はひねくれているのかもしれませんが、おもしろくなかったし特に感動もしませんでした。発想から書き方に至るまで「いい本でしょ? 感動するでしょ?」と言っているような……。優等生的な感じがするんですよね。私は、登場人物が書いているうちに作者の手に負えなくなってしまうような、作者の思惑と違うところにたどりついてしまうような作品が好きなので、あまりおもしろみを感じなかったのかもしれません。書名がいろいろ出てきますけれど、その本が読んだ人の人生にどのように関わってきたかまでは書いていませんよね。その本を読んでいる読者は想像できるかもしれないけれど、本当は「本&図書館=素晴らしい」ということより、どうしてそうなのか、個々の本の力が読者の人生にどんな風に働きかけたのかを書いてもらいたかった。本好きの人にとっては、いまさらいうまでもない、当たり前のことなのかもしれないけれど。ちょっと引っかかったのはp176の「わけのわからないことをわめいているホームレスみたい」という1文。この子(アナベス)って嫌な子だなと、一瞬思ってしまいました。つぎの章にもホームレスの人たちのことが出てくるので、ホームレス(今は路上生活者っていうんじゃないかしら?)の人たちに対する感じ方が時代によって変わってきたと作者は言いたかったのかもしれないけれど、それだったらもう少していねいに書いてもよかったのでは? 原文がどうなっているかは分からないけれど、アナベスは路上生活者一般についてそう思っているのか、それとも特定の、たとえば自分の家の近くにいる誰かについてそう思っているのかもわかりませんでした。

夏子:アカシアさんと同じく、気持ちのいい本だと思いました。私は、表紙が気に入らないんです。この本は“時の流れ”が一つの大きなテーマとなっているのに、この表紙では、それがあまり感じられないのでは? 好意的に言うと、アメリカの移動図書館の車を、日本の読者に見せてあげる必要はあったのかもしれませんが……。本の内容は、最初のローズの章が何と言ってもいちばんおもしろかったです。「大草原の小さな家」シリーズのように、貧しく素朴な生活がリアルに描写されています。だけどこういうリアリズムのよさが発揮されるのは、貧しい時代の素朴な生活でないとだめなんだと思う。世代が代わってローズの孫のアナベスのあたりで、時代は近代ではなくなり現代になりますよね。現代になると、こういうリアリズムで生活を描いても、読者が共通項を持てないというか、共感しにくくなるんだと思う。アナベスの章は、主人公の心理描写になっているし、カイルの章になると、ハリーポッターの本が消えるというミステリーを持ってこないと、ストーリーにならなくなってくる。ええっと、村上龍の言葉を借りると、貧しさゆえの「悲しみ」に共感するのが近代で、個人がばらばらとなったがゆえの「寂しさ」に共感するのが現代とのこと。おおざっぱな言い方ですけれど、悲しみから寂しさへという近代から現代への変化が、1冊のなかで感じられて興味深かったです。
 最後にローズが登場することで円環が成立します。児童文学の中には、ものを書きたい女の子がたくさん登場しますよね。この本では、そういう女の子が年をとり、おばあちゃんになってから本を書くわけです。それをひ孫が読むというふうに時間が一巡りするところも、おもしろかったな。

ajian:好きな本でした。短いエピソードを重ねていくので読みやすかった。わなのところ、漁師のおじいちゃんのコネが運転免許場できいたはなしなど、一つ一つのエピソードが印象的です。こういう構成で書けるなんて巧い。いろいろな書名が挙がっていて、ローズがパール・バックの『大地』を貸して失敗したジュリアに次に『春は永遠』を貸して、とても気にいってもらます。『春は永遠』が読みたくなったけど残念ながら未訳でした。アメリカで有名な本がいろいろ挙がっていて、他の本も見てみたい気持ちになりました。アナベスが結婚したのは第3部には出てこない日系の人なんですが、それってだれ?と思いました。

夏子:日系の方の苗字は「コアミ」ですよね。「小網」さんっていうのかな?

シオデ:作者が知っている日系人の名前かもしれませんね。

ajian:だんだん現代的になっていくのもおもしろい。ベトナム戦争の話や、チャットルームに入り浸る子も、おもしろかった。

ルパン:未訳といえば、私も、『シンデレラの姉』を読んでいてお母さんが夕飯を作るのを忘れる、というシーンがあったので、その本を読んでみたいと思ったんですけど、これも日本では未訳でした。

:ちょっとお行儀がよすぎるかな。本好きに向けて「よくできた本でしょう」と主張しているみたい。本がたくさん出てきて、辛いときには『大地』、読書への目覚めには「ハリー・ポッター」などメンタルと本がリンクしてる。ブック・ピープル向けの工夫や間テキスト性がたっぷりでした。だから、ちょっと作りこみすぎかなと思いましたが、一応はおもしろかったです。ルイジアナだし貧しいし、最初は黒人の話かと思いましたが、白人ですね。クレオール的な言葉やアクセントは土地のもののようなので、翻訳で工夫されていますが、原文が見たいなと思いました。

ヤマネ:夏子先生が先ほど見せて下さった原書のように、時の流れを感じさせる表紙だったら手に取ったかもしれませんが、日本語版の表紙ではあまり手に取りたいと思いませんでした。また『ローズの小さな図書館』というタイトルから、もっと図書館の話を中心に描かれるのかと期待していましたが、実際は違いました。でも、4世代にわたる家族を書いている構成はとてもおもしろいと思いました。最初のページに載っている地図や家系図が読む手助けになりました。本の中で紹介されている名作とお話のつながりを感じられて心に残った場面は、マールヘンリーの章で『黄色い老犬』という本を読む場面。犬が助からないというパターンに陥ってなくて良かったとホッとしました。全体的にはあまり感動できなかったけれど、良い本だと思いました。

げた:私も、タイトルと表紙の絵を見て、もっと図書館を中心にした話なのかと思ったんですが、違いました。アメリカ南部の1940年前後からの子どもたちの様子を描いているんですね。先程リアリズムで素朴な生活が描かれているという意見が出ましたが、第2部の「わな」の描写などは、たしかに南部の生活を感じさせるリアリティがありますね。ただ、それぞれ章が短いので、これから、という感じのところで終わっていて、ちょっと印象が薄くなり、残念です。私ごとで恐縮ですが、ローズは自分の母と同い年で、母の人生とつい重ねてしまいました。

夏子:大人向けのこういう本『チボー家の人々』とか『ジャン・クリストフ』とかは、何て言うんだっけ? 「大河小説」でいいんですか? たいていもっと分量が多くて、何冊にもなっていますよね。これは短いエピソードをつないで1冊になっているので、読みやすくて助かる(?)というか、子ども向けなんだわね。でもこれほど短くても、後半になればなるほど、家系図を見ないと誰が誰だかわからなくなりますよね。

プルメリア:表紙の女の子は落ち着いていて14歳には見えないかな。裏表紙の、のどかな感じが気に入りました。各章ごとの内容が違っていますが、年号が書かれているので時間が経ったんだなと思うとすんなり内容には入れたような気がしました。ローズがミンクを溺れさせる場面など、当時の生活様式がわかり興味深く読めました。物語の舞台になっているアメリカの地図や家系図、作品に出てくる書名のリストがあるのは作品をさらに読みやすくしてくれました。図書館が作品の中にいろんな形で出てきたのがとてもよかったです。

レタマ:最初のローズの物語が一番印象的でした。17歳だとごまかして免許を取るときに、苦手なおじいさんが口ぞえしてくれるエピソード、移動図書館で人びとに本を手渡していく話など、とてもおもしろくて、そこだけをもっと深めてくれてもよかったのにと思いました。章ごとに世代が順々に変わっていく構成は、本を読み慣れている読者でないと読みにくいかな。1930年代と言ったら、日本の人たちはどんなふうに本を手にしていたのでしょうね。アメリカは図書館サービスが古くから発達していたのだなあと思いました。

シオデ:ルイジアナの言葉が出てきたり、それぞれの時代のベストセラーや背景にある事柄が出てきたりするので、アメリカの読者は自分の国の歴史や時の流れ、自分たちの家族について、日本の読者とはちがう感動をおぼえるのかもしれませんね。

ウグイス:地方色というのも一つの特徴なんでしょうね。ルイジアナといえば、アメリカ人なら誰でも知っているような雰囲気があるのだろうと思います。翻訳になるとそこがちょっと伝わりにくいというマイナスポイントはあるかも。以前、作者のホームページだったか、この本の紹介ページのBGMとして明るく賑やかなバンジョーの音色が流れていたんですね。たしかに日本語版のイメージとはちょっと違うかもしれません。

夏子:ルイジアナの地名は、確かブルボン王朝のルイ王から来ているんですよね。スペインやフランスのラテン文化が入っていて、独特な地域ですよね。

シオデ:ルイジアナの言葉の訳は難しかったでしょうね。促音の「ッ」が使われているところなど、音読するときはどんな風に読むのかな? 日本のどこかの地方の言葉を使う場合と、木下順二さんのように創作方言にする場合があるけれど、わたしは創作方言にするしかないと思っています。

夏子:すべて標準語に統一する翻訳者の方もいるけれど、それも味気ないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


ゼバスチアンからの電話[新版]

レタマ:大昔に読んだけど、内容をすっかり忘れてしまい読み直しました。ザビーネの両親の姿が私の両親とあまりにも似ていて、読んでいると息苦しくなるぐらい。何気ない日常の中でのザビーネの気持ちの動きがこまやかに描かれているところがよかったです。最後に家族全員に変化があるけれど、そこに行き着くまでが長いので、山あり谷ありのストーリーに慣れている子どもには、起伏がなくて読みづらいのかも。前はYAの作りだったのが、今回大人の本として再刊されたのはどうしてでしょう。中高校生では読みこなせなくなったから?

げた:福武書店の版で読みました。ドイツでも、すごく(価値観が)古いんだなとびっくりしました。もっとも、原書は1981年の本で30年以上前のドイツのことだから、今はどうだかはわかりませんけどね。ゼバスチアンのお母さんが、ザビーネにゼバスチアンの世話を頼もうと旅行に誘い出すあたりなどは、ちょっと怖いものすら感じましたよ。ただ、最近の若い子たちは束縛されたがっているところもあって、このザビーネのように自分の生き方を貫いていく強さがあるといいなとも思いました。

アカシア:今の若い人たちが束縛されたがっているとは思わないけど、専業主婦が楽だと思っている人はいるかもしれません。楽なほうに行きたいというか。

げた:結果としては同じになってしまうんですよ。だから、若い子たちに読んでもらいたいと思いました。それから、ゼバスチアンっていうキャラクターなんだけど、こういう男っているんですよね。若い女の子にモテて、嫌味なやつが。私はどちらかというとアンドレアスタイプだったんですけどね。

アカシア:白水社版は、せっかく新版にしたのに誤植が多いですね。内容はすっかり忘れていたのでもう1度読みましたが、あまりおもしろくなかった。いかにも古い。ザビーネの恋愛の対象がゼバスチアンかアンドレアスかという2択だけど、今はもっとたくさんのタイプがいるのに。両親の人物造形も類型的。ユーモアがないのもまずい。クソまじめでおもしろくない。トルコ人が出てくるところの書き方にも引っかかりました。今の若い学生が読みたがるとは思えません。作家に言いたいメッセージがあって書いているところが、ちょっと鼻についたりもします。だから楽しくないのかも。

ウグイス:最寄りの図書館には新版は1冊もありませんでした。予算がないからか、旧版が入っている場合には買わないことが多いみたい。訳者やタイトルが変わると買うけれど。原書が出たのが1981年、福武で出たのが1990年。恋愛というより母親からの自立の物語として印象に残る作品で、ヤングアダルトというジャンルが形成された8、90年代には、親からの精神的な自立というのは一つの重要なテーマだったと思います。この黒い装丁も当時はおしゃれで、中学生、高校生ぐらいによく読まれたのだと思いますね。今になってどうして新訳されたのかはわかりませんが……。ザビーネの一人称で書かれていて、時系列どおりに話が進まず、回想シーンが入ったり、気持ちのゆれに合わせて場面が転換していくあたりも、当時は新鮮だったのではないかと思います。

シオデ:たしかに作者の言いたいことが前面に出ていて、今の若い人たちには古いと思われるかもしれないけれど、私はおもしろく読みました。大人の読者には、共感できる部分も多いのではないでしょうか? だから、いま大人向けに出したというのも分かる気がします。新版なのに誤植が多いのは、私も気になりました。

アカシア:あとザビーネがとてもいやなキャラクターよね。

シオデ:弟をのぞいては、みんな、それほど好感を持てるキャラクターじゃないわね。それが、けっこうリアルだと思ったけど……。

アカシア:キャラクターが立体的でないのは、やっぱりイデオロギーが先にあるからじゃないかしら。

夏子:まあ、それなりにおもしろく読みました。ただ最初からずっと、気に入らない気に入らないとひっかかりながら読んでいて、何にひっかかるのだろうと、考えていたんです。結局、イデオロギーが先行しているからだと思い当たりました。ザビーネの母親からの自立と、母親本人の自立、それが平行して描かれているところが、いちばん興味深かったです。とはいえ今読むと古くて、子どもが読んでおもしろいとは思えないなぁ。ティーンエイジャーの恋愛が描かれていて、セックスにひかれているということだってあるはずなのに、そのあたりはまったく無視していますよね。読んでいて「そんなもんじゃないだろう!」と不満でした。

ajian:イデオロギーはたしかに先に立っているし古いところもあるけれど、2歳年下の同僚は、「すごく分かるところがある」と言ってました。ゼバスチアンはいやなキャラクターですが、こういうやつは今もいるので、アクチュアルな感じもこの本は持っていると思います。さっさとそういう男から卒業して幸せになってもらいたいと若い女の子には思っているけど。

夏子:だけどね、ゼバスチアンからすると、「あなたのためになります」という女の子に迫られたら、まるでお母さんがふたりできるみたいで、すごくうっとうしいと思うよ。ゼバスチアンが逃げたくなる気持ちも、よくわかる。

ajian:ぼくやげたさんは男性なのでゼバスチアンに辛口なんだと思う。

夏子:そんなにいやなやつじゃないと思うけどな。

ajian:デートDVとかしそうじゃないですか。

アカシア、レタマ:そういうタイプじゃないよ。

アカシア:サビーネみたいな、お世話します系はどうですか?

レタマ:でも、ザビーネが、相手に合わせようとしてしまって後で悔やんだり、勇気のない自分をお母さんと同じだと思ったりするところは、おもしろかったです。恋人の前で、自分が思っていたことと違うことを言ってしまったりするあたり。

夏子:そうそう、そのあたりはよく書かれている。

:おもしろかった。のめりこんで読みました。ザビーネは、ピルの心配など大人びているところもありますが、その大人っぽさゆえに、免許を取って仕事を得て家計を支えはじめるお母さんの姿や、得意科目以外は勉強しないベアティの男の子っぽさをとてもよく見ています。で、このお母さんは、一昔前っぽいけれど、案外今でもいそう。だから、高卒で就職か大学進学かという悩みは現在とはちょっと違うけれど、古さはほとんど感じなかったです。ゼバスチアンはいやなやつですね。でも、彼はあまり関係ない。最後に、自分から電話をかけるザビーネは、ゼバスチアンかアンドレアスに選ばれるという2択ではなく、自分自身で決めるという第3の選択ができている。立派な成長です。

アカシア:古いと思うのは訳し方のせいもあるのかも。こういうお母さんもゼバスチアンみたいな人もまだいることはいるけど、「〜わ」で終わる口調などはいかにも古い。

レタマ:一つ思い出したことですが、この頃の「電話」のドキドキする感じが、今の人にはわかりにくいかもしれませんね。当時は携帯電話もメールもなく、長距離電話にはお金がかかって、顔を合わせていない時間は連絡がとりにくかったし、電話の会話は家族に筒抜けでしたが、今はぜんぜん違うので。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


カレンダー

レタマ:同じように家族を扱っていても『ゼバスチアンからの電話』と非常に対照的でした。あちらの両親は古きよき家庭にありがちなキャラクターですが、こちらは型にはまらない人々が次々と出てくる。日本の児童文学は大人の存在感が希薄なものが多いのですが、これは大人がたくさん描かれていて新鮮でした。しかも、若い登場人物だけでなく、おじいちゃんやおばあちゃんも、読み進むにつれて変化します。料理やレッサーパンダやダーツなど小道具づかいに、人びとのさまざまな価値観が感じられました。20年前に書かれているのに、古い感じがせず自由で、かえって今の若い書き手のほうが保守的な価値観にとらわれている感じしました。ひこ・田中さんには、こういうYAをもっと書いてほしいと思いました。

ヤマネ:ひこ・田中さんは評論家の印象が強くて、作品は初めて読んだんですが、とてもおもしろかった。内容も新しい感じがする。福音館書店から発売されたのは今年2014年で、もともとは1997年に書かれている本ですが、全く古さを感じなかった。福音館書店版は表記の仕方や本のつくりが新しい感じで実験的な部分がいろいろあると感じました。たとえばp139の家の中の座席の表現など縦書きの文章のなかにいきなり図版が入ってきて驚きました。他ではバナナシェイクの文字だけ太字になっていたり。最初に装丁を見た時は斬新だと思いましたが、お話の内容を読んだら合ってますね。対象年齢になっている小学6年生はどういう感じで手に取るのでしょう。もしかしたら対象はもう少し上の中高生あたりかも。日記や手紙などの入れ方も上手だと思いました。

げた:昔文庫で読みました。文庫版のあとがきで作者自身が冒頭シーンが相当いい加減と言っているんだけど、全体に筋の設定が何となく無理やりな感じがしますね。それに、人物像もはっきりしないですよね。林君との初恋も、彼女が彼のどこにどういうふうに惹かれたのか、わかりません。筋的には突拍子もないところから始まって、おもしろい展開ではあるんですけどね。ちょうど40年前に京都に1年いたので、その頃のことを思い出しながら読みました。

プルメリア:独特の雰囲気を持つ女の子の挿絵と背表紙や表紙の一部分がキラキラしているのが印象的です。手紙があったり日記があったり、未来の自分への手紙があったり、会話文が長く挿入されていたりなどさまざまな構成が組み入れられている作品だなと思いました。ダーツは家庭にあったりダーツバーがあったりしますが、中学校の部活でやるのは難しいかも。方言、お寺、地名から京都が身近に感じられました。

アカシア:いろいろなキャラクターが浮かび上がるように書いてあります。谷口極などのキャラクターは、書かれた当時よりも今の方がリアリティがあるかも。ふつうこういうYAは同世代のやり取りしか書いてないけど、さまざまな大人との対話が書かれているところがいいですね。リアルな家族というよりは、理想が書かれている。イデオロギーが先にあるというふうに言えなくもないのだけど、『ゼバスチアンからの電話』などとちがって翻訳物じゃないので、日本語の魅力で引っ張っていくことができる。内面を書くとき、ふつうは会話や行動で書くものですが、日記や会話を使うのはちょっとずるいかな(笑)。読んだときはそれほど気にならなくて、仕掛けとしておもしろく感じたんですけどね。

ウグイス:冒頭で、主人公が赤ん坊の時に両親を交通事故で亡くしたと書いてあり、ああ作者は親のいない話を書きたかったんだな、とわかりました。両親ではない大人との関係を書いて成功していると思います。いろいろな人がいて、いろいろな価値観があるというのが分かり始める年代の子どもの気持ちがよく書かれていますよね。大人顔負けの考え方をする、ちょっとひねくれてはいるけれど、明るく前向きで、へこたれない女の子像というのは、90年代の特徴かもしれません。

ルパン:私はこの本は楽しめませんでした。吐く場面から始まるし、せっかく声かけた女の子に「なんか文句あんの?」っていう大人が出てきた時点でもう…。しかもこの人たちを家に入れちゃって、ずっと物語が続いていくんだけど、ぜんぜん共感できないから、このあとどうなるんだろう、っていうワクワク感もなくて。

シオデ:私も、冒頭から吐いたり、下痢をしたりする場面に生理的な嫌悪感をおぼえたのと、京都弁が多用されるのが字にすると騒がしくて、途中で読むのをやめてしまいましたが、何日かたって続きを読んだら、今度は一気に読めました。世代も環境も違う人たちと触れあいながら成長していくのは、理想というよりむしろリアルなんじゃないかな。そういうリアルな触れあいを書いたところが新鮮で、なかなかいいなと思いました。でも、新版の最後にある現代の部分は、いまの読者に読んでもらいたいという配慮なんでしょうが、本当に必要なんでしょうか? それから、おばあちゃんは、とっても魅力的なんだけど、最後にサークルを作って雑誌を発行するというのは、つまらないところに着地したなと・・・。

アカシア:そこは、あるあるなんじゃないですか? わざとそうしてるのかも。

シオデ:いるけど、だからがっかりしたというか。

ajian:台詞や文体でひっぱるおもしろさや、それぞれの日記や手紙で内面がぽんと出てきたりするおもしろさがあって、ぐいぐい読めました。コンセプトが先にあっても、けして類型的なキャラクターはなくて、主人公の女の子も不思議な魅力があり、ひょうひょうとしています。私はガッツがある子が好きなので、吐いている人にけりを入れてやろうかというあたりに、いいぞと思いました。かといって短気というわけでもなく、魅力的。なかなかおもしろかったです。最後の章はなくてもいいかな。

:『お引っ越し』『カレンダー』『ごめん』も読んだし、映画も見ましたけど、やっぱり、ひこさんは評論や書評がいいのでは。舞台にしている京都については、生活的な部分があいまいで、ひこさんが大学時代に過ごして知っている部分だけが突出しているようで、気持ちが悪い。日記とか『ヴォイス』など、書くという行為も、結局、ひこさんが知っている世界なだけですよね。その上で、登場人物にひこさんの理想を投影しているだけ。リアリティがあまり感じられない。

シオデ:俗にいう京都のいやらしさもよく出ているんじゃないですか。主人公が、修学旅行の生徒のふりをするところとか。

ajian:個人的には、この本を読んで京都に対する好感も上がりました。

シオデ:私は、京都でずっと暮らしていた上野遼さんの作品がとても好きなんだけど、上野さんの作品は、またちょっと違いますよね。この作品に出てくる人たちって、おじいちゃんは元大学教授だし、翼の両親と転がりこんでくるふたりは、関西の名門大学の卒業生だし、いわゆるインテリ(今は死語かも)ばかりってところがちょっと鼻につく……。

アカシア:慧さんがリアリティがないとおっしゃったのは……。

:海と極に両親の服を着せるところは、つくりものめいている。

アカシア:服はそうかもしれないけど、海と極みたいな人はいるのでは?

:あと、この生活の余裕感は今はないですね。ちょっとアルバイトしたりとか……。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年7月の記録)


ロス、きみを送る旅

トトキ:キース・グレイの作品を読んだのは、これが初めでですが、とてもおもしろかったです。友だちの遺灰を盗んで、その少年の行きたかった場所に撒きに行くというストーリーですが、主人公ひとりで旅に出る設定にすると、なんとも暗くてやりきれない物語になったのではと思います。ズッコケ3人組みたいな、それぞれ個性の違った少年たちが旅をすることで、ユーモアもあれば奥行きもある話になっていると思いました。翻訳が上手なので、人物がそれぞれくっきりと描かれていますね。読みはじめたときは、「ったく、男の子って!」と思いましたが、亡くなった少年が果たして事故死だったのかどうかという疑問が出てきて、それぞれの少年に対する後ろめたさが描かれていく中盤から、男の子も女の子もない、普遍的な物語になっていきます。そのへんも上手いなあと思いました。ただ、死んだロスという少年は、「いじめ」のように何か強い理由があって死にたくなったというより、いろいろなことが重なって死に魅かれていったような感じがします。だから、事故だったのか、自殺だったのかは、なんとなくぼんやりしていて、はっきりと書いてないですね。そこのところが、かえって妙にリアルな感じがしました。作者のあとがきを読むと、その点がはっきりしてくるんだけど、創作ものは作品のなかで完結してほしいという気持ちが、ちょっとしました。作者が自分の作品を解説するのって、あんまり好きじゃないです。

レジーナ:登場人物がくっきりしていて、ひとつひとつの場面が印象的で、とてもおもしろく読みました。自分の体形を時々皮肉り、場に合わせて人とうまくやっていける主人公は、3人の中では一番大人ですね。旅と友情がテーマになっていたので、『シフト』(ジェニファー・ブラッドベリ著 小梨直訳 福音館書店)を思い出しました。p283に、「今までは、自分たちがどんな目にあうかということだけ心配していて、ほかの人をどれだけ傷つけるかという点は、あえて考えないようにしていたのだ」という文章があり、自分の行動が周りの人にどれだけ影響を与えるかを考えることができ、他者性をきちんと持っているのが、『シフト』のウィンとは違いますね。大切な人を亡くしたとき、周りの人たちの言うことが見当違いに思えたり、自分だけが、その人を真に理解していたのだと思ったりするのは、よくありますよね。「周りは分かっていない」という気持ちが、「大人は分かっていない」となるのは、この作品の主人公が15歳だからでしょうね。旅を経て、鉄壁だと思っていた友情も変わり始めます。「ロス」という名前には、「失われたもの」や「二度と戻らない子ども時代」の意味が、こめられているのでしょうか。「果たして自分が何を求めているのか、はっきり分かっているわけではないが、旅を通じて失われたものを取り戻そうとする」というのが、作品の骨組みにあるのでは……。翻訳も読みやすかったです。p40の「窓にハマらないで出てこられる?」は、「窓につかえずに」「引っかからずに」でしょうか。少し不自然に感じました。

ヤマネ:3人組の男の子がいて、一人亡くなって、お葬式が納得いくようなものでなくて、自分たちだけがロスのことをわかっている、まわりはわかっていないという思いから、骨壺をもって、亡くなった友達と同じ名前の「ロス」という場所をめざすというストーリーの根幹がおもしろかった。最後まで止まることなく読めました。なんとなく感じることなのだけれど、男の子のほうが、女の子よりも表面的に友達を見ているところがあるかもしれないと思います。自分は友達の深いところまで見ていないということを、男の子のほうがあとになって気づくのかなあと、このお話を読みながら感じました。旅を通して、友達の深い部分に気づいていったり、自分自身も嘘をついているということに気づいていくところがおもしろかった。ロスのため、と言いながら、それぞれがロスに後ろめたいことがあってその気持ちからロスの灰を運ぶという行動に向かったことを、自分自身も最初は気がついていない。最後に気がつくところが心に残りました。男の子(少年)同士の精神的なところでの友情の亀裂を描いた作品を、これまであまり読んだことがなかったんです。日本の『夏の庭』(湯本香樹美著 新潮文庫)と少し設定が似ていると思いましたが、こちらで描かれている友情はもっとさわやかで読後感がすがすがしい。今回、男の子同士のぐちゃぐちゃした気持ちの揺れやぶつかり合いが新鮮でした。

さらら:ロードムービーを見ているようでした。最初、主人公がロスの家に骨壺を盗りにいく時、姉のキャロラインの存在が気になっていて、ためらっているけれど、結局、彼女の目の前で持ち出してしまう。ぬけぬけと馬鹿な行為を始めてしまうところに、思春期の少年らしさを感じました。道中、お金を落として、主人公たち3人組がにっちもさっちもいかなくなるあたりは、まさに定番の流れですね。その後、親切な青年たちの出会い、いきあたりばったりのバンジージャンプと、盛りだくさんの出来事のなかで、仲間同士のわだかまりが少しずつ明らかになっていく。死んだ友達のことを、どう受け止めたらいいのかわからない、というのは永遠のテーマで、その死に対して周囲の人間が罪悪感を抱くのも自然なことなのだけれど、それをどう描くか。キース・グレイは、書きながら自分でもロスの死に立ち会い、泥まみれになって、結末までなんとかたどりついたのではないでしょうか。答えが最初からあるのとは違う、体当たりの書き方が、ティーンエージャーの共感を呼ぶのでしょう。個人的には、もう少し思考を深めたところから書かれた作品が好きですが、これはこれでありだと思います。

レジーナ:ロザムンド・ピルチャーの短編で、上の方の階級の女性が亡くなったとき、火葬にすると死亡広告にわざわざ書いてある場面がありましたね。骨壷の出てくる話では、『ヴァイオレットがぼくに残してくれたもの』(ジェニー・ヴァレンタイン著 冨永星訳 小学館)もあります。

さらら:骨壷という「物」があることで、死を具体的に感じられる。死というものの分からなさを、なまのまま、ぶつけることができる。死体を運ぶのは大変だけれど、自分たちのやり方で骨壷を盗んで弔おうとする行動なら、実現可能だし、若い読者にも想像しやすいのでは?

トトキ:もしかして、上流階級の人たちは今でも土葬だけど、庶民は火葬になったのかも。

ハリネズミ:東京は今は土葬はできなくなってますよね。広い場所が必要だからかもしれないけど。でも地方にはまだ土葬できるところがあるようですね。

すあま:読み終わったばかりなので、まだ感想がまとまっていませんが…。身近な人が亡くなって、残された人がいろいろと考えたり、つらさや悲しさを乗り越えていく物語は他にもあるけど、事故だと思ったら自殺だった、という展開がめずらしいと思いました。これを読んで思い出すのは、『だれが君を殺したのか』(イリーナ・コルシュノウ作 上田真而子訳 岩波書店)。両方を読み比べしたらおもしろいかもしれません。ラストは、少し物足りない感じでした。最後にあえて3人をばらばらにし、そのうち一人はそのまま出てこないで終わってしまう。余韻を残して途中で終わるので、ラストの良し悪しの感想が人によって違うのではないかと思いました。家を飛び出してお金がなくなり、でもそのまま旅を続ける、というひと夏の思い出のような楽しい話ではなく、主人公たちが友人の死という大きな問題と謎を抱えているのが、似たような物語とは大きく違うところだと思います。旅でそのつらさが癒されるわけでもなく、何度も思い出してしまう。日本は、自殺する人が多いし、もし自分の身近な人だったら、何かできたのではないかなどと自分を責めたりすると思う。この物語は残された人たちの心情がよく描かれているのではないかと思います。結局ロスは自殺だったのか?と思いながらあとがきを読むと、作者自身が死のうと思った経験があることが書かれていて、やはり自殺なのか、と思いました。

ハリネズミ:徳間書店は、日本の読者へのメッセージを著者にたのんでいるようですね。

すあま:この本は、感想文を書いたり、ディスカッションをするための課題図書に向いているかもしれない。いろいろなテーマを取り出すことができるので。

げた:タイトルを見て、「きみを送るって」なんだろうかと思って手に取りました。男の子3人組がハラハラドキドキしながら、読者を連れて「ロス」まで行くんですよね。3人の関係性が、いろんな行動の中で、明らかになっていくんですね。ロスまでの道のりが遠くて、どんどん曲がり道に行っちゃうし、最後までハラハラさせてくれました。結局ロスが自殺だったかどうかはわからないのだけど、最後の部分で修理したパソコンのデータからロスの遺書かもしれない書き込みが出てきたんですね。本当に自殺したのかは、よくわからないですけどね。作者のあとがきはなくてもよかったんじゃないかな。言わなくてもわかってますよ、と言いたくなりましたね。

さらら:父親が、自分の夢をロスに押し付けていたことも明らかになります。ロスが、父親の書きためていた原稿のデータを消してしまったということも。あとがきの件は、確かにげたさんの言うとおり!

げた:ストーリーを追うだけでもおもしろかったです。主人公たちは中3か高1ですかね、日本の同年代の子たちに比べると行動力があるような気もしますね。

ハリネズミ:私は骨壺を盗んでいくっていうところに引っかかりました。死者を忌む感覚っていうか、そういうものがないんでしょうか? 日本の子はこういうことはしないと思うけど。ロスについては具体的にどういう人物だったのかが、あんまり書いてないので、この子たちが骨壺を盗んでまで旅に出ていくだけの背景がよくわからなかったのですが、読んでいくうちにわかってきますね。じつは後ろめたさがあったということなんですね。

さらら:だれかが死ぬと、周囲の人間はその理由付けどうしてもしたくなります。亡くなった本人にも実際にはわからない理由であっても、理由を付けることで、周囲はその死が自分の心におさまる場所を作り、「そうだったのか」と自分を納得させます。ロスの死も、単純に誰かが、何かが悪かったのではないわけで、そのわからなさを抱えて生きていくことが、大人になっていくことなのかもしれません。読者をここまでひっぱってきて、解決のあるようないような結末には、やや物足りなさを覚えますが、現実の感覚にできるだけ忠実に書かれた作品なのでしょう。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


あたしって、しあわせ!

げた:この本の主人公ドゥンネは決して恵まれた境遇にいるわけじゃないですよね。お母さんは「遠くへ行っちゃてる」しね。けれど、とっても前向きなんですよね。1日の終わりに、ひつじの数を数える代わりに、幸せだったことを思い出すなんて素敵だな。絵がいい。絵を見てるだけで、十分楽しめますよね。

ハリネズミ:いっぱい入っている絵から、雰囲気が伝わってきますね。

げた:とっても、気に入った本の1冊です。読後感がいいです。自分も幸せな気持ちになれるような気がします。

すあま:北欧の作家ってうまいな、と思いました。訳者の菱木さんがよく訳しているウルフ・スタルクの作品を思い出しました。中学年くらいの子ども向けでしょうか。

ハリネズミ:主人公のドゥンネは1年生ですね。ちょうどこの頃の子どもの気持ちがほんとにじょうずに書けています。

すあま:大事なことを年齢の低い子どもにもわかるような形で上手に書いている。悲しいこともあるけれど、楽しいこともいっぱいあって、その時その時の主人公の気持ちがていねいに書かれてるので、そこに寄り添って読んでいくことができました。時代や国に関係なく、だれにでもあるようなことを書いているので、読みやすいのでは。最後も幸せな気持ちで終わるので、とてもいいお話でした。

ヤマネ:淡々としたことばで進んでいくけれど、すごく打たれる箇所があって、ああやっぱり児童書っていいなあと心から感動しました。仕事でもお薦めの本にしました。年齢設定はちょっと難しくて、出版社HPでは小学1、2年生からとあるけど、小学2年生の後半から3、4年生ぐらいがこのお話を理解するのにふさわしいかな。はじめは主人公の女の子の幸せなエピソードが続いていきますが、p52ぐらいから、ママが亡くなった時の話が出てきたり、クラスメートの永久歯を折ってしまって悩んだり、子どもの悲しみや辛さがうまく描かれている。自分が子どもだった時に感じていた気持ちをたくさん思い出しました。一番ぐっときたのは、親友のエダフリータが転校してしまった後に、転んだ場面で、転んだことが悲しいのではなくて・・・というところ。

レジーナ:作者は、子どものときに感じたことや不思議に思ったことを、よく覚えているのでしょうね。入学したばかりの頃、せっかく楽しみにしていた宿題がなくて、がっかりしたり、仲良しの友達と物の取り合いでけんかをしたり、入れ歯を見てびっくりしたり…。私も子どものときに、同じように感じたのを思い出しました。エッラ・フリーダが引っ越した後、主人公は転んでけがをしてしまいます。なにもかもうまくいかないような、やりきれない気持ちがよく伝わってきました。スウェーデンの学校には、「くだもの週間」や「やさい週間」があるのですね。他の国の暮らしを知ることができて、おもしろかったです。日本では、6月が食の教育月間ですが。エヴァ・エリクソンはすばらしい画家ですね。表紙では、どんよりとした雨空の下を、二人で一つの傘をさして楽しそうに歩いていて、黒い傘の内側から、光と花がこぼれています。ふたりでいたら、どんなときも幸せなんでしょうね。エッラ・フリーダの長靴の模様がドクロなのも、彼女の性格が分かるようで、おもしろい。お調子者のヨナタン、エッラ・フリーダが引っ越した後、空っぽの机をじっと見つめるドゥンネ、そんな様子をちゃんと後ろから見ている先生……文章に寄り添い、作品世界を生き生きと浮かび上がらせています。ちょっとした仕草や表情で、登場人物の気持ちが伝わってくるんですよね。2014年は惜しくも国際アンデルセン賞画家賞を逃しましたが、次回はぜひとってほしい!

さらら:短い物語なのに、子どもの気持ちをよく表しています。絵本から読みものに移っていく過程で、安心して手渡すことができる本だと思う。この世代向けの翻訳作品の難しさは、日常に身近な物語であればあるほど、海外の日常生活を、どう日本の子どもに自然に理解してもらうかという点です。ここでも、「クネッケ」などの食べ物に、少し説明が加えられています。また、日本とは違う学校でのできごと(たとえば「くだもの週間」など)は、括弧に入れて、さらりと繰り返しています。なじみのない言葉の説明は、翻訳の過程で入れている部分もあると思いますが、押し付けがましくなくて好感が持てます。入れ歯が出てくるところで、「入れ歯が痛いときは、水につけておくといいよ」と、ドゥンネが友だちにアドバイスしたり、パパにモルモットを買ってもらったときには、「モルモットはウンチばかりしているのです」という描写があったり。そういった小さな部分にユーモアがあり、さまざまなエピソードにも、大人の子どもに対するさりげない愛情を感じました。子どもだってけんかするし、けんかをしたあとは、苦労して仲直りもする。そんな子どもの内面までしっかり描かれています。親友のエッラ・フリーダが引っ越してしまったあと、ドゥンネはすっかり落ち込んでしまいますが、でも少しずつ自分で友だちを作り、自分で何かを考え、まわりに気持ちを伝え、うまくいくという経験を積み重ねます。その、自分ひとりでがんばった時間があったからこそ、親友と再会できる喜びが、いっそう大きく読者に伝わってくる。構成のうまい作家で、スウェーデンの児童文学はやっぱり奥が深いと思いました。

ハリネズミ:これだけ子どもの気持ちをしっかりわかって書いている人って、日本だと神沢さんくらいでしょうか。

さらら:ひとつだけ、「復活祭」に注が入っていないことが、気になったのだけれど……。

ハリネズミ:ここは、お祭りなんだなということがわかればいいと思ったんじゃないかな。

トトキ:ほとんど全部言われてしまいましたね。私も、すごい作品だなあと思いました。小さい人たちの心の動きを、本当に繊細に描いていますね。

さらら:ほんとうに、品がいい物語。

トトキ:ずっとふさぎこんで、ひっこんでいた主人公が、思いきって積み木の山に腰かける。ここもいいけれど、その騒動で男の子の歯が折れてしまう。そのときの主人公の、奈落に突き落とされたような、目の前が真っ暗になった気持ち、よくわかります。そのあとの入れ歯のくだりや、主人公が一所懸命に書いた手紙も、じんわりとしたユーモアがあっていいですね! それから、ちょっとADHDっぽい男の子がクラスにいて、先生がじつに親身になって面倒を見ているということもさりげなく書いてあって……。

ルパン:とてもよかったです。『わたしって、しあわせ!』のタイトル通り、幸福感でいっぱいになります。子どもの本はこうあるべき、っていう見本みたいで、ひさびさにスカっとした読後感でした。出てくる人がみんないい人で。

さらら:しかも、ひとりひとり個性が強くて、味がある人たち。

ルパン:そう、それぞれに不満や事件もあるのですが、根がいい人ばかり。そこがすごくいいと思います。

ハリネズミ:私もみなさんと同じ感想を持ちました。特におもしろかったのは、p101で、ヨナタンとドゥンネがリンゴやバナナに貼ってあるシールを食堂のマットの裏に貼ってるでしょう? この年代の子どもらしさが生き生きと浮かび上がってくるところですけど、こういうエピソードって、なかなか日本の児童文学には出てこない。リンドグレーンにしてもマリア・グリーペにしても北欧の作家は特にこういう場面を書くのがうまいですよね?

すあま:本質的なところを書いているので、古くさくならないと思います。

プルメリア:子どもの日常生活がわかりやすく、身近に感じます。今、シングルマザーやシングルファザーが増えていますが、お父さんの少女に対する関わりがさりげないようだけどとっても温かいです。お父さんとの暮らしで、子どもが幸せだって感じているのが作品から伝わってきます。p116ではモルモットが大きくなっており、モルモットたちから少女を見ている挿絵が素敵。いろんな子がいて、それがいいなって思います。表紙の挿絵 どくろの長靴もかわいく外国の感覚がわかるので気に入りました。

ハリネズミ:幼年童話って、学校での生活体験が国によって違うから、翻訳が難しいってよく言われます。でもこの本を読むと、ドゥンネの通っている学校では、<パン週間>で、パンについてのあらゆることを習ったり、<ジャガイモ週間>で、ジャガイモのことをいっぱい習ったりしてます。日本とは違う勉強の仕方があって、それも楽しそうだなって思えたら、日本の子どもの視野も少し広がりますよね。

げた:余計なことかもしれませんが、学校で子ども同士のトラブルで歯を折ったりしたら、日本では大変でしょうね、保護者対応の後始末なんかでね。

ajian:本国では、同じ主人公が出てくる次回作も出ています。

さらら:この本は、緑陰図書に選ばれてますね。幼年童話のジャンルでは、原書を見て「この本なら訳したい!」と思うことがなかなかないんですが、そういう意味でも、うらやましい作品……。

さくま:絵を見ればいろいろわかるから、1年生でも読めるかも。

さらら:レイアウトは原作のまま?

ajian:原書をちらっとみたかぎりでは、だいたいそのままだったと思います。

ハリネズミ:大人も子どももちゃんと書けているのがいいですね。

さらら:単純な文章のようですが、じつは会話よりも描写文が多く、心に深く入ってきます。力がある作家ですね。

ハリネズミ:菱木さんの翻訳もいいですねえ。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


ラン

げた:初版(理論社)からはかなり表現を削って、分量が少なくなって新しく出されたようですね。

ルパン:おもしろかったです。亡くなった人と会う、というのはすごく難しい設定だと思うのですが、前に読んだ『母ちゃんのもと』(福明子 そうえん社)と比べたら、こちらのほうがずっとまともです。親に死なれるって、若い人にとっては大変なことだと思いますが、その気持ちも書けていて。死んだ家族と会っているけど、こんなに仲いい家族だったっけ、とか家族のリアリティにも踏み込んでるし。無条件にいいことばかりではなかったことを冷静に思い出すんですが、わざとらしくなくて。あと、「走る」っていうことで、知らない世界を知っていくわけですが、ゼロから知っていくパターンって、説明調で鼻につくストーリー運びもあるけれど、これはそんなにいやらしくなく、読んでいて、疲れなかった。あと、醤油飲んで自殺はかるおばさんがおもしろかったです。YAものの脇役としてはずいぶん年上ですよね。そのうえ最初から敵対関係なんだけど、何となく距離が縮まっていくあたり、主人公に感情移入できました。それに対して、ドコロさんは、よくわからなかったです。その罪悪感も、罪ほろぼしの論理も。

ハリネズミ:ペースメーカーをしてもらった後輩が心不全で亡くなって「ひでえ罪悪感にとりつかれてさ。そいつへの罪滅ぼしのつもりで走るのをやめた」って、書いてありますよ。

ルパン:ラビットが死んでしまったからといって、自分まで走るのをやめちゃったのは、どうしてでしょう。やめたら、その人の死を無駄にしたような気がするんですが。

ハリネズミ:天才ランナーとか言われるレベルの人だと、ペースメーカーがつくことも多いんでしょうから、また同じことになっちゃまずいと思ったんじゃないかな。

トトキ:最後まで、すらすら読めたのは覚えています。あの世とこの世を行ったり来たりするという点は、同じ森さんの『カラフル』に似ていますね。エンターテインメントとしては、おもしろく書いてあると思うけれど、どういったらいいのか「死ぬ」ということに対する切実な感じがないのがひっかかるんですよね。一緒に読んだ『ロス、きみを送る旅』(キース・グレイ作 野沢佳織訳 徳間書店)は、「死」が身を切られるほど切実なものとして迫ってくるんだけど。なんていったらいいか分からないけれど、物語がすべて作家の掌の中にあるっていう感じ。心を揺さぶられる作品って、登場人物が作家の手に余るというか、勝手に掌から飛び出していくような感じがあるんだけれど、みんなお行儀がよすぎるというか……。

ハリネズミ:『カラフル』は、死んだ人が生き返ってきますね。

トトキ:『カラフル』は設定がうまかった。出たときは、こっちとあっちを行き来する作品もそんなになかったし。

ハリネズミ:でも、この作品では行ったり来たりを肯定してるんじゃなくて、無駄ですよって言ってます。

ajian:うーん、私にはあまりおもしろくありませんでした。突拍子もない設定や展開など、お話をつくるのはうまいと思うんですが……。この作者の『カラフル』もあまり私好みではなかったので、合わないのかもしれません。登場人物も好きになれないというか、みんな書き割りのようにパターンで分けられていて、今ひとつ物足りなさを感じます。「キリストもブッダもアッラーも一休さんも言ってなかったんだよね」とか、作者は冗談のつもりで書いているんだろうけれど、とくに笑えないってところもいっぱいある。「生きていかなきゃ」というテーマにつなげた、全部がオハナシな感じがする。

ハリネズミ:大人が読むとそうかもしれないけど、中学生くらいの子どもはおもしろいんじゃないかな。深く考えることはできないかもしれないけど、考えるきっかけにはなるように思うな。

ajian:長いので読むのもたいへんだけど、読み終えたあとは呆然とするというか、徒労感があって。最近日本の作品はあまり読んでいないから、感覚が違ってしまっているのかもしれないですが。

レジーナ:作者はきっとこの作品で、それぞれ悩みを抱えたり、傷つけたり傷つけられてりしながら、生きている人は生きている人たちで、何とかやっているということを伝えたかったのでしょうね。生者も死者も、お互いに気がかりだけど、心配しなくてもいいというのは、子どもというより大人の視点ではないかと思いました。桜並木を走る場面では、新しいことを始め、止まっていた時間が動き出す様子、家族のことを少しずつ忘れていくことへの恐れが伝わってきました。おもしろく読みましたが、生者の世界と死者の世界がもう少し絡み合っていれば……。二つの世界があまりにもかけ離れているんですよね。最初は重要人物に見えた紺野さんも、途中から存在が薄くなります。家族が亡くなり、紺野さんも引っ越してしまい、紺野さんのくれた自転車のおかげで、死んだ家族に会える。理屈は通っているんですが、頭で書いているのかもしれません。家族に会うためにマラソンを始めた主人公を非難し、自分の考えを一方的に押しつける大島君には、腹が立ちました。後から反省はしますが。同居を始め、「タマ」と呼んだおばさんに、「猫を飼うような気分なんじゃ……」と思ったり、おばさんを「装甲車」と表現しているのはおもしろかったです。文章はちょっとくどいですが、高校生くらいの読者には読みやすいのかな。

ajian:いや、「生者は生者で生きていきましょう」とか、浅いと思ったんですよね。そんなに簡単な人間観とか死生観でいいの? と思ってしまいました。私にとって小説が魅力的なのは、そこに描かれている人物に、どうしようもない人間味を感じてしまうときで、正直に言って、ここに出てくる人物たちが死のうが生きようがどうでもいいと思ってしまいました。一言でいって、心に迫ってくるものがなかったんです。

ヤマネ:森さんの作品は好きなんですが、『カラフル』と『ラン』はあまり好きではありません。『リズム』『宇宙のみなしご』などは、きらきらした少女の気持ちがよく描かれていて大好きなんです。軽さが受け入れやすいのか、小学校高学年の女の子たちからも人気がありました。ただ生と死の話になると、設定から受け入れるのが難しくて。また、タイトルが『ラン』なのでもっと走ることが描かれた話かと思ったら、そうでもなく期待外れでした。読む人の好みにもよるかもしれませんが、苦しいことをもっと深く描いてそこから立ち上がる主人公の姿を読みたかったな。主人公の置かれている状況は、すごく辛い状況なのに、それがあまり伝わってこないから。一方で、生と死の世界をつなぐレーンの説明はつじつまが合うようにうまくできているとは思いました。

すあま:子どもの本ではなく、大人の小説だと思って読みました。自転車があの世に連れて行く、という設定や描写をうまく頭の中に描けず、話に乗り切れませんでした。天涯孤独の主人公があるきっかけで走り始める話、ではだめだったのか、新しい人間関係ができていくところを丁寧に書けばよかったのではないかと思いました。はたして死んだ家族のところを行き来する必要があったのか、と考えてしまいました。1冊にいろいろなことを盛り込みすぎのような。おもしろいキャラクターも出てくるので、ちょっともったいない感じがしました。

げた:今回は私が選書係だったんですが、最初の2冊が決まっても、あと1冊、日本の本がなかなか見つけられなくて、本屋さんの棚で見つけたんです。最初の部分で、紺野さんと主人公の出会いと別れの箇所を見て、テーマにつながるかと思って読み始めました。ストーリーとしてはありえないこだし、言ってみれば荒唐無稽ですよね。ありえないけど、ランニング仲間とのやりとりは現実的な、ありそうなストーリー展開でリアルなファンタジーですね。エンターテイメントとしては、おもしろかった。死んだ人がファーストステージにいる段階で溶けていき、次のステージに行って、生まれ変わるというのもなるほどと思いましたね。人間年をとると、死ななくても、実際既に溶けているんじゃないかなって。

プルメリア:『ラン』なので『DIVE!!』(森 絵都 講談社)のようなスポーツ青春ものなのかなと思ったら、そうではなかったです。真知栄子さんとのバトル、どちらも譲らない強い女の人ですね。猫が死んだときに猫と椅子をうめ、庭を掘り返したときに作業着姿の男に「猫がいませんでしたか」って尋ねると、「わからない方がいい」と答えられ意味深な感じでしたが、何故かネコは紺野さんがお骨として持っていました。奈々美さんと真知栄子さんは意思も口調も強くおばさんパワー?がたくましい感じ。「穴熊(アナグマ)さん」名前の設定もおもしろい。

ハリネズミ:私、ユーモアは大事だと思うんですけど、おやじギャグみたいなレベルでも中・高生に受け入れられるのかどうか、ちょっと疑問でした。あと、ネコは紺野さんの飼い猫だから、息子のところにまず行くんじゃないかな、なんていう疑問もありました。

げた:ちなみに、醤油は、戦前、徴兵逃れのために体の具合をわざと悪くするために飲んだ人がいたということを聞いたことがあるんですが、死ぬためじゃなくてね。

トトキ:江戸時代に醤油飲み競争をして亡くなった人がいるって話は聞いたような……。

ハリネズミ:エンタメだと仕方ないんだけど、マチエイコを除くと、人物像がステレオタイプかな。

げた:エンタメとして書いたんじゃないですか。

ajian:マチエイコが主人公のほうがおもしろいんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年6月の記録)


はじめての北欧神話

げた:北欧に伝わる神々のお話ですね。世界に何もなかったときから、神様が生まれて、神様が鬼になったり動物になったり、そのあげく、世界中が焼きつくされ台地が海に沈んでしまい何もなくなってしまう。けれど、最後は大地がよみがえり、今生きてる人々の先祖が登場し、次々と新しいいのちを生み育てていった。今いる自分たちは生まれ残ったすばらしい人間の子孫なんだという、誇りを持ってもらい、楽しく読んでもらえるようなお話になっている。神様が突然タカになったり、ヘビになったり、ビジュアル性があるので、アニメーションになったらおもしろいんじゃないかな。テレビも本も無かった昔から、語り伝えで、伝わってきたんじゃないかな。当時は大きな娯楽の一つとしてあったんでしょうね。北欧の子どもは、この本にのっているようなお話を常識として知っているのかな。日本の神話は民族主義的で、楽しむところまでいかない気がするけど。

ハリネズミ:私たちが子どもの頃は、日本の神話は国家神道と結びついているというので教えるのをためらっていた人たちがたくさんいました。でも今は、右翼の出版社だけでなく、普通の出版社が、特に古事記はお話としておもしろいんじゃないかというんで、出版しています。松谷みよ子さんが再話した『日本の神話』(のら書店)もあるし、竹中淑子さんと根岸貴子さんが再話した『はじめての古事記』(徳間書店)や、こぐま社の『子どもに語る日本の神話』もあります。絵本も、舟崎克彦さんが再話して太田大八さんが絵をつけたものなど、いろいろ出ています。

げた:こんな感じで楽しめるならいいですね。

ハリネズミ:2年前に出た『はじめての古事記』は、スズキコージさんの絵がいいんです。

ヤマネ:北欧神話は、これまで岩波少年文庫で出ているものなど高学年のものしか見たことがなかったんです。ちゃんと評価しようと思ったらそういうのと比較しないと分からないところもあるので、難しいほうも読んでくればよかったですね。しかし低・中学年向けに出されたということで、ふりがながふってあるし字が大きめで、読みやすかったです。神様とはいえ、いたずらや争いがあり、人間と変わらないところに子どもたちも興味をもって読めるのではないでしょうか。出てくる登場人物がカタカナの名前ばかりで、覚えづらい点はありました。

ハリネズミ:登場人物リストがあった方がいいのかな。菱木さんは、ラグナロクを「ほろびの日」、ユグドラシルを「宇宙樹」、アースガルズを「神の国」というふうにずいぶんわかりやすく言い換えています。ブリージンガメンも「首かざり」としていますけど、そう言えばアラン・ガーナーの作品に『ブリジンガメンの魔法の宝石』(芦川長三郎訳 評論社)というのがありましたね。あれも北欧神話が下敷きになってたのかな。それと、菱木さんは本文でも、ただ神様の名前をぽんと出すのではなく「みのりの女神フレイヤ」とか、「海の神ニョルズ」とか、「いたずらもののロキ」「うつくしい光の神バルドル」などとちょっとした説明をつけて書いています。ずいぶんと工夫されているので、私はとても読みやすかったです。

レジーナ:読みやすい文体で、北欧神話の魅力が伝わってきました。太陽がなくなって、世界が滅びるというのは、北欧ならではの世界観ですね。主役の神々の敗北があらかじめ定められた神話は、ほかにあまりないのでは。C・S・ルイスは、上級生にこき使われた辛いパブリックスクール時代、北欧神話が支えになったそうです。運命を知りつつ、最後まで誇り高く雄々しく振舞う姿に、惹きつけられたのでしょうか。横暴な巨人に抵抗する神々に、自分の姿を重ねていたのですね。J・R・R・トールキンは、北欧神話を下敷きにファンタジー世界を創造しました。今回の作品は、北欧神話の重厚な世界を映す挿絵であれば、もっとよかったです。しかしルイスも、自分の読んだ北欧神話の挿絵はよくなかったが、それでも心惹かれたと語っているので、物語としての力を持つ神話を語るのに、挿絵はあまり問題にならないのかもしれません。ゲームや映画をきっかけに北欧神話に興味を持つ子どもは、結構いるのではないでしょうか。北欧神話を探していた中学生に、K・クロスリイ-ホランドの『北欧神話物語』(山室静・米原まり子訳 青土社)をすすめたことが何回かあります。

ハリネズミ:私は神話を読むのが好きなので「エッダ」や「サガ」も読んでおもしろいと思ったんですけど、原典のままだと流れやつながりがよくわからない。この本は、菱木さんがまとまりをつけて読みやすくしているので、流れもつかめていいと思いました。北欧のことや北欧神話のこともよくわかったうえで、言葉をかみくだいているのがわかって安心できます。

ルパン:まだちゃんと読んでいないんですけど、おもしろかったです。ぱらぱらと見たなかで、カワウソに化けて殺されちゃう家族のお話があったんですが、なにも悪いことしていないのに、かわいそうだと思いました。神話とか名作とかを低学年向けに書くのはむずかしいと思うのですが、これはたいへんよくできていると思います。

プルメリア:岩波書店の『北欧神話』(P.コラム作 尾崎義訳 岩波少年文庫)とは、違う感じ。寒い場所にもかかわらず神様がダイナミックで迫力があります。登場人物の性格がはっきりしていてわかりやすい。いろいろな神々や巨人族、小人族などが次から次へと登場してくるのでおもしろさがありますが、読み進めるとだんだんいたずらもののロキ以外はわからなくなりました。登場人物の紹介があると読みやすかったかなと思います。素敵な表紙で、男の子はゲーム感覚で読むのではないかと思いました。

すあま:北欧神話やギリシア神話は一般教養として知っていないといけないものだと思うので、読みやすい本があるのはよいと思います。ただ、小学校中学年向けの本だと思うけれど、登場人物の名前が難しいので、キャラクター紹介のようなものがあるとわかりやすくなるのでは? 小人族、巨人族などが出てくるので、『指輪物語』(トールキン著 瀬田貞二ほか訳 評論社)の好きな子に薦められます。巻末に北欧神話の本の紹介があるので、興味を持った子は、そこからさらに読み進めることができるのではないでしょうか。

ハリネズミ:ただ置いておいても子どもは手に取らないかもしれないので、手渡す人が重要ですね。

すあま:教科書にも昔話や神話が出てくるので、出版も増えているのかな。古典だけでなく、文豪の作品なども読みやすい本が出てくるとよいと思います。

ハリネズミ:夏目漱石を、ストーリー中心に書き換えるとか?

すあま:書き換えるっていうより、芥川龍之介の短編などを手に取りやすい形で出してくれたらいいな、と。太宰治の作品も、最近ではマンガ風のイラストを表紙にしたのがありますよ。

ハリネズミ:そこまで軽くしなくても、文豪は文豪でいいんじゃないの。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


紫の結び(一)

ルパン:古典をやさしく書くということにおいて、どんなところがポイントになるのか、今日はみなさんのご意見をうかがいたいと思って来ました。これは小学生向けなんでしょうか?

ハリネズミ:中学生じゃないですか。

ヤマネ:対象年齢は、出版社の表記だとヤングアダルト〜一般のようです。

ルパン:もともと知っている話だから読めたんだと思います。『源氏物語』をまったく知らない中高生が読んでもわかるのかなあ。実は、私は知っているといってもマンガで読んだんですよ。『あさきゆめみし』(大和和紀 講談社)。あれはよくできてました。これを読みながら、マンガの絵がうかんできちゃいました。ところで、この『紫の結び』の中では、歌の部分は現代語訳だけ書いてあるのですが、私としてはもとの和歌を書いてほしかったです。著者の萩原さんは古典に強いのかな。ご自分で原典を読んで歌も訳したのでしょうか。

一同:国文科出身の方ですからね。

レジーナ:マンガの『あさきゆめみし』は、源氏物語の大筋を知るには良いけど原典と異なる部分もあると、聞いたことがあります。一方『紫の結び』は、荻原さんが、原典になるべく忠実に語ろうとしている様子が感じられますし、読みやすい現代語になっています。源氏物語は、大学受験でも、これが読めれば他の古典は読みこなせると言われるほど難しいので、古文を学ぶ受験生が一読するのに最適の副読本になるのでは。注釈をなくしたのは画期的ですが、「上の局」「斎院」「わらわ病み」等、日常では耳にしない言葉を、子どもがどこまで理解できるか……。古典オタクの高校生・大学生ならばともかく、自ら進んで読んでもらうのは難しいかもしれません。

プルメリア:地元の渋谷区の図書館でこの作品を予約したところ1冊しか入ってなくて私はリストの3番目でした。残念ながら順番がきませんでした。

げた:以前、与謝野晶子の現代語訳を文庫版で読み始めたことがあったんですけど、すぐに諦めました。今回やっと読み通して楽しめる本に出会ったと思ったんだけど、これまでの本と同じくらいしかわからなかった。筋はなんとなくわかるんだけど。楽しい読み物として読むまでいかなかったな。読まされているという感じがあってね。和歌が訳しか掲載されていないんだけど、元歌があった方がいいな。感じがつかめるから。

ヤマネ:まずパッと見て装丁がいいなと思いました。美しい本。おそらくこの本を一番手に取るのは、大人の女性ではないかと思います。もしかしたら古典好きの子は手に取るかもしれませんが…。『源氏物語』は、実はこれまで読み通せたことがないので、ようやく読み通せるかもしれないと期待しているところです。和歌を省いているところについては、止まらずに読めるのでスムーズに進むと思いました。和歌のところで立ち止まって想像するのも楽しみの一つではあるんですけど。

すあま:『源氏物語』は、日本人として読むべきだと思っていて、これまでもいろいろな人の現代語訳を読んでみたけれどなかなか読みきれず、今度こそ…と思ったけど、やはり今ひとつ話に乗り切れませんでした。これは紫の上を中心にして、読みやすくなるように再編しているのが特徴だけど、結局この話自体がおもしろくないのではないかと思ってしまいました。光源氏にしても、マザコン、ロリコンで、行動が共感できないし…。登場人物に共感したり、光源氏をかっこいいと思えればおもしろいけれど。全体的に不幸な人や満たされない人ばかり出てくる印象があります。すでにあるけど、マンガにして登場人物を美しく描いた方がおもしろく読めるのではないかと思いました。もちろん荻原さんの作品が好きな人は読むと思います。

ルパン:光源氏って、あんまりおもしろくない男ですよね。美人が好きで、若いのが好きで、ステレオタイプすぎる。

ハリネズミ:勝手気ままに楽しんでいた光源氏が晩年にしっぺ返しを受けていく。そこがおもしろいんじゃないですか。年をとって真剣に悩み、深みが出てくる。実はね、私はある時田辺聖子さんが源氏物語について講演なさっているCD(新潮CD 講演)を聞いて、全体像をつかんだんですよ。30枚以上のCDを、少しずつ家事をしながら聞いたんです。でも最初の方だけだと、女たらしが出てくるだけで女性が読むと反発を感じるだけなのは、よくわかります。

すあま:講演のCDでしょうか?

ハリネズミ:連続講演で、途中で冗談なんかも入るので、楽しくてわかりやすいんです。この本の歌のところですけど、やっぱり私も訳だけでなく、カッコつきでもいいからオリジナルの歌があったほうがいいと思いました。リズムや言葉のもつ力のようなものは、訳だけだと伝わりませんからね。たとえばp223ですけど、直訳風なので「たいそうかわいい」感じがなかなか伝わりませんね。そういう意味では歌だけでも原文があると、雰囲気がもっとわかるんじゃないかな。これから角田光代さんの現代語訳も出るとのことですが、そちらは歌はどうなっているのかしらね。

すあま:人物相関図があるとわかりやすいんだけど。

ハリネズミ:書ききれないのでは? 『北欧神話』でもそう思ったけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


今昔物語集

ルパン:物語ごとにテイストがずいぶん違いますね。会話ばかりの章もあるし。子どもにはこういうほうがわかりやすいんでしょうか。

げた:令丈さんの言葉で語っていて、とっつきやすいですね。今の子どもたちには、伝わり易いんじゃないかな。『紫の結び』は、原典に忠実に再現しているけど、この『今昔物語』は令丈さんの作品になってる。この本に収められているお話の中では「瓜とふしぎな老人」が楽しめました。CGとかアニメでもおもしろく再現できそうですね。「羅生門の老婆」は、気味悪くて、小さな子どもにはわかりづらいかもしれないけど。

ルパン:『芋粥』のあとで、『まんじゅうこわい』を引き合いにだしているのはどうしてでしょう。ちょっと話が違うんじゃないかと思うんですが。

げた:私もそう思いました。言葉づかいは今の言葉で、とっつきやすい。

ハリネズミ:最近はストーリー中心の再話が流行っているようですね。外国のものだと、中には原文を参照しないで再話する人もいるみたいです。一時は、子どもの本の抄訳や超訳が批判されて、完訳で読みましょうと言われていたのにね。文学ってストーリーを追っただけじゃ本当の良さがわからないと思うんですよ。この本は、それとはまた違って、令丈節がしっかりできていて、そこがおもしろいんですね。

ヤマネ:日本の古典の現代語訳もさかんで、今度河出書房新社から「日本文学全集 全30巻」が刊行される(2014年11月刊行開始)ようです。そこでは『古事記』が池澤夏樹さん訳で、『源氏物語』が角田光代さん訳だそうです。古典を現代の作家によって今の人たちに読みやすいものとして受け継いでいく流れがあるんですね。この『今昔物語』は、世田谷区の図書館は所蔵が1館だけだったので、借りることができませんでした。公共図書館では、この本を入れるかどうか選書でゆれているのかもしれません。私は以前学校図書館で働いていたんですけど、子どもにはまず出会わせることが必要だと思うので、この試みには賛成したいです。古典はきっかけがないと、子どもたちはなかなか手に取らないから。出版社も、子どもに出会わせることを目的として出版したんでしょうか。

レジーナ:表紙に現代的な美男美女が描かれていますが、当時の美的基準は、今とは大分違うのでは? 「芋粥」の五位殿も、「もっさりしている」と悪口を言われていますけれど、そうした男性が、当時はもてたかもしれませんし。p9では、女性の容姿を、「スタイルがいい」とほめています。体のラインを隠す着物を着ているのに、スタイルも何もないのでは……?

プルメリア:昨年小学校5年生の担任をしました。私がこの本を子どもたちに紹介したら、歴史好きの男子がこの本を購入して読んでいました。古典にはあまり目が向かなかった子どもたちがこの作品を読み始めています。令丈さんの名前で興味を持ったことや表紙がかわいいとかも手にとる大きな理由かも。令丈さんの文はわかりやすく、目次にもまとまりがあり、一話一話の後に書かれている説明文もとってもよかったです。このシリーズは10巻ありますが、この作品がいちばんいいなと思いました。

ハリネズミ:令丈さんなりのまとめ方をしているところがいいですね。一話一話の後のあとがきで視野が広がるし、モデルはどんな人だったのかとか、ほかの作品へのつながりなどおまけの情報もあるので楽しい。ちゃらちゃらした会話がふんだんに出てくる話とそうでもない話があってトーンがいろいろですね。欲を言えば、もう少しトーンを統一してほしかったけど、古典への架け橋と思えばそれもいいのかも。学校図書館には、古典のシリーズが入っているんですか?

プルメリア:私が勤務している小学校の図書館には『21世紀によむ日本の古典』(ポプラ社)が入っています。

すあま:『今昔物語』は読みにくい話ではないので、ここまで今の会話風の文体にしないで、普通の現代語訳でも楽しめるのではないかな、と私は思いました。このシリーズでは、金原さんの『雨月物語』も、おもしろかったです。あまり手にとられない古典、知られていない古典の場合にはこういう工夫もありですけど…。時代を今に置き換えているんなら、こういう会話でもよいと思いますが、そうではないし、無理に言葉遣いを現代風に変える必要はないのでは? はやりの言い回しを使った場合、時間がたつとかえって古くさく感じてしまうこともあるし。

ルパン:わざわざ「メインストリート」に直さなくても、「大通り」の方がわかるのに。

げた:手に取りやすさはありますよ。内容も言葉も読みやすい。

ハリネズミ:「わらしべ長者」の話にはキャピキャピした会話が出てきませんね。

すあま:令丈さんの本が好きな子だと、令丈さんが書いているから、という理由で読むこともあるかも。

ハリネズミ:入り口になればいいですよね。

ルパン:今回読んだ3冊の本は、これが「令丈ヒロコ 著」、『紫の結び』が「萩原規子 訳」、『はじめての北欧神話』が「菱木晃子 文」となっていますが、文、著、訳はどう違うんでしょう?

すあま:原作を元にして創作したら「著」、原作をそのまま翻訳したり現代語訳にすれば「訳」、北欧神話の場合は複数の本を参考に書かれたので「文」なのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年5月の記録)


林業少年

げた:タイトルは流行の「なんとか少年」や「なんとか男子」を使って、目をひこうとしたのかな。内容は社会科の林業の副読本を読んでいる感じで、登場人物も画一的な物言いだし、それぞれの登場人物の立場で台詞が決まっている点でおもしろみに欠けますね。楓は卒業後の進路海外留学ではなく林業を選んだけど、そうさせたものが先輩との出会いだけなのは弱い気がする。林業の行く末に関しては具体的なイメージさえ提示されず、これで楓ちゃん大丈夫なの?と思う。具体的に何に惹かれたのか分からない。いまいち見通しがはっきりしないのに大丈夫かなと思ってしまう。時代的に設定は今なのだと思うけど、50年前の話みたいで古い感じがしますね。私が子どもの頃から林業をめぐる状況はこうだったように思います。私自身の話ですが、田舎の姉が山持ちの方と40年前に結婚したんですよ。当時はすごいなと思ったけど、結局、今は山もあるだけで切り出すのにお金がかかる現状で、お金にはならないんですよね。それに、私の身内に「相対」を仕事にしている人がいるんですけど、あんまりいい感じの人じゃなくて、ふっかける感じの人なんですよ。あんまり、いいイメージはもってないんですけどね。全体に現実味に欠けるかな。

アカシア:学生に環境について伝えようと調べてるときに、PARCのビデオ『海と森と里と つながりの中に生きる』っていうのを見たんです。それでわかったんですけど、日本の政府の林業政策はひどいですね。日本では戦時中に木を乱伐したので、戦後は政府が拡大造林政策というのをとって、もともとあった広葉樹林を伐採して建材に使う針葉樹をめいっぱい植えなさいと指導したんです。必ず儲かるからと言って。で、どこもかしこも人工的な針葉樹林にしてしまった。でも、その後政府が方針を転換して安い木材をどんどん輸入するようになる。それで、日本の林業はたちゆかなくなったんです。おまけに広葉樹林の実を食べていた獣たちも食べるものがなくなって村里に出て来るようになるし、花粉症も広がるということになったんです。今、クマとかイノシシなんかが人家の近くまで出てきますが、昔は山と里の間に広葉樹林があって木の実がたくさん落ちていたからそんなことはなかったんですって。林業が衰退するのも当たり前ですよね。1本切り出して50万円じゃ割りに合わないですよね。

げた:最後の百年杉としたらなおさら。

アカザ:だから、主人公のお母さんは怒ってるんですね。

アカシア:ふだんから下草刈りとかいろいろあるでしょうし、切るとなっても伐採のお金とか馬の運搬費などかかるから、100万円でも割りが合わないんでしょうね。

アカザ:年金をもらいながらの道楽でないとダメってわけですね。

アカシア:この本では未来に希望を持たせるような書き方ですが、実際には難しいのかもしれません。作者も林業をやっている方のようなので、作者の希望も入っているのかも。

さらら:人物がステレオタイプ化している気がしました。強烈なキャラクターが、ひとつくらい入っていてもいいのに。おじいさんも穏やかだし、お母さんもちょっと怒りっぽい程度。少年は姉の選択にドキドキしますが、すぐに解決してしまう。少年が家族思いで、お利口すぎて、悪くないけど読んでいて先が見えてしまう。物語としての計算が透けていて、おもしろさが今ひとつ。描写は一生懸命だけど、「ずんだもちの甘さで…(p12)」など、ていねいに書こうとしているけど少し浮いてしまっている。家族がなんとか持ち直すところに積み木のたとえで出てきますが(p148)、少年の意識を追った表現としては不自然な気も。このたとえを入れるなら、せめて位置をもう一工夫してほしかった。「女でも(傍点)林業ができる」という発想が女性の側から出ていますが、さらにつっこんで、「女だからこそ」できる新しい林業を書いてほしかったな。ただ、はっとさせるほど、いいところもあります。たとえば、p69の喜樹とかえでが杉に抱きつく場面。切る直前の、杉のいのちを感じるところはとても好きです。悪い本ではないけれど、手法の点、視点の点で、全体にちょっと古い印象を受けてしまいました。

:私が古いと感じたのは、楓が美人なところです。美人じゃないとうまくいかないのかと。十人並じゃだめなのかと。作者は、女性ですか、男性ですか?

さらら:女性です。

:そうなんですか、おじさんみたいな視点を感じました。お父さんもお母さんも仕事を持っているから、暮らしのお金には困っていなくて、道楽のように山を持ててますよね。でも、山や林業に希望を持たせるためには、お姉ちゃんをあれほどまでに美人に仕立てないといけないのかと思いました。だけど、林業の実際については納得しましたし、おもしろかったです。家が古くて立派なところがよかったです。磨き上げられた床とか銘木とか。

レジーナ:『神去なあなあ日常』(三浦しをん/著 徳間書店)も林業を扱っていますね。

アカザ:私、こういう仕事の詳細をしっかり描いた作品って好きなんです。子どもたちも、物語の中ほどの林業の実際を描いた場面なんか、興味を持って読むと思います。私も、生き生きした描写だと思っておもしろく読みました。でもでも、そこにたどりつくまでがね! 文章が古くさくって、なかなか物語に入りこめませんでした。なぜかなって考えたんですけど、主人公が小学5年生で、地の文もその子の目線でずっと書かれているんだけど、どう考えても小学5年の男の子の感性じゃないんですね。たとえば、p30のお姉ちゃんの部屋の描写でも「ドアのすき間から、安っぽい化粧品の匂いがただよってきそうで」とか、その後に出てくるおばあちゃん手作りのサツマイモのかりんとうが「素朴な甘みとかりかりとした歯ごたえが後を引いて、いくらでも手が伸びる菓子だった」とか、おばさんぽいっていうか、おっさんぽいっていうか……。それから、この物語の芯になっているのは楓っていうお姉ちゃんで、主人公の喜樹はずっと傍観者というか観察者なんですね。それなら、いっそのこと楓を主人公にしたほうがよかったのでは? それから、林業の現在とか未来が、この一家の問題だけに終わってしまっているような感じがして、「大変そうだけど、山を持ってて、立派な家に住んでて、跡継ぎも決まったようだし、よかったね」という感想を、ついつい持ってしまいそうで。もっともっと大きな問題があるんじゃないかな。そういう、広い世界の、大きな問題につながるようなところまで書いてほしかったなと思います。

アカシア:最初が法事の場面で、そこに親族の名前がわーっと出て来ます。そこに関係性の説明がほとんどないので、ちょっと混乱しました。主な登場人物は後を読めばわかるのですが、主な人だけでも少し説明をいれてもらうと、最初からイメージできるのでいいんじゃないかな。

アカザ:編集の問題かな。

ルパン:正直あまりおもしろくなかったですね。おもしろくない理由は皆さんがおっしゃるとおりで…そう、そう、と心のなかでうなずきながらお話を伺っていました。やっぱり、林業の将来性が感じられないというのが致命的ですよね。林業の抱える問題点を伝えたい、というのが前面に出てしまっていて、どきどきさせるようなストーリーがないですから。あとから「どんな話だっけ?」と思っても何も思い出せないほど起承転結がなかったです。

さらら:するする進んでしまうけど。

ルパン:問題提起だけで終わったら、読んだ人は林業がやりたくなくなってしまいますよね。残念ながら、私はこれを読んでも森に対する愛着はわかなかったです。自分が子どものときに読んで「ああ、木を植えたい」と心から思ったのは 宮沢賢治の『虔十公園林』でした。あれは山に木を植えなければ、などとはひとことも言っていないのですが、ものすごく心を打たれ、木への心をかきたてられました。ジオノの『木を植えた男』とかも。それに対して、こちらは一生懸命語っているのにもかかわらず、50年後の山の姿がまったく見えてこないのは残念でした。あと、主人公の喜樹の語りが妙におとなっぽくて、途中でランドセルを取りにいったときは「あ、小学生だったのか!」と、びっくりしてしまいました。

プルメリア:12月頃に男子(小学校5年生)がこの作品を学校図書館で借りて読んでいました。5年生では3学期に林業を学習します。身近な生活とかけ離れているため、なかなか理解することができない内容なので、林業をしている人々の生活にふれてほしくて子どもたちに紹介しました。主人公も5年生でぴったり。資料集とは異なる実生活がありました。作品を読んでお姉ちゃんの気持ちも少年の気持ちも感情移入ができたようです。教科書や資料集には木を運ぶ道具として馬が出てこないので、そこが違和感があったかな。教科書ではトロッコでした。実際に馬を使っているのかどうかと。

アカシア:馬で木を出すのは今日で最後か、って言ってるから、もうあまり使ってないんでしょうね。

さらら:作者には、そんな馬が残ってほしいという願いがあるんだと思いますけど。

プルメリア:林業に誇りを持って仕事をしているおじいちゃんの姿がいいなと思いました。木材は輸入が多いけど、国産品への意識もあります。杉は嫌われているけど花粉を出さない杉が開発されたことを最近ノンフィクションの作品で読みました。戦後植林をしたことによって花粉症がふえたこと、自然の影響ではなくて人工的なもの。「杉が悪いのではなく植えた人間が悪い」と書かれていました。

アカシア:国の林業政策が場当たり的だったせいもあって、たぶん今まで通りのやり方だと林業で生計を立てていくのは難しいと思うんですけど、たとえばただ木材として売るのではなく、家具などに加工するところまで自分たちで会社をつくってやって成功している人たちはいますよね。そういうオルターナティブの道筋も示してくれるとよかったな。

プルメリア:自分が夢中になれるものがあるのはいいですよね。

アカシア:でもルパンさんは、これを読んでも林業につきたいとか木を植えたくなったりはしないと言ってましたよ。

プルメリア:5年生の子どもたちは好きな仕事ができていいなと言っていました。私のクラスの保護者の職業はほとんど同じ職種なので。「自分で自由な仕事を選べるのはいいね」ってよく言っています。

げた:(検索して)プルメリアさんがさっき触れたのは、『花粉症のない未来のために』(佼成出版社)。斎藤真己という研究者の本ですね。

プルメリア:取引の場面もおもしろかった。

さらら:海外でものを値切る交渉は、100のものを、10といい、中間の50で手を打つことが多いと聞きますが、この取引はそんなに差がないところから始まる。その辺どうなのかな。

アカシア:この地域の人たちは木1本の相場もわかってるんでしょうから、それと桁が違うような所からは始められないでしょう。

さらら:なるほど、日本人はやはり常識的!

アカシア:挿し絵はどうでしょう?

レジーナ:50年前の話のようだというお話がありましたが、絵は、今の子ども向きなのでは。両親と姉の会話を、主人公と祖父が聞く場面では、解説の図のように、文章をそのまま絵にしていますよね。工夫してほしかったですね。

さらら:表紙はいいですね。

プルメリア:この作家は、『チョコレートと青い空』(そうえん社)を書いた人ですよね。

さらら:「季節風」でずっと書いていた人です。

アカシア:農業をしながら作品を書いている方ですね。 私はこの本は、現場を知っている人ならではのディテールがあって、おもしろく読んだんですけど、できれば個人のレベルでがんばるだけじゃなくて、もっと広い視野で書いてもらえるとよかったと思いました。

さらら:そういう視点のある人物がいるとよかった。

アカシア:この作家は福島の方ですか?

アカザ:生まれは福島。

レジーナ:現在は、宮城県在住のようですよ。

アカシア:こういう実体験をもっている人に、もっともっと書いてほしいですね。この作品はとてもまじめですが、社会科の教科書だけではわからないことがわかったりするので、副読本に使ってもらうといいんじゃないですか。

プルメリア:イメージがわいて理解しやすくなります。

アカシア:作品そのものの出来については、もう少しがんばってと言いたいですが、現場にいる人にしか書けないことはありますからね。

さらら:知らないことは新鮮に映ります。

レジーナ:農家に嫁ぎに来るアジアの人も多いですよ。年金をつぎ込んで、荒れていく山を維持しようとする様子から、林業の切実な状況が伝わってきました。『神去なあなあ日常』の登場人物は個性的でしたが、この作品は美男美女ばかりで漫画のようでした。林業の仕事に情熱を燃やし、サルのように木を切る青年も、いまどきの外見でかっこいいという設定でしたし……。その木がどれだけ手をかけられてきたかが年輪から分かることや腐りにくい木の種類、「相対」「トビ口」という特殊な言葉を知ることができたのは、おもしろかったですね。林業の仕事の内容は、『林業少年』の方がていねいに描かれています。子どもに手渡すのだったら、こちらをすすめたいです。

アカシア:そこが、インタビューして書く人と、自分で見聞きしていることを書く人の違いですよね。

レジーナ:取材して書いたのではなく、著者自身が農業に携わっているから、描写にリアリティがあると私も思いました。在来種の馬の足の太さに気づく場面をはじめ、実体験にもとづいて書いている印象を受けました。人物は、もう少し深く描いてほしかったです。はじめから林業を継ごうと考えている男の子が主人公ですが、現実を映していないのでは……。自分がかなえられなかった夢を娘に押しつける母親は、あまりに身勝手で、読んでいて腹が立ちました。

アカザ:娘に英文科に行って、将来は海外に行ってもらいたいって思うお母さんって、いまどきいるのかしら? 半世紀前なら別だけど。いまは、農学部のほうが人気だと思うけど。

アカシア:今は英文科など閉鎖している大学もあるくらいで、バイオテクノロジーなどを扱う農学部は花形なんじゃないかな。

さらら:私の息子は農学部ですけど女の子が多いですよ。

アカシア:お母さんが家つき娘で、自由なことができなかったというのは、今でも地方だとあるんでしょうか。

レジーナ:山ではなくても、家を継ぐという意識は、田舎では今も根強いのでは。

アカシア:それはそうでしょうけど、好きな勉強もできなかったし、サラリーマンと結婚するのも反対されたんですよ。そのあたりはもう今はあまりないのかな、という気もします。

アカザ:日本の児童文学ってお母さんをすごく悪く書く作品が多いですよね。目の敵みたい。もう少し深く描けないものかな。

アカシア:お母さんだけじゃなくて、人間そのものをあまり深く描写していないものが多いと思います。

さらら:たとえばオムニバス形式の『きんいろのさかな・たち』(大谷美和子作 くもん出版)は、どの話も人として生きようとするお母さんがユニークでした。

レジーナ:p147の母親の台詞「これだけ大騒ぎしたんだ。お前、絶対合格してみせなよ!」は、言葉が強過ぎると思いました。字面から受けるよりもう少し柔らかいニュアンスなのでしょうか。

アカザ:私も、ちょっと乱暴な言い方だと思ったけれど、この辺だとそういう言い方をするのかと……。

アカシア:ふだんの口調が荒っぽい地域もありますよね。

レジーナ:母親が方言を使っているとは、あまり感じませんでしたが……。

アカシア:全体として、林業のことを書こうとするあまり、人間を描くことがちょっとおろそかになった感がありますね。

レジーナ:林業理解には、いいけど。

:知らなかったことを教えてもらった楽しさはありましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


マッティのうそとほんとの物語

プルメリア:表紙がとってもいいなと思いました。『湖にイルカがいる』ことには驚きました。エイプリルフールに嘘の情報を載せる新聞ってあるのかな。

アカザ:日本の新聞でもちょこっと載せることがあるじゃない。

プルメリア:岩波書店もいろいろな作品を出版するんですね。驚きました。お家が当たったと嘘をついたり、おじさんが誘拐犯に間違われたり、動物にお金を送ったりなどはらはらさせる場面が展開し、でも読ませる作品でした。最後にほっとしました。湖がでてきたり、フィンランドの森がでてきたりとのどかな自然が落ち着かせるのかな。お母さんのおじさんが安定剤になっているような存在感がありました。

げた:最初に湖のほとりで途方に暮れる家族がでてくる。一体これはなんなんだろうって思って読み進むと、最終的には、嘘から出たまことのような結果になって、ハッピーエンドで終わっているので、まあ、よかったかなという感じですね。『林業少年』『スターリンの鼻が落っこちた』と続いて最後に読んだんですけど、最後に安心して、素直に楽しめました。ドイツとフィンランドは遠いような気もするけど、近いのかな? いずれにしても、国境にこだわらず、行ったり来たりする感じがいいな。愛国的になってないのがいい。国際的にならなくっちゃね。

さらら:フィンランドの人って、オランダにけっこう多いんです。母音と子音が多いから、オランダ語の習得も早くて、発音がきれいだった。

げた:ドイツの高層アパートってどの程度の広さなんでしょう。とっても狭苦しい感じで書かれてたけど、日本じゃ広いほうだったりしてね。フィンランド人のお父さんがほとんどしゃべらないんですね。おとなしいんですかね?

アカシア:でも、ほら話はしてますよ。

さらら:ほら話はすごく好き。弟も、ちょっとしか出てこないんだけど、幼稚園のやんちゃな感じがおもしろかった。基調は友情物語ですよね。友だちの別荘に夏休みに遊びに行きたいのに、お金がないからだめって言われて、マッティは妄想でいろいろとやっちゃって。でも世界を正すかという正義感がおもしろい。価値観は人それぞれで、それに気づくって、大切なこと。あと、ここがいいなって思ったのは、パパとボートをこいでいるときに、マッティとパパは向かい合って話をする。嘘をついて、あやまりにこなかったのは、パパもマッティも同じで、それをパパが認めている。大人と子どもが対等なのが気持ちいい。

:努力をしなかったことでいいものが転がりこんでくるというところがとても素敵。人生について考えが深まるというのもあるけど、幸運が最後に手に入っちゃうおもしろさがいいですね。わたしもフィンランドに住みたいなあ。あと、これは、いろんなきょうだいの和解や変化の物語ですね。お母さんとクルトおじさん、お父さんとユッシおじさん。マッティとサミの関係も変わっていきますし。北欧というとドライなイメージがありますが、きょうだいという血のつながり方がいい方に作用しているように思います。

レジーナ:子どもたちは、自ら世界を正そうと考えます。大人の理屈と、それとは異なる子どもの理屈を等しく扱っている点は、とても好感が持てました。はじめの場面に「水切り石」とありますが、「水切りのための石」「水切りするときの石」「水切りに使う石」と訳した方が、わかりやすいのではないでしょうか。

アカシア:石切り遊びをしたことがある人は、ぴんとくると思うけど。

げた:石が自分で水切りするという意味にとれるということかな?

さらら:「水切り」を知らない子だと想像できない?

アカシア:すぐ次のページに、実際にやっているところが出てきますよ。

レジーナ:今の子どももするのでしょうか。 

:やりますよ。

レジーナ:弟の幼稚園で、カエル組の方がトラ組より年長なのがおもしろいです。

アカシア:子どもが自分たちでクラスの名前を決めるのかも。日本では、すみれ組とかたんぽぽ組とか、りす組とかうさぎ組とか、かわいい名前が多いですが、子どもが決めるとなると、突飛な名前が出てくるかもしれませんね。ドイツも、子どもに何でも決めさせようという意識が高い国だと思います。

レジーナ:早くから民主主義社会のやり方に慣れるのは、いいことかもしれませんね。

アカザ:収拾がつかないかも。

アカシア:ドイツには「ミニミュンヘン」というのがあって、30年も前からミュンヘンでは夏休みの間、子どもが自分たちで町を作って、自治をするんです。暮らしていくにはこれが必要だと思ったら、自分たちでそれもやっていく。子どもの自発性を重んじるので大人は脇役で、指導したりはしないみたいです。日本でも「こどものまち」という名前であちこちで似たような試みを行っています。四日市の書店メリーゴーランドの増田さんもずいぶん前から日本のミニミュンヘンをやっているとおっしゃってました。今は、子どもに何でも決めさせるというのがはやりですが、一方には、あまり小さいうちから決断を強制していくといつも不安を抱えるような子どもになってしまうという考え方もあります。

プルメリア:学校現場でも、やってみたいですね。

さらら:発想はキッザニアみたいな? 

アカシア:でも、キッザニアはおとな側が全部お膳立てしちゃうじゃないですか。お母さんに楽をさせて、その分お金を吸い上げる商売ですよね。ミニミュンヘンでは、子どもに親切だったおとなを子どもが選んで表彰したりもするんです。ところで、この本ですが、日本の作品にはないおもしろさがありました。最後はうまくいきすぎと思ったけど、そうか、それも嘘かもしれないと思うと、さらにおもしろいですね。

さらら:最後のメールのやりとりは、ほんとなのか嘘なのか、読者の読み方に任せている。だから、オープンエンディングじゃないですか?

アカシア:翻訳はところどころ引っかかりました。p8ではマッティが「ああ、またもや、皮肉だ」って言ってますけど、子どもの台詞らしくなかったし、この場面では皮肉にはなっていない。p15の「そんなこと、あの人には関係ないでしょう」も場面にしっくりこない。p19のパパの台詞は「イエス」だけど、ドイツ語じゃなくていいのでしょうか? 訳者あとがきの「未知の国フィンランドに出会えるのも」って、誰にとって未知の国? などなど、いくつか突っ込みたくなりました。

ルパン(遅れて参加):最初は笑ったらいいのか怒ったらいいのかわかりませんでしたが…最後は大笑いして終わりました。もう、めちゃくちゃですよね。でも、そのなかにピリリとスパイスが効かせてあるのがいいなあ、と思いました。

さらら:ただの馬鹿話じゃない。

ルパン:ええ。すごく鋭いところがありますよね。主人公は「世界を変える行動」に出るんだけど、それは「動物保護のために寄付をしている」、って嘘をついていたパパとママのかわりに寄付しに行ったり…ユーモラスで奇抜なんだけど、子どもに嘘をつくおとなを見事にやりこめてます。子どもに林業をなんとかさせようとして空回りしている大真面目な『林業少年』より、一見ふざけまくっている『マッティ』の方が、よっぽど子どもの視点できちんと世界を見ているような気がします。

レジーナ:良かれと思ってしたことが、とんでもない結果につながります。こんなにやりたい放題の子どもたちは、ネズビット以来。

ルパン:お母さんは理不尽に怒ってるのにお父さんはにやっと笑ったりしてるところもおもしろいし。

さらら:いいお父さんですよね。

アカシア:そういうところに存在感が出てる。

ルパン:エイプリルフールに、おとなたちもみんなだまされて池のイルカを見に集まるシーンもよかったなあ。

レジーナ:私も信じました。

ルパン:A型で学校の先生である私としては、これ、怒らなきゃいけないんじゃないかと思って読んでたんですけど、途中から笑いをこらえきれなくなっちゃって。さいごに家が当たる、っていうどんでん返しも、ここまで徹底的にリアリティなかったらむしろスカっとしますよね。

レジーナ:一番最後のメールで、家が当たったというのは、嘘かと思いました。もはや誰を信じていいのか……。

ルパン:でも、ただのドタバタに終始しているわけじゃなくて、たとえばマッティが新しい家に引っ越すんだ、ってはしゃいでたときに、親友のツーロは寂しく思ったりするシーンとか、全編通して、ちゃんと子どもの心の機微をとらえているところがよかった。理屈で説明するのでなく、それがストーリーのなかにさりげなく織り込まれているから。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


スターリンの鼻が落っこちた

アカザ:とにかく迫力があって、終わりまで一気に読みました。おもしろかった。ずっとリアルな場面が続くんだけど、最後のほうで主人公が追いつめられて、大変な精神状態になるところでスターリンの鼻の幻影が出てくるでしょう? 一気に全速力で駆けぬけるような作品の終盤でそういう場面を入れるところなど、うまいなあと思いました。最後、どうやって終わらせるのかなと思っていましたが、ウソっぽくなく、それでいてほんの少しだけど胸のなかがあたたかくなる終わり方で、よかったなあと思いました。以前はロシアの児童文学ってたくさん翻訳されていたけれど、今はどうなってるんでしょうね? リュードミラ・ウリツカヤなんかも児童文学を書いているって聞いたけれど。

アカシア:ロシアの児童文学は、今はあまり出てないんでしょうか?

さらら:『愛について』(ワジム・フロロフ著 岩波書店)とか。

アカシア:昔はロシア語の児童文学の翻訳者はたくさんおいででしたけど、今は少ないのかもしれませんね。大人の文学の翻訳者は、亀山郁夫さんとか沼野充義さんとか、おもしろい方が活躍なさってますが。

アカザ:きれいな絵本を見せてもらったことはあるけれど、読み物は読めないので、どうなっているかよくわかりませんね。

さらら:モスクワにいい書店があるんです。翻訳物がたくさん並んでいました。『くつやのねこ』(いまいあやの作 BL出版)もロシア語で出ていました。

アカシア:ロシアには文学の伝統ってずっとありますもんね。

アカザ:ボローニャやフランクフルトの見本市には、ロシアの本は出品されないんでしょうか?

さらら:ロシア語を読める編集者が少ないから、商売にならないかも。

レジーナ:それまでピオネール団に入るために頑張ってきた子どもが、父親の逮捕をきっかけに、価値観が揺らぐ様子を手加減せずに描いています。日本の敗戦にも通じますが、国家に翻弄され、それまで信じてきた理想が根本から崩れる体験です。絵の力にも圧倒されました。

アカシア:グラフィックノベルではないんでしょうけど、絵がたくさん入っていてそれに近いですね。

レジーナ:ニューベリー賞オナーに選ばれたということは、文章で評価されたのですね。アメリカの子どもは、どう読むのでしょう。

:昔、『ビーチャと学校友だち』(ニコライ・ニコラエヴィチ・ノーソフ作)というソ連の児童書がとても好きでした。ピオネール団や共産主義も出てくるのですが、とてものんびりした楽しい雰囲気の本で、そことのギャップをすごく感じました。

アカシア:時代はどうなんでしょう? 『スターリン〜』より前じゃないですか?

:『ビーチャ』は、もっと昔の話だったのかしら。『スターリン〜』の方は、大変な問題意識を持って書かれていますね。児童文学は、ザイチクが列に並ぶ最終場面のあたりから書き始めて、「昔、こんなつらいことがあった」と回想するタイプが多いように思うのですが、この作品は、その「昔」の部分をぐいぐい書いています。これから疑似家族をつくっていくのかもしれませんが、それにしてもしんどい経験ですよね。戦争児童文学やアフリカン・アメリカン児童文学だと、目に見える形で異質とされる人が攻撃されますが、ここででは、誰が誰を裏切るか分からない。怖いです。

げた:タイトルから、もっとユーモアのあるおもしろい話かと思ったけれど、全編怖い話でしたね。少年の信じるものがひと晩で崩れていく話ですよね。少年にとって英雄だったお父さんが、いきなり逮捕されて、スパイにされてしまう。いつも、大人の争い事に子どもが巻き込まれて、悲惨な結末になるのが、あわれでしょうがないです。なんとか、そうじゃない社会であってほしいですね。日本の子どもが読むならば、歴史を勉強してからじゃないとわからないんじゃないかな。中学生くらいじゃないと難しいかな。ホラーに近い挿絵は効果的ですね。

アカシア:確かにそうですね。

げた:読んで、つらい気持ちになりました。

プルメリア:以前読みましたが、今回もう1度読みました。暗いストリーですが、挿絵と手に取った感じと大きさが気に入りました。密告して利益を得る人や人間のあさましさが出ている社会が描かれています。資本主義と共産主義の違いも。にんじんがおいしいのは、ひもじいから? 鼻が欠けて空気が凍るような場面、鼻がしゃべり出す場面の設定には驚きました。挿絵が突飛です。最後に、自分らしく生きることが出てくる。

アカシア:自分らしい決断はしますが、それで生きていけるのかしら?

プルメリア:でも同じような思いの人との出会いは、よかったのでは。

アカシア:共産主義じゃなくて、ここは全体主義のことを言ってるんですね。日本だって、そうなるかもしれないわけです。この作品でも、当時の社会を支配していた恐怖が実感をもってひしひしと伝わってきます。この作品に出てくる人たちは、みんな脅えていて、ぎすぎす生きている。どんな時代にも、そうじゃない人はいたと思うんですが、ここには愉快な人、人間らしい生き方をしている人は出てこない。アメリカで出ているので、スターリン時代の恐怖政治が強調されているのかもしれません。

アカザ:私も、アメリカで出版されたということで、どう読まれるのか少し気にかかりました。だからロシアは……とか、だから共産主義は……というふうに読まれるのではないかと。それよりも、あとがきにあるように、今の日本でこういう本を出版するということに意味があると思いました。

げた:日本の戦前の「隣組」もそうですよね。資本主義でもありうる話ですね。

アカシア:それって、今の世界の構造そのもので、それがわかりやすい形で小規模に行われているんじゃないですか?

:(検索して)『ビーチャ』は1951年なのでスターリンの時代に書かれていました。真実は『ビーチャ』と『スターリン』のあいだくらいにあるのかもしれませんね。

ルパン(遅れて参加):今回読んだ3冊の中では、私はこれが一番おもしろかったです。ただし、funnyではなくinterestingの意味で。マッティは別の意味で子どもたちが生き生きと動いてはいましたが…でも、ママのかわりに寄付しちゃうお茶目なマッティと対照的に、先生の机のなかにスターリンの鼻を入れてしまうのは…。とんでもない先生なのだけど、考えてみたらこの先生もかわいそう。おとなも子どももみんな社会の犠牲者ですよね。こんな時代が本当にあったのだと思うと身震いしたくなります。『ワイルド・スワン』(ユン・チアン著 土屋京子訳 講談社)の児童文学版を読んでいるかのようでした。ただ、それでいて最後まで子どもの目線できちんと書けていると思いました。理屈ではなくストーリー運びの中で両親と引き裂かれた悲しみが描かれています。ところで、アメリカ人のお母さんは結局どうなったのでしょう。

アカシア:お母さんはお父さんが売っちゃったんですよね。子どもを生きのびさせるために。今『ワイルド・スワン』の話が出ましたが、私はあの作品には反共プロパガンダ的なところがあると思っています。

ルパン:子どもたちのひとりひとりに個性がありました。フィクションのなかでリアルに子どもたちが動いている。最後はハッピーエンドではないのですが、ピオネール団は入らない、というザイチクの決意に好感が持てました。ザイチクはこのあと知らない女の人の子になるのでしょうか。この女の人の子どももきっともう帰ってこないのでしょうね。御都合主義ではなく、悲しい結末だけど、このお話には未来があります。たぶんこの女の人と寄り添いながら、ザイチクはこれからも社会に流されず自分の足で生きていくのだろうと思わせる余韻がいいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年4月の記録)


母ちゃんのもと

:何もかもリアリティがなかったです。お父さんが乗り越えていないお母さんの死を、たけるはいとも簡単に乗り越えてしまっています。寂しさはあるけど、その寂しさに奥行きがないというか。こんな5年生は絶対にいないし、けなげすぎるでしょう。遺言を守っているという設定ですけれど、そこにもリアリティがありません。「母ちゃんのもと」という小道具もマンガにありそうですけど、空気が入ってぼよんぼよんしていて、いかにもまがいものですよね。たけるがいろいろ教えてやらないと、本当のお母さんに似たものにならないから、子どもが優位に立たざるを得ません。間違ってます。たけるの喪失を埋めるものにならないから、疑似的な親子関係にもリアリティが生まれないし、最後はあんなふうに消滅してしまいます。八百屋も何を考えているのだか、たけるになぜあんなものをお試しで渡したのかしら。残酷。あらゆる面で、たけるは大人にとって都合のいい子どもになっていて、本当の気持ちはどこ?と思います。

ルパン:なんてかわいそうな話なんだろう、と思いながら読みました。たけるはお母さんが亡くなっても立派にがんばっているのに。たとえ、いつまでもめそめそしている子どもだとしても、わざわざ中途半端に死んだお母さんをよみがえらせたりしたら残酷なだけなのに、ましてやこんなに健気にお父さんの世話までしている子に、いったい何をさせたかったんでしょう。いきなり出てきて「母ちゃんのもと」なんか使わせて感想を言わせようとしているこの八百屋(?)の「おっちゃん」も意味不明です。

アカシア:やっぱりリアリティがないですよね。たけるがけなげで新たな出発をするのはいいのですが、たとえば、峠から自転車の二人乗りで坂道を下って、おもちゃ屋に突っ込んでショーウィンドーを割るくだりとか、ビニールプールをかぶって雨をよけるくだりは、いかにもマンガ的で、リアリティがない。お母さんが現れたとしても、こんなぼうっとしたつかみどころのないお母さんだったら、かえってたけるは大変になるだけ。それを乗り越えてっていう展開にそもそも無理があると思います。

レジーナ:雨の中、お母さんを守りながら自転車で走る場面をはじめ、切ない雰囲気の作品です。お母さんが割烹着を着ていたり、部屋にちゃぶ台があったり、時代を感じさせる設定が、暗さを助長しているようで……。種から生まれたお母さんのちぐはぐな言動に、ユーモアがあれば、救われたのですが。ショーウインドーは高額のはずなので、それを壊してしまい、どうするのかと思っていたら、ガラス工場に勤めているお父さんが弁償します。ご都合主義な展開です。登場人物も、もっと作り込む必要があります。無力で健気な子ども像が強調されているのも気になりますし、ロックミュージシャンのような八百屋さんの描写も平面的で、リアリティが感じられませんでした。

プルメリア(遅れて参加):学級(小学校5年生)の子どもたちに紹介しましたが、読んだ子どもたちからはおすすめの本という声は残念ながら出ませんでした。お話がオーバーに構成されているように見えました。たとえば、お母さんと一緒に自転車に乗ってみかん畑に倒れたとき、帽子がみかんの木のてっぺんに引っかかったり、お母さんがゴロゴロと転がって木にぶつかりみかんがぽこぽこおちてきた場面。疑問に思った場面は「スニーカーの先がアスファルトのつくたびに火花が散るのが見えた」。見えるのかな? また「初めてお父さんが料理をする」とありますが、今まではどうしていたのかな? よく似た作品には『お母さん 取扱説明書』(キム・ソンジン作 キム・ジュンソク絵 吉原育子訳 金の星社)がありますが、登場人物はそっちのほうが少なくまとまっていたように思えます。みなさんの意見はどうでしたか?

アカシア:『母ちゃんのもと』については、たけるが、せっかくけなげに前向きに生きているのに、中途半端にお母さん人形みたいな物をちらつかされ、しかも、自分のせいで消えてしまう。子どもにしたら、とても耐えられないような踏んだり蹴ったりのシチュエーションじゃないかと思うという声がさっきは多かったのです。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年3月の記録)


希望への扉 リロダ

ルパン:私は、これはなかなか良いと思いました。先に読んだ『かあちゃんのもと』を評価できなかったからかもしれませんが。よくまとまっているし。ただ、最近こういうのが多いな、とは思いましたが。

アカシア:こういうのって?

ルパン:難民の話とか、途上国が舞台の物語です。私はここ3年ほどシャンティの訳語シール貼りをしていたので、親近感をもって読みました。途上国で新たに本を作って出版するのはとても大変なことだと思うので、現地の言葉のシールを上から貼って手渡すのはいいアイデアだと思っています。私がシールを貼った本はこういうところに行って読まれているのだな、と思うとうれしくなりました。お話のなかでよかった場面は、高床式の図書館を作っているときに、中で読み聞かせの練習をしていたら、床の下に子どもたちがたくさん入って聞いていた、というところです。

:現実には、こういう活動にはうまくいかないことも悪いこともあると思うんですけれど、よくできた部分を取り出した報告パンフレットのようでした。日本のNGOのおかげというのが前面に出ているところも。難民の話かと思ったら図書館の話になるんですよね。カレン族とミャンマー族の相克の背景など、もっと深めてほしかったな。難民を描くという点では浅いのではないでしょうか。あと、リロダというのもはじめ何のことだか分からなくて。

ルパン:タイトルにもそうありますし、図書館のことでは。

:(本を見て確認)読みすごしていました。たしかに、ちゃんと「図書館」とありますね。
アカシア:私は内容も記述も教科書的だな、と思いました。書いてあることは悪くないんだけど、表現にもクリシェが多いし、作者自身が難民ではないので今ひとつ迫ってこないのが残念でした。ミャンマーのシャンティはライブラリアンの研修をちゃんとするんだな、とか、人数をかぞえるのに小石を一つずつ箱に入れてもらうのはいいな、とか、そういう発見があったのはよかった点です。貧しい中でも家族が助け合って暮らしている様子も伝わってきました。それからカレン語の訳を、日本や欧米の絵本に貼るのも悪くはないと思いますが、本当はそこの土地の子どもたちが自分が主人公、という気持ちになれる本が必要なのだと思います。その意味では、カレン族の昔話を紙芝居にして、難民キャンプで暮らす絵の好きなおじさんが絵を描いてくれる、というのは、とてもいいと思いました。こういった試みが広がっていくのが理想だと思います。挿絵では、p39の絵だと川幅がそれほどないように思えるので、政府軍のサーチライトをかわすのはこれでは無理なのではないか、と思いました。

ルパン:学校の先生が書いたクラスづくりのおはなしとかに、こういう感じの本ありますよね。

アカシア:うまくいった部分だけを取り上げて書いたものは、ノンフィクションにもたくさんあります。

:成功体験でまとまっているのが多いですね。

ルパン:ただの紹介や説明だと聞いてもらえないけど、物語にしたら読んでもらえるからストーリーにまとめるんでしょうね。

アカシア:最初は木に登って図書館の中をのぞいていた男の子パディゲが、図書館の中に入れて文字も少し教わり、お母さんから認められて小学校に通えるようになる。そしてマナポが働いていた図書館が洪水で流されてしまったとき、このパディゲの家族は、自分たちが別の場所に立ち退くからそこに図書館を建ててほしいと言い出す。この展開は、とてもきれいですが、実際は、そんなにうまくいかない場合がほとんどじゃないかな。学校に行かせない親は、西欧風の価値観に毒されると思ったり、早くから手に職をつけてほしいとか思っている場合が多いでしょうし、そうした考えを変えていくのにはかなりの時間がかかるように思います。

ルパン:あまりわくわく感がないのは、最初から「これを書こう」という枠組みを決めて書いているからじゃないですか。登場人物が自然にいきいきと動き出す、という感じはないですよね。でも、図書館を見たことがない子どもたち、初めておはなしを聞いたときのうれしさ、本が読めるよろこび、というものがすなおに伝わってきて、好感がもてました。成功体験だけをまとめているのかもしれませんが、『かあちゃんのもと』のご都合主義にくらべたらはるかに読後感がいいです。

アカシア:難民キャンプには募金が集まるので図書館がいくつもつくれる。でも、逆に地方の村には図書館がない。この作者は、図書館は絶対的にいいものだという価値観が最初にあって書いているようですけど、ボランティアって本当は安易にするべきものじゃなくて、深く考えてするものだと思うんです。文字の文化も安易に導入すると、声の文化を圧迫して消滅させてしまう結果になる。まあ、この本は小学生向きなので、そう詳しくは書けないでしょうけど、作者がどこまで深く考えているのか、は大事だと思います。

:その言葉を話す人たちに家族を殺されているのに、心理的な抵抗はないのかしら。いつかカレン語で、という願いはありますが、現状への葛藤はあまりないみたい。

レジーナ:石で入館者を数えたり、高床式の建物の床下でおはなしを聞いたりする場面からは、その土地ならではの素朴な温もりを感じました。厳しい環境で生きる子どもが、読書の喜びを知っていく姿に、子どもに本を手渡していく活動は、時代や場所を越えて続いているのだと感じました。第二次世界大戦後、瓦礫の中でミュンヘン国際児童図書館を始めたイェラ・レップマンを思い出しました。それにしても、湿気が大敵の図書館を、川のそばに作ってしまうのには驚きました。難民が一番多い地域は、アジアだと書かれていましたが、これまで知りませんでした。

プルメリア(遅れて参加):この本を読んだ5年生の女子は、『難民って大変なんだな。図書館はどこにでもあると思っていたから、図書館がないところがあることを初めて知りました。』との感想でした。絵もあって、とくに女子にはとっつきやすそうでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年3月の記録)


嵐にいななく

ルパン:まだp170までしか読んでないのですが、今のところ3冊の中で一番いいと思っています。ただ、p120のマックスの言葉の意味がよくわかりませんでした。

アカシア:両親が、ジャックのことを理解していないということでは。

ルパン:あと、ジャックが読み書きできないということを、マックスはいつ知ったのでしょう。

アカシア:p81では?

:最後は本当に衝撃ですよね。おもしろい。これまで読んできた前提がひっくりかえされます。時代もよくわからなくて、ずいぶん昔のようでいながら、先端のエネルギー問題がでてきたりして、予想が何度もくつがえされます。背後にあるのは無機質な世界なんです。でも、そこに、人間同士のあたたかい関係や、読み書きとか、有機的なものが立ち上がってきます。それは成功していると思います。馬を自由に飼うことはできないその状況は無機的ですけれど、馬のお世話をするときの脈動とか、馬という動物じたいの躍動感とか、もっといえば、馬の前にシカが殺されたときの赤い血の広がりとか、そういうあたたかさが有機的なものとして浮かび上がってきていると思いました。もちろん、その先に、マイケルとの交流がありますね。いろいろな意味で実験作ですね。

プルメリア:以前読んだとき、いい本だなって思いましたが、今回 読んでみたところ感想画を描く5・6年生の高学年には読み取りにくい作品だなと思いました。読み書きができない内向的な少年が、馬と出会って変わっていく。飼うのが大変な状況の中で馬と心を通わすことで安心感を得る。ペット的な小動物でない馬の設定がおもしろい。残念なことは、学力的に高くないと読みきれない作品だと思います。

アカシア:最初の出だしはとてもドラマティックで、ぐっと引きつけられました。でも、4章ではとつぜん18か月後のちがう話になります。そこで、まずえっ? と思って、私の中の読むリズムが崩れてしまいました。それと、時代がいつなのかがよくわかりません。出版社の言葉には近未来とありましたが、エネルギーを無駄遣いしないという枠はわかっても、どうして新時代の自動車ではなく馬が使われているのか、省エネ機械ではなく人力ですべてが行われているのか、どうして学校制度が形骸化してしまったのか、などはよくわかりません。ベースになる時代設定をヒント程度にでも書いといてもらわないと、読む方は落ち着かない気持ちになります。これ、特に近未来にする必要がなかったんじゃないかな? もちろん動物と人間の愛情などよく書けていますし、いい描写もあるのですが、イギリスのアマゾンを見ると、もうキンドル版しか出ていませんね。不安定な舞台設定がネックになったのではないでしょうか? マイケルが実はおじいさんだったことが最後の最後でわかるのですが、それも意表をつくおもしろさというより、あざといと思ってしまいました。そんな小細工しないほうが、伝わるものが大きいのではないでしょうか? それから、翻訳はいい文章なのですが、わかりにくいところがありました。

レジーナ:原文は、どうだったのでしょうね。英語は、言葉づかいが、日本語ほど年齢によって変わらないはずですが、日本語の翻訳者は、老人なら老人らしく、子どもなら子どもらしく、台詞を訳します。マイケルの口調が少年のように訳されている分、原文より日本語訳の方が、最後の驚きは大きいのかもしれません。読者の知らない事実を最後に明かす手法は、シャロン・クリーチの『めぐりめぐる月』(もきかずこ訳 講談社)を思い出しました。『めぐりめぐる月』は、少し凝り過ぎだと思いましたが、今回の作品はちょっとだまされたように感じてしまいました。筋はおもしろく、読者を引っ張っていく力があり、大人の作品だったらよいと思いますし、また仕掛けをしておき、最後にあっと驚かせる作品を好む子どももいます。しかし、児童文学である以上、「だまされた」と読者に感じさせないようにしなければいけないのではないでしょうか。作品に寄り添って読むことができていたら、そう感じなかったかもしれません。エネルギー不足の近未来という舞台設定、馬との心の交流、字が読めないというハンディ――さまざまな要素が、もう少し絡み合っていたら、よかったのでしょう。最後の方に、嵐の後、家に閉じ込められた人を救う場面があります。洪水で家を失い、別の土地で新しい生活を始めた少年が、そこで出会った人や動物の力を借りて、今度は他者を助ける側になるのですね。レースのように見えたり、エメラルド色をしていたり、鮮やかでみずみずしい野菜の描写、身体を自由に動かせないマイケルが、鍬によりかかる人を見て、「疲れる」という感覚を思い出す場面は印象的でした。今すぐマイケルの日記を読みたいジャックが、日記を「今にもはじけそうになっている花のつぼみのよう」だと表現しているのも、美しいたとえですね。いじめっ子のフレッドやジムは、痛みを抱えた人間として描かれていて、人物造形に厚みがあります。洪水の時の不気味な静けさはよく伝わってきましたが、においもするはずなので、そこを描けばもっとリアルに感じられたでしょう。ハミやオモガイといった言葉にはなじみがないので、p217の図に助けられました。図が冒頭にあれば、なおよかったです。

アカシア:近未来にするなら、現在の社会からどう変わってこういう社会になっているのか、そのあたりを少なくとも作者は考えて書いてほしいと思います。そうでないと、子どもだましになってしまう。

ルパン:携帯電話が出てくるまでは、昔の話だと思って読んでいました。近未来という設定だというのは気がつきませんでした。ぜんぶ読まないとだめなんですね。
ラストを聞いたら、先ほどのp120のところも納得がいきます。

アカシア:ジャックの一人称部分は明朝体、マイケルの日記はゴチック体で印刷されているんですが、訳注は両方ともゴチック体なので、明朝部分の注がやけに目立ちます。それから、「動物をペットとして飼えなくなった時代」とありますが、p124に犬は出てきますね。これは、猟犬なのでしょうか? だったら猟犬と訳したほうがよかったかも。

:資源が足りないから、ペットを飼えないのでしょうか。洪水で鶏小屋が流れてくるけれど。

一同:ニワトリは食用なのでは。

アカシア:太陽エネルギーを蓄電できれば、いろいろな問題は解消されるはずなんだけど、この作品では時代が元に戻ってしまっていますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年3月の記録)


もう一度家族になる日まで

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『もう一度家族になる日まで』

の読書会記録

スザンヌ・ラフルーア著
永瀬比奈訳 
徳間書店  2011

ルパン:最初は、主人公の女の子が好きじゃありませんでした。自分のことで
いっぱいいっぱいで、まわりの人まで思いやる余裕がないし、あんまり「いい子」じゃないですよね。でも、途中からぐいぐい引き込まれて、この年齢でこんな目に遭ったら、こう感じるのが当たり前だ、って思うようになりました。最後はすっかり感情移入して、電車の中で読みながら悲しくなって号泣しちゃいました。いちばんぐっと来たのが、お母さんと会えたときに、初めていう言葉。お母さんに、「私より妹のほうがかわいかったの?」って言うシーンです。死んだ妹をなつかしんでいたけれど、私がいるのに、妹が死んだことがそんなにつらかったの、と。そのひとことで、もう泣けて泣けて。

レジーナ:ずっと気になっていた作品です。読むまでは、経済的に困難な家庭でネグレクトを受けた少女の話かと思っていましたが、そうではないのですね。亡くなった妹のために買っておいていたプレゼントを、誕生日の日に写真のそばにそっと置いたり、お母さんが見つかったことを知らせに学校に来たときに、可愛がっている金魚を車に乗せて連れてきたり、押しつけがましくなく、主人公の気持ちに寄り添うことのできるおばあちゃんが心に残りました。感謝祭の前に、主人公が、家族の思い出のスイートポテトを作りたいと言い出した
時も、失敗したらどれだけ傷つくかを考えたら、私だったら一緒に作ると思います。その子を信じて委ねるのはなかなかできないことなので、子どもを根底から信じようとするおばあちゃんの強い姿勢を感じました。親友の妹が病院に運ばれたとき、それまで悲しみの殻に閉じこもっていた主人公がはじめて、友だちのことを思いやる描写も、心に響きました。誕生日の日に、年の数より一本多くろうそくを灯す習慣について、あとがきで触れてありましたが、物語の中では詳しく述べられていなかったので、その点に関してはもう少し説明がほしかったです。

みっけ:これは原書が出た頃に買って一度読みました。不思議な感触の本だなぁ、静かな本だなぁと思いました。今回訳を読もうと思ったのですが、冒頭で日本語にひっかかって、その後もかなり気になる箇所が多く、結局原書を読み直しました。初めのうちはこの子に感情移入できなくて、嫌な子だと思った、という感想がありましたが、まさにそう思わせるくらい丹念にこの子の心
の動きを掬っているのがすごいと思いました。主人公の見たもの、感じたものをごく細かいところまで丁寧に掬っているんだけれど、ただ拾うだけでなく、ポイントをしっかり押さえているから、主人公が細かく揺らぎながら喪失感や何かに向き合っていくのがリアルに伝わってくる。その実感が感じられるから、ベタになってしまわずに、読んでいて、この子に静かに寄り添っているような感じがするんだと思います。それと、最後のところでお母さんが、一緒に住める気がするから家に帰ってきたら、と言い出したときに、この子が返事をペンディングするところがいいなぁと思いました。それがこの本の大きな魅力だと思う。この子がすぐに一緒に住む、と言わなかったことで、おばあちゃんや隣の女の子と過ごした時間、そこで培った関係をこの子がどれだけ大事にしているかがよくわかる。
いわば、お母さんとは別の時間や関係がどれほど大切なものだったかが浮かび上がってくるわけです。それがなくて、この子がほいほいと家に帰ったら、あのおばあちゃんや隣の子との時間はなんだったの?という話になる。それと、おばあちゃんやブリジットなどのこの子を取り巻く人たちの接し方がすばらしいと思いました。大前提はとんでもなく深刻な状況なんだけれど、この本に描かれている時間の中では、別にドラマチックですごく大きな出来事が起きるわけではない。
その意味ではかなり地味な本なのに、丹念に細かく日常を積み上げていってこういう作品を作れるのは、すばらしい才能だと思いました。

ルパン:タイトルが残念ですよね。センスが感じられない。

みっけ:訳は全体にベタな感じですね。それと、原著がかなり綿密に言葉を選び、情景のイメージを作っているのに、訳が粗いのが残念。細かいことを積み上げていくタイプの作品だけに、それが大きく響いてしまう。でも、作品としてはとても好きです。

カイナ:この題名を見て読むと、お母さんと娘がもう一度一緒に住むようになるんだろうな、と予想して読んでいったら、そうならなかったので意外でした。パターソンの『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン著 偕成社)を思い浮かべました。ちょっと違うけど母親に捨てられた娘。お母さんがヒッピーで、里親の愛を受ける。あっちに行くか、こっちに行くか迷うという話。

ハリネズミ:『ガラスの家族』は、ギリーがお母さんと会ったときに、それまでずっと抱いていた幻想が壊れるんですね。パターソンは、お母さんがカバンを間にはさんでギリーを抱きしめた、と書いて、そこをうまく表現しています。

カイナ:ちょっと批判になりますが、マーカスという男の子が出てきます。「ぼくのせいでお父さんが消えちゃった」という子。その子が、あとどうなったかが書かれていなかったような。それから、変な話なんだけど、家庭に問題があって最後に主人公が立ち上がってきた話というテーマは多いですね。またその話か、と思ってしまいました。自分の中では正直食傷ぎみ。そんなこと言うと怒られるかな。

ハリネズミ:日本の状況からすると遠い感じがしますけど、欧米には、親が離婚・再婚を繰り返す家庭も多いので、そういう立場にいる子どもへの応援歌も必要なんですね。だから作品もいろいろと書かれていますが、みんな同じじゃなくて、それぞれ特徴がありますよ。

みっけ:この子は最後のやりとりで、決してお母さんを拒否していない。そしてこの本は、お母さんを拒否していないということがきちんと伝わるように書いてある。それでもこの子は揺れていて、お母さんがいないところで紡いできた時間のことを考えると今すぐは無理、というわけだけれど、こういう選択肢はなかなか子どもには考えにくい。どうしても二者択一になりがちだから。でもこういう選択肢があるということを示して、それでいいんだよ、というのは、現実にもみくちゃにされている子どもたちへのひとつの応援歌だと思います。

ajian:すごく気持ちを丁寧に書いてあって、それで読むのが大変でした。感情移入してしまって……。こういうことは、なかなか簡単に癒されたり、解決したりすることではないと思うんですよね。お母さんのところに
戻らないっていう選択肢を物語として示してあるのは、すごくいいと思いました。子どもには回復力があると思いたいけれど、この子ーーまあ小説の登場人物なんですがーーはむしろ、これからなんだろうなと思います。トラウマっていうのは、自分ではすっかり平気だと思っていても、何かの拍子に思い出したりするんです。いつか変わる、普通に戻れると思っているとダメで、むしろ変わらないし忘れられないんだってことを受け入れてかないとキツいと思うんですよね。ここまでひどいことが起きなくても、子どもは結構大変なことを抱えているもので……。個人的にも最近いろいろあって、ついそのことを重ねつつ読んでしまいまし
た。

プルメリア:重たいテーマなのに、私は読みやすかったです。主人公のそばにいつもいるおばあさん、隣に住む少女や家族、そして出会う人たちがとてもあたたかくていいなと思いました。お母さんに対しての思いが、周りの人達と関わることによって、だんだん冷静に見られるようになって、よかったなと思いました。食事の場面
がたくさんありました。食事の場面が出てくるとあたたかい感じがするなと思いました。

ハリネズミ:最後のところでオーブリーはこう書いています。
「ママがもういちど、家族になりたいって思ってるのはわかるよ。わたしも同じ気持ち。だけど、ここにいる家族を置いていく気には、今はまだなれません」。
この「ここにいる家族」の中には、おばあちゃんだけじゃなくて、ブリジットやブリジットの家族や、マーカスや、エイミー先生も入ってると思うんです。英米の児童文学を見ると、「家族というのは血のつながりより、一緒に紡ぐ時間の積み重ねのほうが大事なんだ」という思いが強い。イギリスのジャクリーン・ウィ
ルソンの作品なんかも、それが前提になっている。それと、私はこの作品を読んで、アメリカのジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(ジャクリーン・ウッド
ソン著 理論社)を思い出しました。あの作品でも、主人公マリーのお母さんが夫と子どもを置いて家を出てしまうし、マリーはそのお母さんに宛先のない手紙を出し続けています。

みっけ:この子とスクール・カウンセラーとの関係は、決してメ
インではないんだけれど、それでもきちんと書いてあって、たとえば、最初はずいぶん突っぱっていて、M&Mをどうぞと言われて、「いえ、けっこうです」みたいに断る。ところが四回目に会ったときには、思わずまたM&Mをどうぞって言われるのかな、と入れ物のほうを見ちゃう。そしてカウンセラーにどうぞと言われると、膝の上に入れ物ごと置いて食べ始める。しかもその日の面談が終わるときには、なんと入れ物を戻すのを忘れて、カウンセラーに「M&Mは(持って行っちゃわないで)置いていってね」と言われる。この展開ひとつで、この子がカウンセラーに対して次第に心を開いていっているのがわかるし、最後の「置いていってね」のところには独特のユーモアがある。作者の目線にユーモアがあるからこそ、深刻な状況で揺れる心に寄り添っていても、こちらがあまり息苦しくならない。そこがいいですね。

ハリネズミ:ちょっとしたところの描写がうまいですよね。

ルパン:これを20代の人が書いたというのもすごい。若いのにすごい筆力だと思います。

(2012年12月の言いたい放題/
http://members.jcom.home.ne.jp/baobab-star/index.html)


おいでフレック、ぼくのところに

ヨメナ:とても、おもしろく読みました。長いことファンタジーを書いてきたイボットソンが最後に書いた作品だということですが、ずっとこういう物語を書きたかったんだろうなと思いました。ちょっと古い感じがしたし、小学生が読むとしたら長いのではとも思いましたが、読書力のある子どもだったら、物語のおもしろさにひきこまれて一気に読んでしまうでしょうね。犬の大好きな子もね。ただ、登場人物が多くて途中で分からなくなってしまったので、最初に紹介をつけておいてほしかった。お父さんとお母さんは、これほどマンガチックに書かなければいけないのかな?

レジーナ:イボットソンは、ひねりのきいたユーモアや大人の社会に対する痛烈な皮肉が、ロアルド・ダールに通じる作家ですね。『幽霊派遣会社』(三辺律子訳 偕成社)は入りこめませんでしたが、『ガンプ : 魔法の島への扉』(三辺律子訳 偕成社)はおもしろかったです。あまり奇想天外な設定より、日常にファンタジーの要素を持ちこみ、その中で起こるどたばた騒ぎを描くのがうまい作家です。今回の作品はファンタジーではないけど、犬からの視点が入っている点では、リアリズムでもなく……犬も人間もよく描けていますね。翻訳に関して、p252に、結婚によいイメージのないハルが、「結婚しなくても問題ない」と考える箇所があります。「結婚しなくてもかまわない」の方が、子どもには分かりやすいのではないでしょうか。気になったのは、正義感の強いケリーの妹が犬を逃がす場面です。ルームAの犬だけ逃がすのですが、ほかの部屋の犬はそのままでいいのでしょうか。

:とてもおもしろく読みました。旅の終わりに犬が1匹ずつ落ち着くべきところを見つけていく収束感があってよかったです。子どもは田舎で育つべきだという昔ながらの考え方が強調されていて、湖水地方に救われたポターのことも思い出しました。カントリーサイドへの憧れがありますよね。出てきた場所の中では、現代のオアシスのような温かい修道院がよかったです。気になったのは、犬も人も多いこと。時々混乱しました。あと、p215に「ケヴィン・ドークスは親切な男でした」と書いてあるけれど、実際は悪い人です。こういう皮肉は子どもの本には不要かなと思いました。戯画的な両親像は、一応つじつまが合っていて、これ以上書きこむとあまりに複雑になるのではないかと思います。お母さんも、最後の買い物のところで一応自己反省できていてよかったなと。

アカシア:ハルとフレックの関係は生き生きと書かれていて、とてもいいですね。後半に登場する人たちも、短い文章でその人らしさを浮かび上がらせているのもうまい。何より犬にも人間にもそれぞれ個性があり、協力し合って冒険するのが楽しい。ファンタジーではないのですが、かといってリアリティに徹しているかと言えば、そうでもない。だって子ども2人で、セントバーナードを含めて5匹の犬を連れて旅していたらかなり目立つので、すぐ見つかると思うし、両親もリアルというよりは戯画化されています。それに私も、ピッパがルームAにいる犬だけを放すのは不自然だと思いました。両方の間にある、希望や夢がつまった物語といったらいいのかな。さっき、ダールみたいという話がありましたが、ダールだったら、この母親はこてんぱんにやられてるでしょうね。この母親がほとんど変わらないことや、父親も一見行いを改めるようですが、結局はお金をケイリーに寄付してハッピーエンドになるところは、イギリスの旧来的なストーリー。中産階級以上の作家が中産階級以上の子どもに楽しいお話を書いていた、という意味でね。そこが、古い感じにつながっているのでしょうね。あと、細かいことですが、訳者の方はイギリスに行ったことがないのでしょうか? トッテンハムという言葉がたくさん出てきますが、これはトッテナム。サッカーでも有名なので、サッカーファンの子どももよく知っていると思います。トットナムという表記もありますが、トッテンハムではない。

:最後はお金で解決するところは、私もひっかかりました。

プルメリア:おもしろく、読み進めることができました。自分勝手な考え方がよく出ていました。長い作品ですが動物たち1匹1匹の性格がわかりやすくまたストーリの展開がおもしろかったです。犬を飼っていない作品を読んだクラス(小学5年生)の男子が「犬と一緒に生活している気持ちになったよ。」と感想を言っていました。

レン:おもしろく読みました。最後、犬を飼えてよかったね、と主人公の気持ちによりそって読めて、書き方がうまいと思いました。犬のほうは犬のほうで、ブレーメンの音楽隊みたい。人物の心理描写が細かいわけではなく、全体としては文学というよりはエンタメかな。本のおもしろさが伝わる本でした。

アカシア:読者対象はどれくらいなんでしょう? プルメリアさんとレンさんがおいでになる前に、犬も人もいっぱい出てくるので、全体を把握するのが小学生だと難しいのではないか、という声もあったのですが。

プルメリア:高学年だったら読める子は読むと思います。

アカシア:それと、最後の文章「生涯、一人の主人とともにいられれば、犬は、犬らしく自由に生きられるのです」というのは、どういう意味なんでしょう? レンタルペットショップではまずいというのはわかるんですが。

レジーナ:ここに登場する犬たちは、みんな新たな居場所を見つけて幸せになるのに。

アカシア:そういえば、この本の原題はOne Dog and His Boyで犬が主体なんですね。だから最後の文章だとニュアンスが逆ですよね。この原題と最後の文章が対になっているんでしょうか?

:本当だ。原題どおりにするなら『おいでハル、ぼくのところに』ですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年2月の記録)


ゾウと旅した戦争の冬

:戦争の時代を扱ったいい作品はたくさんあるけれど、ゾウとは意外でした。こんなこともあったかもしれないと思わせることに成功しています。介護施設での思い出話という枠がしっかりしていて、その中でペーターとの出会いの話があるので納得できます。ただ、軍国主義のおじさん夫婦よりリベラルな両親の方が正しかったことも、戦争の結末も、後世の私たちにあらかじめ分かっているところからスタートしているずるさはあります。この作品の問題だけではないですが。

レジーナ:ゾウと旅をする設定に、ジリアン・クロスの『象と二人の大脱走』(中村妙子訳 評論社)を思い出しました。リジーが恋に落ちる敵兵は、カナダ人です。カナダは、民族的にはアメリカに近いけれど、ドイツ人にとっては、爆撃してきたイギリスやアメリカに比べると、敵対心が少なかったのでしょうか。また彼は、母親がスイス人で、ドイツ語も話せます。心を通わせる上で、同じ言葉が話せるというのは、大きいのでしょうね。舞台はドイツですが、英国側から描かれた作品なので、いい人はみんな、ドイツ人でも反ナチなんですよね。リジーの家族もそうですし、助けてくれる伯爵夫人の夫も、ナチに抵抗して、軍のクーデターを起こした人物です。翻訳で、10ページに「うれしそうにさわぐ」とありますが、「はしゃぐ」の方が自然ではないでしょうか。またp84に「喪に服す」とありますが、至る所で泣き叫んでいる声が聞こえている状況なので、世界中がうめき声を上げているかのように感じられたということでしょうか。p60の「ヴンダバー」は、ドイツ語です。英語とドイツ語はつづりが似ているので、英語圏の子どもにはこのままでいいのかもしれませんが、名前なのか、何のことなのか、日本の読者は分からないでしょうから、ふりがなが必要では。

:ムティはいい味を出しているのに、あくまで「お母さん」なので残念。ゾウには名前があるのに。

ヨメナ:戦争と動物……どちらもモーパーゴの得意なテーマですね。ゾウは、だれにでも愛されている動物ですし、うまいテーマを選んだなと思いました。介護施設に入っているおばあさんと女の子の話から戦争中の物語に入っていくわけですが、とても自然で、いま生きているお年寄りもこういう経験をしていたのだと子どもたちにあらためて感じさせる上手な持っていきかただなと思いました。大人が本当に伝えたいことを、上から目線でも押しつけがましくもなく、かといって懐古的でもなく物語っていける優れた作家のひとりだと、あらためて思いました。『モーツァルトはおことわり』(さくまゆみこ訳 岩崎書店)や『発電所のねむる町』(杉田七重訳 あかね書房)もよかったし。

アカシア:今、ノンフィクションの一般書ですが、『象にささやく男』(ローレンス・アンソニー著 中嶋寛訳 築地書館)というのを読んでいるんですけど、そこに登場するリアルなゾウと比較すると、4歳のゾウの鼻だけ持って一緒に長旅をするというのは、ほんとうはあり得ないんじゃないかと思います。ただし、それ以前の暮らしの様子がとてもていねいにリアルに書かれているので、あり得るかもしれないと思わせる。この作品には、とてもリアルな部分と、話としてうまくできている部分の両方が出てきますね。たとえばリベラルな考えを持っていたリジーのお母さんが英国軍の兵士に会ったとたん、憎しみをむき出しにする部分はリアルですが、カーリの命を救ってもらったことで変わるという部分は、出来過ぎかと。構成はとてもじょうずにできています。ほかの作品でもモーパーゴは枠をうまく使いますが、この作品でも、老人ホームにいるリジーが語るという外枠がとても効果的ですね。
それから、リアリティに関して気づいたんですけど、最後に見せてもらうリジーのアルバムにはマレーネの写真は一枚だけしかないんですね。でも、前のほうではリジーの写真はたくさんあるけど、のばしてくる鼻がじゃまでちゃんとは写っていないと言っています。ということは、リジーの話全体がファンタジーだとも考えられるという仕掛けになっているんじゃないかしら。そう考えるとすごいですね。

:戦争のほかに、老人と子どもという児童文学独特のテーマも入っていますね。

プルメリア:さらりと読んだので、私はそれほどおもしろいとは思いませんでしたが、クラスの子どもたち(小学校5年生)に紹介したところ読み終えた女子は、「お母さんがマレーネを守るとすることに対してリジーが持つ嫉妬の気持ちが共感でき、戦争が昔あったことは知っているがどんな様子だったかはまったく知らなかったのでこの作品からドレスデンへの空爆のことがよくわかりました。おばあちゃんはユーモアのセンスがあるおばあちゃんみたいな気がしました。」と感想を言っていました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年2月の記録)


狛犬の佐助〜迷子の巻

プルメリア:文も絵もよかったです。身近だけど、神秘的な狛犬。6歳まで聞こえるのも、モモがいなくなるという設定もおもしろいです。また、命令調の親方と佐助のかけあいもよかったです。佐助が、戻れなくなるのもハラハラして子ども達は先をはやく読みたくなると思います。作品に登場してくる男の子が幼稚園なので、もう少し上だとよかったかな。でも、幼稚園児だけど、人間関係がぐちゃぐちゃしているので感情移入できるのでは。続きがあるような気がしますので、次作はどういうふうに展開されるのか楽しみです。

:おもしろく読みました。近所の神社の隣にも幼稚園があるので、とてもリアルに読みました。翔太って、大人から見たいい子ではなく、一人占めもするし、悪態もつくし、いるいる、こういう子って思いました。犬をめぐるやりとりはよくできていたし、生まれた子犬を引き取って丸く収まるところはさすが。佐助が戻れなくなるところでは、スリルもありました。あれ、プライドの象徴である玉を捨てると自由になれるんですね。

ヨメナ:安心して読める作品でした。江戸時代に作られた狛犬を主人公にしたところがおもしろかったし、子どもたちも日ごろ見慣れている神社の一角に、昔からの時の流れが続いているのをあらためて感じて、奥深い読後感を持つのではと思いました。続編でこれから語られていくのでしょうが、佐助の生きていた時代がどうだったのか、どんな出来事が佐助の身の回りに起こっていたのか、もっと知りたいと思いました。

:佐助の時代からここまで150年もあるから、続編はいろいろに展開できますね。

レン:ずいぶん難しいテーマを選んだなって思いました。狛犬自体が、子どもにとってそんな身近な存在ではないから。でも、親方と弟子のやりとりは、言葉遣いもおもしろくて、日本の作家ならではの力量を感じました。数えの7歳というのもいいなあと。だけど、耕平が、自分の犬がいなくなったいきさつを、ここまで説明的に狛犬に話しかけて話すというのは不自然に感じました。しっぽのかけらに乗り移ったところで、もう帰ってこられないと思ったら、親方が連れて帰ってくるというのは、びっくりでした。子弟の愛情が感じられていいけれど、やや強引かなと。

アカシア:大人である耕平が、心の中にあることの一部始終を毎日狛犬に話すというのは、不自然といえば不自然ですよね。それと、耕平がせっかくモモを探し当てたのに、本当にモモかどうか確信が持てないというところですが、いくら成長して毛の色や長さが変わっていても、犬好きの人はわかるんじゃないかな。外見じゃなくてちょっとした仕草とか癖とか本人にしかわからない意思疎通の仕方とかあるし、と思いました。でも、そういうことをさておいても、佐助と親方の会話がおもしろいので、楽しくどんどん読めます。それに、挿絵がいいですね。「狛犬に似ているかわいい犬」というのは描くのが難しいと思うんですけど、p26の絵はそれをうまく表していてすごい! 普通は動かない狛犬が動くかもしれないと思わせる絵になっているのもうまいし、p170の絵もおもしろい。そうそう、狛犬の会話で親方が「びびっている」という言葉を使っている(p98)のには、ちょっと違和感がありました。

レジーナ:ちょっと生意気なショウタをはじめ、人も狛犬もいきいきと描かれています。動かない狛犬を中心に、次々と人が登場するので、舞台のようです。また、親方の佐助に対する気持ちも伝わってきて、人を育てるというのは、こういうことなんだな、と思いました。決して出来がよかったり、見込みがあったり、大成しそうだから、目をかけるのでなくて、出来が悪くても、ひたむきさに打たれることがあるんですよね。人の命は有限で、その中で何を残せるかを考えたとき、弟子の未来にかけ、希望を託す。そうやって次の世代に伝えていくんだな、と思いました。また、狛犬は動けないので、ハンカチを使って、ショウタと耕平を会わせますが、小道具のハンカチの使い方がうまいと感じました。お金のない耕平がタクシーに乗る場面には、モモに会いたい気持ちがよく表れていますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年2月の記録)


マルセロ・イン・ザ・リアル・ワールド

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『マルセロ・イン・ザ・リアル・ワールド』

の読書会記録
フランシスコ・X・ストーク著 
千葉茂樹訳 
岩波書店 2013


クプクプ:おもしろかったです。マルセロは、特別な学校に行っているけど、お
父さんの会社で働くんですよね。アスペルガーだからなのか、自分なりの言葉で、自分の頭で考えて、リアルな世界に迫ろうとする。そこに読者も引き込まれて、
いっしょにリアルな世界ってなんなのか、見つけていくんです。彼はお父さんの不正を発見してしまうけれど、会社がつぶれるわけじゃない。マルセロの大きな
の魅力は、自分なりの言葉を積み上げて、一から世界を理解し、世界を創っていくところ。彼をサポートするジャスミンも魅力的な女の子ですね。ふたりとも音楽
が大好きで、いつしか惹かれあっていく。ジャスミンの父親のエイモスは、息子のジェイムズが馬にけり殺されてしまったのに、その馬を自分で飼い続ける選
択をしています。そんな価値観も、物語に奥行きを与えているみたい。死んだ息子といっしょに、その馬と生きる時間を受けとめていくんですよね。何が正しくて、何が間違っているのか。リアルな世界は複雑だけれど、マルセロは自分の耳に「正しい音が聞こえる」こことを大切にしていく。好感の持てる作品でした。

レジーナ:発達障碍を持つマルセロは、人の感情や人生には、善悪、嫉妬、本音と建前など、秩序立てることのできないものがあるのだと知っていきます。ジャスミンがマルセロに、訴訟問題にどう関わるか、自分で決めなければならないと話す場面がありますが、生きることが喪失の連続なのは、誰しも同じなんですよね。マルセロは、イステルとの出会いの中で、苦しみばかりの人
生をどう生きていけばいいのかという問題にぶつかり、人生に挑もうとします。どんな人にとっても、人生というのは、多かれ少なかれ生きづらいものです。この作品の魅力は、発達障碍の少年の目を通して描きながらも、すべての子どものための普遍的な成長物語になっている点だと思います。宗教に強い関心を抱くマ
ルセロは、聖書を暗記し、何度も心の中で思い返し、自分のものにしようとし、人間の矛盾を受け入れようとします。ピアノが弾けないことを、「ぼくの心のなかの配線は、ピアノを弾くのに必要なだけの電流に耐えられなかった」と言ったり、その場で思いついたことを「即興で演奏」と表現する独特の言葉づかいをしたりもします。マルセロ自身も、また彼の目に映る世界も、読者を惹きつける力があります。151ページで、マルセロは、自分の感情を非常に論理的に分析していますが、アスペルガー症候群の人は、これほど段階を追って考えるものなのでしょうか。また160ページに「ウェンデルはどうやって、ぼくの心のなかを知ったのだろ
う?」とありますが、アスペルガーの人は、人の感情を読み取るのが困難なだけで、感情というものが存在することはマルセロも知っているはずなので、この台詞は不自然ではないでしょうか。

アカシア:本当にリアルな世界とはなんなのか、ということを考えさせられました。実業界にいるお父さんがリアルだと思っている世界は、実はリアルではないのかもしれないと思ったんです。そして著者もそう言いたいのではないかな、
と。逆にこの作品では、マルセロの視点から見た周囲の世界がとてもリアルに書かれています。著者が障碍者の施設で働いたことがあり、自閉症の甥をもつこともあって、つくった話ではなく、登場人物にリアリティのある作品になっていると思いました。もちろん、こうなるといいな、という理想も書かれてはいると思いますけど。読者もマルセロに寄り添って物語の世界を歩いていくことができるし、ちょっと臭い台詞も、マルセロが言っていればそう思わないで素直に受け取れる。
発達障碍をもった人を主人公にした本だと『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン著 早川書房)がおもしろかったし、目を開かれた気持ちになったんですけど、この本はまた趣が違って別のおもしろさがあります。本文では「リアルな世界」となっていますが、書名は「リアル・ワールド」なんですね。一つ気になったのは、マルセロは定期的に脳をス
キャンされてますけど、どういう方法でなんでしょうか? 普通のCTスキャンだと健康に害がありますよね?


ajian
:第3章での父との会話。マルセロの父親は息子のためを思って、法律事務所で働くようにいうわけですが、マルセロにはそれが通じず、かえってストレスに思う。このすれちがう感じは、すごくよくわかる気がして、この辺りからぐっと引きこまれましたね。ラビとの会話は、最初原書で読んだときはちょっと難しくて、読むのに苦労したのですけど、翻訳で読んでみてかなりクリアになって、よかったです。

(2013年9月の言いたい放題)

鉄のしぶきがはねる

Photo 『鉄のしぶきがはねる』
の読書会記録

まはら三桃著
講談社 2011




プルメリア:表紙もよく、軽くて良い感触でしたが、読み始めたら金属音が気になってなかなか読み進められませんでした。知らない職種なので仕事内容がわかりにくく理解が進みませんでした。わからないなりに読んでいって、中頃になってようやく自分なりの解釈で読めるようになってきました。工業学校の様子もわかり、登場人物もひとりひとりのキャラがわかってきて家族の思いやりも伝わり、最後はコンクールへ向けての熱意も伝わって来て、応援したい気持ちになりました。高校生のときめきもよくわかるし、工業系の話って今までなかったと思うのでお薦めしたいです。これが工業系のお話の第一作になっていくのかなと思いました。

トム:「鉄のしぶきがはねる」というタイトルは、象徴的なのかなと思っていました。ページを開く前、私は板金のこともなにもわからないので、飛沫が跳ねるということからもっと文学的なイメージを広げていたのかもしれません。先入観でタイトルに勝手な思い込みを重ねました。考えてみれば赤く燃える鉄鋼炉で鉄が湯のように滾っている映像を見たことを思い出します。内容は工業高校での学びがかなりリアルに語られて、鉄が水のように跳ねる事実からも工業世界の一端をみる気持ちがします。若い人がもくもくと何かを作ることに没頭する姿はすがすがしく感じました。それぞれの葛藤や背景はありますが。

アカシア:工業系でも、旋盤は地味だからかあまり児童文学にはとりあげられませんよね。

プルメリア:ロボットや飛行機だったら目立つけど。

トム:技術は一代限りでないこともさりげなく語られています。
それから、貧しいなかでノートを盗んでしまう若者もでてきます。人間の弱さ、弱さを生んでしまうものは何なのか、読者の若い人たちはどう感じているでしょうか。時代の背景とか、そのことが他者の人生を狂わせ自分も生涯苦しみを抱えて生きることになる・・・と、若者も大人も一緒に想像力ひろげて考えられたらと思いますが。
かなり重いテーマが挟まっていると思いました。

アカシア:ところで、ゲームセンターって今もあるんですか?

プルメリア:ありますよ。

トム:登場人物のなかでは、大人たちがかなりステレオタイプに描かれているように感じました。若者たちはそれぞれいい味。亀井君、吉田君もそれぞれに色々な出来事を超えて自分の道を歩きだす様子がさわやかに描かれています。どこかで会えるような気がする若者たちです。原口くんは、卒業後インドに旅立つという意外な展開で、少し唐突な気がしました。日本の技術とアジア・イ
ンドの状況などもう少し具体的に、例えば原口君を突き動かした出来事など描かれていたら、彼の情熱がリアルに伝わって原口君に自分を重ねる人がでるかも・・・。最後に「待ってろ」なんて、何だかカッコよく古風なことを言うのは、突如物語のテーマのハンドルが別のルートに向かってきられたような気もしましたが。

ルパン:説明調の文章が多くて、私は読むのが大変でした。レアな世界を紹介したい、という作者の意図が透けて見える感じが鼻についたし…。バイトとか旋盤とか、工業用語がたくさん出てくるのですが絵で浮かんでこないから、その分お話に入り込めませんでした。そういうものを文章で表現するのが目的だったとは思うのですが。ふつうに手に取っただけだったら、たぶん途中で放り出したと思います。今日の会の課題だったのでがまんして読み続けたら、そのうち最後のほうでおもしろくなってきました。もっとストーリー中心で描けばよかったんだと思います。工業高校の女の子って、とても魅力的な設定だし。旋盤作りの説明がこんなに前に出ずに、物語の背景として自然に組み込まれていたらなあ、と思いました。全体的にはやはり工業高校の世界のレポートを読まされている感がぬぐえませんでした。最後に原口君とふたりでインドのかたちを作るジョークを交わすシーンなんかはすごくいいですね。こういうところばっかりだったらよかったな。

レジーナ
聞きなれない言葉が多く、はじめは少し入りづらかったです。「ものづくり」という、人と少し違うことに魅せられた少女が、おばあちゃんや、人に裏切られても、それでもまた信じようとする原口など、温かな家族・友人の中で成長していく話は、まはらさんらしいですね。「ものづくりは楽しいから、なくなることはない」と原口に言われた心(しん)が、自転車のグリップを握った瞬間、鉄を切った時の感触を思い出す場面では、手の感覚で、はっと何かに気づく様子がよく伝わってきました。コツコツ努力
し、硬い鉄の中から形を取り出すというのは、どこか人生にも重なるようです。主人公は、ものづくりとパソコンをよく比べていますが、この部分は必要だった
のでしょうか。比較が作品の中で効果的に使われているようにも感じられなかったので……。

ajian:11ページの「コンピューター制御」というのは、
具体的にはプログラミングのことなのでしょうか。それがどういう状態をさすのかが、今ひとつわからなくて。「コンピューターをやっている」という表現も出てきますが、具体的でないのが、ちょっと気になってしまいました。コンピューターといっても、できること、やれることは千差万別なので、たんに「コンピュー
ターをやる」という表現は、ちょっと大雑把かなと思います。パソコンが好きな子どもが読むと「あれ?」っと思ってしまうかも。

クプクプ:私はバランスよく書けた本だなと思いました。読後感がよくて、それはたぶん、ジェンダーを越えて道を究めていく話だからでしょうか。もちろん、女は得だな、という偏見を持つ先生も出てきますが…。恋愛だけで終わらない、
気持ちのよさがある話だなって、素直に思いました。「心出し」とか知らない言葉がいっぱい出てくるし、言葉は専門的で独特だけれど、日本語の豊かな世界に出会えました。主人公の鉄を削って形を求める姿が、作家さんが対象を描写するために文体を求め、削っていく様子と呼応していておもしろかった。

ajian:同じ話のくりかえしですみません。39ページの
「コンピューターに戻れるだろう」も、ちょっと引っかかってしまいました。彼女が「コンピューター」で何をやりたいのか/やっているのか、が今ひとつ伝わってこないです。プログラミングならプログラミングで、何かを学び、身につけるということは、本来世界の捉え方から変わってくるようなことだと思います。欲をいうなら、既に「コンピューターをやっている」彼女が、旋盤に出会うことで、さらにどう変わるのか、それが書かれているともっとよかった。それがなくて、たんに「手作り」の対比として「コンピューター」を置いているだけなら、ちょっと浅い気も。

アカシア:私は理科系ではないせいか、コンピュータ技術を学びたいと思い、手仕事を古くさいと思っていた主人公の心が、機械ではできないものがあると気づいていく過程がうまく描かれているな、と思いました。工業高校の旋盤技術という、地味であまり注目されないところに焦点をあて、そうした技術をとても魅力的に描き出しているのもすてきです。そういう描写が説明的だとは、私は思いませんでした。触覚とか視覚とか、作ったものが浮かび上がるような表現をしようと
しています。私自身にはまったく未知の分野ですが、すごいものができていくのがわかります。音とか、金属音もリアルに感じられたし、臨場感もありました。私は都会で生まれ育っ
て、まわりに工業関係の施設もなかったので、工業高校は勉強には向かない子が行く学校なんじゃないかって誤解してました。この作品を読んで、工業高校の
魅力がよくわかりました。心と原口の将来を暗示するようなストーリー展開はありきたりになりがちですけど、心も原口も旋盤に魅入られているという側面があるので、ただのありきたりにはなってない。絵や説明はあえて入れずに、勝負しているのもすがすがしいです。わからない部分があっても十分魅力が伝わってきますもの。北九州弁で会話が進んでいくのもおもしろかったな。

(2013年9月の言いたい放題)


3人のパパとぼくたちの夏

コーネリア:こういう男の子いるだろうなって、楽しく読みましたけど、マンガチックな構成で、読み飛ばしてしまって、心に残らなかった。小学生くらいの男の子だとが読みやすいのかもしれません。

レジーナ:タイトルを初めて聞いたときは、ゲイのカップルの物語かと思いました。「やっと日本の児童文学でも、そうしたテーマを扱うようになったか!」と思ったのに、ふたを開けてみたら、シングルファザー同士で暮らしている設定でした。小学6年生が、おぼれている子どもを助けるのは、そう簡単にはできないので、リアリティーが感じられませんでした。また、家出していることに気がつかず、主人公の持っているパンを見て、「朝食を持参しているなんて、用意がいい」と言ったり、「ぐるぐる」という呼び名を本名だと思ったり、夜パパがあまりにもとんでいて浮世離れしているので、ファンタジーの世界に迷いこんだように感じました。主人公は、自ら状況を変えようとはしていない。いわば逃避ですね。リアルな設定なのに、異質な空間が唐突に現れ、主人公はそこに逃げこみ、しばらくの間、現実とは別の時間を過ごす。しかし児童文学では、家出や旅を通じて、それまでと異なる自分になって帰ってくることが大切なのではないでしょうか。たとえば、E・L・カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子/訳 岩波書店)では、家出をした主人公は、自分だけの秘密を持って、家に戻ります。でもこの物語では、主人公の中のなにかが決定的に変わったり、成長したりはしない。挿絵の宮尾和孝さんは、ジェラルディン・マコックランの『ティムール国のゾウ使い』(こだまともこ/訳 小学館)や中村航文の『恋するスイッチ』(実業之日本社)の表紙も描いていらっしゃる、今人気のイラストレーターですね。

さらら:ストーリーラインは単純で、言葉も台詞のやりとりで続いていく。映画みたいで、ラノベに似ていますね。目で見える情景が続いていて読みやすいけれど、軽い。家事をやらないお父さんに対する、子どもからの反撃というのは、私が好きなテーマですけど、文体についていけなかった。ちょっと文章のつくり方が粗いのかなあ……。

夏子:状況の設定が秀逸だと思いました。父子家庭の集合体っていうのは、母子家庭の集合体と比べると、今ひとつリアリティーがないでしょ? だから、理想化できるのでは? ほら、ひまわり畑の真ん中にあるという「夢の家」にいるのがオッサンなわけだから、イメージが新鮮になるじゃない。とはいえ「ひまわりの家」のポイントは、朝パパの超楽天的な個性ですよね。「テキトー、ずぼら、いいかげん。でも超ハッピー」で、これはまあ、パターンかな。この個性を、夜パパが讃仰していて、それで共同体ができあがっている。めぐる君も影響を受けて、やがて「うちのお父さんのようなテキトーなやり方もありかも」と受け入れるようになる。よくあると言えばよくある展開ですが、私は楽しく読みました。女の子はペアの天使というキャラですよね。ジャラジャラとアクセサリーをつけているのは、フラワーチルドレンというか、ヒッピー風。深読みすると、お母さんがいないという欠落を、なんとかして埋めたい衝動があるとか? ただイラストが、髪型やらリボンやら正確でなくて、残念です。こういうふうに、登場人物をパターンやキャラで描くところが、ラノベとかマンガっぽいんでしょうね。でも主人公は家出をすることで前に進んだからこそ、「他者を受け入れる」という課題を成し遂げたわけで、なかなか良い本だと思います。

たんぽぽ:どうかなって、思ったのですが、読んでみたらおもしろかったです。3年生ぐらいから高学年まで、よく読んでいます。家出という設定も好きで、主人公の気持ちが自分たちと重なるようです。最後に父親がわかってくれたというのも嬉しいようです。これも食べ物を囲むシーンが度々出てきますがあたたかい気持ちにさせてくれます。

ジラフ:私もうまく乗れなかったくちで。やっぱり、ゲイのカップルかなあ、と思いました(笑)。シチュエーションがちょっと“おとぎ話”みたいで、吉本ばななの『キッチン』(福武書店、角川書店)を思い出しました。『キッチン』は性転換したお父さん(というかお母さん)でしたが、日常の中で、そういうおとぎ話的な場所を持つことでやっていける、生きていかれるということはあるなあ、と思いました。

アカザ:ノリが良くて、最初からすらすら読めました。キラキラした女の子たちが出てきたところで「あれ、これはファンタジーなのかな? ふたりともこの世ならぬ存在で、キングズリーの『水の子』(阿部知二/訳 岩波書店ほか)みたいな展開になっていくのかな?」と思いましたが、そうはならず最後までリアルな作品なんですね。でも、なんだかリアルではない……。登場人物の書き方が記号的で、あまり体温が感じられないからなのか。たしかに主人公も主人公のパパも、家出事件の前と後では心境も変化しているし、成長もしているだろうし、ある意味、児童文学のお手本ともいうべき書き方をしているんだけど……最後まで嫌な感じはしないですらすら読めるんだけど……なにか薄っぺらいというか、心にずしんと訴えかけてくるようなものがなかった。これは、無いものねだりなのでしょうか?

夏子:すらすら読める、というのもポイントだけれど、それだけでいいと思ったわけではなくて、家出という問題解決の方法を、私は評価したいです。

たんぽぽ:4年生ぐらいで読めない子がおもしろいなーって、他の本にも広がるきっかけになれば良いなと思います。

ジラフ:作者のプロフィールを見ると、梅花女子大の児童文学科を卒業して、日本児童教育専門学校の夜間コースで勉強していたそうなので、ひょっとしたら、いい子どもの本の書き方のお作法みたいなものが、知らず識らずのうちに身についてしまっているのかも、とふっと思いました。

カボス:お父さんへの不満ですけど、子どもから見れば大きいんでしょうね。大人から見れば些細なことでも、そう簡単に許すことはできないから。女の子二人が溺れたのを助ける場面は、ちょっとご都合主義的だと私も思いました。私は朝パパのキャラが好きだったんですけど、いつも飛ばしているはずの親父ギャグが途中から出なくなるので、残念でした。なかなかおもしろいシチュエーションで、父子家庭が助け合って暮らすというのは現実にはあまりないでしょうけど、こういう作品が出ると現実でもアリかなと思えてきて、そこがいいですね。

コーネリア:家出とか、お料理ものとか、子どもが喜びそうなものがちりばめられていて、読む間は子どもも楽しめるのですけれど、印象に残らなかったんですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年1月の記録)


負けないパティシエガール

さらら:外に飛び出していくことで、だれも認めてくれない自分の才能を発見するという設定が、子どものころから大好きなんです。しかも、お菓子作り、という要素が、食いしん坊の私にはたまらない。主人公が得意なのはカップケーキを焼くことだったり、プレスリー好きのハック(ママの元恋人)が登場したりと、なにもかもとてもアメリカ的な背景で、私もアメリカの女の子になった気分で読みました。下宿先のレスターが、釣りをたとえに、人生ってこんなもんじゃないかと、いいことを言うんですよね。そういうのが非常にうまくからみあっている。いろんな意味で楽しませてもらった一冊でした。

プルメリア:読みやすい。チャリーナさんとの関わりを通じて、言葉を習得していく過程がとってもわかりやすかったです。話せても言葉を理解することは難しいんだなって改めて思いました。子ども(小学校5年生女子)から感想を聞くと「ハックはいやな人」「チャリーナから読むのを教えてもらうかわりに、チャリーナにお料理を教えてあげるのがおもしろかった」「チャリーナが賞状をあげるところに感動した」でした。読書が好きな女子は2時間ぐらいで読み終えていました。

レジーナ:バウアーの『靴を売るシンデレラ』(灰島かり/訳 小学館)の主人公は16歳でしたが、この本では6年生です。しかしその年齢の子どもが経験するには、非常に辛い状況です。シャワーを浴びながら泣いている母親の声を聞く場面など……。ケーキという、人生に喜びを与えるもので、家庭の暴力やディスレクシアなどの問題に立ち向かうというテーマが、とても明確に打ち出されています。チャリーナ夫人からもらった小切手を、自分のために使うのではなく、罪を犯した家族を支える場「手をつなぐ人の家」のために使うのも、好感がもてました。誇り高く、過去の栄光にしがみついている有名人のチャリーナは、E・L・カニングズバーグの『ムーン・レディの記憶』(金原瑞人/訳 岩波書店)を思い出させます。周囲の雑音に惑わされるのではなく、心の中の静けさや平安を守り、自分を大切にするよう語るレスターやチャリーナをはじめ、信念を貫くパーシーや、けちなウェイン店長、プレスリーに憧れ、自分に酔っているハックなど、味のある個性的な人物が登場するので、あまり盛りこみすぎず、人物を減らし、何人かに焦点を当てて、深く描いてもよかったのかもしれませんね。

たんぽぽ:おもしろかったです。6年生が、感動したといっています。お菓子というのも、まず惹かれるようです。チャリーナが登場する場面も、ドキドキしました。母親が、いつも自分を、認めてくれているのがいいです。私自身もそういう子どもに、やさしく、気長にせっしたいと、思いました。

ジラフ:アメリカのアクチュアリティが、すごくよく出ていると思いました。アメリカではいま、カップケーキがとっても流行っているし、イラク戦争でお父さんが亡くなっているとか、DVの問題とか、大人と子ども、それぞれの矜持が描かれているところとか。人生に対してつねにポジティブなアメリカを感じました。それと、食べ物が大きな力になっているところも魅力的でした。以前、研究生活からドロップアウトしてしまった友人が、パンを焼くことでまた生きる元気を取り戻したことがあって、食べ物や料理の持つ力をあらためて感じました。裏表紙にレシピが載っているのもいいですね。この作品についてではないですが、「前向きに生きのびる」というのはしんどい場合もあって、逆に、内向きに閉じることで生きのびられる時もあるかも、ということを、一方で考えました。

アカザ:同じ作者の『靴を売るシンデレラ』も良かったけれど、この作品もすばらしかった。主人公と母親のところにDV男のハックがいつ現れるかと、読んでいるあいだじゅうハラハラさせられて、最後まで一気に読んでしまいました。ディスレクシアの主人公の口惜しさや悲しさも胸に迫るものがあったし、それをカップケーキ作りにかける夢と才能で乗り越えていくというところも良かった。登場人物の描き方が、大人も子どももくっきりしていて、読んでいるあいだはもちろん、読んだ後もしっかりと心に残っています。主人公の身の回りだけではなく、刑務所のある田舎町の様子や出来事も描いているところに社会的な広がりを感じさせますが、良くも悪くもとてもアメリカ的。カニグズバーグに似ているなと思ったのですが、カニグズバーグの作品のほうが、もっともっと世界が広いのでは?

カボス:最初からずっと緊迫感や謎があって、それに引っ張られながらどんどん読めました。おもしろかった。コンプレックスが拭えなくてさんざん苦労したフォスターの複雑な心理が、うまく読者にも伝わるように書けていますね。またSNSやメールではなくて、人間と人間が実際に出会ってお互いに変わっていくというのが、とてもいいですよね。出てくるケーキはどれもおいしそうなのですが、日本の家庭ではもうあまり使わなくなった着色料などが平気で出てくるのは、アメリカ的ということなのでしょうか? p250でレスターがフォスターの父親をほめているところにも、弱さを克服することがすばらしいことなのだというアメリカ的な価値観が出ているように思いました。戦場で勇気をもつということがどういう意味をもつのか、そのこと自体の是非については疑ってもいない。丸木俊さんが近所の子どもたちに「戦争が始まったら、勇気なんか出さなくていいから、とにかく逃げなさい」と言っていたことを思い出しました。

コーネリア:この作品は、物語がものすごく都合よく進んでいくのですが、それが許せるおもしろさがあると思います。文中に、ジョン・バウアー格言が矢継ぎ早に、次から次へと出てきます。私もこの言葉にぐっと惹かれましたが、子どもだったら、大人よりもストレートに入ってくるのではないでしょうか。勇気づけられる作品。

夏子:主人公が12歳にしては大人ですよね。小学生向けの本なのか、ヤングアダルトなのか、ちょっととまどうところがありました。この作家は『靴を売るシンデレラ』にしても『希望(ホープ)のいる町』(金原瑞人・中田香/訳 作品社)にしても、いつも大きな問題を抱えた主人公を描きますよね。今回も、ディスレクシアや、お母さんのつきあっていた男性のDVやら、問題が山盛り。ちょっと教訓っぽいところがあるけど、主人公が自分はどうしたら幸せになれるか、一生懸命考えて、手探りしながら生きていくところがいいですよね。この本では子どもも大人も、奥行きのある人間としてしっかり描かれている。印象的な女優のチャリーナさんが、こちらもディスレクシアとちょっと都合のいいところはあるけれど、それが許せるのは陰影と味わいのある人物だからなんでしょうね。ちょっとカニグズバーグを思い出しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年1月の記録)


レンタルロボット

アカザ:とってもおもしろく、すらすら読めました。健太とツトムの気持ちも良く書けていると思いました。子どもたちも、楽しめることと思います。でも、なんだか悲しいお話ですね。ロボットって、結局人間のために作られたものだし、『鉄腕アトム』にも「人間のために犠牲になってもいい」というようなところがありますね。けれども、読者は(子どもだけでなく、わたしも)健太だけでなくツトムにも感情移入して読んでしまうから、なんだかツトムはかわいそう、これでいいのかな?という感じが残ります。それから、お母さんが赤ちゃんの写真を隠したところが、ちょっと分かりにくいですね。たまたま弟が見てしまったので仕方なく、ということらしいのですが、弟のほうには丁寧に説明して、お兄ちゃんには内緒にしておくというところが、なんだか納得いきません。

アカシア:私はp67からのその写真のくだりで、ずいぶんとご都合主義的な話だなと思って、それ行以降楽しく読めませんでした。

アカザ:p69で弟が「ぼく、たまたま見つけちゃっただけなんだ……」って、言ってます。

アカシア:たまたま見つけちゃったにしても、ですよ。最初は設定がおもしろいな、と思ってたんですけどね。それに、ツトムのことをだんだん本当の弟のように思っているのに、しょっちゅう「お店に返すぞ」って脅すのもなんだかいやでした。最後に、お店に返しちゃったツトムのかわりに本物の赤ちゃんが生まれるっていう持って行き方も後味が悪い。しかも最後の最後にツトムに「おにいちゃん、だいすき!」なんて言わせているのも、気分が悪かったです。ペットを手に入れても都合が悪いと返しちゃう人と同じみたいで。

レン:おもしろそうなタイトルだし、ところどころに入っている絵もかわいらしくて、子どもが手にとりたくなりそうな本だと思いましたが、最後のところは物語世界の論理が破綻してるかなと思いました。ツトムを返したあと、みんなの記憶は消されてしまうのに、健太だけは覚えているというのは変じゃないかと。だから、手紙をうけとって涙を流すというのは、いいのかなあと思いました。もうだれのことかわからなくて、だけどどこか懐かしい気もする、というようなことならわかるんですけど。

プルメリア:(遅れて登場)弟ロボットを買うことから始まるストリーで、私はおもしろかったです。クラスの子どもたち(小学5年生)に「弟がほしい人いますか?」と問いかけこの作品の紹介をしたところ、読んでみたいという子どもがたくさんいました。作品を読んだ後の感想が楽しみです。

ルパン:この本は、いただいたときに一気読みした時は「よくできたお話でいいなあ」と思ったんです。こういう話って、最後はぜんぶ夢だったなんて夢落ちにしてしまう傾向があるのに対して、これは一貫してロボットを借りたことは事実だったことになっていますよね。そこが気に入ってました。弟がほしくてレンタルロボットを借りてくるけれど、ほんとうに弟ができたらやきもちをやいたりする、っていう小学生の男の子の心の動きはよく書けていると思いました。

アカシア:レンさんが言われて私も気づいたんですが、たしかにお話の世界に破綻がありますよね。だれも、その点に気づかなかったのかな? 挿絵はとてもいいけどね。

アカザ:SFが好きな子どもたちは、こういう矛盾したところをすぐ見つけますよね。賞の審査員も気づかなかったんですかね?

(「子どもの本で言いたい放題」2013年12月の記録)


ぼくの嘘

アカザ:これを読んだのは、ちょうど特定秘密保護法が参議院を通るかどうかという時だったので、「こんなことを書いている場合かよ!」と、腹が立ちました。誤解のないように言っておきますが、べつに児童文学作家全員が社会派の作家になれって言っているわけではないのです。登場人物の周囲1マイルくらいのことしか書いてなくたっていいし、もちろん恋や友情の話だっていい。別に戦争や原発の話を書けっていってるわけじゃない。でも、大人の作家が子どもに向けて書いているんだから、もう少しなにかがあっていいんじゃないの? たしかに、登場人物の語り口は「いまどき」だし、読者もすらすらと、それなりに面白く読めると思うけど、3:11以降、大人の文学の世界が確実に変わってきていると思うのに、子どもの本の作家がこれでいいのかなあ? 家庭に多少の問題は抱えているとはいえ、女の子も男の子も大金持ちで(服に20万円も使うなんて!)、お父さんは医者で、お母さんも美人で頭が良くって……リカちゃん人形か! いちばんびっくりしたのは、最後の1行です。大人になってからのふたりのこと、なんで書きたかったんでしょうね?

アカシア:会話のやりとりはなかなかおもしろいと思ったし、オタクの男の子が「更新」とか「ストレスゲージ」なんていくコンピュータ用語で心理描写をしているのもおもしろかったんです。ただ、登場人物やシチュエーションが、あまりにもステレオタイプですよね。絶世の美女のレスビアン、オタクのさえない男の子、金銭で解決しようとする父親、表向き完璧主義者の打算的な母親、親友のカノジョが好きになるとか不倫とかもね。それに、大人が書けてないですね。と言うことは、人間が書けていないので、リアリティが稀薄で薄っぺらくなってしまいました。p247には、「生身の人間に慣れてしまったら、情報量の少ないアニメ絵に不自然を感じてしまうのだ」とありますが、この作品自体がアニメ的だな、と思ってしまいました。社会的な視野の広がりがないのも残念です。

レン:私には20歳前後の子どもがいますが、高校生から大学生くらいの若者の空気感はとてもよく出ていると思いました。だけど、それ以上のものは感じられませんでした。私は本というのは、「漫画やゲームや映画のようにおもしろい」ではダメだと思うんです。文学でしかできないおもしろさがないと、がんばって文字を読む意味がない。要するに、読者に何を投げかけたかったのか疑問です。私はむしろ、役割とかキャラの呪縛から読者を解き放ってくれるような物語を読みたいな。

アカザ:すばらしい作品って、登場人物が作者の思ってもみなかったような動きかたをし始める。この作品は、最後まで作者の掌の上にあるって感じ。

プルメリア:読み始めてからすぐ、男の子が屋上で友だちの彼女のカーデガンを抱きしめる場面がうーんって感じ。内容がぐちゃぐちゃしていて、もういいよと思ってしまいました。表紙はインパクトがなくて、あまり好きな絵ではなかったです。

ルパン:ハッピーエンドにしては後味が悪かったです。とくに最後が・・・いきなり30代半ばになっていて、それで唐突に結ばれるわけですけど、その間10年以上も何もないまま経っているわけだし。この展開にはびっくりでした。しかも、この主人公、彼女が不幸になって落ち込むタイミングをずっとねらって待ってたみたいで、ちょっとコワい。高校生の言葉づかいとかはよく描けていると思いましたし、私はけっこうおもしろいと思いながら読んでいたんですが、そもそもこれは児童文学なんでしょうか。子どもや若い人が読むことを思うと、登場人物にはもうちょっと別の成長のしかたを見せてもらいたい気がしました。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年12月の記録)


ジョン万次郎〜海を渡ったサムライ魂

アカザ:これはもう、話自体がおもしろいから、一気に最後まで読みました。小さいころから、たぶん井伏鱒二の本や、その他の伝記やいろいろ読んできて、知っていることばかりと思っていましたが、アメリカの作家から見た事実というのは新鮮で、興味深かったです。ジョン万次郎が描いた絵や、その他の絵や写真がたくさん入っているところもよかった。作者がちょこっと笑わせようとしているのかなと思うところがあったけど、翻訳はとても生真面目に訳してありますね。

アカシア:捕鯨の様子や、香料を取りに行くときのきつい匂いとか、海の様子なんかは、臨場感もあっておもしろく書けていると思いました。ストーリーもおもしろかった。ただ、ないものねだりですが、万次郎は土佐弁で話していたんでしょうけど、翻訳だから標準語になっている。標準語だとどうしても教科書的になって、やっぱりリアリティとか趣が何割かは抜けてしまうように思います。絵の中にも万次郎が書いた日本語の文字が出てきますが、どこでおぼえたんでしょう? 日本語の読み書きはどこで勉強したのかな? そのあたりを知りたいな。日本に帰ってきたから、おぼえたんですよね?

レン:えらく英雄的でポジティブな人物像ですね。物語全体の流れがよくて、一気に読めました。ただ、外国人の視点で書かれているところを、もう少していねいに訳してくれたらと思った部分や、よく意味がわからない部分がちょこちょことありました。たとえば、77ページの後ろから7行目「戸が開くときのきしみや、閉まるときのやわらかな音の心地よいこと」は、引き戸だと思うんですね。これだと、西洋式の扉と同じように読めそうです。また、78ページで、船長が本を読んで聞かせてくれるところで、万次郎が「きっと詩だろうと思った」とありますが、この時代の漁師の子が「詩」という語を使うのか、疑問でした。300ページの「カエデ」は「モミジ」? 263ページの最後に、写真がぼやけているのを、「まるで、さっさと出かけていくところのようだった」と、たとえているのも、意味がわかりませんでした。180ページの「隕石が落ちたことがありますか?」というのも、この時代の日本育ちの少年がこんなことを言うかなと違和感を感じました。こういう部分は、どこまで翻訳や編集で調整するのか、難しいところですね。

ルパン:私はストーリー的にはとてもおもしろかったです。確かにちょこちょこと気になるところがあることはありましたが。実在の人なので、どこまでが事実なのかなあと思いながら、最後までぐいぐい引っ張られるように読んでしまいました。ただ、日本に帰ってきたときや帰ってからの生涯がほとんど書かれていなかったのが残念でした。日本人のアイデンティティを持っていながらいきなり別世界のようなアメリカで暮らし、今度はアメリカの教育を受けて日本に帰ってくるという激動の人生ですから、帰国してからのbefore-afterももう少し読みたかったです。あとがきの「歴史的な背景について」という最後のところに。女の子が万次郎にもらった花かごをずっと持っていたエピソードがありましたが、こういうことが本編に書かれていたらもっとよかったな。万次郎は二度と日本の土を踏めないかも、母親にも会えないかも、と思っていたでしょうから、帰国したときの驚きや感動がもっと書けていたら、と思いました。

アカシア:この人はその場その時を一所懸命に生きているから、そういう人って帰国しても特段の感動は逆にないのかもしれませんね。

ルパン:ついに日本に帰れる、とわかったときにはどんな気持ちだったんだろうと思うんです。眠れないほどいろんな思いがあっただろうと思うのですが・・・その辺は日本人が書いたら違ってくるかもしれません。あと、これも後書きですが、デイヴィス船長がアメリカの良心を代表するような人だったことが万次郎にとっての幸運だったと書かれていますが、本当に恵まれていたのだとつくづく思います。この善良な船長はほんとうによく書けていますよね。そこはさすがにアメリカ人作家だと思いました。

プルメリア:表紙がすごくいいなと思いました。挿絵もよかったし、地図がのっていたので作品を読みながら参照することができました。文章も読みやすかったです。助けられた船では食事として最初にお米が出て最後にパンが出てくる配慮、船の中でもらった食べ物を箱やポケットにいれて家族のためにとっておく場面などリアリティがありました。中学生でも読めますね。

ルパン:サブタイトルの「サムライ魂」というのは、ひっかかりますけどね。もともと漁師なんだし、そんなものなかったんじゃないか、って。そこはやはりアメリカ人の「日本人=サムライ」っていう固定観念のたまものかな。タイトルにそうあるから、万次郎がアメリカで生きていくなかで日本人としての心情や誇りを捨てきれないシーンがたくさん出てくるのかと思ったのですが、ほとんどなかったですね。お話としてはなくてもいいんですが。ともかく、この『海を渡ったサムライ魂』というサブタイトルには違和感があります。話の内容と合ってない。

アカザ:「サムライ」というところは、わたしもひっかかりましたね。だいたい、ジョン万次郎は、侍に憧れてはいたけれど、武士道の教育は受けてなかったし。アメリカで教育を受けて、自由や平等ということを教わってからは、侍になるのは、それほどの夢ではなくなってきたのでは? アメリカの人たちにとっては、サムライは日本人以上に憧れの的なのかもしれないし、ジョン万次郎がその夢をかなえた、初志貫徹したというのは、いかにもアメリカ人好みの話ではあるけれど・・・。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年12月の記録)


オフカウント

ルパン:残念ながらあまりおもしろくなかったです。章割りのたびに名前が出てくるんですが、別に必要ないですよね。ほとんど峰口リョウガなんですから。いろいろな人の視点で書きたいならまだしも、どうしてこんな書き方するのかなあ。次の章もまた「峰口リョウガ」だからひとり飛ばしたのかと思って前を見たり。そしたらまた次の章も「峰口リョウガ」。その次も。何のためにわざわざ名前を出すのかわからなくて混乱しました。

ハリネズミ:朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』(集英社)も、同じような構成でしたよね?

ルパン:あれは、いろんな視点で書かれてたから。こっちは、まずバスケ部をやめた理由がよくわからないし、戻りたいのかもよくわからない。最初に「何かしたい」と思うきっかけがフットサルのおじさんを見かけたことだったから、それをやりたいという話になるのかと思ったら、そうでもない。ダンスとかジャグリングとか色々出てくるのだけど、感情移入できないし、次はどうなるのかな、というわくわく感がまったくなくて。ダンスシーンも、躍動が目に浮かぶような、リズムがわいて出るような感じがしない。ともかくおもしろくなかったです。

レジーナ:ウィンドミルをはじめ、ダンスのステップの描写が説明的なのですが、イメージできませんでした。牧野の性格が、「おっちょこちょいで、でも頼りになる」というのは、矛盾しているのではないでしょうか。ぽっちゃりしているタモちゃんがダンスをする様子を、「ウーパールーパー」と表現しているのは、思わず笑ってしまいました。会話はリアルで、部活をやめ、うちこむものがない中学生が、何かのきっかけで変わるという、ドキュメンタリー番組にありそうな題材ですが、なぜダンスなのか、ダンスを通して彼らの何が変わったのかが伝わってこないんですよね。ダンスの歴史に触れていますが、主人公に、親や学校への反発があるわけでもありません。ヒップホップは、黒人の人たちの抵抗や自己表現の形なので、そうした芯のようなものを日本人が理解するのは非常に難しいでしょうし、この作品の登場人物を含め、ただかっこいいからという理由で真似る若者が多いのでしょうね。

ルパン:タイトルの『オフカウント』も意味がないですよね。何か対極になる「オン」があって、それに対して「オフ」ならわかるんですけど。「オフカウント」の意味が書いてあったけど、それが何かの伏線になっているとも思えず。オフカウントって、打楽器奏者は「後打ち」とか「裏」とか言うんですが、これで何を言いたかったのかテーマがよくわかりませんでした。

ハリネズミ:会話も、中学生がこんな言い方するのかな、と思うところが随所にありました。小学生かな、と思うようなところも。それに、物語の芯がよく見えません。あと、目線が内にばかり向いていて、外に向かいませんよね。

プルメリア:淡々と読める作品かな。読んでいてもあまりめりはりを感じなく、唯一おばけやしきを作るところはおもしろかったです。だれが主人公かわかりにくくて、読みにくかったです。今風の作品と思いますが、深みはなかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年11月の記録)


だれにも言えない約束

レジーナ:善意で面倒を見てくれるネリーさんへの態度もひどいですし、「お母さんが、お父さんの病院に連れて行ってくれないのは、お昼代をなくしたことを怒っているからだ」と考えたり、主人公が、あまりにも幼く、身勝手なので、魅力が感じられません。敵の国の兵士と仲良くなるというのが、単なるめずらしい体験で終わってしまっていて、そこから伝わってくるものがないんですね。主人公が教えてもらうのも、なぜ数学なのでしょうか。苦手だったというだけでは、物語の要素として弱い。たとえば、マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子/訳 早川書房)には、字が読めず、言葉を持たなかった少女が、防空壕の中で本を朗読する場面があり、人はどれほど言葉に救われるのかが、心を打つ作品になっています。

ハリネズミ:主人公のエレンは、とても12歳とは思えませんね。自分のことばかり考えて他者に目がいってないし、あまりにも考えなしなので、5歳か6歳にしか思えません。もしかしたら、翻訳の口調が軽くてきついからそう思えてしまうのかもしれませんが。それにエレンは、親の留守に世話をしてくれるネリーさんを「ネリーばあさん」と呼んでいやがるわけですが、エレンのお母さんまで「ネリーばあさん」(p56)と手紙に書いている。お母さんの立場からすると、「ネリーさん」か、せいぜい「ネリーおばあさん」でしょう。これも翻訳のミスなのでしょうか? p58の「窓の外は霧だらけ」も、表現としてどうなんでしょう? p176の「エレン、おまえ……なにか知ってるんじゃないか?」も、この状況でウサギが見つかったときに言う台詞としてはありえない。また、原作のほうにも、問題がありそうです。カールは、絶対に捕虜にはならないと決意しているのに、ナチスの軍服をずっと着たままでいるのは解せません。ストーリーにしても生まれてきた物語というより無理に作った感じです。エレンがもう少し魅力的に描かれてるとよかったのですが、現状では子どもの読者が、表面的な出来事として読むならいざ知らず、感情移入して読むのは難しい。子どもと国家の戦争というテーマだったら、ソーニャ・ハートネットの『銀のロバ』(ソーニャ・ハートネット/著 野沢香織/訳 主婦の友社)、ベティ・グリーンの『ドイツ兵の夏』(内藤理恵子/訳 偕成社)(両方とも絶版ですが)なんかのほうが人間理解という点でずっと深いし、ストーリーもおもしろい。

ルパン:やっぱり主人公に魅力がなさすぎますよね。自分勝手だし。親身に世話をしてくれるネリ—ばあさんにあまりにも失礼。でもまあ、『オフカウント』よりは読めました。とりあえず「ドイツ兵はいつ出てくるんだろう」くらいは気になりましたので。ずいぶんあとまで出てこないので心配にはなりましたが。挿絵はいいですね。エレンの顔がかわいいし。これでだいぶ助けられているんじゃないかな。

プルメリア:戦争当時の状況がわかりやすく描けていると思います。エレンがカールを助ける場面はどきどきしますが、作られた物語だなって思いました。エレンがどきどきしながら見つけたものが、お父さんのコートじゃなくてウサギだった場面は驚きました。5〜6年生だと戦争中でも相手国の人を思いやる心情がわかると思います。表紙や挿絵がよかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年11月の記録)


あん

ハリネズミ:今日の3冊の中では、これがダントツにおもしろかったです。登場人物もそれぞれにちゃんと立っているし、物語世界もリアル。ハンセン病で全生園に入れられた吉井さんが「聞く」ということができるのは、千太郎にとってはとても重要な意味を持っていたのですが、吉井さんの死後、親友だった森山さんが「トクちゃん、いちいち大袈裟なんです」とか、「トクちゃん、気に入った人が現れると、あれをやってしまうの。小豆の言葉を聞きなさいとか。月がささやいてくれたとか」と言って、美化されたイメージをひっくり返してしまう。そこもすごい。この本はルビもほとんどないから、児童書じゃなくて一般書として出されたのかもしれませんね。でも、中学生くらいから読んでもらいたい本です。とくに、何をしたいのかわからないでいる子どもたちに。

シア(遅れて登場):私は今回の選書担当係だったのですが、とにかく『あん』を読んでほしくて、それでテーマを設定して本選びをしてみました。テーマと、ちょうど読書感想画の課題図書だったので、おもしろくないかもしれないけど『オフカウント』も選びました。『あん』も感想画の課題図書だったんです。『あん』がとてもいい本なので、読み比べるとおもしろいかなと。『オフカウント』は主人公が中学生なんですが、描写がそうは見えなくて。ジャグリングとか部活の内容などで高校生くらいに見えますね。ちぐはぐな印象です。作者が結構お年なのかなと思うくらい学校生活にリアリティがなくて、学校生活を覚えていないのか、取材していないのか、何を見て書いたのかわかりません。これでどんな絵を描けと言うんでしょうね。選ばれた理由が謎ですが、出版のタイミングでしょうか。おもしろいとは言えなかったです。
 『だれにも言えない約束』は、メインとなるドイツ兵がなかなか出てこなくて。真ん中を過ぎてやって出てくるというのに驚きました。敵であるはずのドイツ兵との触れ合いがメインだったんじゃないの、と。それから、登場人物の言葉がキツいです。海外児童文学では結構あるんですが、こういう言葉のやり取りはどうなのかなと思います。戦争ものの話ですが、ミートパイを落としてしまう場面が一番のショックだったくらいです。そんなにおもしろくなかったですね。
 『あん』は本当にいいお話で、皆さんに是非読んでほしい一冊でした。なのに、皆さんが借りようとした図書館が貸出中ばかりで読めていないというのはとても残念です。ハンセン病についての作品で、今ではなかなか知られることのない病気なので、こういう風に子どもたちが触れられる機会が出来るのはいいことだと思います。ハンセン病の吉井さんとの出会いからの流れがとてもよくて、「時給200円でいい」とかびっくりするようなことを言うんですが、世話を頼まれたカナリアはあっさり手放してしまったりとか、行動が読めません。吉井さんは「見えないものを聞く」とよく言っていて、自然の声が自分には聞こえると言っているんですが、後で結局聞こえてなんかいないことがわかるんです。でも、分かった上でのやり取りというのもいいと思います。甘い世界だけじゃないのが見えるというのが、子どもには特にいいなと。以前新聞で読んだことがあったんですが、作者のドリアン助川さんはハンセン病の施設を訪れたことがあって、いつか本にしたいと思っていたそうです。そして本になったのがこの『あん』です。是非読んでいただきたいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年11月の記録)


オムレツ屋へようこそ!

アカザ:近所の小学校の塀に、6年生の子どもたちが将来なりたい職業を描いた絵が貼ってあるのですが、圧倒的に多いのがパティシエなんですね。子どもたちは食べるのも好きだし、料理にも興味があるので、お菓子や料理をテーマにした本も、いつの時代も人気があるのだと思います。ただし、この本はオムレツやオムレツの作り方が主体になっているわけではありません。お母さんとふたりで暮らしている女の子が、お母さんの仕事の都合で叔父さんの家で暮らすことになり、そこでいろいろな人に出会って、結局自分は自分らしく生きていけばいいという結論にいたる……。一行ずつ行がえしていて、読みやすいようだけれど、もうこういう本は読みあきたっていう感じ。ちょっと見には、ひとりぼっちになった女の子が下町の商店で暮らすようになるところとか、最後が花火で終わるところが、乙骨淑子著『13歳の夏』によく似ていると思いましたが、『13歳〜』のような瑞々しさや、人生の奥底に触れるような、心を揺さぶられるエピソードもなかったし……。とくに驚いたのが、最後に得体の知れない大作家とやらが登場して、女の子の母親の文才を褒めたたえるので、女の子やおばあちゃんたちもびっくりし、しょうもない母親だと思っていたのを見直すという展開。マンガでも、こんなに軽い話はないんじゃないの? その大作家の代表作が「富士山御来光」と「日本海流」という下りで、思わず吹きだしてしまいました。結論として、どうしてこの本を課題図書に選び、大勢の子どもたちに読ませたいと思ったのか、選考委員のご意見をぜひぜひお聞きしたいものです。もしかして、「ひとり親家庭」「障害のある子ども」「母と子の関係」というようなキーワードだけで選んだのでは?

レジーナ:すらすら読める作品ですが、ところどころ、文体が不自然な箇所がありました。p8の「探すんじゃないかと思ってさ」は、「(家を)見つけられないんじゃないかと思ってさ」、p72の「かたづけのわるい子」は、「かたづけられない子」ということでしょうか。作家が、自分の物ではないのだから見つかるわけがないのに、ジャージのポケットの中を一生懸命探す場面は、コミカルでおもしろいと思いました。病弱な子どもの兄弟の心のケアについては、最近、世間の目が向きはじめたように思います。全体としては、すべての登場人物をいい人に描こうとしているのが、残念です。母親にしても、仕事をやめると言った時には、もっと複雑な想いがあるでしょうから、本音をつきつめて描いてほしいですね。底の浅い作品だと、生徒の感想文も、似たり寄ったりになるのではないでしょうか。

メリーさん:子どもを気遣いながら、大きいホテルの料理人をやめて洋食屋をやる家族とそれを尚子の目で描くという物語の大枠はいいと思いました。後半で作家がつぶやく、階段のてっぺんからだけではなく、五段目からの景色もいいのだ、というところなんかも。その一方で、盗まれた体操服を和也と敏也が協力して返そうとするところは、アイデアはいいのですが、その後が何も書かれておらず、残念。そもそも、主人公が親元を離れて居候をし、そこから学校に通うという設定は、子どもたちにリアリティをもって受け止められるのか、ちょっと疑問に思いました。

ハリネズミ:本はその世界の中に入っていって、疑似体験をすることが醍醐味ですよね。その観点からすると、物語世界のリアリティが不足していて、本の中に入っていきづらい。まず主人公のお母さんの悠香さんですけど、こんな人本当にいるのかしら? モンゴルに半年行くのはいいとしても、その後急に続けて北京にも2か月行くことになったり、その後取材旅行は全部とりやめると出版社にも言ったのに、娘の機嫌が直ったらまたすぐ行くことにしたり。こんなライター、社会で通用しないですよね。この人がもっと魅力的に書かれていればいいのにな。作家の宝山幹太郎の存在もマンガならともかく、嘘っぽい。1冊エッセイを書いただけのライターに「あれだけのものが書ける人はそうはいない」なんて言って、わざわざ思いとどまらせるために捜し歩くわけないでしょう。それに敏也君は、幼児のときは身体が弱くて入院していたみたいだけれど、今は松葉杖で歩けるし頭もいいのなら、どうして養護学校の寮で生活しなくちゃいけないの? お父さんもホテルを辞めて家で仕事をしているわけだし、おばあちゃんもいるのに? それに、敏也がバケツで雑巾をゆすいだだけで「危ない」はずはないんじゃないかな。私が購入したのは2刷でしたけど、p61やp67に誤植がまだまだ残っていたのも残念。

アカザ:わたしも、このオムレツ屋さんは、どうしてこの子を全寮制の特別支援学校に入れたのかなと疑問に思いました。一般の学校に行くか、障害のある子どもたちの学校に通わせるかだって、親は相当悩むと思うのに。じっさい、知的障害のある子どもの親が悩むのを、以前に身近で見てきたので……。この本を読んだ子どもたちが、松葉杖で学校に来る友だちに「どうして別の学校へ行かないの?」なんてきくんじゃないかと心配になりました。病気や障害のある子と、その兄弟の関係については、宮部みゆきが『ソロモンの偽証』で、恐ろしいほど深くえぐって書いていました。

プルメリア:あまり心情が伝わらないな、殺風景だなという感じがしました。もっと境遇の厳しい人は現実にはたくさんいます(夜逃げ同然で現れて、夜逃げ同然で去って行くとか)。知的障害がある子どもは支援学校にいくことがありますが、体が不自由だけれども動くことができる子どもは通常学級に通っています。設定がよくわからないです。

ajian:作者の意図が透けて見えて、しかも共感できませんでした。全体的にリアリティに欠けていると思います。ブログを書いているチャイナドレスの女性は、「風変わりな人に出会ってきたが、、なかでもかなり強烈」とありますが、どこがどう風変わりなのかが全然見えません。フリーライターの母親にしても、モンゴルに半年取材旅行に行くとありますが、旅行ガイドを書いている人がそういう仕事の仕方をするだろうか、と思いました。それから和也と敏也のお父さんが、敏也に障碍があって大変だから、ホテルを辞めてオムレツ屋を開いたとありますが、特別支援学校に行っていてお金がかかるのに、果たして実入りのいい仕事を辞めるのかな、という疑問が湧いてきます。街のオムレツ屋ってそう簡単にできるもんじゃないのに。こういうところの造りが甘いと、読む気をなくすんじゃないかと思います。途中で登場する「スパイクシューズ作戦」も、単に敏也が活躍するという状況を作りたかっただけで、何の必然性もないですよね。最後に出てくる作家についても、作家が論語=中国の難しい本を読んでいる、という、この薄っぺらなイメージがさむいです。何より腹が立ったのが、母親が好き勝手やっているのを、この子が最終的に受け入れるように読めるところです。大人のせいで子どもが我慢しなくてはならないというシチュエーションを、当たり前のように書いているのが、いやですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年10月の記録)


くりぃむパン

ルパン:飽きずにひといきで最後まで読めましたが、「くりぃむパン」の意味がよくわからなかったです。表題にもなっているので何か特別のいわれのあるものかと思って最後までそれが出てくるのを待っていたのですが、とくになかったので拍子抜けでした。ただの近所のおいしいパンだったんですね。つるかめ堂の立ち位置もよくわからなかったし。下宿という設定はいいですね。漫画家が下宿していて、自分のことがマンガになるというエピソードもおもしろかったです。主人公の未果、いいですね。ためたお金でパンを買って配るシーンはぐっときました。

メリーさん:主人公たちがひいおばあちゃんの部屋へ行く場面、時間がゆっくり進むから、得したような気になる、という感想がいいなあと思いました。それから、漫画家の志帆さんが、実は住んでいる家と家族をすごく気に入っていて、そのことを漫画に描いていたというくだりも。普段見慣れてしまった、ありふれた町や商店街の風景がまた違ったものに見える感じがよく伝わってきました。「友チョコ」、派遣社員の問題、子どもの話し言葉。今の風景を取り入れようとしているのはよくわかるのですが、下宿という設定はどうか。貧困というきびしい現実は厳然としてあるけれど、この設定は今の子どもにとって本当にリアルなのかなと思いました。

レジーナ:ひねくれていて、すぐすねる子どもが主人公なのは、新しいですね。92ページで、未果が、「パンは手軽だから」と言いますが、子どもの言葉遣いではないですね。94ページで、パンをもらった主人公が、「生きるってせつないよね」と言うのは、少し唐突に感じました。『キッチン』(吉本ばなな=著 福武書店)に、朝食のパンをもそもそかじりながら、「みなしごみたい」と言う場面がありますが、パンの独特のわびしさのようなものは、大人だからわかる感覚ではないでしょうか。

ハリネズミ:そこは女の子にありがちな、背伸びをして言ってみたかった言葉なのでは?

レジーナ:それでも、登場人物はきちんと描き分けられています。未果が、すごくいい子に描かれているので、もっと本音にせまる描写があってもいいのではないかと思いました。

ハリネズミ:『オムレツ屋へようこそ!』と似た設定ですが、あちらが全体的に無理矢理作った話という感じがするのに対して、こちらはそれがないので、物語世界にすんなり入って行けます。余計なことですが、p66に「おにいちゃんは、口をとがらせて、おかわりのお茶わんをママに差しだす」とありますが、ご飯をよそうのはいつもお母さんなんだなあ、と考え込んでしまいました。ひと昔前は子どもの本の中のジェンダーにずいぶんとこだわって固定観念を取り除こうとしていましたが、今は出版社側もあんまりそういうことを考えないんですね。

プルメリア:なぜクリームが「くりぃむ」なのか気になりました。お笑い芸人を意識しているのでしょうか? 主人公のようにお金が大好きな子どもはいますが、「守銭奴」という言葉はこどもたちにとってはわかりにくい言葉です。1学期、3、4年生にブックトークで今回の課題図書を紹介した時、「守銭奴」の言葉の意味を教えました。まわりの人々が未果に優しくする気持ちはよくわかると思います。二人の子どもの心情がよく書かれています。謎めいた作家の設定もいいなと思います。お父さんが職をなくしたときに、ためていたお金が入った貯金箱をこわしてパンを買うというところはわからなかったです。

ルパン:やけくそになったんじゃないかな。せっかくお父さんと暮らすためにお金を貯めていたのに意味がなくなってしまったわけだし。

ハリネズミ:店の名前は昔からあるつるかめ堂がクリームパンを売り出したときは、平仮名にしたほうがハイカラに見えたのでは?

アカザ:わたしは、しゃれてるなと思いました。ぜんぶカタカナで書くと固い感じだし、あたりまえになっちゃうのでは?

プルメリア:バレンタインデーに男の子にチョコレートをあげないところが現実的でよく書かれていると思いました。この本は高学年向けのほうがよかったのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年10月の記録)


ジャコのお菓子な学校

プルメリア:3.4年生の課題図書ですが、本を読んで自分が理解していくという喜びは3・4年生にはわかりにくいのではないでしょうか。この作品を5年生に紹介したところ、図書館で本を読んで実際にお菓子を作ってみる過程の楽しさや学習を習得していくことが理解できました。発達段階の違いが出ています。おおらかなおじいさんの登場はどの場面もおもしろかったです。紹介されているお菓子の名前やクッキーのレシピはちょっとむずかしいかな。字も小さいので高学年向けの方がよかったのではないでしょうか。

レジーナ:はじめ、主人公は学習障がいなのかと思いました。

プルメリア:こういう子はいます。なんとなくぎこちない子たちは実際にいます。

メリーさん:自分の好きなことで読み書きや算数を自然に学んでいくというところはいいなと思いました。それから、ミルフィーユが千枚の紙という意味だとか、ババロワが地名だというような豆知識。訳文も一生懸命だじゃれを日本語にしているということがわかって面白かったです。ただ、こういうことは子どもが全部ひとりでできるのかなと思いました。母親が全く出てこなくて、電話でおじいちゃんのアドバイス、というのはリアリティーがないような。中学生のギャングたちをコショウで撃退するところも同じです。正反対の性格を持つ友だちのミシューとシャルロットも、どうして主人公と仲良くなったのか、書き込んでもらえるともっとよかったと思いました。

レジーナ:あまりにも簡単に、問題が解決していきます。子どもの時、通信教育の勧誘のパンフレットに、「何かのきっかけで急に勉強ができるようになる」という内容の漫画がよく載っていたのを思い出します。訳文が少しぎこちなく、「〜」を多用しているのも気になります。かわいらしいイラストは、子どもは好きなのかもしれませんが、お菓子が、もう少しおいしそうに見えればよかったです。

アカザ:チョコチップクッキーが肉団子みたい。

レジーナ:タイトルを直訳すると「お菓子の学校」ですが、なぜ、あえて「お菓子な学校」としたのでしょうか。「おかしい」「面白い」という意味をこめたかったのかもしれませんが、それも不自然ですし……。

アカザ:するすると楽しく読めて、訳者も一所懸命、原文に取りくんでいるなと思いました。数多いだじゃれの訳など、ご苦労様といいたいくらいです。ただ、ファンタジーだと翻訳物でも自分の世界とまったく違ったものとして読みますが、こういう日常生活を扱ったものは小学生には理解するのが難しいだろうなと思いました。台所の道具のひとつひとつ、お菓子の材料のあれこれも、日本とは違いますものね。対象年齢は中学年ではなく、もう少し上だと思います。これも、作者の意図が透けて見える作品で、最初にアイデアありきという感じ。読んでいるあいだじゅう、この作者は頭で書いていて、心で書いていないという感じがつきまとっていました。教訓的というか、大人の目線で書いている。子どもがどんな感想文を書くのか、読む前にわかってしまうような作品ですね。

ルパン:私は結局読めなかったんですが、今みなさんのお話を聞いていて、『ビーチャと学校友だち』を連想したんですけど……そういう話とは違うんですか?

プルメリア:「ビーチャと学校ともだち」とは、全く違うような気がします。

ハリネズミ:勉強の嫌いな子が、興味あることに夢中になるうちに、いろいろな知識を身につけていく、というストーリーは、大人には魅力的ですよね。でも、結局「勉強しなさいと言いたい」という意図が透けて見えてしまうと、どうなんでしょう? この作品は、そのぎりぎりのところでよくできているのかもしれません。5章のところで、卵の殻もくだいてクッキーに入れちゃってますが、できあがりがどうだったのか書いてないので心配です。

ajian:これも作者の意図は透けて見えるし、ひとりでオーブンまで使って危ないなとは思うけれど、読んだ子どもが、自分でもやってみたくなるんじゃないかなと思いました。子どもの頃に読んだ本で『うわさのズッコケ株式会社』(那須正幹著 ポプラ社)がとても好きだったんですが、自分で計算して利益を出してまた次の材料を買って・・・というあたりが似ているように思います。あと中学生が邪魔をしにくる場面。うまくいきかけていると邪魔が入るというのは一つのセオリーですが、上級生たちにめちゃくちゃにやられて悔しいというのは、自分にもそういうことがあったなあと。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年10月の記録)


鉄のしぶきがはねる

プルメリア:表紙もよく軽くて良い感触でしたが、読み始めたら金属音が気になってなかなか読みすすめられませんでした。知らない職種なので仕事内容がわかりにくく理解が進みませんでした。わからないなりに読んでいって、中頃になってようやく自分なりの解釈で読めるようになってきて、工業学校の様子もわかり、登場人物も少ないのですがひとりひとりのキャラもわかってきて家族の思いやりも伝わり、最後はコンクールへ向けての熱意も伝わって来て、応援したい気持ちになりました。高校生のときめきもよくわかるし、工業系の話って今までなかったと思うのでお薦めしたいです。これが工業系のお話の第一作になっていくのかなと思いました。

トム:「鉄のしぶきがはねる」というタイトルは、象徴的な感じがしました。ページを開く前、私は板金のこともなにもわからないので、飛沫が跳ねるということからもっと文学的なイメージを広げていたかもしれません。先入観でタイトルに勝手な思い込みを重ねました。考えてみれば赤く燃える鉄鋼炉で鉄が湯のように滾っている映像を見たことを思い出します。内容は工業高校での学びがかなりリアルに語られて、鉄が水のように跳ねる事実からも工業世界の一端をみる気持ちです。若い人がもくもくと何かを作ることに没頭する姿はすがすがしく感じました。それぞれの葛藤や背景はありますが。

アカシア:工業系でも、旋盤は地味だからかあまり児童文学にはとりあげられませんよね。

プルメリア:ロボットや飛行機だったら目立つけど。

トム:技術は一代限りでないこともさりげなく語られています。それから、貧しいなかでノートを盗んでしまう若者。人間の弱さ、弱さを生んでしまうものは何なのか読者の若い人たちはどう感じているでしょうか。時代の背景とか、そのことが他者の人生を狂わせ自分も生涯苦しみを抱えて生きることになる・・・と、若者も大人も一緒に想像力ひろげて考えられたらと思いますが。かなり重いテーマが挟まっていると思いました。

アカシア:ゲームセンターって今もあるんですか?

プルメリア:ありますよ。

トム:登場人物のなかで、大人たちはかなりステレオタイプに描かれているように感じました。若者たちはそれぞれいい味。亀井君、吉田君もそれぞれに色々な出来事を超えて自分の道を歩きだす様子がさわやかに描かれています。どこかで会えるような気がする若者たちです。原口くんは、卒業後インドに旅立つという意外な展開で少し唐突な気がしました。日本の技術とアジア・インドの状況などもう少し具体的に、例えば原口君を突き動かした出来事など描かれていたら彼の情熱がリアルに伝わって原口君に自分を重ねる人がでるかも・・・。最後に「待ってろ」なんて、何だかカッコヨク古風なことを言うのは、突如物語のテーマのハンドルが別のルートにきられた気もしましたが。

ルパン:説明調の文章が多くて、読むのがたいへんでした。レアな世界を紹介したい、という作者の意図が透けて見えるし…。バイトとか旋盤とか、工業用語がたくさん出てくるのですが絵で浮かんでこないから、その分お話に入り込めませんでした。そういうものを文章で表現するのが目的だったとは思うのですが。ふつうに手に取っただけだったら、たぶん途中で放り出したと思うんですが、今日の会の課題だったのでがまんして読み続けたら、そのうち最後のほうでおもしろくなってきました。もっとストーリー中心で描けばよかったんだと思います。工業高校の女の子って、とても魅力的な設定だし。旋盤作りの説明がこんなに前に出ずに、物語の背景として自然に組み込まれていたらなあ、と思いました。全体的にはやはり工業高校の世界のレポートを読まされている感がぬぐえませんでした。さいごに原口君とふたりでインドのかたちを作るジョークを交わすシーンなんかはすごくいいですね。こういうのばっかりだったらよかったな。

レジーナ: 聞きなれない言葉が多く、はじめは少し入りづらかったです。「ものづくり」という、人と少し違うことに魅せられた少女が、おばあちゃんや、人に裏切られても、それでもまた信じようとする原口など、温かな家族・友人の中で成長していく話は、まはらさんらしいですね。「ものづくりは楽しいから、なくなることはない」と原口に言われた心(しん)が、自転車のグリップを握った瞬間、鉄を切った時の感触を思い出す場面では、手の感覚で、はっと何かに気づく様子がよく伝わってきました。コツコツ努力し、硬い鉄の中から形を取り出すというのは、どこか人生にも重なるようです。主人公は、ものづくりとパソコンをよく比べていますが、この部分は必要だったのでしょうか。比較が作品の中で効果的に使われているようにも感じられなかったので……。

ajian:p11の「コンピューター制御」というのは、具体的にはプログラミングのことなのでしょうか。それがどういう状態をさすのかが、今ひとつわからなくて。「コンピューターをやっている」という表現も出てきますが、具体的でないのが、ちょっと気になってしまいました。コンピュータといっても、できること、やれることは千差万別なので、たんに「コンピューターをやる」という表現は、ちょっと大雑把かなと思います。パソコンが好きな子どもが読むと「あれ?」っと思ってしまうかも。

クプクプ:バランスよく書けた本だなと思いました。読後感がよくて、それはたぶん、ジェンダーを越えて道を究めていく話だから。もちろん、女は得だな、という偏見を持つ先生も出てきますが・・・。恋愛だけで終わらない、気持ちよさのある話だなって、素直に思いました。「心出し」とか知らない言葉がいっぱい出てきて、言葉は専門的で独特だけれど、日本語の豊かな世界に出会えました。主人公の鉄を削って形を求める姿が、作家さんが対象を描写するために文体を求め、削っていく様子と呼応していておもしろかった。

ajian:同じ話のくりかえしですみません。p39の「コンピューターに戻れるだろう」も、ちょっと引っかかってしまいました。彼女が「コンピューター」で何をやりたいのか/やっているのか、が今ひとつ伝わってこないです。プログラミングならプログラミングで、何かを学び、身につけるということは、本来世界の捉え方から変わってくるようなことだと思います。欲をいうなら、既に「コンピュータをやっている」彼女が、旋盤に出会うことで、さらにどう変わるのか、それが書かれているともっとよかった。それがなくて、たんに「手作り」の対比として「コンピューター」を置いているだけなら、ちょっと浅い気も。

アカシア:コンピュータ技術を学びたいと思い、手仕事を古くさいと思っていた主人公の心が、機械ではできないものがあると気づいていく過程がうまく描かれていました。工業高校の旋盤技術という、地味であまり注目されないところに焦点をあて、そうした技術をとても魅力的に描き出しているのもすてきです。触覚とか視覚とか、作ったものが浮かび上がるような表現をしようとしていますね。私にはまったく未知の分野ですが、すごいものができていくのがわかります。音とか、金属音もリアルに感じられたし。私は都会で生まれ育って、まわりに工業関係の施設もなかったので、工業高校は勉強が好きではない子が行く学校なんじゃないかって、誤解してました。この作品を読んで、工業高校の魅力がよくわかりました。心と原口の将来を暗示するようなストーリー展開はありきたりになりがちですけど、心も原口も旋盤に魅入られているという側面があるので、ただのありきたりにはなってない。絵や説明はあえて入れずに、勝負しているのもすがすがしいです。わからない部分があっても十分魅力が伝わってきますもの。北九州弁で会話が進んでいくのもおもしろかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年9月の記録)


パンとバラ

ajian:これはおもしろかったですね。まず「パンとバラ」って、なんてキャッチーなコピーだろうと思って。ストライキの渦中にある人々が、自分たちのほしいものをアピールしようと集まって、英語も充分にできないのに、この言葉を生みだしていく、そのくだりはちょっと泣けてしまいました。後半、ジェイクとローザがバーモント州に行ってからは、ジェイクの嘘がばれるかばれないかという展開が始まるのですが、この辺りは、それより二人が元からいた町はどうなってるんだと気になってしまいました。あとがきを読むと、二人が避難した先がどうしてこの石工の町である必要があったのか、わかるんですが。ちょっと前に、ニューヨークのウォール街で、99%のデモをやっていて。この物語の背景になっている時代より、今ははるかに事態が複雑になっていると思います。企業は巨大化し、多国籍化し、経営者と労働者の格差もますます拡大していて。だから、この物語は、古い時代の物語でありながら、いま読んでも響くものが多い気がしました。あとは、子どもの目線でずっと書かれていて、何が起きているかが、ちょっとずつわかってくるんですよね。それが、ちょうど事態の目撃者の役割を果たしていて、うまいなと思いました。

クプクプ:全然違う世界じゃないですか。別の町の大人たちが、他の町で起きているストライキに共感して、ストが終わるまで自分の町に、食うに困っている子どもたちを引き取って面倒を見るなんて。江戸時代には、迷いこんできた子どもを町の子どもとして育てる制度はあったと聞いていますが、今の日本では考えられない世界ですよね。母親たちも、教会やまわりのサポートがあるからこそ、ストを続けていけるわけです。子どもは社会のものだっていうのは、キリスト教社会の発想なんでしょう。

アカシア:パターソンも宣教師の家庭ですしね。

クプクプ:人間はこんなふうにも生きられるんだなって思いました。みんな、ぎりぎりで生きているけど、人と人との関わりが深い。ジェイクも許されないことをしたのに、受け止めてもらえた。根っこにあるのは、人と人がつながることの意味…主人公たちの生きる状況は厳しいけれど、人間の関係だけを見ると羨ましいぐらい。

アカシア:でもこれって、古き良き時代の労働組合じゃないですか。今だったら、巧妙につぶされると思うし、事はこんなふうに理想的には展開しないだろうなって、私は思ってしまった。だから絵空事みたいな感じがしちゃったのね。今はありえないなって。

クプクプ:そうですね、町長の息子がダイナマイトをしかけるのも、今だったらもっと巧妙にやるかな。理想郷ではないけれど、ある意味、やっぱり理想郷の物語だと思う。そういう時代や人間関係がありえた、ということもふくめて、子どもに読んでもらいたい本です。

トム:とても熱いものが伝わる物語でした。人が不要になって捨てた物のなかで暖をとる・・・誰も見向きもしないところが安息の場ということにまず想像を超えた貧しい世界が見えてきます。働くお母さんたちが、ローザの台所に集まって、どうやって経営者達と戦おうか話しあう場面がありますが、身近な社会で起きることに、おかしいよねって言いあえる仲間があって、連帯してゆく様子がとてもよく描かれていると思いました。現実には、知らず知らずの内に操作されたり、不本意ながら長いものにまかれてしまいがちで、それがもっと大きな問題を生む種だったりすることは誰もがわかっているのですが・・・。ここでは大人も子どもも一緒になって、自分をごまかさずに生きていると感じました。また、その子どもたちや子どもを抱える家族を助けてくれる人がでてくる—かつてのアメリカにはこういう動きがあったのでしょうか。p178の証明書は、本物なのですか? ここでもう一つ印象的なのは、このお母さんの心根。貧しくても日々の暮らしが切羽つまってもちゃんと自分の子どもを見ている。だから預ける先を選ぶ判断を間違いなくしている。それによって子どもは生き延びてまた再会の時を迎えられるのですから。それに比してジェイクのお父さんは、なんでこんな悲しい死に方をしなきゃいけなかったんでしょう。

レジーナ:ローザは優等生の女の子ですが、しだいに自分の頭で考えて正しいことをしようとします。登場人物が魅力的ですね。社会主義者のジェルバーティさんや、ピューリタンの先生など、さまざまな国籍・宗教・立場の人が入り混じった社会は、日本の子どもにはなじみがないので、説明が必要かもしれませんね。パターソンの作品は、『星をまく人』(キャサリン・パターソン著 岡本浜江訳 ポプラ社)のように、人生の暗い部分を描き、救いがあまり感じられないまま終わる話もありますが、『パンとバラ』の結末は、希望がありますね。バラをイメージさせる、赤を基調とした装丁が素敵です。表紙はストライクの場面で、裏表紙に、物干しの洋服と靴が描かれているのも、労働者の生活を表しているようで、しゃれています。p57の「もともと、工場わきでスト破りの見張りなんかしたくはなかったのだ。もとはといえば、そこがみんなの興奮のもとなのだろうけど」ですが、「もと」という言葉を必要以上に繰り返しているので、翻訳を工夫してほしかったです。

アカシア:翻訳についていうと、p19に「一週間分の自分のビール代」ってあるけど、子どもが毎日ビールを飲んでた? で、その金額が「小屋の家賃をはらい、二週間分の食べ物を買える」のと同じ? ちょっとここは、わかりませんでした。p47の「父ちゃんの怒りのはげしさを見たとたん、ジェイクは走りだそうかと思った」は、逃げだそうか、ってことなのかな? p204の「けがしてないだろ?」は小さい子の言葉じゃないかもしれませんね。p208の「やわらかくて、肉が骨からとれそうなチキンの大皿もある」は、まだ見ているだけの段階なので、そこまでわかるのかなあ、と思っちゃいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年9月の記録)


フランシスコ・X・ストーク『マルセロ・イン・ザ・リアルワールド』

マルセロ・イン・ザ・リアルワールド

クプクプ:おもしろかったです。マルセロは、特別な学校に行っているけど、お父さんの会社で働くんですよね。アスペルガーだからなのか、自分なりの言葉で、自分の頭で考えて、リアルな世界に迫ろうとするそこに読者も引き込まれて、いっしょにリアルな世界ってなんなのか、見つけていくんです。彼はお父さんの不正を発見してしまうけれど、会社がつぶれるわけじゃない。マルセロの大きな魅力は、自分なりの言葉を積み上げて、一から世界を理解し、世界を創っていくところ。彼をサポートするジャスミンも魅力的な女の子ですね。ふたりとも音楽が大好きで、いつしか惹かれあっていく。ジャスミンの父親のエイモスは、息子のジェイムズが馬にけり殺されてしまったのに、その馬を自分で飼い続ける選択をしています。そんな価値観も、物語に奥行きを与えているみたい。死んだ息子といっしょに、その馬と生きる時間を受けとめていくんですよね。何が正しくて何が間違っているのか。リアルな世界は複雑だけれど、マルセロは自分の耳に「正しい音が聞こえる」こことを大切にしていく。好感の持てる作品でした。

レジーナ:発達障害を持つマルセロは、人の感情や人生には、善悪、嫉妬、本音と建前など、秩序立てることのできないものがあるのだと知っていきます。ジャスミンがマルセロに、訴訟問題にどう関わるか、自分で決めなければならないと話す場面がありますが、生きることが喪失の連続なのは、誰しも同じなんですよね。マルセロは、イステルとの出会いの中で、苦しみばかりの人生をどう生きていけばいいのかという問題にぶつかり、人生に挑もうとします。どんな人にとっても、人生というのは多かれ少なかれ生きづらいものです。この作品の魅力は、発達障害の少年の目を通して描きながらも、すべての子どものための普遍的な成長物語になっている点だと思います。宗教に強い関心を抱くマルセロは、聖書を暗記し、何度も心の中で思い返し、自分のものにしようとし、人間の矛盾を受け入れようとします。ピアノが弾けないことを、「ぼくの心のなかの配線は、ピアノを弾くのに必要なだけの電流に耐えられなかった」と言ったり、その場で思いついたことを「即興で演奏」と表現する独特の言葉づかいも、マルセロ自身も、また彼の目に映る世界も、読者を惹きつける力があります。p151でマルセロは、自分の感情を非常に論理的に分析していますが、アスペルガー症候群の人は、これほど段階を追って考えるものなのでしょうか。またp160に「ウェンデルはどうやって、ぼくの心のなかを知ったのだろう?」とありますが、アスペルガーの人は、人の感情を読み取るのが困難なだけで、感情というものが存在することはマルセロも知っているはずなので、この台詞は不自然ではないでしょうか。

アカシア:本当にリアルな世界とはなんなのか、ということを考えさせられました。お父さんがリアルだと思っている世界は、実はリアルではないのかもしれないと思ったんです。そして著者もそう言いたいのではないかな、と。逆にこの作品では、マルセロの視点から見た周囲の世界がとてもリアルに書かれています。著者が障碍者の施設で働いたことがあり、自閉症の甥をもつことから、つくり話ではなく登場人物にリアリティがある作品になっていると思いました。もちろん、こうなるといいな、という理想も書かれてはいると思いますけど。読者もマルセロに寄り添って物語の世界を歩いていくことができるし、ちょっと臭い台詞も、マルセロが言っていればそう思わないで素直に受け取れる。発達障碍をもった人を主人公にした本だと『夜中に犬に起きた奇妙な事件』(マーク・ハッドン著 小尾芙佐訳 早川書房)がおもしろかったし、目を開かれた気持ちになったんですけど、この本はまた趣が違っておもしろい。本文では「リアルな世界」となっていますが、書名は「リアル・ワールド」なんですね。一つ気になったのは、マルセロは定期的に脳をスキャンされてますけど、どういう方法でなんでしょうか? 普通のCTスキャンだと健康に害がありますよね。

ajian:第3章での父との会話。マルセロの父親は息子のためを思って、法律事務所で働くようにいうわけですが、マルセロにはそれが通じず、かえってストレスに思う。このすれちがう感じは、すごくよくわかる気がして、この辺りからぐっと引きこまれましたね。ラビとの会話は、最初原書で読んだときはちょっと難しくて、読むのに苦労したのですけど、翻訳で読んでみてかなりクリアになって、よかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年9月の記録)


パトリック・ネス&シヴォーン・ダウド『怪物はささやく』

怪物はささやく

レジーナ:私はこの作品を、翻訳される前に読みました。原書を読むときは、距離をとって冷静に読むことが多いんですが、この作品は違いました。コナーが、不条理な現実に怒っているがゆえに素直になれないことを、「ちゃんとわかっているし、それでいい」と、母親が語る場面など……。電車の中で読みながら、涙が止まりませんでした。圧倒的な力を前に、どうすることもできない深い無力感や、行き場のない憤り、声にならない叫びが、漆黒の深遠で待ち受ける正体不明の怪物との対峙に表わされています。一方、話をするようせまる怪物は善悪を超えた存在です。大きな問いをぶつけ、私たちを根底から揺るがすんですね。そして受け入れまいと抗う中で、怪物は突然、コナーを外側から脅かすものではなく、内側から支えるものに変容します。「12:07」を待つ耐えがたい苦しみのときこそ、最後の恵みのときであり、愛する人がのこすことのできる全てなのだと感じさせます。そのことに、人間はそれぞれの「12:07」を繰り返すことでしか気づけませんが、この物語は、目をそらすことなく勇気をもって、その真実を描いた力強い作品です。人生に対する作者の誠実な向き合い方を感じますね。善と悪、弱さと力強さ、正義と過ち、人間は多面的な存在ですが、それでも怪物が人間に注ぐまなざしは率直で曇りなく、厳しくも温かく、人間に対する作者の信頼そのものだといえます。物語というのは、火を囲んでいた太古の昔からあるもので、そこには真実が含まれているんですね。コナーは怪物に自分の物語を語り、「早く終わってほしい」という本当の気持ちを話すことで、目に見える現実の奥にある真実を知り、自分の物語を生きる、いわば本当の人生を生きはじめます。p40の「わたしが何を求めているかではない。おまえがわたしに何を求めているかだ。」という台詞からは、怪物とは、人間が自ら働きかけてはじめてこたえる存在であることがわかります。p44の「飼いならされない」というのもそうですが、ナルニアのアスランを思い出しますね。冒頭の「その過ちをいますぐ修正することをおすすめする」という翻訳は、少し不自然に感じました。

クプクプ:挿絵と構成に工夫が凝らしてあり、気迫のこもった本だと、まず感じました。挿絵も、集中して見るうちに見えてくるものがあり、物語創りの一端を担っています。母さんの死を前にした少年コナーが、その不安を受け止めきれず、怪物を呼び出してしまう。かならず12時7分に登場する怪物は、「私はこれから三つ物語を語るが、四つ目はおまえが真実を語るのだ」といい、それが物語の外枠を作り上げています。この少年の真実とは、心の中の秘密とは、一体なんなのだろう、と好奇心を強くそそられました。怪物の語る二つの物語の中では、正義だと思えたことが結末でひっくりかえる。タイプは違う本だけれど『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳 早川書房)を思い出しました。意外な結末のほうが、「えっ、こんなのあり? なぜっ」て、読者に考えさせる力が大きく働くのかもしれませんね。そして二つ目の物語のあと、怪物はコナーの現実の中で破壊を行い、三つ目の透明人間の物語では、結末が出る前に怪物がコナーに絡むハリーを殴り飛ばす展開となる。それはすなわちコナー自身の衝動的な暴力を意味していて、ここで、物語そのものが壊れて現実の行動に取ってかわられる。ほんとに上手い作家です。「12時7分」の持つ意味も、最後に符号がぴたっと合うようにできている。ただ、コナーの隠していた真実が、私の予想通りだったことが、残念といえば残念だったかな。異形の者が登場する点、家族の死と生がテーマになっている点で『肩甲骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳 東京創元社)に通じるものも感じたけれど、料理の仕方が違いますね。暴力も破壊も描き、人間の心の暗闇、ダークな面にまで踏み込んでいているけれど、葛藤を越えて母さんの死の瞬間を受け入れるまでを、ものすごく丁寧にすくいとっています。めったに無い作品で、感動しました。タイムファンタジー的な部分、時空を越えた物語のスケールの大きさも楽しみました。

夏子:これと『ふたつの月の物語』(富安陽子作 講談社)を2冊続けて読めたということが、よかったです。共通点と違いが見えて、両方の本への理解が深まったという気がします。『怪物は〜』は圧倒的におもしろくて、めったに出会えない傑作だと感じました。最初はやや読みにくかったな。「怪物」というのはつまり少年コナーが感じている恐怖や孤独が樹木の形をとっているのだろう、とつい思って読んでいました。こういう普通に心理的な読み方は、つまんないですよね(と反省)。それにしても3つの物語はストンと心に落ちるものがない、ヘンだなあと読み進んでいくうちにクライマックスへ。コナーは厳しい状況のなかで、疲れています。過大な負担から逃げたい、つまり「早く死んでほしい」という気持ちが心の奥にあって、それが自分で許せない。クライマックスは、私には衝撃的でした。クプクプさんは、コナーが隠していた真実が予想どおりだったと言っておられたけれど、私は予想していなかったのです(笑)。自分で自分が許せない気持ちを持つことがあること、でもその気持ちは心の全てではないわけで、つまり心は多面体なんですよね。この事実が圧倒的な力で迫ってくると同時に、多面体であることを知って、読者も深く慰撫される。子どもたちにぜひ読んでもらいたい本です。ところでこの本は、イラストがたくさん入っています。イラスト入りの小説というのは、斬新な試みですよね。文章はどんどん先を読みたくなりますが、絵はゆっくり見たいという気持ちを起こさせます。つまりイラストのおかげで、本のページをめくる速度が落ちるので、読みに独特なリズムが生まれていると思います。ただ文を縦書きにしたために、絵が裏焼きになっているんですよね。裏焼きになったがために、原書と印象が違っているものもあるように思いますが、皆さん、いかがですか?

ルパン:衝撃的な作品ですね。でも、最終的には、コナーの心の葛藤って、「早く死んでほしい」っていうことだけじゃないって思いました。後ろめたさを感じてるのは確かだけど、「終わってほしい」ということと「お母さんに死んでほしい」っていうことはイコールではないと思います。「行っちゃ嫌だ」ってストレートに言いたくても言えなかったのが、葛藤だったんじゃないでしょうか。「死んじゃだめ」って面と向かって言えない。そっちの方がつらいんじゃないかなって。すべてつらい状況ですね。やっぱり「ぼくを遺して死なないで」って言うのが、この子の本当の気持ちなんだと思います。大人が老人を見送るのとは違うので。母の死と向き合わなければならない子どもの悲しみをリアルに壮大に描いた作品だと思います。

アカシア:怪物は、意識下にあるものが夢として現れるんでしょうね。ある意味、少年が自分でつくりあげているわけなんでしょうけど、主人公の心の中にそういうものが登場する穴があいてるんですね。母と離婚した父親にはまったく理解されず、学校ではいじめられ、面倒を見てくれる祖母のことは好きになれない・・・この少年が、これ以上ないほどの孤独を感じているのがわかります。この絵がなくて文章だけだとまたずいぶんと違った印象になるでしょうね。その絵まで含めて、大した作品です。無意識から立ち現れた怪物ですが、受け入れるところから少年の心も少しずつ解放されていく。他の作家が書き残したアイデアから、ネスはどんなふうにこの物語を紡いでいったのでしょうね。それを知りたいです。

「子どもの本で言いたい放題」2013年7月の記録)


ふたつの月の物語

夏子:力のある作品だな、と楽しく読んでいたのですが、最後で拍子抜けしてしまいました。おもしろかったのは、ふたりの性格の違う女の子がビビッドに描写されている前半です。里親に返されてしまい養護施設で育って、心を閉ざした美月と、愛されて育った月明(あかり)。美月がどうやって心を開いていくのかと、期待しました。しかし後半は、事件の謎解きが中心となります。孫を亡くして悲しんでいる津田さんというおばあさんの後悔の気持ちには、充分に共感を寄せることができます。とはいえ『怪物』の感想でも言ったとおり、後悔は、人間の心の一部ではないでしょうか。魂を呼び寄せる儀式をするあたりから、津田さんの後悔が身勝手に思えるようになってしまいました。心を閉ざした子どもが置き去りにされて、津田さんの物語になってしまったようで、そこが不満でした。とはいっても、独特の民俗的な雰囲気のなかで繰りひろげられるサスペンスは、酒井駒子さんのイラストの魅力もあって、楽しかったです。

レジーナ:活動的な月明とおとなしい美月という対照的な双子には特別な力が備わっていて、出自には秘密がある。こういう設定のファンタジーは陳腐になりがちですが、この作品は、最後まで読者をぐいぐい引っぱっていきますね。情景が目に浮かぶように描かれているからでしょうか。サスペンスの要素もあります。取り乱してわめく江島さんの姿は常軌を逸し、山んばのようにおそろしくて、先へ先へと読んでしまいました。結末はひっかかりました。愛する人を失って、それでも生きねばならないのが人生ですし、児童文学もそうした視点で書かれるべきものだとすれば、つらいのはわかりますが、津田さんの選択が「逃げ」のように感じられて……。

クプクプ:美月と月明のふたりを主人公とする世界に、すぐに引き込まれました。孤児院に誰かがやってきて、条件付きで子どもを引き取るという設定や、外界から離れた山荘を舞台にした設定はよく見かけますが、富安さんはお話作りがとにかく巧い! 美月には、人にはわからないにおいを感じ取る不思議な力があって、月明にお調子者のポップコーンのにおいを感じたり、津田さんには悲しみのにおいとして、梅雨のころの雨上がりの地面のにおいを感じたり。そういうディテールの部分で、何度もはっとさせられました。そんな数々の工夫が、全体を豊かにしていますね。また月明は、危ないところまで行くと、別の場所に飛んでしまう力があるんです……。でも自分たちが引き取られた本当の理由を調べていたふたりは、津田さんの悲しみの原因を見つけ、そちらの物語のほうがだんだん大きくなっていく。愛しい孫を死なせてしまった津田さんが、よみがえりのために夜神神社の真神の力を借りようとするんですが、ふたりの祖父も息子を蘇らせようと真神の力を借りていて、ここで話が響きあい、重なりあう。そのあたりが見事ですねえ。津田さんの儀式のなかで、美月と月明はただ石の笛を吹くだけ、というのは、少し物足りない気がしましたが。ふたりのお母さんで、真神の贄となった小夜香がどんな結婚生活を送ったのか、書かれていない部分も知りたいです!

アカシア:おもしろかったです。夏子さんは、美月を「里親に返されてしまい養護施設で育って、心を閉ざした」っておっしゃったけど、そう心を閉ざしているわけではないでしょう? 最初からずっと謎があって、それで読者をひっぱっていくのは、うまいですね。生き返るということについての安易ではない扱い方もいいし、どんでん返しもあって、読者を飽きさせません。私は、美月と月明がふたごだっていうところで、ちょっととまどいました。ふたごである必要があったのかな? それから最後に、景山の目が青く光るという描写があります。とすると、景山は、この子たちのお父さんなんでしょうか? 読み終わってもまだ謎が残って考えてしまうところが、またすごいです。

クプクプ:なにをテーマにしたかったんでしょうね。

アカシア:生と死じゃないでしょうか。

クプクプ:取りもどせない時間かな。

夏子:津田さんを描きこんでしまうと、女の一生になってしまって、すごく重いものになりますよね。わたしはやはり、ふたりの少女を描きたかったんじゃないか、と思います。ただそれがちょっと中途半端に終わった印象です。でも、あの、『怪物はささやく』の迫力とつい比べてしまって、申しわけない。こちらはこちらで充分おもしろく読めるのですが……

アカシア:石笛は、縄文の昔から神事などに使われているんですね。

プルメリア:次の展開が見えてくる部分がたくさんありますが、わかっていてもなぜか読ませる作品でした。二人にはなにかあるって予想を持ちながら、読んだのがおもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年7月の記録)


エロイーズ・マッグロウ『サースキの笛がきこえる』

サースキの笛がきこえる

ルパン:最後まで読んでいないんですけど、今までのところで一番気になっているのは、取り替えられて妖精の国に行かされた子はどうなったんだろう、っていうことです。

夏子:そこは、読めばわかるようになっていますよ。アメリカで出版されたのが1996年で、確かニューベリー賞候補になったんですよね。そのころ英語で読みました。でも今回翻訳で読んだ方が、印象がよかったです。まわりから浮き上がってしまう子どもは、今のほうがリアリティがあるのかもしれない。翻訳がだいぶおくれて出版されたおかげで、タイムリーになったところがあるかもしれませんね。

レジーナ:自由な魂を持ち、人間の世界になじめない妖精のサースキは、自分をもてあましているようで、すぐにかんしゃくをおこし、自分でもどうしていいのかわからないんですね。この作品では、荒れ地という土地に力があり、精霊が住んでいて、トポスともいうべき特別な場所です。そうした荒れ地と強く結びついているサースキの、心の奥底に押し込められた不安や孤独が、丁寧に描かれています。この作品の魅力のひとつは、サースキという人物像にあるのではないでしょうか。クモの巣のプレゼントに、けげんそうな顔をした母親に対し、「おばあちゃんにあげる」ととっさに言うサースキは、機転が利き、とても魅力的な女の子です。アンワラもヤノも、とまどいながらもサースキを愛し、バグパイプをもたせてくれます。妖精のサースキには、本来は感情がないはずですが、両親の気持ちにこたえ、恩がえしをしようとするんですね。そのように考えると、これはアイデンティティをテーマにした作品であると同時に、母と子の物語でもあるのではないでしょうか。感情がなく、享楽的な妖精と対比することで、人を愛したり憎んだり、さまざまな側面をあわせもつ人間の複雑さが浮き彫りになっているように感じました。ところで、デビルという名のヤギがでてくるのが不思議でした。悪魔とヤギが結びつくのはわかりますが、自分のヤギにデビルという名前をつけるものでしょうか。

クプクプ:お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに、サースキのことを愛していて、例えばバグパイプを持たせてくれるところにその愛情を感じました。サースキは、みんなの役に立ちたいと願い、例えばおばあちゃんのために薬草を摘む。お父さんのためには移動するミツバチを必死で追いかける。さまざな薬草に名前があり、薬効があり、ミツバチにはミツバチの生態があり、自然と共に生きる、こんな暮らしもいいなって感じます。異端として生まれた子が、自分の場所をどうやって見つけていくかというテーマとあいまって、時代を超えた作品になっているって思いました。派手ではないけれど、また読む力のない子はお話に入っていくのに時間がかかるかもしれないけれど、読みはじめたら、絶対にいい作品だと感じてくれるはず。

アカシア:いい作品です。まずはなにより、半分人間で半分妖精という存在を、人間の社会の中で描くのは難しいと思うんですけど、この作品では説得力のある描写になっていますね。物語世界にきちんとしたリアリティがある。妖精の世界に行ってしまったお父さんも、その心情がわかるし、「取り替え子だ」と言っているおばあさんのベスも、最後にはサースキに愛情を注いでいる。自然とともに生きているようなタムが、外見にとらわれずにサースキに理解を示すのもいいですね。ベスは最初から勘づいているんですけど、だんだんに確信をもっていく過程、そしてそれにもかかわらずいとしさを感じるようになる過程も、うまく書かれています。音楽の楽しさについても、読者にうまく伝わってきます。今は自分の居場所がないと感じている子どもがかなりいると思うので、そういう子たちの手に渡って読んでもらえるといいな。

夏子:物語世界が美しく構成されていて、作者の力を感じました。そういえば今回読んだ3冊には、どれもおばあさんがでてきて、存在感がありますよね。児童書には魅力的なおばあさんがつきものですが、また3人も増えた!

クプクプ:奇をてらわず、描写がきちんとして、人物像がきわだっていて。力のある作品ですね。

夏子:人間の世界で育った子どもだから妖精の世界には戻れないだろうなあ、と心配していましたが(笑)、放浪の民になる終わり方は、文句のつけようのない素晴らしいエンディングでした。

プルメリア:すっきりした感じで透明感のある作品だなって思いました。挿絵がよかったです。今回の3冊の中では、私は『怪物がささやく』が一番おもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年7月の記録)


シーラカンスとぼくらの冒険

プルメリア:シーラカンスの登場という作品の設定に惹きつけられました。また、挿絵がいいなって思いました。内気でおとなしい少年の心情に寄り添いながら、話が自然に展開していく。シーラカンスのしぐさがかわいかったです。海底トンネルで上を見上げる場面「世界は限りなく広がっている」ようでいいなと思いました。また、終末に、子どもの未来像がでていたところがよかったです。

レジーナ:シーラカンスが地下鉄に住んでいるのに、だれも気にとめず生活しているという設定にリアリティがなく、違和感をおぼえました。研究所から救出したシーラカンスを自転車のかごに入れて、追っ手の大人から逃げる場面は、映画の「E・T・」そのままですね。

ルパン:出だしは村上春樹っぽいテイストでしたが…。語り手の子どもが妙におとなびていて、小学生だということがしばらくぴんときませんでした。地下鉄にシーラカンスがいる、という設定はユニークだと思ったんですけどね…物語が進むにつれてどんどんつまらなくなってしまって残念でした。

ハリネズミ:最初の部分は、おもしろくて何だろうと引きつける力がありますね。でも、だんだんストーリーに無理が出てきて、残念ながらその力が弱まってしまう。たとえば、保護区といっていながら地下鉄を通しちゃってるし、シーラカンスは銘板があるくらいだから知っている人は知っているのに、これまでは研究する人がいないという設定にも引っかかる。それからファンタジーといっても、この物語の中では現実界とまったく切り離された法則が働いちゃってますよね。シーラカンスが日本語を流暢に話すとか、宇宙空間に飛び出していくというのは、身体構造上無理だと思うんですね。「宇宙に行くには、空を、真上に向かって突きぬけるように飛んでいけばいい」(p108)ってあるけど、子どもだってシャトル打ち上げのシーンなんかをテレビで見てるわけだから、信じろって言っても無理だと思うんです。単体で何億年と生きているとか、プラネタリウムの映像にシーラカンスの若いときの姿が映るのも、どうなんでしょう? これがシーラカンスでなくて謎の生物だったり、舞台が異世界だったりすれば、あまり違和感を感じなかったかもしれませんが。その物語世界の中での決まり事をもう少しきちんと作ってくれるとよかったなあ。

ルパン:「お約束通り」ってわりときらいじゃないんですけどね。おもしろければ。でも、これは残念ながら「お約束」というより「ありきたり」だったかな。最初が良かっただけに、もったいないですね。

ハリネズミ:というより、「お約束」の世界がきちんとできていないのが残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年6月の記録)


12分の1の冒険

プルメリア:図書館で見つけてタイトルがおもしろかったのですぐ読みました。学級の子ども(小学校5年生)にすすめましたが、なかなか読めないようでした。ちょっと読みにくい部分があるのかなって思いました。2冊とも私が読んでから少し時間がたっているのであまりよく覚えていない部分がありますが、鍵がキーワード、体が小さくなること、その時代の社会・生活様式がわかること、トマスが発明家になることなどがおもしろかったです。また、おばあさんの設定が謎めいていました。2巻は、残念ながら1巻に比べて出来事や人物などあまり心に残っていません。

ルパン:翻訳が読みにくかったですね。読みごこちの悪さを感じながら、最後までいってしまいました。ルーマー・ゴッデンの『人形の家』が好きだったから期待したんですけど、これは全然ちがいましたね。正直、おもしろくなかったです。続編もいっしょに借りたんですけど、結局読みませんでした。

ハリネズミ:これも、ずいぶんとご都合主義的なストーリーのつくり方ですね。最初にミニチュアルームの裏に入るときには、たまたまドアがちゃんと閉まっていなかったのだし、2度目に入るときも、たまたまベビーカーの子どもが鼻血を出して警備員がその場を外してしまう。また夜になると美術館の照明は消えるのにミニチュアルームだけはついてるんですよね。p324では、警備員が錠に鍵を差し込んでロックされてるかどうか調べてるみたいですが(誤訳でなければ)、普通はそんなことしないですよね。それから、この子たちがミニチュアルームにあった鍵や本を勝手に持ってきてしまったり、ミスター・ベルの鍵をひそかに持ち出したりするんですけど、あまり気分はよくないですね、目的のためには手段を選ばず、っていうところが。それと、タイムスリップして出会う人たちの個性が立ち上がってこない。ぼんやりとした印象しか持てません。ゴキブリが声を上げるのも、どうなんでしょう。
翻訳もいくつか引っかかるところがありました。たとえばp6に「クレアは卒業を一年後にひかえた高校生で」とありますが、p8では「お姉ちゃんが大学に進学するまで、あと六百三十五日」となっています。p15には「母親のスタジオ」とありますが、画家なんだからアトリエくらいにしないと。またミスター・ベルについてですけど、p20では「美術館の警備員」だけど、p21では「この階の責任者として、ミニチュアルームのメンテナンスを担当している」となっています。警備員は普通メンテナンスを担当しないので、もっと別の訳語にしたほうがいい。p24の「しゃべりこんでいて」とか、p120の「このガラス窓は“フランス戸”も兼ねていて」も変です。p335の「なんて、願うわけにはいかない」は、どうしてそうはいかないのかが、わからない。それと、日本からのおみやげでもらったお弁当箱を日本のミニチュアルームの応接間においてぴったりだ、というところも、日本人が読むとおかしいですよね。
子どもたちがミニチュアの世界で冒険して時間を超えるという設定はとてもおもしろいのですから、子どもには本物をあたえようと思って、もっとしっかり作り、もっとしっかり訳してほしいと思いました。せっかくの素材がうまく活かされていないもどかしさがあります。

レジーナ:p158の戦闘シーンをはじめ、時代の描写が平面的です。タイムトラベルを扱った物語のおもしろさは、そこに生きていた人びとを生き生きと描くことにあると思うので……。ミニチュアルームにつながる扉がどこにあるのか、はっきりイメージできないのは、原文か翻訳に問題があるのでしょう。翻訳についてですが、p113の「その本を書いた人や、所有していた人たちと、いま、会話している……本気でそう信じるんだ」は、「本気でそう思えるんだ」ということでしょうか。p37の「興味、あるもん!」をはじめ、この年代の子どもの言葉づかいとしては、不自然な箇所がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年6月の記録)


見習い幻獣学者ナサニエル・フラッドの冒険1〜フェニックスのたまご

ハリネズミ:まず翻訳者の力ってすごいな、と思いました。千葉さんの訳は、『1/12の冒険』と比べると、訳文のリズムからいっても、言葉の使い方からいっても、段違いにじょうずなんじゃないかしら。それに最初から「ありえない話なんだな」ってわかって読めるから物語世界に破綻がないですね。グレムリンのグルーズルっていうのがとても変ですが、登場するどのキャラクターもくっきりとしていて翻訳でもそれが明快なので、はっきりイメージできます。この幻獣学者のおばさんも、とんでもないけど素敵な人だし、おもしろく読みました。それに、訳文にユーモアがありますよね。でも、なぜか図書館にはあまり入ってないですね。タイトルがおぼえにくいのが、ハンデになってるのかも。今日の3冊の中では、とにかくこれがダントツにおもしろかったです。

レジーナ:おもしろく読みました。ミス・ランプトンはひどい人なのに、それに気づかず一緒に暮らしたいと願う主人公は、おっとりしているというか、人がいいというか……。ところでこの幻獣観察の目的は、なんなのでしょうか。

ルパン:とってもおもしろかったです。「しこたま」っていう訳語もツボにはまりました。翻訳がいいですね。こちらは4巻まで読破してしまいました。最後まで「読ませる」作品でしたよ。

プルメリア:場面展開が早く、ぱっと変わっちゃうのが気になりました。

ハリネズミ:そこは、ファンタジーだからいいんじゃないですか。特に気になりませんでしたよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年6月の記録)


旅のはじまりはタイムスリップ

プルメリア:登場人物三人のキャラクターがそれぞれ個性的でおもしろかったです。

アカシア:私はステレオタイプだと思ったけどな。

プルメリア:ステレオタイプだけど、それぞれ個性が違うという意味で。

アカシア:このシリーズの、ほかの作品もお読みになった?

プルメリア:4巻まで読みましたが、最初がいちばんおもしろかったです。子どもの大好きな妖怪、笑いが出る弥次さん喜多さん、なぞの虚無僧などが次々に登場してきて飽きさせない。ふしぎなのは子どもだけで旅をするので、設定が不自然だったりするにもかかわらず、いろんなものが登場し、また事件がおきるので、その不自然さを感じさせない。江戸時代の生活のようすが子ども目線でわかりやすく読めます。この作品はエンタメですかね。

アカシア:そうでしょうね。

プルメリア:私は学級(5年生)の子ども達に紹介するとき、見返しの五十三次の地図も紹介しました。

アカシア:この作品、子どもは好きですか?

プルメリア:学校の図書館にはまだ入っていないので、公立図書館で借りてきたのを、たくさんいる希望者にじゃんけんしてもらって貸し出しています。希望するのは、どちらかというと男子が多いです。女の子は青い鳥文庫の「若女将シリーズ」とか「黒魔女さんシリーズ」が多い。今は、テレビでも時代劇の放送があまりないので、江戸時代を学習した6年生の子が読むと、もっとよく時代背景や文化・人々の暮らしがわかると思います。

アカシア:エンタメですけど、作者がベテランの三田村さんなので、安心して読めますよね。舌長姥、朱の盤、蒼坊主、ろくろっ首など、次々にいろいろな妖怪が登場してくるのも楽しい。唐突にやじさん、きたさんが出て来たり、おじさんが子ども三人だけで危険な旅をさせたりするのは、ご都合主義的な設定と言えますが、エンタメなので、まあ仕方がないか、と。印籠、関所、五右衛門風呂など、江戸時代の暮らしについての知識も得られるように物語がつくられていますね。

レジーナ:おもしろく読みました。妖怪の居場所をなくすために、町を明るくしたという設定も、よくできていますね。一度、過去にタイムスリップして、五郎左衛門を捕まえたから、妖怪の被害は現代の歴史に残っていないというのも、筋が通っています。未来や過去を行き来する物語としては、『時の町の伝説』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作 田中薫子訳 徳間書店)を思い出しました。でも『時の町の伝説』ほど複雑でないので、読みやすかったです。

ルパン:おもしろかったです。ただ、シリーズということに気づかないで読んでいたので、終わりに近づいてきたとき心配になりました。まだまだ旅の途中なのに、って。あとで見たら小さく書いてあるんですけど、わかりにくいなあ。2巻からはどうなっているんだろう。子どもが続編から先に読まないか心配です。あとからつっこまれないように考えたのか、ちょっと先回り的に説明しすぎるきらいがありましたが(p31とか)、それ以外は楽しく読めました。

レジーナ:私も同じ疑問を感じたので、この箇所は必要だと思いました。ただ、教科書のように説明的なので、書き方を工夫すればよかったのでしょうね。

ルパン:三田村さんの作品を小さいときに読んだときは、かなりシュールな感じがしてたんですけどね。それもおもしろかったけど、こういうのも明るくていいですね。著者はかなりのご高齢だと思うのですが、それを感じさせない若々しさがある作品ですね。すごいと思います。

レジーナ:エンタメでも内容はしっかりしているので、勤務先の中学の図書館にも入れたいと思いました。

ルパン:昔は水戸黄門とかテレビで見ていたので江戸時代にもなんとなくなじみがありましたけど、最近はそういう番組も少ないし、見る子もあんまりいないと思います。こういう作品で昔の風俗を知るのもいいんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年5月の記録)


シフト

レジーナ: p54の「歯ブラシの柄に穴を空けて、荷物を軽くする」や、p147の「コウモリ少年」など、意味の分からないところが、いくつかありました。p137の「ヒルクライマー」に、「山登りサイクリスト」という読み仮名がついていますが、何か特別な意味があるのではないかと読者に思わせてしまうので、ない方がよいと思いました。はく製が苦手だったり、強がっているけど、弱いところのあるウィンの性格が、よく描かれています。いなくなってはじめて、ウィルとの関係を心のどこかで窮屈に感じていたのだと、それまで気づかなかった感情を自覚する場面や、自分たちで友情に区切りをつける最後の場面も、心に残りました。ヤコブと天使の相撲や、旅路を見守る聖クリストファーなど、聖書を題材にしていますね。

ルパン:おもしろかった。時系列が行ったり来たりするので、慣れるまでちょっと時間がかかりましたが。p156にクリス・マッカンドレス事件のことが書いてあるんですが、この作者はそれに触発されてこの作品を書いたのかも、と思いました。何年か前に、その事件を題材にした『イントゥ・ザ・ワイルド』っていう映画を見たことがあるんです。事実に基づいて作られた映画なのですが、わかりにくい事件で、クリス・マッカンドレスはせっかく救われて幸せになれるチャンスがあっても、結局それをふりきってアラスカの荒野に入って命を落としてしまうんです。見てるとイライラするっていうか・・・人の愛に気づかないで、何やってるんだろうって、思うんですが、この作者はその事件に対する世間の消化不良感を、新しい作品にして解決したのかもしれません。もう一つのマッカンドレスの人生を用意した、というか。

レジーナ:若さゆえの傲慢さでしょうか。他者性が欠落しているので、自分がどれほどまわりの人に心配をかけているのか、気づかないんでしょうね。

ルパン:ウィンのこのあとの人生はどうなるんでしょうね。

アカシア:そのうち帰ると書いてありますよ。

レジーナ:展開が速いから、映画向きの作品かもしれませんね。

アカシア:私もおもしろく読みました。さわやかな青春小説ですね。読んでいるとき、本の開きが悪くてすぐ閉じてしまうのが残念。翻訳はp24の「あの子のことはね、自分の息子だったらと思うくらい、お母さんも大好きだけど」の「お母さん」に引っかかりました。母親が自分のことを指して「お母さん」って言うのは日本では一般的ですけど、それを良しとするのかどうかってところに、翻訳者のジェンダー観が出るのかもしれません。日本の女性も、もっと自分を持ったほうがいいと考えている翻訳者は、たぶんこうは訳さない。p25のマーシャルプランは、ただマーシャル大学にかかってるだけじゃないから、注があったほうがよかったかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年5月の記録)


サラスの旅

レジーナ:ダウドは力のある作家ですね。p186で、チャルイドラインに電話する場面で、思わず自分が住んでいた場所を口にしてしまったり、どこかで止めてほしいと願いながら、どうしていいか分からず、自分の本当の気持ちに気づいていないサラスの姿にはリアリティがあります。子どもをよく見て、知っている人の書いた作品ですね。しかし、妥協せずに書いているので、読み手に伝わらない部分があります。p70で、彼女の名前を飛行機で空に描く男の歌を聞いたレイが、「自分の名前が空に描いてあると、想像してごらん」という場面も、よく分かりませんでした。悪い子になろうとするサラスにも、共感しづらく感じました。そうせざるをえなかったんでしょうが、すぐに嘘をついたり、服を盗んだり……。p235に「短くかんだ爪」とありますが、かみ続けた結果、深爪になってしまったということなので、少し不自然な翻訳に感じました。

ルパン:私は、今日の3冊のなかでいちばんよかったです。たしかに最初のところでは感情移入しにくいですが。でも、この子の自分勝手さも感じ悪さも、だんだん絡まった糸がほぐれるように解明していって、親にちゃんと育ててもらわなかったことで傷ついていたこともわかり、親以外の人たちの愛情を得られるプロセスも見えてきて、読ませます。出会った人たちがみんないい人であるところも好感がもてます。菜食主義者のフィルとか。危ないシーンもあるけれど、運良く切り抜けていくし。ラストのp359で、この旅でいろんな人にたくさんのことを教えてもらったと気づくところに好感がもて、感動しました。何かにつけて里親のことを思い出すところも、ふつうの少女らしくてかわいい。レイのことも、「きみの名前が雲になる」と言われたことを何度も思い出しているし。最後はちゃんと里親のところにもどり、読者も安堵感と幸福感を味わえます。『サラス』の今後を想像するのは、『シフト』の続きを考えるよりずっと楽しくてわくわくしました。ウィッグをかぶると別人になるという設定もうまくできています。

アカシア:ホリーは14歳なのに、リアルな現実をまだ受け止められずに母親を理想化しているのが、不思議でした。『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン著 岡本浜江訳 偕成社)のギリーも同じような境遇で、突っ張ってます。でも、あっちはまだ11歳で虐待はされてないみたいだから、母親を理想化するのもわかるんですけど。それと、ホリーの内省的な部分がちっとも書かれてないので、最後になって急に内省的になるのがなんだかしっくりこなかったんです。劇画みたいでね。

ルパン:ずっと会っていない母親をどんどん理想化していくのはむしろ自然に思えますが。

アカシア:でも、ホリーの場合は、母親から熱いアイロンを頭に押しつけられるという虐待も受けてる。それなのにここまで理想化できるのかな? ソーシャルワーカーたちも言うだろうし。

ルパン:言われても、受け入れられないんでしょうね、きっと。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年5月の記録)


オレたちの明日に向かって

サンザシ:保険屋さんにはあまりいい印象をもってなかったんですけど、こういう人もいるんだな、と見方が変わりました。子どもの視点と、保険屋さんの業務日誌の両方の視点から書かれているのもいいなと思います。おもしろく読みました。

トム:ジョブトレーニングにあまりいいイメージを持てなかったのです。例えば幼稚園や保育園に高校生が来ても、短い期間では、どこまでわかってもらえるだろうという保育者の声も聞いていましたし。でもこの物語に関してはいい人との出会いが続いて、すっと読んでしまいました。老々介護が出てきたり、当り屋、シングルマザー、子育て放棄、若者の農業離れ、農業を担う人の高年齢化、過労死、暴力団がらみの保険金詐欺、虐待と、たいへんな問題がたくさん描かれて、それぞれ難しいことばかりなのに、読んだ後気持ちがささくれないのはなぜかな? ひとつひとつの出来事にかかわってくる人たちの温かみに救われるのかも。勇気のジョブトレーニングがベースにありますけど、いろいろな人がそれぞれに一生懸命暮らしを紡いでいる物語とも読めました。「将来何になりたい?」と、大人はよく聞きますけど、聞かれて困る子も多いでしょうね。将来の夢イコール職業と直結させるのは何とかならないものかといつも思います。好奇心の先に何が見つかるか誰にもわからないし、ゆっくりジグザグしながら大人になればいいのに。

レン:お話としてはおもしろく読めましたが、このくらいやさしく書かなければならないのかな、って一方で思いました。車を川に沈めてしまうところでおばあさんと出会うとか、あまりにも都合よくいく部分があって、エンターテイメントだなと思います。八束さんって、もう少し固いイメージがあったんですけど。『青い鳥文庫ができるまで』にも、感動のインフレーションを感じて、中学生が読めるようにするには、このくらいしなきゃいけないのかなと思ってしまいました。ジョブトレーニングは、この10年くらいやっていますね。私の地元の中学校では中学2年生が5日間やっています。事業者もさまざまだし、中学生もさまざまで、賛否両論飛びかっているようです。最近は、中学生か、ひょっとすると小学生から職業、職業って言われるけれど、学校でそこまでやらなきゃいけないのでしょうか? いい意味で刺激を受ける子もいるんでしょうけど。中学生の子が職業を考えるには、いいきっかけになる本だと思いました。

レジーナ:数日間の職場体験でわかることなんて、たかが知れていますし、社会とのつながりを感じるところまでは、なかなかいかないと思います。この作品の主人公は、ジョブトレーニングをとおして、しだいに家族や友人への感謝の気持ちをもつようなりますよね。自分のつつがない日常が、まわりの人たちに支えられて成り立っていると気づくことに、職場体験のひとつの意味があるのではないでしょうか。監督の髪型がくずれたのを茶化して怒られたときに、「バーコードの模様が違っていたらレジが通らない」というせりふには笑ってしまいました。クリスマスにひとりでファミリーレストランに来た子どもに、プレゼントのお願いをされて、お姉ちゃんは保育士を目指したとありますが、赤い服を着たお姉さんがサンタクロースのかわりにプレゼントを持ってきてくれると子どもが考えるのは、不自然です。

ルパン:すみません、今回はこれ1冊しか完読できませんでした。3冊のうち、これだけがストーリー性があるようだったので、まずはこれから、と読み始めましたが、とてもおもしろかったです。よく書けているな、と思いました。リアリティという面では、ここまで中学生におとなが何でもさらけ出すのはありえないのでしょうが、あんまり気になりませんでした。まじめなテーマなのだけどユーモアもあり、エンタメ的なところもあるけれど考えさせられるところもあり。盛りだくさんだけどバランスがいいと思いました。数日間でものすごくいろんなことが起こるのですが、それにわざとらしさや不自然さを感じないですっと読めました。今井さんには幸せになってほしいなあ。あと、事故で亡くなった若い女性はほんとうに気の毒で悲しくなりました。わたしは普通の企業で働いたことがないのですが、たまたま『シューカツ!(石田衣良/著 文藝春秋)』や『何者』(朝井リョウ著/新潮社)とか読んで興味を感じていたので、今回の「仕事について考える」というテーマは個人的にもタイムリーでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年4月の記録)


青い鳥文庫ができるまで

サンザシ:これは、講談社の中の、しかも「青い鳥文庫」編集部プロパーの話だなと思いました。児童書編集部がみんなこうだと思ったら間違い。まず「青い鳥文庫」なので、「かわいい」というキーワードが頻繁に出てくるし、ただ今現在の子どもたちに受けるかどうかが大きな問題になってます。でも、児童書の出版社の中には、「かわいい」では子どもの心の奥までは届かないと思ってるところもあるし、「今の子どもに受けるか」より、「今の子どもには何が必要か」を優先して考える出版社もあるでしょ。クリスマスセールに間に合わせて、売れるように最大限かわいくするというのだから、本でもほかの商品とあまり違わない。それがいけないっていうんじゃなくて、いろいろな本作りがある中の一部だっていうふうに思います。それに、講談社は大出版社なので、いろいろな仕事が分業になってますけど、小さな出版社では、編集者がひとりでみんなやるのよ。それからこの編集者は、とにかく急ぎだということで、著者の原稿の構成や文章について相談しながら改善していくことはほとんどしていない。まあ、この場合は出す本がエンタメだしシリーズなので、最初にコンセプトが決まってるってこともあるんでしょうけど。どっちかというと右から左に流してるって感じです。今はそういう編集者も多くなったけど、もっといろいろやりとりして、本当に質の高いものを生み出そうとしてる編集者もいますよ。それから、p150の「ノックアウトさせるのに」は、「ノックアウトするのに」じゃないかな。

トム:途中、数回休んで一息入れないと疲れて……。きっと読んでいるうちに いつの間にか編集現場にいる気持ちになっていたのかも。その意味では、完成するまでの臨場感があるお話になっているわけですね。モモタはすでに独り立ちした編集者! 実際、編集者になりたい人は少なくないので、そもそも、モモタが編集者になりたいと思った気持ちや、なってからの日々、初めて一冊の本を任された時のことなども語られたら、興味をもつ人も多いのでは、と個人的に思いました。それから「子どもに何を手渡そうか」とみんなで考えたり話しあったりする状況も知りたかったなと。本を投げてはいけない!跨いではいけない!と小さい頃言われたことを思い出しました。今「子どもに受けるのは何か」、「子どもに必要なのは何か」という視点をうかがって、ハッとしています。

レン:子どもの本をよく読んでる人が、とっかかりは「えっ」と思うような本だけど本のつくり方がわかっておもしろいと言っていたので、期待して読んだんですけれど、私にはちょっと期待はずれでした。広い読者層に向けて書くと、こんなにやさしくしなきゃならないのかって。雑誌のようなつくられ方だなって思いました。1冊の本を作るにも、いろんな人たちのプロの技があってできているのを読めば、子どもはこんなに大変なのかって思うのかもしれないけれど、私からすると、これでできちゃうのか、という感じでした。人物も一面的ですよね。

ジラフ:児童文学作品として考えると、今おっしゃったような問題がたしかにあると思うんですけど、子どものための実用書ととらえて、内容をわかりやすく伝えるためにフィクション仕立てにしたもの、と考えれば、けっこうおもしろく読めるんじゃないかな。いま、編集を担当しているフランスのファンタジーを、とある高校の図書館委員の生徒たちに、「スチューデント・レビュアー(先行読者)」として読んでもらっていて、ちょうど今日、ゲラ(校正刷り)を届けたところなんですけど、本づくりの過程のゲラというものに初めて接して、みんな大喜びでした。そんなふうに、さまざまな職業の現場にふれることって、子どもたちにはすごくわくわくすることだろうし、ここに書かれていることは、かなり誇張はあるにしても、取材もよくできているし。プロの仕事の現場の雰囲気を知るにはおもしろいのかな、と思いました。ただ、「出版の裏側がわかっておもしろかった」とか、帯に読者の声が引用されていますけど、読者層はわりと幼いんですね。子どものおこづかいでは、「青い鳥文庫」を月に1冊しか買えないから、売れ筋の本が、同じ月に2冊重なったら困る、なんていうくだりにも、リアリティを感じました。

サンザシ:講談社のような会社だと分業システムがちゃんとできてるから、それがいい意味でも悪い意味でも編集者の守備範囲を狭くしてますよね。小さい出版社だと、本作りの1から10まですべてを見届けて、製版所や印刷所の担当者とも直接相談したり、印刷立ち会いにいったりもしますよ。私自身はそっちのほうが好きだけど。

プルメリア:今までにない本のつくり方で、子どもたちの好きな青い鳥文庫だから、子どもたちは手に取るでしょうね。

レジーナ:本が出版されるまでの過程を、物語としておもしろく描いています。子どもにとって魅力的な装丁なので、軽い読み物しか読まない子どもが知識を増やすためのステッピング・ストーンとしてはよいのでしょうか。「前野メリー」さんは、おそらく仕事に没頭すると前のめりになることから、このあだ名になったのでしょうが、説明がないので、子どもの読者にはわからないでしょうね。セントワーズのようなシステムは、他の出版社にもあるのでしょうか。青い鳥文庫では、ひげ文字の「八」の字は使わないなどの豆知識は、興味深く読みました。37ページで、石崎洋司のコラムが挿入されていますが、物語の流れが妨げられるので、最後に持ってきた方がよかったのではないでしょうか。あとがきで、東北の製紙工場が被災したときの状況に触れていますが、東日本大震災後、紙の値段が上がったのにともない、本の単価もあがったと、出版社の人が言っていたのを思い出しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年4月の記録)


スティーブ・ジョブズの生き方

サンザシ:まだ全部は読めてないんですけど、前半を読むかぎりジョブズはすごく嫌な奴ですよね。こんなに鼻持ちならない人だとは思わなかった。この後魅力が出てくるのかな?

トム:天才肌と一言で括れないし人格的にどうとらえたらいいのか……。20歳で、アップルコンピュータをたちあげた時、一緒に仕事をしたウェインはジョブズを竜巻と言っていますが、ほんとうに竜巻のように周りを巻き込んで遠く運んで行く激しさと、その一方で内面的には強い不安を抱えていた姿が描かれているのが印象的でした。p57にあるように「幼いころに深く刻みこまれた心の問題を、絶叫して心の痛みを吐き出すことで解決しようとするというオレゴン・フィーリング・センター」の原初絶叫療法コースに申し込んだり、p77にも禅寺に行こうかと考えたことも書かれて心の闇に立ち向かおうとするジョブズがいます。でもこの複雑で気難しいジョブズを受け入れて助ける人があらわれるのがまた不思議なところ。養父母はもちろんですが、悩みを聞いて事業への専念は出家と同じことと諭してくれる日本人老師、そして、融資という形で長髪で裸足のジョブズを応援する投資家。それから、ウォズニアックとジョブズの個性の違う二人が出会って仲良くなってゆく様子もとても興味深く読みました。何を人が欲しがっているか見抜いて実現する強い力を持つ人と天才的な技術の力を持つ人との出会い——ある時期までは、二人の強い個性がうまく釣り合っていたのかもしれません。2部で書かれている、競争や権力争い、必要ないと決めた人を解雇して、有能な人を余所から強引に引き抜いて仲間にして、次々、新しいものに挑戦して、ゼロックス社のアイディアを盗んだと言われても流してしまうジョブズの姿をどう思うか? 彼の陰でどれだけ泣いた人がいたのか、二度と立ち上がれないほど傷ついた人もいただろうと思いました。でも ジョブズは世界を変えた人として残るのでしょうね。強烈なこの人を生かしたアメリカという国もすごいなと思います。3部のp281にあるスタンフォード大学のスピーチの中で「他人の期待でがんじがらめになったり、他人の意見に流されてはいけないとさとし」た、と書かれていますが、こういうところも、若い人の気持ちを掴んでしまうのでしょうね。ジョブズのiPodのなかにボブ・ディラン、ビートルズ、ヨーヨー・マの演奏が入っていたそうですが、何かちょっとほっとしました。用語解説はもっと多くあるとわかりやすい。p299の株式スキャンダルはチンプンカンプンでした。

レン:亡くなったときに、スタンフォード大学の卒業式のスピーチを見て感動したのですが、この本を読んでみたら、ハチャメチャな人だということがわかりました。翻訳はこなれていますが、書き方自体がいかにも翻訳物ですね。中学生とか高校生で、この人がどういう人か知るにはいいなって思いました。もしもこういう人が目の前にいたら、怖くて近寄れないかも。天才肌というか。でも、こういう人は、日本の学校教育では生まれてこないだろうなって思いました。干渉されずに、やりたいことを貫いて、好きなことは徹底的にのめりこんでやっていく。今日の日本の学校では、なかなかこういうことはできないですね。

レジーナ:何かを一から築き上げ、新しいことを始めるときのわくわくした雰囲気に満ちた作品ですね。バチカン教皇に電話をしていたずらをするなど、おもしろいかどうかの価値基準だけで物事を考え、自分の信念にしたがってぐんぐん進めていく生き方は特異なものですが、人としての魅力は全く感じませんでした。人を許したり、他の考え方を受け入れることができず、人間としてのバランスがとれていないので、他者と生きることができないのでしょう。亡くなる前に、「死ぬというのは、オン・オフのスイッチのようなものじゃないか」と語る場面では、ジョブズが心をひらき、弱い部分を見せているようで、はじめて彼の心に触れた気がしました。ジョブズは、ヒッピーの考え方に、強く影響を受けていたのですね。アップルの名前の由来や、ビートルズとの訴訟は、これまで知りませんでした。スティーブ・ジョブズが若いころに、カリグラフィーを学んだことは、高校の英語の教科書 CROWN に載っています。ジョブズが好きだった “The Art of Animation” の本は、私も小さい頃よく眺めていた本です。専門用語の索引がついているのは評価できますが、「現実歪曲空間」という造語を、「BASIC」と同列に扱っているので、混乱を招きます。

ルパン:完読はできなかったのですが、一部まで読んだところです。ただ、この研究会でノンフィクションを扱うのが私は初めてなので、どう感想を述べていいか迷っています。この人の生き方についての感想、ということでいいのでしょうか? それとも本の構成とか翻訳について感じたことを言うのでしょうか? ともかく、あすなろ書房から出ているということは子ども向け、ということなのでしょうが、これ、「偉人の伝記」にはならないですよね。人としてはあんまり見倣ってもらいたくないし。ただ、若いとき、かっこよかったんだなあ、と、妙なところに感心してしまいました。p175の写真なんか、トム・クルーズみたい。あと、まだ途中ですけど、これを読んだおかげで、ようやくスティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの区別がつくようになりました。

みんな:えっ?

ジラフ:この本は、ざっとしか読めていなくて。でも、ジョブズが亡くなったときにムックとか雑誌の別冊特集がいくつも出て、それを読んでいたので、ジョブズの人生や人柄ついてのあらましは知っていました。この人の人生を見ていくと、生い立ちも、いろんなことを干渉されずにやれたという環境も、こんな性格破綻者のようなすごい人柄でも、そういう人がちゃんと市民権を得て、生きていかれる場所があったということも、発想の大胆さやチャレンジ精神も……。いろんなことをひっくるめて、ここにはアメリカが凝縮されてる、という印象を持ちました。私は、15〜16年前にパソコンを使い始めたころから、ずっとMacユーザーで、仕事なんかでいやおうなくWindowsを使わなければいけないことがあると、なにか機械に支配されているような不快感があって嫌なんですけど(笑)、それにくらべると、Macはすごくシンプルで、使っていて、フレンドリーな感覚があるんですね。製品がそんなふうにフレンドリーなことと、ジョブズのものの考え方とが、どこかでリンクしてるかな、というようなことにも、興味を引かれながら読みました(ざっと流して読んだので、具体的に、ここがそうだ、という箇所は、見つけられませんでしたけど)。あと、私は仕事で、ヴィクトリア時代から1920〜30年代くらいが中心の、古い絵本コレクションに接する機会があるんですけど、それとの対比で考えると、その本たちはまさに、五感をフルに使って受け取るフィジカルブックで、いっぽう、パソコンや、iPadやiTunesは世界をがらりと変えてしまったわけで、電子ブックの台頭なんかも含めて──思ったほどの速度では、浸透していってないようですけど──そんなふうに世界が変わってしまったことが、本を読むという行為に、どんなふうに影響する(している)んだろう、これからどうなっていくんだろうと、漠然とながら考えさせられました。

トム:完璧主義のジョブズは、人が求めている物を工夫を重ねて作ったのだと思いますが、欠点も残ったまま売り出す場合もあるようで、もし日本だったら欠点のあるものは認められなくて、足を引っ張られてしまうのでは?

(「子どもの本で言いたい放題」2013年4月の記録)


『おじいちゃんのゴーストフレンド』表紙

おじいちゃんのゴーストフレンド

トム:今回の3冊を読んで、日本と北欧の日常の家族関係の違いをあらためて思いました。この作品には、おじいさんの孤独とか、主人公たちの気持ちとかにシンパシーを感じました。今の日本には、このような状況を抱えて一生懸命暮らしている家族があちこちにいるということだと思います。ヘルパーさんの現実的な対応と、お母さんの「楽しい思い出の中にいる方が幸せ」と思う気持ちは、どちらがいいときめられない。物語の中でも決めつけていないところがよかったと思います。そこから考えられるから。ゴーストフレンド(ふうさん)の存在を受け入れられるのは、あちらとこちらの世界の垣根が低い子どもなのかもしれません。それに、テッちゃんと主人公の“ぼく”は、とても気の合う友達であることも、おじいさんのふうさんへの気持ちを自然にわかる土台になっている気がします。この物語は、何だかいつまでも心に残って、思い出すたびに、何層も何層も重なった物語の事実から大事なことが、時々ちらっちらっと顔を出します。たとえば、「ふうさんはなくなったんだって、教えてやるだろ。そうしたらおじいちゃんったらびっくりするんだよ。そのあとまた頭かかえこんじゃうんだよ」(p31)には、大切な友達を失ったことを受け入れることがどんなにたいへんかが表現されています。また「水の中の魚がいっせいににげていくように、ただよっていたものがちっていく。おだやかでやさしく、幸せなものが消えていく」(p59)は、目に見えないところに優しく幸せなものはあるかもしれないと思わせてくれる。「ふしぎだな。この世にあるものは、みんな夢をもって生まれてくる。一生けんめいりっぱなものになりたいって、ねがいながら生まれてくる」(p83)という箇所では、おじいさんがふうさんとの思い出のなかに生きながら、テッちゃんと“ぼく”に、生きる力の秘密を伝えています。だからおじいさんは、ちゃんと未来をテッちゃんと“ぼく”の中にみている気がします。それに、作品の中でちゃんとおじいさんの死を伝えて、テッちゃんと主人公が何とか受け止めようとするところまで作者は描いています。またいつか読み返すと別の何かがみえてくるかもしれません。
 あと、鉄とずっとつながってゆく鉄塔と、東西南北に正中する鉄塔の中心に龍、龍の時計=時を埋めることで、作者は何を伝えようとしたのか、知りたいと思います。

レジーナ:会話をしたり、自力で動いたりするのが困難な老人ですが、個性もリアリティもあり、人物像がちゃんと伝わってきますね。鉄塔をつくったというおじいちゃんは、ちょうど日本の高度成長期を支えた世代でしょうか。湯本香樹実の『夏の庭』に登場するおじいさんは、戦争で人を殺してしまったという過去がにじみでていましたが、その点、『おじいちゃんのゴーストフレンド』も、あと一歩、おじいちゃんの人生に踏みこんで描いていれば、よかったのではないでしょうか。日本の児童文学によくあることですが、全体を通して湿っぽく、センチメンタルにおちいっているのが残念です。

アカザ:なかなかいい作品だなと思いました。最初は「ほんとの古びたおじいさん」になじめなかった主人公が、テッちゃんを通じて徐々に理解を深めていく過程を丁寧に描いていると思います。時々まぼろしを見るおじいさんに対する態度が、テッちゃんをはじめとする家族とヘルパーさんで違うところなど、作者は介護の現場を良く知っている方ではないかと思いました。「昔のことばかり気にするのはよくない」といって、おじいちゃんのゴーストフレンドを否定する黒井さんはいい人に違いないけれど、いいヘルパーさんかどうかは疑問ですね。「考えてみたけれど、ぼくにもわからない」と主人公に言わせているのは、正解だと思います。センチメンタルな作品といわれれば、そうかもしれないけれど、私はこの作品に漂う抒情を感傷というより奥行きと取りました。

ルパン:部分ごとに「いいなあ」と思うところはあったのですが、全体的には印象がうすかったです。筋の一本通ったテーマが見えてこなくて、どこにフォーカスを当てているのかがわかりにくかったです。少年のおじいさんに対する思いなのか、鉄塔への思い入れなのか、おじいさんの「ふうさん」への友情なのか…。ところで、このおじいさんは昔鉄塔を作ってたんですね。うちの亡父もそうなんですよ。子どもの頃旅先で山の中で鉄塔を見ると「あれはお父さんが作ったんだ」って自慢していたことを思い出しました。実は経理だった、って知ったのはずっとあとのことで(笑)。

アカザ:鉄塔を熱愛している人たちがいて、そういう文学作品も出ていますよね。高圧線のそばに住むと健康被害があるということは以前から言われていて、ヨーロッパなどではそばに住宅を建てることを禁じられていると聞いたことがあるけれど……。

トム:だんだん、身近な親しい人が旅立っていって、取り残されてゆく老人の寂しさ心細さ。おじいさんはふうさんと幼なじみだったのかも、きっと子ども時代にかえって話したり、笑ったり、とても気の合う友達だったのではないでしょうか。いっしょに釣りをした時を思い出すとからだも気持ちも自由になって幸せなのかも。

ルパン:語り手の男の子が、「ぼくたちはしんじている。おじいさんはこのとき生きる力を取りもどせたんだ」(p84)というところとか、いまひとつ感情移入できませんでした。そう信じていたのはテッちゃんだと思うし。最初は老人をいやがっていたこの子の心境の変化の過程が激しすぎる気がして。

アカザ:亡くなった友だちの写真の話をして、おじいちゃんが涙ぐんだときにショックを受けたり、テッちゃんの頭をポカンとやったお母さんを「子どもの頭をぶっちゃいかん」とたしなめるのを聞いて、「意外としっかりしてるんだな」と思ったり、おじいちゃんを理解していく過程を丁寧に描いていると思いましたけどね。

サンザシ:おじいさんの様子はかなりリアルに書かれていますね。たとえばp20「うしろ向きになったテッちゃんのお母さんは、おじいさんの両手を引いて部屋に入ってくる。ちょうど、赤ちゃんの手を引いて歩かせるかっこうだ」とか、p23の「おじいさんはうなずいて、こまったみたいに頭をなでた。わずかにのこっている白い髪が、ひよひよとさかだった」なんて、よく観察してないと書けないですよね。子どもたちがおじいちゃんを車いすに乗せて鉄塔まで連れていくところで、フィリパ・ピアスの「ふたりのジム」(『まよなかのパーティ』所収)を思い出しました。あっちもおじいさんと孫息子というコンビだけど、おじいさんのほうが、自分の意志で故郷の村に連れていってもらい、また帰りは困る警官をうまく説得して車いすをパトカーに引っ張ってもらって意気揚々と帰ってくる。それに比べると、日本の作品に出て来る老人は保護の対象になっていることが多い気がします。今回の『世界一かわいげのない孫だけど』は、ちょっと違いますが。

アカザ:『はしけのアナグマ』(ジャニ・ハウカー著 三保みずえ訳 評論社)に出てくるおばあさんなんか、憎たらしいくらいしっかりしていて、すごい!

サンザシ:老人って、ちょっとずるかったり、悪知恵があったり、ユーモアでうまくかわしたり、長く生きてきて人生経験が豊富なだけに、もっといろんな側面がありますよね。ドイツの『ヨーンじいちゃん』(ペーター・ヘルトリング著 上田真而子訳 偕成社)なんかも、強烈ですもんね。

トム:主人公は、初めて病気のおじいさんに会ったとき、大好きなゲームにボロ負けしてしまうほど、その姿にショックを受けるけれど、だんだんにテッちゃんのおじいさんへの気持ちや暮らしに接しておじいさんを受け入れてゆく。テッちゃんも主人公もほんとうに素直でやさしい! あんまりやさしくて素直ないい子でそこがちょっと気になってきて・・・ 。この物語を読む子どもたちが、病気の老人の様子に何だか変だなーと思ったり、ちょっと気持ち悪いなーと思ったりする感情を抑えこまないで、ゆっくり、テッちゃんや主人公といっしょに考えてほしい。

サンザシ:鉄塔から力をもらって、それで片付くというふうにとれるのは、ちょっとまずいかな。読んだ後も何か残って続けて考えるっていうところがなくなりますよね。

プルメリア:以前読んだことがあって今回読み直しましたが、ほかの作品に比べてさっと読めました。以前担任した男子ですが、イライラしていることが気になってたんですね。家庭訪問のときに母親に話したところ、同居しているおじいちゃんが急に暴れだす、それも急に人格が変わるということがあったんです。その子は、その影響をうけていたんですね。いろいろなおじいちゃんがいますが、この作品のような優しいおじいちゃんって、子どもにはすんなり入っていけるのかなって思いました。

レジーナ:先ほど話に出た結末のことですが、私は、子どもたちが「鉄塔の下に連れて行ったからおじいちゃんの寿命がのびた」と心から思っているわけではないと思います。大切な人に死なれたとき、大人も「あのようにして、それでよかったのだ」と、自らの気持ちを納得させることがありますよね。この作品の子どもたちも同様で、本心から信じているわけではないように思うのです。そう考えると、登場人物の子どもたちに、大人の視点が入り過ぎているといえるかもしれません。

げた:10年ぐらい前に出た本で、ちゃんと読むのは初めてでした。とってもいい男の子ふたりが、今は体のどっかが始終ゆれていて、左手がまだらでおそろしく思えるような老人だけど、その「生きる力」をとり戻させようとがんばる。とってもいい話だと思います。現実にはなかなかいないと思いますけどね。それに、ヘルパーの黒井さんも、しっかり老人の人格を尊重していて、名前もちゃんと「長谷川さん」って呼んでいる。ゴーストフレンドのふうさんに関しても、「今の人生を生きなきゃだめよ」というところもいいなって思いました。周囲にこういう人たちばっかりいたら、安心して年とれるなって思いました。

サンザシ:介護の現場では、死んだ人が見えるとか、どう考えてもおかしいことを言ったりするのを無下に否定しないほうがいいって言われてるんじゃないかな。だから、黒井さんの対応はちょっとまずいんじゃない?

げた:なるほど、そうですか。介護される人の気持ちを否定するのはまずいのか。そういわれてみると、そこも現実的じゃないんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年3月の記録)


世界一かわいげのない孫だけど

トム:美波、ショウコ、ルミの3人の迫力に圧倒され、はじかれました! でも、文章から離れられなかったからそう思ったのかも。アニメとかドラマのように耳と目から楽しむ気分になれば、すっとこの中に入れたのかも。物語の中で大事な役目をする“なぞかけ”や落語の間。お話全体もその味なのかもしれません。今風の女の子に見えて、彼女達の生活背景はそれほど変わっていないように思いました。

レジーナ:登場人物の言葉づかいが気になりました。長谷川町子の漫画の『いじわるばあさん』のように、ぎらぎらするようなアクの強さや人間としての魅力が感じられません。

アカザ:テンポが良くて、軽く読めましたけれど、なんだかお決まりの展開で……。転校して友だちとなじめないところとおばあちゃんのことが、うまくからみあっていないような感じがしました。あまりおもしろいとは思いませんでした。

ルパン:今回の3冊のなかでは一番印象に残りました。が、やはりいろんなところが気になりましたね。主人公の言葉づかいや態度が特に。さいごまで担任の先生を呼び捨てとか。一方、友だちはこの子に親切すぎてリアリティがない。最後はうまくもっていくんだろう、とは思いつつ、読んでいるあいだは「老人をばかにする話になったらいやだなあ」、というきわどさがあり、無条件に楽しめる感じではなかったです。

サンザシ:私は最初からエンタメだと思って読んだので、おもしろかったです。美波の口調も、アリじゃないですか。何にでも腹が立つ思春期の子どもだし、地方でのんびりと暮らすルミちゃんたちとの差を際だたせる意味でも、これでいいと思います。かわいくないおばあちゃんには、孫娘に負けないだけの威勢のよさがあって、嫌みの言い方やずるいところもユーモラス。とんがってる孫娘と、嫌みなおばあちゃんの勝負がどうなるのか、と楽しく読みました。美波は、最初はルミのことをアヒル、ショウコのことをアズキとしか呼ばないんですが、徐々にその距離が縮まって最後は仲間意識をもつというお定まりのストーリー。でも、そこに毒のあるおばあちゃんの存在がアクセントになって出てきます。ただ、いくら田舎だとはいえ、今時ルミやショウコのような屈託のない少女たちがいるのか、と考えるとリアリティはないかもしれませんね。あと、物語の山場である発表会で演じた落語が、文字だけで読んでももっとおもしろかったらいいのに、と思ってしまいました。それと、この書名は、祖母目線なんじゃないですか?

プルメリア:私は、この作品おもしろいなと思いました。突飛なおばあちゃんだしおもしろいんですが、最近のおばあちゃんはけっこう若いので、この作品の中のおばあちゃんの行動は小さい子どもたちにイマイチわかりにくいかも。もう少し上の学年だとおばあちゃんのしぐさや言葉のおもしろさがよくわかるんじゃないのかなって思いました。

げた:タイトルは、「かわいげのない孫だけど、でもかわいがってね」という美波の気持ちではないでしょうか。中身的には無責任なところもあるんですけど、エンタメということですすめてみました。若い子の斜にかまえた感じも、ちょっと心配なところもあって。文中に登場する子どもたちの、おそらく中国地方の方言も元気があって、東京に負けない感じがいいなって思いました。アズキちゃんに対してひどいことも言ってるんですけど、結局最後に、ルミたちの想いも理解して、ひどいままで終わっているわけではないので、読ませていいのか?とは思いませんでした。祖母と孫が、似た者同士の組み合わせで、最後まで妥協しないところがいいなって思いました。子どもたちに楽しんでもらえたらいいな。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年3月の記録)


三つ穴山へ、秘密の探検

トム:親子の様子も、年とった人の暮らしも、男女の関係も日本と違うなって思いました。でも、小さなミーナが夢を恐ろしがるのは、誰にもあること。その子ども時代をくぐってゆくときに、お父さんでもお母さんでもなく、おじいちゃんが登場して寄りそってくれるっていうのは説得力があるし、いいなって思いました。日本的には、年とるにつれて、人は保護者になることを期待されることが多いようですけど、このおじいちゃんのスタンスが保護者じゃないのが面白い。グニッラが「女ならできる」って言うけど、スウェーデンでは「女ならできる」っていうスローガンをかかげる時代はもう過ぎたんじゃないのかしら。どうなのでしょう? 物語のなかに色々な要素が詰まっています。野生の狼親子・密猟者・熊、それぞれがひとつの物語になりそうなのに、ちょっとおなかいっぱい感がありました。おじいちゃんが、一人では登れない山へ小さな孫4人連れて行く・・・?エーッそれはあまりに無謀! たぶん大反対されていたのに探検の夢がどんどんふくらんでこのおじいちゃんは突っ走ったんでしょうね。おじいちゃんはそもそもどうして三つ穴山に登りたかったのか? よく考えるとわからないことが出てきます。ハラハラドキドキ、ほんとうに無事でよかったけど。
 物語の背景になる大きな自然にはとても惹かれました、ヨーロッパの深い森も歩いてみたいです。でもこのあこがれは、おじいちゃん的無謀さにならないようにしないとレスキュー隊のお世話になるかもしれません! 風に吹かれながらミーナが冒険を回想する最後の場面は、ほんとうにホッとします。ミーナの年を考えるとちょっと大人っぽい感じもしますけど。

レジーナ:とても好きな作品です。私が子どもの時に読んでも、やはりひきつけられたと思います。クマやオオカミ、密漁者など、つぎつぎに事件が起きるにもかかわらず、リアリティがあるのは、作者に力があるからでしょう。おばあちゃんに内緒で、犬にミートボールをやったり、車いす競争をするなど、両親でもおばあちゃんでもなく、おじいちゃん特有の遊び心やユーモア、子どもたちとの特別な関係をよくとらえています。「ヒマラヤ」を「ヒラヤマ」と間違えるなど、ユーモアもきいています。山の中でのびのびと冒険する子どもたちが、しだいにけんかをしなくなったり、互いに助け合う様子が、いきいきと描かれていました。弱気になったおじいちゃんに対して、「人は思っているよりじょうぶなものよ」と胸をはって言う姿に、最初は夢に出てきたワニをこわがるような小さな女の子だったミーナの成長を感じました。挿絵も物語の雰囲気にあっています。ただ、ミーナが6歳でイーアが8歳なのに、表紙ではイーアの方が幼く見えるのが気になりました。「手伝うって言っちゃいけない」という男女同権の価値観は、非常に北欧的ですね。

アカザ:エピソードのひとつひとつがとてもおもしろくて、楽しく読みました。魅力的な自然や、子どもたちのキャラクターもよく描けているなと思いました。ただ、対象年齢はどれくらいなんでしょうね? さすが菱木さんの訳だけあって、訳そのものはすばらしいと思いましたが、もう少しやさしい言葉だったら小さな子どもたちも楽しめたのかな。主人公も6歳ということだし。ただし、男女平等論者とか、外国から来た密猟者の話とか、向こうの子どもたちにはなじみのある事柄でも、日本の子どもたちには理解できないことが出てくるし……。難しいなと思いつつ読みましたが、訳者のあとがきで大人向けの作品を書いていた作家が、初めて子どもたちに向けて書いた物語と知って、「なるほど!」と納得がいきました。

ルパン:私は凡人なので……この話はだめでした。子どもをこんなに危険な目にあわせちゃだめですよ(笑)。クマもオオカミも密猟者も、一歩まちがえれば死の危険がありますからね。女の子ひとりで6時間も山道を歩かせたり、もうむちゃくちゃだなあ、と思いました。最初ちょっと期待感があったんですけどね。このおじいちゃん、小説家という設定なので、小説家ならではの想像力というか空想力でミーナを救っちゃうのかな、って。でも全然ちがったうえに、子ども連れて山に入って自分が動けなくなっちゃうなんて、がっかり。

サンザシ:私はユーモア児童文学だと思っておもしろく読みました。このおじいちゃん、愉快です。ワニにお尻をかまれたミーナに、もっと大きな冒険をさせればと思って山登りに誘うわけですが、p35には「でも、ひとつ、おじいちゃんがミーナに話さなかったことがある。じつは、おじいちゃんはずっと前から、別荘の東側にある〈三つ穴山〉に登ってみたかったのだ。ただ、ひとりでは登れずにいたのだ」なんてあって、笑っちゃいました。また退院したおじいちゃんのためにマッツおじさんが買った車いすで、みんなでタイムレースをするのもおかしい。自信満々のマッツおじさんもスピード出し過ぎて転倒し、妻に「あのおじいちゃんの息子だから」なんて言われてるところも。ただ、ちょっとご都合主義的にうまく行きすぎるところが気になりました。オオカミやクマだけでなく密猟者まで出てきたうえに、骨折したおじいちゃんを助けに来たヘリコプターに密猟者まで逮捕されるとか。あと、オオカミの子どものマーヤ・ルベルトとシュナウザーの子どものエルサはキャラがかぶるんですね。エルサはこの物語の中でどういう役割なんでしょう? なくてもいいのに、と私は思ったんですが。それにしても、おじいちゃんが年端もいかない子どもたち4人を連れて山に登り、次々に危険な目にあうなんて、日本の作家が書いたら、非難囂々でしょうね。

プルメリア:「ワニにおしりをかまれた」っていう書き出しがとてもおもしろかったなって思います。探検後、おじいさんから「ワニにかまれたことを覚えているか」と聞かれたミーナは「あたし、夢を見ただけよ。まだ、あたしが小さかったとき。ずっと前にね」と言います。日本だと6歳は小学校の一年生、こんなに成長してしまうのは、ちょっと行き過ぎてるかな、それとも最初が幼なすぎ? 登場人物の年齢が全体的に小さすぎるかなって思いました。スウェーデンの自然が美しく描かれています。日本とは異なることは男女平等という考え方、クマが身近に出てくる自然に囲まれていること。

サンザシ:密猟者まで出しちゃって……。

げた:私も、最近「おじいちゃん」になったんですけどね。孫とこういう形でつきあえたらなって思いで、今回読む本に取り上げたんです。ワニにおしりをかまれた女の子を成長させるために、山のぼりを計画し、実行、とんでもない目にあうが、目論見は成功するという展開で、意外性があっておもしろいなって思いました。登場するおじいちゃんのパートナーは、日本だっていなくはないんだろうけど、子どもたちにとって他人なんですよね。「女ならできる」という言い方も、ちょっとひっかかって、逆差別じゃないかって。

サンザシ:いくら北欧では女性の権利が認められてるっていっても、グニッラが若いころは、まだ大変だったんじゃないですか。だから、「女ならできる」って呪文みたいに唱えて、自分を励ましてきたんじゃないかな。

げた:探検とかサバイバルとか、つめこみすぎなのかもしれないけれど、クマやオオカミが出てきて、どうなっちゃうんだろうって、ひきつけられ、私はドキドキしながら最後まで読むことができました。リアリティがなさすぎといわれれば確かにと思うけど、基本、実話なわけで、大きく逸脱しているとは思いません。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年3月の記録)


発電所のねむるまち

ジラフ:同じモーパーゴの『モーツァルトはおことわり』(さくまゆみこ訳 岩崎書店)同様に、現在から過去にさかのぼって、丹念に語り起こしていくスタイルで、とてもよくできたお話だと思いました。同時に、本のつくりやボリュームにしては、内容とか、書かれている感情が、ずいぶん大人っぽいな、という印象も受けました。とにかく、上質の物語ということに尽きるんですけど、身近に子どもがいないので、どのくらいの年齢層の子どもにこの本を手渡せるのか、ちょっとイメージしづらくて、過去からたんねんに書き起こしていく、こういう、ある意味「大人っぽい」物語を子どもがどう読むのか、興味をひかれました。p35で、ペティグルーさんが、夫のアーサーを亡くしたことを話す場面は、「ある日事故が起きて、終わってしまいました。(中略)まだあの人はずいぶん若かったのです」と書かれていますが、ちょっと抽象的で、これで子どもの読者にはっきりと「死」が伝わるかな、と思いました。あと、p71で、アイルランド人労働者がプッツン・ジャックに「自国の歌を教えていた」というくだりでは、わざわざ「自国の」という表現を使っていることに、ヨーロッパらしいアイデンティティの表明を感じて、はっとしました。

ルパン:私もいいお話だなと思いました。読み始めてしばらくは、ペティグルーさんが男の人だと思って読んでいました。日本語にすると性別がわからないんですね。列車のおうちはすごく素敵なんですけど、この絵がなかったら、船上生活者やトレーラーハウスみたいに思えるかもしれません。あと、ロバが乱入してくる場面がありましたが、その後どうなったかが気になりました。ペティグルーさんが教会で発表するところは、ぐっときました。それから脇役なんだけど、このお母さんはいいなあ。お母さんが「あんな変わった人とつきあうな」と言ってしまったら、こうはならなかったわけで。重要人物だと思います。ところで、子どもに手渡すとしたら、横書きってどうなのかな。『カイト』も横書きだったけど、同じ出版社なんですね。横書きの本は、渡す年齢を考えてしまいますね。縦書きだったら、小学校高学年におすすめだと思いますけど、この装丁でも読むかなあ?

紙魚:私も縦書きに慣れてしまっているので、ちょっと読みにくい感じがありました。とはいえ、この本が横書きなのは、原書が左開きで、どのイラストも左から右へという方向で描かれているからだとも思います。この挿絵をそのまま使って縦書き・右開きにすると、挿絵の方向が逆になってしまいますよね。そう考えると、長い時間の経過を表現するには、横書きの水平ラインが有効に働く、横書きならではの利点もありそうです。
この本が刊行されたのは、2012年の11月。日本での東日本大震災後を意識しての刊行だったと思います。震災後、子どもの本がどう力を発揮できるかということを考えさせられましたが、あの時分、私の目が向いたのはやはり国内、東北のことで、原発を扱った翻訳書というのは、思い至りませんでした。遠いイギリスの地での物語が、日本の子どもたちに、どの程度、当事者意識を持たせるかはちょっとわからないですが、伝わるといいなあとは思います。日本の作家からも、こうした社会的な背景をもりこんだ作品が生まれるといいなあとも思います。

関サバ子:生活のディテールがよく書きこまれていて、主人公マイケルの思い出もディテールを感じられます。そのことが、“最悪”をより鮮明に浮かび上がらせると感じました。これは本当に個人的な希望なんですが、ペティグルーさんには死んでほしくなかったです。こういうかたちで亡くなってしまったことが、悲しみを際立たせているのかもしれないですが……。なぜ著者はこのような結果にしたのか、なんとなく腑に落ちない感じがありました。横書きという体裁については、もしかしたら、子どもはすんなり読んでしまうかもしれません。絵と文章の位置関係もよいので、あまり違和感はありませんでした。60代くらいの人が回想した話なので、子どもがそれをどう受け止めるのか、難しいところもあるかもしれません。福島第一原発の事故のあと、ドイツが原発全廃を決めました。そのときに、「原発は倫理的に許されない」ということを言っているのが印象的で、本作もそのときと同じシンプルな人間性を感じることができて、とてもいいなあと思いました。声高すぎないし、かといって“したり顔”でもない。子どもがどう受け取るかわかりませんが、最善の見せ方のひとつという感覚があります。

きゃべつ:表紙が牧歌的で、絵としてとてもきれいだと思いました。話は明るいとはいえないけど、発電所ができる前の幸せな日々を表紙に選んだのだなと思いました。表紙が示しているとおり、この作品で作家が書きたかったことは、原子力のことではなく、郷愁や、子どものころの記憶だったのではないかと感じます。また、本のかたちと対象年齢についてですが、これを読ませるのだったら、小学校高学年、もしくは中学生だと思います。それくらいでないと、この物語の背景にある原子力についての問題などは分からないでしょうから。その場合、横書きだと手渡すのが難しい気がします。日本では横文字だと、どうしても携帯小説や大人が読む絵本の印象が強いですよね。

ジャベーリ:私はきゃべつさんとは違って、原発の稼働が終わった後も、結局、元には戻らないということを言いたかったのだと思うんです。ペティグルーさんの存在を通して、その人の住んでいた場所に起きたことを伝えたかったのではないかな。原発をつくる場所についても、ペティグルーさんのようなマイノリティーが大事にしている土地をターゲットにして、おそらくイギリス人の住んでいる場所には白羽の矢は立てないということも。つまりイギリス人にとって影響のなるべく少ないところを選ぶという話にしているのではないかと思うんです。原発というのは、40年経つと廃炉になって、コンクリートで囲うんだけど、もとの美しい自然に戻ることがないということを言いたいのではないかと思います。ペティグルーさんが愛した自然は戻らないと、ダイレクトに言っているのでは? 原発をつくると、営業停止になっても決して元には戻らないということが中心的な主題だと思ったんです。

関サバ子:この物語の原題Singing for Mrs. Pettigrewは、「ペティグルーさんに捧げる歌」という意味なんですよね。

アカザ:短編集に入っていたっていうから、もしかしたら、単行本にするときに書き直したのかもしれないわね。

ハリネズミ:このお話の題と短編集の書名が同じだから、これがメインの作品なんでしょうね。私は、ペティグルーさんがよく書けているなあと感心しました。今、日本の人たちが原発を取り上げると悲惨な事故抜きにしては書けないでしょうけど、この作品は、たとえ事故が起こらなくても、弱い立場の人の暮らしが破壊されるってことを言ってるんだと思うんです。ペティグルーさんは外国からやって来て夫を亡くし、村でも孤立している。でも、努力して自分なりの楽園を作り上げ、主人公のお母さんという友達もできた。そういう自分なりの幸福感や充足感を書いて、それが根こそぎやられてしまうことと対比してるんじゃないかな。だから郷愁とは違って、読者の子どもたちに対してはもっと考えてもらいたいというメッセージが込められていると思います。それから横書きに関してですけど、教科書も今は国語以外みんな横書きなので、子どもたちはあまり抵抗感がないのかもしれません。原著は読者対象がもう少し下かもしれないけど、日本語版はルビを見ると小学校高学年くらいからを対象にしているのかな。

アカザ:すばらしい作品で、感動しました。なぜ、日本でこういう作品が出ないんでしょうね? ぜひ、大勢の子どもたちに読んでもらって、話しあってほしいと思いました。昨年の夏にイギリスに行ったとき、汽車で隣の席になったドイツの大学生とずっと原発の話をしていたんです。日本では事故のあと原発を再稼働しはじめて、これからもそういう動きになっていると話したら、「どうして日本人は怒らないんですか?」と言われました。ドイツでは、小学生のときから原発はいずれ無くしていかなくてはならないものだと繰り返し教えられるし、自分もそういう教育を受けてきた、と。日本でも、今からでも遅くないから、この作品のように原発は廃炉になっても自然を破壊しつづけ、けっして元通りにはできないんだということを、いろいろな形で、いろいろな作品で教えていかなければと思います。私自身は、ぜひとも子どもに伝えておかなければという作者モーパーゴの熱い気持ちを感じたし、けっして郷愁を描いた牧歌的な作品ではないと思うけど、もしそういう感じを読者に与えるのなら、モーパーゴが上手くなりすぎちゃったのかもね。ペディグルーさんの人柄や暮らし方など、本当に心に染み入るように書いていますものね。ただ、子どもには難しいなと思ったのは、村の人たちが原発反対から賛成に変わっていき、ペディグルーさんと主人公の母親だけが残されていく過程があっさりしすぎていて、なぜそうなるのかが分からないのではと思いました。原発でも沖縄でも、ある地域の人々の犠牲の上に成り立っているという現実を、手渡す大人が少しフォローしたほうがいいかなと思います。ペディグルーさんをイギリス人ではなくタイ人にしたり(事実、そうだったのかもしれませんが)、原発の下請け労働者のアイルランド人が自国の歌をうたう場面を書いているところにも、目に見えない差別を作者が意識して書いているのだと思えて、いっそう深いものを感じました。訳はなめらかで、とても良くできていると思いましたが、あとがきで主人公が故郷になかなか戻れなかったのを「声をあげなかった子どものころの自分を後ろめたく感じているから」と捉えているのは疑問に感じました。原発の問題は大人の問題であり、けっして子どものせいにはできない。こう書いてしまうと、作品が矮小化されるように感じました。

レジーナ:モーパーゴは、自身の問題意識が作品に強くあらわれる作家ですね。子どものころの思い出を語る形式の物語は、さまざまな作家が書いていますが、それを原発と結びつけた作品は初めて読みました。本の形態ですが、横書きであることに、何らかの意図があるのでしょうか。P6に「『昔はふりかえるな』ということわざ」とあり、同じページの後ろにまた「同じことわざ」とありますが、「同じことわざ」という表現が不自然に感じられました。このことわざは、聞いたことがありませんが……。

アカザ:日本語にすると、ことわざって感じではないわね。

レジーナ:ことわざというより、歌でしょうか?

プルメリア:放射能についてはていねいに書かれていませんが、いい本だなあと思って、学級の子ども達(5年生)に紹介しました。手に取る子どもはいなくて紹介が悪かったのかなと思い、近くにいた男子に「読んでみない。」と手渡しました。読み終わった後「どうだった?」ときいたら、「わからなかった」って。むずかしい本かなと思い全員の子どもたちに「今住んでいる市に原発があったらどうする?」と聞くと、「災害とか地震があったらこわい。」とか、「遊ぶ場所がへるのでいやだ。」とか「大きな建物はうっとうしい。」などの答えがもどってきました。「原発ってどういうものなの?」と聞くと、「電気をつくるところ」との答え。原発について知識がない子たちにとっては、わからずにすらっと流れてしまったり、内容を補足しないと作品の意図が伝わらない本なのかもしれません。大人の読みと子どもの読みの違いに気づきました。

レジーナ:チェルノブイリの原発の事故を扱った作品には、『あしたは晴れた空の下で : ぼくたちのチェルノブイリ』(中沢晶子作 汐文社)がありましたね。

関サバ子:放射能は、目に見えないですものね。

紙魚:この本は、書かれていないところが多いので、行間から読み取らなければいけない分量が多いですね。

アカザ:だから、いろいろな形で読まなければだめなのよね。ドイツでも『みえない雲』(グードルン・パウゼバング著 高田ゆみ子訳 小学館)のような作品がずっと読まれてきたっていうし。

ハリネズミ:ドイツはずいぶん前から、原発に限らず環境教育には熱心だし、ゴミの分別収集も早くからやってましたね。

アカザ:日本では、原発の危険性については教えまいとしてきたから。

関サバ子:自然のなかで過ごす気持ちよさを知らない人が読んでも、伝わらないかもしれませんね。あの気持ちよさは体感で得るものですし、それが楽しいと思えるまでには、ある程度の時間が必要な気がします。もちろん、レジャーで自然豊かなところへ行って、瞬間的に楽しいということはあります。これはあくまで私の経験に基づいた感覚ですが、それだけでは、心も体も開いていく気持ちよさまではなかなか体感できないような気がします。ですから、子どもたちの身体感覚によって、このお話の受け止め方は違うような気がしますね。「ここの自然? 別になくなってもいいよ。森や海はほかにもあるわけだし」という感性だと、厳しいですよね。あと、このテーマは原発だけでなく、いろいろなことにあてはまりますよね。理不尽に土地を追われた人は世界中のあちこちにいるわけで、そういう想像力を広げられる余地があるのは、とてもいいなと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)


夜の小学校で

ジラフ:ファンタジーで遊べる世界が、とても楽しく描かれていると思いました。ひたすら楽しんだ、という以外、あまり意味のある感想を述べられないのですが……(苦笑)。去年の春まで、母校の短大図書館につとめていまして、夜、閉館後の見回り当番にあたると、館内の電気を消しながら、地下3階まで書架の見回りをするんです。真っ暗になったフロアにはものすごい「気配」があって、何かあるんじゃないか、何か起こっているんじゃないか、と空想をかきたてられたことを思い出しました。作品の中でも、不思議なことが当たり前のように起こっていて、そのことが、とても自然に描かれています。私はぼうっと妄想をしていることが多いので、そういう世界にすうっと入っていけて、自分の感覚に近いものがありました。クラフト・エヴィング商會の本で、『じつは、わたくしこういうものです』(平凡社)という、架空の職業案内があるんですけど、そのなかに、「(冬眠図書館の)シチュー当番」というのがあって、それも夜の図書館という設定で、そちらともイメージがつながりました。実は、岡田淳さんの作品を読んだのは初めてだったんですけど、作者が長年小学校に勤めていたことが生きていると思いました。

ルパン:私も岡田さんの本は今回初めて読みました。自分の子ども時代よりは後の方で、子どもが育ち上がったあとではすでに有名で、読みそびれてしまってたんですね。今回はいい機会をいただきました。挿絵がうまいなあ、お話とぴったりだなあ、と思ったら、ご本人が描いてたんですね。

レジーナ:挿絵のパパゲーノがちょっと太りすぎな気もしましたが……。

ルパン:絵と文がマッチしていていいな、と思いました。ちょっと不思議な感じもいいですね。カエルの王様の話はツボにはまりました。わたしもまったく同じことを思っていたので。

紙魚:小さな小箱を並べたような構成なので、なかなか大きな感想が言いにくい本です。これまで読んだ岡田淳さんの物語は、子どもたちのにぎやかな歓声がきこえてくるような、昼間の印象のものが多かったですが、これは、夜の、しかもおとなの警備員のお話。ふつう、日中の学校のようすがメインになるものですが、その部分については、あまりにも素っ気なく扱われている。これまでの岡田作品すべての、夜の部分という感じがしました。小さなおもしろい小箱が並んでいるという意味では楽しめる本だと思います。全部読み終えると、小学校のちがう顔が見えてきたような心地になりました。

関サバ子:不思議な話だと感じました。なりゆきで3歳半の息子に読み聞かせするはめになりましたが、息子よりむしろ、音読している私が熱中してしまって。

アカザ:それだけ、うまく書けてるってことよね。

関サバ子:絵だけでなく、デザインも岡田さんの要望があったのかな、と思うくらい行き届いていますね。章タイトルやノンブルの位置など、本文組も読みやすいです。

きゃべつ:岡田さんの本は大好きで、ほとんど読んでいると思います。「こそあどの森」シリーズのようなふしぎな世界観を持った作品が多いですよね。また、人間が主人公だと、学校を舞台にして、『二分間の冒険』(偕成社)や『ふしぎの時間割』(偕成社)など、ちょっとはみだした時間に起きるふしぎなできごとを描いているものがあります。ご自身が図工の先生をされていたときにも、図工準備室を工夫して、子どもたちを楽しませていたとおっしゃっていたことがあります。この作品も、放課後というはみだした時間に起きるふしぎなできごとを扱っていて、人を楽しませたいという岡田さんの姿勢がよく出ていると思いました。この中では「わらいっこ」が好きですが、先生をされていた岡田さんならではのお話ですよね。最近、あまりご自身の作品を出されているイメージがなかったので、これを読んだときは感慨深かったです。

アカザ:連載しているうちに変わってくるっていうのはないんでしょうね。

きゃべつ:半分はつながりのある話、というふうに学校以外の縛りもあったほうが、よりよかったんではないか、とは思いました。斉藤洋さんの『あやかしファンタジア』(理論社)も、連続短編で夜の学校のお話だったので、なにかふしぎな重なりを感じました。

レジーナ:楽しく読みました。登場人物ひとりひとりに個性があって、もっと読みたくなります。岡田さんのは『雨やどりはすべり台の下で』(偕成社)が私は好きですが、一話一話があの程度長ければ、なおよかったな。中学生が登場する場面は、死んだ人のようで、少し気味悪く感じました。そのほかの箇所は、ホラーになりそうな要素も、現実とファンタジーのあわいに上手に落としていると思います。言葉の選び方も、さすが岡田さんですね。子どもに向けて書いているからといって甘い言葉でごまかすのではなく、「投網」など、本当に美しい言葉を織りまぜつつ、子どもに分かるように書いています。蛍の場面ですが、蛍の光の点滅の周期は、タンゴのリズムに似ているのでしょうか。

ジャベーリ:お話が進んできて最後のオチがうまいなあと思いました。最初からここまで構想が出来ていて書かれたのかな? それから挿絵がよかった。マッチしています。パパゲーノもそうだけれど、いろんな知識がある作者ですね。それからいきなり大きな人が出てきてもなぜか違和感がなくて、スッと受け入れられた。

プルメリア:岡田さんの作品は大好きでほとんど読んでいます。この作品は『願いのかなうまがり角』(偕成社)と似ていると思って読みました。私はどちらかというと岡田さんの長編作品が好きなんです。短編はすぐ終わっちゃう!ので少々さみしかったです。近くの図書館では人気があるらしく全冊貸し出し中で、リクエストをしたあと2週間ぐらいかかって手元に来ました。私が勤務している小学校の教室は3階の真ん中なので、夜、職員室からだれもいない教室に行くのが怖くておっくうです。だけど、この本は夜の学校の怖さを感じさせず、楽しい雰囲気がいいです。いろんな登場人物が出てきますが、どれも子どもたちにとってもおもしろいキャラですね。この本を読んだ子どもは「『ボールペン』が面白かった。」と言っていました。ボールペンは『びりっかすの神さま』(偕成社)と似ているかな。最後のまとまりも岡田さんらしい終わり方。この本から「月明かり」って改めて素敵だな思いました。また、「ドウダンツツジ」漢字では「満天星」だということをはじめて知り、大発見した気持ちになりました。

ハリネズミ:本好きの人には、この長さじゃ物足りないと思うんですけど、この長さだから読めるっていう子もいるんじゃないかな? どうですか?

プルメリア:あまり本を読めない子どもたちからすると、ちょうどいい、読みやすい長さだと思います。

ハリネズミ:たしかに大きな感想は言えないのでこれが岡田さんの代表作とは言えないと思うけど、構成や文章がうまいし、こういう「ちょっと読める」ものを必要としてる子もいると思うんです。語り手はおとなの警備員ですけど、お話は子どもが読んでもおもしろいし。今は、学校になかなか行けなかったり、学校が嫌いな子も多いと聞きますが、そういう子どもたちに対して岡田さんが書く学校ものは大きな貢献をしてるんじゃないかって思ってるんです。一見つまらない学校にも、こんな不思議なことがあったり、こんなおもしろいことがあるかもしれないって、思わせてくれるから。

アカザ:長い物語が読みたいと思っている子どもにとっては物足りないかなと思いましたが、大人の読者の私としては、大好きな作品です。岡田淳さんって、本当に小学校が大好きで、子どもたちが大好きで、ハリネズミさんがおっしゃったように、子どもたちにも小学校を大好きになってもらいたいなあって思っている……そういう気持ちがひしひしと感じられました。この本の語り手は、小学校で夜警をしているんだけど、作者は図工の先生ですよね。個人的な感想になるんですが、私の小学校の時の図工の先生が、画家の堀越千秋さんのお父さんなんですが、いつも校庭の隅の日だまりで絵を描いていたんですね。図工の時間も、子どもたちにあまり話しかけないし、話しかけられても照れくさそうにしているだけであまり答えない。でも、この先生は小学校が大好きなんだろうなと、子ども心に感じていましたし、私もそんな先生が好きでした。図工の先生って、おそらく担任もないし、子どもとの距離や子どもたちを見る角度も、ほかの先生たちとは違うのかもしれない。そういうところが、夜警のアルバイトをしている主人公と似通っているような気がして、おもしろく感じました。

ジラフ:私は、ほんとにただただ楽しくて、意味のある感想が言えないので、ひょっとして、結びの「これは、あなたが書くはずの本なのですよ。」というアライグマのセリフに、深い意味が込められているんじゃないか、自分はオチを読み取れていないのでは、と焦りました。

ルパン:私もいろいろ考えました。

アカザ:最後の部分は、私が子どもの本を書くのはこういう理由なんですよと言っているように感じました。あと「ウサギのダンス」ですが、湿っぽいものが多い童謡の中では明るくて大好きだったので、いま歌われなくなっているのだったら残念。メロディだけは、CMで使われてますよね。

ルパン:これは毎日新聞大阪本社版の「読んであげて」が初出なんですね。「読んであげて」は、「お母さんが子どもに読んであげて」、というコンセプト。小学生新聞ではなく、通常の毎日新聞の朝刊なんです。お母さんが小学校低学年の子どもに向けて読むためのお話として掲載されています。一か月一話完結だから、壮大なお話はなかなか書けないと思います。

ハリネズミ:書き直したっていうけれど、そうとう足さないと……。

ルパン:かなり書き足さないと難しいでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)


オクサ・ポロック1 希望の星

レジーナ:フォルダンゴの独特な言葉づかいは、慣れるのに時間がかかりました。フォルダンゴのせりふではない部分に関しても、いくつか気になりました。たとえば350ページの「半透明のひげ」というのは、白髪まじりということでしょうか。444ページの「髪の垢」も、「フケ」と書くのが一般的な気がします。登場人物の描き方については、47ページに「恐れおののいた。でも興奮でどきどきしていた」とありますが、イメージがしづらかったです。物語全体を通して、感情の描写をもっと細やかに描いてほしかったです。また85ページに「奇妙な先生の授業」とありましたが、先生という人物が奇妙なのではなく、先生が何事もなかったかのようにふるまったのが気味が悪いということなので、もう少し表現に工夫が要るかもしれません。長さのわりには、あっという間に読みましたが。

関サバ子:まず、残念ながら、設定についていけませんでした。いきなり、変な生き物たちが出てきて、それについてなんの説明もありません。おばあさんが不思議な力を持っていることになっているけれど、それが説明になっているのか……。主人公のオクサも、忍者が好きで、空手を習っている女の子という設定で、日本でも変人扱いされておかしくないキャラクターです。ただ設定だけがあって、有機的につながっている感じがしなかったのです。そういったところは驚いてしまいましたが、制服の描写など、趣味性のところは盛り上げてくれる雰囲気があって、よかったです。あと、ネーミングがとにかく変わっていますね。炭素組とか……。フランス語だときれいな響きだったり、おもしろかったりするんでしょうか。

ルパン:私の娘が今高校生ですが、一年のときはF組で、「フッ素組」でした。となりはC組で、これは炭素組。6組あるけれど、組名がぜんぶ元素記号なんです。だから、本の中に炭素組が出てきたときはびっくりしました。私はこの本は途中で挫折しそうになったのですが、ちょうどそのとき「本は最後まで読まなければ」とレジーナさんに言われたので、奮起して読み続けました。ただ、読んでいて分からなかったのは、この翻訳者は、どのくらいの子を対象にこの本を訳したのだろうということです。文体がおかしいし。「戦いで応酬することにした」など、とても13歳の女の子に思えない発想ですよね。話し言葉もすべて固い印象だし。大人の言葉も子どもの言葉も同じに訳されているからとっても不自然です。わざとらしく変に古めかしい喋り方をしているフォルダンゴの台詞が、かえっていちばん活きている気がします。

ジャベーリ:フランス語は、知的レベルが高い文章ほど名詞構文を好む傾向があります。それを日本語として、こなれた文章に訳すのは難しいですね。

ルパン:物語としてみても、ハリー・ポッターに類似するところが多々あって、二番煎じの感が否めません。最初からキャラクターがたくさん出てくるので、訳がわからなかったし。あと、せっかくフランスのファンタジーなんだから、舞台はやっぱりフランスがよかったですねえ。

アカザ:読むのにとても苦労したので、正直いって作品を楽しむまでにはいたりませんでした。作品自体と翻訳の両方に読みにくい原因があると思うんですね。作品自体の問題としては、普通は登場人物が初めて出てくるときに、どんな見かけの、どんな感じの人なのか説明があると思うんですが(特に子どもの本の場合)、この本ではだいぶたってから説明している。たとえば主人公のお母さんも最初から登場するのに、p104になって初めて姿かたちの説明が出てくる。読者としては、それまでに自分なりのイメージを作って読んでいるから、「えーっ、こういう感じの人なの!」って、受け入れるのにとても大変になっちゃう。つぎつぎに出てくる、ふしぎな生き物についても同じですね。それから、オクサの周囲の大人たちは、オクサが子どもだからと気づかって、情報をチマチマと小出しにしてくる。だから、すっごくいらいらするんですね。以上が構成上の問題。それから、いじわるな友だちを「原始人」とか「野蛮人」と呼ぶのも、なんだか無神経で嫌だったなあ。ロシアというと、すぐにKGBが出てくるところも、なんとなく差別的なにおいを感じてしまいました。それから、ハリポタにはイギリスの暮らしが垣間見えるという楽しみがあったけれど、この作品はフランスにいた主人公がイギリスに行ったのはいいけれど、インターナショナルスクールに入ったという設定なので、フランスの生活も、イギリス暮らしのあれこれも、ちっとも出てこない。翻訳ものの楽しみがないですよね。

ルパン:もったいないですね。

アカザ:翻訳については、「大急ぎでやっつけちゃったな」って一言につきると思います。1行空きがやたらあるけれど、単純な1行空きと***が入っている空きは、どう区別しているんでしょうね? 登場人物の会話についても統一がとれていないので、「これは誰がしゃべっているの?」とか、「この人はとちゅうで性格が変わってしまったの?」と思ってしまうところが、たくさんありました。翻訳って、これは誰の目線で書いているのかなってところが大事なのに、「行く」と「来る」の使い方が変てこだったり。それから、フォルダンゴとフォルダンゴットがカップルだということは、フランス語を知っている読者にはわかるのかもしれないけれど、わたしは後のほうになるまでわかりませんでした。原文にはなくても、読者にわかるような細かい配慮が必要だと思いました。

ハリネズミ:まずプロローグの、新生児のオクサの描写に引っかかってしまいました。「しわくちゃのかぼそい腕を力いっぱいにのばし、起き上がろうと必死にもがいている」。こんな新生児、いませんよね。オクサが特別な存在だということをここで表しているのかな、とも思ったけど、そういう記述もないので、誤訳なのかな、と思ったりしてすっきりしません。フランスは、イギリスや北欧の国の児童文学にあるような児童文学の書き方というか文法というか、そういうものが確立してないんだと思います。特にファンタジーでそれを感じます。たぶんそれはフランスの子ども観から来るもので、大人の文化に重きをおくあまり、子どもの文化を重視せず、おざなりのものでよしとしてきた歴史があるんじゃないかと私は考えています。この作品については、原文の問題と翻訳の問題と両方あると思います。
原文のほうですが、今言ったように子どものためのファンタジーの文法が定まっていないので、ほかの国の子どもが読むと読みにくい。たとえばキャラクター設定にもぶれがある。ギュスは最初の方ではとても模範的ないい子という設定のようなのですが、途中からやたらに嫉妬したりする場面が出てきて、あれっと思います。またオクサも、あまりにも軽率で上っ調子(もしかしたら翻訳のせいかもしれないけど)。簡単に盗みをはたらいたりもする。子どもって大人より倫理観が強いので、これだと子どもの読者はオクサに感情移入しにくい。たとえばイギリスの作品だったりすると、主人公にそういうことをさせたら、著者が理由付けをするなどかなりフォローする。この作品でもちょっとはそういう部分がありますが、申し訳程度です。しかも盗みをはたらくのは、まだ相手が本当に悪いヤツかどうかわからない段階ですからね。それに、オクサは自分で道を切りひらいていくより、超能力を使うとか、まわりの人に助けられることが多い。それもつまらない。能力を高めるためにキャパピル剤というのを飲んだりもしますが、これって下手するとドーピングにもつながりますから、もっと慎重に扱わないといけないのに、安易に使っています。それにたとえば、p75にトイレの個室に駆け込んだオクサが「戸を閉める余裕はなかった」というのに、その後2行思索する部分があって、その次の行に「野蛮人が近づいてきた」とある。これだと緊迫感がありません。だったら、個室のドアくらい閉められただろう、と思ってしまいます。
この作家の世界観とか価値観はどうなんでしょう? いまだに善と悪の二項対立で、階級社会も肯定しているらしい。この先はまだわかりませんが、この巻だけを読むかぎりでは、新たなものを提示しているようには思えません。
訳は、地の文もフォルダンゴの台詞かと思うくらい随所に硬いところがあり、とても読みにくかったです。例えばオクサの台詞でp65に「典型的なロシア的過剰さね」、p209「『研ぎすまされた精神』は大急ぎで言わなきゃね。あたしのみじめさを見てよ」とありますが、よくわからないし、子どもの台詞とは思えない。大人だってこうは言わないでしょう。P156には「自分の身内が殺人を犯した」とありますが、身内と仲間はニュアンスが違います。p176にはこれもオクサの台詞ですが、「涙があふれておぼれそう。悲しい。悲しくて……腹が立ってる。怒りが爆発しそう……」とありますが、悲嘆にくれているのと、憤慨とは普通ちょっと距離がある感情なので、直訳でなくもう少し日本の子どもにわかるように工夫してほしかった。p282ではレオミドが「仕事が順調になるにつれ、エデフィアはわたしの記憶から遠のいていった。もちろん、心の中にはエデフィアはずっと残っていたよ。だから、心はかき乱され、ノスタルジーにさいなまれた」と言いますが、記憶から遠のいているのに、心がかき乱されるほどのノスタルジーにさいなまれるのでしょうか? キャラ設定の揺らぎは、もしかしたら訳のせいかもしれません。もうちょっと文章にリズムがあったり、ユーモアがあったりするとよかったのに。
訳文を読むかぎりでは、登場人物の感情がころころ変わるようにとれるのですが、原文もそうなのでしょうか? ついていけないし、感情移入できないです。

関サバ子:フランス人の国民性として、感情がころころ変わるということがあるんでしょうか?

ハリネズミ:たとえラテン系の国民性から原文がそうなっているとしても、日本の子どもにはわからないから、訳者が日本語で読む子どものために言葉を補うなりしないと。学問的な著述じゃなくて子どもが読む物語なんですから、それは訳者の仕事の一部ですよね。まあ、でも私はハリー・ポッターの訳についても、読みにくさを感じていたんです。だけど売れたってことは、子どもはあまり気にしないで読むってことなんでしょうか? とはいえ子どもはこういう本から日本語を学んでもいくわけですから、ていねいに訳してほしい。たとえばp397ですけど、「みんなが盛大な拍手をし、ギュスはピューと大きく口笛を鳴らした。オクサの顔がパッと明るくなり、にっこりとほほえんだ。しかし、その感情には苦さも混じっていた。というのは、あの攻撃が成功したのは、ギュスのおかげだと言ってもいいからだ」とありますが、こういうふうに訳しちゃうとますますオクサに感情移入しにくくなるんじゃないかな。それより、「自分ひとりでは無理だったからだ」という視点で訳したほうがいいんじゃないかな。

関サバ子:私も、ある翻訳物を手がけたときに、主人公の子どもの行動に不可解な点があって、学習障害などがある設定なのですかと、著者に問い合わせたことがありました。

ジラフ:訳者は、フランス在住20年で、ライターやコーディネイターをしている人です。

ハリネズミ:それは、とっても危険なことじゃないですか。私も、外国に長く住んでいた方に翻訳をお願いして苦労したことがあります。ずっと外国に住んでいると、日本語の微妙な言い回しとか細かいニュアンスとか心地よいリズムといったことが、どうしても抜けていってしまいますからね。

ジラフ:原書の問題もあると思いますが、読みやすくするため、編集部でもいろんな段階で、複数の人間が訳稿に手を入れているので、最終的には、訳者の方に全体の仕上げをしてもらったものの、キャラクターのイメージや会話のトーンにぶれがあるのは、そのせいもあるかもしれません。ご指摘のとおり、訳文に粗さがあることも否めません。いっぽうで、原書でも500ページ近くある作品を、子どもたちが夢中になって読んでいて、もともとは自費出版だったものを、読者の子どもたちが口コミで広めていった、という出版の経緯があります。編集部では、よりなめらかな訳文にするために、すべて音読して文章に手を入れていきましたが、たしかに、声に出して読んでいくそばから、場面がどんどん頭に浮かんできて、コミック感覚の作品なのかな、と思いました。実際、フランスでは、コミック化されることが決まっています。発売から3ヶ月ほどになりますが、意外だったのは、思いのほか小さい子にも読まれていることです。メインターゲットは中学生以上のYA世代と思っていたんですけど、小学5、6年生からもけっこう感想が寄せられていて、小学4年生の子から読者カードが届いたこともありました。ファンタジー作品に親しんでいる読者からは、厳しい言葉もいただいていますが、逆に、中学生のくらいの読者から、読みやすかった、楽しく読んだ、といった声もたくさん届いています。評価がくっきり分かれている感じですね。この手の作品では、ほんとうなら、もっとイラストを入れられたらよかったんでしょうけど、原書の版元のほうで視覚化されているキャラクターが少ないうえに、映画化やコミック化とのからみもあって、キャラクターのビジュアルがちがってしまうとマズいので、日本でオリジナルのイラストを描き起こすことがむずかしかったんです。コミックですべて具体的に視覚化されたら、日本語版でも、もっとふんだんにイラストを入れられるかもしれません。

レジーナ:共著ということですが、具体的にはどのように分担したのでしょうか。

ジラフ:ふたりでプロットを話し合って、キャラクターの肉付けをしたあと、アンヌ・プリショタが第1稿を仕上げています。そのあと、またふたりで1章ずつ検討して、いっぽうが納得のいかないところは、徹底的に話し合って、相手を説得したうえで先に進んでいく、というスタイルだそうです。ふたりで物語をふくらませているせいで、ついつい大仕掛けになったり、クラスの名前なんかも、もともとはなかったクラスが唐突に出てきたり、原書にも、つじつまの合わない部分がけっこうあります。

関サバ子:私も、絵本しかやったことない方に長編をお願いして、なかなか難しいなと感じたことがありましたが……。

ジラフ:フランス語の理解はすごくある方なので……。

ハリネズミ:翻訳は、原文の内容をきちんと伝えることと同時に、日本の子どもにわかりやすく、おもしろく伝えるという二つの側面があると思います。そのどっちがより大事かというと、とくに子どもの本の場合日本語のほうの比重のほうが大きい。一般的に言って、外国に20年暮らしたままで日常生活も外国語という方だと、どうしても二つめの側面が無理になってきます。

ジラフ:なかなかむずかしいですね。「ハリー・ポッター」との比較については、フランス本国の雑誌や新聞にも、「オクサはハリーの妹」とか、「次なるJ・K・ローリングは、フランス人の彼女たち」なんて見出しの記事が出たりしていて、そのことについて、著者に尋ねてみたことがあります。本人たちは、「ハリー・ポッター」をライバル視しているわけじゃなく、むしろ、「J・K・ローリングは、ファンタジーの扉を大きくひらいてくれた先達で、『ハリー・ポッター』に背中を押された」と話しています。でも、「ハリー・ポッター」みたいな作品を書きたかったわけじゃなくて、たとえば、ファンタジーのお約束としてよく、つらい境遇の子が主人公になりますけど、「オクサ・ポロック」では、家族や友人に恵まれて、愛情いっぱいに育った女の子が主人公です。それは、負のエネルギーよりも、大切な人を守るため、といったポジティブなモチベーションのほうが、よりオリジナルな物語の展開を描けるのでは、と思ったからそうです。

ハリネズミ:私はハリー・ポッターに似ているかどうかは、どうでもいいと思うんです。だって子どもにとっては、オリジナリティがあるかどうかより、その物語自体がおもしろいかどうかなんですから。ただ、日本ではハリポタブームの後、三流ファンタジーまでどんどん翻訳されてしまったので、ファンタジーには食傷しているという読者も多い。そのときにまたファンタジーを翻訳出版するのであれば、よほど特徴があるとか、よほどおもしろいというものでないと売れないんじゃないかな。

アカザ:エンタメの命は、読みやすさとおもしろさですものね。

ハリネズミ:ハリー・ポッターの訳は好きじゃなかったんですけど、売れた理由はわかるんです。ナルニアやホビットは、1つの場面が長く続くので、読むスピードが遅い今の子はまだるっこしくなる。でも、ハリポタは場面転換が早いので入り込めるんだと思うんです。

アカザ:『ダヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著 角川書店)は原作より邦訳のほうが正確で、ずっと素晴らしいっていわれてますよね。

ハリネズミ:日本には、とくに子どもの本の場合、原著以上にいいものを作ろうという編集者や訳者がいます。原著の間違いを見つけて著者に問合せをしたことは、私も何度もあります。よく見つけた、と著者にほめられたことも。

アカザ:私は、作者に間違いを指摘したのに、どうしても相手が認めないから、しかたなくあとがきにその顛末を書いたことがあったわ。

ルパン:『縞模様のパジャマの少年』(ジョン・ボイン著 千葉茂樹訳 岩波書店)のあとがきにもびっしりと書いてありましたね。

ハリネズミ:アウシュビッツやナチスのことは、大人だったらある程度知ってますけど、子どもは知らないので、うっかりするとこれが事実だと思って読むかもしれない。だから事実と違う点を訳者の方がていねいにあとがきで付け加えたのでしょうね。ジャベーリさんも、途中まででも読んだのでしたら、ご感想を。

ジャベーリ:漫画的イメージを持って、作者が書いた作品なんだろうなと思いました。これがアニメで受けるなら、それでいいのでは? 映像的な作品でしょう。

アカザ:アニメだったら、理解するのに苦労しないかも。

ハリネズミ:オビに「100年目のファンタジー」ってあったんですけど、何から100年目なんですか?

ジラフ:19世紀の終わりの、ジュール・ヴェルヌから100年ということです。厳密にいえば、ヴェルヌは科学ファンタジーというか、空想科学小説ですけど、フランスの児童文学はリアリズムが主流で、じゃあファンタジーは、っていうと、『星の王子さま』とか、寓話的なものになってしまいます。そんななかで、久々の壮大な空想物語という意味です。

関サバ子:イギリスとフランスで、こんなにも文化がちがうとは知りませんでした。

アカザ:イギリスと張り合って、フランスでもって気持ちがあったんでしょうね。

ハリネズミ:ジュール・ベルヌはファンタジーというよりSFですよね。知的に構築されているものなので、空想を自由にはばたかせるファンタジーとは少し違うと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)


アヴァロン〜 恋の〈伝説学園〉へようこそ!

みっけ:この3冊の中では、一番苦手だった気がします。なんかもう、いかにも女の子があこがれそうなアメリカの富裕層の生活そのものという感じで、高校生がヨットを持っていたりする話の展開に、げんなりしてしまいました。それと、アーサー王の生まれ変わりがどうとかこうとかと、アメリカ人は因縁めいた話や新興宗教めいたことが好きなんだなあと思い、それもあって「またか……」という気分になりました。別に、読みにくかったわけではないんですが、全体としては、あまりおもしろいと思えませんでした。すみません。

ルパン:私、3冊のなかで、これ一番好きだったなあ。この男の子のベタさがたまらない。絶対いないような、こういうリアリティのないキャラ、好きなんですよ。アーサー王のことあまり知らなかったんですけど、おもしろかったです。『アーサー王と円卓の騎士』(シドニー・ラニア編 石井正之助訳 福音館書店)は最後まで読めたことがなかったんですけど、うちの本棚にあるから今度こそ読みます。それを最後まで読めていたら、この本もっとおもしろかったのかな。日本で言うと「義経の生まれ変わり」みたいな設定なのかもしれませんね。それにしても、結構ゴシップ記事的要素満載。後妻が本当のおかあさんだったとか。児童文学でここまでやっちゃっていいのかな、って思うくらい。その前の夫を危ないところに行かせちゃうなんていうのは、旧約聖書のダビデとウリヤを連想しましたが、欧米のほうではアーサー王のほうが浸透しているのかな。ともかく一気に読みました。つっこみどころ、色々あったかもしれないけど、楽しかったから全部忘れちゃいました。

レジーナ:ひとりよがりにならずに読者をひきつけるユーモアというのは難しいものですが、キャボットはユーモアにすぐれていて、絶妙な味わいがありますね。たとえば「パーティーでワカモレサラダの横は背の高い女の子の定位置」や「(主人公のようなスポーティーな女の子たちが)(学園のアイドルである)チアリーダーの同級生の前を水着で歩くなんてありえナイ」など……。「キモチワルい」などカタカナを多用した表記が、少し不自然でした。高校生の会話だからそうしたのかもしれませんが、かえって現代的でなくなっているように感じました。

シア:今回選書係で入れさせていただいたんですが、2007年でちょっと前の作品になりまして、1巻で完結の本です。学校でも人気があります。アーサー王が題材ということで読んでみたのが、私とこの本との出会いですね。話はわかりやすいので先の展開などは読めてしまうんですが、とにかくテンポがよくて、女の子が好きそうな本です。キャピキャピしているので、『カッシアの物語』とは対照的ですね。なごむなー、という感じでした。絶対いないんですけど、転校先にこんな人たちがいたら明るい世界ですよね。いいなーと思いますね。挿絵はがんばってほしかったな。とくに、中がいまいちですよね。海外アニメっぽい絵ですよね。口語訳の言葉使いはちょっと古臭いところはありますが、『八月の暑さの中で』(金原瑞人/編訳 岩波書店)ほど古臭くはないかな。今でも聞かない訳ではないので。

プルメリア:副題の『恋の伝説学園へようこそ』はどうかな、ちょっと違うかなって思いました。主人公の家がプール付きの家に住むお金持ち。男の子が主人公の家に遊びにいくのが自然体で、ガールフレンドもいるのに、フレンドリーな性格なのかな。

ハリネズミ:なにしろアーサー王なんだから、何でもありなんじゃないの?

プルメリア:どんな時にも自然体で入っていけるウィルの性格がいいな。ウィルがアーサー王伝説のエレインじゃなくって、湖の姫なのには驚き、ホッとしました。この作家の想像性はおもしろいなって思いました。ウィルがいい方向にすすんでいくのが、漫画的でもあり、読み手を読ませるのもよかったです。題名がちょっときびしかったです。

シア:生徒が「アーサー王って何?」って聞いてきたりするので、円卓の騎士の話をしたり、関連図書を貸してあげたりしていますね。

ハリネズミ:アーサー王やその周辺の人物たちは、イギリスの子どもたちにはおなじみだけど、日本の子どもにはわからないですよね。それに、あまりにもリアルじゃないから、どう読んだらいいのか、日本の子はとまどうんじゃないかな。私はあんまりおもしろくなかったな。本が好きな子にとっては、ほかのアーサー王ものを読んでみる入り口になるかもしれませんね。でも、この作品自体はマンガですよね。物語の中のリアリティもぶつぶつ切れてるし。かといって、エンタメだとすると、日本の子には背景がわからない。中途半端なんじゃないかな。

シア:妙なライトノベルよりいいかなって。たとえばクトゥルフ神話とかマニアックなものに詳しいのに、逆に当たり前の神話を知らないような子が多くて、変なところが抜けているっていうか。お母さんたちに読んでもらっていないのかなって。

ハリネズミ:お母さんたちも古典的なファンタジーはもはや読んでないんじゃないですか? でも、こんなリアリティのないものを読んで恋を夢見たりすると、とんでもないことになりそうですね。

シア:『レッドデータガール』とか文庫で出ているものは、文庫で図書館に入れてくれって生徒に言われますね。やはり、荷物が多いので小さいほうが持ち歩きやすいようです。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年1月の記録)


カッシアの物語

プルメリア:この作品から『ザ・ギバー〜 記憶を伝える者』(ロイス・ローリー作 掛川恭子訳 講談社/『ギヴァー : 記憶を注ぐ者』島津やよい訳 新評論)を思い出しました。マッチバンケットとかファイナルバンケットとか。自分の考えもセーブしなきゃいけない。こういう管理社会ってすごいなって思いました。カイは冒険心があり危ないことをするのがスリリングです。また生き方や考え方が魅力的、主人公がカイにひかれていくのがよくわかりました。今の社会とは違いますが、まったく違うわけではない気がします。いろんなことを考えさせてくれたこの作品に出会えてよかったと思います。

あかざ:3・11以降、書き手も読み手も、意識が完全に変わったんじゃないかと思いますね。『ザ・ギバー』を読んだころは、ディストピアは漠然と未来にあるかもしれないものだと思っていましたが、いまでは現実そのものじゃないかと感じています。この物語も、高齢者などの弱者切り捨てとか、情報管理とか、仕分けとか、読んでいるうちに今の日本のことを書いているようで……。もちろん作者の意図は別のところにあるのかもしれませんが。ただ、近未来の或る社会を描こうとしたのであったら、それほどしっかり構築されているとはいえない……。

シア:近未来物というより、現代物っぽいなって思いました。『トワイライト』(ステファニー・メイヤー著 小原亜美訳 ヴィレッジブックス)シリーズを読んでいて、その次に読む本と銘打たれていたんで読んでみました。カッシアたちと同じくらいの年代の子が、自由の本当の意味を考えてもらうにはいい本だなって思いました。ただ、一人称でぶつ切りの言葉が多いので、文章として読みにくく、そこは少しつらかったですね。全体として起伏にかけるのは第1巻だからでしょうか。果たして日本の子どもにはこれが読めて、そして売れるのかなと心配になりました。それに、装丁がいただけないですよね。カバーがないほうが素敵です。この挿し絵、考えているのでしょうか? 服も未来っぽくないですよね。いい雰囲気のシーンでも、この挿し絵でムードぶち壊しです。話のところどころに古典作品の引用があって、感動しました。本が失われていく社会というのは、『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ著 宇野利泰訳 早川書房)を思い出しました。作者や主人公が文学的な物が好きで、こういう風に扱ってもらえると、読み手側、とくに若い子に好意的に受け入れてもらうようになるので、ありがたいなって思います。それにしても、女の子がカイを探しにいくというのは、アンデルセンの『雪の女王』みたいでいいですね。

ルパン:今日の3冊の中では、私は読むのが一番大変だったかな。全体のテーマとしては、新しいんですかね。『ザ・ギバー』は読んでいないのですが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を思い出しました。ちょっとわかりにくいところが多かったかな。エアトレインとか、あまりイメージが浮かんできませんでした。最後のあとがきを読んで、そうだったのか、って思ったところもたくさんあったし。「逸脱者」とか「異常者」とか、あまり具体的な説明がなくて、物語に入っていかれない部分もありました。おじいさんの最後も、どんな風に生き返るのか、とか。社会の仕組みそのものがわかりにくい、というのが足をひっぱっちゃったかな。ただ、読むのは大変だったけれど、続きは気になります。続編が出たらぜひ読んでみたいです。

みっけ:SFはあまり得意でありません。というのは、まったく新しい世界を舞台にしたお話は、書く側も背景を構築するのが大変だろうけれど、それにつきあう側もかなりエネルギーがいるので、あまり手に取らないんです。映画なんかで視覚的に見せられるのであればまだ楽なんだろうけれど、今自分がいる世界とはまったく違う世界を書いてある文字から立ち上げて頭の中に思い描くというのはそうとうエネルギーのいる作業でしょう? この作品は、どなたかがおっしゃっていたように、そのあたりにあまりエネルギーを使っていなくて、社会の仕組みこそ違え、舞台設定はほとんど現代と変わらない感じになっている。(ちょっと近未来的な乗り物は出てきますけれどね。)すべてを管理してすばらしい世界を作るというディスユートピアの話もあまり好みではないけれど、この作品は、ふたりの男の子の間で揺れる女の子の心に焦点が合っているのであまりディスユートピアに引っ張られず、それなりにさくさくと読めました。恋模様が結構丁寧に書かれているのがおもしろくて、つづきはどうなるのかな、と思いました。これは3部作の1冊目なので、ここには書かれていないことも、次の2冊で書き込んでいくのかもしれませんね。一見ソフトだけれど、実は恫喝も含めてかなり徹底した管理がなされている社会で、それ以外の状況を知らない人々が別に歯をむくこともなく暮らしていくというシチュエーションは、私たちが暮らす現代とかなり重なりますよね。こういう本は、課題にでもならなければ自分からは手に取らなかっただろうから、読む機会があってよかったと思います。

プルメリア:岡田淳さんが講演会で「子ども達は最初、本の背表紙、次は表紙、最後に厚さを見て本を選ぶ」と言ってらっしゃいましたね。

みっけ:これって、デビュー作なんですよね。だからやっぱりまだまだうまく書けていないところがあるんじゃないでしょうか。ひとつの世界をリアルに再構成するにはまだ力が足りないのでは?

ハリネズミ:『ザ・ギバー』は物語世界がきちんと構築されてて、読者もそこに入って行けたけど、この作品は、よくわからないところがたくさんあります。たとえば、管理する側が、わざとこの主人公を動揺させる仕掛けを設定するんだけど、なんでそんなことをするのか、わからない。だから謎ばっかりで世界に入っていけない。

みっけ:人工遺物を回収するというのは、人々の物語をうばっちゃうということなのではないかしら。ここに書かれている社会では、個人に固有なものはいっさい許されず、それをソフトな形で排斥しているんじゃないでしょうか。

ハリネズミ:文字は書けないという設定だけど、コンピュータでは文章をつくっているわけよね。だから筆記体は書けなくても活字体なら書こうと思えば書ける。だけど、だれも書かない。それはなぜなのかな? 詩をおぼえておこうとか何か意志があれば、人間は工夫するはずなんですよね。薬を飲まされて忘れるって設定かもしれないけど、この子は薬を飲まなかったりするわけだし。訳もしっくりこない。たとえばp445に「ベンチは石をくりぬいて作ったものだった。博物館の薄暗がりに何時間もいたせいで、冷たく固く感じられた」ってあるけど、どうして薄暗がりに長くいると、このベンチが冷たく固く感じられるの? 原文のせいか訳のせいかわからないけど、そういうしっくり来ない描写を延々と読まされてちょっとうんざりしてきました。

みっけ:この作品は、どちらかというとディスユートピアよりも恋愛に力点があるような気もします。恋愛は不自由で障害物が多いほうが盛り上がるから。オーウェルなんかは管理社会そのものを書こうとしていたけれど、この作者の力点は社会にはないのかもしれない。

レジーナ:ポプラの木の描写がとても美しく、私もはじめて英国でポプラを見たときに、「あの光っている木はなんなのだろう」と心うたれたのを思い出しました。テニソンの詩の引用も効果的でした。たきぎの墨で字を書いたり、本が燃やされた図書館の跡地にたたずむ場面では、土を耕したり、物語を分かちあうという人間の本質を想いました。「字を書く」というのは、自分の考えをあらわすことであり、ときには恥や痛みをともなう行為です。そうした身体に根ざした感覚を、人の生きる意味につなげようとする試みが、この本の根底にあるのではないでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年1月の記録)


RDGレッドデータガール〜 はじめてのお使い

みっけ:この作家の本は、基本的に好きです。日本の昔の出来事やなにかをうまく取り入れて、違和感のない作品を書く人ですよね。この作品でも、修験道や万葉集など日本古来のものを取り入れているんだけれど、それが単なる表面だけにとどまらず、うまく物語に取り込まれ、織り込まれている。いいなあと思いました。泉水子が無意識に作り出して結局はもてあましてしまう式神にしても、なるほどと思えました。自然やなにかの描き方が上手で、読み手を独特の雰囲気にひきこんでいく腕前はさすがですね。それにこの作品は泉水子の成長物語にもなっている。まったく無自覚だった女の子が、最後のところで自分が作ってしまったものの力関係をもとにもどすわけで、この先どう成長していくのだろうと思わせる。ちなみに私はこれに続いて第5巻まで読んじゃいました。

ルパン:おもしろかったけど、主人公の女の子が私の好みではなかった。目立たなくておとなしくて、とくに取り柄もないのに、まわりのお友達にすごくよくしてもらえる、って、なんだか少女漫画みたい。かえって、リアリティのない登場人物のほうが魅力的でした。たとえば和宮君とか。

シア:今回読んだ3冊の中では一番まとまって、やはり荻原さんだなって思いました。その先が読みたいなって思える作品になっている。自然の描写が少ない『カッシアの物語』に比べ、日本の自然は美しいなと改めて思いました。男の子も魅力的なんですよね。荻原さんの作品でひねくれた男の子って珍しいような気がしたので、驚きながら読みました。巫女とか山伏とかマニアックな要素をふんだんに盛り込んでいるんですけれど、上手にこなしていますね。

あかざ:とってもおもしろかったです。第2巻も読みたい! エンタメとして、見事に書けていると思いました。主人公の泉水子も、それほどうっとおしいとは思いませんでした。これから変わっていくところを描くのなら、これくらい強調しておいたほうがいいのでは? 最初は『十二国記』(小野不由美著 講談社・新潮社)とちょっと似てるかなと思ったのですが、こちらは日本の、それも都会で平凡に暮らしているものには見えてこない自然や、山伏のような日本の地に根ざしたものを描いているところが、とても魅力的でした。泉水子が山頂で舞を舞うところが素敵ですね。あの歌は、万葉集にあるものなのですね。

プルメリア:思ったことをなかなか言えずどうしようかと迷っている子どもは結構いるので、そういう性格を持っている主人公がいてもいいなと思いました。また、そういう子たちにとって自分と似ている性格の主人公がいる作品に出会うこともいいなって思いました。ふだんの生活では知らない神社のしきたりがたくさんあり、かなり山奥の大自然が舞台。山伏は普通の子ども達にはわからない存在ですが、このように意味深なものとして書かれているのもいいなって思いました。主人公の両親の職業は他の仕事とはかけはなれていたり、男の子のお父さんがヘリコプターで学校に来たり、以前読んだことのある荻原ワールドではないなって思いました。東京の商店街で主人公が帽子を買うシーンが、かわいいなって思いました。和宮くんが座敷童とは驚きました。この辺りから荻原ワールドがいよいよ出てきた感じ、作品がおもしろくなってきました。主人公の好き嫌いというよりも、作品のおもしろさ。わくわくしました。次作をはやく読んでみたいです。

レジーナ:それまで人まかせだった主人公が、「自分から知ろうとしなければ、見過ごしてしまう」と感じたり、また「(舞を踊る姿を)見られるのが怖いのは、傷つくのがこわいから、自分で自分を否定しているから」だと気づく場面に、成長を感じました。最後の対決は、あっけなく終わってしまったように思いましたが……。人品(じんぴん)」など、普通の女の子の言葉にしては難しい表現もありました。

ajian:漫画というか、若い女性向けの、Chik-Litみたいだなって思いました。自分に全然自信のない地味な女の子には、じつは魅力的な背景があって……っていうところから、強気で、なんだかんだと自分を守ってくれる男の子が登場するところまでふくめて。ベタな設定と展開が女性向けの通俗小説にのっとっている感じですよね。別にそれはそれで、個人的には大好物で、まったくかまわないんです。ただ、そういう小説で、いわば型を書いていても、どうしてもはみだしてしまう人間性や作家性というのがあって、そこがおもしろいところだと思うんですが、その点、これは少し物足りないなと思いました。あと会話が地の文に比べるとこなれていない。たとえばp10。「山奥に居つづけなくてはならない理由はないと思うよ。義務教育のあいだは、保護者と住むのはしかたないけれど、高校生にもなったらね。ご両親には、なにか言われているの?」ですが、いかにも説明という台詞ですよね。いや、基本的にはおもしろいし、うまく書かれていると思います。設定で、日本の民間信仰をとりいれているところも、いい着眼点だなと思いました。最近ずっと内向きだといわれていますが、裏を返せば、ナショナルなものへの関心が高まっているということだと思います。そういうものを取り入れて魅力的な物語に仕立てているから、これは売れているんじゃないでしょうか。

ハリネズミ:私は今回の3冊の中でおもしろかったのは、これだけなんです。エンタメではあるけど、世界がしっかり構築されてるし、それぞれのキャラもしっかりつくってある。ラノベ読むんだったら、このシリーズ読んだほうがよっぽどおもしろいと思うな。やっぱり荻原さんはうまいですよ。山伏みたいなものを持ってくるのも、さすがです。エンタメだって、ふにゃふにゃしたのじゃなくて、しっかり考えてつくってあるのを読んでほしいな。

ajian:アヴァロンは、これこそ Chik-Lit だなって思いました。アーサー王伝説がモチーフになっていますが、一般の人はあまり詳しくないと思うので、「湖の姫」っていわれても、遠いんじゃないかなと思いますね。この語りの調子は・・・中身がなくても、文体だけで魅力的な本ってあるじゃないですか。そうなってくれるとよかったんだけど、はっちゃけてるだけで、どうも乗れませんでした。あとは、ベオウルフとか、アレックス・ヘイリーとか、せっかく出てくるんだから、注があるとうれしい。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年1月の記録)


レガッタ! 〜水をつかむ

ajian:今回これを選んだのはぼくなんですが、実はすべて読まないで選んでしまいました。女子の部活もので、あまり読んだことがないので面白そうだなと思ったんですが、結果いまいちでした。すみません。

ハリネズミ:どういうところが、いまいちでしたか?

ajian:取材して書いたのはわかるんですけど、頭で書いているというか、今ひとつ伝わってくるものがなかったんですよね。部活になじんで、レースに出て、全国選抜と、物語の流れは一応あって、いろいろ書いてあるんですけど、それが一つにこうまとまって立ち上がってこないというか。あと、この軽い男の子の登場も余計ですね……なんだか、頭のいい感想が言えなくて、まとまってなくてすみません。あと思ったのはですね、登場人物がいっぱい出てくるんですけど、キャラクターが立ってない上に名前が似ているから、誰が誰だか、読んでてわからなくなるんですよ。そこはもうちょっとそれぞれのキャラクターを立ててほしかった。いいな、と思ったのは、ボート部のなかに、嫌いなヤツがいるでしょ。特に前半ちょっと苦手で、ぎくしゃくしてしまうヤツ。集団でやるスポーツのすばらしさは、そういうヤツとも一緒にやれるってことですよね。会社もそうですけど(笑)。苦手だろうが何だろうが、同じ船に乗った以上は、そこでそれぞれの持ち場で力を発揮してやっていくしかない。その辺りは共感しやすいし、王道だなぁと思いました。

カイナ:高校の部活動のボート部を取材して書いたお話ですね。マイナーな部なわけで、多くの人に知ってもらうという意味では、よく取材できているというか、情報がよく書けていると思いました。お姉ちゃんと対比した妹の持ち味もよく書けています。ですが絵がどうも。小説というのは文章からイメージするものでしょう、全くイメージが合いません。もっとたくましいはずだし、陽にやけているはず。どうしてこんな漫画にするのかな? 絵は駄目でした。がんばってる高校生を等身大で描くというか、よく現実を取材して、高校生の女の子をそのまま書けているのに。今の若い読者には、こういう絵が好まれるんでしょうか?

ハリネズミ:みんな同じ顔に描かれてるので、よけい誰が誰だかわからなくなりますね。

プルメリア:戸田が出てきましたが、「戸田市は競艇があるのでその収益で公共施設の設備がいい」と聞いています。表紙の絵はいいと思いましたが、登場人物の人間関係が複雑で、読むのに時間がかかりました。デートをしに動物園に行く場面あたりでちょっと息抜きが出来た感じです。パンダはネコ科で、クマ科ではないはず(のちにパンダ科と判明)。ボートを一生懸命やっている姿が高校生らしい。私も左利きで中・高とテニスをしていましたが、家で筋トレはしなかったので主人公とは意気込みが違うなと思いました。この作品からボートに関しての知識を得られました。まあ、「青春もの」かな。男の子が出てきたところで、ちょっと読みやすくなりました。

みっけ:判型やこの絵から見て、軽く読めるように作られているんだな、と思いました。前にこの会で取り上げた同じ作者の『フュージョン』(濱野京子著 講談社)も、グループでの競技スポーツを通して女の子が成長する話だったけど、あちらのほうが登場人物もいろいろで、脇役もしっかりしていて、物語として厚みがあった気がします。それに比べるとこれは定型というか、お決まりのコースという感じで、読みやすいけれど全体として軽くて薄い感じ。たぶん、あまり本と仲良しでない子どもたちに向けた作りなんでしょうね。そういう意味では『フュージョン』とは作る姿勢がまるで違う。この長さの割に登場人物が多いので、書きわけもあまり丁寧にできなかったのかな。美帆という女の子にもいろいろと事情があるんだな、と主人公が察する場面など、書きわけよう、キャラを立てようという姿勢はあちこちに見えるけれど……。たしかにどの子がどの子かわかりにくかったですね。人物の書きわけが難しいのは、優等生が集まった学校のエリートクラブの内輪の話だということもあるのかもしれない。それと、この絵は私は評価できませんでした。まるで勢いがない。でも、ボート競技のことは私も知らなかったので、へぇと思いました。

レジーナ:勤め先の区立中学校には、公立図書館が選書した本をまとめて貸してもらえる制度があって、その中にこの本も入っていました。挿絵に惹かれて、子どもたちは手に取っているようです。この本をきっかけに、『フュージョン』等に読み進めてくれればいいと思うのですが……。登場人物が多く、名前も似ているので、ひとりひとりを覚えるのが難しかったです。数か月前にこの会の課題図書になった『鷹のように帆をあげて』(まはら三桃著 講談社)には、「向かい風の方が鷹は飛びやすい」など、作者が子どもたちに伝えたいメッセージが根底にありました。スポーツを扱った作品の面白さは、その競技をしている人だけが知っていることや感じたことを、人間が生きていく上での姿勢や人生になぞらえて語る点にあると思います。『レガッタ!〜水をつかむ』も、「水をつかむ」という言葉と、主人公が葛藤を越えていく過程を結びつけられたら、もっと味わい深い作品になったのではないでしょうか。

ルパン:選んだご本人がいまいち、とおっしゃったので、ほっとしました(笑)。前半がボート競技の説明文みたいな感じで、物語に自然に入っていかれませんでした。読書会の課題図書でなければ、10ページでギブアップだったかも。p45の図も理解できなくて。これがわかんないとストーリーを追えないのか、と思ったらちょっとあせりました。一般の人に馴染みのない世界を伝えようと思うとこんなに大変なのかと、作者がお気の毒になったりもしましたが。あと、ところどころに同時代的なこと(例 AKB48など)が出てくるのが気になりました。短いスパンで古臭くなりそうなのが心配です。共感したのは共働きのお母さんの台詞、「(食事を)作るのが面倒くさいときは、刺身にする」。私もそうだから(笑)。「水をつかむ」という言葉はとてもいいので、これをクライマックスにもってくればいいのに。ボートがわからない女の子が、これがボート競技なんだ、ということをつかむ瞬間がくる設定にすれば感動的だったと思います。副題に使ってしまったのはもったいない。そもそも、全体的に臨場感というか、ボートで揺られている感触やオールがすうっと水に入った瞬間の感覚などをもっと書いてもらいたかった。

カイナ:ボート部というものを、客観的に取材して書いているという弱さもありますね。ご本人自身の経験ではない。水をつかむという話ですが、ボート部は、大学3年くらいになって、水がつかめるようになると本当にきつくなる。1、2年の頃の方が水をつかみきれないから実は多少楽だったと気づく、というのを聞いたことがあります。それをつかむために練習しているわけですね。

プルメリア:大勢でやると動きます。数年前、榛名湖の高原学校でカッターボート体験をしました。子ども達に「力をいれて!」と声をかけると、水面をスムーズに動くことができました。

カイナ:項目の取材はしたけれど、体験の取材はそれに比べると浅いかな。そこが書けていないとも言えますね。

ルパン:そこが書けていないのが、とても残念。もったいない。

みっけ:逆にいうと、ストーリーを作ろうとして盛り込み過ぎかもしれない。一年をずっと追わなくても、たとえば水をつかんだ瞬間がクライマックスにくるようにして、そこまでの過程をもっとリアルに実感を持って描くというやり方もあったんじゃないかな。腕力も体力もやる気もある主人公が、それでも水をつかめなくて、それがある瞬間に水がつかめるようになるという、それだけでも十分感動的なんじゃないかな。

カイナ:ボートという珍しい世界を書きました、ということ。

ルパン:焦点が分散しちゃった感じがもったいない。

ハリネズミ:この本は、YA! ENTERTAINMENTシリーズの一冊なので、最初からエンタメとして書かれているんじゃないでしょうか? 文章もいわゆる「立っている」文章ではなくて、情報を伝えるような文章だし。だから、文学として足りないところを見ていっても始まらないと思うんですね。私がうまいな、と思ったのは、稔一の書き方なんです。ただ軽いだけの男の子だったら有里が部活をさぼってまでデートする気にならないし、本当に魅力的な男の子にも書けないし。そのあたりの案配がうまいな、と。

ルパン:「沈する」エピソードはとてもよかったです。

ハリネズミ:表紙はともかくとして、中の絵は私も残念。

カイナ:前に読んだ弓道の話がありましたね、(『たまごを持つように』(まはら三桃/著 講談社))弓道のほうが精神性が伴うからまたちょっと違いますね。

ハリネズミ:今は本を読まない子もふえているので、そういう子を読書にひきいれるための本も必要だと思うんです。この手の本が、そういう入り口をつくってくれるといいな、と思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年12月の記録)


もういちど家族になる日まで

ルパン:最初は主人公の女の子が好きじゃありませんでした。自分のことでいっぱいいっぱいで、まわりの人まで思いやる余裕がないし、あんまり「いい子」じゃないですよね。でも、途中からぐいぐい引き込まれて、この年齢でこんな目に遭ったらこう感じるのが当たり前だ、って思うようになりました。最後はすっかり感情移入して、電車の中で読みながら悲しくなって号泣しちゃいました。いちばんぐっと来たのが、お母さんと会えたときに初めて言う言葉。お母さんに「私より妹のほうがかわいかったの?」って言うシーンです。死んだ妹をなつかしんでいたけれど、私がいるのに、妹が死んだことがそんないつらかったの、と。そのひとことで、もう泣けて泣けて。

レジーナ:ずっと気になっていた作品です。読むまでは、経済的に困難な家庭でネグレクトを受けた少女の話かと思っていましたが、そうではないのですね。亡くなった妹のために買っておいていたプレゼントを、誕生日の日に写真のそばにそっと置いたり、お母さんが見つかったことを知らせに学校に来たときに、可愛がっている金魚を車に乗せて連れてきたり、押しつけがましくなく主人公の気持ちに寄り添うことのできるおばあちゃんが心に残りました。感謝祭の前に、主人公が、家族の思い出のスイートポテトを作りたいと言い出した時も、失敗したらどれだけ傷つくかを考えたら、私だったら一緒に作ると思います。その子を信じて委ねるのはなかなかできないことなので、子どもを根底から信じようとするおばあちゃんの強い姿勢を感じました。親友の妹が病院に運ばれたとき、それまで悲しみの殻に閉じこもっていた主人公が初めて友だちのことを思いやる描写も、心に響きました。誕生日の日に、年の数より1本多くろうそくを灯す習慣について、あとがきで触れてありましたが、物語の中では詳しく述べられていなかったので、その点に関してはもう少し説明がほしかったです。

みっけ:これは原書が出た頃に買って1度読みました。不思議な感触の本だなぁ、静かな本だなぁと思いました。今回訳を読もうと思ったのですが、冒頭で日本語にひっかかって、その後もかなり気になる箇所が多く、結局原書を読み直しました。初めのうちはこの子に感情移入できなくて、嫌な子だと思った、という感想がありましたが、まさにそう思わせるくらい丹念にこの子の心の動きを掬っているのがすごいと思いました。主人公の見たもの、感じたものをごく細かいところまで丁寧に掬っているんだけれど、ただ拾うだけでなく、ポイントをしっかり押さえているから、主人公が細かく揺らぎながら喪失感や何かに向き合っていくのがリアルに伝わってくる。その実感が感じられるから、ベタになってしまわずに、読んでいて、この子に静かに寄り添っているような感じがするんだと思います。それと、最後のところでお母さんが、一緒に住める気がするから家に帰ってきたら、と言い出したときに、この子が返事をペンディングするところがいいなぁと思いました。それがこの本の大きな魅力だと思う。この子がすぐに一緒に住む,と言わなかったことで、おばあちゃんや隣の女の子と過ごした時間、そこで培った関係をこの子がどれだけ大事にしているかがよくわかる。いわば、お母さんとは別の時間や関係がどれほど大切なものだったかが浮かび上がってくるわけです。それがなくて、この子がほいほいと家に帰ったら、あのおばあちゃんや隣の子との時間はなんだったの?という話になる。それと、おばあちゃんやブリジットなどのこの子を取り巻く人たちの接し方がすばらしいと思いました。大前提はとんでもなく深刻な状況なんだけれど、この本に描かれている時間の中では、別にドラマチックですごく大きな出来事が起きるわけではない。その意味ではかなり地味な本なのに、丹念に細かく日常を積み上げていってこういう作品を作れるのは、すばらしい才能だと思いました。

ルパン:タイトルが残念ですよね。センスが感じられない。

みっけ:訳は全体にベタな感じですね。それと、原著がかなり綿密に言葉を選び、情景のイメージを作っているのに、訳が粗いのが残念。細かいことを積み上げていくタイプの作品だけに、それが大きく響いてしまう。でも、作品としてはとても好きです。

カイナ:この題名を見て読むと、お母さんと娘がもう1度一緒に住むようになるんだろうな、と予想して読んでいったら、そうならなかったので意外でした。パターソンの『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作 岡本浜絵訳 偕成社)を思い浮かべました。ちょっと違うけど母親に捨てられた娘。お母さんがヒッピーで、里親の愛を受ける。あっちに行くか、こっちに行くか迷うという話。

ハリネズミ:『ガラスの家族』は、ギリーがお母さんと会ったときに、それまでずっと抱いていた幻想が壊れるんですね。パターソンは、お母さんがカバンを間にはさんでギリーを抱きしめた、と書いて、そこをうまく表現しています。

カイナ:ちょっと批判になりますが、マーカスという男の子が出てきます。「ぼくのせいでお父さんが消えちゃった」という子。その子が、あとどうなったかが書かれていなかったような。それから、変な話なんだけど、家庭に問題があって最後に主人公が立ち上がってきた話というテーマは多いですね。またその話か、と思ってしまいました。自分の中では正直食傷ぎみ。そんなこと言うと怒られるかな。

ハリネズミ:日本の状況からすると遠い感じがしますけど、欧米には、親が離婚・再婚を繰り返す家庭なども多いので、そういう立場にいる子どもへの応援歌も必要なんですね。だから作品もいろいろと書かれていますが、それぞれ特徴がありますよ。

みっけ:この子は最後のやりとりで、決してお母さんを拒否していない。そしてこの本は、お母さんを拒否していないということがきちんと伝わるように書いてある。それでもこの子は揺れていて、お母さんがいないところで紡いできた時間のことを考えると今すぐは無理、というわけだけれど、こういう選択肢はなかなか子どもには考えにくい。どうしても二者択一になりがちだから。でもこういう選択肢があるということを示して、それでいいんだよ、というのは、現実にもみくちゃにされている子どもたちへのひとつの応援歌だと思います。

ajian:すごく気持ちを丁寧に書いてあって、それで読むのが大変でした。感情移入してしまって……。こういうことは、なかなか簡単に癒されたり、解決したりすることではないと思うんですよね。お母さんのところに戻らないっていう選択肢を物語として示してあるのは、すごくいいと思いました。子どもには回復力があると思いたいけれど、この子ーーまあ小説の登場人物なんですがーーはむしろ、これからなんだろうなと思います。トラウマっていうのは、自分ではすっかり平気だと思っていても、何かの拍子に思い出したりするんです。いつか変わる、普通に戻れると思っているとダメで、むしろ変わらないし忘れられないんだってことを受け入れてかないとキツいと思うんですよね。ここまでひどいことが起きなくても、子どもは結構大変なことを抱えているもので……。個人的にも最近いろいろあって、ついそのことを重ねつつ読んでしまいました。

プルメリア:重たいテーマなのに、『レガッタ! 〜水をつかむ』に比べて私は読みやすかったです。主人公のそばにいつもいるおばあさん、隣に住む少女や家族、そして出会う人たちがとてもあたたかくていいなと思いました。お母さんに対しての思いが、周りの人達と関わることによって、だんだん冷静に見られるようになって、よかったなと思いました。食事の場面がたくさんありました。食事の場面が出てくるとあたたかい感じがするなと思いました。

ハリネズミ:最後のところでオーブリーはこう書いています。「ママがもういちど、家族になりたいって思ってるのはわかるよ。わたしも同じ気持ち。だけど、ここにいる家族を置いていく気には、今はまだなれません」。この「ここにいる家族」の中には、おばあちゃんだけじゃなくて、ブリジットやブリジットの家族や、マーカスや、エイミー先生も入ってると思うんです。英米の児童文学を見ると、「家族というのは血のつながりより、一緒に紡ぐ時間の積み重ねのほうが大事なんだ」という思いが強い。イギリスのジャクリーン・ウィルソンの作品なんかも、それが前提になっている。それと、私はこの作品を読んで、アメリカのジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳 理論社)を思い出しました。あの作品でも、主人公マリーのお母さんが夫と子どもを置いて家を出てしまうし、マリーはそのお母さんに宛先のない手紙を出し続けています。

みっけ:この子とスクール・カウンセラーとの関係は、決してメインではないんだけれど、それでもきちんと書いてあって、たとえば、最初はずいぶん突っぱっていて、M&Mをどうぞと言われて、「いえ、けっこうです」みたいに断る。ところが4回目に会ったときには、思わずまたM&Mをどうぞって言われるのかな、と入れ物のほうを見ちゃう。そしてカウンセラーにどうぞといわれると、膝の上に入れ物ごと置いて食べ始める。しかもその日の面談が終わるときには、なんと入れ物を戻すのを忘れて、カウンセラーに「M&Mは(持って行っちゃわないで)置いていってね」と言われる。この展開ひとつで、この子がカウンセラーに対して次第に心を開いていっているのがわかるし、最後の「置いていってね」のところには独特のユーモアがある。作者の目線にユーモアがあるからこそ、深刻な状況で揺れる心に寄り添っていても、こちらがあまり息苦しくならない。そこがいいですね。

ハリネズミ:ちょっとしたところの描写がうまいですよね。

ルパン:これを20代の人が書いたというのもすごい。若いのにすごい筆力だと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年12月の記録)


プリンセス・アカデミー

みっけ:王子様がそのために教育を受けた娘たちのなかからお嫁さんを選ぶ、という設定はあまり好みではないな、と思ったのですが、苦手なわりにはさくさくと読めました。タイトルがプリンセス・アカデミーとあったから、きらびやかな都会の話かと思って読み始めたら、なんとへんぴな石切り場の話で、へえ、と思いました。それと、最後の結末の付け方は、おやまあ、こうきたか、という感じでした。実は王子様と昔からの知り合いだったなんて、想像していなかったから。主人公がなぜ石切場で働けないのかとか、自分に対するコンプレックスなどが最初にさらっと提示されていて、その理由をはじめとするいくつかの謎で物語を引っ張っていく造りなので、その意味では面白く読めました。でも、盗賊が少女を宙づりにするのは、実際にはちょっと時間が長すぎるんじゃないかと思いました。それと、石切り場では、「クウォリースピーチ」で声を出さなくても呼びかけられるという話が出てきて、え?と思ったけれど、それは石が血肉になっているから、というふうに理由づけているのは、ある種物語の論理なんでしょうか。ちょうどテリー・プラチェットの「ティファニー」シリーズ(テリー・プラチェット著 冨永星訳 あすなろ書房)で「チョークの大地に暮らす人々の背骨はチョークでできている」というのと同じ発想だな、と。最後のところで、この子がお姫様願望に落ち着くのではなく、学ぶ機会を作ることで村の人たちの役に立てるんだ、ということに目覚めるのもいいと思いました。

ajian:この、王子様が学校を建てて、わざわざ自分のための嫁選びをする、みたいな設定が呑めるか呑めないかってとことで、まず意見が分かれるんじゃないかと思うんですが、ぼくは全然呑めるんですね。すごく楽しく読んでしまいました。訳者あとがきにもありましたが、タイトルから想像するのと、内容が全然違いますね。しかも石のこと、クウォリースピーチっていう設定や、外交交渉を身につけるみたいな話から山賊の登場まで、随分盛りだくさんなんですが、それを面白い物語としてうまくまとめていると思います。長いと言えば長いんですが……。

プルメリア:この作品は出版されたときに手にし、すごく楽しく読めました。小学校の図書室にいれたところ、6年生の女子が「絵が好き」と言って読んでいました。

ハリネズミ:手に入ったのが遅くて、まだ半分しか読んでないんです。今の時点で感じているのは、学びと生活の関係がよく描かれているな、ということ。それから、いくら普通のプリンセスものとは違うといっても、作者の中にプリンセスへの憧れを是とするシンデレラ・コンプレックスがあるな、ということです。それから、この本はファンタジーではないので、石がコミュニケーションの媒介になるという非科学的な点は気になりました。訳には、もう少していねいにしてほしいと思う箇所がいくつかありました。たとえばp177の「ペダーってば、こんなにきらわれるなんて、ゆうべなにをしでかしたんだろう」とか、p185の「リンダー石を飲んだり吸ったりしているからよ」なんていうところです。表紙や挿絵はちょっと不気味だったんですけど、今の中・高生は気に入るのかな?

みっけ:そこの部分は、踊りのときに、ペダーがミリーと踊らずに、その二人と踊っていたことを指しているのかと思いましたが。

ハリネズミ:それを指すのだとしても「しでかした」は違うかと。

シア:地域の図書館でもやたらと人気があったみたいで、昨日やっと私の予約が回ってきました。というわけで、読み込んでいません。ラストは読み飛ばし状態です。テキトーなことしか言えなくて申し訳ありません。ニューベリー・オナー賞ということで、すごい作品だなと思いながら読んでいましたが、心にくるものがないというか、いまいち腑に落ちない思いで読んでいました。結局、教育や知識っていうのは重要なんだ、ということが言いたいのかなと思ったりしました。「后の位も何にかはせむ!」といった感じで、『更級日記』を彷彿とさせるような作品でした。しかし、プリンセスに選ばれた女の子が個人的に気に入らなくて、これではとんだ茶番ですね。こんな大冒険までしたのに。まあ、村は発展したけれど……。こういうお馬鹿な女の子を選んでしまう王子がいるなんて、この国の未来は大丈夫でしょうか? 心配だなぁと思った一冊でした。

ルパン:この表紙、このタイトルのわりに、読み応えがありますよね(笑)。児童書版ハーレクインだと思ったら、意外や、そうではなくて。私はリアリティに根ざしたファンタジー作品だと思いました。あっ、(選書係として)重くて、大きくて、ごめんなさい。

レジーナ:各章の冒頭の言葉は「クウォリースピーチ」のようですが、物語とのつながりが見えづらかったです。主人公がプリンセスを目指すようになる心の動きについても、家族が立派な家に住めるようにしてあげたいという気持ちや、美しいドレスへの憧れや、山の出身であることを見下されたくないという反発心など、いろいろと挙げられていましたが、決め手となった理由がはっきりとは描かれていませんでした。舞踏会の時にドレス姿の先生を見た主人公が、先生もここに来るために多くのものを捨ててきたのだと気づく場面が印象的でした。一方的な見方しかできなかった主人公が、このときはじめて他者の立場から物事を見ようとする場面なので、もっと掘り下げて描いてほしい箇所です。

シア(遅れて参加):『プリンセス・アカデミー』というタイトルは、ディズニーの子ども用プログラムであるので、それと勘違いして借りる人もいるのではないかと思います。後から来たので、ほかの2冊についても言いますね。
 『もういちど家族になる日まで』は謎めいた出だしで、気になりました。おばあちゃんとあまり性格の良くない子が出てきます。11歳の女の子が乗り越えるには、あまりにもつらい現実です。周りの人がすごくいい人ばかりで、隣の女の子がとても可愛く描かれています。『西の魔女が死んだ』(梨木果歩著 楡出版・小学館・新潮社)、『ハッピーバースデー』(青木和雄作 金の星社)との類似性を感じました。でも、主人公が空想の友達に手紙を書いたり、自分の力で立ち直っていく力強さが先ほどの二作とは違うかなと。とはいえ、ラストが子どもの目線なので仕方がないけれど、これで解決になっているのかなと。この落としどころでいいのか、腑に落ちなくて『西の魔女が死んだ』のような感動はありませんでした。日本と外国の差が大きく出た一冊のように感じました。ちょっと暗かったかな。子どもはどう思うのかな、と思いました。中高生だと、お母さんの方に共感するのかもしれません。
 『レガッタ!〜水をつかむ』は図書館で簡単に手に入ったので、しっかり読めました。少女漫画風の挿絵で、びっくりしました。こういう絵柄を喜ぶのは、中学2年生くらいまでではないでしょうか。高校生くらいになると、逆にこういうのを嫌う子が多いと思いますよ。内容が高校生なのに、絵で損をしている部分があるように感じます。よっぽどアニメとか好きじゃない限り、手に取りにくくなるんじゃないかと思いますね。心理的に難しい部分があります。それに、親や先生が漫画本風の絵をすごく嫌う傾向があるので、いくら中身が良くても見た目への抵抗が激しく、学校図書館に入れにくかったりします。

ajian:一応少女漫画を擁護したいんですけど、これは少女漫画としてもあまりいい出来の絵じゃないですよ。

ハリネズミ:先生たちは、どうして嫌うんですか?

シア:こういうのをすごく嫌がる年配の人もいるし、「オタク系」といって嫌がる人、それから、ライトノベルを排除したがる人もいますね。そういう先生は、ラノベは時間の無駄で、本じゃないと言っています。教養のある本を読んでほしいと言う先生は、漱石や鴎外を読んでほしいのでしょうね。子どもたちとの間に大きな温度差があります。

カイナ:高1『羅生門』高2『高瀬舟』高3『舞姫』は教科書に必ず載っていましたね。

ハリネズミ:本を読まない子をどうすくい取るかという視点も必要です。それと今は発達障がいといわれる子も増えているので、そういう子どもたちにはまた別の視点から本を選ぶ必要がある。いろいろな種類の本が必要だと思います。

カイナ:作家はこの絵を承認しているんでしょうかねぇ?

シア:『レガッタ!』は、絵のせいというわけではないのですが、漫画のノベライズを読んだような印象を受けました。これは講談社のこのシリーズのなかでも、トップクラスに軽いものでしたね。スポーツものによくある、先が気になるハラハラ・ドキドキ感がいまいちありませんでした。女の子がいっぱい出てくるので恋愛のシーンがあるかと思ったら、女の先輩のほうがかっこよかったりしましたし。スポ根をイメージしたわりに話に山がなく、決め手になるシーンがなかったように思います。ボートについては知らなかったので、そういうところは楽しめましたが。女子の友情も書けてたかなぁ? お兄ちゃんの描写もひどかったなぁ。藻にからまってどろどろしたイメージで、まさに「沈」。

ハリネズミ:エンタメはエンタメで難しいですね。本を読まない子にとっては、むしろステレオタイプでお涙ちょうだいみたいな本のほうが魅力的だったりするのかな?

シア:髪型のことなど細かく書かれていますが、誰が誰だかわからないですね。この描写はなんなのでしょうか? どっちつかずかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年12月の記録)


キノコ雲に追われて〜二重被爆者9人の証言

ヒーラ:こういう方たちがいたのだという驚きでした。絶望的な話ですね。この本自体が終戦10年後に書かれたということは、著者がアメリカ人に現実を伝えようとした趣旨の本なのでしょう。こういう本がアメリカで戦争10年後に出されたことに価値があると思います。悲劇的偶然ですが、2度被爆し、それでも生き残った方々に取材して、証言をもとに書かれているわけで、文章自体も非常によくできていると思います。アメリカ人の目からみた日本人観がところどころ出てくるのも興味深かったです。広島で被爆した経験をもとに、3日後の長崎で対処のしかたのアドバイスができて、その瞬間には命を落とさずにすんだ方々もいたというのがせめてもの救いですね。

メリーさん:2度も原爆の被害を受けてしまった人たちがいたとは知りませんでした。その点では、後世に伝えるという意味で、今回読めてよかったなと。ただ文中、日本人名がカタカナなのは気になりました。加えて、ところどころにアメリカ人の日本人観が強く出ていて「東洋人は」とか「日本人は」という部分や「原爆は使うべくして使われた」などというところ、これはこのままでいいのかなと疑問でした。外国人の著者が日本を扱ったノンフィクションは、日本人にはない視点があっておもしろいものがたくさんありますが、原爆がテーマの場合はもう少し考える必要があると感じました。この本を今出す意味はどこにあるのか。当時こういうことを取材していたアメリカ人ジャーナリストがいたということを取り上げ、その中で彼の記録について具体的に触れる、というやり方をするという方法もあったのではないかと思いました。

レジーナ:長崎の被爆が広島ほど知られていないことに対する複雑な想いは、二重被爆という問題の中でくっきりと浮かび上がったように思います。土産物として被爆者の写真が売られていた当時の状況など、初めて知ったことも多くありました。その一方で、日本人について少し不自然な描写がいくつかありました。たとえばビジネスにおける紹介を日本特有の習慣だと説明していますが、アメリカでも仕事のために人に紹介してもらう状況はあるでしょうし、聞き手のアメリカ人が知らないと思って、その人のために話したことが、そのまま記録されてしまったのかもしれません。被爆者を見た日本人が、死者を会津白虎隊になぞらえているのにも違和感がありました。聞き手のアメリカ人の頭の中に、お国のために戦って死ぬ日本人像がはじめにあって、それにつながる感想を強引に引き出したような……。キリスト教国であるアメリカが長崎に大きな被害をもたらしたことを皮肉だと感じていると書かれていましたが、本当にそう考えていた長崎の人は、どの程度いたのでしょうか。原爆が、戦争を終わらせるための手段として、使われるべくして使われたという記述に表れているように、広島・長崎の被爆の問題をアメリカの視点から見た作品です。デリケートな問題なので、客観的な視点をよく考えた上で、子どもに手渡していくことが必要だと思いました。

みっけ:後ろの解説に山口彊(つとむ)さんの話があるし、ちょっと前に二重被曝を扱った映画のことも新聞で見たりしていたので、そういう流れのなかでこの本を出そうと考えたのではないかと思いました。そのときの新聞記事の様子から見ても、日本では、二重被曝のことをきちんと取り上げた本などはほとんどないような気がします。そんな中で、終戦から10年という時期にアメリカ人がこれを書いたということはとても重要なことだから、翻訳を出す意味はあると思います。ただ、一つにはアメリカ人がアメリカ人の視点で,アメリカ人に向かって書いている本であることからくる違和感というか、限界がある気がします。また、終戦の10年後に書かれているという限界も。さらに長い年月が経ったとき、つまり40年後、50年後にどうなるかということは、当時わかっておらず、どうしても表現が楽観的になっているとか。これは、原爆そのものを初めて人間に使ってみた、いわば人体実験のような側面もあるわけで、その前はまったくどういう影響が出るかがわからなかったから、しかたないといえばしかたないのかもしれないのですが。しかし、たとえばここに好意的に出てくるABCCについても最近、原発関係で資料隠しをしていたという報道があったりするわけで、そのあたりのギャップは何とかする必要があると思います。その意味では、版権などの関係で可能かどうかわからないけれど、たとえば、作者のトランブル自身に関して、なぜこの本を書いたのかといったことまで含めた調査に基づく文章をまとめて、それを枠としてそこにこの翻訳を埋め込むとか、そういう形が望ましかったのではないかと。あるいは、翻訳の前か後に、作者自身についてのきちんとした調査結果などをまとめたものをつけるべきだったと思います。人名をカタカナにしているのは、たしかに読みにくいけれど、アメリカ人が取材して書いているという距離感を出すには、このほうがいいのかもしれません。漢字に直すとそこが薄れてしまうから。また、アメリカ人の視点で書いていることもあり、まだ10年しか経っていないということで、原爆についての論議は深まっていないから、日本人が言っているという奇妙な発言も嘘とは決めつけられないと思います。でも、作者はジャーナリストだから、自分が見たいもの、読者に見せたいもの、読者が見たがるものを拾う傾向は当然あるはず。だから、そういう状況を客観的に書いたものを付け加えたほうがいい。そこがクリアできれば、こういうものを出すことは大事だと思います。それと、かなり重い話なので、むしろこれくらいコンパクトな方がいいのかもしれない、とも思いました。

なたね:原爆についての本は、ずっと出版しつづけ、読みつづけるべきだと思っているので、この本のことを知って本当によかったと思っています。淡々と書いているけれど、当時の人々の暮らしや考え方が想像できるし、戦時とはいえ、そういう日常が突然断ち切られてしまった理不尽さが胸に迫って・・・。名前がカタカナで書かれているせいか、三菱重工グループの人たちとハタ職人の人たちの、どなたがどなたなのかわからなくなってしまうことがありましたけど、新婚早々で妻を失った平田さんの話は忘れられません。ただ、なぜ10年後に二重被爆のことを、このジャーナリストが書いたのか、単にジャーナリストとしての興味からなのか、それとも別の理由があるのか、そういった背景をとても知りたいと思ったけれど、いまそれを調べて書くのは難しいのかもしれないわね。ただ、子どもに手渡すときには、いまみっけさんがおっしゃったことも含めて大人からの解説が必要で、このままポンと渡すことはできないと思いました。大人は、そのあたりを意識して読めますけどね。p97に長崎のキリスト教徒の被爆に対する考え方として「日本の犯した罪があまりに大きく、激怒した神をしずめるには原子爆弾による何千人ものキリスト教徒の死が求められ、その結果、戦争が終わったのだという主張」が挙げられています。すべての長崎のキリスト教徒がこんなふうに考えていたとは思えませんが、アメリカのキリスト教徒はこう考えることによって納得していたのかと、あらためて憤りをおぼえました。東北大震災を天罰だと口走った前の東京都知事のようで……。

プルメリア:二重被爆については初めて知りました。戦争を扱った作品として『絵で読む 広島の原爆』(那須正幹作 西村繁男絵 福音館書店)は出版されたとき話題になり、よく読まれていましたが、最近はあまり手に取られていません。子どもたちが自分自身の問題として、平和とはどういうことなのかを考える6年の国語の教科書に「平和のとりでを築く」(光村図書)があります。この作品のように外国の人が広島の原爆について書いたものを読む機会は今までありませんでした。この作品からは原爆を受けた場所や傷を負った人の状況が異なり、また傷を負って大変な状態にもかかわらず肉親を捜しまわる必死な心情がひしひしと伝わり、そんな人間のたくましさを改めてすごいと感じました。時間が流れ、戦争は過去の出来事の一つのようにとらえられている現実の中で、今の子どもたちは戦争をゲーム感覚でとらえている傾向があります。命、死と向き合うこと、戦争について考えることはいつも必要だと思います。低学年だと『おこりじぞう』(山口勇子作 四国五郎絵 新日本出版社)や『ランドセルをしょったじぞうさん』(古世古和子作 北島新平絵 新日本出版社)、中学年からだと『ひろしまのピカ』(丸木俊作・絵 小峰書店)などを読んだ子どもたちは、戦争の悲惨さから今の生活、平和について考えます。この本は体験がそのままリアルに書かれているので、中・高校生には直球で伝わると思います。

クモッチ:今回選本を担当し、翻訳ものの児童書ノンフィクションはあまりないのでは?と思いましたが、伝記などけっこうあることがわかりました。この作品については、タイトルから分厚いものを想像していたのですが、コンパクトで手にとりやすい形だなと思いました。二重被爆という事実が日本であまり取り上げられてこなかったのは、当事者の日本人として、それぞれの体験があまりにも悲惨なので、そのような視点が生まれなかったのではないかと思います。調査をしている第三者になって初めて、「二か所で」という視点が生まれたのではないでしょうか。そういう意味では、新しい視点としておもしろいと思いましたが、やはりこれは資料として読むべきものだと思います。資料の一つとして、日本人が新しい作品にまとめられればよかったのかもしれません。

ハリネズミ:広島と長崎のことはこれまでにもたくさん読んできましたが、困ったことに、悲惨な描写の連続には「またか」と思ってしまう自分がいるんですね。私のような読者にとっては、むしろアーサー・ビナードが広島の原爆資料館の資料をもとにしてつくった写真絵本『さがしています』(岡倉禎志写真 童心社)なんかの方がずっと伝わってくるものも大きいと思いました。『さがしています』からは、生きているひとりひとりの日常がぶつっと断ち切られてしまったことの理不尽さが強く伝わってきます。でも、この本は個々の人間の日常の営みみたいなものはあまり書かれていなくて、悲惨な部分だけが書かれているので、子どもに何が伝わるんだろうと、疑問に思いました。アメリカの人たちに原爆の悲惨さを伝えるとか、二重被爆者がいたという事実を日本の大人にも伝えるという意味はあると思いますが、子どもに伝えようとするなら、もう少し工夫が必要かもしれません。名前がカタカナで書かれているのも、リアリティから遠ざかる原因になっているかもしれません。他の方もおっしゃっていましたが、もう少し本作りの工夫があるとよかった。日本の人が日本人を取材するなら、語り口をそのまま生かすとか、方言を生かすなどしてリアリティを増す工夫ができますが、これは通訳を介して聞き取ったものが英語で書かれ、それをまた日本語にしているので、リアリティを積み上げるための細部が削り取られて平板になってしまっている。そこが残念です。

シア:児童文学ということで軽い気持ちで読み始めたのですが、悲惨な内容をリアルに書いていて驚きました。中高生向けなら、内容的にもちょうど良いのではないでしょうか。『黒い雨』(井伏鱒二)の子ども向けの本という感じですね。夏休みの感想文でよく『黒い雨』が取り上げられますが、今の子どもたちには難しいので、この本くらいが手頃だと思います。でも、アメリカ人ジャーナリストが聞いたせいなのか、登場人物がカタカナで書かれているのが読みにくくて、気になりました。とくに「ドイ ツイタロウ」さんは、本文では空白もないからどこで切るのかわからなかったですね。おかげで名前を覚えにくく感じました。だけど、本のテーマとしてはとてもいいと思うので、夏休みに中高生が読むのはいいのではないでしょうか。感想文を書きやすいのでは。

なたね:もともと子ども向けに書かれた本ではないですよね。

シア:「原爆乙女」の話も出てくるので、興味を持っている子どもならば読めるのではないかと思います。一般市民がなぜ戦争の代償を払わなければならなかったのか、自分は関係ないと言わずに、子どもが考えてくれる本だと思います。教師としてすすめやすい本ではないでしょうか。ジェームズ・キャメロン氏が関わる映画化の企画があるようなので、ぜひ実現して欲しいと思います。

なたね:新藤兼人監督の『原爆の子』は、戦後すぐに作られたこともあって、とてもリアルだし、子どもが主役の一人なので、今の子どもたちも見る機会があればいいと思うのですが……。

ヒーラ:読み直していて気づいたんですが、注釈は訳者がつけたもので、当時の著者がつけたものではないですね。訳注と断っていないのは問題ではないでしょうか? 防空壕についての記述などを見ると、明らかに訳者の注ですよね。訳者がこの本を通してぜひ伝えよう、伝えようと思うあまり(その情熱はよく理解できます)、その辺がごっちゃになってしまっていますね。この本を今、この時代に読んでもらいたいという思いがあるのなら、冷静に、当時の著者の記述と現在の訳者が必要と思う記述を明確に区別すべきでしょう。2刷以降改定するともっとよくなりますね。このままだと中途半端だし、本への評価を下げてしまいます。

ハリネズミ:そこは本作りとしてまずいですよね。資料としてなら資料として価値のあるものに仕上げたほうがいいし、日本の子どもたちに読ませようとするなら、それなりの工夫をしたほうがいい。たとえばABCCがその後やってきたことなども書いておいたほうがいいし、本書の最後には広島の新聞記者の「ただし、日本がもし先に原爆を手に入れていたらどうしたか。アメリカに落とさなかったとは思わないでください」という言葉がしめくくりとして出てきますが、これもごく一部の人の意見のように思えるので、注を入れるなら入れたほうがいい。どこに視点を置いて本作りをするのか、ということが、定まっていないのかも。この本は区の図書館に入っている冊数がわずかでした。子どもには難しいという判断なんでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年11月の記録)


氷の海を追ってきたクロ

なたね:じつは、読む前には「たぶん、こんな本なのだろうな」と思っていましたが、いい意味で予想が裏切られてよかったです。戦争を描いた子どもの本は「ああ、かわいそう!」というものがほとんどで、読んだあと悲しくなったり憂鬱になったりしてしまう。大人だってそうなのだから、いくら学校や図書館ですすめられても読む気がしないという子どもたちの気持ちは、わかるような気がしますね。けれどもこの本は、読んだあとも犬の体温が感じられるようなあたたかい気持ちになりました。それでいて、子どもたちの心の奥底には、シベリアに抑留されて悲惨な目にあった人たちがいたという事実がちゃんと残るのではないかしら。こういう事実があったことも初めて知ったし、追跡取材しているのが、とてもよかった。若いころの「松尾さん」の写真と、おじいさんになったときの写真を見比べたりしてね。朝日新聞の写真も感動的ですよね。うちは家族そろって犬が大好きなので、「見て、見て!」と救助されたときの写真と記念写真を見せてまわりました!

みっけ:まず、シベリア抑留については、原爆とか大空襲ほど取り上げた作品がない中、それについて取り上げているのがとてもいいと思います。シベリア抑留は悲惨なことがいろいろあったはずだけれど、この本は読後感があたたかい。それはクロという犬と抑留者との交流があるからで、子どもの本として、このスタンスは大事だと思います。悲惨なだけだとむしろ拒否反応を引き起こすことになるし。ただ実際には本当にひどい状況だったわけで、そのことは、たとえば親友の骨を襟に縫い込んでいたら、金目のものかと思った誰かに抜かれたとか、あちこちにさらっと書いてあるのだけれど、そこに深入りしていないのもうまいと思いました。子どもの興味を、クロが見つかってしまうのか、というハラハラドキドキでつなぎ、最後はクロが日本で暮らして子孫を残せたという明るいトーンで終えていて、子どもの本としての構造がしっかりしていると思いました。今がこのテーマを取材できるぎりぎりのときで、そこでこれを出した意義は大きいと思います。最後の写真でリアルさが増す一方で、この挿絵のかわいいところも、本のトーンの決め手になっている気がしました。

ハリネズミ:シベリア抑留の体験談だと、大人の本ですが高杉一郎さんの『極光のかげに——シベリア俘虜記』(岩波文庫)がとてもいいですよね。

レジーナ: 現実の話が持つ力を感じました。希望を感じさせる結末もよかったです。題材も新鮮です。すごく意地悪な人が登場しないので、読んでいて安心できます。ただ、それまで絆を育んできた過程が描かれている分、最後に川口さんが犬を手放してしまったときは、納得できない思いが残りましたが……。それから、タイトルは作者の意向によって決まったのでしょうか。「〜してきた」というタイトルをあまり聞いたことがないので……。

クモッチ(編集担当者):ネタバレのタイトルなので、著者ともに悩んだのですが……

レジーナ:シベリア抑留を経験した芸術家といえば、『おおきなかぶ』(トルストイ再話 内田莉沙子訳 福音館書店)を描いた彫刻家の佐藤忠良を思い出します。

メリーさん:この話についても、こういうことが実際にあったなんて知りませんでした。犬がつないだ人と人、シベリア抑留について、うまく書かれていると思いました。著者の井上さんは犬を題材にした著書が多いと思いますが、この本のように、犬の物語を入り口として、戦争について描くという方法は効果的だと思います。また、ノンフィクションなので、本文や装丁には写真を使うほうがよかったのではないかとも思ったのですが……。でも今回の犬のイラストはとてもかわいかったです。

シア:3冊の中で一番最初に読みました。表紙のイラストがかわいいので、最初に手に取ったんです。犬を使うのがずるいな……と。とても感動的な美しい話ですね。ノンフィクションですが、ストーリー性があって引き込まれました。章ごとにイラストが入っているのは、小学生の読者にもいいと思います。犬の描写が非常にかわいいですね。ただ、最後に川口さんがクロを手放すところは、子どもはわからないのではないでしょうか。私もなぜ北海道に連れて行かないのか疑問に思ったくらいですし。それにしても、ずっとイラストできていて、最後に写真が入っているというのがよかったと思います。物語感覚で読んできて、最後に現実だとわかる衝撃。最初からリアルなおじさんが出ていたら、小さな女の子にはちょっと……。そういう全体の構成がよかったと思います。

ヒーラ:ノンフィクションとはいえ、写真を先に出すより、最後に写真が来ているのが効果的です。犬がそこまでするのかなと思わせながら読んできて、最後に新聞記事にもなったと知らせるやり方はいい。クロの出現以前の抑留中の話は比較的早いページで終えて、クロのいた数カ月に比重をおいて書いた構成で、なかなか読ませます。

クモッチ:抑留された場所によって、ぜんぜん待遇が違っていたようです。そして、最初の1年が設備も整わず、悲惨だったようです。亡くなった人のほとんどが抑留されて1年ほどの間に亡くなっています。

プルメリア:題名を見て南極観測隊の犬の話かなと思っていました。本を手にした時、表紙の犬クロがとてもかわいかったです。犬のイラスト(各ページ・パラパラマンガになっている)がたくさん描かれているのも目を引きました。きびしい自然との戦い、励まし合って生きる人々、登場人物のそれぞれの性格。戦争は終わっても、まだ終わっていなく苦労していた人々がたくさんいた事実・・・シベリア抑留について書かれているのがとてもよかったです。最近の作品では職業犬や悲惨な待遇をされている犬がとりあげられることが多いなか、クロのような犬がいて外国で不安な人々の心をなごませていたことは読者の心をとらえるのでは。クロが追いかけてくるクライマックス、フィクションではないかと思わせ、巻末の写真で本当のことだとわかるのが感動的です。最後に登場人物の写真があり、現在の様子が書かれた本の構成がいいです。念願の日本に帰国したのにクロを手放したところは、淡々としているように感じ、クロをふるさとに連れて帰れない事情や別れるのがつらくさみしい気持ちをつけ加えればよかったのではないかなと思いました。

ハリネズミ:ネットで内容紹介を見て、あざとい感動ものなのかと思い、警戒しながら読みはじめたのですが、私が犬好きなせいもあって引き込まれてしまいました。ただ、書名はなかなか覚えられませんでした。ほかの人に紹介したときに思い出せなかったんです。人間と犬が相互に依存しあっていく状況がとてもよく書けているし、歴史の一端をこういう形でのぞいてみるのも、とてもいいと思いましたが、犬好きの私としては、川口さんがせっかく日本まで連れてきたクロをどうして舞鶴で手放してしまうのか、そのあたりが理解できなくて……。何か大きな事情があるなら、そこを知りたいと思いました。川口さんが命の危険もかえりみずクロを大事にしていたということが切々と書かれているだけに、肩すかしを食らったような気がしたんです。亡くなられているご本人には取材できませんが、当時のいろいろな状況からもう少し説明ができなかったのでしょうか?

クモッチ:当時は、犬を汽車に乗せることはできなかったのではないかと思われます。また、年末に近い時期に日本についたので、自分が帰るだけで精一杯だったのでしょうね。この本は、井上平夫さんの「クロ野球」についての新聞記事を見たのが発端でした。2008年になって話を聞きに行きました。その後、新宿の平和祈念展示資料館で、松尾さんが北海道新聞に投稿されたクロを囲んで仲間が写っている集合写真が出てきたんです。シベリア抑留に関する新聞記事を見て、松尾さんと郡司さんに話を聞くことができました。そこで、彼らの班でクロを飼っていたんだということがわかりました。興安丸は、引揚最後の船で新聞記者が乗っていたので、クロを海から救助する写真もとれたようです。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した辺見じゅんの『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文藝春秋)にも「クロ野球」の話は出てきます。エピソードはすべて事実ですが、それに著者の井上さんの想像力が加わった。事実の確認も改めてしながらの作業になりました。抑留だけの本は、児童書としては難しかったのですが、そこに犬と人間のふれあいという要素があることで、子どもが時を越えてシンクロできるようになると思いました。

ハリネズミ:戦争を伝えるのに、悲惨な状況をこれでもかこれでもかと描くのも必要かもしれませんが、それだけでは今の子どもにとって「いつかどこかであった、自分とは関係ない話」になってしまうのではないでしょうか。だから、クロという犬を通して書くというこの切り口は、とてもいいと思いました。

みっけ:シベリア抑留といえば、画家の香月泰男もそうで、日本海の絵を何枚も描いていますが、それらすべてが明るく光るように描かれています。それはその向こうに故郷日本があるからだと言われています。井上ひさしも亡くなる年に、シベリア抑留について『一週間』(新潮文庫)という作品を発表していますよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年11月の記録)


カモのきょうだいクリとゴマ

メリーさん:楽しく読みました。構成もうまく、わくわくしておもしろかったです。この本はカルガモの観察記録ですが、それを見つめる人間の記録でもありますね。そういう意味で、観察者のなかがわさんの視点がとてもいい。動物を扱う子ども本で難しいのは、対象をどこまで擬人化するかということ。今回のこの本では、そのバランスをうまくとっていると思いました。写真、ビジュアルについても、本文を読みながら実物を見たいなと思うところに、いいタイミングで入っていました(たとえば、カモの足は大きいというところなど。写真を見ると、普段は水の下にあって見えない部分の写真がきちんとある)。呼ぶとカモが答える最後の場面も感動的で、ノンフィクションとして、本当にバランスがいいなと思いました。

みっけ:とてもおもしろかったです。正直言って、かわいいかわいいという感じのウェットなものは苦手というか、かまえてしまうのですが、これはちょっと違いました。文章そのものが上手だし、語りかけるようでとっても優しく、親しみを持てるように書いてある。それでいて、カモとの間にある種の距離感を保ちながら生活しているので、決してウェットになっていない。これはすごいことだと思います。作者が葛藤を抱えながら流されていないというか。いずれ野生に返すという意識を持ち、つねに考えて動いていることがいいなあと思いました。そもそもかわいい生き物だから、それとみっちりつきあって世話をしたりすれば、メロメロになっても不思議ではないのだけれど、そこをきちんと押し戻して、最後まで別れを前提に動いている。戻ってきたカモを棒ではたいた男の子に感謝するというのも、なかなかできないことだと思います。そういう姿勢を保っていれば、当然抑えめというか、引いて書くことになるわけですが、だからこそ、という感じで、最後の別れの部分はうるうるしてしまいました。最後に姿を見て、その後も何回か声を交わして、それもなくなるという流れの余韻が残って、とてもよかったです。

なたね:あの中川千尋さんが、カルガモの子を育てて記録しているとなったら、もうおもしろい本にならないはずがないですよね。なんでうちに話してくれなかったのかと、いろんな出版社が思ったのでは? みなさんがおっしゃるように、なにより野生の命を育てているという姿勢がずっと貫かれているところが素晴らしい。いままでいろんな動物を育ててきた蓄積があり、ローレンツ博士の本をはじめ沢山の本を読んでたくわえた知識があったから、ここまで素晴らしい記録になったのだと思うけれど、そういうところを微塵も感じさせず、教えてあげようという姿勢が一切ないところがいいですね。絵も文章もユーモアたっぷりで、笑わせたり、ほろりとさせたり。子どもたちにも一生忘れられない本になるのではないかしら。近所の公園の池で、毎年カルガモの親子が泳いでいるのを見るけれど、来年は今までと少しばかりちがって見えるのでは……と思ってます。

ハリネズミ:カルガモは留鳥だから、うちの近くの公園にも1年じゅういますよ。

プルメリア:写真やイラストがたくさん入っているので、かわいいなと思いました。子どものころにスズメのヒナを拾い、押し入れに入れて飼おうとしたことがあります。でも次の日にヒナは死んでしまい「自然の生き物は飼ってはいけない」と母親に強く言われたことを思い出しました。なかがわさんが自然の生き物を育てることは大変だったと思います。げんちゃんが卵に番号をつけるところが子どもらしい。日常生活の中でのカモの具体的な描写がかわいくわかりやすく、この作品が小学校中学年の課題図書になったと知ったときは、とてもうれしかったです。本を楽しんで読んでいる子どもたちの姿はよく見ましたが、課題図書で読書感想文を書いている子どもたちは、『チョコレートの青い空』(堀米薫作 そうえん社)が多かったです。そちらのほうが内容的に書きやすい作品だったのかも。

ヒーラ:この本には驚きました。びっくりです。ちょっとできすぎなくらい。げんちゃんと著者との親子関係もとてもよい。作家が、自分の家で育ててそれを文章にしているというのがすごい。カモさんたちととしっかり交流ができているんですね。文章表現も素晴らしい。p136などは、そのまま詩として読めます(朗読する)。

シア:私も驚きました。成長記録系の本かなと思っていましたが、語り口もよく、話に引き込まれました。図鑑だけでは気づかないような細かいことが描かれています。成鳥への羽の生え変わりのことや、寝る前にくちばしまであたたかくなるということなど、目からウロコです。幼い頃から都心に住んでいるので、こういう生活に憧れますね。育てた生き物を野生に返すという作品はいつも最後がつらいものですが、これもそうでした。『あらいぐまラスカル』(スターリング・ノース著)もそうですね。距離感を保ってクールに書かれていますが、感動的に締めているのがさすがです。鳥ってここまで人になつくのか、と思いました。読んだ子はみんな、カルガモを育ててみたいと思うかもしれないですね。

クモッチ:大きく使える写真があまりなかったんだろうと思うなか、かわいらしく作っているので、内容もさることながら、デザイナーさんの努力もあると思いました。フンがくさい、など、五感に訴えるところなどがすごい。羽が生えかわっていくところ、青緑の羽など、細かく追いかけているところがすごい。クリの背中に栗みたいな丸があるというくだりは、ぜひ写真で見たかったです。

ハリネズミ:私は中川さんの本はほとんど読んでいるのですが、その中でもこの本がいちばんといっていいくらい好きです。クリとゴマは単なるペットではなく、野生の鳥。それでも放っておいては死んでしまうというので卵からかえしていくのですが、こんなことをしていいのかどうか、というとまどいが著者の中にはある。カルガモのヒナは本当にかわいいという描写もありながら、もう一方では育てるのは本当に大変だとか、いろいろな動物を飼ってみたけれど「カルガモの緑フンのくささときたら、ぜったいに一位です」、「庭じゅうが、ものすごいにおいになりました」など別の面もちゃんと書いている。自分が育てて感じていること、考えていることを自分の文章と絵と写真で表現しているので、リアリティが半端じゃない。それに、カルガモに焦点を当てながらほかの生き物へと向かっていく視点もある。佐藤多佳子さんの『イグアナくんのおじゃまな毎日』(偕成社)も同じような視点があって私は好きなのですが、この本もいろいろな目配りのバランスが絶妙です。観察も行き届いているし、文章もポイントがきちんとおさえられているし、ユーモアもちゃんとある(たとえばp46)。クリとゴマがどんどん成長して力をつけていく様子(たとえば最初の雷雨の時の反応と、二番目の時との違いなど)からは、伸びていく命の力強さを感じます。教えをたれるいやらしさもないし、感動させようとするあざとさもないから、よけいに響いてくるものがあります。おまけに、この本を読んで、カルガモのひなを育ててみたいとついつい思ってしまう子どもたちのためには、奥付ページに「鳥のひなをみつけても、ひろわないでね。たぶん親鳥がそばにいて、勉強中だから。けがをしてたら動物病院にそうだんしてね」とあって、ちゃんと釘をさしている。たくさんの子どもに読んでもらいたい素晴らしい本です。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年11月の記録)


湯本香樹実『夏の庭』

夏の庭〜The Friends

タビラコ:何年かぶりに読みました。最初に読んだときにいちばん感動した箇所で、今回もじーんとなりました。p89の、雨のあと、おじいちゃんが「秋になったら、何か種を蒔こう」というところです。ひとり暮らしのおじいちゃんのところに、子どもたちが死んだ人を見たいという好奇心だけで押しかけ、その結果おじいちゃんが、しおれてた草が雨で息を吹きかえすように生きる力を取りもどす……それがおじいちゃんのこの一言にこめられていて、すごいなあと思いました。最初に読んだときは、おじいちゃんの結婚していた人を老人ホームに訪ねるところなど、ちょっとやりすぎかなと思ったのを覚えていますが、いま読むと、この物語の大切な1部分だと思うことができました。それから、おじいちゃんの戦争の話ですが、児童文学で戦争を取りあげると、子どもが主人公になることから、どうしても被害者としての側面から物語ることが多いように思うんですけど、この作品では加害者としての戦争の真実を語っているところが素晴らしいし、児童文学にかかわるものとして忘れてはいけないことだと思います。たしかこの作品がホーンブック賞を受賞した直後だと思いますが、アメリカの児童文学研究団体であるCLNE(Children’s Literature New England)主催のカンファレンスの課題図書になったことがあるんです。そのときに、アメリカの小学校や中学校の先生たちの中に「子どもたちが、死んだ人を見たいという好奇心から老人に近づいていくというのは、なんとも残酷で、嫌悪感をおぼえる」という人たちがいて、へえ、そういう読み方をする人たちもいるんだと、かる―くショックを受けました。ただ、英語のタイトルは“The Friends”だけですが、もともとの日本のタイトルは「夏の庭」っていうのよと話したら、「とってもすてき!」なんて言ってました。

カイナマ:何度も何度も読み返した作品です。また中学生にも繰り返し読ませてきました。1クラス分文庫本を用意して、全員に読ませてから「読書へのアニマシオン」の中の「前かな、後ろかな」という作戦を行っています。大人の読書会でも取り上げたことが何度かあります。大人の方は、おじいさんを死ぬところを見たいという出だしで、もうこの作品は嫌だという人が必ずいました。内容についてですが、3人の男の子のうち河辺は、親が離婚し父親はよそで再婚し子どもがいる。山下はお母さんから魚屋のお父さんみたいになっちゃだめといわれ、主人公はお母さんがアル中ぎみ、とそれぞれ家庭に問題を抱えています。それがおじいさんとの出会いでそれぞれ乗り越えていくというか、自分なりに受け止めることが出来るようになります。それから意外と男と女のことが随所に出てきているんですね。おじいさんの戦場での壮絶な体験、花火の時に出てくるカップル、味噌蔵での話など、そういうのをうまくちりばめているとも思います。

アカシア:死ぬところを見たいというのは、子どもらしい反応だと私は思ったんですが、読者の子どもはどうなんですか?

カイナマ:子どもの感想ではあんまり聞いたことはないですね。

プルメリア:この作品は出版された時に読み、今回また久しぶりに読みました。時間がたったあとで読むと、けっこう字が小さかったんだなと感じ、また作品の内容も以前読んだ時の感想が薄れていて今回新鮮な感じで読むことができました。一人暮らしのおじいさんに興味を持ち、おじいさんの死を待っている少年達の心情や行動がおじいさんとの交流を通して徐々に変わっていく過程が作品を読ませるのかな。生まれた環境も性格も違っている3人の少年、どこかでつながっている友だち関係もおもしろいです。3人がおじいさんの家で水を巻き虹が出る場面、おじいさんが用意した丸ごとのスイカに少年たちは驚き、一人はスイカを切る包丁を研ぐために包丁研ぎをとりにいく場面、台風の夜、おじいさんが心配で3人がそれぞれ集まってくる場面など印象に残りました。コスモスは見た目は細いですが、けっこうたくましく台風で倒されてもしっかり花を咲かせます。少年たちが死と向き合う火葬場、怖いというよりも現実を受け止める場面など、湯本さんは子どもの心情がよくわかり作品を書ける人なんだなと思いました。6年生でも読めるけれど、中学生向きでしょうか。1993年の読書感想文全国コンクール課題図書(中学校)でしたね。

アカシア:たいていの作家は、子どもが書けていると大人が書けてない、大人が書けていると子どもが書けてないのかもしれませんが、この著者は両方を書ける人だなと思いました。おじいさんがだんだんに具体的な存在になっていく過程がとてもよく書けています。『闇の底のシルキー』は、本当に死が間近にある子どもだけれど、こっちは死が遠くにある子どもなんですね。あちこちに、うまいなあと思う表現がありますね。たとえばp192の「おばあさんは目をとじてゆっくりとうなずいた。大きくて年取った考えぶかいカエルみたいに」とかね。ちょっとした表現が、常套句じゃなくて、しかもああ、なるほどとわかるように書けてるっていうのはすごいです。

ウアベ:スペインの児童文学の中の日本人像というのを大学院のときに研究したので、この作品はスペイン語版を丹念に読みました。スペイン語とカタルーニャ語で、どちらかがドイツ語から、どちらかが英語からの翻訳なのですが、翻訳だと名字で呼び合う男の子たちの微妙な距離感がでなくて、残念だなって思いました。塾とか説明はしているんですけど。「死を探す3人の少年たち」というようなタイトルがついていて、ミステリーだと思ってしまうとネイティブの人に言われました。今もう絶版になっていると思うんですけど。お葬式で死んだ人の顔を見てすごくこわくなる、あのおじいさんだったら死ぬかもって思って見にいくというのは、私は違和感なく物語に入っておもしろく読みました。遠かった死が、プールでおぼれた出来事を通して鮮明になるところや、それぞれの抱えている問題に踏みこみはしないけれど、互いに大事にしあっているこの世代の子たちの友だちとの関係の書き方など、とてもうまいと思います。10年前ですが、当時小学校6年生だった息子もおもしろく読んだようでした。

レジーナ:小学校の高学年か中学のときにはじめて読んで以来、心に残っている作品です。中学の友人が目を真っ赤にして学校に来たのに驚き、わけを聞いたところ、朝、電車の中で『夏の庭』を読んでいたら、涙が止まらなくなったと言っていたのを、今も覚えています。印象的なのは、亡くなったおじいさんの唇にブドウを押し当てて、「食べてよ」という場面です。嬉しかったことや悲しかったことをもっとおじいさんに聞いてほしかったのに、もうそれができないと気づく場面は、大人になって、大切な人の死を経験した今、よりいっそう心に響きました。シンプルだけど、心を動かす言葉が多いのは、作者の人間性によるところも大きいのではないでしょうか。主人公は、夜寝る前に呼吸の数を数えているうちに、自分が死んでしまうのではないかと恐れを抱きますが、そうした死への恐怖心は、身近な人の死を知らない幼い子どもでも、本能的に感じると、詩人の工藤直子さんが自身の生い立ちや息子さんのことを書いたエッセイの中で語っていました。副題の “The Friends” は、子どもの目にはお洒落に映りますが、なくてもいいのではないかと、今は思います。

タビラコ:ついでに。おじいちゃんと種屋のおばさんがいっている「ユキオコシ」っていう花、ネットで調べたら、とってもすてきな白い花でしたよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年10月の記録)


オトフリート・プロイスラー『クラバート』

クラバート

アカシア:好きな作品です。前に読んで、今回また読んでみたんですけど、独特の雰囲気を持っていますね。伝承の物語を作家が脚色して書いたものですが、子どもの読者にはわからない部分もありますね。粉屋とか水車小屋はいろんな象徴的な意味合いを持っているけれど、日本の子どもだとドイツの子どものようにわからないかなと思いました。雰囲気のおもしろさは日本の子どもも楽しめるでしょうけど。訳に少し補いがあると、その辺のおもしろさがもっと伝わるかな。

レジーナ:小学校6年生のときから、何度も読み返した作品です。アウグスト殿下との密談や、デカ帽伝説など、もとの伝説にプロイスラーがつけ加えた部分は作品全体の流れの中で唐突な印象を与えますが、それでも読ませてしまうのは、物語の力ですね。『闇の底のシルキー』もそうでしたが、これ以上進んだら帰れなくなるというぎりぎりの深さまで突きつめた少年が、最後にふっと現実の世界に戻り、大人としての人生を生き始める物語です。そうした刹那的な危うさに、少年特有の成長のあり方を感じました。

カイナマ:これを読んで最初に思い浮かんだのは、シューベルトの歌曲「美しき水車小屋の娘」です。ドイツ的なお話なんだろうなと思いながら読みました。実際はヴェンド人というドイツ的世界とはまた異なった文化圏の伝説だそうで、おもしろいですね。ストーリーとしては飽きさせずおもしろく読ませると思います。最後は少女とクラバートとの愛。目隠しをされたけれども、心配している心が伝わってこの人だと分かったというのは、いい終わり方だなと感心しました。歴史的には北方戦争の時代の話とか。ちょっと調べてみる必要がありそうです。親方のもう一つ上の大親分の存在など、よく分かりません。最後に予想外のことが起きて、読者をドキドキさせ最後はうまくいくというのは、いい物語のおさめ方だなと思いましたね。

ウアベ:物語としてすごくおもしろい、何年もかけて書いたとありますが、書き込まれた物語だなと思いました。今の日本とは遠い世界のことだけれど、景色とか水車小屋の様子とか情景が浮かんでくるのがよかったです。食べ物にありつけるというので水車小屋に行くんだけれど、親方が魔法使いだということとか、1年にひとりずつ死んでいく意味とか、ユーローの2面性とか、読むうちにわかっていくのがおもしろい。地位にしがみついている親方の、自分中心のあり方は政治家みたいですよね。終わり方が小気味よいというか、娘がよくやってくれたなって、物語として安心できてよかったなって思いました。

タビラコ:たしか1980年ごろに初めて読んだとき、とても感動して、こんなにおもしろい本はないと思ったのを覚えています。今回、なんであんなに感動したのだろうと思いつつ読みかえしたのですが、やはりプロイスラーの卓越した「物語る力」なんですね。それから、自然の描写や、日本ではなじみのないキリスト教のお祭りといったドイツ的なものに魅了されたのだと思います。もちろん、伝説の力もありますけれど、それをこれだけ自分のものにして書き切るとは、やはり素晴らしい作家だとあらためて思いました。いま、ウアベさんから政治家の話が出ましたけど、私も読みながら政治家のあの人やら、この人やらの顔を、親方の顔と重ねていました。二言目には、強い日本とか、いざとなったら戦争も辞さないといいながら、自らは戦地に行くこともないのに若者を戦争に、死に追いやる危険にさらしている人たちのことです。昔話は、いろんなメタファーとして読めることから語りつがれ、読みつがれてきているのだと思いますが、この物語もいつまでも読みつがれていってほしい1冊だと思います。昔は、最後の愛の力で死や悪に勝つという結末に感動したのですが、今回はたぶん歳のせいでしょうか、結末に至るまでの物語に魅せられました。

レジーナ:『夏の庭』には骨を拾う場面がありましたが、『クラバート』は、遺体を埋める文化の中で書かれた作品ですよね。東洋や西洋の死生観が、児童文学の中にどう表れているかを考えていくと、おもしろいのではないかと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年10月の記録)


デイヴィッド・アーモンド『闇の底のシルキー』

闇の底のシルキー

カイナマ:おもしろく読んだって言えばおもしろく読みました。廃坑になった炭坑の町を舞台に、かつて炭坑の事故で死んだ子たちの名前が彫られている中に全く同じ名があるというのはちょっとドキっとする設定です。物語としてはよくできてるなあと思いました。死のゲームっていうのは時代や場所が違っても、子どもたちはよくするものなのでしょう。そして13歳で死んでしまった子どものたちの姿が見えるというのも、なんだかスッと受け入れやすく書いてあるように思います。ジョン・アスキューという問題を抱えた子を救う物語でもあるし、キットが自分の存在を確認する物語でもあるのかなと思います。最後おじいちゃんが亡くなるんですけど、そのおじいちゃんにかわいがられた女優志望の娘アリーも、人物がよく描かれているなと思います。

プルメリア:最初に書かれていた「時計の針を戻して・・・」を読んで、神隠しから戻ってくる話なのかなと思いましたが、まったく違いました。茶色く色あせた本、字も細かくて読みにくいなと最初作品を手にした時思いましたが、1章があまり長くなく次の章を読みたくなるような終わり方。死のゲームがあり、途中からラクの冒険物語があり、怖い存在のシルキー少年がときどき出てくる。重たい部分があっても明るさがある作品に惹きつけられて一気に読みました。登場人物では少年のおじいちゃんにすてきな印象。読み終えたとき、重い作品というより大きな山を乗り越えたおだやかなさが残りました。同じ作家の『パパはバードマン』(金原瑞人訳 フレーベル館)は、絵はすてきでしたが難しかった。でも今回の作品では、この作品がいちばんよかったです。残念なことは、出版されて10年あまりなのにこんなに紙が変色していると手にとられにくいかな。

アカシア:ストーリーが単純ではないですね。テーマの一つは死だと思いますが、とても重層的に描かれています。現実世界ではおじちやんが死に向かっていて、子どもたちは死のゲームをしていて、アスキューは自分は死のうとある時点で思っているわけだし、それにキットをひきこもうとしているわけだし、キットはラクの物語を書いて乗り越えようとしているし、アリーは「雪の女王」という子どもを死に誘う物語の役をしている。そういうものが複雑にからみあっているので、それがおもしろいところだなと思いました。この作家はリアリズムともつかず、ファンタジーともつかない部分がありますね。シルキーという不思議な存在が出てきて、それがリアリズムの中に入り込んでくる。そういうところが、ほかの作家と違う、おもしろいところだと私は思いました。

レジーナ:これ以上進んだら、死の世界に足を踏み入れてしまうというぎりぎりのところで子どもたちを救うのが、目に見えないものの存在なんですね。おじいさんが炭鉱夫というのは、アンモナイトなどの太古の遺物が入り混じった闇を旅するタイムトラベラーだと語る場面がありますが、死の世界を行き来しつつあるおじいさんもまた、過去の記憶をたどるタイムトラベラーの段階にあります。そのおじいさんによって、炭鉱に象徴される闇の中にいるキットが助けられ、新たな人生を生き始める過程が、美しい寓話として描かれています。ラクの物語も心に残りました。キットは、ラクの物語を自分の物語として語ることによって、過去と現在、想像と現在、闇と光をつないでいくんですね。それと対照的なのが、闇の底をのぞきたいという欲望は危険なことだと考える校長先生です。しかし子どもは、一度心の闇に入って、子どもとしての自分を殺すことで、大人になっていく。一方、女の子のアリーは、『雪の女王』を演じることで、そこまで危ういところまで踏みこまずに、成長のプロセスを上手に乗り越えているように感じました。

タビラコ:思春期の人たちが半ば暴力的に死に近づいていくというのは確かだと思うけど、男女の差があるのかしら? それはともかく、アーモンドの作品には『肩甲骨は翼のなごり』(山田順子訳 東京創元社)もそうだけれど、とても魅力的な女の子が出てきますが、この作品のアリーも生き生きとしていて魅力的ですね。わたしがアーモンドの作品を読んでいつもすごいなと思うのは、登場人物の内面を深く掘りさげて書きながら、とても大きな世界を同時に描いていることなんですね。『火を喰う者たち』ではキューバ危機、この作品も太古の大陸が一つだけだったときのこととか……。ただ、翻訳は、とても難しい作品なんだろうなと思います。おじいちゃんが「闇」について語るところなど英語ではdarkness だけど、「闇」っていうととたんに深遠で、高尚な感じになってしまうし……。

ウアベ:すごく重層的で、情景や人物描写が本当にうまい。優等生じゃない人たちの描き方がうまくて、人物が魅力的だと思いました。生命とか生きることの不思議、人間の存在の不思議、時間が積み重なっていくことか、表面的ではなく、深いところまで入っていく感じがしました。それと土地の雰囲気。炭坑あとの、夜になると真っ暗になりそうな荒野の感じがすごく伝わってきて、真っ暗な穴の中にふとシルキーが浮かび上がってくるイメージがすてきだなと思いました。日常の中にふと不思議な物がでてくる、現実に足がついているからこそこういうファンタジーが生まれるんだと思いました。貧しい人々が多いラテンアメリカではプリミティブなものから発生したファンタジーはあっても、ハイファンタジーは生まれにくいとこのごろ思うのですが、アーモンドの作品は土地に根ざした感じに類似性を感じました。

アカシア:ハイファンタジーというのはどんなのですか?

ウアベ:この世界とは別の1つの世界をつくって、その中で現実ではない物語が展開するというようなものじゃないですか。それから、p145「だから、あたし、演じるのが好きなんだよ、キット。魔法みたいだもん。」の書き方が好きだなって思いました。この子は演じることで、そして主人公は書くことで救われているんだろうなって思って。それにアスキューの描き方を見て、この作家はいろんな人を見て生きてきた人なんだろうなって思いました。こういう人物はなかなか描けないでしょう。アスキューのお父さんは、アスキューが自分を認めることができなくなるくらい、ひどい行動をとってきた人なのに、最後は希望を見せてくれてますね。

タビラコ:アスキューの一家も、お父さんは飲んだくれで暴力的だしどうしようもない荒んだ家族だけれど、周囲の人たちが排除しないで、それとなく見守っているという感じがいいですね。

ウアベ:人生の複雑さが垣間見える小説ですね。

カイナマ:さっき校長先生の話が出たけど、イギリスの学校の先生はムチを振るったりして厳しいんでしょ。

アカシア:昔はそうでしたが、今は違うんじゃないでしょうか。

カイナマ:学校の先生という点から見ると、校長はアスキューなんかに近寄るな、とはっきり言い、事件後には放校処分にしちゃう。一方芝居に力を入れる子、絵の才能がある子は先生としても認めている。やっぱりある種の枠があって、そこから外れるのはだめっていう判断は、今でもあるでしょう。アスキューのような生徒はきっと今でもいて、学校という組織が救うのは難しいんじゃないかな。残念ながらその子のよさを認めて伸ばしてやれない生徒がいるというのは今もありますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年10月の記録)


鷹のように帆をあげて

ハリネズミ:ちょっとここはどうなのかな、と思う点がいくつかありました。たとえば、不思議なおばあさんの登場は必要だったのだろうか、とか、同じクラスの根本舞子ちゃんが理央がリストカットをしているのではないかと疑ったり鷹を飼っているのを知らなかったりするのは不自然じゃないか、とか。小さな町という設定だと思うので、理央が毎日鷹を腕にとまらせて外を歩いていれば、すぐにみんなに知れ渡るんじゃないでしょうか? それから、死んでしまった遙ちゃんですが、その後は手袋が登場するだけで、理央が遙のことを思い出したりすることがないため、重い心の傷になっていることがあまり伝わってきません。でも、全体としては、とても好感を持っておもしろく読みました。理央が徐々にモコを知っていき、悩んだり、考えたり、工夫したりする姿がとてもよく書けています。しかも鷹なので単なるペットではなく、野性的な面も活かしていかないといけないということで、人間と動物との間の距離を考えるにもいいなあ、と思いました。鷹を飼ううえでどんな工夫をしていったかが具体的に書かれているので、読者も物語の中に入り込めます。会話が福岡弁でかわされているのもいいし、実在の石橋美里さんがモデルだという平橋さんもとてもさわやかですてきでした。

紙魚:きっと作者は、おばあさんは不思議な存在のままにしたかったのではないかと思います。理詰めではなく、どこかで何か、不思議な力が働いている物語にしたかったのではないかと。

タビラコ:さわやかな、いい作品だと思いました。なにより福岡弁で書かれているのが、魅力的。その地から生まれた言葉の力を感じました。魚住直子さんの『園芸少年』(講談社)もそうでしたけど、ものを育てていく過程が詳しく書かれているところがいい。これを読むと、ペットの犬やネコを飼うのが、なんだかやわなことに思えてきて。おもしろかったのは、鷹匠がカラスの被害を防ぐという社会的な活動をしていること。この作品を読むまで知りませんでした。ただ、冷凍のヒヨコを食べさせるところは平気だったけど、食用のカラスを輸入するというところで、ちょっと引いてしまいました。でも、よく考えれば猛獣や猛禽類を飼っている動物園などでは当然のことで、現場から遠いところにいる私のような人たちが気づかないか、気づかないふりをしているだけなのよね。そういうところまで、きっちり書きこんでいるところがいい。そういうところで引いてしまう私は、まだまだ修行が足りん!と思いました。

ハリネズミ:そういう部分を気持ち悪がる人はいると思いますが、この間私はゲイハルター監督がつくった「いのちの食べかた」っていうDVDを見たんですね。人間の食事が見えないところでとんでもないことになっているのが、よくわかりました。人間は、チャップリンの「モダン・タイムス」に出てくるようなことを、命あるヒヨコでも、牛でも豚でも野菜でもやってるんです。冷凍のヒヨコや生きたカラスを鷹に食べさせたりするのは、それに比べればずっと自然です。

レン:この女の子が鷹を飛ばせられるだろうかというのと、友だちの死を克服できるかという二つのストーリーにひきつけられて一気に読みました。さわやかで感じのいいお話。三人称だけれど、かぎりなく理央ちゃんの気持ちに近い書き方ですね。康太もいろいろな思いを抱えて物語を持っていますね。お母さんとのことや、だからこそお寺のことを一生懸命やるとか、この子の話でもうひとつ小説が書けそうなくらい。でも、これは理央ちゃんの話だから、あまりつっこまずに、さらっと流しているんでしょうね。理央ちゃんが、一つ一つ発見しながらやっていくのがいいですね。うまくいかなくて、人にきいてみると向かい風の方が飛びやすいと教えられるところなど、とてもいいと思いました。

レジーナ:昨年、まはらさんの『最強の天使』(講談社)を読みましたが、より完成度の高い作品に仕上がっていると感じました。「帆飛」というタカ特有の飛び方や、「向かい風が吹いていた方が飛びやすい」など、人の人生に通じるような細々とした要素が盛り込まれている作品です。康太にとっての向かい風が、養子として育った生い立ちというのは、エピソードとしては少し弱いようにも思いました。理央が友人の死を乗り越えるきっかけをくれるおばあさんの存在が唐突で、結末まで読み進めても、よく理解できませんでした。また平林さんの描写ですが、主人公のロールモデルとなる人物なので、もっと目の内に映るようにいきいきと描いてほしかったです。

プルメリア:すごくおもしろかったです。主人公理央が鷹匠を目指す過程と、亡くなった友だちへの思いがこの作品にあり、二つが平行しながら進行していくストーリーとして読みました。話題になっているおばあさんの言葉は、少年にとっては産みの母とのふんぎり、主人公には友だちとのふんぎりになっていると思います。お友だちが寺に来たとき、「こ、こ、こ」と言った場面、この子は康太のことを言ったと思うんですけど、理央には鶏の鳴き声に誤解されて、すぐ誤解は解けますが、かわいいな、と。お寺の日常生活が書かれていたのでお寺さんにちょっと親しみを持てました。お友だちにかえしてあげようと、鷹が手袋を持っていく場面、いい終わり方だと思いました。

サンシャイン:「鷹匠」の話というので興味深く読みました。小説の中の中学生と、実在する高校生の鷹匠の交流など、流れはいいと思いました。「鷹匠」というと思い出す作品があります。戸川幸夫の『爪王』(国土社)です。鷹と鷹匠の戦いなんですね。暗いところに1週間置いておいて飢えさせて、鷹匠が与える生肉を食べるかどうか。それが印象が残っているので、それとの関連でとらえると、現実の高校生の実話の方に確実に力があります。正直言って、フィクションのお話の主人公の方が、どうしても弱い。新しい友だちが出てくるけれど、同じ街の中のこととして、友だちが死んだことくらい、知っているだろうとか、街中で鷹を腕に乗せて歩いていたら、みんな知っているだろう、だから腕の傷を見て「リストカットしたの?」という質問も嘘くさい。結末の手袋が消えてなくなるあたりも、筆者にファンタジーの発想があるんだろうと思うんですね。ファンタジーよりも現実の話の方が圧倒的に力があると思います。

タビラコ:でも、フィクションがノンフィクションを超えることは、よくあることだし・・・。

ハリネズミ:私は、実在の高校生の石橋さんが、この物語では、平橋さんの中だけでなく、理央の中にも、かなりの部分、入り込んでいると思いました。平橋さんと理央と、二人が一体になっているような気がします。

レン:実際の鷹匠の女の子は強さがあるのでしょうけれど、誰にもまねできないような人のことを書いても、普通の中高校生は、あの人は別だと思ってしまうのではないかしら。でも、理央ちゃんが、何気ない出会いから新しいことをはじめ、自分なりに進んでいく姿は一般性がありますよね。そして、あきらめないでやっていく。これはこれなりに意味があると私は思います。優等生の物語というか、この人だからできるんだろうというのではなくて。

紙魚:作者のまはらさんは、この作品の前に、中学校弓道部を舞台にした『たまごを持つように』(講談社)、工業高校機械科を舞台にした『鉄のしぶきがはねる』(講談社)を書いていて、この『鷹のように帆をあげて』と同様、現実を取材したうえでフィクションを書きあげるという方法をとっています。3作とも、物語を読んでいるうちに、弓道、旋盤、鷹匠という知らない世界について、自然と知っていくという経過をたどります。どのくらい現実を注ぎこむのがいいのか、その塩梅は難しいと思うのですが、中学生の読者が読むには、難しくなりすぎず、自然に物語を楽しめるというようになっていると思います。それから、一概にはいえないかもしれませんが、それなりに年齢を重ねている作者が書く作品というのは、自分のことをわかってほしくて書くというよりも、他者に思いを寄せて書くという姿勢が強くて、安心して読めるような気がします。

レン:女性の書き手だと、4、50代で、子どものために書くんだという覚悟を持っているなという人を何人かあげられるけれど、男性だと60代以降はいても、それ以下だとすぐに思い浮かばないんですよね。売れると、大人の作品に行ってしまうのか。残念だし、これからどうなるのかと思います。

*この後、誰かが「絵本はいるけどね」と言い、一同、「そうそう」という会話がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)


ヘレン・ブッシュ『海辺の宝もの』

海辺の宝もの

レジーナ:今回課題となった3作品は心に残るものが多かったです。この作品は、はじめて知りました。最初は、「悪魔の二枚貝」と呼ばれていた貝が、後になって正式な名前が明かされるのがおもしろく、挿し絵もわかりやすかったです。福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社)に、「石には生物の痕跡がないけれど、貝には命の名残りが感じられる」とあったのを思いだしました。この作品でも、主人公は父親の死を経験するので、大切な人の死を経た主人公が、大昔に命を宿していた貝を集めるということの意味まで含めて書いてほしかったです。そこまで描ききれていないのは、作者が科学者だからでしょうか。割ってみたら、隠れていた美しい模様が外に現れたり、何度も同じアンモナイトを見つけたり、人生そのものに重なるようなエピソードはたくさん埋まっているので、もっと掘り下げていれば、さらによかったのですが…。ジェーン・オースティンも、同じ場所を舞台にしているので、学生時代に英文学の授業で『エマ』を読んだときのことが、心に浮かびました。「かわいいメアリー」という訳には違和感をおぼえました。

プルメリア:今回の選書担当は私です。以前読んだ『メアリー・アニング: 物語化石を見つけた少女』(キャサリン・ブライトン著 評論社)がおもしろくて、恐竜の化石を見つけたことが主だったのですが、この作品は別で、佐竹さんの絵、表紙を見て、手に取りました。いろいろな化石の挿絵があり、各章のタイトルもすてき。挿絵から生活様式がよくわかるので、子どもにもわかりやすい本。主人公メアリーは、同年齢の友だちがいなくても平気な子で、大好きなお父さんの仕事を手伝う。石集めのその楽しさが伝わってくると同時に、お父さんから海のことを教えてもらい、海の怖さがいろんな場面から伝わってくる。化石を見つけたことだけではなく、周りの大人たちに助けられたり、同年齢の子と仲良くなったりすることもほほえましい。1965年に書かれた作品なのに、今読んでも読ませるのは、作品がいいからでしょうね。

ハリネズミ:物語としてはなかなかおもしろかったし、人々の生活感や思いは生き生きと伝わってくるし、海辺で見つかるものにも興味がわくと思ったんですけど、大きくひっかかったところがあります。それは、主人公のメアリーが、「宝物」だけで満足していて、自分は科学者になろうとは考えないこと。そのあたり、たとえば『ダーウィンと出会った夏』(ジャクリーン・ケリー著 斎藤倫子訳 ほるぷ出版)の主人公キャルパーニアの方がずっと魅力的だし、新しい。たぶんイギリスが階級社会であることが災いして、当時の労働者階級のメアリーは科学者にはなれなかったんだと思うんです。原文は見てないのでわかりませんが、実生活ではメアリーやその家族が使っている言葉と、学者やヘンリー・デ・ラ・ビーチやお得意さんの紳士淑女が使っている言葉は明らかに違うはずです。でも、そのあたりは訳文からはうかがえません。そうなると、日本の読者たちは、なぜメアリーはヘンリーと結ばれないんだろうなんて、不思議に思うかもしれませんね。

サンシャイン:興味深く読みました。作者は、メアリー・アニングという人物を知ってもらおうと思って、創作という形で書いたんだと思います。家族それぞれの化石への興味の持ち方が違うあたりとか、それぞれ書き分けられています。少し一般論になりますが、タイトルの原題は“Mary Anning’s Treasures”で、原題には固有名詞が出ているのに、日本語訳すると、固有名詞をはずして邦題をつけることが多い。もともとの原作は、個人というものを前面に出そうとしているのに、日本では個々人というようには見ていないのではないか。人間観が違うからでしょうか。例えば、邦題は忘れましたが、“Nathan’s Run”というのがありました。ネイサンは単なる主人公の固有名詞なんだけど、この本については、歴史上の人物なのだから、伝記に近いわけで、例えば副題に「メアリー・アニングの生涯」と入れるべきだと思いました。作者が、メアリーの存在を読者に知らせようと思って書いたわけだから。

ハリネズミ:東京ではそれほどカタカナ名前に抵抗はないのかもしれませんが、地方に行くとカタカナの名前が書名にあるだけで読まれないと聞いたことがあります。たとえば滋賀県の図書館のある館長さんは、とても工夫がじょうずで、転勤先の図書館をどんどん改革していくのですが、この間お話を聞いたときには、外国の作品、日本の作品と書架を分けると、子どもは日本の作品しか読まないので、童話や児童文学は日本のも外国のもいっしょにして著者の五十音順に並べたっておっしゃってました。それくらい、外国のもの敬遠されちゃうんですね。だから、なるべく多くの子どもに読んでほしいなら、書名や表紙のデザインは日本の子どもたちが手に取りやすいように工夫する必要があると思います。  ハリネズミ:鈴木先生は、欧米では個人にこだわるっておっしゃいましたけど、そうとばかりは言えません。たとえば、日本の絵本を翻訳出版するとき、欧米では主人公の名前を平気で自分の国の子どもの名前に変えちゃったりしますからね。アジアでもそういうケースがあります。

タビラコ:名前の持っているイメージまで翻訳で伝えるのは、とても難しいわよね。翻訳で越えられない壁のひとつというか……。たとえば、ハリポタの「ハーマイオニー(Hermione)」だって、とても古風な名前なのでイギリスの子どもたちのなかにも読めなかった子がいたとか。「ハーミ・ワン」と読んでいたそうです。

プルメリア:読めない子どもたちには、「毎日少しずつでも読むと、楽しく読めるよ」とすすめています。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)


パドマ・ヴェンカトラマン『図書室からはじまる愛』

図書室からはじまる愛

レン:よくありがちな古風な話だと思ったけど、ヴィドヤが最後どうなるのかに惹かれて読みました。いちばんおもしろかったのは、インドでずっと暮らしていた作者らしく、インドの暮らしぶりとか衣服とか食物、家族の関係、社会の様子が書かれているところ。でも、物語には疑問も残って、事故のあとでお父さんの実家が移ったときに、なぜこのおじいさんはもっと早くにヴィドヤに手をさしのべてくれなかったのかなと。最後、大学に行かせてもらえてよかったですけど。

ハリネズミ:おじいさんは、日常の些末なことには気をとられない暮らし方をしてるから、気づかなかったんじゃないの?

レン:でも好きな場所もあって、たとえば最後にお兄さんが、お父さんの考えを理解しながらも軍隊に入るとこと。家族で理解し合いながらも進む道が違うというのはおもしろいなと。それから、図書館で出会ったラマンにノートをもらって、ノートを書き始めるp134の場面。どこにも持っていきようのない自分の気持ちを文字にすることで解放されていく感じが、よく出ていると思いました。でも全体的には、すごくおもしろいのかというと、そうでもないかな。真面目くさくて。この子があまりにもいい子だからか。苦労して苦労して、「おしん」みたいな雰囲気。大人向けに出されているし、日本だと高校生は手にとるのかなと思いました。

タビラコ:どうなることかと思いつつ、一気に最後まで読みました。食べ物や衣服の描写がとても魅力的でしたね。ただ、いちばんひっかかったのは、いちおうカースト制度に言及しているところもあるけれど、結局は恵まれた人たちの話なのでは?ということ。それはそれでいいのだけれど、もう少し社会全体を感じさせる、奥行きのある書き方をしてほしかった。それよりなにより、タイトルが気になって……。

レジーナ:私もそう思いました。映画のタイトルにありそうですよね。

タビラコ:この「愛」って、なんなんでしょうね? 階段を上がったらすばらしいものがあったということだから、本に対する愛なんでしょうけれど、思わせぶりで、ずるい。

レジーナ:非常に深く読むとすれば、自分の人生を丸ごと受け入れる「愛」なのかとも思いましたが・・・。

ハリネズミ:この本は、出てすぐに読んだんですけど、主人公が好きになれませんでした。今回、みんなで読もうということになって取り出してきたんですけど、内容をほとんどおぼえていなくて、もう一度読み直しました。第二次大戦の影響を受けつつあるインドの状況はわかるし、お金持ちのインド家庭の様子もわかる。表紙とカバーが違うなど、本づくりにも工夫がある。でもやっぱり、私は主人公のヴィドヤに好感を持てませんでした。だってね、自分のせいで父親が大けがを負ってしまったという自責の念があると言いながら、父親のことを始終気にかけるわけでもなく、平気で「脱け殻」と言ったり、「いっそ死んじゃってくれてた方がよかった」なんて言うんですよ。それにヴィドヤは、保守的な伯父に対してリベラルな自分の家族の方がいいと思ってはいるけど、カースト制度そのものに根本的な疑問を抱いているわけではなく、ちょっと生活のグレードが下がると不平ばかりこぼしています。ビクトリア駅でおじさんの荷物をクーリーに運ばせる場面がありますが、白人の少女から自分がクーリー呼ばわりされると、かんかんになる。自分はもっと上の階級なのだと、主張しているだけのようにとれます。登場人物はすべて類型的で、ひとりひとりが一定の役割を持たされている感じ。恋人のラマンにしても、ハンサムで優しいという以外には、人物像が浮かび上がってきません。生きている存在として迫ってこないから、インドを舞台にしたハーレクイン・ロマンスみたい。それに、ヴィドヤが好きになる本にしても、タイトルは出てくるけど、どんなふうに影響を受けたかは出てこないので、表面的です。今回の3冊の中で、いちばん残念な本でした。

レジーナ:ヴィドヤは、 M.M. ドッジの『銀のスケート』を読んでいて、記憶をなくした父親を持つ主人公と自分を重ねているんですけど、本との出会いを通して、自分の問題をどう受け入れていったかは、書かれていないんですよね。

プルメリア:映画のパンフレットみたいな表紙。インドの本を初めて読みましたが、インドからイギリスを見る視線が出ているなと思いました。おばさんのいじわるな言葉をはねのけながらたくましく生きていく様子が、わかりやすく書かれている。最初の場面で、お友だちにお父さんが非暴力運動に関わっていることを話してしまうシーンがあります。この時代に他人に話すことは絶対にいけないことなのに、いつお父さんの正体がばれるか、すごく心配で、読み進めるのがこわかったです。その友だちとは別れるのだけど、少女の浅はかなひとことに、どきどきしました。図書館は2階で、女の人は行ってはいけないから、入れないのかな。利用者が少ないのはもったいない。おじいさんが本を集め、自分の子どもである(少女の)お父さんも利用したのでしょうが、いろんな文化的なものがあるのに、図書館を広めないのは、読む人がいないからでしょうか。

レジーナ:昔の王族のように、読むための本ではなく、権力の象徴や財産としての本なのでしょうか。

レン:家の中でも、男の人は行ってもいいけれど、女の人が行けないところがあると書かれていますよね。

プルメリア:女の子でも学問の志を持てる時代かな。少女は、学びたいという気持ちがあって、大学に行きたいという気持ちを持っている。

ハリネズミ:この家族は、いちばん上の階級ですからね。

プルメリア:身分制度で?

ハリネズミ:だから、図書室を一般の人たちにも開放しようなんて、ありえない。食事のお皿だって、下の階級のメイドさんが洗った後、もう一度家族の者が洗い直してるんですよ。身分差別だけじゃなくて女性差別もあるから、女は2階には行けなかったのよね。

タビラコ:男の人の上に登っちゃいけないってことかしら。それだったら、平屋にすればいいのね(笑)。

プルメリア:最近、テレビでインドの暮らしが紹介されていましたが、インドは、階級が、今でも残っていました。

レジーナ:原題の“Climbing the Stairs”を見たときに、マリア・グリーペの『エレベーターで4階へ』(山内清子訳 講談社)を思い出しました。これは、スウェーデンを舞台に、母親が住みこみの家政婦として雇われたことで、主人公もその屋敷で暮らすようになり、生まれてはじめてエレベーターに乗って、新しい世界を知っていく物語です。『図書館からはじまる愛』も、階段を上がった先にある図書室で、新しい世界に触れる点に意味があるので、「愛」という大きな概念でまとめてしまった題名には、違和感があります。裕福に育った少女が、食べるのに困らない環境で、意地悪な人々と暮らすという設定は、『小公女』のようですね。最後の方のp240で、平和や愛についてのタゴールの言葉に触れていますが、この1節だけでも、とても深い内容を表しているので、主人公の人生と重ねて、作品の中でもっと使うこともできたのではないでしょうか。イギリスとインドの問題を考えたときに、ロザムンド・ピルチャーの“Amita”という短編が思い浮かびました。登場人物のひとりで、裕福でハンサムな青年が、家族の反対を押し切って、フランスとインドのハーフの女性と結婚するのですが、青年は、その経験を通して、人間性を深め、成長していきます。『図書館からはじまる愛』も、ヴィドヤが変わっていく様子が描かれていればよかったのですが…。p36のヒンズー教の説明は興味深かったです。

サンシャイン:本を買う前に、インターネットであらすじを読み、すっかりお父さんが死んでしまうと思ってしまっていたら、読んでいて、お父さんは死なないんだと気づき、人間というのは、最初の思い込みにけっこう限定されちゃうもんだなと思いました。怪我をして、口もきけなくなったお父さんを家族で抱えながら、という展開は、予想もしなかったので、お話としてはよくできていると思いました。結局、お父さんが生ける屍になってしまったのは、自分が原因だと主人公が思っていて、それを人になかなか言えずに心の中に抱えているわけです。主人公のお嬢さんにとって、重い心の負担。『兵士ピースフル』(マイケル・モーパーゴ著 佐藤見果夢訳 評論社)という物語で、弟が、自分のせいでお父さんが死んでしまったと思っているけれど、人には言えなくて、兄が殺される直前にやっと言える。兄さんから、「お前が殺したんじゃなくて、とうさんを殺したのは木なんだ」と言われて弟が救われるという話がありましたが、パターンとしては似ている。物語の最後で、「お前のせいではないよ」と言われることで救われる。

ハリネズミ:ヴィドヤは、苦しんでいるというより、かっとなって言い返すという反応しかしてないから、共感しにくいですよね。

タビラコ:お父さんが非暴力運動をしていることを、学校で友だちに打ち明けてしまうところが不思議だったんですけど……。

サンシャイン:インドにおける抵抗運動というのは、朝鮮における抵抗運動や、フランスのレジスタンスとは形が違うのか? 私は、素直に、戦争中のインドはこうだったのかなと、受け取りました。お祭りがどうだとか、描写が細かかったものですから。主人公うんぬんよりも、当時のインドの姿はそうだったのかなと読みました。戦争に行くお兄さんに会いに行くときに、インドの庶民の場に行ってしまいますよね。歴史小説っていうと変ですが、戦争中のインドの現実の姿はこういう感じだったのかとイメージができました。

レジーナ:ドキュメンタリーみたいですよね。

サンシャイン:題名はあまり感心しませんでした。

レン:男女差別があって、女性はスポーツもできず、外国にも行かれない、この時代のインドで、普通の女の人のようには生きたくない女の子の話だというのはわかりますよね。

レジーナ:お医者さんになるという道を選ぶまでの心の動きを、読者が納得できるように描いてほしかったです。

プルメリア:少女が『銀のスケート』を読んだときに、父親を治すためにお医者さんになりたい予感がしました。

ハリネズミ:お父さんのこと、死んじゃえばいいなんて言っているのにね。取ってつけたみたい。よく作家が、書き始めると勝手に登場人物たちが動き出すって言うじゃないですか。この作品は最初に図式があって、最後までその図式どおりにしか人物が動いてないんじゃないのかな。

レジーナ:フィクションではありますが、家族の歴史を記録したドキュメンタリーのような作品を書きたかったのかもしれませんね。

サンシャイン:お兄ちゃんが、父親が考えていた非暴力ではなくて、必要な時は戦わなければだめなんだという考えを持ったのは、いかにもアメリカ的ですね。

タビラコ:アメリカ人の読者には、受けるでしょうね。私は、同じ抵抗運動をあつかったものとしては、リンダ・スー・パークの『木槿の咲く庭』(柳田由紀子訳 新潮社)のほうが、ずっとよく書けていると思ったけど。

ハリネズミ:これはアメリカ讃歌みたいな終わり方ですね。作品としての迫力がさらにそがれてしまっているように感じます。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年9月の記録)


デイヴィッド・アーモンド『パパはバードマン』

パパはバードマン

プルメリア:挿絵がとてもすてきだなと思いました。場面によって文字が大きくなっているところも読みやすいな気がしました。お父さんは、お母さんが亡くなって落ち込んでいて、虫も食べちゃうというのが・・・。最後、コンテストに出場して元気になる。子どもがいつもお父さんに寄り添っていくのがいいし、鳥コンテストに出場する人達が発想豊かでかつユニーク、一生懸命努力する姿がいいなと思いました。最初は読んでいてどうかなと思いましたが、だんだんひきこまれて。お父さんが鳥コンテストに出場することで自分をとりもどしていくのかなと。登場人物がみんないい人っていうのもいいなと思いました。

レンゲ:こんなお父さんがいたら困るだろうなあと、ソフィーに同情しながら読み進めました。けれど、これまでのアーモンドの作品に登場してきた異質な者、普通という枠におさまらない人々と、このバードマンになったお父さんには、どこか共通のものがあって、ソフィーの人生も、やはりこのおかしなお父さんとのかかわりでより豊かになるのも感じられました。ただお話としてはハチャメチャで全然収束しなくて、読み終わってもすっきりしませんでした。ペロペロスースーというのも、ちっともおもしろくないし。

紙魚:読んでいて気になったのは、「ダンプリング」という食べ物。p55の初出で、「くだものいっぱいのダンプリングよ」という1文に突き当たったとき、これがどんな食べ物なのか、さっぱりイメージがつかめませんでした。たとえば、「くだものいっぱいの○○○○、ダンプリングよ」と、少しヒントが加えられていたりすると、もう少しその食べ物への期待が持てたんですが……。

アカザ:すいとんみたいなものよ。

紙魚:パパがどうしてこんなふうになっているのかわからず、この物語をどう読めばいいのか最後までわかりませんでした。充実した満足感は持てなかったです。いいなと思ったのは、章ごとの視点の移り変わりです。章ごとにパパがメインに描かれたり、ドリーンおばさんが描かれたりするんですが、散漫にならずに自然につながっていくのがうまいと思いました。このお父さんは、不思議な威厳もあると思うんですが、絵本『ガンピーさんのふなあそび』(ジョン・バーニンガム作 光吉夏弥訳 ほるぷ出版)のように、風変わりだけどやさしいまなざしを持ち得ているというふうに伝わってきたら、もう少し満足感が得られたのではと思います。

ルパン:『クロティ〜』を読んだあとにこれを読んだのですが、テーマなんだったっけって思うほど、違っていて…そのせいかあんまりお話に入りこめませんでした。ロアルド・ダールに似ている気もしたのですが。ファンタジーなのか、ナンセンスなのか、ブラックユーモアなのか・・・最後まで「?」でした。読みながら、この読書会で何て言おうかってことで頭がいっぱいになっちゃって。これがおもしろくないのはいけないんだろうかとか、よけいな心配ばかりしてました。なにしろ典型的日本人A型ですから。こういう素材で意味不明とかいったらつまんない女に見えるかなあとか、雑念全開でますますわけわかんなくなっちゃいました。このお父さん、お母さんが亡くなって精神的におかしくなっちゃったんだと思うと、どこを読んでも笑えませんでした。唯一キャラクターの中でよかったのは、コンクールがありますよって呼び歩く人。脇役がいいのはうまい作家なのかな、とは思いました。

アカザ:私は、アーモンドの作品が大好きで、たいてい読んでいます。でも、小さい子ども向けの作品を読むのは初めてなので、お気に入りの歌手が新しいジャンルに挑戦したときのファンのように、どうか成功してほしいと祈るような気持ちで読みました。最後まで読んでみて、着地に失敗しちゃったかなと残念な気持ちがしました。この話は、角度を変えてみると悲惨な話ですよね。トールモー・ハウゲンの『夜の鳥』(山口卓文訳 河出書房新社)を思い出しました。あっちが陰とすると、こっちは陽の書き方をしているけれど。お母さんが亡くなって、精神的なダメージを受けているお父さんを、リジーという子がそのまま受け入れて応援していくって話だと思うんですけどね。善意だけれど、応援のしかたが間違っているおばさんや、いい人だけど、あんまり力にならない校長先生や、得体の知れないミスター・プウプや、大人の人も大勢出てくるんだけど、いったいファンタジーなのかリアルな話なのか、作者の意図はどこにあるんでしょうね? 最初はミミズを食べてたお父さんが、最後にはおばさんが作ったダンプリングを食べるというところで、立ち直ったということを表現しているのかな? 大人向けの作品を書いている作家が子どもの本を書くと、よくこういうことになりますよね。小さい人たちは、ファンタジー的なものが好きだとか、ユーモアも散りばめなきゃとか、食べ物を出せば喜ぶだろうとか、いろいろなサービスを考えちゃうんでしょうね。
 この人のYAは『火を食う者たち』(金原瑞人訳 河出書房新社)ではキューバ危機を、まだ邦訳のない『raven summer』は、アフリカの難民の少年をというように、10代の人たちの内的世界と世界的なできごとを結びつけて感動を呼ぶんだけれど、そういうところはこの作品には見られませんね。それから、後書きで訳者が、お母さんの死についてなにか述べているんだけれど、これはなんなのでしょうね? どこか見落としたところがあるのかと思って、もう一度読み直しちゃったわ。

トム:挿絵は現代的でコラージュも、とてもきれい。ただ、絵から読みとることと、物語から読みとることのあいだが微妙に埋まらなくて、ずっと宙にういたまま読み終わったのですけど。もしかしたらイギリスの人がたのしむナンセンスの感覚が私の中にあったらもうちょっと近づけたのか・・・物語は悲惨な話ですよね。陰の部分がとても悲惨でも、淋しさとか虚しさとか悲しさをそのまま差し出さない物語のスタイルと思いますが。悲しいときは、いっそ楽しく乗り越えようという。リジーがお父さんといっしょに鳥になって巣の中で卵を温めたりするところは、想像の遊び大好きな子どもがすっと入っていけるたのしい世界と思います。子どもがその気になれればですが。気になったのは、p57の文中でダンプリングの材料の中に卵が入っているのに、絵に卵がなくて・・・「たまごはどこ?」と聞く子どもが必ずいると思う。こういうところとてもよく見ている子どもがいるはず。それから、まぶしいほどに白いダンプリングって書かれていて、どんなにおいしそうなものかと期待するのですが、絵のダンプリングはややベージュ。パパを元気にするためのダンプリングなのだから言葉と絵と相まって思わず画面に手を伸ばしたくなるようだったらいいのに! あとがきに、「信じる心の大切さがしっかり伝わってきます」とありますが、あまり胸に落ちてきませんでした。

ハリネズミ:アーモンドさんってちょっと普通と違う不思議な人を登場させて物語を展開させていきますよね。でも、この人は特殊なんですって言わないで展開していくのがとても上手な人だと思うんですけど、このくらい年齢層が低い子が対象だと、それも難しいなと思いました。このパパは、変わってます。一方ドリーンおばさんは地に足がついている存在として登場するんだけど、ダンプリングを投げたりするから、子どもが読むと、どこに軸足をおいて読んだらいいか、わかりにくいだろうなと思いました。ずっと浮遊しながら読むのはむずかしいだろうな、と。年齢が高い読者対象なら、それもいいんですけど。この作品は、主にYAを書いてきた作家が小さい人向けに書いたけれど、あんまりうまくいかなかった例じゃないかと思いました。もう少しストーリーをくっきりさせていかないと、子どもの読者には難しいだろうな。たとえばp11でお父さんは「鳥人間コンテストに申込みをするんだ」って、何度も言いますよね。でもp24でプゥプさんが呼びかけても最初は聞いてない。もちろん実際にはこういうことはありうるけれど、小さい人のお話では、逆効果。飛ぼうとするイメージがくっきりしなくなっちゃいます。結局最後まで読んでも、様々なイメージがばらばらでまとまりのある物語には思えませんでした。同じように変わった親が出てくる物語にジャクリーン・ウィルソンの『タトゥーママ』(小竹由美子訳 偕成社)がありますけど、あっちは主人公に寄り添って読めるし、随所にユーモアがあって物語にもまとまりがあります。でも、この作品ではそうじゃない。期待はずれでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


みうらかれん『夜明けの落語』

夜明けの落語

ルパン:よくも悪くも「課題図書っぽい」って思いました。ほのぼのしていていいんだけど、おねえちゃんのせりふが臭いっていうか、こんなこと言うかなって。それでもわりと感情移入できたのは、自分も小さいときおとなしかったからです。ほんとに。先生にさされると蚊のなくような声でしか答えられませんでした。で、声が小さいって叱られると涙が出てきたり。だから、人前でしゃべれないこの子の気持ちがよくわかりました。作者もわかっているのかな。お父さんお母さんがあまり出てこないのが違和感ありましたが、うちも長女から三女までが11歳はなれている3姉妹で、次女と三女は親に言えないことを長女に話したりしているので、「あり」かもしれません。ストーリーは言っちゃなんだけど、普通っていうか、最初から「落語をやってしゃべれるようになるんだろう」ってわかっちゃう。予定調和的だけど、悪い意味ではなく、むしろこういうのはひねらないほうが安心できますね。ただ、「三島くんのおじいちゃんはいったいどこの人?」って思いました。三島くんは関西から引っ越してきたのに、このお話の舞台の町に昔から住んでいるらしきおじいちゃんも関西弁なのは「あれ?」という感じでした。ほかにも地域の設定には突っ込みどころが多々あります。三島くんがお笑いの本家である関西で落語やっていじめられてて、転校して東京(?)でまたやって東京の子には受け入れられる、っていうのも不自然な感じです。逆ならわかるけど。東京でシャイだったあかねちゃんが関西に越して落語に誘われてお笑いに目覚めちゃうとか。野中あかねちゃんに関していえば、人前でしゃべれないっていうのは、小学生のときはそんなに重大じゃない気がします。友だちとふつうにしゃべれれば小学校生活に支障はないですから。それより、クラスに友だちがいるのかどうかが気になります。あと、となりのクラスの初音ちゃんは、どうしてこの子のことをこんなに大事にするんでしょう。ふつう小学生ってクラスが分かれたら別世界の住人なのに。班が分かれただけで疎遠になったりしますもの。あかねちゃんが、同じクラスに友だちがいないことをおねえちゃんに訴えていないのが不思議な気がします。クラスに仲良しの女の子がいないことのほうが、小学生にとっては大問題ではないでしょうか。

アカザ:わたしは落語がとても好きで、桂小文治さんの会に欠かさず行っているくらい。ですから、こういう作品を子どもたちが読んで落語好きになってくれればいいなと、うれしくなりました。出てくる人たちも、みんな善意で、最後まで安心して読めました。ストーリーも、たぶんこうなっていくのではと予想がつきますが、この年代の読者が読むとホッとするんじゃないかしら。主人公の悩みも、それほど深刻じゃないので、安心して読めるのかもしれません。人前で話すのが苦手でも、けっこうハッピーな学校生活を送っているし。口数の少ない子って、けっこうハッピーなんですよね。私も昔そうだったから、よくわかります。主人公が寿限無をどうやって話したらいいかと悩むところで、お姉ちゃんがハムスターに名前をつけたときのことを話して妹に助言するところも、聞き手としてではなく噺家の修業のしかたを言っていて、おもしろいと思いました。それから、別に悪いことじゃないんですが、児童文学に出てくるおじいちゃんって、同じようなタイプが多いですね。庭のある一軒家、それも古い民家に住んでいて、ジュースではなくて麦茶が出てくるような。若い作家の方たちは、そういう暮らしに憧れているんでしょうね。現実は、そういう年寄りばかりじゃないのに。

トム:読み終えて、心穏やかにページを閉じられました。作者は大阪の人ですか? 標準語で書かれたお話って多いですけど、大阪の言葉とか、もっと方言で語られるお話を読みたいです。クラスの中に三島くんのような子がいたらいいなと思いました。三島くんの関西弁いいですね、方言って魅力があります。p150であかねちゃんが啖呵をきりますね、初音ちゃんとけんかして。言葉が少ないからといって心に何も無いのではなくて、胸の奥に言葉にならないで溜まっていたものがマグマのように噴火して、いい場面だと思いました。よかったな、こんなふうに言えてと、物語のこちら側にいる者に思わせる場面だと思います。作者は、内気であったり、思うことをたくさん抱えていても表現できないまま、自分の中に籠る子どもに温かく沿っている。後半になるとここまで書いてくれなくてもいいのに、っていう部分もありますが。p170の担任の先生が話す「やる勇気とやらない勇気が大事」というのは、10歳の子どもに理解できるかなと。読者の子どもにも。でも全てわからなくても、どういうことかなと思って心に残れば、いつか大きくなって「あっ」と納得する時が来るかもしれないし、そこが本の良さかもしれない。裏表紙で3人が階段のところにいる絵はいいですね。この物語は、自分で読むだけでなく、誰かに読んでもらったら楽しいと思います。落語の可笑しさを知って、出来れば関西弁もリズムよく語ってくれる大人に。

プルメリア:あかねちゃんみたいな恥ずかしがり屋さんの子どもはクラスには数名おり、日直で司会をする時の内気な子の心情をよくとらえている作品だなと思います。元気な子が主人公の作品はよくありますが、内気な子の学校生活を主にした話はあまりないので、同じような悩みを持った子供たちには勇気づけられる作品だと思います。内気な子をかばう頼もしい子も日常生活にはいるので、3人の関係がよくわかります。「まんじゅうこわい」、「番町皿やしき」、「じゅげむ」などの作品が登場するるので落語を身近に感じ。落語の本を手に取る子ども達が増えるきっかけになるかも。気になることは「日直」は1日の当番活動、1週間なら「週番」かな。帰りの会のスピーチ5分間はちょっと長いか。お姉さんの存在は、お母さん的なお姉さんって感じ。大学生が家にいる時間帯が多すぎ。おじいちゃんも関西弁なのに、どうして東京にいるのかな。この作品を読んで、共感する子どもたちは多いと思います。主人公は4年生ではなく、5年生でもいいかな。6年生くらいになると、はきはきしていた女の子が授業中急にしゃべらなくなったりする傾向が増えてきます。微妙です。

レンゲ:最初読んですぐに、『しゃべれどもしゃべれども』(佐藤多佳子著 新潮社)を思い出しました。読んだ後味はいいし、こういうお話を読むと子どもも元気が出そう。ただ、ちょっと納得がいかないところもありました。一つは、暁音が初音ちゃんとけんかをしたあと、クマ先生になぐさめてもらうところ。それまでにクマ先生とつながりが描けていればよかったのだけど、そうではないので嘘っぽい感じがしました。特にp169のクマ先生の「クラスはちがうけど…」から始まるせりふ。先生が子どもに、ほかの子のことをこんなふうに言うかなと。それと、中学生・高校生くらいになると、お父さんお母さんよりもお姉ちゃんとかほかの年上の人を頼るのはわかるけれど、4年生の子がここまで親を頼りにしないものかなと。3・4年生の子って、なにかあったときに、最後のところでもう少し親を求めるんじゃないのかな。お姉ちゃんはいい子だけど、親としてなのか、ちょっとさびしかった。こんなドライでいいのかなって。

プルメリア:おじいちゃんの家に行くとき、お菓子を持たせてくれたのは存在感が薄いお母さんです。

レンゲ:それとこの作品の裏には、プレゼン力を高めようということがしきりと言われる、今の学校の状況があるように思いました。私は普段から、そういうのは善し悪しだなと思っているのですが。人前で発表できることは大切だけれど、パワーポイントを使ったりして、上手にそつなく発表するというのは、本当の意味での表現とは違う気がするんです。小学校高学年から中学生までの発表を見ていても、論理性が積み上がっていくわけではなく、結局見栄えをよくすることに終始することも多いようです。作品とは別なことだけど、そんな学校のようすが頭にうかびました。

アカザ:よくしゃべる子って、なんにも見ていない。なんにも考えていない。しゃべんない子ってよく見てるでしょ。どっちがいいってわけでもないのよね。

プルメリア:なんにも考えないで見てる子もいます。

ハリネズミ:そのまま大きくなって大学生になる子もいる(笑)。私はそれなりに最後までさーっとおもしろく読んだんですね。私も落語は好きなので、こんなふうに落語を紹介できるのはいいなと思いました。しゃべるのが苦手な子が、右に行ったり左に行ったりためらっているのも伝わってきたのだけど、どこか意外なところとか、ステレオタイプではない人物も登場したりすると、もっと大きい賞もとれたのかな。

紙魚:近年、気持ちをうまく伝えられない主人公というのが多いですね。今、学校では、ディベート力やプレゼンテーション力なんていう力の重要性が言われることも多く、だからこそ反対に、しゃべれない子の気持ちがこうして取りあげられるようになってきているのかなと思います。しゃべるのが苦手な女の子が主人公で、そばに心やさしい男の子がいて、啓蒙するというよりは、まわりの人たちのやさしい気持ちによって、かたくなな心がほどけていくというストーリーには、どこか願望のようなものが表れているのだと思います。19歳の方のデビュー作ですが、自分のことで精一杯の時期に、こうして他者を思いやる物語を書いているのは、とても素敵だなあと思いました。欲をいえば、物語がまっすぐ進んでいくので、それも素直なよいところではあるものの、どこかにはっとするような転換があるとよかったです。全体的にはじめじめしていなくて、しゃべれない子どもが明るい空気で描かれていました。大島妙子さんの絵で、中学年対象というのを意識した本づくりもいいですね。

プルメリア:6年生の国語でディベートがあります。「自分の考えや意見を発表しよう」という主旨の学習です。

紙魚:吉本隆明さんが、「沈黙も言葉」だと言っているんですが、表現しないと何も考えていないことになってしまうというのは危険ですよね。だからこそ、こうした物語で、言葉に出てこない部分をあらわしていくのは大切かなと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


パトリシア・C・マキサック『クロティの秘密の日記』

クロティの秘密の日記

ルパン:最後まで夢中で読みました。クロティもかわいかったし。ほんとの話だったらよかったなと思ったくらいでした。いちばん気に入ったのは、お屋敷のおばかな息子です。あんな両親の子どもなのに、ちゃんとクロティの人格を認め、黒人奴隷たちの味方になったところを読んで、とても幸せな気持ちになりました。

トム:読みながら、中学時代に『トムじいやの小屋』(ハリエット・ビーチャー・ストウ)を読んだときのことを思い出しました。時代に向き合うお話を読むのは、とてもその人の人生にとって意味があるだろうなと思います。クロティの知恵と勇気の熱さに触れているうちに、いつのまにかノンフィクションのように読んでいました。ただ今も人種差別が残っているのは苦いものがある・・・。それから黒人の中にも白人農場主につく黒人もあり、白人の中にも奴隷を逃がそうとする家庭教師のような白人がいたり、黒人白人というだけでなく、人間を語っていることが、この物語の厚みになっているのでは。クロティが大人になってからの、その後のクロティも読みたいと思いました。時代の中で語られる物語なので、この時代日本はどうだったか、ヨーロッパはどうだったか、見られる資料も載っていたら広がりがあるのでは。

アカザ:こういう本を子どもたちに読んでもらいたいと、つくづく思いました。はらはらしながら、最後まで一気に読みましたけど、主人公のクロティは、本当に強い女の子ですね。
大人の読者の私としては、最後に車掌になるより安全なところに逃げてほしいと思ってしまいましたけれど。あと、字を読めるようになることが力になるという、その考えが芯になって作品を貫いています。アメリカの児童文学の伝統というか。この作品も、最初は間違いのある文章を書いているけれど、だんだん漢字まじりのしっかりした文章になっていくにつれて主人公も成長していく。こういうところとか、ほかの奴隷たちの話す言葉とか(関西弁ぽいのは、ちょっとひっかかったけれど)。訳者の方も大変だったろうなと思いました。

ハリネズミ:アメリカの児童文学の伝統って、どんなところですか?

アカザ:『レモネードを作ろう』(ヴァーイニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)とかね。イギリスは、アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』(山田順子訳 東京創元社)もそうだけれど、学校で字をおぼえたりするより、もっと大事なものがあるだろうというような作品が多いような気がするんだけれど……。

ハリネズミ:そうか、アメリカは教育の現場で非常に苦労していますよね。移民も多いし。イギリスはもともと中流階級の人が中流階級の人のために書いているから、そういうことが起きないけどね。でも、そこがアメリカの児童文学の伝統かどうかはわかりませんが。

レンゲ:とても読み応えのある作品でした。文字が書ける、日記をつけるということで、クロティが精神的に成長していくさまが描かれていて、とてもいいなあと思いました。「自由」への強い思いをいだくようすが描かれているけれど、結局クロティは、体の自由ではなく精神的な自由を選ぶんだと思うんですね。p242では、白人の奥様のことを「おとなの体をした小さな女の子」と言えるようになる。苛酷な状況の中でも気高く、心の中の自由は手放さないのがかっこいい。ただちょっと残念だったのは、日記の文章が12歳の子の文章にしては物語的すぎるように感じられたこと。子どもの日記って、もっとたどたどしいのでは? たとえばp132の最初の5,6行。原文自体が普通の物語と変わらない書き方なのか、翻訳のときにこんなふうにまとめてしまったのか、どちらだろうと思いました。時々、日記に書くにしては難しい言葉も出てくるし。本としては、アメリカの人が自国の歴史を知る物語という感じ。文字とか自由の意味を考えさせるところはおもしろく、日本人も読む価値はあると思うけれど、そこまでアメリカのことばかり興味を持たなくてもいいのに、という気持ちにもなります。アメリカへのシンパシーばかりが形作られていくみたいで。日本人はアメリカの歴史に対して、とびぬけて許容度が高いですね。

紙魚:日記の書き方が話題になっていますが、これは、日記文学の限界かなと思います。この女の子が書いた本当の日記だったら、ここまで状況が伝わらないので、どうしても演出を加える必要がありますよね。しかたがないことかなと思います。それから、翻訳の限界も感じました。おそらく原書では、最初のうちはスペルミスがあったりするなど、女の子がだんだんと文字と言葉を得ていく過程がもっと伝わってくるのだと思いますが、日本語だと、それをひらがなを使うことで表現しなくてはならない。それでも、徐々に情景描写や心理描写が書き込まれていくので、この女の子が書く表現をつかんでいくのは伝わってきました。p24の時点では、「自由」という言葉を紙の上に書いても、「自由」の絵が浮かばなかったのに、読み進めるうちに、「自由」が手触りのある言葉に変わっていきます。自分の考え方を深めるときに、話すことも大事かもしれないけれど、書くこともものすごく重要なのではと感じました。思ったことを1度書いてみることの素晴らしさを、この物語で感じました。

プルメリア:今日の3作品の中で一番おもしろかったです。利口な12歳の少女クロティが文字を覚え、密かに会話文で書いている日記にクロティの周りの様子をしっかり見ている素直な気持ちがよく表れているなと思いました。白人社会と黒人社会の違いがよくわかり、差別問題や人種問題の社会の中で自分をしっかり持ち続けるクロティの生き方や考え方がだんだん力強くなっていく姿がたのもしく伝わります。ひらがなで書いてある日記は、クロティが一生懸命日記を書いている姿が伝わるんじゃないかな。ウィリアムぼっちゃんが哲学者になったり、クロティが車掌になったりいい終わり方です。p24には『「自由」はただの言葉』、p274には、『自由はただの言葉じゃない』とあります。印象に残りました。中学生向きの作品だと思いますが、6年生くらいでも読める子はいると思います。

ハリネズミ:「自由への地下鉄道」を取り上げたいい本ですね。私はこのUnderground Railroadっていうのに興味があって、いろいろ調べてみてるんですけど、黒人だけではなくて、先住民も白人もかかわっているんですね。文字が読めない人も多かったから、暗号やしるしで伝えたりして。主人公は、すごく大人びたことを書いていますが、これフィクションなので、物語としておもしろく書いているんじゃないかって思いました。たぶん話し言葉も、文字が読めるようになって本を読んだりするうちに変わっていくんでしょうね。翻訳ではそのあたりを出すのは難しいでしょうけど。南部のもと奴隷だった人たちから聞き書きをした作品に『リーマスじいやの物語』っていうのがありますが、あれも英語がスタンダードじゃなくて黒人特有の話し方で書いてあるんですね。昔は、黒人が主人公の作品も、白人が書いてました。たとえばストウ夫人の『トムじいやの小屋』なんかです。私も中学生くらいで読んで感激したんですけど、今読むと「黒人はかわいそうなのです」という上から目線で書かれているのがわかります。でもこの本の著者のマキサックさんはアフリカ系で、もっと誇りを持って書いているのがわかります。第3世代になってようやく自分たちなりの視点で書けるようになってきたのかもしれません。精神の発達を言語の習得であらわすというやり方をうまく書いた作品に『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著 小尾芙佐訳 早川書房)がありますが、この作品は南部の黒人なまりなんかも入ってきてるんでしょうから、訳すのが難しいでしょうね。私はアメリカの作品でも、マイノリティの作家が書いたもののほうが人生の見方が深くて、おもしろいんですけど、日本で紹介されるのは白人作家のもののほうが多いですね。
 アメリカの児童文学賞の一つにコレッタ・スコット・キング賞というのがあって、もともとはアフリカ系の作家たちに力をつけさせようということで始まったんだと思いますが、今はニューベリー賞やコルデコット賞もどんどんアフリカ系の人が取るようになっています。いわゆる先進国では、書いたり読んだりする文化が偏重されるところがあって、文章の書き方や構成という点では、白人作家のほうに一日の長があるのかと思いますけど。でも今は、語りの文化も見直されてきてますよね。ストーリーテリングなんかも。

アカザ:日本でストーリーテリングというと、すでにできている話を語って聞かせるという感じですけれど、イギリスでストーリーテリングのクラスに出たときに、なんでもいいから語れといわれて、自分の家の犬の話をして、けっこう受けました。もっと幅広くとらえているんだなと思ったのをおぼえています。

ハリネズミ:アメリカの学校にもshow and tell っていうのがあるじゃないですか。そうやって、語る技術をみがいているのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


北野勇作『どろんころんど』

どろんころんど

みっけ:3冊の中では最初に読みました。SFはあまり好みではないからなあ……と思って読み始めましたが、さくさくと読めて、結果としてはけっこうおもしろかったです。どこが、と言われるとちょっと困るんだけれど、主人公を人間が作ったロボットにしたことで、人間がごく自然に経験する心理的な変化みたいなものを主人公がいちいち、あ、これが〜なんだ……と意識するあたりは、プラチェットの『天才ネコモーリスとその仲間たち』に出てくるネズミに似たところがあって、SFというのは、現実の社会や人間や存在といったものを、一歩引いて見直すための装置として使われるんだな、と思いました。だから、個人よりもメカニズムに焦点が当たるきらいがあるのかもしれないけれど。SFといっても、一昔前のようながちがちの科学でもなく、まったく異なる惑星でもないあたりは、おもしろい設定だと思いました。細かく見ていくと、え? なんで? というところがあちこちにあるけれど、一種の学習するロボット少女の成長物語なんだな、と思いました。それと、この終わり方を見てつくづく、ああ、主人公が若いと、暗い状況でも明るくなるんだなあ、と思いました。年入った大人たちだと、ついつい経験値に基づいて暗さに同調しがちだけれど、若い人はどんな環境に置かれたとしても、そこが始まりだから(というか、そこから始めるしかないから)、未来を指向できるんだなあ、と。それに、最後の最後に万年一号の長い旅の第一歩、という形で終わるのもおもしろいな、と思いました。

紙魚:福音館書店の本って、年齢が上の人向けの読み物になると、とたんに保守的でないものが出てくるような気がします。この「ボクラノエスエフ」というシリーズは、『どろんころんど』以外の書目は復刊がほとんどで、これだけは新作ですから、よほど思い入れがあって出された本なのでしょう。祖父江慎さんの装丁と本文デザインで、本のつくりからして期待させてくれるような佇まいなのですが、読みはじめると、どこか人を食ったような感じで、はぐらさかされます。児童文学にはあまりない本です。実感のない世界、具体的な肌触りがない世界で、肥大化した自意識の中での遊びごとという感覚が、いかにもいまどきだなと感じました。素直におもしろいとは思えなかったのですが、このノリは、もしかしたら、若い人たちには「わかる!」という感覚なのかもしれないと思いながら読みました。とはいえ私にはやっぱりよくわからないので、p89の「ますます何がなんだかわからない。」という一文に遭遇したとき、こっちのほうが「わかんないよ!」という気持ちになりました。この小説は、筋というよりはノリが重要なのではないでしょうか。プラスチックのようにつるつるしていて、ガサガサしたところがひとつもなくて、でも、そのなかを生き抜かなきゃならないという切実さや必死さはなんとなく伝わってくるような気がします。

サンシャイン:何度も読むのをやめようかと思いました。読む価値が自分の中で見い出せないというのが正直なところです。まあ、今日に合わせてなんとか読み終わりましたが。ひらがなの「ど」という活字がすごく気になりました。「と」とはちがう字体ですね。

フルフル:祖父江さんが、書体も含めてこの本の世界観を表現しようとしたのだと思います。この本は、私も実は読めなかったんです。出たばっかりのときに、書店で手にとってはみたのけど、やっぱり読む気になれなくて。

ハリネズミ:アリスは当然『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル)のアリスから借りてきた名前なのでしょうけど、SFというよりやっぱりナンセンス・ファンタジーなんじゃないかしら? SFというのは、一度もこの世に存在したことのない世界を扱うわけですから、読者が入り込めるように隅々まで考えて科学的にも物語的にも齟齬のないお膳立てにしないといけないと思うんですけど、この作品はそういうのとは違いますもんね。私は最初のほうはおもしろい設定だと思って入り込んで読んでいったのですが、p183から文章がわざと切れたようなレイアウトになっているんですね。ここでしらけてしまいました。物語の流れを妨げる邪魔なもののように感じてしまったんです。そうなるといろんなところが気になってしまって。途中でアリスが「こんなのをシュールって言うのかしら」とか、さっきも出てきたp89の「ますます何がなんだかわからない」なんていうのも、ないほうがいい。読者がそう感じればいいことなので、作者の声は邪魔になるように思いました。全体としては、そんなに楽しめませんでした。SFなら、舞台となる世界をもっときちんと書いてほしい。そこが希薄なんですよね。

紙魚:このファンタジーには、ルールがないですよね。「どろんこ」だからなんでもいいじゃないかというふうにも読める。

ハリネズミ:ナンセンス・ファンタジーだと開き直ったほうが、おもしろくなったかも。

紙魚:この本のここがすごくおもしろかったという人の心をのぞいてみたいです。

ハリネズミ:プロットだけ追っていく子って、今いるでしょ。そういう子にはおもしろいのかな。でもそれだったら、べつに本を読まなくてもいいんですよね。

すあま:私もこの世界がおもしろいと感じられませんでした。時間がなくて斜め読みしたのもよくなかったのかもしれないけれど、やっぱりおもしろさがわからなかった。森博嗣の作品のイメージも思い浮かんだのですが……。まさに頭のなかが「どろんこ」状態で、楽しめなかったです。

プルメリア:3冊の中でいちばん字が大きいので最初に読もうと思い読み始めたら驚きました。ヒトデナシたちの存在社会がイマイチわかりにくくて、出版社を見たら「福音館書店」! 会社のイメージが変わりました。おもしろかったのは、鉄骨が落ちてきたときにかめがおさえ首が……、と思ったら甲羅の中に入れていた場面と、レストランに入ると料理を食べた人は出ていき、これから料理を食べる人たちは順番に席を動いていく場面には笑っちゃいました。変わった本に出会いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


ジョン・ウィンダム『チョッキー』

チョッキー

きゃべつ:私は、SFをあまり読んだことありませんが、初心者でもわりと読みやすかったです。ただ、直訳っぽいところや、1文が長いところがあって、子どもにとっては、少し読みにくいかなと思うところがありました。ずっと大人目線ですが、子どもはどう読むんでしょうね。もう少し、子ども目線のほうが、読みやすかったんじゃないでしょうか。

紙魚:私もSFを読みなれていないのですが、これはとてもオーソドックスな筋運びで、異星人が未知の世界からやってくるという典型的な物語。こうした設定は、小説でもドラマでも映画でも、もう何度も何度も描かれてると思うんですが、この本がおもしろく読めたのは、そうした未知のものに出会ったときに、人間はどう反応するのかということがていねいに書かれていたからなのではと思い至りました。さまざま風変わりなSFが出てきても、結局、奇天烈なものを見たいというわけではなく、そうしたときの人間の反応を見たいのだと。

レンゲ:ファンタジーもSFも苦手なのですが、この本は論理的にわかって、問題なく読み進められました。『チョッキー』も『ジェンナ』も構成がきちんとしていて読みやすかったです。でも、自分では手にとらない本だと思う。読み始めたときに、まず語り手が誰なのかなと思って、どうやらそれが大人だとわかってきて、大人が主人公でもいいわけですけど、誰に向けて出した本なのかなと思いました。つくりも大人っぽいし、ルビもちょっとしかない。中学生に読ませようというルビのふり方ではないですよね。得体の知れないものとの出会いと、それに対する反応は興味深く読めますが、とびぬけておもしろいとまでは思わなかったので、わざわざ新訳で出し直したのはどうしてかと思いました。確かに1968年の本なのに、マスコミとかお母さんの反応が今と変わらないのはおもしろかったし、夫婦の2人の子どものうち、片方は自分の子で、片方は養子にした子だけど、わけへだてなくかわいがってところは感じよく読めました。

トム:宇宙人に会えたらドキドキしてもっと嬉しくなってしまいそうだけれど、マシューは苦しそう。それは、p268にあるように“ホストとしての精神的資質を持ち”“あれこれ疑問を持たずに受け入れようとする”、それができる子どもとしてチョッキーが見つけたのがマシューで、その出会い方にもあるのでしょうけど。ただ、時にはチョキーとマシューの楽しい交信も垣間見られたらと思いました。マシューはチョッキーに真っ向から向き合っている……、そこにマシューがどういう心をもった少年なのか感じられます。最終場面で表彰メダルが自分宛でなく、チョッキーの名になっていることを本当に喜ぶ様子は、マシューの人柄を伝えているし、チョキーとの信頼も伝えていて、とても温かい余韻を残りました。お父さんと息子の物語として読んでも読みごたえがあって、いつの間にかそちらにひっぱられてもゆきました。その中で、お母さんは安心を得ることに気持ちが逸ってかなり混乱した様子が描かれているけれど、お父さんが時々立派すぎるかも……。
 p261でお父さんが「わたしたちは、原子力を手にしているのですよ」と言ったことに対してチョッキーが「認めましょう。だがきわめて粗雑な水準にありますね」と言っていますが、新たな翻訳としての初版発行が2011年2月28日で、この11日後に福島原発の事故が起きています。偶然とはいえ物語が一歩先を歩いているよう。p265“宇宙の隅々にまで存在する放射”とか、私には具体的なイメージが描けないけれど、SF好きな中高生ならきっとワクワクする世界なのでしょうね。p268 “老いた精神はありうることとありえないこととの区別をかたくなに守る”という件は、個人的にズシッと胸に響きました。

みっけ:著者の最後の作品というのだと、子ども向けに書かれたわけではないのかな、という気もするのですが、どうなのでしょう。はるかかなたからやってきた、いわば異星人のようなものが、普段の生活に入ってきたという設定はSFなんだけれど、やってきたものの外見や行動などではなく、それが来たことで、普段の生活がどうなり、家族の中がどうなっていったかに焦点が当たっているので、あまりSFという感じはなく、両親や本人の行動がていねいに書かれていたので、人間の物語としておもしろく読めました。日本にはない英国男文化の伝統というのかな、父と息子の関係がとても強いんだけれど、そのあたりがよく書けていました。チョッキーの姿を最後まで書かず(息子の声を借りていて)、声も聞かせないのも、うまいなあと思いました。おそらくそのあたりを書いたとたんに、私なんかは嘘くさく感じてしまいそうだけれど、あくまでもそれをせずに,読者の想像力にゆだねている。これってどう着地するんだろう、と思いながら読み進んでいったら、10章でマシューがいなくなりますよね。それが実は権威筋による誘拐だったというのには、あっと思ったし、感心しました。しかも、権威筋の誘拐が今後起きないようにとチョッキーがマシューの前からいなくなる。というのもいいですね。とにかく、SFはわりと苦手なのですが、親と子の関係に焦点がおかれていたので、とてもおもしろく読めました。マシューの失踪についての説明がいっさいされずに事態が進み、最後の最後にチョッキーがお父さんにさよならするところでその一件が種明かしされるあたりも、なるほどと思いました。

サンシャイン:非常に気に入りました。早い段階で人間が開発した車が非効率でという話が出てくるので、未来の存在という予想は立ちましたが、実の子ではなく養子なので、実の子ではないことで展開されるのかと思いきや、そうではありませんでした。妹の方の、見えない存在にとりつかれているというのはよくあることなのですか? お医者さんの友達が診て、「憑きもの」とか「お告げ」という話を母親が受け入れないという反応をしますが、父親の方はそれを受け入れようとする、その心情の差もよく書けていると思いました。「原子力」が出てきますが、さらに「放射」のあたり、子どもの語彙にないということでぼかされていて、私たちにはわかりません。作家の頭のなかには、そういう、人類がまだ手に入れていない存在が見つかるというのがあるのかもしれません。宇宙にはそういうものがあるかもしれないと思わせる文章力。最後は、子どもの口を借りて、乗り移ったかたちで真相が明らかになるのは、こういう方法でしか種明かしすることはできないかなと思いました。いずれにせよ、非常におもしろく読めました。

フルフル:児童書か、一般書かという点ですが、コードが一般書で、出版社としては一般書として出しています。でも、いってみれば、YAだと思います。文体も自然で、読んでいて、とても読みやすかったです。でも、1968年に出されたもののリバイバルとは気付かなかった。感覚的に受け入れやすかったのは、昔に書かれたものだからなのかな〜、それもちょっとショックですが……。たぶん今、最先端で書かれていたものではなくて、SFといっても読みやすかったのかなと思います。現代っ子が好む読み物だと、話の展開が早くて、次々といろいろな事件が巻き起こるというものが流行りますが、この作品は、前半のテンポがゆっくりめ。マシューが目に見えないチョッキーとつきあっていく過程は、とてもおもしろく読めたのだけど、なかなか話が動かないので、いつまで続くのかなと思っている自分に愕然としました。自分も毒されちゃったのかしらと……。水に溺れるところから急展開しますが、それまでは中だるみしているように感じていまいました。現代っ子同様に、せっかちになってしまっているのかもしれません。溺れたところからはラストまでは引っ張って読ませてくれました。
 ただ、印象として、この内容のものだったら、前半のテンポを上げて、もう少しコンパクトになるかもしれないとも思いました。今の子どもたちには、300ページを超えるとちょっと長い(?)印象があるかもしれませんし、壮大な物語が展開するのではないので、もう少しコンパクトに読めたら読者も広がるかもしれないと感じました。最後、チョッキーが語っているところで、「現代人は燃料の無駄遣いをしている」という語るところにドキッとさせられました。原発事故があっただけに感慨深かったです。また、50年以上前にこういう作品が描けた作者に敬意を表したいです。

すあま:私は大人の本として読みました。語り手がお父さんであるからかもしれませんが、マシューの気持ちになって読み進めるというよりは、お父さんの気持ちに寄り添って読みました。かなり大変な状況なのに、このお父さんは冷静で、奥さんが半狂乱になっているのにも落ち着いて対応している。語り手が落ち着いているので、パニック小説のようにならず、読み手も落ち着いて読めたように思います。怖い話として書ける話なのに、怖くなく、読後感もよかった。妹にも同じように見えない女の子と会話する時期があり、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール著 原田勝訳 徳間書店)や『まぼろしの小さい犬』(フィリパ・ピアス著 猪熊葉子訳 岩波書店)などを思い出しました。途中からチョッキーが宇宙人だと気づいてからは、どう種明かしするのかと思っていたら、当の宇宙人が全部説明してくれた。宇宙人が地球を見つけて偵察にきて人間の生活に入り込む、という話は、なぜ今頃出たのかと不思議に思ったけれど、刊行年を見て、60年代に出たなら古くないかと納得しました。むしろ今読んでも違和感がない。パソコンが出てこないなど、「今」ではないことに気づいたものの、古さは感じずにおもしろく読めました。ただ、誘拐事件はチョッキーの仕業で宇宙人にさらわれたと思っていたのに、普通の誘拐だったのでちょっとがっかりしました。

プルメリア:少年に霊がついているのかと内心ドキドキしましたが、あとがきに宇宙人と書いてあったのでホッとしました。少年に寄り添うお父さんの心情が全体に出ており、妹が時々話す馬の話はユーモアがあり、重たい雰囲気を和らげていたように思いました。最後に、もらったメダルにチョッキーの名前が刻まれていたこと、なんとなくぎくしゃくしていた少年と父親の心がつながったように読みました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。科学知識の部分も、まだ古びていないのでは? 今は、昔の映画に出てきたような宇宙船とか宇宙人像は違うとわかっています。でも、広い宇宙のどこかには知的生命体ってきっといると信じて、その人たちと交信しようといろいろな試みをやっている科学者がいます。それから今SFで近未来を書こうとすると、どうしてもディストピアになってしまうんじゃないかな。この作品はちょっと前に書かれたということもあって、希望のある明るい終わり方。チョッキ—もいい人じゃないですか。だから、暗くならないんですね。

みっけ:この本で二進法の話を出しているのは、十進法というのが、人の指が10本だという解剖学的な事実から採用されてるのに対して、異星人が必ずしも十進法を採用しているとは限らない、という相対化のためだと思うんです。さらに、この作品が発表された頃は、コンピューターが出てきて二進法がクローズアップされた頃だったので、三進法やなにかにするよりも二進法のほうが最先端でもあり、多少のなじみもありという感じだったからではないかな、と思います。それに原子力に関する話は、天文関係の科学史を見てみると、原子力の発見は今の私たちには想像できないくらいポジティブにとらえられていて、それがチェッキーに対する語り手の発言にも反映しているんだと思います。もう一つ、チョッキーが、原子力など使わなくても、どこからでもいくらでもエネルギーを取り出せる、と言っているのは、おそらく宇宙の始まりであるビッグバンと呼ばれる大爆発の余熱の「宇宙マイクロ波背景放射」を取り出すという話で、こういった話が出てくるところからも、この作品は科学の最先端の結果や理論を取り入れているという点で、ちゃんとしたSFなんだなあと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


メアリ・E・ピアソン『ジェンナ:奇跡を生きる少女』

ジェンナ〜奇跡を生きる少女

すあま:おもしろかったです。事故のせいで記憶がないというところから始まり、次第にこれは近未来の話なんだとわかってくる。ジェンナはもしかしてアンドロイドではないかと少しずつわかっていくところ、そしてなぜ事故にあったのかということが明らかになっていくところに、どんどん引っ張られて読みました。実はこわい話なんですけれど、ジェンナの家族との関係や、自分って何者なんだろうという悩みが中心に書かれているので、おもしろく読み進めることができました。ただ、10%だけ残したといわれても、理解しきれなかったので、そのへんは考えるのはやめて、どちらかというとミステリーを読むように読んでいきました。ラストについては、あえて260年後でなくてもよかったんじゃないかと。ジェンナは、ずっと生き延びたけれど孤独にはならなかった、異端の存在だったのが他にも同じような人が増えて普通の存在になったという世界を示して終わるのは、読み手を安心させるけれども、子どもが生まれていたりと逆に最後の3ページのせいで新たな疑問が生まれて考え込んでしまいました。

トム:デザインも色もきれいな表紙で、この蝶が気になりながらページを開きましたが……、美しいけれど、どこかぞっとする蝶。読みおわってもう一度表紙をみれば、10パーセントの脳を象徴するのがこのジェンナの髪にとまる蝶なのですね。見るほど、美しくて不気味。物語を読みながら、ジェンナのような状態になった時、生を選ぶか自然な死を選ぶか? 選ぶ主体は誰なのか? そして、自分だけが生かされた時、人はその後どう生きるか? 悩み無く生きられるとは思えないし。究極、命に人間がどこまでかかわっていいのか? いろいろ頭に浮かびました。ジェンナの両親は、知的レベルも高く、経済力もある人なわけで、命の再生に経済力が見え隠れするところもアメリカ的な物語だと感じます。  最終章の260年後の世界までこちらの気持ちがついていけませんでした。

レンゲ:とても読み応えがありました。なんで私は生きているのだろうという実存の疑問だとか、生きるとはどういうことだろうとか、読みながら考えさせられました。こんなこと、いつも考えていたらおかしくなっちゃいますけど。意志だとか知りたい気持ちだとかは、どこで生まれてくるのかとか。宗教的なことも途中で出てきますよね。この子がなぜ家族の愛情や信頼を感じられないのか、読むうちにわかってくるのですが、人生の中のそういった愛や信頼などの要素、何が私たちを人間にしているのか、人間らしくしているのか、そういうことを考えさせてくれる本でした。短い章で切っていくのは、今風ですね。網がけの部分は原書にもあるんですか?

フルフル:網はかかっていないけれど、詩のようなデザインとして、本文と別の扱いになっています。

レンゲ:260年も生きてしまうというのは、長く生きることへの肯定というより、それになんの意味があるのかを考えさせようということかと私は読みました。p330の「クレアは決してわたしを逝かせてくれない。あれだけの強さを持っているのに、わたしを逝かせるだけの強さはない」という、死なせないことへの問いへのこたえ。主人公は友だちを生かして、自分も生き延びていって、子どもが生まれて、人間らしいものが引き継がれていく。けれど、長生きすればいいのか、それで人間が人間として生きていくことになっているのか、考えさせられました。

紙魚:この本は、10%の自分を頼りに自分は何なのかを「定義」していく物語だと感じました。時折、「見失う」や「人間」などの語句の定義がはさみこまれています。ページ全体が網がけになっている部分は、まさに主人公ジェンナが自分を「定義」するために自問自答するつぶやきの部分。ふつうに生きていると、自分をわざわざ定義する必要には迫られませんが、こうしたありえない状況に追いこむことによって、作者は読者に、自分というものの定義を考えさせる仕組みを作ったのだと思います。10%しか自分でないとしたら、あとの90%は定義し続けなければならない。ただ、そのせいなのか、この物語にはなかなか入り込むことができませんでした。「そのつもり」にはさせてもらえず、つねに客観的でいなければならない感じなのです。でもそれって、もしかしたら、ジェンナの自分の体への違和感をも表しているのかなとも思います。

きゃべつ:今日みんなで読む本の中では、私は、これが一番おもしろかったです。十代が抱えがちな心の揺らぎをていねいに追っていたので、そこに共感できました。普通に生きていても、いろんなことの限界がわかってきてしまって、自我との折り合いに悩む年齢なのだけど、この子の場合は、元の自分が10%しか残されておらず、その揺れ幅が大きいですよね。その葛藤がうまく描かれていたと思います。今、ips細胞とかもあるので、ここに書かれている話は近未来に起こりえることなのかしれません。10%は、人か否か。突きつけられると、ぞわりとする問いですが、いずれ答えを出さなくてはいけなくなるかもしれませんね。これを読んでいて、子どもを守ろうとする母親は、鬼子母神ではないけれど、怖い存在だと思いました。子どもも産めない体にして無理に生かすなんて、とジェンナが詰め寄るシーンで、卵巣は残したのよと、ホッとしたように伝える箇所では、狂気を感じました。私も260年後まで生かす必要があったのか、疑問に思います。事故にあった人だけが、長生きする世界というのは、ずいぶんいびつだなと思いました。英語のタイトルは、「ジェンナ・フォックスの崇拝」ですか。読みにくいのは訳のせいなのでしょうかね? とくに網掛けのページは。

サンシャイン:やっぱり現実の姿は思い浮かべることができませんでした。お話として読むという感じ。あとがきを読むと、もう1回読むと伏線に気づくと書いてあって再度読もうかと思いつつ時間がありませんでした。作品としてはよく計算されて書かれていると思います。おばあちゃんが自分を嫌っているという認識だったのが、おばあちゃんが無理な形で生かすことに反対していた、ということがわかるとか。現代的なお話になっています。結局、ニューロンチップなるものが組み合わされると、人間らしく生き残れるんですか? 手を怪我する場面で実は人間でないことがわかるんですね。

フルフル:なかから青いのが見える。

サンシャイン:手塚治虫さんの『ブラックジャック』で、活かせる臓器だけを組み合わせて人間にするピノコのイメージでしょうか。すごくよくできた作品だけど、1回読んだときには、ジェンナがどう生きているのかわからなかった。友達が死にそうになっていて、その子も同じ技術によって生かしたというのは衝撃の事実なんでしょうね。子どもを産めるというのもあまりありえないなと思う。そんなに長生きさせる必要はなかったのでは。死にかけた友達も再生させて、人間の寿命をこえて存在できるという設定にしているところは、筆者にとっては必然であったのかどうなのかと思います。

プルメリア:主人公と母そして祖母の3人の謎めいた関係が不思議で読み進めました。グレーの部分は、心情が伝わりわかりやすかったです。この作品がほかの作品とは異なるところは、会話文が多くいろいろな画面にあるのでその場にいるような気持ちになりました。こんなに会話文が出てくる作品は今まで読んだことがありません。読み進めていくうちに、いろんなことがわかってきました。話題になっている260年後について私が不思議に思ったのは、子どもは何歳なのか? 小さい子のようだけど、う〜ん。理解しにくい部分があるのでなくてもよかったかな。

ハリネズミ:物語世界の中に入り込めませんでした。設定はおもしろかったし、本のつくりも素敵だったのですが、どうして入り込めなかったのか考えると、SFならばもう少し世界をつくってほしいと感じたのだと思います。たとえば、10%以外はアンドロイドで、アンドロイドが心を持てるかどうかがSF的には懐疑的なのだけれど、ここではすでに心をもった存在として書かれています。また、デーンについては心を持っていないと書いてしまってよいのでしょうか。10%あれば、技術がシンポするとホールの人間が作れるという設定なんだろうけど、だったらアリーズはもう少しちがった存在になるのでは。

フルフル:点数化されている規則のなかで、アリーズは最大限つかっているという状態なんです。確かに、デーンの何が悪いのかは書かれていないですよね。攻撃的であるとか、学校での一場面にあらわれたり、ちょっとずつは出ているんだけど、それだけしか出てきていない。だからちょっと伝わりにくいところはあるかもしれません。あと、冒頭が入りにくいというところなんですけれど、ストーリーの最初の違和感というのは、原書でも「ジェンナが自分をわかっていない、しっくりしていないちぐはぐ感」というものが、文体のなかに表現されていて、それを訳すときに生かしたいということなので、そういった意味では成功しているのではないでしょうか? 途中からそれがだんだんとしっくりしていって、ジェンナがジェナとして生き始めるということです。

ハリネズミ:そこは私もそう読めたんですけど。たとえば、p17の「両親」の部分は?

フルフル:親を親として認めるかっていうところですよね。母親がこの人、父親はこの人と、前に言っているんですね。彼女にはインプットされている設定なんです。

レンゲ:ここは「両親」というよりも、「あの人たち」という感じですよね。

フルフル:混在していると思うんですよね。

ハリネズミ:訳は読みやすかったのですが、ところどころ気になるところがありました。たとえば、p91「すぐさま外へ出て、クレアの車をひき止めたい衝動にかられ。」ですが、もう車は出ちゃったあとだから、呼び戻したいとすべきでは?

レンゲ:小さなことですが、p98に「イースター島にラパヌイ族が移住したのが、紀元前三〇〇年。十世紀ごろには、モアイ建設のため……」って書いてあるでしょ。モアイって像だから、「建設」はちょっとおかしい気がしました。

ハリネズミ:p301には「原産、土着、純血――」とあるけど、それ以前に、自然か人造かというところが問題だと思うから、えっ? と思っちゃった。

フルフル:「在来」という言葉を使った方が良かったでしょうか……。

ハリネズミ:本当に設定はおもしろくて、書こうとしているところもおもしろいんだけど、主人公の心の中に入り込むのが難しかった。アンドロイドだから難しいのではなくて、この書き方がつっぱなしているのかもね。

紙魚:この本って、類書がないと思うんです。だからこそ、こうした本を出すことの意義はあると思います。

すあま:10%でも人間でいられるのかというところに戻っちゃうんですけれど、命令についてインプットされていてもそれに従ってしまうのか、逆らうことができるのか、その境界線などを考えているとまたわからなくなってしまう。途中からは考えるのをやめたんですが、こういうところにひっかかって読み進められなくなる人もいるかもしれない。ただ、本の内容を全部覚えてしまっていても、本を手にとって読むという体験はまた違う、というようなところは、電子書籍と本の違いにも通じるようでおもしろいと思いました。もともと10代って自分が何者か考える時期だけれど、それをせざるを得ない究極の設定を考えると、こういう物語になるのかも。

フルフル:科学的に読もうとするのではなく、思春期の女の子たちは、自分とは何なのか、自分のアイデンティティってなんだろうって悩んだりしますよね? また、全然思いもつかない子でも、この本を読むことで、気が付いたりするのではないでしょうか?

ハリネズミ:アイデンティティを見つけたいときに、はたしてこの本は役に立つのかな。

フルフル:悩んでいること自体は間違っていないし、少しずつ獲得していかなくてはいけないことは、わかるんじゃないかなと思います。260年後については賛否両論あるだろうなと思いました。翻訳者さんとも「この物語に果たして260年後はいるのかどうか」は、議論しながら作業を進めました。でも、翻訳とは、もともとあるものを勝手に改編してはいけないことになっていますし、260年後も作者の意図があって書かれたわけですから削除するわけにはいきません。どなたかがおっしゃっていたように、「長く生きることの意味」も改めて考えさせられる終わり方なのだと思います。

すあま:260年後にはいわゆる定年制のような「期限」が決められ、ジェンナは自分の終わりが近づいてきたことから子どもを産んだのかなと思いました。イーサンが死んでからかなり経っているようだし、体外受精にしてもなぜこんなに時間が経ってからなのか不思議だけれど、特に説明はないので想像するだけですが。

フルフル:これ、続編があるんですよ。アメリカではすでにすごく反響があって、第3弾も来年の3月に出る予定です。トリロジーになります。2巻目は、ジェンナの話ではなくて、260年後の話らしいです。現題『The Adoration of Jenna Fox』の意味ですが、Adoration は、「崇拝」という意味です。直訳すると「ジェンナ・フォックスへの崇拝」ということになります。どういう思いが込められタイトルなのか、翻訳者に確認したところ、「本文に、両親がジェンナを高い位置にまつりあげ、つねに世話を焼き、ビデオを撮り……、そんな“崇拝”された状態から“転落”したかった、というくだりが出てきますが、そこから派生して、『自分という存在は特別なのか』というジェンナの“葛藤”、また最後、葛藤を(ある程度)克服して、“自分から自分への敬愛・愛情”を獲得して、ジェンナがアイデンティティを確立することまで、すべてをひっくるめたタイトルなのではないか」ということでした。このofを“への”と訳すのは、難しいのですが、フランドルのエイクの絵にも、Adoration of the Lambというのがあり、日本語では子羊の礼拝、つまりキリスト「への」崇拝を描いています。ですので、ジェンナの場合も、「ジェンナへの崇拝」という意味で、間違いないのではないかと思います。

レンゲ:とりかえればいいのか、という問題もありますよね。この記憶は大事だからととっておこう、こっちは捨ててしまおうと、だれかが選ぶこともどうなのかと。自分が唯一無二の存在ではなくなってしまう危うさがありますね。たとえば、イーサンが、かっとなって人を殺しかけたというように、人間であれば負の一面もあるけれど、ジェンナはそういう面は回避して作られている。生命工学への疑問の投げかけだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


蜂飼耳『クリーニングのももやまです』

クリーニングのももやまです

うぐいす:ももやまさんというクリーニング屋さんにちょっと変わったお客さんたちがやってくるという物語です。安房直子風の不思議な感じがあるのかな、と思って読みましたが、はっとするところも、ぞくっとするところもないし、ふふっと笑えるところもありませんでした。人間ではないお客さんたちの様子がおもしろいわけですが、どこか腑に落ちないところがあるんですね。「おじぞうさん」ではおじぞうさんが3人出てくるけど、ぼうずの次がおじさんで、3人目はただ「ほっそりしたおじぞうさん」という見かけだけしか書いてないので、何なのかよくわかりません。「いえで」では、金色と銀色のとげとげの丸いものが出てきて、これがお客の無口さんのよろこびとかなしみだという。この話にだけ観念的なものがでてきて、違和感がありました。「緑色のシャツ」では、どうしてあおむしが、預けた女の子がこのシャツを取りに来ることはありません、というのかよくわかりません。
 ちょっと不思議な雰囲気は伝わってくるんだけど、どの話にも「何で?」と思うところがあって、すっきりしないお話でした。ももやまさん自身も、絵があるから感じがつかめるとはいえ、文章からはどういう人かあまり書かれていません。ももやまさんという名前には雰囲気があるけど、それだけです。お客さんとのやりとりや仕事ぶりから、もっと人となりが浮かび上がってくるとよかったのにと思いました。

みっけ:子どもたちが日常の中でごく普通に出会っている物や事柄が、ほんとうはちょっと不思議な面を持っていて……というタイプの物語なんだな、と思って読み始めました。なんの変哲もない洗濯屋さんに、不思議なお客が来るというのは、わくわくする感じでいいなと思ったんですが、「いえで」という作品は、きわめて観念的だなあと思いました。小学生の子に「よろこび」とか「かなしみ」っていって、何が伝わるかしら。小さい子には、そういう抽象的な概念でなく、もっと具体的なものでないとぴんと来ないんじゃないかな、と思いました。それと、「みどりのシャツ」は、私もよくわからなくって、要するに、緑のシャツを虫が食べて、変身してすてきな蝶になったというんだけれど、これってクリーニングに出さなくてはならないという必然性がないですよね。トラが毛皮を預けに来る話は、毛皮を取ったあとのトラを生々しく想像しなければ、全体としてはほんわかしていていい感じだと思ったのですが……。いちばん引っかかったのが、最後の人魚のところです。これは、今おっしゃったように、ももやまさんがどんな人かが伝わってないからなのかもしれませんが、まず、ももやまさんがもやもやする理由がこちらにはわからない。それでいて、人魚の尻尾というお客さんから預かったものを自分で使って、店も休業しちゃうという、かなり激しい動きに出る。そのつながりがよくわからないなあと思って、かなりひっかかりました。これを子どもが読んで、納得するのかなって。

関サバ子:魅力的なタイトルだな、と思ってわくわくしながら読みはじめました。しかし、がっかりだったのが、せっかくクリーニング屋さんを舞台にしているのに、クリーニング屋さんならではの日常やディテールがぜんぜん描かれていないところです。そのために、物語全体に力がなく、地に足がついていない感覚を受けました。また、おじぞうさんの話で、ももやまさんが「おじぞうさんはどうしてこんなににてるんだろう」という点にフォーカスしているのがピントはずれで、お話の中での狙いがわかりませんでした。「いえで」は観念的すぎる上に、丸くてちっちゃいものが、どうやってカップからココアを飲めるんだろう、という点にひっかかりました。小さなことですが、そういうところが雑なのは、お話の世界から放り出されるようで、とても気になります。また、最後の人魚のお話も、お客さんから預かったものを勝手に身につけるの!? と大いにひっかかりました。ひれをつけて歩きにくい、と描写されているのに、そのすぐあとにもう水に入っている、というのも雑だと感じました。
お話全体から受けるものとしては、帯に、「おとなになってもいつもとちがうなにかを探している」とあったり、お店を休む張り紙に「考えたいことがあるので」とあったりで、要は自分さがしの話なのかと、愕然としました。ももやまさんの仕事は、毎日ほぼ同じことをやる仕事です。小さな世界で暮らしています。それをつまらないものと伝えてしまっているようで、この本を本当に子どもに渡していいのか、強く疑問に感じました。

レンゲ:私はけっこうおもしろく読みました。『車のいろは空のいろ』(あまんきみこ著 ポプラ社)のタクシーの運転手さんや、『ねこじゃらしの野原』(安房直子著 講談社)の豆腐屋さんのイメージと重なって。たしかに、そう言われれば納得がいかないというところもありましたが、ところどころに美しい文章があるのがいいなあと思いました。たとえば、p55「川が町のあかりをうつして、ちらちら光ります。赤、青、緑。いろいろな色が、水の上でおどります」とか、p58「ふと、空を見あげると、ちょうど森の上のあたりに、月がのぼりかけていました。まるで、森からうまれるみたいに」とか。

ルパン:言いたいことをほとんど言われてしまった感じですが(笑)。テイストとしては、いい感じで読み始め、期待したのにな、と……。あと、トラのところなんですけど、トラが焼き肉をするんですよね。なんの肉なんだろうって思いました。トラがクリーニング店を利用するなら、ほかの動物も「ももやまさん」のお客さんかもしれないから、なんだか気になっちゃいました。もしかしたら「ももやまさん」のお得意さんを焼肉にしてるかも、なんて。そして、やっぱり最後ですよね。人魚はどうなっちゃうのか、心配で。しっぽを返してもらえないまま、ずっとタイヤにつかまって漂流し続けているんじゃないかしら。タイトルが『クリーニングのももやまです』なら、クリーニングのエキスパートとして、誇りを持って、クリーニング道をきわめるような話にしてほしかった。世界に行って、何するんだろうって思いました。雪だるまのセーターをももやまさんが着ちゃうのも違和感あるし、それに、p43の絵、小さい丸いものがどうやってココアを飲むんだろうと思っちゃう。腑に落ちないところがたくさんある作品でした。

アカシア:どうやって飲むかを書いてくれたらよかったんですよね。

ルパン:金と銀の丸いいものがももやまさんのうちに来たことによって、無口さんの何かが変わるのかなと思ったらそうでもない。いろんなところで消化不良。いいお話になりそうなのにもったいないです。

きゃべつ:安房さんのだとばかり思っていました。装丁も似ていましたし。でも、読んでいたら、どのお話も起承転結ではなく、起承転とちょっとで終わっている印象で、あれ? と。蜂飼さんは『うきわねこ』(ブロンズ新社)も世界が広がっていって、おもしろそうだなあと思って読んだのですが、似たような印象でした。こういう、一見ふわっとしたお話のしまい方というか、ぼやかし方って難しいとは思うんですけど、これはどうしてこうなんだろうって、最後まで本筋に関係ないところが気になったりもしました。たとえば、クリーニング屋は染めものまでするのかな? とか、虎の皮ひっぱがすってどんな感じなんだろう、とか。これが天女の羽衣だったら分かるんでしょうけど、もう少し一つ一つの素材、そして短編の連作として並べたときのバランスについて、工夫できたのではないかなと思いました。

うぐいす:ファンタジーであればあるほど、細かいところを目に見えるようにきちんと書くことが大切ですよね。状況がリアルに描かれていないと不思議の部分が信じられなくなってしまう。とらの毛皮をとったとき、どんなふうかとか。イメージだけで言われてもぴんとこないんですよね。

紙魚:蜂飼耳さんは、ずっと気になる作家の方です。平易な言葉、安定した文体で、つぎにどのような題材を扱うのか注目してきました。こうした文体を用いて、日常の先にふっと不思議なことが起こる短い物語を書く作家といえば、安房直子さん、あまんきみこさん、茂市久美子さんなどが浮かびますが、その下の世代はあまりいないんですよね。よく、角野栄子さんが「魔法はひとつ」とおっしゃっています。「魔女の宅急便」シリーズ(福音館書店)でも、魔女のキキができるのは、ほうきで空を飛べるということだけ。ただし、角野さんは、キキがほうきで空を飛べるということを読者が信じるように、細やかにリアリティを持たせています。リアリティをていねいに積み重ねていって、最後の最後のちょっとの隙間に、きらっと不思議なものがあるからこそ、そのファンタジーが生きるのだと思いますが、この『クリーニングのももやまです』は、不思議なものが多すぎるように思います。クリーニング店を舞台にすると決めたら、クリーニング屋さんの仕事を見たり調べたり、実際に仕事をしている人から話を聞いたりすれば、もっと違うものになったのでは。ももやまさんを訪ねてくるお客さん像も、きっと必然性のあるものになったと思います。それから、各章の最後に見開きの絵が入っていて、そこでは、お話が広がる余韻を抱くのですが、本来これは、文章自体が担わなければならないことなのではとも感じました。読んだあとの安心感とか幸せ感がないのは、ちょっと残念です。そういう意味では、『赤ちゃんおばけベロンカ』とは対照的ですね。

ajian:いまおっしゃった「小さな人たち」って表現がいいなと聞いていたんですけど。ぼくは、3冊読んで、これがいちばん好きだったんですね。ファンタジーっていうより、ナンセンスなんだと思ってて、意味がなくてもいいんじゃないかと。この文体とふしぎな感じがあればいいって。ただ、子どもに興味がないのかもしれないっていうのは、ほんとにそうかも知れません。詩であったり小説であったり、蜂飼さんのさまざまな表現のなかの一つとして、この作品もある、という感じなんじゃないでしょうか。

アカシア:大人向けに書けばよかったのにね。子どもが読めばひっかかっちゃう。大人は想像で補って考えられるけど。子どもの本で出していることの意味がどうなのかと思いました。才能のある方だと思うので、編集の人ももう少し意見を言って練っていけば、いいものになったんだと思います。今のままだと安房直子さんとか茂市久美子さんを読んだほうがいい、という印象になってしまいます。

プリメリア:今回、この作品が「みんなで読む本」になったので感想を楽しみにしていましたが、遅れてしまい皆様の感想が聞けずとっても残念です。昨年末、いつも行く図書館の新刊書コーナーにこの作品が置かれていたので手にして読みました。最初、挿絵から茂市久美子さんの作品かなと思っていましたが、だんだん読んでいくと茂市さんの作品とはなんだか違いがあり、著書名をみたら蜂飼さんでした。クリーニング屋さんにおじぞうさんがお客さんで来る場面はおもしろかったですが、だんだんは話がわからなくなってきて、「人魚」のところで、「こんなことをしていいのかな!」と疑問に思いました。預かった人魚のしっぽを自分のものにしちゃって、そしてお出かけ。知り合いの方に「人魚のしっぽを勝手に持ち出して出かけることはおかしくないですか」聞いたところ、「ファンタジーだからいいのよ」って返答されました。が、クリーニング屋さんが預かった商品を自分のものにすること、また勝手に持ち出すことはどうなのかなってずっと心に引っかかっていました。学校から学童に行かずにゲームセンターに行っちゃった2年生の子どもたちに、「どうして行ったの?」と聞いたところ、「行きたかったから」って。それと似ているなって思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年4月の記録)


ひこ・田中『レッツとネコさん』

レッツとネコさん(レッツのふみだい)

ajian:『レッツとネコさん』しか読んでないんですけど、なんだろな、アイデアと理屈が先にあるような感じがしましたね。絵はすごくおかしいなと思って読んでましたけど。どうもお話にはなじめませんでした。

紙魚:『レッツとネコさん』は5歳のレッツが3歳の自分を、『レッツのふみだい』は5歳のレッツが4歳の自分をふりかえるというお話。おそらく、5歳の子どもが自分の3〜4歳を検証するというのは、現実にはあり得ないと思いますが、そこを、「もしもそうだったら?」という設定にして、新しい世界を展開しています。まあ、こんなに弁が立つ5歳児はいないでしょうし、ちょっと厳密すぎるくらい理屈っぽいので、実際の子どもたちがどんなふうに読むかには興味があります。作者からは、新しい幼年童話をつくろうとした心意気が伝わってきます。よくある絵本に対するアンチテーゼでもあるのだと思います。そうそう、文中「すきなおともだち」という言い回しがよく出てきますが、ちょっと意図が伝わりにくいです。

きゃべつ:私も「すきなおともだち」という表現が気になっていて、その答えが見つかるかと思って、1巻の『レッツとねこさん』を読みました。でも、あんまり説明はなかったので、独特の表現として使われているものなのかなと。この絵がすごく好きで、レッツが1歳年下の子が鼻くそ食べているのを見て、「うえっ」という顔をしているところとか、すごくかわいいなと思いました。大人が読む分にはすごくおもしろいですよね。でも、子どもに読ませるとき、対象年齢が難しいなと思いました。5歳のレッツが過去の自分を振り返るという形をとっているけれど、過去と現在を行ったりきたりするし、小学1年生までの子どもが読んだら、ごちゃごちゃになってしまう気がしたので。

ルパン:子どもはこれを読んでおもしろいのかなあ、と思いながら読みました。レッツはどこの国の子なんでしょう? あだななのかな? 男の子なのか女の子なのかもわからなくて。笑っちゃったのは、「ようちえんではみんなことをお友だちという」という一文。そういえば、うちの文庫で、ある子どもに「〇〇ってだれ? 先生?」と聞かれたとき、「ううん、お友だちよ」と言ったら、「おれの友だちじゃないよ」って言われて爆笑したことがありました。でも、そういう解説を入れているのがなんか大人目線だなって。幼稚園児にはむしろあたりまえのことだからなんとも思わないはずでしょう? 大人が一生懸命5歳にもどって書いてるつもりであれば、うまくいっていないと思います。何もかもが大人の発想だから。大人にとってはおもしろいのかもしれませんが。『ふみだい』のほうは、踏み台にゴキブリって名前をつけるんですけど、「それをさがしているんでしょ」っていうのが、わかりませんでした。何をさがしてるんでしょうね。

紙魚:私もわからなかったです。踏み台の使い方をさがしているってことなのかしら。

ルパン:あと、下から見ると蛇口のよごれが見える、っていう場面がありますが、5歳の子供が「上から見ると見えないんだな」っていうとこまで考えるのかなあ、って思いました。

レンゲ:読み終わってまず、何歳の子が読むのかなと思いました。本の体裁からすると、ひとり読みをはじめたくらいの、5〜6歳からの子が読者だと思うのですが、その年齢の子が楽しいと思うのかなと。たとえば、きらいな友だちにかみついていたのを、ネコさんにかまれてから、やめることにしたというところ。かんだのは好きだから、かんだら好きだと思われるかもしれない、だからやめよう、というのだけれど、3歳の時にそこまで考えるというのは、かなり違和感がありました。3歳の子のすることって、もっと感覚的、直感的だと思うので。イラストの使い方はとてもよかったです。

関サバ子:これは“大人のための絵本”ならぬ、“大人のための幼年童話”だな、と感じました。前にも一度読んでいて、そのときは、「絵もかわいいし、おもしろーい」とあまり深く考えずに読んでいたんですが、今回読み直してみて、子どもがこんなふうに考えるかな? というところがたくさんありました。たとえば、『レッツとネコさん』のp44でレッツの願望として、「おならをする」とありますが、子どもはどこでも構わずおならをします。別の違和感としては、『レッツのふみだい』のほうで、お風呂に入っているお母さんがお父さんに裸を見られて「キャーッ」というのが、「夫婦なのにこの反応は何?」と不思議に思いました。しかも、わりといい感じに仲の良い夫婦というふうに読めていたので、余計に不思議でした。2冊のうちでは、『レッツのふみだい』のほうが、お話に入っていける感じはありました。レッツは目線が低いから、大人が見つけてほしくないものを見つけるところや、テーブルの下の落書きをレッツだけが知っているという設定は、クスッと笑えました。ただ、p55以降は蛇足だと感じました。これは2冊ともに感じたことですが、途中で息切れして、長く感じました。あと、お母さんが外で働いていて、お父さんが主夫か自宅勤務という設定が、ちょっと新しく感じました。

みっけ:これって3冊のシリーズで、3歳の時を振り返る「ネコさん」と4歳のときの「ふみだい」、そして最後が「おつかい」になってるんですね。最後のおつかいも、大人のおつかいに憧れて、まるでお使いになっていないお使いをするレッツの話なんだけれど。始めて読んだとき、おもしろいなあって思ったんです。だいたい5歳の子が3歳の時を思い出して、自分はお兄ちゃんなんだぞみたいな、その設定が新しいなと思ったんです。この年頃の子ってけっこうお兄ちゃん風を吹かせたがるでしょ。そういう、なんていうのかな、ああ、このくらいの子にこういうことってあるよねえ、というようなことがいろいろあって、けっこうおもしろかった。ただし、私自身は大人目線で読む傾向が強いので、はたして子どもにこの絵本を読み聞かせたらどう思うのかな、やっぱりおもしろいって思うんだろうかと、そこがわからなかったんです。基本的には子どもって過去を振り返らないでしょう? だから、誰が読むのかな、とちょっと引っかかった。ただ、書かれている一つ一つのことは、大人とのずれやなにかも含めて、けっこうおかしくておもしろく、大人としては楽しめました。

うぐいす:とてもおもしろく読みました。よくテレビCMなどに、映像は赤ちゃんだけど声は大人で、大人顔負けのせりふを言うところがおもしろいものがありますが、あれと同じだな、と思いました。レッツとお父さんお母さんのちょっとずれた会話、レッツがいろいろなことをいちいち分析して納得するところ、5歳の子なのに、大人みたいに考えて、大人みたいにしゃべるおもしろさ。カバー袖に「著者はじめての幼年童話」って書いてあるんですけど、「幼年」の主人公が出てくる童話、という意味なのかな。私は、幼年童話とは絵本を卒業して一人で読めるようになったばかりの子どもにふさわしいもの、ととらえているんですけど、内容もさることながら、文章そのものも読みやすく、わかりやすくないといけないと思うんですよ。主語と述語がきちんとあって、過去になったり、仮定法になったりしない文章でいかないと意味がとらえられないと思います。
例えばネコさんのp16「手もつかって四本ではしるからはやいのかなとおもって、レッツもおなじように手をゆかについてはしってみたけれど、いつもよりおそくなった」こういった文章は、わかりにくいと思うんですね。誰が何をしたというのがすっとわかる文章というのかな。そういのを使わないと、その時期にはむずかしいと思っています。それからこの本はパラパラとめくっただけですぐわかるように、カタカナがたくさんありますね。ニンゲンとかミョウジとかキュウリとか、カタカナで書かなくてもいい言葉もカタカナにしている。カタカナのほうがニュアンスがおもしろいから使っていると思うんですが、カタカナを習っていない子どもには読みにくいことの一つつです。またみなさんと同じく、5歳のレッツが3歳の頃を思い出すというのは、やっぱり大人目線の考え方だなと思いました。
挿絵はとてもおもしろいし、ところどころに一部だけに色がついているのも効果的。レッツの性別がわからないのは、あえてそうしてるんだと思うんですけど、これもいいなと思いました。こんなふうにページ数の少ない絵物語が3冊あると、一人読みを始めたばかりの子どもにちょうどいいと思って買ってしまいそうだけど、3年生くらいが読んだらいちばんおもしろいだろうに、と思いました。

アカシア:でも、著者はきっと幼児が読める童話が書きたかったんじゃないでしょうか。

ハコベ:これは幼年童話のYAだと思いました。幼年童話って、自分のまわりでつぎつぎにできごとが起こっていくというものが多いけれど、YAは自分がどう考えたか、どう感じたかを丹念にたどっていくものが多いと思うんですね。そういうYAっぽい手法を幼年童話でやってみたというところが新しいし、おもしろいなと思いました。たしかに5歳の子どもはこんな風に考えたり、理屈をこねたりしないと思うのですが、小学校の3〜4年生くらいになると、とつじょ自我にめざめたり、自分の心の中をふりかえって辿ってみたりすることがあると思うんですね。わたしにもそういう体験があって、今でもはっきりと記憶に残っています。そういう年齢の子どもたちは、おもしろいと思うんじゃないかしら。でも、こういう幼年童話の形で書いたら、3〜4年の子どもたちは読まないかもしれないし……。

アカシア:私も3年生くらいが読むんだったら、こういう視点でもいいと思うんですけど、3年生は、こういう出だしだったら読まないんですね。やっぱり読者対象と書いてる視点のずれが大きい。3年生対象なら、もっと違う文章で書いたほうがいいかもしれません。引っかかったところがいっぱいありました。幼年童話で安全じゃないのを書きたいっていうのもわかるんだけど、この年齢だと安心できるものっていうのも大切なんじゃないかな。そうじゃないと冒険に出ていけないっていうこともあると思います。

プリメリア:子どもたちの日常的なかわいいしぐさがよく書かれていておもしろいなって思いました。「キュウリ」が「キウイ」に聞こえるって、そうなのかなって思ったり。お母さんの歌にピンクレディの歌「渚のシンドバッド」が出てきますが、今の子はAKB48の歌はわかっても、この歌はぜんぜんわかんないだろうな。子どもの姿じゃなくて、大人の視線から見た子ども像が書かれている作品のように読みました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年4月の記録)


クリスティーネ・ネストリンガー『赤ちゃんおばけベロンカ』

赤ちゃんおばけベロンカ

関サバ子:絵がかわいい、見返しもすてきというのが最初の印象です。お話全体は、お兄ちゃんが妹にコンプレックスを持っていて……というのは、かわいくていいなと感じました。絵と文章がちゃんと両輪になっている安定感がありますね。ただ、ヨッシーという名前が気になってしまいました。日本では、「よし」がつく名前の方の愛称として「ヨッシー」があります。なので、ヨッシーと出てくると日本に、ミッツィーと出てくると海外に、と頭の中が忙しく切り替わる感じがあって……。最初の、新しい言葉の発明が、不作法な言葉をくっつけたものというのがよくわかりませんでした。これがわかるともっとおもしろいのに! と感じました。ベロンカのキャラクターがまたおもしろくて、都合が悪くなると赤ちゃんぶって、ごはんはクモの巣、しかもホコリ付きだとなおよい、というのは笑ってしまいました。ラストは、あっけなくあっちの世界に行ってしまうのか、とさみしくなりましたが、p103のお母さんとベロンカが頬を寄せ合っている絵がとてもよくて、唐突ではあるけれど、はしごをはずされる感覚なしに、あったかい気持ちで読み終えることができました。楽しかったです。

みっけ:このお兄ちゃんのヨッシーとミッツィーって、別に仲が悪いわけじゃないんですよね。兄妹には、自分にはない長所を相手に見てうらやましくなるというシチュエーションがよくあって、それがそもそもの始まりになっている。お兄ちゃんがそれを何とかしたいと思ってアクションを起こし、赤ちゃんお化けを作るんだけれど、できちゃった赤ちゃんベロンカがまったく自分の思ったとおりにならないっていうところがまたいいなあ、と思いました。赤ちゃんベロンカの、図々しかったり、泣き虫だったりするあたりも、いかにも赤ちゃんらしくて納得できるし。そこから物語が転がっていって、最初はヨッシーがただうらやましいと思っていたミッツィーの怖いもの知らずなところが、二人にとってちゃんとプラスになり、かと思うと大きいベロンカに命をふきこむところでミッツィーにわざわざ「やりたい?」って尋ねてあげるヨッシーの優しさとか、お互いのいいところがいい形で絡んで、兄妹の関係が変わっていくというか、ふたりが関係を再発見する。そして最後に、ミッツィーがヨッシーに抱きついて、「おにいちゃんのベッドでいっしょに寝ていい?」と尋ねるんだから、これは読んでいてとても気持ちがよかったです。兄妹という名前の一幅の絵が完成した,という感じかな。あと、できちゃったお化けが赤ちゃんだったので、お母さんが必要だというあたりも、とても納得できると思いました。

うぐいす:とてもよくできた本で、好きでした。子どもは、赤ちゃんが出てくる話は大好きで、もちろんおばけの出てくる話も大好きです。大人に内緒で何かする、子どもだけでものをつくるっていうのも、楽しい要素。子ども読者を楽しませることがたくさんつまっていますね。しかも細かいことをきちんと書いているので、嘘っぱちなことなんだけれども、本当と信じられるところが、うまいなって思いました。兄弟の性格付けも、ベロンカの様子もよくわかるし。
秘密の友だちって最後に別れるところがつらいんだけど、子どもにとって最高に安心できる「お母さん」をつくってあげるっていうところは、読者としても納得できると思います。p97でベロンカがとびはねていたのにすぐに眠りこんでしまったのを見て、ミッツィが「赤ちゃんってそんなものだよ」っていうところとか、ところどころくすっと笑えるところがあって、ユーモアを感じました。不作法な言葉ばらばらにしてつくった「バーベロンベロンカ!」というのは、私は「ベロンベロン、バーカ」だなと思って読みました。見返しにベロンかの作り方が細かく書いてあるところも、楽しい部分ですね。

ハコベ:とてもおもしろくて、よくできている作品だと思いました。こういう本こそ、子どもたちが読みおわったときにフウッと満足の息をついて、またつぎの本に手を伸ばすんじゃないかしら。ベロンカのおかげで、お兄ちゃんと妹の関係が変わっていくところとか、赤ちゃんおばけにお母さんを作ろうといいだしたのがプラクティカルな性格の妹だったところとか……。この作品でいちばん大変なところは、自分が作った人形が命を得るという個所だと思うのですが、不自然さを感じさせずにすんなりと入っていけるところが、さすがネストリンガーだなと思いました。お母さんおばけの人形は、目も片方が大きかったり、なんだか変てこですけれど、すてきな、すばらしいお母さんじゃなくても赤ちゃんがなついていくというところなど、なかなかいいですね。「ふうがわりな」人形という訳も、うまいなと思いました。

アカシア:私もとてもおもしろく読みました。絵も、この子たちの生活が思いうかぶので、いいですね。作り方にしても、子どもに話しかけるように、「いろいろなマニキュア、マニキュアがなければまじっく」ってていねい。一つひっかかったんですけど、p23の4行目「生きるってつかれるなあ」って、「生きてるってつかれるなあ」てしたほうがよくないですか。「バーベロンベロンカ」は、「バカ」が入っているのはわかったけど、ベロンベロンはわからなかった。おばあちゃんも存在感がありますね。

プルメリア:3冊目でこれを読んだんですけど、ほっとしました。子どもたちはおばけが大好きです。自分が作ったおばけが動き出す、大人にかくれて秘密をもつ、わくわく感が伝わる作品だと思います。ベロンカにはたくさんのかわいさがありますが、p55のベロンカの言葉「ふとったクモはとってもおいしそうだけど、クモをたべたら、すがなくなっちゃうもんね。ごはんをつくってくれるのに、たべたりしないよ」もいいなと思いました。ベロンカにクッションを置いてやるヨッシーのしぐさもかわいいです。ベロンカを作る時とお母さんを作る時の窓辺に必ずハトがいる挿絵も印象的でした。

紙魚:クモのちっちゃなイラストも、あちこちに登場しますよね。

プルメリア:ベロンカもかわいいですが全体の絵もすごくいいです。おばあちゃんがちょっと若いけど。読みやすくとってもいい本だなって思いました。

ajian:安心感がありますよね。よくできてて。こういう話のフォーマットを利用したものって他にもいくらでもあって、世代的にETみたいだなとも思いましたが、やっぱりディティールに使われているアイディアがおもしろい。幽霊の赤ちゃんがクモの巣を食べるとか。それから、絵の遊びのことを皆さんも指摘されてましたけど、僕も一つだけ。p105の絵にもクモが登場しますが、よく見るとクモの糸でEndeって書いてあります。

紙魚:おばけは、子どもたちがみんな大好きな登場人物ですが、さらにそのおばけが気弱で泣き虫だというだけでも、読者は大喜びしそうです。子どもの好きなものをよく知っている作家なのではと思います。この物語からは、親に隠れて秘密を持つことのドキドキ感や自立心も伝わってきます。でも、実際のところ、p46でパパが説明してママが納得し、p58でもまたパパが説明してママが納得するということが書かれています。この家の親は、きっと子どもたちがやっていることを知らないふりして、すべてを知っているんですよね。親の描き方、大人の描き方で、作者の立ち位置があらわれるように思います。最後の最後で、たくさんの心の動きが安心感、幸せ感に変わる物語でした。今回の3冊は、比較がしやすくて選書が絶妙でしたが、いちばん楽しくていちばん安心していちばん栄養になったように思うのは、この『赤ちゃんおばけベロンカ』です。

きゃべつ:すごく楽しくて、ていねいに作られている本だと思いました。見返しに工夫がされているのって、すごく贅沢だし、子ども好きですよね。ここからわくわくします。実際読んでみて、弟とか妹が生まれて、お母さんがそちらにかかりきりでちょっぴりさびしい、なんて子にぜひ読んでもらいたいと思いました。この本では赤ちゃんが、本当に赤ちゃんで、お母さんという存在が必要なんだと、強く主張されているので、主人公と同じく、「しようがないなあ」って言いながら、かわいい赤ちゃんにお母さんをゆずる気持ちになってくれそうです。お母さんベロンカは生まれたときからお母さんで、赤ちゃんベロンカを見たなり、抱きあげて、ほおずりして、まるごと「母性」という存在ですよね。こういうあたたかな存在が描かれているのが、とてもよいと思いました。

ルパン:私は、実は3作品の中ではこれがいちばん印象が薄かったです。印象に残らなかったのは、よくできていたからなのかな。とってもスタンダードな安心感はありましたが、テイストとしては『ももやまさん』のほうが好きでした。期待外れで残念でしたけど。この作品でおもしろかったのは、「ひどいおばあちゃん」。もとの言葉は何なんでしょう。このおばあちゃんが一番強烈でした。

レンゲ:私はこの表紙を見たとき、そんなに「かわいい」とは思わなくて、最初入りこむのにちょっと手間取りました。作り方のところで、「たすきがけ」は、前はばってんにならないのにとひっかかったり。でも、とても緻密に構成されているお話だと思いました。書き方も、細かすぎもせず、かといって大事なことはきちんとおさえてあって、ちょうどいい。こわがりのお兄ちゃんと、しっかりものの妹の関係の描き方がよかったです。

うぐいす:半年後にママがパパの冬ふとんがみあたらない、と探す様子が書いてあるのもいいですね。放りっぱなしにしないできちんと落ちをつけている。

アカシア:ほつれた糸を残しておかないっていうのか。

関サバ子:見返しも化粧扉も4色で、1200円に抑えているのはすごいですね。意味のある4色の使い方で、勉強になります。編集者の方の力量を感じます。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年4月の記録)


時雨沢恵一『キノの旅』

キノの旅(1) the Beautiful World

ajian:1、2話読んで、あまりおもしろくなかったので、全部きちんと読めなかったですね。銀河鉄道999を思い出したけれど、もっと軽いというか、平板というか……。普通は、物語を物語ることで、何か伝わるものがあると思うのですが、これは何を伝えようとしているのか、よくわからなかったですね。こういう場所に行って、これこれこういうことがありました、という連続で。設定やアイデアだけがあって、肝心の中身がないように感じられました。

メリーさん:ライトノベルは時々読みますが、タイトルは知っているけれど手に取っていなかった1冊でした。これは、いわゆる大人向けの寓話ですよね。言葉遣いも、ある一定の年齢層に向けて書かれているので、この児童文庫の読者にはわからないものが多いのではないかと思いました。ただルビをふればいいのかというと、それは違う気が……。こういう物語は、主人公のキャラクターが好きか嫌いか、設定に入り込めるかどうか、ということで読み進めるものだと思うので、文学的にいいとか悪いという話とはまた別だと思います。人とバイクというアイデアはとてもおもしろいと思いましたが、キャラクターにはそれほど魅力を感じませんでした。

大福:少年漫画のような読みやすさと、戦えるカッコいい主人公、個性的で便利な相方エルメス。黒星さんという絵師さんは、機械をうまく描くことで定評があり、女性にも人気があります。作品とも合っていると思いました。このシリーズは、私が中学・高校生くらいの時に流行りました。かなり短い短編なので通学の時間に一話が読めたりと、量もちょうどよかったです。キノとエルメスがいろいろな国の人と関わって、いろいろな価値観を見せてくれるので、自分も少し哲学した気になれますし、自分がこの国に行ってキノの立場になったらどうするだろうと考えることがとても楽しかったことを思い出しました。電撃文庫にあった第4話「コロシアム」は、角川つばさ文庫版には入っておらず、そのかわりに「偉人の国」という短編が入っています。「コロシアム」では「殺せ殺せ」という大合唱や、キノが王様を銃で打ち抜く生々しい描写があるので、子どもにショックを与えないためなのかなと思いました。

トム:中高生に人気の本と聞きましたが……。人の痛みが分かる国、多数決の国、大人の国、平和の国などと、ひとつひとつの章に大きな主題がストレートに出ているけれど、なにか読後はすっきりしません。現実の皮を剥ごうとしているのかも知れないけれど、展開が一方的だし、読者に対して乱暴な気がします。戦争についてもこんなに簡単に書いておしまいにしてよいのかと思います。大国への批判は充分わかりますが……。全体を通して乾いて暗い感じですが、その暗さの質が気になります。

ハコベ:『星の王子さま』や『ガリヴァー旅行記』のような話ですが、どこがおもしろいのか、なぜ読まれているのか、さっぱりわかりませんでした。学校図書館(中学、高校)の司書の方にうかがったら、主人公が女の子っぽくなくて(イラストも含めて)、自分の目の前で起こる出来事に感情移入せず、いつも距離を置いてさめた姿勢でいるのがクールでかっこいいというので、読書力のある子にも無い子にもよく読まれているとのこと。世の中の出来事に真摯に立ち向かっていく姿を滑稽だとか、ウザいと感じる風潮と、どこかでつながっているのかもしれません。パラパラめくって軽く読む本なのでしょうが、それならもっとおもしろい本があるのにと思ってしまいます。

レンゲ:10年くらい前に中学校の図書室のボランティアをしていたとき、よく借り出されていた本です。今回初めて読んだのですが、私はつまらなかったです。大人になりたくない、大人になることに希望を持っていない子どもが、子どもに書いた本という印象で、そのニヒリズムがいやでした。投げやりという言葉にも通じますが、希望のないところが。
『ほこりまみれの兄弟』では、旅を通して主人公が成長していくけれど、これはひとつの旅が終わっても、前と同じで主人公は変わらない。なぜ突然攻撃的になるのかも理解できなくて、本と対話できませんでした。こういう世界はゲームでもたくさんあるし、別に本で示してやらなくてもいいのでは? つばさ文庫は小学校中学年からだそうですが、ただでさえ忙しい今の子どもに、わざわざこの本を手渡そうとは思いませんね。

ハリネズミ:ちょっと時間がなくて、まだ半分しか読んでいません。でも、机の上に置いておいたら、まわりの若い人たちがすぐに反応するので、人気がある本だということはすぐわかりました。学校という空間を息苦しいと思っている若い人たちが通学途中で読むには、いいのかもしれませんね。文学としては舞台設定もあいまいだし、情景描写もたいそう貧弱ですが、プロットだけはなかなかおもしろい。そういう意味では、今のライトノベルの典型かもしれませんね。角川つばさ文庫で読んだのですが、新たに書いたという4話だけが、ほかと違って、ですます調になっているのが気になりました。同じ注がどの話にも入っているのもわずらわしいと思いましたが、これはどこから読んでもいいという作者のメッセージなんでしょうか?

プルメリア:小学4〜5年の女の子たちが読んでいました。読んでいる子どもに「この本、みんなが読んでいるけれど、どこがおもしろいの?」と聞いたところ「キノが女の子っぽくないところが好き、それにどこからでも読めるし」と言っていました。今回読んでみたところ、女の子が手に取る表紙や挿絵だと思いました。どの章からでも読めることや各章の表紙がまとめて最初にある本作りは面白いと思いました。

きゃべつ:私も中学生のころに読みました。とても流行していて、この人の他の作品も読んだことがあります。クールで、世間を斜めに見ている「僕っ娘」のキノは、自意識を持て余している思春期の子にとても刺さるキャラクターなのだと思います。児童書で「旅」がテーマになる場合、そこには成長や目的があるけれど、『キノの旅』にはそれがなく、サザエさんのようにキャラクターは据え置かれて、旅という手段によって舞台のほうがくるくると変わっていく印象でした。さまざまな国が出てきますが、原作の電撃文庫でおそらく一番人気があり、もっとも『キノの旅』らしい「コロシアム」が角川つばさ文庫では収録されていません。代わりに入っていたのは、ですます調のお話で、ライトノベルをそのまま児童文庫に持ち込むことの揺らぎを感じました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年3月の記録)


ローズマリー・サトクリフ『ほこりまみれの兄弟』

ほこりまみれの兄弟

プルメリア:おもしろかったです。主人公ヒューがやさしく素直で、前向きの寄り添いたくなるかわいい子です。季節ごとに移り変わるイギリスの自然描写やその土地で生活している人々の暮らしの様子がよく描かれているなと思いました。お祭りを楽しんでいる様子も描かれているので一緒に楽しむことができました。主人公と関わっている旅芝居の人たちとの小さな社会があたたかくてよかったです。貧しい中にも人々の優しさが入っていてよい本だなと思いました。サトクリフの書いた作品は何点か読みましたが、この本からは、今まで読んだサトクリフ作品とは違う一面を知りました。p64に聖ジョージと竜が戦う場面がありますが、聖ジョージの味方をして大声をあげる者もいれば、竜がいちばん好きだからと竜に声援を送る者もいる、そんな見物衆の熱のこもった会場の盛り上がりが聞こえそうな気がしました。

ウグイス:これはもう20世紀の児童文学の王道といった作品ですね。主人公が、父親も母親もいない、逆境にある、犬が好き、という出だしからもう読者の心をぐっとつかみます。逆境からたったひとりで逃げ出し、目標に向かって進む。行く手には困難もあるのだけれど優しい気持ちを持った大人たちに助けられて生きていく。きっと幸せをつかむという安心感があります。サトクリフの作品はどれもそうですが、どんな時代の主人公であっても、読者がぴったりと心を寄せて一緒に歩いて行けるんですね。一体この著者は何を書きたいのか、という疑問を持たずに読めるというか、安定感がありますよね。旅芸人たちも魅力的に描かれているし、ツルニチニチソウの鉢が小道具としてうまく使われています。文体はこの年代の読者向けの物語にはめずらしく敬体で書かれていますが、「ていねいに書かれている」感じが増していますね。しかしこのタイトルと装丁はどうなんでしょう。子どもたちがおもしろそう、と手を伸ばすとは思えません。私も兄弟の話だと思ったし、ほこりまみれの兄弟なんてあまり魅力を感じないし。『クロックワークスリー』のほうがずっと魅力的に思えました。そこが残念でした。

きゃべつ:冒頭で、ツルニチニチソウの鉢植えを唯一持って出ていくところが、つつましやかでとても好きです。夢か現か、というぎりぎりのラインでファンタジーを織り交ぜていて、それがとても上手でした。物語の途中、牧神(パン)についてやけに印象的に語らせるなあと思ったのですが、途中で会った笛吹き、そして最後にアルゴスを助けた人物が、よいひとたちのひとりであり、牧神(パン)なのですかね。言い切らないことで、かえって余韻が残り、印象的でした。

メリーさん:『クロックワークスリー』が映画のような話だとすれば、この『ほこりまみれの兄弟』は1枚の絵画のような物語でした。最後まで読むと、それまでのエピソードがすべてつながり、パズルのピースが完成するような感じがしました。どのエピソードも印象的ですが、主人公のヒューのそばには、いつでも旅芸人のジョナサンがいて、やさしく見守ってくれている。大人と子供の信頼関係がきちんと描かれているのがいいなと思いました。最後の場面、ヒューが旅の一座を離れ、オクスフォードに行くことを決めたところ、家の外から自分を最も大切にしてくれた旅の一座の奏でる音楽が聞こえてくる。ヒューはそれを耳にしながらも、決して見に行こうとしない。そして、だんだんとその音が遠ざかっていく…自分を育ててくれた人たちに、心の中で感謝しながら別れを告げる場面は本当にいいなと思いました。

大福:いろいろな植物が出てきて、自然味豊かな描写と犬の生き生きとした描写が好きです。『運命の騎士』(サトクリフ、岩波少年文庫)の方がもっと話が濃く、風俗や習慣なども味わえて展開も早く、ドキドキハラハラした印象がありました。読んでいる間も読み終わった後も、なぜかぼんやりとしてあまり心に残らなかったのですが、なぜかと考えたときに、語り口やヒューの描写が愛情あふれた書き方で、いつも守られたり、フォローされているように感じたことが理由かなと思いました。この物語はこの少年にあまり悪いことが起きないようにできているのかなと思わせてしまうところや、少年の思い通りになることが多かったので、ドキドキハラハラがあまり感じられなかったのかもしれません。ただ、虐待から逃げ出すのはひとつの選択肢としてあるということを子どもたちが知っておくのはよいのではないかと思いました。

ダンテス:『クロックワークスリー』と比べると、ある意味イギリスの時代小説というとらえ方でいいのでしょうか。ウォルター・ローリーなど、イギリスの歴史をうまく取り入れてイギリスの子どもたちに時代がわかるように書かれています。こちらはエリザベス女王の年代や、シュークスピアの生没年も調べました。また自然描写がうまいです。訳もうまいですね。ストーリーの展開としては不安がありません。旅芸人に救われて最終的にそこからステップアップするよう救う人も出てくる。一方、お世話になった旅芸人たちとの別れの葛藤もあって、まことによりよい人生の展開があり、よい終わり方をしています。ただ、本の題名がわかりづらいですね。定住しない人たちをほこりまみれの足と言っていたと文中にありましたが。

トム:『クロックワークスリー』と比べると、物語のなかの時間がゆっくりと自然の流れに沿っている感じがします。動くことが不自由だったサトクリフを思うと、その想像力はほんとうにすごい! 読みながらイングランドの地図を辿るのもとても楽しかった! サトクリフはヒューのように歩いて旅をしたかったのかもしれないですね……。人の痛みがわかる人たちのヒューへの心遣いがあたたかくて心に沁みます。旅先の村で芝居をふれ歩いて村人を集める姿や、芝居小屋の裏の様子とか、日本と共通することがあると思うとまた違うおもしろさがでてきます。さらし台も昔、日本の村で掟を破った人に似たようなことをしたとどこかで読んだ気がしますが……。物語の中に芝居が入っていたり、物語の中にジョナサンの語る物語が入っていたり仕掛けがたくさん埋め込まれている! ダンテスさんがおっしゃったように歴史も埋め込まれているのですね。サトクリフはこの物語の中にいろいろな種を埋め込んでいるのかもしれないと思いました。具体的に書かれたたくさんの花も辿ればまた何か見えるかも。ただ、p7の「ニオイアラセイトウの花のような茶色い目」は目の色?形? 最後にヒューは、深く悩みますが、私だったら旅芸人について行ったかも……。この物語を読んだ学生の人たちはどう思うかちょっと聞いてみたいです。

ハコベ:みなさんがおっしゃるように、本当に安心して読める、すばらしいイギリスの児童文学だと思います。主人公がいろいろな事件に遭遇しても最後には幸せになるんだろうなと思いながら読める、よくいう幸福の約束を作者がしてくれている。現代の作家が書けば、最後は旅芸人についていくという結末になるかもしれないなとも思いました。敬体で訳してあるので初めはちょっと読みにくいと思いましたが、すぐに気にならなくなり、ぐいぐいとストーリーに引き込まれていきました。イングランド南部の自然を美しい言葉で綴ってあり、訳者が心をこめてていねいに訳していますね。乾侑美子さんが亡くなる直前まで力を尽くして仕上げられた作品で、本当にすばらしい仕事を遺していかれたと胸を打たれました。

レンゲ:物語がとてもおもしろかったです。16世紀の世の中はこういった感じだったのかなと思いながら読みました。オクスフォードに行くのか、旅芸人たちといっしょにいるのか、最後に主人公が迷って選ぶところがとてもいいなと思いました。微妙な心の動きや情景など、普段は言葉で表さないようなことが端々で表現されていて、読むと逆に人間の感情や自然の豊かさを再認識させられるようでした。でも、こういう本はお行儀がよさそうで子どもに敬遠されそう。手渡そうとしないと、なかなか手渡せない本ですね。
翻訳はとても読みやすかったですが、p221の「インド諸島」は正しくは「インディアス」です。でもこれは、p222に「イギリス女王のインド諸島」というのが出てくるので仕方がないのかもしれません。また、p222ジの「スペイン王フィリップ」は「スペイン語フェリーペ」とすべきところでした。

ハリネズミ:出版されてすぐに読んで、とても好きになり、書評も書いたのですが、もう一度読み直す時間がありませんでした。なので、細部は忘れてしまっているのですが、読後の満足感が大きかったのは覚えています。サトクリフは体が不自由であまり外には出られなかったと思うのですが、旅芸人の人たちが野宿をしたときのことや、まわりの自然など、ここまでリアルに書けるのは本当にすごいと思います。戦闘場面なども荒々しく書いたほかの作品と比べると、いざこざやもめ事はあるものの、やさしい作品ですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年3月の記録)


マシュー・カービー『クロックワークスリー』

クロックワークスリー〜マコーリー公園の秘密と三つの宝物

ダンテス:かなり分量があって読むのは大変かなと思いましたが、けっこう楽に読めました。ストーリー的には『マルベリーボーイズ』(ドナ・ジョー・ナポリ著 相山夏奏訳 偕成社)と似ていますか。現実にこれに近いような話があったのでしょうね。最後、ボディガードが親方を殺すところには驚きました。そういう解決に持っていくのかと。ここはかなり意外でした。細かく詮索してここは変じゃない?と思う所はないわけではありませんが、お話として読めばおもしろかったですね。

トム:物語の世界へ引き込む力がとても強い。次々変わる場面も見えるようだし、食事の匂い、バイオリンの音色、地下室のカビ臭さなども感じられて、細部のリアルさが全体を支えている気がしました。

ハコベ:厚いので「うわっ!」と思いましたが、おもしろくて一気に読んでしまいました。お互いに知らなかった3人の主人公が結ばれていくところもうまくできていると思いました。ダンテスさんのおっしゃるように『マルベリーボーイズ』と時代背景が似ていて、同じ時代と場所の物語をもっと読んでみたいと思いました。ただ、ロボットまがいの代物が出てくるあたりから「こんなのあり?」という感じで、波乱万丈を通りすぎてハチャメチャになっているような。なにやら訳の分からない粘土や、お金持ちのご婦人を追っている「敵」の正体も明かされないまま終わるのは、どうなんでしょうね?

ハリネズミ:3人の物語がだんだんからみあって一つになっていくところや、謎を解明しているところや、アリスの存在など、おもしろいところもあったのですが、「これでいいのか?」と疑問に思ったところもかなりありました。一つは子どもの盗みです。ハンナはポメロイ夫人のダイヤのネックレスを盗むし、博物館にしのびこんでゴーレムの一部である粘土のかたまりを持ってきてしまいます。フレデリックも、博物館から銅製のマグヌスの頭を盗む。仕方なく盗んでしまったのはしょうがないとしても、盗んだ後の著者の処理が腑に落ちなかったんです。p369では、ハンナの独白で「ポメロイ夫人は、ミス・ウールとグルンホルトさんの味方をして、ハンナを裏切った。(中略)もちろん、父親のためなら、何度だってやるだろう」と言わせているし、p453では「おまえはポメロイ夫人のネックレスを盗んだが、おかれた状況を考えれば、それも無理からぬこと」と、トゥワインさんに言わせている。目的さえよければ盗んでもいい、というメッセージが伝わってきますが、著者は意図的にそうしているんでしょうか? またハンナはゴーレムのかけらをポメロイ夫人にプレゼントしてしまうし、フレデリックの盗みに関しても、博物館の管理人が悪いやつだったからということですませている。盗んだことの結果を、子どもはまったく引き受けていないわけです。また、社会の底辺にいる3人が力をあわせて希望をつかむという流れですが、最後は結局お金持ちのポメロイ夫人が幸運を授けてしまう、というのも残念だし、トゥワインが子どもたちと取引をするところもあまりにも単純で、子どもだましの感があります。私は、訳者あとがきに書かれているほどすばらしい本だとは思えませんでした。この著者の次の作品がむしろ楽しみです。

プルメリア:長編は好きな方なので楽しみながら読みました。各章にある目次のカットが内容を表していてわかりやすかったです。ハンナがネックレスを盗む、ジュゼッペが緑のバイオリンを盗まれる、フレデリックが嘘をつきながらお母さんを探すところ場面など、ドキドキハラハラすることが多かったです。ただ、ハンナのお父さんが元気になる場面は展開が早すぎるように思いました。からくり人形がしゃべるのはびっくり、また、マグヌスの頭が話した言葉がドイツ語でしたが、それが英語になるのも不思議でした。おもしろかったものの、ファンタジーの世界にはちょっと入り込めませんでした。3人の登場人物に興味をもって読み出すと、長いけれど読める作品だと思います。

ウグイス:まず見た目が魅力的でおもしろそうな本だなと思いました。3人の子どもたちが出てきますが、先ほどプルメリアさんもおっしゃったように、各章のはじめに子どものイラストが入っているのはわかりやすくてよい工夫ですね。途中で訳者あとがきを読んだら「飽きるどころかどんどん引き込まれて」と書いてありましたが、それほど引き込まれる感じはしなかったです。19世紀末のアメリカ東部が舞台と書いてありましたが、それらしいにおいはあまり感じられず、架空の世界の話のようでした。

きゃべつ:帯に、日本の児童文学は内面の描くことに重きを置いている作品が多いけれども、純粋に読んでいておもしろい作品も必要だ、というような主旨のことが書かれていて、なるほど、と思いました。おもしろくて夢中になって読んだのですが、瀕死のお父さんがいるのに、助けるために現実的な手段を選ばず、伝説のお宝を探しに行くところなど、展開に無理があるところが少々気になりました。ゴーレムなども本当に必要だったのかな、と。ファンタジーの要素をもっと減らしても、充分に楽しめる作品だったかと思います。

ajian:ディケンズのようだという触れ込みで、期待して読んだのですが、後半がやはりぐずぐずでした。前半は魔法のバイオリンをひく場面や、ハンナがオペラに行くためにドレスアップするところなど、印象的な場面がたくさんあって、好きな作品だったのですが。後半の自動人形が動き出すくだりは、いらない気がしますよね。動き出して、暴れて、壊れて終わりで、何だったんだろうという。前半のせっかくのおもしろい風呂敷を後半にたたみ損ねた感じが、惜しいです。つまらない作品ではないのですが……。

メリーさん:とてもおもしろかったです。「黒魔女さん」の著者が訳しているということもあり、これだけの分量の物語を読ませるところ、やはり読みやすさに気をつけているなと感じました。3人がそれぞれ語る構成もいい。主人公たちがそうとは知らずに、偶然同じ場所に居合わせているところなど(読者だけが知っている)は、とてもうまいなあと思いました。前半は主人公たちが自らの運命を切り開いていく姿がとてもいいのですが、後半は彼らの実力と超能力の境界があいまいで、ちょっと残念でした。オートマタなどは、そこまで超能力を持たせずに、からくり人形のままでよかったのでは。キャラクターも立っているし、バックグラウンドとしての時代や街の様子をきちんと描いているので、ファンタジーにしてしまわずに、きちんとした歴史冒険物にしたほうがよかったのではないかと思いました。タイトルは、「機械じかけの〜」というような意味だと思いますが、原題そのままだと、読者にはちょっと意味がわかりにくいかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年3月の記録)


リリ・タール『ミムス』

ミムス〜宮廷道化師

タビラコ:途中までしか読んでいないのですが、とてもおもしろかった。家へ帰ってから、絶対に続きを読みます。虐げられていながら、ある意味で宮廷の誰よりも自由であるという道化師の存在そのものが魅力的ですね。ただ、ひとつ不満をいうと、登場人物が多くて名前が分かりにくいのに、登場人物紹介がなかったこと。途中で「誰だっけ?」と何度も前のほうを読みなおさなければならなかったので……。

トム:物語の始まりでたくさんの人物・王国・関係性に混乱してきたので、新しく人が登場したら、ページに付箋添付作戦で行きつ戻りつして、やっとクリア! 物語の舞台になる城や森などの地図が本のどこかにあったらいいのに! べリンガー城の内部などもふくめ自分で想像して描く楽しさを残しておくということもあるけれど...あれこれ考えていると芝居にしたこの物語も観てみたいと思いました。皆から慕われるモンフィール王フィリップのなかにもひそむ弱さ、敵意に満ち残酷極まりない王テオドではあるけれど家族にみせる情、父を救おうと行動するフロリーン王子の、どこかに残る頼りなさ。みな人間くさくて惹かれます。たとえば、フロリーン王子がモンフィール王解放作戦を練るヴィクトル伯爵から同志の名をほんとうに知りたいかと聞かれ、一度は「はい」と答えたものの、すぐに首をふって打ち消し「焼きごてを見ただけで、ぼくは名前をぜんぶ吐いてしまうでしょうから」と断る場面や、拷問のすえ地下牢に閉じ込められたフィリップ王が、王冠とひきかえに明かりと空気と命を恵んでやるといわれて「ここにこれほど長くいると、真実よりもそうした嘘を信じた方がどんなに気が楽か、と思えてくるのだ」という場面などに出会うと、弱さを知ることの方がずっと強い気がしてきます。
道化の存在は深くてつかみきれないですね。「存在が無だってことよ」「神様のものでもねえし、悪魔のものでもねえ」と言うミムスは、謎めいておもしろい! この物語の鍵をにぎっています。

さきいか:すごくおもしろかったです。p534の「邪悪な〜」の所からの2ページはお触れなのか手紙なのか、文書ならこういうところに絵があっても良いかなと思いました。あとは、ミムスとフロリーンの友情、ミムスとヴィンランド王の友情、フロリーンとラドボドの友情、フロリーンとベンツォの友情や絆が描かれているところが良いと思いました。そういったところが辛い環境でも救いになっていて物語の後味を悪くさせないようにしているのかなと思いました。マイスター・アントニウスもちゃんと人間らしい心があって、フロリーンに同情してくれているところもじーんときました。社会人としてはだめな行動なのでしょうが。あと、フロリーンは底辺を少し知ったので、良い王になるんじゃないかなとこれからが楽しみで、今後のストーリーも見たいなと感じました。

紙魚:ドイツの児童文学だったので、もしや思索的で難解なものなのかなと一瞬思ったのですが、読みはじめるととてもおもしろく、エンターテイメント性がありました。とはいっても、やはりドイツの物語。善悪、貧富、愛憎と、相反するもののあいだにうまく主人公を立たせて、考えさせられるところも大いにあります。物語全体をひっぱっていくのは、ミムスの存在。この作者は、きっとミムスという人物を書きたくて、この物語を書いたのでしょう。とくに、ミムスの発言や歌は、毒のあるユーモアにあふれていて、ときにはほっこりしたり、ときにはどきっとしたり、楽しませてもらいました。訳者の方も、原文で韻が踏まれているところなど、歌の訳については、きっとご苦労されたのではないでしょうか。王子がこんなにかんたんに誘拐されるかについては、ちょっと疑問に感じました。この物語は、宮廷のなかについてはリアルに書き込まれていますが、宮廷外の描写はさらっとしていて、隙間があるように感じました。

きゃべつ:語り口は昔話のようで、ドイツの児童文学によくあるように、堅実にらせん状に話が進むのかと思ったけれど、ミムスに出会ってからは、物語も急に生き生きと動きだしておもしろかったです。ミムスのキャラクターが人を惹きつけ、物語のテンポを作っているのだと思いました。この本はあらすじだけを聞くと、とても残酷な話だけれど、それぞれの人物に宿る良心もきちんと描かれていて、それが救いとなっているのだと思います。

関サバ子:分厚い西洋ファンタジーは読まないので、ふだんは絶対に手に取らない本でした。が、読み始めると最初からぐいぐい引きこまれ、寝る間も惜しんで読み切ってしまいました。おもしろかったです! 主役はフロリーンですが、存在感ではミムスが上ですね。宮廷道化師は、王様に見世物小屋の動物のように囲われているのに、王様をからかっても(といっても、高度な笑いと知性、反射神経が要求されますが)首をはねられない唯一の存在であるというのが、すごく興味深かったです。また、「非人間的な扱い=悪」というステレオタイプに陥らず、ミムスはミムスなりの矜持がある、というところは、考えさせられました。フロリーンが空腹にあえぎ、鞭打ちを受けるところは、真に迫るものがありました。こんなふうに、思わず目を覆いたくなる残酷さも逃げずに書いているところは、わたしは好きです。最後まで甘ちゃんらしさが抜けないフロリーンには、歯噛みしたくなる思いもありましたが、それをしのぐ生命力がとても魅力的でした。
骨格は典型的な貴種流離譚だと思いますが、フロリーンの成長を、ミムスが直接父親のように促すというより、あたかも触媒のように促している距離感がよかったです。最後、城が破壊されて国が制圧されているのに、形勢逆転できたのは、不自然な感じを受けました。

レン:途中までしか読めませんでした。西洋の伝統にのっとって物語が進んでいきますが、日本の読者は西洋的なものには受容度が高いことを改めて痛感しました。道化は、馬鹿なふりをしながら、本当は自分のほうが相手を見下すといった複雑さを持っているので、その重層性がおもしろみになっていますね。

ハリネズミ:よくできた物語だと思いました。表紙がチビミムスと老ミムスの違いをよく表していますね。ちびミムス(フロリーン)のほうは、まだ子どもだし育ちもいいので、まっすぐで単純な顔をしている。逆に老ミムスのほうは、知恵も悪知恵も身につけて、多面的で一筋縄ではいかない、いかにもトリックスター的な姿をしている。対照的な存在だということが、表紙からもわかるように描かれているんですね。老ミムスは、どっちに転ぶかも、誰をだますかもわからない。だからこそ、おもしろい。ハッピーエンドは児童文学の限界か、という話が出ましたが、怨みの連鎖を断ち切るというのは、現在の世界状況を見渡している著者の願いなのだと思いました。理想を提示するのは児童文学の一つのかたちで、限界というのとはまた違うように思います。あまりにもとってつけたようなハッピーエンドだとまずいですけど。訳は少し引っかかるところがありました。フロリーンが師匠であり年もずっと上のミムスを「きみ」と呼んでいるのがいちばん気になりました。「ご紳士」「ご勘定」っていうのも変では?

シア:装丁も設定も良さそうで、期待していた一冊です。しかし、本の分厚さに少し気後れして、3冊目として読みました。読んでみて、映画になりそうな、おもしろい物語だと思いましたが、Y.A.としてみると残酷な描写が多すぎるような気もしました。4章からずっと飢えと寒さと辛い展開で、重い話が長いかなと。キャラクターの数は多かったですが、一人一人キャラが立っていて、読んでいてわかりづらいということはなかったですね。
とてもおもしろかったのですが、実は3冊中一番納得がいかない作品でもありました。とくにエピローグが蛇足だったかなと。ミムスをすぐに自国へ連れて行かなかったヴィンドール側の行動が腑に落ちません。ミムスのテオド王への微妙な忠誠心の理由や、チビミムスのアリックス姫への恋心も、姫が綺麗だから惹かれているように思えるところもあり、もっと掘り下げてほしかったですね。アリックス姫がチビミムスにある程度の情けをかけてくれたとはいえ、無知で高飛車なお姫様という印象の方が強かったです。それにこんな扱いを受けているのだから、王同士の確執がもっと根深いものでも良かったような気もしますし。このラストでは、殺されたたくさんの重臣たちが浮かばれません。自国も滅茶苦茶です。せめてテオド王の首くらいもらわないと、釣り合いが取れません。それに、ミムスは結局何をしたかったんでしょう? 何を目指して自分がどうしたいのか、あまり見えてきませんでした。
Y.A.にしてはダークですし、大人向けとしては無理に大団円に持ち込むようなシビアさに欠けているところもあり、本当におもしろかったのですがそれだけに望みが高くなりすぎて、納得のいかない点が多い作品でもありました。ところで、作者のことを調べたら素晴らしい人でした。児童文学であっても、時代背景をかなり調べて書いたことが分かりました。

ルパン:おもしろかったです。最初は悲惨ですごく読むのがつらかったのですが、読み進めるほどにだんだんミムスの魅力が分かってきました。映画『E.T.』のように外面の醜さを内面の魅力が補って、さいごはすっかり愛着がわいてきました。復讐の連鎖をミムスの一言で止めたところが凄いなと感じました。王の命を救ったミムスへの褒美は毛布一枚とありましたが、本当はもっと丁重に扱われたんだと思いたいです。気の強いお姫様がチビミムスを好きなことは随所に感じられました。私は、このお姫様、なかなか好きです。ストーリーにもひとひねりあってよいと思いました。つっこみどころが何か所もありましたが、とても良い作品です。

プルメリア:とってもおもしろかったです。長文ですが話が進むのはゆっくり、だけどすごくひきこまれる内容です。とてもていねいに書かれていると思います。ミムス2人は名前がマスターミムスとチビミムスに分かれていて子どもは好きそう。戦う敵もそれぞれ理由があり納得、終わり方もハッピィエンドすごく良かったです。さるのピラミットには驚きました。いろいろな技がいっぱいでてくるけど、教え込むのは大変だろうなと思いました。最後に、「たくさんの鈴がついた服を着た王冠をかぶった若い男。頭からはロバの耳が生えている」という、フロリーンが作ったモンフィール王位継承者の印章が心に残り印象的です。ページ数は多く分厚い本ですが、本を手に取ると見た目よりも軽く表紙の絵も良かったです。小学6年生の男の子が一人読んでいました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年2月の記録)


E. ネズビット『鉄道きょうだい』

鉄道きょうだい

シア:振り返ってみると、すごく納得のいく作品でした。優しい語り口で安心して読めますし、実際読みやすかったですね。昔ながらのご都合主義的展開は面白さには欠けますが、安定はしていました。教師や親なら喜んで子どもに与えそうな一冊です。題名がもっさりしていて装丁もあかぬけないところなど、まさに小学校中〜高学年くらいの課題図書になりそうです。台詞のレトロさに思わず笑ってしまうところもありましたが。本の中にナレーターがおり、「そうですよね」「いいですよね」という風に読者に語りかけてくるのが、古すぎて逆に斬新だと感じました。おもしろさに欠けるとは言いましたが、古い作品だけあって最後まで読ませる力はあります。挿絵が可愛く、とくに服装がアンティークで素敵なので、女の子に良いかもしれないですね。ただ、厚みのわりにやけに重量のある本なので、岩波少年文庫にしてくれたら中1くらいでも読みやすいかも。

関サバ子:期待せずに読み始めましたが、子どもたちの魅力で、あれよあれよという感じで読み進むことができました。登場人物がいい人ばかりで、最初はちょっと「なんだかなぁ」と感じました。でも、読み進むにつれて、おとながちゃんとおとなとして機能している姿というのは、やはり見ていて気持ちがいいと思い直しました。己もかくありたいものです。子どももちゃんと子どもとして生きているといいますか、こまっしゃくれ具合と、健気なところが魅力的でした。子どもも3人いると小さな社会ができる、という話を思い出します。この時代にしては、母子家庭(であり、投獄された身内のいる家族でもある)への風当たりがほとんどないのには、驚きました。著者が社会運動家であったことも関係しているのでしょうか。
 著者がときどき顔を出すときの出し方や、ウィットのきいた会話には、イギリスらしさを感じました。辛口なユーモアと言いますか……。変な甘さがないところや、わかりやすい善悪をやたら振りかざさないところも、好ましく思いました。しかし、この舞台や人々の美しさは、今読むと、文化財やファンタジーのように見えますね。

きゃべつ:装丁からして、古き良き時代の話だと伝わってきますが、はじめに覚悟していたよりは、ずっとおもしろかったです。子どもが自分で手に取るというよりは、図書館などに置いてあって、大人が安心して子どもにすすめられる本、という印象でした。道徳的なので、素直にこの本を読めるのは小学校中学年くらいまでかな、という印象ですが、それにしてはかなりの厚みがあるので、読者対象が難しい本かなと思いました。

紙魚:三人称ならではの安定した心地よさがありました。ただ、昔の作品だけあって、語り手である作者がしょっちゅう顔をのぞかせます。やや前に出過ぎかなとも思いましたが、そのおせっかいもユーモアがあるので許せました。p59の、主人公の子どもたちが汽車に名前をつけるところで、小さな感動を味わいました。なにか大切なものに名前をつけたときに、物語がはじまるのだと思います。難しい漢字もなく、漢字もわりあいひらいているので、小学中級の子どもたちにも十分に読めるとは思うものの、分量がかなりあるので、読者対象が見えにくい本です。そうそう、作者のおせっかいぶりといえば、読み手に、この家族は今、父親が不在であることを忘れずにいさせてくれるような描写が時折、入ります。今の作者は、自分の存在を消しながら書き進めますが、こうしたおせっかいぶりは、新鮮にも感じました。

レジーナ:この作品では、3人の子どもたちが、ペチコートを振って事故を防いだり、怪我をしてトンネルの中で倒れていた少年を助けたり、さまざまな事件が次々に起きます。しかし散漫な印象を受けないのは、それらが全て「鉄道」をめぐる人々と結びつき、最後の結末につながっていくからですね。出来事やエピソードを巧みにつなげて、いわば線路が駅へと続くように、子どもたちの成長という大きなテーマに読者を導く作品です。温かな翻訳で、人間らしい登場人物がいきいきと動き出すようでした。女性作家が描く男の子は、不自然になることもあるのですが、『よい子同盟』しかり、ネズビットは、男の子の描き方が、上手な作家ですね。そんな気はなかったのに、何故だか時として、嫌な態度をとってしまう心の動きや、子供らしさがよく描かれていました。背表紙の赤が、目をひくようで、少し気になりました。

トム:『ミムス』に比べると、自分と物語との距離が遠いというか、傍観者的に読んでしまったかもしれないな・・・この時代のイギリス社会を背景にした物語を今の子どもたちはどう感じるのでしょう? ある日突然大人の都合で、日常が変えられてしまう子どもは少なくないと思うけれど、そのあたらしい環境を生きる3人の子どもたちの逞しさ無邪気さが光っています。一番好きなところは、パークスさんのプライドの章。プライドを傷つけられ(?)素直になれないパークスさんにどうなることかと気を揉むなか、ボビーがプレゼントを贈る贈り主の様子や気持ちを記したメモを読んでいくと、村に暮らす人の人となりも浮かぶと同時に、どんどんその場の空気が変化してゆくのが手にとるように伝わって、気持ちが温められてゆく。プライドとは厄介なものですね! 贈り物は、プレゼントする側がまず幸せになって、贈られる側は、時と場合によっては複雑な気持ちになる。でも何よりパークスさんの生き方や心根が伝わってきます。結びの章で、罪が晴れてお父さんの帰還してくる場面は、ややあっけなかったですけど・・・

タビラコ:児童文学史で良く出てくる本なのに、いままで読んでいませんでした。読めて良かったなというのが、率直な感想です。出てくる人たちがみんないい人で、安心して読める本ですね。複雑な子どもの心の動きを丁寧に書いてある点もさすがだと思いました。花の名前なども、ただ野の花と書かずに丁寧に種類を書いてありますね。昔の作家は、こんな風に書いていたんだなあと思いました。坪田譲二の「風の中の子ども」や「お化けの世界」は同じような設定なのですが、子どもたちの不安や怖れが、もっとくっきりと描かれています。子どものときに読んでとても印象的だったのですが、果たして児童文学かな?という感じがしないでもない。子どもが安心して、楽しんで読めるのは、ネズビットのほうでしょうね。同じ設定でも、いまの作家は絶対にこういうハッピーな物語は書けないと思いますけどね。

レン:冤罪で牢屋に入っている父親と気丈に留守をささえる自立した母親と子どもたちという構図に、この作品の書かれた時代を感じました。うまさは感じましたが、今出版することが、今の子どもにとってどういう意味があるのだろうと考えてしまう作品でした。「これを知ったら親は起こるだろうな」と思いながらも、子どもたちが冒険をしていく、さまざまなエピソードはワクワクしてとてもおもしろいのですが。手渡すなら、やはり読書慣れした子どもでしょうか。めったに本を読まない子に、何かすすめようというときに選ぶ1冊ではないなと。

ハリネズミ:同じ作品が前は『若草の祈り』という題で出ていたので、この作品を読んだのは今度で3度目です。前はあんまりおもしろいと思わなかったんですけど、今回読み直していろいろな意味でおもしろかったです。特に感慨深い点が二つありました。一つは、後書きに中村妙子さんが「最晩年の翻訳にこの本を選んだ」と書いていらっしゃる点ですね。そうか、中村さんはこういう価値観をもった作品を子どもに伝えたいんだなと感じ入りました。ちょっと古いですけど、今は失われてしまった人間関係がこの作品にはありますからね。大人がしっかりしていて、子どもを守ることができる時代の物語ですが、子どもはその守られた世界の中で思う存分心をはばたかせることができたんですね。もう一点はp204でボビーが「こっちが仲よくなりたいと思ってることがわかりさえすれば、世界じゅうのひとが仲よくしてくれるんじゃないかしら」と言っている場面です。この時代はまだ、そう思うことも可能だったんでしょうね。
ネズビットは多作な人ですから、書き飛ばしているところもあると思うし、「9時15分のおじいさん」がトンネルの中で助けた学生の実の祖父だったなんて、あまりにもご都合主義的な筋運びだと思いますが、でも、子どもたちのやりとりは生き生きとしているし、汽車が目の前を通り過ぎていくときの描写には臨場感がありますね。うまい。やっぱり今の児童文学とは味わいが違うので、中村さんは翻訳を新たにして出したかったんですね。でも、今の子どもにはどうなんでしょう? 図書館では借りる順番がなかなか回ってこなかったんですけど、借りてるのは児童文学好きの大人かな?

プルメリア:田舎に引っ越してきて自然に触れる楽しさをみつけていくところや、知り合いのパークスさんのお誕生日プレゼントをするためにいろいろな人に呼び掛け一生懸命頑張っているところが、ほのぼのとしていてほほえましいです。汽車の大事故を防いだ後「さくらんぼをつむのを忘れちゃった」とぽっつりつぶやく長女ボビーの子どもらしい面に好感をもち、トンネルで見つけた気を失っている少年にバドミントンの羽を燃やして起こす場面なども、子どもらしくて笑っちゃいました。最近の子どもにはない、ちょっとしたことでのほんわかした幸せがある。自分たちで幸せを作っていくというのが良い部分かな。字が細かくて長編でも、最後まで読ませる良い作品だと思いました。表紙の絵のピーターはちょっと痩せていて末っ子に見え、え?って感じがしました。今回良い作品に出会えて良かったです。子どもたちは厚さがあり重い本は、自分からは手に取らずいやがります。本づくりとして難しいが、古いテイストは、子どもにとってかえって新鮮なのでは。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年2月の記録)


久美沙織『ブルー』

ブルー

レン:どう読んだらいいのか、戸惑いながら読み進めました。まず、冒頭のお母さんのとりみだしようが理解できないし、そのあと偶然出会ったおばさんと1日すごすのですが、この2人が接近するきっかけが読みとれずリアリティが感じられませんでした。どこか読み落としているのかと、何度も前に戻ったのですが結局わかりませんでした。中学生くらいの子は、こういった文体で書かれていると読みやすいと感じるのでしょうか。分類としてはエンターテインメントだと思いますが、これでよいのかと、疑問が残りました。

タビラコ:さっぱり分からない作品でした。青木湖に行くあたりから、ミステリーになるのかな?それともファンタジー?と期待しながら頑張って読んだのですが……。あとがきで、作者がなぜこの作品を書いたのか知り、単に作者の思い入れにつきあわされたのかと、がっかりしました。作家が物語を書く動機はいろいろあると思うのですが、それが作品として完成されていなければ、読者は読んで損しちゃったな!と思うだけ。けっきょく、ふたりのおしゃべりを聞かされただけで、物語が動いていっていない。安室奈美恵とか、現実の固有名詞がいろいろ出てくるところも、読者に媚びているような感じがしました。

トム:いま起きていることをぽつぽつとちりばめた短いラジオドラマを聞いているような感じがしました。読み終えて、もう1度会いたいと思う人が、この物語の中にはいなかったんです。やはりこのお母さんは苦手です。全体にどうしてこういう人のつながりになるのかわからないまま終わってしまいました。

紙魚:一人称というのは難しいですね。この作品は、地の文でも、カギ括弧内の会話文でも、つねに主人公が思いのたけをつぶやいていて、読みづらかったです。情景描写や状況描写が、極端に少なく、つねに登場人物が心のうちを語っているので、読み手としては、どんな気持ちでいるのだろうと想像しながら読むことができないんです。だから、最後まで、感情移入をすることなく、読み終えてしまいました。だからなのか、物語も、ポイントごとに進んでいくものの、登場人物たちといっしょに歩いたという気がしないんです。そのつもりになるからこその物語のおもしろさが、味わえませんでした。もしかしたら、思春期のある時期の人が読んだら、ぴったりとはまるのかもしれません。

きゃべつ:作者がまだ作品との適切な距離を見いだせていない作品だなと思いました。あとがきにもありますが、これは作者の身の回りに起きた事件を元にしているのですね。若くして事故で亡くなった体育の先生。そのひとは、どんな思いをかかえていたのか。それが、この物語のなかで追われている謎だと思うのですが、実際のモデルがいるからか、遠慮があって描けていないと思いました。キャラクターの造形にも、疑問があります。それぞれが与えられた一面しか演じず、深みがないからです。母親は悪い人、おぐらさんはいい人、父親もいい人、というように。父親というのは、いまだ経済的支柱としての性格を持っていると思いますが、この家庭では父親が父親としての役割を果たしておらず、その分を母親が負っています。父親は、亡くなってしまったことも大きいでしょうが、父親でないことで、主人公にとっての理想像となっているのだと思いました。私はまだ駆け出しの編集者ですが、読者にきちんと思いが伝わるように、作家と作品との距離を考えていきたいと思いました。

シア:とっても苦手なタイプの本です。帯などに「爽やかな物語」などというフレーズが書いてある場合は、危険信号です。すーっと読めてそのまま終わるというのが大抵なんです。文章も一人称というよりも単なる日記で、『まいったな〜』などと書き出す辺りでいい加減にしろと思いました。一生懸命中学生の視点で書こうとしているところが既に駄目です。かえって薄っぺらく感じます。狙って外しているので、もっと許せません。ギャグも寒いです。現在の芸能人の名前など、リアルな単語が出てくるのも苦手です。ライブ感が出るかもしれませんが、すぐに消費されていく作品ということを作者が分かってやっているということですよね。こういうのは嫌ですね。この作品は、何故か私の嫌なところを全て押さえてしまっています。分かりやすさだけでどんどんどんどん話を進めていく、中身のない麩菓子のような日本の作品って感じです。実際に起きた青木湖のバス事故を題材にしたので、関係者に迷惑がかからないようにと作中では湖の名前を「蒼木湖」にしたそうですが、全然変わってないですよね。丸わかりです。あとがきに「死は多く描かれているけれど、再生の物語です」というようなことが書かれてましたが、再生しているのは作者本人だけじゃないですか。こっちから感じるものもないですし、イライラしました。奥付の作家紹介も、こんな褒めてる紹介あったかなと思うような文章で、これはどうなのかと。この本ではここが一番おもしろかったですね。中高生で本を読みたくない人が、仕方なしにさらっと読むにはいいかもしれません。子どものための子どもの作品という感じです。

プルメリア:展開がよくわからず読みにくかったです。普通図書館で初めて出会った知らない人についていくのかな?と違和感があります。初めての食事の場面、デザートをやたらとすすめすぎエスプレッソのダブルもなぜか気になりました。お父さんのことを回想しながら、自分の生活を見直し前向きに歩いていこうという形で受け止めればいいのかも。事実を作品に取り入れることはすばらしい試みで、そこは新鮮だと思います。

ハリネズミ:今回読む時間がなかなか取れなかったので、薄いという理由で、これを最初に読みました。でも他の2冊を読んだ後に思いだそうとしたら思い出せないほど、印象の薄い本でした。見直しているうちにストーリーは思い出したのですが、まず私は、この不審なおばさんに主人公がついていってしまうのが疑問でした。ついていく何らかの魅力があるように書いてあるなら別ですが、何も書かれてない。私は作品世界のリアリティがないと嫌なほうなので、そこからもうあり得ないと思って印象が悪くなってしまいました。主人公の悩みにも入っていけないので、どうでもいいおしゃべりを聞かされているような気分になってしまったんです。本を読まない子どもには入りやすいという声もあるかと思いますが、本を読まない子だって、作品の中になんらかの真実が描かれていないと心の栄養にはならない。暇つぶしのエンタメならほかのメディアのほうが強いですからね。人間についてなり世界についてなりをもう少し考えたうえで、うまく若い人に伝わるように書いてほしいな。人物もすべて一面的で、ミムスのような魅力もない。作者が自分の心の救済をしているだけなのではないかと思ってしまいました。今回の選書担当者は今日来ていませんが、いいと思った理由を聞いてみれば、また違う見方もできるかもしれませんけどね。どんな本でもいいと思う人もいればよくないと思う人もいるので。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年2月の記録)


富安陽子『盆まねき』

盆まねき

ajian:おもしろく読みました。いつも自分の話をしてしまいますが、まだずっと子どもの頃、眠れなくてぐずぐずいっていたら、祖母が「いい子で寝ないと山の向こうから連れにくるよ」といったんですね。「何が」連れにくるのかはいわなかったんだけれども、とても怖かったので、よく覚えています。それで、お盆のときに「先祖が帰ってくる」と言いますが、あれは「山の向こうから」帰ってくるんだという考え方があるらしい。それを大人になって知ったときに、祖母が言っていた、連れにくるというのは、そういうことだったのかと思いました。柳田国男の本に「先祖の話」というものがあります。昭和20年に書かれたもので、この『盆まねき』に出てくる戦争の時代とも重なりますが、日本人の死生観について、柳田なりに捉えたものです。どういうことが書いてあるかというと、二つ特徴があって、一つは、個人の霊というのは、やがて忘れられていくけれど、個性を捨てて、融合して一つの霊になるというもの。もう一つは、死者の世界と、生者の世界が、すごく近くにあって、互いに行き来しているというもの。どちらもこの『盆まねき』の内容に重なると思いました。
 いわゆる「あの世」という言葉があります。これは、地獄とも天国とも違うけど、何となく知っているようで、実はよく知らない。ひょっとしたら、自分たちのことがいちばん理解するのが難しいのかもと思います。『盆まねき』は、この日本語の世界の、この狭い島国の、我々が知っているようでよく知らない、土着の死生観を、やさしい物語のなかに溶かし込んで描いて、ある程度成功していると思いました。最後戦争とつながりますよね。祖母の実家には戦争で亡くなった方の写真などがあって、僕ぐらいは、ぎりぎり身内でそういうことがあったのかと思うけど、僕の子どもの世代になるともうわからないだろうなと思う。伝えるには新しい物語が必要で、そういう意味で、富安さんがこの作品で試みられたことを評価したい。真正面から戦争について書かなくても、不思議なお話を読んでいくうちに、いつしか自然に、そういうことがあったんだと読めるところも良いです。

ルパン:すごくいいなと思いました。どのエピソードも、とてもおもしろかったです。お盆の時に親戚が集まるのは、自分が夏休みに田舎で過ごした思い出と重なりました。なっちゃんが置いてけぼりを食う場面がありましたが、こういうの、すごく覚えがある。私はやったほうなんだけど(笑)。当時は小さい子たちがうっとうしくって。いま大人になってしまうと、年が近くなって、あまり変わらなくなって。今回読んでいたら、やられた子の悲しみというのもよくわかって、申し訳ないなあと思いながら読みました。おおばあちゃんの声は、トトロに出てくる隣のおばあちゃんの声かな、なんて想像しながらね。亡くなったしゅんすけさんの思い出をとどめておくために書いたというあとがきも、すてきだなと思います。ちょっとひっかかるのは、戦争に行って20歳ぐらいで亡くなったはずなのに、現れる時は子どもの姿なんだなっていう。あとは、子どもが読んだらどう思うかはわかりませんが、このあとがきがすごくよかった。

うさこ:どこかなつかしい匂いを感じる物語でした。自分の小さいころの体験と重なります。やわらかい感じで運ぶ物語。おじいちゃんだったり、おおばあちゃんだったり、親戚の中にこんなにほら話ができる人がいて、いいなあと思って読みました。夜の虹など情景がすごくきれいです。個人的な話ですが、去年の夏に実家の犬がなくなって、とても悲しかったんですけど、前後に虹を見ました。それで、犬が亡くなって虹をわたっていったのかと、すとんと胸に落ちるものがあったので、この物語も、それに重ねて味わうことができました。一つ一つのお話も本当にうまいし、エピソードもおもしろい。ただ、最後の「もう一つのものがたり」にはちょっと違和感がありました。お話がすごくよかっただけに、現実に引き戻されたような印象で、物語の余韻がさーっと消えてしまった。あとがきでなくて、あくまで「もう一つのものがたり」にこだわった理由には、なにか作家さんの主張があるのでしょうね。例えば、講演会やインタビューなどで裏話的に語るということも、出来たと思うんですけど。結末は野間賞の選考委員のなかでも議論になったらしいですね。

プルメリア:この作品は夏休みに一度読んで、今回また読みました。最初に読んだときは、前半の楽しい話よりも最後の話「もう一つのものがたり」が印象的に残りました。「うそと、ホラは、すこしちがう。人をだますのが、うそ。人をたのしませるのが、ホラ」。おもしろく楽しく読みました。中学年も楽しめる作品と思いましたが、カッパの玉話あたりからだんだん怖くなり、盆踊りあたりは完全に怖い世界に入っています。高学年向きかも。男の子が、なっちゃんに言う「人間は、二回死ぬ」というフレーズが心に残りました。中学年ぐらいだと理解しにくいかも。最後に「もう一つのものがたり」があることで、作品全体が最初のほのぼのとした笑いがでる内容とは異なり現実的な話に二分化されたように感じました。子どもたちにとって、戦争の物語は手に取りにくいですが、この作品のように最後に書かれていると、すっと入っていけるのではないかとも思います。

ハリネズミ:お盆の時の田舎という舞台に、ほんとうにいろいろ盛り込んでいますね。ほら話も出てくれば、死ぬこと生きることについての考察も。それを読みやすい物語に落とし込んで、違和感を感じさせないのは、この作家のうまさだと思います。月の田んぼのイメージがすごく鮮烈で印象に残りました。月は兎がいるとかお姫様がいるなんて言われることはありますが、田圃があるという話も伝承の中にあるんでしょうか。表紙や挿絵も、はっきりリアルに描いてしまわないのがいいと思いました。ただ、最後はちょっとずるいかな、と。戦争って今の子どもは身近に体験したことがないので、作家がさまざまに工夫して子どもに届けようとするわけですよね。例えばロバート・ウェストールは『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)で、ジャッキー・フレンチは『ヒットラーのむすめ』(さくまゆみこ訳 鈴木出版)で、切り口をさんざんに考えたうえで今の時代の子どもたちになんとか戦争を身近に感じてもらおうとしているわけですね。でも、この作品ではフィクションにリアルな話をくっつけてしまうという比較的安易な方法でそれをやってしまっています。富安さんはとても力のある作家なので、フィクションの中でなんとか子どもに引きつける工夫をしてもらったら、さらによかったのかなと思いました。現状ではフィクションの本編より、本来おまけであるはずの「もうひとつの物語」のほうが強烈な印象を残してしまう。戦争を伝えたい大人たちはきっと飛びつくでしょうけど、文学的に見るとそこがもったいないなと思いました。

ルパン:私は、最後のは、てっきりあとがきだと思っていて、物語の一部だというのを、ここにきて初めて知りました。

ハリネズミ:文字の大きさがちがうので後書き風ではありますが、本文に入れたかったんだと思います。

シア:昔の日本の風景を描いていて、古い家の中のことやお盆の風景など、細かいことまでわかりやすかったです。親戚縁者で集まってお盆なんて最近はやらないから、スタンダードなお盆という見方からしても、非常に参考になる本でした。子どもたちもこういうことは知らないんじゃないかと思うので、そこをピックアップして読んであげても、おもしろいんじゃないでしょうか。表紙の絵もいいですね。読み終わってみると、すごく意味のある場面を描いているんだなということがわかりました。「そうめん」を「おそうめん」といったり、こういうていねいなところが、かわいらしいです。細かいところまでいきとどいた一冊ですね。知覧の話などは学校の授業でもやっているので、そういうことを教えるのにもいいと思います。戦争というものを教えるのに、導入としても使える本です。最後の「もう一つのものがたり」は、実体験に基づいてこの本を書いていったのだと思いますが、物語の一部かどうかというのは?

ハリネズミ:やっぱり、後書きじゃなくて、ここまでちゃんと読んでほしいという意識があるんじゃないでしょうか。後書きにすると、読まない子もいますからね。

シア:月のところのシーンで、「丸の中をのぞきこむ」というのが、イメージとしてちょっとわかりにくかったり、そういうところもほかにないわけではないですけど、全体としてはいい本だと思いました。

すあま:子供時代を思い出しながら読みました。今もこんなふうに田舎でお盆を過ごすんでしょうか。子どもが共感を持って読むのかどうかわからない。最後の「もう一つのものがたり」はなくてもいいのに、と思いました。あとがきでよかったのでは。私はこの部分に違和感があったために、読後感がよくなかったです。ここまでずっと物語の世界にいたのが、急に現実に連れ戻される感じがありました。対象年齢も雰囲気も変わるため、読み手がとまどうのではないでしょうか。ノンフィクションのようでフィクション、という本もありますが、この本の場合はノンフィクションでいいんでしょうか。

ハリネズミ:「もうひとつの物語」は、作者自身が「ほんとうのお話」と書いているの
で、ノンフィクションじゃないですか。

すあま:「もう一つのものがたり」が「あとがき」ではないなら、別に「あとがき」をつけて説明してほしかったなと思いました。

ルパン:私は「あとがき」に「もう一つのものがたり」というタイトルをつけるなんておしゃれだなと思って読んじゃったんです。

一同:ああー。

ajian:野間賞って、これが「あとがき」だったら、この部分は評価の対象には含めないですよね。でも、このエピソード込みの評価だったんじゃないですか。あるのとないのとでは全然ちがう。

ハリネズミ:これがあるから受賞したのかもしれませんよ。反戦思想がはっきりしてて
いいってことで。

すあま:そのままなっちゃんのその後の話として書いてもよかったような気もします。急に作者が出てくるから、あれ?主人公誰?という感じになりました。

ルパン:私という一人称が急に出てくるから、やっぱりあとがきなんじゃないですかね。

すあま:例えば、なっちゃんのお母さんやおばあさんの視点からのお話として書いてあったら、違和感なく読めたと思います。

ルパン:いいアイディアですね。

シア:この部分、冒頭で「さいごにほんとうのお話を一つ」という一文があるのが、やや興ざめです。これまでは、じゃあウソだったの?という。

すあま:たしかに…物語の中でなっちゃんが、何度も「本当の話なの?」って聞いているから、なおさらそう思いますよね。

ハリネズミ:「さいごにもう一つほんとうの話を」だったらよかったかもね。

プルメリア:たしかに子どもが読んだときどうかなというのは、ありますね。

すあま:やはり、あとがきにしたほうがすっきりするかも。そうすれば読む子は読むし、読まない子は読まないと思います。

ハリネズミ:ここだけ扉のデザインをがらっと変えるなんて手もあったでしょうね。ただ富安さんか編集の人か、それはわからないけれど、やっぱりここまで読んでもらいたかったんでしょう。

三酉:これはあとがきまで読まないといかん本だろうと思いました。富安さんはそこまで読んでほしくて書いたんだと思うし。フィクションとしてはルール違反だけど、確信犯でしょう。賞をとったのも、当然これが込みだと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年1月の記録)


マイケル・モーパーゴ『カイト:パレスチナの風に希望をのせて』

カイト〜パレスチナの風に希望をのせて

シア:パレスチナと聞いて最初は重いなと思ったのですが、サイードがすごくかわいがられている描写があったり、「部屋いっぱいに悲しみが広がる」という変わった表現などが、すごく好きでした。ちょうど海外旅行に行った後に読んだので、ホテルのいやな感じとか、共有しやすかったですね。言葉が通じないということは、不要な苦労を強いられたり、国と国との間に溝ができやすかったりするものですよね。私も言葉が通じないところで苦労したので。それから、p69に「夢を信じきっている人間がいた」とありますが、サイードのことを子どもではなく一人の人間として扱っていて、作者の訴えたいことが詰まっている感じがしました。こういう問題は本当に難しいなと思います。平和に関する本というのはたくさん出ていますが、紛争が起きていなければ平和を意識することは難しいものです。長く平和が続いている国の子どもたちにとっては、全く環境の違うところと意識されてしまうかもしれません。この間の東日本大震災でも、関東圏で被害がなくて親戚もいないと、そういう人の言葉の端端から、ショックを受けるようなことがありました。「なんで自粛しなきゃいけないのか」とか、子どもたちの中からも冷たい言葉も出ました。今後どうすればいいのかという思いがあります。この物語では、お兄さんが誤射で死んでしまいますが、撃った方も泣いていたという、お互いの立場で悲しみが描いてあっていいですね。私は東北に親戚がいるので、今回の震災はそういう意味でも大変でした。無神経な人が身近にいたりするので、そういうすれ違いがだんだん戦争に発展するのかなとか、そんなことまで考えてしまいました。p79の兄が死ぬ場面で、「カイトをなおすんだ」という最後の言葉がありました。これがサイードのその後の行動につながっていて印象深かったです。これが憎しみにみちた言葉だったらそうはいかなかっただろうと思います。それにしても、モーパーゴさんの本は薄いのが多くて助かります。昨今の中高生は分厚いと読みたがらないので。

ajian:マックスが青い車椅子の子に会いに行く、と言っていたのは、どうなったのかなというのは感じますね。ただ、この問題は、この分量で書くのは難しすぎる気がします。パレスチナとわざわざ舞台設定をしているのだったら、もっと突っ込んだことも知りたいと思うけど、そうすると分量が増えてしまう。壁があって対立する二つのグループがあって、という象徴的な物語だったら、パレスチナじゃなくてもいい。嫌いな本ではないんですが……。あと、この絵もいい絵だけど、舞台設定とリンクしてないですね。おしゃれな感じはするけど。最後の和解の場面は、こんなに簡単なことではないよなと思いました。

ルパン:ストーリーがすごく好きです。この装丁だと子どもが手にとるでしょうか。横書きで字がぎっしりだし、ちょっともったいない。もっと子どもが手にとれるように工夫してもよかったんじゃないでしょうか。ひょっとしたら本当にあったことなのかと、誤解してしまいましたが、フィクションだと知ってちょっとがっかりしています。それから子どもが読むものとして、カイトというのはすぐわかるんでしょうか。凧って漢字にカイトってふりがなが振ってありましたが、凧を読めなければ、それもわからないだろうし。先にカイトって凧のことだと言っておくか、ぜんぶ凧で統一するかしたほうがいいような気もしました。

ハリネズミ:今はカイトっていう名前でも売ってますよね。逆にカイトのほうがわかりやすいってこともあるんじゃないでしょうか。

ルパン:それから、言葉のことですが、失語症のサイードが最後にやっとしゃべるときに英語でいいんでしょうか。

ajian:ラストサムライみたいですよね。

ルパン:最後の終わり方はすごく好きなんだけど。塀の向こう側でサイードが一生懸命つくって送り続けていたカイトをあげるというところですね。感動的なシーンでした。

すあま:私は低学年向けの話だとは思わなかった。高学年から中学生以上。ヤングアダルト向けなのではないでしょうか。横書きだとノンフィクションという感じを受けると思います。最初の方はわからないことだらけで、読み進めていくとだんだんとわかってくる。先を読まないとわからないことが多いというのは、それが気になって続きを読みたくなるのか、あるいはわからないから読むのをやめてしまうのか、難しいところだと思います。最近パレスチナやアフガニスタンなどを舞台にした話が多いのですが、この本も2008年という設定で、数年前のことかと思うとドキッとします。例えば第二次世界大戦の話だったら、昔の話だと思って読めますが、これはついこの間のことで、まだ終わっていない。子供たちに、同時代に他の国ではこういうことが起きているというのを知ってもらうのはいいことだと思います。ただ、自分から手に取る子はあまりいないと思うので、手渡し方には工夫がいると思います。
 それから、訳者のあとがきはあるけれど、作者あとがきもほしかったと思います。この本を書くきっかけとか、こういう子供にあってヒントを得ましたとか。何か作者自身の言葉もほしかったです。

うさこ:モーパーゴさんは現代の問題を子どもに分かりやすく伝えるのが、すごくうまい作家ですね。これも、きれいにまとめてあるなと思いました。子どもの力を信じるのはいいとしても、未来を子どもに託しすぎているような、理想を乗っけすぎているような気もします。

シア:お兄さんの死の場面の語りについては、サイードがいつも怖い夢を見ているようなので、その夢の説明か何かにしてもよかったかなとも思いますね。どんな夢を見るのか、具体的にはあまり書かれていないので。

プルメリア:私は、この作品を手に取って、横書きなんだということと、とても細かい字だなと思いました。地図があったので、位置がわかりやすく助かります。「カイト」が最初わからなくて、名前なのかなとも思いましたが、内容から凧のことだとわかりました。4日間の短い時間の中で、イギリス人マックスの目からと、サイードのお兄さんへの語りかけから、話が進んでいきますが、マックスの語りかけが読者を読ませていくのかなと思いました。青いスカーフの女の子は、最初に登場した時から印象的で覚えていましたが、こういう風につながるのかと納得しました。最後のページ、挿絵は白黒ですが、明るい凧のイメージで私は読みました。難しい話や、現実に殺されるリアルな場面があったりして、この作品を読んでいる子どもがどう感じるかなと思いましたが、現実にこういうことが起きているのだからしっかり受け止めてほしいです。日本にはあまりありませんが、外国にはこういう題材のノンフィクション、フィクションがたくさんあります。考えなければならない現実や思いがあるから、こういう作品が書かれるのでしょうね。

ハリネズミ:ジョン・レノンのイマジンを物語にするとこういう感じかなと思いました。ありえないことかもしれないけど、こうあるといいなという願い。最後に会わないのが気になる人もいるかもしれないけど、会うことにすると非現実的なありえない話になってしまう。だから凧をあげるというだけにとどめて、あり得るかもしれないというニュアンスを出してるんじゃないかな。舞台はどこでもよかったのかも知れないけど、いま起きていることという意味を持たせるためにパレスチナを選んだのではないでしょうか。ただパレスチナの問題をどうこうしたいというより、象徴的な舞台として使っている。横書きについていうと、原文は横書きでも、本にするときには日本の子どもに読みやすいという意味で縦書きの本として編集し直すことはありますよね。
 「わたしはおろかにも、この奇跡的な瞬間をカメラにおさめるのをすっかりわすれていたのだった」ということになってますが、胸がいっぱいになってカメラで撮れたか撮れなかったかは二の次だというのが一点。もう一点は、カメラで撮ったというと願望ではなくリアルになりすぎるというのがもう一点だと思います。そんなことを考えると、やっぱり小さい子ども向けの物語ではなくて、ジャンルとしてはYAなんでしょうね。

三酉:成功か失敗かのきわきわの作品だと思います。夢物語としてもここまで書いていいのか。最初は誤解しましたが、途中からノンフィクションじゃないんだと思いました。謎があとからあとから出てくるのは、こういう仕掛けなんですね。青いスカーフなんていうのはうまいです。イマジンというと、ほんとうにそうかもしれない。映像がとれなかったのは、これはお話ですという意味でしょう。率直にいうと、サイードの子どもの語りがべたついていて、読みづらかった。いかにもお涙ちょうだいというか。日本語というのは、難しいなと思います。銃撃の場面を子どもに語らせるというのは、お話の構造上仕方ないですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年1月の記録)


タミ・シェム=トヴ『父さんの手紙はぜんぶおぼえた』

父さんの手紙はぜんぶおぼえた

ajian:しっかり取材に基づいて書かれている本で、10歳の子どもが細かいことまでよく覚えている。成績の場面など、この経験をした当事者じゃないとなかなか言えない気持ちだなと感じましたし、そういうところはほかにもたくさんあります。あとは何といっても、手紙がすごくいいですね。有名な学者さんらしいけど、日本では知られていないので、市井にこういう人がいたのかというような気持ちで読みました。最後に写真がたくさん載っていますが、ここもいい。

ルパン:最初はアンネの日記みたいな本かな、重いのかなと思ったけど、読みはじめるとおもしろくて、どんどん読みました。タイトルがいいですね。暗い時代にこういうユーモアがあふれる手紙を書いて、いいお父さんだなと思います。個人的に残念だったのが、タイトルから、この子が手紙をぜんぶ覚えるシーンがあるのかなと思ったんですけど、そういう場面はありませんでした。

ハリネズミ:タイトルは、でも日本でつけているものだから。

三酉:イディッシュ語はわからないけど、英語タイトルはLetters From Nowhereで、そのままでは日本語のタイトルにならないし、そこは難しかったと思います。

すあま:とてもよかったです。ただ、読んでほしい年齢の人に読んでもらうには字がちょっと小さいかなと思いました。字を大きくするとページが増えるので、苦渋の決断だとは思いますが…。そして、リーネケのおねえさん、ラヘルがとてもよかったです。ラヘルにもお父さんから手紙が来ていたのでしょうか。たまに登場すると料理がうまくなっていたり、発言が面白かったりするので、ラヘルの視点で書いた物語があったら読みたいと思いました。以前読んだ『木槿の咲く庭』(リンダ・スー・パーク著、新潮社)にもありましたが、名前を変えるというのは、とても大きなことだとあらためて思いました。

うさこ:とても重厚でまじめな物語ではありますが、心に残してくれるものが多い本だと思いました。名前を変えて自分の人格を否定して生きるというのは、どういうことかとか、リーネケに気持ちを寄せながら読んでいきました。お父さんの手紙の内容一つ一つに愛情があふれていていい。

プルメリア:表紙の手紙をみて、何だろうと思ったのですが、タイトルをみて、ああ、これはお父さんからの手紙なんだと思いました。作品の中に出てくるお父さんの手紙の題がおしゃれでとてもすてきです。「絵といっしょにおしゃべり」「5月24日 リーネケはたまごから飛びだした」など。現実と過去が交互に書かれている構成もおもしろいです。ドクターの家族がリーネケを家族の1員として愛情をもって見守るやさしさもいいですね。ドイツ兵が来たときには、ちょっと危ないのかなとドキドキしましたが、そのドイツ兵からタバコをもらっておじいちゃんにプレゼントし、おじいちゃんはタバコをケチケチと大事に1週間かけて吸い、その間じゅうクリスマス・ソングを歌い続ける場面はユーモラスです。怖い怖いとおびえる中にもこういう交流もあったのかな。戦争後、ドクターがリンゴごの木の下に隠しておいた手紙を出す場面が感動的でした。手紙に込められたお父さんのあつい思い、手紙を手元におけないリーネケの切ない思いを知っているから捨てることができなかったのでしょうね。ところどころに手紙が入っているので一息つけるし、次はどうなるのか展開が気になります。字は細かいけど読ませる作品でした。

ハリネズミ:この本にかぎらずユダヤ人の作家がホロコーストについて書くのはとても多いし、それは片方では必要なことなんだけど、もう片方では現在イスラエルがパレスチナに対してやっていることを隠蔽することにもつながってしまうと思うんです。しかもパレスチナの側から書いたものは数が少なくて、ホロコーストものは次々に出版される。そうなると、またか、という気になるのも確かです。この本の主人公へのインタビューが巻末にあるんですけど、その最後は「見て下さい——のびのびと自分たちの地で暮らすユダヤのうるわしい大家族を」となっていて、パレスチナ人は視界にまったく入っていないんですね。ちょっとどうかと思いました。ユダヤ人だけを責めるわけではないんですが。日本の戦争物も加害者の視点なしに書かれているものは多いですからね。
 ただ、この本はお父さんの手紙がすごくいいですね。この手紙のおかげで、この子は戦時下の不安定な状況の中にあっても、守られているという感覚を持てたはずです。私は細切れの時間の中で読んだので、登場人物についてはちょっと混乱しました。登場人物リストがあってもよかったかも。翻訳はところどころ引っかかりました。p22の台詞の中は「粉剤」じゃなくて「粉ぐすり」でもいいのかな、とか、p28の「シンタクラースのプレゼントもいいかもしれない」は、どういうニュアンスで言っているのか、ちょっとつかめませんでした。p34の「もしかして、大きい動物を、家畜もペットも好きになるのをやめちゃったのかもね」というリーネケの台詞ですが、その前に「牛やヒツジ…をどんなに、知ってるだろ?」というお父さんの台詞があるので、つながらないような気がしました。またp66には『もじゃもじゃペーター』が出てきますが、ハインリッヒ・ホフマンの本のことを言ってるんだとすると、一冊の本の中にいくつかの話が入っているわけですから「シリーズの一冊」はおかしいのでは? などなどです。日本語版の書名や表紙はとてもすてきです。

三酉:父親たる身としては、すごいと思った。この人は、ユダヤの貴族階級がほれてしまうぐらいに魅力的な男だったのではないでしょうか。直接関係はないんですが、最近、ユングの『赤の書』という本が出ました。ずっと非公開だったんだけど、ユング財団が最近OKして。これがすごい。200ページの書き文字なんです。それで、そういう伝統ってあるんじゃないかと思いました。今世紀までは継承されていないかもしれませんが、こういう書き文字ができるという男がかつては結構いたんじゃないかと。

ハリネズミ:修道院の文化にかぎらず、子どもに絵手紙をおくるという文化はあるんじゃないですか。ビアトリクス・ポターの本も、そもそもは子どもに宛てた絵手紙だったし。

ajian:オランダも相当いろいろあったみたいなので、やっぱり相当幸運な家族じゃないかとは思います。

三酉:たしかに幸運もあったでしょう。だってほとんど全員生き延びて、死んだのは病気で死んだ母親だけだっていうんだから。それから、手紙についてだけど、子どもは画像的な記憶がすごい。我々が覚えるよりはるかに覚えられたんだと思います。特にすごいことだとも思わずに、ごく当たり前に覚えてしまってたんじゃないかな。

すあま:この手紙は何十年も経ってからじゃなくて、戦争が終わってすぐに出てきたわけですから。

ハリネズミ:手紙に使っていた名前が、本名じゃなかったから、見つかってもそれほど危険じゃなかったのかも知れませんね。それにしても、この本の主人公は戦後、戦時中の偽名を自分の名前として選び取るんですね。戦時下の体験がとてもつらいものだったら、普通は自分の本来の名前に戻るはずだと思うんですけど。たぶんお父さんの手紙や何かのおかげで、この子はそれほどつらい思いはしなかったんでしょうね。アンネ・フランクなどと比べてラッキーな面もあったのでしょう。

三酉:あと、この名前は、強制的に変えられたのではなくて、生き延びるために自分でつかんだ名前だということもあるよね。

ルパン:お母さんの名前なんですよね。

ハリネズミ:恵まれて、守られていたから、かえってこう、無反省になっちゃったという面もあるのかもしれませんね。

三酉:美しい話になっているので、本当だとわざわざ謳う必要があったのかなとは思う。

すあま:これまでにここで取り上げた本の中にも、本当の話だと思って読んだら、実は寓話だったというものもありましたから…。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年1月の記録)


梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

僕は、そして僕たちはどう生きるか

メリーさん:「裏庭」や「西の魔女が死んだ」など、梨木さんの作品は大好きでよく読んでいるのですが、今回はちょっと残念でした。著者の世界である植物や、個性的な登場人物が出てはくるのですが、それが生きておらず、むやみに理屈っぽくなっている印象を受けました。戦争についての記述も何だか鼻につく。本文中に、ある児童書と出版社について書いてあるのですが、説得力のある議論になっていないように感じました。自分の頭で考える、というテーマを書くにしても、同じ素材で、いつものように物語を書いたらもっといいものになったのでは?と思いました。

ajian:いつになったらおもしろくなるのかなと思っていたけど、最後まで面白くなくて……。もし何か世間に対して言いたいことがあるなら、レポート用紙一枚ぐらいの文章にまとめて来てくれませんかという感じです。色々なことが詰め込まれたまま未消化になっていて、言い方は失礼なんですけど、できのよくない持込原稿を読んでいるみたいで、読み通すのに苦労しました。
作品中で、理論社の<よりみちパンセ>のなかの、バクシーシ山下の本が、名前は伏せたまま、わかる人にはわかる形で批判されていますが、参考文献にもあがっていないですね。こういうことを、相手にとどかないところで吠えていても、あまり意味がないんじゃないでしょうか。鳥を食べる先生の話にしても、批判の仕方が短絡的というか、批判の対象として取り上げるものの取り上げ方が、フェアじゃないと思います。作家の気に入らないものを、あえてゆがめて書いているようで……。
 コペル君の言葉遣いも、作品中で「子どもにしては生意気だとよくいわれる」と一応言い訳はされていますが、それにしても難しい。作家の作品ではあるけれど、少なくとも、子どもに向かって書かれた児童書ではないですね。巻頭に掲げられた言葉から、個人と群れというのが一つのテーマなのだと推察されます。流れに流される弱いところは、だれにでもありますが、そんなことは大前提なのであって、そこを見詰めて傷ついていたってしょうがないでしょう。その上でどうするか、ということが大事なんであって。もとは連載だそうですね。あるいは、連載中に気に入らなかったことを色々いれてみたということなのかも? まとまりがあんまり感じられず……。

ダンテス:この本は、割合楽しんで読めました。3点、話したいと思います。一つ目。この本には様々な要素が織り込まれています。まず自然、植物の知識など、博識というべきものです。自然とともに生きるという梨木さんの姿勢の表れでしょう。とても私は追いつきませんが。登場人物の少年も土壌生物についての興味がある。確かに変わっている少年でしょうが、その手の中学生もいますよ。で、それなりに私から見るとリアリティがあると感じられます。屋根裏にある戦争前の書物を読みこんでいるという話。インジャの話ですが、だまされて身体も精神も傷つくという話。それから良心的兵役拒否のこと。命の授業については、一時はやりました。たまたま研究会でそれをやっている人の発表を聞いたことがありますが、非常にいやだった。子どもがどうして生まれたかを赤裸々に説明し、「お父さん、お母さん、セックスしてくれてありがとう」と言わせる。それはおかしいでしょう。デリカシーがなさすぎます。鶏を食べる というところについては、先生が生徒の家から鶏をもらえると誤解していたという設定でしょうか。この作品に出てくる先生は、二番煎じで最初に本気で実践した人のまねをしただけ。こういう先生もいそうです。そして、オーストラリアのアボリジニについても。色々な要素を盛り込みすぎかもしれませんが、そこをプラスと見るかマイナスと見るかで本への評価が変ってくるのでしょう。私 にとっては、それなりにおもしろかったです。
 二つ目は、この本の題名を見て、吉野源三郎の『きみたちはどう生きるか』がベースになっているのは間違いないと思って、本当に久しぶりに読み返してみました。戦前に書かれた本で、検閲とか厳しい時代に軍部から文句を言われない範囲で、自分の考えを持つように、人としてあるべき姿ということがきちんと書かれている。梨木さんの、吉野さんの本への評価、褒めていること・・・オマージュとでも言うべきでしょうか。あるいは、吉野さんの本を受けて、では現代の若者はどう生きるべきか、それを伝えたかったの でしょうか。
 三つ目は、インジャの話。よりみちパンセの中の一冊の本についての話を、数日前にある司書さんから聞きました。読書界では結構話題になったんですか。梨木さんが理論社に喧嘩をふっかけた、なんていう話も聞きました。よくわかりません。一方インジャが自然の中で癒されようとしている、という設定もわかる。ゆるいつながりの仲間としてこれ から生きていけるのかなあという希望を持たせた終わり方になっていると思います。

アカシア:ある中学校の先生が「この本はとてもいい本ですね」と言っているのを聞きました。ダンテス先生も評価しておいでです。どうも学校の先生たちはこういう本がお好きなようですね。私はあまりおもしろくありませんでした。というのは、作家が自分を感受性の強い若者と同じところに置いて、感受性の鈍くなった者たちに向かって説教しているような気がしたからです。それに、どこにもユーモアがない。ユージーンの担任がかわいがっていた鶏を学校で殺して食べるという設定は疑問でした。こんな先生が本当にいるとは思えなかったんです。それに、そこでユージーンの気持ちを推し量れなかったとコペルが自責の念に駆られる場面も、なんだかなあ。出てくる子どもたちに勢いがなくてどの子も老成してる。嫌な気分になりました。

ajian:結局この子たちって、梨木さんの言いたいことを言ってるだけなんですよね。

プルメリア:名前がコペルくん、ということで、吉野源三郎さんの作品を思い出しました。視点がすごくおもしろく世界が広がっていったので、今も心に残っています。梨木さんは、すごく好きなんですが、よもぎだんごが出てくるのは、無理っぽいかな。鶏のことについては、今はありませんが何年か前、テレビニュースで「命をいただく」というテーマで小学校の学級で育てた鶏を子どもたちが食べる放送がありました。数年前に学級で豚を育て子どもたちの意見で内容が展開していく映画『ブタがいた教室』を見たことがあります。これは、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』(黒田恭史著 ミネルヴァ書房)『豚のPちゃんと32人の小学生〜命の授業900日』(ミネルヴァ書房 2003年)を原案とした日本映画です。鶏とは設定がちがいますが、梨木さんは育てた鶏を食べることはおかしいと思って作品に入れていったのかな。学校は最近、食育に植物を育てて食べる内容も含むようになっています。また人間であれば、おじいちゃんおばあちゃんからつながっている命の授業も取り入れています。教育界も波がありますからね。p273〜274は子どもたちに向けたメッセージとして読みました。

うさこ:『りかさん』『蟹塚縁起』など、梨木さんの作品は結構好きなほうです。これはタイトルが哲学っぽくて、どんな内容なのか興味を持って読み進めました。でも、読み終わった後で、感想が出てこない自分がいたんです。コペルくん、ユージンは中学生で一人暮らしだし、隠れているインジャの設定はありえないと思い、ここらあたりとても違和感がありました。主張と批判が繰り返し出てくる本でもあるな、と。よりみちパンセの引用の部分もかなり異質な感じがありました。理論社から出ている本を批判できたのは、理論社から出す自分の本の中だからできたことなのでしょうか。いいなと思ったのは、「自分の頭で考えろ」というところかな。鶏のところは、あまりにも作りすぎている気がしていましたが、今、現実にもありえると聞いて、それを練りこんだのかなと思いました。

宇野:「鶏を連れていくところまでしか読めていなくて、すみません。ここまで読んで思ったのは、こんなのありえるのかなあということ。こういう生き方もありと思えばいいんだと、ずっと自分に言い聞かせようとしたんですけど、違和感が消えませんでした。私の知っている中学生とはあまりにかけはなれているから。主人公もユージンも。その一方で、好きではないのに、このあとこの子たちがどうなるかを知りたいという気持ちが強くなって、最後までつきあって読みたいと思うのは、作者のうまさでしょう。テーマは、どんなふうにぶれないで自分を保っていけるか、ということでしょうか。戦争の時に洞穴に隠れていた人のこと、おばあさんが山の植生を守るところ、いろいろな話題が出てきて、これがどうおさまるか、最後まで読んで確かめたいです。

ajian:著者には批判したいことがおありなのでしょうが、それにしても短絡的で浅いと、みなさんの意見を聞いていて改めて思いました。バクシーシ山下の件なんて、ポルノなんてやっているいかがわしい連中で、いやだというぐらいの浅さ。鶏の件も、生徒の家で飼っていたペットを勝手に食べるなんて、そんなの悪いに決まってるじゃないですか。だから? っていう。

アカシア:子どもって、意外と先生の裏表を見てるから、コペル君だってよほどのぼんやり君じゃないかぎり、こんな担任の先生好きにならないと思うけどなあ。

ダンテス:生徒のうちからからもらってきた、くらいの認識だったんじゃないですか。もちろん誤解していたんでしょうけど。

プルメリア:学級で鶏をひよこから飼ってみんなで世話をし、ひよこが具合悪いと心配し、そして最後に食べるということです。テレビで見ましたが小学校で行っていたようです。今は行っていないと思いますが。

メリーさん:たぶん、そこまで深く考えていないですよね。話題がころころ変わるのも、元が連載だったからではないかと思います。それでは議論は深まらない。やっぱり小説を書けばよかったのではないかと思いました。

ダンテス:この作品の底流に常に流れているのは、無意識的全体主義に対する警鐘でしょうか。それに気をつけろということはずっと貫かれていると思います。

ajian:無意識的全体主義に気をつけろという、それ自体は、わかるし、共感もするんですけどね。でも、そういうことなら、2行でまとまりますよ。

三酉:私も、登場人物のだれにもシンパシーを感じなかった。ヒトラー・ユーゲントまで登場していろいろ盛りだくさんで、何しろ主人公はコペルくん。しかしどうしてコペルくんなのか、最後まで分からなかったです(吉野源三郎さんの『君たちはどう生きるか』は、たしか中学校の校内放送で流していたと記憶しています)。タイトルが「僕は、僕たちは…」と、「僕」だけじゃないところはいいなあと思ったんですけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)


エリアセル・カンシーノ『フォスターさんの郵便配達』

フォスターさんの郵便配達

メリーさん:著者が日本に来たときに、講演を聴く機会に恵まれました。冒頭の切手の話、訳者の宇野さんから届いた手紙がきっかけになったと著者が話していたのを覚えています。物語は、歴史的背景をふまえつつ、主人公と彼の身の回りがきちんと描かれている。人は皆、様々な側面があって、真実は多面的だということが書かれていることに好感が持てました。主人公が偽札事件に巻き込まれていき、ちょっとミステリーの要素も。よく読むとイスマエルがタイピストという伏線もきちんとあって。とてもおもしろく読みました。

プルメリア:フォスターさんとペリーコの話なのかなと思ったら、違っていました。イスマエルさんがとてもおもしろい人で、フォスターさんとも仲良しという設定、おもしろかったです。ペリーコの葛藤がいろいろな場面であるのだけれど、ストーリーがゆっくり進むので、とても読みやすかったです。フェルミンさんもやさしい。素敵な大人がとてもよかったです。署長さんも最後のほうでよくなってくる。ただお父さんは最後まで冷たくて、気になりました。子どもたちはどのように読みとるのかなと思いました。

アカシア:写真を撮るということがただシャッターを押すだけではなく、そこに写す人があらわれるのだとか、久しぶりにイスマエルの家を訪れたビスコーチョとイスマエルとのやりとりとか、よく描けているなあと思いました。ただ、イギリスとかアメリカの児童文学を読みすぎているせいか、違和感を感じるところもありました。書き方の文法が違うというか。たとえば、この本ではかなり早い時期に偽札作りの犯人はポルトガル兄弟だということが読者にもペリーコにもわかってしまう。でも、その後署長がフォスターさんやイスマエルを疑ってどうこうするということがペリーコの視点でずっと書かれ続けるので、だれてくる。それからイスマエルは文字が読めない・書けないというふりをしているのだから、ドアに「洗い場にいる」なんていう張り紙をするのは変です。またお父さんがペリーコを置いて漁に出てしまいますが、その期間もある箇所では数週間と書いてあるかと思うと、二週間もあり、一週間と書いてある箇所もある。現実には発語している人が違えばそういうことはあるけど、作品の中では統一しておいたほうが読者は戸惑わない。それからフォスターさんと会ってペリーコが英語で話したと言っているのですが、ほかの英語の部分はルビになっているのにここはなっていないので、何という言葉をペリーコが言ったのかわかりません。ペリーコが偽札を手に入れたのは4時だと書いてありますが、どうしてすぐにお父さんのためのお金を払いにいかないのかな? もう役所は閉まってるのかな? など、読んでいてちょっと落ち着かない部分がありました。

ダンテス:一年前に来日したカンシーノさんに直接お会いして、サインもらいました(とサイン本を見せる)。少年の主人公は父子家庭であまりかまってもらえなかったのが、フォスターさんとの出会いで、世界が広がっていく話です。同年代の女の子との微妙な関係などよく書けています。スペインフランコの独裁政権の時代の話とあとがきにありましたが、割合のんびりしていて、そういうもんだったのかなと思いながら読みました。そういう時代ではあったけれど、希望が表現されていて、明るいイメージを持ちました。気になったのは、クジラの出てくる最後のシーン。エフレンが写真に一緒に入る。ここをどう考えたらいいんでしょうか? 筆者の前向きな姿勢の表れでしょうか。

ajian:最後の皆で写真を撮るシーン、僕は、こういうところが定型から外れている感じがして、おもしろいなと思いました。地味でゆっくりしている小説ですが、少年がフォスターさんに出会って、成長している様子をていねいに書いてあるのがいいです。時代や地域についてあまり詳しくないので、そこだけ読んでも味わえました。べジータって、女の子の名前なんですね。

宇野:ベジータというのは、ベーリャ(きれいな)という形容詞に示小辞がついた形で、「かわいい子」「きれいな子」という意味があるんです。

ajian:それから、イシュマエルという名前、これは『白鯨』にも出てきますが、あまり一般的な名前ではないとどこかで読んだことがあります。

宇野:だから使ったのかも。

ajian:作中にちらっと出てきて、作者も好きだというヒメネスの『プラテーロとわたし』は最近復刊されましたね。

宇野:みなさん、私がいるので遠慮したのか、ひかえめに言ってくれたようで(笑)。アカシアさんから指摘のあった、イスマエルがメモを貼っておくシーンなどは、訳すときに私も、これでいいのかと思って、作者に問い合わせました。ご本人はまったく気にしていなくて、確かに英語圏の作品とは文法が違うと感じるところがありました。けれど、この話は最初に読んだときから、お父さんにかまわれず、ネグレクトされているようなペリーコが、自分で自分を納得させながら生きる道を探るところ、まわりの大人がそれとなく助けてあげるところが好きで、日本の子どもにも紹介したいと思いました。最後までお父さんはろくでもないんですけど、それはそれでリアリティがありますよね。主人公は写真やフォスターさんやイスマエルと出会って、何とか生きのびていく……それがいいなと。時代はフランコ独裁下の難しい時代。作者自身が育った時代が、こんなふうだったのでしょう。あるインターネット書店のサイトのレビューで、ペリーコに時代のことをもっとはっきり話すべきではという意見があったんですけど、私はそれはできなかったのだと思っています。物語の中では、だれとかはフランコ側、だれとかは反フランコとは決してだれも公言しません。口に出してしまうと、だれがだれを傷つけることになるか、いつ自分が報復されないともわからない時代だったから、そういうことは表だっては決して口にされない時代だったのだと私は理解していますし、当時の子どもだって、そういうことは敏感に感じとっていたはずです。あと、私はこれは和解の物語だと思っています。カンシーノは人は責めないんです。権力側の怖いエフレンも、ときどきこっけいなところがあったりと多面的に描いてます。人は完璧ではないからね、と著者はおおらかです。最後のクジラの前で写真を撮るところは、ふたつに分かれてしまったスペインの葛藤の中にありながらも、赦しあえる未来のスペインを示唆しているようで好きなシーンです。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)


ベン・マイケルセン『スピリットベアにふれた島』

スピリットベアにふれた島

うさこ:すごい話だなあと思って読みました。好きな作品です。サークル・ジャスティスという試み、制度を知らなかったので、罪をおかした人に再生のチャンスを与えてくれるこういう仕組みは、人間に対する深いまなざしがあっていいですね。文章も力強い。描写などとてもリアルで情景がありありと浮かんでくるところが多かったです。島でスピリットベアにやられて、骨が折れて体を動かせず、ミミズやねずみを食べたりするところ、描き方がリアルすぎてぞっとしたくらい! 毎朝の冷たい水浴びなども、この作家の表現力はすごさが随所に感じられました。父からの暴力の被害者でもあり、ピーターへの加害者でもあるコールの更生を助けるカービィ、古老など大人の存在もよかったです。

プルメリア:長い作品ですが、止まらないで一気の読むことができました。最初クマとの戦いで野生の生き物に対して大きな力を感じ、次に自然との闘いで自然の力を感じ、ピーターへのつぐない、家族との絆、更生する気持ちなどコールの心情が周りの人たちに助けられながら変わっていく。無人島で小屋を燃やしてしまうところは反発。いろいろなことに向き合いながら、だんだん変わっていく。ピーターが自殺をはかったところは、大丈夫かなと思いました。水浴びをしないと落ち着かない。水浴びをすることで強くなっていく。内容と表紙の白いクマがマッチしているんだなと作品を読み終わって思いました。

アカシア:私は『ピーティ』(鈴木出版)を読んでベン・マイケルセンってすごい作家だと思い、この本も出たときにすぐ読みました。今回は時間がなくて読み返せなかったんですけど、物語の中のリアリティをどこまでも追求する作家だな、という印象です。コールの悪さ加減も半端じゃなく書いています。後半はちょっと甘いかもしれないけど、YAなので1つの理想の姿を描きたかったんだと思います。アメリカでは犯罪を犯した子どもに対していろいろな選択を用意してるんですね。この本に出てくるのはサークル・ジャスティスですけど、ポール・フライシュマンの『風をつむぐ少年』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)は、少女を車でひき殺してしまった少年に対し、アメリカ大陸の四隅に犠牲者の女の子代わりの「風の人形」を立てるという業が課せられて、少年はその過程でいろいろな人々に出会って成長していきますよね。収監か放免かではなく多様な選択肢があるのが、すごい。

ダンテス:読み始めて、とにかく15歳という設定なんだけれど、15歳とは思えない悪い奴ですよね。家庭にもめぐまれず、すぐキレる。ピーターをぼこぼこにして、身体的傷だけじゃなくて、脳にまで損傷を与えてしまうし、警察でも反省の色なし。大人をなんとかだましてやろう、という徹底的に悪い奴を最初に登場させて、この子が変わっていくのを、 嘘くさくなく、読者である私をどう納得させてくれるのかなと思いながら読み進めました。そういう意味ではしっかり物語にひきこんでくれましたから、いい作品であると評価します。結果的に、宗教性を感じさせる自然の力もあるんだけれど、古老の2人の力も大きく働いて、この子が変化・成長したことが腑に落ちます。 ピーター自身も被害者であって、自殺未遂を繰り返してしまう状態であったのを、救う方向に持っていっているのがすごい話だなと思いました。ちょっと気になったのは、腕や足がかなりダメージを受けていたはずで、傷を負っている描写が後半になると減ってしまって、普通に行動しているように読めてしまうのがどうかなと思いました。作品全体としては、犯罪の加害者だけでなく被害者の癒しというのがテーマでしょう。

ajian:先住民族の儀式や、スピリットベアとの不思議な交流もおもしろいですが、何よりも主眼は、加害者が、被害者とどう向き合うのか、ということだと思います。現代の裁判のシステムでは、それがうまくなされていないという指摘と、対案としてジャスティスサークル、という試みがあることを興味深く読みました。ただ、物語自体は、ややご都合主義的なきらいがなきにしもあらずで、とくにコールが更生していくくだりや、ピーターがコールの存在を受け入れていく過程は、ちょっと甘いかなと思いました。コールはちょっとものわかりがよすぎますよね。にもかかわらず、印象的な場面が多々あり、作者の筆力を感じます。
自分がおもしろいと思ったことを羅列していくと……たとえば、ダンスで動物と同化し、その動物について理解する、というくだり。うまく踊れたときというのは、リズムと一体化していて、意識が集中し、かついろいろなことを忘れて、自分から離れてしまえる状態。あの高揚感、忘我状態のなかで、自分から離れて別のものになるという感覚までは、ほんのもう一歩なんじゃないかという気がして、全然知らないことなのに、よくわかる!と思ってしまいました。それから、スピリットベアに会おうと、雨にうたれて自分を無にしようとする場面、ここもおもしろかったですね。雨が額から頬にしたたるのを感じ、ついで周囲の世界へと、感じる範囲が広がっていく感覚。座禅のワークショップに参加したとき、香港から来たお坊さんに、意識を外へ外へ向けろ、と言われたことを思い出しました。よく書けている本や文章というものは、読者の体験や思い出とつい響き合ってしまうものですが、この本もそうだと思います。裁判にしてもそうなんですが、近代的なシステムではすくい上げられないような軋轢であったり心であったりを、この本では「ダンス」であったり「トーテムを彫ること」という、一見なにも関係のないような行為を通じて、いやすことを描いていると思います。それが不思議と納得出来るのがおもしろいです。
まったくの余談ですが、自分がこれまで怒りをコントロールして来たか、殴りつけた相手と向き合って来たか、というと非常に心もとないものがあります。何か、コールの姿は、ここまで極端ではないにしても、あまり他人事とは思えませんでした。今更どうしようもないですが、エドウィンのように、コールのように、別の形で返していくしかないのだろうなあと……。

三酉:私の感想はあんまりよくないんです。『ピーティ』の作者だと聞いて、あちらはすごくよく書けていると思ったんですね。でも、これはこんなに甘い話でいいのか、と。サークル・ジャスティスはいいと思うんですけどね。でもその制度のすばらしさにほれこむあまり、作品がゆるくなったかな、という気がしました。作者はサークル・ジャスティスで感激して、ひいきの引き倒しをしてしまったと思う。それとたぶんこの取材の過程で、孤島一人で暮らすというのを実地に体験して(たぶんヴィジョン・クエストなのだと思いますが)、すごい感激した、それもあってここまで書いちゃったんじゃないかと思います。

アカシア:私は15歳という年齢ならあり得ると思って読みました。この作家は、クマも飼ってたんですよね。

三酉:『ピーティ』同様、夢というか、「お話」であっていいのだけれど、「お話」の出来が悪いと思うんですよね。

アカシア:私も作品としては『ピーティ』の方がよくできていると思ったんですが、こっちの方が課題図書になったんですね。

メリーさん:私はとてもよかったです。とくに前半部分、主人公が瀕死の重傷を負うところ。クマに相当痛めつけられて、もう死んでしまうかというところで、心から生きたいと願う主人公。どん底に落ちて初めて、世界はなんと美しいのかと感じる心。極限の状態まできて、ようやく世界が見えてきた、そんな描写が圧倒的でした。後半は多少ご都合主義に陥っているきらいはあるけれど、毎日を祝いの日々にするという部分、日常をいつくしみ、自分の視点で楽しいものにしていこうというところは、どん底を経験した人たちだからこそ言えることだなと共感。一気に読んでしまいました。

三酉:だんだん思い出してきて、もうちょっとポジティブに言うとね、6ヶ月後っていって、内部的な葛藤のようなものがもっと書きかれていると、もっとよくなった。

ダンテス:最後の10ページくらいのところ。ピーターは、コールに仕返しするわけです。そのときにコールは自分は反撃しないと決めていて、ピーターがある意味気の済むように仕返しをする。そこで初めて両者対等になって、そこからが本当のスタート。二人の関係改善が暗示されて物語が終わります。今の法律では、被害者自身の手で加害者に仕返しすることは認められていないわけです。

ajian:その反撃しない場面、コールが急に「おれという人間は大きな輪(サークル)の一部なんだ」とか言い出して、ちょっと「どうした?」って感じですよね(笑)

(「子どもの本で言いたい放題」2011年12月の記録)


加納朋子『少年少女飛行倶楽部』

少年少女飛行倶楽部

御茶:おもしろいですし、愛情や友情もしっかり描かれていていいと思いました。すごくさわやかです。絵もいいです。主人公の心のツッコミがツボにハマりました。「るなるな」が最後にピンチになっていた所は、最後を盛り上げるために作為的な感じがして、もう少しひねりがほしかったなと思いました。

トム:一番はじめ表紙を見て「劇画風物語かな?」という印象。色々なキャラクターを演じるように、若者たちが次々登場しますけれど、お互いに気を使いあう関係が痛々しい気がして……。他の2冊で描かれる友だち関係とはずいぶん違う。時代も国も違うけれど……やはり今の日本の若い人の物語なのかな。飛行というテーマで進んでゆきますが、最後はちょっと無理があるかも。

ルパン:「道具や乗り物を使わない」というのがクラブの規約なんですが、最後は熱気球を使って飛びますよね。気球は道具じゃないのかなあ、と思っちゃいました。風船おじさんの話が出てくるのですが、その行動の愚かさ、切なさは語られてなくて残念。でも、作家はもしかしたら風船おじさんをヒントにこのお話を書いたかもしれないと思いました。登場人物のなかでは、イライザが一番よくかけていたし、いいですね。お母さんも良かったです。『ロケットボーイズ』がおもしろすぎたせいか、ちょっとうーんと思いましたが……。あと、どうして題名だけ漢字を使っているのかなと思いました。文中はぜんぶ片仮名で『飛行クラブ』だったので。

プルメリア:本を手にしてもあまり進まなかったです。現実的に書かれている内容なのですが、非現実的な感じで、ちょっと読みにくい本だった。飛ぶという設定はわかりますが……。登場人物それぞれの性格がわかりやすく書かれているように見えますが、気球が飛ぶところは、なんだか現実から離れた感じがしました。

サンザシ:文庫本で読みました。お互いの関係を探り合う中学生の関係とか、いろんな立場の子どもの思いなどが出て来て、悪くないと思いました。熱気球はなかなか魅力的なアイテムなので、もっと詳しく書いてくれると地に足のついた作品になったと思います。日本の作家は人間同士のやりとりとか微妙な心模様を書くのはうまいし、身のまわりの隅々にまで目が行くと思うけど、それから先にまでは広がらない。他の2作品とは視点が違うなと思いました。

げた:科学好きの子どもっていう題材の本が、日本の本ではなかなかみつけられなかったんですよ。ちょっと、テーマからはずれちゃったって感じですね。科学的な探究の末に空を飛ぶ、なんてことにはなっていないですもんね。でも、空を飛ぶという目的の部活を通して、中学生がお互いの人間性をみつめて、仲間のもうひとつ別の人間性をみつけ、成長していく様子はおもしろく読めました。最初に登場人物のおもしろい名前の紹介をつかみにして、読み進みやすい感じだと思いますよ。最後の部分は荒唐無稽で、あり得ない話になっているけれど、映画にしたらよさそうですよね。青春小説として楽しく読めました。

モフモフ:おもしろく読みました。ちょっと本を読んでみようかという若い読者にはちょうどよいのではないでしょうか。最初の飛行倶楽部の宣言(理想の飛行は、ピーターパン!?)を見てどうなるんだろうと思ったけれど、現実にできそうな熱気球に落ち着いて、なるほどと思いました。連載をまとめた本ですが、最初から熱気球と決めていたのか気になります。

メリーさん:加納朋子さんの作品は大好きでけっこう読んでいます。日常の謎を解く、コージーミステリーがとてもおもしろい。そんな中で、今回はちょっとこれまでと路線が違うなと思いました。子どもたちの青春群像という感じ。主人公は「ちびまる子ちゃん」のような性格で、世の中をちょっと斜めから見ている感じがするけれど、やはり心は素直。部長が、自分は姉の面倒をみるために生まれてきたということに対して、泣きながらそれは違うと言うシーンは、とてもよかったです。結末はリアルではないけれど、部活ならではの一体感があって、やった!という達成感を感じました。全体的にさらっと読めておもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年11月の記録)


ホーマー・ヒッカム・ジュニア『ロケットボーイズ』

ロケット・ボーイズ(上・下)

モフモフ:作品の密度が濃くて読み飛ばせなかったので、読み終わるまでに時間がかかりました。知らなかったのですが、ロケット開発の最初の時期はアメリカよりもロシアのほうが先行していたのですね。作品中で描かれているように、アメリカの学校ではカリキュラムを変更したりして、ロシアに後れをとったことがそんなにショックだったのかと感慨深かったです。上巻と下巻では主人公の立ち位置がおちこぼれから、みんなに認められる町のヒーローに変わっていって、立身出世の物語のような感じもあり、ぎくしゃくしていた父親と主人公の関係も、どうなるんだろうと思いながら読み進めました。お父さんは、たたき上げの炭鉱の監督で、炭鉱で起きるすべてのことに責任を感じるような人。肺の病気もあるし、落盤事故の怪我もあるし、満身創痍ですよね。当時の炭鉱町の様子、そこで生きる人間は、こんなふうに考えていたのかと新鮮でもありました。

げた:たまたま、なんですけどね、今回のとりあげた本の年代は大体50年きざみになっています。この本の時代は今から50年前です。アメリカとソ連が鎬を削りあっている頃で、アメリカがソ連には負けないぞという頼もしさが伝わってきました。ここのところ、この会でとりあげられている本が、厳しい状況におかれた子どもたちを扱ったものが続いたので、楽しく生き生きとした子どもを扱ったこちらの本を選書係として選ばせてもらいました。最初はプラスチックの模型飛行機に癇癪玉を詰めただけのロケットから、最後の微分積分などで計算して作られたロケットにまで到達したというのがすごいな。しかもこれは実話なんですよね。考えてみると、2、3年の間にこんなことができたのがすごいですね。この年代の普通の男の子らしく、女の子に対する興味もおもしろく描かれていましたね。ドロシーに寄せる恋心も興味深かったな。とにかくおもしろかったです。上下巻2冊で分量はそこそこあるけど高校生くらいなら読めるし読んでほしいな。

サンザシ:すごくおもしろかった。映画も本も知らなかったんですが。下巻は2か月で7刷りまでいっているので、売れているのかなと思います。どこまで自伝なのかわかりませんがノンフィクションだから書けるところや重みもあるんでしょうね。この人は技術者だからお鍋やストーブをだめにしちゃうのもリアルに書かれているし、そういうのを許すお母さんはすごい人だなと思いました。仲が悪そうなのに良いところもあるし、お金も貯めていてすごい、なかなかこうはいかないだろうなと思いました。大人らしい大人がいっぱい出てくる作品だと思いました、今は大人らしい大人は少ない。ロケットのノーズコーンはこうだ、お酒はこうだ、とアドバイスをくれたり、大人が反対してくれたり、子どもにとっても良い時代だったと思ったりもしました。アメリカだけじゃなくてアフリカにも、学校に行けなくなったけど自分でゴミ捨て場から拾ってきた材料で風車をつくった少年がいて、『風をつかまえた少年』(ウィリアム・カムクワンバ&ブライアン・ミーラー著 田口俊樹訳 文藝春秋)という本を書いています。子どもはそういう力を持ってるんでしょうけど、常識的な親が芽を摘んじゃうこともあるでしょうし、環境も良かったんだろうなと思います。最後のお父さんの残したのも良かった。

プルメリア:上・下の2巻構成 活字もたくさんですが、作品に入り込み、一気に読みました。実話だったからこそ内容がわかりやすくとてもおもしろかったです。主人公の父親の責任感ある行動力がすばらしく、偉大さがあり、立派だなと思いました。周りの人々が少年たちの実験をなんとなく見守ってくれるのもこの時代だからこそだなと感じました。今の子ども達はやりたいことがあってもなかなか実行できず終わってしまうケースが多いですが、この少年たちからは周りの人々に支えられながら頑張っていく意欲や熱意が伝わってきます。一つ一つの積み重ねの実験が大きな成功に結びついていくんだなと思いました。スペースシャトルに関する土井さん(素敵なマスク!)の話はわかりやすく、全体のストーリー構成のつながりも良く、スケールの大きな話でした。

ルパン:めちゃくちゃおもしろかったです。この会に参加させていただくようになってから、読んだことない本をたくさん読む機会ができてうれしいです。この作品を読んで、ボブ・グリーンの『十七歳』(文藝春秋)を思い出しました。実話ゆえのドキドキ感がちょっと似ています。主人公はこんな素敵な男の子なのに、好きな女の子を最後まで振り向かせられないところも。この作品もお母さんがいいと思いました。昔のBFが現れ、かつての恋敵が立派になって帰ってきたのを見たお父さんが「選び方をまちがえたな」と言ったとき、「ちゃんと正しい方を選んだわ」というシーンは素敵でした。ちょうど、最近になって理系のおもしろさに目覚めたところでもありました。理系の人はたぶん、文系の人よりもロマンティストですよね。『ロケットボーイズ』のような息子がいたら、きっと息子が恋人になっちゃうと思います。

トム:ソ連とアメリカの国の競争が炭鉱の町に住む少年にまで響いていることにびっくり! 同じころ日本も石炭がエネルギー源で、炭鉱の落盤事故ニュースにくぎづけになったことを思い出しました。あ〜アメリカもそうだったんだなぁと思いました。お父さんの危険と背中合わせの強い生き方、不安を見せないお母さんの逞しさも強い! ロケットボーイズのまわりで、彼らを押さえようとする人がいるなかで、やがて皆応援していくのはアメリカなんだろうなと思いました。おもしろかったです。物語を読んでいくと、エネルギーの変化やアメリカのロケット開発にドイツ人のブラウン博士がかかわっていること、それから炭鉱でひっそり働くバイコフスキーさんはユダヤ人らしいことなど時代の波を感じました。本は何度でも手にとれるので、いつか読み返した時、またいろいろ考える手がかりが埋まっている良い本だと思いました。この少年がもし物理の先生にだったら私は赤点取らなかったかも。

御茶:すみません上巻しか借りられていないのですが、17ページのペンテコステ派、メソジスト派、バプティスト派など、宗教がころころ変わっていくのはすごいことだなと思いました。戦争の時に石炭を必要とするのはどこも一緒なのだなと思いました。日本も女性を炭坑にかりだして女炭夫さんという方々もいたなと思い出しました。上巻まではロケットを飛ばすための助け合いや、友情は少なく、『少年少女飛行倶楽部』の方が描かれているなぁと思いました。男の子の視点で書かれているのですっきりしているなと思いました。

メリーさん:上下とボリュームのある物語ですが、とてもおもしろかったです。炭鉱の街の描写を背景に、主人公たちのロケットにかける青春を描く重層的な物語。文章は映像的で、特に下巻、主人公がチームを引っ張っていくようになってからぐいぐい引き込まれました。個人的に興味を持って読んだのが、父親との関係。父子というのは、ある意味で永遠の課題です。息子は父親のことが目の前に立ちはだかっている壁のように見えるのだけれど、父親も息子との距離をはかりかねている。父は、次男である主人公にかなりつらくあたるのだけれど、自分が命をかけている炭鉱を見せたり、主人公が行き詰っているときにはぽんと材料をくれたりと、気にかけている様子がところどころにはさまれる。一面的ではなく、善悪両面があるという描写にリアリティを感じました。息子は、最終的に父親を乗り越えるわけではなく違った道を見つけ出して選ぶ、そして父親を理解していくというのがとてもいいなと思いました。

すあま:映画を先に見ていて、あらめて読みました。スプートニクショックというのがアメリカにとってどうだったかというのを授業でも習っていたのですが、本当に大きな衝撃だったのだなと分かりました。科学コンテストの話は『ニンジャx ピラニア x ガリレオ』(グレッグ・ライティック・スミス著 小田島則子&恒志訳 ポプラ社)を思い出しました。科学をやらねばということで学校でも教育が見直されて国をあげてやっていったことが分かります。どんどん不景気になっていく炭鉱の町では、ロケットが未来に向けた希望だったのでは。馬鹿にしていたのに意外と上手くいって希望の光になっていったんだなと感じました。いろんな人がで登場しますが、親子、夫婦、兄弟、友達の関係もていねいに書かれていました。この作品は子ども時代の話ですが図書館では伝記の棚に入っていました。だけど、フィクションや小説、文学作品と言って良いのではないかな。『ロケットボーイズ2』というのも出ていますよ。

モフモフ:NASAの技術者の自伝的な作品ですが、ゴーストライターがいるのかと思うほど、細かな描写や構成がうまいです。下巻では自分のことを人気者でヒーローという感じで書いていますが、日本なら謙遜が入りそうなところだと思いました。

げた:この作品を教えてくれた人がいるんですけど、『ロケットボーイズ2』はあんまりおもしろくないって話だったので、まだ読んでません。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年11月の記録)


ジャクリーン・ケリー『ダーウィンと出会った夏』

ダーウィンと出会った夏

トム:近くの図書館の蔵書11冊がすべて貸出中でした。ダーウィンの『種の起源』がこういう時代の中に登場したのかと知りました。各章のはじめにある文章は言い回しがむずかしい。虫の名前などは、可能ならば日本名があるとよいのでは。キャルパーニアが自分の好奇心をどんどんふくらませてゆく姿と、求められる生き方への疑問と2つのテーマが拮抗していきますが、主人公の自然との出会いとその生き生きした様子にズンズン惹きつけられました。いつのまにかキャルパーニアを応援していたのかも。お祖父さんの存在は巨きくて深い! 主人公が「この世界のどこに私の居場所があるのだろう」と考えた時に「なにかを好きだと思うことより理解することの方が大切」というお祖父さんの言葉を思い出す場面がありましたが、よくかみしめてみたい言葉です。

ルパン:すみません、まだ途中までしか読めていないんですが……最初はちょっとおもしろくないような気がしたのですが、どんどんおもしろくなってきています。またまたですが、この作品でも、お母さんがいいなと思いました。こういう女の子になってほしい、という願望を押しつけてくるところがあるけれど、このお母さんの気持ちもわかるなぁと感じました。

プルメリア:今年の夏休みに読みました。題名と表紙が目につき、手に取りました。読みやすかったです。おじいさんと少女の交流の中で、身近な自然科学に関する話がたくさんあるのですが、コウモリが登場している部分は楽しく読みました。戦争の悲惨さ、人種差別などアメリカの時代背景、当時の人々の生活スタイルも分かりやすく書かれていました。今現在、アメリカは女性の地位が確立されていますが、主人公が子どものころはまだそういう姿はなく、これからの時代は女性も前に出て地位を作っていこうとするたくましい生き方が表れているところがとても素敵で、ぜひこの生き方を読者に知ってもらいたいなと思いました。作者はお医者さんだけれど、虫や植物が好きで、自然に目がいく人。いろいろな物をよく観察していて、私たちも見たことのある身近な自然界の生き物が登場してくる作品なので、長編でも読ませるものになっていると思いました。

サンザシ:翻訳がうまいなと思いました。女の子は思い切って好きなことができない時代で、親たちは刺繍や料理を習得しろと行ったり、社交界にデビューさせようとするわけですが、コーリー(キャルパーニア)がなんとかがんばって自分の道を歩こうとする様子がよく書けていました。私の友人に、息子と一緒にチャボを卵から育てた人がいるんですね。その人の話がとってもおもしろいんです。子どもの好奇心をお母さんである友人がとてもうまくのばしていく。それでとうとう卵から孵化して家族同様にそのチャボと暮らし、死まで看取るんです。その話を聞いていると、私にはとてもできないな、と思うわけです。時間も知識も忍耐力も必要になりますもんね。その友人のようなお母さんや、この本に出て来るおじいさんのような人がいて初めて、子どもの科学への好奇心は育つのかもしれないなあと思います。この作品に出て来るおじいさんは、時間的にも自由で、精神的にも縛られていない。しょっちゅう自然の中に出かけていき、ついてきた孫娘に、目に触れる生き物についていろいろな話をしてくれる。そういう家族がそばにいて、コーリーは幸せでしたね。おじいさんだけでなく、兄弟たちそれぞれのエピソードにもユーモアがあり、楽しく読めます。コーリーが祖父の話を聞いて、どんどん科学的な見方を獲得していく過程もリアルに書かれています。自然科学の分野はとっつきにくいと思っている子どもでも、こういう物語から入れば大いに興味をもつようになり、理科離れも食い止められるのかもしれませんね。

げた:この本の扱っている年代は今から100年前で、この時代の女性は良妻賢母になることが求められているのだけど、それから解放されて、自立した女性になることが一つの重要なテーマになっているんですね。アメリカで国内の戦争といえば、南北戦争で、この本の時代の30数年前に起こったのだけど、主人公の女の子を科学に導いたおじいちゃんも南北戦争に従軍してたんですよね。意外だったのは、アメリカで女性参政権が得られたのは1920年でそんなに前じゃないということですね。日本語のタイトルは原題よりもおしゃれですね。キャルパーニアは7人きょうだいなんだけど、おじいちゃんが科学の道に導こうとしたのは、たまたまキャルパーニアだったわけで、キャルパーニアでなくてもよかったのかもしれないですね。科学の道に進むのは男も女も関係ないんだよということかな。いやいやながら、共進会の作品展に出品した手芸品が3位になっちゃった話がおもしろかったな。科学好きの女の子をテーマにした本ということで選びました。

モフモフ:この作品で、おじいさんが主人公の協力者になっていますが、子どもの好奇心や才能の芽生えには、それに寄り添って伴走してくれる人が大切なのだと思います。必ずしも親や家族でなくていいのですが。

すあま:お母さんと子どもの関係でいうと、自分が舞踏会に行けなかったからそれを娘に託してしまっている。ユーモアもたくさんあって、刺繍のコンテストのエピソードもおもしろかった。世紀が変わるということで、考え方が変わっている時代をとりあげているんですね。とても読後感が良いです。

メリーさん:自然とそこで暮らす人々の細部までが描かれていて、とても楽しく読みました。私自身はまったくの文系で、自然科学には詳しくないのですが、主人公の考え方に共感できるのは、主人公が物ごとを本当によく観察しているからではないかと思いました。季節、自然、友人のことも、科学の目は物ごとをきちんと観察することから始まります。それが、ディテールをきちんと描くことにつながっているのではないかと。主人公の台詞「自然界では美しくするのはオスの方なのに、人間はなぜ女性の方が着飾らないといけないのか」なんていうセリフはとてもおもしろい。物語の最後の場面で、彼女は外の世界を見て家の外へ飛び出していきますが、またすぐに家をみつめて帰ってくる。この物語の心地よさは、この、家を大切にして地に足をつけている感覚なのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年11月の記録)


ヒネル・サレーム『父さんの銃』

父さんの銃

おから:私小説やエッセーのようなものかなと思って読みました。出来事を中心に書いているように思えますが、それによる心理描写は少ない。たとえば序盤で兵隊に殴られた後の気持ちの所です。その場面の後すぐに事件があったのは分かるのですが、事件が起こったことで自分がどう感じるのかもっと出さないと、ただの歴史を見るような気がしてしまうので、もう少し心理描写がほしいと思いました。また、プロットをぼんぼん見させられているように感じました。あとは作品中には権力の強さが表れていて、人が家畜のような扱いをされていることに何度も吐き気がしました。79ページの母の写真撮影はなぜ目が見えなくなっていたのかと疑問に思いました。年や栄養失調なのか、あるいは身体検査で殴られたり刺されたりしたのなら、目に痣なり傷なりあるはずなので、前者かなと思います。

ダンテス:クルド人の話を日本で読める機会は少ないです。こういう作品によって日本人が、遠い場所の知らないことを知ることができるというのは素晴らしいと思いました。家族の話も主人公の目からの視点で、記述に統一感があります。サダム・フセインの話や家族が離れ離れになっていく話もそうだったんだ、と勉強になりました。こういうことを経て今日の状況があるのかと分かりました。実話なんだけど、たとえば最後の出国する場面などかなりドキドキすることができた。読ませる力があります。徳間のBFT(Books for Teenagers)とサイズも似ているし、若い人向きに作られているのかな。

サンザシ:大人の本だろうなと思いました。主人公は子どもとして訳されてますけど、成長していくのも書かれているので。しかし場面の展開があっち行ったりこっち行ったりしているので普通の中学生だと読みにくく、読みなれた子にはおもしろいのでは。18、19ページのところは、大人の読者だとおもしろいですね。20ページになると、18ページとつながっているのかもしれないけど、中学生には難しいかも。大人は解明する楽しさがあるけど。ただ、クルドの人たちがどんなに大変なのか知ることができて、読んで良かったと思います。これは自伝的小説なので、149-151ページあたりまでこの人がどうなったか書いてある。これはノンフィクションの書き方で、映画だとよくある手法ですね。どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのかもう少し分かった方が良いなと思いました。映像的な作り方だと感じました。12ページのはどういう意味ですか(田久保さんからどの程度の認識があるのかですねという返答あり)フセインはコミュニティを破壊したんですものね。

アカザ:この本は、児童書として出版したのか、それとも一般書なのか分かりませんでした。児童書でしたら、地図があると良かったし、訳注なども、もう少し配慮が必要だと思いました。でも、作品そのものはとても面白かったし、今までこの本の存在すら知らなかったので読んでよかった。作者が実際に体験したものということですが、緊迫感があって、最後まで一気に読みました。そのなかにとてもおおらかなユーモアもあり、さすがに映画を作っている人だと思ったのですが、ザクロの赤とか映像的にくっきりと記憶に残るところもあり、とてもいい作品だと思いました。

すあま:地図があれば、という話がありましたけれど、登場人物たちの関係も頭の中でこんがらがってしまいました。大人の小説だと思って読んでいましたが、難しかった。そして読み終わった後にクルドのことを知りたくなった。そういう意味では興味深く読みました。主人公が若く、映画監督になりたい、ヨーロッパに行きたいといった将来に対する希望を持っているので明るいイメージもあります。楽しいはずの子ども時代が台無しになっているのに明るさを持って書いているのが良いし、読後感も良い。そこが大事だと思います。読んでもらうのは中高生かなと思いますが、手に取りにくい装丁とタイトルなのでブックトークで紹介するとよいと思います。

トム:民族って、と考えました。日本は今、同じような一つの民族のように暮らしているけれど、アイヌの人も、琉球の人もいるのに…。以前、中村哲さんが「アフガンの人は自分の命を盾にして人を守ろうとする、今の日本にそういう熱いものがあるだろうか」という意味のことを話されていたことを思い出しました。このクルドの人々の命をかけた戦いの熱い血にはドキドキします。一人の少年が生きてゆく生々しくて率直な日々の描写が、読む人を次々起きる民族のドラマに引きずりこむと思います。その一方で、鶏2羽と金のイヤリングで少年の年が4歳も変えられるなんて! ほんとうに色々な民族がいて地球は広い! 若きフセインがあのように登場していたというのも興味深く読みました。トルコの地震がずっと気になっていましたが、この本で出会ったクルド人たちもどうしているだろうと思います。

ぼんた:主人公の少年は、冒頭では自分の身に何が起きているのか一切理解できない幼い子どもですが、成長するにつれて、クルド人がどういう歴史をたどってきたか、自分のまわりで何が起きているのかを少しずつ理解してゆきます。私は中東に関する知識がほとんどありませんでしたが、主人公の成長とともにクルド人について学ぶことができたように思いました。主人公は次第にクルド人としてのアイデンティティに目覚めてゆきます。国を持たないクルド人がなぜ自分を「クルド人」だと誇りを持って言えるのか、その根拠はなんなのか、これは日本人も考えさせられる問題だと思います。文章は淡々としていますが、映画監督らしく映像的で、詩的な感じを受けるところもたくさんありました。私は以前、日本在住のクルド人のお祭りに参加したことがあるのですが、この小説に出てくる人たちと同じように歌や踊りが大好きな方々でした。ちょっと日本の盆踊りのようで親近感を持ちましたが、こうした歌や踊りもクルド人のアイデンティティのひとつになっているのかもしれません。

ダンテス:母の話は主人公が知っている部分でしか知らされないという視点の狭さも中学生くらいとして読めるし、大人になるに従って政治的な理解が進んでいるように読めます。日本の子どもたちに教育的には良い作品でしょう。地図があると良いですね。クルド人の誇りを保つには、やはりクルド語を話すことが大事なのでしょう。イランでもイラクでも時代によってクルド人に対する扱いが違うということも分かりました。

プルメリア:作品を読んでどうしてページを進めることができなかったのかなと考えたところ、著者が自分の体験を書いているから、作品を読んでいても場面場面で止まってしまって考える感じになっているためではないかと思いました。

三酉:とても良かったけれど地図が欲しかった。原著にはなかったのかもしれませんが。

ぼんた:原著には地図がついています。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年10月の記録)


リンダ・スー・パーク『木槿の咲く庭:スンヒィとテヨルの物語』

木槿(むくげ)の咲く庭〜スンヒィとテヨルの物語

すあま:おもしろかったです。兄と妹がそれぞれの視点で語る形式になっているのがよいと思いました。どちらかに共感しながら読むことができるので。創氏改名について取り上げ、当時日本政府が行ったことを子どもでも読めるような本として書いた本として、大事だと思います。スンヒィの気持ちもよく伝わってきました。著者は子どもの本を書いている人なので、せめてヤングアダルト向けとして手にとりやすい形で出版してほしかったと思います。

サンザシ:これも、子どもが主人公でも大人の本だろうなと思いました。事件が起こって読者をひきつけるのはかなり後ろになってからのこと。それまでは背景が書いてあって、大人は胸の痛い思いをして読むけど、歴史を知らない今の子どもたちに読ませるのは難しいかもしれません。メッセージ性のあるものは、それだけだと読ませるのが難しいですね。おもしろさで引きつけないと読まない。だから大人の本として出さざるを得ないという面もあるのかもしれません。それにしても、日本の作家はこういう問題についてなかなか書きませんね。なぜなんでしょう? こわいのかな? 韓国系アメリカ人のこの作家の本は、前に『モギ』(あすなろ書房)も読みましたね。あっちはもっと文学的でしたが。今、童心社で「日・中・韓平和絵本」というシリーズを出しています。先日、従軍慰安婦をテーマにした絵本をつくった韓国の画家が話されていたのを聞いたのですが、早く日本でも出るといいですね。史実と違うところがあると言われたりして、出版社はなかなか慎重になっているようですが。

アカザ:まず最初に感じたのは、日本の児童文学作家がどうして今までこのことを書かなかったのかということです。歴史の時間に習っただけでは、人間の痛み、苦しみや、体温のようなものが伝わって来ない。やはり文学として表現しないと…。日本の子どもにぜひ読ませたい作品です。まさに児童文学作家が、児童文学作品として書いた物語だと思います。子どもを主人公にすると、どうしても子どもが見たり、聞いたりする範囲のことしか書けなくなり、社会の全体像がとらえにくくなると思うのですが、この作品は語り手を兄と妹の2人にしたことで世界が少し広くなっていて、児童文学の手法としてとても上手なやりかただと思います。文学としては『父さんの銃』のほうが物語にふくらみというか、香りのようなものがあり優れていると思うのですが、日本の子どもたちだけでなく、大人にとっても大切な作品だと思いました。

トム:この話を若い人はどう読むのかな? 小学生の頃、長期欠席の友達(在日韓国人)を誘いに行った時に、彼女のおじいさんが日本の学校へは通わせないと怒った真っ赤な顔と、隣に居た彼女の苦しい表情が忘れられないでいます。今思えば、韓国の人の日本への恨みの深さを肌で感じたはじめての時だったと思います。登場人物の中で、アンさんというおばあさんが好きです! 日本語は使わぬまま、抗日運動をする人をかくまったり、食糧のない時に庭の柿を干してそっと隣人に渡したり、傍目には年をとった弱さと見えるものが、ほんとうはしなやかな強さになっている! 中学生の女子が集められるのは慰安婦ということでしょうか? 北へ行ったおじさんはその後どう暮らしているのか…今につながる問題を感じます。お兄さんが特攻隊を志願する動機は、私には今一つわかりにくかったけれど。

おから:スンヒィの視点とテヨルの視点で物語を書くことで位置関係が分かりやすくなっていますし、物語の深みが増していると思います。文化を守ることに何の意味や意義があるのか、なぜそこにプライドがあるのかというところは、私にはわからなかったので考えたのですが、それは先祖や家族を守るということにもつながっているのではないかなと思いました。

ルパン:すごくおもしろかったという言葉が合っているかは分からないですが、一気読みをするくらい「この先どうなるのかな」と思わせる本でした。本筋とは直接関係ないところですが、女子学生が校庭に集められるワンシーンが重くて…。主人公のお兄ちゃんは無事に帰ってきたのに、あの女の子たちが2度と帰ってこなかったことがとても悲しかったです。また、こんなに仲良い兄妹があるんだなぁ、と思いました。自分ももっと兄と仲良くしなくては(笑)。全体的に、日本人に気を遣って書いているのかな、と思わせるものがありました。実際はもっと日本人を憎む状況だと思うのですが…この子どもたちは寛大だと思いました。それから「どうせ朝鮮人には勇気がない」という会話を耳にしたあと、兄がむきになって特攻隊に志願したのは、日本の軍人の策略にはまってしまったんでしょうか? それともたまたまだったのかな…?

ぼんた:原語は英語でも、「アボジ(父)」や「オモニ(母)」といった言葉は韓国の言葉を使っているところがまず印象に残りました。英語で小説を書いていても、「父」や「母」といった身近な言葉は英語にはできないのかな、と。また、この小説の主人公は『父さんの銃』と同じように子どもですが、その子どもたちが親から何を受け継ぎ、何を伝えていくのだろうかということを読後考えさせられました。

ダンテス:日本軍にお兄ちゃんが志願するところは不自然に思われるかもしれませんが、飛行機が好きという伏線を張ってあります。文章全体が感情を抑えて淡々と書いたように見受けられました。日本人の立場からするとひどいことをやったのだと思います。学校では日本語を強制されるけれど、家では韓国語で話すという表現としてアボジという言葉を出したのかなと思いま す。むくげを刈り取れと言われる、食べ物もとられる、ひどい話です。日本人の憲兵などは何でも天皇陛下の御ためと言っていたのでしょうか。従軍慰安婦の問題もさりげなく書かれています。北朝鮮と韓国に別れ別れになった離散家族の問題も声高ではなく作品に出ています。日本語訳の本になると子ども向きではないかもしれない、けれど私の中では大人の本ではないと感じます。読書好きの中学3年生になら読ませられるでしょう。やはり作者は民族の誇りを失わないために書いているのでしょう。

三酉:とても良い作品で、日本人としては身につまされる。改めて、ここまでやったのかというのがあって、この年にして教えられてしまった。日本では、日韓併合の36年間について教えていません。中国との関係と含めて考えさせられた。『父さんの銃』も含め、こういう本があると大人に対してもある地域、ある歴史への入門書のような感じで本当に勉強になります。我々が世界を知っていくことにこういう方法があったかと思いました。お兄さんが帰ってきてお父さんが帰ってきて、めでたしめでたしで、しかしその数年後に朝鮮戦争が始まってますよね。そのきっかけを作ったのは日本だったと、ズシーンときますね。

プルメリア:厚い本の割には読みやすく、日本人が韓国の人たちに対して行った行為がひしひしと伝わり、苦痛の日々だったのだろうなと思いました。韓国の人が特攻隊になれた事実を初めて知りました。戦争が終わり戦死したと思われたお兄さんが帰ってきたことにほっとしました。物語が明るく終わりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年10月の記録)


乙骨淑子『八月の太陽を』

八月の太陽を

アカザ:昔読んだときには感じなかったのですが、いま読んでみると講談のような語り口で書かれた作品だなあと感じました。そういえば、私が子どものころに読んだ物語は、こういう書き方をしていたものが多かったように記憶しています。語り口の力強さというか、もう一度見直してみてもいいのでは? 今回はテーマにあった本ということで、この作品が選ばれましたが、わたしは『ぴいちゃあしゃん』のほうが好きです。ぜひ、読み継いでいってもらいたい作家だと思っています。

トム:乙骨さんが心に描いた社会というものがどのようなものだったのか他の作品も読みながら考えてみたいです。

おから:すみません、あまり読めていなかったです。色がよく出てくる作品だなと思いました。何人種かというだけではなく物などの描写にも色が多用されているなと思います。人種の違いと利用価値があるかどうかということだけで待遇が違うのはおかしいと思います。あとはキリスト教の何の宗派なのかなど、そういう思想や文化的な面についても知りたいですし、読んでいて気になりました。

ルパン:今回は、この作品があるならぜひ来たいと思って来ました。乙骨淑子さんは私にとって特別なイメージのある作家です。子どものころ通っていた「ムーシカ文庫」では、大きい子向け本に茶色いシールが貼ってあったのですが、その代表格のひとつが乙骨作品でした。子ども心に、あれを読めるようになったら大人になれるんだ、というあこがれをもって見上げていました。今も傾きかけた午後の日ざしがさす文庫の部屋で見上げた、本棚の上の段の光景が目に浮かびます。なんだか『フランダースの犬』でネロが教会の礼拝堂で覆いのかかった絵を見上げているシーンみたいに(笑)。そのわりには、高学年になってついに読んだ『ぴいちゃあしゃん』のディティールは全然覚えていないんですが、今回この作品を読んで、「本当に女性が書いたのか」という骨太な感じを思い出しました。ここでまた乙骨作品と再会できてほんとうに良かったです。

ぼんた:乙骨さんのことは名前しか存じ上げなかったのですが、この小説を読んでもっと知りたくなりました。月報では映画監督のルイス・ブニュエルの手法を子どもの本に取り入れようとしていたと書かれていますが、そのような発想ができることにとても驚きました。

ダンテス:楽しく読ませて頂きました。内容的には明治時代にあったものをベースに調べて書いたそうで、それもすごいと思いました。黒人そして混血、白人の三つ巴ともいえる状況もよく書けているし、フランス革命などもからめてあって、大きな作品だなと思いました。ハイチという国についても新しく知ったことがたくさんありました。

三酉:私もハイチがこういう出自だったのか。還暦を迎えても勉強になりましたが、作品としては講談調というよりは紙芝居みたいだなと感じました。

すあま:タイトルの印象が堅く、手に取りにくかったです。実在の人物だったことにびっくりしました。フランス革命の話をよく子ども向きに書いたな、ということにも改めて驚かされました。今こういうのを書く人は少ないかもしれない。昔は子どもたちが伝記や大人向けの小説を子ども向けに書き直した本、骨太な作品を読んでいたと思いますが、今は子ども向けというと甘い感じの本が多い。今出したら違和感があるかもしれません。今使わなくなっている言葉もたくさん出てきますし。こういった、子どもたちの目が世界に開かれていくような本を誰かに書いてほしいです。

プルメリア:タイトルを見て日本の終戦の話かと思いましたが、目次で外国の話と分かりました。ハイチにおいての黒人と白人と混血の力関係というのが分かりましたし、みんなすごく力強く生きているのだなと思いました。目次がたくさんあるので作品を読ませていくのだなと思いました。ハイチについて情報がない中見てないことを書くのはすごいし、男性の考え方で書いたりするのはまたまたすごいなと思いました。紹介しないと子どもは読まないので歴史と一緒に手渡していきたいなって思いました。

サンザシ:私も乙骨さんの偉さはじゅうぶんわかっているつもりです。でもね、と今回思いました。皆さんは、学ぶことができたとおっしゃってますけど、この作品は、スローガンにとどまっているような気がします。もっと肉付けしてほしかったです。アフリカ語という言葉もおかしいし、登場人物が生きているリアルな人のように感じられないのでもっと生き生きと書いてほしかった。当時は情報もないし、乙骨さんが実際に現地にいらっしゃったわけではないので仕方ないとはいえ、どうしても絵空事。乙骨さんが自分も知りたいと思って書いおいでなのはわかるし、この時代に社会的視野を広くもたれているのはすごいと思いますが、私は、子どもが読むという視点を忘れたくないです。これを子どもの本として称賛してはいけないように思います。人間が人間として書かれていませんもの。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年10月の記録)


デニス・ジョンソン‐デイヴィーズ再話  ハグ‐ハムディ・モハンメッド・ファトゥーフ&ハーニ・エルーサイード・アハマド絵『ゴハおじさんのゆかいなお話:エジプトの民話』

ゴハおじさんのゆかいなお話〜エジプトの民話

ajian:とてもおもしろかったです。このぐらいの幼年向けのものはまだ編集したことがないので、勉強の気持ちで読みました。エジプトの民話といわれてもあまり思いつかないし、日本の子どもにとっては、距離があるのではないかと思ったけど、そんなことは全くなく、親しみやすい、どこかなつかしいお話がいっぱい入っていた。おじさんのキャラクターがとてもいい。話も短く読みやすいし、この布の原画が味わい深い。原書は絵本だったというのを今日知ってよかった。そういう作り方も出来るのかと思いました。

優李:読んで、ホジャどんの昔話のようだと思いました。ゴハおじさんとホジャどんが同じ人とは後書きを読んで初めて知りました。とぼけた味わいが楽しい。こういう絵だと、男の子も好きそうですね。これを読んだある男の子が「ある話の中ではとぼけたおじさんなのに、別な話(「ロバの木を数える話」)ではすごく頭いいし、同じ一人の人とは思えない」と言ってました。確かに(笑)。刺繍が男性の作で、その地域では男の人の普通の職業ということも驚きでした。

わらびもち:他の民話集でこういうのを読んだことがあります。ロバを持ち上げる話や市場へ行く話なんかを。でも、別の話があることは知りませんでした。その時はイラストのようなものがなかったのですが、あると明るくなるし、親しみもわきますね。縫物の絵が温かみがあって良いですね。ゴハおじさんと3人の賢者の話では答えた内容で相手を困らせれば相手は何も言えなくなったり、出来なくなったりするのでこれはいつか自分がピンチになった時に使えたら使ってみようと思いました。

トム:愉快でした、すごく! 天真爛漫で笑いがこみあげる感じ。日本には無いカラリとしたスパイスもきいて心を閉じ込めない。アップリケは女の人がしているのかと思ったら厳つい男の人でびっくり。それぞれ技巧的でなく布や針の跡が残るようにざっくりとして、それもこの話の大事な味のよう。ゴハさんのギョロッと大きな目はずっと忘れないと思う

ルパン:興味しんしんで読みました。なんといってもエジプトは今いちばん行ってみたい国なので。ゴハおじさんは、きっちょむさんみたいですね。エキゾチックな部分と親しみやすい部分があって、とってもおもしろかったです。最後の「まともの答えられないしつもんには、どんなふうに答えても、正解なんですよ!」という一文が気に入りました。

けろけろ:日本にもとんち話は多くて、小さい子にはとても親しみやすいお話なので、とてもおもしろかった。きっちょむさん話と似てる部分があるけど、お国が違うと、落とし方も独特です。良くわからないものもあるけど、それもまた日本にはないテイストとして、味わい深いと思いました。

サンザシ:おもしろく読みました。私は原書を持っているんです。でも、絵本なので、これを日本で出すのはむずかしいなと思っていたら、こういう絵物語みたいな幼年童話で出たので、なるほど、と思いました。これなら読みやすいですもんね。私もナレスディン・ホジャのお話に似てるな、と思ったんですが、アラブ圏にこういう話は広く散らばっているんですね。時代を超えて、いろんな人がエピソードをつけ加えていったんでしょうね。アップリケや刺繍の絵もとてもユーモラスで楽しめます。ゴハおじさんにひげがあったりなかったりするのも、許せちゃいます。

たんぽぽ:とても、おもしろかったです。子どもたちに、読んでもらいたいなと思いました

うさこ:子どものころ、きっちょむさんや一休さんのようなとんち話が大好きだったので、この本を書店で見つけたときはすごくうれしかった。トルコではホジャおじさんだったり、他の国にいくと名前が変わるんですね、おもしろい! 主人公のとぼけぶりやひょうひょうとしているところがとてもいいな。生活者としての知恵がいい場面できいていて、読んでいて痛快。教訓ぽくなくて、笑えた。お風呂屋さんに行くところはただの間抜けさだけではなくて、知恵比べで、そこが意外でドキッとしました。1年生の男児と読んだのですが1回読んだだけではちょっと理解できないようだったので、すこし補足説明しないといけなかったかな。2〜3年生になって読んだら、ストレートに笑えるかも。

三酉:おもしろい! ゴハおじさんは、トルコではナスレッディン・ホジャと言われているようで、こちらの本も読んでしまいました。選書に感謝したいですね。知恵とユーモアと荒唐無稽と、実に多彩で豊か。その豊かさにつれて、読み手も大笑いしたり、しみじみ考え込んだりする。この刺繍の挿絵ものどかでよいのと、巻末に刺繍した人の写真が載っているが、ジャン・レノみたいでちょっと愉快でした。

プルメリア:出版されてすぐ読んだ作品です。表紙も挿絵も心温まるような刺繍がお話にとけこみ、とってもすてきだなと思いました。ほんわかしている雰囲気がなんともいえないいし、ゴハおじさんの味がいいです。学級の子どもたち(小学校4年生)に「地球の真ん中はどこ?」と聞いたところ「マグマ」とか「アメリカ?」などの答えがかえってきました。「ゴハおじさんの答えは『この下です。そこが地球のどまんなか』です」と教えると、みんな「あ、なるほど!」と笑っていました。1話のお話が短いので子どもたちとって短い休み時間に読める本になりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年9月の記録)


エミリー・ロッダ『スタンプに来た手紙』さくまゆみこ訳

スタンプにきた手紙〜チュウチュウ通り10番地

たんぽぽ:チュウチュウ通りのシリーズは、おすすめのシリーズです。どの巻からも楽しめまて、それぞれがおもしろいです。本が苦手な子も全巻読んで達成感を味わうことができます。対象年齢も、幼児から小学生高学年まで幅広いかと思います。娘の子が幼稚園の時、ひとりで、「クツカタッポと三つのねがいごと」を読んでいました。読み終わってから私に「おばあちゃん若くなりたい?」と聞くのです。私は 「おばあちゃんは、あなたに会えたからもう若くならなくてもいいわ 」と答えました。すると小さい人は「ぼくは、おばあちゃんの若い時をみたいな」と言ってくれました。孫との会話、心に残っています。

Ajian:10巻のシリーズですが、どの巻から読んでもいいと思いました。2番目のクツカタッポの話がとくに好きです。足るを知るという感じで……。絵も話にぴったりで、ふんだんに入っていて、贅沢なつくりだなという印象。お話のバリエーションもあるし、うちの子どもが大きくなったらぜひ読ませたいと思っています。

優李:好きなシリーズです。字の大きさ、絵、本の厚さ、体裁、中身どれも低学年の児童が読みすすめやすい。私も、2巻目の「クツカタッポ」が好きです。お金は欲しくない、というところで、子どもたちが「え〜、なんで?」と声を出すのだけれど、その後の意外な理由に「なるほどね」と納得させるのがすごい。読んだ子が友だちにすすめるのに「地味だけど、あったかいし、おもしろいし」と言っているのをきいて、思わずニコニコしてしまいました。

わらびもち:この作家のは、ローワン、デルトラ、フェアリーレルムなど楽しく読ませて頂いています。このお話の主人公は、手紙というコミュニケーションにおいて自分と人と比べ、広告を出すという行動に出るんですね。自分で自分の首をしめてますけど、普段のコミュニケーションによってたくさんの人に助けられ、ことなきを得る。手紙というものは、特別な祝い事や距離がない限り普段会って会話をしている人には送らないものだと思います。スタンプは仕事として手紙を届けながら色々な人と会うことが出来て、手紙かそれ以上のコミュニケーションがとれているのでとても羨ましいなと感じました。個人的には、ローワンのような自然があふれるような世界観のほうが好きだけど。ネコイラン町やクツカタッポなど、ネーミングがとてもおもしろくていいな、と感じました。絵もとってもかわいらしくて素敵だと思います。

トム:シリーズを通して、子どもの好きなものが話のあちこちにちりばめられていて目が離せない感じ。子どもはお話を楽しんだら、必ずその後、遊びの中で自分がその主人公になったり、楽しかった場面を表現してお話の世界に自分をすうっとすべりこませるでしょう。手紙や郵便屋さんも子どもたちの憧れ! 例えば、保育の場なら お話を発展させてチュウチュウ通りを空き箱で作ったり、大型積み木で町を作って自分の好きなチュウチュウ通りの住人になって遊ぶのもとても楽しそう。新しい住人を考えだす子も出るかもしれない。チュウチュウ通り・スタンプ・クツカタッポなど名前が一つのお話になっていてスッと心に入ってきます。10番地では、スタンプの正直な人柄が友だちを呼んでいるよう。

ルパン:クツカタッポのお話には感動しました。スタンプの巻もよかったです。小さいころ、私は手紙を書くのが好きで、出す相手を探していたことを思い出しました。このお話しを読んで、また手紙を書きたくなりました。うちの文庫の、幼稚園くらいの子どもたちに読んであげたいです。

けろけろ:今回、みんなで読む本になったので、1巻から10巻まで読んで楽しみました。お話のバランスや体裁もとても良いと思った。手軽に楽しめるのだけれど、そうきたかという意外な展開が用意されていていいですね。6年生の子どももおもしろがって読んでいて、さすがエミリー・ロッダさんだなと思いました。チーチュウカイという海が出てきたり、翻訳の苦労話を聞きたいと思った。ひとつ、不可解だったのは、9巻目の島においてあった靴。どうしてこんな大きな靴が小さな島にあるのか、読んでいるうちにわかるかと思ったけれど、わからなくて残念でした。

うさこ:ネコイラン町のチューチュー通りに暮らすねずみさんたちのお話!という設定がシンプルで、低学年の子が手にとりやすいシリーズだと思います。1巻ごとに男児と読んだのですが、小さい判型の本のなかで、小さくてかわいいねずみたちのいろいろなドラマが展開されている。それが、どれも楽しく、次々にチューチュー通りのお宅に邪魔している感覚で読める。田代さんの絵もとても良いですね。物語を読むのに不慣れな年齢の子どもが読むのにお薦めのシリーズだと思います。1巻のゴインキョの話が特に好き!

サンザシ:このシリーズは、短い分量の中でまとまりもあるし、意外性もあるので私は大好きです。幼年童話なのに、作者がこれまで生きてきたなかで獲得した人生のスパイスが入ってるんですね。絵は、原書だと味気ないのですが、たしろさんが描いて、とても楽しくなりましたね。

三酉:良い本ですね。手紙のことは笑わせられます。みんなさびしいんですねえと、しみじみさせられる。

プルメリア:手にとりやすいサイズ、また作品の中の町名、通りの名、登場人物の名前がおもしろくシリーズの出版を楽しみにしながら読みました。勤務している小学校には1、2話が入っていますが、人気があり戻ってきてもすぐ貸し出しになる本です。1話では「チーズって、ねずみにとっては大切なものでとってもおいしいんだね。」と子どもが言っています。この巻では、手紙を出しきれなくなって周りの人が助けてくれる心温まるような終わり方が良いですよね。登場人物と題名をあてっこするゲームにするのもおもしろいかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年9月の記録)


新藤悦子『ピンクのチビチョーク』

ピンクのチビチョーク

うさこ:読んでいて切なくなりました…。このくらいの年齢の子どもがおばあちゃんに名前を間違えられたりするとどんな思いなんだろう…すごくショックだろうな。最後は、主人公が大好きなおばあちゃんに、また一緒にお絵かきしようねと終わっているけど、この完結のしかたでいいのかなと、ちょっと疑問に思いました。読者対象年齢には、このテーマのこの内容のものをこれだけのボリュームで伝えようとするのは、ちょっと無理があるような気がします。幼年もので取り上げる題材の難しさを感じました。中学生くらいを対象として、設定やドラマをもっと練り上げて書くのもひとつの方法かもしれません。

たんぽぽ:低学年の子にはわかりにくいかなと思いました。

ajian:おばあちゃんが呆けてしまう話と、チョークの話と、2つの題材が走っていて、うまく解け合っていないように感じました。難しいテーマだと思いますが、おばあちゃんの痴呆という現実を、子どもがどう受け止めるのかと思っていたら、ファンタジーっぽい感じでごまかしてしまって、すっきりしない。おばあちゃんがお母さんに怒られる場面などは、なんだかやけに現実感があって、胸が痛くなりました。

優李:なんだか読んでいると悲しくなる。それに中途半端感があって、これを誰にどう手渡せばよいのか難しい気がします。読後元気が出ないのが残念。主人公のおじいちゃんが亡くなったところとか、小さい子の言葉じゃないように思える部分も引っかかって、すっきりしないのかなと思いました。

わらびもち:チョークと呪文があれば誰でも魔法を使えるという設定なのだなと思いました。チビチョークとしているのは使い込んでいるということを表しているのだと思います。ピンクとしたのはチョークさんにつなげる為だと思います。おじいさんや犬が原因でおばあちゃんの元気がなくなっているので、チョークでおじいさんと犬を書いてお話をするなり思い出を作るなりすることもできたのではないかという疑問が浮かびました。それを解決しようとか思い出を作るとかも出来たはずです。あと、空飛ぶ船の話がいきなりでてきたのでちょっと抵抗があります。

トム:子どもに手渡す前に、自分がこの重いテーマをどう受けとめたらいいのかと思いました。何歳くらいの子どもに読めばよいのか…それから、おばあさんとお母さんの気持ちが行き違う場面がでてきますが、これは更に複雑な気持ちが潜んでいるわけで、どうしてここで描かなければならなかったのか? 作者に同じ様な経験があったのでしょうか? この話を書きたいと思われた気持ちをうかがってみたいとも思います。ただ、チビチョークで絵を描くところはメロディをつけて読むと楽しいと思いましたが…。あと、おとまりとか「お」のつく言葉が幾つかでてくるのが気になりました。もっとさっぱりした語り口の方が自然な気がします。

ルパン:私は学校の先生なので、チョークは仕事道具です。おばあさんがいっぱいチョークを持っているので、元は学校の先生をしていたのかなと思いましたが、そういう話ではなかったですね(笑)。おもしろくなりそうだったのですが、老人問題も出てきたり、テーマが分散した感じがありました。

けろけろ:皆さんと同じような感想を持ちました。身内がボケてしまう話はあいかわらずすごく多い。そのなかで、最後まで読んでよくできているな、と思える作品は、残念ながらなかなかない。同じようにおばあちゃんの認知症について書かれている低学年向けのよみもので、『むねとんとん』(さえぐさひろこ作 松成真理子絵 小峰書店)という作品がありますが、あれはとても良くできていたように思います。この作品は、ちょっとばらばらな感じで、一本筋の通ったところが欲しかった。低学年ものであれば、胸に響くヒトコトが、あったらいいのにな、とも思います。低学年でもすっと入っていくやり方がきっとあるのでしょうね。

サンザシ:どこかで読んだ話をつなぎ合わせたような話だと感じました。おばあちゃんとの日常の結びつきがあまり描かれていないので、無理があるのかもしれません。たとえば『おじいさんのハーモニカ』(ヘレン・V・グリフィス作 ジェイムズ・スティーブンソン絵 あすなろ書房)では、前段でおじいさんと孫がいっぱい楽しいことをする様子が描かれています。だから、元気をなくしたおじいさんを何とかして元に戻したいと思う子どもの気持ちがこっちまですっと伝わってくるんですね。この作品にも、そのような部分があればもっとよかったのに。難しいですね。

三酉:残念ながら楽しめませんでした。お母さんの描き方ですが、ボケたおばあちゃんとお母さんとの関係性とか、もっとあたたかい視点が必要だったのではないかと思います。

プルメリア:最近あまりやらなくなったけど、子どもはチョークを使って絵や字を書くことが大好きです。おじいちゃんが亡くなっておばあさんが小さくなるのは、おばあちゃんの心にさびしさがあり絵から分かる部分かなと思いました。子どもがポーズをとる部分は子ども雑誌に出ている小学生モデルのポーズ、登場人物の髪型も最近人気のある流行の髪型を取り入れている。挿絵が少しずつカラーになっていくのはおばあちゃんが同じように元気になっていくのと比例しているような感じがします。船じゃなく空飛ぶ鳥というのがおもしろい。子どもって飛ぶの好きなので。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年9月の記録)


金城一紀『レヴォリューションNo.0』

レヴォリューションNo.O

メリーさん:『レヴォリューション No.3』(金城一紀/著 角川書店)を読まずに『〜No.0』を読んだので、キャラクターについて前もってわかっていれば、もっと楽しめたのかなと思いました。金城一紀の作品では『GO』がとても面白くて、高校生の男くさい感じは似ているなと感じてました。ただ、今回の登場人物たちは、少し型にはまったキャラクターのような気が。アギーなどもちょっと説明不足。物語というより敵を倒すゲームのような感覚で、ちょっと物足りなさを感じたのですが、最後の脱出のところはやはり引き込まれました。昔は映画をやると、原作とともにノベライズ版が出ていましたけれど、最近は小説自体が会話中心の、シナリオのようなものになっている感じがします。(現にノベライズがあまり出ていない)。この本もそういう意味では映像化しやすいのかなと思いました。ただ、なかなか物語の世界に入っていけない、高校生たちには手に取りやすいのではないかと思います。

かぼちゃ:青春もの、一瞬一瞬の情動。すっきり読みやすい。男子校は未知の領域なので興味深く読めました。女の子を助けたりと、ヒロイズムを満たせる。脱走は本来なら悪いことですが理不尽な行為を受けているので悪いこととは言えない。「自分で考えて理不尽にどう対応するか」ということを考えるのに良い作品。流れに沿ってやめたり転校したりするのは反抗するより簡単なこと。今の日本には反抗したり戦う意欲を持った人が少ないように思えるので、日本にもレヴォリューションが起きれば良いなと、この作品を見て思いました。

シア:『レヴォリューションNo.3』が出たときに読みたいとは思っていたのですが、機会がないままでした。この作品は『~No.3』のボーナストラック的な本のようなので、あちらを読んでからの方がいいのではないかと思います。読んでみて『バトルロワイヤル』のギャグ版のような感じを受けました。石田衣良や東野圭吾も青春ものを書いていますが、それとは何か違います。金城さんの作品は『GO』(金城一紀/著 角川書店)でもそうでしたが、社会とか体制への憤り、うずまく憎悪に近い激しい感情を感じるので、少し怖いと思ってしまいました。日本の作品にはお国柄でしょうか、この焼けた石のような感覚はあまりないですね。文章自体は短文で進むところが中高生には読みやすいと思いますが、学園ものとしては設定がちょっと古いですよね。一昔前の不良漫画みたいで。この時代感覚のギャップをどう埋めるかが気になります。映画『パッチギ』(井筒和幸監督 2005年 日本映画)を思い出しました。登場人物が熱いところが似ていると思います。韓国から留学生が来たときに、「クラスの子たちの元気が足りずつまらない」と言われたことがありますが、前へ前へ進む積極性とでも言えばいいのか、そういうところが日本とは違うのかなと思いました。

ハマグリ:『GO』は以前読書会でやって好評でしたが、これはおもしろくなかったですね。『〜No.3』を読んでいないせいもあるけれど、人物像がうまくつかめなかった。子どもたちが何に反抗しようとしているのか、よく伝わってこない。学校に対する怒り、親に対する不満などは書かれていますが、それはどこにでもあると思います。教師・猿島の暴力が極端すぎて、戦時中の軍隊のしごきの場面のように思え、ここまでする教師が本当にいるのかと真実味が感じられなかった。それにしては、生徒たちがその場ではそれに耐えてしまっているのも納得がいかない。男子校には男子校の良さがあると思うけど、ドロドロしたところがだけが書かれていて、後味が悪かった。

アカシア:リアルなスクールライフを書いているのではなく、漫画のようにある部分を拡大して書いているじゃないかな。読み始めて、「あ、これ読んだことあるな」と思ったのは、前に『〜No.3』を読んでたからだったんですね。前の巻が頭にまだ残っていたせいか、私はその流れて読むと悪くないな、と思いました。猿島のような、ここまでひどい教師は実際にはいないかもしれないけど、それに近い教師はまだいますよね。うちの子どもの中学時代にもまだいましたよ。主人公は、自分の父親のほうがもっと悪いと思っているわけですね。それがよくわかります。今の時代、決まった路線を歩けという社会に対して、男の子は迷いが大きいと思います。この作品は、そんな男の子たちに対する応援歌になってます。ただ、この作品だけ単独で読むと、人物描写を薄っぺらに感じるのかもしれませんね。文章はわかりやすいし、読みやすいけど。

プルメリア:図書館で検索したところたくさんの予約があり驚きました。多くの人が読んでいる人気作品の1冊なんだと思いました。いろいろな場面になぐられ血が出てくるところがあり、私立高は体罰がゆるされているのかな? なんて! 登場人物それぞれの性格がわかりやすく、また暴力の場面はかなり書きこまれていますが、全体的に軽い感じがしました。主人公を取り巻く環境の中に抑圧は2つあるような感じがします。1つは行動面として暴力をふるう猿島という教師、もう1つは精神面として主人公の父親。集団山登りで猪が出てくる場面はリアルではないです。最後の「世界を変えてみたくないか」とっても素敵なフレーズですが、この作品からは伝わりにくいなと思いました。

ダンテス:読者層を限定して書いた作品でしょう。とくに現代の高校生。成績があまり振るわず、内心劣等感をもちながら、やりたいことは特にないという、白けている世代。燃え上がるところのない学生たち。内面にもやもやを抱えているのだが、何をするわけではない高校生たちに向けての作品だろうと思う。155ペー ジ「退屈なのは、世界のせいではない〜」というアジテーション、励まし。猿島先生の部分も誇張して書かれている。ただ一方で、私立が定員より多く人数をとるということは現実的にあることで、学級の人数が増えるということはありえます。生徒が自分が大事にされていないと感じることはあるかもしれない。ただし、そこは誇張して漫画のように書いているので、現実をベースにしながら、まったくありえない話ではないように設定し、無気力な高校生に向けて、なんでもいいから、もっと大人も思いつかないようなことをやって、反抗しろというアピールをしているのでしょう。『GO』の方は、在日韓国人・朝鮮人という社会的な視点が入っているので、より広い読者に受け入れられています。それよりはこの作品のターゲットは狭い。ストーリーとしては、 大げさだなと思いつつ、さらっと読んでしまったという感じです。

ジラフ:金城一紀は初めて読みました。キャラクターがいまいち立ち上がってこなくて、前作を読んでいれば、もう少し楽しめるのかなと思いましたが、シリーズのボーナストラック的な作品とうかがって、納得しました。それでも、会話の中にはきらきらした箇所がいっぱいあって、男の子たちの気高さを感じさせるフレーズとか、落ちこぼれの男子校で、無気力に生活する子たちの気持ちがふいに高まっていく部分や、反対に、燃え上がってもすぐに、その気持ちを引っ込めてしまう繊細なところなんかの、描き方がすごくよかったです。会話が紋切り型だったり、展開が端折られてるようなところは、テレビドラマみたいでしたが、実際、「SP」の作者なんですね。ただ、読みながら、自分が当事者だったらきついだろうな、とひしひし感じました。現実には、学校をドロップアウトしたら、その先はかなり厳しいので。どんな世代の人が読むのだろうと考えたとき、同じ世代だったらつらいのではないかとも思いました。現状への反発や怒りを表現した作品への共感という点では、音楽なら、そこからストレートに力を得られる気がしますけど、本の場合もそうなのか、と(主人公の)同世代が読んでいると聞いて、意外な感じがしました。

シア:『池袋ウエストゲートパーク』(石田衣良 文藝春秋)の方が、もっとぐっとくるし、子どもの視点でも、大人の目線になる瞬間があります。この本には、それがないですね。山田悠介に毛が生えた感じ。最近思いますが、ここまでして高校へ行く意味がないと思います。授業を聞きたくないのでしょうか?それなのに変に反抗する姿には共感できません。

アカシア:そういう子たちも、自己肯定感がほしいと思ってるけど、どこからも得られないんですよ。この本が、そういう子にとってのきっかけになれば、いいんじゃないかな。

シア:絵本なんかでも、子どもは野菜が嫌い、という偏見を植えつけている感があると思います。先生だから嫌い、というステレオタイプを増やしそう。

ダンテス:そういうステレオタイプでしか物を見ない人たちが気に入る本かもしれません。

アカシア:本を読まない人たちを引っ張る力はあると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年7月の記録)


西加奈子『円卓』

円卓

ハマグリ:区内の図書館全館で貸し出し中でした。

アカシア:おもしろかったけど、子どもの本じゃないですよね。視点が大人だもの。おとなの本として読めば、文章の書き方が独特で、おしゃまな女の子の成長物語としておもしろい。最後の円卓の部分も、あざとくはあるけど泣かせます。

プルメリア:この作品も大変人気があり、区内の図書館2区ともすべて貸出し中でした。大阪弁で書かれ、主人公の姉達が三つ子の設定面白いです。七福神がでてくるところはファンタジーの世界にいきそう。大阪弁はテンポよくやわらかく伝わります。主人公は子ども、日常生活も子ども中心社会ですが、子どもの視点で書かれていない。子どもが手に取って読む本とは違い大人向き作品かな。

ダンテス:関西人のノリで楽しく書かれています。人物造形はそれなりによくできている。おじいちゃんが文学的 で、一方お父さんは全然違っていることなど面白い。眼帯してみたい気持ちとか無理なく納得できます。ですが読み終わってすぐ内容を忘れてしまいました。軽かったです。

ジラフ:とってもおもしろく読みました。どういう人が読者対象なのかと思いましたが、みなさんのご意見をうかがって、やっぱり大人の視点なんだ、とわかって安心しました(笑)。作者がテヘランで生まれて、カイロと大阪で育った人だというバックボーンも関係しているのかもしれませんが、生きていることの実感がすごく濃厚に、具体的に書かれている感じがします。たとえば、(主人公の)こっこのお姉さんが、刺繍をしたくてたまらず指がうずうずする、といった表現には、強い身体性も感じました。全体として、いいお話をくぐりぬけた、という充実した読後感が残りました。物語の後半で、こっこが変質者に出くわす場面があって、そのことはこっこを、ほんの少し大人に成長させる出来事であると同時に、危険な出来事でもあります。でもこっこは、怖い目にあったと家族には言えなくて。そのことをずっと、自分ひとりの胸の内に抱えていくんだったらどうしよう、と気が気ではありませんでしたが、心から信頼する友だちに打ち明けられる、という救いがちゃんと用意されていて、ほっとしました。これもなんだか、NHKあたりでテレビドラマになりそうな作品ですね。

メリーさん:電車の中で読みながら、噴き出すのをこらえていました。主人公のこっこのつぶやきがとてもおもしろい。友人のぽっさんも小学生とは思えない老成ぶりで、でもランドセルに「寿」と書いているところはまだ子ども。そして彼らを取り巻く、騒がしくも温かい家族。真の意味での理解者である祖父。大阪弁だからこそ成立する世界だなと思いました。後半に行くにしたがって、こっこが自分の感情を言葉にするのが難しくなってきているところも、彼女が確実に大人になっているのがわかり、とてもいい。ただ、やはりこれは大人の本だと思いました。風変わりな彼らは、端から見ると滑稽だけれど、それは子ども時代から時間が経って、客観的な笑いにできる大人だからこそ。大人になって振り返ってみると共感できる物語だと思います。でも、当事者である子どもたちは真剣だから、本人はそれが滑稽だとは少しも思っていない。大人になれば、あの頃の自分は変な妄想にとりつかれて、意地を張っていたのだなとわかるのだけれど……やはりそれは子どもの目線とは違うと思いました。それでも、同世代の読者としては、西加奈子の作品はとてもいいなと思います。

アカシア:P152の「子どもらの〜」という部分など特にそうですね。大人の視点になってます。

プルメリア:うさぎをのっける行動は好奇心旺盛な子ども達は実際にやりそう。

かぼちゃ:入手できませんでした。

ダンテス :確かに性的な表現が多いので、大人向きに書かれているという意見には、なるほどと思いました。大人は余裕を持って楽しめる。大阪弁である意味ぼかして書いているところもいい。

ハマグリ:P8に「こわごわしかられた」とあるが、大阪弁ではこういう言い方をするのだろうか?

シア:保健室の先生がレズビアンというのはすごい。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年7月の記録)


レベッカ・ステッド『きみに出会うとき』

きみに出会うとき

ダンテス:あとがきにあるように読み終わってからもう一度読み 直そうと思いました。舞台はニューヨークの街中。お金持ちのドアマンがいるアパートに住んでいるお嬢さんがでてきたり、母子家庭のお母さんの緊張感や街中におかしな人や危険な人がいるという辺り、ニューヨークがよく書けていると思う。手紙が届き、内容は未来を暗示するもので、読者をうまい具合に引っ張っていきます。そういう意味で読ませる力がある本だと思う。ただ推理小説とは違って、現実の中で、ああこの人がそうだったのかと納得する話ではない。現実に起きていることだけではなくファンタジーもある。時間のズレとかもある。作中に度々出てくる本もそれを読んでいるという前提で書かれているようだ。なるほど、と納得するべきなのかどうなのか、難しい作品だった。確かに読み直してみるとお金持ちのアンヌ・マリーのてんかんを暗示するP49のピザの食べ方 や、アンヌの父が与えないジュースの部分など伏線がたくみに張ってあった。ジュリアの存在なども構成としては良くできていると思います。

ジラフ:入手できませんでした。ニューベリー賞を取った作品ということで、最近の受賞作がどんなものなのか、興味があったのですが。

メリーさん:売り文句にファンタジーと書いてありますが、これはSFですよね。以前よりSFが読まれなくなった今、こういう作品が評価されていることがおもしろいなと思いました。構成がよく、最後まで読んで、それまでの伏線が一気につながった感じがしました。あとがきにも書かれていますが、最後まで読んで、そうかあれはここにつながっていたのかともう一度最初から読み直しました。そう言われてみると、タイムスリップしたときに、自分のことが見えるかどうかということにずいぶんこだわっていたなと。最後の最後でおじさんとマーカスがつながるという結末になんとかつなげたかったのだなと思いました。ただ、その論理的な説明がちょっと難しいのと、友だちを殴るということがわかりづらかったので、子どもたちにはちょっと手に取りにくいかなとも思いました。

かぼちゃ:クイズやパズルのような話。謎解きですね。本当の主人公はマーカスで、ミランダは語り手のような存在なのかなと思いました。多分、サルははじめの人生では死んでいたのでは。後のマーカスはサルを殴ったことや追いかけたことを悔やんでいて過去を変えようとした、それにより過去が変わってサルを助ける笑う男が出現するのかなと思いました。贖罪として助けたのだろうなぁと思います。全体的に伏線、謎が多いけれどそんなに謎が気にかからない、のっぺりして盛り上がりがなく感動もなかったですし、テーマも何かよくわからなかった。タイトルの「きみ」は誰なのか? 差異的に見ればマーカスのことで、恋の要素を含ませて考えれば後の妻となるジュリアのことかもしれないけど分からない。56項目とエピグラムの2文に分かれていますね。

シア:時間がなくてあまり読めませんでした。これをまず先に読みたかったです。

ハマグリ:私も最初のほうしか読めていないので、物理的な印象だけですが、この表紙の絵では女の子しか手にとらないのではないでしょうか。タイトルも恋の物語のように受け取れる。読者を減らしてしまっていて、もったいないです

アカシア:1回読んだだけじゃわかりにくいですよね。5次元だとしても過去を変えるの は禁じ手とされてるはずなので、こんなふうに書くのはずるい。主人公にわけのわからないメモが届くわけですが、原題のWHEN YOU REACH MEは「あなたが私にコンタクトするとき」というような意味なんでしょうか? このYOUは本文では「あなた」となっていると思うんですけど、日本語の書名は「きみ」。この書名が、よけいわかりにくくしてますね。私は、ちっともおもしろくなくて、本当にこれがニューベリー賞なのかしら、と疑問に思いました。謎が解決されてもいないし。もう一度読むともっとわかってくるのかもしれませんが。

ダンテス:ローカル性のある作品のようです。アメリカの中でよくわかる作品なのかもしれない。ニューヨークの街を舞台にしているのも、行ったことがあれば、あるいは住んだことがあれば分かるということが多くかかれているようです。それからお母さんの正義感 がアメリカ人に共感を呼びそうです。

プルメリア:お母さん人気のあるクイズ番組に出るストーリーかなと思って読み始めましたが、手紙のほうが主でした。題名『きみに出会うとき』ひきつけられる題名で表紙も恋の話のように見えましたが「きみ」がよくわからなかったです。子ども達の日常生活から日本社会にはない自由さが伝わります。タイムスリップは今いち謎です。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年7月の記録)


シビル・ウェッタシンハ『わたしのなかの子ども』

わたしのなかの子ども

メリーさん:今回の3冊を読んで、子どもの本とは何かということをいろいろ考えました。この本はとてもいい本だと思うのですが、基本的に大人向けの本だと感じました。ただ、日本とはまったく違う風景を描いているのに、自然に共感できるところはとてもいいなと。壁に絵を描く場面などは、作者の原点だと思います。湯本香樹実さんが新聞にこの本の書評を書いていて記憶とは現在の一部だと言っています。子どもにはある程度の説明をしてあげないといけないとは思いますが、手にとってもらいたい1冊です。

レン:とてもおもしろかったです。今の日本の子どもとまったく違う生活ですが、大人の私はひきこまれました。特に、まわりの大人たちの輪郭がはっきりしているところがいい。おとなのひとりひとりが堂々と自分なりの生き方をしていて、そこから子どもがよいも悪いも学んでいるんだなと思いました。けれど、今回とりあげた本はどれも、子どもが読む本という感じがしませんでした。この本はルビもないので、もともと子どもに手わたすように作っていないのでは。

優李:ウェッタシンハさんの絵本は、図書室の定番でかなりそろえていますが、この本は小学生向けではなく、司書が読むものかなと思いました。

トム:その世界が遠い気がした。スリランカという国のイメージが感覚として自分のなかに描けないからかもしれません。においや、風など…。80年以上前の生活が、今、いろいろな世代の中で育つ子どもにどう受けとめられるんでしょう?

アカザ:善意の人々が出てくる、宝石箱のような物語ですね。80年以上も前のスリランカの暮らしを丁寧に描き、食べ物や自然の描写など楽しんで読みましたが、正直言って最後のほうになると少し飽きてきました。子どもの読者には、読みつづけるのが難しい話かもしれませんね。わたし自身はピエール・ロチの『お菊さん』を深い意味も分からずに愛読していたような子どもだったので、自分の知らない世界について淡々と描かれた本が好きな子どもは喜んで読むと思いますが、やっぱり大人向けの本ではないかしら。この時代、スリランカはイギリスの植民地で、著者はイギリス文化の影響を受けて、経済的に豊かな生活をしています。読み始めたときは『大草原の小さな家』に似ているかなとも思ったのですが、貧しさとか労働が出てこない点が決定的に違っています。民族に伝わる文化を伝えていくというのはとても大切なことですが、そういうものは経済的に豊かな人々のあいだに受け継がれていくものなのだろうかと、少々複雑な思いを抱きました。対照的な作品として今江祥智の『ひげがあろうがなかろうが』(解放出版社)を思いだしました。

ajian:たしかに、基本的にはとても恵まれている家族のお話ではないかと思いますが、スリランカの人々の生活についてはほとんど何も知らないし、まして子どもの視点から書かれたものを読むことはないので、とても貴重な本だと感じました。なんといっても絵が素晴らしいです。料理の仕方について書かれたところや、縄をなうくだりなど、生活のこまごまとしたところが描かれているのがじつに面白い。悪魔が登場するところは、子どもの頃、祖母から、早く寝ないと山の向こうから何かが僕を連れにやってくるよ、と言われたのを思い出しました。子どもにとっては、怪異なものってずっと身近に感じられるような気がしますが、スリランカの子どもも同じなのかと。ただ、こういう楽しみ方っていうのは、こちらがある程度大人になっているからで、そういう面では、子どもが読むのではなく、大人が読んでおもしろい本ではないかと思います。

優李:子どもの目から見た自分のまわりの世界が、生き生きと詳しく描かれていたので、とてもおもしろかった。かなり裕福な環境で、身近な大人によって「悪意」というものが遠ざけられ、護られていることがよくわかり、そのような環境で育てられることが、自分の個性を生かして自立することを促すのかなあ、などと考えさせられました。ただその一方で、当時のスリランカには大勢のもっと貧しい人々もいたはずなので、そういう人たちの生活はどうだったのだろう、と思いました。そのようなことを知る手がかりになるような資料も、あれば読んでみたい。ここに出てくる大人たちは、みんな素朴で個性豊か。自分の生き方を取り繕うことなどしないで、ありのままの感情を表現して生きている。子どもに対するお母さんの生き方もとても魅力的です。「物売り」の人たちが村にやってくる場面など、昔の日本にもあった「お楽しみ」が本当におもしろかったので、そういう意味でも大人が読むものかも、と思いました。

うさこ:主人公が6歳の記憶を鮮明に描いた記録集。エッセイとはちょっと違うかな。章のタイトルの入れ方が、一編の詩のような感じがして、このあたりの「作り」がおもしろいなあ、と。その家の独特な暮らしとか独特の儀式がとてもおもしろかった。文章はわりと単調だったが、いろいろな想像が膨らんで興味深く読めた。幼い頃は住んでいるところがその子の世界のすべて。その場所や時間を離れて、時間がたって振り返ってみると、その時の日常はまるで別世界のできごとに思える。そこがあって今の自分がある。当時の記憶をここまで鮮明に覚えているのかともちょっと疑問だったが、これはこの人の「作品」として読めばいいんだと思った。

アカシア:小さいときに本当に守られていた子どもの物語ですね。まわりには、守られていない子どももいっぱいいたのでしょうけど、そういう子とは違う。守られていた子どもこそ感受性が強くなり、物語が書けるようになるのかもしれませんね。私はこの作家の『かさどろぼう』(猪熊葉子訳 徳間書店)がとても好きなんですけど、ああした絵本と違ってこの本の挿絵は、リアルなものと漫画風のものが混在していますね。209ページの絵なんか、ひとりだけブタさんみたいな鼻の人がいますよ。そういう部分をふくめておもしろいことはおもしろいんですが、山あり谷ありのストーリーではないから、普通の子どもは読まないかもしれません。好きな子どもは読むでしょうけど。

レン:そうですね。守られているけれど、管理されているわけではな。今の子どもたちの守られ方と違うんですよね。

アカシア:今の過保護な子どもたちは守られているとはいわないでしょう。

レン:スリランカは長く内戦で、たいへんな時代があったから、作者はこういうものを書いたのかもしれませんね。

アカザ:子どもの本はこうあるべき、ということで書いたのかな。身分の差はあったのかもしれないけど、この子の身のまわりには見えなかったのかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年6月の記録)


柴田元幸『昨日のように遠い日』

昨日のように遠い日〜少年少女文学選

ajian:自分はちょっと苦手でした。デ・ラ・メアの「なぞ」は以前別の訳でも読んでいて、とても好きな作品なのですが、どうも、柴田さんの訳は柴田さんの文章になってしまって、デ・ラ・メアの感じがあまりしないです。全体として、おしゃれな感じのする、文学好きな人が所蔵しておきたいような本ではないかなと思いました。

優李:最初の4つ続けて気に入りましたので、うまい短編集だなあ、と思いました。その後は「謎」「修道者」を除いてはそれほどでもなかった(笑)。全体の印象としてはけっこう気に入りました。でも、昔少年少女だった「大人の私」が読むと、なかなか雰囲気のある本になっていると思うけれど、YA読者はどうなんだろう? 「今」の少年少女・中学生が読むかなあ? やはり、大人向けではないかと思います。

メリーさん:これも、子どもの本か大人の本かと考えると、やっぱり大人に向けた本なのですよね。それでも、おもしろい作品はいくつもあって、不思議な話よりも情感たっぷりなものがいいなと思いました。よかったのはデ・ラ・メアの「謎」とレベッカ・ブラウンの「パン」。やっぱりデ・ラ・メアは、余韻を残すやり方がうまいなと思いました。レベッカ・ブラウンは、全寮制という閉じた空間の中で、女の子たちだけの濃密な空間の物語。孤高の少女がとても印象的だし、2種類のパンでよくここまでストーリーがふくらむなと感心しました。

レン:こういう本は、高校生だったら、大人の文学への橋渡しとしていろいろな短編を味わえていいかなと思って読み始めたんですけど、『猫と鼠』でくじけました。フィリッパ・ピアスなど、もっとおもしろいのがあるなと思ってしまって。わざわざこれを読ませたいというほどではありませんでした。最後のデ・ラ・メアでちょっとホッとしましたが。

トム:デ・ラ・メアがよかった。ただ自分にとっては野上さんの訳の方が謎めいた世界の凄みを楽しめました。「灯台」は、少年少女の読む物語としてではなく、老灯台守に自分を重ねて読んでしまった。「修道者」は大人になることに抵抗する主人公の気持ちにひかれました。その葛藤を乗り越えていく道筋に重要な役をするのが、世間の枠の外で誇り高く暮らすおばあさんであることがおもしろい。保護者的立場など眼中に無いんですよね。「島」に描かれる大人と子どもの関係を、子どもはどのように受けとめるのでしょうか。

アカザ:「少女少年小説選」とうたっていますが、これも「少女少年について書かれた」もので、「少女少年のための」ものではありませんね。タイトルの「昨日のように遠い日」というのは、なかなか素敵な言葉で、わたしもどこかで使っちゃおうかな!「猫と鼠」は、わたしもちっともおもしろくなかったけれど、あとは大人の読者として楽しめました。「ホルボーン亭」と「パン」がよかったです。特に「パン」は、パンだけのことでこれだけ書けるのはすごいなあと感心しました。おなじような短編集として、日本でもとても人気のあるロシアの作家、リュドミラ・ウリツカヤの『それぞれの少女時代』(沼野恭子訳 群像社)を思いだしました。あれも大人の本ですが、それぞれの少女像が見事に描かれていて、傑作だと思います。

うさこ:私もみなさんと同じような感想です。副題に「少年少女小説選」とあるのを見たとき、今出る本でも副題とはいえ、こんなつけ方があるんだなとちょっと不思議でした。興味深く読み進めたけど、話がわかるのとわからないのと、わかるようでわからいないものがあった。言いかえると、おもしろいと思うものと、そうでないもの、おもしろいかどうかも判断つかないものがあったというのかしら。でも、だれが買うんだろう、この本。読者層がよくわからなかったなあ。あとがきを読んで、「ふーん、こんなのもありか」と思ってくれるととてもうれしいという訳者のことばがあって、私はまさにそんなふうに読んでしまったようで、まんまと「はめられた」みたいです。

アカシア:視点とリズムというのを考えると、これは子どもが読むものではまったくないなと思いました。ここでは、YAでもなんでも子どもが読むものを選ぶことになっているんですけど、選書の方にそれが伝わっていなかったかと。柴田さんが、後書きで世にある子どもの本はつまらないので新鮮な切り口で、というようなことをおっしゃっていますけど、今は子どもの本だって、無垢だの純真だのと言ってるわけじゃないので、もう少し今のをお読みになってから言ってほしかったな。作品としてはつまらなくないけれど、夢中になって読むほどおもしろくもない。大人が大人の視点で作っている物語は、子ども時代を語ってはいても、子ども時代のある1点をすごくひきのばしたり、ゆがんでななめから見たり。でもそれは、大人の読むおもしろさなんだと思うんです。「猫と鼠」は、アイデアだけでこんなに書かなくていいのにと、途中でやめました。アニメ見てればいいでしょ。

プルメリア:「永遠に失われる前の……」とあるのを見て期待して読み始めました。「ホルボーン亭」はふしぎな世界。「パン」は、寮生活している少女達の独特な世界、パンの食べ方に心理描写があらわれているなと思いながら読みました。最後の「謎」も謎めいていて、子どもが一人ずついなくなる不思議なストーリー。子どもの本は読んでいますが、大人の本?はあまり読んでいないので、この本は新しい出会いの1冊になりました。

アカザ:柴田さん、あまり子どもの本は読んでいないのかしらね。

優李:今は子どもの本だって、無垢な子どもなんて出てきませんよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年6月の記録)


椰月美智子『しずかな日々』

しずかな日々

レン:読みやすいし、ひきこまれてするすると読みました。子どものころをふりかえって書かれているのは最初からわかるのですが、最後に回想が出てきて、大人の本なのかなと。それから、主人公の視点で書いているからかもしれないけれど、おじいちゃんの輪郭がぼんやりした印象でした。もっとつっこんだ人物描写がほしいと思いましたが、このくらいのほうが今の読者には読みやすいのかな。おもしろいけど、ちょっと物足りなかったです。

トム:「しずかな日々」とはいえ、主人公にしてみれば大変な日々。スリランカの子どもと、「昨日のように遠い日」に登場する少年少女と、心の核のようなものが違う気がする。母親が宗教にからむところだけは、はっとしたのだけれど、それ以外はまた表面の静かな日々に戻ってしまう。結論が先にあって怒らない日本人。このおじいさんは、もっともっと言いたいことがあっただろうに。人によって行間の読みがさまざまなのかと思います。最後があまりに静かですけど…。物語に引っ張られて読みました。

アカザ:見事な文章で綴られていて、終わりまで一気に読みました。こういう物語って、3:11以前と以後とでは、ずいぶん感想が違ってくるのではないかしら。いまほど「日常」という言葉が大切に思われる時代はないのでは? そんな静かな日々=日常が淡々と続いていくなか(本当は「静か」でも、「淡々と」でもないけれど)で、少年たちが少しずつ成長していく様子が心に残ります。そのなかで、お母さんの存在がすごいですね。美しいメロディのなかに不協和音が混じっているような。このお母さんのおかげで、ストーリーがとてもリアルになっていると思います。私は、日本の創作児童文学をそんなに読んでいないのですが、良し悪しは別として現実の社会にじわじわと入りこんでいるスピリチュアルなものが子どもの暮らしや心に与える影響について書いたものは、あまり無いように思うのですが、どうでしょう?

うさこ:男子、夏休み、おじいちゃん、男の子の友情と、『夏の庭』(湯本香樹実著 徳間書店/新潮文庫)を思わせるような設定。出だしの印象から、小5の夏、この主人公の転機が訪れるのだろうな、と予想できます。小5の男の子の世界は単純で、無意味なことをするというのはよくわかる。自転車で出かけるシーンなどは、すごく共感できました。おじいちゃんの漬け物をおいしいというところは少し前の少年だからかな。本を閉じた後、タイトルの「しずかな日々」は、ちょっとパラドックス的なつけ方だなと思う一方、作者がこめた思いはもっと深かったのではないかな、とも思いました。そして、作者は子どもを読者と想定して書いてはいないのだなとも。大人になった自分が読んで、ふうんと思える部分はありますが、読み手に投げていて、今の子どもにそのまま手渡せる書き方ではありませんでした。

アカシア:今日の3冊の中では、後の2冊が大人の読者向けなのに対して、これだけはYA向けだと言えると思います。いちばん子どもの視点に近いです。ここには半分しか守られていない子どもが書かれています。書かれようはしずかなんだけれど、中ではドラマがある。この子は、一生懸命しずかな日々を送れるように頑張っているわけですから。おじいさんの存在がくっきりしなくてステレオタイプという意見がありましたが、母親とやりあってしまったら興ざめだし、そっちに焦点が行ってしまうので、ここは主人公を支えるという役目を果たしているんだと思います。読者はやはりYAでしょうね。もっと読者対象が下だと問題が解決しないまま終わらせるわけにはいきませんが、YAなら解決できないことは、そのままでも終われる。『ダンデライオン』(メルヴィン・バージェス著 池田真紀子訳 東京創元社)だって『チョコレート・ウォー』(ロバート・コーミア著 北沢和彦訳 扶桑社)だって、解決されないまま終わってますもんね。

プルメリア:学校の生活場面がよく描かれているし、登場人物一人ひとりの心情がわかりやすい。ひと夏のお話だけど、縁側、ペットボトルではない麦茶、ラジオ体操など、今とは少し違う夏の風物がきちんと描かれています。今の子どもたちには、なじみがないので、こういう作品で伝えられたらいいなと思いました。新しく友達になった押野のキャラクターが子どもらしくてとてもいい。彼の力によって主人公がいろいろなことにチャレンジしてできるようになる過程がたのもしい。スーパーでお母さんに会う場面はインパクトがあってどきっとしました。ちょっと前の子ども達の生活スタイルが書かれているのもいいなと思いました。

ajian:個人的に僕は祖父母と暮らしていた期間が長かったので、その時の記憶を重ねながら読んでいきました。ただどうも、自分の体験と比べて恐縮ですが、きれいに書かれすぎている印象があります。井戸水や、昆布でとっただし、つけものなんていうアイテムがそこここに登場しますが、どこかロハス臭がする書き方。自然派志向というか『かもめ食堂』(群ようこ著 幻冬舎)的というか……。好きな人は好きでしょうが、やっぱり人を選ぶでしょう。主人公が自転車に乗って、この道はどこまでもつながっている、と思うところ、こうした感覚はたしかにあったなぁと思いました。よく書けていると思います。最後の母親について書かれたところ、それまではわりあいおもしろく読んでいたのですが、もやもやっとしました。母の状況については、ずっとほのめかすような書き方で、向き合うわけでもなく、息子が最後にさらっと結論をくだしていて、よくわからない。文庫の帯で北上次郎さんが「自分はいま傑作を読んでいるのだ、という強い確信を抱いた」と書かれていますが、読み終わったときの感想も聞いてみたかったですね。

優李:その意見を聞くと、小学校の図書室には置かなくていいかな(笑)と思いました。文章がうまくて、どんどん読めてしまいます。「おじいさん」や「おかあさん」の描き方が、私にはちょっと物足りなかったけど、私がおとなだからかな。子どもの描き方はとても生き生きとしてよかった。特に自転車のシーンは、私も子どもの頃、夏休みに自転車でずいぶん遠くまで走ったことがあって、共感できました。最初の6歳の時の場面、お母さんとおじいちゃんのあの冷たいやりとりから、その後の僕とおじいちゃんの「関係」が短期間で成り立つということに、ちょっと疑問があったけれど、人生を肯定する「希望」がある本なので、いいなあと思いました。

メリーさん:最初にハードカバーで見かけたとき、児童文学の著者だけれど、この表紙なら大人向けの本だと思って読まなかったんです。夏とおじいさんというテーマで、すぐに『夏の庭』を思い出しました。子どもの本の作者というのは、もちろん大人なのですが、読者である子どもが読んだとき、どうしてこの人はこんなにも僕の気持ちがわかるのかな、と思わせるのが子どもの本だと思います。この本は子どもの頃を振り返るという設定になっていますが、子どもにとってこの時代はまさに現在進行形の「今」。やっぱりこれも大人の本だと思いました。いいところもたくさんあって、主人公のおじいさんと友人の押野が元々の知り合いだったことを知って、大事なことは根本のところでつながっていると感じるところとか、友人のことをよく見ていて産毛が見える様子とか、スイカに塩をふると大人っぽく思うところなど、そういうことある!という記述はたくさんあります。別れるのが嫌だから、最初から友だちを作らないで気持ちをセーブするなんていうのは大人っぽいけれど、子どもはそういうことを真剣に考える。一方で「心配事は杞憂だった」とか、「藺草の清らかな香りが鼻をくすぐる」という、子どももきっと感じているであろう感情を、大人の言葉を使わずに書いてくれるともっとよかったなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年6月の記録)


朽木祥『彼岸花はきつねのかんざし』

彼岸花はきつねのかんざし

酉三:広島原爆とキツネの話がしっくりいっていないと思いました。木に竹を接いでいる感じ。被爆二世として、原爆のことを若い人に伝えていこうという思いはわかるけれど。このテーマに再度挑戦してほしいと思いますね。

優李:原爆を描くのはなかなか難しいことですね。也子ときつねの子とのさまざまな関わりが深まっていくのを楽しみながら読みすすめていくと、本当に最後に、という感じで原爆がやってくる。私のように年を取った人には、原爆についてのたくさんの予備知識がありますが、全く知らない子どもたちにはわからないのではないか、とも思いました。ささめやゆきさんの絵は、とてもすてきでいいなあ、と思います。

メリーさん:テーマは戦争との関わりということでしたが、あまりそれを気にせずに読みました。あたたかい感じのする方言がきいていたと思います。子ぎつねがかわいいし、主人公の女の子がきつねに見つからないようにとえくぼを隠すのもかわいらしい。そんな中で、通奏低音のように、戦争が背景になっていて、じわじわと感じさせるところがこの本のいいところではないかと思いました。子どもの本のジャンルの中には、これまでずっと戦争と子どもとの関わりという部分があって、戦争の悲惨さを説くことが多い気がしますが、これは日常を丁寧に描くことで、逆に戦争を浮き彫りにしているのではないかと思いました。そんなことからも、『夕凪の街 桜の国』(こうの史代/著、双葉社)を思い出しました。あのコミックも、戦時中ながら、明るくちょっぴりぬけたキャラクターを中心に描かれていて、戦争という非日常の中で、たくましく生きていく人々を描いていました。そんな対比がこの物語にも出ているのではないかと思いました。

ナットウ:言葉が統一されていないので、雑多な感じがありました。たとえば72ページの地の文と会話文での、小さい/こまい。方言が多いので子ども向けの場合だと読みづらいかなと思いました。全体的に哀愁ただよう作品で、ラストは狐がどうなったか気になります。化かす/化かされるという行動の結末についても知りたいと思って読んでいましたが、それを原爆がうやむやにしてしまう。そこにリアルな当時の現状を反映させているように思いました。同じヒガンバナ科に「キツネのかみそり」というものもあります。彼岸花は死人花とも言われているので、手向けの意味で彼岸花を用い、狐の死を表現しているのかなと思いました。

タビラコ:朽木さんは『風の靴』(講談社)のような作品より、『かはたれ』(福音館書店)など、日本の風土に根差した作品のほうが、ずっと上手だと思いました。詩的な文章も奥深かったし、ささめやさんの絵も物語を一段と引き立てていますね。きつねの子のかわいいことといったら! ただ、原爆が天災と同じように描かれていて、遠くの風景のように感じられたのですが……。もちろん、主人公の家で働いているおじいさんは亡くなったし、主人公もガラスのかけらで怪我をしていますけれどね。小学生のときに『原爆の子』や『ひめゆりの塔』を見て、第五福竜丸の事件もリアルタイムで知っている私などの世代としては、正直言ってなにか物足りない感じもしました。とはいえ、「戦争もの」に拒否反応を示す子どもたちも少なからずいるということを、この読書会でもよく耳にしますし。今の子どもたちに戦争をどうやって伝えたらいいか、いろいろな手立てを考えるのが大人たちの使命だと、つくづく感じさせられました。

シア:非常に気に入りました。すごく印象の強い一冊です。今回は『ムーンレディの記憶』で一度挫折してから読んだ本なので、特にそう感じました。表紙のイメージだと、自然や田舎に関する内容のように思えますが、中を開くと戦争に関する記述が目に飛び込んできたので、よくある戦争の本かなと思いました。子どもは日々そういうものを押しつけられている(とくに夏には)ので、戦争ものは拒絶されがちですね。でも、そんな中で、この本はすらすら読めます。訛りや戦時中の言葉を、同じページ内の注に入れているのが便利でしたね。大人の本のように、何度も後ろのページを開く必要がありません。この注の入れ方は、どんどん取り入れて欲しいですね。ただ、広島弁については、もう少し注を入れてもいいかなと思いましたが、方言自体はかわいいなと感じながら読みました。
 とにかくこの本は子ぎつねがかわいくて、29ページのセリフから心をわしづかみにされました。物語というのは、かわいい・楽しいばかりのストーリー進行だと、話の流れは徐々にかわいそうな方向へ流れていくものなので、ページをめくっていくのが、逆につらくなりました。いもとようこさんが絵を描かれた『そばのはなさいたひ』(こわせたまみ/著、佼成出版社)という絵本があるのですが、この物語も登場人物がとてもかわいらしかったのを思い出しました。『そばのはなさいたひ』ではラストでかわいい登場人物が死んでしまうのがつらかったのですが、今回の本では子ぎつねの消息がわからずに終わっています。そこが違いですね。周囲の登場人物たちがどうなったのかわからない、というのが戦争のリアルさを表しているように感じ、日本にとって身近な悲惨さを表しているように思いました。本の裏表紙に学年別表示が「中学年から」とありますが、高校生にもすすめられる作品だと思います。しかし、学年表示があると、読者を限定してしまうのでよくないと感じます。保護者や教員が、子どもっぽい本だと決め付けてしまい、避けてしまいます。どうしても表示したいのでしたら、「〜おとなまで」をつけた方がいいのではないでしょうか。絵本は最近では全年齢扱いになってきましたが、まだまだ教育界での本への偏見は根強く、名作以外の本、とくに児童向け作品は選定から落ちやすい状況です。「3歳から100歳まで」とかにしたらまだいいかも?

プルメリア:きつねがかわいいなと思いました。開けてみて、戦争・彼岸花。各章ごとに必ず挿絵が入っているのが印象に残りました。物語にいろいろな植物がたくさん入っているので、季節感があり田舎の自然がわかりやすかったです。だんだんと戦争に入っていく雰囲気、当時の人々の様子や生活が子どもにもわかりやすく書かれています。戦争の本はたくさんありますが、自然体の本かな。この作品を読んだ子どもの反応は「きつねがかわいかった」でした。今年から教科書が変わって本の紹介がたくさん出ています。この作品は光村図書4年生の「ひとつの花」の後に紹介される本の1冊です。少しずつ戦争色が表れてくる内容なので、戦争を知らないこどもたちには最初から「この本は戦争の本だよ」といって与えたほうが、いいかも。戦争についての作品だとわかっていながら読めば、きつねだけに印象が偏らないと思います。

ハリネズミ:戦争の取り上げ方についての意見がありましたが、最初から「戦争の本だよ」というと嫌がって読まない子も多いかもしれません。でも、言わないと、戦争のことだとわからなくて、きつねの印象だけが強く残ってしまうんでしょうか。難しいですね。

プルメリア:さっきの子は、挿絵がかわいいきつねに視点がいってしまったんだと思います。ただ、これから後になって戦争について学習したときに、「あの本は戦争があった頃のことが書かれていたんだ」と思い出すかも知れないので、その時に気づけばいいのではないかと思います。

ダンテス:昔のお金 持ちの、ほんわかした雰囲気がよく書けている。自分の地元の言葉を生かして書いているのでしょう。きつねがどうなったかわからない形で終わらせるのが、会いたいのに会えないという余韻を残している。被爆の体験も 直接は書いていない。またきつねに会いたいなという終わり方はうまいと思います。

ハリネズミ:この本は好きな一冊です。こういう形で出していけば、子どもが戦争に拒否反応をおこさないで受け入れられるのではないかと思いました。この著者の文章が私は好きなんですが、子どもの気持ちをよくすくいあげていると思います。きつねのかわいさも子どもをひきつけるし。通奏低音は切ないのですが、大きな死はなく、日常を淡々と書いているのがいい。おばあちゃんきつねは、人間のおばあちゃん、おかあさんきつねは人間のお母さん、子ぎつねは人間の子どもの前に現れるんですけど、きつねの寿命と人間の寿命は違うので、リアリティを考えると変だな、と思いました。きつねの寿命のほうがずっと短いですよね

けろけろ:この本の担当編集者として、みなさんのお話をうかがいました。まずは、読んでくださってありがとうございました。
 朽木さんは、プロフィールに被爆二世と書かれていることからもわかるように、原爆というテーマについて、ぜひ作品を書きたいというお気持ちがあったと思います。『はだしのゲン』(中沢啓治著、汐文社など)が怖くて読めない、という今の子どもたちに読んでもらえる話にするには、どうしたらいいかと、いつも考えられていたのではないでしょうか。そして、自分のいちばん近くにいる家族やペット、友人、当たり前のようにあった日常が突然、ぶつっと切られてしまうということを表現しようと考えたのだと思います。これなら、今の読者にも簡単に想像できることです。原爆で引き起こされる悲惨な表現よりも、こちらに集中しようと。それに対する大人の読者からの「表現がたりない」というような批判も、覚悟の上だったと思います。
 もちろん、著者の持ち味である端正なファンタジー世界も、生き生きと描かれています。作品の生まれるきっかけは、子ぎつねが「あたしわりあい化かすのうまいんだよ、化かされたい?」と話しかけてきたことと聞きました。ささめやゆきさんの子ぎつねの絵が入って、この作品世界がとても絵画的であることが改めてわかりました。とてもいい絵をいただいたと思います。
制作の過程で注意したのは、原爆の話だよというインフォメーションを少しずつ織り交ぜたことです。また、広島弁については、著者はとても苦労されました。話し言葉をそのまま書くと、文面が読み取りにくくなるので、かなり音読して読み返し、書き直されています。
今回の震災のとき、窓ガラスがひどく揺れて割れそうになったのを見て、私の娘は「彼岸花」の原爆のシーンで、主人公の腕にたくさんガラスがささった場面を思い出したと言っていました。原爆のすべてをこの作品でわからなくても、成長しながら少しずつ思い出したり、思い当たったり、原爆についてもっと深く知りたいと思ってもらえるようになっていってくれたら、うれしいと思います。

酉三:被爆体験が届かない、と嘆くのではなく、届かせようと工夫するのは大事。たしかに被爆の現実は強烈で、うちの子は、小学校2年生のときに長崎原爆資料館に連れて行ったのですが、写真や資料にショックを受けて、展示室を飛び出して行ってしまった。だからこういうことへの最初の出会いをゆるやかなところから始めるというのは、考えていいのかもしれないですね。

タビラコ:けろけろさんのお話を聞いて、感動しました。作者と編集者のこの作品にこめた思いが、よくわかった気がします。わたしの読み方が浅かったかな。それに、震災の前と後とでは、子どもたちの読み方も変わってくるのではないかと思いました。より主人公の心に寄り添って読めるようになったのではないかな……と。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年5月の記録)


カニグズバーグ『ムーンレディの記憶』

ムーンレディの記憶

プルメリア:大変おもしろく読みました。表紙も気に入りました。登場人物は数名で性格がわかりやすく、女性3人の個性は一人一人違い、それがおもしろかったです。ゼンダー夫人の家の中がゴージャスで、着ている洋服のファッションの印象が強い。モディリアーニの絵が出てきますが、とても気になって一気に読みました。4つの時代について分かれて書かれているのが、さすがカニグズバーグはすごいなと思いました。

タビラコ:プルメリアさんが違う本のことを話していると思ったのでは、シアさん?

シア:訳がいまいちなのか、読むのに苦労しました。前ふりが長すぎます。肝心のモディリアーニの絵が出てくるのが、かなり後。どうでもいい描写というのがだらだら続きます。海外の作家にはよくありますが、それにもまして訳がよくないように感じました。主人公の口癖に「断然」というのがありますが、今の子も言わないと思います。文化の違いを楽しめるというところに海外文学のおもしろさがありますが、この本はおもしろくありません。例えば、69ページに「食器室から出て手をのばし、皿を受け取った」うんぬんとあります。大きい部屋なのに、出て手を伸ばして受け取れるのでしょうか? 位置関係がわかりにくいですね。金原瑞人さんにしては珍しいことに、あとがきに前半部分のあらすじが書かれており、それを読んで内容がよくわかりました。そういうつまらないことが気になってしまうくらい、物語に入っていけない本でした。

タビラコ:『スカイラー通り19番地』(カニグズバーグ/著、金原瑞人/訳、岩波書店)は、読みやすかったのにね。この本が出る直前に、作者が講演の中で内容について話すのを聞いていたので、とても期待して読んだのですが、読みにくくて、なかなか物語の世界に入っていけませんでした。いろいろな人の視点から書いているからかしら? カニグズバーグという作家は、いつも頭のいい読者に向けて書いていて、「子どもだからこういうことは難しい、だから書かないでおこう」というような妥協を一切しない人なのだなと、つくづく思いました。そういう点は天晴れというか、ある意味、好感が持てるのだけれど。
翻訳も難しいでしょうね。ウィリアムの母親の「そうなの」という口癖や、アメディオがくりかえす「断然」という言葉など、英語圏の読者には「ああ、こういう口癖の人だったら、こういう性格だろう」って、すぐにわかるでしょうけれど。29ページの「ゼンダーさんじゃないですよね」「そうなの、違うわ」という会話など、一瞬「訳、まちがえたの?」と思ってしまいました。それから、130ページに「コラードグリーン」という野菜が出てきますが、これはいわゆるソウルフードで、『被差別の食卓』(上原善広/著、新潮選書)によれば差別されていた人たちが食べる食材であって、わたしのささやかな経験からいえば、これを食べるとか食べないということに関してアメリカの人たちには微妙な心の揺れがあるようなのですが、そのあたりのニュアンスも日本の読者にはわからないですよね。翻訳ものの難しい点だと思います。料理の仕方にもよるでしょうけど、私が食べたのは、小松菜の煮びたしみたいでしたが、すーっごくまずかった! この作品は、内容からいえば80歳を前にした作者が「スカイラー通り」よりずっと書きたかったことではないかと思うし、訳者の金原さんがあとがきで言っているとおり、心から拍手をおくりたいのだけれど……。

けろけろ:私は、カニグズバーグが好きなので、喜んで読みました。ただ確かに入りにくいなということはあった。最初のところで、ウィリアムとアメディオの関係がつかみづらかった。おそらく地の文が、一人称っぽかったり三人称っぽかったりして、安定していないというのも理由のひとつかと思いました。「スカイラー通り」と人物が重なっているとあとがきに書いてあり、そうだったっけ? と、読みなおしてみたりして、また楽しめました。そっか、ピーターさんは、ここでもいいやつだったっけなと。ピーターをはじめ、カニグズバーグの作品は、大人の個性がそれぞれきちんと描かれている。このへんは、日本の作品にとても参考になるんじゃないかと思いました。

ナットウ:すみません。理解しよう理解しようと思いながら2回読みましたが、なかなか頭に入らなかったです。ただ、大人の日常会話が上手いなと思いました。ゼンダー夫人はキャラクターがたっていてすごくよかったので、この人物のその後が知りたいと思いました。大きな展開は少ないのだけれど、出てくる言葉がよかったです、特に「人は十パーセントしか見えていない」という言葉は素敵。

メリーさん:カニグズバーグということで期待しながら読みました。伏線をはりめぐらせながら、結末まで持っていくストーリーの運び方が秀逸だと思いました。主人公は、有名になりたいわけではなく「発見されて初めて行方不明だったことにみんなが気づく」ことを発見をしたいという、同年齢の子どもの一歩先をいっているようなキャラクターなので、特に本好きの子どもたちが共感するのではないかと思いました。モディリアーニのファーストネームは、主人公と同じ「アメディオ」なんですね。ジョン・ヴァンダークールの手記で描かれる戦時中の記憶が、現実の絵や住人と重なっていくラストは鮮やかだと思います。一枚の絵画によって命拾いをした人がいる一方で、それによって命を奪われた人もいる。それ以上に、生きる希望としての芸術というものもあるのではないかと考えました。文中、美術展での1枚の絵を鑑賞する時間は45秒ということが書いてありましたが、これもおもしろい。実際はもっと短い気がしますが。絵を見るということは、時間を追体験することだと思います。モデルになった人がいて、描いた人がいて、それを見て感じる人がいる。大人になっても、この想像力を働かせるということを続けてほしいなと思いました。

優李:「断然」が、きっとインパクトある言葉としてたくさん使われているのだろうけれど、日本語としてしっくりこないので、読んでいる途中でかなりひっかかります。でも、筋立てにどんどん引き込まれて、引っかかる部分は、はしょって読みました。今使われている日本語で、しかもぴったりくることばに訳すということは、ずいぶん難しいことなのだとわかりました。大人が際立ってる、とおっしゃった方がいましたが、アメディオやウィリアムが利発なニュアンスのわかる子として描いてあるのに、アメディオとウィリアムのお母さんがもっとたくさん描かれてもいいと思いました。非常によいセンスとさまざまな人間と関係を築くことのできる力を併せ持つウィリアムのお母さんはともかくとして、アメディオのお母さんは、脇役としてもパターン化している。ピーターのお母さんが、後半の後半、自分をはっきり出す、という方向にキャラクターが変わっていくように、アメディオのお母さんももう少し描かれてもいいのでは、と思いました。物語の前段は後半に較べてちょっと長い印象でした。

酉三:カニグズバーグはユダヤ系ですよね。これまでの作品ではそのことを感じさせることはしないようにしてきたように思いますが(いくつか読んだ限りの印象ですが)、今回はいわば民族の悲劇をとりあげた。中心をなすストーリーはまことに劇的でひきつけるものがある。が、そのストーリーを語ることに気をとられて、物語のリアリティを生む細部が充分描かれていない。気持ちはわかるような気がするんだけど、それが残念です。

ダンテス:私は描写が大変に細かくてみごとだと思いました。フロリダなどのケバエの描写や、プール付きの家など実際に行かないとわからないようなアメリカの描写が丁寧。アメディオの母親は脇役。ガレージセールの話ですけど、ローカル新聞には 毎週どこどこでガレージセールがあると出ています。金曜・土曜にあるのが高級ガレージセール。金曜日に行くと普通は入れない大きなお屋敷に入れる、そういうことで自分は行ったことがあるので、大体イメージできました。いいものは先に業者がつばをつけている。そういう業界に関しても、すごくリアルに書かれている。物の価値がわかる人を評価しているのでウィリアムの母親はすごい。『クローディアの秘密』(カニグスバーグ/著、松永ふみ子/訳、岩波少年文庫など)は 印象的な作品でした。ミケランジェロの作品であるかどうかとか、本物を見つける話とかの話で、メトロポリタン美術館に持っていって読みました。 モディリアーニの「g」は本当は発音しないのではなくてイタリア語の独特の音があるのだが、アメリカ人にとっては「g」は読まないように見えるわけで、それを発音する業者をからかっている点も面白い。元オペラ歌手という人物設定、キュレーターという人物も面白かったです。ヒトラーの退廃芸術に対する本心の態度については予備知識がないのでわかりませんでした。『古書の来歴』(ジュラルディン・ブルックス/著、森嶋マリ/訳、武田ランダムハウスジャパン)という本がありますが、ナチスがユダヤの本を取り上げようとしてそれに命がけで抵抗する話なんです。それも連想しました。ヒトラーは他国から芸術作品を強奪してきて実は自分のものにしたかったのか、退廃しているからこの世から消そうとしていたのか、本心がよくわかりませんでした。「断然」という訳については、私も気になります。

けろけろ:外国の作品はむかしから、訳語を見て、どんなニュアンスで使われている言葉なのだろう?とわからないながら読んでいることが多いですよね。そういうものだと思って読んでいるところがある。

ジラフ:ヒトラーの美術品に対する複雑な態度は、若いころに画家志望でありながら、美大に落ちて画家になれなかったという、深い挫折感が関係しているのでは。それと、ヒトラーの民衆を煽動する才能、プロパガンダのうまさには天性のものがあったことは、よく知られています。美術、それもモダンアートという象徴的な力を持つものに、「退廃芸術」というレッテルを貼って、おとしめることでの効果を、ヒトラーは直感的に熟知していたんじゃないでしょうか。好き嫌いというよりも、一種の政治的なポーズだったのでは。その意味では、カニグズバーグ自身も戦争の影を描くのに、一枚の絵というモチーフをうまく使っていると思います。『クローディアの秘密』も『ジョコンダ夫人の肖像』(カニグズバーグ/著、松永ふみ子/訳、岩波書店)もそうでしたが、芸術作品とその謎をライトモチーフに物語を進めていくうまさ。これもカニグズバーグの持ち味だと思います。本筋とは関係ないですが、95ページの「だけど、だれかと友だちになるときはいつも、じぶんの一部をさらけ出すんじゃない?」とか、266ページの「境界は人をあざむくこともあれば、人を救うこともある」なんていう、人生の箴言みたいなことばをさりげなく、会話の中にすべりこませているところも、カニグズバーグらしいな、と思いました。

ハリネズミ:私は訳にどうもひっかかっちゃうんですね。カニグズバーグはそう簡単に翻訳できない人だと思うんです。日本の子どもたちにもイメージがわくように補ったり、微妙なニュアンスを読み解いたりしないと訳せない。たぶん原文では、暮らし方や話し方でこういう人物だと伝えてるんだと思うんですけど、それがうまくこっちまで伝わってこない。だから頭には届くけど、心まで届かないもどかしさがあります。私は、16ページの4行目「この日は〜思っていた」のところでなぜその人が電話線を切らなきゃいけなかったのかわからなかったんですね。89ページでピーターが封書を開けたとたん、の描写も分りにくい、物語のポイント、ポイントに焦点が当たるようになっていない気がしたんです。たしかに訳はむずかしいでしょうね。アマゾンで原書の最初のところを読むと、日本語でケバエってなってるのはlovebugなんですね。交尾している虫が出て来てアメディオは気になっていますが、lovebugは単なる虫の種類を言ってるだけじゃない。英語を読んだほうがきっとうまくつながっていくんでしょうね。

けろけろ:電話線のところは洒落じゃないかな。母親は密かにこの男が電話線を切ったように思った。というのは、共同出資したくなるように仕向けたのでは。相手にも出したいと思うのではないか。ん?よくわからないかも。読み飛ばしていたのかな?(笑)

ダンテス:アメリカの電話会社は、AT&T以外にもいろいろあって激しい競争をしている。自分の会社の携帯では通じない地域にセールスに入ってそこで通じるようにしたら、また引っ越していくという家族なんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年5月の記録)


マイケル・モーパーゴ『モーツァルトはおことわり』さくまゆみこ訳

モーツァルトはおことわり

ダンテス:とっても気に入りました。素敵な作品です。いいお話でした。絵も美しくて楽しめました。モーツァルトの音楽が、強制収容所の囚人たちをだますために使われていたということをはじめて知りました。

酉三:文句なしによかった。これを最初に読んだから、後の2作の評価が辛くなったという気すらします。戦争とは何だったか、ユダヤ人虐殺とは何だったか、それがその後も人々にどんな心の傷を残したか、そういったことを若い人に無理なく伝えてゆく作品になっている。それにしても、これから殺されようという人たちに最後の音楽としてモーツァルトを聞かせるというドイツ人の残酷さ。ユダヤ人たちに「いつかは自由になれる」という歌を歌わせたということもあったそうで、ほとんど悪魔的。恐ろしいですね。

優李:絵も優しくて魅力的、訳もたいへんいいと思います。感動がしみじみと伝わってきました。YAだと対象は中学生くらいですが六年生にはぜひすすめたいです。

メリーさん:この本は、東日本大震災前とその後では読んだ感想が変わるなと感じました。大災害にあったときに、文化は何ができるか。すぐに腹の足しにはならない芸術、文化。だけど、それにはきちんと役割があるのだと再認識した本でした。32ページの「音楽はすばらしい世界をつくるのに役立っている」という言葉はまさにそのとおりだと思います。ただ、それは生きる糧であっても、それを生きる術にするということについては考えなければならないことだと思いました。本の帯文には、「音楽で戦い」とありますが、バイオリニストらは、音楽を武器にしてしまったことを悔やんでいたのではないかと思います。本来は純粋に鑑賞すべきものを、他人を蹴落とし自分が生き延びる「武器」にしてしまった。もちろんそれは仕方ないことだったでしょうが、だからこそ戦後はそうしてはいけないと思ったのでは。それにしても、物語と絵がぴったりとあってとてもいい本だと思います。絵本と読み物の中間であるこの形は、今なかなかないと思いますが、原書はどうだったのかも気になりました。

ナットウ:お父さんの理容室の仕事をしている時のリズムが印象的。音楽が好きな気持ちがよく表現されていると思いました。インタビューするタイミングがよかったのだなと理由も自然に納得できます。強制収容所に連れていかれた人たちや3人の追悼の為にもひそかにモーツァルトの演奏の練習をしたのだろうと思って涙が出ました。裏表紙のベニスの日の出が印象的です。ベニスの日の出と共に描かれたユダヤ人の姿を見て、明るい未来、明日を願っているように感じました。

けろけろ:この本は、YAくらいの読者が向いていますね。でも、売ることを考えると、この体裁でYAって、棚の置場には困るかもしれません。でも、絵がいいので、こういう大きさで見たいですよね。一瞬インパクトに欠けるような絵に見えますが、いい味を出している絵だということがわかりますね。37ページ「秘密は嘘なんだよ。愛している人達に嘘をついてはいけない」と、お父さんが子どもパオロに言うシーンと、冒頭のインタビューで「秘密は嘘になる」と言った大人パオロのシーンが生きていてとてもいいと思いました。ひとつ気になったのは、32ページの後ろから3行目「ぼくが持ってきたバイオリン」のところ。ここと、このあとのもう一か所だけ、「ぼく」と訳されています。「わたし」のほうがいいのかどうか。どちらがいいか、よくわかりませんが、訳すのが難しかっただろうと思いました。

タビラコ:本当に一人称の訳しかたって、難しいですよね。英語みたいに「I」だけで片付けられれば、どんなにかいいのに! 「わたし」と「ぼく」、「ぼく」と「おれ」の中間の言葉が無いものかと、いつも思います。この作品は、とてもよかった! モーパーゴの作品は邦訳もたくさん出ているけれど、どうもいまひとつ詰めが甘いという感じですが、この作品はちがいました。モーパーゴって、本人もすごく「いい人」で、ダブリンで小さなグループに自作の近未来を描いた短編を朗読してくれたことがありましたが、得体のしれない軍隊にのどかな村全体が滅ぼされてしまうという、その話を読みながら手放しで号泣していました。そういう人柄のよさと、ストーリーの作り方の上手さが、よく出ている作品だと思います。翻訳の上手さは言うまでもないことですが、語り手によって敬体と常体を使い分けたり、字体を変えたりしているところも、さすがだと思いました。音楽って理性ではなく感性に訴えるもので、天使と悪魔の両面がある。その両面がくっきりと描きわけられていますね。わたしはフォアマンの絵のなんともいえない青と、オレンジがかった赤が好きですが、この本の中ではヴェネチアの場面にその素晴らしい青と赤が使われていて、うちの中は暖かい茶色で描かれている。反対に強制収容所は、グレーと陰鬱な茶で見事に描きわけられていますね。私はモーツァルトの作品が好きでよく聴いていますが、この作品を読んだあとは前と同じようには聴けなくなりました。それほどインパクトの強い作品でした。

シア:青い色彩がとにかく美しくて、一番先に読みました。今回の3冊の中では、完全に雰囲気勝ちしてますね。このサイズだと棚に置きにくいかもしれないけれど、子どもには目につきやすい上に、サッと手にとって見やすいサイズだと思うので、現在公共図書館で人気があって予約できないのもうなずけます。ぜひ子どもに読んでほしい作品ですね。絵本のような装丁のわりには大人も子どもも、そしてプライドが高い子も読みやすい作品です。話の内容も正統派だし、完全なる優等生的な作品だと思います。誰からも気に入られるいい子ですね。物語もストレートでわかりやすいですし、戦争の爪痕についてもわかりやすいし、飽きないし、音楽の持つ力を感じられたし、最後にはジーンときますね。しかし、あえていうならば、値段が少し高いかもしれません。戦争の本はどんなに読んでも、どうしてもこれまで他人事だったけれど、震災後の今、ぜひ読んで欲しい1冊です。

プルメリア:夏休みに題名を見て、いいネーミングの本だなと思いました。挿絵がとても素敵でヴェネチアに行ったことがあるのであのへんかなとわかりました。文章もわかりやすく現代・過去・現代の構成もいいです。中野区立図書館ではYAになっていますが、小学6年生ぐらいだとわかるんじゃないかな。学級でユダヤ人について説明し、ヴェネチアの場所を地図帳で探すなどの補足をして読み聞かせをしました。本文では下のほうに描かれているユダヤ人の挿絵が、裏表紙では空の上のほうに描かれていることに気づいた子どもが「ユダヤの人たちは天国に行けてよかったね」と言っていました。子どもの見方は面白いなと思いました。防衛省関係の子どもがいるのでナチスの問題は大丈夫かと心配でしたが、大丈夫でした。厚着の人と薄着の人が38〜39ページの挿絵にまじっていたので、季節について聞かれ、少し返答に困りました。

ハリネズミ:これは、原書は横書きでもっと判型ももう少し小さかったと思います。ホロコーストものはいろいろ出ていますが、知っておく必要があると思う一方で、今イスラエルがパレスチナに対してやっていることを隠蔽する結果になるのではないかと危惧したりもします。でも、この作品は、人間そのものを深く見つめているように思って、私は好きです。

ジラフ:わたしヴェネツィアが大好きで、実は3月の震災直後に行く予定だったんです。ところが、帰国便が不確定になったりして、旅行は延期したのですが、以前、1度訪れたときに何より惹かれたのが、ヴェネツィアの虚構性でした。路地が迷路のように入り組んでいて、いつも迷子になっているみたいで。いつか海に沈んでしまう、という運命を背負っていることも、この町の芝居がかった雰囲気と関係しているのかもしれません。自分自身にそんな思い入れがあったので、回想のスタイルで語られるこの物語の舞台として、ヴェネツィアの町がすごく生きていると感じました。挿絵もよくて、月明かりに照らされた運河のブルーなどは、いまにも水音が聴こえてきそうな気がしました。モーツァルトがこんな風に利用されていたことは初めて知りましたが、芸術には人の心を揺さぶる力があるので、よくも悪くも使うことがきます。おしまい近くではっとしたのが、隠してあったヴァイオリンが、実はお母さんのものだった、というところです。わたしはずっと、お父さんのヴァイオリンだと思い込んで読み進めていました。戦争とは、そして人間とは、まったく一筋縄ではいかないものだ、とおもしろく思いました。ほんとうにきれいな本で、たて書きなのに、こんなにふんだんに挿絵が入っていて、原書はどんなかな、と想像するのも楽しかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年5月の記録)


中川なをみ『龍の腹』

龍の腹

優李:筋立てはおもしろいと思って読み始めました。ただ、希龍の特に成長してからの話しことばの書き方に引っかかって、そこはとても読みにくかった。希龍の時代に、いくらなんでも、今どきの若者言葉はないでしょう(笑)。希龍の「お父さん」についても、博多の豪商とはいっても地方の一商人が、鎌倉幕府に朝廷の作法・しきたりなどを指南するというようなことが本当にあるのかな? それにそういう人物が中国の磁器を見て感動したのはわかりますが、このような焼き物を日本で作れれば日本も変わる、などとかなり大胆に思い込み、店をたたんで親子で渡航、その上、自分で焼き物を習えないとわかったときに、年端もいかない子どもをひとり置いてくる? 大人の人物の描き方が細かくない、リアリティ不足という感じで、ちょっとなあ……と。それと、最後の方でいきなり「そして10年がたった」などと、はしょった書き方で結末につなげないで、緊密に書けるところで時間を切って書いてくれた方がよかったかなあ、という気がしました。

チェーホフ:私はおもしろいと思いました。全体としては、ファンタジーに近いかなと。この作者のほかの作品ではファンタジー性は見当たらなかったので、おもしろい試みだと思いました。

レン:入りにくかったです。この少年が異国の文化の中で格闘して自分をつかんでいくさまを描こうという、意欲的な作品だとは思うのですが、ストーリーにひきこまれませんでした。希龍が焼き物をおぼえていく過程は、『モギ ちいさな焼きもの師』(リンダ・スー・パーク著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房)と比べてしまって。そうするとあちらのほうがずっと実感があるんですね。また言葉で気になるところがちょこちょこありました。たとえば138ページの最初の行、戦に言及するせりふで「あっちで、五年以上もバンバンやってるんだ。」。鎌倉時代の話だから、バンバンはないだろうとか。残念ですね。

くもっち:作者の中川さんは、こういう大河ドラマ的な作品で、自分というものを見つめながら育っていく青年を描くのが上手な作家さんだと思います。この話も、単に日本で起きた出来事というのではなく、宋から元への過渡期という中国を舞台にして壮大な土地で息づいている人々を見せてくれるというのが、おもしろい試みだと思いました。歴史的なバックボーンを借りるというのは、物語自体を壮大にさせる効果があるな、と改めて感じました。ただ、たくさん盛り込みすぎたかなという感じも受けました。「由育」という、家族から引き離された男の子の人生、「希龍」という、大きな存在である父に翻弄させられる人生、さらに「桃花」という、自分の親を知らずに育つ女の子の人生という3つの人生を描こうとしています。3人に共通するのは、家族の喪失感からどう脱皮していくかという部分だと思います。3人が3様に自分を見つめながら進むのはおもしろいのですが、いかんせん広げすぎていて、消化不良になっている気がしました。特に、希龍のお父さん像がぶれている気がします。最初は青磁の技術を取得することイコール日本の発展だと考えて大陸に渡るんですが、子どもを預けたあとで全然違う方向に走ってしまう。大切な一人息子を、学問をさせないまま育ててしまうことについて、本当に良しとするのか、という点も疑問です。その辺がひっかかって、もったいないなと思った部分です。

みっけ:こういうタイプのものは、歴史について今まで自分が知らなかったことを知れたりもするので、けっこう好きです。でも、これはあちこちで文章にひっかかってしまい、ちょっとそれがつらかった。たとえば183pに、「龍泉での十年は、希龍の想像を超えて、深く重かった。明けても暮れても土に触れる生活の習慣は、視野に窯がないというだけで、訳もなく不安になった。景徳鎮がどんどん遠ざかる。いらだつ想いをけんめいにこらえた。」という文章がありますが、使っている言葉が全体に抽象的で、漢語が多くて、荒っぽい感じがしました。わかるようでわからない表現があったりもして……。中国のこういう古い時代を舞台に選んだことを意識して、それで漢語が多いのかもしれないけれど、それにしても使い方が乱暴な気がする。それと、とても気になったのが焼き物に関する話です。作者自身が青磁を見てすばらしいと思い、そこからこの物語が生まれたということも、たぶんあるんだろうと想像するんですが、そうだとすれば、そのすばらしさをもっと読者に迫る形で伝えてもらわないと。これだと、高邁な評論家の文章みたいで、理屈で説明しているというか、分析しちゃっているものだから、実際の焼き物の迫力が、ぐっと迫ってこない。そこがつらいなあと思いました。中国の波乱万丈の時代を取り上げているので、へえ、そうなんだ、という箇所がいくつもあって、そういう意味ではおもしろかったんだけれど、ちょっと詰め込みすぎですね。焼き物のこともそうだけど、ちょっとできすぎな気もする。この子の達成したことは、もっと少なくていいんじゃないかな。焼き物の大変さがそれなりの形で読者に伝われば、もっと小さな展開でも読者は十分に主人公とともに喜べるんじゃないかと思いました。土をいじったこともない子だったんだから、そんなに簡単にはいかなくて当たり前だし、うまくいかないで四苦八苦しているところを描いたほうがリアルなんじゃないかなあ。完成品の分析を聞かされるよりも、そのほうがおもしろいと思う。ただ、冒頭で、お父さんが焼き物を見て、中国と日本との差にショックを受けて……という展開は、当時なら十分あり得たとは思いました。それが政治や国全体とつながるというのはちょっと無理がある気がするけれど……。

ハマグリ:やっぱりみなさんがおっしゃるように、細かいところには不満もあるんだけれど、日本の人が児童文学でこんなにも壮大な歴史小説に挑戦しているところを買いたいと私は思います。ただ、子どもの読者にとって鎌倉時代は遠いし、まして中国のことはわからないので、簡単でいいから年表や地図をつけるとか、服装のことが出てきても想像しにくいのでもっと挿絵を入れるとかすれば小学校高学年くらいからでも興味を持って読む子がいるんじゃないかと残念でした。物語は大きく2部に分かれており、最初は龍泉でのこと。後半は希龍と桃花と由育の旅となる。がらっと展開が変わっておもしろいんですけど、何か2つの関連性がないように感じられ、後半ではあれほど焼き物にうちこんだはずが、あの気持ちはどうしたの、いつそこへ戻るのかな、と思いました。会話の言葉づかいについては、現代の子どもの読み物として、この時代のとおりに書くわけにはいかないのはわかりますが、「すっげー」なんて書いてあるとちょっとどうなのかなと思いました。

ハリネズミ:書き方に勢いがあるし、なかなか読ませるとは思ったんですが、物語にほつれ糸のようなところがたくさんあって、それが気になりました。たとえば希龍が陶芸の修行をするところでは、本人は父親から捨てられたと思っています。でも読者の私は「あれだけ父親は陶芸に執着していたのだから、敢えて息子を一人前になるまでは突き放して厳しくしているのだろう」と思っていたんですね。ところが修行を終えた希龍が父親と会う場面では完全に肩すかしを食らって、父親がいったいどういう人物なのかわからなくなってしまいました。それに桃花にしても、最初のうちは冒険心に富んでいて野心もあり自分の人生をつかみとろうとする元気いっぱいの娘なわけですが、結婚したとたんにころっと態度が変わってしおらしくなってしまう。著者は愛のなせる技だと言いたいのかもしれないけど、変貌しすぎで人物像がつかめません。由育は、兵卒になってお父さんの軍隊に入るために出発しますが、その時にお父さんに会えるかどうかはわからないと書いてあるのに、いつのまにかお父さんのところで病死している。途中が書かれてないので、一体どうなったのかわからないままです。また蛙声っていうユニークで魅力的な若者ですが、決心して帰っていった村がどういうものなのかはよくわからない。そのせいで、蛙声自身の人物像もぼやけてしまっています。もう少し完成度を高めてもらえれば、とってもおもしろい本になったと思うので、残念です。各章のはじめのカットはおもしろいあしらい方をしてますね。

くもっち:挿絵の使い方で、ネームをのせるように使っているのですが、場所によっては、絵に間違えて文字がのっちゃったの?と思うようなところもありました。たとえば、102pとか。

プルメリア:課題図書になった作品『モギ ちいさな焼きもの師』の日本版かなと思いました。焼き物師のサクセスストーリーと思って読んでいたら違っていて。私は、主人公をはじめ登場人物の性格がわかりやすかったなと思います。中国の元と宋の歴史の動きや、当時の人々の生活の様子とか、中国の情景もよくわかるし、中国サイドから日本を見ている、知っていることや今まで読んだことのある作品とは違い逆の立場で書かれているのでおもしろいなと思いました。一生懸命作った焼き物を窯から出すときのドキドキするところがリアリティを持って描かれている。主人公の気持ちになってしまいました。最初に龍が出てきて、各章ごとに挿絵が出てくるのが楽しめました。地図とか年表とか図があると、小学生でも歴史に興味がある子は楽しめそうなのに残念。

ダンテス:あんまり評価できません。途中で読むのがいやになりました。はっきり言えばご都合主義っていうのか、その場その場で場当たり的に話が進んでいるように感じられます。桃源郷の扱いも失礼ではないでしょうか。話の流れの中で入れちゃったという感じに読めました。読んでいて統一感がないっていうか、筋が通った感じがありませんでした。プラス面をいえば、焼き物のことや、中国の時代のことも調べているようです。でも、焼き物の美しさを言葉で表現しきれているでしょうか。言葉では、286p「杞憂」、304p「杞憂する」、これは言葉の使い方がおかしいです。

レン:編集者が指摘しなかったんでしょうか。

くもっち:歴史上の事実を踏まえるフィクションの場合は、これは史実でなければだめでしょうというラインがまずありますよね。もしかするとそれは、一般の小説より厳しいかもしれない。子どもに間違って伝えてしまうと混乱してしまうという配慮があるからです。その辺は、校閲というよりは、この小説が世に出せるかというレベルで編集者が見るべきでしょう。また、杞憂の使い方などの校正・校閲については、もちろん専門の方にも見ていただきながらチェックしますよね。でも、作者が最初にどこまで仕上げてくれるかにかかっているのではないでしょうか。人のすることなので、チェックもれはどうしても出てきますから。

ダンテス:やはりいちばん気になったのは桃源郷です。理想郷に住むはずの桃源郷の人たちが人をだまして殺そうとするというのはいかがなものか。さらに言えば、文天祥のこともこんな書き方でいいんでしょうか。そして元王朝の中国文化に対する姿勢も史実とは違うのでは?

酉三:設定を南宋末において、国際大河ドラマを書こうとした著者の志は評価したいですが、冒頭の、鎌倉幕府が開設されて20年、とかなんとか、教科書みたいな書きようでまずつまずきました。子どもにお話の世界に入ってきてくれというときに、こんな書き方でいいのか、と。そのほかにも、いちいち指摘することはしませんが、物語世界を作っていくための工夫、努力が足りないと思わせるところがいろいろありました。というわけで、最初の数十ページで読むのをやめてしまいました。著者には、ていねいに書くトレーニングをしていただきたいと思います。

ハマグリ:288p「たじろんだ」って出てくるんですけど、これって「たじろいだ」ですよね?

すあま:親の都合で修行を自分の意に反して始める、というところから始まって、筋はいいのに読み終わった後でどこか物語が中途半端な感じがするのはなぜなんでしょう。主人公たちに魅力がないのかな。私も陶器が好きだから興味深く読めるんだけれど、もう少し登場人物のキャラクターがはっきりしていて魅力的だったらもっとおもしろく読めたのかもしれないと思いました。

ボー:全体には、おもしろく読みましたが、後半が散漫な感じになって、まとまりの悪い物語になってしまい、残念でした。「焼き物の技術を学びたい」という父親の夢に引きずられて宋に渡ったという設定で、登り窯のこと、焼き物のできる課程など、事細かに描かれていて、それに取り組む少年の姿も、とてもおもしろかったです。前半は、当時の中国の事情や、社会体制なども、背景として描かれていて、興味深かったのですが、後半は、龍泉になかなかもどらなくて、いろんなことが出てきて散漫になっていました。結局、蛙声の村はなんだったのか……? 腑に落ちないところも多々ありました。桃花の、染め物の話は、お話にもマッチしていて、もっと書ければよいのに、それも中途半端な感じで、残念でした。飛び模様の青磁の壺や、染め物の話などに焦点を当てて、最後まとめれば、もっとおもしろい物語になったような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年2月の記録)


アン=ロール ボンドゥ『殺人者の涙』

殺人者の涙

みっけ:わたしはこういうタイプの本が好きなので、とてもおもしろく読みました。ちょっと、永山則夫の『無知の涙』をどう受け止めるか、というのと似た問題を読者に突きつける感じの作品なので、読者はYAから大人になると思います。冒頭から人があっけなく二人も殺されるわ、主人公は冷酷な殺人者だわで、一歩間違えると血なまぐさくてどろどろのいやな感じになるはずだけれど、淡々とした書き方がきいていて、なぜか全体に静かな感じが漂っている。そのあたりがうまいなあと思いましたし、好感を持ちました。生きていくことの厳しさや、荒野のしんとした感じが、寂しいとかつらいとかいったマイナスのこととしてではなく、厳然と目の前にあって、人間が生きて行くうえで立ち向かわなければならないものとして描かれているのも、いいなあと思いました。そういうなかに、ふっとアンヘルとパオロのやりとり、あるいは二人とルイスのやりとりが入ってくる、それがとても印象的でした。一番いいなあと思ったのは、アンヘルとパオロの関係です。なれ合ったりするのでなく、どこまでも緊張感をはらみながら、でもなにか他の人には伝えられないような絆ができる様子が、うまくとらえられている。とても奇妙なことかもしれないけれど、でも、本当のことだったんだな、とこちらの腑に落ちる。筋としても、ルイスが二人を欺いて世界旅行に出かけちゃったり、昔アンヘルが殺したらしい家族の親が出てきたりで、どうなっちゃうんだろうとはらはらしながら最後まで読みました。アンヘルが捕まるという着地点にもリアルだし、最後またルイスが出てくるのも、ちゃんと脇筋に決着をつけていていいなと思いました。

くもっち:異質な小説に出会えた感があって、最初は設定に少し戸惑いましたが、おもしろく読めました。映像的、観念的な作品ですよね。特におもしろい体験だったのは、冷血な殺人者として登場するアンヘルに、次第に感情移入できてしまうところですね。後半は、どうにかしてシアワセな日々を送らせてあげたいとまで思ってしまう。ちょっと、駆け足で読んでしまったので、何度か読みかえしたいと思いました。

レン:どう表していいかわからない読後感でした。共感はおぼえないのに、不思議とこの世界に入り込まされる感じ。つきはなされているようなのに読まずにいられなくなる。寓話的な書き方で、いろんなことを考えさせられる話、それがこの物語の力かもしれませんね。舞台がチリというのが気になって調べてみたのですが、作者のホームページを見ると、荒涼としたイメージから舞台をチリに設定したけれど、執筆のときには行ったことがなかったとのこと。ヨーロッパから遠い土地だから、そんなイメージで扱われるんですね。だからなのか、チリらしさのようなものはほとんど出てきません。地名の「ヴァルパライソ」は、スペイン語の発音からすると「バルパライソ」とすべきところ。また、121p「ホットケーキ、食べるか?」というところ、「ポンチョを着たでっぷりした女の人が、でこぼこのフライパンで丸い生地を焼いている」とあるので、トルティージャのようなものではないかと思います。ホットケーキだとイメージがずれるなと。裏表紙のパオロの服装も、アンデスの民のような服装で、これはパタゴニアの話なのでこれでいいのか疑問。スペイン語で書かれていない作品だけに、編集の段階で気をくばってほしかったです。

チェーホフ:最初の「太平洋の冷たい海にノコギリの歯のように食い込む地の果てに」というところは想像しにくいと思いました。ラストは全体的にすべてのことをとり入れた生活をしている。父母の家で今まで父母がしていたように人を迎え入れ、リカルドのようにワインでもてなし、ルイスの絵葉書の貼ってある壁やアンヘルの名をもじった自分の子どもなど。性的な描写もありますし、年齢層は上。殺人者であっても人は生きていてパオロの中に受け継がれていく、死んでも残るものができたんだなと感慨深いものがありました。殺人者を肯定しかねない書き方ともとれるので子どもが読むには少し注意が必要かなと思いました。

酉三:著者はかなり上手な人なのだと思います。が、この設定は私にはカゲキすぎ。受け入れられないです。この世界にどう入ったいいのか。それと、上手だと思いますが、終わりの方で突然幽霊が出てくるのはいけません。もしも幽霊アリのお話ならば、もっと早くそのことは伝えておいてほしいです。そういうわけで、全体としては私は評価できない、受け入れられない作品でした。

ajian:非常に筆力のある人だと思いました。出だしから乗せられてどんどん読むことが出来ます。印象的な場面も多い。しかし、ただおもしろい読み物という以上のものはありませんでした。とくに後半、リカルドが命を落としてからは、物語の展開が唐突でもあり、また意味がよくわからない場面などもあり、いらないんじゃないかと思います。どうも、作者は無理にドラマをつくろうとしている感じ。そのせいで、登場人物一人一人が物語の駒でしかないというか、登場人物の人生に対する愛情が感じられません。僕は寓話的なものよりは、人間一人一人が描き込まれた作品の方が好きなので、この作品は合いませんでした。無法者と子どもの組み合わせなんていうのは、時代劇のようでもあり、好みの設定でもあるのですが……。なお、殺人者が主人公であることや、セックス描写があることに、否定的な意見がありましたが、個人的には、あっても構わないのではないかと思います。

ダンテス:設定の時点でいやだなと思う人もいるだろうと思いつつ読みました。両親を殺した人と子どもが一緒に住んでいくという。もちろんその場で生きていくしかない極限状態として計算されて作られています。人物では自然にかかわる老人の話がよかった。レンさんの話を伺う前は、作者はフランス語とスペイン語両方ができる人で、南米にも行ったことがあるんだろうと思っていました。

レン:時代設定もわかりにくいですね。ガルシア=ロルカとかネルーダの詩が出てくるので、20世紀後半だと思うんですけど、それにしてはちょっと古めかしい感じもして。

ダンテス:スペイン語の詩が持つ強さというのを感じました。文中に出てきましたよね。南米の突端という設定は、アフリカで人類が生まれて何万年もかけてベーリング海から北米を経て南米の先端に到着したという、究極の場所として表現したかったのかもしれません。

プルメリア:とてもたんたんと読みやすかったです。お父さんとお母さんが殺されて暮らすパオロの心情が不思議。アンヘルの独占欲も気にかかった。殺人者なのに悪く感じなくなっている自分も不思議でした。ルイスがでてきてこの人はやさしさを持っていていいなと思いました。旅先からずっと手紙を送っていたのも誠実な人? 生まれた子どもにアンヘリーナという名前をつけたこと印象に残りました。アンヘルはずっとパオロの中で生き続けるんですね。

ハリネズミ:リアルな地平にある作品ではなくて、寓話だと思って読みました。パオロは、無垢な子どもで存在そのものがまわりの人物たちを変えていくという意味では、キリスト的でもあるし、モモみたいでもあります。リアリティからは微妙にずれているので、かえって現実を考えさせる力を持ってるし、読者の想像力も刺激されますね。訳はすらすら読めたのですが、212pの後ろから4行目「ポール・エリュアード」は、「ポール・エリュアール」ですよね。有名な人なんだから、編集者も気づいてほしい。120pのうしろから3行目「アルミの壁にはじけて砕ける人間でできた大波だ」っていうのは何なんでしょう? イメージがわきませんでした。

ボー:あまりの悲惨さに目をそむけたくなり、何度も読むのをやめようと思いました。いきなり、両親を殺されたり、アンヘルの凶暴さだけが浮き彫りになっているところなどが、読んでてつらくなりました。しかし、なんとなくやめられずに引き込まれ、読み進めていました。そのうちに、キリストのような少年と一緒に暮らすことで、救われ(?)少しずつ人間性を取り戻していく課程は、やっぱりそうなんだと思うし、それなりにおもしろかったです。筆力のある作家だと思いました。リカルドの殺されるところの意味ってあったのかなとも思いました。ギロチンを作るのに使われた木のことを知らせないために殺したのでしょうか? 殺人者を、ここまで前面に出して描いている作品は、児童書としてどうかと思いますが、今の中高生は殺すことの意味がわかっていなかったり、軽く感じている子もいる中で、こういう作品の意味もあるし、また、それほど悲惨に感じなくなっているのかもしれないとも思いました。それと、最後まで、殺人者アンヘルが罪を問われ、救われなかったのは良かったなと思いました。殺人者として、心を入れ替えようと、反省しようと、その罪は償わなくてはいけないという断固たるメッセージが感じられました。

ハリネズミ:私はそんなに残酷だとは思いませんでした。殺す場面が、スプラッター小説と違って詳しく書いてないからです。昔話みたいに、あえてさらっとしか書いてないんだと思います。パオロの親の血がしみこんだテーブルだけはちょっと生々しいんですけど、最後にそれも埋められてしまうしね。

レン:でも、アンヘルは198ページの「おまえに会った瞬間、俺は生まれたんだ」と言う場面で、心情的には救われているんじゃありませんか?

ボー:心情的にはそうだけど、社会的にはやっぱり救われないでしょう。

ハマグリ:あんまりな冒頭に何なんだこの話はと思いましたが、すぐにぐいぐい引き込まれてしまってページをめくる手を止められませんでした。私はランダル・ジャレルの作品が好きですが、それとよく似た寓話的な感じがすごくしました。どの登場人物にもなんらかの寓意があるように感じられます。それなのに、生身の人間の感情の激しさが迫ってきて、ドキドキしました。パオロがはじめて銀行に行って、ふかふかのじゅうたんや冷水機に驚くところや、リカルドの部屋で本棚いっぱいの本、レコードで聴くバッハの音楽などを知るところがとてもおもしろかったです。文化とは何か、言葉の力、音楽の力などを感じさせる描写が散りばめられていると思いました。今までにちょっと読んだことがない種類の本だったし、自分の中でもいろいろに考えが揺れる部分があったので、これをはたして皆さんはどのように読むのか、とても感想を聞きたいと思いました。

すあま:私はあまり手に取らない種類の作品で、ここで取り上げられなかったら読んでいなかったかも。怖い話かと思っていたけれど、残虐だとはあまり感じなかった。冒頭でパオロの両親が殺されてしまうけど、全然しゃべることもなく死んでしまったので感情移入することもなくかわいそうだとも思わなかった。パオロは生まれてきたものの、ぼんやりとした存在、無垢な存在であったのが、アンヘルとルイスと暮らす中でいろんな体験をして悲しみや喜びといった感情をおぼえて、どんどん人になっていく話なんだなと思いました。最後、パオロが18歳になったところは、いつから数えてその年になったのかな、と不思議に思いました。それから、パオロがリカルドの家で幽霊のような子どもたちと遊ぶシーンは、違和感がありました、もうパオロは人間らしく成長していたのに、どうしてまた不思議な子どものように描かれているのかわからなかったです。ラストは、読み手としてはとても救われた気持ちになり、読後感が良かった。やっぱり、読後感がよいのが大切だと思う。

みっけ:パオロが、はじめは白紙という意味では無垢かもしれないけれど、決していい子ではないところがいいなと思いました。この子はあまり表に出したり人に伝えたりしないけれど、それなりに心の中に嵐を抱えているということがちゃんと書かれている。だから、途中でルイスと3人で港町に行ったときに、パオロが崖の上に出て、一方アンヘルが必死でこの子を探し回るあたりも、作者の作為が感じられず、アンヘルという人間が動き、パオロという人間が動いているという感じがした。そういうところがうまいなあと思いました。それと、一軒家で狐を殺す事件にしろ、港町の近くの崖の上での二人のやりとりにしろ、それぞれがまったく同一の視点を共有したとか、互いに完全にわかり合えたとか、そういうことはいっさい書かれていないんですよね。ひょっとしたら見ていたものは違ったかもしれないし、感じていたこともちがったかもしれない。それでいて、その瞬間に二人がとても大切な何かを共有したということは、読者にちゃんと伝わってくる。こういう書き方ができるなんて、すごいなあと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年2月の記録)


ベン・マイケルセン『ピーティ』

ピーティ

くもっち:障碍を持つ人が主人公の話っていうのは、はじめてではなかったのですけど、脳性まひの人に知的障碍があるわけではないというくだりをびっくりしながら読みました。自分の認識不足を改めて教えてもらいました。この作品は、真ん中で2つの物語に分かれていますよね。ピーティの一生を追いかけていく第1部と、ピーティが70歳近くなって、一人の少年と出会ってからの第2部。最初、2部がメインなら、バランスが悪いのではないか、と心配しながら読んでいたのですが、1部で出てくる記憶の断片や思い出の品、親しかった人との再会などがちりばめられていて、2部がとても生きてくる。男の子の両親の描き方が少し雑な気がしたけれど、それすら補うものがあるので、バランスが悪いと思った印象は、撤回しました。トレバーがすごくいい子で積極的なので、こんなに性格のいい子にどうして友だちができないんだろう、というところも不思議に思いましたが、トレバーが抱えている孤独感と、ピーティの生涯がシンクロしていく様子がとてもうまく描かれていると感動しました。ピーティのような人物の心の中でどんなことが起きているのか、そういうことも具体的に場面の中で知っていくことができておもしろかったです。今朝の満員電車の中で最後のシーンを読んでしまったので、目からも鼻からもダーっとなって、大変でした〜。(笑)

レン:引きこまれて読みました。とても興味深い作品でした。まずお話としては、物語の視点がおもしろかったです。ピーティの視点でいろんなものを見ていくんですね。普段の自分とは違うところから見る書き方がうまいなと。また、すべての登場人物たちが、ピーティと関わることで変わっていく。見方や生き方が変わっていくというのがよかったです。そこにピーティの生命力や、希望が感じられました。あと驚かされたのが、この事実。脳性まひだと、何も考える力がないと思われて施設に入れられていたのが、時代とともにだんだんに理解されていく。人権が確立されてから、アメリカでもまだ100年もたっていないとわかって、テーマとしても興味深かったです。ぐいぐい読ませる力があるので、小学生の高学年にも手渡していきたい作品だと思いました。

チェーホフ:脳性まひの人や周りの人々に向けて書かれたものだと思いました。泣かせようという意図は見えず、淡々と続いた日常という感じです。光景が目に浮かびましたし、描写が上手いのだと思いました。後半は環境が変わって社会的に受け入れようという舞台になっているのですが、社会的に生きていくための訓練などはしていない、日木流奈さんの『ひとが否定されないルール』(講談社)という本を読んだことがあるのですが、そっちは訓練プログラムを行っている様子などを写真や文章でご本人が説明していました。脳障碍を負っている方の自伝です。訓練を行っていることで生活感を生々しく感じましたが、多分『ピーティ』ではこのような事があった歴史として書いているのだと思います。それが現状だったのだなと悲しかったです。問題提起を投げかけていると思います。作中でも知らないからピーティを恐れたりしますね、知る、知ろうとすることで自分の世界の見方というのも変わっていくと思いました。

優李:とてもいい本だと思いました。思わず泣けました。子どもたちにも、ぜひ手渡せるように紹介していきたいと思います。6年生は、いろいろな世界の人を知ろう、という学習をするので、いつもそれに合わせてブックトークをするのですが、そのようなときにも取り上げたいと思いました。私が小学生だったとき、仲良しの友だちの弟が脳性まひでした。この本には、脳性まひだからといって知的障碍があるわけではない、と書かれていますが、この部分を読んではっとさせられました。友だちの家族も、もちろん私も、知的障碍があると思って接していたと思います。それと、ピーティの場合、親は彼を施設に預けてしまったら、その後まったく出てきませんね。そのあたりのシステムがどうなっているのか知りたいと思いました。身近に友だちの弟がいた私ですが、ピーティの顔のねじれているぐあいとか、障碍の様子が、文章からだけだとよく思い描けなかった。子どもたちもそうだろうと思うので、なにか、補足の資料があるといいと思います。「人権」ということがきびしく言われている時代なので、表立っては言わないけれど、学校で先生とうまくいかない児童が、陰でその先生のことを「障碍者」と呼んでいることがあります。この本で、子どもたちにとっての「障碍者」へのまなざしが変わるといいなと思います。

酉三:この作品は好感がもてました。冒頭のところで、1920年代を象徴するように車が登場して、その疾走が近現代の疾走を暗示し、そういう新しい時代がやってきたところで、障碍者切り捨てということが行われる。うまいと思いました。ちょっと気になったのは、わが子を施設に入れたにせよ、その後にピーティの親たちがまったく見舞いにもこない、というのには疑問を感じました。

ハリネズミ:私もそこは気になったんです。あれだけピーティに心をくだき、お金もかけて世話をしてきたお母さんが、それっきりになってしまうのが不思議でした。それで関係者にきいてみたんですが、当時は、もうきっぱりと縁を切ってしまうのが普通だったみたいです。

酉三:障碍者の状況ということを考えると、アメリカは日本なんかよりもずっとがんばっていると思っていたが、それでもかつてはこんなことがあったんですね。ということは、逆に言うと、日本だっていずれは展望が開ける可能性があるな、と思いました。

ajian:今朝電車のなかで読み終わって、やはり涙を止めるのに苦労しました。いい本でした。脳性まひの人が身近にいないと、その人がどんなことを感じることが出来るのか、どれぐらいコミュニケーションできるのか、全然知らずに過ぎてしまうと思う。この本は、ピーティの内面をつぶさに描いているのがとてもいい。それから、釣りの場面や、外を歩く場面では、ピーティの感動を、ピーティの身になって味わえます。ああ、こんなふうに感じているかも知れないんだ、と思いました。ただ風を感じるだけのことが、本来はどれほど豊かな体験なのだろうと。また、ショッピングモールの場面は、そもそも「買い物」という行為を知らずに生きてしまう現実がある、ということに、改めて気づかされました。同じ社会に生きていても、同じ場所にいても、全く違うことを感じている人たちがいて、『ピーティ』はそんな一人の人間に焦点をあてていて、とてもいいと思います。

ダンテス:とてもいい本でした。少人数だけどその時代その時代にピーティのことを理解してくれる人が登場してきます。後になってまた出てくるのかなと思っていたら、全員ではなくてオーエンさんが、後で出てきました。後半、引っ越しばかりしている少年が孤独を背負っていて、ピーティのお世話をしながら孤独感からも抜けられ、またそのおかげで女の子と出会うというのもいいのではないかと思いました。1990年代、アメリカで新聞記事に訴えて寄付を募るということもよく目にしました。後半は少年の成長物語として読んでもいいのでしょう。それにしてもピーティという人物を魅力的に描いています。

プルメリア:ピーティの様子がきちんとえがかれている。カルビンとの仲のいい様子もとてもいい。2部ではトレバーによって、再会の機会が作られたり、新しい体験もたくさんできる。終わり方もいいですね。ピーティの家族については、話を聞いてわかりました。今は障碍者という言葉は使わず、「体の不自由な人」といいます。学校では交流する機会もつくっています。子どもたちは最初は「こわい」という印象なんですが、慣れてくると一緒に楽しく遊べます。いろいろな人がいる社会。こういう作品は映画になると広く知られるようになって、いいのでは。周りが受け入れてくれないととても狭い世界にとじこめられるようになるので、たくさんの人に理解してもらうことが大切だと思います。

ハリネズミ:この作品では、『殺人者の涙』のパオロと同じような役割をピーティが果たしているんですね。いるだけで、まわりの人たちに何かプラスの作用を起こすことができる存在。それに、今回の課題本は3作とも、血のつながった家族より血のつながらない家族が重要な意味をもってますね。この著者には「かわいそう」という視点がまったくないので、そのおかげで、ピーティやカルビンの心の機微が読者にもストレートに伝わってきます。最初は、キャシーがピーティに「ハンサムだ」と言ったりする場面に残酷な感じも持ったのですが、よく読んでみたら、キャシーが本当にピーティを愛していたことがわかりました。またピーティとカルビンの友情にしても、図式的ではなく、時にはピーティがうんざりしたり、カルビンにマッシュポテトを顔にぬりたくられてピーティが悔しがったりする場面もちゃんと書かれています。著者のホームページを見ると、ピーティのモデルになった人と親密なつき合いをしていたということなので、実体験から来る重みのあるリアリティなんだなと納得しました。同じ著者の『スピリットベアにふれた島』(原田勝訳 鈴木出版)にも、クマと暮らしていた著者ならではのリアルな描写があります。去年読んだ翻訳作品のなかでは、これがいちばんおもしろかった本です。

ボー:非常におもしろく読んで、感動的しました。前半と後半での落差がとても大きかったです。前半は、後半をより説得力もって伝えるためにあるように感じました。物語は、後半になって動き始め、おもしろくなります。前半を読みはじめたときに、障碍者の話なので子どもにはとっつきにくいかなと思ったり、これだと子どもは最後まで読み続けられるかなと、ちょっと心配しました。読んでほしい子どもたちは、小学校4年生くらいから上でしょうか? 文体を考えても、読者対象は、そのくらいかと思いますが、その年齢の子たちに読んでもらうことを考えると、この前半は、もっと短くするとか、構成を変えるとか、工夫が必要だと思いました。

ハリネズミ:ネズミが食べこぼしを目がけてやってくるところとか、ネズミを殺させないためにピーティががんばるところなんかは、子どもが読んでもじゅうぶんおもしろいと思うけど。

ボー:でも、全体にもう少し短いといいなと思います。子どもの読解力や、読者対象を考えると、小学校高学年くらいを考えて書いていると思うんですね。YAといっても、高校生には、文体がちょっと幼いと思うんです。

ハリネズミ:私は、前半も長いとは思わず、はらはらドキドキしながら読みました。ピーティに一体化して読めば、中学生ならだいじょうぶなんじゃないかな。文字の大きさや長さからして小学生向きに作られた本ではないでしょう。プロットだけじゃなくて、ディテールでも読ませて、しかも読者の世界を広げることができる作家って、なかなか日本にはいませんね。

ハマグリ:私もネズミのところは目に見えるように書かれていて、ユーモアもあって楽しいところだなと思いました。みなさんが言ってないことを言うとすると、ピーティと関わる人がたくさん出てくるんだけど、その人たちもみんな貧しかったり移民だったり、過酷な状況を懸命に生きている人ばかり。そういう人たちが、自分よりもっと過酷な状況下にあって、自分が世話をしなければ生きることができない無力なピーティから、逆に生きる力や愛情を受け取るというところに感動しました。ピーティの境遇は悲惨なんだけれど、冒頭で両親がこの子をとても愛していたということが書かれている。愛しているけれど財力もなく仕方なく手放すわけですが、無償の愛情をそそいでいた。だからピーティが洗礼のときにもらったことばを額にいれて、手放すときにずっとこの子を守ってくれるようにと祈りをこめて持たせるわけですね。もちろんピーティはそのことを知る由もないけれど、読者はそれを知っていることで気持ちが救われるんです。みなさんが言ったように、ボーズマンに戻ったところで、私もまた両親との接点があるのかな、と思いました。ピーティが男の子と女の子と遊んでいる夢を見る場面がありますが、私はこれはお兄さんとお姉さんなのかな、と思いました。だからボーズマンにもどったとき、両親はもういないかもしれないけど、お兄さんとお姉さんが出てくるかと期待してしまった。トレバーの登場では、この子はお兄さんかお姉さんの孫なんじゃないか、なんて考えちゃった。何の関係もなかったのはちょっと残念。トレバーの両親が急にいい人になってしまうっていうところ、私はちょっとホッとしました。子どものことを理解できなかったのは生活が忙しかったからであって、子どもの姿をまのあたりにするとちゃんとわかる人たちだったんだな、って思えたのはうれしかったです。

みっけ:とてもおもしろい本でしたし、つくづくじょうずな人だなあと思いました。私は、前半の長さはやはり必要だったと思います。ピーティにとって、いい人が現れては、自分が好きになる頃にはまたいなくなってしまうということが延々と繰り返される。そのつらさや、それによっていっそもうこの先は心を閉ざそうという気持ちになるあたりがきちんとこちらに伝わっているからこそ、後半のトレバーとの出会いやそこに賭けたピーティの気持ちが重みを持って心に迫ってくるんだと思います。しかもこの作者は、エピソードを上手に選んで、読者が繰り返しに飽きないように、工夫して読ませている。だから前半を読み終わった段階で、自分からはほとんどアクションを起こせずに、ただ去っていく人たちを見送るしかないというピーティの不自由さ、不自由な体に閉じ込められた人のじれったさが、読者にも共有できる。それと、刈り込み方が上手な作家ですね。伝えたいことをきちんと伝えるために、自分が選んだ題材のどこにどういうふうに刈り込んでいけばいいのかをちゃんと把握していて、それに沿ったエピソードを選び、物語を構成している。作者自身も言っておられるようだけれど、これがフィクションだというのは、そういう意味なのだと思います。それに、これだけ強烈な題材だと、ついつい対象の心の動きなども、あれこれ想像をふくらませて書き込みたくなるけれど、この人はいっさいよけいなことを書いてない。その点では非常にストイックだなあと思いました。だからこそ、読む人にも脳性まひの人はきっとこう感じているに違いないと思え、物語にリアリティがある。この本を読み終わると、ここにいるのは、体が不自由なだけでなく、おもちゃの拳銃で遊んだり、映画は西部劇だ大好きだったり、ときにはいたずらをすることもある、いろんな面を持っていて、いろいろなことを感じているひとりの人間なんだなあ、とつくづく感じる。それがこの物語の力なんでしょうね。トレバーの親のことがあまり書かれていないのは、後半でトレバーとピーティの関係にぐっと焦点を絞った結果、この程度の書き方になったのかな、と思うし、それでいいような気がします。

すあま:この本は人から紹介されて読んで、こういう人生ってどういう感じなんだろうってずっと考えていました。生まれたときからこの状態だったわけで、彼にとってはそれが普通であり、まわりの人が思うのと本人の感じは違うのではないかと。それから、この物語は1部と2部に分かれているのがいいなと思いました。子どもが読むとしても、1部はピーティに、2部はトレバーに気持ちをおいて読めるので、共感できるのではないかと思います。1部が読みにくいというなら、2部を先に読んでみてもいいかな、とも思いました。まあ、最初から読んだ方がよいわけですけどね。ピーティは最後に亡くなってしまい、読んでいる方もつらい気持ちになるけれども、読み終わったときに温かい気持ちになれるいい本だと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年2月の記録)


ニック・シャドウ『ニック・シャドウの真夜中の図書館』

ニック・シャドウの真夜中の図書館

サンザシ:忙しいなかで読んでいたので、読み始めてすぐに時間の無駄だなと思いました。今回のテーマとも違うし、深みもないので、この会で討論するような本じゃないと思ったんです。書名に図書館と書いてあるけど、図書館とは関係ない。暇つぶしに怖いものを読みたいならいいですけど…。翻訳も何カ所かわかりにくいところがあります。たとえばp176ですけど、3行目の「いうって、だれがいうんだよ!」がしっくりこないし、最後の行に「ずたずたになったプライドをなぐさめたかった」とありますけど、これくらいでずたずたになる? ティムたちがリンゴの木になってしまう、というアイデアはおもしろいと思うんですが、ティムは最初のほうでビル・コールをひどく怖がっているのに、後半は、これでもかこれでもかとビルに対して嫌がらせをしている。これでは、読者がティムの心理に同化できないので、怖いポイントを怖がるだけの本でしかない。キャラクターの心理の動きを読者の想像に任せる漫画なら、いいと思うんですけど、物語の本である以上、キャラクター設定くらいはちゃんとしてほしかったですね。

ハマグリ:子どもが手に取りやすい装丁で、図書館でもかなり借りられている様子。期待して読んだけれど、一話目の最後であれ、何これ?と思いました。真剣に読んで損したなという感じ。こんな終わりでいいのでしょうか? 衝撃的な結末が売りの話で、そこがおもしろいと思う人もいると思うけれど、私には読後感が悪かったです。

優李:出てすぐに、題名に惹かれて読みましたが、いただけないと思いました。もともとホラーは苦手なので、こういう安手のものだと全然ダメ。「無理!」です。登場人物が、あまりに簡単に無残な死を迎えることになるのが、非常に後味悪いし、うちの図書室には入れていません。ただ、中学生には人気があり、一時、兄弟関係のある小学校高学年からのリクエストが多くありました。地域図書館でもよく借りられているようです。

メリーさん:この本は相当売れて話題になったことを覚えています。続巻もたくさん出ていますよね。子どもたちは本当に怖い話が好きなのはわかるのですが……。これは後味が悪く、ただ怖いところが強調されているだけで、あまり残るものがありませんでした。オチもあるような、ないような……。

チェーホフ:最初図書館で借りようと思ったけど、4人待ちでした。サスペンスホラーなのかなと思って登場人物を書き出していったのですが、意味なく登場人物が多かっただけだったらしく無駄に終わりました。誕生日の祝いという理由でひとりで墓参りに行かせるというところの意味が分からないし、父親がいるのに女の子一人だけで行かせるのは現実感がない。ほおにキスをするとうつる、というところも疑問だし、設定があまり練られてない。全体的に救いようがない話。こういうものを子どもに読ませたいとは思いません。

あかざ:私はホラーが大好きなので、はりきって2冊借りてきました。でも、1冊目を読んだら後味が悪くて、2冊目は読む気がしません。1話目は怪しい声が聞こえる話、2話目は「赤い靴」のように物がたたる話、3話目は異物に変えられてしまう話と、いままでによくあるさまざまのホラーのパターンを使ったホラー入門書のようですが、主人公が最後に必ず死んでしまうというところが、このシリーズのミソというか売りのようですね。でも、だいたい物語というのは、読者が主人公の気持ちに寄り添って読むものなので、最後でショックを受けるでしょうが、はぐらかされたような気もするのでは? 大人も子どもも、怖いもの見たさというか、どんどん残酷なもの、刺激の強いものを求めるようなところがあるから、そういうものは売れるでしょうけれど、出版社は本当に子どもに読ませたいと思ってこのシリーズを作ったのかなあ? それに1話目のように、特別な才能があるゆえに魔女とされてきたような人たちの子孫が、その才能のために抹殺されてしまうような話の運びは不愉快で、作者がそんな発想をすること自体がホラーだと思いました。ホラーにも作者の人間性というか、そういうものは現れると思うんですよね。スティーヴン・キングはもちろん、鈴木光司の作品や、映画の「オーメン」などにもそういうヒューマンなものを感じるんだけど、この本は、ただ怖がらせようとしているだけの、悪趣味な作品に思えます。ラヴクラフトやダンセイニのように、独自な世界を創りだしているわけでもないし。

プルメリア:昨年担任した6年生の女の子が2人、はまっていました。本を購入しシリーズで読んでいました。表紙の絵がいい、持ちやすい、内容が3つにわかれていて読みやすい、というのが理由のようです。今年度、赴任した小学校にはシリーズで入っていました。担任している4年生の子どもたちに薦めましたが、自分で読んでみて難しかったので、ちょっとよくなかったかなと反省しています。6年生ならわかることでも、4年生には場面設定が難しいし、アメリカの風景も想像することができない。作品を読んでみて話の先が見えづらい。リンゴの話は、過激な話ですね。おばあさんが、おじいさんの死んでしまった理由がわからないのは不思議です。これでいいんでしょうか? 怖い話は子どもたちに大人気で、いろいろな本があります。

うさこ:この本のどこが読者をひきつけて、書店でよく売れているのかを探ってみようと思って読んだのですが、読んだ印象は、スピードを出した車に乗ってあるスリルを味わったり途中どきどきするけど、あとは何も残らないなあ。実際の読者の子どもたちは怖いね、こんなことが身近にあったらどうしよう、というように現実には起こらないということを前提にしながら、単純に楽しんでいるのかなと思いました。大人には、読後の後味の悪さだけが残るんだけど。

サンザシ:怖いものを読みたいという子どもの心理につけこんで儲けようとする意識が、嫌だなと私は思うんです。

プルメリア:この物語を実際の事件と重ねてしまうといけないなと思いました。『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ著 あかね書房)が怖いという子もいるんですよ。

コーネリア:6年生で、表紙の絵がいいといったのは男の子ですか?

プルメリア:女の子です。男の子は、本が薄いということと、内容が怖いということで、手に取るのでは。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年1月の記録)


柏葉幸子『つづきの図書館』

つづきの図書館

ハマグリ:まず発想がおもしろいですよね。子どもは小さいころ1冊の本を繰返し読んで、自分も主人公と一緒に物語の世界に入り込むということがあるけれど、それとは逆に本の中の主人公が、それを読んでくれた読者のその後を知りたいと思う、というところが斬新で、いいなと思います。桃さんの人生という枠の中に他の人の人生がからめてあるので、構成は複雑だけれど、おもしろく読めると思います。ただ、本の主人公が知りたがった読者のその後の姿に、少し違和感がありました。継母が、実子ではない子に対する気持ちや本当の親への微妙な対抗心など、大人でなければわからない感情が多々出てくるんですね。子どもの読者にとって、どうなんでしょう? わからないことはないけど、おもしろくはないのでは? よく知られた絵本が出てくるし、物語の設定も子どもには入りやすいのに、気持ちの描写のところは急に大人っぽくなる。そんなに大人になったところまでたどらなくても、もう少し子ども時代に近い、中学生くらいの将来の姿のほうが子どもにはおもしろいと思います。山本容子さんの絵もよかったので、それが残念。

コーネリア:子どもの本なんですが、主人公がおばさんというのがユニーク。設定が面白いですね。本の続きを読むのではなく、本を読んでいた読者の続きが知りたい、というちょっとひねった発想はとてもいいのですが、物語があまりおもしろくない。はじめの方は、設定がおもしろいので、どうなるのかなあと読み進められますが、設定が発展しなくて、後半はパターンにはめようとしているゆえに、物語がおもしろくなくなっているきらいがあると思いました。家庭環境については、大人目線ではないかという意見がありましたが、子どもは意外とわかるんじゃないかと思いますう。でも、それがおもしろいかどうかは、疑問を感じるところ。山本容子さんの絵は、すてきでしたが、この絵も、大人好みなのかしら?

プルメリア:物語の主人公が出てくるのがおもしろいと思いました。主人公たちが会いたがった子どもが成長してからの大人の生活や大人の女性の感情は、子どもにはわかりにくいでしょうが、子どもはドロドロした大人の世界を取り入れたドラマも好きなので、本やテレビを通して、子どもがそういう感情も学んでいくのでは? 各章の冒頭にある手紙が、だんだんと明るい文章になっていくのがいいです。主人公桃さんの挿絵も最後になるにつれて明るい表情になっていく。登場してくる主人公に重ねて子どものときに読んだ本を思い出しました。

サンザシ:私も発想はおもしろいなと思ました。はだかの王様やオオカミや幽霊が本から出て来てうろうろしてるところを想像すると笑っちゃいますよね。ただ、主人公が読んでくれた人を探すという要素と、その後のいろいろな家庭の問題が、ややちぐはぐになっている印象を受けました。主人公が読者だった子どもを捜す、という点に集中すれば、中学年向きのもっとおもしろい作品ができあがったような気がするんだけどな。

あかざ:みなさんがおっしゃるように、本の登場人物が読者を探したいと思うというアイデアは、とてもおもしろいと思いました。私も子どものとき、本を閉じているときは、本の中の人たちは何をしているのだろうと真剣に考えていました。本を閉じているときは別の物語が進行していて、開いたときに初めて、よく知っている物語がまた始まると思ってたわけね。そういう発想を逆転させたというところが、すばらしいと思いました。ただ、そういう子どもが喜びそうなアイデアで始まった話がたどりついた先は、大人の人間関係のごたごたやらなんやらで、子どもは退屈してしまうのでは? それに登場人物が探したい子どもがその本を読んだのは何年も何年も前だから、探しあてた、大人になった子どもたちの話は、アクションではなくて説明になっている。だから、よけいに退屈なんじゃないかしら。アイデアはおもしろいけれど、構成に大きな問題のある作品だと思います。小学生向けのようでもあるし、『食堂かたつむり』(小川糸著 ポプラ社)のように、癒されたい願望の大人が読む本のようでもある。どんな読者に向けて書いた本なのかしら? もしかして、子どもが本を読んだときからさほどたたない時点で、登場人物が読者探しを始めれば、もっと子どもたちにも楽しめる本になったのでは? きわめて個人的な感想ですけれど、本のなかからメタボのはだかの王さまが出てくるというの、感覚的にノーでした! なんで『はだかの王さま』なの?

ハマグリ:絵柄としておもしろいんじゃないですか?

みっけ:p49ページに、父がはだかの王様に見えて……という言葉があるから、とってつけたみたいだとしても、一応理由はあるんだと思いますけど。

ハマグリ:作者は、本の中の主人公のことを書きたかったというより、大人の後日談を書きたかったのではないでしょうか。

コーネリア:どちらも書きたかったのでは?

みっけ:発想がいいという皆さんの意見には大賛成です。すごくおもしろい。それに、はだかの王様やオオカミが出てきてと、ちょっとはちゃめちゃな予感がしてわくわくしたんだけれど、それが尻すぼみになってる。発想の勢いそのままにぐいぐいと話を転がしていけばよかったんじゃないかと思います。それが、実は大人になってから振り返るとこうなっていて、みたいなことを後半で説明してしまう。理に落ちるというか、2時間ドラマの最後の断崖絶壁場面みたいな説明になっていて、がっかりでした。もっとユーモラスなお話にできたはずなのに、なんかウェットなんですよね。子どもってこんなにウェットじゃないですよ。それがとってもいや。やっぱりみなさんがおっしゃるみたいに、最初は子どもに寄り添っていた目線が、後半で大人目線になってしまっているんでしょうね。

コーネリア:そういうアイデアをもう少しいかすと、もっとよかったですね。

サンザシ:これはYAではないんですよね? YAなら、はだかの王様じゃなくて、もっと違う本が取り上げられるんでしょうね。

みっけ:最初のお話だったと思うんだけれど、王様が探している子どもだけでなく、お母さんも出てきたりして、ちゃんとつじつまを合わせてある。それに、最後のお話では図書館員の桃さんの息子まで出てくるじゃないですか。全体がウェットなものだから、そういう工夫もわざとらしく感じられてしまいました。

チェーホフ:愛にあふれた作品だと思います。『牡丹さんの不思議な毎日』(あかね書房)など今までの作品の中では、牡丹さんという大人ではなく「牡丹さんの子ども」の視点で描かれていたりしましたが、本作は大人の視点で描かれていて、新しい試みだと感じました。全体としてはよかった。とても面白かったです。

メリーさん:物語の登場人物のキャラクターと、現実のキャラクターがとてもよく描かれているなと思いました。本の世界と現実の世界をうまくリンクさせていて、おもしろく読みました。人が本を選ぶように、本も人を選ぶ……本との出会いは、人と人との出会いに似ているなと改めて感じました。物語が進むにつれて、桃さんも次第に元気になっていく。それが各章の冒頭の手紙に現れていて、だんだん長くなっていくという設定もいいなと思いました。ただ、これを子どもが読んでわかるかというと、この本も人を選ぶのではないかと思います。本がある程度好きな大人である自分がこれを読むと、本との出会いの不思議さ、大切さがよくわかります。けれど、子どもはどこまで共感できるのか。個人的には「本の話が出てくる」本は大好きですが、子どもたちに読書の楽しみを伝えるには、「本がいいよ」と本の中で言うのではなく、物語そのもののおもしろさで伝えるのがいいのではないかと思いました。

優李:本の主人公が「読んでくれた人を探す」というのは、ミステリー仕立てでおもしろいと思いました。本が好きな高学年の女子何人かに「モニター」になってもらっての感想は、「表紙の絵がいい」「色も楽しそう」「ロボのキャラクターが好き」「桃さんがもう少し若くてお姉さんでもよかった」「最後の章のところは、わかりづらかった」などなど。絵本や物語を題材にした設定なので、中学年の子にも広げていけるものになっていればもっとよかったなあ、と残念です。

コーネリア:文字の大きさは小さい?

優李:文字の大きさは、ものすごく小さくなければ、みなあまり気にしませんが、3,4年生以降に習う字については全部「ルビ」がほしいですね。高学年でも本がそんなに得意じゃない子にとっては「ルビなし漢字の本」は苦手ですし、高学年向きのよい本も「ルビあり」なら中学年以下の児童にも薦められます。

うさこ:本や図書館が大好きな人だからこそ、この発想がでてきたのかなというのが第一印象です。桃さんや出てくる大人がどことなく不器用なところがとてもよかったな。現実は、子どもだけでなく、大人も迷いながら生きていてうまくいかないことが多い。子どもの読者にそういうところはちゃんと伝わったのではないかと思います。絵本の主人公が捜している子たちがみな、家庭に事情があったという設定だけど、その「事情」がもう少しバラエティに富んでいてもよかったのかなと思いました。山本容子さんの表紙、挿し絵は悪くないけど、読者の子どもにどれだけ受け入れられるのでしょうか。

優李:本好きの6年女子は「かわいい」と言ってました。

あかざ:子どもって、小さい物がたくさん描かれてる絵が好きですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年1月の記録)


N.E. ボード『本だらけの家でくらしたら』

本だらけの家でくらしたら

プルメリア:この本を手にするのは今回で2回目です。生まれたときから一緒に暮らしていたとってもまじめな家族が変わってしまい、おとなしかった男の子が元気になる展開がおもしろい。ときどき魔法が出てくるのも、おもしろさにつながってます。おばあちゃんに会いたい女の子が、自分の居場所を見つけるのがテーマの、成長文学なのかな。明るい挿絵がいい。最後に紹介されている作品にでてきたリストから、本を読みたくなるのではないでしょうか。

コーネリア:表紙も楽しそうだし、おもしろそうな気がするなと思って読み進めていたのですが、どうもお話の世界に入り込めなかった。このハチャメチャな感じ、荒唐無稽な感じについて行けないのかな……ファンタジーが苦手だったのか……。つかみ所のないお話でした。

ハマグリ:本を開くとコオロギが出てくるというように、冒頭から突拍子もない出来事が描かれているし、挿絵もファンキーだし、これは奇天烈な話だな、と覚悟して読んだので結構楽しめました。でも全体の雰囲気と違って、テーマはお母さんを探す、自分の居場所を見つけるという王道なんですね。中でも本だらけの家のおばあちゃんがおもしろくて、本好きかどうかのテストだといって、その本を読んでいないとわからない質問をする。本の中で本のおもしろさを伝えているのが楽しかったです。挿絵はアニメーションを見ているようなテンポの速いものだと感じました。

優李:かなりめちゃくちゃな設定と思って読み始めたので、わりと楽しく読めました。魔法の秘密の書や、自分の居場所探しなど、テーマが多すぎる感じがします。ただ、何度も出てくる「何ごともありのままではないのでは」の『ありのまま』にひっかかりました。この場合は「見た目」ということなのでしょうが、「ありのまま」と「見た目」は違うので、日本語としてはヘンです。最初、主人公の養親(?)の会計士夫婦が、あまりにも現実離れした無機質な書かれ方で、こんなので子どもはついてこれるのか?と心配になりましたが、子どもたちは意外に平気で気にしないようでした。それより「本のテスト」のところ、女子はなんとも言わなかったけれど、男子の中には「なんかいやだ」といった子が何人かいました。作者の言葉が作中何度も出てくるところは、ちょっとおせっかい過ぎの印象です。私は苦手です。

メリーさん:主人公が魔法を使えるようになるまでの前半はちょっとまどろっこしいのですが、後半、話が回り出してからおもしろくなりました。(「ここからが話が急展開します」というところあたりから)。なので、主人公にいろいろな目的はあれど、実際に魔法を使って何かするというところをもっと読みたかったなと思いました。そして、作者のコメント、ト書きのような部分ですが、先に種明かしをしてしまっているところが何か所かあって、もう少し効果的に使ったらいいのになと感じました。

チェーホフ:地の文は読みやすいのですが、途中で出てくる作者の言葉が嫌でした。物語の世界に入り込めても、作者の言葉に邪魔されて冷めてしまう。おもしろい雰囲気があるけど、最後まで読んでやっぱりつまらないかもと思ってしまいました。話が盛り上がるシーンが遅いのかもしれません。絵が可愛いなと思いました。

みっけ:とにかく、作者のセリフがうるさくて! どこかでちょっとだけ出てくるくらいならいいんだけれど、あれこれ物事を説明しすぎ。こんなふうに作者がしゃしゃり出てきてあれこれ説明するくらいだったら、地の文とか台詞とかに織り込むくらいの工夫をしろよ!と思いますね。それに、まるで物語とは関係のない、自分の大学時代の教授の話が出てくるでしょう? せっかくこっちが物語世界に浸れそう、と思ったところで、そのたびに腰を折られるものだから、ひどくイライラしました。魔法があってぶっ飛んでいる話はけっして嫌いではないけれど、この話は物語としてきっちり固まっていない感じで、おもしろそうなことがあれこれ寄せ集めてあるだけという印象。これだけいろいろなことが起こっているのに、勢いよく読み進めるという感じじゃなかったです。

あかざ:「とっちらかった本だな」というのが、まず第一に感じたことです。本当はおもしろい本なのに、自分の頭がとっちらかっているからそう思うのかと不安になりました。最初の部分の、退屈きわまる夫婦に育てられている子どもの様子を見に、魔法の世界の者たちが姿を変えてやってくるというところはハリポタとそっくりで、すでにこういう書き方がひとつのスタイルになっているのかと、ちょっとショックを受けました。語り手がときどき姿をあらわす手法は、児童劇などによくあるのでさほど気にならなかったけれど、ストーリーがとっちらかっているのを、これで立て直しているのかなと、ちょっと意地悪な見方もしてみたくなりました。とにかく、あれやこれや盛りこみすぎていて、はたしてクライマックスはどこなのかなと思いました。それから「ダレデニアン」は、誰にでもなれる術ってことですよね。それだったら、マイザーもある程度できているので、必死になって秘密の書を探さなくてもいいし、主人公たちも、世界がひっくりかえる一大事のように騒がなくてもいいのでは? 「ダレデニアン」と出てくるたびに、「なんでやねん!」と、思わずつぶやいていました。私も、この物語のキーワードのように出てくる「なにごともありのままでではないのでは……」という言葉には首をかしげました。「ありのまま」というと、「ありのままの自分でありたい」というように、いいイメージで使うのでは?これは、なにごとも見た目とは違うという意味なのでしょうか? また、訳者あとがきに、終わりの部分でドラジャー夫妻も別の顔を見せるとあったので、もう一度読みかえしましたが、結局サルになったというだけですよね?

サンザシ:あまり出来のよくない本だな、と思いました。リアルなキャラクターはひとりも出てこないわりに、筋書きがばかまじめなので、私は楽しめませんでした。はちゃめちゃなキャラならば、そういうふうに物語も進めばいいのに、そうではない。作者がたえず顔を出して何か言うのも、やたらうるさくて私は嫌でした。ハマグリさんは、本好きかどうかのテストが楽しいとおっしゃってましたが、単なる知識テストに過ぎないでしょ。知ってる子には優越感、知らない子には劣等感をあたえるだけなんじゃないかな。主人公が窮地に立ったときに、何かの本の中身を思い出して切り抜けていくという設定ならまだしもですが…。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年1月の記録)


宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』

ステップファザー・ステップ〜屋根から落ちてきたお父さん

プルメリア:宮部みゆきさんは好きな作家さんの一人です。以前、講談社文庫で読んだときはおもしろいなと思ったんですけど、その後、小学校の学校図書館に購入した今回の本(講談社青い鳥文庫)を手にしたところ、以前の本と比べてしまい、挿絵がないほうがいいかなと思いました。小学校では高学年の女子に人気がありよく読まれています。今回あらためて読みましたが、あまりおもしろくなかったんです。双子の会話が作った感じで、自然体ではないように思えました。私の学級の子どもたち(小学4年生)に出だしを紹介したところ、男子から「『お父さんとお母さんが出てった』って、そんなことしていいのかな」という声が出ました。本を読んだ男子は「字が細かいし、書いてある内容がわからない」と言っていました。男子に比べて女子は「おもしろい。絵も好き」と人気でした。「ワープロって知っている?」と聞くと「国語に出ていたよ」との返事。国語の教科書に点字ワープロが出ていたので、パソコンとワープロの違いを言わなくても抵抗はないようです。私は最初のお話の鏡の世界がまあまあかなと思いました。挿絵では主人公が中1には見えない。中学生が読むには間延びしちゃうかな。

クモッチ:宮部みゆきさんは大好きなので、この本も普通の文庫で読みました。他の作品と違って軽く読めるので、読んでいるときはすごく楽しくて、読み終わるとすっかり忘れてしまう、という感じ。それはそれで、読書の楽しみ方の一つですよね。だけど、今回課題本になったのでもう一度読み返したのですが、あまり覚えていなくてあせってしまいました。このシリーズのものであれば、もうちょっと短くてコンパクトにしたほうが、よかったのでは、とも思いました。赤川次郎さんの作品を読んでいる感じでしたね。決して大人も完璧な存在ではなくって、しかも殺人みたいな事件がちゃんと起こっているところなどが、そんな印象でした。

アカザ:私も、たしか前に読んだと思うのですが、すっかり忘れていました。宮部さんの作品は、どれもくっきりと覚えているのに。この作品は、もともと子ども向けのものではなくて、普通の軽いエンターテインメントとして書いたものを青い鳥文庫に入れたのではないかしら。使っている言葉もそうですが、設定も子ども向けにはどうかなと思うようなところがありますから。双子の子ども自体に作者の思い入れがあるわけでもなく、かといって語り手の「おれ」に思い入れがあるわけでもなく、ただ面白いものを軽く書いたって感じ。文章はさすがに上手いなって思いますけど。

ハマグリ:主人公の一人称で書いている饒舌な感じがとってもおもしろくて、最初は楽しく読んでいたんですけど、同じようなパターンの章が続くので半分くらいで飽きてしまって、ちょっと退屈になりました。お父さんっていうには若すぎる主人公が、最初はちょっと閉口していた双子にだんだん情が移ってくる感じがおもしろかったです。でも全体に設定が絵空事っぽいのは否めない。子どもの読者は、全く子どもだけで暮らすなんてことができるといいなと思って楽しく読むだろうけど、偽札のところとか、ちょっとありえない設定も多かったと思います。絵に描いたお札が偽札だとわからないなんて……。最後は、実は主人公は双子にだまされていたというどんでん返しがきっとあると期待して読んでいたら、違ったので残念。そう思ったのは著者がミステリーだって言っているからなんですが、これではあまりミステリーの楽しさはないと思いました。5,6年生が気軽に楽しく読めて、このくらいの分量のものをとにかく1冊読み通したって思えるところはいいかな、と思います。子どもが使わないような四文字熟語とか言い回しとかが出てくるのも、大人っぽいものを読んだなって気持ちになるんじゃないかと思います。

ひいらぎ:宮部さんはけっこう好きなんですが、これはあんまり。すべてが絵空事という感じが最初からしてしまって。双子の子どもは、会話も絵も中学生には思えないし、どうも落ち着かないんですよね。さっき青い鳥文庫版は大人版のをベースに加筆したんじゃないかっていう話がありましたけど、逆に大人向けに出ているものから、6話だけをとったんじゃないの? 大人向けはもっと長くて、そっちを読んだら、物語としても腑に落ちるのかな、と思いました。中途半端感が少なくてね。プロットはそれなりにおもしろそうなんですけど、この版で読むせいか、キャラがどうもペープサートの紙人形が動いているみたいで。それから、双子が台詞を立て続けに言うところは、カギ括弧の前に句点がどれも入っているせいで、勢いがそがれちゃってますね。

アカザ:本好きの子どもって、とにかくなにからなにまで手当り次第にどっさり読むってことがあるでしょう? 私自身も子どもの時そうだったし、子どもたちにもそうしてもらいたいから、そういうときに読むにはいいのかなと思います。

ハマグリ:これって雑誌連載だったのかな? 章の頭に状況説明が同じように繰り返されるでしょ? 雑誌で毎回読んでいったらおもしろいのかもね。

クモッチ:宮部みゆきさんの作品への入口、って感じになったらいいですね。これ読んでから次は『龍は眠る』(新潮社)とかね。青い鳥文庫を書かれている作家の方で、作品中にミステリーの古典についての話をちょくちょく入れる方がいますが、宮部みゆきさんもそうで、『Yの悲劇』(エラリー・クイーン著 早川書房)とか、「87分署」(シリーズ。エド・マクベイン著 早川書房)とかいった言葉を意図的に入れていて、そういうところに、これからの読者への思いを感じますね。

アカザ:今月のキーワード「お父さん」だったんですよね。お父さんの部分はどうですか?

ひいらぎ:独身の主人公が最初は双子が迷惑なんだけど、だんだん情が移っていくってだけで、お父さんについて深く書いてるわけじゃないですよね。

すあま:以前大人の本として読んでいたので、子どもの本で出ているのに違和感がありました。双子が登場するので子ども向けでもよい、ということなのかもしれないけれど、それにしてはあまり活躍しない。あくまで主人公は急にお父さんになってしまった大人の男の人なので、どう捉えてどういう感想を言えばいいのかわかりませんでした。

キノコ:楽しく読んだんですけど、やっぱり子どものための作品とは違う感じですね。青い鳥文庫に収録して、主に小学生向けというのはちょっと疑問でした。中学生くらいだと、この作品も普通の文庫で読めるだろうし。父親となることに関していえば、主人公の心境の変化も、浪花節的な、ある種の型どおりの描き方で、児童書に出てくる「義理の父親」にはあまりない軽さがありますね。

すあま:別に子ども向けで出さなくてよかったのにね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年12月の記録)


ジャック・ギャントス『父さんと、キャッチボール?』

父さんと、キャッチボール?

レン:おもしろく読みました。どうしようもない強烈なお父さんで、こんなお父さんいたらどうしよう、うちのお父さんのほうがまだましだ、と子どもは思うんじゃないかな。この子がこのお父さんと最後どうなっちゃうんだろうというのが知りたくて、読んでしまいました。物語の力でしょうか。翻訳も軽やかで、文字がつまっているのにすらすら読めました。ただ、最初の本を読まずにこれだけ読んだら、ちょっとわかりにくいんじゃないかと思うところがありました。例えば、この子が貼ってる薬のところ。薬がないとどうなっちゃうんだろう、とこの子はすごく心配するんだけれど、この本から読んだ人にはわかるかなあ。また、大人が読めば、あとがきもあるし、この子は発達障がいだろうかとなんとなく勘づきそうですが、子どもが読んだらどんな印象になるのかは想像がつきませんでした。親子のあり方として、こういう生き方もあるのかと思うのかな。

クモッチ:「ジョーイ」の話は、今回1巻目から読ませてもらいました。1巻は自分に対して不安を持っていて、薬などにより自信を取り戻していく話。それに対して、2巻はジョーイがいちばん真っ当なくらい。ここまで周りの大人がはちゃめちゃな作品って、あまりないのでは。2巻では、お父さんやお母さんに愛してほしいと思うジョーイの気持ちが切ないですね。普通の子よりもいろいろ考える子になっている印象ですが、本当のところ、薬によって、こんな風になるのかな、と不思議に感じました。ADHDに対して正しく理解できているか、不安なところもありました。最近、よく話題に上ることだけに、正しい理解につながっていくといいんだろうな、と思いました。ストーリーについては、スピーディーだし、おばあちゃんも強烈だし、はらはらして一気に読ませるところがあります。深刻なんだけど、笑えるところもあるし。ただ、おばあちゃんの肺の調子が悪くて酸素を引いてゴルフに出かけて大変なことになるくだりは、病気について笑うような感じになるので、後味が悪いですね。病気がらみの笑いは、デリケートに扱いたいと思いました。

アカザ:物語はとてもおもしろくて、お父さんに薬を捨てられちゃった主人公がどうなっていくのか、はらはらしながら読みました。おばあちゃんもお父さんも強烈なキャラクターで、最後まで一気に読め、訳もうまく、主人公がいじらしくて……けれど、とにかく読んでいてつらい! 1巻目を読んだときには、薬ですべてが解決する……みたいに読めるのではと、その点が心配になりました。日本では、程度の問題はありますが、ADHDの子どもに薬を投与することの是非について、いろいろな考え方があると聞いたことがありますし。また、この2巻目では、おばあちゃんとお父さんが強烈なキャラクターであるために、もしかしてADHDというのは遺伝的な障害ではないかと読者が受け取るのではと、その点も心配になりました。障がいや病気を扱った本って、とても難しいと思います。巻末に、専門家の見解を載せておいても良かったのかも。

ひいらぎ:1巻目を読んだときは、ジョーイが女の子の鼻を切った事件が解決されていなくて落ち着かない気持ちになったんですけど、2巻目も落ち着かない気持ちになってしまいました。それは、ジョーイが他の子とはちょっと違うわけなんだけど、薬も飲んでいるせいか微妙な違いなので、たとえば誤訳の文章を読んだときみたいに、すっきりと寄り添えない。もっと飛び抜けて違っていれば、たとえば『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン/著 早川書房)みたいに別の視点から世界をながめることができるんでしょうけど。それに、まわりの人物もみんな世間の普通からはズレているので、自分をどこに置いて物語を読めばいいのかわからない。著者が「変わった子のことも理解をしてほしい」という視点なのか、それとも、読者に敢えてズレ感をつきつけようとしているのかも、わからない。だから、読んでいて落ち着かないのかな、と思いました。私は主人公に自分を重ねて読むのが難しかった。
ユーモアについても、おばあちゃんがタバコ吸いながら、酸素ボンベを吸ってて具合が悪そうというのは、笑えないですよね。お父さんのズレっぷりも、怖くて笑えない。ユーモアって、どこか安定したところがないと、無理なのかもしれないですね。この本には、安定した部分がない。お母さんがこの子を愛しているのはちゃんと伝わってくるけれど、ちょっとおかしいですよね。お父さんは明らかにおかしい。同じであることが長所でないアメリカでは、これくらいへんてこな人もいるのかもしれないけどね。いろいろ考えて読んでいて最後まで苦しくて、おもしろくは読めませんでした。

プルメリア:ADHDの子を担任したことがあります。以前は保護者の方は隠しがちでしたが、今は、「薬を飲んでいます。」と話してくれます。また、「物を片付けられない、興奮して騒ぎまくる、うちの子はADHD」という方もいます。専門のお医者も判断できないのが現状かなとも聞いています。病院の先生は「かもしれない」としか言わないようです。この本の主人公は、私の知っている子どもたちに比べて、考えて行動ができるし、分別があるし、野球ができる技能をもっている子です。お父さんはADHDだと思う。遺伝だと考えることができるのかな? ふつうは、子どものときは目立つけど大人になって落ち着き、子どものころのような行動はしなくなります。でも、この本の主人公は違います。この少年はしっかりしているし、薬を飲んで落ちつけば、それでいい。周りの子も「そうなんだ」と受け入れています。その子をまわりが受け入れることで、その子も過ごしやすくなります。この少年はまだ軽い感じがします。おばあちゃんもおもしろくて変わっているけど、少しずつ少年を受け入れています。主人公はもうすぐ5年生になるんだけど、現実の5年生には読みにくい作品じゃないかな。こういう子は増えてきていて、保護者も隠さずにそのことを言えるようになってきています。受け入れられる社会ができてきているのかな、とも思います。以前は、子どもが変わった行動をしても「普通です」と言い切る保護者が多かったのですが、広くものを考えられる人が増えてきたのかなと思います。

ひいらぎ:病名がつくから増えるだけじゃなくて、実際にもそういう子どもは増えているらしいですね。

プルメリア:接し方で子どもは変わります。ちゃんと接していれば子どもはたいてい大丈夫。

すあま:ADHDのことをまだあまり知らなかったころに1巻を読み、こういう本が出たんだ、と興味深く読みました。この2巻目は、いろんな社会問題を詰め込んだ印象があります。リアルに描いているとは思うけど、ジョーイの不安な気持ちがどんどん大きくなっていくので、読んでいる私もだんだんつらくなってきて、楽しく読めませんでした。最後もお父さんとは会わずにお母さんと帰ってしまうし、決着がついていない。子どもの本は、やはり読後感がいいということが大切ではないでしょうか。

キノコ:今回初めて読みました。前半はすこし退屈でしたが、お父さんに薬を捨てられてしまうところから、おもしろくなりました。薬を飲む前の自分が追いかけてきた、という表現が印象的。薬を飲んでいる自分と、そうでない自分と、どちらが本当なのか、そんな問いも思いうかべました。日本では薬を使うことに抵抗感もあり、作品中のお父さんのように「気合で治せ!」という人もいそうですね。それから、結末にはびっくりしました。お父さんとは話し合いもせず、逃げ帰るみたいで読後感がよくなかったです。薬を飲む前のジョーイとお父さんは振る舞いなどがよく似ていて、ある意味、お父さんは治療せずに大人になった場合のジョーイの未来なのかも。お父さんは強烈なキャラクターで、恵まれた人生ではないかもしれないけど、不思議なポジティブさがありますね。読者対象は中学生くらいでしょうか。ジョーイのような子もいるんだと理解を深めるにはいいけど、実際問題を抱えている子は読めるかな?

ひいらぎ:こういう子を知るために読みなさいというのは、嫌らしいですよね。だったら、どんな子が読むんでしょう?

クモッチ:1巻では、あとがきに、身近な子でADHDの子がいるので、そんな子の気持ちが理解できて、読んでよかったという読者の感想が紹介されていましたね。

アカザ:1巻目には、重度の障がいの子どもも出てきて、そこがとても良く書けていて、感動的だったけど。

キノコ:ところで、この話は続きはあるのでしょうか? すわりの悪い終わり方なので、この先が気になります。特に、お父さんが心配。これから先、おばあちゃんが亡くなったらこの人はどうなってしまうのか。

すあま:お父さんはモテる人なんじゃないかな。女の人に、私がついていなくっちゃと思わせるような。(笑)

レン:すごくかっこいいのかも。(笑)

ひいらぎ:変だけどとびきりすてきなところがあるという魅力を書いておいてくれるとよかったですね。おばあちゃんも。

アカザ:お父さんもおばあちゃんも変な方が、リアルな感じはするかもね。

うさこ:本のカバーに「この本はこういう病気の子を知るのに手掛かりになる本として賞賛をうけている」と書いてあったので、そういう目線で読み進めたけど、お母さんとの約束を守ろう、お父さんの期待に応えようと、がんばっているジョーイがとても健気で切なくなっちゃった。1巻目は途中までしか読んでいないんですが、貼り薬などのおかげで、ジョーイは自分自身をずいぶん客観的に見られるようになってきたのかなと思ったな。お父さんは多少大袈裟に書いているんだろうけど、アメリカだったらこんな人いっぱいいるのかなと、変なリアル感もあった。けれど、お父さん、お母さん、おばあちゃんと出てくる大人がみんな激しくって、読んでいてへとへとになってしまう。気になったのは、248pのショッピングセンターについたとき、状況的にはパニック状態だと思うけど、泉のお金をとるところはきちんと筋道だてて冷静に考えて行動している、こういう病気の子の行動としてはこうなんだろうか、と納得していいものかどうかわからなかったですね。258ページの7行目、「父さんとぼくはぜんぜん違う」とジョーイ自身が断言していて、ここが読者に向けての救いかなと感じた。でも、この本、どういう読者が手にとるのかな? 先生が教室で、毎日数ページずつ読み聞かせとか?

アカザ:主人公のモノローグで書き進めていくと、どうしても論理的になっちゃうでしょ? かといって、はちゃめちゃな書き方をしたら、読者がついていけなくなる。そこがすごく難しいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年12月の記録)


市川宣子『きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは…』

きのうの夜、おとうさんがおそく帰った、そのわけは…

ハマグリ:お父さんが苦し紛れにいろいろ言うところがおもしろくて、ユーモアを感じました。はたさんのイラストは、この絵があるから楽しく読めるといってもいいくらい。自分で読めるようになった子にとっては、書名もおもしろそうだし、手に取りやすい装丁だし、とても読みやすくて楽しい本だと思います。野間児童文芸賞を取るほどの作品ではないのでは、という意見も聞きましたが、このくらいの年齢の対象のものが受賞するのはいいことだと思います。

ひいらぎ:市川さんは、『ケイゾウさんは四月がきらいです』(福音館書店)もおもしろかったですよね。この年齢の子を対象に書けるすぐれた作家だと思います。同じような物語に瀬田貞二さんの『お父さんのラッパばなし』(福音館書店)がありますが、あっちはちょっと古い。これは、現代の子どもが読んでもすっと入り込めますね。まず、お父さんが言い訳のためにほら話をするという設定がいい。四季折々の話になっているところもいい。このお父さんはふだんは夜子どもにお話を聞かせてやったりしているわけですよね。最後に「あっくん、おやすみ」と言っていることから、子ども思いのお父さん像が伝わってきます。お父さんのキャラも、「こんなことができるか」と言われるとムキになるという設定で、そこもおもしろい。春夏秋冬の4話になっていますね。お話をしている夜はおとうさんは家にいる。たまたまこういうことができない日があって、その日に言い訳をしている。最後の作品は安房直子みたいですね。(そうそうとみんな)

プルメリア:子どもたちは、男の子も女の子もおもしろいと言って読んでいました。発想がユニークだし、挿絵がとてもいいです。特に1話が終わったあとの挿絵がとってもいい。作品を読んだ子どもたちの感想は、「雷の子をのせたボートが空に上がっていくシーンがいい」、「お父さんが星をバットで打つ場面や「メタボ」といわれて頑張るところがおもしろい」、「モップで星を落とす場面の絵を見たかった」、などでした。私が残念だと思ったところは、目次がないこと。目次があるともっとわかりやすかったと思います。この本を読むと自然にお父さんに関心が湧いてくるのではないでしょうか。子どもには受ける話です。

キノコ:読んでいて幸せになるような話でした。お父さんが読み聞かせするにもぴったり。すごくよくできていて、お父さんがちょっと子どもっぽく、はりきっていろいろするところも、いまどきのパパらしくておもしろい。子どもも楽しく読めると思います。それぞれのお話の最後に対応して、お父さんと出かけている見開きの絵があるのもすてき。表紙の絵にある、お父さんが飛ぶシーンが出てくるのかな、と思いました。(お父さんが飛ぶのを引きとめているのかも、という表紙についてのみんなの意見)

うさこ:帰りの遅いお父さんから息子への「深夜帰宅」のわけを綴った物語のプレゼント、といった作りで、その構成のアイデアがおもしろいと思ったな。どれも動物と体を動かすことと、何かの目的のために手伝うお父さん、というシチュエーション。短い1話の中にそれぞれ小さな夢と想像力豊かな展開があって、作者の力量を感じる1冊でした。気になったのは、空想の質が、ちょっと女の子っぽいかな?と思った点。野球やボートなどが男の子の遊びっぽいから、男の子にも受けるのかも。1話の長さもいい。1話が終わって、その続きを連想させる絵があるところもいい。こういうところは文章にしたらおもしろくないけど、絵で余韻を広げるという意味で、とても楽しい構成。

レン:楽しく読みました。もうみなさんから出尽くしていますが、うまいなと思った点は、今の子に身近なものをうまくとりいれているところ。2つめの雷の話で、ケータイで5656に電話をかけるとか、3つめの話でアライグマが、お父さんが打ちそこなうと「うわ、だっせー」「だめじゃん〜」と言ったり、メタボとからかったり。その頃合いが、とてもいいと思いました。すぐそこに、本当にこういう世界がありそうな感じがしてきます。会話もうまいですね。こういうリズムや口調、ぜひ勉強したいです。

クモッチ:最初の話の「穴を掘ってたんだよ」でつかみがグッとくるって感じだったですね。そういう手があったか、というような。発想の勝利。『ケイゾウさんは四月がきらいです』も、おもしろいと思って読みましたが、今回『ケイゾウさん〜』を読み返してみると、低学年向けの本だと思うのに、字が小さくてルビも少ないんですね。笑いのツボも大人向けのような。もしかして大人向けだったか、という印象です。そういう意味でいうと、この本は、読み手のことも考えていて、親子でおもしろく読める本じゃないかと思いました。

ひいらぎ:最初は、お父さんが酔っぱらったかなんかで、服をどろだらけにして帰ってくるんですよね。文章にはないけど、挿絵がそう語っています。あっくんも、怒った顔をしています。

クモッチ:絵に、お母さんが出てこないんですね。最後のほうに、やれやれ、って感じでお母さんがいそうですが、夢を壊さないんですね。はたこうしろうさんだからですかね。

アカザ:それぞれのお話の終わりに見開きの絵を載せているところといい、編集者がとても力を入れて、丁寧に作っている本だと思いました。みなさんがおっしゃるように、幼年童話が賞を受けるというのはいいですね。でも、でも……『園芸少年』(魚住直子著 講談社)が受賞するとよかったのに!

(「子どもの本で言いたい放題」2010年12月の記録)


有沢佳映『アナザー修学旅行』

アナザー修学旅行

あかざ:かぎかっこの中だけではなくて、地の分もイマドキの口調で書いてあるので、正直言って、80ページくらいまで読むのが苦痛でした。それを過ぎると、あとはすらすら読めて、けっこうおもしろかった。修学旅行に行けない生徒たちが、学校に来て授業を受けるという設定は、新鮮でした。ただ、それからの展開が、あまりスリルもなく終わってしまって、リアルなんでしょうけれど、なんだか物足りない。登場人物も個性の違う人たちがいろいろ出てくるのだけれど、掘り下げ方が足りないというか……。児童養護施設で育ったふたりも、ジャックリーン・ウィルソンの「トレイシー・ビーカー」と読みくらべると、表面的な気がしました。

ハマグリ:3日間の出来事ですよね。1日目はおもしろいシチュエーションだなと思ってひきこまれて読みました。なかなか他人と積極的に交わらないといわれている今の子が、一緒にいなければならない状況に置かれて、さぐりながら交わっていくというのがおもしろかったです。会話も、こんなふうにしゃべるんだろうなと思いながら読みました。でも、2日目、3日目と読んでいっても、状況が変わらないんですよね、何も起こらない。会話部分をとても丁寧に書いているけれど、同じ場面が続くので退屈してしまうところもありました。ドキュメンタリー番組を見るような興味で読むのはいいんだけど、小説としては物足りなさを感じました。

ひいらぎ:私はすごくおもしろかったのね。というのは、今の子は自分と同質の子としかつきあわないんですよ。この作品では、ホームで暮らす子同士だけは旧知の間柄だけど、あとの子たちは、こういう状況でなければ付き合おうとしない子たちですよね。それがこういう場で出会って、だんだんに認め合っていくのがうまく書かれています。表面的には何も起こらないようだけれど、内面のドラマはいろいろある。例年の講談社新人賞受賞作品よりはずっとおもしろいと思いました。

ダンテス:まあ、今どきの子に読ませることをねらって、こういう口調で書いてるんでしょうね。そういうふうに書かないと売れないのかな。迎合しているように思えてくる。「そうゆうことは」とか「じゃねえよ」とか。これでは文章としての日本語はおしまいかなという 気になりますね。お話の設定としては、修学旅行に行けない子どもたちが集まるっていうのはおもしろいし、一応登場人物それぞれの描き分けはできている。でも、これを関係している子どもたちに読ませようとは思わないな。

三酉:作家は36歳。でも青春時代を卒業しておられないのかな。思春期の夢、という印象でした。危ないところにはさわらず、仲良しになれたらうれしいね、みたいな。ただ、最後のところで「友だちじゃないし」っていうあたりからが雰囲気が変わっていますけどね。言葉の話でいうと、この口調が中学3年のものなんだろうか。高校3年というのなら分かるけれど。そうではなくて中3だというのは、高3だとセックスとかがからむから、淡淡というか、ほわほわという物語にならないからでしょう。

メリーさん:今回の3冊は、いずれも女の子の独白で成り立っている作品です。その中で、これは絶対、賛否両論になるだろうなと思っていました。私自身はとても好きな1冊です。新人としては読ませるほうだな、と。もちろん、キャラクターは、型にはまっていて、できすぎ。どちらかというと、ライトノベルに近いようなつくりです。でも、何も起こらない3日間をここまで読ませるというのは、とても力があるのではないかなと思いました。アクションを起こす時間と、皆の会話で成り立っている時間が交互にあって、読み終わると本当にいろいろなことがあったと思わせる。野宮さんが、いい子になるために「努力している」なんて言ってしまうところ、一見おどけもの小田が「他人のことなどわからない」と言い切るあたりは、どきっとしました。ひと時の出会いを経て、また離れ離れになっていくのはさびしい気もしますが、今の子はそうやって現実との折り合いをつけているのではないかなと思いました。あえて友情を深めるわけではないけれど、着実に前に進んではいる。一点、主人公のキャラクターがもっとはっきり出ていればなと思いました。

レン:最初はすいすい読み始めたのですが、途中で退屈になって投げそうになりました。私は修学旅行のような行事が好きではなかったので、修学旅行に行けないからといって腐るというのに、共感できないというのもあったのかもしれませんが、あまりおもしろいとは思えませんでした。たとえば部活の上級生と下級生の間のいじめは、今もこんなのがあるのでしょうか? こういう書き方で出てくることが、少し古い感じがします。それに、修学旅行に携帯電話を持っていけるというのは、高校生ならいいけれど、公立の中学校ならありえないはず。ちょっと作られた感じがしました。タイトルにひかれて中学生が手にとったら、共感して読み進めるかもしれませんけど。

みっけ:最初の3,40ページは、次から次へと新しい名前が出てきて、しかも最小限の説明だけでずんずん運んでいくという感じだったので、キャラクターと名前が一致しなくてきつかったです。でも、互いに同質な者同士で固まろうとする傾向が非常に強くなっている今の学校生活で、絶対に接点を持とうとしないだろう子どもたちが、そろりそろりと触角をのばして互いを確かめ合い、それなりの理解をするという感じはよく書けていると思いました。アメリカのちょっと古い青春映画で、学校で罰の作文を書くために集まった多種多様でふだんは接点を持たない高校生たちが、互いを知るようになり、深くものを考えるようになり、結局は学校(教師)に対して異議申し立てをする、という作品がありましたが、それと思わせるうまい設定だな、と思いました。ただ、学校に異議申し立てとか、そこまでアクティブにならないところが、今の日本の学校の状況を反映しているんでしょうね。物足りなさを感じないわけではありませんが、これがリアルさを失わない精一杯なのかな、という気もしました。前にこの読書会で取り上げた『スリースターズ』(梨屋アリエ著 講談社)も、やはり特殊な状況に置かれた異質な子どもがお互いを発見する物語でしたが、あれにに比べておとなしい感じがしたのも、学校の中の授業時間内だけで進む話なのでやむを得ないのでしょうね。というわけで、文体についていけなかったりして、ちょっとしんどいなというところもあったけれど、途中からはそれほどいやではありませんでした。それと、主人公の一人称でずっと書かれていて、主人公がせっせと人を観察し、あれこれ注釈を加えるから、下手をすると「自分のことは棚上げで、人のことを観察してあれこれいっている。いったいこいつは何者だ?」という感じになりかねないけれど、最後の方で、女優をやっている岸本という子が、演技するときは、主人公をイメージしてるんだと言い、それに対して主人公が、不意を突かれて「え?」と思う場面を入れることで、この子自身も「全知全能の神様」でない普通の女の子だという感じになっているのは、うまいな、と思いました。全体として、きらいな本ではなかったです。いじわるさもないし、陰々滅々とした現状をただ上手に書くだけの本でもなかったし。

三酉:施設の子とか保健室登校の子とかを登場させる以上、そういう子が抱えるであろう屈折を押さえたうえで、一味違うキャラクターとして描く、ということが必要だと思いますが。

プルメリア:私は中学時代を思い出し、ジャイアントコーンを食べながら読みました(笑い)。修学旅行は子どもたちにとってわくわくドキドキする特別行事。参加できない子どもたちの複雑な心情がうまく伝わってこなかった。登場人物はさわやかだけど、ドラマを見ているようで現実感が希薄かな。不登校の生徒が加わると、ますます作られたストーリーに思えました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年11月の記録)


ジャクリーン・ウィルソン『おとぎ話はだいきらい』表紙

おとぎ話はだいきらい〜トレイシー・ビーカー物語1

メリーさん:文句なくおもしろいと思います。すべて独白というのもあって、3冊の中では一番元気で、しゃべってしゃべって突っ走る感じが痛快でした。まさにトレイシー・ビーカー劇場。でも、それだけではないところがまたいい。友だちが離れていったといって悲しんだり、逆に突然立ち止まってひとり考えたり。元気の中にさびしいという気持ちが垣間見えるところ。それから、マクドナルドで若い作家と会う約束をする場面。自分を理解してくれる人に会いに行きたいけれど、母親からその時に電話がかかってきたらどうしようと悩むところは、とても上手だなと思いました。日本での対象は高学年くらいでしょうか? ぜひ読んでほしい1冊です。

三酉:施設の内と外、ということがお話のダイナミズムを支えていて、まことに見事。これと『アナザー修学旅行』を比べると、『アナザー〜』はコップの中の嵐、という印象ですね。これだけ突っ張っていて、実はまだおねしょしている、という、ひとつのエピソードで主人公をくっきりと描き出す。作者はほんとに力あるなと感心しました。もうひとつ『アナザー〜』との対比で言うと、トレイシーの世界には、ちゃんと大人をやっている大人が登場するのに対して、『アナザー〜』にはゆるい先生しか出てこない。この対比はつらい。

ダンテス:里親の話って、すぐ思いうかんだのはキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)です。文化的には同じかな。現実には、この子は親から捨てられた子なんですね。日本では里親制度ってあんまり広がりませんよね、巻末の解説を読むと、そんなことへのいらだちが書かれている。『ガラスの家族』もそうですけど、日本でこういうお話を翻訳で出すことになると、なんか里親制度を広げようという方向に持っていってしまうというのが興味深い。でも、翻訳の言葉も含めて、いい作品だと思います。テンポよく読めました。

メリーさん:物語を読んだ読者の中で、里親制度に興味を持った人が、解説を見て連絡をとるということもあるみたいですね。

プルメリア:私は主人公のお母さんがどういう人なのか知りたかったので、全3巻を全部読みました。子どもに親しみやすい形になっていて、子どもには手にとりやすい本だなと思いました。主人公はたくましいけれど、ある意味弱いところがあり、お客さんの来るときお化粧しちゃったり、友だちとの賭でミミズを食べたり、友だちの大切にしている時計を壊しちゃったり、そういう心情がよくわかります。イギリスではテレビ番組にもなっていて、それも人気があるそうです。

ひいらぎ:このシリーズは3巻まで読みましたが、すごくうまい作家だなって思いました。ウィルソンは労働者階級の出身なんですよ。イギリスの児童文学の中で画期的なことです。イギリスのほとんどの児童文学作家は、ある時期までみんな上流、中流出身で、中流以上の子どもたちに向けて書いてましたからね。ウィルソンが書く10歳くらいの子は、家庭の愛に恵まれず社会的の中心にもいられない子どもたちなんだけど、そういう子たちを書いたのにイギリスではみんなベストセラーになっている。その理由のひとつは、やっぱりユーモアでしょうね。シリアスな状況を書きながら、笑える部分が随所に用意されている。ちょっと間違えると嫌らしくなると思いますが、そのぎりぎり一歩手前で笑わせる。だから大人が読んでもおもしろいし、子どもが読んでもつぼにはまるっていうのか。ほんとにこの人はうまいですね。

ハマグリ:私もジャクリーン・ウィルソンの作品はすごく好きで、子どもたちにすすめたい本が多いです。この本の良さは、子どもたちが読んでいて、作者が絶対的に子どもの味方であるっていう安心感が伝わるところです。日本の児童文学では、大人が敵みたいに描かれたり、子どもをわかってくれない存在として描かれることが多いけれど、ジャクリーン・ウィルソンが描く大人は、子どもを1人の人間として扱ってくれる。子どもである自分を対等な存在としてきちんと認めてくれるということがはっきりわかる。子どもたちにはそれがうれしいと思います。日本の子どもたちにとっては、なじみの薄いシチュエーションもあるんだけど、リアルな挿絵ではなく、漫画っぽい挿絵だから逆に読みやすいかなと思います。

ひいらぎ:挿絵を書いているニック・シャラットって、ウィルソンが最初に出会ったときはダークスーツを着込んでてまじめな堅物って印象だったんですって。でも、ウィルソンが落としたペンかなんかを拾おうとしてテーブルの下にかがんだときに、黄色い靴下をはいてるのがわかって、ああ、この人ならおもしろい絵が描けそうって思ったんですって。ほんとにニック・シャラットの挿絵は、物語を重苦しくしないという大きな役割を果たしてますよね。

あかざ:私もジャクリーン・ウィルソンの作品は大好きですし、邦訳が出版されるとすぐに買いに行くという子どもの話もよく聞きます。この人は、本当に貧しい子どもたちや、不幸な環境にいる子どもたちの守護神みたいな作家ですね。現実の子どもたちと接する機会もとても多いとか。この作品も、物語の中の作家のように、何度も施設に足を運んでから書いたのではないかしら。読書会のたびに、いつもしつこく言っているのですが、日本の作家さんたち、とくに若い方たちは、自分の身の回りを書くのは上手いけれど、社会につながっていくようなところが足りないんじゃないかな。現場に何度も足を運んでいれば、大上段にかまえなくても自然に作品のなかに社会につながっていくところが出てくるんじゃないかと、またまた思いました。ウィルソンのほかの作品もそうですが、この話って考えてみると、すごく悲しい物語ですよね。それをこんなふうに軽やかに、ユーモアたっぷりに書ける才能ってすごい!

みっけ:出だしが上手だなあと、まずそれに感心しました。「私のノート」とあって、この子の望みや何かがばんばん打ち出され、気がつくと読者は完全にこの作品世界に入っているという仕組み。しかもその出だしからすでに、強気なようでいてもろかったり、突っ張ったりしているこの子の有り様がみごとに表現されている。もう一つ、この本を象徴しているのが、最後に出てくる「おとぎ話はだいきらい」っていう言葉。これはいいなあと思いました。この子は、お母さんのことや、作家のお姉さんのことなど、自分でいろいろなお話を作り上げることによって、厳しい状況を乗り切ってきている。つまりその意味では、お話を必要としている。でも、安手のおとぎ話なんかいらない!と突っ張ってみせる。これがいいんですよね。人の作ったおとぎ話に自分を合わせるんじゃなくて、自分でお話を作る姿勢、と言ってもいいかもしれない。といっても、おそらく本人は自分でお話を作っているということを明確に意識してはいないのでしょうが……。英米の児童文学を読むといつも感じることですが、主人公の能動性が読者を強烈に引きつける。ただ座って嘆いていてもしかたないじゃない、というパワフルさ。それでこそ、子どもたちへのエールになるし、その意味で、この本は児童文学のお手本みたい。がんばれ、お互いがんばろうよ、そしたら何かが開けてくるかもしれないよ!という作者の姿勢が感じられる。それと、この子の表に出ている部分と、人には絶対言わずにノートに書く部分と、ノートにも書かない部分と、そのすべてが表現されている点も、すごいなあと思いました。もうひとつ、施設の子も含めた子どもたちみんなと自分とが同じ地平にいる、という作者の視線が伝わってきて、ほんとうに感心しました。

レン:テーマの扱い方がうまいですね。ひとつは、子どもの引きつけ方。主人公と一緒になって読んでいけます。それから、大人がきっちり書けている部分。若い作家のカムも、子どもの前で無理していいかっこうをしなくて、「わたしはそのときは寝てるわ…」などと、はっきり自分の都合を言うんですね。そういうところが痛快。この間、清水眞砂子さんが講演で、最近の日本の作家の書く児童文学は、いい子ばかりが出てくる、大人の描けていないものが多いと指摘なさっていましたが、この本は、それとは正反対。お説教くさくなく、施設を舞台にしながらとんでもないことをやらかす主人公が登場して、一見軽そうだけれど、人物が多面的に描かれていると思いました。日本の作品で比べられる作品ってあるでしょうか? 日本の児童文学に登場する大人がおもしろくないのは、平板な社会の反映なのかしら。少し前なら佐野洋子さんとか、型にはまらない大人をうまく書いていますよね。真面目に、直球ばかりではなく、ふっとはずす感じで。

ひいらぎ:子どもの時に子どもらしく遊んだ経験があれば、そこを卒業して大人の目をもてると思うんだけど、今は子どもがなかなかそういう経験ができないみたい。幼稚園なんかでも、子どもをのびのびと遊ばせていると、親から「学校に入ったときのことが心配だから、勉強を教えてくれ」とか「整列の仕方を教えておいてくれ」とか、言われるそうですよ。

ハマグリ:新版になって、翻訳も手直ししたようです。主人公の口調がずいぶん変わっているんですよ。前より女の子っぽくなくなってますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年11月の記録)


マルヨライン ホフ『小さな可能性』

小さな可能性

ハマグリ:主人公の気持ちをすごくていねいに書いていると思います。小さい子がいかにも考えそうなことをね。理不尽だけれど、せっぱつまって子どもらしい論理をつくってしまう。子どもの不安を文章にするのはむずかしいと思うんですけど、うまく表現してあり、共感をおぼえました。お母さんと犬の存在も子どもの目からうまく書けているし、好感をもって読みました。

ひいらぎ:私はちょっと違和感がありました。この子が、弱ったネズミをもらってきて世話するでもなく死なせたり、歩道橋から飼っていた犬をつきおとそうとするのは、どうなんだろうと思って。弱った生き物を救えれば、お父さんも生きて帰れるんじゃないかって、普通の子どもだと思うんじゃないかな。動物の命を人間の命より下に見る西洋的価値観があらわれているのかもしれませんね。それから、この本は日本で読むと、マイホーム主義を主張しているように読めますね。この子のお父さんは、「国境なき医師団」のような団体に所属して戦闘地域で医療活動をしてるんでしょうけど、そういう人がまわりにいない子ども読むと、自己満足のために家族を心配させる身勝手なお父さんとしか思えない。地雷も出てきますが、お父さんが被害者になっただけじゃなくて、現地の人はいつも被害にあっているっていう視点も、この作家にはありませんね。この本を読んだ子は、危ない所には行くなっていうメッセージだけを受け取ってしまうのでは? 最後に、車椅子になったお父さんが娘に、次からは一緒に行こうって言うんですけど、そこもリアリティがなくて、頭の中で考えた作り話なのかと思いました。

プルメリア:題名がいいなって思いました。夏に読みましたが、もう1回読んでみて、主人公の心情がよくわかりました。お父さんが死ぬ可能性を小さくするためにネズミや犬を殺そうとするなど、主人公が抱いている不安がよく書かれていると思いました。かかわっている登場人物、歩道橋で出てくる男の人や友だちもあたたかい。最後のお父さんのせりふも、前向きな気持ち。女の子の心情とともに戦争がテーマにはいっている。重い内容が描かれているけれど、読んだ後がさわやか、心があたたまりました。

ダンテス:ちょっとドライすぎるかなって印象を持って読みました。全体的に冷たいって印象があるのは、ひいらぎさんが言ってたようなことのせいかな。

三酉:「これを書く」みたいなことが、はっきり見えすぎている印象。お父さんは、オランダにいれば安全なのに、安全でないところに出ていく。そこである意味、話が成り立ってしまう。ここにも内部と外部の緊張というのが、お話の骨格として出てくる。それにしても、この奥さん、あんまり幸せじゃないんでしょう。子どもをまったく支えることができていない。

メリーさん:地元の国の文学賞を受賞したというので、興味をもって手にとりました。主人公の「可能性を小さくする」という考えがとてもおもしろいなと思いました。どうしようもない困難にぶつかったとき、子どもも、彼らなりに何か自分にできることはないかと考えると思います。考えたすえに思いついたのがこのアイデア。家族の助けになりたいために、また自分の不安の解消するために。本当は進むべき方向が間違っているのだけれど、なるほどなと思ってしまいました。こういう子どもたちのしぐさ、動物のお墓を作るようなことやったなあと、自分自身の子どもの頃を思い出しました。

レン:とらえどころがない印象を受けました。お父さんが「国境なき医師団」で外国に行っているのがポイントだと思うのですが、別の理由でお父さんが海外に出ていても、大差ないかな。どんな子だったらこの本をすすめたくなるのか、対象となる読者が想像つきませんでした。

みっけ:読み始めてしばらくして、あ、これって「禁じられた遊び」だな、と思いました。なにかのトラウマやストレスが原因で、ある種儀式のように死と生をいじって、自分の心のバランスを取ろうとする。そのために、命を命として見る視点が消えていく。作家が、大きな不安にさらされた無力な子どもを書きたいと思うのは、とてもよくわかる。題材としてとても魅力的だから。でも、そうやって書いた本が子どもに向けたエールになっているかというと、この本に関しては疑問だと思いました。なんだかトーンが弱い。主人公がこの年齢の子だから成り立つ話だという気がするんですが、児童文学の読者である子どもたちが、この年齢の子のこういう行動を読んで、どう感じるんだろう、どうなるんだろう、という疑問があって。禁じられた遊びと同じで、大人向けならわかるんですけれど。それにしても、なんか淡くて線が細い感じで、リアルさが感じられなかったです。

あかざ:書き方を変えれば、ホラーにもなりうる話ですよね。子どもはこんな風な考え方をするかもしれないけれど、そこに共感するかどうかが、この本を好きになるかどうかの分かれ目ですね。ただ、考えるかもしれないけれど、実行にうつすかな?「考えと行動は別々のもの」と、お母さんが言うでしょう? 考えるだけならいいけれど、実行してはいけないということかな? 人間の命がなにより大事で、ほかの動物の命はそれ以下という考え方がキリスト教的な社会にはあると聞くけれど、輪廻転生といった日本人の感性とは相いれないところがあるのでは? この本が賞を受けたのは、国境なき医師団にお父さんが入っているからかもしれませんね。

ひいらぎ:「国境なき医師団」ではなくて、「赤十字」や「赤新月社」かもしれませんよ。それにしても、そういう団体が何をやろうとしているのかは、きちんと伝わってはきませんね。

あかざ:国境なき医師団の医師だけでなく、家族も大変だけれど頑張っているとか……。銃後の妻のような。

ひいらぎ:この家族は、お父さんを理解して支えているというより、困っている面が強調されています。だから、そんな危ないことをしてないで家庭を大事にしろ、というメッセージばかりが強くなってしまう。

みっけ:どれくらいの年齢の子が読んでるんですかね。

あかざ:YAでしょうね。でも、口からもおしりからもパフッと息をする犬の話は好き!

みっけ:ちょっと悲しめの話が好きな、若い女の人向けの本なのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年11月の記録)


斉藤洋『まよわずいらっしゃい』

まよわずいらっしゃい〜七つの怪談

ハマグリ:これは怪談シリーズ3冊目で、前の2冊と同じく、主人公が西戸先生の研究室に招かれ、順番に披露される怪談を聞くという形になっています。ただの短編集じゃなくて、こういう枠にしたのは読みやすいんじゃないかと思いました。たかしくんっていうのが進行役になっているのも、子どもにとっては読みやすいと思います。怪談自体はそんなに怖いわけではなく、まあまあの話が多いです。各巻で怪談のテーマが変わり、今回は乗り物で統一されているのがおもしろいですね。一つ怪談を聞いたあとで、いろいろ疑問点があると思うんですが、聞き終わった大学生たちが、みんなでああだこうだ言う場面があるので、読者もそこで納得がいったりいかなかったりする。そういうシチュエーションをつくっているのも、子どもにとって読みやすい工夫だと思います。文章が読みやすく、すらすらと読めました。

メリーさん:すらすら読めました。この著者は本当にページをめくらせるのがうまい。ただ、話の内容に関しては、とりたてて目新しいものはなく、どこかで聞いたようなものが多い気がしました。斉藤洋さんに書いてもらうなら、もうちょっと別の切り口の話が読みたいなと思いました。それでも、子どもたちは怖い話が大好きなので、この本は手にとられるのではないでしょうか。

レン:さらさらと読めました。ハマグリさんと同じように、構成が上手だなと思いました。小学生は怖い話がとても好きですよね。「怪談レストラン」シリーズ(松谷みよ子/責任編集 たかいよしかず/絵 童心社)や「学校の怪談」(常光徹/著 楢喜八/絵 講談社)など、怪談は読書の入口として間口が広い。ただ、それよりももうちょっと書き方が練られているというところで、この本は図書館の先生が手渡しやすいものだと思いました。うちの市の図書館でも、よく借りられていて、人気があるようでした。やはり斉藤さんは文章がうまいですね。すぐに読者がこの世界に入っていける。短い言葉でさっと、それぞれの場面がたちあがってくるのがすごいと思いました。

ゆーご:このくらいの怖さなら、怖がりだった子どもの頃の自分でも読めたかな。怪談クラブのような秘密結社的なものも子どもの頃って好きですよね。単に肝試しという形をとるのではないところがおもしろいと思いました。最後にクラブ自体が最大の怖い話、というふうに終わるのもうまい。ただ、“ポマード”のような、子どもの知らない単語は入れなくてもよかった気がします。大学生の描写もけっこうあるけどイメージできるのかな。語る人によって話のテイストが工夫されているのが面白いけれど、彼女との遊園地の話がほとんどホラーでなくなっちゃったのは、少し残念。ひとつの話に対するやりとりをもう少し広げて書いてみてほしい。シリーズの他の作品も気になります。

ひいらぎ:この作品は、入れ子になっているっていうのか、構造がまずおもしろかったですね。外側に西戸先生の研究室のできごとがあって、それ自体が不思議で、先生からの手紙も回数券も、いつのまにか消えてしまったりする。そしてその枠の中にまた参加者が語る一つ一つの怪談があるんですね。やっぱり斉藤さんはうまい。怖さから言っても、私はいろいろ想像するとこの作品がいちばん怖かった。この手の作品をたくさん読んでれば新味はないかもしれないけれど、知っているものやなじみのシチュエーションが出てくるので、子どもには読みやすいんじゃないかな。“ポマード”ですけど、今の子は存在そのものを知らないでしょうから、何だろうと逆に興味を持つかもしれませんね。

レン:わざと時々、難しい言葉を使っているのかなと思いました。「肥後の守」なんて、今の子はぜったいに知らなさそうなものを出してきているから。

ひいらぎ:わざとかもしれませんね。全体が読みやすいから、あっても気にならないし、ほかの二作と比べると文章もプロの作家の文章ですよね。

サンシャイン:『さとるくんの怪物』を読んでからこちらに行ったので、読んでいてぞーっとする所もあって、古典的な話ではありますが、読ませる力がある作品だと思いました。遊園地で写真を撮ったら、1人だけ写っていたっていうのも、話としてはおもしろいです。それからトンネルの中での幽霊話は、私の子どもの時によく聞かされた話です。鎌倉と逗子の間にトンネルがあって山の上には焼き場があるので、トンネルの中に幽霊が出るという話です。久しぶりに聞く話だと、変に懐かしく思いましたが、文章はうまく表現されていると思います。主人公の男の子は年下なのに、大学生からいろいろと期待されちゃっていて、ちょっと出来すぎという感じもしましたが、語り手役・話の進行役としては子どもの方がいいのかもしれません。

ハマグリ:そんなに怖くはないけど、ちょっとぞっとする話っていうのは、子どもたちが楽しめるんじゃないかしら。

ひいらぎ:『さとるくんの怪物』は、説明しすぎていて怖くないんだけど、こっちは、そういう現象があったという記述にとどめているので、いくらでもその先を想像できる。だから逆に怖い。

シア:斎藤洋さんの大ファンなので、今回とても楽しみにしていたんですけど、この著者は、作品によって作風がガラリと変わってきますね。この作品は、私としてはあんまりピンとこなかった。話の一つ一つは興味深いんですけど、それぞれに明確なオチがないっていうのがすっきりしなくって。都市伝説的なものはこんなのが多かったと思うんですけど。エピローグがいちばんおもしろかったんですが、他は頑張って読むような感じで。今回テーマがホラーとなっていたので、かまえて読んでしまったのもいけなかったのかもしれません。というのも、ホラーというと最近どぎつくなってきてしまっているので。「ニック・シャドウの真夜中の図書館」シリーズ(ニック・シャドウ/著 野村有美子/訳 ゴマブックス)とか、「怪談レストラン」シリーズなどですね。でも、今回のようなホラー本も、味があっていいし、センセーショナルすぎる内容というのはよくないんだなというのがわかりました。「真夜中の図書館」は教訓的な部分も多いんですけど、これはさらっと事実のみを描いていますね。斉藤洋ファンとして言えば、いい意味でまわりくどい言い回しなんかもないし、章ごとの題名も短いし、いかにも斉藤洋節、炸裂じゃなかったのが残念です。

レン:中高校生の女子もホラーは読みますか?

シア:好きですね。山田悠介とか、ダレン・シャン。少し上になると、小泉八雲、「雨月物語」も。血が出たり、ビジュアル的にきついほうが人気がありますね。困りものですが。

メリーさん:『トワイライト』(ステファニー・メイヤー/作 小原亜美/訳 ヴィレッジブックス)はどうですか?

シア:好きな人は好きだけど、あんまり騒がれていないですね。外国のものはそんなに好まれないかな。名前が覚えられないと言っているのをよく聞きます。文化の違いにも違和感を感じるようです。それよりも、日本の都市伝説系の方が断然好きですね。それから、映画からだと入っていきやすいのか、『リング』(鈴木光司/著 角川書店)とか、『着信アリ』(秋元康/著 角川書店)なんかも好きですね。

メリーさん:女の子のほうがホラー好きなのかな。男の子は大きくなると読まなくなる気がします。

プルメリア:私は斉藤洋さんの作品は大好きで、最初から全部読んでいるんですけど、この作品は都市伝説っぽい感じがします。表紙に、ここに書かれている7つの話の挿絵が全部出ていますね。クラス(小学生4年生)の子どもに紹介したところ、子どもたちは、「エレベータが怖い」っていうんです。「どうして怖いの」と聞くと「幽霊が出てくるから」。みんなが知っている「口裂け女」の話は、クラスで読み聞かせをしました。ここに出てくる人物6人(教授と学生)はどこか謎めいており、また不思議なことに、大学でみんなと話をし、話が終わり、家に帰っても時間がたっていない。「怪談レストラン」より1つ上の段階の読書として紹介しています。冷やし中華が毎回出てくるんですよね(笑)。私がこの作品でいちばん怖かったのは、位牌を売りにくる話でした。このシリーズの最初に出てくる紫ばばあは「怪談レストラン」にもあります。

優李:これは、シリーズ3作目ですが、どれも、「怪談レストラン」よりはもう少し上の年齢の子どもたちによく読まれてます。斉藤洋さんは本当に上手で、どの話もレベルが変わらず怖いし、読ませますが、話の「オチ」がなくて並んでいるのが、どうしても物足りない。そのせいで、突き抜けて良いという感じにならないのではないかなあ。「ホラー」というと、この頃「血みどろ」「どぎつさ」度が高いのが人気ですが、私はそれが苦手なので、このシリーズは好きです。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年10月の記録)


たからしげる『さとるくんの怪物』

さとるくんの怪物

シア:今日の3冊の中で一番最後に読みました。やっぱり新しい本なので人気があるせいか、図書館で手に入りにくかったですね。公衆電話を使って儀式を行うんですが、昔は普通にあった公衆電話が、すでにこっくりさんレベルのアイテムに使われてしまうところに寂しさを感じてしまいました。設定にいろいろなものを盛り込みすぎな気もします。自分の携帯番号に電話するとどこかにつながるという話もどこかで聞いたし、ちょっと「学校の怪談」の「メリーさん」っぽい展開になったり、お父さんがさとりって妖怪だったり、いろんなものがチャンポンになりすぎてないかなと。ごっちゃになりそう。さとりだけで面白い妖怪なのでもったいないですね。ホラーというテーマなので、これも先入観を持って読んでしまったせいもあるけど、話が平板だなと。主人公がさとるくんに電話をしなきゃいけないラストシーンも、盛り上がりに欠けるし、最後もありがちなところにおさまってしまった。今の時代に出版されたわりには、古いものが継ぎ合わされて出てくるみたいで、古臭さを感じました。いつまでもいつまでも教室にいたり、一つの場面が長いんですよね。肩すかしをくらったような作品でした。私自身が小学生の時くらいに読んだような本ですね。今この本を出版する意味がよくわからないです。

ゆーご:映画「学校の怪談2」に出てくるメリーさんの話がトラウマになってるんです。だから、よく似ているこの出だしはとても怖かったです。でも怖かったのは最初だけで、ホラーっていうより未知の生物と友情を深めていく……ETみたいな印象の話でした。ほっとした反面、少し拍子ぬけ。ホラーを読みたいと思って読まない方がいいかも。でも子どもなのに大人、みたいなさとる君のアンバランスさは好きです。

メリーさん:とりたててっておもしろいという本ではありませんでした。さとるくんというのが、妖怪の「サトリ」からきているというのが途中からわかって、人の心を読む能力を持つ子の物語なんだなと思いながら読んだのですが、新しい点がなかなかなくて。文中の言葉遣いも古い感じがしてしまいました。物語の前半で、主人公と、もうひとりの子が携帯を壊してしまい、妖怪におそわれるのはどちらかとドキドキしたのですが、すぐあとにその仕掛けの説明がきてしまい、拍子抜けでした。目をぱちぱちしていたら嘘などと、細かい設定におもしろくなる要素がけっこうあるとは思うのですが……。

ハマグリ:表紙はおもしろそうで期待したんですけど、最初のところが何度も何度も読んでもわからなくって。ナレーターが語る部分なんですけど、誰かが語っているみたいで混乱してしまいました。留守電の声が聞こえてくるので、だれかが電話を持っているのだと思ったけど、それが誰かわからない。「人間そっくりの顔にあてはまる目となった」って、意味もわからなかった。9ページの最後でさとるくんが歩きはじめ、「儀式をやって、自分のことを呼び出した少年のもとに向かっているのだ」って書いてあるので、さとるくんが儀式をするのかと読めてしまいました。あとからわかるけれど、この冒頭部分は本当に情景がすっと頭に思い描けず、混乱しました。全体的に納得できないところが多々ありましたが、一番説得力がないと思ったのは、航大と七海が、さとるくんが異界の人間だとわかったらすごくびっくりするはずなのに、全然怖がらなくて、その理由が「けど、こわいって気はしないよ、友達だから」っていうところです。今まで友達だった子が急に異界に入ったのなら「友達だから」というのもわかるけど、これでは友達って言葉を安易に使いすぎていると思います。そんなところが嘘っぽくて、中に入れませんでした。言葉づかいが古いという意見ですが、私もそう思います。「びっくり仰天ね」とか、「アホな冗談おとといとばしてきやがれ」とか、「おいしすぎてほっぺたが落ちても知らないよ」なんて、子どもが言うでしょうか。あまりにも新鮮味のない表現です。30ページ、「憎々しさをめいっぱい袋づめにしたような声でどなった」という表現も、どういうことかよくわかりませんでした。とにかく、つっかえてしまうところが多かったです。挿絵はこの本にあっていてよかったです。

ひいらぎ:物語世界の中のリアリティが、ぐずぐずですね。36〜37ページでさとると航大が初めて言葉をかわす場面ですけど、年上の少年が年下の少年にこんな話し方するんでしょうか? それに、さとるはあたりに散らばっている記憶粒子を集めてこれだけうまく人間に変身しているんだけど、それだったら航大がケータイを壊してしまった本人だということくらい、すぐにわかるはずなんじゃないかな。またお父さんのさとりが人間の魂を吸い取りたくなって息子を送ってきたんだけど、途中で姿を現すくらいなら自分で犠牲者をあの世に連れていけばいいのに。あとは、50ページのお母さんの台詞とか、79ページの「お互いに〜」からの台詞など、一息では言えないくらい長い台詞で状況を説明しているのも気になりました。

プルメリア:この作者の作品はほとんど読んでいます。この作品は2回、3回と読んだら、すごく間延びした印象になりました。携帯電話は、メリーさんの電話の雰囲気で迫ってきて怖かったのですが、お父さんの場面は怖いというよりも不思議な出現。携帯電話を図書館のトイレに流しちゃうことも、ありえないですね。さとるくんの出現もすごくあいまい。とってつけたようなものがたくさん入っている感じです。航太くんの嘘がばれて迫ってくる場面はドキドキしますが、実はさとるくんはみな知っていたのも、おもしろさに欠けるかな。読んだ子どもに聞いたところ、さとるくんのことを「幽霊」だっていうんですね、「なぜなの?」と聞き返すと、「遠いところからくるから」。とってつけたように出てくる「猫のすずってなあに?」と聞くと、「いったん死んだのが戻ってきたのかな」って。携帯電話を持っている子どもたちは、携帯電話で遊ぶと怖いと思うかも。表紙のさとるくんと航太くん、似てませんか?

サンシャイン:厳しく言うと、一つ一つの場面場面がご都合主義で書かれているという気がします。結局自分が電話をかけた本人なのに、そしてそれがばれたら向こうの世界に連れていかれるというのは相当な恐怖だと思うんですが、例えば教室にお父さんが出てきてもあまり動揺していないこととか。最後の方で、電話したのはぼくなんだと告白するところが作品のクライマックスなのかと思ったら、それも違ったようで、最後は猫に化けて終わっちゃいました。こういうのを子どもたちは喜んで読むんでしょうか?

メリーさん:この本って、もともと毎日小学生新聞の連載と書いてありますよね。1冊にまとめるときに、物語をつなぐために、けっこう加筆して説明的になったのかも知れないですね。

三酉:携帯の留守電で始まって、おもしろいところでスタートしたんだけれど、あとの展開がどうも。恐縮ながらまったく評価できませんでした。もう少し気を入れて考え、書いてほしい。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年10月の記録)


金原瑞人編訳『八月の暑さのなかで』

八月の暑さのなかで〜ホラー短編集

メリーさん:新刊として出たときに読みました。どの短編もけっこうおもしろかったです。ただどちらかというと、玄人好みというか、大人向けかなと。これは、今の大人としての自分の感覚なのですが、「後ろから声が」と「十三階」「お願い」「ハリー」なんかがとくに印象に残っています。ホラーでロアルド・ダール(「お願い」)が入っているなんてびっくりしましたけれど、路上の白線を踏んで家まで帰るっていう絵本がありましたよね。(「ぼくのかえりみち」ひがしちから/作・絵 BL出版)それよりずっと前に同じことをダールが書いてたんだなと思いました。「ハリー」などもそうですが、日常の延長線上に怖さがあって、どれも語り口がうまい。どこにでもあるような設定ですが、読者をひきこむ力がありますよね。

レン:私はあまりぴんときませんでした。ホラーというテーマになれていないからかもしれませんけど、子どもの本というよりは大人の話だなと思いました。怪奇小説や、複雑な語りといった、大人の本への入口にはなるかな。私自身は、久しぶりにこういう世界に入ったので、迷子になった感じでした。ときどき引っかかる表現がありました。160ページ「顔は細かい部分まで彫りが深く」はどういう意味?

ひいらぎ:金原さん名前の訳は金原印のブランドになっている観がありますが、これはご自分で訳してるのかしら?

優李:私はこの本が一番好きでした。高校生の頃サキが好きだったのを思い出しました。だけど「こまっちゃった」はこんなにしていいのかな? もとのものをずっと昔読んだと思うけど、全く違う雰囲気で、翻案といってもここまでやるか、という感じ。最初にこれを持ってきたことで、子どもたちに、とっつきやすい、と思ってもらおうとしたのかもしれないけど……。この本は「岩波少年文庫」じゃなくて、大人向けの本にすればよかったのでは? と思いました。そうすれば、「こまっちゃった」の、あの無理な若者語モドキみたいな言い回しを使わなくてもよかったのに。それにしても「八月の暑さの中で」は、かなりドキドキしてこわかった。ダールは好きなんですが、「お願い」は、子どもたちが好きな「ピータイルねこ」(『ふしぎの時間割』岡田淳/作・絵 偕成社所収)に設定が似ているところがあって、これは本好きの高学年にすすめてみようかな、と思いました。でもやっぱり小学校では少し無理があるかなあ。

ゆーご:児童書としての善し悪しはさておき、今の私が読んでおもしろかったです。各短編の最初に作家情報が載っているので、「こういう作家だからこういう作品なのか」みたいな読み方ができました。また作家情報を見比べるとかなりバラエティーがあり、編集者の意図が感じられます。得体の知れない怖さが残る作品が多い所も私好み。短編はずっと怖いのでなく、最後が大事で、「ポドロ島」の不気味さとか、「こまっちゃった」とか、「八月の暑さの中で」のように、語られていないこの先はどうなっちゃうんだろう……って想像するのがおもしろい。映画のように突然わっと驚かされるのではなく、よりじんわりとしみこんでくるのが小説の怖さ。それが存分に出ている作品ばかりでした。

シア:3冊の中で一番最初に読みました。金原さんの訳で短編集だというので期待して読んだんです。たしかに大人が読むとおもしろいんだろうけど、子どもが読んだらどうなんでしょう? いかんせんすべてにおいて古いんですよね。これを読んだ子は、八月は暑いまま終わってしまうんじゃないかと。全然ホラーという感じがしない。「ホラー短編集」っていう副題よりは、「恐怖幻想短編集」になったかもしれないってあとがきにありましたけど、そうしたらよかったのに。作家の解説があるので、子どもにとっての文学の導入としてはとてもいいと思いますが。それに、金原さんの訳にしては、気持ちが悪いんですよ。一編ごとに訳の雰囲気が全然違っていて、ぎこちなさを感じました。とくに、「こまっちゃった」の、「ア・ブ・ナ・イ」なんて表現、やめてほしい。子どもたちも嫌だと思うんじゃないかな。

ひいらぎ:今の子はこう言うだろうと思ったおじさんが書いてるって感じですか?

シア:それにしても感覚が違いすぎていますよ。訳も(短編の)選択も、なんかちょっとなあって。子どもがこの本を読んでも、「ふーん」ってなるでしょうね。ロアルド・ダールなら、もっと怖いのがあると思います。あとがきにもあったブラッドベリを入れたらよかったのに。これを喜んで読むような子は、優等生的な子だと思いますね。「八月の暑さの中で」と、「だれかが呼んだ」はおもしろかったけど。でも、オチがついているっていう意味では3冊の中で一番よかったです。今は時代が不安定だからホラーは人気があるけれど、読者が受け入れられる怖さというのを、出版する側が模索している部分があるんじゃないかと感じます。教室で安心して薦められるホラーっていうのが、あまりないですね。むしろ、クリスティーなんかの方が薦めやすいかも。ホラーっていうものの定義について考えさせられる作品でした。

プルメリア:私がこの作品の中でおもしろかったのは「八月の暑さの中で」「開け放たれた窓」「十三階」。先ほどもお話に出ていたように、扉に佐竹さんの絵があり、題名があり、作家の紹介がある本のつくりが目を引き、気に入りました。学級の子どもたちに「どの話が心に残ったか」と聞くと、「最初の『こまっちゃった』がおもしろかった」という声が多く「どこがおもしろかったの」と聞き返すと「目玉がとびだしたり、首をもってかえるところがおもしろかった」。子どもたちが日常生活で読んでいるマンガやゲームの世界の影響か、怖いというよりおもしろいととらえる子どもたちの心情を考えさせられました。

ひいらぎ:私はどの短篇も怖くなかった。ホラーというより幻想短編集。そういう味わいはあると思いましたが、読むのは大人なんじゃないかな。編集者の目で見ると、訳で気になるところがいくつかありました。24ページで「その表情から伝わってくるのは恐怖で、いまにも気を失って倒れそう」なのに、「呆然としている」のはよくわからない。26ページの「イングリッシュ・イタリアン・マーブルズで働く」もわからない。原文を見てないから何とも言えないですが、ひょっとするとイギリス産とイタリア産の大理石を使ってますってことなのかな、といろいろ考えてしまいました。「開け放たれた窓」の窓は「床まである大きな窓」とあってフランス窓でしょうが、日本語ではこういうのは窓じゃなくてガラス戸というのでは? 41ページには「赤の他人や、たまたま出会った人は、相手の病気や体の不調や、その原因や治療法の話をすれば喜んで耳をかたむけると思っていた」とありますが、ここでは相手ではなく自分の体の不調のことしか話していないので、変です。「ブライトンへいく途中で」では、49ページの「それも、はずれ」もしっくりこないし、52ページの「大釘でなぐった」も、普通は釘でなぐったりしないので、別の訳語がなかったのかな、と。

三酉:この「大釘」というのは、かつて鉄道を枕木に打ち付けていた「犬釘」のことじゃないかな。あれなら頭が大きいから凶器になりうる。

ひいらぎ:120ページの「そうしたら、ふり返ることができる」も、その後でトレーラーカーのドアの所まで行くのだから、「ふり返る」のは位置的におかしい気がします。そんなふうに、どうも私にはしっくりこないところがあちこちにあって、読み心地が悪かったですね。

三酉:翻訳のこととか、ご指摘を受けると「そういえばそうか!」と思いますが、読んでいる最中は、ちょっと気になりながらもおもしろく読みました。みなさんからあがった以外では「もどってきたソフィ・メイソン」。そうそう、最初の「こまっちゃった」のは、落語で同じ話があるんですよ。居合抜きで首を切られた男が、自分の首をとって提灯がわりにして「はい、ごめんなさい」って。

ひいらぎ:落語だけじゃなくて、イギリスにも落ちた頭を抱えて出てくる幽霊や妖怪がいますよ。

三酉:全体として、このセレクトは大人向けでしょう。少年文庫に入ってしまってはもったいない。大人が読むチャンスが減ってしまう。

ハマグリ:少年文庫は小学校中学年向きから中学生以上向きまであり、昔からの少年文庫らしい作品だけでなく、新しい企画を入れて進化発展しているので、こういうものが入ってきてもいいと思います。

三酉:今の子どもは、古い作品だとだめですか?

シア:タイトルと、ホラーっていうのと、佐竹さんの表紙絵で手に取るでしょうけど。「こまっちゃった」はまあ読んでも、「八月の暑さの中で」で挫折しますね。

ハマグリ:私は企画としておもしろいと思うんですね。YA読者に人気のある金原さんが、自分の好きな話の中から一体どれを選んだのか、って読者にとってとても興味があるし、金原さんも読者の期待をよくわかった上で、「こんなのどうよ」っていうのもとりまぜて、読者に投げかけてるように思うんですね。この中でどれが好きかを挙げると、人それぞれ好みが違うと思います。そういうこともわかっていて、いろんなタイプの話を選んだのかなと思うので、そういう意味でおもしろいなと。私自身は、「八月の暑さの中で」みたいに、どうなったかわからない、最後にすとんと落としてくれないで、読者の想像に任せるようなのは、好みではありません。「開けはなたれた窓」は、中学の授業で英語で読んで、すごくおもしろかったのをよく覚えています。その後愛読したサキの短編集でも「開いた窓」はとても好きな一編でした。でも今回読んだらそんなにおもしろくなかった。少女の語り口調が、今の子に合うようにくだいて書かれているんですが、それが逆に作用して軽く感じられたのかもしれません。

シア:私も教科書的なものを感じていて、「八月の暑さの中で」は、そのまま教科書に載りそうですよね。「さあ、この後はどうなったでしょう? 続きを書いてみましょう」みたいな。

サン シャイン:サキの「開いた窓」は高校の時に読みました。最後の一文は今でも覚えています。「即座に話を作り出すのは、彼女の得意とするところであった」というんです。どうしても古い訳のほうがよかったと思ってしまいます。金原さんのお名前で広く読んでもらいたいと思ったのでしょうか?「こまっちゃった」の文体も、気軽に読んでもらおうと思ってこういう調子のものを最初に持ってきたのでしょうか? こんな作家がいるんだよという紹介の意図もあるんでしょうね。それはいいことだと思います。ただもう少しこなれた訳になっていると、読者層が広がるかなと正直思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年10月の記録)


れいぞうこのなつやすみ

オカリナ:この本は図書館でずっと貸し出されていて、子どもたちに大人気なのだとわかりました。おとなの私も、とてもおもしろく読みました。まず会話が関西弁なので、リズムがあるし、とぼけた感じがいいですね。たとえば「ほな、なんですの? いいたいことがあったら、ちゃっちゃと、いうてください」なんていうところ、標準語の「だったら、なんなんですか? 言いたいことがあったら、さっさといってください」だと、きつすぎておもしろくないと思います。冷蔵庫がプールに行くという設定もずいぶん突飛だし、普通なら沈んじゃうだろうと思いますが、「ありえなさ」の段階が徐々にエスカレートしていくので、このあたりまで来ると、「それもありかな」と思えてきます。その後で、冷蔵庫が「日焼けが痛いからあと三日くらい待ってくれ」というのにも、笑ってしまいます。それから、長谷川さんの絵がいいですねえ。表紙は本文とは関係ないようですが、入道雲、麦わら帽子、スイカ、アイスキャンデー、かき氷で「まさに夏」を表現しているし、プールだけでなく今後はこんなこともありそうだと思わせています。文章は「通信販売のカタログの派手なパンツ」とあるだけのp.6の挿絵も、「わかがえる」「みわくのへんしん!」なんて書き文字を入れたうえで、スイカパンツ、サボテンパンツ、おさかなパンツまで描いています。楽しいですね。またp.12は、文章でお母ちゃんが冷蔵庫に宝くじやストッキングを入れているとありますが、絵ではおまけに、シャンプー、リンス、「かあちゃんのパンツ」まで入っています。どのページでも、人物や冷蔵庫の表情がその時々の気持ちをあらわすように描かれているのも、すてきです。

三酉:冷蔵庫がしゃべるのが驚きですね。だからここまでやるのなら、もう少しとんでもない展開があるのかなと思いました。が、プールでいじめっこをいじめて……ここで終わり。ちょっと期待はずれかな。始まりにしても、子どもが冷蔵庫に顔をいたずら書きしたら動き出した、というようなものだったら説得力あるかな、などとも。作者には失礼ながら、まあそれほどリキを入れずに書いた作品かな、という印象でした。絵については、長谷川さん、さすがですね。

ゆーご:読み聞かせにぴったりの作品だと感じます。笑いのポイントが随所にあるので、子どもたちがテンポよく笑えそう。長谷川さんの絵は昔から好きなんですが、今回も物語とマッチしていて、改めていいなと。冷蔵庫に突然顔が現れた部分は、笑いでなくまさに「大笑い」で、私までもらい笑いしそう。冷蔵庫が夏休みをとるという発想は、「冷蔵庫も大変だなあ」という作者の思考を感じます。今年は暑かったから、共感できますね。

優李:村上さんの作品は、『かめきちのおまかせ自由研究』(長谷川義史/絵 岩崎書店)が子どもたちに人気でした。この作品も人気です。冷蔵庫が急に変わるというところは、大人の私にはちょっと唐突で安易かなと思いましたが、その後のテンポがとてもいいですね。後半に行くにしたがって、じりじりよくなっていく感じ。進め方がうまいなと思いました。子どもたちからすぐに感想、質問が出そうなのが、長谷川さんの絵。特にp.6の絵、文中にない細かい点は、画家さんの想像力で描くのかな。すごい!と思いました。読み聞かせ中に、子どもたちがいろいろな発見ができる絵だと思います。お父さんとお母さんのキャラクターの感じもとてもいい。言葉もそうですが、関西の文化は奥深いなあと思わせられる楽しい本でした。

ジラフ:関西弁のことに、みなさん触れられていますが、私は三重県の出身で、京都でも長く暮らしたので、ここに出てくる関西弁のやりとりを、すごく心地よく感じました。関西で暮していると、商店街でおつりを手渡されるとき、「はい、百万円」なんて、冗談みたいなやりとりが実際にあったり(笑)、上方落語や漫才、人形浄瑠璃など、物語る文化、語りの文化が、日常のなかに息づいているのを感じます。この作品には、そんな関西弁の持ち味、可笑しみとか、深刻なことを軽みに変えてしまうユーモアが、うまく生かされていると思いました。暑い真夏に、冷蔵庫が動かなくなったりしたら、ほんとに困ると思いますが、それが、ごく自然にファンタジーの入口になっていて、元に戻るところでも、一日たつと、二日目には、三日目には……と余韻をもたせて、最後にすとん、と腑に落ちます。日常とファンタジーの行き来が、とても自然に感じられました。

メリーさん:関西弁のテンポのよさと、いわゆる「関西人」のノリでしゃべる家族の会話が生きていて、とてもおもしろかったです。冷蔵庫がしゃべり出したときに、「わたしらを たべんといてください。たべるんなら、この人だけにして」とお母さんがお父さんを前に押し出すところとか、冷蔵庫に手足だけでなく、しっぽも出ると、「おいおい。しっぽまで いらんがな」とか。お母さんの水着を何とか着ることができてしまうと、「なんか むかつく」。クスッと笑わせる家族の会話がとてもよかったです。ほかにも、れいぞう「子」だから、冷蔵庫が女の子だという設定や、町の人々もなんだかんだいいながら、冷蔵庫にきちんと対応しているところ、プールから戻ってきて日焼けをして、痛がっている冷蔵庫をきちんと待ってあげるところなどは家族の一員みたいでおもしろかったです。よくよく考えるとおかしいことなのだけれど、不思議と納得してしまったのは、やはり関西弁の力なのかなと思いました。

ダンテス:おもしろかった。関西のノリですね。関西弁を作品に入れるのはむずかしいんでしょうけど。作者と長谷川さんが、文と絵を相談しながら作っていったのではないかなと感じました。おひさまの絵、とてもいいですね。

タビラコ:幼年童話は絵と文章が50%ずつなので、おそらくこの本は文章の方が先にできたのでしょうが、文章の持つエネルギーが絵に注ぎこまれて、ますます生き生きとした絵になったのではないかと思います。おひさまの絵、わたしもすごいなあと思いました。子どものころって、鉛筆や消しゴムなどの文房具が使っているうちに小さくなってかわいそうというように、道具を擬人化して思いやるということがよくありますが(私は、どういうわけか、なかったけど!)、この本はそういう、ちまちました道具ではなくて、ドーンとした冷蔵庫を対象として思いついたところがおもしろい。ナンセンスというのは、幼年童話になくてはならない大切なジャンルですが、この作品は、見事なナンセンス童話だと思いました。

プルメリア:この作品が出た時にすぐ読んでおもしろいと思いましたが、まわりの先生たちからは「ふざけている」といわれた1冊です。今回、もう一度読んでみて、子どもたち(小学校4年生)に1、2、3の場面に分けて読み聞かせしました。プールが嫌いで、泳げない子どもがクラスに一人います。その子も、ほっとした様子で聞いていました。子どもにとって身近な日常生活が取り上げられていますが(泳げない、いじめなど)、子供の心情をわかって書いているんでしょうね。最後の場面、冷蔵庫の「しっぽ」の部分では、余韻を残す印象なので、次作につながるのかなと思いました。見返しの夏に関係する挿絵を見せながら、子どもたちに夏休みの生活についていろいろ質問しました。「大人の飲み物のビール、飲んだことのある人いますか?」と問いかけたら、手を挙げる子どもがたくさんいて みんなで大笑いをしました。

たんぽぽ:ふざけている話だけれど、おもしろかったと思いました。『すいはんきのあきやすみ』(同コンビによる、PHP研究所)が出て四季がそろいましたね。

プルメリア:近くの図書館には『ストーブのふゆやすみ』(同コンビによる、PHP研究所)は入っていませんでした。

タビラコ:「ナンセンス」と「ふざけている」というのは、違うと思うけれど。小学校の図書館には入れられないけれど、家で読むのはいいっていうのかしら? それとも、そう言っている先生たちは、こういうものは子どもに読ませたくないのかしら?

三酉:やっぱり関西弁の軽さがいい。標準語ではホラーになってしまうもの。

タビラコ:翻訳絵本でも、『ぼちぼちいこか』(マイク・セイラー/作 ロバート・グロスマン/絵 偕成社)は今江祥智さんが関西弁で訳されてますね。

シア:今回の本の中では、子どもに一番人気のありそうな本だと思いました。テンポがいい文体に加え関西弁でノリがよく、楽しく読めました。公共図書館では夏の間に地域のこの本が全て貸出中になったので、子どもたちは読書感想文を書くのでしょうが、何を書くのか気になります。楽しいけれど、書くのはむずかしそう。ラストに冷蔵庫のしっぽが出てきて終わるのが、余韻のある締め方でいいなと思いました。子どもらしいハッピーエンドで、寂しくならないですね。冷蔵庫って浮くのか? とも思いましたが、全てが子どもらしくていい話です。冷蔵庫は最後に「こ」がつくので女の子なんだというところで気が付きましたが、今の女の子の名前には「子」があまりつかないですね。変わった名前が多い気がします。

すあま:私はこの本を知らなかったし、四季でシリーズになっているのも初めて知りました。絵と文のコンビがいい。絵はにぎやかだがドタバタではなく、物語もくすっと笑える。これが関西弁ではなく、標準語だったらおもしろくないかも。関西弁のパワーに助けられてますね。家族たちのあたたかい感じもあって、おもしろかったです。

タビラコ:『特急おべんとう号』(岡田よしたか/作・絵 福音館書店)も同じような雰囲気だけれど、あっちは、この本の持っているような幼い子が感じる情緒というか、あたたかさのようなものが欠けているように思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年9月の記録)


なんでももってる(?)男の子

たんぽぽ:教訓的かなと思いました。男の子ふたりのシチュエーションを逆にして書いたら、おもしろいのではないかと思いました。

オカリナ:『れいぞうこのなつやすみ』を「ふざけている」と評する先生方は、こういう本ならいいとおっしゃるのでしょうか。「物質的に豊かなことが幸せではない」ということを、子どもに教えようとしている本ですよね。意図も見え見えだし、筋の先も見えていて、私は文学とはいえないと思いました。犬のピュンピュンは、ターザンごっこをするフライに抱えられたり、高い木の枝にのせられたりしても楽しんでいるとありますが、ぬいぐるみならともかく、生きた犬ならありえない。ビリーもいい子すぎて、フライみたいな嫌な子に会っても、最初から全面的に受け入れる。人生のある一面だけを強調してご都合主義的にお話をつくっているので、こういう作品を読んでも、子どもが将来豊かな人生を送れるようにはならないと思います。まるで道徳の教科書みたいです。

プルメリア:道徳的といえば道徳的ですが、道徳の教科書はもっとおもしろくないので、子どもたちにはこういう本を読んでほしいと思います。わがままで自己中心的な人が多い世の中でもあるので、この本を読んで人との出会いを感じてほしい。主人公をはじめとして、登場人物の名前がおもしろい。場面ごとに出てくる犬のしぐさもかわいいので、ほのぼのとした雰囲気を味わってもらいたいです。クラスにおいたら、男の子たちが読んでいました。子どもたちが大好きなお菓子の描写などは、わくわくしながら読み進めると思います。

ダンテス:何ごとも大げさに書いてあるということだと思います。ちょっと先が見えてしまいますね。楽しめたかどうかというと……極端に、大げさに書いて、教訓的なことも入れようとしたということでしょう。おとなは、先が見えてしまっておもしろくないけど、子どもはそんなことはないのかな。

三酉:道徳の教科書はもっとひどいと聞くと、そうなのかとも思いますが、翻訳までしなくてもいいのではないかと。何ともストレート過ぎる。もうひとひねり欲しいです。

ゆーご:『れいぞうこのなつやすみ』のあとに読んだので、おとなしめの挿絵に物足りなさを感じてしまって。描写のわりに、絵にお菓子が足りないかも。『チョコレート工場の秘密』(ロアルド・ダール/著 評論社)くらいのインパクトがあればいいのに。どこかで読んだことがありそうな話だけど、子どもは物につられやすいし、まして物があふれている時代だから、このような話は必要なんだと思います。

優李:大人の本読みにはつまらないと感じるのかもしれないですが、子どもはお菓子やロボットが大好きなので、そういうところにひかれると思います。ただ、ストーリーがあまりに類型的なので……。絵もクラシックをねらっているのかもしれないけど、あまり魅力的でないように思います。お金持ちの子どもも、あれでは、ちっともうらやましくない。もう少しかっこよく描いてほしかったです。

三酉:子どもは、お菓子の絵と、ストーリーを切り離して受け止めているのかな。

オカリナ:C.S.ルイスは「子どもの本の書き方三つ」(『オンリー・コネクト2所収 岩波書店』の中で、子どもが好きなものを持ち出せばいいというものではないと述べています。私も「お菓子を出せばいい」というもんじゃないと思うけど。

ジラフ:この本のおもしろさ、おもしろくなさ、ということもありますが、イギリスやヨーロッパにでかけると、若い人が、とてもつつましい生活をしているのを目の当たりにします。日本人がどれほど豊かで、ものにあふれた生活をしているかを、つくづく思い知らされます。その意味で、イギリスにはそうした価値観というか、伝統的に古いものを大事にすることを尊ぶ素地があるからこそ、逆に、こういうお話が書けるのかな、と思いました。ただ、この本そのものは、正直、それほど楽しめませんでしたけど。

メリーさん:物より友情の方が大切だという、よくあるストーリーで、物語自体に目新しさはありませんでした。彼らの名前の訳語も、「ナンデモモッテルさん」でおもしろいことはおもしろいのですが、もうひとひねりしてあったらいいのになと思いました。

タビラコ:子どもが好きで読むというのは、わかるような気がしますけれど、作者の意図は違うところにあるような気がしますね。結局、作者は何を書きたかったのかな? 私は、子どものうちはどんな本でも、ともかく大量に読んでほしいと思っているほうだけれど、その場その場のおもしろさだけで、口あたりのいいものばかり読んでいる子どもは、もうひとつレベルが上の本は読めなくなって、結局本嫌いになってしまうと、ずいぶん昔、ムーシカ文庫をやっていらした、いぬいとみこさんに聞いたことがあります。

シア:夏休みのせいか、いつもと違って図書館で手に入りにくかったのですが、読みやすい本でした。この本は外国のものでありながら、やけに親近感を持てるなと思ったら、やはり画家は日本人でした。イラストの芸がこまかいので、しかけ探しなどが楽しめるのではないかと思いました。ストーリーはいい意味でのマンネリで、子どもにはいいのではないでしょうか。作者は『チョコレート工場の秘密』が好きだったのかなと思うような展開です。わがままなフライにもずっと優しく接していたビリーが、飼い犬のピュンピュンを売ってほしいといわれたときに初めて怒るんですが、そういうふうに、いいことと悪いことをきちんと描いているところなどもいいと思います。わがままな子どもが多い中、我慢ということを教えるためにこういう本はオススメなのではないかと思いました。こちらが驚くほどのわかりやすさがないと、通じない子もいますので……。

オカリナ:どうやら教育関係の方たちはみんな、この作品を薦めたいと思われているようですね。

すあま:王子様、王女様が主人公の、こんな話がありましたよね。何不自由ない生活だけど、友だちがいないというような。それが、現代になって、お金持ちにおきかえられたというような物語。王子様であれば、食事が豪華なくらいでもぜいたくな感じが出るかもしれないけれど、この本のように今の世の中におきかえると、あまりに多くのものがごちゃごちゃ出てくるので、読んでいてくたびれてしまいました。これでもかこれでもか、という感じですが、情報量の多い映像に慣れている今の子には、これくらいじゃないとだめなのでしょうか。「なんでももってる」描写に疲れて、おもしろくなかったです。数の大きさで表現するとか、もう少し別の描き方にした方がわかりやすいのでは? 結末もあっけない感じで、もう少し続きがあってもよかったかなと思いました。

オカリナ:道徳の教科書のかわりにこの本を小学生に読ませても、お菓子のところだけに夢中になったり、この本に出てくる大金持ちと自分は違うと思ったりするんじゃないかな。そうだとすると、教育的な効果すら期待できないのでは?

タビラコ:お菓子やロボットの描写だけおぼえているんじゃないかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2010年9月の記録)


空からきたひつじ

プルメリア:ストーリー全体がほのぼのとした感じ。登場人物や、子どもたちが大好きな乗り物(消防自動車など)が出てきたり、帽子をかぶせてもらうところなどは、1、2年生には楽しめる作品だと思います。金魚が物語の場面ごとに出てきて、何気ない表現ですが、ストーリーを動かしているのかなとも思いました。羊のもこもことしたやわらかい感じが、癒しになります。幼年文学として、お薦めの作品ではないでしょうか。

ダンテス:ごめんなさい。あまりピンときませんでした。ほんわかはしてますけれど。絵の色彩はきれいだと思います。

三酉:私もピンとこなかったけど、いろいろ考えました。1958年の東ドイツ。ベルリン封鎖の1960年。東西関係が緊張している中で書かれた本なので、いろいろ読み方があるのではないかと思います。だから金魚やインコは何かを意味しているのではないでしょうか。羊が突然降りてきて、生きるの死ぬのというのは、東ベルリンから西ベルリンへの救出劇を表しているのか? クリスチアーヌと主人公の名前は、ソ連を意識しつつ、キリスト教国の西側を暗示しているのか? わからないですけど。

ゆーご:対象年齢は何歳なんでしょう。読んでいる途中で意味がわからないところがあって、小学生の中学年でもむずかしいと思います。犬とザワークラウトとの関係、鳥の役割などは現在進行形で気になっています。挿絵の羊の表情が実にさびしそうですね。それもあってか、全体的にしっとりとした物語という印象です。最近の絵は細めの女の子が多いですが、主人公の女の子のふくよかさが好きです。羊のような繊細な心への理解が、この話を読むことで深まるといいと思います。

優李:さっと読んでしまいましたが、途中出てきた金魚と小鳥が活躍せず、その背景が語られないまま最後までわかりませんでした。羊は、羊雲の連想でしょうが、いいと思います。挿絵もとてもいいと思います。繊細な物語ですね。元は絵本で出ていたということですが、それをこの幼年童話の形にして、読者層に受け入れてもらえるように読んであげたり紹介したりするのは、私には大変かもしれないです。

ジラフ:純粋に、いいお話だと思いました。色や手ざわりなど、細部の“質感”がていねいに描かれていて、物語が生き生きとしています。この本がなぜ、いま出たのかと考えると(原書は1958年刊)、やっぱり、絵の魅力が大きいと思います。ヴェルナー・クレムケのリトグラフは、いま見ても非常にモダンです。ヨーロッパの言葉から日本語への翻訳は、読み物の場合、横のものを縦にすることが多いですが、挿し絵のふんだんな子どもの本では、その処理に工夫が必要です。この翻訳書は、縦書きの幼年童話のかたちになっていますが、絵の配置や、ズームと引きの緩急のつけ方なんか、絵の入れ方もとてもいいです。羊雲がモチーフということから、いつだったか、夕暮れどきに、西日を背にした雲が、クマのプーさんそっくりのかたちをしていて、金色にふちどられていて、道ゆく人がいっせいに携帯をかまえて、写真を撮っていた光景を思い出しました。雲というのは、何か連想が広がるんですよね。

メリーさん:羊を何とか助けようと、男の子たちをさっさと手配して、自分も走り回る……主人公のクリスチーネが何ともたのもしい物語でした。(対照的に、歯医者さんで歯をみがこうねと言われ、消防士の帽子をかぶってご機嫌な男の子たちは、あまり役に立っていませんが……)ヨーロッパでは、警察より消防士を信頼できる職業だと思っている人が多い、という話を聞いたことがあります。いろいろな人に出会いながらも、最後に頼りになるのは消防士さん。消防車のはしごで羊を空に返すというアイデアが、素朴だけれど味があっていいなと思いました。

すあま:幼年童話を評価するのは、むずかしくて、読み手である子どもがどう読むかを考えながら読むことが必要だと思います。私が子ども時代に好きだった幼年童話を、他の大人の人が読んで、おもしろさがわからなかったと言われたことがあり、小さい人向けの本の評価はむずかしいと実感しました。この本は、絵本だと文章が多すぎて読みにくい。だからこの形にするのはとてもいいのかなと思いました。羊を空に返すという問題を、主人公の女の子がどう解決するのか、わくわくしながら読めました。助けを求めに行った男の子が失敗したり、頼りになるかと思った羊飼いが毛を刈ることしか考えていなかったり、最後ははしご車が出てきたりと、次はどうなるのかを期待させる展開が、とてもよくできていると思います。

たんぽぽ:絵がとてもきれいだと思いました。幼稚園で男の子の一番人気の職業は消防士らしいです。安心して渡せる本かなと思いました。前は絵本の形で出ていました。これは復刊ではなく、あくまで新刊だと聞きました。最近、昔の作品を形を変えて出していることがとても多いですね。

シア:さらっと読めましたが、中身はあまり印象に残りませんでした。他の本にくらべて値段が高いですね。水の循環の話が載っており、理科的なおさえはされているので、最後には羊は消えちゃうのかと思っていたのですが、結局はしご車で解決してしまう、というファンタジーに面食らいました。それに、絵本のせいか、不自然なシーンも多く、少し落ち着きませんでした。例えば、主人公の家のインコなのだから、犬とザワークラウトの関係は知らないはずなのに「ザワークラウト!」と鳴いたり、動物と話すのが夢である主人公なのに、羊がしゃべってもとくに驚かなかったりなど。学校に通うクリスチーネですが、出てくる男の子たちは幼稚園で、年が違うんですね。とはいえ、外国の文化や風土にふれることができました。夏休みには学校に先生がいないことや、町はずれに羊飼いがいるというところ、結婚式に馬車に乗るということ(道路に馬車が走っています!)、おやつ代わりに草の茎をかじる子どもたち、消防士の服も違う、そんなところですね。それから、サーカスの車が文章には出てくるんですが、それが挿絵として出てこないなど、細かいところばかりが気になってしまいました。

オカリナ:たんぽぽさんに読んでいただければ、ゆったりとした味わいがおもしろいと思えるでしょうが、自分でさっと読んでもあまりおもしろいとは思いませんでした。絵はとてもいいのですが、物語世界の中でのリアリティが気になりました。チリは、羊は「雨になっておちてくる」と言っているのに、チリ自身は羊のまま。子どもは変だと思わないでしょうか? また消防車のはしごで空に帰るという設定は、牧歌的すぎて今の子どもには無理なのでは? 今の子どもの絵本には、たとえば「月をとりたいけどはしごでは届かない」なんていうシチュエーションが、たくさん出てきますからね。最後の、クリスチーネに対して羊がお礼を言うのではなく、金魚が「お礼をいった(かもしれない)」というのは逆に大人っぽい書き方で、この本の年齢対象の子どもたちにはわかりにくいと思います。

タビラコ:昔は、日本の絵本でも、女の子はぽちゃっとしていたんじゃないかしら。男の子も女の子も、まるまるぽちゃっとしている子どもがかわいいと思われていたのが、今ではずいぶん変わってしまいましたね。絵はとても明るくて、のんびりしていていいし、物語も「好ましい」物語なんだと思います。でも、幼年童話にしては、文章の分量が多いのでは? なんだか、内容と文章の分量のバランスが悪いなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年9月の記録)


岩崎京子『建具職人の千太郎』

建具職人の千太郎

ジラフ:課題図書を読んだのは久しぶりだったので、自分の子どものころに比べて、ちゃんとおもしろそうな作品が選ばれているんだな、という印象を、まず3冊に共通して持ちました。『建具職人の千太郎』は、江戸後期という時代設定で、「惣領」とか「燠火」といった、すたれつつある日本語や、「仁義」の由来など、言葉がおもしろいと思いました。語り口調が藤沢周平の朗読でも聴いているようで、江戸情緒にひたりながら、気分よく読みました。テーマということでいうと、『ビーバー族のしるし』とも共通しますが、男の子のイニシエーションということになるかと思います。そのなかで、昔の日本人が持っていただろう、分をわきまえるという感覚、自分なりの居場所で、自分の生き方を貫いていく、すがすがしさが描かれている気がして、全体として肯定的に読みました。

酉三:そうか、言葉をおもしろいと。私にとってはそんなに、肯定的に読めませんでした。60過ぎの者が、50歳以上はなれた子どもに与えられたものをどんな目線で読んでいいのか。細部でつまずいたのは、建具職人の棟梁の息子が最初に出てきたときは、出てっちゃったと仕事に真摯じゃないように読める。でも、帰ってきたところは、修行から帰ってきたみたい。このへんは誤読をまねくかな? 子どもに手わたすものとして、これでいいんでしょうか。編集者が見落としたのかな? ほかの2冊と比べると、作品として弱い。なぜ課題図書に選ばれたのか、よくわかりません。じゃあ、この秋次って人の葛藤はなんなんだろうって。

ハマグリ:棟梁の息子はちょっとアクセントになる人物ですからね。もっと掘り下げてほしいなと思いました。よく調べて書いていらっしゃるというのはわかるけど、なんかあんまりおもしろくなかったですね。千太郎の造形がいまいちで共感できず、むしろ姉のおこうのほうが生き生きとしていたと思います。建具屋という狭い世界のなかでも上下関係があり、それぞれの居場所がはっきりと決められているというのはよく書かれていたけれど、建具職人の仕事をもっと詳しく書いてほしかった。こういった手作業は読者の子どもも興味をもつと思うし、ノンフィクションではないけど、職業に対する関心も深まると思うので。

プルメリア:小学校高学年の課題図書で、時代物の作品ですね。読むのが楽しみでした。職人言葉に時代が表れているので、その時代に入っていけます。手に職を持つ職人、農民から専門家が出てきた時代(p13)がよくわかりました。職人が新しい家を建てるとき、古い家を解体しないで水平に引っ張って移築する専門的な技術が書かれているし、また建具職人の道具が挿絵に出ているのもよかった。知らない子どもが多いので、組子についても文だけでなく挿絵があったほうがもっとわかりやすいんじゃないかな。のこぎりは小学校の図工で使いますが、かんなは使わないので、削り方の難しさが読みとれるか、ちょっと心配です。おこうは10(9)歳、建太郎は7歳、手に職をつけさせようと子どもを置き去りにするおこうや千太郎の父親に対して、棟梁の喜右衛門、亀吉の父親留太郎、生麦の名主の関口藤右衛門たちはおだやかで温かい人柄に描かれています。手に職をつけ生きていく時代に奉公する子どもたちの生活や徒弟制度(上下関係)、江戸の食文化や生活様式がわかりやすく書かれていました。しかし、きびしい身分社会の中で生活に苦しんでいただろう農民の暮らしや時代背景が、ややわかりにくいかな、とも思いました。

うさこ:子どもが多く、大人は日々を生きるのに精一杯だった時代に、幼い年齢の子どもが「口べらし」という形で奉公に出されます。今の若い読者は、それだけでもショックを感じるのではないかと思いました。建具や建喜の人々、当時の職人さんの仕事ぶりや子どもたちの境遇などはよく書いてあったと思うし、おもしろかったけど、タイトルに千太郎とつけられているので、この子が主人公の成長物語だろうと思って読んでいくと、なかなか千太郎の姿が見えず、読み始めてから少し悶々としました。よく調べて書いているので感心するところもありますが、この時代のことをあれこれ解説しなければいけない場面も多く、ところどころ文が説明に追われている印象も受けました。この時代の雰囲気、空気感みたいなことはすごくよく伝わってきたし、後半の子どもたちの動きやセリフも生き生きとしてきたのですが、全体的にエピソードが一つ一つ並べられているだけのような印象もぬぐえなくて、そのあたりが残念でした。p154の「弱音をあげる」は「弱音をはく」か「音を上げる」の間違いでしょう。
エーデルワイス:おもしろく読みました。落語が好きなので、「芝浜」や「薮入り」を思い出させるような江戸情緒に溢れる話でした。筆者は、かなり細かく取材なさったようで、まじめに書いていらっしゃると思います。ただ、千太郎が主人公でいいんでしょうか。おねえちゃんもかなり大事ですし。千太郎が話の中心になるのは後の方ですよね。

メリーさん:なぜ、今これを読ませるのかなと思いました。かなり昔の課題図書のような感じがして。ただ、子どもたちの人気の職業に大工があがっているということもあって、選ばれたのかなとも思いました。あとがきを読むと、著者も実際に調べて書かれているようですが、よくある設定で類型的な感じがしてしまいました。建具という特徴がもっと出るといいなと思います。主人公も千太郎か、おこうか、それとも秋次なのか……物語がどれも中途半端な気がしてしまいました。

レン:何カ月か前に、朝のニュース番組で岩崎京子さんがとりあげられて、そこで鶴見に取材に行くようすが映ったり、ご自身の家庭文庫に来る子どもたちを見ていると元気がないのが気になるとおっしゃっていたりしたので、この本が出たとき「これか」と思って読みました。学校に行かず小さな頃から奉公に出ているけれども、とても元気なこの時代の子どもたちを描きたかったのかなと。材木屋の知人の話では、木というのは、木取り一つでもわかるのに何十年もかかるらしいので、建具職人の仕事一つ一つに説明したいことはいくらでもあるのでしょうけれど、この本はあまりごちゃごちゃさせず、小学校中学年・高学年の読者にもわかるようにうまく説明していると思います。どの人物もどこかいいところがあって、悪いところは、みな承知でつきあっている、清濁併せ呑むような懐の広さを感じました。おこうが仁義を切るシーンが私もとても好きでした。確かに千太郎が出てくるまで時間がかかるので、これは千太郎の物語というより、建具や建喜の物語なのかなと思います。

すあま:最初、千太郎が出てこなくて姉のおこうさんから始まったので戸惑いました。主人公が後から出てくるというのは変わってるなと思いました。あの時代はこんな感じだったのかと興味深くは読めるけれど、登場人物一人一人のインパクトが弱い。共感しながら読むことができるほどには、登場人物の心情が深く描かれていないので、物足りない感じ。語り手が少し離れたところからながめているようで、千太郎の成長も実感できず、ちょっと残念でした。

げた:私は子ども向けの歴史物語ってあんまり読まないんですけどね、それなりにおもしろく読めました。作者の岩崎さんはお年なのにすごいな、ってことがいちばん印象に残ったことですね。この作品のために作品の舞台となった地元へも取材に行かれ、十分調べた上で書かれたんですよね。確かに筋だけがさらっと流れていて、人物描写に物足りなさがあるといえばそうですが、登場人物それぞれの成長物語としては十分楽しめると思いますよ。この時代の子どもたちは知識を詰め込むのではないけれど、知恵を蓄えて大人になっていく、いろんな人たちに揉まれながら成長していく、っていうことが当たり前に行われていたんですね。それは今の子どもたちには味わえないところですよね。子どもたちに読んでほしいと思う一冊ですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年7月の記録)


エリザベス・ジョージ・スピア『ビーバー族のしるし』

ビーバー族のしるし

ハマグリ:旧版は地味な本で特におもしろいと思わなかったけれど、今度は読みやすくおもしろい作品になっています。この著者や描写が具体的で、例えば木の上にリスがいた、というのでも、「木の枝に、しっぽが耳の後ろまで巻きあがったアカリスがいるのを」と、はっきり目に浮かぶように書いています。だから物語の世界に自然に入っていける。時代が古いし、ネイティブ・アメリカンとの交流という設定は日本の読者には遠いかもしれないけれど、「異文化を受け入れる」という点で、今の時代にも共通することがあるし、たくさん学ぶべきところがあると思います。特におもしろかったのは、マットがエイティアンに『ロビンソン・クルーソー』を読んであげるところ。マットはストーリーを暗記しているから、次にどんな場面がくるかよくわかっていて、エイティアンの反応をさぐりつつ読んでいく。そこがおもしろかった。原作は1983年刊ですが、当時と今とではアメリカでのネイティブ・アメリカンに対する考え方が違ってきていると思う。今、新訳になって新しい本として日本の読者に差し出されて、微妙な問題がないのかどうか、ちょっと気になりました。

酉三:開拓時代のせっぱつまった状況とはいえ、男の子が開拓地で一人で数か月も留守番をする、という設定に驚きました。作品には好感を持てました。70年代に、先住民が連邦政府に対していろんな異議申し立ての運動を始めますが、80年代に書かれたこの本は、それに対する白人作家の一つの答えなのでしょう。両親を白人に殺された孫に、部族の長として英語を学ぶように要求するじいさんというのもすごい。今は先住民の作家が書いた、『はみだしインディアンのホントにホントの物語』(シャーマン・アレクシー著 さくまゆみこ訳 小学館)なんていうのがあって、部族の状況は今も悲劇的だけれど、新しい息吹も感じます。

ジラフ:異文化との出会いについてなど、ハマグリさんが、とてもうまく言ってくださいましたが、私も『ロビンソン・クルーソー』というモチーフが、すごくうまく使われていると思いました。エイティアンとの出会いによって、「……けっきょく、ロビンソン・クルーソーは、離れ小島で王さまみたいな暮しをしていたということじゃないか!」といった気づきが、マットの側にあったり。アメリカの醍醐味は、やはり大自然にあるということも、この本を読んであらためて感じました。エイティアンが去ったあと、マットが家族の帰りを待ちながら、黙々と自分の仕事をするところは、静かな場面ながら、感情的に非常に高まりがあって、物語のクライマックスのように感じました。エイティアンとの別れや、家族との再会のようにドラマチックではありませんが、大切な場面だと思います。

レン:とてもおもしろく読みました。特に、異文化に対するマットの態度の変化が興味深かったです。最初は大人たちが言うとおりの目でインディアンを見ていたマットが、思いがけない出来事で相手の価値に気づいて、やがてわかろうとしていく。そして最後は、わかるところもあればわからないところもある、全面的にすべてで意見があうわけじゃないけれど、それでも友だちでいる、と変わっていきます。異文化交流の本質を教えてくれていると思います。『ロビンソン・クルーソー』の使い方がうまいですね。マットがすごいと思っているところで、エイティアンが、こんなのたいしたことないみたいに言うところなんか、とてもおもしろいと思いました。ぜひ子どもたちに手渡したい本です。

メリーさん:先住民の暮らしと白人の開拓民の生活が交差する場所で、ふたりの男の子が心を通わせるのはやはり人間としてなのだなと、読み終えて思いました。彼らが、食べ物や道具を自分たちの手で作り出していくところはおもしろかったです。マットがエイティアンに読んで聞かせる『ロビンソン・クルーソー』と、ようやく家族が戻ってきたときにマットが父親に語るエイティアンたちの物語が、パラレルになっている気がしました。物語中のリアリティに関して、なぜ先住民の長老が子どもに英語を学ばせようとするのかということ、最初にエイティアンが片言の英語でマットと会話するということ、『ロビンソン・クルーソー』を英語で読んでわかるところなど、本当に英語を使ってのコミュニケーションが成り立ったのか、少し疑問に思いました。

エーデルワイス:お父さんが息子一人残して戻っちゃうというのがすごい設定で、悪いやつがライフルをかっぱらっちゃって、小麦をクマに取られちゃう。次から次へと、父親に残された男の子が試練に会う、そして命が危ない所でインディアンに助けられる、ある種パターン化されているって言っちゃ悪いですかね。きっと調べた話、背景のある話だろうと思いますけど、男の子の冒険ってことでは、インディアンに助けられて、さらには嫌われていたおばあちゃんにも好かれてよかったね、となります。公民権運動の次の時代、黒人だけではない、やはり虐げられていたインディアンの人たちもいたんだよと伝える話でしょうか。もう一つはすごい初歩的な話で申し訳ないんですけど、インディアンが白人に追われていったのは、西へ西へと思っていたんですけど、北へも行ったというのを今回はじめて知りました。ニューイングランドは、かなり早い段階で白人の世界になったと思いこんでいましたが、こんなことがあったんですね。話を戻して、実はインディアンの文化が優れていたんだよと伝える点、例えば旧約聖書のノアの箱舟の話をして、インディアンにも同じような話があるというのがありましたが、キリスト教世界がベストではないという文化の相対化も含めてそんな話を入れたのでしょう。英語の原文ですが、日本語だと例えば、「インディアン、うそつかない」のようなパターン化された表現があります。最初の頃はまだ拙い英語であったのが、だんだんとうまくなっていっているんでしょうか。訳になるとその辺は分からなくなってしまいますね。

シア:私はとてもおもしろく読みました。以前出版されたのは知らないので、今回初めて読みました。中高の課題図書たくさん読まなきゃならなくて、その中でさわやかで、昔懐かしい定番感に安心しました。子どもも読めるし、読者をひきつける魅力があります。最後もハッピーエンドで楽しめました。『トム・ソーヤーの冒険』とか『ハックルベリー・フィンの冒険』とか好きなので、生きる知恵というのも楽しく感じることができました。ただ、「ビーバー族」という題なので、ビーバーがからんでくるのかと思ったら、あくまで外から来た少年の成長物語に終始していましたね。生き物についてはさらりと書かれているだけでした。出てくるインディアンは親切ではないけれど、主人公を見守ってくれていましたし、自然と生きていくことの大切さや大変さが温かく描かれていました。アメリカ人の持っている黒い歴史にも触れることができます。でも、子どもなのに銃を撃ってみたり、昔の子ってたくましいなあと。それからモカシンというのは、インディアンの靴のことだったんですね。なるほど、そういえばそんな形をしていました。モカシンなんてオシャレ靴だという感覚しかなくて。また、『ロビンソン・クルーソー』という名作を作品の中で出してもらえたので、一面的に本を読むのではなく、いい面、悪い面を読んでいけたと思います。ぜひ子ども達にすすめたい本です。でも、「インディアン」という言葉がそのまま帯にまで出てきていて、びっくりしました。最近は使わないので、いいのかなとずっとハラハラしながら読んでいました。あとがきで使用についてわかってよかったのですが、最初に書いておいてもらえればずっと安心して読めたと思うんですが。

うさこ:私もおもしろく読みました。自分の世界を広げてくれる1冊でした。18世紀半ばの先住民族の暮らしとか、自然のなかで生きるルールとか、生活の知恵とか、ああなるほどなるほどと思いながらとても興味深く読みました。マットとエイティアンは典型的な異文化交流って感じで、最初はマットもいいとこを見せようとするけれど、関わるうちにだんだんお互いを認め合い、自然体で心を通わせていく姿は、読んでいてすがすがしかった。「共生」というのもこの物語の一つのテーマだったように思いますが、最後、ビーバー族は、白人との接触をさけるために奥地へ行く。最初は、白い人にだまされないように英語を教えてほしい、とマットに近づき頼んだサクニスじいさんでしたが、長老として選んだのは「共生」のために奥地へ。マットとエイティアンの成長の物語としても読めたし、人間と自然との共生の物語としても読めました。

プルメリア:きびしい自然界のようすがよく書かれていてとてもわかりやすかったです。家族がいないきびしい自然の中で一人で生活する主人公マットがインディアンと出会い、最初は相手を受け入れない受け入れたくない民族的な壁をもち、ぎこちない態度で交流しているうちに二人の間に友情が生まれてきます。インディアンの少年エイティアンがかわいがっていた犬を助けたことからインディアン社会にうけいれられて、インディアンに支えられながらいろいろな自然界の知恵を教えてもらいたくましく成長するマット。読み終わった後、課題図書にはとってもいい作品だと思いました。小学生の頃『ロビンソン・クルーソー』を読み、無人島でたくましく生きていく主人公が大好きでしたが、この本を読んで忘れていたことがたくさんあり、もう一度内容を知りました。おじいさんがときどき話す「よろしい」という言葉に人柄があらわれており、その言葉を聞いて少年が心を開いていく過程が読み取れました。少年のリラックスする感じが出ていておもしろいなと思いました。エイティアンが大切にしている犬を残していく、マットはさりげない言葉でとっても大事にしている時計を渡す、二人の相手を思いやる心情が素敵でした。表紙を見ると、インディアンの少年が不細工に見えますが、もっとイケテル感じだとよかったのではとも思います。

げた:本にずっとカバーをかけていたんで、表紙のエイティアンが不細工に描かれていたかどうかは気がつきませんでした。エーデルワイスさんが、インディアンを持ち上げるみたいに書かれていると言ってましたけど、そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思いますよ。白人である自分たちにも家族がいるように、インディアンのエイティアンにも、おじいちゃんがいて、お父さんがいて、同じように家族がいるんだということを表現しているにすぎないんですよ。インディアンの方が優れているとか、どっちがいいとか悪いとか書いているわけではないと思います。おたがいの生き方、文化を尊重するということの大切さを読んでほしいんじゃないのかな。私は基本的に楽しく読みました。ハマグリさんが言うように、目に見えるように具体的に書かれていますよね。読んでいると、マットやエイティアンに会ってみたくなりますよ。『とむらう女』(ロレッタ・エルスワース著 金原瑞人訳 作品社)と同じように、開拓時代の人々には、今回も生きる知恵を身につけていく力強さが感じられて、憧れちゃうなとも思いました。インディアンって、最近テレビとか子どもたちが接する場面ってあんまりないんじゃないかな。私の子どものころは西部劇やアメリカのテレビ映画で、ある意味類型的なインディアンを見せられていたけれど、類型的なインディアンのイメージすら、今の子にはあんまり浮かばないんじゃないかな。

シア:ディズニーの『ポカホンタス』とかで、知っているかも。生徒には、あれもちょっとゆがめられてるよ、って話もしましたけれど。

げた:今回のテーマは「課題図書」なんで、今の時期は図書館で借りられないんですよね。この本は買いましたけど、ちょっと時期をずらしてもらうとよかったですね。

すあま:『からすが池の魔女』(掛川恭子訳 岩波書店)の作者ということで、おもしろいのかなと思って読みました。1983年にぬぷんから出版されたときの本は読んでいなかったです。

ハマグリ:ぬぷんのは地味で、手にとりにくい本だったからね。

すあま:男の子二人が出会い、子ども同士だからといってすぐに仲良くなるわけではなく、反発しあって、簡単に仲良くならないところがおもしろかった。それから、主人子は現代の子ではなく、開拓時代の子なので今の子よりもなんでもできるのに、インディアンの子に比べるといろんなことがうまくできない。そんなところが、今の子でも共感して読めるかなと思いました。とにかくおもしろく読めました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年7月の記録)


カティア・ベーレンス『ハサウェイ・ジョウンズの恋』

ハサウェイ・ジョウンズの恋

シア:『ビーバー族のしるし』と似たような時代ということで、時代背景としては、ディズニーランドで子どもたちも知ってるかな。なんて思って読み始めたら、びっくりの読みにくさ。文体のせいなのか、詩的すぎて読めません。ぶつ切りと言ってもいい文章。登場人物もだれがだれだかさっぱりわからなくて。読みながら、最初の登場人物一覧を何度も見ました。栞を挟んで読んでたくらいです。途中から見ちゃった昔の海外ドラマって感じ。訳のせいかなとも思うんですが、何がなんだかわからない。これで読書感想文を書くってどう書けっていうのでしょう? 高校生でもきびしいと思います。それに、中身はぜんぜん印象に残らないんですけど、殺人事件とか恋愛とかだけ妙になまなましくて。その辺が課題図書なのに嫌だなと。この作品を「ツァイト紙が絶賛」したって書いてあるんですけど、ドイツ人の感覚がわからなくなりました。頑張って読んで、何も残らない。表紙や題名は美しいけれど、これに騙されて高校生はみんな読むんじゃないかと思うと、心が痛みます。

エーデルワイス:そうか。最初のところに登場人物の一覧があったんですね。見ないで読んでたもんだから、名前が頭に入ってこなくて。だれかがだれかを殺したなっていうのが、4件くらいありましたか? 社会的には裁かれない。そういうこの場所での事件と、ハサウェイと彼女との恋愛がからんで進んでるんだなっていうのがわかるけれど、正直あんまりおもしろくなかったです。

メリーさん:高校生対象ということなので、ほとんど大人向け小説と同じだろうなと思いながら読み始めました。最後、メイシェを守るためにダッチ・ヘンリーを殺す場面はあざやかでした。ただそれにしても、文章が散漫で読みにくい。よくいえば短く区切ったハードボイルドなのですが、改ページ改ページで物語がつながらない感じがしました。子どもたちはこれを読んで、何を感じるのか? 追体験をするのか、全く違った時代と世界の物語として読むのか……? 課題図書になる前に、どの層をターゲットにして作ったのか疑問に思いました。文体がドライな一方で、中で擬音がたくさん使われていたり、装丁がヤングアダルトのようだったりと、ターゲットがはっきりしないところが難しい原因かなと思いました。

レン:私も途中で投げそうになりました。名前がいろいろ出てきて、だれのことをいっているのかわからなくなって。ハサウェイは、「歳は十四。いや十三か、もしかしたら十五」と8ページにあるのに、せりふがどことなくおやじくさくて、なかなかイメージできませんでした。『とむらう女』や『ササフラススプリングスの七不思議』(ベティ・G・バーニィ著 清水奈緒子訳 評論社)など、このところアメリカが舞台の作品が多いですね。アメリカが舞台だと、読者はずいぶん許容範囲が広いんだなと思いました。金鉱掘りの話なら、子どもの本で他に『金鉱町のルーシー』(カレン・クシュマン著 柳井薫訳 あすなろ書房)などがあるし、この本をわざわざ読ませなくてもと思いました。わからなさが残る作品でした。

ジラフ:『ビーバー族のしるし』を読んだすぐ後に、これを読みました。『ビーバー族〜』がしっかりとした、手ごたえのある作品だったせいもあって、散文詩のような『ハサウェイ・ジョウンズの恋』には、私もなかなか入りこめませんでした。この世界にどうしたらシンクロできるんだろう、何かアプローチできる手がかりはないか、自分の読み方が下手なんじゃないか、とすら思ったくらいで(笑)。ハサウェイの気持ちにうまく乗れれば、この美しい詩的な世界を感じることができるのかもしれない、と思いながら、結局乗れないまま、最後までいってしまいました。会話の文体にも違和感がありました。原語で読んだら、印象もまた変わるのかもしれませんけど。英語圏の作品とはちがう、ヨーロッパ特有の文体の問題もあるのな、と思いました。

酉三:私はめちゃくちゃおもしろく読みました。ハサウェイが不器用で、恋をしているということでばっちりはまった。カタカナでわけのわからない言葉(登場人物など)が続出することにも違和感はありませんでした。設定などは適当に流しながら読める。とにかく不器用な主人公と女の子の恋ということで楽しく読めたんです。作者は当時の記録を読んだのかもしれませんね。そこから想像を膨らませながら、ウェスタンを描いたのではないか。大自然の中で、むき出しの人間を書くのは、ここはとてもいい舞台。もっとおもろい言葉でくどかんか!と思いながら、主人公の不器用さにひかれて読みました。たしかに訳文は、やりすぎの感があるが、この3作の中で、私としては一番おすすめ。ただ、この恋愛を高校生に読ませて、どう思うか。年配の不器用な人が青春を思い出して読むにはいいけど。

レン:やはり大人の本なのでは?

ハマグリ:原題は「ハサウェイ・ジョウンズ」なのに、邦題には「恋」がつき、しかも「恋」を赤字で書いて目立たせています。装丁は初刷と2刷では全く違いますね。最初は大人向けの感じだったけど、課題図書になってから、タイトルを大きくしたのね。このタイトルや、きれいな表紙の絵から想像した物語とは全く違っていました。私も登場人物が多くて誰が誰やらわからなくなり、とても読みにくかった。途中で投げ出してしまいました。

ハリネズミ:私はけっこうおもしろく読みました。人殺しがしょっちゅうおこるような荒くれた舞台で、この若い主人公が一途に思いをよせていることは伝わってきます。文体も読みにくいとは思いませんでした。ただし、同じような名前の登場人物がたくさん出てきて、それぞれの人物がつかめるような描写はされていませんね。ハサウェイが生活必需品と同時に、物語を届けるということも、おもしろい。でも、これを課題図書にして作文を書くのは難しいのではないでしょうか。今の高校生がうぶな恋に心惹かれるとは思わないし、それ以外に何があるのかというと、ない。これがなぜ課題図書になったんでしょう? 大人の本として、文芸書として出して、何人か読む人がいるというのでいいんじゃないのかな。28ページの文字、前のページに送った方がいいのでは。

げた:19世紀半ばのゴールドラッシュ時代の一攫千金を夢見るアメリカの人々の人間模様や時代背景を読みとるにはいい本かな、と思いました。ハサウェイとフロラの恋を語る中で、「天使が心臓にしょんべんをかけた」という表現はおもしろいなと思いましたね。こういう時代だから、郵便事業もあるわけではないので、こういう仕事が歴史的事実としてあったということを高校生が読み取れればいいのかなと思います。この本はハサウェイとフロラの単なる恋物語ではないので、確かに、インターネットに出ている読後評を読んでも、どうやってこれで感想文を書けばいいのかわからないとか、読みにくいという感想が多かったようですね。何がなんでも今の高校生に読ませたいとい本ではないと思います。

プルメリア:表紙も素敵で、恋や友情があっていいなと思って読み始めましたが、文章が詩的で読みにくかった。ピアノを運ぶのに木箱に載せ、それをラバにのせて運んだというところがわかりづらく、小さいラバに乗せても大丈夫なのか、また父と子でピューマを簡単に射止めているが、実体験に基づいていないのではないかとも思いました。ハサウェイの父は字が書けるのに、少年になぜ字を教えなかったんでしょう? ハサウェイとフロラが簡単に結婚できるのも、ピンときません。『ビーバー族〜』とくらべると、次から次へと物事が解決していきますが、リアリティがないように感じました。最初に想像した物語とは違って、物足りなさが残りました。

シア:大半の高校生は、課題図書3冊のうちタイトルと装丁でこれを選ぶだろうと思います。とくに女の子は。だから本嫌いにしてしまうかもしれない本ともいえますね。恐ろしい罠とも言えます。

うさこ:タイトルに「恋」と入っているので、SLA推薦の「恋」なのかあ、と斜めな気持ちで読み始めました。厳しい自然のなかの出来事なのに、なんだかきれすぎる訳文がかみあっていない。そんななか、「天使が心臓に〜」などという表現は妙に際立って響いてきます。原題が「ハサウェイ・ジョーンズ」、でもこれをそのまま日本語のタイトルにしても内容がわからないので、日本語タイトルには「恋」を入れたのかな? そのために恋に関連する場面の表現は他のところより際立っていたのかなと、あれこれ想像しました。登場人物はたくさん出てくるけど、一人一人をあまり掘り下げて書いていないせいか、全体的に散漫な感じがしました。ハサウェイが郵便だけでなく、お話を届けるというのは、いいなと思ったけど。本や物語にふれることがそう多くない時代に、人間のなかにストーリーが生まれる、その原風景のようなものを感じました。ストーリーそのものをもっと読みたかったけど。どういうふうに感想文を書くのかな? きっと迷うと思う。自分の感じたままを書くと少し変になるのでは?

シア:SLAには選定図書や課題図書と色々あって、それぞれ選び方が違うので、何でこれが選ばれたんだかわかりません。

レン:「物語を運ぶ」主人公の「恋」と言っているけれど、でも語った物語そのものはほとんど出てこないんですね。だから、主人公がおもしろい話をしたというのが伝わってこない気がしました。

うさこ:たしかにそう。語ると、「つまらない」なんて言われたりして。『ササフラス・スプリングの七不思議』と違うのは、『ササフラス〜』の7つの物語がそれぞれおもしろかったこと。今回は3冊とも、現代と遠く離れた時代で、3人とも男の子が主人公で、学校にも行ってなくて…という共通点がありますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年7月の記録)


風の靴

げた:アーサー・ランサムのシリーズみたいにおもしろいと聞いていたので、いつおもしろくなるかなと思って読み進んでいったんですが……。わくわく、どきどき感なしで終わっちゃったってところです。おじいちゃんもかっこよすぎるし、子どもたちも表面的にしか描かれていなくて、期待はずれでしたね。ヨットの専門用語がわかりにくいところなどあったのですが、それはそれとして、もう少し読者をひきつける書き方があったのではと思いました。登場する子どもたちの気持ちが伝わってこないんです。

たんぽぽ:受験に失敗した暗い話ではなく、さわやかに描かれていたと思いますが、航海記の部分など、子どもが楽しめるかどうかなと思いました。朽木さんの作品だと『かはたれ』(福音館書店)はおもしろかったです。去年出た『とびらをあければ魔法の時間』(ポプラ社)もおもしろかったのですが、これはもうひとつ、物足りなかったです。

酉三:賞をとったり、評判がよかったりというので期待して読みましたが、ちょっと……。いろんなことが気になりましたが、たとえば風間ジョーとの出会いなど、子どもたち、こんなに無防備でいいのか? と驚きました。設定がおもしろければ、「リアリティ」とかにこだわらない、という傾向を、最近の大人の本も含めて感じていますが、これもそういう読後感でした。「リアリティ? どうして必要なんですか? 物語って、要は作り物じゃないですか。おもしろければいいんですよ」という反論が聞こえてきそうですが、私はリアリティにこだわります。ゆえにこの本は評価できませんでした。どうしてこれが賞をとったのか、それが今日のテーマである「秘密」なのだ、などと。

プルメリア:私も期待して読んだのですが、甘いなと思いました。主人公が大変恵まれた環境にいて、私が目にしている受験に失敗した少年たちとはまったく違う。現実の子どもたちのなかで、この主人公のようにヨットをあやつれる子どもがどれだけいるんでしょう? 子どもの立場に立ってみると、手に取りにくい作品だと思います。おじいさんが息子に伝えたかったことは、ひしひしと伝わってきました。ネコジャラシが食べられることを初めて知り、やってみようと思いました。(笑)

ひいらぎ:同じようなシチュエーションであっても、アーサー・ランサムの作品とは違う?

プルメリア:ランサムとは、人間関係の書き方がちがいます。挿絵は、きれいでしたが。

ダンテス:たまたま子どもがヨットに乗っている姿を見て、作品のイメージがわいたとどこかに書いてありましたね。作者はヨットを動かすということ自体を書きたかったのかなと思いました。鎌倉は詳しいので、あの辺の描写だな、などと思いながら読めました。ヨット関係の横文字が多いですね。正直言って、ていねいに読む気はあまり起きませんでした。おじいちゃんがちょっとかっこよすぎますよね。風間という青年との出会いの設定が不自然です。挿絵や装丁はきれいに出来ていると思いました。

うさこ:本のタイトル、ちょっとおかしみを含んだ章タイトル、二人の絵描きさんに描いてもらった絵、装丁、登場人物の名前、船の名前など、隅々まで、この作家さんのこだわりが感じられる作りの本だなと思いました。でも、子どもの本としてはちょっと重厚ですね。私は、船やヨットなどの経験がないので、そういう点では興味深く読めたし、おもしろかった。海の描写などもきれいだなと思ったけど、海のべたべたした塩っぽい感じは伝わってこなかったですね。物語の核となるものをきちんとすえて書き込んであるので、ある意味わかりやすい文学作品だなとも思いました。ただ、神宮先生の原稿のあとに、作者のあとがきがありますが、なにかの授賞式で語られるならいざ知らず、ここまで本を書いた背景を書いてあったら、読者はどんな感想を持つのかなと思いました。かっこいいけど、かっこよすぎる物語ですね。

タビラコ:みなさんがおっしゃったように、私もなかなか話の中に入っていけませんでした。ひとつには、主人公の少年が抱える「悩み」なるものが、少しも切実に迫ってこないので、どんどん読みたいという気持ちになれないのだと思います。それでも我慢して読んでいるうちに、キャンプファイアでネコジャラシなどを焼いて食べる場面が出てきて、ああ、こういうところは子どもが魅かれるだろうなと思いました。おじいちゃんが遺してくれたヨットをあやつることで、自分は自分なりに道を見つけて生きればいいんだと主人公が気づくというお話だと思うのですが、これって、なんだかありきたりだなあと。それに、おじいちゃんの遺言らしきものが、ビンの中から出てくるのですが、ほとんどがほかの人の詩の翻訳だったのにはがっかり。1行くらいの引用ならまだしも、こういうのは作家としてちょっとどうなの? おじいちゃん、どんなことを言い残しているのかなと、読者は期待して読むところなのに。それから、みなさんのおっしゃるように、風間の登場は「ちょっと怖い」と思いました。大人の私だって怖いのだから、子どもたちの恐怖はいかばかりか……と思うのだけれど。その辺の緊迫感がないので、絵空事だなあという感じがしてしまうのだと思います。凝った文章できれいに書かれている点(時には、子どもには難解だと思う言葉も使っているけれど)、大人の眉をひそめさせるような箇所がない点が評価されて、受賞したのかも。マイナス点がないというところで。p259の訳注で誤植があるのは、マイナスですけどね。

ひいらぎ:注目している作家ですけど、個人的には『かはたれ』(福音館書店)や『彼岸花はきつねのかんざし』(学習研究社)といった、ほかの作品のほうが好きだし、おもしろいと思います。この作品は描写はていねいなんだけど、ていねい過ぎてちょっともたつく感が。場面転換にスピード感がなくて。ご本人は、ヨットに乗った時の爽快感を書きたかったとおっしゃっているようで、それは書かれていると思いますが、おじいさんがかっこよすぎ。湘南だし、子どももいいとこの子で成績も悪くはないし、親に問題があるわけじゃない。ランサムなら、ある意味「外国」だからと了解することもできますけど、これは舞台が日本なので、普通の子どもが読んでどうなんでしょう? へたすると、異世界ファンタジーになっちゃうのでは? それと、私も風間の出し方には疑問を感じました。話の本筋に関係ないし、リアリティがない。大島の方に行くのに大人が必要なので出してきたんでしょうか? それから、後ろ見返しに地図がありますが、どうせ出すなら本文に登場する地名も書いてあるとよかったんじゃないかな。朽木さんは台詞もうまい作者だと思いますが、たとえばp258の風間のセリフはちょっとくさい気がするし、ジェンダー的にもこれでいいんでしょうか?

タビラコ:『かはたれ』なんかは、文章に叙情的な湿度があって、それが好きだったんですけど、この作品はなんだか乾いているわよね。

すあま:さわやかすぎます。悩みがあるようでまったくないし、主人公がどこで成長したのかわからない。困難なこともあまりなくて、せいぜい動揺したくらいでしょうか。家出の後にもかかわらず、親も温かく迎えてくれています。実際の家出だったらもっと大ごとになると思うので、ちょっとうまくいきすぎなのではないでしょうか。主人公たちは中学生ですが、小学生の冒険物語のような感じがします。安心して楽しく読めるということで、受賞したのかな?

タビラコ:「白いTシャツに、洗いざらしのリーバイスをはいた長い足を組み、“色つき水”を片手にデッキチェアでくつろいでいる」ヨットをあやつり、『オデュッセイア』やら『ガリア戦記』やらを読むおじいちゃんなんて、ちょっとかっこつけすぎじゃない? なんだか、リカちゃん人形の家族みたいで……。関節痛とかリューマチとかなかったのかしら? 頭がちょっと禿げてたりしなかったの? おばあちゃんと時にはすごい夫婦喧嘩をしたり、どこかに隠し子がいたりしなかったのかしら?

酉三:読んで安心、というのがこの本の受賞理由かもしれない。いや、真面目に言っているんです。登場してくる子ども、大人、みんな「よい人」ばかり。安心して子どもに薦められる本。そう考えるとちょっと納得できる。

タビラコ:本当におもしろい作品は、書いているうちに作者のコントロールがきかなくなってくるんですよね。

ひいらぎ:これは隅々までコントロールされている感じがしますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年6月の記録)


縞模様のパジャマの少年

ダンテス:伏線がたくさんありました。マリア、お父さんの発言、おばあちゃんなど、引っ越した先で父親の仕事がいかなるものか、読む人にはわかります。あやしいな、という風にしておいて、フェンスの向こうとこっち側で、同じ誕生日の男の子との出会う。この辺でこれは作り話だなということがわかりました。お話としては、ちょっと鼻につきました。9歳の子が物事をわからなさすぎる。わからないままにフェンスの向こう側にパジャマを着て入っちゃった。ユダヤ人を殺す立場のお父さんと息子が反対の立場になってしまったんですね。後半、フィクションであるということがわかりつつも、読むのはつらかったです。アウシュヴィッツ関連の作品は読んでいてつらいです。作品として受け入れていく自分自身もつらい。そういうことも含めてこの作品だといえば、そうですが。ユダヤ人虐殺関連の作品は書き続けられていますね。これはちょっと新しいタイプのホロコースト文学と言っていいのでしょうか。

げた:あとがきから読んでしまったので、子どもが塀の外と中を出入りできるなんて、実際はありえないことだと、フィクションなんだ、ということを承知しながら読みました。それにしても、あまりにもブルーノが何も知らなくて、嘘っぽいんだけど、そこに逆にわかりやすさがあると思うんですね。今の子どもたちに読んでもらう意味では、こんな書き方もあるのかなと思います。現実にたくさんの子どもたちが収容所へ送られて、殺されたんですものね。子どもたちも現実を承知しながら、フィクションはフィクションとして読んでくれるに違いないと思います。

プルメリア:嘘っぽいけど、本の世界に入りこんで読みました。戦争に対して反対している祖父母と戦争賛成派の父、家族のなかでも賛成、反対があり、それぞれの生き方が描かれているところは、真実味がありリアリティを感じよかったです。戦争に対して悲惨な立場で書かれている作品が多い中、逆の立場で書かれている作品を読んだのは初めてかも。住んでいる家の中の様子がわかりやすく書かれていました。表紙は服と同じ縞模様でわかりやすいですが、シュムエルがグラスを磨いているのが、医師なのになんでお手伝いさん?と不思議に思いました。小学校は無理だけど、中学生だったらいろんな感想が出てきそう。

ひいらぎ:医師に医師の仕事をさせないのは、人格をおとしめるっていうのも、ナチスの意図だったからじゃないかな。それに、収容所では医者はいらないんじゃないですか。みんなガス室に送ろうとしてるんですから。

プルメリア:悲惨ですね。

ダンテス:何の作品だったか、音楽家なんかは、収容所からドイツ人の家に呼ばれていって演奏し、オレンジをもらって収容所に帰ってから仲間に分けるなんていう話もありました。

ひいらぎ:「ライフ・イズ・ビューティフル」の映画にも、収容所で音楽を演奏する場面がありましたね。現実をおおい隠すために音楽が使われていたみたいですね。

たんぽぽ:高校生の読書感想文課題図書で、感想文にしたら、とても書きやすい作品ですよね。読んでいて、つらい作品でした。

ジラフ:児童文学作品を読んだのは久しぶりで、入りこみました。先に「訳者あとがき」を読んだので、フェンス越しの友情なんて、本当はありえないシチュエーションだ、ということはわかっていましたが、そのうえで、男の子の大人を見る目や、感情がすごくリアルに立ち上がってくるのを感じました。親友と離ればなれになって、友だちのいない毎日がどんなにつまらないか、そのことが9歳の少年の人生のなかで、どれほど大きな比重を占めているかとか、お姉さんにムカつく気持ちなんかが、よく描かれていると思います。きつい結末ですが、終始、少年の目線にシンクロして、フィクションとして楽しみました。読みながら、アイルランド出身で、アイルランドで教育を受けた1971年生まれの作者が、どうして、アウシュヴィッツに題材を取ったこういう作品を書こうと思ったのか、そのことはずっと気になっていました。主人公のお祖母さんがアイルランド系だ、というくだりがありますが、アイルランドにかかわる部分はそこだけですよね。あと、「待遇のよすぎるメイド」とか「点が染みになり、染みがかたまりになり、かたまりは人影になり、人影は少年になった」とか、各章のタイトルのつけ方がうまいな、と思いました。

ひいらぎ:BBCのポッドキャストで作家の声が聞けたんですけど、この人は友情が書きたかったって言ってました。自分はユダヤ人ではないんですね。

酉三:ホロコーストというまことに大きくかつ重い史実をどう語り継いで行くか、というのは大きなテーマでしょう。そのなかで、どれほど史実を離れることができるか。それが気になりました。アウシュヴィッツの鉄条網に、くぐり抜けることが可能な場所があったことなど考えられないし、監視塔の盲点があったという設定もありえないことでしょう。そういうありえないことを組み立てて、お話を作っていいのか? もっとも、読んでるときは、完全にもってかれてましたけれど。

すあま:これは、以前ブックトークで紹介されたんですが、内容を知ってしまったためにかえって読めなくなった本です。でも課題の本だったので仕方なくこわごわ読みました。今回のテーマの「ひみつ」が生んだ悲劇の物語ですね。大人も子どももお互いに秘密にしていたために、起きてしまった出来事が描かれています。他の方と同じで、この主人公の年齢で知らないということがあり得るのか不思議に思いました。本当の話のようで現実にはあり得ないことが書かれているので、これを戦争の本として手渡すのはちょっと怖いですね。説明が必要かもしれない。書かれていないために恐ろしい場面がたくさんある。パジャマは縦縞なのに表紙のデザインはなぜ横縞なんでしょう? タイトルを入れるには横縞の方がいいのかもしれませんね。

タビラコ:この作品は、ずいぶん前に読んで、後味が悪い話だなあと思ったのですが、何週間たっても忘れられない。それだけ強い力を持っているのだと思います。たしか、作者自身が「これは寓話だ」と言っていたように思いますが、寓話として考えれば訳者が後書きで書いている、必ずしも歴史的な事実と同じではないという点や、ブルーノがピュアすぎて不自然だという点もクリアになるのでは? いろいろな見方、感じ方ができる、おもしろい作品だと思います。

ひいらぎ:著者が語っているのを聞くと、小さな子どもでも、すぐには殺されなかったというケースはあったようです。使い走りをさせられたり、ペットがわりになったりと。それから、著者は、ユダヤ人からは批判は受けていない、むしろそれ以外の人たちからの批判があるというふうに言ってました。

うさこ:フェンスの向こう側とこちら側、フェンスというのを大きなキーにしてかかれた物語だなと解釈しました。フェンスの向こう側は想像もつかない世界。こちら側はあまりにも平和で幸せボケしていて、向こう側のシュムエルに思いをいたらすことができない。ブルーノは、今の私たちの現実にも重ねあわせる要素が多い。胸がつまる思いで読みました。9歳のブルーノがあまりにも無知でシュムエルと交流が深まっていっても、フェンスの向こう側に対しての想像力が弱い人物として書かれています。この人物描写については、読み進めていくにつれ自分のなかに違和感が広がっていったんですが、作者はあえて、ブルーノに気づきや成長や変化する姿を与えず、ブルーノという「個人」を描いたようにして、実は「マス(大衆)」の姿をそこに描いていたのではないかと思えてきたとき、この物語がストンと自分のなかに落ちてきました。この作者は、この物語を一つのきっかけとして、読者が自分の力で学んだり考えたりしてほしいと望んだのかもしれないとも思いました。

ひいらぎ:入り込んで読みました。訳もいいですね。ホロコーストをめぐる、いろいろな立場が描かれています。ブルーノの祖母は、「あなたたち軍人なんてそんなものなのよ。…新しい軍服が『すてき』に見えるかどうかしか頭にないんだから。そして、きれいに着飾った姿で、世にもおぞましいことに手を染めるのよ…」と、軍に反感をもっています。ブルーノの父親は、冷血漢ではないけれど、りっぱに出世することに心を砕いています。ブルーノの母親は、最初は夫の出世を喜んでいたのが、やがて家族がおかしくなっていくことに気づきベルリンに戻ろうとします。姉のグレーテルは、ナチスの教育に洗脳されていきます。一つの家族なのに、あえてさまざまな立場に立たせているんでしょうね。ブルーノが子どもらしい無邪気さで周囲の状況に好奇心をもって迫っていくのも、私はリアルなんじゃないかと思いました。ただ最後だけひっかかりました。これでは、イスラエルがパレスチナに対してやっていることを隠蔽したり、今現在あちこちで同じような暴力的な行為が行われていることから目をそらさせる結果になると思って。BBCのWorld Book Clubでは、著者は皮肉をこめたと言ってましたが、日本語で読むと、それが十分に伝わってきませんね。


ある秘密

プルメリア:話の展開が意外でした。次が知りたくて一気に読みました。話がおもしろいというより、内面的に書かれている筋がおもしろかったです。戦争の時代に生きている人間のもろさと強さがわかりやすく書かれていました。戦争中で大変な状況でも体を鍛えているのは国民性の違いなのかなと思いました。自然描写や人物の様子がよくわかりました。短い話でしたが、人間の葛藤も描かれており3作の中で一番重みがありました。

ジラフ:この作品は、フランスの「高校生の選ぶゴンクール賞」に選ばれたものだそうですが、その賞のしくみについて、フランス語翻訳家の辻由美さんが、『読書教育 フランスの活気ある現場から』(みすず書房)という本のなかで、くわしくドキュメントしているのを読んだことがあります。選考過程がすごくエキサイティングで、おもしろかったのをおぼえています。この『ある秘密』にしてもそうですが、高校生がこういう作品を推してくるところに、フランスの十代の子どもたちの、歴史や社会とのコミットメントの深さを感じました。わたしの身近にはこの年代の子どもがいないので、フランスの高校生は、日本の高校生は、とあまりステレオタイプのイメージで語ってはいけないんですが、実際、日本の高校生だったらどうだろう、と思いました。

酉三:今回の課題の3冊のなかで、一番よかったと思います。お話の骨の部分は「事実」で、それを著者が想像力で肉付けしていった、ということでしょうが、「事実」と言われると、重いですね。お話のあまりに劇的な展開に「ひょっとすると、これは事実に基づいているのか?」と、思わず途中で「あとがき」を読んでしまいました。

すあま:最初読み始めたときに、どんな秘密なのか予想がつきませんでした。主人公が実は両親の子どもじゃないのか、などといろいろ考えたんです。主人公は、秘密を知ってしまってから、荒れたりしないで、逆にそこから成長して大人になっていく。そして秘密について話すことで親の心を開放してあげる。そこが、高校生に支持されたところではないでしょうか。元の奥さんが自殺行為をして連れて行かれるという秘密の物語よりも、主人公の成長物語として読んでおもしろかったです。上質な文学作品だと思いました。

タビラコ:読みはじめてしばらくしたら、登場人物の名前がごちゃごちゃになってわからなくなり、また最初から読み直しました。一口に言って、おもしろかった。少年が成長していく過程も念入りに書かれていますが、なによりこういう体制下にいた人々のさまざまなエピソードを知り、感じるものがありました。アンナのエピソードは、夫に対する復讐、仕返しではなく、絶望として読みました。フランスやフランス文学をよく知っているわけではありませんが、愛や恋をなにより高いところに置いているのが、フランス的だと思いました。最後の、主人公が父親を許すところも、感動的でした。ただ、どこまでがフィクションで、どこからがノンフィクションなのか曖昧で、すっきりしないところもありました。「高校生が選ぶゴンクール賞」に選ばれた作品ということで、フランスのYAの読者たちはこういう作品を読んでいるのかと、その点も興味深かったです。

ひいらぎ:フランスではYAで出てるんでしょうけど、日本では明らかに一般書として出版されているし、日本の中・高生にはわかりにくいですよね。フラッシュバックが多用されている点や、どこまでが想像で、どこまでが事実なのか、境目がはっきりしない点など、読み慣れていない読者にとってはきびしい。主人公は、秘密を知る前に家族のことを想像している、一部知ってまた別の想像をする、秘密がわかってまた新たな家族像を構築する、という風に話が進んでいきますが、日本語だとどこからどこまでが何なんだか、よくわからない。原著は時制などからわかるようになっているんでしょうか? 日本語の時制はフランス語ほどはっきりしていないので、訳は難しいですよね。日本語だと過去の話に現在形が出てきたり、現在の話に過去形が出てきたりするわけですから。それから、児童文学なら、主人公が屋根裏でぬいぐるみの熊を見つけてシムと呼ぶところから、親の奇妙な顔を察して秘密がふくらんでいく、という形にすると思うんですけど、この本では、最初から主人公は兄がいる気持ちになっています。そこも、フランス的と言えばフランス的ですが、ストーリーラインがくっきりしない感じが残ります。アンナがナチの将校につかまる場面ですけど、私は自殺しようとしたわけじゃなくて、まだホロコーストの実態がわかっていなかったんだと思うんです。じゃないと、息子は連れていかない。
私は訳はそううまいとは思わなかった。たとえば、p52には「ぼくが15歳になるまではルイーズも秘密を守りぬいた」とありますが、p53には「小学校を卒業し、地元の中学校に通った」とあって、3,4年戻った感じになる。そしてp55はまた15歳。真ん中の部分の訳をもう少し工夫すれば、流れが途切れた感じにならなかったのにな、なんて思いました。それから最後の部分がこの訳ではよくわからなかった。本がお墓になるのか、お墓に本を置くのか、どっちなんでしょう? 原文どおりに訳されているんでしょうけど、それだけではよくわからない。

ダンテス:ホロコースト文学として見事だな、と思いました。ユダヤ人が連れ去られた事実が、大人の恋愛とからめてよく書かれている、と思いました。日本語訳で、不自然なところがありましたが、おそらくフランス語の接続法で、時制がフランス語でよくかき分けているんだろうと推測しました。文体的に工夫があるのでしょう。自然な日本語にならないのはしょうがないですね。フランス文学にある、人間の赤裸々な心情がよく書かれていて怖いような印象があります。「高校生が選ぶゴンクール賞」に入るという話もすごいです。フランスの高校生はこんなに違う。

タビラコ:日本にも高校生が選ぶ賞があったらいいのに。

すあま:「高校生が選ぶ直木賞」みたいな?

ひいらぎ:『ジャック・デロシュの日記?隠されたホロコースト』(ジャン・モラ/著 横川晶子/訳 岩崎書店)も同じ賞を取ったんだじゃなったですか? あれもホロコーストものですが、日本の高校生には難しいですよね。

タビラコ:日本の高校生が選ぶと、『武士道シックスティーン』(誉田哲也/著 文藝春秋)みたいなものになるんじゃないかな。

ひいらぎ:この作品、ダンテスさんのところの生徒さんだと、どうですか?

ダンテス:人間の情念の部分などがわかるのは、もう少し年齢が上じゃないですか。中学生くらいでは「あ、不倫だ」という程度の興味で終わってしまうかも。ホロコースト文学をベースにして読むのと、それがなく読むのとではまた違いますしね。戦争や歴史関連ですと、『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター/著 上田真而子/訳 岩波少年文庫)を読ませています。

げた:文章が短くて、淡々とノンフィクション的に書いてあり、読みやすいですよね。ただ、名前がいろいろでてくるので、ごちゃごちゃになっちゃうところがありますね。でも、自分の家族にあてはめて読んでみたんですよ。そうすると妙に生々しい。一つの家族の悲劇と民族としての悲劇が、それぞれ互いに作用しながら展開していく様子が比較的淡々と語られている感じがよかったですね。アンナがナチの将校につかまる場面ですけど、緊迫感があり、そういう意味ではおもしろかったな。

酉三:母親は、今の夫との結びつきに強い罪悪感を感じていて、それが虚弱な息子を生むことにつながり、卒中で美しい肉体とことばを失う結果にもなったように思います。でも親父の方は、ひたすらボディービルで、やがて己の肉体が衰え、病故に妻の肉体が衰えると、心中しちゃう。なんかアホなやつですね。そういう父をもつ息子はたいへんだと思いますが、でも、どなたかが言っておられたように、秘密が語られることが、彼をたくましくしてゆく。息子が不要にためこんでいた罪悪感が昇華されたんでしょう。ただ、両親がひたすら肉体にこだわる人たちだった、というのは、「事実」ではなく、フィクションなのかもしれないですね。この作品は、精神分析家である著者が、自分のクライアントに向けて書いた「癒しのメッセージ」という側面もあると思うのです。そういうことからすれば、「ナルシスムという迷路」への警告ということが、この両親のありようを通じて語られているようにも思えます。

ひいらぎ:私は現代のフランス文学は、あんまり好きじゃないんです。一筋縄でいかないのがいい、ストレートなのはおしゃれじゃない、みたいなスノビズムが感じられて。

タビラコ:フランスにいい児童文学が生まれないっていうのも、その辺に問題があるかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年6月の記録)


ササフラス・スプリングスの七不思議

げた:表紙はわりとシンプルで、強くひきつけられるという感じはなかったんですけど、中身は読み進むにつれておもしろくなってくる。アメリカの田舎の何もないところで暮らしている男の子が、世界の七不思議を求めて旅立とうと決心して、お父さんにそのことを打ち明ける。でも、お父さんに、もっと足元を見なさいと言われ、ササフラス・スプリングスで七不思議を探し始めるんです。男の子が聞き集めた、ササフラス・スプリングスの七不思議のお話集ってわけですが、一つ一つが結構おもしろくって、楽しめましたね。特に町長さんのお話かな、オチもあって織機が犯人の名前をあてるなんてドキドキする話。お父さんの妹プリティおばさんが最後アルフおじさんと結婚することになるっていうのも、あったかい感じがしてよかったな。すごい冒険でもないんだけれど、地元の七不思議を一つ一つ探しもとめて歩いていく男の子に共感できるお話でしたね。挿絵はかわいらしくてシンプルだけど、お話を想像する手助けになっていいかな。

メリーさん:おもしろく読みました。最近、自分の友人がまた別の知人の知り合いということが続いたので、世界は意外と狭くて皆どこかでつながっているのだなと感じたことを思い出しました。主人公は身のまわりの七不思議を探しますが、きっとどこかで世界につながっているのだろうなと。日本で「七不思議」というと、学校の怪談が真っ先に思い出されるだろうけれど、ここではいわゆる世界の大事件というのがおもしろいと思いました。七つの中ではアルフおじさんのくだりが好きです。彫像は、過去を表すとともに、現在や未来も表している。結局人間はずっと同じことを繰り返しているのかなと感じさせて。「ササフラス」がルートビアの原料ということがちょっと出てきましたが、アメリカらしくていいなと思いました。

レン:私もおもしろく読みました。冒険というとどこか遠く危険なところにのりだしていかなきゃいけないみたいだけど、何でもない日常に七つも不思議があるところがよかったです。そして不思議の発見が、さまざまな人の隠れた一面、隠れた人生を見せてくれる。自分のまわりの人たちにも、いろんな人生があることを示唆してくれるのでは? また書き方にユーモアがあるところもよかった。ユーモアの感覚がいろんなところで救いになりクッションになっていますね。ただ、装丁はちょっと残念。年齢層を考えると背の文字もおとなしすぎるし、色も地味な気がします。

たんぽぽ:私も、表紙が地味かなって思いました。もう少し違う感じだと、もっと子どもが手に取るかな。七不思議の一つ一つが、あとから振り返ってみても、おもしろかったです。トイレが飛んでいくおまけ話?も、よかった。読んだおとなも子どもも、身近なところにある七不思議を探してみたい、振り返ってみたいと思うのではないでしょうか。

ハマグリ:主人公が七不思議を探していく、という枠の中にいろいろな話が出てくるというつくりの本で、一つ一つの話がおもしろいから、それぞれ話の中にすっと入っていって楽しめました。一見ごく普通のおばさんやおじさんにも、いろんな人生、ドラマがあるんだということが、だんだん見えてくるっていうのもおもしろかったです。ただ、どんな子にも読みやすい、というのではなく、それぞれの会話の中からいろいろ読みとっていける、ある程度読書力のある子に薦めたいですね。

ひいらぎ:私も、派手ではないけれど、味わいがあっておもしろいなって思いました。ほんとになんにもない、一見つまらなそうに見える地域なんだけど、そんな場所でもよくみるといろいろなお話が存在している。そこがいいですね。ただ最初忙しいときに読んだら、人の名前がごっちゃになって混乱してしまいました。挿絵は、以前とりあげた『ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日』(スーザン・パトロン/著 片岡しのぶ/訳 あすなろ書房)と同じ人ですよね。もっと小さい子でも手にとりやすい雰囲気が表紙にあるといいのにね。

うさこ:おもしろく読みました。小さい頃って、根拠もなしに知らない土地や時間に憧れて、そこにワクワクやドキドキがあると思いがち。このお話は、お父さんとおばさんの上手な導きによって主人公エベンが自分の住んでいる身近なところで七不思議を探すっていう設定がとてもいいですね。案外、知ったつもりでも、自分の住んでいるところって知らないことが多い。そのくせ、よくないところばっかり目についたり。でも、エベンは遠くへは行かずに、地元で小さな目覚めの旅をする。エベンは近視眼的なものの見方や自分の狭い考えを少しだけ乗り越えたのかもしれない。乗り越えるっていうと大きなショッキングな出来事があってというのが多いけど、そうじゃないところで構成しているのがこの物語のすばらしいところ。七不思議もありきたりな話じゃなくて、一つ一つ語ってくれる人の人生が垣間見えて、しかもそれぞれにロマンがあっていいな。日本だと何か解決しようというときタテ社会、とりわけ家族間や家庭の中が多いですけど、このお話はヨコ社会のつながりのなかで解決に向かっていく展開もいい。装丁がちょっともったいないですよね。わりと地味目。読者がスムーズに手にとってくれるでしょうか? タイトルもササフラス・スプリングスというのが場所の名前だと気づきにくいし、しかも長くて覚えにくくて、ドキドキもなくて残念。

ダンテス:この本は、まあまあおもしろく読んだって感じです。描写がていねいですね。そういう意味では、ひと時代前の作品という印象です。少年の目を通して七不思議を探すというのをきっかけに、自分の町をよく知っていく。七つのそれぞれが短編というか、短いけどストーリーもあります。七つに出会うまでの困難も書いてあって、作品としてはよく書けているかなと思います。

すあま:『シカゴよりこわい町』(リチャード・ペック/著 斎藤倫子/訳 東京創元社)のような、ちょっと昔のアメリカの話が好きなので、おもしろかった。短編集のようで、最後にちゃんとオチがついていて。でも装丁が地味なので、大丈夫なのかと心配になります。題名もおぼえにくいので、本屋で店員に聞こうにもぱっと言えないですよね。

ダンテス:アメリカだと、ここの土地、我がコミュニティっていうのがあるんでしょうね。だから具体的な地名を作品の題に入れる。

ハマグリ:そういう地方色を売りにしているようなものってありますよね。『ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日』にも、アメリカの、その土地独特の感じがありましたよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)


ひとりたりない

たんぽぽ:とてもせつなくて、読むのがつらかったです。主人公は5年生なんですけど、この状況は子どもにとって重すぎないかと思いました。この物語の対象はだれなのか、子どもにこの物語を読ませる意味は何なのかを、考えてしまいました。子どもはそうでなくても、つらいことを抱えているのにな、と。

メリーさん:今の意見に共感です。ほかの2冊も、家族の誰かを亡くしているのだけれど、この本はとくに悲しい。主人公が、これまでお姉さんに頼りっぱなしだったということを、お姉さんが亡くなってから気づくところなどは特に。家族と話をしなくなってしまった弟に何か食べさせるためにわざと冷蔵庫にご飯を作って入れておく場面では、おばあちゃんがいい役割をしているなと思いました。だからなおさら、この家族の構造がとてももろく感じられました。今はおばあちゃんが来て何とかまとまっているけど、子どもも大人もバラバラで、ちょっとつつくと壊れてしまいそう。全体的にトーンは明るくはないですね。タイトルも喪失感が出てしまう「ひとりたりない」ではなくて、その先に何か見えてくるものだったらよかったなと思いました。

げた:5年生の女の子につきつけられた現実の重さっていうのに、すごく救いようがないような、奈落の底に落とされていくような感じを受けました。そこから彼女はSOSを出しておばあちゃんを呼ぶわけなんですね。おばあちゃんがキーマンになって家族の崩壊をくいとめ、元に戻していく。そんな役割をおばあちゃんに持たせてるわけです。なんとか家族はまとまるけど、でも現実はひとりたりない。どうしようもない現実を小学生につきつけることが必要なんですかね。そこは難しい問題ですよね。これを読んで小学生が救われるのかな? 我々大人が読むのはいいかもしれないけど、子どもが読んでどういうふうに受け止めるのかな。でもこういうことは現実にあるんでしょうし、それも児童文学の役割なのかな? どうなんだろうなって、考えてしまいました。この話の父親と母親はあまりに頼りないですよね。極端に書いてはいるんでしょうけどね。その分おばあちゃんがしっかりして際立ってくるんだけど。

ダンテス:一見感動的な話なのかなって思うんですけど、何か足りない。実は人物設定がきわめて類型的で、ただのお涙頂戴になってる。例えばお葬式の次の日におねえちゃんの名前でお母さんの誕生日の花を送ってくるんですが、確かに悲しいけど、作られたありがちは話なのでは? お母さんだってシュート君だって類型的。人間ってそんなものなんですかねえ。おばあちゃんも立派すぎます。文学は人間を描くものである、という定義で考えれば、人間が描けていない。私はこの作品は評価しません。

プルメリア:サンシャインさんの感想をお聞ききして、パチパチって火花が飛んだような気がしました。私はそんなふうに読まなかったので。今村さんはとても好きな作家さんです。『ひとりたりない』って題も、私はいいなって思いました。事故で姉を亡くした少女のやるせない心情、そのことが原因で不登校になった弟、過去の出来事から今へとストーリーが構成され家族がばらばらになりつつある苦悩な毎日…。家族全員の心情がよくわかる作品として読みました。
小学校で子ども達が身近な人の死をテーマに書いた作文を読むと、文章表現や構成が上手とかに関係なく、書いた本人の心情がひしひしと伝わり、涙が出てきます。そういう作文を書いた子に「がんばっているんだね」とか「いつも笑顔でえらい」と声をかけると、はずかしそうに微笑みます。そういう子どもたちの日常生活を考えると、これは手渡しにくい作品かもしれません。いいなと思う作品は自分で読んでから手渡しているんですけど、この作品は気軽に渡すことができないです。内容が重いから渡しにくいのかな? おすすめリストに入れて、こういう作品もあるよって知らせる作品かなとも思います。悲しいですが、子どもたちにもこういう体験や心情をわかってほしいので、読んでもらいたいとは思います。

うさこ:作品として疑問が残る点が多かったですね。身近な人の死、しかも突然の事故死っていうのは大人にもすごく衝撃的。短時間で乗り越えるなんてできない。ましてや幼い子が自分の兄弟の死を目の当たりにしたときの衝撃は計り知れない。この話は、読み進めるのが本当につらかったけど、最後どういう形で救いがあるのかと思いながら頁を繰っていきました。だけど、救いや次への希望みたいなものはなかったように思います。だから、今も悶々とした気持ちが残っています。
病死と事故死は違うし、自分の目の前で、自分の過失で姉を事故死させたというのは、中学年の読者層には設定が困難すぎる。小学校2年生と5年生では、死の受け入れ方とか、立ち直り方や乗り越え方もぜんぜん違うと思います。5年生の女の子自身が立ち直ってないのに、弟のことを救うことなんてできるんでしょうか。作家さんは、時にこういうハードルの高いテーマを設定して書くけど、作家の力量がすごく問われるのではないでしょうか。書こうとする志は強かったのでしょうが、作家さん自身が、この作品を書くことに自分で行き詰ってしまったような印象を受けます。字が大きいから3、4年生の読者向けだと思いますが、この年齢の子には、とてもとても消化できない内容です。現実のなかで、同じような状況の子に薦められるほど作品が熟成してない。ただ、何もかも家族の中で解決しようとしているところなど、現代の日本社会も映し出しているかもしれませんね。

すあま:私はまだこの作品は読んでないんですが、最近地域の小学校の先生が急に亡くなったことを思い出しました。担任していたクラスの子どもたちはどんな風に喪失感をおぼえ、乗り越えていくのかなと思い、この本が子どもたちが少し落ち着いたときに手渡せるような本だといいなと思いました。

ひいらぎ:たしかに小学校中学年だと設定はつらすぎるんですけど、実際にこういう状況になる子もいるだろうし、作者はそういう子に寄り添って書いているんじゃないかな、と私は思いました。中学生くらいを主人公にしたほうが、書きやすいのかもしれませんけどね。主人公の琴乃がその時点時点で感じていることも、うまく表現されていると思います。50pの「お坊さんがお経を読む、おどかすような声がひびきわたって」とか、「火葬場の庭のすみに、大きなサルスベリの木があって、重たいほどピンク色の花をつけていました。サルスベリの花は、クレープみたいにちぢれた、ぜんぜんふつうの花らしくない、へんな花です。それが枝々にびっしりと咲いているのは、なんだかふしぎな感じでした。私のぼんやりした頭のなかでは、なぜだか、その花とおねえちゃんが死んだこととは、なにか関係があるみたいに思われるのに、それがどんな関係なのか、いくら考えても、私にはわかりませんでした」なんていうところとか、96pの「かあさんも、私が肩をもんであげると、ときどき、べつな人のような声をだすことがあります」なんていうところは、この年齢の子どもらしい鋭い感じ方が表現されていると思いました。
今村さんの文章がいいので、私はダンテスさんのように類型的だとは思わなかったんです。英米の現代の児童文学だと、子どもが極限状態に置かれていても手をさしのべる大人が出てこなかったりするんですけど、この作品では、かなり理想的なおばあちゃんがちゃんと救い手として現れる。しかも昔風ではなくて現代風のおばあちゃんだってところがいいですね。永久に(あるいは長いあいだ)この「足りない」感じを抱いて生きていかなくてはいけないというリアリティも表現されているし、作者は子どもと一緒に考えてくれていると思うんだけど。

ハマグリ:突然娘を亡くした父母は、自分の悲しみにいっぱいいっぱいで、下の子たちの気持ちを救うことができないでいるし、弟は学校に行けなくなってしまう。自分だってどうしようもなくつらいのに、まわりがこんなふうでは本当に行き場がないですよね。そういう設定の物語を読むのは、大人でもつらい。そこへ明るいおばあちゃんがやってきて、すべてをありのままに受け入れ、日々の暮らしを大切にして、せいいっぱい前を向いて生きていくことを示してくれる。その姿勢には救われるんだけれど、あまりにもおばあちゃん一人が救世主のように現れるので、ちょっと違和感を覚えました。死っていうのは子どもにとっても身近にあるものだと思うけれど、日本では子どもには知らせないっていう文化があると思う。あえて子どもに話さない親は多いと思うんですけど、この物語のようなことが起こったり、こういう体験をした友だちがいるっていうことはあると思うから、子どもからむやみに死を遠ざけるというのではなく、本の中でそういうものを知っていくことができれば、それは本の一つの大切な役割なんじゃないかと思います。
でも、同じような体験をした子どもには、この物語はちょっとリアリティに欠ける部分があるし、体験をしていない子にはやたら不安感やこわさが増すんじゃないかと思います。じゃあこういう本の役割は何かっていうと、子どもなりに人間の複雑さを感じとるっていう点にあると思います。でもこの本にそれができるかというと、できていない。最後に家族が、やっぱりひとりたりないって思うところは、どうなのかな、と思いました。私のまわりにも子どもを亡くした人が何人かいるけれど、亡くなった子はいつも家族と共にいる。3人きょうだいが2人きょうだいになるのではなく、常に意識の中にある。他人はなるべくその子の話をしないように気を遣うけれど、家族はその子の存在を忘れてほしくない。その子のことを語って、いつまでもおぼえていてほしいと思っている。そこまで至らないと、救いにならないんじゃないかな。

メリーさん:いわゆるお涙頂戴の類型的な本がよく手にとられるという面もありますね。でもそれは、著者も読者も大切な人を失うということについて、本当に考えるところまではいっていない。登場人物に深く共感するというよりは、そのシチュエーションを楽しんでしまうという面があると思います。

たんぽぽ:これ、おばあちゃんの気持ちはよくわかります。孫を、どんなことをしても何とかしてあげたいという。でも、最後に乗り越えられるような、何かがあったらいいのになと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)


とむらう女

プルメリア:『ササフラス〜』のあとに読んで長編に慣れていたせいか、もうちょっと長くてもよかったかなと思いました。淡々と書かれている感じがして、もっと深くてもいいのかなと。亡くなったお母さんへの思いとお母さんの死後にやってきたおばさんを受け入れられない少女の心情は、伝わってきます。お母さんが思いを込めて作っていた庭が変化していく様子、荒れていく様子は、少女の心理状態を象徴的に表しているのかなと思いました。妹メイはまだ5歳なんですが、そんなに早くお母さんのことを忘れちゃうんでしょうか? お母さんの思いがまったく消えちゃうかな、と疑問でした。アメリカの古い時代におこなわれていた弔いのしきたりがわかったのも、よかった。なぜ木箱はベッドの下に入れないといけないのかな?

うさこ:母の死後、おばさんがやってきていっしょに生活し、送り人の仕事を手伝ううちに、だんだんと心をほどいていくイーヴィーの姿が、よく描かれていました。母の死をしっかり受け入れて再生していく姿は、こちらも自然な気持ちで読めました。身近な人の死の描き方って難しいですね。母親と一緒にしていた庭の手入れを黙々とし、日常生活を大事に過ごしていくことが、死のいたみから徐々に解放されていくことにつながるというところも、うまく描かれていました。弔い師の仕事をしているとき聖書の一節をイーヴィーが読むシーンも印象的です。現代のお葬式や法要などのお坊さんのお経は、その意味が具体的にわかるわけではないけど、終わったあと言ってくださることばなども含め、残された者にはとても安らかに響くもの。最後の文書149から150ページ、ママは命は土から生まれると言った、おばさんは命は土にかえると言ったという一節は、説得力のあることばですね。

すあま:私がおもしろいなと思ったのは、ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズのような生活が描かれていたところです。主人公の女の子の気持ちがよく伝わってくるし、だんだんとそれが変わっていくところがていねいに書いてあるのもいい。お母さんの死から立ち直る話としてよりも、おばさんの仕事に興味を持って、自分もやりがいのある仕事を見つけていく成長物語として読みました。周りの人にも薦めたんですけれど、不満があるとすれば題名と作りですね。見た目は大人向けの小説ですが、中学生くらいに読んでほしい。題名も表紙のイラストも、主人公の女の子がメインになっていた方が、読んでほしい人に読んでもらえたかなと思います。この本を読んだころに「おくりびと」の映画を見たのですが、この本の帯の宣伝文句も「アメリカにもおくりびとがいた」といった感じにすれば話題になって売れたかも?

ひいらぎ:出版社は、YAから大人向きにしたほうが売れると思って、こういうつくりにしたんじゃないのかな。でも、「とむらう女」よりは「おくる女」くらいのほうが、映画との関連も出たのかもしれません。主人公の女の子は、最初はおばさんを全面的に拒否しているんですが、だんだんに近づいていく。その様子はリアルで、うまく描かれていますね。私は『のっぽのサラ』(パトリシア・マクラクラン著 金原瑞人訳 徳間書店)を思い出しました。あっちの方が、心の交流はもう少し複雑で細かく描かれているように思いますけど。私は小学生のとき祖母が亡くなったんですが、その時、死んだ人って怖かったんですね。だから、おばさんの仕事の重要性を認識してイーヴィーが後を継ごうと思うのは、頭ではわかるけど、自分だったら怖くて無理だな、と個人的には思ってしまいました。日本とアメリカの死生観の違いもあるのかもしれませんが。

ハマグリ:私も『のっぽのサラ』を思い出しました。この本は、主人公がお母さんの死を乗り越える話ではあるけれど、私は11歳の女の子が一つの職業に目覚める話、という観点からも読めるんじゃないかと思うんですね。カレン・クシュマンの『アリスの見習い物語』や『金鉱町のルーシー』(どちらも柳井薫訳 あすなろ書房)みたいなおもしろさもあると思いました。お母さんが亡くなったというのは少し前のことなので、『ひとりたりない』より衝撃度が少ないですね。家族や親しい人を亡くしたあと、その喪失感を埋めていくのには長い時間がかかりますが、それをとてもていねいに描いているところに好感をもちました。無口なお父さんは、子どもには悲しむ様子を見せないけれど、夜ひとりでお母さんのブランコに乗っている姿を見て、イーヴィーにはお父さんもやはり苦しんでいることがわかるわけですね。イーヴィーはお母さんの菜園を毎日無心に手入れすることで、母の存在を忘れまいとする。たぶんそういうふうにするしかないと思うんですね。毎日毎日、目の前のことをやっていきながら、一人一人が時間をかけていかないといけない、そういったことがうまく書けているなと思います。イーヴィーは、初めて身近に見た死をまだ受け入れられないでいるのに、おばさんの仕事はおとむらい師。最初はそのことに嫌悪感を持つわけですが、その気持ちがよくわかるように書いてある。
後半になると子どもを亡くしたり、親を亡くした家族がこれでもか、これでもかって出てくるでしょう。それが、ああ自分だけじゃないんだ、そういうものなんだってこの子が受け入れていく段階として説得力があるなと思いました。亡くなった人に対して、敬意をもって、きちんと接していると、家族もそれに対してこたえてくれる。それを主人公の体験として書いているところがうまいと思います。私もこれは大人のものにしないで、11歳の少女が死とは何かを受けとめていく、そしてまた、一つの仕事に目覚めていく物語として、子どもたちに読んでもらいたい。ほかにはないタイプの本だと思うので、大人向きにしたのは残念でした。

たんぽぽ:私も『のっぽのサラ』に似ていると思いました。死を扱っていても、『ひとりたりない』と違い、最後までおもしろく読めました。中学生くらいの子がこれを読みどう感じるのか知りたいです。表紙は、大人向きなので、もっと違う感じがよかったと思います。

メリーさん:私は、ちょうどこの本が出たときに読みました。お母さんとの思い出を他人に踏みにじられたくないという、主人公の気持ち。おばさんに早くなつく妹とくらべて、少々行き過ぎではないかとも感じられる、この感情が、随所に表れていました。おばさんがお母さんの席を「のっとった」とか、「お母さんの」ロッキングチェアなのに…とか、庭を手入れしたのはお母さんなんだ、というところです。それは悲しみというよりは、いらだちのようなものかもしれません。以前ここで取り上げた『天井に星の輝く』(ヨハンナ・ティデル著 佐伯愛子訳 白水社)を思い出しました。結局主人公の気持ちは、時間が解決するしかないのだと思います。長い時間をかけてその気持ちとつきあっていく、その気持ちといっしょに生きていくしかないんだなと。ただ、それをそのまま物語にすると、読むほうは退屈だと思うので、物語ではどうやって伝えたらいいのかなということを考えました。この物語は、そういう意味ではよくも悪くも、短くコンパクトにまとめているなと思います。最後の「命は土から生まれ、土に帰っていく」という言葉はとてもいいなと思いました。

げた:私もみなさんとおんなじようなこと感じましたね。この本で一番印象に残ったのは、19世紀アメリカ開拓民の貧しいんだけど豊かな日常や、厳しい自然と戦いながら人生を神とともにまっとうしていく、そんな姿ですね。虚飾に満ちた世界で生きている私なんかには、自然に立ち返れと言われているような感じもして、憧れちゃうな。すべて手づくりの暮らしで、死も手づくりで迎えようとしている。おとむらい師はお金をとらないし、コマーシャリズムが一切関与していない。そういうのがいいなって思いました。母を失った子どもの不安な気持ちや、無邪気な妹を見ながらどう対処していいかわからない戸惑いの気持ちとかも、よく描かれていますよね。

ダンテス:文学は人間を描くものであるっていうことで言えば、いい作品だなと思いました。19世紀の終わりまで歴史的な事実としてそういう女性がいたことを作者が知って、それが作品を書く動機になっているのでしょう。だから子ども向け限定ではなく大人向けに書いたのではないかという印象です。しかもただ単に歴史的な事実を伝えようとしただけではなく、おねえちゃんの気持ちを中心に、ていねいに書かれています。おばさんも死と多く向き合ってきただけに、人間としての土台、骨格がしっかりしていて、母親を亡くした少女の気持ちに出来るだけ寄り添おうとしています。もちろんすれ違いもあるから作品になっているわけですが。下の子は母親を亡くしたあとおばさんにすぐに慣れていっちゃうけど、これもおねえちゃんから見た視点できちんと書けている。もし難点を言うとすると、後半多少急いでいますかね。次々と死者の埋葬の話になるのは、映画の「おくりびと」の後半を連想しました。最後にこの子がおばあさん不在の時に、自分なりに3歳の子の埋葬を手伝う話で、この子の未来像が暗示されています。やはり全体としては大人向けの本として私は読みました。日本ですと、字の大きさ、漢字の多さ少なさ、ルビありかなしかなどで対象年齢が決まってきますが、英語の本の場合も、やはりこれは子どもの本、大人の本ってあるんですか。語彙の選択と字の大きさでしょうかね。日本語の方が、読者対象が決まる要素が多いですね。

ひいらぎ:アメリカは、読者対象をはっきり示す場合が多いですね。アマゾンも、アメリカのサイトは対象年齢をはっきり書いています。でも、イギリスのアマゾンは、書いてないんですね。

ダンテス:今の葬式はビジネスになっていて、そういうのも必要なのかもしれませんが、やたらにお金がかかることなどを思うと、このお話の時代は素敵だなと思いました。印象に残る作品です。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)


愛の旅だち〜フランバーズ屋敷の人びと1

タビラコ:40年近く前に読んだのですが、今でも生き生きとおぼえています。主人公がそれぞれ個性的で、特にラッセルさんが怖い夢に出てきそうなくらい強烈でした。今回、読みなおしてみても、いかにも英国文学らしい、くっきりした個性を持った登場人物たちが印象的でした。クリスチナ自身の内面の成長と、周囲の社会の変容がからみあって、ぐいぐいと読者をひっぱっていく。力強い作品だと思います。イギリスの読者が読むと、1つの「時代」を感じさせて、より感動的なのではと思いますが、日本の子どもたちも「ある家族の歴史」として、おもしろく読めるのでは?

げた:物語は1908年から始まっています。20世紀なんだけど中世の領主が支配しているようなフランバーズ家に関わる人々の人間模様が描かれているんですね。時代の境目に生きている、古い人たちと新しい人の葛藤がクリスチナの成長物語と合わせて展開していきます。ウィリアムの飛行機や自動車とラッセルの馬が象徴的なものとしてとりあげられているんだと思います。クリスチナは両親を亡くしておばさんのところを渡り歩いて、とんでもないおじさんのところに行かされちゃったんですが、それでも健気に生き抜いていくんですね。今回とりあげたのが第1巻で、新訳では5巻まで、これからどういう生き方をしていくか楽しみだなと思いますし、最後まで読んでいきたいと思わせる。屋敷で働いているディックがクリスチナに馬術を教えるんですけど、ディックは主人であるラッセルにあまりにもひどい扱いを受ける。こんなことが20世紀にもあったんですね。イギリスっていうのは、個人の力では乗り越えられない階級社会の伝統があるところなんだなと改めて感じました。

レン:私は今回はじめて読みました。昔ながらのオーソドックスな児童文学だなと。人物描写や情景描写がていねいなので、読んでいるうちにこの世界に入っているような気持ちになりました。香りや手触りまで伝わってくるような感じ。今の日本の児童文学には、こういう書き方の作品はほとんどないのではないかしら。ラッセルさんの言動や、ディックがマークをぼこぼこにするのをまわりの人々がただ見守っているような極端な場面も、今の作品だとあまり出てきそうにない部分。フィクションのおもしろさを味わわせてくれる作品だと思いますが、今の子どもたちが手にとるかどうか。

ハマグリ:この本を読んだのは、最初に出版された1973年でした。今回は読み返す時間がなかったんですけど、当時の読書メモを見ると、まず主人公が強く生きる姿勢に共感をおぼえる、ウィリアムへの気持ち、マークへの気持ち、ディックへの気持ちが細かく描かれている、馬と飛行機という対照的なものを描いているけれどどちらもスピード感が実にみごとに描かれている、映画的な手法が用いられている、と書いてありました。当時はこういう作品はとても新しい感じがしたのを覚えています。70年代は、YAという言葉が日本で使われはじめた頃なんですね。そのころ読んでいた児童文学は、動物や小さい子どもたちが主人公の話や、ファンタジーが中心でしたから、思春期から大人になっていく年代を等身大に描いた物語はあまりなかったんです。そういう意味で新鮮だったし、印象に残っているんだと思います。YA文学というのはこういうものだということを知った作品といってもいいですね。最初は3部作として出て、しばらくして4冊目が出ました。ペイトンの作品は『バラの構図』(掛川恭子訳 岩波書店)も『卒業の夏』(久保田輝男訳 学研/福武文庫)もおもしろく読み、印象に残っています。この作品も、文庫になったから今の子どもたちにも手にとってもらえるといいですね。今のYAというのは主人公のある状況を切り取ったようなのが多いので、こういう長編を読む楽しみも味わってほしいなと思います。主人公とともに一歩一歩人生を歩んでいくという長編の醍醐味を味わってもらえる作品ですよね。

プルメリア:主人公のクリスチナを囲む人間関係がとてもおもしろいなと思いました。馬に人生の喜びをかけている叔父ラッセル、相反するマークとウィリアムの兄弟関係、ディックとの関係が物語の中で動いていくのがわかりました。クリスチナと叔父ラッセル、マークの馬に対する愛情のかけかたの違い、馬と自動車、飛行機に夢をかける先駆者たちの姿、古いものから新しい時代へと歴史が動き出し急激に生活スタイルが変わって行くイギリス社会が描かれていて、私も映画の場面を思い描きながら読みました。これからディックがどんなふうに物語にかかわってくるかも次の作品を読む楽しみの1つです。今から約30年ほど前に出版されていますが、今読んでもいい作品だなと思いました。名作はいつまでたっても心に残る感動させる作品なんだなと、あらためて思いました。階級社会の構図が変わっていく時代の境目が描かれていて躍動感がありますね。

シア:はじめて読んで、1しかまだ読んでません。後の巻で、ディックと何かあるのかなんて空想してしまいます。20世紀初頭のイギリスっていうことで、身分社会とか上層の生活とかそういうものが見えるような雰囲気がいいし、情景描写がとっても生き生きとしていたと思います。古風な家族と新しい若者との対比もあるし。ただ、最近のものを読みすぎてしまっているせいか、古典的な少女マンガみたいな(いがらしゆみこさんとか)展開に少し辟易しました。ウィリアムの大事な本をよりにもよってラッセル叔父に渡してしまうような短慮な部分や、やたら惚れやすいところ、そういう主人公に呆れて。でも半分以降くらいからぐっとおもしろくなり、続きを読みたくなりました。読み終わったときいい作品だなと思ったんですけど、これを今の中学生にどうやって読ませていけばいいかというのが問題で。小学校気分が抜けない中学生くらいのほうが、逆に読むのかな。手当たり次第に読む子がまだ多いですからね。薦めるときは、半分くらいまでがまんして読めって言えばいいかしら。高校生はジャケ買い(ジャケ借り)とかになるんですよね。

レン:ちなみに女子校では、今日の3冊ではどれが好まれそうですか?

シア:表紙だと『バターサンドの夜』ですかね。パステルカラーでおしゃれ小物みたいなのが好きですね。

ひいらぎ:小学生はどうですか?

プルメリア:図書室で子どもたちを見ていると、まず本を開いてみて、字が小さいと書架に戻します。「この本は無理って感じ」ですね。『大海の光』は絵がわかりやすいので高学年の女子は手に取ると思います。『バターサンドの夜』は、手にとらないでしょうね。表紙の絵で手に取る作品とらない作品に大きく別れます。

げた:これはラジオの書評番組の中で一般向けとして薦められていたんです。大人が読んでもおもしろいですよって。

ひいらぎ:私はイギリス社会のいろいろな面がわかる本だなと思いましたね。馬とか犬を上流階級の人がどんなに大事にしているかとか、階級が違うと暮らしがぜんぜん違うとか、ダーモットさんみたいにそれからはずれている人もいるとか。最初はクリスチナがどうなるかなと思って読んだんですけど。これだけ情景描写や心理描写をていねいに描きこんだ本は、今は少ないですよね。でも、今や大学生でもよほど本好きでないかぎり、全巻続けて読んでいくのは難しいんじゃないでしょうか。「ゲド戦記」(アーシュラ・K・ル=グィン著 清水眞砂子訳 岩波書店)だってなかなか読み通せないですよ。

ハマグリ:「ゲド戦記」よりこっちのほうが読みやすいんじゃないかな。

げた:クリスチナがどんなふうに成長していくかと思って読んでいけますからね。

ひいらぎ:それにしても、ヴァイオレットの書き方はひどいですね。兄妹でもディックは馬っていう自分の専門分野を持っているけど、教育もない貧しい女性は小間使いしかなれないから、世界が広がっていかないんでしょうか。狭いところに閉じこもったきりですよね。それと、普通の上流階級の子だと、施しをすればいいという考えですけど、クリスチナは施しをするのにも良心の呵責を感じるところがあって、そういうところはペイトンがよく見てるんだなって思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年4月の記録)


大海の光〜ステフィとネッリの物語4

ハマグリ:今回の課題本は4巻目だったんですけど、どうしても4巻だけを読むっていう気にならなくて、1巻から読んだら、読むほどにこれはやっぱり4巻だけを読んだんじゃだめでしょうという気になりました。徐々にいろいろなことが変わっていくんですよ。やっぱり1巻から読むことによって4巻につながっていく。だからぜひ1巻から読んでほしいなと思います。まず戦争中のスウェーデンの状況をスウェーデンの人の側から書いたものは読んだことがなかったので、知らなかったことが多く、とても勉強になりました。スウェーデン人、オーストリア人、ユダヤ人それぞれの立場がよくわかりました。
4巻では、章ごとにステフィとネッリを交互に描いているんですけど、1巻から3巻はステフィ中心で描かれています。大人も子どもも、いろいろな登場人物が出てくるんですけど、それぞれの立場があり、人物の造形がくっきりとよくわかるように書かれているところがとてもおもしろかったですね。人間の中には、揺らいでしまう人と揺らがない人がいるっていうのが、よくわかりました。弱さと強さって言ってしまってもいいのかもしれないけど、子どもでも置かれた状況によって自分が思っていたことと違うことをしなきゃいけない場合もあって、そのあたりの生身の人間の描写がとてもリアルだと思いました。ネッリはまだ幼くて養女になったので、疑似家族の中に自然に溶け込み、かわいがってもらうすべを知っていたんですね。でもステフィはそうでないところがあって、なじめないものはなじめない。養い親のおばさんですけど、最初はほんとに合わなかったんですね。でも厳しさとか冷たさと感じていたものが、日々の暮らしを一緒にすることによって次第にこの人は絶対信頼が置ける、と思えるようになるというところに感動しました。養父のエヴェルトが朴訥ながらも大きな愛情で包んでくれることや、若い担任の先生が力になってくれるところや、マイという親友が揺るがない気持ちでステフィと接してくれるっていうところに安心感があって、ステフィが自分では気づかないけれど、そういう人たちの信頼に支えられて強くなっていくところがとてもよかったと思います。島の様子とか、船で本土へ行ったりきたりする情景や、イェーテボリの町の描写がリアルで、行ったことのない場所が身近に感じられたというのもよかったです。

レン:私は前の3巻を読まず、この巻から読んでしまったのですが、引き込まれました。先日トールさんが来日なさったときの講演で、このシリーズを書いたきっかけや背景をうかがったので、すっと入れました。18歳のお姉さんと小学校を卒業する妹が、終戦という分岐点でそれぞれの人生の選択をせまられる。友人や、恋人、養父母など、まわりの登場人物が多面的にていねいに描かれていて、人生の複雑さがみごとに表現されていました。この作品を書くにあたって公文書館などで多くの資料を読んだとおっしゃっていましたが、記録で接した多くの人々の生き様が、さまざまな形で作品に盛り込まれているんでしょうね。今の日本では、学校図書館でも、子どもたちが自分から手にとる本に流れがちで、このようなまじめな大きなテーマの作品はますます出版がむずかしくなってきていると思うので、この4部作が刊行されたのはとても貴重ですね。

タビラコ:私もこの4巻目だけ読んだのですが、ぜひ1から3も読みたいと思いました。内容もさることながら、登場人物がどの人も奥行きがあって、生き生きと描かれていますね。主人公の姉妹にしても、いかにもお姉ちゃんらしい、しっかり者で頭の良いステフィと、あまり頭は良くないけれど、生きていく知恵にはたけていて、かわいらしいネッリの対比など、みごとだと思いました。ナチスによって悲惨な目にあわされた子どもたちのなかで、どうにか生き延びて大人になった人たちの証言を綴った本を以前に読んだのですが、誘拐されて、むりやりドイツ人にされ、養子縁組をさせられた子など、強制収容所だけでなく様々な迫害を受けた子どもたちがいたことを知りました。日本ではよくわからないけれど、ヨーロッパ全土にナチスはいまだに黒い影を落としているんですね。ステフィの友だちが精神病院に入ってしまうところなど、本当にこういう子どもたちがいたに違いないと思い、胸をつかれました。すばらしい作品ですね。子どもたちにぜひ手渡してほしい本です。

げた:いつも利用している図書館の新刊棚にあったので手にとってみました。スウェーデンにもユダヤ人の子どもたちが疎開していたというのを初めて知りました。本の中に書かれているのは世の中に翻弄されている少女2人なんですけど、時代が違ってもステフィとスヴェンとのやりとりなど、時代を超えて今の子どもたちに共感できる部分があるんだろうなと思いました。作者はいろいろよく調べて物語を作ったんだろうな。書かれていることがリアルに浮かんでくるんですよね。スウェーデンの高校ってすごくレベルの高いことをやってるんですね。大学みたいですね。ユディスがあまりにも悲惨なので、もうちょっとなんとかならないのかと思いましたけど、史実として、こんなことがあったんでしょうね。お父さんとの再会のくだりは、ちょっとあっけなく終わっちゃったかな。

プルメリア:スウェーデンにユダヤ人が送られたことを私も初めて知りました。地図や登場人物紹介があって、内容もよくわかり読みやすかったです。ステフィがスヴェンに出会うことから恋が始まり、ステフィの青春から大人に成長していく姿がわかりました。友だちと父親を探しに行く自転車での旅で出会う人々のあたたかさ、いつもステフィを見守る育て親メルタ・エヴェルトとアルマの愛情も、ちゃんと伝わってきます。文章全体に、ユダヤ人としての誇り(こそこそしない)や主張がにじみ出ているように思いました。この作品を読んだあとに、1巻目の『海の島』を読んだところ、ステフィがスウェーデンに行き学校生活でいじめをうけ葛藤しながら一生懸命島で生きていく様子、妹が養ってもらっている家で陶器の犬をポケットに入れてしまい、その陶器が見つかってしまうあたりのステフィの心情描写などが、痛々しいくらいによく描けていました。1巻には登場人物の説明も地図もありませんが、1巻から読むと4巻の読みも深まっていいと思います。読んでいて古い感じがしなくて、ぜひ紹介したい作品です。

シア:全国学校図書館協議会のイチオシだったんですけど、いまいち手がのびなかった作品です。今回初めて読みました。第2次世界大戦のユダヤ人というイメージが強くて、『アンネの日記』のような重いイメージがあったんですけど、普通の生活を送れているっていうところで、幸運な人たちだなと思いました。ユディスの考え方に、ユダヤ人の誇り高さを感じました。ユダヤ人と結婚してユダヤ人の子どもを産むべきだっていうあたりですね。途中のユディスの事件でぐっときました。アウシュビッツに送られてしまった人のことではなく、こういうところだけでも子どもたちに読んでほしいと思います。そして、移民として最後アメリカにたどりつくっていうのが、うまいラストだなと。養い親、血のつながりのない親にネッリは抵抗なくなじんでいくようなところがあって、ユダヤ人としての誇りや芯というのは、環境が育てていくものなんですね。関係ないですが、スウェーデンの移民について思い出したことがあります。数年前に私がスウェーデンに行ったとき、イラクの人たちを受け入れていたんですね。そのせいで治安の問題も出てきていたし、下層のスウェーデン人たちより保護を受けているイラクの人たちがいい生活をしているなど、軋轢があると聞きました。移民を受け入れるのも、移民になるのも大変ですね。

ひいらぎ:私はまだ3分の2くらいしか読めてないんですけど、最初すごく苦労しました。ステフィがまず男か女かわからなかったんですね、どんな人なのかなと思っていると、次にマイが出てきて、すぐにイリヤが出てきて、どれも男か女かわからない。1巻から読めば、すでに頭の中に登場人物が頭に入っているからもっとすらすら読めるんでしょうね。ロイス・ローリーの『ふたりの星』(掛川恭子・津尾美智子訳 講談社)も、デンマークからスウェーデンにユダヤ人を逃がすという話でしたね。でも、ニューベリー賞を取った作品なのにこっちは絶版ですよね。ユダヤ人狩りとか強制収容所の悲劇だけでなく、こういう作品も歴史のリアリティを感じるには大事だと思うんですけどね。

タビラコ:教科書には今でも、戦争がテーマの作品が載ってるの?

プルメリア:文学教材は、小学校3年生に『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ著 あかね書房)、4年生には『一つの花』(今西祐行著 ポプラ社)が載ってます。ただ、子どもたちには今と比較して説明しておかないと、作品からはその時代の様子が理解できないし、子どもにはわからないです。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年4月の記録)


バターサンドの夜

シア:「フランバーズ屋敷の人びと」を先に読んでいたので、こっちはあっという間に読めてしまいましたけど、子どもは感情移入できるんじゃないでしょうか。身近なことを扱っているので。日本のサブカルチャーを、こういう形の児童文学で扱っているのが新しいのかな。アニメ系の絵のライトノベルだと、こういう話を扱っているのはあるんだけど。でも登場人物は中1ですよね。キャラがものすごく大人っぽい。考え方も行動も、まわりの子もそうなので、最近の子と比べるとギャップを感じましたね。中3から高1にかけてだったら納得する内容です。でも、主人公は中学受験をして私学に入るんだけど、私学の女子校を受験させるようなお母さんだったら、これほど子どもに関心がないはずはない。この作家の子どもの頃の話なのかな。

タビラコ:この作品は一人称で書いてあるから、「主人公の目から見ると、お母さんが子どもに関心がないように見える/感じる」ということじゃないかしら?

シア:泊まってきたり、遅くに外出したり、公立校の子だとそんな自由もあるのかなと思いますけどね。うちは私立の学校だから、こんなの親が許すかな、と気になって。

プルメリア:私は今年の3月まで6年生を担任していたので、主人公の心理はわかりやすかったです。大人っぽい会話をする子がいたり、「ボク」って言う女子がいたり、アニメの続きをアレンジして物語を作るアニメ好きがいたり、友だちと関わることを好まない子どもがいたりしましたからね。また、別のカラーとしてコスプレはしないけど、流行のショートパンツや網タイツをはく子がいたり、すごい髪型の子もいますから。主人公のように、こういう人物になりたいっていう心理もよくわかります。最初の1行が「モデルやらない?」。子どもにとってモデルは興味あるので、この言葉からも子どもは本に入ってこられるかも。少女明音とおじいさんと智美さんの生き方の違いや、マネキンが出てくるシーンの表現がおもしろかったです。太っている子が着られない服を着たいと思う欲望もおもしろく書かれていました。読み聞かせのお母さんが出てくる場面は、身近に感じて読みました。

げた:この頃の女の子って、変わりたくないって気持ちがあるんですね。大人の女になりたくないって。13、14ぐらいの女の子の気持ちって、さすがに私にはわからないんですけどね。お母さんは図書館でお話ボランティアをやっていて、とってもいいお母さんのはずなんだけど、彼女にとってはあまり好ましくないおばさんっていう大人なんですね。偶然出会った智美との出会いがとっかかりになって、新しい世界が開けていく13歳の女の子の物語ですね。ただ、「ブランバーズ屋敷の人びと」や『大海の光』みたいな、大きな時代の流れや運命との葛藤みたいな背景が感じられないので、物語全体の底が浅いというのは否めないんですよね。軽さがいい面でもあるけれど、軽いだけで終わっているんじゃないかなという感じもしますね。「バターサンドの夜」ってタイトルなんですけど、あんまりピンとこないですね。バターサンドに対する作者の思いが読者にうまく伝わっていないんじゃないかな。

タビラコ:読み終えてから、この作品は風俗小説だなと思いました。少なくとも、私にとっては。実際に、今はこういう子どもがいるのかもしれないけれど、それ以上のものではない。結局、風俗以上の何を書きたかったのか、よくわからないんです。「バターサンド」で象徴されている(のかもしれない)家族関係の修復を書きたかったのか、それとも変身願望を書きたかったのか。どちらにせよ、もう少し掘り下げて書いてもらいたかった。変身願望にしても、十月革命をテーマにしたマンガの主人公と同じ服を着たいというのだけれど、どうしてそのマンガの主人公に魅かれたのかわからない。結局、かっこうだけ真似たいということですよね。私の読み方が浅いのかなあ? それでも、この本の主人公が、かわいいなあとか、なんかこの子好きだなあと思えれば、もっとおもしろく読めたんでしょうけど、なんだかこの子だけじゃなくて、洋裁店の女の人も、おじいちゃんも、神経にさわって、あまり好きになれませんでした。でも、子どもたちは夢中になって読むのかしら?

シア:今の子は、お弁当のところとか、すごく共感すると思いますね。その陰惨さを知っているので、読んでいると暗ーい気持ちになりますね。

タビラコ:なんかね、ユーモアっていうか、体温というか、あったかさが感じられないんですよね。このあいだ取り上げた『園芸少年』(魚住直子著 講談社)にはそれがあって、扱いようによっては暗くなるテーマがそうはならずに、おもしろく読ませていたんだけれど。

シア:この頃の子どもって、鬱とかリストカットとかに向かっちゃいそうな怖さもあるので、中学生にはあんまり読ませたくない。ピンポイントでヒットしてしまいそうで怖いです。生徒に薦める気にはならないですね。

ハマグリ:私はもともと読むのが遅いので、ステフィとネッリの物語を1巻から読んでいる途中に、これも読まなくては間に合わない、と思って読んだんですね。そのせいか、ステフィとネッリの物語は、時代も舞台も遠いけれど、本当にこんな人たちがいたんだなって身近に感じられたのに、こっちはよく知っている身近なものばかりが出てくるにもかかわらず、そこに息をしている人としての体温があまり感じられませんでした。人物造形の薄さなのでしょうか、伝わってくるものがないんですね。智美さんっていう人は、キーになる人物なのに、どういう人かなかなかイメージできなかったです。この人をもっと魅力的に描かない限り、説得力がないと思います。それから、158ページのおじいちゃんとの会話のところで、「わたしたちはお互いにとって、大事な大事な・・・お客さんだ」という文がありますが、これ、どういう意味かよくわかりませんでした。作者にとっては結構思い入れの深い一文なんでしょうけど、ストンと落ちる言葉ではありませんでしたね。確かに今のサブカルチャーをあれこれ書いていることには目を奪われるけど、「新しい!」と感じるインパクトはなかったし、肝心の人物の描き方が物足りないと思いました。才能のある人だと思うので、今後に期待したいです。

ひいらぎ:こういう子がいるかっていうと、いるだろうと思うんですけど。智美さんの厚みも魅力もないんですね。この本は、智美さんが書けてないから、ほかも紙でつくったキャラが舞台を行ったり来たり動いてるって感じになっちゃうんじゃないかな。もうちょっと智美さんをきっちり書いてもらったら、おもしろい話になったかもしれない。今のままだと、物語のはじめから終わりまで、この子が何かを体験したって感じがないんですよね。

ハマグリ:智美さんに出会ったことで、主人公が何か変わったというのが出てれば、もっとおもしろかったのにね。

タビラコ:本当は、それが書きたかったんじゃないの? 児童文学っていうのは大人が子どもに書くものだと思うのね。でも、この作品は、子どものまま書いている感じがするんですよね。

シア:当時を思い出して書いてるんだって思うんですけどね。大人っていっても智美さんは子どもみたいな人だし。

ハマグリ:題材としてはおもしろいものを集めてきてるし、設定も興味深いのよ。それがうまく使ってあればいいんだけど。

ひいらぎ:意欲は感じられるかな。

シア:でも、こういうのって、ケータイ小説にもいくらでもありますよね。

げた:ケータイ小説って、中学校や高校では今でもよく読まれてますか?

シア:うちの学校では、ちょっと落ち目ですね。

タビラコ:最後に「バターサンド」が出てくるんですけど、これはなにを表しているのでしょう? お父さんとまた仲良くしたいってことでしょうか?

げた:それもわからないですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年4月の記録)


ドナ・ジョー・ナポリ『マルベリーボーイズ』

マルベリーボーイズ

シア:とてもおもしろく読めました。読書感想文が書きやすそうな本ですね。正統派。最初のうちは『黒い兄弟』(リザ・テツナー著/あすなろ書房)なんかと似たような感じだと思って読んでたんですけど、登場人物一人一人が濃いですね。読んでいて辛いところもありました。事実に即して、というところに興味をもちました。創作でありながらも、歴史の重要なところはおさえているので、すごく迫力のある情景になったのかなと。男の子にも女の子にもいい本ですね。文章力もあるので、あきずに一気に読めました。

セシ:読み始めると、どんどん読まずにはいられず一気に読みました。おもしろかった。革靴というのが、母親の思いや家族の教えを象徴していたり、隣家におすそわけするだとか、きちんとオレンジをつむだとか、人前で服を脱がないだとか、そういうさまざまな習慣も故郷とのつながりを表していて、とてもうまいなと思いました。脇役の使い方もうまく、それぞれの人物とドムがどんなふうに関係を結んでいったかが、心に残りました。最初は1セント渡してお使いを頼むところから、具体的な行為で順々にあらわされていくんですね。匂いも伝わってきそうな町の描き方にもひきつけられました。ただ、時々ちょっとわかりにくく感じるところがありました。船でニューヨークに着くところも、どんなふうにして船を降りたのか、混乱してしまいました。まあ筋がおもしろいので、そっちにつられて先を読んでしまうんですけど。

アカシア:私もとてもおもしろかった。お話の作り方がうまいです。次から次にむずかしい問題が起こっても主人公が誠実に向き合っていくところが、嫌らしくなくさわやかに描かれているのがいいなと。子どもの読者も、主人公に自分を重ね合わせてドキドキできますよね。別の観点からおもしろいなと思ったのは、ユダヤ人がもつ生活信条や価値観です。ドムが小さいときにアウレリオおじさんは「頭をつかって一生懸命働けば、できないことなどない。どんな逆境がまちうけていようと、おれたちはユダヤ人、ナポリ生まれのユダヤ人だ。けっしてくじけることはない」って教えるんですね。それでドムも、最初25セントで買ったサンドイッチを4つに切って、金持ちのいそうな場所に行ってその1つずつを25セントで売って儲ける。次はそのお金を元手にしてもっと儲けるというやりかたで、暮らしを立てていく。そのあたりも、おもしろかったですね。
最初読んだときは、母親はなぜドムを1人でアメリカに行かせたのかなと思ったんですけど、子どもを捨てるというよりも、2人でいても共倒れになるのでせめて息子だけは希望の地に送り出そうとしたんでしょうね。ドムが母親に買ってもらった靴が、1つのシンボルになっていますね。ドムは何度か危機を救ってくれた靴を大事に大事にしていたのですが、最後の場面ではもうきつくなったその靴を小さな子にあげてしまう。そこにドムの成長が象徴的にあらわれていると思いました。

ダンテス:非常に楽しく読みました。マルベリーストリートは、リトルイタリーやチャイナタウンのあたりにあって、住んでいた頃よく行きました。お話としては靴がポイントなんだなと思いました。当時一般的な子どもは裸足で歩いていて、靴をはいているのはいいうちの子なんですね。まわりからある意味良い誤解をしてもらって筋が展開していきます。ユダヤ人の教えが随所に出てきて、ある種プライドの高さ、矜持といったものがあったからこそ生き抜くことが出来たんですね。商売の原則「安く仕入れて高く売る」を地で行って儲けて成長していくというのが、わかりやすくていいです。友だちのティン・パン・アレイでしたっけ、救い出したのに結局パドローネにつかまって殴られて殺されてしまうという展開には驚きました。国を脱出したい人のため、という名目で儲けている悪いやつが今も世界中にいるような気がします。

バリケン:おもしろかったです。『ロジーナの明日』(カレン・クシュマン/著 徳間書店)と同じように、アメリカの子が読んだら、昔この場所でこういうことがあったんだなと、いっそう胸に迫るものがあるのでは……と思いましたが、日本の読者にもじゅうぶんわかるようにていねいに描かれているので、ぜひ薦めたい。死体が捨てられている下水道に修道女に頼まれて物をとりにいく場面のように、腐りかけの果物みたいに爛熟しきったナポリと、一見腐りきっているようでも新しい息吹が感じられるニューヨークの街とを対比しているところも、おもしろかった。最後に登場人物の1人が死んでしまうところはショッキングでしたが、実際にこういうこともあったんでしょうね。たとえば232ページですが、実際の場面(ガエターノとぼくが話している)のなかに、ちょっと前の出来事(ティン・パン・アレイのところに行って、オレンジをいっしょに食べたこと)が挿入されていますよね。そういう箇所は、あれ?と思って前に戻って読み返したりしましたが、こっちの読み方が悪いのかも……。

メリーさん:とてもおもしろく読みました。大きな事件は起こらないのだけれど、骨太な物語だなと思いました。日本だったら、1つのパンを4つに切って商売しようだなんて考えないだろうけれど、そこはアメリカらしいなあと。そしてユダヤというアイデンティティーも出てくる。主人公が、サンドイッチからサラミを取り出すところなどは、根本のところでは譲れない気持ちが伝わってきました。それでも最初は帰りたくてしょうがないのに、主人公はだんだん新しい土地になじんでいきます。そんな中で、靴だけは1セントかけて預けておく。これも、この靴だけは譲れないという、彼の存在証明みたいなものだと思いました。主人公やガエターノ、ティン・パン・アレイも、とにかくみんな生きよう、生きようとしていて、たくましい。だれに教わったわけではないのに、雑草のような前向きのパワーがすごいなと思いました。
とてもいい本なのだけれど、やはり今の子どもには分量があるかなと感じました。そのせいかどうか、束を出さないために紙がすごく薄いのが少し気になりました。

バリケン:日本の今の子どもたちには、こんな風に生き延びるための知恵を働かせる場面はないでしょうけれど、戦後すぐ、戦災孤児がいた時代には、こういう子どもも大勢いたんでしょうね。

プルメリア:すごく勇気づけられる本だなと思いました。まわりの人に支えられながら成長するサクセスストーリー。9歳の少年が生き伸びるのはたいへんです。移民の人々の暮らしだとか、パドローネだとか、アメリカの身分制度や人種の社会性なども出ていて、その時代の様子がよくわかりました。物の値段が、その人の言った値段になるのがアメリカ的だなと思いました。文章にのところどころにことわざが入っていて、それもおもしろかったです。性格がまったく違う3人の少年が寄り添いながら生きて友だちをふやしていく過程には、若い世代が社会を築いていくたくましさを感じました。ドムは、自分の居場所を見つけ、お母さんの気持ちを冷静に考えられるようになっていくんですが、そこからは、新しい世界・アメリカ社会で生きていく知恵を持ち力強く成長した姿が伝わってきます。

アカシア:交渉して値段を決めるのは、アメリカでなくても100年前ならどこでもそうだったんじゃないかしら。今だって、大阪のおばちゃんはデパートに行っても値切るらしいし。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年3月の記録)


ジリアン・エイブリー『オックスフォード物語:マリアの夏の日』

オックスフォード物語〜マリアの夏の日

シア:『マルベリーボーイズ』のほうを先に読んでしまったので、派手な展開もなく、少し眠くなってしまいました。主人公には知的好奇心もあるし、当時の子がやらないことをやったような子なんでしょうけれど、時代をはるか隔てて読むとなると、大きな謎とか山がないと。ちょっと『秘密の花園』っぽくて、盛り上がりを期待してしまったんですが。外国の児童文学ってよく子どもの行動がだいぶ制限されていますよね。この作品はミステリー仕立てだし、コプルストン先生という大人を出してくることで、それを破っているのかなと思いました。女性に専門的な教育をほどこすことをあまりよしとしない時代に、大学の教授になりたいという主人公をもってきたことには、女性作家の意気込みを感じました。表紙がかわいいですけれど、ペーパーバック版原書の表紙もかわいいですね。

セシ:私は、これは苦手でした。寮を抜けだしてオックスフォードに行ってしまったり、少年の謎を追って屋敷に行ってしまったりするマリアの大胆さは、シアさんもおっしゃっていたように、この本が出た当時の子どもたちにはとても魅力があったと思うのですが、今読むと、しょっちゅう出てくる歴史的知識や難しい言葉にさえぎられて、なかなかストーリーにのっていけない気がします。マリアやスミス兄弟、家庭教師のコプルストン先生の型破りな様子は、当時のオックスフォードの様子がわからないと浮かび上がってこないし、物語のおもしろさもわかりにくいのでは? 最後の「あんなやりかたは二度とできません。そして、コプルストン先生にいろいろみつけていただくくらいなら、なにもわからないままでいます、わたし」というマリアのセリフも、ピンときませんでした。

プリメリア:出版されてすぐに読んで、すごくおもしろいと思ったんですけど、2度目に読むとそれほどでもなかったですね。最初は、マリアののびのびとした行動と利発さ、性格がそれぞれ個性的に描かれた3兄弟、コプルストン先生の型にはまらない性格などがおもしろいと思ったんです。大学に牛があらわれるようなオックスフォードのとてものどかで牧歌的な感じや風景描写もていねいで、時代背景がよくわかりました。謎の少年の絵と家にあった銅版画をキーワードとしてストーリーを組み立て、マリアが謎を解いていく展開はおもしろかったですが、子どもはどういうふうに読むのかなと思うと、なかなか難しいですね。とりまく人々はやさしくて、両親のいないマリアに寂しさを感じさせない。マリアが明るく楽しく生きていく姿は、読む子どもたちの共感を得るかもしれません。

アカシア:この時代のオックスフォードはどうだったのか、とか、先生たちはどんな暮らしをしていたのか、などに興味がある人ならおもしろいですが、今の子どもがお話として読むには難しいんじゃないかな。時代を先んじていたマリアを出してくるのは、当時のイギリスの子どもにとってはおもしろいとも思うんですが。訳者がわざとそうしていらっしゃるんでしょうが、翻訳がちょっと昔の文体ですね。それに、いちばん下の弟がお兄さんに対して、「きみたち」なんて言うんですね。名前が似ているだけに、この子はいったいだれだったかなと、とまどってしまいました。彼とか彼女という指示代名詞もたくさん出てきますが、今の子どもたちにはどうなんでしょうか?

ダンテス:訳がおかしいなと思うところが何カ所かあったんです。日本語として読みにくいです。兄弟の間のやりとりも不自然だし、敢えてそういうふうに訳したんだなと思えばいいんでしょうか。生硬な文体って感じがします。

セシ:わからない言葉、ありますよね。たとえば、182ページのパーラーメイドとか。

ダンテス:この本は、きっと調べ物の過程がおもしろいんでしょうね。この子は、相当な発見をしたんでしょう。マリアの知的好奇心の高さへの賛歌なんですね。そして最後に、講演をやっておくれという話も出てきますから、立派な学問的探求の成果として評価されるべきということなんでしょう。訳語ですが、英語の本文に出てきた単語をそのままに訳してるんでしょうか。

セシ:確かに、たとえば32ページですが、「ウォーデンは」、「大おじさんは」、「ハドン大おじさんは」と出てきて、全部同じ人なのに、迷ってしまいますよね。

ダンテス:ウォーデンは、学寮長じゃだめなんでしょうかね。

バリケン:フィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』では、学寮長になっていますね。私は、この本の原書を持っているのですが、「ウォーデンの姪」というタイトルがなんとも地味で読む気がしなかったので、今回読むことができてうれしかったです。とても厚い本ですし、読者を選ぶと思いますが、お話についていける子どもなら、主人公が研究成果を発表する喜びというのを、じゅうぶんに感じとって感動するのではないかと思いました。というのも、私自身子ども時代に『サーカスの少女』(アボット/著)というアメリカの本を読んで、その中に出てくる作家の女の人の生き方に憧れをいだいて、「ああ、こういう未来もあるんだなあ!」と子ども心に思った経験があるので。マリアのような女の子たちの願いや思いが積もり積もって、やがてオックスフォードに女子だけのカレッジができたりしていったのでしょうね。イギリスの読者が読めば、そういう感慨もあるのかと……。日本版のタイトルにも、そんな思いが感じられました。

メリーさん:原書の出版が1957年で、けっこう古いなと思いました。読んでいて、以前とりあげた『時の旅人』(アリソン・アトリー著 評論社・岩波少年文庫)を思い出しました。あの時も、外国の歴史がからんでいるような本は、今あまり読まれないという意見があったのですが、100人のうち1人くらいは、こういうものも好きなのではないかな。自分が歴史の一部分に触れていると感じる、知的好奇心をもつ子もいるでしょう。分量も多いし、物語が動き出すのは後半なのですが、その後半までくれば、あとは400年の時代を越えた謎解きにひきこまれます。題材がすごくいいし、イギリスの雰囲気が出ていて好きな本ですが、今、子どもに向けて出すということに関しては、読む子を選ぶなと思いました。

バリケン:児童書の歴史の本にはよく出てくる本なので、これまで邦訳が出なかったのは、日本の読者には難しいと思われたのかも。

アカシア:編集者はだいぶ躊躇したでしょうね。主人公が11歳でしょ。その年齢だと、こんなに小さい活字の本はむずかしいし、かといって、高校生はつまらないと思うでしょうし。

シア:中学生や高校生で世界史をやっていれば、わかるんでしょうけれど、9ページですでに注が出てきちゃうんですね。それが衝撃でした。子どもに手渡したら、フォローしていかないといけない本ですね。

プルメリア::青い鳥文庫で出ている『ご隠居さまは名探偵!』などタイムスリップ探偵団のシリーズは、聖徳太子や卑弥呼なども出てきて、歴史が苦手な子どもでも作品を読んで歴史に近づきますね。

シア:今の子はゲームが好きなので、戦国時代のことはゲームをやることでかなり詳しくなっていますね。「週刊少年ジャンプ」に載っている『銀魂』(空知英秋作)とか、『恋する新撰組』(越水利江子著 角川つばさ文庫)とか、斉藤洋さんの『白狐魔記』(偕成社)とかはよく読んでます。部分的に入って横に広がっていくんでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年3月の記録)


今江祥智『ひげがあろうがなかろうが』

ひげがあろうがなかろうが

プルメリア::とても厚い作品だし、ちょっとわかりにくい言葉で書かれていたので、解読しながら読んでいくみたいで疲れました。主人公が男の子か女の子かわからなかったのですが、ひげが生えてきたとあったので、後で男の子だとわかりました。主人公と父親は山の中で暮らしていて、訪れる人もわずかです。登場人物がやたらと変身し、忍者なのかな、空想なのかな、とも思ったりしました。お父さんが、いきなり小さくなったり、元にもどったりするのも、ついていけないところの1つでした。また、お父さんが、子どもにお酒を勧める場面が出てくるのが不思議でした。地震が起きたことで、山の様子や海の様子が変わりストーリーも変わるスケールの大きな展開ですが、タイトルと内容の意味が今ひとつわからなくて、絵の感じはよかったけれど、登場人物像は最後までつかめませんでした。

アカシア:この本の後ろには、絶版になった『ひげのあるおやじたち』もそのまま入っていますし、どこが問題になったかの説明もありますね。その後に書かれた『ひげがあろうがなかろうが』は、前の作品あってのタイトルなんでしょうね。毎日新聞では斎藤美奈子さんがこの作品を絶賛していました。作品に登場するのは、サンカと呼ばれていた人たちでしょうか。サンカは、マイペディアでは「少数集団で山間を漂泊して暮らした」とか「川魚をとったり、箕や箒・籠つくりなどを生業とし、人里に出て売ったり米などと交換した」とあります。肉体的に異能の持ち主だという説もあるし、原日本人だという説もある。竹細工に秀でた人たち、遊芸に秀でた人たち、占いのできる人たちもいたようですし、忍者の源流だという説もあるようです。犯罪者集団として排斥された歴史もあるらしい。そのあたりを少し知ってから読むと、この作品はとてもおもしろい。
その部分を除いてもおもしろいと思うのは、たけの育て方です。どんどん危険なこともやらされて育っていく。生きていくのが楽ではないと親も知っていて、過保護とはほど遠い育て方でたくましく生きぬく力をつけさせようとしているんでしょうね。でも突き放すというわけではなくて、p54には「お父はいろんなことをたけの前で自分がやってみせるだけで、/(こうやるんだ)/と、教えてくれている。たけは見よう見まねでやってみる。お父は見て見ぬふりの顔でいて、たけがそれなりにできるようになると、「ん」とうなずいてくれる。目が小さく笑っているのを、たけは見のがさなかった」と書かれています。本当に命が危ないような時は、大人があらわれて助けてもくれる。逆になんでもできる大人は、たけにとって尊敬の対象です。それだけの存在感を大人たちが持っているのがいいなあ、と思いました。ただ長いですよね、これ。地の文が語りの口調になっているところと、そうでないところがあって、それが意図的なのかどうかはわからないんだけど、読者を混乱させるように思いました。あと本づくりに関してですが、厚い紙を使っての無線綴なんで、壊れやすいんじゃないでしょうか。

ダンテス:本の厚さに圧倒されて、結局ぱぱっと読みとばしてしまいました。なんか、お母ちゃんが消えちゃったり、鳥になったり、ついていけない感じでした。一方、手取り足取りはしないけれど、父親から息子へ生きるすべを伝授している話と読めばおもしろいと思いました。

バリケン:なんか、よくわからなかったというご意見を聞いて、正直いってとてもショックでした。子どもが読んだらわからないのでは……とは思いましたが、ストーリーの運びや、場面の描き方に力があるので、わからないままにどんどん読んでいくのでは? 大人になって、ああ、そうだったのかと思ってもいいと思うのね。大人の読者の私としては、「どうしても書かなくては、いま書いておかなくては」という作者の思いがひしひしと伝わってきて、言葉では言い表せないほど感動しました。前作の『ひげのあるおやじたち』では書けなかった、歴史の表面にあらわれてこない人々の豊かな暮らしを書こうとしたのだと思います。『ひげのあるおやじたち』のどこが問題になって絶版になったのかは、実は今ひとつわからないのですが。『ひげのあるおやじたち』も確かにおもしろく巧みに書けていると思いますが、作者の伝えたいという思いは、こっちの作品のほうが格段に強く、深いと思います。大学で教えている人から、部落差別のことを知らない学生がいると聞いて、これもまたショックを受けたのですが(まあ、その学生自身の問題もあると思うんですけどね)、数年前に『被差別の食卓』(上原善広/著 新潮新書)という本を読んで、とても感激したんですね。自分自身が被差別部落に育った作者が、世界中の被差別の人々が食べていた、食べているものをルポしてまわった本なのです。最近では、サルまわしの村崎太郎さんの本(『ボロを着た王子様』『橋はかかる』ポプラ社)もありますよね。いつまでも『夜明け前』(島崎藤村/著)や『橋のない川』(住井すゑ/著)だけでなく、これからだんだん変わっていくと思います。それにしても、今江さんとか上野瞭さんとか、この時代の児童文学作家はすごいなと思いました。上野瞭さんの『ちょんまげ手まり歌』(理論社)などは、今でも手に入るのでしょうか。この間の読書会でも言ったように、身の回り3メートルの作品ではなく、こういう作品を書く人がもっと出てほしいなと思いますね。

アカシア:私はでもね、こういう本は、大人が読んでどうかっていうのと、子どもが読んでどうかっていうのを、両方考えないといけないと思うんですね。子どもが読むと、この書き方ではわからなくて辛いな、って。それに、中上健二が描く人物像はもっと立体的に浮かび上がってくるんですけど、今江さんが書くと、みんなヒーローみたいになってしまう。差別される側や抑圧されている側のことは、当人じゃないと書くのがむずかしい部分もあるんじゃないのかな。

バリケン:『谷間の底から』を書いた柴田道子さんは、狭山事件をはじめとして、被差別の問題をずっと考えてきた児童文学作家なのですが、自分自身がそうではないという立場から書く難しさや辛さが、いつもつきまとっていたのではないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年3月の記録)


エイドリアン フォゲリン『ジェミーと走る夏』

ジェミーと走る夏

ハマグリ:出た時から書評で見て、読みたいと思っていました。大人が持っている偏見を、高いフェンスという目に見える形で描いている。大人は、今まで生きてきた経験から、どうしてもすぐには受け入れられないけれど、子どもはそういうことを抜きにして、自分と気の合う相手を、肌の色とは関係なくすっと見分けて受け入れられる。大人と違う子どもの自由な感性が、この本のテーマだと思います。主人公のキャスが素直な子どもで、ジェミーとすぐに仲良くなるところや、ジェミーが万引きをしたのではないかとつい疑ってしまう正直な気持ちにも、好感がもてますね。同じ1冊の本を二人で読むところは、とてもおもしろかった。それが『ジェーン・エア』という今の子どもには古くさい本なのにもかかわらず、主人公になりきって、喜怒哀楽を表すところがとても興味深いですね。また、二人のおばあさんの存在が印象的でした。ミス・リズは、亡くなっているので実際には顔を出しませんが、キャスの思い出のなかでは、たとえば人形のティーパーティーなど印象的な場面が多く、おもしろい人物でした。ジェミーのおばあさんは、今までに一番人種差別に傷ついてきただろうに、その過去を乗り越えてきた強さを持っています。子どもたちの一番の理解者になってくれて、隣に住むキャスの父や、自分の娘の偏見に満ちたかたくなな心を、うまい具合にときほぐす役割で、とてもいい味を出している。主人公はそんな二人のおばあちゃんがすごく好き。その気持ちがよく伝わってきました。

トントンミー:私、本を手にしたときどこを最初に見るかというと、まず目次なんですよ。目次に並んでいる章タイトルをじーっと見つめて、どんなことが書いてあるのかを、読む前に想像してみる。で、実際に読みすすめて、想像どおりの本なのか、想像を裏切るのか、わかれていくんだけど、想像を裏切ってくれる本がやっぱりおもしろい。目次は、ワクワク感をつのらせる演出だと思うから、書籍には欠かせないと思ってるんです。ああ、それなのに! この本ね、せっかく章タイトルがついているのに、目次のページ、ないんですよ。ちぇっ。けちだなあと思って、第一印象あんまりよくなかったです。そのせいかな。最初にフェンスが出てきて、白人と黒人が登場する、というシーン。あまりにも、あからさまな象徴をつかうので、「差別もの」の教訓の匂いがして、入りにくかった。物語の仕掛けも展開も、フェンス挟んで進むわけねっ、はいはいって感じで、冷めちゃうんです。
ただ、後半の「ジェーン・エア」が登場するあたりから、意外な展開してくんですよね。ふたりの間にあったフェンスが、こんどは1冊の本になる。フェンスじゃなくて、本を介して、ふたりが成長していく。へー、そうくるか、と思いました。
 タイトルに「走る」とあるので、「競技」ランナーの話かと思ったら、そういうわけじゃないんですね。まあ、最後はマラソンのレースの話になりますけど、二人の成長を促すのは、スポーツじゃなくて、文学ですね。全体的に「ジェーン・エア」の描写の方が多い。「走る夏」というより、「駆け抜ける夏」のほうが、ニュアンスが近いかな。
 興味深いのは、物語の背景です。黒人のジェミーが母子家庭、白人のキャスは両親そろっているけど、中流以下の家庭。黒人の母子家庭のほうが、教育も受けていて、やや裕福。キャスの家庭は白人だけど、「貧困」という差別をうけている。二人が、自分たちの不遇な環境について言い合いをするシーンがありますけど、現代のアメリカ社会の、格差の複雑さが透けて見えてくる(p115)。この本は著者のデビュー作ということですが、ちょっと気になったのは、饒舌な文体のわりに、説明不足の箇所が多いということ。主人公が12歳の女の子という設定で、全体が「おしゃべり」っぽく進むのは読みやすいんだけど、場面と場面のつなぎがだらだらしていて、わかりにくい。たまには俯瞰の描写もあると、つなぎがきれいになると思うんだけど、その辺は好みの問題かも。

タンポポ:壁の向こうとこっちで、キャスのお父さんに見つかるんじゃないかと、どきどきしているところ、こっちもどきどきしてしまいました。主人公も脇役もしっかり描かれていますね。出てすぐに私が勤めている学校にも置きました。6年生に、登場人物の中で誰が好きかと聞くと、キャスのお姉さんという声が多かったんです。いろいろ面倒を引き起こしてしまうけれど、最後には自分が悪いことをしたと認めるというところがいいらしんですね。「ジェーン・エア」を読むところも、あまりむずかしいとは感じなかったようです。

メリーさん:タイトルになっている「走る」というところ、キャスとジェミーが最初に会って、お互いの限度を探るように走る場面はとてもいいなと思いました。それが、「ジェーン・エア」の読み合いをするようになって、だんだん文学少女のようになっていく。その変化もおもしろいと思います。中でも、物語の登場人物に自分たちを重ね、本の中の難しい言葉をふたりにしかわからない合言葉のように使うところ。海辺で、ジェーンがもしいっしょに来ていたら、きっとこうするだろう、とキャスが想像するところなど。二人の周辺を見てみると、キャスの父親は、白人で労働者階級。一方、ジェミーの母は、アフリカンアメリカンで、高い教育を受けている。お互いに人種や階級について心の中で偏見があるのですが、その子どもたちはそんなこと関係なしに付き合っています。子どもは相手に対してもとても残酷になると同時に、相手を認めるきっかけさえあれば、互いの違いなんて簡単に乗り越える、その両面をよく描いていると思いました。

バリケン:作者のデビュー作とのことですが、とてもよく書けた本だと思いました。一面的でないキャラクター設定、「ジェーン・エア」とからませて、主人公の少女二人の心情を語っていく手法、二人が走る場面で大団円に持っていく構成……新人の作品とは思えないほどです。個人的には、「ジェーン・エア」は、私が生まれて初めて読んだ文庫本でもあり、懐かしかったけれど、いまの日本の子どもには縁遠い本なのかしら? 「嵐が丘」などは新訳がでているけれど、「ジェーン・エア」は出てないのでしょうか? この本を主人公にくれたおばあさんは亡くなっているので出てこないけれど、こういう本をくれたということ、そのほかいろいろなエピソードで、物語の背景にくっきりと姿が浮かびあがってくる……その辺も、この作品をより奥深いものにしていると思います。大人たちが歩みよろうとしないなか、少女たちが仲良くなっていくわけですが、あらためてそのすんなりとした、やわらかい近づき方がいいなあと思いました。大人になってからこういう作品を読んでも感動するけれど、子ども時代に読んだときの感動とは、まったく違うと思うんですね。ですから、「差別」とか「偏見」とか、自分の身のまわりのことだけでなく社会に目を開かせるような作品をぜひ子ども時代に読ませてあげたいと切に思いました。
 訳もとてもいいと思いましたが、一点だけ、キャスのお父さんが「わたしの目の黒いうちは……」といっているんですが、白人だったら目は黒くないだろ!と思ってしまったんだけど、そう思う私のほうがおかしいのかしら?

くもっち:現代のアメリカの黒人差別についての状況がわからなかったので、いつの時代の話かな?と思いながら読みました。現在でも、隣人が黒人だと知ってフェンスを立てるなんてことをあからさまにやっているんだろうか、と思ったからです。こんなにあからさまな差別があるのかなと。(あるよ〜という声あり)もし、少し前の話なら、それがわかるように書いてくれるといいなと思いました。
挿入されている話としての「ジェーン・エア」は、昔の話なので、読者には場面がわかりづらいだろうなと思いました。ただ、物語中のむずかしい言葉を友だちどうしの符丁にするというのはおもしろいと思うし、とてもいいシーンだと思いました。こういうシーンのおかげで、人種差別がテーマの話でも、それだけに終始するのではない、深みが出るんですよね。名作の借り方がうまいですね。
 今回「部活」というテーマでの選書ですが、「走る」シーンがあまりないということは、読んでいるときは、それほど気にならなかったです。これはそれが中心というわけではないということですね。

ハマグリ:物語の舞台がいつかってことですけど、パソコンを使うところが出てくるので、それほど昔ではないですよね。

くもっち:それでも2000年と2010年ではけっこう差があるでしょう。

ハマグリ:年代を推理する手がかりとしては、「1939年にミス・リズが世界旅行をした〜」とあるけど、はっきり特定はできないですね。

アカシア:この作品に出てくるのは、純粋には部活じゃないんですけど、「チーム」を作って、その中で全然違うタイプの人と出会うという意味でほかの2冊と共通しています。でも、この本の本来のテーマは原題が"Crossing Jordan"とあるように、人種差別をどう乗り超えるかっていうことなので、走るシーンが中心になってないのはしょうがない。
 この作品が著者にとっての最初の作品だそうですが、人種差別を抽象的に述べるのではなく、一人一人の状況がきちんと描写されているので、読者に伝わる力がありますね。偏見に満ちたキャスの父については、寮の管理人の仕事を得ようとしても優遇政策のためか黒人に取られてしまうなど、日常的に黒人を敵視せざるを得ない立場にあることが描かれています。ジェミーの母のレオナも、学校で白人たちにいじめられた体験を持っています。黒人と白人がお互いにわだかまりをもっている背景が、具体的にきちんと書かれているんですね。そしてその一方にいるのが、"Crossing Jordan"をいつも歌っているグレースばあちゃん。この人は、さまざまな差別を体験しながらも、「あたしぐらいの年になったらね、できるのは許すことぐらいなのさ。肌の色が黒い人間も白いのも赤いのも、黄色いのもスカイブルー・ピンクのも、みんな神の子だからね」なんて言って子どもたちの応援をしてるんですね。
 確かに目次がないですね。そういえば、あとがきもない。経費を節約したんでしょうか。読んでいてちょっとわかりにくいな、と思うところがいくつかありました。たとえばp.14 に 「年に何度か、コルテスさんは動物管理局の収容所に犬をとりもどしにいく。とりもどすには大金をはらわなくちゃいけないので、コルテスさんはかんかんにおこるけど、犬たちは車のドアがあくとすぐにまた逃げだしてしまう」とありますけど、「車のドアがあくとすぐに」は、アメリカでは当然車で犬を引き取りに行くってことがわかってないと、とまどいます。それからp19にはフェンスが「ヒョウタンを植えるときの支え」になるってありますけど、だとすれば、つるをからませることができるようなものなんでしょうか? どんなフェンスなのかよくわからない。そこまでは板塀のようなものだと思っていたので。このフェンスは象徴としてとても大事な要素だと思うので、はっきりわかるように伝えてほしいな、と思いました。それからp71ーp72にはハティーという黒い肌の人形が出てくるんですけど、ジェミーが「ハティーはいまでも召使なんだね」というのがなぜなのか、日本の子どもにはわからない。ハティーの衣装が典型的な黒人メイドの衣装だってこと、日本の子どもは知らないものね。それと、全編を通じてシャーロット・ブロンテがシャーロッ「テ」になっているのは、なぜ?

ハマグリ:大人には偏見があるのに子どもはやすやすと乗り越える、というテーマの本、と単純に言ってしまうのではなく、もっと細部のおもしろさや、人間の描き方を味わってほしい作品だと思います。

トントンミー:帯のコピーがねえ、「偏見をのりこえて」ですからね。いかにもねえ、って感じで。

アカシア:最初は黒人に反感を持っていたキャスのお父さんが、やがてそれが偏見だったことを知り隣の家に招かれて行くんですけど、まだ戸惑っていて振る舞いがとてもぎこちないなんていくところ、とてもリアルによく描かれていますよね。

タンポポ:最後はフェンスを取り外すんでしょうか?

複数の人:取り払うことを示唆して、物語が終わっているのでは。

プルメリア:白人社会と黒人社会が別々だというアメリカの現実社会がよくわかりました。黒人の堂々とした生き方が力強く描かれていると思いました。小説「ジェーン・エア」の主人公に二人の少女が感情を寄り添わせながら、和気あいあいと読んでいくところがいいですね。また、本の中から出てきたむずしい言葉を日常生活にいかして使っていくところもいい。走ることに対する楽しさも書かれているし、二人で一緒にゴールしたことを伝える新聞記事はあたたかい。両家の間にあるフェンスは、大人(特にキャスの父)の心の壁を象徴しているのではないかと思いました。

アカシア:ジャクリーン・ウッドソンの『あなたはそっとやってくる』(さくまゆみこ訳 あすなろ書房)も、アフリカ系の少年とユダヤ系の少女が周囲の偏見を乗り越えようとする物語でしたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年2月の記録)


魚住直子『園芸少年』

園芸少年

くもっち:とてもおもしろく読みました。特に秀逸だったのは、ダンボールをかぶった庄司くんが、動揺して去るシーンで、いつもするりと通っていく道で頭をぶつけてダンボールが傾いてしまう。とてもよく書けていて思わず笑ってしまいました。高校一年生なのに女子が出てきても主人公たちとあまりからまないところなど、まったくリアリティがないように思えますが、それがまたとてもおもしろい。「こうあってほしい」的な、高校男子のピュアな感じというのでしょうか。庄司くんから、大和田くん、それからまた主人公と変化が連動していくあたりも、説得力があると思いました。

バリケン:私もとてもおもしろかった。ひきこもりの子どもをそのまま描写すると、話が暗くて、読むのもつらくなりますが、ダンボールをかぶせたことでユーモラスになっていて、楽な気持ちで読み進めます。とてもうまいと思いました。どこかにモデルになった少年でもいるのかしら? それに、いつ、どういうきっかけでダンボールをぬぐかという興味もわいてきます。高校の男子と園芸なんて、いちばんかけ離れている感じのものを結びつけたところが、この物語の成功のカギだと思いました。出てくる大人たちも、付かず離れずの位置にいて、過剰に善人でもなく、かといって少年たちの敵でもない点が、とてもいいと思いました。

メリーさん:冒頭から、いつ庄司がダンボールを取るのかとずっと思いながら読んでいきました。とにかく大和田の気持ちのいい性格にひっぱられて進んでいったという感じです。外見と反して、不良から花を守ろうとするところや、細かいことはあまり気にせずに、率直に相手のことを口にするところなどは、胸がすっとしました。庄司に「お前はのろまだけど、頭がいい」とまじめにいえるのは、やはり大和田ならではで、思わず笑ってしまいました。『武士道シックスティーン』と同様、キャラクターで読ませる小説だなと思いました。ただ後半、文化祭のところ、主人公がけんかする場面などはもっと描きこんでほしいなと思いました。女の子が入部してくるところも、もう少し彼らの生活に変化が出そうな気がします(まあ、こんな男子たちだから変わらないのかもしれませんが)。そして、最後の庄司がダンボールを取るきっかけ。かぶっていたものをはずす理由が、火というのは、もう少し他になかったのかな……と。個人的には大和田たちの言葉の力ではずすのかなと思っていたので。とはいえ、とてもさわやかでおもしろかったです。

タンポポ:読みやすくて、あっという間に読みました。ダンボールをかぶっている子がとても切ないですね。女の子の話が出てきませんが、逆にそれだから小学生にも手渡せます。読んだ6年生の中では、大和田が好きという声が多かったです。読み終わったあと、もう少しストーリーがあってもいいかなと思いました。同じ作者の「Two Trains とぅーとれいんず」(学習研究社)はとても心に残っています。

プルメリア:魚住さんの作品は好きで、読むといつも何か残るのですが、これはさらっと読めて、こういう作品もあるのだなと思いました。花の名前が出くくる場面では花を想像して読みました。バスケをやっていた主人公の篠崎君、不良っぽい大和田君、ダンボール箱をかぶった庄司君、性格が違う3人の関わり方がおもしろかったです。ダンボール箱をかぶることで登校できるなら幸せかも、と思いました。小学校には、相談室通いの子どもたちがたくさんいます。こだわりがあってマスクを二重にかけている子どももいます。マスクを二重にすることによって、他の人と違うキャラクターになって落ち着き、ほっとするようです。庄司君も、ダンボールをかぶることで自分にとって落ち着く世界をつくっているんでしょうね。大和田君は外見に似合わずやさしい子どもなんですね。2週間休んで、退学するのかなとひやひやしましたが、眉を太くして登校して来る。魚住さんは書き方が上手だなと思いました。

トントンミー:この本は、手にとった感じが好きです。薄さといい、こじんまりした感じといい、装丁からして「園芸少年」っぽい。本は内容だけじゃないです。見た目も大事。魚住さんの本を読んだのは初めてです。読者が頭の中で映像化しやすいように書いてくれていますね。必要なシーンに、必要なだけの会話。無駄がないんですけど、セリフとセリフの行間が豊かで、たまんないですね。キャラクターの書き分けがしっかりしていて、うまい。主役ではない庄司くんが、ちょっと目立ちすぎですけどね。
大人たちが脇にひかえているのがいいですね。それぞれの家庭事情が全面に出てこないところも。最近の小説って、問題が家庭環境にあるっていう展開、多すぎるから。主人公は父子家庭で育っただけあって、処世術にたけていて、面倒なことに巻き込まれないようにいつも立ち回って、空気読んでる少年なんです。自分の感情は隠す。それが、植物という、しち面倒くさいものを相手しているうちに、だんだん変わっていく。最後、感情を爆発させて、植物を守ろうとする場面では思わず泣いてしまいました。大和田くんの行動もわかるな。進学校に受かって、昔つきあっていた不良たちとは縁が切れたように見えたけど、気持ちが弱くて優しくて、ふんぎりがつかない。自分がもといた場所から、つぎの場所へ向かうとき、ジャンプするのって大変なんですよ。ちょっと助走がいるっていうか、構えが必要っていうか。人間の弱さ、微妙さ、危うさ。思春期の三大特徴が凝縮されていて、ぐっときました。
 女の子の存在がないことは、そんなに不自然には感じなかったですね。何かに熱中するとき、異性のことを放っておいて打ち込むことはありえるから。ペチュニアに水をやるところ(p.132)はメッセージ性がありました。時期がくれば自然に花は咲く。大人が手を貸さず、その時期がくれば子どもも自然に草のように育っていく。いい作品だと思いました。

ハマグリ:私はまず『園芸少年』という題にとてもひかれました。高1の男の子とは最も遠いところにあるような園芸を題名で結びつけているから。最初に植物に興味をもつきっかけが、何気なくコップの水を鉢に捨てたら次の日に葉っぱが上を向いている、そのわかりやすさに感動してしまう、というのがおもしろいなと思いました。出てくるのは3人3様の個性がある少年たちですけど、その関係がまたおもしろくて、ふふっと笑えるところがたくさんありました。いちばんおかしかったのは、最後のほうで園芸しりとりをするところ。はじめはバラとチューリップぐらいしか知らなかったくせに、「おれたちは園芸しりとりをすることにした」ってあたりまえのように言うところが何ともおかしかった。それから、最初はこの主人公が今どきの冷めてる男の子なのかなと思ったら、意外と素直に友だちのいいところを見つけていくので、それも気持ちがよかった。欲をいえば、それぞれもうちょっと掘り下げてくれたらというところがあって、大和田がどうして中学の友だちと離れようとしたのか、庄司がどうして箱を脱げないのかなとかね。でも、そういったさらっとしたところがむしろこの本の持ち味なのかなとも思います。深くしていくと、重苦しくなるのかも。さらっとした感じなのは、女性が書いた男の子だからかな、とも思いました。

メリーさん:そうですね。すごく上手だと思います。幼いけれどもピュアな部分っていうのを もうちょっとドロドロした部分ってあるけど、男のいい部分をすくいあげているのか。男だとここまでコミカルにならないんですよね。

ハマグリ:誤植が2つありました。 p116 メコノシプス→メコノプシス、p142 すごくてショック→すごくショック。

レン:これくらいの子どもがまわりにたくさんいるので、重ね合わせながら読みました。主人公の男の子は今風ですね。表立って自分を出さずに、波風を立てずにまわりと合わせていくタイプ。草食系男子って感じです。でも、個性の強い大和田や、わけありげな庄司とつきあううちに、あっさりとすませられなくなるんですね。女子からすると、「男子ってバカだよね」という部分が出ていて、おもしろく読めました。庄司ダンボールをとるところは、ちょっとあっさりしすぎているかなと感じましたが。あと、登場人物の語りの書き分けがうまいですね。

アカシア:みなさんが全部言ってくださったので、それ以上あまり言うことがありません。文章はすごくうまいなと思いました。翻訳もこんなふうにできるといいんですけど。22pのバスケ部の子の台詞だけ気になったんですけど。「どこに一年がいるんだよ。今年はサッカーとテニスが体験入部帰還の前から動いて、運動部に入ってもいいという貴重な男子を全員とっていったんだ。どこを探しても、もういないよ」。ここだけ説明調なんですよね。それから、私は庄司くんがあっさり段ボールをぬいだとは思いませんでした。もうやめちまえって言われて、相談室に戻って考えるところが伏線としてあるんだろうし、だんだん脱ごうかと思いだしているうちに、ここできっかけをつかんだんだなと思いました。段ボールだったら逆にとても目立つので、実際にこんなことする子はいるのかと疑問だったんですけど、そんなことは気にならないくらいお話の中のリアリティがしっかりあって、ユーモアもあちこちにちりばめられていて、しっかり入り込めました。
 あと、主人公の達也は、すごい調子いい子だったんですけど、変わっていきますよね。それを象徴的にあらわすのに、最初のほうには達也が倒した自転車を大和田が手伝って起こすシーン、最後のほうには達也のせいでかつてはいじめられていたツンパカが倒した自転車を達也が手伝って起こし「そんなキャラだったっけ」と言われるシーンを置いています。同じ場所の同じようなシーンを、立場を逆転させて使うところなんかも、うまいなって思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年2月の記録)


誉田哲也『武士道シックスティーン』

武士道シックスティーン

メリーさん:すごく好きなシリーズで、シックスティーンからエイティーンまで全部読んでます。とにかくキャラクターが魅力的。1回目に読んだときは、西荻のあのちょっとふわふわしているけれど芯が強いところにひかれたけれど、2回目に読んで、やっぱり磯山の不器用だけれど健気なところがいいなあと思ってしまいました。とにかく勝つことにこだわる磯山。お昼を食べるときには片手には五輪の書、もう片方には鉄アレイ……。一方の西荻は「お気楽不動心」の持ち主で、まったく無防備。そして自分のことが大好きな人間……。この鮮やかな対比が笑いを誘うし、感情移入をしやすくしている理由だと思います。皆どこかにそんな一部分を持っていると思うので。ただ、そんなふたりも、実は西荻が父との関係から勝ち負けにこだわるのを嫌だと思っていたのだとか、磯山も、剣道をする理由を見つけられずにもがいたりする。そういう描写が物語を深くしているなと思いました。著者の警察小説も好きですが、「疾風ガール」の系譜に連なる青春小説がこれからも楽しみです。

プルメリア:剣道の技や用具、衣装が詳しく書かれているのでよくわかり、剣道の試合では、糸を張ったようなすきのない緊張感を感じながら読みました。電車の中でこの作品を読んでいた時、磯山の行動や考え方がとてもおかしくて声を出して笑ってしまいました。男の子っぽいんだけど複雑な磯山、女の子の微妙に動く心情がわかりやすく伝わります。磯山と西荻、二人の少女が交互に登場しますが、よく考えないとどっちがどっちかわからないところがあって、読むのがむずかしかったです。最後に名前が変わった早苗に試合であう場面、とってもおもしろかったです。是非続きを読んでみたいです。

トントンミー:これもね、やっぱり装丁がいい。赤ですからね、本屋に並んだら目立ちます。イラストもかわいいです。いかにも手書きっぽいテイストで、防具とか竹刀の説明をはさんであります。目次もね、凝ってくださって、いやあ、つかみはOKですね。奇数は磯山。偶数は西荻。章タイトルの文体も書体もちゃんと書き分けてあって、二人の個性をすでに示唆してあるでしょ? ワクワクして、一気に読んじゃいました。二人の人物が同じ出来事を二つの視点で交互に語るっていう手法。川島誠さんの『800』(角川文庫)を思い出しました。最初から映像化を意識してるんだなって思うほど、キャラクターの個性が成立してましたね。西荻のお姉さんが、『ジェミーと走る夏』の主人公のお姉さんに似てました。世俗的なことを引き受ける役割ですね。あまりにもありえないキャラクターたちが主役ですから、読者との間をつなぐ役割が必要なんですよね。続編を読みたいという気持ちになりました。主役の二人がどう変化していくのか、気になります。

アカシア:エンターテイメントだと思うけれど、文章のテンポがよくて、中高生が考えるきっかけも含んでいます。おもしろかった。章タイトルが、太字で書いてあるのと、細字で書いてあるのと、交互に出てきますけど、細字で書いてあるのは語り手が西荻で、太い字の章は香織。最初は気付かなかったのですが、読んでるうちに「ああ」と気づきました。しおりが赤と白の2本ついているのも、剣道の試合のたすきを象徴してるんですね。いろいろ工夫された本づくり。「好きなことなら続ければいい。何か好きだと思えるモノを持っていることは、幸せなこと」というメッセージはあたりまえだけど、ほんとに読ませる力がある。だから、長くても飽きないで読めるんですね。

くもっち:とっても大好きな本の1冊で、このシリーズは『武士道エイティーン』まで全部読みました。この極端さがいいですね。磯山の。磯山香織ちゃんは、すごく強いし迷いが全然ないのだけれど、ある試合で負けてしまう。その相手が、日舞出身という設定。なんか、剣道やったことのない私のようなヒトでも、「あ〜、あるかもね〜」と思ってしまうなぜだかの説得力がおもしろいですね。自分にないものを相手が持っていることに気づき、盗もうとする。でも、そういうもんじゃない、ということも含めて、だんだんにお互いがわかってくる。香織ちゃんのゆるぎない精神がぐらぐらしちゃって、何のために剣道をやってるのか、ってとこまできちゃう。この流れがとてもおもしろく描かれていると思いました。実は、私は保土ヶ谷に住んでいるんですが、この作家がその辺にいるんじゃないかと、最近きょろきょろしてしまいます。(笑)

バリケン:私も、ときどき飛ばしながらでしたけど、おもしろく読みました。最初は、まったくこの作品のことを知らないで読んだので、二人が交互に話しているというのに気がつかず、とちゅうで「あれっ!」と思って、また最初から読みなおしました。キャラクターはみんなデフォルメされていてマンガ的だし、なかでも西荻のお姉さんと巧がリアリティに欠けていて物足りないと思ったのですが、続編で活躍するということをいま聞いて、それならこれでいいのかな……と。

レン:読み始めたら、どんどん読まずにいられない力がありますね。語り手が交互になるところは、私は読んでいるうちに、「ああ、そういうことか」と気づいて、そんなにひっかかりませんでした。そういう仕掛けの本なんだろうなと思って。これって、磯山だけじゃなくて、西荻のほうもありえないキャラクターなんですよね。今の中高校生は、みんなもっとまわりを気にかけながら暮らしていると思うんです。ところが西荻は、天然ボケというのか、そういうところがなく自分のことに集中しています。それに、高校生の女子がこれだけ集まったら、実際は人間関係で毎日いろいろありそうだけれど、そういうドロドロしたところには触れていない。フィクションというのか、現代のおとぎ話として楽しむ作品だと思いました。

アカシア:香織と早苗のキャラや家庭環境は、ある程度戯画化されてるし、だれもが持っている気持ちを肥大化させてキャラクターをつくっていますよね。

トントンミー:だから、磯山は登場からしてもう、異様なんですよね。言葉づかいも「戯れ言を」なんて。そんな高校生いないですよ。

くもっち:最近こういうデフォルメしたようなの、多いかもしれないですね。

アカシア:わかりやすすぎるとも言えるのかも。生身の人間ってわかりにくいじゃない? もう少し生身の人間を描いて、これくらいおもしろいのがあるといいんだけどな。

バリケン:そういうものをこういう作品に求めるのは、ないものねだりなのかもね。自分の半径何メートルのことを丁寧に、感受性豊かに書くだけじゃなくて、「ジェミー……」みたいに、社会とか世界につながるなにかを書いてもらいたいって気がするけど……。

アカシア:そういうの、日本の作家は弱いところかもしれないな。

バリケン:何十年も前には、もっぱら天下国家を論じるような作品がけっこう書かれたことがあったけれど、そういうものへの反発が強いのかな?

アカシア:そういう大上段にかまえた作品がつまんなかったから、逆におもしろさだけを追求する作品が多くなったのかな?

バリケン:日本の児童文学作家で、社会的なことをおもしろく書ける人ってだれかな?

一同:沈黙

(「子どもの本で言いたい放題」2010年2月の記録)


カレン・クシュマン『ロジーナのあした:孤児列車に乗って』

ロジーナのあした〜孤児列車に乗って

バリケン:おもしろい物語でした。孤児列車という存在そのものも知らなかったし、孤児を養子にしたいという人々のなかに、単に重労働をさせる働き手がほしいとか、重体の奥さんに代わる、次の女性を求めているとかいう人々もいて(もちろん、子どもとして、かわいがって育てたいという人たちもいるのですが)、当時のアメリカの様子が垣間見えるような気がしました。特に、物語のなかで汽車が通った地図も出ているので、アメリカの子どもは、ここでこんなことがあったのかと、より深く読めるでしょうね。訳はとてもていねいで、訳注がこれでもか、これでもかとばかり出ていて……これくらい訳注を載せるべきなのかと、ちょっと反省しました。
 ただ、主人公が職業訓練学校に行くのがどうしてもいやで、ドクターキャットといっしょに住むことにするという結末、職業訓練学校に行って、技術を身につけて独り立ちしたほうがいいのではないかと思ったのですが、どうなんでしょう? 家族を無くしてしまった子が、人との触れあいのぬくもりを求めて……という気持ちは分かるのですが、ひとりの人間の生き方として、誰かによりかかって暮らすよりいいのでは、とも思うんだけど。

アカシア:職業訓練校っていっても、私たちが持つイメージとは違って、孤児が行く場所だって書いてありましたよね? 孤児列車ではみんな新しい家庭に引き取られていったのに、自分だけだれからもほしがられなかったのは辛いと思うな。この子はまだ12歳だから、自分を愛して世話をしてくれる人が必要なんじゃないかしら? それに、女性が職業をもつことについては、女先生を通して著者は励ましのメッセージを送っていますよ。

メリーさん:とてもおもしろく読みました。こういう列車があることはまったく知らなかったです。孤児というので『あしながおじさん』のようなストーリーを想像しながら読みはじめたのですが、列車で旅する、ロードムービーのような物語でした。みんなより少し年が上で、お話をつくるのが上手な主人公、かわいいけれどちょっと間がぬけている女の子、さわがしい男の子など……列車の中が、一種の疑似家族で、旅が進むにつれて、お互いのきずなが深まっていくのがとてもいいなと思いました。自分が誰からもほしがられていないという現実は、主人公を深く傷つけます。そういう意味で、丘をくりぬいて家にしている家族との出会いは印象的でした。あの家の母親が、父親をいさめたとき、ロジーナは母の力強さとともに、自分を大切にするということを感じたのではないかと思いました。

プルメリア:私もおもしろく読みました。1880年代のことが、この作品からよくわかりました。新しい家族との出会いでは、期待より不安のほうが伝わってきます。少女ロジーナの家族構成が少しずつ明らかになっていく中で、いろいろな場面に出てくるお父さんの言葉が作品全体を明るくしているような気がしました。孤児たちは一人一人個性があって、性格がよくわかりました。大草原の穴倉で暮らす貧しい子だくさんの家族は、住まいも生活も大変なんでしょうが、実の母親に対する子どもたちの対応が希薄すぎ悲しく思いました。作品を読んでアメリカの土地感、気候、温度の違いがよくわかり、この物語といっしょに旅をし、いろいろな人に出会う体験をしました。

アカシア:私もとてもおもしろく読みました。普通この時代だったら、子どもがいろんな暮らし方の人に出会うことはあまりないでしょうけど、列車に乗っていろいろな場所に立ち寄っていくので、様々な暮らしぶりを垣間見ることができる。まず、その設定がおもしろいなと思いました。『のっぽのサラ』(パトリシア・マクラクラン著 金原瑞人訳 徳間書店)に出てくるような花嫁募集の広告が張り出してあるなど、その頃の情景も描かれているし。それから、どの子もとても子どもらしく描かれていますね。大人については、ロジーナを妻がわりにしようとする男や、孤児列車に自分の子を乗せておいてやっぱりやめようと思う親など、ずいぶんと身勝手な大人も出てくるけど、孤児に付き添うシュプロットさんとか女先生は、多面的・立体的に造型してあります。シュプロットさんが、子どもを奴隷代わりにしようとする男を殴るところがあったり、女先生も最初はむっつりして子ども嫌いに思えるけど、実際はやさしい心も持っている。そういうところが、物語に陰影をつけています。この時代の女性については、いろいろなタイプを出してきてますね。医者の資格を取ったけど仕事にあぶれる女先生、結婚して夢を失った穴倉暮らしの奥さん、花嫁募集広告に応じて見知らぬ土地へ向かうマーリーンさんなど、人生観もそれぞれ違う。最初はとっても嫌な子に思えるロジーナが、だんだん変っていく姿もきちんと描かれていて、ほんとにおもしろい作品だなと思いました。

セシ:うまい作家だなと思いました。『アリスの見習い物語』(あすなろ書房)など、前の作品もひきこまれましたがこれもぐいぐい。ロジーナは本能的に、自分自身の人権を守る方向に動いていくんですね。子どもたちがいっぱい出てきて、ときどきどの子がどの子かわからなくなってしまうんですけど、子どもらしさがあってよかったです。翻訳はとってもていねいな感じですが、ときどきひっかかりました。たとえば冒頭の11ページの5行目。「なぜ知ってるかというと…」というところは、目的語が何か、とっさにわからず読み返しました。

バリケン:穴ぐらの家の「ダグアウト」は、ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」シリーズにも出てくるし、花嫁募集の広告は『のっぽのサラ』にも出てきますね。でも、「大草原」のダグアウトは、なんだかとっても楽しそうだったし、のっぽのサラも、幸せな結婚をした。けれども、この本のダグアウトは悲惨だし、花嫁募集の広告で知らない土地におりたった女の人も、これからどうなるかと不安な感じがしますよね。いままで他の本で知っていたつもりのそういう事柄が、新しい側面でとらえられていて、おもしろかった。

アカシア:ダグアウトって、大草原シリーズのを復元したところに実際に見に行ってみると、すごくじめじめして暗い所なんですって。ローラ・インガルス・ワイルダーは、60歳過ぎて何の心配もなくなってから書いてるわけですから、すべてが楽しい思い出になっているんじゃないかな?

ダンテス:地図が載っているので、新しい土地名が出てくるとこの辺かなと確かめて楽しみながら読みました。時代のこともよく調べて書いていると思います。先住民が列車の連結部に乗らされて車両に入れないことなんかも、知りませんでした。アメリカの子どもたちはきっと喜んで読むかなと思います。作者の意図はどこにあったのかと気になりました。きっと孤児列車というものがあったことを伝えたかったんだろうな。そでに「感動の物語」と書いてあるので、最後はどうなるのかなと思いながら読みました。結局女先生と一対一になって、結末の予想がついてしまいました。ただ意外だったのは、少女の方から先生に言い出したことです。逆だろうと予想していましたから。「感動の物語」なんて書かない方がよかったのかなと思いますが、本を出す方はつい書きたくなるんでしょうね。行方不明になってしまって、牛のあいだで見つかったレイシーとか、もらわれてもすぐ出てきてしまう男の子とか、一人一人の書き分けも出来ていると思いました。

げた:この本は、12歳の少女ロジーナの目線、ロジーナの言葉で語っている本なんですよね。ロジーナの女先生への見方が、旅を続けるうちに変わっていくのがおもしろかったですね。最初は、ドクターが冷たくって自分たちのことはほうりだして自分の考え事ばかりしてるって思ってたんですよね。むずかる小さな子をどこかにほうりだしたんだとロジーナは思ってたんだけど、実はちゃんと病院に連れていっていたということを後で知って、女先生の見方も変わっていくんですね。ひどい大人ばかりじゃなくて、ちゃんと子どものことを守ってくれる大人もいるんだということがわかってよかったなと思いました。東から西にずっと鉄道の旅をしていくんだけど、本を読みながら読者も景色が変わっていくのを楽しめると思います。19世紀末のアメリカの歴史や事情にふれることができるのもいいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年1月の記録)


ヨハンナ・ティデル『天井に星の輝く』

天井に星の輝く

アカシア:いいなと思ったのはスウェーデンの若い人たちの気持ちがとてもリアルに書かれているところですね。主人公のイェンナは中学1年生なんですけど、思春期特有の偏狭な気持ちが片一方にありながら、殻を破って行きたいというのがもう片一方にあるっていうところが、うまく伝わってくる。ただ最初の方では、主人公のイェンナがウッリスのことをねたんで悪くばかり言うし、理由もなく乗馬スクールを辞めちゃうし、親友と言いながらスサンナのことはあまり考えていないみたいだしで、嫌な人物に思えてしまったんですね。まあ思春期のことなんかあんまり思い出したくないので、自分も持っていた嫌な面をつきつけられたような気がしたのかもしれませんけど。それから母親の癌をイェンナは隠すんですけど、母親は松葉杖をついて買い物に行ったりしてるわけだから、隠したってしょうがないのになんて思って、ちょっと物語の中のリアリティに入っていけない箇所がありました。冒頭で、イェンナは「母親が死んだら自分も命を絶つ」という内容の詩を天井の星の裏に隠し、最後はその詩を「母さんが死んでも あたしは生きていくよ。母さんのために」と書き換えて、また同じように星の裏に隠すんですね。その二つの詩の間でイェンナが成長したことをちゃんと書いている。そこはいいですね。あと、この本はきれいだな、と思いました。黄色と青と、この星が。

プルメリア:母が乳癌で死ぬという重い作品だったので、読むのが苦しかったです。なにかと控えめなスサンナと、とても自信満々のウッリスが関わり合う場面からストーリーの流れが自然とおもしろくなってきました。異性に対する思春期の揺れ動く少女の心情が伝わりました。ウッリスの行動も、スサンナやあこがれの男の子との関係も、リアルによく書けているなと思いました。13歳なのに、ワインを飲んだりタバコを吸ったり……国が違うとずいぶん子どもたちの生活や遊びも違うんですね。ガンと戦っている娘や母親をなくし一人になる孫娘を心配する祖父母の心情もよくわかり、母親の死をのりこえる子どもの心情が痛々しかったです。泣きながら読みました。

メリーさん:この物語は登場人物の心情や、シチュエーションがとてもリアルでおもしろかったです。ストーリーそのものには目新しさはないのですが、とにかく描写がすごいと感じました。特に、悲しみの表現といたたまれない気持ちの部分。母親とふたりの生活に、祖父母がずかずか入ってきてしまうことに主人公がいらだつセリフ「栓抜きは四番目の引き出しに入れることになっているんだけど!」。電話越しに母親と笑いながら話すのだけれど、それがかえってふたりの距離を遠くしている感じなどは主人公の悲しみをとてもよく描いていると思いました。また、祖父母が母親の使う歩行器をあからさまにほめるところや、お見舞いにいきたくない主人公の気持ちをわからないまま、冗談をいってはげますところなどは、気まずい雰囲気が細かく描写されていて、こちらがいたたまれない気分になりました。

バリケン:ウッリスがイェンナのお母さんを助けたところは、その場面でははっきり書いてないけれど、お母さんが亡くなったあとで、実はお母さんもそのときにウッリスにとてもいいアドバイスをしてあげていたということを、主人公が知るわけですよね。それで、主人公も悲しみにくれるだけではなくて、一歩踏みだしてみようという気持ちになる。生きていこうと思う。亡くなったお母さんが、ここのところで娘の背中を押してあげているわけで、とってもうまい書き方だと思って感動しました。
ストーリーはとても単純なんだけど、細かいところが実によく書けている。特に余命あとわずかの母を持つ娘の怒りやいらだち。実際に家族が癌になったりすると、まず最初にぶつけどころのない怒りを感じると思うのね。主人公も、自分の怒りやいらだちをウッリスに向けたり、おばあちゃんに向けたりしている。それから、スウェーデンの十代の子の暮らしの様子……男の子との交際や、お酒やタバコのことなどが分かって、おもしろく読みました。周囲の大人たちも、日本と同じように、そういうことに対して眉をひそめるけれど、だからといって教師がすぐに停学だの退学だのとは言い出さないのよね。主人公の友だちの、奔放なウッリスと、優等生のスサンナも、うまく書きわけられていて、おもしろかった。

セシ:言いたいことはもうほとんど出尽くした感じですが。「天井に星の輝く」というタイトル、最初は意味がわからなかったのですが、天井にはった星が出てきたところできれいなイメージだなと思いました。物語が進むにつれて、ウッリスへの見方、関係がどんどん変わっていくところがよかったです。ただ、ここに出てくる中学生の行動や言葉づかいは、私の周囲にいる日本の中学生のそれとはかけはなれていて、日本の読者がすんなりと物語に入っていけるのかなと思いました。スウェーデンだからこんなふうだと、すぐに頭を切りかえて、違いをおもしろがって読めるんでしょうか。

げた:確かに表現的には13歳にしてはちょっとというところもありますもんね。訳者あとがきにも日本の読者の目には少し早熟に映るかもしれないとあったけれど、日常生活は日本の子どもたちに比べると随分早熟に見えますね。でも、体と心のバランスがとれていないところがあって、中身そのものは中学生かなって思いました。天井にはった星の下に隠している国語の時間に書いた詩が、「命をたつよ」から「母さんが死んでもあたしは生きていく」って成長していくところって、そんなに日本の中学生と変わらないなと。行動自体は、お酒やたばこが頻繁に出てきたりして、かなり過激だけど、友だちとの関係は日本の子どもたちとそんなに変わらないかなと思います。私は祖父母との関係が気になったんです。祖父母は一生懸命孫になんとかしようとしているのに、イェンナは受け入れられないんですね。匂いがいやだとか何とか言って。マリッサっておばさんには、違和感なくなじんでいるんだけど、彼女には母を感じられるからかな。文章は、全体的にちょっと読みにくい感じはありました。

こだま:聞き慣れない名前がいろいろ出てくるんで、男か女かわかんなくなっちゃうんですね。

ダンテス:おばあちゃんと孫の間の人間関係が、うまくいっていない。両者とも娘・母親のことが心配なのに、気持ちがつながらなくてすれ違っていることが、この作品のベースにありますね。この作品の中では、おばあちゃんとの関係がうまくいかないことからも、母親が死んだら自分も死ぬという思いを強くしていたのかも。ウッリスがおかあさんにカードを贈っていた、というのは、ウッリスと主人公の関係性の改善につながるよくできた伏線だと思いました。スウェーデンのカルチャーや、若者の現実をそのままうつした作品なんんでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年1月の記録)


柳広司『虎と月』

虎と月

セシ:おもしろいと思ったのは、作者自身が長年愛読してきた好きな作品を、こんなふうに翻案して今の読者に近づけたこと。それから、このちょっととぼけた軽妙な語り口。中島敦の『山月記』と比べてみてはいないのですが、お父さんさがしというストーリーで、冒険小説のように読めました。

バリケン:この本も、とてもおもしろくて、最後まで一気に読んでしまいました。若い人たちは、みんな『山月記』を教科書で読んでるんですってね。私も昔読んだっきりで忘れていたので、筑摩書房の「現代日本文学大系」をひっぱりだして、読みなおしました。『山月記』は変身物語だけれど、『虎と月』は最後は本当に虎になったわけじゃないんですよね?

アカシア:なったかもしれないし、ならなかったのかもしれないという、オープンエンティングなんじゃない?

バリケン:『山月記』を下敷きにして、まったく違うストーリーにしているところがおもしろいですね。ミステリー仕立てで、読者をぐいぐいひっぱっていくし、語り口も軽妙で、とてもうまいなあと思いました。漢詩で謎解きをしているわけですが、私はまったく詳しくないので、感心するばかりでした。中島敦は代々儒者の家柄で、伯父さんたちも漢学者だったということですが、この作者もたいしたものだと思いました。柳広司さんの作品は、十代の子どもたちによく読まれているようですね。すらすらと読めるし、子どもたちにぜひ薦めたい一冊だと思います。

メリーさん:『山月記』は教科書に載っていました。その時の中島敦の説明もとてもよく覚えています。それから、名作の続きを自分で創作する、という国語の授業も思い出しました。漢詩の素養はまったくないのですが、一文字変わると、詩全体の意味がこれほどまでに変わるのか!と驚きました。今の高校生は『山月記』をよく知っているので、この本をおもしろく読むのではないかと思いました。一つだけ、本文の書体がゴシックなのには、ちょっと目が疲れました。

プルメリア:表紙を見て現代の話かと思って読み出したら、昔の話でした。個性豊かな人物が登場し、キャラクターがおもしろかったです。漢詩の文字のトリックは、さすがでした。お父さんはどうなっちゃたのかな? 父親の存在がはっきりしないとことがかえっておもしろいのでしょうか。文章が、まとまって書かれているところと、一行ずつの文体になってわけて書かれているところが気になりました。

アカシア:私も『山月記』をひっぱりだしてもう一度読んでみたら、あっちは結構難しい話なんですね。詩で認められたいと思う男が、「尊大な羞恥心」(自意識ってことかな)のせいで果たせず、その思いが肥大化して虎になってしまう。中学生くらいで、そんなことわかるのかな? それと比べて、こっちは子どもにもわかるおもしろい話になっている。最後の2行は、『山月記』とまったく同じ。うまくおさめていますよね。虎になるというのも重層的なイメージで描かれていて、怒りが爆発して暴れるのも虎、瘧にかかるのも虎、義賊も虎、そして本物の虎も登場するんですね。お父さんはどうなったんだろうという興味で読んでいくと、いろいろな「虎」が出てきて、次々に謎がふくらむ。ちょっと気になったのは、14pでお母さんが袁參をめかしこんで訪ねていき、帰ってから「少しも気のきかない男だ」となじる場面があるんですけど、妾にでもしてもらおうと思ってたんですかね? こんなに軽い女に書かなくたっていいじゃないかと私は思ったんですけど。でも、お父さんが家族のもとへ帰らなかったことの伏線なのかな? お父さんが義賊になっただけなら、この子が訪ねていったときに、村人たちはもっとストレートな反応をするんじゃないかと思うので、やっぱり本当の虎になったという可能性を残しているんでしょうね。

げた:この本の元は中島敦の『山月記』なんですけど、『山月記』も中国の「人虎伝」を種本に書かれたものなんですね。戦前「人虎伝」ブームというようなものがあって、佐藤春夫や今東光が翻訳したりしているようですよ。このことについては中島敦生誕100年っていうのでいろいろ本が出ています。才能はあるのに、認められず不遇であった李徴が、同僚官僚であったところの袁參に妻子の援助を頼むという話なんだけど、『山月記』が国語の教科書に載っているのは、李徴イコール中島敦を哀れんだ、袁參イコール文部官僚氏によるものらしいですよ。私は『山月記』よりも、この本のほうが、今の中高生にとってはずっとおもしろく、楽しめるんじゃないかと思いました。

ダンテス:作者のこと、詳しいことは書かれていませんが、高校の国語の先生でもやっていた方かなと推測しました。私もおもしろく読ませてもらいました。軽いのりの文章ですが、中身は教養が溢れていておもしろいなと思います。不思議な老人は李白のイメージ、伏線もよく計算されています。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年1月の記録)


篠原勝之『走れUMI』

走れ UMI

プルメリア:子どもが持ちやすい、手に取りやすいサイズの本。マウンテンバイクが大好きな少年が、離婚したお母さんの実家に行き、夏休みに自転車屋を営んでいるお父さんの家に戻ってくる。少年の葛藤が描かれている成長物語かなと思いました。お父さんと少年が、足の悪い犬を船に乗せて海にタイをとりにいく場面は大変ていねいにかかれていると思いました。両親が離婚をした家庭に育った子どもには、少年の生き方に共感する部分があるのではないのかな。お父さんのもとに戻ってきた少年に接する大人たちに、あたたかさを感じました。

カワセミ:決して悪い感じではないんですが、全体にいじましい感じがして、読んでいてあまり楽しくなかったですね。主人公も出てくる大人たちも、みなそれぞれの境遇で一生懸命に生きている姿がよく描かれているけれど、現状維持に精一杯で、正直に生きていてもなかなか殻をやぶれない、先へ進まないもどかしさがありました。「旅をする少年少女」というのが今回のテーマだったけれど、元の家に戻るだけだし、主人公があんまりジャンプしないし、お話も同じところにとどまっているので、物足りなかった。せっかく自転車なのだから、もっと爽快でも良かったと思います。

ぷう:すごくいやな感じがするわけではなく、わりと感じよく読めたのは事実です。ただ、ゲージツカのクマさんの作品だというのがまず頭にあったので、その印象が強くて。アングラの小劇場系の男性で、幼少期には、昔街角にあった黒い木製のゴミ箱にひとりで入って、板の隙間から見える外の世界を飽かず眺めていた、というようなエピソードがこちらの知識としてあるものだから、どうしてもそういう人が作った作品という感じで読んでしまいました。一言で言えば、一昔前の不器用な男の子のひと夏の物語で、そういうものとしては、なるほどなあ、と思って読めました。いいなあと思ったのは、大人が少年を主人公に書いたものにありがちなノスタルジーになっていないところ。子どもの成長が著者にとっての現在形として書かれているところかな。嘘がないなあと思った。それと、作者がかなりの釣り好きなので、海の怖さや獲物を釣り上げる快感といったものがよく書かれていると思いました。とにかく、男の世界、という感じで、正直だし嫌だとは思わなかったけれど、全体に世界としては古い。今の子にどう受け取られるのかなあ、というのは疑問として残りました。

セシ:私はおもしろく読みました。閉塞感のある田舎町で、出ていくわけにいかずに、淡々と生きていく父親、祖父というのがよく書けていると思いました。もう少し年長の子が主人公になった日本の作品は、大人の影がとても薄いけれど、これはまだ主人公が6年生で、大人のもとにいるしかない年齢だからか、大人の存在感がありました。意味のよくわからない、なぞなぞのような話をするジイチャンというのもいいですね。自転車修理や、タイを釣りにいったときにウロコがはりつくところとか、細部がきちんと書かれているので信頼できる感じがしました。ただ、タコヤキ屋のミサキちゃんのお父さんがコロをはねたと謝りにくるというのは、作り話っぽくなるので、なくてもよかったのではないかな。

バリケン:私も、気流しで坊主頭のあの人が、こういうものを書くんだなあと、まず、その点がおもしろかったです。文章も達者で、するすると違和感なく読めました。ただ、男の人は念入りに生き生きと書けていると思いますが、お母さんとか、みさきちゃんといった女の人の書き方が、イージー。みさきちゃんが登場する場面も、どっかで前に何度も読んだような……。作者は北海道出身ということなので、子ども時代の思い出をそのまま書いたわけではないと思いますが、思い出がベースにはなっているんでしょうね。時代背景のようなものがどこにも出てこないけれど、その時代につながるなにかがあれば、もっと奥深い作品になったのではと思いました。釣りの場面など、知らないことが出てくるのでおもしろかったけど。

ハリネズミ:これは、朽木祥さんの『風の靴』と争って、小学館児童出版文化賞を取った作品なんですね。よかったのは、細部の描写。たとえば、P63「茶の間の黒光りした太い柱。大きな古時計が、偉そうに一秒一秒、大げさな音を響かせている。時報を打つ前のわずかな時間、グズッとジイチャンが洟をかんでる音に聞こえた。ゼンマイがほどける音らしい」とか、釣りの場面など、観察が行き届いていて臨場感が出ています。洋が自転車で鯨の浜へ行くことを、単なる逃げではなく自分への『宿題』としているところも、いいですね。だけど、女の人や女の子の書き方には、物足りなさを感じました。お母さんは、なんで急に別居するんでしょう? 子どもの視点で進むのでくだくだ書く必要はないけど、なんか一言で背景をうかがわせるような言葉でもあれば、と思いましたね。みさきちゃんのイメージも、よくあるタイプ。うーん、悪くないけど、大傑作とは思いませんでした。コロにたこ焼きを食べさせるところは、どうなんでしょう? 犬にはイカやタコを食べさせるなって、よく言いますけどね。

げた:わりにシンプルな感じで、ストーリーはまあおもしろく読めました。気になったのは、お母さんのことがよくわからないところ。なんで、急に具合が悪くなったのか、お父さんとの関係もよくわからない。もう少し、お母さんについて書いてくれるとすっきりするのになあと、私も思いました。このお父さんの自転車屋さんもそうだと思うんだけど、町の自転車屋ってきっと経営が厳しいんだろうなと。だから、別居することになっちゃったんじゃないかなあなんて思いました。主人公の友だちのことも、ていねいに書かれていないんじゃないかな。みかん山の子どもたちが、いじめっ子なだけで終わっていて、一人一人があんまりわからない。みさきちゃんも、こういうのにはよく出てきそうなポニーテールできりっとした感じの女の子で、ステレオタイプというか、ありがちな設定だな。ただ、お父さんが漁で足をなくしたということについては、私の漁師の友だちが、魚を採っている時に腕をリールにはさまれて大怪我をしたという事故を体験しているので、現実感のある、身につまされる話だなと思いました。

カワセミ:186ページの、「液晶画面に点滅するちっぽけな一粒が、どこまでも広がる真っ暗な海に漂う、僕と父さんとコロに見えた」というところが、意味がよくわからなかった。操舵室からとびだしているのに、どうして液晶が出てくるのかな?

ぷう:魚群を探知するレーダーのことじゃないかしらん。179ページの5行目に出てきますけど。

カワセミ:「見えた」だと、その場で見ているみたいじゃない? 「思えた」だったらまだわかるけど。

ハリネズミ:あと、ちょっと盛り込みすぎの感も。お父さんは片足を失って、犬は下半身部髄。お母さんはウツで家を出て行き、僕はいじめられる。釣りもあれば、お祭りもある。船に乗れば遭難しかかる。いっぱいありすぎて、心理描写がうすくなっちゃったのかな。ドラマチックではあるんですけどね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年12月の記録)


ウルフ・スタルク『トゥルビンとメルクリンの不思議な旅』

トゥルビンとメルクリンの不思議な旅

げた:よくわからないというのが、正直な感想です。言葉の裏のしかけや謎がいまいちわからないんですよね。私の頭が固いのかもしれないけど。旅に出て、不思議な体験をして、無事戻ってこれてよかったね、それだけ。全体がうまくつながらないんですよね。スタルクが書いて菱木さんが訳してるので、きっといい作品に違いないと思って読んだんだけど。よくわからないまま終わってしまいました。小さい子どもが素直に読んだほうがこの本のよさがわかるのかもしれないですね。

ハリネズミ:私もスタルクと菱木さんのコンビだからおもしろいに違いないと思って読んだんですが、よくわかりませんでした。寓話なんでしょうけど、骨格をつくっているものが伝わってこないので、もどかしい。家族っていう視点で見ると、お父さんを捜して旅をするんだけど、最後は「青い鳥」みたいに戻ってきたらそこに家族がいたっていう話ですよね。血のつながらないウルバーンと新たな家族をつくるんですもんね。欧米の児童文学には、血のつながらない人たちが新たな家族をつくる話がたくさんあって、これもその系統なのかもしれません。それにしても、サーカスの犬や女の人は、その後どうなっちゃったんでしょうね? 子どもの本ではないのかもしれませんね。

バリケン:私もスタルクと菱木さんのコンビなので、とても期待して読みました。兄弟で父親探しの旅に出て、おしまいに幻の家族ではない、血のつながっていない家族を作るという話なのかも……とも思いましたが、こういう作品は何を書いてあるかなんて考えながら読むべきではないのかも。作品の雰囲気や、いなくなったお父さんが飛行士のかっこうをしているというところから、『星の王子さま』へのオマージュなのでは?という気もしました。それでも、なにか手がかりがほしくて、「訳者あとがき」を読もうと思ったのですが、ないんですね! 訳者の菱木さんも、先入観なしで作品の世界にひたってほしいと思っているのでしょう。原書のタイトルは『トゥルビンとメルクリン』なのに、翻訳では「不思議な」がついているところを見ると、訳者にとっても不思議な作品だったのかも。でも、いやなものを読んだ感じはしないし、「ダチョウを飼っている、時計屋のおじいさん」のようなイメージは、のんきで好きです。明るさのなかに、ちょっと寂しさがある、美しい音楽を聞いたような……。

セシ:登場人物二人の世界がわかりませんでした。どう解釈すべきか、そのうちわかるようになってくるかと思って読み進めるのだけれど、最後まで読んでもやっぱりダメで。イエス様の人形をポケットに入れて旅に出て、157ページで飼い葉桶に寝かせるから、ある種のクリスマスストーリーなのかな。二人の会話がかみあわなさかげんがおもしろいのかもしれないけれど、フィクションの楽しみ方を知っている子どもでないと楽しめないのではないかなと思いました。見た目は3、4年生から読めそうだけれど、きびしそうですね。やっぱりYAでしょうか。だれに手渡したらいいのか、わかりにくい本だと思います。

ぷう:よくわからない本ではありましたが、味としてはかなり好きでした。相当好きかもしれない。年が離れたこの兄弟が、ふつうの仲良しでなく、お兄さんがかなり威張っているのに、弟がそれに不満を持つわけでもなく、なんとなく関節の外れたようなかくかくっとした関係で、それでいて結局はずっと一緒に過ごしていくという、この二人の関係の不思議さが妙に後に残りました。片方がもう片方を完全に支配しているわけでもなく、お兄さんが「本を読んであげよう」というと弟が「読まなくていいよ。考え事をしたいから」とすっと返すあたりは自由だし。かと思うと、二人でごっこ遊びのようにして砂を食べたつもりになってみたり。不思議で訳がわからなくて、でもなんだかおかしい。かえって低年齢の子のほうがいいのかな?と思ってみたり。わりと淡々とした感じなのだけれど、へんてこな二人のへんてこな関係を、変なやつ!とならずに書いてあるのが、この作者の力なのかな。最後に待っている人がいるっていうところも、なんとなく安心できますしね。

カワセミ:スタルクは、子どもの心理を絶妙に描いて、読者が一つ一つ納得できる描写をする人なので、この作品は意外でした。作者名を見ないで読んだらスタルクとは思わなかったかも。今まで書いたことのない雰囲気のものにチャレンジして、読者をあえて裏切ろうとしたのかしら。私もすぐに『星の王子さま』に雰囲気が似ているな、と思いました。34ページのミミズの出てくる場面、2人の問いと答えがちっともかみ合わないので、何を言いたいのかさっぱりわからない。わからないまま先に進んでしまう。おしゃれな雰囲気というのでもなく、ナンセンスというのでもなく、わけがわからないお話でした。

ぷう:このお兄さんって、ほんとうに変ですよね。だって、出かけるときだって荷物はほとんどお兄さんのもので、ひょっとすると弟のことなんかほんとうは考えていないのかも、と思わせるけれど、でも、いやなやつ!と言い切れないところがこの作品の特徴みたいな気がしました。

プルメリア:登場人物が少ない。二人のやりとりや行動はかみあわないけど、たくさんある挿絵にささえられています。兄をお父さんかなと思って読んでいましたが、ちがっていました。時計屋さんのガチョウの行動がおもしろい。砂漠の場面は「星の王子さま」風に見えました。「あとがき」がないのが残念。

カワセミ:スタルクの邦訳書は、はたこうしろうの挿絵が付いているのが多いけど、ちょっと絵の感じが似てますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年12月の記録)


ジョーン・バウアー『靴を売るシンデレラ』

靴を売るシンデレラ

プルメリア:この作品、すごくおもしろかったです。タイトルも表紙もいいなって思いました。プロローグからひきつけられて一気に読みました。おばあさんはアルツハイマーだし、離婚したお父さんが酔っ払ってアルバイト先にたずねてきます。家族の悩みがあっても、主人公ジェナの前向きに生きる明るい行動がすてきです。ジェナの靴に関する意気込み、専門的な知識、熱意をもって仕事をする姿勢に、最後までひきつけられました。

カワセミ:最近のYAのリアリズムのお話は、主人公が冷めた感じで、まわりの大人を簡単には受け入れないといったものが多いと思うんですけど、この子はいろいろなことを素直に受け入れる。まわりのどこかしら欠陥のある大人たちへの接し方を見ても、根本的な性格として人が好きっていうのがわかり、好感が持てました。悩みをかかえ、失敗もするんだけど、何とか良くしていこうっていう前向きなところ、まだまだ大人じゃないけれど、しっかりと自分の頭で考え、行動するところがよかった。ユーモアのある描写もあり、おばあさんの社長を乗せて慣れない運転をしてアメリカの道路を突っ走っていくっていうのも、その場面が見えてくるみたい。映画を見ているような感じでした。うまく起承転結がつけられていて、最後は主人公なりの成長がわかって満足感がある。ものを売るということの哲学もおもしろかったです。

ぷう:私は、このタイトルに引っかかりました。シンデレラ、といわれたとたんにこちらに、「ふうん、女の子が王子様に見いだされるとか、誰かに見いだされてハッピーエンドになるとか、そういう話なんだ」という構えができちゃって、それが邪魔になる気がしました。作品としては、自分が打ち込める仕事を見つけた子のはつらつとした感じが描かれていて、サクサクと読めました。途中で社長に引き抜かれるあたりは、いかにもアメリカという感じ。ある種のアメリカン・ドリームなんですね。それに、この子がすさまじくタフな社長に負けずに運転手を務めていく、そして時には社長に口答えするなんていうのも、なかなかスカッとしていて気持ちいいですね。結末も、この子にとっては外の世界である店のこともお父さんのこともうまく終わって、読後感がいい。一つだけ、途中でハリーさんという店長が急に死んでしまうのだけは、あれ????と思いましたけれど。とにかく、どんどん読み進められる本でした。

セシ:まだ途中までしか読めなかったのですが、ぐいぐい読まされました。職業倫理というのかな、安かろう悪かろうじゃなくて、本当に大事なのはこういうことだよというメッセージが根本にあって、大人の世界も捨てたもんじゃない、生きるっていいな、と思わせてくれます。

ぷう:この子にとっては外の世界である店のこと、あるいは社長との関係でこの子自身が成長して、それが最後に身近な父親との関係で現れる、というのはうまい造りだなと思いました。それに妹のことも、書き込んではいなくても、それなりにきちんと決着をつけようとしているみたいですし。主人公は妹にずっとコンプレックスを持っていて、でもその一方で妹を父親から守っていたのだけれど、最後には妹もその事実を知る、という話を入れたのは、作者が妹がらみの筋を決着させるためですよね。

ハリネズミ:さっとおもしろく読んだし、いいところについてはみなさんと同じ感想なんですけど、ちょっとひっかかるところがあってね。女社長さんの言葉なんですけど、「運転はていねいかね」とか、「……かね」というのがしょっちゅう出てくるの。「……かね」なんて、70代の女性で使う人いるのかしら?

セシ:男っぽくしたかったのかも。

ぷう:威圧感のある人にしたかったんですかね。

ハリネズミ:その口調のせいで、マンガっぽくなってしまってる気がしました。それから、最後のページの子ガモがいるというところで、「ここにも戦って勝った子がいる」っていう言葉が出てくるんですが、そこは物語の本質がすりかわっちゃうんじゃないかなと不安になりました。この物語は、競争社会で戦う話ではなくて、自分自身とたたかって一歩前へ進むという話だと思ったのに、この言葉があるせいで、妙に安っぽくなってませんか? リアリティという面では、アメリカの株式会社がいまどき世襲、っていうのもマンガっぽいのかな。軽いノリだから、逆に本を読まない子でも読めるというところにつながってるのかもしれませんけど。

カワセミ:リアリティという点からいえば、誇張されているところがあるわよね。

げた:コミックを思わせるような感じ。だから、リアリティってことについては、16歳にしては何十年も人生体験や職業体験がありすぎる感じがしたけど、話としてはそのほうがおもしろいのかな。拝金主義で、利益さえ上げればその過程はどうでもいいという今の風潮の中で中・高校生に警鐘を鳴らすという意味では、現実にはありえない話だろうけど、こんな本があってもいいかなと思いました。こういう題材をここまで扱っている本はあまりないですよね。単により多くの金を稼ぐことを目的にするのじゃなくて、仕事や商品に心をこめて、お客さんに喜んでもらえることを第一に考えることそんなメッセージがあふれている本です。だから、大人にもおすすめの本かな。

ハリネズミ:そういう職業倫理のようなものは、『幸子の庭』(本多明/著 小峰書店)でも取り上げられてましたね。

バリケン:『こちらランドリー新聞』(アンドリュー・クレメンツ著 講談社)も、職業を扱っていましたね。

ぷう:この作品は、利益第一のウォール・ストリートとはまた別のアメリカの伝統的で健全な職業倫理を描いた作品でもあって、だから好感が持てるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年12月の記録)


岡田よしたか『特急おべんとう号』

特急おべんとう号

バリケン:私は、自分でうまく書けないせいか幼年童話にはすごく甘いので、幼い子どもたちが笑ったり、幸せな気持ちになったりする本は、無条件で「いいな!」と思ってしまうんです。翻訳物だと、子どもにわからない言葉はあまり使わないようにするんだと思いますが、創作だと作者の勢いで結構むずかしい言葉も出てきますね。『特急おべんとう号』も『パンダのポンポン』も文章に勢いがあってすらすら読ませます。『特急おべんとう号』は、特に語り口が巧みだと思いました。ただ、メザシが汽車の中で寝ているところ、顔が妙にリアルなので(p102、103)、なんだか生々しい感じがしました。メザシって、お弁当に入れるのかな?

プルメリア:小学校1年生の図書の時間に、この本の読み聞かせをしました。遠目では絵が見えにくいと思ったんですが、読み聞かせをしたらすごく喜んで「きゃあきゃあ」いって、納豆が出てくる場面ではたいへんはしゃいでいました。読み聞かせ後、お笑いでも耳にしている関西弁がおもしろいと言っていました。会話が緑の字で書いてあるので、読み聞かせするときに読みやすかったです。子どもたちは、イワシは知っているけれど、メザシは知らなかったので説明を加えました。最近の子どもたちは、魚をあまり食べないんですね。「誰が1位になると思う?」と聞くと「納豆、納豆!」と言って、本当に1位になると喜んで拍手していました。金魚がでっかくなるところ、特に男の子が気に入って喜んでいました。絵はダイナミック、文は現代風でおもしろかったです。あまり推薦リストなどには出てこない本だけど、今回出会えてよかったと思いました。次がどうなるかわからないワクワク感がありました。

ハリネズミ:私は、文章はおもしろいけど、絵が気持ち悪くて、食べ物がおいしそうに見えませんでした。中途半端に漫画風な絵ですけど、これでいいんでしょうか? 文章にしても、p24に「観戦中だったのりせんべい、かしわもち、おはぎ……」とありますが、絵を見ると人間しか観戦していない。もっとちゃんとつくってほしいな、と思いました。

カワセミ:おもしろく読みました。このどぎつい絵には好き好きがあると思うけど、ギャハハッと笑ってどんどんページをめくれるおもしろさがあると思います。かまぼこが転倒してゆでたまごを直撃し、ゆでたまごがダウンなんて、おかしかったし、雨が降ってくるところは、まさかの展開で、雨のおかげで納豆がすべるように速く走ったなんておもしろいと思いました。

げた:もうちょっと大きな絵本のほうがいいのかなという気がしました。お弁当のおかずたちが走ったり旅行したりするというのも荒唐無稽なんだけど。絵も第一印象ではちょっとどぎついかなあと思いました。でも思ったより、おもしろく読めることは読めました。ただやっぱり食べ物が道路を走っているのに、なんとなく違和感がありますね。あまりそんなことを考えちゃいけないのかな、とも思いますけどね。絵そのものは、子どもたちの心をひきつけるのかなあ。だからこそ、大判の絵本にした方がいいと思います。

ハリネズミ:この絵は、おいしそうなんですかね?

バリケン:実をいうと、いろんな食べ物がごちゃごちゃしているので、生ゴミのような感じがしないでも……。

げた:やっぱり食べ物は器にはいってないとね。

カワセミ:でも、ふつうは器にはいってる食べ物が、はいずりまわっているところがおかしいんじゃないの?

ハリネズミ:私は、中途半端にリアルな感じがしました。リアルじゃないところとリアルなところがごちゃまぜになっているので、頭の中で収集がつかなくなる。

カワセミ:あんまり深く考える本じゃないのよ。

ハリネズミ:文章の調子はおもしろいと思ったんだけどね。

カワセミ:普段読み物を読まない子が、これならアハハと笑って読めて、次に何かほかの本を読んでみようと思う、呼び水的な本じゃないのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年11月の記録)


野中柊『パンダのポンポン クリスマスあったかスープ』

パンダのポンポン クリスマスあったかスープ

プルメリア:幼年童話っぽい作品で、ほのぼのしていておもしろいと思いました。コアラの元気な雰囲気が出ているし、キリンの特徴も出ているし、動物1匹1匹の役目があるのかな。p148で、「真っ白な雪」「がちらり、ちらり。」というのは改行が間違っていると思います。子どもは、「がちらり」と読んでしまうので、配慮してほしいな。トナカイのサンタはあまりかわいくなかったです。

ハリネズミ:私はおもしろいと思えませんでした。C・S・ルイスが児童文学論で、子どもの本だからといって食べ物を出せばいいということではない、と言ってますけど、これはその例じゃないのかな。かわいい動物と食べ物が出てくればいいってもんじゃないでしょう。内容も、消費マインドにのっとって書かれているような気がして、新鮮味もないし、私は入っていけませんでした。

カワセミ:私もシリーズの1冊目が出たとき、低学年向きのとてもおもしろそうな本が出たと思って期待して読んだんですけど、裏切られたんです。この3冊目も同じでした。絵は楽しいんですけどね。p107の「あれあれ? どこへ行くのかな?」のような文を入れるのって、幼年童話だからと思って入れるのかもしれないけれど、小さい子は主人公になりきって読むので、誰が言っているのかわからないような言葉はかえって混乱を招くと思います。それにこの本は、1冊に3つのエピソードが入っていますが、幼年童話にしては文章が多いし総ルビとはいえ漢字も多い。それに「笑みがひろがりました」とか「念じていました」とか、子どもの言葉ではないですよね。だからといって3、4年生向きだと話が幼稚すぎる。本のつくり方がどっちつかずだと思います。それから、肝心のポンポンのキャラクターがはっきりしてないし、おもしろくなかったですね。キツネのツネ吉なんてネーミングもどこにでもあるし。

げた:この本は、子どもたちには人気があるようです。ですからこの本の良さは何なんだろうな、と考えたんです。そんなに筋に起伏があるものではないので、筋を楽しむということじゃないんですよね。それよりもとにかく、順番にいろいろな動物が集まってきて、パーティーが始まって、楽しく過ごすんですよね。たくさんの友だちが集まってあたたかい場所がつくられ、友達っていいなあというやさしい気持ちになれる、そんなところがいいのかな。出てくる動物の名前はちょっとだじゃれっぽいけれど、すごくぴったりだと思いました。

ハリネズミ:名前の付け方は、カワセミさんがおもしろくないと言ってたけど?

カワセミ:ほかはおもしろいけど、ツネ吉だけが陳腐だと思ったの。

げた:コブラのラブコとか、おもしろいですね。

プルメリア:それって、言葉の並べ替えでしょ?

ハリネズミ:スーパーでいっぱい物があるといって大喜びしてますけど、ずいぶんとモノ志向ですよね。作者は子どものころそういう感動をもったのかもしれないけれど、今の子は感動しないんじゃないかな。

バリケン:なぜ子どもがこういう本をこんなにも喜ぶのか、それから、喜ぶからという理由だけで書いていいのか……うーん、さっき私が言ったことと矛盾するかもしれないけれど、幼年ものの永遠の課題よね。p88で、「ララコがたいせつにしている花たちが、このパーティーをいっそうはなやかなものにするのだと思うと、うれしくてなりません。」というのは、小さい子にはわかりにくい文章ですね

ハリネズミ:ポンポンのキャラクターづけがはっきりしていないという意見があったけど?

バリケン:だいたいパンダ自体、他の動物ほどキャラクターがはっきりしていないんじゃない?

げた:みんなを楽しませる役というところでしょうね。

バリケン:MCみたいな役割ね。

げた:でも幼年童話とはいえないですね。中学年向きですね。

プルメリア:最初の2ページは絵があって字が少なくて読みやすいと思いましたが、そのあとは急に字が多くて低学年には無理。最近の子は、本が厚いと手に取らない傾向があります。読まないんです。字を大きくして、字と字との間隔があいていれば読めると思いますが。

ハリネズミ:中学年が読むには内容が幼稚すぎるという意見も出たわね。1話ずつ1冊にして、1、2年生が読みやすいつくりにしたほうがよかったのかもね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年11月の記録)


シャロン・クリーチ『トレッリおばあちゃんのスペシャルメニュー』

トレッリおばあちゃんのスペシャルメニュー

バリケン:私は、おもしろくなかったです。文章がぶつぶつ切れていて読みにくいし、「きっと善意の人が大勢出てくる、いいお話なんだろうな」感が強くて。わたしが、ひねくれているんでしょうか? 他の作品を読んでも、私はシャロン・クリーチとは相性がよくないのです。トレッリおばあちゃんの話の中でイタリアの少年の犬がひかれちゃうのが妙に印象が強くて、何も殺さなくてもいいんじゃないかな、と思ったりして。

プルメリア:この作家はとても好きなんですが、最初は何なのこの作品は、と思いながら読みました。最後に赤ちゃんが出てくるところまで呼んで、すごくいい作品だなと思いとほっとしました。今、子どもたちの間では告白ブームがあるんです。思春期の子どもたちは、好きとか嫌いとか相手に自分の気持ちを伝える傾向があります。思春期の心情を描いた作品なので、ぜひ子どもたちに手にとってほしいな。

ハリネズミ:今回の3冊の中では、私がおもしろいと思ったのは、これだけです。親友との関係が恋に変わりそうな年代の子どもの心情をすごくうまく書いている。クリーチの作品のなかでも、これは『あの犬がすき』と同じ系列で、わざとこういう書き方をしているんでしょうね。説明をするのではなく、場面場面を切り取っていって、そこからいろいろなことがわかってくるような描き方。ベイリーとロージーの気持ちのすれちがいもうまく書かれているし、おばあちゃんが要所要所で豊かな人生経験から来るいいアドバイスをしてくれる。トイレに行ってから、間をおいてまたひとこと言ってくれたり、食べ物を作りながら言ってくれたり、子どもが次の段階に進んで行けるように言っているのが、ほんとうにうまく書かれています

カワセミ:この独特のモノローグの文体のせいで、ロージーが心に思うことが直接的に伝わってきました。いちばんいいなと思ったのは、ベイリーの目が見えないことが最初は読者にわからなくて、途中でわかるんだけど、目が見えないからどうということではなく、どんな子で、自分がどんなに好きかということが中心になっているところ。それから、おばあちゃんが、料理をしながら自分の小さい頃の話をしてくれて、ロージーがそれに自分を重ね合わせていろいろと考えていくところ。子どもって、お母さんはどうだったのとか、おばあちゃんはどうだったの、とか興味をもつから、気持がよくわかった。おばあちゃんは、イタリア語まじりの英語を話し、それがまたいい味を出しているんだけど、翻訳ではそこはあまり伝わりませんね。仕方ないけれど残念。

ハリネズミ:ベイリーが目が見えないというのは、ロージーの顔をさわってみるとか、ミートボールを作るときの描写とか、細かい場面場面で読者が察することができるよう、とてもうまく書いてあると思います。

げた:文章が短くて、ポツポツ感はあるけど、私は読みやすかったですね。それに文章のまとまりごとに行間を空けているんだけど、空いてる部分で読者がイメージを作ることができるように思いました。考えさせる間合いというかね。十代の女の子が氷の女王になったり、オオカミになったりして、ゆれる少女の気持ちの変化がよく伝わってきました。おばあちゃんとパルドの関係とロージーとベイリーの関係はできすぎといえばできすぎだけれど、おばあちゃんから語られるお話にはひきつけられるものがありましたね。子どもたちは共感を持って読むんじゃないかと思いますよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年11月の記録)


デイヴィッド・ライス『国境まで10マイル』

国境まで10マイル〜コーラとアボカドの味がする九つの物語

サンシャイン:国境近くに住んでいるメキシコ系アメリカ人の話。日本語の題名はつけにくかったんでしょうね。工夫していますね。ヒスパニックの物語というのとは違うんでしょうか? アメリカに住んでいる人なら違いが分かるんでしょうね。いい話だなと思ったのは、「パパ・ラロ」。最後、おじいちゃんが死んじゃって、しゃれたタキシードを着せてあげるっていう話です。教会の侍者をする少年の話「最後のミサ」もよかった。不良の侍者の1人が死んじゃって、その子のためにミサをするという話ね。アメリカ社会一般の話と読むか、テキサス州のメキシコとの国境地帯でのローカルな話と取るか、よくはわからないけど、印象に残りました。

プルメリア:今月の3冊の中でこれが一番おもしろかったです。地図を見ながら読みました。2つめの話は、アメリカ人なのかメキシコ人なのかわかりませんでしたが、人々の気質や料理が詳しく書かれていて、暗いことでもユーモラスに描かれていることに好感をもちました。「最後のミサ」に出てくる侍者をした少年と、バチカン市国でクリスマスのミサを見たとき侍者をしていた少年が重なりました。本人よりも家族が誇らしげにしていたのを思い出しました。「さあ、飛びなさい!」は、インコを全部放してしまうダイナミックさ、日本人とはまったく違う発想の違いがおもしろかったです。

セシ:私は出たばかりのころに読んで気にいりました。すごくおもしろいなと思ったのは、いろんな人生が出てくるところです。日本の中学生を見ていると、似たような大人に囲まれていて、こんな大人になりたいという理想像も、小さくかたまりがち。でも、この本に出てくる人たちは、とてもさまざま。いろんな人生があって、喜びや悲しみがある。いろんな価値観が出てきて、こんなふうにも生きられるのか、と考えさせられました。国境を行ったり来たりするメキシコ人をとおして、国境があること、国が分かれてしまうことのむずかしさや、そのはざまで生きていく人の様子もよく伝わってきました。お手伝いさんの話や、その家に行ったら主人公が自分の家に行ったみたいだったという「もうひとりの息子」や「カリフォルニアのいとこたち」が印象に残りました。ユーモアのスケールが大きい。あっけらかんとして爽快でした。

カワセミ:子ども向きの短編集はむずかしいなと思うんですよね。この本は、日本の子どもが想像もつかないような環境だし、大人が読めばテックス・メックスの文化が興味深いところもあるんだけど、一つ一つのオチが微妙なものが多くて、子どもはストレートにおもしろいと思えないじゃないかなと思います。児童文学としてどうなのかな? 伝わりにくい部分があるんじゃないかなと思いました。その中では「ぶっとんだロコ」がおもしろかった。犬がいなくなっちゃうので本当は悲しい話なんだけど、犬が車を運転してったって考えると、なんだかおかしい。どうしようもないやりきれなさみたいな感じが、どの話にも漂っているものの、決して暗くはない、そういう気分は、あまりほかの本では味わったことがないですね。

ハリネズミ:冒頭の短編に、「まさかのときにスペイン宗教裁判!」とか「しゃれ者の遅刻」なんていうジョークが出てくるんだけど、日本ではそう言われてもちっともおもしろくないので、すべってしまうんですね。それで、最初は白けながら読んでたんですが、読んでいくうちに、おもしろい短編もあることがわかってきました。カワセミさんがあげた「ぶっとんだロコ」なんか挿絵もやたらおかしくって、犬ごと車が盗まれてしまったという悲劇を別の視点から見ることができる。悲しかったり、つらかったり、嘆かわしかったりすることもきっと多い人たちの話ですが、それを笑い飛ばす勢いがあるんですね。「パパ・ラロ」のおじいちゃんも、バリバリ存在感があっていいですね。「さあ、飛びなさい」の、鳥をぱあっと放すイメージと女の子の未来が重なるところもいい。味わいのある話が並んでいますが、読書好きの子どもじゃないとそれを十分に味わうのは難しいかもしれませんね。本に読者対象は書いてないんですが、対象は読書好きの中学生といったところかな。この場所で暮らした人でないと書けないことを書いているので、貴重な本だなと思いました。

みっけ:うん、私もかなりおもしろかった、読んでよかった、という感想です。最初の作品の、あっけらかんと色恋を取り上げているあたりは、自分の中でのラテンのイメージにぴったりはまって、やっぱりメキシカンだなあ、と一人納得。でもそれ以外にも、ちょっとシュールな作品があったり、とても信仰心の厚い人が出てきたり、家族の絆が強かったりするところは、ラテンの世界だなあと思ったし、おもしろかった。カリフォルニアにはヒスパニックが多くて、ソトをはじめとする書き手もいるけれど、この本は、そういうのとは明らかに違う気がしました。もっと、自分たちのルーツに近いところで生きている感じですよね。それに、トイレの話だの犬の話だの、独特のほら話的な感じがとても愉快でした。「もうひとりの息子」では、長い国境線の両側にまったく違う生活をする人が住んでいるという現状に対する想像力を刺激されました。いろいろとたいへんなことがあっても、その中でタフに生きていく、荒っぽさはないんだけれど笑いにくるみながら強じんに生きていくのがすごい。「パパ・ラロ」の話も、年齢の差を越えて男同士どこか通じてるところがあって、おもしろい。爆弾を打ち上げ花火の代わりに使おうなんて、結構危なっかしいんだけれど、勢いのある感じが伝わってきますね。「最後のミサ」で従者をする男の子の話はかなり微妙で、読みなれてない子だと、なんだかよくわからないまま終わってしまうかもしれません。ちょっと高級というか、大人っぽい気がしました。日本で出すことの意味はさておき、アメリカはとっても広いから、自分たちの国にこういう人たちも住んでいるんだよ、ということを知らせる意味でも、出版は意味があることなんだろうなあ、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年8月の記録)


岡崎ひでたか『荷抜け』

荷抜け

ハリネズミ:一昔前の雪国の暮らしぶりとか、牛方とかぼっかの様子がわかるのはいいなと思ったんですけど、テーマが先にあって、そのテーマに沿ってこしらえた物語だという気がしました。役人や問屋たちは悪くて牛方たちは正義という視点がはっきりしていて、そのせいで人間の掘り下げ方が足りなくなってしまったんじゃないでしょうか。主人公の大吉も模範少年だし。ひとりひとりの心理がもう少していねいに描かれていれば、もっとおもしろい作品になったと思いますね。大吉のお父さんの仙造が、陰で大きな役割を果たしているんですね。殺されそうになったけれども逃げて、旅をしながら牛方のために画策している。でも実際に仙造がどういう役割をしているか書かれていないので、今ひとつ人物像が結べない。そのへんがもっと書かれているといいのにな。表紙の絵の人は荷物も持っていないし、のんびりとした雪国のたたずまいって感じですが、シリアスな内容とはずいぶんかけ離れていますね。

カワセミ:翻訳ものではなく日本のものだから、読みやすいのかなと思いながら、しっかり読んでいったつもりなんだけれど、なんか頭に入ってこなくて、読みづらい本でした。いろんな登場人物がでてくるんだけど、立場とか、性格とか、あまり区別がつかない。せりふが多いんだけど、方言のせいか、どの人のせりふも同じようで。果たすべき目的のある話なんだから、筋は通っているはずなんけど、どうにもまどろっこしいというか、おもしろくなかったですね。この地域特有の自然描写はよく書けていると思うんですけど、人間の心理描写となると、あまり書きこまれてない。大吉っていう主人公も、今ひとつ魅力が感じられず、サバイバルできるかどうかの状況なのに、「頑張れ!」という気持ちより、「早く行動すれば」みたいな気持ちになっちゃって、途中で飽きてしまいました。設定からすると、もっとドラマチックなことが起こって、はらはらドキドキの展開にできそうに思うけど、物足りなかったです。

セシ:この作者は、民衆が協力して成し遂げたこの事件のことや、当時の山里の厳しく苦しい暮らしを生きぬいていく人々のことを伝えたかったんだと思うんですね。嵐が来れば収穫もないし、やっと得た収穫も年貢でとられてしまう、ただ必死で生きていく生活。ていねいな描き方にその心意気を感じて、この会で読んでみたいと思ったのですが、でもやっぱり整理しきれていないのかもしれませんね。焦点がしぼりきれていない感じ。描きたいことがいっぱいありすぎたのかもしれないけれど。お行儀のよい優等生という感じがしてしまうのが惜しいですね。作家ならあたりまえなのかもしれないけれど、何度も現地を訪れ、40何キロの荷物を実際にしょってみたり、雪の中をかんじきで歩いたりして書いたと聞いています。冒険的な部分で子どもをひきこんでいく時代小説はあるけれども、これはノンフィクションに近くて、昔のことを伝えていこうという作品。こういう姿勢の書き手は今少ないと思うので、がんばってほしいと思います。

プルメリア:日本の作品で、冬の様子が描かれていたので、この暑さの中で読んだら涼しくなるだろうと期待して読みました。が、場面を考えながら読んだら、寒さ以上にしんどいものを感じました。牛方の仕事のたいへんさ、登場人物たちの利害関係などはよく書かれていました。みんなで力を合わせる打ちこわしのようなエネルギーがいろいろな場所であったということもわかりました。殴られる場面は、読むのが苦しかったですが、悪い人だと思った人たちが、本当はいい人でほっとする部分もありました。冬で始まり最後がまた銀世界で終わるというのも、よかったです。牛飼いたちが塩を運んでいることもまったく知らなかったので、この本で歴史を学ぶこともできました。

サンシャイン:作者は江戸時代にこういう事件があったよということを伝えたかったんでしょうね。荷抜けのところがよくわからなかった。預かったものをお客まで運ばずに自分たちでキープして、借りたことにしていずれ返すからということにして自分の資本にするということなんでしょうか? お上というか武士たちが気づかなかったのかな、とか、ばれなかったのかな、などと考えると、現実感が今ひとつありませんでした。

セシ:一揆のときの血判が、首謀者がわからないように巧妙につくられていたことなど、その辺の詳しいことは本の中には出てきませんよね。

サンシャイン:先ほど言いましたように、私は荷抜けということが今ひとつうまく読みとれませんでしたが、貧しい人たちが権力に対抗して成功した例として書きたかったのでしょう。父親が雪道から谷にすべって落ちてすぐに見に行くところがありますが、地図で見るとずいぶん離れていて家からすぐに行けるような距離ではないように思います。人物像も統一感がないように思います。例えばサヨは、最初かなり悪い女に描かれていたのに、後で仲良くなるのも、そんなにうまくいくのかなと思いました。サヨの父親も後半唐突に出てきます。人物描写にあまり神経が行っていないのかな。隣の家のハツは、売られていった先で大吉の一大事を立ち聞きして、遊女小屋から飛び出してマムシにかまれた若者を助け、結局うまくつかまらずに大吉を助けるのですが、そんなに簡単に抜けられるかなあなんて考えるのはいじわるですかね? 江戸時代のしいたげられた人々が反抗した姿を描きたいというのはよーくわかって共感もしますが、その場その場でご都合主義的に描かれているのではないでしょうか。歴史的な事実があり、そのことを小説の形で伝えたいという気持ちは理解できますが、やっぱり人物描写のゆれ、人間関係の不自然さ、無理がめだつというのが正直なところです。だいたい死んだといわれた仙造が大吉に会わないままというのも、息子にまで隠しておく必要があるのか、そこまで身を隠す根拠が見えてこない。周辺では活動しているわけですからね。

カワセミ:小さな腑に落ちないことがたくさんありますよね。

みっけ:私はこの本、途中で挫折しました。信州には親近感があるので、へえ、塩の道の話なんだ、と思って読み始めて、当時の庶民の暮らしが書かれているあたりはおもしろいなあと思ったんですが、いかんせん、主人公をはじめとする登場人物が立ち上がってこない。おもしろい素材なんだけれど、素材に気持ちがいきすぎているのかな。

サンシャイン:この人の作品はほかのものも読んでいますが、伊能忠敬の伝記『天と地を測った男』(くもん出版)はよかったですよ。「鬼が瀬物語」シリーズ(くもん出版)は千葉の漁民の話で、こういう人たちががんばっているよというのは伝わってきました。でも、もしかすると思い余って表現足らずかな。

みっけ:子どもに広く事実を提示して、こういうことについて考えてみてほしいと思うのだったら、事実大好き少年少女だけでなく、ほかの子どもにもアピールする必要があると思うんです。そこの橋渡しをするのが、物語りとしての魅力なのではないかなあ。読者が感情移入できる人間を登場させて物語の魅力で事実へと迫っていくというアプローチが必要な気がするんですが、この本はいささか力不足のような気がします。

ハリネズミ:それができないと、いい文学とはいえませんよね。こういうテーマだと課題図書の感想文はいくらでもうまく書けると思うけど、読者が作品の中にどっぷり浸かって生きてみて、そこから得た感想を書くということには、なかなかならないですよね。そういう作品を安易に課題図書にしてはいけないんじゃないかな。この作者はとってもいい人だと思うし、こういうテーマに目を向ける作家は日本には少ないので、がんばってほしい。もう少し深く入り込めるように書いてほしいな。

セシ:作者は子ども向けのつもりで書いたけど、出版社側が、大人も読めるから大人向きにと判断して、こういう形で出したそうですよ。

みっけ:大人向けの時代物だと、たとえば藤沢周平みたいに、もっと書きこんで場面を立ち上げていくんだろうけれど、子ども向きということで、あまり書き込みすぎてもまずいと思ったのかしらん。それで、物語の力が弱くなったのかもしれない。少ない書き込みで、どう立ち上がらせるかとか、どれを省いてどの視点をとれば読者に強く訴えられるか、というのは、たぶん作家の修業によって体得するものなんだろうけど、そのあたりが弱いんでしょうね。

ハリネズミ:子どもの文学だからキャラクターはいい加減でいいということはないですよ。いっぱい人が出てきてわかりにくいなら、もっと整理して書けばいい。

サンシャイン:隣の女の子が遊女になるところは、子ども向きの本だからと考えてかあまり書いてない。

ハリネズミ:だったら、中途半端に書くよりは、いっそ書かなくてもよかったんでは? そてとも、ここはわかる読者にだけわかればいい、というスタンスでしょうか。

サンシャイン:最初にあまり出てこないのに、後半ちょっと出てくるなんていうところが、ご都合主義だと思ったんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年8月の記録)


スーザン・パトロン『ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日』

ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日

カワセミ:主人公ラッキーは、非常に子どもらしい子ども。1つの疑問が頭に浮かぶと、次から次へと想像が膨らんでしまう。いろいろなことが気にかかり、頭の中がいっぱいになってしまう。でも自分の論理で納得できる答えがみつかれば安心する。子どもにはこういうところがあるので、共感する子どもはいると思います。あるアメリカの書評に、ラモーナと似ていると書いてあったけど、独自の論理の中で生きている、ちょっと変わった子という見方をすると、確かによく似ていると思います。そういう意味で、ラッキーの言動は興味深いのですが、物語の筋がはっきりしていないので、読みにくい本でした。ストーリーよりも、ラッキーをはじめとする登場人物たちの一風変わった言動を詳しく見ていくというタイプの本なので、人間観察に興味がなければ、読みづらい。小学校高学年では無理かな、中学生以上なら読めるかな。ニューベリー賞受賞作で、アメリカでは高く評価されているわけですが、カリフォルニアの砂漠の町という設定は、アメリカでは地方色が感じられてそれだけでもおもしろいのでしょう。でも日本では、この設定はピンとこないですね。

ハリネズミ:最初は細切れの時間の中で読んだので、何が書きたいのかわからなくなってしまい、もう一度読み直したんですね。そうしたら、文学作品としてよくできてるな、って感心しました。生みのお母さんの骨壷が小道具として出てきますが、マイルズっていう男の子がいて持っている絵本が「あなたがぼくのおかあさん」。あちこちに、それなりの伏線が引かれているんですね。登場人物も、それぞれ特徴をもってかき分けられています。ひも結びオタクのリンカンも、貯水タンクに住んでいるショート・サミーも、存在感があります。ブリジットが「オー・ラ・バシュ!」「オー・ララ」なんてフランス語を交えて会話するのも人物像をリアルにするのに効果的。カワセミさんが言ったように、ストーリーで引っぱっていく要素は弱いので、やっぱり本好きな子どもにお勧めする本でしょうか。メモのところは、邦訳があるものは翻訳書名も出してほうが親切ですね。

みっけ:表紙の感じそのままの印象です。わりとうすい感じ。つまらないというわけではないし、納得もできる。でも、こちらの体調など外部要因もあったのかもしれないけれど、淡々とした感じでした。絵は好きだったし、妙にリンカンが好きになっちゃったりで、決して嫌いな本ではないんですが。それに、主人公が妙に意地悪になったりする気持ちの動き方なんか、結構リアルだったりもするし。でも、全体として、うわあ、とってもいい作品だなあ、大好き!というふうにまではなれませんでした。

サンシャイン:砂漠の中の人口が43人、働いている人は3人しかいない貧乏な村。でも人々の気持ちはいいんですね。親を失ったラッキーにフランス人の後見人が来て、そのブリジットにずっといてほしいっていう思いが貫かれた作品。『荷抜け』と比べると、人物の姿が立っている。それぞれ特色を持っていて、癖もあって変わっているけど、小説としてはある種計算されていてうまく書かれているのでしょう。母親の骨壷が出てきて、最後に灰をまくとか、お話としての筋は通っています。アメリカ人から見たフランス人というのも、おもしろく読めました。日本の子がおもしろく読めるかどうかはわからないけど。

プルメリア:私は表紙がすごくかわいいなと思いました。赤いドレスが大きすぎてミスマッチですが、そのわけが本を読んでわかりました。主人公ラッキーは女の子ですがダーウィンが好き、虫が好き。最近の子って男の子でも虫は苦手な子が多いので、好感をもちました。登場人物は少ないですが、細々と生きている人たちの様子や生活がわかりやすく、一人一人がていねいに書かれています。ブリジットが赤いドレスを着てくるところが印象的でした。お母さんの遺骨をまくところやその時まわりの人々に話す言葉は、上手な書き方をしていると思いました。賞をとったものはよく読むんですけど、蛇が乾燥機に入り込んだり乾燥機から出ていったりするところはとってもリアルでした。私は蛇が嫌いなのでブリジットの心情や行動には共感します。

セシ:2度読んだのですが、最初に読んだときから好きな作品でした。お母さんが死んじゃって一人になったこの子は、お父さんの元妻という血のつながりのないフランス人がずっと自分の面倒をみてくれるのかを、ずっと気にかけているわけですよね。そして最後は丸くおさまる。子どもってやっぱり親に見捨てられたくないという気持ちがどんなときにもあるものでしょう。それが結局最後、後見人のままでいてくれる形におさまるのは、子どもにしてみればすごくうれしい、希望のある終わり方だなと思いました。「あんたのことなんか知らないわ」と言われつけている子どもも、安心できますよね。30ページ「リンカンが七歳のころ、リンカンの脳は、ヒモむすびをしたくなる分泌液をどんどん毛細血管に送りはじめた」とか、ひとつひとつの表現がおもしろくてひきつけられました。サミーの人物像も、すごくおかしくて好きでした。くっきりした脇役がストーリーを支えているんですね。舞台は超ローカルだけれど、超ローカルなことでも普遍的になりうると思います。文学はいろんな方向性があるから。砂漠の町の、普段思いもつかないような人々の暮らしぶりを、小説を通して想像してみるのも楽しいと思います。

ハリネズミ:さっきも言いましたが、文学としてとてもよくできてる。配給のチーズのところもおもしろいし。パセリきざみの道具も、ちゃんと理由があって持っている。最初はぬすみ聞きしていろんなことがわかっちゃうわけだけど、最後にその穴をパテで埋めて、耳をすましたが中からは何の音も聞こえてこない。自分で盗み聞きの穴を埋めて成長するという描き方もうまい。現代のリアリスティックフィクションに登場する家族は、血のつながらない家族が多くて、他人だった者同士がどうかかわりをもっていくかを書いていくわけですが、この本もそうですね。まったくほつれがないひもを見てラッキーがこんなふうに人間もいけたらいいな、と思うところがありますけど、この本も、いろいろな糸がほつれないでちゃんとまとまるようにうまくつくられています。この作品に登場するさまざまな人たちが一つの共同体をつくっているのと同様に。ラッキーの不安は、ブリジットだけじゃなくて、コミュニティの人間同士の支え合いのなかでうまく解消されていくんですね。ほかの作品をおさえてこれがニューベリー賞を取ったのも、なるほどと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年8月の記録)


竹下文子『そいつの名前はエメラルド』

そいつの名前はエメラルド

カワセミ:中学年向きで読みやすい本なんですけど、設定はめずらしくないですね。子どもがペットを飼ったら、それがとんでもないペットだったという話は、外国のものでも日本でもよくありますから。描写はていねいで、主人公が不思議なペットショップにたどりつくまではドキドキ感があり、このいかにも怪しい店でいったいどんなペットを買うことになるんだろうと期待が高まるけれど、この本の致命傷はこの表紙。ハムスターじゃないペットを飼うことになるんだな、という予測がつくので、いったいどんなものを飼うのか、どうなっちゃうんだろうって思うところが楽しいのに、表紙で最初から種明かしをしてしまっている。本当にがっかりです。ペットを飼うというのは、子どもにとても身近な題材なので、興味をもって読めると思います。それだけに、もっとおもしろくできるんじゃないかな。最後におとうさんのペットだったカメまで花火になっちゃって、すべて花火で終わりっていうのも、なんだか無理がありましたね。

セシ:読みやすくてすらすらとは読めたけれど、いまいち全体に納得がいかない感じでした。おかしなペットショップに入って妙なものを買ってきちゃうというところまではついていけるけれど、お父さんが飼ってたカメを逃がしちゃったと言うところで、「えっそんなことでいいの?」と思って、そのあとがだんだんついていけなくなりました。中南米には人間ほどもあるトカゲがいると聞くので、このトカゲも大きくなるのかなと思っていたら、脱皮した後、羽がはえて飛んでいってしまうところで追い打ちをかけられ、さらに花火になってしまうというので、納得しきれない感じで終わりました。

たんぽぽ:子どもは、「ハムスターのかわりにトカゲを飼うんだって」と、とびついて読みますが、最後花火で終わって、これで終わりかって。もう少し、何かあったらよかったなと思いました。

メリーさん:さっと読めて、おもしろいんですが、全体の流れはどこかで見たような感じがしてしまいました。感想文を書くなら、自分のペットのことを書くんでしょうか。個人的には、ごちゃごちゃしたペットショップのところが、不思議でおもしろいところだと思うので、そこにもっと仕掛けがあったらいいのになと感じました。ただ、本文の記述で、トカゲが「笑っている」ではなくて、いつもぼくにとっては「笑っているように見えた」、というところ、気を使っているなと思いました。子どものすぐとなりに、ファンタジーはいつでもころがっていると思わせるには効果的だなと。

ハリネズミ:私はおもしろく読みました。話の持っていきかたに独創性はないけれど、おもしろい。ペットの愛らしさも意外性も、うまく出てるんじゃないかな。最後のところは、エメラルドが死んじゃうのを、こんなふうに比喩的にあらわしているんでしょうか? 鈴木さんの絵は、鳥の巣の本だととってもていねいなのに、こういうのはサッサと描くんですね。ペットショップのおばあさんは、『千と千尋の神かくし』のゆばーばみたい。感想文を子どもに書かせると、「元気なときもそうでないときも、ちゃんと世話しろ」っていうメッセージにばっかり偏るんじゃないかな。

カワセミ:子どもたちは、題材には興味を持ちますよね。ペットっていうはとても身近だし。

ショコラ:昨年、学級の子どもたち(5年生)紹介したところ、「だんだん大きくなるのがおもしろい」って言ってました。私も、絵も好みだしおもしろい話だと思い、一気に読みました。不思議なお店で買い物をする話も、飼っているものがだんだん大きくなっていく話も、ほかにもあります。おもしろかったけれど、ずっと心に残るところまではいかないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年7月の記録)


ビヴァリー・ナイドゥー『ヨハネスブルクへの旅』

ヨハネスブルクへの旅

ショコラ:今までの高学年課題図書に比べて字が大きくなって読みやすいなと思いました。また、そんなに厚くもなく手に取りやすい気がします。人種差別についてあまり知識がない子どもたちには、南アフリカの歴史について話してから紹介したほうがいいかなと思っています。村の生活の様子、2人でお母さんに会いに行く途中でのいろいろな出来事、社会の壁、社会問題など考えさせる内容がたくさん書かれているので、なかなか感想文が書けない子どもにとっては、書きやすい作品だと思います。

ハリネズミ:原著は、まだアパルトヘイト体制が存在したころに出ていて、なかなか力強い、いい作品だと思っていました。でも、今出すというところに、私は疑問を感じています。大人が読めばアパルトヘイトのときの話なんだって思えるんですけど、たいていの子どもは、歴史も何も知らないでこの話を最初から読んでいくんですよね、今の話だと思って、読んでしまうんじゃないでしょうか。帯の言葉もそうだし。あと、実際の南アフリカのアパルトヘイト下の状況と照らし合わせても、翻訳で気になるところがたくさんあって。20ページの「おねがいだから、主人をよばないで」は、「だんなさんをよばないで」じゃないとおかしい。84ページに「ムバタ家の長男は逮捕されてしまった」とあるけど、ムバタという名字は43ページに1回出てきたきりだから、「グレースのお兄さん」ってしないと子どもには伝わらないだろうな。106ページから107ページで、「母親」と「母さん」が混在しているけれど、何を基準に使いわけているのかわからない。あとがきの115ページに「南アフリカには、もともと、サン人やコイコイ人などのアフリカ人が住んでいました」とあって、そのあとアフリカ人(黒人)とあるけど、この二者の関係がわかるようになっていません。118ページの「二冊の児童文学」は、この続編なのでそう書かないと。それは翻訳者の問題というよりも、編集者がもっと気配りをしたほうがよかったですね。

メリーさん:アパルトヘイトのことは聞いたことがあったけれど、こんなことがあったのか…と思いながら読みました。ただ、みなさんおっしゃっているように、どうして今、これを読ませるのかな、とは思いました。創作だから、内容が現在進行形ということはないですが、この物語は時代的には少し前の話ですよね。アメリカで、オバマ大統領が誕生した影響からかとは思いますが、人種の問題を扱うなら、時代背景の説明も含めて、現代の子どもたちへの手渡し方を考えなければならないのでは?

たんぽぽ:本が大好きな6年生が一晩で読んできてくれて、とても嬉しかったんですが、手渡し方を考えればよかったと思いました。

セシ:前に1回読んだときにわかりにくいと思ったので、今回本当にそうなのかなと思って読み返したんですけど、やっぱりわかりにくいと思いました。まず、主人公が黒人であるということが最初に書かれていないんですね。挿絵を見ると想像はつくんですけど。読書力のある子なら、この姉弟が黒人らしいとか、白人と会うと困ることが起こるようだとか、わかるのかもしれないけど、すぐには想像できません。現地の子どもが読めばわかるように書かれているのかな。ナレディがヨハネスブルクに行ったことで、いろいろなことに気付いて、自分のまわりの現実を再認識し、新しい目で見ていくというのはおもしろいんですが。また、赤ん坊が病気だからお母さんをつれてこなきゃという、旅の動機の部分にも疑問が残りました。おばあちゃんがいるのに、なぜ300キロ以上離れたところにいるお母さんを呼びに行かなければいけないと思うのか? お母さんが来ても、どっちみち病院に連れていくだけなのに。そのへんのところが、もっと納得のいくように書きこんであるとよかったと思います。そんなふうに、物語を読み解く鍵になるところでつまずくような気がします。

ハリネズミ:続編を読むと、おばあちゃんっていうのは現状に対してあきらめムードになっていて、おかあさんはがんばろうとするタイプの人だというのがわかるけれど、この本だけでは伝わってこないかも。

カワセミ:病気の妹を助けるために母親を呼びに350キロの道を子どもだけで旅する。その設定だけでも過酷なのに、道中いろいろな差別の現実を目の当たりにしていくわけですね。主人公ナレディのけなげさや、まっすぐなものの考え方に、読者は共感し、早く母親に会えたらいい、早く妹が助かればいい、と願いながら読んでくけれど、現実はなかなか厳しい。読み終わって日本の読者の心に残るのは、なぜこんなことになってしまうのだろう、という疑問だろうと思います。南アフリカも知らないし、白人と黒人のことも日本の読者にはピンとこないわけですよね。それにこたえるものを与えてくれていないのが、すごくもどかしいっていうのか、わからないままに終わってしまう感じがありました。訳者あとがきを読めば多少はわかると思うけど、あとがきは読まない子もいるだろうし、できれば物語の中で、もう少し状況がわかったほうがいいと思う。続編『炎の鎖をつないで』(さくまゆみこ訳 偕成社)と一緒に読むといいけど、こちらは別の出版社で出ているから、この2冊を続きものとして読むってことはよっぽどお膳立てしないとできない。こういう出版状況は読者にとって不幸でしたね。原書も、なんとかの1とか2とか、続きってわかるようになっているのかしら。

ハリネズミ:1巻目と2巻目は、アパルトヘイトをなんとかしないとという時代に書かれたものです。今の南アフリカは、いろいろな人種の人たちが協力し合う虹の国をつくろうとして、がんばってるんですね。人口で大多数を占める黒人の人たちは、一握りの白人にひどい目にあわされて、命を落としたり家族がばらばらになったり、いろいろな悲劇が生まれたんですけど、マンデラが牢獄から出されて大統領になってからは真実和解委員会というのをつくって、様々な罪を明らかにしたうえで黒人の人たちが「許す」という努力をしているんです。あれだけひどいことをされて、「許す」ことができるのかどうか。今の南アの問題、というか、ある意味先進的なところは、そこなんですね。でも、この本のオビを見ると、アパルトヘイトが今でもあるみたいに思ってしまいます。だから、時代遅れというか、アパルトヘイト後の新たな国づくりの努力には目を全然向けていないというか、私はちょっと残念だな、と思って読みました。

カワセミ:南アは、サッカーのワールドカップ開催で注目している子もいると思うから、南ア関連の本がいくつもある中の1冊としてこれがあるならいいかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年7月の記録)


メアリー・ラバット『しあわせの子犬たち』

しあわせの子犬たち

たんぽぽ:子どもは犬の話が大好きなので、随分読まれています。『こいぬがうまれるよ』(ジョアンナ・コール文 ウェクスラー写真 つぼいいくみ訳 福音館書店)みたいで、生まれてくるところは、いいなぁと思ったのですが、もらわれていく先が、もう少し変化に富んでいたほうがおもしろかったかな。

セシ:私もちょっと物足りない感じ。とっつきはいいし、犬が生まれるところは興味深くて、出産を通して命のことを考えさせられますし、それと並行して、おばあちゃんが町に住みたがらないという二つめのストーリーがあるのはおもしろいんだけど、最後の終わり方がいまひとつ納得できませんでした。「おばあちゃんに必要なものは、愛するものなんだってことが。(中略)子犬は、なにより愛しいものだもの」で終わってしまうのはどうなのかなって。このおばあちゃんは、愛するものがいれば元気に暮らしていけるのかしら? 安心して読めることは読めますが、あまりにもありきたりというか、意外性のない終わり方だと思いました。もうひとひねりあったらいいのにな。

ハリネズミ:中学年向けの物語だから、あとひとひねりはなくても、ワンテーマでもいいんじゃないかな? 表紙がかわいらしくて、犬ブームに便乗して出したのかと懐疑的に読んでいったんですが、意外におもしろかったんです。作者がブリーダーをしているせいか、犬をもらってもらう苦労も描かれ、実際の体験に裏打ちされた作品なんだな、と好感が持てました。おばあちゃんとエルシーとの関係もうまく伝わってきます。最後は、6匹みんながもらわれてしまうと、読者も寂しさを感じると思うので、1匹残る設定にしたのはよかったな、と思いました。おばあちゃんもこの家に住みたいわけですから、この終わり方でいいんじゃないの?

メリーさん:個人的には、プリンセスが最後までもらわれずに残るのかな…と思って読んでいました。犬の引き取り手をさがす本は、フィクション、ノンフィクションを問わずたくさん出ています。命の大切さを伝えるという点では、子どもにこういう本は受け入れられやすいのかなと思いました。それから、ノンフィクションは残酷なところも含めて、現実を見つめるのに最適だと思いますが、安心して読めるという点では、フィクションを手渡すのもひとつの手かなと思いました。

ショコラ:学級の子ども(6年生)に紹介しました。「どこがいちばん心に残ったの?」と聞いたところ「犬の生まれるところがわかった。」と言っていました。子どもたちは知っているようで案外知らないんだなと思います。国語科「本は友だち 読書発表会」では「出産の場面が心に残りました。人を結ぶのに動物が必要なんだとわかりました。」と話していました。犬は家庭のペットとしてだけではなく、社会で活躍する・仕事をする犬がたくさんいます。また「コンパニオン・ア二マル」(伴侶動物)として生活している犬もいます。子どもたちはこの作品を通して「コンパニオン・ア二マル」を知り、人と人とのつながり・人と動物とのつながりを考えるのかなと思いました。6匹の犬の性格や特徴がていねいに書かれており、かわいい犬の表紙のおかげで、子どもたちは手に取りやすいと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年7月の記録)


ナンシー・エチメンディ『時間をまきもどせ!』

時間をまきもどせ

ショコラ:最後はハッピーエンドになるんだろうなと思って読んでいました。ハラハラドキドキしながら読みましたが、タイムマシンってこんなに簡単につくれるのかな、というのが疑問。課題図書は、字が細かいしあんまりおもしろくなくて「うん?」っていうのが多かったけど、中学生も手に取りやすいおもしろい内容の作品が今年は課題図書になってよかったなって思いました。

たんぽぽ:これを読んだ子が、今度は『テレビのむこうの謎の国』(エミリー・ロッダ著 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)を読みたいと言います。どちらも表紙が黄色で、同じ画家が絵をつけているからでしょうか。両方とも子どもたちにはとても人気です。違う場所に行くというのが、子どもを強くひきつけるようです。私は最後、足に障害が残らなければよかったのになぁと思いました。

メリーさん:読みごたえがあって、とてもおもしろかったです。タイムマシンものは、それこそ数え切れないほどあって、過去のどこかをいじってしまうと、それが現実の何かに影響を与えてしまう、というのは永遠のテーマです。今回は、最後にその運命を自分の身に引き受ける主人公が、とてもよかったです。失ってみて、はじめてわかること。過去に戻るたびに、自分ではないだれかが不幸にあってしまうこと。単純に正義のヒーローではなくて、試行錯誤をしながら、何とか未来を変えようとするうちに、自分も変化していく。SFはタイムスリップの仕掛けに目がいきがちですが、この物語では、主人公の成長の過程がおもしろかったです。一点、「パワーオブアン」の「アン」は最初、人の名前かと思って読んでいたので、訳語は要検討かなと思います。

ハリネズミ:私はおもしろくて、ぐいぐい引き込まれて読みました。ただ、大人のSFものって、過去をいじれないっていうのが法則としてあるじゃないですか。これは、その辺が甘いんですね。それに、おじいさんが機械を渡しにきたっていうのが、何のためだったのか、考えてもわからなくて、そのあたりをちゃんと書いてくれないと、子どもの読者に失礼なんじゃないかと思いました。この作家は、大人向けを書くときと子ども向けを書くときで、心構えが違うのかしら。私も「パワー・オブ・アン」は、やっぱりちゃんとした日本語にしてほしかったなって思いましたね。

たんぽぽ:おじいさんが渡しにくるところは、なんだろうって、考えちゃいますよね。小学生だと、そこまで考えないかも。中学生だと考えるのかな。

ハリネズミ:小学生でも、すごく読んでる子なら考えるんじゃないかしら。それに、小さい子向けだから、そこはあいまいでもいいや、と作者が万一思っているとしたら、悲しいな。

カワセミ:起こってしまったことをリセットできたらいいっていのは、だれでも1度は考えることでしょう。どこにでもいるような男の子のありきたりな日常生活のなかに起こった不思議なできごととしておもしろく読めるんだけど、結構シビアな内容も含まれている。私はこの本って、本来はもっとホラー的なおもしろさのある本なんじゃないかって思うんですよね。杉田さんの挿絵は明るくて好きだけど、この作品に本当に合っているのかな? 明るく楽しい話にしてしまってよかったのかな? もっと大人っぽい、しゃれたつくりにしたほうが、合っていたんじゃないかな。

メリーさん:97ページに機械の絵があるんだけど、モードに対応してなんかあるって言っているから、ちょっと違うんじゃないかって思いました。絵はぱっと見、イメージ違いますよね。

ハリネズミ:こわいところは、ありませんね。

カワセミ:エンデの『モモ』みたいに、ちょっとこわいところ、不気味な感じがあるじゃないですか。それを出したほうがいいのにね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年7月の記録)


瀬尾まいこ『戸村飯店青春100連発』

戸村飯店青春100連発

サンシャイン:関西弁で、調子よく読めました。兄と弟の書き分けはよくできているという印象です。兄は父の商売と家の置かれた環境がいやで東京に出たのに、結局は戻ってきて、反対に家を継ぐのが決まっていると思われていた弟は出て行くという意外なオチで終わるのがおもしろい。ああこういうふうに終わるのか、うまいなと思いました。

メリーさん:瀬尾まいこさんはけっこう好きで『卵の緒』(新潮社)から読んでいますが、この本は、これまでのやわらかい感じの物語とは違って、新鮮な印象を受けました。最初は要領のよさからヘイスケが勉強の道、弟が料理の道に進むのかと思ったら、最後はまったく逆の展開になっていたのがおもしろかったです。サブのキャラクターでは、古嶋君がいい味を出していました。ちょっととぼけているけれど、根はいいやつ。ヘイスケが自分の気持ちを自然と言えたのも、このキャラクターだったからこそだと思います。ひとつ感じたのは、全体的に人物が幼いかなというところ。登場人物は高校2年と3年なので、描写はもっと大人っぽくてもいいのかと思いました。それから、アリサや岡野など女性陣がもう少し魅力的だったらよかったなと思いました。

げた:結末で流れが変わって、兄弟の行く末が入れ替わったのがおもしろかったし、青春小説としてうまくまとまっているなと思いました。兄弟の将来の可能性や将来への広がりが感じられたのはよかった。関西弁での展開にもかかわらず、登場人物のキャラクターはどの人もわりとあっさりしていて、さらっとした感じですね。ぐっと深く読ませるという本ではないけど、こういうのもあっていいかな。

うさこ:おもしろく読みました。ヘイスケの自分が今いるところに対する居心地の悪さ、自分への違和感がよく描かれていました。ヘイスケ像が、コウスケの目や両親、戸村飯店へ集まる人々、東京で出会った人々の目を通して、多面的に描かれていておもしく、人物描写が細かくてうまいなと思った。お父さんが二人の兄弟を見分けながら、例えば、ユウスケの高3の進路相談へやってきた場面、ヘイスケが上京するときに渡した封筒に入っていた手紙の内容から、この兄弟のそれぞれの性格に合わせて父性を発揮しているところもおもしろかった。たしかに17歳、18歳の男性としては幼い感じはしなくもなかったけど、わりと男の子は単純な面もあるので、これでもいいのかなと思いました。私は大阪弁のものは大阪弁のノリのよさに飲み込まれ、本質をごまかされたような気持ちになってしまうんですけど、この作品に関しては、いい意味での大阪人の関係の濃さ、かかわりの重さがその軽妙な会話や行動などからもよくわかってよかった。大阪という土地やそこに集う人々、戸村家の家族、その中で育てられたこの兄弟……とても「おもろい」作品でした。

カワセミ:兄の側から書いた章と弟の側から書いた章が交互に出てくる構成がうまくできてました。最初に、弟が兄ヘイスケはこういう奴だ、と描写するんですけど、兄のほうの章を読み進むうちに、実は弟の考えていたような人ではなかったことがわかってくるところがおもしろいですね。弟のほうも、兄と離れてみて初めて見えてきたことがある。同じ家に育った兄弟なのに全く違う2人の兄弟関係がおもしろいと思いました。また兄弟それぞれを取り巻く人々の描写が的確で、リアリティがありました。短い言葉で人となりをちゃんとつかんだ表現がとてもうまい。文章のノリがよく、端々にユーモアのあるつっこみが含まれており、いちいちおかしくて笑ってしまいました。大阪弁のせいもあるでしょうが、読んでいてとても楽しい気分になる小説で、おもしろいよ、と気軽に薦められる感じ。

クモッチ:この作品は、坪田譲治文学賞を受賞していて、その選評欄に「タイトルが内容と合っていない、おそらく編集者が考えたのでは」というようなことが書いてあったんです。確かに「100連発」というのは、勢いはあるけど、内容としてはどうなのかな? でも、とても楽しく読める作品。そつなくこなすけどあまり理解されていない兄のヘイスケと、自分の立場とか家族のことをわかっているつもりでいて、じつは自分が何をしたいのかつかめていなかったコウスケ。ふたりがどのように、自分の道をつかんでいくのかが、とてもよく描かれていました。文章のちょっとした表現の巧みさに、この作家さんのすごさがわかる。たとえば、110pでピアノを弾く友達の家に行くところ。「おふくろはなぜかうれしそうだった」という一文があり、ん?と立ち止まらせる。家の手伝いをするばかりだった息子が、世界を広げていくのがお母さんにはうれしかったからなのかな。ここはコウスケが結局は大学に行くことになる伏線か、とも思います。また、兄が「コウスケには向かう場所がある。帰る場所がある」というのも、兄の気持ちがあらわれたいい文章だなあと思いました。

ハリネズミ:とってもおもしろかった。大阪弁がうまくきいてますよね。弟が兄を見る目がだんだん変わっていくところにしても、読者も一緒にだんだんにわかってくるのがいいなと思いました。あえて疑問を言えば、岸川先生はちょっとよくわからなかった。ほかの人はみんなリアリティがあったのに。それから、ヘイスケが料理の道に目覚めていくところなんですけど、最初にカフェレストランにつれていかれて不満に思うところが、ちょっとありえないかなあ、と思ってしまいました。ただ、味に深みがないとか、イマイチおいしくないと言うなら自然なんですけど、家ではまったく手伝ってないのに、「鶏の照り焼きは…焼く時にみりんとしょうゆで味をつけてるだけで、下ごしらえができていない」だとか、「レタスは調理する少し前にまとめて洗ったせいだ。苦みが出てる」なんてことまで言えるなんて。細かい編集上のことでは、5pのうしろから7行目、「岡野にふてくされて」は、その後に「俺は岡野の機嫌を取り戻そうと」とあるんで、「岡野にふてくされられて」じゃないかな? 59pの「古嶋たちは驚いてたけど、瀕してるから仕方ない」は「貧してる」の誤植? だけど、そんなところもあんまり気にならないくらい、とにかくおもしろかったです。

ショコラ:楽しくおもしろく読みました。お笑い系がブームなので、今にマッチしているなと思いました。どこにでもいる兄弟だけど違っていて、かかわっている周り人達との関係がおもしろかったです。兄に対する岸川先生のかかわりは、ちょっとわかりにくかったけど。アンチ巨人が巨人ファンだったり、ディズニーランドを「アメリカからやってきた遊園地」といい、ミッキーマウスを「こまっしゃくれたねずみ」なんていうのも、おもしろい。水兵さんの格好をしたあひるのいる遊園地なんていう表現もね。私のクラスで特に本をよく読んでいる女の子(6年生)にこの本を勧めました。読書後、兄弟についての感想を聞くと「まじめな人はエイプリルフールにうそをついても信じてもらえる、お兄さんはそういう人」と言っていました。小説家はどこでも小説を書くことができるから、兄は落ち着けるところに落ち着いたのかしらね。

うさこ:鶏の照り焼きのところ、すごく大切なシーンだ、と私は捉えました。というのは、ヘイスケは戸村飯店の厨房を避けていたが、実は調理のことが気になって、ちらちらと盗み見したりしてこういう知識があったのではないんでしょうか。

クモッチ:2回くらい怪我をして料理をやらなくなったと弟は思っていたのに、兄は実はそうではなかったわけね。

ハリネズミ:天才的に味がわかっちゃう人だったという描写ならわかるんですが、鶏肉の臭みをとる方法などは、実際にやったことがなければわからないから、私はリアリティがないと思っちゃったのね。

カワセミ:実は興味があってお父さんの話をこっそり聞いていた、というような場面がちょっとでもあればよかったのよね。

サンシャイン:アリサ先生は年上で専門学校の生徒に手を出すという設定ですか……お兄ちゃんはもてるんでしょうね。年上にももてる子だということなんでしょうね。でもアリサさんがお兄ちゃんに突然からんだりするから、私も人物像がよくわかりませんでした。

ハリネズミ:この先生みたいな人はいるかもしれないけど、ほかはみんないいキャラなのにこの人だけちょっと嫌な人。メインなキャラじゃないんだけど、もう少し書いてもらえると、人となりもわかって、さらに奥行きが出たんじゃないかな。

ササキ:3冊の中では、これが一番おもしろかったです。先月の『となりのウチナーンチュ』と比べると、大阪にはファンタジーがいらないな、と思いました。お兄ちゃんが最後にウルフルズを聞いて大阪に帰るというのも、大阪だからなのかな。キャラクターはふたりとも変に突出したところがなく、フラットなのがよかったと思います。

サンシャイン:「大阪」とひとまとめで言うな、と怒られることがあります。北と南でだいぶ違うようです。この本の舞台は通天閣の近辺の相当狭い世界のことを書いているのかと思います。こてこての関西、と言うんでしょうか。

ハリネズミ:さっき書名の話が出ましたけど、『戸村飯店青春物語』だったら、つまらなかったね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)


サリー・ニコルズ『永遠に生きるために』

永遠に生きるために

サンシャイン:いい本だと思いました。内容は重たいし、結末も見えているけど、誰にも答えてもらえない質問をはっきりと書いてあります。大人も含めて誰でも持つ質問だし、そこが丁寧に列挙されていると思いました。それまでは、息子の死という現実に向き合うの避けていたお父さんが、息子と心から話し合い、息子の望みだった飛行船に乗せてあげるよう取り計らう。息子の心に寄り添っていくところが、感動的でした。ただ、主人公のキャラクターとして納得できる作品になっているのかどうか、人物描写については疑問の所もあります。死を扱った内容としてはいいという評価です。原題からいうと、どうやったら生きられるか、永遠に生きるための方法、という意味なのでは?と思うと、永遠に生きるために、という日本語訳に違和感を覚えました。

ショコラ:すごくきれいな感じ。おもい内容なのにさらりと書かれ読ませるところがすごいと思いました。目次がとても細かくわかれていたり、興味をひくリストがあったりなど工夫がありました。「死後どうなるんだろう?」など、子どもたちが読むと、受け止められる部分がいっぱいあるのではないかと思いました。外国の作品だからさらりと読めるのでしょうか。死を迎える部分では涙が出ました。この作品のように人は亡くなるんだという現実味のある作品として読みました。

メリーさん:病気と闘う子どもの物語は、フィクションでもノンフィクションでもこれまでたくさん出版されてきています。この本は他の作品とどう違いを出しているのか、というところに注目しながら読みました。書き文字が随所にあって、主人公がノートに書きつづったものを読者も読んでいる、という形にしたところは新しい点なのかなと思いましたが、内容的には、あまり目新しさはありませんでした。物語の最後で、家の外に出て星を見ることで、宇宙に行ったつもりになる、そういう、子どもの発想の転換で世界が変わって見えるというようなことを、もっと描いてほしかったです。

げた:子どもが先に死んでいかなければならない不条理な出来事を、深刻で重たくならないようにするため、子どもの書いた物語風の日記というスタイルによって、つづっていくという試みがうまくいっていると思います。感傷的になり過ぎず、科学的に突き止めようとしている少年を通して、死というものに正面から取り組んでいる作品ですよね。中学生くらいが主な読者だと思うんだけど、生や死を考えるきっかけになるんじゃないかな。

うさこ:この作品、フィクションですよね。本当にあった話をもとに書いたわけではないですよね? 最初7ページの6行で、もうこの話の内容と結末は明示されている。読者としてはこの6行の行間というか中身を読むんだと思って読み始め、結末はどう処理するのかな、と思っていたら、最後…304ページを開いたときのインパクトは強かった。でも、読み終えて、作者はどうしてこれを書きたかったのかな?と、よくわからなかった。未成年の死を見つめることで、生と死、生命、生きていくことの理不尽さを作家が哲学的に、または科学的にあるいは精神世界観として自分で自分に問いかけ、たどりついたのが、この作品を書くことにつながったのかな、と私なりに解釈したんですが…。
小タイトルの日付があるところとないところの区別がはっきりしていないのも気になりました。日付があるところは、明らかにその日のできごとを綴った日記として読めるのだが、日付がなくても日記的なところがあるし、回顧風につづったもの、おばあちゃんから聞いたおじいちゃんの死後の話という非科学的なもの、ぼくの願望、魂の重さを計った医者の話しという科学的なもの、「死ぬってなあに」など哲学的なものなど、この日付のない章がどういうもの位置づけなのか、私としてはすっきりしなかった。

カワセミ:読んでいて、とてもつらかった。うまく作られているとは思うけど、これはドキュメンタリーではなくてフィクションですよね。こういう境遇の子どもがここまできちんと頭の中を整理できるものなんでしょうか? まっこうから死に向かっていくことができるんでしょうか? フィクションとしては、どうなんでしょう? 訳者あとがきに「これは『サムの書いた』本。でも、お気づきですね? ほんとうは『サムの書いた本を書いた』人がいるのです。」と書いてありますが、これは言っちゃいけないでしょう。フィクションのいいところは、たとえ作り物であったとしてもそう感じさせずに、読者が本当にその登場人物がいるように思って心を寄せて、体験を共有できるところにあると思うので、あとがきでこんな言葉は不必要。つらい物語ですが、救いとしては、おばあちゃん、ウィリス先生、看護師のアニーの3人が、変に病人扱いしないで、対等に扱ってくれる頼もしい大人だったこと。子どもにとっては安心感になると思う。父母は、弱い面を見せてしまい、主人公のほうが逆に気をつかってしまうところがあったので、この3人の存在には救われました。

クモッチ:こういう分野の本は、自分の趣味では選ばない類の本なので、免疫がなく、よって、読むのがつらく、また衝撃的でした。特に、おばあちゃんが先に死んだ友達の遺体を一緒に見に行こうというところはとても重要だし、インパクトがありました。また、お父さんが主人公とともに生きようとしはじめるところは、よく描かれています。家族が同じベッドに寝るシーンは涙が出ました。病院で死を迎えることが多い中で、つらいけれどもいい場面だと思ったんです。以前に哲学の本を読んだときに、「死を考えることは生を考えることである」と書いてあって、あまりの飛躍によくわからなかった経験があるんだけど、この本を読んでみると、それがどうしてなのかよくわかる気がしました。

ハリネズミ:私たしはひねくれた人間なので、みなさんほど感動しませんでした。4月12日の日記(p303)の最後で「眠りに引き込まれていった」とあって、その後「サムは永眠しました。4月14日の午前5時30分ごろ」と、親が書いている体裁になっているので、サムはこん睡状態のまま死んでしまうんじゃないのかな。でもね、もう一度よく見ると、冒頭に「これは、ぼくの書いた本だ。月7日に始まって、4月12日で終わる」って書いてある。サムは最後の日記を書いたあと、意識を取り戻して、冒頭のこの文章をつけたってこと? 後書きを見たら、著者が大学院の創作文学科で書いた作品だと書いてあったんですけど、内面的な必然性もあまりないままに、「読ませてやろう」というあざとさ前面に出てしまっているように思って、私は気分よくなかったですね。訳もいまいち。たとえばp257に「リスト その9 ぼくのベストテン」というのが、現在形で書いてあるんですね。だけど、ここはサムが今までやってきたことの中でいちばん楽しかったこと、っていう意味なんでしょうから、過去形にしたほうがよかった。それに、同じリストのことがp255には「〈気分は最高〉」となっているんだけど、同じ名前にしないとまずいわよね。p280の「エラは、よい子のブラウニーの、いつもの仕事にとりかかる」も、これだけではよくわからない。

ササキ:私は、純粋に11歳くらいで死んだらどうなるんだろうと思って、とてもおもしろく読みました。死を扱う作品はたくさんあると思いますが、同世代の子たちはどう読むんでしょう。

げた:リストと質問が、本当に親としては身につまされましたね。特に、「ぼくのやりたい8つのこと」の中に「高校生になること」ってあるのにはぐっときましたね。

メリーさん:主人公がインターネットで調べてというくだりがありますが、作者自身も案外そんなところから入ったのではないか、ということが透けて見えました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)

このやりとりに対して、訳者の野の水生さんから抗議のメールをいただきました。ここにご本人のご希望に沿って全文を掲載させていただきます。
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こんにちは。『永遠に生きるために』の訳者です。
迷いましたが、みなさまのご批判に対し、訳者として、思うところをお伝えすることにいたしました。さくまゆみこさんのホームページ、しかも、子どもの本におくわしいプロのかたがたの座談会の記録とあれば、読まれたかた(子どもたちも読むでしょう)への影響力は小さくないと存じます。とくに、ハリネズミさんの例に見る、具体例を挙げての批判の言葉は、それがじつは的はずれなものであっても、読者に対し、奇妙なほどに説得力を持ちますので。

*サンシャインさん。ご承知と思いますが、どんなジャンルの本であれ、邦訳版のタイトルは、原題の<日本語訳>とはかぎりません。原題からかけ離れた邦題になることだって、めずらしくはないのです。<原題からいうと〜という意味なのでは? と思うと、永遠に生きるために、という日本語訳に違和感を覚えました>とのお言葉に、わたくしは違和感を覚えました。また、邦題は、訳者の一存で決められるものではなく、出版社側(編集以上に営業)の意向が非常に強く働きます。もし、「この邦題は、このものがたりを言い得ていない」とのご批判なら、少なくとも言葉の矛盾はありません。でも、「永遠に生きるために」は、サンシャインさんのおっしゃる「どうやったら生きられるか」「永遠に生きるための方法」いずれの意味をも含んではおりませんか? わたくしは、この邦題にしてもらってよかった、と思っています。

*ショコラさん、メリーさん、げたさん、ご感想、ありがとうございます。

*うさこさん。<作者はどうしてこれを書きたかったのかな?と、よくわからなかった> わたくしも、うさこさんと同じです。原書を手にしたときから、とまどいがありました。訳しながらも、作者への釈然としない思いがつねに心にありました。「フィクション」と「病を得て死にゆく子どもの日記帳」の取り合わせを、作者のその選択を、なぜ? と問わずにはいられなかった。でも、登場人物ひとりひとりを愛しく思い、その体温までも身近に感じ、わたしのなかで、サムやみんなは、たしかに存在しています。だからそれでよいのだ、と思えるようになりました。
日付のあるところとないところの区別については、サムが最後に、一冊の本になるよう、一生けんめい編集をほどこした、とだけ申し上げておきますね。p279「ぼく、ウィリス先生と、この本のことでちょっといそがしかったんだ。リストや日記やものがたりをどういう順にならべるかを、相談しながらきめていた。」

*カワセミさん。<ドキュメンタリーではなくてフィクション><フィクションとしては、どうなんでしょうか?>というお言葉と、<フィクションのいいところは>に続くお言葉が齟齬をきたす、とわたくしには思えてしまうのですけれど、おそらくは、訳者あとがきの件とはべつに、カワセミさんは、このお話に、<本当にその登場人物がいるように思って心を寄せて、体験を共有>することはできなかった、ということでしょう。
訳者あとがきの件について。「これは『サムの書いた』本。でも、お気づきですね? ほんとうは『サムの書いた本を書いた』人がいるのです。」この部分だけ取り出して提示されたら、たしかに、なんだそれ? ことさらになにを言うか、とわたくしだって思います。カワセミさんの感想を読まれたかたも、みなさん、びっくりされたでしょう。が、文脈というものがあります。全体というものがあります。この直後に来る文章は、「その女性、サリー・ニコルズさんのことを、少し述べておきましょう。」訳者あとがき後半の、作者紹介への導入です。著者紹介を避けるわけにはいきません。デビュー作であり、新人ですから、なおのこと。また、本文と訳者あとがきのあいだには、著者による「謝辞」があります。このものがたりが生まれる過程でお世話になった人々への感謝の言葉がならんでいます。謝辞原文の最後には(邦訳版では省きましたが)、サムの手書き文字を書いてくれた人、その他の手書き文字を書いてくれた人、サムの描いた絵、エラの描いた絵、父さんの描いた絵を実際に描いてくれた人々への感謝の言葉すらあります。これはつくりものです、作者は私です、と言っているようなものですね。お話がお話だけに、この謝辞は余韻を損なう、邦訳版では不要では? との判断のもと、出版社が割愛の申し入れをしましたが、著者の了解を得られませんでした。でも、フィクションであり、作者がいるということは、本を手にしたそのときに、読者は了解しております。そのうえで、作品世界にどっぷりつかって、登場人物と泣いたり笑ったりするのです。ですから、<これは言っちゃいけないでしょう。フィクションのいいところは、たとえ作り物であったとしてもそう感じさせずに>云々のお言葉は、訳者あとがきの「部分」だけを取り出したうえに、無関係の二つのことを理不尽に関連づけておられる、とわたくしには思えます。

*クモッチさん。わたくしも、<自分の趣味では選ばない類の本>かもしれません。その本を、こんなふうにまっすぐ読んでくださって、ありがとうございました。

*ハリネズミさん。<サムは最後の日記を書いたあと、意識を取り戻して、冒頭のこの文章をつけたってこと?> 当然です。そうでなければ、このものがたりは成立しません。読者がそこを見逃さないよう、訳者あとがき冒頭に、巻頭のサムの言葉を持ってきました。「巻頭に置かれたこの言葉が、いつ、どのような覚悟のもとに書かれたものか、おしまいまで読まれたかたはお気づきでしょう。ひとつの命が、旅立ちの時を悟って、最後の最後に記した思い……。」と書きました。それでもなお、こういう疑問をいだかれてしまうのか、と愕然とする思いです。しかも、子どもの本のプロの読み手(書き手?)であるかたが。 さらに申し上げるなら、かりに巻頭の言葉がなくっても、4月12日の日記は、実際に「眠りにひきこまれていった」あと、ふたたび目覚めて、そして書かれたものなのです。そのまま昏睡状態に陥ったなら、両親とベッドにいる様子も、最後の一文「ぼくはふたたび目を閉じて、眠りにひきこまれていった。」も、書けるわけがないですから。巻頭の言葉は、4月12日の日記を書いたあとで(すぐに書いたか、また少し眠ったあとで書いたのか、はわかりませんが)、最後の力をふりしぼって、サムが記したものなのです。
p257の「リスト その9 ぼくのベストテン」の件。<ここはサムが今までやってきたことの中でいちばん楽しかったこと、っていう意味なんでしょうから、過去形にしたほうがよかった>とありますが、サムはまだ生きています。また自転車にも乗れる、飛行船も操縦できる、そうした思いが現在形にこめられていることが、おわかりになりませんか? リストの最後、「どんなことでもぼくならできる、と感じること。月へだって行けるんだ、と」 これも、「感じたこと」と過去形にすべきである、と、本気でお思いになるのでしょうか。(ちなみに、10のリストのうち、原文が過去形のものは過去形、現在形のものは現在形で訳してあります。)
<同じリストのことがp255には「<気分は最高>」となっているんだけれど、同じ名前にしないとまずいわよね。> いま一度、ご確認ください。p257とはまったくちがうリストです。p255の本文では、ぼくの飛行船体験<気分は最高>第一位〜三位が挙げてあるのです。
<p280の「エラは、よい子のブラウニーの、いつもの仕事にとりかかる」も、これだけではよくわからない。>の件。この文章だけ取り出されたら、たしかにわかりにくいですね。が、「いつもの仕事」がどんなものかは、すぐに描写が始まりますし、ブラウニーについてなら、p50に、「エラは、ブラウニー−−ガールスカウト年少組−−の精神で、かいがいしくお手伝い。母さんにティッシュをわたす。」との説明が、すでにあります。読み飛ばされたのでしょうか。
ご自分の読み方にこそ問題があるというのに、具体例を挙げて的はずれな批判をしたうえ、「訳もいまいち」と切り捨てる。たとえ内輪のおしゃべりでも聞き苦しいかぎりですが、不特定多数にむけて発信されるネット上でこれほどまでの無責任な物言いをなさることに、ただただ恐怖を覚えます。チェックもせずに掲載されたさくまゆみこさんの責任をも問いたい。

*ササキさん。わたくしも、同世代の子どもたちはどう読むのかしら、と、そこがいちばん気になります。ご感想、ありがとうございました。
不特定多数にむけたネットの世界。批判の対象とされる者のみ名前を出され、批判する側は匿名というのは、アマゾンのたぐいなら致し方なくても、このような場では、明らかにアンフェアであると存じます。しかも、公開されるのは、ときに悪意やおごりを感じる内輪のおしゃべり。いやしくも言葉をなりわいとしておられるのなら、いずまい正し、本名を明かし、緊張と覚悟をもって他者の作品に向き合われ、言葉を発信されますように。
さびしい、と感じます。
2010年1月8日  幸田敦子(野の水生)

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◆これに関してですが、掲載責任者のさくまから一言申し上げます。私は、この読書会は「言いたい放題」と敢えて名づけているように、その場では何でも言えるようにしたいと思っています。とくに、今の児童書界では内輪ぼめも多く、言いたいことも言えないでいる雰囲気もあり、その中では「内輪のおしゃべり」が果たす役割もあるかと思っています。また自分がいいと思う本でも他の人は否定的だったり、その逆だったりすることはしょっちゅうあります。おかげで本の読み方は人それぞれだという当たり前のことに気づいたり、自分の読み取り方が不十分だったことに気づいたりするいい機会にもなっています。
◆参加者は、書評をする時と違い、1回しか読んでいない場合も、あるいは途中までしか読んでいない場合もありますが、その場合でも、その時点での感想を述べております。また、たとえば肯定的な意見が続いた場合は、次の発言者が、敢えて引っかかる点について述べる場合もあります。ただし、どんな場合でも悪意やおごりから発言している人は、私が知るかぎり一人もいません。
◆また「言いたい放題」の一方では、どんな本でもかかわる人たちは一所懸命につくっているのだろう、という思いもあり、掲載時には客観的ではない意見とか事実と違う点などは気をつけてチェックしてきたつもりでした。ただ、今回そのチェックが十分でなく、不適切な表現のままで出てしまったことに関しては野の水生さんにおわびをいたします。不適切な部分は削除あるいは訂正したほうがよいかとも思いましたが、野の水生さんは「一字一句そのままに」掲載しておくよう言っておられますので、敢えてそのままにしておきます。
◆野の水生さんは、このページの影響力を過大評価してくださっているようですが、力のある本は、どんなところで何を言われようと多くの読者を獲得していきます。私個人のささやかな経験で言うと、日本最大の購読者をもつ大新聞の書評で、私の訳した絵本の訳がよくないと批判をされたことがあります。その時は、その理不尽な書かれ方に大きなショックを受け、しばらく寝込みました。でも、その後この絵本は翻訳絵本賞をいただき、今でも多くの方に読んでいただいています。『永遠に生きるために』も多くの読者をこれからも獲得していく本ではないでしょうか。
◆匿名性についてですが、メンバーの中には、たとえば出版社勤務の編集者、あるいは著作権者や出版社とかかわりを持つ者のように、名前を出したら参加できない(自分の社で出した本、あるいは知人の出した本については褒めるしかなくなりますから)者もいます。なので、今後も匿名にはこだわりたいと思います。ただし、このページを読まれる方が「悪意やおごり」から発言していると思われることのないよう、今後もさらに充分注意したいと思います。
◆読書会記録を掲載することにしたのは、いろいろな方たちとの意見の交換ができればいいな、と思ったからでした。なので、「もっと緊張と覚悟をもって他者の作品と向き合いなさい」との野の水生さんからのご意見は、とてもありがたいご指摘です。そう思ってやってきたつもりですが、ちょっとチェックが甘くなっていました。今後はさらに気持ちを引き締めて、よりよいかたちで掲載できるようにいたします。また野の水生さんからのメールで、この作品についての理解がさらに深まったことについても感謝いたします。
(さくまゆみこ)


宮下すずか『ひらがなだいぼうけん』

ひらがなだいぼうけん

げた:第一話「い、ち、も、く、さ、ん」がとてもよかった。絵がいいですよね。文の内容を理解するのに、とてもいい効果になってます。言葉と楽しく遊べる本はたくさんあったほうがいいので、私はお薦めできる本だなと思とました。

うさこ:ひらがな文字のもじならべ、もじで顔の七変化など3話ともそれぞれうまい構成でできているなと思いました。49ページの「へっくしょん」のところがちょっと説明的すぎるかな。69〜70ページももう少しおもしろくできたのかな、とちょっと残念。印象的だったのは、絵の見せ方。絵と文がうまく構成されている。文字がしゃべっているところなど、デザイン的にうまく処理されていて、絵にしづらいところなど描きすぎず、説明的にならずに、とてもよく考えられて絵を配置している。ただ、26〜27ページなど、異国の感じがします。日本語や、日本のことばをあつかった作品なので、もっと和風な感じのほうがよかったかな、とも思います。

カワセミ:この本は、小学校でちょうどひらがなを全部習ったばかりの子にとっては、とてもおもしろく読めるのではないかと思います。幼年童話というのは、まじめすぎておもしろみがなかったり、逆にあまりにもくだらなかったりして、薦めたい本がなかなかない分野なんですけど、この本は、このおしゃれな感じがなかなかいいと思いました。字を覚えはじめた子どもって、文字を形としてとらえるところがあるので、そういう興味によく沿っている。「へ」と「く」が似ているとか、「わ」と「れ」を間違えやすいということは実感があると思うのでおもしろく読めると思います。ただ、「さ」を反対にすると「ち」になるというところは、わかりにくいのではないかしら。「さ」は続けて書く形では習わないので、おかしいと思うのでは? また、「ピーターパン」が「ピーターペン」になってしまうところ、ひらがなの話なのに、ここだけカタカナだからおかしい。ひらがなの文字を文中でも描き文字にしてあるのはわかりやすくてよかった。

クモッチ:NHKのニュースでこの本がとりあげられ、「メールなどで人を傷つけることが多くなっている中で、ことばの楽しさを伝えたい」という内容の作者の言葉が紹介されてました。そういう意図があったんですね。小学生向けの学年雑誌では、ひらがなを子どもに楽しんでもらうための企画として、こういうことはよくやるので、それほどアイデアを新しいとは感じなかったんですが、これが読み物の単行本の企画として成り立つんだというところが新鮮でした。「さ」と「ち」のところは混乱するのではないでしょうか。ひらがなの習い始めでは、鏡文字を書きやすい時期なので、その時期に読む本を作る人は、もっと気をつかわなければならないのでは? 本の背に文字がかくれてしまうというアイデアは、いまいち。たとえば、「はだかの王さま」の「の」だけが黒い文字なので隠れていることがわかる、とありますが、他のところの挿絵では、隠れている文字が黒くないので、なんでかな?と思います。また、「く」の上に「へ」がくっついているが、疲れてきて「へ」に戻ってしまったとありますが、そしたら「へ」と「く」が重なって見えるのではないかな。重箱の隅をつつくようですが、こういうところがきちんとしていないと、子どもだって疑問に思うのではないかしら。

ササキ:文字が視覚的に動いているという効果があって、おもしろかったです。

サンシャイン:さっと読んでしまいました。小学校1、2年の子向きに書かれた作品ですね。教育的効果も考えて作られているのでしょうか。

ショコラ:「へのへのもへじ」タイプの変形がいろいろあっておもしろいです。発想がすばらしい。挿絵の色が落ち着いたトーンでまとまり、絵と文のハーモニーがとってもよく、楽しみながら読めました。文字だけのページがありますが、他のページに比べると、ちょっと1年生には無理かも。話題になっている「さ」の形は、学校で習う教科書の文字とはちがいます。「さ」を教えるときは、左の部分を離して教えるので、「さ」と「ち」は鏡文字にはなりません。そういうところは、とても残念です。

メリーさん:文字そのものが動き出すというアイデアがおもしろいなと思いました。幼稚園のとき、鏡文字をすごくうまく書く友人がいたのですが、小さな子どもはひらがなを文字としてよりも絵として見るのだな、とつくづく思いました。内容では、「へっくしょん」「へのへのもへじ」がおもしろかったです。欲をいえば、最初の物語で、文字があわてていて、最初の文章と変わってしまうところ、意味の違う別の詩になっていれば、なおよかったなあと思いました(むずかしいとは思いますが)。

カワセミ:1年生では少し無理で、ひらがな全部をマスターしたあとの子が読むとおもしろいのかも。2年生くらい? 自分はわかっているから、「これ違うよ〜」って優位に立てる。

げた:幼年童話はキャクターが強烈すぎるものが多いので、こういったものがあるのはいいですね。

ショコラ:この女の子のポニーテールがいつもぴんと上にあがっているのは、子どもに受けるのかもね。

メリーさん:らっちゃんって、本名は何なんでしょう? らで始まる名前、あんまりないですよね?

カワセミ:らっちゃんって、字づらも音のひびきもかわいくていいね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)


ソーニャ・ハートネット『銀のロバ』

銀のロバ

セシ:読みごたえのある作品でした。小さな姉妹が2人で好奇心から兵士に近づいていくという設定なので、読者がいっしょに物語に入っていけるのがおもしろいですね。リアリティですが、ちょっと寓話的に感じられる部分もありました。中尉がなぜ目が見えなくなっていたかとか、国に帰るのをなぜファブリースがそこまで助けてくれようとしたのかとか、理由が書いてあるものの、もうちょっと強い動機づけがあるといいのに、と思いました。そういうところは、リアルにとらえるより、寓話的にとらえて読めばいいのかな。兵士がなぜ銀のロバを残していったのか、いろんな読み方ができるので、ただ行ってしまったというよりも、読者に印象深く伝わりますね。

カワセミ:このお話の舞台は、ほとんどが森の中と姉妹の家の2つだけなんだけど、場面場面の様子がとても映像的にたちあらわれてきました。またその描写が美しくて印象的。冒頭の数ページで、幼い姉妹がどういう子どもか、性格や心理がとてもよくわかるように書いてあって、うまいですね。中尉が語る4つの物語は、どれも物語として引きこまれる要素があります。それぞれが物語全体にどのようなかかわりがあるのか、中尉の人生や考え方に対する示唆があるのだろうか、ということは、はっきりとはわからないけど、著者は読者がどのように感じてもいいんですよと言っているように思えます。4つの話はすべてがロバにまつわる話で、ロバの純粋さ、善、強さなどを表してるのよね。だから4つの話を聞くことで、小さな銀色のロバそのものも、ますます価値が高く思えてくる。最後に子どもたちが中尉を見送るけど、はたして無事に家にたどりついたのか、弟のジョンに会えたのか、それも読者の想像にまかされているところが、いいですね。そのことを言うかわりにある最終章が、また特によくできてます。一見、何の関係もないような、豚を洗う場面、何かを暗示しているかのような黒っぽい虫の細かい描写など、とっても印象に残る終わり方。リアリスティックフィクションの工夫という点でいえば、4つのロバの物語をはさんだ構成や、筋だけを言わないで、まわりの描写を描くことによって場面を想像させるといったところでしょうか。2006年度のIBBYのオナーリストでオーストラリアの優良作品に挙がっています。

ハリネズミ:オーストラリア児童図書賞もとってますよね。

ショコラ:作品の最後の部分でほっとしました。情景描写がていねいに書かれているので、風景、動物、町並み、家の作りとかがイメージしやすかったです。幼いい女の子たちが恐い気持ちをもちながらも、兵士に好奇心で近づいていく心情が、とてもよくわかりました。戦争の悲惨さがよくあらわれ、兵士が戦場で一生懸命がんばって戦っているのがよくわかります。間延びしないように4つの話が入っているのがよかったです。4つの話の最後に兵士の弟ジョンが出てきますが、容態がかなり悪いのだろうなという思いと、兵士が家に帰るころには、ひょっとして亡くなっているのでは、という不安を抱かせます。184〜185ページに「チューイさんは言ってた。このロバは、信頼できる勇敢な人のものなんだって」と書いてあって、ココがロバを見つける。その場面で私もほっとしました。最初は読むのがかったるかったのですが、読んでいくうちに物語の中に入っていき、一気に読めました。ロバに対しても好感を持ち、いい作品だったなと思いました。人間のもつ思いやり、好奇心やワクワク感、兵士の孤独感など登場人物ひとりひとりの内面がよく伝わってきた作品でした。

ハリネズミ:よくできた、いろんなことを語っている作品ですね。若い兵士は脱走兵で目が見えないということだけで、どんな人かそれ以上は描写されていない。弟が病気だという話だって嘘かもしれない。でも、兵士が語るロバの寓話を読むと、人柄が浮かび上がってきます。このロバの物語はどれも愛の物語ですが、戦争と対比されていて、効果的に使われています。それから、この作品はあらゆる意味で嘘っぽくないんですね。それぞれの年齢の子どもの心理が、とてもうまく書けてます。さっきセシさんがリアリティがイマイチだと言ってましたけど、栄養失調で目が見えなくなる場合もあるし、ファブリーズはコンプレックスの裏返しで兵士を助けようとするわけだし、私はリアルだと思いました。どの人間も、安っぽい同情でかかわりあうのではなく、自分の必然性をもってつながりあうというのがいい。しかも、たいへんリアルでありながら、ひとつのあったかい雰囲気の世界をつくっている。すばらしい力量を持った作家ですね。翻訳もうまく雰囲気を出しています。図書館で借りてきて読み始めたのですが、この本はそばに置きたいと思って、私はあらためて買いました。

カワセミ:ただ、この表紙を見て、子どもはおもしろいと思うかな?

ハリネズミ:あんまり小さい子にはわからないよね。

カワセミ:きっと本当のロバの話かと思うんじゃないかな?

ハリネズミ:でも、銀色のロバっていないから。

ササキ:今月の3冊のなかで、私はいちばん入りにくかったんです。間に入った4つの物語が、流れをとぎらせてしまうような気がして。大切にしていたロバを、兵士が最後に残していったのは、帰る不安が薄れたのかなと思いました。兵隊が無事に家に帰ることができたかどうかは読み手の想像にまかされてますけど、このロバを残していったことで、無事に帰れたんじゃないかなと、私は感じました。

紙魚:冒頭、姉のマルセルが「死人をみつけたなんてすごい」と、ときめきます。大人なら一瞬、非常識とも思ってしまいそうな気持ちが、素直に表現されているのを読んで、ああ、この作者は信頼できる、という気持ちになりました。登場する子どもたちの年齢や性格が、そのつど、行動や言葉からそれぞれ伝わってきて、作者が、人物ごとの目線を持って、この世界を書いているのだと安心できました。挿入されている4つの寓話的な物語が効果的で、彩りをあたえていると思いますが、その書式で気になるところがありました。初めの3話は、兵士の語りが地の文で表されているのですが、「よっつめの話」は、カギ括弧を使っています。しかも、カギで始まった文章が、カギで閉じられていないのが続いて、混乱しました。寓話的にする意味でも、この部分も地の文にしてよかったのではないかなと思います。

ハリネズミ:英文では誰かが長い話をしている場合、はじめのカギ括弧だけでつなげていきますが、日本語ではそういう使い方はしないので、混乱を招きますね。編集の人がもう少し注意すればよかったのにね。

メリーさん: 今月の3冊の中で、この本が一番好きでした。兵士と子どもたちの出会う森が、とても象徴的な場所だと思いました。戦争は現実に兵士の心を傷つけているのだけれど、子どもたちの生活はいたって平穏。何だか2つの異なる現実があって、片方が幻想のような……。ロバに関する挿話は、1つ1つが短編小説のようで、とてもいいなと思いました。もう何度となく語られてきたであろう、ヨセフとマリアの話も、「ロバ」というテーマでまた別の視点を与えられて、おもしろいと思いました。やはりリアルなのは、戦争の場面。戦争が国対国、思想対思想だというのは、あくまで幻想で、実際には肉体と肉体、人間の精神と精神の傷つけあいに他ならないことがよく出ていると思います。彼が部下のことをよく覚えようとすればするほど、自分の目的と現実の間に溝が生まれてくる…とてもリアルで悲しい心情がよく描かれていると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年5月の記録)


アンドリュー・クレメンツ『ユーウツなつうしんぼ』

ユーウツなつうしんぼ

ショコラ:頭のいい子ってすごいんだなと思いました。アメリカの学校の生活、兄弟関係、両親の気持ち、学力への取り組みなどが出ていて、現実的なお話として読みました。最後に、『自分の内面を充実させることが大切』と書かれていましたが、子どもたちはこの部分でほっとするのかな。

ハリネズミ:今回取り上げた3冊はリアリスティックフィクションに分類されると思うんですが、どれもファンタジー的な要素を取り込んで、作品に深みを出してますよね。『銀のロバ』は、間に挿入される兵士の物語がそうだし、『となりのウチナーンチュ』は、青蛙神みたいな不思議な存在を登場させるところ、そしてこの作品は、主人公の女の子のノラ自身がそうです。ふつう、通信簿にこだわるのは意味がないって言おうとすると、成績は悪いけど人間的にいい子みたいなのを主人公にするわけだけど、クレメンツは切り口が違う。超天才少女を出してきて、そこから見たらどうなのだろうというふうに書いていく。私は笑いながら読んだんです。リアルでないところはいっぱいあるけれど、現実の問題をとりあげて、子どもの興味をひこうとする工夫があります。ノラのお母さんは、最初ステレオタイプの教育ママかと思わせるんだけど、そうではなくて、1人の大人としてちゃんと書かれている。そこもいい。

ササキ:ノラ自身がファンタジーといわれると、すとんと落ちますね。作者が感じているアメリカの学生が受けなければいけない試験システムへの警鐘とも感じることができました。コネチカット州は裕福な人の多い州なので、それも影響しているかもしれません。ひとつ注目したいのは、学校司書の人がよく書かれている点です。作者自身の経験を踏まえているんでしょうか。日本の作品にはあまり司書が出てこなくて残念です。

紙魚:『こちら「ランドリー新聞」編集部』『ナタリーはひみつの作家』(そちらも田中奈津子訳 講談社)など、子どもたちが新しいことに気づきながら、具体的な力を得て、大人の社会に参加していく姿を描くクレメンツは、大好きな作家です。一歩踏みだそうとした子どもたちに、力をあたえてくれる大人が必ずいるというというのも、すてきです。作家自身が子どもたちへ、自らの大人の責任を示しているようで、安心感があります。ただ、この『ユーウツなつうしんぼ』は、これまでの作品に比べると、ちょっと印象が違いました。「学力」をテーマにしていることもあって、読み終えた後に、具体的なアクションをどう起こせばいいのかわからなくて、もやもやするんです。きっとクレメンツ自身もそうはわかっているのだけれど、「学力」について問いたかったのだと思います。そのせいか、装丁も、これまでの中〜高学年対象というより、もうちょっと上の趣ですね。むしろ、大人が読んで考える本かもしれません。

セシ:テンポよく読めました。だけど、あまりにも頭のいい子のお話なので、読む人は気を悪くしないかな? 両親や先生との子どものかかわり方が、日本とは違うかなと思います。通信簿を読みあげなさいと言われたときに、ノラが拒否して親が根負けしてしまうところとか。このくらい意地っ張りの子もいるけれど、日本の親だったら、親の権威でねじふせるかもしれないな。ただ、今の中学生を見てて感じるんですけど、問題はむしろ通信簿のいい悪いによる自尊心うんぬんよりも、二極化した子どもたちが、学ぶことに対してあまりにも無関心になってしまうこと、大人の示す価値に後ろ向きなまま育ってしまうことにあるように思えるんです。とすると、そういう子たちの多くはこの話では救われない。

紙魚:これまでのクレメンツの作品だと、主人公の行動をおもしろく読んでいくうちに、自分もその気になって何か私にもできるかも!と思わされるのだけれど、今回のはそれが持ちにくいんですよね。

カワセミ:成績や通信簿のことは日本の子どもたちにとっても大きな関心事なので、その点ではおもしろく読めると思うけれど、主人公のノラの考え方があまりにも大人びていて、あまり共感できないのではないかと思ったんです。学校では、成績のよしあしによって、何もかも決められてしまう。成績の悪い子は自分はバカだと思い、良い子はますます鼻が高くなっていく。成績にふりまわされて、どの子も競争したり比べたりし始める。親や先生は子どもを支えてくれるはずなのに、がんばれがんばれってもっとテストを出してしめつけるだけ。それに対する反発心には共感できる。でも、本当は良くできるのに、それを隠してDをとるのはあまり楽しい話ではないし、先生たちがだれもそれに気づかないというのは現実味がなさすぎる。ノラの考え方が大人びているというのは、語り手が本人だからということもあるけど、たとえば次のような感じ方を、子どもがするかしら?
p181の5行目(最後に教育長まで来て会議になる場面。教育長と校長の様子を見て、ノラが言う場面)「みんなの目に明らかだったこと。力のある、知性あふれる女性が二人とも、つぎの一歩を踏み出すのをためらっているのだ。私は二人がとても気の毒になった。とどのつまり、みんなをこんなに混乱させた張本人は、この私だからだ。なんとかしてあげたいと思った。」賢い子だからなのかもしれないけど、ちょっと子どもらしくないのでは? p191の最後から4行目からの、全校生徒を前にしてのノラの大演説の口ぶりも、立派すぎます。
これまでのクレメンツの作品は、『合言葉はフリンドル!』『こちら「ランドリー新聞」編集部』『ナタリーはひみつの作家』など、大人顔負けの子どもが活躍して、スカッとする話だから、ずっと子どもらしくてよかった。読んだ後にやる気が出るような感じがあったしね。こちらは装丁を変え、読者対象を上げたのだと思うけど、中学生が読むには、主人公の年齢が低いからおもしろくないのではないかしら。

小麦:クレメンツの作品は初めて読みました。私はノラが小5の女の子には思えなかった。プロフィールで著者が小学校の先生だったという情報を得てしまったせいか、どうも著者が教育現場で感じたもやもやを、ノラの口をかりて言っているように感じてしまって……。ちょっと前に、学校について人と話す機会があったんですけど、今は不公平にならないようにみんなに同じ分量の台詞を言わせる主役のいない学芸会や、1位を決めずに全員で手をつないでゴールする運動会があるそうなんですね。これって、抜きん出た才能をならして目立たせないってことですよね。ノラもせっかくの才能をひた隠しにしている。横並びが好きな日本ではそうだろうけど、アメリカでもそうなのか、と思いました。物語運びはテンポよく楽しめたんですけど、読み進むうちに、なんだか教育現場や子どもをとりまく状況についてじめじめ考えこんじゃって、私がユーウツになってしまいました。

ショコラ:でも、ファンタジーとして読むと、読み方がまったくちがってきますね。

紙魚:ノラに、もうちょっと奇天烈なところがあるとよかったのかな。IQは高いのだけれど、どこかものすごく変てこなところがあるとか。「頭がいい」というファンタジー性をもっと高めると、かえって問題が浮き上がることもあったかもしれません。

ショコラ:片づけができないとかね。

小麦:でも、ノラにも憎めないところありますよね。頭がよすぎるわりには、出てくる作戦が中途半端だったり。緻密に計算したわけじゃなく、とりあえず悪い成績をとっちゃえという。それで事態が大きくなっていって、どうしていいかわからなくなっちゃうあたりは、子どもらしくてリアリティがありました。

メリーさん:自分とまったく違う考えの人の頭の中をのぞきこむような物語(『アルジャーノンに花束を』のような)は、とてもおもしろいと思う反面、本当にそう思っているのかな……などと思いながら読みます。このノラの物語は無理なく、おもしろく読めました。もちろん天才的な頭脳を持っている子どもの話なのですが、イメージとしては、クラスの中でも少しだけ大人な女の子の話、という感じです。話中で好きだったのは、ふつうになりたい、と願う彼女に理解者が現れるくだりでした。バーン先生は、子どもが救われる気持ちになる、大人という意味では一番大きな存在ですし、スティーブンはいつのまにか彼女のことをよく理解する「パートナー」になっています。「ふつう」になりたい、という言うこと自体、自分と他人を相当比べている証拠ですが、比べる対象が少しでもこちらを理解してくれると、その子は救われるのだな、と思いました。ノラは自分が、孤独ではないとわかったときに、自分の才能も受け入れることができたのではないかと思います。ページをめくらせる、おもしろい物語でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年5月の記録)


早見裕司『となりのウチナーンチュ』

となりのウチナーンチュ

紙魚:刊行されたころに読みましたが、正直なところ、あんまり記憶に残っていないくて……。軽くすらすら読めたという印象です。ファンタジーが生まれやすい場所というのがあると思うのですが、そうか、最近は、沖縄というのもあるんですね。それも、現在の沖縄。作者が、沖縄在住ということもあって、沖縄に関する記述は信頼できそうです。

ササキ:これって、課題図書ですよね。図書館でもずっと貸し出し中でした。キャラクターが個性的で、それぞれの登場人物がわかりやすく、読みやすいのかな。テンポはよかったんですけど。お母さんがゴーストになって出てきたのには驚きました。あそこまでのゴーストにしなくても。課題図書で、子どもがどういうふうに読書感想文を書くのか気になりますね。想像を膨らませにくい、一方向でしか読めない作品かなと感じました。

ハリネズミ:出てくる人たちは、みんな個性的でおもしろいんですね。沖縄の生活事情や、基地のことなどもわかる。ところどころにユーモラスなところもあったり、沖縄の人たちの楽しい会話もあったりする。でもね、夏海のお母さんは、あまりにも不自然じゃない? 最初は家庭内別居をしていて、後には娘にとりつくほどの教育ママであれば、娘をつれて出ていくんじゃないのかな? お母さんが言うことに客観性もないし、妄想を生で見せられている感じで気分もよくない。夏海の登校拒否の原因がお母さんだとするなら、お母さんのキャラクターづくりをしっかりしておかないと、物語そのものの構造が弱くなってしまう。沖縄については、間違いがないように、真面目な態度で取り組もうとしているのがわかるんですが。

ショコラ:沖縄の生活がリアルに書かれています。台風の場面は、迫力があり、すごいなと思いました。作品の中の沖縄の言葉1つ1つに対して意味が出ているので、わかりやすかったです。テレビドラマ「ちゅらさん」のアットホームな家庭の雰囲気に対して、2つの家族が異なっているのがおもしろい設定だと思いました。お母さんが出てくるのはホラー的だし、さらにお母さんが台風のときに東京からやって来るのがしつこすぎます。表紙のイラストから、男の子と女の子の話なのかなと思いましたが、作品を読み終わってから表紙のイラストが表しているものがわかりました。昨年の中学校課題図書になった作品なので、子どもたちの感想を聞いてみたいです。

小麦:私も去年課題図書になった時に読んだんですけど、内容が残ってなくて今回一から読み直しました。装丁がすごくいいですよね。内容は、イメージの沖縄でなく、実際の沖縄がしっかり描かれていて楽しめました。著者が実際に沖縄に移住しているということもあり、「へー、こんなこと知らなかった」と、エッセイのように読めたところもありました。彩花の性格もすごくリアルに感じられました。この子なら、隣の子となれなれしく、すっと友達になっちゃうのもわかります。夏海と彩花のベタベタしすぎない友情も、さわやかで自然で好感がもてました。でも、それらをガラガラと崩してしまったのが、お母さんの存在。キャラクターがあまりにも類型的で、なにもそこまでっていうくらい感じが悪い。問題をお母さんひとりに集約して、悪者退治でもするような展開に、物語からどんどん気持ちが離れてしまいました。お母さんは去ったけど、まだ問題は残っていますよという終わり方には、沖縄の描き方同様リアリティがありました。

カワセミ:第1章は、彩香の家族の話。第2章になると、急に夏海の話になったので、短編集かと思ってしまいました。読み進めるうちに、別の家族として彩香が登場してきたので、こういうふうにつながっていくのかと、急におもしろくなってきた。でもその後は、ずっと夏海中心になって彩香が脇役になってしまったのが残念。私は彩香の方に興味をもったんです。今までにない主人公だから。夏海のほうは、傷ついていて癒しを求めているというありきたりな設定で、あまり興味がもてなかったの。書き方は、最初からリアリズムだったのに、急に置物のカエルがしゃべりだすという突飛なところがあります。でも、このカエルとの会話がユーモラスなので、あまり違和感なく楽しく読めました。私もお母さんの出し方はあんまりだと思ったけど、この作家は、ホラーを書いている人だから、どうしてもその要素を入れたくなったのかな。この年頃の女の子が母親に対してこうした気持ちをもつことはあると思うし。だから、本当の母親は出さない方がよかったわね。生き霊よりも現実の母親はもっとひどいんですもんね。ちょっとやりすぎだと思う。私も沖縄の家庭というと「ちゅらさん」くらいの知識しかないのだけど、沖縄の人たちの、遠慮はないけどあったかい、独特のベースが感じられた。食べ物の描写や、言葉の使い方もおもしろかったし、沖縄のことがいろいろわかってよかった。ただ、夏海が最後の312ページで言うセリフ、「私の心も同じだもの。とがって痛いほどだったのを、海と、沖縄が丸くしてくれたから。……でも私は、沖縄に来たいって思って、来られて、受けいれてもらえた。……私は沖縄が大事だ、って思ったから、沖縄が助けてくれたの。このビーチグラスは、私の心なんだよ」これはとっても浮いてます。夏海ってこんなこと言う子じゃないし、いかにも「言わせた」という感じで、がっかりしました。沖縄を舞台にしたものって、だいたいそうなりがちでしょう。傷ついた心が沖縄のあたたかい人たちに囲まれて癒されていくっていう……。せっかくちょっとおもしろい工夫があるなと思ったのに、結局これも同じだったのか、という感じがしてしまう。いいと思ったのは、2人の女の子がそれぞれに痛みを抱えているけれど、ありのままの心でつながっていくというところ。ほっと心なごむものがあった。今までの児童文学にはないよさも散りばめられていて、新しい感じではあると思うけれど、やっぱりちょっと残念な部分もあるわね。

セシ:よかったところは、今の中学生が読むとこの3冊の中でいちばん読みやすそうなこと。彩香とか夏海とか、おっと思わせる、魅力あるキャラクターに仕上がっていると思います。だけど、この本はこの子たちのことより、沖縄のことを書いたお話のように感じられました。マンガでスポーツを知るように、小説で沖縄を知るというような。きれいな浜だけど、天然ではなくて砂を運んできていることとか、言葉とか食べ物とか。沖縄で癒されると思われがちだけれど、こんなに不便なところがあるとか。夏海のお母さんのエピソードは、やっぱりあんまりですね。九州から南ってまじない師のような文化があるじゃないですか。もしかすると作者は、ユタに代表される文化と、お母さんとを結びつけたかったのかな。でもやっぱり違和感がある。彩香のお父さんは、これで暮らしていけるのだろうか、貯金はあるのだろうかとか心配になるけれど、細かいところは書かれてなくて感覚的だと思いました。沖縄の人は時間に驚くほどおおらかだと、沖縄人と結婚した知人から聞いたこともあるから、もしかすると風土自体がこんな感じなのかもしれないけれど。

カワセミ:フィクションじゃなくエッセイとして書いた方がよかったのかもね。沖縄のことはいろいろわかるし。

メリーさん:これは、楽しみに読み始めたのですが、期待はずれでした。沖縄の現実を語るといっておきながら(「ちゅらさん」ではない)、カッコ書きで沖縄の言葉を説明したり、沖縄のウンチクを語ってしまうところや、母親の描き方が一面的で深みがないところ、極めつけは、蛙の神様と、病院、お守りをくれた神様がまったく活きていないというところがとても残念でした。彩華のキャラクターはいいと思いますが、そんな簡単に友だちになれるのかな? 台風のエピソードもご都合主義にしか見えませんでした。個人的に沖縄については詳しくなく、まさに「ちゅらさん」から仕入れた知識くらいのものですが、沖縄の風土をうまく使いきれていない、というのが印象です。これを読んだ子どもはどういう感想文を書くのでしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題」2009年5月の記録)


ルース・エインズワース『ふしぎなロシア人形バーバ』

ふしぎなロシア人形バーバ

ハリネズミ:人形の本ってあんまり読んだことがなかったんですけど、今回のは読んでみたら3冊ともおもしろかったです。この本には2編入ってるけど、「バラやしきにようこそ」のほうが私はおもしろかったな。バーバはマトリョーシカ人形なんだけど、日本の子どもも知ってるから、楽しめると思います。夜中に盗み食いするところなんか、いつ見つかるか、いつ見つかるかと、どきどきして読み進むことができるし、つきぬけたユーモアみたいなのがあって、いいですね。2編目のほうは、1編目ほどはおもしろくなくて、続きを書かなくちゃって書いた感じがしました。この本の中のお人形は食べたり飲んだりするのに、おなかがパカッと割れて中から別の人形が出てくるわけだから、おなかの中はどうなってるのかなって不思議でした。変だな、と思う子どもの読者もいるかもしれないな。

カワセミ:食べたり飲んだりしない人形の話っていうのもありますよね。でもこれは、食べるところがおもしろいのよね。お人形っていうのは、顔かたちや着ているものが一定なので、いろいろな人形が出てきても、把握しやすいと思います。だから、中学年くらいの子でも読みやすいんじゃないかな。性格が誇張してあっても、人形だからあまり不思議じゃないし、生身の人間だったらもっと複雑な要素があるけど、性格付けがわかりやすいと思う。人形っていうのが子どもに身近な存在だし、人形が話をするのも、子どもにとっては自然に受け入れられますよね。お話は3,4年生向きだと思うけれど、3年生が読むには字が細かいですね。2編入れないで、最初の1編だけをもっと大きな字にして1冊にしたほうがよかったのかなと思いました。文章はていねいに書かれていて、挿絵もおもしろかった。

ショコラ:2つに分かれていましたが、一気に読んでしまいました。マトリョーシカの態度がおもしろくて謎めいているし、47ページのフルーツケーキの場面、67ページの山のような洗濯をほしてる場面、ロシアの魔女についての話など、どれも楽しめました。私も次から次に出てくる人形が食べ物を食べるのが不思議な感じがして、お話だけど無理っぽいなと思いました。兄弟(姉妹)の名前が変わっていて、食べ物の名前がついてるのも、おもしろいですね。ただ、子どもたちには字が小さいので読みにくいと思います。低学年向きに字を大きくしてほしいな。最初のお話だけでも十分読み応えがあるし、楽しめると思います。装丁が違うと、もっと手に取る子がふえるかなとも思いました。

セシ:私もこれはすごくおもしろかった。12ページに、この家の「だんろの日は、チカチカッとも、ポッとも、もえません。それは火が、しわくちゃの赤い紙でできていたからです。それにおふろにはいっても、じゃぐちからは、お湯もお水もでてきません」と書いてあるのに、あとでお料理してるから、ちょっとあれっと思うけれども、キャラクターがなんとも楽しいし、おもしろく読めました。一方で、バーバがやってきたところで、「わたしは、とにかくよく食べるんです。六にん分くらい、いただくかもしれませんわ」と、ちゃんと伏線があるんですね。みなさんと同じで1編目のほうがおもしろくて、2編目は、ハチミツが帰ってからあとは蛇足っぽくなっているので、どうなんでしょう。内容的には2、3年生から楽しい本だと思うので、1編目だけ大きな字で1冊にしたほうが手にとりやすいですよね。1編目は、男の子の人形のウィリーも中心になって動くので、こんなにピンクの装丁にしなければ男の子も手にとりやすいだろうに、もったいない。

ハリネズミ:2つ目の話はこれが芯だっていう要素がはっきりしないのよね。あちこちに話が広がってしまっている。

セシ:この絵もおもしろいんだけど、フレデリックって、おじいさんの人形のはずなのにあまりにも若々しいから、間違えたかと思って何度も見直してしまいました。65ページのイチゴをとっているところの絵なんか若者みたい。

ハリネズミ:最初からおじいさんの人形ってあんまりいないし、人形だから成長もしないわけでしょ。ここでおじいさんの人形って言ってるのは、古くなった人形っていう意味なんじゃない?

ショコラ:バーバという名前がかわいいですね。

ハリネズミ:ロシアの昔話のバーバヤガーからきているんでしょうね。

ショコラ:海に行ったあとに歌をうたっているけれど、終わりがちょっと中途半端かなと思いました。

ハリネズミ:海に行く途中なのよね。なんとなく楽しい雰囲気で、みんなで海に行きましょうってことなんでしょう。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年3月の記録)


サリー・ガードナー『気むずかしやの伯爵夫人』

気むずかしやの伯爵夫人

セシ:この本はちょっと苦手でした。お話はわかるんだけど……。途中で苦手と思ってしまったのがいけないのか……。お話はわかるんだけど、だからどうなのって気がして、自分がひかれるところが見つけられなかったんです。こういうお話も、中学年にありだなと思って読んだんだけど、心をひかれませんでした。

ハリネズミ:私はおもしろく読みました。伯爵夫人が心を入れ替えるところは、人形作りの親方がハート形の心臓を物理的にも入れ替えてくれるのよね。そこを読んで、ああそうか、と思いました。最初のほうは、みんながいっしょうけんめい仲間に入れてあげようと努力しているのに、伯爵夫人があまりにもとんでもないことを言ったりしたりするんで、反感をもってたんですけどね。絵も、顔の描き方が違って、雑多な人形が集まってる感じがよく出てますよね。写真と合わせたコラージュもよかった。絵がたくさん入っているので、3、4年生でも読みやすいんじゃないかな。

ショコラ:最初本を手にとったとき、絵と写真が合成になっていたりして、おもしろいつくりだなと思いました。いろんな国のお人形が登場し、性格もそれぞれ違っています。ねずみ夫婦がお互いを気遣う場面もよかったです。チンタンには「ハンドメイド」、伯爵夫人には「デリケート」の洗濯表示のタグがありますよね。「ハンドメイド」と「デリケート」の表示で伯爵夫人が格をあげているこだわりがおもしろかったです。伯爵夫人の中身がごわごわしたおがくずだったのが、こわれたため中身を直すときに綿とハートをいれてもらって性格が変わったところも、おもしろいなと思いました。伯爵夫人は性格が悪くてわがままなんだけど、汚れてみずぼらしくなった挿絵を見て、私はいたいたしさを感じて同情してしまいました。ミスター・ウルフはこわそうですが、いろいろな悩みごとを解決してくれる神様みたいな存在なんですね。最後の場面で、体がやわらかくなり性格も変わった伯爵夫人が戻ってきたので、幸せな終わり方でほっとしました。

カワセミ:私も、最初に登場人物の紹介があることや、各見開きに挿絵が入っているなど、子どもが読みやすいつくりになっていることに、まず好感を持ちました。お話も、1つの小さなお人形の家の中の出来事というんじゃなくて、広い公園に置き去りにされるっていうのが変わっているし、いろいろ危険な目にあうけど、最後はきっとうまくいくんだろうなって安心して読める1冊。お人形たちだけじゃなくて、ねずみ夫婦がとてもユーモラスに描かれているのも楽しかったですね。セシさんは、どういうところが好きになれなかったの?

セシ:この伯爵夫人のキャラクターに、ついていこうという気になれなかったからかな。いやな性格だし、この絵の顔も好きになれなかったし。

カワセミ:でも、この本は文字組もゆったりしていて(みんなで『かりんちゃん』と比べてみると、字の大きさは同じようだが、ページあたりの行数があちらは14行、こちらは12行だとわかって納得)、この年齢の子には読みやすいわよね。

ショコラ:私も、ぜひうちの小学校の図書室に入れたいと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年3月の記録)


なかがわちひろ『かりんちゃんと十五人のおひなさま』

かりんちゃんと十五人のおひなさま

ショコラ:先日ある町の図書館で、小学生対象の「おひな様」のブックトークをしたときに、この本を紹介しました。集まったのが男の子8人で大変だったんだけど。『りかさん』(梨木香歩著 新潮文庫)よりも中学年向けなのでこの本を選んだんです。ブックトークでは、七段飾りの紹介の後にこの本を紹介しました。15人の人形の性格がそれぞれ出ているし、「ことわざ」もいいなと思いました。でも、1年生に「ことわざ」を紹介したところ、どれもわからないものばかりでした。物語を読んでいけば理解できるのかな。

カワセミ:ことわざは学校では教えないの?

ショコラ:自分で調べてみようというスタンスの教科書が多いですね。5年生の学級で聞いても、知らないものが多くて、ちょっとむずかしいようでした。かりんちゃんが持っているおひな様をはじめ、いろいろなおひな様の種類などが紹介されているのは、とてもわかりやすかったです。友だち3人の人間関係なども最近よくある話だなと思いました。かりんちゃんのお母さんが手作りのおかしを作る場面はあたたかく、五人ばやしの絵もすごくかわいかったです。子どもが読んで楽しい本だなと思いました。

カワセミ:3人の女の子が、今の読者と同じような子なので、親しみがもてるのがいいですね。おひな様っていうのは、日本の伝統的な行事の中でもなじみのあるものだと思うんですね。自分の家になくても、保育園や学校で大きな段飾りは見ることが多いし、子どもたちは、人形の着物や道具にも興味を持っているので、そういうものをとりあげているのがとてもいい。おひな様を飾る意味、子どもの成長を願うとか、身代わりになって守ってくれるということとか、自分のお母さんやおばあさんからの願いが受け継がれていくものだというのも示していますね。ただ3月だから飾るというのではなくて、行事の深い意味を伝えようとしているところがいいなと思いました。子どもだから、おひな様を比べて、大きいほうがいいとか、豪華なほうがいいとか、あれちょっとぼろいねとか言ってしまうんだけど、おひな様のファンタジーの世界とかかわることで、受け継がれている思いを感じられるようになっていくのが自然に書いてあって、よかったと思います。これも挿絵がいっぱいあって、おひな様ようすがよくわかった。
私も子どものころ、おひな様を箱から出して飾ったり、しまったりするのが楽しかった思い出があるし、一人一人性格が違うような感じはよくわかるので、おもしろかった。おひな様は昔の人だから、難しいことわざを言うのもうなずけます。読者の子どもには難しくて意味がわからないものもあると思うけど、どんどん出てくるから、「また言った」みたいな楽しさもあると思うんですね。その時はわからなくても、興味を持つ子がいるでしょうね。ユーモラスに言うので、楽しめると思う。こういう身近な話は、子どもたちに薦めやすいですね。男の子の反応はいかがでしたか?

ショコラ:ブックトークでは、笛がなくなることを話題にしたり、「15人とはだれでしょう?」をクイズのようにしました。ことわざが、雛人形の言葉として文の中に入ってくるのもいいなと思いました。5年生のクラスの子に紹介したところ、女の子がすぐに読んで、「女の子の関係が自分たちに似てる」と言ってました。

カワセミ:おひな様の出てくる話としては、『菜緒のふしぎ物語』(竹内もと代著 アリス館)っていうのもあります。主人公の女の子が、ひいおばあちゃんの住む古い家で不思議なものたちに出会うというファンタジーで、おひな様は一部にしか出てこないんだけど、この季節に紹介できますね。

ハリネズミ:『三月ひなのつき』(石井桃子著 福音館書店)っていうのもあるわよね。私はすーっと読んだんですけど、3冊比べてみると、この本は、おひな様のいわれとか、ことわざの説明など目配りがしてあるし、貧しいおひな様でも心がこもっていればいい、悪口を言うと気分が悪くなる、など、教育的にも配慮されてる。ただ、感受性の強い子は、作者が子どもたちに教えようとする意識を感じて、うっとうしくなるかもしれませんね。冒頭と最後にグレイのページがあり、それぞれ「はじまりのまえに」と「おしまいのあとで」となっていて、まだ箱の中にいるおひな様の様子が描かれている。これも、うまい。ただ、「はじまりのまえに」っていうところに、「かりんちゃんも、ずいぶんむつかしいご本が読めるようになったのねえ……と、小桜は、ぼんやりつぶやきました」って書いてあります。これ、いいのかな。まだ、ひいおばあさんのものだったことしかおひな様は知らないわけでしょ? 夢だからいいのかな。

カワセミ:おひな様が長い長い夢を見ていたのは、かりんちゃんの夢を見てたってことなんでしょうね。

ハリネズミ:おばあちゃんが、かりんちゃんにあげようと思ってたから、かりんちゃんの夢を見てたってこと? それから、おひめ様に「けれど、ここでおこることの半分は、かりんちゃんの夢。あとの半分は、わたくしたち、ひなの夢」って言わせてますけど、そこもうまいですね。

ショコラ:感想文が書きやすい作品ですね。
ハリネズミ:よい子はすぐに感想を書けますよね。欲を言えば、まとまりすぎて突き抜けるところがない。私は大人として読んでおもしろかったんですけど、そんなに教育的な配慮ばかりしなくてもいいんじゃないかな。その方が、もっとスケールの大きい話になるのかも。

カワセミ:6年生くらいになると、教育的な意図を感じるかも。

ハリネズミ:かりんちゃんたちは何年生なのかな。書いてありませんよね。

ショコラ:絵を見ると中学年っぽく見えませんか。

カワセミ:何年生って限定しないのもいいのかもね。

ハリネズミ:お人形って、そんなに動けないじゃないですか。前に読んだ『帰ってきた船乗り人形』(ルーマー・ゴッデン著 徳間書店)は、自分では動けないってなってたけど、これはどんどん動いちゃうから、おもむきが違うわよね。ユーモアっていう意味では、『ふしぎなロシア人形バーバ』の最初の物語がいちばんおもしろいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年3月の記録)


甲田天『時の扉をくぐり』

時の扉をくぐり

カワセミ:まず、すごくおもしろいことを考えたなあ、と思いました。たぶん作者はゴッホに興味をもっているからこそこういうことを思いついたんだろうし、これを表現するには児童文学が向いていると思ったのでしょう。発想がユニークなのはいいんだけど、全体的に何か違和感がありました。1つは、ゴッホがゴーストみたいになって出てくるのや言葉の問題に無理があるということ。もう1つは、この語り手の左吉っていう子が13歳で、修行してるという設定なんだけど、この子のやたら饒舌な語り口調が子どものイメージとどうも合わないところ。13歳っていうともう大人として扱っているのかもしれないけど。
それと、どういう絵かということを文章で説明するって難しいと思うんですよね。大人なら、北斎や広重でもなんとなくわかりながら読めておもしろいんだけど、その辺が子どもの読者だとどうなのかな? 中学生ならわかるのかしらね。ゴッホの絵を見た佐吉が、「なんたって絵にいきおいっていうのがある」って書いているところなど、これだけでピンとくればいいんですけどね。それから、この装丁だと中学じゃないと手にとらないですよね。ゴッホに興味がある子ならおもしろいかもしれないけど。でも、作品自体、難しいことに挑戦しているな、というところでは好感がもてました。

セシ:同じような印象です。題材はおもしろいけれど、今ひとつ乗れなかったところがあります。私も、語りが13歳の子かな、と疑問に思いました。83ページの「溜飲が下がった」のような言い回しや慣用句をたくさん入れていて、じじくさいというか、知識を鼻にかけている気がしました。それに、150ページで又三に「又さん、あんた、大変な宝もの、もってるだろう?」という話し方をするんですね。13歳の子がずっと年長の大人にこんな話し方をするのかなって。そんなふうに、あちこちであれっと思う部分がありました。あと1つひっかかったのは、71ページのお師匠さんのせりふ。「その想いにちゃんとこたえねえと、江戸っ子の、いや、日本の恥というもんだ」とあるんですけど、この時代に、日本という言い方をしてたんでしょうか? 江戸とは思っても、日本という観念を持つのかなと疑問に思いました。

ショコラ:以前オランダのゴッホ美術館に行ったとき、江戸時代の浮世絵や有田焼が数多くあったので不思議に思いました。一緒に行った友達から「オランダは江戸時代に日本と貿易があった国だから、日本の文化が伝わって当然」といわれ納得しました。ゴッホと日本の美術文化の結びつきを、作家も目にしていたのかなと思いました。登場人物の言葉に標準語と江戸言葉と関西弁が入っており性格もよく出ていました。3人の画家が出てきますが、3人それぞれの画風がよく表されているので絵のイメージが広がりました。活気ある江戸の生活様子が書かれており、また美しい秋の自然の景色がよく出ていておもしろいと思いました。ゴッホは幽霊なのに食事をしたりして、生きている人のように描かれているのが、ちょっと無理かなという気持ちもありましたが。「人間は人に出会って生き方が変わっていく」という作家のメッセージは受けとめました。

ハリネズミ:ゴッホが日本美術に惹かれていたことは有名なので、作家はもちろんそれを知っていたと思います。私は、細かいところにこだわらずにさっとおもしろく読みました。よく考えると、ゴッホがだんだん言葉に不自由しなくなるところとか、厳しい関所があるはずなのにどんどん旅ができてしまうところなど、リアリティがないかもしれませんが、まあゴーストなんだからいいじゃありませんか。西洋の画風と日本の画風の違いがうまく描かれているのも、おもしろかったです。一緒にスケッチをしても、ゴッホはパターンで描いているわけでなく実物を見ないと描けない、一方広重はツバメが飛んでなくてもツバメを描きこめるんですね。それに、ゴッホや広重は小学生でも知ってると思いますよ。同じ時期に、いせひでこさんが『にいさん』(偕成社)でゴッホを取り上げてますけど、日本にもゴッホファンはたくさんいるし、波瀾万丈の人生を送った画家だということは子でもでも知っているんじゃないかな。私も子どものころ、ゴッホが耳を切り落としたのはどうしてなんだろうと、ずっと考えてたことがありました。

バリケン:最初のところで、おまんじゅうやら白玉やら、おいしそうなものがたくさん出てくるところが、まず気に入りました。ジャポニズムや、西洋の絵画と日本画のちがい、遠近法と平面的な絵のちがいなど、大人は知っているけれど、子どもたちが読めば新鮮で、おもしろいでしょうね。こういうものを読むと、絵画にも興味を抱くようになるし、歴史物語にも親しめるようになるんじゃないかしら。ゴッホは、あの世に行ってるせいか、「炎の人」みたいではない。最後はどうやって消えるのかと思ったらそのままなので、ちょっと心配になりました。でも、主人公の佐吉自身は、最後に自分の進む道を見つけることができるので、児童向けの物語として、きちんとできていると思いました。佐吉の口調が最初のうちはわずらわしくて落ち着かない感じもしましたが、好感の持てる作品だと思います。

ハリネズミ:広重と北斎のあつれきも歴史的事実を押さえているんでしょうね。このテーマは、藤沢周平も「溟い海」で取り上げていますよね。佐吉が13歳なのに又三に偉そうな口をきいているのはどうか、という意見がありましたが、バリケンさんは気になりましたか?

バリケン:あまり気にならなかったんですけど、又三は同じくらいの年でしたっけ?

ハリネズミ:ずっと年上ですが、同じくらいの歳に感じられるような口調でしたよね。

バリケン:妙にすれてる感じはしますね。

ショコラ:この作品は、中学生の感想画コンクールの課題図書にもなりましたね。

バリケン:ゴッホは絵の具の混ぜ方が素晴らしくて、それでいつまでたっても絵の色があざやかなんですってね。絵描きなら誰でも知ってることだと、画家からきいたことがあるけれど。

もぷしー:おもしろく読みました。なんといっても、広重、北斎、ゴッホが出会うっていう設定が、予想を超えていて、いいですね。そういうやり方があったんだなって。ただ、この物語は児童文学として出されてますけど、子どもはついてこられるのかな? ゴッホは知っていても、日本の画家のことはかえって知らないのかな、と。ある程度、画家たちに関心を持ってないと、読みきれないかなと思って。若い読者たちの反応を知りたいです。内容に関しては、登場人物それぞれのこだわりとかコンプレックスがそれぞれの行動に具体的に表されていて、人物像がつかみやすかったです。お師匠さんが、北斎に会う前に具合が悪くなっちゃったりとかっていうのは、架空の出来事でも人物像に体温が感じられるので、物語に説得力が出ますよね。その点は大好きでした。あと素敵だなと思ったところは、各世代の成長のようすが描かれていた点。たとえば佐吉は、初めは特にこれができるというわけでもない、人の手伝いをする立場の人だったんですけど、最後には自分の追求したい道を見つける。又三は、外国語ができたり料理ができたり既に特技があるのに、道を定められずにいた人。それが、この物語中に自分の役立て方を知るという成長を遂げる。ゴッホは本当は死んでしまっているので成長を語るのも妙ですが、既に自分の道は決めた人で、その道で、さらにワザを極めていこうと行動を起こした。広重、北斎は、既にある分野で世の中に認められた人で、後の世代を導いてやるという役割を自覚することでコンプレックスを乗り越え、一段と高みに上る。そんな、人生における成長段階を読者に暗示してくれているんじゃないかなと思いました。全体を通して、物語がとても健全な感じですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年2月の記録)


キャサリン・マーシュ『ぼくは夜に旅をする』

ぼくは夜に旅をする

ショコラ:とてもスリリングな場面がたくさんあり、ニューヨークのようすがすごくリアルに描かれ、おもしろくて一気に読みました。地下に死の世界があって入っていく発想がおもしろく、お母さんといつ会えるのだろうと思うわくわく感、ドキドキ感もありました。読んだ後に残ったのは、次はどうなるのかなという思いでした。お母さんは死んでいるのに、お父さんとどう出会って現実の世界にきて生活できていたのかが疑問です。そのあたりの謎を続きを書いて解きほぐしてくれるといいな。

カワセミ:去年NYに行ったときに、電車でニューヘイブンまで行き、友人にイェール大学構内を案内してもらったので、イェール大学の情景から始まる物語の最初からひきこまれました。また、グランドセントラル駅のドームのところで、ささやくとそばにいるように耳元で声が聞こえるというのを、実際に友人とやってみたこともあります。ここは有名なスポットだったのね。なんの先入観もなく読み始めたので、リアリティのある話だと思って読んでいたら、たちまちゴーストの世界にひきこまれてしまいました。導入がとても上手に書かれていると思います。NYの町が、実は上のほうにも下のほうにも死んだ人がぞろぞろいるという図を思い浮かべると、今までに読んだことのない不思議な感じがしておもしろかった。セントラルパーク、コロンバスサークル、ブルックリンブリッジなど有名な場所が出てくるので、高いビルであったり、広い広場だったり、実際に思い浮かべて読めばおもしろいと思うんだけど、日本の読者では限界があるかな。これが東京タワーとか、日比谷公園だったらもっと楽しいのにね。仕方ないけど。物語には死んだ人がたくさん出てきますが、いろんな死に方があって、みな死ということを納得できないでいる。テーマとしては重いと思いました。会話の1つ1つにすごく意味があるので、じっくり読んでその意味を解釈するっていうのは、かなり難しい読書になるでしょうね。筋としては、お母さんに会えるのかどうか、主人公が戻れるのかどうかということでひっぱられながら読めるけれど、内容的には重いものでした。あと、日本の読者のためには、NYの地図を入れたらもっとよかったのかなって思いました。距離的にはずいぶん移動しているから、そういうこともわかるし。

セシ:筋は、この子がお母さんに会えるのかというのと、女の子と地上に帰れるのかというのでひっぱられて、先を読まされるのだけれど、こういうミステリー的なものは私は結構苦手で、トークンがあったら入れるとか、噴水に行ったら帰れるとか、途中で頭がごちゃごちゃになり、わけがわからなくなってしまいました。すごくメタフィクションナルですよね。オヴィディウスの『変身物語』や詩の言葉がひっかかっていて、ミステリーだけど教養的なおもしろさもあるので、ジュブナイル賞をとっているけれど、そういうところは大人の読者も楽しめるのかなと思いました。でも不満だったのは、お母さんに会いたいというのでひっぱる割には、お母さんをどうしてそこまで思い続けるのかとか、会った後にどれほど満足したのかは、詳しく書いてないんですよね。この作家は、ミステリーの仕掛けやメタフィクションが大事で、人を描くことにはあまり興味がないのかなという気がしました。

バリケン:私はミステリーやホラーものが好きなので、大いに期待して読みはじめたのですが、主人公が入院している病院で誰かが怪しげな会話をしているところで、なんとなく筋が分かっちゃって、なあんだ!と思ってしまいました。軽い話だなあって思いました。死の扱い方がとても軽くって、この世とあの世が簡単に行ったり来たりできるようで、ゲーム的というか、死の切実さが出てないというか。なにがなんでも重々しく描けばいいというわけではないけれど、違和感がありました。映画の「ゴースト」とオルフェウスの話を足して2で割ったような作品ですね。キリスト教的な世界観が、こういう若い世代のアメリカの作家からは無くなっているのかな。その点も、ちょっとショックを受けました。プルマンなどは、キリスト教的なものを意識的に壊そうとしているけれど、この作品の場合は意識せずにそういうものから抜け出ているというか。宗教的な世界観に対比するものが、ゲーム的な世界観なのかな?

ハリネズミ:たとえば『カラフル』(森絵都著/理論社1998)とか、死んだ人が来るっていう話はよくあるじゃないですか。そういうのとはまた違うタイプの作品ですよね。

カワセミ:『そのぬくもりはきえない』(岩瀬成子著/偕成社2007)にも、ゴーストみたいな存在が出てきましたよね。

バリケン:そういうのが多くなっているのかもしれないわよね。

ハリネズミ:私は全体がいかにも作り話という気がして、楽しめませんでした。まあ、作り話なのはファンタジーだから当たり前なんだけど、ファンタジー世界の成り立ちがしっかりしてないな、と思って。主人公のお母さんは、死者の世界から出てきちゃった人ですよね。死者の世界と生者の世界は厳然と隔てられていて、めったなことじゃそれを越えられない。だから、お母さんもやっとのことで生者の世界へ出てきたでしょうのに、「ほんのすこしのあいだだけ、黄泉の国に戻りたかっただけで、もう帰れなくなるとは思っていなかった」だなんて! ファンタジー世界の中のリアリティが希薄に思えて、入っていけませんでした。ファンタジーってことを考えると、1970年代までの人は緻密にその世界をつくりあげて、ありえない話をありうるように書きあげていったけど、今の若い作家たちはそういうことをしないで、アイデアだけで走ってる感じもします。物語の中の構成がぐらぐらしてるし、お気軽に書いてて、とってもゲーム的。まじめに読んでたんですけど、なんだかばからしい気持ちになりました。

バリケン:ビルから落ちて死ぬかなと思ったところでも、この子は死なないのね。じゃあ、既に死んでるのかなと思ったら、そうでもない……。

ハリネズミ:半分幽霊だからできるのよね。でもそれが説明されていない。

カワセミ:だから、さっきセシさんが言っていたみたいに、わからなくなっちゃうのかもね。

バリケン:探偵作家グラブ賞を受賞しているわけだけれど、探偵作家というのは作品の破綻とかそういうことに厳しいんじゃないのかしら?

ハリネズミ:私が作品世界のきまりごとをつかめないのか、作者がそういうのを持ってないのか、翻訳のニュアンスがまずいのか、わからなくなったんですけど。

バリケン:やっぱり作家が持ってないんじゃないの。

もぷしー:かなり前に読んだので、詳しくは覚えていません。ごめんなさい。物語の設定はおもしろいなって思ったんですけど、そんなに登場人物同士の心のつながりや変化が描かれていなかったような気がして、あまりのめりこめませんでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年2月の記録)


エヴァ・イボットソン『夢の彼方への旅』

夢の彼方への旅

ショコラ:おもしろかったです。アマゾンの自然や暮らしのようすもよくわかったし、主人公のマイアがいろんなことに興味をもつこと、イギリス社会の住居のようすもよく書かれていると思いました。マイアがいっしょに暮らすアマゾンの生活にとけこめない夫人、変わったコレクションを持っているご主人、友達になれると思っていた双子など家族の性格描写がよく描き分けられていました。フィンと行く湖がとてもきれい。ミントン先生はマイアをあたたかく見守っている先生ですが、ミントン先生とフィンの関係もわかり、人と人との関係がつながっていておもしろかったです。読んでいて情景がよくわかったので、子どもも読みやすいだろうと思いました。

もぷしー:場所の移動とか違った生き方をしてきた人間の紹介が、きちんと整理されてとてもスムーズに描かれているところに、作者の達者さを感じました。マイアが引っ越した先の環境も、現地の湿度とか、周囲の人の行動とか趣味などを通じて書かれているので、無理なく立体的な世界が作り出されているのだと思います。ただ、これは好ききらいの問題になると思いますが、『小公子』になぞらえて書いているからか、登場人物がよい人、悪い人にくっきり分けられていて、あまりに通り一遍。たとえば双子ですけど、2人セットで描かれて、意地悪をするという特徴しかない。自然の情景描写とかはものすごく詳しく描かれてるのに対して、双子が意地悪に育ってしまった理由っていうのはほとんど描かれていなくて、キャラの現実味が薄くなっているなって。意地悪キャラの現実味がないと、それと闘っていくマイアの良さ、強さの現実味もなくなる感じがしてもったいない。他に気になったのは、お金持ちの子どもが親を失い、意地悪な人に囲まれて苦労したけれど、最後にはいい人に出会って、お金にも恵まれて幸せになりました、というシンデレラストーリーが、現代の子どもに対して説得力があるのかなという点。あまりに現実とかけ離れているので、子どもがこれを読んでどういう刺激を受けるのか、知りたいです。

カワセミ:確かに、『小公子』、『小公女』を思わせるような、一昔前の児童文学らしい作品だなと思いました。わかりやすい構図をたくさん用意しているので、とても読みやすい。よい人物と、いけすかない人物もはっきりしている。インディオの人たちの自然にとけこむ暮らしと、カーター家の人々に代表される、自然をシャットアウトする暮らし方の対比。フィンのおじいさんのように血筋にこだわる人たちと、身寄りはなくなっても出会った人とのきずなを大切にする人たちの対比。そして、3人の子どもが出てくるけど、3人とも親がいない孤児。これも子どもの読者をひきつける要因ですね。3人とも今の境遇に満足していなくて、自分の居場所を求めている。3人とも魅力的なキャラで、子どもが共感できる部分を持っている。そんな3人の境遇をいろいろ織りまぜながら語っていくので、飽きずに読んでいける。しかも読みながら、この3人の結末は必ずハッピーエンドになるという確信があって、安心して読める。そういうところも、一昔前の児童文学に似ているのでしょう。舞台になったがアマゾンの自然もとても魅力的。それから、随所に見られるユーモア。双子の描写や、カーター家の家族は戯画化され、おもしろく描かれている。ピンクのブタみたい、という戯画化した描き方なので、最後の顛末があわれでも、あまりかわいそうと思わず笑って読めてしまう。2人のカラスも、本人たちのきまじめさと、はたからみた様子のギャップがおもしろいし、ミントン先生がコルセットをはずす場面も、おかしい。『小公子』の時代の児童文学と比べて、インディオの人たちの描き方は、どう変わっているんでしょう? 登場人物たちはこの時代のイギリス人だから、差別的な見方をする人も出てくるわけで、それはいいんだけど、作者の姿勢としてはこれでいいのかな? 自然と暮らす人々へのあこがれとか尊敬の念というのが出てはいるんだけど。

ハリネズミ:舞台は何年でしたっけ?

バリケン:1910年って書いてありましたよ。

カワセミ:インディオのそれぞれの部族の人たちの描き方って、難しいですよね。全体的には共感を持って書いているんだろうけど、ちょっと微妙だなって。

セシ:よかったのは、マイアが生き生きしたキャラクターで読者をひっぱるところ。でも全体としてみると、それほどいい本とは思いませんでした。ものごとの考え方の構図がありきたりというか、二項対立なんですよね。文明と未開、善と悪。未開な部分は善であるし、アマゾンの人々は素朴であるけれども、自分たちより未開で劣っているというような意識を感じました。外の人間がラテンアメリカのことを書くのと、ラテンアメリカの人が自分たちのことを書くのとは、やっぱり違う。現地の人が書いたものなら、あちらのようすを描くのに、部族の風習や食べ物、まじない師や、自然と結びついたアニミズム的な考え方などが、たいてい自然に盛り込まれているので。これは、イギリスの植民者の視点ですよね。

カワセミ:作者はそういう気持ちはないのかもしれないけど、舞台が古いのである程度そういう描き方をしなければならなかったのでは?

セシ:作者が実際に現地のことを知らないんじゃないかしら? 知識だけで書いている感じがします。

バリケン:物語としてはおもしろいし、ユーモアのある語り口もいいと思いました。これだけの厚さのものを物語のおもしろさにひかれて一気に読めば、子どもも満腹感があるだろうし、その辺は評価したいと思います。でも、それ以上感動するとか、魅かれるという作品じゃありませんね。あくまでもエンターテインメントで、深みがないというか。アマゾンの描き方も、行ったことのない人や、観光旅行でちょっと滞在した人が憧れる楽園のよう。セシさんと同じように、作者はブラジルには行ってないと思うわね。『小公女』のブラジル版というか。イーヴリン・ウォーの『黒いいたずら』(白水社)も作者は読んでいるだろうし、そういうものを重ねあわせたような作品。それから、双子一家の描き方って、ハリポタのおじさん一家の描き方と同じよね。意地悪な子を「太ってる」とか「ブタみたい」と書いてあるのを読んで、太った子がとても悲しがったとアメリカに行ったときに学校の先生が言っていたけれど、そういう書き方はどうなんでしょうね?

ハリネズミ:この作品は、ステレオタイプのストーリーをうまく組み合わせて、お定まりのキャラクターをうまくちりばめたエンタメですよね。フィンていうのは、あこがれの少年、クロヴィスは『王子と乞食』、マイアは『小公子』、『小公女』。それはいいんだけど、現代の作家が書くんだからもっと新しい視点がほしいのに、それはないんですね。リアリティも希薄。
フィンはキニーネを飲まなきゃって書いてありますけど、ずっと飲みつづけてたら体をこわします。訳語についても、おかしいと思うところがいろいろありました。たとえば、日本ではアリゲーターもクロコダイルもワニですが、この本にはアリゲーターは普通のワニとは違うって書いてある。普通のワニっていうのがクロコダイルなんですね。これでいいのかな? もっと引っかかったのは、酋長という訳語です。酋長っていうのは、歴史的にみると、侮蔑的に使われてきた言葉です。この訳者がわざと使っているのか、それとも知らないで使っているのか。

バリケン:chiefは、たいていは族長とかリーダーとか訳すわよね。

ハリネズミ:「酋長」って訳語を使っていいとか悪いとか言う前に、私はこの訳語を使うことで、物語全体の構図がへんなふうになっちゃう、と思ったの。著者はインディオ(インディヘーナ)の人たちをある種のあこがれをもって、プラスイメージで描いているわけですよね。殺虫剤を所かまわずまいている人たちと対比してるわけですから。でも、酋長という言葉を使うことによって、そのプラスイメージが割り引きされちゃうんですね。未開で遅れた人たちというイメージが前面に出てきちゃいますから。その結果、本当にすばらしいのは、西欧的な価値観にのっとったうえで、自然の中でインディオのまねごとをして暮らすフィンみたいな人たちだっていう図式になっちゃう。著者が言いたかったのは、本当にそういうことなのかな?

バリケン:たとえばイングランドだって、なんとか族とかいうけど、そういうのは族長って言いますよね。すべての古い社会の長に「酋長」って言葉を使ってるわけじゃない。

ハリネズミ:翻訳者って、歴史やら文化人類学やら民族学やらいろいろと知らないといけなくて大変だとは思うんですけど。でも、もし舞台が古いから古い言葉を使おうっていうんで「酋長」を持ってきたとすれば、安易すぎる。言葉って生きてるから、元の意味だけじゃなくて、使われている間に付与されてきたものもたくさん含んでいるでしょ。その全体をとらえたうえで使ってほしいな。

カワセミ:最後に4人はアマゾンに戻っていくんだけど、結局めずらしい動物がとれるとか、そういう興味で行くっていうんじゃ、作者自身の限界も感じるわよね。

バリケン:観光客的ね。

カワセミ:博物館にいって、めずらしいものを見てみたいって思うところにとどまってる。

バリケン:作者はいろんなことを調べたって書いているけど、植物なんかは調べても、歴史的なことは調べてないんじゃないかしら。

ハリネズミ:エンタメ系でも、エイキンとか、もっと考えている人は考えているけど、この作者には、おもしろければそれだけでいい、っていう危うさがあるのかも。

バリケン:訳語についてもう一言。原文読んでないけどわからないけど、28ページ「ベスト」ってシャツのことじゃない? アメリカだとvestはベストだけど、イギリスでは下着のシャツなのよね。

もぷしー:お定まりのキャラクターだと思って読めない部分もありますよね。めずらしい昆虫をつかまえたとき、本国に送ったらすごく高く売れるとか、妙になまなましい。今後も、めずらしい昆虫なんかをつかまえて暮らすのかなって。

バリケン:それで絶滅しちゃったりしてね。

ハリネズミ:そういうところは、危ういよね。うまい作家で読ませてしまうから、よけい危うい。

カワセミ:そういところに、無意識の甘さが出ちゃうのよね。ポロっと書いちゃうのよ。

バリケン:ジャクリーン・ウィルソンの作品みたいに、環境は変わらないけれど、主人公は変わっていって、生きる力を得ることができるというのとちがって、いろんな意味でひと昔前の物語って感じがするわね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年2月の記録)


三木卓『イヌのヒロシ』

イヌのヒロシ

メリーさん:読んだのは、今回が初めてです。物語の中では、「ゆうがた」「オニヤンマ」がおもしろかったです。ほかの2冊とともに読んでみて、動物と擬人化について考えました。動物は本当にこんなこと考えてるんだろうか、と。この本でいうと、動物がこういうことを考えているというよりは、人間(画家の先生)の気持ちが、一番身近な生き物(ヒロシ)に投影されているのではないかという気がしました。

ウグイス:感想が言いにくい本ですね。犬の気持ちになって書くという視点はとてもおもしろいんですけど、何かこうお行儀のいい感じがしました。著者がこういうふうに作りたいと思ったとおりにできあがった作品なんでしょうね。子どもにはきちんとしすぎてるっていうのか、こういう書き方はおもしろいのかな、と疑問な部分もありました。とても文章がよくできているので気持ちよく読めるんですけど、時々ふと眠くなってしまうようなところがあって。子どもは途中で飽きるんじゃないかという気がしました。おもしろかったのは、「サイダーは、ひえたこえでいいました」(p24)というところ。そういったユーモアがところどころにあって、いいなと思いました。

げた:印象としては、お父さんが子守唄代わりに子どもに思いついた空想話を話してあげているみたいな感じですね。文字で読むよりも、お父さんがお話しているという雰囲気で、読み聞かせしたらいいんじゃないかな。

クモッチ:なつかしい感じがする本だな〜、と思って読みました。1つ1つのお話が短くて、ソーダとか、パンとかが、普通に登場人物になっているところが絵本の世界と近い気がするので、絵本を卒業しつつある読者には貴重ですね。最近、ストーリーが複雑になりがちな中で、これは短くて読みやすいし、身近にある話なので、想像しやすくていいなと思います。ウチの小学校3年生は、大笑いしながら読んでましたし、サイダーにはとても同情してました。大人なら、犬がビーフジャーキーをどうやって送るのって思うかも知れませんが、子どもの読者はその辺すっとばして、受けるんじゃないかな。最後、犬のヒロシは死んじゃうんでしょうけど、こういうのを子どもはどう読むのかな。わかるんだろうか? わからないかもしれないですね。それから、ウチの子どもは、表紙の絵が怖いって言ってました。こういうぽっかりとした黒い目は、漫画だと、取りつかれてたり死んでしまったりしてることを意味するらしいんです。

セシ:全体に大きな筋のないオムニバスのような話は、読み進みにくい本が多いんですけど、これは1つ1つに意外性があって、おもしろく読めました。ところどころに詩が入っていますけど、全体が詩みたいな作品ですね。動物同士のとぼけたほのぼの感、そこはかとないユーモアが、『ともだちは海のにおい』(工藤直子/著 理論社)を思わせました。日常の何気ないものを詩的に切り取ってみせるっていうのは文学ですよね。文学的表現の入り口となる本だと思いました。

うさこ:出版されたときにタイトルが気になって、ずっと読んでみたいなって思っていたのに、読んでなかったんです。本屋さんに並んだ当時も、表紙の印象がクラシックで、今見るとなおさらクラシックなイメージなので、ずっと前に出たのかなと思ったら1995年でした。内容は、ほのぼのとした世界ではあるけど、とびぬけた奇想天外とかユーモアがぴりっときいているということもなく、そこがいい、とするのか、ちょっと物足りない、とするのか、判断つきかねました。短いお話の連作で、低学年の子どもにとっては読みやすいでしょうね。

ハリネズミ:私はとても好きな本です。子どもが読んでもおもしろいと思います。アリの会話に「…しくコケは特上にしたか」「はい。コシヒカリじるしです」なんていうところがあるし、サイダーは「キミを男とみこんで、ぜひたのみたいことがある」なんて言うし、ヒロシが落とした枝が「ああいてえ。こんどは腰を打ったじゃないか」と言うと、枝の腰ってどこなんだろうとヒロシが悩む。そんなプッと笑えるところがたくさん用意されている。犬は寿命が短いから飼い犬の死を体験する子どもは多いですよね。子どもがこの本の最後を読んでヒロシが死ぬと思うかどうかは別として、こういう本を読んでいれば、そういう時でも、ただ悲しいだけではない気持ちももてると思います。
犬は大体おひとよしですが、そんなヒロシの日々の様子が目にうかぶように書かれてます。書き方が、ただ情景を描くだけでなく、そのもう一つ向こうへ行ってしまっている感じもします。やさしさ、生きること、年を重ねること、ほかの生き物たちとの関わり合い、などをすべて混ぜ合わせて物語ができているんでしょう。今は、プロットだけで引きつけようという作品が多いけど、味わって読むタイプのこういう本を、文学の入り口にしてもらいたいな。

エクレア:この本は出版されたときに読みましたが、あらためて読むと、文章に擬人法が多いためか、間延びするようなところもあるんですね。でもそこに、絵が出てきたり、白抜き文字になっていたりして、目先が変わるように工夫されてる。詩も入っていて、ゆっくり時間がすぎていくようです。言葉がレトロっぽくて、今の子どもが使っている言葉じゃないから、逆に新鮮に思いました。

ヨカ:私はかなり好きでした。このあいだのネコの話(『おおやさんはねこ』福音館書店)と同じような、ゆったりとした、それでいた細やかな感じがして、三木卓さんの本をもっと読んでみたくなりました。あのネコの話は一つのストーリーになっていたために、逆に、筋を作らなくてはという無理が感じられたけれど、これはそういう縛りがなく、1つ1つが自由に広がっていて、さらにいい感じ。三木さんの目線って、すごく細かくて、人が意識化していないところを見ていて、しかもそれをユーモラスな感じですくっているのがいいなあ。主人公の犬のヒロシが、かなり間が抜けているんだけど、そういう自分でいいや、と思ってる。しかも、そういうとぼけた犬を、作者は決して下に見ていない。そこがいいんですね。しかも、飼い主である画家さんとすれ違っているあたりも、しっかり書いてある。だから、ひょっとしたらごく普通の日常にも、自分が気がついていないことがいろいろあるのかも、と思わせてくれる気がします。
とにかく、1つ1つの物語が、なんとも不思議な感じ。サイダーがおしょうゆを垂らしてビールになりたいとか、なんかおかしくて。そういうおかしさから、中盤で、毛虫に恋する葉っぱの話や、バッタとの飛び比べなんかが出てきて、「時」というものを感じさせる作品に移行して、最後は、たぶん「死」で終わっている。でもそれも、決して暗くなく、ふわっと書いてあって、わかってもわからなくてもいいよ、感じられるものを感じて、というスタンスなのが、この本の魅力だと思います。それと、言葉の使い方がうまくて、特に、カタカナが上手に使ってあるなあ。アタマとかマエアシとか、ふつうは漢字にするところをカタカナにしていることで、乾いた感じというのか、ちょっとゆるい感じになっていて、好きですね。

サンシャイン:ほんわかというのか、のんびりというのか、三木さんご自身を髣髴とさせるところがあります。4年生、5年生向きでしょうか。中学年くらいで最後まで読み通させたいなと思う本です。絵もうまいですね。

ヨカ:たとえば『ゆうやけ』なんかは、はじめはちょっとシンとした感じで大人っぽい。ところが、このまましんみりといくのかな、と思ってたら、最後のところで、ヒロシのハラとセナカが入れ替わろうといってヒロシをからかう、というふうに突拍子もなくおかしな話になる。つまり、シンとした情景にずぶずぶと入り込むのでなく、すいっとかわしていく。この切り替えの早さって、子どものものではないでしょうか。その意味で、子どもを意識して書いている作品なんだなあって思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年1月の記録)


シャロン・クリーチ『あの犬が好き』

あの犬が好き

げた:この作品は、1人の少年が詩に出会って、詩人の言葉を借りつつ、だんだんと自分の言葉を獲得して成長していく話ですよね。図書館でも、なかなか子どもって詩の本を手に取ってくれないんですが、こういった形で、読み物として1冊の本にまとまっているものを子どもたちに伝えるのもいいのかなと思いました。文字を使って絵を描く、というのは日本語だとあんまりしっくりこないかな。どうなんでしょうね。

ウグイス:見た目も、内容も、すごくしゃれた本だと思いました。詩で書かれていることが大きな意味をもっているんだけど、詩を訳すというのはとても難しい。詩というより、主人公の独白のように訳されていますよね。詩という感じがしなかったけど、気持ちはとてもよく伝わった。アメリカでは詩を暗唱させるという授業があるので、ここに出てくる詩はたぶん皆が知っているんでしょう。それに則って自分の詩を書くというところが、1つのおもしろさになっているんだけど、そのあたりが日本の読者にはよく伝わらないのが残念。有名な詩であっても、日本だといろいろな訳があるので、皆が共通に持っている日本語訳がない場合が多いからね。文章は短くてすぐ読める本だけれど、内容は実はすごく難しいのでは?

メリーさん:とてもおもしろかったです。物語の展開に、現実の詩人が書いた詩がかかわっているのはおもしろいなと思いました。主人公は、詩なんて書けないと言っているけれど、つぶやきそのものが詩になっている。子どもが発する言葉は何でも詩になりうるのだな、と改めて思いました。主人公の気持ちがよくわかるのは、作家にあてたお便りのところ。読者からの手紙を彷彿させました。それから、自分の詩をワープロで打つくだり。手書きの文字が活字になると、とたんにそれらしく見える、という感覚はよくわかります。子どもが自分で読むのには、ちょっと難しいかなと思いますが、好きな1冊です。

サンシャイン:最初読んだとき、原文で読みたいなと思いました。日本語だとなかなか詩的に訳せないと思ったので。この子の成長物語として読めるところがとてもよかった。「あの男の子が好きだ」という詩の一部を変えて自分の詩を書くというくだりがありますが、日本語の詩の教育でもこういうことはやってるんでしょうか。短歌の本歌取りというのもありますが、もちろん子どもには無理だし、自由詩の場合もどうでしょうか、難しいのではと思います。ところで、オバマさんの就任式がありましたが、言葉の重み、演説の重みが日本とずいぶん違いますね。詩的に感じるところもありました。言葉に強い力もあったし。(原書を見て)詩集ではなく、novelとなってますね。お話として読む作品なんですね。

ヨカ:とてもいい話でした。最初は、あちらの言語で書かれた詩を日本語に訳すのって、どうなのかな、とちょっと身構えて読み始めたんです。でも、一番強く感じたのは、この子の成長物語なんだということでした。その意味で、とにかくうまい。最初はすっかり心を閉ざしていた子どもが、たぶん教員がいい詩を提示しながら上手につんつんと刺激を与えたことによって、卵からかえる雛のように、自分でも殻を破って心を開いていく。その様子が実に自然に感じられて、すばらしいなあと思いました。だれでも身に覚えのある迷いやこだわりといったことが、過不足なく書いてあって、ああ、こういう子っているよなあ、私もそう感じたことがあるよなあ、と実感できる。これは、子どもと教師と詩という教材の幸福な出会い、なんだろうけれど。日本でも、詩の授業はいろいろと実践されていますが、そういう取り組みをしてきた教師があらまほしく思っているのは、こういう出会いなんでしょうね。『フリーダム・ライターズ』(エリンとフリーダムライターズ/著 講談社)も、文学と子どもの関わりを書いた本だったけど、この作品も、そういう意味ですてき。しかもそのうえ、終盤にさしかかると、なんとウォルター・ディーン・マイヤーがこの子の学校に来てしまう! もうびっくりでした。ただし、詩とのかかわりという点でいうと、日本の子どもがこれを読むのは、かなりのハンディがあるのではないかな? だって、おそらくここに登場している詩は、向こうの子どもたちが学校で教わっていて暗唱できるくらい、あるいはどこかで読んだことがあるという程度に、親しんでいる作品のはずで、だから向こうの子がこの作品を読むときは、その知識に乗っかって、イメージをふくらませられる。でも、日本の子どもは、というよりも、日本の大人だって、全部の詩を知っているわけではないので、イメージがふくらみにくい。それに、1つの言語で書かれた詩を他の言語にすると、まったく違うものになってしまうので、その点でも、難しいところがあるなあ。その意味で、ぜひ原書を読んでみたいと思いました。

エクレア:この作品は、シャロン・クリーチのほかの作品と違うテイストで驚きました。「あの男の子が好き」という詩がとてもおもしろく、それを真似している男の子もおもしろい。リンゴと犬の形が文字でできている詩を拡大コピーして、クラスの5年生の子どもたちに見せたところ、とてもおもしろいと大喜びをしていました。タイガーの詩は虎の字が出ていて、たまたまこの本を薦めた虎太朗君はとてもうれしがっていました。「なんでも詩にしていいんだよ」というメッセージは、文章を書くことが苦手な子どもたちをホッとさせるでしょう。しかし児童詩とこの詩は違うので、ちょっとその辺は気になります。外国の詩を渡す機会がないので、これを機会に渡してみたいと思います。

ハリネズミ:この本は、詩の本ではなくて、子どもの成長の本だと思いました。『ぼくの羊をさがして』の続編のような。最初にこの子ジャックが書いたのは「問題なの/は/青い車。/どこだらけで/道をびゅんと走ってきた。」という詩です。そして、「なぜ青い車が問題なのか」ときかれても、言おうとしない。心がぴたっと閉じているんです。ここで、ストレッチベリ先生が「それがないと意味がわからないでしょ」なんて言ってたとしたら、この子の心は開いていかなかった。でも、この先生が無理強いしないで励ましていくうちに、ジャックはしだいに心を開いていき、やがて青い車とスカイという犬が出てくる長い詩を書くんですね。それを読むと、この子にとっては青い車が大問題だったということがよくわかる。自分の大好きな犬をその青い車がはねたんですから。その悲しさがこの子の心に中で大きな固まりになっていて、この子は心を閉ざしていたってことがわかるんです。ジャックが、詩を書くことによって気持ちをだんだんに解放していく課程は、とてもよく書かれています。私は最初に原書で読んだんですけど、やっぱり詩って翻訳が難しいだろうな、と思ってました。でも、別に韻を踏んでいるわけではないから、素直に子どもの気持ちによりそって訳せばよかったんだな、と、この日本語版を見て思いました。ウォルター・ディーン・マイヤーズはアフリカ系アメリカ人で、とてもやさしそうな、いい人そうな、作家です。

ウグイス:103ページで、「開かなかった」を「開か」「なかった」で改行してあるのはなぜ? 原書ではどうなっているのかな?

ハリネズミ:原書は、1単語ずつ改行してますね。he/never/opened/them/again/ever. 英語だと、胸がいっぱいになって、言葉がぽつぽつとしか出てこなくなっているというニュアンスを感じます。
(みんなで、原書をしみじみ読む)

うさこ:「詩」の本ということで読み始めましたが、最初はなかなか入っていきにくかったです。でも、読み終わったときにとても感動しました。詩という形をとっているけど、日記風な感じでもありますね。私も犬が大好きだから、自分の家の犬がいなくなったら、死んじゃったら、私どうなるんだろういう気持ちをいつも持っています。だから、この男の子の喪失感にとても共感できました。ものすごく悲しいときは、悲しい気持ちを何かの言葉に置き換えて胸の奥から出したいのに、なかなか言葉にできない。この作品は、そういう過程を上手に表現してあるし、言葉にすることによって、男の子の心が開放されていく様子がとてもよく描かれていたと思います。

セシ:詩の本だと思って読んでいくと、韻とか倒置法もなくて、つなげたらそのまま文章になるような言葉で書かれているので「あれっ」と思いました。なら、どうして詩の本なのって。子どもにとっては、文字が少なくて、読む進めやすい面もあるんでしょうけど、やっぱり翻訳は難しいですね。全体のストーリーはいいけれど、先生が読んでくれた詩の魅力が今ひとつ伝わってきません。最後に授業で使った詩をまとめて載せているけど、日本版では体裁を工夫して途中に詩を入れていくようにしたらよかったのでは? ネタばれでだめかな? 私たちが詩を聞いたとき、これは宮沢賢治だとか白秋だとかわかることがあるみたいに、ここにある詩は、英語圏の読者なら思いあたるものなのかしら。日本の読者にはそういう勘がまったく働かないので、ギャップがあって残念だと思いました。

クモッチ:年をとったせいか涙もろくなって(笑)、この本は泣きながら読みました。何に感動したのかというと、やはり1人の男の子が、だんだんに言葉を獲得していく流れが、とてもよく描かれていたからです。この男の子が、飼っている犬を事故で亡くして、それについての状況を詩に表現していくのですが、詩を書いた時点でその死を乗り越えていることがとてもよくわかりました。この詩をみんなの前に掲示したら、みんなが悲しい気持ちにならないだろうかと他の子のことまで心配している。言葉で何かを表現するということは、その事柄を乗り越えるということなのかも知れないなと思いました。さらに、この男の子は、乗り越えるだけでなく、この物語の最後に、「すきだった」という詩を書いてますよね。詩人の詩の言葉を借りてではあるけれど、死んでしまった自分の犬に対する気持ちをしみじみと書いているところに、さらなる感動を覚えました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年1月の記録)


ヴァレリー・ハブズ『ぼくの羊をさがして』

ぼくの羊をさがして

ハリネズミ:この作品もやっぱり犬を通して人間を描いてるんですね。さっきメリーさんが、今日の3冊はほんとに犬がこんなことを思ってるのか、いぶかりながら読んだって言ってましたけど、たとえば81ページを見てください。ホラリンとスナッチが、犬をおいてきぼりにしたあと、この犬が人間の心理をくみ取って自分をなだめるところがあるでしょう。こんなこと、犬が思うわけないですよ。かなり擬人化されているんです。嫌な悪人はサーカスの団長くらいで、あとの登場人物はみんないい人たちですね。そしてみんな名前があるんですけど、ヤギを飼ってたおじいさんだけは名前がない。このおじいさんが1人で暮らしていて、他人から名前を呼ばれることがないからですね。構成としては、現在の状態が最初に出てきてから、過去にさかのぼります。苦しいことがたくさんあっても、今は幸せだっていうのがわかってるから、子どもが読んでいて安心できるかもしれません。子どもたちに、生きるということはどういうことかを伝えようとする箇所がたくさんあります。ヤギ飼いのおじいさんは哲学的で、へたをすると説教くさくなってしまいそうですが、犬に語りかける形なので、嫌みがなくていですね。日本語の書名から、この犬は最後にまた牧羊犬になるのだろうと思ってたら、ルークが自分を必要としているのを感じるという方が大きかった。ルークと犬の関係は短い言葉でうまく書かれてますね。この犬が、ルークと一緒にいようと決心するところも自然で、うまいなって思いました。

エクレア:おもしろく読みました。一難去ってまた一難。最後は生まれた所に戻らず少年と一緒になるストーリーは、予想とは違いました。サーカスでは、動物はいろんな技をしこまれ、リアルですが残酷でかわいそう。動物の苦労がよくわかりました。目次のタイトルがすごくおもしろかったです。いろいろな場面が設定された作品を、ペットでなく牧羊犬として生きたい思いの犬といっしょに冒険しながら読みました。ルークと一緒に犬もひきとられる終わり方にホッとしました。

ハリネズミ:翻訳がとてもじょうずですよね。ひょっとすると、原書で読むより味わい深いかもしれませんね。

ヨカ:訳がいい、というお話しのすぐ後で、ちょっと言いにくいんですが、私はこれはダメでした。片岡しのぶさんは、前にこの会で取り上げた『モギ』(リンダ・スー・パーク著 あすなろ書房)でも、訳がうまいなあと感心したのですが、この本に限っていえば、冒頭からつまずきました。「よ」とか「ね」とかいう語尾が多用されているのが、まとわりつくような感じでアウト。なんとなく、甘い感じが漂っていて、苦手だ!というのが先に来てしまいました。アメリカのロードムービーの犬版、という感じで、いろいろな人が出てくる、という展開のおもしろさはわかったし、最後にルークを何とか里親と結びつけようとして、主人公が宙返りをするあたりは、サーカスでの経験が生きていて、うまくできているなあ、と感心したんですが……。最初でつまずいてしまったせいか、入り込めませんでした。それに、おじいさんの話も、ちょっと説教くさいなあと思ったし。残念!

サンシャイン:安心して読みました。牧羊犬として働きたいと思いながら、あっちこっちを放浪する。でも最後には小規模だけど羊の管理もできるような所にたどり着く。いろいろな人間が出てきて、みなし子で孤独な男の子(犬が主人公ですが)の気持ちもよく感じられる。同じみなし子の少年が里親に気に入られるように手助けするところなど感動的でした。犬同士の、(人間的な)出会いとまた人間模様を描いたお話。いい本だと思いました。中1くらいに読ませたいですね。

メリーさん:この物語は、犬の視点で、できごとが語られますが、やはり描かれているのは、人間の気持ちだと思いました。たとえば、主人公の犬が自らの気持ちを誇りを持って語る場面とか、サーカスで、他の犬が主人公に対してエールを送る場面など。犬は本当にそう思っているのか?(たぶん思っていない)と感じました。ただ、最終章での、犬と少年ルークの描写だけはリアリティがある。どちらも長い旅を経て、理解しあえる相手を見つける力が備わった。そこでは、人間と犬を越えた信頼関係が成り立っています。その描写はとても素敵だと思いました。どこまで擬人化するのか?というのはとても難しい問題ですね。物語の前半ではもう少し擬人化をせずに、それぞれの個性のぶつかり合いが描かれるとよかったかな。

ウグイス:いろいろな人間が出てきますが、それを犬の視点から観察していておもしろかった。犬がこんなことを考えるのか、という疑問はあるかもしれないけど、犬が語り手になっていることを最初から納得して読んでいけば、わりあいすんなりと読めると思います。最後にボブさんと会えるのかなと思ったという人がいましたが、私は最初から会えないだろうな、と思ってました。でもきっとハッピーエンドになると思ったので、ボブさんに代わる人がきっと見つかるに違いないし、どういう幸せの形が用意されているのかな、という興味があったんです。そして、最初にルークが犬を見つけるところに「あれ、わんちゃんだ」(p130)というセリフがあります。この言葉にルークの子どもらしさがとても出ていて、「あっ、この子だな!」と私は思いました。前に男の子というものには犬が必要だ、ってことが書いてあって、男の子と犬には大人にはわからない気持ちのつながりがあり、特別な存在なんだということがてもよく書かれていた。
 とてもわかりやすくて、おもしろい本だったけど、書名のイメージとは違いました。羊というのは象徴的なもので、もっと寓話的な内容なのかなと思ってたんです。表紙の感じも、内容より大人っぽい。犬と子どもの話だということがわかれば、もう少し子どもが手に取りやすいのではないかな。帯には子どもと犬のイラストがついているんですね。でも図書館の本に帯はないし、よく見ると背に子どもと犬のイラストがあるけど、小さすぎてよくわからないですね。

げた:話の筋がはっきりしていて、盛り上がりもあり、最後にきちんとあるべきところにもどってこられて、ハッピーエンドで終わりというのがわかりやすかったかな。行きて帰りし物語ですね。この犬、牧羊犬としての生き方を貫き通すというのが、偉いなと思いつつ、もう少し融通をきかせた生き方もありなんじゃないか、なんて思いながら読みました。

チェコ:表紙のイメージからは、確かにこんな話だと思いませんでした。犬が主人公の本としては、成功していると感じました。盗みはしないとか、ゴミあさりはしないなど、わざとらしいという意見もありましたが、私はかえって、犬として誇り高いところなんだと思いました。私も、ボブさんとはもう会えないと思いながら読み進みましたが、ラストがどうなるか予想がつきませんでした。主人公が犬であるが故に、人間が主人公だったらありえないような過酷なシチュエーションが出てきて、そこもおもしろかったです。サーカスに入ったときは、相手が犬だから人間の残忍さが余計ストレートに描けていて、効果的だったと思います。おじいさんとの旅も、破天荒でおもしろかったです。

クモッチ:さっきからメリーさんが、主人公が犬であるっていうことにこだわった発言をされてますが、確かに言われてみると、そんな気高いこと犬が思うわけないよなというところがありますよね。でも同時に、犬が言うことだから説教くさくなく読めることもあって、犬を主人公にするって結構便利だなあと思いました。放浪させたりするのだって、人間だとリアルすぎるけど、犬だとコミカルに読むことができますね。それから、この物語には、生きていく中で何度か思い返したいようなフレーズがたくさん出てきます。例えば181ページ、ヤギを飼ってるおじいさんが言う、人間にとって幸せとは何なのか、というようなところ。年齢が上のYA世代が読んだら、響くものがあるのではないかな、と思ったりしました。

セシ:おもしろかったです。犬のキャラが立っていますよね。働く犬だという誇りがあって、すごく気骨がある。人の世話になるのも、人に使われるのもだめとか。170ページの5行目「ああいうフニャフニャ声は、ぼくは大きらいだ。ルークはああっさりあきらめてしまうけど、そこがよくない」というところ、きっぱり感がよく出ています。「羊のいるところにいかなきゃならない」というのがずっと通っているので、それにひっぱられて読み進められます。前にこの会で読んだ、ネズミが冒険していく『川の光』(松浦寿輝/著 中央公論新社)では教訓が鼻についたけれど、これは哲学的なことも盛り込んでいるけれどお説教くさくないですよね。あらためて、あちらは大人の視点の大人のための作品、こちらは子どものために書かれた本だというのがわかりました。この犬がどこまでもポジティブに進んでいるところ、今の子に読ませたいですね。

うさこ:楽しく読めました。犬がとても健気で、犬に気持ちを寄せやすかったです。ロードムービーのような、犬と一緒に旅をしている感じもしました。犬が出会った人間によって、それぞれの章で味わいが違っていて、よかったと思います。書名の『ぼくの羊をさがして』の「羊」に置き換わることばが、章によって、「ボブさん」だったり、「居場所」だったり、「ぼくの価値」だったり、「誇り」だったり、「未来」だったりと、作りもうまいなと思ました。おじいさんの話は、嫌みがなく、いろいろなことを伝えているなと思いました。最初に結末が書かれているので、犬が途中辛い目にあっても、結末はハッピーになるから、どういう形でハッピーエンドになるのかなと、安心して読めました。

ウグイス:私はYAよりももっと下の子に読んでほしいと思うの。わかりやすいし、4年生から6年生くらいに読んでほしい内容だと思います。確かにおじいさんの言葉など、難しい部分も出てくるけど、おじいさんはそういう言葉を言うのが得意な人、ということで出てくるので、理解できるでしょう。装丁も書名もYA向きとして出されているらしく、小学生には難しそうに見えるのが残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年1月の記録)


マーリー・マトリン『耳の聞こえない子がわたります』

耳の聞こえない子がわたります

ハリネズミ:シチュエーションはおもしろいし、ミーガンという耳の聞こえない子と、となりに引っ越してきたシンディとの気持の交流もよく書けている。ただ、一番大事なキャラクターのミーガンがあまり魅力的に描かれてないのね。心の起伏はあって当然だし、いい子である必要もないんだけど、魅力的に書かれていないと、子どもの読者は入り込みにくい。ストーリー的にも、話の山場がなんなのか、どこがクライマックスでどこが解決点なのか、もっとはっきりしてる方がよかったかな。そして、もう少し翻訳を工夫してもらうとよくなる点もありました。たとえば地の文ですけど、基本的には三人称で書いてあるのに、一人称も頻出します。それが整理されてないので、小さい子が読むとわかりにくい。それと、会話体にもミーガンとシンディの差があまりないので、よけいどっちがどっちだかわからなくなっちゃう。細かいところではp130《「大きな声でうたって、シンディ。あたしたち、耳が聞こえないとでもいうの?」ミーガンがいうと、みんな笑った。》がピンときません。p145には、リジーがミーガンに、シンディへの手話の通訳をたのんでいますが、シンディは一応手話がわかるという設定ですから、何かの間違いかな。

メリーさん:とても読みやすくて一気に読みました。障害を持った子どもの物語というと、日本の創作の場合、暗くなったり、不自然にシリアスになりがちなのですが、この本は主人公がとにかく明るい。自分のほうから「私、耳が聞こえないんだよ」と言って、友だちにアプローチするというところがおもしろいなと思いました。途中で訳文の主語がはっきりせずに、どちらがどちらの言葉かわからなくなるのは、ちょっと問題だなとは思いましたが……。キャンプのシーンで、シンディが、自分は耳の聞こえない子のグループに入るのか、健常者のグループに入るのか悩むところがありますが、あの場面はもっと盛り上がってもいい。もう少し彼女のゆれる心情を書き込んでもいいのではないかと思いました。

ウグイス:女の子2人の友情物語っていうのはよくあるけれど、このシチュエーションは珍しい。障碍も1つの個性であるっていう視点で書かれているのは好感が持てるわね。けれども、ハリネズミさんも言ってたけど、書き方にわかりにくいところがあるの。かぎカッコで書かれた会話部分と、地の文の中に一人称で書かれた部分があり、読みにくいんです。ミーガンの側から書いている部分とシンディの側から書いている部分が交互なんだけど、それが同じ調子なので、区別がつかないんですよね。もっと個性の差が出ていれば読みやすいんだけど。会話がこれだけ多いと、翻訳の文体に左右されちゃうと思うんですよね。しゃべり方に性格が表れるから。それに、明るい感じはいいけど、ミーガンの性格としゃべっている言葉に違和感がありましたね。ミーガンに今ひとつ魅力が感じられないのは、言葉づかいからくるのかもしれません。手話で会話しているところがたくさん出てくるんだけど、活字で書いてあるのを手話でやっていると想像するのも、ちょっとわかりにくいかな。

カプチーノ:私は5年生を担任しています。この本は高学年課題図書の1冊です。「読んでみない」と子どもたちに勧めたところ、子どもたちは順番を決めて喜んで手にしていましたが、「先生、なんかわかりにくい。」「絵はいいのに、読みにくい。」と不評でした。「話がおもしろくないの?」と聞くと「むずかしい。」「言葉がわからない。」「だれが言っているかわからないから……。」私も読んでみたところ、子どもたちが言っていたことがわかりました。主人公のことが書いてあると思ってたら、友だちの方から見て書いてあったりするから、わかりにくかったのでしょうね。主人公が前向きな明るい女の子だというところには、好感をもちました。手話が太字でわかりやすいです。書名と内容の関係も、よくわかりませんでした。そういえば『耳がきこえないエイミーのねがい』(ルー・アン・ウォーカー/著 マイケル・エイブラムソン/写真 偕成社)という本もありましたね。この本を読んでいて思い出しました。表紙の絵がいいと思います。

ネズ:課題本の3冊のうちで、この本だけタイトルを知っていて期待して読んだのですが……。実は、最初の何ページかを読んでやめてしまったんです。とにかくつまらなくて! 他の2冊を読んでから、もう一度トライして、最後まで読みましたけどね。みなさんがおっしゃるように、大人が読んでもミーガンとシンディのどっちが耳が聞こえないのか、わからなくなっちゃうんですよね。翻訳に問題があると思いました。こういう内容だったら、ですます調でわかりやすく訳しても、よかったんじゃないかしら。それに、1章ごとにミーガンの視点、シンディの視点と代わりばんこになっているでしょう? そのへんで何か編集の工夫はできなかったのかしら。テーマや内容はとても良いのに、残念です。課題図書になったという話ですけど、先生に「読め、読め」とプレッシャーをかけられる子どもたちもいると思うと気の毒。もっとも、読みにくいものを頑張って読むと、読む力がつくかも!

ジーナ 私は飽きることなく、けっこうおもしろく読みました。ミーガンとシンディが、お互い内心いやだと思うことをうまく伝えられなくてぎくしゃくしてしまうところがおもしろかったです。ひっかかったのは、「クール」とか「セクシー」という言葉。どちらも日本の小学生には意味が伝わらないんじゃないかしら。

ウグイス:「こうまんちき」っていうのも最近使わないわよね。

みっけ:私は、かなり元気のよい話でおもしろいな、と思いました。確かに途中でどっちがどっちかわからなくなる、と思いましたが。後ろの作者紹介を見ると、作者自身が聾であるということで、なるほどなあ、と思わせられるところがいろいろありました。たとえば、キャンプでみんなが笑っているんだけれど、自分はなぜみんなが笑っているのかがわからなくて疎外感を感じ、ついつい疑心暗鬼になってしまうとか、そういった細かい実感があちこちに埋め込んであるのがいいなあ、と。聾の子どもが聾同士で固まってしまいがちだ、という話を聞いたことがあるんですが、そうなるのも無理はないなあとか、けっこう発見がありました。それと、冒頭がミーガンから始まっているのが、おもしろい。今までに私が読んだ本では、障碍がある子の友達の視点から書かれているものが圧倒的に多かったんだけれど、この本は耳が聞こえない子の視点から入っていくんですよね。そこでちょっとドキッとする。そういうふうにいろいろと魅力的なところがあるんだけれど、物語としての印象がなんとなく散漫なのは、エピソードを盛り込みすぎているからかもしれませんね。さらにふくらませればおもしろくなりそうなエピソードがいくつもあるのに、全部駆け足で紹介している感じで、ちょっとあわただしい。もったいない気がしました。ただ、ミーガン自身のキャラクターについていえば、元気が余って乱暴、みたいに描かれているのを読んでいて、『リバウンド』(エリック・ウォルターズ、福音館書店)に登場する車いすの転校生デーヴィッドを思い出しました。まあ、デーヴィッドほど鬱屈してはいないにしても、やはり、とんがるぐらいにがんばっていないと、押しつぶされそうになるのでしょうし、ミーガンがそれほど魅力がない子どもだとは思いませんでした。たとえば、電話が大嫌いだというエピソード一つとっても、耳が聞こえる人たちに囲まれて暮らしていると、自分が感じていることをわかってもらえずに、いらだつ場面はたくさんありそうだから。

ハリネズミ:大人は作者自身が聾者だとわかって共感するかもしれないけど、子どもにはおもしろくないと。そうじゃないと、「聾者のことをわかってあげなさい」というメッセージばかりが全面に出てしまうと思うのよね。

ウグイス:主人公が9歳だから、中学年向きの本だけど、読みにくかったら致命的。読みなれている子なら、薦められれば読めるかもしれないけど、このくらいの年の子が読むもので読みにくかったら、本を閉じてしまうでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年12月の記録)


濱野京子『フュージョン』

フュージョン

ネズ:「また例のヒリヒリ系かな、いやだな」と思いつつ読みはじめたのですが、とってもおもしろかった! 特にダブルダッチのおもしろさに引き込まれました。最初は、ヒリヒリ系によくあるように、母親のことを自分の敵のように書いているし、家出したお兄さんの消息がわかったのに両親に知らせなかったりしているけれど、お兄さんの友だちが出てきて、そんな風に頑なに考えるのは良くないと言われるあたりから、ちょっと違うなと思って、ほっとしました。ただ、喫茶店をやってるおじさんっていうのが、ちょっとはっきりしない。まあ、中学生の目から見たら魅力があるんでしょうけどね。

カプチーノ:読みやすく、わかりやすい内容だと思いました。ダブルダッチは小学校でも3学期になると高学年の女の子たちが校庭でよくやっていますが、いろんな飛び方があることをこの作品から知りました。美咲という女の子に似た2面性をもつ子は最近よくいます。中心人物4人の性格や家庭環境は違いますが、バラバラだけどまとまれるのがこの作品の魅力なのかな。類というおじさんは、この子たちにとって憧れ的な存在じゃないかな? お兄さんが携帯メールを送ってくるのは、現実的だし、お兄さんの友だちが登場してお母さんとの関係も変わっていくんですね。中学生に手にとってほしい1冊です。

ウグイス:女の子が5人出てくるんですよね。どれも漢字2文字のきれいな名前で、ごちゃごちゃになりそうなところだけど、ひとりひとりが書き分けられているので、おもしろかったです。主人公の一人称で、主人公が他の子たちをどう見てるかという視点で一定しているから、わかりやすいんでしょうね。語り手とそれぞれの子との関係がよくわかるし、どういう子かもわかってくる。だからおもしろく読めるんだろうな。いろんな友だちとのいろんな力関係とか、相手が自分をどう思っているのか、探り探り近づいていくっていう付き合い方が今の子どもらしい。この子が親に対して何が不満なのかっていうのがちょっとわからなかったですね。自分でも何に不満かわからないけどすべてが嫌、という年頃なのかもしれないけれど。またお兄さんが、どうしていなくなったかよくわからないから、ちょっとひっかかる。お兄さんのことはこの話にとって必要なのかな。お兄さんからメールが来ているのを親にも言わないっていうのもどうかなあと思っていたので、最後にお兄さんの友人が、言わなきゃと言ってくれてほっとした。物語の雰囲気は印象に残るけれど、ストーリーの山場があるわけではないので、内容はすぐに忘れそう。この年代の女の子の気持ちっていうのは、よく書けてるかな。

メリーさん:野球、陸上、飛び込みとスポーツを題材にしたYAはいろいろあるけれど、今回は大縄跳びか!と思って読みはじめました。主人公をとりまく女の子たちの会話はとてもリアルだなと感じました。特徴的だなと思ったのが、69ページのところ。お互いのプライベートな面には興味がなく、ただ、ダブルダッチをすることだけに集中するという彼女たちの関係性。少し前の話だったら、表面では世の中のことを何一つ考えていなさそうで、実は考えている子、というのが多かったような気がします。でも今は、社会にうまく順応しているように見せて、実は心の中では他人に本当に無関心。実際の中学生はどうなんでしょう? 自分以外の人やものごとに無関心なのか、聞いてみたいと思いました。好きな場面はラストの学園祭ジャックのシーン。主人公と美咲はきっとお互いが似ているということをわかっていたのだと思います。鏡のような存在だから嫌で、でもそれがまた相手を理解するきっかけになる、というところがよかったです。

ハリネズミ:今メリーさんは、この子たちは他人に無関心だって言ったけど、この作者の書き方はそうじゃないですよ。逆だと思うんです。だって、朋花が出場できそうにないと見てとると美咲は家にまで乗り込んできて一芝居打つわけだし、玖美も玲奈をかばって大騒ぎしたりする。一見クールだけど中は熱いというふうに作者は書いてます。私は、いろんな意味でとてもリアルだと思いました。お兄さんが、客観的に見ればちょっとしたことで家出してしまうのもわかります。私のまわりにも、そういう高校生、いましたよ。類さんは漫画のキャラみたいですが、不思議な雰囲気で時々いいことを言ったりしてて、しかもゲイだなんて、中学生の女の子には魅力的ですよ。
この4人はタイプが違うから、普通だったら付き合いがないだろうのに、ダブルダッチを通じてわかり合う。ベタな友情を結ぶっていうんじゃなくて、それぞれを異なる存在として理解し合うっていうのが、いいなあと思いました。言葉遣いも自然な感じでいい。ひっかかったのは、表紙の絵ですね。私は古い感じがしちゃったんですけど、今の中学生には魅力的なんでしょうか? ダブルダッチはYouTubeでパフォーマンスを見てみましたが、奥が深そうですね。

ネズ:今の児童文学には、いろいろな世代の人が子どもとかかわって、お互いに影響されていくっていうのが、なくなってきたわね。断絶されちゃって、子どもは子ども、大人は大人っていうふうに……。

ハリネズミ:いい大人っていうのが、出てこなくなりましたよね。

みっけ:子どもたちを取り囲む大人が、非常に限定されてきているせいなんでしょうね。だって最近の子どもにとっては、大人といえば親か教師になってしまうでしょう? 盆正月など、節目節目に大家族が全員集合して、そのときに、親戚のおじさんやおばさんに会うとか、そういったこともなくなってきているし、隣近所との関わりというのも、少なくなってきているし。だから、こういう作品にも、大人が登場しにくくなっているんじゃないかな。日本のこの年代の子を対象とするリアル系の本は、わりと暗くて心が痛くなるようなものばかりが目についていたんですが、この本は暗い感じで終わらずに、ちゃんと成長があって、明るく終わっているのがいいなあ、と思いました。古典的というか、安心して読めるというか。それというのも、主人公をはじめとする子どもたちが、たがいに異質な存在である同級生を認め合えるようになって、何かを成し遂げているからなんでしょうね。自分とは異質な存在を認めるというのは、実はそう簡単なことではない。では、何がきっかけになるのかというと、ひとつの目標を共有したり、あるいはなにかの作業に一緒に取り組むといったことが、きっかけになるんだと思うんです。そういう中で、次第に相手を理解することができるようになる。正面衝突したのでは、一杯一杯で相手を理解するだけのゆとりがなくなるけれど、なにかを一緒にするという形であれば、ある程度のゆとりが持てて、相手のことも理解できるんじゃないかな。だから装置としての学校でも、そういう作業をわざといろいろ設定して、子どもたちが互いをわかり合えるように持っていくんでしょうけれど。理解という点でいえば、少し前にこの会で取り上げた『スリースターズ』(梨屋アリエ/著 講談社)は、一見この作品とはまるで違うように見えますが、やはりあの中でも、集団自殺をする、という目標を共有する中で、いわゆる優等生タイプの女の子といわゆる崩壊家庭で保護遺棄されたような状態にある女の子が、互いを少しだけ理解できるようになる。それと同じように、この作品では、ダブルダッチを通して主人公たちが互いを理解するようになる。きっかけとして、ダブルダッチは理想的だと思うんです。たかが縄跳び、されど縄跳びで、難しくて、かっこいい。ストリート系の魅力があって説教くさくない。しかも、回す人たちと飛ぶ人たちとが呼吸を合わせないといけないから、共同作業としてもかなり高度だし。
主人公の親は、物わかりがよさそうで、理知的な姿勢を見せながら、最後のところで、子どもに向かって「まあやってごらん」と言い切れない、そういう親の弱さに対して敏感になる年頃だから、あちこちにこういう家庭があるだろうな、というリアリティを感じました。今時の、たとえばいじめを題材にした読後感が暗めになるYA作品と比べて、この作品に出てくる子どもたちは、それぞれがいくつもの世界を持っていて、その場面場面で見せる顔を変えてはいても、一つの人間としてきちんとまとまっていて、分裂していないような気がします。タフというか、確固たる一人の人間がいるという感じがする。だからこそ、異質な存在を認めることもできれば、つながることもできるんだろうし、前向きにもなれるのかな。今時のいじめを題材にした作品だと、そのあたりがもっとひ弱な感じがするんですよね。とにかく、ようやくヒリヒリするだけではない作品があった、と思いました。作者の年齢とも関係しているんでしょうかね。

ジーナ:この年代の子たちに、私は普段比較的よく接しているんですけど、あの子たちは友だち関係が希薄になってると言われるけど、やっぱりだれかとつながりたいという気持ちがすごくあるんですね。うちの子も中学生の頃、制服のポケットの中にいつも紙をおりたたんだ手紙がどっさり入っていて、友だち関係のことで毎日感情がアップダウンしていました。クラスはもちろん、部活動には異質な子も集まっているから、毎日がぶつかり合い。だから、玖美が友だちをかばって謹慎になるところなどは、とてもリアルだと思いました。母親の描き方が前半はすごく嫌でしたが。友だちとの関係がいろんな人とのかかわりの中でだんだんに変わってきて、最後は今までよりこの子たちの世界が少し広がるようなところがいいと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年12月の記録)


ビルイット・ロン『つぐみ通りのトーベ』

つぐみ通りのトーベ

カプチーノ:カバー袖に低学年にぴったりと書かれてありますが、友達とのかかわりはもうちょっと学年が上でないとわからないのではないのかしら。トーベに対するお母さんやお父さんのあたたかい愛情いっぱいの接し方や家庭での様子、木登り、消防自動車は低学年にぴったりの内容です。が友だち関係の複雑さは中学年以上の子どもの方が心情がよくわかり、共感できるのではないでしょうか。

ネズ:とっても好きな作品で、おもしろかった。自分の子どものころのことも、思いだしたりして。低学年の子どもの心の動きがていねいに書かれているし、赤ちゃんの描写やお父さんとレストランごっこをするところなども、ユーモアがあって。エンマの誕生会のところも、大人にとっては何でもないことで傷つく子どもの心がちゃんと描いてあるし、ネズミを飼いたいという子どもに反対するのがお父さんで、お母さんは見に行きたがる……日本の児童文学では、たいていお母さんのほうが反対するわよね。するとお父さんが「この裏切り者。こういう人と僕は結婚してたのか……」などとぼやくところもおもしろかった。低学年では読めないのかしらね?

ハリネズミ:読む子は読むと思いますけど、この文字の大きさでこの量では普通は無理じゃないかな?

ウグイス:逆に中学年でこれを読むと、主人公が幼すぎるんじゃないかな?

カプチーノ:今日仲がよかったのに明日はぷつんと別れてしまうなんていうところは、高学年で経験するんですね。低学年では、それがわかるかどうか。

ジーナ:私は読みにくく感じました。絵がかわいいし、表紙も読んでみたい感じになるけれど、子どもたちの言葉づかいが、実際の年齢より上の感じがしました。男の子から好きといわれたことがあるとかないとか、2年生の子がそんなに話題にするかしらと思ったし。仲がいいのに、ちやほやされているのを見て嫉妬心を感じるエンマとの関係がどうなるかが、このお話の中心だと思いこんで読んでいったので、最後にそのあたりが解決されたのかどうかすっきりしないのが不満でした。ネズミをもらいにいったとき、お母さんが同級生と再会して盛り上がるといった類の、わき道にそれたエピソードも、話を拡散させるようで、どうなのかな、と思いました。

ネズ:最後、なわとびのなわを持つところで解決してるんじゃないの?

ハリネズミ:エンマがこの子のことを少し見直したというだけだから、解決してないんじゃないの?

ジーナ:もうちょっとはっきり書いてくれてもよかったかな。

みっけ:私は、年齢の低い人たち向けの本としてどうなのか、といった目配りはできないものだから、結果としては結構おもしろく読みました。さくさくと、ああ、こういうことってあるだろうなあ、と思いながら。この本は、何かすごく深いものを追及するとかいうのではなく、ちょっとおかしなことや、ちょっと嫌なことや、すごく嬉しいことなどがたくさんちりばめられた小学校低学年の子どもの日常を、明るい感じで書いた作品だと思うんです。友達の誕生会で、大人から見ればささいなことでドーンと落ち込む様子や、バスに乗ったらどこだかわからないところへ連れて行かれちゃって焦る様子や、木に登ったまではいいけれど降りられなくなったり消防車に乗って意気揚々と帰ってくる様子とか、おもしろいなあ、こういう感じだよなあ、と思いながら読んでいました。それと、この作品の親の書き方が、いかにも北欧の作品の親の書き方だなあ、と思いました。日本の作品なんかにもよく出てくる、いかにも親らしい対応しかしないのっぺらぼうな親ではなく、ごく普通に個性がある血の通った人間としての親が描かれていて、それが子どもへの対し方からもわかる。そのあたりが、気持ちよかったです。

ハリネズミ:話はおもしろかったんだけど、この文字の大きさでこの量では、対象年齢にはなかなか難しいんじゃないかな。話自体も細かく見ていくと、たとえば1ページ目に「のろのろあるきなのは、先生がくるまえに、教室につきたくないからです」と書いてありますが、どうしてそうなのかがわからない。訳も、ところどころ引っかかりました。自転車の男の子たちがトーベを追い越そうとして発した言葉は「気をつけろよ」って訳されてますけど、「どけ、危ないぞ」くらいのほうはいいのでは? エンマの夢は歌手だけどトーベの夢は空をとびたい、というのはおもしろいですね。エンマに圧倒されているトーベがだんだんに自分らしさを取り戻していく、というのが話の核ですが、同じような味わいの作品はラモーナ・シリーズ(ベバリイ・クリアリー/著 学習研究社)とかクレメンタイン・シリーズ(サラ・ペニーパッカー/著 ほるぷ出版)とかあるわけですから、それらと比べると、ちょっと弱いと思います。

ネズ:私はのんびりしているところが好きなんだけどな。お母さんが幼なじみに偶然出会うところなんかも、小春日和みたいにほっこりしていて、いい感じだったわ。

メリーさん:女の子同士の関係って本当にむずかしい。ちょっと華やかな子と地味な子が友だちで、その関係に悩むというのは日本の物語にもよく出てくるテーマです。その上でこの本の特徴は何なのか、考えながら読みました。最後の場面で、主人公が、けんかした女の子の悪口を他の友だちから聞くところがありますが、いろいろ学んだ主人公は、そこでその友だちのことをあまり相手にしない。ほんの少しだけ成長したわけですが、そんな主人公の変化の部分をもう少し読みたかったなと思いました。内容は低学年なのですが、このくらいの文章量だったら、この大きな判型ではないほうがいいのではないかと思いました。

ハリネズミ:日本人が書くのなら同じようなものがたくさんあってもいいと思いますが、学校や家庭環境そのものが日本とは異なる外国の作品だと、よほどちゃんと選んで出さないと。

みっけ:外国の作品の中でも、対象年齢が低いリアル系のものは、日本で翻訳を出すのがとりわけ難しいんじゃないでしょうか。というのも、年齢の低い読者はかなり狭い世界しか知らないわけで、そういう読者を対象とした作品は、当然、狭い日常の世界で話が展開されることになる。しかも作者は、読者がその狭い世界の細々したことを熟知しているという前提に立って、説明抜きで話を展開していきます。そうでないと、話がまだるっこしくなって、台無しになるから。ところが、そういった日常生活のささいな点に限って、外国と日本とではひどく違っていることが多い。それで結局、そんな違いなど知るよしもない日本の幼い子どもたちにすれば、ちんぷんかんぷんになりかねないわけですから。

ウグイス:私は低学年向けって頭で最初から読んでしまったので、クレメンタインやラモーナと比べてみることはなかったんですよね。むしろスウェーデンなので、やかまし村と比べていました。あれは男の子と女の子がはっきりわかれていて、「男の子ってどうしてこうなんでしょう、まったく困ったものです」って女の子たちが言ったりして、時代的な男女観も出ているんだけど、こっちは男の子が、高いところに登った女の子をかっこいいと思ったりする。そこが、今の子の感じ。読み始めはあまりおもしろくなかったんだけど、木に登るところくらいからぐっとおもしろくなった。高いところに登ったことを男の子たちが感心し、トーベはそれに対して「夏になるまでいるつもり」って言ったりするのもとてもおもしろかったです。それから、あとで電話番号を教えてもらって電話がかかってくるとき、私のことが好きだって告白するのかしらって思うところや、エンマに男の子2人とつきあってるのとびっくりされて、そういうふうに思わせとこうと思うところとか、生き生きとしていた。お父さんとお母さんの書き方もありきたりではなく、ネズミを飼うところでも、予想に反してお母さんが賛成するのがおもしろい。消防車に乗って帰るところも子どもとしてはとても楽しい場面。やっぱりこれは、低学年が楽しいものだと思うんですよね。絵は低学年向けなんだけど、もう少し低学年に読みやすい本づくりにしてくれたらよかったのに残念ですね。「挿絵が豊富で低学年の子が読むのにぴったりです」って書いてあるけど、挿絵が豊富なだけではね。読んでもらえば低学年でも楽しめるけど、やっぱりこの本は自分で読んでもらいたいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年12月の記録)


松浦寿輝『川の光』

川の光

サンシャイン:かわいらしく書けていると思いました。子どもの目でみるとドキドキすることもあり、最後までまあ、よくできているんじゃないかなと思います。作者が楽しみながら書いたんでしょうね。地図も入れて、ネズミの視点だと人間よりずっと遠くまで冒険するって感じも出ています。

もぷしー:私はちょっと厳しく読んでしまいました。『ウォーターシップダウンのウサギたち』のほうを先に読んでいたので、よけい厳しい目で読んでしまったのかもしれないですけど。主人公たちが努力をしながら生き抜くという話である割に、幸運に救われる場面が多いな、と。幸運に恵まれるなら、そこで得たものを生かして次の危機にのぞんでくれるとお話としてつながっていきますけど、「新しいところで、新しいだれかに救われる」が繰り返されているのが気になってしまって。タータが、自分が救われたようにスズメの子を救ってやろうとするシーンもあったけれど、生き延びるための冒険を描く物語としては、自力で解決する要素がもうちょっと強調されてもいいんじゃないかと思います。でも、作者はとってもいい方で、世の中には他人を助ける人がこんなにいるんだよと伝えたいんだろうな。
あと気になったのは、もとが連載だったからだと思うんですが、イベントがものすごく頻繁に入ってくるところ。一難去ってまた一難。もうちょっと一つ一つのドラマを大きく組立て直して単行本化することもできたんじゃないかと思います。導入の部分はとてもいいと思ったんですよ。たとえば6pのところなんですけど、「そんなことはできないに決まっているけれど…行ってみるといいと思う」の描写は、読者をネズミの世界にすーっとひきこんでくれる、とても素敵な表現でした。ただ、後半に向けて、作者が読者を引っ張る感じがたまに強引。234p、獣医の田中先生のところ。「田中先生はこんな人」という説明が地の文としてずいぶん長く続くけれど、そういうことは、作家の説明より物語のエピソードでわからせてほしかった。ほかに、349pでタミーが去っていったシーン。「友だちって、いいね」と繰り返されていますが、単行本内でタータとタミーの接点は「友だち」になりきれるほどたくさんは描かれていないように思います。「友だちって、いいね」という言葉が、物語を飛び越えた作者の生の意見のように思えてしまいました。最後に366pのあたり、突然作者登場という感じがして、後書きのような印象。ここまで直接的に作者が読者に語りかけるなら、前半から、作者が登場するようなリズムを作っておかないと、この章だけ浮いてしまう印象でした。と、いろいろ言ってしまいましたが、本や物語のあたたかい雰囲気には好感が持てました。

ジーナ:私ももぷしーさんに近い感想でした。今回『ウォーターシップ・ダウン〜』と比べ読みしたのはおもしろかったです。『ウォーターシップ・ダウン〜』は完全にウサギの視点で描かれていますが、こちらは作者の視点、人間の視点があちこちで混ざってくるので、完全にネズミの視点になりきって読むことができませんでした。本当は仲良くない動物との友情も、一組くらいなら自然に入れますが、ここではあちこちで出てくるし、病院のケージから逃げだすときにピンを使うという、習性からするとありえないことが出てきて、ややさめてしまいました。タータとチッチは子どもらしいキャラクターですが、子ども心がある書き手が書いたというよりは、子どもってこんな感じかなと大人が想像して書いている感じがしました。特にタータが妙に幼く描かれている部分と、もう一人前のように書かれている部分があって、どれくらいの経験を積んだネズミのイメージなのか、つかみにくかったです。大人が読むにはいいのかもしれないけれど、子どもにすすめるなら別の本があるかなと思いました。

ハリネズミ:一気にさーっと読んだんですけど、366pのところでえっと思いました。これって大人の本なんだ、と思ったんですね。子どもも読めるのと子どものために書いているのは違います。小さい動物がたくさんいて、いろんなことをしようとしているんだけど、人間はそれに気を留めることなく地球をどんどん壊していっているというのが著者のメッセージだと思いますが、作品の中で登場する人間は田中病院の先生くらいなので、子どもが読んだら伝わりにくいんじゃないかな。そういえば図書館でも大人の本の棚にあったんですね。そう思って見直すと、子どもの本のつくりじゃないですね。ネズミたちの冒険そのものはとてもおもしろいので、子ども向けにも書いてくれたらよかったのにな。

ジーナ:そうですね。川がなくなるなど、生物が住めない環境を人間がつくっていくことへの告発はこの本の大きなテーマだと思いますが、それを子ども向けに書くなら、ネズミやイタチが住む場所を移すだけではなく、もっといろいろな生物が具体的にどうなるかなどにも触れてほしかったですね。

もぷしー:主人公がネズミだったのが厳しかったのかな。ネズミは都会でも暮らせるから、田舎や川辺にすみたいという目的が、生死の問題ではなく好みの問題になってしまうし。

ジーナ:このネズミたちは川暮らしなのに、ハンバーガーだとかポテトだとか、よく知っているんですよね。

ハリネズミ:この著者はケネス・グレアムの『たのしい川べ』が好きだそうですね。あれも、川ネズミやモグラやヒキガエルが旅しますからね。この本の中の川の描写にも、グレアムの文章を彷彿とさせるところがあります。著者は、大人として、そういうのを書きたかったんじゃないかな。牧歌的な暮らしにあこがれて、それが可能な場所をとどめておきたいって気持が強いかもしれませんね。ネズミを主人公にしたのは、弱い動物の象徴として出しているのだと思いますけど。雌犬のタミーが「ぼく」なんていうところは、大人にはおもしろいけど子どもにはどうなんでしょう? ドブネズミの帝国は、『ウォーターシップ・ダウン〜』をヒントにしたのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年11月の記録)


ウォーターシップ・ダウンのウサギたち(上・下)

サンシャイン:上巻が読みにくかったですね。名前をメモして読みましたが、なかなか覚えきれませんでした。どのウサギも植物などの名前のようですが、カタカナでは実感がわきません。後半になってくると、話も一つの方向ではっきりしてきてテンポよく読めましたが。正直、あんまりおもしろくは読めなかったです。ウサギだけの視点でお話は統一されていましたが、人間の世界を反映させているんだろうなと思いつつ読みました。壮大なウサギの世界観が作者にあるんでしょうね。最後まで読み終われてよかったっていう感じです。

もぷしー:人間のことを、うまくウサギにのせて表現しているところに著者の力量を感じました。天敵を助けたりするなど現実を超えたところもあるんですけど、それにしても、情で助けているのではなく、助けた後の見返りを期待するなど利害関係を前提にお互いに助け合っている。そういうむき出しの関係は日本では嫌われるかもしれないから、この物語の好き嫌いは別れると思うけど。でも、そのむき出しな様子が物語のリアル感をアップさせてる事は間違いありません。人間から感じ取られることをうまくウサギに載せて語ってます。巣穴の中のようすや作りをすごくリアルに描いているし、糞のこととか、病気の治し方、病気が蔓延しないよう気にするところなど、野生動物の暮らしを想像させてくれて楽しい。自分と他者を助けられるようになるために自分の力を磨き、他者の特長を認めてお互いを生かしていくという骨の部分が、この物語に説得力をもたせていると思います。描写に関して巧みだなと思った事を二つ。一つは、作者が言いたい教訓的な部分はエル・アライヤーの物語として神話的に語ることで、物語の中に自然にとけ込ませている点。もう一つは、「安心した」などの直接的な表現のかわりに、風の吹き具合や、鳥の声、食べ物の味や食べるスピードで、仲間同士がどのくらい安心して暮らしているかを表している点。五感を使った描写がとてもていねいだと思いました。作者は従軍経験があることのこと。その時の経験をいっぱい書いているんじゃないかと想像させられます。自分が生き抜くこと、集団として生き残るということを、きれいごとですまさず、つきつめて考えた経験がある人ならではのブレのない厳しさが、この物語にあらわれているんじゃないかと。そのひたすら厳しいというところで、やっぱり好き嫌いは別れると思うけど。本づくりで思ったのが、ウサギの名前は日本語に直すとこんな意味だよとか、どこかに一覧を出してくださると、キャラクターのイメージがもっとつかみやすくなると思いました。あと、下巻185pの戦いで最高に緊迫しているシーンでバーンと地図が出てきて、ここで物語が分断されて頭がもとにもどってしまうのがもったいない。地図は前付として載せていてもいいんじゃないかな。

ハリネズミ:でも、冒頭に出したら、ネタばれになってしまうんじゃない? この章の後ろでもいいですよね。

ジーナ:最後まで読めていなくて、すみません。ウサギの視点で描かれる物語の構造や、それぞれのウサギの名前や性格をのみこむのにしばらく時間がかかって。最初は読みにくかったのですが、登場人物の関係がつかめたら、ウサギの宇宙に入りこんでどんどん引きこまれました。ウサギの視点で描かれているけれど、目線と高さの違いによる人間とウサギの見え方の違いなども説明されているのが、子どもの本として行きとどいている感じがしました。ただ、登場人物の名前やウサギ語が覚えにくいですね。ウサギ語は、章末に注がついているけれども、注のところに元の言葉を書いていないので、「なんだったけ」と後からはなかなか行きつけないのが残念でした。ウサギの神話が盛り込まれて重層構造になっているところが、大人の近代小説を読んでいるような感じ。ただ、ウサギ同士の話し言葉がかしこまっている気がしました。とてもていねいに訳している感じ。挿入された神話にはぴったりですが、話し言葉としては古めかしくて入りにくいかな。ただ、今はやたら子どもにわかりやすく、わかりやすくという本が多いので、こういう、わからないところが残る書き方も、それはそれでいいのかも。上下巻の色がきれいで、感じのいい表紙ですね。今はソフトカバーが流行りなのかしら?

ハリネズミ:ハードカバーだとかさばるし、重くなるので歓迎しない子どももいるようですよ。

ジーナ:私たちが高校生のころ(30年くらい前)、図書室に並んでいて、よく貸し出されてましたよね。

ハリネズミ:私は72年に旧版が出たときすぐに読んで、とてもおもしろいと思いました。今回は新版を読んで、最初はちょっと読みにくいなと思ったんです。もしかするとそれは、今の創作児童文学の軽い文章に慣れすぎてしまったからかもしれませんね。でもいったんこの文体に慣れてしまえば、どんどん読めますね。世界がしっかり構築されているので、安心して読める。この作品については、イギリスでも称賛と批判と両方あったと聞きます。能動的なのはすべて男性で、女性はついていくだけというのがジェンダー的によくない、という声もあったそうです。ウサギの名前については、たとえばタンポポではなくダンディライアンとした理由が訳者後書きに書いてあります。でも英語圏の子どもはこの名前を聞いてタンポポのイメージも思い浮かべるだろうし、語源にもあるライオンも思い浮かべるでしょう。でもダンディライアンでは日本の子どもにはなんのイメージも浮かばないという不便さがありますね。ヘイズルという名からもイメージは浮かびにくい。ヘイゼルならまた違うでしょうけど。こういう名前は、なるべく原書通りにするのか、それとも瀬田貞二さんみたいに、思い切って日本語にしてしまって(たとえば『指輪物語』でStriderを馳夫とするなど)日本の子どもにもわかりやすくするのか、悩ましいところですね。中学生くらいから読める作品なのに、名前ばかりでなくウサギ特有の言葉遣いも出て来て、カタカナ表記の多さで読者を遠ざけているのが気になります。ジェンダー的な問題は感じませんでしたか?

サンシャイン:ローマの建国の時に隣の国から女性たちを連れてきてしまうというのがありましたっけ。その話を下敷きにしているのかなと思いました。女性の意思を無視して連れてきたりしてるわけじゃないので、気になりませんでした。

ハリネズミ:上巻p47のリーマスおじさんについての注はよくわかりませんね。

サンシャイン:旧版はどんな版だったんですか?

ハリネズミ:私はペーパーバックで読んだような気がします。読者対象は高校生から上で、中学生は無理だったよね。

ジーナ:何がきっかけで新版を出したんでしょうね?

ハリネズミ:新旧を比べてみると、おもしろそうですね。

サンシャイン:アニメは角川だから、日本でも公開されたんでしょうね。

ハリネズミ:装丁は新版の方がずっときれいですね。このころのイギリスのファンタジーは、きちっと世界観を作って描いているから、重厚ですよね。

サンシャイン:実際に実在している場所を使って、地図も載せて、そこでお話作っています。

ハリネズミ:ウサギって、犬や猫と比べて表情がないし、ペットとしてはコミュニケーションがとりにくいイメージ。そういうのを野生の中において、作家がイマジネーションを膨らませて細やかに描いているのがおもしろいですね。

ジーナ:イギリスって、ウサギが多くて身近なんでしょうか? ピーターラビットもいるし。

ハリネズミ:エジンバラの町の中だって普通にいましたよ。

ジーナ:ヘイズルたちはラビットですか? それともノウサギ(ヘア)?

ハリネズミ:ラビットですね。イギリスでは肉屋さんでもウサギの肉を売ってます。

サンシャイン:ローマの話は、建国当時隣の国から女性を奪ってきて、後から奪われた方の国の男性が攻めてきたけど、女性たちがとりなして和解させたという話だったかと記憶しています。絵の題材にもなっています。この本の戦闘シーンの中の地図は、塩野七生さんの「ローマ人の物語」にある戦場の地図に似ています。作者は戦争経験者だし、そこにパッと戦場の様子を地図として入れたくなったんでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年11月の記録)


末吉暁子『水のしろたえ』

水のしろたえ

ハリネズミ:きれいな物語で悪くはないと思ったし、羽衣伝説を踏まえたうえで史実を織り込んで書いているのには好感が持てました。でも、ちょっと物足りない。物語の核は、真玉が地上で暮らすのか、水底の国に帰るのかというところだと思いますが、水底の国の魅力が書かれてないし、真玉がそこに惹かれる気持ちも書かれていないんですね。そのせいで、最後に真玉が地上に残る決心をする最後も、今ひとつ迫ってこない。それが残念。真玉と高丘の淡い恋もあるんですけど、それが原因で真玉が地上にとどまるにはまだ弱すぎる。高丘の方はこの間まで真玉を男の子だと思ってるわけだし、その後は仏門に入っちゃうわけでしょ。真玉の父親の伊加富は、エミシの女に命を助けられただけでなく、恋心を抱いていたのかもしれませんね。でないと、自分の命を危険にさらすまでに至る過程がよくわからない。でも、そこも児童文学だから遠慮したのか、書いてないんですね。

チョコレート:題名がおもしろいので興味があり読みました。お父さんは本当は生きてるんじゃないかと期待しましたが、結果は残念ながら亡くなっていました。天皇家の人物が出ていますが、系図があった方が出来事や時代背景がもっとわかっていいなと思いました。映画を見ている感じでさらりと流れ、ちょっと物足りなさを感じました。ギョイは妖怪なのかな? いろいろな場面に出てくるのがおもしろかったです。

サンシャイン:私は絵がダメでした。男としては読むのが恥ずかしい。明らかに女の子の読者を想定して描いたものですね。お父さんの現地での恋が詳しく書いてないので、5年か6年生の女の子向きという想定でしょう。ギョイは狂言回しかな。薬子の乱とか、歴史的な出来事に絡めて書いているところはよく書けていると思いました。

みっけ:読んだのがかなり前なので、かなり忘れてしまいました。たぶん、印象がさらりとしていたからだとも思うんですが……。私もやはり、この絵は苦手です。印象が妙にきれいになる感じで、現実離れしてしまうというか、甘いというか。こういう日本の昔を舞台にしたものを読むときには、匂いや光といったもの、また今のように衛生的でなかった頃のある種汚いところや汗臭さといったものが、今とは違うんだよなあ、という感じで興味深いんだけれど、この本にはそれがあまりなくて、さらにそれをこの絵がつるりとしたものに仕上げている感じがしました。羽衣伝説その後、という感じで書かれているのはわかるんだけれど、なんか最後のところがぐっと迫ってこなかった。主人公の葛藤がイマイチ伝わってこないから、決断も迫ってこない。印象が薄いんですよね。それまでの書き方が淡かったからでしょうかね。残念です。

ウグイス:作者が自分のよく知っている地元の風土や歴史を良く調べて書いていることが感じられ、雰囲気はよく伝わってくると思います。日本の読者にはなじみやすい。確かに物足りないところはあったけれど、最近読んだものの中ではわりにおもしろかった。

ハリネズミ:ひとつ新らしいと思ったのはエミシの描き方。アテルイやモイの側から史実を見る試みがなされるようになったのは最近のことらしいんですけど、児童文学でこんなふうにりっぱな人物として取り上げる試みが新鮮でした。

みっけ:真玉が田村麻呂と出会って、父の死の真相を話すのは、なるほどねえと思いました。でも、そのあとの真玉が号泣しているところで、田村麻呂が「あのときは、わしだとて、腰を抜かして落馬しそうになった。伊加冨殿は、乱心したのだとしか思えなかった。だが、あれからわしも少し大人になった。エミシだろいうが倭人だろうが、人として生きるのに何の違いもない。ようやくそう思えるようになった」と言って、さらにアテルイとモレの除名を嘆願したがかなわなかったと続くところで、「あれから私も少し大人になった」で片付けられてもなあ、という違和感がありましたね。もっと肉付けをしてくれないと、わからないよ、という感じ。

ハリネズミ:この場面で田村麻呂の心情を詳細に書くのは、ストーリーラインから外れるし、史実からも外れちゃうんじゃないかな。田村麻呂は、実際にアテルイとモイの助命嘆願をしたそうですし、この人たちの霊を弔うためにお寺も建てたとは言われていますね。ただね、田村麻呂にしろ薬子にしろ、子どもの真玉に自分の心の奥底にあることをこんなふうに話すかな? それが、ちょっと気になりました。まあ、小学生向きの物語なので、リアリティから離れるのは仕方ないのかもしれませんが。

ウグイス:やっぱりこの表紙の絵では、男の子は読まないよね。

ハリネズミ:男の子の読者は、はじめから対象にしてないつくり方ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年10月の記録)


ラウラ・ガジェゴ・ガルシア『漂泊の王の伝説』

漂泊の王の伝説

サンシャイン:王子の人物像が、最初の印象とずれてきて、あれ、と思いました。書き出しは立派な王子として書いているのに、実はそうではない。詩の優勝者を閉じ込めて意地悪して……という人物像に違和感を覚えました。もちろん後半は経験を積んで立派になるのですが。詩のよしあしは、この文章だけではわからない。まあまあおもしろく読めたともいえます。スペインのファンタジーの一つのパターンがあるのかな、と思いました。

チョコレート:夏休みに読みました。あらすじの先がみえましたが、逆にそこがおもしろかったです。自信満々の詩のコンクールで負けたことが原因で傲慢かつわがままな王子になりますが、いろいろな苦難に遭って成長していく成長物語として私は読みました。身分の高い王子に戻るのではなく、たくましく成長した一人間として話が終わることで、書名『漂泊の王の伝説』がさらに印象的になりました。王子がおこなった過ちに対して登場人物達が話すそれぞれの言葉(勇気づける励ましの言葉)に共感し、はらはらどきどきする場面などでは王子自身になりきってしまいました。この作品を通して砂漠の生活がよくわかり、またじゅうたんや生活の一部として詩がありその詩を朗読するなど日本にはない異国文化をたくさん知ることができてよかったです。

ハリネズミ:ます物語の中に出てくるカスィーダという長詩の構成、詩のコンクールの様子、絨毯を織る様子、ベドウィンの暮らし、都会ダマスカスの様子など、一つ一つがとてもおもしろかった。ストーリー運びもおもしろいですね。さっきワリードの人物像についてサンシャインさんが言ったことは、私も感じました。冒頭にはワリードが「体や顔つきが美しいだけでなく、心も美しかった。あふれでた水の流れのように気前がよく、愛する民をよろこばせるときには、財力をおしみなくつかった。実際、民に対しては、寛大さと公平さをもって接していた。品格と優雅さが感じられる、もうしぶんのない王子であった」って書いてあるし、その後も何度かワリードが完璧な人物だということが繰り返されているのに、ハンマードの詩についてはワリードは最初から「身分の低い男のへたくそなカスィーダ」とけなし、ハンマードを陥れようと画策するんですね。そのあたり、私もちょっと混乱しました。ここは、「りっぱだと思われている」あるいは「りっぱだとうたわれている」という風に訳したほうがよかったのかも。あるいは詩に関してだけは、ワリードは欠点をさらけ出してしまうということなら、そこを訳できっちり出してもらった方がいいかも。でも、そこを差し引いても、物語としてとてもおもしろかった。あと、父王、偉大な詩人アンナービガ、牧人ハサーン、商人ラシードなどがところどころで知恵ある言葉を語るのもいいですね。それが物語の進展の前触れになっているのもうまいな。
ただね、アラビアの人の長い名前はおぼえにくくて、途中でだれがだれだったかわからなくなってしまいそうでした。ちょっとした人物紹介があったらよかったのに。文章は、少しだけわかりにくいところがありました。たとえば25p3行目に「後ろだてに対する賛辞」とあるんですけど、「後ろだて」ってここで初めて出てくるので、何が言いたいか子どもにはわからないんじゃないかな。

みっけ:けっこうおもしろく読みました。プロローグで、突然相手に剣で切られて、走馬燈のように今までの一生が浮かんだ……みたいに始まるので、じゃあ、この人が死ぬまでの話なんだろうか、それもおもしろいなあ、と思って読み始めました。王子の人物像については、すばらしい人なのだけれど、こと詩に関しては、ほとんど狂気に近い執着で相手に無理難題を押しつけていく、というふうに解釈したので、それほど違和感はありませんでした。この王子は基本的に恵まれていて、しかも優秀でいい人で、そのうえ人の期待や考えにわりと敏感にうまく合わせる器用さもあるという感じだったんじゃないかな。逆に言えば、自分の欲望をコントロールしなければならないような決定的な場面にはほとんど直面してこなかった。ところが、詩に関してはこの人の生の欲望が出る。自分が一番ほしいと感じるもの、でも望んでも得られないものを目の前にしたときに、そういう脆弱さが一気に出て、暴走するっていう感じなんだろうなあと。まあ、暴走ぶりがかなりすさまじいわけだけれど。あんまりすさまじいものだから、後悔したときは時すでに遅しで、旅に出ることになる。なるほどなるほど、と読み進んで、主人公が絨毯織りの1人目の息子に出会ったときは、へえ、と意外性がありました。2人目は、ふうん、そう来るんだ、という感じで、こうなれば、3人目にも会うんだろうなあ、と見当がつきましたが、3人の息子それぞれのやっていることが違っていて、そういう3人に出会ったことで、主人公が変わっていく、そのあたりがうまくできていると思いました。3人に出会ったこともだけれど、この王子自体の身の処し方というのもポイントになっているため、ただ成り行きに流されていくのではなく、本人の成長が納得できる展開だと思いました。だから最初に読んだときは、再び盗賊に会って殺されたとしても、本人は満足という終わり方でいいような気がしたんです。ところが、実は死んでいない。あれっと思ったんですが、今またぱらぱらとめくってみたら、漂泊のマリクと呼ばれた実在の詩人をモデルにしたということだから、やっぱり最後に無名の人間として詩のコンテストに勝つというのが必要なんだ、とまあ納得しました。アラブ世界のお話は、あまり読んだことがないので、そういう意味でもおもしろかったです。それに、王子の連れ合いになるザーラという女性の立ち居振る舞いを見ても、砂漠の民、という感じで新鮮でした。

ハリネズミ:プロローグの場面は、あとでもう一度出てくるんですよね。そこにも構成の工夫がありますね。

みっけ:そうなんですよね、286pに出てくるんだけど、そっちは冒頭と同じシーンがずっと語られて最後に、「深い闇の中にしずむ前に、彼は自分の人生をもう一度、生きなおした」とつけ加わっているんですよね。それで私は、ここまでですっかり完結した気分になってしまったんです。それでもいいんじゃないかなあ、死ぬんだとしても、本人は納得しているんだし。

ハリネズミ:ワリード的にはそれでもいいでしょうけど、息子の一人がワリードを殺すことになるのは、やっぱりまずいんじゃない?

サンシャイン:同じスペインの『イスカンダルと伝説の庭園』(ジョアン・マヌエル・ジズベルト著 宇野和美訳 徳間書店)に似てるでしょうか?

ウグイス:あれは建築、こちらは絨毯というものを使って、人間の生き方を表しているというところが似てるのかもね。

みっけ:絨毯に機械とかテレビなんかが出てくるのもおもしろいですよね。本当に未来のことが出てくるのが、へえっと言う感じでした。

ウグイス:私は今回の選書係だったんですけど、今までにない雰囲気のファンタジーということで選びました。この本は、最初の詩のコンクールの場面から珍しくて引き込まれる。詩人の作った詩を読み手が詠唱し、それを耳で聞いて感動するというのがおもしろいわよね。ワリードの良いところを賛美するのも、詩で讃えるということがあるからでしょうね。そして、それほど讃えられた立派な人物であっても、嫉妬心というような自分の中の悪の部分があるのだということを書いているんだと思います。権力を持った人の弱さということもわかる。ファンタジーというと、悪と闘ったり、魔女と対決したりといったものが多いけど、これは自分の内面との戦いを描いているので、他とは一味違うファンタジーといえると思います。寓話的なところもあるし、アラビアの砂漠の物語ということで、ハウフの『隊商』とか、『アラビアンナイト』のような異国情緒も楽しめますよね。

ハリネズミ:ファンタジーの中の善悪の表現の流れからいうと、『ゲド戦記』で自分の中の悪と闘うと要素がせっかく出てきたのに、ハリポタ以来、自分の外に悪がいるというストーリーが氾濫してましたよね。そういう意味でも、この作品は、時代は古くても逆に新鮮な感じがしました。

サインシャイン:『ベラスケスの十字の謎』(エリアセル・カンシーノ/著 宇野和美/訳 徳間書店)も、八割がた現実の話のようにしていて、その中にいくつか現実にはありえないファンタジーの要素が入ってきますよね。そういうのが、スペイン文学の伝統としてあるんでしょうか? イスラム教誕生以前の世界、という設定には興味を惹かれました。ジンという精霊が自分を守ってくれるんですね。

ウグイス:最後にジンが出てくるところが急にファンタジーになるね。

ハリネズミ:ジンと魔法のじゅうたんのところがね。

みっけ:この主人公がどうしてもほしい名誉を3度さらわれるんだけれど、それは絨毯織りが3人の息子に身を立てるための資金を与えたかったからで、そうやって資金をもらった人たちに、あとで王子が出くわすっていうのも、うまくできていますよね。

ハリネズミ:長男は商人として出世してるけど、あとの2人はどうだっけ?

みっけ:末息子の場合は、村を襲った部族が金を盗んでいったんで盗賊になったって146pに書いてありますね。次のお兄さんは、174pに羊の群れを買ったとある。

ハリネズミ:そうだったわね。その後、次男は羊の群れを売ってラクダのつがいを買ったってありますけど、一生使い切れないほどの賞金をもらったはずなのに、ラクダってそんなに高価なのかな?

サンシャイン:盗賊になった人も気持ち的には立派なんですよね。義賊みたいで。

みっけ:盗賊が再び主人公と出会うことになるのも、ジンが呼び寄せるんですよね。わざと会わせる。そのあたりもおもしろい。

ハリネズミ:赤いターバンの人も不思議よね。そこもファンタジー的。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年10月の記録)


菅野雪虫『天山の巫女ソニン』

天山の巫女ソニン1:黄金の燕

チョコレート:表紙と著者名に惹かれて手に取りました。最初からこの本の世界に入り、おもしろくて一気に読みました。その後出会う人ごとにこの作品をお薦めしたことを思い出しました。現在第3巻まで出版されていますが、全部気に入ってます。古代韓国王朝みたいな舞台で展開されるファンタジーで、人間関係、心情、情景などが読み手に大変わかりやすく描かれています。各巻ごとに成長していくソニンと王子の今後が楽しみです。

ハリネズミ:ストーリーが波乱万丈でとてもおもしろいのね。悪人もレンヒとヤンジンが出てくるけど、ただ悪いというだけじゃなくて、ヤンジンはレンヒにたぶらかされたと書いてあるし、レンヒは物心ついてから山に行かされ、15歳で山から下ろされたことで世の中を斜めに見るようになっている。それに、ソニンは家庭に暖かく迎えられたのに比べ、レンヒはそうでなかったという対比も書かれてますよね。悪人にもちゃんといきさつや奥行きを持たせているのは、さすがですね。一つだけ気になったのは、登場人物の言葉づかい。現代文明の産物は登場しないので、異世界であってもちょっと時代が古い。そう思って読んでいると、ソニンが「〜じゃん」なんて言うんで、その異世界が破れちゃう。現代風の口調にするにしても、やりすぎじゃないかな? あと、p35「屋台では〜が売っていました」は日本語として変じゃない?

ウグイス:私はとにかくわかりやすく書かれているのがいいと思いました。ソニンの感じたことが、色とか匂いとか具体的に書かれているし、道端の花や窓から見える雲などの情景も細かく書いてある。物事が起こった順に書かれているので、ストーリーの流れにすんなりついていける。それに一つ一つの章の終わりが、次を読みたいと思わせる書き方で終わっているから、次々にページをめくらせるのよね。この物語の舞台は架空の国なんだけど、日本のようでありながら、設定は古い時代の韓国っぽい。だから顔かたちや服装や家の中を頭の中でどうイメージしていいか、私はよくわからなかった。なんとなく、宮崎アニメの雰囲気がして、「魔女の宅急便」や「千と千尋」の主人公の顔を思い浮かべてしまったわ。アニメにしやすいんじゃないかな。小学校高学年の子にも十分楽しめる物語だと思うけど、装丁が大人向きで、図書館でもYAにはいっているのが残念。でも、そうしないと売れないのかな。3巻まで出ているけど、どんどんおもしろくなってくるの?

みっけ:3巻までコンスタントにおもしろいですよ。ハリネズミさんがおっしゃったように、悪い人もただ悪いというように平板に書かれていないから、おもしろく読めますよね。一番はじめのところで、巫女修行に失敗しました、はい、さよなら、というところから始まるのにも、惹かれました。え、どうなっちゃうんだろうって。その後もいろいろなことが起こって、どうなるんだろう、どうなるんだろう、と、どんどん先が読みたくなる。巫女修行に失敗はしたけれど、なんとなく不思議な力が残っていて、というところもおもしろくて、これをどう使うのかな、と思っていたら、天山にもう1度行って、王子たちの行方を捜す夢見をするでしょう? そしてうまくいくんだけれど、天山での生活に疑問を抱いたとたんに、門は開かなくなってそれっきりになってしまう。この展開も、惜しげがなくていいなあ、ご都合主義じゃないんだな、というふうに納得できて、うまいなあと思いました。この第1巻で、ソニンは隣国のクワン王子をちょっとうさんくさいなあと感じていて、その印象で終わっている。そのクワン王子が、第2巻で違う形で登場するのもおもしろいです。続きはここしばらく出てませんが、まだ続くんでしょうかね?

ハリネズミ:細部まで気を配って、奥行きをもたせて書いていけば、当然時間はかかるでしょうね。1年に1冊のペースなのかも。

みっけ:1巻、2巻、3巻と、ソニン自身も何かを解決して少しずつ変わっていくんですよね。それがそれぞれに違っていて、しかもそういうふうに成長していくということが納得できるようになっていて、そのあたりもいいんですよね。ソニンの天山生活からのリハビリ、地上生活への順応、みたいなところもあって。

サンシャイン:ダライラマは亡くなるとすぐに赤ん坊をつれてきて次に据えるんでしたっけ?

ハリネズミ:生まれ変わりを探すんですよね。ダライラマだけじゃなくて、他の地域にもそういう風習はありますね。

サンシャイン:食べ物がたくさん出てくるとか、カタカナの人物が登場するところとか、上橋菜穂子さんの作品に似ているのでは? 誰が悪いのかがわからないので最後まで引っ張られました。

ハリネズミ:悪いやつはすぐにわかるんじゃない? そうそう、このカットもよかったですね。舞台が韓国とは書いてないけど、なんとなく韓国を思わせる絵よね。邪魔にならないで雰囲気を出していていいですね。

サンシャイン:私は3冊の中ではこれがいちばん楽しかった。

ウグイス:この本なら男の子にも薦められますか?

サンシャイン:どうかなぁ? 薦めるとしても数人ですかね。やはり女の子っぽいし、残念ながら男の子全員に薦められるとは言えないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年10月の記録)


クラウディア・ミルズ『わすれんぼライリー、大統領になる!』

わすれんぼライリー、大統領になる!

サンシャイン:楽しく読ませてもらいました。アメリカの小学校での授業のあり方っていうんですか、伝記を読んで、みんなその人に扮装して集まってパーティーをやるっていうのは、日本にはないですね。アメリカでは、いかにもありそうな話です。サックスがほしいけれど、貧乏で、思うようにいかなくて、でも最後は手に入れるというストーリーもいいと思います。日本の子どもから見ると、なんだかピンとこない話かもしれないけれど、よく書けていると思います。

プルメリア:私は、すごくおもしろかったです。小学校で6年生の担任をしていますが、ライリーのような子どもっているなと思いました。教師が言った忘れ物の回数をライリーがしっかりおぼえている場面では、自分のことに置き換えてドキッとしました。くじをひいて、当たった人物に関する本を探し、見つけた本を読んでレポートを書き、人物になりきって仮装パーティーに参加するという活動、うらやましいなって思いました。私のクラスの子どもたちは、歴史上の人物というと聖徳太子はよく知っていますが、他の人物になると何をしたのかがわからなくなり、ごちゃごちゃになってしまいます。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の中から好きな武将を調べ、新聞を作る活動では、ほとんどの子どもたちが年表を書きました。「なぜ年表を書くの」と聞くと「一生がわかるから」と答えます。子どもたちにとって何年に何をしたかが大変興味あることのようですが、何をしたかだけでなく、どうしてそうしたかを調べてほしいなと思いました。グラントがライリーに18ドルをさらりとあげてしまったこと、日本では考えられないと思うのは、金銭感覚の違いかな。

ハリネズミ:私もおもしろかった。私が子どもの頃に読んだ伝記は、偉い人が成し遂げたずばらしいことしか書いてなくて、あまりおもしろくなかったんですけど、今は、偉いだけじゃなくて人間的な側面も書かれたのがたくさん出ているから、いいですね。それにしても小学校4年生で、100ページ以上の本を読んで、参考資料を3つは使って5枚のレポートを書くっていうのは、すごい。自分で調べたり、考えたりする力がつくでしょうね。ところで、エリカっていう子は、自分がしたいことしかしないんですね。そういう障碍を持っているのか単に性格なのかは、よくわかりませんが、みんながそういう子はそういう子として自然につきあっていくのも、いいですね。伝記の主人公を雲の上の偉人ととらえるのではなく、子どもに結びつけて、自分だってがんばってできるんだという方向にもっていくのは、おもしろいなあ、と思いました。

カワセミ:私も子どもたちが偉い人たちになりきるっていうのがまずおもしろかったです。扮装をして、普段からその人になりきっているところがおもしろいし、先生も親も友達も、その子がなりきることに協力して、すべてがそのことに結びついていくっていうところがすごくいいな、と思いました。まず図書館にいって本を読んで、そのことについて調べ、たくさんの本を読んで準備する。日本の学校ではそこまでやらないと思うので、おもしろいなと思いました。でも、ここに出てくる偉い人って、日本のこの年齢の子どもはどのくらい知ってるのかな。その偉人のことを知らなければ日本の子どもたちにはおもしろさが伝わりにくいですよね。今は学校に伝記のシリーズなどはあるのかしら。

プルメリア:まんがの伝記がありますね。お姫様みたいな表紙が女の子に大人気です。

カワセミ:子どもって本当にあった話が好きだから、偉人の話って興味があると思うんですよね。ヘレン・ケラーやナイチンゲールは知ってる子がいても、肝心のルーズベルト大統領とか、オルコットとか、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアといわれても、わからないとちょっと残念ですよね。でも、登場する子どもたちが個性的だし、楽しく読める本だと思います。

セシ:ストーリーがはっきりしていて、中学年向けとして読みやすいお話だと思いました。主人公が忘れんぼうなのも親しみやすいです。ただ、ときどき翻訳調というのか、文章がぽんぽんと飛んで流れがつかみにくいところがありました。たとえば、75ページの最後の行から次のページにかけての「…ライリーにとっては今日のほうが最低だった。三十枚のメモがみつかった! 急流をひとつ、わたったぞ! あと必要なのは、サックスだけだ。」のようなところ。また金銭感覚でアメリカと日本の違いを感じました。『がんばれヘンリーくん』(クリアリー/著 松岡享子/訳 学研)にも、ミミズでお金をかせぐというのが出てきて、子どもの頃うらやましく思ったものです。アメリカでは子どもが頭を働かせて小遣い稼ぎをするのを親はむしろ喜ばしく思って見ている部分があるけれど、日本人には、いいことをやっても代償にお金をもらうのはよくないという感性がありますよね。子どもだけでフリーマーケットなんてとんでもないことだし。ガンジーになった子が頭をそってきてしまうなんてびっくりだし、登場人物が優等生ばかりじゃないこういう本は間口が広くて、いろんな子が楽しめる本だと思います。

カワセミ:子どもがお金を稼ぐシーンは、日本の物語にはほとんど出てこないんですよね。日本ではお手伝いは当然無償でやるべきことという考えがあって、文化が違うんでしょうね。

サンシャイン:アメリカに住んでいたとき、雪がふると、「10ドルで雪かきします」なんて、子どもが来ましたよ。

プルメリア:夏休みに上映していた映画『ナイトミュージアム』の2に、ルーズベルトが出てきたような気がします。この映画を見た子どもたちはルーズベルトについてはわかると思います。ガンジーを調べた子どもが、最初は無関心だったのにだんだんが変わっていくのはおもしろいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年10月の記録)


ドロシー・キャンフィールド・フィッシャー『リンゴの丘のベッツィー』

リンゴの丘のベッツィー

カワセミ:すごく古い話なんですよね。昔翻訳されていた『ベッチー物語』っていうのは聞いたことがあるけど、読んだのは初めて。いろいろなおばさんや大おばさんが入れ替わり立ち替わり出てきて名前がおぼえらえないんだけど、佐竹さんの具体的な挿絵のおかげで、とても読みやすくなっていると思いました。昔の本だからかもしれないけれど、書き方がわかりやすくて、主人公の女の子の目線できちんと描写されているので、最初から主人公の気持についていけるし、楽しく読める。子どもらしいものの考え方が描かれているのがよかった。最初に一緒に暮らしていたおばさん、大おばさんとはまったく違う環境に行くんだけれど、それをこの子が、1つ1つじいっと見て、全部自分の小さな頭の中で、これはどういう意味なんだろうと考えていく。子どものものの考え方に即して書いているところが、大人は興味深いし、子どもは「そんなふうに思うよね」って共感できるんじゃないかと思いました。それとやっぱり、最初の家庭ではすべて大人が先へ先へと手をまわしてくれたので、自分から着替えることすらしなかったんだけれど、次の家では自分のできることはさせるので、やがてはモリーを小さなお姉さんのように守ってやれるようにもなるし、この子なりに成長していくのがわかる。そして、農場の暮らしを楽しむ、楽しく毎日をすごせるようになるっていうのが、読んでいて心地よかったです。そういう子どもになっていくっていうのが、うれしく思えるんですね。訳文と挿絵を新しくしたおかげで、古めかしさもそんなにないし、よくなったんじゃないかなと思います。

セシ:昔懐かしいような感じの本で、時代的にも『大草原の小さな家』や『赤毛のアン』を思い出させる作品でした。古い作品でも、本の作り方でこんなに読みやすくなるんですね。翻訳文は今の言葉だけれど、ときどきちょっとお行儀のいい言葉が使ってあるのがいい感じでした。アンおばさんならどう考えるかしらと自問しながら、ベッツィーの考え方がどんどん変わっていくところ、ダメなことがあってもそこから何とかしようというポジティブな発想に変わっていくところが好きでした。また、農場の暮らしは町の暮らしより大変だけれど、昔はもっと大変だったんだよと言って、道具がないのにうまく工夫していた昔の人のすばらしさをたたえるところで、たくましさや生きる力を教えられる。お誕生日のエピソードでは、この子がいかにたくましくなったかが如実に表れていてよかったです。でも男の子はなかなか手にとらない本かな。

サンシャイン:オビを読むと話の先がわかってしまいますが、たまたま私はオビをはずして読み始めたのでよかったです。両親のいない子を面倒見る親戚が、違う側の親戚のことをひどく悪く言っているので、もっともっと辛いことがあるのかと思って読み始めました。違う親戚のもとに預けられて、もちろん苦労やつらさはあったには違いないけれど、印象としてはすっとアジャストできた感じです。頭のいい子で、それまで一方的に守られていたけれど実は柔軟性もあったということでしょうか。早く適応できています。そういう意味で本全体に悪意がない。ドロドロしたところ、辛いところ、苦しいところがない。そう思いながら読んでいったら20世紀前半のことだとわかり、ああそうだったのか、と納得しました。現代だともっと辛いことがあり、それでもなおそれを克服する話になるでしょうけど。日本でも最初は50年代に翻訳されたそうで、悪意のなさがいい感じでもありますが、現代的にみるとちょっと刺激が足りないのかな、とも思いました。「いいお話」という感じです。話の結末も、迎えに来た人の気持ちを主人公が察してお互いに思いやりながら本心を理解し合って農場に残る、それぞれめでたしめでたしとなる。今ではまれな作品なのかもしれませんね。アメリカの素朴な生活の様子も出てきたし、昔の古き良き時代のお話として心温まる作品です。

プルメリア:佐竹さんの絵が好きなので、表紙を見てすぐ読みました。まわりの人々に守られながら生きていた主人公が、環境が変わり大自然の中で自分で考え行動しながらたくましく成長していく姿は読んでいてとてもほほえましい。二人の女の人の生き方も対照的です。バター、メイプルシロップ、ポップコーンなど手作りの楽しさも伝わってきます。自給自足、ものをとても大切にすること、まわりの大自然が美しいことに読んでいて心がほっとします。私はこの作品が大好きで学校の図書室にも入れて、いちばん目立つ場所に表紙を見せて並べています。3年生の女の子が数人楽しそうに本を手にとったんですが、本の中を見ると「あー」と言って戻してしまいました。字が小さいので、もう一歩進めないようです。高学年でも同じかなと思います。そこを克服することができる工夫をしないと読み始めることができないので、本を手に取ることができるような紹介を考えたいと思っています。

ハリネズミ:大人の暮らしを子どもがきちんと見ていますよね。そのことが、変ないじめなどがないことにつながっていくのかもしれません。大人もぶらぶら生きているわけでなく、まっとうに暮らしているんですから。図書館では何冊も借りられていて人気がありました。ローラ・インガルス・ワイルダーのシリーズは、ふつうの子どもには長すぎる。大学生でも、「描写がこまかすぎて話がなかなか前に進まないので、うざったい」と言ったりします。かといってプロットばかりの本は読ませたくないと思うと、このくらいの長さでまとまっているほうが手にとりやすいかもしれません。

セシ:メイプルシロップを作るシーンの描写は、ようすがよくわかってすてきですよね。こういう文章を読むおもしろさに、今の子どもはなかなか気づかないのかもしれませんね。映像や音に慣れてしまって、見てすぐわかることしか味わえなくて。おもしろいところを2、3ページでもいいから読んでやって紹介すれば、読んでみようと思うんじゃないかしら。

サンシャイン:詩の場面はとてもよかった。夕食後の団欒の場面で大おじさんが自分の気に入っている詩を子どもに読んでもらう。覚えているところはともに唱和する。テレビのない時代のすばらしさ。こういう文化があるのがいいなと思いました。日本は詩というと主に抒情詩なので、こういうドラマチックなものはないのかな。国民詩人みたいな方がいたり、好きな詩を暗唱・朗誦したりということ、いいですねえ。

カワセミ:テレビも何もない時代の家族の楽しみはこうだったのね。

ハリネズミ:衣食住だけでなく、娯楽もみんな自分たちで作り出していくのよね。

セシ:週末農園がはやってきているのも、生きる手ごたえが求められてきていることの表れかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年10月の記録)


笹生陽子『世界がぼくを笑っても』

世界がぼくを笑っても

サンシャイン:読んでいて、知らない言葉が出てくるんです。「おなしょう」、「セフレ」、「わきキャラ」、サブキャラでしょうか。「たっぱがある」「こてはん」。今どきの本なんでしょうけど、こういうのを今の子は喜んで読むのでしょうか。これが今の普通? ところで、すごい先生がやってくるっていううわさを受けて話が始まるんですが、それってこのほぼ主人公の先生のことなんですか。違いますよねえ。

ハリネズミ:そういう言葉は、今の中学生ならわかると思いますよ。それから、すごい先生っていうのは、最初は担任のオヅちゃんかと思うのですが、実は違って別の女の先生だったというふうに書いてあります。

サンシャイン:家庭にニューハーフの人が出入りするとか、話の展開に利用しているんでしょうけど、安易じゃありません? あまり中学生には読ませたくないなって思いました。

プルメリア:笹生さんが書くものは、いつも日常生活に起きているような話、現実的な話が多く心に残る作品がたくさんあります。この作品では、学級崩壊したらどうしようって心配していましたが、子どもたちのチームワークが最後に出てきてほっとしました。携帯メールが頻繁に使われる日常生活や、それが子どもたちの中でわだかまりになっていたのが徐々にそうでなくなり、1つにまとまっていく姿を読んでいて、人間っていいなと思いました。父子家庭や現代的な風潮も書き込まれ、この作品も今までの作品同様おもしろく読めました。

ハリネズミ:この作品は、今風の言葉づかいがたくさん出てくるので、しばらくすると逆に古くなっちゃうかもしれないとは思います。でも、先生が薦める名作ものにはそっぽを向いている子どもたちにとっては、窓があいてる感じがすると思うんです。現代の状況を取り上げた作品は、暗い方向に行くことが多いけど、この作品はリアルでありながらそう行かないところが新しい。まずどう見てもだめな先生が出てきて、裏サイトでも先生の悪口の言い放題になる。そこで、この先生はつぶれちゃうのかな、と思うと、子どもたちは「こんな先生でもいいところもある」と思うようになる。普通、中学生は先生に反発するだけで、生徒の方から歩み寄ったりしないかもしれませんが、でも子どもにはやさしさもありますからね。人間のだめな面だけじゃなく、いい面だって実は見てるんですよ。ただ、その辺を嘘っぽくなくリアルに書くのはむずかしい。笹生さんはうまいです。ハルトのお父さんも世間的にはりっぱな人間とは言えなくて、ギャンブルやったり子どもをだましたりしてる。でも、中学生を「中坊」って呼ぶところなんかからもわかるように、大人としての存在感は持ってる。ユーモアも随所にあります。お父さんの言葉もなかなかおもしろいし、p24-25の親子のやりとりも絶妙だし、p34の鉄道マニアの長谷川の会話も笑えます。
書名の『世界がぼくを笑っても』の「ぼく」は、この頼りない先生「オヅちゃん」なんですね。p137でオヅちゃんが「だれかにひどく笑われた時は、笑い返せばいいんです。自分を笑った人間と、自分がいまいる世界に向けて、これ以上なというくらい、元気に笑えばいいんです。そうすると胸がすっとして、弱い自分に勝てた気がします。いままで、さんざん笑われて生きてきたぼくの特技です」って言ってます。このあたりは、作者から中学生に向けての応援歌になってるんじゃないかな。
学校の裏サイトなどをうまく利用して、いろいろな子どもに言い合いをさせたり……とうまくつくってあります。多様な人間を描いていておもしろいです。

カワセミ:この作者の作品はわりと好きだけど、これは今まで読んだものにくらべるとちょっと勢いがないというか、スケールが小さいというか、少し期待はずれでしたね。携帯サイトのこととか、今の子どもたちの言葉とか、上手に盛り込んでいるんだけど、この本っておもしろいところはどこなのかな。いろいろな相手との会話はおもしろかったですね。出てくるのは、小津先生にしても、友達の長谷川にしても、ニューハーフのアキさんにしても、本人とちょっと波長のずれた人たちばかり。本人の意図と関係なくつきあわなきゃいけない、こういった人たちとのずれた感じがおもしろいなと思いました。きわめつけはお母さんで、ハルトがお母さんに会いに行く場面は、どっちも言葉少なで、ぎこちない感じがよく表れていた。でもこの主人公はいったいどんな子なのかっていうのが、あまりつかめなかったです。表紙のかっこいい感じとも、ちょっと違ってたし、今一つつかみきれないところがあったかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年10月の記録)


大島真寿美『ふじこさん』

「ふじこさん」(『ふじこさん』所収)  

愁童:3冊並べると、取り合わせの妙でおもしろかったんですけど、この作品は積極的にコメントしたいような内容じゃなかったな。子ども向けじゃないものね。小学校6年生の子が読んでも、好きになれないんじゃないかな。

ハリネズミ:子ども時代を書いた本は必ずしも子どもの本ではないんで、これは大人の本ですよね。大人から子どもの時代を見てる。ふじこさんっていう個性的な人と出会って、成長したということを、大人になってからの目線で、大人の文体で書いてる。ふじこさんが魅力的な人だというのは伝わってきましたけど。私もこの会で話し合う本ではないと思い、それ以上考える気になりませんでした。

愁童:「子どもだって絶望する」なんて書かれても困っちゃうよね。

ハリネズミ:「子どもだって」って、この「だって」にひっかかりますよね。私は、子どもの方がよっぽど絶望すると思うから。だって、時間的にも空間的にも大人より自由度が少ないでしょ。ほかの2冊に比べると、この本は、子どもに対する認識度が違いますね。

みっけ:こういうふうな息苦しさを感じている子どもは、今までにもいっぱいいたろうし、今もいるんだろうと思います。それと、このふじこさんは、親や教師以外の大人、一昔前の映画や物語でいうと、ちょっと無責任的なところがあったりして、その分自由で外の風を運んできてくれる独身のおじさんやおばさんみたいな存在なんだろうな。この本を読んで、すごく嫌だ、とまでは思わなかったんですけれど、なんか、日本の子どもって勢いないなあ、という感じはしました。この子は疲れていて、しかも、自分でなにか積極的に動くわけでもないでしょう? ふじこさんに会ったのだって、すごく強い気持ちがあって出会ったのではなく、非常にネガティブにふらふらしていて、いわば偶然に出くわしたわけだし。大人を斜に見ていながら、自分は積極的なアクションに出ていない。こう子の物語を読んでも、今渦中にいる人は、そんなにおもしろくないだろうなあ、という気はします。

ジーナ:両親が別居中に、お父さんのつきあっている女性が現われて、これまでの価値観をくつがえすような衝撃を与えるという設定が、長嶋有の『サイドカーに犬』(『猛スピードで母は』に収載 文藝春秋社)と似ているなとまず思いました。みなさんがおっしゃるように、私はこれは大人が読む作品だと思ったし、そうだとすると『サイドカー〜』のほうがおもしろかったです。学校も家庭もたいへんだと書かれていて、結果として絶望していると言葉では言っているけど、具体的にどういうことがあったかはあまり書かれていないから、感覚的で胸に迫ってこないんですよね。それに、ダンナをこきおろしてばかりで子どもを見ていない母親や、鈍感な父親を、そういうものだと決めつけて描いているところが、似たような世代の子を持つ者としては不愉快で、子どもに手渡したいと思いませんでした。

メリーさん:子どもが共感するかというと、ちょっとむずかしいかなと思いました。ただ、この著者の初期の作品は、女の子の気持ちによりそっていて、共感できるものが多かったなと思うのですが。個人的には、このような世界はけっこう好きで、著者の言おうとしていることはわかる気がします。「ふじこさん」という名前から、きっとおばあさんだろうと思いながら読み進めたのですが、見事に裏切られたのもおもしろかったです。「絶望」という言葉が議論になりましたが、自分の進むべき方向がわからない、というくらいの意味だと思います。主人公が、自分の道を模索しているときに、突破口としての大人。自分と違う魅力を持っていて、主人公を子ども扱いせず、対等に見てくれる人。やっぱり出会いというのは宝物なのだ、という実感がよく伝わってきました。

げた:みなさんおっしゃったように、子ども向きの本ではないと判断して、私の図書館では一般書の棚に置いてあります。いきなり「子どもだって絶望する」なんて、衝撃的なんですよね。自分は子どものころこんなこと考えてたかな、自分の子を見ても、こんなふうじゃないとは思いますね。でも、確かに学校と塾のだけの生活の繰り返しで、身勝手な親たちに振り回されてると、考えるのかな? 創作だから、極端につくってるんだろうけれど、一般的な雰囲気としてこんなのがあるとすると怖いな。小学生は読みたいとは思わないだろうし、中学生、高校生でも、どうかな。生きる力を与える本にはならないと思うな。

小麦:他2冊とはまるでちがう1冊。アメリカの能天気な小学生に比べると、日本の小学生は息苦しそう……。まあ、この作品は、主人公が大人になってからの回想というスタンスで描かれているので、比較にはなりませんけど。好きだったのは、ふじこさんがイタリアの椅子と出会って、夢に向かって留学することを主人公に打ち明けるシーン。この時のふじこさんはきらきらぴかぴかと光っていて、主人公はそのまぶしさの前に、夢を見つけて光りだした人の前では、どんなに自分がふてくされようが、駄々をこねようがなんにもならないと悟るんですよね。自分だけの宝物を見つけ、自ら人生を切り拓く希望のようなものが、おしつけがましくなく提示されていて、すごくいいと思いました。ふじこさんの造型も、風変わりすぎず、自然でいいと思いました。私の周りの友だちなんかに、いかにもいそうな感じ。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)


サラ・ペニーパッカー『どうなっちゃってるの!? クレメンタイン』

どうなっちゃってるの!? クレメンタイン

みっけ:この本は、読んでいて楽しかったです。この本がいいのは、主人公がかなりハチャメチャをやって、友達の髪の毛を切っちゃったりするんだけれど、相手もそれをすごく嫌がっているとか、一方的に被害を受けていると感じているっていうわけではないところだと思います。傍から見たらクレメンタインの方がすごいことをやるんだけれど、かといって、友達のマーガレットから完全に浮いているわけでなく、ちゃんとふたりで楽しく過ごしているっていうところが、読んでいて気持ちがいいんですね。お父さんやお母さんも、困ったなあと思っているところがないわけではないんだけれど、でも、クレメンタインと上手につきあっていく。たとえば、真夜中の鳩撃退大作戦を始めたり。しかも、クレメンタインがいつも用事を頼まれているおばさんのところにいったことから鳩問題が無事解決、なんていう展開もうまくできているし。そこがいいなあって思いました。前にこの会でジャック・ガントスの『ぼく、カギをのんじゃった!』を取り上げたことがあって、あのときに、たとえばADHDとかLDとか診断をつけてしまうことの持つマイナス面が話題になりました。あのとき私は、でも、クラス担任としては……というようなことを考えていて、診断をつけたり、薬を使ったりするのもある程度必要なんじゃないかな、と思ったりしたのですが、このクレメンタインを読んで、そのあたりのことを改めて考えさせられました。こういうふうに、みんなと接点を保ちながらごく自然に成長できるのならば、診断とか薬に頼らなくてもいいのかな……というふうに。一斉授業を粛々と進めようとする先生にとって、この子は明らかにお荷物になるんだろうけれど……。それと、この本は、外からは集中力がないと見られているクレメンタインが、実は本人の理屈で言えば集中しているんだ、ということや、周りにどう思われようとかまわないようなことをしているように見えて、ちゃんと親のことなんかを気にしているんだ、というあたりがちゃんと書かれていて、クレメンタインの気持ちがとてもよくわかる。それがよかったです。クレメンタインが、自分があまりにもトラブルを起こすものだから、家族にやっかいばらいされるんだと思いこみ……という展開で最後の最後まで冷や冷やさせて、でも実は大はずれでハッピーエンドというのも、いい読後感につながっているのでしょうね。始めから終わりまで、ケラケラ笑って読みました。おもしろかったです。

ハリネズミ:私もこれは、今回の3冊の中でいちばんおもしろかった。『グレッグのダメ日記』はおんなじように書かれているんだけど、翻訳がちょっと。これは、前沢さんの翻訳がはまっていて、楽しいし、おもしろいし、子どもが読んでも愉快でしょうね。短いお話の中に一人一人の特徴もよく出ています。たとえば、きれい好きのマーガレットは、トイレにすわりこんですねている時でも、お尻の下にペーパータオルを何枚も重ねてる。そういう部分が、おかしいと同時に、その人物を端的にあらわしてもいて、うまい。クレメンタインはおおまじめなのに、まわりの大人と噛み合なくて事件を引き起こしてしまうんだけど、読者が主人公に共感できるように、ちゃんと書いてある。だから、「問題児だけど理解してあげなくちゃ」じゃなくて、愛すべき存在としてうかびあがってくるんですね。クレメンタインの観察力の鋭さも随所に表現されてます。「校長先生は、『おこらないようにがまんしてるけど、そろそろげんかいです』っていうちょうしでいった」(p20)とか「ママのねているところは、あまいシナモンロールのにおいがするんだ。パパのねているところは、まつぼっくりのにおい」(p59)とか。両親は、この子のおかげで大変な思いもしてるんでしょうけど、ちゃんとこの子の個性を評価して、この子も両親を信頼している。そこもいいですね。それに、あちこちにユーモアがあるのが最高。楽しいし、翻訳もいい。現代の「ラモーナ」(ベバリイ・クリアリー著 松岡享子訳 学習研究社)じゃないかな。しかも、「ラモーナ」より短くて、今の子には読みやすい。中学年くらいにお薦めできる本が少ないなかで、これはお薦めです。

小麦:このところ学校と合わない子どもの話が続いていて、ちょっと食傷気味だったんですけど、クレメンタインはのびのびと明るくて、楽しんで読めました。訳文が、クレメンタインのキャラクターにぴったり寄り添っていて、とてもよかった。小学生の語彙で、さらに、いかにもクレメンタインみたいな子が使いそうな言葉がちゃんと使われています。P12の「そのとき顔を見たら、目のあたりがキュッってちぢこまって、『あとちょっとで泣きます』っていう目になっていた」とか、P65の「とがった物を消すには、丸っぽい物を見るしかない」とか、うまいなーと思う箇所がたくさんありました。クレメンタインも、私にはそれほど困った子には思えなくて、ごく普通のことを普通にやっているのに、なんで大人はわからないの?って困惑する感じが愉快で楽しかったです。先生のスカーフの卵のしみをじっと見て、ペリカンみたいに見えるのを発見したり……こんなこと、私も子どもの頃よくしてました。

げた:私もみなさんがおっしゃっているようなことを思いながら読みました。挿絵もいいなと思いました。内容にぴったり合っていて、イメージを与えてくれてますよね。「ラモーナ」に似ているなと私も思いました。「ラモーナ」が最初に出てきた頃より、日本とアメリカの生活様式が似通ってきて、日本の子どもたちも、違和感なく読めるんじゃないかな。

愁童:日本の作家も、「子どもだって絶望する」なんて書いてないで、クレメンタインとかグレッグみたいな、自由闊達な子どもを書いてほしいな。去年楽しい体験があったんです。水を引いてる田んぼに、2年生の子たち2人が飛び込んで遊んでるんですよ。子どもって、そういうところがあるんですよね。大人は、それができる環境を与えてやりたいですよね。

メリーさん:この3冊の中では『クレメンタイン』が一番おもしろかったです。とりたてて大きな事件は起こらないけれど、ストーリーの展開がいいし、主人公と彼女をとりまく友達と家族がとてもいい。あっという間に読んでしまいました。クレメンタインのような子どもは、大人やほかの子どもたちからすると、一見、どうしてああいう行動をしているのか理解しがたいんでしょうけど、本人としては、きちんとつじつまがあって、彼女なりの考え方にしたがって動いている、っていうことがよくわかる。彼女の頭の中の種明かしを見ているみたいでした。弟をかわいがる(?)ところは、おなかをかかえて笑いました。著者紹介も凝っていてよかったです。

ジーナ:おもしろかったです。ユーモアの質がよいというのか、気持ちのいい笑いでした。この子は日本の学校に入っていたら、もしかすると「他動」だとか「ADHD」だとかいわれるような子かもしれないんですけど、両親はこの子の感性をしっかりと受けとめて、この子を無条件で認めていますよね。だから、子どもがのびのびと安心していられる。それがとてもすてきだと思いました。

愁童:訳文が軽快で、ぴったりだよね。うまいね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)


ジェフ・キニー『グレッグのダメ日記』

グレッグのダメ日記〜グレッグ・へフリーの記録

小麦:これは、読んでとにかくおもしろかったんですよね。バカバカしいことも多いんだけど、エピソードの一つ一つがほんとにダメで笑っちゃう。クラスにおけるグレッグの立ち位置もいかにもダメ。ダサめのクラスメートを心の中で見下しつつ、実は自分もそんなに変わらないとか。かといって、クールに構えてるわけではなくて、ハロウィンに変な仮装で繰り出したり、お化け屋敷をつくったり、ギャグ漫画を投稿したり、いろいろがんばっている(笑)いろいろな本がありますけど、こういうスコーンと突き抜けたユーモアのある本って絶対必要だし、子どもたちにも読んでほしいな。私自身、くよくよと落ち込んでいる時に救ってくれるのが、どうしようもないコメディだったりするんですよね。やっぱりおなかの底からの笑いっていうのはパワーがある。笑いの効能を実感させてくれる本でした。

げた:どっちかっていうと、私、まず横書きだっていうのと、コミック的な挿絵っていうのが、ちょっと苦手なんですよ。マンガはダメな方なんで、最初ちょっととっつきにくい感じだったんです。相手を骨折させちゃうとか、ハチャメチャなところのおもしろさっていうのがだんだんわかってきました。

小麦:しょうもないことが多いですもんね。

げた:そうなんですよね。でも、こういうのがあってもいいかなって。

愁童:おもしろかったですね。日本でも、こういう子ども目線の作品がもっとあるといいな。挿絵も楽しいし。

ジーナ:たかどのほうこさんの低学年ものは、そういうところあるんじゃないですか? でも、全体的に見ると数は少ないかな?

メリーさん:これもまた違った意味でおもしろかったです。『クレメンタイン』の方は素直で純真なところから出るいたずらだとすると、こっちはちょっと悪知恵が働いているといった感じ。自分自身の小学生時代を思い返して、クラスの中に、こんな憎めないけれど、悪い子っていたなと思いました。ばかばかしいけど楽しい。痛快な感じがしました。

ハリネズミ:私はうまく入り込めなくて、楽しめなかったんです。学校が舞台の翻訳ユーモア作品って、制度も日常感覚も日本の子どもと違うから、ちょっと外すと笑えない。訳も難しい。p170の禁煙ポスターの一等賞作品なんて、どこが楽しいかよくわかりませんでした。生徒会の選挙で相手の中傷をポスターに書くとか、票集めのためにキャンデーを配るとか、体育でレスリングをやるなんてとこも、日本の状況と違う。だいたいグレッグって何歳くらいなんでしょう? 小学校の5、6年生なのかなって思ったんですけど、絵を見ると、同級生にもっと大きい子もいるみたいだし。でも、それにしては「おまえのかあちゃんデベソ」なんて幼児しか言わない表現とか、「チーズえんがちょ」なんて低年齢向きの言い方が出てくる。違和感があります。それに、グレッグがロウリーにぬれぎぬを着せて平気でいるところとか、フレグリーの家で気絶して朝帰りしてるのに親はちっとも心配してないところとかも、気になっちゃって。そんなことをあれこれ考えてしまうと、ちっとも笑えませんでした。考えなきゃよかったんでしょうけど。原書は書き文字みたいな字体で、人の日記をのぞいている感じなんだけど、日本語版は明らかに印刷文字っていうのも、どうなのかな? 一所懸命笑わそうとしてるのに、私にとってははずれまくって白けちゃった、という作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)


マイケル・モーパーゴ『兵士ピースフル』

兵士ピースフル

クモッチ:いつでもそうですが、戦争の話は悲しいことがわかっているので、避けたくなるようなところがあります。でも、『ジャック・デロッシュの日記』(ジャン・モラ著 岩崎書店)もそうだったんですけど、この作品でも同じ軍隊の中でのある種見せしめのような処刑について書かれていて、他国の戦争とはいえ、まだまだ知らないでいる事実が多いなと思いました。この本のテーマは過酷だけれど、戦争の悲惨さだけでなく、主人公が人間としてどんな人生を生きてきたのかをきっちり積み重ねて描いています。そのおかげで尊いひとつの命を、戦争というものが簡単に終わらせてしまうところが効果的に迫ってくると思いました。この本の構成は、明日の朝に命の終りを予感している兵士の呟きから、過去にフィードバックしていくようになっています。最後に処刑されるのが本人なのではないかと思って読み進めていったので、結末が意外でした。作者のモーパーゴは、この戦時中の事実を知って書かなければと思ったと、後書きに書いていますが、最近は戦争物でも、このような新事実にもとづいた作品を出版するようになってきてると思います。また、戦地を直接描くという方法ではなく、そこで粗末に扱われる命の背景を丁寧に描くことで、戦争で失われる命の重さを表現する作品も多いと思います。

ハリネズミ:最初、構造に気付かないでぱっと読んで、途中でそれに気づいて、もう一度読み直しました。各章の冒頭に現在時間(午後10時5分から翌朝の午前6時まで)の思いがあって、その後に回想部分が続く。うまい構成だなと感心しました。それに、トモが戦場でしたこと感じたことが、リアルに描かれてますね。恐怖に襲われたり、弱虫じゃないんだと自分に言い聞かせたり、心が麻痺したり、新兵に対して先輩面をしたり??いかにも普通の若者らしいリアリティがあるな、と思いました。ジョー兄ちゃんという、脳に障碍をもった兄の存在が全体に深みをもたせてます。弟のチャーリーとトモが、ジョー兄ちゃんを大切にしてるんだけど、いたずら心を起こしてウサギの糞を食べさせちゃうなんていうエピソードも、いかにも子どもらしい現実感が出てます。ピースフルという名字は、象徴的でもあるし皮肉でもありますね。モーパーゴの作品の中でもとてもすぐれた作品なんじゃないかと思いました。今回翻訳ものが2つありましたが、翻訳はこっちのほうがリズムがあっていいですね。

ウグイス:久しぶりに、一気に読まずにはいられない、最後に行くまではやめられないという本でした。主人公の僕は強くたくましくもなく、勇気もないごくごく普通の子なので、国も時代も違うけれど、日本の子どもたちも共感するのではないでしょうか。前半は農村ののどかな生活が描かれるので、後半がいっそう衝撃的。対比が鮮烈で、結末が胸にひびく。そういう書き方がすごくうまいなと思いました。戦争の描き方は、単に敵と味方というのではない、いろいろな角度からの書き方が増えてるんだなと思いました。中学生くらいにすごく読んでほしい作品。

フェリシア:高等学校の部の課題図書です。中学生には少し難しいかもしれません。今回の3冊の中では一番引き込まれて読みました。私も最初、お話の構造がよくわからなくて読んでました。後半の戦争という異常空間で行われる兵士たちの残虐さとむごさに、読みながら目をふせたくなりました。訳も非常にうまいなと思います。前半読んでいくうちは、どうして兵士ピースフルなのかなととても疑問でしたが、前半あっての後半。前半ののどかなっていうよりも、貧しい田舎の生活が、すでに過酷な運命で。それも細かく描かれていたので、僕とモリー、ジョー兄ちゃんとの関係や設定が、読んでいる人にぴったり入っていって、本の中の世界に感情移入できるようになります。ジョー兄ちゃんの存在は、残虐さやむごさと対照的でひとつの救いになっているように感じました。“純粋な善”の象徴として対照的に描いているんだなと。ここに出てくる軍隊の残虐さはどこにでも存在したもんじゃないですか? 中国の日本軍とか。でも歴史の知識として語られるものは迫ってこない気がしますが、これは読者が感情移入できる主人公の目を通して語られるので、目の前に広がってきますね。

ジーナ:私も一気に読みました。構成のおもしろさという話がさっきもありましたけど、確かにそうだなと思います。過去の出来事が一人称で書かれるんですけど、これがとても分析的なんですね。こういうふうに語りをもってきたからこそ、この物語がよけいおもしろく読めると思いました。さきほど、後半の残虐さという話がありましたが、ハンリー軍曹だけではなく、前半にもマニングズ先生とか地主の大佐とか、権力を盾にした気ままな暴力が出てくるんですよね。私は作者は、戦争だけではなく日常の中の戦争の芽のようなことも語っている気がします。頼りにしているチャーリー、みんなが大事にしているジョー兄ちゃんのことなど、兄弟の書き方もとてもよかったです。1か所だけ疑問に思ったところがあって、133ページの後ろから3行目、「この戦場で演じるのは自分自身の人生であること。そして、その多くが死にいたることを。」。原文を見ていないのでわかりませんが、「ここでは、命がかかっている」ではないかなと思いました。

ハリネズミ:読んでいて、ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』という映画を思い出しました。貧しいながらも絆をもって愛し合っている家族が戦争で壊されて行くという点が共通してるな、と。あの映画は、イギリスとアイルランドの間の戦争で、最後正規軍に入ったお兄さんがゲリラの弟を処刑しなくてはならないというすごい設定ですが、戦争の理不尽さが両方ともよく出てる。

クモッチ:前の読書会でも、『屋根裏部屋の秘密』(松谷みよ子著 偕成社)を読んだとき、今の子に読んでもらえる戦争ものとはどんなものなんだろう、という話が出ましたよね。この作品は、戦争以前の人生がきちんと描かれているということですよね。

ジーナ:そうですね。たとえば、お父さんが自分のせいで死んだという負い目が最後までつながっているところなんか、うまいですよね。

ウグイス:そうそう、最後になって「知ってたよ」って言われて解放されるのよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年8月の記録)


ピーパルク・フロイゲン『北のはてのイービク』

北のはてのイービク

ジーナ:ストーリーはおもしろかったけれど、文章が読みにくくて、対象年齢としている小学4、5年生に読めるのかしらと思いました。あとがきに「エスキモーの生き方や考え方がが感傷をまじえずに客観的に描かれている」とあって、ああそういうことかと思いましたが。たとえば、124ページの2行目の、犬をあげるシーンのせりふなど、この回りくどさがおもしろいんだけれど、そういうものだということがわかるまで時間がかかりそう。あと、わかりにくいところがちょこちょこあって、たとえば9ページの6行目、「それもまずいほうのがわへ」という部分、どうまずいのか、具体的にどちら側なのかよくわからない。こういうところをもう少し親切に書いてくれるといいのにと思いました。

フェリシア:このたどたどしい訳はなんだろう?と、はじめ思いました。昔の本かなと思って、奥付を確認したら出版されたばかりだった。復刊でもなく。訳の文体がすごく古めかしい。訳者がご年配だったので、そのせいかもしれないと思いました。でも途中から、それが心地よくなってきました。淡々と語られるので、事実をそのままレポートされているような感じで。でも、今の子供たちにはどうなのかな? 読みにくいかもしれませんね。後半はとても楽しかった。特に、イービクが一人で旅に出るところから、エスキモーの価値観などがよくわかってくる。特に、人間関係のとり方がおもしろかったです。環境が厳しいために、ストレートな言い方はしないとか、他人に対する思いやりとか…。それが新鮮で、今の子どもたちにメッセージとしてひびくところもあるだろうし、現代社会も学ぶところがあるように思います。解説を読むと、現在はエスキモーの人たちにとってもそんな価値観は過去のものになっているようですけど。どこの国も変化は避けられないのですね。

ウグイス:始まってたった5ページ目でいきなりお父さんが死んでしまうというのは、とても惹きつけられる出だし。最初からすぐに物語が動き出すので、一体どうなるんだろうって、先を読まずにはいられないでしょ。一文が短いので、確かに文章がぶっきらぼうな感じだけど、イービクが今やらなければならないことがとてもわかりやすく描かれていると思います。最後に「父をなくしたイービクがクマを殺し、そして一家を養った話は、これでおわり」で終わるけど、まったくその通り、それだけが書かれている。ぶっきらぼうな語り口が、むしろこのプリミティブな世界をよく表現しているのでは? ひもじくて犬のひもをちょっとずつ噛んでいるところなど、今の子どもたちも目を丸くするのではないかしら。人間が食べて生きていくという基本的なこと、文明社会では忘れているようなことが描かれてます。大人と子どもの世界がきちんと分けられている秩序も興味深かったし、親戚の男の人のほめ方も独特でおもしろかった。頼りなかったイービクが大人のような活躍をして、大人に認められたという誇らしい気持ちがわかりやすく伝わり、読者を満足させてくれると思う。家族のもとへ帰って感激の再会をする最後のいい場面の途中に、唐突に「エスキモーはこんなくらし方をしている」という見開きの挿絵がはいっているのは、気がそがれてしまった。暮らし方も興味あるけど、今はいいところなんだからちょっと待ってよ、って感じ。どこかほかに入れたほうがよかったのではないかしら。(章と章の間に入れればいいのにという声)

ジーナ:68、69ページの皮のひもをかじるところなんか、すごくリアルですよねえ。

ハリネズミ:大人の私としては、エスキモーの伝統的な暮らしぶりがまずおもしろかったです。野村さんの訳は今まで読みにくいと思ったことはなかったんですけど、この本では、学者風というか原文に忠実なあまり、おもしろさに欠けるのかもしれませんね。「北のはて、グリーンランドの北部は、今が夏の盛りである」で始まりますが、「である調」は、子どもにはしんどいかも。それと、たとえばイービクの目の前でお父さんが死にそうになってる場面では、「今イービクがしなくてはならないいちばん大事なことは、なんとかしておとうさんを助けることだ」とあります。正しい訳なんでしょうけど、「わっ、たいへん」と思う読者の緊迫感との間に落差があるように思います。それにしても、主人公は何歳なんでしょう? お父さんに狩りに連れていってもらえる年齢って、何歳なのかな? 挿絵ではずいぶん小さく見えますが。

フェリシア:10歳くらいなんですかね。

クモッチ:描かれているのは過酷な世界なのですが、舞台がちょっと離れたところだし、挿絵のタッチともあいまって、おかしいなと思いながら読みました。イヌイットの生活がとてもうまく描かれていると思います。特に、イヌイット同士の会話がとても間接的なのがおもしろかったです。このように自然が過酷な場合、人間同士の会話もストレートになるのではないかと思っていたのですが、自然が過酷だと、仲間に対する気遣いがさらに必要なのかもしれませんね。男の子がだんだんと一人前になる自信をつけていく過程が、独特な口調で語られていておもしろかったです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年8月の記録)


久保田香里『氷石』

氷石

ウグイス:最近読んだ日本の創作の中では、これはとてもおもしろかったんですね。お母さんが死んじゃって、お父さんも帰ってくるかどうかわからないという辛い状況の中で、石を売ったり、お札を書いて売ったりなど、子どもなりの知恵をつかってひとりで生きていこうとする主人公に共感を持ちました。むせかえるような夏の空気感みたいなのも伝わって、細かい描写が上手に書けていると思う。子どもの気持ちがよく出ているし、登場人物もそれぞれよく書き分けられていると思います。最後は希望を持って終わるような書き方で、続編が出るのかな、という感じをもちました。

ハリネズミ:私もおもしろかった。千広と宿奈の淡い恋心みたいなのもあるし、安都とか伊真さんとかステレオタイプ的ではあるけど、いろいろなキャラクターを書き分けて物語を進めていくのもいいな、と。ただ、この本だけで終わるんなら、ちょっと物足りない。学問の世界とストリートの世界の間で揺れ動く千広はどう決着をつけるんだろう、とか、お父さんは帰ってくるのかな、とか、宿奈との恋はどうなるのかな、と先が知りたくなりますね。続きを出してほしいな。

クモッチ:天平9年、738年という時代のものを読むおもしろさが一つと、そういう時代を描きながら、主人公のお父さんに対する気持ちがとてもよくわかるように書かれていたのがおもしろかったです。これは、万葉集成立よりも前の時代のことなんですね。風土記が、天皇の命令で各地で編纂されている頃なので、風土記の文献から、イメージを広げていけたんだろうなと思いました。新しい知識を得たいという欲求から、家族をかえりみることなく唐にとどまってしまう父。その父に対して、とても納得ができない千広が、だんだんに父の気持ちを理解していく過程がよく描かれていると思いました。惜しいのは、宿奈とのことがいま一つわからなかったことです。氷石というタイトルもテーマがよく見えなかった。でも、とてもおもしろく、続きが読みたいと思いました。

ジーナ:さあっと楽しんで読めたんですけど、私はやや物足りなかったです。おもしろい部分もあるのだけれど、たとえば千広と宿奈や伊真さんが、なぜそれほどつながったか、そういう部分の具体的な描写が少ないように思いました。いじめられているところにちょうど伊真さんが出てきたり、しばらく出てこなかった宿奈がいきなり病気であらわれたりするところで、都合がよすぎる感じがしてしまって。

フェリシア:この本は、すごく前に読んだので、読み返さなきゃと思ったんですけどその時間が取れませんでした。前に読んだときは、さあっとおもしろく読んだんですけど、2か月、3か月たつと印象が薄くなってしまいました。それでも、ひとつ印象的だったのは、少年のお父さんに対する気持ちの変化です。最初は、帰ってこない父に対する怒りだったんですよね。しかし、苦しい生活の中で、札に文字を書いて売ったり、医薬院の看板の文字を見たりするとき、否定していたお父さんの影響を自分の中に発見していく。そして、次第に、お父さんに対する気持ちが怒りから尊敬に変わっていくところがとてもよく伝わってきてよかったです。「氷石」っていうタイトルはとても魅力的で、女の子にプレゼントするなど、何か起こるのかなと期待したのですが、特にこれといって印象的なことはなく、氷石というアイテムが生きてきていない気がします。もう少し少年の気持ちの象徴的なものとして描けていたらよかったように思います。

ウグイス:読者を知らない時代に連れていってくれるっていうのが、この本の魅力だけど、それを取り去ると少し弱いところがあるのかもね。場面場面は主人公によりそってうまく書けているし、この時代の雰囲気は印象に残ると思う。ここまで書けるんだから、これからもっと書いてほしいですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年8月の記録)


ブライアン・セルズニック『ユゴーの不思議な発明』

ユゴーの不思議な発明

マタタビ:惹きつけられる作品でした。絵と文が贅沢にかみ合っていて、後半になって構成の謎が解けていく。絵から音が聞こえてくるんだあと思いました。街や駅のざわめきや足音なんかが聞こえてくる。不思議な感覚でした。本の中心は文章だけど、これだけインパクトのある絵がふんだんに入ることによって、絵からも様々な感覚が呼び覚まされるんですね。内容は小学生にはちょっと難しいかなあ。でも、少し読書量のある高学年の子が出会ったら、びっくりすると思います。私自身すごくびっくりしました。本の新しい可能性を感じました。

ジーナ:さくさくと読んだのだけれど、後で何も思い出せないんです。一時楽しいけれど、絵が特に心を打つわけでもなく、筋を読む本かなあと思いました。なぜ思い出せないのかというと、文を読むのと絵を見るのとは働きが違うからでしょうか。文字で一つ一つ書きあらわされたのを読むと、心にイメージがくっきり刻まれますよね。でも、この本では絵の部分はぱっぱっとめくってしまって、絵でストーリーが進む部分があるのに、そこの印象が薄いみたいなんですよね。だから、読み物としては物足りない。それにしても大きな本ですよね。絵がいっぱい入っているのを考えると、よくこの値段で出せたなとは思いますが、手元に置いておこうと思うのは、この絵が好きな人かな。

みっけ:私もさらさらと読みましたが、なんかうまく入れなかった。急いでいたせいもあるんでしょうが、とってもおもしろいとまでは思えませんでした。ある程度固まって出てくる文章を、読む速度でするすると読んでいくと、突然絵がどどどっと出てきて、文字がまったくなくなる。そうなると、こんどは文字を追うのとは違って、一枚一枚を見ていく感じになって、がくん、がくん、がくんというリズムになる。ようやく絵を見るのに慣れたと思ったら、また今度はするするが始まるという調子で、最後までリズムに乗りきれませんでした。絵も、私の好みで言うともう一つという気がします。うまいですけどね。内容として、からくり人形の話やら映画が初めて登場した頃の話は、とてもおもしろかったし、ああこの人は、からくり人形や映画が大好きなのだなあ、というのが伝わってはきたのですが、それ以上とまではいかなかった。絵と文章が肌別れしているんですよね。文章を、無声映画の台詞みたいな字体で書いたりすれば、もっとしっくりきたのかもしれませんね。でも、文章の量が多いから、それも難しいかな。

ハリネズミ:この本は、絵でコルデコット賞をとっているんですよね。普通は絵本が取る賞です。小説の文法と絵本の文法は違いますが、この本は絵本の手法で書かれているのかも。小説として完成させるなら、もっときちんと説明したほうがいいところがあります。たとえば、ジョルジュ・メリエスは実在の人物ですが、この本からだけではなぜこの人が映画を拒否しているのかよくわからないので、もう少し書き込んでほしいところです。それからお父さんが火事で死に、おじさんも行方不明になってユゴーは孤児になるわけですが、物語だったらそうそう都合よくすませてしまうことはできない。
この絵は、私は好きです。映画みたいに引いたり寄ったりで、スライドのような効果が出てますね。それに、次々に謎が出てきて読者を引っ張っていくのもいいと思いました。一つ変だなと思ったのは、本文冒頭に舞台は「1931年パリ」と書かれているのに、訳者あとがきには「時代は20世紀、おそらく第一次大戦と第二次大戦のあいだのいつか」と書かれているんです。なんなんでしょうね?

球磨:こんなに厚くてどうしよう、と思って本を開いたら絵が多くてすぐ読めてしまいました。ですが、小説としては完成していないというハリネズミさんの指摘には納得です。なるほどと思いました。絵はとてもよく描けていると思います。実話を元にして初期の映画のことなんかをこんなにおもしろくできるんだなあと、感心しました。翻訳に統一性がないのが残念ですね。題名は、原題は「ユゴーが作り出したもの」でしょうか、日本語では「不思議」を入れて子どもたちを引っ張るんでしょうね。『レ・ミゼラブル』の地下道を思わせるような箇所もありますね、パリの裏の魅力というか。あんまり本が好きでない子にも薦められるかもしれません。

ハリネズミ:原書の表紙はカラーですよね。日本語版の表紙はモノクロで、趣はありますが、楽しい感じは削がれてますね。
この後、本作りのことで盛り上がる。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年7月の記録)


ルーシー&スティーヴン・ホーキング『宇宙への秘密の鍵』さくまゆみこ訳

宇宙への秘密の鍵

ネズ:友人の小学4年生の息子さんが、買ったその日に一気に読んでしまったとか。普通こういう本は、子どもが案内役でいろいろなことを説明してまわるという形が多いのに、この本はストーリーと科学の知識がしっかり絡み合ってますね。それにストーリーそのものも、意外といっていいほどおもしろかった。悪役が学校の先生というのは、けっこう子どもにとって怖いですよね。ホーキング博士の本は、前に読んで途中でやめた覚えがあるけれど、こういう本を読めるなんて、今の子どもは恵まれてますね。中の写真がきれいで、感激しました。これは、CGではなく、本当に撮影した写真なのかしら?

ハリネズミ:ホーキング博士がかかわっているからには勝手にCGをつくったりはしないでしょう。コンピュータ処理をした画像は、ちゃんと断り書きがしてありますね。

ネズ:ブラックホールなんて、知ったつもりで日常ジョークに使ったりしているけれど、実はよく知らなかったんだなあと思いました。ブラックホールから脱出できるなんてね! 続きが楽しみです。もうできあがっているんでしょうか?

ハリネズミ:全部で3巻とのことですが、出版社の人に聞いたら、2巻の原著原稿はまだこれから上がってくるそうです。

ジーナ:図書館は予約がいっぱいだったので、夏休みに中学生の息子に読ませようと思って買いました。読み始めたらおもしろくて。科学というのは諸刃の剣だと思うのですが、「科学の誓い」のところに著者の考え方が表れていて、信頼感を持って読み進められました。私は星のことはまったくわからないけれど、わかりやすくておもしろかったです。主人公が、ベジタリアンで自然志向の両親のせいで肩身の狭い思いをしているところがリアルで、その科学アレルギーの父親が物語に巻きこまれていくので、この先どうなるかが楽しみです。写真の入れ方や説明文の入れ方が、わかりやすいですね。説明がじゃまにならない。これは絶対に続きを読まなくちゃ、という終わり方ですね。悪者の先生はハリー・ポッターにも出てきて、その流れかなと思いました。とても読みやすく、ぜひ子どもに薦めたい本です。

マタタビ:キャンペーンに来た本屋さんの熱気に感心して、すぐに買いました。私のような文系人間にわかるのかなと心配だったけど、ストーリー中心で読めて楽しめました。宇宙についての解説コーナーでは、昔の物理の授業がよみがえってきて、少し懐かしくなりました。始めは構えていたんですが、とても読みやすかったのでホッとしました。子どもも、その子その子でいろいろな読み方ができると思います。興味のありよう次第で、理科から行ってもいいし、物語からいってもいい。おもしろい本ですね。
『なぜ、めい王星は惑星じゃないの?』(布施哲治著 くもん出版)という本を以前読んで、それはそれで内容はおもしろかったんだけれど、終始説明的なので、子どもがこれを全部読み切れるかな、と感じてました。この本で楽しみながら得た知識と、『なぜ、めい王星〜』で得た知識と比べたらどうなんでしょう? この本なら400番台を読めない子でも楽しめますね。子どもの目を科学に向けるために、こんな手があったんだ! 難しい科学の知識とストーリーをこういう風に組み合わせられるんだ。さすがホーキングさん。楽しかったです。特に最初の方に出てくる「科学の誓い」に感心しました。子どもに科学の楽しさをこういう風に手渡せるといいですよね。

球磨:知り合いの理科の先生に言ったら、まだ読んでなかったんで紹介したんです。お話もおもしろく、また写真や説明もおもしろくて、宇宙について納得しながら読みました。冥王星についてなど最新の知識も入っているし、次が楽しみですね。すぐにその先生に貸そうと思ってます。

ネズ:「誰かに読ませたい〜!」という本ですよね。

球磨:本当にそうですよね。

ハリネズミ:私は天文の知識がそんなにないんですけど、子どもたちが彗星に乗って惑星を見て行くところが、生き生きとしてて臨場感もあって、おもしろかったですね。こんなふうに書かれたのを読んだのは初めて。ホーキング博士の知識の裏付けがあるので、安心して読めるし。私は文系なんで、科学をお勉強として教えるのではなくて、物語としておもしろく読めて、副産物として科学の知識も身に付くような本があるといいな、と以前から思ってたんですけど、これはそんな思いに答えてくれました。監修の先生は、ホーキング博士のお友だちだそうです。宇宙に詳しい方にうかがったら、子どもの本にこれだけ新しい宇宙の写真が出ているのは珍しいそうです。この本に出てくるブラックホールの説明も、ホーキング博士が考えだした新しい説で、今ではそれが定説になってきているようです。

ネズ:私が子どものころは、八杉龍一著『動物の子どもたち』や、お魚博士の末広恭雄さんの本など、子どもにも大人にも読めるベストセラーになるような本があって愛読していた覚えがあるけれど、最近はどうなのかしら?『動物の子どもたち』は、毎日出版文化賞を受賞しているから、大人も子どもも楽しめる本だったってことですよね?
この後ひとしきり、科学読み物談義で盛り上がる。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年7月の記録)


三木卓『おおやさんはねこ』

おおやさんはねこ

球磨:また鎌倉が舞台の話ですね。もうちょっと漢字を入れて上の学年の子もすっと入れるようにしてもいいのではないでしょうか。内容は、好感をもって読めました。最後の終わり方が今ひとつ物足りません。

マタタビ:一話一話楽しみに読みました。一見ほのぼのとした童話ですが、じっくり読むと、大人にはツンとくるペーソスや味わい深いユーモアがあって、しみじみしました。でも、そういった楽しみって、大人読みすればわかるけれど、子どもには味わえるかな? 何とも言えない軽みや、かすかな哀愁、きっと著者ご自身、自分で楽しみながら書かれたんだろうと思います。ストーリー自体は、ビールを飲む楽しみについてや、銀行からのお金の話など、大人ならそのおもしろさがよくわかる内容が多く、子ども向けとは言えない。単に動物が出てくる童話として、幼い子どもに与えたのではと少しもったいないかな。大人のことが理解できる大きな子に読んでほしい。

ジーナ:楽しいというより、愉快という感じでした。うまいですね。とても上質なフィクションだと思いました。はしばしが楽しめて。整理券のするめを食べてしまうところなんて、とてもおもしろいですよね。店子のぼくも足を1本食べてしまうとか。あと、この本は哲学的なところがあって、たとえば252ページ。猫の毎日はつらいことばかりだと言われたぼくが、「にんげんだってそうですよ。(中略)すばらしい日もありますけれど、それは、その生き物の一生からみれば、たいていの日はつらいものです。だからすばらしい日は、よけいすばらしくもなるのですけれどね。」という言葉にはじーんとしました。今の書き手はなかなか書かない世界だと思いました。今の子に読んでほしいですね。

みっけ:なんか、ふにゃふにゃっとしていて、それがなんとも心地よく、おもしろかったです。くすくす、にやりと笑ってばかりでした。この人間さんがまるでカリカリしていないのもいいですよね。心底納得とか、そういう激しい関係ではなく、しょうがないなあ、と思いながらもそれなりにつきあっていて、それを自分も楽しんでいる。そのスタンスがとってもいい感じだと思いました。私は、子どもは子どもなりに十分楽しめると思いました。だって、もうあっちこっちがおかしくて、笑えるもの。初めて猫と出会うところで、一切説明も言い訳もなく猫がすぐにしゃべりだして会話が成立してしまうあたりも、下手するととてもぎこちなくなったり嘘くさくなるんだけど、そういう感じがないんですよね。ほんとうには起こりえないのに、この作者の世界にすっかり入り込んで、話がするすると展開していく。そのあたりがうまいですねえ。最後で猫を眠らせて全部外に出す、という展開は、こういうふうに納めるしかなかった、という感じでしょうかね。暴力を使うわけにもいかず、でも何らかのけりをつけなくてはならなくて。30年前の作品なのに、あまり古くなった感じがしないのもいいなと思いました。

ネズ:「母の友」に連載されていたころ、愛読していました。いまあらためて読んでみたら、文章のうまいこと、うまいこと! 子どもの本の文章は、こうでなくちゃと感激しました。「すずしいさがし」など、ちょっと書き方をあやまると、甘ったるくて嫌らしくなってしまうけれど、心を揺さぶられてしまう。猫は実は苦手なんだけど、本当にこんな風に感じたり、考えたりしているのかなと思ってしまいました。荻太郎さんの絵も、すばらしいですね。この世代の作者の文章を読むと、落語とか講談とか、日本の伝統的な話芸のベースがあるのを感じます。今の子どもにはわかりにくいところもあるかもしれないけれど、わからないなりに心に残っていて、大人になって「あっ、そうだったのか!」とわかることもある。子どもなりにすてきだなって思った文章は、ずっと覚えていますし、子どものときにいい文章を読むって、本当に大切なことだと思います。終わり方はすっきりしないところもあったけれど、無事に終わらせるにはこれしか仕方がないのかと……。

みっけ:なんていうか、作者の視線にすごいていねいさを感じますよね。文章もだし、いろいろなものを見ているその視線にも。

ハリネズミ:特に最初のほうは、人間と猫のやりとりがおもしろいですねえ。寿司屋に就職するブラックとか、アゲハに恋するトラノスケとか、大家49匹にいろいろ特徴があるのもいいですね。それに、随所にユーモアがちりばめられていて、笑えます。文章はいいんですけど、平仮名が多すぎるのは逆に読みにくいんじゃないかな。それから、タイヨー石は謎のままになってますね。最後のまとめ方だけはちょっと不満です。「私は今もねこたちとくらしています」で終わってもよかったのに。子孫が戻ってくるなんて、今の子には「ありえない」なんて言われそう。三木さんには犬の本もあって、私は『イヌのヒロシ』(理論社)も大好きです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年7月の記録)


ヤコブ・ヴェゲリウス『曲芸師ハリドン』

曲芸師ハリドン

サンシャイン:ざっと読んだんですけれど、あんまり印象に残っていないんです。船長さんがいなくなったらどうしようという不安な感じがあって、そこに読者も入っていけたら、作品に入れたという感じになるのかなあ……でもちょっとしつこい感じがしました。最後は船長がハリドンに、捨てたりしないよ、という感じなんですかねえ。

ハリネズミ:これは、ストーリーラインだけで読ませる作品じゃないから。

サンシャイン:過去のことなどもいろいろと書いてあって……でも途中でちょっと飽きちゃいました。最後が嫌な感じでなく終わったのが良かったかな。犬とやりとりするというのは、前にもそういう本がありましたね。でもこの本では犬はあまり信用されていないようです。

メリーさん:変わった本だよ、と言われていたのでドキドキしながら読んだのですが、とってもいいお話でした。たった一晩のまるで夢のような物語。主人公のハリドンと船長とのあいだには、友情というか、親子の情のようなものが感じられました。二人はとても深い絆で結ばれているのだけれど、血がつながっていないから、不安になる。結果としては、ハリドンが船長を灯台で見つけ、文字通り「灯台もと暗し」だったのだけれど、町中を走り回ったことで、彼の気持ちが改めて認識できたような気がしました。

ハリネズミ:これは、一つ一つの場面や情景の雰囲気を味わう本だと思うんです。夜の闇の中でのハリドンの不安、小さな野良犬の不安、カジノの喧噪、あやしい犬捕りの暗躍などが、不思議な模様を織りなしています。これは、菱木さんの訳でないと読めない本かもしれませんね。この訳者だからこそ、そういう一つ一つのものが醸し出すムードがきちんと伝わってくるんだと思います。原作者が描いた絵と文章のバランスも絶妙で、本にさらに味が加わってますね。
船長がエスペランザ号に乗って行ってしまったと思って、ハリドンが悲嘆にくれ、犬は不安に怯えて進めなくなり、という絶望の場面の次は、灯台に入って船長を見つけてホッと安心する場面が来るでしょ。普通ならここで、再会の喜びの情景を書くところだけど、ハリドンは船長が楽しい時間を過ごしてのを邪魔したくないので、自分の気持ちをおさえる。このあたりもうまいし、無邪気な犬がいるせいで、心の揺れや本当の気持ちが会話の中からうかびあがる。内面のドラマですよね。船長も、何が起きたか直接はわからないけれど、帽子があったり犬がいたりで何となく察する、そのあたりがいい。最後に船長が犬にエスペランザという名前をつけようとしているけど、それは、この犬を引き取ろうという気持ちの表れなんでしょうね。そのあたりの訳も、とても上手。表立って何かが起こる話じゃないけど、とてもおもしろかった。中学生の課題図書ですけど、これ、中学生にわかるんでしょうか?

げた:たった一晩の出来事だけれど、船長とハリドンのこれまでの人生や生き方が、お話を通して見えてくるんですね。船長は一か所にとどまらず、常に夢を追っかけている人なんだなあと思います。犬とハリドンの関係なんですが、犬のしゃべる言葉はハリドンの気持ちを表しているんでしょうね。読者対象は中学生以上だとは思うんですが、船長を通して、人間の生き方の一つを子どもたちに見せているのだと思います。それと、日本の子どもたちの日常とは違う、一見緩やかだけれども、緊張感があって、縛られない日常を描いて見せてくれているんですよね。

小麦:私は好きでした。一晩のうちにいろいろなことが起こる夜のお話っていうのがまず好き。あとは北欧のものって映画もそうですけど、どこか暗さや孤独を抱えているようなものが多くて、そこが味わい深いと思います。この作品の登場人物も、みなそれぞれに傷ついていたり、挫折してたりして、孤独と向き合ってます。しかもそれをことさらに主張したりせず、じっとわきまえて生きている感じがいいと思うんです。船長にしても、今回はハリドンのもとに帰ったけど、いつかふらっといなくなってしまいそうな感じもします。全体的に常に不安や孤独の気配が漂っていて、だからこそラストのあったかさが生きてくるんだと思います。ただ、雰囲気で読ませるタイプの本なので、これで読書感想文を書かせるのはちょっと酷じゃないかなぁ? 感じたことを言葉にするまでに、時間がかかる本だと思うので。

いずる:幼い頃、夜中に「親が突然いなくなってしまったらどうしよう」と不安に襲われていたことを思い出しました。この本は、子どもが感じる、身近な人がいなくなることへの不安に通じている気がします。それと、ここには名前の問題があると思います。まず、前半に、犬がハリドンに名前を尋ねる勇気がないという描写が出てきます。名前を尋ねられないというのは距離が離れているということです。それが、最後の場面で船長が犬に名前を与えるという場面に繋がっていきます。ここで名前を与えられるのは個人として認められたということで、船長やハリドンとの距離が近くなっていることを表現していると思います。ただ、〈船長〉はずっと通り名のままで名前が出てこないのですが、これがどういう意味なのか、よくわかりませんでした。

みっけ:雰囲気のあるおもしろい本だなあと思いながら読んだのですが、中学校の課題図書だということがわかって、はて、これって子ども向きの本なんだろうか、とひっかかり始めました。それからしばらく、この本から受けた印象を頭の中で転がしていたら、ある日ふと気がついたんです。この不安な感覚やアンバランスな感覚(カジノでハリドンが出会う人々などの不気味さや異様さ)って、子どもの感覚なんじゃないだろうか、なにかの時に親とはぐれたり、自分が眠っている間に親がどこかに出かけてしまったのに気がついたときの子どもの不安と同じなんじゃないかなって。そういう時には、たとえ親子の関係に満足している子どもでも、ひょっとしたら自分は置いてきぼりを食ったのかもしれないと思って不安になることがある。私自身がそういう気持ちと無縁でなかったので、そうか、これって子どもの感じ方なんだなあと思って、だったらやっぱり子どもの本なんだ、と思いました。この作者は決して、子ども時代に感じたことをノスタルジックに書いているわけではないし。夜になると、そこいら中の物がおっかなく見えたりするのも、子どもならよくあることですよね。
もう一つ、この本は、ひ弱でちっこい野良犬とハリドンの関係や、船長さんとハリドンの関係がべたっとしていないのがいいなあと思いました。ハリドンが必死になって船長さんを探し歩き、でも灯台で船長が話し込んでいるのがわかると、船長の邪魔をしないように、そっと自分だけ家に戻る。その辺りがなんというか切ない。べたな親子関係であれば、自分の中で渦巻いた感情をそのまま相手にぶつけることにもなるんだけれど、ここでそうならないのは、やはり血のつながりのような本能的な結びつきがないから、なんでしょうか。まあ、自分の感情をそのまま相手にぶつけられるような関係も、子どもにとっては大切だと思うけれど、でもこの手の配慮は、血のつながりのある親子の場合でも、しますよね。
たった一晩の出来事にすぎないし、しかも表向きは何事もなかったかのように終わるんだけど、でもそこにお互いの過去のことや、異様な人、奇妙な人が絡んできて、ハリドンの気持ちが激しく動き、船長とハリドンの関係は確実に変わる。実際にこういうふうにして人間の関係はできていくんだろうなあと思うし、そういう微妙なところを、とてもうまく書いていますね。
(ここでひとしきり、北欧の作品ってどうなんだろう、という北欧談義)

ハリネズミ:これって、何気ないようだけれど、訳がとてもうまいですよね。

げた:訳がうまいというのは、どんなところかな?

ハリネズミ:たとえばウフル・スタルクはいろいろな人が訳しているんですが、菱木さんの訳を読んだあと、他の人の訳を読むと、本当の味わいがそこなわれているような気がして不満を感じてしまうんです。菱木さんは必要最低限の言葉できちんと雰囲気を伝えることができるんでしょうね。擬態語や擬音語もうまく使ってるし、ひっかからないで読めます。一例ですが、p39には「このぶんでは雪になるだろう」という文があります。普通の訳者だと「このぶんでは」なんていう表現はなかなか出てこないんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年6月の記録)


本多明『幸子の庭』

幸子の庭

げた:最初、このところよくある、学校に行けない子どもの話かな、と思ったんですよ。でも、テーマはそれだけじゃなかったんです。この本を通じていちばん心を揺さぶられたのは、プロや専門家のすごさ、背筋がピンと伸びたようなすがすがしさですね。この本を読んだ子どもたちは、きっと庭師という職業に夢を持つんじゃないでしょうかね。この本を通して、とってもいい体験学習ができたんじゃないかな。私は、図書館の司書という本の専門家のはずなんだけど、本当に専門家といえるのかなあと、改めて自分自身に問い直すような気持ちにさせられました。主人公の幸子も友達関係がうまくいかなくなっていたんだけど、この庭師の若者と出会うことによって、庭のサルスベリの枝で飛びつくような明るい子に戻っている。読んだ後、明るい気持ちになれるいい本だなと思いました。

ハリネズミ:そうそう。今の時代は、どの分野でも半分アマチュアみたいな人が幅をきかせていて、プロがなかなか評価されないですけど、この作品にはプロのすごさが描かれていますね。真のプロとは何かが、子どもにもわかるように書いてあります。それから、自然が子どもに働きかける力を持っているってことも、もう一つのテーマになってる。植木屋さんというと寡黙なイメージがありますが、この人は幸子にいろいろ話をしてくれて、幸子から力を引き出してますね。

げた:この庭師の若者はもともと寡黙だったんですよ。親方にお前、もっと話せなくちゃだめだ、と言われて直した。そういう点ではつじつまは合っていると思いますよ。

ハリネズミ:私は自然のままがいいと思ってて、雑草さえなかなか抜けないでいたんですが、庭に風が通るようになったとか、庭師が空間に手を入れていく作業を読んで、すっきりした庭もいいもんだと思えるようになりました。 「木の一本、一本が、その木らしい装いで立っている 」(p207)なんてね。庭っていうのは、自然のままにしとけばいいっていう空間とは違うんですね。

メリーさん:とても読み応えのある骨太な文学だと思いました。女の子の物語と職人の生い立ちの2部構成になっていて、主人公だけでなく、出会う職人の人生も語られる。とてもいいなと思ったのは「銀二の木鋏はあらゆる花木の汁を吸い、香りをかいだ」などという、ハサミの描写。ハサミの立てる音や質感をうまく書き込んでいて、道具を大切にしているのがよくわかりました。それから、山の木と庭の木の違いの所、長い時間をかけて共存を勝ち得た自然と、人間の手によって個性をのばしてあげる木との区別。時間の存在を意識させるいい場面だと思います。いい大人と出会うと子どもは変わるのだな、と感じました。そんな意味で、前回の『スリースターズ』(梨屋アリエ著 講談社)の対極にある物語だと思いました。

みっけ:以前山登りをしている頃に、山で大きく育っている木々をたくさん目にしてきて、そういう木が大好きだったために、庭の木とそういう木の根本的な違いを理解するのにかなりの時間がかかったんです。そういう覚えがあるんで、そうなんだよなあという感じで読みました。庭の木というのは、人間が人間の都合で植えた木で、当然大本のところで人工的。でもその人工的な物の個性を生かして行くにはどうするか、というあたりが剪定の根本にあるんでしょうね。とにかくこの本を読むと、庭とか木といった長いスパンで見ていく必要のある自然と向き合うことの心地よさ、時間の流れの違いがよくわかる。それに、登場する職人に、木という生き物と付き合っている上等な人の持つ独特の背筋の伸びた感じがあって、それもすがすがしい。それに、ハサミの鳴る音の持つリズミカルな感じも、とても共感できました。ということで、基本的にはおもしろく読んだのですが、ひとついえば、ちょっと盛り込み過ぎかなあ、という気がしました。作者が好きなことやいいと思っていることを、とにかく入れたという感じがしてねえ。

ハリネズミ:この作者の1作目ですから、いろいろ入れたかったんでしょうね。

みっけ:なんか、有名な和菓子店のおいしい大福やらくず餅の話だの、方代さんの短歌の話だの、ちょっとうるさくて鼻につくなあと思ったんです。全体としてはいいなと思ったんですが、それにしてもてんこ盛りで、げっぷが出そう。ああ、そういうことが好きなんだね、わかる、わかる、と作者の好きなことが素直に伝わってくるんですけど。

ハリネズミ:私はそんなに気になりませんでした。お菓子の話はプロの仕事の例だろうし、山崎方代の短歌は、筋金入りの職人の清吉さんや銀二さんの人柄の奥行きをあらわしていると思って。まあ、方代さんの部分はちょっと長いかな。

サンシャイン:私も、また学校に行けない子の話かと思って読み始めたんですが、だんだん引き込まれていきました。今まで話題に出なかったこととしては、庭を見たがっているひいおばあちゃんの最後の旅を家族で準備をする、という所が好きです。女の4世代が揃うというのは、私の娘が小さい時に経験しましたが、壮観です。そしてサルスベリを回転しながら降りてくるというのが受け継がれている、というのも家の歴史を物語る素敵な設定だと思いました。熱い鉄を打って刃物を作る話、木々の話、こうした薀蓄も好きでした。いい本を紹介してもらったなと思います。

いずる:読み始めたときは、お母さんが美容室に出て行くときのわざとらしさなど、いくつか気になってしまうところがありました。でも、庭師が出てきてからは物語に引き込まれました。私は庭や樹木に関する知識がほとんどないのですが、それでも十分に楽しめるように書かれていると思います。それから、幸子が学校に行けなくなるきっかけについて、大きな事件が起きたりはしませんが、必要以上に空気を読まなければいけない今の社会の息苦しさを反映しようとしている姿勢がいいと思います。結局幸子が学校に行けるようになるのかどうかは、わからないんですよね。もしかしたら途中で帰ってきちゃうかもしれませんが、きっと行けるんだろうなと思います。この本に出てくる庭師はとても素敵でした。児童文学に出てくる素敵な男性といえば、私はたつみや章さんの作品に出てくる男の人を連想します。たつみやさんは別名義で架空の男の人を素敵に描くことが必要とされるジャンルの小説を書いているので、惹きつけられるのも当然だと思うのですが、本多さんは男性なのにこういう人物を描くことができてすごいなと思いました。

小麦:いい意味で作者の人となりが透けて見える本でした。勝手な想像ですが、みんなに信頼されている小学校の先生が書いているみたい。物語を通して、あたたかで誠実な作者像が見えてくる安心感というのを、最近の作品の中では久々に感じました。幸子の口調や性格なんかは、いかにも「おじさんが書いた少女像」という感じだし、植木屋さんも格好良すぎるんだけど、読後感がさわやかで物語に説得力もあるので「ま、それもいいのかな」って思える。変にひねったりしていないところも好感が持てました。地の文のところで、幸子の母親が「母」と出てきたり「お母さん」と出てきたり、健二の母親も「母」だったり「かあちゃん」だったりするところは気になりました。些細なことなんだけど、こういうひっかかりって物語の世界からふっと現実に引き戻されちゃうから、もったいない。全体的には、さわやかで読みごたえのある作品でした。手入れ後の清新な庭の空気など、日本の庭の佇まいをしっかり感じとれる日本人としてこの作品を読めて幸せだったなと思います。庭師の格好良さにも目覚めました!

複数:かっこよすぎ!

ハリネズミ:さっきの母親をどういう言葉で書くかは、その部分が三人称的なのか一人称的なのかで違ってくると思うな。私はあんまり違和感がなかった。きっといい人なんだろうなあ、この作者は。『曲芸師ハリドン』なんかを書くような作家とはタイプが違いますよね。ひねくれてない。どれもみんないいエピソードですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年6月の記録)


ルーマー・ゴッデン『帰ってきた船乗り人形』

帰ってきた船乗り人形

いずる:シャーンが人形たちの言葉を理解できているのかいないのか、よくわかりませんでした。最初は、わかっていないのかなと思いながら読みました。途中から理解できているんじゃないかと思ったりして……。最後にカーリーが、汚れてぼろぼろになって戻ってくるんだけど、人形がどういう冒険をしてきたかなど、まったくわからない小さい子なら汚れたことを嫌がるのではないかと思いました。でも、シャーンはそれを大喜びで受け入れるので、本当は人形の言葉はすべて理解しているのかな。ハッピーエンドの終わり方はちょっとできすぎだと思います。全員が戻ってくるのもご都合主義な感じがしました。大人になってから読んだから、そんなふうに思うのかもしれません。これを小さい時に読んでいたらどうでしょうね。私は自分も人形を持っていて、台詞をつけて遊んだりしていたので、楽しく読めたかもしれません。

サンシャイン:最初の方で、人間のシャーンと、人形たちの会話がごっちゃになって混乱しました。なんども前に戻って名前を確認しながら読み進みました。原文もこういう書き方なんでしょうかね? 日本語で読むと、人間と人形の書き分けがまったくされてないので、戸惑います。人間の世界にも人形の世界にもメイドがいるし、わかりにくい。まあ、受け入れちゃえば読めますが。ベルトランが人形を拾ったあたりから急にいい子になるのは、ちょっとどうなんでしょう? 話を進めるには必要だったんでしょうが、あまりにも突然改心しすぎるように思います。ちょっと苦しいんじゃないかな……

みっけ:私も、人形と人間が同じように書かれているのを読んで、ちょっと混乱しました。特に最初の方は、人形は動きませんというルールがあるはずなのに、なんだか動いているような感じで、あれ?という戸惑いがありました。後の方になると、作者がきっちり「風で飛ばされたのでしょうか」とか、「手が震えていて落ちてしまったのかもしれませんが」という形でフォローを入れているので、動いていないんだな、と確認できたのですが。

ハリネズミ:私もそこは気にして読んだんだけど、最初から最後まで人形は動いてないですよ。そこはきっちり書かれてるの。

みっけ:ベルトランがかなり急激に改心することについては、私はあんまり気になりませんでした。というのは、ベルトランは元々優等生で、本人は悪気がないのに、周りの人の気持ちがきちんとくみ取れないために嫌われるというタイプでしょう? だから、周りが自分を疎んじていることにいったん思い至れば、後はわりと楽にいい子になれると思うんです。私がこの本で一番印象的だったのは、ベルトランが海に飛び込んでカーリーを拾うシーンでした。人形が海底に落ちていって、海藻がゆらゆらと揺れて、という場面。とても印象的でした。今考えると、切迫した状況と、カーリーののんびりした感じ方のギャップが妙にリアルだったからかもしれませんね。とにかく全体に、お人形さんごっこでお人形がしゃべるのと、実際には動けない人形がいろいろなことに巻き込まれていく様子とのかみ合わせが、なんかしっくり来ませんでしたね。昔『人形の家』(ルーマー・ゴッデン著 瀬田貞二訳 岩波書店)を読んだときにはそんなふうに感じなかったんですけれど……。年を取ると気になっちゃうのかなあ?

メリーさん:『人形の家』の延長にある物語と聞いて、そちらとあわせて読みました。人形は、自分では動けないけれど意識はちゃんとあって、強く願えばその思いはかなうーーその設定が踏襲されたお話でした。主人公のカーリーも、そんなわけで自分では動けないけれど、強く願う。その思いが偶然を呼んで、事件を解決に導く。今の子どもたちは人形遊びをしないから、この物語はピンとこないかもしれないなと思いつつ、でも、人形たちは人間の知らないところでこんなことを考えているんだよ、という人形の側からの種明かしのような気もして、おもしろく読みました。

ハリネズミ:冒頭の部分は、登場キャラの数が多すぎるから確かに混乱しますね。カーリーが外に出て、ベルトランと出会うところからがメインだとすれば、最初の部分はもっと整理した方が読みやすかったのにね。ベルトランが出てくるあたりからは、登場人物もカーリーとベルトランの2人になるから、ぐっと読みやすくなります。でも、全体的に古すぎません? 最初に「この人形の家には、おとなの男の人形はいませんでした。なのに、どういうわけか、家の中には、魚とりあみや、剣、角帽といった、男の人形のためのものがありました」ってあるのね。「角帽というのは、大学の先生が卒業式のときにかぶる、黒くて四角くて平たい、ふさのついた帽子です」とも書いてある。今は女性の大学教授だっているし、女だって釣りくらいするでしょ。それ以外のところでも「男は強くたくましく」という価値観が貫かれていて、気になります。イギリスの児童文学は、長いこと中流階級以上の人が、中流階級以上の読者に向けて書いてきたんですね。この作品も、いかにもそんな感じですね。作品の根底にある価値観が古くさい。
それと、ベルトランが妹に頼んでシャーンに人形を送るシーンは、住所があやふやなのに、奇跡的に届いたという設定。あとでベルトランはカーリーを自分でシャーンの家に返しに行くんだから、まず自分宛に人形を送ってもらえばいいのにって思ったけど。あと、P164の「この町にカーリーと同じような水兵人形が売っている」という表現は誤植かな。

サンシャイン:この本は、ずっと訳されていなかったんですね。

ハリネズミ:出されていないものには、それなりの理由がある場合も多いですよね

げた:人間と人形がごっちゃになっているって感じたのは、私だけじゃなかったと知ってちょっとホッとしました。ドールハウスの人形はどうしたって動かないんだから、人間が人形を動かした結果にストーリーを与えて、物語をつくったっていうことなんですかね?このお話、ラストはみんな落ち着くとこへ落ち着いて、ハッピーエンドになっているのは、読み手に安心感を与えますね。カーリーも大佐も、友だちからも、親や家族からも疎まれていたベルトランも、帰るべきところへ帰ることができて、よかったねって。

小麦:私も人形と人間の会話が混同してしまい、最初の方は読みづらかったです。イラスト入りの登場人物表をつけるとぐっと読みやすくなったのでは? あと、『人形の家』のイラストは、いかにも人形という絵なのに対して、『帰ってきた船乗り人形』のイラストはより人間っぽい。カーリーなんかは、生きている人間の男の子に見えます。イラストをもっと、状況説明に利用してもよかったのかなと思います。これは好みの問題ですが、装丁も、最初見たときには翻訳ものというよりは、日本人作家の作品に見えて、ゴッデン作なんだとすぐには気づかなかった。ゴッデンの世界観が伝わるようなクラシックな装丁だったら、 読む方もある程度心構えができたような気がします。人形たちが人間の与り知らぬところで、いろいろなことを繰り広げているというのはいくつになっても心おどる設定で楽しめました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年6月の記録)


ティム・ウィントン『ブルーバック』

ブルーバック

みっけ:本を見ただけで、なんとなく先入観が先に立って、環境保護の本なのかなあと思って読み始めたら、案の定、環境保護の本でしたね。別に読みにくいわけではなく、主人公の少年がブルー・バックと最初に出会うあたりの感じはなかなかよかったし、画面として取り出してみれば、けっこうきれいな箇所がいくつかあったのだけれど、最終的には印象の薄い本でした。この主人公とお母さんの暮らし方などは、たしかにおもしろいなあと思ったのですが……。104ページあたりに、自分たちは捕鯨で生計を立ててきて、だから自分たちの暮らしを支えてくれた自然を守らなくては……という話がちらっと出てきますが、白くて大きな骨がたくさん浜に林立するイメージにはハッとさせられるけれど、それにしっかり肉付けがなされるところまでいっていない気がします。なんとなく、書いてあることがこっちに迫ってこない感じで、全体としては食い足りなかった。

紙魚:前半、エイベルが海の気持ちよさや偉大さに魅了され、ブルーバックとの出会いによって、ますますそれが高まっていく過程は、とても自然に伝わってきました。海に入ったときの体感がうまく表現されているところもところどころにあり、文学的だなと思う表現もありました。ただ、後半になると、その体感が薄れます。エイベルが研究者となるあたりから、前半描かれていた、海のやさしさ、偉大さ、驚異というようなものが、環境問題等に置き換えられて、せっかくの物語の心地よさが狭まっていくように感じました。彼自身が抱く、海への感覚がもっと書かれていると、海の不思議もさらに伝わってきたのになと思います。

クモッチ:最初の、ブルーバックと出会うところは、自分が潜っていないのにそう感じられるほどで、気持ちよさが伝わってきたので、おもしろく読みました。39ページ2行目、「数秒後に、〜ドラ・ジャクソンが〜」とあるのに、つぎの行に「母さんは〜」とある。ドラ・ジャクソンって、お母さんのことですよね。読みながら、ん?ドラ・ジャクソンってだれだっけ?と思ってしまう。こういうところが何か所かあって、読みにくかったです。中盤以降については、お母さんが、「海が変わってきている」と言ったり、主人公が「海のことが知りたい」と思ったりすることは書いてあっても、何か具体的でない感じがしました。大人だったら、ああ環境破壊のことを言っているんだなとかわかるんですが、あまりに抽象的なので、最後読み終わったときに、得られたものがなかったな、という気持ちになってしまった。物語自体の印象が浅いというか。もっと、主人公の海を愛する気持ちで感動したいのに、簡単な粗筋で終わっているように感じました。

みっけ:海洋学者の人たちって、ただ研究をして実験をするだけでなく、実際に海に潜ったりするじゃないですか。おそらく、そうやって実際に海に潜ることによって、やはり自分は海が好きだ、ということを再確認しながら、抽象的だったりやたら細かかったりする研究にも耐えていくんだと思うんです。だからこの本でも、主人公が海洋学者になってから、たとえばほかの海に潜ってそこで感じたことから自分の故郷を思うとか、あるいは海洋汚染の現場で潜ってみていろいろなことを考えるとか、そういう体験を書けば、もっと物語が立ち上がってきたかもしれませんね。

クモッチ:体の感覚として、もっと伝わるといいのかな。海の生き物との出会いとか、水の気持ちよさとか。

メリーさん:本文が、直訳調でちょっと気になりました。もう少し心理描写もあったらよかったのになと思います。それでも、ブルーバックのくだりを読んで思い出したのが、縄文杉。人間よりはるかに長生きしている生き物と、ちっぽけな人間との対比。主人公が子どもの頃出会った魚に、大人になって再び会い、自らが年を重ねていくことを感じるところはいいなと思いました。そして、場面をもっと書き込んでほしかったです。

ハリネズミ:海の中の描写とか、この子が海に抱いている思いは、とってもいいなあと思って読みました。ただ筋がご都合主義的で、悪い人たちが、主人公たちが何も行動しないうちに、都合よく水産庁につかまってしまう。私は、写真を撮って知らせるとか、ここから何か運動が始まるのかな、と思ったのに。皆さんが言っているように、後半が文学というより説明になってしまってますね。お母さんの変化は主人公も感じ、読者にも伝わりますが、海をどう見ているのかは伝わってこない。メッセージ性が先に立ってしまったんでしょうか。エイベルの妻が「海にいるのと、〜どっちがいい?」って二者択一の問いかけをするんだけど、海にいながら、結局最後は科学者になるわけですよね。最初から二つを結びつけた選択だってできたんじゃないかと思ってしまいました。あと、117ページの絵が悲しそうなので、子どもが死んじゃったのかと思いました。

クモッチ:「海について話すのと、海にいるのとどっちがいい」という話題は、子どもにわかるのかな? とても大人っぽいテーマを含んでいると思いますね。

ハリネズミ:これ、課題図書なんですってね。感想は書きやすいのかもしれません。ただ本当に海の大切さを感じさせたかったら、後半にももう少しふくらみがあるとよかったですね。

クモッチ:この作者は、お母さんのことが書きたかったのかもしれないですね。

ユトリロ:日本風にいえば、このお母さんは海女なんでしょ。78ページ後半「人食いザメは、飢えと疲れで死にかけていた。見ていると哀れで、エイベルは気分が悪くなった。銃をもっていたら、船を横につけて頭を撃ちぬいて楽にしてやるところだ」の部分が、おお出た、西洋人!という感じでした。日本的にはない考え方ですね。日本人は犬が飼えなくなったらそっと捨てて誰かに拾ってもらうのがやさしさで、逆に西洋人は飼えなくなったら自分の責任で安楽死させるという考え方。まあ、サメですから日本の子どもたちも別に違和感を持たないかもしれませんが。全体としては、粗筋っぽい感じがしますね。きれいな本ではあるんですが。子どもたちが読んで楽しめるのでしょうか。課題図書って、何冊ずつ決まるんですか?

クモッチ:4冊ずつですね。小学校低学年・中学年・高学年・中学・高校で、計20冊。

フェリシア:すごくおもしろい!ということもなかったけれど、つまらなくてひどいということもなく普通に読みました。少年は、海を理解したくて研究を続けているうちに、大好きだった海からどんどん遠ざかっていってしまった。そのことに気がついて、また海に戻ってくるというあたりは、人生観としておもしろく読みました。研究を続けて海洋学者になっていくのだけど、合間に戻ってきたときに、お母さんが年をとっていくのが、印象的に描かれています。主人公は、お母さんがここで生きていくのはきついなとか、再婚した方がいいなどと思うんですけど、最後まで彼は何もしないところが、何となく違和感がありました。環境問題などの他、自分の生き方を選択していく過程、家族など、いろんなテーマもほどよく入っているので、子どもが読ませたい本として課題図書になったのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)


ジャネット・テイラー・ライル『花になった子どもたち』

花になった子どもたち

メリーさん:安心して読める、安定感のあるお話でした。目新しさはないけれど、日常に隠れている、ふとしたできごとに目が向くお話だと思います。姉妹がけんかをし、妹のほうが息をつめて、庭の茂みに隠れる場面は印象的でした。土のにおいや草のにおい、罪悪感を抱えながら、物語の登場人物に自分を投影している妹の描写は真に迫っていると思います。姉が母親を恋しく思い、天井に天国の地図を描くところなども、いいなあと思いました。最後、姉妹の性格ががらりと変わるのは、少し唐突な気もしましたが、(おばさんの麦わら帽子から髪が出ているところを悪くないと思うように)少しずつ他人を受け入れる素地が作られていったのだなと思い、納得です。

クモッチ:私は、この本は結構好きでした。はじめ、古めかしい本のように思ったんですが、読み進むうちに、とても現代的でシビアな問題をきちんと描いていることがわかってきます。この姉妹は、お母さんを亡くして不安定な状態にいて、二人を引き受けなくちゃならなくなったミンティーおばさんは、とても注意深く接し、この子たちを少しでもいい状態にもっていきたいと思っているんですね。手探りで彼女たちのようすをうかがっているのがとてもよく伝わってきました。二人がそんな辛い時期を乗り越えるのが庭だった、というのは、新鮮でした。ガーデニングとかいっていやされるのは、大人のような気がするのだけれど、物語中の、もうひとつのお話の効力によって、花が人に思えてきて、子どももその不気味さもひっくるめて、興味を持つのでしょうね。その辺がおもしろかったです。上手だな、と思ったのは、近所の子どもが遊びに来て、妹がそれを台無しにしてしまうシーンの後、お姉ちゃんが天井の地図を見ながら考えていて「ネリーには私がついているけど私はひとりぼっちなんだ」とあらためて思う場面。とても切ない気持ちが伝わってきました。

紙魚:装丁の感じや、読み始めた印象から、ずいぶん昔の本なのかなと思いましたが、途中、電話の子機が出てきて、あっ、現代の物語なのだと気づきました。子どもがおもしろく読むのかどうかはちょっとわかりませんが、大人として読むには、とても楽しめる本でした。それまで、庭になんて目をとめなかった子どもたちが、花になった子どもたちを想像することで、ぐんぐんと庭の存在感を強く感じとっていくさまは、おもしろかったです。ティーカップさがしをするのが目的ではなくて、そのことがきっかけとなって、姉妹が大きくなっていくのですよね。市川里美さんのていねいな挿絵も、とても素敵でした。128〜129ページの見開きの絵などは、何度も何度も、すみずみまで見てしまいました。物語を読み進める、いい目印になりました。

みっけ:私は、かなり好きなお話でした。安定した構造で、大叔母さんのところに行かされたらそこに草ぼうぼうの庭があって……という展開は、いかにもクラシックなものだけれど、ここに書かれている子どもたちの変化がとてもリアルで、ちゃんと子どもが書かれているなあ、と思えたんです。姉妹で年齢に差があるせいもあると思うのですが、たとえばお母さんの死であるとか、大叔母さんの家で暮らすことになるとか、そういった出来事に対する受け止め方に差があって、そのあたりもきっちり書かれていると思います。だいたい、最初のうちの妹のわがまま放題な様子もかなりすごいけれど、こういうことってあると思うんです。ごく小さいときに大きな変化を被ると、すごく不安になって、せめて自分でいろいろなきまりを作って、それをかたくなに守ることで、自分にもコントロールできるところがある、という気持ちを持たないとやっていられない。
この姉妹の違いという点で言えば、途中でお姉ちゃんが「花になった子どもたち」のお話をしてあげると、お姉ちゃんの予想以上に妹の方が夢中になりはじめますよね。これってたぶん、一番小さな子に自分を重ねているんだろうと思うんですが、そうすると今度は、お姉ちゃんがちょっと引きはじめる。このあたりの機微もリアルだと思いました。それに、妹がぐいぐいと変わっていくあたりも、そうだろうなあと思いました。何らかのこだわりを持っていた人間が、それとは全く別のことに夢中になることで、こだわる必要を感じなくなる。また、夢中になって行動を起こすうちに、今まで人とは関わりたがらなかった人でも、他人がそばにいることをある程度自然に受け止められるようになる。そういう変化もリアルに書けている。
もうひとつ、大叔母さんの設定もリアルだと思いました。子どもにとってはいい大人なんだと思うんですが、この人は、自分にとって理解できないところの多い相手とのつきあい方を、焦ることなく探っていくでしょう。相手がわがままをいったからといって、すぐに正面衝突するのではなく、うまく流しながら相手を理解していく。そのあたりが、ゆったりしていていいですよね。それと、ティーカップ探しは読者を引っ張る一つの大きな要素なんだけれど、どうなるんだろう、真相はどうなんだろう、と思っていると、最後のあたりで、なんだ大叔母さんが仕組んだことか、ということになる。ところが最後のところで、でもひょっとしたら?という感じで締めくくっているのが、とても楽しかった。

ハリネズミ:私は、妹の変わり方が腑に落ちなくて、そこにひっかかりましたね。いろんな決まりを自分でつくっているだけでなく、気に入らないことがあったら石を投げちゃうくらいの子なのよね。病的なほど、自分でいろいろ決まりをつくっている。それがこれほどあっけなく変わっちゃうんでしょうか? 自然が子どもの気持ちをいやすというのは、『秘密の花園』にも書かれているし、昔からよくあるテーマですよね。大人は、この終わり方もいいと思うかもしれないけど、子どもは、謎が解決されないので、すっきりしないのでは?

紙魚:私も、子どもが読んだら、実際にはどうなんだろうと思います。かなり大人っぽい話ですよね。

ハリネズミ:ポットがふたつあるのはおかしいと思うのでは? 大人は、不思議でいいやと思うかもしれないけど、子どもは納得しにくい。

フェリシア:おばさんが仕込んで埋めているのだけれど、読者には、本当に埋まっていたかもしれないと思わせるようにしているのでしょうか。

クモッチ:もし、最後にポットがまた発見されないと、なんだおばさんが埋めたんだな、という事になってしまうので、おもしろくなくなってしまいますね。だから、最後におばさんも知らないポットが発見された、という終わりかたをしたのかな。ネリーは、本の世界に夢中になり、庭にのめりこむことで、花に変えられた子どもたちと、友だちになったように感じ、だんだんに心を開いていったのかな。だから、実際に近所の子たちが来たときに、抵抗なく接することができた、という感じで流れを理解することができました。

小麦:最初は「ネリーって、なんていやな子」と思ったんですけど、中盤ティーカップ探しにネリーが夢中になっていくあたりから、どんどん好きになっていきました。今まで他人に対して心を開かなかったネリーが、お兄ちゃんたちに手伝いを頼んじゃったり、どんどんたくましくなっていく。ティーパーティを再現する時も、本の通りにやらなくちゃいけないかしら? というおばさんに「クッキーでじゅうぶん」なんて、さばさば答えたりしていて、おかしいです。冒頭では、気難しく病的な子どものように書かれているけど、それは今までの事情で感情がくすぶっているからで、本来ネリーは、のびのびした、子どもらしい子なんだと思います。後半、ティーカップ探しに夢中になるにつれ、ネリーが自分らしさを取り戻していく感じがいいと思いました。
ティーカップの魔法は結局とけないわけだけど、ネリーはたいして気にしないんですよね。子どもたちが集ってパーティーがはじまり、すっかりそっちに夢中になっちゃう。最初は「こんなのあり?」って思ったんですけど、ネリーのキャラクタ?を考えると、ありえるなと。細かいことなんて飛んじゃって、目の前のものに夢中になることってありますよね。私も子どもの頃、烈火のごとく怒り狂っていたはずが、次の瞬間けろりと笑ってたりなんてこと、よくありましたし。

フェリシア:里美さんのさし絵は、素敵ですが、装丁の絵は少し古めかしい感じがします。妹のネリーについては、私も最初は病的な感じがしていました。友だちとかかわりを持てなかったり、お姉さんとしか話さなかったり、自分だけの奇妙な規則を作ったり……自閉症的な感じがしたので、てっきり自閉症の子なのだと思いました。ですので、話の途中で急速に変化していくので、あれっ?と思いました。そのあたりは、しっくりこなかったです。いちばんしっくりこなかったのは、男の子に手伝ってもらうところ。心をひらいて第三者を受け入れるということを言うがために、男の子を登場させたように感じてしまったのね。ああ、ここでネリーの成長を書きたかったんだと。また、保護者となるおばあちゃんと子どもたちの関係が、手探りで子どもとかかわっていくところ、すべて受け入れようとするしているところなど、『スリー・スターズ』とは対照的で、興味深いです。また、ネリーがまともになっていくのと同時に、ミンティーおばさんも元気を取り戻して再生していく感じが心地よかったです。

ユトリロ:筆者の視点は登場人物全てに等距離というわけではなく、姉のオリヴィアに近いんですね。ネリーは母親を亡くしたつらさをルールを決めて自分を縛ることで表現しているんだけども、オリヴィアの視点から書かれているので、妹はきっとこうなのよねという感じになっている。自分のなかでルール通りにいかないとヒステリーになるような妹を、お姉ちゃんはカバーしてあげていて、おばさんも「落とし穴に落ちちゃう」というような表現をしている。お父さんよりもおばさんの受け止め方の方がうまくて、おばさんとの関わり方のなかで、ネリーも癒されていったのかな。ところで結局、このカップはどうしたんでしょうね? おばさんが埋めたんですか? ひと時代前にこの家に作家が住んでいて、そしておばさんの家族が住むようになって、おばさんは庭の世話をしていた。そこに、母親が亡くなった姉妹がやってきた、という筋でいいんですよね。それでやっぱりおばさんがカップを埋めたという解釈でいいんですか?

フェリシア:おばあさんも、子どものときにその本を読んでいるのですから、子どものときに同じように、テーブルセッティングしていて、遊んでいたのではないですか? 私の想像ですが。

クモッチ:47ページで、おばさんが「これまでだって、いろんなものを見つけましたよ…」と言うんですよね。これ、どういう意味だったのかな。これが伏線になって、空想の世界(お話の世界)がひろがっているんだけど、ここからして、おばさんが仕組んでいたのかな?

フェリシア:でも、深くから出てきたのもあったんですよね。

小麦:でも、最初のカップはおばさんが見つけています。やっぱりおばさんがやっているんですよ。こっそり埋めて。

フェリシア:そんなに大きな問題じゃないんです。

ハリネズミ:でも、知りたい。

フェリシア:それを考えながら読むんですよね。

ユトリロ:いかにもイギリスの話かと思っていたら、アメリカの作品なんですよね。それから、邪悪な妖精っているんですか。私は「精」という言葉に引っ張られて、割合いいイメージを持っていたんですが。

ハリネズミ:フェアリーの中にも、悪いのや醜悪なのがいっぱいいるんですよね。『妖精事典』(キャサリン・ブリグズ/著 平野敬一他/訳 冨山房)を見ると、たくさん出てきます。いい妖精でも、いたずら好きだし。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)


梨屋アリエ『スリースターズ』

スリースターズ

クモッチ:前半部分は、3人の女の子たちの状況説明みたいな感じでそれが長いので、読むのがしんどかったです。すごく極端で(これってファンタジー?と思うような極端さ)嫌な感じだったから。でも、真ん中あたりから、話の展開が早くなって、どうなって行くんだろう?と引っ張られてどんどん読みました。このあたりから、登場人物、特に女の子たちが、等身大の中学生になってきたのね。たとえば、弥生が Marchの綴りを間違えるところとか、水晶の結構おっちょこちょいの部分とか、ユーモアもあって。作者は、勢いで書いている感じがあって、後半は地の文が、誰が言っているのかわからないところもありましたけど。よく言えば勢いがある。悪くいえばちょっと雑かな。ストーリーのおさめかたも、同じ事が言えてると思いました。水晶が、だんだんと生きていく方向に目が向いていく過程はとてもよく書けているけれど、弥生の闇は深すぎて水晶が「弥生を助けたい」と思ったりしても、ちょっと無理だよなと思いますよね。読者対象の中学生は、どんな風に感じるのか、ほんと聞いてみたいな。自分の状況も辛いけど、これほどじゃないな、ということでほっとしたり、突き放しておもしろく読んだりできるんでしょうか? あと、愛弓がほれっぽいという部分ですが、前半でたくさんの子とつきあったり、後半エッチなおじさんのところに愛弓が行ってしまう、それもそんなに嫌そうじゃない部分などは、性的な描写を書かないと、なぜ行ってしまうかという気持ちの揺れが伝わらないのでは?と思いましたね。

ハリネズミ:愛弓は、性的な衝動というより、最初は食べ物をもらいたいからおじさんのところへ行くんじゃないの?

フェリシア:父性の変わりに受け入れてもらえる安心感があるのだと読み取れると思います。ありのままの自分を受け入れてくれる存在(そこには、大きな代償を払っているだけれど、本人はそうとは気づいていない)として、あらがえない気持ちがあるのでしょう。

メリーさん:今の子どもたちが読むと、リアルだというのかもしれないですが、正直言って、半分まで読むのがつらかったです。世の中は、砂糖菓子みたいに甘くなく、不条理だということはわかるのですが…。中盤を過ぎて、自殺に失敗するあたりから、おもしろくなりました。最初の予想は、性格も境遇も全くことなる3人が仲良くなって終わる、というものだったのですが、見事に裏切られました。水晶と愛弓は携帯電話で意志の疎通をはかるのだけれど、弥生とは最後までそうはならない。着地点を見つけられないまま終わったので、逆の意味でリアルでした。
とくに強烈だったのが「嘘をつく」ということ。弥生は状況に応じて嘘をつき、使いわけ(!)、論理が破綻すれば、「死ね」で断絶して終わり。これまでの子どもだったら、嘘のほころびで、状況は多少変わるのだけれど、弥生の場合はどこまでいっても本音がない。それぞれの物語もやはり自分なので、自己同一性に悩むこともない。弥生はすごいなと思いました。
実は、ケータイ小説を買って読み比べてみたのですが、この本が深いなと思ったのは、最後の場面。著者が3人と対等に向き合って、お前はどうするんだ?と問いかけている気がした点です。3人は今の子どもの類型で、大人の言葉は通じるけれど、心はまだ大人ではない(水晶)、大人の言葉も通じないし、心も子ども(愛弓)、大人の言葉も通じないし、心も子どもを卒業している(弥生)の3つ。信頼できる大人がいないこの世界で、君たちはどう生きるのか?それを問い続けながら、終わっているような気がして、いろいろなことを考えてしまいました。

小麦:いい大人はひとりも出てこないですよね。

フェリシア:この読書会の課題として適当かどうか迷ったのですが、私は、とても衝撃的で、おもしろかったし、現代の話としてちょっと注目したかったので選びました。読み始めは、ただのエンタメかもしれないと思いました。出てくる子が、かなり典型的な子どもたち。そして子どもと保護者との関係も、それぞれのパターンが典型的に設定されていて、極端すぎるけれど、なさそうでありそうなところが怖い。お金持ちだけれど愛情に飢えた子、ネグレクトされていて寂しがり屋の子、賢くて親の期待を一身に集めているけど自我の目覚めと共に「いい子」の枠からはみ出しはじめた子。極端だけれど、絶対にどこにでもいる子だと思いました。ブログで知り合った子どもたちが、なんとなく共謀して寄り添っていくのも、今っぽい関係なのかなと思いました。今の子どもたちって、ケータイ依存症なので、だからこそ怖いですよね。そして、親が見たらびっくりするくらい子どもくさくて、ばかげているところも、リアリティを感じました。
「世直しテロをしよう」と考えるようになる経緯など、子どもの身勝手さもよく描けているように思いました。それでも、最後に、死ぬのはやめて生きていこうと思う、自分で生きていくしかないということをわかる、この「自力で生きていくこと」を勝ち取るところが、この話のすごいところだと思います。誰も助けてくれないというのは極端だけど、今の世の中、だれも助けてくれるわけじゃないから、自分で生きていこうというメッセージがこの本にはあるので、子どもたちはそこに何かを感じるのではないかなと思います。最後に、ちゃんと着地してほっとしました。

小麦:読み終えて最初に思った感想は「この時代に中学生じゃなくてよかった……」です。中学生の話し言葉や、メールの気持ち悪い文体なんかはとてもリアル。大人が取材して頑張って書いたという感じが一切ないですよね。文章もスピード感があって、ぐんぐん読めます。全体的に極端な設定も多いんだけど、あえて味付けを濃くして、読者を引っぱっているんだなと思いました。ただ、いまいちどこに向けて書いているのかがわかりませんでした。ラストで水晶が、生きて行く希望らしきものを見いだします。弥生を助けたいというような事も書かれているけど、この年頃の子どもの気まぐれのようにも思えて、ラストに据える希望としては、あまりに心もとない。多分、弥生が変わることはないだろうと予測できてしまいます。今の中学生をリアルに写し取って、その先に作者の思いなり、答えが提示されるべきだと思うけど、その先がすっぽりないように思いました。文学の醍醐味って、自分の想像しえない世界に連れていってくれるとか、とにかく変でおもしろいとか、色々あると思うんですが、私はこの本に関しては、そうした何かしらの魅力を見つけられませんでした。

ハリネズミ:最初のうちは、「えー、こんなやついるわけないじゃない」と思ったり、言葉とか行動で人物をあらわすのでなくて説明しちゃってるところにひっかっていたんですが、途中からこれは寓話みたいなものだと思いはじめたんですね。中学生って、自分自身をうまく扱えないし、いかようにも揺れるし、みんなで自殺やテロをやりましょうと言いかねない。親にしても、ここまで極端ではなくても、近い親はいっぱいいる。それぞれの典型を提示して、ありうるぎりぎりのところを書いている。そこが、おもしろくなったんですね。弥生は救いがたい世界にいるわけですよね。何かしたって救えないんだけど、それでも全然タイプの違う少女が手をのばそうとしている。
今の英米の児童文学だと、いい大人が出てくる物語が少なくなってます。時代がそうだからでしょうけど、大人はまったく頼りにならなくて、子どもどうしで支え合っていかなければならない。創作児童文学では、そういう設定をあまり見かけなかったのですが、これを読んで、ああ、日本でも出てきたんだと思いました。最初は読んでも時間のむだかな、なんて思ってたんですけど、読んでよかった本です。

フェリシア:私も最初、エンタメかなと思ったのですが、途中から、この関係性がリアルだと感じました。この関係性の危うさが怖いと。誰が読むのって言われると困るんだけど、「自分はこの子たちと違って幸せだわ」って読むんじゃなくて、「自分も一歩まちがえたらここに行く」という感じ? または、自分の中にある、“この子たち要素”を感じながら読むのでしょうか? どちらにしても、息苦しい気持ちで毎日生きている中学生くらいの子どもたちに、この著者の「自分が自分の力で生きていく」というメッセージは、伝わると思いますし、その力強さを感じる作品です。

小麦:解決はしませんっていう終わり方ですか。

メリーさん:爆弾3つあるので、このまま進んだら、生き延びようとしてた弥生がいちばん最初に死んじゃいますよね。

小麦:死んじゃわないんですよ。火花が散るくらいで。でも、解決はしないですよね。

ハリネズミ:読者はそれぞれの少女のどこかの部分に強く共感して読むんじゃないでしょうか。

小麦:私が中学生だったころは、本によって別の世界に行けるというのがあったんですよね。

ハリネズミ:そういう読書は、今だってあると思う。

紙魚:たとえば、尾崎豊の歌って、大人がきくと、まあ、それなりにわかるかなという感じなのだけれど、ある年代や、ある層には、絶大な信頼を持たれていましたよね。まさに若者の教祖というように。歌と自分の状況がぴったり同じでなくても、その歌に描かれている世界が、一部でも自分と重なることで、力をあたえられることはあると思う。

みっけ:第一章の「みさきと弥生」を読み終えた段階で、あれ?と思いました。なんだこれ、今時の子どもの描写かい。描写は上手だけれど、それでどうするんだろう、とちょっと意地悪く見てしまったのです。その次に、今度はあゆの話が出てきて、さらに水晶の話が出てきたところで、これは今時の子どものサンプル集だろうか?と思っていたら、その次の章で、登場人物が携帯を通してつながり始めた。このあたりから、これはかなりすごい構成なのかもしれないと思い始めて、それからは、いったいこの子たちどうなってしまうんだろう、と引っ張られて、かなりのスピードで読みました。携帯とは無縁な生活をしている人間からすれば、ふうん、こうなんだ、へえ、といろいろと目新しいことばかり。でも、そういうディテールも話の終わり方も、実にリアルだなあと思いました。
弥生がなあ……と思ったのは事実ですが、これでお手軽に救済されたら、とたんにリアリティーがなくなるし。こういう本って、読者が、登場人物と自分を完全には重ねられなくても、自分の一部が重なることでほっとするというか、けっこうきつい毎日を送っている自分と重なる人間をこんなにリアルに書いてくれる人がいる、ちゃんと見ていてすくいとってくれる人間がいるということにほっとする、という読み方をするのかもしれませんね。ここまで極端でなくても、登場人物が自分と地続きだと感じる子はたくさんいるはずだから。今時の風俗のオンパレードなんだけれど、それが展覧会で終わらずに、ちゃんと読者を引っ張っていく仕掛けになっている。練炭自殺実行のあたりからは、もうどうなっちゃうのかと先が気になってしかたがない。練炭自殺をしようとして、弥生が外から目張りしているのにほかの2人が気づくあたりには、感心しました。この作品を読んで、ついに日本でも、現実に即して子どもに直接エールを送るタイプの作品が出てきたんだなあ、と思いました。

ハリネズミ:生きていてもいいかと思うようになるまでの過程も、それなりに書かれています。

みっけ:水晶とあゆなんかは、おそらく今の学校だと、学校内では接点がなさそう。あゆは水晶をお高くとまった優等生だと決め込むだろうし、水晶はあゆを馬鹿にして鼻も引っかけないだろうし。その2人が接点を持てたのは、携帯で一緒に自殺をという異様な状況になったからです。ところが、そうやって接点を持ってみると、お互いに相手のことをそれなりに観察し、自分のことも相手のことも肯定できるようになっていく。この2人はそうやって救われていっている気がするんです。あゆにすれば、水晶に髪の毛をほめられれば嬉しいし、水晶にすれば、自分には考えられないような状況でけろりとしたところを失わないあゆをすごいと思う。そうやってお互いにちょっと視野が広がり、それがある意味で成長にもなり、生きていってもいいかな、という感じにもなる。でも、この作品では弥生は最後まで他の人と出会わないんですよね。それが弥生の救いのなさにつながっているんじゃないかな。この先弥生が他者と出会えるかどうか……出会えるといいですけれど。

ユトリロ:私は教師なんで、個人的には、好きになれない人がいっぱい出てきます。例えば愛弓の両親も嫌だし、水晶の親も嫌だし。だけど、作品としてよく書けているなと思います。愛弓、水晶、弥生3人とも私の今まで出会った人で、よく似た人物が頭に浮かんできました。「さがしたら殺す」と書く愛弓の母のような親も20何年前だっていましたから。水晶みたいに、5分に1度とはいわなくても、親に徹底的に管理されている子もいますしね。GPSで居場所を知らされるとか。作品としては、弥生だけ描写が足りないような気がします。親との関係やら。その分、作品の最後でも救いもない感じだし。だからこそ、最後の最後で弥生に疑いをもつ2人が、離れていくようになるんでしょう。私の身近にも、お金持ちだけどニヒルという子はいますよ。どうしてなんでしょうかね。

フェリシア:まわりの大人たちが真剣にその子にかかわっていないと、どうしても子どもはニヒルになってしまうのではないかしら。愛情のない両親、当たり障りのない先生、無関心な近所の人……。小さいころから、関心を持たれない子どもは、どうやって自己表現したらよいのかわからなくなってしまう。だから、友だちともうまく関係を作れない。

ユトリロ:お金がある分ハートがない親は確実にいて、高校生になってから、ものすごい悪いことをするというような子もいる。この本は、そういう意味でも、よく書けている。もしかしたら、すごい作品なのかもしれないですね。

紙魚:中学時代のある短い時期、何に怒りを抱いているのかうまく説明できないけれど、親や学校や社会に強い怒りを抱いているという、本当に特殊な瞬間というのがあると思います。大人になると、その、自分をコントロールできなかった厳しいつらさを忘れてしまうのだけれど、梨屋アリエさんは、それを忘れずにじっと持ち続けているのかな。私は、この女の子たちは、さほど極端だとは思えません。この物語と同じ状況にはないかもしれないけれど、同じような方向性の気持ちを持った子が読んで、救われる気にはなると思う。そういう意味では、すごい作品だと思います。それから、ゲームの登場が子どもの遊びの文法を変えたように、やはり携帯電話の登場というのは、人間関係の文法を変えましたね。これはどうしようもないことなのだけど、携帯以前と携帯以後では、人とのつながり方がちがう。梨屋さんは、今の子どもたちの現状を、批判することなく、そのまま書いているように感じられました。それから、弥生の「リスペクトしなさい。」という言葉は、この物語と、今の子どもたちの心を、象徴しているように思います。それにしても、『空色の地図』(金の星社)や『ツー・ステップス!』(岩崎書店)を書いている人と同じだなんて、作家というのはすごいですね。

フェリシア:『空色の地図』よりも、『スリースターズ』の方が、ずっとよかった。

ハリネズミ:『チューリップタッチ』(アン・ファイン/著 灰島かり/訳 評論社)のチューリップの場合は、父親に猫を殺すよう言いつけられるという部分が強烈で、そこを読んだだけで、チューリップの闇がわかりますよね。弥生の闇も、短くてもいいからもう少し具体的に書かれていればもう少しくっきりしてきたかもしれません。警察につかまっても親が迎えに来ないというだけでは弱いと思います。

みっけ:でも、チューリップの闇が多少は他の人との関わりがあって生まれた闇なのに対して、弥生の闇というのはもっととらえどころのないものだと思います。つまり、周りに人がひとりもいない、人とのやりとりがまるでない、自分をぶつける相手が見えない、みたいな。だからチューリップよりももっとがらんとしていて、そういう状況を、書いて伝えるのは難しそうだなあ。特に、本人に沿った形で書いていく場合は難しいと思う。弥生の心情については、第1章で語られているみさきとの家出の話の中でも、「こいつもあたしみたいに寂しいのかと思ったら、なんだ全然甘いじゃん。絶望したふりなんかすんなよ」みたいな、ひりひりする感じが書かれていて、そのみさきが火事で死んだときの弥生のリアクションのなんともねじれた感じからも、本人がとてもしんどい状況だということが伝わるんだけれど、徹底的な精神的ネグレクトというのは、接触や衝突がないだけにとても書きにくいんだと思います。なんか、大きくて真っ暗な穴ぼこのような感じなんでしょうけれど。

フェリシア:長くなって、だらだらしているのも、エンタメとして読める秘訣かもしれない。

小麦:自分が共感して読むんだったら、だらだらしていた方が感情移入しやすいですよね。メールの文体はうまいですよね。

メリーさん:ケータイ小説よりも、ずっとうまいです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)


エリック・ウォルターズ『リバウンド』

リバウンド

ウグイス:バスケットボールに熱中する少年たちの話だと思っていたんですけど、読んでみたら、スポーツというよりは、障碍をもつ人の物語という意味合いの方が強かったですね。スポーツものが読みたいと思った人には、バスケットの部分が少ないので物足りないでしょう。この物語は、急な事故で障碍者となり、車椅子での生活を余儀なくされたデーヴィッドの気持ちがとてもよくわかるように描かれていますね。デーヴィッドが、こんなふうに扱われたら嫌だ、と思っていることをする大人が何人か登場しますが、障碍をもつ子どもが登場する児童文学は、今までどちらかというと、そういった大人の視点で書いたものが多かったと思います。そういう点では、目を開かされる物語でした。ストーリーとしては、とくに何か大きなことが起こるわけではなく、心理描写が多いし、主人公とデーヴィッドの会話からいろいろなことを読み取らなくてはいけないので、物語を読み慣れている子に薦める本かな。

みっけ:確かに、バスケットの試合なんかのシーンはあまり出てこなかったですね。だからちょっと、あれ?とは思いました。2人がつながっていくのはバスケットの部分なんだけれど、私はバスケットにあまり詳しくないので、よくわからない横文字のシュートがあるらしい、それがすごく難しそうで、でもデーヴィッドは軽々とやってのけているらしい、すごいんだろうなあ、という感じで止まってしまった。でも全体としては、とてもおもしろかったです。冒頭に2人が取っ組み合うシーンがあって、これによって、デーヴィッドのパワフルさが強烈に印象づけられる。そして、ショーンが、なんか気むずかしいところがあるなあ、と思いながらも次第にデーヴィッドと親しくなっていく。そのあたりがとても自然に書けているし、そうやって近くなっていても、まだどこか壁がある。そういう関係が、ショーンを丸一日車椅子に乗せるというデーヴィッドの行動によってさらに変わっていく。
 この「丸一日車椅子に」というところには感心しましたし、読んでいるときも、ショーンの目線から、そうか、デーヴィッドの世界はこうなんだ、だからあんなに気むずかしくもなるんだ、と素直に納得できました。ニュースなどで時々、障碍のある人の立場になってみるという企画が紹介されていて、数分間とか数時間車椅子に乗るというようなのはあるけれど、こうやって丸一日車椅子で連れ回されるとなると、数分とか数時間ではわからないこと、簡単にわかったと言ってしまえない部分が見えてくる。それがいいですね。デーヴィッドは、ショーンから見れば強いのだけれど、実はその強さはデーヴィッド自身の弱さの裏返しで、最後にデーヴィッドがほんとうに追い詰められたことから、結局2人がそれぞれに成長していく。障碍がある人との友情といった物語の場合、ややもすると障碍者の存在によって相手が深く物を考えて成長するというシチュエーションに陥りやすく、2人の成長が非対称になりがちなだけに、この本は心から納得できて、気持ちよかったです。とてもおもしろかった。

ジーナ:私もこれは読んでよかったなと思った本です。ストーリーもプロットもよくできていて、ぐいぐい読ませるし、先ほども出たように、デーヴィッドの現実を見て、ショーンがその見えない部分を想像していく過程、友だちがこんなふうに大変なのか、こういうふうに思うのかと気づいていく過程を、読者が追体験しながら読めるところがいいですね。車椅子バスケのマンガで『リアル』(井上雄彦作/集英社)というのがあって、あれは、車椅子に乗ることになったときに、若者1人1人が直面する苦悩や困難、家族や友だちと関係などがとてもよく描かれていて、マンガってここまで描けるのかと感動するのですが、私はデーヴィッドの葛藤を、あのマンガと重ねあわせながら想像して読みました。あと、この表紙と挿絵は、中学生には見えないし、バスケの迫力もないのが残念です。

紙魚:バスケ・車椅子バスケとくれば、井上雄彦の『スラムダンク』『リアル』というすばらしい名作があるので、どうしてもそれと比較すると厳しくなってしまいます。はたして『スラムダンク』に一喜一憂した子どもたちが、この本をもっとおもしろく感じてくれるかと考えると、マンガを超えるくらいおもしろい本でなければ、手にはとってもらうのは難しいのではと。そもそもスポーツというのは、言葉のない世界でもあると思うので、その言葉にしていない部分をどうやって魅力的な言葉におきかえていくかは、ものすごく難しい作業だと思いますし。それから、『DIVE!!』(森絵都/著 講談社)にしても『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子/著 講談社)にしても、そのスポーツのことを知らなくても、競技の描写の部分もその気になって充分に楽しめます。それが、スポーツ小説のなかにはときどき、スポーツの場面を読み飛ばしたくなるようなものがあったりします。私はバスケ部だったのですが、そういう意味では、この本のバスケシーンはちょっと入りこめなかったかな。とはいっても、この本はバスケ小説というくくりではないかもしれませんね。
 いいなあと思ったのは、作者が、そして主人公のショーンが、デーヴィッドを「車椅子の少年」という視点から、単なる「デーヴィッド」として認識していく過程です。330ページに、「顔をあげると、反対側からコートに入ってくるデーヴィッドの姿が見えた。」とありますが、このときに、「顔をあげると、反対側からコートに入ってくる車椅子が見えた。」とあるよりも、ずっといいです。こうした細部に、作者の繊細さがあらわれるように思います。

ピョン吉:今回のテーマ、「スポーツもの」と限定せずに読んだとき、かなり綿密な取材をして描かれている物語だというのが第一印象でした。デーヴィッドとショーンのスタンスがわかりやすく、ショーンは感情移入しやすい立場として描かれているので、抵抗なく入っていけますね。ショーンの立場からデーヴィッドを見ているので、デーヴィッドの考えていることというのが、最初わかりづらかった。もう、ある程度自分に起こったことを乗り越えているように思えたんです。ところが段々にデーヴィッドの心のうちが見えてくるので、ああ、そこまでつらかったのねー、という感じでわかってきますね。ちょっとわからなかったのが、デーヴィッドは、父親の運転する車に乗っていて事故にあうんですけど、この父親はどう思っていたのかということ。もっと態度に表れてもいいのではないかという気がしました。とてもよかったシーンは、危険な崖での2人のシーン。ショーンがデーヴィッドに「わかる」というのだけれど、それまでの描かれ方がていねいに積み重ねられているので、浮いた言葉でなく読者にも伝わってきました。

うさこ:私もこの物語は好きで、ぐいぐいひっぱられながら読んで、最後、感動しました。読者はショーンとデーヴィッド、それぞれに共感できるだけでなく、2人の関係性にも共感できると思ったんです。ショーンは普通の男の子でこの年頃特有の悩みを抱えている、デーヴィッドはハンディキャップからくる絶望に近い思いや大きな挫折感も持ちながら、ひそかな希望も持っている。そういう点に読者はそれぞれに共感できると思いました。2人は、バスケへの思いという共通点を持ちながら近づいていくんだけど、残念ながら、バスケのシーンはそれほど出てきませんね。でも、つねに自分がデーヴィッドへの同情心から発言していないかと考えるショーンと、それを鋭く見抜こうとしているデーヴィッドの、2人の緊張感が、いっしょに行動しながら、だんだんと緩和されていき、自分の弱さもさらけだせるまでになり、相手のなかに1歩踏み込んでいく展開は、読者が、自分のなかの壁をのりこえていくことに重ねあわせて読めると思うのでよかったです。
 それと印象に残ったのが、デーヴィッドのいじらしさ。先生や女の子の前では強がったりおどけたりしているのに、ショーンと2人のときには辛い気持ちとか必死さや本音が垣間見え、ほろりとしてしまいました。ふだんの生活のなかで、障碍のある人を助けてあげたいと思いながらも、その人が本当に望むことは何でどうやって手を添えてあげたらいいのかわからないことが多いです。相手によって、それぞれ求めることも違うだろうし、そういう人を支えることって難しいなと思いました。会話のテンポのよさをさまたげない、一人称の地の文のリズムなどもよかったです。ひとつわからなかったのが、208ページ1行目「デーヴィッドが立っていた。」という描写で、車椅子なのに? と思ってしまいました。

たんぽぽ:すごくおもしろかったです。2人の気持になって、思わずふきだしたり、落ち込んでいるときは、「がんばれ!」なんて思ったりしました。ただ絵はお話のイメージと、ちょっと違うかなと思いました。

メリーさん:自分自身はインドア派だったので、スポーツものを読むと、こんなふうにスポーツを楽しめたらいいなと、半分あこがれの気持ちを持ちます。それでも、知らず知らずのうちに主人公に感情移入しているのは、やはり描写の力だと思います。スポーツものには、よく知られているスポーツを題材に、主人公たちの心理描写を重ねていくものと、新しいことにチャレンジする主人公たちを通して、スポーツそのもののおもしろさを描くものがあると思います。これは、よく知られているバスケットボールを通して、主人公の心を描く、前者だと思いますが、もう少しスポーツの描写があってもいいかなと感じました。運動が好きな子どもたちに、スポーツものを読んでもらうにはどうすればいいか、考えさせられます。いいなと思ったのは、ふたりの間に障碍という壁がありながらも、お互いの気持ちをわかりあおうとする部分。「お前におれの気持ちなんてわからない」と言われた後でも、あきらめない主人公に素直に共感できました。

ハリネズミ:スポーツものには、『一瞬の風になれ』みたいに、読みながら自分も一緒に走っているような気持ちになれるのもあるけど、これは、そういう作品とは違いますね。でも、これはこれで上質の文学だと思います。障碍者を理解しましょうとか、みんな仲良くしましょうなんて、表面的に言われても、なかなか心には届きませんが、この作品くらい心理の動きが綿密に書かれていると、読者も一緒になって体験できる。
 ショーンとデーヴィッドという異質な2人が仲良くなっていくという設定にも無理がなくてリアルよね。転校してきたデーヴィッドは、つっぱってるから周りになかなか理解してもらえないんだけど、内心では自分を特別視しない友だちを痛切にほしいと思っている。ショーンは、最初デーヴィッドを嫌なやつだと思っているんだけど、バスケのレギュラーになるためには停学処分を避けなくてはならないし、ワルのスコットとの付き合いもやめたいので、仕方なくデーヴィッドの世話役をやっている。そのうちに、お互いの距離が近づいて行くという設定です。車椅子体験をしてみる部分も、ショーンは「大変なことがよくわかった」のではなく、「その大変さは本人にしかわからない」ことを理解するんですね。深いな、と思いました。障碍者が登場する作品というと、『新ちゃんがないた』(佐藤州男著 文研出版)のように、「よく出来た」障碍者から学ぶという物語もありますが、この作品は障碍を負ったデーヴィッドのマイナス面や弱い面も描いていて、そこもリアル。
 それから表紙や挿絵ですが、どう見ても小学校3、4年生の体つきですよね。主人公たちは8年生なので、中学生に読んでもらいたい作品ですが、これだと中学生がなかなか手を伸ばさないのではないかと思います。

一同:うーん。確かに。

ウグイス:表紙の絵を見て、私はこの子は白人じゃないと思って読み始めてしまいました。挿絵も最初の方は顔が黒っぽいんだけど、途中に白人のような顔つきも出てくる。自分のイメージをさまたげるような挿絵だったのが残念。

ミラボー:ぼくも、いい本に出会えたなあと思いました。透明なカバーの装丁はかっこいいなと思ったんだけど、絵がよくないですね。人種が何かといった記述は出てこないようです。もしかすると原書では、スラングなどの言葉遣いからだいたいわかるようになっているのかもしれませんが。デーヴィッドは車椅子生活という障害を克服して強く生きているんだなと思いながら読んでいたのだけど、じつは想像した以上に障碍が重くて、後半でしたっけ、おしっこを漏らすシーンがありますよね、おしっこのコントロールもできないということは、はっきり言ってしまえばおそらく性的な能力もだめになっているでしょうから、相当なショックでしょう。特に元気な時はバスケットのヒーローだったわけですから。それで、崖のシーンにつながってきます。デーヴィッドがずっと立派な障碍者であったわけではない。ドライブスルーで無理やり乗り切ってしまう場面からは、相当な苛立ちが見て取れます。生きていてもしょうがないと思うようになる流れにうまくつながっていると思います。
 この本はデーヴィッドが車椅子バスケットの試合に出場する場面で終わりますが、現状をありのままに受け入れて前向きに生きていこうということでしょう。デーヴィッドの人間的な面が書かれていて、すぐれた作品であると評価できます。ショーン自身も、悪い友だちにひっぱられて処分をくらうような問題児であったのが、デーヴィッドの助けもあり学校代表のバスケットチームに選ばれていく所など、ユーモラスに描かれてますよね。

マタタビ:障碍をもっていることのいろんな側面を生かしている作品で、新鮮な感動がありました。最初はショーンがデーヴィッドのペースにひっぱられているのだけれど、障碍を越えた人間としての生々しい葛藤や痛みが描かれることで、単に友情をたたえるというさわやかな結末ではなく、いろんなことを考えさせられるものになっている点がすごいなと思いました。2人が車椅子で街を抜けて走っていく部分がリアルで、読んでいて実感できました。この部分を読んで、障碍がある人の生活を体験するっていうことが、そういう人のおかれている状況を知る上で何より近道であることがわかりました。作者自身、実際に車椅子体験をして書いているようなので、説得力のある文章になるんですね。
 デーヴィッドの家庭で、「のりこえていくのは簡単じゃない」とお母さんが言いますが、障碍を抱えて生きて行かなくてはならない現実の厳しさ、そのしんどさから目をそらさないで、2人が本当の友だちになっていくところが、この作品が子どもたちをひっぱっていくところでしょうか。「リバウンド」という言葉の意味も、作品の主題としてしっかり活かされているなあと思います。何回も失敗してもまたひろって次にチャレンジしていくというメッセージにもつながっていて、ティーンエイジャーの子どもたちにぜひ読ませたい。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年4月の記録)


秋木 真『ゴールライン』

ゴールライン

ミラボー:私はね、中学が陸上部だったんですよ。タイムを競うところなんか、いろいろ思い出したりして、楽しく読めました。ただ私は、マンガ風の挿絵がだめだったな。今の中学生には、今風で抵抗なく受け入れられるような挿絵なんでしょうけど。内容的には、冒頭でお姉ちゃんにあいつに負けないように走れと言われて陸上部に入り、しっかり全国大会に行くという、安易といえば安易な流れ。子ども向けならいいと思うのか、子ども向けでも安易すぎるのか、どちらでしょうか?

ハリネズミ:さっと読めて、それなりに楽しいと思ったんですけど、『リバウンド』と比較すると、リアリティがいかにも希薄。まず、なぜ美沙が弟に書道、野球、サッカー、水泳、と次々やらせるのかがわからない。もう一人の姉の百合に「なにかに打ちこんでほしかったんじゃないかな」なんて言わせてるけど、「打ち込んでほしい」なら、なぜかんたんに前の習い事をやめさせて、次のものに向かわせるの? 安易なストーリーづくりとしか思えません。走ることに対する子どもたちのさまざまな思いは書けていると思うけど、登場人物がステレオタイプ。それに最後は和希が「走ることに意味なんて求めちゃいけないんだ」という結論に達するけど、小学校6年生でこんなこと言うのかな? 『リバウンド』には、最初はバスケット、それもレギュラーチームに入れるかどうかだけを心配していたショーンが、デーヴィッドのことを思って、客観的に自分を見つめたり、社会的に視野を広げたりしていくところが描かれています(p299〜)。ところが、この作品は方向が逆ですね。

メリーさん:適度に起伏があって、すぐに読めた1冊でした。これまでのスポーツ小説は、ただ単純に好きで好きでしょうがなくて(あるいはたとえつらくても、それが自分のアイデンティティだから)そのスポーツをやっている主人公、というものが多かった気がします。反対にこの物語では、主人公がずっと走る意味について考えていて、最後の最後で、悩まなくていいんだという結論に達している。今の子どもはこういうふうに考えているのかなと思いました。

マタタビ:今の子向けに書かれているなと思いました。お姉さんがどうして陸上をすすめるのか、最後にわかるのではと思いながら読んでいったのですが、あれ?という感じで、終わってしまって、謎ときの楽しみは少なかったんですけど。まあ、今の子どもは、ページが少なかったり、ストーリー展開がはっきりして前に進むものを好むので、こういう作品だったら読めるのかなと思いました。大人の私はどうしてもストーリーの複雑さや味を求めてしまうので……。でも、子どもはどうなんでしょう。自分も走ってみたくなるのかな。出てくるおじいさんが全国で100メートル2番目というのも、都合がいいなあと思いました。このおじいさんも、もっと物語にからんでもよかったし、ほかの人物同士のからみあいがもう少しあってもよかったんではないかと思いました。私にとっては珍しい挿絵でした。今、ティーンズの文庫なども、こういう絵で読ませていくものが多いので、取り入れているのでしょうか。好き嫌いで言うと、ここまで漫画化しなくてもいいんじゃないかと感じました。それに文字までは入れなくていいのでは。

うさこ:大きなドラマはないけれど、走ることが気持ちいいというのはそれなりに伝わってきました。冒頭での陸上部に入った動機の軽さや、挿絵の印象が軽いせいで、なかなか話のなかに入っていけなかったです。ストーリーは単純だけれど、スポーツって案外そんなもんだよな、とか、男の子って単純でそんなもんだよなと思いながら読みましたが、読後、心に残るものは少なかったですね。この主人公は、人との関係とか、走ることへの意味とか、どれもあっさり自己完結してしまっています。陸上は個人競技だからかもしれないけど、人との関係に深まりがないなとも思いました。

ピョン吉:おもしろがりながら、読んでいました。スポーツ物をおもしろく読ませるのには、どうしたらいいのかなあ、などと思案しながら。この作品では、主人公の入ったスポーツクラブとクラスのリレーの顛末が、もう少しうまくリンクしていくと、なるほど〜、という感じになるのかなあ? 最後の主人公が出した「走ることの意味」にも、わかりやすさが加わるのでは? それにしても、百合姉ちゃんが唐突に出てくるわ、美沙姉ちゃんもけっこう弟に強引だわ、マンガチックなところが多く、それでこういう挿絵になるのね、と納得しました。あと、細かいところですが、名前の「ゆうき」と「かずき」が似ていて、読んでいて少し混乱しました。

ハリネズミ:マンガのノベライゼーションみたいなものだったら、マンガそのものを読んだ方がいいんじゃないの?

ピョン吉:これだったら、中学年でも1日あれば読めると思う。

ハリネズミ:読むのが苦手な子だったらマンガの方がおもしろいと思うだろうし、読める子だったら物足りないと思うの。この作品は中途半端じゃないのかな。

ジーナ:私も中途半端な感じがしました。小学校中学年と中学生のあいだの読み物として、こういうテーマでこのくらいの読みでのものは必要かなと思う一方で、積極的に手渡したいかというと考えてしまい、自分として結論が出ませんでした。人に言われてはじめた陸上が、最後は自分からやろうというものに変わっていくのを書きたかったのかな。でも、自分の子の小学校でのスポーツ体験からすると、今の子は塾もあるし、ゲームもしたいしテレビも見たいし、ここまで深く考えて1つのスポーツに毎日打ちこんでいる子はほとんどいないんですよね。切磋琢磨することより、仲間との温度差というような問題の方が先に立ちはだかる。だから、この物語は、現実とは離れていると思います。全員リレーのシーンはおもしろかったです。個人プレーで勝ってしまったことに後味の悪い思いをするところ。こういうところが、もう少しあとまで生かせたらよかったのに。若い作家だけれど会話はうまいなと思いました。

みっけ:さくさくとは読めましたけれど、おもしろかったかといわれると、ううむ。なんというか、設定に説得力がない気がして。都合がいいところで、不思議なおじいさんが出てきたりするのもなあ……と。この子も、悪い子ではないのだろうけれど、ふにゃふにゃした感じであまり魅力的に感じられない。クラス全員リレーの話も、クラス内のやりとりがほとんどないんですよね。これは今の学校のクラスを反映しているのかもしれないけれど、そういうほかの子との葛藤などもなく、ただ、自分ともう1人のクラブ員の女の子の2人だけの力で勝っちゃう。でもこれは、あくまでもクラスのありようの問題であって、それがこの子にとって、走ることの意味への懐疑につながるというのが解せない。なんかとってつけたようで……。だから、これが走るということなのかもしれないと言われてもなあ……という感じでした。

ウグイス:最初、本を見て、おもしろそうだな、と思いました。5,6年生のとくに男の子に薦められる本って本当に少ないので、あ、手に取りやすそうだな、と。主人公は、「ようやく水泳から解放された」と書いてあるので、水泳も好きでやっていたわけではなかった。それなのにまたお姉ちゃんに言われて陸上を始めたわけですね。しかも最初に、自分としてはよくわけがわからないまま坂本くんと走ることになり、というように、この子はなんでも他力本願なんですよね。こういうタイプの子って、結構いそう。でも、そこで坂本くんにタイムで大差をつけられて、悔しい気持ちになる、というのはよくわかるし、一人称で書いてあるので、主人公の気持ちになって、とんとんと読める。あんまり、本を読まないようなスポーツ好きの男の子に薦められると思います。でも、薦めても、おもしろくないと言われてしまうかもしれないな、とも思ったり。そういう子に薦めて「おもしろかった、もっと読みたい」と言わせるまでの力があるのかどうか、となると自信がありません。登場人物がステレオタイプだとかは、このくらいの文章量の中ではある程度は仕方がないけれど、この子の気持ちが今ひとつしっかり書かれていないというのが弱い点かな。真面目に書いていると思うし、読みやすくは書けているので、応援したい気持ちはあるんですけどね。ところで25ページの左上の字はなんでしょう?

一同:うーん、「ド」でしょうか。「ドヒュ!」。

ウグイス:文章で気になるところがいくつかありました。47ページ最後から5行の文章中「〜つつ」という表現が3回出てくるのが気になったわ。155ページ8行目「話がまとまると、さっそく和希たちはおじいさんの家に向かった」では、「和希たち」というともう1人子どもがいるのかと思ってしまった。「和希とおじいさん」とは思えなかった。

紙魚:男の子が読みたくなりそうな世界というのは、やっぱり、マンガによって表現されているので、そっちを読んじゃうのでは。

たんぽぽ:野球が好きで野球の本が読みたい子どもがたくさんいます。「バッテリー」(あさのあつこ著 教育画劇)を読みたがるのですが、小学生だと難しくて読めないんです。

ジーナ:やっぱりスポーツを表現するのに、マンガってすごく向いているんでしょうね。言葉ではなく、体の表現で伝わる部分がそのまま描けるから。

ウグイス:今回はスポーツものということで3冊選びました。『DIVE!!』(森絵都著 講談社)『一瞬の風になれ』『バッテリー』を取り上げたいところでしたが、図書館で予約待ちで借りられそうもないということでやめたんです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年4月の記録)


吉野万理子『チームふたり』

チームふたり

たんぽぽ:働くお母さんは、今たくさんいるので、専業主婦の母親が働くことと、貧しさがつながるかなと、ちょっと思いました。それから、チームメイトの靴を心配して、子どもが自分のお小遣い出すかなっーて。

マタタビ:小学3年生に読めるのかなと思ったら、2日で読んできた子が2人いたので、字の大きさ、読みやすさの点から、確かに中学年から読める作品だと思います。ただしリアル感の問題はいろいろあるかなと思いました。小学校のクラブは週で1時間程度ですから、ここで描かれているクラブは、特別クラブと言われているものでしょうか。でも、作者が伝えたいことは、読み慣れていない子にも伝わっていました。ストーリーや人物どうしの関係が整理されていると思います。うーん、最後の、靴を買ってあげてほしいとお金を届けるところはやりすぎかなとは思いましたが。女子が抱えている問題については、どうして女子の中で話し合わなかったのかなと思いました。そういった点で、確かに細かいところを見るとどうなのかなと思うところもありますが、作者が「チームふたり」という言葉にこめて届けたいと思った気持ちは、子どもに届いたと思います。分量もこのくらいのものならば、最後まで集中して読めると思います。子どもたちが、こんなふうになったらいいなとか、こんなことを考えながら生きていくのが大事なのかなと思える本だと思います。

メリーさん:楽しく読みました。キャラクターの中では、お母さんが意外でおもしろかったです。中学年向けの読み物は、低学年の絵本、高学年の読み物と違い、読者の集中力が続く時間が限られているので、どうやったら読者を楽しませることができるかといつも考えます。おもしろくて、キャラクターが立っていて、しかも無理のない設定というのはとてもむずかしい。マンガなら多少の矛盾や破綻があっても、キャラクターに力があれば読めてしまいますが。この本は、きちんと人間を描こうとしていて、おもしろくしようとしているのがわかります。ただ、キャラクターの数はしぼってもよかったかも。表紙の絵がとてもいいので、目にとまると思います。

ハリネズミ:この作家は、文章、とくに会話にリズムがあっていいなと思いました。ただ内容的には、中学年くらい対象だと文章量が限られるので、そのなかでまとめるのは難しいとは思うけど、本のおもしろさが、ゲームのおもしろさやマンガのおもしろさに勝てるように、もう少しがんばってほしいな。最近はマンガを映像化してそれをまたノベライズしたような感じの作品が多くて、これもそんな感じがします。本ならではの世界を味わえるような作品がなかなか出てこない。この作品は今年の課題図書ですけど、キャラもステレオタイプだし、リアリティも弱い。いろんな人間を描こうとしてる努力はわかるんです。でも、7時に帰ってくるお母さんがお弁当屋の「残り物」をもらってきたり(お弁当屋さんって、普通もっと遅くまで開いてるから7時に残り物なんかもらえないんじゃないかな)、これほどまじめなお父さんが毎晩酒飲んでクビになったり(このお父さんのキャラだったら、翌朝の勤務があるのにそう毎晩お酒は飲まないでしょう)、純が自分の小遣いで大地に靴を買ってほしいと言いにきたり(大地が嫌がるはずだけどな)……えっ、そんな設定や展開でいいの? と思ってしまいました。感想文を書けるポイントはいくつもあると思いますが、子どもはこれを読んでちゃんと深く考えられるんでしょうか? それとも、中学年くらいが対象なら、これでいいんでしょうか? 私も小学生のころは、リアリティがそれほどきっちりしていない作品をおもしろく読んでいたのを思い出すと、これでいいのかな、とも思うし。その辺が、よくわかりませんでした。

ミラボー:『ゴールライン』とくらべると、家族でいつも行く宿があって、そこで卓球をやっていたのが、卓球に打ち込むきっかけになっているというのは、納得できます。たまたま荻村伊智朗の生涯を書いた『ピンポンさん』(城島充著/講談社)を読んでいて、卓球の試合の様子の描写を読み比べてしまいました。『チームふたり』は、子どもが読むにはこんなものかなと思いました。後輩との組み合わせで悩んだり、家庭のゴタゴタがあって苦しんだりしながら、最後には希望を持たせている点がいいと思います。高学年の課題図書なんですか? ちょっとそれは合わないような気がします。

マタタビ:中学年でもいいですよね。

ミラボー:前向きな、いい方向に話が進んでいくというのはいいけれど、深みはないですね。

ウグイス:この本も『ゴールライン』と同じように、本を読み慣れていない子どもに薦められるかな、と思って選びました。何といっても、外国ものより設定が身近で読みやすいという点がいいと思います。スポーツものといっても、ただ頑張って勝つというだけではなく、主人公が家庭内のことでも、女子部の問題でも、いろいろ周囲のことに気づきながら進んでいく様子が書かれていて、興味がもてると思います。ダブルスで組みたかった相手と組めなかった悔しさもよくわかるし、不本意なチームだったけれど、その子の良さもだんだんにわかって、最後にはいいチームに成長していくのも、わかりやすく納得できる。
あと、装丁がとてもよくて、おもしろそうだなと思わせるし、目次のデザインや、章の頭のピンポンのデザインもしゃれている。同年齢の子どもたちは、結構おもしろく読むんじゃないかな。ただ、皆さんがおっしゃったように、純が新しいシューズのお金を持ってくるというところは、そんなことをしても大地が喜ぶわけないとわかりそうなものなのに、と不自然に思いました。ところどころ問題はあるにしても、5年生のふつうの男の子をとりまくいろいろな問題をちりばめ、飽きさせずに先へ先へと読めるように書けているし、読後感も良いので、薦めたいと思います。

みっけ:さくさくと読めたのは読めたんですけれど、お母さんが専業主婦でお父さんがクビになって、というところで、え?と思ってしまって。あまりにも作り物めいているというか、なんというか……。それと、女子部のエピソードがいまひとつしっくりこなくて、とってつけたような感じがしました。さっきから皆さんのお話を伺いながら、この女子部のエピソードなしでは、ほんとうにこの話は成立しないのかなあ、と考えていたんですが……。年齢によって、書き込みすぎると対象とする読者層の力量を超えて、本来の読者層に届かなくなるということは理解できます。だから、この読者対象だと、それほど深みがあるという感じにならないのは致し方ないのかもしれない。そう思ったりもするのですが、やっぱり少し物足りない。それと、さっきさくさく読めた、と申し上げたんですけれど、唯一、三人称の「彼」にはひっかかりました。テレビでけっこう力作と思われるドラマのセリフに、太平洋戦争時の設定であるにもかかわらず、執事が若主人をさして「彼は」という台詞があったりするのを考えると、こういう本で使ってもおかしくないというのが今の流れなのかもしれないけれど……。30年くらい前までは、日本語で「彼、彼女」というと、たとえば恋愛関係にある相手を指すような、かなり思い入れのあるというか、特殊な言葉だったように記憶しています。それに、元来日本語では、三人称の人称代名詞をそれほど使わないという印象があります。誰かを指すときも、名前や人称代名詞を使わず、役割や役職といったもので代用することが多いように思うんです。「彼」といわれると、もったいをつけたというか、しゃっちょこばった感じになる。そういう印象があるので、子ども向けの本に「彼」が出てくると、あれ?と思ってしまう。こちらの感覚が古いのかもしれませんけれど……。

ジーナ:全体の構成とか、本づくりがいいと思いました。ちょっと納得できない部分もあるんですけど、主人公がパートナーの5年生の子のことや、お母さんの知らなかった部分を発見していくとか、今まで見えていなかったところが見えていくのがおもしろかったです。でも、文章がひっかかっちゃったんだなあ。59ページ7行目「『やった!』好物なので、大地は大声をあげた。」とあるんだけど、「やった!」で好物なのはわかるので、説明過多かな。ちょこんちょこんと、そういうところがありました。あと、小学生の子が、友だちに自分のお父さんのことを話すのに「おやじ」って言うのかな。ふざけて「父ちゃん」とかは聞くけど、「おやじ」って使いはじめるのはもうちょっと大きくなってからじゃないかな。

ミラボー:言う子もいるかな。

ジーナ:あと、最後が試合の途中で終わるから、成功しちゃったという嘘っぽさがありませんよね。最後がひらかれているのがよかったです。

ピョン吉(編集担当者):この作家さんは、『秋の大三角』(新潮社)で石田衣良氏が審査する新潮社エンターテインメント新人賞を受賞されました。児童書は初めてだったのですが、ご本人がずっとされてきた卓球を舞台に、友情や家族など、「ふたり」という組み合わせを描きたい、というところから始まっています。主人公と後輩の純、女子部の部長と副部長、父と母。うまくいく「ふたり」もあれば、平行線の「ふたり」もある。いずれにしても、努力を重ねたり、一方のことを思いやったりする気持ちがとても重要なのだと思います。その辺が、うまく伝わるといいなあと思いますね。先ほども出ましたが、スポーツ物をおもしろく描くときにスポーツシーンをどれくらいの割合入れるかという話ですが、ここでは、卓球をしていない子も楽しく読んでもらえるように調整した経緯があります。一部、ネットで「この作者はあまり卓球のことを知らないのでは?」などと言われてしまったようですが(笑)、そんなことはありません。でも、スポーツの上達の過程で、出来なかったことが出来るようになるというのは、読者にとって「快感」だと思うので、その辺は大切にしていきたいですね。

ジーナ:ラケットを見にいって、プレースタイルを探るというのは、へーと思いました。

ピョン吉:画家の方も卓球経験者で、細かいところまで目配りをしてもらいました。目次や中ページは、デザイナーさんもアイデアを出してくれたんですね。「『チームふたり』チーム」という感じで、本作りもおもしろかったです。

マタタビ:この本は、家の人と家族について話し合える本だなと思ったんです。家庭での読書の意義という点で考えると、家族にこんなことが起こったらどうする? とか、ストーリーにリアル感がないゆえに一種の抽象性みたいなところあって、かえって自分の問題として話がしやすいかもしれない。子どもたちで完結している物語ではなく家族の問題をからませることで、家族で読める可能性をもった本になったのでは。だれでも手にとって読めるという分量もいいと思います。

たんぽぽ:誠実なお父さんは、報われてほしい……。どんな形でも、特に小学生には、なんか納得できる、心におさまる、終わり方であったらいいなと思います。

ピョン吉:最近の児童文学では、「パーフェクトペアレンツ」という像がかなりくずれているので、これはまっとうな方の親かなと思いましたが。酒気帯びで自主的に辞めるというのも、実際の事例があったんですね。

ハリネズミ:そういう事例はもちろんあるでしょうが、事件があったときにこれほどまじめに対応しようとするお父さんが、クビになった同僚を心配するあまり毎晩酒浸りになり、その結果朝の検査で不合格になるなんていうのは、どうなんでしょう? 同じキャラとは思えない。私の中ではイメージが乖離しちゃってます。

マタタビ:大人はリアリティを読みますが、子どもたちは、筋とか流れを見ていくことが多いと思います。ある意味の抽象性というのも、どの子にも多少あてはまるといった共感性があるというのが強いですね。

ハリネズミ:小学校中学年のあまり本が好きじゃない男の子には、学校では何を薦めるんですか?

マタタビ:科学読み物ですかね。福音館書店の「どきどき自然シリーズ」とか。科学の秘密をわかっていくのは楽しい。「学校の怪談」とか「怪談レストラン」とかは、薦めなくても読んでいますから。本が好きな子は、少し部分的に読み聞かせたり、紹介すると「トガリやまのぼうけん」シリーズ(いわむらかずお作/理論社)や岩波おはなしの本なんかを読み始めていますよ。

たんぽぽ:「黒ねこサンゴロウ」シリーズ(竹下文子著/偕成社)や、岡田淳さんの本なんかを薦めると、もっと、読みたいと言ってくれたりします。

マタタビ:4年生は「パスワード」シリーズ(松原秀行作/講談社)やはやみねかおるの「名探偵夢水清志郎」シリーズ(講談社)、令丈ヒロ子さんの作品などを夢中になって読んでます。あと、やはりハリーポッターは絶大な人気ですね。

うさこ:これでいいのだろうかと思いつつ、作家さんの書く底力に疑問を感じるところもあって、みなさんがおっしゃるそのままが私の感想でもあります。でも、この作品で評価できるところは、ふつうの子を主人公にして、作品にしようとした点だと思いました。『チームふたり』というタイトルを最初見たとき、「劇団ひとり」のような、ちょっと皮肉ったタイトルづけ? おちゃらけているの? と思ったんですが、読み始めると、ストーリーはまじめに展開。出てくる子は、いずれも親や先生が理想とするようないい子ばかりで破綻がないので、読者はどこに共感してくれるのかなと思います。文章では、三人称の「彼は」が気になりましたね。

紙魚:最後に、読んでいない私が言えることなのですが、今回の選書3冊が並んでいたら、装丁で読みたくなるのは、ぜったいに『チームふたり』です!

(「子どもの本で言いたい放題」2008年4月の記録)


ユッタ リヒター『黄色いハートをつけたイヌ』

黄色いハートをつけた犬

サンシャイン:正直、あまりよくわかりませんでした。グ・オッドがゴットなんだって後書きに書いてありましたが、どうもスッとは心に入ってきません。ロボコヴィッツは、神様のアンチテーゼ的存在として出てきたのかなとは思いましたが、関係性もうすっぺらな感じです。日本の子どもが読んで、この本を楽しめるのか疑問です。

マタタビ:創世記がもとになっているので、ヨーロッパの子どもにとっては示唆に富んだ話なのかなと思います。ロブコヴィッツって人の存在もおもしろいですね。ロボットではないのかな? この本は2回読みました。間にネズミとの戦いとか入ってくるんですけど、そうしたエピソードを入れた作者の意図はなんなのでしょう。だめだと思ったけど、立ち向かってみたらできたというイヌの成長? それとグ・オッドとロブコヴィッツの本筋とのあいだのからみがよくわかりませんでした。人が神様を待っている話っていうのはよくあるけど、これは神様が人を待っているっていうのかな。いまだに神の門は閉じているようなので、ある種の哲学書かな。今の子どもたちで、読める子がどれくれいいるんでしょう? 児童書という位置づけが適当なんでしょうか?

クモッチ:たしかに、だれに向けて訳された本なのか?という疑問が浮かぶ本でした。「だれにも愛されない犬が、子ども二人に心を開いて、かけがえのないものになっていく」っていう筋が一つあるけれど、読み進めていくと、どうもそれがこの物語の本筋ではないように思えます。犬が語る話が、後半ボリュームを増していくので。で、こちらの話が、犬が本当に経験した話なのか、犬の創作した話なのか、わからない。読者が立ち位置をどこに置いたらいいのか分からない感じがします。そのため何度か前に戻って読んだりしたのですが、疑問が渦巻きました。

ジーナ:ロッタの視点で物語が始まったかと思うと、次にノイマンぼうやの視点に移り、次に犬になりと、だれに寄り添って読み進めればいいか、わかりにくかったです。私はあとがきを先に読まなかったので、犬の語る物語が始まったところで、「この本は、犬の話すとてつもないファンタジー、おかしな人物を楽しむ本か」と思ったのだけれど、だんだんその内容が難しくなってきて。ロッタ自身の葛藤はあまり描かれていないので、中学年向けくらいの本かなと最初思ったけれど、犬の話を読むと高学年でないとわかりそうにないし、視点をずらしていく構成はかなり大人っぽい。でも、高学年にしても、この文体はかたくて、難しいと思いました。もしかしたら原書は、それぞれの人物の語り口がすごくおもしろかったりするのかなとも思いましたが、わかりませんね。

たんぽぽ:大人が読む分には、最後まで読めたけど、子どもはロブコヴィッツが出てくる時点でやめるだろうなと思いました。酔っ払いの3人が出てくるのが、ほかのコピーだったらよかったのになって。最後読みおわって、なんだか欲求不満でした。

ハリネズミ:これは寝る前に読む本にしてたんだんだけど、すぐ寝ちゃうのね。ぜんぜん進まなくって。それで、ちゃんと机に向かって最後まで読んだんですけど、疲れましたね。日本で出すんなら、もっと編集や翻訳の人が工夫しないと無理ですね。日本の子どもに届かない。この本、二人称がみんな「あんた」なんですよ。幼いノイマンぼうやが犬に「あんた」って言うんです。ドイツ語のduをすべて「あんた」にしちゃったのかな。さえらの本って、科学書はいいのに、物語はもう少し工夫してほしい、と思うことがよくあります。グ・オッドは、G.Ottなんですね。原書では明らかに神を示唆する言葉ですが、グ・オッドじゃあ日本の子どもには伝わりません。お酒の名前がいっぱい出てきますが、キャンティはチャンティになってるし……読んでいくうちに、変だな、と思う気持ちばかりがふくらんでいきました。

クモッチ:結局、だれに向けた、なんの本なんでしょうかね?

マタタビ:黄色いハートに意味があるんだろうな、だれかのオンリーワンになれるという話なのかなと思ったら、そうでもなくて。

ハリネズミ:もともとの本がこうなんでしょうか? それとも日本語版の問題なんでしょうか?

マタタビ:今回の3点のうち、この本だけは犬の視点ですよね。

クモッチ:おじいちゃんが、ロブコヴィッツを知ってるんですよね。ここで犬の世界とシンクロしている? その意味も知りたいですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


ケイト・ディカミロ『きいてほしいの、あたしのこと:ウィン・ディキシーのいた夏』

きいてほしいの、あたしのこと〜ウィン・ディキシーのいた夏

ハリネズミ:これは前からとても好きな本なんです。この年齢の子ども向けの本としては、まれにみるよくできた本。何度読んでも、やっぱりいいなあと思います。まず、訳がすごくうまい。原文にもユーモアがあるんでしょうけど、それをうまく訳しているので、日本語でもちゃんと伝わってくる。図書館に熊が入ってくる話もおもしろいし、ウィン・ディキシーも、にやーっと笑ったり、くしゃみをしたり、仲間はずれが嫌で割り込んできたりする、おもしろい犬。グロリアとかオティスとかミス・フラニーとか、どこか奇妙な登場人物が出てきますが、その人たちのこれまで生きてきた人生っていうのを感じさせる書き方もすごいですね。主人公の少女は、引っ越してきたばかりで友だちもいないし、母親の不在も抱えて不安なわけですけど、ウィン・ディキシーを介していろいろな人に出会って成長していきます。そうした核になるストーリーは比較的単純ですが、登場人物のそれぞれが短い会話や言葉で浮き彫りになるような書き方をしている。人生経験を積んだ老人たちの知恵ある言葉にも含蓄がある。雷が鳴ってウィン・ディキシーがいなくなってしまったと読者も心配しますが、最後に絆がいっそう深くなるという終わり方もいい。文学として、とてもよくできていると思います。このページ数で、これだけの深みがある本って、ほかにはなかなかないですよね。

ジーナ:本当に楽しめるお話でした。片岡さんの訳がとてもうまい。日本人が日本語で書いたみたいに。要所要所の言葉も味わいがあって、p.95の、人のことを過去ではかっちゃだめ、こんな人と決めつけてはだめというところなど、心にひびきました。「あの本に、こんな言葉があったな」と、あとで思い出す本になりそう。一人一人の人物が、ストーリーのためにいるんじゃなくて、それぞれ生きて、とてもよく描かれていますよね。ただ、題名がちょっと残念かな。「ウィン・ディキシーといた夏」というと、ウィン・ディキシーが最後にいなくなっちゃうみたいだし。もうちょっと内容がわかる、手にとられやすいタイトルがなかったかなと。

クモッチ:わかりやすくよくまとまっていますね。長くなりがちな作品群の中で、この長さで感動が得られるいいお話を読めるというのも、いいなと思いました。好きだったシーンは、お父さんと女の子がウィン・ディキシーをさがしにいったところで、お母さんのことを話すところですね。「お母さんをとめなかったんでしょ?」と女の子も本音をお父さんにぶつけ、お父さんも、「お母さんは、もうかえってこないとわかったよ」と、女の子に自分の気持ちをはっきり伝えます。きちんと向き合う場面があるのがいいなと。また、このシーンは、犬がいなくなってさがしている間の会話で、オーバーラップのさせ方も、わかりやすいと思いました。

マタタビ:とてもあたたかい気持ちで読み終われて、いい本でした。登場人物それぞれが、どっかにからっぽの場所を持っていて、そのからっぽの場所を、ウィン・ディキシーと主人公がかかわりあっていくお互いの関係の中で埋められていくっていうのがいいなって。ジグソーパズルがくっついていくみたいに。それぞれの大人がとってもよく書けています。きれいごとではなく、言わなきゃいけないことがちゃんと書かれている。アメがね、おもしろいなって。アメが隠し味になって、だれもが持っているそういうものを引き出していく。心憎い使い方をしているなあって。片岡しのぶさんの訳だったので期待していました。ディカミロは前に『ねずみの騎士デスペローの物語』を読んで、ぴんとこなかったんですけど、今回はすばらしかった。

サンシャイン:私も今回の3冊を比べると、いちばん社会性が出ていて好感をもって読みました。『ベストフレンド』がほぼ自分の心だけの話だったのに比べて、父子家庭できちんと娘に相対していないお父さん、南北戦争の歴史的なこと、魔女と呼ばれているけどいいおばあちゃん、牢屋に入れられたことがあるギターがうまい青年など人物や状況が生き生きしています。主人公が世の中で生きている存在っていうのが、よく描かれていると思います。犬が人間の友達っていう物語はアメリカですからきっとたくさんあるんでしょうけど、いい読後感でした。題名のBecause of Win-Dixieというのは、どういう意味ですか?

ハリネズミ:ウィン・ディキシーをきっかけにして、変わっていけたっていう意味でしょうか?

サンシャイン:最後にオウムを含めてみんな登場するっていう、お話の終わり方もうまいと思います。

クモッチ:91ページ グロリアさんの家に木があって、あきびんをつるしているって。こういうことする人って、普通いるのかしら。やっぱりアメリカでも変なことですよね。

ハリネズミ:変というか個性が強いから、魔女って言われてるんでしょうね。

マタタビ:日本でも、犬と一緒に散歩してると、友達になるっていうのがありますよね。オウムのガートルードもいいんですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


堀直子『ベストフレンド あたしと犬と!』

ベストフレンド〜あたしと犬と!

サンシャイン:繊細な女の子でね、飼っていた犬のライオンが死んでつらい気持ちは、よくかけてるんだろうなと思いましたが、あまりにも社会性がないのが残念。作者自身の経験をもとにって書いているのはよくわかって、悪く言うのもいやなのですが、作品としては成熟していない所が目立ちます。ライオンに似ているコウチャを自分のところにおきたいと思いつつ、預かっているだけだからと心を抑える所は、良く書けているとは思います。だけど、コウチャを見て車椅子の男の人が立ちあがるっていうのが、ちょっとやりすぎというか、正直うそくさいと思ってしまいます。

マタタビ:作者の犬に対する思い入れがすごく強いんだなって、感じました。犬を失った喪失感はよく書けてているなって思いました。ストーリーとは関係ないんですけど、こういう本を子どもが読んだとき、捨てられる犬を処分する施設を子どもは悪いところだと思ってしまうんじゃないかと心配です。そういう仕事に携わる人の尊厳にもかかわるので、短絡的にとらえてしまうんじゃないかとひやひやするところも。その辺の痛みをどのくらい感じながら、書いたのでしょうか。

クモッチ:今おっしゃったところは、45ページですね。最近のお話は、こういう立場の人の苦しい気持ちっていうのも、きちんと書いているものが増えていますよね。ここに登場する遠山さんも、救える犬は救いたいというスタンスで描かれていますね。

マタタビ:今の子はわりに表面的に読むので、読んだあとは話し合いをしたほうがいいかなと思いました。

クモッチ:処分されてしまう犬のことを扱った話は、ノンフィクションではよく読みますが、これは、フィクションですよね。事実を伝えようとするために、お話がどうしても中盤以降説明的になって、お話そのものの楽しさより、事実がそうなんだという流れになってきてしまっています。フィクションなら、多くの関係者のそれぞれの気持ちを描く、ということが自由にできると思うのですが、このお話の場合、千織ちゃんがひきずっている気持ちっていうのが、悲しい、悲しい、という一辺倒になってしまっているようで残念。フィクションなんだからうまく表現して、もうちょっと奥ゆきが出ると、この作品の意味ももっと出てくると思いました。脇を固める、お父さんとお母さん、えりかさんの描き方も、創作ものにする以上、奥行きをもたせたいなあと思いました。

ジーナ:この本が伝えたいメッセージは、はっきりしてますよね。だけど、この作品でスッと伝わってくるかというと、疑問でした。最後にコウチャを飼いたがっているおじさんが立ち上がるシーンを含めて、都合よすぎる感じがするところが多くて、物語を楽しめませんでした。それが残念。文章も、ときどき引っかかるところがありました。

ハリネズミ:日本語が素人っぽいなと思いました。書き出しの「ぶどう色の空が、ほうきではいたように、しゅっしゅっと明るい白味を増していった頃」も、あれっと思ったし、随所に「翔馬が髪をかきむしった」なんていう陳腐な表現も見られます。台詞にしても、エリカの人物造型と「きゃーすてき」なんていう台詞がちぐはぐ。捨て犬の保護活動をしている人たちの様子については、よくわかったし、千織が回復していく様子もわかりやすい。おしっこをさせるシーンなど、実体験に沿ったことは、とてもよく書けている。犬の本や猫の本って、客観性を失ったまま書く人がいると思うんですけど、この本も全体の印象はそんな感じでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年3月の記録)


那須田淳『一億百万光年先に住むウサギ』

一億百万光年先に住むウサギ

サンシャイン:よく知っている場所が舞台なんで土地勘があって楽しく読めました。かわいらしい感じですね。話題があちこちに飛んでいって、一つ一つのことについて蘊蓄を語るという進み方をしています。前半は、あっち行ったりこっち行ったりして、後半、話のテンポをあげて終わりにもっていっているという書き方をしています。

メリーさん:楽しく読みました。全体を通してさわやかな印象なのですが、それぞれのエピソードについて、もう少し読みたいなというところで終わってしまうのが残念でした。エピソードをしぼって書き込むか、人物のドラマに焦点をあてるかのどちらかにした方がいいなと思いました。

ウグイス:ウサギのイメージだとか、恋樹(こいのき)のエピソードだとか、アムゼル亭とか、心ひかれるイメージは出てくるのですが、中学生の少年少女はどちらかというと脇役になっていて、おじさんおばさんの青春時代の謎を解説されるのを聞くというスタンスのように思いました。語り手は中学生だけど、中学生が読んでおもしろいと思うのでしょうか? かゆいところに手が届かないというか、大人の側から自分たちが過ごしてきたものを伝えようとする気が強すぎると思う。ドリス・デイの歌とか、コーヒーへのこだわりとか、今の子どもたちにも魅力あるものとして提示されてはいないような気がします。いろんな人物が出てくるのですが、その人たちは物事を「解説」するために出てくるんですよね。だから、出てくると滔々としゃべる。喫茶店の先代のマスターなんかも、突然出てきてしゃべるしゃべる。だから、リアリティのある生きた人物としての魅力が今ひとつ感じられませんでした。最初の方に出てきた恋樹の、文通相手もわりあいあっさりと明かされてしまう。いろんな秘密がにおわされて、ちょっとひきつけるんだけども結局たいしたことなく終わってしまい、はぐらかされた気分。自分の中にあとになってまで残る作品ではないと思いました。

みっけ:私の心の表面をつるつるつるんとすべっていって、どこかに消えちゃった、という感じでした。食い込んでくるものがない。前にこの会で同じ著者の『ペーターという名のオオカミ』(小峰書店)を取り上げたときもそう感じたんだけれど、これが書きたいんだ!という勢いみたいなものがなく、おぼろな幕の向こう側であれこれやっているなあ、という感じで終わってしまった。途中から、我慢できなくなってぴょんぴょん拾い読みになってしまいました。同じ湘南を舞台にしたものでも、たとえば佐藤多佳子さんの『黄色い目の魚』(新潮社)の方が、ずっと生き生きとした青春ものになっている。ウサギが出てきたり、あれこれ工夫しているんだろうなあ……という気はしたけれど、ぴんと来ませんでした。

紙魚:じつは、今月の本を選書していたとき、日本の作品だけがなかなか決まりませんでした。確かに、ほかの2作品との共通性がないかもしれません。ただ、あまり古い作品にもしたくなかったので。この本に感じたことは、青春のイメージがパッチワークのように紡がれてはいるのだけれど、そこにひそむ汗とか体温とか、友情とか裏切りとか、また自分のなかでの悩みや葛藤というような、生の感覚があまり伝わってこないということでした。この本は、中学校の課題図書に選ばれているんですよね。もし私が中学生で、この本の感想を書けと言われたら、何を書けばいいんだろうって困ったと思います。

ジーナ:なかなか好きになれなくて、最後まで読むには読んだのですが、中に入れませんでした。というのは、主人公の中学3年生の男の子が語るんですけど、口調が中学生じゃないみたいなんですね。私も翻訳したものを、「あなたは中学生のつもりで書いているんだろうけど、それはつもりなだけ」と編集者から注意されることがあるんですが、そんな感じ。中学生がサンドイッチについて「ニンニクとオリーブで香り付けられた鶏肉は、かむと肉汁がはじけ、バジルの葉とレタスが先に吸収していた油とマヨネーズと溶け合う」なんて蘊蓄たれる? 中学生と言えば、受験のことや学校の友だち関係とかいろいろあるだろうに、同年代で関わるのはケイちゃんぐらいで、その辺はあっさりしている。人物の魅力に欠けるのかな。日本のヤングアダルト作品にはなかなか大人が出てこないけど、これは大人ばかりが出過ぎている感じ。マンガ本の蘊蓄はすっと読めるけれど、この本に出てくる芸術や音楽の知識は、教えられているようで、いまいち惹かれない。趣味の問題でしょうか。多くの子が共感できる本ではないと思いました。

げた:舞台が鎌倉で、登場人物もそれなりに魅力的でかっこいい感じなのだけど、私自身は、いまひとつ中に入りこめませんでしたね。今日読んだ3冊の中では、この1冊が異質だと思うんですが、「いいかげんな大人たちに翻弄される子どもたち」というあたりでつながってるって感じかな。タイトルが謎めいていて装画もいいから、とっかかりはいいので、手にとられやすい本だと思います。

ききょう:課題図書になっていたので前に読んでいたはずなのですが、私もけっこう読むのが大変でした。那須田さんがもっている趣味をいかして書きたかったのでしょうか。物語の勢いのようなものが感じられないし、ストーリーでも人物でも読めないので、目の前のコーヒーのいい匂いだけ嗅がされている感じ。私も教員なので、どうやって子どもたちにアピールしようかなと思うのですが、中に出てくるのが意外と渋いディテールなので、子ども達はここから新しい世界を見ていくのかもしれないとは思うけど、私も中学の課題図書にはきついかなと思います。ストーリーの一貫性みたいなものも感じられませんでした。

もぷしー:大人がノスタルジーを集めて、それに社会的な問題も加えてまとめたような印象を受けました。これを子どものための本とするのかどうか、読み物としておもしろいのかどうか、という二つの視点があると思います。子どもの本と考えたとき引っかかるのは、会話の口調。「〜なのだ」は、中学生とも思えないし、大人でも使わないような、ある意味正しすぎる日本語。言葉の表現にリアルさが感じられず、入り込みにくかった。歌の「ケセラセラ」も、繰り返し使うモチーフとしては、子どもには遠い存在だと思う。児童書としてではなく、物語としてどうかというのは趣味の問題だけど、まとまりがなかったのが私には読みづらかった。ウサギだとか恋樹とか、アイテムはたくさんあるのだけれど、かなり早い段階で種明かしされて置き去りにされている。もっと引っぱりたければ、ここまでの長編にせずにまとめた方が楽しく読めたかもしれない。

ハリネズミ:途中までしか読んでいないけど、会話にはすごくひっかかりましたね。著者はドイツにずっと住んでいたようなので、自然な日本語から離れてしまったのかな。これだと、抽象的な会話に感じてしまいますね。

紙魚:たとえば、村上春樹の小説などに書かれている会話は、現実に話されているような会話ではないのだけれど、ある独自の世界として成立しているからリアリティを感じるときがあります。もしかしたら、この本では、そういったところがちぐはぐなのでしょうか。

サンシャイン:私はこの感じ、芥川賞作家の保坂和志の作品に似ているなと思いましたね。鎌倉という舞台も一緒ですし。

ききょう:ケイちゃんは、学校では特異な存在のはずなのですが、あまりそういう感じがしないですよね。

うさこ:私は好きな物語でした。物語にいる居心地のよさのようなものを感じました。バランスがいいというか、大人の存在がとてもきいているというか、中学生の存在を守りながら自立性に向き合う姿に好感がもてました。大人たちもバラエティに富んでいるし、おおげさではなく、ある日常のこととしてドラマが展開されていく。長いけれど破綻がない。ウサギや歌などのアイテムがうまくからみながら、それぞれのエピソードや景色が描かれていたと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


ジャン・モラ『ジャック・デロシュの日記』

ジャック・デロシュの日記〜隠されたホロコースト

げた:衝撃的でした。16歳の女の子が彼氏のひとことから、痩せなきゃという思いでダイエットが始まって、それがおばあちゃんの死、日記との出会いによって、空白を埋めるように過食になり、自分より前の世代の荷物を背負って立ち向かっていく姿は、悲惨ではあるけれど、一方、なんとかしようと立ち向かう気持ちは健気ですごいなと思いました。それから、日本でも、戦争の加害者としての立場から描いた児童文学が、七三一部隊関連でありますが、少ないので、そういった意味でもすごいなと思いました。デロシュの日記の中で、民族の優位性を保つ考え方にもあらためて恐怖を感じました。

ききょう:読めるかなとどきどきしながら読み始めましたが、結局一気に読みました。加害者側がどんなことを考えて向かっていったのかということを知る貴重な体験でした。日本では、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』(偕成社)などが定評がありますが、それくらいですね。本人が祖父を告発していくところに凄さを感じました。自分が何かの事実を背負ったときに、とどめておかないでアクションに結びつけていくーー若い人の事実と向き合ったときのエネルギーの凄さを思いました。最近、ナチスに関わった87歳の老人が逮捕された報道がありましたが、戦争は終わっていないのですよね。

サンシャイン:いやあ、相当驚きました。フィクションだとすると、すごくよく考えていて、作品としての完成度が高いです。まさかこの日記の筆者が、あの人であったとは気づきませんでした。そこにたどり着いた時の驚きを思い出します。ホロコースト文学といっていいのでしょうか、こういう形で言葉で告発するとは! ノンフィクションではないかたちで読ませてくれた、みごとな作品だと思います。作者はフランス人ですよね。

メリーさん:ホロコーストという大切なテーマを扱いながら、本として謎解きのおもしろさもあって、一気に読んでしまいました。これからもくりかえし伝えていかなければならない問題だと思います。一方で、主人公の少女が最後に祖父を断罪する場面ですが、フィクションなだけに、この結末はできることならば著者と相談したい所でした。時代の波に翻弄されながらも、罪を背負って生きることを選んだ一人の人を、現在の人間がはたして裁くことができるのか? 少女の心情は一方的ではなかったか? 死ぬことより、生きることのほうがつらいはずのこの世界で、未来につながる結末にしたほうがよかったのではないかと思いました。「シンドラーのリスト」や「硫黄島からの手紙」など、映画もいろいろ思い出した本でした。

ハリネズミ:おじいさんの日記の部分と、少女の視点で語られている部分の、書体がかえられていて読みやすかったです。歴史に関する注も日記の部分の下側に入れられていて、工夫されているなと思いました。時間が行ったり来たりするので、読み慣れていない子どもには難しいかもしれないけれど、読み慣れている子にはそこが逆におもしろいかもしれません。ナチスについてはいまだに関係者の捜索や逮捕が行われているんですよね。そういう意味でも、必要な本だと思いました。ただ読んでいる間ずっと苦しかったですね。主人公の少女は、苦しいままで快復してはいかない。最後までつらいままです。おじいちゃんを一直線に断罪するわけですが、そこには自分がもし同じ立場に置かれていたら、という想像力は働いていない。それも読んでいる側にはつらい。おじいちゃんにだって歴史の中で翻弄された被害者という側面もあるはずなので、そういう部分がもし書かれていれば、文学としてのふくらみももっと出たんじゃないかな。

ウグイス:歴史の事実を若い世代にどう伝えていくか。主人公の年頃の子どもたちにとって、決して遠いことではなく、今の自分とつながっているのだということをいかに伝えるか。それを小説というかたちで非常にうまく提示したひとつの見事な例だと思います。題名が重いのだけれど、最初、現代の女の子の苦しみがリアリティをもって書かれているので、ぐっと惹き込まれていく。その子の大好きなおばあちゃんの過去をどんどんさかのぼっていくという手法が、とてもうまい。いきなりホロコーストといってもぴんとこないところが、摂食障害というところから上手に入っていって、一見なんの関係もないと思えたことが関係あると思わせていくのは、構成の力ですね。最後のおじいちゃんへの断罪は、小説としては成功していると思うけど、子どもにどういうふうに薦めたらいいのかと考えたときには、薦める子を選んでしまいますね。大人として読むには価値があるけど、子どもに対しては、注意深く考えなければいけない作品。それから、過食症は自分が大人になりたくない人がなると書いてありましたが、事実なのかしら? 摂食障害の部分は、読んでいて苦しかった。

みっけ:英語の児童文学を見ても、児童文学の書き手たちが、第二次大戦やホロコーストなど放っておいたら風化してしまう事柄をなんとか今の子どもとつないでいこうといろいろな形の作品を試みています。この本もそういう1冊なんだなあ、と思いながら読みました。ホロコーストを加害者の側から伝えている部分は、読み手に非常に重たいものを突きつける形で、とてもよく書けているなあと思いましたが、ちょっと気になったのが、摂食障害とそういうふうにうまく(というのは言葉が変かもしれませんが)リンクするのかなあ、という点でした。ちょっと安直に見えなくもない。摂食障害の子が自分を振り返って書いている文章だから、この子のなかではこう整理されているのかもしれないけれど……。でも、こういう子だからこそ、おじいちゃんを自殺へと追いつめる流れに説得力があるような気はしました。正直、摂食障害を患ってきた子、今もその傾斜を残している子の一人称で書かれているために、全体が非常にがりがりした印象になっていて、読むのはきつかった。
フランス映画にも、こういう精神的にかなり追い詰められた人の心をずっと追っていくというタイプの作品がありますけれど、このとがり方は、ああフランスだなあっていう感じがしました。この子自身が、自分はおじいちゃんやおばあちゃんのことを尊敬し親しみを持っていた、というようなことを書いているわけだけれど、それだけでは読者のイメージは今ひとつふくらまない。徹頭徹尾一人称ではなく、たとえば冒頭にでも、この子が摂食障害になる前のおじいちゃんやおばあちゃんとのエピソードがさらっと置かれていたりすれば、それだけで読者のイメージがふくらんで、摂食障害のことも説得力が増したのではないかと思います。こういう子だから、おじいちゃんを追い詰めることにもなったろうし、おじいちゃんがそれでも生きなければならなかったというところまでは思いが及ばなかったんだろうと、そこは納得できるんですが。

ハリネズミ:私が知ってる摂食障害の子は、自分には厳しい目を向けても、他者にはやさしいですよ。

みっけ:でも摂食障害は、アグレッシブな行為が自分に向かっているという意味ではアグレッシブであることと無関係ではないし。この子の場合、摂食障害という形で自分に対してアグレッシブなだけでなく、両親への見方や恋人への見方や店屋での態度など、他人に対してもかなりアグレッシブな気がします。これは、おじいちゃんを責めたのが正しいとかいうことではなくて、そういうアグレッシブな子だから、おじいちゃんをああいうふうに責め立てるという展開も納得できる気がしたんです。

ウグイス:この子が摂食障害ではなければ、こういう結末にはならなかったということ?

みっけ:摂食障害だからこうなったという因果関係ではなく、この子の有り様からして、摂食障害にもなるだろうし、また、おじいちゃんを追い詰めることもするだろう。そういう意味で、この本で語られていることから見えてくる主人公の造形とさまざまな出来事とがきちんと結びついている、と思ったんです。ある意味で、おじいちゃんに対してこれだけ面と向かって攻撃性をむき出しにしたことや、自分のこれまでを振り返ってこういう手記を書いたこと自体、この子の治癒への可能性を予感させるもの、といえるのかもしれませんね。

紙魚:私も、結末についてはええっと驚きましたが、フランスってもともと、児童文学というジャンルが薄いですよね。なので、これは子ども観、児童文学観の違いなのかなと思いました。以前、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』をとりあげたときに、フィクション部分とノンフィクション部分が乖離しているというような感想が出ましたが、あれは、あの時代に児童文学として七三一部隊をとりあげたということを評価するべきだと思います。ただ、この作者は、主人公を拒食症にすることによって、そのあたりをうまく融合させています。文学として進化を遂げているように感じました。それから、『フリーダム・ライターズ』もそうなのですが、痛みを持っている人は、やはり痛みへの共感があって快復をとげていくと感じました。この主人公が健康な体だったら、ここまでの物語になったかどうか。フィクションのもつ力を感じました。それから、地の文と日記文の書体の使い分けや、注釈の入れ方など、編集がゆきとどいて、とても読みやすかったです。

ジーナ:ハードな内容にもかかわらず、一気に読んでしまい、物語の力を感じました。拒食症についての記述がリアルかどうかはわからないのですが、主人公の、大人に理解されていないという気持ちが、万引きの場面とかでまず出てきますよね。そういうことって、この年代の子はみな持っていると思うので、読者は主人公に心をよりそわせて、物語に入っていけるのだと思います。原題は「ソビブル」なんですよね。日本語でも、ふしぎな秘密めいた響きがあって、ストーリーの中で生きていますね。ふつうに生活していたら知らないでいたことに、本を通して目を開かされるというのがいい。主人公がぼろぼろになるまで向き合った事実に、読者も向き合えて。繰り返し語っていくことの大事さ、本の中で過去の事実を知らせていくことの大事さを感じました。本づくりのよさにも感心しました。書体も行間も、とても読みやすかったです。

うさこ:衝撃的な内容で、読みながら自然と力が入っていきました。ずっとひりひりしながら読んでいました。自分がこの女の子だったらどうしただろうか、おじいちゃんだったら、おばあちゃんだったら、家族だったら、万引きした店の店長だったらと、登場人物一人一人と自分とを照らし合わせるのがすごくひりひりして、こわい作業でした。戦争だったから仕方なかったんだ、この時代ではしょうがなかったんだというような言い訳は通用しない、ということを作品のなかできちっと言っていて、じゃあ、この異常な社会のなかで個はどう生きればいいのかという自分への問いにぶつかりました。これはすぐに答がみつかるものではないけど、自分のなかにすえておいて、これからも考えていくことが大事だと思います。そういう風に読み手に投げかけるところなど、この本は文学の力が強い。作者が難しいテーマに対して工夫しながら、一歩もひかずに書いた姿勢がいい。日記を読んでいる気分になるというところは、編集の工夫だなと感心しました。

山北(担当編集者):私自身、だれにでもお薦めするとは言い切れない本かもしれません。ラスト部分を読者がどう受け止めるか、とても気にかかります。一人称で一方的な見方に引っぱっておいてそのまま終わるというやり方は、日本児童文学的に期待されていないことでもあるので、どうなんだろうと考えたんですね。けれど、エンディングに賛否はあっても、この本にはすごい価値があると思いました。被害者ではなく、加害者の側から書いている文学であるというところ。そして、フィクションの中でホロコーストを追体験させ、人道問題に対する普遍的な理解へ導いているというところ。作者は、安全圏にいようと思ったらできないようなこともいっぱいしていると思うんです。直接体験をしていない人がミステリータッチでホロコーストを書くということは、責められたりもしていると思うんですね。それをおしても出版するだけのきちんとした下調べとメッセージがつまっている本だと思います。
上手く描かれているなあと思うのは、死や他人の感覚に対して無感覚になっていくことの怖さ。読者も、デロシュの日記を読んでいるうちに、初めは信じられないと思っていても、人の死や、感覚を遮断することに慣れていってしまう。その怖さを感じました。もともと原文も、淡々とした文章で書かれているのですが、それを翻訳でも表現していただくようにしました。
エンディングについての解釈ですが、私はおじいちゃんを糾弾するエマの姿は、おじいちゃんに重なっていると思っています。ジャックは、任務だと思って、ある種使命感に基づいて無感覚に人を殺していく。エマも、おじいちゃんは罪を償うべきだという自分の見解を疑うことなく、使命感に基づいておじいちゃんを追いつめる。結果、おじいちゃんを殺してしまう。おじいちゃんもそうですが、エマもこれから、自分のしてしまったことを背負って生きていかなければならないという暗示があるのでは。愛読者カードが大人からしかこないので、子どもがどういうふうに読んでいるかはわからないです。ちなみに、14もの海外文学賞と帯に書きましたが、そのうち3つは、学生が選ぶ賞なんですね。私はそこにすごくひかれました。フランスでは、この作品は子どもの心にも添っていたのだと思います。
編集的なことでいえば、エマの語り部分は極力リズムをくずさないため注などつけないようにして、日記に関しては、注のせいで集中がとぎれないようにと、注は同ページの下に設けました。訳注なんかもかなりつけています。調べていくうち、デロシュという人物はフィクションなのですが、各収容所で働く人物などは大方が実在人物なのだとわかりました。現在は行方不明という人や、逮捕された人もかなりいらっしゃいます。実際にあった出来事を物語にした作品ということで背筋をのばして編集したので、相当手間がかかりました。つねに一気読みという感じで、内容も心に突き刺さるようなので、本当にへとへとに。参考資料に書いてありますが、『ショア』は、8時間半におよぶホロコーストに関するインタビュー映画です。お薦めします。

サンシャイン:『マグヌス』(シルヴィー・ジェルマン/著 辻由美/訳 みすず書房)はご存知ですか? 同じくフランスの作家の作品です。フランスの高校生が選ぶ高校生ゴンクール賞を取ったんですが、おそらく、とても日本の高校生が読めるとは思えない。日本では、大人が読む本と位置づけられるでしょうね。

メリーさん:この本のドイツでの反応はどうなんですか?

山北:そこまではわからないですね。日本語版を出した当時は、まだドイツ語には翻訳されてなかったと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


エリンとフリーダムライターズ『フリーダム・ライターズ』

フリーダム・ライターズ

ハリネズミ:この本の構成が最初よくわからなかったんですね。「日記へ」という言葉があるんだけど、これはなに? 先生が何か書いて、それを受けて生徒が日記へとつなげていくってこと? 日記を書いている一人一人全部違うのか、同じ人物もいるのか? どうまとめていったのか? など、頭の中に疑問符をうかべながら読んでいきました。最後まで読むと、全部違う生徒が書いていることはわかりましたが。もう少し最初に説明が会った方がわかりやすいと思います。内容的には、『ジャック・デロシュの日記』とは反対に、みんな希望を見つけていくんですね。その希望の見つけ方も150人それぞれで、大きくジャンプして希望が見えてくる子もいるし、表向きは変わらないけど自分を再確認することによって希望を見いだす子もいる。そして途中には、だまっていないで声をあげることが大事というメッセージが流れている。
教師ががんばって、だめな生徒たちやクラスを立て直して行くという話はよくありますが、これは生徒の側からの直接の声が聞こえるのでいいですね。これは翻訳だからしょうがないのだけど、原文だともっと口調にそれぞれの子の特徴が出てるんじゃないかなと思います。この訳はわかりやすいし、少しずつ変えて苦労しているのは見えるんですけど、言い方の違いみたいなことまで出して行くのは難しい。だから、5人くらいが交替で書いているのかな、と最初に思っちゃった。
私が個人的に引っかかったのは、ホロコーストに関する部分です。340ページに「第二次世界大戦〜いかに似ているかを学んだ。〜訴えていることも知った。」とありますが、意地悪く見れば、このユダヤ人の先生は、現在のイスラエルが加害者になってしまっていることまでは、生徒たちに語っていないようです。それによって、この本が伝えんとする一種の理想主義がちょっと薄っぺらくなってしまっていると、私は思ったんです。あとね、今のアメリカの貧困地域の公立学校の実情が、この本を読むとよくわかりますよね。

山北:私は『ジャック・デロシュの日記』のときに、ミステリータッチのフィクションで重い問題を扱うことに不安と迷いを感じていたので、どんなテーマであれ、この本のように本物であるということは説得力があるなあと思いました。読み始め、この本がどういう構成なのかわかりにくかったので、先に説明があった方がすっきりするタイプの本だと思います。日本版を刊行するにあたって、冒頭の「覚書」あたりに日記プロジェクトの説明を加えていたら、もっと身を入れて読めたように思います。日本人はアメリカの高校生っていうと華やかな部分を想像すると思うので、スラム街でいろんなことをあきらめている人がいることを知るだけでも重要。日本で虐待に遭ったりチャンスをもらえないでいる子たちにも意義ある本になると思う。日本だと、つらい目に遭っているこの比率がここまで高くないので、周囲に相談を持ちかけづらいと思うんですね。その子たちに、150とおりの問題、その解決のヒントが届けば意義深いと思いました。生徒自身が、それも日記という個人的なものに書いた文章であるだけに、読者もかまえがとれると思うんですね。読後感もよかったです。

メリーさん:アメリカらしいサクセスストーリーで、とてもおもしろかったです。文章で自分を表現できるということを知った時の、子どもたちの姿がとても素敵でした。「書く」ということは、「話す」以上に、自分と向き合い、他人に伝える努力をする。それが自分も、自分のまわりも変えていくいい例だと思います。そうやって考え、伝える努力をした結果、遠くはなれたサラエボの戦争についても、自分の身近な問題と関連づけて考えることができるようになる。「書く」ということを武器にした子どもたちはすごいなと思いました。

サンシャイン:この先生が新任で、やる気のない先生たちの中で頑張ってやっていったというところが、おもしろかったです。9.11前なので、またアメリカの現状は変わっているかもしれませんが。宣戦布告なき戦争、人種の対立など、21世紀に入る前のアメリカのひとつの姿。アメリカって人間が「なま」だなあとつくづく思います。日本の場合は、「なま」にはなかなかなれないで、回りの人の目とか世間体とか常識とかによって、ほんわかと包まれている。若い頃住んでいた時はおもしろくもあったのですが、年をとると住むのはつらいなと思っています。

ハリネズミ:人間が「なま」って、どういうこと?

サンシャイン:うう、なんというか、はっきり言えば男と女の問題ですけど。欲望のままに行動するというか。日本では世間体があるからそうしようかと思っても行動に移せない、やっぱりやめておこうかといった判断をさせる空気があると思います。それに対してアメリカにはある種むき出しの人間がいる、という感じが否めません。

メリーさん:すごいことまで告白していますよね。ここまでいくには相当時間がかかっていると思うんですが。自分の「なま」なところまで出したものを、あとから編集しているんだとは思うのですが。

ハリネズミ:昔、日本にも綴り方教室なんかの運動がありましたよね。「書く」という教育でいろいろ引き出せるってこと、あるんですね。

サンシャイン:日本の綴り方教室の時代に、どこまで書かせていたのかはわかりませんが、この本でいえば書かれていることが赤裸々だってことかな。それから、いい先生を徹底して持ち上げる文化、サポートして資金も援助してっていうところがすごいですね。奨学金がつくとか。コンピュータを35台でしたっけ、寄付してくれたり。初任から同じ生徒を持ち上がった4年間で、彼女もある意味のしあがったわけでしょう。たぶん日本の職場では、こうはうまくいかないと思いますよ。嫉妬やら、足を引っ張ることがあったりして。それがさっき行ったほんわかと包まれていることのマイナス面ですね。集団の中で目立たせないという空気です。

ハリネズミ:ここまで徹底的にやって評価されればいいけれど、そこまで行けないとアメリカでもきっと批判されますよ。

サンシャイン:この先生の心の中に差別意識がないこと、ラベルをつけて一くくりにしないことが素晴らしいです。9.11後だったら、もっと違ったかたちになったのでは?

紙魚:私は、9.11前でも9.11後でも、書く内容には多少の影響が出たかもしれませんが、目の前のあまりにも苛酷な状況に必死で、なかなか視野を広げられなかった高校生たちの目がどんどん開いていくということには、変わりはなかったように思います。

サンシャイン:それから、宗教的なことがいっさい出てこないところがおもしろかったですね。

ききょう:目が離せない本でした。いろんな思いをさせてもらいました。いろんなというのは、私自身が教師なので、学習指導・児童指導はもとより、様々な報告やら何やらで本当に現場はものすごいんですね。やればやるほど仕事がきます。ひとつは、この先生に対するうらやましさと、いったいどうやって時間をやりくりしていたんだろうということ。週末もアルバイトをやっていて、時間のやりくりが相当大変だったはずです。そういう点からも彼女の情熱を感じました。同時に彼女の周囲の非協力的な人やねたみが、非常に現実的に感じられました。残念ながら今の日本ではこうはできません。それが痛くもあり、いろんな思いをかきたてられました。とにかく、私が置かれている状況では、出る杭は打たれるんです。先生のクラスだけ違うことをやっていると言われる。「あの先生のクラスでいいなあ」と思われることがよくない。親も、「あの先生だったらやってくれるのに」と言ったりするので、こういうふうにやってみたくても絶対にできないんですね。私ももっと子どもたちにやってあげたいことがあるのに、様々な軋轢でできないでいるので、複雑な気持ちで読みました。私が初任で行った中学校は、家庭的な問題を抱えている子どもが多かったのですが、荒々しい言動の奥に、「ぼくを見て」「私を見て」という本音だったり甘えだったりがあったのを思い出しました。学校教育って、本当はこうしていかなければならないなと、教師という立場で読んでしまいました。
それから、日本にも、「書く」ことの力をつかって一歩踏み出していく教育が行われていたんですけど、今の国語の学習は「書く」より「話す」なんです。内容がないにもかかわらず、話すテクニックばかりを身につけていくんです。中身をどう掘りおこしていくのかということが大事なのだけど、それをこの先生はやっているなと思いました。また、授業の中で生徒たちによく本を読ませ、そこから様々な活動をスタートさせている点に感銘を受けました。今、日本で行われている子ども向けの読書推進というと、本の冊数だったり、時間だったりするんですね。本を読んだ先のことはあまり問われないんです。『アンネの日記』のようなスタンダードな本が可能性をもっているということを感じて、励まされました。「書く」ことって子どもには大事ですね。私は「日記へ」というのは、75ページのところで、「『アンネの日記』などが出てきますが、日記に向かって書くというスタンスなのだと解釈しました。日本の国語教育は、いろんなものを掘りおこしていく可能性があると思って、1冊紹介します。朝読が言われはじめたときに、国語の書かせる授業のなかで出していた「高校生新聞」というのがあるんですね。タイトルは、『私の目は死んでない!』(評論社)です。当時入手したときには、日本の作品のなかでは画期的でした。『フリーダム・ライターズ』とくらべると、ステーキとおすましくらいの違いはありますが。書くことは、自分の見方がかわっていくという、すばらしい行為なのだなと思いました。私にとっては、大切な本です。

げた:文学としてというより、記録として読みました。カリフォルニアって、こんなにすごい状況なんですね。確かにそういえば、ピストルの撃ち合いとかあったなと思い出しました。長男が高校生のときにホームステイしたんですが、ほとんど白人ばかりでこういう経験はありませんでした。感動した点が二つあります。まず一つは、この先生がすごいなと思いました。子どもたちをとんでもない現実から救い出すには、とにかく、経済的に自立させるために大学へ進学させることを目標にしで、それを本当に実現しちゃった。すごいですよね。ほとんどの子どもたちが、高校を卒業した家族がいないという状況で、ですよ。もう一つは、「寛容」という言葉です。偏狭な民族主義はいちばん嫌いなんですが、自分の考えにもぴったりきました。それからこの「フリーダムライターズ」の根源が、図書館のブックリストにとりあげている『ローザ』(ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書)からつながっているんだということについても気づきました。

うさこ:活字の力が、生きる力を呼び覚ます、といった内容でとてもよかったです。読み進むにつれ、夢とか希望とか明るい方向へ向かっていくことが読んでいて爽快でした。日記を通して、自分と向き合うことで自己回復していくさまがよく伝わってきます。日記を書くってなんだろう、と深く考えてしまいました。書いてる生徒一人一人、それぞれの状況や立場は違うのだけれど、一つ一つのエピソードがうまくつながって1冊の本として完成している。これはノンフィクションの強さだなと思いました。残念だったのは、日記一つ一つに番号がついているけれど、まるで囚人番号か何かのようで冷たい感じがしました。例えば、ニックネームでもペンネームでもいいので名前をつけてほしかったです。それと、日記の語り口調がどれも同じ。150人の感性や個性もあるので、個々の語り口にしてもよかったのかなとも思いましたが、本の形で読者に読ませるには、ある程度、平らにならさなければいけなかったのでしょうね。

紙魚:この本は、150人の日記を編んでいるので、読みながら、散漫なものをよりあわせて総括していく作業が必要ですよね。なかなか辛抱が必要だともいえるのですが、でも、これを先生の成功物語のようなフィクションにしてしまっては、この感動は得られなかったのではと思いました。言ってみれば、フィクションよりもずっと嘘みたいな話です。でも、日記という現実に書かれたものであるという重しが、これだけの説得力を持たせてくれました。それにしてもこの先生は、授業の設計が見事! 最近、「話す」力もそうですが、「読む」力というのもよく言われていますよね。でも、「書く」力の大切さってほとんど聞きません。自分が手紙を書いたりするときに、いやというほど実感するのに。私自身も「書く」ことを続けようと思いました。

みっけ:とてもおもしろかったです。彼我の差についても、実話とフィクションについても、本当にいろいろ考えさせられた本でした。それにしても、生徒たちの内面が実に見事に変わって、軽々とハードルを越えて育っていく様子は、ああこれが若さなんだろうな、とまぶしいくらいでした。そういう意味で、この本を読んだ人たちは、生徒たちと教師のがんばりや変化、そしてそこに加勢する人々の行為から、アメリカンドリームを再確認できるんじゃないでしょうか。そういう意味で、アメリカでは大いに歓迎される本だろうなと思いました。もちろん日本人にも、十分おもしろく読めるわけですが。実話に基づいているだけあって、最初のうちは、ちょっと散漫な感じで長いなあと思ったりするんですが、その散漫な感じや長いなあという感じがないと、後半のぐぐっと変化していくところ、高まっていくところが生きてこないんですね。この構成も、現実をかなりうまく表現していて、感心しました。みなさんがおっしゃるような活字の力もですが、わたしはそういう活字を手渡す人の力も感じました。この先生は、『ロミオとジュリエット』のことをチカーノとブラックのギャング団の話なんだ、みたいなことをいったりするわけで、そうやって文学と生徒とをつないでいく。本好きではない子の場合、こういう仲介者がいて初めて活字と向き合えることだってあるわけです。
この作品には、いい材料、つまりよい文学作品とうまくそれを手渡す人と、もうひとつ、教室マジックがあると思いました。1回こっきりの講演などとは違って、クラスというのは、同じメンバーがある程度定期的に同じ教師と向き合って、授業の内容(この場合は文学作品やものを書くこと)に向き合わざるを得ない装置です。こうやって同じ方向を向くという経験を繰り返していくなかで、作品の中で「家族みたい」と書かれている雰囲気が生まれ、それがまた文学との出逢いを深いものにしていっている気がします。それと、書くことの力という点については、この子たちがある程度書けるようになるまでも、かなりの時間や教師の働きかけが必要だったのでしょうが、とにかくそれぞれがそれなりに文章を書けるようになり、自分自身を出すようになってから、今度は互いの文章を編集させるんですね。この本では206ページで、編集がはじまった、という話が出てくるんだけれど、それぞれの書いたものを、同じ場を共有している子が読んで編集する、という作業が始まる。これは大きな変化だと思うんです。編集することによって、同じ教室にいる子の感じていることがわかってくる。つまり、203番教室に来るまでは、自分一人で孤立した部分を抱えていた子どもたちが、まず、アンネ・フランクをはじめとするさまざまな文学作品の中の人物に向かって、自分と同じ事で悩んでいる、苦しんでいる、喜んでいる、という形で開かれ、絆を感じ始める。それが今度は、同級生の文章を編集するという経験を通して、匿名とはいえ、もっと身近な人に向かって開かれて、絆を感じ始める。さらにここにきて、読む自分と書く自分がひとつになって、読むことや書くことの意味をさらに深く実感するようになる。実に周到に組み立てられた授業ですよね。本当に感心しました。ただ残念なことに、日本ではこういう実践は難しいだろうなと思いました。学校内の事情もあるし、社会風土も違うし。あと、みなさんもおっしゃっていたけれど、日本語の文でももうちょっと個々人の個性が出ていると、さらにわかりやすかったなあ、と思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年2月の記録)


岩瀬成子『そのぬくもりはきえない』

そのぬくもりはきえない

メリーさん:『時の旅人』を最初に読んだので、それと比べるとこの本は描写がちょっとものたりないですが、日常ととなりあわせのファンタジーとしておもしろいと思います。この本の「売り」は、現代の女の子というところ。いい子というか、優等生というか。お母さんにはなんて言おうとか、友達はどう思うかなんて、まわりに気をつかってます。最後ではそんな目をふりきって水族館に冒険し、ちょっとだけ変わるのがいいですね。

ジーナ:ひきこまれました。あれこれ論じたくないほど好きでした。最後、真麻ちゃんが水族館に迎えにくるところや、朝夫くんの作文を見つけるのはどうかなと思わなくもなかったけれど、情景描写や波の心理描写がていねいでため息がでました。会話もとても自然で、どの人物も奥行きがあって。いつもお母さんが正しいと思ってしまい、自分の言葉をなくしていた波の気持ちが手にとるようにわかるし、波が自分のしたいことを言えるようになってきて、お母さんも変わっていくあたりもいい。子どもに希望や勇気を与える本だと思いました。

ウグイス:私も好きな作品でした。波の気持ちがよくわかるし、まわりの人物もよく描けている。特に女の子の世界をうまくとらえていると思います。お誕生会でかくれんぼをするシーンの、女の子同士の微妙な力関係にとても臨場感があっておもしろかった。中でも真麻は、とても魅力的な女の子です。波が反発しようと思ってもできないでいる事に、真麻は正面から立ち向かっています。他人に寄って立たない自立した子どもで、まぶしい力強さがありますね。この年頃の子どもの感覚をとてもうまくとらえています。大人たちも子どもの目を通して描かれているので、波のお母さん、お父さん、おばあさんに対する気持ちが、描写は少なくても、関係性がよくわかります。犬を飼っているおばあさんや、ヘルパーさんなども、人物像がよくわかる書き方がしてあります。『時の旅人』と同じように時間のファンタジーで、昔住んでいた人との交流を描いていますが、波の側から考えれば、本当に心を分かち合える友だちを求めていたために、古い家の昔のままの部屋に行って朝夫に出会うのはわかるけれど、朝夫の側から見ると、何で出てきたのでしょうね? そこがちょっとわかりませんでした。最後の手紙は、ちょっとやりすぎって気もしますが……。時間のファンタジーはつじつまを合わせるのが難しいけど、あとはそれほど大きな破綻もなくうまく描かれていると思います。

アカシア:『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス、岩波書店)を思い出しました。ピアスのオマージュとして書いたのかなって思ったくらい。朝夫くんなんて名前からして古くて、現代の子じゃない雰囲気がありますね。波と朝夫が会話を重ねていくうちに、心を通わせていく経過もとてもうまく書けています。トムは夢の中に入って行き、バーソロミューおばあさんのなかにも少女の部分があることを発見するわけですが、岩瀬さんのこの作品にはそれだけじゃなく、波がそこから力を得てまた歩き出すところも書かれています。手紙は、波が自分の気持ちを整理するうえで必要だったんじゃないかしら。おとなが読者だと、そこまで書かなくてもいいかもしれませんが、子どもが読者の場合は、あったほうがずっとメリハリがはっきりするんじゃないかな。朝夫の側からの波と出会う必然性ってことですけど、朝夫は学校でいじめられていて、そのせいで今は怪我しているわけですから、やっぱり心を分かち合える友だちを求めていたんじゃないでしょうか。岩瀬さんは、瞬間、瞬間をうまくとらえて描写していますね。

うさこ:とても不思議な余韻に包まれる作品だなっていうのが、読んだあとの感想です。読んでいる間、なんだかぼんやりとした霞の中にいるような気分になりました。ちょっと幻想的。でも、そこがいいんですね。なぜ波は朝夫くんと出会ったのか、なぜ水族館で別れたのか、などについては少々疑問も残るし、ファンタジーの入口、出口の規則性がないような気もしましたが、それを超えたところに、この人の作品世界があるんだなって思いました。あんまり分析するものではなくって、こういうのもありだなって、自分のなかに落ちました。今の子どもたちが読んでどう思うだろうと考えたとき、ファンタジーを受け入れる成熟した感性や土壌が要求される作品かもしれないなと思いました。波を中心とした人物との関係性がとってもうまく書かれていて、この点もうまいと思いました。最初に登場するカマキリのエピソードは、波の人物をあらわしているのかなっと思ったけど、その明確な答は物語のなかになかったような気がします。

サンシャイン:『トムは真夜中の庭で』をずっと考えながら読んでいました。2階の朝夫くんに会いにいく理由づけがちょっと弱いかなって思いましたが、波の成長のほうに重点があるのでしょう。トムのほうは、時計が13回鳴って異世界に入るよっていう境界線がきちんとありますよね。その点、それがあまりないのが、日本的なのかなとも思いました。

アカシア:『時の旅人』はイギリスの作品ですが、もっと境界線がないですよね。だから境界の有無をもって日本的かどうかは言えないのでは?

ウグイス:この家の2階は、息子が出ていった時のままになっていて、おばあさんは今は全く2階には行かず、そのままになっているわけですね。私もそういう家をいくつか見たことがあるけど、その部屋にはいると昔の情景がよみがえるような感じって、ありますよね。

クモッチ:最初のカマキリのエピソードで、私はちょっとひいちゃったんですね。主人公の波がカマキリの死骸を友だちの机に悪意なく入れる、というのが、低学年の子だったらわかるのですが、4年生だとするとちょっとずれる感じ。でも、朝夫くんと波との交流は、感動しました。「今」に対して消極的なところで二人は共通している。波は、お母さんの言われるままになって積極的に自分の未来を描けていない。朝夫くんも、いじめられて学校に絶望していて未来が見えない。そんな二人が(お互い未来、過去を行き来していることを何となくわかって)出会うことによって、波の方は、朝夫くんの今、ピアニストになっている今を知っているから、波自身の未来についても見えてくる、というか見ようとする。朝夫くんの方は、ハムラーと一緒に未来を見て、今は苦しいけれど、未来につながる確かな「時間」を感じて、生きよう、という気がおこってくる。282ページに「ドアをあけるとき目をつむって、外に出て目をあけたら、ぐるっと時間がまわって……」とあって、ハムラーにあてた手紙に、朝夫くんが水族館を見て生きようと思ったことがわかります。それで、朝夫くんの姿が消えたのですね。二人が、お互いの姿を見ることで、未来への希望を見いだしているというところが、すごくいいと思いました。時間をこえて二人が出会った意味があるな、と。

げた:波と朝夫くん出会った意味ってのが、よくわからなかったんです。波ちゃんってのはあまり元気のない子なんですよね。何か、はかなげで、いつも思い通りにはいかなくて。ちょっと、元気づけてあげたくなるような。そんな子が朝夫くんと出会う意味ってなんだろうなって。今、クモッチさんの話聞いて、なるほどって思いました。表紙の酒井さんの絵は個人的にいいと思ってます。

アカシア:私も岩瀬さんの雰囲気にぴったりでいいと思うし、好きなのですが、表紙に描かれた少女は主人公よりはずっと幼いですね。

サンシャイン:おばあちゃんが後半元気になりますよね。最初は、生きがいもなく捨てられたような老人かなと思いましたが、波との交流を通して血がだんだん通ってくる感じがあってよかったですね。

ウグイス:おばあさんと朝夫君の親子関係はどんなだったのか、過去に何があったのかわ、よくわからないですよね。

アカシア:波ばかりでなく、このおばあさんも朝夫くんの気配を感じたんですよね。それで、再び家族がいる感覚を思い出して、一緒に住むことを考え始めるのでは?

ウグイス:それから、犬もうまくつかっていますね。さりげなく色々なものを結びつける存在になっている。犬が出てくると何かほっとさせる役割もあって、うまいなと思いました。

うさこ:犬は、過去を振り返らず、「今」という時間だけを生きている存在ですね。

サンシャイン:ピアノの音がおばあちゃんにも聞こえている所がありますよね。息子は死んでしまっているけれどピアノの音は聞こえるという設定かと思いましたが、実際には朝夫君は生きている。もしかすると、作者はそういうありがちな話にしたくなかったのかもしれません。

小麦:数分間に1回事件がおこったり、不思議なことが次から次へとおこったりという、最近のつめこみ型、ストーリー先行型のファンタジーの逆を行く作品ですよね。導入がていねいに描かれていて、ファンタジーに入っていくまでがわりに長い。一見、ストーリーと関係ないように思える出来事とか、波の感情とかがゆっくりとしたテンポで丹念に書いてある。そのテンポに沿って読むことで、ぬるいお湯にゆっくり浸って、物語世界の体温を自分のものにしていくような心地よさがありました。波の世界にすっぽりくるみこまれるからこそ、不思議な出来事も自分に起こったことのように素直に入ってくる。「こういう読み方って大事だよなー、時間がたっぷりあった子どもの頃って、こんな風に読んでいたよなー」ということを思い出させてくれた作品でした。造本もこの本のムードにぴったりですね。色使いとか、見返しの色とか。ただ、ラストで朝夫くんが現実にいるってわかっても、波は会いに行かないんですよね。私が波だったら、きっと会いに行くんじゃないかな。好奇心を抑えきれないんじゃないかなぁ……。

アカシア:波は心の中に抱えていたものを乗り越えたわけだから、会わなくてもいい。会いにいかないっていう可能性もあると思うけどな。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


アリソン・アトリー『時の旅人』

時の旅人

サンシャイン:描写が細かい作品を、久しぶりに読んだという感じ。最近のものはもっとスピーディーで、描写が丁寧だとなかなか読者がついていけない時代かもしれません。私もすらすらとは読めませんでした。せっかくの描写を丁寧に読まなくては、と思って心して読みました。昔に入りこんじゃう話ですが、作品としてはピアスより先なんですね。でも、こちらのほうは、過去の世界と今の世界が混在していて、その境目がはっきりしないです。そういう作品もあるんだなと感じました。時代考証などきちんとしてあるんでしょうが、詳細は我々にはわからない所があります。

アカシア:情景描写や、当時の人たちの暮らしぶりがとても細かく書いてあります。昔の人は、プロットの展開が早い物語より、こういうじっくり描写してある作品の方がおもしろかったんだとおもいます。ただしこの作品には、内面的な描写はあまりないんですね。メアリー・スチュアートは、まあ日本で言ったら義経みたいなもので、向こうの子どもは悲劇の主人公としてだれでも知ってるんでしょうけど、日本の子どもにはそれだけのイメージはありません。なので、イギリスの歴史に興味を持っているおとなには楽しめる作品だと思いますが、日本の今の子どもたちには難しいでしょうね。もちろん中にはこういうのが好きな子もいるとは思いますが。それから、アンソニーが自分の命がかかっているような秘密を、よくは知らないペネロピーに話すわけですが、そこはリアリティに欠けるんじゃないでしょうか?

ウグイス:ざっと読んでしまうのはもったいない、一字一句、味わいたい本ですね。懇切丁寧な情景描写をじっくり読むことによって作品世界をありありと思い描くことができる本。でも今の子どもたちが手にする本の中には、ここまで細かいのはなかなかないので、読み進むのはむずかしいのではないかと思います。この文庫には小学校の高学年くらいから読める作品が入っていますが、映画やテレビなどでこの時代のことを観たことがないと、映像的に思い描くのは難しいのでは? イギリスのマナーハウスや古い家に行った時に、時代を遡るような不思議な感覚にとらわれることがあるけど、『そのぬくもりはきえない』のように日本家屋が舞台の場合と違って、ああわかるわかる、という感じにはならないでしょう。あと、この作品でよかったのは、農家の人たちの地に足をつけた暮らしぶりがしっかり描かれていること。国も時代も違うけど確かに生きているという感じがして、この存在が作品に厚みを与えていますね。

クモッチ:確かに、ボリューム満点という感じですね。最初、ピアスよりもこちらの方が後に書かれたのかな?と思って見てみたら、ピアスよりずっと先だったんですね。ということは、ピアスが影響受けたりしてるんだろうな、と襟を正してしまいました。おもしろかったのですが、この作品で過去に行く意味は、今使っている物が昔も使われていることから、時間が続いているのを再認識するということなのでしょうか。主人公のペネロピーは、歴史を変えられないということを背負っているために、過去に行っても主体的に何かをするという訳ではなく、その時代を見る目としかなりません。そのうち、未来に対する自分の記憶も曖昧になってしまったりして。その辺がもどかしくもありました。

ジーナ:岩瀬さんの本の次に読み始めたんですけど、途中で進まなくなって、あわてて高楼さんのを先に読みました。そんなわけで、この作品は途中までしか読めませんでした。それにしても、このシリーズの字の小さいこと! 今どきの大人の文庫より小さいですよね。前に読んだのは、評論社版だったのですが、あのときは一気に読んだおぼえがあるんです。なぜだろう? 前は、ぺネロピーが最後どうなってしまうのか知りたくて読み進んだのだと思いますが、今回読んで、こんなに細部の描写が細かかったかとびっくりしました。ひょっとして、評論社版の訳はどこか短かくしていたのかしら?

アカシア:松野さんの訳はとてもていねいでいいのですが、ですます調なので、余計長く感じるのかもしれませんね。

ジーナ:昔のことを語るような口調ですよね。非常に読者を選ぶ本だと思いました。はまる子ははまると思いますが、男の子は入りにくいのでは?

メリーさん:ぼくは男ですが、実は手に取ったのは初めてだったのに、とてもおもしろく読みました。みなさんが言うように、現代の子どもが読むのは大変だと思いますけど、好きな子は逆にのめりこむと思います。圧倒的な描写の力。台所や食べ物の描写、ハーブについてのくだりとか。まさに匂いがしてきそう。タイトルがSFみたいなので、どんな装置でタイムスリップするのかと思ったのだが、ぼくたちが名所旧跡に行って過去に思いをはせるときに、風景がパーッと変わっていくような、そんな感覚に似ていました。そういう心の動きがファンタジーの入口になっている、というのがおもしろい。ロケットを見つけるところも、過去の人物との関係を大切にする主人公のけなげな感じがとてもよかった。

げた:ごめんなさい。指定の本じゃなくって、評論社の小野章訳を読んできました。児童室の棚にあるんですけど、読み直してみて、これは小学生ではむずかしいなと感ました。書かれたのが、70年近く前ですから、そこからまたさらに過去へとワープしなくちゃいけない。現代の読者には、二重に想像力が必要となるんですよね。そこが難しいと思いましたね。それに、イギリスやヨーロッパの歴史についての基礎知識がないと、読み進むのは大変かな。

ジーナ:ヨーロッパは石の文化なので、昔の建物が今も使われていることが多いですよね。普段そういうものを目にして、今の生活ととなりあわせに歴史を見ている西洋人と、古いものがほとんどないような日常を生きている日本人とは、歴史との距離感が違うのかもしれないですね。

ウグイス:今の日本では、文化財指定になるようなものは別として、日常的に何百年も前の家を目にすることはないでしょう。イギリスでは普通の人が家探しをする場合でも、古いものほど良いというのがあるけど、今の日本ではみな新しいものを求める。そういう意味で違う価値観なのでは。

アカシア:日本は地震があるものね。『トムは真夜中の庭で』の舞台になってる家も古い家だし、ルーシー・ボストンの「グリーンノウ」シリーズの舞台は12世紀の初めからある家で、そこに実際に今でも人が住んでるんですからね。

小麦:余裕のない読み方をしたせいか、私は入り込めなくて残念でした。物語が最初から破滅に向かっていて、主人公も何かを変えられるわけではない。あらかじめ結果のわかっている物語を追うっていう構造がだめだったのかもしれません。アトリーならではの緻密な描写は素晴らしかったんですが。でも、『そのぬくもりはきえない』では物語世界を立ち上げるのに、ディティールやエピソードが丁寧に描きこまれているような感じたけど、これはそう思えなかった。ディティールの書き込みの比重が、ストーリーの展開よりもはるかに勝っていて、それぞれがうまく絡みあわずに別個のものとして乖離しているような印象がありました。いいなと思ったのは、かなりの数の単語を文中で説明するんじゃなくて、注釈処理にしているところ。例えば「ポセット」という言葉ひとつとっても、そのまま残すことで、音の響きも含めて想像力が刺激されるし、物語の雰囲気も高まる。子どもがすらすら読めるようになんでもかみくだいて説明しちゃうのって、必ずしもいいことではないんですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


高楼方子『緑の模様画』

緑の模様画

クモッチ:3人の女の子が出会って成長(?)する話。思い返すと、この時期というのは、自分がいいなと思う物について「そうだよね」って答えてくれる存在や、素敵だなと思う部分を持つ存在を、親などから離れたところで発見していく時期なんですね。そして、未完成な部分もたくさんあって、不用意なことを言って友だちを傷つけてしまうこともあったり、自分が傷ついたり……。それが、その後の人生でも大切な財産になるのでしょう。作者は、そういう「友情」が好きなんだろうな。中、高学年向けのこの作者の作品を読むと、それを感じます。独特な世界を持っていますよね。ただ、この作品では、「透さん」というのがわからなくて、どうして3人のところに現れ、助けることまでできたのか。『小公女』を妹たちに楽しく教えた時代に戻りたかった? それだけだと説得力に欠けるし、ちょっと気持ちが悪い。そこに違和感がありました。あ、あと、この作品は、章ごとに視点がかわるんですよね。1章がまゆ子、2章がアミ、3章が透さん、4章がテト。それを不自然にならずに書いているのがすごいと思いました。もう少しこの効果があらわれても良かった気がしますが。

アカシア:私は『小公女』という作品も好きじゃないし、いわば少女っぽいフリルのついた憧れっていうか、乙女チックな世界が個人的に嫌いなんです。だからなのか、素直に入り込めなくて、やっぱり高楼さんは小さい子向けに書いた作品のほうがずっと楽しいな、って思ってしまいました。テトとアミとまゆ子という3人の少女の個性もあまりくっきりしていないし。若さの時間にいる人と、老いの時間にいる人が出会うという設定はおもしろかったんですけど。

うさこ:高楼さんの作品はどれも好ましく読んで、わりとファンなので、これも楽しく読みました。少女向け小説、少女文学として無理なくほどよく清潔に書かれたものだなって思いました。少女から少しずつ大人へと成長していくみずみずしい感覚と、ちょっとあやうい、もろい面を持ちあわせる少女たち。謎の青年に出会うときのファンタジーのスイッチのオンオフがはっきりしていたので、3人いっしょだからまた不思議なことがおこるかも、と期待感をもって読めました。大人の描き方っていうのも、わりにすてきかな。ミズネズとかまゆ子のお母さんとかも、完成された大人じゃないけれど、すてきな人物として登場する。森さんもそう。アミの両親の奈良のシカのエピソードなんか、すごくおもしろくて、このあたり、高楼さんのユーモアが出ています。透さんの3章は、ちょっと「ええっ」てひいちゃっいました。75,6歳のおじいさんにしては、少々メルヘンチックかな。透さんが純日本人じゃなくてハーフだとしたらもっと納得できるかもしれません。この作家の感性のみずみずしさは、情景描写の描き方や、人物の様子を書き表すのが説明的でなく上手で、すっと読み手に伝わって入ってくる。自然のうつりかわりの描写もよくて、好きでした。

サンシャイン:私もおもしろく読みはじめました。謎があるのかなと思わせながら、同一人物のような違うような青年が出てきます。女の子たちの心の働きはよく書けていると思います。ミステリアスなちょっとすてきな青年が現れて、女の子たちが本当は惹かれているんだけど、好意を示してはいけないと思ってわざと無視するっていうのはよく書けていると思います。私も第3章に入って白けてしまいました。説明しすぎという印象。老人の人生をたどろうとしている所は計算が先に立っていて、あまりいただけません。

げた:3人の会話や関係がとても新鮮でした。少女趣味ということになるのかもしれないけど、男同士にはないものなので、こんな世界もあるのかと興味深く読みました。『小公女』がキーワードですが、中身は、あまり関係ないですよね。『小公女』を読んだ頃のことが忘れられないおじいさんが、たまたま同じバスに乗り合わせた少女たちの会話の中の『小公女』ということばに引き込まれたことから、このファンタジーが始まるわけなんですよね。『時計坂の家』(リブリオ出版)は、おばあちゃんの過去の謎にせまるような話だったと思いますが、身近な人の謎解きのようなファンタジーもいいかな、と思いました。

小麦:高楼さんの作品ってすごく好きなのですが、色々な引き出しがある中で惹かれるのは、やっぱりユーモア路線。今回の乙女路線は、少女期の渦中にいる時に読んだらきっと夢中になったんだろうなあ……という感じ。大人になってしまった今では、その甘さが鼻についたりもするんだけど、この「きれいなものは、きれい」というきっぱり自己完結した、ある意味閉ざされた世界観というのはわかる気もします。自分たちだけの世界にすっぽり包まれて幸せ、というような。でも、大人の私が読むと物足りなかったです。ちょうどこの本を読んだ後で、『対岸の彼女』(角田光代著 文芸春秋)を読んだんですけど、あの作品では、二人の少女が自己完結した世界のなかで仲良くなって、暴走して、家出して、事件をおこす。それから時を経て、主人公が現実を生きている今が描かれています。主人公が経営する小さな会社では、社員がクーデターをおこしてやめちゃったりして、結構ハードな現実なんだけど、学生時代の濃密な時間や思い出が、一歩踏み出す強さを与えてくれている。そこがすごくいいなと思ったんです。でも、『緑の模様画』は、甘く心地いい空間が描かれているだけで、そこから踏み出す強さや現実が描かれていない。そこが物足りなく感じてしまったんだろうなぁと思います。

うさこ:この丘の上学園という限られた守られた特別な世界。

アカシア:現代の吉屋信子って感じ。

クモッチ:でも、ここまで幅広く書けて、絵も描ける力のある人は、ほかに見当たらないと思いますよね。

メリーさん:設定は、少女小説や少女マンガにとても近いですね。乙女的、閉じた空間というところはありますが、時間と空間の描写はおもしろい。過去と未来を行き来する感じが、とても軽やか。『ゾウの時間ネズミの時間』(本川達雄著 中央公論社)ではないですが、人間は時間に束縛されているのではなく、自らが時間を作り出していく。時間は自分が決めるものなのだと、この作品を読みながらつくづく思いました。

ジーナ:少女趣味なところは、私も好きではないのだけれど、作品全体としては、とてもいいと思いました。立ちあがってくるイメージがおもしろく、場面が目に浮かんできます。たとえば、47ページ「かかとに体重をのせ、ふんふん、とはずむように歩く、しっとりとした夕暮れの道は……」のような表現は独特ですよね。ほかにもあちこちこういう表現が出てきて、うっとりしました。私も、この本の一つのテーマは友情だと思うんです。まゆ子、お母さん、森さんという、3世代の友情があり、さらに大人の友情の中に、ずっと離れていても、あったときに通じ合える関係を描くことで、まゆ子たちの友情にも希望を感じさせてくれていると思いました。また、まゆ子が小学校のとき学校に行けなくなるけれど、中学になってなんとなくその危機を乗り越えるというところ。私はここで、大人の善悪を押しつけない、「べき」だとか「こうじゃなくちゃ」という規範的な目がない書き方が、とてもいいと思いました。なんでも答えを出して、白黒つけなくても生きていけると思わせる書き方です。視点をずらせるのもうまいんですね。目の前に見えることだけじゃなくて、不思議なことがひそんでいるとか。こういう、リアルなものにひねりを加えたおもしろさは、高楼さんのほかの作品にも共通していると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年1月の記録)


アン・ホワイトヘッド・ナグダ『ひげねずみくんへ』

ひげねずみくんへ

みっけ:ネットには、けっこうおもしろいと出ていたのですが、私は今ひとつピンときませんでした。後の方で、主人公の女の子がクッキーをつかって年下のクラスの子たちをひきつけていくところから関係がほぐれてくるのは、なるほどなと思いましたが、今ひとつこちらに迫ってこなかった。

ネズ:上級生と下級生が手紙を交換して、それによって国語の勉強をするというアイディアはおもしろいと思いました。主人公の4年生が手紙を出す相手がサウジアラビアからの移民という設定ですけど、上級生が一方的に下級生を指導するのではなく、後半になってサウジアラビアのことも学んでいくという姿勢も出てきたので、良かったと思いました。「移民の子」が、最近は日本でもめずらしくなくなり、小学校でも昔と違った問題が出てきたり、いろいろな取り組みをする学校が増えてきたんでしょうね。それがこの本を出版した動機でしょうか。
ただ、設定が非常にわかりにくく、最初の部分を何度も読みなおしました。4年生の子がネズミになって2年生の子に手紙を書き、2年生の子がそのネズミ宛に返事を出すんだけれど、4年生の子の名前、ネズミの名前、2年生の子の名前、さらに4年生の子の友だちが考えたネズミの名前、その手紙を受けとった2年生の子の名前……と、いろんな名前がごちゃごちゃになって、わけがわからなくなる。こういう作品の場合、原文になくても最初に設定がわかるように書いておくべきだと思いました。それから、とかくこういうテーマのものにありがちだけれど、移民の子の祖国について触れていても、アメリカと対等の国という意識というか、敬意が感じられない。どうしても、アメリカより劣った国から来た、かわいそうな子に親切にしてあげるという、保護者的な意識が鼻についてしまって……。
それから、翻訳がこなれていなくて、本にする前の段階という感じ。英語と日本語はまったく違った言語だから、国語としての英語の授業をそのまま日本語にしても、読者は混乱してしまうのでは? 手紙の書き方だって違うし。21ページのように、「スミアは虫のしみだから……」なんて言葉がポンと出てくるし、ラットとマウスが出てくるけれど、その違いを説明してもいない。「ペンパル」なんて言葉もいきなり出てくるし。いちばん違和感があったのが、挿絵。なんで絵のなかに英語が書いてあるのかしら? 最初は、原書の絵をそのまま使ったと思っていたけど。訳者の問題というより、編集者の問題かも……。

アカシア:最初の導入がもたもたしていて魅力的じゃないし、設定もわかりにくかったですね。小さい子どもの本って、最初でかなりひきつけないと読んでもらえないのに。19ページには「わたしの生徒は〜」と唐突に出てきますが、この子は教えているのかなと誤解してしまいました。「わたしの文通相手は」くらいにしないと、手紙を出した相手の2年生のことをさしているとは、すぐにわかりません。物語が自然に生まれたというより、わざと作っているという感じもあります。主人公は文通相手がスペリングも不十分だし文章も書けないという裏に事情があると察していいはずなのに、30ページに「サミーラにきらわれてしまった。〜」という表現が出てくるのも不自然。人物像にも厚みがなくて、スーザンといういかにも嫌みな優等生が出てくるのはステレオタイプ。日本でどうしてこの本を出すのかが、わかりませんでした。後半、ジェニーが工夫をしてコミュニケーションをとろうとする部分はいいと思いましたが、前半はいただけない。全体として不完全な本を読まされている感じがぬぐえませんでrした。

サンシャイン:こういう作品は、あんまり日本語に訳す意味がないかもしれません。ニューカマーズが苦労してアメリカの偉大な文化に包まれて英語ができるようになるという、アメリカ礼賛の物語。うちの子も、ESLにお世話になったので、そういうこともあったねとは読めるけど、日本の子どもが読んでもあまりピンとこないでしょう。アメリカで子どもを育てている日本人が対象の本でしょうか。翻訳者もそういった経験があるのかもしれません。37ページにカギ括弧がぬけているところがありましたね。福音館の本ですが。

ネズ:アメリカと日本では、読まれ方がまったく違うでしょうね。

げた:そうか……。確かに、出だしがわかりにくかったんですね。ただ、今回読んでみて、読後感としては、幸せそうな子どもたちや周りのあたたかい大人たち。それぞれ穏やかでやさしいお友達の顔がうかんできてよかったなと思いました。だから、以前図書館の選書で目を通した時より、案外いいかなと思ったんですね。2年生と4年生の文通による国語教育というのもおもしろいと思うし。子どもたちが、自分たちにもこういう機会があったらいいかなと思えるかもしれない。でも、今、皆さんのお話をきいて、確かに問題があるかもしれないと思ったところです。

mari777:予想通りの展開だけれど、私はわりとおもしろく読みました。小学校国語の「書くこと」の分野で、目的をもって書くということが重視されているということもあって、「なりきり作文」って、日本でも最近はよく行われている学習活動なんです。高学年の子どもと低学年の子どもが文通するという活動も、最近の日本の国語教育では、わりとありがち。あまり新味は感じません。この年ごろの子でもによくある、ちょっと背のびしたいような気分や、学校の課題に対してちょっとひいちゃうような、しらけた気分は、よく書けていたと思います。ただ、ラストはありきたり。教訓的な感じで残念。

ジーナ:私も、中途半端な感じを持ちました。さっきもどなたかおっしゃったけれど、日本でも日本語がぜんぜんわからない外国の子どもが入ってくるという状況はよくあるから、テーマはよいと思ったんですけど、学校のようすが日本とすごく違うでしょ? 下級生と文通はあるかなと思ったけれど、手紙が来なかったときに、教室に行ったり、クッキーを持ってきていきなり食べちゃったり。日本の子は、いいなあと思って読むのか、違和感を持つのか、わかりませんでした。あと、絵ですけど、サウジアラビアの子どもに見えないと思いました。私が知っているアフガニスタンやモロッコ出身のイスラム教徒の家の女の子は、ズボンをはいて、肌をむきだしにしないようにしているので。

ネズ:難しいですよね、小さな子どもの本は。文化や、教育のしかたや、様々な面でギャップが大きいから、訳すときにどれくらいつけたしたらいいか、いつも考えなくては。この本の場合、「文」、「文章」「行」が混在していたり、罫線という意味で「行」と書いているのかなと思ったり……。大きく意味がわかればいいという考えなのかもしれないけれど、ちょっと大雑把だなと思います。

ジーナ:「形容詞は助ける言葉」というのも、わかりにくい。編集の人が、注意しそうなものですけど。

ネズ:71ページで、先生が『スチュアート・リトル』のことを、「これは、ファンタジーです」って生徒に説明しているけれど、読者にわかるのかしら? ねずみレターのことをファンタジーと言ってるんだと思うかもしれない。それに、この本は翻訳が出ているんですから、邦題を書いておいたほうが親切です。

ジーナ:まあ、わからないところは、わからないなりに、子どもは読んじゃうんでしょうけれどね。

ネズ:43ページの「今朝はサミーラがはっぱの〜」って文章なんて、読点がまったくないのよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


ジャンニ・ロダーリ『マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!』

マルコとミルコの悪魔なんかこわくない!

サンシャイン:ロダーリは、『猫とともに去りぬ』に続いて2冊目。おもしろく読めました。とんかちを使って、世の中をぶっこわし、うまくおさめちゃうというのは、子どもたちはおもしろく読むんだろうな。笑えるからいいんじゃないかなという感じです。

げた:私はね、小さい子どもが金槌ふりまわしているというのに抵抗があったので、初めからおもしろいという気持ちになれなかったんですよ。7つのお話もとりわけ奇抜なお話というわけでもなかったしね。訳者あとがきに、音のおもしろさについても書かれているけれど、「マル」の響きについても、日本語だとそこまで感じられない。赤ずきんちゃんの話をこわがるというのがオチなのだけれど、今ひとつ、そのおもしろさも感じられない。挿絵も平面的な感じで、好きじゃないな。

mari777:私もです。世界に入れませんでした。『猫とともに〜』も読んで、表題作はおもしろかったんだけど、それ以外は合わなかった。この作品もそうなんですけど、登場人物に葛藤がないんですよね。楽しいのかもしれないけど、悩んだりしない。訳は読みやすくてうまいなと思いました。

ジーナ:私は楽しめました。荒唐無稽で、ありえない展開の話だというのが最初から見えるので、フィクションとして、今回はどんなやつをやっつけるのだろうと、楽しんで読めました。金槌をふりまわすのと、それがブーメランみたいに戻ってくるというのがばかばかしいのだけれど、こういう本もあっていいかなと思います。ユーモアってすごく難しくて、笑うところが国によってだいぶ違いますよね。現地で楽しく読まれていても、日本に持ってくると、ちっともおもしろくないということがよくある。これは、イタリアの子のほうがもっと楽しめるのだろうけれど、日本でも通じると思いました。一つ気づいたのは、人の名前がたくさん出てきますよね。イタリア人の名前は、日本の子には聞きなれず、おぼえにくいものもあるので、ひびきのおもしろさもあるのだろうけれど、チョイ役の登場人物については少し削ったほうが、日本の子どもに読みやすかったかなと思います。

みっけ:そうなんですよね。ブーメラン金槌っていうのは、かなりきついですが、割合さくさく読めました。影とか襞とか、そいういうのではなくて、荒唐無稽な展開を楽しむというお話ですよね。第3話の、双子が赤ちゃんのお守りをしているうちに、赤ちゃんを喜ばそうと食器を割りはじめるんだけれど、その行動も実はお母さんには読まれていた、という展開なんか、かなり気に入りました。荒唐無稽な部分と、親にちゃんと見ていてもらっているという子どもの安心感と、両方があって、子どもは楽しめるんじゃないかな。あと第7話の、謎の潜水艦が実は自分には釣れもしない魚を手に入れるために金持ちが雇ったものだったという荒唐無稽さも、第1話の、強盗が双子の策略にまんまと乗せられてみんなの嫌っていた品々を持たされるあたりも、なんというかほんわりしてて、ばかばかしくていいですね。この人は『チポリーノの冒険』でもそうだけれど、からっとした感じがしますね。

mari777:ロダーリの作品は、短編集『猫とともに去りぬ』が同じ訳者で光文社の古典新訳文庫に入っています。あと、もう絶版かもしれませんが、図書館で『ロダーリのゆかいなお話』という5巻本を見ました。タイトルどおり、荒唐無稽な「ゆかいなお話」満載の短編集です。

ネズ:すらすらおもしろく読みました。落語を読んでいるみたいで。翻訳もなんとか日本語でも言葉遊びの面白さを伝えようと訳者が努力しているのが伝わってきました。おなかをかかえて笑ったかというと、そこまではいかなかったけれど。私もげたさんとおなじで、子どもが金槌を持っているというのが気になって……。イタリアの人が読むと、金槌になにか意味があるのかな? 最後の「かなづち坊やたち」というお母さんの台詞がけっこう好きなので、タイトルも「かなづちぼうや」とかにしたら、「アンパンマン」みたいにキャラクターの設定ができて、金槌も気にならなかったのかも。イラストも、本文にぴったりあっていて好きです。

アカシア:私もイラストはこれでいいと思いました。上のほうはパラパラ漫画になってるのよ。これは、いろんなところから集めてきた短編なのよね。

ネズ:そうか! だから統一がとれてないような気がするのね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


いとうひろし『あぶくアキラのあわの旅』

あぶくアキラのあわの旅

小麦:出だしの、体があわになってしまうところが強烈で、これは期待できるぞ!と思ったんだけど、そうでもなくて・・・。あぶく人間に関するディテールはすごくよくできていて、ひきこまれるんですよね。あわがはぜる時にパチパチ痛いとか、腕がとれる瞬間はすごく痛いんだけど、何事もなかったかのようにくっつくとか。でも、そんなあぶく人間の魅力に比べると、ストーリーの方は割とオーソドックスな冒険物語で、長い割にはちょっと物足りなかったです。アキラもあぶく人間なだけに割と受け身の主人公で、いまひとつ盛り上がれませんでした。

サンシャイン:話が散漫だという印象です。無理やりこのページ数にのばしたのかな。あまり楽しめなかった。下水に入っていくのは汚いと思ってしまったし。お話はいとうひろしさんの絵本と似たようなタッチですね。ドラドンを退治する所も、ちょっと無理があるような気がしました。

アカシア:個人的には、いとうさんの作品は、短いものの方が好きです。短いからこそおもしろい、という要素をもっている作家さんだと思っています。ユーモアは感じますけど、こういう作品はそれだけでは終えられない。地の部分や、サスペンスが立脚しているところがユーモアなので、どうもアンバランスで、しまらない感じがしてしまいました。254ページ、「そちらからははらへらしが〜」という箇所、「せっけんのうで」ではなく「あぶくのうで」では?

みっけ:クスクス笑えるおもしろいところがいっぱいあるんだけれど、冒険物語としてクライマックスに向かって盛りあがっていくという感じに今ひとつ欠ける感じがして。気に入った箇所は結構いろいろあったんだけれど、今のアカシアさんの話には、納得です。キャラクターとしてはモグラの「おおぶろしき」がかなり気に入りました。それに、本物の竜が実は気が弱かったり、ガマガエルのおばあさんが取り戻したがっていたお宝が、「あおがえるの皮で作った雨合羽」だというあたりも、なんとも脱力感があって、楽しかったです。

ジーナ:どうなるかと思って読み始めたんですけど、途中で失速してしまいました。ドラドンはもうどうでもいいやという気になってしまって。でも、うまいなと思ったのが、それぞれの登場人物の語り口。どの人物も、それらしい口調をつくりあげてあるのはさすが。こういうのは、日本の創作でなければなかなか出てこないおもしろさですね。あぶくアキラについていく気になれなかったのが残念です。

小麦:アキラって、わりと他力本願なんですよね。

ジーナ:三人称で書かれているのに、アキラの声を聞いているみたいに、アキラの細かな感情の動きが伝わってくるのも、うまいなと思いました。でも、全体となると、ストーリーの引っ張り方いまひとつなのかな。

mari777:私はおもしろく読みました。宝探し、鬼探しという古典的な設定と、現代的なキャラクターがうまくブレンドされていてよかった。アキラがヒーロータイプではなくて「だめ」なところも現代的ですよね。「はらへらし」なども、ひと癖ふた癖あって、必ずしも「善玉」ではないのに、最後には好きになってしまいました。男キャラがなさけなく、女キャラがおばあさんというのは、よくあるパターンなのかな、と思いました。

げた:私も楽しく読みました。姿をかえられて元に戻ろうと旅をする物語。その道連れのもぐらとふくろうというキャラクターがまたユニーク。それぞれ、一物腹にあって、まっすぐではないけれど、義理人情的に描かれていますよね。もしかして、すごく古い話なのかな。だから古い私には、おもしろかったのかもしれません。図書館で、2年前、「おすすめの本」にしたのだけれど、残念ながら期待したほど借りられていません。今回貸し出し回数を見て、がっかりしました。内容だけじゃなくて、アキラっていうネーミングも古い感じだからなあ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年12月の記録)


ジャック・ギャントス『ぼく、カギをのんじゃった!』

ぼく、カギをのんじゃった!

ネズ:この本は、出版されてすぐに原書で読みました。内容はおもしろいし、作者の意気込みも感じられていいなと思いましたけど、2つほど問題があると思ったのを覚えています。ひとつは、ADHDの子どもを薬で治療しているという点。文中では、ADHDという言葉を意識的に出さないようにしていますが、後書きにもあるように、この子は明らかにそうですよね。ちょうど同じころ、ADHDの子どもがいるクラスを持っている、小学校教師の話を聞く機会があったのですが、日本では(当時はということですけど)、医療に頼らずに、ありのままに育てたいという親が多くて、学校側が病院に行くことをすすめても、かえって反発されるということでした。治療の内容や、程度の問題もあると思うけれど、日本とアメリカとの医療に対する考え方の違いもあるし、もし日本で翻訳出版ということになると、どうやってクリアしていくか難しいなと思った記憶があります。第2巻では、薬がさらに重要なファクターになってくるし……。それと、主人公のおばちゃんやお父さんも、非常にハイになりやすい性格に描かれているし、お母さんもエキセントリックなところがある。だから、ADHDが遺伝するものだとか、環境によるものだとか、単純に思われてしまうのでは……という危惧も感じました。障碍や病気を扱った本って、とても難しいから、皮肉でもなんでもなく、徳間書店は勇気があるなと思いました。
でも、女の子の鼻先を切ってしまう場面は、ちょっとね。どぎつい印象を与えるし、この女の子にとっては大変なことなのに、さらっとしすぎていない?

みっけ:ADHDの原因については遺伝という説とか、いろいろと説があるみたいだけれど……。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン/著 小尾芙佐/訳 早川書房)はアスペルガー症候群の男の子が主人公の一人称だし、E.R.フランクの短編集『天国にいちばん近い場所』の中にもADHDの男の子が主人公で一人称で書かれた話が出てくるんですが、この本を読んでいて一番気になったのは、主人公が3年生でしかも一人称でここまで説明できるだろうか、という点でした。ほかの2作品では、そのあたりにあまり違和感がなかったのですが……。ふーん、なるほどなあと思いながら読み進みはしたものの、そこはひっかかりましたね。最後に作者があとがきに書いているように、まわりにこういう子たちがいるにも関わらず、そういう子たちの物語がなかったというのはなるほどなあと思うのだけれど、私のなかで今ひとつ納得できませんでした。この子自身はいい子なんですけれどね。

紙魚:ADHDはこういう子だという書き方ではなく、こんな子どもがいるという個人の個性からアプローチしている書いているのはいいと思いました。とくに、本文中にADHDという言葉は1回も出てこないのですよね。やはりこういう言葉は強いので、ADHDという言葉が1度出てしまうと、ADHDを読むというようになってしまうのですが、そう陥らずに最後まで読めました。ただ訳者は、あとがきで「ADHDという障害」という言葉をつかっています。こういうところの表現は難しいですね。実際に子どもたちはどう読むのかなと気になりました。それから、全体として散漫な感じがしたのですが、それが、この子の性質・性格によるものなのか、物語が散漫なのかは、わかりません。

げた:私は、ADHDという病気自体をよく知らないんですけどね。主人公の男の子の特異な行動は、先天的なものだけでなく、環境という後天的な影響があったわけですよね。かなりひどいことをおばちゃんにされていたんだから、そういうことが資質を高めたかもしれないとは考えられませんか?

みっけ:ADHDも自閉症も、脳の一部の問題とされていますよね。お母さんが妊娠中に麻薬をすると、率が高まるとアメリカでは言われています。

サンシャイン:お酒を飲んで妊娠した場合は、酩酊児とも言われるそうですね。

ネズ:エジソンもそうだったっていうじゃない。

げた:この病気のことを知らないと、突然変わった行動が出てくるのには、ついて行きづらいんじゃないかな。鼻を切ってしまうのも、ちょっとずれていたらと思うと怖いしね。こういう子どもたちの本を読んだ、まわりの子どもたちは、どう思うんだろう? この病気についての理解と思いやりが深まるのかどうかは疑問だな。

アカシア:この本については「よくぞ訳してくれた」という手紙も来ているそうですよ。ただ、薬さえ飲めば大丈夫と受け取られかねないですね。

みっけ:学校に行かせないで育てられれば、それはそれでいいのだけれど。そういうわけにはいかないとなると、集団の中で過ごすために薬の力も借りよう、ということなのでしょうね。とにかく集団として教員が見ていけるようなレベルにまで、ぎりぎり症状を抑えようという感じではないかしら。薬を飲むか飲まないか、ではなくて、集団の中である程度はみ出さないでいられるようにしておいて、ほかの子との交わりの中で成長していくという感じではないかと思いますけど。

アカシア:いろいろなケースがあるのでしょうが、この子が集団の中にいたらほかの子を傷づける可能性もあるわけだから、先生はたいへん。

みっけ:ここに書かれているような行動をとる子がクラスにいたとすると、担任としては、一時も気が休まらないんじゃないかな。

紙魚:何かやってしまったあとに割合けろっとしているのは、この子の個性なのか、それともADHDの特徴なのか、作者はどの程度、そのあたりを意識して書いているのでしょう?

アカシア:ここまでの症状が出ると病気だから何らかの治療をしたほうがいいのかもしれませんが、今は、ちょっとほかの子と違うと、自閉症とか多動児とか、いろいろな名前をつけて障碍だということにされてしまうような気もします。学校では、ADHDっていう言葉を使うのかな?

サンシャイン:ADHDとまでは言わなくても、「多動性がある」という言葉は、よく使いますね。幼稚園に入る前からゲームを野放図にやらせているとそうなるとか。

アカシア:鼻を切られてしまった女の子については、読者の子どもも心配すると思うんですが、その後どうなったかは書かれてませんね。

みっけ:この作品は、複眼にした方がよかったんじゃないかな。説明的な部分も、ほかの人の視点が入ってくれば、無理なく収まったんじゃないかしら。

アカシア:一人称でも、できなくはないと思うけど。

サンシャイン:私は、カバー袖に書かれているあらすじを先に読んでしまったので、支援センターに行くことを前提として読んでしまったんですね。だから、支援センターに行って初めて救われる話なのかなと思ってしまいました。

アカシア:この子は、変わったおばあちゃんと暮らしていたので、必要な情報がなかったんですよね。情報がなくて困っている人たちに、手をさしのべる物語とも考えられるわね。

紙魚:こういう子どもたちのことを考えてもらおうとする真面目に姿勢は、伝わってきますよね。

ネズ:自分の子どものころのことを思い出すと、今だったら「ADHDだから、病院に相談に行ったら?」と教師にすすめられるような人は、たくさんいたんじゃないかな? 落ち着きが無かったり暴れたりするのが、その子の個性かどうかっていう線引きは難しいわね。

アカシア:その子がハチャメチャなだけならいいいけど、他人に危害が及ぶかもしれないとなると問題ですよね。アメリカには専門の人がいるから、こうした場合アドバイスできるんですね。日本にも、適切なアドバイスができる専門家がいるんでしょうか?

サンシャイン:となると、これはアメリカならではの物語として読んだほうがいいのかもしれないですね。

アカシア:一度レッテルを貼られたら、特殊な施設に入れられてしまうだけだと怖いですね。この作品の中では、クラスの中で手に余ると判断されたら支援センターへ行って、そこでその子にあった訓練を受けてまたクラスに戻ってくるということになってますけど、それでうまくいったら、いいですね。

みっけ:特別なクラスに入れて、そのまま戻って来られない、というのはよくないですよね。その点この本では、行ったり来たりできているけれど。

アカシア:今の日本にはまだないのでしょうが、こういう形があるというのは、その本を読んでわかりました。

ネズ:大人が読んだ方がいいっていう本なのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


アン・ファイン『チューリップ・タッチ』

チューリップ・タッチ

げた:こわくなりました。どうしていいかわからなくなりました。というのは、チューリップがこうなったのは、彼女の父親のせいですものね。一方、ナタリーのお父さんは、私は自分自身の立場に置き換えて読んでしまいました。もし、自分がナタリーの父親だったら、どうするんだろうとね。彼のナタリーへの接し方は普通なのかなと思いましたね。いずれにしても、こういう子どもに接したことがないので、突き刺されるようにこわかったです。

紙魚:帯に「邪悪な人間なんて、いない」と書かれているので、最初からそういう人物の物語を読むつもりで読んでしまいました。私には、ナタリーがチューリップにひかれていく過程はつかみにくかったです。ただ、ひたひたとおそろしさがつのっていく書き手の力はすごいです。ただ、年齢の低い人にすすめたいとは思いにくい本です。

みっけ:すごく強烈で、ぐいぐい引き込まれたけれど、どうやら私はチューリップの方に感情移入しちゃったらしく、ナタリーがなんとも嫌で、大人も非力で、なんか嫌な気分が残りました。確かにナタリーはああするしかなかったわけだけれど、それでもあるところからすっと離れていくじゃないですか。突然離れて行かれる方はたまらないよなあって、そう思っちゃった。アン・ファイン自身がぜひ書きたいと思っていたと、訳者後書きにあったし、たしかにそれだけの力のこもったよく書けた作品だけれど、これを子どもに向けて出してどうするの?と思っちゃった。大人が読め!っていう感じですね。ナタリーにこれ以上何かを要求するのも無理だし、ナタリーのお父さんたちがチューリップに気をつかっているのもわかるし、本当に痛々しかったです。

ネズ:この本は、大変な傑作だと私は思っています。作者は本気で書いているし、訳者も本気で訳している。すごいなと思ったのは、麦畑の場面。最初に、黄金色に輝く麦畑の中に、女の子が子猫を抱いて立っているというルノアールの絵のような、美しい光景が出てくる。それが、後半、なぜこの子が、このとき子猫を抱いていたのかということが分かったとたんに、それまで読者の心の中にあった泰西名画のような場面が一気にモノクロの、陰惨な場面に変わるのよね。見事だなあと思いました。それから、ナタリーが、チューリップを敬遠するようになるころから、チューリップがナタリーの中で生きはじめてくるというか、だんだんチューリップのモノローグなのか、ナタリーのなのかわからなくなり、ひとりの人間の中でふたつの人格がせめぎあっているようなサスペンスを感じました。
この本が出たときは、イギリスでも子どもに読ませるべき本かどうかという議論があったと聞きました。よく児童文学は「子どもについて」書いた文学ではなく、「子どものために」書いた文学だって言われるわよね。この「ために」というのは、子どもが読むためにという意味だけど、アン・ファインはこの作品を「子どもが読むために」というより、「子どもの味方になって、子どもを擁護するために」書いたような気もします。何度も読みたくなるような楽しい作品じゃないけれど英国の児童文学の質というか、レベルに圧倒される作品だし、ぜひ大勢のひとに読んでもらいたいと思う。

みっけ:大人に読ませるという感じは、確かにしましたね。

アカシア:私もすごい作品だなと思いました。それに私は、大人だけじゃなく、この作品を必要としている子どもも確実にいると思います。ナタリーのように、悪魔的な魅力をもった者にどうしようもなく惹かれてしまうことって、子どもにもあるじゃないですか。それにチューリップのように、否応なくこうなってしまう子だっている。そして今の時代の親は、特に児童文学に描かれる親はそうですが、あんまり子どもの力にはなれなくなっている。ナタリーの親は普通の良心をもちながらも、チューリップに対しては中途半端な善意を持ってしまいますが、そういうのも自分も含めてよくある大人だと思います。そんななかでナタリーはどうしたらいいかわからなくなるわけですけど、アン・ファインがすごいのは、結論をあたえるのではなく、いっしょに考えていくところ。いっしょに悩んでいるところ。
『新ちゃんがないた』のような本も必要だと思いますが、大きな違いは『新ちゃんがないた』は、正解を作者が用意していて、ちゃんと読めばその正解にたどりつく。逆に言うと、その正解にしかたどりつかない、とも言える。それに比べ、この作品は、もっといろいろなところへ考えが広がっていく。読者の中に考える種として残って、のちのちまたさらに枝を広げていくかもしれない。
作品のリアリティについては、ナタリーがチューリップにひかれていく気持ちや、だんだん重荷になっていく気持ちは、とてもていねいに描かれていると思います。もちろん低年齢の子どもには向かないと思いますが、中学生以上の子どもにはぜひ読んでもらいたいと思います。

サンシャイン:チューリップのような人が、とりついてきて、はなれられなくなるというのは、自分にも経験があります。ホテルの火事の場面もすごいですね。

アカシア:徹底的にリアルよね。

ネズ:ホテルで働いている人たちの描写もリアル。

サンシャイン:チューリップには、ヨーロッパの魔女のイメージも重ねあわされているような気がします。それからチューリップの激しい言葉に、まわりの大人たちが驚くというのも、イギリスの階級的な空気??この言葉はこの階級の人は絶対に人前では言わないとか??が反映しているのでしょうね。翻訳されるとわかりにくくなってしまいますが。

アカシア:最後の一文「チューリップを狂わせたのは、あたしだと。」というのは、原文と照らし合わせてみると、ずいぶん強い感じがしますが、どうなんでしょう。

ネズ:「あたしにも罪がある」くらいじゃ弱いと、訳者が思ったんでしょうね。

アカシア:ハッピーエンドになりようがないわけですけど、現実世界をリアルに描くとこうなるしかないんでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


佐藤州男『新ちゃんがないた!』

新ちゃんがないた!

げた:個人的な話なんですが、友達に、この新ちゃんと同じような子がいたんです。40歳くらいで亡くなったから、どちらかというとこのお話に出てくる先輩みたいな子かな。どんどん筋力が落ちて、最後は目だけで反応していて。小学校には同級で入学したんですけど、やっぱり新ちゃんみたいに途中でしばらく施設に行ったんですが、それでもよくならなくて、戻ってきました。そういう記憶がよみがえってきて、あの頃のことをいろいろ思い出しました。障碍がある子も同じように生きているんだよ、ということをわかってもらうには、いい本だと思いました。

みっけ:お話そのものの展開は、一種予定調和的というか、問題もすべてすらすらと解決されてしまうので、そういう意味のインパクトは少ないけれど、新ちゃんの描写の細かいところが、とてもリアルでいいなあと思いました。トイレで苦労する話とか、足を引きずってズボンが破けてしまう話とか、そういったことがぐぐっと迫ってくる気がしました。20年以上前の作品だからというのもあるかもしれませんが、新ちゃんの親友である語り手が、なんというか熱くて元気で明るくて、全体にトーンが明るいのもいいなあと思いました。

ネズ:作者も同じ障碍を持っているということを知って、だからこういう作品が書けたのだと納得しました。具体的に新ちゃんが困っているというトイレの場面など、この作者だからこんなにリアルに書けたんでしょうね。『チューリップ・タッチ』のような作品は難しくてわからないという子どもたちも、こういう作品なら素直に理解できるんじゃないかしら。でも、主人公も新ちゃんも、ちょっとばかりいい子すぎるのでは? あと、タイトルがねえ……。

サンシャイン:乙武さんみたいに、障碍のある子も一緒と、アピールしている本だと思います。すごく楽観的な本で、子どもは結構感激したりするんじゃないかな。ただ毒がなさ過ぎるとも言えます。悪い話じゃないんだけども、登場人物がいい子すぎる。乱暴な感じの子が、夏休みに本を2回も読んじゃったりして。そこがちょっと気になりました。筆者自身がその病をかかえているので、そうありたいという祈りが込められているのでしょう。

アカシア:障碍についてきちんと伝わるように書くというのは、難しいことですよね。この作品は、作者も同じように苦労されているから伝わる力を持っているわけですが、へたすると、障碍があっても必死で頑張れば一人前になれる、という結論になってしまう。でも、頑張りたくても頑張れない人だっているんじゃないですか。最近、病院の職員が迷惑な入院患者を公園に捨てたっていう事件がありましたよね。新ちゃんや乙武さんは、頑張っているし迷惑もかけないからいいけど、そうじゃない人は捨てられてもしょうがないんだ、みたいになってしまうとまずい。
こういう立場から書いた本は少ないから。そういう意味では貴重ですね。頑張るという点も、作者の理想が、新ちゃんやお兄ちゃんに投影されているのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年11月の記録)


いたずらおばあさん

ウグイス:たかどのさんは幼年ものがうまい作家で、子どもにもたいへん人気があり、よく読まれてます。タイトルや表紙がまずおもしろそうで、ユーモラス。内容も明るいユーモアが感じられ、安心して読めるわね。登場人物のネーミングがおもしろい。エラババ、ヒョコルさんなど名前を聞いただけで、子どもはおもしろがります。翻訳ものだと、ネーミングのおもしろさは伝わりにくけど、日本の創作だとこれが味わえてうれしい。おばあさんたちのいたずらは、ちょっと嫌なやつをへこませるという悪気のないものばかりで、後くされがなく、ハハッと笑って終われるところがいいですね。主人公は68歳と84歳のおばあさんなんだけど、そんな歳になっても子どもの部分があるというのを垣間見る感じで、おもしろかった。

ペロ:おもしろく読みました。痛快ですね〜。24ページで、ヒョコルさんがはじめて若返るとき、「50歳くらいになれば、もうじゅうぶんなのではありませんか?」ってエラババ先生に言ったら、エラババ先生の返事がふるってる! 「もういちど子どもになって、思いっきり遊べるっていうときに、さかあがりひとつやれない中年のおばさんになって、それでじゅうぶんだなんて、こころざしが低すぎて、ばちがあたりますよ!」だって。楽しい! いろんないたずらもおもしろかったのですが、1箇所、音楽祭のところはちょっと無理があると思いました。発表会のときは、ピアノを習い始めたばかりの子でも、暗譜して弾くものだと思うし、ましてゲゲノキ先生は音楽の先生ですから……。でも、このお話は、そういうことにこだわってちゃダメなのよね。

愁童:おもしろく読みました。エラババ先生みたいなユーモラスなネーミングの登場人物の設定なんか、読者の子供達に素直に受け入れられそうでうまいなって思いました。ただ、最後の行政批判みたいな箇所は、ちょっとウザイかなと……。

ネズ:私も、たかどのさんは幼年童話がとてもうまいと思う。この作品も、すらすら読めて、ゲラゲラ笑えて、子どもたちに人気がある理由がよくわかります。登場人物のネーミングもおもしろい。最後の章については、私も愁童さんとおなじで、ちょっと理屈っぽくなったかなと思ったけれど、こういう章をおしまいに持ってきたことで物語がうまくまとまったとも言えるのでは? おばあさんを書いたもので、私が大傑作だと思っているのが、以前に学研で出たミラ・ローベの『リンゴの木の上のおばあさん』。物語のなかのキャラクターとしてのおばあさんと、現実のおばあさんを書きわけていて胸を打たれますが、この作品にはそれほどの奥行きや深みはないわね。でも、そこまで望むのは望みすぎかしら?

mari777:発想が斬新で、おばあさんが二人とも生き生きしています。二人のおばあさんのキャラクターがきちんと書き分けてあるのもよかった。

みっけ:楽しく読みました。いたずらの仕方やいたずらを仕掛ける相手が、いかにも子どもたちの共感を呼びそうで、おもしろかったです。子どもって、いばっている大人が大嫌いだから。でも、最後の章だけは、ちょっとこなれてない感じというか、お説教くさいような気がして、もう少し違う形で終わったらよかったのになあ、と思いました。

アカシア:たかどのさんの本は、やっぱりこのくらいの長さのものがおもしろいわね。ユーモアたっぷりで笑えるし。いやな大人がいても子どもはなかなかやっつけることができないけど、この作品だと正体はおばあさんだから、懲らしめることができるんですよね。そこも痛快。最後の話も、読んでる子どもは痛快なんじゃないかな。リアリティを言い出すときりがないけど、この作品はそういう種類のものじゃないから、私は楽しく読みました。

うさこ:たかどのさんは幼年童話ものがうまい作家さん。日本語で日本人が読むものとして書いてますけど、ユーモアのセンスや発想が、どこか遠くて近い外国の人が書いているような感覚で、とても楽しく読めました。おばあさんたちの茶目っ気たっぷりのユーモアがとてもおもしろかった。人物名はじめ、その他に音や音の響きを有効につかって表現しているところがたくさんありました。会話文のおかしさを地の文でフォローして、さらにおもしろくさせたり細部まできちんと書きたい作家さんだと思います。うまへたな絵もこの物語に合ってますよね。続刊が出てないのはなぜでしょう?

げた:洋服を重ね着すると、重ね着した服の数だけ若返られるなんて、大人が読んでもおもしろいと思います。どちらかというと大人の発想なのかという気もしますね。「若返り変身願望」は大人のものですもんね。「夢見る少女の会」のおばさんたちの言動なんかも、子どもにはピンとこないんじゃないでしょうかね。挿し絵はちょっと古めかしいかな。エラちゃんは子どもに変身しても、しもぶくれ顔は変わってませんね。そこがおもしろいといえばおもしろいんですけど。

愁童:おばあさんたちが子どもに変身した場面に、『まあちゃんのながいかみ』(福音館書店)にあったような子どもの目線が生きていると、もっと説得力が出たんじゃないかなって思いました。

ネズ:おばあちゃんにもどったときは、もう少しおばあちゃんらしく、腰が痛いだの、目がしょぼしょぼするだの書いたらどうだったのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


マチルダばあやといたずらきょうだい

愁童:ちょっと個人的な感慨になっちゃうんだけど、久しぶりに同人誌時代の若い頃のこだまさんと、おしゃべりしているような雰囲気を感じながら楽しく読んじゃいました。幼児語の翻訳なんか、なかなか秀逸だと思いました。原作の持つかなりハチャメチャな雰囲気と訳者の体質がうまくマッチしていて楽しい翻訳本になってますよね。

mari777:懐かしい感じのテイストが好き。昔の岩波書店の翻訳シリーズを読んでいるような感じ。7つのおけいこの構成がミステリ仕立てだな、と思いながら読んでいたら、この作家、ミステリ作家だったんですね。書きなれているという印象で、安心して読めました。ただ、せっかくなら魔法ではなくて知恵とか気持ちの持ち方で解決していってほしかったなと思うようなところもあります。最後に約束どおり、ばあやが子どもたちを離れていく、というストーリー展開は、予想がついたけれどもほろり。装丁も懐かしい感じがしていいなと思いました。

みっけ:子どもに媚びていない感じがあちこちにあって、おもしろかったです。たとえば、7ページで、「あんまりたくさんいたので、名前はいちいち書かないことにします。……ぜんぶで何人いるか、足し算してくださいね。」なんていうところには、おっと、こうきたか!という感じでした。それでいて、いかにもおばあちゃんが話してくれている雰囲気が出ていて、そのあたりが絶妙でした。語り手のおばあちゃんのたたずまいまで想像できてしまう訳文だと思いました。きっと、とても礼儀正しくてきちんとした人だけど、それでいて、いたずらっぽく目がきらっと光っているような人なんじゃないかなあ。読み始めてからしばらくのあいだは、子どもたちが何か悪さをするたびに大騒ぎになって、でも、マチルダばあやにSOSを出すと一件落着!みたいな感じで話が進んでいきます。心のどこかで「大丈夫なのかなあ」とちょっと腑に落ちない感じもしました。ところがそのまま読み進めたら、最後の一回になって、子どもたちの悪さでひどい目にあった人たちが勢揃いして、子どもたちがたいへん怖い思いをする。この展開には感心しました。妙に救済したりしていないところが、いいなあと思います。どことなく意地悪というか、ぴりっとした隠し味が聞いている。ただ、大おばさんにイバンジェリンがもらわれていく話は、これでいいのかな、と思いましたけど。あと、アーディゾー二の挿絵は、もうそれだけで古き良き時代に連れ戻してくれる感じで、いいですね。

アカシア:この本は昔から知ってたんですけど、上流階級の子どもの話だし、とてもイギリス的な乳母の話なので、今の日本では受け入れられないだろうな、と考えていたんです。でも、今回この本を読んで、あまり古いという感じがしませんでした。逆に、古い部分よりもおもしろい部分がきわだつ訳になっていて、ああ、こういうふうにすればこの作品も原題に生きてくるんだな、と思いました。訳者の力ですね。舌足らずの子どものセリフも、ちょっと考えると意味がわかるようになっていて、うまいですね。

みっけ:ラストは、出っ歯が落ちて、それが宝箱になって、そこから出てくるおもちゃに夢中になっていると、マチルダばあやがいなくなっているという展開で、なんというか、肩すかしを食らったような不思議な終わり方ですよね。

愁童:マチルダばあやを、単なる雇い人として描くのじゃなくて子どもたちに君臨する動かし難い大人として書いているのがいいな、なんて思いました。

アカシア:ばあやは、メアリー・ポピンズと同じで、ずっと不機嫌な顔をしている。厳格なイギリスの乳母の典型ですよね。ただね、下層の子が身代わりになって嫌なおばさんの養子になり、それでめでたしめでたしなんていうところには、作者の階級意識があらわれているかも。

うさこ:ある日突然どこかからやってきた人の物語は、またある日いずこへか帰っていくというお約束があるのだけど、このお話はどういう展開で結末を迎えるのかなと楽しみでした。「1つめのおけいこ」の章の流れが各章のおけいこのある規則性を示しているのかなと思ったけど、どの章もちがうかたちでいたずらと「おけいこが終わりました」でまとめられている。どの章も「…でも歯はでっ歯でした」の表現が妙にインパクトがあるなと思ったら、最後のとっておきのごほうびとうまく結びついて楽しかった。

ウグイス:以前は、G社が出していた世界の童話シリーズの中の1冊。このシリーズの中では、この『ふしぎなマチルダばあや』だけが他と比べて古めかしい印象があったので、正直言って今さら新訳?と思ったんですけど、読んで見ると古めかしさより軽快な楽しさが感じられておもしろかった。原文もそうなんでしょうけど、翻訳もとても丁寧で上品な言葉使い。そういう言葉使いなのに実はとてもおかしなことを言っている、というのがこの本のおもしろさだと思う。旧版は、明らかに3〜4年生を対象にした作りでしたが、この装丁や字の大きさを見るともっと年齢が上の子をターゲットに作ったのかな? 内容的には3、4年生に読んでほしいんだけど。

ペロ:この装丁は、原書とだいたい同じ。この原書、天地155ミリ×左右110ミリと、小ぶりでかわいい! 今の子どもたちは、読める子と読めない子との差が大きくて3〜4年生でも読める子はどんどん読むし、5年生でも、読めない子は低中学年向きの本も読むのがたいへんという話だから、読者対象をどのくらいに設定するかっていうのは、なかなか難しい問題だと思います。

げた:子どもたちのいたずらの内容など、よく考えてみれば、とんでもない話ですよね。ロバに女の子の洋服を着せて身代わりにするなんて、ドタバタ劇になっちゃうような話ですよ。描き方によっては、とっても下品な感じになるんだけど、それがちゃんと上品な仕上がりになっているのがすごいなと思いました。アーディゾーニの挿絵の効果もありますよね。

ネズ:大人の本でも新訳ものが続々と出てきていて、旧訳と読みくらべてみると楽しいですよね。特に子どもの本は、その時代の子どもや児童文学に対する考え方があらわれてくるのでおもしろい。それから、アカシアさんの話にもあったけれど、この本にかぎらずこういう古い作品は、どこかに差別的な物の見方などがちらちら現れたりするので、訳すのに神経を使いますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


頭のうちどころが悪かった熊の話

げた:この本は、今、人気の本なんです。うちの図書館も、気づいたら予約がいっぱいになってて、びっくり! 最初1冊しか購入していなかったのですが、あわてて3冊追加購入しました。うちの図書館では、分類は「児童書」にしたんですけど、実は今、ちょっとまずかったかもと思ってまして……。圧倒的に、子どもよりも、大人に読まれているんですよね。予約をしている人も、ほとんどが大人。で、僕もざーっと読んでみたんですけど、やっぱり子どもの本ではないですね。YAでもキツイかも。一般書かな。書評でとりあげられたこともあって、今は予約がいっぱいなので、しばらくはこのまま行きますが、一段落したらYA棚か一般書に移そうかと思案中。お話はおもしろいけど、やっぱり児童書としては扱えないので……。僕は、7編のうち「頭のうちどころが悪かった熊の話」「いただきます」「ヘビの恩返し」あたりが、特におもしろかったな。「頭のうちどころの悪かった熊の話」の最後、熊のセリフで、そういえばレディベアをお嫁さんにしたとき、友だちの月の輪熊に「どこか頭のうちどころを悪くしたか」ってたずねられたけど、あれはどういう意味だったんだろうなんていうところ、ニヤッとしちゃった。

うさこ:私は、大人のための寓話だなと思いました。読み終わってから、ふと「こういうお話が読みたいときって、どんなときだろう?」って考えたんです。さみしいときかなあとか、なにか特別なときかなあとか。もやもやしてるときに読むのもいいかと思いますね。読後感もそれなりにおもしろいし、読んだ後、スーッとして、ミント味のキャンディをなめたみたいな感じも。読んだときどきで、感想も変わりそうです。例えば、88ページの終わりから2行目、「自由なたましいに縄がかけられないことを父さんは知っていた」というフレーズは、気持ちに何かかかえているときに読むと、「そうだよな〜」と共感して読めるけど、フツウの気分のときに読むと「大げさな…」と感じるかもね。

ケロ:やっぱり、大人に向けた寓話かな。寓話っていっても、イソップなんかとは、だいぶ違いますよね。私は「いただきます」が、とくに好き。7編が、1冊の最後になって、まとまりを見せるという構成もおもしろかったな。

アカシア:私も図書館で借りようと思ったら、たいへんな順番待ちになってて借りられず、買って読みました。やっぱり、子どもには難しいかも……。この本、子ども向けの本ではないですね。たとえば「りっぱな牡鹿」なんかは、子どもにはわからないんじゃない?「ないものねだりのカラス」は、ちょっと宮沢賢治の「よだかの星」に似たテイストがあるんだけど、こういうのって、子どもにはどうかなぁ? いや、こういうお話って、大人でも、好きな人は好きだと思うんだけど、でも、普遍的でだれにでも愛されるっていうのとはちょっとタイプがちがうかも。理論社のYA路線のうまさもあるよね。ちょっとひねってあって、メッセージもあって、っていう……。

みっけ:私も図書館では借りられず、買って読みました。うーん。おもしろかったのは、おもしろかったんだけれど。とても奇妙な味わい。どちらかというと、さみしいような、やさしいような、ふしぎな雰囲気で、たしかに、子どもにはちょっと難しいかも。読んでると、なんかこう、「カクッ」とくるようなところがあって、人生いろいろあるという大人にすればおもしろいところなんだと思うけれど、書いてあることだけを追って読む子どもには、通じにくいかもしれない。決して嫌いな本ではないし、読んで損したとも思わないけど、でも、子ども向けの本ではないような気がします。初出の雑誌から見ても、もともと子どもに向けて書いたのではなくて、子どもの周辺にいる人に向けて書いたようだし。

mari777:国語の教科書関係の仕事をしているので、短編を読むときは「教科書に載せられるかな?」と、ついつい考えながら読んでいます。今回も、やっぱりそういうことを考えながら読みました。教科書に掲載する作品って「おもしろかった」で終わってしまうものはあまり向いてない。いろいろな読み方のできる作品のほうが、教材としてはとりあげやすいんです。表題作の「頭のうちどころが悪かった熊の話」と、「池の中の王様」は、内容としてまとまっていて長さも適当だし、コミュニケーション不全についてのメッセージとしても読めるかな、案外、小中学校ではなくて高校の教科書に載せたらどうだろう、などと思いましたが、やっぱりちょっときついかな。高校生も含め、子どもが楽しく読む、という類の本ではない、という気がしました。でも、表紙の絵がかわいくて、ちょっとおしゃれな感じで、こういうのも人気の秘密なのかな。

ウグイス:この本、興味があったのよね〜。まず、タイトルがおもしろいでしょ。それに、小泉今日子が書評でとりあげてから、スゴイ人気になってるみたいだったし。それで、期待して読んだんだけど、人間のもっている、いろいろな、ままならない感情をうまく表現してるなあと思いました。部分的には、そういう感情あるあるって思うんだけど、1つ1つの点がつながって1本の線となったときに、一体どうなっているのか、よくわからなくなる。そういうことから考えると、子ども向きではなくて、大人向きですね。といっても、子どもが笑いそうなところもあるのよね。子どもの本としておもしろいかなと思ったのは、「池の中の王様」で、オタマジャクシの「ハテ?」が、おばあさんに「顔、洗って、きちんとしといで」って、いわれるところとか、「りっぱな牡鹿」で、アライグマがげんなりやつれて、目のまわりが茶色になってしまった、なーんていうところ。大人より子どものほうが、こういうのをおもしろがると思うの。だから、子どもを意識して書けば、それはそれでおもしろいものになったんじゃないかという気もする。

みっけ:なんか、最後がなんとなく尻切れトンボというか、よくわからないで終わっちゃうのが多いんですよね。

ウグイス:最後に、「あっ、そういうことか!」って思うこともあるんだけど、いや、でもやっぱり違うかもっていう気もしてきたり……ほんとによくわからない。こう、煙にまかれる感じ……。

みっけ:そう、そう、煙にまかれるの!

ウグイス・みっけ・アカシア:そして、それをわかってて、わざとやってるって感じ!

みっけ:ラストは、読者にぽーんって預けちゃう感じ。

ウグイス:あと、この本、動物の短編集だけど、この動物だからこの話っていう必然性はあんまりないのよね。あ、ヘビの話は例外で、これはヘビならではのお話だけど。その他は、あんまり動物の生態とは関係がなくて、例えばクマの話は、別にクマである必要はなく、キツネでもいいというような感じ。だから、動物の話というよりは、動物の皮をかぶった人間の話なんでしょうね。

こだま:ふふふ。「とくにこの本が」、ということではないんだけど、わけのわからない本を、書評なんかで「おもしろい」っていうと、なんとなーくおしゃれに見えるっていうこと、あるわね。

ウグイス:ともあれ、大人に「おもしろい、おもしろい」と言われて売れるっていうのも、それはそれで、結構なことだと思うわぁ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年10月の記録)


香坂直『トモ、ぼくは元気です』

トモ、ぼくは元気です

mari777:リアリティがあるなと思いました。前半はぐいぐい読めて。関西弁の小説は苦手なのですが、この作品には抵抗感がありませんでした。阪神タイガースなどステレオタイプかなとも思いましたが、女の子たちも魅力的だなと。ただ、障害をもつ二組の兄弟姉妹という設定が、自分としては今ひとつのれなかった感じです。

愁童:おもしろく読みました。登場人物の体温が感じられるような児童書で好感を持って楽しく読めたですね。商店街の雰囲気や、そこに暮らす大人たちのイメージがちゃんと伝わってきて、作者の書く作品世界が読者の脳裏に確かな存在感で拡がっていく、巧みな作品だと思いました。ただ、ちょっと残念だなと思ったのは、最後の帰宅の描写で主人公が発する「トモ、帰ったぞー」という言葉。作者がそれまで、ていねいに書き込んでいる主人公のトモに対する微妙な思いなどに共感して読んでくると、帰宅の言葉が、こんなオヤジ風なものになるのには、かなり違和感がありましたね。画竜点睛を欠いた感じ。

アカシア:そこは、オヤジみたいなイントネーションじゃなくて、「帰ったぞー」って、張り切ってる感じのイントネーションで読めばいいと思うけどな。

愁童:帰宅の途中に日向と日陰があって、こっちが夏…、こっちが秋というようなところは主人公の少年らしさが見事に表現されていて、とても印象に残りましたね。

アカシア:私もおもしろかったですね。最初はよくわからない謎の部分がたくさんあって、読んでいくうちにだんだんわかってくるっていうつくり方もうまいなと思いました。大阪弁がいっぱい出てくるっていうだけじゃなくて、大阪弁の人たちと和樹のテンポの違いっていうのもちゃんと書いてる。いつも居眠りしてる刀屋のおじいさんとか、紅白の服をいつも着ている夏美の祖父母とか、アニマル柄の服でいつも自転車をぶつけてくるおばちゃんとか、商店街の人たちのさまざまな人間模様も効果的に登場します。霧満茶炉と書いてキリマンジャロと読ませる喫茶店も、いかにもありそう。舞台がちゃんと書けているので、子どもたちの姿も浮かび上がってきます。文章の生きもすごくよかったし、和樹がお兄さんのお守りとお母さんの期待の重圧に耐えかねて切れてしまうところも説得力がある。和樹と夏美の幼い恋愛感情もいいですねえ。夏美の妹の桃花ちゃんと、和樹のおにいちゃんが同じような障碍っていうのは、ちょっとできすぎですが。この作家さんは、『走れ、セナ』のときよりずっとうまくなってますよね。一箇所だけひっかかったのは、233ページ。和樹くんが拓に対して、「ぼくもそうだった。…いらいらする」って、長い説明をしちゃってる。でも気になるところはごくわずかで、どんどん調子よく読めて、とてもおもしろいと思いました。

ジーナ:すごくよかったです。6年生の夏休みに一人で大阪に行かなくてはならないという設定がうまいですね。大阪の子が大阪を舞台にして展開すると、ほかの地方の人には入りづらいだろうけれど、東京から来た主人公という設定で、子どもの目線で見たものをていねいに描いているからすっと入っていけますよね。学習塾に行くんだけど、ただ受験が目標というのではない、いろいろな子どもの姿も見えてくる。ゴーイングもそうだと思いましたが、作者が、いい人はいい人、悪者は悪者と決めつけないところがいいなと思いました。いやな不動産屋の子も、最後に本屋で和樹と出会うシーンで、ちゃんすくいあげている。子どもに向かって書いているなあって。今の日本の作品にしてはめずらしく、大人がしっかり描けているから厚みがあるのかも。和樹はお父さんのことも、発見するんですよね。読むと元気の出る作品だと思いました。

クモッチ:日本児童文学者協会新人賞の賞を取られたときに読みました。『走れ、セナ』のときは、う〜ん?という感想でしたが、この作品は、とてもよかったです。一気に読んでしまいました。昔ながらの商店街を描く児童書ってけっこう多いですよね。でも、「いいよね、こういう昔ながらのところって」で終わらせていないので、印象に残りました。細かい人物描写や、金魚すくいの伝統の一戦の部分など、多面的に描かれているから、印象に残ったのだと思います。障碍者を描くのも、児童書には多いですよね。そのせいか、あ、また?という感じで最初はひいてしまったんですけれど、主人公が抱えていたものや、どう乗り越えていくかがきちんと描かれていたので、最後まで引き込まれて読みました。

愁童:夏美、千夏、桃花の三人姉妹に、すごくリアリティがあるんだよね。三人がうまく書き分けられていて、作者の目配りの確かさに感心しました。タコヤキ屋のおばちゃんが、がんばれよってタコヤキを口に入れてくれるところなんか実にうまいですね。主人公の少年が口の中の熱いタコヤキにへどもどするような雰囲気が文章の背後にきちんと伝わってくるもんね。

アカシア:匂いとか触感とか、ちゃんと書けてるんですよね。

愁童:商店街の雰囲気や、そこに暮らす人たちが的確に描写されているので、こんな本を読んで育っていく子どもたちなら、空気が読めない大人にはならないでしょうね。K・Y人間撲滅推薦図書にしたいくらい。

サンシャイン:私も楽しく読ませてもらいました。いい本と出会ったなと思いました。伏線がうまく書けていて、次へ次へと読ませます。彼女のアタックが唐突で激しいんだけど、嘘くさくなくうまく書けてるかな。障害のあるお兄ちゃんに対する気持ちもいろいろあって、母親の前で爆発しちゃって、ある一定期間よそにいっていて、成長して戻ってくるっていう話。確かに、最後が気になりますね。帰ったところでトモとどうなるかも、もっと書いてあるといいんじゃないですか。

アカシア:いえいえ、そこを書いちゃったら書き過ぎです。読者に先を想像させるからいいんですよ。

愁童:帰る前に、ネコのうんちみたいなかりんとうを送るところがあるでしょ。母親にはネコのうんちなんて言えないけど、トモや父親とはそんなことを話題にしながら一緒にかりんとうを食べたいなって思う描写なんかも、この年頃の男の子らしくてうまいなって思いました。そんなこと考えながら帰って来たんだから、最後の帰宅の第一声に、もうちょっと工夫があると良かったな、なんて思っちゃった。

アカシア:でも、ここで水しぶきがとんでいて、虹をつくろうとしているのがわかりますよね。だから読者も想像できる。こういうところも、うまいと思う。

げた:『走れ、セナ』もそうだったんだけど、人物設定がはっきりしていて、わかりやすい。ということは、ステレオタイプだという感じにもなるんですけどね。豹柄のおばちゃんといい、夏美や千夏の描き方といい、いかにも大阪人という感じですね。和樹が大阪に来ることになった理由は、大阪での和樹の経験や東京で和樹のまわりに起こった出来事が語られていくなかで、だんだん読み進むうちにわかってくるというストーリーの展開のおもしろさがありますね。和樹は、それまでの自分を全く否定されたわけじゃないけど、一夏の経験を通して、一つ壁を乗り越えて、成長したわけですよね。そんな和樹が見られて、とてもすがすがしい気持ちになり、納得できました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


なかがわちひろ『しらぎくさんのどんぐりパン』

しらぎくさんのどんぐりパン

クモッチ:著者の名前は随分前から知っていましたが、ちゃんと作品を読むのは初めてでした。イラストもご本人なんですか。おばあさんがいて、手品のような魔法のようなことをする話っていうのは、いつ読んでも心が落ち着くなと思いながら読みました。子どもにとってのおばあさんというには、この絵は、ちょっと年をとってますね。それは、いいのかな? いずれにしても、何か困ったことがあったときに、お父さんやお母さんと違った接し方をしてくれるっていうのが、心を安定させてくれるんですね。でも、しらぎくさんっていうのは、あまり存在感のない人ですね。しらぎくさんは、どうしてこの子たちのところに現れたんだろうとか、お父さんも会っているというのは、どうしてなんだろうとか、そんな疑問がわいてきます。すてきなファンタジーなんだけど。作者の中には、ご自分のおばあさんの思い出があり、それが作品に反映されていると思うのですが、わざと、血縁のあるものとして描いていません。それが、いいのかどうかはわかりませんが、一つの家族との関わりだけを描いた形で本が完結しているのに、関係が明らかにされないので、印象が薄くなっている気がします。

ジーナ:なかがわさんの本は、絵本や翻訳はよく見かけても、長めの創作はこの会で読んだことがなかったので取り上げてみました。中学年くらいに、今このようなお話はあまり書かれないので、貴重だと思います。ちょっと困っている子どもたちのところに現れて、力を与えてくれるという設定が、『菜の子先生がやってきた』(富安陽子/著 福音館書店)に似ていますよね。しらぎくさんはおばあさんなんだけど、言葉遣いは昔話のおばあさんみたいじゃなくて、今風のしゃべり方なのも自然でよかったです。どんぐりパンとか青いスカラベとかガラス瓶などの小道具も、名前からして、想像力をふくらませてくれます。何気ないものから始まる想像のようなものを、作者がこのお話で子どもに届けたかったのかなと思いました。なにげない風景が、うまく書かれていますよね。せいやくんもさわこちゃんも、何かうまくいかないことがあってしらぎくさんに出会うけれど、それが何かとか、どうやって解決したとか全部言語化せずに、立ち直っていくところが、子どもの現実の姿をよくうつしていると思いました。

アカシア:安心して、おもしろく読みました。ただ、ファンタジーの世界の中のリアリティは希薄じゃないかな。お汁に食べたシジミやアサリの貝殻を下駄で踏んでつくる道が真っ白く見えるかなあとか、ドングリってアクを取ったりが大変で、すぐにはパンにならないだろうなあ、とか思ってしまいました。あとこのサルの絵は、いとうひろしっぽいですね。作者はきっと古きよきクラッシックな作品をたくさん読んで育った人なんでしょうね。古いよき懐かしさを感じる作品です。

mari777:表紙をぱっと見て、うわあ、かわいい、と思いました。しらぎくさんが魅力的なので、もっとしらぎくさんを読みたかったかなという感じ。人魚姫の部分は、入っていけなかった。6年生の女の子にリアリティを感じられなくて。あまんさんの作品もこのようなファンタジーが多いと思いますが、それと比べると最後の書き込みがもうひとつかな、という印象を持ちました。

げた:表紙の感じは、ちょっと地味かな。子どもたちにアピールできるのか、疑問ですね。話としては、好きなんだけど、ストーリーの高低があまりないので、どうなのかな? 中学年ぐらいの子どもにとっては、文章は読みやすいし、分量としては適しているのでしょうが、子どもたちをぐいぐい引っ張る力があるのかな、と疑問を感じました。かなり強くおすすめしないと、子どもたちには読んでもらえないかな? 子どもの心を解きほぐしてくれる、しらぎくさんの魅力が一読しただけでは伝わらないのではないかと思いました。

サンシャイン:作者本人が絵を描いたと伺って、こういうおばあさんのイメージだったのね、とわかりました。おばあさんに出会うためには、子どもの中になにかつらいことが必要なんでしょうねえ。66〜67ページで家族がやけに冷たいというか、冷えたハンバーグを食べさせたりして……。こんな家族って、ありますかねえ?

ジーナ:うちはこんなことありますけどー。ほかのことをしていると、自分であっためてという感じで。この子も、落ち込んでいたから黙っていたのであって、普通のときなら「あっためて」とか自分から言うのでは?

サンシャイン:あまりしらぎくさんと出会う根拠がはっきりしないな、という印象がありました。人魚姫の話については、思わず筆が進んでしまったのかなー、バランスの悪さを感じました。ちょっと中途半端な印象。

アカシア:せいやくんの話のほうは、自分の問題について乗り越えたというのが分かりやすいけど、さわこのほうの話は、その辺がはっきりしませんね。

ジーナ:この倍くらいの量があって、しらぎくさんのことがもっとわかると、おもしろくなるかもしれませんね。

クモッチ:でも、読者対象からすると、これ以上本が厚いと手を出しにくいかも。中学年向けくらいの作品で、私たちが読むともの足りないと思うようなことは、この本に限らずよくありますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


K.L.ゴーイング『ビッグTと呼んでくれ』

ビッグTと呼んでくれ

アカシア:とてもおもしろかった。主人公のトロイは、自分にはいろいろな点でマイナスのレッテルを貼りまくっています。まわりの目を気にしすぎるし、〈デブ〉という脅迫観念にとらわれすぎている。それで、まわりの人たちには逆にプラスイメージのレッテルを貼りまくる。自分のことも他人のことも等身大にとらえることができないでね。弟は「どこにいてもしっくり適応できる」し、お父さんは「元海兵隊でびしっとしてて、背が高いけど筋肉質でデブじゃない」。カート・マックレーのことも、最初はやはり実像でなくレッテルで見てしまって「やせてる」、「まわりをまったく気にしない」「かっこいい」「自己表現できる」と、自分とは正反対のプラスイメージで最初はとらえている。でも、しだいに自分のことも他者のことも客観的に見ることができるようになっていきます。そのへんの過程が、うまく書けてますよね。最後、元海兵隊のお父さんの手をかりて、カートといっしょに住もうっていうのは、ちょっとやりすぎかなって思ったけど、カートはほかに救いようがないから、これしかないのかもしれません。カートみたいな子っていうのも想像できるし、トロイみたいな子もいっぱいいるだろうし。極端なプラスイメージや極端なマイナスイメージを出してオーバーに書いている部分など、コミカルな感じもあって。まじめなテーマだけど、笑えるところもあるって、いいじゃないですか。翻訳もうまい。

愁童:作者の創作姿勢がよく似ていて、『トモ〜』と読み比べる感じでおもしろく読めましたね。パンクロックがはやっていた時代にちょっと寄りかかりすぎてて、生活臭が感じられなくて、やや物足りない面もあるけど、自分のデブを鬱陶しく思う主人公の心情が良く書けていて、共感をもって読めたですね。

アカシア:パンクロックって、今でもまだ白人の間でははやってるんじゃないかな。この作者は、けっこう細かいところもきちんと書いてますよ。たとえばこのお父さんだけど、p33に「外に出ると、不審者が侵入しないよう、建物の入口をしっかりロックしてから、つかつかっとこっちにやってきた」なんて書いてます。p55には「部屋の奥にある窓の外に、一文字掛けた〈アン ィーク〉という赤いネオンサインがあって、けばけばしい光が部屋にさしこんでいる」なんていう描写もあるわよ。

mari777:私は今月の3冊の中でいちばんひきこまれて読みました。表紙の絵を見て、自分では絶対に買わない本だと思ったんですけど。内容的にはかなり特殊な世界を描いてるけど、翻訳ものっていうのがプラスに作用しているように思いました。ニューヨークを舞台にしていることで、距離がとれるっていうか、現代の日本の高校生が読んでも、逆にすんなり世界に入っていけるんじゃないかなと。翻訳はうまいなって思いました。最初から最後まで、ていねいに訳している感じです。ただ、割注が多いのが気になりました。割注ってどうなんでしょうね。

アカシア:読みたくない子はすっとばせばいいから、いいんじゃない?

クモッチ:翻訳物って、当たり前ですが外国のことなので、分からないことが結構ありますよね。そのぼんやりした感じもけっこう好きなんですが、脚注を読みながら、へ〜えと思う感覚も好きです。135ページの「デッドマン・ウォーキング」なんかはこれでよくわかるし。159ページの「あまーい空気…」についてる(マリファナはあまい香りがする)は、よけいかな。でも、おもしろい。207ページのように話の流れが速いところのベスピオ火山なんかは、無意識に読み飛ばしてたみたい。最後にまとめて注がついているのは、逆に話が中断してしまうので読みにくいと思ってしまいます。

げた:『トモ〜』もそうですけど、イメージがすぐにぱっと広がる感じです。タイトルを見ただけで、「何だろう?!」と手にとりたくなりますよね。主役の登場の仕方もおもしろい。地下鉄でふらふらしていたところを声をかけられて、おごらされちゃう。そしたら、それがロックの神様。伝説のロックスター。どうしてTがそんなに気に入られたのか、わかんないところもありますけどね。自虐的な「デブ」がどこまで、ビッグになるのかなって、期待させるところもおもしろいです。やっと、ライブにこぎつけたんだけど、いいところで、ゲロ吐いちゃって。でも、二度目の挑戦でスティックを持つところで終わって、ビッグなTを予感させる終わり方がよかった。すごく映像イメージがしやすくて、映画になりそうだなって思いました。一気に読者をひっぱっていってくれる本ですね。

クモッチ:私もおもしろくて一気に読んじゃいました。でも、カートの人物像がぶれちゃって、よくわからなくなったんですけど、先ほどおっしゃったように、主人公の目線で書いているので、それでかなと納得した感じです。でも、『トモ…』も1人称なんですよね。うーん、『トモ…』は、ぶれなかったんだけど。ぶれてしまうのは、「マンハッタンの高校生像」てのが、よくわからないからかな? カートの弱い面とスルドイ発言をする面に、私の中では折り合いがつかなかったという感じです。それにしても、この作品は、強烈です。臭かったり、うるさかったり、トロイがすごく食べるんで、読んでいて、だんだん気持ち悪くなってきちゃって。まあ、気分が悪くなるくらいリアル、ということなんですが、ほんと、キモチ悪かったです、これ。それにしても、父親が完璧なんですよね。中盤以降よく登場するこの父親は、どうしてトロイが過食症になっちゃったんだろう、というくらい良い父親ですよね。

アカシア:いや、いい人だけど、きっとそんなに完璧でもないんですよ。他者にはみんなプラスのレッテルを貼ってるトロイの目から見ると完璧に見えるけど、よく読むと、子どものことで悩んでる姿とか、「〈落胆している役たたずの片親です〉の電光掲示板が、頭上でチカチカ輝いている」なんて書いてありますもん。

クモッチ:最後のほうで、カートが「あのカップルを見ろよ」って言って、トロイが見ているうちにだんだんわかってくるシーンは、おもしろかった。こういうところも、カートはどこまでわかってるんだろう、と思いました。

アカシア:こういう子っていますよ。感受性はめちゃめちゃ鋭いんです。そのくせ、自分のことをかまってくれる人がいないから、正反対のタイプなのにトロイのお父さんみたいな人にちょっとなついちゃう。

きょん:私もカートのことがよくわからなくて、たぶんトロイの一人称で書いているから、カートのことを最初のうちは語れなかったんですね。

ジーナ:勢いのあるストーリーだと思いました。ぐいぐい読ませる。まさに、気持ち悪いほどのリアリティ。ここまでストロングな作品はなかなかないなーと。トロイが、カートというはちゃめちゃな子と出会って変わっていくのですが、ほかの人も変わっていくんですね。お父さんは、すごく厳格な人なのに、173ページで、カートは自分が盗みをしたのは「腹が減ってたし、疲れてたからっすよ」だなんてとんでもないことを言われても、鬼軍曹に豹変せず、カートに対して、予想と違う面を見せていくでしょ? だれもが、ステレオタイプにはまらずに、ストーリーの中で意外性を見せていくところがとてもおもしろいと思いました。ロックの場面の迫力は圧倒的で、すごい音が聞こえてきそう。ロック好きの息子に読めと勧めてしまいました。こういう場面を、文章でこんなふうに表現できるのだということを伝えたくて。

きょん:すごくおもしろく読みました。自分に自信を持つまでのストーリーで、ハチャメチャなところがおもしろいです。が、デブとしてのいじけた気持ちが前半延々と語られるのが、もういいやという感じもしました。デブの息遣いが聞こえてくるようで、私も気持ち悪くなってしまった。でも、カートとで会って変わっていって、ゲロを吐くところで、あまりな展開にびっくりして、そのあとぐいぐい読みました。人物の描き方がとてもうまい。カートが主人公のことをとても認めていたことに、トロイが気づくところもおもしろい。カートが、「お前も自分をさらして生きているんだ」というところ、カートがTを精神的に救ってくれた。でも、弟とのかかわりで、少しひっかかりました。デブの兄を前半さげすんで嫌っているが、わりとすっと認めていく様子に変わっていくところ。そんなふうにすっといくのかな?という感じがしました。

アカシア:前半は弟が「〜と思っているにちがいない」と言うくだりが多いんです。トロイが弟の実像を見ているわけじゃなくて、「きっと自分のことをさげすんで嫌ってるんだろう」と思い込んでる。それが、だんだん等身大の人物像として感じられるようになってくるんです。人物像がぶれてるわけじゃなくて、トロイの見方が変わって行くんじゃないかな。

愁童:終わり方が『トモ〜』と似ているなって、ちょっと思いましたね。最後の最後で、ギターと会話をしていくというのに、ドラムにスティックをたたきつけるという表現にはちょっと違和感を持ちました。ま、訳の影響もあるかもしれないけどね。

アカシア:最初の大事なステージではゲロ吐いちゃうんですよ。だから、ここでは叩きつけるほどでないとだめなんじゃないですか。

愁童:作者は、かなりの枚数を使って、主人公がギタリストのギターとの会話風なドラム演奏の練習シーンを詳しく説明的に書いてますよね。それだけに、作品の流れにそって読んでくると、「さぁ、会話の時間だ」という切っ掛けの言葉に反応してスティックをドラムにたたきつける、という表現が浮いてしまっているように読めちゃうんだけどな。まぁ、読み方次第では、これは主人公の最初のライブ演奏にスタートする意気込みの表現と受け取ってもいいんだろうとは思いますけどね。

一同:いや〜そんなもんじゃないよ。これでいいんじゃない?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年9月の記録)


ディートロフ・ライヒェ 『フレディ 世界でいちばんかしこいハムスター』

フレディー〜世界でいちばんかしこいハムスター

ケロ:今回初めて読みました。すごくかわいらしくて楽しく読みました。発売されたのは、ハムスターがはやっていた時期なので、この本はよく読まれたのでは? ただかわいいだけではなく、動物のキャラクターの書き分けが上手ですね。モルモットのエンリコとカルーソとのかけあいも楽しめました。詩のかけあいは、原文のテンポがどんなかわからないので残念ですが。中学年の子どもたちが喜んで読めるのではないでしょうか。
『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』(リチャード・アダムズ著 評論社)を読んだとき、ウサギが、困難に遭うと眠っちゃったりするのがおもしろく、本当の動物を観察しているなと思ったのですが、ハムスターがトライアンドエラーするあたりのことが、それに似ていて、動揺したときにヒマワリの種を並べ替えるのもおもしろい。続きも読み進んでいて、今3冊目読んでます。

ジーナ:私はそれほどおもしろいと思えませんでした。ハムスターが好きな子どもにはおもしろいんだろうなと思うのですが。一方通行ではないコミュニケーションをとりたい、つまり、自分の思っていることを伝えたいというフレディの願望は、飼い主であるゾフィーとのことなのかと思って読み進めていったら、それが最後結局は、マスター・ジョンが理解してくれたらいいとなってしまうんですね。それが、肩すかしをくったみたいな感じで。あっけなく終わってしまった感じでした。

ウグイス:細かいところは忘れてしまったんですけど、とっつきやすい本の感じも、挿絵もいいし、子どもが喜びやすい本だと思います。子どもって、飼っているペットの動物がどんなことを考えているのかな、と思って接していると思うので、おもしろく読めると思う。

ネズ:子どもたちにとても人気のあるシリーズのようですね。言い回しがうまいし、訳もなめらかなので、おしまいまですらすら読んでしまいました。最初の章のひいおばあちゃんの性格が、特におもしろくて気に入りました。ただ、ゾフィーによりそって読んでいたら、フレディは文章を書くのに都合がいいからとマスター・ジョンのところに行くでしょ? いやぁ、かしこいなあと思ったけど、ちょっと肩すかしを食ったみたいな気分になりました。これで登場人物や背景がでそろって、2巻からのお話が始まるので、いいのかなとも思うけど。それから、モルモットの役割もおもしろいですね。『不思議の国のアリス』のトゥィドゥルディとトゥイドゥルダムみたいなころっとした体形で、歌をうたったり、お芝居をしたり。子どもが喜びそうな挿絵も、とても良かったです。

ミッケ:このハムスターがちょっと好きじゃなくて、入っていけなかった。なんかいばっている気がして、みんなを見下しているというか・・・・・女の子のことも結構さらりとさよならしちゃう感じだし、モルモットのこともなんか下に見ているし。そのあたりが気になりました。ようするに、おりこうさんすぎるんですね。ハムスターが主人公っていうのは、大人から見れば弱い立場の子どもたちにとっては、すっと主人公に寄り添えていいと思うんだけれど、主人公に今一つしっくりこなかったので、楽しめなかった。最後も、「いよいよぼくの時間だ…」っていう感じで、なんかなあ、と思いました。

サンシャイン:ハムスターを私は飼ったことがないんですけど、飼ったことがある人は、汚いのがいやだとか、食べ物を選ぶとか、ハムスターの性質がわかっておもしろく読めるかなと思いました。ハムスターがパソコンを打って人間とコミニケーションをするという話は楽しめます。作者はユダヤ人なんでしょうか? 「約束の地」とか出てきますが。

一同:さあ、という顔。

ネズ:この巻は「天国のような『約束の地』アッシリアをみつけたハムスターの話を」で終わっているけれど、2巻め、3巻めはそういうお話なの?

ケロ:2巻目、3巻目は、特にそれとは関係のない話ですね。自分でつくったお話をフレディがネットで流してしまって、それをハムスターを研究しているマッド博士がつきとめて、というような事件が起こります。(その後、5巻まで読んで、『約束の地』という感じではないですが、フレディはゴールデンハムスターのは発祥の地アッシリアにたどりつきます。フレディにとって天国のような自分らしく生きられる場所という意味で使われ、最初はマスター・ジョンのところ、そして最後はハムスターらしく生きられるアッシリアということになります)

うさこ:とてもおもしろかったなと思って、好きなお話でした。幼年向けの童話として、登場人物(動物)や設定がシンプルでついていきやすかった。「ペット人生を捨てたハムスターの物語」というのがすべてを物語っているようにペットではなく自分の生き方を切り開いていこうとしているハムスターの話。フレディの語り口調から、次々に場面が流れて読者も無理なく読めるのでは。日本語もコンパクトに短く、どこにも迷いなく読めた。次も読んでみたいなと。シンプルさがいい。対象は、1・2年生?

ネズ:1・2年生にしては、漢字も言い回しもむずかしいから、3・4年生?

うさこ:4年生には幼すぎるから、3年生くらいまででしょうか。幼年童話というと絵ばかりだけど、これはもう少し文字の多めの物語を読みたい2年生にもおすすめでは。

げた:学校で行うブックトークで取り上げたことがあります。ひょっとしたら、動物は人間の言葉がわかるんじゃないのかと思ったり、ペットと言葉でコミュニケーションがとれたらいいなと思ったりしてる子どもは、いるんじゃないかと思うんですよね。自分も子どもの頃そう思ってたんです。動物が言葉を理解するといえば『ルドルフとイッパイアッテナ』のルドルフも字が読めるようになるんですけど、わくわくする感じがしました。これもそうですね。ですから、子どもたちがお話に入っていきやすいと思います。このシリーズは人気があります。それぞれの巻がユニークなテーマで読み手をあきさせません。読みなれていない子でも、楽しく読める、3・4年生におすすめの本です。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


須川邦彦『無人島に生きる十六人』

無人島に生きる十六人

サンシャイン:明治時代くらいの話。流されてから、叡智をつかって、助けられるまで生き延びるというのが、とてもいいなと思いました。すごくよく出来ている話。16人みんな助かるというのもすごい。登場人物の個性はあまり書かれていないのは残念ですが、時代と日本文化の持つ特徴なのかもしれません。集団で協力して無事帰還できるというのは、日本らしい。今の時代と違う状況が書かれていて気に入りました。いい本に出会ったと思いました。

愁童:あまり好きな作品とは言い難いな。自然描写の文体に何か違和感があって、作品世界に入りにくかった。この作者自身の海に対する感動とか恐怖感みたいなものが、あまり感じられないのが物足りなかったですね。

ミッケ:この著者は海のことはとてもよく知っているし、そういう面では違和感はなかったです。ただ、最初のうちは、とにかく時代がかった表現で、講談か紙芝居を見ているみたいで、入りづらいなあって思いました。ホノルルの港に入ったときのことでも、「アメリカ人に感心されたんだ! 日本男児はすばらしいんだ!」という具合で、今の人間からすると、おいおい、といいたくなる。もう、ほとんど見得を切っている感じ。日本がよくてアメリカから帰化した小笠原の人の話もそうだし、いかにも戦前の教育、という感じがしました。でも内容については、知らないこと、びっくりするようなことがたくさんあって、なかなかおもしろかったです。アザラシの肝を薬にするために驚かさないようにしておく話とか、海の水から塩をとる話とか、とても興味深かった。アザラシを殺すと決まった直後に救われるっていうのは、なんか、あまりにもタイミングがよすぎる気がしましたが。

ネズ:私はフィクションではなく、ノンフィクションとして読みました。語り口は、たしかに時代がかっているけれど、祖父や父、それに親戚のおじさんたちに聞かされた戦争体験記??それも、いつも同じ話!??は、みんなこういう語り口だったので、なんだかとてもあたたかくて、なつかしい気分になりました。たいへんな苦労はしたけれど、全員生還してハッピーエンドだったので、こういう語り口になったんでしょうね。不愉快なこと、不都合なことは、たぶん省かれてるんでしょうね。それにしても、次から次へと出てくるおもしろい動植物、それをうまく無人島生活に取り入れていく知恵に圧倒されました。こういう知恵って、当事は海の男だけでなく、町で暮らしている人も農家の人たちも持っていたんじゃないかしら。小笠原に暮らす、帰化したアメリカ人の話もおもしろかった。この本は、「お風呂で読む本100選」に選ばれているけれど、お風呂版を買って、荒海でなく、お湯に揺られながら読みかえしてみたいと思っています。

ケロ:とても新鮮な気持ちで読みました。一つの記録としてとてもおもしろいし、記録にしては表現力があるなあ、と感じました。特におもしろいなと思ったのは、竜宮城の記述のところで、海の下をのぞくのは軽気球に乗って空から見下ろすのと同じ趣きがあると書いてあったところ。以前に、ダイビングをやる人に、とてもきれいな海に潜ると空に浮いているような気がするよ、という話を聞いたことがあって、そんな感じだったのだろうなと思いました。夜の海も光る生物がいっぱいの色鮮やかな世界だと書いてあります。思えば、昔話の「浦島太郎」も、海の中の美しさを知っているから竜宮城を登場させることができたお話だったのだなあと、改めて感心してしまいました。
この作品では、淡々と描かれていますが、恐怖心と戦うというのは、実際はすさまじいことだったのではないでしょうか。ホノルルで、日本人として誇りを持って、など、なんだか肩肘張ったところもあったけれど、そのころの日本は、本当にそんな感じだったんだろうなと思いました。

うさこ:読み始めてすぐに一人称の限界を感じたので、それを差し引いて読みました。漂流もの、冒険ものには、スリルとかワクワク感というのを期待してしまいますが、皮膚感覚で物語を読むことができませんでした。無事に帰ってきたあとにつづった体験記なので、どうしても話がフラットな感じがしてしまって残念。ひとつひとつのエピソードはおもしろいけど。遭難してしまった絶望感や危機感が、そんなに多く書かれていなかったのも残念。食事をどうしていたのかをもう少し詳しく書いてほしかった。これをもとに現代の作家がリライトしたらどうだろうなと思いました。16人のそれぞれの個性があったからこそ生還できただろうし、人と人とのぶつかりあいもあったはず。そのあたりを16人の名前もきちんと出して作品にしたら、おもしろいのではないでしょうか。

げた:サバイバルものにつきものの人間関係の軋轢などはあっさり省略して、今回のテーマ「かしこさ」、すなわち人間の英知を結集して困難をのりこえ、人間ってすごいよということを前面に出しているんですよね。それにしても、自分が無人島に放り出されたら、絶対この本のようにはいかなかっただろうなと思いました。いかだづくりにしても、カメの油の行灯つくりにしても。細かいところは省いてありますが、「無事ご帰還、おめでとうございます」という感じで、それはそれで、読後感としてはよかったですね。これから、自覚的に人生をスタートする中学生には応援歌的なものとしておすすめの本だと思うな。

ネズ:さっき「不愉快なことや不都合なことは省いているのでは?」と言いましたけど、このころの日本人は、本当にこんな風だったのかも……とも思います。今の日本人と、まったく違うのかもしれない……。

ミッケ:海に出る時は、文字通り命がかかっているから、船の中には基本的に絶対服従の指揮系統があって、そういう意味では鍛えられてもいるし、船長も統率力があるはずだとは思います。それもですが、この本は、新潮文庫に入る前、昭和23年に講談社から出ていて、さらにその翌年には著者が亡くなっている。そういうタイミングを考えると、一つには敗戦で日本全体がしょんぼりしているときに、そんなことはないんだ、日本人だってすばらしいんだ、という感じで出た本なのかな、と思ったりします。著者も、きっと、いろいろな思いの丈を詰めたのではないかと。

ケロ:誇りがありますね。いい意味でもそうでない意味でも。それにしても、今遭難して無人島にたどりついても、この本のようにはできませんよね。カメから油なんかとれないしなー。

げた:コンビニをさがしちゃいますね。

サンシャイン:中学生に読ませてみる予定です。「この本で一番驚いたことは何?」と聞きながら子供たちの読みを引き出していきたい。

ネズ:今、テレビで擬似サバイバルのような番組をやっているでしょう? そういうのに慣れ親しんだ子どもたちは、どう思うかしら?

愁童:今の中学生が、「しらしら明け」といった夜明けの表現から、どんなイメージを作るのかな? ちょっと興味あるな。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


ジョイス・キャロル・オーツ『アグリーガール』

アグリーガール

ウグイス:出たときに読んで、おもしろかった本。主人公がユニークなので印象に残りました。同年代で共感を持つ子がいると思う。タイトル、表紙絵は、どうなのかな、と思いました。おもしろそう、と手を伸ばす感じではないと思う。

ジーナ:前に読んだけれど、忘れてしまい、今回読み直しました。最初状況がわかりにくいけれど、アグリーとマットという主人公が、それぞれ1人称、3人称の語りで書かれていることがわかってくると、どんどん読めました。このくらいの年齢の子の行動や心理がとてもよく書かれているなと思いました。親も先生もうざいと思ったり、マットが思わず余計なことを言ってしまったり。でも、この文体は私は違和感がありました。一見のりがよさそうだけれど、今の子の言葉とは違う感じがして。わかりにくい表現もあって、350ページ7行目の「ママのあごが落っこちた」というのなど、ひっかかりました。それに、ゴシック体の部分が、なぜゴシックになっているのか、よくわかりませんでした。会話が突然ゴシックになっていたり、じゃまな感じがしました。原題は、Big Mouth & Ugly Girlとマットのことも言っていて、実際男の子も読んでおもしろい本だと思うのに、「アグリーガール」だと男の子は手にとりにくく、読者をせばめているかも。男の子も読むと、心に残る子にはいるのでは?

ケロ:おもしろかったです。入りづらい部分とか、アメリカの高校生にピントを合わせるのに時間がかかりましたが。作品の世界に入ってしまうと、2人の対比がわかりやすいし、2人が近づいていく感じがとてもうまく表現されていると思います。主人公2人の距離感がとても心地よく読めました。マットが事件を通して変わっていくところも見どころなので、たしかに「ふたり」という内容が入った書名の方が良かった?かな。それにしても、アグリーガールは魅力的。とんがっているけど、正しいことをスッといえるかっこよさ。作者が70歳近いと知り、びっくりしました。メールを打つ場面で、おもしろいと思ったのは、いろいろ書いたあと、消去するところ。よくやりますよね。思いの丈をつづるのだけれど、結局この内容は相手に届いていないという。新しい表現方法ですね。

うさこ:現代の危うさやもろさをうまく描いている作品だなと思いました。テロに対する過剰反応、人を信用できない、妄想の中のおそれ、個と集団のバランス、メディアにのることによる誇大化など、すごく上手だなあと。不幸の連鎖からマットが孤独に陥るけど、アーシュラがかかわって人間性を取り戻していくというのが、リアルにビリビリ伝わってくる。犬のパンプキンまでも誘拐されたところはもうほんとにドキドキして。無事に戻ってきてほんとによかった! 自分のすぐとなりにある恐怖感みたいなのを感じた。確かにこの絵とこの書名だと強烈なインパクトがあるけど、入りにくい子もいるかも。タイトルづけも、もう一工夫が望まれます。作者が69歳というのを今知って、びっくりしました。この年代の人でも、ここまで登場人物くらいの年齢の人に寄り添って書けるんだなと感心。ひきこまれていくけど、読んでいて楽しい作品ではないですね。

きょん:アーシュラが、自分のことをアグリーガールと自分で言い、友だちにも、「自分はアグリーガールだからいいのよ」と、人とのつきあいの言い訳、または、自分の心のよりどころにしているんですが、アーシュラ・リグスが、なんで“アグリーガール”なのか? アグリーガールだからどうなのかというのが、読んでいてはっきりとしない。そこが、しっくりこなかった。マットとのやりとりで、変わっていくんだけど、最初の設定がはっきりしないから、何となく曖昧に進んでいって、アーシュラの心の変化がはっきりしてこないように思います。しかし、メールのやりとりは、リアルでおもしろかった。送らないで消去するシーンの戸惑い、微妙なところが、実感として読者に伝わってくる。アーシュラが最後成長して、ハッピーエンドなんだろうけど、スカーンと晴れ渡るようなさわやかさがない。アーシュラがアグリーガールだったというのを、もっと曖昧にしないでいたら、明るく終われたのかな?

げた:『アグリーガール』っていうタイトルを見て読み始めたら、いきなりマットが出てくるから戸惑ったんですけど、読み進むうちに、筋の流れと構成がだんだんわかってきて、引き込まれていきました。この作者は読み手をひっぱっていくうまい人だなと思いました。中高生に読んでもらう本としては、ハッピーエンドで終わったところは良かったな。むやみに、傷ついたり、死んだりする人がいなくって。マットのために唯一目撃証言した「アグリーガール」は、アグリーじゃなくて、一番美しいんだよっていう、反語的な意味を込めて「アグリー」が使われているんだろうなと思いました。書名についてですが、半分は「マット」について書かれているんだから、原題のように、書名にとりあげておいた方が、はいりやすかったかもしれないなと私も思いました。日本語表現がむすかしいですけどね。でも、読後感はよかったです。

サンシャイン:この舞台になったあたりに数年住んでいたので土地勘もあり、楽しく読めました。多分学校のあるロックリバーは架空の地名ですが、ほかの地名は実在しています。ところでアグリーガールは白人でしょうか、黒人でしょうか? たぶん白人なんですよね。原文では、どこかでそれがわかるような書き方をしているんではないでしょうか。15ページ、彼女はアグリーと言っているけれど、人からはアグリーとは呼ばれていない。要するに、家族から愛されていないと思いこんで、バスケット部でもみんなから嫌われていると思って、つっぱっている少女。通っている学校の関係者に対して地域の中で訴訟を起こすことは、公立高校は各地域に一つしかなく地域の代表であるということを考えると、まわりから非難されたりいじめられたりということは十分ありうることです。英語の題名と日本語の題名にずれがある点ですが、アグリーガールは一人称でも出てきますが、マットは三人称だけなので、やはりアグリーガールの方に比重があるのでは。狂信的なブルーアー師が最後に逮捕される行動に出るというのは話の展開としては安易でしょう。とにかく9・11後のアメリカの状況をうまく捉えて書いています。ママが精神的に不安定なのは、描写が極端なような気もしますが、これがアメリカの実態なのか、小説上で多少大げさに書かれているのか、ちょっとわかりません。日本ではこれほどではないのでは?

ミッケ:作品そのものは、おもしろかったです。ただ、ちょっと日本語が読みづらいところがあって……。ジョイス・キャロル・オーツという人は、かなり年配の人で実力もあるし、おそらく、細部まで神経を行き届かせて、かなりきっちり構成された文章を書いているんじゃないかな。ぶつっと切れているように見えて実はそうでない、といった感じの英語だったりするんじゃないかと、これはあくまでも推測ですが。爆弾騒ぎであるとか、学校相手の訴訟の話などは、前にもアヴィをはじめ何人かの人が取り上げて書いているけれど、オーツはそういう話題を取り上げつつ、濡れ衣を着せられた男の子と疎外感を持っている女の子の関係を中心に据えて、既視感を持たせない作品に仕上げている。力のある人なんだなあと、おもしろく読みました。人物造作も、狂信的な差別主義者のブルーアー師まで含めて納得できるし。でも、つくづく、翻訳物は難しいなあ、と思わされたのも事実です。たとえば、33ページのアグリーガールのお父さんのせりふ。「せめて、ヤンキースにしたらどうだ? よりによって、なんでメッツを?」というんですが、ヤンキースとメッツの違いをよく知っているアメリカの読者なら、それだけでアグリーガールがどういう少女でお父さんがどういう人かがぴんとくるはず。でも、日本の若者にはこれだけではなんのことやらわからない。アメリカやイギリスの書き手は、当然自国の若者に向かって書いているわけですが、現代の若者を取り囲む状況を取り上げた作品の場合、上手な人ほど、固有名詞や何かを巧みに使って、なるべく少ない描写で今時の若者に伝えたいことを的確に伝えていく。ところが日本語に訳すとなると、その固有名詞自体を説明しなくてはならない。これは、翻訳本のほんとうに悩ましい点だなあと改めて思いました。

きょん:ストーリーとして重要な部分は日本の読者にもわかるようになっていないと、おもしろさが伝わらないのでは? そういう細かいところがわからないから、私が最初に感じた「アーシュラがアグリーガールといっている意味」がはっきりしてこないんだと思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年8月の記録)


朽木祥『かはたれ』

かはたれ〜散在ガ池の河童猫

たんぽぽ:読むのは2度目ですがおもしろかったです。女の子が出てくるあたりからお話がカラーになるみたいな感じがしました。ひとりぼっちの八寸と女の子が同じさびしさを抱えているように思いました。私の図書室では6年生も読んでますし、続編の『たそかれ』も読んでいます。表紙がこんなふうだけど、中のイラストを見るとかわいらしい。表紙が、また違った感じになると、手にとりやすくなるかもしれません。とっつきがあまりよくないんですが、河童だけの最初のところをがまんして読めると、子どもも物語に入っていけるんです。猫になるんだよって言うと興味がわくみたい。

アカシア:最初に序章がありますが、そこを読んだときに、この人文章うまいなって思いました。最近登場した若い作家たちは、お話を作るのはうまいけど、文章がうまい人って少ないように思います。でも、この人はうまい。古めかしい感じがするところも、この物語の雰囲気にあっています。ひとりぽっちになってしまった八寸がどうなるのかなと思ったら、なんと猫に化けるとは! おもしろいですね。猫になっているときは猫の視点で人間を見ているのもおもしろい。盲導犬訓練所で落ちこぼれたチェスタトンという犬も出てきて、いい味を出しています。八寸と麻の関係は、ノートンの『床下の小人たち』みたいな関係ですね。ゆったりとした、わりと地味なお話だけど、とてもいいなと思いました。

ねず:まず第一に、文章に深みがあってうまいと思いました。佐藤さとるさんの『天狗童子』は、天狗の世界もおもしろいし文章も言うまでもないことで、大好きな作品ですが、ストーリー性に欠けるところが残念でした。そこへいくと『かはたれ』は、人間の世界にとびこんだ河童の正体がいつばれるかというスリルもあるし、お母さんをなくした女の子の気持ちもよく書けている。続編もぜひ読みたいと思っています。いつも、この読書会で話に出ることだけれど、日本の創作児童文学の母親像って、勉強しなさいと怒ってばかりいたり、視野が狭かったり、とかくステレオタイプで気に入らなかったんだけど、この本の亡くなったお母さんとか、後に出てくる牡丹さんは、なかなかいいですね。こっちのほうが、ずっとリアルだと思う。

ウグイス:最初河童の世界が詳しく書かれていて、ひとりぼっちの八寸がこれからどうなるのかと、引き込まれます。作者は動物が好きなんじゃないかと思う。猫のようすだとか、情けない顔をした犬のようすとか、とてもリアルに描かれていて好感が持てました。最初は八寸の視点で書いているけれど、麻が出てきてからは、麻の視点にかわっていくんですよね。後半にも、もっと八寸の視点がほしかったと思いました。麻の見た八寸になってしまうので、ちょっと物足りない。続編を読むとまた違うのでしょうか。全体に、しーんとした静かな気分が感じられ、ちゃかちゃかしてないところがいいですね。最近の本には珍しい。子どもにもゆっくり静かに読んでほしい。挿絵の河童の姿は、ここまでリアルに書かなくてもいいと思いました。後姿だけにしたほうがよかったのではないかしら。

みっけ:とても楽しく読みました。1ページ目から、ぐぐって引き込まれる感じで。この人は鎌倉に住んでいて、独特の地形をうまく使っているのもとても興味深かった。鎌倉のじとっと湿気のある感じが、河童があっている気もするし。それに、なんだかあちこちに隠れられそうな場所があることも。ともかく上手な人だなと思った。キウイを食べて、へなへなっとなっちゃったり、麻が八寸を洗おうと思って水をかけちゃって、カッパに戻っちゃったりして、えっ、どうすんの?とはらはらするんだけれど、破綻せず上手につながっていって、とてもおもしろかった。途中からは、お母さんを亡くした麻の気持ちがぐぐっと前に出てくるのだけれど、このお母さん像については、もちろんわかるんだけれど、なんかちょっとやり過ぎのような気がして、はじいちゃったというか、入り込めなかった。なんといっても楽しかったのは、麻の留守に、八寸が家中を探検して回る、「八寸おおいに遊ぶ、チェスタトンもおおいに遊ぶ」のあたりでしたね。とにかくおかしくて。それと、猫になったり、河童になったり、それがすけて見えるような微妙な感じも、いいなあと思いました。迷い猫のポスターが張られて、兄弟が気づいて、というあたりの展開もいいし。それと、どうやって終わるんだろう、と思っていたら、たたみかけるような展開で、八寸が麻にさよならも言えずに一族の元に返っていく。そのあたりも、めそめそしていなくて、いいなあと思いました。とっても気に入って、続編も読みました。

アカシア:麻の視点が出てくるのも、私はいいと思いました。続編には、麻が八寸に、八寸が麻に会いたいと思っているというのが出てくるから、ここで麻の視点を出しておく必要もあったんじゃないかな。

ウグイス:両方の視点から書かれていること自体はいいと思うんだけど、後半もう少し八寸の視点に戻ったらよかったかなと。

ねず:河童は、いまけっこうはやりだとか、新聞に出てましたね。

みっけ:最初に滝先生が出てくる場面があって、いかにもこの人が絡む、という感じに思えたのに、結局は最後にちょこっと、といってもかなり印象的な形なんですが、出てきて終わるのが、なんというか、ぜいたくな感じでしたね。

ウグイス:テーマが、目に見えないものを信じる心が大事だ、みたいなことを言っているから、ほかにもそういう人がいるんだっていうことを言うために滝先生を出したのかな。

ジーナ:おもしろい話を読んだなと思いました。日常の世界を、いつもと視点を変えて見せていくでしょ? これぞフィクションのおもしろさだなって。しかも、描写がとてもていねいで、すてきな表現があちこちにありました。八寸と麻の気持ちもこまかく描かれているから、納得しながら読み進められるんですね。たとえば、52ページ2行目。「犬は八寸が河童だとわかるから吠えるのか、猫だから吠えるのか、それともただ吠えたいから吠えるのか、八寸にはさっぱり理解できなかった。」という文章は、八寸の思ったことを簡潔だけれど過不足なく描いているし、114ページ2行目の「おやつのみかんゼリーは風邪薬のシロップみたいな味がした。」というところも、麻のつまらなさがすごくわかる。それから、この作者はキーツの詩だとか、植物の名だとか、シェークスピアだとか、さりげなくちりばめていますよね。50年前くらいの文学というのは、教養主義というのか、こういう薀蓄がもりこまれていたけれど、最近の児童文学というのは、等身大ばかりでこういう目線はなかなかありません。すぐにはわからない子も多いと思うけれど、世の中にはこんな美しいもの、すてきなものがあるんだよ、という投げかけに作者の心意気を感じました。

ポン:この本は、出版されてわりとすぐに、知人から「とってもおもしろいわよ!」と勧められて読んで、とても好きな作品だったのですが、今回読み返してみて、やっぱりしみじみといいお話だなあと思いました。もうね、最初、ひとりぼっちの八寸がかわいそうでね〜。20ページの「八寸はわずか61歳で、天涯孤独の身の上となったのである」という1行がずしんときた。だって人間でいえばまだ6歳くらいで一人になったわけだから、その孤独さかげんを思うと、気の毒で気の毒で……。でも、言葉っておもしろいなと思うんだけど、こんなすごくヘビーな状況でも、「わずか61歳」といわれると、ちょっと笑える。だって、人間界では61歳を「わずか」ということは、まずないでしょ。そういう河童ならではの設定がとってもおもしろいし、それをこんなふうにシリアスに、ずしんとくるようにいいながらも、ユーモラスな雰囲気もほんわか香るって、即物的、表面的だけでない、奥深さが感じられて、こういうのっていいなあと思いました。
と、最初から、細部までとっても楽しんで読んだのですが、ちょっと気になったのは、読者対象。表4には「小学校中級以上」とあるけど、中級にはムズカシイかも。難しい漢字も使ってるし。「翅(はね)」とか「薔(ば)薇(ら)色(いろ)」とか。こだわりがあって使っているんだと思うけど、どうなんでしょう? やっぱりひらがなにしたり、やさしい字に変えたりすると物語世界がくずれるのかな。118ページの「華奢なこどものように首もかぼそく、うなだれて内股気味に立っているようすは、いかにも頼りなげだった」なんて、その八寸の姿が目に浮かんでくるような、とてもよくわかる描写だけど、「かぼそい首」って、私が小学生のころだったら、ピンとこなかったかも。こういう描写も難しい漢字も、読者を子ども扱いしないで書くっていうスタンスのあらわれなのかな。子ども扱いしないっていうのは、子どもにとってうれしく思う部分もあると思うけど、あんまり本を読まない子には障害になるかもしれませんね。

ケロ:去年、児童文学の新人賞を総なめにした作品で、その時に読んで、すごく深みのあるおもしろいお話だと思いました。今回は、テーマがあったので、それを思いながら読み返しました。主人公の麻が、母をなくしたことをきっかけにして心が閉じてしまったところに、河童が現れます。目に見えるものが信じられなくなっている麻は、目に見えない「心」のつながりを河童との出会いで少しずつ手に入れていきます。麻と河童、麻とチェスタトン(犬)は、言葉は通じないけれど、気持ちは通じ合っています。ここでは、異形の者とは、人間と言葉の通じない生き物。でも、だからこそ心を通い合わし深いところで通じることができる存在だという気がします。この、目に見えない通い合いを重ねていくようすが丹念に描かれているなと感じました。序章は、作品に深みを持たせるものにもなってますけど、間口を狭くしているというところもあり、いちがいに言うことはできません。第1章以降は、ユーモアもありテンポもよくなり。河童が水をあびてしまったところで、超吸収タオルでふいたとか、おもしろいですよね。また、この作品から興味が派生する要素もあります。シャーロックホームズの黄色い顔を思い出しながら、カーテンをしめるとか。

サンシャイン:鎌倉にいたことがあるので、お話に親しみが持てました。本自体はおもしろかったんですけど、児童文学という名で大人向けに書かれた本かなと思います。難しい言葉もあって、子ども向けに書いている感じがあまりしなかったです。

ねず:子どもに真っ向勝負で書いているような感じ、昔の作家にはよくありましたよね。子どものとき、リアルタイムで読んだ手塚治虫のマンガにも、子どもながらそういうところを感じた記憶があるわ。

アカシア:子どもの本か大人の本か、というのは、難しい言葉が使われているかどうかじゃなくて、どういう視点で書いているか、だと思うんです。この作品は、はっきり子どもの視点に立って書いています。それに、わからなさそうなところは、ちゃんと説明してるから、ただの教養主義とは違うと思うな。

サンシャイン:麻っていう母親を失った子が、河童との出会いで癒されていくというのも、大人の視点かなと思ったんです。

ジーナ:等身大ではないかもしれないけど、作者がそういう部分もふくめてこの世界を子どもに手渡そうとしてるんだ、と私は思いました。

アカシア:表紙は少し抵抗がありましたけど。子どもが見てどうなんでしょうね。

ケロ:本屋ではじめてみたとき、この表紙はちょっとって思いましたね。

ねず:この色もきたならしいっていうか。

ウグイス:各章の扉の絵はいいのにね。目に違和感があるの。河童の姿をここまでリアルに描かなくてもいいのにね。

ジーナ:でも、これって「かわたれ」って読めませんよね。タイトルから図書館で検索したときに、ちゃんとヒットするのかしら。読み方どこにも書いてないし。

多数:カバー袖にあるわよ。「かわたれどき」って。

ジーナ:ああ、私の借りた本は、袖を切り落としてブッカーがかかってるからわからなかったんだ!

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


柏葉幸子『牡丹さんの不思議な毎日』

牡丹さんの不思議な毎日

愁童:うまい作品だなって思いました。読書会の課題本を読んでると言う、こっちの構えた姿勢を、いつのまにか忘れさせられて、楽しんで読んじゃいましたね。学校の成績や偏差値みたいな価値観以外の所にも、人生の真実や面白さがあるんだよって言う作者のメッセージが素直に伝わってきて、今の子ども達が読んでくれると、癒されたり、楽しんだり、多様な読み方ができる貴重な児童書だなって思いました。

アカシア:設定はすごくおもしろいなって思ったんですね。現実界の人とそうでない人が、接点を持っているってところがいいなと思って。ただね、これって産経の大賞だったんですよね。大賞かって思うと、ちょっと言いたいことが。ユキヤナギさんっておばけが出てくるでしょ。初出が「鬼が島通信」だから別々の時期に出たせいか、最初のほうは幽霊なんだけど、最後のほうはただのおばあさんみたいになって、優麗らしさがなくなっちゃう。それから、資(もと)っていう3年生の男の子。お父さんに変身した木とずっと暮らしちゃう。ファンタジーだからと言ったらそれまでだけど、現実との整合性って多くの作家は苦心して考えぬいてるんですよね。でも、作品はその辺がちょっと甘いかなって思いました。。「お盆にまだ一週間も前だというのに」は、誤植かな。

たんぽぽ:何歳くらいの子を対象にしているのかなって思って。小学生にはちょっと無理かなって思いました。女中さんが、流れの女中さんとか、おじいさんが昔の恋人に会いにいったとか。木がお父さんになってそのまま暮らすっていうのもなんか、無理があるように。子どもには難しいかな。連載をつなぎあわせていったって感じもしました。

アカシア:小学生には『かはたれ』のほうがわかりやすいんですか?

たんぽぽ:ええ。同じくらいの少女の気持ちが描かれていて共感できるのではないかと思います。

愁童:でも、柏葉さんの方には、さりげなくユーモアがちりばめられていて、世の中何でもありだよ、みたいな昔は良く居た隣のオバサンみたいな語り口。子供達がリラックスして楽しめる雰囲気がある作品に仕上がっているのがいいなって思うけどな。

みっけ:ふわふわした感じで、おもしろかったです。なんか奇妙な味ですね。お母さんの造作がなかなかおもしろくて、家族がみんな、それにふりまわされるみたいな感じなのが、日本ではわりと珍しい。お花見のエピソードなんかでも、あのおごちそうを、結局牡丹さんたちは食べたのか、食べなかったのか、よくわからない。飼い犬が男の子を拾ってくるエピソードでも、男の子が木の精と暮らすようになった、んだろうなあ、という感じで、なんだかゆるゆるっとした印象。人間とあちらの世界のものが入り交じっていた奇妙だけどほんわりした世界をおもしろく書いている。最後のエピソードで、初市での命のとりかえっこで、おじいちゃんの命が代わりに取られた、なんてさらっと書いてあるところは結構不気味で、これがこの人の持ち味なんだなあと思いました。

ウグイス:私は途中で飽きました。この本のおもしろさは3つあって、まず第一はホテルを家にして住むっていうところです。宴会場や、フロントなどに普通の家族がどのように生活するのか、子ども心におもしろいと思う。次に、幽霊やこの世ならぬものとの交流です。そして3つ目は、牡丹さんってキャラクター。最初からお母さんではなく「牡丹さん」と書いてあることからもわかるように、作者はこれを一番おもしろがって書いていると思う。大人から見れば魅力的な女性なんだけど、子どもはこういうお母さんに魅力を感じるかな? 作者がおもしろがっているこのキャラクターは、子どももおもしろいと思うのかな、と疑問に思いました。

愁童:自分の親をうざいなって思っている女の子って結構居たりするから、そんな子が読むと楽しく共感出来ちゃったりするんじゃないかな。何しろ、人生かくあるべし、みたいな作品じゃなくて、作者が子どもをまきこんで、一緒に楽しんじゃえ、みたいな創作姿勢に、僕はいかれてしまいましたね。

ウグイス:お母さんと娘っていう感じがしないでしょ。わざとそうしてるんだろうけど、子どもは楽しいと思うかしら。連載していたものをまとめているので、ゆきやなぎさんのことを何度も説明したり、ムダなところがある。50ページ、「泣くまいと歯をくいしばる小さな男の子は痛々しかったが、好もしく見えた」。「好もしく見えた」っていう表現は、全く子どもの語彙ではないですね。51ページ、「会いたい木があるんだ。……ぼくその木と友だちになった。あの木に会いたいんだ」って、子どもが言う言葉にしてはずいぶんわざとらしい。このあたりから、だんだんつまらなくなってしまった。

愁童:木に対する思い入れっていうのは、『冬の龍』(藤江じゅん著 福音館書店)にもありましたよね。よくあることじゃないのかな? 自分の子ども時代のこと考えても鮮明に記憶に残っている木ってあるもんね。

ねず:ウグイスさんがひっかかるのは、この言い方じゃないのかしら? 歯の浮くような台詞というか……

サンシャイン:私もあんまり評価できないですね。雑に書かれているという印象です。読んでよかったなって感じがあまりしませんでした。いきあたりばったりというのか、深みが感じられません。

ポン:私は、おきゃんなおばちゃんがドタバタする話に、子どものころから魅力を感じられないタチなので、これもタイトルを見ただけで「いかにも」という感じがして、あんまり読みたい気持ちにならなかった。でも、読み始めたらおもしろいところもあって……って、おもしろいことはおもしろいんだけど、でもなあ……。素朴なギモンなんですけど、ユキヤナギさんは、どうして幽霊になったのかなあ。何かこの世に心残りがあるから幽霊になったんだと思うんだけど、そういうこと、ぜんぜんでてこない。そんなことを気にしちゃいけない作品なのかもしれないけど、でも知りたかった。
50ページの「大人はどこまで子どもをないがしろにすれば気がすむんだ。菫はこぶしをにぎりしめた。子どもの気持ちを知ろうともしないで、気を使ったつもりでいる」というところは、違和感があった。菫がここでそんなに怒るのは不自然。よく事情も知らないのに、こぶしをにぎりしめるほど怒ることはないと思うんだけど。だって、資のおかあさん、資にここにきたいっていわれてすごーく悩んだのかもしれないよ。資をないがしろにしたくなくて、あれこれ考えた末にここにやってきたのかもしれないじゃない。資のおかあさんが、資の気持ちを理解しようとしたかどうか、資に会ったばかりの菫は知るはずもないのに、なんだか一方的に決めつけてるみたい。だいたい、小学校3年生だったら、行ったことのある場所だって限られるだろうし、新しいお父さんと、この先家族としてずっとやっていくのなら、前のお父さんのことはすべて封印しましょうってわけにもいかないと思うんだけど……。

アカシア:菫が怒るところ、私はわかる。粗雑な神経に腹がたってるんでしょ。小さい頃、私は粗雑な神経の大人がすごくいやだったから、よくわかります。

ケロ:菫ちゃんって、感情をあらわにする子じゃないのに、ここだけ感情がぴゅーって突出しているから違和感があったのかな?

アカシア:一方、牡丹さんはへんなことはするけど、子どもの気持ちをないがしろにするようなことはしないじゃない?

愁童:伏線がきちんとあって、それがうまく生かされている巧みな作品作りだなって思いましたね。

ケロ:「かはたれ」より「牡丹さん」の方がわかりにくいという発言がありましたが、どうしてかなと考えていました。読みやすいのは「牡丹さん」だと思うんだけど。テーマなのかな。

ウグイス:牡丹さんに共感できないと楽しめないでしょ。

ケロ:牡丹さんについては好ききらいがあるでしょうけど。

愁童:牡丹さんの日常的な生活感が感じられる部分を、さりげなく描いてイメージが浮かびやすい配慮がされている点などもうまいと思った。

アカシア:でもたとえば、資くんにしても、言葉で説明しちゃってますよね。だから、もとくんの本当の気持ちはわからない。でも、『かはたれ』は、麻ちゃんの気持ちに立って、けっこう細かく書かれています。こっちは、クールビューティーのお医者さんが赤ん坊をおぶっているなんていうところも、「なぜ」も「いかに」もなくて、書きっぱなし。

ケロ:柏葉さんの書かれた『ブレーメンバス』と比べると、これは一つ抜けて、うまく書けていると思いました。根っこに流れているブラックな部分はそのままで。そう考えてみると、『モンスターハウス』のシリーズも、ブラックな部分があるんですよね。日本のファンタジーを書く方の中でも、とても特徴がありますね。細かいところをいえば、資くんのところは、よくわからなかった。けっきょく長靴をとられちゃったのは、だれだったのかな? よくわからないけど、まあいいじゃん、みたいなテイストがあって、それをいいと思えるのかどうかってことでしょうかね。柏葉さんの作品は、繊細なイメージがあったけど、これは豪快な感じで。

ねず:終わりまでおもしろく読みました。いちばん感じたのは、良くも悪くもアバウトであるってこと。とってもおおらかで、そこが柏葉さんやこの作品の魅力だと思うんだけど、やっぱり「木がお父さんになる」というところが、いちばんひっかかったわ。ここだけがアニミズムの世界で、残りの部分は成仏できずに幽霊になっているという宗教の世界だから気になるのかも。プルマンの「ライラの冒険」3部作の第3巻に、幽霊がちりになって世界に散っていくという場面があって、ここにはプルマンの宗教観というか、祈りのようなものがくっきりと現れていて感動したけれど、この作品の場合は、わりあい気楽にやっているのでは? 温泉宿のこととか、いかにも日本らしいいろいろなものの書き方は、とても魅力的で、うまいなとは思ったけど、アカシアさんと同様、これが大賞?って、ちょっと思ったのはたしか。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


クラウス・ペーター・ヴォルフ『イェンス・ペーターと透明くん』

イェンス・ペーターと透明くん

ジーナ:おもしろいと思えませんでした。エピソードが並んでいるオムニバスタイプの本だから、このユーモアにのれないと楽しめませんね。1冊読んだという満足感もないし。日常生活をあれこれかき回す透明人間が出てくる、という設定自体はおもしろいんだけれど。一番気になったのは、54ページの歌をうたうシーン。透明くんの声はみんなには聞こえないはずなのに、ここだけ急に聞こえるでしょ? これってどうして? 聞こえたら確かにおもしろいけれど、その場その場で都合よくただ楽しげに書かれている感じがして、ついていけなくなりました。

アカシア:透明くんはもうひとりの自分ってことでしょ? だから、ここは自分の声なんじゃないのかな。私はそう読んだけどな。

ポン:えっ? 自分の声だったの? あらぁ、びっくり! 話を間違って読んでたかも……。そんな私がコメントしてよいものかちょっと不安ですが、思ったことを言いますと、いろいろと、おもしろいといえばおもしろい出来事が起こるんだけど、最初から作者に「これはおもしろいんでーす!」って言われているような感じがして、あんまりのれなかった。袖に、イェンス・ペーターは「おりこうさん」って書いてあるけど、読んでてそんなにおりこうさんとも思えなかったし……。

サンシャイン:子どもの本でも何かしら人間の深い部分に触れている作品かそうでないか、という視線でどうしても読んでしまいます。透明くんが現れて、人間の裏側の深いところに触れている感じがするか、ということですが、そういう視点で読んでいい作品なのかどうか、皆さんがどう思われたかうかがいたい。私は、そうは思えませんでした。ファンタジーにしかできないこと、ファンタジーでしか表現できないことがあって、それは人間の隠れた部分を描くことだと河合隼雄さんが書いていましたが、そのような作品なのかかどうかということを皆さんに伺いたいです。

アカシア:別に人間の隠れた部分を書かなくてもいいと思うんです。大人の思う「ためになる」本ばかりじゃなくてもいい。入り口から入って出るまでに何かが得られればいいのかな、と思うんです。その何かは、すっごくおもしろかったとか、すっごく笑えたとか、それだって一つの体験なんだから、いいんじゃない? ただこの本は、そこまでもいかなかったけど。

ウグイス:見た目はすごくおもしろそうな本。タイトルも表紙の絵も、あまり分厚くないことも、子どもには手にとりやすい本だと思う。でも中身は期待はずれだった。目に見えない存在がいるというのはそれだけでおもしろいんだけど、起こる出来事はたいしておもしろくない。それに会話のおもしろさが全然ない。透明くんのセリフが「よんでくれたまえ」とか、「あるまいね」とか古めかしいし。

みっけ:すごくおもしろい、とは思わなかった。というのは、どれもワンパターンだったから。全部、透明君が、ほとんど暴力的にペーター君をそそのかして、ペーター君がひきずられてはちゃめちゃになっていくという構造でしょ。子どもがしたそうなことを取り上げているのはわかるけれど、なんか感じ悪い、と思いました。透明くんの存在が、なんかうざったい感じになっちゃっている。だからたのしくない。9ページの絵を見ても、ペーター君がお利口さんとは思えないし。

ケロ:タイトルなどおもしろそうだったけど、実際に読んでみると、あまりおもしろくなかった。どうしてかなと考えてみましたが、おそらくこの「透明くん」という存在が、いわゆる心の中の「悪魔」みたいなもので、作者側にしてみれば、そそのかされてイエンス・ペーターがとんでもないことになってしまうことが「悪いことをしちゃうのって、おもしろいだろう」ということになるのでしょう。でも、それすらも教訓めいて、説教くさく感じてしまう。悪いことするのも、まあ悪くないよ的なスタンスで描いているのでしょうが、意外性もない。だからおもしろく感じられなかったのかな、と思いました。

たんぽぽ:発想は、牡丹さんと同じでおもしろいのですが、悪戯のしっぱなしで最後まで、すとんとくるようなものがなかった。

アカシア:幼年童話かと思って読み始めましたが、違いますね。「彼女」なんていう言葉がルビナシで出てきますもんね。編集者は読者をどの辺に想定しているんでしょう? 49ページ6行目には「碧色(あおいろ)の瞳」っていうのもあります。文体とあまりにも合わない漢字が使われていたり、編集方針が分からない。訳もすっきりしませんね。ドタバタならそれなりの言葉で訳せば、もっとおもしろかったのでは?

愁童:透明くんがどんな存在なのか、よくわからない。はちゃめちゃなとあるけど、何が、どうはちゃめちゃなのか、さっぱりわからない。まして透明な存在ということになれば、この作品の描写じゃ、読者にはさっぱりイメージがつかめないよね。子どもには何が何だかわからないんじゃないかな。

アカシア:主人公以外がみんなステレオタイプなのも、つまらない。もっとはちゃめちゃにやってもらいたかったな。

愁童:透明くんが、おばさんに対して無反応なのが不自然な感じで、作者自身の透明くんのイメージが明確じゃないのかな?なんて思えちゃう。

ねず:ごめんなさい、わたしは、けっこうおもしろく読んじゃった!小学校の中学年くらいのときって、ある日とつぜん「わたしってなに?」と気づくころなんじゃないかしら? わたし自身、ある晩、眠りにつく前に、とつぜんそう思って自我に目覚めたときのことを強烈におぼえているので、そういう年頃の子どもたちが読んだら、けっこうおもしろいのでは? 『ジャマイカの烈風』にもそういう場面が出てきて、あの傑作のなかでも最高の場面だと思っているのだけれど。こんな風に読むのは、ちょっとひいきのしすぎかな? 透明君の台詞の色を変えているのも、いい工夫ですよね。ずいぶんぜいたくな本!

(「子どもの本で言いたい放題」2007年7月の記録)


名木田恵子『レネット』

レネット〜金色の林檎

げた:チェルノブイリの話は、『アレクセイの泉』(本橋成一/アリス館)のあと児童書ではあまりなかったと思います。被災者した子どもたちを預かった家族が、なんで離れ離れになって、悲しい結末を迎えることにしなくちゃならないんだろう? チェルノブイリの話をとりあげるのなら、もっとあたたかい、ハッピーな形で終わる物語にはできなかったのかなあと思いました。セリョージャに対する気持ちは、自分のことを省みられなくなって、やきもちをやいているということじゃなくって、実はセリョージャに恋していたんだということは、後のほうでわかるんですけど、僕にはわかりませんでしたね。お母さんのことなんですけど、12歳でなくなった長男の身代わりのような形でセリョージャを迎えて、セリョージャが帰ってしまうと、その思いを断ち切りたいから、北海道を離れていく。なんで、そうなるの? 家族関係を壊すことないじゃないの? ちょっと納得いかない部分ですね。

アカシア:私はこの表紙や題名からは意外だったんですが、読んだらおもしろかったです。チェルノブイリの事件を日本の子どもも大人も忘れかけているときに、こういう取り上げ方もあるんだ、と思って。セリョージャだけだと、いい子で出来すぎかもしれませんが、レオニトっていうわがままな子も出てくるのが、いいなあと思います。ボランティア団体の恩恵を受ける側なんですけど。子どもらしくていい。お兄さんが亡くなって主人公の家族が暗いんですけど、セリョージャと暮らしているうちに、家族の関係が変わっていくんですね。たぶんお父さんとお母さんとみかちゃんは、セリョージャに対してそれぞれ違う思いを抱いていたんだと思います。三者三様の思いが書かれています。短い作品なので書き込めてないところもあると思うんですけど、こういう書き方もあるのかと感心しました。

驟雨:時間をかけてじっくり読めなかったというせいもあるのかもしれないけれど、私はなんだか入っていけなかった。ああチェルノブイリのことか、ああお兄ちゃんがいなくなっていろいろあった家庭のことか、という感じで、作者の書きたいお題目が次々に頭の中に浮かんできて、それでおしまいという感じでした。

アカシア:私は作者が書きたかったのは初恋だと思うのね。

驟雨:なんか、そういうふうには読めなかったです。最初の、お兄ちゃんが死んで家族がバラバラになりそうだ、というところから、途中のチェルノブイリときて、その段階で完全に構えが決まっちゃったようで、うまく読みとれませんでした。

ネズ:私も最後のところを読んで、「ああ、初恋を書きたかったんだ!」と思いました。どうりでセリョージャのイメージが、少女マンガに出てくる王子さまのようだと納得。でも、導入部はマンガとは大違いで、とにかく暗い。「なんだろう、この暗さは!」と思って読むのが辛かったけれど、金色の林檎の種が出てくる場面で、やっとイメージがはっきりしてきて、なかなかいいなと思うようになりました。幼いレオニトとかニコラウも登場して、動きも出てきておもしろくなった。けれども、やっぱり書きたかったのは、初恋なのかと、ちょっとがっかり。今の日本の児童文学はーーなんて威張って言えるほど読んでないけどーー自分の身の回り何メートルかのものを、ちまちまと書いているような感じがするんですね。この作品はチェルノブイリを扱っているので、もう少し広がりのある作品なのかと期待していたけれど、そういう問題も家族とか初恋とか、自分のまわりの小さな世界にぎゅっと吸い寄せてしまう日本の児童文学の力って、ある意味すごいなと……大上段にふりかぶった児童文学が必ずしもいいというわけではないけれど。

アカシア:でも、チェルノブイリ被爆者のことを日本の子どもにも引き寄せてフィクションで書こうと思ったら、こういう書き方になるんじゃないかな。確かにセリョージャは少女マンガ的だけど、初恋って相手のことがちゃんと見えなくて美化するようなところあるじゃない?

げた:日本にも、里親として、3か月ぐらいの期間、被爆した子どもたちの面倒を見て、体を強くして帰してやるという活動をしている人がいるというのを、初めて知りましたね。

アカシア:たとえ1か月だけでも健康な暮らしをするのがよいというのは、初めて知りました。今まで、新聞で受け入れる人たちの話を読んでも、自己満足じゃないかと思ってしまっていたんだけど。

驟雨:今、みなさんのお話を聞きながら、はじめのほうをめくってみたんですが、やっぱりべたーっとした印象で、好きになれません。息が詰まりそう。途中でやんちゃ坊主が出てくるところは、唯一息がつけましたが。

ネズ:林檎というのは、西欧の人々にとって、まさに「生命の木」というような特別な意味がありますよね。エデンの園の林檎ともイメージが重なって、生命の始まりと、チェルノブイリに象徴される人間の滅亡というようなーーチェルノブイリというのは、黙示録に出てくるニガヨモギを意味するときいたことがあるけれど。そういうイメージの美しさとか、力強さは感じられたけれど、とにかく暗いというか、ユーモアが無いのよね。ところで、こういうスカスカな、1行ずつ改行するような書き方って、よくあるのかしら。

ジーナ:『世界の中心で愛をさけぶ』のような大人向けのベストセラーも、改行だらけですよ。

アカシア:でも『レネットーー金色の林檎』って、この題でよかったのかしら。リンゴではなく、林檎って?

ネズ:「サヤエンドウのさやをむく」とか、「するっとさやをむく」という記述が度々出てくるけれど、これは「サヤエンドウの筋を取る」ってこと? それとも、グリンピースのことかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


マーティン・リーヴィット『ひとりぼっちのスーパーヒーロー』

ひとりぼっちのスーパーヒーロー

ジーナ:私はこれはダメでした。こういう状況におかれた子どもというのがいるのはわかるのだけれど、これを子どもの読者に投げかけて、何が言いたいのか、わかりませんでした。子どもに何を感じさせたいのでしょう? 最初のページから「ぺしゃんこな状態」というのが出てきて、このぺしゃんこという言葉が、あちこちで繰り返されるのだけれど、そのイメージがあいまいな気がします。感覚的な言葉で、わかったような気分にさせられるけれど、やっぱりわからない。原文はなんという語だったのか、知りたくなりました。

ネズ:“flat”ですね。

ジーナ:あと、ヒーローものになぞらえて、「善行」をして点数を稼ぐ、というふうに主人公が考えるわけですが、ゲームのたとえなら、『ごめん』(ひこ・田中著 偕成社)の「経験値」のほうが、ずっと読者にぴったりくるように思いました。この「善行」という言葉は、あまりピンとこないのでは?

驟雨:前に原書を読んだこともあるんですが、今回翻訳を読んでみて、あらためて、これを日本の子に紹介してどうするのかなっていうのが、正直なところです。袖に、母を思う子の一途な思い、感動の……といった惹句が入っているけれど、違う気がする。感動するどころか、悲惨な事実をそのまま無責任に投げ出されたような嫌な感じばかりが残る。このお母さんはなにやってるんだ、周りの大人はなにやってるんだ、これを読んで、子どもの一途な心に感動してすませるなんて、そりゃあおかしいだろ!みたいな……。表現として考えれば、おもしろい面がないわけではない。すっかりスーパーヒーローに成りきった子どもの主観で見た世界をどう書くか、という書き手にとってのおもしろさという点で。それにしても、SFとかコミックの素養がない私などは、聞き慣れないSF的な言葉に次々に躓いて、それも世界に入り込めない原因だったように思います。スーパーヒーローが好きな子が読めば、違うのかもしれませんが。

アカシア:最後まで読むのに時間がかかりましたね。もうちょっとていねいに訳してほしいなとも思ったし。スーパーヒーローって言葉自体、英語ではわかりますが、日本語ではスーパーマンとかバットマンとかスパイダーマンのこと、そうは言わないんじゃないかな。「善行」って言葉も、この物語には合わないと思いました。急に修身の本みたいになっちゃいます。「人助け」くらいでいいんじゃないかな。同じテーマなら、『タトゥーママ』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)のほうがずっといい。スーパーヒーローごっこというのも。訳文がぴったりはまらない。ヘックの一人芝居だから、ヘックに感情移入できないと作品全体がおもしろくなくなっちゃう。途中からヘックが不安定になっていくところで、『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著 小尾芙佐 早川書房)のような書き方をしてくれればよかったんですが。マリオンが最後自殺するところも疑問に思いました。

げた:よくわからなくて2回くらい読みました。全く読後感が悪い本でした。ヘックが出会ったマリオンという少年を自殺させたり、中学生のヘック少年を一人でがんばらせたりして、大人の都合で。最後に、ヘックが自分はもうスーパーヒーローじゃないと気づいたところで、少し救われたかな、と思えるんだけど。ヘックが心を閉ざしているから、友だちのスペンスが呼びかけても、なかなか応えられない。もっとスペンスに応えられるようなつくり方をできなかったのかなと。この表紙を見て、もっと単純で明るい話なのかな、と思ったら、イメージが全然違う。児童書には不向きだな。

ネズ:原書の裏にある推薦の言葉を読むと「読者は主人公のヘックを愛さずにはいられないだろう」と言う意味のことを言っているけれど、主人公に感情移入するのに時間がかかりました。とても幼い感じのところもあるのに、とっても難しい言葉を使ったりする。アメリカン・コミックに親しんでいるアメリカやカナダの読者はおもしろく読めるかもしれないけれど、難しかった。私は、ヘックよりもマリオンに親しみを感じてしまったので、なにも殺すことはないのに、残酷だなあと思いました。お母さんにも腹が立ったし……

アカシア:こういう状況の子どもは多いから、大人が自戒するために読むのならわかるけど、子どもに読ませてもね。

ネズ:どうしてこの子は母親に腹を立てないのかしら。なんで、ここまでお母さんを守りたいと思うの?

ジーナ:「守ろう」というより、お母さんと一緒にいたいっていう気持ちでは? 福祉事務所などに知られると、施設に送られるというのがわかっているから。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


アンジェラ・ジョンソン『天使のすむ町』

天使のすむ町

げた:今日の3冊の中では、一番読後感がよかったな。読み終えて「心がほんわりとあたたかく」という気持ちになりました。マーリーは14年の間、実はおじさん夫婦に育てられたんだということを、ある日突然告げられ、動揺して、いらいらしてたんです。でも、お母さんのラブレターを読んで、自分がお互いに愛し合っていた父と母の子どもなんだ。たまたま事故で離れ離れにならなければならなかっただけなんだということを知って、ヘヴンという地名にふさわしい気持ちになっていくんですよね。気になったのは、そうはいっても、ジャックがどうしてマーリーを見られなかったのかなということですね。妻を失ったショックで、立ち直れなくなってしまってじゃ、おかしいんじゃないかな。逆に、俺に任せろと思わなくっちゃ。この舞台になった場所は、特定できるんですか?

驟雨:作者はずっとオハイオ在住で、オハイオの小さな町を舞台にした作品をいろいろ書いているようですよ。この作品の中にも実在の場所が何カ所か出てきますが、ヘヴン自体は特定できないみたいですね。

アカシア:この本は出たときに英語で読んで、日本語にするのは難しいな、と思ってました。小峰で出たのはよかったけれど、やっぱり売るのは難しいかもしれませんね。いい人たちが出てくるんだけど、人間関係がわかるまでに時間がかかるんですよね。ジャックが、どうしてこの子と暮らせなかったのかというのも説明されてないし。原書の表紙には、アフリカンアメリカンの女の子が出てますが、日本語版にはそういう情報もありません。アフリカン・アメリカンの家庭だとわかったほうが理解できることもあると思うんですが。焦点が一つに定まっていない点描のかたちで物語が進むので、読書好きの子は楽しいだろうけれど、そうでないと自分の中できっちりと像を結ばせていくのが難しい。最後は明るい感じで終わるのはいいですね。シューギーが、親を拒否しているんですけど、これがこの年齢特有なものなのか、それとも何か理由があるのか、よくわからなかった。

ネズ:これは不思議な本ですよね。この物語の前の出来事を、作者は次の本で書いているんですよね。赤ちゃんが生まれて、お母さんが死んでしまうまでのお話。同じ出版社から、別の訳者で出ている……

驟雨:『朝のひかりを待てるから』ですね。

ジーナ:よかったのは、人物一人一人が生き生きと描かれていたところ。ただ私は、いくら愛する妻が死んでしまったとはいえ、ジャックおじさんが幼い子を人にあずけて放浪に出てしまう、しかものんきそうに手紙を書いてくるというのが理解できなかったので、物語にのりきれませんでした。また、確かに自分の親が違っていたというのはショックだろうけれど、マーリーは育ての親に愛情を注がれて育っているわけですよね。さっきの本のヘックなんかと比べれば、ずっと恵まれた状況です。それが、血がつながっていないとわかったとたんにこんなになってしまう、というのがピンときませんでした。キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)の頃から、さまざまな家族の形というのが児童文学ではずっと書かれてきているのに。

アカシア:アメリカは、養子や里子には、きちんとそう話す場合が多いですよね。それを言ってこなかったというので、この子がショックを受けるんでしょうね。

驟雨:この作品は、かなりふわふわとつかみ所がないような描き方がされていて、たしかに読み取るのは難しいかもしれませんが、一方で、そのふわふわした感じが、天使が描かれたヘヴンのはがきに通じるし、揺れている主人公の気持ちを忠実に追いかけていく感じにも重なって、それがこの本の魅力になっているような気がします。ふわふわと揺れている点描の風景に忠実に寄り添っていくと、主人公の心の動きがとてもリアルに感じられる。前々から、養子ものというと、悲惨なものがついてまわる感じがしていたけれど……、

アカシア:70年代くらいからは、そうでもないよ。日本の作品でも。

驟雨:悲惨というか、つまり、養父母との関係の難しさとか、実の親との関係の難しさとか、金銭的なこととか、そいうことがつきまとってくる印象があるんですが、この本は、養父母とも実の親とも、関係がいいという設定で、アイデンティティーの問題がくっきり浮き上がってきているのがいいと思いました。この子は、養父母との家庭にきちんと自分の居場所があって、のびのび育ってきた。それが突然アイデンティティの足下をすくわれる。結局たいした変化はないじゃないか、ただ名札が変わるだけのことだろ、といわれればそれまでなんですが。アイデンティティが混乱してからまた捉え直すまでの過程がとてもよく書けていて、自分の中にそういう混乱を抱えている子はきっと日本にもいるだろうし、そういう子には響くものがあるんじゃないでしょうか。この子はすごく混乱して、今までのことがすべて嘘だったのかと思い、ドアをばんと閉めてみたり、トイレに閉じこもってみたり、いろいろするわけですが、そういう行動に出られるのも、養父母との関係がうまくいっていて、子どもらしくのびのびと育ってきたからだと思うんです。だから、読み終わったときに、ほんわり暖かいものを感じる。この子と養父母のような安定した親子関係の中にいる子が遭遇するさまざまな困難を取り上げた作品というのは、ややもすると地味だと見られがちですが、必要としている子はいると思います。今を生きる子どもたちに届ける本として、プルマンの『黄金の羅針盤』のように、子どもを利用することしか考えない親を持った子どもが、それでもタフに生きていく、というタイプの本も必要だと思いますが、一方で、大人といい関係が持てて子どもらしくあれる子の成長物語も、必要な気がします。

アカシア:『アンモナイトの谷(蛇の谷 秘密の谷)』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社)と同じで、成長の過程で子どもが養父母を選びなおすっていうテーマですよね。でも、ドハティの方が児童文学としてはわかりやすいですね。

驟雨:あとひとつ付け加えると、たとえばジャックおじさんが昔のことを思い出している時に、同時に主人公も昔のことを思い出していたり、主人公の夢とボビーの描いている絵の中身が同じだったりと、さりげなく不思議な感じが醸し出されているあたりも、いいなあと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年6月の記録)


エリノア・ファージョン『町かどのジム』

町かどのジム

ケロ:とてもていねいな語り口のお話で、物語への入って行き方も自然で楽しく読める本 でした。ていねいな語り口は、訳者の力だと思いました。ちょっと古い表現がありましたが(たとえば、「ぶっつかる」とか「ごりっぷく」とか)、それを そのまま生かすことで「昔のお話なんだな、いいお話だな」という読者側のスタンスができるので、それがとても良いと思いました。

カーコ:今回の3冊のうち、2冊は語り方に特徴がある本だと思いました。『いたずらハリー』は、読者に向かって登場人物が語りかけているのに対し、この本はお話の中の登場人物がべつの登場人物に、さまざまなお話を思い出話として語るんですね。語りの取り入れ方がおもしろいと思いました。今でもロンドンに行ったらこんなおじいさんに会えるんじゃないか、と思わせてしまう。松岡さんのおじいさんの語りの文体がすばらしく、チンマパンジーなどの作者の造語も、日本語にきちんと置き換えて訳しているところもすごいなと思いました。この本が松岡さんが初めて翻訳された本と知ってびっくり。

ネズ:昔読んだときは『町かどのジム』が本当に好きで、『百まいのきもの』のほうはそれほどではなかったけれど、今回読んでみると『百まいのきもの』のほうが新鮮に感じられました。この時代の安定した階級社会の話で、あたたかさと共にペーソスも感じました。読み聞かせに最適の訳がすばらしい。ところで、みかん箱って原作ではなんなのかしら? りんごの箱? オレンジ? 今はみかんは段ボール箱に入ってるから、みかん箱ときいてもわからないかもしれないわね。

ミッケ:ファージョンはとっても好きで、自分でも何冊か持っています。とにかく、古き良きという感じがあふれていて、それが好ましい。男の子が自分の身近にあったことなんかを話すと、それを引き継いだ形でジムが途方もない話をするという、その落差がとてもいいですね。ジムが話し始めたとたんに、ばーんとイメージが広がって、途方もない事になっていくあたりは、子どもが読んでもわくわくしそう。しかも、荒唐無稽さが半端じゃなくて、それでいてどこか優しいから、心地よい。あと、この絵もほんわかした感じを支えていますね。訳の調子と安定した社会を背景にした内容とがぴったりあっていていい本だと思いました。

アカシア:私はこの本がとても好きなんです。最初に学研から出ていて、その次に福武にうつったときから、絵が原作どおりアーティゾーニになりましたね。この作品の中では、貧しいジムのことを、周りの人々が全然下に見ていないんです。ほら話への展開の仕方もうまい。ジムのことをデリーがすごいと尊敬して見ている設定もいいと思います。8歳と 80歳の間にかよう気持ちがとても良いし、読者の想像力を喚起しますね。エリノアという表記ですが、今出し直すならエリナーかエレナーにしてもよかったのでは? 岩波の選集の、ファージョンの他の作品は年齢対象がもっと上ですが、これは小さい子に向けて書かれていてわかりやすいですね。

げた:いい本なんだけど、子ども達になかなか手にとってもらえない本になっていますよね。「町かどのジム」に対する周りの人のあたたかい気持ちがとてもいいと感じました。自然な感じでね。お話をジムのように、子どもたちに語れたらいいなと思いました。この本は、それぞれのお話が完結してるので、1冊を読むことをすすめるより、1話1話読んであげてもいいんじゃないのかなあ? 1話読んであげれば、次からは、自分で読みたくなるようになるかも。私も、ジムのように、いつか、町かどの「おはなしおじさん」のよになれたらいいなあ、と思ってます。

小麦:この本ははじめて読んだのですが、とてもおもしろくてぐいぐい引き込まれました。よく考えると、ジムは身寄りのないホームレスなんだけど、その存在が、ちっとも切なくならないどころか、魅力的にすらうつるのは、ジムのお話が抜群におもしろいから。自分のなかに物語を持っている人は、どこまでいってもみじめにならない。物語を抱えることは、もうひとつの大きな世界を手に入れることなんだなーなんてことをしみじみ感じました。うまいなと思ったのは、船乗りであったというジムの前歴が、物語の導入部分でうまく生かされているところ。いかにも船乗りっぽく天気を読んだりした後に、自然に船乗り時代のお話に入っていくから、突拍子のない話も本当らしく聞こえてくるんですよね。しかも人から聞いた話ではなく、全部ジムが経験した話として語られるから臨場感があって、そばで聞いているデリーのワクワク感が伝わってくる。私もワクワクしながら、一気に読んでしまいました。

愁童:1934年発表とういことで、とても古い本だけど、好きですね。しみじみ感じるのは、この時代の大人が子ども達にやさしかったこと。日本にもこのようなおもしろいほら話をしてくれるおじいさんが割と身近にいましたね。偏差値的価値観に縛られがちな今の子達に読んでもらって、ホッとしてほしいなって思います。海へびをなでる話など、今だったら冗談じゃない、みたいな感じになりかねないけど、この本の語り口だと、ごく自然に、それもありかなって思えてしまうのがいいですね。

カーコ:これこそ、本当に豊かな想像力ですね。

愁童:荒唐無稽なほら話の雰囲気が、どこか志ん生の落語を聞く楽しさに通じるところがあるよね。洋の東西を問わず、この時代の大人は、人生なんて 「Let it be」、どうにかなるもんだよ、と子どもに言って聞かせていたおおらかさが、色濃く反映された作品っていう気がする。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


エレナー・エスティス『百まいのドレス』

百まいのドレス

げた:旧版と比べてまず思ったのは、絵が逆版になってますね。前が間違ってたんでしょうか? 全ページの絵が逆になってますよね。

ケロ:新版のP82〜83をみると、右から左に絵が流れていますよね。だから今回の新版で、縦組にあわせて絵を逆版にしたんじゃないかな?

げた:色も古い版に比べて、ずいぶん鮮やかにきれいになってますね。僕はこの本を読んで、まず、これじゃワンダがかわいそうだなと思いました。これで、終わり? と。ペギーもマデラインも、ワンダがいなくなった後に絵を見て「わたしたちのことをきらいじゃなかったんだ」と言ってるけど、なんだか自分たちを納得させているだけみたいな感じがして、ずいぶん勝手な話だなあ、とも。ワンダはそのあとどうなっていくのかな、と心配です。ワンダは「強い子」かもしれないけど、だからワンダは「大丈夫」でいいの? 納得いきません。この本はもちろん基本図書に入っていて、学校のブックトークなどでも「いじめ」や「ともだち」をテーマの時、ぜひ読んでみてって、おすすめする本だけど、読み手にとって感じ方の難しい本だなと思いました。前回の『教室の祭り』も同じように感じましたが。マデラインは、これからは嫌なことは嫌とはっきり言おうと、決心してはいるけど、私はそれでもなんだか納得できませんでした。みなさんがどう思われたのか、意見を聞くのが楽しみですね。

小麦:私も最初この本を読んだ時、全然しっくりきませんでした。マデラインが全然好きになれなかった。読み返して、ここが嫌だったんだと思ったのが、P71で、マデラインが想像するシーン。ワンダをいじめている子たちに向かって「よしなさいよ! この子だってあなた方と同じ人間じゃないの」と言うところ。

アカシア:そう! そこ、私もすごく嫌だった。

小麦:結局、マデラインは全然ワンダと同じところに立ってない。見下した視点からかわいそうと思っているだけ。ワンダをいじめたことで悩んでるんじゃじゃなくて、それによって生じたもやもやや罪悪感を払拭したいだけ。それが嫌だった。この本をいい本だとは思えなくて、何で読み継がれているんだろうと考えながら読むうちに、これはワンダの話なんだと思いました。ワンダは絵を描くという自分の才能を見つけて、それに打ちこんでる。そうすることで強くいられる。自分が打ちこめることを見つけた子が一番強いんだというメッセージを込めた本なのかもと思ったら、ようやく納得できました。古い版と読み比べて印象的だったのは、子どもたちの親へ対する言葉使い。例えば古い版では「すてきなしまの着物、わたしもお母さんにつくっていただくわ」というのが新装版では、「私もチェックのドレス、お母さんに買ってもらおうっと」となっている。私もよく親に「私があなたぐらいの時は、両親に対してそんな口のききかたをしたことはなかったわ」なんてよく怒られたけど、昔の人は本当に美しい日本語を話して美しい生活を送っていたんだなあ……

ケロ:私は前回話題に上った、『教室の祭り』よりはストンときました。この『百まいのドレス』で描かれているいじめは昔のいじめ。要するに貧富の差ですよね。今はいじめの質も違うだろうし、今の子にはどうかな?と最初は思ったけど、マデラインの心の動きは今に通じるくらいよく描かれてると思いました。きっと彼女は、自分がやってしまったことを一生はずかしいと思い続けると思う。そういうことって私にもあります。大人になった今でも、小さい時に相手に言ってしまったことを思い出して、「ぎゃ〜」とさけんで走り出したくなるなんてことが。甘いかもしれないけど、そういうマデラインの気持ちはしっかり描いてあると思う。いいなと思ったのは、ワンダが100枚のドレスを描きあげたシーン。本のなかの絵も素晴らしいし、彼女はきっとこの先大丈夫だな、と思える。いじめをテーマにしたものって難しいけど、こういう描き方もできるんだ。変にぐちゃくちゃのまま終わらせるよりは、いいと思う。

カーコ:石井桃子さんの新訳ということで、古い版と照らし合わせて読みました。全体にずいぶん変わっていて、細かなところまでていねいに直しが入っていました。例えば新版17ページ14行で「ワンダ」と呼びかけているところは、古い版だと「ワンダさん」。新しい言い回しになって、今の子に読みやすくなっています。「きもの」より、「ドレス」のほうが、すてきなものに思えます。いじめられているワンダ、中心になってワンダをいじめるペギー、それに加担しながらも嫌だと思っているマデライン。私は、その他大勢のマデラインに気持ちをそわせて読みました。ケロさんが言ったみたいに「とりかえしのつかないこと」ってだれにでもあって、そこの気持ちがよく書かれている。私は最後にマデラインが、心からよかったと思っているとは思わず、このことを一生後悔し続けるように読んだので、読後感は悪くありませんでした。貧しさをからかうのは昔のいじめかもしれないけれど、おでこがてかてかしているとか、名前が変だとかでからかうのは、くさくないのに「くさい」と言ってのけものにする、今のいじめとおんなじ。今に通じるものを感じました。こんなに文章が入っているのに、前はよく絵本で出ていたなあ。読み物らしいこの体裁なら、中学生が読んでもいいんじゃないかな、と思いました。

ネズ:石井さんが今の時代にこの本の新訳を出そうと思ったのがわかる気がしました。『教室の祭り』は、大人が子どもに向けて書くのではなく、自分の思いをぶつけているだけだという感じでしたが、この本は大人の安定した視点で書かれている。あたたかい書き方のようだけど、決してそんなにあたたかくも、甘くもない。大人の小説のようでした。ラストで、ペギーとマデラインが「ワンダはきっとわたしたちのことを好きだったのよ」と言っているけれど、作者は決してそうは思ってはいないと思う。ただ、子どもの読者がそこまで読み取れるかどうかは疑問だけど。

ミッケ:これは、個人的にとても思い入れのある本です。小学校の頃に岩波書店の絵本シリーズとして親に買ってもらって読んだんですが、印象に残っていて、大学時代に自分でも買い直したんです。別にくりかえし読むわけじゃないんだけれど、なんか気になっちゃって……。あのシリーズはけっこう不思議な本が多かったけれど、特にこれは、楽しい本じゃないんですよね。でも、だからといって嫌いでもなくて、なんだかすっきりしない分、気になったんです。前回取り上げた草野たきさんの『教室の祭り』もやはりいじめが出てきていたけれど、草野さんの本が、それぞれの登場人物に役割があてはめられてるという感じだったのに対して、この本の子どもたちは、いかにもいそうだと思えるんですね。教室っていうのは、いろんな子どもたちがいて、ちょっとしたことがきっかけでかなり深刻なことにもなって……という場なんだけれど、それがごく自然にじょうずに描けている。子どものずるさもよく描けているし。マディはペギーにくっついているけれど、ワンダをいじめるのは嫌だなと思っていて、でも、自分に矛先が向くんじゃないかと思ってしまい、止められない。そういう葛藤は、今の子どもたちにも通じるんじゃないかなって思います。この本はインターネットで盛んに取り上げられていて、「いじめの本」だと書いてあるんだけれど、それはちょっと違うかなと思う。テーマだけで「いじめ」と括って片付けたのでは、もやもやとした感じがどこかに行ってしまうから。あと、この挿絵もちょっと不思議な感じだなってずっと思っていました。ぼやっとして、一見子ども受けしそうにない絵で。でも、このぼんやりした感じが内容に合っているのかもしれませんね。

アカシア:昔この本を読んだときは、変な本だなあと思ったんですが、今回あらたに読んで見て、とても嫌な本だなと思いました。さっきも話が出たけど、「よしなさいよ! この子だってあなた方と同じ人間じゃないの」というところに、上に立っている人間が下にいる子に同情を寄せているいやらしさを感じてしまって。ワンダはどこかに行ってしまったという形で終わらせればいいのに、わざわざワンダに手紙をよこさせて、「もとの学校の方が好きでした」と言わせてる。しかも、自分を毎日いじめ続けた子の顔を絵に描かせてる。なんでそんなことさせるの!? そこも、いじめた側の免罪符を付け加えている感じがして嫌でした。普通こんなふうないじめ方をされた子どもは、そんなことしませんよね。しかも最後のところで、「『ええ、きっとそうだったのね。』と、マデラインはペギーの言葉にうなずき、自分の目にうかんだなみだを、まぶたではらいおとしました」となってるでしょう。これだと、マデラインはワンダに嫌われてなかったんだ、ああ、よかった、という印象を読者にあたえてしまう。大人は違う読み方ができるかもしれないけど、子どもは、マデラインたちはワンダから許されたと思っちゃうし、かわいそうなことをしちゃったけどマデラインも涙を流してるんだからおあいこだと思っちゃうんじゃないでしょうか。ネットを見ると、この本は「いじめについて考える本」としてあちこちで薦められているんですが、とんでもない。私はすごく問題のある本だと思いました。

ケロ:でも、当時はこれでも斬新だったのかもしれませんね。時代の制約もあっただろうし。

ミッケ:時代の限界はあるかもしれませんね。日本語版が出たのが1949年だから、原書はもっと古くって、公民権運動なんかの前だから。自分自身は差別されたり踏みつけられたりする側に立ったことがないけれど良心的な人の作品という面はあるかもしれませんね。

アカシア:結局この本は、いじめた側の子どもの心の救済、あるいはいじめた側の感傷にとどまってしまっているんじゃないでしょうか? 今また出す意味が私にはよくわかりませんでした。

ミッケ:アカシアさんが問題にしていらっしゃる観点と、最後の終わり方の点でいうと、ワンダから送られてきた絵が自分たちの姿だと知ったマデラインの形容は、前の訳では、「そして、出てくるなみだをはらいました。/あの運動場のへいのそばの日だまりに、ひとりぼっちで立っていたワンダをーーじぶんを笑っている女の子たちを、じっと見ているワンダをーーええ、百まい……ならべてあるの、と、いつもいっていたワンダを?おもいだすと、いつも、涙が出てくるのでした。」となっていて、今度の訳では、「じぶんの目にうかんだなみだを、まぶたではらいおとしました。/そして、そのなみだは、いつもあの校庭のレンガべいのそばの日だまりに、ひとりぼっちで立っていたワンダのことを考えると……そしてまた、じぶんのことを笑いながら立ち去っていく女の子たちを、じっと見ていたワンダのことを思い出すと……「そうよ、百まい、ずらっとならんでる。」と、くりかえしいったワンダを思うと……いつもうかんでくる、なみだなのでした。」となっているんですね。これで逆に、マデラインの造作が浅くなって、物語としても浅くなったような気がします。それと、最後の絵もまずいような気がする。この本は、いじめた子の気持ちもよく描けていて、けっして一面的でもないし、個人的な思い入れもあって、だめだとは言い切りたくないですけど……

ネズ:うまくまとめようとしたから、いけないんでしょうね。ワンダからの手紙がなければ、ストンと落ち着いたのかもしれない。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


ドロシー・エドワーズ『いたずらハリー』

いたずらハリー〜きかんぼのちいちゃいいもうと その3 

げた:昔の版は堀内誠一さんの挿絵なんですね。堀内さんの絵も本当に「きかんぼ」って感じでいいけれど、酒井駒子さんの絵は、もう少しかわいらしさや深みというか、引き込まれる感じがあっていいですよね。酒井駒子さんの世界だなあ。いつも、うるさいと叱られる子どもたちが、静かに図書館でネズミを見ていたり、パンの耳がひきだしの中でかびだらけになっていたり、指輪騒動のお話では、指輪がおばさんのボタンにかかっていたなんてオチがあったり、また、ハリーのド派手なコートのことを「コートが叫んでいる」と表現されていることとか、とってもいじわるなおとうさんとおるすばんとか、一つ一つの挿話が楽しく読めました。子どももたちも楽しく読めるんじゃないかと思います。

小麦:このシリーズは、1巻目が出たときから好きでずっと読んでいます。なにがいいって、タイトルに違わず、きかんぼのちっちゃいいもうとが、本当にきかんぼなところがいい。わがままで、がんこで、やりたい放題。その突き抜けたきかんぼっぷりがこの本の魅力。私は一人っ子なんですけど、当然一人っ子の周りは大人ばかりで、その中でいつも自分だけが一番ちっちゃな子どもなんです。そんな状況でも、これを読んだら「ちいちゃいいもうとってば、しょうがないなあー」なんてお姉さんぶった気持ちになれる。いつもちっちゃい子よばわりされている一人っ子や末っ子が、普段なれないお兄ちゃんやお姉ちゃんの気持ちになって楽しめる本だと思います。ちっちゃな子が、自分よりもちっちゃな存在を見つけて、可愛がったり、世話をやいたりする、あの感じ。訳も、子どもがいかにも言いそうな言葉遣いになっていて、すごくいいと思いました。

ケロ:1巻から3巻まで私もおもしろく読みました。最初は、自分よりも小さい子のやることには、子どもは興味を持たないのでは?と思いましたが、娘に読んでやったらすごく喜んで、今日ここに持ってこようとしていたら、「返しちゃうの?」って心配しちゃって。挿絵も格調が高く、なにより妹がとてもかわいらしい。いたずらも、こんなかわいらしい妹なら、許せてしまうという感じ。この本は、作者やその妹が大人になった後に、ちっちゃい妹のことを思い出しながら書いているという設定ですが、へんに幼稚っぽく書いていない分、安心して読めるんだと思いました。おもしろかったのは、ハリーのお母さんが床を掃除するのに、新聞紙を敷くというエピソード。庭でやっていた遊びの続きが、ハリーはどんなところでもできてしまうんですね。子どもの想像力の豊かさを感じてほほえましかったです。

カーコ:エピソードは、確かにおもしろかったんですけど、私はこの語りになじめませんでした。冒頭の「わたしが小さかったとき、わたしよりもっとちいさいいもうとがいました」という文章で、妹なら自分より小さいに決まっているのに、とひっかかってしまいました。この内容なら、3人称で書いてもおもしろいと思うのに、作者がなぜわざわざ1人称の語りにしたのか、おねえさんの視点を持ってきたのか、自分では答えが出ず、みなさんの意見をお聞きしたいと思いました。

ネズ:この物語の「わたし」と「妹」だけは、名前が無いのよね。「自分にもこういう妹がいたら……」と思わせようとしている、おもしろいテクニックだと思いました。それから、気難しい靴直しのおじさんとか、目を細める女の子とか、おもしろい登場人物が大勢出てくるけれど、たとえば家族を失ってひとりぼっちになったから気難しいとかなんとか理由をつけずに、気難しいから気難しい。そういわれてみれば、幼い子ってこんな風にストレートに人間や物事を受け止めるんじゃないかしら。そのへんのところも、とても新鮮で、うまいなと思いました。
また、原書の挿絵はシャーリー・ヒューズ、日本語版は酒井駒子さんだけど、ふたりが描く子どもの頭の形ってそっくりね。おもしろかった。シャーリー・ヒューズは英国の国民的な児童書イラストレーターだけど、日本では絶対にだめなのよね。なぜかしら。
訳は上品だなと思いました。古めかしい言い方もあるけれど、昔ながらの言葉や言い回しって、児童書を通して次の世代に受け継がれていくのね。この本の訳にも「たいそう」というのが多いけれど、本をよく読んだり、読んでもらったりしている子どもは、作文に「たいそう大きな木でした」などと書くと聞いたことがあるわ。

ミッケ:形容詞も、たくさんついていますよね。ひじょうに原文に忠実な訳だなと思いました。だからちょっとぎこちなかったりもして。「わたしのちっちゃないもうとは」というのが繰り返し繰り返し出てくるんだけど、読み聞かせのリズムという感じでもないし、ちょっとうるさいなあと思ったり。内容は、書かれているのを読むと、「そうそう、子どもってこういうことをやるよね。やりたがってるんだよね」と思い当たるんだけれど、自分では考えつきそうにない展開が書いてあって、とってもおもしろかったです。子どもにはすごく受けると思いますよ。痛快だもの。トライフルを食べたあとで、食べ散らかしてそのまま逃げるじゃないですか。逃げおおせるのがポイント。あれなんか大笑いですよね。当然、おなかは痛くなるわけだけど。お父さんとの意地の張り合いなんかも生き生きしているし、たいへん楽しく読みました。この本の持ち味からいうと、今風にしすぎるのも妙だと思うので、基本的には、こういうお上品というかのんびりした感じでいいと思いました。

アカシア:これは、イギリスの子どもたちに読んでやって大うけした本なんです。原文は翻訳ほど上品じゃない感じがしましたけど。翻訳はたとえば60ページの「さて、そんなある日、クラークおくさんとよばれるご婦人が、わたしたちの家に、お茶によばれて、やってきました。」と、とても上品ですね。お母さんも子どもたちに対して、とてもていねいな言葉使いをしていて、たとえば126ページでは「今日の午後のお茶に、小さい女の子がきますよ。その子に、やさしくしんせつにしてあげてね。その子のおかあさんがお出かけのあいだ、おせわをたのまれたんですからね。」と言っています。エピソードは、どれも子どもをよく見たうえで日常生活の中の子どもをよくとらえていますね。お姉さんが語っているという設定は、自分にはお姉さんもお兄さんもいない子が読んだり聞いたりしても、お姉さんになった気持ちになれる、ということだと思います。原文のnaughty という言葉には「きかんぼ」というだけではなくて、「やってくれるじゃないか」っていうニュアンスもあるんじゃないかな。子どもたちはいつもDon’t be naughtyと言われているので、naughtyでありつづけるこの子には、「だめじゃないか」と諭す気持ちと同時に、爽快感も感じるんだと思います。

愁童:この作品あんまり好きじゃなかったですね。じんましんが出そう。子育ても終わった大人が過去を振り返って癒されるための本みたいな感じ。

アカシア:でも、私が読んでやった子は3歳〜7歳だったけど、すっごく喜びましたよ。パンの耳を食べないで隠しといたら、かびだらけで出てくる、なんてところまで普通書かないもの。

愁童:パンの耳がどうして嫌いなのかが書いてあると、あっ同じだなんて共感が深まる子もいると思うけどな。

ネズ:私は、そこはうまいと思った。子どもって、好きは好き、嫌いは嫌いですもの。

カーコ:これを読むと、お姉さんが大人になってから書いているみたいにとれるけれど、原文だとおねえさんの口調は、どのくらいの年齢の感じなんでしょう?

アカシア:訳が上品でていねいなので、大人の口調のようにとれるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年5月の記録)


ジェニファー・チョールデンコウ『アル・カポネによろしく』

アル・カポネによろしく

アカシア:主人公の男の子ムースの、いかにも要領の悪いようす、おたおたしてしまうようすが目に浮かぶように書けてますね。ほかの子どもたちもそれぞれ特徴があって、キャラクターとしてどれもなかなかいい。ムースのお姉さんは、本当は14歳なのに10歳で通しているわけですけど、ムースがちゃんと理解して世話をしているところとか、ほかの子どもたちもナタリーをそれなりに受け入れているところなんか、いいですね。ただね、刑務所に洗濯物を出して、アル・カポネにシャツを洗ってもらおうっていうところが、設定としてとてもおもしろいと思うんですけど、日本の今の子どもは、アル・カポネを知ってるんでしょうか?

ねず:アルカトラズは「ルパン三世」に出てきたけど。

アカシア:アル・カポネは極悪人なんだけど、表の世界ではできないことでも裏を通じてできるって子どもは思ってるわけでしょう? ナタリーのことも、アル・カポネがひそかに何とかしてくれたのかもしれないっていう、話の運び方ですよね。ストーリーが一本の筋というよりは何本かの筋がより合わさってできていて、それを統合しているキーワードがアル・カポネだと思うから、アル・カポネのイメージをしっかり持っているほうが楽しめますよね。

:アメリカではアル・カポネって、わかっている?

ねず:アメリカの子どもは知ってるんじゃないかしら?

:アル・カポネがわからなくても、楽しめる?

ポン:アル・カポネのことをあんまり知らなくても、物語自体のおもしろさがたくさんあるから、楽しめると思うなあ。

:充分楽しめるっていうのは、物語のおもしろさ?

ポン:物語のおもしろさもあるけれど、まず、なんといっても舞台設定のおもしろさがありますよね。刑務所の島で暮らすなんて! その発想に拍手をおくりたい気持ち。当時の島での暮らしぶりについても入念な取材をしたうえで描いたそうで、とてもリアリティがある。登場人物もみんな生き生きとしていて、それぞれのことをみんな好きになっちゃう。ちなみに、私のいちばんのお気に入りはテレサなんだけど。
ひとりひとりのことがすごくよくわかるように描かれていると思う。たとえば、54ページ。ナタリーがエスター・P・マーリノフに行ってしまったあと、ムースにはナタリーの部屋のドアが開けられないの。それで、お父さんがナタリーの部屋に行ってムースのグローブをとってきてくれるんだけど、そのときムースがナタリーのお気に入りの毛布が部屋に残されているのを見ちゃうっていう場面。ムースの複雑な気持ちがよく伝わってくるし、ナタリーのこと、大切に思っていることもよくわかる。
ストーリーもね、ほんとにいいんだなぁ。胸きゅんポイントがたくさんあるの。とくに好きだったのは、188ページ。自分の世界に、自分の奥深くにある遠い世界に行ってしまったナタリーを子どもたちがそれぞれのやり方で気づかう場面。ナタリーのほっぺたにとまったハエを、アニーがしーっと追い払ったり、無関心そうにしているジミーは何も言わないんだけど、器械をつくりながらナタリーのためにそっと石を積んであげたり……みんなやさしいよねえ。やっていること自体はユーモラスでオカシイんだけど、みんなの思いやりにじーん。あっ、309ページもいい。お父さんがムースとナタリーを抱きしめて、「おまえたちはおれの誇りだ」っていうところ。ほろっとしちゃった。

ミッケ:最初は、アル・カポネの話なんだ、と思いこんで読み始めたんだけれど、そのうちに、あれ、カポネは脇役なんだなってわかりました。こういう興味の引っ張り方は、うまいと思います。気づいてからは、最近日本でもようやくニュースなどでとりあげられるようになった、障碍がある子の兄弟や親のありようが中心なんだなあ、と思って読みました。そういう意味では、かなり大まじめなことを扱っているのに、それがちっとも暗くなくて深刻でないところが、この本のいいところだと思います。なんといっても、刑務所の島という舞台設定が生きていますね。なんか起こるんじゃないかというんで、ちょっとドキドキしながら読んでいける。その意味で、タイトルと設定が実にじょうず。もちろん、刑務所ならではのことがいろいろあるわけで、へえ、ふうん、と思わせられるんだけれど、全体を貫いているのは、ムースくんやお母さんやお父さんが、お姉さんをめぐってどういうふうに感じ、どう動いてどうなったかという、ある種の成長物語。それにしても、それぞれの子がよく書けていて、特にパイパーがとても印象に残りました。初めのうちは、主人公からすれば引っ張り回されてばかりでたまらない、っていう感じのかなりしたたかで計算高い所がある子なんだけれど、途中あたりから優しいところがちらちら見えてきて、でも憎まれ口をきいて、というのがいいですね。それと、カポネのことは、最後の最後で落語のおちみたいにちょろっと出てくるんだけれど、それがまた、にやっとしちゃう感じでよかったです。訳もとてもいいし、楽しく読みました。お姉さんを巡るムースの働きかけや状況の変化が、最後の320ページをすぎたあたりでパタパタと運んでいくのも、無理がなくて納得できました。

宇野:長い本だけれど、一章一章が短くてどんどん進んでいく構成が読みやすいですね。全体にそこはかとないユーモアがあって、ルイス・サッカー『穴』(講談社)を思い出しました。細部がおもしろくて。お姉さんをめぐる、家族それぞれのいろいろな思いがきちんと書かれていてよかったです。今年から特別支援教育というのが始まって、いろいろな子どもが教室にいて、そういう子どものお母さんも担任もコーディネーターも、みんなすごくたいへん。どうしていいかわからないのに、とにかく病院に行きなさいとか薬を飲みなさいとか迫られたり。子どもがどこまで読み取るか分からないけど、このお母さんの追いつめられた感じは真に迫っていて、大人として胸が痛くなりました。その一方で、子どもらしさもよく書かれているんですね。野球をしたくて約束するのに、その日にお母さんに呼ばれるというところとか。でもちがうことで自分を楽しませたりして、いじらしい。野球をするシーンでも、この子が野球が好きなことがひしひしと伝わってきました。ストーリーでは、ムースとパイパーの関係がかわっていくのが楽しかった。「うん」と思っていても「うん」と言わない、こんな子っているなって。表面はとげとげして見えるけれど、実はよく理解しているという関係が、表面仲良さそうなのに、実は何を考えているかわからない今の子の人間関係と対照的だなと思いました。すごく楽しかったです。

紙魚:この本は、アル・カポネという人がどういう存在なのかわからないと、せっかくのおもしろさが少し損なわれてしまいます。おそらく、日本の子どもたちは知らないと思うんですね。例えば、いちばん最初に、じゃーん、極悪人アル・カポネ登場! というような印象深いシーンがあったりしたら、それに引っ張られてもっとおもしろく読めるかなとは思いました。一章ごとが短いのは、とても小気味よいです。章ごとにおもしろいことが散りばめられていて、リズムもあるので、どんどん先に向かっていけます。それからタイトルと装画には、強さを感じました。

ケロ:まずタイトルが楽しそうで読んでみたいという気にさせられますね。ただ、読者にとって、アル・カポネがどんな強烈な人だったかがもっと分かっているとよかったのでは?たとえば、アル・カポネに洗濯してもらえる、というシーンで、みんながこぞって出すのが感覚としてピンとこない。洗いあがってきたときに、ただ洗ってあるだけじゃんってクラスのみんなが引くんですよね。そのあたり、クラスメイトたちが何を期待していたのか、よく分からないのでは? いやいや出しているのかなとか。
ルイス・サッカーの『穴』に似ているというのは、ムースの役回りなのかな。自分では普通にしているつもりでも、悲劇的に悪い役回りになるところとか。テーマは重いのだけど、この『穴』に似ているような、ユーモアが救っているし、おもしろく読ませるなと思いました。実際にあったアルカトラズ島をお話に結びつけたのはすごい思いつき。作者は、アルカトラズ島に関わりがあったのかなとか、いろいろ思いながら読みました。実際はアル・カポネは、アルカトラズ島にきたときには、もう権力を失っていたらしいですね。1936年のストに参加しなくてバッシングを受けたらしい。その直前のエピソードという設定なのですね。

ねず:原書の後ろを見ると、参考文献が40冊近くならんでいるから、著者は相当調べて書いたらしい。アルカトラズのガイドもしたとか。

ケロ:訳者あとがきも、フォローがきいているので、日本の読者に親切。

ポン:アル・カポネについては、8ページに書いてあるくらいでよいのでは? 読みはじめれば、わりと早い段階で(28ページ)テレサのカードが出てきて、アル・カポネのプロフィールはわかるし、どういう存在かっていうのも読んでいくうちにわかると思うけど……? 私もアル・カポネのこと、よく知らないまま読んだけど、楽しめました。

アカシア:私の年代だと、アル・カポネはテレビや映画でよく知ってるんですけど、今の日本の子どもに手渡すときにどうすればいいか、やっぱり考えちゃいますね。

ミッケ:たとえばカポネが関わった大事件を取り上げた一面トップの大見出し、みたいなのを扉絵かなにかで入れたりしたら、あんまり説明的でなくさりげなく、なんかカポネってすごいらしいぞ、というのが伝わるかも。

紙魚:ちゃんと読み進めていけば、実際のアル・カポネを知らなくても、だんだんとその悪者ぶりはわかってはくるんですけどね。

うさこ:いい物語だなと思いました。特にこの中に出てくる子どもたちの強さが好きでした。ただ、もったいないなあと思うところが、みなさんの意見にもあったように、物語のなかに誘いこむ導入のしかた。アル・カポネについて日本の子どもたちがどういう認識をもち、どのくらい知っているのかな、と思いながら読みました。どんどん読み進めていくと家族の物語で、カポネを全く知らなくても読めるのだけど、知っていたほうが登場する子どもたちに、より気持ちをよりそわせておもしろく読めると思う。作者あとがきを読んでそうだったのかと思うところもあるので、それをアレンジして前に持ってくるという手もあったかなと。

ねず:そのへんのところは、難しい問題だと思うわ。作者、訳者、編集者は、前置きなしに、すっと物語の世界に入っていってほしいと思うだろうし……

げた:タイトルが気に入って、アル・カポネがどんな人だったか、子どもにわかるか、なんていうことを考えずに、自分だけがおもしろがって読んでしまった。確かに、うちの子どもは、アル・カポネのこと知らないですね。図書館ではYAの新刊に入っています。ちっちゃい女の子パイパーにムースがもて遊ばれるあたりで、ムースとパイパーの関係にいらついたり、おもしろがったり。お姉さんとムースのことよりも、こっちの方が気になりました。でも、お姉さんが囚人105と出会った後の、ムースのお姉さんを護ろうとする、健気な思いも伝わってきました。長い読み物だけど一気に読めた。タイトルも表紙の絵も思わず、手にしたくなる魅力がありますね。

ねず:タイトルが魅力的で、すぐに手に取りました。作者のホームページで見たのですが、彼女はラブストーリーを書きたかったんですね。

アカシア:パイパーだけじゃなく、テレサもムースのことが好きなのよね。

ねず:ひとりひとりのキャラクターが、とても生き生きと描かれている。ナタリー自身の性格もよく描けていて、そこがこの本のいちばんの魅力。それから、アルカトラズ島はまさに職住接近の場所で、子どもたちも親の働いている姿をいつも見ているし、大人たちも子どもたちのことがよく分かっている。変な言い方だけど、アルカトラズ島は子育てには最適の場所だったのかも! そういう場所を舞台に選んだことで、物語がいっそう生き生きとしたんじゃないかしら。舞台の面白さと、自閉症の姉を持つという作者の経験がうまく結びついて、いい作品に仕上がったのだと思う。この本が第二作めだというから、これからの活躍が期待される作家ですよね。

ポン:訳もいいですよね〜。こういう文体って、なかなか難しいと思うんだけど、くだけかげんがほどよい感じ。いちばん最後の一文「例の件、終わった」が、また洒落ててすばらしい! ニクイ!

アカシア:この作品がアル・カポネを知らない日本の子どもたちにどう受け入れられるのか、私はまだ気になっています。たとえば『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子著 講談社)は省略された文章ですけど、ピントが一直線でずれることがないので、読者がついていける。でも、この本では、障碍を持ったお姉さんが寄宿学校に入れるのか? ムースとパイパーの関係はどうなるのか? お父さんは失職することはないのか? ムースは居場所を見つけられるのか? ナタリーは囚人に恋してしまってだいじょうぶなのか? と、たくさん要素がある。長い文学作品に親しんできていない子どもには、ちょっとばかり難しいかもしれませんね。本をよく読む子には、逆にそこがおもしろいでしょうけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


サバスティア スリバス『ピトゥスの動物園』

ピトゥスの動物園

ミッケ:これは、『アル・カポネによろしく』より対象年齢が低いんですよね。動物園を作る?と大人なら目が点になるようなことを大まじめに考えて、トラを借りてくるなんて言い出して、どうなることかと思っていたら、子どものトラを借りられることになったりで、えっ?というようなことがそれなりに現実になって、でもそれほどはちゃめちゃでもなくというところが、楽しかったです。とくに遠足にいったときのあれこれは、よく書けていたと思います。フクロウがそう簡単に捕まるかな? とは思ったけれど、でも、マネリトゥスがジャーンという感じで出てきて、みんなとあれこれやって、夕方バスで帰るみんなを見送り、もうこれでこの子の出番は終わったのかと思っていたら、最後でまた動物園に見に来るというのがよかった。本の作りも、全体に対象年齢がはっきりしていていいと思いました。

げた:子どもたちが、仲間のためにいっしょになって動物園をつくろうとしている姿に感動した。なかなか最近こういう、子どもたちが生き生きと活躍する本がないので、うちの図書館のブックリストに載せました。絵もかわいいじゃないですか。いかにもいい子ばっかりっていう感じがするんだけど、こういう子が活躍してほしいという気持ちもあって、おすすめの本にしました。きっと子どもたちがこんな風に生き生きするためには、しっかり見守っている、大人の存在が必要なのだろうなと思いました。

うさこ:病気の友だちのために子どもたちみんなで力を合わせて…と明るくて生き生きしていていいお話なのだけれど、作者は生活童話を書きながら、自分のユートピアの中にいる子どもたちを書いてしまったのかな、というのが感想でした。最もあれっ、と思ったところは、動物をつかまえてくるところはとてもていねいに書かれているのだけれど、その後、食べ物や排泄など世話をする、管理することは書かれていない。生き物を扱うときはその世話が最もたいへん。ここらあたりをあいまいにしているのが読んでいて消化不良でした。また、お金を扱う入場券のこととか、前日のパレードが絵のようにすっとできてしまうとか、物語を支える細部に疑問を持ち、とても残念でした。夏休みで宿題もせず、毎日毎日外出して怒られないのかなとも考えてしまった。

ポン:1966年の作品ですからね。

宇野:少なくとも、塾とかないし。

うさこ:かわいくていい絵なんだけど多く入れすぎて、読み手の想像力を奪ってしまっているし、ここぞというときの挿絵のインパクトが薄れてしまうようにも思いました。

ケロ:こういうタイプの本って、日本にはないですよね。新鮮な感じがしました。ただ、大人たちは出てこないけど、それなりに大がかりなことが動いている。バスが何台も出て動物をつかまえに行くとか。あれ、近所でやっていたんじゃなかったの? って思っていたら、きっと大人達がちゃんとからんでいたのね、って思ったりして。そのへんのピントが合わせづらかったです。

宇野:バスが8台というのはオーバーですよね。ただ多いってことを示したかっただけでしょう。

ケロ:現実ではなかなかないようなお話なんだけれど、中に書かれているエピソードが、子どもたちがみんなで何かやろうとしたときに、実際にありそうなことなので、とてもおっもしろく読みました。いいな、と思ったエピソードは、小さい子が、最初みんな掃除班に入れられてしまって泣いてしまうのを、もう一度割り振り直すところ。時代はちがっても共感できると思いました。ただ、友だちのために動物園をやろう、という話のわりに、ピトゥスは小道具的にしか使われていないですね。そこはちょっと残念。

アカシア:文学って、光と影の両方を伝えるものだと思うけど、これは、影の部分はなくて、光の部分だけを楽しく書いているんですね。小さい子向けだから、それでもいいと思うんですけど。だから、動物たちをつかまえるところは工夫が具体的に書かれてるんですけど、その後のめんどうな部分、影の部分は書かれていない。つかまえた動物の世話をするのも、お父さんお母さん。いいのかな、とちょっと思いました。チョウチョウを開園1週間前につかまえて小さな箱に入れておいてだいじょうぶなのかな、とか、死んじゃったらどうするのかな、とか、野鳥もつかまえてるけど禁止されてないのかな、とか、いろいろと考えてしまいました。それから、中高生のお兄さんは大工で、お姉さんは裁縫だなんて、ジェンダー的には古いですね。最初の子どものチームにも、女の子はひとりだけだし。おもしろかったけど、気になるところもありました。訳は、ていねいで、わかりやすくて、いいですね。

:1年半ぶりにこの会に参加したので、カルチャーショックがあったのかもしれないけれど、これは「上質なエンターテイメント」。可もなく不可もなく、これだけで本になっちゃうわけ? ピトゥスはどうなっちゃっているわけ? この経験はこの子どもたちにどう生きているわけ? 子どもは読むでしょうし、売れるでしょうが、それだけでいいの? ただ、力というのはあって、元気をもらえる。へたに深いところにふれていない。別れがないし、後腐れもない。日常生活とはちがうけれど、日常生活のエッセンスを入れた上手なバランス。『くまのプーさん』を思い出しました。現実世界に触れず、あの世界だけを上手にとどめて成功している。40年前の作品と聞いて納得しました。

ねず:子どもの目で、夢中になって読みました。とってもおもしろかった! 最初はグループ作りのおもしろさ、次は動物狩りのおもしろさ。作者もおもしろがって書いているので、ついついピトゥスのことを忘れちゃうのよね。それで、ときどき思い出したように、すまなそうにピトゥスのことが出てくる。たしかに童心主義というか、大人が見る子ども像という感じもしなくはないけど、このくらいの年齢の読者には、それでいいと思う。洞窟の場面など、どきどきさせるエピソードも盛りこんであるし、サービスいっぱい。子どもたちが読んだら、きっとわくわくするんじゃないかしら。訳も、それぞれのキャラクターにふさわしい口調で台詞を言わせているし、とても工夫されていて、いい訳だと思いました。

:そういう意味で、「上質のエンターテイメント」なんですよね。

アカシア:こういう楽しさって、日本の作家だとどうしてもリアリティが問題になるから、結局翻訳物で子どもに手渡すってことになるのかもしれませんね。

ミッケ:著者は小学校の先生だったそうですが、子どもたちのグループ分けの話だとか、細かいところに、なるほど先生としての経験が生きているなあ、と感じさせるところがありますね。

紙魚:この物語って、たくさん登場人物が出てきますよね。でも、あまりごちゃごちゃしないのは、それなりに性格がわかりやすく書き分けられているのと、スギヤマさんの絵にも助けられるからだと思います。もしもこれが一人称で書かれていたりしたら、子どもの目って近視眼的だから、ここまでいろいろな子がいることを書けなかったと思います。お話もとっても気に入りましたが、スギヤマさんの仕事ぶりになにしろ脱帽しました。先ほど、挿絵が多すぎるのではという意見もありましたが、私はこの絵の質と量がとてもいいと思いました。読み物といっても、文章と絵の関わりがかなり密接なんですね。本づくりの過程に興味がわきました。確かに、大人が子どもを見ているというのはあると思います。でも、年齢の低い人たちの場合には、そのことが安心感につながる場合もあると思います。

ポン:タネットはなんて立派なんだろうとか、私は子どもの心で読みました。ちょっとしたところに胸きゅん。握手しなおすところとか、いいですよね。光と影というようなことは、全然考えもしなかった。筆箱を供出した子が17人もいたっていうのは、びっくりしたけど。ちょっと軽率なやつがいたりするのも楽しい。宇野さんの訳はやさしくて、この作品の雰囲気をよく伝えてると思う。私が好きなのは、やっぱりこういう世界なのかも。

宇野:みなさんのおっしゃるとおりだと思います。10年以上前に本屋さんで、この本だけ20何刷かになっていたのを見て手にとったんです。原作がカタルーニャ語なんですが、スペイン語版の翻訳は悪いと人に言われ、カタルーニャ語で訳したいと思いました。スペインは内戦後、スペイン語以外の言語の本は出すことができない時代があって、この本はカタルーニャ語が解禁になってすぐに刊行された、記念すべきカタルーニャ児童読物なんです。実は、いろいろな日本の出版社に要約を見せて何度もボツになり、しまいに全訳して持ち込んでようやく採用された作品です。原書を読んだときは、原書の絵もいいなと思ったのですが、スギヤマさんの絵を見たらだんぜんこちらがよくて感激しました。大人が子どもを見て書いているという感じは、確かに全編にありますね。でも、原書にたくさんあった「子どもたちは〜」という主語は、できるだけ子どもの視点で読めるように気をつけて訳しました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


草野たき『教室の祭り』

教室の祭り

うさこ:タイトルがすごく気になって、今の子どもたちの日常を切り取った作品だなあと思って読み進めたのですが、この本で印象に残ったのは「強い人になりたい」ということば。スミコが友だち関係にすごく悩んでいることを本の3分の2くらいまで書いてありますが、でもそんなに大きな変化がない。それが18章で大きく展開し、ラストまでが急激な感じがしました。156ページ「心の強い人になるんだ」が、イコール「いじめに耐える人」という風に伝わってくる。いじめに耐えつつナオコと携帯でつながっているのだけれど、人間関係の描き方が希薄。携帯で通じ合ってる、メールでつながっているというだけで、それ以上に踏み込むのはいやがられるのが今の子の関係性なのでしょうか。人間関係の深みを感じられなくて、さびしい作品だなと思いました。疑問点として、スミコはナオコが気になっているのに電話すらしないのに、最後、携帯でメール、おやっと思いました。作品を通して、ナオコの人柄もよくつかめませんでした。

ケロ:タイトルはインパクトがありました。「祭り」ってこわいですね。女の子同士の確執からどう抜け出すか。このことに関しては、結論とか解決が出しづらい問題だとは思うのですが、なにか最後まで読んでも納得がいかないままになるお話だと感じました。ナオコという、弱いと思っていた子が強さを見せ、自分のほうが見捨てられていたんだと、ガーンとなるスミコ。作者は、そのインパクトが書きたかったのかな? 高学年のおそらく女の子が、この作品から何を受け取るのかな。知りたいなと思います。パーフェクトなお母さん像を描く必要はないと思うのだけれど、このお母さん像が今ひとつしっくりこなかった。大人になっていくと、あきらめることを選ぶことが必要と言うけれど、前半のお母さん像とズレを感じる。お母さんが「選ぶ」と言っていることと、友だちを「選ぶ」というのは、同レベルで考えられることなのかしら…。こういうお話は、ハッピーエンドでなくてもいいから、もっと元気の出るふうに結末を持ってきてくれるといいんだけど。

アカシア:いじめを書いている作家はたくさんいますが、作者がどういう位置に立って書くかが大事だと思うんです。この作家の立ち位置は、私には共感できませんでした。作者の考えはスミコのお母さんの言葉にあらわれていて、それは「AじゃなくBを選んでもいいんだ」ってことだと思うんですが、どっちかを選ばなくちゃ行けないっていうこと自体、私は嫌だったんです。それでは人間関係が狭くなるだけで豊かにはならないでしょう? いろんな人たちといろんな友だちの作り方がある、と私は思うから。それ以外にも、気になるところが多くて、楽しめませんでしたね。28ページ「バーカ、こないだの体育の…」今の子は、こんな長い会話はしませんよね。84ページでは、お母さんが自分は充分努力したって言うんですけど、努力している姿が書いてないんで、しらけちゃいました。カコとてっちゃんの描き方も薄っぺらだし。

ねず:日本の創作物については、いつも辛口になるので、まず最初にいいなと思ったところを言おうと思います。ナオコの家にクラスのみんなが押しかけるところ、無邪気さを装った底知れない悪意があって、なんともいえない迫力がありました。こういうところが、この作者は得意なのかしら? でも、読み終わって「いやなものを読んじゃった」という感じがしました。57ページ最後の「友だちっていうのは、選んでいいのよ」というお母さんの台詞を読んだときは、心がすうっと冷たくなるような気がしました。西川てつこともうひとりの友だちの平べったい書き方にも疑問を持ったし、共感をおぼえるような登場人物がひとりも出てこない。いじめ問題を取りあげるにしても、もっと人間の本質に迫るような、読者が大人になっても折りにふれて思い出すような、そういう作品を書いてほしいと思いました。こういうことしか書くことがないのかな。もっと子どもに語りたいことがあるでしょうに。それから、地の文と語り口調がまじっていて、「わーっと声に出して喜んだ」ではなく「わーって声に出して……」となっているような所がときどきあって、あんまり端正な文章ではないという気がしました。

ミッケ:みなさんのお話を聞きながら、あれこれ考えていたんですが、この本は、いじめをしたり、されたりしている子どものレベルを超えるものを提示してない気がします。主人公は、ふたりの女の子にいわば引っ張られるような形で、なんとなくもやもやを抱えながら親友と遠ざかるんだけれど、これじゃだめだっていうんで、ふたりの女の子に向かって、自分の思っていたことを言う。それ自体は悪くないんだけど、主人公と一緒に3人で楽しく過ごしていたと思いこんでいた2人にしたら、それってどういうこと?ってなっちゃう。そこへの目配りがないんですね。なにしろふたりにすれば、藪から棒に足下をすくわれたみたいな格好なわけで、そりゃあむっとしたり腹を立てたりもするでしょう。ここで、主人公の側が、自分が反省しているというあたりをきちんと相手に伝えきれないこともあって、そこからいじめが始まるわけですよね。こうなると、いじめられる側は、消極的な抗戦をして、徐々に仲間が増えていくのを待つしかない。まあ、こういう形で終わること自体は、子どもたちの現状からいってこうしか書けないだろうし、リアリティのある展開なんだろうと思うけれど、でもねえ、という気がする。たとえば、お母さんの「選んでいいのよ」っていう言い方や、この子が仲間に対して、わたしはあんたたちじゃなくあの子を選ぶ、みたいにスパッと相手を切り棄てるようなことをいうことからもわかるように、この本では、いじめたりいじめられたりする平面の中で物語が完結していて、そこからひとつ上にあがっていじめを乗り越えるという道が提示されていない。大人も含めて、子どもの狭い視野から抜け出せていなくて、子どもたちも最後までそういう狭い視野のままなんですね。あっちにつくか、こっちにつくかという同じレベルでの2分法で終わっている。いじめる側といじめられる側、というふうに決めつけておしまいという感じなんですね。だからこういうふうにしかなりようがない。それがこの本の限界だと思います。

アカシア:ナオコも結局スローガンで動いているみたいで、生きている立体的な人間という気がしないんですね。もっと登場人物を魅力的に書いてほしかったな。

ミッケ:冒頭から、主人公の澄子さんがだらだらしていて、魅力的じゃないんですよね。

:だから、みんな共感できない。魅力的じゃないのよ。

ねず:お母さんのことは、この子はどう思ってるの?

:お母さんはこう言うけれどって、反発するところがないのよ。親子のとらえ方が浅薄な原因かな。ただ著者は、いじめられてもしたたかな子どもを、書こうとしたんじゃないかな。

ねず:したたかさを書いても、おもしろい作品ならいいけれど……

紙魚:そういうところは、今の時代の傾向かなとも感じます。以前、お母さんたちが集まった席で、「自分の子どもが、いじめっ子になるのと、いじめられっ子になるのではどちらがいいか」という議論になったとき、一人のお母さんは「どうしても選ばなければならないのなら、いじめられっ子」と、もう一人のお母さんは「どちらもいや」とこたえました。あとのお母さんたちは全員が「いじめられるくらいなら、いじめっ子になった方がいい」と答えたんです。そういうことが大きな声で言えてしまうという今の風潮は確かにあると思うので、こういう作品はそうした時代のトレースなのかなとも感じたりします。

ポン:なんであんまりおもしろくなかったのか、今みんなの話を聞いて、わかった気がする……。ちっちゃい、ちっちゃいところで行われていることを書いているから、今同じような状況にある子が読んだら、すごく共感できるのかもしれないけど、その場にいない私にとっては、遠い世界。私の想像力は、うまく働きませんでした。

宇野:「友だちを選んでいい」というのは、よく言われる「みんな仲良く」に対する言葉かもしれませんね。

げた:私は、みなさんとはぜんぜん違うふうに読みました。ナオコが出てきた教室が祭りだっていうんだけど、そこにいる子どもたちは、ナオコの心の中は考えず、自分の気持ちや都合とその場のノリで行動している。そういうことに対して、スミコはほかの子どもたちから排斥されながらも、ナオコの気持ちをなんとか考え、なんとかしようとしている。その中で自分自身も変えていこう、強い人になりたいというスミコの変化を書いているのかな、と思ったんですよね。私は、スミコに共感できるものがありましたね。他人のことを思いやれる子ほど、かえって受難者になるという詩を読んだことがありますが、まさにスミコのことですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)


ビートたけし『少年』

少年

エーデルワイス:生徒たちはけっこう喜んで読むんですよね。ビートたけしの家族構成はよく知られていて、それをよく反映しているのが最初の短篇ですが、まあ、深みがあるわけではなく、漫画的な感じですね。でも徒競走のヒーローであるカラバカが熱を出して、それでもどてらを着て走って、倒れて、というドタバタに、後に偉くなって社長になりましたという落ちがついて、楽しめる話だと思います。次の短篇は、最後に兄弟が死ぬのかどうなのかということが、読んだ生徒たちの間で議論になります。兄弟は亡くなった父への想いをまだ断ち切れず学校でもいじめられ、一方母親は再婚へ、というあたりが切ない作品だと思います。3つ目は大人の世界をかいま見るというように、3つの作品の持ち味がそれぞれに違う。気軽に読める本の世界への入門編という感じですね。よく本を読んでいる生徒からは、「底が浅い」という感想も出ることがありますが、一般的には取っつきやすい作品だと思います。

アカシア:ビートたけしの本だから読んでみたらおもしろかった、というのは、たしかに本の世界への入り口としていいと思います。この小説には、ビートたけしにつきものの飛躍というかギャップがないから、編集の手も相当入っていると考えていいのでしょうか? 読みやすいですよね。カラバカみたいな子は今の時代にはいないでしょうけど、昔は得体の知れないおもしろい人がまわりにいっぱいいましたね。そういう得体の知れない人がまわりにいると、子どもはいろいろと考えたりすると思いますけど。エーデルワイスさんの学校の生徒は、この本のどういうところをおもしろいって言うんですか。

エーデルワイス:生徒たちの発言をどう引き出すかですが、まず、読んでこさせて、記憶に残っている場面や、気に入った登場人物を言わせると、一人一人違っていろいろ出てくるわけです。成績では振るわない子が、カラバカに対する熱い思い入れを語って「将来大物になるぞ」と宣言したり、兄の立場の子が作品中のお兄ちゃんに自分を重ねたり、弟はまた弟に自分を重ね合わせたり、あるいは、弟の立場でこんなお兄ちゃんがいればいいのに、とか。様々な人物が出てくるから、それぞれが作中人物に自分を重ねられる。子どもにとっては、感想が言いやすい本で、バラエティーに富んでいるので、おもしろかったという印象が生まれるんだと思います。選択教科の時間というのがあって、生徒が選んだ本を読み合うというのをやっていますが、そこで中3の子が選んできたのがこの本です。

アカシア:それぞれの短篇のイメージがくっきりしていますよね。人物の描き方は深いとはいえなくても、ステレオタイプでもないから、中学生くらいで読むにはいいと思います。わかりやすいし。

げた:アカシアさんと同じ感想です。ストーリーも人物設定もわかりやすい反面、ぼくはステレオタイプかなとも思わなくもないですけどね。カラバカが土建屋になって駅前にビルを建てました、というのはいかにもという感じかな。でもイメージはたしかにくっきりしていて、本になじみのない子にとっては、イメージがわきやすい。本に親しむための、とっかかりの本としていいと思います。

ミッケ:みなさんがおっしゃったとおりだと思います。いわば、昔の中学生が星新一から本格的な読書に入っていったような、そんな感じの位置づけ。特に新しいことがあるわけではないけれど、長さも短いしくっきりしているし、たけしの作品ということで近づきやすい。ただ、星新一の前回の作品に比べると、家族を扱っているという点で普遍性があるから、古びないかもしれない。でも、最初の短篇はかなり時代色が濃いですよね。今の子にとっては大丈夫なのかな?

アカシア:「菊次郎とサキ」みたいなのをお茶の間で見ているわけですから、子どももけっこうわかってるんじゃないかな。

ミッケ:エーデルワイスさんの学校の生徒たちは、たとえば第一作のようないわば昭和という時代の色が濃くて、大人が読むとノスタルジーを感じるようなものを読んだときに、こういう時代性にはどう反応するんですか?

エーデルワイス:それは、生徒によっていろいろですね。

げた:この話の中に登場する小道具は確かに古いけれど、運動会への思い入れという点では、今の子にも通じるところがあるから、わかるんじゃないかな。どてらを着たカラバカはさすがにいないだろうけど、それに近いくらいの子はいそうだし。私が見た運動会では、子どもたちは結構シビアに競走してますよ。

アカシア:今は学校の運動会でも、タイムをあらかじめ計っておいて同じようなレベルの子を競走させたりするので、カラバカタイプが注目されるチャンスが少なくなってるのでは? カラバカ、いいですよねえ。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


ダニエル・ペナック『カモ少年と謎のペンフレンド』

カモ少年と謎のペンフレンド

げた:カモと聞いて最初鳥の鴨かと思ったんですが、ああ名前なんだと気づきました。今日の3冊の中では2番目にイメージがわきやすいものだと思います。途中まで自分もカモと同じように、ひょっとしたら18世紀から来た手紙かなと思って、『これってファンタジー?』と思ったけど、実はとても現実的な話で、10カ国語を使える母と、英語修得をしなくてはいけない息子の話なんですね。ペナックのカモシリーズは日本ではこれしか出ていないようだけど、フランスでは人気作家だそうですね。このお母さん、妙に英語修得に熱心なんだけど、他の科目が悪くなっても英語の力をつけたいというのには理由があるのかな?

アカシア:フランス人はフランス語に対するプライドが高いから、外国語習得にしゃかりきになる人は少ない気がするけど。

エーデルワイス:このお母さんは、ユダヤ人ですよね、きっと。ロシアからドイツに来て、語学は得意みたいなことが書いてありました。語学が生存そのものに直結するんでしょう、歴史的に。だから息子にきちんと外国語を学ばせたくて、いろいろと考えたんでしょう。

げた:世界で一番話されている英語の力をつけたいという思いがあったのかしらね。

アカシア:おもしろいアイデアの本だと思います。過去から手紙が来るという設定で、『嵐が丘』の登場人物から手紙が来るんですもんね。ただ、イギリス人ならこのアイディアだけで1冊の本をつくったりはしないと思うんです。大体3か月で言語習得は無理でしょ。そういう意味でリアリティはなくて「これは作り話ですよ」というくくりの中で楽しめる本ですよね。この手のお話は、読んでてうまく仕掛けに乗れると読者の側にも快感があるんだけど、これ、それほどうまくは乗せてくれないんで、ちょっと残念。あと、フランス語のvous とtuを、「あなた」と「あんた」って訳してるんですけど、かなりニュアンス違いますよね。訳しづらいところだけど、もう少し工夫があるといいなと思いました。

ミッケ:このカモ君のシリーズは、英訳もされていて、児童書の本屋に置いてあったところをみると、それなりの人気があるんだろうと思います。でも、なんというかアイデアの本だなという感じがする。たとえば、たまたま私が持ってる同じシリーズの英訳本“Kamo`s escape”なんかは、カモ少年に一時的におじいちゃんが乗り移っちゃうという話で、おじいちゃんを通して第二次世界大戦のことを語っていたりするんですが、それだけがぽこんと浮いている感じで、結局書き切れていないというか、拍子抜けな本なんです。今日のこの本もやっぱり同じような印象で、過去の人との文通というアイデアはなかなかいい。でも、物語がふくらむ前に、さっさと友達が相手の正体を突き止めてきて、しかもそれがカモのお母さんだったという種明かしに進むというのは、なんとも肩すかしを食らった感じでした。そんなふうに簡単にだまされるかしらと思ってしまって、今ひとつリアリティがない。もう少しふくらませて、なるほどと思わせてほしいな。なんか淡々としているんですよね。英語版の経歴によると、作者はモロッコのカサブランカ生まれで、木こりをしたりタクシーの運転手をしたり、教師もしていて、その後作家になったそうです。あと、この人の読書に対する思い入れの強さは、この本からもわかりますね。

アカシア:手紙が来た時にカモ少年が取り付かれるというところで、私の場合はカモと自分の間にすでにギャップを感じて、入り込めなくなりました。

エーデルワイス:やはりアイデアがおもしろい作品だと思う。私は楽しく読めました。背後にいろいろな教養がちりばめられてあって、なかなかいい。『嵐が丘』を読みたくなりましたが、間に合わなかった。

アカシア:フランスの子どもの本には、なかなかいいのがないですね。

ミッケ:これも、大人の作品という感じがしますね。

エーデルワイス:話は変わるけど、フランスには高校生が選ぶ「高校生ゴンクール賞」というのがあります。高校生がきちんと議論してかなり高度な本を選ぶ。高校生を子ども扱いせず、立派な大人として扱っている。もう19回だとか。去年の受賞作は『マグヌス』という本ですが、読み応えがあります。

ミッケ:子どものなかで、議論したり知的な話をするという能力がちゃんと育っていくと、思春期になったときに、大人に議論をふっかけてみたり、知的な話で背伸びしたりというふうに、自分の力をあれこれ試してみたいという気持ちが出てくるはずで、大人の側がそれにきちんと対応してはじめて、物をしっかり考える力がつくのだと思います。でも、日本では、大人の側が受け止め切れていなくて、議論を避けたり圧殺したりする場合がかなり多いような気がします。おそらく社会の根底にある価値観にも関わるんだと思いますが。

アカシア:日本には、まだまだ議論で考えを深めていくという文化が育ってないんでしょうか。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


フィリパ・ピアス『まぼろしの小さい犬』

まぼろしの小さい犬

アカシア:子どもの気持ちをよくとらえているし、どの人物もみなあたたかいし、ほんとうにピアスはすばらしいなあと思います。みんなを仕切るグレートマザーのおばあさんは、いわば敵役で、犬も嫌いだし、もっとひどい奴に書いてあっても不思議じゃないのに、ベンに「おまえ、犬をもらう約束だったね。約束はまもらなくちゃーーちゃんとね。わたしたちは、そうしなきゃいけなかったのだよ……」と言ったり、ベンが小犬たちをあやしているところを悪い足を引きずって見にきたりします。p4には、「おばあさんはひどくゆっくりと、うしろむきになって階段をおりてくるところだった。ひざがかたくなっていたので、いつもそうしてぎゃくむきにおりるのだ」という描写があります。本筋とは関係ないんですけど、2階からバスの到着を見ていたことがわかり、おばあさんなりにベンを待っていたんだろうと読者に想像させます。おじいさんの方も、「おじいさんはこういう人でした」と書くのではなく、しぐさや言葉の端々から読者に人物像を思い描かせる。読書好きの人にはたまらないおもしろさですよね。
こういう作品は、読むたびに新たな発見があるかもしれない。フラットに説明するんじゃなくて、読者の想像力に働きかけますから。この少年は果たして犬を飼えるのだろうか、という引っ張りもあるけれど、それより何より上質の味わいを楽しむ作品だと思います。筋しか追えない読者だと、最後に犬が手に入ったときに、それなのに犬を拒む気持ちや、でも呼び戻そうとする気持ちがわからないでしょうね。ほんとうは、こういう本こそ中学生なんかには読んでもらいたいんだけど、一方にハリポタのような展開が早くて筋で読ませる物があると、やっぱり負けちゃうんでしょうか? ピアスの作品は、どれもいいですよね。

げた:同じような気持ちです。舞台はちょっと昔で、5人兄弟の中で宙ぶらりんな立場の子という設定だけど、今時の子だと、まだ兄弟が小さいのにお姉さんがもう結婚するというのはぴんと来ないかも知れませんね。今日の3冊の中では、文章表現にいちばん厚みがあって、丹念に読んでいくと、情景がはっきりしてくる。それぞれの人となりがよくわかるような文章で、ちゃんと読めば読むほど味わいが出てくると思います。筋だけを追う読み方をすると、よくある話じゃん、で終わりになってしまう。要するに、犬がほしくて仕方ない子が、夢中になったあまり事故にあったりして、でも結局犬をもらうことができて……、みたいな感じでね。小学生に読ませようとすると、難しいかもしれませんね。大人が読んでも味わえる文章ですからね。前半でいうと、落っことした犬の絵が踏まれ、ゴミのように捨てられる場面の表現がすごく印象に残っています。ただ割れました、ですまさない。児童文学ってすごいなあと思いました。あとは、お父さんが引っ越し話でむくれるところなんかも、大人が読んでも面白い話ですね。

アカシア:でも、本に慣れていない子どもの場合、自分の力で読み取らなくてはならない部分がたくさんあるからきついかもしれないですねえ。

げた:読み聞かせしたほうがいいかもしれませんね。

エーデルワイス:ブックトークをするとしたら、どんな風にするんですか。

げた:たとえば、「今一番ほしい物」みたいなテーマを決めて、読み物や知識の本、絵本なんか5〜6冊用意しておいて、そのうちの最後の1冊として出すんでしょうね。

ミッケ:みなさんがおっしゃったことにつきると思います。ピアスの本は大好きで、なかでもこの本はとても好きで、自分でも買って持っています。今回課題になって、さっさと本棚から出してきたのだけれど、一昨日まで、なんだかんだと理由をつけて読まなかったんです。というのは、もう物語に引き込まれちゃって、たぶん涙が出てくるってわかってるものだから、おっかなくて。で、覚悟を決めて読み始めて、当然すっかり引き込まれたわけですが、それにしても、最後の部分を電車の中で読むことになったのは、大失敗でした。電車の中で涙が出そうになって、ひどく困りました。とにかく、岩波の本の223ページからあと、たった10ページちょっとしかないんだけれど、さっきアカシアさんがおっしゃった、念願かなって犬は手に入ったものの、それが自分の期待していたのと違っちゃったものだから、せっかく自分の物になった犬を受け入れられずにいて、でも結局はその犬を受け入れる、という部分が実にすばらしい。これがあるのとないのでは、もう雲泥の差だと思います。犬のほうも、人間に歓迎されていないことを悟って離れていこうとするあたりが何とも切なくて、でも結局はハッピーエンドになって読者はほっとする。とにかく大好きな作品です。

アカシア:最後の部分は、子どもに実体験があれば、それに裏付けられて読みが深まるという形になるんでしょうけど、今の子に、こういう本の読みを裏付ける経験はあるかなあ?

げた:今の子は何でも手にはいるから。

ミッケ:今の時代は、携帯とかゲームとかがたくさんあって、とにかく、ぼーっとしていて、何をするでもなく自分とはあまり関係ない物を見たり感じたりするという時間や経験をなくそう、なくそうとする圧力がとても強いように思います。自分と関係がなさそうな物に対しては、関心を持たなくなってきている。物事を丁寧に感じ、丁寧に見ようという余裕がなくなってきていて、そういう意味で、相手の気持ちを想像したり、あるいは外見や行動から相手の中身を探っていくという実体験は減っているのかもしれない。文章の読み取りの訓練としては、難しい文章の読み取りもある程度訓練できるのかもしれないけれど、実体験での裏付けとなると難しいかも。ということは、読みの豊かさが失われることにもなりそうですね。

エーデルワイス:ピアスの『トムは真夜中の庭で』(高杉一郎訳 岩波書店)は中学生に読ませましたが、この本はやっていません。トムの場合も丁寧に読んでいかないと、なかなかその世界に入れないところがあります。今の作品は会話でポンポン、テンポよく読ませる本ばかりなので、これは難しいかもしれませんね。じっくり読めるようになるには訓練が必要ですから。

アカシア:ピアスでも短編集の『幽霊を見た10の話』(高杉一郎訳 岩波書店)なんかはちょっと怖い話だから、入りやすいかもしれませんね。

ミッケ:これって、売れてるんでしょうかね?

アカシア:本の好きな子って、いつの時代にも一定数はいますから……

エーデルワイス:『トムは真夜中の庭で』を学校で取り上げたときに、フィリパ・ピアスを読んだことある人、と聞いたら、ほとんどいませんでした。男の子だけですが。ちょっと残念です。広く読んでほしい作家ですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年3月の記録)


ロバート・ローソン『ウサギが丘のきびしい冬』

ウサギが丘のきびしい冬

愁童:おもしろいんだけど、擬人化が過ぎるんで、子どもの読者は読んでいるうちに人間の話だかウサギの話なのか、こんがらかって来ちゃうんじゃないかな。だいぶ昔に評価が高かった『ウォーターシップダウンのウサギたち』(リチャード・アダムズ著 神宮輝夫訳 評論社)と比べると作者の姿勢が対照的ですね。『ウォーターシップダウン〜』の方は、自然の中で生きる野生のウサギの生態に感情移入して読めるように書かれているけど、こっちはウサギがベッドでふとんかぶって寝てるわけだから、そんなに寒けりゃ、ストーブかエアコンで暖房すれば? なんて思う子もいるんじゃないかな。

みんな口々に:これって、原著が出たのが昔なんですよねえ……1954年ですもん。

ミッケ:この作者は、『はなのすきなうし』の画家で、『はなのすきなうし』が大好きだった人間としては、かなりわくわくして読みはじめたのですが、なんというか、さすがに時代がかっているなあ、という感じでした。いかにも、『ウォーターシップダウン〜』なんかが出てくる前の作品、という感じ。でも一方で、こののんびりした感じはいいなあ、と思わないでもない。こういうのんびりした感じは、今の作品には決してないから。お話としては特にぐっとくるところがあるわけではなかったけれど、訳はとても滑らかで、よく工夫してあると思いました。それから、後ろの方で主人公のおじさんにあたるウサギが、お父さんウサギがしょっちゅう吹聴している遙か遠くのグリーングラスという地方にあこがれて、そこに行ったつもりになって戻ってくるんだけれど、じつはちょっと下の庭師の家までいっただけだった、という作りは、とてもおもしろかった。愁童さんがおっしゃったように、ひじょうに擬人化されていて、たとえば、野ネズミが冬が厳しくなって大挙して移住していくところなんかは、シネスコの黄色みがかった西部劇の映画を観ているような感じでした。あと、ちょっと説教くさいところもありますね。

ねず:たしかに古めかしい本ではあるけれど、わたしはそれなりに楽しく読みました。良くも悪くも、この物語の特徴は擬人化された動物の世界と、リアルな人間の世界の両方を並行して書いていることですよね。前に取り上げた『天才コオロギ ニューヨークへ』(ジョージ・セルデン著 吉田新一訳 あすなろ書房)もそうでしたが、人間の世界と動物の世界を切り替えるときのテクニックがうまいと思いました。そのふたつの世界の間に位置しているのが、ペットである犬と猫で、これは全然しゃべってもいない。どっちつかずの、アホみたいな、かわいそうな位置にいるというのもおもしろいと思いました。だいたい、どうして子どもって動物を擬人化した物語をすんなりと受け入れるんでしょうね? 研究している方もいるかもしれないけれど、いつも不思議に思います。この物語のクリスマスの場面、アメリカにいるウサギはみんなクリスチャンなの?などと突っ込みたくもなりますが、光と食べ物がふんだんにあふれたこういう場面を読むと、小さい子どもたちはとっても幸せな気分になれるのでは?

アカシア:私はこの作品はもの足りませんでした。動物を擬人化すること自体はいいんですが、この作品は擬人化の度合いが一つの作品の中で統一されてないんですね。たとえばp.47では、ウサギのアナルダスおじさんが、ネコを助けられないかと母さんウサギに持ちかけられて、「自然のおきてに反しておる。そうだろう? いつからネズミとウサギが、ネコをたすけるようになったのだ? (中略)そうだ、わしは自然のおきてに反するようなまねは、したくない」と言うんですが、その一方ではウサギとキツネが仲良く話したり、キツネがたくわえている七面鳥の肉をノネズミが取りにいったりする。p.16-17の文章と絵にしても、父さんウサギはステッキをついて丘をのぼってくるのですが、ジョージーぼうやは擬人化されずにぴょんぴょんはねています。どうもご都合主義な感じがして、いただけません。また、この作品には物語の核がないんですね。ドラマティックな山がない。大人が昔風ののんびりした物語をなつかしむにはいいかもしれないけど、子どもにとってはわくわく感が足りないと思います。
良かったのは装丁(桂川潤さん)と、翻訳です。読みたいという気持ちにさせる美しい装丁だし、翻訳は、たくさん登場するキャラクターの特徴をうまくつかんで会話などの口調も訳し分けていますね。おかげで原文よりおもしろく読めるのではないでしょうか。
ああ、それから、野生の動物たちが人間に依存して暮らしているという設定も、私は嫌でした。

愁童:そうなんだよね、そのとおり!

ミッケ:いってみれば、人間に餌付けされてるんですよね。

愁童:動物のリアリティが感じられないよね。今は学校でウサギの飼育係なんてのをやってる子もいるから、そんな子は、ウサギは水が苦手なのを良く知っているし、p.54あたりの話や挿絵なんか見ると、「ありえなーい!!」ってなことになるんじゃないかな。

ウグイス:わたしは、動物の擬人化物語はとても好きなんです。この作品は、1950年代に書かれていることと、アメリカのコネティカットの田舎を舞台にしている、というのがポイントですよね。農場で暮らす子どもにとっては、いつも目にするなじみの小動物が、自分たちの知らないところで実はこういう暮らしをしているのか、と想像する楽しさがあると思うんです。そして、ユーモアも50年代らしく、大変おだやかで、ゆるやか。この時代ならではの良さが感じられるけど、今の子には退屈かもしれない。一見読みやすいけれど、物足りないでしょうね。装丁がすてきで、面白そうだなと思って期待したんだけれど、その割には、引き込まれるというところまではいかなかったわね。物語の核がないという意見に私も同感です。作家が身近な動物に愛情を注いで、楽しみながら作ったという感じ。

ねず:読み聞かせに使ったらどうかしら。

一同:う〜ん、どうかなあ。

愁童:日本にだって、野生のウサギを身近に見ながら生活している地方の子がいるわけで、そういう子にとっては、ウサギが籠に食べ物を入れて持ち歩く描写なんか読まされるとシラケるんじゃないかな?

ウグイス:動物が人間のように描かれているのはいいと思うの。そこがおもしろいんだから。

アカシア:作者は動物の生態を伝えるためにこれを書いたわけじゃないし、擬人化そのものが問題なんじゃないのよ。子どもは、擬人化されている動物物語は、そういうものとしてちゃんと理解するからね。ただ、一つの物語の中での世界の構築の仕方に揺らぎがあるから、まごついちゃう。

ウグイス:動物が、子どもには見えないところで実は人間くさいっていう、そこの齟齬がおもしろいんだと思う。

ねず:人間と動物の見ている物が違っている、そのずれのおもしろさがユーモアになっているのよね。でも、『天才コオロギ ニューヨークへ』では、人間も動物もそれぞれが、それなりに外側の厳しい世界にさらされていたけれど、この物語の動物は囲われているからね。

アカシア:50年前と違って今は自然が失われてしまったから、これよりは『ウォーターシップダウン』を勧めたいっていう愁童さんの気持ちは、私もよくわかります。今の子どもにまずこれを手渡したいという気持ちにはなれない。

愁童:お話はとても可愛らしいとは思うけど、この本からは、自然に対する畏敬とか、自分とは異なる生き方をするものに対する冷静な観察眼や思いやりは育ちにくいんと思うんだよね。

ねず、ウグイス:人間が動物のパトロン的なのよね。

うさこ:動物ファンタジーの難しさを感じました。内容としてはおもしろい。でも、人間はふつうで、動物の方だけファンタジーというのが中途半端な感じで。ぎくしゃくしてる。ファンタジーとしての枠が確立されていないから、混乱するんですよね。人間世界と動物世界に距離があるのはわかるけれど、物語世界として練れていない。ウサギの世界の中でも矛盾があって、ファンタジーと生態がごちゃごちゃ。たとえば、p.171の絵なんて、ジョージやノネズミはリアルな姿なのに、おじさんとお父さんは足を組んで肘掛け椅子にすわったり、パイプをくゆらしたりしてファンタジーの世界に入ってる。p.40-41もそう。一枚の絵の中にリアルな要素とファンタジーの要素が同居すると、え?という感じになります。絵もお話もかわいいけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


ケネス・オッペル『シルバーウィング』

シルバーウイング〜銀翼のコウモリ1

ミッケ:コウモリが主人公だなんて、おもしろいなあと思って読み始めたんですが……。たまたまちょっと前にコウモリのエコーロケーションシステムについての科学の本を読んだりしていたので、その影響でちょっと乗れなかった部分があります。というのは、エコーロケーションシステムというのは、音波を送ってその跳ね返りで物体までの距離を判断するから、実は裏側がどうなっているかはわからない、前面しかわからないはずなんですよね。だから、人間が見ている世界とはかなり見え方が違うはずなんじゃないかと思うんです。ちょっとシュールな感じかな。この本ではその感じがあまりなくて、ちょっといい加減だなあ、と思ったんです。そう思っちゃったもんだから、その後もなんかいまいち乗れない部分があって……。歌なんかをじょうずに使っていることや、空を飛んでいるときの描写なんかは、うまいなあと思う部分もあるんだけれど、全体としては、ふーん、なるほど、なるほど、という感じでした。動物と鳥の戦争の間で……というのは、ヨーロッパではイソップなんかでおなじみだから、なるほどそれをうまく使っているのね、というふうに、ちょっと引いた感じで読んじゃった。あと、今回読んだ3冊の中では、いちばん日本語に引っかかりました。「彼」とか「彼女」とか、もうやめてくれ〜という感じ。それも、この物語に乗れなかった大きな原因だと思う。

アカシア:空を飛ぶ部分はとてもうまく書けてるし、ストーリーラインの作り方も、あちこちに謎を置いていくなど、うまい。でも、作品世界には私も入り込めなかったんです。その理由の一つは、主人公のシェードが、ひとりよがりだったり、優越感にひたってばかりいたり、戦争好きだったりして、共感のもてるキャラじゃないという点。これは原文の問題ではなく、欠点があっても魅力的な主人公に訳し切れていないという訳の問題かもしれませんが。
もう一つは、物語の作り方がいい加減な点。たとえば、「こだまの洞」というのがあって、そこには何百年も前から代々の長老が歌った歴史が半永久的にこだましていて、洞の中に入るとそれが聞こえてくるという設定です。シェードとフリーダはそのこだまを聞くわけですけど、洞の中で二匹でべらべらべらべら会話している。すると、当然そこでしゃべった言葉も半永久的にこだまして、大事な歴史の邪魔をすることになるはずでしょう? こんないい加減な物語でいいんですか!! まじめに読んでたら、馬鹿みたいです。途中でほかの銀翼コウモリに会っても、仲間の群れを捜しているはずのシェードが話しかけさえしないのも不自然です。
それから、三つ目は訳の問題。たとえばp.11に「シェードがはじめて飛び上がり、翼をばたばたさせて空中に浮かんだあと、ぶざまに墜落したときは、群れのだれもがおどろいたものだ。これならだいじょうぶ、生きていけるだろう。」とありますが、どういう意味? p.119の終わりの方ではシェードとマリーナが笑ってますが、なぜおかしいかが伝わらない。19章に出てくるプリンスとレムスは同一キャラですが、すぐにはわからない、などなど、ひっかかるところがずいぶんありました。私は、単に情報やストーリーラインを伝えるだけでなく、味わいとか余韻も本の要素としてほしいと思っているので、それまで伝えるように訳してほしいです。

ウグイス:細かいことは気にしなかったので、どんどん読めて私はとてもおもしろかった。コウモリに興味があるせいもあるけど、コウモリになって飛んでいる気持ちになれて楽しかったんです。1章ずつが短く、必ずその章で何かおこり、章末に、次へつながる文章があって、先を読まずにはいられなくなる。長い物語を読みなれない子どもでもひっぱっていく力があるんじゃないかな。単純にひっぱられて楽しく読みました。いろんなコウモリの特徴もおもしろかったし、ものを見る方法も、食べるものも興味深い。科学的に正しいかといえば、違う種類が恋人同士になるというのはおかしいけれど。コウモリは、不思議な生き物。ありきたりの動物でないものの世界を見せてくれる作品としてもおもしろい。シェードのキャラクターに感情移入できないという意見がありましたが、これは3巻ものなので、1巻だけでは中途半端だということがあると思います。3巻目はシェードの息子が主人公になって、1巻目で語られなかった部分も明かされていくんです。

愁童:おもしろく読んだ。コウモリの生活環境によって行動様式や主たる食物が異なっていて、それらが物語に登場する個体のキャラクターや体の大きさに影響していることを、さりげなく書いていて、説得力があると思ったな。主人公のコウモリがカブトムシを捕らえて食べるところの描写なんか、微妙な感覚までうまく表現されていて、好感を持って読みました。母コウモリから地図を伝達されているという設定も、超音波を使うコウモリの生態の説明がきちんとされているので読み手は想像力を刺激されて、コウモリの情報伝達手段に神秘的な魅力を抱かされてしまったりして、うまいなと思った。

サンシャイン:キャラクターの名前ですが、バテシバとか、レムス・ロムルスとか、何かを思い出させる名前です。バテシバは旧約聖書のダビデと関わった人。レムス・ロムルスはローマ建国の時に登場します。綴りが一緒なら、西洋の人は何か一定のイメージを思い浮かべるんでしょうか。

愁童:輪をはめているコウモリが、次は人間になれるというところは、人間中心主義的な感じで、ちょっぴり引っかかったですね。

ミッケ:それは、輪をはめているコウモリをほかのコウモリが仲間はずれにする、仲間はずれにされると、どうしても同類同士が集まって、選民思想で自分たちを支えるしかなくなるということで、リアリティがあるというか、納得できると思いますけど。

サンシャイン:コウモリは太陽を見てはいけないという戒律があって、フクロウがそれを厳しく監視している。主人公はそれに反発して、自由な世の中、広い世界を求めるけど、多くのコウモリにはもうそれを打ち破っていこうという意欲もないーーこういう話の作り方はおもしろいなと思いました。

愁童:母コウモリから伝達されている地図の情景で、実際にオオカミの耳のような山の間を飛ぶシーンなんか、うまいなぁと思いました。

アカシア:空を飛ぶ話は、この会でもいろいろ読みましたが、その中ではこの作品がいちばんうまく書けているようには思ったんです。でもね、ファンタジー世界の中のリアリティがお粗末なのが嫌だったんです。

愁童:同感。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


佐藤さとる『天狗童子』

本朝奇談 天狗童子

うさこ:わりと厚みのある本だったけど、どうなるのどうなるのと先が気になり、つるつると読めました。特におもしろかったのは、作者のこだわりが見える、天狗の世界観。しきたり、階級、ルール、食事、術、住まいなどがきちんと構築してあったところ。九郎丸の脱いだカラス簑の様子とか、与平がカラス簑を焼くところとか、大天狗がヒョウタンの中にとじこめてしまった庭とか、縮地法とかは、とてもおもしろくて好きな部分でした。
でも、物語としては完成度が低いのかな、というのが読み終わったあとの感想です。途中はおもしろいのだけど、読み終わってみると、わりと平面的な物語というのかな、山あり谷あり、敵あり、迷いあり、悲しさ辛さ、喜び、達成感などはあまりなく、山場がなかったなあという印象です。完成度が低いと思った理由をあげると……与平が九郎丸に笛をしこむように頼まれて、天狗からあずけられることから物語は始まるのに、最後、笛の修業の件はうやむや。与平が九郎丸を人間に戻してやりたいというところや、九郎丸が本当の父親に会ったところも、九郎丸の気持ちはつかみにくかった。与平は大天狗との約束で、九郎丸を人間に戻す代わりに身元請負人になったけど、本当の父に会わせるまでで、最後は寺男となって、光明寺や円覚寺を行ったり来たりするだけ。与平の九郎丸に対する思いも伝わってこない。
与平、九郎丸、大天狗など、登場人物の外見や様子は書いてあるのだけど、気持ちや心の内のことはあまり書かれていないので、いまひとつ伝ってくるものが弱かったと思います。また、出てくる人物は、九郎丸にとって敵らしい敵はいなくて、一様にみな親切で好意的。ちょっと都合よすぎかなとも思いました。気になったのは、光明寺の高円坊=乱波(忍者)。忍びの者として伊勢方から光明寺に入っていたのに、あっさり身元をあかし、忍んでいたところの者たちと仲良くなり、忍者なのにと、ちょっと疑問でした。しかも、西安さまにほれこんで、こちら側に寝返るとかなんとかいっていたのに、結局、九郎丸の世話役を引き受け、従者のようなことをした、という終わり方で、登場人物のなかで一番芯の通っていない人物のように感じました。天狗と人との「因縁で結ばれる」というところ、もっと随所でこれがキーになるのかな、と思ったけど、そうでもなかった。結末は、歴史的な解説でばたばたと後片付けするように終わったなあ、と思いました。

アカシア:天狗の世界のあれこれは、とてもおもしろかったんですが、部分的におもしろいところがあっても……。連載の限界があるなと思いました。
まず物語の焦点がどこなのかわかりにくい。天狗が人間に笛を習いにくるというのはおもしろいので、ちゃんと習得できるのかと興味をもつのですが、いつのまにかそれはどうでもよくなる。与平が天狗に戻るための蓑を火にくべてしまい、命をかけて九郎丸を天狗から取り戻す決意なのだと思っていると、そうでもない。大天狗は九郎丸に与平の命を取りに行けと言うだけは言いますが、その日にはもう護法天狗が与平をさらってしまいますからね。九郎丸が父親と対面できるかどうかが山場かと思うと、父親は「おお、達者で暮らせ」というだけでまたすぐ別れてしまう。
つまり、読者は次から次へと肩すかしを食らわされていくんです。物語がどこで焦点を結ぶのか、それがあいまいなせいでしょう。それに、与平は九郎丸を天狗の手から取り戻したいと思っているけれど、九郎丸は天狗のままでいたいと強く思っている。それなのに九郎丸は、与平の意志を大天狗に伝えるという設定にもリアリティがありません。『だれも知らない小さな国』が好きだった私にとっては、ひどく物足りない本でした。

ねず:やっぱりうまいなあ……とまず最初に思いました。天狗の世界が生き生きと描かれていて、おしまいまでわくわくしながら読みました。けっきょく、佐藤さんの書きたかったのは、天狗の世界だけだったのでは? 私としては、こんなにおもしろい世界を見せてもらったので、それだけで十分という気持ちもするけれど、やっぱりこの世界のなかで繰り広げられる物語も読みたかった。でも、作者はもうお年なので、作品のなかの子どもたちが悲しい目や苦しい目にあうのが嫌だったんじゃないかしら? それでさらっと書き流してあるのでは? 出てくる大人たちもいい人ばかりだしね。
いちばん疑問として残ったのは、なぜ与平が九郎丸を人間に戻してやりたいと思ったのかということ。私くらいの年代だと、妖怪はかわいそうで、人間のほうがずっといいとすんなり思うのだけど、今の子どもたちは「人間より空を飛べる天狗のほうがずっといいじゃん!」と思うのでは? そのへんの作者の心のうちの説明があったほうがよかったのではと思います。

ミッケ:多少なりとも自分の知っているあたりが登場する作品の楽しみというのは、日本の物にはあるから、そういう意味でおもしろかったです。鎌倉なんかは、鎌倉幕府のすぐ後からだーっと一気に寂れていって、明治になってようやく違う角度から注目されるようになり、今ではそれなりに人気があるわけだけど、そういう寂れかかった時代の鎌倉を登場させているのも、リアルだと思いました。それに、天狗の世界もよく書けていたし。日本に昔からある豊かな世界を感じさせるし、古い時代の雰囲気がとてもよく出ていて。
ただ、そういう古い時代って、近代自我とは無縁で、庶民とは関係のないところで世の中が動いていくし、偉い人でも城をとったりとられたり、というかなり単純な構造なものだから、そのままだと、今にアピールする葛藤とかがなくて物語にならない。そういう意味で、食い足りない感じになったんだと思います。半分天狗になった九郎丸も、お父さんに一度は会うけれど、すぐにさようならとなるのは、当時だったらそうなのだろうし、与平が本人の意向も考えずに九郎丸は天狗よりも人間になったほうがいいんだ、と考えて行動に出ちゃうあたりも、当時の人らしいんだけれど、今の人間からするとなんか物足りない。とってもよく調べてあって豊かな舞台なんだけれど、そこで展開されるお話はあんまり迫力がない。天狗の館の話だとか、あと、九郎丸が半分焼けた天狗簑で大山に飛んでいく道中なんかは、ほんとうにわくわくしましたけれど。残念。

愁童:安心して読めました。日本では天狗という存在が昔から語り継がれてきているので、今の子にあらためてこんなお話を読んでもらうのは意味があることだな、なんて思いました。ただ、天狗は、今の子にとって昔ほど身近な存在ではないので、この題名だとちょっと手にとって貰いにくいんじゃないかな、なんて余計な事を考えてしまいました。

ウグイス:この読書会のための選書は、日本の作品を何にするかでいつも悩みます。天狗は動物ではないけれど、人間以外のものということで他の2冊と一緒に読んでもいいかなと思い、選びました。
まず日本語がわかりやすく、目に見えるように書かれています。日本の文化をきちんとした日本のことばで伝えるこのような作品を大事にしたいと思いました。会話にもリアリティがあり、特にせりふとせりふの間に、「〜と言いました」だけではなく、「身を乗り出して」「わらいたいのを我慢して」「まるで子どもをさとすように」というような文章をはさんで、状況が目に見えるようにしている。ユーモアのある書き方もいいですね。げらげら笑うということではなく、思わずくすっと笑いたくなるユーモアがちりばめられています。確かにストーリーのつめは甘いと思います。連載だったから、という難点もあります。
でも私がこの本で一番いいなと思ったのは、子どもを見るまなざしが温かい、ということです。それは、与平が九郎丸を見る目に一番現れているのですが、それは作者の思いでもあると思います。最近の日本の児童文学は、苦しい状況にある迷える子どもをこれでもかこれでもかと書く傾向にあるんですが、子ども本来がもつ純粋な部分を温かく見守る態度は、今の児童文学に欠けているかもしれないと思って、ほっとする感じがありました。愁童さんがおっしゃるように、この装丁や書名だと、子どもが自主的に手にとりにくいとは思います。

サンシャイン:楽しくは読めましたが、最後は話を締めくくるために無理矢理終わらせた感じです。篠笛は、日本で生まれた唯一の楽器らしいですよ。他の楽器はみんな、外国から来たものだとか。笛をきっかけにして人間と天狗の出会いがあるんですが、笛の話があまり出てこないんですね。結末で「篠笛のふき合わせを…」と書いてありますが、とってつけた印象です。本全体を貫く一貫性には欠けているかもしれない。それぞれの場面は楽しく読めたが、完成度は低いのではないでしょうか。

ねず:ひょうたんのなかに広がる世界とか、縮地法とか、とてもおもしろかった。子どもより、おじさん、おばさんの世代が好きな話なのかも。

愁童:今は天狗になじみのない子も多いから、そのおもしろさがわかるかなぁ。でも、九郎丸の天狗蓑の描写や手触り感などの表現はさすがだなって思ったですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年2月の記録)


藤江じゅん『冬の龍』

冬の龍

カーコ:ストーリー自体はおもしろいと思ったし、あちこちで石を探しながら今まで知らなかった町の歴史や人の生き様を知っていくというのもいいな、と思ったんですけど、全体の書き方になじめませんでした。なんでか、と考えてみてみると、会話が全体に長くて説明的なんですね。長い独白で説明しているところが多くて、つくりものっぽく思えました。それに、この子たちの会話も、6年生の子どもにしてはお行儀がよくて、今の子じゃないような感じがしました。

ミッケ:けっこう期待して読んだのですが、なんか残らない。欅の精が出てきたりして、それはいいんだけれど、登場人物がページから立ち上がってこないというか、迫り来る感じがなかった。いまひとつ説得力が感じられなくて、拍子抜けしちゃった。それで、どうしてかなあと思って、今日来るときにもう一度ちらっと見てみたんですが……たとえば、最初のほうで、問題の玉が災いをもたらすという話が出てきて、それがどうやら人びとの気持ちをささくれ立たせてぎすぎすした感じにするとか、そういうことらしい、とわかるわけだけれど、でもそれって災いとしてはなんかわかりにくくない?と思っちゃう。なんかもっと、バシッとした災いなら、男の子たちがしゃかりきになるのもわかるけど。ふうん、そうなんだ、終わり、という感じで、弱い。これと同じようなことが、ほかのところでもあったから、全体が薄い感じなんだなあと思いました。絵は、よかったです。

ウグイス:この本はとても真面目に一生懸命に書いていることが感じられて好感がもてます。早稲田界隈という私たちがよく知っている場所を書いているのも馴染みやすいし。子どもが神社とか井戸にまつわる昔の話に興味をもち、図書館で借りた本から知識を得るといったことが出てくるのは、なかなかいいと思いました。ただ、会話が説明的というだけじゃなくて、この本全体が説明的。著者の前に正座させられて話を聞かされている感じがして、くつろげない。次々に、それでどうなるの?と聞きたくなる感じではなく、「はい、はい、わかりました」と答える感じで、ちょっと押しつけがましい。主人公は、出来事を語らせるために登場させたようなもので、魅力的な子ども像にはなっていない。あとになって印象的に思い返すようなタイプではないんですよね。

ケロ:冬休みにじっくりと読みました。物語自体、おもしろい要素がたくさんあって、一気に読み終わってしまった感じでした。でも、読み進むうちに、ひっかかるところや進んでほしいところで進まないもどかしさを感じるところが出てきて、私も、どうしてなんだろう、と考えてみました。すると、最初に物語の構想があり、それに合わせて人物を動かしているからかな、という気がしてきました。欅の化身があり、歴史的な出来事があり、という骨組みがあってそれに合わせて登場人物、特に主人公たちを動かしているような印象なんです。「欅の化身」も一緒に探すとはいいながら、すぐ行方不明になってほとんどいないし、古本屋の友だちの両親がほとんどいないし。骨組みに当てはめるために無理している感じがします。最後、テンポよく進んでいろいろなことが明かされたりしていってほしいところで、ほとんどの人が風邪ひいてダウンして、みんな動けなかったり。もどかしかったです。主人公がもっと生き生きと動いてほしいのにそうなっていかないのは、まず構想ありきだったからなのかな、と思ってしまいました。それが、残念。

紙魚:読む前から、手にとっただけで風格を感じさせる正しいたたずまいの装丁にはまず感服しました。謎をといていくような冒険小説で、調べ物をしていくくだりなどもとてもおもしろいはずなのに、肝心のどきどきわくわくという体感がないのが残念です。それから、主人公が欅の精の存在をすっとかんたんに受け入れて、たいして疑問を抱かずに話が進んでいくのに違和感をもちました。ファンタジーの存在をもっと信じさせてほしかったです。

げた:私はみなさんとちがって一気に読みました。子どもたちが心霊写真を撮りに行って、龍の玉を探す一生懸命さがよくて読後感もよかった。現実感のある話だけど、中心は欅の精と龍の玉さがしなんだから、ファンタジーなんですよね。おもしろかったので、冬のおすすめ本の候補になりました。図書館のシーンなどは、どうやって調べていくのか、どきどきしましたね。書籍姫という言葉は初めて知りました。今の公立図書館には、書籍姫なんていう人もいにくくなっているんです。

サンシャイン:私、この辺に住んでいるものですから、そのあたりのディテールはよく書けていて共感しました。ただ欅の精の話あたりからどうも入り込めませんでした。全体的に「調べ物」という感じですね。子どもたちが地域の人たちに協力してもらいながら、調べていっていろいろなことを発見する、その過程はおもしろかったですが、内容が架空の話なので、現実味はないかな。210ページの『想山著聞奇集』って実際にあるんでしょうか。欅の精の設定は受け入れて読んでいくべきなのでしょうか。火が出る場面はもっと騒ぎになるはずですよね。

げた:龍の玉が見つかってからが、ちょっとあっけないんですよね。

サンシャイン:リアリティが感じられなかったんです。

うさこ:けっこうおもしろく読みました。早稲田界隈の言い伝えや知識が盛りだくさんで、勉強になったなあと。最後、本を閉じて「ありがとうございました」という感じでした。怪談話や古書店、水神伝説など、興味をひくところが多かったです。この作家はそれらをまとめて物語にしたかったのだろうなと思いました。ただ、読者には、玉が見つかる過程でどれだけおもしろいかということが大事だと思うのですが、冒険ものとしてはちょっと危機感に乏しく、大きな変化がないのも残念でした。知識とか説明を「へえー、へえー」と感心しながら読んでいました。せっかく欅の化身として出てきた二郎さんが中途半端。子どもたちの主体性はそこそこあったと思うのですが、二郎さんにはとても物足りなさを感じました。玉が九月館にあったという結末は、突拍子もない感じではなく、この物語だとこういうところに落ちつくのかな、と一人納得しました。女性の背取師の登場はかっこよかったです。あと疑問点ですが、この写真はデジカメじゃないんですよね。カメラがデジカメでないところで、これは現代の物語じゃないのかな、と一瞬思ってしまいました。

げた:それは女の子から借りたカメラだからかな。

アカシア:女の子の家は写真店なのよね。証拠にしたいと思ったのかも。

げた:使い捨てカメラって日付が入るのかな。

ウグイス:使い捨てカメラだったら、いったん撮ったら日付の変更はできないものね。

アカシア:現代の都会で冒険ものを書くのはなかなか難しいと思うので、期待しながら読みました。おもしろくて、どんどん読んでいったのですが、387ページで五十嵐さんが小学生のシゲルに自分の来し方行く末を説明しているところまで来て、まてよ、と思っちゃった。邪険にお母さんを追い出した五十嵐さんだけど、やっぱり家族のことをちゃんと考えてるんだ、ってことを書きたかったんだと思うけど、それだったら、なにがしかの行為を描写して示したほうがいい。こんなふうに会話の中でべらべら説明してしまい、しかもそれがあんまりリアルじゃないのはまずいなあ。そう思って見ると、ほかの方たちも言っているように、ここと同じような説明をしているところが多いんですね。あとは、いろんな要素が入りすぎていて、話に骨太の感じがなくなってしまっているのが残念。木の精の存在の秘密とか、シゲルとお父さんとの関係はどうなるのかとか、下宿人たちの人間関係とか、それに加えて龍の玉とか、あまりにも要素が多すぎるんだと思います。二郎さんが途中で行方不明になりますが、ここは荷物まで持って出ていく必然性がないので、疑問が残ります。部分的にはとてもいい描写がたくさんあるし、魅力的な人物も登場するし、子どもたちが龍の玉について調べていく道筋はちゃんと書けていておもしろい。今後はきっといい作家になる方じゃないでしょうか。

愁童:日本の作家が龍を書いてる作品で、あまり感心した児童書に出逢ったことがないんで、ある予断を持って読んじゃったんですけど、この作品は意外に良かったなって思います。女性の方々の感想を聞いてて、女性はリアリストだってよく言われるけど、ホントだな、なんて思っちゃった。小学校高学年あたりからの女の子の読者も、似たような感覚で読むのかなって思うと、ちょっとさびしいけど、でも、街の様子や登場人物達がくっきりと鮮明にイメージに残るように描かれているので、そんなわけないいじゃん、みたいな反発が出てくるのも作者の力量のなせる業かもね。

アカシア:ファンタジーの部分がいけないというんじゃなくて、ファンタジーの中でのリアリティにほころびがあるのよ。あと一歩。

愁童:龍の卵や雷の玉探しみたいなファンタジックなことより、この作者は、人情話だけで書いたほうが説得力があったのかもしれないなんて思ったりもしますけどね。

ポロン:まずは、私にとってたいへん身近な地名が出てきて、びっくりしました。それで、冒頭の1〜2ページって、漢字がすごく多いの。パッと見た感じも黒々しくて難解そうに見えるので、私に読めるかしら、そして小学校5〜6年生の子に読めるかしらとちょっと心配になりました。読みはじめてみたら、すーっと読めたのでだいじょうぶだったのですが……。内容は、筋書きはたいへん見事でしたが、残念ながらあまり魅力を感じませんでした。なんというか……たとえるなら、千疋屋のイチゴみたい。とってもキレイな粒のそろったイチゴが、箱の中にお行儀よく、きっちりつまっている感じ。高級で(実際、千疋屋はお値段も高級)お味もいいけれども、まあ庶民が自分のためにちょくちょく買うものではないといいましょうか。多少でこぼこしていてもいいから、小粒だけど甘いとか、つぶしてお砂糖と牛乳をかけて食べたらすごーく美味しいとか、印象に残るイチゴが食べたいなあ……。と、イチゴの話はこのへんにして、他に気になったこと。私も「五十嵐さん」は気になりました。144ページの5行目あたり、毎日のように夜中に一人で泣いたり歌ったりしている大学生って、ちょっと……。

アカシア:でも、今の時代、どんな人がいてもおかしくないと思うよ。私はこういう人っていると思うな。

愁童:図書館員の女の子が、同じ下宿人の本の返却が遅れている男の部屋へ行って図書館の本を探す手際のよさみたいなことをさりげなく書いたりしている場面なんか、うまいなって思いました。

サンシャイン:あの、「書籍姫」っていう用語は、図書館の世界で一般的な用語なんですか? いい響きですよね。

げた:いいえ、私の図書館では、そういうタイプの人はたまにいますが、最近はあんまり見かけないですね。

きょん:物語はおもしろいといえばおもしろくて読みやすいのだけど、説明的なんですね。シゲルがいちいち説明するところが多すぎる。わりとうまくととのっているのだけど、説明的な部分が多いので、つじつま合わせをしているように見えちゃう。説明しちゃうと文学的じゃなくなっちゃう。

愁童:最初のほうに、男の子3人で幽霊の写真を撮りにいくじゃない。あのあたりの男の子と女の子の関係ってうまく書けていると思うんだよね。今の小学生が読んだら素直に入っていけると思う。そう思いません?

ケロ:いや、いいとは思うんですけど、途中からなんでだろうというところが出てくるんですよ。

きょん:著者紹介の文中に「第十回児童文学ファンタジー大賞奨励賞を受賞。本作品は単行本化にあたり、同受賞作に大幅な加筆修正をほどこしたもの」ってありますよね。説明的な部分って、編集が手を入れて「大幅に加筆修正」した部分だったりして?

ポロン:しかも「大幅に」ってわざわざ書いてあるところに、意味を感じますよね。

ミッケ:この本からは、洋物のファンタジーだけでなく、日本にもファンタジーの素材としてうんとふくらませられそうな題材がいっぱいあるんだなあって思わせられて、そこはおもしろかったんです。だけど、要するにこの本って、サスペンス物の2時間ドラマのイメージなんだと思う。ああいうドラマって、なんだかんだといろいろあって、最後にジャジャーンっていって、断崖絶壁で犯人やら主人公やらが延々と背景を説明して、終わりになりますよね。あれと同じで、全部説明しちゃってるものだから、ああそうですか、っていってこっちとしては拝聴するしかない感じ。

愁童:じゃあ、二郎さんが木に耳をつけて木の声をきくなんて部分も気になりますか?

一同:それはいいの! そこは説明してるわけじゃないもの。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年1月の記録)


トンケ・ドラフト『王への手紙』

王への手紙(上・下)

げた:ゲーム感覚で読みました。王へ手紙を届けるために旅に出て、いろんな敵がやってきて倒して、使命を成就して、またもとのところへ戻ってくるという、行きて帰りし物語の基本的なスタイルをとっていますよね。最終的にうまくいくことがわかっていても、それに至る過程を楽しむエンターテイメントですね。漢字が多いので、私の図書館ではYAのコーナーに置いていますが、小学生でも、読めると思います。オランダで石筆賞をとったらしいですが、なるほどという感じでした。

サンシャイン:おもしろく読みました。トールキンの『指輪物語』が出たのが55年で、これは60年ですから、やはり『指輪物語』の影響を受けているのでしょう。地図を見てもわかるように、単純な道筋なんですね。最初の辺りのお話はロールプレイングゲームのような気がしました。しゃべっちゃいけないという約束を守って騎士になるというのは、子どもたちも喜ぶでしょう。その約束を破って冒険に出るわけですから。

うさこ:最後まで読んでいなくて、途中まで読んでの感想なのですが、冒険ものの王道ですよね。正しい者が最後に勝つというのがなんとなくわかっているので安心して読めます。こういうタイプの物語は、読者はきっと好きだろうなと思います。この話の続きとして、ティウリとピアックが主人公の別の物語も昨年末に訳本が出たんですよね。

アカシア:クラッシックな感じのするお話だなと思いました。でも、その割に描写がきびきびしているので、わくわくしながら読める。ストーリーテラーとしての力が作者にあるので、おもしろかったですね。ゲーム的な作品というより、こういう冒険物語を元にしてゲームのストーリーがつくられていったんだと思います。だけどこれは、ネオファンタジーと違って登場人物の人となりや特徴などもちゃんと描かれている。ただ、一つひっかかったのは、最初の場面で、ティウリが割と簡単にドアを開けて出ていってしまうように思えたこと。なにがあっても開けてはいけないという決まりなのだから、もう少しためらったりした方がよかったのではないかと。そうすると最後の方でも、「自分はあのときこう決めたんだから」という割り切りがはっきりと出来てよかったのではないかと思いました。わからなかったところは、(下)124ページのボートを漕ぐシーン。ピアックが「こぐの手つだえない?」ときくと、ティウリが「いいよ」と言うんだけど、ピアックには漕がせない。なぜかな?

ウグイス:「いいよ」は、英語で言うと「Yes」ではなく「No thank you」なのよ。でも文面をみていくと、まぎらわしいですね。

愁童:ぼくは、あまりおもしろくは読めなかった。かなり冗長な感じもするし。「岩波は何をメッセージとして伝えたくて今の読者にこの物語を届けるのかな?」とききたい感じがする。ティウリ家柄もいいし騎士になるけど、ピアックの方は盾持ちにしかなれないわけでしょう。格差社会を肯定しているし、今の子に読ませてどうしようっての? 王様が絶対存在だっていうのも気になるしね。主人公は秘密の暗号で書かれた自分では意味の分からない「王への手紙」を最後まで分からないまま届けるんだよね。文面が最後まで分からないのも不満。ずるいよー、って感じ。こんなストーリーは、劇画で見せれば充分なのでは。

一同:(そうではないという反論あり)

ポロン:この激しい議論のあとでは申し上げにくいのですが……私の感想は「騎士は、カッコイイなあ」です。わくわくしながら読みました。ちょっと残念だったのは、章タイトルで内容がわかってしまうところ。「さあ、どうする? どうなる?!」と思いながら読んでいるのに、章が変わるところで、その後の展開がわかっちゃうところがいくつかありました。章立てがこまかくて、それぞれ章タイトルがついているのは、読者にとっていい道しるべになると思うのです。ここにもうちょっと工夫があれば、「この先、どうなるの?」心が、さらに盛り上がったと思うんだけど……。

ミッケ:するすると、おもしろく読みました。けっこう引っ張られて、ぐいぐい読み進む感じだった。この作品は、西欧の古くからの伝説や伝承がいっぱい積み重なったがっしりとした土台をしっかりふまえていて、その安定感が、読んでいてとても気持ちいいんだろうと思います。まあ、その上で何を書くかが問題になるわけだけれど。いろいろな場面での主人公の葛藤がちょっと物足りない気もしたけれど、要するにこの子は根がとてもいい子なんだなあと、一応納得。読後感がさわやかで、特に最後のところで、いったんは別れたピアックがもう一度現れるシーンはとても気に入りました。それと、最初のほうで、灰色の騎士の正体が読者にも主人公にもわからず、向こうも主人公のことを誤解しているという設定は、なかなかスリリングでじょうずだと思いました。

もぷしー:個人的にファンタジーには食傷していたので、ちょっと抵抗感もあって読み始めたんですが、ティアックとティウリが前向きでさわやかなのと、山河など旅の情景が心が洗われるほど美しかったので、好感を持って読み進められました。人名、国名などがたくさん出てくるため混乱しがちな構成なのに、それを騎士の色で区別して、わかりやすく表現しているのが賢いと思います。ちょっと気になったのは、人物の心の葛藤が浅いという点。アクションシーンよりも迷うシーンが多いのがこのお話の良いところだと思うのだけれど、迷っている人物のその葛藤が浅いのが物足りない。迷っても、「まあ、いいやとりあえずやってみよう」的に展開してしまう。善と悪の分け方も、気になりました。父王が「弟が邪悪だ」と言い切るシーンがあるけれど、我が子を悪と弾劾するまでの心の葛藤があまり書かれていないと思うので。スルーポルも最も怖い存在として引っ張ってきたのに、とらわれたとき、自分が何を考えて徹底悪に走ったか上手く告白できていない気がするんです。そこが書かれていればもっと良かったかな。

アカシア:我が子を悪と弾劾するって、286ページの、「王は言った。『いま、わかったであろう。エヴィラン王は、いまなお、われらの敵だ。彼に、この国を統治させてはならぬ。なぜなら、彼は悪だから! 彼はわたしの息子だ。わたしは彼を愛している。だが、彼は、悪だ。彼が王になれば、この国じゅうが苦しむであろう!』」っていうところですか? 私はここは、父親である王としての葛藤が表現されているんじゃないかって思ったけどな。スルーポルも、私には、悪人としての矜持みたいなものが伝わってきましたよ。それに、善悪をはっきり分けるのは、古典的ファンタジーの一つの特徴だからね。

紙魚:私も、286ページのこの部分はちょっとひっかかりました。ただ、善悪の問題というよりは、訳文の影響もあるかなという気がしました。「なぜなら、彼は悪だから! 彼はわたしの息子だ。わたしは彼を愛している。だが、彼は悪だ。」の部分などは、確かに原文ではそうなっているのでしょうけど、もう少し余韻があるような言葉で訳したら、印象もちがってたように思います。こういう文って、訳の特徴が出るところだと思うんですよね。

ウグイス:私も楽しく読みました。章数が多く、物語を小分けにして次へ次へと引っ張っていくので読みやすい。テンポの速さがいい。冒頭からすぐに冒険が始まるので、そんなに読書慣れしていない子でも、知らず知らずのうちに読み進められると思う。最後は成功するとわかっているから、途中にどんな試練があっても安心して読んでいけるのもいいですよね。話が長いし、いろんな人物がカタカナ名で出てくるので区別つきにくいんですけど、この作品は、赤い騎士、白い騎士というように色で分けたり、はじめて出てきた人の特徴をまず形から説明する(背の高さとか、ひげがあるとか、帽子とか)ので、イメージしやすい。子どもに親切な書き方だと思います。善悪がはっきりしてるって、もぷしーさんは言ってたけど、私はメナウレスさまの言葉に「もっともよい人と思える人こそ悪い」というのがあったので、ピアックも悪い人ではないか、と不安に思っちゃったのね。目次を見ると、そうではないことがわかってひとまず安心したんですが。この目次はたしかにネタバレになっていて、楽しみを削いでしまう部分もありますね。それからさっき愁童さんから、ピアックが盾持ちにしかなれないのは差別だという意見が出ましたが、騎士はどんな人でもまず盾持ちから入って修行を積んでいくわけだから、差別には当たらないと思うんです。将来ピアックも騎士になれるかもしれないわけだし、描き方も見下した感じはしないので、そこは階級差別とは言えないと思います。

ケロ:私はおもしろく読みました。主人公が経験を重ねながら成長していくというストーリーの王道を行っていると思います。それが、「よくある話」となる場合もあると思いますが、この話の場合、それぞれの思いが描かれているので安心しながら冒険につきあえる、という印象を受けました。たとえば、お金を払わなくては川が渡れず、ボートで渡ろうとして失敗するシーン。主人公は領主の姿を見て、あの人が信頼できる人かどうか、逡巡しますよね。こういうところ、現代でもあると思うんです。それが当たるかはずれるか、実社会ならもっとはずれることもあったりするんでしょうが。おもしろいシーンだと思います。また、最後に主人公が王に会い、任務を終えた後で、王がみんなの前で「この手紙を読まなかったら、息子の国と和平を結んでいただろう」というようなことを言ったとき、主人公はショックを受けて自分のやったことは余計なことだったのだろうか、と目の前が真っ暗になりますね。このシーンも王の苦しみや、主人公の気持ちがとてもうまく描かれていると思いました。

紙魚:すごろくのゲーム板のうえを、コマが進んでいくというような、シンプルな物語ですよね。わかりやすいし、楽しくも読めたのですが、私には最初の「使命」の必然性があまり強く感じられませんでした。何をティウリは信じたんだろう? 最初の約束を破っても騎士になれるのだとしたら、しゃべってはいけないという約束の意味は何だったんだろう? などと考えてしまいました。章ごとに入る、作者自身の絵はとてもよかったです。

アカシア: 26ページの叙任式の前夜の場面には、「(ドアを)開ければ、規則を破ったことになる……ティウリは思った。そうすれば、ぼくは、明日、騎士になることができない」と書いてあります。それでもドアを開けるのだから、ティウリは騎士になるのは断念して、それなりの覚悟をしたのだろうと思っていると、後の方では、断念しているわけではないらしい描写がたびたび出てきます。ストーリー的には、断念したのに思いがけず騎士になれた、という方がインパクトがあると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年1月の記録)


メグ・ローソフ『わたしは生きている』

わたしは生きていける

ミッケ:この本を読んで、思ったことが二つあります。一つ目は、原作がうまいなあ、ということ。戦争の書き方が斬新で、感心しました。過去の戦争を書くというのはよくあるけれど、それでは戦争を知らない子どもにとっては、フーンで終わってしまうようなところもあり、かといって未来の戦争というふうにすると、今度はSFめいてしまって、やっぱり読者から遠くなる。ところがこれは、時代背景などが細かく書かれていないために、逆に読者にすればリアルに感じられる。携帯電話やなにかが出てくるところを見ると、昔の話ではない、でも、今とそんなに変わっているふうでもないから、ごく近い未来か、それともすぐそばの今なのかもしれない。そういう形で、戦争を経験したことのない人に戦争を追体験させるという手法が見事だと思いました。また、戦争を、攻撃する側としてでもなく、攻撃される側としてでもなく書いているのも、すごいと思う。戦争の持っている残酷さだとか、戦争に影響を受け、振り回されていく様子がかなり身近に感じられるように描かれている。そういう意味でとても新鮮でした。
もう一つ思ったことは、翻訳がひどい。もう、途中で読めなくなりそうでした。たまたま原書を持っていたので、原書を見てみたところ、とても今風な女の子の語り、という感じで書かれているんだけれど、翻訳のほうは、NYで物質的には不自由ない暮らしをしていても精神的には飢えている子、という像がきちんと結べていなくて、読んでいてとても疲れる。トーンがひどく不統一な感じで、色々なところでひっかかりました。冒頭から引っかかりっぱなしで、「時代遅れのの女王様か、死人みたいに」というところも、一瞬、どういうこと?と思うし、「それまで」っていつまで?「はじめっから、」っていつから?「あの戦争」って第二次大戦のこと? みたいに、疑問だらけになっちゃいました。今時の女の子の省略のきいた語り口は、そのまま日本語にしたんじゃあ伝わらない。かなり言葉を補っていかないとまずかったんじゃないかな。とにかく読むのがたいへんで、原書の持っている力が、うまく伝わってこなかった。

ケロ:この物語は、現代の延長線上にある戦争に巻き込まれてしまった女の子の話だな、ということがわかった中盤以降は、引きこまれるように読んで、印象的な物語だなと思いました。このような設定で書かれた本は、日本にはないと思うし、とてもリアルですごい試みだと感心しました。ただ、最初にこの設定に入るまでは、結構とまどったんです。というのは、携帯電話などから現代だとは感じていたものの、主人公が引き取られた先がイギリスの田舎で、子どもたちが動物などの世話をしている古めかしい家なので、あれれと思ってしまった。いくら田舎でも、こんな暮らしがあるんだろうかと、読み返してしまった。すると前の方に「あの戦争」という言葉があったんですけど、それがどの戦争を指すのかもはっきりしなくて、とまどいました。主人公とパイパーがさまようシーンは、読者にとってわかりやすく、その中で主人公が食欲を含めて「生きる」ことに前向きになっていく様子が、自然に書かれていたと思います。

エーデルワイス:9.11のテロの後、それがもとで戦争になったという設定は、趣向が新しくてとてもおもしろいと思います。ただ、世界がどのように戦争状態になったのかという全体像は、はっきり描かれてはいませんね。主人公たちは田舎にいて、戦闘に直接的にはかかわらない。遠くで戦争が行われているという、のんびりした感じです。ちょっと離れているところで情報がないと、こうなるのかなと思いました。わからなかったのは、最後のところで、父親から電話があって、具合の悪くなった主人公が帰っていくくだり。主人公はニューヨークという都会で辛い思いをしていて、イギリスの田舎に移動した後で戦争にあって再生するという話なわけで、最後はすっきりしなかった。

ミッケ:この本は、戦争を書いているんだけれど、あまりドンパチやっているところとか、陣取り合戦とかは出てこない。どうやら占領されちゃったらしいよ、というようなとても曖昧な戦争で、ほぼ日常と変わらない感じが続いているみたいにも見えるのに、それがどこかで突然沸点に達して虐殺が起こったりする。そういうふうに書いてあります。これは、ある意味で戦争の怖さの本質のような気がします。そういう意味でとてもうまい。それと、主人公の恋人のエドモンドが心を閉ざしてしまうきっかけになる虐殺のシーンでも、虐殺後の様子は、主人公とパイパーが顔見知りを捜してていねいに見ていくということで、かなり詳しく出てくる。そして、エドモンドが心を閉ざしてしまったという結果としての現実も書かれている。でも、エドモンドが虐殺を目撃したというシーンそのものは出てこない。そうやってそのシーンの強烈さを読者に推し量らせている。そういう省略の仕方がこの作者は非常にうまい。そういう箇所が随所にあって、感心しました。

げた(メール参加):家庭環境になじめない女の子が、外国のいとこたちとの出会い、新しい感情が芽生え成長していくと言う話ではじまりました。それが、突然、近未来SF小説のような展開になり、戦争にまきこまれていくという、意外なストーリー展開に引き込まれました。

アカシア:翻訳をもう少しきちんとしてほしいな。たとえば、P6の「さがしてさがして、みんなは立ち去っていくのに…」。さがしてさがしての主語は「私」ですが、読点の後の主語は「みんな」だから、すとんと胸に落ちない。どういう意味かなあと頭をひねる箇所もたくさんありました。p17の「ほら、あたしはまた結論に飛びつこうとしている」は、何を指して言ってるんでしょうか? 同じページの「これという理由は思いつかなかったけど、自分は何世紀も前から、ずっと、この家の住人だったような気がした。そんなこと、かなわない夢だったのかもしれないけど」も、ぴんときません。こういう話し言葉口調は、訳すのがむずかしいでしょうけど、ニュアンスが伝わるようにもっと工夫してほしいな。それと、くだけた口調で話してるかと思うと、P31には「あたしには選択の余地はなかった」、P73には「もしくは……もとより……」なんていう硬い表現や古くさい表現が出てくる。これでは主人公の像が結べないですね。焦点が合わない感じで。P50の「血がつながった家族はもとより、」も、この文章がどこにつながるのか不明です。他にも、もどかしい箇所がいっぱいあって、私は読むのがつらかったです。編集者の人も何をしているのでしょうか? せっかくの作品がこれではかわいそうです。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


ベアトリーチェ・ソリナス ドンギ 『ジュリエッタ荘の幽霊』

ジュリエッタ荘の幽霊

エーデルワイス:ユダヤ人の女の子をかくまって、それを他に知られないようにするというストーリーで、主人公ほか子どもたちはすべてを知らされていませんが、リッリの母親もよくわかっているし、村全体がパルチザンをかくまっているという設定。イタリアでもこのようなナチスへの抵抗運動があったのか、と勉強になりました。とても引きつけられて読んだ。いい作品でした。

ケロ:これは、過去の戦争の話ですね。でも、日本と違う事情のある中での戦争ということで、日本の戦争の話には嫌気のさしているような子でも、結構新鮮に読めるのではないでしょうか。ただ、パルチザンとドイツ軍の関係がちょっとわかりにくかったり、陸続きに国境があるということもわかりにくいかも知れない。まわりのおとなたちも、こわいと思っていた人が実はパルチザンをかくまっていたり、勇気ある行動をとっていたことがわかるなど、信頼できるいい人として描かれているので、安心して読むことができるますね。

ミッケ:この本をイタリア人の子が読んだら、自分たちが住んでいるところで起こったことでもあるし、ナチスと一緒に戦争を起こしてさっさと降伏しただけじゃなくて、イタリア人だってパルチザンとして抵抗もしていたし、このおじいさんみたいな反骨の人もいたんだ、ということがあらためてわかるから、とても楽しめると思う。ただ、日本の子はイタリアの歴史を知らないから、そのあたりで、ちょっと距離があるかなと思いました。そうはいっても、この子がしゃべっちゃうんじゃないかとか、ハラハラするところもあるし、主人公にとっては見えていないさまざまな謎もあるしで、おもしろく読ませる本だと思います。主人公の女の子の一人称で書かれているにしては、ちょっと堅めかなとも思ったけれど、昔の話だということを考えれば、やむを得ないかな。子どもを一人かくまっていて、その子どもを隠すために、もう一人の子どもを家に通わせるというあたりは、うまいことを考えるなあと、感心しました。イタリアの子に向けてイタリアのおとなが書いた、心のこもった作品という感じがします。

げた(メール参加):タイトルから受けた最初の印象と内容の深刻さのギャップがおもしろいと思いました。時間的には短い間の出来事なので、分量的には少々あっけない感じもしました。

アカシア:イタリアが降伏したころのドイツにはイタリアに侵攻する余裕などなかっただろうと思っていたので、意外な事実を知らされましたね。ほんとうに幽霊はいるのだろうか、という謎が仕掛けてあって、おもしろく読めます。ユダヤ人に対する迫害は、日本の子どもたちもよく知っていると思いますが、パルチザンについては、本文の中で、もう少し補ったらさらにわかるようになったと思います。みんないい人だったということがわかる終わり方も、ホッとできていいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


マイケル・モーパーゴ『シャングリラをあとにして』

シャングリラをあとにして

ケロ:読みやすいし、話の展開もわかりやすいですね。ただ、おじいちゃんの記憶をなくす過程が、ちょっと安易な気がしました。また、おじいちゃんが「シャングリラには行きたくない」とうわごとのように言うので、シャングリラってどんなひどい場所かと思うのですが、結局これはおじいちゃんが友だちから最近聞いた老人ホームだった、とわかります。そこが、どうも納得いかなかったですね。自分がどこに住んでいるかなど最近のことをショックで忘れている、という状況の中で、「シャングリラ」は書名にもなっているし、何をあらわすのか興味がわいたのですが、それがただの老人ホームだったとは! もっと、おじいちゃんの根元的な何かの記憶と結びついているのかなと思っていたので、ひっかかってしまいました。最初の場面で、このおじいちゃんは雨の中にずっと立っているわけですが、そこはあんまりリアルには感じられませんでしたね。

ミッケ:以前読書会で取り上げた同じモーパーゴの『ケンスケの王国』(佐藤見果夢訳 評論社)が今ひとつだったので、どうかなあと思いながら読み始めたんだけれど、これはとてもおもしろく読めました。自分は捨てられたと思っている息子と父の再会という要素と、老人の自主決定権の問題という要素と、戦争の傷という要素、この三つの要素がうまく絡み合っていて、ぐんぐん引っ張られる本。それに、このおじいちゃんのありようも、私はかなりリアルだと思いました。息子から見ればひどい仕打ちをしているにも関わらず、どうしても会いたいといって押しかけて来ちゃったり、それで歓迎されないと今度はひどく落ち込んじゃったりする、ちょっとお調子者な感じも、とてもよくわかる。それと、自分の暮らしを自分で決めていきたいという気持ちも。最後が、会いたいと思っていた人に結局は会えない、というのもいいと思う。これが会えちゃったりすると、嘘くさく甘くなるけれど。こういう本を読むと、欧米には戦争体験をちゃんと次の世代に伝えようとする人がいるんだな、と感じられますね。この作品は、作者が様々な作品を発表するようになってだいぶ経ってから書いたようですが、そのあたりも、興味深いなあと思いました。

エーデルワイス:私もよくできているな、という印象を受けました。ただ、子どもの本だな、という感想も。というのは、悪い人が出てこない。シャーリーはいじめっ子ですが、反省して途中から和解するし。たしかに老人ホームの鬼ばばというのも出ではきますけど。おじいちゃんは若かりし頃に、ルーシーアリスに助けられ、恋をする。おそらくルーシーは、敵をかくまっていたことがばれて、どこかへ連れていかれ、殺されたんでしょうね。そんな過去を持ったおじいちゃんがとてもうまく描けていると思いました。ビートルズの曲が要所要所に登場しますが、とてもうまく使われています。「ひとりぼっちのあいつ」という訳になってる曲は、原題は「Nowhere Man」で、どこにもいない男、ということですよね。まさしくこのおじいちゃんのことを言ってるんだなあ、と思いました。

げた(メール参加):以前読書会で読んだ『カチューシャ』(野中ともそ著 理論社)を思い出しました。『カチューシャ』の祖父の過去が十分伝わってこなかったのに比べて、こっちは、おじいさんの過去を探ろうとするセシーの姿から過去が読者によく伝わってきているのではないかと思いました。お父さんやお母さんの気持ちよく伝わってきました。その他の登場人物もその性格がはっきり伝わってきて、読み取りやすかったと思います。

アカシア:老人ホームの人たちが脱走して船出するところなんか、とってもおもしろいなと思いました。おじいちゃんの元恋人捜しとか、このおじいちゃんの素性とか、謎もたくさんあって、戦争を扱っていると言っても楽しく読めます。私もシャングリラについては、ケロさん同様インパクトは弱いと思いましたが、おじいちゃんのキャラは全体から浮かび上がってきました。それと、シャングリラっていうのは、英語では架空の楽園という意味だから、この書名には「想像上の楽園を捨てて、厳しくはあっても現実と向き合おう」っていうニュアンスが含まれているのではないかな? 日本語にしてしまうとなかなか通じないけど。モーパーゴという作家は、戦争を自分のテーマの一つにすえて、説教くさくなく楽しく読んで、しかも考えてもらおうという点に心を砕いています。別れ別れになった親子ということでは、モーパーゴ自身が、お父さんのことを知らずに育って、後に再会しているんですね。再会してから30年近くたって、自分の体験も書けるようになったのかな、と思いました。P199に「ベル」と出てきますが、これは「鐘」のことでは? ともあれ、『わたしは生きて行ける』と比べると、少女の一人称という点では同じなのに、こっちの方がずっとずっと読みやすい。編集力の差でしょうか?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年12月の記録)


星新一『ブランコのむこうで』

ブランコのむこうで

アカシア:私はおもしろくなかった。作品を構築していくというよりは、思いついたことを思いつくままに書いていくという感じですよね。この作品が書かれた頃は、夢の世界の描き方もこれで新鮮だったのかもしれませんが、今は多様なイメージのファンタジーが氾濫しているから、新鮮みもないし、作者のつくりごとに無理矢理つきあわされる感じになってしまいます。すなおに作品世界に入って楽しめなかったです。次の夢に入るというのも、どこかで読んだことがあるという感じでしたし……

カーコ:ここ数年の出版傾向として、ファンタジーとならんで復刊ものが多いと聞いているので、そうやって再び子どもに投げかけられた作品が実際のところどうなのだろう、というのを考えてみたくて、このテーマを選んだんです。この作品は、この表紙になってから、中高校生にもよく売れているという記事を読んだことがあったので選びました。調べてみると、もともと新潮少年文庫というシリーズの一冊としてで出ているもの。ほかのラインナップからすると大人の作家が若い読者向けに書いたものを集めたシリーズのようなんです。お話は、特に目新しくもないけど、短い言葉で場面をくっきり描いているところがうまいと思いました。場面が変わるごとに、どういうところに来たのか、よくイメージできる。ショートショートで、簡潔に場面を作りあげているからかなあ。取り立てて、心に残るというのではないけれど、ショートショートと一緒にこの本を手にとった読者が、長い作品にも近づいていければいいのでは?

アカシア:新潮の星さんの本は、シリーズ全体が新しい装丁になったので、中高生も手に取りやすくなったかもしれませんね。

ミッケ:星新一の本は、中学の頃かな、さくさくと読んでいた記憶があります。でも、今読むと、なんというか、時代を感じますね。星新一が出てきた頃は、とても新鮮だったんだろうけれど。この本に関していえば、次々に場面が変わっていくやり方は、次はどうやって変わるんだろう、どこに行くんだろう、という感じがあっておもしろかった。それに、砂だけの世界に入ってしまうところなんか、アイデアだなあと思いました。でも、全体としては中途半端。子どもの目線で書いているとは思えないな。夢の中でお父さんに会いそうになるのなんかはいいんだけれど、先のほうで、実際の世界で満たされないものが夢の世界で満たされるんだ、みたいな感じになるのは、理に落ちるというか、説教くさい。わがまま放題の王子とか、子どもを追いかけるお母さんの話とか、夢の中でひどい皇帝になっている人の中にかろうじて残っている良心が若者の姿で現れる話とか、子どもがほんとうに喜ぶんでしょうか? しらけるんじゃないかな。やっぱりこの作者はアイデアの人だと思った。

エーデルワイス:内容が薄いなっていうのが正直なところでした。夢に入っていくんですよね。ピアスの『トムは真夜中の庭で』を思い出しましたが、それとも違いますね。

アカシア:ショートショートなら、ぴりっとしたアイデアだけでおもしろいんですが、これはもっと長いので、ちょっとつらいですね。これだけでは物足りない。

ウグイス:ショートショートは、今の中学生にも読まれているんですか?

エーデルワイス:そうですね。好きな子は、次から次へと読破していますが、そればっかりになって、そこから出ることが出来ていない子も見受けられます。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年11月の記録)


ジェフリー・トリーズ『この湖にボート禁止』

この湖にボート禁止

きょん:すなおな冒険ストーリーで読みやすいので、どんどん読んでいきました。ボートを見つけて小島にわたるあたりまではよかったんですけど、宝探しがなかなか始まらない。出た当時は新鮮だったんでしょうか? 今読むと、とってつけたような結末で、ちょっとがっかりしました。

カーコ:今の読者向けに新しく出たのを評価している書評を読んだんですが、手にとってみると表紙の絵が古臭くて昔の本のようで、まず「えっ」と思いました。物語は、最後がどうなるのかに引かれて、思ったよりすらすらと読み進んでいけました。でも、やっぱり古くさい、一昔前の話だと思ってしまいました。この作品が出た1979年当時は、男の子が女の子に思いを寄せることをにおわせる場面があるというだけで、批判をあびたというけれど、今の子がワクワクして読むのかどうか疑問です。ただ、時代がかっているけれど、校長先生が尊敬できる人だと言うところだけは、いいなあと思いました。今の実情を照らし合わせると、こんなことはありえないのだけれど、日本の子どもの本では、たいがい先生や大人の影が薄いので。あと、会話のあちこちに、ひねりがあるのだろう、と思われる部分があったのだけれど、おもしろさが伝わってきませんでした。この本は、もともと難しい言葉で書かれているので、わざと同じように難しく訳しているのかと思ったほど。人に聞くと、イギリスの読み物は、アメリカの読み物よりも凝った文章のものが多いとは言われましたが。

アカシア:私は福武文庫で最初に読みました。そのときも古めかしい感じがしたんです。今度は新訳だから期待したんですが、もっと古めかしいですね。たとえばp171には「へえ、そりゃ、おことばだね」、p172には「してやったり」、p191には「はなはだ肉食のすぎる人に見受けられたわ」なんていう表現が続出します。今の子どもたちに読んでもらおうとするなら、ここまで時代色を出さなくてもいいのでは? 内容的にも、男女の役割分担がはっきりしていて、キャンプに行けば女の子が料理をするものと思われている。それに、アルフレッド卿という人が悪者というよりは軽蔑される対象になっているわけですが、イギリスの階級社会の中で商人の成り上がり者として下に見られている構図が見えて嫌らしい。そういう時代の枠組みを超えておもしろければそれでもいいのですが、話の運びもそうそうおもしろいわけではない。新訳でまたわざわざ出す意味がわかりませんでした。

エーデルワイス:ストーリーとしては結構おもしろかったんですけど、現在ではひと時代前のお話という印象。楽しくは読めました。シェークスピアの引用とか、千年前にノルマン人が来たとか、イギリスの子どもなら教養として知っているであろうことを前提に書いているのでしょう。裁判の場面、陪審員とのやりとりが、わかりにくかったですね。これも文化の問題かな。

アカシア:裁判のシーンのp324のところで、「もし〈埋蔵物〉ではないなら、国としてはそれ以上の関与はしない。発掘されたものは発見者の所有となる」とあるんですが、だとすると〈埋蔵物〉でないと証明されれば、発見者である子どもたちのものになるということですよね? だけどその後に「もしアルフレッド卿が、発掘された異物が〈埋蔵物〉ではないと証明することができたら、こちらとしてはひきさがるしかない」と出てきます。よくわからなくなっちゃうんです。このシーンは田中明子訳の福武文庫版の方がずっとよくわかります。

ウグイス:学研文庫で出たときのこの話は、少し前のいかにもイギリスらしい雰囲気を味わえるものとして人気があったんだと思います。古めかしい感じに良さあるので、新訳だからといってあまり今っぽくすると、逆に違和感が出てしまうんだと思うの。女の子はおしとやかにしてたほうがいいとか、古い価値観で描かれた部分があるので、訳文もある程度古くてもいいんじゃないかしら。女の子の言葉で、「…じゃないこと?」とか、「…ですわ」とか言っているのは、直したほうがいいけれど。しかしこの新訳には、わかりにくいところがたくさんあった。p191の4行目「そうすれば自転車で来るのもすこしはらくだと思うの」のせりふの意味がよくわからない。旧訳では、「自転車で往復しなくてすむし」となっていて、意味がよくわかる。p190の11行目で靴下を繕っているお母さんがジャガイモくらいある爪先の穴を見て「やれやれ、新ジャガの季節だものね」と言うんですが、これもわからない。学研文庫版は「そういう頃だものね」福武文庫版は「穴があくころなのよね」です。そろそろ穴があくころだったから仕方がない、というニュアンスなのでは? p76の4行目「するとアルフレッド卿は、まるで自分が保護区にいる…」も、わからない。旧訳よりわかりにくい訳になってしまったら、訳し直す意味がないのでは?

アカシア:歴史的に意味がある作品だというのはわかるけれど。

ウグイス:70年代に学研文庫で出たときは、当時としてはすごくおもしろかったのよ。だから、その頃からこの本が好きだった人は、ずっと手に入らなくなったのを残念に思ってたから、新しい版が出た、ウェルカムという感じなんじゃない? 図書館でも古いのはぼろぼろになったりしているから。

ミッケ:せっかくだからというので、旧訳と新訳を読み比べようと思って、まず旧訳を半分くらいまで読んだんです。それで、ふうん古くさいところもなくはないけれど、けっこうわかりやすい柔らかい訳だなあと思ったところで、時間切れであわてて新訳をまた最初から読み始めたら、なんかこの訳者は力はいりすぎてるみたいだ、これって男の子の一人称だからわざと堅くしたのかなあ、それにしてもちょっとやりすぎじゃあないかな、という感じで、結局、かえって古い訳のほうが読みやすいという結論に達しました。だから、皆さんがおっしゃったとおり、どうして新訳を出したの?という感じです。新訳は、よく意味の通らない箇所があるし……。さっきからお話を聞いていると、どうやら旧訳の訳者は、学研文庫の訳を福武の文庫本にするときにも、訳に手を入れているようで、ていねいだと思うけれど、新訳はちょっと……。アーサー・ランサムが一時期大好きだった人間からすると、同じ湖水地方の同じように湖と島の冒険なので、ついついランサムを思い出してしまうけれど、ランサムに比べると、かなり弱い気がします。

アカシア:私もランサムのほうがうまいと思う。ヨットの帆を操作する部分とか、情景とか、細かく目にうかぶように描かれていますよね。

ミッケ:たしかにランサムも、いかにも大英帝国という価値観とか、女性のあり方とか、今とはずれているところもがあって、古いといえばいえるけれど、でもやっぱりしっかり書けているからこそ、あれだけいろいろなエピソードが出てきて、物語が展開されていったわけで、それに比べるとこの作品はかなり見劣りがすると思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年11月の記録)


オトフリート・プロイスラー『小さい水の精』

小さい水の精

ウグイス:ほのぼのとして、安心して読めるファンタジーで、すごくよく読まれた本なんですよね。私は同じプロイスラーの『小さい水の精』と『小さい魔女』だと、『小さい魔女』のほうが好きだったんだけれど、水の精が大好き、という人もたくさんいます。『この湖にボート禁止』のような本と違って、ファンタジーなので古びないですね。旧版が手に入らなくなっているから、こういうのを出してくれるのはうれしい。3、4年生の読めるものは少ないからね。大塚勇三さんの訳は独特の暖かさがあって大好きだけど、新訳も、水の精のあどけなさとか、雰囲気をとらえて訳されていると思います。

エーデルワイス:いかにもドイツのお話というとらえ方でいいんでしょうか。かわいらしい感じ。

アカシア:ドイツはもっと理屈っぽい作品も多いから、プロイスラーの楽しさはむしろ例外かもしれませんよ。今回読んだ3冊の中では、今の子どもにもお薦めっていうのはこれ1冊ですね。訳も悪くなかったし、学研版と比べてそんなに変わっていない感じがしました。大塚さんとは持ち味が違うけど、新たに読めるようになってよかったなと思います。いたずらっ子で、危ないことまでやってしまうところも、子どもたちの共感を得るでしょうし、いやな釣り人をこらしめたりするところも、痛快に思うんじゃないかな。1章ずつばらばらでも読めるので、短いのしか読めない子にもいいですね。

ウグイス:大塚さんの訳って、「ええ」っていうのをよく使うじゃない? 古いほうのp94「……と、かんがえましたが、それもなんにもなりませんでした!……ええ、どうやってもだめでした」っていうふうに。そこは新訳でも「……とも思いましたが、それもなんにもなりません。……そうです、なにをどうやっても、だめでした。」となっている。これを見ると、プロイスラーが、もともとこういう語りかける口調を使っているようですね。

カーコ:昔小さいときに学研のシリーズをたくさん持っていて読みました。当時「ヤツメウナギ」がとても不気味だったのや、お祝いのごちそうがすごく不思議だったのをおぼえています。今読み返すと、家族がとてもいいですね。お母さんは心配するけれど、お父さんが水の精をどんどん連れ出す。だけど、肝心なところでは、しっかり守ってくれているんですよね。それと、端々の文章がおもしろかったです。たとえばp54、「空気」の話をしているところで、「空気っていうのは、その中では、泳げないものなんだ」とか。水の中から見るとこう見えるというところがいっぱいあって。小さい水の精はいたずらっ子で、次から次へといろいろなことをするので、だいじょうぶかなあ、と読者はハラハラすると思うんだけど、最後は、必ずおうちに帰って丸くおさまるので、安心感があるんですね。

ウグイス:表紙の絵はあまりかわいくないけど、中の絵はお話のほのぼのした感じが良く出ていて、かわいいと思う。

きょん:子どもの頃にうちにあって読んだんですけど、おぼえてなかった。今回あらたに読んでみて、とてもおもしろかったです。小さな水の精の感動が新鮮で、みずみずしく、読んでいて楽しかった。仲良しのコイのチプリヌスおじさんとのやりとりもおもしろい。読者対象は3,4年生かしら?

ウグイス:内容から言ったら低学年だけど、漢字も多いし、1,2年生には読めないわよね。あと、うちの近所の図書館には、旧版はあったけど、新版はなかったの。最近は図書館の予算も限られているから、古い版に問題があれば別だけど、まだ読める状態ならば新しいのは入れないのね。書名が変わったりすれば買うと思うけど。新しい書名でリクエストがくると、古い版を使うことはできないからね。この場合は書名がまったく同じだし、学研版にも問題はないから買い換えなかったのでしょう。そうすると、出版社は本が動かなくてたいへんよね。

ミッケ:現実の中での男性らしさとか女性らしさといった問題、ジェンダーの問題とは別に、原型としての父親の役割、母親の役割というのがあると思うんだけれど、この本には、それがちゃんと機能している世界が書かれている。そのなかでは、子どもが安心して子どもらしく育っていけるわけで、そういう世界がちゃんと書けている本は、幼い子どもが読む本として貴重だと思います。だからこの本は、時代を超えて古びずに生き残っていく本だろうなあと思いました。今時のこの本を自分で読める年齢の子からしたら、ちょっと幼稚すぎる感じもありそうだから、むしろ、おとなが1章1章語り聞かせるといいような気がします。アカシアさんが言ってたたみたいに、この本はひとつひとつの章が独立している感じだから、そういう読み聞かせも可能だと思う。訳は、両方ともよかったです。なんといっても主人公のいたずらなところがいいですね。それと、たとえば人間の子に、焼いた石(ジャガイモのこと)をもらって、お返しに食べ物を持って行くんだけれど、人間の子どもは決して口をつけない。それで、あきらめて今度は貝やなにかを持っていくというところなんかも、うまくするっと書いてあって、さっぱりした印象で進んでいくのがいい。おとなはこういうところで変にこだわりがちだけど、それがない。あと、最後に氷が張って冬眠するという終わり方もよかった。

ウグイス:今思ったんだけど、お父さんは外、お母さんは内を守るっていうような古めかしい役割分担なども、これがリアリズムの話だと、今の価値観と違うってことになるけれど、これは水の精の世界のお話で、人間世界とは違うということで、あまり目くじらたてないで読めるのかも。ファンタジーはそういう制約を受けないってこともあるんじゃない?

ミッケ:たとえば、主人公が粉屋さんの船にひとりで乗っていたら、見つかったものだから水に飛び込む。青くなった粉屋さんが、必死で主人公を探し続けるのを見て、主人公がp87で「…ずっと、さがしていればいいや! 粉屋さんが、木の箱をひとりじめしてるから、こんなことになるんだ!」って言うでしょう。この終わり方が、いかにも子ども目線でいいですよね。傘を持った男の人を池にはめちゃって、最後はミジンコなんかもいっしょにけらけら笑っていました、という終わり方も、子どもにすれば大喜びだと思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年11月の記録)


ケヴィン・ヘンクス『オリーブの海』

オリーブの海

愁童:つまんなかったです。細かいところに目がいきすぎている割には主人公のデッサンが貧弱。主人公とオリーブの関係がよく読者に伝わらないのに、題名が「オリーブの海」って言われても、作者が何を伝えたかったのかさっぱり分からない。

むう:だいぶ前に読んだっきり、あまりよく覚えていないんです。原書も最初のほうは読んだんですが、印象が薄かった。最近のYAものの一つの路線として、このタイプのものがけっこうあるような気がしてしす。癒し系、というのでもないんでしょうが、強いラインがない。スライドみたいにきれいなイメージをつないでいって、あわあわあわっと進んでいく感じ。ただ、Sun and Spoon もそうだったけれど、色のきれいな絵を見ているような感じ、あたたかい感じはこの人の持ち味なんだろうなと思いました。この子にとってオリーブの日記はひどく唐突なんだけれど、それをこの子は決して切り捨ててはいない。最後に海のかけらをオリーブのところに持って行くあたりも、この子の優しさなんだろうと思う。そういう死を巡ることが基本にあって、その間におばあちゃんとか、ジミーといろんなことがあるという形はよくわかるんだけれど、今ひとつ迫ってくるものが感じられなかった。

ウグイス:ストーリーに起伏がないので印象は弱いんだけど、思春期の女の子の心情をていねいに描いていると思うの。著者はとても繊細な人なのではないかしら。お父さん、おばあちゃん、お兄ちゃん、5人兄弟、それぞれとの関係を書きながら、マーサの感じたことや、小さな心の揺れをとらえている。オリーブは仲がよかったわけではないので、書かれていなくても仕方がないのでは? それが後から届いた日記を読んで、だんだんに存在を意識するようになるところがおもしろいのだから。インパクトのある作品ではないけど、読んでいるときは心地よく納得しながら読んでいきました。章立てが細かいのも読みやすかったし。

たんぽぽ:私はおもしろくって、あっという間に読んでしまいました。最初の手紙が、この物語全体の何か重大なメッセージとなるのかと思いましたが、そうではなかった。少女と家族のつながり、祖母との対話を通して生きるということ、老いるということが伝わってきました。海でおぼれかけたとき、自分が死んでも周りはひとつも変わらないと感じた少女の気持ちが、よく伝わってきました。最後の海の水を持って帰ってあげるところで、この子は純粋で優しい子なんだなと、思い、ここで最初の、友達の手紙の内容とつながった気がしました。

ミラボー:全体的な印象はよかった。死んでしまった子とのかかわりがもっと出てくるのかな、と思いつつ読んでいましたが、はぐらかされるというか、あまり出てきませんでした。作品の最初と最後に出てくるけれど、本の帯の宣伝文句とはずれていて、死んじゃった子のことが薄いような気がします。

アカシア:主人公のマーサは12歳なので、それまで特に仲良しではなくても、クラスメイトが死んじゃったというのはショックだと思うんです。しかも、その子オリーブが自分のことを考えていたとわかれば、そこから何かを考えはじめるのは自然だし、見えている世界が何かの拍子にパッと変わってしまうところなどはよく書けてますよね。お父さんやおばあさんが、とてもいい人だという点はクラシックですね。私は、海の水を持ってオリーブのお母さんを訪ねていくところとか、筆をとって水がなくなるまで描いていくというあたりは好きですね。でもね、こういうありふれた日常の中での心の揺れを書くのは、日本の作家のほうがうまいと思うの。だから、あえてこれを翻訳しなくたっていいじゃないかと思ってしまった。

きょん:半分くらいしか読めませんでした。すてきな雰囲気なのですが、忙しくて時間がなくて短い時間に読みつなげていたので、バラバラしていて世界に入れませんでした。落ち着いて、この世界にひたって読んだらもっと良かったのかもしれません。

みんな:どうしてこれが課題図書なの?

アカシア:生や死を扱っていて、嫌みがないからじゃない?

カーコ:前に読んだとき、感じのいい作品だったという記憶はあったんですけど、ストーリーはすっかり忘れてしまって、今回全部斜め読みしました。主人公のまわりの人たちは、年端のいかないルーシー以外、みなそれぞれの人生があって、主人公はその中でいろいろなことを考えていくんですね。それはおもしろいんだけど、大きな事件は起こらないので、山あり谷ありの派手なストーリーを求める子には、読みにくいかもしれないと思いました。ゴッビーは、主人公を導いてくれる大事な人物なので、もう少し強烈な印象があると、もっと全体のメリハリが出てきたんじゃないかしら。

むう:オリーブが死んだということと、夏休みのいろいろな出来事で現されるものとの対比が弱いんじゃないかな。「死」という通奏低音の部分がもっとしっかり流れていると、上に乗っている「生」のほうも、決して派手ではなく、強いストーリーがなくても、もっとくっきり浮かび上がってくる気がするけど。

カーコ:確かに、8ページの、オリーブの日記を読んだときの主人公の気持ちが書いてある部分も、弱い感じがしますよね。「ぞっとした」というのが、どういう感じなのかつかみにくいんじゃないかなあ。

アカシア:ヘンクスは、ストーリーの起伏で読ませるタイプの作家ではないので、翻訳だと、そのへんの機微がわかりにくくなるのかもしれない。p141の詩もぴんとこないものね。

愁童:あまりうまい作品とは言えないんじゃないか。家族のこともきちんと描かれていないし。12歳の子が共感するだろうと訳者後書きにあるけれど、家の方の図書館では子どもは全然借りていないんだよね。だから、ぼくはすぐ借りられたけどね。

ねず:白水社のこのシリーズって、読者対象はどうなんでしょうね。

だれか:やっぱりYAじゃない?

ウグイス:小学生でもわかるところもあるわよ。

アカシア:物語を構築するんじゃなくて、情景を重ねていくタイプのこういう作品は、翻訳すると、よほどうまく訳さないかぎり原文の微妙な味わいも消えてしまうと思うの。

ウグイス:作者が21歳の時に出たデビュー作All Alone は、男の子がたった一人で自然の中で光や音を感じるという静かな絵本。あわあわとしているのね。この人自身が静かな人なんじゃないかな。2005年に『まんまるおつきさまをおいかけて』(福音館書店)でコールデコット賞もとってるのよね。

アカシア:『夏の丘、石のことば』(多賀京子訳 徳間書店)は、二人の視点から描かれていて、もう少しくっきりしたわね。

たんぽぽ:子どもって、しっかり、うけとめているけれど、あっさりしている。薄情というのではなくて、なんか、さっぱりしているところがあるのではないかなと思います。

小麦:最初の出だしには、すごくひきつけられたんだけど、期待したほどおもしろくはなかったです。マーサの気持ちの変化や、他者との関係についての説明があまりされてなくて、全体的にあわあわとしていて感情移入ができず、物語をぼんやりながめた感じで終わってしまいました。どうしてジミーを好きになったのかとか、オリーブに対する気持ちとか、さらっとは書いてあるんだけど物足りない。そういったところに、12歳ならではの気まぐれさや、自己完結的で言葉足らずな面があらわれていると思えば、まあそうなんだけど。本文の組み方なんかを見ても、白水社のYAシリーズは完全に大人向けだと思いますが、この本は大人の私には物足りなかったな。かといって、12歳の子がこの本を読んでマーサに共感するようにも思えないし……。

げた:亡くなったクラスメイトの母親が突然訪ねてくるという、ちょっと変わった始まり方に、まずひきつけられました。夏休みのおばあちゃんちでのジミーたち兄弟との出会いや、ジミーの裏切りにとまどい、ゆれる12歳の女の子の、まあこの時期特有の心の動きに共感できる部分がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年10月の記録)


シュジー・モルゲンステルン『秘密の手紙0から10』

秘密の手紙0から10

たんぽぽ:まだ半分しか読めてないんですけど、早く先が読みたい。ヴィクトワールが楽しくって。こんな子がとなりにいたら楽しいだろうな。

ウグイス:この本はとても好きですね。最初、この男の子の生活がすごく変わっているので、なんなんだろうってひきこまれるでしょう? ちょっと昔風で、普通の子どもの暮らしとあまりにもかけ離れている。それが、女の子が出てくるところから、がらっと変わってしまう、その落差が激しいところがおもしろかった。そんな展開になるなんて意外で。題は『秘密の手紙0から10』となっているんだけれど、その割にはお父さんの手紙はあまり重要ではないので、違和感があった。これを題にするなら、お父さんとエルネストのことをもう少し書いてもいいのに。

むう:この作品は、『オリーブの海』とは対照的にとてもくっきりしていて、楽しかったです。この女の子のパワーがなんといっても強烈で、魅力的。エルネストっていう子も、こういう生い立ちだと、ひきずられるだろうなと納得できる。女の子の13人の兄弟もそれぞれ強烈だし、その出会いとかエルネストの変わっていく様子もとてもおもしろい。それに、なんだろう、なんだろう、といっていた秘密の手紙が、なんていうことのない内容なのもおもしろいし。それに比べると、お父さんのことは、つけたしっていう感じでしたね。

ねず:女の子が元気良く生き生きと描けていて、おもしろかった。ほかの登場人物も、ほんの少ししか出てこない人もふくめて、よく書けていると思います。英米児童文学とはまったく趣のちがう、まさにヨーロッパ本土のにおいがする。ただ、「だからどうした?」と言われると、なんてことない話なんだけどね。フランスで権威のある児童文学賞を受賞しているし、主人公は10歳ということだけど、こんなに凝った文章ーー暗喩が非常に多い文章を、フランスの子どもはすらすらと読めるのかしら? けっして、感心したり疑ったりしているわけではなく、素直に「誰かにきいてみたいな」と、思いました。ただ、お父さんの最後の手紙には、腹が立ちましたね。あまりにも無責任で、言い訳がましくて……そんな親に主人公が怒りを感じないと言うのも不自然だし。

カーコ:ヴィクトワールがおもしろかったです。それに、細部の表現がおもしろかったです。p177の「ヴィクトワールがいないということが、エルネストの心のなかでは、とてつもない大きさにふくれあがっていた。穴に落ちないようにわざわざまわり道をしたのに、あまりにも気にかけすぎて、けっきょくその穴におちてしまったみたいな感じだ」とか、p133のインフルエンザの場面で「ヴィクトワールは、ばい菌の巣くつをエルネストのとなりに移し」とか。お父さんの手紙はあんまりじゃないの、と思ったけれど、生後3日で捨てられたことを気にしていたエルネストにとっては、ハッピーエンドでよかったのかな、と思いました。でも、この本の題名の「秘密の手紙0から10」っていうのは、どういう意味なんですか? おばあちゃんが大事にしていた手紙は1通だけでしょう? 原題では、「愛の手紙」だけど。

だれか:お父さんの送ってきた手紙が、10冊のファイルだったからじゃない?

げた:でも0から10だと、11冊になるよ。

カーコ:あと、白水社は目次を立てない方針なんでしょうか? 『オリーブの海』は細々としていたから目次がないのもわかるけれど、こちらはそれぞれに人の名前がついていて、目次として並べることにも意味があるような気がしますけど。

きょん:タイトルの意味がよくわかりませんでした。表紙もいまいちわかりにくいと思います。でも、読んでみるとおもしろかったので、一気に読んでしまいました。私は、ヴィクトワールよりもエルネストにひかれました。我慢強くて、こうだと思いこんだらきまじめにそれをするところ、たとえば、まっすぐに寄り道しないで帰らなくちゃいけない、おばあちゃんが待っているから……とか、おばあちゃんの言うとおりにしないといけないとか……、こういう極端なきまじめな部分は、どんな子どもの心の中にもあるもので、それが、ストレートに嫌みなく描けていて、よかった。そこから解き放たれていく子どもの心の成長もよかった。「一度も」したことがないから「初めて」するに置き換えていくっていうところも素直に気持ちが伝わってよかった。そして、ちょっとしたことで生活が変わっていくというのがさわやかに楽しく描けている。それを手助けしてくれる女の子の存在もなかなか愉快だと思いました。

アカシア:確かにヴィクトワールはおもしろかったし、エルネストとおばあちゃんの生活もよかったけれど、最後お父さんとこの子の関係に話を持ってきているのが不満でした。なんでここでお父さんのことに持っていくの? そのことで作品の世界が小さくなって、「小さな家庭のささやかな悲劇」に終わってしまったような気がします。p46「人道主義的なすばらしい大志だね」などなど、10歳の子どもの言い方とはとても思えない口調のところが気になりました。私は、この作品もわざわざ翻訳して出すことはないと思ってしまいました。

ウグイス:お父さんが見つかって、無理やりまとめてしまった感があるわね。別に見つからなくてもよかったのに。

げた:うちの図書館では、この本は一般書の棚に置かれています。主人公は10歳という設定だけど、いくらフランスだって10歳の子がここまで言うのは無理だろうと思うようなことを言うんですよね。エルネストもおばあちゃんも、お手伝いさんや、ヴィクトワールの家族も、登場人物がくっきり描かれていてわかりやすかったです。お父さんの糸口を見つけるのが、初めて行ったスーパーマーケットというのは、おもしろいけど。でも、このお父さん、ひどいですよね。放りっぱなしにしておいて、今更という感じがしますね。

むう:若いエルネスト自身は、お父さんの不在なんか乗り越えてさっさと自分の世界を作っていくわけだけれど、おばあちゃんにとっては、エルネストのお父さんが出てこないと一件落着しないからかもしれませんね。

ねず:昔から、フランスでは子どもを未完成の大人と見ているから、児童文学があまりおもしろくないと言われてきたけれど、確かにこの作品も子どものほうを向いて書いているとは思えないわね。

アカシア:大人の感覚でひねってあったりして、ストレートなおもしろさに欠けるのが多いのよね。

ミラボー:まず前半のヴィクトワールとエルネストの出会いはおもしろかった。陽気なヴィクトワールと出会って、全然知らなかった世界に触れて、世界が広がっていくのも極端な話でおもしろい。父親の話は、あまりに不自然だと思う。この言い訳おやじめ、という感じ。毎日息子宛に手紙を書いてたっていうけど、息子から突然手紙をもらって、それで初めて過去に書き溜めた手紙を全部送るっていうのは、それはないでしょう。最後、切符が3枚届いて、わいわいわいと終わるって感じでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年10月の記録)


野中ともそ『カチューシャ』

カチューシャ

げた:極端なキャラクター設定で、話としてはとってもおもしろく読みました。モーって、極端にスローで、テストでも時間が足りなくなってしまう。この本の読者は中・高生だと思うんだけど、モーみたいな子は結構いて、例えば『決められた時間の中で答えを出すのはできないんだけど、おれは本当は数学が好きなんだ』なんていうところは共感できるんじゃないかな。カチューシャは、映画化したらどんな女優さんがやるのかな? カチューシャがおじいちゃんの戦争体験を思って、文化祭でみんながつくった戦車をめちゃくちゃにしてしまうのだけど、どうしてこんなに思い入れるのかな、おじいちゃんの戦争体験とおじいちゃんの戦争に対する思いが、この本からは読みとれなかったなあ。モーのお父さん、なかなかいい親父だなと思います。でも、朝、時々違う女の人が食卓でコーヒーを飲んでいるのをモーが受け容れているんですけど、本当に受け容れられるのかな? ちょっとおもしろおかしく作りすぎているんじゃないの?

ミラボー:私はこのお父さんは、結構気に入りました。全体的には、読みづらいっていうか、読むのに時間がかかっちゃったな。筋がだらだらしてるからでしょうか。文化祭で戦車に顔をつけちゃったというのは、ありがちな感じ。作品としてはあまり評価できないです。設定に無理がありますよね

小麦:おもしろくは読んだんですけど、なんていうか手の込んだ幕の内弁当という印象。作者のサービスがいたれりつくせりで、ちょっと食傷気味になってしまいました。かじおのキャラクターも好感が持てるし、ストーリー運びもうまいと思う。それだけで十分読み進んでいけるのに、余計なところでおもしろくしようとするから、かえってそれが鼻についちゃう。お父さんが女の人と朝、コーヒーを飲んでたりとか、浴衣姿の編集者とキャンプファイアに来てたりとか……。エピソードとしても、戦争が出てきたり、かじおのお母さんの話が出てきたり、盛りだくさん。うす味系の『オリーブの海』のあとにこの本を読んだので、2冊の差がおもしろかったです。実力のある作家だと思うし、だからこそ色々と細かなところまで気がまわるのだと思うけど、なんでも先回りして用意してくれちゃう感じで、途中からおなかがいっぱいになってしまう。もっと読者にゆだねるところがあってもいいし、ディディールの味つけも、もう少し減らしてくれれば物語に集中できるのになー、と思いました。

たんぽぽ:3冊とも全部おもしろくて、私は幕の内弁当おいしゅうございました。3人それぞれ性格が魅力的で、組み合わせもおもしろかった。ショウセイの過去が、戦争とか恋人だけじゃなくてもう少し何かひとひねりあったらよかったんじゃないかな、と思いました。カチューシャもショウセイも自分を肯定しているところがいいなと。この表紙はフォークダンスなんですね。

ウグイス:主人公のかじおくんていう子が、周りとはちょっと違った時間軸を持った子どもだというのと、カチューシャが頭の回転が速くて世渡り上手な女の子っていう対照が、『秘密の手紙0から10』と一緒に取り上げるのにいいと思ったんです。全く違うように見える2人だけど、おじいさんに対する思いやりには共通のものがあって、そこからつながっていくという図式はわかりやすいと思いました。今のこの忙しい時代にスローライフをよしとするという主人公の設定はとてもいいと思うんだけど、お話としては特に何が起こるというんでもないんですよね。それから、かじおの一人称で書かれてるんだけれど、途中で著者の一人称みたいに聞こえてきてしまい、ちょっと鼻につくようになりました。著者が結局何を言いかったのかというと、ゆっくり生きていこうよっていうのと、戦争はやめようよ、くらいなんですよね。メッセージだけで読ませると弱いので、それならもうちょっとストーリー展開をおもしろくしてほしかったかな。

むう:設定やなにかはおもしろかったです。のんびりした男の子、力強い女の子、そしておじいさんに、クラシックな不良と、いろいろな人が絡んでいくのもおもしろかったし、かじおとカチューシャが実は前に会ったことがありました、というのもおもしろかった。ただ、途中で、カチューシャが戦車のはりぼてにいたずらするあたりは、ううん、これは付け足しめいているなあと思った。ちょっとてんこ盛り過ぎて、こっちがくたびれた部分もありました。かじおだけでも十分面白くて、たとえばマラソンの途中でコースを逸れちゃうところとか、なんともいえずいい感じなんだけれど、途中から、かじおの部分とカチューシャとショウセイの部分がちょっと拡散する印象があった。そのへんがいまひとつでしたが、基本的にはおもしろかったです。お父さんの造作も、いかにも今風でおもしろかった。

愁童:おもしろく読みました。才能がある作家だなと思ったですね。でも、この人の不幸は、いい編集者に出会っていないことなんじゃないかな。作家としての自分の文体が確立されてない気がします。日本語として首を傾げたくなるような表現が散見されて、興を殺がれてしまうのが残念。例えば 「にくまれ口をつぶやきながら」とか、「上のほうから俯瞰した」「髪にはめる」みたいな文章を日本語として、12歳ぐらいの子に読んで欲しくないですね。もう少しこなれた、しっかりした文章で書いてくれたら、大人の読者も充分引き込まれる魅力的な作品になるのに、惜しいなと思いました。

ねず:作者の生の言葉と、主人公のモノローグが混ざっているような感じがあって、気にかかりました。「金時豆がふっくら煮えてる」なんて、男の子は言うかな……とか。それから、非常に説明的だと思われるところもあって、やっぱりストーリーで語ってもらいたいなと思いました。だから、後半ストーリーが動くところからは、安心して読めました。そういうところをのぞけば、設定はおもしろいし、なにより主人公の立ち位置、万事スローで勉強もできないけれど、いじめられるわけでもなく、ちょっとみんなの輪から離れたところにいるーーそんなところに自分自身の経験からも共感をおぼえました。ショウセイは、バカ丁寧な話し方が原因なのか、ちょっと心のうちまで分からないという気がして……戦争体験も、とってつけたような感じがして。主人公のお父さんはけっこう好きです。朝、知らない女の人とコーヒー飲んでいるところなんか、なかなかいいじゃないか、なんて。こういう作家が、これからもどんどん書いていってほしいなと思います。「児童文学は卒業、これから大人のものだけ書きます」なんてならないで!

きょん:去年読んで、その時の印象だと、とても好感の持てる作品だと思ったのですが、印象が薄かったのか、ストーリーの細かいところを忘れてしまっていました。人よりもちょっとゆっくりでトロい男の子が、女の子に出会ってから、自分の居場所をみつけるという学園ストーリーが、軽快に描けていて、おもしろかったと思います。ショウセイの存在は、男の子にとっても女の子にとっても癒しの存在だったと思いますが、ショウセイの戦争体験については、老人に対するステレオタイプのイメージかも。戦車をめちゃめちゃにするところは、ちょっと理屈っぽすぎる感もありました。でも、全体的に個性的なユニークなキャラクターが出てきて、楽しめました。

アカシア:ほかの2冊の翻訳書に比べると、日本の人が書いているので、会話などがずっと生き生きしてますよね。文学というよりエンターテインメントだと思って、とっても楽しく読みました。キャラクターもちゃんと書き分けられて、特徴が出ているし。スローな子を魅力的に見せるのは難しいと思うんですけど、うまく書けてますね。「金時豆がふっくら煮えてる」というところも、この子のお父さんは料理研究家だし、料理の本などでは決まり文句なんだから、この子が言って不思議じゃない、と私は思います。ただショウセイのしゃべり方が疑似外国人風で、そこにリアリティは感じられませんでした。お母さんが風邪で死ぬというところも、リアリティからいうとイマイチかな。

ウグイス:p107「過去系で言うなって。」は、「過去形」の誤植ですよね。

ミラボー:お母さんはミャンマーの人なんですかね。

アカシア:日本人なのよ。日本に帰ってきて、免疫がなくて死んじゃうの。だけど私も、この人はこれからいい作家になるんじゃないかなって思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年10月の記録)


柴田勝茂『ふるさとは、夏』

ふるさとは、夏

ミラボー:アニミズムというか、あらゆるものに神様が宿っていて、その神様たちが楽しく活躍するという話は気に入りました。方言がきついので、入れているのはとってもいいですけど、読みにくいといえば読みにくい。だれが矢を射たのか、推理小説っぽく仕立てています。男の子と女の子のいる間に立つので、キューピットの矢かな、と最初から予想は立ちますが……。1990年の作品だけど、村の統合合併のことが話題になっていて、去年、今年あたりでもちょうど当てはまって、時代をとらえていると思います。

たんぽぽ:おもしろかったです。白羽の矢が立ってからあとも、短く感じました。方言が楽しくて、映画を見るような、おもしろさでした。

カーコ:とてもおもしろかったです。何の説明もなく方言が出てきて最初とまどったんですけど、これは読者が主人公のみち夫と同じ視線で読んでいけるようにわざとこうしているんだなあ、と途中で思いました。ほかの登場人物も神様も魅力的で、五尾村という世界がおもしろいんですね。矢のことを知りたいと思って読み進むんだけど、最後は、この世界を味わった満足感があるので、結末はどうでもいい感じがしました。物語が三人称で語られるからこそ、安心してひたりきれるのかも。p344の「おらちゃ、どっから来たがやろ。ほして、どこへ行くがやろ」というせりふが、生きることの不思議さを象徴しているようで心に残りました。

ウグイス:日本の児童文学らしい作品。この田舎は私の父の出身地と似ていて懐かしかった。子どもの頃、夏休みにひとりで田舎に長く滞在したことがあって、田んぼを抜けていくと川があって鎮守の森があってという風景を覚えています。バンニョモサといった呪文のような名前が出てきますが、村では近所同士苗字で呼ばずにその家のおじいさんの名前で「〜〜さ」と呼ぶ場合が多いんですね。この物語では主人公が田舎に行って、自分は誰も知らないのに、村の人々はみな自分のことを知っているという感じを受けますが、私も子どものとき同じような感じを味わいました。自分は初めて会う人ばかりなのに、村の人々は「〜〜さの何番目の息子の子」と知っていて、話しかけてくるんです。人間臭い神様が出てきますけど、村のおじいさん、おばあさんも、神様も、子どもにとっては同じようなものでしょう。生まれたときから見守ってくれる木とか、安心できる、ゆったりとした気持ちになる存在。会話が方言なのでとても雰囲気があって良いんですが、字で読むと読みづらく、子ども読むと苦労するかも。最後、主人公が家族のところに戻ったところも、自然な感じでいいですね。

アカシア:ファンタジーワールドをどこに作るか、ってことなんですけど、過去にさかのぼったり、まったく別の異世界をつくったりと、作家によっていろいろ苦労しています。この作品は、日本の現代で空間移動して、都会の子にとっては不思議な方言や風習が存在する「田舎」をファンタジーワールドにしてしまったところが、まずおもしろいですね。ブンガブンガキャー、ジンミョー、ゴロヨモサ、バンニョモサなど、神様や人の名前が片仮名で出てくると、それだけで不思議な感じがつくれる。神様がアロハシャツを着て温泉に出かけたりするのもおもしろいし、神様のくせに人間にたのんだりするのも意外。小林さんの挿絵もいいですね。方言の使い方も、わからないところは呪文のようにリズムを楽しんでいるうちに、だんだんわかってくるという状態をを主人公と一緒に体験できるので、これでいいのだと思います。
ただヒスイが、最初は引っ込み思案で、「きゃあ」と叫んで立ちすくんだり、みち夫にしがみついてふるえたりする場面があるかと思うと、後ろの方ではたいへん気丈な挑戦的で元気な女の子に描かれている。キャラクター設定に揺らぎがあるんですね。ひょっとすると、この男性作者の中に、憧れの女の子像と、児童文学としてはこう書かねば、という立て前とが乖離していて、こうなるのかな、と勘ぐってしまいました。白羽の矢をだれが射たのか、という謎で物語を引っ張りますが、村人たちは「神がかりしたり、ちょっと気がふれたりした村の者が射る」と考えているのに、神様たちは「人間ではなくて神様のだれかが射るのだ」と信じている。この辺があいまいなので、その後の犯人さがしもイメージがあいまいになっているのが残念。それから巻末に、この文庫版は1990年の福音館版の復刻で、別に加筆訂正したものが1996年にパロル舎から出ているとありますが、どんなふうに加筆訂正してあるのか知りたいと思いました。

うさこ:おもしろかったです。夏休みという限られた時間のなかで、行きたくなくて行った父親の故郷でおこる不思議な体験と空間と神様との出会いなど、設定は目新しくないですが、実にうまく書かれていて、物語のなかで十分に田舎の夏休みを体験できて楽しめました。暑い、汗、虫の声、ムシムシする風など、細部もうるさくないくらいに程良く描かれ、どっぷりと夏の舞台を満喫できた印象です。いろいろな神様がでてきて、それがどれもユニーク。明るくとぼけていて神秘的でない神様像もよかった。どちらかというとゲゲゲの鬼太郎の妖怪風なイメージだったけど。村の伝統行事、村独特の名称の付け方、人々の交わり方など物語の骨組がしっかりしていたのも、話にすんなり入れなじめた理由ではないでしょうか。この物語の山場は、「白羽の矢の犯人をあてる」シーンでしょうか。そこまでが、つまり神社ごもりの夜、白羽の矢をはなった犯人探しのところまでが、途中とっても長く感じられ、しかも方言の会話文を読み続けるのが少々辛かったかな……。

げた(メール紹介):ちょっと前の本ですが、うちの図書館では基本図書にしています。しかし、装丁などが古めかしいせいか、貸し出しはあまりないようです。私は今回初めて読んだのですが、意外に厚みのある構成と内容だなと思いました。家族、都会と田舎、色々な土着の神様たち、などいろいろ考えさせられる内容でした。白羽の矢は誰が?と推理仕立てになって、最後までひっぱってくれます。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)


池澤夏樹『キップをなくして』

キップをなくして

うさこ:作者の、命をみる眼差しのあたたかさを感じた作品です。生きていることだけがすべてではない、魂の温もりというか、魂どうしの結びつきというか、そういうものを作品の中に感じました。キップをなくした子は駅から出られないという、一瞬ギョッとするような設定でうまく物語を展開させている。食事は駅の職員の食堂で、必要なものはキヨスクでただでもらえ、衣類は遺失物取扱から着替えを選ぶ。なんと、ここには子供用のパジャマもあり……と、一見突拍子もないことも、ついつい納得させられて物語を読み進めました。ステーション・キッズの仕事もなかなかユニークで、時に時間を止めるなどの魔法も使える。駅での集団生活も、社会的仕事をこなしながら夜はみんなで勉強と、すっかり「駅の子」社会を作り上げていましたね。そのなかにミンちゃんがいて、死んだら何も食べなくていいとか、なんで自分ばっかりと悔やんで向こうの世界へ旅立てないでいる……ミンちゃんの語ることばが実にリアルでした。ミンちゃんが旅立つために、と、おばあちゃんのお墓がある北海道までみんなで旅をして思い出を作ったあと、向こうの世界へ送る子どもたちの姿がすごく自然に描かれていました。

ウグイス:「キップはなくしてはいけないよ。なくしたら出られなくなるからね」という言葉は、子どもならだれでも親に言われたことがあると思います。本当になくしてしまったらどうなるんだろう? というところから始まるので、子どもはもちろん、そう言われた記憶のある大人も引き込まれてしまう。毎日大勢の人が駅に着いて、改札を出ていくけれど、それは皆キップを持っているから出られるわけですよね。駅というのは、どこか他の場所へ行くための通過点にすぎないのに、そこにとどまったらどういうことになるか、という話ですね。ところが、そこで生活するのは全く問題ない。食堂やトイレがあるし、仮眠室にはシャワーもあるし、着るものや日用品は期限切れの遺失物で間に合う。キオスクでは、お菓子を買おうと駅弁を買おうと全部タダ! 散髪も、本屋で本を買うのもタダ! 駅で働く人々はみな駅の子のことを知っていて、とてもやさしく接してくれる。子どもにとって、なんだか楽しい場所なんですね。しかも子どもだけの生活。絶対的な存在である駅長さんという人物が背後にいるけれど、子どもだけで考え、ルールを決めながら集団生活をする。年功序列的な構造ができていて、一つの社会が構成されている。しかも、大切な任務があり、きちんと自分のするべき仕事をこなしていく。うまくいかないときは、何と時間を止められる! 一人一人に責任もあり、子どもがいっぱしの大人のように暮らせるのは、子どもにとってとてもうれしいと思う。駅の子になれば、少し問題ありそうな子でもそれなりにきちんと受け入れられ、ちゃんと一人一人に居場所がある。そうやって、なんだか楽しい物語が進んでいくんだけど、あまり食べないミンちゃんが、「わたし死んでるの」という場面で、読者はドキッとさせられますね。ここから読者の読み方もがらっと変わり、なんとなくそうなのかなーと思っていたことが、「やっぱりそうだったんだ、この子たちは!」と思わせられる。
 そのあとは、ミンちゃんがぐっと表に出てきて、死後の世界の話という色が濃くなってくる。それからさらに局面が変わるのは、新入りの中学生が「キップをなくしても、清算券を買えば出られる」という、考えてみればあたりまえのことを言うとき。閉じ込められてるわけじゃない、出たければ出られる。そこで、自分はどうしたいのか、という問題をつきつけられる。そのあたりから、前半と雰囲気が変わってきますね。最初は、東京駅構内の細部の描写にリアリティがあり、ぐんぐん読み進んでいくんだけど、だんだんにちょっとした小さい疑問が積み重なってくる感じがしました。この子たちはどうして駅の子として選ばれたのか? 何らかの理由があって駅の子になるのでしょうが、何なのかはっきりしない。自分からキップを捨てる子もいるけど、どうしてなのかよくわからなかった。一生いるのではなくて、いつか出られるのだけど、出るきっかけも不明。親たちにはちゃんと連絡がいっているから心配していない、というけど、どういう連絡がいってるのか、疑問に思いました。

カーコ:私はこの作者が好きでいろいろ読んできたんだけど、この作品は全体に今ひとつ楽しんで読めなかったんですよね。自立した子どもの共同体という設定は、最初おもしろいと思ったんだけど。なぜおもしろくなかったのかな、と考えてみると、一つには、出てくる子どもたちが、全体にもののよくわかったいい子ばかり。みんな自分の役割を悟って、とても素直に行動するでしょう? 実際の子どもというのは、もっとハチャメチャなものだと思うんですよね。大人の見た子ども、という感じがしてしまって。また、最後に駅長さんが具体的な人として出てくるあたりでなんだかがっかりして、そのあと物語についていけなくなりました。グランマの語る死後の世界を、なるほどと読めるかどうかで、読後感が違ってくるんじゃないかしら。

たんぽぽ:キップをなくして出られなかったらどうしよう、家では心配してるだろうな、と思ったけれど、子どもたちはそんなことを考えずに暮らしているし、みんな、死んだ子かと思ったら、それも違っていた。後半は斜め読みになってしまいました。

ミラボー:作者は相当な鉄道ファンですね。設定も、青函連絡船があった時代ということが途中でわかります。鉄道好きな子に勧めてみたい。最後に子どもたちは家に帰りますが、そのあとどうなったんでしょう? 終わりが完結していないところが気になります。死生観や輪廻のことが出てきますが、p80に「生きているものが死ななければ、赤ん坊が生まれることもできなくなる」と書いてあるのを読んでドキッとさせられました。そうなのでしょうか?

アカシア:この作品は、まず設定がおもしろいですね。大人のいないところで子どもだけで段取りをして暮らしていくというのがおもしろい。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(岩波書店)では子どもたちが美術館で暮らしますが、ここでは東京駅。そんなところでも暮らしていける、という発想がユニークです。駅のディテールもしっかりとらえて書いているところがいいですね。作者はインタビューで、イギリスの児童文学にあるような「行って帰る話」を書いた、と語っていますが、イギリスの児童文学は、帰ってからどうなったかも書かれているのに、この作品は、どうなったかが読者の想像にまかされています。大人の読者にはいいですが、小学生くらいだと大人よりもっと物語に入り込んで読みますから、疑問もあれこれ生まれてくるでしょうね。
 宇宙全体の大きな大きな心の中にいるコロッコたちが集まって新しい次の命をつくる、そしてコロッコは永遠に転生する、という考え方には、ひかれましたね。駅で暮らす子どもたちという意外性から物語が始まり、途中からミンちゃんの話になっていきます。ミンちゃんに関しては、読者も素直についていけて最後も安心しますが、他の子のことは書いてないのは、どうなんでしょう?

げた(メール参加):『キップをなくして』は身近なところに、非日常の世界を作り出して子どもたちを一時その中に引っ張りこむ話です。発想はおもしろいと思いましたが、読み終わって、子どもにとって「駅の子」になるということにどういう意味があるのか、と思いました。駅長さんや「死んだ子」を取り上げる中で「死」について作者の意見表明をしていますが、子どもはどういうふうに捉えるのでしょうか。なお、図書館ではこの本は一般書扱いになっています。

カーコ:一つわからなかったのは、この子たちが駅の子でいつづけた理由が釈然としないのに、最後に主人公は夏休み後、駅に戻るというでしょ? どれほどの動機があったんでしょうね。

アカシア:自分たちが果たしてきた役割を誰かが次の子たちに伝えなきゃいけないから、と書いてありましたよ。

カーコ:一人残らなければならないというのはわかるけど、なぜこの子がその一人になろうと思うのかしら?

アカシア:日常のリアルな世界との関連を考えていくと、なかなか難しいわね。

カーコ:ミンちゃん以外は、家族のことは全く書いていないし。

うさこ:キップをなくしたところで、もう魔法がかかっていると思ったので、私はあまり違和感はなかったけど。

アカシア:行って帰る話だと、帰ってみると現実の時間はストップしていたのがわかるとか、あるいは浦島太郎みたいに現実の世界でははるかに時間が進んでいたとか、とにかくファンタジー界と現実界では時間の流れ方が違うのが普通だけど、これは現実に学校に行く子どもたちを助けるところが出てくるので、現実世界と接点があり、そういう処理ができませんよね。子どもが読んだら、その間親たちや学校の仲間たちはどう納得していたんだろうか、とか、捜索願は出てなかったんだろうかとか、ひっかかるんじゃないかな?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)


ジャン・マーク『バスにのらないひとたち』

バスにのらないひとたち

アカシア:私はジャン・マークの短編が好きなんです。日常の中のちょっとした裂け目をのぞきこんで不思議なお話を作るのが上手な作家ですよね。大人になって、雑事に追われているとつい見逃してしまいがちな感覚を、しっかり思い起こさせてくれます。この作品も、「大人の私」はおもしろく読みました。ただ、いくつかひっかかったところがあります。「通信」は、暗号のようなものがモールス信号だったことはわかったけど、具体的にはどうなっているのかよくわからなかった。後書きでもう少し説明してくれると、よかったですね。p181のトンネルと線路と歩道と車道の関係もうまくイメージできませんね。
「バスにのらない ひとたち」の話の原題はThey Wait。バスに乗らない人なら自分とはかかわらない感じですが、「待っている人」だと何を待っているのかわからなくてもっと怖い。文章の表記は、漢字とひらがなのバランスをもう少し考えると、もっと読みやすくなったと思います。p84あたりに日本語のイタリックが出てきますが、これ読みにくいですね。

ミラボー:私も「通信」はどうしてもわからなかった。今日ここで、わかった人に聞いて理解して帰ろうと思っていたんですが……。みなさんもわからなかったようで残念。個人的にイギリス文学でもケルト的な多神教の話は好きです。「かざられない写真」の話は、よくわかります。ぶきみな感じの話が多かったですね。

たんぽぽ:子どもたちは怖い話が好きなので、もっと子どもたちが楽しめる工夫がほしかった。読みにくかったです。

ウグイス:子どもだけにしか見えないものを描いて、なんとなくこわい雰囲気のある作品として、『キップをなくして』と共通のものがあると思ったんです。「バスにのらないひとたち」「お誕生日の女の子」などはわかりやすい話だけど、中には、情景がきちんと思い描けずに何回か繰り返して読まなければならないものもありました。もう少し工夫してほしかったわね。私も「バスにのらないひとたち」の原題がThey Wait なので、日本語から受ける感じとニュアンスが違うのではないかと思いました。p80でジェニーが最後に答える「バスにのらないひとたち」というところも、原著とは違ってくるのかも。
げた(メール):非常に読みにくかったです。内容的には高学年から中学生向きなのに比較的容易な漢字が平仮名になっていたりもするし。また、訳文から情景がイメージしづらかったですね。ですから、おもしろい本なのでしょうが、私にはその良さがわかりませんでした。日本の子どもにも、むずかしいのではありませんか?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)


E.R.フランク『少年アメリカ』

少年アメリカ

愁童:おもしろかったです。文学作品としてはどうかと思うけど、翻訳者の仕事ぶりがおもしろかった。言葉の選び方や文章のリズムが巧みで、読み手が鬱や心身症を疑似体験させられるような感じに引き込まれてしまうのが印象的だった。後半でセラピー描写が前面に出すぎてくるのが惜しい。前半と同じようなパターンで物語が進んでくれれば、この翻訳者の文体で少年アメリカの内的変遷を疑似体験できるとてもユニークな翻訳書という印象で読了できただろうに、その点がちょっと残念でした。

ネズ:難しい作品だな、と思いました。こういうものをフィクションで書くのと、ノンフィクションで書くのとどっちがいいか、考えさせられました。主人公の生い立ちの部分はおもしろいけれど、私はセラピストの仕事というものをまったく知らないので、セラピストがどのように向かい合ったから、主人公が立ち直ったのか、そのへんがよく分からず、難しかった。こういう本は、同じような境遇にある子は絶対に読まないし、こういう境遇にない子は、自分とは違うと思って読まないのでは? 読者対象をどこに置いているのかしらね?

アサギ:解離性障害というのは、つらい現実から逃避するためのひとつの形だと言うこととは漠然と知ってましたが、こういうことなのか、と私は興味深かったですね。この本はアメリカの若者に人気があるとのことですが、どういう子に支持されてるのかしら?

驟雨:普通の子ですよね。作者は、普通の高校の本棚に置く本として作った。この作品は作者の2作目ですが、若い子からの反応がより鮮明なのは1冊目のほうだということです。

アサギ:少年犯罪は日本でも多発していますけど、罪を犯した子どもたちの更生はどうなっているのかと興味がありました。この本を読んで更生の可能性が感じられ、そこがよかったですね。翻訳は難しかったと思うけれど、とても読みやすかった。それから、こういう子どもたちって大きく見るとけっこう共通項があると思うのね。共通項があるということは、導くための一定の方法もありうることになりますね。むろん、人間は一人一人ちがった個性の持ち主だと言うことは大前提だけど……。それからあらためて思ったのは??この子は料理に関心をもったことがターニングポイントになったけど??好きなこと、得意なことがあるってこんなにも大切なんだということでした。

ミラボー:すごい本だと思った。転落していく過程がよく書かれていたし、ドクター・Bとのカウンセリングの過程が延々と続き、なかなか先が見えないんですが、最後には救われる。イタリックに字体を変え、主人公がふっと別のところに離れて、また戻ってくるというのがわかるように書かれてますね。作品としては最後に救いがあってよかった。訳すのは大変だったろうと思います。特にののしり言葉などは、日本語のほうが少ないので大変だったでしょう。

ウグイス:あまりにも生々しくて、つらくなるような描写が続く中で、一つとても印象に残ったのは、小さいとき、ハーパーさんから隠れると、「ほうら、見つけた! もしもし、あなた、そこにいるのが見えますよう」といって見つけてくれる。「それでおれは、金切り声をあげる。見えるっていうのはほんとうに気持ちのいいことだから。」(p29)というところ。誰からもちゃんと見てもらえない子どもの心情がとてもよくわかる部分でした。最後まで読むと、これが伏線になっていることがわかり、感動しました。

アカシア:フィクションかノンフィクションかという点ですが、作者はきっと、この子のような子と何人も接してきたのでしょう。でもこの作品では、そういう子どもたちの代表として「アメリカ」という少年をつくりだし、フィクション仕立てにしているわけですよね。内容はとても重いですが、読んでよかったと思いました。ただ、読者対象はどの辺なのか、作り手の側はどう考えたのでしょう?

驟雨:アメリカではこの本は若い人向けに出ていて、「自分たちと同じようなことに関心があって、同じような言葉(汚い言葉)を使っている子がここにいる」という読まれ方をしているけれど、それをそのまま日本に持ってきても、距離感があるから同年代では読めない。だから、読者対象としては、そういう虐待などを受けて苦しんでいる子たちを相手にする、たとえば福祉関係などの大人を想定していると思います。

アカシア:子どもの本ではないんですね。巻末に広告が載ってる夜回り先生(水谷修氏)の本は、実際に救いを求めている子が読んでますよね。これは、それとは違って、本当に問題をかかえている子には難しい。時系列が行ったり来たりするので、本を読み慣れていなければ読みにくい。少年アメリカがセラピストとやりとりをしている現在の部分と、過去を思い出す部分が交互に出てきますが、回想の部分の会話は、もっと子どもらしい言葉づかいにしてもよかったのでは? たとえば「書類」(p36)は、幼い子どもの言葉ではないから。ハーパーさんの言葉づかいも、もう少し統一されると人間像がつかみやすくなると思いました。この作品は、甘いところをすべて排除してきりっとしてるんだけど、その分、読者としては読みにくいかもしれない。それから、セラピストはいい人ではあるんでしょうけどこの本からは人間味が感じられなくて。職業柄仕方ないのかも知れませんが、すごく嫌な、少年アメリカでなくても蹴っとばしたくなるような人に感じられました。なので、主人公にも感情移入しにくいし、セラピストにも感情移入できない。

ネズ:セラピストがマニュアル通りにやっているので、こうなるのでは?

驟雨:本人の言葉をそのまま繰り返しながら、本人に自分の内面と向き合わせるというのが、このセラピストのアプローチだと思うんです。この子は、それまでにもいろいろなセラピストと対面してきて、大人との回路はほとんど遮断したような状態で自分を守っているから、たとえば親しみを前面に押し出すようなアプローチでは、この子にすればうさんくさいだけだということになる。だから、主人公とドクターBというセラピストとの会話は、普通の人との会話ではなく、そっけない感じになるのは仕方ないと思います。

アカシア:本人が言ったことをただ繰り返すセラピストを、私はマニュアル通りに応対するお役人みたいだと思っちゃったんです。

ウグイス:でも、少年アメリカにとっては嫌な奴なんだから、彼の感じ方で描くとこうなるんじゃないのかな。

アカシア:そういうのはあるかもね。でも、子どもの本だと読者は誰かに寄り添って読みたいのに、この作品はそういう人が誰もいない。

げた:図書館ではこの本は一般書にはいっています。時間の流れが行ったり来たりして、構成がむずかしくって、なかなか理解しにくいですよね。読みにくい部分もあるし、映画を見るように自分で映像をイメージしながらしっかり状況をつかんでいかないと、会話だけがどんどん流れていってしまう。ぼくも、少し前に戻って読み直したり、何日か時間をかけて読まなければなりませんでした。最終的には救いがあり、野菜を育てて、土の感触を得て前向きな生き方になっていくのが感じられて良かった。作者はまえがきで、これは「教訓話」じゃなくて「優れた物語」を作ろうとしたと書いているですけど、なかなか物語として楽しむところまではいきませんでした。セラピストの助けを借りながら立ち直っていく子どもの生き様を扱ったドキュメンタリーのような読み方しかできませんでした。

驟雨:イギリス版の原題はAmerica is Meで、アメリカ版ではAmerica となっています。イギリスでは、YAコーナーと一般書の場所に、どちらもたくさん並んでいました。万人受けするタイプの作家ではなくて、ツボにはまって熱狂的なファンがつくタイプの作家で、ああいいな、と思う人が何人かはいるという感じだと思う。アメリカでの若者の反応も、すっと入っていけてすごく感激したという感想もあれば、自分とはまったく違う世界だし、何でこんなものを読まなきゃなんないの、と不満を前面に出した感想とに分かれていました。デビュー作が圧倒的に若者の支持を得ているのに対して、こちらはもう少し年齢が上の人たちまでターゲットに含めているようなところがあります。私自身、問題行動といわれる行動をとる若者をどう書くかに関心があって、けっこうアメリカやイギリスのそういう本を読んでみたりもしているけれど、家庭内暴力の被害者、ドラッグ常習者などが転落していく過程はリアルに書けても、そこからある程度のところまで回復していくのを書ける作家はほとんどいないといっていいと感じていました。つまり、回復過程にリアリティがない本が多いのだけれど、この本は、その部分がかなりしっかり書けている。それは、作者のセラピストとしての経験があるからでしょうが、たとえば少年アメリカが小さいことが目に入るようになってくるといった変化が、ちゃんとポイントを押さえて書かれているので、リアリティがあるのだと思います。現実にこういう子どもたちと接している大人たちは、様々な迷いを抱えながら、とにかく子どもと向き合わなければならないわけで、そういう大人に読んでほしい本です。ひとつ不思議な気がするのは、原書は、「本があまり好きでない子ども向け」の本として、リストに入っていること。主人公の、ものすごくヒリヒリした感じを出しながら、でもどこかでは温かいものとつながっている感じは、同世代の子には伝わると思います。でも、日本語となると、表現の仕方がとても難しい。原書は、話し言葉がそのまま文になったような作品で、そのままでは日本語にならないという問題もあります。

ミラボー:主人公が予想する調書の文面が出てきて、この少年の育ってきた過程がわかるけれども、それとは別に実際に起こったことも書かれているので、それらを総合して読んでいけばいいのでしょうね。

驟雨:セラピストによるセラピーというのは、向き合っている子の影の中に、その子の過去がいっぱいつまっていて、それが必要以上にふくれあがっているのを、原寸に戻して、その子にも受け止められるような形に持って行くことだと思います。その意味で、たとえばブラウニングの、主人公を安心させておいてから根底から覆すという行為の残酷さをちゃんと理解して、主人公が、そういう人に対して敵意を持つのは当然なんだと支えてあげる。それでいながら、人を殺すようなことはいけないことだということも押さえる。そういうバランスを本人一人でとることは、ほとんど不可能に近いわけで、それを助けるのがセラピストなのだと思うんですね。セラピストという存在は、自転車の練習をするときの補助輪のような存在だと思う。ちなみに、この本はイタリアとドイツでも翻訳されていて、ドイツではYAの賞の候補にもなっています。

アサギ:私はセラピストの口調がそれほど嫌だとは思わなかったけど。

げた:最後の解説で、この本の最大の魅力はセラピストが解離した人格を統合に向けるプロセスをリアルに描いていることであると言っているから、セラピストはそもそも、そういうやり方をするんだなと思ったんですけどね。

ウグイス:エイダン・チェンバーズの『おれの墓で踊れ』(浅羽莢子訳 徳間書店)の構成に似てると思いました。あれも、現在の取調べの場面と、本当に起こったことの回想部分とが交互に出てくるでしょ。

ネズ:私も『おれの墓で踊れ』の最後の部分を思い出しました。でも、あれは警察官の言葉を借りて事実を述べているわけだから、少し違うのかもしれないけれど……文章の字体を変えているところは、原書ではどうなっているのかしら?

アカシア:それとスラングがたくさん出てくる作品は、同じ作品でもアメリカ版とイギリス版でかなり違う表現になっている場合があるけど、これはどうなんですか?

驟雨:書体を変えたのは、日本語版の工夫です。それから英語はこの本では、イギリス版もアメリカ版もほとんど変わっていない。なぜなら、この本は、アメリカという国についての話でもあるから。

げた:でも、アメリカでは読書に慣れていない子にすすめる本とはね。うちの高校生の息子にもすすめてみようかな。

ネズ:いつも自分で使っているようなスラングがいっぱい出てくるから、ラップを聞くみたいにすーっと読めてしまうのでは?

愁童:ぼくは、やはりセラピストが書いているという限界を感じちゃった。少年アメリカがよく見えてこない。この子の本体は何なのかが、イマイチわからないでしょう? ハーパーさんと暮らしたほうが幸せだったのか、あるいはブルックリンとのことは彼にどういう影響を与えたのかを書いて少年アメリカ像を読者の前に提示しようというよりは、こんな子にはセラピーが必要なんだってことが前面に出てきちゃってる感じがする。

驟雨:逆に、この子の本体が見えないということで、少年アメリカ自身が自分を掴めなくて混乱してる状況がくっきりと浮き彫りになる気がするけれど。

愁童:確かにそういう面はあると思うけど、フィクションとして書かれているという前提で読むと物足りない。鬱だの心身症で生まれてくる子はいないわけで、そんな普通の少年アメリカが、どんな対人関係で、どんな生育環境で育ってきて今セラピーを受けるような状態になっているのか、そこら辺がよくわからないのが残念。推察はできるけど、作者は、あまり明確には書きこんでないのがもどかしい。

ネズ:プライバシーがうるさいから、ノンフィクションでは書けなかったのかな?

アサギ:名前を「アメリカ」にしたっていうのは、きっとそういう意味があるのよ。

愁童:小説として読めば、こういうふうになったプロセスにこそドラマがあるわけで、そこがあまり書かれていないので、何となくセラピーPR本みたいな印象になっちゃうのが残念でしたね。

驟雨:むしろこの著者は、子どもをとりまく大人たちの状況、社会の状況に対する怒りが一つのエネルギーとなって、創作に向かっていると思うけれど。

愁童:セラピストと少年アメリカの対話の中で、少年像が透けて見えるような書き方があると読者はもう少し想像力を刺激されて、興味深く読めたんじゃないかな。

アサギ:セラピーというのはこういうものなんだな、ということはわかったわ。こういうふうに人間って変わっていくんだな、と。

ネズ:私の大好きな作品『地下鉄少年スレイク:121日の小さな冒険』(フェリス・ホルマン作 遠藤育枝訳 原生林)は、少年アメリカほどじゃないけれど、家族も友だちもいず、精神的に追い詰められていた少年がNYの地下鉄に逃げ込み、121日間の地下生活をするうちに、それこそ袖擦りあうだけの人々との関わりによって救われ、ついに地上に出るという物語なんだけど、今の時代、こういうのはまったくの夢物語で、セラピストの登場を待たなければ救われないということなのかしら?

アカシア:小説として出すのか、それとも一種のケーススタディとして出すのか、本の出し方がどっちつかずなのでは?

驟雨:こういう本を出すときに、すぐに思いつくのが、スキャンダラスな部分を強調したり、実話だぞ、という点をうたい文句にした売り方だけれど、そういうふうに扱うべき本ではないと思うし、そのあたりは難しいと思います。

アカシア:とにかく翻訳が難しいタイプの作品ですよね。少年アメリカの一人称は英語ならすべて「I(アイ)」ですむけど、日本語では逆に小さいときの回想まで「おれ」で通しちゃうと違和感が出てきてしまう。

驟雨:一人称の問題ももちろんあるし、あと、米国でよく使われている固有名詞を使ってる部分などは日本語にできないから、そこで読者との距離感が出てしまうということもあると思います。この著者は、英語という言語を非常にうまく活用して書いているので、そこを日本語に移すときの減速感は否めない。

愁童:主人公の不安定な気持ちがせっかくここまで伝わっているのに、最後が説得力に欠ける。ドクターと会話しているうちに、急に優しくなったり、ものがわかるようになるというのに、ちょっと違和感を持ちました。セラピストのどんな言葉が、どんな態度物腰が少年を癒し、変えたのかがイマイチ明確には書かれていないのが物足りない。

驟雨:でも、少年アメリカが一人でぽつんと孤立していて、まったく手がかりのない状態、自殺願望を持っている状態から、ようやく一筋の光が見えるところまで行く過程は、かなりよく書けていると思います。外界のいろいろなものと、内面の変化が呼応しながら進んでいくあたりは、様々な記憶がよみがえっていく順序とか、心の動きはかなりリアルですし。

愁童:作者はこの本の冒頭で「優れた物語を書きたかっただけ」って言ってるよね。でも最後の解説を読むと、セラピー事例としての捉え方がされていて、何だ、結局そう言うことだったのか、みたいな感じになってしまうんだよ。

ネズ:冒頭の作者の言葉にあるように、あくまでも物語として読ませるなら解説はいらなかったし、セラピストとか、プロを読者対象にすえるなら、冒頭の作者の言葉は違和感がある……。

ウグイス:セラピストというものに対するうさんくささが、この解説で惹起されてしまう?!

アカシア:あと主人公の少年自身の魅力が、もう少し出てくるとよかったね。

驟雨:少年アメリカの人柄はかなりよく出ていると、私は思いました。たとえば、セメントの四角い隅に靴跡があって、そこを踏んづけたらハーパーさんちのドアが開いて、「お帰り」といってくれたというところは、実は偶然なんだけれど、幼い子どもにはそう見えたりする。それに、ライザに対する好意があっても、ブラウニングのいたずらが始まると、どんどん混線して、逆にライザを遠ざけようとするのもリアルです。結果としては、人を殺すことになりながら、それでいて本人はとても素直なところ、感受性の強いところがあるというあたりも、うまく書けていると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)


エリアセル・カンシーノ『ベラスケスの十字の謎』

ベラスケスの十字の謎

アカシア:今回は3冊とも、最初は状況がよくわからない謎の部分から入っていく本でしたね。この本ではまず少年が上げ底の木靴をはかされる場面がでてきて、え?と思っていると、読んでいるうちにだんだんとわかってきます。子どもが読む物語として、主人公の少年にくっついて興味をつなげて読んでいける、よくできた作品だと思いました。訳者の方はご苦労なさったようですが、とてもわかりやすい形になっているなあと感心しました。おもしろかったです。ベラスケスの絵に描かれている赤い十字架の謎を解くというプロットもいいですね。また、本の後ろに人物紹介があって、「ラス・メニーナス」の絵には登場しない人までいくつか絵が入っています。日本の読者にとってはありがたい工夫だと思いますが、これは日本語版だけなのでしょうか。

ウグイス:日本の子どもにはベラスケスといってもわからないし、この表紙の絵も知らない。スペインの宮廷の話で、まして17世紀ともなれば、時代背景は日本の読者には非常に遠い。読者対象はどうしても中学生かなと思います。でも、この本は、状況設定がそれほど遠いにもかかわらず、読者が最初から主人公にくっついていける構造をもっているので、意外にすらすら読めますね。まずお母さんが死んで、かわいがってくれるのは乳母だけ、それなのに引き離されて、父親に売られて、見知らぬ人ばかりの船に乗って……と、これはどうしたって主人公の味方にならざるを得ない始まり方。そして、船に乗ったところからは、何か途轍もないことが始まるという予感がして、次のページをめくらずにはいられない。その上、主人公の感情や気持ちに忠実に書かれているから、ぴったりついていきやすいと思います。しっかりした冒険ものとしての枠組みがあり、一気に読めます。長さも程よくて読みやすく、日常とまったく別の不思議な世界に連れて行ってくれる作品だと思います。

ミラボー:この絵は実物を2回見たことがあります。著者はスペインの子に向かって書いているから、前提としている知識が二つあると思いました。一つは絵の中の十字架は、王様がベラスケスの功績を称えて、死後に書き加えさせたといわれていること。二つ目は、当時のスペイン宮廷には矮人がいっぱい集められていて、ベラスケスは矮人に対してあたたかい愛情をもって描いていること。エル・プリモなどはとても有名です。なお私は絵の右の子(ニコラスに相当)は普通の女の子だと思っていたのですが、それも矮人だったのかとこの本を読んで初めて知りました。この二つのことはおそらくスペインではよく知られていることなので、日本の読者に向けては、それをどこかで補った方が親切かもしれません。ネルバルが悪魔で、ベラスケスは魂を売っても永遠の命を作品に求め、最後に十字架でベラスケス自身の救いを得て大逆転というのは、フィクションとしてよくできていると思います。私の中学では全員に読ませてみようと思っています。まず絵を解説しスライドを見せておいてから本を渡すつもりで、そうすれば基礎知識が得られて、お話に入りづらい子も減ると思います。

ネズ:アニメやゲームには、悪魔に魂を売るという話がけっこう出てきそうな気がするけれど……「悪魔」とはっきり言い切っていないところもいいですね。

ミラボー:どこにも書いていないけれど、やっぱりネルバルは「悪魔」であると読むんでしょうね。十字架を描き加える時に、ろうそくを消したりして抵抗しているわけですよね。

アサギ:悪魔を封じる十字架というふうには出てきますよ。この絵は、プラド展に来ていましたね。あそこではマリバルボラについておかしな解説が付いていたので、この本で初めてこびとだったのだとわかりました。とてもおもしろく読みました。ストーリーそのものもミステリアスで興味深かったし、宮廷にこういう道化がいることは知っていましたが、こんなふうに人買いのように集めていくことや、その宮廷での立場など、かれらをとりまく史実を知らなかったので、とても新鮮でした。未知の世界に入りこむおもしろさがいちばんだったかな。もちろん、ストーリーもうまくできていて、最初、え?と思っていたら、すとんと落ちるべきところに落ち、なるほど、という感じでした。翻訳もすらすら読めて、よかったですね。スペインのことだけでなく、宮廷画家という存在についてもあまりよく知らなかったので興味深く読みました。子どもはベラスケスや宮廷についてなどむろんぴんとこないでしょうが、ストーリー展開のおもしろさでついていくと思います。

ネズ:とてもおもしろくて、私も一気に読みました。ベラスケスの絵のことや、スペインの宮廷の知識がなくても、じゅうぶんに楽しめると思います。異文化や、知らない世界の遠い時代のことを知るというのも翻訳本の楽しみのひとつですが、この本はそういった楽しみを存分に与えてくれる。それに、いわゆるフリークの悲しさもとても上手く書けている。差別的な感じや、自分を高所に置いた哀れみの視線をまったく感じさせないのは、そういう子どもを主人公にして、その子の視線で書いているからだと思いますが、作者の配慮が感じられ、見事だと思いました。『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著 角川書店)の影響で、古典的な芸術や、いわゆる名画に興味を持つようになった子どもも大勢いると思うので、そういう子にぜひ読んでもらいたい。訳文も美しく、p63の真ん中あたりの訳など、本当にうまいなあと思いました。

驟雨:なんというか、私が小さい頃になじんでいた、岩波や福音館の児童図書みたいな、これぞ児童図書正統派という感じでした。豊かな感じがして、自分の知らない世界をじょうずに見せてくれる。文章も構成もきっちりしているし、とてもいいなあと思いました。この題材になった絵は、プラドでも暗くした特別な部屋に一つだけ飾ってあって、見ている人がその絵のなかに入ったような感じがするのだけれど、それに通じるものがこの物語にはある気がしました。謎めいたムードがあって、それが決して安っぽくない。伝統をきっちり踏まえている感じですね。あと、最初のところが木靴の話で、え?という感じで入るからこそ、子どもたちは、矮人である主人公の気持ちにすっと入っていける気がしました。これが最初から矮人だとわかってしまうと、子どもたちは自分とは違うと感じてしまって、なかなか入れないかもしれないけれど。とにかくおもしろかったです。

愁童:『少年アメリカ』と続けて読んだので、双方の作者の立場の違いみたいなものが、作品に反映されていて興味深かったですね。小さい子が主人公で、その子は父親が嫌い、というあたりは『少年アメリカ』にも通じるものがあるけれど、聖体拝受のエピソードで、坊さんを倒してしまうといったとても印象的な場面をぽんと置いて、少年像がきっちり読者の心に残るような配慮をしながら作品を作っている点など、童話作家としての巧みさを感じました。

げた:次はどうなるんだろう、という感じで読み継いでいけるので、読みやすい本です。歴史知識が必要なので、中学生向きかと思います。ニコラの出世物語ということで、中身自体はそれほど難しくないし、分量的にも中学生で本を読み慣れていない子にも読めると思います。

ミラボー:表紙で犬とニコラスだけに色がついていますが、これは、犬と少年が主人公ですよ、ということですね。
ひとしきり、ベラスケスの絵の話で盛り上がる。

ミラボー:冒頭の、ガブリエル・マルセルの言葉については、どう思われました?

アサギ:最後につながるんじゃない。ベラスケスの作品が完成したことが神秘なのかしら?

ウグイス:私は素直にふうん、そうなんだ、と思って読んだけど。

ネズ:神秘というのは運命のことかしら。

驟雨:この言葉がここにあるために、この本には不思議なことが出てくるぞ、という感じが醸し出されているんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)


斉藤洋『白狐魔記 源平の風』

白狐魔記 源平の風

アカシア:この本は子どもによく読まれているし、シリーズの4作目が最近出て、話題になってますね。

愁童:ぼくの居住地の図書館には入ってなくて、借りられなかったので読んでません。

驟雨:この作家の本は、読書会でも、『サマー・オブ・パールズ』、『ルドルフとイッパイアッテナ』(どちらも講談社)と、これまでにたしか2冊取り上げていて、これが3冊目だけれど、『サマー・オブ・パールズ』が、男の書いた都合のいい女の子だと不評だったのと表裏一体で、こういう男の世界を書かせると、この人はうまいなあと思いました。お話として、とてもおもしろく読みました。最後に、キツネが仙人のところにとことこと戻っていくあたりの書き方も、いいなあと。シリーズの次の巻も読んでみたいなあと思わせられました。おもしろかったです。

ミラボー:私は正直言ってあまり好きじゃなかった。「フォレスト・ガンプ」という映画でいろんな史実に立ち会うという設定があって、そういう感じかと思って読んでいたら、思ったほどは史実に立ち会わなかったんで、拍子抜けしたのかもしれないな。なんだか説教臭くて、人間とはこういうものであるとか、修行はこういうものだとか、キツネがまじめくさっていて……。

アカシア・ウグイス:そこがおもしろいんじゃない! わざとそういうふうにしてるのよ。

ミラボー:私は嘘くさかったり説教臭いように感じたんだけど。この著者の本を初めて読んだんで、他のを読むと違うのかもしれない。

ウグイス:歴史のことは少ししか出てこないけれど、とにかくこのキツネがおもしろい。仙人について修行したりするけれど、その仙人が不真面目なのがおかしいの。かるーく読むべき本だと思う。このキツネ、ばかみたい、とか思いながら読まないと。坊主の話を床下で聞いているところのおかしさとかね。ユーモア小説だと思う。もったいぶって、大上段に構えているところが、またおかしいの。私はこの本はとても気に入って、おもしろいと言ったら、別の人は「こんなのくだらん!」と言ってた。まじめな人だったから、まじめに読んじゃったのね。この本は、まじめに読んじゃだめ。おかしい話として、アハハと笑って読めばいい。

げた:斉藤さんは、説教くさい話が大嫌いなタイプですよ。図書館に来てもらって話してもらったときも、そう言ってました。これはシリーズで4巻目まで出てますけど、1巻目がいちばん新鮮でおもしろかったですね。キツネが修行して、自由に人を化かせるように成長していく様子がおもしろかったですね。4巻目はキツネのことよりも、信長のことなど史実をたどることに力点が置かれているようで、物語のおもしろさが少なかったかな。

驟雨:あの、キツネが街道で人に出会って、化けてみたら、相手そっくりになってしまい、それで相手が逃げだすというエピソードは、おもしろかったですよね。

アカシア:斉藤さんは、ストーリーテラーで、エンターテインメントのおもしろさに徹しているんだと思うな。変身の過程を細かく書いている本って、あんまりないんだけど、この本は、尻尾の処理がうまくいかないのは「空」にしなければならないからだ、という。そのあたりなんかもうまいですよね。リアリティを追求するんじゃなく、笑って読む本。ただし本をよく読む人にとっては、サービス過剰が鼻につくかもしれませんけど。ところで冒頭に出てきた猟師は謎めいてるけど、だれなの?
誰もわからず。

げた:私は斉藤さんの作品の中では、最初の作品「ルドルフとイッパイアッテナ」がいちばん好きですね。あれは傑作だ。

ウグイス:私はこっちのほうが好き。

アサギ:この人、浪花節よね。基本的に。だから日本人に受け入れられやすい。ときどき悪のりしたりするけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)


きたやまようこ『いぬうえくんがやってきた』

いぬうえくんがやってきた

むう:今日は、低学年ものの本について勉強しようと思ってここに来ました。YAのように読者対象の年齢が上の場合は、大人の想像力である程度何とかなるけど、幼年ものはまったく大人と違う気がします。その意味で、いぬうえくんはちょっと不思議だった。すらすらさくさくと読んでいったら、いぬうえくんはなんとなくくまざわ君の家に住み着いて、それからちょっとぶつかったら勝手に出て行って、それでまた、何となく戻ってきてっていう感じで、「変なの」という気がしました。それでも、まあそういうこともあるかと思ったんですけど、最後のp78で、くまざわくんが、またいぬうえくんと一緒に住むんだよなあ、というふうな感じで捉えているのが腑に落ちなくて。いい年した私にとっては、いぬうえくんというのはとんでもなくわがままで自分勝手にしか映らないんだけど、そういう相手を、こういうふうにまたすんなりと受け入れるのかなあ、それが子どもなのかなあ、とよくわからなかったんです。

ウグイス:p78は大人の感覚。いぬうえくんのキャラはおもしろいんだけど、一人になってさみしいだけじゃ、説得力が弱い。何かしようとしたら、いなくて困ったというならわかるのですが。この作家は、言葉遣いはおもしろいけど、大人が喜ぶ感じがあって、ほんとに子どもが喜ぶのだろうかと、疑問に思う部分があります。

愁童:ぼくはつまらなかった。子どもの目線というより、しつけ副読本的で、何もお話がない。こんなに気を使わなければならない友達なんて、もういいよーという感じにもなるのでは? 読んで楽しくないですね。

ウグイス:なぜ二人が一つのところで暮らすのか、なぜ、一緒にいるのかというところに、説得力がないんですね。

ミラボー:カルチャーの違う男女が夫婦になって初めてわかるカルチャーショック、でもそれを乗り越えて…という寓意かと思って読みました。子どもはどう受け取るのか、わかりません。

うさこ:絵はいいですね。なんともとぼけた表情やかわいい場面が見ていてホッとします。低学年ものはやはり絵が大事。でも話は、気のいいクマと一方的な犬という図式ですね。いぬうえくんというキャラクター性が読者にしっかりアピールできてないうちに、「〜がいい」「〜がいい」といって、くまざわくんの家におしかけてくるいぬうえくんに、最初の章はとても唐突な印象を受けました。家に来たあとも「〜がいい」「〜がいい」とくまざわくんの住まいなのに、いぬうえくんの価値観を押しつけすぎ。くまざわくんの気持ちを思いやって、「〜がいい」といっているわけではない。いぬうえくんって、ちょっと図々しくて自分本位なんじゃないかと思いました。二人が暮らす必然性がどこにあるのか、見えてきませんでした。p78の最後の一文は、作者の大人感覚の遊びで、きっと子どもの読者はぽかんとしているのではないかな。

たんぽぽ:小学校1、2年生では、このおもしろさはわからないかな。5、6年くらいだと、よくわかるのではないかと思います。

アカシア:いぬうえくんは、図々しいキャラなんですが、それはそれで嫌みにならずに笑っちゃえるんじゃないかな。しつけを押しつけている本だとは、私はまったく思いませんでした。図々しいと思える友だちでも、やっぱりいなくなったら寂しい。いてくれたほうがいいな、っていうことをクマの方は感じる。それが素直に表現されていると思います。

愁童:クマと犬という設定自体が、この作品のテーマを支えるキャラとしてはかなりしんどいんじゃないかな。大自然の中では本能的に敵対関係になる両者がどうして一緒に住むようになったのか、そこをきちんと書いてくれないと、動物好きの子どもたちは、お話の中の絵空事としてしか受け取ってくれないのでは。

アカシア:くまざわくんといぬうえくんは、自然の中のクマと犬じゃなくて、「まったく違うタイプの人」を動物の姿を借りてあらわしているんでしょう。絵もそうだし。だから、読んでる子どもは、実際のクマやイヌをイメージしないと思うけど。

ウグイス:でも、なぜくまざわくんが、一人じゃいけないのか? これでは読みとれない。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年7月の記録)


市川宣子『ケイゾウさんは四月がきらいです。』

ケイゾウさんは四月がきらいです

たんぽぽ:これも、小学校1、2年生では無理かな。読んでて、大人が小さい子どもの心を知るための本のような気がしました。小さい子が、これを読んでおもしろいと思うのかな?

うさこ:私はとてもおもしろく読みました。久々に痛快な幼年ものを読んだなと思いました。「ケイゾウさん」というのがニワトリの名前だったというところで、まず「おおーっ」と思い、話にひきこまれてしまいました。ニワトリのぼやき、ぼそっと思う(言う)コメントがずばっと気持ちにはまり、おかしくておかしくて。ウサギのみみことの対比がさらにおもしろさをひきたてていました。人間側と生き物側の見解のギャップにユーモアがあり、目新しい視点で書かれていたと思います。ただ、ここに描かれている幼稚園児は主に年長さんだと思うのですが、そのものの言い方や動きなど幼児と感じられないところがいくつありました。

ミラボー:ニワトリの目を通して幼稚園の1年間が書いてある、お母さん用の本だと思いました。幼稚園の様子がいきいきと書かれています。

アカシア:おもしろく読みました。書名だけでなく章タイトルがすべて「ケイゾウさんは遠足がきらいです」「ケイゾウさんはサーフィンがきらいです」と、すべて「ケイゾウさんは〜がきらいです」になっているのにも、ひきつけられます。『いぬうえくん〜』と同じように、この本でもケイゾウさんとウサギのみみこは最初から仲がいいわけではない。でもいっしょにいろいろな出来事を経験するうちに結びつきができていく。物語はケイゾウさんの視点で進みますが、子どもたちの成長もちゃんとわかるようにできている。うまいですね。著者は幼稚園の先生なんでしょうか? ただこれは幼児が読む本ではなく、裏表紙にも「じぶんで読むなら小学校中級〜おとなまで」と書いてあります。幼稚園のことが書いてある本を、たとえば3、4年生の子が喜んで読むの?

ウグイス:今は『いやいやえん』(中川李枝子文 大村百合子絵 福音館書店)を小学校5、6年生が読むというから、高学年でも普段あまり読まない子にはすすめられるのではないかしら。

愁童:おもしろく読みました。こういう作品って好きですね。これだけ「きらい」なことを並べて、ユーモラスにその理由を語ってくれているので、子どもたちは爽快感をもって話に引き込まれるんじゃないかな。

ウグイス:私もおもしろく読みました。ケイゾウとみみこのキャラづくりがおもしろい。なおかつ、動物と人間のギャップが出ていて、ちょっとずれてるところがなんともユーモラスでよかった。子どもは冒頭からすぐにケイゾウさんの立場になって読むと思います。こいつ、おもしろいやつらしいぞ、と思わせ、すぐに何か事が起こりそうな気配。次のページをめくってみようと思わせる。本をひとりで読めるようになったばかりの子どもには、とにかく次のページをめくらせなければいけないので、その点でこの本は成功しているわね。タイトルもおもしろいし、エピソードを一つづつ読んでいけるのもいい。楽しい絵がフルカラーでたくさんはいっているのも、子どもには読みやすい。

愁童:ニワトリやウサギの生態をきちんと押さえて書かれているので、ケイゾウさんの「きらい」な理由に子どもたちも素直に納得できて共感するんじゃないかな。ウサギのみみこの描き方も秀逸で、こんな女の子に悩まされる男の子って結構いるから、そんな点でも子供達に素直に受け入れられる作品だと思いました。男の子はこの作品好きだと思うな。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年7月の記録)


たかどのほうこ『おともださにナリマ小』

おともださにナリマ小

うさこ:たかどのさんの作品はどれも好きです。たかどのさんのファンタジーは、素材は普通でも物語がどっちの方へいって最終的にどこにたどりつくのか、話の途中では全くわからないところが魅力的。この作品もとてもおもしろいし、好きなお話でした。キツネの真剣な姿、でも誤りも多かったり、手紙の間違いなどもクスクスっと笑ってしまう。特に好きだったのが、最後に人間の子どもたちがキツネの学校へ遊びにいくところ。どんなに楽しかったかというのは、1枚の見開きの絵になっています。そこを一つづつ丁寧に見ていくと、人間の子どもに化けたキツネの子とほんものの人間の子がうまく楽しそうに描いてある。キツネの子の「よれよれ」ぶりもいいですね。楽しかったことをことばで綴るより、この見せ方のほうが読者にお話をあずけ、想像力を引き出してくれますね。最終ページのその後の両方の学校の交流ぶりもいい余韻で終わっていると思います。

たんぽぽ:たかどのさんは、おもしろいですね。ただ、最初の部分がちょっと、こみいっているかな。

むう:なんか、なつかしい感じがしました。昔から日本にある、キツネが人間を化かすという枠を使って、うまく書いてあるなあと思います。読んでいて、宮沢賢治の『雪わたり』を連想しました。キツネの子の学校に人間の子がぽんと一人入っていくという設定も、その子がかえってほめられて戻ってくるのもおもしろい。お手紙のへんてこさも楽しかった。

ウグイス:すごく好き。たかどのさんは、幼年もののほうが断然うまいわね。まずタイトルにやられた。何だろうと思わせる、うまいつけ方。最初書店で見つけてその場で全部読んでしまったんですけど、手元に置いておきたくて買って帰りました。キツネたちの正体が途中でばれるんだけど、ばれるところが子どもには楽しい。キツネの子が字を間違えますが、字を習っている最中の読者も同じような間違いを経験してるはずなので、ほほえましく思えるでしょう。ただ、たんぽぽさんも言ってたように冒頭の部分は、状況がすっと飲み込めないのではないでしょうか。いきなり3人の名前が出てくるし、しっかり読んでおかないと次に進めません。小さい子どもが読む本は、『ケイゾウさんは四月がきらいです』みたいに、端的に状況が把握できて、もっとぱっぱっぱっと進んでいかないと。あと、こんなに薄い本なのに、この本にはちゃんと目次があるところがうれしいですね。今まで絵本ばかり読んできた子どもたちにとって、「目次がある本」を読むというのは、いっぱしの大人の本を読んだという満足を与えてくれますから。だから、内容的には絵本とほとんど変わらないものでも、きちんと目次がある本は、ひとり読みを始めたばかりの子どもにはとても大切だと思うの。最初の1章をを大人が読んであげて、あとは子どもが自分で読むようにしむけることもできますね。

アカシア:私もとってもおもしろかった。まず書名を見て、いったい何だろうと惹かれます。キツネの学校に行くと、山本さんに化けた子が鉛筆を耳にさしているなんていう一つ一つのディテールも、それぞれおもしろい。キツネの子どもたちの言葉の間違いも、ほほえましくもとっても愉快。校長先生まで間違ってる! 最後の見開きのイラストも本当にいいですね。よく見ると、キツネの子には尻尾がついていたり、ひげがついていたり……。たっぷり楽しみました。ただ、確かに言われてみると、冒頭の部分はすっと入ってこないわね。一文が長いのかな?

もぷしー:あまり湿度を感じず、とても晴れ晴れした読後感でした。校長先生の文やキツネたちの化け方など、すべてちょっとずつ間違っていて、でも登場人物たちは精一杯頑張っていて、そののびのびとした姿が、読んでいて気持ちよかったです。子どもたちに、ぜひ読んでほしい。もう一つこの本で良いなと思ったのは、読み聞かせがしにくい本だということ。読み聞かせてもらうのは私も大好きだし、とても楽しいけれど、自分で読む力も育まなければいけないと思うので、まちがった字などを見つけながら、楽しく自分読みをして、ワクワク感を味わってほしいなと思いました。

ドサンコ:宮沢賢治の作品を、より軽快に描いた印象です。たぶん賢治の作風をそのままにすると、物語は「それからキツネの校長先生から手紙がきました。そこでクラス全員で、赤い鳥居をくぐってキツネの学校を訪ねていきますと、そこにはただ、草が風にゆれているだけでした」というような終わり方になっていたと思います。このさし絵は、ゆかいなまちがいもふくめてですが、文章のていねいさと呼吸がとても合っているなと思いました。本文の書体や、キツネの校長先生からの手紙のページ全体がキツネ色だったこと、その手紙の文字も、作品を味わい深くしているなと思います。

ミラボー:かわいい本という印象です。どきどきする場面と、大丈夫だなと安心できる場面が交互に出てくる。最後のイラストと、後日談もとてもユニーク。人間があまりきちんとしすぎない方がいい、という作者の価値観が出ていると思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年7月の記録)


アン・ピートリ『ちびねこグルのぼうけん』

ちびねこグルのぼうけん

ミラボー:さあっと読んでしまって、特にこれといった感想がありません。

ドサンコ:これは、安心して読める本、こう言ってしまうと悲しいですが、印象が薄い本でした。ひとりで本を読める子ども向き、でしょうか。表紙の猫の目が、動物を描くときによくあるような愛らしさがなくて、むしろやや怖いのが印象的でした。かわいいばかりがいい、ということでもないのですが。お話は大きな事件はなく、小さな出来事が全体をとおしていくつか描かれている…という印象ですよね。あえて言うなら、どろぼうが来るエピソードが最大の山でしょうか。グルがドラッグストアにおいてもらえることになる決定打はここにあると思うので…。でもこのエピソードは後半なので、前半にもう少し動きがあると、あきずに読める子どもが増えるのかなと思いました。

もぷしー:私は楽しめなかった。一話一話のどこが悪いというわけではないけれど、これだけの長さの物語を読ませるには、ドラマが足りないのかなと思ってしまいました。猫に共感して読もうとしても、出会う相手が一期一会でどんどん変わったりするので、気持ちがついて行けなかった。この本は、長さからして、中学年くらいの子向けに作られているのかと思いますが、そうだとしたら、おじいさん、おばあさんの話ばかりでこの長さはきびしいかな。猫の言葉が通じる相手が、努力とかコミュニケーションの末に増えていくわけではなく、年齢条件で当てはまる人のみというのも、私にはしっくり来ませんでした。

アカシア:これは課題図書になった本なんで、私もどうかなと思って読んだんですが、意外におもしろかったんです。もぶしーさんが、猫の言葉がわかる相手が年齢で限定されているのがどうか、と言いましたが、老人と子どもだけがわかるというのはむしろ自然なんですね。夢の中に生きている部分が大きい人たちなわけですから。猫の描写もリアルです。予定調和的にお話が収束するところはクラシックですが。もっとすごい事件が次々に起こらないと飽きてしまうと感じる人もいるでしょうが、子どもって、ささいな出来事でも大きな印象を受けますから、このくらいでもドラマを感じるんじゃないでしょうか? 今風のお話と比べるとテンポがゆっくりですが、お話を味わいながら読むのにはいいんじゃないかな。

ミラボー:アメリカの一,二時代前の文化を描いているという感じですね。

愁童:ぼくは『いぬうえくんがやってきた』と同じ雰囲気が感じられて、あまりおもしろくは読めなかった。猫の擬人化が過ぎていて、猫らしさが失われてしまっている。何か猫の着ぐるみの芝居を見るようで、むしろ人間の子どもにした方が理解しやすいのでは?

ウグイス:ていねいに描いてありますが、全体に平坦に進むので、途中でちょっと退屈してしまいました。グルもそこまでひきつけるキャラではないし、たいしたことも起こらない。最初におじさんの家にもらわれたとき、おばさんがちょっと冷たい人という設定に思えて、この人とは何かあるぞ、と思わせるのに、あとですぐにひざにのせてくれて、「えっ、そうなの?」と思ったり。子どももとまどうのではないかな。表紙の絵も魅力に欠けますね。

むう:なんというか、のんびりしているなあという印象でした。今時のテンポとはまったく違う。それが良さでもあるように思うけど、必然性があまり感じられずに、ふわふわと動いていく印象で、最後にお約束という感じでちょっとした冒険があって、無事暮らすことができたという筋もクラシック。ただ、老人と子どもだけとはネコと話をできるというあたりは、そうだろうなあという感じで、それほど違和感は持たなかったし、読者である子どもたちもまた、すっと受け入れるんだろうと思いました。

たんぽぽ:この本は子どもによく読まれています。これくらいの長さのもので、安心して薦められるものが出た、という感じです。これを読んで、長いものへと進む子がいます。

うさこ:グルの様々なかっこうの絵がなんともいえずいいですね。しっぽが短いところ、缶詰に前脚をはさまれたところ。話は大事件がおこるわけでもなく、わりと平和な展開。ドラッグストアにどろぼうが入って、グルが活躍…といった展開にはあまり新鮮さを感じませんでした。ピーターとおじいさんだけに、グルの声が聞こえる。ドラッグストアのおじさんが、おじさんからおじいさんへかわるから動物の声も聞こえるように…というくだりはふんふんとうなずいて読みました。そんなにおもしろいと思った作品ではなかったので、この本が子どもに多く読まれているということを聞いて、ちょっとびっくり。おもしろいという定義に、大人と子どもの体温差を感じてしまいました。

ウグイス:本の体裁は、子どもの読者に程よいかと思います。挿絵がたくさんあり、字面の感じも読みやすい。1冊読み通せたという満足感を子どもに与えてくれると思います。

アカシア:著者はアフリカ系アメリカ人の女性です。時代背景からすると、不満や矛盾に直面しているアフリカ系の子どもたちに、「もう少し忍耐強くやってみようよ」と呼びかける意図もあったのかもしれませんね。愁童さんは、猫が擬人化されすぎて自然じゃないとおっしゃってましたが、私はそうは思わなかった。子猫の自然な姿がよく描かれていると思いました。

げた:訳文がとても読みやすかったですね。冒頭、グルがどういう猫で、これからどんな話が展開するのかわかりやすく書かれていて、お話の中に入りやすかった。読み手の子どもたちもきっとグルに同化して、グルと一緒にいろんな冒険ができると思いますよ。何も起こらないと言っている人もいますが、小さく見えるかもしれないけどグルにとっては大きな事件、というか冒険がありますよ。グルの成長も頼もしく思いました。本文の挿絵は内容を的確に表現していると思いましたが、表紙がいまひとつ、かな。刺激的な内容ではないですが、ゆったりした気持ちで楽しめる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年7月の記録)


ディック・キング=スミス『ソフィーとカタツムリ』

ソフィーとカタツムリ

ドサンコ:全体として楽しく読めました。たいていの女の子は虫が苦手ですが、そうじゃないところがいい。クラシックなストーリーの部類に入るでしょうか。リンドグレーンの話も通じるかな。

ミラボー:双子のお兄さんは個性がありませんね。妹のソフィーは個性的。ドーンという女の子、おばあちゃんの登場など、お話の対比的な構成がはっきりしています。カタツムリが生きて帰ってきてよかった!

うさこ:ソフィーという4歳の女の子が生き物が大好きなのはありだし、その生き物好きの描き方が上手だと思いました。でも、絵がどうしても受け入れがたかったですね。オーソドックスというか古いというか。今の日本の低学年の子が親しみをもったり好んだりするような絵ではないと思うのですが。4歳のソフィーがふけてみえるのは、私だけかな? 絵がお話を台無しにしている印象、というのは言い過ぎでしょうか。

たんぽぽ:短いお話が集まっていて、小さい子には読みやすい本です。カタツムリが流れていくところでアッと思いますが、最後にまた会えるところもいいですね。

むう:とにかく、主人公の描き方がいい。女の子が持っていたポニーの人形を壊しちゃったり、ちょっと乱暴になりかねないけれど、自分なりの筋を通しているというか、そのあたりがとても魅力的。牧場貯金の話も、ええ、そんな途方もない、という感じだし、お兄ちゃん二人がつっこんでいる通り、かなりへんてこ話なんだけれど、子どもはそういうことを考えそうだし。両親がそれなりにフォローして、さらにおばあさんがもっとソフィーに近い気持ちで協力するというあたりも、よく書けています。楽しくてユーモアがあって。作者が、大人にとって都合のいい子どもを書いていないのがいい。それに絵も、ぶすっとしたソフィーの姿なんかは、私はぴったりだと思ったな。

ウグイス:好きなお話でした。ソフィーが個性的て魅力的。「一度決めたらやりぬく子」という訳し方も印象的です。名前の「キラキラあんよ」「はしかのブタ」とかの訳し方にも工夫があっておもしろい。「エイプリル」と「メイ」がどっちがすてきな季節か、という部分がありますが、子どもの読者には、これが四月と五月ということがわかるでしょうか。括弧で意味を付記したほうがおもしろさが増したのでは?

愁童:登場人物が簡潔な表現で実に良く描かれていて楽しいし、子どもの読者にイメージしやすいような配慮も感じられて、うまいと思いました。新しく越してきた近所の女の子ドーンとの葛藤なども秀逸で、冒頭からソフィーの人物像を読者の中に鮮明に定着させてしまうところなど、さすがだと思います。

アカシア:訳に工夫がいっぱいありますね。小さな子どもの英語のちょっとした間違いなんかも、同じように感じられる日本語になっています。あとクラシックなストーリーというと、子どもを守ってくれる親が登場してきますが、この作品は明らかに現代の特徴を持っていて、ソフィーは親に期待していないんですね。大事に育てていたダンゴムシをドーンに踏みつぶされた仕返しに、ソフィーはドーンのおもちゃを壊してしまう。そのいきさつを親に話したのか、ときく兄たちに対してソフィーは、「どうせ『わざとやったわけじゃない』とか、『ただのダンゴムシだろう』とか言われるだけだからさ」(p81)と諦めています。そして実際にその通りだったということを作者はp83に出しています。それから挿絵は、もう少しなんとかしてほしかったです。全部が変な絵というわけではないのですが、表紙にも魅力がないし、p103のお医者さんの絵などホラーみたいです。どの絵も1ページ大にしているのがよくないのかも。

げた:表紙の絵はおとなしくて、クラシックですね。でも、本文の挿絵はソフィーの野性的なキャラクターを的確に表現していると思います。ドーンの人形を踏んづけているところはリアルに表現されていますよね。このシリーズ、うちの区の図書館では全館においています。ものすごく貸し出しが多い本ではないけど、夏・冬・春のおすすめ本にも指定して、たくさんの子どもたちに手にとってもらおうと思っています。

もぷしー:勢いとユーモアがあって、引き込まれました。とても読みやすい日本語だったので、翻訳にはすごくいろんな工夫があるのでは? 幼年童話の翻訳物を出すのは、表現や文化の違いなどで難しいことが多いけれど、これは比較的ストレートでシンプルな文で読みやすい。お話の内容としても、キャラの立ったアリスおばさんがまず魅力的。それに、ソフィーが常に頭をつかって、「やりたいことを実現するにはどうしたらいいか」を具体的に考えている姿も好感がもてました。でも、表紙は日本人受けしないと思う……。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年7月の記録)


三並夏『平成マシンガンズ』

平成マシンガンズ

愁童:今回は選書の妙。対照的な作品が読めて興味深かった。『平成マシンガンズ』は小説としておもしろくない。本人の感想はわかっても、相手の像がきちんと読者に伝わるように書かれていないので、綴り方風身辺雑記みたいな印象しか残らない。『ジョナさん』に比べると格段の差を感じたな。

カーコ:苦手でした。うちの子がちょうどこのくらいの年齢で、こんな言葉づかいで暮らしているんですけど、それを作品にするとこうなるかという感じ。まず後味が悪いんですよね。『ジョナさん』は、理解しようという方向性が全体にあるのですが、こっちは否定したところから始まり、ずっとそのまま。どんどんつながっていく文章はおもしろいと思ったけれど、何度読んでも意味がわからない箇所があちこちにありました。

紙魚:感じが悪いですよね。でも、この感じの悪さって、この年齢独特のもので、そればっかりはしっかり伝わってきました。中学生って、何かが足りないという気持ちと、何かをもてあましている気持ちを同居させている面倒くさい年ごろだと思うのですが、そのあたりもよく出ていた。ただ、表現は幼い。言いっぱなしという感じ。独白を読まされているようで、後味も悪かったです。誰かをことさら強く撃ってはいけないというのは、新しく感じました。

アカシア:文学というより、中学生の女の子がブログにでも書いたことをつなげているようなものですね。文学作品として評価することは、とてもじゃないけどできません。内容にも文体にも新鮮さを感じないし。よく賞を取りましたね。人物造形が薄っぺらすぎる。文学を書くということは、書く技術と書く内容が必要なのだけど、この人にはまだ足りない。これは子どもが読むものではなくて、大人が読んで子どもはこうなのかなと思う作文でしょうね。

アサギ:amazonで見たら評判が悪かったですね。売らんかなの小説という印象は否めない。読後感もよくない。句点をつけずにだらだら書くのは、とりとめのなさを出したいのではないかしら? 文体自体はちがうけど、金井恵美子なんかもこんなふうにえんえんと書きますよね。でも句点なしで書いてわかるって、単語の並べ方が正しいのよね。村上春樹のフィッツジェラルドの翻訳を読んだときに点がないのに驚いて、ああ、語順が正しいとつけなくてもすむのかな、と思ったことがあります。だから自分で翻訳するとき、読点をつけなくてもすむ文章を目標にしてます??むろん実際には視覚的に読みづらいので、つけますが。主人公が愚にもつかないことでハブられていくのはリアリティがあったわね。ただ、現実がこうなのか、それとも作家や評論家が中学生ってこうだよね、と言っていることに作者が無意識に寄りそってしまっているのか、それはわからなかった。

アカシア:でも、いじめの描写は、これまでにもいろいろ書かれてるわよ。大体たいした理由もなくシカトされるのよ。現実もそう。

アサギ:ただ、ひとつ、現役中学生が発するという重みというか説得力がある。

愁童:迎合的な感じがするな。作者自身の痛みや悔しさが作品を書くバネになっているようには読めなかった。いじめられて「私のせいじゃないよね」みたいなメールがたくさんくる部分なんか、オジサン向けにはいいだろうけど、今時の中学生のシカトの現実の冷酷さみたいなものを、この作者は理解してないんじゃないかな。

アサギ:でも、あのメールは熱い関係を表してるんじゃなくて、自己保身じゃないのかしら。相沢くんと彼女とは状況がちがったのかな、という気がしたけど。メールがきたのは友情からじゃないんじゃない?

むう:先生が、最初に出てくる不登校になった男の子の時と同じように、みんなを集めて何か演説したとか、そういうことがあって、みんなこれはやばいと思って、それでメールを出したのかと思ったけれど。先生に対しては悪意がある書き方ですよね。全然教師を信頼していなくて。

アサギ:読後感はよくないけど、これも現実かなと思ったの。

むう:『蛇にピアス』(金原ひとみ)を読んだときに感じたのと同じような後味の悪さでしたね。若い人が、自分の感じているいらいらをなすりつけたのを読まされているような感じ。この人の場合は、ある程度書けるから、なすりつけている感じはぐっと読者に伝わってくる。ただ、大人が子どものいらいらを書くのと、その年代の子がいらいらをなすりつけるのでは、本質的に違う気がする。だって、本人にはいらいらをなすりつけるしかないから。そういう意味で、こういう本に賞をあげてもてはやしている大人の視線に、見せ物を見るのと同質なものを感じて、不愉快だった。子どもの大人に対する不信感は、一つには今の大人たちに原因があるのに、それを棚に上げている危うさを感じます。子どもが大人を全く頼れないという点は、フィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』に似たものを感じたけれど、立場が全く違うから。大人が子どものことを書くときは想像力が必要だけれど、子どもが子どものことを書くときは、文章力は必要でも、想像力はどうなんだろう?

アカシア:中学生のころって、人間は不愉快な存在だって思う年代でしょうから不愉快なことを書くのは当然なんだけど、もっとうまく書いてほしいな。文学として成立するように書いてほしい。

むう:でも、それなりに力があるから、嫌な感じも迫ってくるんじゃないかと思うけど。

アサギ:とにかく「史上最年少」とつけたかった意図が見えるような気がする。

アカシア:今は毎日ブログ書いてる子もたくさんいるんだろうから、この程度なら書ける子はいっぱいいると思うけどな。

ミラボー:心理的にうまく泳いでいたのに溺れてしまうあたりは、うまく書けていた。そのなかの現場にいる人が、現時点で書いたのかな。家庭環境で異常な状況をつくりだして、そのなかで中学生の女の子が感じていることを書いたんでしょう。

ケロ:自分がおかれている危ういバランスを書いているという意味では上手だなと思いました。たまった悪意などの迫力を感じましたね。ただ、まわりの人がどれだけ書けているかというと、キビシイですね。特に、お父さんに関して感じました。最後のシーンで、お父さんとこんなに会話ができるのなら、前半の苦労はなあに?という感じです。もっとえげつなく書いてもいい部分もあるだろうし、中学生であったとしてももっと客観的に書ける人はいるだろうな。夢に出てくる死に神は、出刃包丁とマシンガンを持っているのだけれど、マシンガンと用途が違う出刃包丁は、なんの象徴なのかしら?とか、ふつう作品を読んでいると考えながら読み進むのだけれど、そういうことを真面目にしていると疲れる作品。それが心地いい疲れではないのが、読後感の悪さということなのかな。

ブラックペッパー:今回は、3作品とも気乗りがしませんで、なかなか読む気にならなかったのですが……この本は楽しくなかったですね。後味が悪くて、どんよりしてしまいました。前に「王様のブランチ」で松田哲夫さんは絶賛していたのですが、おじさまは、こういうの好きなのかな? 中学生が書いたとは思えない作品。いい意味では文章が上手っていうことなんだけど、あんまり新鮮さもなくて、「今の中学生ってこうなんだ!」っていうような発見もなかった。こういうお話だったら、やっぱり山田詠美の『風葬の教室』がいいなあ。

アサギ:山田詠美は、とっくに中学時代を乗り越えて書いているわけでしょ。渦中にいるときは距離をもって見るのは無理よ。

アカシア:でも出て来るおとなが人間として書けてなくて、どうにも類型的でつまらない。大人社会への攻撃性みたいなのを書いてもいいんだけど、なるほどと思わせるだけの力がないのは残念。

ブラックペッパー:均等に撃て! というのはおもしろいなと思ったけど、でもそれも夢だから……。

愁童:今では死語になっちゃったけど、これって「私小説」だよね。選考会では、こんな若い子が「私小説」風な作品を書いているということで評価されたのかな? でも、同世代の子には読まれてないみたいですね。『ジョナさん』は、ぼくの地元の図書館ではずっと予約20人待ち状態が続いてるけど、こっちは予約ゼロで、すぐ借りられたし……。

ブラックペッパー:これを読んでよかったと思う人がいるのかな? 問題も解決しないし。

愁童:部分的には光るところも確かにあるんだよね。

アサギ:まわりのことが書けていないというのは、逆にリアルに感じたわね。

うさこ:年齢というよりも作家の技量として書けないんですかね。

ブラックペッパー:私はわざとそうしているのかと思いました。だって、父親や愛人の描写はスゴイ。

カーコ:選考委員の斎藤美奈子さんは、家族の部分になると急にうそっぽくなると評しています。確かに、いじめなら重松清の方がずっと、それぞれの心理に迫って書いていると私も思いますね。

アサギ:だいたいこの年齢では、分析できないものだと思うけど。

愁童:主人公以外の登場人物の造形が貧弱だから、小説としてはおもしろく読めないんだよね。

むう:感じたことを、そのままを書いちゃってる感じ。小説というのは、自分を離れたところに置かないとかけないと思うけど。前にも議論になったことがあるけれど、子どもの視点で書くと、設定年齢によっては、描写が限定されて、たとえば人物描写に深みがなくなったりすることがある。この作品にも、それに通じる薄さがあると思う。

アカシア:読者対象はどの辺なんだろう?

小麦:インターネットのブログなんかでは、同世代の子の「才能ある作家が出た」とか「これは読まなくては」なんて熱狂的な意見も、あることはありました。

うさこ:読後感は消化不良という感じです。主人公はちょっと背伸びし、大人ぶった冷静な味方や自己分析しているわりには、母に向けた言動や父へ抱いている感情やクラスでの友人への対応は、ことのほか幼いなあ、という印象でした。まあ、それが等身大といえば等身大なのでしょうか。こんなに冷静に(いや、冷静を装ってる?)まわりを見ることができるのであれば、問題のある家庭や学校でももっと違う立ち位置を築けたのではないかなと思いました。結末は単なる逃避行という感じで「なんだあ、こんなラスト…」と不満が残りました。夢の中の男、マシンガンなど、ある象徴ではあるけれど、一つのアイテムレベルに終わっているのがもったいない…。

小麦:これって系譜としては『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J.D.サリンジャー)と同じだと思います。大人が汚く見える年齢の主人公が、ひたすら悪態をつくっていう。でも大きく違うのは『キャッチャー……』には、希望やホールデンなりの信条がある。たとえば妹のフィービーのことを語る箇所なんかは、文章中にやわらかい感情が満ちていて、ホールデンが確かな拠り所としているものがあるんだなと、読んでてうれしくなる。でも、『平成マシンガンズ』には全頁を通して希望が感じられず、嫌な閉塞感が最後まで残りました。出てくるのがみんな嫌な人ばかりで、主人公にも好感が持てず、小説としては魅力がなかった。帯に書かれた錚々たる方々のコメントを読んで、本を買うときは胸躍りましたが、実際に読んでみると「うーん……」と正直、しらけてしまった。文学賞が話題作りの一環になってないかな、という思いと、若い才能に対して、大人たちの腰がちょっとひけてない?というのが率直な感想です。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年6月の記録)


片川優子『ジョナさん』

ジョナさん

ミラボー:『平成マシンガンズ』よりも安心して読める。おじいちゃんに対するマイナスイメージをのりこえ、最後解決して終わっている。ゲートボール場で週一回会える彼は、顔がよくてモテて、うらやましいですね。

むう:なんというか、文章がとげとげしていなくて、つるつると気持ちよく読めました。デビュー作の『佐藤さん』のときのような、極端に最後が破綻しているということもなかったし、おもしろかった。家族のことは、どうだろう、うまく書けているのかな? 父親の出てき方が唐突な気がしたな。前にもうちょっと書き込んだほうがいいと思いましたね。

アサギ:ストーリーがうまくできていると思いました。危なげなくまとめていて、破綻がない。とくに会話がうまいですね。まあ、インターネットで発言している人も多いから、一見気のきいた文章を書ける人はふえているという面はあるけど。主人公の名がサコで茶畑からとったことや犬が実は兄弟など、いろいろ伏線があって、最後にいたって物語が収斂していくとこなどもうまい。一方で、まだ高校2年なのに、こんなにきちんとまとまってしまっていいのかな、って言う気もしましたね。146ページ、高卒でフリーターという状態に対する自分の差別意識については、けっきょくどうなったのか疑問が残りました。苦い缶コーヒーは大人の味、ジャンジャエールは子ども、のエピソードは古典的ね。1956年頃の雑誌『ジュニアそれいゆ』にも、同じような描写があったのを思い出しました。

アカシア:『佐藤さん』よりうまくなっていますね。犬のギバちゃんという、本筋とは関係ない存在を出してきているのもうまい。会話もジョナさんの口調をのぞき、おおむねうまい。文体もリズムがあってとてもいい。ただ、おじいちゃんが好きだったのに、嫌いになっていく過程があまりちゃんと書かれていない。62ページで、介護するお母さんがおじいちゃんの悪口を言い続けるとありますが、普通は好きなおじいちゃんが悪口を言われたら、嫌いになるよりは味方をしたくなるのでは? 185ページでは、「大好きだったおじいちゃんが、毎日老い、衰えていくさまを目のあたりにするのはつらかった」とありますが、その次が「おじいちゃんのことを忘れることにしました。はじめから嫌いだと思ったなら、つらくないと思ったから」だけでは、読んでて物足りない。
私がいちばんひっかかったのは、この年齢の男性で、ジョナさんみたいな人がいるとは思えないということ。主人公がジョナさんを美化してるので容貌についてはリアリティがなくても仕方がないと思うんだけど、なんのために毎週この子のとこに来るんでしょうね? 好きでもないのに? 来る理由は本の中で一応説明されてますが、説得力がありません。もうちょっと年齢が上だったら、まだわかるんだけど。P181では「うん、がんばるよ。今までずいぶん回り道もしたけど。でもそれが結果的にはよかったと思うんだ。この仕事に出会わなかったらたぶんこんなふうに思うことはなかったと思う」なんてクサい台詞を言うんですが、これもリアリティがない。女の子の会話はとてもリアルなのにね。

アサギ:確かに人間像は安易な感じ。福祉の仕事をやる、とか。

ウグイス:どうしてこの主人公は毎週犬を連れて公園に行くのか、きっとおじいちゃんと何かあったんだろうな、次第にそれが明らかになっていくのかな、と思って読み進むんですが、最初に期待していたほどのことはないままに終わっちゃうわね。トキコとの会話が生き生きしていて読ませてしまうが、ストーリーとしては場面がどんどん展開していかないので、途中で飽きてしまう。もう少し何か事が起こってほしい。『佐藤さん』のときはアハハと笑える描写がたくさんあって、そこが好きだったけれど、前よりユーモアが消えちゃったのが残念。私は『佐藤さん』のほうが、新鮮な感じがした。表紙の絵は平凡で魅力を感じないな。それに、ギバちゃん、もこみち、キムタク……、なんて出てきますが、今の読者にはぴったりでも5年もすれば古くなっちゃう。もったいない気がする。

紙魚:『佐藤さん』に比べると、なんだか人間としても、作家としても、大人になったなあと感じさせられました。『平成マシンガンズ』と決定的にちがうのは、人間に対して気持ちが素直で、手探りに懸命でいるところ。人を向こう側まで見ようとして、好きになろうとしている姿勢は本当にほほえましい。それに会話のセンスがいい。いくら作者が若いからといっても、やはり書く力がないと、物語の登場人物にここまで小気味よく会話させられないと思います。おじいちゃんについては、もっと秘密があるのかと思いましたが、なんだかちょっと消化不良な感じ。『平成マシンガンズ』は、自分のことばっかりで、まわりに目がいってない。『ジョナさん』は、自分とトキコという関係性を書こうとしている。そして、『わたしの、好きな人』は、もっと世界が広がって、家族とか他人とか、社会も出てくる。こういうちがいって、やはり作者の年齢もあるのかなと思いました。そう考えると、子どもが読む本を大人が書くということには、やはり意味があるのだと思います。

カーコ:おもしろく読みました。先が読みたいと思わされて。『佐藤さん』のときよりずっとうまくなりましたよね。まず、会話がよかった。今風の高校生の会話だけど、決して下品ではなく、気持ちよく読める、その加減がうまいと思いました。それから、トキコの見えない部分が見えてきたり、昔のことを思い出したり、いろんなことがからみあって自分や相手を理解していく過程、二人の関係がおもしろかったです。それがあるから、今まで目をそらせていたお父さんやお母さんに、だんだんと目を向けていくんですよね。高校生がこんなふうに考え、書いてくれるのがうれしい。

愁童:好きでした。『平成マシンガンズ』と比べて印象的だったのは、主人公の相手役になる人物像の描き方の巧拙。『平成〜』のリカちゃんはエロ本が机の上に積まれていたということだけで、何故そんなことをされるようになるのか、読者には不明のまま。こちらはトキコの「私、大学行かないよ」の一言の背景を簡潔に、読者に分かるように書いていて、その後の主人公とトキコの関係に説得力と立体感を与えていて好感が持てた。文章のリズムもいいし、若いけど、フリーター、やニートみたいな生き方への視点もきちんと持っている。ひさし君が定職に就くことになって、作った一番最初の名刺を貰う、なんてややクサイ感じはあるけど上手いと思う。同世代の読者に支持される理由がこの辺にあるのかなとも思いました。

うさこ:『佐藤さん』ほどパンチ力はないけど、読み手を引き込む何かはあるな、と思って読みました。トキコとの関係が気持ちいい。媚びるのでもなく、大げさでもなく、何か読み手のなかにストンと落ちていく感じがいい。前半はおもしろかったけど、後半の「ジョナさんについてジョナサンで語ろう」の章あたりはかったるいし、なんかわざとらしい感じが。おじいちゃんの魅力をもっと書いてほしかった。ホステスさんのことを「女神様」とよんだりしているところにこのおじいちゃんの深さがあるのではないかと思ったけど、それしか書いていなかった。どこがどう好きとかもう少し書けていれば、深みが出たと思う。最後、犬が兄弟の犬と会いたいということが本当にあるのか、疑問に思いました。

アサギ:おぼえてないって言うわよね。

アカシア:何かわかるみたいよ。においとか。どのくらい長く一緒に過ごしたのか、というのとも関係があると思うけど。

ブラックペッパー:私、それ、疑問点その1でした。犬って、自分の兄弟がわかるものなのかしら? わからなかったっていう話を聞いたことがあったもので。疑問点その2は、なぜジョナさんは主人公に声をかけたのか? この主人公、外見はごく普通の子だし、そんなに魅力的な女の子とは思えないんだけど……。

アサギ:主人公が高2で、将来のことを悩んでいるのを見て、自分の高校時代を思い出し、気になったのでは?

アカシア:普通この年齢の男の子なら、百歩譲って気になっていたとしても、毎週会いになんか来ないでしょ。

小麦:ジョナさんは、チャコが自分に憧れているのを十分知ってて、自分のファンの女の子が悩んでいるのを知って、お兄さん風を吹かせて、毎週来ていたという解釈はないですか? この年齢の男の子って、多少ナルシストっぽい面があってもおかしくないと思うし……

ブラックペッパー:疑問点その3は、横浜線の鴨居からホステスとして銀座に通うのは、たいへんすぎるのでは? ということ。終電も早そうだし、タクシーに乗るにしても遠いでしょ。ま、それは小さなことなんですけどね。全体としては、たらーっとした空気は好きだったけど、深みがないといいましょうか、なんだか、あんまり……。それはそうと、この表紙、このしろーい感じは「きょうの猫村さん」(ほしよりこ マガジンハウス)に似てない?

ケロ:作者は、この時点で自分が受験の渦中にいたわけで、そこで、その気持ちを忘れないために書いた、とあとがきにあります。渦中にいたら、結論なんて言えないんだろうな。自分が置いていかれそうな不安と焦りを描いたとして、そこに何かを見つけた、みたいなことも書き加えたかったんだろうな。でも、本人に結論が出ていないから、ちょっとそのへんが介護という安易な選択を口走らせているのではないでしょうか? 後半になって、昔のこと、おじいちゃんのことを思い出していきますが、この感覚わかるな。けっこうよく忘れるんですよね、このくらいの世代は。で、大人になったあとから赤面したりして。でも、その思い出し方がちょっと。172ページの「おじいちゃんにゲートボールをすすめたのは、確か……確かーー」と173ページの「ギバちゃん、シャンプーのにおいするね。誰かに洗ってもらったの?」は、シャンプーは日常のことだし、わざとらしい感じがしました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年6月の記録)


八束澄子『わたしの、好きな人』

わたしの、好きな人

ウグイス:八束さんは好きな作家で、この本もおもしろかった。ひとむかし前のTVドラマを観ているみたいな感じがしました。最後まで読んで、これは「小さい女の子から見た、違う年齢の男の生き様を描いた作品」なのだと気づきました。猫の小太郎もいい味を出している。その辺がおもしろかったです。ただ、小学生の女の子にしては、いろいろな感覚が大人びていて、もう少し年齢の高い子が少し前の事を思い出している感じがしました。

紙魚:『平成マシンガンズ』や『ジョナさん』に比べると、やはり描写力のうまさを感じます。その場のにおいや湿度、たとえば工場の油のにおいなど、感覚に訴えるように迫ってきました。生活の音も、すごくがちゃがちゃしてうるさい感じが伝わってくる。人間関係も、その場にいるような気にさせてもらえました。ご飯を作るときの描写なども、本当においしそう。細部の描写によって、全体が支えられているのがよかったです。

愁童:おもしろかった。ぼくも技術系の仕事をしていたので、油臭い小さな町工場のようすなど、よく書けていると思いました。70年安保のことが出てくるけど、ここはしらけたな。作者がこの作品で書いているようなキャラの男が内ゲバみたいな先鋭的な部分に関わることもかなり不自然。作者はだから町工場に職を求めざるを得なかったという設定で書きたかったのだろうけど、そこからすきま風が吹き込んでくる感じ。

うさこ:期待して読んだのですが、ちょっと期待はずれでした。どこがというと、杉田の人物像がつかめるようでつかめない。さやか一人が舞い上がっている感じ。さやかが口にするほど杉田の魅力が読み手に伝わってこない。リアル感がない。杉田は、小さい頃からいっしょ、というより育ててもらった人で、家族や家族以上のつながりのある男性を、いつの日か恋心をもって意識しはじめるというのは、ただぽうっとした感情だけではないはず。12歳の女の子、思春期の入り口あるいはまっただ中に、男性として杉田を好きになったとしたら、もっと生々しい情景があるのではないか? 例えば、杉田の後にお風呂に入りたくないとか、いつもの食事も変に意識して食べられないとか、かっこつけようとして失敗するとか……。設定はおもしろいだけに、細部のリアル感の欠落で、物語がぎくしゃくしている。おっさん、杉田という呼び方も違和感あります。照れ隠しな言い方かもしれないけど、もっと素直な呼び方にしてもよかったのではないかと思うんです。2時間ドラマの原作になるような……、というのは反対に言うと、その程度の作品なのかなあ、とも思いました。

ブラックペッパー:私は、読む前に杉田の正体を知っていたので、クールに読み進みました。でも、「恋って、非日常」のものだと思うので、半分家族みたいなこういう人に恋心を抱くかな? しかも初恋なのに! 家族とはもっと遠い、別世界のものに憧れるのが恋だと思うんだけど……。杉田という人を描きたくて書いた作品みたいなので仕方ないのかもしれませんが、ちょっと不思議に思いました。憧れる、恋するって感覚が、12歳の心ではないみたい。50歳の心をもった12歳の女の子って感じ。

紙魚:この本では、作者の年齢は伏せられているんですよね。他の著作には、作者は1950年生まれと書いてあります。

ケロ:私も、こんなに近しい親のような人に、恋心を抱くというのは、あり得ないのではないかと思いました。主人公は、父親のやっている工場を継ごうとか、愛してるとか全然思っていないわけで、その油にまみれた工場にいる存在の杉田に、恋心を抱くというのは、ちょっと考えられない。でも、もしかしたら12歳のこの主人公にとっては恋愛だけれど、本当は恋愛感情ではないのかもしれませんね。それを超越するような「大事な存在」ということを主人公が、勘違いしているのだとすれば、分かる気がする。杉田は、自分が一番頼りたい人で、出ていってほしくない大事な人だから。でも、そうだったらそう言う表現がどこかに必要なのでは? ありえなーい、と思わせてしまうのは、作者の責任かと思います。

小麦:『平成マシンガンズ』の殺伐とした世界のすぐ後に読んだので、ことさら安心して読めたような……。描写力があり、物語自体に力があるので、ぐいぐいと読めますが、ところどころひっかかる部分があったのも事実です。杉田が12歳の女の子の恋愛対象になりうるのか、とか、お兄ちゃんの改心があまりにも唐突で、ご都合主義に感じるとか……。ただ、私はこの作品にリアリティを求めるというよりも、ある種のファンタジーとして読んだので、みなさんが違和感を感じた点については、あんまり気になりませんでした。小学生の女の子がこんな直球の手紙を書くかなっていうのはありますが、最後に主人公が、文字にすることで、自分の気持ちに決着をつけるというのも、すごくいいなと思いました。

ミラボー:あり得ない設定をあえて書いて、それで物語を作っていこうとしている感じを受けました。杉田や、お兄ちゃんにリアリティがない。男の立場から見ても変だな、と感じます。それに、顔がいい男が、やっぱり得なんだな! この3冊の中では、自分の生徒たちにすすめるなら『ジョナさん』かな。

むう:作者の年が気になったのは、なぜかというと、学生運動をリアルタイムで知っていた人なのかどうか疑問だったから。学生運動をリアルタイムで知らない人なら、「普通の人、あるいはむしろ崇高な理想を持った人だけど、間違って罪をおかしてしまった」という設定に学生運動を使うだろうけれど、リアルタイムで知っていたら使わないだろうと思ったんです。この作者の年齢からするとリアルタイムで知っていたはずですよね。こういうふうに使うのかな? ちょっとご都合主義の感じ。70年代後半の学生運動というのは、そういうものではなかったように思うんです。まあ、12歳がとらえた像としては、ありなのかもしれないけれど。この主人公は、50代の人の中に生きている12歳の少女、という感じがしました。つまり生の12歳でもなければ、生の50代でもない「少女」。関西弁の雰囲気や、工場の様子は、おもしろかったです。

アカシア:私はとてもおもしろく読みました。この12歳は、私はリアルだと思ったんですね。13歳、14歳だと性を意識するだろうから、こういう憧れ的恋心とはまた違うと思うんです。おしめを替えてもらった相手に恋愛感情がもてるか、ということだったけど、替えてもらったほうは赤ちゃんで覚えてないわけだから、恋愛感情はもてると思うんです。少女のほうは、さっきケロさんが言ったように「いてほしい人」という思いが強くて本当の恋愛感情ではないかもしれないけど、自分では恋愛だと思っている。でも、赤ちゃんの頃から見てきた杉田のほうでは、少女の気持ちをうすうすは感じながらも保護者的な思いが働くし、もっといろいろなことを大人として考えなきゃいけない。そのずれを、とても的確に表現している。ただ兄が引きこもりから家出して新聞配達をし、もどってきて工場を背負うようになるという、この変貌ぶりだけは、私もちょっと抵抗がありました。でも、全体にユーモアもあるし、うまいですよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年6月の記録)


ジョージ・シャノン『あたまをひねろう!』

あたまをひねろう!

トチ:子ども向けなのに、答えが分からないものばかりで悔しい! 『ラクリッツ探偵団』のほうは絵解きですけど、こちらは文字通り頭をひねらなくちゃいけないものばかりですね。子ども向けのクイズというと言葉遊びのようなものが多いような気がするけれど、こうやって頭をひねる練習っていいですね。子どもだけじゃなくて、頭が固くなった大人にもぜひすすめたい一冊です。作者がストーリーテリングをしている人だけあって、さすが面白い話ばかり集めていると思いました。なぞかけのおもしろさと、昔話のおもしろさが融けあって、すばらしい本になっています。そのうえストーリーテリングのうまい訳者が訳しているから、ページを開くと作者と訳者の声が聞こえてくるような気がして楽しかった。ピーター・シスの絵のすばらしさは、いまさら言うまでもないことだし……

紙魚:もともとシスの絵が好きなのと、内容的にもおもしろかったので、原書を見て前から気になっていた本です。晶文社から出るというのが意外ですよね。原書はモノクロのイラストであっさりしていましたが、2色にすることによって、みちがえるようにきれいで楽しい本になっていると思います。2色×1色の構成も折ごとにうまくいっていて、経済的に考えられていますよね。品がよくてしかも小気味よい感じがすてきです。これや『ラクリッツ探偵団』のような、謎解き本は小さい頃好きだったので、大人になった今でもときめきます。どちらも対象年齢は同じくらいの本ですが、書店や図書館の同じ棚にはなかなか並ばなさそうなのは残念。内容的にも、ユーモアある気持ちのよい謎解き具合でおもしろかったです。文と絵、そして造本が見事で、とっても楽しい本でした。

カーコ:わが子に「おもしろいよ、読んでごらん」と手渡すとプレッシャーをあたえるので、それとなく部屋に置いておいたら、まず高校生の長男が気づいてページをめくり、はまりました。小6の次男は、「何かおもしろい本なーい?」と来たので渡したら、声に出してその場で読みはじめ、「お母さんわかる?」といちいちきいてきて、答えがわかるたびに「頭いいねー」って。3冊とも同じように読み、あとから、家族や友達に話しては「なんでかわかる?」とたずねていました。友だち同士何人か集まって、「ふーん」と楽しめる本ですね。音にしたとき、心地よく頭に入ってくるように訳されているんだな、と感心しました。2番目のたねあかし「五、十」は、あんまりだと思いましたが。絵も本当にきれい。本づくりがとてもいいですね。

げた:さがしものの絵本というのはたくさん出ていて食傷気味ですが、なぞなぞ話みたいなものは出ていないので珍しいと思って、図書館にも何冊か入れました。話はおもしろいと思いました。再話した民話がそうなっていたんでしょうけど、「条件をあらかじめ提示してくれないと答えられないなあ」と思うものもありました。

むう:絵がなんとも魅力的でした。甘ったるくなくて、味がある。パズルというのはかなり理系的なところもあって、パズルは人間の本能だという記号学者の本も出ているくらいだけれど、こういう昔からの言い伝えのなぞなぞを集めた本を見ると、なんというか、納得してしまうところがあります。子どもはとにかく、大人の目でいうと、そういう意味でも各地の話を集めてきた本というのは興味深いですね。1の雪だるまはよくわからなかったというか、肩すかしを食らった気がしたのですが、あとにいくほどマジになってむきになって、最後のほうは数学の本や哲学の本ともかなり重なる気がしました。いわゆる論理学系ですけれど。最後の船の話は、アン・ファインがこの謎を取り上げて短編を書いていて、そっちもなかなかおもしろかったです。でも、答えがないと言われると、ちょっとほかとレベルが違うから、あれ?という気がしますね。

ブラックペッパー:とっても楽しい本。先に3を読んでいて、答えは難しいということがわかっていたので、あんまり考えこむことなく楽しく読めました。私も、カーコさんの次男さんと同じように、もうどれも「あったまイイ!」「りこうだわぁ」と思いながら読みました。どのページも絵がとってもきれいで、すみずみまで楽しめる本ですよね。「たねあかし」という言葉も好き。とくにお気に入りは、10の「さいごのねがい」。この圧倒的な感じは、ババーン! って効果音がきこえてくるようだった。いっしょに死んでほしいという言い方もおもしろい。「いっしょに死んでください」とか言ってしまいそうだけど、「死んでほしい」っていうところがいいよね。最後の問題の答えがないというところも好きです。ほんとは、むうさんみたいにピンとくるものがあれば、もっといい読者になれたと思いますが……。教訓的でないところもいいですね。

アカシア:ピーター・シスの絵にほれぼれとしながら読んだんですが、本当に原本より数段いいですね。訳も、昔話を聞いているみたいに、語っている人の声が聞こえてくるようです。実際の昔話が土台になっていると思いますが、その土台の昔話の方も読みたくなります。ていねいにつくられたきれいな本ですけど、今の子どもたちは小さくて薄い本を持ちたがりますよね。持って歩くには、『ラクリッツ〜』みたいな形の方が人気が出るのかな。

ケロ:はじめは謎解きのくりかえしの本だな、という印象で読んでいたんですが、作者はこの本で、すばらしい編集作業をしているということがわかってきました。様々な国に伝わる、いわゆるとんち話の「謎の部分」を抽出して、おもしろく再構成しているんですよね。こういうふうにまとめてしっくりくる形にするのは、すごい。絵のおかげでもありますね。そして、日本語版になったときでもさらにすごいということで、その積み重ねの見事さに感心しました。ルビが適当にないのも、いい感じでした。表4の絵と帯の文章が連動しているところまで作り込まれているようで、きめ細かい仕事だと感心しました。

うさこ:絵も好きで、すてきな本だなあと思いました。いつかこういうのが作れたらなあと思った1冊でした。謎かけは、ストレートな答えあり、とんちがきいてるものあり、「ええっ、これが答え? やられたなあ」と思うものありと、いろいろバラエティがありました。謎かけに真っ向勝負!的に真剣に読んでいくと、答えに肩すかしをくらわされて、出題者の作者がむこう側でへへへと笑っているような感じがします。タイトルどおり、ほんとに頭をふにゃふにゃにして読むことが、この本を楽しむコツかな。絵の見せ方、本の作り方が、原本よりずっといい。「あたまをひねろう」というタイトルづけや、「たねあかし」「10歳以上のみんな」など、言葉のひとつひとつの使い方もよかったと思います。

たんぽぽ:きれいな本で、手元におきたい本。雪だるまの話など、最初答えがわかりませんでしたが、ミルクのところで、納得。だんだん頭がほぐれてきました。私は1巻のほうが、わかりやすいかなと思いました。原典に当たりたいと思ってくれる子が出てきたらいいなと思います。

愁童:今の子どもの状況を考えると、いい本が出たなって思いました。ちゃんと言葉に向き合わないと謎も解けないって、すごく大事なことをゲーム感覚でさりげなく伝えているところがいいですね。「あたまをひねる」なんて言葉、今の子どもたちにとっては死語だろうけど。でも、大人が使ってきた言葉をこういう形できちんと伝えようという姿勢が感じられて、この翻訳、とても気分がよかったです。

アサギ:私は、もともとミステリーを読むときもせっかちで、半分くらい読むと、最後の方を読んじゃうくらい。謎解きももともと下手な方なので、たねあかしをふくめてひとつのお話として読みました。そう思って読んだので、楽しめました。シスの絵っていい。人気があるだけのことはありますね。ただね、雪だるまの話は納得しにくい。

たんぽぽ:途中で読むのをやめたいと思わなかった。だんだんはまっていきます。

むう:いろいろな場所のなぞなぞを集めてきたのに、印象が散漫じゃないことに感心しました。なんというか、昔話をひとつ読んだよ、という感じかな。それがよかった。

ウグイス:「世界のなぞかけ昔話」全3巻の原題は、”Story to Solve”“More Stories to Solve” “Still More Stories to Solve”ですね。 邦訳1巻目は『どうしてかわかる?』、2巻目は『あたまをひねろう!』、3巻目は『やっとわかったぞ!』で、1ではちょっとむずかしくても、2で頭をひねるこつをつかみ、3では頭がほぐれやすくなって解けるようになる、という段階をふんでいく感じを出しています。ただおもしろく読むだけではなく、子どもたちに頭をつかって考えてもらいたい、という意図があるんですね。作者が裏で「フフフ、解けたかい?」と言っている感じがあって、読者は作者に挑戦するような気分で読めると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年5月の記録)


ユリアン・プレス『ラクリッツ探偵団』

ラクリッツ探偵団〜イエロー・ドラゴンのなぞ

トチ:「タンタン」を思わせるクラシックな、ほのぼのと品のいい絵。特に表紙がすてき。内容は絵解きですが、大人の私は細かい絵をじっくり見ていく根気がなく、『あたまをひねろう』と別の意味で難しかった。ただ、子どもたちにはおもしろいでしょうね。それと、時間がたっぷりあるお年寄りにも向いているかもしれない。ただ残念だったのは、絵がメインで、ストーリーそのものはあんまりおもしろくなかったこと。本作りの意図がそこにはなかったんでしょうけど。

たんぽぽ:心に残るというより、「ミッケ」のような遊びの感覚で、子どもは親しみやすいと思う。

うさこ:こういう手法はありだな、と思いました。同じパターンだけれど、繰り返しのリズムがある。内容的にはワンパターン。でも、10歳くらいの子は、そのパターンが好きなんだろうな。あまり物語を読まない子は、こういうものから入っていくのでは、と思いました。絵の中で、わかりにくいところがありました。79ページの注射器がわからなかった。表紙の女の子の絵も、手と足が同じ方が出ていて、変。絵解きのお話なので、絵にもっと気をつかってほしいなと思いました。

紙魚:注射器は、たしかにわかりにくいですね。絵は、線が簡潔で、なかなかいいんですが。原書では、答えは文章を読まないとわからないようになっているのですが、せっかく探しても「本当にこれでいいのかな?」と迷う人がいそうなので、答えの部分の絵を切り抜いて、ひと目でわかるようにしてあります。

うさこ:問題があって、ページを開いて「正解はズバリ」という言い方で、原書も統一されているのですか?

紙魚:原書は、問題の文章、答えの文章というようにはっきり分かれていないんです。文章でそのままずらずらと書かれているだけ。でも、例えば読者を「青い鳥文庫」の読者くらいと想定すると、きちんと分かれていないとわかりづらいかなと思って、そのような構成にしました。「ズバリ」というのも、ここからが答えですと、はっきりと明示するためです。

うさこ:全部の答えをつなげていくと、読み終わった後、全体でもなにか種明かしのような、答えがあるのかなと思って書き出していったけど、なかった。私の考えすぎですね。

紙魚:あー、そうだったらまたおもしろいんですよね。もともと、文章から謎を解くのではなくて、絵から答えをさがすというスタイルなので、一つのストーリーとしてつながりを持たせるのは難しいのかもしれません。でも、次に期待したい! とはいえ、ゆるやかにつながっているので、あまり出来がよくないからといって、問題を1問はずすということもできません。そのあたりは、やるせないですね。

ケロ:もっと謎解きかと思ったけど、絵さがしなんですよね、全体的に。その中で、ちょっと気になったのは、絵の中の活字。原書はどうだったのかな。p17で鍵穴から部屋の中をのぞくとき、日本語の活字がまず目にぱっと入ってくるので、すぐに答えがわかってしまう。絵の中に活字があると、そこから目に入ってしまうので、登場人物がすぐにわからないのはおかしいという感じになってしまっている。

紙魚:原書は、描き文字で絵の中にとけ込んでしまっていて、むしろ文字だかなんだかわからない感じ。どのくらいの難易度にしようか、ずいぶん迷いましたが、これだけの文章量と問題数があって、解けない問題が続くより、すぐに答えがわかる問題が続く方がいいかなあと思って、活字にしました。

むう:私も、絵の中の活字って最初に目に飛びこんでくるから、簡単すぎるよなあと思いました。それと、お話として厚みがないのが残念。ほとんどくり返しみたいになって飽きてきちゃいました。後ろにわざわざ登場人物紹介があるんだけど、なるほど、そういう子なんだなあ、と思わせるところまで書けていないから、その点も不満でした。

げた:絵解きのレベルにくらべ、文章が多いような気がします。読書対象年齢がはっきりしないと思いました。ストーリーは盛り上がりがなく平板な感じで、図書館での複本購入はちょっと難しいかな……

ウグイス:持ったときの本の大きさ、手ごろな厚み、カジュアルな感じにまず好感をもちました。ふつうのお話の本じゃなく、おもしろそうだなという雰囲気を作っているのはいいですね。探偵ものの児童書はいろいろあり、謎解き自体は凝っていなくてもキャラクターやストーリーがおもしろいというものが多いですね。これは、ストーリーに入り込んでいくほど、深い内容ではないのね。しっかり文章を読んだ上で謎を解くというより、さっと読んで絵の中を探す、という形。子どもに次々ページをめくらせるという意味ではクイズ本的な作りにしたのは、成功していますね。

アサギ:薄くて軽く、読みやすい所は良かったと思います。ただ、絵解きなのに、ちょっと易しすぎるという印象がありましたね。私みたいに謎解きが下手な人間でもすぐわかっちゃったから。話も単調で、途中で飽きてきてしまった。でも、対象年齢が低いなら、これでいいかもしれないので、実際にどういう子が読むのか、知りたいですね。

カーコ:この手の本としての本作りに徹しているのがよかったです。表紙の虫めがねとか、レイアウトとか、子どもが最大限楽しめるように作ってありますよね。文章も全体に読みやすいし、きちんとしていると思いました。「ラクリッツ」と言うと、日本の子にはただの固有名詞に聞こえてしまうけれど、ドイツでは独特の味が連想されて、おもしろみがあるんでしょうね。そんなにおいしいものだとは思えないけれど、ドイツの子は好きなのかしら? 本のタイトルにするくらいに。

すあま:最初見たとき、ハンス・ユルゲン・プレスの『くろて団は名探偵』(佑学社)という今は絶版になっている本の第2弾かと思ったら、息子さんの作品でした。絵や雰囲気が似ていますね。お父さんの作品も同じような絵解き推理物語ですが、おもしろさではお父さんの方が勝っているように思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年5月の記録)


アストリッド・リンドグレーン『赤い鳥の国へ』

赤い鳥の国へ

トチ:今回選書係のたんぽぽさんによると「いつまでも頭から離れない話」ということでしたが、本当にいつまでも心に残る話でした。語り方も絵もさすがにうまいと思ったし、虐げられている子どもたちへの時代を超えた作者の愛情や、怒りも感じました。特に41ページの「ミナミノハラがなかったら……」という台詞など、こんなに悲しい言葉があっていいの?とまで思いました。『マッチ売りの少女』の世界だわね。ただ、訳者の後書きに「(この物語は)悲しいまま終わっていません」とあったけれど、「??」と思ってしまった。日本の子どもたちは、この物語は死で終わっていると理解するでしょうし、キリスト教の世界ではいざ知らず、日本の読者にとっては「死=悲しいこと」のでは? たとえ天国に行けたって早死にしちゃいけない、そう考えるほうが「まっとうな」気がするんだけど。

たんぽぽ:悲しすぎて、自分の学校の図書館には置いていません。絵本でも、文字量が多いと子どもは手にとりにくいのだけれど、このように幼年読み物にすると、子どもが手にとれるかなとは思いました。

げた:扉を閉めることで兄弟は天国に行ってしまったという、悲しい結末。悲しいから、私の区では全館には置かなかった。絵もいいし、子どもの心に入ってくると思うが。せっかく学校に行ったのに、ひどい目にあうし。

カーコ:何度も何度も同じ言葉でたたみかけられて、イメージが心に焼きついてくるようでした。最初の灰色の世界と、赤い鳥の対比のあざやかさが見事でした。個人的には、『エーミルと小さなイーダ』(さんぺいけいこ訳 岩波書店)のような明るい作品のほうが好きですが。

ハマグリ:リンドグレンの中では、悲しいお話なんだけれど、子どもはたまに悲しーいお話を読みたいと思うときがありますよね。貧しくて、みなしご……それだけで、子どもをひきつける。リンドグレンの作品集(岩波書店)の中でも、とくに『小さいきょうだい』や『ミオよわたしのミオ』が好きだという子どもも時々いるんですよ。赤い鳥の国とは、キリスト教でいう天国を表していて、現世では救われないんだけれど、最後に救いがあるということでしょうか。『小さいきょうだい』には全部で4話の短編がはいっていますが、その中の1編をこのような形で1冊の本として出してくれると、読みやすいし、読者が広がるのがいいですね。岩波版の訳者大塚勇三の独特の口調は捨てがたいですが、石井登志子訳はくせがなく平易だと思いました。挿絵画家も違い、こちらは、村の中でも森の中でも、兄弟の姿をことさら小さく描いていて、読者が心を寄せざるをえないんですね。前後の見返しの絵もいい。

アカシア:新しい作品だと思って読み始めて、途中から「ああ、これは『小さいきょうだい』で読んだ話だな」と思い出しました。リンドグレンは多才な作家ですよね。楽しい作品もあれば、悲しい作品もあるし、子どもの日常を描いた作品もあれば、ファンタジーもある。年齢対象もいろいろです。扉を閉めるというのは、自殺することなんでしょうか? リンドグレンは、本当に辛いとき、そういう道を選ぶことも認めているんでしょうか?

アサギ:私は悲しいお話はあまり好きじゃないけど、悲しい話を読みたいというのは、確かにあるわよね。

トチ:読者である自分を安全なところに置いたままカタルシスを味わうというのは、ちょっと後ろめたい気がするけどね。特に子どもの本の場合は。

アサギ:最後に死んでしまうのだから、悲しくてやっぱりわたしはだめ。『人魚姫』(アンデルセン作)とか『フランダースの犬』(ウィーダ作)とか、子どものときは読んでいたけど。これはたぶん年齢とも関係あると思うんだけど、だんだん悲しいものは辛くなってきた。

トチ:わたしはハマグリさんの意見と同じで、こういう本があってもいいんじゃないと思うけど。

アカシア:子どもの読者は、最後死んだとは思わないんじゃない?

トチ:いや、子どもはもっと読書力があると思う。

アカシア:そうじゃなくて、今の子はファンタジーも読んでいるから、アナザーワールドに行ったと思うかも。リンドグレンは、天国を信じているんでしょうから、現世では辛い体験しかあたえられない子どもたちに、ここで救いを与えているのだと思いますね。

愁童:僕はこれを読んで、これまであったリンドグレーンへの好感度を自分の中から削除しちゃった。悲しいお話が好きな子は確かにいるけど、何かこの作品、そんな読者を意識したショーバイ・ショーバイって感じがして好きになれない。こんな本読んで育つから、練炭持っていって一緒に死のうみたいな若者にが増えるんじゃないの? せめて、『青い鳥』(メーテルリンク)じゃないけど、どこかに青い鳥がいるから自分でさがしに行ってごらん程度のメッセージがあってもいいんじゃないかな。苦しかったら死んじゃいな、みたいなことを、自分は安全な所にいる大人から言われたんじゃ、子どもはたまらないぜ!

トチ:たしかに作者は善意で書いているし、こういう子どもたちへの愛情や大人たちへの怒りも感じるけれど、愁童さんに言われてみると、これは愛情ではなく哀れみなのかも、って気もしてきたわ。

げた:子どもに向けて、手渡すのに抵抗を感じたのは、これでは子どもが救われない、悲惨すぎると思ったからなんです。

アカシア:でも、物語の舞台は今の日本じゃないですよね。日本にいると見えないけど、今だってこの子たちみたいな子はいっぱいいる。その子たちに向かって、「おまえたち死んじゃだめだ」っていうだけで、現実には何もしなかったら、もっと救いがないのでは?
(このあと、リンドグレーンの姿勢について熱い議論が続く)

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


エクルズ・ウィリアムズ『真夜中のまほう』

真夜中のまほう

アサギ:看板から動物が飛び出すという発想がおもしろかった。でも翻訳はところどころ安易で(おそらく年寄りで知恵のあることになっているふくろうが、「わしは・・・じゃ」とするなど)、気になりました。話を聞いてもらえない男の子ダンを通して、さりげなく大人への皮肉もこめられていますね。ファンタジーの中には、最初はおもしろくても落としどころが悪いのもあるけど、これはすとんと自然に終わっていていいと思います。

アカシア:お話の運びはおもしろかったのですが、文章は気になるところがいっぱいありました。13ページにはマガモが「バチャバチャと手足を動かして」とあります。四本足の動物なら前足を手ということもあるけど、カモは足が2本しかないから表現として変ですね。14ページ「さかなが頭をポンッと」だけど51ページは「魚がポンと頭を」になってる。読みにくいけど小さいツを入れるなら入れるで統一してほしいです。「ミッドナイト・イン・サイン・クラブ」は、日本語のおもしろい表現にしたほうがよかったと思います。50ページの「マガモは、今回、なにが待ちかまえているのか、なんとなく思うふしがありましたが、」も日本語として変ですね。28ページの「ショートさんは、その日、看板をみようともしませんでした。ですから、マガモが教会のある西の方角ではなく、古い救貧院がある東の方角を向いていることには、だれも気づくことはありませんでした」も、看板は宿の主人が自分の看板を見るよりも通りがかりの人や旅人が見るほうが多いと普通は思うので、何が「ですから」だかわかりません。それから、これは原文もそうなのでしょうけど、110ページに人魚が「わすれっぽいのって、女の人だけだと思ってたわ」と言いますが、ジェンダー的には問題ありますよね。せっかく小学生が楽しく読めるおもしろい物語なのですから、編集者が訳者を助けてちゃんと見てくれると、もっとずっといい本になったのにね。

ハマグリ:感じのいい表紙で、挿絵も味があり、文字の大きさも手ごろで、手に取ったときにまず好感が持てました。小学校中学年くらいでどんどん読めるといいけど、けっこうむずかしい漢字が出てきますね。それと、マガモのキャラクターのおもしろさが、原文にはもっとあるのではないかしら? まじめなばかりではなくおかしさが出ると、もっともっと魅力的な話になると思う。訳文は、「ですから」「ですので」「だから」をどう使い分けているんでしょう? はっきりした理由がないのなら統一したほうがいいですね。

カーコ:楽しいお話でした。次々に特徴のある新しい動物が加わっていくのもおもしろいし、ハラハラドキドキさせられるところもあって。低学年の子がおもしろがりそうなのに、漢字にルビが少ないのが残念。私も気になる言葉はありましたが、1つだけ言うと、10ページの、「つめたっ。」今の子は、「あつい」を「あつ」とか、「すごい」を「すご」とか、「い」ぬき言葉を使うけれど、幼年童話で使うのはどうかな、と思いました。

げた:じみな表紙で、ハラハラドキドキといってもそれほど山あり谷ありではありませんが、発想がよくて私の区では全館に入れました。言葉遣いは、気になりませんでした。選書のときは一日30冊くらい読むので、そこまで注意が行き届かないということもありますが。挿絵もシンプルで、かえってお話の中から子どもたちに想像させる効果があると思いました。

たんぽぽ:私はこの本が好きで、挿絵もいいなと思いました。看板から抜け出してくるのが楽しくて、子どもも喜んで、図書館ではよく動いています。最後が、ストンとうまく落ちている。

トチ:物語はとってもおもしろいし、訳者も楽しんで訳していると思いました。でも、編集者がちゃんとチェックしたのかな? 訳者のデビュー作なのに、これでは気の毒。動物の名前が平仮名だったり、カタカナだったりするし、マイルやインチなども、子どもの本の場合はキロやセンチで訳さなきゃ。「ナショナル・ギャラリー」や「オークション」も子どもはどういう場所か、どういうことかわからないでしょうし。106ページの「ダンは、あどけなくこたえました」という箇所、きっと innocently とあるのでしょうけど、この場合「しらばっくれて」ということなのでは?「あどけなく」では「ぶりっ子」みたいで、トロいと周囲に思われていても本当は賢いダンのイメージが変わってしまう。「(ダンに看板のことを指摘された店主の)ショートさんの顔がさーっと青ざめました」という箇所も、ショートさんが大変な秘密でも持っていて、ダンにばれそうになったので青くなったのかなと思ったら、ただ腹を立てただけだった……こういう細かいところのズレが積み重なると物語の全体がわかりにくくなる。せっかく良い本なのに、惜しいなと思いました。

アサギ:全体として、ばらつきのある翻訳という印象。すごくうまいなと思うところと、変だなと思うところがある。

愁童:この訳者の日本語の語感がずれている感じがする。「なんとなく思うふしがありましたが」なんていわれても、この本読む子にはそんなニュアンス分からないでしょう。本の内容からすれば、もっとリズム感のある日本語で語ってほしいね。せっかくの楽しいお話なんだから。

トチ:作家も翻訳者も編集者に育てられるものと、私はいつも思っています。たとえ編集者のほうがずっと年下でもね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


今江祥智『ぽけっとくらべ』

ぽけっとくらべ

トチ:なんとものんきなところが、大好きな本です。ただ楽しいだけの本みたいだけど、子どもは読んでいくうちに、ポケットにはあんなものも、こんなものもある……なんて考えるようになる。お勉強絵本のようなものより、ずっと頭の訓練になるのかも。今江・和田コンビの『ちょうちょむすび』(BL出版)や『あめだまをたべたライオン』(フレーベル館)も好きだったけど、なんというか、お二人とも失礼ながら「枯れた」境地に入ってきているというか……

たんぽぽ:子どもに安心して渡してあげられる本ですね。字がちょっと小さいかな。

げた:ポケットって、子どもに興味があるから、テーマ的にはいいと思うけれど、文章がちょっと長すぎるかな。短いと、もっと楽しめるのでは? 表紙がいいので、図書館でもよく借りられています。

カーコ:パネルシアター的な絵本だと思いました。登場人物の口調の書き分けがうまい。小学生に読み聞かせしてみたくなりました。

ハマグリ:絵本にしては字が多くて読みにくいし、読み物を読みたい子どもは、この形では手にとらない。中途半端なつくりだと思います。判型を小さくして、低学年の子が読みやすい読み物にしたほうがよかったのでは?

アカシア:これは今江さんの童話集の中にも入っている話ですよね。私は最後の落ちがイマイチでした。カメの甲羅もポケットだっていうのは、どうなんでしょう? もう少していねいにお話をつくってほしいな、と思っちゃった。

トチ:カンガルーで終わればよかったのにね。

アサギ:基本的には楽しくて良い本だと思います。でも、私も最後でがくっときてしまったのが残念。絵本にしては字が多いけれど、楽しくあたたかい雰囲気に満ちている印象。ポケットというのも、良い発想では。ドラえもんにもあるわね……。

愁童:今江さんの幼年向けの作品て、言葉にリズム感があるものが多いけど、これは読み聞かせを念頭において書かれているのかな? 子どもが喜びそうな題材でユーモアもあるし、おもしろいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


二宮由紀子『森のサクランボつみ大会』

森のサクランボつみ大会 ハリネズミのプルプル1

トチ:のんびりしていて、なんとも幸福感あふれるお話で、大好きです。子どもって、学校の先生やお母さんから、しょっちゅう忘れ物をするなって注意されてるから、こういうものを読むと、ほんとにホッとするんじゃないかしら。「こんなによるはやく」とか、子どもたちが喜びそうな言葉も、いくつも出てくる。『ウィリアムのこねこ』は、作者がしっかりお話を考えた本だけれど、これはごく自然にストーリーが流れている。対照的な書き方だけど、どちらもうまいと思いました。

たんぽぽ:シリーズの3冊の中で、1巻目がいちばんおもしろかった。なんでもかんでもすぐに忘れていいなあと。二人のコンビのは、先月もふくろうの本が出ていましたね(『森の大あくま』毎日新聞社)。

げた:おもしろい。夏休みのおすすめにしようかな。忘れても、まるくおさまっちゃう。ぎゅうぎゅうしめつけられている子どもと、まったく逆転した世界。今の子どもたちを、だいじょうぶなんだよと解放してやる意味が込められているのでは。

カーコ:楽しめました。まじめな子が読んだら、どうなっちゃうんだろう、とドキドキするんじゃないかしら。阿部さんの絵がおおらかで、また楽しい。19ページのハリネズミの手の絵は、阿部さんだからこそだな、と思いました。

ハマグリ:絵本を卒業する年齢の子が移行しやすい本が、もっと出てほしいなと日ごろから思っているので、こういう感じの本はうれしい。でも、あべさんの絵だと『わにのスワニー』シリーズ(中川ひろたか著/講談社)のほうがいいかなと思います。最初に、状況がよくわからない部分がありました。12、13ページの絵が、夕方の早い時間というのがつかみとりにくい。絵を見てもよくわからなかった。フルフルとプルプルも、どちらがどちらだか途中でわからなくなることがあったわね。ローベルのかえるくんとがまくんのように、はっきりと描き分けられていないので。

アカシア:1巻が図書館で貸し出し中だったので、私は3巻目を先に読んだんです。そしたら、ただただハリネズミたちが忘れてしまうだけで、芯がなくて、えっ、これでいいの? と疑問になったんです。でも、1巻を読んだら、おもしろいですね。ちょうどいい具合に「忘れる」部分が出てくるから。3巻は物忘れがエスカレートしているんですね。ただ1巻でも、お話の中の世界の整合性にこだわると、疑問な点が出てきます。フルフルの誕生日にはみんなが集まったけれど何のために集まったか忘れているのに、サクランボつみ大会は、最初から集まらない、というのはどうして? 大人は気にならなくても、気になる子もいるのではないかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


マージョリー・フラック『ウイリアムのこねこ』

ウイリアムのこねこ

アサギ:ずいぶんクラシックな雰囲気ね。でもお話自体はとってもよくできていると思いました。3匹の迷いネコは、けっきょく同じネコだったのね。1年たって、ピーターが成長していくさまの絵もいいし、ユーモアもある。そしてお話にきちんと起承転結がある。強烈なインパクトはないけど、心あたたまる、読後感のいい本でした。

アカシア:お話も訳もとてもいいけど、日本でずっと出なかったのは、絵本にしては文章が長すぎるからでしょうね。文章だけがフラックだったら、絵は別の日本人にたのんで幼年童話にするという手があるでしょうけど、文も絵もフラックなので別の形では出せないものね。読み聞かせにはいいでしょうけど、子どもが自分で読むには、この形態はどうなんでしょう?

ハマグリ:同じ作者の『おかあさんだいすき』(光吉夏弥訳・編 岩波書店)は1950年代に翻訳されているけど、これは絵本にしては文章が長いから今まで出なかったのかしら。カラーのページと白黒が交互に出てくるのは、印刷コストを下げるためにやっていることですよね。お話は、単純でわかりやすいけれど、どの年齢の子にすすめたらいいか、迷ってしまう。小さい子に読んであげるには長すぎて飽きてしまいそうだし、大きい子には、赤ちゃんぽいウィリアムがもの足りないのでは?

カーコ:お話はおもしろかったです。本好きのお母さんが自分の子に読んでやる本という感じがしました。

げた:集団読み聞かせにはむずかしいんですけど、お母さんと二人で一緒に読むのなら、いいお話かな。個人的には好きですけど、手にとられにくいかな?

たんぽぽ:子どもはこのお話がすごい好きで、1,2年生に読み聞かせをしてよく聞いてくれたんですけど、そのあと自分では借りないんですね。『赤い鳥の国へ』のような本の形なら借りていくと思うんですけど。

トチ:お芝居でウエルメイドという言葉をよく使うけど、この絵本もそういう感じがしました。いろいろなピースが最後にぴたりとはまって、本を読みはじめた子どもたちが「お話っておもしろいな」と思う要素がたくさんある。繰り返しも「ああ、こうやって書くんだな」というお手本みたいだし。たしかに、絵本でなく絵物語にしたほうがいいとも思いましたが……。ただ、見返しの部分が英語のままになっているけれど、本文とおなじように訳したほうがよかった。絵本って、表紙から、見返しから、背表紙から、小口まで、すべてがごちそうですものね。

ハマグリ:絵のバックが黄色というのはユニークよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


ヘニング・マンケル『炎の謎』

炎の謎

:これは事実に基づいた物語なんですよね。

アカシア:カバーの袖に「ノンフィクション」って書いてあるけと、いいのかしら? 事実に基づいてはいても、これはノンフィクションじゃなくて創作でしょ。紛らわしいな。

ハマグリ:前にこの会で『炎の謎』(ヘニング・マンケル/著 オスターグレン晴子/訳 講談社)と『家なき鳥』(グローリア・ウィーラン/著 代田亜香子/訳 白水社)を取り上げましたね。どちらも、こんなにつらいことがあるだろうかという内容なのに、主人公の女の子が自分をしっかり持って、前を向いて歩き出すという物語だったので、多くの人に読んでもらいたいと思い、あの後、よく紹介しました。『炎の謎』は、主人公が『炎の秘密』より大人になっているので、抱える問題も複雑になっていますね。パキスタンのチョリスターン砂漠で生きる女の子を主人公にした『シャバヌ』(スザンネ・ステープルズ/著 金原瑞人、築地誠子/訳 ポプラ社)も、日本の読者には想像もつかないような異文化の境遇の中で自分を見失わずに生きる女の子の物語という点では似ていて、これも成長してからの続編と2部作になっています。『炎の謎』は3冊目も予定されているようですね。知らない国の文化や風習には興味が尽きないし、主人公の身に起こるあまりにも劇的な運命に、一気に読んでしまう。

ポロン:前作は、読んだのに細部を忘れていたのですが、それでもすーっと読めました。こういう状況があるというのが、実感としてよく伝わってきました。こまかいことですが、気になったことがひとつあって、それは「おなかが冷たくなる」という表現。「背筋が凍る」という意味なのかと思ったら、本当に冷たくなったというふうに書かれているところもあって不思議に思いました。本当に冷たくなるってこと、あるのかな。それとも、これはアフリカならではの表現?

アカシア:アフリカならではということはないでしょう。あるとしたら、原著が書かれたスウェーデン語の特殊表現でしょうね。物語全体が夢みたいで不思議な雰囲気を持っているし、前作でいろいろな困難を抱えてしまった女の子が、元気に生きているということがわかって、よかったですね。ただ、おそらく文学的な作品だからなんでしょうけど、一人称と三人称が混ざって出てくるのでちょっと読みにくかったですね。私がいちばん気になったのは、繕いをたのまれたお客さんの青いシャツを切っちゃうところ。繕い物を受け取ったおじさんは、気づかなかったんでしょうかね? それに、P117に、この女の子自身(お姉さんとの共有かもしれないけど)も青いブラウスを持っていることが書かれているんですね。ここで、読者の私は一気に興ざめしてしまいました。だって、ここまでは大事なお客さんのシャツの布を切ってまで少年に会いたいのだと思っていたのに、自分も青い服を持っているんなら単なる身勝手としか思えないじゃないですか! ここは、読者が主人公と一体化できるかどうかという点でも、大きいところですよ。原文が同じ「青」という言葉なのだったら、作者に言って変えてもらったほうがよかったですね。

紙魚:なるほど。シャツを切られちゃって気づかないのはおかしいけど、このおじさんって、なんだか味わい深く書かれているので、もしかして気づいてもあえて言わなかったのかなと読みました。

アカシア:ほかにも細かいところ、気になりました。p18に「マリアはローサの姉弟でもあった」ってありますけど、どうして弟という言葉が入っているの? あと、「バスタード」と呼ばれている人が出てきて、「名前はバスタード。ぴったりの名前だ」って書いてありますが、バスタードの意味が説明されていないので、読者には何がぴったりだかわかりませんよね。こういうところこそ注をつけてほしい。p158の「クランデイロ」に「魔術師」という注がついていますが、魔術師というと魔法を使うみたい。呪術医とか伝統医という意味でしょうか? このクランデイロのことを母親は「ノムボーラさま」と呼んでいるのですが、p193の母親の台詞は「ノムボーラのところへ行ってね」と呼び捨てになっています。それに、p160ではお姉さんがクランデイロのところに行くと決心しているのに(「母さんとローサが決心したのだから」と書かれています)、p168だと「母さんは毎日ノムボーラさまのところへ行きなさい、とうるさくいっている。姉さん自身が決心するまで、そっとしておいてあげればいいのに」と、まだ決心していないような記述になっています。もっとていねいに本造りをしてほしいなあ。それに、バスタードが畑を奪おうとしますが、どういう背景でそうなるのか説明されていないので、ご都合主義的なストーリーづくりと思われてしまいます。挿絵は、ふくらみがあって、夢のような物語とうまくマッチしていました。マチャムバはmachamba、テムバはTembaでしょうか? だとすれば、マチャンバ、テンバでいいと思いますけど。

紙魚:この本の中でいいなあと思った部分は、主人公が恋の喜びを味わうところ。エイズの本というと、異性と付き合うのはこわいことです! みたいなものがあったりしますが、この本はそういう立場には立ってなくてよかったと思いました。とはいえ、とても夢見心地に進んでいく物語なので、途中、主観で語られる詩のような部分は、ちょっと読むのがつらかったです。エイズって、いろんな問題のまさに縮図で、恋愛、性はもちろん、家族、社会、国、貧富の差、経済など、問題が渦巻いているので、それをぐるりと丸くとらえられる本というのがあるといいなあと思います。

トチ:私も袖にある「ノンフィクション」という言葉には、えっと思いました。いろいろな子どもの話を集めたんでしょうか。この本も『沈黙のはてに』も、登場人物だけではなくて、その後ろにいる大勢の子どもたちの姿が見えてきて、辛かったです。ただ、こっちの本は、作者が文学を書こうとすればするほど、詩的に描こうとすればするほど、現実感が無くなっていっているような気がしました。また、最後のところで主人公と男の子の距離が縮まっていくんだけど、こういう状況に置かれた主人公に自分の恋とエイズに対する危機感が全く無いのがふしぎでした。あと、「(主人公の)おなかが冷たくなる」という表現ですが、初めのうちは「背筋が冷たくなる」と同じようなことかなと思っていたのですが、あんまり何度も出てくるので「ひょっとして病気の兆候なのかも」と思ってしまった。

アカシア:ソフィアは、地雷で足を失っているので、血液の循環がよくないのかも。

ハマグリ:だとしたら、そのことについて、ふれてほしいわね。

トチ:スウェーデンの表現なのか、アフリカの表現なのか、それとも本当におなかが冷たいのか?

紙魚:「おなかがきゅーっとする」というのは、ありますよね。

トチ:お母さんの台詞が、ぶつぶつ切れていて、ぶっきらぼうなのが気になりました。『沈黙のはてに』のお母さんのほうは、しなやかな、体温を感じられる言葉で話している(訳している)けれど……。よく、テレビのテロップや吹き替えでも、黒人の言葉を荒っぽく、野卑な感じに訳しているのを見たり聞いたりすることがあるけれど、なんかそんな感じがして、あまり愉快ではありませんでした。

愁童:前作の『炎の秘密』もそうだったんだけど、この作品にもあまり共感出来なかった。作品の背後に作者の白欧主義的な目線を感じちゃって……。地雷もエイズも確かに過酷で深刻な生活環境だけど、そこで必死に生きている人達への目線があまり温かくない感じがする。作者が、登場人物にきちんと寄り添って書いている感じがしないんだな。それと訳文でちょっと気になったんだけど、最後のエピローグの出だしに、「屋根にあたる雨だれがポツン、ポツン、だんだんと間遠になっていったとき」ってあるんだけど、日本語として変だよ。雨だれって軒先から落ちる水滴を表現する言葉のはずだけど。

:私は、前に読んだ『炎の謎』の方が好きでした。青いシャツのことですが、おじさんは深いものの見方ができる人で、シャツのことを知っていながら気が付かないふりをしていたんじゃないかな。ソフィアも初恋をして、たぶん普通に考えれば、親密につきあっていけば怖いこともあるかもしれない。さらに病院で治療も受けられないという状況にあって、そんなに気楽にいられないのにと思ってしまうけれど、母親が「人間として、人を愛することは最高の贈り物なの」って言って、異性への愛を肯定してくれるところは良かった。

アカシア:私はこの作品にはアフリカっぽさを感じませんでした。なぜかしら?

トチ:原作者と訳者のあいだに距離があるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


アラン・ストラットン『沈黙のはてに』さくまゆみこ訳

沈黙のはてに

小麦:とにかく人物がよく書けていて、ひきこまれました。中でもマ・タファは、「いい人のような悪い人のような」というどっちつかずの造形がリアル。チャンダはマ・タファを終始「見栄っ張りのいやなおばさん」という調子で語るから、読者の私もそう思ってしまいそうなものだけど、なんでだかそうは思えない。マ・タファの、人の好さと口うるささが同居してるような「意地悪で言うんじゃないんだけど」っていう口癖も印象に残ります。一概に彼女を悪人とも善人とも言い切れない何かが文中に漂っていて、妙に気になりました。そんなだったので、ラストでマ・タファの秘密が明かされたときは、すごく腑に落ちました。マ・タファが、善人あるいは悪人のステレオタイプとして描かれていたら、エイズのお母さんを受け入れるシーンも、ありふれた予定調和の感動になってしまって、ここまで響かなかったと思います。マ・タファに限らず、登場人物すべての造形にふくらみがあってリアリティがある。著者が、それぞれの人物を一方向からではなく、多面的に愛情を持って見つめているなと感じました。ただエスターに関しては、もう少し書く余地があったのでは? 両親を失い、兄弟と暮らすために売春をし、挙げ句の果てにお客に顔を傷つけられてしまう。顔を切られるって大変なことです。しかも兄弟とも一緒に暮らせない。そんなやぶれかぶれの状態で、チャンダに今まで貯めてきたお金を貸してあげるかな?
きっと書かれてはいないけど、エスターに関しては、語られなかった物語がまだまだあるんだろうなと私は思います。ショックだったのは、エイズが科学的な治療を必要とする「病気」としてではなく、呪いや災いと同列の禍々しいものとして描かれていたこと。問題に対する無理解やいわれのない偏見が、事態を悪化させる。これってエイズに限らずなんでもそうだけど、チャンダのように、勇気をもってそれを打ち破ることが現状を変えていくと思います。そのためにも、この本は届くべきところに届いてほしい。先進国だけでなく、エイズが身近な恐怖としてすぐそばにある、アフリカやタイの読者にまで渡っていってほしいなと思いました。

紙魚:『炎の謎』は夢見心地な物語でしたが、これは、実際のアフリカをそのままトレースしているような、しっかりとした物語。さっき愁童さんが、『炎の謎』をヨーロッパ的だと言っていて、確かにそういうところがあるかもしれないと思いましたが、『沈黙のはてに』は、ちゃんとアフリカ文法で書かれているように感じられるほど、すべての部分にきちんと具体性がありました。エイズにまつわる様々な問題も、ちゃんと網羅されているのもすごいと思いました。

トチ:最初のところでいきなり、主人公が葬儀社で妹の棺を選ぶところが詳細に描かれていて、これが衝撃的でした。そのまま最後まで一気に読んでしまいました。『炎の謎』と決定的に違うのは、『炎の謎』の作者だったら、主人公が美しいコウノトリに再び出会うという詩的な場面で作品を終わらせると思うのね。でも、ストラットンさんのほうは、エピローグでチャンダとエスターのこれからの道筋を具体的に書いている。ここの部分で、アフリカの子どもたちをなんとかエイズから救いたいという作者の熱い思いを感じました。救援団体のセンターの玄関に白いシーツがかけられ、フェルトペンで寄せ書きが書いてあるというところ、胸がじーんとしました。
それから、事実を具体的にしっかり書いてあるだけでなく、文学としての力も感じました。登場人物がそれぞれくっきり書きわけられている。特に生意気ざかりの妹アイリス。こういう子って、いますよね。原文もこんなふうに格調高く、歯切れよく書かれているんでしょうか?うまいと思いました。それから、小麦さんがおっしゃったことだけど、これは絶対にアフリカ以外の人に向けて書かれているんだと思うけど……

アカシア:アフリカでは、こういう本でみんなに考えてもらうという間接的な方法よりも、とにかく性交渉には注意しろとか、コンドームを配るとか、どうしても直接的・即効的な手段が先だという状態の国が多いんじゃないかな。

小麦:私は、エイズの人が目の前にいるという状況にある人が啓蒙される本なのかと思いました。

アカシア:先進国で感染者が急増しているのって、日本だけってこと知ってました?

トチ:患者も、血液製剤の被害者は別として、隠されているというか見えてこないから、非常に危険な状態だといわれても、実感できないのでは?

愁童:今回の課題作品は非常に対照的だね。『沈黙のはてに』は、チャンダとエスターの関係や母親への気持ちがよく伝わってくる。エイズということを抜きにしても、主人公のチャンダと周囲の人達の人間関係がきちっと書き込まれていて読者の心を揺さぶってくる。特にチャンダとエスターの関係なんか、ぜひ日本の子どもたちに読ませたいですね。この作者は、アフリカの社会にどっぷり入りこんで書いているって感じ。母親の出自とそれによる、実家の人達の冷酷な扱いなんかもきちっと書いているから、それに立ち向かっていくチャンダの母親への思いや必死さが、ストレートに読者に伝わってくる。ところで、アフリカでは、「炭坑労働者」はインモラルと思われているのかしら?

アカシア:南アフリカでは、アパルトヘイトの時期に、炭坑へ単身の男性が出稼ぎに出て、不特定多数の女性と性交渉を持ってエイズが広まったという話もありますね。

愁童:今回の課題本は、両方ともあまりにも設定が似ているので、読んでいてこんがらがっちゃって、読み直したりしたんだけど、作品としての質の差は歴然。チャンダが、隣のマ・タファとけんかする場面なんか、あの子の必死さがすごく伝わってくる。こういう部分は、同じ年代の日本の子どもたちでも、すごく共感するだろうね。『炎の謎』の方は、けんかしても姉のローサとの姉妹ケンカの範囲でしかないけど。それと、『沈黙のはてに』は、後半で近所の子どもが穴に落っこちたけど助かるという挿話が、うまいなと思った。自分の子どもの責任になっちゃうところを、こんな父親でも役にたったという設定にしているところなど、この作者の、自分が創り出した作中人物に寄せる温かさみたいなものを感じて好感を持った。とことんダメな父親として切り捨てないで、ややブラック・ユーモア的な設定かもしれないけど、それなりに子どもを愛してたんだという作者のメッセージが何となく伝わってきてほっとさせられる。

トチ:私もここのところは感動しました。生きているときは本当にどうしようもない人間で、このうえもなく惨めな死に方をしたのに、自らの死体で、幼い子や、自分の娘を救うことになったなんて! 非常に奥深いものを感じました。

:読み始めたときから、チャンダがくっきりと存在感がありました。おせっかいな隣のおばさんマ・タファを鬱陶しく思うところや怒鳴るところなんか、16歳くらいだったら、そうだろうなって思えて気持ちよい。エスターの過酷過ぎる状況も、妹の反抗にしても、納得できます。エイズを抜きにしても、物語として読める。

愁童:こんなに過酷な状況でも、希望を失っていない。エスターを看病するところなんかも、熱いよね。

紙魚:なのに、看病するときは「手袋」をはめて、というようなところもきっちり書いているのは、すごいと思いました。

愁童:医者の免状が単なる製薬会社の営業販売会議への出席証書であることをチャンダが読み取ってしまう所なんかも面白かった。作者の目配りが、こんなところにも行き届いていて、チャンダという少女の存在感に繋げているのは見事だと思う。単なるエイズ告発キャンペーン作品と言うことよりも、主人公のチャンダを、きちんと書き込もうとする作者の姿勢に好感を持ったな。

ハマグリ:この本は、妹のお棺を選ぶという最初のシーンがとても現実感があって、最初から引き込まれました。チャンダが頭がよくて機転がきいて、自分の足を地につけている子だということが冒頭でよくわかる。うまい構成だと思います。この本のいいところは、この人はいばっているから嫌だとかではなくて、人間のいい面も悪い面もひっくるめてとらえようとしているところよね。子どもたちが置かれている深刻な状況には心が痛むし、p183のエスターのせりふ「あたしはエイズにかかるかもしれない。死ぬかもしれない。でも、それがなんなの? 今よりも悪くはならないのよ。」は、衝撃的でしたね。好きなのは、コウノトリが出てくるシーン。p229で「孤独だと、息をするのもつらくなることがある。……地面が私をぱっくりと飲みこんでくれればいいのに!」というところ、事態がどんどん悪い方へ向かっていき、主人公の気持ちが苦しくなるくらい読者に伝わる。そんなときにコウノトリが出てくるのはとても意外だったけど、1羽のコウノトリが、月の光に白いはねをかがやかせて、こっちを見ており、チャンダが思わずコウノトリに話しかける場面は、象徴的で美しく、心に残りました。コウノトリの存在は、ひとつの希望。どうしようもないほどの苦しみの中で、こんな形で希望を暗示する書き方がうまいと思ったの。『沈黙のはてに』という書名からは、暗く重い印象を受けたけど、実際はもっと希望や未来を感じる内容でした。これだけ過酷な状況でも、先生や看護師のように手をさしのべてくれる大人がいるというのもうれしい。

ポロン:この本のキーワードは、「衝撃」と「秘密」だと思いました。冒頭、16歳の少女が一人で妹の葬儀の手配をするのなんて、本当に衝撃的。そんなショッキングなできごとが、歯切れのよい文体で綴られていて、チャンダの緊迫感がびしびしと伝わってくる。それで、まず物語にぐぐっとひきつけられました。そのあとにもまだまだ衝撃! そして、秘密が! 両親がティロの村から出てきた秘密や、エスターが何をしているかとか、エイズのこと、となりのおばさんの秘密などつぎつぎ出てきて、すごーく読ませる。エイズを扱っていながらも、それだけではなくて、物語として読める稀な本。先月読んだ、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』(偕成社)とはちがって、エイズがでてくる本だと知らないで読んでも、ダマサレタとは思わないと思う。完成度が高い。嫌だったのは、エスターがあまりにもかわいそうなところ。ここまでひどくなくても。本当にかわいそう。

愁童:エスターの面倒を見ているという叔父叔母の家にチャンダがエスターを探しに行き、「今度来たら警察を呼ぶぞ」と言われ「呼べばいいわよ」と激しく言葉を返す場面も、頭に来たこの年頃の女の子がうまく表現されていて好きですね。

ポロン:説得力がありますよね。

アカシア:エスターの存在は、日本にいて読むとひどすぎると思うけど、こういう状況におかれている子って、私たちに見えないだけで世界にはたくさんいるんだと思うんです。だから、著者がつくっているキャラじゃなくて、リアルなキャラだと思うんです。ところで、さっきポロンさんが言った、松谷みよ子さんの本だと「だまされた」と思うのはなぜ? 正義の側から書いているから?

ポロン:うーん……。なぜでしょう? 「物語」があるかどうかのちがいかも。私が読みたいのは「物語」だから。「こういう歴史的事実があったことを教えてさしあげましょう」というふうに描かれていて、もしもそれ以上のものがほかに感じられなかったら、「私は歴史が知りたかったわけじゃなかったのに」となって、ダマサレタと思っちゃう。でも、この本の場合は「エイズのこと、教えてさしあげましょう」という姿勢ではないし、物語はエイズのことだけじゃない。人がちゃんと描かれてる。エイズの話だと知らずに手にとったとしても、楽しめると思う。今回はエイズの話って知っていたから、この2冊を同じには比べられないけど。もし予想外の話だったとしても、読み終えて満足感があれば、ダマサレタとは感じない。そこが大きなちがいだと思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


山本直樹・美智子『新エイズの基礎知識』

新エイズの基礎知識

ポロン:私はこの本、むずかしくて読めなかった。読むというより、なんとか眺めたという感じ。だから、ひとことだけ感想を言います。「この本が、読める人はすごいなあ」

紙魚:そうなんですよね。これを子どもに読ませようとしているというのは、大人としてなんだかやるせないです。でも、この本ちゃんと重版かかっているし、こういう類のものでさえ他に類書がないので、きっと学校なんかでは参考図書としてよく使われているんだろうなと思います。これ、構成もよくないですよね。3章からはじまったほうが、まだよかったのでは?

アカシア:岩波の本は権威があると思われていて、引用されたりすることも多いと思うんですが、p151とp157は矛盾してます。p151の円グラフ(世界のエイズ患者の州別割合)では、感染者がいちばん多いのはアメリカで、全体の約半分を占めています。この同じグラフで、今回みんなで読んだ作品の舞台になっているアフリカの患者の数を見ると、70万6318人。グラフでも全体の三分の一くらい。ところが、p157の本文には「世界中のエイズ感染者のうち三分の二以上がサハラ砂漠以南に住み、その数は2100万人にのぼります」と書いてある。70万と2100万では差がありすぎます。円グラフの数字が正しいのかどうかも疑問ですが、正しいとするなら、なぜ2ケタも違うのかをきちんと説明してくれないと。政府が届けた数は意味がないと言いたいなら、実数に近いと思われるUNAIDSの推定数でつくった円グラフも載せておいてほしい。p151の円グラフは見やすいしインパクトが強いので、これを見たらエイズは主にアメリカの問題だと思ってしまう子も多いと思うんです。エイズは世界の貧困の問題とも大いに関係がありますが、この円グラフではその辺がまったく見えなくなってしまう。

ハマグリ:このようなグラフや表を載せる場合には、それをどのように読み解くかの解説も必要ですよね。

トチ:教室でエイズの勉強をするときなど、おそらく岩波で出したこの2冊を副読本のように使うんでしょうね。それだったら、もっと正確な、分かりやすい本にしてほしい。新聞記事は、いちばん読んでほしい重要なことから逆ピラミッド型に書いていくけれど、こういった本も作者が読者にいちばん伝えたいことをトップに持ってきて、最初の1、2章で飽きてしまった読者も、いちばん大切なことは知ることができたというような構成にすべきじゃないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


ダーシー・フレイ『最後のシュート』

最後のシュート

アカシア:語り手の「私」は、p26に「私は、チームに密着する地元の記者として」と出てはくるんですが、どういう立場でどうかかわろうとしているのか、後の方になるまでうまくつかめなくて、読んでいてとまどいました。それにノンフィクションなのかフィクションなのかもわからない(帯にはノンフィクションとありますが、図書館で借りたので)。雑誌に連載されていたせいか、コーチのこと、プレーヤーの争奪戦、親の期待、本人の焦り等々、流れが整理されていなくて、同じ問題が繰り返し出てくる。それに、それぞれのキャラの違いがそうそうくっきりしていなくて、イメージしにくかったですね。単行本にするときには、章ごとに一人一人とりあげるなどしたら、もっとわかりやすかったのでは? 読んで得したな、と思ったのは、コニーアイランドが遊園地だけじゃないこととか、NBAビジネスの内幕とかがわかったこと。
翻訳については、原文の文体はわからないけれども、下町の10代の少年たちの会話を、ずいぶん古典的に訳しているなあ、と思いました。たとえば6ページの just do it を「不言実行」と訳したり、ナイキのコマーシャルの口調「若者よ、一生懸命働き、一生懸命練習して、ご褒美にナイキの靴を買おう」も古典的。ひっかかったところもいくつかありました。たとえばp150に「俺は我慢して奴らの望むところへパスを出してやるのに、頭で受けやがるんだ。あいつら塊だよ、パンの塊だ」ってありますけど、パンの塊なんて日本語の会話で聞いたことないから、えっ?って思った。p151の「ずっとこれだよな?」も、どういうニュアンスなのか、よくつかめない。p268には「印象をよくするためにちょっとめかし込んで行ったほうがいいと思ってるんだ」と言ったあと「たぶんスニーカーがいだろうな」とあるんですけど、「めかし込む」と「スニーカー」が普通はつながらないから、ここも、えっ?と思ってしまう。p343ではステッフォンが「うんにゃ」と言ってますけど、そこまでの口調と違う。それと、「彼」という人称代名詞がやたらと出てくるのも気になりました。
訳者あとがきには、「これはバスケットボールについての本であると同時に、アメリカン・ドリームについての本でもある」とありますけど、本文p348には「奨学金の獲得を目指す一連の過程は、〜アメリカン・ドリームの黒人版ではなく、その残酷なパロディになってしまっている」とあって、もう少しこの2つの言い方の間の隙間を埋めておかないと読者に対して不親切です。この著者の言いたいことは、最後の最後の方に出てきて、それはおもしろいし、その後の主人公たちの生き方と照らし合わせてみるとなおさらおもしろいのですが、そこまでたどり着くのが一苦労。NBAで活躍しているステッフォン・マーベリーを知っている人なら、その周囲のことがよくわかるから、どんどん読めるでしょうが、中高生一般にお薦めできるような本だとは思いませんでした。

むう:訳については、アカシアさんのおっしゃるとおりだと思います。わたしも、あれ?と思う箇所がけっこうありました。読んでみて、これは子どもの本ではなく、大人向けのノンフィクションだと思ったし、そもそも井上さんがボブ・グリーンの訳をしているというのが頭にあったので、最初からノンフィクションのつもりで読んでいました。子どもの本という枠をはずして読んだので、さまざまなことを時系列で並べていくなかで、アメリカの社会のある一面が浮かび上がってくるのがとても、おもしろかったです。ある登場人物に沿って読み進んでいく物語というよりは、さまざまな事実を積み重ねていって全体像をあぶり出すタイプの本だと思いました。プロバスケットボールの選手を青田刈りする人々が殺到する有望高校生を集めたナイキ主催の全国大会が、黒人ばかりの選手を白人のコーチや監督が品定めして、あたかも牛の品評会のようだという形容があったりするのも、きついけれど、なるほどと思いました。ローマの拳闘士にも通じるようなプロスポーツの見せ物としての性格や、そこにしか活路を見いださざるをえず、その夢にすら手が届かずに終わってしまう貧困層の子どもたちといったアメリカの実情がかいま見えて、その意味でとてもおもしろかった。ただ、子どもを描いた本と子どもに向けた本は違っていて、これは子供に向けた本ではないように思った。訳文からも、それを感じました。どうしてこの本が福音館から出ているの?という感じですね。向こうでは子ども向けに出ているんでしょうか。

:大人の本、子どもの本という区分けにかかわらず、この作品は名作とは言いがたいですね。アメリカなら、このような本は掃いて捨てるほどあるんです。ナラティブの失敗でしょうか。作者が何を目的として書いているのか、意図がわからない。伝記ならば、このような設定で書くには無理がある。青春物語だとするなら、ひとりひとりの登場人物にリアリティが感じられない。おそらく、語り手の視点の問題でしょう。社会的な問題意識を描くなら、もっと主張やメッセージを明確にすべきですね。「私」の位置の不確かさが問題です。語り手になったり、登場人物になったり、255ページあたりでは解説者になっている。一貫性がないんですね。

ポロン:私は、すっごくおもしろく読みました。オドロキに満ちた物語! 3つの大きなオドロキがありました。1つめは、知らなかったスゴイ世界を知ったオドロキ。いやはや、たいへんな世界です。そんななかで、ここまでがんばる高校生がすがすがしい。4人の子は、みんなタイプがちがうし、私はそんなにこんがらがらなかったな。それぞれの登場人物を応援したくなった。
2つめのオドロキは、この作品がノンフィクションだった、ということ。これは衝撃的でした。26ページの最後の行に、「私はチームに密着する記者として、これからその一部始終を見届けることになるのである」とあるので、てっきり地方紙の記者かなにかなんだと思ってたら、新聞社で働いてるようすとか、自分で書いた記事とかでてこないし、ヘンだなーと思いながら読んでいたんです。学校にも自由に出入りしてるみたいだし、みんなの家のことも知ってるし……。「私」は、どこへでも行けて、自分がその場にいなかったときのこともわかっちゃう「神の目をもつナレーター」で、こういう設定って、フィクションっぽい。それで、フィクションだと思い込んでいたのに、エピローグの最後に「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある」という一文を発見して、もーびっくりしました。結局、「私」というのは、フリーライターで、1冊の本(つまりこの本)を書くという契約をした。このリンカーン高校バスケ部について書くための専属ライターだったということでよいのかしら。
3つめのオドロキは、この本が図書館のスポーツの分類の中のバスケットのコーナーにあったこと。こういう本を好きな人も、このコーナーにあるとは思ってないかも。と思う反面、バスケの練習法がのってる本を見たくてきた、普段ぜんぜん本を読まないような子が偶然手にとって、「いいじゃん、この本」っていうような出会いが生まれたりするのもよいなあと思いました。この本、別の図書館では、YAのコーナーにあったのですが……。
あと、文章についてなんですが、全体に一文が長くて、ときどきわかりづらかった。たとえば23ページ「リンカーン高校のチームの選手名簿は……」というところなど、まちがってはいない、正しい、正しいんだけど、入り組んだ文章で、すっと読めなかった。それから日本語では、この単語はちょっと……と思ったところがいくつかありました。たとえば、14ページの1行目、ステッフォンの髪型について「はやりのレザーカット」と出てきますが、次の行では「小さなつるつるの頭」とのことなので、たぶんスキンヘッドなんだと思うのです。だから「かみそりを使った髪型」ということだと推測するのですが、日本語で「レザーカット」といったら、別のもの。ちょっと前にカリスマ美容師という人たちが得意としていたような、長さのある髪にシャギーをいれたようなものを指しますよね。ほかにも、14ページ4行目の「キャンディ・バー」は、日本語ではたぶん「チョコレート・バー」。26ページ9行目や31ページ4行目に出てくる「ハイトップ・デザインのスポーツシューズ」は「ハイカット」のことかなと思いました。

すあま:私が借りた図書館でも、バスケットボールの分類の棚にありました。最初フィクションだと思っていたので、「私」がだれなのかが、わからなかった。装丁の感じは早川書房の本のようですね。大人で、ある程度読みなれた人じゃないとこの本は難しいと思う。作者の興味は、バスケットではなく、バスケット界の影の部分にあるわけだから、『スラムダンク』を好きな子がこれを読むとは思えない。

ケロ:全体を通して、突き放したような覚めた感じを、おもしろいな、と思って読みました。バスケットボールの専門用語や、アメリカの黒人の多く住む地区独特の空気など、わからないところを飛ばし読みしましたが。ただ、他の方も言っているように、最後の一文を読んで、初めてノンフィクションだということが分かりました。このような本の場合、ノンフィクションだということを、きちんと最初に言ってくれないといけないのでは?と思いました。これは、編集という視点での事なのかもしれませんが。それとともに、ちょっと章立てがよくわからなかったです。プロローグ、夏、一流大学による選抜、エピローグなんですけど、なんでここなのかな?という感じ。内容については、山場がなく、それぞれの学生のことが、流れでとらえられない。訳については、ボブ・グリーンの訳者だし、以前に読んだ物にもあったアメリカンコラムニストの匂いがあり、同じ世界だな、と思って読んだので、あまり違和感はありませんでした。

ハマグリ:折りを見て少しずつ読もうとしたら、前に読んだところが頭に入ってなくて、また最初から読むということを繰り返しました。わかりづらいところが多いですね。やはり、「私」が一体だれなのか、なかなかわからなかった。本分の終わりに「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある。」と書いてあるけど、これを前に持ってきたほうが、最初からはっきりノンフィクションとわかって読めてよかったのに。長年バスケットをやっている息子(20代)に読ませたら、ぱっと読んで、おもしろいと言ってました。バスケをやっている人なら、練習風景にしても、試合の詳細についても、もっと想像力が働いて、楽しめるのではないでしょうか? NBAの試合をよく見ていれば、選手の生い立ちや裏話にも関心があるので、この本はそのあたりの本当のことが書かれているということで、興味深く読めるのだと思います。バスケをやっている子ならだれでも読んでいるのはコミックの『スラムダンク』。あのときのあのセリフ、あの試合のあのシュート、というのが共通の話題になっています。本でも、そういう存在になれるものが出ればいいのに、この本はYAじゃないと読めないですよね。それから、エピローグで後日談があって、謝辞があり、訳者あとがきで後日談の後日談があるのは、ちょっとしつこい感じがした。エピローグだけで終わったほうが余韻があってよかったのではないかと思います。

カーコ:実はこの本は書評で見て、バスケットをしている息子が昨年高校に受かったときプレゼントしたのですが、読んだ形跡がありません。今回自分で読んで、バスケットやNBAがいくら好きでも、本を読みなれていない中学生には難しそうだ、と思いました。その理由の一つは、固有名詞やアメリカの生活を知らないとわからない言葉が非常に多いこと。もう一つは、この4人の高校生の描き方。彼らの内面をえぐりだすというよりも、外から見て書いている感じ。試合のシーンなども、この子たちに感情移入して読めませんでした。『スラムダンク』を読んでいる子を、それと一味違ったおもしろさでひきつけるところまで行かないのでは? みなさんの指摘している訳文の文体は、私はわざとこういうふうに訳したのか、と思いました。

げた:図書館員としては、福音館書店の本であれば、いい本だろう、と思ってしまうんですよ。あとがきには、古典とあるし。読んでみて、みなさんと同じような感想を持ちました。バスケットボールの本というよりも、ニューヨークの公営住宅街に住む子どもたちが、どうやってはいあがっていくかという社会派の本なのかと。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


ロバート・ウェストール『青春のオフサイド』

青春のオフサイド

アカシア:「エマ・ハリスをはじめて見たとき、ぼくは十歳だった。/戦争中だった」っていう書き出しがうまいですね。それに、ほかの2冊に比べて、この本は人間がちゃんと描けている。p44に「自分自身でさえ怖くなるようなさまざまな迷いを抱えたこの醜い野郎」と主人公の少年が自分のイメージを語るところがありますが、この年齢の男の子の心のあり方がよく出ています。主人公のロバート・アトキンソンとと先生のエマ・ハリスだけでなく、脇役のウィリアム・ウィルソン、ジョン・ボウズ、それにかわいそうなジョイス・アダムソンなどの描き方もうまい。こんな子いるだろうな、というリアリティがあります。文学を書きなれているウェストールのうまさなんでしょうね。スポーツ(ラグビー)を描いている部分も、先生やコーチを出し抜いて秩序をひっかきまわしてやろうという作戦があって、おもしろく読めます。訳でひっかかったのは一箇所だけで、p171の「仲間なんていうと、銀行強盗みたいだね」というところ。あとは、うまい。最近子どもの本で人間をちゃんと描き出しているものが少ないので、そういう意味でも、今日読んだ3冊の中ではこれがいちばんお薦めですね。

むう:とにかく、おもしろかったです。人間もよく描けているし、情景もすばらしい。主人公と先生とがローマン・ウォールに行くときのあたりの風景なんかも目に浮かぶようで、いいなあと思いました。思春期の男の子の、力が有り余っていたり、性のことをもてあましたりといったことがきちんと描けていて圧倒的。まわりの女性もちゃんと描けてはいるけれど、ちょっと男にとって都合のいい女性ばかりという気がしなくもなかった。でもそれは、おそらく主人公の目から見ているからなんでしょうね。ロアルド・ダールもそうだけれど、イギリスには男の子をきちんと書ける男の作家がいますね。とにかく、力のある作家だなあと思いました。

すあま:ウェストールの作品でこの本の前に読んだのが『禁じられた約束』(野沢香織訳 徳間書店)だったので、2冊が同じような印象で、私の頭の中ではセットになっています。大人になりかけ、でもやっぱり17歳、というところがちゃんと書いてありますね。最後は主人公が脅迫されていて、どう決着がつくのかと思っていましたが、納得のいく終わり方でした。読み手の年代によって、主人公の気持ちに添って読む人と、先生の気持ちに添って読む人がいるのではないでしょうか。

ポロン:おもしろくて好きです。青春の甘酸っぱいところと痛快なところが両方入っています。ラグビーにおけるがんばり方もイイ。ジョン・ボウズがとても好きで応援してました。エマが、最後は仕事に一生を捧げました、というのは、男性の願望なんでしょうか?

アカシア:そこは、男性の願望というより、エマが教師だったという部分が大きいと思ったけどな。

ケロ:のめりこんで、泣いて読みました。(「えー、泣いたのー」という声あり)。はい、だあーっと滝のように涙が出ました。何に泣いたのかというと、この切ない恋愛にですよ。こんな風な恋愛を描いて、子ども向け(ま、YAですが)というのは、日本ではないな、と思いました。主人公よりも、先生に感情移入してしまいました。自分の年のせいかな。ジョイスがかわいそうな子っていう意見があったけれど、私はそうは思いませんでした。むしろ、勝者ですよね。主人公に出会って、最初はろくに自分を表現できなかった子が、だんだん自分を確立し、輝いていく様子がえがかれていて。こういうところも、ジョイスときちんと対比されて描かれていて、すごいな、と思いました。

ハマグリ:私は先生の立場で読むというよりは、この主人公の気持ちになって読みました。最初の描き方が、とても読者をひきつける。デブ、デブと言われている子が、いじめた子をのしてしまい、体が大きいことを逆に武器にして、ラグビーで開花していく。頭がいいということにも気付いていく。この子の側から、最後まで読めました。一番好きだった場面は図書館にローマン・ウォールのことを調べにいくところ。司書が執務室にしまいこんでいる本を読ませてもらうくだり。「そこでコリンウッド・ブルースを開けたぼくは、ラグビーをはじめたときとおなじく、一気に栄光の世界へ突入したのだった。まるで、それまで知らなかった自分の家を見つけたような、それがもう何年も待ってくれていたような気持ちがした」(p27)。人類の偉大な財産に触れた喜びが伝わってきました。書き方も文学的で、「だがテニソン・テラスはちょうど未婚の叔母のように、自分の生活を固く守っていた。」(p89)というように、比喩を用いた修飾節が多く、言葉を尽くして書き込んでいます。女性では、エマよりもむしろ、ジョイスの書き方がうまいと思いました。ジョイスとつきあいながら、主人公がエマと天秤にかけて考えていくところがうまく書けています。ただ、この時代のイギリスという背景を味わえるかどうか。今の高校生が読んだとき、『ジェーン・エア』のロチェスターと『嵐が丘』のヒースクリフが引き合いに出されたり、シェイクスピアの『テンペスト』の脇役の名前が出てきてもわからないんじゃないかしら? 日本の読者にとっては限界があるのが残念です。

カーコ:私も『禁じられた約束』に続けて、印象をダブらせながら読みました。感心したのは、思春期の男の子の描き方。感情の機微や友達とのかけひきなど、このリアリティは男性作家にしか出せないのでは? また、読み終えたあとに、一人一人の人物がどういう人だったかくっきりと思い浮かべられます。これは人物がとてもよく書けているからでしょう。しかも、「子どもに書く」という姿勢が貫かれていて、どの人物に対しても目線があたたかい。日本でもこういう世界が書ける男性作家が出てくるといいですね。

げた:私も『禁じられた約束』と併せて読んでみました。。共感というよりは、気恥ずかしいような気持ちを持ちながら読んでいきました。主人公が優秀な子で、うらやましいな、というところも。ラグビーのラフプレーで、バッジをとられるのだけれど、文章の中ではラフプレーだということが読めなかった。原題は Falling into Glory ですが、日本語の書名とはかなり違いますよね?

アカシア:思春期ってつらいことがたくさんある時期だと思うんです。でもその中に、栄光の瞬間があるんですよ。さっきハマグリさんが挙げてくれたところにも『栄光の世界へ突入した」という表現がありましたけど、エマとの関係の中にも栄光があるんじゃないでしょうか?

げた:仮題のときは『栄光への堕落』となっていたのに、出版時には『青春のオフサイド』としたんですよね?

ポロン:オフサイドって、フライングみたいな意味ですか? ちょっと早かった。一瞬早く前に出てしまったということ?

アカシア:書名のオフサイドはいいと思ったんですけど、「青春の」は古くさいし、ダサい。私が中高生だったら「青春のナンタラ」という本なんて読みたくはないですね。おじさんやおばさんが懐古的に読む本かと思ってしまう。中高生に手に取ってほしい本なので、それが残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


香坂直『走れ、セナ!』

走れ、セナ!

アカシア:さらっと読めたんだけど、登場人物が全部ステレオタイプなので、がっかりしました。紋切り型の表現が多すぎます。お母さんの秘密というのが、秘密でもなんでもないし。新人賞入賞というけれど、どうなんでしょう? ハードカバーで出して、読者を獲得できるんでしょうか?

むう:すいません。他の2冊がそれなりにインパクトが強いというか、ぐっとこっちに来るものを持っていたので、今となってはこの本についての印象がほとんどどこかに飛んでしまって、ぜんぜんおぼえていません。

すあま:あまり期待せずに読んだんですけど、逆に読後の印象はよかったです。前回の講談社の新人賞佳作は『佐藤さん』だったので、佳作の人も良い書き手に育つ可能性があるように思います。今の子どもの感じを出そうとするあまり会話の部分で失敗する人が多い中で、これは違和感なく読めました。あまり本を読みなれてない子が読むのにいいと思います。

ポロン:おきゃんな文体に、最初はちょっとな、と思ったけれど、読み始めたらそんなに嫌じゃなかった。今時っぽい感じだし、みんなの意見を聞きたいと思いました。だけど、今の子って小学生からスパイクはいてるのかしら? 私の時代はスパイクは中学からだったんだけど……。スパイクをはいたら、タイムも1秒くらいはかるくあがっちゃうので、スパイクをはいてる子とはいてない子が、同じ競技会で走るというのは、ちょっと無理があると思いました。

アカシア:今の小学生に詳しい方が、「これは小学生とは思えない」という感想をおっしゃっていましたよ。

ポロン:走るところが、いまいちカッコよくなかったのが残念。速い人が走ると、それはそれはカッコよく、美しいものなので、もう少しそれが感じられたらよかった。あと、気になったのは「走りが」という言葉。テレビなどで「いい走りを見せてくれました」というような使い方を耳にすることはあるけれど、「走りがすき」といった言い方は、ふつうあんまりしないのでは?

ケロ:以前数学と文学は相性がいいという話が出たことがありましたけど、スポーツと文学の相性がいい本ですよね。良い意味で、単純にジーンと感動できる部分がある、というか。「セナ」という題名から、読むまでは陸上の話とは思いませんでした。また、お母さんがアイルトン・セナが好きと言ってるわりには、レースの事とか、あまり出て来ないですよね。これも、ちょっと残念。もう少し枝葉を広げられる様な気がするのですが。「走れ、セナ!」というタイトルとこの絵は、手に取りたくなるけど。

ハマグリ:見た感じがまずおもしろそうだし、日本の作品で、5年生を主人公にしたものは少ないから、その点がまずうれしい。最近の日本の児童文学は、もっと主人公の年齢が高く、ひねこびたところがあったり、人間との関わりが変にクールだったりするものが多いけど、この本の主人公は、わりと素直で単純で、5年生の子どもらしいところに好感がもてます。確かに登場人物がステレオタイプではあるけれど、ところどころ、今の子どもが共感できるところがありますよ。字面も文章の量も読みやすく、とにかくさらさらっと1冊読み通せる本だと思う。そういう本って貴重なのではないでしょうか。チビデブコンビは、ありがちな設定だけど、それぞれに俳句が上手だったり、数字を記憶する才能があったりしておもしろいので、もう少し書き込めばもっと良くなっただろうに。惜しい。

げた:紋切り型は紋切り型なんですけど、この読者対象で、前向きな作品は少ないので、図書館でも子どもに薦めたいと数をそろえました。

アカシア:だけど、紋切り型の本で人間について知るのは難しいんですよね。もうちょっと深みがあるとよかったんだけどな。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


リタ・マーフィー『真夜中の飛行』

真夜中の飛行

トチ:イギリスの本屋の店員にすすめられて原書で読んだので、邦訳のほうはじっくり読んでいないんですが……。今回のテーマは「秘密」ということですが、この本の場合「空を飛ぶ」ということが秘密なんでしょうか? それとも、主人公が伯母だと思っていた人が実は母親だったという秘密?

ケロ:この本の直接のテーマは、「秘密」ではなく、むしろ「成長」なんですよね。でも、「飛ぶ」にしても「母親」にしても、「秘密」として一つのキーワードになっているかな、と思ったのです。

トチ:原書も邦訳本も装丁が美しいし、本文もきれいに書けているし、主人公の一族の財産がトイレのちっちゃな金具で築かれたものなんてところもユーモアがあっておもしろい。でも好ましいけれど物足りない作品という感じがしました。単独飛行が大人になる儀式というのも、目新しい感じはしないし……それから22ページ「叔母」は「伯母」の誤植ですね。

むう:どうも、私はこういうタイプの本は苦手かもしれない。女の人たちがそれぞれにすてきに生きている、空を飛ぶ、といった設定はきれいだなあと思ったけれど、それだけでした。さらさらと読んで、はいおしまいという感じ。

ポロン:この本は、飛ぶところが気持ちよくて好きだったんですが、伯母さんが出てきたときにハハンときて関係がわかってしまい、ありがちな設定という印象でした。あと、このおばあさんはなぜ威張っているのかがわからなかった。男子禁制なんていって威張っているうちに、一家が滅亡してしまっていいのでしょうか。理由を書いてほしかった。

ケロ:今回みんなで読む本を選ぶ係を担当して、テーマとしての「秘密」という言葉が先に立ってしまったために、素直に読むことが出来なくなる部分があったのではと、選本の難しさを痛感しました。内容についてですが、私は、おもしろくすっと読めました。血のつながりからの束縛や、「飛べる」能力と折り合いがつけられなかったことなどが、自分のルーツがわかることによって、疑問がとけ、生き方に前向きになっていく。この「血のつながり」の象徴として「飛べる」ということを持ってきたところがうまいし、設定としてすんなり入り込めました。飛んでいるときの描写がとてもきれいで、とくに171ページの雁を下に見ながらいっしょに飛ぶところは、絵的にも素敵だし、高いところを飛んでいる雁を下に見ることで、その上の空の広大さを感じることができるのでスゴイと思いました。

げた:新刊のときに読んだのですが、なんとなく物足りない感じがして、うちの図書館にも2冊しか入れませんでした。飛ぶということの美しさ、すがすがしさを読めばよかったのかと思います。もともとの飛ぶ動機付けがあいまいなような気がして、さっと入ってこなかった。伝統といっても、300年も400年もあるわけではない。『魔女の血をひく娘』(セリア・リーズ/著 亀井よし子/訳 理論社)に比べれば、歴史も浅い。

たんぽぽ:私は眠れないときに、空を飛んでいるところが出てくると眠れるんです。飛んでいる情景はとてもきれい。今の若い人たちにおばあさんに縛られるという気持ちがわかるのかなと思いました。

アカシア:イメージとしては心地よい作品でした。ただ、お話のリアリティを考えると、ほころびがいくつもあると思います。登場人物にしても、作者が性格などを説明してしまって、その人の言動で読者がわかってくるというふうにはなっていない。メイブのいきさつなども、作者がただ説明してしまっている。そのせいで、深みがなくなっているのが残念です。「深いスリット」のある服を着ているという描写がありますが、飛ぶときには足も動かすってことなんでしょうか? どんなふうに飛ぶのかという描写があれば、もっとよかったのにな、と思います。48ページに「鉛中毒にならない鉛筆」とありますが、鉛筆なめても鉛中毒にならないですよね。

しらす:まず表紙がきれいでかわいいと思いました。若い10代の女の子が好きそうな内容で、ぱっと見がいい。主人公のジョージアがカルメンに会って怒りで飛ぶ描写がありますが、10代の頃の憤りの躍動感がありました。矛盾点はけっこう気になりました。女性だけの家族なのに、どうやって家系を維持していくのかというのが最大の疑問。魔女っぽいのだけど、ほうきがないので、飛ぶイメージがうかびませんでした。最後の落ち着き方もわからなかった。176ページあたりで、「私は母親のタイプじゃないから」というのも納得しづらい。

ハマグリ:「飛ぶ」ということは魅力的なのに、これを読んでもあまり飛んでいる感じがしませんでした。『シルバーウィングーー銀翼のコウモリ』(ケネス ・オッペル /著 嶋田水子/訳 小学館)を読んだときは、コウモリなのに、自分も飛んでいるような感覚になれたんですけど。だから、飛ぶことにどれほど重要な意味があるのか、伝わってこないんですね。読みながら、もどかしい気持ちが残りました。いろいろな女性が出てきますが、ひとりひとりが描きわけられていないので、絵になって見えてこない。訳は、「〜だけれど、〜」というのを多用している。見開きの中に3、4回も出てくると、気になります。109ページ「白髪まじりのの」は誤植ですね。

チョイ:おもしろくなる種があちこちに散らばってるのに、ほったらかされてる感じがあって、編集者としては、ここをこうしたら、ああしたらと、つい言いたくなるような作品でした。「心を引き裂かれるような悲しみから飛べるようになった」という冒頭の部分が私は好きで、そこが作品全体のモチーフとして生きてくれば、もっともっと深く、いい物語になったのではと思います。「悲しみ」が薄れてくると飛べなくなるとか……いろんな展開が考えられますよね。私はこの頃飛ぶ夢をみなくなったんですが、それはどうしてだろうって、つい考えたりしてました。トイレの小物の発明で暮らしてきた一族なんていう設定や、ちょっとしたディティールに作者のセンスは感じました。いずれにしても、あと何回か書き直せばいいものになりそうなのに、残念! てとこです。

うさこ:第1章の第1行目はとても大事。「ハンセン家〜かならず夜に飛ぶ」となっていて原書通りの訳なんでしょうが、例えば「ハンセン家の女たちは飛べる。どんなに天気が悪くても、飛ぶのはかならず夜」としてくれれば、物語の入り方がぜんぜん違ったものになったと思う。この訳だと、なぜ飛ぶの? その目的は? どうして夜に飛ばなきゃならないの? という問いが最初に頭にインプットされてしまい、ずっとその答えをさがすように読んでいってしまう。物語の1行目は特に大事に訳してほしいと思いました。83ページの10行目「完全無視〜」50ページ3行目「豚肉と名のつくものは〜」などわざわざそんなに暗く重く訳さなくてもいいのに、と疑問に思いました。訳者が真面目に訳されているので、もう少し物語の全体像をきちんとつかみ、原作者が何を書きたかったのかを受け止めてから訳してもらえば、物語がもっとちがうものになったのではないでしょうか。助産師とか、お産の話とか、墓石のことなど、おもしろい要素もちりばめられているのに、物語の位置づけというか、大きい流れにきちんとおさまっていない印象でした。

カーコ:飛ぶシーンや、土曜日に買い物に行ってサンドイッチを食べるシーンはおもしろかったんですが、全体としては物足りない感じがしました。儀式の日に、昼間一人で飛んでしまったことを告白するシーンがこの物語の山場だと思うのですが、あそこで爆発するにいたる主人公の心の動きが今一つわからない。そのへんがもっとていねいに書かれていたら、違っていたかなと思いました。文章でひっかかったところがいくつかあって、たとえば25ページ7行目。「うちには叔母たちもママもおばあさまもいて、常に騒がしかったけれど、そんなうるさいなかで……」は、この家自体うるさい感じがしないので違和感がありました。107ページ「火のないところに煙をたてるんじゃない」は、いいのかしら。147ページの最後「ドリームキャッチャー」は、どういうものかイメージできませんでした。

紙魚:私は、最初の数行を読んだ段階で、この物語全体が何かのメタファーになっているように感じたので、皆さんがおっしゃるほどには、細部に気をとめず読んでしまいました。「ひとりで飛ぶ」にいたる過程と、この年頃の女の子の成長って、そのままシンクロするように思えたんです。だから、実際の生身の女の子の成長そのままは描かれてはいないけれど、感覚的なところはうまく表現されていると思いました。そうやって読んでいくと、あの堅物のおばあさんは、女の子だからこそ経験する拘束力(たとえば、門限とか)の象徴かな、なんて。それから、動機づけがないというのも、女の子ならではの、非論理的な気ままさかな、なんて、いろいろ勝手に考えながら読みました。

愁童:あまりおもしろくは読めなかった。児童文学というジャンルが、やせてきているのは日本だけじゃないんだ、なんて思っちゃった。なんで飛ばなくちゃいけないの? というのがいちばんの疑問。少女が葛藤をのりこえていく成長物語なんだろうと思うけど、飛ぶ家系という設定があるために、肝心な部分はボケボケになちゃってる。作者自身が空を飛べる家系という設定を信じていない感じ。例えば主人公が空を飛ぶシーンで、お腹に風をためて……みたいな表現をしてるけど、これってスカイダイビングのイメージで、読者をシラケさせる。女の子の初飛行の儀式にしても、祖母の存在を過剰なぐらい気にして迎えさせているのに、肝心の祖母は立ち会うことをせず引っ込んでしまい、何の障害も葛藤もなく主人公を飛ばせて終わり! いったい何を書きたかったのかな?という疑問が残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


松谷みよ子『屋根裏部屋の秘密』

屋根裏部屋の秘密

しらす:読む前は敬遠していたのに、今回の3冊の中で唯一夢中で読みました。ゆう子とエリコとおばさんと直樹が交代で章が進んでいく。それぞれの思いが違うのに、ストーリーが分散していない。

アカシア:私はこのシリーズは『ふたりのイーダ』(松谷みよ子/著 講談社)しか読んでなくて、この本は今回初めて読みました。やっぱり松谷さんはうまいですね。人物の関係の描き方もうまいし、章ごとに語り手が変わるけど、ちゃんと読ませてしまうのもうまい。アウシュビッツもなかったことにしようというなかで、それに対して書かなきゃいられないと思って書いたと思うのですが、それだけが前面に出ることなく、遺言の謎を追って読ませていく工夫もいい。善良なふつうの人が実は戦争のときはこんなことをしていたと書くのは難しいし、イデオロギーが前面に出ると、物語としてつまらなくなる。でも、この作品では、「日本人も日本のアウシュビッツを持っていたんだ」という作者の驚きを読者が共有できると思います。自然の描写にも、リタ・マーフィーにはないリアリティが感じられました。

たんぽぽ:こういう作品は、これからも手渡していきたいと思いました。でもこの3部作は図書室ではぜんぜん動いてないんです。

げた:うちの図書館でも、閉架の場所にあります。恐ろしい事実が語られているのですが、重たいので、今の子どもたちにはなかなか手渡しにくいです。私の親世代の話なので、実感としても伝えにくい。伝えていかなければならないとは思うのですが、この装丁だと。今の子どもたちは気軽に手にとらないと思います。

しらす:私が敬遠していたのには、松谷さんの本だからという理由もありました。『ちいさいモモちゃん』(松谷みよ子/著 講談社)のシリーズは好きだったけど、この著者は戦争について語ることが多いと知っていたから。子どもには表紙が怖いかもしれない。ただ私は、今回読んで良かったと思いました。

ケロ:いわゆる、戦争の話、というと、私たちの世代は、戦争の話をそのまま素直にやるのを読んできた世代。でも、それが辛すぎる話だったということもあるし、とっつきにくさを自分たちで感じていたということもあって、今の子たちには、何かもうひとつ手法を介在させないと、もはや読んでもらえないのでは、と及び腰になるところがあります。この話は、ミステリーという要素。これがきちんと収まっている。他にも、タイムトラベルなどの手法をとって、こども達の身にひきよせて作るなど、戦争児童文学の試行錯誤はいろいろあると思いますが、それが最近はあまり成功していないんでしょうか?
挿し絵が写真をコラージュして起こしたような、特有の暗い感じなので、違う絵だったらどうだったのかと思いました。こういうドキュメンタリー風の絵って、こわそうでひいちゃうのかな? 戦争の時って、時間がたつとどんどん分からなくなってしまう部分がありますよね。高校のときに本多勝一の『中国の旅』という本を読んで読書会をしたのですが、ある人のお父さんが、この本に書かれていることはまったくのでっちあげなので読む必要はない、と言ったと聞いて、びっくりしたんです。事実を知っている世代がいなくなるので、戦争の話をどういうふうに読んでもらうのかが、私たちの課題の一つだなと思いました。

ポロン:『ふたりのイーダ』を読んだときに、楽しい話かと思って読んだら、ガーンッときて「だまされた」と思ったことあるんです。この本は「あのシリーズだから要注意よ」と思って読んだのでよかったのですが、子どものとき、こういう戦争の残酷なことが出てくるって知らずに読んだらやぱり「だまされた」と感じると思う。謎にひっぱられて、ストーリー展開のおもしろさで読んじゃうと思うけど、戦争のことを知りたいと思って手にとったのではないのに、こんな衝撃的なことを聞かされて、びっくりしちゃう。表紙も「戦争」って顔してないし。こういうのって知らなくてはいけないことだと思うけど、なかなか難しいですね。

チョイ:戦争を子どもに向けて著した本には、やはり色濃く時代性があります。今西祐行さんや竹崎有斐さんみたいに自分自身が戦争に行き、その体験を書いた世代、もう少し若くて、銃後での戦争や疎開体験を書いた人々、第二次大戦は知らないけど、その時起きてたベトナム戦争なんかを書こうとした戦後世代の飯田栄彦さんや岩瀬成子さんたち…というふうに。戦争がどんどん風化していく危機感の中で、どうすれば少しでも子どもに読まれ易い形で戦争の実相を伝えていけるのかって試みのひとつに、タイムトリップとか幽霊とかを使うってのもあったんですね。そういう流れの中で考えると、この本も、書かれた当時としては、精一杯の試みをしてたんだと思います。

たんぽぽ:『泥かべの町:アフガンを生きぬく少女』(デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳 さえら書房)は読める子がたくさんいますが、これは、読む力が育っていないと途中で投げだしてしまいます。

チョイ:アプローチが長いんですね。高い山は山裾が大きいように、正統な文学的手法で書こうとすると、アプローチが長くなるんでしょうが、それが今の感覚ではもどかしくなってるのかもしれない。

アカシア:読むスピードが速ければ長く感じないと思うけど、今の子どもは読むスピードも遅いですからね。

ポロン:アプローチの長さで、軽薄ではない重さや奥行きが生まれるんでしょうけどね。

アカシア:逆に、この書名だと、戦争の本を読みたいという読者を逃がしているかもしれないね。

むう:まじめな作者だし、じょうずだなと思いました。さまざまな描写もとてもじょうずだし、一人称の語り口もうまい。それに、先の戦争で日本が何をしたかを伝えなくてはというまじめな意図もある。なるほどなあと思って読みました。だから、それなりに納得して読んだのだけれど、最後の章がなあ……。ゆう子が語る二幕目、文書をちり紙交換に出しちゃったというあたりは、おい!という感じでした。チープに落ちたな、という気持ちで残念でした。じゃあ、どうすればよかったのかというと、よくわからないのですが。

トチ:こういうことを書くのに、フィクションとノンフィクションのどちらがいいのかなと思いました。子どもに読ませる力を持った作家がノンフィクションとして書けば、古くならずに残っていくと思うし、いっぽうではフィクションで書いたほうが、子どもがまず手に取るし、心の奥底まで染みこんでいくと思うし……どちらにせよ、こういうことを繰り返し繰り返し次の世代に伝えていくのが、児童文学の役目だと思うのですが、今の日本の児童文学は自分のまわりの狭い世界を描くものが多くて、大きな問題をとりあげるのはかっこ悪いと作家が思っているのかもしれない。そういう印象があるのですが、どうでしょう? こういう作品が今の時代もたくさん出てくれば、それじゃあ手法として『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、どちらが今の子どもたちの心に届くかという議論ができると思うんだけど。松谷さんのあとをひきつぐ作家はいないのかしら?
ひとつ疑問だったのは、中国の女の子の幽霊が、どうしてこんなにも日本の女の子に友好的なのかということ。もう少し恨みがましくてもいいのでは……と。

紙魚:作者自身が、この物語を書くために中国へ取材に行ったときに、現地の人に申し訳ないほどの歓待を受けたというのを、何かで読んだことがあります。人間って、つらい思いをさせられたから反抗的になるというような、一方的な表現はできないと思うんですね。いつも相反する気持ちを同時に持っていて、そのことが何かの解決につながったりする。作者はそんな願いを持っていたのでは?

アカシア:中国の場合は、日本という国家や政治家を非難しても、ひとりひとりの日本国民はまた犠牲者であったという考えを中央がとっているので、個人で行けば熱烈歓迎されると思います。フィクションかノンフィクションかという点ですけど、ノンフィクションだと「特定の時期に特定の場所であったこと」という視点が強くなるので、子どもが自分に引きつけて読むのは、なかなか難しいですよね?

むう:自分との関わりを持たせるには、フィクションにしないとだめなんだろうと思います。でも、下手にフィクションにすると、今度はトチさんがおっしゃったみたいに古くなっちゃうんですよね。この本もそうだけど。エリコみたいな子なんて、今いないですよね?

アカシア:でも、少女漫画には出てくるじゃない。

むう:この本が古さを感じさせるのは、やはり読者に距離感を感じさせているからじゃないかと思うんです。本来ノンフィクションにすべき資料がフィクションに埋め込まれたような構造になっているから、ちょうど木に竹を接いだみたいな感じになって、読者を引き込みきれない。フィクションになりきっていないんだと思います。たとえばウェストールの『弟の戦争』なら、あれは人の意識が入れ替わるなんていう、絶対に起こりっこなさそうな設定にしている。それが逆にフィクションの強みなんだけれど、この本は、子どもに身近な日常を語っている中に、どすんと事実をはめ込んでいる。その中途半端さがあるから、古く感じるんじゃないかと思います。

アカシア:戦争一般について描くのではなく、731部隊が本当にあったということを伝えるとすると、どうしてもこういう作品になると思うし、これはこれでいいと思います。

むう:731部隊の事実を伝えるという意図はすばらしいと思うし、たしかこれは80年代の作品ですよね。つまり、20年以上前に出されているわけで、その時期にこういう作品を書こうとしたという姿勢は立派だったと思う。この作者に文句をいうというよりも、そのあとに、これを超える形で何か書かれているか、ということが問題なんだと思います。

愁童:戦争体験世代の作家が免罪符を手に入れるために書いているみたいな感じを受ける作品。じじちゃまが箱を子どもに手渡しちゃう設定は、どうかと思った。そんなものポンと渡されたって子供は困惑するばかりでしょう。体験世代がきっちりと決着を付けて次世代に渡す責任があると思うけどね。戦争体験を伝えることは大事かもしれないけど、「ウザイ・キモイ・クサイ・死ね!」みたいな言葉が飛び交っている現在の小中学校の教室の状況を直視する姿勢が無いと、731部隊のようなことを作品として書いても、子供達の対人侮蔑語ボキャブラリーに「まるた」をひとつ加えただけで、書き手の自己満足に終わりかねないような気がするな。

チョイ:さっきも言ったように、自身の体験だけでなく、その後わかってきた戦争の様々な事実を、1980年代という時代に児童文学として表現しようとした試みの一つがこの本で、この本が出たこと自体は無意味だとは思いません。今読むと、古くさいとか、ノンフィクションの方がいいとか言われるかもしれないけど、松谷さんは作家としての自分なりの手法で731を残したかったのではないのかな。ここには、現代の民話や怪異を追いかけてきた松谷さんなりの表現があったと思います。それが成功しているかどうかはまた別ですが……。例えば、桐野夏生さんなんかが731を書いたら、また全然違うこわーい話になって読者がついたりしてね。

アカシア:松谷さんや早乙女さんを超える手法を持つ若い日本の作家って、いるんですか?

チョイ:戦争とか社会問題とかを子どもの本で扱うのはとても難しいから、なかなか成功しないんです。成功しにくいから売れないし、作家も消耗する。で、つい身近なテーマに行くんじゃないでしょうか。

愁童:このあいだ偶然、宮部みゆきの『ICO:霧の城』(講談社)を読んだんだけど、これプレイステーション、ゲームソフトのノベライズなんだってね。立場を越えた生きる者同士としての連帯感や共感、思いやりみたいなものが根底にしっかり書き込まれていて、『オオカミ族の少年』(M・ペイヴァー /著 さくまゆみこ/訳 評論社)と同じように、書き手が読者である子供達に伝えたい人間としての思いみたいなものが良く伝わってくるんですね。ゲームソフトのノベライズ仕事に宮部みゆきを選ぶ編集担当の方の眼力に拍手したいけど、その方の視野に児童文学分野の書き手が浮かんでこない現状というのは、かなり淋しいですね。

しらす:私は戦争を実際に体験した世代と交流がないので、実体験を聞いたことがないんです。人を「丸太」と呼ぶことだって、今の若い人にはショックだと思います。私の周りにも「靖国神社」や「A級戦犯」がなぜあれほど騒がれるのかよくわかっていない人はけっこういます。でも彼らもドキュメント番組やノンフィクション読み物は好きだったりするので、隠された真実を知りたいという気持ちは共通しているように見えます。アウシュビッツやベトナム、イラク戦争で行われていたことを自分たちの国でもつい数十年前にやっていたという真実は、若い人ほど衝撃的かもしれないけれど、その分深く受け止めるんじゃないかなと思います。

紙魚:先日初めて、広島の「原爆資料館」に行ったんです。そのときに、地元の人から聞いたのですが、資料館の展示が年々変わってきているというんですね。見学に訪れた修学旅行生などが気分を悪くしたりすると問題になるそうです。その人いわく、おどろおどろしい展示を少なくしているように感じるのだそうです。もしそれが本当だとしたら、それでよいのか? と疑問です。もうすでに、戦争を体験していない人が、戦争を伝えていかなければならない時代に入ってきています。私自身、「編集された戦争」しか知らない。戦争があって幸せになる人はひとりもいないはずなのだから、戦争はいけないんだ、戦争は不幸なのだという、たったひとつのことをどう伝えていくのかを、若い作家といっしょに考えていきたいです。

カーコ:細部の描写のかげんなど、書き方はうまいですね。でも、現代とのつなぎ方として、舞台がお金持ちの子の山荘だったり、「じじちゃま」と呼んだりとか、今の子が続きを読んでみたいと思うかな、と疑問に思いました。

うさこ:まさに戦後児童文学が生まれた背景を背負っているような作品。文章のなかに「天皇の命令だったんです」とはっきり書いてある。最近の児童文学は、自我の物語ばかりなので、新鮮に読めました。でも、エリコの描き方が真実味がない。じじちゃまから手渡された箱をちり紙交換に出すのは、作家が逃げているような印象がある。こういうまとめ方にすると、読者の中で問題意識として考えることなく、物語が素通りしてしまうのではないでしょうか。

チョイ:一般の文学では、若い世代もいろんな手法で戦争を書いています。例えば福井晴敏さんは、第二次大戦末期に最終兵器にされていく日独混血の人間を設定した「終戦のローレライ」なんかを書きましたが、「創る」ことであの戦争をとらえなおし、新しい読者を獲得しようとする底力を感じます。その点子どもの本は、小さくなっているかもしれない。世界がどんどん狭くなっているこういう時代だからこそ、物語の新たな仕掛けが出来そうだし、作家も編集者も「創る」ことをおもしろがれるんじゃないかと思うのですが。松谷さんは「現代民話考」という大きな仕事も残しているし、過去の作品を今更あれこれ言ってもねえって感じです。

小麦:表向き、戦争の本という顔をしていないので、「だまされた!」と思う読者がいるというのは頷けます。でも逆に、子どもの頃って「こういう気分だから、こういう本が読みたい」と思って本を手にすることってそんなにないと思うので、いい意味で「思ってもみなかった本との衝撃的な出会い」にもなり得るのではないかな? 鮮烈な印象を残す一冊として心に残るというような。まあ、いずれにしてもショックには変わりないんですが。
私自身も子どもの頃、シリーズ第一作の『ふたりのイーダ』を、てっきり楽しい本だと思って読んで、内容にびっくりしたのを覚えています。内容に関しては、かなり前の本だけど、未だに訴えかける力があると思う。戦争というのは、気づいたら始まっていて、どうにもしようがない大きな渦の中に、状況を把握する間もなく巻き込まれていくものだと思います。渦中はもちろん、戦後どれだけ経っても「あの戦争は何だったのか」と正しく説明できる人はどこにもにいない。全貌が掴めないそういった強大な「戦争」を描くなかで、梨花が刺繍した青いスリッパだけは、あたかも自分のそばにあるかのような、生々しい手触りを持ってせまってくる。実体の把握できない大きなものを描こうとする時ほど、身近でささやかな事柄を丁寧に描くのって効果的なんだな、と思いました。
「戦争文学」を読もうとすると、どうしても構えてしまうというか、戦争を知らない私たちと戦争の間に隔たりができてしまう。でもこの作品は、戦争を知らない世代のゆう子たちも、実はじじちゃまを通して戦争とつながっているということを意識させてくれる。「戦争は決して他人事じゃなくて、すぐそばにあるもの」というのは、今現在にも通じるメッセージだと思います。ただ、正直、ゆう子と直樹がいい子すぎる。やっぱりどこかで戦争との間に一線が引かれてしまっているような。実際戦争が始まったら、生きのびるために自分だってどんなに残酷なことをしてしまうかしれない、という切迫感は彼女たちにはやっぱりなくて、「過去の過ちを伝えていく」の善人の立場に立っている。まあ、それは頁数や対象年齢を考えると、仕方のないことなのかもしれませんが……。

ケロ:「だまされて、よかったー。だから出合えた」と思う場合もあるのかな?

きょん:設定は、そんなに目新しいものはないのですが、文章の力があって、松谷さんの世界に引き込まれて読んでいきました。途中で直樹を呼び寄せるところは、段取りっぽくてしっくりこなかったのですが、全体として訴える力がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』

チョコレート工場の秘密

チョイ:田村隆一さんの訳で読んだんですが、差別語が一杯あったんで新訳にしたのかなあと思いました。改めて読んでみると、チャーリーっていう主人公は、ほとんど何もしていないんですね。タイトルで想像するほどには、私は楽しくなかったです。

うさこ:前半は、チャーリーが主人公。後半はワンカ氏が主人公。わくわくしてひきこまれて読めました。設定が極端かなという印象はあります。チャーリーが10歳なのに祖父母が全員90歳というのはどうか、黄金切符が特徴のある子どもにあたりすぎる、チャーリーが雪の下から銅貨を拾い持ち主を見つけて届け出もしないまま「ラッキー」という感じでチョコレートを買うのはいいのかな、などと疑問に思いました。テレビアニメ版「フランダースの犬」のネロのことを思い出してちょっとひっかかったんです。子ども心に、良心の大切さというものがやきついていたことがあったので、話がうまくいきすぎると思った。『真夜中の飛行』は、訳者がどれだけ原作者の書きたかったことを理解しているか疑問だったのですが、柳瀬さんはちゃんと理解して独特な訳にしている。

カーコ:大げさな表現が出てきますが、読み始めてすぐに、ああこれはユーモアものだなと思って、そのノリで読んでいきました。次々と出てくる奇想天外な場面を楽しんでいくお話。書かれたのは1964年と古いのに、こうして新たに訳され、新しい装丁で出ると、新しい読者がつくんですね。昨年映画になったので、小学生は「チャリチョコ」と呼んで、学校の図書室でもよく貸し出されているようです。

紙魚:映画化で話題になってから、ふだん児童書の話などしたことのない友人の一人に「この話って、あっちいったりこっちいったりして、最後はもとの場所に戻るだけだよね」と言われたんです。その人としては、こんなシンプルなものが子どもに受けるの? と驚きだったようなのですが、子どものときって、それがおもしろかったんですよね。まさにそのお手本のような本です。

きょん:おもしろいものを次から次へと投げ込んだ、エンターテイメントのお話。しかし、だんだん読み進めていくと、ひとつひとつは、奇想天外でおもしろいのかもしれませんが、それがどうしたの?という気分になって、ちょっと物足りなくもなる。しかし、こそれは大人だからで、もしかして、子どもはこういうのが好きなのかなと思いました。なにも理屈ばかりではなくて、ただ単におもしろいというそういうのも大切なんだなと気づかされました。

愁童:最初読んだときはおもしろかったですね。同世代では好きな人、多いんですよね。時代的背景もあって、チョコレートなんて憧れのお菓子みたいな感じも残っている頃だったし…。子どもと一緒におもしろがって遊んじゃう、みたいな書き方も受けたような気がします。

トチ:ダールの作品そのものよりも、後書きで田村隆一さんの旧訳を揶揄して新訳を自画自賛しているので、だいぶ反感をかっているようですね。脱訳が多いという人もいますが、ウンパルンパ族の箇所などは、ダール自身が改訂版を出したときに削っているんですよね?

アカシア:最初の本ではアフリカからピグミーを連れてきて働かせているという表現になっていて、人種差別じゃないかと問題になったんです。だからかなり早い時期に原作が変わってるんです。おそらく作者自身が変えたんだと思いますよ。

トチ:改訂版にダールのインタビューが載っていておもしろかったのですが、ダールは「子どもが笑うところで自分も笑える」というようなことを言ってるんですね。それから「悲惨と笑いは紙一重」とかね。この物語はダールのそういうところがよく出た作品だと思います。私は大人のものも子どものものもダールの作品が大好きだから、ついつい文句が多くなるのですが、柳瀬さんの訳はダールのにおいよりも訳者のにおいがきつくて、好きになれませんでした。歌を訳すときに英文と同じように訳文も脚韻を踏むというところなど、大胆で、おもしろい試みだとは思うのだけど、そのためにわかりにくくなったり、楽しさが半減したりしているのでは?

むう:ダールっていうのは、とても意地の悪い人だと思います。この作品もそうだけど、視線がシニカルで、悪い子はこれでもかというくらい、徹底的にやられちゃう。そこが、子どもの感覚に合うんでしょうね。なんというか、子どもの描く世界のリアリティのなさにジャストミートしている気がします。バーチャルとは違う意味でのリアリティのなさ。さらにいえば、実に「男の子」の目線だと思う。イギリスでは、子どもの人気は絶大ですね。わたし自身はこの人の大人の作品はともかく、子どもの作品はあまり好きじゃありませんけれど。わたしは、今回柳瀬さんの訳は図書館で何十人待ちだったので読めなくて、田村さんの訳で読んだだけですが、差別用語はともかく、全体としてはそれほどまずい訳だとも思いませんでした。

ポロン:図書館で予約したら、43番目。借りられるのは3か月先だと言われました。

ケロ:選書するときに、この本でやりとりするのは野暮だとは思ったんですが、映画のことや新訳の事もあり、皆さんのお話を聞きたいな、と思いました。この本は、本当に突飛な発想だけど、やはりペンの力ってすごいなと思いました。工場の大きさとか、もちろん可能性という意味でも、こんな工場あり得ないのに、「ある」と書けば、その世界で読者が自由に遊べるのだから! ただ、さびしいことに、今読むと想像力が疲れちゃうんですよね。年取ったのかな? 映画は観たいような観たくないような。想像が制限されちゃうような気がして。

げた:うちの図書館でも、ずっと基本図書として置いていますが、しばらくの間動きが止まっていました。でも、映画が公開されてからは、動いています。今の子どもに、チョコレートがそれほど魅力的かと疑問に思っていましたが、映画でイメージが変わったのでしょうか。新版は判型が小さいので、小学生向きでないですね。それにしても、こんなに訳がちがうとは。

たんぽぽ:前の訳と全然ちがいますね。読後、結局ものわかりのいい子が残ったのかと思いました。新訳では子どもの名前も新たな訳語になり、その子の性格がわかりやすいです。子どもたちは、前の版は大きくて厚いので自分には読めないけど、新しいのは小さいサイズで読めると思うようです。

アカシア:児童文学というよりは、児童向けエンターテイメント読み物。しかも、登場人物が極端で、気にくわない、よくないやつを最後に徹底的にやっつけてしまうのは、昔話と同じ手法です。ダールは、子どもが何をおもしろいと思うか、というつぼをおさえていたんですね。自分がパブリックスクールでさんざんいじめられた体験もあるので、そういったものが作品に出てくるのかもしれません。新訳の方は、とてもよく売れてるそうですよ。脚韻を踏んだ詩にしたのは、翻訳者としての柳瀬さんの挑戦だったのでしょう。 プロの訳者としての心意気を感じます。工夫があちこちに見えてなるほどと感心したのですが、ゆったりと流れる味わいのようなものは、田村訳のほうがあったかもしれません。おじいちゃんのへそくりで買ったチョコレートをチャーリーが食べる気になれないというあたりは、田村訳で読んだときはほろっときたもの。

しらす:映画だとわからなかった悪い子たちの名前が、この本ではわかりやすかったです。語感もおもしろいですし。アゴストロングのにくにくしさったら! 児童文学だとやってはいけないと思ってしまいそうなこともやってるなあと思いました。

小麦:もともと不謹慎だったり、突飛だったりするものが大好きなので、この本の突き抜けた残酷さやブラックユーモアが、子どもの頃に読んだときは、やたらとおもしろかったのを覚えています。時を経て、いい大人になった今でもやっぱりおもしろい。私自身は、訳も映画も古いバージョンの方が好きです。判型もハンディサイズに変わって洗練されたんだけど、昔の、いかにも児童書然とした判型の方が、ダールの破天荒な感じや気持ち悪さが伝わってくるような気がします。映画も、ティム・バートンのリメイク版は映像もすごいし、昔なら不可能だった表現も思いのままなんだけれど、オリジナル版のいかにも手作り感の残る映画の方が、洗練されすぎていない分かえって不気味だし、チョコレートもおいしそう。あまりに作り込みすぎちゃうと、元々の手触りはどんどん奪われてしまうんだな、と思いました。

ハマグリ:旧版の本は、以前映画化された時にそれに合わせたカバーをつけています。もとの表紙絵と全く違う絵なんですが(みんなに見せながら)。今回の改訂版でいちばんよくなったのは、挿し絵。この導入の部分、子どもはきっとおもしろがると思います。見て、このよぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんの絵! しかも、おじいちゃんおばあちゃんが、もう一組いる。ベッドが1つしかないから、たがいちがいに寝ているんですよ! なんなんだこの家は! と読者の気持ちは一気に物語の中に入っていくと思います。しかも、これほどにまで貧しい男の子にクジがあたるという、とてつもない飛躍! かならず子どもの心をつかみます。差別表現があって、しばらくのあいだ、図書館でもすすめていなかった本で、改訂版が出たのはよかったけれど、ヤングアダルト向きで、小学生には手に取りにくい装丁になってしまったのは残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


岡田淳『だれかのぞむもの』

だれかののぞむもの

愁童:先月の2作と作品の構造が似ていて、またか、という感じで読んだ。他人が望むとおりにかわっていくことなんてつまらないよという、作者のメッセージは分かるけど、作品としては物足りなかった。『魔空の森へックスウッド』もそうだけど、舞台装置は面白いけど、役者が芝居をしていないドラマを見せられているような気分になってしまう。

紙魚:『オオカミ族の少年』の舞台は、まるで実在の森のような湿度や匂いが伝わる、いわばリアリズムの森の延長上にひろがるファンタジーの森。それにくらべて、この物語の舞台は、作者がつくった箱庭的な森。中学年くらいの人たちが安心して歩きまわれるのではないかと思います。他人が望むままに変じていくフーという存在を見せられて、読者は自分自身におきかえて考えてみるという作業もできそうです。そうしたメッセージ性をそそぎこむ、作家の思いのようなものを感じられてよかったです。こうした低年齢の人たち向けの童話って、このところ書く人が少ないので、応援したい。

アカシア:この巻だけを読むと、物足りない感じというか、よくわからないところがあるかもしれませんね。スミレさんとギーコさんがキスする場面なんかも、それぞれの登場人物がもつ背景がもっとわかったほうが、面白さが増しますよね。1巻目を読むと、それぞれの人物の特徴づけとか、物語世界の背景がよくわかります。でも、この巻だけ読んでも、謎でひっぱっていきながら物語の面白さでも読ませるという、そのブレンドの具合が心地よいと私は思いました。挿絵は、岡田さんがご自分で描いているのですが、これは、どうなんでしょう?

紙魚:背景は丹念に描きこんであるのに、キャラクターは単純な線。かなり変わっていますよね。

アカシア:ほかの人の挿絵でも読んでみたいな。かなり違う絵になるかもしれませんよ。これはシリーズの7巻目ですけど、どれもそれなりにひっぱっていく力があるので、ずっと続けて読んでいく子どもたちも多いんじゃないかな。小学校中学年くらいの人が読む本は少ないし。

紙魚:今回の話って観念的ですよね。でもこれまでの巻で、ある程度具体的な説明が積み重ねられているので、作者も安心して観念的になれるのかもしれません。

うさこ:初めて読みましたが、面白かったです。読んでいる途中、居心地のいい空間にいられました。争いや戦いなどが起こらない、いわゆるユートピア的な場所とユニークな登場人物、おもしろいカップリングで、しずしずとつづっている物語。少しも嫌な気持ちがせず、「心地よさ」という余韻を残してくれました。。香草のことなど、大人向けのテイストが入っているんだけど、変にメルヘン的でもなく、小学生向きということを強く意識したものでもなく、作家が自分だけの世界で遊んでいるわけでもなく、そこが読み手に心地よいのかもしれないと思いました。最後読み終わったら、予定調和的だとは思いましたが、このシリーズを読んでいる人はそれがよいのではないでしょうか。晴れた日に、外で読むのもいい。タビトの口調がまるで日本の武士のようで、イラストの雰囲気とギャップがありました。イラストは「上手な絵」という枠には入らないと思うけど、自分の描こうとしている世界をきちんと読者に伝えようとしている、「誠実な絵」だと思いました。

アカシア:タビトの言い方は、テレビで時代劇見てる子どもには、この人はほかとは違うしゃべり方だって、すぐわかりますよね。

紙魚:中学年くらいの読者には、ちょうどいいのでは? 私は全体をとおして、適度な不親切さを感じました。前半では、森の住人たちがそれぞれ、会うはずのない人に出会うという独立したエピソードが続き、バーバからの手紙が届くところではじめて、それらのエピソードが束ねられていく。前半で何もかも明るみにしないで、ゆっくりと読者の想像力を泳がせてくれるところが、よかったです。ふつうの言葉をつかい、やたらと飛躍することもない。むやみに凝ってないところがいいんですね。

トチ:初めて読んだのですが、登場人物が老若男女それにトマトあり、ポットありと工夫されていて、きっと子どもは楽しんで読むだろうなと思いました。初めてこのシリーズを、しかも途中の巻から読む私にとっては、ちょっとお説教くさい話が続いている感じがしたのですが、ほかの巻もそうなのでしょうか? こういうものって、テレビの連続ドラマのように、登場人物が一度しっかりと読者の心のなかに入りこんでしまうと、次からは「あのひと、どんなことしてるのかな?」という興味で、どんどん読みすすめることができ、また次の巻、また次の巻ということになるんでしょうね。ですから、続刊のストーリーは、あまり大事ではなくなるのかも……と思ったりもしました。あんまりよく言えませんが。森ということに関しては、『オオカミ族の少年』のほうが戦わなければならない森であるのにくらべ、こっちは自分の世界を守ってくれる森。グリムの森ではなく、ぐりとぐらの森ですね。

アカシア:小学校の先生をしていた作家なので、子どもが何がわかって何がわかっていないという頃合いをちゃんと知ってるんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


ミシェル・ペイヴァー『オオカミ族の少年』(クロニクル千古の闇1)さくまゆみこ訳

オオカミ族の少年

紙魚:『魔空の森』はどこに向かって読んでいけばいいのか、てんでわからない物語だったのですが、この『オオカミ族の少年』は、どこからはじまりどこへ向かうのかということをしっかりと明示してくれるので、とっても読みやすかったです。見返しの地図もおおいに頼りになり、道筋の線をたどりながら、自分が今どの地点にいるかということを把握できました。だからこそ、少年やウルフが成長していく様も実感できたんですね。シンプルな構成ですが、シンプルな分、余計なことに気を散らせずに、自分が想像する世界観がどんどん重層的になっていく。1巻を読んだだけでは、謎がぜんぜん解明されないので、続きが読みたくなります。欲をいえば、紀元前4000年の世界って全く知らないので、もっともっと細かく知りたかった。あとがきを読むと、作者の方はきちんと調べて思い描きながら書いていらっしゃるようなので、その部分ももう少し読みたかったです。あと、匂いの描写がきわだっていましたね。

愁童:今回の3冊のなかでいちばん面白かった。あとの2冊があまりピンとこなかったので、これを読んで救われましたね。作家の思いが行間にあふれている。登場人物たちの人間関係もきっちりと分かりやすく語られていて説得力があると思った。森を書いても、森そのものの湿気とか寒さとか、情景が読み手の中に自由に拡がって行く力があるね。書かれている文章の何倍も読み手の想像力を刺激してイメージを膨らませてくれる楽しさがある。

アカシア:章の最後がどれも、「その先どうなるの?」と気をもませる所で終わるんですね。まだ1巻目なので、疑問はいろいろあって、それがこの先少しずつ解決されるかと思うと楽しみです。人物も、簡潔ながらふくらみのある描写になっていて、アイテムとプロットだけで引っ張っていくネオファンタジーとはひと味違うと思いました。

愁童:父親の「後ろを見るように」という教えを、時折思い出すところなんかもうまい。その時代を生きているトラクに、しっかりしたリアリティを感じさせる効果があるね。

アカシア:オオカミの視点から見て書いている部分は、色がないところなんかも面白いですね。

うさこ:12歳のトラクが父を亡くし、ウルフと後からレンが加わり、知恵と勇気をふりしぼってつき進む姿は、さあ、これからどんな試練が待ち受けていて、どう乗り切っていくのかと、わくわくしながら、引き込まれるように読みました。読み進めていくと、迫力あるリアリティと臨場感にあふれる物語で、実際は6000年前のこの土地や民族、文化を全く知らなくても、まるでそこにいていっしょに冒険しているような感覚にとらわれました。最後の一行まで何がおこるかわからないといった物語のよい緊張感と迫力で、話のなかに没頭してしまいました。

アカシア:読んでいて、「またここでひっくりかえすのか!」という意外性がありましたね。

うさこ:構成は案外シンプルだけど、ディテールがしっかり書き込まれていて、そこが物語をしっかり支え、生き生きとしたリアリティをもってストーリーを展開させています。しかも、ディテールが書き込まれすぎると、全体の流れが悪くなったり読み疲れたりするものですが、それが全く感じられませんでした。
この時代の衣(着ているもの、着方、服や靴の作り方)・食(食料、調理方法、食べ方)・住〈火のおこし方、ねぐらの確保)・祈り・信仰・魂のとらえ方・墓・大自然の一部としての生きのびかた・他のものとの共存やルールなど、いろいろ興味深い点が多かったです。しかも既刊の本にないステレオタイプな表現が一つもなかった。そして、そういう匂いとか皮膚感覚とかがずいぶんリアルだと思い、本や資料の上だけの考察ではないなあと思ってこの原作者のことを調べたら、原作者は実際、東フィンランドからラップランドまで300マイル馬に乗って渡り、原始生活の体験をしている。どおりで、やけに土臭いと感じました。p218レンがオオライチョウをとってきて、調理して食べているシーンは実際食べたいとは思わなかったけど、実においしそうなにおいがしてきました。訳者は実際原始生活体験などはしていないと思うけど、それをほんとにここまで表現できるのはすごいなあと思いました。

愁童:少年と子オオカミのウルフは、親を亡くしたという同じ設定で書かれているけど、きちんと書き分けられているのに感心した。ウルフの感情を擬人化して書いていても、読み手には、いつもオオカミとして感じさせるだけの配慮がされていてうまいなと思った。

アカシア:トラクは、最初子オオカミを食べようとしますよね。そのあたりもリアル。

愁童:そうそう。あの時代なら、食べても当然。

アカシア:子どものオオカミって、大人のオオカミが一度食べて吐き出したたものを食べて育つらしいんですよ。この本では、トラクはたまたま熱があって吐いたんだけど、それをウルフが食べることによって関係が成立していく。そういうところも、ちゃんと書かれているんですね。

うさこ:ちゃんと生態をおさえて書いているところなどは、ウルフをまったく擬人化せず、オオカミとして扱っているってことですよね。

愁童:だから最後、トラクとウルフが助け合っていくというのも、説得力がある。今風のペットと飼い主の関係じゃなくてね。

うさこ:物質的な世界だけをすべてととらえていない。氷河を生き物としてとらえていたりもするし。

アカシア:アニミズム的なとらえ方をしている描写があちこちに出てきますよね。

うさこ:今は、人間が中心で、そこに実在するものだけが世界を構成するすべてとなりがちだけど、この時代、死んですぐの死体に触れちゃいけないとか、死(体)へのルールというか、魂のとらえ方一つとっても、ものすごく多面的にとらえて書いている。この時代に生きた人間は、自分を「ヒト」と自覚していたのかな? 動物や他の生物、鉱物のなかの一つ、くらいに思っていたのかな?

アカシア:human beingとはいえないのかもしれませんね。ほかのものとは少しちがう存在というくらいなのかしら。

愁童:古代人のところまできちっと戻って、その生態を描き出そうとする、作者の意欲と努力みたいな熱気がすごく伝わってくるよね。当時のトラク達の氏族がオオカミとつながって生きていたということに何の違和感も感じさせない世界を見事に描き出して居ると思った。

紙魚:現代が舞台だと自我の問題が軸になる小説が多いですが、やはり古代だからか、自我の問題が影をひそめ、生き抜くということが色濃く出てることに新鮮さを覚えましたね。

トチ:一気に読んでしまいました。原初の森の魅力が存分に描けているところが、ほかのファンタジーと一味違うところ。動植物の名前がたくさん出てきますが、私も読みながら、どんな色でどんな形のものか分かったらもっと楽しめるのにと悔しくなりました。少年、少女、オオカミがいっしょになって冒険するという話なので、男の子も女の子も、そして私のような動物好きの大人も楽しめる、それからさっき言ったように植物が好きな人も……というわけで、ベストセラーになった理由もよく分かります。まんなかへんで出てくる、鳩の腐った死体をすすっている、気のふれた男……あまりにも迫力があるので夢に出てきました! こういうものを読んでいる時いちばんハラハラするのが、主人公が死にはしないかということですが、その点シリーズものは、どんなことがあっても死ぬはずがないと安心して読めるので助かりました。去っていったウルフが、きっと続刊で群れのリーダーとしてあらわれ、トラクを危機一髪のところで救うのでしょうね。続編が楽しみです。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『虚空の森ヘックスウッド』

魔空の森へックスウッド

アカシア:すみません。5分の1まで読んだのですが、よくわからないし、訳にも引っかかって先が読めなくなってしまいました。

愁童:行間に何もない。設定が宇宙規模で多彩な割には、ストーリーは貧弱ですね。

紙魚:読んでいる最中は、なにしろ読みにくくて面白くなかったんですが、冷静に設定をふりかえってみると、要素はなかなかよくできているんです。アンという13歳の主人公が空想でつくりだした、「王様」「奴隷」「少年」「囚人」が、実際に登場人物として動き出し、アン自身もその物語の中にとりこまれていく。もう少し、物語の構造が整理されていたら、面白くなりそうです。もしかして、訳もあまりよくないのかもしれません。一文の中で行ったり来たりするので、頭に入りにくい。

愁童:訳文についてはいろいろあるけど、たとえば20ページ6行目のところなんて、何を言ってるかわからないんだよね。「あの赤い目に自分の姿は見えていないようだ。そう覚った少年は自分が来た道を、静かに急いで戻っていくことにした。/銀色の怪物が視界から消えるまで、彼は懸命に走った。」いったい少年はどう動いたのかね?

アカシア:翻訳者にもいろいろいて、まず全体を読んで作品世界を理解したうえで訳す人と、読まないで頭から訳していく人と両方いるんですよね。作品世界を把握しないで取りかかると、伏線なんかにも気づかなかったりするし、どっかで必ずボロが出ます。とくにダイアナ・ウィン・ジョーンズって癖があって一筋縄ではいかないから、よくよく物語世界を理解しておかないと訳せないと思うんですが、この訳者はどうなんでしょうね?

うさこ:最初の20ページくらい読んだところで、何だか物語に入っていけなくて、あとがきから読みました。それを読んでも、この訳者の文、とてもまわりくどくて、わかりにくい。しかも、あとがきだけで、誤植が2つもあるのにはうんざり。それから、本文の文字組みのレイアウトがひどい。分厚い本、長いお話であればあるほど、読みやすい文字組など読書環境を整えることは大事だと思うんですが。いろいろなマイナス要素が多くて、読みたい気持ちがなえてしまって、読む気になれませんでした。

紙魚:ルビのつけ方も気になりました。こんなにたくさんつけるなら、もう少し漢字をひらいてもいいのにと思うくらい。それから、森の描き方でいえば、『オオカミ族の少年』からは、森への畏れや作者の願いみたいなものを感じましたが、この森は、手につかみとれるような安易で軽い森。どんな森でどんな風が吹いていて、磁場が具体的にどうかわるのかというようなことには、全然ふれずに過ぎてしまう。お手軽な森でした。『こそあどの森』は、やっぱり西洋的な森のイメージなのかしら。

アカシア:日本の森のイメージと、ヨーロッパの森のイメージはかなり違うんじゃないかしら? 日本の森は、森林浴とか小鳥の声とか癒しとか、プラスのイメージと結びついていると思いますが、たとえばドイツの昔話の解釈の本なんか見てると、森は、混沌とか魔物が出てくる得体の知れない場所とか、マイナスのイメージも持っていることがわかります。
*このあと、子どもをとりまく環境・変化する小説・日本の政治など、話は多岐にわたり盛りあがりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


ニール・ゲイマン『コララインとボタンの魔女』

コララインとボタンの魔女

きょん:忙しい中、細切れに読んでいたので、読み込みが足りないのかもしれませんが……。扉の向こうは夢の世界なのか? 不思議な、暗示的なストーリーだなという印象でした。しかし、なんの暗示なのか、よくわからなくて。両親を助け出すために、知恵を絞り、小さな少女コララインが必死にがんばるんだけれど、ボタンの魔女がいったいなんだったのか、よくわからなかった。“もう一人のママ”というのが、意味を持ったものなのかと思っていたら、最後まではっきりしなくて。案内役だった猫は、こちらの世界でどこへ行ってしまったのか? コララインが助けた3人は、いったい誰だったのか? 訳が、あまりひっかからなくて、盛り上がりもなくさっと読めたのも、印象が薄い要因かもしれませんね。

:不思議な感じのする始まり方ですね。家自体、住んでいる人自身が不思議で何かが起こりそうな舞台設定。コララインは家族にあまりかわいがられていない感じなので、魔女がかわいがるから子どもが寄っていくのかな? でも、なぜ魔女がそうなのかわからない。魔女と対決するあたりは、いちばん盛り上がりがあるところですけど、あの魔女はなんだったの? という違和感が残ります。

:動機が甘いファンタジーだなと思いました。簡単にファンタジーの世界に入りすぎてしまって、ボタンの魔女がなんだったのかもわからなかったし、この物語を通して作者が何を言いたかったのかもわからない。現実の世界に何か不満をもっていたのかどうかもよく伝わってこない。また親との結びつきが書きたかったのかというと、そこも最後まで伝わってこない。そのわりに、主人公が賢すぎて、冒険を簡単にクリアしていく。このイラストレーターは他の作品では好きな人ですけど、この話には合ってませんね。この作品は、アメリカでは、子どもたちと大人の読者の反応が分かれたそうですが、おそらく大人は魅力を感じなくて、子どもに支持されたんでしょう。日本の作品でいうと、例えば「大海あかし」の魅力に近いのではないでしょうか。子どもは、それほど動機づけがなくても、ぞくぞくわくわくするストーリーがあれば、さほど気にせず読み通してしまう。そんな点で、子どもに支持されたのでしょうか。

カーコ:アイテムとストーリーのお話という感じでした。目がボタンの人間のイメージとか、同じ家に住む不思議な人たち、穴のあいた石、黒ネコなど、おもしろそうな道具だてを組み合わせて、ストーリーが作られている。ドキドキするところがあって、子どもには面白いのでしょうけれど、文学として味わったり、考えさせられたりする作品ではありませんでした。あと、コララインは何歳かわかりませんでした。絵を見たら小さい子だけれど、母親とのやりとりからすると10歳くらいかしら。ストーリーからすると読者対象は小学校3、4年くらいかなと思ったのですが、それにしてはこの文章はかたいように思いました。訳もひっかかって、ところどころ何を言っているのかわからないところもありました。

愁童:お化け屋敷のガイドブックみたい。ディテールは、うまく書けていて説得力もあるけど、主人公のイメージが湧いてこない。舞台装置は立派だけど、役者が出てこない芝居を見せられているような感じ。

アカシア:ファンタジーの構造としては、古い家に引越してきて退屈している子どもが、孤独な時間のなかで日常の世界をつきぬけてアナザーワールドに行ってしまうというもので、ピアスの『トムは真夜中の庭で』とかジョーン・ロビンソンの『思い出のマーニー』なんかと同じですね。まわりに遊び相手の子どもがいなくて、つきあうのは大人だけという設定なので、そういう子どもの抑圧した心理状態を書いているのかなと思うんだけど、その辺はよくわかりませんね。文学というよりゲームみたい。ボタンの目の家族っていうのは、アイデアとしては面白いけど、もう一人の母親が魔女というだけで、それがなんなのか背景などは書かれていない。コララインが魔女と対決して囚われの魂を取り戻すところでは、困難の描き方が単純なので、ハラハラドキドキできない。一時代前のファンタジーは、隅々まで世界を構築してからその一部を作品にする、というものも多かったんですが、これは今風のゲーム的ファンタジーで、読者の頭の中に物語世界が構築できませんね。想像もできない。英語のアマゾンなどでは、クリーピーストーリー(不気味な物語)という評でしたが、それを薄めるためにこのイラストにしたのかしら?

うさこ:興味深く読んだのですが、この物語の感想は、まさに疑問の多さ。もう一人のママの目的はなんだったんだろう。ネコの言葉では「たぶん愛する相手がほしいんだろう…」、3人の子どもによれば「命を奪うこと、喜びも奪われる」っていうことですけど、奪ってどうするつもりなのだろうという疑問が残ります。また、ボタンの魔女が「あなたを愛しているのよ」→コラライン「愛していることはわかっていた」ボタンの魔女「あなたを愛しているのは知ってるわね」→コラライン「でも、愛情の示し方がへん」というやりとりがありますが、具体的に書かれていないので伝わってこない。おなかがすいているときにチーズオムレツを作ってくれたことが愛情なのかな?
こっちの世界とあっちの世界が必ずしも対称的になっているわけではないですけど、両方の世界観のバランスが悪いという印象。
p103の「マントルピースの上にスノーグローブがあって…」のところは、コララインはここで両親だとピンときていない。スノーグローブのなかに小さな人間が二人入っているというのは、確認しているのに。この二人を何だと思ったのかしら? p184でようやくマントルピースに手をのばし、スノーグローブをつかみ、ポケットへ。物語の構成が甘いと思いました。それに、コララインはボタンの魔女をずっと「もう一人のママ」という言い方をしてますが、最初は別として実質上だんだんそう思わなくなってからも言い方が変わらないのには違和感を覚えました。
イラストは、p136で「自分のパジャマとガウンに着替えスリッパにはきかえ…」と文にあるのに、p153,154,168のイラストはもう一人のママが用意した(p100で着替えたはずなのに)グレーのセーター、黒いジーンズ、オレンジのブーツのまま。p181で突然ガウンのみはおっているが、足はスリッパかな? p90とp99のガウンの色が違うのはなぜ? p22-23のレイアウトは面白いが、犬は3匹では…など、絵のチェックはどうなってるんでしょう? 大事に作ってほしいので残念。

ケロ:「逆境に負けない女の子」というテーマに沿って読もうとすると難しかったですね。それでは、この本は何の話なのかなと思うと、わからない。主人公の女の子は、引っ越したばかりで近くに遊ぶ友だちもいない。親も仕事が忙しいので遊んでくれない。また、新学期前の中途半端な時期で、新しい環境への不安もあるだろうと思います。そんな自己閉塞感から、妄想の世界を作ってそこで遊ぶ、というのは、子ども的には、すぐにポンと行けるアナザーワールドなのだと思います。妄想しやすい他の階の住人もいますし。その世界に遊ぶことと、その誘惑を断ち切って、現実に立ち向かう強さを手に入れて帰ってくる、という儀式のようなものなのかな、とも思うのですが、深読みのしすぎでしょうか? 気になったのは、ハリーポッターの賢者の石や、アダムスファミリーの手など、なんか、どっかで見たなーというようなものがずいぶんありました。

ブラックペッパー:たいへん読みづらくて、一回向こうの世界から戻ってきて、また向こうの世界に行ったあたりから、行き詰りました。苦しく思いながら読み進めてもコララインを応援する気持ちにはなれなくて、ママがゴキブリを食べるところがすごくいやだった。「毛のないゼリー」って出てくるのですが、ゼリーには普通毛がないのでイメージしにくい。ま、ここはヘンな生物についての描写なので、わかりづらいのは仕方ない、ということはありますが……。あと、イラストが文章と合ってないところがいくつかあって気になりました。p63のナイフを投げる人の服装や、p180のママの髪がよじれてるはずがストレートだったりするところなど。しかし、話自体に熱中できなかったのに、読み終わってみると、嫌な物語というわけでもなかった。

ちゃちゃ:作者のゲイマンは、親や児童書を扱う図書館司書のような大人の女性は「とにかくぞっとする」などというネガティブな反応なのに対して、子どもはけっこう面白がって読むといった話をしていたらしいんですね。私ははじめに原文を読み、次に訳書を読んだところ、日本語版では恐ろしさがすっかり薄まっている気がしました。原書は、筋立ての気味の悪さをイラストが何十倍にも強めているようなところがあって、たとえば魔女がゴキブリを食べるシーンがイラストになっていたり、魔女の目もボタンがとても大きくなっていて、不気味このうえない。ただ、小さな男の子だと、ゴキブリを食べるとか、そういう大人の汚がることを面白がる傾向が強く出る時期があるので、大人よりハードルが低いようにも思います。また、コララインの反応の細かいところが、基本的に子どもの考えそうなこと、やりそうなことなので、そういう意味で子どもは「ある、ある」と思って読んでいくのではないかとも思います。ゲイマン本人は、親がいなくなるというのは大人にとってはとても怖いことだが、子どもにとっては、この世の中はハッピーエンドの物語と同じなので、自分がジェームズ・ボンドになったような冒険気分で読めるのではないかと言っていたらしいですが、この本は女の子が主人公でありながら、実は男の子の感覚に近いものがあるような気がします。ただ、魔女の作った奇妙で空っぽでぼわっとした世界が、そういう世界としての輪郭をきちんと持っていないような気がします。ぼわっとしていて奇妙だというところがリアルに伝わらないため、印象がぼやけているのが残念です。今、映画化が進んでいると聞きました。

小麦:私はするすると面白く読みました。クラシックな作品とは一線を画す、まさに現代のファンタジー。主人公の内面の葛藤や心理、周囲との関係性を軸に描く のではなく、ひたすらストーリーの展開の面白さで、テンポよく引っ張っていく。行間で読ませる『キス』とは対照的だなと思いました。主人公のコララインは、迷ったり悩んだりしないで、彼女自身がストーリーテラーのように元気に物語を切り開いていく。ちょっとロールプレイングゲームっぽいかも。映画やゲームのノベライズ作品を読むときって、小説とは違った、一気に読める爽快感のようなものがあるけれど、この作品もそれに似た読後感がありました。著者のプロフィールに「コミックの原作をしている」とあって、なんか妙に納得してしまいました。文章も映像的。ボタンの魔女の世界で、近所のおばあさん姉妹の舞台を、客席にずらりと犬が座って見ているシーンなんか、なんとも不気味で、デビット・リンチの映像なんかで出てきそう。シーンごとの不気味な雰囲気づくりがうまいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


ポリー・ホーヴァート『みんなワッフルにのせて』

みんなワッフルにのせて

ブラックペッパー:読みやすくて、さっと読めたんですけど、笑っていいものなのかというのがわからない。「明るいブラックユーモアで定評のある作家」らしいけど、指をなくしたりするのも明るいブラックユーモア? 指をなくす場面も、それほど痛そうじゃない。得るものと失うものがあることを示す一つとして指を失うのかもしれないけど、でもなんでそんなショッキングなことにならないといけなかったのか、そういうところがわからない。章の終わりにレシピがついていて、私はレシピを読むのが好きなのでうれしく読んだのですが、ちょっと気になったのはバニラエッセンスの分量。p35の「ティリーおばさんのレモンシュガークッキー」とp73の「ティービスケット」では小さじ2はい。p64の「シナモンロール」では小さじ1ぱいとなっているのですが、日本でよく売られているものは、ほんのぽっちりでいい(材料1kgにつき2〜3mlと表示されています)ので、そんなに入れたら多いのでは……? カナダのものは味の濃さが違うのかしら? それともさじの大きさが違うとか? 1カップの分量も日本は200ccだけど、国によって違ったりしますよね。

ケロ:私は、こういう話はけっこう好きです。章立てで、「足の指をなくす」? えー、なんて思ってたら、「また指をなくす」なんてあって、ブラックだなあ、と笑いながら引っ張られるように読みました。このようなお話なら、「親は帰ってこない、でも、乗り越えたよ」という展開がふつうだと思うんですが、なんていうんだろう、このお話のとぼけた感じとか、不思議なことが起こりそうな感じからか、途中から、両親は帰ってくるんじゃないかな、と思いながら読んでいる自分に気づきました。そんな、ファンタジーとリアリティの中間のふわふわする感じを描くのがうまいなあと感じました。それは、痛そうな話をリアルに描かないこととか、幽霊が出てくるところとかから、作り上げられているのかな?とも思います。それと対照的に、気持ちの流れ、感情は、とてもリアルに描かれていて面白いですね。まわりの大人が、すごく面白かったです。ハニーカット先生とか、すごくいやなやつなんだけど、あー、こういう人いるかもね、と気の毒になりながら読んだりして。

うさこ:ファンタジーではなく、生活物語だと思って読みました。なのに、浮かんでくる映像が、実写ではなく、どこかアニメの映像をみているような気がしました。実質的な人間の世界のことではないというのか……。この子自身が、明るいというか強いというか冷静で、弱さや痛みがあまり書かれていないせいか、胸に迫ってくるものが弱く、感情移入するところまでいきませんでした。わざとリアル感を薄めようとしたのかもしれないけど、あまりにも感覚的な物語で着地しています。
 レシピを集めてどうしたんでしょう? 何か気持ちを整理できたということでは、この子の心の支えとなったのかな……。章ごとに出てきた食べ物をレシピとして紹介しているのは、2時間ドラマのTVコマーシャルで「ちょっとティーブレイク」的な感じもしましたが、深刻な話のなか(特にp81)に、(レシピはのちほど)とあると、話がぬるくなり、効果的ではないように思います。それにレシピはおいしそうだったけど、カットが弱い。せっかく絵を入れるなら、もっと読むのを助けるカットにしてほしかった。レシピでできたものを見てみたいと思うのに、素材ばかりが並べてありますもんね。イラストの役割をもっと大事にしてほしかった。
この本、主人公は11歳なのに、図書館では一般書コーナーにありましたよ。YAシリーズの位置づけが、図書館でも書店でもあいまいなんですね。読む年令と書棚にギャップがあって、読者にきちんとこの本が届いているかどうか疑問に思いました。レイアウトは字が小さくて、しかも教科書体は意外に読みにくいという印象です。書体や行間なども、もう一工夫してほしかった。

アカシア:足の指のところがブラックユーモアだとは、私は思わなかったな。ブラックユーモアというとダールを思い出しますが、それとは違いますよね。主人公の女の子は、まわりの人みんなが親は死んだというのに、生存を信じて待っている。待っている間に、親がいれば出会わないような様々な人に出会うという話。パーフィディさんとかハニーカット先生とかジャックおじさんとかバウザーさんとか、脇役の人たちにリアリティがあって面白い。「作者は明るいブラックユーモアの作風で人気」と訳者後書きには書いてありますが、この作品がブラックユーモアを基調にしているとは私は思いませんでした。訳は軽快で、心地よさがあります。現実には大変なことがいろいろ起こるけど、明るい気持ちでなんとか生きていこうとするこの子の感じが、いいですよね。ただ明るいだけじゃない、という微妙な感じがもう少し出ると、もっと面白かったかな。この作品は、『コラライン』と違って、生活もちゃんと書こうとしてるんですよね。だから生活に密着したレシピも出してくるのかな、と私は想像しました。p63だって、深刻な話をしているのに、生活者のバウザーさんは手を休めない。コララインはゲーム的ですが、この作者はもう少していねいに状況や人物を描写しています。ただ、最後に両親が帰ってくる場面は、この子の夢が報われてハッピーエンドになるのはいいけれど、なんだかバタバタと唐突な感じがして、もう少していねいに書いてほしかったな。読者は、プリムローズといっしょになって読んでいるので。

愁童:両方読んで、印象がごちゃごちゃになってしまった。かたっぽは、ファンタジックなおばけのところをぐるぐるまわる、こっちは現実のいろんな人のところをぐるぐるまわる。主人公が、積極的に周囲の人や状況にかかわっていくようには描かれていない。ご近所の人たちのようすは、よく書けているけれど、主人公の女の子が何を考えているのかよく分からない。おじさんが町を再開発しようとしていて、町の人の反発の様子も書かれているのに、肝心の主人公はどうなのか全然解らない。

アカシア:おじさんの再開発計画についても、主人公の女の子はまだわからないんだと思います。バウザーさんとの対立はちゃんと書かれていますよ。

愁童:まだらボケのおばさんに預けられた後、その家を出て、着るものを忘れてきたのを思いだして取りに行ったら無かった時の女の子の気持ちなんかもう少しきちんと書き込んでくれてもいいんじゃないかな。ここではむしろマダラぼけのおばさんの描写のエピソードとして使われているだけで、主人公側への目配りが薄い気がした。なんか、隔靴掻痒というか、主人公の女の子が何を考えているのかわからない。

ブラックペッパー:そう、女の子が何を考えているか、最後までよくわからない。

アカシア:私はそこは想像できたんですよね。主人公の内的な動きではなくて、表の意識にのぼるものだけを書いて想像させるという手法なんだと思ったんです。だって、この子は本当はつらいんです。だけど、つらいとか悲しいとかを書いていったら、逆につまらなくなる。

ちゃちゃ:この作品は少女の一人称で、一人称の場合、その年代の意識や分析能力などの制約を受けますよね。この場合は、この少女の一人称であることによって、痛みの感覚が完全に切り離されてしまっているのかもしれません。でも、アカシアさんが言われたように、ほんとうは痛いんだけれど、というところがもっと読者に伝わらないと奥行きが出ない。なんだかつるっとした奇妙な感じで、バタバタと終わったような印象を受けました。すらすらと読んだんですけど、最後のところで親が唐突に帰ってきたのは、かなり興ざめでした。

カーコ:私はけっこう面白く読みました。ちゃちゃさんがおっしゃったように、さびしいとか辛いとか痛いとか、負の感情はほとんど出てこないんですね。独立心旺盛で、人に依存しまいとしている主人公像を感じました。それに、脇役がユニークで面白い。人のために動いているようで、実は自分中心のハニーカット先生。ジャックおじさんは、面白そうだけど、近くにいたら大変そう。パーフィディさんのクッキーが、防虫剤臭いというのが、すごくリアルでおかしかったです。そういう細部がとても面白かった。最後に両親が帰ってくるかどうかは、どっちでもいいと思いました。

:深みのあるいい作品になりそうなのに、完成度が低いのが残念だと思いました。人生の真実のようなことをまわりの人がさりげなく言ったり、この子が両親が生きていると信じ続けるとか、魅力的な要素はたくさんあるけど完成度が低い。というのは、大事なバウザーさんが唐突に現れますが、もっと早い段階で現れるべきだったし、重要な役目のおじさんが場所によってイメージが違って全体像がつかめないところなどに、そう感じました。またしゃれたジョークっぽく、レシピはのちほどとか、小見出しでドキッとさせるなど演出がありますが、そういうのが邪魔で、もっとシンプルに書いたほうがぐっと深みが増すのではないでしょうか。それから一人称の文章というのは難しいなとあらためて思わせる作品でした。「レシピはのちほど」は、誰に向かって言っているのかなと。

:時間がなくてp67までしか読めなかったんです。でも、この子のつらさはp16の「こうしてあたしは、服や身のまわりの物を三か所にわかれて待つことになった。まず、ジャックおじさんが買った家。それから、パーフィディさんの家。ここにはお母さんに編んでもらったセーターを、虫に食われないようにおいておいた。それから、もともと住んでいた家。ここはおじさんが貸家に出した。そんなわけであたしは、体が三つにわかれているような、おかしな夢心地みたいな気分だった。あたしはもう、どこでも生活していない……お母さんとお父さんを待つために桟橋にいくとちゅう、あたしは思った。あたしの心は体の中にうまくおさまってない。きわどいところをただよっている。ふわふわ浮かんでいる」なんていう所に表現されていると思いました。現実を横にを置いておかないと苦しすぎるんだなあ、と私には思えました。

きょん:「理由もないのに心の奥に確信していることある?」と、繰り返し出てくるその言葉が、プリムローズの心の叫びなのかな? いろんな大人が出てきて、人物がとてもよく書けていて、そのエピソードがさりげなく断片的に出てきていて、淡々とした感じ、あっけない感じが、この本の魅力でしょうか? ただ、そういうふうにいろんな人やものを書くことで、それらに取り囲まれた主人公プリムローズが浮き彫りになっているところが上手だと思いました。セーターがなくなっちゃうと聞いて、どうなっちゃうのかなと気になってひきつけられる。そんなふうに、いろんなエピソードにひかれながら、読めていく。ラスト、「だけど、べつにかまわない。だって、わたしは知っているから。ここに住んでいれば、なんでも好きなものが手にはいるってことを。しかも、ワッフル(レシピはのちほど)の上にのって。」のところが、すごく好き。ただ、訳者あとがきに「この物語を読んでいたら、希望や喜びというものは人間に本来備わっているものなのではないか、ほんとうの絶望なんてありえないものなのではないか、と思えてきました」とありますが、これはちょっと言い過ぎかしらと思い、不快でした。ハッピーエンドをいっているのかもしれないけど…。

ケロ:p91に、「…きっと喜びって、両親とか、十本そろった足の指とか、自分で必要だと思ってるようなものがなくても生まれてくるんだ。それ自体、いのちを持っているんだな」とあって、そこにもつながっているのかも。私はそこが好きだったんですけど。

小麦:ホーヴァートは大好きな作家です。世の中から3センチくらい浮いた「変な人」を書くのがうまくて、「変なの〜」なんて油断して楽しく読んでいると、いつのまにか最後のところですっと感動させられたりする。おもて向き、いかにも「感動作」なんて顔をしていないし、なんとも飄々としているので、こちらも構えずに読んでいる分、最後の作者の優しさやメッセージが、すっと素直に入ってきます。最近出た『ブルーベリー・ソースの季節』(目黒条訳 早川書房)もそう。「変だけど、それなりに一所懸命生きてる」という、私の好きなキャラクターがたくさん出てくる、好きな作品でした。
帯に「完全なスラップスティックコメディー」とあるように、私もこの作品をある種のコメディーだと思って読みました。帯に引っぱられた部分は大きいとは思いますが。編集の方は、あのラストシーンを読んでこの帯を書いたんじゃないかな? 次々困難に襲われながらも、ことさら騒いだりしない、淡々としたプリムローズの姿勢は、笑っちゃうと同時に共感も覚えます。ほんとうに、困った事が起きた時って、私もこんな風なんじゃないかな、なんて思って。この本はヤングアダルトというカテゴリーに入るんだとは思うけど、組みや造本は大人向き。テキストの量を考えたら仕方がないのかもしれないけど、こういった本をもっと子どもたちに読んでほしいなと思ったので、そこはちょっと残念でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


安藤由希『キス』

走っていこう(『キス』の第二話)

カーコ:最初にこの第2話だけ読んだときは印象が薄かったのですが、1と3を読んでみたらけっこうよかったので、第2話を読み返しました。大事件が起こるのではない、日常の中の、中学生の微妙な心理が書いてあるのがよかった。だれしも、多かれ少なかれ問題や悩みを抱えていて、それぞれの子がそれを解決しようとするのだけれど、それがうまくいったりいかなかったり。中学生の、そういう当たり前の心情、心の揺れが書けていると思いました。でも、3話のキスはわりに自然だけれど、1話と2話のキスは、嘘っぽい感じがしました。

:ありがちないい話だけど、さわやかでいい作品だと思いました。第一話ですけど、自分の子どもが、こういう男の子に育ったら自慢だなと。自分が中学生だったら、外見の良さにばかりとらわれてしまって、その人の内面的なものまで見抜くことができないから、良さに気づかないような男の子なのだけど。それで私はとても面白く読んだのですが、同僚の男性は、「かつて少年だったぼくとしては、あの男の子は作りすぎで女の人が描いた男の子という感じがする。男ってこんなものじゃない」と批判的だったのが面白かった。自分だけの感覚ではわからないものだなと、つくづく思いました。

きょん:すごく前に読んだんですよ。すらっと読めたのですが、印象が薄くて細部は残念ながら忘れてしまいました。主人公の“あたし”のおとうさんに対する気持ちが、最初はきらいだったのが、マヌケだけど守ってあげたくなる、ずっと一緒にいてあげようという気持ちに変わっていく。この子の心の成長がすごく素直に書けていて好感を持てます。他に好きな人ができて家を出て行ってしまったお母さんが、お父さんが買ってくれたロードレーサーに、これまでは一度もみんなと一緒に乗らなかったけどふと乗りたくなってしまう。そんなお母さんの気持ちも、わかる気がして、ちょっとキュンとなります。また、そのお母さんをだんだん理解して、許していく主人公の気持ちの揺れも、よく描けていると思いました。

ブラックペッパー:たいへんすばやくさらっと読めて、ふわっといい気持ちになりました。でも、これって、良くも悪くも歌の歌詞みたいな文章で、子ども向けの本というよりも、大人が思い出して書いてるって感じ。

:ちなみに、恩田陸の『夜のピクニック』(新潮社)の男の子たちは「あり」ですか?って、先ほどの同僚の男性に聞いたのですけど、あれは「あり」だそうです。

うさこ:読み終わった直後は、行間で読ませる、ちょっとせつない物語だなあと思いました。が、ちょっと離れて考えてみると、この子は冷静でわりと大人で、自己完結している子ですよね。自分なりに消化していくんだけれど、それがどこか嘘っぽい印象。この作者は、主人公と等身大の読者を前に書いているのかな? かつて少女だった、もう少女に戻れない大人が読むとフーンと距離をおいて読めるけど、今、この年齢の子が読んで、本当に感情移入できたり落ち着くところに落ち着けるのか疑問が残りました。結構、コレ的な話は多くて(持ち込み作品などにもあるような…)あんまり新鮮さを感じられませんでした。ささめやさんの絵があるので、どうしても良さげに見えますが。だいたい、お父さんとお母さんがキスするところなんて、中学生の女の子なら、嫌悪感を持つんじゃないかな? そのへんも作りものくさいなあ〜と。

カーコ:でも、この子にとっては、キスはすごくうれしいことだったんじゃないかと思うんですよね。今は不仲な両親にも、昔は愛し合っていたときがあると、信じていたいという気持ちがあるから。私はとてもリアルだと思いましたよ。

アカシア:最初は、時間が前後してフラッシュバックしているのでわかりにくかったんですけど、2度目に読んだら、ロードレーサーに乗りながらいろいろ思い出しているという設定もわかって、この作者はうまいと思いました。第1話の男の子の描き方はともかく、この第2話は、おとうさんのかっこ悪さがよく書けていると思います。宿題を自信たっぷりのおとうさんにやってもらったら全部間違ってたとか、すぐゲップをするとか、しわくちゃのTシャツに着古したジャージという格好とか、かっこ悪いですよ。p96の「『おかあさんはな、ほかにすきなひとがいるらしい』おとうさんがそう言ったとき、あたしはおとうさんってほんとうにばかだ、とおもった。なにを言ってるんだろう、とおもった」も、細かく書き込みはしないけれど、行間からいろんな想像ができるじゃないですか。p93には「おかあさんはなにかすごいものがじぶんの前にある、という手つきでサドルを一度だけゆっくりなでた。/でもどうでもいいわ。/そんな顔をしていた」も情景が浮かんできます。冒頭のトラックの運転手さんとのやりとりとか、テーブルの上のふきんが四角くたたまれていたことからお母さんが来たのを主人公が感じるところにしても、この作品には、ゲーム的ファンタジーにはない細部の描写がちゃんとあります。しかも書き込みすぎていないのがいい。一つだけ残念なのは、中学生くらいの男の子って、「キス」っていう言葉が書名にあると、恥ずかしくて本が買えないんですって。本当にそうらしいの。

小麦:「嘘っぽい」という意見が出ていましたが、私もそれは感じました。この作家はとても器用な方なんだと思います。言葉は悪いけれど、こう書いたらこうなる、ここでこうしたら読者を引き込める、といったことが明確にわかっている。それを書きながら自分でうまくコントロールできるんだと思います。よく剪定された優れた作品だとは思うけど、剪定されすぎて印象に残りにくいという気がします。文中では、中学生の女の子が語り手におかれてますけど、私は「成長して大人になった主人公が、自分の大切な物語を思い出すように書いた」というスタンスでこの作品を読みました。成長して、時を経るにつれ、実際のなまなましさや嫌悪感なんかがうまく濾過されて、この物語が残ったというような。かといって大げさにならず、淡々と文章を紡ぐ感じは、清々しくて好きでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


ユベール・マンガレリ『おわりの雪』

おわりの雪

アカシア:文学としては、すごくおもしろいし、好きな本です。トビにいろいろなイメージを重ね合わせているところも、おもしろかった。ただ、子どもの本だとすると、ものたりないところがありますね。山に連れていって、わざわざはぐれるようにした犬は、その後どうなったのか、子どもの読者ならとても気になるはずです。

カーコ:原著はYA向けに出されているんですよね。トビの使い方が印象的。少年がトビに魅せられていくようすや、冬の寒々とした光景など、イメージが鮮明でした。でも、ストーリーは、わからないところはわからないまま、読んでいかなければならない感じで居心地が悪かった。たとえば、犬を山に置き去りにした後、養老院に行ったときの、オルグマンが拒否する反応が、よくわかりませんでした。お父さんとのやりとりも、どういう気持ちなのかわからないところがあります。

アカシア:私はそこがすごくうまく書けてると思ったけど。オルグマンが繊細な人だから、少年の言い訳を聞きたくないんじゃないかしら。「悲しいような苦しいような、なんともいえない表情」をしていたと書いてあるし。自分がその仕事をしなくてはいけなかったのを、少年に肩代わりさせたことの良心の呵責もあるだろうし。ただ126ページの「なんてこった」という台詞で、そのあたりが伝わるかどうかは難しいところですね。

カーコ:生きていきながら手を染めていく罪や、喪失感が底辺に流れていて、自分が今いるのとは違う場所に連れていってくれる作品。本のつくりからすると、日本の中高校生が手にするとは思えません。

紙魚:父と息子って、言葉でわざわざあらわさなくても、目線とか仕草とか、それまでの人生とか、いろいろなところでお互いに感じ合っている。それがそのまま文章で表現されていて、少ない会話と豊かな地の文から、その関係性がじわじわと伝わってきた。人と人の関係性を、会話だけで表現しようとしていなくて、むしろ、言葉以外の部分であたたかいものを授受し合っているのが伝わってくる物語。いい本でした。

アカシア:カーコさんが言ってた、お父さんとのやりとりでわからない部分というのは、どのあたりなの?

カーコ:やりとりがわからないというよりは、説明がないから、どういうシチュエーションでその言葉が発せられたかを、想像で補いながら読まなければならない。

アカシア:説明しないで読者に読み取ってもらいたいというあたりは、ほかの児童文学作品にはあまりないですよね。わざと読者との間に距離をおいている。だからこそ、しっくりとくるという読者も逆にいるでしょうし。シチュエーションや全体を流れる哀感は、『夜の鳥』(トールモー・ハウゲン著 山口卓文訳 河出書房新社)に似てますね。

ハマグリ:そうね。病気の父親をもつ少年の不安を描いている点で、私も『夜の鳥』と似ていると思ったわ。張りつめた緊迫感がよく描かれている。でも『夜の鳥』のほうが、たんすの中に鳥がいっぱいいる、というような具体的な形で少年の不安をあらわしているので、より児童文学的かも。『おわりの雪』では、犬を殺すことにどうしてこんなに関わるのかな、と思ったけど、最後まで読むと、この子のなかに常に「死」があったんだなとわかりました。この少年の、自分でも整理できないような心のひだを書いていて、夜眠れないときにぽたぽたと水がたれるところなんかも、うまく心理を表していると思う。こういうのを文学っていうのかな。140ページの「みじかい沈黙があった。〜〜ゆるしてくれ」がこの物語の山場よね。

アカシア:お父さんが自分の死を覚悟していたこと、お父さんが覚悟していたことを少年が知ってあわてるようすが、この短い部分に凝縮されてるのね。

ハマグリ:犬を捨てにいくとき、雪のなかを一歩一歩あるいて行くのをえんえんと書いていたわけが、これがあるからわかったの。

むう:この本は、子どもの本ではないと思うけれど、おもしろく読みました。筋で読む本じゃないので、とととっと走り読みができない。読む側も、ていねいに作品の世界につきあわなくてはいけないんだなあと、久しぶりにじっくり読んだ本です。とても静かな印象で、出てくるのも、「命を奪う」こととか「老い」であるとか「死」であるとか「囚われのトビ」とか、全体に沈んでいるんだけど、微妙なところがていねいに書いてあって響いてくる気がしました。「トビ」には、主人公やその父親の自由への渇望のようなものが投影されているようにも感じました。格言というわけではないのだけれど、25ページで「つらいのとはちょっとちがうんだ」と主人公が言うのに対して父親が「むかし父さんも、あることを経験した。ふつうならつらいと感じるようなことだったが、おれはそうは感じなかった。だがそのかわり、自分は独りだと、これ以上ないほど独りきりだと感じたんだ…」と答えるところがあって、しかもそれが決して浮いた感じになっていない。独特の雰囲気があると思いました。たとえば、犬の遠吠えをぶったぎる、といったイメージにしても、なにかあっと思わせられるところがたくさん重なっている作品。つねに「死」がそばにある感じでありながら、トビを買おうという主人公の姿勢には、生きていくという姿勢が感じられて、でもそれが解放されきるわけでもなくという微妙な感じがあとに余韻を残します。さまざまな人との会話が直球のやりとりというのとは違って、自分の思いを口にすると、相手はそれに触発されてまた自分の思いを口にし、といった進み方なのも、独特な感じです。長靴が光ったりとかいった物の描写で心象風景を表しているのもおもしろかった。

雨蛙:薦められることが多くて2回読みました。前回も今回も、いい作品なのだろうと思いましたが、読み進めるのがつらかった。父親の「死」が近いことが、実はどこかでわかっているのに、直接はだれも語らない。でも、主人公のとる行動や、父親との会話のなかにはつねにそのことがにじみ出ているからだと思います。つらかったけれど、忘れることのできない作品であることもたしかで、私も、YAとして出しても十分共感を得られると感じました。日本版のつくりは大人向けですが、子どもたちが手にとりたくなるような工夫がほしかったです。

:文学性の高い作品だなあと思いました。現実世界に密着した話で、欲しいんだけど買えないとか、父親が病気だとか、虚無感とか、現実の厳しさが表れています。物事がうまくいかない生活の質感がよく出ている。とぎすまされた文章というか、飾り気がないのがこの人の持ち味。猫を殺したりという、美しくも楽しくもない、目に見えない雰囲気を描き出すのがうまい。私は甘ちゃんというか、子どもっぽいところがあるので、こういう暗い話は苦手なんですけど、一気に読みました。父と子の幸福な絆に支えられているところに救いがあるからだと思います。ただ悲しくてつらいだけじゃない。出てくる大人が、トビを売る人は別だけど、信頼できる人たちなのもいい。ひとつだけ気になったのは、お母さんの仕事のこと。お母さんは夜の商売をしてたのかな? ハッピーエンドの児童書ばかりを読んでいてこれを読むと、大人の世界に入ったなあと思えるでしょうね。自分の経験から言うと、十代の頃に『異邦人』を読んだときみたいな印象です。

ハマグリ:この作品では随所に「似ている」という言葉が出てきて、それに傍点が振ってありますよね。たとえば18ページでは「あのころぼくが語った話は『ほんとうの話』の影とか鏡像のようなものだった、つまり、『ほんとうの話』とよく似たなにかだった」26ページでは「それはぼくの手の影というより、いろんな動物、なにか奇妙な物体がうごめくのに似ているようだった」86ページ「ひとつの丘に似ているたくさんの丘」108ページ「その部屋は、すこし、星の夜空に似ていた」最後も「そのときぼくは、まあたらしい長靴をみつめるひとに、似ていた」というふうにね。これは、どういうことなの?

アカシア:現実を直視しない、というか直視できない状態をあらわしているんじゃないかしら? お父さんがまもなく死ぬっていうことも、知ってはいてもお父さんも息子も口には出さない。お母さんが生活費をかせぐのに夜の仕事をしていることも、口に出しては誰も言わない。それが嫌だと思っても、ドアが閉まる音と自動消灯スイッチの音が聞こえるのが嫌だというふうにしか言えない。それと同じで、つらい現実からいつでも少しずれたところを見ている、ということをあらわしているんじゃないかな。

むう:この本を読み終わった後々まで余韻が残って、そのなかで「死」というものをずいぶん考えさせられたような気がします。別にこの本が声高に「死」について語っているわけではないのに。ひとつ特徴的な気がしたのは、この本には、「死」と正対する姿はいっさい出てこないということ。養老院でおばあさんが死んだときも、みんなそのことがなかったように日常を続けようとしていたり。でもその描写から逆に、とても受け止めきれないような大きなものとしての「死」の重さがあぶり出されている。直接書かないことによって、重さを出している。

ハマグリ:最後もそうよね。長靴をぴかぴかにみがくんだけど、それを見ないでいる。二重的に見ているということなのかしら。

アカシア:うまく言えないけど、おもてに出ているのは自分が長靴を見ている姿なんだけど、第三者の目で見ると、そんなふうにも見えるとしか言えない自分がいる。

カーコ:トビも、すごく象徴的に使われていますよね。前半はトビが捕らえられるシーン、後半はトビが肉を食べるようすが執拗に繰り返されるのが、生命線みたい。トビが野性や命の象徴みたいに。

うさぎ:私は、登場人物の年齢とか、具体的な設定がわからなくて、入っていきづらかったんです。物語全体に色がないというか、生活感がない。グレーな部分だけが表されていますよね。それが文学作品ということなのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


ベーラ・バラージュ『ほんとうの空色』

ほんとうの空色

むう:なんか、懐かしい気がした。昔、こういう本があったなあと思わせる雰囲気があります。ある種、古きよき子どもの本だと思う。シルクハットのなかで雨が降る話とか、主人公が聖人になりすますところとか、子どものころに読んだらおもしろがったはず。ただ、最初のところで、主人公が意地悪な金持ちの息子とかんたんに仲間になったのには、あれ?と思いました。そんなにすんなり仲間になっていいのか?、もっといろいろあるだろう、という感じで、そこは物足りなかったな。訳は古いと思います。

雨蛙:私も好きな作品で、最初読んだときに、こんな絵の具があったらいいなと思って、だんだん絵の具がなくなっていくのにハラハラ。結局、「空色」はズボンについたしみだけになってしまう。女の子に言われてそのズボンも手離してしまうけれど、その子の瞳のなかに「空色」を見つけるというのが、うん、いいなあ。だいぶ前に書かれた作品なので、女の子の会話の文体とか、母と子の関係とか、今の子たちは違和感を覚えるところもたしかにあるけれど、いっしょになって空想を楽しめるおおらかさがある作品。青い鳥文庫版の解説を今江祥智さんがつけているんですが、今読むと、ちょっと語りすぎかなって思います。

:この作品は、いつまでも心の隅に残っていそう。強烈な印象はなかったのですが、それは自分がすれてしまったせいかと、物悲しく思いました。子どもの本は大人が読んでもすばらしいと言われますが、これは子どものころに読んでおきたかった作品。最後に、少年が大事な絵の具をなくす瞬間が、肩透かしをくらった感じでした。

アカシア:映像的で、箱の中の夜空といったイメージもきれい。でも、映像なら自分で想像する余地が少ないので問題にならないかもしれないけど、文章で読むとこっちも細かく想像していくわけだから、あれっと思うところもありました。たとえば主人公のフェルコーが箱の中に隠れていると箱を探しにきて持って行ってしまう人たちが出てきます。そして持っていった箱を全部燃やそうとする。この人たちは何がしたかったんでしょう? わざわざ薪にするためだけに箱を集めていたとは考えにくいし…。私は物語中のリアリティを求めるほうなので、こういう所は気になりました。それに、主人公は空色の絵の具の作り方がわかっているのに、だんだんなくなっていくことを悲しんでいるだけで、作ろうとはしない。一度だけ試みてうまくいかなかったら、もうあきらめている。今の子どもだったら、もっと作ればいいじゃない、と思うんじゃないかしら。それから103ページに「紳士は耳にわたをつめていたので、ツィンツのことばがきこえませんでした」とありますけど、この紳士はどうして耳に綿をつめていたのか、知りたくなります。
今、日本だと、フェルコーほど貧乏な子どもはなかなかいないから、貧乏物語の部分は絵空事になってしまいそうですね。ダールの『チョコレート工場の秘密』には極端に貧乏な少年が登場しますが、あれはパロディー。今では貧乏物語はノスタルジックな世界になってしまっているかも。

カーコ:子どもがおもしろがって読める作品だなと思いました。どの場面も明るい色彩が感じられて好きな作品でした。絵の具をなくしてドキドキするところや、チョコレートボンボンを隠しておいてちょっとずつ食べるところなど、読者が共感できそうです。確かに、先生のシルクハットの中では雷が鳴っているのに、フェルコーの箱の空は大丈夫など、あれっと思うところもあるけれど、ほんとうの空色の絵の具は、ドラえもんのポケットみたいに魅力的。聖者のふりをしたり、もらってきたものをお母さんに渡すのに一工夫したり、この子はちゃっかりしたところもあっておもしろかったです。

紙魚:『おわりの雪』の主人公がどうしてもトビが欲しかった気持ちって、わかりますよね。大人になってから見るとどうでもいいものでも、子どものときって、異常なほどこだわりとか執着心をもっていたりしました。ほんとうの空色の絵の具もそうで、そういう気持ちを作者が忘れずに書いているところがよかったです。ただ、ところどころのアイディアに、どうしてそうなっているのかという裏付けがなくて、今の子どもたちがどう読んでいくのかは疑問。正直なところ「愛あふれる悪気ないご都合主義」という感じがしました。

ハマグリ:最近人にすすめられて読み、とてもおもしろかった本。母と二人暮らしの貧しい子どもがいる→窮地に陥る→魔法の力のあるアイテムをゲットする→謎めいた人物に助けられる→不思議なことが次々に起こる、というように、まるで昔話のような構成で、「おはなし」を読む楽しさを味わえます。夜になると筒状に巻いた紙の内側から光がもれてきたというような、美しい場面も印象に残ります。この本は、「子どもの頃に読んで忘れられないのだが、書名を忘れたので調べてほしい」という質問が図書館に寄せられることがとても多かったんですって。子ども心に残るシーンが多いからでしょうね。その昔「5年の学習」の付録冊子にもこの話が入っていたらしいのね。60年代、70年代に東京創元社、講談社から文学全集の1編として出て、1980年に講談社青い鳥文庫、2001年に岩波少年文庫に収録されたという経緯。復刊ドットコムでも票を獲得していたようです。岩波少年文庫では対象年齢を小学4・5年以上としていますけど、物語の内容からいうと、少し下げたほうがいいかもしれませんね。

アカシア:5年生だと、もっと現実的なものに目が向いてしまうから、難しいですよね。矢車草からほんとうの空色の絵の具をつくるというのも、男の子ならそっぽを向きそう。

紙魚:『ほんとうの空色』というタイトルはすごくいいですよね。タイトルだけでぐっとひきつけられる。

うさぎ:子どものときに読んだ風景と、大人になって読む風景ってちがうんじゃないかと思うんですね。シュールな終わり方がいいのかなと思ったんだけど、子どもの頃はもっとちがうふうに読んでいたのかもしれない。お話としてはおもしろく読めたんですが、インパクトがないというか、ご都合主義的でうまく助けが来てハッピーエンドで終わっているのには、こんなんでいいのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


吉橋通夫『なまくら』

なまくら

ハマグリ:新しく出た短編集ね。どれも江戸時代末期から明治にかけて、少年から大人になっていく途中の少年が主人公になってます。短編として最初からぐっとひきつけるものがあり、おもしろく読めました。話の展開もわかりやすい。挿し絵もたくさんあって、理解を助けています。今の子って、江戸時代の話なんか読むのかなとも思うんだけど、ここに出てくる子たちって、時代は違えども今の子どもたちと同じだと思うのね。何が出来るわけでもない、親も目標にはならない、なんとか今の状況を抜け出したいんだけど、何を選んでいけばいいのかわからないというところに立たされている。心情に接点があるだけに、かえって時代を変えたほうが照れずに読める、ということもあるのではないかしら。ただ、どれも似ているので、途中でちょっと飽きる。まあ全部読まなくても、おもしろそうな話をつまみぐいすればいいわけですけど。

紙魚:時代小説のような外観なので、もしかしたら大人の小説? と思わせられますが、やっぱり中身は、子どもの目線にきちんと寄り添っている。抱えている悩みや問題に、きちんとつきあおうとしている作者の姿勢がとてもいいと思います。それから、たとえば中学生くらいの人がこれを読み終えたら、ああ、これまでとはちがった小説を読めたなあという達成感も持てそう。時代小説も読んでみようかな、なんて気になりそうなので、時代小説の入り口にもなって、その後の読書の世界を広げる本になるのではと思います。

カーコ:文学的ではなく、エンターテイメント的な書き方だと思いました。テーマは、今で言う落ちこぼれ。自分ではなかなか何かをやりとおせない少年に、どこかであきらめず見守ってくれる大人がいる。4篇目の「チョボイチ」までで読むのをやめちゃったんですけど。こういうことって、今の中学生・高校生が抱えている問題だと思うので、ふと手にとって読むとおもしろく読めそうです。ただ、短編だから、ある瞬間をぴっと切り取っておしまい。「やっぱりがんばろう」と思うところで終わる良さはあるでしょうけれど、一方で、そこから先の山あり谷ありを描いたものが読みたくなりました。27ページのハモを届けたるシーンで、主人公が「なさけのうて」というセリフは、この子がこんなこと言うかなと、とってつけたような違和感を感じました。

アカシア:私は最初からエンターテイメントと思って読んだせいもあるけど、すごくおもしろかった。同じような問題を抱えている男の子って現代でもいっぱいいると思うんだけど、この物語は時代が昔で、しかも標準語じゃないから、逆に楽しく読めるんじゃないかな。短編ならではのぴりっとしたところもあり、ドラマもあり、読める作品にしあがってますね。私は、「灰買い」という商売だとか、砥石山のようすとか、細かいところもおもしろかった。短編ごとに主人公は違うけど、挿し絵はどれも同じように見えますね。わざとなのかな? このシリーズは、あまり本を読まない子でも読んでほしいというシリーズだと思うんですけど、この作品はそういう読者にぴったりなのでは?

うさぎ:心地よく読めました。汗っぽくてベタっぽいけれど、それでもいい。挿し絵だけ見ると、一人の少年のいろんな話かと思いますが、ちがうんですね。

:すいません。私、辛口です。『鉄道員』みたいな、しかけられてしまった感じ。安物の人情映画をたてつづけに見せられた感じ。私は子どもに対してサービスしすぎず、できるだけ等身大で生きている大人になりたいと思っていて、すぐに伝わらない部分があっても嘘なく表現したいと思っているので、こういうわかりやすいというか、安易な感動はちょっと嫌なんです。でも、150〜200年前までは、発展途上国と同じような状況にいるようなこういう子どもたちが日本にもいたんだなあと、ハッとしました。ただ、子どもに対してはわかりやすいものばかりではなくてもいいのでは、とあらたに思いました。

雨蛙:時代小説好きのおじさんの一人として、ひかれる本だなあと思いました。お話ひとつひとつは、児童文学。だけど、児童文学にはなじみがなくても、時代小説をよく読むおじさんも抵抗なく入れるし、読めば、子どもに勧めたくなる。口下手なお父さんが息子に「ほら、読んで見ろ」と渡せる本。短編集だし表紙や造りからはかたさを感じないので、渡された子も、興味がなくても、一編二編は読んでみるのではないかと思います。短編としてのトリッキーなところはないけれど、これはこれであり。最初から最後まで、子どもたちへくり返してエールを送っている本なのだと思った。道徳的なにおいがしなくもないですけど、時代小説風にすることで、こういうストレートなエールも、子どもたちから敬遠されることなく、手にとりやすくしているという点で成功している。たしかに、何篇か読んでいくと、また同じような展開かという印象があるけれど、エールのあたえ方にバラエティを持たせれば、もっとずんずん引き込まれる。この話のなかに出てくるような大人が今はいないのかな。

紙魚:時代小説好きの大人でも、いいねえと言ってくれる本ですよね。

むう:とても読みやすくておもしろく、テンポよく楽しめた。でも、読み終わってみると、なんだか道徳の本みたいだと思った。いろいろと素直になれない男の子がいて、それがようしがんばるぞと思い直すという設定自体は、今の男の子に通じるところもあるし、悪くない。いかんせん、全部同じような印象になっているのが難点。もっと変化をつけてほしい。男の子が、成長の過程で先が見えなくて、まわり見てもいろいろとうまくいかなくてといった部分をとりあげるのは大賛成。でもね、と思う。がんばるぞ、の後のほうがもっと大変なわけで、短編でそこまで書くのは無理なのかもしれない。それにしても、七つの作品のうちのたとえば二、三個が違う形になっていれば、こんなに全体の印象が道徳臭くならないのではと感じた。もともと男の子の成長とか父と息子の関係を書いた作品には大いに興味がある上に、この著者の作品は読ませるテンポがいいし楽しめた分、全体の印象の平板さが残念。

アカシア:主人公の年齢はどれも13〜14歳で、名前も夏吉、矢吉、半吉、風吉、長吉、ドジ吉(正吉)なのよね。意図的に同じような作品をそろえたんじゃないのかな。

むう:結末を悲劇にしろとか、そういうことじゃないんです。でも、七つ全部が基本骨格が同じというのは、やはり単調になる。構成に変化をつけるための作品というのが、あってもよかったんじゃないか。そのほうが本全体としてのインパクトが増したんじゃないかと思う。

アカシア:主人公を助けてくれる人っていうのは、短編ごとにそれぞれちがうんですよね。そのあたりは変化がありますよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


阿久根治子『つる姫』

つる姫

トチ:最初に夢のお告げが出てきたり、美しい着物の描写が出てきたり、どんな風に展開して行くのかとわくわくしながら読みだしたのですが、いつまでたってもつる姫がどんなに優れた、男勝りの少女かということばかりで、いっこうに面白くならない。もう読むのをやめようかなと思ったら、4分の3あたりで、やっと戦いが始まった。ところが、それまでのつる姫は弓や剣道の修行をした、普通のお姫さまとは違う存在だったのに、恋をし結婚をするとなると、もう戦いなどどこへやら、ふにゃふにゃの女になってしまう。中学か高校のとき、上級生に「いくら能力のある女の子でも、恋をすると、とたんに詰まらない女になってしまうから、十代のころには男に近づかないほうがいい……」などと、したり顔で言われたのを思い出して、この本はそういうことを書いているのかな、まさかね……などと思ってしまいました。
そして、結婚相手の少年は自爆するわけだけど、自分たちの国を守るとか、民草を守るとかいうより、ひたすら「つる姫を守りたい」一心なのね(国のために自爆するのも危ない考え方だけど!)。戦いっていうものをどう考えているのか、そのために踏みにじられる庶民のことはどう思っているのか、そのへんの目配り、気配りがまったく無いのも気になりました。
けっきょく、作者は何を書きたかったのかな? 何を子どもたちに伝えたかったのかしらね? 悲恋物ってことはわかるけど。名所旧跡に行くと、よく「ここはナントカ姫が身を投げた淵です」なんて由来を書いたパンフレットがあるでしょう? そんな感じでした。

ハマグリ:面白く読みました。どういうところが面白かったのかというと、このなんとも大仰な文体や、手に手をとった二人の瞳がきらきら、みたいな書き方ね。今子どもたちの読むものは似たようなものが多くなっているけど、たまにはこんな毛色の変わったものを読むのもいいんじゃないかしら。両親がかわいらしい姫として育てようとしているのに、馬にも乗りたい、剣も使いたい、戦にも出たいと、何でも兄さんたちと同じようにしたいという気持ちは、読者の共感を呼ぶわね。でも、最後は愛する人の後を追って死ぬ、というところ、今の子はどう思うんでしょうね? 愛する人を守って自分を犠牲にする明成の死に方や、悲しみのなか婚礼衣装を用意して独り海に向かう姫、というのはどうなんでしょう?

トチ:大人の時代物の書き方よね。

ハマグリ:昔は分厚くて、図書館の棚に鎮座ましましていたような本だったわね。福音館文庫で復活して、手に取りやすくなったけれど。

カーコ:最初は、明るく積極的で好奇心に満ちたつる姫が描かれていて、しかもその子がいつか重大な役目を担いそうだというのが父親の夢に出てくるので、どうなるのだろうという気持ちで読みました。でも、終わり方が古くさい。途中、一人で母親のもとに戻ったときも、明成と再会したときも非常に冷静なつる姫が、どうして最後、命を絶ってしまうのか、しっくりきませんでした。お涙ちょうだいの昔の恋愛小説みたいで、こういう終わり方にしようとするところに、時代がかかったものを感じました。また、これは初版と同じ絵なのでしょうけれど、この挿絵は、物語を理解する助けになっていないと思いました。『狐笛のかなた』(上橋菜穂子作 理論社)の絵が、作品のイメージをふくらませてくれていたのと比べてしまって。223ページの絵をはじめ、人物がお人形みたいで、見てわくわくする感じがないのが残念でした。

トチ:絵巻物ふうなのね。どれも同じ絵に見えてしまって、とばしてしまったわ。

すあま:子どものころ読んだという友達が「ずっと読み直したいと思って探していた」と話していたので、そんなに印象に残る物語なのかと気になっていました。題名は地味だけれど、それなりに面白かった。今の子も、古代ファンタジーを読んでいるので、日本の歴史を題材ににしたものも読めるはず。こういう本があれば、歴史にも興味を持つし、昔も自分たちと同じような女の子がいたんだなと共感を持てるんじゃないかな。物語としては、つるちゃんがとてもよい子で、非のうちどころがないのが物足りない。誕生の時には神様の化身のような描かれ方をしていたので、最後は神様になるのか、つる姫の方が殉職して明成が残るのか、と思ったけど違いましたね。最後、つる姫が死んでしまったのがわからなかった。

うさぎ:「史実に基づいた歴史ロマン」とあったので、楽しみにして読んだんです。最初のほうで、つる姫のお父さんが夢を見るというのがあって、つる姫の運命はさあどうなるかと読み進めていくのだけれど、なかなか何も始まらない。ようやく物語が動き出しても、明成の自爆から最後のところまでは大きな疑問が残りました。お父さんの夢の暗示のように、つる姫は神格化して竜神にでもなって何か起こすかと思っていたら、明成の自爆があってから、ものすごくふつうの人間というか、それまでの男勝りは跡形もなくなり、妙に女くさくなって終わってしまった。最後、死んだのがわかって、物語がますます尻すぼみになった印象。悲恋の定石みたいなのを時代ロマンというんでしょうか? 史実にひっぱられてこういう形でまとまったのでしょうか?

アカシア:竜神のエピソードは何で出てくるのかしら?

うさぎ:作者が何を書きたかったのかと、意味づけをしようとしたけれど、しっくりきませんでした。

アカシア:時代は戦国時代で、つる姫が男の子と同じことをしたいっていうキャラなので、どんなふうに社会との軋轢が描かれるのかな、つる姫の勇ましさはどこまで受け入れられるのかな、という点に惹かれて読んでいきました。それなりに面白くは読んだんですけど、最後が死の美学を提示するような形になっているのは問題よね。それに202ページではつる姫が実戦のむごたらしさを初めて目にして「目の前にするたたかいとは、なんとむごいものか。おそろしいものか。/城できく、たたかいの話の勇ましさ、はなばなしさは、うそじゃ、うそじゃ、うそじゃ。/つるは、知らなんだ。/ほんとうのたたかいを、知らなんだ」と言い、206ページには(どんなことがあろうと、罪もないひとびとを、たたかいから守らねばならぬ。/たたかいとは、決して会ってはならぬ物じゃ。ならぬ物じゃ。)と、胸の中で繰り返し叫ぶ、と書いてあります。でも、ここで「罪もないひとびと」と言うのは、味方のことだけなんですよね。つる姫が出陣して戦に勝利を収めると、今回は負けなかったのでむごたらしくならなくてよかった、よかったとなっている。味方さえ勝てば戦はむごたらしいものではなくなるんですか? と突っ込みたくなります。時代の制約を受けている主人公の心情としては仕方がないとしても、現代の人間である作者は、もう少し考えてほしいところです。作者の視点がご都合主義的なんでしょうか。

トチ:でも、時代物だから、今の価値観で書くと嘘っぽくなってしまう。そのへんの兼ね合いが難しいのよね。

アカシア:つる姫が、時代につぶされていくんならつぶされていくで、一貫した物語になるんでしょうけど、単に悲恋の主人公で終わらせてしまっているのが残念。小説のつもりで読んでいると、途中から講談になってしまう。いっそ、つる姫が最後竜神になるんなら、かっこよかったのにね。

ハマグリ:最後の海鈴が鳴るっていうのを、作者は書きたかったんじゃないの?

アカシア:美しく死んで終わりっていうのは、危険な思想よね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


ビアンカ・ピッツォルノ『ポリッセーナの冒険』

ポリッセーナの冒険

うさぎ:とっても楽しく読めました。物語が軽快でぐいぐい話にひきこまれました。物語の軸がしっかりしているからだろうなあと思います。自分が、この家の子ではないとわかりすぐに本当の親さがしの旅に家出をするというのが、リアリティがないかなと思ったけれど、読んでいくとそうでもない。ポリッセーナが家出したあと残された家族はどうしたのかとか気になりながら読み進めていったけど、途中からは面白さにのめりこんでいつの間にかそれも忘れてしまってた。構成がしっかりしていたからでしょう。訳文も素直で、へんに気取ったところもなく親しめました。女の子の個性が、二人ともしっかり描けていて好感を持てます。分厚い本ですが、読書好きな子は難なく読めてしまうでしょう。

すあま:楽しく読める本。あっけらかんとして、とにかく楽しく読めるお話はあまりないので、いいですね。主人公も、性格的にすごくいい子というわけでもなく、勝手に思い込んだり、完璧な性格でないのが面白かった。どんでん返しの楽しさがあるけど、何度も何度も繰り返されるので、読み手に根気がないと最後まで読み進むのがしんどくなるかも。クウェンティン・ブレイクの絵が物語に合っていてとてもいい。ただ、内容はやさしいのにかなり長いので、対象年齢が難しいかも。エピソードを減らしてもう少し短くてもよかったかな、と思いました。

カーコ:私も楽しく読めました。こういう素直なお話ってあんまりないので、いいですね。何回もどんでん返しがあるけれど、こじつけっぽいいやらしさがない。長さは確かに長いけれど、だからこそ、ハリーポッター・シリーズを読んで、こんな長い本が読めたと思っている子に、「じゃあ、これはどう?」って、次のお話として手渡してやりたいですね。「こんな楽しいお話もあるんだぞ」って。

ハマグリ:お話の楽しさを手軽に味わえますよね。こんなに厚いと、なかなか気軽に勧められないけれど、この本だったら安心して面白いよ、と手渡せる。できごとが次々に起こるし、「実はお姫様でした」といった昔話のような面白さもある。昔話は短いけど、これは読んでも読んでも終わらない。そういうのを読みたい子もいるんですよね。大人が読めば、すぐに先がわかってしまうようなところもあるけれど、そうとわかっていても、お話の楽しさを味わえる本だと思う。

トチ:私もとても面白かった。大好きになりました。たしかに長いけれど、私もカーコさんと同じように「ハリポタ」だって長いんだから、小学生だって読める子はたくさんいると思いました。子どもの読書の楽しみ方のうちには、厚い本を読み終えたという満足感もあると思うから、本好きの子どもにはこたえられない一冊なのでは?
感心したのは、作者が子どもの好きなものを実によく知っているということ。動物が芸をする旅まわりの一座とか、夜になってやっとたどりついた緑のふくろう亭を窓からのぞき見るシーンとか……子どもでなくても、楽しくてわくわくすることばかり。
それから、主人公のふたりの女の子のキャラクターが面白い。ポリッセーナは、最初は元気で賢い、読者の共感を呼ぶ少女だけど、旅を続けていくうちに旅芸人のルクレチアのほうがまっとうな考え方をするのを疎ましく思うようになったり、自分が王女さまかもしれないと思っていばってみせたり、軽はずみな言動をしてルクレチアにいさめられたりする。最初は裕福な家に育ったポリッセーナのほうが常識があって、ルクレチアよりずっとお姉さんのようだけど、とちゅうで立場が逆転する。単なるジェットコースター式の展開で読者をひきつけるのではなく、主人公たちの心の揺れや葛藤もしっかり書いていて、見事だと思いました。
お姫さまものということでいえば、ポリッセーナのほうは単純にお姫さまや貴族というものに憧れているけれど、ルクレチアのほうは「あんたはそんなに貴族になりたいの? あんたの育てのお母さんみたいにかしこくて、やさしいひとでも、貴族でなきゃだめなの?」というような意味のことをいって、ポリッセーナをたしなめる。子どもたちの大好きなお姫さまの話を書きながら、作者がちゃんと言いたいことを言っている。そのへんが『つる姫』とずいぶん違うと思ったわ。
それから子豚の名前だけど、「シロバナ」は「白花」なのかしら? それとも、「白鼻」?鼻のほうだったら、「ハナジロ」かなって……豚をかかえた女の子って設定は、とってもおもしろかったけど。

アカシア:豚をかかえた少女は、きっと「不思議の国のアリス」が下敷きになってるのよね。

トチ:ブレイクの絵がすばらしいわね。笑わないお姫様のイザベッラがついに笑うところなど、絵を見て思わず笑ってしまった。とっても描くのが難しいところだと思ったけれど、表情がすごくいいのよね。

アカシア:私も最初から最後まで面白く読みました。「ハリポタ」は、こんなにちゃんとキャラクターを書いてないしゲーム的だから、「ハリポタ」を読んだ子がこれも読めるかどうかは疑問だけど、こっちは本好きな子が楽しめて、じゅうぶん堪能できる。現実とお話の距離がうまくできていて、お話だけれど、でもありそうって思わせる距離がとてもいい。訳もとてもよかった。ブレイクの絵も動きがあっていいし、同じ絵がいろいろなところで使われてるのね。編集の人が手をかけてるのもわかりますね。

トチ:編集も見事だし、訳も素直でいい訳よね。読者に「素直な訳」と思わせるような訳文を書くのは、本当はとても難しいことだと思うんだけど。204ページの「日が暮れるすこし前に、宿屋が見えてきました。葉を落とした大きな木がまばらにそびえる丘の上に、一軒だけ立っているあの建物が、緑のふくろう亭にちがいありません。たくさんある煙突から(どの部屋にも煙突がついているのです)、冷たくすみきった空にむかって灰色の煙が立ちのぼっていました。まだ日は落ちきってはいないのに、窓ガラスのむこうにはすでに明かりがともっていました。」などというところ、なんでもないようだけど、美しい光景があざやかに目に浮かぶ、すばらしい訳だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


パウル・ビーヘル『ドールの庭』

ドールの庭

ハマグリ:お姫様の本というので選んだのですが、コビトノアイが本当はお姫様だったというだけで、他の2冊にくらべて、お姫様の特徴は少なかったですね。私は『夜物語』に見られるような、この作家独特のおとぎ話的雰囲気が好きなんですが、これはまたちょっと違う雰囲気。枠物語になっていて、中にいくつもの扉があり、1つ1つ扉をあけてはちょっと楽しみ、あけては楽しみという形。それぞれの話のつながりが、最後まで読まないとよくわからないので、途中で飽きてしまう人もいるかも。誰に焦点をあてて読むのか、その話によって変わるので、ついていきにくいところもある。寓話みたいな感じですよね。その裏に何かがある、という。それが伝わりにくいから、だれにでも楽しめるわけではない。読み手を選ぶ本でしょう。面白いよ、と手軽に手渡せるものではないですね。

アカシア:文学としての構造は面白いんだろうなと思ったけれど、最後まで読ませる物語としての魅力は物足りなかったな。読者対象は、やっぱり高校生以上かしら。

ハマグリ:最初の、渡し守の小人の場面の雰囲気がとても魅力的で、引き込まれたけど、途中からだんだん変わってくる。

カーコ:構成がしっかりしている本だなと思ったのですが、正直言ってあまり好きになれませんでした。お話の中にお話がある、その意味が最後につながってくるというのは面白いのだけれど、枠に入った肝心のお話一つ一つが、あまり面白いと思えなかったんです。味わいがないというか。コビトノアイがいなくなったあとに、いつも道化がやってくるという、追いかけっこがひっぱってはくれるけれど、それだけでは読み進んでいかせる原動力として弱い。下品な歌があったり、魔法使いのおかしな言葉遣いがあったり、原書の読者はそれだけで笑えてしまいそうですが、日本の読者にはこのユーモアは伝わりにくそう。訳者は苦労したと思うのですが…。また、もう一つ気になったのは、善と悪の対立がはっきりしていること。「悪=魔法使い」という構図が最初から最後まで変わりません。主人公のコビトノアイの成長よりは、ドールの庭をめぐる出来事のとっぴさが中心の作品なので、そうなってしまったのでしょうけれど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


竹下文子『キララの海へ』(黒ねこサンゴロウ2)

キララの海へ

ハマグリ:サンゴロウのシリーズは10巻出ていて、図書館でも子どもたちに読まれているシリーズですね。最初が1994年に1−5巻、96年に6−10巻が出て刷も重ね、結構よく読まれています。1巻目は、ケンという男の子が語り手で、ネコと宝探しにいく話。サンゴロウの船をマリン号と命名したのは、1巻に出てくるケン。装丁とか挿絵の感じがよく、読みやすい組み方で、子どもが手にとりやすい本づくりにまず好感を持ちました。登場人物の紹介が1巻1巻出てくるのもいい。絵を書いているのが夫の鈴木まもるさんなので、息がぴったり合っている。1巻1巻起承転結がはっきりしていて読みやすいけれど、私としては、サンゴロウをかっこよく書きすぎかな、と。もうちょっとユーモラスな面を出してほしいなと思いました。例えば37ページの最初のところに「火をおこして魚を焼いて食べた」とあるけど、これ、すごくおかしいでしょう? だってネコなのに魚を焼いて食べるなんて。あとで、魚を干物にするところもある。でも、ひたすらかっこいい路線で、文章全体がまじめ。ネコが魚を焼いて食べるおかしさみたいな、ふふっと笑える部分を、ところどころにもっと出してほしいな、と、これは私の好みなんですが、思いました。

トチ:今回の選書の仕方がおもしろいなあと思ったのは、「黒ねこサンゴロウ」は、動物を人間と同じように書いている話、「天才コオロギ」は動物と人間の住み分けがしっかりできている話、「天才ネコモーリス」は住み分けができている世界なのに、不思議な力で動物と人間が対等になっている話……と、それぞれが違う動物の扱いをしているところです。「黒ねこサンゴロウ」は安心してすらすら読めますし、本のつくりも絵も、とてもいいですね。小学生が本当に楽しんで読めるシリーズだと思いました。おもしろかったのは、あとの翻訳もの2冊に比べて、非常にあっさりしていること。さっぱりしていて、こてこてしていない。たとえば「モーリス」では、ビッグラットの正体が最後にはわかるけれど、こちらの闇ネコは何者か分からない、怪しい存在。そこまでつきつめて書いてない。小学生向きだから、これで良いのかなとも思うけれど、「……魚を何びきかつった。なまえは知らないが、黄色いしまのある青い魚だ」などというところを読むと、なんの魚か教えてよ、って気になってします。作者が創造した魚でもいいから。『星とトランペット』という、いってみれば日本風の、安房直子風のファンタジーで出発した著者なので、終わり方もいかにもそれらしい終わり方だなあとおもいました。ところで、サンゴロウの住んでいる海と流れ着いた海はどういう位置関係なの? どんどん航海していくと、人間の世界にたどりつくって、そういう設定なの?

ハマグリ:あんまりきちっと書いていないんじゃないかしら。

驟雨:1巻に、日本の海岸に住んでいたウミネコ族が、追われて島に引っ越すというような話がありますね。

:全部読めていないんですけど、サンゴロウが「この島は見覚えがある」というのは、最後には解決していないの?

驟雨:1巻に、サンゴロウが男の子と一緒に船の設計図をとりにいくところが書かれてて、訪れたことがあるからでしょう。

きょん:シリーズ中この1冊しか読んでいないんですけど、すごく好きです。とても心地よい話。装丁もすてき。カバーをはずすと、別の絵が描いてある。読んでてびっくりしたのは、読後感が安房直子さんと似ているということ。不思議な浮遊感があって心地よい。あっさりしているというのは、確かにそうですね。ミリとのかかわりもそうだけど、要所要所で押さえている。「心の波」というのもいい。最後も、猫の世界と人間の世界の境目が漠然としていて、書き込んでいないのがいいですね。

カーコ:図書館に並んでいる背表紙を見ても、本の作りがとてもいいですね。何で今まで手にとらなかったのだろうと思いました。長さも、小学生が読みやすそうな長さで。この本の前に、竹下さんの『ドルフィンエクスプレス 流れ星レース』というのも読んだのだけれど、そちらは一つ一つの文章がさらに短くて、もっと勢いがあって、ストーリーがはっきりしていました。現代的な話題も盛り込んであって。でも、ネコだけの世界のファンタジーで、この本のような不思議さはなかったです。この本は、主人公の印象が強烈なので、ひっぱられて読めてしまう。あと、短い言葉で情景を表していくのがうまいと思いました。16ページの二章の冒頭の描写もそう。色とか匂いとかが、短い文章でくっきりと浮かび上がってくる。そういうところがあちこちにあって楽しめました。ストーリー的には、キララの海でガラス貝を採って、闇ネコにあって遭難するところで、うまく助かりすぎるのが、ちょっとひっかかりました。その辺を書き込まないのが、この作品なのでしょうけれど。

驟雨:安定した感じの本だと思いました。子どもの本ってこういう感じだなという典型のような、古典的というのか、そういう印象。そしてまた、こういう本がずっと受け入れられていく素地があるのが、子どもの本の世界なんだなあとも思いました。子どもの中に、今の過剰で過激なまでの刺激に反応していく部分と、こういうクラシックな世界に反応する部分があるんだろうなあ、と思いました。

:本作りはとてもいいし、ていねいに書かれてます。でも、なぜって考えると、わからないことがありました。カバー袖に「記憶をなくすサンゴロウ」って出てきますけど、記憶をどこまで失っているのか、よくわからない。ナギヒコ先生が、サンゴロウにたのむ理由も、こじつけっぽいですね。

ケロ:なぜでしょう? この作品の場合、いろいろ想像で補いながら読んでるところがありますね。今のところも、ナギヒコ先生に救われたという過去がきっとあって、恩義を感じているのかなとなぜか納得してました。

ブラックペッパー:手にとったとき、ネコが服を着ているので、こういうのって下手すると甘くなりやすいのよねって思ったけれど、この本はそれなりのリアリティがあって、楽しく好きな世界でした。ミリの夢が、鳥になりたいというのが、むむむ。

小麦:すごく人気のあるシリーズなので、存在自体は知っていたんですが、今まで手にする機会がなく、今回初めて読みました。装丁や造本などが、よく子どもの事をよく考えているなという感じ。手に持った感じなんかも好きでした。お話自体は、ほどよく事件があって、ほどよくドキドキして、最後にはうまく収まるという、どちらかといえば平易なものだけれど、この「ほどよさ」が、今の時代にあって、かえって支持されるのではないかなと思いました。子どもたちが暮らす現実は、インターネットやメールなんかが、びゅんびゅんと加速度的に進化するせわしない世界なんだけど、この本の中では、ずっと同じゆるかやな時間が流れている。この本を開けば、いつでもサンゴロウの世界に戻っていけるという意味で、子どもたちも安心して読める本なんじゃないかな、と思いました。

アカシア:「ドルフィンエキスプレス」のほうは、鈴木さんの挿絵もはっきりしてますけど、こっちはもっとぼやっと描いている。それが雰囲気をつくってますね。安心して読めるのもいい。最後は、サンゴロウがサンゴの鳥をお店から買って空を飛ばす、という終わり方ですが、ちょっと腑に落ちなくて、もっと違う終わり方があったんじゃないかな、と思いました。同じファンタジーでも、欧米の作家は立体的に世界を構築していくところがあるけど、日本の作家はイメージにひっぱられて雰囲気をつくっていく、という感じがします。だから、あっさりしてもいるし、下手すると矛盾が出てぐずぐずになってしまう。この作品はぐずぐずにならずにおさまってますけど。

小麦:サンゴロウの設定が、海の男という感じで、かっこいい。小学校の中学年くらいが読むと思うのだけれど、波があって、ほどよい感じ。

ケロ:1、2巻を読んだんですけど、1と2で登場人物や作品世界が違うので、びっくりしました。1で出てくる男の子とのことが、もっと読みたいなと思っていたから、とまどいました。ホテルが出てくるところで、ケンがまた出てくるのかと思ったけれど、そうでもなくて。いきあたりばったりなのか、最初からこういう形で構築して書いたのかどっちなのかなあ、と勘ぐりたくなったりして。よくも悪くも、明らかにならないところが多くて期待が裏切られる感じ。知りたいなと思う部分を、想像しながら読むのか、わからないままにするのか……。どっちがいいんでしょうね?

トチ:最後のサンゴの小鳥が飛んでいくところ、私もこれでいいのかなあって思っちゃった。伏線として、例えばサンゴ屋のおやじが大変な名人で、いままでにも彫った魚が泳ぎだしたとか、なんかそういうことが欲しいと思ったけど、どうなのかしら?

ケロ:「信じていい」で、飛べるかっていったら、人間にはやっぱり不可能ですしね。でも、サンゴロウのように、信じてついていけるキャラクターは、読んで気持ちが安定しますよね。今は、途中で主人公がブラックになったり、ひねったりしているのが多いので。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


ジョージ・セルデン『天才コオロギ ニューヨークへ』

天才コオロギ ニューヨークへ

ハマグリ:だーい好きな作品。最初に翻訳されたのが74年なので、なんと今から30年前。それなのに挿し絵の一枚一枚を印象的に覚えています。お話も好きで楽しめた。今回の新版は、訳文自体は変わってないけど、漢字が多くなっている。昔は3,4年生の読むシリーズだったけれど、今の3,4年生では読めなくなっているから、それなら5,6年生から中学生に向く体裁に、という意図でこうなったのかなと思います。でも、本当は3,4年生から読んでほしいですね。古きよき時代のアメリカの雰囲気があって、それがまたいい。ネコもネズミもコオロギも、キャラクターがきちっと描かれていますもんね。このあと動物ものは山ほど出ているけれど、これは傑作だと思う。

トチ:吉田新一さんの訳、あらためてうまいなあと思いました。はるか昔、小学生のころ、わくわくしながら物語を読んだ気分を、また味わうことができました。特に好きなのは、マリオがチャイナタウンに行くところ。おじぎを何度もするところや、部屋の様子や、お料理やお皿の描写とか……ああ、子どものころ、こういうところが好きだったなあと思い出しました。それから、ネコとネズミとコオロギが、マリオのために良かれと思ってしたことが、大変な結果になってしまう。子どもって、こういうことがよくあるわよね。この3匹の切ない気持ちが、子どもには身にしみてわかるんじゃないかしら。動物と人間の作品上の住み分けが見事にできている点も、すごいと思いました。視点がコロコロかわる話——マリオの視点、ネズミの視点というように——は、普通は難しいのでは?

:誰だったか詩人が、昆虫の鳴き声を楽しむというのは、日本人にしかない感性だと言ってたと思うんですけど、ここではコオロギの声をアメリカの人たちが喜んで聞く。そこが興味深かったですね。だからチャイナタウンで、サイ・フォンと出会いコオロギの物語を聞いたり、素敵な皇帝のコオロギのかごを手に入れる場面は、バランスが良いなぁと思いました。登場人物のどの視点になっても違和感がなくって、気持ちが良い作品。絵もぴったり。なんと品のいい作品なのでしょう。

カーコ:安心して読める作品でした。なぜこんなに安心できるのかなと考えたのですが、コオロギとネズミ、コオロギとネコ、男の子と周りの大人、どの関係を見ても、視線がとても暖かいんですね。また、3匹が引き起こす事件もおもしろいのだけれど、周りの大人もとても魅力的。最近の日本の作品は特に、大人の存在感が薄いものが多くて、子どもががんばったり苦しんでいる姿は出てきても、大人のステキな部分が出ていないことが多い。ところがこの作品では、スメドレーさんとか車掌のポールさんとか中国人のおじさんとか、大人がステキ。60ページ後ろから4行目で、スメドレーさんが「コオロギは、いちばんりっぱな先生にちゃんとついているんだよ、マリオ。自然の女神にね。……」という語り口を見ても、大人が子どもにきちんと向き合って話をしていると思いました。

驟雨:現代にはないような、ほんわりした世界ですね。アメリカがまだ夢と希望にあふれていた、挫折を知らない時代のお話だなあと思いました。それがいい意味で出ていて、おおらかで、作者の視線がやさしい。本当に安心して読める本ですね。チャイナタウンでちょっとエキゾチックだったり、主人公のコオロギやネズミやネコ、それにマリオの家族など、子どもを引きつける魅力がいっぱいある。それと、悪い人がひとりも出てこなくて、みんな一生懸命に生きているんですね。バブリーになってしまう前の堅実な雰囲気がある。ラストの、ネズミたちが「田舎にいってもいいよね」という終わり方もいいなあと思いました。

:今回あらためてきちんと読みました。挿絵も、特にマリオのお母さんの表情がいいですね。少年マリオと大人のかかわりが、きちんと書かれているので、読んでいて気持ちがよかった。

ブラックペッパー:読んで楽しい本というのは、こういう本だよなと思います。古きよき時代。人々も動物も生き生きしていて、ユーモアもあって。お互いに思いやりがあって、それもとってつけたようじゃなくって、ちゃんとすっとしみこんでくるような。

アカシア:私もこの本は前から好きだったんです。たとえば21ページの「コオロギは、用心ぶかくチョコレートのほうに頭をもちあげ、ちょっとにおいをかぐようにしてから、ひと口食べました。マリオは、コオロギに手のチョコレートを食べてもらったとき、うれしくて、体じゅうがぞうぞくっとふるえました」というところ。今の作品には、こういう描写は出てこないような気がします。それからマリオの家族なんですけど、いつもはお母さんが威張っていますが、「パパがきっぱりと、しずかな口調でいったときには、話はそこでおしまい、ということでした。ママも、それ以上は、もうとやかくいいませんでした」とあります。この家族なりの個性が、こういう一言によく出ています。それから66ページでチャイナタウンを描写するディテール。「入り口にさがっているかんばんには、『サイ=フォン——中国珍品堂』と書いてあり、その下に小さな文字で、『せんたくのとりつぎもいたします』と書いてありました」というんですが、洗濯のことなんてこの物語には関係ないのに、こうしたディテールがあることによって、人の暮らし方のほうにも読者の想像が働く。たっぷり物語を堪能できる要素がちゃんとそろっています。ガース・ウィリアムズの挿絵にも味があって、私は51ページの絵なんかほんとに好きです。
ただね、大人は「古きよき時代のアメリカ」なんて言うけど、子どもにはそんなこと関係ないでしょ。今の子どもたちにも楽しんでもらえるのか、ちょっと不安。テンポがゆっくりだと、大学生でも読めなかったりするんですよ。それに5,6年生向けだとすると、「ネコとネズミとコオロギが仲良くするなんてあり得ないよ」なんて言われないかな? それから「訳者あとがき」に、『シャーロットのおくりもの』とこの作品が〈二〇世紀アメリカの児童文学の古典〉の名に恥じない二大傑作だと、書いてあるんですけど、『シャーロット〜』の方は、死ということをちゃんと取り上げてるんですね。でも、こちらはコオロギが秋になると死んでしまうという現実を、田舎に帰るということにして回避しています。そのへんの甘さが、5、6年生だときついかも。

ケロ:大学生でも、テンポが遅いとつまらなくなってしまう、ということですか?

アカシア:見開きで一つ事件が起きるような話だと、ずんずん読めるんですけどね。

トチ:マーガレット・ミークは、読書力のある人は、さっと読むところととゆっくり読むところがわかると言っているわね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


テリー・プラチェット『天才ネコ モーリスとその仲間たち』

天才ネコモーリスとその仲間たち

ケロ:この本は、興味をそそられる感じの本だったので、随分前に買ってあったのですが、お話の最初のところで、なかなか入れなくて、じつは置いてしまってたんです。でも、途中から勢いがついて、中盤以降はばあーっと読めました。モーリスのキャラも、ハードボイルドで渋くていいし。世界観が複雑なので、頭の中がごちゃごちゃになってしまいましたが、パロディが色々入っていたり、ストーリーよりもこまかいやりとりが笑えて楽しめる大人向きの作品ですね。モーリスがいう言葉、ネズミがいう言葉で、後でふっと生活の中で思い出しそうな哲学的なひと言にたくさん出会えました。章のはじめに記されている「うさぎのバンシーの冒険」が、最後までかちっとはまらなかったです。

ハマグリ:魔法使いのゴミを食べて急に賢くなったネズミたちが、そこにあった缶に書いてあった言葉から適当に名前をつけてしまうというというのがおもしろい。このユニークな名前の訳は、初出だけ日本語訳にカタカナのルビをつけ、2回目からはカタカナ名を使ってありますよね。工夫されていると思うけど、やはりカタカナでは意味がわからなくなるので、全部は無理かもしれないが、例えば「サーディン」なんかは「イワシ」と日本語に直してもよかったのでは? いろいろな名前のネズミが次々に登場するので、個性と名前が一致してくるまで苦労しました。最初は情景がなかなかすっと思い描けなくて、そのわけを考えてみると、一つの描写の次にくる文章が、必ずしも前の文章の続きではないような書き方をしている。だから『天才コオロギ』のように、順番どおり素直に読んで情景を積み重ねて読むというわけにいかないんですね。独特のぶっとんだ感じがあって、訳文はそれをよく伝えていると思うけど、それに慣れるのに時間がかかった。途中で、この一見脈絡のない描写の連続、瞬時に視点が変わる動きは、アニメやコミックなんだな、と気がつきました。それで映像的に頭に思い浮かべるようにしていくと、だんだんついていけるようになったの。それでもよくわからなかったのは、91ページの最初の描写。ネズミたちの配置や動きがよくわからなかった。また、うさぎのバンシーさんの冒険を章の最初に出すのは、ちょっと凝りすぎかな。本文との関連がよくわからない章もあったし。マリシアがとてもおもしろい子なので、マリシアが出てきてから会話にメリハリがついておもしろくなりましたね。この作品自体が「ハーメルンの笛吹き」を下敷きにしている上、数々のパロディが使われているんだけど、そのおもしろさが、日本の子どもにはわからないのが残念ね。本当はもっとおもしろいことが随所にあるんだろうけれど、仕方ないですね。作者が知的な遊びをこれでもかこれでもかと楽しんでいることはわかるんだけど、読者も一緒に堪能するには、限界があるんでしょうね。

トチ:みなさんがひっかかった最初の場面ですけど、暗い馬車のなかで、御者に後部座席の怪しい話し声が聞こえてくるっていうところ、わたしは大好き。わくわくする始まり方だと思ったわ。一行がたどり着く町も、カフカの世界を思わせる、不条理というか、官僚がはびこっている奇妙な町。ビッグラットの正体も、ああこういうことなのかと、おもしろく読みました。ただ、ネズミが続々と出てくるので、ピーチ以外のネズミがすぐにわからなくなってしまう。登場人物紹介のページとか、しおりのようなものがあったら、もっと読みやすかったと思います。あっさり味の「サンゴロウ」にくらべて、こちらは中身がぎゅっと詰まっているコンビーフ缶みたいで、少しずつかじっていくとすごくおいしい。でも、一般的に日本ではほのぼのとした、のんきなユーモアが好きだという気がするので、こういう風に次から次へとたたみかけるように繰り出してこられると、息苦しくなるかも。たしかに大人は楽しめると思うけれど、文化的なギャップのある日本の子どもたちはどうかしら。本国での読まれ方と、日本での読まれ方が非常に違う種類の本だと思いました。

:この前に、『半島を出よ』(村上龍著 幻冬社刊)を読んでたんです。あれも登場人物がずらっと出てくるし、しかも朝鮮名などは、なかなか覚えられなくて。この本も、ネズミがいっぱい出てきたけど、だいたい見当をつけて読んだので、登場人物は大丈夫でした。モーリスが魅力的で、ネコの本能と戦うところもおかしかったし。ネズミとり器の名前とか、毒の名前とか、笑えるところがたくさんありました。ネズミと戦う場面の緊迫感、次のページにいくと、モーリスとマリシアのしゃれた場面。場面の緩急がおもしろかった。食器棚が倒れるところで、奇跡的に無傷な皿が、ぐるぐる円を描いてグロイユオイユオイユウウイインという音とともに回る、って表現には、目に見えるようで、笑ってしまいました。こんな風に回る皿を実際に見たことがあったし。マリシアが、ピーターラビットの本をよく言わないのは、作者の評価なのかしら。

きょん:キャラクターの多さと、カタカナ名前で、途中で止まってしまいました。

ブラックペッパー:こういう本はちょっと苦手。いろんなことが同時に起こる、すばやい展開に、頭の回転のかんばしくない私は、ついていくのが大変でした。テリー・プラチェットは、教養あふれる人なんだろうけれど、饒舌で一言多いって感じがして、時々「しずかに」と言いたくなる。ヨーロッパ教養人にとっては常識っていうようなことがベースになっているので、そういうことに疎い日本人にはわかりにくいかも。とってもよくできていて面白い物語だけど、やっぱりハードルは高い……。翻訳は、日本人にも受け入れられやすいようにと、よく工夫されていると思うのだけれど。

小麦:最初、文章が映像化されて頭に入ってくるまでに時間がかかりました。どうしてかって考えたんですけど、日本の昔の物語なんかでは、主人公(語り手)と読者が一緒になって、ほぼリアルタイムで事件や出来事を追っていくという時間の描き方が多いのに対して、この本は、あとから事実関係が明らかにされたり、別のエピソードが突然挿入されたりと、物語中の時間の描き方が変則的なんですね。それに加えて、シーンごとにトーンが変わる。例えば、ネズミ取りにかかって死んだ仲間を前に、死について語ったり、そのネズミを食べちゃうことについて考えたりするシーンがあります。考える能力を手にしたが故の苦悩という感じで、スーパーラットたちが、哲学的なこととか、倫理的なこととかを考える。こちらも「そうよねぇ……」なんて同じトーンで読んでいると、突然コメディタッチのシーンに、ぱっと切り替わったりするんですよね。読んでいる方はあれれっとなっちゃう。物語に寄り添って読むというより、作者に翻弄されているような感じがしました。
文章が映像的という指摘もあったように、本当に最初に映像ありき、というタイプの作品だと思いました。映画のスラップスティックコメディを、文章に落としていったような感じ。今までにあまり読んだことがなかったタイプの作品なので、「こういうのもあるんだなぁー」と思って面白かったです。ただ、『天才ネコモーリスとその仲間たち』という割には、モーリスの存在がやや希薄な感じ。むしろ、ネズミたちの物語という方がしっくりくる感じがしました。

アカシア:今日の課題本の3冊のうち、これを最後に読み始めたんですけど、おしまいまで行き着けませんでした。うまく物語に乗れなかったんですけど、この作品はポストモダンなんでしょうか?

驟雨:私は、これはコミックだと思って読みました。根は生真面目なのを、わざとおちゃらけてみせているような気がしました。

アカシア:翻訳が難しい本ですね。話を頭に入れるまでに時間がかかります。それに、ネズミの名前ですけど、英語圏の子どもならデンジャラスビーンズと言われてもイメージがわくけど、日本の子どもはただ長ったらしい名前だと思うだけでしょう。ちょっとくらい意味は違っても、子どもにわかる名前に変えてしまったほうがよかったのでは? RATHAUS(ドイツ語で市役所)でネズミを駆除している(ここはハメルンの笛吹きから借りてきているんですよね)という設定も、ドイツ語では市町村議会のことを指すRATが英語ではドブネズミを指すってことがわからずに「ネズミの家(ルビ:ラトハウス)気付けネズミ駆除係」と書かれていても面白くない。それに、謎がどうなっているのかよくわからない。細部にはおもしろいところがあるけれど、日本ではついていける読者は少ないと思います。いろいろな下敷きの上に物語が構築されているようなので、その下敷きの知識がないと楽しめない部分が多いのかもしれません。子どもが読むには高尚すぎるんじゃないでしょうか。

トチ:出版社は子ども向けに出したのかしら? 作者は?

驟雨:プラチェットという作家は、出す本、出す本ベストセラーなのに、文学の評論家からは無視されて、ちょっと変な作家という扱いを受けてきたと聞いたことがあります。実際、この本を読んでいても、根は大まじめな人間が、わざとおちゃらけて尻尾をつかませまいとしているような感じがしました。この人のほかの子ども向けの本も読んだことがありますが、ややもすると達者さが空回りしかねないタイプのようですね。その中では、小手先でないというか、達者さが空回りしていないという点で、この本はいいと思いました。カーネギー賞を受賞した理由は、高尚なことを問いかけながらも、笑いをまぶして子どもに楽しめるようにしている点にあったということですが、まったくその通りだと思います。ただちょっと、わからない人はわからなくてもいい、というようなところがありますね。年齢が低い人にはわからなくていい、というのとは違う意味で。なんというか、舞台に登場するのに、スマートに登場せず、わざと転がり出てきて、もうもうと埃を立ててみんなの注意を引く、みたいな感じのところがあって、そのあたりからも、わからない人はそれでいい、みたいな感じを受けました。それと、ひじょうに映像的な書き方をする人だと思いました。ぐっと引いたイメージになるかと思うと、すっと目線が動いたり、今度はクローズアップとか、映画を見ているような気がしました。子ども向きかどうかという点でいうと、やはり子どもに向かって書いているんでしょうね。ネズミとネコを主人公として、意表をつく展開が連続するテンポの速い物語にすることで、哲学的なことがわからなくても楽しめるようにしてある点など、子どものことを意識していると思いました。結末も決して一筋縄のハッピーエンドではありませんが、この本にはそうとう倫理的な側面があって、全体として、著者がこれからを生きていく人たちに伝えたいことがあって書いた、という印象を受けました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


アン・ファイン『フラワー・ベイビー』

フラワー・ベイビー

アカシア:原書で読んでたんですけど、日本語版の表紙の絵を見てあれっと思いました。この脚の感じだと、幼い子ですよね。せいぜい小学校中学年までにしか思えない。主人公は何歳なんでしょう? アメリカ版の表紙には高校生くらいの男の子が出てます。プロジェクトのやり方や、子どもたちの態度や発言からすると、中学生くらいかな、と思えるんですけどね。導入の学校でみんながわいわい言ってるところとか、先生と生徒のやりとりとか、ただまじめに訳すと面白くなくなって、翻訳が難しいですね。フラワー・ベイビーのプロジェクトをやることになったいきさつとか、主人公が自分の父親のことを考えていくくだりとか、アン・ファインは語るのがうまいなあと感心しました。

ケロ:挿絵を描いたのが外国人ですが、英語版を描いた人が描いたんでしょうか?

アカシア:アメリカ版でもイギリス版でも、この絵は見たことなかったんですけど、日本にいる外国人に書いてもらったのかな?

ケロ:確かに、読んでいて主人公の年齢はよくわかりませんね。英語版でも、読んでいて年令設定がわからない感じがするんでしょうか。

アカシア:小学校低学年とか中学年で勉強が嫌いだったら、こんな作文は書けないんじゃないかな。それに、p112には、自分の父親が「今のサイモンよりほんの少し年上」だったと書いてありますよ。だとするとサイモンは、少なくとも中学生にはなってるんじゃないかしら。だから表紙には違和感を感じるんですね。

カーコ:p87に小学校のことが過去形で出てくるし、もう小学生ではないでしょう。

雨蛙:テンポがよくてとても面白かったけど、その分、訳にひっかかりました。中学生と高校生になる甥っ子たちはどう感じるのか、読ませてみたいですね。ただ、タイトルが「フラワー・ベイビー」のままでは、自分から手に取ることはないだろうな。主人公と同じくらいの男子生徒には、挿絵もかわいすぎる。主人公たちは、授業の内容などから、中学校3年生とか高校1年生くらいじゃないかな。そのわりにやっていることが幼いように思うけど。物語の最後、父親のことを自分で完結させるところは、性急でもったいない。まあ、男子生徒が読むにはいいかなと思いました。

ケロ:父親との関係を、自分の中で納得させるまでに、たしかにもう何段階かあってもいい と思いますね。

アサギ:プロットがとても上手にできてるけど、こういう作品って私は好みではないのね。自分が翻訳を仕事にしていてこういうのもなんだけれど、外国のお話と言う感じが強烈にする。日本の作品とテイストが違うからこそ、翻訳の意義があるのは事実なんだけど、それを考えに入れた上でも、こういう展開は好きじゃないなあと思いながら読んでました。書名は、何のことかまるでわかりませんでした。むろん、本文を読んで、なるほどこういうことなのか、と読者に思わせる効果もあるので、わからないからいけない、とは言い切れないけれど。翻訳はとてもひっかかりました。こんな言い方しないだろうと思ったところがいくつもあったし。それに、p94の「作文の字が間違っている」というところだけど、それなら、訳文にもその痕跡があったほうがいいと思いました。それからp59の5行目に「男の子に人形をあてがえば、すぐにふさぎこむ。女の子だったら、いったいどうなってしまうのだろう」ってあるけど、どういう意味?

アカシア:私もここはひっかかったんだけど、翻訳者が意味を取り違えてるんじゃないかしら。男の子にも育児を分担させようとして、あるいは育児について学習してもらおうと思ってお人形をあたえても、すぐに考え込んだりふさぎこんだりするんなら、女の子たちも未来の家庭に希望がもてないわね、というふうな意味じゃないかな。アン・ファインの原文はなかなか難しくて、意味を深く読み取りながら訳さないと無理だと思うの。

アサギ:ほかにもこんなこと言わないよね、と思ったところがいろいろあったわ。p196の後ろから3行目なんかもそう。言いたいことはわかるけれど、様相なんていう言葉を子どもの本で使うかなあと思って。それはともかく、いいテーマだしプロットも良くできてるから、読後感想文は書きやすいわよね。ところで、父親との関係はこれで解決したのかしら? お父さんのことが吹っ切れたのはわかるけれど、なぜ吹っ切れたのかが良くわからない。 書き込みが足りないんじゃないかな。

アカシア:第一章や第二章で生徒たちが言い合ったり、先生とやりとりする場面なんだけど、話してる内容よりも、俗語でしゃべってるテンポみたいなところで読ませるわけですよね。それを日本語で普通に訳しても面白くならない。これが最初にあると、入り込めない子どもがたくさんいるかもしれないな。

アサギ:確かになかなかお話に入れなかったわね。

ハマグリ:カーネギー賞を取ったし、評判も高かったので、私はとても楽しみに読んだのに、あまり面白くなくてがっかりしちゃった。やっぱり最初の教室の様子が日本の子が読むことを考えると、もっと身近でそうそうこんな風と思えるようでないとだめだと思う。教室での会話が続くところもあまり面白くない。

アカシア:イギリスの子が読んだら面白いんだと思うけど。

ハマグリ:その良さが出てないよね。どうして小麦粉の袋を赤ちゃんとして愛情を注ぐようになるのか、という点もぴんとこなかった。発想が面白いし、主人公がこのプロジェクトによって変っていくというストーリーだけ聞くと面白そうと思うんだけれど、実際に読んでみると納得できるようには書かれていない。

アカシア:最初は「爆発」にひきつけられているのが、だんだんいろいろなことを考えるうちにいとおしくなってくるのよね。その微妙な心理の過程が原書ではうまいと思うけど、訳文では出てないのかもしれないな。

アサギ:頭で書いた作品という印象が抜けなかったですね。

ハマグリ:この本ではそういう良さがわからないからがっかりと言う感じ。こういうのを訳すのは本当に難しいと思うけれど、先生の言葉にしたって「よく見たまえ」「わたしにはわからん」なんて言わないし、会話の面白さは伝わってこない。この先生のキャラはきっともっと面白いのに、残念だと思いますね。話の流れが頭では理解できても楽しめなかったという感じなの。物語の世界にすっとはいれないのは、生徒たちの年齢がわからないせいもあると思う。この本つくりだと、せいぜい5、6年生くらいの感じで、中学生は手に取らない。最初のページにこのクラスが四−Cと書いてあるので、日本の読者はぜったに小学校4年生だと思って読むと思うのよね。4年生と思って読んでいくと、授業の内容がもっと上の感じだから、最初から何か居心地の悪い感じになってしまう。

アカシア:イギリス版は四−Cだけど、アメリカ版は教室番号八になってましたね。

ハマグリ:ともかく四と言う数字を出したら、日本の子は4年生と思ってしまうから、誤解を与えないように工夫してほしかった。

ケロ:勉強が苦手なサイモンが、とても難しい引用をしますよね。

ハマグリ:書名のフラワーは、普通はお花だと思ってしまいますよね。表紙に原綴が書いてあるけど日本の子どもは絶対に小麦粉だとはわからないでしょう。何かもっと斬新な意訳をしてもよかったんじゃないかしら。表紙の絵も内容よりも幼いし、本作りが中途半端ですね。

アサギ:最後の2行、へんに大仰で違和感があったわ。

アカシア:著者のユーモアが、日本の読者には伝わってませんね。

ハマグリ:原書を読んだ方たちの印象からは、ユーモラスなところや、くすっと笑うところがたくさんあるようなのに、日本語ではそういう面白さは全く感じられない。がっかりな一冊でした。

むう:私も原書を読んで、この本はすごく面白いと思ったんですけどね。ほかのファインの本に比べても絶対に面白いんだけれど、それが訳には出ていないみたい。

ケロ:発想はすごいなあって思いました。小麦粉を赤ん坊に見立てることをやらされているうちに、自分がまさしくその赤ん坊だったらということに思い当たって、自分を投げだして出ていってしまった父親のことを考えるようになる、なんて、すごいですよね。でも、プロットがあって、あと肉付けがたりないという気がしました。サイモン像がとてもゆれて、どんな子なのか、よくわからなくなったりしたので。これは、翻訳の問題なのか、もともとの話を読んでもそう感じるのか、知りたいです。読んでいて、翻訳がへたなのでは? とは思いました。あとがきを見ると、はじめての翻訳とあったので、なれていないのかな? とも。
最後は、サイモンがどうやって納得したの? というところもわからない。p248あたりからサイモンが突然語っちゃうんですが、その内容がわからない。流れがぷつぷつ切れて。翻訳の問題なんでしょうか、原作の問題なんでしょうか。

アカシア:ここは、ばんばん投げたり蹴っ飛ばしたりしながら、ちょこっと考えている感じなんですよね。それがカタルシスになってもいる。でもこの訳だと大まじめになっちゃってるから伝わらないかも。

むう:原作を読んでの一番印象に残ったのは、いい子になりそうになって、いろいろ考えて、結局それをバーンと蹴っぽる爽快感だったんだけどなあ。

ハマグリ:そういう爽快感ってこの訳者は全く読み取っていないんじゃないかしら。あとがきを読んでも、まじめ一辺倒な感じ。何か違うんじゃないかっていうギャップがつきまとって、不満が残るんですよね。

:私はとても面白く読みました。訳でひっかかったところもあったけれど、ストーリーの面白さで引っ張られて、読み進めました。最初のところでは、小学校の高学年かなという印象でした。この小麦粉の袋のプロジェクトも へええ、こんなことをするんだ、と思って面白かった。学校でこういう内容をテーマの選ぶこと自体に、国民性の違いや、自由な発想力の底力のようなものを感じました。翻訳物を読むときの面白さは、そういう違いを知る楽しみがあると思う。

アカシア:こういうプロジェクト、むこうの学校では実際にやってるみたいよ。

:もうわくわくして読み進めると、フラワーベイビーを世話するうちに、出て行った父親の気持ちをたどり始め、さらにフラワーベイビーにこんなに愛着を持っちゃって。ゴミ箱行きから救い出したところで、この執着からどうやって解放されるんだろうって、どうなるのかなあと、はらはら。最後の小麦粉だらけになるもって行き方は爽快だった。父親の家出の原因が、ずっと気持ちの奥に沈んでいて、今回のフラワーベービーとの出会いで浮き上がってきて、自分の中で解決とはいかなかったけれど、そこでぐっと吹っ切るところに、子どものエネルギーを感じました。面白さで引っ張られて読んで、訳のおかしいところは皆さんから聞けるだろうと思って気にしませんでした。

カーコ:私はみなさんと同様、最初は文章につっかかって入りにくかったです。フラワーベイビーの研究にのめりこんでいくきっかけが勘違いというのが面白いですよね。勘違いとわかったときどうなるんだろうというドキドキと、父親へのこだわりというサイモンの内面の部分という二つの線で引っ張られて、真ん中まで読んで面白くなってきたところで時間切れでした。p14〜15に出てくる授業科目や、サッカーが部活動みたいなところからすると、主人公は小学生ではなさそうだけれど、それにしては幼稚。原作ではっきりわからないとしても、訳者が編集者と話して、主人公は何年生と決めて訳してくれればもっと読みやすかったのではないかしら。

むう:これって、私がはじめて読んだアン・ファインだったんです。原書で読んで、読み出したらとまらなくなって、ほとんどショックでした。それで、続けてアン・ファインのほかの作品を読んだんですが、たしかもともとがテレビ関係のライターをしていた人なので、ひじょうにテンポが速くてプロットを作るのも上手。職人芸的な意味でもじょうずな人だなと思いました。でもほかの作品は、じょうずさが勝っていて、この作品ほどすばらしいと思わなかった。原書は、表現が切り詰められているので、確かに翻訳は難しいと思います。途中でどんどんまじめになっていって、どうなるか、どうなるかと思ったら、最後の場面で、「ヘーンだ!」と真面目を蹴っぽる。そのぐーっと揺れる揺れ幅が大きくて、最後にすかっと爽快になるんです。でも今回原書と読み比べてみたら、大事なところで意味を誤解しているようだったり、言葉遣いに統一感がなかったり、会話が自然な感じがしなかったりで、読み進むのにとても引っかかった。!一番肝心なサイモンのタフさが伝わらないような形で紹介されたのは、とても残念です!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


ペーター・ヘルトリング『クララをいれてみんなで6人』

クララをいれてみんなで6人

アカシア:取り上げられているのが普通の家庭で、子どもがすでに3人いるところに赤ちゃんが生まれるという設定。お父さんもお母さんも普通の感じで、そのあたりは好感がもてます。ただ、ヘルトリングの他の作品と比べて印象が薄いのは、フィリップに視点になったり、テレーゼの視点になったりと動いているからかもしれませんね。

雨蛙:ヘルトリングということで期待して読みはじめたんですが、物語の世界に入るのにわりと時間がかかりました。ごく普通の家庭の日常が淡々と描かれていくせいかもしれません。好きだけれど、ほかの作品と少し違うという印象。一番下のパウルが、視点がずれているのではと思うところがあったことと、おばちゃんが二人出てきて、そのままぱたっと出てこなくなったのが残念だったですね。障害を持って生まれるかもしれないという深刻な状況ですが、終わり方がさすがヘルトリング。家庭ものとしてよく描けています。ただ、クララのことではなく、それぞれの家族の描写が多く、起伏が少なくて子どもには読みにくい面があるかも。フィリップは、カメラ的な役割を背負いすぎているきらいがあると感じました。フィリップ自身の気持ちをもっと描いてほしかったし、お父さんは、その性格を考えるともっと違ったふうに子どもたちに写るのではと思えるところもありました。それだけ、ヘルトリング自身の思い入れが強い作品なのだと思うけど。

アサギ:ヘルトリング自体は好きだけれど、これはインパクトが弱いと思いました。でも、リアリティはある。すごく好きな表現があって、164ページ、2行目の「お父さんは、帰ってくるのがすごく上手だ!」というところ。私は個人的に自分の体験とダブるので、その意味では熱心に読んでしまったわ。最初にドイツでベビーシッターをした家が、この家族と似ていたので。

ハマグリ:ヘルトリングの作品は次々に読んでいましたが、『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』など、とても印象的な作品がある中では、この本は印象はうすい。登場人物のだれかが主役ではないから、そうなるのでしょう。でも、5人の家族がそれぞれにいろんなことを考えながら、赤ちゃんを迎える、という雑多な感じが、逆にこの本の魅力だと思います。実際にクララが登場するのは本の最後の部分で、そこに至るまでの家族の気持ちが描かれ、まだ生まれていないけれど、クララは家族の一員だ、と意識していく過程が書けているので、少子化でお母さんのおなかが大きくなってくるのを体験する子どもが少なくなっている昨今、日本の子どもにも読んでほしいと思うな。

ケロ:『フラワー・ベイビー』のあとで読んだので、イメージが作りやすかった。なるほど、いろいろな人の目線で描かれているのは、あえて意図していたのかと思いました。パウルがすることや、ふりまわされてしまうところなど、本当にこんな感じだろうなあと思いますよね。ヘルトリングが自分の家族に近いものを描いているからこそのリアリティ。その中に、味がありますね。二人のおばさんの天然ボケぶりなど、まわりの人たちも味がある。いろいろな色を見せてもらったという印象。ふつう、この手の話だと、クララが生まれて色々あって…という話になると思うけど、生まれてくる前の話を描いていながら、クララに対するまなざしをちゃんと描いているところがすごいなあと思いました。

カーコ:他の本のほうが印象深いというのはあるけれど、何より登場人物が面白いし、日常生活の機微がとてもよくかけていると思いました。書きすぎず、不足もなく、読者が考える余地を残している。日常のごくあたりまえのことが文学になっているのに感動しました。たとえば33ページの3行目からの「こいつ」騒動。ここだけで、この家族のありようがよくわかる。揺れや迷いが出ていて、人物にふくらみがある。あと、組体裁や本を持った具合が、本の内容とあっていて気持ちがよかったです。シリーズ全体として、本作りがいいですね。でも今は、とかく新しいものばかりがもてはやされるので、埋もれてしまうのではないかと心配です。折に触れて、今の子どもに紹介していきたい作品です。

ハマグリ:ヘルトリングは大好きで、いろいろと読んでいます。『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などと比べると、なんとなくごちゃごちゃっとしていて印象が散漫だけれど、日常がとてもよく書けているのがいいなと思いました。ヘルトリングが書きたかったのは、家族に赤ちゃんが加わることによる一人の人の成長ではなく、赤ちゃんが加わることによる集団としての家族の変化なんだと思います。だから誰かひとりに視点を固定する形でなくなって、視点が移るので拡散もするのだけれど、そこが書きたかった作品なんじゃないかと思いました。ただ、訳については私もひっかかったところがありました。

アサギ:ヘルトリングは、原文がとても洗練されているので、訳は難しいの。ヘルトリングはもともと詩人なので、言葉が究極までそぎおとされているから。そのまま訳すとぶっきらぼうだし、かといって足していくと、原文の味がなくなってしまう。行間を読む作家ですね。ネストリンガーと対照的。ところで、このお父さんって、どんな感じがします? 88年に来日したとき、ヘルトリングの奥さんが、「彼には家族というものがわからない」と言っていたのを思い出しました。現実のヘルトリング家は、奥さんが支えていたのではないかしら。

むう:ヘルトリングさん自身、幼少期は家庭に恵まれなくて、今は暖かい家庭を築いているからこそ、こういうものを書きたいと思ったのかもしれませんね。幼少期の厳しかった現実からくる寂寥感やなにかが『松葉杖……』などの作品を生み出したとしたら、これはヘルトリングさんの今が生み出したのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


岩瀬成子『となりのこども』

となりのこども

アカシア:岩瀬さんは、すごく好きな作家なので、ファン心理で読んでしまいました。この文体が、私にはしっくりくるんですね。この作家特有の時間の切り取り方があって、それを読むと自分の子どものときのことを思いだします。ほかの作家では思い出さないのに。子どもの細かいところをよく観察しているからかな。子どもの姿を浮かび上がらせるのがうまいですねえ。短篇集なんだけど、読んでいくと、前に出た人があとで出てきたりして、同じ地域の話だとわかっておもしろかったし、子どものころは日常生活のすぐ向こうにファンタジーがあるという状態もよく書けています。あいうえお順に献立を考えるおばあちゃんとかおもしろい。「い」のつく料理を考えているうちに「家出」もかんがえついたのかな、とか。ただ、何歳くらいの子が主な読者層なんでしょう? 大人が読んで面白い作品かもしれませんね。

雨蛙:連作ということで、ひとつの地域の話として、つながりとまとまりがあるのが心地よかったですね。よくありそうなコミュニティの、よくいそうな子どもたちとおとなたちだと思ってしまう不思議な感覚がいい。「あたしは頭がヘンじゃありません」で、竹男くんが人形をもらう場面のように、この子いいなあと思ったり、「ねむの木の下で」で野良猫にえさをやるのがきっかけで友だちになったり、ほっとしたり共感できる場面が多いのもよかった。とても身近に感じながら読め、ついつい個人的な体験と比べてしまう。個人的に言えば、子どものころにすごした環境よりも、都会的な印象を受けた。たとえば、「夜の音」の少年たちとその親の関係とか。自分の体験をふりかえると、もっと大人と子どものつながりが強かったように思ったり。「二番目の子」で、女の子同士が遊んでいる、友達をとられてしまうのも、よく書けているなあと。しっくりくる話が多く読後感がよかった。

アサギ:「緑のカイ」という最初の話が好きになれなかったのだけれど、次からは全部おもしろかった。でも、私の子ども時代とオーバーラップするので、現代の子どもにわかるかな、という気はしました。「二番目の子」もリアリティがあってよかった。最後のほうに出てくるあずさちゃんの、へんにケチくさいところなんかも身に覚えがありましたね。ストーリーとしてぐいぐいっとくるのは、バイクの話。たいへんにいい作品だと思いました。

ハマグリ:最近この人の本を『アルマジロのしっぽ』『金色の象』と読んできたんだけど、『となりのこども』が一番面白かった。「緑のカイ」は、この年代の子どもが持っている未来への漠然とした不安とか、成長することへのとまどいを表現していると思う。第2話では、全く違う子どもたちが出てくるのに、最後にちょっと麻智のお母さんが登場し、第3話では、「あたし」って誰かと思ったらおばあさんで、第一話に出てきた竹男くんが出てきて、という構成もうまい。次はどんな話だろうという期待も出てくる。竹男くんは、おばあさんの家出をどこか面白がってる風で、あいうえお順の献立の「あ」という張り紙をさっさと自分で「い」に張り替えるとか、びん人形の世話をするとか、魅力的なキャラだと思った。この作品全体として、子どもって本当にいろんなことを考えているんだな、ということをよくわからせてくれる。児童文学によくある学校の話でもなく、家庭の話でもなく、子どもが一人でいるときに、子どもの頭の中にどんなことがあるのか。たとえば「夜の音」で、弟が、バイクの事件にかかわった兄のことを毎日とても心配しているけど、一方ではリコーダーで「庭の千草」がうまく吹けないということも描かれて、全く次元の違う悩みも、子どもの中では同一線上にある、といった感じをうまく書いていると思う。また、夕子と愛、麻智とあずさちゃんのように歳の離れた子との関係もうまく書けている。いろんな子どもが出てくるのだけれど、この子はこんなことを思いました、感じましたではなく、徹底的に子どもの行動で描いているところがいいですね。だから、今の子どもが読んでも共感するのでは。大人が楽しめる部分もあるけど、大人のいないところにいる子どもがよく書けているので、やはり子どもに読んでほしいな。

ケロ:挿絵の感じや、お話の内容から、すごく昔、というわけではないけど少し前の風景を描いているな、と感じました。自分の体験と重ね合わせて読むような感じ。今の中学生や高校生が、どんな感想を持って読むのかをきいてみたいです。気持ちとしては普遍なのだろうけれど。「子どものころ、こんなことなかった」みたいな話は、私は個人的にあまり好みではないんです。でも、確かに印象深いし、うまいなとは思います。短編連作というのは、本当に上手な人っていますよね。テーマでしっかりくくっている訳ではないけれど、全部を読むと、しっかりとしたある感情にみたされるという感じ。

:私も岩瀬成子さんファンなので、ファン心理で読みました。「緑のカイ」では、麻智や理沙がちょっと上の年令に感じられた。こういう気持ちになったよね、という気持ちのヒダをうまく切り取っていると思います。子どもは、大人がいないところで育つんだと、どっかで聞いたことがあるけど、これを読んでいて、その言葉を思い出しました。私も妹を邪魔にして、どうやってまこうかと苦心した思い出があって、感じがよくわかります。どの短編もおさまりがよくって気持ちの良い読後感でした。
*「あたしは頭が変では」のおばあさんの人形の名前など、細かいところがすごいとひとしきり盛り上がる。

カーコ:大体もう出尽くしていますが。読み進むうちに仕組みがわかって、ひきこまれていきました。居心地が悪くなるくらい、こういうことあった、あったという感じ。でも、ここに描かれている地域の人間関係は、どことなく一昔前と言う気がしました。今は、知らない人に声をかけられても話すなに始まって、親も学校も管理が厳しくなっているでしょう。ここの子どもたちは、もう少しゆるやか。スカートをはいてパンツを見せるというのも、今の子はしないんじゃないかしら。

アカシア:地方ではまだこういう情景があるんじゃないかな。著者も山口県に住んでいる人だし。

カーコ:そうかあ。ともかく、今の子が読んでどう思うかなあっていう気がしました。高校生の女の子くらいなら、おもしろがって読んでくれるかしら。理論社の本の中では、つくりからしても並製本の大衆路線と一線を画していますよね。とびっきり部数は出なくても、読む人は読んで大事にしてもらいたいという本かと思いました。

ハマグリ:最後の話でお母さんのケータイが出てくるから、そんなに昔の話じゃないのでは?

アサギ:おばあさんも別に昔のおばあさんではないし、昔の話のように感じるのは、全体の雰囲気だと思う。

:時代を超えた、人間の感情の普遍的な部分を書いてあるんじゃないかなって思います。

アサギ:年下のきょうだいを邪魔にするというのは、時代を超えてるわね。だからリアリティを失わない。

むう:今回のテーマを赤ちゃんにしようと思って日本の作家が書いた赤ちゃんものの読み物を探したのですが、見あたらなくて、枠を広げて兄弟も入れようということでこの本を選びました。みなさんがおっしゃったとおりで、この人は細部までとてもよく観察しているし、それを上手に表現していると思います。「あたしは頭がへんでは……」は、なんか高野文子の『絶対安全かみそり』に出てきた幼い女の子姿のおばあちゃんを彷彿とさせる感じで、それが妙に納得できて面白かったです。それぞれの作品に、不思議がすぐ隣にあってたゆたうようなところもあるあの年頃がうまくとらえられていて、こんなことがあったよね、という感じがするんですね。ゆらゆらっとしたところをじょうずに書いている。あと、どの作品も、終わり方が書き過ぎもせず、書き足りないこともなく、とてもうまいと思いました。

ハマグリ:「鹿」の終わり方はどうでした? 最後に出てくる白い鹿っていうのは、ちょっと唐突だと思わなかった?

アカシア:本としては、不思議な存在が出てくる「緑のカイ」で始まって、また最後に不思議な鹿が見えるという終わり方なんじゃないかな。フッと不思議なものが見えるような気がすることってあるじゃないですか。それと、二人の女の子の気持ちが「鹿」を同じように見るということで重なるところを書いているのでは?

ハマグリ:なるほど。さんざんいじわるな気持ちがふくれあがっていたのに、鹿を見るという一致した行為があったために、スッとまた仲良くなれたのね。「また遊ぼうね」って言葉が、素直に出てくるんだものね。それに対して、あずさちゃんが、「いいよ」って返事するのもなんかおかしいし、よく感じが出ている。

アカシア:子どもだけを乗せてる運転手さんが、「おたくら」と話しかけたり、「とうとうきゅうきゅう車がきましたっ」と小さな妹が言ったりするところなんか、定型をはずれたところにある真実をちゃんと書いている。p156から157にかけてのお母さんの心の変化も、短い描写でぴたっとおさえている。プロットばかりのネオファンタジーの対極にある作品ですよね。プロット偏重の作品ばかりを読んできた子どもには、逆にわからないかもしれませんね。こういうものをわかるのが大事なことなのに。アン・ファインも、こんなふうに訳してくれたら、よかったのにねえ。それにしても、ステレオタイプに甘んじる描写がないんですよね、この作家は。

ハマグリ:そう、ストーリー性がないから、あとで思い出そうとすると、こういう話というようには思い出せないのよ。でも、細部のリアリティや、味わいみたいのが残るの。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』さくまゆみこ訳

ヒットラーのむすめ

アサギ:戦争そのものを扱ったというよりも、親の誤りに子どもはどこまで責任があるか、子どもはどう身を処すべきかを扱った作品だと思う。この作品の一番の魅力は発想ですね。「もしヒットラーに子どもがいたら」という前提が斬新。ただ設定のうまさにたよりすぎている感じで、導入にいささか無理があって、お話の迫力が欠ける感じがしました。「デュフィ」とずっと呼んできたのが、最後「総統」に変わるところを、みなさんはどう解釈したのでしょうか。あくまでフィクションなんだけれど、最後のしめくくり、フィクションとノンフィクションの境目みたいに話を流し込んでいるのがうまい。

アカシア:「デュフィ」が最後に「総統」に変わるわけじゃなくて、最初から「デュフィは総統でした。そしてハイジのお父さんでした」(p52)って出てくるわよ。それにハイジは「デュフィ」と呼ぶけど、ほかの人はずっと「総統」と言ってる。

ハマグリ:すごいところをついている話だとびっくりしました。身近なところで言うと、オウムの子どもたちが学校に行くことを社会が拒否するという問題がありましたね。そういうことを大人が説明するのを避ける傾向があるところを、この本では正面きって取り組んでいる。最初のバス停の場面はそれほど面白くないが、お話が始まるとだんだんにのめりこんでいく。お話というものの持つ力をうまく使っていると思う。p60で、アンナがマークに「お父さんやお母さんが信じてることが正しいかどうか、きちんと考えてみたことあるの? 自分の親が考えてることなんだから正しいにちがいないって、思っちゃってるんじゃないの?」と言うところがあるけど、子どもの持つ既成概念を根本から考え直させる。児童文学には、大人の考えていることは正しいという前提で、それを伝えようとして書かれるものが多いけど、この本は新しい視点だと思います。

むう:今回の3冊の中では、一番引きつけられもし、面白かった。冒頭は、どこかぎくしゃくした感じで違和感がありました。唐突にヒットラーの娘の話が始まって、それにすぐにマークが引き込まれるというのが納得できなかったんです。ただ、最後まで読んだ後でもう一度ふり返ると、この女の子の唐突さというか、ぎくしゃくしたところに、すでにラストの秘密があるようでもあり、これでいいようにも思います。ヒットラーの娘という架空の存在を使って、戦争について書いている本だと思って読みました。その際、最高指導者の秘密の娘を中心に据えてその目でまわりを見ていることから、戦争の悲惨さが間接的にしか描かれずに進んでいきます。先ほど言われていたような迫力のなさは、このあたりに起因するのでしょうが、これはこれでいいと思います。後の方でハイジが戦争の悲惨さをまざまざと目にして、自分もそこに巻き込まれていくところはだんぜん迫力があり、読者としてはそこでぐっと引きつけられますけど、その直後に突然ぷつんと話が切れて、マークでなくとも「なんだ? どうなったんだ?」という気持ちにさせらる。このあたりもうまい。戦争を昔の話として書くのではなく、どうやって今とつなぐかを考えた末、こういう設定になったのでしょう。女の子の祖母が、ひょっとしたらヒットラーの秘密の娘だったのかもしれない、という形で終わらせたのは、見事です。後に余韻が残ります。10年後には使えない手法かもしれないけど……。感心しました。

カーコ:みなさんおっしゃっていますが、視点の面白い作品ですね。地の文、お話の部分の語り手と文体の変化もうまい。今回の他の2冊が、1冊は回想録、1冊が取材によるフィクションですよね。第二次世界大戦から半世紀が過ぎ、実体験として語ることができなくなってきた今、こういう書き方が出てくるんだなあと感心しました。マークと父親の会話ですが、日本の親子ならこういう理詰めの会話は不自然になってしまいますよね。でも、この作品は、親の側の微妙な揺れやためらいもとりこんで、うまく考えさせています。海外の作品の会話って、前はいかにも翻訳という感じで鼻についていたのですが、このごろ、こういうのも日本の子どもにとって大切かなと思うようになってきました。

愁童:いちばん感動したのは、児童文学を書く作者の姿勢。お話ごっこみたいな日常の遊びの中に、こういう問題を取りこんで、子供の目線で考えさせちゃうんなんて、すごいなと思った。子どもに向き合う作者の姿勢が他の2冊と基本的なところで違うように思いました。

きょん:『ガラスのうさぎ』と比べてうまいなと思いました。全く想像もつかない「戦争」の事実を、今の子どもたちに読ませるには、一歩離れたところで、子どもと同じスタンスで「戦争」を語る方が、わかりやすいのでしょう。「戦争体験」をそのまま語るという手法より、入りやすいし、一緒に考えていけるのだと思いました。読み始めは、アンナの雨の日の「お話ゲーム」というのが、すごく唐突で入りにくかったのですが、それはお話のための“舞台設定”だと思えば、すんなりと流れていきました。
マークが、自分に引きつけて考えていくところが、身近に感じる「わかりやすさ」なのだと思います。民族問題から、現代の家族の問題まで、上手に盛り込んでストーリーを展開しているところがうまいなあと。特に、「想像のお母さん」とヒットラーについて会話するところなど、身につまされるような感じがしました。本当のお母さんは、「忙しいんだから」ってちっとも取り合ってくれないのに、「お話を聞いてくれるお母さん」なら、こう言うかしら……って想像しているところ。
また、いろんな人(娘アンナや、家庭教師、またアンナのおばあちゃん……)の悲しみがじわじわとにじんでいて、「ヒットラーも一人の弱い人間だったのだ」という感じが伝わってきたように思いました。

もぷしー:戦争体験でもなくルポでもなく、離れた視点で書いています。戦争を生き抜くというのではなく、戦争に進んでいく心理を描いているんですね。気づかないうちに、いろいろなことがすべて結びついて、戦争という方向へ流されていってしまう。冒頭も最後も雨が降り続いていて、静かです。静かに静かに進んでいって、どっと大水になるという風景が描かれていますが、現実の問題とも重ねてあるのでしょうか。児童文学で描かれる親子の関係は、「大人の考え方が正しい」というのか、「大人のいないところで遊んでしまえ」というのか、どちらかになりがちです。その点この作品では、子どもが大人にストレートに問いかけている。お話の部分と現実の部分が交互に出てきて、しょっちゅう現実に引き戻されますが、無関係と思いがちな今の読者にはここが必要なのかもしれません。

アカシア:日本でもホロコーストものは割合たくさん出版されていますよね。でも、そればかりだと日本の子どもにとっては「よその国の過去」という枠の中の一つのファンタジーになってしまうのではないかと思ってたんです。この作品はその点が違うと思いました。時間的に過去のホロコーストと現在の子どもを結びつける工夫をしようとしている。それだけではなく、空間的にもポル・ポトとかアフリカの戦争を出してきて、「今だって同じようなことが行われているんじゃないか」という問いかけもしている。子どもの中には、撃ち合うのがかっこいいと思っているタイプもいるし、友だち関係を大事にするあまり自分の意見をもちにくくなっているタイプもいるし、知らないで流されちゃうタイプもいる。その中にマークみたいなのがいてちょっと待ってよと考えていく。その辺の描き方もリアルです。迫力に欠けるという意見がありましたけど、ハイジの数奇な運命や逃走だけに焦点を当てれば迫力は出るけど、今の子どもと結びつけることができない。作者に思いがあって、いろいろな工夫をしながら子どもに伝えようと一所懸命書いているのがわかります。

ハマグリ:やっぱり考えるきっかけになる本よね。

もぷしー:ちょっと待て、ちょっと待てと、立ち止まって考えさせるところがよかった。装丁もいいですね。

アサギ:去年ドイツで『ヒットラー』という映画が上映されたんですけど、製作中に人間ヒットラーを描くことの是非が問われて、すごい論争になったみたい。上映後ネオナチが力を得たという雑誌記事もあったしね。ゲッベルスの子どもたちが青酸カリを飲むシーンを見た子どもがかわいそうと泣いたとかで、物議をかもしたりもしたの。かといって、ヒットラーを特別残虐な異常な人物として片づけるのは、逆にすごく危険よね。すごくむずかしい問題。といっても、この本は前に言ったようにヒットラーを描いたわけではなく、親子の問題がテーマだと私は思ったんですけど。

アカシア:ヒットラーがもし歴史上希有な怪物だとしたら、今後同じことがくり返される危険性は少ない。でも普通の人間の部分もあるのにいろいろな条件が重なるとああいうことになるだとしたら、これからだって安心できない。だから私はヒットラーの人間的な側面を考えるのも大事だとは思うんです。でもこの本はヒットラーの人間性を描いているわけではないし、最後にはハイジが「ヒットラーの娘」という在り方を捨てて「奥深くに小さな種のようにひそんでいたハイジ自身」(p201)になっていく。そこがいいなあ、と私は思いました。

むう:イギリスの書評誌などを見ていると、学校で本を読んで、それを材料にディスカッションを行ったりもしているようですけど、それには、ある意味で物議を醸す、あるいは多様な感想が出てくるこのようなタイプの本が適していますね。そして、物議を醸す本の場合は、子どもに渡して読ませてそれでおしまいではなく、いろいろ話し合うことでもっと考えさせることも必要になります。そうしないと、読みっぱなしで深まらず、逆に危険です。日本でも本を素材として、そういうディスカッションが行われているんでしょうか?

愁童:日本の学校ではちゃんとしたディベートのやり方を教えてないよね。小さいときから自己主張させてディベートの訓練しないと、意見をぶつけ合うことなんてできない。

むう:ほんとうに子どもの心の深いところに響くディスカッションをするには、子どもたちの幅広い感想をあらかじめ予想したうえで、大人が間口を広く構えて、子どもをうまく刺激しながら議論を深めなければならないと思うけど、それには大人の側にかなりの力量が要求されますよね。そういう大人が、あまりいないということなのかもしれません。

愁童:帯の文句は気になった。これじゃ作者の意図に水をかけるようもの。ヒットラーの子どもだったら、戦争を止められたか? なんていう読み方の方に読者を引っ張ってほしくないよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


デボラ・エリス『生きのびるために』

生きのびるために

むう:あまりぱっとしない印象でした。私のようにアフガニスタンのことに関心はあってもそれほど詳しく知らない人間にとっては、はじめて知ることばかりなので、それに圧倒されて読み進めることができたんだけど、物語として面白いというタイプの本ではありませんでした。フィクションの場合、現実そのものが強烈ななかで、それに拮抗するどのような物語を作れるかが問われますよね。イラン映画に「少女の髪どめ」というのがありましたが、アフガン難民の少女が少年と偽って働き、その子が女であると見破った少年が恋心を抱くというもので物語としてよくできていました。別に恋でなくてもいいので、この本にももっと引きつける物語がほしかった。もうひとつ、主人公の母親の印象がバラバラで、継ぎ接ぎ細工のような妙な感じでよくわからなかった。

アカシア:『ガラスのうさぎ』は、主人公ががんばるばかりなのに対して、主人公の女の子とお姉さん、男の子など、日常が書かれている点に好感を持ちました。ただ、私は中村哲さんの本を読んでから、タリバン=悪という単純化はアメリカの攻撃=OKにつながるんだなあ、と思って警戒しているんですが、この本は、タリバンが悪いという北米の視点で書かれちゃってますね。それにp9には「ソ連軍が去っていくと、ソ連軍に銃をむけていた人びとは、まだその銃でなにかを撃ちつづけたいと思った。そこで、たがいに銃をむけて撃ちあいはじめた」とあり、p31には「アフガニスタン政府はいつの時代も、自分たちに反対する者を刑務所にほうりこむ」とありますが、歴史や背景を知らない日本の子どもたちは、アフガニスタン人は野蛮で、アフガニスタンは遅れた国なんだ、と思ってしまわないかと心配です。訳では、p23でお父さんが「われわれアフガン人は、イギリスの支配を望んだだろうか?」とマリアムにきくと、マリアムが「ノー!」と英語で答えるんですね。原文はカナダ人が書いているのでNo! かもしれませんが、日本語ならもっと別の表現にしないと、ここはまずいですね。確かにお母さん像は、私もわかりにくいと思いました。お父さんが刑務所に入れられたとわかっているのに、どうして通りの人にお父さんの写真を見せて歩くのかも疑問だし、最後も、お母さんのほうからパヴァーナを捜してるふうではないさないのは、どうしてなんでしょう?

ハマグリ:異文化世界の中で次から次へといろいろなことが起こるので、目を丸くしながら読んでしまうという感じだったけど、物語としては、今ひとつ物足りなかったわね。お母さん、お姉さんに人間的魅力が感じられません。怒られたり、いばられたりしても、主人公にとっては家族なので、どこかにもっと愛情を感じられる部分があってもいいと思うのに。子どもにどうやって戦争と平和のことを考えさせるかということを最近考えているんだけど、児童文学というのは主人公が子どもなので、戦争を扱った児童文学は、どうしたって被害者の立場で描かれることになってしまう。『ガラスのうさぎ』のような体験ものだと、なんて大変だったんだろう、なんてかわいそうなんだろう、だけで終わってしまっていいのか、という問題があるでしょ。「なぜ、そうなったのか」を考えるきっかけをつかむようなものが、これからの戦争児童文学には必要になってくるんじゃないかしら。それから、子どもにとっては決して楽しい話ではないので、それでも読んでおもしろかったと思えるような、物語としての価値もないといけないと思うの。

もぷしー:書名『生きのびるために』の「ために」に悲壮感を感じてしまいました。パヴァーナの生活と性格を考えると、「生きのびてやる」とまではいかなくても、もっとタイトルに生命力がほしかった。原書の書名のほうが力強いですよね。「未来は未知のまま、パヴァーナの前につづいていた」という終わり方は、まだ続いている感じがあって、この作品に合っています。お母さんの人物像がはっきりしないという感想は、私ももちました。最後にお母さんが作った雑誌が出てきますが、その中身などが書かれていれば、もっとはっきりしたのでは? 思ったより事態は悲惨だというのはわかりましたが、読者は私にはどうしようもない、という気持ちになってしまいます。戦争文学全体として大事だと思ったのは、悲惨、悲惨でなく、責任を感じながら強くなっていくという人の姿。それは伝える意義があるかと思いました。

きょん:現実に起きている話なのに、ドラマのように読んでしまいました。まさに戦争が、フィクションになっているようでした。『ヒットラーのむすめ』もそうでしたが、作中の主人公が、「ではどうしたらいいの?」って問いかけ、その答えを読者が考えながら、読み進めていくことで、戦争についてを考えるきっかけになるのだと思います。
パヴァーナに悲壮感がなく「生き抜く」強さが全面に感じられるので、『ガラスのうさぎ』より気持ちよく読めました。確かに9ページの「ソ連軍が去っていくと〜」の部分は、そんなに断定的に、人種差別的なことを言っていいのかしら……って、びっくりしました。あまりにもタリバンの描き方が乱暴だったし。
父親と一緒にゴザを広げていた市場の一角の建物の高い窓から、時折ものが投げおろされていますが、だれが、なんのために、ということがとても気になりました。これは、想像ですが、建物から出てこれない女の人が、「私は、まだ生きていますよ」というメッセージを送ってるんでしょうか。また、父親と一緒だった女の子が、一人でゴザを広げるようになり、男装しても、女の子だとわかったので、「がんばれ」って応援するつもりで、中からものを投げおろしていたんでしょうか。最後、パヴァーナが、この町を去るときには、もう市場には来られないので、建物の中の女性を励ますこともできないからと言って、花を植えるところからも「同じ女性として、会えないけれども、一方は、かげから姿を見て、一方は想像することで、励まし合っていた」のかもしれないなあと想像しました。すれ違いだけれど、お互いに思いは通じていたのか……と。でも、このシチュエーションは、読者が理解するには、結構難しいと思いました。もう少し、そこのところもわかりやすく描けていたら、よかったのですが。

愁童:異文化を見下して書いている感じがして、好感を持っては読めなかった。宗教的な日常生活の部分は書かれていないし、タリバン=悪、女性のブルカ=女性蔑視みたいな視点ばかりが目立ってしまう。実際には、ああいう圧制下にあっても、庶民レベルは結構しぶとく生きてるだろうし、そういう生活者同士の連帯や生活臭のある部分をきちんと書いてくれないと、アフガンの人は可哀想、イスラム原理主義は悪し、だけみたいな感じになって、日本の子どもには何だかよくわからないのではないかな。

アカシア:訳者あとがきには、この著者はパキスタンのアフガン難民キャンプを取材したと書いてありますよね。だけど、国外に逃げられたのはお金のある人だったと、中村哲さんは言ってました。じっさいにパキスタンの中に入ってみないと、わからないところもあるのかもしれませんね。

ハマグリ:窓のおばさんのことをもっとおもしろく書くといったことが、フィクションの面白さなのにね。事実を土台にしてはいても、もっと子どもが面白く読めるものにしてほしいな。

愁童:家族間の体温も感じられないね。

もぷしー:おねえさんは資本主義的社会のそこらにいそうな人ですね。お父さんも西洋風の理想のお父さん。そのせいか、悲惨な状況に西洋の家族が巻き込まれた、という印象を持ってしまいました。

カーコ:世界で起きているこういう現実を知らせることは大切だと思うんですけど、この本は、お話として読者を最後までひきつけていく吸引力があまり感じられませんでした。パヴァーナの気持ちで読んでいこうとするのだけれど、家族の描写がちぐはぐで、なかなか寄り添わせてもらえない。子どもにこのような現実を伝える書き方、子どもにわかる書き方とはどういうものだろうと考えさせられました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


高木敏子『ガラスのうさぎ』

ガラスのうさぎ

アサギ:この作品の世界は、私自身でさえ実感しにくいので子どもが実感するのはたいへんなことですね。ただノンフィクションの力に圧倒されました。体験記としては、お汁粉のところや着る物のところなど、状況が髣髴とさせられていい作品。父親の葬式を一人で出すなど、とても厳しい話だけど、主人公が明るくてけなげなのが、作品に希望と光を与えていると思いました。子どもが読むには、想像力の限界を超えてしまっているからとアニメにする気持ちはわかります。

ハマグリ:私もだいたい同じような感想。戦争体験者が子どもに語るということで、今の子どもたちにも読めると思う。主人公は本当にけなげで、応援したい気持ちになって、最後まで読ませる。これがフィクション仕立てで、『生きのびるために』なんて書名がついていたら嫌らしいけど、『ガラスのうさぎ』というタイトルも何のことかな、と思わせて、いいと思う。ただ、こういうものを子どもに読ませて、戦争はよくないと思いました、という感想文を書かせて終わるというのではなく、親や教師と話すとか、そのあとのフォローが必要になってくるのでは。

アカシア:私は昔読んだときは感動したんです。でも今もう一度読んでみると、この本以外にも「悲惨」と「がんばる」がセットになって「けなげ」をアピールする本がほかにもいっぱいあるなあ、とそっちに目がいってしまった。それが課題図書になったりしていることに気づいて、これでいいのかなあ、と思い始めてます。今の子どもは「この子はかわいそうだった」と思い、その中のよい子たちは「戦争はやめましょう」と作文に書いたりするのかもしれないけど、それでどうなるんですかね? がんばりたくない子どもは、どうするんでしょうね?

アサギ:最後の憲法第9条のところで、これだけのことがあったからこそ平和がいいものだということが、子どもたちにも伝わるんじゃないの。

ハマグリ:体験してきた人は、こういうスタンスでしか語れないのでは。

アカシア:この手の戦争児童文学が出続けることに対して、清水眞砂子さんが「子どもは食傷している」と言ってましたよね。それに、今の子にとっては、ファンタジーと同じレベルの非現実的な物語になってしまう。

むう:この時代そのものが今の子にとってまったく縁のない別世界にしか見えないという意味では、やはり今の子にとってはハードルの高い本だと思います。家族のありようや言葉の使いよう、生活習慣等々、すべてが子どもたちの身の回りとかけ離れていて、おいそれとは共感できないかもしれません。しかも、この主人公は一種の優等生で、へんてこな人物が出てこない。結果、じつにクラシックな、いかにも児童文学ですという感じの作品になっている。むろんこの本の力は、作者が事実を書いている、その中をかいくぐってきたということにあるのであって、その意味で、いもしない人物を登場させるわけにいかないのはわかります。また、このような悲惨な事実を子どもたちにきちんと伝えたいという作者の気持ちは重い。しかし、戦争を書いた児童文学がすべてこの本のようなトーンの作品ばかりでいいとも思えないんです。仮にこれがフィクションであれば、いい加減な人間や奇妙な人間、子どもたちの身の回りにいそうな人間を登場させることによって、物語を子どもたちに身近なものにできるはずですよね。この本自体は立派な本だけど、その後の日本の戦争を扱った児童文学が、フィクションであるにもかかわらず、この本をなぞる「ノンフィクションのまがい物」の範疇を出られていないところが問題なのでは? 先ほどのアカシアさんの言葉を借りれば、「ファンタジーで終わらない作品」がない。その時代を生きなかった人間だからこそ書けるフィクションとしての力を持った作品で、戦争と現代の子どもをつなげてほしい。

カーコ:『生きのびるために』と比べると、お話に力があるのを感じました。『ハッピーバースデー』(青木和雄著/金の星社)は、小・中学生からずいぶん支持されているようですが、あの作品を読むような子なら、同じように読めるのではないでしょうか。今回私は2000年刊の新版で読みました。章ごとに語句の解説があったりルビが多くなっていたり、今の子どもにも手渡したいということだなと思います。現代の日本の子どもの本だと、『夏の庭』(湯本香樹実著/徳間書店)にも、おじいさんが嵐の夜、三人の男の子に戦争のときのことを話すというシーンが出てきますよね。あれなどは、全編戦争ものでなくても、そういうことを今の子どもに伝えたいという現代の作家のスタンスかなと思います。

愁童:昔、読んだときも、今回改めて読んでみても、それほど共感は湧かなかった。数ある大人の戦争体験記の一つという感じで、「ガラスのうさぎ」という題名が生きてくる内容じゃないという印象。今の子に読ませる戦争ものとしては、もう無理なのでは? この作品の時代には日韓併合の影響で、小学校にも朝鮮半島から来た家庭の子が何人かはいて、いじめられたりするケースもあったけど、そういうことは書かれてないし、ひたすら小学生時代の作者が、いかにけなげに戦時中の苦労を乗り越えて生きてきたかという話に終始するので、児童文学作品として読まされると、何となく抵抗を感じてしまう面もある。

アカシア:戦争では日本は加害者でもあったわけでしょう。それなのに、日本の作家は被害者の視点ばかりを強調して、アジアの被害者の人たちの視点はほとんどない。ヨーロッパを舞台にしたものは、被害者のユダヤ人の証言や物語が日本でもたくさん出るのにね。いろいろな本が出て、これもその中の一冊というなら、いちばんいいのに。

ハマグリ:70年代に日本の戦争児童文学がたくさん出たけど、疎開の苦労や、被害者としての自分たちを語るものが多かったわね。これからは、もう一歩その先を行くものを読んでほしい。

きょん:あまりに悲壮感があって、べたべたの戦争物語なのですが、思わずかわいそうになって涙ぐんでしまい、嫌になりました。それだけ、「体験」を語ると言うことが「強い」ということなのでしょうか。それとも、これもテレビドラマに涙するのと同じように、ひとつのフィクションなのでしょうか。昔読んだときは、タイトルに出てきた「ガラスのうさぎ」は、掘り出した後どうなったんだろうと思ったことをおぼえています。
今の子どもが、理解できないと言いますが、どこがわからないのか、不思議です。「戦争」は遠い世界のことで、よくわからないのでしょうが、「肉親を失う悲しみ」は、時代を超えて共通だと思います。親が目の前で死んでしまう、兄弟が行方不明になる……自分の身に置き換えて考えればそんなにわからない話ではないと思います。それが、わからないとなると、今の子どもたちが、自分とは、違う状況にある他の人の立場になってものを考えられなくなっている危機的な状況なのかもしれません。それに、敏子さんは、すごくがんばりやさんですが、すぐあきらめてしまうような今の子には、「こんなにがんばる敏子さん」を理解できないのかもしれませんね。

もぷしー:私は母が戦後生まれなんです。「がんばる像」についてですが、『アタックNO.1』は茶化していいけれど、この作品には茶化してはいけないというのを子どもの読者にわからせる気迫がある。子どもが自分で手にとる本ではないなので、課題図書という形でなくても、子どもに手渡せば伝わるのではないでしょうか。

アカシア:戦争はいいか悪いか、と問えば、今の子どもだって「悪い」という子が圧倒的に多いと思うんです。でも、戦争って、したくないのにいつの間にか巻き込まれてしまうんですよね。その辺の視点がないと、「戦争は悪い。被害者は悲惨」ということを伝えれば戦争はストップできるんじゃないか、と勘違いしてしまう。

アサギ:だいぶ前に、子どもを白血病で亡くした友人がいて、その手の本を読んだことがあるの。同じように子どもを亡くしたお母さんの手記というのを、当時、滂沱の涙を流して読んだのよ。なのに、あとになって思い出すのは、同じ時期に読んだ津島佑子の『夢の記録』(文芸春秋)っていう短篇集なの。場合によってはフィクションのほうが、読者の胸の奥に届くこともあるのかと、考えさせられたのを今思い出したわ。この『ガラスのうさぎ』にはノンフィクションならではの強さを感じましたが、もし戦争をいまの子ども達の日常につなげて描くフィクションがあれば、それはそれでとてもいいことだと思うのね。ノンフィクションでは、どうしても事実に縛られるし、書ける人が限られてしまうから。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


笹生陽子『バラ色の怪物』

バラ色の怪物

ブラックペッパー:とても上手に書けている、と思いました。すっと読めて。でも、上手に書けすぎているという気持ちもあります。遠藤が急に強くなるというのが鮮やかではあるけれど、急すぎた。あと、吉川がよくわからなくて。彼女はなんなんでしょうね? 『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)のような、反逆児のような。こんな子いるのかな?

:私は、『ぼくは悪党になりたい』(笹生陽子著 角川書店)の方が、得体の知れない人がいなくて、読みやすかった。この本も、主人公の男の子が家の手伝いをするし、母親に心配かけまいと健気だし。そんな子がネットオークションでカードを売り買いしたり、夜の歓楽街に出掛けたり、本人に自覚の無いままに事件を起こしたり、巻き込まれたりする、中学生くらいの子のこわさが実感としてありましたね。急にあんなに遠藤が強くなるところには、私も違和感をもちました。

むう:私はかなり好きです。『きのう、火星に行った。』(講談社)以来、笹生さんの書き方が好きなのかもしれません。現在の世相をうまくとりこみながら、順調に育ってきたバイオエリートみたいな子がうまく出ている。一歩ずれたところに自分を置いている感じが納得できる。主人公が母親と口ゲンカになるところも、この年代特有の人との接しにくさがよく書けている。暴力におぼれていくところも、私は違和感がなかった。ただ、最後のおっかけっこの場面で、突然劇画調になったのがちょっと。全体としては好きですね。

ハマグリ:文章がうまいと思うし、すらすらっと読める本でした。でもこの主人公のような、一見さめているみたいなんだけど実は結構単純という主人公って、あまりおもしろみがない。こういう子は確かにいるとは思うんだけど、個人的には好みではありません。『楽園のつくりかた』(笹生陽子著 講談社)の主人公の方が好きですね。読んでいるときはすっと読めるけど、作品としてはなんとなく後味が悪い。三上なんかの描き方もそうだし、吉川は、最初の出方が印象的なのに、中途半端。人は見かけによらない、別の面を持っているという程度で終わっているのが、とても物足りなかったですね。

きょん:ずいぶん前に読んだんです。全体としてはすらっと読めるけど、私もあまり好きじゃなかった。なんとなく中途半端な感じがしました。子どもの中に潜む“怪物”はちょっと理解できたし、それが、時としてむくむくと頭をもたげて暴れ出し、心を乗っ取る感じは、よく描けているのだけど、結局、最後には怪物の正体を見つけられたのか、それを追い払うことはできたのか、疑問が残ります。吉川は、よくわからなかったんですよね。やはり最後には、飛び降りたのでしょうか……。吉川が、「ふつーの世界」の住人にこづき回され、嫌われながら、なぜ平然と変人ごっこを続けていたのかよくわからなかったんです。せっかくおもしろいキャラなのに、なんでこうなったのかが漠然としすぎていて。問題提起を投げつけるだけで、本の中で自己完結できなくて、そのまま終わってしまったよう。進学私立校に通うエリート中学生の三上の犯罪も、なんだか中途半端で、それでどうなったんでしょう? YA文学で思春期の子どもたちが読者だと考えると、問題を投げつけるだけでも、共感できるのでしょうか? あえて、そこに生き方とか、指標になるようなものを提示しなくても、いいのでしょうか? 中途半端な書き方が、この中途半端な年代には、いいのかしら?

愁童:最初は3冊のなかでいちばん面白いかなと思ったんだけど、『きのう、火星に行った。』のほうが面白かった。中学生あたりに読ませるという意識が過剰なんじゃないかという気がしました。吉川の奇矯な行動を出してきて、読者の関心をパッと引きつける冒頭の書き出しなんかうまいなって思ったんだけど、その後、ほとんど吉川が書き込まれてこないのが残念です。最後の方で、青いつなぎを着た男を裏と定義し、それに吉川を重ねて遠藤が納得するシーンには違和感が残りました。だって、青いつなぎの男は、読者からは裏には見えない。外見のハンデにもめげずに、倉庫で普通に仕事をしている設定になっていて、むしろあっぱれなぐらい表なんじゃないですか。吉川を、こんな風に説明するんじゃなくて、ストーリー展開の中で上手く書き込んでくれれば、遠藤との交流を通じて作品の奥行きが出てきただろうに、惜しいなって思いました。

ブラックペッパー:吉川がああなったのは、塾に一緒に行っていた子たちから仲間はずれにされたのが原因なんですよね。

愁童:でも、その描写はないわけで。

ブラックペッパー:そこがずっと謎だったのが、あとから明かされて「真相解明!」っていうつくりなんですよね。

愁童:文章で書くならば、グレーゾーンも書かないと、立体感が出てこないじゃないですか。

ブラックペッパー:私は、吉川が、派手なことをしたいのに温室によく来てるということがピンとこなかったですね。お花に詳しかったり。

むう:吉川やつなぎの男の人っていうのは、多数派と少数派の対比なのかな。マジョリティーとマイノリティーみたいな。

愁童:それは裏とはちがうんじゃない。青いつなぎの男は少数派かもしれないけど、裏じゃないと思う。

アカシア:中学生ってすごく難しい年齢ですよね。社会からは疎外されたところにいて、でもあれこれ思い悩むし感受性も強い。だから常識の物差しでは量ることができない吉川みたいな女の子だって出てくるのはわかるんです。ただ最初の出だしを読んだときは純粋エンターテイメントのドタバタなのかな、と思ったんだけど、読んでいったらそうでもなくて、どっちつかずになっていた。私も『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)や『きのう、火星に行った。』のほうが、心理の揺れがきちんと描かれていて作品としての質は上じゃないかと思いました。
今日は出席できないトチさんから、メモを預かっているので、みなさんにもお伝えします。

トチ(メモ):三上くんの正体がなんなのか知りたくて、最後まで読みました。途中から「光クラブ」にヒントを得ているんだなと分かりましたが、歳のせいでしょうね(リアルタイムで知っているわけではありません。念のため)当時より今のほうがずっとこういう事件(というか犯罪)が起こりそうな時代ですし、題材の選びかたがなかなか鋭いし、おもしろいと思いました。というわけで、三上くんがらみのストーリーは、おもしろかったし、遠藤の気持ちもきめこまかく、よく描かれていると思いました。ウサギのような宇崎くんもおもしろい。
でも、三上くんのストーリーと、吉川や、頭にけがをした青いつなぎの若者の話がどうからんでいるのか、わかりませんでした。よっぽどオツムが悪いのでしょうか? 一見バラ色の怪物のような吉川や、けがのせいで通行人に気味悪く思われている男の人のほうが怪物ではなく、三上くんのような優等生のほうが怪物だといいたいのでしょうか?でも、それじゃあまりにも単純すぎて……どなたか教えてください。
青いつなぎの若者の話は、分からないを通りこして、憤りすらおぼえました。94ページの「『魔界じゃ姿が醜いやつほど強いってことなんすかね』……遠藤はふとつぶやいた。青いつなぎの若者のことをぼんやりと思い出しながら。この世のものとは思えないほど醜く、そして強い者」とか、86ページあたりの若者をことさら英雄視した吉川の言葉とか……「もはや存在そのものがリアルの域を超えているね」なんて言われたい人間がいるんでしょうか?

カーコ:今回選書するときに、中学生が主人公になっているものを選ぼうとしたんです。今の中学生にどんな本が届いているのかが、少しでも浮かび上がればいいと思って。笹生さんは、中学生によく読まれている作家だし、話題にもなっていたのでこの本を入れました。でも、これは読後感がよくありませんでした。衝動を抑えられない感じがうまく出ているので、中学生が読んだら、ほかにもこういう子がいるのかと思うかもしれないけれど、もっと明るいものを見せてほしい。また、保護者の立場で読むと、おそろしいですよね。親の知らないところで、子どもがこんなことをしているなんて。東京都では昨年条例が出て、中学生の夜間外出は禁止になり、違反すると親は罰金を払わなければならなくなっています。だから、現在の東京都ではこの物語の設定はリアルじゃないですね。

紙魚:笹生さんのほかの作品にもいえることですが、冒頭の吉川の登場のしかたや、それぞれのキャラクター、物語の設定にきれ味があって、すっと鮮やかな印象が残ります。キャラクターのデフォルメがうまいので、多少、心情描写がうすくても、どんどん読み進めていけちゃう。ただ、その鮮やかさが切れ切れとしていて、なかなか一筋のものにつながっていかない。だから、読んでいるときはおもしろく感じられるのだけれど、吉川とか、つなぎの男とか、この物語にどう機能していたのかがつかみにくい。

すあま:同じ時期に出版された『サンネンイチゴ』(笹生陽子著 理論社)を読んだところなのですが、どちらも中学生のとんがった女の子が出てくるので、いっそのこと同じ子のちがう話(シリーズもの)でもいいような気がしました(他の参加者から「出版社がちがうから無理」という声あり)。読んでいる間はおもしろかったんだけど、読み終わってみるとそうでもなかった。吉川さんは、疎外されたのが原因で変わった行動をする子になったように描 かれていますけど、もともとの性格なのか、実はとても気持ちが弱いんだけど時々爆発するのか、わかりませんでした。見た目と行動の奇抜さだけでは、キャラクターとして弱いので、もう少ししっかり描いてほしかったな。青いつなぎの人との関わりも、ハンカチ拾うだけで終わっているのが物足りませんでした。

アカシア:私は、ハンカチ落とすなよ、と思っちゃった。月並みすぎるじゃないですか。

むう:吉川っていうのは、おそらく主人公が変化するための触媒なんでしょうね。だから、それほど主人公との関係が濃くならなくてもいい。ほどほどの関係で推移するんだけれど、それでいてまったく軽い存在ではないわけで、主人公はちょこちょこと刺激を受けていて、それがあるからこそ三上君との世界で自分の今まで知らなかったところを発見する、という流れなんじゃないかな。さらに、吉川にとっては、つなぎの男の人が触媒みたいな存在だったんじゃないかな。つなぎの男の人との深い交わりがあったからではなく、自分の抱えている問題があって、そこに男の人を外側から見ていて自分なりに受けた刺激が加わってはじめて今の吉川が生まれたと、そういう構造なんじゃないかな。だから、吉川やつなぎの男の人はあまりいろいろと書き込まれていなくて謎が多いままなんじゃないかな。つなぎの男の人の扱いにはかなり問題ありだと思うけど。

愁童:確かに触媒って言われるとわかりやすいね。でも、吉川が触媒で、青いつなぎの男が吉川の触媒っていうのは、すごく分かりにくい。吉川が触媒なら、吉川をもっと書き込んでほしかったな。

すあま:吉川は、あこがれの人を遠藤に見せたかったんですよね。

愁童:隔靴掻痒という感じがするよね。本当の触媒としての共感が生まれない。

ブラックペッパー:うー、でも、吉川は自分を見せないようにしている子だからね。

愁童:読者は、吉川への魅力に引きずられて読んでいる部分があるのに、最後は、表・裏みたいな簡単な図式で終わってしまうのは残念だったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


シャロン・クリーチ『ルビーの谷』

ルビーの谷

紙魚:いちばん馴染めなかったのは、このふたごの年齢。13歳とありますが、会話や行動からはとても13歳とは思えない。だから、この子たちの像をつくりあげられないまま読むのがしんどかったです。会話もおかしいですよね。ほかにも、いろんな疑問が残ります。後半、孤児院の院長夫婦がやっきになって買い物する描写が続くところなんかは、コミカルに見せたいのか、それぐらいひどい人なんだという深刻さを出したいのか、どちらなんでしょう? Zが最後どうなったのかも気になります。それから、老夫婦にとっての旅の意義とはなんだったのか? 前半部分でそれがちゃんと伝わらないと、夫婦の生活実感とか、二人がそれぞれ子どもをつれて旅に出る意味など、うすっぺらいものになっていまいます。文章からは伝わってこないけど、実際のところはこうなんじゃないかと思って読む感じでした。

カーコ:確かに、私もずっとちぐはぐな感じがあり、これは原作の問題なのか翻訳の問題なのかと思いながら読み進んだところがあります。ふたごの視点と老夫婦の視点を使うことで、思っているけれど言わないこと、思っているけど伝わらないことなどが、鮮明になっていて、そこはうまいと思いました。自然に年長者の思いが、読者に伝わってきますし。会話が多く、本来は読みやすい作品のはずなので、子どもの本としての目配りがもっとほしかったです。ルビーの谷の美しさなど、心にしみる部分があるだけにもったいない。また、『ホエール・トーク』(クリス クラッチャー著 金原瑞人訳 青山出版社)を読んだときも感じたことだけど、外国のもののほうが、大人が断然くっきりしています。日本の大人は、子どもたちに大人の文化を見せていないのかな、と考えさせられました。

アカシア:私も、ダラスとフロリダは、読んでいてもっと小さい子たちかと思いましたね。でも絵を見るともっと大きいのよね。老夫婦の気持ちや人柄はよくわかるんだけど、ふたごの描写は、ステレオタイプだと思いました。カーネギー賞作品なんだから本当はもっといい話なんだけど、翻訳がそれを伝えていないのかしら? 私も、孤児院の院長夫妻には全くリアリティが感じられなくて、それが作品全体のバランスを崩していると思いましたね。ここでまたトチさんの、メモを紹介します。

トチ:(メモ):原書のタイトル(Ruby Holler)を見たときに「なにこれ?」と思ったのですが、holler は hollow(窪地)の方言なんですね。大声で叫ぶ holler と窪地のhollerをかけている、なかなかしゃれたタイトルです。それはともかく、『ロラおばちゃんがやってきた』(2005年2月)のときのハマグリさんの台詞を借りれば「いい人たちがでてくる、いいお話で、感動しなければと思って読みました」(本当は、いい人ばかりではないんですけどね)。1章の「銀色の鳥」で、この子達はいずれ銀色の鳥に導かれるようにして、温かい家庭に引き取られるのだろうなと思いましたが、たちまち3章で、長い道筋の末にたどりつくのだろうと思っていた温かい家庭の持ち主があらわれたので、ちょっとびっくりしました。後はもう、そうなるだろうなと思うような道筋で進んでいき、「それからはみんな、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる……現代のフェアリーテールですね。
アマゾンのreviewを読むと、フロリダの言葉がショッキングでそれが面白いということですが、残念ながら翻訳版ではそれが感じられません。putrid とフロリダが口走るところがとってもおもしろいとアマゾンでは子どもの読者が何人か書いていますが、これを「むかむかする」と訳しているのでしょうか? フロリダの言葉もダラスのそれも、今どきの大人よりも上品で、古めかしい。140pのフロリダの言葉に「わたしのオツムがいかれたんじゃなきゃ、これはベーコンよ……」とあるけれど、この子が「オツム」なんて言うかなあ?
ルビーの谷の夫婦がなんで別々に冒険旅行にでかけるのかなと最初は思ったのですが、仲のよい夫婦なので永遠の別れのリハーサルなのかなと思い、そこはちょっとほろっとしました。深読みでしょうか? それから、フロリダとダラスを夏の間だけ引き取ったのは、旅の道連れにするのに、若くて元気がいいからということなのでしょうか? ちょっと勝手なのではと思いましたが、どうなんでしょう? 自分たちにとっても便利だし、孤児たちも喜ぶだろうしということなのかしら? そのへんのところがよく分かりませんでした。
また、トレピッド院長夫妻があまりにも漫画的に描かれていて(特に買い物のところなど)、軽すぎるかなと思いました。Zがふたごの実の父親だったというところもねえ。フェアリーテールとして読めばオーケーなのかもしれないけど。
これ、本当にカーネギーを取ったんでしょうか? 好き嫌いはあるにしても『ふたつの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ著 原田勝訳 徳間書店)などとくらべてあまりにも小粒なのでは?

愁童:3冊の中でいちばん読みやすいんだけど、主人公がもっと幼いと思って読んだものだから、孤児物語定番ものみたいな感じがしました。あちこちで似たような話を読んだなという感じ。Zの書き方にもう一工夫あれば、もっとおもしろくなったのでは?

きょん:私も主人公が13歳とは思えなかった。6歳くらいの印象ですよね。ふたごと老夫婦と、2つの視点で書かれた、それぞれのエピソードが、ばらばらに入っているのだけれど、それが、うまくかみあわさっていて、パズルのピースをはめ込んでいくように世界ができていくのはおもしろい。このストーリーの中では、老夫婦のそれぞれの旅は、あんまり意味がなかったんだと思いました。作者にとっては、老夫婦とふたごが、旅に出るまでの複雑な心の揺れや迷いを描きたかったのではないでしょうか。行かない方がいいんじゃないかとか、ふたごと老夫婦のそれぞれが離ればなれになるのは初めてだから大丈夫かとか……。はじめは、子どもたちは、旅に行くつもりなんか全然なくて、夜汽車で逃げ出そうと計画しているのに、旅に行って帰ってきてから夜汽車に乗るのでもいいか……とか。心の揺れと迷いがよく描かれていておもしろかった。そして、子どもたちが心をひらいて旅についていくというのは、よく伝わってきました。
子どもたちは、もしかしたら、愛情をかけられずに施設で育ったため、粗暴で感情が未成熟で幼く感じるのかもしれませんね。老夫婦に出会うことによって、人間的な心をとりもどして、心も人間としても成長していくのかもしれない。Zは、重要な脇役だけど、最後はどうなるのか、ちょっと中途半端な伏線だった感じがします。
最後に、フロリダが、はっきりと「行きたくないここにいたい。こんなにやさしくしてもらったの初めてだもん」っていうところが、本当に印象的だった。今までは、「いたいかもしれない」「今までとは違うかもしれない」と予感していたけど、はっきりと言葉にしていない、それは、言葉にしてしまうことで、裏切られるのが怖いからで、今まで裏切られてばかりいたから、信じてはいけないと思っていたから……という、その感じが、痛々しいほど伝わってきました。

ブラックペッパー:読み終わって、まるくおさまって、いい気分でした。私は年齢にはひっかからなかったけれど、時代はいつなのかと気になった。この状況って、現代にありうるのかと。だって、こんなお仕置きしたりする孤児院、経営者は逮捕されちゃわない? これはいつの時代の話なんですかね?

:「リモコン」って出てくるから、現代ですね。

ブラックペッパー:今なのね、やっぱり。で、あんまりリアリティを求めずに読んだから、女の子は元気がよくて、男の子はぼんやりしてて、いろいろあったけど最後は「よかったね」という感じ。Zがお父さんだったというのは、ちょっと。でも、お父さんだとは名乗ってないないので、まあ、それもいいかなと思いました。

アカシア:子どもたちを孤児院に帰すわけにはいかないし、老夫婦がひきとるわけにもいかないから、こういう結末にしたのかしら? そのためにはZが必要だったのかも。Zは近くに住んでいるから、子どもたちはまたルビーの谷にもしょっちゅう来られるわけだし。

ブラックペッパー:私は、老夫婦がひきとって、Zがちょくちょく来るという結末になるのかなと思ってました。

:この本と前後して読んだ『ダストビン・ベイビー』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)も捨て子になって里親や施設を転々とし、辛い子ども時代を送ったため、大人を信用できなくなった子どもが思春期に自立していく話なんですが、そっちは過酷な状況がさほどリアルに伝わらなくて、妙にほのぼのとしていました。孤児院の院長夫妻は、奥さんがフロリダを我が子として育てようとしてうまくいかなかった挫折感がコンプレックスになっているせいで、ふたごが神経に触ってしまうんでしょうか? Z・謎の男ですが、推理小説好きとしては、ZはZでいいけれど、老夫婦にはZと呼ばせず、名前(ボブでもジョンでも)で登場して、後で同一人物だったって方がおもしろかったのに。Zに石を探させるところは、リアリティを通り越して滑稽でしたね。

ブラックペッパー:私は、最初の登場人物紹介に「謎の男」と書いてほしくなかった。

愁童:そうだよね。ふだんから老夫婦の家に出入りしているのに、老夫婦まで「Z」と呼んでいるのはリアリティないよね。

:それから、フロリダの「むかむかする」という表現が気になって数えてみたら、30ページまでに8回位使っているんです。その後、フロリダとティラーがお互いを理解し近づいていく流れの山場でティラーが「むかむかするっていうのはいい言葉だな」と言うので、これは、本当はキーワードなんでしょうね。なんかぴったりこなかったんですけど。

すあま:今の言葉でいえば、「むかつく」とか「きもい」とか、若い子がよく使う言葉に当たるのかな?

アカシア:これが、トチさんの言ってたputridなのかも。

むう:私は、ずいぶん古典的な本だなあと思いました。ほとんどみなさんがおっしゃったことで尽きているんですけれど、院長のショッピングのエピソードや、Zの扱いがまるで宙ぶらりんなところは持て余しました。途中で院長夫人がふたごをひきとろうと考えるところで、「おっと、ここですこし心の綾などが見られるのかな?」と思ったら、そうでもなく続いていってしまうし、なんだかとっても変。老夫婦の設定には好感がもてたし、ふたごの揺れる気持ちとか、何度もドジをして、そのたびにすくみ上がりながら少しずつ心を開いていくところなんかはいいなあと思いました。何かをしていくなか、何もしないでただいっしょにいるなかで絆が培われていく感じがよく出ていると思いましたし、老人二人とふたごとの心の変化だけでも十分だった気がするんです。ふたごが家出しようとするんだけれど、一方で老夫婦に見つけてほしいと思っているあたりもリアルでよかった。でも、それと院長夫妻やZの扱いのお手軽さがなんともアンバランスで……。カーネギー賞は、どちらかというと子どもが読めるのかなというくらい文学性が高かったりする本に与えられる賞だと思っていたので、この本がカーネギー賞だというのはかなり意外でしたね。

ハマグリ:この本の印象は、はっきりいって退屈。早く終わらないかなと思いながら読みました。目次を見ると、66もの章に細かく分かれている。中には1ページしかない章もあり、それぞれに最後をうまい切り口でパツンと切ったりして、しゃれた構成にしている。でも、その切り方がどういう意味なのかよくわからないものもあって、よさが十分に味わえませんでした。また、老夫婦とふたごのイメージと、実際にくりひろげられている会話やキャラクターと、この本の挿絵のイメージがばらばらで、かみあわない感じがしました。また、院長夫妻は最初は、昔からよくある意地悪な孤児院の院長のような雰囲気だったのに、途中から突然、滑稽な買い物風景が出てきたり、おもちゃの宝石にだまされたりするなど、急にマンガみたいになって、一体どうしたのかと思いました。Zが親だったというオチも、とってつけたようでいただけません。

カーコ:院長夫婦をマンガのキャラクターみたいにして、読みやすくしようとしたのかしら?

ハマグリ:文脈からいっても、院長夫妻が単なるおバカな人たちになるのは、ありえないでしょう。トチさんのいうように、現代のフェアリーテイルとして読めばいいのかしらね。

すあま:私もおもしろくなかった。カーネギー賞だからおもしろいはずなのにと思ったんだけど、どうしておもしろくないんでしょう? 話に乗っていくことができないのは、原作のせいなのか訳のせいなのか、どっちなんでしょう? とんちんかんなことをしたりするのを、もうちょっと楽しみたいんだけど、言葉づかいのせいか入り込めませんでした。原作はもっと違うものなのではという疑念がわきました。院長たちのチャチな犯罪は、リンドグレンやケストナーの昔の作品に出てくる安っぽい悪者みたいですが、かえって逆効果。話の本筋と別のところでハラハラドキドキさせようとしたのかな?

ブラックペッパー:でもあれがないと、Zが活躍できないんですよ。

すあま:老夫婦が本当の子どもたちに2人ひきとることを反対されているけれど、その先どうなるかが書いていないので、何となく腑に落ちないまま終わってし まう。シャロン・クリーチの他の作品は読んでないんだけど、ニューベリー賞も受賞している作家だし、本当はおもしろいのでは?

ハマグリ:筋も腑に落ちないとすれば、訳のせいだけではないわよね。

すあま:ふたごが、よかれと思ってやるのに老夫婦の大切なものを壊しちゃうなんていうすれ違いも、もっとおもしろく訳してほしかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


カニグズバーグ『スカイラー通り19番地』

スカイラー通り19番地

すあま:カニグズバーグの新作ということで、ある程度、期待をもって読み始めました。前半はおもしろかったんだけど、後半の塔をめぐる争いになってから、あんまりおもしろくなくなってしまいました。主人公をキャンプでいじめていた子たちが最後に出てくるけど、そんな簡単に関係が修復されてしまうものなんでしょうかね?

ハマグリ:私も期待して読んだんですけどね。カニグズバーグはとにかく周到に考えて、最初から最後まできちんと作る人なんだなということはわかったけど、実はあまり楽しめなかった。この主人公みたいな、ちょっと大人びた女の子を書くのはうまいと思う。二人のおじさんの雰囲気も、他の作品にない感じで、ユニークでよかった。犬のタルトゥーフォも脇役としてとても効いている。でも、よくわからないところも多かったし、ピンとこないところがあった。でもカニグズバーグなんだからきっとおもしろいに違いないという思いがあって、それに邪魔されてしまったかもしれない。やっぱり、私は初期の作品のほうが好きです。

むう:私もかなり期待して読んだんですが、読み終わって、作者は何書きたかったんだろうと思っちゃいました。当然ながら、文章はうまい人だし、主人公や二人のおじさんはとても魅力的なんですけどね。そもそもカニグズバーグは繊細で自立心の強いタイプの子を書くのがとても上手で、ここでも「わたしたち」という言葉にこだわる主人公の気持ちはとてもよくわかる。でも、ずっと読み進んでいって、半分近くまでキャンプの話が続いて塔の話に入ったところで、ふと、タイトルが「スカイラー通り19番地」なんだから、これからはじまる塔の話が本番ということなのかな、と思ったのだけれど、どうもそうじゃないんですね。前半のキャンプの話はぐっと主人公に引き込まれて読み進んだのだけれど、後半の塔の話になると、印象がまるで変わってきちゃって、ひどくちぐはぐな感じを受けました。塔の話になってからの展開がずいぶんドタバタしていて、きちんと書き込まれていない感じですね。主人公やおじさん以外の人々が、ジェイクにしてもそうなんだけど、なんとなく周辺にとどまっていてあまり活躍していない印象が残ったんです。あと、最後に塔を大企業が買っちゃうという結末はひじょうに不満でした。「ステップ3のあと」の部分の書き方が、懐古調で妙にたんたんとしているせいもあるのかな、読み終わってとっても寂しい感じが残りました。ああ、さすがのカニグズバーグにも、最盛期のような輝きはなくなってしまったのか、と思いました。

:最近出てた他の作品が読みにくかったので、これはカニグズバーグを読んだなという感じが持てました。カニグズバーグの新作だと期待しすぎちゃうので、いろいろ厳しい意見が出るのでしょう。おじいさん二人が、映画『ウォルター少年の夏休み』の雰囲気に似て、うまく伝わってきました。ただ、塔がどういう形なのかイメージが持てなかった。塔をアウトサイダーアートという言葉で価値を高めて、買い取ってもらうというのも、解決の一つかなとは思いました。でも、やはり寂しさが残ってしまいました。

ブラックペッパー:私は、その寂しさは、ロレッタさんとピーターのせいではないかと思うんですけど。ジェイクならわかるけど、会ったこともない人に電話で頼んで解決しちゃうのが達成感がなくて、寂しいのでは? 私は、女の子が歌を歌うところが好き。「わたしたち」の言葉にこだわるところも。

紙魚:しかも、ジェイクはロレッタさんと結婚しちゃうんですからね。聞いてないよーと思いました。

ブラックペッパー:あと、「カピシ」はcapisciだと思いますが、「カピーシ」がナチュラル。もし、わざと変ないい方をしてるのであれば、傍点つけるとかしたほうがよいと思う。OKは「オーケー」とか「オッケー」ならいいけど「オケ」じゃダメなのと一緒。許容範囲をこえています。

きょん:寂しかったのは、塔を記念碑のようにしてしまったからだと思います。マーガレットたちは、そんなことを望んでいたわけじゃないでしょう。窓をあけて、塔が見えるというその状態が大切でしょ。自分たちの生活空間の中に自然にとけ込んでいる“塔”が大切だったのだと思うのに。

ブラックペッパー:でも、壊されちゃったら、もっと寂しい……。

きょん:どうしてスカイラー通りに残すことが無理なのかわからないですよね。あの塔の周辺の町並みは、都市計画の中で旧市街のように残そうとしていた地域なのだから、塔を残すことだって可能なのでは? 事実の記録じゃなくて“お話”なんだし。

アカシア:私は、暮らしの中に塔を残すのは今の現実社会では無理なんだ、とカニグズバーグがあきらめちゃったような気がして、それが寂しかった。

きょん:登場人物は、ユニークでおもしろかった。あと、マーガレットがなぜイギリス国歌を歌っているのかがわからなかったんです。

ブラックペッパー:ひとりで歌をうたっちゃうっていう気持ち、あると思うなあ。あと歌詞もいい! とくに2番。

きょん:最後、ピーターはどうなったんでしょう??? ちょっとラストは、バタバタととりとめもなく集結していくところが残念でした。何となく妙な感じが残る本でした。

愁童:ぼくは、ええっ、これ、カニグズバーグなの? という感想。ほかの作品のように、存在感のある印象的な人物がバーンと出てこない。書きたかったのは、ひょっとして、アウトサイダーアートだったのかな、なんて思っちゃった。スチールパイプを組んで、がらくたをぶらさげている塔を、記念碑として残すというは、説得力に乏しい。つまんなかった。ジェイクにはひかれたんだけど、いじめっ子たちをつれてきて運動をするというのはご都合主義に過ぎないんじゃないか? カニグズバーグのものとしては説得力に欠けていて、がっかりしました。唯一キャンプの女の子を問いつめる場面ではカニグズバーグらしさを感じたけど……。

アカシア:私は、カニグズバーグの作品は、人物の描写のうまさとリアリティへのこだわりが特徴だと思ってるんです。で、人物に関していうと、校長先生はただの性悪でなくて厚みのある人物としてうまく書かれていると思ったし、「わたし」「わたしたち」にこだわっている主人公の女の子の描写もうまい。おじさんたちも魅力的。ジェイクの意外性もいい。でも、リアリティという点では、あまりいただけませんでしたね。もっとリアリティにこだわる作家だと思っていたんだけど、私が読み落としているんでしょうか? たとえば塔を守るためには、そこに取り壊しの人が入ってきたら所有権を主張して無断侵入で訴えて阻止しよう、という作戦を立てるわけですよね? でも、途中から方針が変わったのか、塔に立てこもってしまい、これは危険だからと警察に保護されてしまう。最初の作戦でいけばこんなことにはならなかったんじゃないかって、疑問がわきましたね。それに、おじさんたちは、いろいろな描写から生活の質にはとてもこだわっている人だと思えるのに、ケータイの会社に塔を保存してもらう、という終わり方でいいのか、ということも気になりました。私も、この塔が地域の人々の生活の中にあるからこそ意味があるのだと思っていたので。それとも、スカイラー通りでの塔の役割はもう終わった、とカニグズバーグはみなしているのでしょうか? その辺がよくわからなくて、もどかしかったんですね。それから校長のカプラン先生ですけど、ジェイクについてスカイラー通りまでついてきてしまうなんて、少なくとも翻訳で読むかぎりリアリティがありませんよね。残されたキャンプはいったい誰が面倒を見ているんでしょう? それから、これは訳の問題ですが、ジェイクの「回顧展」ってあるけど、回顧展って、ふつう死んでからやるんじゃない? 私はこの言葉が出て来た時点で、ああジェイクは死んでしまったんだ、と思ってしまいました。そしたらまた登場してきたのでびっくり。この作品でも下訳の人が入っているのかしら? カニグズバーグは一言一言がゆるがせにできない文章を書く人だと思うので、翻訳者ご自身が最初から取り組んでいらっしゃれば、読者のもどかしさはもう少し減ったのかもしれませんね。

ハマグリ:そうだよね。もっとおもしろいはずだよね。

カーコ:筋としてはすらすら読めるのですが、登場人物が増えて、設定も作品のつくりも複雑になって、最後のおさまりがつきにくくなっている感じがしました。『ホエール・トーク』(前出)も『ホー』(カール・ハイアセン作 千葉茂樹訳 理論社)もそうでしたが、社会的な問題解決というと、弁護士や各方面の人々が登場します。私はうっとうしく感じるのですが、アメリカでは普通のことなのでしょうか。校長先生も街づくりをする自治体も、正義の旗じるしをかかげているのに、実際は個々人の幸せにはつながっていないとか、おじさん二人にとって時間は過ごすためにある、とか、おもしろいところはいろいろありました。生きることに肯定的なのがいいですね。ただ、一人称でなくてはいけなかったのかなと思った部分がありました。たとえば、131ページ後半、街のことが書かれている部分は非常に三人称的で違和感がありました。ゴシックで書いてある章タイトル(?)も、しっくりしませんでした。きらいではないけど、問題がしぼりこまれていた初期の作品のほうが、私は好きです。

紙魚:イギリスの田舎に、意味のない鉄塔を立てている人がいるという話をきいたことがあります。おそらくカニグズバーグは、その鉄塔のことが頭にあって、この物語を書いたのではないかしら。でも、それがうまく物語のなかにとけこんでいなくて、キャンプのいじめの話、塔の話、その後の結末、という固まりのまま、ぶつぶつと途切れているのが残念でした。ジェイクがいじめっ子たちを追いこむ場面は痛快だし、「わたし」「わたしたち」という概念をおりまぜたりするところなんかはさすがですが、自分たちの(主人公もわたしたち読者も)手の届かないところで、物語が動いていく寂しさが残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


フーリア・アルバレス『ロラおばちゃんがやってきた』

ロラおばちゃんがやってきた

むう:ささっと読めて、おもしろかったです。ロラおばちゃんという人に原色を思わせる魅力があって、(主人公の)ミゲルがおばちゃんの存在が「はずかしい」と思いながらも魅かれていくところがいいし、子どもたちとおばちゃんのやりとりが面白かった。パパとママの離婚があまり重たくなく扱われているあたりが、アメリカだなという感じでした。ニューヨークの3日間の最後にパパが(自分の描いた)絵をミゲルにくれようとするのに対して、ママのことを考えたミゲルが、ニューヨークに置いておいた方がいいというあたりに、主人公の優しさが出ていると思った。楽しく読める良い本という感じですね。(最後の)サンタクロースが実はおばちゃんというあたりも、クスッという感じで面白かったです。

アカシア:私はなんかちょっと物足りない話だなと思いました。むうさんは、おばちゃんに魅力があると言ったけど、私はもっとその魅力が浮き上がるように描いてほしかった。タイトルが「おばちゃん」で、会話は「おばちゃん」と地の文の「おばさん」の両方が出てくるのね。でも、地の文もミゲルの視点になっていたりするので、機械的に二種類の使い方をするとかえって趣をそこねるような気がしました。それから47pに「ミゲルが妹を『ニータ』と呼ぶのは、なにかたのみごとがあるときと決まっている」とあるけれど、それ以前の、頼み事をしていない所でも「ニータ」と呼んでいるので、あれ? と思ってしまいます。54pには「内地のやつら」とあるけれど、「内地」という言い方でいいんでしょうか? それと196pで、(ドミニカに行った主人公が)ホームレスの子どもを見て、自分の幸せを感じたと言っている場面がありますが、他人の不幸を見て自分の幸せを感じるという著者の視点に疑問を持ちました。そんなこともあって、作品全体があまり好きになれませんでした。

愁童:物足りなさと、もどかしさを感じた。陽気なロラおばちゃんの性格設定は分かるけれど、子どもたちがトップシークレット扱いにしなければならない理由がいまいち説得力に欠ける。だからロラおばちゃんが街の人々に受け入れられて、母親の誕生パーティに沢山集まってくれる結果になっても、主人公たちが、その変化にどう関わっていったのかが、読者には英語を教えたこと以外にはあまり伝わってこない。天性明るいロラおばちゃんの振る舞いを、子供達はただ眺めていただけみたいな感じで、物足りない。アメリカの子どもたちにとっては意味のある作品かもしれないけれど、日本の読者にとってはどうなのかな?

ハマグリ:私もみなさんと同じような感じで、ニューヨークからヴァーモントにやってきた子どもたちが、いろんな人種が暮らしているNYと違って白人ばかりのヴァーモントは暮らしにくいなと思っているところへ、ラテン系の明るいおばちゃんがやってきて、英語はしゃべれないのにみんなとすぐに仲良くなっていく……という暖かでさわやかなお話という設定だとはわかるんだけど、読んでいてつまずくところがたくさんあった。たとえば6pで、ママがミゲルに「おばさん」でなく、スペイン語で「おばちゃん」と呼んでくれと頼むけど、日本の子どもにとっては分かりにくい。英語とスペイン語と、たどたどしい英語を全部日本語に移し変えるわけだから、無理があるとは思うけど、もう少し工夫できないものか? 22pの空港におばさんを迎えにいくところ、「ふたりはカウンターの向こう側を見た」とあるけれど、ふたりはカウンターのどっち側にいたの? おばさんはどこにいたの? 情景が見えてこない。ほかにも情景が見えないところがたくさんありました。38ページの雪の上に歩いて字を書くところも。41pの「足跡は、文字から離れるのではなく、文字に向かっている」も??でしたね。101pの「ネコとイヌの嵐だよ」は、英語を知っている大人なら分かるけど、もうちょっと子どもにも分かるように訳さないと不親切じゃない? 103pの後ろから4行目「マジだよ……『オ』がついていることばは、なんでもだ」というところも、子どもに分かるように工夫が必要。168pには、「白文字で『ハッピーバースデー』と書いてあるたくさんの風船を飛ばした」とあるけれど、挿絵は黒文字になっている。
とにかく、情景が目に浮かばないので、楽しめるところまでいかなかった。私はぜんぜん面白くなかったわ。原書だったらもっと面白いというわけでもないんじゃない?

アカシア:翻訳や編集ももう少し工夫が必要だったと思うけど、原作自体のストーリーにもそれほどの魅力がないのかも。

カーコ:私がいいなあと思ったのは、おばちゃんが子どもたちに与えてくれるおおらかさです。白と黒だけのヴァーモントの風景のなかで、派手な服を着て、ひたすら明るいおばちゃんの姿とか、英語は不自由なくしゃべれるのに臆している子どもたちに対して、英語ができないのにどんどん友だちができるおばちゃんの好対照。「ああ、こんなこともあるのか!」と、子どもたちが思っていくところがよかったです。いろいろ指摘されていますが、もしかしたら、訳者がスペイン語もできる方なので、英語とスペイン語がまじりあった違和感を読みとばしてしまっている部分があるのかもしれまんせん。ドミニカとか中南米とか、遠い世界のことを知るという面白さはあるのでは?

アカシア:確かに子どもにとっては、知らない世界が見えてくる、というのは面白いことなんだけど、今ひとつその世界が生き生きと見えてこないんですね。おばちゃんのツケぼくろなんて、本当は面白いところなんだろうけど、その辺のユーモアがイマイチ伝わってこないのが残念です。

トチ:おばちゃんの服装と、お料理のところは面白かったけど。ドミニカ料理って、食べたことないから。ユニークなおばちゃんだ、面白い……と言葉では言っているけれど、やっていることは別に面白くないのよね。『シカゴよりこわい町』(リチャード・ベック著 東京創元社)のおばあちゃんみたいに、強烈なことをやるわけではない。アメリカに住んでいる子どもたちにとって、おばちゃんの派手な服装や身振りや、英語のできないことが面白いだけで、ドミニカにはそういう人たちはいっぱいいるでしょうし……言葉で言うだけじゃなくて、ストーリーでおばちゃんのキャラクターを語っていかなきゃ、読者には物足りない。それから、おばちゃんが子どもたちと話すときは「 」の中が平仮名で、すらすらしゃべっているでしょう? これは、スペイン語でしゃべっているのかしら? 子どもたちに習った英語で訳の分からないところを言う箇所は面白かったけど、ここはカタカナでしょう?原文はどうなっているのかしら?アメリカの読者はスペイン語もある程度分かるから面白い部分もあるかもしれないけど、日本の子はそれをさらに日本語に訳したものを読むわけだから、分かりにくいうえに面白さも半減しちゃうわね。

すあま:ロラおばちゃんのイメージが浮かべられないまま、終わってしまった。いろいろなできごとが、すべてさらっと解決してしまい、不満が残った。150pで、(がんごじじいの)シャルルボア大佐が「チャーリーズボーイ」と(野球チームの少年たちのユニフォームに)書かれているのを見ただけで、なぜ和解してしまうのかもわからなかった。原題が“How Tia Lola came to visit stay”で、visitを消してstayになっているのは、最初は主人公の子どもたちに拒絶反応があったけど、最後には大事な家族の一員になったということを意味しているということなのかと思ったが、ミゲルにもそんなに葛藤がないので、どうなのか。ミゲルの気持ちについていくと、肩透かしを食らうことが多かった。物足りなかったし、作者がなにを意図していたのかも分からなかった。

ハマグリ:良い人のでてくる、良いお話なので、感動しながら読まなければと思ったんだけどね……

トチ:ハマグリさんって、いい人なんだねえ!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


片川優子『佐藤さん』

佐藤さん

トチ:とても面白かった。最後まですらすら読めたし、なによりいかにも今どきの子どもらしい、生きのいい会話がうまいなあと思いました。森絵都の『カラフル』(理論社)とか、朝日新聞に浅田次郎が連載していた『椿山課長の七日間』(朝日新聞社刊)のような、ユーモラスな幽霊ものですよね。でも、後半になって親による虐待とかいじめなどが出てきたところで、良くある問題をそれほど掘り下げないで取りいれて、お手軽にまとめたなあ、と少し残念でした。最後に作者紹介を見たら、なんとまだ18歳か19歳なのね。さすがに子どもたちの会話はうまいわけだと納得しました。でも、それだったらなおのこと、同世代にしか分からない心の動きなどを、もっと書いてほしかった。この作品はこれでエンターテインメントとして完成しているのでしょうけど、これくらい軽やかで読みやすい文章を書ける人なので、これからもっともっといろいろな面を見せてほしい。どんなものを書いてくれるかと、わくわくしてます。

カーコ:書き出しがとても面白くて、この二人がどう近づいていくのか、ぐっと引っ張られて読んでしまいました。佐藤さんが学校の内外でキャラクターを使い分けるところとか、優柔不断な主人公が悩むところは面白かったから、二人の変化やクラスメートの男の子との話でまとめたほうがよかったのでは? 最後に虐待がからんでくるのは不自然。同年代だからか、話し言葉がうまい。崩れすぎず、ちょうどいい書き言葉になっていて感心しました。

ハマグリ:「ぼくは佐藤さんが怖い」という出だしの一行がとてもうまい。最初がすごく面白くて、ぐっとひきつけられた。はきはきしない性格で、押しの強い有無をいわせぬ子を苦手とする主人公の気持ちがとてもよく書かれていると思った。言葉遣いも地の文もこのような性格の一人の男の子の感覚を細かく表現できている。若いのに才能のある作家が出てきたと思う。それにユーモラスなところがあっていい。幽霊の安土さんは今日はいない、だって九州に行っているからなんて、おかしい。幽霊ならどこにいたって出るときは出るのに。ところどころ笑える部分があって、このところこんなに笑った話はなく、楽しかった。でも私もカーコさんと同じく、佐藤さんが実は虐待されているというところにきて、なんだそっちへ行くか、と思ってちょっとがっかりだった。それと小学生時代にいじめられていた清水を克服するために会いに行く場面で、清水が実は自分もいじめられていたとやたらべらべらしゃべるところが嫌だった。清水はもっと清水であれよ!と思った。これじゃあ主人公がちゃんと乗り越えられないじゃないか! この世代の感じ方を言葉で表現するのはうまいけれど、一つの物語としてのまとめ方はこの人のこれからの課題じゃないかと思う。

トチ:ストーリーがないっていうこと?

ハマグリ:部分部分が面白いから最後まで読めたけれど、構成がいまいちだし、ストーリーとしてのまとまりをつける点ではこれからじゃないかと思う。

アカシア:文章が面白いと思ったし、私は幽霊の扱い方は『カラフル』よりも面白いし『ウィッシュリスト』(オーエン・コルファー著 理論社)よりは、はるかに面白かった。一番引っかかったのは、高校生の男の子の描き方。私の息子が高校生だった頃、こんなだったかなあ、と思って。主人公は、手を握ることもできなくて、佐藤さんをどんなふうに助けてあげられるのか、と聖人君子みたいなことばかり考えている。ひこ・田中の『ごめん』(偕成社)とはずいぶん違う世界。女性の作家だから、やっぱり男の子は捉えにくいのかな、と思ってしまった。まあ佐伯くんのような子もいなくはないんだろうけど、中学生という設定にしたほうが自然なんだろうと思いました。物足りなかったのは、虐待の部分と並んで、香水事件の終わり方。p97で、田川さんが急に、お父さんの浮気の話をぺらぺらしゃべる。それまでそう仲良くなかったクラスメートに? とここは、不自然。それから、p30の「安土さんは……空気椅子してるんだろうな」というとこ、私はよくわからなかったんだけど。だってベンチはそこにあって、安土さんはちゃんとすわってるんでしょ?

みんな:幽霊は、ちゃんとすわれないのよ。だから、やっぱりすわってる格好をしてるってことよ。

すあま:私は、主人公たちが高校生だと思わずに、中学生だと思って読んじゃった。それは挿絵のせいかとも思ったが、登場人物の内面の描き方からもそう感じられた。あとがきを読んだら、作者が中学生のときに書いていたことがわかったので、そのせいかもしれませんね。88pに「聖子泣き」(嘘泣きのこと)という表現が出てくるけど、これ、かなり古い表現なので、この本の時代設定や作者の年齢が気になってしまった。でも作者は若いし、現代の話だったのでびっくりした。

トチ:「どざえもん」っていう言葉だって江戸時代以来伝わってるんだから、「聖子泣き」も生き延びるかも。

すあま:こりゃあいいぞ!という感じで読み進んだんだけど、佐藤さんの虐待にからむ話の展開でがくっときてしまった。それから、もっといろんな幽霊が出てくるのかと思ったのに、ストーリーは結局普通の学園ものになってしまった。
幽霊を背中にしょってる女の子と幽霊が見える男の子という設定がユニークだったのに、あまり幽霊である意味がなくなって相談相手のお兄さんになってしまったのも残念な気がした。

むう:なかなかおもしろく読みました。でも、最後のところがだめだったな。虐待とかいじめとか、おいおいまたか!という感じ。うじうじした主人公がほんの少し変わって、恋が実って、それでいいじゃないかと思う。肝試しのところまでは楽しく読めて、156ページの「だって佐藤さんは地球と同じくらいすごい勢いでまわっていて、その佐藤さんを離したらぼくはあっという間に振り落とされてしまうだろうから」という文章が出てきたときは、これで決まりだ!よし、よし!という感じだったのに、次をめくったら「スタバの前で転んで笑おう」が出てきたので、なんだこれは?と思った。最後の一章はよけいだと思う。いじめの連鎖だとか虐待を扱うならもっとちゃんとしてほしい。いかにもステロタイプでがっかり。幽霊の安土さんがとりついたままではまずいというので、安土さんを昇天させるために作った章なのかもしれないけれど、安土さんがとりついたままで終わってもよかったんじゃないかと思う。社会性がなくて小粒だといわれたとしても、そのほうが作品としてはいい印象が残ると思った。それと、全体に中学生の物語という感じで読んでたので、高校生の話だといわれると、ちょっと幼い感じがしました。

トチ:この作家も一応取り上げているというだけで、いじめや虐待を掘り下げているわけではないでしょ。そういう意味でみると、日本の作家は全体に社会性がないですね。社会から隔離されたところで生存しているみたいです。これでいいのかなという感じがしました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』

ホエール・トーク

ハマグリ:ほかの2冊に比べると読み応えがある本。最初はカタカナ名前がどれが誰だかのみこめなくて、なかなか先に進めないところもあったけれど、個性的な人物ばかりで、途中から読めるようになった。面白いというより、いろんなことを考えさせられる重い話だった。単純に悪い子と良い子で分けるのでなく、どんな子もみんな根っこは同じ、育っていく過程で救いの手を差し伸べる大人にどれだけ出会ったかで決まる、ということがわかる。一人の人間の中の強さと弱さも描かれているし、加害者と被害者が単純にいい悪いでは決められないということも感じられた。主人公の性格、ものの見方がよくわかる書き方で、苦しみ悩みをかかえ、大人に反発しながら斜に構えた皮肉っぽい見方で語るのが、若い読者に共感を呼ぶと思う。最初は悲惨な状況にいたにもかかわらず、養父、養母、カウンセラーによって救われ、コーチや、ジムに住んでるおかしなおじさんとの出会いで育っていく様子がわかる。でもこの子は実はおだやかで優しい部分があるとも感じられ、ほっとする部分もある。ひねった表現もあって、しっかり読まないとどういう意味かわからないところも多かった。小鹿を殺される描写がリアルで感情がよく伝わり、お父さんが殺される時にその感覚がダブる場面がうまい。当時の歌やら、この時代の流行ものなど、わかるところもあれば、わからないところもあったが、アメリカのティーンエージャーなら、もっとわかって楽しめるところだろう。

アカシア:これは大人の本として出ているのかもしれませんね。訳も、62ページの「サハラ砂漠代表チーム」など、わからなくてもいいや、という大人の本特有の直訳調だもの。私もハマグリさんと同じで最初のうちは人物の特徴をつかむまでに時間がかかったけど、だんだん面白くなってきた。定石どおりに話を作っている所から来る快さもありますね。みんなそろってハンパものの子たちが、同じような立場の、学校から白い目で見られているコーチと一緒に努力して何かをやりとげる。おとうさんが見かけはごついけれど繊細な心を持っているなんていうのも、定石ですね。随所にメッセージが散りばめてあるのも、若い人に受ける要素かも。ただね、私は生まれてきた話というよりは、公式にあてはめて面白く作った話という感じがしてしまって、後書きに書いてあるような大傑作とは思えなかった。

すあま:読み始めたときは、暗くて重い話かと思ったが、途中からだめな子たちが集まってがんばるという、読みやすい話になった。よくあるパターンだけど、重いテーマを扱っているのに読みやすかったのは、そのせいかもしれない。最後のセリフが、「こういうものって、どこに置けばいいんだろう」っていうんだけど、「こういうもの」というのが何のことなのかわからなかった。

アカシア:ここ、たぶんすごく大事なことを言ってるんでしょうけど、今のままではわかりませんね。訳者もわからなかったのかもしれないけど、こういうところは、それこそ著者に確認するなどしてから読者に手渡してもらうといいのにね。

むう:この本には、ドメスティック・バイオレンスが大きく絡んでいるけれど、そのあたりはよく描けていると思った。アメリカのYAでは、サラ・デッセンなども含めてドメスティック・バイオレンスがよく取り上げられているけれど、この本は、ドメスティック・バイオレンスの背景や被害者の有り様などの扱いがリアルだと思った。でもドメスティック・バイオレンスだけを書いたら重くて重くて読めない感じになりかねない。それが、青春物語に絡まり、いかにも反抗的で男気もあるハイティーンという主人公の設定も手伝って、読めるものになっている。これを読んで、つくづくアメリカにはある種過剰なマッチョな男性文化が伝統としてあるんだなあと感じた。その病理みたいなものとしてドメスティック・バイオレンスが出てくるということもよくわかった。小説としては、ぐいぐい読ませて最後までひっぱっていく力があると思う。それに、結局クリスがジャケットをもらえて終わるところとか、最後のホエール・トークの章でお父さん自身も知らなかった子ども、つまり血のつながらない兄弟と主人公が出会うとか、意外性も持たせつつ、きちっと落として終わっている。それが、定石通りということでもあるのかもしれないけれど。ただ、この本はいかにもアメリカらしいスポーツ至上主義的な高校生活、チアガールやスポーツ選手が異様にもてはやされる高校生活にどっぷり浸ったところで書かれていて、それは日本とだいぶ違う気がした。おそらく、アメリカの子のほうがこの作品を自分の生活に引きつけて読めるんじゃないかな。私自身は、アメリカ的なスポーツ文化やハイスクール生活の雰囲気があまり好きでないので、ちょっと引いてしまうところがあった。

すあま:スポーツで学校のポイントが決まるというような、アメリカの高校のしくみも、わかりにくかった。

カーコ:筋がはっきりしているので、どうなるんだろうとぐいぐい読みました。アメリカの文化的なことや固有名詞やらダジャレやらが、わかりづらいですが、人物の人となりがはっきりしてきてから、面白くなりました。ばらばらなメンバーなのに、いつのまにか連帯感が生まれて、一人一人が救われていくというのがいい。救われるには、自分のほうに求める気持ちがないとダメだ、というお母さんのセリフがよかった。文化だけでなく、親子の接し方や、たたみかけるような理詰めの論理展開が、日本にはない感じ。大人の本として作ってるようなので、確信犯的に直訳調にしているのだと思いました。考えさせられるところの多い本なので、高校生に手にとって読んでほしいですね。

ハマグリ:175pの体をかいてるようなかっこうをするところで「ぼくはカニじゃないんだから」って、どういうこと? ゴリラならわかるけど。

アカシア:カニにもゴリラにも見えるのかなって思って読み飛ばしたんだけど。よく考えてみたらそうだねえ、変だねえ。

トチ:crab って毛じらみのこともいうって、リーダーズに出てましたよ。たぶんこれのことじゃないかしら。原文は読んでないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


あさのあつこ『NO.6』

No.6

愁童:子どもに活字を読ませようと言う意味では手頃な作品だと思った。ただ発想が劇画コミック風で、エリート対ノンエリートという設定でぐいぐい書き進められているけど、一歩踏み込んだ感情移入がしにくいのが残念。活字物を読み慣れた子には、やや物足りないのでは?

アカシア:#1を読んだだけでは謎が多すぎて、まだよくわからない。ずんずん読めるには読めたけど、本文中の写真は気になりましたね。とっても思わせぶりだし、私は読んでて自分が物語からイメージしているものと違うものを見せられて不愉快でした。わざと違和感をねらってるのかしら? でも、読んでて邪魔だったなあ。

ハマグリ:私も写真が気持ち悪かったわ。

アカシア:出たばかりの時に読もうと思ったんだけど、はじめの目の写真で(13p)読むのを止めちゃったんです。風景みたいなのは、まだいいんだけど。このシリーズは背表紙も愛想がないのよね。わざとねらってるのかもしれないけど、あまりうまくいってないのでは? それから4p「踏みこんでこれない場所でもあった」と「ら抜き」表現が出てきますね。地の文で。でも、それで通すってわけでもないみたい。どういうことなんでしょうね?

きょん:私も写真が気持ち悪かった。デザイナーが入っているのかなぁ? 全体に劇画調だし、書体の違う部分も馴染めなかった。思わせぶりでなところばかりで、じれったかったのですが、文章が読みやすかったので、勢いで読んでしまいました。#2を読み始めたら面白くなってきて。著者の書きたいことが何となくわかってきましたが、#3まで読むと、まだ続くのか〜って。主人公紫苑は天然と呼ばれて、純粋培養されていて、今の子どもに似ているのかな。でも、この純粋さに強さを持ち始めるところが、すごくストレートな生き方ドラマになっているように感じました。

ケロ:この本、売れてますよ。出てすぐに興味があって読みましたが、とにかく使われて いる写真が嫌でした。これは、あくまで好みの問題ですが、特に、29pの写真は紫苑なのかしら。目が一重だし、いや〜ん、という感じでした。あさのあつこさんの作品は「バッテリー」(教育画劇、角川文庫)もそうだけど、前向きで先行きに希望のある作品が多いなかで、なぜ、このようなSFを書きたかったのだろう?と、正直、思っていました。「未来都市」の設定やストーリーは、あまり新しくないと思いましたし。でも、2巻のあとがきを読んで納得するところがありました。今まで、「希望」という言葉を気安く使ってきた自分、でも、世界では、そんなことじゃすまされない、リアルな絶望がある。それに対してのあさのさんの思いをぶつける、渾身の作品なんだなと。今の日本の若者の代表「紫苑」と、戦場で生きる「ネズミ」が、どの辺で分かり合え、接点をみいだすことができるのか? あさのさんは問いかけながら作っている、ということがわかりました。2巻目以降で成功するといいのですが.

きょん:その辺は#2でクリアに打ち出していると思う。私もあとがきで納得しました。だから#3を読むと、今の子どもが無くしつつある、生きていく上での“飢餓感”や、生きている意味を訴えているのかもしれない、と思いました。

ハマグリ:私は#1しか読んでいないので何とも言えないけど。二人の少年の出会いがあり、お互いが探りあいながら、反発したり共感したりというのは「バッテリー」と同じですね。「バッテリー」ファンは気に入るのでしょう。じっくりと読む気になれず、ざっと読んでしまった。中学生くらいだと読みやすいとは思うし、好きな人は好きになると思う。設定が2013年になっているけど、50年位先の設定だと思わない? 2013年だと近未来にならないよね。ロングセラーで長く読ませる気がないのかしら。

むう:図書館のほうで3冊揃ってから連絡が来たのと、『パーフェクト・コピー』が手に入らず読めなかったこともあって、どうせだからと3冊読みました。すいすい読めましたが、特に新しいとは感じはしませんでした。劇画調というか、コミック調というか……。先ほどどなたかおっしゃっていたみたいに、読者に手にとってもらうためにそうしたのかもしれませんけれど。設定にしろストーリーにしろ、どっかで見たな、読んだなあという感じでした。みなさんも言ってらしたけれど、あの写真はもったいぶっていていただけませんね。あと、登場人物の名前がどうにもなじめなくて……。紫苑だとか、沙布とか、火藍とか、何とかしてくれ!という感じ。表現も、漢字が多かったり妙に固かったり小難しくしてあったりで、劇画的ですね。ただ、#2の「あとがき」と#3の「言い訳にかえて」を読んで、なるほどとは思いました。つまりこの作品は、9・11以降のアフガニスタンでの戦争やイラク戦争、日本人人質事件などの流れにこの作者が自分なりに反応して生みだした作品じゃないかな、と思ったんです。
#2のあとがきに、「若い人たちに向かって物語を書くことは、希望を語ることに他ならないはずだ」と思ってきたが、自分は何も知らず、知ろうとしないまま生きてきたのではないかと思わされた。個人は必ず国と繋がり、国は必ず世界と結びついていて切り離すことができないということに気づいて、どうしてもこの物語を書きたくなった、というようなことが書いてある。さらに#3の「言い訳にかえて」では、「新聞で読んだテロリストと呼び捨てられる若者の言葉が耳を離れません。」として、「どうしたら、ぼくはきみたちと友達になれるのだろう」というテロリストの言葉が引かれている。この作品は、一方に、ある種ナイーブというか、エリート育ちの人の良さを持ったガードの低い紫苑がいて、もう一方に自分以外はみんな敵という感覚でひとり生き抜いてきたネズミがいるという構造なんだけれど、それが、たとえば今の日本の若者と戦場となっている国々の若者、という対比につながる気がしたんです。紫苑は、平和で生きることに必死にならずにいられる今の日本の若者、ネズミは常に命の危険にさらされている戦火の中の若者というように。どちらも偏っていてどちらか片方だけでは通用しないと、おそらく作者はそう思っていて、ネズミでも紫苑でもない生き方や見方を模索しているんじゃないのかな。あるいはふたりが成熟していく方向を模索しているといってもいい。それで、#2はその気持ちに沿って筋が動いていったんだけど、#3になると、もともとがかなり重たいテーマだから、作者が思っていたほど外側が動かなくなっちゃった。内側の話が勝ってきて、出来事としてはあまり進行しなくなっちゃったんじゃないかな。
 とにかく、とてもまじめな作品だとは思いました。作者が言いたいことを持っていて、それをエンターテインメントという形で表現しようと四苦八苦している感じ。その意味で、この先がどうなるのかひじょうに気になります。ディストピアものは気が滅入るんであまり好きじゃないけれど、これは続きを読むかもしれない。それと、近未来にしては2013年は近すぎるという点なんですが、これは深読みのしすぎかもしれないけれど、ネズミと紫苑の対立は今もあるんだ、『No.6』のような要素は現代にもあるんだ、という意味が込められているのかなってふと思いました。

すあま:よくある設定で、崩壊、純粋培養、特権階級など『ブルータワー』(石田衣良、徳間書店)や、『セブンスタワー』(ガース・ニクス、小学館)と似ていると思いました。1巻でハチの奇病が出てくるけど、その後の巻ではどこかに行ってしまった。話が広がりすぎて収まりがつかなくなっている感じだけど、この先どうなるか知りたくて読んでしまいました。でも主人公に共感はできなかったな。「バッテリー」も、なかなか完結しない(注・6巻が1月に刊行、やっと完結)し、このシリーズも終わらないのでは。登場人物の名前だけど、今も当て字のような名前が増えてきているから、2013年頃ならこんな名前も出てくるかもしれませんね。ファンタジーと言うよりSF。子どもが読んでどんな気分になるのかな?

:私もすぐに『ブルータワー』を連想しました。タワーとドーム、選ばれた人と外に暮らす人との対立、反乱。そして登場人物の名前の漢字が当て字っぽい。あれあれって思いながら読みました。#1と#2を読んだだけなので、この先どうなるのか気にかかります。あさのさんの作品は初めて読んだのですが、どれも「なんでこんなに引っ張るのよ〜」って感じなのでしょうか? 連続物は完結して読まないと感想が述べにくいと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


シャルロッテ・ケルナー『ブループリント』

ブループリント

アカシア:ドイツ人は、クローンの問題が好きなのかしら? これも、『パーフェクトコピー』もドイツの作品ですよね。設定はおもしろかったんだけど、娘と母親というだけでも思春期は大変だと思うのに、娘が母親のクローンという設定だから、なおさら大変。しかもドイツ人だから、感覚的に反応しあうというより、議論しちゃう。読んでて息苦しくなっちゃった。言葉でぐいぐいつめていこうという作者のエネルギーに感心はしましたが、やや食傷気味。あなた=わたし、わたし=あなた、わたし=彼女=わたしたち、の関係がくり返し出てくるんだけど、「もうわかったからいい」という感じ。それから、エピローグに架空のデータを出してノンフィクションっぽくしてるのも、意図がよくわからなかった。しかも、この最後のほうに「クローン人間の数はふえているが、わたしたちの数をこえて暴走するようなことはけっしてないだろう。自分を複製する許可は、ドイツでは生殖可能人口の0.32パーセント内におさめることになっている。これは、一卵性双生児の自然出生率にあたる。自然が望んだ遺伝的多様性は崩れない」って書いてあるけど、これ単純に変ですよね。だって、自然の一卵性双生児とクローンを会わせたら倍の数になって自然の摂理を崩すわけだからさ。
名前は、母親がイーリスで娘がスーリイというのは、日本語で読んでるかぎり意図は伝わるんだから、わざわざアルファベットでIRIS、 SIRIとルビを振らなくてもいいのにね。
考える材料は提供してくれるけど、楽しい本というのじゃないですね。

愁童:僕はドイツ人の作品にしては、論理に整合性がないと思った。141pに「16歳なのに32歳のイーリスの人生を丸ごと受け継いでいた」とあるが、これは変だ。クローンといっても、細胞分裂をして成長していく事をきちんと書いているのに、16歳の少女に、32歳の女性の人生経験が、そっくりコピーされているという設定にするなら、その根拠もきちんと書いて欲しい。クローン=コピーみたいな思い込みに足をすくわれているような気がした。クローンと一卵性双生児を比較するというのもよくわからない。双生児なら同じ時間を並列に成長していくわけだけど、この作品では親子として、全く異なった直列的な時間を生きているわけだから、似て非なる部分にきちんと目を向けて、そこを書き込んでくれないと、クローンだから何でもありみたいな雑な感じを受けてしまう。

:クローンとして生まれた子が、親に反発していくという設定の作品は、初めてでした。憎しみや苦しさばかりが突き刺さって物語として楽しめなかった。息苦しかった。

すあま:今回の本を読むまで、クローンというのは親子のイメージだったのですが、双子を作るという感じなんですね。この本では、親子だけど双子でもある、という新しい設定なので、最後はどうなるのかということが知りたい一心で読みました。でも、作者はクローンを肯定していないから、主人公は苦しむばかりで楽しく生きられなかったのだと思う。57p「メディクローン」「エゴクローン」は、一般的な考え方なのか知りたい。メディクローンでも、結局はエゴクローンということにならないのか。この本も、「クローンをどう考えるか」というテーマではなく、子どもの心の成長にスポットを当てた方が、もっと興味深かったと思う。出版年を考えると、まずは「クローン」という問題を読者に突きつけるだけで終わっても仕方ないとは思うけど。

ケロ:現状として、「クローンが、是か非かが問われている」中で、本の中でクローンの結末をどのように描くかというのは、とても難しいと思います。だって、「クローンを認めてしまう」と「クローンを肯定してしまう」ことになりますもんね。だから、クローンの主人公は、ハッピーエンドにさせられない。作者は、本の中で登場人物に悩ませるしかない。結末も、ここに持って行くしかないのではないでしょうか。

みんな:ストーリー自体、「クローンを認めてしまうと、こんなに大変なことになっちゃいますよ」という流れになってしまうんだよね。

むう:なんかしんどい本でした。この子、ものすごく突っ張ってるんですよね。中ほどでも、「ふつう」のみなさん、どうしてわたしを怖がるの?みたいな文章があって、いかにも自分は違うのよというとんがった感じがするし、お母さんの葬式のときには、自分を作り出した博士につばを吐きかけるし、最後の芸術作品だって、とっても攻撃的。なんかつんけん、つんけんしているのばかり見せられて、げんなりしちゃった。
最近、自分のペットが死んで、かわいがっていたペットのクローンを作ったという話がありましたよね。その延長として、自分の子どもが死んで、その死が受け入れられずに子どものクローンを作るというケースが考えられるんだろうけれど、それだって十分エゴイスティック。そもそもクローンを作ることがエゴイスティックなんだろうな。けど、このお母さんにはそれよりもっとすごいエゴを感じちゃった。自分の才能を愛して、自分を永遠にしたくてクローンを作っちゃうみたいな感じでしょ。そもそも動機がとんでもなくゆがんでるし、まあほんとうに嫌な人。そのクローンだから、この子も猛烈に自我が強い。それでもってお母さんとの関係がゆがんでるから、性格がどんどんとんがって攻撃的になる。しんどい人間同士が正面からぶつかるのにつきあわせられるから、読んでいる方はひたすら疲れる。設定からしてゆがんでいるから、楽しくなりようがないんだよね。そのうえ、どうしてもクローンでない母と娘の間にも存在する葛藤が重なってくるから、もうひたすら重い。母と娘の間の葛藤をクローンという題材をかりて語ったというわけでもなさそうだし……。あと、この子が親から離れようとして、乳母さんの息子のところに転がり込むでしょ。それはそうするしかなかったんだろうとも思う。でもね、そこから親のところへいったり来たりしてて、別に独立して自活するわけでもない。結構勝手な子なんだよね。とにかく主人公が魅力的じゃなかった。

アカシア:登場人物にもう少し感情移入できるようになってれば、もう少し違ったのにね。

むう:なにしろこの子、怒ってばかりだから。そりゃあ、つらさはよくわかる。わかるけど、もっと切ない部分も見えないと、読む方はうんざりして、ついていけなくなっちゃう。乳母さんの息子さんとの場面は感じがいいと思ったけれど……。

ハマグリ:児童文学の中では「自分とは何なのか」「自分は何になりたいのか」という自分探しをして成長していくものが多いのに、この話は、最初から「自分とは何か」がわかった上でストーリーが進んでいくのがおもしろいと思った。娘の中に自分を見る、あるいは母親の中に将来の姿を見る、というのは、普通の親子関係にもあって、ひじょうにデリケートな部分だと思うけど、クローンだから全部同じということで、そのデリケートな部分が何から何まで極端に描かれるので、読んでいて苦しくなってきた。母親も、おばあちゃんとうまくいってなくて、おばあちゃんにしてみれば、娘の育て方を間違えたわけでしょ。それを今度は娘と孫でもう一度見せつけられるところが、ぞっとするほどイヤだった。それから、音楽というものが何の助けにもなっていないのは残念。乳母とその息子の存在は、唯一人間的なものを感じさせるので、この二人とのつながりから何か見いだしたりするのかとも思ったが、そういうこともなく救いがない。最後まで化けもので終わるのが残念だった。

愁童:遺伝ですべてが決まるわけじゃないんだから、環境によって違ってくるというところをもっとふくらませて書いてくれればもっと良かった。

ケロ:「もし、クローンが存在したらどうなるのか」という部分がおもしろいのに、そこの想像力が貧困だと思った。母と子の確執のところ、母の恋人になりすますところなどは、おもしろかったので、いっそのこと、ホラーにしちゃったら、おもしろかったと思う。でも、そうはいかないまじめな作者なんでしょうね。あと、疑問だったのは、母親は、病気で死ぬ運命にある。だから、クローンを作ったはずだけれど、クローンの娘も同じ原因で死ぬ危険性は大きいはず。その部分について、実行に移す前に、母親があまり逡巡していないのがふしぎだった。

すあま:最後に、実は母親もおばあちゃんのクローンだったということになっていたら、おもしろかったかも…?

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


アンドレアス・エシュバッハ『パーフェクトコピー』

パーフェクトコピー

ハマグリ:この本は近未来の話だということだけれど、いつ頃のことなのかはっきり書いてないの。クローンを作るというんだから、近未来だろうなと思うけど、それにしては古めかしい感じがした。『ブループリント』は主人公が誰のクローンか最初からはっきりわかっていたけれど、これは主人公がクローンらしい、誰のクローンだろうと思いながら読み進んでいくので、意外な展開もあるし、読みやすかった。でも、厳格な感じのお父さんが急に気が狂ったみたいになる展開が唐突で、えーっ?という感じだった。前半は、主人公の悩みや、女の子に対する気持ちなどを割と丁寧に描いていたのに、後半で急に話を収めようとして無理したのかな。お兄さんの正体が最初のひげ面の男だったのも、え?この人だったの?という感じで。いくらひげ面だって、全くわからなかったなんておかしいじゃない。どうもやり方が陳腐。最後に、ええええ?という読後感が残りました。母親についてもいろいろと疑問が残った。絵が暗いということだけで説明しようとしているのに無理があるんじゃないかな。ガールフレンドは、ただかわいいだけの子じゃなくて魅力的だし、その子への気持ちはうまく書けているけれど、古めかしい。会話の訳し方のせいもあると思う。親友のジェムの口調が子どもらしくないの。「たまげたぜ」なんて普通言わないでしょ。

アカシア: CDで聞くチェリストがパブロ・カザルスとかヨーヨーマなんだから、近未来じゃなくて今の話なんじゃないの?

ハマグリ:それに、トイレの水を紐を引っぱって流すでしょ?クローンを持ってくるんだったら、未来にしたほうがいいんじゃない?

ケロ&すあま:実は現代にもクローンはある、と言いたいんじゃないのかな。

ハマグリ:面白く読んだわりには、違和感が残ったわ。

ケロ:ばばっと読めるのは読めたけれど、後半、父親がマッドサイエンティストになって、おいおい、という感じなってしまいました。陳腐ですよね。陳腐といえば、ヴォルフガングのことが新聞にすっぱ抜かれたときの、学校での反応が、とてもおかしかったです。こうなるの?という感じ。主人公が、真相を知るためにガールフレンドと一緒に姿を消すシーンも、まず、彼の書いた伝言が風に飛ばされる、というのが笑える。また、そういう状態になったら、父親としては捜すのが当たり前だし、まわりも協力するのがふつうなのに、そのへんの反応も変。同じ街にすんでいるというだけで、簡単に巨匠と面会できちゃうのもなんだかなー。なにか、先に筋があってそれに合わせてストーリーを作っているというお手軽さを感じました。最後のほうの警察が出てくるドタバタも陳腐。お話として全然だめだと思っちゃった。お兄さんがフリーライターだというんだけど、この人の意図がよくわからないですよね。 なんで写真を集めていたのか、すべてを明らかにしたいのか、そのあたりも曖昧で。

きょん:お兄さんにとっては、父親は愛憎が絡む存在で、チェロがいやで逃げ出しはしたけれど、やっぱり父親だからというのがあるんじゃない? 父親がどうしてそんなに自分とチェロに執着するのかとか、父親のことが知りたくて、調べたんではないかしら。

ハマグリ:そういうことが丁寧に書けていればいいんだけどね。そうじゃないから。前半は主人公の心が書き込まれていていいと思ったけれど、後半はつじつま合わせのドタバタになっている感じなのよね。

ケロ:前半は自分の将来に悩むという話なんだけど、それと後半の世界観がずれているんじゃないかと思いますね。

きょん:陳腐な話でドタバタでもあるんだけれど、兄さんが父を調べ尽くしたあたりにはあまり違和感を感じませんでした。おそらく父を知りたくて調べていたんで、別に告発したいわけじゃなかったんじゃないかな。
この本のもう一つのテーマは、「才能」をどうとらえるかということだと思う。「ぼくにはチェロの才能はあるのだろうか?」と主人公は常に悩んでる。ここでも、チェロの音がクローンの主人公と兄では違うという事実を押さえて、「遺伝子だけが、才能を決めるのではない、すなわち遺伝子だけ完全にコピーしてもその音楽を奏でる人間性が大事である」とはっきり打ち出してる。いってみれば、クローン人間も感情がある普通の人間であり、人格形成には、環境や経験が大きく関係していて、遺伝子のみが人間の本質を決定するのではないということを提言しているように思った。これは、クローン以外の人間にもいえることで、クローン問題から離れて、普通の子どもたちにも、「才能」について考えるきっかけになるように思う。
はじめは、クローンの予備知識もないし、重いかなと思ったけれど、人間ドラマとしてわりとすっと入れて読めました。お母さんは、愛していたヨハネスを取り返したくて、それがクローンでもいいくらいに思い詰めて、疑いながらもヴォルフガングを生んだんですよね。でも、生んだとたんに「このクローンはヨハネスと同じじゃない、この実験は失敗だった」「この子は、ヨハネスとは全く別の誰かだ」と言っている。遺伝子が全く同じでも、同じ人間とはいえないという、クローンのことを、ちゃんと押さえていると思った。だから逆に、そこまで割り切れていてなぜ暗い絵?と不思議だった。

ハマグリ:母親の父親に対する気持ちがよくわからないのよね。

きょん:母親の気持ちもだし、そういった周辺の書き方が甘いんじゃないかなと思います。テーマはちゃんと打ち出していると思いましたけど。そうそう、それと、本の作りに関していうと、章末の注が多すぎると思いました。もっと文中に入れ込めばいいのに。読みにくかったです。

アカシア:注に関しては、ま、読みたい人は読んでちょうだい、という態度なんじゃないかな。こういうふうに章末についていると、邪魔にはならない。読みたくない子どもはすっとばすしね。
それより、リアリティの有無にいつもひっかかっちゃう私としては、この作品は読むに耐えなかったですね。ストーリーに破綻が多すぎる。『ブループリント』を先に読んで、クローンについての情報がインプットされてたせいもあるけど、基本がお粗末。たとえば、主人公のヴォルフガングは、最初自分は父親のクローンかと心配する。でも、父親に自分の若い時の写真を見せられて同じ顔はしていないとわかる。この時点で普通なら自分はクローンじゃないと安心するはずなのに、まだクローンだろうかとうじうじ心配してる。 PTA会長も、新聞にゴシップまがいの記事が出ただけで、ヴォルフガングには学校を辞めてもらおう、などと言う。写真一枚見せればすむ話なのに、この大騒ぎはなんなの? リアリティなさすぎ!それから、ジャーナリストが現れたとき、当然この人が記事にするだけのものを握っているという設定だから、普通ならヴォルフガングは、この人がどこまでどんな事実をつきとめているのかたずねるはずでしょ? でも、外国語はいくつできるのか、とか、クローンについての知識をたずねたりするだけ。このジャーナリストが実はヴォルフガングの兄だと最後でわかるのも、不自然。兄が、いまだにチェロにさわれないほど父親を毛嫌いしているのに、父親のことを調べようと思いつくのも変。
それからp18の学名として出てくるのは、ただのドイツ語名よね。それにp207には「コックス・オレンジの木はすべて、十九世紀に一本のリンゴの木からつくられたクローンである」って書いてあるけど、普通の読者はオレンジがリンゴの木のクローンだって思っちゃわない? もう少し説明しないと不親切。こんなにひどいものを、わざわざ翻訳して出版しないでほしい。

ハマグリ:お兄さんの父への気持ちが書けていないのが致命傷ね。

:『ブループリント』を先に読んで疲れきった後だったので、物語として面白く読めました。つじつまが合わず変だなぁと思うところはありましたね。例えば286pに父親がドアの外に出てドアが開かないように塞ぐけど、290pで重たい書類戸棚を一人で動かしたことになっている。どうやって動かしたの?とか疑問は残りました。245pの事実が明らかに流れや場面はまるでサスペンス劇場の残り30分みたいでした。ところでヴォルフガングを身ごもって慌てて結婚、というのって、変じゃありません?

アカシア:それまでは籍を入れてなかったんじゃない。向こうではそういう人が多いから。

:女の子絡みのところは、青春物語として楽しく読めました。

何人か:でも、有名な音楽家の教授に、こんなにすぐすぐアポが取れるかなあ? 最初からこの教授しかいないっていうのも、お手軽だよねえ。

:教授が才能について語っているところが、作者のいいたいことだったんでしょうね。まあ、「火曜サスペンス劇場」を本で読んだという感じでしたね。

すあま:私は、クローンというより天才に興味があるんですね。それでこの本も、兄のような天才をもう一度作りたいという願望があって、それを叶えるのにクローンを作ったけれど失敗した人の物語という感じがしました。天才を人為的に作れるか、という問題はおもしろいと思います。でも、主人公が数学で才能を発揮する、という展開の仕方にに納得いかない。他の楽器くらいでいいような気がします。数学、というのも、先生に言われてではなくて、好きな女の子に近づくために始めるとか、もう少し工夫があってもよかったのでは。
とにかく、すっきりしないまま終わりました。最初のほうで登場したマツモト君がその後も登場して活躍すればおもしろかったのでは、と思ったりしました。シドニー・シェルダンを意識しているようなので、こんな感じなのかな。

アカシア:クローンだって真空状態・無菌状態の環境で暮らすわけじゃないでしょ。そうするとエゴから自分をつくりだした人——『ブループリント』だったら母親だし、『パーフェクトコピー』だったら父親——を当然恨んだりするようになると思うのね。だからその人の意図を素直に汲んで素晴らしい芸術家なり科学者なりになるっていうのは考えにくいわね。
この後、クローンというテーマで書くとすると、ゴシックロマンにでもしないと難しいのではないかという話でひとしきり盛り上がりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


クリストフ・ハイン『ママは行ってしまった』

ママは行ってしまった

アサギ:この作家はドイツでは純文学で有名で、ふだん児童書は書いていないのね。原作も最初は大人の本として出されて、そのあと子どもの本として出しなおしたみたい。作品自体はおもしろく読んだんだけど、ものすごく古い感じがするのは、この作家が東独出身ということと関係があると思う。西側世界からみると、数十年昔の感じがするわね。上の兄のカレルは15歳でガールフレンドができて、弟や妹が「あの二人はキスするのかどうか」を話題にしてるけど、西独では、十数年前から、生理が来たらコンドームをもたせるよう学校で女の子の親に指導しているくらいですからね。
ところどころ好きな文章がありました。たとえば、大司教がピエタを見にきて、彫刻については一言も発しなくても、はじめからおわりまでその話をしていた気がするというところなんか、印象に残りました。文学性を感じましたね。それから、作品の中でくりかえされる「悲しめることの幸せ」って真理よね。訳は、気になるところが、ちょこちょことありました。パパは大司教のことを「あんた」と呼んでるんですけど、これはduを「あんた」と訳してるんだと思うんですね。だけど、二人称のduとSieについて言うと、これは間柄の距離が近いか遠いかをを表すものなので、duを機械的に「あんた」と訳すとおかしなことになります。それから、ママもパパも10歳の主人公の女の子に対して「わたし」という一人称を使ってますけど、これも、どうなのかしら? 145ページの「宿屋兼食堂」っていうのは「旅館」のことでしょうね。

トチ:いかにもベテランらしい、手馴れた書き方で、死をどう受容していくかを書いた作品ね。幸せな仲の良い家族で、父親は腕のいい職人だし兄たちは成績優秀。世間的にも認められていて経済的にも安定していれば、こういう理想的なかたちで死を乗り越えていけるわよねと、ちょっと意地の悪い見方をしてしまったけど。安心して読めるし、子どもたちもしみじみと読むのではと思ったけれど、新鮮な驚きはない。今の世界とか、今の児童文学と少し離れたところにある作品ね。おもしろかったのは、父親が、亡くなった母親に子どもたちを会わせないところ。日本では考えられない場面で、こういう文化の違いとか、考え方の違いを知るというのも、翻訳ものを読む楽しさよね。ですます調のやさしい語り口で書いてあるけれど、ところどころ難しい言葉や、難しい考え方も出てきて、主人公の女の子の年齢や、対象とする読者の年齢をどの辺に置いているのか分からなくて、とまどってしまった。兄のパウルが主人公のウラに対して「そんなことないはずだがな」(p.45)と言ったり、ウラの友だちが「わたし、泣けてきちゃうの」(p.34)なんていうところは、子どもの会話らしくないなと思いました。

:1月にお母さんが死んでから11月くらいまでの話になっていますけど、お母さんを失った喪失感みたいなのがあまり感じられませんでした。『ミラクルズ・ボーイズ』(ジャクリーン・ウッドソン著 理論社)では、子どもたちが母親を亡くした悲しみが切ないくらい伝わってきたけど、この作品からは、ひとりひとりの悲しみが迫ってきませんでした。台詞が長くて、教会で牧師さんのお説教を聞いてるみたいに感じました。大司教のキャラクターはおもしろいとは思ったけれど、全体に淡々とした日記を読んでいる感じ。「お相伴する」とか「お対のデザイン」なんていう言葉が出てくるので、よけい古い感じがするのかもしれませんね。

紙魚:確かにリアルな生活や家族が描かれている作品ではないけれど、死をどうとらえるか、どう乗りこえていくかという問題をわかりやすく書いているという点では、作家の志のようなものを感じました。死と芸術、家族と再生の物語が、この子たちの時間を追って生活の中で描かれています。生活を読むというよりは、生活に意味をあたえるという作品だと思います。ひとつひとつの実際の死を細かに書いていくと、リアルな悲しみを感じすぎてしまい、死について思索する間をあたえてもらえない場合もありますが、ゆっくり読むことができ、それが、この家族たちのゆっくりとした一歩ととらえることもできました。それから、芸術についての記述はうなずける箇所が多かったです。ただ、本文中のカットと表紙の絵が合ってないような気がしたんですが。

アサギ:これ、カットも表紙の絵もズザンネ・ベルナーっていう、アンデルセン賞の最終候補になった人が描いてるのよね。絵本作品とは、また違う趣だけど。

ケロ:私は、このカットは父親の作る彫刻をイメージさせていると思って、しっくりきました。『タトゥーママ』とは、リアリティという点でまったくちがうけど、現実感のなさに、いやな感じは持たなかったです。それは、家族が意見交換するひと言ひと言が、じっくり読め、心に響いたからだと思います。この作品は、そのひと言ひと言を言いたいがために書かれているようで、ある意味、哲学的な本ですね。とくに、司教さんの言葉で、「あんたたちは、ママがいなくなって不しあわせだとおもっている。だが、かんがえてごらん。それはあんたたちが以前にとてもしあわせだったからだよ。わたしは妻や子をうしなうかなしみをあじわうことはない。しかし、そのかなしみを手に入れることができるものなら、わたしはあるいは、どんなに高い代償でもはらうかもしれない」と言いますけど、この言葉はこの家族にとって大きな励ましになっていると思うし、読者の心にも響くと思います。気になったのは、登場人物の年齢設定。ウラは、まだ人形遊びをしているなど、ちょっと10歳とは思えない。どういうことなんでしょう?

ハマグリ:出たばかりのときに読んだんだけど、ものすごく印象がうすい本でした。作家に言いたいことがあって物語にしたのだろうというのはわかるし、悪い感じはしないんだけど、あまりおもしろみが感じられなかったし、子どもたちににすすめたいという気も起こりませんでした。主人公はたしかに10歳の女の子にしては、幼く描かれていますね。一文一文が短い文章は原文に忠実に訳されているんでしょうが、そのせいか文章全体も幼い感じを受けました。お父さんがピエタという芸術作品をすばらしい出来に仕上げるということが最後のキーポイントになっているんだけど、芸術作品の良さを文章に表わすというのは難しいことなので、どんなにいい作品なのかがよく伝わってこなくて、残念でした。

むう:なんか古めかしいなあという印象でした。温かい家庭が悪いわけじゃないし、身近な人の死の悲しみをどう乗り越えるのかを書くのも結構だと思う。ピエタ像に微笑みを入れることで最後に宗教的なイメージに昇華していくのもなるほどなあと思うんだけれど、なにしろ心に迫ってこない。ふうん、そうなんだ、という感じ。すてきだなと思う台詞があるにはあるけれど、人間が悲しみを乗り越えるときというのは、そういう言葉のすばらしさで乗り越えるんじゃないと思う。もっとデリケートな細かいことの積み重ねがあって、やっとコトリと落ちるようなものでしょう。なんだか、さらっと読めてしまって後に残らない本だった。

愁童:ぼくもあんまりおもしろいとは思わなかった。数学の公式集を読んでいるような、ごくあたりまえのメッセージ。オリジナリティが感じられない。筆力でキャラクターを描ききると言うより、ストーリーの枠組設定で読者の中に誘発される喪失感や同情心に寄りかかって勝負しているような感じを受けた。作者の関心が、母親を失った女の子にあるのか、妻を失った職人の方にあるのか、どっちなんだ、なんて思った。どうでもいいような部分で、説明しすぎだったりして、訳文の影響もあるかもしれないけど、あまりぴんとこなかったな。

アカシア:さっきトチさんが出来すぎの家族って言ってたけど、実はそうでもない。上のお兄さんは買い物にいっても何を買うべきか忘れちゃうし、下のお兄さんもオリジナリティがありすぎて社会に適応できなさそう。お父さんのところにも、ガールフレンドがたくさんくる。どうも、そんなにパーフェクトな家族でもない。
日常の出来事が淡々と描かれているのは確かだけど、けっこう味わいが深いな、と私は思いました。お父さんが妻の死を乗り越えていく姿を見て、ウラが自分も乗り越えていこうと思うのも、ちゃんと伝わってきた。私もウラは幼いとは思ったけど、作家が東独の人だと聞いて納得しました。統合後はどうなのかわかりませんけど、以前の東独の人ってとっても純粋で、すれてなかったから。今出ている作品の多くはもっと刺激が強いから、これを読むと淡々としすぎて印象が薄いという感想につながるのかも。でも、ママの墓石には名前と生没年しか書いてないけど、「パパも子どもたちも、そういう気持ちは大きな字で書いてみんなに知らせることではない、とおもったのでした。だって、墓石はメガホンではないのですから」という表現とか、お兄さんたちの性格の描写とか、パパがウラに「おまえがなにを見つけだすか、おまえ自身とおなじように、どきどきしながら待っているよ。でも今からもうわかっていることがある。ウラはきれいで、かしこくて、勇気のあるおとなになるんだ。ママとそっくりにね。それをママは、ちゃんとおまえにプレゼントしてくれたのだから」と言うところとか、なかなか味わいがあります。大傑作とはいえなくても、ちゃんと文学を書いている作家ならではの作品だと思いました。

トチ:最初は大人向けの作品として書かれたと聞いて、なるほどと納得したわ。淡々とした日常を綴っていくうちに人生の奥底が見えてくる・・・・・・日本で言えば庄野潤三のような味わいのある作家なのかも。

愁童:司教をフレンドリーな性格として描こうというのは理解できるけど、キルスト教文化の中では、司教様と普通の職人とじゃ身分がちがうんじゃないの。そのあたりの微妙な上下感覚が感じられる訳になってないのが残念。

紙魚:お兄さんたちがそれぞれユニークなのに、会話にそのおもしろさが出ていない。

:葉巻がよく出るのには何か意味があるの?

アサギ:ドイツでは昔おみやげというと、その家のお父さんには葉巻、お母さんにはバラの花束、子どもにはチョコレートっていうのが定番だったの。いちいち考えなくていいから、楽だったのよ。

カーコ:私ははじめつまらなくて、読み進むのがすごくつらかった。でも、全体としては、女の子の心理描写が今回の3冊の中ではいちばん細かく書かれていて、いい本だと思いました。じゃあ、なんで読みづらかったのかなと考えると、それは主人公に視点が定まっていないからじゃないかと思うんですね。だから、トチさんが言ったように、誰に向けに書かれているかわからないという印象にもなってしまうのでは? 家族が言葉でお互いの気持ちを説明しあうところは、あいまいな表現を好む日本人と対照的ですよね。お母さんが亡くなったあと、だれもかれもが同情してくるのに違和感を覚えるとか、バカンスの初めにお兄さんがお母さんの決まり文句を言ってしまって気まずくなるなんていうところは、一家の心情を浮き彫りにしているエピソードですね。最近はストーリー展開ばかりで読ませる本が多くて、こういう作品は少なくなっているような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』

タトゥーママ

ケロ:壊れていく母親を見ているドルの気持ちがつらいなあと思いながら読みました。子どもは親を選べないのに、こんな母親でも好きでいるという現実がきちんと書かれているだけに、つらい。こういう状況にある子どもが読んだとき、果たして助けになるのかなあと、疑問を持ちながら読んでいきました。でも、最後にカタルシスがありましたねー。客観的に母親を抱きしめるというところが、主人公本人の救いにもなっていて、これなら「子ども向け」の作品としてオッケーだ、と納得できました。全体の中では、ドルとスターの父親が両方とも見つかるのは話として出来すぎという感じがしましたが、自分の中にもお父さんはどんな人なんだろう、という興味があったので、ご都合主義な感じを受けずに楽しんで読めました。お母さんのマリゴールドは、精神的にも不安定で、かなり特殊な存在。でも、お母さんがひとりの人間として満たされず特別な存在になりたいと思っている、というのはよくあることだと思うと、ひいてしまわずに感情移入しながら読めたかな。

ハマグリ:ジャクリーン・ウィルソンの作品は、今までもたくさん読んでいますが、どれも困難な状況におかれた子どもを書いている。結末は安易なハッピーエンドではないけれども、必ずどこかに未来への道がついているのがいいですね。それからどんなにすごい状況でも、ハハハと笑える部分が必ずあって、楽しませてくれるところもすごい。この明るさは、イラストによるところも大きいでしょうね。ドルとスターという姉妹は、大好きでお互いをとっても必要としているんだけど、それゆえに許せない部分があって、ぶんなぐりたいくらいの反感ももっている。そうした関係もよく描かれています。リアリスティックな作品のなかでは、この作者のものは子どもに勧めたいわね。

むう:うまい人だなと思いました。出だしからこっちを引き込んでぐいぐい引っぱっていくあたりも、この家族のある種のチープさもよく出ていて面白かった。ただ、わたしの視点がどうしてもふりまわされる側の子どもたちに寄ってしまって、「このお母さん、なんだかなあー」と思うところもありました。だめ母さんでも好きで好きでしょうがないという子どもの気持ちはとてもよく描けているし、それが切ないんだけれど。ミッキーが見つかったり、主人公のお父さんが見つかったりで、どうなっちゃうんだろうと最後まで引っぱられたし、この子たちがそれぞれに家族とは別の世界に触れたうえでふたたびママを抱きしめるというのもいいと思ったけれど、最後の338ページのお母さんの台詞にはすごく引っかかった。病院のカウンセリングの時間の話で、「しつこくしつこく、小さなころのことをきかれたわ。で、しまいに、ひどい話をぜんぶぶちまけちゃった。お母さんのこと、お母さんがあたしにしたこと、どれだけお母さんをにくんだか。そしたら、気がついたの。あたしもおなじだって。あたしも、おなじようなことをあんたたちにしてきた。ふたりとも、きっとあたしのこと、にくんでるわよね」って言うんだけど、こんなふうに説明しちゃうのはお手軽だなあ、と思って。この台詞、いらないですよね。ここまでで、このお母さんはまるで信用できなくて、それでも子どもたちはこの人が好きでということがわかるんだから、それでいいじゃない。

アカシア:私は、この台詞がすごくきいてると思うんです。お母さんは初めて精神科病棟で治療を受けてるわけだから、この台詞がないと、これからはまともな母子関係になるのかな、と読者は思ってしまう。でも、このお母さんは、これまでも時には「自分はだめな母親だ」って言ってきたけど、状況はちっとも変わらなかったんですね。ここも、この台詞があることによって、読者に「また言ってるけど、これからも変わらないんだろうな」と思わせる。だから、娘たちは、ここで心底悔い改めたお母さんを選び取ったんじゃなくて、お母さんは変わらなくてもそれでも好きなんだ、という設定がより強く浮かび上がってくる。

むう:つまり、だめ押しみたいなものということかな。でも、そこまでする必要があるかなあ。この本を読み終わって、まず、力があるなあ、うまいなあと感じたんだけれど、同時に、「でもなんかざらざらしてる。なんだこの違和感は」と思ってその原因を考えるうちに、このお母さんの台詞に行き当たったんです。自分のなかでここだけが消化しきれない感じで。

ケロ:でも、キルトづくりをさせられて、パーツが合ってないと娘に言われ、「どんなキルトになると思う? 信じられる? クレイジー・キルトっていうのよ」って台詞、やっぱりこのお母さんならではって感じですよね。状況的な大変さは変わらないけれど、あきらかにこの子たちの心境は変わっている。

愁童:ぼくも、むうさんといっしょ。心理学ブームだからって、セラピストの定番みたいなところによっかかるのはどうかな。こういう子どもを幸せといえるのかなとは思うんだけど、原題のThe Illustrated Mumには、作者のメッセージがうまく込められているように思った。Illustrateされちゃったママで、それに振り回されるけど、それでもママはかけがえがないという、のっぴきならない母子関係。その中で、主体的に生きざるを得ない子の、母が居てこその幸せみたいなことについて考えさせられちゃった。

アカシア:この作家は、本当に子どもに寄りそって書いてますよね。現実にこういう子どもはいっぱいいるんでしょうけど、その子たちが気持ちの出口をさがしていくところが書かれている。ハマグリさんはリアリスティックな作品として子どもに勧めたいと言ってたけど、私は純粋にリアルなんじゃなくて、エンタテインメント的な要素がとても強いと思う。娘たちのお父さんがそれぞれ都合よく見つかるなんて、リアルじゃないですよ。ただ心理的な動きはリアルで、読者の気をそらさない。うまいです。子どもたちに大人気なのも、当然ですね。
これだけひどいお母さんだったら家出するのがふつうで、なかなかお母さんを受け入れるところへは行き着けない。でも、家出したスターのことが心配なあまり、スターがきらいだったタトゥーを消そうとして、お母さんは体中に白ペンキをぬりたくってしまう。その異常な行動から、最後に娘たちがお母さんを抱きしめるところまでは、下手な人が書いたら嘘臭くてとても読めない。でも、この人が書くと、ついていけるんですよね。うーん、すごい。
あとね、さっきのお母さんの台詞について、もう一言。マリゴールド自身の母親との関係がここで初めて出てくるんですよね。文学好きな読者にとっては、なくもがなと思う気持ちもわかるけど、これがないと、マリゴールド=クレイジーですませてしまう子どもの読者もいるような気がします。

カーコ:お話としてはおもしろくて読ませられたんですけど、いったい誰が読むのかなと思いました。実際にこういう状況にいる子の力になるのでしょうか。どんなに悲惨な状況に置かれていても、子どもがお母さんを好きなのは当然のこと。10歳の子がこんな目にあって、健気に母親を支え、精神的に自立していなければならないというのが、あまりにもかわいそう。わざわざ子どもに読ませたいとは思えませんでした。大人に対する理解を子どもに強制しているように感じました。

アカシア:渦中にいる子は読むだけの余裕がないかもしれないけど、まわりの子がそういう子を理解するのにはとても役立つ。それに、オリヴァーとか、ドルのお父さんとか、里親のジェインおばさんとか、味方になって支えてくれそうな人物も登場し、ドルの世界も広がって孤立無援ではなくなっている。10歳の子に「健気」を押しつけることにはなってないと思うけど。

ケロ:これほどスゴイ状況まではいかなくても、今のお母さんって少なからずこういう部分があるので、子どもとしては、少しシンクロできるのではないでしょうか? 映画『誰も知らない』(是枝裕和監督)は、救いがまったくないけれど、これはユーモアがあり救いがあると思うので、母の「こういう部分」を理解するなり判断するなりする材料になるのではないでしょうか。

愁童:下の階のおばあさんの描き方がうまいね。批判的な世間の目の代表みたいな存在なんだけど、文句を言いながら電話を取り次いだりと、結構助けたりしちゃう。このおばあさんの存在感で、主人公一家のハチャメチャな生活に立体感が出てくるよね。

アサギ:私は時間切れで、まだ半分しか読んでないんです。イギリスならともかく、翻訳して日本の子どもにこういう物語を読ませる必然性がわからない。せつない感じがしちゃってね。

トチ:それはまだ読んでる途中だからじゃない?

アサギ:日本の状況とは、ずれていると思いません?

アカシア:日本も、もうすぐこうなるんじゃない? お金もうけのために自分の子どもに売春させる親だって出てきたくらいだから。

アサギ:まあ、このお母さんの場合、憎めないところもあるけれど。

トチ:子どもには、なにがあっても親についていくという生物的な本能もあるし、親から離れられないってこともあるしね。

愁童:姉妹の母親への思いの、それぞれの年齢による微妙な差が、うまく書かれているよね。

トチ:まず、これほど暗くて悲惨な状況を、これほど明るく、ユーモアもまじえて書ける作者の力量に感心しました。書きようによっては限りなくいやらしくなる母親も、切なく、かわいらしく描けていることに、またまた感心。昔の児童文学って、『小公女』のように不幸な主人公が状況が変わることによって幸せになるというのが典型だったけど、この作者は環境が変わらなくても、主人公の内面的な変化や成長で救われるということを一貫して書きつづけている。このほうが読者である子どもにとってずっと現実的だし、救いにもなるわよね。それから、作家であれば誰でも一度は「狂気」を書いてみたいのでは、と思うんだけど、ウィルソンもそうだったのでは?そんな作家魂が垣間見えるような気がして、おもしろかった。

:はらはらしながら読みました。でも、お母さんの幼さが、わりに魅力的に書かれていて、学校にショートパンツ姿で迎えにいくシーンなんかもおもしろかった。みんなから鼻つまみにされている母親でも、娘である当人だけにわかる愛情を抱いているのは伝わってきましたよ。スターに父親が見つかり行き場が出来た時から、お母さんが崩れていくという流れはすごかったですね。そのスターが距離をおいて離れて暮らしたことで、また優しくなれるというのもわかります。このままの暮らしを続けていたら破滅するしかないですよね。

紙魚:主人公の環境があまりにもひどいので、読むのがつらかったです。アルコール依存症の親とかに読んでもらうと、子どものつらさがわかっていいかもしれないと思ったくらいです。作中ときどき顔をのぞかせる、オリヴァーのやさしさとドルフィンという美しい名前には、かなり励まされました。スターとドルの姉妹って、年齢の差や性格のちがいから、母親への接し方が全くちがうのですが、その時々どちらの気持ちにも共感できて、どちらの方によって読んでいっていいのか、かなり振りまわされました。だから最後までお母さんへの好き嫌いが決められなかったのですが、それもやっぱり、この作家のうまさなんだと思います。家族ならではの、ひとつのところにとどまらず常にぐるぐるとスパイラルして動いている感じが、とてもうまく表現されていたと思います。

トチ:大人は怖いもの見たさで悲惨な物語を読みたいということがあるけれど、子どもはどうなのかしら?

アカシア:極端な設定を使うと、はっきり見えるてくるものもあるんだけど、それをどう描くかというところが大切よね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


中脇初枝『祈祷師の娘』

祈祷師の娘

:タイトルから判断して、古い時代の話かと勘違いしました。祈祷師の世界を描いた児童文学は、はじめて読みました。私は九州生まれですが、小さい頃、肌が弱くて祈祷師のところにいったことがあるんですよ。治らない病気や相談事があると、みんな自然にに行ってました。

愁童:今でも、こういうことを日常生活の中に自然に織り込んでいる所ってあるよ。

トチ:文学作品としてよく書けていて、おもしろかったです。縁日で買った金魚が自分では向きが変えられないので、水槽に手をいれて変えてやるところとか、死んだ金魚に、つつんだ新聞紙の字がうつっているところとか。周りの友達の描写も実にうまい。宮部みゆきやスティーヴン・キングは超能力を持つものがこの世界で生きていくことの苦しみや悲しみを描いているけれど、この作品は家族のなかで自分だけが超能力を持たない者の悲しみを書いているところがおもしろかった。最後に超能力がなくても人を救えるということが分かって、主人公も救われるのよね。いま玄侑宗久の『リーラ:神の庭の遊戯』(新潮社)という本を読み終えたところなんだけど、ここでも同じような世界が描かれているのよね。こういう文学がいま流行なのかしら。私はあんまり子どもたちを霊的なものにのめりこませたくないほうなので、この作品を児童文学として子どもに手渡すことに一抹の不安がよぎったことも確か。こういう世界もある、ああいう世界もあると子どもたちに伝えるのはとてもいいことだと思うんだけど・・・・・・

アサギ:超能力を授かったものの悲しみといっても、私には違和感バリバリですね。『黄泉がえり』(梶尾真治著 新潮社)とか『秘密』(東野圭吾著 文春文庫)とか、このところ、こういうのって流行っているんでしょうね。この人は、こういう力を肯定して書いているんでしょうが、どれだけ信じて書いているのかしら?

カーコ:私もどうとらえていいかわからない感じでした。主人公の春永は最後に、超能力も血のつながりもないけれども、この家族の中で生きていこうと決心するわけですよね。学校での、一見仲の良い友だちとの確執とか、男の子が祈祷に興味を持ってくるところとか、うまいなと思いましたが、なぜ祈祷師という設定にしたのか、わかりませんでした。時代的にはいつごろが舞台なんでしょうね?

アカシア:ひかるちゃんが小学校で留年しているという記述があったので、昔のことだと思ったんだけど。

アサギ:でも、アンパンマンが出てくるし、義務教育の留年は今でも希望すればできるのよ。

アカシア:挿絵(卯月みゆき)が、昔なつかしい感じじゃない? 超能力に違和感を感じる人が多いみたいだけど、日本でもたとえば沖縄のユタは日常生活に浸透してますよね。アフリカのノーベル賞作家が書いた自伝なんかにも、霊能師はごく自然に出てくる。今はよくも悪くも日本の都会は近代合理主義におおいつくされてしまって、「気」のようなものを迷信と決めつけてしまう。さっき霊的なものに惹かれる危険性という話が出ましたけど、この作家はちゃんとコックリさんの危険性も書いてるし、きちんと修業しないと祈祷師にはなれないと書いて、ふわふわととびつくことに警鐘も鳴らしている。

アサギ:でも、スタンスがわからないのよ。私は、肯定するってところがそもそもわからない。それとね、総ルビはやりすぎよね。読みにくい。

アカシア:合理的な考えからはずれて切り捨てられたものを拾い上げてみるっていうスタンスなんじゃないの? それから、昔の子どものほうが漢字が読めたのは、総ルビの本が多かったからだという説もありますよ。

愁童:ぼくはおもしろかったですね。こういう力を信じているってわけではないけど、会社の優秀な技術系の同僚に、生活の中に、こういう「おがみ屋さん」との接点を大事に持ってる奴が居たんですよね。この作者は、そういうものを取り込んだ近隣の人達の日常にきちんと目配りをしていると思う。ひかるちゃんがなんでこうなっているか、なんてことも、きちんと書いている。奇異な題材を用いて、日常の中にある影の部分に光を当てているように思いましたね。

むう:冒頭で、「おかあさん」と「母親」と「お母さん」と三種ずらりと出てきたのにはちょっと戸惑いました。でも、それも後になると納得できて、今回の三冊のなかではいちばん自然にひきこまれて読むことができました。ちょっと前に理科系の顔をした超常現象がブームになって、そういうものにはアレルギーがあるのだけれど、この本には、まともらしく見せようとする嘘臭さがない。おしつけがましさがなくて、生活に溶け込んでいる様子が書かれているので、こちらもすうっと入れてしまう。それに感心しました。それと、読んでいて主人公の心のひだが手に取るようにわかる。この本の主人公は、超能力者という世間からはぐれた人々の中でさらにはぐれた普通の子なわけです。かなり特異な設定なのだけれど、人間の持っている普遍的なところがしっかり書けているなあと思いました。最後のほうで、超能力を持っていなくても人を助ける力はあるというところに収めるのもうまいですね。あと、この主人公が母親に置いていかれたにもかかわらず安定しているのは、周りの人にちゃんと尊重されて育ってきたからだと思うんですが、そういう子が主人公だからこそ読後感がいいんでしょうね。

ハマグリ:ディテールの書き方がうまいわね。主人公の目に映った情景をくっきりと切り取って描くのがうまい人だな、と思った。会話もいきいきとしている。でもこの四人の家族のつながりって、とても不自然なので理解できない。自分だけが祈祷師の力を備えていないということで主人公が悩むのはわかるけれど、そんなことに悩む前に、この家族がこうやって成り立っているというところに来るまでの悩みがあったはずじゃないの? この主人公が、このおかあさんという人をおかあさんとして受け入れなきゃならないというのがそもそもよくわからなかった。変則的な家族だけど、このような家族として成り立つまでの過程が全く書けていないので、違和感が非常にある。最後の駅の場面でも、このおかあさんをそこまで思う気持ちがよくわからない。

トチ:その部分はディテールで書けてると思うけど。『タトゥー・ママ』で主人公が終わりのほうで里親の家に行って、すぐに好きになるでしょ? あれと同じじゃない?

アカシア:現代の児童文学には、血のつながりのない者たちが血縁に頼らずに家族の関係を構築するっていう物語が多いわよね。それに、昔だって戦争とかいろんな事情で、血のつながりがない人と暮らしている人って日本にもいっぱいいたんじゃない。

ハマグリ:血のつながりにこだわっているわけではないの。

愁童:おとうさんといっしょに水をかぶったりする行為とかで、その辺は書けていると思うけど。

ハマグリ:どうしてこんな変則的な家族ができたのかってところをもっと納得させてほしいの。だって、おかあさんとおとうさんは兄妹なわけだし。こんな家族の形になぜここまで固執するのかがわからない。

愁童:冒頭の部分で、自分の母親の顔を知らない記憶の原点みたいな描写が出てくるけど、ここは文章が妙に持って回った表現で、頂けないと思ったな。

ハマグリ:結局、四人の家族ができちゃってからの話になっているので、どうしても不可解な感じがある。

ケロ:テーマが「母親」だったこともあって、そっちの切り口で読み進めました。そのせいか、超能力などの設定には違和感をもたなかったです。だから、祈祷師の血=家族の血ってこととしてすんなり入りました。主人公は、自分の出生の事から、血縁を含めて、誰かとつながりたい、といつも感じているんですね。主人公がふらふらと山中君のことを好きになっちゃうのも、結構自分勝手な友だちといつまでもつきあっちゃうのも、だからかな、と思います。春永は、いつもどこかでその答えを求めている。それが切ないですね。それにしても、「今、つきものをはらったから」という会話が出てくる家族ってすごいですよね。余計リアルに感じました。ひとつぶっとんだ設定をおくと、他が光って見えてくるんですね。おもしろかったです。

:『祈祷師の娘』というタイトルと「自立の物語」という帯の文言が、あまりにも相反していて、読む前はなんだかしっくりきませんでした。でも読んでみると、まさに自立の物語が描かれていました。どこにでもいるようなふつうの少女の生活を単純に書いたのでは、なかなか自立という部分は浮かびあがってきません。でも、「祈祷師」という普段垣間見ることのできない設定を加えたことで、逆にもっと切実なリアリティがうまれていると思います。もともと私は、非科学的なものにはクールなので、占いなんかにも全然興味がないのですが、こういった不思議な力が生活に入りこんでいるというのは、人間として余裕があって、じつは生き方の幅が広いのではないかとも思うことがあります。そんなことをも感じさせてくれる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


マッツ・ヴォール『マイがいた夏』

マイがいた夏

アカシア:舞台となっている時代の、この年齢の男の子が、とてもうまく書けてますよね。ハッセがわざと危険な位置でダイナマイト爆破を見る冒頭の場面、プレスリーのレコードを聞きながら子どもたちが踊る場面、犬に吠えられそうになりながらイチゴを盗む場面、おばあさんがロープを渡そうとする場面など、一つ一つのエピソードが生き生きとしていて、リアルに浮かびあがってきました。訳もとても読みやすい。ただ設定からして、大人が少年時代を回想して書いているということなので、客観的にこの年齢の少年を分析する文章が随所に出てきます。それに、たとえば5ページの「片手で女の子の髪をつかもうとしながら、もう片方の手で地面の深い穴をさぐっている12、3歳の少年たち。どこにでもいる少年たち。彼らは、どちらの手がつかもうとしているものにも気づかないふりをし、無邪気に生きているように見える。だが本当は夜明けがくるたびに、自分の中にひそむあこがれを感じ、子ども時代の終わりのにおいをかぎつけている」などという文章には、ノスタルジーも感じます。そういう部分は、同年齢の子どもが読んだら、どうなんでしょうね?

ハマグリ:たしかに、突然30年経った今の自分の見方が出てきますね。子どもの気持ちに沿って読んでいける物語だけに、そこは物語世界から引き戻されてしまう感じはあったけど、とても描写が生き生きとしていて、おもしろく読めました。語り手の少年は、ちょっとおとなし目で、それに対して親友は魅力的でハチャメチャで、という設定は、少年たちの出てくる物語にはよくあると思いました。『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング著)のゴーディーとクリスもそうだし。脇役の人物描写も上手で、特にママがうまく書けていると思う。シチュエーションを目に見えるように書ける人で、冒頭の爆発を見物するところの黄色いジープの描写が、今度は黄色い蝶に転換していくあたり、うまいし、マイが手首に結んでくれた水色のリボンの色も印象的に使っています。結末は悲しいのだけれど、二人のやることはいつもどことなくユーモラスなので、楽しく読めました。子どもの世界をとてもよく知っている人だと思いました。

ケロ:単館上映の映画館で上映される映画を見ているような感じで読みました。今回のテーマが、「何かが始まって何かが終わるという、ひと夏の物語」なので、どの本も、どういう結末になるのかに引っ張られるような気持ちで読み進めました。特にこの話は、結末をにおわせる部分が多いので、非常に気になりながら読みました。でも、それだけでなく、結末までの一つ一つのエピソードの重ね方が上手で,確実に厚みになっているという気がします。主人公の劣等感や悲しみ、恋心など……。たとえば、父親が牝牛に絞め殺されてしまったということを主人公が知るところなどは、悲しいのに、ユーモラスで切ないですね。ただ、「13歳の男の子ってこうだったよね」というように、昔の自分を達観して、さらに今の読者に「そういうもんだよね」と同意を求めているように感じるところがあります。読者が大人ならまだしも、まさしく13歳くらいだったら、素直に読めるもんなのかしら?と、私も思ってしまいました。

トチ:たしかに子どもの読者にとっては遠い昔の、遠い国の物語なので、ついていけるかなあとは思いますが、ひとつの文学作品としてみると大変な傑作だと思いました。なによりも登場人物のひとりひとりを、多面的な人間としてしっかり書いてある。貧しくて、心身の発達がおくれているトッケンという男の子にしても、ただの可哀想な子どもではなく、なかなかしたたかな面も書かれていておもしろいと思いました。物語の導入部は、まるで映画を見ているように、小さな島のいろいろなできごとを語っていますが、しだいに読者の不安をそそる3つの爆弾がそのなかに埋め込まれていく。1)ダイナマイト 2)マイの心臓が悪いこと 3)主人公がそのマイに水泳を教えてやると言い出すこと。それが最後には雪崩のように悲劇に結びつく展開になっていく。悲劇が起きてからの説明を、それまでの書き方と違う主人公と警官の対話にしたあたりも、とてもうまい書き方だと感心しました。一つ一つの情景描写もすばらしく、特に教室で主人公の前の席にすわったマイの髪の毛が主人公の机にさっと広がり、通り雨のようにまたさっと消えていくという描写が、情景だけでなくそのときのかすかな音まで聞こえるようで印象に残りました。菱木さんの翻訳も、いつもながら美しくて見事な訳文だと感心しました。

ブラックペッパー:今月のテーマは「ひと夏の思い出」ということで、選ばれた本3冊のうち2冊が書名に「〜の夏」と、夏がついていますね。書名としては、いちばんキマりやすい季節なんですね。春夏秋冬のなかで、本でも映画でもタイトルの登場回数ナンバーワンなのではないかしら。そして、みんな、はかない恋をしちゃったりするのよね。これも夏という季節のなせるワザか……? と、まあそんなことはいいんですけど、私はこの本、とっても好きでした。最初、手にとったとき、400ページもあってけっこうなボリュームだわと、ちょっと敬遠したい気持ちだったのですが、私の好きなスウェーデン、それもゴットランド島が舞台だとわかって、急に興味がわいてきて、ぐんぐん読み進みました。もー、なんという乙女ゴコロあふれる、愛らしい少年たち! 初恋のとまどいといいますか、心の揺れが細やかに、とってもよく描かれてると思います。いいですねえ。大好き。ひとつ不満をあげるとすれば、マイが死んでしまったこと。死なないでほしかった……。マイがいなくなるってことは、書名からも見えるから最初からわかっていたとはいえ、〈死〉ではなくて転校してしまうとか、仲良しではなくなって遠い存在になるとか、そういうのがよかった。だって最後が〈死〉だと、おさまりはいいけど衝撃が大きすぎる。それまでの繊細さが薄らいでしまう感じ。

アカシア:乙女ゴコロって、繊細っていうこと? ある時期のことを切り取った形で書くとすると、「死」を出して区切りをつける設定になるのかも。

ケロ:髪を切ったところを読んだとき、一瞬、マイは死ぬのではなく、「憧れのマイ」という対象が消え、恋が終わるのかなと思いました。髪を切るという行為は、マイが今までの自分でない、新しい自分に脱皮したいという思いのあらわれですよね。このあたりから、マイが2人の男の子とは、違う道を行ってしまうのかしらなんて思ってしまった。

アカシア:男の子たちは、マイが髪の毛を切ったのを見て実はがっかりするのだけど、わざと知らない気づかなかったふりをする。その辺のやさしさも、うまく描けてますね。

むう:正統派文学だなと思いました。厚さがあるだけでなく、読み応えのある本でした。スウェーデン人の知人がいてそのイメージが重なるからかもしれないけれど、作者の目線がとても誠実でていねい。先日、読書週間にあわせて重松清さんのインタビューが新聞に出ているのを見たんです。重松清さんは、「若い人たちが本を読むというのは、その本の中に、読者自身にもよくわからない自分の気持ちを体現する人物や出来事があって、本を読むことでそういう自分の内面が見えてきたりわかってきたりするという意味があるのだろう。あるいは本を読むことによって、自分とは違う人生を体験できたりもするのだろう。それは大事なことだと思う」といったことを述べてたと思います。これはそういう、思春期現在進行形の人が同世代の人間の行動を見て共感するタイプの本とは違うような気がしました。どちらかというと大人の回想文学で、ノスタルジックだし、同世代の若者には理解できないような細かい分析まで入っている。その意味で、大人が読む本なのかなと思いました。古いフランス映画に、やはり2人の男の子と1人の女の子が出てくる「さすらいの青春」(アラン・フルニエ原作)という青春映画の名作があったけれど、それに似た感じですね。きらきらした青春映画。チェンバーズもこの世代を主人公にして描いていて、誠実さという点ではヴォールと似ているけれど、あちらは主人公と同世代の読者にもっと直接的にがりがりと迫ってくる点が対照的だと思いました。

ハマグリ:子どもは、大人の観点で書いているところは読み飛ばすんじゃないかしら。ストーリーがおもしろいので、子どもの読者でも引っ張っていけると思います。やっぱり中学生くらいが読むんでしょうね。

むう:この時期の男の子の危うさや、初々しさがよく書けているのには感心しました。とにかく他人の目が気になって、自信がなくて、妙に突っ張って。大人の目から見れば些細なことに右往左往しているあの時期がみごとに描写されていて、読み終わったとき、「初々しい」っていうのはこういうことだったんだなあ!と思わされました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


パトリシア・ライリー・ギフ『ホリス・ウッズの絵』

ホリス・ウッズの絵

アカシア:絵を一枚ずつ見ながら物語が進んでいく構成は、おもしろいと思いました。ただ、リーガン家の人々が、拒み続けているように見えるホリスに飽くまでも執着する理由がわからないんですね。ホリスの魅力がじゅうぶんに伝わらないから、なるほどと思えないんだと思うの。それにスティーブンが冬の山荘にいろいろなものを運んでくるところなんか、リアリティがなくて、ご都合主義的な『小公女』みたいに思えてしまう。ホリスが里親をたらいまわしにされていたという設定は、キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(偕成社)とも共通してますね。でも『ガラスの家族』には突っ張り具合が具体的に書かれていてリアルだったけど、この作品はあまり具体的な記述がないので、その後ホリスが人間を受け入れる存在に変わっていく部分が、逆にうまく伝わらない。とにかくリアリティが希薄でしたね。

ハマグリ:現在の進行と過去の回想が立体的に構成されているけれど、凝っているわりには内容が薄いですね。リーガン家との出来事の回想が間に挟まっていて、過去に一体何が起ったんだろうと思わせるけど、それが少しずつ小出しに延々と続くので、いい加減に言えよ!と思ってしまう。そこまで引っ張っておいて、ラストは何だ!と拍子抜けしてしまう。絵を一枚一枚出してくるのも洒落ているけれど、あまり効果がないように思いました。リーガン家の人たちがなぜホリスをそこまで受け入れようとしているのかも今ひとつ理解できないし、なぜホリスが彼らだけにそこまで心を開いたのかも分からなかった。ジョージーに対してこれほど優しくできるというのも、納得がいくようには描かれていません。心の動きが伝わってこないのね。もっとホリスのことが知りたいのに、回想シーンに邪魔されてしまう感じもあるし。

ケロ:そうですね、私も、引っ張りすぎだよ、とつっこみを入れながら読んでしまいました。でも、リーガン家との出会いのシーンは、なかなかいいと思いましたよ。24ページ。ゲームをしてわざと負けてあげるあたりの優しさがうまく描かれているので、斜に構えるホリスが、この家族を「かけがえのない家族」と思えることに説得力があります。また、ホリスに帽子をかぶせて鏡にうつすシーンで、ホリスがとても美しい、というところなど、あっ、そうなんだー、とホリスのイメージを少しずつ軌道修正しながら読むところがありました。

ブラックペッパー:そこは、愛情を持っている人から見ると可愛いということかな、って思ったけど。顔立ちが整っているわけではないのだろうと。

ケロ:そうか、そうですよね。だいたい、全体に「ホリスってどんな子なんだろう」と思いながら読んでいた感じがします。それだけつかみにくかったのかな、ホリス像が。読み進めていると、あっさり読んでしまうのだけれど、あとで「何で?」とひっかかってしまったり、浅い感じがしたりするところも、『ノリー・ライアンの歌』と似ている印象を受けました。あと、わざとそういう印象をあたえる設定にしてるのかもしれないけど、スティーブンは死んだんだ、と思って読んでしまいました。

トチ:『マイのいた夏』のマイが死ななくて、スティーブンが死ねばよかったってわけ? というのは冗談だけど。私も、主人公がこれだけスティーブン一家に対してしでかしたことで悩んでいるのだから、死んでるにきまっていると思って読んでいたので、最後まで読んで拍子抜けしてしまったわ。それに、ホリスという子がどうしても好きになれなくって・・・・・・スティーブン一家や彫刻家のおばあさんが気に入るような娘には、とても思えなかった。訳文のせいかしら。ホリスのモノローグでストーリーが語られていくわけだけれど、12歳の女の子が語っているようにはとても思えない。「おやじさんはスティーヴンを愛している。当然ではないか」なんて、12歳の女の子が言うと思う? 原書では、もっとみずみずしい、いかにもこの子らしい語り方をしているんじゃないかしら。それから田舎の少年であるスティーブンが自分のことを「オレ」といっているのに、なんでホリスのことを「きみ」なんて気取って呼んでるのかしら?

アカシア:原文では、セリフにもっと繊細さがあるのかもしれないわね。

トチ:自分の絵について話しているところも、原文ではもっと繊細なのかもしれない。それから彫刻家のおばあさんに「〜してあげた」ではなく「〜してやった」とずっと言っているのも気になった。尊敬している目上の人に対する言葉としては、乱暴よね。それから、これは原文のほうもそうだと思うのだけれど、ケースワーカーをこれでもかとばかり嫌らしく描写しているのが、嫌な感じ。彫刻家のおばあさんは映画スターのように美しいので、初対面のときから気に入ったけれど、ケースワーカーはいつも同じ服装で、サイズもXLだから嫌だ・・・・・・なんてねえ。
それから、里親制度も日本とアメリカでは違うと思うんだけれど。日本は里親になる人たちは本当に奇特な人だけれど、アメリカでは自分の利益のためになる人もいると聞いています。そこのところを知らないと、「せっかくうちで育ててあげるといってくれているのに、なぜいろいろな文句をいっているのか」と、日本の読者は不思議に思うんじゃないかしら。

アカシア:ホリスはこの作品の最後では、里子ではなくてリーガン家と養子縁組をするのよね。里子は一時的に預かってもらうということだけど、養子は親子という恒久的な関係を法的にも結ぶということですよね。そのあたりも、訳文の中なり後書きなりではっきりさせておかないと、最後のホリスの安心感が日本の読者には伝わりにくい。それと、さっきトチさんから「きみ」が変だという話が出ましたけど、私はスティーブンが父親を呼ぶときの「とっつぁん」にもひっかかりました。スティーブンのほかの部分の口調と合ってない。

ブラックペッパー:やっぱり不思議なのは、リーガン家の人々がなぜホリス・ウッズをこんなに好きになって、ホリス・ウッズもまたなぜリーガン家の人々をすぐに受け入れたのか、ということ。だって、ホリス・ウッズって、こんなに「悪い、悪い」って言われてて態度も悪かったのに、すぐにうち解けて相思相愛になるなんて、ちょっと変じゃない? そういうところが全体に雑な感じ。作者の中では、世界が緻密にできあがっていたのだと思うけれど、描かれていない部分が多いから読者には伝わりにくい。そして構成が凝っていることで、よけいにその描かれていない部分、すかすかしたところが目立っちゃう。骨太なストーリー展開で大きなうねりに引き込まれるような作品だったら、描かれていないところがあっても気にならなかったり、想像をふくらませて自分で補うことができたりするけど、この作品はぶつぶつと途切れながら進んでいくという構成だから、どうしても「すかすか」が気になる。
訳も気になるところがいくつかあった。たとえば73ページに「アメリカ南西部へ行く」ってありますよね。日本語では、日本の中を移動するのに「日本の〜地方へ行く」とは言いませんよね。「アメリカ南西部」と言われると、えっ、今いるのはアメリカではなかったの? と思っちゃう。こういうところ、もうちょっと工夫できるのではないかしら?

アカシア:リーガン家の人々は、何でも許してくれるやたらに優しいだけの非現実的な存在に思えてしまうわね。リーガン家の人も、ホリスも、立体的な存在として伝わってこない。

ハマグリ:ホリスが魅力的になっていないのは、この口調にもその一因があるよね。

むう:カレン・ヘスの『11の声』(理論社)やロイス・ローリーの『サイレント・ボーイ』(アンドリュース・プレス)のように何枚かの写真を使ってそこから物語を構成していくという作品もあることだし、目次を見て、この作品は絵をいくつか使って物語を構成しているらしいと思って読み始めました。話としてはけっこう波瀾万丈なのだけれど、読み終わったときには、軽いというか浅い本という印象しか残らなかった。私も途中はずっと、スティーブンが死んでしまったんだと思っていました。思わせぶりな感じがしますよね。ホリスは、自分が加わることでスティーブンの家族の平和を壊してしまったと思ったから家を出ていくわけなんでしょうけど、そのホリスにとっての重さをもっときちんと描かないと伝わらない気がする。読者にすると、「え? スティーブンが生きてたんだったらいいじゃない」みたいになる。それと、再会したスティーブンがホリスに、「きみは、まだ家族ってものを知らないんだよ」と言いますよね。ここでホリスは、実際の家族はいつも和気藹々としているわけではない、ということをはじめて知らされる。著者はこの瞬間を書きたかったのだろうけれど、一つ一つの人物や情景の書き込みが足りなくて、平板になってしまっているから、読者にすると、ただ「ああ、そうですか」となってしまう。

ハマグリ:この子がどんなに悪い子でも、よく描けていれば読者は応援したいという気持ちになるものだけど、これはそうならないのよね。

トチ:人間に対する見方も意地悪よね。ソーシャルワーカーは訳のわからない、鈍い人だときめつけている。ユーモアもないわね。ソーシャルワーカーの特大サイズトレーナーはもしかしたらユーモアを書いている部分なんでしょうか?

ブラックペッパー:私も、ここは面白いと思うべきところなのかな、と思ったけど、ユーモラスとは思えなかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


藤巻吏絵『美乃里の夏』

美乃里の夏

ブラックペッパー:こんなにお風呂掃除が好きなんだったら、うちのお風呂も掃除してほしい……。読んで嫌な気持ちにはならなかったけれど、よくわからなかった。このおじいさんは恐い人なのかと思ったら、すぐやさしくなってるし。最後のお手紙のせいか、美乃里ちゃんのナルシス的なものを感じた。須賀君が好きって言ってたけど、「須賀君を好きな自分」が好き、「三角関係に悩む」自分が好きって、結局自分がいちばん好きだったのでは……と思っちゃった。

トチ:「ミノリ」という名前が同じだということに何か意味があるのかと思ってずっと読んでいたけれど、けっきょく何もないのね。それから「実」のほうは、あの世から来た子だと思っていたけれど、最後のところでそうではないと知ってショックだった。だって、あまりにもリアリティがない、幽霊みたいな子なんですもの。

ブラックペッパー:小学校5年生の男の子が、知り合いでもない女の子にハンカチをさっと差し出したりするかしら?

ケロ:私は最初、実は銭湯の精なのかと思ってた。

トチ:もうひとつリアリティがないのは、片腕の不自由な老人がひとりで銭湯をやっているということ。お風呂屋さんってとてもひとりではできないでしょ。番台だけじゃなくって、火をたく係りとか人手がいる仕事なのに。それから、最後の「実」が施設の子どもだと分かったというところ、本当に腹が立った。施設の子どもだと分かったら、主人公は実に会いにもいかないでしょ?かわいそうな施設の子どもは、自分とは違う世界の人間だと思っているのかしら。施設についても、老人ホームについても、あまりにもセンチメンタルで薄っぺらい書き方をしているので、不愉快になったわ。

ブラックペッパー:なぜ木島さんが厳格だったのか知りたかったのに、それが最後までわからなかったのが不満。

ケロ:長新太さんの絵、いいですよね。なんか、新鮮な感じがしました。ぜんぜん関係ないんですけど、家の近くにすごい銭湯があるんです。とても古くからある銭湯のようで、常連さんなんでしょうね、みんなマイロッカー、マイグッズキープ状態に、まずびっくり。お風呂場はきれいなのだけど、外側の壁にびっしり生えているツタが内側の壁にまで入り込んできていて、ジャングル風呂状態なんですよー。なかなか、ファンタジックな世界です。銭湯というのは、シチュエーションとしておもしろいと思うので、もっとそのおもしろさがいかせればいいなと思いました。掃除をおもしろがるのが変、というのも、描き方なのでは? それに、昼に揚げ出し豆腐、ってアリですか? よくわかりませんが、ちゃっちゃと作れる、でもとてもおいしい、というメニューの気がしません。仕事中なんだから、そういうメニューのほうがしっくりくるでしょう? いきなり、お手伝いの子たちにまかせて、80のおじいさんが、まめにいそいそと揚げ出し豆腐作るってのもねー。
それから、これだけ男の子と仲よくなっておいて会えなくなっちゃうことってあるのかな。突然12年後の手紙ってのがねえ。その前に、捜せばいいのに、という感じ。いろんな意味で、よくわからない本でしたね。

ハマグリ:文章は下手ではないのでさらさらと読めるけれど、何か現実感がないというか、銭湯のような日本独特の場所や、揚げだし豆腐とか、旬のみょうがを薬味に、なんていう日本的なものを使っている割に、匂いや空気感が伝わってこなくて、単にこぎれいになってしまっているわね。面白いシチュエーションを作ろうとしているのに、伝わってこない。銭湯の絵の、見えない半分を見るというのは確かにわくわくするけど、ただつながっているというだけだし、それに銭湯に妖精というのもそぐわない。発想はいいけれど、不消化に終わっています。この男の子のあまりの現実味のなさに、私もてっきりこの世の者でないと思っていたから、え、なんだと思いましたね。最後の手紙の部分は、いらなかったと思う。唯一よかったのは、美乃里とお父さんが仲がいいこと。今どきこういう無邪気に仲が良くて、口うるさい母親に対してタッグを組むような父娘の関係を書いているのは珍しい。

アカシア:長さんの絵はいいですね。例えば13ページの絵の美乃里も、いかにも背が高いのを気にしている少女の感じがよく出てる。いっぽう文章となると、とにかくリアリティがなさすぎ。スポーツ少年の須賀君が女の子二人とと交換日記なんかします? それに、まだ夏休みに入ってないのに、この学校の生徒ではない実君がなんで校庭にい合わせるわけ? ここで、だれもがファンタジーだと思っちゃいますよね。銭湯の掃除だって、最初は面白いかもしれないけれど、夏中してたら、よっぽど惹きつけるものがないかぎり飽きるでしょ? だって小学校5年生なのよ! 木島さんが千代子さんと突然一緒になる、という運びにもびっくり! 私は木島さんが銭湯を休むところで、実君を引き取ろうとしてるのかな、と思ったの。それに、そもそも千代子さんは体の具合が悪いんだし、孫の実君は掃除でもなんでも一所懸命やる子なんだから、実君を施設から引き取って一緒に暮らすほうがリアリティがある。
192ページの実君の手紙も、この年齢の男の子が書いた手紙とは思えない。しかも「とつぜん、さよならしてごめんね、美乃里ちゃん。美乃里ちゃんにいうと心配すると思ったんだ。ただ、ぼくはすごく楽しかったんだ……」なんて、施設の子だから楽しかった、と作者が言わせてるみたいで、嫌な感じ。感傷的な憐れみのようなものが感じられて、すごく不愉快です。こんなものがリアリスティックフィクションとして、伝統ある出版社から出されているなんて! 最後の手紙もナルシズムの固まりだし、ディテールもちゃんと立ち上がるように書いてほしい!

トチ:多分、銭湯なんかも調べてないと思うよね。

アカシア:美乃里と実が手伝いにくるまでは、老齢の木島さんが銭湯の仕事も毎日の暮らしも何もかも一人で切り盛りしてたなんて、ファンタジーよね。この本のどこがおもしろいのかなあ。

むう:ほとんど、みなさんのおっしゃったことで尽きている気がします。私も、はじめからずっと、この少年はこの世の存在ではないように感じていました。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著 岩波書店)じゃないけれど、この少年がおじいさんの少年時代で、時間がぐちゃぐちゃになるファンタジーでもおもしろいかなって思ったけれど、結局は実在の子だったので、なんだあと思ってしまいました。

ハマグリ・アカシア:そういう設定だったら、おもしろい作品になったのにねえ。

むう:全体にふわふわした作品で、最後にこの手紙が来ることで、さらにべたべたに甘い印象を残して終わっていますね。全体として思わせぶりな本でした。

ハマグリ:せっかく新人が出てきたのに残念よね。

むう:木島さんの戦争で受けた傷の話とか、老いの問題とか、いろいろなことを盛り込んでいる意図はわかるんですけどね。たとえば、田舎の盆踊りで少しぼけたおばあさんが主人公の浴衣を自分のだというエピソードは、老いを取り上げたつもりなのだろうけれど、しっかり書けていなくて、ちょっと出してみましたレベルで終わっている。だから、それぞれのエピソード立体的にきちんと組み合わさってこない。ところで、この本の帯には「成長と純愛」とあるんですね。

ハマグリ:げーっ。

アカシア:オヤジ編集者のコピーですかね?

むう:強いていえば、花火をふたりで観るところがそういう感じなのだろうけれど、これは純愛じゃなくて,憧れですよね。

ハマグリ:自分の発想に酔ってるだけ。

トチ:お風呂屋さんならお風呂屋さんで徹底的に調査して書けば、おもしろかったのに。これでは単なる飾りになってしまっている。

ハマグリ:頭の中だけで書いているのね、きっと。日本の作家になかなかいい人が出なくて,困ったわねえ。福音館は、どこがいいと思って出したのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


花形みつる『ぎりぎりトライアングル』

ぎりぎりトライアングル

愁童:今回の課題本では一番おもしろく読みました。子どもの「今」が書かれてるって思う。教室から疎外されているような子どもをうまく書いている。現実には、こういう関係って、たじろぐ子が多いと思うけど、主人公に感情移入することで、いろんな人間関係に子どもらしく素朴に踏みこんでいくきっかけになるといいなって思いました。

トチ:イマドキの子どもがこの作品をどれくらい身近に感じるかはわからないけれど、私はとてもおもしろく読みました。シノちゃんとアリサがが漫画的だけど生き生きと描けているし、それぞれの背景も深刻にならない程度にさらっと書いてある。人生の奥深さを感じさせる作品とまではいかないけれど軽い読み物として気持ちよく読めるんじゃないかしら。ただ、「〜なの」「〜なの」という文章が続くところ、語り手のちょっとうじうじしている性格をあらわしているのかもしれないけれど、ちょっとうるさかった。

カーコ:私は、入りこめませんでした。普段見ている小4と小6の子と比べると、この子たちは、確かに今の子が使うような言葉づかいをしているんだけど、想像しづらかったんです。暴力に訴えてくるような子って、家庭的なこととか、何かがあって乱暴するようなことがあるんだけど、この二人は素直でハチャメチャなんですよね。家では安定していて、教室に入るとむちゃくちゃなことを通しているというところに、リアリティを感じられなかった。実際に子どもが読んだら、どのくらい身近に感じられるだろうと思いました。

紙魚:子どものときって、言葉がうまく使えないから、取っ組み合いしたり、体でぶつかってコミュニケーションすることが多いんだけど、だんだん言葉を使えるようになると、言葉でなんとかしようとするじゃないですか。その中間にいる年齢の子どもたちの、体と言葉のギャップをうまく書いていると思いました。シノちゃんやアリサには、体や勢いで人とぶつかっていく力がある。それに影響されて、コタニは、自分が本来持っている力に気づくという過程が、しぜんに伝わってきました。

ハマグリ:今の子どもたちの友だちづくりの難しさ、今の子どものかかえる問題を書きたい人なんだな、ということはわかるんだけど、今の子どもたちを描いている物語って、居場所がなくて浮いている主人公という設定が多すぎて、またかという感じがしましたね。この作家は、文を書くのが好きで、思った通りに手が動いちゃう人なんでしょうけど、この文体はいかがなものかと思いましたね。26ページ「あたしってつまんないやつなの。動きはトロいしギャグもつうじないし、知らない相手だとアセッちゃってなにをしゃべっていいのか、よくわかんないし。云々」っていうけど、自分でそういう割には、この一人称の饒舌なしゃべり方は、「つまんない、トロい」子だという感じがしなくて、違和感がある。この子はこういう子なんですって書くんじゃなくて、どういう子なのかは、行動を通して読者が自然に理解していくものだと思う。

トチ:具体的なところは万引きのところだけね。

ハマグリ:会話文だけでなく、地の文にも今の子のしゃべりことばを多用して、「こーゆー」「トートツ」などと音引きで入るのは気になりますね。しゃべっている言葉と、文章として読む言葉はちがうんじゃないかな。

紙魚:この作品だけでなくて、最近、大人の文芸でも、地の文に、自分でボケて自分でツッコミを入れるという文体が目出つように思います。あと、今の子どもたちって、ふだんの会話でもしぜんとそういうことをやってる。

ハマグリ:一人称の小説って、読者が主人公に心を寄せやすいものだと思うけど、自分ひとりでどんどんしゃべっていく感じと、実際のこの子というものにギャップを感じてあまりくっついていけなかったの。

アカシア:私は、コタニノリコみたいな子っているだろうなと思ってリアルに感じましたね。実際には力を持っているのに、まわりとのつき合い方がわからなくて自分ではトロいと思ってる子って、この年頃にはたくさんいると思う。だから違和感なく入っていけて、とってもおもしろく読めました。子ども同士の会話が、テンポよく進んでいくのがいい。「こーゆー」とか「トートツ」は漫画なんかだとしょっちゅう使われているし古くなるとは思わないけど、「鈴木その子」なんていう固有名詞は古くなりそう。何年かたつともう知らない子が出てきますよね。最後、いなくなったコタニを、シノちゃんとアリサは捜しに捜しているんだろうと思ったら、実際は授業サボって遊んでただけだったというのも、この二人の特徴がくっきり浮かび上がるし、リアリティがあっていいですね。それに対してコタニが「もー、シノちゃんもアリサも、自分勝手でメチャクチャなんだからー」と、最後の最後に大声でどなります。これまでは言いたくても言えなかったのが、最後にふっきれて言えた。三人のこれからを予感させる終わり方で、すごくうまいと思いました。

:それぞれの人物がありがちではありながら、結局ふつうの子どもはありがちなわけだから、テンポよく読めました。そんなにわざとらしくなくて、しぜんに読めました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


アンドリュー・クレメンツ『ナタリーはひみつの作家』

ナタリーはひみつの作家

むう:軽くてうまい運びで、とんとんと事が運んでハッピーエンドで、同じ著者の『合い言葉はフリンドル』(講談社)を前に読んだときの印象を再確認した感じでした。でも、いい大人ばかり出てくるし、できすぎだじゃないかな。たとえば『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』なんかだと、子ども固有の世界があるんだなあと思わせられるけれど、これは大人の世界に子どもが従属している気がして、そのあたりもどうなんだろうと思いました。子どもが作家に憧れたり、いろいろな夢を持つ年頃というのはあって、その年頃の子は面白く読むかもしれないけれど、ぐっと引きつけられる作品とは思わなかった。それに、マンハッタンに住んでいて、タクシーで学校に通うような子という設定も苦手でした。

アカシア:これは、ほかの3冊とは趣が違う作品よね。社会についての実地の参考書みたいな位置にある作品といってもいい。クレメンツは、こういうのを書かせると、とてもうまいですね。教科書や普通の参考書だと味気ないですが、本が出版されるまでのさまざまな過程をきちんと捉えて、子どもを主人公にした具体的な物語に仕立て上げている。ペンネームについて説明するにしても、セオドア・ガイゼルをまず出して「なんだろう?」と主人公にも読者にも謎を提供する。その後で、アメリカの子どもなら誰でも知っているドクター・スースのペンネームだと種明かしをする。読者の興味をうまく引き出しながら物語を進めていってる。『こちら「ランドリー新聞編集部」』(講談社)でもそうなんですが、クレメンツの作品の中には大人へのメッセージもこめられているのね。この作品でも、子どもの思いつきにのせられて行動していいのかどうか迷うローラ・クレイトン先生に対して、「子どもを管理するだけでなく、子どもの側に立って一歩踏みだして」と励ましている。一箇所だけ気になったのは、84ページ「はね橋の上に投げ出された、グローブ」っていうところ。決闘するんだから「手袋」を投げるんじゃないですか?

:私は編集の仕事をしているんですけど、わかっているようなことでも、勉強した気になった。大人の立場もしっかり描かれていると思った。

愁童:アカシアさんみたいな読み方としては、なるほどなと思いましたが、文学作品としてはイマイチおもしろくなかった。ナタリーがどういう作品を書いたのかわからないのが残念。

トチ:これは読んでないんですけど、私は同じ作者の『こちら「ランドリー編集部」』が大好き。「新聞の精神」みたいなものをしっかり書いてあって、子どものころ新聞記者に憧れていた私は、胸を躍らせながら読みました。

アカシア:子どもが本を出そうと思うと、次から次へと障害が立ちふさがる。それを一つずつクリアしながら目標に向かって進んでいくわけですけど、それが具体的に書かれているので、読んでいてもおもしろい。

カーコ:私もアカシアさんの感想をきいて、そうだったのかと思いました。読んでいるうちに知らず知らずに知識を得ている、スポーツ漫画みたいな感じですね。だから、エージェントのように日本には馴染みがないものも、子どもは自然と読んで理解してしまえるのかも。ただ、ナタリーが、何もしなくてもうまい作品が書けたという前提のもとに、物語すべてが成り立っているのが気になりました。

愁童:編集者が修正を要求して、この子がどう対応したかが書かれているとおもしろいと思うんだけどな。

アカシア:作家魂について書いているのではなくて、出版の過程をを書いているから、それはないものねだりなんじゃない? ただ、作品の中にナタリーが書いた本『うそつき』の一部が出てきますが、これがもっと面白いと、出版しようとするエネルギーにもリアリティが出てよかったのに。

紙魚:大人を悪く書くことで成りたっている物語もあるけれど、クレメンツの場合、大人もこんなにすてきなのよという姿を見せてくれるところが好き。社会のしくみをわかりやすく見せてくれるし、大人と子どものすてきな関係も見せてくれる。こんなふうに大人と付き合うのも悪くないよと、関係性の雛型になって、読んだ子どもたちに希望をもたせてくれるのでは。

ハマグリ:12歳くらいの子どもたちは、自分の父親や母親の職業が気になる年頃なので、そういう子どもたちにはとてもおもしろいと思います。実際に会社まで行って様子を見るので興味深いと思うし、とても具体的に書いてあるんですね。たとえばエージェントの事務所を借りるところなんかも、どういう用紙に、どんなことが書いてあるか、「希望サービス」としてどの項目にチェックをつけるか、など詳しく書いてあるでしょ。こういう細かいところを子どもはとても興味をもつと思う。挿絵はこんなにマンガチックじゃなくてもいいかな。せっかくのすてきな出版社の部屋などは、もっとリアルに書いてほしかった。また文章の書き方も、子どもにわかりやすい工夫がされている。57ページ、本についての記事を読んで、出版の世界を垣間見たゾーイの頭がぐるぐるまわってしまったところ、去年農場で大きな岩をどけてみたらアリがうじゃうじゃ走り回るミクロの世界に驚いたことをひきあいにだしてきたり、87ページ、「ゾーイになにかを途中でやめてとたのむのは、バナナを食べているチンパンジーに、途中でやめろというようなものなのです」など、この作者が、つねに子どものことを念頭に置いて書いている人だなということがわかる。もっといろいろな職業ものを書いてほしい。

すあま:今、学校では職業について考える授業があるので、そこで紹介できるといい。作家になるナタリーだけじゃなくて、ゾーイみたいに「起業する」ことに興味をもつ子もいると思う。私は『こちら「ランドリー編集部」』よりも、こっちのほうがおもしろかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


富安陽子『菜の子先生がやってきた!』

菜の子先生がやってきた!

カーコ:困ったことを抱えている子のところに菜の子先生が現れて、思いがけないことをするんですよね。今の子って、「これはこうしなければいけない」というような正統派志向が強くて、人の目を気にしがちなんだけど、菜の子先生がふっと違う価値観で日常を見せてくれるところがよかったです。各章とも、開かれた終わり方をしているのも、期待感が残って、うまいなと思いました。スタルクもそうですが、他人を否定しないあたたかさがある。ただ、菜の子先生の絵は、もう少し魅力的にならないものかと思いました。

トチ:菜の子先生って、メアリー・ポピンズみたいね。でも、欧米のファンタジーの亜流という感じはまったくしない。欧米のファンタジーのすてきなところと日本的なものがうまく溶け合ってとてもいい作品になっていると思いました。学校へ忘れ物を取りにいく話なんかも、ちょっと学校の怪談みたいな怖さもあるし、菜の子先生もなにか得体の知れないところがあって、子どもたちはどきどきしながら読むんじゃないかしら。

愁童:私もうまいとは思いました。ただ、この子どもたちにとって菜の子先生はどういう存在なのか、もうちょっと書き込んでくれると厚みが出たんじゃないかな。桜の木が1本いなくなっちゃうみたいなところはイメージとしてちょっとついて行きにくかった。逢魔が時に職員室に明かりがついているのと、街灯が一つついているのを、どちらも灯るって書かれていたり、バタ足で水を「ひっかぶせる」というような表現には違和感がありました。

アカシア:愁童さんご指摘の部分ですけど、桜の木はプールに満開の自分の姿を映して見てみたいと思ったんですよね。その気持ちは、読者にもちゃんと伝わると私は思います。職員室のところも、先生がいるんじゃなくて化け物がいるのかもしれないわけだから、ぼんやり灯っているというのは違和感がなかった。ただ「ひっかぶせる」はおかしいですね。日本の童話が、どのくらい翻訳されているか調べたら、湯本さんとか角野さんのしか訳されていないんですね。イメージがくっきりしているこういう作品など、もっと翻訳されて外国にも紹介されればいいのに。たしかに、まじめくさっているけど子どもたちに楽しい経験をさせてくれるというのは、メアリー・ポピンズをうまく借りてますね。ただ表紙にあんまり魅力が感じられないし、最後に口絵がついているのもわからない。中の挿絵はあまり違和感がなかったんだけど、この口絵は、はっきりいってよくないですね。

:おもしろかった。ひょっとしたら起こるんじゃないかなという気になりました。菜の子先生のきっぱりした感じも好きでしたね。忘れ物をとりにいく話がいちばん好き。

むう:私も、読んでいて最初に連想したのがメアリー・ポピンズです。第二話に登場するうさぎの穴はちょっと『不思議の国のアリス』を思わせるし、あれこれ洋もののファンタジーに重なるところがあるけれど、それが取って付けたみたいでなく、ちゃんとこなれてひとつの世界になっているところがいいと思いました。おもしろかったです。まじめくさっていて子どもにこびず、どちらかというと威張っているような、それでいて子どもがおもしろがる経験をさせてくれる菜の子先生がとても魅力的でした。子どもって、こういう人に妙になつくんですよね。突飛なことが次々に起こるので意外性があって、どうなるのかなと思いながら楽しく読めました。突飛なのだけれど、子どもの想像力に沿った突飛さなのがいい。暗くなったときの学校というのは、なんだかいかにも不気味だという子どもの感じをうまく取り入れていると思いました。夜になって忘れものをとりにいくというのは、わたしにも経験がありますけれど、ああいうときのどきどきする感じをうまくとらえていますね。

紙魚:この作家って、その気にさせてくれるのがうまいなと思います。『学校の怪談』(常光徹著 講談社)系で、そういうこともあるかもと、その気にさせられて、この本おもしろいよと、友だちどうしで借り貸しできる本。ただ、本のつくりがかしこまっているのと、絵がとっつきにくいのが残念です。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ウルフ・スタルク『ぼくたち、ロンリーハート・クラブ』

ぼくたち、ロンリーハート・クラブ

カーコ:ユーモアがあっておもしろかったです。ロンリーハート・クラブの集まりのときは、必ず何かを食べるという決まりと作るところとか。4人の計画がこんなにうまくいくわけはないんでしょうけれど、人を疑うなどではない、プラスのメッセージがあって気持ちよく読めました。

トチ:明るくて、気持ちのいい話だったけれど、いつものスタルクの作品にくらべると、少し味がうすいんじゃない? あとがきに、教科書の副読本と書かれていたので、だからか、と納得したけれど。主人公や女の子のキャラクターも、いまひとつはっきりしない感じ。

愁童:スタルクは好きなんだけど、この作品は、あまりユーモアのきれがよくない。『おじいちゃんの口笛』(ほるぷ出版)なんかのほうが、美談ではないけど感動させる。登場人物に寄せる作者の愛着みたいなものが素直に受け取れる。この作品は、その辺がぼやけている感じがして物足りなかったです。

:ちょっとわざとらしい感じがしました。このくらいの文量ではまとまってると思うけど、あんまり感動しなかったです。

アカシア:私は選書係だったので、『パーシーの魔法の運動ぐつ』(小峰書店)にしようかとも思ったんですが、シリアスではないほうにしたの。トール意外の子どものキャラはぼやけちゃってますけど、これはシリーズものだということなので、ほかの本にその辺は書かれているんだと思います。短い描写でその人らしさを的確に表現するスタルクのうまさは、この作品にもあらわれてますよね。ハリネズミをさがしたり、アルミホイルを細く切ってプラムの木を飾るスベンソンさん。「ロンリーなんとか、って、どうせ、おかしな人のあつまりでしょ。おそろいで変なぼうしをかぶってる人とかの」と言うビーストリュームさん。二人とも、自分の暮らしを大事にしながら生きていることが、短い文章の中から伝わってきます。ママにお礼を言われてほっぺたをちょっと赤らめたり、ダイエットをしているのにデザートのクリームパイをたくさん食べたりする郵便局長のルーネさんもいいですね。「こどくっていうのも、たまにはいいものよ。いすにすわって、考えごとをしたり、夢をえがいたりするの。そう、人生でいろいろあったことも、みんな思い出すわ」と語るトールのおばあちゃんもいい。挿絵も、雰囲気をうまく伝えてます。まあ、子どもが書いたラブレターで年配の大人二人が結ばれるという筋書きはできすぎだと思いますけど。私は好きな作品。

すあま:あとがきを読んで、シリーズだとわかりました。トール以外の子があまり見分けがつかないのは、シリーズのそれぞれの物語で、スポットをあてる子どもがそれぞれ違うからなのでは? 物事がすべてうまくいくけど、それはそれでおもしろく読めました。それから、お金がかかるので寄付を募る、というところに、日本との違いを感じました。

むう:スタルクの作品は、不勉強であまり読んでいないのですが、『おばかさんに乾杯』(小峰書店)を読んで、すっとぼけた感じのあたたかい作品だなあと思った覚えがあります。この作品にも、あたたかさを感じました。あと、子どもが完結した子どもの世界を持っている点は、リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』(岩波書店)などと共通していると思いました。主人公が、手紙を書きたくなったときにまず自分に宛てて書くとか、クラブのモットーの3番目に大まじめに、毎回なにかを食べることと入れるといった子どもの行動を、大人のフィルターを通さずにうまく捕らえていますね。出てくる大人が、こどもに媚びはしないけれど、かといって子どもを無視しているわけでもなく、まともに子どもと向き合っていて、子どもも子どもで自分たち独自の世界をちゃんと持っている。そのまともさがあるから、読んでいてほっとできるんだなあと思いました。あと、最後を「ちょっと休もうよ」という言葉で終わらせていることで、美談が美談で終わらずにユーモアの漂う幕切れとなっているのもいいですね。

ハマグリ:スタルクは、大人とは全く別のところにある子どもならではの物の考え方、感じ方をストンと納得できるように書く人で、大好きな作家です。リンドグレーンほど無邪気ではなくて、けなげさの中にほろ苦いペーソスがある。たしかにスタルクのほかの作品ほどは切れ味がよくないけど、3、4年生にすすめたい本が少ない今、お話としてよくまとまっているし、楽しく読めるし、読後感も良い。表紙やさし絵も感じがいい。3、4年生が繰り返し読む好きな本として残っていくものかな、と思います。

愁童:子どもが選ぶコドクな人の人物像を、何やら突飛な行動や変わった帽子みたいな味付けで、子供の好奇心を刺激する大人として描いているあたりは、スタルクらしいうまさだなって思いました。

ハマグリ:この会で取り上げる作品はどうしてもYAが多くなるけど、このあたりの本を読むのはいいと思ったし、この年代にすすめたい本をもっと見つけていかなければと思ったわ。

カーコ:今回の課題本は、どの本も地元の図書館によく入っていました。子どもの日常を描いた作品は、図書館に受け入れられやすいんですね。

アカシア:図書館にあるだけじゃなくて、もっと読まれるといいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


シルヴァーナ・ガンドルフィ『亀になったおばあさん』

亀になったおばあさん

ハマグリ:私は、この本はものすごくおもしろいと思いました。最初は、「〜です。」という文体が鼻につく感じで、大人が無理に子どもの言葉にしてやっているという感じがしたのですが、だんだんその普通ではない文体が合っているように思えてきました。『エンジェル エンジェル エンジェル』と同様、娘と母と祖母の話なので、並行して読んだら少し混乱しました。タイトルの訳はまずいと思う。だんだん亀になっていくところがおもしろいのであって、最初から「亀になった」と言っっちゃったらどうしようもない。皮膚がごわごわしたり、しゃべり方がおかしくなったり、どうなっちゃうんだろうと思うところがおもしろいのに。原題は、「シェイクスピアを愛した亀」なんですよね。
実際にはこんなことはありえないんだけど、すごくリアリティがあった。おばあさんなにの亀、亀なのにおばあさんというところが、よく出てる。絵が好きなおばあさんは亀になっても絵を描くんですよね。メールで知り合ったマックスとのやりとりは、つくり話めいていて、マックスが正体を表わすところも期待はずれだった。でも、ひじょうにオリジナリティのある不思議な話だと思う。出版社は大人向けに出していますよね。でももともとは子ども向けに書かれていると思う。死とか老いということを、そういう言葉を使わなくても、子どもにわかる形で描いた物語だと思うので、大人が読むよりも子どもが読むほうが、真価を発揮するんじゃないかしら。

雨蛙:訳文の調子に慣れるのに時間がかかりました。ストーリーのおもしろさにひかれて、気にならなくなりましたが。子どもの視点を出すには、いまひとつ合わなかったのでは。書名を見たとき、ほんとに亀になるわけないしと思ったんですが、ほんとうになっちゃうところはおもしろかったですね。突拍子もない展開で、主人公が疑問に思う目線が読者とは違うなと思いました。そのへんのギャップもおもしろかったです。やっぱり子ども向けにしてほしいですね。シェイクスピアも、もっと読んでおけばよかったですね。マックスが出てくるのは、物語をこんがらがらせていますよね。

ケロ:マックスって、どんな人なのかなってひっぱるわりには、なんか生きてないですね。

ハマグリ:ネット上に出てくるから、不思議な存在としてうつるしね。

:私もおもしろかった。母親がおばあさんに会いに行かないっていうミステリーにもひっぱられた。私の母もそうなんだけど、だんだん腰がまがっていって、ほんとに亀になっちゃうようなのよね。いっしょうけんめい、母親に知らせないように、おばあさんを守ってあげるんだろうと思ったりして、心のひだまでよく描けてた。『シカゴよりこわい町』(リチャード・ペック著 斉藤倫子訳 東京創元社)のように、このおばあさんなりの口調があってもよかったかも。マックスが寝てるのは不自然ですよね。寝てる場合じゃない。ボートでも持ってきてつれていってほしかったのに。無理やりひっぱってきて疲れたのかしら。うさぎも唐突に感じました。母親のほうは、どんな思いがあったのかということにも興味がわきました。

ケロ:ベネツィアの地形、どういう状態で水が入ってくるのかというのが想像がつきにくかったのは、残念でした。また、おばあさんが香水を飲んでしまって精神病院に入れられちゃったという錯乱状態が、本当はどうだったのかというところも、わかりにくかった。本当のところ、おばあさんは過去の一時期ヘンだったのか(だとしたら、娘の非はあまりないように感じる)、何かの誤解でおばあさんはずっとまともなのか(とすると、娘は取り返しのつかないことをしたことになる)、もしくは今もずーっとヘンなのか?? ぼんやりとしかわからないので、そのへんが描かれていると、二人の和解の過程がもう少しわかったのかも。全体に、ベールを通して見ている感じ。どうしてかな? 最初に言った、いろいろ分からないことがあるからかな? それとも、これがイタリアだからなのかな? そうは言いつつ、おばあさんが頭に手をやる場面が印象的だったり、魅力的な本でした。表紙の絵のおばあさんの顔もいいですよね。また書名も印象的、最初に聞いたときは、「神になったおばあさん」かと勘ちがいしましたが。

:亀ふうになるのかと思ったら、ほんとに亀になっちゃうんだもんね。

カーコ:奇妙でおもしろい話を読んだなと思いました。書名については、ハマグリさんとまったく同じで、「もともとこういう題名だったのかしら」と、思わず原題を確かめてしまいました。最初から、おばあさんがそのうち亀になると思って読むのと、「亀はおばあさんだったのか」と読みながらわかっていくのとは違う。タイトルによって、物語の読み方が左右されるんですね。文体は入りにくかったです。お母さんの口調にひっかかりを感じました。場面によって口調がバラバラ。子ども向けの本だと知りつつ、大人向けに訳したために、中途半端になってしまったのでしょうか。全体に、『ヘヴン・アイズ』(デイヴィッド・アーモンド著 金原瑞人訳 河出書房新社)とはまた違う、不思議なお話でした。

ハマグリ:お母さんとおばあさんの間には深い問題がありそうに書きながら、最後にお母さんがおばあさんを見て、すぐに母とわかり、わだかまりが急になくなるのも唐突な感じがしました。

紙魚:私もおもしろかったです。亀って本当に、生と死との境、もしくは現実と物語の境にいるようなたたずまいじゃないですか。おばあさんが亀になっていく過程と、死にむかっていくさまが、すっと重なって物語になっているようでした。

愁童:ぼくは、好きになれなかった。人間の老いを、こんな形で子ども向けに書くことにどんな意味があるんだろう? おばあちゃんが亀になっていくのっておもしろいねっていうことか。ほんとだったら、見てられませんよね。しわのできかたとか老人の表情とかの描写、うまいと思うけど、人が老いると言うことを外見的な変化に着目させて亀のイメージを作り上げ、そこへ子どもの読者の関心を引っ張ってくるという手法に違和感を感じちゃった。「死をうまくかわすには変身すればいいのさ」って、そんなもんじゃないでしょ。

ハマグリ:ほんとだったら、おばあさんが亀になっていくのを見てられないっておっしゃったけど、子どもの目から見てそうなっていくのをあらわしているんじゃない?

愁童:描写力があるから亀になっていく様子に真実味があるだけ、こっちの違和感が深くなっちゃう。

ハマグリ:おばあさんが変わっているのに女の子が驚いたりするでしょ。長いあいだに起こった変化を、亀になったとあらわしているんじゃない。亀になったおばあさんは幸せそうよ。シェイクスピア読んだりね。

愁童:なんでシェイクスピアなの?! こういうことを、こういう形で書けるという作者の人間観がいやなの。確かに、年寄りと亀のある部分は似ているかもしれないけどね。魔法が使えりゃ人生なんてチョロイっていうハリポタ風メッセージと似たような印象。

すあま:私は楽しく読めなかった。おばあさんが亀になっていくのがとてもリアルに描かれていて、かなり怖かった。子どもにとっても生々しいのでは? それから、マックスは登場しなくてもよかったのではないかと思った。

愁童:おばあさんが老いていくのは自然の成り行きで仕方がないことだけど、亀に変身して目先の死はかわしたけど、先へ行って結局最後は亀として死を迎えることになるわけでしょ。人間として終わりたいんじゃないのかな。死はかわせないから死なんだよね。

ケロ:さきほど私は、魅力的な本だと言いましたが、今のお話を聞いていて、「死」や「老い」をかなり身近に感じる年配の世代の人が読んだら、どう感じるのか、知りたくなりました。単純だ、とか、甘い、とか感じるのかな? この本は、「老い」を、亀のようなしわしわの肌とかに重ね合わせてはいるけれども、老いや死を残酷に描いているとは、私は感じなかったから。おばあさん本人が解き放たれてハッピーになっていくように感じられたし。死は免れられないけど、それをそのまま描くのではなく、死を迎える方も、そのまわりの人たちも、こんなふうに受け流していけたらどんなにいいかな、という希望として読めました。

愁童:亀の寿命は400年。だからまだ2分の1っていうのもなぁ、算術じゃないでしょ人生は。

ハマグリ:でも、亀はいやなもの、汚いものとは表現していないんだから。

紙魚:私は、精神的な象徴としての亀なんだと読みました。

愁童:でも、これは実際におばあさんが亀になるんですよ!

アサギ:私は何がおもしろいんだか、さっぱりわからなかった。お母さんがミステリアスで、設定が変わっているし、イタリアの作品は少ないので、最初は読もうと思ったんですけど。あとがきで理屈がわかるという感じでしたね。話ってただ変わってりゃいいってもんじゃないですよね。この子の年齢にしては、大人っぽいし、訳が合っていないですよね。ストーリー展開の必然性も感じられなかったので、なんでこんな本出したんだろうと思いました。ぜんぜんおもしろくなかったですね。

カーコ:このあとがきは、『すべての小さきもののために』(ウォーカー・ハミルトン著 河出書房新社)と同じように、おしつけがましさを感じました。読者の読みを邪魔せずに、しかも作品に興味を持たせるというのは難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』

エンジェル エンジェル エンジェル

すあま:おばあさんとおかあさんと女の子が登場して、おかあさんのいないところでおばあさんと女の子が時間を共有する、というところが『亀になったおばあさん』と共通していた。さわことこうこの話をもっと交差させればよかったのではないか。この作家の作品には、おばあさんと孫がよく出てきますね。

雨蛙:タイトルどおり『エンジェル エンジェル エンジェル』づくしの本ですね。文体を変えておばあさんの出来事を語ってますが、これだけでおばあさんは極楽浄土にいけるんでしょうか? 熱帯魚に興味がないせいもあり、この作品はいちばん感情移入をしにくかった。

アカシア:梨木さんの作品の雰囲気は、大庭みな子の作品にちょっと似てますけど、私は大庭みな子のほうがうまいと思います。この作品は、おばあさんの人生がおもしろく伝わってこない。エンジェルフィッシュが共食いするのなんか自然の摂理なのに大げさなのも、いやでしたね。

愁童:図書館で借りられなくて、評判の高い本だし、知り合いの中学生にあげてもいいと思って買って読んだんだけど、期待はずれでした。同じ著者の『裏庭』(理論社)も精神医学に詳しいことにからめて評価されてたけど、どうもそう言う部分で迷路に入り込んじゃってる感じがしました。『亀になったおばあさん』と発想が同じ。はめ絵がはまるようにぴたっと決まったという納得感が得られなくて、消化不良のまま放り出された感じ。

ハマグリ:梨木さんは苦手だけど、これはなんだか食い入るように読んでしまった。でも読んだあと、いやーな感じが残った。今と昔が交錯している構成によって、次第にわかっていくことがあるのかと思って読むんですが、最終的にわからないこともあって不満が残る。エンジェルをモチーフにしているのはわかるけど、何の意味があるのかわからない。おばあさんになっても残っている悔恨を描いたの?

アカシア:心の揺れ動きみたいなものをうまく書いてるんでしょうけど、世界が狭いのが気になりますね。

紙魚:『亀になったおばあさん』は冷たいと思わなかったんですが、これはちょっと背すじが凍るようなおそろしさがありました。感覚的な表現はとってもうまくて、すごいなあとは思いましたが、なかなか愛着が持ちにくい物語ですね。オリジナル版は、おばあさんの章は文語体でなく茶色い文字で印刷されています。文庫化するときに、2色刷りができなくて、改稿したのでしょう。

カーコ:私はこの作家に苦手意識があって……。「狭い世界」というのは、そのとおりですね。小さいなら小さいなりに、細部に目をみはるような新鮮さがあればいいけれど、そういうわけではない。この女の子とおばあさんの関係も深まっていくというのでもない。つかみどころのない気持ちの悪さが残りました。

むう:『裏庭』読んだとき、なんだか未消化の心理学や洋もののファンタジーのごった煮みたいでいやだなと思って、それ以来あまり印象がよくないんです。この作品は短いし、すいすいと読めるのは読めたんですけれど、読後感がよろしくない。脂ぎったエンゼルフィッシュの印象に収斂しちゃう感じ。おばあちゃんの少女時代にしろ、主人公の現在のことにしろ、一皮めくった底意地の悪いところがじわっと出ていて、決して積極的意地悪じゃないんだけど、不作為の意地悪とでもいうのかな。一見きれいなエンゼルフィッシュもそうだし、おばあちゃんがツネに対してフォローしないで放っておくこともそうだし、「わたし」が思いつきでエンゼルフィッシュを飼い、共食いを見ているだけなのもそう。これだけ強烈な印象を残すのは、ある意味では作家の腕がいいんだろうけれど、読んでよかったという気持ちになる本ではない。人間の嫌な部分をびらびらと見せられているような気色の悪さがあります。随所に、最後のつねの木彫りの天使が飛び出してくるところとか、鮮烈なイメージを残す場面があって、うまいなあと思ったけれど、全体としては好きじゃありませんでした。

ケロ:この作品は、1回目読んでよくわからなかったので、2回読んだんです。古い、茶殻まいて掃除したりするディテイルは好きです。自分の悪魔的な部分を見て絶望するという部分と、自分のエンジェル的な部分と悪魔的な部分の折り合いがつかないあたりは、よくわかりました。でも、自分のそれと、おばあちゃんのそれが、ぴったりはまっているように感じられなかった。それに、おばあちゃんも、過去のことが解決して安心して死んだというわけではないですよね。それぞれのちょっとだぶっている部分を交互に描いた、という感じで、読後に「うまい!」とは、思えなかったです。

:私は、図書館で何人も予約が入ってて借りられなかったの。人気があるのよね。

アサギ:文庫版にするとき、なんで旧仮名遣いに変えたのかしらね。ただ書いているっていう感じで、作品の必然性を感じなかったわね。ただ、部分的に風物とか、シュークリームとか、おもしろいところがあったわね。解説のように、はめ絵がぴったり合う感じはなかったわね。それと、どこか心理の奥に死に向かうものがあったんじゃないかしら。また死んじゃった、また死んじゃったと楽しんでいるような。

ハマグリ:あとがきの人、孫娘にコウちゃんという名前をつけるわけじゃない。それはぞっとしたわ。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


オーエン・コルファー『ウィッシュリスト』

ウィッシュリスト

ハマグリ:あまりおもしろくなかったので、途中から斜め読みになってしまった。携帯電話を使ったりする現代的な世界と、天使と悪魔という昔ながらの世界の対比のおもしろさを出そうとしてるのかしら。コメディータッチで軽く読めそうなのに、あまり入っていけなかった。他の2冊のようなおばあさんと孫娘の話はよくあるのに、おじいさんと女の子の取り合わせは珍しいわね。最近は見た目はおもしろそうに作っているけれど、読むとそうでもないのが多いのよね。

アカシア:こういうドタバタ的なものを、日本語でも笑えるように訳すのは難しいですね。3分の2ぐらいまで読んだんですけど、おもしろくなくて途中でやめました。編集が荒っぽいですね。もっと工夫すれば、日本の子どもでも笑えるようにできるのでは? 翻訳の記述の矛盾もあちこちで気になったし、34ページは「おまえ」なのに、次のページは「きみ」。その辺も読みにくい原因かもしれません。43ページは聖ペトロですよね。英語ならおもしろいのだろうけれど、普通に訳したのではおもしろくない。

アサギ:そういう工夫がないからおもしろくないの? それともストーリーが?

アカシア:おじいさんの人生が透けて見えないといけないのに、見えてこないから、物語としてもおもしろいとは言えないかも。でも、キリスト教圏の人は細部でおもしろいと思うかもしれませんね。

雨蛙:帯の「めちゃくちゃ笑えて」で楽しいのかと思って読み始めた。今の子は、これでもクスクス笑いながら読み進めてしまうかもしれませんね。この内容にしては、ボリュームがありすぎますね。メグという子は、年からいっても深めてほしかった。作者がどのくらいの内容で何を目指しているかが見えてこなかった。

すあま:同じ著者の『アルテミス・ファウル』(角川書店)は、妖精がコンピューターを操っていましたが、今回のは、それを天国と地獄におきかえたんですね。これを読んで、森絵都の『カラフル』(理論社)を思い出しましたが、こちらは盗みに入ったおじいさんのところでボランティアをする、という設定で比較的おもしろく読めました。死んじゃった女の子と、死にそうな老人とののロードムービーみたいな物語で、テレビの連続ドラマにしたらおもしろいかな。でも、帯にあるような「めちゃくちゃ笑えてハートウォーミングな話」ではないですよね。最後どうなるんだろうかとひっぱられて読まされる話。

アサギ:日本人には、聖書にかかわる基本的な知識がないから、こういうの訳すの難しいのよね。それから、もともと笑わせるのって難しいのよね。人間の脳って、サバイバルを目的にしているので、もともとネガティブなことに対してのみ敏感にできているんですって。暗闇を歩いているときライオンに襲われたりしたらどうしようと心配するふうにできているんですって。だから愉快なことには鈍感なんですって。だから、やっぱり笑わせるのって至難の業なのよね。

ケロ:確かにスピード感があって、おもしろかったんだけど、キリスト教関連のギャグや、アメリカの人気番組に関するギャグなど、細かいところがよくわからないので、ふうん、とさびしい思いをしました。きっと、こういうことなんだろうな、と想像しながら読むしかなくて。翻訳もので現代の設定だと、ほかの本でもそういう部分があるんですが、この本には特に一抹の寂しさを感じました。あと、犬と人間がまじっちゃったり、実体のないコンピューターのキャラ、なんていうのは、日本ではあまり見ないものですね。イメージの新しさを感じました。

むう:『アルテミス・ファウル』を読んだときは、そんな大ヒットするような本かなあと思ったので、それに比べてこれはどうかなと思いながら読みました。結論としてはやはり今ひとつ。言ってみれば、ぺらぺらの色つきセロファンで飾り立てているような安っぽいところがありますね。スピード感があって、子どもを引きつけるだろうなって思うし、ドタバタしたところとハイテクが売りなのもわかりますが、それ以上のものは感じられない。この人のアイデアには、けっこうやるなあ!というものもいろいろあって、たとえば途中で、悪を働こうとしている者たちが、ふたりの人間のあいだに愛という100%の善が生まれたとたんに、その余波で吹っ飛ばされるという顛末や、死期が近い人には幽霊が見えるけれども、そうでない人には見えないといった設定など、なるほどと思わせるのだけれど、それらが全体としてひとつにまとまってどうというところまではいっていない。勢いが命のような面のある作品だから、訳文で意味のわからないところが出てきてスピードが止まるのは苦しいですね。

紙魚:あんまりおもしろい本ではなかったけれど、この軽めの装丁がいいですね。ひとりよがりな世界を作るのではなく、読者を喜ばせようとしている作者の姿勢はよく伝わってきますが。帯の文章は、ちょっと内容と違うかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年7月の記録)


ウォーカー・ハミルトン『すべての小さきもののために』

すべての小さきもののために

トチ:おもしろく読みました。わたしは、けっこうこういう奇妙な味の本は好きなので。ところが、訳者あとがきを読んで、自分の読み方が間違っていたのかなと思いました。今日、ぜひぜひ優れた読み手のみなさまにご意見をうかがいたかったところです。この本は訳者が言っているように、現代文明に毒された人間たちと、小さな生き物を思いやる心をもっていたがために社会からはじきだされた、孤独な魂との対決というような、ヒューマンな作品なのでしょうか? 確かに小男の老人が言うように、小さな命は大切にしなければいけないのだけれど、この人はそのために自分の奥さんを殺し、大金をたぶん持ち逃げした人なんですよ。そして、終わりの方では「デブ」を殺せと男の子に言う。この老人にいわせれば、きっと『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のお父さんも、殺して当然な人物ということになるでしょうね!
この作品は、ある考えにとりつかれた偏屈な老人とピュアな心をもった青年、そして残酷で野蛮な男の3者がめぐりあったときにおきた事件を描いたもの、それ以上でも以下でもないのでは? といっても、だからこの作品がつまらないと言っているのではなく、だからこそ、その奇妙な味のすばらしさゆえに、変わり者のダールも感動したのでは? 環境破壊、西洋文明への反発、反戦運動というような言葉が連なった、あっけらかんとした後書きと、作品のあいだにギャップがあるような気がするのですが、どうでしょうか?
それから、原文を読んでいないのではっきりしたことはいえませんが、73ページの「白い黄水仙」という訳語に違和感をおぼえました。ひょっとしてこの「黄水仙」は「ラッパ水仙(daffodil)」なのでは?

アカシア:主人公もハンディキャップをもっている人なんでしょうが、リアリティがあるというよりは、寓話的ですよね。「デブ」が「悪いやつ」という役割を負わされているのが気になりますね。最近は、細かいところまで目配りをする編集者が少なくなっているのか、この本にもひっかかる日本語がたくさんありました。たとえば44ページに「うとうと」とありますが、これはうとうとではなく、頭の働きが鈍くなるという意味では? 135ページの「すてきな〜」は、晴れた一日になりそうだったという意味では? 「デブ」は効率万能主義の象徴として書かれてるんでしょうけど、私はそんなにおもしろいとは思いませんでした。

:かなりかわった話。最後を先に読むと安心して読めました。あとがきを読んで、こういう象徴として書かれていたのかと思いました。私は違う読み方をしていたので。

むう:妙な味の本でした。障害をもっている人を書くという視点ではなく、むしろ障害をもっている人の視点を利用して書いている感じ。ちょっと視線がずれたことで、作品に非現実的ななんともいえない味が出て、寓話的な雰囲気が漂っている。冒頭でトラックの運転手は事故を起こすし、最後には「デブ」が死ぬし、かなり不気味な本だと思います。ダールが絶賛したということですが、この不気味さというか、奇妙な味をほめたのかなと思ったりしました。しかも、死んだり傷ついたりする部分をこれでもかというくらい鮮明かつ執拗に書いている。小さいものをいとおしむ姿勢よりも、サマーズさんも含めて、ある種の狂気を感じました。主人公の障害によってフォーカスがぼけたようになることで、そのおどろおどろしさがワンクッション置かれた形で伝わって、独特の味わいを生み出している。最後にこの主人公が第二のサマーズさんになってしまうあたりが、時代を反映していると思います。この本が発表された時代の「障害者」のリアリティがこういうものだったのでしょうね。ところどころで、31歳なんだけど発達がとまっているという主人公の設定にそぐわない口調を感じました。

カーコ:グロテスクな描写が多く、苦手でした。障害者のおかれている社会的状況が違う時代に書かれたのでしょうか。あとがきの主人公の説明はぴんとこず、自分の読みが浅いのかと思いました。ヤングアダルトものとして読むのはつらい。

アカシア:子どもは入っていきにくいわね。登場人物に一体感をもちにくい。

むう:デイヴィッド・アーモンドの感じに通じるのかな。

紙魚:魚眼レンズの世界をのぞきこむような、不思議な感覚でした。とはいえ、単なる雰囲気で描かれたものではなく、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とはちがった、厳密さがありました。決して、博愛の物語ではないですよね。

ハマグリ:登場人物が3人しかいないのがまず珍しい。しかも、その3人がみんな変な人。いったいこの3人の人は何なんだろうと思いながら読みすすむところが、おもしろい。140ページの「そのあと、ぼくは考えた。小鳥や動物のつぎには魚がいて、魚のつぎには虫がいて、虫のつぎにはなんとよぶのかは知らないけれど、なおもっと小さいものがいる。それから木や植物や草があって、みんな生きている、みんな大切なものだ。そのあと 少し気もちが楽になった。」この本は、このことが言いたかったのだと思う。でも、その後なぜ「デブ」を殺すのか。「デブ」だって生きているのに。そこが納得できないよね。でも、他の作品にはない一種独特な奇妙な感じが楽しめる本だった。

:アンチヒーローの系譜があって、頭の弱い人とか、せまい視野をかさねていって、イノセンスであることを描ける。シリアスに伝えたいことがあって書いてるのではなく、デフォルメの実験をしているのでは、と思いましたね。決定的にそう思ったのが、サマーズさんの死なんですね。「デブ」に殺される描写がグロテスクですよね。書き方がイロジカルなの。意識的に、奇妙な人を登場させることによって、ヒューマンなものではなくて、クールな遊びのような作品なのでは。

アカシア:この作品は60年代に書かれてますよね。この頃は、体制側も暴力的だったけど、反体制側にも暴力に訴える人たちがいましたよね。どちらも暴力的な社会だと子どもとか感受性の鋭い存在は大きく影響を受けてしまって、自分も暴力的になっていくことがあるんじゃないかな。

むう:時代的なことはあるにしても、狂気をクールに書くところは、ロアルド・ダールと共通していると思う。

アカシア:ダールは笑えるけど、これは笑えないんじゃない?

むう:でも、ダールの大人向けの作品は、どこか背すじがぞっとするようなところがあり、そうかんたんには笑えないと思います。『チョコレート工場の秘密』(評論社)だって、楽しそうでいて、よく考えるとずいぶん残酷だったりしますよ。

アカシア:おとなが考えると残酷だけど、ダールの作品を子どもは笑って読んでますよね。これは、それとはちょっと違う趣。

むう:私は、やはりダールに共通するものを感じます。

:テクニックには興味をもちましたが、ポジティブな評価はあたえられない。

アカシア:同じようなテーマだったら、スタインベックの『二十日鼠と人間』のほうが、よくできている。

ハマグリ:この作品も映画になっていて、この人たちが旅をしていく風景の美しさを見せ、孤独な人間と少年の結びつきをきれいな絵として描いているようね。

:訳者のあとがきがとんちんかん。こういう解釈で訳しているとしたら、大失敗では?

アカシア:今の時代だったら、こういう主人公を出す必要がなくて、子どもがそのまま出てきちゃうかもね。

:スティーブン・キングの『ゴールデンボーイ』(新潮文庫)とか。

:どんなふうに読んでいいのか、読みながら気分のバランスがとれなかった。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』と比べて、この作品は、どんな視点を持てばいいかわからなかったです。主人公の思考能力がどのくらいなのかがよく分からないからか、たとえば、主人公がいじめられるようなシーンも、「主人公の目が見てるからひどい」のか、「本当にひどい」のか判断がつかず、とても疲れたんですね。不条理劇でも見るように読んでいくしかないのかな、と。船酔いしそうな気持ち悪さがつきまといました。主人公の障害について、おおざっぱな表現をしているために、荒い印象を受けた。古いということが影響しているのかな。作者はどういう人なのかな、自殺しちゃったのかなとか考えさせらた。

ブラックペッパー:主人公は体が弱かったのかなと思いました。

ケロ:あとがきに書かれているような風光明媚というよりは、排気ガスくさい感じを受けました。

アカシア:主人公は「障害」を持ってるとは書いてないよね。

ケロ:ああ、そうですね。33ページ「ちっちゃいとき〜事故にあって、具合が悪い」 としか書かれていないですね。

きょん:みなさんと、気持ち悪い感じだったのは共通しているのかな。何が言いたいのかわからなかった。はじきだされた存在として森の中で、自分たちの価値観のもと、暮すようになったのだと思う。サマーズさんが死ぬところも、「ボビーを助けることで、自分の行き方がそこで終わる」というのもすらっと読んだ。なぜかしっくりこなかったところは、「デブ」を殺して何事もなかったように生活し始めること。心の病とか障害を明確に定義していないし、心の動きが心象風景として描かれているのは理解できたが、最終的には、何が言いたいのかわからないのかが気持ち悪かった。

ブラックペッパー:読んでくらくらっとして、今この会に出てまた、くらくらくらっ。主人公の語り口は31歳の口調ではないけど、31歳なのよね。この人の主観の世界なので、どこを信じていいのか、わからなくなっちゃった。そうなると、何もかもが遠い遠いところで行われているようで、血なまぐさいところもグロテスクには感じなかった。論理的ではない、ふつうの感覚で辻褄が合わないところも、「ぼく」には辻褄が合っているんだろうなあと考えながら、こういう受けとり方をする人のモードになって読んだという感じ。こういう人もいるのかと。文体がおもしろい。血なまぐさいところも、思考回路が拙い感じで書いてあって、そのモードでしか受けとれない。「デブ」だって、もしかしたらそんなに悪い人じゃないかもよ。分析はなかなか難しい本だなと思いました。

きょん:サマーズさんは、あそこで殺されて本望だと思う。

ケロ:時代的背景などはわからないですが、読んでいるうち、この男の子が殺して埋めちゃうほうにいっちゃうんじゃないかな、と感じてどきどきしました。

アカシア:「デブ」は殺されるんじゃなくて、作者のスタンスとしては自分で死ぬという設定よね。

ハマグリ:この本はこうだという一致した意見は出ない本ね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

夜中に犬に起こった奇妙な事件

トチ:評判の本なので、読んでみたいと思っていたところでした。でも、青山および武蔵野地区の本屋はどこも品切れだし(PARCOも)、図書館は予約者多数ということで原書を買いました(といっても、洋販発行のもの)。おもしろくて、一気に読みました。一気に読めた牽引力となったのは、犬を殺したのは?というミステリーと主人公のミステリアスな心の動きだと思います。犬を殺したのは?というミステリーが、次第に両親と隣家の夫婦の関係は?というミステリーに変わっていくところなども見事だと思います。アスペルガー症候群というのは自閉症で知的レベルが高い人たちの症状をいうのだそうですが、主人公のモノローグが時にはユーモラスで、時にはあまりにもピュアで感動しました。個人的な体験ですが、以前に住んでいた家の隣の男の子が自閉症でした。お母さんがその子を連れてせっせと武蔵野日赤病院に通っていたのですが、「お母さんの育て方が問題だって言われるんですけど……」と、いつも困惑した顔で言っていたのをおぼえています。2,30年前までは、子育ての失敗によるものだと言われていたんですね。

:産経の賞をもらったときに、絶賛の評がのっていたでしょ。あれには、『すべての小さき者のために』のあとがきみたいに違和感を覚えたんですね。著者はヒューマンなものを伝達しようとしているわけではなく、ずれのおもしろさ、おかしさ、数学的な工夫で読者をひっぱっていこうとしている。私自身はもっと全体の構想をクールに距離をおいて読んでしまったので、絶賛している書評に、違和感をもちました。訳は、もっと若い訳者がしたほうがいい。誤訳も見つけてしまったし、お父さんの粗野な言葉遣いもちがう。ヒューマンな方向にもっていくのであれば、親子の関係をテーマにしていくしかない。ただし親子関係については書けてない。とくに父親の造型が弱くて、統一したイメージを持てなかった。また大人の世界の勝手さで犬が死んじゃうのは、いただけなかった。この本だって、障害をもつ人にとっては、不愉快な部分があるんじゃないかな。辻褄があわないことは、「障害」に逃げているように思いました。

ハマグリ:アスペルガー症候群が認知されてきたのは最近だから、そういう人たちがどういうものの見方をするのかについては勉強になった。人の顔色から感情を読み取ることができず、表面に見える服装やしぐさから、何を意味するかを、過去にインプットされた情報にあてはめて推理するとか、そういうことはよくわかったんですけど、私にとってはそういう見方で描写されてもどういう人物か把握しにくかった。ほかの文学の人物描写と違うので、登場人物がつかみにくいと思ったんですね。それから、すべての物事を論理的に考えることに途中で疲れてしまいましたね。『すべての小さき者のために』もそうですが、ひじょうに特徴ある作品だけど、あまりおもしろいとは思えなかった。書名がすごくおもしろそうだったから心ひかれたんだけど、肝心の犬に何が起こったのかがわかると、あとは違う方向に行っちゃってはぐらかされた。お父さんもお母さんもとんちんかんなんだけど、彼らなりに子どもを愛しているところは伝わってきた。

紙魚:いちいちくどいけれど、けっこうこういう文体って好きなんです。カート・ヴォネガットみたいで、途中からはまりながら読みました。「障害者」ってくくったうえで書いているのではなくて、障害者にも変な人がいて、その個人の個性を書いています。だから、どんどん主人公が愛らしくなりました。それにしても、『博士の愛した数式』(小川洋子著 新潮社)もそうですが、数学と物語って相性がいいんですね。それから、箇条書きがふんだんに出てきても、ユーモアがあって、楽しませ方がうまい。

カーコ:「光とともに」というテレビドラマを見て一番印象に残ったのが、自閉症児の親の辛さ。子どもが反応を返してくる喜びがなかなか得られないんですね。「『自閉症』という名のトンネル」(日向佑子著 福音館書店)にも、抱きかかえられたり触られたりがだめというのが出てきました。だから、主人公のお母さんがよその男に走り、お父さんが少し離れるようにして子どもを見守るというのがリアルでした。言語治療士の友だちが、「自閉症という語は、自閉的という意味と混同して誤解されることが多いが、自閉症は一種のコミュニケーション発達障害」と説明していました。たとえば、赤はいいけど黄色はだめという主人公の男の子の感性や、独特の現実のとらえ方は、今まで知らなかった世界を読者に見せてくれるのではないでしょうか。

きょん:私は苦痛で、152ページまでしか読めなかった。ただ、この障害については具体的に書かれているので、なるほどとは思いました。先生が具体的に指示を出すくだりからも、この障害の子どもの思考回路がどうなっているのかがよくわかりました。

むう:去年の今ごろイギリスに行ったときには、書店のエントランスロビーはこの本一色でしたね。私はとてもおもしろく読みました。アスペルガー症候群の人たちがどういうふうにものを見て、考えているのかを見せてくれる気がして、どきどきしながら読みました。主人公がロンドンの地下鉄の表示を見るときの感じとか、いろいろなこだわりが、なるほどそうなんだろうなあと納得できた。確かに犬のミステリーなどで引っぱっているのだろうけれど、わたしにとってはミステリーは二の次、三の次で、ともかく主人公の心の動きや行動のしかたに目が行っていました。ただ、帯には『アルジャーノンに花束を』を越える感動みたいに書いてあるけれど、『アルジャーノンに花束を』とはまるで違う。あの本は感動させるために作られた本だけど、この本はそういう本ではない。感動を期待していると、最後なんか拍子抜けする。でも、こういう子の目から見たら、この結末のほうがずっとリアルなわけで、そこがこの本のいいところだと思います。この子の場合、親子の情感や交流だってほとんど表に出せないわけで、そのあたりもとてもリアルだと思います。向こうでは大人向けに出ていたようですが、大人はどういう読み方をしたのか興味ありますね。

ハマグリ:子ども向けと大人向け、両方出たんじゃない?

むう:子どもの棚と大人の棚の両方に、同じ本がありましたよ。私は原書も読んだんですけれど、訳では両親の言葉遣いが乱暴すぎるように思った。原文は、主人公の言葉づかいは文法的にそれほど変ではないと思います。訳では、障害が際だつように変な日本語にしたのかな、でもそこまでしない方がいいんじゃないかと思いました。

ブラックペッパー:ふつうなら「。」で終わるべきところが、「、」になっていたりするのは?

むう:原書では、「,」でずっと続く文が多いですね。わたしは訳書はちょっと読みにくいな、と思いました。わざわざ読みにくくしなくても、この子の障害についてはきちんと心の動き方でわかるんじゃないかな。読みにくくしたことが逆に読者にとってはハードルになるんじゃないか、障害者のステロタイプ化につながるんじゃないかと思いました。

ハマグリ:それが疲れちゃった原因かな。本来「〜で、〜」というところを、わざわざ「〜です、〜」としちゃったってことね。

:アスペルガー症候群を理解するうえではよかったんですが、どんどん読みたいという作品ではなかった。さっき話に出た『自閉症という名のトンネル』だと読者が狭くなるので、物語としてこういう本があるのはいいと思う。

:障害をもった子どもの親はどう読むんでしょう?

紙魚:でも、障害を持った人ひとりひとりにも、ストーリーがある。それを書いたり読んだりするのは、すてきなんじゃないかな。

アカシア:私はとってもおもしろく読みました。障害者としてくくるのではなく、こういう個性をもったひとりの人を書いているというところがポイントじゃないかしら。お父さんがせっぱつまって犬を殺すところもリアリティがありますよね。お母さんだって、自分の時間がほしいと思ったときに駆け落ちぐらいはするだろうと思ったし。そういう意味でも、父親も母親も「障害者の親」ではなくひとりの個性をもった人間としてリアルに描かれている。さっき、むうさんが文体について触れたけど、いま原書を見てみると、主人公の言い方は文法的には普通の文章ではないですよね。だから、この訳もうまく日本語に移し替えているのではないかしら。「です」「だ」が交じっているのも逆にリズムが出ていて、慣れると抵抗なく読めます。私はすらすら読み進むことができました。『すべての小さき者のために』はリアリティがなくて入り込めなかったけど、これは、入り込めた。

:子どもの読者には、どうなの?

アカシア:YAですよね。中学生以上だったらおもしろく読めると思う。「アスペルガー症候群の」というよりは「別の視点をもった人」から見ると世の中どう見えるかということでしょ。読むほうがその視点に立てれば、興味深く読めると思います。

紙魚:先入観があっても、この子がいとおしくなる作品なのでは。

ケロ:主人公と同じ気持ちにさせてくれるくらい具体的に状況が描かれているから、私はおもしろかった。一人称で書く話というのは、下手な人が書くと主人公がわからないことは書けない、という限界を感じることがあります。でも、この本は、主人公の特徴から、見たことを写真のように切りとって書いてくれるので、読者なりに判断しやすい。大きなストレスを背負っているお母さんの気持ちも、状況説明からひしひしと感じることができるし。一人称なのに、なんて上手に書かれているのだろうと思いました。

ブラックペッパー:この本は、「くらくらっ」とはしないで、3分の2くらいまで読みました。「レインマン」みたいですよね。障害なんでしょうけど、ぜんぶ合わせて個性だと思って楽しく読める。ストーリー展開もよくできてますよね。これはおもしろく読んでるところ。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


岡田なおこ『なおこになる日』

なおこになる日

トチ:この作品の前半、小説仕立ての部分は読むのが辛かった。後半のエッセイを読んで、なぜ辛かったか分かりました。作者は、エッセイでは書きにくいところを小説にしたんですね。その中途半端感が、読んでいて居心地が悪かったんです。けっきょく、小説部分を、文学を期待して読んだ私が悪かったのかもしれないけど。でも、エッセイにしろ小説にしろ、読者に読んでもらいたいと思ったら(特に子どもの読者には)もうひと工夫も、ふた工夫もいると思うのですけど。

紙魚:選書のときから、前の2冊に合わせて日本の作品を選ぶのが難しかったんです。日本の創作では、やはり、まずは障害のことから始めましょうとなっているものが多いんですね。その点、岡田なおこさんは、その先にある自分自身の物語を語ろうとしているので、選びました。しゃべるのが自由ではないからか、書くとけたたましいくらいに饒舌ですね。こんなふうに、小説のなかでおしゃべりになれるというのは、作家としても、とても幸せなのではないでしょうか。

カーコ:「へー」と思うところがたくさんあって、著者のたくましさを感じました。YAというより、大人の本のよう。エッセイの部分のほうが印象深かったですね。

きょん:出たときに読んだので、細かいことはおぼえていないんですけど、そのときの印象は、障害が爽やかにさらっと描かれていて好感を持ちました。作者はノーマライゼーションを書きたかったんだなと思いました。

むう:ほかの2冊と違って、文学を読むという感じではなかったです。小説ということになっているけれど、前半もエッセイという感じに近かった。知らないことがいろいろあって、そういう意味では面白かったし勉強になった。この人が前向きで、内にこもっていかないから読めるんだと思います。たとえばエッセイの1を読んで、本当はたいへんなことなんだなあと思ったりしました。どこまでも前向きだから、障害を持っている人の親だって聖人ではないというようなことも書ける。そこがいいと思いました。ともかく明るい家族ですよね。今の日本では、大人も子どもも障害者と接することが少なすぎる。学校も別学になっていて、障害者の実際を知らない人がほとんどですよね。障害者を囲いこんでいる現実があるから、そこをつなぐというか、啓蒙する本としてはいいと思いました。

:生活の中の工夫が面白かった。さらっと書いているけど、とてもたいへんなんだろうな。手が硬くなってしまうというのが一番ショッキングだった。小説とエッセイを分けたというのは? 日本の場合、障害者がものを言うことについては寛容ですよね。でも、障害者でない人が障害者を書いた本は出にくいのでは?『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のようなものが日本でも出るといいけど、受け入れられないかもしれませんね。

紙魚:障害者ではない書き手だと、障害に対して想像力を働かせるのが難しい。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』には、手法がある。障害者について理解させようとして書いているわけではないし。

紙魚:「障害」について書かれたものの中には、読んで反省させられる本があるんです。『なおこになる日』はどっちかというとそっちで、読んで自分の理解がまだまだだなあと思いました。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のほうは、主人公を好きになる本という感じです。

:当事者が書いたものについては、批判してはいけないと思ってしまうからでは?

紙魚:反省は、厳密には感動とちがうんですが、一瞬混同するカタルシスがあるような。

アカシア:二次障害などについては、そんなことがあるのかとびっくりしました。それに、自立していく過程が書かれていたのがよかった。さっきもエディターシップについて言ったけど、この本についても、エディターが助けてあげてほしかった。50ページの藤崎の記述は、ふつうに読んでいたら流れが伝わらない。どんなつきあいだったのかを言うべきところ。いろいろなところで言葉はひっかかった。たとえば143ページ「ギシギシとひしめきながら子育て」とは言わないでしょう。148ページ「私が電話しそこなって」というのは、電話をしそびれたように勘違いしそう。166ページ「バーチリ」は誤植? おもしろかったのは、姉妹とのやりとり。妹も屈折した思いを持ちながら、三人が対等に向き合ってる。言葉で伝わらない部分をイラストが代弁しているのもよかった。

ケロ:小説「なずな」って始まるのに、結局内容は、作者の「なおこ」とイコールなのかな、というくらいの感じを持って読んでしまいました。そう思わせるところが、小説としては甘い。だからエッセイをつけたのかな? とか、意地悪な見方をしてしまう。もっと、大胆な小説を読みたいなーと思いました。

きょん:ちょっときれいごと?

:戦争・差別・障害のことって、ケチつけちゃいけないように感じて私は苦手なんです。単純にはおもしろがれない。すごくがんばっているのは伝わるけど、「がんばってないよ」とがんばっている感じは否めなかった。

アカシア:「かんばってないよ」と言いながらがんばっていても、それはそれでいいと思うけど。嫌味に感じるの?

:重いのかな?

カーコ:フィクションとしては達成できていないということかしら。丘修三さんの作品なら、そういうふうには思わないのでは。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


レオン・ガーフィールド『見習い物語』

見習い物語

アカシア:文庫の表紙絵、新たに出したにしては何だか古めかしい。内容は、今回の3点の中では一番おもしろかった。それぞれ独立した短編だけど、同じ人物が所々で顔を出す。よく工夫されているし、短い中に人を惹きつけるものがあります。訳もよかった。『ブレーメンバス』(柏葉幸子/著 講談社)を取り上げた時に、短編らしい切れ味がないという欠点が挙がったけど、これはそういった欠点がなく短編集として安心して読めました。ただ、今の子どもたちにどうか、という点はありますね。見習いという立場の子どものことが、日本の子にわかるかどうか。徒弟制度についての説明は一応冒頭でしてあるけれど。点灯夫、煙突掃除など、イギリス文学にはよく出てくるので、イギリスの子どもにとってはなじみがあるんでしょうね。

愁童:今の日本の子たちは、こういう世界にまるで無縁でしょう。どういう仕事に就くかより、まず偏差値。だから、この作品のように、生きていくということの原点がすごくよくわかるものを今の子どもたちに読ませたい。短編としてうまくできているし、1つの章の登場人物が、別の章にさりげなく出てきたりして、見習いの子供達が当時の社会の中に組み込まれて生きていく様子に目配りが効いているように思った。、産婆見習いの章で、難産にならないように窓や箱やびんのふたなど、ありったけのものを開けるというのが出てくる。そんなの、今の子は、一体何言ってんの、と思うかもしれないが、生まれてくる命に対して、周囲がそういった配慮までして一生懸命かかわっていたんだということを知らせたいね。生きるということに対する意味が熱く語られている作品だと思った。

ハマグリ:18世紀のロンドンで、親方の所に修業に出された子どもたちの話、ということで、暗く、辛い話になりがちだけど、苦労しながらも子どもらしい知恵を発揮してたくましく生きていく様子が描かれているところがよいと思った。ユーモアがあり、パワフルな感じを受ける。子どもの力を信じるという観点に立っているところに好感がもてるのね。ディケンズの雰囲気に似てるといわれるけど、子どもの純真さが人の心に灯をともす、っていう描き方が似ているんじゃないかしら。短編集としては、12の月に合わせた物語が構成されている上に、1つ1つがバラバラでなく、関連付けられていていて見事。

きょん:クラシックな、正統派の作品で、安心して読める。たしかに今の子どもたちがわかるかどうか、とは思う。同時代的に存在するのはちょっと難しいのかな。『アリスの見習い物語』にも魔術的なものが出てきたけど、十分に描ききれていなかった。その点、こちらは満足できた。

すあま:だいぶ前に読んだ。今回あらためて読み直したのだが、やっぱりおもしろかった。こういうおもしろい短編を書ける人が日本にもいるといいのに。日本ならさしずめ江戸の町人もの、ってところでしょうか。暮しの中で起きるちょっとした出来事に光をあてる感じが、宮部みゆきの作品に似ていると思った。それぞれ短編として独立してはいるけれど、登場人物が重なっているのも楽しい。でも、この本は長編物語に見えるので、短いおもしろい話だ、ということを子どもに紹介してあげる必要がありますね。文庫化されて読む子が増えるならいいけれど。

:自分から手に取ろうとはしないだろう作品だったので、読めてよかったと思う。汗や臭いといった、普段使ってない五感に訴えるところが印象的。描写力があって、とにかく読み応えがあった。

ハマグリ:昔読んだ本なのに、今でもシーンを思い出せるところがすごい。

アカシア:これぞ読書の楽しみってところがあるよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


カレン・クシュマン『アリスの見習い物語』

アリスの見習い物語

きょん:あまりおもしろくなかった。話の進み方が淡々としていて、何が言いたいのかよくわからないままに進むでしょ。迷信やハーブなどを使った仕事の不思議さも、あまり描ききれていなかったと思う。アリスの成長物語なのだけど、ジェーンが「失敗してあきらめるやつじゃなくて、失敗してももう一度やってみるやつなんだ」と言うところで、ああこれがメッセージなのね、と思った。要約するとそういうことね、って、それで終わってしまう。泣けなかったアリスがはじめて泣くことを体験できたところも、すんなりと入れなかった。

アカシア:パーっと読めるけど、大きく感動するほどでもない。佳作といったところ。自分を高めていく手段を全くもっていなかった子が、自分を高めていく姿を描いている、と書いてあるけど、日本の今の子どもとはあまりにも生活環境が違うので、それがすごく大変なことと思えなくて、それほど感動するところまでいかないで終わってしまうんじゃないかな。こういう物語では、人間が浮かび上がってくるように描くことが大切な要素だけど、その点ではガーフィールドのほうがずっとうまい。

きょん:名前もなかったアリスが成長する物語、と考えるとああそうか、と思うけど、何かぴんとこなかったのはなぜかしら。やっぱり人間が浮かび上がってこなかったということなのかな。

愁童:時代に対する作者の洞察力の違いじゃないかな。ガーフィールドは、一本立ちするために遮二無二という世界でしょう。アリスのように、名前を取りかえっこしたほうがかっこいい、というようなところには居ないんじゃないかな。作家の力量っていうか、短編で一部分しか切り取っていないのに、それで全部を見せることができるガーフィールドのほうがずっと印象深い。

すあま:同じ作者の『金鉱町のルーシー』(あすなろ書房)のほうを先に読み、おもしろかったのでこれも続けて読みました。最後までおもしろく読めた作品。ただ、7章の「悪魔」で、いじわるをした人を悪魔のふりをして懲らしめるところがあるけど、アリスはそんなことをやるような人物に思えないので、どうもしっくりこなかった。アリスという名前を名乗るようになったので、そういった勇気をもてるようになった、ということを表わすエピソードなのかな? それから、産婆のジェーンの代わりに呼ばれ、うまくやってのけてみんなにほめられる、という、よくありがちな展開にならなかったのはよかった。

ハマグリ:この作者は時代の中で自立していく女の子を描いた作品が多いけど、女の子の職業モノは少ないから、主人公を応援するような気持ちで読める。14世紀の話で、ずいぶんと混沌とした時代だけれど、あまり時代の雰囲気はしなかった。それに挿し絵(中村悦子絵)のせいで、この子がちょっと幼すぎる印象になってしまっている。

すあま:そんなに古い時代の物語という感じはしないね。

アカシア:自分を見出していくところが、現代風なのかしらね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


浜たかや『龍使いのキアス』

龍使いのキアス

すあま:本を選ぶ係だったので、「見習い」をキーワードにして探していたら、これが出てきた。ところが、「見習いの立場だが出生はわからない」というよくあるパターンの話で、いわゆる「見習い」を描いた物語ではなかった! 何も努力しないのに、血筋のお蔭で何でもできてしまう。ハリー・ポッターも、何で魔法使いの血を引いてるだけで空を飛べるのかって不満に思ったけど、これも同じ。「ゲド戦記」(アーシュラ・K・ル=グウィン著 清水真砂子訳 岩波書店)のように、失敗を重ねながら目覚めていくというのならよかったのに。一生懸命に読んだんだけど、何だかよくわからないうちにどんどん話が進んじゃう。もっとじっくり読めばわかるのか、それとも単に書ききれていないのか? 謎や、登場人物たちの悩みなど、おもしろそうな設定は出てくるんだけど、どれも花が咲かないうちに終わってしまって残念。物語の世界が構築しきれていない。書き方によってはもっとおもしろくなるのだから、もうちょっと頑張ってほしかったな。

愁童:冗長なんだよね。やたら細かい所にこだわりすぎ。誰が誰やらわからなくなってしまう。キアスの状況説明が長々と続くので、ハラハラドキドキおもしろい、というふうには読めなかった。

きょん:いろいろな人が出てくるから、混乱してしまうのよね。細かいところがよく書けていないせいなのか、どういう意味なのかわからない部分がいくつかあった。『デルトラクエスト』(エミリー・ロッダ著 岩崎書店)や「守人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)に似た所がちょっとずつある。でも、龍の登場はあっけなくて、ちょっとショボい! 名前を教えてくれるだけで終わってしまうんだもの。それに、落ちこぼれのキアスが成長していくのかと思って読んでいくのに、ちっとも成長しないのよね。

すあま:最後まで読めばわかるだろうと思って頑張って読んだのに、結局わからなかった! しかもこんなに長いのに、終わってみれば1年しか経ってない。

きょん:竪琴も消えてなくなってしまって、中途半端よねえ。

すあま:イリットにだけ「さん」がついてるのはなぜかな。

きょん:途中で急にカタカナになるのも変ね。

アカシア:キアスに感情移入できないところが不満。キャラクター作りがしっかりしていなくて、表面的に描かれている。フル(道化役)だけは、他の人とは違ってユニークな存在としてとらえられたけど、あとは紙人形がぱっぱっとかわっているだけって感じで。これがいわゆるネオファンタジーなのかしら。つまり、雰囲気だけで、キャラクターがしっかりしてない、プロットとアイディアだけのファンタジーってこと。でも図書館では結構借りられてるみたいだから、読まれているのかな。

:最初の詩の部分がとても入っていけなくて、129ページで自ら読むのをやめました。いくら読んでも世界が見えてこないし、プロローグで解説をして、そこから展開するのもちょっと違うんじゃないかな、と思った。構成もよくわからないし、人物も区別がつかなくて前を読み直したりしなければならなかった。

ハマグリ:表紙の絵(佐竹美保絵)の感じでは、すごく魅力的でおもしろそうなのにね。

アカシア:書名もおもしろそうなのにね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年5月の記録)


ウォルター・ディーン マイヤーズ『バッドボーイ』

バッドボーイ

カーコ:自伝であることで、主観的なリアリティがありますね。真ん中までぐいぐいと、主人公の強い個性にひっぱられていきましたが、途中、本の記述が続くあたりから、息切れがしてしまいました。全体におもしろく読みはしましたが。苦しくなったのは、私がフィクションというスタンスで、この本を手にとってしまったせいかもしれません。フィクションとして見ると、構成が直線的でしょう。自伝ならあたりまえなんですけど。自分がいかに普段、構成のおもしろさを物語に求めているかがわかりました。

むう:おもしろかったんだけど、けっこう読みにくかった。ドキュメンタリーというか、完全にノンフィクションの手法ですね。そのこと自体は、読みにくい原因ではないと思うのだけれど。それにしても、この作家は誠実だなと思いました。自伝って、なかなかスタンスがとりにくくて、ついつい自分に甘くなったりするんだけれど、この人は誠実に事実を積み重ねて、その結果こういう人間になったんだということがよく書けている。ただ、ところどころに、えっ、これってなあに?という説明不足なところがあって、引っかかったし印象が散漫になった。過剰に意味をつけまい、よけいな説明をすまい、自分に甘くすまいとした結果、そういう印象になってしまったのかな。訳注でなんとかなる部分もかなりあるような気がします。作品としてはもう一歩という感じだった。世の中がぜんぜん平等じゃないというという気持ちは、よくわかりました。それと、前半の能天気な部分と後半のつながりがうまくいっていないように感じました。でも、アメリカの中でのマイノリティである黒人だというだけでなく、その中からもはずれてしまった人間の苦しみはとてもよく伝わってきて、おもしろかったです。なんとなく書き切れてないなあという印象を持ってしまったのは、まだ作者自身にとってこれが過去形になっていなくて、整理しきれていない部分があったからじゃないかと思います。

紙魚:すべては、「ぼくは、いままでに33冊の本を出版した。そして、いまもタイプしている……。」という最後の一文のためにある本だなと思います。作者が、本当に本が好きな気持ちが伝わってきて、ところどころの描写に胸打たれました。本好きの少年が、作家としての道を歩んでいく過程は、共感しながら読むことができましたが、すでに作家となった今、回顧して書いているので、どこか、距離も感じました。ただ、作家としての自負のようなものが、ずっと根底に流れていたのは、とてもよかったです。

:自伝がもつ意味というのは難しい。大人の文学でも自伝のプラスとマイナスがありますね。自伝文学の魅力は、その作家を知ってこそ成り立つ。ベイブ・ルースとかキュリー夫人であれば、子どもも読めるけど、物語としてのおもしろさがないと、子どもにはちょっとよくわからない。この作品は、読者に語りたいというメッセージが先行して、物語としてのおもしろさは感じられない。最後の文にたどりついても、作家になって何を書きたかったのが欠落している。文学が彼にあたえた力は書かれている。タイトルも『バッドボーイ』だとわからないですよね。自伝であるからこそいいところは、お父さんが文盲であることを受け止めるところとか、お母さんから旅立つところ。実体験だからこそきらきらと輝いている。

アカシア:育ての親の家庭にすっと入っていて、悩むところもないとか、黒人であることをある時点で意識しはじめるとか、スピーチに障害があるのもある時点までは気づかないとか、そういうところから作家の実像が浮かび上がって、私はおもしろかった。それに、本の力を受け止めていって、自分の中で醸成していく過程はよく書かれている。でも、翻訳はもう少していねいにやってほしかったな。矛盾している記述もあるし、意味が通りにくいところも多々ある。後書きにしても、「この本の中心には、愛があるのだと思う。最後は身を持ち崩していくお母さんへの愛、〜」とあるけれど、お母さんは身を持ち崩しているわけではないですよね。アフリカ系アメリカ人の子どもたちには当たり前のことでも、日本の子どもにはわからないこともあるんだから、もう少し親切に目をかけたり手をかけたりすることによって、橋を架けてほしかったな。

すあま:この作家は、『ニューヨーク145番通り』(小峰書店)がおもしろかったので、どういう人なんだろうと思いながら興味深く読んだけれど、もし知らない作家だったら興味がわかなかったかも。作家って、学校に行ったりしてなるものではなくて、書かずにはいられない人がなる、と聞いたことがあるけど、この人もそうなんだな、と感じました。黒人として生まれたことはどういうことか、というところも興味深い。ただ、日本の子どもたちで、作者が読んだような本を読んでるって子はいないと思うんですね。日本では大人の本として位置づけたほうがいい。いずれにせよ、この作家のほかの作品といっしょに読まれるといいんじゃないかな。

きょん:半分くらいまでしか読んでないのでわからなかったけど、これって自伝だったんですね。自伝だからなのか「いきなり」バラバラつながっているところが、とらえどころがない感じで、読みづらかった。しかし、ところどころ、ぐっと引き込まれるエピソードがあるのが印象的でした。「文学とのふれあい」や「出会い」「詩の世界に入る心の動き」など、興味深いところもありました。「ハーレムの風景」もおもしろかった。しかし、全体としては、ばらばらした落ち着かなさ、気持ち悪さがありました。

むう:アミスタッド号の原書を読んだときに思ったのですが、ノンフィクションを書くときのこの人の文章って、とてもストイックなんですよね。情緒に流さずに。この本でもそういうところがあって、そっけないくらいに乾いていると思います。

カーコ:前半は、フィクションとして読んでいけるんだけど、後半は、本好きでないと読み進めにくいかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


ベンジャミン・ゼファニア『難民少年』

難民少年

アカシア:最初この書名は愛想がないな、と思ったんですけど、読んでみると合ってるのかもしれないと思いました。日本って、難民政策がひどいんですよね。だから、これを読んで日本の難民政策とくらべてほしいと思った。ボランティアの人たちがアレムに対して手厚く支えるじゃないですか。アレムは、清く美しく真面目で健気でという主人公だし、周囲の人もそうですよね。こういうストーリーが自ずと生まれてきたというより、こういう構成でつくろうとして書いたという印象ですね。躍動感、ダイナミズムがあると、もっといいかなと思いました。気になったところは、16ページでtribeを「部族」と訳しているけど、差別表現と言われそう。34ページの「肉と二種類の野菜」は、食堂のお品書きのことだとわかるように書いてあった方が親切。84ページ「あんたにきくんじゃないって思ったんだけどね」もわかりにくい。87ページの「何度も着て過ごした」は、「何度も着たり脱いだりして」とした方が。160ページ「帰る!」だと断定のようにとれるので「帰る?」の方がいいのでは。204ページの「アフリカ合衆国」も気になる。この本の主人公のような人がいて、それについて考えてほしいという気持ちは伝わってきたけど、物語としてもっとおもしろいとよかった。

きょん:前半は、おもしろく引き込まれて読みました。が、3分の1を過ぎたあたりから、解説的で、愛想がなくなってきて、物語としてつまらなくなってきた。アカシアさんの言い方で言うと、「ダイナミズムがなくなってきたからかな」と思った。いろいろな世界情勢を知るとか、歴史を知る上では、よくできている教科書的な本なのかもしれない。

:この本は、「平和学」という授業でとりあげました。難民の問題は、学問として学んでも遠く感じると思ったので、学生が学ぶ手段としては、この本はいいと思ったんですね。ただし、作品としてみると、イデオロギーが先行していて、あまりおもしろくない。文学としては、キャラクターの構築がイデオロギーの陰にかくれている。絶版になっていて、先ごろ復刊された『わたしの船長さん』(和田英昭/著 講談社)などは、基本的に子どもの成長ということが先にあるんですね。それにくらべて、アレムのキャラクターがステレオタイプ。視点にしても、彼の内側から見た目線が少ない。241ページに「ぼくが望んでいるのは、平和を育む文化なのです」というアレムの言葉がありますが、こういうことを14歳の子がい言うかしら? プロットはよくできている。お父さんが撃たれるとか、予期しないことがよく起こる。14章のタイトル「死後の生」は誤訳だと思う。「死後の暮らし」とか「生活」にすべきでは。

紙魚:この作品でいちばん好きなところは、10〜11ページの、エチオピア・エリトリアのそれぞれの国の側から、ひとつの事件を簡潔に書いている部分。結局、あるひとつの事象でも、立場がちがえば全くちがった見方になるということを端的に現していて、その温度差が難民を生んでいるというのが、わかりやすく伝わるし、迫力もあります。確かに、主人公が素直で、まわりの人たちも親切で、できすぎの物語かもしれませんが、難民の問題を考えるモデルになるような本だとは思います。

むう:私は前に『フェイス』(ベンジャミン・ゼファニア/著 金原瑞人/訳 講談社)を読んだときに、着想がいいというか、タイムリーなテーマを取り上げる作家だなと思ったんです。でも、『フェイス』は物語の終わり方が今ひとつ迫力不足だったので、この本はどうだろうって思って読みました。出だしの親の出身地が互いに敵対していて、どちらに帰っても排除されるというのは、なるほどと思って、とてもおもしろいなあと思って読みはじめたのですが、結局、読後感としてはいまひとつ迫力に欠けていて、ちょっとがっかりしました。お父さんが都合よく死んじゃったり、うまく運びすぎている感じなんですね。言いたいことが先にあるって感じて、なんかしらっとしてしまう。それと、主人公がいい子すぎるような感じはしました。でも、いい子だからこそ読者はシンパシーを感じやすいわけで、それはそれでいいのかも。はちゃめちゃだったりいわゆる悪い子が難民だという設定にして、しかも読者が主人公に心を寄り添わせられるように説得力を持たせようとすると、この長さではおそらく収まらない。おそらく話がもっと複雑になるでしょう。少し前に、フィリピン人と結婚しているミャンマー人の難民申請が却下され、入国管理局に収容されて家族がバラバラになりそうになった、というニュースがありましたよね。あのとき私も、どうしてこんなことが起こるんだ、と憤慨していたんですが、そうやって怒っている自分をちょっと引いてみたときに、ミャンマー人の男性がとてもまじめで家族思いな人だからこそ、いわば楽に心を沿わせられる自分にあらためて気づいたんです。さらにいえば、だからこそ、「なんであんなにいい人が、難民申請も認められずに収容されなくてはならないのか」という思いが多くの人に共有され得たのではないか、と。この作品でも、こんなにいい子がどうして送り返されなくてはいけないのか、という関心の持たれ方が可能で、つまり、主人公が優等生であるがゆえに、難民に強いられる苦労の理不尽さがよくわかるという面があるように思いました。それはそれでいいんだと思いますけど。

アカシア:主人公がいい子すぎるという意見が多いようですけど、家族内の秩序がはっきりしているアフリカなら、こういう子はいそうですよね。

むう:この子もお父さんも、とても控え目に動いている。それは、難民という身分では自由に振る舞うことができず、受け入れてもらうために必死でいい人、いい子であろうとしているわけだから、それ自体にリアリティがないとはいえませんよね。そのいい人、いい子にして、裁判という形で国に迫られることのつらさは、よく書けていると思いました。

アカシア:いい子すぎるから、嘘っぽいという捉え方をされてしまうと残念。

トチ:この作者は、明らかに自分の周囲にいるイギリスの子どもに向けて、この本を書いていますね。とても大雑把な分け方だけど、私は子どもの本って2種類あると思うの。ひとつは「ああ、そうなのか!」または、「そうだったのか!」と、読者の目を開かせるような本。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)や『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ/著 原田勝/訳 徳間書店)みたいに。もうひとつは、「うんうん、そうだよね!その気持ち分かるわ」と、読者の共感を誘うような本。私は勝手に「なのか本」と「だよね本」って呼んでいるんだけど、日本はいま「だよね本」の花盛りじゃない? そのせいか、このごろ私は「なのか本」だというだけで、多少の欠点はあっても感動しちゃうのね。これだけはぜひとも子どもたちに伝えておきたいという、作者の熱い心が感じられて。この本もまさに「なのか本」。自分の周囲にいるイギリスの子どもたちに「君のそばにも主人公みたいな子どもがいるでしょう? それはこういう子どもたちなんだよ」と訴えている作者の声が聞こえてくるような気がしました。
最後に子どもたちがアレムを救う運動を起こすところなどは、〈イギリスでも夢物語に近いのでは? まして日本では、ほとんどファンタジー〉と、少し悲しくなりました。お父さんが死ぬところでは、ここまで書かなくてもと思ったけど、これが現実なのかもしれないわね。あと、最初は三人称であっても全てアレムの目を通して書かれているのだけれど、お母さんが死んだという知らせが来るところで、とつぜん第三者の目になるので、つきはなされたような感じがしました。最初からある程度アレムに距離を置いた書き方(訳し方)にすれば、少し感じが違ったのかな? 会話の部分はとても達者だったけど。

:みなさんの意見で出つくした感じです。

すあま:私も、このエチオピア・エリトリアのあたりのことは知らなかった。戦争の話は、知識がないといつの時代に起こっているのかわかりにくいけど、コン ピュータゲームなどが出てくるので、今の話だということがわかる。アレムは英語もしゃべれるし、そのまま暮らしていけそうだけど、お父さんが現れたのでどうなるんだろうと思っていた。そしたら、お父さんを死なすことで解決しちゃったような感じだったので、もう一工夫ほしかった。関心がなかった友だちがキャンペーンを始め、それが一気にもりあがっていくところが、あまりぴんとこなかった。

カーコ:13章までしか読めませんでした。確かにイデオロギーが先行している感じがしましたが、ここまで読んできて、最後まで読みたいなという気になっているのは、ストーリーに力があるからだと思います。肉付けの部分があると、もっとおもしろいのでは。たとえば、イギリスに行ってから、アレムの目からすると不思議なことがいっぱいあったはずですよね。そういうことの具体的な描写があると実感としてもっと迫ってくる気がしました。また文章で、104ページ、「三人にとって、これほど心を閉ざしたアレムを見るのは」と、急に視点がかわるところがひっかかりました。

トチ:1990年だったと思いますが、BBCでアフリカの難民を扱ったドラマを放送して話題になったことがあったの。難民の大群が徒歩でじりじりとヨーロッパ大陸に向かってきて、ヨーロッパじゅうが大騒ぎになるのね。テレビは毎日どこまで難民が達しているか放送するし、いろいろな国の首脳が連日会議を開き、論争する。難民のリーダーの主張は簡単なもので「あなたたちは猫や犬などペットを飼っているでしょう? そのペットにやるミルクをわたしたちにも分けてくれればいいのです。そのかわりに、わたしたちだって、手をなめろと言われればなめてあげますよ」というの。難民たちがジブラルタル海峡を渡って上陸しはじめたとき、軍とにらみあいになるの。そのとき、ひとりの難民の子どもが拾った銃をいたずらしていて空砲を撃ってしまい、とたんに軍の兵士に撃ち殺され、そこで終わりと言う衝撃的な結末。ヨーロッパの人たちにとっては、難民の問題って本当に切実で身近なものなんだなと思ったわ。

カーコ:難民って、ヨーロッパでは大きな問題ですよね。どの国も、国外の政治・経済の変動で、常に外国人を受けいれざるを得ない現実があるので、子どもでも、日本の読者よりずっと身近なこととして、こういうテーマを感じるのではないでしょうか。

トチ:日本の子どもは、難民も移民も区別がつかないのでは?

:日本の政府は、なかなか難民として認定しないしね。

すあま:子どもたちの感想も、難民の話なのにいつのまにか戦争についての話になっていたりする。

愁童:壁紙にしているところはいいなと思った。両親なんか好きじゃないっていうけど、あの描写はうまいなと思った。また、こういう難民認定みたいな問題では、お父さんの手紙を出しなさいと言われて、出しちゃったら認められないっていう変な現実ってあるんだろうね。ただルーツとか、アレムを書き込んでいる割には、裁判についての論理的な去就がいまいち分かり難い感じがした。でも、こういった問題を子供達にきちんと伝えようとする作者の熱意は伝わってくるよね。

すあま:イデオロギーは出てるけど、臭くはないですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


那須田淳『ペーターという名のオオカミ』

ペーターという名のオオカミ〜Tagebuch von Ryo

むう:オオカミと環境問題、ドイツを分断してきた壁が個人に及ぼした影響を絡めながら男の子の成長物語を作るという意図は、なるほどと思いました。それに、ドイツの田舎の風景描写は、ドイツに行ったことがないものだから、へえ、こんななのか、とおもしろかったです。ただ、切迫感がないというんでしょうか。たとえばオオカミなんですが、大人向けの作品だから同列に並べるのは無理があるかも知れないけれど、乃南アサの『凍える牙』(新潮社)を読んでみると、オオカミ犬の持つ魅力が生き生きと伝わってくるんですよね。でも、この本にはそういうのがないんです。オオカミは大事にしなきゃみたいに書かれてはいても、読者は心の底からほんとうにすばらしいと感じ、大事にしなきゃと思うことができないのではないかと。頭の中で作った、という感じがしました。

紙魚:お父さんの転勤から家出を決行するまでの気持ちの流れが、今ひとつわかりませんでした。しかも、両親は自分の子どもが家出して、こんなに平気でいられるものでしょうか。家族像がつかめなかったです。ペーターやオオカミの群れの描写があまりにも足りないし、オオカミを何としてでも帰さないといけないという危機感も持ちにくかったです。オオカミへのつのる愛しさのようなものを、もっと感じたかった。全体としては読みやすいし、ベルリンの様子などは、とてもおもしろかったです。

アカシア:まだ読んでいる途中なんですけど。疑問がひとつ。表紙のこれは、犬じゃなくてオオカミなんですか? それと、ドイツとかベルリンを紹介したいという気持ちがあるせいか、うるさいほど説明してありますけど、本筋からすると邪魔にならないのでしょうか。

カーコ:私はおもしろく読みました。拾ってきた子オオカミをどうするのかというストーリーで、最後まで引っぱっていってくれますよね。さまざまな問題意識を呼び覚まさせる、日本の児童文学のなかでは意欲的な作品だと思いました。第二次世界大戦を扱った名作の多くは、実際にその戦争を体験した書き手の作品ですが、これからは、間接的な体験で、風化しつつある大切な事実をとらえなおして、現代につなげていく、こういった書き方が、試みられていくのではないかと思います。ベルリンの壁について、世界史では表れない部分を見られて新鮮でした。

すあま:ビデオにとったことが、後々影響するわけでもなかったのね。説明が長くて、とばして読みたいところがたくさんあった。「あかずきん」の全文なんて、必要ないですよね。ベルリンの壁のあたりは、最近、映画『グッバイレーニン』を観たので思い出しながら読みました。表紙の子犬は、オオカミに は見えない。それから、Tagebuch von Ryo、つまり「Ryoの日記」という副題は必要でしょうか?

:それなりに読めたのですが、読み終わったとき、ハーハーしちゃったんです。盛り込みすぎ。この作者が何を伝えたかったのかはわからなかったです。『難民少年』は、対照的で、伝えたいことがはっきりわかりましたが。オオカミを帰すということで、いったい少年たちは変わったのかな? そもそも、この少年たちに問題があったんでしょうか。描写はいろいろあるんだけど、マックスの昔の恋人に木を届けるところなど、必要とは思えません。あと、オオカミの気持ちで書いている章がありましたが、あそこはわからなかったです。視点をかえるという実験的な試みなんでしょうが、効果があったとは思えません。

トチ:読み出したらおもしろくて、これはひょっとして大傑作なのではと思ったくらい。それが最後のところで、主人公が日本に帰って、帰国子女枠で大学の付属校に入れたから、受験勉強もしなくてすむようになった・・・・・というところを読んで、興ざめしちゃった。この少年は、オオカミと自分を重ねあわせて、自由に伸び伸びと生きたいと思っていたのでは? それがこんなにケチくさい根性でいいの? そしたら、なんだかこの少年のごっこ遊びにつきあわされたような気分になったわ。だいたい、せっぱつまっているときに、木を届けたり、お父さんを頼ったりなんて余裕があるのもおかしい。読者は、けっきょく新聞の特派員とか高名な音楽家とか、恵まれた家庭に育った子どもたちが、冒険めいたおもしろいことができて、帰国したら受験で苦しむこともなくて、いい気なもんだと思うんじゃない? 今の日本の子どもたちって、能天気に見えてもみんな受験の重圧を感じているんじゃないかしら。

愁童:今の子どもたちには、受験がぜったいにプレッシャーになってるよね。

カーコ:最後の結びはつけないほうが、余韻を楽しめてよかったと思います。帰国子女枠で私立校に行って、幸せにやっていると聞かされると、結局は特権階級のお話みたいで、せっかくよりそってきた読者は、突き放された感じがしそう。

すあま:リアリティーを持たせようとしずぎて、失敗したんじゃないですか。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年4月の記録)


マイケル・モーパーゴ『ケンスケの王国』

ケンスケの王国

愁童:おもしろく読みました。読みましたが、訳者が出しゃばっているのがとても気になりました。あとがきに小野田さんや横井さんのことを書いているので、読者はどうしてもそれに引きずられてしまう。つまり読者の想像力を限定してしまうわけで、読者に対して失礼だと思う。もちろん作者にも。でも、今の子はロビンソン・クルーソーなんか読まないだろうから、こういう冒険物語があっていいんだろうなと思います。

アカシア:まず情景や状況の描写がきちんとしてあるのがいいと思いました。冒頭で犬が手紙を運んでくる場面にしても、つばで手紙がべとべとになっているなんて書いてある。ヨットを操縦する様子なども、面白かったです。でも、細かいところが気になりました。たとえば、ケンスケは日本人のおじいさんという設定ですが、125ページでは「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と言っている。カタカナで書いてある部分は原書でも日本語が入っているんだと思いますが、この時代のこの年齢の男性が少年に対してこういう言い方はしないと思うんです。せめて「すまんな」とか、「悪いな」くらいかなと。ここでがくっとリアリティーが下がってしまう。128ページでケンスケが主人公を抱きしめて子守唄を歌うところも、「抱きしめて」ではなく「抱きかかえて」と訳した方がケンスケのリアリティが出たと思います。137ページではケンスケが洗濯物を岩にたたきつけて洗っていますが、日本人はこういうやり方で洗濯はしない。143ページでは、ケンスケが子どもの頃にサッカーをしたと言ってますが、当時の子どもはサッカーしてたんでしょうか? そのままにしておくとリアリティがなくなる部分は、訳者が原著者に相談してでも表現を変えたほうがいいと思いました。
それから小野田さんや横井さんは、モデルではなくてヒントになったんだと思います。というのは、小野田さんや横井さんは、天皇の兵士として敵の捕虜になって恥をさらすことがないように隠れていたわけですが、ケンスケは自然を壊す現代の人間に不信感を持っているせいで隠れている。動機が違います。モーパーゴは環境や野生動物の保護について問題意識が強い人で、ケンスケにはその一つの理想が投影されているのに、実在の人物をモデルといって引っ張り出すと、作者のいいたいことが伝わらなくなる。

むう:冒険物語なんだなあというので、すっと読めました。ただ、今回の課題の相手がペイトンだったからか、迫力が足りないと思った。わくわく、どきどきがないんですよね。さらっと読めるけれど。それと、読み始めたとき、この主人公っていくつなんだろうととまどいました。12歳で冒険して、それから10年経ってということからすると若い人なはずなのに、やたら難しい言葉が出てくるので、なんだかぎくしゃくした感じで。原書が向こうで出版されたときに、へえっ、おもしろそうと思いはしたけれど、日本人を扱ったものを日本語に訳すのは難しいだろうなあとも思ってました。この本はただの冒険物語で終わらせず、そこに環境問題や戦争の問題というふうに今ホットな問題や学ぶべき歴史を絡めていて、そこはなるほどと思いました。でも、なんか教育的というか、おとなしいというか、枠をはみだすようなエネルギーが感じられなくて物足りなかった。

ハマグリ:モーパーゴのものは、大作ではないけれど、ちょっと心に残るよくできた小品、佳作という感じのが多いですね。そしてちょっと変わった人を書くのが上手だと思う。私も海に落ちるまでは家族の様子など細かく書かれていてよくわかっておもしろかったのだけど、その後はあまりおもしろくありませんでした。ケンスケという人物が今ひとつピンとこないのは、この人のしゃべる言葉に原因があると思う。つまりケンスケはたどたどしい英語をしゃべる人なんだけど、それを翻訳するとたどたどしい日本語になってしまうので、とても違和感がある。日本語に翻訳するわけだからどうしようもないことなのかもしれないけれど、これではケンスケの人物像があまりうまく伝わってこないと思います。なにかもっとやりようがはあったのでは? たとえば、全部片仮名で書くとか。これは日本人であるが故の違和感だから、島にいたのが日本人でなかったら、もっとすんなりと読めたかもしれません。そういう意味のハンディはありますね。それと主人公のセリフも違和感を感じるところが何カ所かありました。たとえば、ケンスケから蚊避けのシーツをもらって、「すてきなシーツをありがとう」というところなんか、男の子がこういうふうにいうかなあと。

トチ:モーパーゴって作家は、児童文学にとっていちばん大切な年齢層でありながら、なかなか良い作品がでない小学校高学年から中学生を対象にたくさん作品を発表している、それから動物とか異国の話とか子どもの興味のありどころを良く知っているという点で、とても良心的な、良い作家だと思います。感じのいい作品を書くし、本人もとっても感じのいい人。でも、どれを読んでもなんか物足りないのよねえ。スーザン・プライスの迫力、アン・ファインのうまさ、フィリップ・プルマンの知的な構築力、どれも足りない。8割の作品というか・・・・・・・

ハマグリ:で、印象が薄くて、読み終わるとすぐ忘れちゃうのよね。

トチ:そうなの。読んでいるときはおもしろいんだけど。この作家の本を読むときはいつも「なんか物足りない」と、「こういう感じのいい本を、子どもがどっさり読むのは、とてもいいことだ」と、このふたつの思いの間を針がいったりきたりするんだけど、この本の場合は、「ちょっとだめ」のほうにふれた。後書きの解説は、愁童がおっしゃったとおり余計だったけど、もしかしてモーパーゴ自身も、日本兵発見をこの程度のものと見ていたのかなあと思って・・・・・・・

アカシア:ケンスケと日本兵を密接なものとして結びつけているのは、原著者より訳者の考えなのでは?

愁童:モーパーゴは単に、現代でもロビンソンはありうるんだなあ、東洋人ってすごいなあと思っただけなんじゃないかな。

アカシア:それに、子どもの読者は、あとがきは読まないかもしれない。わたしは、モーパーゴの作品は大人が読んだらイマイチかもしれないけど、子どもが読んだらおもしろいと思うけどな。

トチ:でもねえ……。原書が出たときに読んだけど、翻訳は出さないだろうと思ったの。よく出したという感じだけど、ことさらこれを訳す意味があるのかなあ。

アカシア:訳をしっかりすればおもしろいと思うよ。現代を舞台にした冒険物語なんだから。

カーコ:印象はみなさんと同じです。中学校の図書室と市立図書館の司書の人に、おもしろかったと薦められて。でも、最初は訳文につまずきました。主人公が20歳くらいで書いたという設定の文章なのに、それにしては難しい言葉が出てくる。航海日誌になると、12歳の子が書いたはずなのに「我々」とか出てきて、普段読んでいる小学生の作文と比べて、ずいぶん印象が違う。また、船に乗るに到る過程が、私には現実味に乏しく感じられました。失業して、ヨットを買って、家族で航海に出てしまうなんて、こんなふうになるかなあと。舟のことや海のことは、知らないことが多くておもしろかったけれど。

トチ:作者としては、後半が先に出来ちゃって、どうそこに持っていくかで苦労したんじゃないかな。一家で船に乗ることになるまでの部分は説明的よね。

カーコ:全体の印象も、なにか物足りない。最初のうちケンスケが、無口でわけのわからないという、西洋人の持つ日本人のイメージかなあと思ったし。強い精神力や自己犠牲のイメージって、よくも悪くも日本人の登場人物につきまといがちな気がします。

ハマグリ:無口でよくわからないのは、英語が話せないからでしょ。でも、英語が話せない人間なら、別に日本人でなくてもいいんじゃないかという気はするわね。

トチ:原書の表紙は北斎で、英国人は北斎がとっても好きなのね。

カーコ:それから、ミカサンという呼び方って、変じゃありませんか? マイクと言えなくて言ったのなら、マイカサンくらいじゃないでしょうか?

アカシア:モーパーゴはマイカサンと読ませるつもりたったんじゃないかしら。それを訳者がミカサンとしたのかも。

:ペイトンを読んだ後だったんで、迫力の物足りなさはありました。おもしろいと思ったのは、日本人が30年孤島に一人で住んでいた。というニュースからヒントを得て書いたという創作の経緯です。外国人が日本人を書くのは難しいと思います。外国映画に登場する日本人って、やっぱり違和感があるし、東洋人に対する固定観念があるのでしょうね。たどたどしい口調については、孤島に一人でいたから人とのしゃべり方を忘れたのかなと思っちゃいました。子どもが読んだら、父親のリストラから世界一周に行くところが、なんともわくわくして楽しく読めるだろうと思った。犬が一緒なのも子どもには安心出来ると思う。この年齢でこういう冒険ができてドキドキして楽しんで読むんじゃないでしょうか。おもしろいと思って読むんだけれど、終わった後はあまり残らないのが残念。

すあま:最初は少年のサバイバルものかと思ったけれど、ケンスケが手取り足取り助けてくれてちっとも苦労しないじゃないですか。望郷の念のみで、苦労がないところが物足りなかったですね。やはり無人島でサバイバルする少年の物語、『孤島の冒険』(N.ヴヌーコフ/作、フォア文庫)と比べるとずいぶん違う感じ。もうちょっとわくわくしたかったです。これが日本兵のニュースから作られた作品だとすると、日本の作家が書いてもいい話題じゃないのかと思います。

アカシア:日本人の作家だと、天皇の兵士として恥をかきたくないといった意識をどう描くかが、逆に難しい。むしろ作者が外国人だから、冒険と孤独の部分だけをすくい取るというやり方ができたんじゃないかな。

すあま:最後のミチヤさんの部分はあった方がよかったのか、どうなんでしょう? これがあることで、マイケルではなくてケンスケの物語として終わっているんだろうけれど。

トチ:わたしは、ここは、さすがに子どものことがよく分かっている作者だと思ったわ。子どもが気にしそうなところはちゃんと腑に落ちるようにしてあげている。ケンスケの子どもはどうなったんだろうって、子どもの読者は気にすると思うもの。

アカシア:ロビンソン物は、ふつう時代をさかのぼって書かないと無理なんだけど、この作品は現代の自分にも可能性がある冒険として書かれている。そういう意味では、ケンスケの息子を登場させて現代とのつながりを強めてるんじゃないかな。それにしても、日本人が読むと違和感があるんだなあ。

トチ:欧米の読者とちがって、日本人なら子どもだってその年齢の人の仕草や、言葉遣いを知っているから、違和感を感じてしまうのでは?

アカシア:あとがきでは、小野田さんたちのことをさらっと書いておいて、作者はこのニュースをヒントにしたのかもしれません、くらいにとどめておけばよかったのかも。いつでもロビンソンになる可能性があるんだよ、というので、ニュースを紹介することは構わないと思うけど。

トチ:日本の作家なら当然「小野田さんや横井さんのような人もいたけれど、ケンスケみたいな人もいたんですよ」って、書くと思う。

すあま&アカシア:それにしても、挿絵が古い! これだと、日本の子どもは、よけい現代の物語とは感じられないと思う。

愁童:さっきの、アカシアさんの疑問について言うと、サッカーはア式蹴球なんて呼ばれて戦前からやっていたから、そんなにおかしなことではないかもしれない。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


柏葉幸子『ブレーメンバス』

ブレーメンバス

トチ:感想が言いにくいなあ、んー・・・・・・言いにくいときは、まず好きなところと嫌いなところを探すことから始めるんだけど、この本は好きなところがないの。いちばん感じたのはリアリティの無さね。たとえば「桃から生まれた」の主人公の女性は、お店で信玄袋を買って、うちに帰って袋をのぞいたら赤ちゃんがいたというのだけれど、「最初はぺちゃんこで軽かった袋が、途中でだんだん重くなった」とか、「畳の上に置いたとたんに、妙に重くなっていてむくりと動いた」とか、「袋の中をのぞいたら、もわっとしたものがあって、それがだんだん赤ちゃんの形になった」とか、そういうことがなんにも書いてなくて、とつぜん赤ちゃんが出てきたと言われてもねえ。「金色ホーキちゃん」だって、妻が昔ぐうぜん出会った女の子だってことに、つきあって、結婚して、子どもが生まれても気づかないなんて、不自然じゃない?

アカシア:女の子は変わるから、まあ黙ってればわからないにしても、お父さんはそんなに変わらないから、どこかでわかるよねえ。

トチ:この中でいちばん良くできてると思ったのは「ピグマリオン」だけど、なんだか後味の悪い話ねえ。救いが無いというか。「ハメルンのおねえさん」も、若い女性が不倫相手の家に放火して、子どもがふたり死んでしまった事件を思い出してしまって。ねえ、最後の1行の「最後の葉書(註:父親の不倫相手のお姉さんの結婚通知)がなければ、父を軽蔑していた」って、どういう意味?いくら考えても、分からなかった。この本はストーリーの怖さ以上に、作者と意思疎通できない怖さ、薄気味悪さを感じたわ。最後の「ブレーメンバス」では、出てくる女性が老いも若きも、みんな逃げの姿勢。他の話も、結婚を女性の最上の生き方と思っている女の人ばかりでしょう? これって、児童文学なのかなあ。モーパーゴは、しっかりと子どもに向き合って書いているのに、この作者はいったいどこに目を向けて書いているのかしら。

ハマグリ:なんとなく嫌な感じだった理由が、トチさんのお話しで納得できました。これまではこの人の作品は割といいと思っていたけど、同じような作品をちょっと出しすぎかも。うまいのはうまい人なんだから、未熟なものを出さないでほしい。短編って、やっぱりピリッと小気味良くないとだめだと思うの。でもこの作品はどれも、なにこれ、で終わっちゃう。こどもの読者には感情移入できない作品ばかり。例えば「つづら」のように、中年のオバサンの心理で書かれているものが多いから、子どもにはおもしろくないでしょう。大人向きの短編集としては、小気味よさが足りないし、どっちつかずですね。もうちょっと自分の中で完成させてから発表してほしかった。会話や文体はうまい人だからすらすらと読めたけど、作品としてやっぱり完成されてないと思う。細かいところでは、「つづら」の「アイアン」なんていうあだ名も子どもには分かりにくいと思う。「うん、順子さんはやっぱりアイアンだった」って、どういう意味かわからなかった。

むう:ホーキのところで、あらまっ、へえっ、と思ったたけれど、ともかくさらさらと読みました。それで、一番強く感じたのは、これって子ども向けなのかなあということ。なんか、生活にくたびれた寂しい感じの中年女性の話ばかりでしょ。そこがどうもねえ……。「ピグマリオン」だって、設定はメニムみたいでおもしろいと思ったけれど、なんかやたらおどろおどろしいのがいただけない。「ブレーメンバス」の最後の挿絵を見て、この本を象徴してるなあと思いました。全員幽霊みたいで影が薄いんですよね。

アカシア:読んでいくうちに、どんどん腹が立ってきちゃった。「金色ホーキちゃん」は、最初に「ホーキ頭にかためた髪が、ぐったりたれてきていた」と書いてあるから、見た目ホーキには見えないんでしょ。でも、ホーキのイメージをまわりの人が持っていてこそ成立する話。「桃から生まれた」では、信玄袋の中から赤ちゃんを抱き上げるって書いてあるんだけど、つまみあげるくらいのイメージしか読者は持てない。とにかく、疑問や不可解な点やイメージのギャップが多くて、すとんと落ちてこない。この作家って、こんな作品ばかりなの?

ハマグリ:柏葉さんの作品は『ミラクル・ファミリー』(講談社)のほうがいいと思うよ。

アカシア:ハメルンは、49ページで終わってると思って、いい作品だねえと思ってたら、次のページに続いてたうえに、ハガキが来たらどうして父への軽蔑がなくなるのかわからない。「オオカミ少年」は何度も同じ嘘をつく少年というのが定義で、一回嘘を言っただけでオオカミ少年とは言わないでしょ。「つづら」は、「アイアンをよべ」「かなづちはやめてください」の部分がリアリティのない寒いオヤジギャグでしらける。「十三支」の最後の意味、分かった人いる? あああ、今年はほめるという誓いを立てたのに、こんな作品出してこられると、守れないじゃないですか! 力を持っている作者だったら、編集ももっとしっかりしろい!と言いたい。

すあま:それぞれの話の中に意味不明なところがあって、短編なのにいちいち確認しながら読まなくちゃいけなかった。昔話をうまく使うというのは悪くないんだけど、使い方がいいかげんだから、そこに引っかかってしまう。「金色ホーキ」の土台になってる3匹の熊の話は、よそからきた女の子が家の中をめちゃめちゃにして去るのに、これは助けてくれる話だし。もう「十三支」のあたりまでくると、意味を深く考えるのをやめてましたね。「シンデレラ坂」も、坂の下にコンビニがあるのに、なんでわざわざ坂を駆け上るの?

トチ:ええっ? そうなの? 坂の上にコンビニがあるのかと思ってた。

すあま:元ネタにしている物語との接点がないから、よくわからないんですよね。元ネタのキーポイントが落ちにつながるということもないし。ただ出てくるだけという扱いだから、読んでいると混乱する。

:読みながらどうしてこんなに気が滅入るのかなって思ったら、出てくる女性がみんな好きになれない。考え方もしゃべり方も、みんな嫌いなのね。 今日の課題図書でなかったら途中で止めていたと思う。「オオカミ少年」の終わり方など、安っぽい世界に引き戻されたみたいでイライラして、もう本を放り投げてやろうかと思ったくらい。これは子どもの本なの? 若い女性向けの本にもなっていないよ。標題になっている「ブレーメンバス」なんてもう脱力。もう3人とも2度と帰ってくるな!って叫びたい気分。女の人たちに、みごとに共感できなかったなあ。

愁童:期待して読んだけど、誰に向かってこのお話を書いたのかがわからない。大人向けにしては短編としての切れがないし、子ども対象というには大人の心境みたいな物が主体になってるし。印象に残る作品はありませんでした。「すとんと納得」という短編の醍醐味が希薄。

ハマグリ:表紙とか、本の作りは子ども向きなのにね。

愁童:これが児童書だとすると、日本の児童図書の衰退の象徴のような気がする。この作品には、ハートが感じられないんだよね。

カーコ:中学校の司書がこの本を中3の教室で読んだら、借りていった子がいたって言っていたので読んでみたんです。違和感をおぼえたけど、大きな出版社から出ているものだし、知名度のある書き手だし、みなさんならどう読むのかなあという気持ちで選んだんですけど……。中学生がこの本を読んで、次に本を読もうとは思うかどうか。中学生の読書の入り口にするのなら、もっと別の本があるのではないかと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


ペイトン『駆けぬけて、テッサ!』

駆けぬけて、テッサ!

愁童:おもしろかったです。でも、『運命の馬ダークリング』(掛川恭子/訳 岩波書店)とよく似た設定で、ちょっと同工異曲かなって感じも……。テッサが良くかけていて、共感して読みました。ただ、他の人にあまり筆を割いていないので、義父は悪い人、テッサの周りはいい人、みたいな単純な図式になってしまって、水戸黄門的安心感で読めるんだけど、やや物足りない感じもありました。

:おもしろくて、ノンストップでした。最近「シービスケット」という競馬馬の映画を観たし、ハルウララの人気のこともあったせいか、、競馬界の物語としてもおもしろく読めました。日本とイギリスでは競馬に対する思い入れが違うんだなあと思いました。テッサは手におえない女の子だけど、そこに至るまでのところがあまり伝わってこなかったのは、愁童さんがいわれたように親の書き方が弱かったからからなのかな。物語の真ん中でテッサが義父を刺すという展開はショックだった。義父が最後まで嫌われ者の嫌な奴に描かれているのは、作者が馬をとっても愛していて、こういう人はよほど許せないのでしょうね。テッサとピエロの関係がとても良いし、ピエロが魅力的でした。

すあま:ペイトンの本は好きで一通り読んでいます。どれも馬と気性の激しい女の子が出てくる成長物語なんですね。楽しく読みましたが、同工異曲という感がなくもない。馬の世界とそこで生きる人々の魅力なんでしょうね。これまでの本と比べると、テッサがあまり成長したとは感じられなかった。この作家の作品の主人公はエゴが強い場合が多いのだけれど、テッサにはあまり共感ができなかった。ペイトンはドラマ作りがとてもうまくて波乱万丈なのだけれど、この作品ではテッサの気持ちの変化があまり感じられなくて。

アカシア:私はすごくおもしろかった。登場人物も、テッサの義父を除けば、それほどステレオタイプだとは思わなかった。わたしが何に気持ちを寄せて読んだかというと、ピエロになんです。相棒のポニーがいなくなったり、独り放置されたりというときのピエロの気持ちが、ひしひしと伝わってくる。人間と同じような感じ方ではないということも、ちゃんと書かれている。『運命の馬ダークリング』より馬の気持ちが良くかけていて、作者の馬への深い思いもよくわかった。原題のBlind Beautyも、Black Beautyを下敷きにしてるわけだから、馬が主人公の物語なんでしょうね。

愁童:前の作品では主人公が時代に風穴をあけるように積極的に社会に挑んでいく女性として描かれていて、そのきっかけが馬だったんだけど、これは、歪んじゃった女の子が立ち直っていくきっかけが馬なんだよね。その違いが出てくるのかもしれませんね。ピエロを、見てくれの悪い馬として描きながら、読者の共感をこれだけ誘う作者の筆力はすごいなって思いました。

むう:ペイトンは、「フランバース屋敷の人々」のシリーズ(岩波書店)も愛読していましたし、今回の宿題の3冊の中ではいちばんおもしろくて、駆り立てられるような気分で読みました。すごい迫力でしたね。でも、袖の内容紹介に「刃物を手に」とあるのを読んじゃったせいで、ずうっと、「ええ、いつ刃物が出てくるんだろう。どうなっちゃうんだろう」ってはらはらして、息苦しくて……。児童文学だからひどい終わり方はしないだろうなあ、というのだけが頼みの綱という感じでした。でも、テッサが自分で周りの人たちにはじかれるようにはじかれるように、嫌われるように嫌われるように動いていくあたりはとてもよくわかったし、説得力があると思いました。夢中にさせるだけのうまさがあって、迫力があって、堪能した!という感じです。
でも、読み終わってちょっと引いて見てみると、最後のレースに勝つところは出来すぎかな?とも思う。ラブストーリーがあるあたりを見ても、ペイトンって実はかなり古典的なのかな、と思いました。馬に関することがたくさん出てくるんだけれど、それが説明に終わっていない。読者に読ませちゃうところがすごい。まあ、強いていえば夢物語という気がしなくもない。だって、かなりお金のかかる目の手術もうまくいって、グランドナショナルにも勝っちゃうんだから、ちょっとやりすぎかな。でも、ほんとうに力のある作者で、ピエロの目から見た書き方もよかったです。

カーコ:ぐいぐいと読ませる力がすごいですね。圧倒されました。テッサとピエロの二つの筋で、ひっぱっていくんですね。競馬のシーンも、息づかいや匂いまで伝わってくる感じ。迫力があって読み応えがありました。日本の作家も頑張ってほしいなあ。テッサが両親を、そのような人としてそれぞれに認めていくところも、成長がうまく描かれていますね。

むう:テッサはかなり小さいときから、家庭が安定していなくて無理やり自立せざるを得なくなっているんですよね。夫婦げんかから逃げるようにして馬屋で過ごしたり。だから、途中で出てくる母との突き放したような付き合い方も、十分納得がいきますね。

愁童:厩舎の中の人たちを、もうちょっと膨らませればいいのにねえ。出てくる人たちは十分に魅力的なはずなんだけど。でもテッサとピエロが良くかけているからいいのかな。

むう:最後のレース後のピエロの描写がとてもうまい。ピエロは自分が大レースに勝ったこともわかってないし、何がどうなっているのかもわかっていない。でも、自分にひどいことをしたためしのない人たちに囲まれているから、これで大丈夫なんだろうと感じているっていうのが、なんかすとんとこっちの心に落ちました。人間は大騒ぎしているけれど、実は馬ってこうなんだろうなって。途中のピエロが一頭だけ野ざらしで牧場に放置されるところもですが、こういうのを読むと、人間と関わる動物のある種の無力さとか、動物を飼う側の人間の責任なんかも考えさせられますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年3月の記録)


ダイアナ・キッド『ナム・フォンの風』

ナム・フォンの風

ペガサス:オーストラリアに住むベトナムの難民の子の話なんだけど、親ではない人に育てられる子の話だというところに他の2冊との共通点があると思って課題本に選びました。子どもの気持ちがまっすぐで健気な感じが、気持ちよく読める。ナムフォンはつらいことが多すぎてなかなか言葉を発することができないのだけど、「黄色いカナリアさん」とか動物たちを心の友だちにして、自分の気持ちを伝えていくのが印象的。事態は好転するわけではないけれど、少しずつ前を向いて歩いていくという印象が残る。短いながらも、子どもの気持ちが出ている。

むう:作者や訳者の善意がとてもよく伝わってくる本ですね。ただ、低学年向けの短い本だからというのもあるかもしれないけれど、細かい表現がほとんどなくて、読んでいてすっとすべっちゃう感じ。共感するところまでいかなかった。たとえば自転車を家に入れるところも、2階まで上げるんだからとても大変なはずなのに、大変さが伝わってこないんですね。「大変でした」と言われて、「はあ、そうですか」と言うしかない。細かいところの描写がもうちょっとあれば全体が起きあがってくるのかなと思いました。『モギ』もそうなのだけど、自分と文化の違うこういう人たちがいるんだよ、ということを子どもたちに紹介するという姿勢はいいと思いますが……。それと、これはあくまでも好みの問題ということでなんだけれど、あまりに女の子っぽいっていうんですかね。この子は木登りが好きという活発な女の子なのに、こんなべたべたの一人称になるかなあと思います。手紙の語尾もそうだし。苦手だなあという感じでした。

愁童:ぼくもむうさんとほぼ同じ。はっきりいって、つまんなかった。外国人によりそうのではなく、かわいそうだなあと冷たく書いている感じ。親に別れ祖父の死を目撃して、本当にひとりになった子が、「カナリアさん」なんて呼びかけるけど、親や祖父には直接呼びかけないのはなぜ? この子、この国でこれからどう生きていくのかなというところが見えてこない。

カーコ:私はあんまり批判的には読まなかったんです。オーストラリア方面に流れていったベトナムのボートピープルの話を児童書で見るのは初めてだったので、こういうテーマを伝えていくということは大事かなと。ストーリーに起伏はないけれど、ナム・フォンという名前の意味の謎にひかれて、最後まで読めました。オーストラリアの子だったら、ナム・フォンと聞いたら、自分たちの名前じゃないと思うのでしょうね。でも、日本の子が読むとほかのオーストラリア人の子の名前との違いがはっきりわからないかも。それに、オーストラリア社会の中で、ベトナム人がどんなふうにとらえられているか、どんなふうに暮らしているかなど、イメージがはっきりしませんでした。

紙魚:この本を読んでいちばん感じたのは、異文化の人間同士が結びつくには、やっぱり食べ物の力が大きいなってこと。私が小さい頃には、ベトナム料理なんてどんなものだか想像もつかなかったけれど、この頃はいろんな国のお料理が味わえて、とても身近に感じられるようになりました。私も、ナム・フォンが動物や自然宛てに手紙を書くのはちょっと気になりましたが、故郷を思い出すときに、しぜんとそういうものが浮かぶほどベトナムは自然が豊かなのかととらえて読みました。

ケロ:私も食べ物がおもしろかったです。この子が、まわりの人たちに強烈に傷つけられることがなく、色々な助けを借りながら心を癒していく様子がきちんと書かれているなと感じました。確かに物足りない感じもあったけれど、たとえば難民問題への入り口にはなっていくのかと思います。果物の味がじゅるじゅるっと濃かったりして、自分が見たことのない国を知るうえで、味覚はすごいですね。

Toot:私は快く読みましたね。この子は、家族や自然を愛していたんだなというところがうかがえるし、状況は違うかもしれないけれど、ひきこもりの子たちは、ナム・フォンに重ねて読むのかな。私の印象に残ったのは、鳥。鳥を使って、気持ちなどもよく表現されている。12ページの「おじいちゃんが木の小鳥を彫って」なんかも。タイトルがいまいち強くないのが、もったいないですね。

トチ:原題の“ONION TEARS”というのは、最後に主人公が流したのは、タマネギを切ったときの涙ではなくて本物の涙だった……ということでしょうね。でも、邦訳のタイトルからは、そういう原作者の思いが汲み取れないのでは?

アカシア:ナム・フォンがどうして話さないのか、オーストラリアの子どもたちはふしぎに思うけど、それにはちゃんと理由があるんだよ、ということをこの作者は書いているんですね。できれば日本の子どもにも読んでもらいたい。でも、こういうテーマ性のある作品ほど、敬遠されないためにはきちんと書いてほしいと私は思ってるんですね。気になったのは、人物描写が少ないことで、子どもの読者にはイメージがとらえにくいと思う。それに、お祖父さんのことは書いてあるけど、お父さんやお母さんやほかの兄弟とはどうして別れてしまったのかという肝腎なことが書かれていない。私たち大人は、なんとなく状況が想像できますけど、子どもはわからない。それから、ずっと口をきかなかったナム・フォンがついに心を開いて先生に「何から何までしゃべりだす」(p89)場面がありますけど、ここは英語でぺらぺらしゃべれたのかしら? ナム・フォンはオーストラリアに来てから何年くらいになるんでしょうね? 必要なリアリティがきっちり押さえられていないように思いました。このままでは、学校の先生は読むように薦めるかもしれないけど、子どもには理解しにくい本で終わってしまう。それが残念。

トチ:善意あふれる本ですね。自国の子どもたちに、なんとかベトナム難民の子どもたちを理解してもらいたいという作者の気持ちは感じられるけど、もうワンクッション置いて日本の子どもに読ませるとなると、いろいろ難しい点が出てくる。本当にすばらしい作品だと、自国の子どもに向けて書いたものでも、その他の国の子どもにもじゅうぶんに理解できるのだけれど。登場人物がベトナム語で話しているのか、それとも英語なのかとか、分からない点が多々ありますね。たびたび出てくるゴックさん夫妻とはいかなる人物かとか……。

アカシア:この本の冒頭でおばさんが「ナム・フォン! ゴックさん夫婦が見える前に、早く部屋を片づけておしまい! これじゃ野ザルのすみかだよ」と言ってますね。ゴックさん夫婦はどうもレストランのお客らしいとなると、どうして「部屋」を片づけなければならないのか、それもわからない。

トチ:いちばんひっかかったのが、主人公のベトナムにいたころの回想で「兵隊が来て、こわかった」というところがあるでしょ? この兵隊って、アメリカ兵かしら、それともベトコンかしら? それがわからないと、作者がどういう姿勢で書いているかもわからない。もし、この本を授業であつかって、そのことを子どもに質問されたら、教師はどう答えればいいのかしら?

アカシア:子どもにとっては、どっちでも同じなんじゃないかしら? どっちにしても子どもは被害者なのよ。

トチ:たしかに、戦時の子どもはいつも絶対的な被害者なんだけれど、戦争を自然災害やなにかと同じとらえかたをして、「かわいそうなんだよ、ひどいめにあったんだよ」とだけ書いていていいのかしらね。少し前の日本の児童文学にもよく見られる書き方だけど。それから、白人である作者が難民の子どもを優しい眼差しではあっても上から見ている、パトロン的な目で見ているという感じがどうしてもしちゃうのよね。
もうひとつ、しゃべることができない子どもにモノローグで語らせるという手法も、気になった。モノローグというのは、読者にたいしては饒舌に物語っているわけでしょ。だから、この子がしゃべれない子だということを、読んでいるときにすぐに忘れて、混乱しちゃうのよね。そのうえ、手紙は「カナリアさん」宛てだったりするけど、本当は自分宛ての手紙もはさみこまれているし。地の文を三人称で書くとか工夫すれば、手紙の部分ももっと引き立ってくるんじゃないかしら。

ペガサス:この子の言葉で書いているから状況がわかりにくい、っていうのはあるね。別の人、たとえばおばさんから見て書いた章があるとかすると、もっとわかりやすいのにね。

アカシア:地の文と手紙の部分の文体が、ほとんど同じだから、よけいにメリハリが出ない。

トチ:だから、手紙は感傷的にするしかなかったんでしょうね。あと、細かいことだけれど、「サフランのようなオレンジ色の太陽」ってあるけど、サフランの花はオレンジ色じゃないわよね。紫だもの。たしかに英語ではサフランといえば雌しべで染める黄色のことを指すけれど、日本の子どもには分からない。このへんのところ、翻訳にもうひと工夫ほしいわね。あと、主人公がベトナム料理をみんなに配って「お気に召すといいけど」と言う。この言い方にも違和感を持ちました。

アカシア:日本の子どもは、こんな言い方はしないわね。

愁童:それから日本人だったら、花に「目がない」とは言わないよね。「バラに目がない」とか具体的に言うよね。人物をうまく描きだせるところなのに。花に目がないなんて言われても、人物が立ちあがってこないよね。

トチ:花の名前なんて、小さな子にだってちっとも難しくないのに。作者の頭の中に実際の花が浮かんでなかったのかしら?

アカシア:ナム・フォンの手紙が「黄色いカナリアさん」「雲のように白い羽根のアヒルさん」と始まるから、よけい甘ったるい感傷的な印象になる。

カーコ:「カナリアさん」とするか、「カナリアさんへ」とか「カナリアへ」とするかでも、目線やイメージが変わってきますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年2月の記録)


リンダ・スー・パーク『モギ:ちいさな焼きもの師』

モギ〜ちいさな焼きもの師

むう:おもしろかったです。もう、1行目の「おーい、モギぼう! たーんと腹ぁへらしとるか?」で、あちゃあ、つかまっちゃった!という感じでしたね。前半はわりとほんわかと人と人との交流や何かで読ませて、後半は旅に出るところから畳みかけるように次々といろいろなことが起こるので、ぐいぐい引っぱられて転がるようにラストに行き着きました。これも、アメリカにいる人が韓国という異文化を書いているんだけれど、お話自体がきちっとできていて人物にも共感できておもしろい。だからこそ、お話を楽しむなかで、へえ、こうなんだとか、どうしてこうなのかなあというふうに疑問が広がっていくし、よく書けてると思います。訳もとても読みやすかった。みごとです。ここに書かれている生活はとてもハードなんだけど、ユーモアがあるから決して重たくなく、気持ちよく読めました。よく考えると、追いはぎをのぞくと悪人も出てこないんですよね。これは青磁の話ですが、今までけっこう好きで自分でも見ていた青磁の器にこういう秘密があるってはじめて知りました。象嵌っていうのはすごい技法で、それが作り出された時に舞台を設定するというのもとてもドラマチック。思わずインターネットで青磁の写真を見直してしまいました。物語の筋や表現が特に新しいというわけではないのだけれど、いわば定番の安定感がプラスに働いていると思います。個人的には橋の下のおじいさんがとても好きです。

愁童:ぼくも、同じような感想です。韓国の文化に着いての描写も違和感なく読めた。焼きもの師夫妻の主人公に対する気持ちの近寄り方も、すぐハグハグするんじゃなくてね。少々、通俗的だけど、子どもの本て、こういうわかりやすさとハッピーエンドって大事だと思うので、『ナム・フォンの風』に比べれば、ずっといいと思った。

カーコ:人物がくっきりしていて、筋もドキドキしてとてもよかったです。弟子入りしたモギが、だんだんに焼き物のことがわかってくる過程がとてもうまく書かれていて、すごいなあと思いました。特に、99ページの、粘土の漉しのことがわかる場面。修行を積むうちに、ふっと上に行けた感じが伝わってきて、とても印象的でした。名人の師匠なのに、焼成だけは思うようにいかないというのも、人生の一面が出ていますね。モギがわからなくても考えるのが好きと言って、あれこれ考えるのがおもしろかったですね。ひとつ難を言うなら、絵がきれいすぎるかなと思いました。表紙の絵も中の絵も、貧しい感じが私はあまり感じられなかったので。

紙魚:私も、モギが粘土を漉していて、ふっと指先が全てを感じた部分では、かなり興奮しました。まるで私の指も何かに触れたかのように感じたくらい。私は、好きなことを懸命に志し、手に職つけていく話って大好きなんですよね。今、『13歳のハローワーク』(村上龍著 幻冬社)が話題になっていますが、あの本の考え方はとても大切だと思うんです。ついこの前までは、日本には、学校に行って企業に勤めることが幸せにつながるという幻想がありましたが、「好きなことを仕事にする」ことこそが、個人にとって幸せだし、国家の経済や未来のためにもなるという考え方は、大人こそが身につけるべきです。「好きなこと」を手がかりに自分の生き方を選んでいくという考え方は、モギの姿にも重なり、フィクションでもノンフィクションでも、そういうことを伝えていくって、すばらしいと思いました。

ケロ:翻訳ものだとは思わず読んでましたね。日本的だと感じたのは、おじいちゃんの教えを身にしみこませていくような感覚のせいでしょうか。何かができるようになる、修練をつんでうまくなっていく話というのは、ある意味、カタルシスになるというか、読んでいて気持ちいい。ゲームをクリアしていくのと根はいっしょなのかもしれないけれど、現実の地に足がついているところが違う。このような話は、小さい頃から好きでした。これまで青磁ってあまり変化が無く、魅力を感じなかったんですよね。すみません、という感じです。韓国で書かれたものって触感が違うかと思っていたんですけど、アメリカを経由しているからか、さらりとした触感に変わっていて読みやすいのかな。

Toot:小さな希望と絶望がくりかえされていく。それぞれの人物が、ひがんだりせず凛として書かれている。トゥルミじいさんの言葉が、作者のメッセージなのかな。おかみさんにしても、だらだらと語ってはいないのだけど、1行であらわすのがうまい。確かに、絵はきれいすぎますね。あと、タイトルは、手にとって読みたいという気持ちになりにくい。

アカシア:ストーリーの進め方は、児童文学の定石どおりで、貧乏だけど気立てのいい少年が精一杯努力をした結果幸せをつかむ。でもリアリティが感じられて、気持ちよく読めました。作者は、親の世代がアメリカに移住してきたコリアン・アメリカンですよね。扉に「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」の写真(イラストかな?)がありますけど、きっと作者はこれを韓国の美術館で見てイメージをふくらませていったんじゃないかしら。いったん物語が終わったあとで、「韓国の国宝のひとつに、高麗時代に作られた青磁の梅瓶がある。象嵌で仕上げたその美しさはほかに類がない。意匠の主役は鶴(トゥルミ)である。四十六個の丸文のひとつひとつに、のびやかに翼を広げて鶴が飛ぶ。(中略)その名を『青磁象嵌雲鶴文梅瓶』という。作り手については、なにもわかっていない。」と、作者は書いて、モギがこの作品を作ったのではないかという可能性を読者に想像させる。うまいですよね。この作品を書くにあたって作者はいろいろと調べたんでしょうけど、翻訳者も実際に韓国を訪れて細かく取材している。だから作品が嘘っぽくないし、しっかりしたリアリティに支えられている。とても好きな作品です。

トチ:翻訳がすばらしい! アカシアさんの話を聞いて、ずっと前に聞いたアラン・ガーナーの講演を思い出したの。ロシア語の翻訳者がガーナーのイギリスの自宅に来たとき、「〜〜という木はどんな木ですか?」ってきいたんですって。ガーナーが、近くの森に連れていって、その木を教えてあげると、翻訳者はその木に抱きついて手触りを確かめ、葉っぱの匂いをかぎ、五感でその木を知ろうとしていた。ガーナーはそれを見て、翻訳者ってこういうものなんだ、翻訳ってこんなにすごいことなんだって感激したっていうのね。ガーナーがそんな風に感激したって話を聞いて、私もまた感激しました。作品の魅力はみなさんがおっしゃったとおりすばらしいものだけど、その魅力を十二分に引き出しているのは、片岡さんの翻訳の力だとつくづく思いました。
それから、こういう職人話って私も大好きなんだけれど、児童文学にとってはとっても大切なことよね。指揮者の大町陽一郎が音楽を志したのは、子どものときに『未完成交響曲』っていう映画を見たからだっていう話を聞いたことがあるけれど、1冊の本、1本の映画が子どもにとっては未来につながる力を持っているのよね。
紙魚さんと同じように、わたしも「日本の児童文学者はなにをしてるんだ。こんなに書くことはたくさんあるのに」と思ったわ。

アカシア:日本の児童文学作家も書いてはいるけど、これだけ力のあるものは出てきてないんじゃない。

紙魚:日本の作品は、社会問題と物語が、なかなか溶けこんでいかないんですよね。物語の中で、急に「はい。ここからが問題です」という感じになり、問題提起する部分が浮いてしまう。

ペガサス:極貧の生活をしていながら、人間として豊かな生活をしていたというところが、それこそ今の日本児童文学にはない点ですね。そうそう、疑問に思ったのは、「モギ」って何語?

一同:韓国語でしょ。「きくらげ」っていう意味の。11ページにそう書いてある。

ペガサス:原書だと、”tree ear”ってなってるので。じゃあ、訳す時に日本語でなく、韓国語にしたのね。トゥルミじいさんも原書では"crane man"だけど、日本語の「鶴」ではなく韓国語のトゥルミにしている。主人公の名前が「きくらげ」だと変だからかしら。あとね、青磁とか象嵌とかって、子どもにはよくわからないと思うので、絵を扉だけでなく他にも入れたほうがいいと思う。それから韓国と日本の位置関係がわかる地図も入れたほうが子どもにはわかりやすい。

トチ:コリアン・ジャパニーズの子にとっても、力になる本よね。

ペガサス:私ね、サブタイトルに「ちいさな焼きもの師」ってあるから、いつモギが焼くのか、焼くのかと思ってたのね。だから、あ、ここで終わってしまうのかという感じだった。焼きもの師になる前の話だからこのサブタイトルは少し違うよね。それからキムチの入ったお弁当がとてもおいしそうだった。白いご飯と赤いキムチと干物、それに箸がわたしてあって。このお弁当は印象的だった。

紙魚:モギが半分残しておいたお弁当を、おかみさんが毎日いっぱいにしてあげますよね。あそこの部分を読んだとき、ふと、今の我々の日常に、相手に見返りを望まないで何かをするという気持ちが、薄れてきているのではと感じました。すっかりギブ&テイクが当然という風潮になっているような。

アカシア:サブタイトルだけど、日本語の「焼きもの師」っていうのは陶工のことだから、必ずしも焼かなくてもいいのよ。それから、表紙の絵の服装が貧乏な子に見えないという意見が出たけど、私はこれでいいと思うの。だって、親方の代理で偉い人に会いにいくんだから、いい服を着てて当然なのよ。


上橋菜穂子『狐笛のかなた』

狐笛のかなた

愁童:すごくおもしろかったです。上橋さんってすごくうまいと思うんだけど、「守り人」シリーズだと、主人公が人間で、その生き方や苦悩がしっかり書き込まれているのに、この作品はそういう要素が希薄になってきている。お話としてはとても面白いだけに、なんかもどかしさを感じた。こういう方向に行っちゃうのかなって、ちょっと寂しい思いもしました。

カーコ:一気に読みたくなる作品でした。構成もストーリーもうまいですね。「守り人」シリーズの中の1冊を前にこの会で読んだときは、どこか物足りなさがあったのですが、こっちの方が、ひとつの作品として緻密に組まれている気がしました。それと、独特の表現が随所にあるでしょう。作者の文体が匂ってくるようで、翻訳ものにない味わいがありました。上橋さんが「日本児童文学」2003年11月号に、遥かな神話的過去を思うこと、遠くを見やることが、「時」と「世界」を見ること、「何か大きなもの」の中で生きている、小さな自分に気づくことにつながる、というようなことを書いていらっしゃって、なるほどなあと思いました。この物語には、女性的な強さを感じました。運命を変えていこうというよりは、運命を受け入れながらたくましく生き抜いていく。ひとつ気になったのは、「桜の花の香りがして」ってあったんですけど、桜の花って香るものですか。

トチ:匂い桜っていうのがあるのよね。

カーコ:あと、イラストの使い方がよかったですね。作品のイメージを限定せず、じょうずにふくらませてくれて。

ケロ:ファンタジーで、もともと力を持っている者がそれを自覚していく物語ってありますよね。これも小夜がそうなんだけど、持っているものに対して自分がどうしていくかというところは、獲得していく『モギ』とは対照的ですね。作者独特の語り口は、古典的な中に新しさを感じます。ドキドキハラハラしながら読んでいたら、途中からラブストーリーになりましたね。小夜のお母さんの話を含めて、女が生きていくという話になり、色が変わっていった印象を持ちました。軸がぶれたという感じではなく、楽しませてもらいましたが。最初、序章があってから地図が出てくるのは、自然でうまいなと感じました。

Toot:ふしぎな世界につれていってもらったようでした。最後は、愛するってことは命がけなんだなという感想をもちました。まず、装丁にひかれますよね。カバーと表紙の絵がちがうんですよ。タイトル文字も凝っている。もうこういう造本しかないという本ですね。人物がたくさんいるにもかかわらず、あまり途中でごちゃごちゃしないですね。上橋さんの異空間って、すごくおもしろい。

アカシア:2度目に読んだら、さらに、ああそうなのかという部分がありました。1度目は、プロットのおもしろさで読ませる部分も感じたんだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、リアリティの厚みがすごいんですよね。みんなで楽しくお花見をする場面に「ぶよが、ぷうんぷうんと、かぼそく鳴きながら目によってくる」(127ページ)とか、「蝿が現れて飛び交いはじめた」(129ページ)なんて入れてくる。竹の灯しの作り方、市の雰囲気、呪いのやり方、あわいの様子、闇の戸の繕い方なんて、いかにも目に浮かぶように書かれているし、霊的な結界が張られたところを通ると小夜の耳がぴいんと痛むところなんかも、とてもリアル。読む人も五感で感じられるように書いてある。「聞き耳」「使い魔」「葉陰」のような不思議な響きをもつ言葉と、「昼餉」「廚」「出作り小屋」「蔀戸」などの昔の暮らしの言葉があいまって、世界をつくりだしている。「霊狐」など、日本の伝説に出てくる存在もうまく登場させている。渡来人の子どもである「大朗」と「鈴」は、呪いの技ではなく魔物から身を守るオギという技しか使えないという設定もおもしろい。それから単純な善玉悪玉の図式でないのもいい。いちばんの悪役である「久那」にしても、人を殺さなければいけない定めに縛られていることが書かれている。ラブストーリーも、2度読んでみると、その過程がものすごくうまく書かれているんですよ。やっぱり9年かけて書かれたっていう重みがありますね。これまでの上橋さんは、運命は甘んじて受けるというところで終わっているんだけど、これはそれにとどまらず、定められた運命を断ち切って、自分で選び取った自由を獲得する。アニミズムの復権みたいなものも感じますね。

ペガサス:私もおもしろく読みました。作者の中に、大事にしたいシーンがいくつかあって、それをうまく物語に仕立てていったという感じ。登場人物のネーミングもうまくて、野火、影矢など、日本語のニュアンスをよく生かしている。「闇の戸」なんていう言葉にも雰囲気がある。木縄坊がとてもおもしろいキャラクターだと思ったので、最後にもう一度出てきて野火ともっとかかわってもよかったのにと残念だった。全体としては、呪者と守護者という役割に分かれているんだけど、どちらの側にも心の揺れがあって、それを描いているので共感をもって読める。たとえ霊狐であっても、あやつられているだけではないというのが、玉緒などにも表れている。2つの一族の攻防は、かなり入り組んでいるわりには、途中でわからなくなったりせずに読める。それから、私は野火は主を裏切ったからには死ぬより他ないと思って、悲しい結末になるんだなあ、と思いながら読んでいたので、こんな手があったのか、とほっとした。

むう:これも第1行目というか、最初の野火のシーンでつかまった!という感じ。とても躍動感のある風の匂いまでかげそうなシーンで、一気に引き込まれてあとはぐいぐいと筋の展開と世界のおもしろさに引っぱられて読みました。発想がおもしろいなあと思いました。「あわい」という場所や小夜が光を織るシーンや「闇の戸」とか。著者が文化人類学者でもあるから、きっとそういう蓄積がこういったイメージを裏打ちしているんだろうなあと思いながら読みました。それに、こういったおもしろい発想が、ぷつぷつと孤立して途切れているのではなく、全体としてまとまった世界になっているところに著者の力量を感じました。ちょっとしか出てこない脇役もおもしろかったです。半分天狗の木縄坊の存在なんかとってもおもしろくて、逆にあれだけしか出てこないのはずいぶん贅沢だと思いました。小夜が光を織るところでも千の眼が出てきますよね。すごく怖いイメージで、ええこれってどうなっちゃうんだろうと思ったら、小夜は呪者にならないから、あれでおしまいになっちゃう。これも贅沢というか、みごとに期待を裏切っている。それと、宮部みゆきの書いている超能力者は能力が突出していなくて等身大の人間という感じがするけれど、この本も、小夜の聞き耳の能力が突出していないのがいい。最後にどちらかが死ぬしかないと思わせておいて第3の道が出てくるあたりにも感心しました。愁童さんがおっしゃった、こういう力のある人がリアルなものを書いてほしいということも確かにあるけれど、力のある日本のファンタジーも大事だと思いました。

紙魚:『ナム・フォンの風』は、具体的な描写が少なくて、どちらかというとイメージ先行というように感じましたが、この本を読んでイメージというのは、丹念な描写の積み重ねがあってこそ浮かぶんだと改めて感じました。『ナム・フォン〜』は、イメージというより気分なんですね。ある像やイメージを読者に伝えるためには、やはり具体的な情景描写が大切で、この本はそれがとても行き届いている。だから、単なる物語舞台の箱の中で物語が動いているのではなく、この物語の外側にも地平が続いているように世界が広く感じられる。それに、物理的に説明できないことを、納得させちゃう強さがあるんですよね。映画『千と千尋の物語』以降、日本の神話的な物語世界は、外国の人にとって神秘的で、注目を集めていますが、きっとこの作品などもおもしろがられると思う。日本の創作は、このところずっと海外ファンタジーにおされてきたけれど、こんなに力がある作品もあるんですよね。

愁童:小説としては「守り人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)よりこっちの方が面白いかもしれないけれど、小夜は結局、読者とはちがった存在で、その能力は母親から受けついだという設定でしょ。ゲームのキャラ作りと同じような発想に思えて、ちょっと残念。

アカシア:でもそこは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳)といっしょなのね。ビルボは、たまたま魔力をもつ指輪を手に入れるんだけど、それを捨てることによって自由になる。小夜も自分の力を捨てて狐になることによって自由になる。あとね、霊狐なんていうのは、お稲荷さんの伝説なんかにも出てくる存在。単なる思いつきではなくて、伝承を踏まえているから、ちゃちな他の物語よりぐっと深みがある。

トチ:そういうのを伝えていくのって大事よね。私は、なにしろ「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた」っていう冒頭の一文がすばらしいと思った。日本の児童文学には、朝起きて、台所からお母さんが大根切る音が聞こえるなんていうのが多いけど、そういうのはやめてほしいですからね。先日、文楽「義経千本桜」を観たんだけど、狐の動きがすばらしかった。やっぱり日本人のDNAに入っているのかしらね。外国の人から見れば、映画『千と千尋の物語』で千が河だったというのはショックだったんでしょうけど、この物語の結末にも、きっとショックを受けると思います。キリスト教では、動物は人間より下等な存在としか見てないからね。日本人は、ラブストーリーの結末として狐になっちゃうなんていうのも、すばらしい世界にたどりついたと思うところだけど、西洋の人は現実から逃げたと思うかもね。朝日新聞の書評に、主人公がこういう社会からどう逃げたかが書かれていると説明されていたらしいけど、本当にそうなのかどうかという見方をしてもおもしろい。

アカシア:最後狐になって野を走るところも「桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地よげに駆けていった。」と書かれていて、小夜が狐の存在を選んだところを含めて、すごく肯定的なイメージですよね。キリスト教世界だったら、人間が身を落として狐になるのが幸せだとはて考えられないかもしれないけど。

トチ:いえ、最近では違う考え方も出てきていると思いますよ。

アカシア:そうか、プルマンの「ライラの冒険」シリーズも、足に木の実の車輪をつけた馬なんていう不思議な存在に高い位置をあたえてましたね。

トチ:『ナム・フォンの風』は残念ながら他の文化の紹介にとどまってましたが、児童文学も、それにとどまらず、別の価値観を提示するという時代になってきたんですね。


いしいしんじ『麦ふみクーツェ』

麦ふみクーツェ

トチ:今回読んだ本は、どちらも大きな賞の受賞作でヤングアダルト。でも、『ふたつの旅のおわりに』のほうは作者がはっきりと言っているように、明らかに十代の子どもに向けて書いている。『麦ふみクーツェ』も十代の少年が主人公だけれど、こちらのほうはどうかな?……というわけで、本を選ぶ係になった私とむうさんは、子どもに向けて書いたものと、子どもをテーマにして書いた(らしき?)ものを選びました。
 さて『麦ふみクーツェ』ですが、前に同じ作者の『ぶらんこ乗り』を読んだときに、どうもわけがわからなかったんですね。はっきり言えば、嫌いだった。この読書会でも、あまり評価は高くなかったような記憶があるんですが、読書会の外ではけっこう評価が高かった。それで、自分自身の読書力(?)がにわかに心配になり、いわば敗者復活戦といった気持ちで読みはじめました。まあ、身構えて読んだってわけ。
数ページ読んだところで、どうしてこの作者はこうも日本的なものを必死になって排除しているのかと腹が立ってきたのね。最初の舞台は漁港だけれど、漁師とか船乗りは出てこないで、水夫。縄のれんも、焼酎も、演歌も、ニシンの匂いもなし。だいたい私は、欧米ファンタジー風の事物を次々に登場させて、そういうものが好きな読者をくすぐっていくような作品が大嫌いなので、これもそうかなと思いました。それから、最初のほうではクーツェのほかには、登場人物の名前が出てこないのよね。「郵便局長さん」とかになっている。『クレーン男』(ライナー・チムニク文・絵 矢川澄子訳 パロル舎)の真似してる!なんて思っちゃって……。
 ところがところが、半分くらい読んだところから、この世界にはまっちゃったのよね(笑)。いしいしんじの作った世界にからめとられてしまった。なぜ『ぶらんこ乗り』がだめでこっちは良かったのか考えたんですけど、ひとつには『ぶらんこ〜』のイメージは寒色系で冷たい、死とか負のイメージが強かった。ところが『麦ふみクーツェ』は、海やネズミといった、暗い、ネズミ色っぽいイメージが、作者の成長につれて、麦畑や、冬の日差しを思わせる暖かいものに変わっていく、そこが良かったんだと思うの。明るい、生命力を感じさせるもので、最後をまとめている。これは主人公のアイデンティティ探しの物語ですよね。最初は自分がこの世に生まれたことに、後ろめたい、暗いものを感じていた主人公が、物語の終わりでは自分の音楽や、おじいちゃんを通じて脈々と流れている暖かい血を発見する遍歴の寓話。そう考えると、日本的なものを排除しているところも、ちょっと変てこなところも気にならなくなりました。作者は子ども向けにと意識して書いたのではないかもしれないけれど、児童文学と言えるんじゃないかな。ひとりの子どもが生きていくときには、様々な人の人生がモザイクみたいになった中を進んでいくんだなと、気障な言い方をすれば、ひとりが生きていくってことは、自分がめぐりあう様々な人の人生をも生きていくってことなんだなと思わせるような作品でした。

カーコ:この2冊は対照的でした。気づいたことは2つあって、1つは、固有名詞というのは、読者をいかに作品によりそわせるものかということ。一般名詞の名前だと、読者がその身になりきりにくいですよね。作者が、意図的に読者をつきはなし、フィクションだということを意識させて物語が進んでいく感じ。もう1つは、感覚に訴える表現の多さ。見えないこととか、音とか、匂いとかの生々しいイメージが押し寄せてくる。物語全体としては、よくまとまっているけれど、私は作品としては好きになれませんでした。いちばん気にいらなかったのは、音楽の扱い。音楽ってこんなにかんたんに身につくものじゃないだろうとか、楽器(チェロ)をこんなに粗末にしないだろうとか。音楽関係の身内がいるせいかもしれませんが。

ブラックペッパー:私、みんなが突然音痴になるというのは、ちょっとおかしいと思いました。だって音痴って歌を正しく歌えないっていうことでしょ。楽器の演奏がうまくいかないのは、一般的には音痴とは言わないのでは? それと音痴はもともとのもので、急になったりしないと思う。

トチ:変だと言い出したら、なにもかも変だよね。

カーコ:変な世界にとりこまれていきますよね。この本の奇妙さにひたりきれなければ、読み進めるのはたいへん。フィクションのおもしろさを感じたら、読み進められるのかしら。『海辺のカフカ』(村上春樹著 新潮社)を思い出しました。

Toot:タイトルからして変てこで、中身もいい意味でひきつけるものがある。でも、読みながら違和感があって地に足がついてない感じ。第三者として観劇しているようで、入りこめなかった。セールスマンのあたりからは、そそられて読んでいったのですが、それも一瞬。作品との距離感があって、ストーリーを受け入れられなかった。創作するというよりは、自分のなかの感性で書いている印象。用務員さんとか、「みどりいろ」とか、生まれかわり男とか、何を意図しているかつかめなかった。

紙魚:私はね、なんととてもよかったのです。読むと知識が増えるとか、ためになるとかではなくて、ただ読書のためだけにある本だと思って、感動しました。機知に富んでいて、ところどころで自分の目線がふっとかわる喜びを味わいました。微視的に見ていたものが、急に巨視的につかめたり。例えば、144ページの「スクラップブックのページをながめていると、そのことばどおり、独立した特殊な事件など、この世にはなにも起きていないような気がしてくる。すべての事故が、どこか遠いなにかと関連もっている。」なんて文章につきあたると、それまでバラバラだったいろいろな小さな物事が、急に列をなすように感じられるんですね。この物語では、いくつかそういう場面に遭遇し、物事の本質を一瞬垣間見るような興奮を覚えました。これって、教養小説ですよね。この、いしいさんがつくりだした世界の中では、クーツェはこうやって自分を見つけていくのだと思います。それから、音楽について、なんて気持ちよく書かれているのだろうと思いました。体が楽器だとか、コンサートホールが楽器だとか、そのつど共感しながら読みました 。読後、1つの曲を聴き終えたような静かな興奮がありました。

ブラックペッパー:今回の2冊をくらべると、印象がとってもちがっていて、『二つの旅の終わりに』は、きゅっきゅっとかたい四角の中にまた小さい四角がすきまなくぎっちりつまっているような感じ。『麦ふみクーツェ』は、形の定まらないものの中に羽のようなものがふわふわふわーっと漂っているような感じ。こちらは、私はちょっとつきあいきれないと思っちゃった。『ぶらんこ乗り』もそうだったのですが読みにくくて。出来事もオリジナリティがあるし、表現もオリジナリティがある。一般的な法則と違っているところが、私の小うるさ心を刺激するんですね。たとえば38ページの「ゆきだるま」。「ゆきだるま式におおきくなっていった」と言われたら、横に大きくなったのかとパッと思っちゃうんですけど、ここは縦に伸びているという……。こういうところで、こつんこつんとつまずいちゃってね。ふつう法則のようになっていることって一字一字読まないでするーっと行けるけど、これはその法則にぴったりこないの。予想が裏切られることになるから、読むのに時間がかかっちゃうのかなと思いました。主人公がすごく大きいのに、オーケストラに入ってから「劇団員のだれよりも背が高い」ことに気づくのもおかしい。この本の世界の法則についていけなかった。

紙魚:『二つの旅の終わりに』は、何か問題を出したら必ずおさめるという感じ。『麦ふみクーツェ』は出しっぱなしという感じ。

アカシア:私は、この本を悪い条件で読んだんですね。時間がとれなくて、寝る前に読んだの。それで、ちょっと読んでは眠ってしまったので、なかなか世界に入っていけなかった。もっと集中して読めたら、違ったかもしれないけど。波長が合えばとてもおもしろいし、波長が合わなければ最後まで入っていけない作品。ありえない話だし、登場人物の固有名詞もほとんど出てこないという意味では、『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)を思い出しました。でも、『穴』のほうがおもしろかった。セールスマンが村の人々を騙すところだけ、なぜかリアリティがありましたね。それに、おじいさんが実は大工だったということに、主人公がショックを受けるのは意外だった。

トチ:そうね。主人公が尊敬していたのはおじいちゃんの音楽の才能であって、ティンパニ奏者であったことではないものね。作者と波長の合う読者は、しっかりと書けているように思えるセールスマンの物語の部分にかえって違和感を感じるんじゃないかしら。ここは、前に聞いたことあるような、よくある話って感じだった。

むう:私は『ぶらんこ乗り』はまるでだめだったんだけど、これはよかった。かなりおもしろかったです。読んでよかったと思えた。最初の麦をふんでいるあたりが暖色系だというのもあるし、私にとって大きかったのは、異形の人ばかり登場するんだけれど、彼らがつまはじきになることなくそれぞれに居場所を見つけて生きているということ。355ページで「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ。ひとりで生きていくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」という先生のせりふがあるけれど、こんなに露骨に言うかどうかは別として、この世界全体がそういう視線で描かれている。生きてていいんだよ、というのかな。取っつきは妙な話だなと思ったけれど、ああそういう話なんだと思ったので、細かい箇所はあまり気にしないようにして読み進みました。最初は主人公の生活の真ん中にすごく大きな穴がぽっかりと開いていて、その周りで三人がそれぞれに生きていた。主人公がルーツをたどっていくことで、その大きな穴が最後はちゃんと埋まってすべてがかちゃっと収まるところに収まる。そういう意味では大団円で、読者も安心できる。それにしてもチェンバーズとは対照的で、とん たたん とん という心臓の音からして孤独で寂しい感じ。寂しいよう、寂しいよう、でも一生懸命生きてるんだよう、ということを、ひりつくようでありながら暖かい目線で書いていて、それはそれで気持ちいいのだけれど、それだけでいいんだろうかと思わなくもない。この人は、社会というか大状況をすべて捨て去ったところで人間存在を書いている。だから逆にセールスマンのところが気になったんです。その前後は社会とまるで無縁な、地に足がついていない世界で完結していたのに、そこだけ地上に降りかけたみたいだったから。あと、数学の取り上げ方はちょっと気になりました。でも、『ぶらんこ乗り』にくらべるとずっとよかったです。

すあま:最初は読みづらく、進まなくて大変でした。ただ、だんだん整理されてきて、最後にはクーツェが名前ではなくて、「ずいぶんな変わり者」っていうことがわかる。クーツェな人がたくさん出てきて、スクラップブックに貼られるのもクーツェな人で、でもその人自身は一人しかいないんだ、というようなところに落ちつくと、それはよくあるような話にも思える。わかんないままにそのまま終わるかと思っていたら、最後、けっこういろいろと説明してくれるんですね。冒頭の部分で入院していた理由も知りたくて読み進んだのですけど、想像したよりも普通に入院していたことがわかって拍子抜けした感じですね。出てくる人たちにあまりいやな人がいないから、読んでいていやな気持ちがしない。おもしろかったのか、自分が好きなのかは、いまひとつ整理できません。吹奏楽の部分で、イギリスの映画『ブラス!』を思い出しました。それから、ちょうちょおじさんの盲学校の話がおもしろかった。

カーコ:いっぷう変わった人たちのことを、差別語をつかわずに書くって、たいへんなことですよね。

むう:この本には葛藤がないですよね。人間と人間が生でぶつかり合うと時には互いに傷つけあうこともあるのだけれど、ここにはまったくといっていいほどそういう場面がない。さっきのセールスマンの挿話の違和感もそこにあるのかもしれない。あそこは本当ならその後いろいろな葛藤が起こっていいくらいのエピソードなのに、その葛藤がないから肩すかしを食らったような嘘っぽい気分になってしまう。他のところは周到に葛藤が避けられているからそういう違和感が起こらないんだけど。

ケロ:この本は、ずいぶん前に買って、そのままにしていて、夜眠れないときに出してきて読むというのを繰り返していたのですが、読むたびに拒絶される、というか、作品世界にはいっていけないものを感じていました。最初の「とん、たたん、とん」という音も、状況がよく把握できないので、よけいに入りづらかったのだと思います。一つ一つのエピソードはおもしろく読めるのですが、のめり込むという感じにはならない。なのに、最後まで読んで、涙が出てくるほどの感動があったんです。でも、その感動の正体がわからなかった。今回、『二つの旅の終わりに』と一緒にもう一度読んだら、なにか謎がとけたような気がしました。私は、この主人公が「いろいろあるけど生きていっている」ということに感動していたんだとわかったんです。

愁童:実際の「麦ふみ」って、「とん たたん とん」って音がしないけどな……。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年1月の記録)


エイダン・チェンバーズ『二つの旅の終わりに』

二つの旅の終わりに

:久しぶりにページが減っていくのが寂しくなる本でした。おもしろいので、もっとゆっくり読まないともったいない気分になりました。主人公のジェイコブのオランダでの日々と、ヘールトラウの手記が交互に出てきて、これがどんなふうに繋がっていくのか、楽しみでした。物語の最初からジェイコブの不安、苛立ちや不快感が伝わってきて、どんなお話になるのかと思ったけど、ヘールトラウの手記に惹きこまれ、156Pのディルクの農場に移るあたりから、手記だけを読んでしまった。手記だけでも、ひとつの物語として読むことができましたね。戦争から開放されると喜んだ矢先に戦争の実態を思い知る場面や、一家が巻き込まれていく様子が、映像のように浮かんできて。トンとか、助けてくるおばさんとか、出会った人たちの存在感があって、心の通い合いが伝わってきました。ジェイコブとダーンの会話の引用文のとらえかたも、おもしろかった。

すあま:去年読んだ本のなかでは、とても印象に残っています。一昨年オランダに旅行に行ったので、ジェイコブと一緒に、追体験しました。以前友人がちょうどこの作品に出てくる記念式典の時にアルネムを訪れていて、ホテルに勲章をつけた人たちがいた、と言っていたのを思い出して、その友だちにこの本をすぐに紹介しました。そんなこともあって、私にとっては個人的に興味深かった。物語が二重構造になっていて、いったいこれからどうなっていくんだろうという謎の部分があり、どんどん読んでいった。昨年末にチェンバーズが来日した時、講演会に行ったんですけど、北欧やオランダの人たちに人気があるという話がありました。

むう:私ははっきりいって苦手でした。なんかてんこ盛りで、げっぷが出そうだった。作者の思いを受け止めきれないという感じ。それと、出てくる人がともかく饒舌でしょ。恋人候補とでもしゃべるしゃべる。彼我の差を感じちゃった。ヨーロッパの人は言葉で言わなくてはわからないという思いが強いんですよね。その通りだと頭ではわかるんだけど、こっちの体力がないときに読んだせいか、すごくしんどかった。それに、ジェイコブの言葉が著者の言葉に聞こえて来ちゃって。あんまり好きじゃないんですよね、ジェイコブが。この人の本を読んで若い人がいろいろなことを考えさせられるという感想を持つのは納得できます。たしかにいろいろな問題が扱われていて、それもオープンエンドになっているから、いろいろなことを考えるきっかけになる。この本は構造がダブルになっていて、しかも現代のほうにはホットな問題が山盛り。「人間には過去もけっして無縁でないし、今生きていくこと自体じつに大変なんだ」というのはよくわかる。でもあまりに問題が多いから印象が拡散している。たいへん誠実な本だとは思うんですが。ところで、日本には、こういうふうに社会的な存在としての人間を書いた本は何があるのかな。それと、原題は「緩衝地帯からのハガキ」じゃないですか。それが訳書では『二つの旅の終わりに』となっている。それと、訳書で章タイトルが「ジェイコブ」となっているところは、原書では「ハガキ」となっている。このあたりはどうなんだろうなあと思いました。チェンバースさんの講演会に行って、作者のすごさ、誠実さを感じて、この本が今回課題になったのをきっかけに著書を3冊も読んだんですけど、たとえば『おれの墓で踊れ』と比べても、これが最高峰という感じは受けませんでした。

カーコ:「ハガキ」とか「ポストカード」となっていたら、もう少しジェイコブのほうに、読者の目線がいったかもしれませんね。

:でも、あんまりジェイコブって魅力的じゃないのよね。

アカシア:すごい本なんだけど、ふつうの中学生とか高校生に読ませるのは難しいんじゃないかしら。確かに緻密で骨が太いんだけど、ユーモアがないと思ったの。子どもの本だったらユーモアがほしい。原書は、もっと文体に変化があるし、緩急があるんじゃないかな。オランダ人のしゃべる英語も、いかにも文法に忠実な外国人の英語という感じで、そこはかとないユーモアがある。イギリス人の子どもが読んだほうが、おもしろいのかもしれない。

トチ:最初の章で、ジェイコブがアムステルダムのカフェに入っていくところなど、原文で読むともっと軽い感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:タイトルから真面目な本なんだと思って読み始めたら、イケイケ青春ものっぽくなってきて、「よしっ」と思ったら戦争の話で、やっぱりそうよね……と思った。ヘールトラウと祖父の間に子どもが生まれてたことも、やっぱりとは思うものの、それもよしよしという感じで、満足感がありました。ぎっちり中身がつまってるけど、重たすぎるということはなくて、いやではなかった。ただちょっと、これはどうなのかなと思ったのは、17歳の男の子が、アンネ・フランクを恋人のように思ってること。それから、おじいさんのジェイコブの死が突然すぎる。まあ、戦場で死んでは遺品が残らないけど。あと、ダーンは両刀で、そうか、両刀はやっぱりカッコいいのかとか。でもね、全体としては、満足。

紙魚:『麦ふみクーツェ』が「生きる」ことを書いた作品ならば、『二つの旅の終わりに』は「よく生きる」ことを書いた作品。少し長く生きた人が、次の世代や、次の世界に対して持つ「願い」のようなものがこめられていて、それがいいなと思いました。児童文学って、やはりそういうものがあってほしい。しかも、とてもこの作家はきちんとした人なので、尊厳死とか、同性愛だとか、生きるうえで考えるべきことを、ちゃんと物語の中に組み込んでいる。ただ、それがなんだか「はい、ここで問題です」と言われているような感じもしなくはありません。先に読んだ『麦ふみクーツェ』に、あまりにも人が生きる熱を感じてしまったので特に、この本にそういった空気を感じましたね。しかも、とっても配慮がゆきとどいているんですね。たとえば、165ページの「オランダにもナチスがあったという事実」なんていうのは、非常に配慮を感じます。お手本のような作品です。それから、17歳という年齢設定は違和感を覚えますが。自分が何を好きなのか、自分が何者であるかまだわからない少年の心の動きは、よく書けていると思いました。

アカシア:「オランダのナチス」の部分は原書と少し違って、日本の読者のためにわかりやすくしたんだと思う。

Toot:『麦ふみクーツェ』は、今生きている人。『二つの旅の終わりに』は、生きることを振りかえった人。やっぱり、ヘールトラウが胸にしまっておけないところが小説になっていると思う。途中からは、手記の方に興味が出てきて、ジェイコブの方は軽く斜め読みしてしまった。これは、児童文学にあてはめないほうがいいんじゃないかな。

カーコ:私は生真面目な性格なので(笑)、好きでした。読み応えがある作品。夫婦のあり方の問題、戦争の問題、性の問題、安楽死の問題など、たくさんの問題を投げかけますよね。ダーンのおばあさんが戦争中にこういう体験をしていることを提示しているのも、モラルどおりにならない、生きることの複雑さが見えて、いいなあと思った。あと、会話がうまいですね。会話をしながら、話題が変化していくでしょう。例えばジェイコブとアルマとの会話。どこに行きつくんだろうという感じがあって、確かに会話ってそうだなと感心しました。高校生くらいで読んでほしい、手渡したい本ですね。どうでもいいばかりじゃない、人生には大事なことがあるんだよと、考えさせられる。それにしては、装丁が子どもっぽいかな。高校生が自分で買うようなつくりにしてほしかったですね。

アカシア:チェンバーズさんとしては、中学生くらいから読んでほしいのよね。

カーコ:でも、日本の中学生にはどうでしょう。長いけれど、最後に物語がどこに行きつくのか気になって、読めました。これぞリアリティって本。

トチ:チェンバーズは、書く前の下調べにとても時間をかけるという話を聞いたことがあるのね。だから、ヘールトラウの話を書くにあたっても、オランダの女性からどっさり話を聞いたんじゃないかしら。その事実の重みも感じられて、ヘールトラウの告白のほうは、ぐいぐい引き込まれて読みました。女性の生理的な衝動や感じ方がよく書けていると世界各国の読者から言われるということだけど、私もそう思いました。407ページの「人は、なぜこうも、告白せずにはいられないのでしょうか・・・・」という下りも——作者自身日本での講演で引用したところを見ると、とても気に入っているんでしょうけど——とても美しい個所だと思ったし。ところが、ジェイコブの章になると、あまりにも盛りだくさんで、どうも人物も物語も立ち上がってこないのよね。混沌としていて。
でも、この作品で私がいちばん感動したのは、「どうしても自分はこれを子どもたちに語りたい」という、作者の志の高さ。これはロバート・ウェストールの『弟の戦争』(徳間書店)でも感じたことですけど。作者は自分の語りたいことを子どもに伝えるにはどういう手法が良いか考えぬいたすえに、現代と過去をつなぐためにこういう語り口を使ったのよね。内容ももちろんだけど、手法そのものに作者の熱い気持ちを感じる。『麦ふみクーツェ』もすばらしいけれど、社会的な存在としての人間を描く、こういった大きな作品も児童文学には無くてはならないものだとつくづく思いました。

ケロ:『二つの旅の終わりに』の中で、『過去』の話の方にみなさんどうしてもひかれるのは、戦時下という状況はある意味とてもわかりやすい価値観があるからでしょう。いつまで生きられるかわからない、という中で巡り会った二人は、他の状況に左右されない強さを持つし、説得力もある。それに対して、現代にはいろいろな問題があって、混沌としている。その中で、若者はどれを選ぶか、どう生きるか、つねに選択を迫られている。『現代』の方の描き方が盛りだくさんすぎるという意見がありましたが、それだけ混沌として「おまえはどうなの?」と問いつめられる脅迫観念があることが伝わるので、対照的で良いのではないかと思いました。それから、一度も出てこなかった「おばあちゃん」に、会ってみたかったですね。読んでいてもはっとしましたが、たしかにこのおばあちゃんは知っていたのではないかな? などと思ったので、(おそらくカッコいいであろう)本人に登場して一語りしてほしかったです。
【】


廣畑澄人『笑わっしょんなあ』

笑わっしょんなあ

アサギ:私ね、作品をいいとか悪いとかいうまえに、こういうお笑いの世界が理解できないの。お笑いは「きらい」だというと、うちの子どもたちは、「それは、わからないってことだよ」って言うの。だから、テーマが非常に遠くて公正に評価できなかったような気がする。さーっと読めちゃうけど、感銘を受けたわけではない。私は関西とまったく接点がないしね。それにしても、こんなにルビが必要なのかしらね。

紙魚:まず、笑いって、文章で表現するのって難しいですよね。おもしろい! というところまでは、残念ながら行きませんでした。ちょっと時代的に古い気がします。今の子どもたちにとっては、漫才ってもう古典に近い感覚だと思うんです。子どもたちを振り向かせるには、今のバラエティ番組の笑いを、書くか書かないかは別として、もうちょっと研究してほしいなと思いました。それから、高砂が、主人公のコネを使ってオーディションに受かろうとするところは、あまり好きになれませんでした。私、好きなものや好きなことに向かって進んでいくのって、すてきなことだし、実際の子どもたちもそうしてほしいなと思うのですが、できれば、自分の力で好きなことをつかみとっていくという姿勢を見せたいと思う。

カーコ:図書館司書の人に薦められて手にとりました。『笑わっしょんなあ』は「笑わせるなー」という意味ですよね。今の子どもたちが自分の将来を考えていくために、どんな物語があるかなって考えることがあるんですが、この本はそういうきっかけになる本の1つかなと思います。簡単すぎるかもしれないけれど、何かのきっかけで1つのことにうち込んでいくというのがよかった。お母さんとお父さんの関係、兄姉の関係が、昔風だけどやわらかというか、ゆるやかにつながっている家族像があって、両親が見守っている感じもいい。こういう日常の物語は、読む子はけっこう読んで日々の栄養にしていくと思うので、書き手の方にがんばってほしいですね。私は関西育ちだから、ぱっと読めますが、関東の人はどうでしょうね?

むう:私はずっと関西にいたので、違和感なかったです。ごくふつうの人が笑いをとりにいくという感じは、とてもよくわかる。ありそうだなと思いながら読んでいました。ただ、なんとなくお行儀がいいというのかな、おさまっている感じがしました。作者の意図とかそういう枠を超えてあふれ出すものが感じられない。児童文学としておさまりかえっているような。あちこちに、日本語として変だな、という違和感がありました。それにしても、『ビート・キッズ』(風野潮作 講談社)もそうだけど、関西弁というのは独特のノリがあって、それだけで感じががらっと変わってしまうんですね。

:私は、けっこうすいすいとおもしろく読みました。大阪ってボケとツッコミの世界。こんなしゃべり方は普段からしてるんだろうし、物語の流れも自然で、お父さんとの距離もよかった。「コネを使わないほうが」っていう意見もあったけど、夢のためなら、のしあがるためなら、手段を選ばずというのはよくわかった。コンビ別れするときも、コーンさんと組むためにあっさりバイバイするのも、この二人の熱の違いがわかって、その後の二人の近づき方を楽しめながら読めた。それから、学校の先生がおもしろかった。

トチ:昔だったら映画俳優に憧れていたところを、いまの子どもたちは「お笑い芸人」に憧れる。そこをテーマにしているところはおもしろいと思いました。ただ、お笑いがテーマなのに文体が生真面目で、重苦しくって、ちっとも笑えないのよね。「児文協的」っていうか。物語って最初の1行がとっても大切だと思うのに、主人公が朝起きたときからじわじわっと始まっていく。エイダン・チェンバーズは、いかに書くかということはテーマと同じくらい大切だから、この内容をどういう書き方で書くか、1つの作品について5年くらい考え、それぞれ違う文体や構成で書くって言ってる。そういうことって、とっても大事だと思うのよね。お笑いの世界を書くなら、それなりの文体や、手法があるんじゃないかな。
もう1つひっかかったのは、主人公が2世議員みたいにお笑いの世界に強力なコネのある子だってこと。なんかフェアじゃない気がする。もうひとりの、コネなんか何もない、ハングリーな子のほうを主人公にしてもらいたかった。
関西のお笑いの世界って独特の歴史があると思うんだけど、そこのところを書き込んでいってくれれば、もっと深いものになったんじゃないかしら。そこは残念。1つの職業についての話って、大人にも子どもにも興味のあることだし、特に子どもの本には大切な要素だと思うのよね。後書きの「横山やすし」だけじゃ物足りない。関西弁については、特に気になりませんでした。

アカシア:けっこう軽快に読んだんですけど、いちばん気になったのは、充がどうして漫才をやりたいのか動機や理由が書いてなかったこと。そこが原動力になって、まわりが動いていくんだろうのに。私は、望のコネは気にならなかった。『笑わっしょんなあ』っていうタイトル、東京人にはアクセントわからないから言いにくいし覚えにくかったけど、関西の人はそうでもないの? 図書館で借りようとしても、正確なタイトル思い出せなくて。あと、挿絵描いてる佐藤真紀子さんは、『バッテリー』(あさのあつこ作  教育画劇)にも描いてた人ですよね。違う人のほうが、この作品には合ってるんじゃないかな、と思いました。

ケロ:漫才とかお笑いとかのコンビを組んで友情をあたためあうって、パターンとしてあると思うんですね。書きやすいモチーフでいろんな人が書いているけど、そのなかで、この本がどういうふうにいいのかはわからなかった。ただ主人公がまじめでいい子だなという感じはするんだけど、お笑いがもつ力が出てなくて、平坦な印象でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


カール・ハイアセン『HOOT』

HOOT

トチ:前から読みたいなと思ってた本で、読んだらおもしろかったです。「週刊朝日」でミステリーって紹介されてたから、その印象が災いして、誰かが殺されるのかなーなんて思いながら読んだんだけど、フクロウがどうなるかというスリルと、女子プロみたいな女の子がどうなるのかなんて、ミステリータッチでおもしろかったです。あと、こういうフクロウがいるんだなってわかっただけでも、得した気分。ただし、これは途中までの感想。謎の少年の正体がわかってからは、もういかにもアメリカ的っていうか、荒っぽい展開で、「こうなるんだろうな」と思ったとおりの結末でした。

アサギ:ストーリーが次々と展開するので、どんどん読めたんだけど、好きじゃないの。アメリカの作品のなかで、好かないタイプのグループに入っているの。風土がわかっていないというのもあるんだろうけれど。なんだかざらりとした感覚があった。理屈じゃなくて生理的に好きじゃないな、こういうの。主人公のロイは150センチでアメリカならとても小さい。小さい者が活躍するっていうステレオタイプみたいで、好感がもてない。まず、「主な登場人物」欄がよくない。ダナ・マザーソンの紹介に「頭がよくない」って書いてある。「勉強がきらい」とか「劣等生」とかって、もっと書きようがあるじゃない。

ペガサス:アメリカ的にすごく大げさにしているんじゃない? おもしろかったのはおもしろかったんだけど、この本、すごい前宣伝だったでしょ。JRの吊広告まであったのよ。『トラベリングパンツ』『セカンドサマー』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)といっしょにね。子どもの本でここまでするんだなーとびっくりした。だからとても期待して読んだんだけど、「アメリカからすごい本がやってきた」というほどすごいとは思わなかった。おもしろいと思ったのは、とにかく対比の妙を強調するところ。主人公はとにかく目立ちたくないと思ってるのに、まわりの人物がどれも強烈な個性の持主だというところがユニーク。主人公の家庭、ダナの家庭、マレットとベアトリスの家庭と、3つの家庭と親子関係が見えてきて、いろいろ考えさせる。巡査と上司、チャック・マックルの怒ってる場面とか、極端なところがおもしろい。エディ・マーフィーの映画みたいなノリよね。「走る少年」を何だろうと思わせるところもうまい。結局「走る少年」が何だったのかは、今ひとつ腑に落ちないけれどね。

トチ:これぐらいの本だったら『穴』を読める子どもにもすらすら読めるのに、近所の図書館には大人の本の棚に置いてあったわ。

アカシア:中学生になると、子どもの本のコーナーには行かないから、大人の棚でいいんじゃないの。

紙魚:装丁の魅力ほどには、おもしろくなかったです。登場人物はみんなデフォルメされていて、いまひとつ体温がないし、物語ものれなかった。でも、なんだか売れていそう。どういう人たちが、読んでいるんでしょう?

カーコ:構成も筋運びもうまいなあと思ったけれど、心に残りませんでした。ひとりひとり人物に特徴があって興味深いし、主人公の物語と、ドジな巡査の物語など、いくつかの旋律で物語をひっぱっていくのもうまいし、フクロウや環境アセスメントといった話題性もあり、次々読まされるけれど、おもしろいエンターテイメント映画を見ているみたいな感じ。それと、私は主人公と両親の関係がずっとつかみきれなくて、両者の距離に違和感をおぼえてしまいました。268ページの「両親がおやすみをいいにきたとき〜かたい絆で結ばれている」みたいな内向的な家族が、アメリカの家族像なのかなと疑問でした。フィクションとしては、マレットもおもしろいし、うまい。でも、ダナをおとしいれるところは、好きになれませんでしたね。

ケロ:この厚さでソフトカバーというのが、本の内容そのまま。ひとつの事件が解決するんだけど、それによって主人公が変わったかな。そういうのを期待しちゃいけない本なのかな。大人向けのミステリー作家だからなのか、あんまりいい子ども像がなくて、むしろ大人の描き方がおもしろい。最後の方で出てくるキンバリー・ルー・ディクソンも売名行為をしたり、端役がおもしろかった。あと、この出版社のヤングアダルト作品への力の入れようはすごいですね。ヤングアダルトというのは、子どもも大人も読んでくれるという意味で、市場があるのでしょうか? それとも中途半端になってしまうのでしょうか?

アサギ:大人の読書力が落ちてるってことかしら?

:最近、大人の小説書いてる人が子どもを書いた作品も多いですよね。

ケロ:子どもがおもしろいからなのかな? 子どもが生きにくいからなのかな?

むう:海外の本屋さんで山積みになっていて、装丁がすごく目立っていたので、一度は素通りしたんだけど、やっぱり気になって思わず原書を買ってしまったんです。作者のHPを見ても、すごい人気だと書かれていました。ハリウッドの映画にありますよね、すごくおもしろくてすごくドキドキさせるんだけど、見終わってしまったらそれでおしまいという映画。そういう感じですね。この人は職人的にとてもうまい人だから、綿密に構成されているし、いろいろとゆきとどいている。だからすらすらと読めちゃうんだけど、別に後に何かが残るわけではない。それと、この話には、ネイティブとか黒人とかが出てこなくて、話が白人の中で終始している。一昔前のぴかぴか冷蔵庫にカラーテレビ、お母さんは朝ご飯のときから小さな真珠の首飾りをして……という型にはまった憧れのアメリカを連想させる雰囲気がある。環境の話も特に深まっているわけでなく、トレンドなので使ってみましたというレベルを出ていない。全体として軽いエンターテイメントだと思います。職人芸としてのうまさがある人だから、たとえばアン・ファインみたいにこれに中身がしっかり入ったらすごいものになるんじゃないかと思います。残念。

アサギ:原書と翻訳の感じは違うの?

むう:わりと同じ感じでしたよ。軽くて。受けた印象はきちっと重なってます。カーコさんが言ってた「家族」像も同じイメージです。これで、作者にちゃんと言いたいことがあれば、おもしろかったと思うんだけど。やっぱり大人向けのミステリー作家の作品ということなんでしょうね。この本に出会って、子どもの何かが変わるという本ではない。

アカシア:私も期待して読んだんだけど、あんまりおもしろくなかった。ロイが親に心配かけないでいたいというような人物造形はおもしろかったけど。最後のところなんかも、イメージとしてはいいんだけど、環境問題でこんなに簡単に村の人たちが勝利するわけないじゃないですか。その辺は、こんなの読んで感動してちゃいけないよな、と思ったわね。でも「走る男の子」ってリアルじゃないわけだし、作者は環境問題にしてもわざとリアリティから距離をおいているのかしら? それと、ダナは最初から最後までデブの悪役として書かれてて、しかも無実の罪で少年院に入ってるわけでしょ。児童文学の作家だったら、この子を見捨てたままでは終わらないでしょうね。後味悪い。やっぱり、この人は大人の本の作家なんですね。本好きな人は読まないだろうなと思ってたら、ある図書館司書が推薦していたので、認識をあらたにしました。

きょん:私も、アメリカンな感じは苦手です。全体的には、文章がテンポよくてスムーズに読み進めましたが、この「テンポよくスムーズ」な文章が、軽すぎて苦手です。ワニが出てきたり蛇が出てきたり、仕掛けがあって、おもしろいのかもしれませんが、主人公がなかなか生き生きと動き出さなかったのが、物足りなかった。ベアトリスが出てきてやっと動き出したところで、タイムリミットとなってしまい、まだ読むのが途中です。


スーザン・クーパー『影の王』

影の王

トチ:これは、私の大好きな作品。今回、読み直してみても、やっぱりおもしろかった。スーザン・クーパーの夫って俳優だし、本人もすごくお芝居が好きなんでしょうね。作者の芝居に対する熱い気持ちが行間から感じ取れるような作品でした。ストーリー自体もおもしろいんだけど、シェイクスピアの時代のロンドンの描写とか、お芝居の演技のしかたとか、細かく書き込んであって、少しづつどこをかじっても美味しい。本当に好きなことを物語に書くって、素晴らしいことよね。それに比べると、『笑わっしょんなあ』の作者は、本当に漫才が好きなのかな?

きょん:タイムトラベルファンタジーなのに、ナットが過去に行ったとき、あまりもすんなり入ってしまったのが気になりました。突然過去に飛んでしまったら、もっととまどったり、びっくりしたりすると思うのですが、その辺のリアリティがなかった。時代や街の描写などは、ちゃんと書きこまれていたので、目にうかぶようで心地よく、シェイクスピアのところに下宿してからは、より生き生きし始める。また、ナットの気持ちが、とても良く伝わってきて、この時代にいつまでいられるかわからないという不安感や、切なさが良く描けていて、おもしろかったです。

アカシア:私も2度読んだんですが、2度ともおもしろかった。でも日本の中学生くらいだと、バーベッジの存在もあまり知らないし、時代背景にもなじみがないので、どうなんでしょうね? 『夏の夜の夢』も出てくるし、シェイピクスピアを知ってる大学生が読んだら、とってもおもしろい。最後にアービーがナットに話をするところで、なるほどそういうことが言いたかったんだな、って納得できるし。ただ、シェイクスピアゆかりの地名の日本語表記がところどころ違ってるのは気になりましたね。

:『夏の夜の夢』のストーリーを知らずに読むのはつまらないだろうなと思いました。ナットより未来に来ちゃった子のほうが驚くんじゃないかと思うけど、それは書かれてなかったわね。

トチ:でも、頭を洗うのはいやがってたわよ。

ペガサス:ペストで面会謝絶だったから、驚いてたとしても誰も気づかないのよ。

むう:今回の本なかでいちばん心に残った作品です。原書の表紙はずいぶん不気味だったんですけれど、翻訳はずいぶん感じが違いますね。それにしても、向こうの人ってこの時代が好きなのかなあ。けっこうこの時代を書いた作品が多い。最近もフリークショーを扱った本が出たみたいですし。でもそれって、日本だと大人が読んですごくおもしろいという部分だと思うんです。向こうの子どもなら、今のロンドンを知っていて、それとの対比でおもしろいと思ったりするのかもしれない。だけど、日本ではシェイクスピアにもロンドンにもそれほどなじんでいない子が多いから、今を知ってるから昔もおもしろいという読み方ができないでしょ。そこはちょっと心配です。それにしても、主人公の受けてきた傷がきちんと書かれているし、アービーやシェイクスピアといったさまざまな「父親」と出会うことでその傷を乗り越えていく過程がきちんと書かれていて説得力があるし、それでいてアービーがいったい誰だったのか、タイムスリップがどうして起こったのかというあたりを説明しきらずに最後まで謎を残しておくあたりは、じつにみごと。思わずじーんと来てしまいました。
もうひとつ、最初の入りがとても気に入りました。演劇の世界へさっと読者をさらっていく手際の良さ。演出家であるアービーが絶対的な存在としてひっぱっていくというあたりも最初にちゃんと書かれていて、物語の入り口がしっかりしている。ここですっと入れたから、あとはほとんど一気で、最後の謎めいた終わり方に、あらためて「やるなあ!」と感心して本を閉じたといったところです。結末がわかっていても、もう一度読みたくなる本ですね。

ケロ:構成がみごと。最後にかちっとはまる感じもみごと。最初読んだときは、とっつきにくかったんですね。劇団がファミリーだとか、ふたりの先輩が劇団のなかでどういう位置付けなのかとか、つかみづらかった。むしろ大人が読むものなのかな? 男の子が内面にいろいろ感じながらパックを演じているのも伝わってくる。『影の王』という書名はわかりにくくないですか? シェイピクスピア的な存在って、日本では何でしょうね。

カーコ:古典なら、たとえば光源氏がさまざまな形で書かれていますよね。私も今回読むのは2回目でしたが、とてもよかったです。前に児童文学の研究をしている人が、「子どもの本には、人類の文化的遺産に、若い読者を導く役割がある」と言っていたのですが、この本は確かにそうですね。英語を習いはじめると、シェイクスピアって必ず出てくる題材でしょう。でも、すぐに戯曲には行けない。この本は、シェイクスピアがとても魅力的に描かれているから、へえって思うじゃないですか。芝居の部分が実によくて、客席から「その人じゃないよ。」とアドリブが出るシーンなんて最高。タイムスリップ後に平然としすぎという意見が出ましたが、私はそうは思いませんでした。みんなにばれないだろうか、このあとこの子はどうなってしまうのだろうと、サスペンスでひっぱられました。表紙は、中学生の息子の例でいえば、『HOOT』がいいって。この絵は、具体的すぎるのかも。高校生でも自然に手をのばすような装丁にしてほしかったです。

紙魚:あらすじばかりが先走る物語とちがって、じっくりと読ませてくれる本でした。単なる作家としての才能だけではなく、人間的な厚みみたいなものを感じます。というより、やはり作品って、作る人のすみずみまでの力が反映されるものなんですね。だけど、実際、子どもたちが読むかとなると、かなり難しいと思います。児童書の体裁をとっていますが、どういう人が手にとるのかな。私も絵の印象があまりよくないように思いました。

ペガサス:私も2回読んだんですが、この本って、お芝居の魅力がたっぷり描かれているのよね。400年前のセリフと今のセリフが出てくるのは、長いことロングランになっているセリフの魅力をいっているのかなと思いました。過去へのタイムファンタジーはたくさん書かれているけど、それにお芝居の魅力が加わっている。ここに出てくるセリフは、イギリスの子どもたちならみんな知っているわけよね。日本では、大学生とか、少しでもシェイクスピアをかじった人とかが読者対象なのかな。その点、イギリスの子どものほうがもっと楽しめるのは確かでしょうね。それから、気になったところがいくつかありました。27ページの「アメリカのスクールでの講習をライス・プディングとすれば、ここのはチョコレートケーキみたいなものだった」っていうのは、どういう意味かわかりにくいと思う。47ページの「シェパード・パイ」の注「羊飼いがお弁当にしたパイ」っていうのもひどいわよね。どんなパイなのか知りたいのに、これじゃちっともわからないでしょ。わざわざ注をつける意味がない。175ページの「レヴィアタン」も、リヴァイアサンだったら、そう注釈をつけるべきじゃない。あと、205ページに「かたじけのう見せてもろうたぞ」って、女王が言うところがあるんだけど、女王は「かたじけない」という言い方はしないんじゃないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年11月の記録)


金城一紀『GO』

GO

むう:おもしろかったです。すごい勢いで読んでしまったので、うまく感想がまとまらないけれど。この作家がコリアン・ジャパニーズだからこそ書けたと言うか、読み終わってまず、まいったなあと思いました。同じようなことでも、日本人が書いたら違っちゃうだろうし。差別される側に生まれついた人の作品だからこそ、存在自体で差別されるということが実感として読み手に迫ってくる。私はわりと社会問題には関心があるつもりなのだけれど、英語の本を読む関係もあって、黒人の差別のほうが目配りしやすく、在日の問題などは逆に知らないんですよね。でもその差別の重たさをぐいっとはねかえしていく力強さが気持ちよくて、そこが他の作品と違うように思いました。ドラマというのはどうしても矛盾のあるところに発生しやすいわけだけれど、そのドラマを、怨念とかによりかからず書いているところが、とても気持ちよかった。主人公が桜井と知り合ってから後は、「在日」であることをどうするんだろうというのに引っぱられて一気に読めたというのもあります。在日の人って韓国人としても認められない部分があるんですよね。アイデンティティの問題はほんとうに大変なんだろうなと思うけれど、この本にはそういう安易な同情をスカッとはね返すパワーがある。後味のいい作品だからこそ、逆に読者も読んだ後でそういう社会的なことまで考える気持ちになれそうな気がする。ともかく、「国家権力」という言葉が浮かずに日常におさまってしまう状況というのはすごいと思った。

:私は、この作品が直木賞とる前に、なんかのきっかけで読んだのね。これは情景描写がなくて、この男の子の感情のうねりだけで進んでいくのに、重くない。濃い内容なのに気分よく読めた作品。だから、直木賞をとったときはうれしかった。

トチ:本を読む前に映画の批評をどっさり読んでいたので、いまさら読んでも新鮮味がないかなと思ったのですが、どうしてどうしてとても面白かった。第一に主人公の両親をはじめ、登場人物のキャラが立ってるっていうのかしら、おもしろかった。実際に「在日」の友だちもいるし、「在日」の人と結婚した友だちもいるので、なんとなくわかったつもりになっていたけれど、知らないことがどっさりあってショックでした。ただ、私の好みとしては、最後に桜井とまた仲良くならなくてもよかったのに、と思いました。なんとなく、ここらへんが直木賞的。よりをもどさないほうが、すがすがしかったのでは?

紙魚:もうずいぶん前に出た本だし、映画化されたりして、読んでいなくてもあらすじをご存知の方もいると思うのですが、今回わざわざこの本を選んだのは、「これがカッコいい」という新しいイメージを強烈に打ち出した作品だからです。刊行時読んだとき、おもしろかったし衝撃的でしたが、今回読み直してみても、やっぱりよかったです。差別について考えましょうという姿勢じゃなくて、がつんと若者に伝わる文体、物語だったことが、よかったんだと思います。今、何をしたいのかとか、どういう大人になりたいのかっていう像が見えにくいと思うのですが、こういう新しい感じ方とか考え方が「カッコいい」んだというのが伝わってくるのって、すばらしい。若者には重要なポイントだと思う。なんだか小説に世界を変える力があるんじゃないかと感じられる。

むう:この主人公のように「在日朝鮮人」として民族学校で育つと、ときには20歳くらいでも日本語が拙いままといった人も出てくるんですよね。実際知り合いにそういう人がいたんですが。それってすごく堅い殻に閉じこもっている姿勢にも取れるけれど、そうさせるだけの差別が日本にはある。ところがこの本では厳しく差別されているという被害者意識をふりかざしてない。あくまでポジティブだから、在日ではない人、それほど社会問題に対する意識の強くない人の心にも迫ってくるんだと思う。

ペガサス:装丁の感じや映画の宣伝などから、もっとずっと熱い話だと思ってたのね。でも、ものすごく真面目で、第一印象とは違った。おもしろかったんだけど、青春小説としては、もっとユーモアがあってもいいかなと思った。リアルなところとしては、はじめて会った人と、会話をかわすわけでもないのに、空気感を感じる様子がうまく伝わってくると思った。どのシーンも印象に残るので、映画になるのもわかる。ジョンイルが死んでしまうところなんかも、三人称を使ってうまい書き方だと思った。

アカシア:私は、おもしろかった。何年か前に、アフリカ人や韓国人の文学者と「在日」の文学者が集まってシンポジウムがあったのを聞きにいったんです。アフリカの作家たちは、多くの場合母語で作品を発表することができなくて、英語やフランス語など旧宗主国の言葉で書いてるんですね。だから不自由は不自由なんだけど、自分たちの英語、自分たちのフランス語で書けば、そこら辺のへなちょこイギリス人作家やフランス人作家が書いたものよりもっと面白いものができるっていう、いわば開き直りの誇りみたいなのがある。でも「在日」の人はなかなかそういうふうに思い切ることはできないらしいし、そこに来ていた韓国の作家たちも、まず「怨」を語っていた。差別されてきた歴史を初めに言う。日本人があまりにも無知だから、そこを言わないと共通の基盤で理解しあえないからなんでしょうけど。学校で昭和史をちゃんと教えないと、日本人は国際人になんてなれっこないな、と思いましたね。でも、今の日本の若い人たちが「怨」の文学をつきつけられても、何のことやらわからないでしょうから、『GO』のような作品はありがたいな、と思いました。でも、もしかしたら、そのシンポジウムに出てた作家たちからは、金城さんも「差別への闘い」がないって批判されたりするんでしょうか?
気がついたんですけど、金城さんは、〈在日〉〈韓国人〉〈在日朝鮮人〉〈在日韓国人〉〈韓国系アメリカ人〉っていうふうに、全部カッコをつけてますね。普通の言い方では人間の本質は語れないっていう意識があるんでしょうね。日本人の女の子である桜井は、「在日」だろうとなんだろうと杉原の「その目」に惹かれているっていう設定がリアル。それから、今の日本の男の子って、どう生きたらいいかわからなくて大変だと思うんですけど、『池袋ウエスト・ゲートパーク』(石田衣良著 文芸春秋)や『GO』は、一つのロール・モデルを提供してるような気がします。ただね、どちらもちょっとマッチョ系のかっこよさだけど。
もう一つ、私は文章にユーモアがあると思いましたね。タワケ先輩のあだ名の由来とか、「ノルウェイ人になることにした」とか、「マルクスの悪口は言うな。あいつはいい奴なんだよ」とか、フフフって笑っちゃった。

ペガサス:まじめに書いてるところが逆におもしろいという感じはあったけど、私は表現におもしろいところが少ないと思ったの。お父さんのおもしろさが、映画の山崎努とは全然ちがうと思った。

トチ:窪塚もこの本の主人公とはイメージが違うわね。

アカシア:どうして『GO』という書名なんだろうと最初は思ったんですけど、読んでいるうちにわかってきました。作品のなかに「行く」という言葉が大きな意味をもつ箇所が4つくらいあった。最初は暴走族とにらみ合ったとき、タワケ先輩に「行け」と言われて独りでつっこみ、ボコボコにされるところ。そしたらタワケ先輩には「本当に行く奴があるかよ。おまえ、クルパーだな」って言われるんだけどね。二つ目はタワケ先輩との別れの場面で、タワケ先輩が姿を消す前に僕の背中に向かって「行け」と言う。三つ目は元秀(ウォンス)が「行けよ。ぶん殴るぞ。俺はおまえの生き方が気に入らねえんだ」と言うので見ると、元秀は泣き笑いのような顔をしてた、というところ。そして最後は、桜井がこれまで見たこともないような微笑みを浮かべて、僕に「行きましょう」というところ。"GO"っていうのは、作者が自分にも仲間にも向けた言葉なのかもしれませんね。

トチ:私の「在日」の友だちとか、その子どもたちはけっこう海外へ行って暮らしたりしているけど・・・・・・

アカシア:でも国籍変えれば違うんでしょうけど、日本の法律にはいろいろ制約があって入国出国ともに大変みたいですよ。

ケロ:この本は、出たころに一度読んでいたのですが、主人公と「桜井」とのことだけがイメージに残っていて、今回読んで、それ以外のところが結構重かったので、ちょっとびっくりしました。この小説が、「差別」ということを大上段に振りかざした小説でなく、若者のドラマとして読めたからでしょう。読み返してみて、あらためて私は、桜井がきらいだなと思いました。自分の名前を言わないとか、思わせぶりな態度がハナにつくし、あげく、「名前が椿? えっ、だからー?」という感じでした。こんなに桜井を嫌わなくても良いようなものだけれど、もしかしたら、杉原がカッコよすぎて、嫉妬していたのかも…(とかいって、よく考えたらわたしゃ、杉原の母親と同じくらいの年齢だぞ〜)。そのくらい、杉原はカッコよかった。カッコよすぎてこんなやついるか!というくらい。この小説の全体に流れる「カッコよく生きる」というか、「カッコいいもんさがし」っていうのは、いいですね。

ペガサス:男の子って、とにかくカッコいい男になりたい、っていうことしか考えてないのよね。

ケロ:若いときにいくつカッコいいものに触れられるかって、とても大きいですね。自分がどう生きていくかを考えるとき、とても大事なことだと思う。

ペガサス:あと、携帯電話がない恋愛小説っていいわね。新聞とペンを買って電話番号を交換するじゃない。

アカシア:連絡したくても、しないで我慢してるなんて、今はないものね。

:直接言いたくないことは携帯メールで伝えればいいしね。

アカシア:手軽にメールですませてると、結晶する恋愛なんてできないと思うけどな。

紙魚:会えない時間が愛を育てるというのに……

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)


カレン・ヘス『11の声』

11の声

トチ:内容はとても良いし感動したけれど、決して読みやすいとは言えないですね。11人という数はかなり多くて、すぐに誰が誰だかわからなくなる。ヴァージニア・ユーワー・ウルフの「バット6」(未訳)という作品も、ふたつのソフトボール・チームのメンバーの手記で構成されていて、内容はとても素晴らしいんだけど、ともかくわかりにくかった。アメリカではこういう書き方の小説が流行っているのかしら。読者がそれぞれの登場人物の語りを想像力でつないで物語を作っていくわけだから、相当の読書力がないと、なかなか理解できないでしょうね。クークラックスクランに入っていた男の子が、だんだんに変わっていくさまが、ひとつの大きな物語になっているわけよね。でも、大人の男の人たちの違いが特にはっきりしなくて、ごっちゃになってしまう。

ペガサス:写真も古いし小さいから、はっきりしないのよね。

トチ:帯には、ヘレン・ケラーとの文通なんてうたわれてるけど、手紙を受け取っただけだわよね。志は高いけれど、それに読者がついていけないという感じ。内容的には、文学的な志にしても、伝えたいことの志にしても、私みたいによき読者じゃないと、意が通じない。詩人が訳したものにはどうしても遠慮があって、訳語がどうこうとこっちも言いにくいけれど、エステルの言葉遣いに違和感があったわ。セアラも「妙な話し方」と言っているけれど。

ケロ:「いったです」とか。

アカシア:セアラは少しネジがゆるんでるっていう設定だから、わざとそういう言い方になってるんじゃないかな。

ブラックペッパー:私は、ユダヤ系だから英語が上手じゃないのかと思った。

アカシア:小さな子はすぐに上達するから、それが理由ではないんじゃない?

ペガサス:ピュアな存在には思えるけど。全体に、ちょっと芝居を見てる感じよね。最近見た新劇で、1つの場面に入れ替わり立ちかわり人が出てきて、それぞれに全然違うことを言うので最初は意味がわからないんだけど、だんだんそれが1つの事件に関係してるとわかってくるっていうのがあったの。これも、そういう感じなのよね。題名が『11の声』っていうから、ドキュメンタリー風なものを予想していたんだけど、原題はWitness。だったら、もっと初めに事件があったほうが、よかったんじゃないかな。なんなんだかよくわからなくて、行きつ戻りつ、読むのが難しかった。この時代のアメリカに興味はもったんだけど、そういう興味がなければ、子どもにおもしろいから読んでごらんとは言いにくい。子どもはおもしろいと思うかな? 英語で読むのと、翻訳書として日本の若い子が読むのでは、ずいぶん隔たりがあるように思う。試みとしてはおもしろいけど、それも作者が思っているほど日本人の私たちには届きにくいのではないかしら。

アカシア:私はすごくおもしろかった。アメリカの社会にいろんな立場の人がいるっていうのが、よくわかった。この作者は、まあいわば性善説ですよね。そして、いろんな人が1つの社会をつくらなければならない状況で、どうしていったらいいのかを複合的な視点で描いている。ひとりひとりをもう1度見ていくと、それぞれにドラマを抱えているのもわかってくる。ただ原文は口調や言い回しにそれぞれ特徴があるのかもしれないけど、日本語だけだとそれがあまり浮かび上がらないので、いちいち人物紹介と引き合わせながら読まなくちゃいけない。やっぱりそれは大変でしたね。

ペガサス:芝居ならもっとわかりやすいけど、これは浮かびあがるまでに時間がかかるじゃない。

トチ:ひとりづつ、もう一度たどって読み直してみればわかるだろうけど、通して読んでいると間違えちゃうのよ。

アカシア:たしかに子どもが読むにはしんどいかもね。高校生くらいでアメリカに興味がある子だったらおもしろいと思うけどな。

ペガサス:この写真も、アメリカの子が見ればもうちょっと特徴がわかるかもしれない。日本の子どもだって日本の大正時代の風俗だったらわかるけど、これ見せられても一人一人の特徴はわからない。そういうところがハンディだよね。

トチ:時代背景だってわかりにくいからね。あと、タイトルを変えちゃったのも問題よね。

ペガサス:いろんな声が聞こえてくるってだけじゃないのよね。

ケロ:一つのドラマとしてみたとき、もうちょっと盛り上がりがほしい気がしました。また、みなさんのおっしゃるとおり、登場人物が一人一人浮き立ってこない。写真があるのに、ジョニーはあまりいい男じゃないとか、そのくらいしかわからない。わざとわかりにくくしているのかな? でも、会話だけというのは、少し距離を置いて読めるところがあるなと思います。夫婦のボケとつっこみもおもしろいし、エステルを預かるセアラが、差別について意識していく過程もわかりやすいですね。わたしは、レアノラとフィールズさんの関係で、フィールズさんが分かっていてくれているのが感じられるところが、とても好きでした。あと、202ページで、死んだはずのジョニー・リーヴスが生き返っているかのようになっているのは、どうしたわけなのでしょう?

ブラックペッパー:「念」みたいなものかしら。

むう:この本には、KKKで実際に人を吊したり殺したりする極悪人は出てこないですよね。出てくるのはちょっと気の弱いところもあるジョニー・リーブスくらいで。

アカシア:北部が舞台なので、KKKも南部ほどしっかりした拠点がなかったんでしょうか。

ケロ:「差別する人」に特定性はなく、ごく一般の、尻馬に乗っちゃう人の集まりだってことですよね。

むう:それを書くのがうまいよね。

ケロ:だから、わざと登場人物が、わかりにくく描かれているのかな? 「一般人」ということで。

トチ:帯には「アメリカの良心」ってあるけど、ちょっときれいごとすぎるんじゃない?

アカシア:ふつうのアメリカ人のなかには、今のイラク戦争についても疑問視してる人はたくさんいると思うのね。アメリカの良心はどこにいったかと憂えてる人にとっては、こういう本にも存在価値があるんじゃない?

ブラックペッパー:最初は、この人はええっとだれだっけ、とやっていたのですが、途中から細かいのを見るのはやめて、自分のインスピレーションで読んでしまいました。全体の雰囲気とか空気がそのおかげでわかったような気がする。『GO』と共通して思うのは、「人間ってやつ……」はほんとにもう、ってことです。どうしてこんなに生きにくくしてしまうんだろう。KKKもよく知らないのだけど、その辺共通の印象を受けるってことは、パワーがあるからかな。ただ、ぐぐっと中まで入って何かもわかるというタイプの本ではないですね。

むう:ロイス・ローリーにも古い写真をもとにつくった話(『サイレントボーイ』中村浩美訳 アンドリュース・プレス)がありますね。古い写真は作家の創作意欲を刺激するのかもしれないけれど、子どもが読むとなるとちょっとしんどいかな。

ブラックペッパー:あんまりつきつめなければ、読めちゃうかも。理解度は低いかもしれないけど。

むう:なんといったらいいのか、この本には自信満々の悪という人間がほとんど出てこなくて、それでいて悪いほうにぐっとうねっていき、すれすれの所まで行くかと思うと、そこから立ち直る。その流れをきちんと描けている点が、すばらしい。別に全員が個性的だったりするわけではなく、ごく普通の人たちなのだけれど、ひとりひとりがリアリティを持った個人としての声で語っていて、そういう声がいくつも集まって大恐慌時代の小さな町の差別がらみの事件を語るから説得力がある。それと、この構成力に感心しました。翻って今のアメリカを考えたとき、ブッシュを支持してない人がたくさんいるとはいっても、マスコミを通して伝わっていることと、ここに書かれているようなアメリカの良心とはどうつながるのかなあ、と考えてしまう。もうひとつ、エステルの言葉などを見て、いったい原文はどういうふうに書かれているのだろうと、とっても気になりました。

紙魚:部分的な地図をわたされて、それをつなぎあわせて1枚の地図にしていくのがしんどい読み物ですね。バスの中で読みながら、めんどくさいながらも何度も人物紹介ページをめくっていたのですが、途中であきらめて、あまり厳密さを求めない読み方にきりかえたところ、なんだかそれぞれの差別の認識のちがいがうかびあがりました。バスの揺れも影響したんでしょうか、それがまた乗り合わせたバスの乗客たちと重なって、不思議な心地になりました。エステル・ハーシュがかわいらしくて、彼女の言葉に導かれて最後まで読んだようなものです。

アカシア:あとがきを読んでわかったんですけど、伊藤さんが最初から訳しているんじゃなくて、ほかの人が全体の下訳をしてるんですね。

トチ:翻訳って仕事は、原文を読むところから始まっていくのに……。

アカシア:下訳者がまず最初に解釈をして……

むう:いったん他の人が解釈したものをもう一度解釈することになるから、いわば重訳になってしまいますよね。
『11人の声』では、町のほとんどの人は、KKKみたいな大上段に振りかざした信念でなく、結局は自分の日常の感覚にこだわって動いていますよね。だからどうっと雪崩を打ってリンチ!とならない。雑貨屋の夫婦の場合でも、おじいさんは簡単にKKKにかぶれるけれど、おばあさんはそれまでの周囲の人との関係の中で培ってきた感覚を大事にしようとして、結局はおばあさんの路線に落ち着く。『GO』の中でも、主人公は頭でっかちにイデオロギーや運動に絡め取られるのではなく、日常を生きている個人としての実感に立脚して動いている。あのたくましさや明るさはそこから出てきてると思うんです。この2冊に共通して、社会というのは高邁な思想やなにかで動いていくのではなく、日常に根を張って地べたを這いずるように生きている人々が集まって動かしていくんだ、という視点があるような気がします。
*『11の声』の翻訳については、理論社編集部から以下のようなご指摘をいただきました。「言いたい放題」だけをお読みになって誤解なさるといけないので、こちらもお読みください。
 前回、同じカレン・ヘスのOut of the Dustを伊藤比呂美さんが訳したときにも、主人公のビリージョーと同年代ということで娘さんに下訳を(アルバイトとして)やってもらったそうです。もちろん英文読み自体は訳者本人もやっているのですが、その下訳文が日本語として青臭くてすごくおもしろく刺戟になったということがありました(といってもそこから詩人の語感でどんどん手をいれていくのですが)。そういったいきさつは、前作『ビリージョーの大地』の「あとがき」には少しくわしく書かれています。その流れがあって今回も娘さんに下訳をたのんだわけです(理論社編集部)。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年10月の記録)


石田衣良『4TEEN』

4TEEN

トチ:今回は私とカーコさんが選書の係です。『4TEEN』と『永遠の出口』は「本の雑誌」で、たしか今年上半期のベストテンの中に入ってました。この会ではいつも一般書と児童書の境目が話題になるので、そのことを考えるには最適の2冊だと思ったのね。特に『4TEEN』は作者がテレビのインタビューで「私はいつも子どもを応援したい気持ちで作品を書いている」と言っていたことと、本について語る語り口が私の考える児童文学者の語り口そのものだったことから、今回選んでみました。さて、この『4TEEN』は、文章に透明感があるし、特に過食症の少女を書いた章など、ティーンエイジャーの恋愛を描いたもののなかでも最も美しいもののひとつではないかと思いました。ただ、一篇ずつ書いたものを後で本としてまとめたせいか、最後のほうは作者の生の声が出すぎていて、いただけなかったですが……「月島」という舞台も魅力的に、よく描けていた。好きな作品ですね。

:文章がすごくうまい。エイダン・チェンバーの対談相手に石田さんと交渉中らしいんだけど、何を話させるつもりなのかしら。そんなことを考えながら、私は読者に何を期待しているのかという視点で読みました。お父さんが過失致死になっちゃうでしょ。あの辺で、読者は子どもじゃなくて大人だなと思ったんですね。だから、チェンバーズと石田さんの読者は重ならないなあと思いました。子どもたちも読める文章ではあるけれど、石田さん自身が、むちゃくちゃな青春時代を過ごしてきた人だろうから、もっともっと書けるはず。でもきちんとしすぎてる。整合性がありすぎる。心の闇みたいなものが出ていないところが物足りない。整理してしまったなかの青年記という感じがしました。自転車が届いちゃうところなんかも、日本の作家のウェットさを感じました。

カーコ:スッとおもしろく読みました。それぞれ家庭環境も性格を違うけれど、4人がどこまで行っても文句なく友達だというところに、『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ作 大嶌双恵訳 理論社)との類似性を感じました。いいとか悪いとかではなくて、現実の子どもたちを温かく見つめて描いている感じ。でも、友達の病気とか、癌のおじさんのエピソードとか、あまりにたくさんのことが起こりすぎて、おとぎ話みたいな印象がありました。このあたり、同世代の読者はどう感じるのかなと思って、中2の息子に読ませたら、「おもしろかった。現実味がある。キャラ設定がうまい。こういうやつはいそうという気がした。自分はナオトがよかった」と言うんですね。

ペガサス:おもしろかったです。表紙もいい感じ。映画の「ウォーターボーイズ」もそうだけど、男の子の世界っておもしろくて。こんな子いそうって男の子がいて、章ごとにまとまっていて、一瞬一瞬切りとった感じはうまいんだけど、全体としての方向性は弱いかなと思いました。中学生が読めば、その世代の言葉とかが描かれているので共感をよぶと思う。いちばん成功しているのは、月島の空気感がすごくよく書かれてること。

紙魚:私は、おとぎ話でいいと思います。本を読んで、多少「こんなことってないよなあ」と思っても、少しでも「生きていくのって、悪いもんじゃない。なかなかいいもんだなあ」と思えることができれば、それがいちばん大切。この本は、まさにそういう本でした。私はもともと石田衣良さんの熱狂的なファンですが、これまでの著作のなかでも、圧倒的に好きです。石田さんの小説の登場人物には、しぜんと愛着を持ってしまうのですが、その愛着が本のなかだけにとどまらず、実生活のまわりの人たちへの愛情にひろがっていくような感じになるんです。

せいうち:かつて14歳の男の子だったぼくは、単純におもしろいというよりは身につまされて辛かったです。今となっては、なんてばかばかしいことにとらわれていたんだ、と思いますけど。子どもの世界の狭さというものが書かれていたような気がします。大人は簡単に夢をもてと言うんだけど、子どもは身の丈をわかってるんですよね。子どものとき、若いときって辛かったんだということを思い出しました。俯瞰でみると、おもしろいかもしれないけど。ぼくは単純に14歳に戻った気分で読んでしまったので、本を読んでいた電車を降りるとき、不思議な感じがしましたね。今の子に向けて書いているんだろうけど、20数年前の中学生が読んでも、普遍的にわかる部分がありました。自分が14歳のときに読んでいた本と違うのは、軽みを感じたこと。昔の本は、もっと現実から遠かったですよね。その子の将来の基本、あったらいいよねという基盤をつくる本が多かったと思います。書き手が歩み寄ったんでしょうか。これで、これからは今までとは少しずつ違う人間ができていくんだろうなあ、という寂しさもありますね。

愁童:たしかに文章はいいし、読後感はさわやかだし、印象は悪くないんですけど、直木賞と言われると、ちょと物足りない感じ。地元の読書会では、『永遠の出口』は微妙な年代差を理由に共感しない女性が多かったんだけど、『4 TEEN』は好感度が高かったですね。これは、ある意味で、女性からみた理想の少年像じゃないのかな。

紙魚:たしかに、石田衣良さんって、ホストになったらすごくもてそう。女性の感情の機微をとらえてますよね。

愁童:これって、様式美みたいな感じ。実際の男の子って、もっとどろどろしたところがあったり、理由無き反抗みたいなイライラ感の中で生きてると思うんだよね。そういうの、もてあまし気味で苦労してる母親って結構いるから、これだけさわやかにぴたりと決まった少年像を提示されると、ほっとして作品への好感度は高くなるだろうね。

紙魚:直木賞受賞後の記者会見で、記者たちが、最近多発している少年犯罪についての質問を浴びせたんですが、石田さんは、「子どもたちの力を信じたい」というようなことを言ったんですね。このところ、そういうまっとうなことを言う大人がいなかったので、とても気持ちよかったです。

せいうち:ぼくは男だからか、カッコつけようとしてもカッコわるい情けなさみたいなものはわかった。

アカシア:「月の草」の章なんかはあまりリアルだとは思わなかったんだけど、敢えてカッコつけて書いたと考えれば、これもリアルなのかもしれませんね。少年たちの若い世界観や正義感、それに今いる場所からどこにもいけない不自由さなんかはよく出てる。『スタンド・バイ・ミー』(スティーヴン・キング作 山田順子訳 新潮文庫)を思い出しましたが、4人のキャラがくっきり描かれていておもしろい。

愁童:まあ、そうだけどね。ぼくは、「歌舞伎町」っていう既成のイメージによっかかって書いてるなって感じがしてね。ちょっと…。

トチ:私は子どものころ親に黙って中野から新宿のけっこうディープな界隈に冒険に行ってたから、ここで作者が「歌舞伎町」って書いた感じ、よくわかるわ。

せいうち:ぼくの場合は、奈良市から郡山市でした。

むう:『永遠の出口』より子どもの目線に近い作品だと思う。とてもおもしろく読めました。確かにおとぎ話だし、いたって好都合にできているけれど、それでいいんじゃないかと思う。今の子どもたちの思いをすくい取っているとも思うし。最初の章で重力のことをGとか、ヒットエンドランみたいな笑顔とか、私にすればとても今風の言葉がどんどん出てきて、時代に置いてきぼりを食らったようなショックを受けたけれど、読み終わってみればそういう恐れは杞憂だった。今回の3冊のなかでは、いちばんぐちゃぐちゃと考えながら読みました。4人を主人公にして章ごとに時代を象徴するトピックが盛りこまれているのに気づいて、今度はどんなトピックだろうと考えるのも楽しみでした。もともと、ひこ・田中さんの『ごめん』(偕成社)みたいに、この年代の男の子が描かれているものが好きなんです。たしかに大人にも受け入れられるきれいなところだけを集めたからこういうかたちになっているんだろうし、「十四歳の情事」なんかいかにもカッコよすぎ。でもそれはそれでいいんじゃないかと思う。必ずしも大人が子どもの全部を理解していなければいけないとは思わないし、大人が誤解していても、それはそれで幸福な誤解というのもあって、そのなかで子どもがちゃんと育つのならいいと思うから。「ぼくたちがセックスについて話すこと」の章で、同性愛者のカズヤに対して、「だってカズヤが誰を好きになるかなんて、考えたらどうでもいいことだからね」と突き放したような優しい物言いがあって、さらに最後でカズヤがバレンタインにたくさんチョコレートをもらうという落ちも気に入った。ただし、最後の「十五歳の旅」の章はいただけない。特に最後の数ページは蛇足。こういう時代があったことをいつまでも忘れないでいようなんて、今を生きている少年たちがそんなこと言うかよ、という感じ。これでそれまでのいいイメージががらがらと崩れちゃった。なんだ、大人目線の懐古趣味じゃないかって。残念です。

:私は住んでいるところが月島に近いので、それがきちんと書かれていて雰囲気がよく伝わってきた。高校生だとやめて働くような出口があるけど、中学生くらいでは、そこでしか暮らせない感じはよくわかる。さわやかすぎるかもしれないけど、それでもいいかなと気持ちよく読める。この子たちには大人との接点があまりないけど、中学生くらいって、親ってそう身近に存在してなかった。友だちと「昨日、親と何回話した?」っていう話が出て、「おはよう」しか言わなかったのを思い出したこともある。さっき、歌舞伎町が意味があるかって話になったけど、同じ本を買うのでもある街に行って買うことが大事だった時代を思い出す。

ブラックペッパー:今回の3冊はどれも読みやすかったのですが、『4TEEN』は遠くから見てる感じで、あんまりひりひりするようなものは伝わってこなかった。上手すぎて、すーっといっちゃう。たまたま、テレビの「真夜中の王国」に石田衣良氏が出ていて、司会の鴻上尚史が、「この本、事実関係でちょっとまちがってるとこがありますよね」って言ったんです。「ストリップの場面で『誰も見てない』って言ってるけど、『ひとりは見てる』でしょ」って。実際はふたり見てるんですけど、石田氏は「いいんですよ。小説は生きものですから」って答えたのが、すごくよかったんですよ。不遜な感じもなく、力が抜けてて……。ゆとりある風情でした。修行時代には、1日に3冊読むことを決めていたとか、励んでいたらしいんですけど、なんだか新しい人だなあと思いました。ところで、石田衣良の名前の由来って誰か知ってますか? 本名なの? 大島弓子の『バナナブレッドのプディング』(白泉社)に「いらいらのいら」っていうのがあって、それからとったのかと。

紙魚:たしか、本名が石平(いしだいら)さんっていうんですよね。

アサギ:朝日新聞の書評で、川上弘美がほめてたでしょう。こんな文章を書く人がいるなんて信じられないというような書き方をしていたのね。私、川上弘美が好きだから、すぐにこの本読んだんです。私ね、これは大人の書いた14歳の少年像だと思ったの。だから子どもは共感するかどうか疑問だったのね。綿矢りさの『インストール』(河出書房新社)は、17歳が17歳を書いているでしょ。あれは、私には全くわからなかった。でも、この『4TEEN』の14歳は、ずっとわかりやすかった。その違いはなんだろうと考えたんだけど。たとえば『4TEEN』は、ページを開いたときの字面だけで大人が書いたと思う。あと、さっき話題になった歌舞伎町については、私にはリアリティがあったわ。子どもの行動半径は狭いからね。ブラックペッパーさんがおっしゃった「いいんですよ」っていう話について言うと、ドイツの本も細かいところは間違いだらけなのよね。紅茶と珈琲が話の途中で入れ替わっていたりね。でも編集者は、「そんなこと本質的じゃないから」っていうのね。ドイツの読者も気にしないらしいのよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


デイヴィッド・アーモンド『ヘヴンアイズ』

ヘヴンアイズ

:フライトニング・フィクションという、読者にエモーショナルなリアクションを起こさせるジャンルでは、デイヴィッド・アーモンドは非常に評価が高いのね。ポジティブなフライトニングをもってきてるんですよね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド作 山田順子訳 東京創元社)でもそうでしたが、この作品の中でも水かきのある少女とかグランパとか、ゴシック的な要素を読者が美しいものとして捉えられるポジティブな方向にもっていっている。心のなかにハッとさせる、現実とはちがう領域をつくっている。現実の中の非現実にリアリティがある。金原さんの訳もうまい。でもいっぱい難点はあって、たとえば親から遺棄された子どもたちの施設で働くモーリーが子どもの世界をわかっていないというあたり、単純な図式ですよね。子どもの世界を美化したロマン派の児童像を踏襲している。でも、難点はあっても、私は好きな作家です。

カーコ:ふしぎな読後感のあるお話。出てくる人もふしぎだし、お話もふしぎだし。おもしろいなと思ったのは、視点の置き方。一般の人々の中で生き難くて、筏にのって冒険に出る子どもたちは、最初、自分達対大人という世界で苦しんでいるのだけれど、グランパと出会って、グランパの目で、一般の人間や世界を見ることを迫られますよね。さらに、ヘヴンアイズの独特の視線が交錯する。自分だけじゃ気づかなかった視点で、ものを見ていくでしょう。ただ、誰にでも薦められる本ではありませんね。出会うべき子が出会ったら、印象に残る作品でしょう。

ペガサス:ひとことで言えば奇妙な読後感。なんで奇妙かっていうのは、カーコさんの話を聞いてわかった。『肩胛骨は翼のなごり』もそうだけど、ほかのどの作家にもない奇妙さにオリジナリティがある。子どもだけが体験することのできる、現実なのか非現実なのかわからない状況を描くのがうまいと思う。優しくてせつないというか……。文体も奇妙で、1文が短く、一見関連性のない文が次に来ることがある。はかない雰囲気を出しているのだろうか。意図的につくられているのかな。静かな心にしみる描写がところどころにあって、どんどん読む作品というよりは、合間合間に何かを見せてくれる物語。

紙魚:感想が言いにくい物語です。ともに筏で川をくだり、へヴンアイズと時間をともに過ごした感覚が残っているような不思議な体験でした。泥がまとわりつく感じとか、非常に体感的なんですよね。その筆力がすごいなと思いました。行間にとじこめられている匂いとか空気が、とても濃厚に感じられ、読後、その世界に包まれている感触が残りました。

せいうち:ぼくは、途中までしか読めなかったので、本質をつかめていなかったのが残念。

愁童:ちょっと方向は違うけど、宮沢賢治の作品の作り方に重なる部分があるような気がした。個性的な風景描写で、その中に登場人物の内面をさりげなく投影しちゃう。泥炭地の描写もいいね。

トチ:情景描写っていうより心象風景よね。

アカシア:このへヴンアイズは、『肩胛骨は翼のなごり』のスケリッグと同じような存在として書かれているのよね。でも、隔靴掻痒観というか、しっくりこない感じがあった。たとえばこの女の子の「だねだね」っていう口調が、すごく気になったの。スケリッグと同じイメージだとしたら、「だねだね」じゃなくて、もっと透明な存在を思わせる口調じゃないのかな? 奇妙な感覚ってしっくりくれば楽しめるけど、そうじゃないと読者の気持ちを遠ざけちゃうでしょ。原書で読んだらその奇妙な部分がもっと楽しめるのかな?

むう:原書を持っていたので、照らし合わせながら読みました。ひとつにはやはり「だねだね」口調に違和感を持ったのでそれを調べたり、あと何カ所か意味がよく掴めなくてそれを原書に当たったり。「だねだね」は、原書で言葉を重ねているところをそう訳しているみたいだけれど、ちょっと甘ったれた感じになってしまっている。出来事がどんどん起こってその勢いで読ませるタイプの本なら多少の不鮮明さがあっても大丈夫だけれど、イメージでつなぐタイプの本だと、一カ所不鮮明に訳したがために全体のイメージが不鮮明になることがある。この作品はぷつぷつと切れていながらつながっていくところに味があるタイプの作品。それがアーモンドの持ち味なんだと思うけれど。これを訳すのは大変だったと思う。
 それにしても、あとがきの「ハンカチの用意を!」というのはちょっと違うと思います。『肩胛骨〜』もそうだけれど、これもひゅうひゅうと寒い感じや、汚いものが書かれているにもかかわらず透明感を感じさせる作品であって、そこが、アーモンドらしい。ハンカチが必要になるような熱いものじゃない。この人が異形の者を使うのは、この世界、つまり現実とは違うという印なのかな。『肩胛骨〜』もそうだったけれど、聖人の書き方なんかもデリケートで、現実と非現実の間をたゆたうように行ったり来たりするところがほんとうにうまい。それと、いつも縁のところにいる者に目線があっているのがいい。ただし、最後の施設に帰ってからのところはどうなのか、よくわからなかった。あくまでもあくの強い主人公の目線で書かれているということからすると、ジャニュアリーの話よりも、モーリーンがヘヴンに慰められるところなんかがよかったと思う。ともかくすごい作家だと思う分、訳のことは気になった。

ペガサス:じゃ、ヘヴンのしゃべりかたは、舌ったらずなわけじゃないのね。

むう:うん。違うと思いますよ。

:よく考えてみれば、家出して向こう側に日常の世界が見えているわけですよね。ひょっとしたら違う世界に入っていくお話かと思ったら現実になったり、妙な世界にひきこまれたり、落ち着かない気分だった。泥のべたつく感じは、読んでいてすごく伝わってきた。グランパとヘヴンアイズの関係はどうなってるの? 痴呆症っぽいおじいさんが、ヘヴンアイズを拾ったってことなのよね?

一同:うんうんうん。

:妙な空気ばかりが残ってしまったわ。

ブラックペッパー:私はこの訳はひっかからずに読めました。ヘヴンの言葉もおかしいなとは思ったけど、読めちゃった。最後はどうなるかなんてことは気にせず読む物語。強く思ったことが2つあって、コンビーフとチョコレーはもうしばらく食べなくていいな(彼らがコンビーフとチョコばかり食べてるから)っていうことと、謎を解明したくなる気持ちが強いってこと。グランパとヘヴンアイズの正体はいかに?

すあま:夢に出てきてしまいました。最初、ジャニュアリーは「いまここにはいない」と書いてあるので、死んでしまうのかとずっと気になっていました。ジャニュアリーだけは馴染めないようなので心配してたのに、最後お母さんが迎えにきたので、なんとなく拍子抜けしてしまった。ヘヴンアイズは、カッパの女の子を思い描いてしまった。魚っぽい感じかな。でも、意外ときれいに収束してしまったのが、気になりました。ふしぎな世界の話って、もやもやとしたものが残るのに、水かき以外のことはきれいに片付いちゃった。超現実のようでリアリティがある話になってしまった。

トチ:アーモンドが書いているのは、『肩胛骨は翼のなごり』(ああ、なんて変な邦訳タイトル!)にしても、この作品にしても「奇跡の物語」なんじゃないかしら。普通だったら嫌悪感をもよおす人物や物体が奇跡を起こす。『肩胛骨〜』では、それが納屋にいるホームレスのような男だし、この作品では泥の中から出た死体というわけ。だから、最後にお母さんが現れるという個所も、私は「奇跡」と考えて感動しました。未訳の『カウンティング・スターズ』なんかも素晴らしいし、どの作品も文学的価値が高く、私は大ファンなんですけれど、ファンとしてはもう少し違うテーマのものも読みたいな。あと、この作品は一人称で、女の子の目から書かれているんだけど、心象風景の部分は高度に文学的な、大人の目で書かれているのね。女の子の子どもっぽい言葉と、心象風景の大人っぽい語り口のギャップが、訳すうえでとても難しいんじゃないかな。原文を読んでないからなんとも言えないけれど、そのギャップが訳を読んでいて少しひっかかりました。冒頭の女の子の言葉なんか、そんなに子どもっぽく訳さなくてもよかったのでは? ところで、「ヘヴンアイズ」ってなんなんでしょうね? 感動しながら読んだんだけど、非キリスト教国に生まれた私には、根っこの根っこまでしっかり理解できていないのかも。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


森絵都『永遠の出口』

永遠の出口

せいうち:ぼくは森絵都さんのファンなんですけど、これは最初のほうからかなり嫌悪感があったんですね。嫌なんだけどやめられない、という……。自分の爪の臭いをかぐような感じ、というか。『4TEEN』の男の子たちと対比して、女の子たちにはこんなものすごく恐ろしい世界が拡がっていたのかと、空恐ろしくなってしまいました。男の子だっていろいろと考えてはいるんだけど、友だちの数が奇数だとか偶数だとかなんて考えたこともなかった。恋愛みたいなものも、ここまでの比重はなかったし。ある種ホラーに近いショックを受けました。日本の女の子の文化を勉強するより、イギリスの文化を勉強しているほうが違和感がないくらいです。あんな童話を書く人がこれを書いているのかと思うと……。でも、結局はいいものを読んだような気もします。

愁童:『4TEEN』はうまい演出家のお芝居を観たという感じだけど、これは作者の骨格が見えてくるような作品ですね。ある意味、ユーモア小説で、笑っちゃう。誕生日会で優位に立とうとしたら、かえって……とかね。大人が読むと笑っちゃうけど、本人たちはまじめ。その辺の人生の機微みたいなものがうまく出ていて好感を持って読みました。

アカシア:図書館で借りられなかったんで買ったんですよ。なのに、読めないほど嫌だった。私、中・高は女子校だったんですけど、いっしょに連れ立ってトイレに行くとか、誕生日にプレゼント何あげるとか、お互いに遠慮しあったり牽制しあったりとか、そういうちまちましたことにいつもうんざりしてたのね。だから、せっかく遠ざかった世界をまたつきつけられるのかと思って嫌だったんです。最後まで読めなくて途中でやめました。まあ逆に言うと、それだけリアルに思い出させるうまさ、ってことかもしれないけど。私、森絵都のほかの作品は好きなんだけどね。

むう:私もこの本は嫌でした。理由は、児童文学じゃなくて大人のノスタルジーだから。たしかに「永遠」で子どもをくくるあたりは目のつけどころがとてもいいしうまいんだけど、郷愁だというのが致命的。『樹上のゆりかご』(荻原規子著 理論社)と一緒で、きちんと功なり名遂げた大人がぐちゃぐちゃだった子どものことを、あああのころはたいへんだったなあ、とばかりにふりかえって書くというスタンスが嫌だった。もう、最後のエピローグで爆発しちゃいました。

アカシア:私はね、この作品は文章も巧くないと思ったの。陳腐な表現もいっぱい出てきてね。わざとなのかな。それに比べれば、石田衣良のほうがずっとうまい。たとえば『池袋ウエストゲートパーク』(文春文庫)には、体言止めがじゃんじゃん出てくる。体言止めの文章って、へたな人が書くと読めないんだけど、石田衣良はうまいんですよね。

むう:これ、書かなくていいところまで書きすぎてますよね。

:私はおもしろく読んだんですよ。たしか、森絵都さんは、今いる私が知っている子どもなら書けると言ってたんですよ。講演会で、万引きをしたことなども話されてたので、自分が体験したエピソードだと思って笑いながら読みました。お父さんとお母さんが微妙にすれちがっている顛末も素直に笑えた。

ブラックペッパー:私はそんなに嫌じゃなかったんです。陳腐な表現もあるんだけど、「永遠の出口」なんて、キャッチーな言葉をつくるのがうまい。そういうきらめきがあった。小学校くらいの話は自分のことを笑いすぎで、それは嫌だった。お姉さんのいやらしさは、私だったら許せん! 中学生からはよくなった。

すあま:中学生のころって、先生を絶対視してたんだけど、同窓会でクラスの人たちに会ってみると、実はみんなはそうでもなかったりすることがわかる。この本は、読みながら自分の回想ばかりをしてしまい、本がおもしろいのか、思い出すことがおもしろいのか、わからなくなってしまいました。主人公に同化するのではなく、そのときどきで気持ちが重なるところに、カチッとスイッチが入るような感じ。でも、物語としては、読んだ後に残るものがなかった。結局、この作品じゃなくて自分の物語を読んでいたんですね。佐藤多佳子とかもそうだけど、世代が近いとそれだけで読んじゃいますね。

ブラックペッパー:体験がないと身近に感じられないものばかりなんですよね。

アサギ:私はおもしろくてうまい人だなと感心したわね。私、小学生のとき、はずれていて、教師のせいもあって「クラス八分」になったのね。だからなのか、新鮮でおもしろかった。『4TEEN』では、不良は向こうの別の世界にいるって感じだったけど、この本では、ふつうに暮らしていても「枝道」に入ることがあるというリアリティを感じた。ふっと向こうへ行ってしまう境界線が印象的。ただ、ぐれた生活のなかで、性的なことが何も起こらないのは、きれいごと。「恋」のデートなんて楽しいもんじゃないというのも新鮮だった。ただ、最後の「エピローグ」はよくなかったわね。連作ものって、最後をうまく行かせようと思うので無理が生じるのよね。あと、手垢のついた表現でも、ぴたっとはまればいいんじゃないかしら?

トチ:森絵都さんは、本当に「児童文学作家」なんだなと思いました。言葉をかえれば、児童文学を書くときほど、この作品は真剣に書いてないみたい。小説版「ちびまる子ちゃん」みたいでね。すらすら読めるけど、決して傑作ではない。友達同士で、本当に辛いことは隠して、楽しいことばかり言い合うような関係みたい。わたし、今は世に名を知られるようになった人が「昔、万引きしたことあるんですよね」って懐かしそうに話するの、大嫌いなのよね。タイトルには「永遠」ってあるけれど、あんまり「永遠」がのぞけるような作品じゃない。『ヘヴンアイズ』には永遠を感じたけど。

カーコ:私もだめでした。一般の読者向けにしては、展開も文章も、やや物足りない感じもするし。こういう世界自体、わかるからよけい嫌だというのがあるのかも。私は、小中学校時代、転校を何度も経験して、地縁の壁や集団の暴力を感じて育ったから。この子の場合、最後は救いがあるけれど、ずっと苦しいじゃないですか。また、連作短編という作りから、『黄色い目の魚』(佐藤多佳子著 新潮社)を思いだしたんですが、比べると、『黄色い〜』のほうが、読み応えがある。この本の場合、章が変わると、主人公が別人のように見えることもあって、全体にばらけた感じがしました。

すあま:同じ子には思えないですよね。違う子だといわれても納得しちゃう。

ペガサス:私は、『樹上のゆりかご』の方がおもしろかったな。大人の醒めた目で子ども時代をふりかえる話だけど、自分が思い出したくないようなことを如実に思い出させるから嫌なのよね。これを読むと、ますます男の子の世界のほうがいいなと思う。中途半端な年頃の、はっきり言葉では説明しにくいような微妙な気持ちや感覚をいちいち丁寧に説明してくれてるの。そんなこと別に事をわけて説明しなくてもいいですよ、って思う。「例えば、ここに一本の木があるとしよう。」なんてふうにね。ユーモアのタイプが児童文学と違うのね。

トチ:大人の読者には新鮮に映ったのかもね。大人の文学と子どもの文学のボーダーにあるかのような作品だから。

紙魚:そうですね。今、児童文学は、一般の文芸からすごい注目を集めていますよね。子どもの本をふだん読まない人にとっては、きっと児童文学には「新しい世界」を感じられると思うんです。だた、この本は、やっぱり連載ものだからか、ぷつぷつ途切れる感じが気になりました。もっとぐっとひきこまれる物語が読みたかったかな。ただ、感覚を言いあてるのがとってもうまいし、きらめく言葉がちりばめられているので、すらすらと軽く読めました。いやーな感じを、これだけいやーに表現できるのって、やっぱりすごいと思います。忘れていた嫌な気持ちを、これでもかこれでもかと、わざわざ掘り起こされました。

すあま:子どものときって、些細なことが特に気になったりするじゃないですか。思えば、嫌なことの連続でしたよね。

カーコ:大人が懐かしむには、よくできているってことじゃないですか。

アカシア:森絵都さんにとっては、一時期の少女特有の世界が嫌なことじゃなかったのかもね。

せいうち:もっと血みどろだったら、気持ち悪くなかったかもしれませんね。

トチ:同窓会に行ったらあんまりしゃべりすぎる人がいて、「あなたばかり話してないでよ」って感じだわ。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年9月の記録)


ジェマーク・ハイウォーター『伝説の日々』

伝説の日々

アカシア:アマナが女になったり男になったりするというのはアイディアとしておもしろいんですけど、ジェンダー的には、新しい女性像を打ち出すのではなく、従来の価値観どおりの男と女を行き来するだけ。特に目新しさがないんですね。先住民と白人の相克で言うと、白人の食べているものをまずそうと書いているのがおもしろかった。

愁童:ハイウォーターはわりに好きだが、これは印象に残らなかった。切り口に新味がない。アカシアさんが言ったように、男が入りこんできたと言っても、そこで新しい価値観を提示していない。馬を駆る高揚感を描いているが、わざわざ出してくることはない。

カーコ:私は、アマナの成長物語として、北米先住民の世界観を描いた物語として、結構おもしろく読みました。慣習的な女性のあるべき姿にあてはめられるのを拒否する奔放な精神は、いろいろな作品で語られてきたテーマだと思います。新しい女性像が提示されていないと言われて、今、そうかなあとふりかえっているのですが。
それから、先住民の文化ということで言うと、訳者あとがきで、作者の希望によって、あえてあまり説明をしなかったと書いてあるように、わかりにくいところもあるのですが、それが逆にひっかかりにもなっている。名前のつけかたや、自然との向きあい方など、白人とぜんぜん違う世界を持っているのに、保留地に追いやられて、白人の世界にとりこまれていく時代のようすが興味深かったです。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


上橋菜穂子『神の守り人』

神の守り人 帰還編

:来訪編がおもしろかったので、バルサのこれまでの話も読みたくなって、1から読み始めました。おもしろいと思ったのは、バルサが30くらいの女性で、恋人がいて、師がおばあさんで……そういう人々の中にいろいろな子どもたちが関わりをもってくるところ。バルサは、悲しいものを背負っているのだが、カッコいい。

カーコ:シリーズを全部読まないといけないと思いながら、結局これしか読めなかったんですよね。第一印象として、読者を選ばないファンタジーなのかな、と思った。『アースシーの風』に比べると、こちらは格調高そうでいて、それほど深くない感じがしました。テンポがよく、文も短く、情景が次々に描かれていく。最低限のイメージを与えて、物語をつなげていくのがうまい。だから、それほど読書に慣れていない子どもたちにも読めるのかなと。私は、いろいろな物が独特な名前で呼ばれているのになじめませんでしたが。バルサとアスラについては、女でなければいけない必然性をあまり感じなかったんですよね。だから、女の物語という印象はなかった。女の子が読んだときに、女主人公のほうが身を寄せて読めるのかな? 全体として、栗本薫の『グインサーガ』シリーズ(早川書房)とイメージが重なって、私としては、それほど評価が高くなかった。

アカシア:バルサがなぜ用心棒になっているのか、そこのところを知らなければ、この作品はわからないかも。苦しみを乗り越えてきているから、バルサはアスラに心を寄せる。やはりシリーズの最初から読んでいくと、それが理解できる。文の一つ一つが、文学的に際だってすぐれているわけではないかもしれないけど、お話を作っていく構成力はすばらしいと思う。絶対的な力が目の前にあって手に入りそうなのに、人は意志の力で拒否することができるのか、というテーマは、『指輪物語』と同じですね。それを日本人作家が、エンタテイメントとして書いた作品だと思う。ハリポタのように、何でも魔法を使ってしまえ、というのではないところがいい。タンダとバルサの関係は、思わせぶりに書いていて、ちらっちらっと出てくるので、これからどうなるのかな、と読者をひっぱっていく。ハイウォーターの作品では、敵を殺すことに高揚感を感じているけれど、バルサは殺し続けることに対して、うしろめたさをいつも感じている。その辺は、新しい人物像かもしれませんね。

愁童:自分の力を維持するための努力や、他人に対する恩義といったものが、うまく書けている。人間臭さがちゃんとあるところがいいね。

アカシア:単にエンタテイメントではなくて、深い「ゆれ」のようなものが描けている。

愁童:女用心棒としての、バルサの大変さがよく書けている。説得力があるね。

アカシア:体力のない女ならではの戦い方もするのよね。

:養父との関係に折り合いをつけなければならない、というところに、せつない厳しさを感じた。アスラに接するうちに、父とのことも理解していく。とても傷つき、重いものを背負っているんだけれど、生きなければならない。そこがとっても悲しいのね。

カーコ:バルサが谷から落ちて、冷たい川に落ちても生きているところ、私はちょっと気になりましたね。

アカシア:この場面だけ見ると、ご都合主義の筋立てように思えるかもしれないけど、バルサに心を寄せていれば、生きていてよかった、と思うんじゃない?

:終わり方ですけど、アスラが死んでしまうのでなく、まだ目がさめない状態で終わらせている。このおさめかたは、よかった。

アカシア:意識を消さなければ、生きられないからだと思う。このシリーズは、文が短くて読みやすいし、本の嫌いな子にも読めるのでは?

ペガサス:友人が、20代の社会人の娘と一緒に、このシリーズを熱心に読んでいるんだって。児童文学に関係ない主婦の人なんだけど、続編が出るたびに娘が買って来て、争って読むとか。とにかく、バルサがカッコいいって。

愁童:カッコよくはないんじゃないの? いろいろと悩んでいるし、チャーリーズ・エンジェルみたいなカッコよさは、ちっともないじゃない。カッコいい女性を描こうという意識は、作者にはないのでは?

カーコ:何て強い人だ、と他の登場人物が評する場面はありますよね。

アカシア:アスラが呼び出してしまったものを、バルサだけはよけることができたりするんだから、カッコいいと思うよ。ところで、この表紙の絵は、バルサなのかな? 神がのりうつったアスラなのかな? わかりにくい。

愁童:挿し絵が多すぎると思うな。もっと、読者の自由なイメージで読ませてほしかった。

ペガサス:でも、挿し絵がないと、子どもには読みにくいんじゃない?

アカシア:いろんな人が登場するしね。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ル・グウィン『アースシーの風』

アースシーの風 ゲド戦記V

アカシア:この巻では、英雄ゲドは魔法を使う力をなくして普通の人になってます。でも、4巻目の時ようにただ力を失っただけではなく、日常生活をしているがゆえの知恵をしっかり身につけているのね。ハンノキが市の国に呼ばれることから始まって、レバンネンなど、たくさんの登場人物が出てくるけど、最後にはみんなが解放されて、それぞれ自分の道を選び取るのがおもしろかった。

ペガサス:これは、1冊だけ読むのではなく、最初からのつながりで考えないといけない作品。4巻目が最後の書と言われながら、読者を混乱に陥れて終わっていたのが、この巻で希望をもって進んでいけるというので、やっと納得できたと思う。作者が最初の巻を書いてから何十年もたち、主人公も年老いるわけだが、全巻を通してみると、一人の人間が人生をどう生きるかという物語とも読めるし、人類全体の変遷の物語とも読めると思う。また、作者の世界観の変遷が見られる。魔法使いとしてこれほどまでに修行して力を獲得していくのに、結局その魔法はよほどのことがないと使えないわけね。使えば宇宙の均衡を崩してしまうから。河合隼雄さんが『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日新聞社)のなかで、魔法使いになる修業をナバホのメディスンマンの修業と結び付けて、「結局のところ大魔法使いになればなるほど何もしなくなるのだ」と述べている。確かにこの物語には、人類が築き上げてきた文化的な価値でなく、アニミズム的なものや、動物の本能的行動など、もっと違うところから学んでいくという態度も描かれていて、おもしろいと思った。力を獲得するために奮闘して、目的を達成して終わり、というのではない。

愁童:アカシアさんみたいな読み方があったのか。「ゲド戦記」の大切な部分は3巻までに書かれていて、これはキャンディーズのさよならコンサートみたいなもんだと思ったんだよ。文章でいくつか気になるところがあって、編集者も翻訳者ももう少し気遣いをしてほしかったな。

アカシア:4巻目は、作者がジェンダー的に全体を考え直して書かずにいられなかったんだと思うのね。だけど思想が前面に出すぎてた。だから作者についての研究をするには面白いけど、物語としてはあまりおもしろくなかった。でも、この5巻はおもしろい。

愁童:作家が若い頃書いた作品と、いろいろ考えて年を経て書いた作品では、迫力も違う。2巻目でテナーが、自分で自分の道を選び取っているときに、すでにジェンダーの意識はあったと思うんだ。それが、4巻目で薄汚いおばさんに書き直されなければならなかったのか。

アカシア:私はテナーが薄汚いとは思わなかったな。ル・グィン独自の視点は、影をどう扱うかにあらわれてますよね。今のネオ・ファンタジーは「主人公は善であり正義であって、悪は外にいる」という、ブッシュみたいな単純図式が多いけど、この作者は、闇や悪は自分の分身という認識ですよね。3巻目までは、頭で考える知識(男の領域)と、日常の暮らしの中から学ぶ知恵(女の領域)とが分離していた。それが、4巻からあとは違うのね。

愁童:でも、3巻めまでの輝きが4巻、5巻にはないじゃない。

アカシア:その輝きって何? ヒロイズム?

ペガサス:4巻、5巻がなければ、3巻までで輝いているけれど、5巻まで読んだときに感じるおもしろさは違ってくる。5巻まで読んで、もう一度前をふりかえりたくなる。

愁童:4巻で一番納得がいかなかったのは、最後に竜が出てくるところ。

アカシア:竜は5巻につながるカギなんです。この巻では、幼いときに虐待されひどい火傷を負って生きてきたテハヌーが竜になって空にのぼっていく。そこのイメージがいいんですよ。「テハヌーは両手を高くあげた。炎が手を走り、腕を走り、髪の毛に入り、顔に入り、その胴体に入り、大きな翼となってその頭上に燃え上がると、テハヌーのからだが宙に浮いた。全身火と化した生き物は、今、空中に美しく光り輝いていた。テハヌーはことばにならない、澄んだ叫び声をあげると、首をのばして、高い空へと、まっしぐらに飛んでいった」っていうんだけど、テハヌーが自分らしさを回復し、解放されるのがよく出てると思った。

ペガサス:4巻、5巻を読んで意見が分かれるところも、この本の価値なのでは。

(2003年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


笹生陽子『楽園のつくりかた』

楽園のつくりかた

愁童:傷ついた都会の子どもが田舎にいって癒されるという、よくあるパターンなんだけど、この本では、田舎といっても、学校にいる子どもは山村留学している都会の子どもが多いという設定。自然豊かな田舎の環境だけに寄りかかってないところに工夫があるし、うまいと思います。ただ、父親が死んでいることを隠して読み進めさせて、あとでばらすというのは読者に対してフェアじゃない気がするな。かなり作りすぎの感じがするけど、今の子にはこのぐらいでちょうどいいのかな。

ケロ:登場人物がいろいろとおもしろおかしくて、結構楽しく読みました。あとで父親の死がわかるどんでん返しのところも、始めの印象とは見方がぐるっと変わって読めてきて、そこがおもしろかったな。特に、母親の印象は変わりましたね。最初は、田舎を楽しむお気楽なイメージで読み進んだけど、どんでん返しのあとは、いろんな辛いことがあっても、表には出さないで健気にがんばっている人だということになる。この母親は、このどんでん返しがあるために最初の設定がちょっとぶれていておかしい。はじめはブランド志向で偏差値志向なのかと思っていたら、途中から物事の真価が大切と言い始めて、どんな人だろうと興味を引かれ、さらに最後のどんでん返しで、そういう人だったんだと納得する感じ。テーマ的には、重たいけど、キャラクターが魅力的に描けていたので、読めたし、映像が目に浮かぶようで楽しかった。

むう:前にこの会で取り上げた『きのう、火星に行った。』がおもしろかったんですよね。同じ作者だから、やっぱり読ませる迫力があって、おもしろいおもしろいと思いながら読んでいったんです。全体としては、いい印象でした。でも、『きのう、火星にいった。』のほうがいいと思いました。というのは、父親のマブダチなる松島さんが出てくるところで、ゲッとなったんです。なんじゃこりゃ、安直すぎるじゃないかって。父親が死んで、それを認めたくないがために自分だけの虚構の世界を作り出してという、この設定にはそれほど抵抗ありませんでした。むしろ、おっと、そういうことか!と感心したくらい。おじいちゃんが梨園を再生させるのにつきあって、挿し木が根付くあたりで主人公が田舎に根を生やすという将来を予感させだぶらせるあたりも、なるほどなあと思いました。ともかく松島さんが、私はだめでした。最初登場したところで、いったいなんだこの人は、と思ったのですが、特に最後でからまれてるところに助けに入って、しかもそれが父親の親友だなんて、これはやりすぎじゃないかな。

すあま:私はどんでん返しがおもしろかった。だまされるタイプなので、しっかりとだまされてしまいましたが、よくできたお話だと思いす。最後は、終わらせるために主人公に無理に語らせていたり、決めの一言もちょっとクサイのが、気になりました。読み終えてから初めて、そもそも父親とひねくれた子どもがメールのやりとりなどするのかなど、主人公の自作自演だったとはいえ、疑問に思う点がいろいろと出てきましたね。

アカシア:どんでん返しも、一人称だからありかなと思いますね。メールの使い方も上手。本来黙っている子はコミュニケーションをとれないけど、メールを使えばコミュニケーションをとることもできるし、しゃべらすこともできるんじゃないかな。だから、設定はよくできてると思いました。松島さんはやはりふしぎな存在。それと、4人クラスで1人だけ土地の子がいるんだけど、その子が方言を使ってないのが不自然に感じてしまいました。外見的にも田舎の子として描かれているのに、と。松島さんも言葉使いが標準語。方言にすれば、もう少しリアリティが出るんじゃないのかな。

:私は、この作品には評価できるポイントがあげられません。読むのにはおもしろく読めるかもしれないけど、それだけでした。登場人物が4人しかいなくて、小さな学校で、お話を作るのは簡単だと思うんですけど、話の筋は決まりきっていて安易だし、小説としては安易なんじゃないかしら。先ほど映像がうかぶという意見がありましたけど、その通りで、ドラマ仕立てなら良いけど小説はまた違いますからね。老人と子どもの心の通い合いとか、父の死をどうとらえるかとか、深めていくべきテーマはいっぱいあるのに、残念です。

トチ:日本の創作児童文学というと、「○○山の頂に、黒い雲が広がっていた。いまにも一雨きそうだ。○○は・・・」といった情景描写に始まる、まじめくさった、陰気くさい文体のものが多いような気がして、読みたくないなという気持ちが先に立つのですが、この本は文章が短くて、リズミカルで、すらすらおもしろく読みました。お父さんが送ったとされるメールの部分だけ、なんでこんなにおもしろくないのかと思ったけれど、最後の種明かしを読んで、なるほどと感心しました。裕さんのいうように、たしかに深みはないかもしれないけれど、この本のように、子どもが気楽に手に取ることができて楽しく読める本があってもいいのでは・・・と私は思います。こんな風に文章も、構成もうまく書けている本を、山のように読んで楽しむというのも、子どもの読書法のひとつとして認めてもいいのでは。私自身も、子どものときにそういう読み方をしてきたような気がするし。おじいちゃんが農園の仕事をしているときに、接木の方法を語るところもおもしろかった。こういう職業的な薀蓄って、子どもの本のひとつの要素として大切なんじゃないかしら。

せいうち:今日読んだばかりです。読む人によっては、そんなに評価されないと思いますが、個人的には結構気に入っています。この主人公には、個人的に感情移入できて読めました。自分も子どものころに、この子に近いところがあったので。男の子の中には、おとなしくて快活ではないけど、自分の意志ははっきりしていて、そんな自分を社会の中でうまく出せず、他人から見れば自分勝手だとかわがままだとか言われてしまう子がいるんです。この子は、そういう子だと思いますが、好きですね。確かに利己的で自分勝手なところはありますが、それでも自分を正直に出せるところは、とてもいいと思います。
私は、都会がとても好きなのですが、どうも世の中には田舎を美化する傾向があって、都会派が不当に悪く言われてしまうことが多いような気がします。この本は、田舎に行ったら田舎に同化した方がいいとか、はじめは、そういうことが書かれた話なのかと思いましたが、単純にそれだけの話ではないのでよかったです。はじめのうちは「やっぱり、都会の子は負けてしまうのか」と思って読んでいたんです。僕としては、都会の子がただ田舎の子と仲良くなってしまってもつまらないし、仲良くならなくて、とけ込めなくても、話としてつまらないと思いますね。それから、この話の主人公は成績のいい優等生タイプの子ですが、この種の子は、普通、あまり主人公にはされないんです。それを不満に感じていたので、よかったと思います。ただ、やはり、もっと都会の良さも書いてほしかった。田舎で癒されるということもあるかもしれないけど、都会で癒されることもあるわけで、都会ばかり悪く言われるのは心外です。
松島さんの登場は、たしかにとってつけたようですね。でも待ってましたという感じがしてけっこう嬉しかったのも事実です。何といってもバイクに乗って現れるヒーローですから。仮面ライダー世代はこういうのに弱いです。最後に、松島さんが送っていってくれるというのもイヤではないです。「この話を読んでも何も残らない」という意見もあるでしょうが、残らなくてもいいような気もします。一点、残念だったのは言葉づかいですね。現代風、ということなのかもしれないですが、今の子どもが読む本がこういう話し言葉的な軽い文体になっているのかと思うと、ちょっと寂しいです。

きょん:最初に、お父さんとのメールのやりとりで始まるんですが、子ども側のメールも、お父さんのメールもすごく不自然で、なんだこれは?という感じでした。要するにどちらも嘘のメールということなんですが、私にはあんまり効果的には感じられませんでした。おじいちゃんのところに行かなければいけないのは決定事項だから、そのことを自分なりに説得するためにお父さんからのメールもそのようにサジェスチョンしたということなんでしょうか。自分の息子と勘違いしているおじいちゃんに誘われて、半ば無理矢理に農園に出かけていって、なにかを感じ始める優の姿は、よく書けていると思いました。はじめ、父親の名前「博史」と呼ばれて返事もしなくて拒絶していたのが、まあ仕方ないかとあきらめ、適当にあわせていく。先ほど、深めていくべきテーマはいっぱいあるという意見が出ましたが、ここでのメインテーマは「突然死んでしまった父親の死を、子どもなりに受け入れていくまでの心の葛藤」なのではないか? おじいちゃんに合わせて農園に出かけ、何となく受け入れていく過程が、父の死を受け入れていく心の準備なのかもしれません。『楽園のつくりかた』というタイトルは、あまりそぐわないような気がします。ここでいう楽園は、自分の居場所という意味でしょうけど、自分の居場所を作るということと、父の死を受け入れるということがイコールになるはずなのに、学校生活のこと友達のごたごたなど、エピソードがあまり効果的でないので、かえってテーマが散漫になってしまった感があります。松島さんの存在も、とってつけたようでしっくりきませんでした。

トチ:せいうちさんの意見をきいて、私がこの作品に好感を持てたのは、書き方によっては嫌らしくなる主人公を、うまく書いているからだということが分かったわ。

むう:『きのう、火星に行った。』の主人公もそうだったけれど、この人、鼻持ちならない子どもをうまく書くんですよね。親が教育パパとか教育ママでなくても、こういうタイプの子って、けっこう多いと思うんです。少子化で大人に対する子どもの数が減ってきているので、大人の目が行き届きすぎる。だから大人と子どもの力関係が昔とかなり変わってきて、子どもはどうしても自意識過剰になる。その結果、勝手に(ありもしない)期待に応えちゃったりするんだと思うんです。

アカシア:成績がいい子だって、ゲーム感覚で良い点を取りにいってるのかも。

せいうち:成績とか偏差値にものすごく執着する子もいます。ぼくは子どものころ、偏差値ってすごく好きでしたね。努力したことが反映されるというところが。報われた気がして快感でした。

愁童:でもこの人は作家なんだから、その偏差値とかばかりで、人間の人格に触れてないところでお話を書こうとしているところが嫌だな。ウケねらいのドラマつくりのようでさ。うまく書けば、それでいいのかな。

アカシア:でも、こういうエンターテイメント性が、ほかの創作児童文学には足りないんじゃないかな。

カーコ:母子だけでいきなり父親の田舎に引っ越すというのも、メールの親子関係も不自然で、「なんだこれは」と思って最初読んでいたけれど、どんでん返しのところで納得しました。わがままな子どもとして父親にメールを書く視点と、父になりすましてたしなめるメールを書くという二重の視点に、この年齢の男の子の心の揺れがよく出ていて、私はおもしろかった。新しい学校のクラスメートとのつきあい方は、キャラ設定をして友達関係をつくる、今の子どもの様相を反映していますよね。この人はおもしろキャラ、この人はいじめられキャラというふうに、分類して固定してしまう。でも、この作品では、キャラの印象が途中で破られて、柔軟な人間関係への作家のメッセージが感じられました。全体に悪い人があんまり出てこないので、子どもは安心して読めるのかもしれません。軽くて、物足らない感じもありましたが、メールという小道具をうまく使った、感じのいい作品だと思いました。

愁童:この子が、死んだ父親にメールを書き、自分で返事を書いているっていう設定は、ちょっと気持ちが悪い。母親の言うことは聞くけど、父親には反発するものだと思う。

カーコ:父親は死んでいるから、こんなふうに書けるのでは?

せいうち:子どもが想像で書いていたから、こんな変なメールになったのだなと思います。

トチ:そこのところがうまいんじゃない? 実在感がないから。こんな、紋切り型のことばっかり言ってる「もんきり父さん」が物語の中に本当に登場していたら、それだけで物語はつまらなくなっちゃうもの。けっこう、そういう本もあるけどね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


パトリシア・ライリー・ギフ『ノリー・ライアンの歌』

ノリー・ライアンの歌

カーコ:状況が厳しくて、ほんとうに辛いお話なんですけど、こういう本は好きです。妖精が息づいているアイルランドという舞台も興味深かった。こういう世界があるんだなあと。ただ、『ホワイト・ピーク・ファーム』(パトリシア・ライリー・ギフ著 もりうちすみこ訳 さ・え・ら書房)では家族一人一人の像がとてもはっきりしていたのに対して、こちらは、姉妹の年齢の違いやそれぞれの性格などがすっきりと頭に入ってこなかったのが残念でした。原文の問題なのか、翻訳の問題なのかわかりませんが。

アカシア:『サンザシの木の下に』(マリータ・コンロン・マケーナ著 こだまともこ訳 講談社)や『アンジェラの灰』(フランク・マコート著 土屋政雄訳 新潮社)のような似た設定の本をおもしろく読んで時代背景が頭に入っていたので、情景がありありと浮かんできました。それと、さ・え・らの今までとは違った路線のこの表紙からは、工夫の跡がうかがえて評価できると思いました。主人公が大変な状況のなかで積極的に生き抜こうとするリアリティがあって、ほかの、深刻な問題を深刻に取り上げただけの、ありがちな本とはひと味違う。主人公がしょっちゅう歌を歌っていたりして、辛さに溺れていないところがいいですね。

ケロ:あまり読んだことのないタイプの本で、ひたすら辛くて、飢えにつきあっておなかがすいてしまったり。主人公がなんとか生き延びられてよかったよかったという感じです。でも、アメリカでのアイルランド系移民の貧しさの背景を知ることができたような気がします。後書きにある、作者の思い入れにも納得しました。タイトルが『ノリ—・ライアンの歌』となっていて、妖精の話も出てくるので、本文中にもっとそれらしい歌詞がいろいろ出てくれば楽しめたし深みが出たのではないかと思います。それと、アンナという老婆から主人公へのさまざまな知識の伝達が、たとえば誰々を助けたとか、もっと具体的に書かれていると良かった。それがあれば、文化が確実に継承されていくという感じがもっとしっかり出たと思います。表紙を描いた画家さんは、アイルランドに惚れ込んで絵そのものが変わったような人なので、なるほどなあとしみじみと表紙を眺めました。中のイラストは息子さんだそうです。

アカシア:アンナの一人称が「わし」というので、相当な年齢かと思ってしまいましたが、老婆ではないのでは? なぜ「わし」にしたんでしょう?

愁童:いい作品だけど、冒頭の描写で気勢をそがれた感じ。訳の問題かなと思うけど、霧雨なのに、さっと晴れて海が見えるから、霧なのかなと思うと、その割には髪が濡れて水滴がたれるほどだったり、雨だか霧だかイメージが混乱しちゃう。似たような部分が散見されて、素直に作品世界に入れなかった。

すあま:この訳者の方は、アフガニスタンの少女の話(『生きのびるために』デボラ・エリス著 さ・え・ら書房)など、社会派の作品を手がけているのが、いいと思います。ただ、大人ならそういう時事的な関心があって本を手に取り、理解を深めるということもあるだろうけれど、子どもの場合はまた違うと思うんです。イギリスの子やアイルランドの子など、アイルランド問題を知っている子が読むのと、日本の子どもが読むのとでは違ってくる。もちろん、知識がなくて読んでも魅力のある本はありますが、この本は、日本の子が読むにはちょっと難しいのでは。それから、p82の「フォアファー」というアイルランド語の意味が、ダッシュ(−)の後に書かれているのですが、最初は言葉の意味なのかどうかよくわかりませんでした。他にも、カサガイなど、イメージできないものが出てきて、作品世界に入りにくかったですね。また、登場人物の印象があまりはっきりしていないので、それも読みづらかった。主人公は次々と失敗して困難な状況が続いていくので、読んでいて辛くなる本でした。

むう:私は時事的なものに非常に関心があるもんですから、アイルランド問題とかアイルランドの歴史とかもある程度知っていて、そういう目でこれを読みました。じっさいアイルランドに行ってみると、不自然なくらいイギリスにそっぽを向いて、大西洋を越えたアメリカに目を向けているんですね。それに、アメリカ人が故郷詣でのように大挙してアイルランドに来てる。そういうのを目にすると、どうしてもその背景や歴史に考えが及ぶわけです。で、アメリカにはアイルランドからたくさんの人が移民として渡っているわけですから、アイルランドの人やアイルランド系アメリカ人にとって、ここに書かれていることはとても身近なことだと思うんです。イギリスのアイルランド支配といった歴史的知識もあるわけだし。アイルランド系アメリカ人にとっては、この本は自分たちのルーツの物語、祖先の苦労話として大変興味深いんだと思います。でも、日本人にとってはあまりに遠いと思うんです。今の日本の子どもたちの置かれている状況から、かけ離れすぎていて、とても取っつきにくい。そういう歴史や時事から離れたところで、なおかつぐっとくる普遍的なものがあれば、それはそれでいいと思うんですが、この本にはそういう魅力があまり感じられない。そういう意味で、日本で出す必要があるのかなあと思いました。

:たしかに渋い本だし渋いテーマだけれど、こういう本があってもいいのではないかしら。イギリスの歴史を教える立場にいる人間としてそう思います。地味だけれど、出版されていい本だと思うんです。こういうふうにある時代設定で展開する人間の物語があるのとないのとでは、歴史理解が全然違ってくるから。それと、これは時代を描いた物語ではなく、ファミリー・サーガだと思います。前面には出てこないけれど連綿と伝えられていく女の歴史を描いたという側面があります。文化がどう受け継がれていくか、その様子が、たとえばお姉さんから届いた小包の包装についてのエピソードなどで表現されているわけです。時代を時代としてではなく家族の伝統として扱うこのような本の存在によって、歴史観が深まると思います。ほかの方もおっしゃっていたように、翻訳は少し気になりました。それと、日本の読者がどう受け取るのかということ、つまり本の普及の度合いについては、難しいものを感じます。

トチ:アイルランドの作家が、同じジャガイモ飢饉のことを書いた児童文学があって、欧米ではとても評判がよくてテレビドラマにもなったりしたけれど、日本ではさほど評判にならなかったんです。そのへんが、子ども向けの歴史読み物の難しいところでしょうね。まだ、世界史を勉強していないし、アイルランドって大人にとっても遠い国ですものね。

せいうち:この本は、やっと図書館で見つけて読みました。学生時代の先生がアイルランド専門家でしたから、アイルランド問題のことはいろいろと学んで、イギリスの悪辣さに悲憤慷慨していたんですが、当時の気持ちを思い出しました。まず、後書きを読んで、感動したんです。ファミリー・サーガという色合いを強く感じました。私は壮大な物語に弱いところがあるもんですから。家族からは自分のルーツについて十分な話が聞けずに、自らアイルランドに渡って尋ね歩いたということ、そのときに現地の人に、飢饉がなければあなたもアメリカ人ではなく、アイルランドの少女だったんだね、と言われるくだりは感動的でした。アイルランド系は今でもアメリカで地位が低く、主流になれずにいます。今でもどこにも居場所がないという感じの国民で、しかも、「祖国」と言われる場所でも、厳しい自然と闘ってきたわけです。ただ、アイルランドの歴史に関心があって後書きで感動したわりに、実は作品そのものにはあまり感動しませんでした。まず、表紙の絵からイメージした話と違っていた点で、がっかりしてしまいましたね。読むのも辛かったし、翻訳文体も気になりました。雰囲気を伝えようとしてこうなったのかもしれませんが、たとえば、人を呼ぶのにフルネームでばかりというのもどうかなあと思います。日本語としてぎこちない。それと、これだけの違和感を持たせてでも、アイルランド語を日本語訳の中に出す必要があったのかどうか、そこも疑問です。

カーコ:アイルランド語の発音をルビにして処理すると、すっきりするような気がします。(一同うなずく)

せいうち:今のアイルランド人やアメリカ人なら、アイルランド語が出ていることに感激するんでしょうが、日本人だとそういうこともないし。時代背景が分からなくても感動できる本は実際にあるわけで、そういうふうに書けなかったのかと思います。ひどい目に会った人の気持ちに沿いきれないからか、どうしてアイルランド人が書くとこう(悲惨なテーマばかりに)なるんだろうと思ってしまう。作者はこのテーマで書きたかったんだろうけれど、もうさんざん書かれているわけだし、もう少し何とかならなかったのかなあ。あってもいい本だし、なければならないとは思うけれど、自分が読みたいかというと・・・。

アカシア:売れるか売れないか、という点だけで判断すると出せなくなってしまう本かも。ファミリー・サーガという見方もあるけど、サバイバル物として見ることもできる。そう考えると、アイルランドのことは日本の子はほとんど知らないからこそ、こういう本も出したほうがいいと思います。アイルランドに行ってみると、羊ばかり、ジャガイモばかりで、そこにケルトの遺跡などが散在している。飢饉になれば生きていくのは大変だったろうなあ、とアイルランドに行ってみて実感しました。いまや、イギリスやアメリカの本ばかり紹介していてもしょうがないという状況でもあるし、出せれば出したほうがいい。でも、海鳥の卵を取りに行くところの状況がわかりにくいのは事実ですね。

:情景描写が分かりにくいというのは翻訳の問題じゃないかしら。

アカシア:でも、私は全体がリアルでないとは思いませんでしたね。ジャガイモがどんどん腐るあたりの描写なんかは、この本を読んでリアルに理解できました。今までイメージできていなかった飢饉の状況がこれでわかった。

愁童:部分的な齟齬が気になるんですよ。よく書けているところ(たとえば男の子が手にけがしているのを押して、女の子の命綱を引き受けるというところなどは、信頼関係が良く書けている)があるのに、その直後に大事なところでいいかげんな書き方をされると、実にもったいないと思っちゃう。ジャガイモの腐れの描写もすごいと思いますよ。だからこそ、肝心のところが軽くなっているというのはまずいと思う。
(この後、ひとしきり海鳥の卵を取りに行く崖の場面の解析が続く。)

きょん:最初は、アイルランドとか時代ということをあまり意識せずに読みはじめてしまって、途中で分からなくなってしまったんです。それで、あとがきを読んでから、もう一度読みはじめたんですが、あちこち小さいこと(みなさんが指摘されたようなこと)が気になってなかなか作品に入り込めませんでした。3分の1くらいのところ、姉が結婚してアメリカに渡ったあたりからぐいぐい引き込まれて、あとは順調に読み進めました。私は歴史的な知識がまったくなかったので、裕さんがおっしゃったように、歴史の副読本のようにこの本で知識を得たという感じです。気になったのは、ノリーがよく歌をうたっているはずなのに、その描写が出てこないこと。だから、歌が生きてこないんですね。唯一p46では歌詞が出てきていますが、こういうふうにして受け継がれていったものが、どういう風に生きる支えになったのかが具体的に散りばめられていればよかったと思います。そこが物足りないしもったいない。じゃあどうして歌なの?と思ったら、たしかにアンナの知識を受け継ぐに必要な記憶力というふうにつながっているんだけれど、それだけじゃあもったいない。この訳者さんの選ぶ本は、テーマに強く引きつけられて読み進めることができるけれど、アイルランド語のこともそうですし、訳の細かいところは粗いと思います。

カーコ:ダッシュの使い方など、整理されるともっと読みやすいかも。

せいうち:原文で使っているからなんでしょうが、やっぱりうるさいですね。

きょん:セリフがしっくりこなかったりして、そういうのが多いのが気になります。

せいうち:日本語の姿をした英語なんですね。

きょん:アンナとノリーの関係が深まっていくのはいいし、未来に向かうエンディングもいいと思ったんです。悲惨な状況だから訳す必要がないということではないと思います。これもひとつの現実なんですから。ただ、アイルランドの悲惨な歴史やアメリカに向かった移民の気持ちはわかったけれど、領主の描写が一辺倒なのが気になりました。このあたりももっと多角的に書いたほうがよかった。

すあま:前書きで一言状況を説明してあればいいんですよ。そうすれば背景がわかるから。私の場合、読み取れたのはジャガイモ飢饉のことだけで、イギリスとアイルランドの関係まではわかりませんでした。裕さんがおっしゃるように、副読本や教材として、他の本と合わせて使うといいのかもしれない。

せいうち:訳文を読んでいると、気合いが入ってるなあと思うんですが、その割に、訳者後書きがないのは意外でした。自分で時代背景などの解説を書きそうな勢いを感じたんですが。

トチ:歴史的背景の解説はたしかに必要だと思うけれど、最初にあると物語世界にすっと入れないし、かといって最後に入れると物語自体が理解できないかもしれないし・・・難しいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


バーリー・ドハーティ『ホワイト・ピーク・ファーム』

ホワイト・ピーク・ファーム

トチ:ドハーティは大好きな作家だから、わくわくしながら読みました。登場人物がひとりひとり、くっきりと描けているし、人生の奥深さを感じさせる。訳者の斎藤さんは、とても優れた翻訳者ですね。ドハーティは詩集も何冊か出しているし、もともとの文章も美しいけれど、訳文もその美しさを損ねていない。

:『アンモナイトの谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社 のちに『蛇の石 秘密の谷』に改題)もポイント高かったけれど、これもいいですね。「少女の気持ち」という視点から読みました。そういう意味では、成功してる。

むう:うまいなあ、と思いました。最初の、インドに行くといってホスピスに入るおばあちゃんのエピソードはへええ、と、どんでん返しに感心してしまった。おばあちゃんの元気の良さもいいし。とてもきれいな訳文ですしね。全体の印象としては、すごく強烈に何か動くとかひとつのドラマをぐっと掘り下げるというのではなく、穏やかで抑えた感じでした。この女の子の成長物語というよりは、家族というか、ひとつの農場が否応なく変わっていく歴史を書いた作品なんだろうと思いました。

すあま:印象としては、連作短編集という感じ。特に最初の話がインパクトがあります。短い中で、ストンと落ちて終わる。児童文学として出ているけれど、大人の短編集という感じがしました。読んでいて思い出したのは、モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズにある短編集(『アンをめぐる人々』など)です。ただ、この表紙の絵は、物語から受ける印象と違ってちょっと子どもっぽいような気がします。

トチ:でも、この表紙なら小学生も手にとるかもしれない。読書力のある小学生だったら読めるかもしれない。

愁童:いい本ですね。でも、この手の本はたくさんあって、新しい感動はなかった。これを今子どもたちに渡そうとする側の思いはなんだろう。ただ今回の3冊の中でこれがいちばん好きです。本を読んだという感動がありますからね。はっきりとした実在感を与えてくれる本で、説得力もありました。

ケロ:16歳くらいの女の子が主人公です。人間の根っこになるようなものを訴えかけている作品だと感じました。家族というのは、時を経るとともに変わっていくものです。今が絶望的でも、未来永劫その状態が続くわけではない。読者となる思春期の子は、今が変わらないかのように思いつめて絶望してしまう傾向があると思うけど、家族のそれぞれが成長しながらその関係も時とともに変わっていくものだということを、読者が感じてホッとできるといいなあ。最初の章の祖母ですけど、みんなが演じていたお芝居だったというのが、ちょっとしっくりきませんでした。どこでみんなが知ったのか? お芝居をする必要があるのか?「インドへ行く」といったとき、カッコいいじゃんと思ったのに・・・。また、「復活祭の嵐」の章で、お父さんとお母さんが踊るシーンですが、それを見た主人公にとっては裏切りのような複雑な気持ちになるのかも知れないけど、以降の父母の仲へつながる重要なシーンだと思いました。

アカシア:2回読んだんです。最初読んだときはとってもいいなと思ったんだけど、2回目読んだら情緒的に流れるところが目についてしまって、どうなのか、と考えてしまいました。インドへ行くと言ってホスピスに入るおばあちゃんですけど、家族の者たちはそれがわかっているのに、その後おばあちゃんの存在は忘れられてしまう。それに家族観が古いのも、ちょっと気になりました。みんながお父さんに気兼ねしてて、崩れかけた家父長制をどう支えていくか、みたいなところもある。ドハーティなので当然文章はうまいし、翻訳もうまい。「このホワイト・ピーク・ファームはいつだって、あなたの帰ってくる場所よ」という最後のしめくくりも泣かせる。うーん、だけどね。

すあま:私も、さっきモンゴメリを例に出したのは、同じような時代の話なのかと思っていたからです。

トチ:私は、もともと家族って理屈じゃ割り切れない、ぐじゃぐじゃで、どうしようもないものだと思ってるから、違和感はなかったわ。でも、課題図書になっているって聞いて「えっ、どうして?」と思った。この本を子どもに読ませて、どういう感想を期待しているのか、選んだ大人たちのおなかの中が見えるような気がして、白けちゃう。

:ノスタルジーの物語ですね。

カーコ:私はいいお話だと思いました。等身大の主人公の女の子が、迷いながら、自分の道をさがしていく話なので、中・高校生の読者がすっと入っていけそう。人物が多面的に、一つの型にはめこまずに描かれていて魅力的でした。文学として質の高いこういう作品が、課題図書として読まれるのはいいことでは? 主人公の家族が古典的なので、その辺をみなさんはどう読まれるかなあと思っていたのですが。現代の日本のリアリズム作品って、大人も子どもといっしょになっておろおろしていたり、気分ばかりが重視されるようなものが多いから、こういう一見あたりまえの家族の機微を描きこんだ作品は安定感があっていいなあ、と私は思いました。

きょん:ずいぶん前におもしろくさらっと読みました。おもしろく読めるけれど、あとに残らない。お話としては質がいいけど、インパクトは弱い。『若草物語』(オルコット著)とか、『大草原の小さな家』(ローラ・インガルス・ワイルダー著)とかは、一人一人家族が描かれているけれど、インパクトは弱くない。どうしてかなと思いました。

せいうち:途中までしか読んでいないのですが。非常にいい小説だと思います。小説としてちゃんとしたものを久しぶりに読んだなあと。すごく感じたのは、家族のことを描いているのだけれど、複数の人間がいると何かが思い通りにいかないということ。おばあちゃんが、いったん大学に行って、やむを得ず戻ってきたことを、一切口にしなかった、というところで、非常に無念だった思いが伝わってきましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


クリストファー・ポール・カーティス『バドの扉がひらくとき』

バドの扉がひらくとき

トチ:ニューベリー賞をとったときから、おもしろそうな本だなと思っていました。『穴』(ルイス・サッカー作 幸田敦子訳 講談社)や『シカゴより怖い町』(リチャード・ペック作 斎藤倫子訳 東京創元社)と同じような、ストーリーと歯切れのよい文章で読ませる本。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンのころから脈々と続いている、アメリカ文学の伝統のようなものを感じました。深刻な内容なのに、ほら話のノリで、読者をじめじめさせない。いまのアメリカの児童文学は元気がいいと思います。「バドというのは、つぼみという意味なのよ」と主人公の母親が語るところで、ジーンときました。

カーコ:とても楽しく読みました。まず、どこまでも子どもの視点で書かれていることが目をひきました。「バドの知恵」で、大人の世界のたてまえと本音をユーモラスに指摘しているのもおもしろかった。それから、大人の人物がとても魅力的ですよね。バドを車に乗せてくれるおじさんもすてきだし、ジャズバンドの人たちもいい。訳も、歯切れがよくてよかった。作品のおもしろさを、よく引き出していると思いました。

ケロ:『穴』に似てたんですね。鉛筆を鼻につっこまれたり、蜂にさされたり、辛い状況にいるのだけれど、運を自分の味方につけちゃう。励ましてもらえる。どんどん辛いまま落ちこんでいく作品もあるけれど、こういうふうに元気づけられるのもいい。

:施設からいろんな家に送られたりすると、「バドの知恵」というようなのが身に付くようになるんですね。おもしろかった。

ブラックペッパー:私はあまりのれなかった。10歳というのはどういう年齢なんだろうとか思ってしまった。自分突っ込み型の一人よがり。『はいけい女王様 弟を助けてください』(モーリス・グライツマン作 唐沢則幸訳 徳間書店)のときと同じように、のれなかった。6歳で母親は死んでしまったのに、こんなにおぼえているのも不思議でした。

きょん:私はすっきりとおもしろく読めた。「バドの楽しく生きる知恵」は、サイコーだと思う。うまくごまかしながら、適当に合わせて、でも自分の価値観やプライドを失わずに、自分なりにユーモアで大波をのりこえていく。マーク・トウェインの『ハックルベリーフィン』と似てるといわれて、そうだな、と思った。そういうのがアメリカンスタイルなのですか? また、バドが、純粋に誠実に生きている姿は好感が持てます。全体に流れる「臨機応変に困難を乗り越え、まわりの人々ともうまくやりながら、大波を乗り越えて生きる」という思想にとてもひかれました。今の子どもたちには、いいメッセージだなあと思って。どこにいても、「潔癖にいい子」を求められて、過剰に干渉され、管理されているのが今の子どもたち。そんな子どもたちも、「適当に」「臨機応変に」でも「誠実に」生きていってほしいというメッセージが感じられますね。でも、「ママの持っていたチラシから、バンドマンがおとうさんだと確信して、遠路旅に出る」ところとか「バンドマンがおじいちゃんだったところ」「家出した娘を思って悲嘆にくれるおじいちゃん」などは、ちょっと安易だなあと思いました。その後、ハーマンがどうなったのかもちょっと気になりました。

ねむりねずみ:魚の頭と出くわすところなんか、かなり大げさに書いているんだけれど、それがいかにも子どもの早とちりのドタバタらしくていい。いろいろ苦労していて、それなりに抜け目がなかったりたくましかったりするのに、それでいて純情だったり言葉づかいがていねいだったりと、この主人公の作り方がおもしろいですね。ぎっちょさんとのやりとりで、労働組合のことを知って危ないところに近寄るまいとなんとか逃げようとがんばるあたりも、リアリティがあります。人がよくしてくれると、うまくそれに乗っていつもその場に居場所を確保する。とてもじょうずにその場にとけこむのに、その一方で決してかばんを手放さずいつも放り出されることを覚悟しているあたりも、主人公の苦労がしのばれます。だから、最後にかばんの中身を広げるところで、ぐっと胸に迫るものがあるんですね。同じ作家の『ワトソン一家に天使がやってくるとき』(唐沢則幸訳 くもん出版)も読んだけれど、たいへんなことをおもしろく書いてしまう人だなあと、好感を持ちました。作者のあとがきでモデルがあると知ってびっくり。大変な時代のリアルなモデルを土台にして、明るい雰囲気のフィクションを作り上げたところにひたすら感心しました。

アカシア:『ワトソン一家〜』は英語で読んで、新しい作家だと感じました。文体がとても軽快でユーモアたっぷりなのだけど、歴史とか家族とか人種などのこともまじめに考えているのがわかる。アフリカ系アメリカ人の作家ですけど、差別とか抑圧を声高に言ったりはしない。『ワトソン一家〜』では、黒人の教会が爆破される事件が登場しますけど、エピソードとして出していて、糾弾したりはしない。この作家は、むしろ誰もがかかえる日常を書いていくのだけれど、文体のリズムだとか、生活の描写に、アフリカンアメリカンらしさが強く出ています。それに、この作家は、しかつめらしい顔をして書くのじゃなくて、自分も笑いながら書いているんじゃないかってところがありますね。こういう作品は、ユーモアにしても文体のリズムにしても、翻訳でその雰囲気を出すのは難しいですよね。この日本語訳も、最初だけ重いなあと思いましたが、だんだんに軽くなって読みやすくなりました。

ペガサス:久しぶりに、子どもらしい楽しい本を読んだなあと感じました。子どもらしい感覚をもとにした記述が随所にあるところがいいですね。p102の4行目、ママが持っていたチラシが気になってどうしようもなくなるというのを、カエデの大木にたとえているが、どのくらい高い大木になっていくかを子どもらしい表現で書いています。p154の後ろから4行目、お父さんに会いに行って、いよいよ扉をあけたと思ったら、「なんだ、中にまた扉がある」なんて、とてもユーモラス。そういうところも楽しかった。最後は、単におじいちゃんとバドの感動の対面という形で終わるらせるのではなく、素敵なバンドの仲間たちに一人前に扱ってもらって、仲間にしてもらうという形にしたのがよかったです。このように扱われるのは子どもにとってとても満足のいくことだし、読者には、ここで終わりではなく、この子のこれからの人生までが目の前にぱーっと見えてくる感じがします。訳は、名前で「ネボスケ・ラ・ホーネ」とか、うまく日本語にしているなと思いました。

愁童:すごく微妙な感じ。いいお話だなと思う反面、「ユーモア」って感じはぜんぜんしなかった。苛酷な環境を生きてきたということが、どんな場面でもきちんと読者に感じられるように書かれているのは、すごいなって思った。最後、いい大人ばかり出てきて、調子いいなって感じもあるけど、そこに到るまでのパドの描写に説得力があるので、素直にほっとしちゃうね。ほっとして読み終われる本て、今、必要なのかもな、って思いました。

トチ:孤児院にいても、プライドを失わない主人公の生き方とか、歴史的な背景は知らなくても、日本の子どもにじゅうぶん伝わるところがあるのでは?

愁童:一人称で書かれているのに、客観描写のようにジャズマンや運転手の人物像がはっきりとイメージ出来る。うまいなって思いました。

アカシア:アフリカ系の作家だと、ミルドレッド・テーラーが『とどろく雷よ、私の叫びをきけ』(小野和子訳 評論社)のシリーズで、同じ時代を舞台にしてますよね。そっちは深刻な差別を、まなじりを決してえぐり出すように書いています。でも、カーティスは若い世代ということもあって、差別は随所の記述から推し量れるけど、それを正面から糾弾するわけではない。原文はもっとユーモアがあるのかも。でも、同じ質のユーモアを日本語で表現するのは無理ですよね。

すあま:気持ちよく読めたし、読んでいて楽しかった。安心して終わるしね。「何かが閉じても新しい扉が開く」と信じて進んでいくから、ロードムービーのように、どこに行きつくかなと思いながら読み進めていきました。現代の本だと、大人も不安定で自信がなく描かれていますが、時代が前のものだと、大人がしっかりしていて、子どもたちにきちっと接しています。バンドの人たちの子どもとの距離感がいいですね。最後は、うまくいきすぎかもしれないけれど、謎解きのようになっていて、すっきりとして読み終えられました。装丁の絵もいいな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


阿部夏丸『父のようにはなりたくない』

父のようにはなりたくない

トチ:子どもの本かな、大人の本かなと首をかしげながら読んでいたのですが、後書きをみて納得。子どもと親の両方が対象だったんですね。対象にあわせてうまく書くという、職人技のようなものは感じたけれど、内容はねえ・・・作者の言いたいことがまず先にあるようで、物語よりもエッセイにしたほうが良かったのでは。それと、なんでこんなにつまらない母親ばかり書くのかしら。ナイフを子どもに持たせるとキャアキャア騒いだり。それに、周囲にはいろいろな事件が起こっても主人公の家庭にはさほど影響がないという物語の展開も、フェアではないような気がしました。だから、エッセイみたいな感じがするのかも。

ケロ:私はちょっとだめでした。軽いという意味では、「バド」と似ているかもしれないけど、一緒にしないでって感じ。父親は釣りからいろんな人生訓を学んじゃって、息子に教えたがるんだろうな。その言いたいことが地で出てる感じ。浅田次郎みたいだけど、そこまでいってない。ちょっといいシーンもあるんだけどね。子どもは、「うちも、こんなこと、あるある」みたいに読むのでしょうか。

:みなさんおっしゃったとおり。タイトルと表紙で期待して、いいところを探そうとしたんですけど、お父さんが出てきて「これかよ!」と、がっかり。お母さんは、みんな同じふうで。

:私も、これは困ったな、と思いましたね。タイトルは普遍的な命題なのに、この本の中のどの話にも問題提起がない。なぜかというと、一つ一つの家族にリアリティがない。大人の側の言い訳と押しつけがある。小説なら小説を世界をきっちり構築しなければならないのに、言い訳が勝っている。同じ世代のお父さんたちを代弁しているんでしょうね。気弱というか、意地もなく、言葉も持たないお父さんたちね。

きょん:同じ作者の『ライギョのきゅうしょく』(講談社)や『見えない敵』(ブロンズ新社)がなかなかよかったので、今回この作品を読んでみようと思いました。まじめな作家なんだと思うけど、お父さんのエッセイみたいな内容でしたね。

ねむりねずみ:みなさんのおっしゃったとおり。読んでいて、前にこの会で取り上げられた『ハッピーバースデー』(青木和雄作 金の星社)を思い出しました。著者のメッセージがベタでぶわーっと出ている。作品世界になっていないし、フィクションになっていない。こんな事が言いたいんだろうなあというのが見え見え。作品を書く動機はとてもいいのだけれど、ちゃんとした作品世界を作り上げられなければ、せっかくの善意も空回りになってしまうのでは?「泣き虫のままでいい」だけがお母さんの立場なんだけど、それだからといってたいした工夫があるとは感じられませんでした。

ペガサス:これは1編だけしか読んでいないんですが、ほかの2冊が構成などとても工夫されていて、新しい児童文学だという気がしていたのに、これはなんの工夫もない。この第一話の父と息子の会話からして、こんなこと言うかしらと思いました。

愁童:少し前なら、「こんな甘いお話!」って切り捨ててしまったかもしれないけど、まわりを見ると、この本読ませたい親がいっぱいいるんだよね。短編の作り方としてはうまい。ちょっと読み手の虚をついておいて、最後ぽんと落とす。説得力あると、ぼくは思うけどな。野球の話の、コーチと子ども達の関係なんか、いいとこついてると思う。

きょん:野球の試合で、三振しても「ドンマイ」「がんばったね」っていうのが、今の子どもたちを取り巻く現状だけれど、やっぱり試合には勝たなければ意味はないし・・・とか、メッセージには共感をおぼえました。言ってることは、とってもシンプルでわかりやすい。そこのところが優等生的なんだと思います。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


マロリー・ブラックマン『うそつき』

うそつき

トチ:おもしろく読みました。ジェンマとマイクが交互に出てくる構成がうまいし、坂道をころげおちていくようなスリリングな展開が楽しめる。ただ、どんな風にまとめるのか、読んでいる最中から気になっていましたが、結末がちょっと苦しい感じがしました。この本でいちばん迫力があって、光っているのは冒頭の部分ね。バドといい、この本といい、子どもの本の翻訳者はいい仕事をしていると思う。

カーコ:最近英米で賞をとるものは、たいがい構成がしっかりしているというか、どこか「おっ」と思わせるような構成の工夫があると常日ごろ感じているのですけど、これも、しっかりとした構成がある作品。2人の主人公が、どんどん追いつめられていく感じがうまく出ていておもしろかったですね。

ケロ:追いつめられていく側や追いつめる側を一方的に書いているものはよくあるけれど、これは両側から、ある一つの言葉がどうして出てきたかまでが書かれていますね。バドと対照的で、マイクっていうのがどういう子なのか、最初はつかみにくかった。お母さんと子どもとの関係が、オーバーラップしながら見えてきます。母親から捨てられたんではないかとか、母親から離れるという体験は今は多いから、読者が自分にひきよせて読めるかな。

:今回のテーマは男の子の気持ちでしたよね。マイクに感情移入して読みました。「ありがたいって思ってるんだろうな」とおじいちゃんに言われるシーンでは、どんなに傷ついたかと思って、読んでいてズキリときました。大人にとってちょっとした誤解でも、子どもにとっては全世界になってしまうんですね。いろんな現象があって、子どもがかかえている問題の重さはなかなかはかれない。カバー袖に「互いに好感を持ちながらも」とあるけど、この子たちはどこでひかれあったのか疑問でした。マイクもジェンマにひかれてたんですか?

ブラックペッパー:私はジェンマにひかれた。たくさんのお母さんの記事をスクラップをするところから、ひかれて。構成が細切れなので、途切れたところでどうなってしまうのかと心配になってしまう。みんなたいへんで、痛々しい。最後、ジェンマがみんなに告白するところは、ちょっと人間が変わりすぎかなと思ったし、マイクのおじいちゃんが最初すごいことを言っていたのに、どの辺からこんないいおじいさんになったのかと疑問に思いました。

ペガサス:マイクの側から書いているからじゃない? マイクの心の動きで、変わって見えてきている。

愁童:老人夫婦はとてもうまく書けていると思う。マイクに対して、きついことを言ったりするおじいさんの後で、おばあさんがマイクをやさしくフォローしたりして、長年連れ添った老夫婦が、ごく自然に書かれているね。

すあま:急いで読んでしまったのですが、お母さんを失った男の子と女の子の話で、それぞれに傷の深さは違います。特に、ジェンマはぼろぼろという感じで始まって、その後お互いに傷つけあうのがなまなましくて、読んでいて辛かったです。最後のハッピーエンドを求めて読んでいくという感じでした。楽しい本ではないから、好き嫌いはあるでしょうね。最後、ジェンマの解決が簡単すぎると思ったけど、傷ついている子どもが、ちょっとしたことで立ち直ることもあるので、安易とも言いきれないですね。二人の両方の立場で書かれているので、場面がぱっぱっと切り替わる感じがよかったです。

:この本は、大人の小説でも扱えるくらいテーマがありますね。大人の本だともっと書き込めるだろうけど、子どもの本だから難しかったんでしょう。大人の本だと、言葉に限定して表現できないことは、メタファーを使って表現する手法を使えますが、子どもの作品だとそれが難しい。作者は、構成が見えて書いているから、途中、加減をしながらほのめかしていく。両方の側から見ていけば読者は受け入れられるけれど、マイクの立場だけで見ていくと、ジェンマにされていることは理不尽。えぐいですよね。不自然なところが出てくる。チャレンジングな作品だけれど、そういうところに疑問が残りますね。

きょん:いじめる側といじめられる側の心理が描かれていて、対話のように交互に入っていく構成がおもしろかった。早く解決を見たくて読み進みました。マイクとジェンマの心のすれ違いが、なんともいえずイライラしました。子どもの心の描写、移り変わりが、しつこいくらい細かく書かれています。ジェンマの心のゆがみは、あまりにひどくて救いようがないし、こんな子っているのかもしれないけど、あまり好きになれませんでした。ジェンマは、マイクを脅迫したある日、「誰のせいでもない自分のせいなんだ」って気づきますが、何が自分のせいなのかがはっきりしてこないのが気になります。また、子どもの気持ちと、ちょっとずれがあると思いました。高学年の子なのに、お母さんの手紙を読んだときお母さんは会いたくないと思っていると考えてしまうところとか。ジェンマとマイクの関係が深みにはまっていく姿は、説得力があって、すごくいやでした。最後、川のほとりで話すとき、「お互いが安全弁になってくれた」というのは、すっきりきませんでした。また、ジェンマは「自分のせい」だから、自分を変えようと行動するけど、最後にあまりにもガラッと積極的に変わりすぎるので、それもどうなんだろう、と・・・。

アカシア:ちょっと前に読んだので、細かいことを忘れてしまっているのですが、翻訳は会話のところが特に、いきいきしていていいなと思いました。でも、作品の中で作者の視点がずれるんじゃないかな。おじいちゃんが嫌みを言って、その後いいおじいちゃんに変わるように取れるというところも、このおじいちゃんが最初にどうしてこんな言い方をしたのか、作者はきちんと考えているのかどうか気になります。考えているのなら、ちゃんと書いておいたほうが読者も納得します。山場の、マイクがジェンマにそそのかされて盗みを犯すところも、ジェンマは自分の心の内を探っているだけで、マイクに対してはどう思ったのかきちんと描かれていません。母親が祖父にあてた手紙をマイクが読んでしまったところも、手紙そのものは誤解される余地なく愛情あふれるものとして書いているのに、読んだマイクの方は「会いたくないんだから、ぼくを責めてるんだ」と思ってしまう。母親の手紙がどちらにもとれるようなものであれば、マイクの誤解もわかりますが、そうでないので読者はとまどうでしょうね。ジェンマとマイクの関係も、ひかれあうというなら、もう少し読者に納得できるようにそこも書き込んでほしいと思いました。

ペガサス:構成がすごい。ちょっとずつちょっとずつしかわからないから、どんどん先を読みたくなります。ただ、2人がとことんすれ違って、とことん傷つけあうところはひじょうにうまく書けているのに比べて、回復していくところが弱いかも。だから、これほどまで痛めつけられたマイクが、最後にジェンマとここまで急に好意的に話ができるというのはどうかと思っちゃう。話なんてしたくもないだろうと思うのに。またp165で、ジェンマがガラスに映る自分の顔を見て、急に、こうなったのは自分のせいだと気づくところは唐突に感じました。書名の『うそつき』というのは、ジェンマがマイクに言っていることなんでしょうか? 途中でわからなくなりました。ジェンマが、クラスの子の前でマイクをかばうために勇気をもって発言しますが、自分がゆすっていたことは言わなかったし、本当のことを言っていないのですっきりしません。ジェンマもうそつきなわけだから、書名の意味は両方のこと?

愁童:父親もうそをつき、母親もうそをつき、みんながうそをついている中で四苦八苦し、結果として自分たちもうそをつかざるを得ないところへ追い込まれる子ども達の真実を書きたくて『うそつき』という題名になったのでは? ジェンマとマイクを交互に書いているから、女性はマイクに肩入れし、男性はジェンマに肩入れする傾向があるかな?

複数:男性だからどっち、女性だからどっちとは言えないのでは。

アカシア:終わり方はどう?

愁童:何も解決はしていないよね。でもそれでいいんだと思う。

ペガサス:どちらかに肩入れするというより、どちらも読んでいくところにおもしろさがある。

ウェンディ:マイクが、父親を殺したのは自分だということを隠している(したがって読者にも明かされない)とわかった時点で、マイクの気持ちや言動をふりかえると、しっくりしません。それに、ラストで2人があそこまであっけなく考え方や行動を改められる点も、みなさんがおっしゃるように、できすぎのようにも思います。けれど、ふとしたすれ違いが積もり積もって、思いもよらない事態に発展してしまったり、逆に、ひょんなことがきっかけでわだかまりが解けたりとなんていうことは、現実には意外とあるのかもしれませんね。それにしても、結末を知ってから読み返しても、2人がどんどんすれ違っていってしまうあたり、もどかしくてたまらなかったんです。でも、いろいろ粗削りのところはあるけれど、一人一人の心の動きみたいなものをここまで丁寧にリアルに書けていて、書ける作家だなあ、価値のある作品だなあと思いました。

ねむりねずみ:特に中学ではいじめは日常茶飯事で、学校では一番の問題なんだけど、いじめを扱うのは非常に難しくて、児童文学でいじめを正面から扱って成功しているものにはほとんどお目にかかったことがありません。いじめの本質をついていなかったり、単なる舞台背景になっていることが多くて。実際のいじめでは、半分は自分自身の思いこみから子どもが勝手に追いつめられ、極端な行動に走ることで状況が突然悪化するというケースが多いわけだけど、この作品はそのあたりがよく描けていると思いました。いじめる側からといじめられる側からの二つの視線が平行して進んでいくことで、両者のすれ違いがはっきり見えるのは、着想の勝利だと思います。結末も、実は何も解決していないというところがリアルじゃないですか。ひょっとしたら、ジェンマは自分の行動を変えようとがんばりすぎて破綻するのかもしれないけど、ジェンマが何とかしようと思ったという一点が救いになって、読後感が暗くならずにすんでいます。細かく見ていくといろいろと不自然なところもありますが、正面からいじめを取り上げつつ、暗いままで終わらせず、リアリティを保っているところは評価できるんじゃないかな。

(2003年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


中村陽吉文 アトリエ・モレリ絵『カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ』

カメちゃんおいで、手の鳴るほうへ〜友だちになれる亀の飼い方

カーコ:カメを飼っている子や、カメを飼おうと思っている子が喜んで読みそうな本だと思いました。へえーと思うことがたくさんありました。でも、すっきりとした絵が入っていてとっつきやすい一方で、全体に漢字が多いのが気になりました。

ブラックペッパー:私、カメって、甲羅の中のことを考えるといやだったの。図書館から借りてきて、しばらく読まずにいたんだけど、おもいきって読んだらおもしろかった。カメと友だちになれるよという姿勢がよかった。笑ったところは、「煮えてしまう」ところ。これを読んだ子は買いたくなるだろうなと思った。ただ、タイトルはいいのか悪いのか。ほかに思いつかないからいいのかな。

愁童:今、カメを飼っている子って多いですよね。これ1冊あれば、カメ飼育のエキスパートになれるというような本だと思いました。

ペガサス:同じ著者が大人向きに以前書いた『呼べば来る亀』(誠信書房)もおもしろかった。この人のほのぼの路線が出てる。こちらは、カメを飼おうとしている子どもに読ませる本として作られている。この人とカメの付き合い方みたいなのが、本文に書かれて、下段には豆知識が書かれている。子ども向けに書いている作家ではないから、編集の人が手を入れているんだろうけど、「和室」なんて言葉の注釈もある。親切な編集の人だなあと思いました。この先生って、自分ではそうは思っていないだろうけれど、ユーモラスなところがある人。51ページのコメント「知らないカメの鼻は、押さないようにしましょう」なんていうのも、おもしろい。このあいだ、あるタレントがカメを数匹飼っているが見分けはつかないと言っていたけど、この本を読むと、こんなに親密につきあえることがわかって興味深かった。カメが人間を見分けるというのも意外だったし、まちがえて他人のところに行っちゃうと恥ずかしそうな顔をするというのも、おもしろかった。

アカシア:私は前にカメを飼っていたことがあるんですけど、その頃この本を読んでいればもっとうまく飼えたのにって思いました。でも、どのカメも犬みたいに馴れるっていうわけじゃなくて、この「カメちゃん」っていうのが特別なのよね。「ガマちゃん」と「シンちゃん」は「カメちゃん」ほど馴れなくて、それでも一生懸命やっているこの先生がほほえましい。近所のカメがいっぱいいる池から一匹もらってきたくなりましたね。ただ、冬眠用の水槽の用意のしかたがちょっとわかりにくかった。落ち葉と水を入れると最初にあるけど、「あたたかいベッド」って書いてあるし、27ページには「落ち葉の中から」って書いてある。水は途中で蒸発してなくなるの? カメの観察記録なんだけど、書き方はおもしろかった。「ときどきシンちゃんが、ガマちゃんの前に出て、鼻を押しつける。まるで『姫、しばしおとどまりを。』と、家来が言っても、『そちはうるさいのう、わらわは先に行くぞえ。』というように、ガマちゃんはドンドン行ってしまう。」なんていうの。

ブラックペッパー:この冬眠用水槽の「水を同じくらい入れ」って、何と同じくらいなんでしょうね。落ち葉と同じくらいということ?

アカシア:カメ飼育の実用書として見ると、絵に出てくる敷居とカメの大きさの比率がページによって違ったりもして、??と思ってしまう。

紙魚:私は動物のなかでも、カメはかなり上位に入るほど好きなんです。だから期待して読みました。動物もののおもしろさって、もちろん作者のその動物に対する愛情の度合いとかもあるのだけど、やっぱり生態がきちっと興味深く書かれていることが、私にとっては大切なんですね。この本は、カメを飼う人のための本なのか、カメに興味をもたせるための本なのか、焦点にちょっと揺れがあるように思いました。ただ、作者の人柄や、カメの気持ちの読み取り方がおもしろいので、楽しく読みきってしまいます。あと、イラストレーションがちょっとわかりにくいところがありました。カメちゃん、ガマちゃん、シンちゃんの顔のちがいとかって、もっとちゃんと見たいし、75・99ページのイラストなどはわかりにくかったです。

アカシア:この本はノンフィクションというよりは、読み物なんでしょうか。

すあま:『呼べば来る亀』は、大人向けで、大の大人の心理学者がカメを飼うっていうおもしろい本だった。こっちも、カメの飼い方の本というよりは、ノンフィクションの読み物にすればよかったのかも。

:うちの近所に、リクガメを散歩させてる人がいるのよ。『どろぼうの神さま』(コルネーリア・フンケ著 細井直子訳 WAVE出版)にも、くしゃみするカメが出てるじゃない。あれって、本当だったのね。生きものを飼う人って、こんな気持ちで飼うんだなということがわかりました。

カーコ:これはノウハウの本じゃないんじゃないかしら。これを読んだだけでは、カメを飼うのは難しそう。私も小学生のときミドリガメを飼ったことがあるんですけど、世話がすごくたいへんだったの。掃除をさぼるとすぐ臭くなるし、病気にもなるし。でも、この本からは苦労は伝わってこない。実際には、なかなかこんなにおおらかには飼えませんよね。おふとんをよごされたなんて、さらっと書いてあるけれど。

:カメってもっと獰猛じゃなかったっけ。かつて、うちのベランダに上の階からカメが落ちてきたことがあるんだけど、けっこう獰猛でしたよ。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ヨースタイン・ゴルデル『ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館』

ビッビ・ボッケンのふしぎ図書館

すあま:おもしろく読めたので読み物といえば読み物だけど、教育目的で作られた本でもありますよね。現実の本づくりともシンクロしてる。ただ、ビッビさんは、怪しい存在だったのが、実はいいお姉さんだったのも気になるし、最後の種明かしもなーんだという感じ。図書館の分類でも、日本には日本十進分類法というのがあって、この本に出てくるデューイ分類法とはちがうのよね。その辺の説明が、日本の子どもたち向けにほしかったと思いました。最後にわざわざ日本の読者に向けて加筆してるんだから、そのことにもふれてほしかった。

ペガサス:ノルウェーの6年生に配る本としてはよく考えられているなあとは思うけど、日本の子どもたちが読むにはどうかな。手紙のやりとりで構成するところは工夫されているけど、文面があまりにも饒舌な感じで、こんなこと書くかなあ、と思うところも多かった。最初は不思議な要素をとりこんでいるので、どんどん次を読みたくなるんだけど、ビッビがあまりにも良い人になっちゃうのは物足りないし、最後に自分でべらべらしゃべってしまうのもね。翻訳では、図書館の目録のところを、カード式索引と書いてあるんだけど、それは、カード式目録とかカード目録といったほうがいいんじゃないかな。203ページの「システム分類がされていない」というのは、よくわからない。分類法が整っていない、ということか?

アカシア:これはノンフィクションじゃなくて、教育的ファンタジーっていうやつかな。ノルウェーの子どもだったらおもしろいかもしれないけど、日本だと、図書館もコンピューター化されているところが多いし、レターブックのやりとりも、今ならメールでしょうね。なじみがなさすぎて、日本の子どもはなかなか入っていけないんじゃないかな。それに、ファンタジー物語としては、あんまりおもしろくない。図書館の仕組みを知るにはいいのかもしれないけど、それにしてもこんなに長々と読まされなくちゃいけないのかという感じ。挿絵に不思議な雰囲気があって、それに引っぱられて最後まで読めましたけど。NHK出版は、『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著 池田香代子訳 NHK出版)を契約するとき、ヨースタイン・ゴルデルの本を全部契約しちゃって、出さなきゃいけないのかな。

紙魚:先日ある講座で、スプートニクショック後、アメリカが科学技術教育に力を入れるために、何冊かの本を子どもたちのために選定したという話を聞いたんですけど、その本というのは、3歳児向けがルース・クラウスの『はなをくんくん』(邦訳は福音館書店)、4歳児向けがエッツの『わたしとあそんで』(邦訳は福音館書店)だったというんですね。日本であれば、直球の科学絵本が選ばれそうだと思いませんか。これは、図書館学の本だけど、もし日本でそれを学ばせたいと思ったら、いきなり十進分類法が入ると思うんですね。だから、ここまでまわり道をしながら図書館の全貌をつかんでいこうとする姿勢には、どこか豊かなものを感じました。でも、ちょっとこれはまわり道しすぎです。結局、物語としての広がりが感じられないので、おもしろく読めなくて残念でした。

カーコ:本についての本を書いてくれるように依頼されて書いたとあったので、そう思いながら読んだんですね。ミステリー仕立てで読者をひっぱって、本の世界を紹介していこうというのが作者の意図なのでしょうけれど、私は、ミステリーのキーとなる「ビッビ・ボッケンの図書館」に魅力を感じられず、苦しいかなと思いました。気になったのは、主人公の二人の言葉遣い。12、3歳の子が書く手紙って、こんなふうかしら。とくに女の子の言葉遣いが、昔のお姉さんみたいで入りにくかった。原書で読むと、もっと軽い感じなのかも。それに、中でいろんな本が紹介されるわけだけれど、唐突さが目につきました。とくに、この子たちが、詩や戯曲まで話題にするというのは無理がないかしら。作為が見えて興をそがれました。それから、161ページのリンドグレンの本について語っている部分で、当の男の子が、こういう本は大人になってから読み返してもおもしろいだろうというようなことを言うのは、大人の視点じゃないかしら。260ページの「ぼくは、生まれてはじめて、本とはどういうものなのかを知った。本は、過去の人たちを生き返らせて、いま生きている人たちを永遠に生かす、小さな記号で満たされた魔法の世界なんだ。」ってところを読んだとき、これが作者の言いたかったことかな、と思いました。

アカシア:私はへそ曲がりだから、本に作者の「教えてやろう」とか「面白がらせてやろう」という作為が見えるのはいやなんですね。『はなをくんくん』とか『わたしとあそんで』には、そういう作為は見えませんよね。私がノルウェーの子どもでも、こういう「教えてやろう」式の本はいやだったかも。

(20031年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エリザベス・コーディー・キメル『エンデュアランス号大漂流』

エンデュアランス号大漂流

紙魚:釘付けになったのは、写真です。どの写真も一枚一枚、非常に興味深かった。こういう物語って、私は細部が知りたくなります。だから、本文はちょっとあっさりしすぎているように感じました。食べ物がないといっても、どんな食べ物を食べていたか、味付けはどんな感じだったのかとか、どんな服を何枚着て、どんな状態になっていったかとか……。すでに回想録となってしまっているので、そういう細かいところが出てこないところ、それから最初の方に航路の図が出ていて、読み終わる前にどうなるかわかってしまうところが、ちょっと残念でした。でも、おもしろかった。写真を撮りつづけて、それをきちんと所持し保管していたことだけでも、本当にすごいと思います。

アカシア:私は、おもしろく読みました。漂流そのものよりも、失敗しつづけて家族を省みず、それでも探検がやめられないという、影の部分ももあるシャクルトンの人物像がおもしろかった。千葉さんの訳も読みやすかった。この時期、評論社からもエンデュアランス号についての本が出たわよね。どうしてそんなにシャクルトンが出てきたの?

ブラックペッパー:シャクルトンの映画が来たからだと思いますよ。

ペガサス:子ども向きの冒険物語で薦められるものは何かと考えた時、『ロビンソン・クルーソー』などの古典的冒険ものか、そうでなければ今はファンタジーになってしまうのよね。でもファンタジーの冒険と、現実の冒険とはちがう。だからといって、昔の冒険小説って、つまるところ強者が弱者を征服する話でしょ。そういうものを今の子どもたちにそのまま薦めていいものか、という思いがある。そうなると、今、子どもたちに現実の冒険として手渡せるのは、ノンフィクションなのかな、と思う。この本には本当にすごい冒険があって、魅力的な人物にも出会える。子どもが読めるこういうノンフィクションがもっと出てもいいと思う。

:去年の夏に息子が読書感想文を書かなくちゃいけないとき、親としてお薦めの本を選んだんだけど、その中にこれも入れておいたの。結局、息子は「教科書みたいでつまんないから」と言って読まなかったのね。どういうものがアピールしたかというと、チベットを旅する高僧の話(井上靖だったと思う)なのね。ヒューマンドキュメントなんですよ。いわゆる、ノンフィクションのドキュメントと歴史小説はどうちがうんだろう。たとえばサトクリフは、英雄のそばにいる人がどう生きたかを書いてるし、『ジョコンダ夫人の肖像』(E・L・カニグズバーグ作 松永ふみ子訳 岩波書店)のベアトリーチェなんかも面白いですよね。ノンフィクションであっても、物語性のあるなしに面白さの鍵があるのかなと思いました。

アカシア:歴史小説はフィクションよね。でも、この本はノンフィクション。ノンフィクションは事実しか書けないから、それなりの重みもあるのでは? 本当にこんなことがあったのだ、というのはやっぱり強いわよね。

カーコ:そうそう。沢木耕太郎が、ノンフィクションには実際に起こらなかったことはつけ加えられないって、どこかで書いていましたよね。

:塩野七生とかは、フィクションだものね。

アカシア:これが教科書的と思われたのは、レイアウトのせいじゃないかしら。ちょっと見では古くさい硬い感じがするけど、読んでみると最初の印象よりは、ずっとおもしろかった。

すあま:私はエンデュアランス号について知らなかったんですけど、食料に困ったりすることもなく、波がきても、奇跡的に助かって、と事実が淡々と述べられているので、そのまま淡々と読んでしまった。全員が生還するのはすごいことだし、実際に困っているんだけれど困った感じがあまり伝わってこない。そして、シャクルトン以外の人たちの見分けがつかなかった。もうちょっとエピソードで、ひっぱってほしかった。へたにイラストを入れないで写真だけにしたのはよかったと思います。冒頭、「南極大陸は」というよりは、「アーネスト・シャクルトンは」というように人物の紹介から始まっていれば、入りやすいかもしれない。

アカシア:私は淡々としているとは思わなかった。アウトドアが好きなせいもあるかもしれないけど、けっこうドラマティックだと思って読んだな。

すあま:自分が死んでも記録を残そうとしたのはすごいですよね。もうちょっと読みたいと思うところが、さらっと終わっているので、物足りなく感じたのかもしれない。ノンフィクションが好きという子には、いいよね。うまく紹介すれば、ちゃんと読まれる本だと思います。

ブラックペッパー:作為の反対側にあるんですよね。私はそれがいいと思いました。

ペガサス:ノンフィクションの場合は、自分の経験とか、これまでに読んできた本で、読者の受け取り方がちがうのよね。

ブラックペッパー:私は「人間って!」と思ったんですよね。シャクルトンのリーダーとしての人柄がいいと思ったんです。隊員がこの人についていけば助かるんだと信じていた、そこがいい。シャクルトンは、食べ物がなくなったときに隠していた食べ物をふるまうとか、たいへんなところは自分が引き受けるぞという精神にあふれていて、そこを読んでほしいんですよね。お話としては、はらはらどきどきを求める人には、だめだったかもしれないけど。

カーコ:おもしろかったです。我慢ができない読者なので、最後どうなるんだろうって、読み始めてすぐ、後のほうの写真などを見ちゃったんですけど。文章は、作者がわざとおさえて書いているという印象を受けました。びっくりさせるような書き方をしていない。ゲーム的なすばやい展開に慣れた人には、あっさりしているかもしれませんね。人生の不思議さ、自然と人間の不思議さを感じさせられました。嵐が突然やむところなんか、フィクションだったら、逆にリアリティがないって言われてしまうでしょう? でも、本当にあったこと。歴史の表舞台には出てこないけれど、すごい人がいるんですね。写真がすごくよかった。1914年から1916年でしょ、明治の終わりですよね。28人もの野郎どもが、こんなに長い間、閉鎖的な状況でサバイバルするなんて、すごいですよね。

ブラックペッパー:そうですよ。それなのに、お楽しみとかしながら、過ごしていくんですよね。

カーコ:時系列的な図がどこかに入っていても、よかったのかな。そのほうが、一年半という時が流れていたすごさが、もっと感じられたかも。人間ってこういうこともできるんだなって。

紙魚:楽器をとりに帰るところ、いいですよね。こんな極限の状態でも、人間って音楽を聞くんだって、じわりときました。

すあま:この本、ビジネスマンに売ってもいいんじゃない。雑誌『プレジデント』なんか読んでる人のために「家族に顧みられないあなたへ」とかの帯つけて。

ペガサス:「リーダーになるための条件」とか「この春部長になったあなたへ」とかね。失敗を極度に恐れる傾向があるから、失敗するということを言わずに「負け組を勝ち組にかえる」とか。そういう言葉に弱いんだから。

(2003年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


青木和夫『ハッピーバースデー』

ハッピーバースデー〜命かがやく瞬間

もぷしー:じつは私、この本読むの3度目なんです。いいかげん飽きてもいい頃ですけど、こういう話は好きなんですね。心の問題を抱えている主人公あすかが、最後に元気になるという変化が植物のように無理なく書いてある。けっして劇的ではなく、ゆっくり変化していくのが、すごく好き。ただ、お決まりだなあと思うのは、最後の大団円。それから、何度読んでも、副題が邪魔に感じますね。古臭いです。

ペガサス:私はあまり好きじゃなかった。どの人のセリフも著者に言わされている感じでうそくさい。『葉っぱのフレディ』(レオ・バスカーリア著 童話屋)とか『一杯のかけそば』(栗良平著 角川書店)と同じようなものを感じてしまって。物語自体がうわすべりしていて、母親のことが言いたいのか、それともあすかのことが言いたいのか、はっきりしていないのもやっぱり評価できないな。今って、「泣ける本」みたいなのがもてはやされる風潮があるけど、そういう意図が見え見えで、反発を感じちゃった。

紙魚:私も好きになれない本です。道徳の教科書を読んでいるみたいで、アンダーラインがひかれて、ここで主人公はどう思ったのかなんて設問がうかんできそう。ただ、何が言いたいのかとてもわかりやすいので、というより、作者がそれをわざわざ言ってくるような本なので、きっと読者は読みやすいんだと思います。このところ、書店に並んでいる本が、これはこういう本ですって、帯やポップで、あらすじまで書いてあったりするんだけど、ひとつひとつ小さな扉をひらきながら読み進めていくような本が好きな私にとっては、もうちょっと読書の不思議を感じられる物語が読みたいな。

愁童:まあ読みやすいし、実際にこういうことってあるなとは思いながら読みました。『うそつき』(マロリー・ブラックマン作 冨永星訳 ポプラ社)と似た設定なんだけど、較べると、こっちはやっぱりカウンセラーが書いた本って感じ。それにしても、「おまえなんか生まれてこなければ……」と冒頭から書ける神経って、すごいね。

アカシア:私は、子どものころ、こういうタイプの本、けっこう読んでましたよ。その後いろいろな本を読んできて今読むと、なんだか困ってしまうのだけど。困るっていうのは、実体験に基づいているんだろうと思うから嘘っぽいとは言えないし切ないんだけど、作者がまじめに書いてる分、微妙な部分が逆に抜け落ちて紋切り型になってしまったりする。そうすると、文学とは言えないからね。

トチ:私は、最初から文学としては読まなかったわ。前に、関口宏の「本パラ」で紹介されていたのをテレビで見たけれど、そういうところからわっと火がついたのかしら。これは文学というより、カウンセラーとしての事例研究を読み物風にまとめたものね。どうしてここまで売れてるのか分からないけど。

もぷしー:読者にとっては、文学かということより、わかりやすいというところがいいんだと思います。相田みつをのストーリーバージョンという感じ。

ねむりねずみ:なんか読者に説明しすぎていて、それが一面的なので、作品としてつまらない。いかにもカウンセラー経験者が書きましたという感じ。精神分析の事例報告っていうのは、読みようによってはワイドショー的というのか、興味本位に半端なドラマを見るように読めるのだけれど、それに通じるところがあるように思う。作者の善意は認めるけれど……。最近、なんとなくすべてわかるようにしなくちゃだめという傾向を感じるのだけれど、なにかわからない部分もありつつ読み進め、何年も後になって、ああ、あれはこういうことだったんだ!というような読み方はできなくなっているのかな。もしそうなら、かなり深刻だと思う。

すあま:まあ、読書感想文を書きやすい、楽しくない本ですね。ユーモアのセンスがまるでない。いろんなことをつめこみすぎです。娘を愛せない母、というテーマでは、萩尾望都の『イグアナの娘』(小学館)というマンガを思い出しました。前半と後半は、シリーズの別の本にしてもよかったのかも。

紙魚:いやいや一冊にしてあるからこそ売れるんだと思います。すべて味わえるもの。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スーザン・プライス『エルフギフト』

エルフギフト(上)復讐のちかい/エルフギフト(下)裏切りの剣

ねむりねずみ:もともと、スーザン・プライスは好きなんです。『500年のトンネル』(創元推理文庫)なんかもすごく好きだし。これもキリスト教が入ってくる前の世界が、匂いまで込めてよく書かれているなあと思います。そういう意味では力量に感心しちゃう。でも、突き放しすぎている気もして、それにすごく肉食的というかこれでもかこれでもかというところがあって、うむむむむ、これを子ども向けで出すというのはどういうことなんだろうと思いましたね。子どもの本として売るのは難しそう。

:今回のテーマは、子どもに支持されている本ということですけど、『エルフギフト』は、子どもに支持されるかどうかの可能性を考えるってことですよね。ほかの本は、支持されてることがはっきりしてますけど。

すあま:胃もたれしましたよね。こういう血なまぐさいのって、日本ではあまり好かれないんじゃないかな。楽しい話でもないし。

ねむりねずみ:登場人物がいっぱいなので、上巻の巻頭にもリストがあればなあと思いました。ときどき、ごちゃごちゃになっちゃって。あと、時代がそうだったからしょうがないんだけれど、男尊女卑がすごくてちょっといやな気分になったなあ。

ペガサス:人間と妖精のあいだに生まれたエルフギフトという存在にまず非常に興味をそそられるけれど、どうも彼のことがよくわからない。心で理解しても好きになれない。妖精だから仕方がないのか? 生と死が隣り合わせで、すぐに死んだり生き返ったりするのは神話の世界のおもしろさだけど、勧善懲悪というわかりやすい図式じゃないので、よくわからないところがあった。神話なんだからと割り切ってしまえばいいのだろうけど。だんだんエルフギフトについていけなくなるので、エバ、アンウィン、その妻ケンドリータ、ウルフウィアードなどについていこうとするんだけど、どの人にも途中で裏切られる感じがある。私は、人間ドラマを楽しみたいと思うほうなので、親子、夫婦、兄弟の関係が今ひとつ納得できなかった。

もぷしー:私も生理的に厳しかったです。そこまで人体を壊さないと語れないものでしょうか。サトクリフを読んでいるときは、きびしい現実を描いたお話でも自然に受け止められるのですが、『エルフギフト』では、キャラクターの理解をこえた行動に共感できなかったです。ずっと不安定感がつきまといますよね。全員がクールなキャラクターのなかで、エバだけが生身のキャラだということをかなり強く感じさせる。どちらも、そこまでクールでなくても……、そこまでグロテスクでなくても……と思ってしまって、消化不良な感じです。

アカシア:私はきっと少数派ね。これ、とても好きな作品なんです。スーザン・プライスは全体に好きなの。さっき感情移入しにくいっていわれたけど、主人公のエルフギフトは、半分しか人間じゃないんだから、当然人知では計り知れない行動をとるのよね。キリスト教の力と、それ以前のゲルマンの神々への信仰がぶつかり合う時代を、こういうかたちで描くなんてすごい才能ですよ。血なまぐさいという声も当然あると思うけど、こういう描写でしか伝えられない不思議なエネルギーが伝わってきますね。ほかの作品を見るときと同じ目線で見ると、わかりにくいと思うけど、この作家の作品はそういう尺度では計れないのでは? 私はわかりにくいとはちっとも思わなかった。エルフギフトは、キリスト教的近代の価値観につぶされていった原初的な価値観や素朴なエネルギーを象徴しているともとれますよね。でも、そう考えると、表紙の絵はちょっと違うという気もしました。

カーコ:上巻の最初の方は、次はどうなるんだろうと先の展開にひかれて読み進んでいったんだけど、下巻を読みはじめたくらいで、この世界はもういいやって、挫折してしまいました。なぜかといえば、残酷な場面を、これでもか、これでもかと克明に書きこんであるでしょう。うまいだけに、生々しいんですよね。血なまぐさいことをそこまでたたみかけて書く意味ってなんだろうと、途中から拒否感をおぼえてしまいました。それと、この物語の世界観についていけなくなってしまったんですね。王位継承の争いの中に、宗教の違いや、妖精と人間との関係がからんでくる。最後まで読めば、エルフギフトの特別な意味がわかっておもしろかったのかもしれないんですが。
文学としては上等だと思いながらも、ついていけませんでした。

ペガサス:人間関係がすごく冷たいのよね。背中から誰かが襲ってきても不思議はない世界。

きょん:予想していたのとちがって、なかなか入っていけなかったですね。なにしろ血なまぐさい。下巻に入ってやっとおもしろくなって、3人の関係がどうなるかという興味から、人の気持ちの揺れをたどっていけた。予測がつかないところが、おもしろかった。

トチ:私はとってもおもしろかった。特に上巻が。残虐だという話だけれど、残虐な話もこれだけ筆力のある作家が書くと、その残虐さがストーリーや表現の力強さを後押しする力になって、ますます圧倒されてしまう。キャラクターやイメージもくっきりしているし、背景になっている神話を知らなくても人間のドラマとして読んでいける、素晴らしい作品だと思います。人間の裏表がはっきり書けているので、登場人物の誰かに感情移入して読むのは難しいかもしれないけれど、私はスーザン・プライスという語り手を信頼して、ぴったりくっついて読み進んでいったのね。訳者の金原さんも、かなり力をいれて訳していると思います。例のプルマンの3部作(「ライラの冒険」シリーズ)もこれくらいの訳で出してもらえれば、日本でも欧米と同じくらいの話題作として取り上げられたのに・・・・

紙魚:私は、上巻読むのがやっとで、これから下巻を読む気にはとてもなれません。読みながらずっと、何か読み落としているんじゃないかと不安でした。最後まで、エルフギフトが何なのかくっきりとイメージを持てなくて、つらかったです。これって、子どもが読むのかな。

愁童:上巻はおもしろく読めたんだけど、下巻になると、どうもかったるかったな。でも、描写に勢いがあるんで読まされちゃうね。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エミリー・ロッダ「デルトラ・クエスト」

デルトラ・クエスト(1)沈黙の森/デルトラ・クエスト(2)嘆きの湖

トチ:読者の年齢が低くてもわかりやすい本ね。主人公の男の子が出てくるまでは、なかなか話に入っていけないけど、途中からは、作者もなかなかやるなと思わせられる筋立てでした。エミリー・ロッダの本は、主人公が素直よね。

きょん:わかりやすい話ですよね。エピソードがいろいろあるので飽きさせないし、主人公がよい子なので安心して読める。次はどんな怪物が出てくるんだろうと、男の子なんかは興味を持って読むと思う。

カーコ:すごく話題になって、売れていると聞いていただけに、かえって私は期待せずに読んだんですよね。でも、予想がいい方に裏切られて、「えっ、意外とおもしろいじゃない」と思いました。キャラクターが魅力的だし、宝さがしのストーリーにひっぱられながら、1冊1冊達成感を持って読めるでしょう。おもしろいと思ったのは、キャラクターにしてもしかけにしても、お話というもののさまざまな要素があちこちにちりばめているところ。作者が、昔話やお話の世界をよく知っていて、それをうまくとりこんでいるんだなあと感心しました。エンターテイメントとして、気持ちよく子どもたちに手渡したくなります。それと、言葉がらみの謎解きやパズルって、翻訳の場合むずかしいですよね。それが、ここでは自然に仕上がって、よく生かされているところに、編集の人のがんばりを感じました。

きょん:読者を裏切るおもしろさがあるのが『エルフギフト』。予測がつくおもしろさが『デルトラクエスト』。

ペガサス:中学年くらいの子が楽しく読める本よね。最初から、主人公にぴったりついていけるし、悪人が出てきたとたん、悪人だとすぐわかる。それを倒すためには何をすればいいかもはっきりしている。昔話の構造をそなえていて、とてもわかりやすい。なぞなぞも、ちょうど子どもが解きやすいように作られている。7巻一気に読むのはたいへんだけど、1巻分がちょうどいい分量で、アイテムを一つ一つゲットして次へ進んでいくうちに、全部読んでしまうというわけ。子どもは、キラキラのカードを集めたりするのが本当に好きなので、これはそういう気持ちを満足させるものがあると思う。7つの宝石は、絶対に全部ゲットしたいもの。大人としては全部読むのはちょっと苦労だけど、子どもはこれを全部読んだら、長い物語を読破した気分も味わえるし、とても満足できると思う。

すあま:小2の男の子も読んでいるんですよ。低学年でも本が好きな子なら、1冊1冊が短くて読みやすいと思う。何よりあの光る表紙が気に入っているみたいです。

ねむりねずみ:今回は途中までしか読めなかったんです。対象年齢が低いからだと思うんですが、今ひとつぴんとこなくて。でも、女性の書き方が、ロッダさんらしいなあと思ったのと、逆に対象年齢に合わせた本を書ける人なんだなあ、すごいなあと思いました。

紙魚:おもしろかったです。本当に飽きさせない。ところどころで暗号やらクイズが出てきたりするのも、小学生の時分だったら夢中になって読んだと思います。読者をぐんぐんひっぱっていく力があって、なにしろ子どもに読ませたいという作者の意志が伝わってくるようでした。それから、この装丁にするのは勇気がいるでしょうけど、やはり意志を感じました。これって、男の子にストライクなデザインだと思います。男の子が夢中になる幼児誌とか学年誌って、まさしくこれなんですよね。男の子に読ませたいという作り手のなせる技だと思います。
もぷしー(じつは担当編集者):読書経験がゼロの子でもおもしろさが味わえる本になればいいなと思って。私は、ずっと「本が好きでない子の、本を読むきっかけをつくりたい」と思っていたんですけど、このテキストに会ったとき、これなら! と思ったんですね。1巻ずつ少しずつ読んでいくうちに、結果として全8巻の長編を読めるようになっています。この装丁にしたのは、もともと男の子には、キラカードが人気があるということもあって、まず男の子に「面白そうだな」と感じてもらいたいと思って。書店に8巻並ぶと、男の子が見に来てくれているようです。どんな装丁がいいか、対象読者層にいろいろ聞き取りをしたりもしました。この本は、女の子より男の子の読者が多いのが特徴的。編集的には、作者のロッダさんとこまめに連絡をとりながら、日本の読者にもわかりやすく読んでもらえるよう、クイズやパズルの部分など、できるだけ工夫をしました。愛読者カードから、「クラスで競って読んでいる」とか「本を読むようになった。他におもしろい本があったら教えて」など、本を中心に遊ぶようになってくれた子どもたちの様子を知って、うれしく思っています。

(2003年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ビヴァリー・ナイドゥー『真実の裏側』

真実の裏側

もぷしー:ずいぶん前に読んだので印象論ですが、一気に読めました。最近、もりあげよう、あきさせないようにしようと演出したファンタジー系の本ばかり読んでいたので、久しぶりに現実に基づいてしっかりかけているこの作品を、夢中になって読みました。主人公シャデーの感覚を通して物事が描かれていたのが臨場感があっていい。外から描写しようとすると、お母さんのことなどは感傷的な描写になると思う。でもこの作品では、シャデーが困ったときなどにお母さんの言葉を思い出す形でしか、お母さんは登場しない。そこが、めそめそしている暇もなく生き抜くことだけを考えているシャデーの心情を表す、すばらしい方法だと思いました。あとがきには、大人だけでなく本離れしている若者にも読んでほしいとありましたが、本離れしている若者には簡単には読めないかもしれませんね。ただ、自分の今持っているものを最大限に活用して生き抜こうとする強さと姿勢は、日本の子どもが読んでも共感できると思います。ナイジェリアの言葉がカタカナで書いてあって、意味がかっこに入っている。そこが、ちょっと作品のリズムを乱すようで気になりました。すべて日本語にしてしまってはいけないのでしょうか? 個人的に、152ページのお母さんの言葉「悲しみは貴重な宝物と同じ。本当の友人以外には見せないものよ」というのが、すごくいい言葉だと思いました。

ウォンバット:題材に圧倒されましたが、あんまりのめりこむことはできず、ちょっと……。イマ一つでした。よく知らない国のことだし題材は衝撃的だけど、物語としては『少女パレアナ』的な「私はこんなにいい子なのにどうして?! どうして?!」みたいなのが鼻についちゃって。ニュースキャスターに会えてしまったのも、ちょっとできすぎで、つくられた感じ。すぐ夢を見ちゃうのも、なんだかなあ……という感じで、お話の中に入れなかった。母の言葉も、いいなと思うのもありましたが、ゴチック体で出てくると教訓ぽくて。訳のことですけど、私はちょっと気が合わない感じ。堅いというのかな。『アルテミス・ファウル』の訳にも同じような傾向を感じたんですけれど、原文に忠実に一語一語きちんと対応させて訳してる感じ。私はそういうタイプの訳を、心の中で「置き換え派」と呼んでいるのですが、このお二人は「正統的置き換え派」かなと思いました。正確を期そうという誠実さは感じますが、たとえば原文に強調の言葉があるとき、それを「とても」とか「すごく」とかにしてしまうと不自然な感じになってしまうことがある。日本語では必ずしも「とても」や「すごく」を使わなくても、強調することはできるんじゃないかと思うんですね。

きょん:3冊の中では非常に興味深く読めたし、2人の子どもの心情表現が対照的で理解しやすかった。困難に立ち向かうときの子どもの態度や反応については、母親が目の前で殺されたといった異常事態だからというより、もっと普遍的なように感じました。まわりの人がずいぶん親切だったり、都合よくストーリーが運ぶな、と思うところはありましたが、現状を切り開くのは自分の力しかないんだというメッセージが感じられたのでよかった。お母さんの言葉は少し教訓的なところもありますが、一つ一つが心にひびいてくるいい言葉だったので、ぐっときました。シャデーがいい子すぎるんだけど、最後に爆発するところでほっとします。「出てって」と叫ぶところですね。この「いい子」というのは、長女にありがちな側面のように思います。弟が全然だめな分イライラしながらも、よけいにがんばっちゃうところは、いかにもそうだろうなあという感じ。お母さんが作ってくれた思い出の品物をなくしちゃうところでは少し悲しくなったけど、お父さんがオコとイヤオを持ってきてホッとしました。この作家のほかの作品も読みたくなりました。非常に好きでした。

アカシア:この本でゴチック体になっている部分は、とても強い印象で目にとびこんでくるけど、原書ではイタリック体で、そんなに強くない。

トチ:ゴチック体だと、看板みたいだものね。

アカシア:区別をつけつつ、ゴチックほど強くない書体があればいいんだけど、この辺が日本ではなかなかむずかしい。

ペガサス:まず筋立てがドラマチック。お母さんが殺害されるという、これ以上ないような悲劇がおこり、それを受け入れることもできないうちに事態はどんどん先へと進む。一難去ってまた一難で、自分ではどうしようもない運命に翻弄される子どもたちの行く末が心配で、先を読まずにいられない。筋立てで読者をひっぱっていく強さがあると思いました。そのような状況下で、自分を見失わない主人公の強さが感じられ、それを描くのに、テクニックとして夢や記憶の断片を織りまぜて、しっかりと心理描写をしている。また、子ども対大人の図式がはっきりしていて、子どもの子どもらしいところがよく書けている。次々知らない人に会っていくんだけど、自分なりのあだ名をつけたり、自分の敵なのか味方なのかを本能的に察知するなど、子どもらしい目が感じられました。また、常に自分が悪いんじゃないかと思って自分を責めたり、反省したりするところも、子どもらしい。12歳にしては子どもっぽくは感じられるんだけどね。
新鮮だったのは、西欧的ではない視点でロンドンの町の暮らしが描かれていたことですね。緑がない、汚い町の様子、非人間的な人々、学校で出会う女の子たちも醜悪に描かれている。それと対照的にナイジェリアの人々の豊かさを感じさせています。アフリカの人たちが、言葉や、お話を大切にする心も描かれている。主人公の中でも、自然や色が、大きなものとして存在している。また家族の強い結びつき、大家族の中の幸せが感じられ、それに対してイギリスの家庭は、グラハム婦人の家庭もどこかゆがんでいるようだし、子どもが出ていって二人だけになったロイおじさん夫婦もアフリカの家族とは対照的に描かれているように感じられましたね。
日本語版の装丁は、子どもにとっては手にとりやすい感じではない。もっと子ども向けに出してもいい本なのに。中学生くらいの子どもに読んでほしい。

トチ:出版社はどういう読者を想定して作っているのかしら。

アカシア:読者対象をしぼりきれてないのかな。題名も直訳風でかたい。これでは、大人にも子どもにも手に取ってもらえないんじゃないかと思うと、もったいないな。

カーコ:今回の3冊の中では、いちばんおもしろかった。視点を子どもに持ってくる手法が成功していると思いました。日本の子どもの現実とはかけはなれた題材を扱っていて、残酷な事件で始まるけれど、主人公の視点にひきつけることで、読者は世界に入っていける。フェミが心を閉ざしてしまうのにイライラしたけれど、それもこの年の姉弟の関係としてはリアルだと思った。シャデーがいい子すぎるという意見があったけれど、最後のほうに、自分のせいでお母さんは死んでしまったのではないかと思ったというところが出てくるじゃないですか。そこでストンと納得できた。伏線がきちんと引かれているんですね。子どもにわかるように書かれているのだから、子ども向けに出してほしかったです。
訳は気になるところがいろいろありました。たとえば、289ページのお父さんの手紙の中、「永い永い時をへだてて、言葉は剣よりも強いのだから」の「へだてて」は原文はどうなっているのだろうと思いましたね。

ねむりねずみ:acrossとなってるから、「超えて」って感じ?

アカシア:アマゾンなんかで見ると、原書は小学校高学年向きとか中学生向きなんて書いてあるけど、日本語版は読者をもっと上に想定してますよね。ルビも少ないし、訳も子ども向けならもっとしなやかにしてもいいと思いました。171ページに「ナイジェリア語」とあり、284ページに「ナイジェリア語の新聞」というのが出てきますが、ナイジェリア語というのはないから、ここはナイジェリアの言葉、ナイジェリアの新聞と訳してほしかった。
まわりの人が親切すぎるという意見が出てたたけど、イギリスは難民を保護するいろいろな手段があるので、そこはリアルなんじゃないのかな。子どもが子どもっぽいというのも、ナイジェリアの階層が上の人は親が権威を持っていて、保護されている状態の子ども時代が長いんだと思う。
イギリスには今外国から入ってきている子どもも多いから、そういうのがリアルタイムでどんどん作品に取り込まれてきているんですね。イギリス児童文学のダイナミズムは伝わってきますね。

ねむりねずみ:私は、うーんという感じ。一つは訳にひっかかって読みにくかったのと、話ができすぎていて、都合よく行き過ぎる。なんかきちんと始末がついていないのがいやでイライラした。お母さんが自分のせいで死んでしまったのでは、という罪悪感にしても、ちゃんと解決したのかどうかわからない。いじめにしても、現実はもっとエスカレートしていくものだと思うのだけれど、なんとなく消えてしまっている。こういう題材で書くのはたしかに大事なことだけど、これならアフリカの少年兵の話(Little Soldier)のほうがリアリティがあったと思う。

アカシア:バーナード・アシュリーの作品ですよね。慈善団体に保護された少年兵が、イギリスの家庭に引き取られるという設定で、その子が、イギリスの若いギャング同士の抗争に巻き込まれていく。

愁童:ぼくは、ウォンバットさんと同じ印象でのれなかった。お話の枠組みが、ああ、またかと言う感じ。飛行機で外国に亡命できる子どもを通じての体制批判。日本の子どもに通じるのかなぁ? この10歳の弟は、幼く書かれ過ぎている。目の前で母親が殺されたのに、同じ条件にある、たった3つしか年上でない姉のお荷物になるばかり。反骨のジャーナリストである父親の子にしてはリアリテイが感じられない。けなげな姉の引き立て役としてしか機能してない男の子。やだね。戦後は日本にも孤児がいっぱいいたけど、もっとたくましく生きてたよ。

アカシア:でも、まわりにもいっぱい同じような運命の子どもがいる時代ではないのに、突然目の前で自分の親が殺されるのだから、パニック状態で自閉的になるのはリアルなのでは? ナイジェリアの、賄賂が横行する社会を書くだけでジャーナリストが殺されるという状況は、日本では文化的なギャップがあるから理解しにくいかもしれませんね。イギリスでは、ナイジェリア政府に楯突いて死刑になったケン・サロウィワのことは大きく報道されたので、読者もそれとだぶらせて読むことができると思うんだけど、日本では難しいね。あとがきでもう少し詳しく説明してもよかったかもしれない。


征矢清作 林明子絵『ガラスのうま』

ガラスのうま

ねむりねずみ:すごく安心して読めた。冒頭の「すぐりがうまれたとき……」の運び方はなるほどなあと思わされたし、日本語もいいし、とても気持ちよかった。ガラスのうまを走らせたくなって壊しちゃうとか、そういう大人とは違った子どもの世界、日常と不思議の世界が入り交じっているような子どもの世界が、なつかしい感じでした。すぐに手を出してつまみぐいするところなんかも、いかにも子どもだなって思ったし。表現としても、「じゅうじゅういうねぼけ声」とか、面白いところがいっぱいあった。ただ一つ気になったのは、ガラス山で、すぐりの体が半分ガラスから全部ガラスになったでしょう、あれに特別な意味があるのかと思ったんだけど、ちょっと肩すかしだった。火の玉がおどりまわるところも日常を別の観点から見てるんだなって思って面白かったし、最後に「どうして、ぼくがここにくるってわかったの?」「それは、すぐりのおかあさんだもの」というのが、幼年期にぴったりなんだなあと思いました。

アカシア:『卵と小麦粉、そしてマドレーヌ』と争ってこっちが賞をとったのは、なるほどなと思った。でも、ずいぶん前に読んだせいか、イメージが弱くなっちゃってる。ガラスの馬を追っていくというのが縦糸なんだろうけど、あっちの話、こっちの話とばらけてしまう感じがして。久しぶりに林さんの絵を見て、また、いいなあと思いました。

カーコ:ほかの2冊を読んでからこの作品を読んだから、美しい日本語だなとホッとした。言葉が形づくっていくイメージが美しくて。特に、かめに12杯水を汲むところで、星がかめの中にたまるというのが好きでした。異界に入って、いろんな試練をこなしていくところは、『千と千尋の神隠し』を思いださせました。勇気を持ってがんばったら、目的を果たせるというところが。ただ、美しいのだけれど、どこか印象が弱い感じがして、それはどうしてだろうと考えたけれど、理由はわからなかったんですよね。

ペガサス:この作品は、林さんのカットに助けられているなあ。本当に子どものしぐさをよくとらえていると思う。だからとても良さげな感じがするんだけれど、どうも物足りない。なぜかというと、この子のガラスの馬への思い入れが、最初にしっかりと書かれていないから。ここまですごい冒険をするんなら、もっとこの子と馬とのエピソードを書くなりして、馬に対する思い入れが納得できないといけないと思う。足を折るというのも、ただ落ちただけで、そこにドラマがないのが弱い。それから、疑問が一つ。ガラスやまのかあさんは、結局おかあさんだったのか。

きょん:強烈な印象があるわけではないけど、美しい文体と、その世界にひかれた。正統派の児童文学って感じですね。ガラスの馬が突然走り始めたりするのが唐突で、すこし不満だし、ねむりどり、ガラスやまというのが、ちょっと古いかな。でも、読み進めていきやすい。ガラスやまのかあさんが出てくるあたりから引き込まれる。ひかれたところは、文体が読者の想像力を刺激するようなところとか、擬音の使い方。「ぎしぎしきしんで、戸はあきました」とか「火にあぶられて、じりじりぶつぶついっていました」など、うまく表現していくのが魅力的。でも、こういう文体だと、体験も想像力も乏しい子には、かえって難しいのかなあ? すぐりが、ガラスやまで跡継ぎになってくれないかと言われたとき、すぐにお母さんの顔が浮かびますよね。子どもの心の中にある支えがお母さんなんだということは強く表現されているけど、ちょっと正統派(素直)すぎて、気恥ずかしい感じがした。こういう作品を読むとあらためて、子どもが感じる世界は、そんなに変わっていないのかなあと思いますね。

ウォンバット:すっと読めた。ガラスって美しいイメージなので、美しいイメージの物語世界がひろがっているけれど、よくも悪くもゴールデンパターンかな。会う人会う人が、すぐりに課題を与えて、「あれやれ」「これやれ」と上から言うのが、ちょっと嫌でした。あんまり楽しい気分になれなくて。最後のところは、「それは、すぐりのおかあさんだもの」よりも、「ガラスのうまは、うれしそうにすぐりをみました」に、ぐっときましたね。

もぷしー:最初に読んだときは、急いで読んだせいもあって、イメージだけしか残りませんでした。でも、気になっていて、2度目を読み返す前に『もりのへなそうる』(渡辺茂男/作 福音館書店)を読みました。『もりのへなそうる』も、本来存在するはずのないものが、子どもの想像力を通して、あたかも存在するかのように描かれている世界。そう思って読み返すと、『ガラスのうま』の馬が突然動きだすというところについても、「子どもにはこう見えた」というのをシンプルに追っていくと、こうなるのかなと思えました。お母さんと子どもの結びつきが強いから、お母さんが読みたくなるお話。お母さんが幸せな気持ちで読めるから、子どもに読んであげたときに、いいお話になる。内容的に弱いようなところは、私も感じました。これは、子どもが「悪いこと(失敗)をしちゃった」と認識したとき、初めて自力で問題を解決しようとする、というお話でしょう。自分で問題を解決する中に、こわいこともあるし、やめたくなっちゃうときもあるんだけど、一つ一つ自分に課題を与えては、こなしていく。達成できたとき、最後に報告したい人、戻りたいところはお母さん。無理やり考えると、そんなところでしょうか。イメージとしてはきれいに読めたけれど、つっこんで考え出すと、火の玉はどうして二つだったんだろう(何を表しているのか)とかわからないことがあって、気持ちいいところには落ちつけませんでした。

愁童:今回の3冊の中では、これが一番透明感があって安心して読めた。ただ、ちょっと線が細い感じ。べつに目新しい作品ではないと思うけど、でもほっとする。若い人はどう読むのか、すごく関心があります。今の子が、どこまで読んでくれるか、この日本語として上品な、響きの良い文章を読んでくれるといいんだけど……。

紙魚:オーソドックスな幼年童話なんですよね。それも、自分の力で読み始めたばかりの、年齢の低い子どもたちへの物語。目の前の数珠を一粒ずつ追っていくと、いつのまにか、ぐるりとつながっていて、安定したまま、しぜんと物語を読み進めていくことができる。物語の先から、おいで、おいでと呼ばれるような、ていねいな物語はこびだと思いました。いきなり何か衝撃的な事件が起きて、物語が動いていくというような本が多いなかで、この本は、次の世界に行くまでの距離が短いので、本を読むことに慣れていない子どもでも、読みやすいのではないかしら。日本語も美しい。こういう本って、新作では案外出にくいので、野間賞の選考でも、幼年童話への評価という声があったようです。主人公のすぐりが、ガラスの馬を追って、ふしぎな世界へ入っていくのと同時に、読者も物語世界へすっと入っていくという、まさに物語の入口といった本でした。

愁童:『One Piece』(尾田栄一郎/作 集英社)や『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人/作 双葉社)が大好きな子どもにも、作者の世界が通じてくれるといいんだけど……。文章はいいし、行間からにおい出てくるものもある。若い編集者はこういう本をどう考えているのでしょう。

紙魚:姪っ子(小一)に読ませても、さくさく読んでいましたね。

トチ:私もペガサスさんと同じように「なぜ、山のおかあさんがおかあさんになるのかな?」って思ったけれど、これは「ごっこ遊びの世界なんだ」と思ったら納得がいきました。「ごっこ遊び」ってこんな風にすうっと現実に戻ることがあるものね。たしかに完成度は高いし、美しい物語だと思うけれど、印象が薄いのは、善意にあふれていて、ワサビがきいていないから? 幼年童話にはワサビはいらないのかしら?「はかせ」が出てくるところあたりから、話の運びがちょっと苦しいかなと思いました。私の考える理想の幼年童話というのは、幼いころ読んだときは「楽しいな、面白いな」とだけ思って読んだ(あるいは聞いた)けれど、大人になって思い返したとき「ああ、こういうことだったのか」と感じられるようなものだと思うのだけれど、違うかしら?

アカシア:児童文学の向日性ってよく言われるけど、私は幼年童話には向日性やハッピーエンドが必要だと思ってるのね。年齢の高い子どもの作品は、また違うけど。小さい子どもにとっては、「ここはすてきなところだよ」「生きてていいんだよ」と、まわりの世界から言ってもらうことが、とても大事。小さいときにそういうメッセージを受け取ってないと、年齢が高くなったときに自分の足で外に向かって踏み出せない。だから、さっき気恥ずかしいという意見も出てきたし、ワサビが必要という意見もあったけど、私は「それは、すぐりのおかあさんだもの」と臆面もなく出てくるところが、いいんだと思う。これが必要なんだと思う。

トチ:フェアリーテールとかは、もっとこわいんじゃない?

アカシア:でも、昔話は象徴的なイメージを伝える語り口になっていて、怖いことも、具体的に描写してるわけじゃないですよね。

ウェンディ:遅れて来たので、まとめて感想を言います。『ガラスのうま』は、すらすら読めました。確かに完成度は高いし、こういうお母さんの書き方もあるなあと思いました。『アルテミス・ファウル』は、ぜんぜん子どもの作品とは思えなかった。中途半端というか、子どもにはわからない言葉や、大人しかわからないブラックユーモアがぽんと投げ出されていて、気になるところがたくさんあった。訴えたいことがたくさんあるんだと思うけど、羅列しても言いたいことは伝わらないのでは?

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


オーウェン・コルファー『アルテミス・ファウル』

アルテミス・ファウル〜妖精の身代金

愁童:これも、のれなかった。ゲーム本を読んでいるよう。主人公も最初の設定のまま何も変わらない。まさにゲームのキャラクター。一番感じたのは、あちらでも妖精がこんな形で書かれるようになっちゃったのかということ。でも、『真実の裏側』よりは、今の日本の子どもには受けるかもね。

もぷしー:ぜんぜんのれなかったです。装丁は好き。『はてしない物語』もそうだけど、本の表紙に本を再現しているのは、けっこうワクワクする。けれど、せっかく表紙に妖精の「ブック」を使っておきながら、物語の中でそのブックに立ち返るところがほとんどないので残念。キー・アイテムなのだから、ブックを読み解く興奮をもっと書いてくれるほうがいい。それに、読んでいても、どうしてもキャラクターの顔が見えてきませんでした。文章や行動から像がうかびあがってこない。だから、本が長く感じました。映画になると聞いたけど、文字で読むより、映画で見るほうがおもしろいものなのかな、と。あと、妖精の本というのは日本ではどういう受け止め方をされるのでしょう? この作品は、妖精が意外にもハイテクだったという設定に面白さがあると思うんですけど、妖精がこういうものだという既成概念がない日本の子どもが、それを楽しめるのかどうかが疑問だと思いました。

ウォンバット:私は古いタイプの人間なので、こういうのを味わうことが難しくてですね……。読むのも、苦しい戦いでした。読むことは読んだんですが、この場面がよかったというのはなくて、訳も「置き換え派」で読みにくかった。こういうお話って、「大人の干渉を受けない自由な子どもの気持ちよさ」があるんだろうけど、それがおもしろくてどんどん読めるというほどではなくって……。29ページ「きらめくマスカラ」は、マスカラをたっぷりつけた瞳がきらめいたんじゃないかと思うんですが。もしかして、ラメたぷりのマスカラなのかもしれないけど。そういうの、パーティでもなければつけないような気がするし、それともブロンドの睫毛に赤とかピンクとかのマスカラつけたりすると、きらめくのかな?

きょん:私も古い人間で、ぜんぜんおもしろくなかった。魅力を感じなかった。「悪のハリーポッター」と宣伝されても、主人公アルテミスがぜんぜん魅力的じゃない。有能とか、賢いとか、天才的とか書いてあるけど、言葉だけで、行動などで実証されていない。妖精が妖精なのに疑似人間社会みたいなのを作っているところも、魅力を感じない。これなら、なにも妖精である必要はないのではないでしょうか。それ以外のキャラクターも理解できない。トロールくらいかな、すんなり入ってきたの。納得いかなかった。訳が、テンポよく入ってくるけれど、だれが何を言っているのか、何をさしているのかがはっきりしなくてわかりにくい。妖精の書だって、アイテムとしては魅力なのに、どうなっちゃったのかよくわからない。このブックをめぐって事件が展開するのかと思ったのに、残念だった。

ペガサス:これだけ批判が出ると、私はすごく面白かったわと言いたい衝動にかられるけれど……。でも半分くらいまでは、ハリーポッターよりも面白いかなと思って読んだ。ハイテク化された妖精というのも面白いじゃないですか。半分くらいからは、雰囲気に飽きてしまって流し読み。やはり日本では妖精のイメージ自体が確立してないから、面白味も半減するということはあるでしょうね。でも、ところどころユーモアのある描写がよかった。満月の夜に何千人もの妖精が地上に出たがるから入国管理局は大忙しとか、秘密工作員をユーロディズニーの白雪姫と小人のところに送りこんでいるとかね。「紙に印刷した」ではなく、「A4の紙に印刷した」とか、「4倍に拡大した」とか具体的に書いてあるのは、思い描きやすいと思った。ハリーポッターの映画を思い浮かべつつ、これも映画になったらどうなるかとつい考えながら読んでいった。アルテミスは、最初は謎めいていたが、弱点が母親だとは陳腐。アルテミスの魅力が中途半端で、子どもの読者は、この主人公についていっていいのかどうか迷ってしまうと思う。また、ページの両側の妖精文字が、読むときにいつも目の隅にちらついて邪魔だった。

アカシア:この妖精文字は、解読しようとする読者にとっては面白いんだと思うな。

カーコ:私ってファンタジーは苦手なんだなあ。入っていけませんでした。妖精のイメージがないから、パロディになっていても、きっとアイルランドの読者のように楽しめないのかと。また、主人公のアルテミスが、これだけの事件を経てもいっこうに成長していないので、充実感がありませんでした。ピカレスク小説って、主人公の成長はあまり問題にしないのかしら? 成長への期待って、いつも読者は持っていると思うのだけれど。

アカシア:私も面白くなかった。アルテミスが、妖精のお金を奪って何をしたいのかがわからない。たとえば宇宙を支配したいとかのモチーフがあるなら、もっと「悪のハリー・ポッター」らしくなるんでしょうけど、今のままでは中途半端。それに主人公は12歳の少年なのに、「時間が停止しているあいだは、やらんよ」(180ページ)なんて言うの。「やらんよ」なんて、おじさんしか使わない言葉でしょ? だからよけい魅力が感じられないのかも。妖精についてだけど、『指輪物語』などは、ちゃんとその妖精ごとの特徴だとか歴史だとかを踏まえて物語に登場させているでしょ。その下敷きがあってハイテクにするなら面白いと思うけど、ここでは、たとえばケンタウロスもケンタウロスである必要性がない。だからイメージが重層的にならなくて、つまんない。

ねむりねずみ:表紙でプルマンと同じ訳者だと知って憂鬱になり、読みはじめてもっと憂鬱になった。最初のところだって、大風呂敷を広げてもったいつけて、どんな面白い話が展開するのかと思うんだけど、肩すかしをくらわされる。ハリポタと同じで、ディテールでくすくすと笑わせるやり方がうまく使われているとは思ったし、ハイテクファンタジーもありだと思うんだけど、何しろ中身がなかった。

トチ:主人公の苗字のファウル(Fowl)は鳥という意味だけれど、発音の同じfoul(汚い、不正な、ゆがんだ)という意味をほのめかしているし、バトラーは執事という意味だし、原書にはそういった言葉の面白さも存分に盛り込んであるんでしょうね。そういう面白さを翻訳で伝えようとするのは、非常に難しいことだとは思うんだけど……でも、登場人物の口調の統一がとれてないので、読みにくくなかったですか? たとえば、13ページでベトナム人のグエンが「……あっしは知ってますぜ」って言うでしょう。その2,3行あとで「そ、そんなことするもんですか。ほら、見てくださいな」とやけにかわいらしい口調になっている。「あれ、これは誰が言っているんだっけ?」と、もう一度読み直してしまった。

ウォンバット:ずっと気になっていたことが一つあるんですけど、ホリーのことを助けようとする上司ルートには、ホリーへの愛があったんでしょうか?

一同:???

ウォンバット:ならず者っぽい上司なのに、どうしてあそこまでして助けてやろうとするのか、わからなくて。そうだ、これは愛よ、愛にちがいないと思ってたんですけど。

アカシア:それはともかくとして、プロットだけで物語を構築していくと、キャラクターは破綻をきたしかねないのかも。

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


曹文軒『サンサン』

サンサン

もぶしー:これは、『草ぶきの学校』っていう映画になって、日本でも上映されてますよね。私は、これまでアジアの文学をあまり読んでこなかったのですが、湿度を感じました。皮膚感が日本人に近いのかな。いろんなエピソードがあるけれど、人間が生きていく正直さがそのまま書かれていて、それがおもしろかった。キャラクターが書き分けられている児童文学が多い中で、いろんな人がたくさん描かれているのが印象的だった。あとがきにも「今の子どもをいかに感動させるか」と書いてあって、確かに文化がちがうのに、すとんと落ちてくるものも多く感じられたので、それが時代とか、国のちがいにもいえると思う。そこがうまく表現されている作品だった。

カーコ:私も中国の児童文学を読むのは初めてで、興味深々だったけど、ストーリーの太い流れがないからか、読み進みづらかった。よかったのは、風景の描写や動植物の記述。中国ってこんなふうなのかとおもしろかった。でも、途中でひと昔前の話だと気づいて、じゃあ、これが今の中国だなんて勘違いしたらいけないんだと考えさせられました。人物はそれぞれおもしろくて、人のとらえ方が、西欧の個人主義より日本に近い感じがしました。でも、このプロットの妙と無縁の淡々と書かれた世界を、日本の子どもが興味を持って読むかというと、ちょっと苦しいかもしれないと思いましたが。

紙魚:私も途中まで読みにくかったんですね。なかなか、物語を読み進める視点がつかめなくて。章ごとに、焦点のあたる人物がちがうので、サンサンの気持ちで読んでいく感じでもなかった。本のつくりも、物語の導入も、もうちょっと親切だったらよかったのになと思います。チンばばの話なんかは、とってもよかったです。それから、よくわからなかったのが、作者のあとがき。「永遠なるものを求めよ」「今の子どもをいかに感動させるか」って、前置きもなくいきなり書かれていて、さっぱり意味がわかりませんでした。中国の児童文学について何も知らないので、物語の背景などを書いてほしかったな。中国の児童書に詳しいウェンディさん、これってどういうことなんでしょう?

ウェンディ:私、中国ものは結構背景がわかってしまうので、背景がわからない日本人が読むとどうなんだろう、っていうのが、わからなくなっちゃってるんですけど……。この作家は、中国ではかなり評価されているんです。あとがきについては、私にとっては、ああなるほど、っていう感じなんですね。中国はこの1世代で時代がまるっきり変わったので、ひと世代前の苦労話を書いても、今の子にはわからないという議論に対して、時代を越えて共感できる普遍的なものを書いていこうという立場なんだと思います。中国の作品としてはヒットといっていいと思います。子どもが大人の恋愛を垣間見てしまうとか、家が没落しているいくさまだとか、そういう負の部分って、今でもタブー視されるところがあるんですよ。そういうものを子どもなりに垣間見て、受け止めながら、笑ったり悲しんだり恥をかいたり、そんな子ども像がリアリティをもって描かれることはなかなかないんです。作者の自伝的作品といわれてますが、そういうものを、肩に力を入れず書いているところは、画期的だと思います。

紙魚:この本、中国では、子どもたちに好まれて読まれてるんですか?

ウェンディ:大人が評価する児童文学という側面が強いかな。中国では賞を総ナメにしましたね。

アカシア:このあとがきも、原書そのままじゃなくて、日本人向けに、今のウェンディさんの説明のようなことを入れてくれたほうが親切でしたね。

ウェンディ:あと、気になったのは、中国の作品では、人名の漢字にそれぞれ意味があるので、その漢字を出すかカタカナにしちゃうかは、よく議論になるんですけど、この作品では漢字だったりカタカナだったり混在していて、どうしてかなあって。そういったところ、もう少し編集の手が入れば、もっとよくなると思うのに、ちょっと残念ですね。

もぶしー:こういう作品が出てから、中国の児童文学って変わってきてるんですか?

ウェンディ:むしろ、ファンタジーとか、「ハリー・ポッター」の世界的フィーバーの影響のほうが目立つかな。中国では児童文学を童話と小説とに分けていて、一言でいうと、非現実が描かれるのは童話で、童話はいかに荒唐無稽でもOK。小説はリアリズムでこれっぽっちも非現実があってはいけない——という伝統があったんですね。でもこのところ、ファンタジーを幻想小説と訳して、小説的な技法で書かれる非現実的な物語も試みられるようになってきました。あと、これまでの児童文学の「子どもを正しく導く」作品と違って、思春期からまだそれほど隔たっていない年代の作家による、子どもの心の葛藤だとかを描く作品も書かれて、評判になっていますね。

きょん:じつは途中までしか読んでないんですけど、まず、読み始めてすごく中国的だなと思いました。原文の二重否定とか反語表現などをそのまま訳しているので読みにくいんじゃないでしょうか。読み進めていく視点がつかめなかったという話がありましたが、心情的なものを入れず物事をたんたんと描写していくので、つかみづらいと思うんですね。でも、その続いていく描写からにじみ出るあたたかさのようなものが、この本のよいところなのでしょうね。描写が細かいという点で映画的なので、映画の方がわかりやすいかもしれない。あと、もう一つ中国的だと思う点が、人と人とのかかわり方です。子ども対大人、子ども対先生など、極端に言えば、権力者VS服従者という構図が、とても中国的だと思います。ただ、今の中国もそうなのかどうかちょっとわかりませんが……。絶対的権力を持つ先生というのを、今の子どもたちが読んだときに、お話の世界に入っていけるのかな、と疑問を持ちます。現代社会とのギャップがどうしてもありますよね。

アカシア:私も途中までなんだけど、最初『サンサン』ていう題なのに、ハゲツルという強いキャラクターが出てくるので、とまどいました。でも、途中から短編集として読めばいいのだということがわかってきた。日本や欧米とは、感情の書き方がちがうんだということがわかって、作者のペースにのってからは、割合すいすい読めますよね。せっかく志があるように思える出版社から出ているのだから、日本の子どもに手渡そうとする編集者の目も入れて本づくりをしてほしいなと思いました。クレジットに原題が入ってないのは、ミスかしら?

紙魚:この本て、私が小学生のときに手にとっていたら、中国の作家が書いたってことも、わからなかったかもしれない。作者の名前も漢字だから、「難しい漢字の名前だなあ」と思うくらいで。オビには説明があるけど図書館などでは取ってしまうので、カバー袖にちょっとでも物語を読むまえのヒントというかガイドみたいなものを書いてあげれば、もう少し親切だったんじゃないかしら。

アカシア:図書館で借りた子は、中国が舞台だってこともわからないかもしれないね。

ペガサス:不可解よね。

カーコ:私も、あとがきに戸惑いましたね。たとえば、「生存環境」って言葉が使ってあるのは「生活環境」かなとか、言葉もわかりにくくて。

きょん:直訳なのかしら?

アカシア:中国では、このままでも後書きとして成立するんでしょうけど、日本版は、もう少し工夫してほしかった。

ペガサス:一つ一つの文章がぷつんぷつんとして短いというのは、中国の特徴なのかしら。

ウェンディ:うーん、そういうわけでもないと思うんですけど、それは、あえて区切って訳しているからかもしれない。

ペガサス:かなりしっかりと読まないと入ってこない感じよね。おもしろいところだけ読もうと思ったけど、これ、斜め読みできない本ですね。最初の出だしは、ハゲツルの話でおもしろくて、引きこまれる。自分の大事な消しゴムなどを差し出してまで、ハゲツルの頭に触りたくて触りたくてたまらない、なんていうところは、今の日本の子どもたちになくなってしまった子どもらしさが出ているし、大人も怒るときには怒るというストレートな感情表現をしていて新鮮でした。それから、比喩が変わっているわよね。22ページの「サンサンは一個のナツメみたいだった。おいしいおいしいと食べられ、いまは役立たずの種になって地面にはきすてられている」なんていうのは、なかなか珍しい表現よね。

愁童:ぼくは、『第八森の子どもたち』(エルス・ぺルフロム/作 野坂悦子/訳 福音館書店)を読んだときと同じような歯がゆさを感じた。読者に伝えたいのは、過酷な生活の中にある今なのか、そういう時代を生き抜いて、遠い過去を振り返っている作者の感傷を込めた思いなのか。どちらの作品も、作中や後書きで、その場所を懐かしんでいるけど、そういう立場に立てなかった登場人物もたくさん書かれてるよね。そういう時代を今に繋ぐメッセージは何なんだろうって思った。子どもの読者は作者のように振り返る立場にないわけだし……。

:読みにくいところもあったけど、私はおもしろかったです。途中、一つずつ短編のように、サンサンの6年間を読んでいけばいいとわかってから、それぞれのキャラクターもおもしろく読めた。人と人との関わりは、淡々と書かれているからこそ伝わってくる作品。校長先生にしても、妙にけちけちしていたりするけど、自分がのしあがってきたときのことを大事にしてきたり、解放されていく様もよかった。チンばばもよかった。大地に足をつけてたくましく生きていく母の姿に重なった。さっき、過酷な状況が書かれてないって感想があったけど、子どもがどういう状況の中でも楽しいことを見つけ出す楽天性、力強さが感じられてよかったです。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


セリア・リーズ『魔女の血をひく娘』

魔女の血をひく娘

きょん:最初読むのがつらかったけど、途中からすーっと話の中に入って、つられて最後まで読んでしまった。

アカシア:歴史の中の庶民を時系列で書いていった本ですね。くじらが出てくるところとか、ところどころ描写がおもしろい。でも、114〜115ページに「私にはその力がある。それを疑う人はいないかもしれない。わたしがこれまでに何を望んできたとしても、運命を逃れることは不可能なのだ。きょう起きたことは、それを証明するできごとだった」って書いてあるけど、この女の子にどの程度の魔力があるのかはっきりしなくて、もどかしかった。中途半端な設定だと思いました。歴史的には魔女として糾弾されてきた人がいて、もう片方にはキャラとしての魔女がいるわけですけど、その両者の間のギャップを考えるにはいい本かも。

ペガサス:私はね、おもしろくないわけじゃないんだけど、おもしろかったわけでもない。

きょん:そうそう!

ペガサス:歴史として大人として興味があるから、おもしろくないわけじゃない。最初のうちひきつけられておもしろいんですよ。本当にこの子は魔女なの?と思いながら読むから。いちばん知りたいのは、この子の出生の秘密なのに、最初のうちで、もうお母さんとは会えないこともわかっちゃったりして、謎解きが中途半端になってしまうのが物足りない。これって、本当に出てきた日記なんでしょ。

カーコ:ええっ、フィクションでしょ。

:371ページのあとがき見て。「この日記が発見されて以来、メアリー・ニューベリーをはじめ、ここに登場する人々の足跡をたどる作業がつづけられています」って書いてあるじゃない。情報があったら教えてくれって、メールアドレスも書いてあるわよ。フィクションだとしたら、ええっ! 私、だまされたわよ。

カーコ:物語に枠があるのよね。本当っぽく見せるための。

:なんだよー。

アカシア:紙切れの1枚くらいは本当に見つかったことがあるかもしれないけど、物語自体はフィクションでしょ。メールアドレスも、巧みな宣伝よね。

:(がっくりしながら)日記と史実をもとに書かれていると思って読んだのにな。

ペガサス:これって、もう続編が出てるのよ。それ読むと、もうちょっとわかるかもね。

:(まだがっくり。立ち直れないでいる…)

ペガサス:私は、本当の話だから、多少はおもしろくなくてもしょうがないと思ったのよね。

:(……脱力)

カーコ:そういうふうに読ませようと思って書かれてるんだからいいじゃない。

アカシア:中学生や高校生だったら、真に受けて読むと思うな。羊さんは読者として正しい読み方をしてるのよ。

カーコ:昔、喫茶店で隣に座った高校生が『キッチン』(吉本ばなな/作 角川文庫)の話をしていて、「これって実話かなー」って言ってたの。そういうふうに読ませているのよね。

:(まだ立ち直れず)創作なの……? ショック。

もぷしー:私、途中までしか読んでないんだけど、その辺気になってきちゃった。

カーコ:私はけっこうおもしろく読みました。ところどころきれいな描写があって楽しめたし、最後、この女の子がどうなるんだろうっていう興味も続いたし。最初99章もあるのを見て何なんだろうと思ったのだけれど、日記という設定だからなんですね。構成が凝ってますよね。今は異文化を理解しようって流れが主流だけれど、西洋の歴史の中で異なるものを排除していた時代は長いんですよね。異なるものを忌み嫌う世界のこわさが伝わってくる話でした。確かに、この女の子が本当に魔女だったかどうかは、はっきりしませんよね。殺されたおばあさんが本当に魔女だったかどうかもわからなかったし、この子がどこまで不思議な力を持っているかもわからないままだった。森に入ってから、この子は何もしていないのに、邪悪な気があるとか言われるけれど、マーサも魔女なのかと思ったら、そうでもないみたいで、最後にマーサは当たり前の人になるし。ジョーナは、宗教に対して科学の象徴で魔法ではないし。

アカシア:もし未来が見えるんだたら、ジャック以外の人の未来も見えるはずよね。シーアーとか言われている人って。

カーコ:そうそう、目で見てのろいをかけたってとがめられるシーンでも、実際はそんな力は使ってないんですよね。

きょん:昔は、何か不都合なことがあると「おまえのせいだ」と言われて魔女扱いされ、迫害された人たちがいましたよね。この少女も、それと同じように魔女扱いされていたのだから、プロット的には本当に魔法を使う必要はないのでは?

紙魚:私は、最初のほうでこれはフィクションなんだろうなと思ってしまって、それもあってか、あんまりおもしろくは読めなかった。キャラクターとしての魔女じゃなくて、糾弾される対象の魔女の話って、もっとどきどきする物語だと思うんですよ。中学生のころ『魔女狩り』(森島恒雄/著 岩波新書)を読んだとき、すごく恐ろしくって、しかも、魔女という存在をつくる社会のシステムについてもぐっと考えさせられたんですね。それにくらべると、この物語、装丁ほどは恐ろしくない!

アカシア:ふつう、魔女としての嫌疑がかけられる要素があるはずなんだけど、この子が不思議な力を発するのは1回。だから、本当に魔力があるから魔女とされたのか、そうじゃないのにあらぬ嫌疑をかけられたのか、中途半端な描き方ですよね。

:でも、これだけフィクションかノンフィクションか、魔女なのか魔女じゃないかで、これだけ話がもりあがるんだから、みんなで読んでみて、よかったですよね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


佐藤多佳子『黄色い目の魚』

黄色い目の魚

ウェンディ:人物には感情移入できないのに、1行目からストーリーに入りこめて、不思議に夢中で読めて、おもしろかった。みのりには感情移入できなかったな。誰でもかんたんに嫌いになれちゃうところなんか、私は逆だから。こういう絵の話ができる叔父さんや友だちがいていいなあ、っていう気持ちはありましたね。絵は好きだけど描けないっていう部分とか。感情移入できたわけではないのに、モチーフにひかれて読んだという感じかな。本としての作りは、児童書じゃないんだけど、あとがきを読むと、作家自身は児童文学として書いているんですよね。高校生くらいを想定しているのかな。そういう年代の人が読むと、みのりの感覚とかも、すうっと伝わるのかも、とも思うけれど、むしろトレンディドラマじゃないけど、こんなふうになれたらいいなというような、あこがれの部分をくすぐる要素が強い気がしてしまいます。

紙魚:わたしは佐藤多佳子さんの大ファンなので、「小説新潮」に連載していたときから、この作品群を読んでたんですね。各回、登場人物が共通してはいるものの、立場が作品によってかわるので、1冊の単行本になるときは、どうやってまとめるんだろうと思ってました。読者層をどのあたりに設定するのかも気になったところ。ウェンディさんが言うように、人物に感情移入はしにくいかもしれない。どっぷり入りこむんじゃなくて、心地よい距離をたもちながらで並んで走るという感じ。にもかかわらず、佐藤さんが書く登場人物って、かならず好きになっちゃいます。『しゃべれどもしゃべれども』(新潮社)や、『神様がくれた指』(新潮社)でもそうですけど、登場人物に「恥じらい」みたいなものがあるんです。いい人だから好きになるんじゃなくて、恥じらいがちらっと見えたときに、つい好きになってしまう感覚がいいんですよね。恥じらいって、書きすぎるとあざとくなったり、こちらが恥ずかしくなっちゃったりもするけれど、彼女の作品は、好きになってしまう頃合なんです。おそらく、佐藤さん自身が、そうした恥じらいを持ちあわせている人なんだろうなと思います。

カーコ:夢中で読んでしまいました。2番目の話まで読んで、普通の短編集かと思いきや、次々話がつながっていくので引きこまれて。全体的に人物が魅力的。もっとこの人のことを知りたいという気持ちにさせられるんですよね。その一方で、なぜみのりがそこまで家族から疎外されていると感じているのかとか、みのりの絵が描けないと木島に言わしめるほどの強いこの子の個性って何だろうとか、なぜ通ちゃんがそこまで魅力的なのかとか、描かれていなくて、物足りない気もしました。あえてそこを描かないようにしているのかもしれないけれど。高校生くらいが読むとリアルに感じるのかな。54ページで、家族が「通ちゃんのところに通うのをひどくきらう」というのは、通ちゃんではなく、みのりが疎外されているということなのかな。ただ、私は通ちゃんのことは、よくわからなかった。この人のどこがそんなに魅力的なのか、とか。自分の家族とちがうとか、悩んでいるときにアドバイスをくれるとかはわかるんだけど、あまり魅力的とは思えなかった。

もぷしー:家族が描かれてないですよね。通ちゃんの魅力も、想像しながら読んでいました。もしかして、あえてそこを描かないようにしているのかな。そこを描いちゃうと、読者が想像できる範囲が限定されてしまうから。あるいは、年代的にそこをストレートに書くことをしないのか。実は家族はもっと思いや伝えていることがあるのに、みのりの気持ちがストップしているということで、あえてそう書いているのかとも。でも、それぞれのエピソードが、肌感覚でわかる気がして、すらーっと楽しく読めました。本の作りとしては、むしろおとなのノスタルジー。あえてみずみずしさを表現しようと狙っているのかと思いました。高校生を対象にしていたら、こういうふうに書かないのでは。でも、若い世代にも読んでもらえるように作ってあったらよかったんじゃないかな。もし自分がこの原稿を受け取ったら、どういう本作りをするだろう。もう少しだけライトテイストな感じにするんじゃないかな。と思うので、皆さんの感想が聞きたいと思いました。

:佐藤多佳子の作品は、白百合のシンポジウムで話を聞いたのがきっかけで、文庫を読んだんですが、興味深く読んで、気に入ってました。スリや落語を題材にしてたりと、視点のもっていき方がいいなと思ってました。この作品では、木島とみのりの出会い、みのりが木島の絵の才能に惹かれていく、そしてお互いに惹かれあっていく、この関係もいいな、うまいなと思いました。あと、おじいちゃんの一言一言がきいていると思いました。

愁童:前に一度読んだんですが、今回はすごい人気で図書館で借りられなかったので、印象が薄くなってるんだけど……。才能のある方だなあと思った。でも、紙魚さんと同じで、大人向けなのか、子ども向けなのか、わからなかった。ときどき、視点が動いて、中年女性的感性が生で出てくるような感じがあるね。新潮社の売りとしては、児童文学的スパイスも入れておけば、大人の小説としても、児童文学としても売れるという狙いなのかな。その分、大人の小説として読むと、弱いところもあるよね。おじいちゃんのセリフなんか、児童文学としてはOKかもしれないけど、大人の小説として読んだら、ダサイよね。どちらかに割り切った方が、読み応えのある本になったんじゃないかな。木島がサッカーチームの少年達のあこがれである年上の女性と寝てしまうっていうところも、大人の視点でも、子どもの視点でも中途半端だよね。子どもの視点ならば、もう少し書きようがあると思うけど。

紙魚:確かに、「小説新潮」で読んでいたとき、他の作品に比べると、これだけすごく異質な感じでした。新潮に限らず、最近の文芸誌って、新しい風を吹かせたいという気持ちが強いように感じます。そして新しい風を求める先が今、児童文学に来ていると思うんです。少し前までは児童文学と大人の文学はちがうぞ!っていう意識が強かったんですけど、それが変わってきて、児童文学の中にもおもしろい作家がいる、どうして今まで気づかなかったんだろうというふうになってきている。これは、文芸の方から意識が変わっていったというより、児童文学の読者の力がそうさせたんじゃないかと思います。

:佐藤さんは、子どもの本を書くときと大人の本を書くときで、意識を変えているそうなんです。『ハンサム・ガール』(理論社)などは、子どもに楽しんでほしいと思って書いているのがわかるんだけれど、大人の作品になると、自分が楽しめる作品を書いている。で、この作品では新潮社にしても、中間を狙っている感じですね

愁童:絵についての薀蓄なんかは、子どもの本としてはいいんだけど、大人が読むとある種のうるささがあるよね。

紙魚:他の作品で、調べながら詳細を書いていくのがうまいなあといつも感心していましたが、スリや落語とちがって絵の場合、表現するのがなんて難しいんだろうとは思いましたね。

:でも、絵を文章にしていくところ、わたしは、面白かったですけどね。

ペガサス:絵の描写についていえば、どういう絵を描いているのか、私はピンと来なかったですね。絵を言葉で表すのは難しいんだなあと思いました。愁童さんのお話ですっきりしたんですけど、私も最初の2篇くらい読んで、ああ、これは短篇集なんだ、すごくうまい人だなと思ったんだけど、やっぱり「私ってうまいでしょ」という感じがあって、全部読む気にならずに放っておいたんですね。で、今日の読書会が迫ってきて、もう1篇くらい読んでおこうかなあと思って読んだら、同じ人物が出てきたんで、あわてて全篇読んだんです。全篇通して読んでみると、二人を交互に描く構成は面白いと思いました。みのりの部分を読んだ限りでは、みのりが誰かをどう思っているかは書かれているけれど、相手がみのりをどう見ているかは全くわからなくて、みのりの「まっすぐな気持ち」だけが感覚的にわかるように書かれている。みのりが人からどう思われているのか、唯一わかるのが木島の部分だけ、という作りが面白かったです。わたしも、みのりが通を好きでありながら、木島をいいと思う気持ちはわかるんだけど、どうして通から木島に移っていくのかがあまりよくわからなかった。そんなの理屈じゃないといわれればそれまでですが、移っていくところが、いまいちピンとこなかったですね。もっと二人の気持ちを深く掘り下げた方がいいかな、と思いました。妹のエピソードは、ちょっと余計だったのでは? YA向けで、普通とはちょっと違うところのある高校生男女が接点をもつ、という話は最近多いような気がするけれど、「絵を描く」というモチーフでつなげたところは、うまいな、他と一味違うな、と思いました。

:みのりが通ちゃんのところから出ていかなければ、という思いは、私はよくわかる気がしました。文化祭の頃になると、最初の嫌味な子ではなくて可愛い女の子になる。友達にも話しやすくなったと言われるようになり、外に出ていけるようになるということがわかる気がします。通ちゃんのところにしか居場所がなかったみのりが、やっと自分の居場所を見つけたから出ていけたのだっていうことだと思います。

ペガサス:図式としてそう解釈すべきなんだろうなって、わかるんだけれど、感情としてわからないのよ。

愁童:そこが親切じゃないよね。通の描写はたくさんあるのに、どういう人なのかよくわからない。

ペガサス:一方通行な感じは書けているのかな?

愁童:通のところがなぜみのりの居場所なのか、そこがかなり弱いよね。それでも、こういう女の子っているなって納得して読んじゃう。時代の雰囲気を味方につけるっていうか、作者のうまいところだと思った。

:『しゃべれどもしゃべれども』は、完全に大人の小説よね。

紙魚:大人向けの小説では、人物がもっとくっきり描かれていますよね。この、ぼんやりとしている感じは『サマータイム』(偕成社)なんかにちょっと似てる。

もぷしー:一種『スターガール』(ジェリー・スピネッリ/作 千葉茂樹/訳 理論社)を読んだときの感じに似ていますね。あえて語らない部分を残したかったのかな、と自分では帰結させていた。ファッションと括ってはいけないんでしょうが、16〜17歳くらいに向けて描かれる場合、本当にそれが心地よいのか、どう意図されていたのかが気になりますね。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジャクリーン・ウッドソン著 さくまゆみこ訳 『ミラクルズボーイズ』

ミラクルズ ボーイズ

ねむりねずみ:ウッドソンの作品は『レーナ』(さくまゆみこ/訳 理論社)も読んだんだけど、すごく好き。黒人作家で、受賞歴もあるんだけど、黒人だというところがぎらぎらと表に出ていなくて、普通に等身大で生きている人たちが出てきて、それぞれにバックがある。やわらかいけど、シビアというのがいいと思う。今くらいになって、やっと書かれるようになったタイプの本なのかな。もっと前の公民権運動の頃は、シビアさが先にたって書けなかったのかな。ほぼ1日か2日間のことを取り上げていて、間に家族のことなどをはさみこみながら今に戻ってというリズムもいい。読み終わって、ずしっと充実感があったんだけど、後から感想をまとめようと思ってめくっていて、あれ、たった2日間のことだったんだ、とびっくりした。すごくさわやか。他の黒人作家でもそうなんだけど、社会状況がシビアな分家族があたたかい感じがするのは、ある種、伝統なのかな。

カーコ:翻訳者冥利につきるようないい作品ですね。ラファイエットの一人称の語りで成功していると思いました。12歳の少年の心理がうかびあがってくる。中に挿入されたお兄さんのエピソードも効果的。ラファイエットの視点に共感を持って読める。男兄弟って、大きくなるほど疎遠になったりするけど、このくらいの年代の兄弟のコンプレックスとかライバル心が、あたたかくえがかれていましたね。いつも子どもたちを見守っているお母さんもいい。エピソードのひとつひとつがリアルで、とてもすてきでした。

きょん:たんたんと書かれているけれど、印象としてはつらいなと思いながら読み始めた。最後、チャーリーは戻ってくるんだけど、もう少し救いがあるハッピーエンドでもよかったかな。いろいろなエピソードが入ってくるが、ディテールだけで、エピソードが入ってこない感じもした。さりげなさがよかった。

紙魚:私は、そんなにシビアだとか、つらいだとかいう感触をもたずに、普遍的な家族の物語として読めました。どんな社会状況にしろ、兄弟間のこと、親子のことって、共通していると思うんですね。すごくいい物語だなあと思ったので、たくさんの子どもたちに読んでほしいなあと思うんだけど、全体を見まわして、「物語のへそ」みたいなものがないので、本好きの子だったらともかく、読書に慣れていない人だとどうなんだろうとは思います。

ペガサス:静かな作品だと思いました。『どろぼうの神さま』が、場面が次々に入れ替わって映画を見ているようだったのに比べて、『ミラクルズボーイズ』のほうは、芝居の舞台の上に3人兄弟だけがいて、それぞれの長いセリフを聞いている感じ。言葉の重みを感じさせられた。男の子の兄弟っていうのは、おたがいにどこか一つでも認める部分を発見したときにはじめて、年上でも年下でも対等につきあえるようになると思うんだけど、それがよく出ていた。末っ子のラファイエットも、最終的にはお兄さんに認められる。この子を主人公にした意味がそこにあったんじゃないかな。

愁童:ぼくは、マイノリティみたいなものを全然感じなかったんだよね。いちばん感心したのは、作者が家族というものを信じていて、それを今の時代に書くっていくこと。今の時代の日本では、見かけは幸せな家庭はたくさんあるけどね。この本は、人間としてハッピーなことが書かれてる。だから、もっと前に書いてほしかったと思うね。大阪の池田小学校の殺人事件にしても、学校にカウンセリングを入れたりしてるけど、これだけ、母親、父親を子どもの目から書いたっていうのはすごいよね。あとさ、『どろぼうの神さま』とくらべても、子どもの年齢差がよく出てるよね。すばらしい。

:ラファイエットの視点で読み進めながら、「お母さん、目を覚ましてよ」なんてところで、涙腺がゆるんでしまった。チャーリーとの関わりで何か変わっていくのかなと思っていたら、少年院なんていうショッキングな事件があったりして。兄弟それぞれがそれぞれの重さを抱えていて、お兄さんはお兄さんでつらいし、いちばん下の子はその子なりにつらい。お兄さんも、単なる優等生じゃないし。ただ、お兄さんとラファイエットは、共通に話せることを持っている。最後、チャーリーが補導されて、物事が動く。語れなかったことを語っていけるようになる流れも、いいと思った。表現が情緒的で、落ち着いているんだけど、迫るものがあった。最後の写真の場面が好き。

アサギ:愁童さんの意見に似ているかしら。マイノリティというよりは、貧しい階層の家族の話。ところどころに、プエルトリコとかを感じるところもあるんだけど、全体としては静かでしみじみした物語。一人称小説で視点が「ぼく」になってるから、自分が生まれる前の話はお兄さんが語っているんだけど、ここだけは気になって、もう少しうまく処理できればよかったんじゃないかしら。ここが地の文で語り手がかわったのが、ういた感じになった。作者の工夫がほしかったな。それから、この子の12歳という目線で見て、タイレーの問題とか、子どもなりの感じ方が書かれていて、それがリアリティにつながっていた。最後、お話は静かで、大きなアクセントはないけれど、チャーリーのしこりがお母さんとお父さんの死にあったというのは、納得させられた。どちらの死にも立ちあえなかったというのは、疎外感を抱く、かなりのしこりだと思うのね。

ウェンディ:最初のうちは、チャーリーがもう1度悪さをしたら、3人で暮らせなくなってしまうというので、はらはらしながら読んでたんだけど、両親の死にたちあえなかったという事実があったことがわかて、とてもそれがかわいそうだった。それって、そういう材料をもっていない人にもきっと伝わる、伝わってほしいと思いました。『マーガレットとメイソン』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 ポプラ社)のシリーズは何度も読みました。確かにたんたんとしているんだけど、ああ、このセリフってこういう意味だったんだとわかるところがあって、きっとこの本も、くりかえし読んだら、たくさんの意味がつめこまれているにちがいないと思った。

愁童:ウッドソンって目線が深いよね。両親の死に立ちあえなかったことだけでなく、父親が公園に連れていくのはいつもタイレーで自分は連れてってもらえなかったりと、チャーリーがアウトローになりかけてるのを細かいことの集大成として書かれているのがすごいよね。家族のなかでも疎外感を味わっている。それをしぜんに書いてるのは、いいよね。

ねむりねずみ:チャーリーが金をとったのは、お母さんのいっていた楽園にみんなを連れていきたかったからでしょ。いってみれば、いつも何となく疎外感を感じていた人間が一発逆転を狙ったら、それが完全に裏目に出ちゃった。しかも結果として、お母さんの目にうつった自分の最後の姿が手錠をかけられた姿になったというあたり、すごく切なくて、すごくきいていると思う。

:お母さんと最後に何を話したかなんてところもね。

愁童:たださ、親父さんが死んだ原因っていうのは、ちょっとつくりすぎっていう感じもあるよね。違和感なく読めたけど。

ペガサス:なんで『ミラクルズボーイズ』っていうタイトルなの?

アカシア:お母さんのミラグロっていう名前が、英語だとミラクルとなって、その子どもたちっていう意味なんだと思うけど。

愁童:お父さんが犬を助けて、長男が「あの犬はだいじょうぶかな」ときいて、お父さんが「だいじょうぶだよ、ティー。おれは、もうあったかくなった」って答えるじゃない。長男は、犬のことをたずねたのに、お父さんは自分のことをきかれてるんだと勘ちがいする。そのすれちがいが、うまいよね。

アカシア:物語のへそみたいなのも大事だと思うけど、この作家って、プロットで読ませるのではなく、人間を描いていく作家だと思うのね。おさえた書き方をしている。チャーリーの側から、あるいはタイリーの側から書けば、もっとドラマティックになったのかもしれないけど。

愁童:いやいや、ラファイエットを主人公にしたのがよかったと思うよ。

カーコ:本のつくりもすてきよね。

すあま:最近、新しい本を読んでいて、筋はおもしろいんだけど、読後感が残る本は少ないと思ってたんですよね。でも、これは久しぶりに、それぞれの兄弟の実在感が残った。長編でもないのに、本を読んだという気持ちになった。友人が、兄弟の別の人から見るとおもしろいって言っていて、「ヒルクレストの娘たち」シリーズ(R.E.ハリス作 脇明子訳 岩波書店)みたいに、続編でそういうのがあるとおもしろいかも。

(2002年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


卵と小麦粉それからマドレーヌ

:読みながら肩透かしをくっている気分。この子と出会って、友だちになりたくないって言いながら、あっさり友だちになっていくのも、ええっ?って感じ。「ママ」を連発するのもおかしい。32ページの「だって、ママとふたり遊び暮らしていた時期は終わって、たったひとりで社会に出向いていくのよ。幼稚園にはいったのが……」なんていうセリフにも、脱力。聞き飽きたセリフの行列もむかつく! だけど、今どきってこういう感じなのかしらね。最後に、写真部の話が出てくるけど、この子が部活をしていた話なんて、それまでどこにも出てこない! 日常の描写などは細かくて、そんなところは細かくなくてもいいから、もっと感情を細かく書いてほしかった。

すあま:読み終わった感じが、まさに「マドレーヌ」のタイトルどおり。この題名は、カリスマ料理家の料理本のタイトルみたい。結局、品よくできたお菓子。マドレーヌのように、くせもなく、甘かったみたいな。21ページの挿絵は、これはマドレーヌじゃないよね。

愁童:あんまりおもしろくなかったですね。いちばんひっかかったのは、不登校になった友だちの父親が、いじめっ子のことを「やつら」と言ってくれたから救われたっていうところ。物書きとしては、雑すぎやしないかと思った。つくりがヤワで、あまい。お菓子つくるのに、フランスに行くというのも、情けない。もうちょっとがんばってほしいな。

アカシア:いつもやさしい羊さんがむかついているのは、初めて見ました(笑)。この作家は、子どもたちにどういう世界をもたらそうとしているのかが疑問。106ページなんかも、ぞぞっとしてしまった。子どもの誕生日が、パリの革命記念日っていうんだけど、この作家には革命なんてことは全然わかってなくて、スパイスがわりに使ってるんだろうな。半世紀前ならともかく、今の時代に、お菓子を習いに半年フランスに行く程度で、なぜこんなに家族が大騒ぎするのかがわからない。今だってこういう親や子どもがいるのはわかるけど、子どもの本の作家なんだから、どういう未来像を子どもに手渡したいのかをちゃんと考えたうえで書いてほしい。自己陶酔とか自己憐憫的なところも、不愉快だった。なんで長さんの絵なんだろうね。

紙魚:このシリーズはみんな長さんが絵を描いてるんじゃないかな。長さんのイラストじゃなかったら、もっとあまくなっちゃったと思う。

愁童:この物語って、「殴るのはいけない」みたいな短絡的な考え方に通じていると思うな。もっと複雑な人間関係に目を向けないとな。

アカシア:いじめにしても、いじめられっ子だけでなく、いじめっ子の側も見てみるっていうのが、少なくとも文学だよね。

ペガサス:おもしろい本っていうのは、必ずどこかしらに、こういうものの見方っていいなとか、こういうふうに考えられたらいいな、と思う部分があると思うんだけど、この本はそういう新しい発見がひとつもなかった。出だしは、インパクトのあるセリフをもってきて、おもしろいのかなと思わせるんだけど、読んでいくと、亜矢はこういうセリフを言うようなタイプの子じゃないから違和感を感じる。作者はこの時期の女の子特有の感情とか、母親に対する気持ちなどを書きたかったんだと思うけど、それを3人の女の子と3人のママたちにただ適当に振り分けて書いている感じ。人物の造形が浅いので、紙を切り抜いて作った人形を動かしてるような印象。「捨てられた子どもは、捨てられたからこそじぶんを獲得していくんだよ」とか、気のきいたセリフを言わせてるつもりだろうけど、どれも特に新鮮じゃないし、作家の自己満足のように思える。確かに、女の子同士で、新しい魅力をもつ友だちに夢中になったり、口調を真似たり、その子の薦める本を読んでみたりという感情があるのはわかるけど、「それで、あらためて亜矢を好きになっていたところだった」なんて言うかな? お母さんが、「亜矢と仲良くしてくださってありがとう」なんて、言わないでしょ。家庭の中の、パパやママの描き方も、いまどき何なんだろうと思った。子どもの親に対する思いは、『ミラクルズボーイズ』みたいには伝わってこない。

紙魚:私は、この物語って、リアリズムではなく、ファンタジーだと思う。非日常の物語を読んで夢を見るのではなくて、日常の物語を読んで日々のことに彩りをそえるというような本。確かに、くすぐったいようなところはあるんだけど、ある時期の、それも、この読書会のメンバーのように骨っぽくないような女の子だったら、この本を好きな子もいるんじゃないかなとは思う。この会は、骨っぽさ100%ですから!

ウェンディ:お母さんの立場で読んでしまったのは、娘に感情移入できなかったからだと思うんだけど、私が夫をおいて留学したときも、家族を犠牲にしたように言われましたよ。

アカシア:でも作家って、世間の古い部分をただ書けばいいってもんじゃないんじゃない?

ウェンディ:ただ、平均像からすると、留学するっていうのは、あとがきにあるように、「赤い靴」かもしれないですよね。

ペガサス:主婦のエッセイだったら、そういうのを書いてもそれはそれで読めるかもしれないけど……。

愁童:夫婦関係はそれでいいかもしれないけど、子どもはたまらないよ。なんで行くのかわかんないよ。

カーコ:家中がテレビドラマのセットみたい。でも、確かにこういうお母さんっていますよね。子どもを囲いこんでしまっているような人たち。

きょん:安っぽいテレビドラマみたい。エピソードがほどよく構成されている感じ。

カーコ:最初から最後まで、私はこの物語の世界になじめなかった。今の一般的な中学生がこれを読んで、こういう世界をすてきだと思うのかどうか疑問でした。こんなお父さんって、ほんとにいるのかな、いてほしいと思うのかな。この作者は、主人公の女の子よりも、むしろこの「赤い靴をはく」お母さんを書きたかったのかなと思いました。日本人の作家の描くリアリズムの児童文学って、こんなふうになるのでしょうか。

ねむりねずみ:なんなんだろうな。ぬくぬくと生きている社会を反映しているのかな。致命的なのは、この女の子に魅力が感じられないこと。駄々をこねている子どもをシラッと見ているようなスタンスになっちゃった。セリフに入ってくる言葉も、本人の肉声になっていない。設定もバブリーで、専業主婦で目覚めてパリに留学っていうのもいただけない。日本の社会っていうのは、創作を書きにくい状況なんだろうな。これを読んで絶望しなくてもいいんだろうとは思うけれど。

ウェンディ:自分が母親の立場に似たところがあるので、母親寄りで読んでしまうのかなと思っていたけれど、みなさんも同じだったんですね。そこには葛藤とか成長とかはきちんと描かれない。なんとなくふわっとしていて、なんとなくいいというのは、まさにトレンディドラマ。日本の親子はこういうのが現実的なのかな。

紙魚:経済的にはちがうと思うけど、精神的には、今の日本って、こういう家庭像なんじゃないかな。

:まあ、親もいっしょにプチ整形したり、ダイエットをすすめたりするんだっていうんだからね。

ペガサス:いいところを挙げるとすると、本文の組みが、下の空きが広くて読みやすかった。

アカシア:そうね、杉浦さんの装丁がいいよね。


どろぼうの神さま

ねむりねずみ:ちょうど英訳も出ていて、書評誌などでも好意的に扱われているようです。「大人はよく子どものころはよかった、という」という惹句にひかれて読んでいったんだけど、読み始めると、話がぽんぽん展開していくのでおもしろく読めた。リッチオは「カール」、モスカは「蚊」、ロベルトの相棒は「愛人」、バルバロッサは「赤いひげ」なんて、名前にもそれぞれ意味があって、知っている人はおもしろいんだろうな。スキピオだけが適度に大人になって終わるというあたりは、なるほどなって思いました。なんでかなあ、子どもたちが悪者を追いつめていく『エーミールと探偵たち』(ケストナー作 高橋健二訳 岩波書店)を連想してしまった。バルバロッサが小さくなった後で、子どもたちがうまいこと辻褄を合わせようとするあたりで、子どもってほんとうに冷たくはなれないんだなあと思ったりした。ひとつだけわからなかったんだけど、メリーゴーラウンドの翼がとれたのは、直せばいいのになと思った。

カーコ:粉々になったから直せなかったんですよ。この本は、ヨーロッパのほかの国でも翻訳が出て、わりと話題になっているみたいですね。ファンタジーですよね。読者をひっぱっていくストーリー性とベネツィアという舞台設定がすべてだと思いました。人物の深さは感じられないし、孤児の子どもたちの結束も現実ばなれしている。プロスパーの弟ボーに対する思いも唐突だし、大人たちが都合よく助けてくれる。でも、お話として、子どもたちが安心して読み進められるかなと思いました。作者のこだわりは、不思議なメリーゴーランドというモチーフとベネツィアという街にあったのかな。メリーゴーランドが壊れるシーンのあと、物語の緊張が途切れる感じがしました。

紙魚:私は、筋はおもしろいとは思うけど、ちょっと物足りなかったです。大人になったり、子どもになったりできるメリーゴーラウンドが出てきて、わー、これからおもしろくなりそうって思ったのもつかのま、それによって起こる、彼らの心の動きがぜんぜん出てこない。子どもの心をもったまま、体だけ大きくなったら、いろんな困ることや、葛藤があるはずでしょう。バルバロッサの方は、ちょっとおもしろおかしく書かれていたけど、肝心のスキピオについては、ほとんどなし。帯や巻頭の文句に、あれだけ、大人と子ども、どっちがいいのかなんてことが書かれているのに、単なる体の大きさしか伝わってこなかったのが残念。そここそ、書いてほしかった。

アサギ:この本ね、ドイツの雑誌で「なぜイギリスで好まれたのか」という特集を組まれたから、前から知ってはいたんです。ドイツで軽いエンターテインメント的なものを書こうとすると、ドイツを離れなくちゃいけないのよね。外国にいくと、想像の翼がはたらくんでしょうね。

ねむりねずみ:べネツィアだから描けたっていうところ、ありますよね。ベネツィアって、巨大テーマパークですもの。

ペガサス:短い章がいっぱいあって、連載ものを読んでいるような印象。『エーミールと探偵たち』を思わせるという感想もあったけど、大人対子どもという図式がはっきりした物語でしたね。描写も具体的。どういうものを持っていて、それがどこに置いてあってという、具体的な描写がきちんとしているので、情景を目に浮かべやすい。読者対象は、この本の造りでは、どんなに読書力があっても、小学校上級から中学生以上だけど、読みやすさや物語の内容からいって、もっと下の子どもたちにも楽しめるようにしてもよかったのに。

アカシア:最初入りにくかったけど、三分の一くらい進んでからは、電車を乗り過ごすほど夢中で読んでしまった。ただ、ゲームのノベライゼーションみたいなプロット重視の作品ではありますね。最後、どたばたで終わっちゃったのは、残念。

愁童:ゲームの骨子ってだいたい決まってるんですよね。強い人は最後まで強い。スキピオが大人になってどうするかっていうと、親父の威光で生きてるわけですよね。映画館を追われてどうするかったって、お金持ちの女の人に救われるわけだから、底が浅い。これだったらゲームにすればいいし、この内容だったら長すぎ。大人のぼくが読んでもかったるいので、子どもは読めないと思う。ゲームを経験しているような30代は、読むんじゃないかな。

すあま:最後、落ち着くところに落ち着いて、読後感もよしって感じの本ですよね。でも、あそこまで大きな話なのに、あっさりしている。まとまってはいるんだけど、シュッと終わっちゃう。メリーゴーラウンドまで広げなくてもよかったんじゃないかな。先に不思議なメリーゴーラウンドというのが作者の頭にあったのかもしれないけど。1冊ではあるんだけど、前半後半でまったくちがう話という感じがする。それから、人物の印象が薄いという話があったけど、最後、誰が主人公かと考えると、わからない。大人になってからの話もないし。いろんな子の顔は浮かぶんだけど、強烈な印象がない。しばらくたつと思い出せない。

:私は、兄弟2人を主人公にして読みました。弟を守ろうとしている姿とかね。子どもたちがそれぞれに事情をかかえているけど、そこにある危うさとか脆さは、あまり感じられなかった。プロスパーとボーが、2人きりでべネツィアまで逃げてくるっていうのは無理じゃないかしら。あとの3人も、どういうことがあって独りで生きなくてはいけないのかを書いてくれれば、もっと力強さが加わったのに。メリーゴーラウンドに乗るところあたりから、失速した感じ。私は、体だけじゃなくて心も子どもに戻るのかなと思っていたから、ここで、ずっこけました。べネツィアの風景は楽しめた。でも、子どもだけの生活が楽しいとは思えかったな。

ペガサス:みんなの感想をきいてても思ったけど、やっぱりちょっと長すぎるのよね。

ねむりねずみ:スキピオの謎がとけちゃったら、次はメリーゴーラウンドの謎というように、ちょっといきあたりばったりの感もありますね。

アカシア:けっこう読まれてるのよ。図書館でも貸出が順番待ちで、結局間に合わないから私は買ったの。

ペガサス:ジュンク堂では、寓話のジャンルに置いてあった。これこそ、児童書として認知されてほしいけど。

ウェンディ:私は初め、なかなか読み進められなくて、一昨日の夜、メリーゴーラウンドまで読んで、だから一昨日の夜がいちばん楽しかったかな。要するに、エンターテインメントですよね。「大人はわすれてしまっている 子どもでいるというのが、どういうことなのか」と書かれているので、きっとそれが言いたいんだろうけど、途中で、大人よりも子ども時代のほうがいいと言いすぎている気がした。大人は悪いヤツというステレオタイプが気になります。私は、兄弟のお兄ちゃんにくっついて読んだけど、印象的な子どもがあまりいなかったし、いい大人が出てこなかったのが残念。似たような話に『赤毛のゾラ』(クルト・ヘルト/作 渡辺芳子/訳 福武書店)があるけど、これは40年代のクロアチアが舞台なんですよね。現代にもこういうことってあるのかなと、ふと疑問に思いました。探偵や、骨董屋が出てきて、時代をぼかしているのかと思いきや、携帯電話が出てきて、いったい時代はいつなんでしょう?

カーコ:リアルであることを求めちゃいけない作品なのかも。

ペガサス:あとさあ、くしゃみをする亀っておもしろいわよね。『どろぼうの神さま』ってタイトルも子どもにとって魅力的だと思う。

:探偵と子どもの関係もおもしろかったわ。

愁童:終わりの方でえんえんと続く、バルバロッサの養子の話はおもしろくないよ。子どもが読んだら、なにこれって感じ。大人向けなのかな。

ウェンディ:日本だと、海外を舞台にした話は、どうしても作者の知識不足のせいで破綻があったりするけど、ヨーロッパの国どうしだと、どうなんでしょう?

アサギ:まあ、ドイツとイタリアは、近いからね。このあいだ、友人が平野啓一郎の『葬送』(新潮社)を読んだのね。フランスが舞台で、ドラクロアとショパンの物語なんだけど、会話がどうしても日本人の会話にしか思えないんだって。日本人作家が外国人を主人公にするのは、やっぱり難しいのね。


それぞれのかいだん

ねむりねずみ:私は、アン・ファイン自体が好きなの。いい人ばかりとか、悪い人ばかりじゃないし、親の都合で離婚という事態になっても、子どもたちがそれぞれに自分なりの位置をつかもうとしていくのがいい。『ぎょろ目のジェラルド』(岡本浜江/訳 講談社)もそうだったけど、リアルでそれでいてユーモラスだし、元気が出る作品だから好き。前々からアン・ファインの作品に限らず、英米の児童文学には離婚とか片親などの家庭を扱ったものが多いなあ、やっぱり、深刻な問題が日本より早くきてたんだなあと思っていたけれど、これもそういう本ですね。それにしても、お手軽な解決がないところも、作者の力だと思った。とくによかったのはコリンの話。コリンの踏ん切れない感じがずっと続いていて、最後にコリンが「話すことなんか何もない」というのを忘れて終わるあたりがいいなあ。内容だけでなく、全体の雰囲気でその子の個性を表していると思いました。でも、漫画の延長線みたいな表紙と挿絵には、猛烈に違和感を抱いた。ひとつひとつのお話が類型的じゃなくて、それぞれが悩んで、解決することもしないこともあるっていうあたり、深刻な話なのに基本的に暗くなくて、読後感がさわやかだというあたりも好き。

アカシア:私もアン・ファインは好き。本来だったら出会わない人たちが、あるきっかけで出会う、という設定もうまい。シリアスな題材を扱っていながら、ユーモアもたっぷり。そういうのができるのって、イギリスではアン・ファインとジャクリーン・ウィルソンくらいじゃないかな。子どもの歴史の中で見ると、かつては親の庇護のもとで安心していた子どもたちは、今や親には頼れない。それどころか親の不始末に寛容に対処し、自分で居場所を探さなければいけないというところまで来ている。それぞれの家庭環境が複雑なので、関係図があるのは、わかりやすくて助かったな。

きょん:こういうテーマなので、こういう装丁にしたのかもしれないけど、ちょっと……。辛辣な感じで、真実を語るのがおもしろい。子どもは真実をわかっていながら、それを表現することができないから、おとなは子どもにはわからないと思っているんですよね。ちょっと説教くさいところもあるんだけど、心にずんときた。でも、こういうふうに、つらい話でまとめられているのって、子どもが読みたいと思うのかな、という疑問はある。

カーコ:このあいだ『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳 理論社)を読んだとき、アカシアさんが「同じように数人の子を描いているけれど、こっちのほうが人物がたっている」とおっしゃっていたので、そういう頭で読みました。いつもとちがう状況におかれた中学生が、見つけた手記をきっかけに、素直になって、心がやわらかくなって語りだすというのがうまいなと思います。いろいろな家族をうつしだしていておもしろく読めた。子どもたちがこれをどういうふうに受け止めるのかなとは思うんだけど、素直に深く語る子ども自身の声を読んで、人はそれぞれいろんなことを考えているんだな、背景があるんだなということを感じとれるんじゃないかな。複雑な家族の物語なのに誘い込み方がうまい。中学生が合宿に行って、幽霊屋敷で嵐、こわい話かなってひきつけておいて、本題に入っていく。
本作りは気になった。文字の大きさとか装丁とか、しっくりきませんでした。文字が大きければ読みやすいわけではないのに。これだと、内容が安っぽく見えてしまうのでは?

紙魚:みなさんからも出てますが、やはり装丁はしっくりこないです。私、注文してて届いたとき、あれ、まちがった本がきたのかなって思っちゃいました。

:期待して読んだら、ちょっと裏切られた感じ。3点あげられるんですが、ひとつは、導入としては成功しているが、導入にすぎない。何かしら生かされたかたちで円環が閉じるようなところがほしかった。自分のうまさに寄りかかっているのでは? ふたつめは、親子の関係を書くには、大人どうしの関係を書けなければならない。リアリティを感じられなかった。三つめは、短編として散漫。共通のモチーフも弱い。でも、辛口になっちゃったのは、期待しすぎたから。アン・ファインの今までの作品よりいいとは思えなかった。この装丁は、日本で売りたいという意識が強すぎるのかも。

トチ:私も訳書が出るのを期待していたんだけど、書店で装丁を見てぎょっとしたわ。あまりにも子どもにおもねっているような感じがしていやでした。物語の作り方はさすがアン・ファインだと思ったけれど、実はこのごろあまりうまい作品は好きじゃなくなってきたの。技巧が透けて見えるっていうのかな。それから、この社はアン・ファインの作品の版権をたくさん取っているらしいけれど、なかなか出版されない。歴史物語やファンタジーなら話は別だけれど、アン・ファインの作品のように現代の子どもを主人公に置いたものは、早く出版してもらいたいと思う。版権を取るというのは、翻訳出版する権利を得るだけでなく、それだけの義務も負うってことだと思うんだけれど。

愁童:ぼくも、冒頭の誘い込みがうまいとは思ったんだけど、個人の話になっていくと、がっかりした。策におぼれたという感じ。継母、継父だから不幸っていう悩みのサンプルを並べたみたいで、それで?って言いたくなる。今や実の親だって似たような悩みはあるわけで、親の組み合わせ方をいろいろ並べてみても、あまり意味ないんじゃないか。ここからなにを子供に読みとってほしいんだろ。半ば話すことを強要してて、話せば楽になるよってカウンセリングの事例研究みたい。話して救われたみたいな書き方って好きになれない。

アカシア:たとえば、アメリカだと、単親家庭を経験したことがある子どもは、全体の半分いるんですって。日本の環境でこれを読むと特別に思えるかもしれないけど、アメリカやイギリスの子が読むともっと普通で切実なんじゃないかな。リアルだと思う。カウンセリングらしいところもあるのはたしかだけど、読んで一歩進める気持ちになれる。そっか、やっぱりカウンセリングの効用もあるのかもしれない。

愁童:そうかもしれない。でも、日本の子どもに、この作品の何をどう読んでほしいんだろ?

トチ:出版社はそこまで意識してこの作品を出したんじゃないと思うけれど……

アカシア:アン・ファインだったら、賞を取った他の作品を先に出してもいいのにね。

愁童:今、児童書業界、不況でしょ。ぼくは最近、どうしても、出す側と受け取る側のギャップを感じるね。

トチ:本当のところ、アン・ファインの版権をすべて取って、出せるのから出していっているんじゃない? それから、こういう後書きって好き? なんか物語りの余韻を壊してしまうような気がするんだけど。

ペガサス:私なんか、後書きがないとほっとしちゃうこともある。

アカシア:さっき、うまさが鼻につくって話が出たけど、私は、うまさって子どもの本には必要なんじゃないかと思う。今ってね、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)がわからないっていう文学部の学生がいる時代なのよ。文学を読みなれた人はともかく、子どもの本にはプロットのおもしろさって、欠くべかざるものだと思うな。

愁童:「ハリー・ポッター」が子どもの読書の起爆剤になるかって話が出てたけど、つぎの1冊に何を読むかが大切なのに、ちゃんと考えてない送り手の側に問題があると思うな。

アカシア:文学は、プロットとキャラクターとポイント・オブ・ビューの3点が必要と裕さんが前に言ってたけど、今はプロットだけの本が多すぎる。

紙魚:ただ、「ハリー・ポッター」を読んだ子どもたちには、1冊読み通した満足感とか達成感がかならずあると思うんですよ。それがかならず次の1冊につながっていくと私は思う。私も子どものときって、純文学とエンターテイメントに分けることなく、どんな本でも、本は本でしかなかったし。

アカシア:そうはいってもね、人と人のつながりが描かれているのが文学なのに、そういうものが少なすぎる。きちんと書き込まれているものも子どもに読ませたい。

愁童:児童文学を読んで育った親の世代が、わりあい保守的なんだよね。森絵都とかぜんぜん読んでないんだよ。そうすると、出版社がせっかく出しても広がらないよね。それで今の子たちって、漫画のノベライズとか読んでるんだよ。学校の先生も、どういう本が出ているか知らないよね。

きょん:それって、絵本の世界にもあると思うんです。どんなに新刊を出しても、すすめる側の先生方は、古いものしか出してこない。

愁童:新しいものを探していこうとしない。権威とかにも弱いしね。

ペガサス:でも絵本は、実際クラシックなロングセラーの方がいいのが多いわよ。

カーコ:中学生は、お金を持って「ハリー・ポッター」を自分で買いにいくだけの財力がある。口コミが発達していて、おもしろいと思えばお金をかけられる。だから、司書さんにもっと他の本も手渡してほしいですよね。うちの近所の図書館は、ヤングアダルトの棚がないんです。中高生は利用が少ないとか、一般の本と線引きができないとか、難しい点はあるけれど、働きかけてほしいですよね、プロとして。図書館員の職自体が自治体に尊重されていないという問題もあるんでしょうけど。さっき出た森絵都も、司書が知っていれば学校図書館に置くんでしょうし。

ペガサス:図書館員の集まりに行ったりすると、親に「うちの子は『ハリー・ポッター』を楽しそうに読んでた」って言われて図書館員はだまっちゃうのよ。言葉を持たないの。本を扱う仕事の人がそういう意識だと残念ね。


おき去りにされた猫

:この夏、知り合いのお母さんが、行方不明になって、しばらくその子どもたちをあずかっていたの。彼らひとりひとりの毎日は、こんなもんじゃなかった。この本には、リアリティがまったく感じられなかったわ。こんなに静かに受け止められないはず。私は、あずかった子どもたちの感情の起伏の凄まじさにたじろいだんです。こんなふうに大人の世界を受け止めるはずはない。その子たちに、この本は読ませられない。

:私は子どもの本を読み始めて間もない頃、読んだんです。これ、課題図書だったのよね。子どもが里子に出され、転々としている姿に、感動してしまって……。子どもがこんなふうに猫と自分を重ね合わせて生きていて、家族に入れたり入れなかったり、だんだん気持ちがかわっていく様子に、泣けてきた。だから、「変則的な家族」というテーマがあがったとき、この本だ! と推薦したのね。主人公が自分の力を出していけることになって、本当によかった。つぎに生きていく場所が見つかってほっとした。

ねむりねずみ:淡々としてましたね。訳も物語も。それはそれで、おもしろく読んだんだけど、なんか里親家族がいい人過ぎて、かえってへそ曲がりに、主人公を働かせるせこいおばさんがほんとうはどんな人だったのかと、そっちのほうが気になりました。ちょっとできすぎかなって思う。まったく駄目だとは思わないし、お母さんと一緒になることをただただ祈るところからは一歩抜け出すから、そういう意味では成長の物語なんだろうけれど、どうもいい人ばっかりというのがねえ。猫に自分の思いを重ねることもとてもよくわかるんだけど。なんかなあ、こういうのが古いっていう感じなのかと思った。

愁童:ぼくも、たしかに古いと思うけど、3冊の中ではいちばん安心して読めた。これで幸せになれるかどうかは関係ないと思うんだよね。一つの虚構の世界が気持ちよく終わったなってことでいいんじゃないか。猫の勝手な習性をきちんとおさえていて、ラストの連れて行こうとして逃げられるシーンなど、少年の生き方に重ねた暗喩じゃないかな、なんて思った。

アカシア:この当時(81年)だと、こういう書き方もあるのかな。でも、70年代の『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作 岡本浜江訳 偕成社)ではもうすでに、「いい子」を離れた子ども像が書かれていたんだけどな。これは、とってもいい子で、とってもいい家族にめぐり合えたという、稀に見る幸運な話で、ひとつの作品としては完成されているかもしれないけど、実際にこういう状況にある子が読んだら、ばかにされていると感じるんじゃないかしら。『メイおばちゃんの庭』(C・ライラント作 斎藤倫子訳 あかね書房)の主人公は、同じような境遇で里親をたらいまわしにされるんだけど、こっちはお母さんにあったかく育てられた記憶があるのよね。その記憶がないと、児童心理学的にも、こんなにいい子にはなれないはず。リアリティは確かにないわね。

愁童:書き手はさ、こういうおとぎ話風なメッセージにしてもいいんじゃないかな。子どもが楽しんでくれれば。

アカシア:おとぎ話ふうに読めばいいってこと? でも、実際に大変な境遇におかれた子は増えているわけだし、社会もそういう子どもを理解する必要が増してるわけだから、リアリティのない「いい子」が書かれるっていうのは問題だと思うな。やっぱりこういう物語でリアリティのあるものって、何らかのかたちで自分が関わった人しか書けないと思う。そうじゃないと嘘くさい。

:実際に子どもがこういう状況だったら、なかなかこういう本は読まないでしょうね。

トチ:幸せな子どもが読む本よね。『銀の馬車』(C・アドラー/作 足沢良子/訳 金の星社)なんかも。ストーリーのもっていきかたはうまいから。

きょん:私はこの本、好きでした。たまたま置き去りにされていなくても、心理的に置き去りされている子どももいるじゃないですか。この子は、ひとりぼっちになった自分を、最終的に肯定的に受け入れることによって、これから生きていく姿勢を手に入れる。それがハッピーエンドだと思う。自立するということがハッピーエンド。里親がいい人たちだというのも、甘いかもしれないけど、読んでいて安心感を抱かせる。リアルではないかもしれないけど、作家が書きたかったのは、少年の心の自立だったんじゃないかな。

ねむりねずみ:でも、自立するにしても、あんまり葛藤がなかった。こんなに簡単に心がひらいていくかな? そこが腑におちない。

愁童:それは、読み手の想像力の問題じゃないかな。

ねむりねずみ:内面の、という意味じゃなくて、外部の人との葛藤という意味なんですけどね。里親に心を開くのに、こんなに衝突なしに開けるのか、という。

きょん:淡々と書かれていても、私は葛藤を感じましたが。

カーコ:アイディアがいいとか構成がいいとか、最近は技巧的なお話に注目が集まる傾向にあると思うんですけど、その中で正攻法でまっすぐに描かれていて、古いのかもしれないけど私は好きでした。昔の『小公女』とか『フランダースの犬』みたいに、筋がはっきりして完結した終わり方、幸せな終わり方はほっとするじゃないですか。私は、リアリティがないとは思いませんでした。まわりの人間とのかかわりで少年の心が変化していくようすがよく描かれていると思った。どなりあう言葉をそのまま書くのがリアリティというわけではないし。会話の部分に、英米の作品だということを感じましたね。ここまで、日本人ははっきりと言葉であらわさないから。いいなあと思う文章がはしばしばあった。たとえば38ページの、チャドがポリーに「どうしてあんなに本を読むんだい?」ときくと、「本の中の人は現実の人よりもっと、本当のことがわかると思うのよ」と答えるところとか、201ページの「だれかを愛するように教え、そのあとおき去りにしてしまうなんて、ひどいことだ。」などの一文は、じーんときました。翻訳では、作品全体の雰囲気の作り方がうまいなあと思いました。

紙魚:この物語は、冒頭から、少年の気持ちを映し出したような湿りけのある陰鬱な空気におされたんですけど、森に入っていくにしても、その情景描写が、少年の心とすごく重なるんですよね。そのていねいな積み重ねが、物語をいっそう奥深いものにさせていたと思います。おもしろく読めました。


おばあちゃんはハーレーにのって

:「プタ」とか、言葉あそびをうまく訳してるなと思った。自分自身の体験からかもしれないけど、ニーナ・ボーデンって、最後のところで、陰影を書くのを避けちゃうのね。お父さんもお母さんも狂言回しのように、やけにさらっと書いている。ただ、おばあちゃんは、素敵にかっこよく書けていて成功している。現代的なおばあちゃんで、精神的な病気につきあう様もリアリティがあって、パターン化してない。それから、子どもどうしの関係で、サブのプロットがあるのは、うまかった。でも、いちばん感動したのは、訳者の後書き。

紙魚:家族って、距離も近いし、時間も長くいるのに、一日一日のことを話したりはしても、自分のことを紹介するように話したりはしないじゃないですか。たとえば、初めて会った人には、趣味は何だとか、好きな食べ物は何だとか、自分のことをてっとりばやく、かいつまんで話しますよね。でも、家族の場合は、共に生活するうちに、お互いのことをつかんでいく。だから意外に知らないことがあったり、勘違いしてたりするんだけど、この物語のなかで、実の両親の家から帰る時のプレゼントの中に図書券が入っていたところ、とても主人公の気持ちが伝わりました。やっぱり、家族は合コンのように(!)てっとりばやく、相手を知るという関係ではないんですよね。

カーコ:この女の子は育ての親と実の親との間で揺れるんですけど、結局きちんと向き合ってくれるほうを選ぶんですよね。これって、現代の日本の子どもに通じるテーマだなと思いました。親がいつも子どものことを見ていることはとても大事なのに、今って、子どもが中学生くらいになると、「この子はもう大きいから」ってすっかり子どもから離れてしまう親が多いような気がします。だから、このおばあちゃんとこの子の関係は、テーマとしてすごくおもしろかった。

きょん:途中までしか読んでないので印象だけなんですけど、テンポがよくて現代的。

アカシア:私は小さいときに、かわいそうで健気な主人公が出てくる本をいっぱい読んで、なんてかわいそうなのと感動してたことがあるんですね。そんな自分が今は嫌なので、そういう本は眉唾と思っているんです。この本はそういうのと違って、最初から、読者の同情をひくように書かれていない。女の子が、変なおばあちゃんの人間性に気づいていく関係をきちっと書いている。実際の両親がカリカチュアライズされているところは、ちょっとやりすぎな印象を受けましたけど。訳は、うまい。

愁童:ぼくはね、日本語のタイトルで勝手にイメージが出来上がっちゃって、違った方向に期待しすぎちゃった。だから、ちょっとがっかりした。だってハーレーに乗るって、すごくマニアックなことで、それもおばあちゃんでしょ。その人物像の方に想像が膨らみすぎちゃった。その時点で、本筋を読み損なっているんだね。で、おばあちゃんは、あんまりよく書けてないなって、もどかしい思いをしながら読むハメになっちゃった。3冊の中では、いちばんこの子が不幸だよね。実の親が健在なのに、その存在になじめないんだから。それから翻訳って難しいね。「プタ」って、日本人からすると、おばあちゃんを鮮明にイメージしづらいような気がした。

アカシア:原題はGRANNY THE PAGで、pagにはpig との関連もあるし、hagからの連想もあるかもしれない。46ページには「プタたちは特別な人たち」っていう表現があるけど、ここはKGBとかCIAみたいな秘密諜報機関とか、それに類するような秘密の団体をにおわせているんだと思うのね。そういう得体の知れない胡散臭さみたいなものは「プタ」だと伝わらないかもね。でも、ここは翻訳不可能な部分だと思う。

愁童:あとさ、親権を有利な展開に感じさせる伏線として精神を病んでるフリスバーさんの描写が出てくるんだけど、そこはちょっとひっかかった。ストーリー展開の上であまり必然性が感じられない。最後の、おばあちゃんが溺れそうになった後、たばこをやめてくれたという一行で、すとんと終わらせる所なんかは、うまいですね。

トチ:私は、訪ねてきた精神病患者のおじいさんと主人公の少女のやりとりの部分を読んで、感動したんだけど。後書きを読むと、作者の家族にも精神をわずらった人がいるというから、それでこれだけ深く書けているんだと思ったのね。『ぼくの心の闇の声』(ロバート・コーミア/作 原田勝/訳 徳間書店)なんかは、原作にある精神病院に関する一文をカットしているのよ。あえてそういうことを出さないようにしている。差別になるかならないか、あまり神経を使いすぎてもいけないし、ハリポタの事件のように無神経なのももちろん困る。でも、この作品ではあまり気にならなかったけど。

ねむりねずみ:主人公がいい子すぎず、悪い子でもなく、ちょうどその年齢の子どもという感じでいきいきしていて好きでした。一人称の語り口がぴったりだと思う。おばあちゃんもすてきな人だし。両親はたしかにステレオタイプに書かれているけれど、この子から見れば、そういう感じに見えるんだろうと思った。最後に裁判所の決定がおりて一緒に住み続けた後の、海の場面が好きです。あの場面では力関係の逆転が示唆されている。それまでのかなり自立しているとはいえ女の子が面倒を見てもらう、頼る関係での「いっしょにいたい」から、やがては自分が「めんどうをみるんだ」という対等な関係が感じ取れて、それがぐっときた。さっきのリアリティの話に戻れば、この子が、心を病んだおじさんに対して見事に対処できたのは、日頃おばあちゃんを見てそう育ってきたからなわけで、あの場面はふたりの関係をあらわすための重要な描写だと思う。それと、この本を爽快感を持って読み終えることができたのは、この子がからっとしていて、誰かの力を頼ることなく、自分で精一杯動いているからだと思う。

:私も好きな作品でした。いきがいい女の子、かっこいいおばあちゃんが出てきて、おもしろく読めた。私も、祖母のもとで暮らしてたことがあるんです。中2くらいのときに、両親のところに戻らなくちゃいけなくて、親の財布からお金をくすねて、おばあちゃんの家へ行ったりした。納得できない時期だったんですね。この子の気持ちと重なりました。おばあちゃんと少女の関係がとってもいい。

ペガサス:私ね、途中まで、おばあちゃんを「ブタ」って読んでたの。でも、原題を見て「プタ」なんだって気づいたもんだから、おばあちゃんの印象がちょっと違ってしまったかもしれない。おばあちゃんがすてきというよりは、主人公に好感をもてた。「あたしが」っていう一人称で書かれているけれど、実際には子どもがここまで表現できるわけはなく、著者が影のナレーターとなっているのだけど、気持ちにそって読めるのがいいと思いました。両親がカリカチュアライズされているのも、この子から見ればそうなんだから、私はうまいと思ったんですね。193ページの「その晩は、いつもよりおそくベッドにはいった。プタは、ずっとあたしの部屋にいてくれた。ねむくなったので、あたしはもうだいじょうぶだからねむったらといったけれど、ほんとうはプタがそのまま部屋にいてくれたので、うれしかった。プタがベッドのすぐそばにすわって、やわらかいあかりで本を読んでいるけはいを感じていると、なんだか気持ちがおちついて、ほっとした。」という部分が、子どもって本当にこういうふうに感じるんじゃないかなと思って好きでした。会話の訳し方も今の子どものことばづかいで、効果的でしたね。ちょっと古いものだと女の子のセリフには「〜だわ」ばかり使われていたりするけど、これはうまく訳されていると思いました。

トチ:この本の魅力って、ひとつのストーリーの芯でひっぱっていくのではなく、エピソードなんですよね。ほんのちょっと出てくる人物でも、ものすごくよく書けてるでしょ。弁護士とか、児童福祉士とか。

愁童:ぼく感心したのは、おばあちゃんがこの子の母親をこれまでは「あの人」と言っていたのに「娘」と言うのを聞いて、主人公がショックを受けるところ。

トチ:軽いところもあるんですよね。校長先生の名前とか、ちょっとね。

ペガサス:描写が具体的だから、わかりやすいのよね。

愁童:うん、『おき去りにされた猫』は状況描写がうまいけど、『おばあちゃんはハーレーにのって』は人物描写がうまいよね。


ブルーイッシュ

ねむりねずみ:いい本でしたね。絵も含めて、かわいらしい感じ。ブルーイッシュという言葉がキーになってますよね。ドリーニーが青いからブルーイッシュなんだ、という場面があって、そのあとお母さんのせりふで「ブラックとジューイッシュを合わせた言葉」がというのがわかるという順番に、ちょっとだまされたような気がした。そんなに読みごたえがあるとか、感心してしまうというほどの本ではないけれど、主人公の女の子がかわいくて、何かやりたいけれど、戸惑ったりもするところが、いかにもその年頃。全体にこじんまりしたイメージだったけど。あと、いろんな子が出てくるじゃないですか。いろいろな民族の人がいて、多様ななかで育っていく感じがアメリカだな、ニューヨークだな、いいな、と感じました。
最後の終わり方も、いろいろ書いたノートを本人にあげるのが、ほんわかしていい。場面としてはみんなで帽子をかぶるところが一番よかった。似合わないと思う子もいたりするんだけれど、みんないっせいに帽子をぱっとかぶるとお花畑のようにはなやぐというのがいい。

きょん:まず文体があまり自分としては好きになれなかった。多民族の世界があって、自分の生い立ちや背景があって作られた話だろうと思うのだけれど、それが淡々と語られていて、すべてを言いきれていない感じがした。よかったのは、最後、帽子をかぶるところだけ。なんか物足りなかった。

アカシア:私は一番最初に原書の表紙を見て、読んでみたいと思った本です。アメリカ版の表紙絵はディロン夫妻が書いていて、3人の肌の色の違う女の子が、みんな帽子をかぶっている。この話は3人の肌の色の違いが一つの意味をもってるんじゃないかしら。日本版にもこの絵を使ってほしかった。日本語版の絵も絵としてはいいと思うけど、物語としての意味を考えると原著の表紙のほうがいい。ブルーイッシュという、ブラック(黒人)とジューイッシュ(ユダヤ人)の混血っていう、それ自体が差別的な言葉を敢えて使ってますけど、それを超えたところに成立する人間の関係が、日本語版の表紙だと見えてこないのが、残念。

きょん:そう、私が物足りなかったのは、そういうテーマ性が埋もれてしまっているところ。

カーコ:好きなお話でした。ハミルトンは『雪あらしの町』(掛川恭子/訳、岩波書店)しか読んだことがないのだけれど、あれも肌の色や路上生活者をめぐる問題がでてきたから、人種やそういった社会のマージンにいる人々の問題をこの作家は追いかけているのかなと思って読みました。でも、日本の読者には、こういうユダヤ人に対する微妙な感情は推測できなくて、わからないかもしれませんね。この主人公って11歳ですよね。だけど、文章を読むと主人公たちがもっとおとなっぽい感じがしました。なのに、この表紙のイラスト。私には文章とイラストのイメージがしっくりきませんでした。特にヒスパニックのトゥリなんて違うかなって。装丁が大人っぽいのは、本としては大人向けに作ってあるから?

何人か:子ども向けでしょう?

カーコ:文章でもう一つ気がついたのは、三人称だけどすごく一人称っぽいですよね。ときどき混乱してしまった。地の文の中に、主人公の思ったことが、いきなり入ってくるところが多くて。

アサギ:このごろそんな書き方は多いわよ。視点を変えていくっていうのかしら。そんなに新しい手法っていうのでもないけど、最近多いみたい。

:どんな作品も好きになろうと思って読む努力をしているんですけど、今回の本の中ではこの作品がいちばん印象がうすかった。すっと読んじゃうと、ただ病気の子と、最後友情で仲良くなりましたというだけになってしまいそう。翻訳ものを大人になって読むと、子どもの生活を描きながら、むこうの生活がほの見えてきますよね。たとえば、アパートの入り口のドアにも鍵があって、ドアマンのおじさんがそれをあけてくれて、子どもが一人でアパートの外に出ると父親がとても心配するような環境があるとか、ドリーニーたちは、学区で区切られているんじゃなくて、こんなふうな自由な学校に通えるんだなとか、そういう場所があるのを知るのっておもしろいですね。あと、やっぱり表紙のこと。こないだみなさんがのれなかった『ハルーンとお話の海』も原書と表紙を変えていて、原書の表紙のほうがずっとよかったというのがありましたが、これもそうでしょうか。プルマンの作品もそうだけど、宗教が身近にある人だとすっと読めるのでしょうか。このお話のように多民族や宗教が混じった中で暮らしている子どもなら、ずっと違和感がなく読めるのでは。

アサギ:そう、日本の子どもにとって宗教は大きな壁ね。

:宗教がテーマになってくると難しくて、脳天気に読めないですよね。


トラベリングパンツ

アサギ:これは結構おもしろく読んだんですけど、19カ国に訳されていると聞くと、逆にそれほどかな、と思った。

アカシア:映画化の話があって、あちこちで翻訳されたのかも。

アサギ:思いつきというか、アイデアがいいというか、次々といろんな話が出てきて、人間の書き分けもできているけど、先が読めてしまうところがある。たとえば、ティビーとベイリー。知り合ったところで、敵対してつっぱねるけど、嫌い嫌いと言いながらきっとあとでお友達になるパターンなんだろうなと思ったし、カルメンがお父さんに会いに行くところも、きっとお父さんには新しい女の人がいるなと思ったら、そのとおり。それとレーナとコストスの出会いもやっぱりで、予定調和というか、意外性がなくて物足りなかった。お手軽なストーリー展開だれど、それでも飽きずに読めたというのは、作品として感じがいいってことなのかしら。構成力もすぐれてますよね。母親同士は友情がうすれていくけれど、娘たちは魔法のパンツで結ばれている、だれがはいてもぴったりはけてしまうパンツ。

ねむりねずみ:3冊の中では一番すらすらと読めた。いきのいい女の子が4人出てきてて明るい。最初のところで、ジーンズをはいたらみんなにぴったりきちゃうというのが、「これは物語なんですよ、フィクションの世界なんですよ」という約束ごとのようで、仕掛けとしてうまいなと思った。誓いの言葉をいうところも、いかにもこの年頃の子が好きそうだし。4人がそれぞれいろんな問題を持ち、それぞれ違ったキャラクターで、そのあいだをジーンズがつなぎながら夏休みが展開していく。ころころ変わっていくのを、「ふんふんふん。なるほど、なるほど、おもしろいねえ」と読み進んだ。
確かに予定調和的な話だけど、後ろのほうになってくると、ティビーが友達の死という喪失を受け入れる場面が強く印象に残りました。ビデオで映画を作るというのもおもしろい。なにしろおもしろさですらすら読めちゃった。よくできてるな、カルメンが自分の内面をお父さんにやっとぶちまけるとか、ティビーが喪失をうけいれたりするところも、ちゃんとうまくできているな、よかったよかったと読み終わった。最後のところで、レーナがブリジッドを心配してとんでいくんだけど、ブリジッドのほうは話すことがなくなるというのも、なるほどそういうことはある、と納得。ともかく、これはこの年代の女の子のお伽噺だと思う。予定調和的な軽さだけど、同世代の子にすれば、「そうだよね。そう、そう」と入れ込んで読める。

きょん:理論社のこのタイプの本はおもしろいから、すごく期待して手に取ったんですよね。表紙もお金がかかってて。

アカシア:そうそう、透明のジーンズが印刷してあるすてきなしおりがついてるでしょ? これもお金かけてるよね。

一同:ええーっ、そんなの入ってた?

アカシア:わたしのには入ってたよ。当たり外れがあるのかな?

きょん:トラベリングパンツという名まえもいいじゃないですか。主人公の女の子みんなにぴったりする御守りみたいなパンツでしょ。でも読み始めたらつまんなくて、途中でやめてしまいました。でも、同世代の子だったら、面白く読めるのかな。コバルトブックスみたいに。アイデアも面白いし、設定も面白いから、ストーリー自体ももうちょっとわくわくさせてくれたらよかったのにな。

アカシア:私は、けっこうおもしろかった。学生なんかと本を読んでると、とにかく『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス/著 高杉一郎/訳 岩波書店)よりハリポタの方が面白いという子が多いんですからね。そういう子たちには、この手の作品も受けるだろうな、と思いました。「文学」だと思って読むと、いかにもお手軽なストーリー展開だと批判も出るけど、子どもにとっては、自分が結末を想像できるっていうのも読書の楽しみの一つなんじゃない? 文学っていうことを考えると、たとえば一つのきっかけでいろいろな子どもが物語を語っていくという設定でも、アン・ファインの『それぞれのかいだん』(灰島かり/訳 評論社)のほうがずっとよくできているとは思うけど。

ねむりねずみ:この本は作りもおしゃれだよね。題名がカタカナだし。

アカシア:前は、書名をカタカナにすると地方ではあんまり売れないよ、なんて言われたけど、今は違うのね。

きょん:ネットでみると、この本にはダーッとコメントがはいっているんですよね。同世代の子たちの書き込みがすごく多い。4人の主人公に自分を投影して読んでるなという感じ。

アサギ:でも、あの爪の長い女店員がベイリーのことを話すエピソードなんか、ベタすぎると思うけどなあ。

アカシア:イギリスで読書運動をやってるマーガレット・ミークは、「ハリーポッター」を読んだ子が次にプルマンにいくと行ってハリポタも評価してるそうですけど、一般的にいって、お手軽なエンタテイメント読書が、次には文学を読むようになるんでしょうか?

きょん:本を好きになるっていうのは、小さい頃からたくさん本を読んだりしてきた積み重ねがあってのことでしょう?

:「ハリーポッター」を読んだ子が、ほかの本にいくというのはあるみたい。

アカシア:でも、「ダレンシャン」どまりってことはないの?

カーコ:私は4人の女の子が魔法のパンツで結ばれて、バトンタッチしながら話が進んでいくという構成がおもしろいなと思いました。人物がかわるところに顔のイラストが入っていたり、手紙で次につないであったり。それに、この世代の女の子を応援しているような書き方ですよね。読んでいると、この4人のうちのだれかに親近感をおぼえたりする。私の場合は、ティビーがおもしろかった。

:本屋さんで見て、まず「わー、きれいだ」と思いました。この年頃の子は、わくわくして読むんじゃないかな。でも、小道具としてジーンズをはくっていうのが、女の子のベタベタした友情っていうのか、一部始終手紙で伝えて「友達よね」って確認するみたいなのが、個人的には受け入れにくかった。4人が親友っていうお話は少ないですよね。2人っていうのはあるけど。でも、儀式とか、それぞれに「私の気持ちよー」みたいに手紙を書くっていうところは、もういいっていう感じ。手紙の場面にくるといらいらした。

アカシア:こんなふうに友だちをつくることができる人は、文学なんか読まないかも。でも、私はそんなにベタベタした関係とも思わなかったのね。お互いの個性は認めているし、それぞれ違うし。

:でも、「はじめて夏休みをばらばらにすごすなんて」ってことは、いつも夏休みはいっしょに過ごすってこと? こういうのが私はいやだった。でもまあ、そんなふうなことを感じながらも最後まですらすらすらすらと読めた。だから、15歳くらいの子は、どの子にもなって、それぞれの持っている感じを自分の中に感じながら読めるんじゃないかなって思いました。

アカシア:予定調和的なのも、大衆路線的なおもしろさなんじゃない? 橋田寿賀子のドラマみたいに。

:これは文学じゃなくて読みものですね。子どもの本のなかにも、文学、読みものとかいろいろあっていいのではないでしょうか。


樹上のゆりかご

アサギ:私ね、これだめだったの。半分も読めなかった。だめと思ったら、最後まで我慢して読むのは時間がもったいない。でもね、こないだも『インストール』(綿矢りさ/著、河出書房新社)っていうのを読んだんだけど、この作品が作品としてだめなのか、書いてる世界が自分の嗜好に合わないのか、どっちだろう、って思うわけ。『インストール』はひきこもりの話で、普通の高校の風景を描いているんだけど、私こういうタイプのはだめなのかも。とにかく、好きでないっていうのか。

ねむりねずみ:すあまさんが、この本を選んだとき、「私は都立高校だったからおもしろかったけど」って言ってたでしょ。私、おそらくこの高校の卒業生なので、クラス分けから、行事から、先生の名前までわかる。私自身もこの学校に入ったときに、なんだこりゃって思った覚えがあるから、この人がその感じを書きたかった気持ちはすごくわかる。これって、30年くらい前でしょ?

アサギ:設定は今よね。現実の高校生とどこまでダブるのかわからないけど。

ねむりねずみ:でも、回想ものですよね。だから、「樹上のゆりかご」っていう感じもよくわかる。

アサギ:この題名、どうなのかしら。図書館で、「じゅじょうの」っていっても、「えっ」て何度も聞き返された。

ねむりねずみ:ともかく、私は、そうそう、こうだったなあ、と「卒業生の同窓会」的に読んじゃったところがあって、あまり突き放して判断できてない。で、作者が何を書きたかったかというと、「名前のない顔のないもの」について書きたかったんだろうと思うのね。そのために、有理を登場させ、事件を起こし……。でも、無理があるんですよ。有理の登場も、木に竹をついだような妙なことになっていて。この人は今の子を描くとかそういうんじゃなくて、自分の高校時代を書きたかったんでしょうね。ミステリーとからめて。

アサギ:私も都立高校だったけど、女子が多かったから全然違う。

きょん:私も都立高校で、むかし女子校だったところだけど、学風としては立川ととても似ている。そうした実体験とは別に、私は学園ものが好きだから、これもおもしろかった。でも作者は、違和感のある「名前のない顔のないもの」を書きたかったのだろうけれど、それは失敗している。その正体を作品の中で具現化できなかったので、読者も消化不良になってしまう。でもね、3冊比べて、お話の筆力という点を考えると、私はこの本がいちばん質が高いという気がしました。今の高校生だって、こんなふうじゃないんでしょうか? 私が高校のときは、学園祭とかもりあがって、結局みんな浪人しないと大学に行けなくなってしまうっていう、そんな世界だったけど。

アカシア:私はね、荻原さんのファンタジー3部作(『空色勾玉』『白鳥異伝』『薄紅天女』)は好きなんですけど、『これは王国のかぎ』やこの作品はだめだったんです。文章がうまいとは思えないの。でも、その辺は、読者の私との相性の問題かもしれませんね。だけど、『トラベリングパンツ』と同じ読者層がこれを読めるのかしら? 荻原さんにはファンの固定層がいるから売れてはいるんでしょうけど。

きょん:違和感の正体が具現化されていたら、読めたんじゃないかな。

カーコ:作品としての質が高いというのは、私も思った。だけど、どれだけの高校生がこれをおもしろいと思って読むのかは疑問だった。確かに高校生くらいのときは背伸びをして知ったかぶりをしたがるというのもあるけど、オスカー・ワイルドのサロメときいて、「あの、ビアズレーの悪魔っぽい挿し絵のつく」なんてすぐ答えるような高校生っているかしら、って思ってしまった。それに、「名前のない顔のないもの」というのが、結局最後までよくわからなかったし、有理さんはすごく病的で、高校生がここまでするかって感じだったし。

ねむりねずみ:作者が「名前のない顔のないもの」を描ききれていないから、有理さんを登場させないといけなくなったんじゃないかな? 顔のないものが何なのかが立体的にいろんな側面から伝わってこないから、しょうがない、有理さんを出した。でも、有理さんの行動のモチベーションはあくまでも私的なものでしょう。だから無理が出ちゃう。

きょん:きっと、「名前のない顔のないもの」の正体をはっきりさせてくれれば、男社会の中の女の人とか、共感する人はもっといるんじゃないかな。

:私は地方の県立高校だったけど、この空気はとても似てるんですよね。中学まではそこそこだったのに、高校になったら、こんな順位とったことないやというような成績をとって、高校の世界からちょっと身を引いて傍観者的になっているっていう子ですよね、この子は。でも、忙しいんですね、都立高校って。こんな次から次に行事があるんですね。みなさんもおっしゃってたように、「名前のない顔のないもの」というのが、ぜんぜん前に出てこなくて、この女の子の恋愛というかストーカーみたいなので終わってしまって、なんなんだろうって思いました。パンにかみそりを入れるのも、キャンバスを燃やすのも、みんなこの女の子がやったんでしょ? でも、この女の子が壊したくてやったんですか? 最後まで、今一つ納得がいかない本でしたね。ほんとこれ、今の子じゃないよ、携帯電話とっちゃったら。私、この最初の「中村夢乃、鳴海…」って名前が並んでいるのを見ただけでもうだめ。わざとらしいっていうか。

アカシア:今はこれが普通の名前なんじゃない? もっとも私はこの作品の文章全体に違和感があるんだけど。

カーコ:でも、それってこの作家の文章がそれだけはっきりあるってことですよね。

アカシア:ここに書かれてるのって、もしかしてすごいエリート意識じゃない?

全員:そうそう。

アカシア:それも、ちょうど高校生くらいのエリート意識よね? 普通だったら思い出したも恥ずかしいようなものだけど、どうしてわざわざ書くのかな?

ねむりねずみ:それで、作者はそのエリート意識をつきはなしきれていないんじゃないかな? それにしても、自分にとってすごく思い入れのあることを書くっていうのは、難しいですね。中にいた人間の雰囲気はすごく再現されているんだけど、それで終わっちゃってる。


未来のたね〜これからの科学、これからの人間

トチ:『世界のたね』の続編ね。厚い本でたいへんと思ったのだけど、読み出すとおもしろかったわ。考え方のバランスがとれている本でしたね。現在と未来、いいことと悪いことのバランスが取れてる。入門書としては、よい本だと思います。この中でおもしろいと思った事柄については、また別の方面につながっていくだろうし、子どものための知識本としては優れていると思う。大人が読んでも知らない知識もあったりして、1冊私もほしいなと思ったくらい。たとえば、昆虫ロボットが夜中にシーツを集めにくるなんてところは、ユーモアがあったわね。私が子どものころは、お正月の特大号の子ども欄に必ず未来の予想図なるものがあって、ビルの上に縦横に高速道路がはりめぐらされて、ロボットが大活躍している漫画が出ていたの。今の子どもたちはどんな未来予想図を描いているのかしらと、この本を読んで考えさせられました。それから、「農業イコール健全なもの」と漠然と思っていたけれど、農業とは自然との戦い、いってみれば反自然だという個所を読んで、目がさめたような気がしました。

ペガサス:この著者が、子どもに向けて語るという姿勢をきちっと持っているということがいいと思いました。問いかけてくるので、読者の子どもに考えさせていく。論の展開もわかりやすくて、「○○というのは簡単にいえば、〜ことだ」とまず言ってから入っていくので、とらえやすい。関心がもてるテーマを見つけられれば、テレビや新聞を読んで、またひろがっていく機会になると思う。こういうものは、その後同時多発テロが起こったりして、どんどん内容が古くなっていくんだけど、最後に作者からのメッセージがあって、自分で自分の本の価値を言っているのがおもしろかった。この時点に生きた人間がどういう未来を描いたのかというところが、いいのだってね。

紙魚:ふだん、自分の知識を体系づける機会はないのだけど、こういう本を読むと、ぱらぱらとした知識が折りたたまれていいものだなと思った。こういう本って、日本のものはなかなか見当たらないですよね。作家の世界観がそのまま出るし。なかなか自分からは読まない本なんだけど、読んでみるとおもしろい。

アサギ:ただ、本のつくりが読みづらい印象をうけました。

すあま:注を読むリズムがつかめないんですよね。かといって、割注でも難しいだろうし。前半は、警告するような内容で、後半はSFっぽい夢のある話へとつながっていく。私の知識がないこともあり、この人が考えたことなのか、他の科学者が考えたものなのか、区別できないところがありました。

トチ:けっこう子どもの方が、こういう科学ものを読みなれているのかもね。

すあま:いずれ内容が古くなるというのを作者はわかっていて、この本に書かれている作者の予測が実際はどうだったのかを後から読むほうがおもしろいんだよ、と言っているところが、うまいなあと感心しました。また、SFを書くなら、『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク/著 伊藤典夫/訳 ハヤカワ文庫)みたいに年号を入れないほうがいいというのにも、なるほどと思いました。副題の「これからの科学、これからの人間」というのは、ちょっとカタイので、手にとりにくいですよね。

アカシア:『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル/著 池田香代子/訳 日本放送出版協会)と同じように、これは原著がノルウェーですよね。ノルウェーの人って、こういうふうに世界を読み解くのがうまいのかしらね。日本人には子ども向けのこういうのは、なかなか書けないのかも。私が子どもの頃は、科学はすばらしくて未来は夢のようだと信じていたけれど、今はそういう時代ではない。で、子どもにどういう未来像を渡すことができるのかわからないでいたんだけど、そうか、こういうふうに書けばいいんだなって感心しました。「ウイルスは生命体ではなく、メカニックな生き物」なんていうことは、全然知らなくて、えっそうなのと驚いたり。ただね、「ナノマシン」なんかは、わずかなマイナス面しか書かれていないんだけど、本当はもっと問題があるんだろうな、と思ったりもしました。宇宙ステーションだって、作るといろんなところにいろんな影響が出ていくんだろうな、と。未来のシナリオが、3バーション用意されているのは、おもしろかった。

ねむりねずみ:表紙見て中を開いて、教科書みたいだなと思いました。文章は読みやすいんだけど。科学技術の発達とか暗い面とか未来について萎縮せずに書かれているのはなるほどと思いました。これからの人類のシナリオのどれを選ぶかは一人一人の主体性にかかっているというあたりは、賢者クラブといわれていたローマクラブを引き継いでいろいろな警鐘を鳴らしているブダペストクラブの人と同じ姿勢。ただ、最近その手の物を続けて読んだので、またか、という感じもしちゃった。物語という感じでもないし、どういう場面でどういう人たちに読まれるのかわからない。あんまり魅力を感じなかったです。

すあま:おとなが紹介しながら子どもに渡さないといけない本ですよね。

ねむりねずみ:たしかに、おとなは今までの歴史などについての知識の重みで悲観的になってしまいがちだけれど、子どもはそのマイナスがないぶん元気がある。だから、未来は君たちにまかされているんだよと提示するのは大事ですよね。

すあま:「NHKスペシャル」とかでとりあげて、番組がつくれそうですよね。やっぱり、ノルウェーって冬は夜が長いから、こういうことをじっくりと考えるんでしょうね。

トチ:科学においても、文学をはじめ文化芸術においても、北欧って日本にはまだまだ紹介しつくされていないものがどっさりある宝庫かもしれないわね。


こっちみんなよ!

:私はこういうの、ページを開けないくらい苦手なんです……。よっぽど好きな人でないと、こういう表情の写真は撮れないのはわかるのだけど、気持ちがしっかりしてる時でないと、気味悪くて……。

アサギ:私も爬虫類が好きじゃないのだけど、おもしろかった。また、写真がセリフと合っているのよねー。特にタイトルの「こっちみんなよ!」というのが秀逸。きっと、子どもは好きよね。犬や猫は哺乳類だから表情があるのはわかるけど、爬虫類もこんなに表情が豊かなのね。それほど写真が優れているってことでしょうね。

アカシア:千石さんて、ほんとに詳しくて、この本は千石さんじゃなければ作れない本だったと思います。爬虫類って好きじゃない人が多いんだろうけど、この本は気持ち悪いと思わせないで、親しみを感じさせる。

トチ:でも、どんなにかわいいカエルでも、体のねばねばしているのは毒なんだって。だから、カエルに触ったら必ず手を洗わなくちゃいけないって、別の研究者が言ってたわよ。

すあま:最初タイトルだけ見たとき、「こっち みんな(皆)よ!」だと思っちゃったんです。こういう本は、下手をすると作者の意図がみえみえでつまらなくなる場合があるけど、これはうまくいっていると思います。解説も特になく、図鑑じゃないとはっきり言っているところがいいのかな。研究者ということですが、写真家としても腕がいい。職場でみんなに見せたら、人によっておもしろがるところが違った。一人で見ていてもおもしろいけど、みんなで一緒に眺めてもおもしろい。素直に楽しめました。

アサギ:爬虫類ってこんなにおもしろいって思わせるきっかけを作ってるっていう点では、かなり意義あるわよね。

ペガサス:これだけたくさん撮っている専門家だからこそ、遊んでみたかったのかもね。言葉は、ちょっと人間が勝手につけたと思えなくもないところもあったんだけど。まあ、おもしろかったことはおもしろかった。写真をつかった本で、たとえば、この『猫の手』(坂東寛司/写真 ネスコ)っていう本は、猫の手だけを写した写真集なんだけど、私はむしろ勝手なセリフがつかないこっちのほうが好き。これだって、猫の好きな人しか見ないけどね。『こっちみんなよ!』は、『ふゆめがっしょうだん』(冨成忠夫・茂木透/写真 長新太/文 福音館書店)なんかと似てるけど、セリフはちょっと大人っぽいわよね。

トチ: 私は小さいときは「虫めずる姫君」というあだながついていたほどの虫好きで(姫君の部分は?でしたけど)、もちろんカエル、イモリ、ヤモリの類も大好き。だからかもしれないけれど、このセリフはもちろん本人(本動物)が言っているわけじゃないし、本人の気持ちとはまるで逆かもしれない・・・そこがちょっとひっかかったし、なんだかかわいそうな気がした。

ペガサス:私もけっこう虫とか好きだったわ。私は中学のころ生物クラブに入っていて、実験材料とかを大学にもらいにいくと、研究室の箱の中にいっぱいヒキガエルが入っていて、それを手づかみで取ったりした。カエルは全然平気。だから私もトチさんと同じように、勝手なことを書いて、という気もした。

アカシア:でも、虫が好きなんていうのは、ペガサスさんの世代で終わりだと思うな。今の人たちは、もう犬とか猫とかペットじゃない動物は駄目な人がほとんどよ。そういう子たちには、この辺から入ってもらうのがいいんじゃない?

紙魚:そうですか。私は、小さい頃も今も、動物とか昆虫ものとかけっこう好きなんですけど、この本はちょっと物足りない感じでした。わーおもしろいなあっていう気分だけじゃなくて、もっと生態とかを深く知りたくなる本のほうが好きです。セリフひとことだけでは、満足できませんでした。

ねむりねずみ:私は買いたい派です。確かにセリフは後付けなんだけど、ほんとうに虫が好きな人は虫を虫とも思っていないだろうから。これをいっしょに読んで笑いたい人の顔がすぐに浮かびました。
(この後、各人の幼少時代の昆虫話が続く、続く、続く……)


ネモの不思議な教科書

ねむりねずみ:うまい設定だなって感心しました。学問体系をそっくり丸ごと提示するのに、何もかも忘れちゃって感情すら忘れちゃった子どもという設定を考えついたのはうまい。お説教にもなってないし。これは、学者と雑誌の編集者の二人で書いているけど、物語としてへーそうなんだと納得できるのもよかった。最後、音楽で記憶が戻りますよね。物語としても読ませるけど、歴史とか人間の営みを作者がどうとらえているかがもろに出てるところが面白かった。音楽を、人間の言葉にならないところに訴えものと捉えているんだなと納得しました。最初の設定がきいて、議会でこの子が変なことをやっちゃうのも自然にうつるし、かなり感心して読みました。「夏休み中の子どもたちに大評判の一冊」というのもうなずけますね。あちらのノンフィクションを翻訳で出すのって、結構難しいと思うんですが、その点でも、フランスの本を訳すときの配慮を感じました。

:染色家で実際に記憶をなくされた方がいらっしゃいますよね。ごはんの食べ方も言葉も家族の顔も忘れちゃっているの。その方のことを思い出しました。気に入らなかったのは、テレビの取材という設定。この子が全部なくしてしまって、それをとり戻す話なんだけど、だからこそ浮かんでくる質問があったりして、その純粋さにうたれました。ネモがいとおしく思えた。

紙魚:記憶をなくすというというのにはリアリティは持てなかったです。もしも本当に記憶をなくしたら、こんなあっさりではすまされないはず。ただ、物語としては読みやすかったので、これは世界を読み解くための設定だと割り切れました。今回、『未来のたね』と『ネモの不思議な教科書』の2冊を読んで、巨視的な視野を持つということの大切さを感じました。なかなか日本では、歴史でも数学でも大枠で見る訓練をしないので、こういう本は生まれにくいですよね。

ペガサス:私も設定はうまいなとは思ったんだけど、途中の大人と子どもの会話が作為的でつまらなかったのね。こう続くと辟易しちゃう。さっき、羊さんはこのネモがピュアとおっしゃっていたけど、私には大人にとっての純粋な子ども像を押しつけられたように感じた。

アカシア:私は両方読む時間がなかったので、少しずつ最初の方を読んで『未来のたね』の方を読もうと決めたのね。こっちを読まなかったのは、ネモと女の子が出てくるあたりが、中途半端な作り事に思えたから。もう少し物語としてもきちんと書かれていれば、違っていたかも。

ねむりねずみ:私はともかく努力を買っちゃう。こういうのって味気ない知識ものになりがちで、物語にまとめるのはかなり難しいから。

トチ:ヨーロッパの歴史を調べるのなら、『ヨーロッパの歴史—欧州共通教科書』(フレレデリック・ドルーシュ/総合編集、木村尚三郎/監修、花上克己/訳、東京書籍)がいちばん便利。ヨーロッパの青少年のためにドイツ、イギリス、デンマークなど12カ国の歴史家が共同執筆したもので、1992年にEU加盟国で同時出版された分厚い本だけれど。それはともかく、この本には、よく言われる「子どもは未完成な大人」というフランス人の子ども観があらわれているのかしら?

ねむりねずみ:でも、そんなには教え込む姿勢が強いわけでもないですよ。おじさんもそう大人じゃないし。

トチ:日本には『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎/著 岩波文庫・ポプラ社)っていうのがあるわよね。

すあま:日本でこの手のもの、といったときに未だに『君たちはどう生きるか』が出るっていうことは、その後すぐれた新しい本が出ていないということなんでしょうか?


クラウス・コルドン『人食い』

人食い〜クラウス・コルドン短編集

アカシア:短いのも長いのも、書きこんだのもそうでないのも、いろんな話があるわね。子どもの人生の場面を切りとっていくという意味では、鋭い短編集。個別に言うと、「クラゲ」で、マヌエルがいじめられていて、インゴがそばからみていて悩むんだけど、最後ちょっと臭い台詞を言って仲良くなるところは、紋切り型のような気がしたな。「一輪車のピエロ」は、とってもよくできた、好きな話でしたね。最後の「クラスのできごと」は、「ひとのことは<みにくいアヒルの子>なんていうけどさ、子どものうちはみんなアヒルかもね」という言葉が、どういうニュアンスかわかりにくかった。訳は、全体として今の子どもの会話風にしたほうが面白くなったように思います。

紙魚:装丁からして、ちょっと入りにくい本でした。タイトルも、センセーショナルな『人食い』なんていうものだし。こうして読む機会がなければ、なかなか手にとらない本です。読んでみれと、どの話も暗い影がありながら、ふーむと心をゆらされる部分があったりして、なかなかよかったです。ただ、本のつくりが、こうも突き放した感じなので、もったいないと思いました。作家と読者がもっと近づく装丁だとよかったのに。タイトル、ハシラの入り方なんかも、かなり気になりました。

ペガサス:短編集としては好きな本。全体として共通カラーがあって、まとまった印象をうける。主人公の子どもたちが、親をなくしていたり、障害のある妹をかかえていたり、貧しかったり、彼らの日常は胸を痛めるのだけど、別の方向から光があたって、ささやかな幸せがもたらされるというのが描かれている。希望がもてるといったことを描いているのがよくて、それが全体のトーンにつながっているのかなと思った。

アカシア:ただ、ピアスとはちがって、コルドンは、かなりつきはなしていると思うのよね。ピアスの短篇では、人間と人間の関係があったかく描かれているんだけど、「人食い」に登場する人間たちはどこかさみしいし、喪失感を訴えてくるような印象。

ペガサス:コルドンは、あったかいというよりは、別の方向から光があたるという感じ。児童文学のありきたりな子ども像というのではなく、あるところでは大人よりさめている。「飛んでみたいか?」なんて、お父さんのうえをいっちゃってるじゃない。大人より大人びているよね。「窓をあけて」も、今までよくあるパターンは、受け入れられなくて反発するというのがあるんだけど、あの子は、自分でのりこえて窓をあけたわけじゃない。

アカシア:アン・ファインなんかには、そういう子がよく出てくる。大人より一段上に立って状況を判断できるような子どもがね。今の社会って、大人が子どもっぽくなるのに比べて、子どもは早くから大人になることを強いられてるのかも。子どもは受難の時代だね。

カーコ:好きな作品じゃないんだけど、問題を投げかけてくれるタイプの作品だなと思いました。さまざまな切りとり方で、いろんな人生を見せてくれる。出てくる家族も、移民であったり孤児であったり、両親と子どもというような古典的な家族像にはあてはまらなくて、どこか社会から疎外されがちな人々が描かれていて。それぞれの短編の終わり方も、希望を持たせるような終わり方と救いのないものが半々。
ひとつ気づかされたのは名前のむずかしさ。ドイツ語の名前はなじみがないから、男か女かわからないまま途中まで読んで混乱してしまうことがあった。訳すときに、男の子か女の子かを最初にさりげなく示唆するようなことが必要かも。それに、ここに出てくる名前の中には、ドイツ人の読者が読めばパッとドイツ人じゃないなとか、ギリシャ系だなとかわかるのかもしれないけど、日本人にはわからないものも多い。そういう見えない意味や文化っていうのは、どうやって出せばいいんでしょうね。
訳のことをいえば、10歳の子が「父が」って言うのは違和感をおぼえました。全体として子どもが大人びている印象だった。それと文体についてですけど、現在形が続くのは意図的なのかな。原文で、過去のことを現在形で書いてあるからなのかもしれませんけど、この本では少しひっかかりました。

アカシア:原文が現在形で書かれているとすれば、そこには作者の意図があるんだろうから、やっぱりできるだけ現在形で訳したほうがいいんじゃないかな。

ももたろう:そもそも装丁から手に取りたくない感じ。子どもは、この『人食い』ってタイトルで読みたくなるのかな。きっと子どもが持つタイトルからの本への期待と、書かれているものは違ってしまうと思う。内容的には、子どもの不安定な気持ちの状態が細かく書かれている感じで、いろんな意味でばらばらっとした感触。イメージがつかみにくいですね。まるでモザイクみたいな印象でした。それに私たちの生活と匂いが違う。私は最初からとまどいがあった、これを子どもが読んだら、どこから入っていくのか読み込めないうちに終わってしまうのでは。表面的ではなくて内面的な子どもの姿が描かれていて、胸につんとくるようだった。そうそう、前から思ってたんですけど、短編って訳す時は訳者はどんな感じなんですか。

アカシア:短いから簡単ってわけじゃなくて、長編以上にちゃんと理解していないと訳せないんじゃない? 表面的に読んだだけじゃだめだしね。それから『人食い』っていう書名は、原書どおりなんだろうけど、ドイツ語ではもっとイメージがはっきりしてる言葉なんじゃないのかな。日本で「人さらい」って言えば、一定のイメージがあるみたいに。

ももたろう:そういえば、短編は出版社に売り込むのが、難しいですよね。

アカシア:でも今は朝の十分間読書なんかに使うのに便利だからって、需要があるんじゃない?

ペガサス:さ・え・ら書房といえば、『ミイラになったブタ』っていうとてもいいノンフィクションがあるけど、内容的には本当におもしろいのに装丁が硬い。さ・え・らは、装丁で損してる本が多いね。

ももたろう:装丁は大事ですよね。だいたいそこが最初の決め手だし。さ・え・らの「やさしい科学の本」のシリ−ズ、『カルメヤキはなぜふくらむ』の本とかは、おもしろかったんですけど……。やはり、さ・え・らは見た目が硬い本が多いですよね。

ペガサス:もうちょっと中学生が手にとるような装丁にすればよいのにね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フィリッパ・ピアス『8つの物語』

8つの物語〜思い出の子どもたち

ペガサス:さすがピアスだけあって、情景もよくうかぶ。これば子どもを描いているんだけど、まわりの老人の方がとても印象的に残る。「ロープ」は入りにくかったし、描写によくわからないところがあった。部分的にうまいところもあるんだけど、3冊の中でいちばん印象がうすかった。

紙魚:ピアスの他の作品もそうですが、とってもていねいな印象をうけました。情景や感情の描写がたんねんに重ねられているので、物語のイメージがきちんと浮かびあがります。どの物語も、読み終わったあとに、ふしぎとあったかい心持ちになるというのも、すごい。きっと、ピアス自身が、子どもにも大人にも、そういう目線を持っているからなのでしょう。

ももたろう:子どもの頃の記憶を、大人になってもう一度堀り起こして書いた作品という感じがしました。書き方は子どもの視点なんだけど、何だか上から見下ろしている感じ。「チェンバレン夫人の里帰り」は、個人的に面白かったです、意外性もあったし。こういう作品を子どもはどういうふうに読むのかな。どちらかというと成長した人が、「あの時はこうだったよねえ」というイメージをもちながら読む作品なんじゃないかなあ。

アカシア:私は「ロープ」の子どもの気持ちもよくもわかって最初からひきこまれた。子どもの頃まわりの世界に対してもっていた感触がよみがえる短篇集。私は、けっこう生きづらい子ども時代を送ったんだけど、その頃こんな本があれば、もっと心を寄せて読むことができたのになあ、と思う。小学校の4年生とか5年生とかで、こういう本を読みたかったな。

カーコ:私も小さい頃読んだ日本の作家の作品は、出てくる子が妙に優等生的な気がして、だめだった。それで海外の作品にとびつくというところがあったかな。

アカシア:ピアスの短篇は、読み直すと、そのたびに味わいが深くなる。たぶんそれは、人間に対する作者のあったかさから来てるんだと思う。「夏の朝」なんかも、人生のある瞬間の感覚がちゃんと伝わってくる。おばあさんと子どものつながりも、ピアスのテーマの一つだと思うけど、彼女の書くおばあさんっていいよね。

カーコ:ひとりひとりの、その人だけが大切にしているものを描き出している気がしました。「まつぼっくり」のまつぼっくりも、「巣守りたまご」のネックレスも、ほかの人にはわからないけれど、その子にとっては特別な意味を持つとてもだいじなもの。「ナツメグ」の名前もそう。物とか物事がもつ個人的な意味が浮かび上がっていて、おもしろかった。「スポット」のおばあさんは、この話ばかりしてるんだろうなとか。

アカシア:「夏の朝」で、ニッキーがスモモの木の根元においたクレヨンを、難民の女の子が持ってってくれるでしょ。これがピアスなのよね。コルドンだったら、女の子はクレヨンを持っていかない。持っていかないってことで見えてくるものを書く。でも、ピアスは、人と人とがいろんな形でつながっていくということを書いてるんだよね。

ペガサス:そうね。主人公は、最初おじいちゃんちにいるのは気が進まないけど、3日間だけだから、つきあってやろうと思うわけじゃない。でも、物事がわかってくると、おじいちゃん、おばあちゃんへの態度がかわっていく。二人の会話とか物音が聞こえてくるというのをきちんと書いてて、伝わってくるよね。おばあちゃんが誕生日に何か買ってくれるといったから、とりあえず無難なクレヨンって言っておくわけじゃない。でも、それが最後ああいう形になってきいてくる。うまいよね。

アカシア:最後は、あのクレヨンだったらきっとすごい絵がかけるから、「そしたら『楽しいな』って思ってね!」って、ニッキーが女の子に心の中で呼びかけるのね。そこも、いいんだな。

ペガサス:この話の冒頭だったら、そうならなかったのよね。3日間を過ごしたからこそ、というのが、うまいよね。

カーコ:短編って、起承転結の妙で読ませる感じで、人物の描写については長編のようには深く切りこんでこないように思うんだけど、ピアスはそのへんが細かく描かれているなと思いました。コルドンは、はぐらかされてしまう感じだった。

ペガサス:コルドンは、読者に投げかけているとは思うけど。

ももたろう:ピアスのほうが、作者の中でテ−マや素材を消化して作品を書いてるのかなあ。

アカシア:というより、ピアスとコルドンでは、アプローチの仕方とか現実の切り取り方が違うんだと思う。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


小森香折『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』

声が聞こえたで始まる七つのミステリー

ももたろう:割合、面白かったです。作者の工夫が見えるし、最後のどんでんがえしなんか、「やるなっ!」という感じでした。日本の子どもたちには、こういう作品が身近でいいのかな。でもそれなりに面白くは読めるけど、深い印象とか、とんと響くものはなかった。

ペガサス:最初、これはなんてアリス館ぽくない本だろうと思ったのね。装丁もそうだし、タイトルもおもしろそうだなと思わせる。短編集としてうまく作ってる。「声が聞こえた」でまとめているのがいい。たとえば、時間を変化させているものもあるし、空間をいかしているのもある。じつは犬だったとか、座敷わらしだとか、逆転が生じるものもある。それぞれちがう手法をとっているのは、変化があっておもしろい。文章が短いのも印象が残っていい。さっと読めるし、読み終わったあと、しゃれたものを読んだ感じがする。

紙魚:『人食い』とは対象的に、本づくりのイメージがきちんと伝わってくる本でした。だから、手にとって、とても気持ちよかった。なんだか新しい本づくりに挑戦しているという感じもして、編集者の意気ごみみたいなものが、熱く感じられました。テキストも、非常にていねい。迷子になることもないし、ちょっとわかりにくくなりそうな部分も、きちんと舵取りしてくれて、安心して、でもちょっとどきどきさせて、巧みにおもしろがらせてくれた本です。

アカシア:ぴっしりきまって、まとまって、しかもよくわかるという短編ばかり。読んで気持ちがいいわね。この作者の前の作品より、ずっといい。編集者の適切なアドバイスも、きっとあったんでしょうね。

カーコ:3冊のなかでは、いちばん本づくりというのを感じさせられる1冊でした。「七つのミステリー」という枠の中で、今の子どもの身近な状況で展開しながら、昔の日本の児童文学のようなべたべたした感じがなく、それぞれにおもしろく読めました。小学生のときに『学校の怪談』を読んでいた、こわい話が好きな子どもたちには、こういうちょっとこわそうな話っていいきっかけになるかも。題名にも、それぞれひとひねりあるんですよね。

ペガサス:編集者のアドバイスもあるんだろうけど、作者も読者を楽しませようとしているのが感じられたわ。いい本よね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


サルマン・ラシュディ『ハルーンとお話の海』

ハルーンとお話の海

愁童:一応全部読みましたが、全く我が世界に関係ないというか、共感がわかなかった。縁なき衆生という感じ。作者の思いはわかるんだけれども……。日本の子どもにダジャレめいた言葉づかいでダラダラ書かれても、しょうがないんじゃないか、という感じ。

:太字で書いてある部分は、原書ではどうなっているのかしら?

ねむりねずみ:原書ではイタリック体になっています。

アカシア:私は、この本は、イメージはおもしろいと思うけれど、こういう言葉遊びの文章は、日本の子どもには伝わらないと思う。翻訳もむずかしい。訳者が工夫してダジャレ風に訳しているところも、私はあんまり面白くなかった。ルイス・キャロルのアリスだって、日本の子どもにはわかりにくいじゃない? もともとは著者が自分の息子という特定の読者のために書いているものだとすると、よけい日本の子どもには難しいと思うんだけど。

:私は、最初から最後までおもしろく読みました。最初は淡々としてるけれども、水の精が出てくるところ、2932をフクザツーというのや、ブスでどうしようもないお姫様とか、馬鹿馬鹿しいところもおもしろかった。名前もおもしろいし、最後まで笑いながら読めた。だんだんお話の海がにごってくるというのは、文学の衰退を感じさせた。また、子どもも親に対して幸せであることを願っている、というところもよかった。

:私は1800円出して買って、損した。雰囲気的には、スティーヴン・キングの『ドラゴンの眼』に似ているけれど、また少し違って、『フィネガンス・ウェイク』的なところもある。「語る」こととは何か、ということを語っているわけで、子どもには無理だし、第一、この翻訳で読ませるのも無理があるわね。原作にはそれなりの意味があるとは思うけど、子どもに読ませる物語としては、翻訳の路線が間違っていると思う。子どもにむかって、行きつ戻りつしながら、「語る」ということを語っているんだけれど、ひとつの物語としては、飛んでしまっているわけです。

トチ:「飛んでいる」という意味が、よくわからないのだけれど……

アカシア:飛んでいるというより、ゴチャゴチャしていて、ラシュディの他の作品と違う。

:しっかりとプロットの構築がされていない、ということでしょ?

トチ:私はすごくおもしろかった。54ページまでは、たしかになかなか話に入っていけなかったけれど、主人公の男の子がバスルームでとんでもないものに出会う場面から、俄然おもしろくなりました。夜中に、自分の慣れ親しんでいるはずのバスルームや台所でとんでもないことが起こるというのは、子どもにとって本当にわくわくする物語で、私もタイトルは忘れたけれど、こういう場面が出てくる物語を子どものころ読んで、楽しかったのを覚えているわ。この物語は、いくつもの層が重なり合ってできていて、子どもの目でストーリーを追って読めばそれはそれで楽しいし、大人の目で読むと、あんなにアンハッピーな境遇にいたラシュディがこんなにハッピーな話を書いたということに感動する。小さいころにこの話を読んで楽しんだ子どもが大人になって読み返すと、昔は気づかなかった深い意味に気づく、そういう本だと思います。私自身も、また読み返してみたいと思いました。
訳については、みなさんのおっしゃるとおり、おそらく原文で字体を変えている部分をそのままゴチックにしているのでしょうが、字面が汚くて読みにくかった。作者が字体を変えている意味を訳者が汲みとって、それを訳文に生かすべきだと思うのだけれど。でも、訳者はさぞ楽しんで訳したことでしょうね。人名や地名も苦しみつつ、楽しみつつ訳している様子がうかがえました。ハリポタのロシア語訳が出たときに「人名や地名のおもしろさも魅力のひとつなのに、露語訳は英語をそのままロシア語の綴りに置き換えただけで、原作の魅力が半減している」と批評されたけれど、邦訳もそうですよね。少なくともハリポタの訳者より青山南さんのほうが何倍も丁寧に訳しているし、努力していると思う。不発に終わっているところもあるけれどね。

ねむりねずみ:原作が出た時に読んだけど、半分まででパスしてしまった。構造がわかって、それで満足、という感じだったみたい。雑誌 Books for Keeps (2000年3月号) に著者のインタビュー記事が出ていて、そこに2000年にイギリスで出版された愛蔵版の表紙と挿し絵が出ていた。これを見ると、楽しいイラストがたくさんあって、日本語版より魅力的。この本は、ドタバタがおもしろいと思う。イメージが、コラージュを見ているみたいに非現実的で、そういう世界が持つおもしろさがあると思う。表には出てきていないけれど、物語に対する作者の価値観がわかるのもおもしろかった。荒唐無稽な感じは、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』がイギリスで映画化されたときの、やたらぴかぴかきらきらしていて、すべてが非現実的なおもちゃみたいに感じたのとよく似ている。

すあま:私はあまりおもしろくなかった。途中で挫折して、また読み始めたけれど、結局最後まで読めなかった。音楽でいえば現代音楽といった感じかな。だいたい言葉遊びで生きている話っていうのは、翻訳されておもしろいものにはあまり出会ったことがないですね。それにゴチック体がうるさくて、一生懸命はいりこもうとして読んでいる時に気が散ってしまい、だんだん頭が混乱して、ついていけなくなった。イラストがあるともっとよかったかも。

ももたろう:私も最後まで読めなかった。すごくテンポが早く、登場人物が次々に出てきて、ついていけなかった。気持ちがはぐらかされてしまう、というか、お話が上滑りしている感じで、自分の心にストンと落ちてこない。やはりゴチック体には邪魔されてしまった。3分の1くらいゴチックで、すごくうるさいページもある。旅に出るところまではスローなのでまだついていけるが、そのあとはどうも……。今の子どもたちは、エキサイティングに感じて読むのかしら?

ねむりねずみ:漫画のなかでも、ラフな描き方というのがあるでしょう? 走っている足を描かずに、砂煙だけを描くとか。そういうドタバタの面白さだと思うけれど。

アサギ:私も愁童さんと全く同じ感想で、途中でわからなくなって、しょっちゅう前に戻ったり……。翻訳としては訳しにくいものだと思ったけど、ゴチックにする意味は私も全く理解できないわね。アルファベットの字体を変えるのと、日本語をゴチックにするのとでは全く意味が違うので、危険だと思う。一応最後まで読んだけど、最後まで読んだ本当の理由は、最後まで読めばこのゴチックの意味がわかるのかと思ったからなの! たとえばゴチックの部分だけつなげたら、別の文章ができるとか……。

一同:あー、それだったらおもしろいのにねー!

アサギ:でも、結局最後まで読んでもわからなかったわ。お話もおもしろくなかった。「語る」ということについての哲学はあると思ったけど。カタカナがたくさん出てくるのも、字づらとして汚くなりがちよね。視覚的にディスターブされて、はいっていけなかった。でも、とてもおもしろかった、と言う人がいるってことは、本の読み方って本当に人それぞれってことよね。子どもは何歳くらいから読むのかしら?

トチ:著者も、いろいろなレベルで読んでほしい、と言っているわね。

:大人向きに解説してくれている部分はあるけど、子どもにはわからないと思う。

愁童:この本には、送り手側の熱意の欠如をものすごく感じるな。これを本当に今の子どもに読ませたいと思うのだったら、もっとわかるように努力すべきだよ。作者のネームバリューに乗っかって出してるだけみたいな気がする。

トチ:たしかに、編集者と訳者には子どもに読ませたいという熱意は欠如しているかもしれないわね。でも、作者には絶対にあったと思う。作者のその熱意を編集者と訳者は汲み取れなかったのか、それとも無視したのか……

アカシア:物語について語っている部分も確かにあるけれど、余計な部分もたくさんあって、その部分がおもしろいと思えるかどうかは、読み手の感性に会うかどうか、ということだよね。作者というより、訳者の感性と合わないとだめっていうことかも。

ねむりねずみ:原文では、冒頭がもっと物語る人の語り口調になっているんだけど、訳文はその感じが出ていないというのはあるかもしれない。民話などによくある荒唐無稽なものでも、語り手の口を経ることによって、すっと聞き手にはいってくることがあるけど、これは訳文がそこまで達していないのかな。冒頭の部分なんか、日本語としてはやるなあ、うまいなあって思ったんだけど。

トチ:そういわれてみれば、青山さんの得意のニューヨークものみたいな感じね。

:インドの子どもたちにとっては、魚とか鳥とか、いろんなメタファーがもっと身近なのかもしれないわね。

アサギ:荒唐無稽な話でも、その中に整合性があるものは、本来私は好きなんだけどな。

アカシア:アリスだって、原文で読まなければ絶対に伝わらないものがあるじゃない、これもそういう類の話なんじゃない?

:こういうジャンルの翻訳ものの難しさなのかしらね。

愁童:お父さんがお話できなくなるのは、結局お話の海が汚れているからだ、みたいなこと言われても日本の子どもは困っちゃう。

トチ:んー……もっと重層的意味を持っているんじゃないかしら?

:もっと深いところが侵されてきているからで、原因はいろいろあって、だからおもしろかった。

アサギ:読み手の感性に合えば、本当におもしろいでしょうね。

ももたろう:もともと子どもに語ったものなので、楽しみながら語ったものに後から思想がついてきたのかな?

:いやもっとシリアスで、お父さんどうして語ることをやめないの? という問いかけに答えたものでしょ。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


筒井康隆『愛のひだりがわ』

愛のひだりがわ

ペガサス:かなり期待して読み始めました。最初のうちはリアリズムの話かと思っていたら、次々に変なことがおこって、だんだんウソっぽくなってきた。あとでこの本に関する作者のコメントを読んだら、「近未来」が舞台、と書いてあったけど、あまり近未来という感じもしないのよね。妙に昔っぽい情景などもあって。各章に、登場人物の名前をつけて、次々にいろいろな人が出てくるという構成はおもしろいと思うけど、物語全体としてはちっともうまくまとまっていない。犬姫さまになって、野犬を引き連れていくところなんかはおもしろいから、もっとそれを中心にするとかしたらよかったのに。それからすごく嫌だったのは、いとも簡単に人や犬を殺すシーンが全編を通してたくさん出てくること。しかもみんな、殺すということにさほど罪悪感をもっていないでしょ。こういうものは、どうしても子どもに薦める気になれないわね。

トチ:筒井康隆の作品は好きで片っぱしから読んだので、期待して読んだんだけど……。本というものは、作者の声が聞こえてくるものなのに、この作品からは全然聞こえてこなかった。近未来ということにつながるかもしれないけど、J文学風の香りがしたわね。

アサギ:たとえばどんな?

トチ:藤野千夜とか、『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作)とか。実感がしない世界というのかな。それから、女の子の言葉づかいが、おじいさんみたいだと思った。

一同:そうそう、古臭いよねー。

トチ:いちばんびっくりしたのはね、次郎が死ぬ時、歌子さんと一緒に主人公も泣きながら、「次郎が死んだだけでこんなに悲しいのだから、もっと親しいひとが死んだらどんなに悲しいことだろう……」なんて書いてるところ。だって、この子、前にお母さんが死んでるじゃない。作者はそのことを忘れちゃったとしか思えない。もうびっくりしたわ、ずいぶんいい加減よねえ。

:タイトルには何か抽象的な意味があるのかと思ったら、何のことはない、単に愛ちゃんの左側。たまたまこの著者のドタバタの短編集『近所迷惑』と同時に読んだので、『愛のひだりがわ』もショートショートのおもしろさとして読めば、すごくおかしいんじゃないかと思った。ショートショートのドタバタこそがこの人の持ち味だから。作者は、子どものJ文学というジャンルに挑戦したんじゃないかな。まじめな人だから、何かテーマを設定しなければいけないと考えて、「大人の世界への反逆」をテーマにしたのでは? そのテーマと、読者へのサービス精神で書いたものじゃないかと思う。だから筒井ファンにとっては、新しい試みをしたというところでおもしろいわけね。

:おもしろく読みました。前半は近未来みたいなのに、えらくやぼったい横丁が出てきたりするのもおもしろかった。皆がエゴに走って、自分たちのことは自分たちで守ろうという社会が絶対に興らないとはいえない、と感じた。主人公は、殴られたら殴ればいいわ、というように妙に淡々としているところがあるが、志津恵さんが男を捨てて出るときのセリフを聞いて、なんてやさしい人だと思うところなどに、主人公が少しずつ成長していることがわかる。

アカシア:そこはちょっと苦しくない?

:作者は志津恵さんや愛ちゃんみたいな女性が好みなんだな、と思う。

ペガサス:それは確かにあるね。

:野犬の女王になるところあたりまではおもしろいんだけど、3年たったところからは急速にまとまらなくなった感じはした。書き急いでいるみたいで。だいたいサトルが、何で新興宗教の教祖を支える子になってしまうのか、納得できないわ。

:髪が水色で、普通じゃないから、そこへ行かせなければ収拾がつかなかったんじゃない?

アカシア:筒井康隆はもっとおもしろいはずなのに、って思った。ショートショートだったら、もっと考えて書くか、短いから破綻が来ないということがあると思うけど。これはただ書いただけで、何も推敲してないんじゃないかと思う。おもしろいタネはたくさんあるのに、つながっていないから、ちっともおもしろくないのよ。それに、女の子の古臭い言葉づかいはやっぱり気になった。

トチ:昔の作品より、質は明らかに落ちているよねー。

:『わたしのグランパ』なんか、スーパー老人が出てきておもしろい作品だったな。

アカシア:ドタバタで読ませようとするのなら、もっとエネルギーが感じられてもいいはずよ。これも、いっそスーパー老人の話にすればよかったのにね。

ペガサス:これはドタバタで読ませようとしているとは思えないね。

アカシア:だから中途半端なんじゃない?

愁童:さすがに手だれの職業作家だと思うよ。今の子にどう書けば受けるかということを、きちんと押さえて書いてる。文章もしっかりしているし、スイスイと、それなりにおもしろく読めるじゃない、あとには残らないけどね。以前とりあげた『海に帰る日』をおもしろく読んだという子に出会ったけど、暴走族の出し方なんか、『海に帰る日』とよく似てる。

アカシア:暴走族が必ずしも若者に受けるとは思わないけど、ストーリー展開が早いとか、人物をあまり深く描かないということは今風かもしれない。

愁童:若者に受ける要素をしっかりつかんでいるということはあると思う。

トチ:そこがすごく嫌だったな。

アカシア:筒井ファンはこれをおもしろいと思うのかな?

トチ:思わないわよ。

ももたろう:この本はどういうコンセプトで出したんでしょうね? 帯に「マジック・リアリズム」と書いた意味は?

:マジック・リアリズムとは、現実をマジックで敢えてゆがめる作風で、アンジェラ・カーターが自分の書くジャンルのコンセプトとして初めて使った言葉ですね。

アカシア:ラテン・アメリカにはもっと前からあったんじゃない?

:帯に書いてあるのを見て、日本でもこれをやろうとしたのかと思ったら、全然違った。

アカシア:現実に不思議な要素が入ってくるものは、何でもマジック・リアリズムと称するみたいなところがあるね。

ももたろう:最後までツルツルと読めたけど、残るものがなかった。妙に古臭いところを出して、あえて時間を下げて、テクニックを使って新しいところを出すようにしたのかな? リアリズムかなと思って読んだら違って、はぐらかされた。それに長編のわりには愛ちゃんの人物像が薄っぺらいと思った。ある意味では、クールさを出したのかもしれないけれど。どういう読者にどういう思いをぶつけたいのか、中途半端。子どもの本棚には並べられないと思う。

アカシア:本の最後のページに、『トムは真夜中の庭で』『モモ』『ホビットの冒険』などの広告が載っているけど、編集部ではこれらの本と同じと思って作ったのかな?

ペガサス:それはね、最後に「あっそうか、これは岩波の本だったんだ」って気付かせるためよ。

すあま:筒井康隆は好きだったけど、この本はこの装丁がどうしてもダメで、買う気になれなかった。子どもの本には見えなくて、どちらかというと連城三紀彦とか渡辺淳一って感じ。

ねむりねずみ:作品のなかにはいりこんで感動するということはなかった。デストピアを通り過ぎていく少女のロードムービーみたい。お父さんとの再会の場面など、愛ちゃんが一方的にしゃべるだけで、やりとりになっていないし。本当に人と人とがぶつかりあう場面は出てこないみたい。ただ通り過ぎていき、横に寄り添うだけ、といった感じ。愛ちゃんが唯一ウェットな関係をもっている相手が犬なんでしょうね。それから、女の子の一人称であることを、作者が完全に忘れているところがあって、シェイクスピアがどうとか、女の子の言葉ではあり得ない部分があった。「独特のお色気があり・・・」なんて、女の子の言葉ではないでしょう? 今の時代のゆがんでいる部分をうまく配置しているとは思うけど、それ以上にはなっていない。すべてが透けて見えてしまう。上手に書いているけれど、気持ちがはいってないという感じ。

もぷしー:最後まで、これが児童ものと認識しないで読んでしまったが、認識しないときのほうが、受け入れられた気がします。ひとつひとつを作者が思いをこめて書いたにしては、伝わってこないな、と思った。過ぎ去っていく出来事の中に自分が置かれている、という今の子らしいものを書いたということなんでしょうか?

アサギ:近ごろこれほどバカバカしい本は読んだことがなかったわ。何でこんだくだらない本を書いたのか、と作者に聞きたい。

アカシア:バカバカしい、と、くだらない、は違うよ。

アサギ:両方ってこと。こんなつまんないもの! 全部が気に入らないわ。たとえば「知的な」という言葉の使い方。大学を出ているから知的だ、という表現が二箇所もあるのよ。本気で書いているのかしら。まさか、と思ったわ。信じられない!

トチ:それはね、この本を出した知的な出版社を筒井康隆が皮肉っているのかも……

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


井上ひさし『四十一番の少年』

四十一番の少年

ねむりねずみ:私の数々の引越しの中で処分されなかった、数少ない文庫本の一冊。井上ひさしでは『ブンとフン』など、ユーモラスなものを中心に一時期のめり込んで読んでいたけど、こんなものも書くのか、と一目置くきっかけになった一冊でした。淡々とした語り口だから、逆に起こっている事のすごさがこっちに迫ってきて、すごく強く印象に残る。作者の意図や作品の構造がどうとか読者に考える隙を与えない。読者が自然に入ってゆけるところが、やっぱりうまいと思いました。文学作品を読んだ、という手応えがあった。終戦後の状況を描いた話だけれど、必死に這い上がってゆくハングリーさとか、今の子が読んだらどうとらえるのかなっていうのが興味あります。これは、子ども向けに書かれたわけじゃないんでしょ?

アカシア:でも、汐文社のは「井上ひさしジュニア文学館」シリーズとして出てるのよ。

すあま:私は、J文学の無い時代に育ったから、文庫本の中から自分が読めそうなものをさがして『ブンとフン』などを読んでいたのですが、養護施設でボランティアをしていた頃に読んだ思い出深い一冊がこれです。時代は違っても共感して読めた。今の養護施設は、児童虐待の保護施設のようになっていて、本の中の養護施設とは、子どもたちのバックグラウンドがずいぶん違ってきましたよね。みなさんは、バックグラウンドが古いという印象を持ちました?

ももたろう:養護施設の状況は違うかも……でも、いじめは今でもあって、子どもの世界にも力関係がある。恐怖を感じながらも、何とか取り入って生きていこうとする姿勢なんかは、今にも通じると思う。だから、主人公利雄の気持ちに従って読めました。子ども時代の気持ちを、大人になっても体が震えるほど怖い、という形で、さかのぼって表現しているところが面白い。こういう作品から、主人公の気持ちを読み取れる読書力のある子ども読者がどこまでいるかな? 読ませてみたいな。

愁童:今回の3冊の課題の中で、いちばん文学を読んだという感じがした。時代背景が違っても、いじめの本質は昔と今で変わらないから、今の子にも結構読まれるのではないか? 子どもたちに日本語で小説を読ませるなら、こういう文章を読んで欲しいなってしみじみ思った。

アカシア:『ハルーンとお話の海』『愛のひだりがわ』vs『四十一番の少年』という構図で考えると、登場人物の内面を描くか描かないかという点で、対極的な作品だと思いました。もし、登場人物の内面を描かないで、外側のおもしろさだけで引っ張っていくのなら、それはゲームでもいいんだから、本なんか無くてもいいことになってしまう。本の未来はないでしょうね。この本の「解説」で、「ユーモア作家井上ひさしには珍しい、笑いの無いシリアス作品」というようなコメントがあったけど、それは的外れだと思った。私は、この作品に井上ひさしのユーモアの部分が随所に見られると思った。不謹慎だとは思うけど、ナザレトホームの歌とか、昌吉の未来の履歴書とかは、哀しいなかにも笑える要素がずいぶんあると思う。『愛のひだりがわ』の場合は、「作者はプロなのに子どものだからといってこんなの書いていいのか!」と思ったけど、これは逆だった。いじめについても、良いとも悪いともいわないで、今も昔も同じようにあるんだよと言うふうに扱っていて、井上ひさしはやっぱりプロだなと思った。

愁童:それを排除しようとするのが今の教育体制だけど、そんなことしても状況は変わらないよね。こんな本読んで、人間理解を深めることが先決。

アカシア:いじめは、仲良くするように努力すれば止むんだと思っているほうが悲惨。

:これを読んだ感想は、一言でいうと、面白かった。安心して読むことができました。いじめなんかも必ずあることだし、昌吉の人をうらやんでちょっと意地悪しちゃう気持ちも、切ないくらいわかる。良し悪しは別として、人の心の動きを書いているのがいいと思う。利雄が舟に乗って冒険に行くところも、本当は誘拐の手助けになっちゃうところで、良いことではないんだけど、妙におかしい。少しずらした視点で考えると、もっと大きなものが見える。これが文学なんだな、と思って読めた。

:『ハルーンとお話の海』は、何か読み取れるはずなのに読み取れなくて、肩透かしな感じだった。井上ひさしを読んで、やっと前の2作で感じたフラストレーションがおさまりました。この作品は、登場人物の内面を自分自身の内的体験をコアにして書いているところに強みがあると思う。子どもの主人公を、大人になってから自嘲的に自己省察させるという、その距離がユーモアを生んでおり、シリアスな中にも救いがある。子どもの主人公を、大人になってから自己省察させることによって、子どもというものを使った大人の小説家の手法を見た。テーマ性をしっかりもった作品で、他の二作と違って、純文学が子どもを使ってとして成功した例だと思う。ただ、母親に書いた手紙など、古臭さが感じられ、どこまで今の子の読書に耐えうるかは疑問。今の大学生でもどうかしらねえ……。

もぷしー:「作者の新しい試み」や「新しい文体」など、一種のファッション性を追求する最近のJ文学を読んでいるさなかにこれを読んで、久々に、読者が作者の意図に振り回されずに、内容だけを味わえる作品だな、と思いました。話のバックグラウンドが古いのでは?ということも、いじめなど現代に通じるテーマもあるし、それはそれで受け入れられるんじゃないかな。この本は私が生まれた年に書かれたものですが、自分が体験していないことでも、描かれている感情が今もリアルに生きていることなので、のみこめました。ただ、現代は人と人との距離がかなり離れているけれど、この作品の時代は、係わり合いになりたくない人の生活や内面まで知ってるような感じだから、人間との距離のとり方はずいぶん違っているなという感じを受けましたが。子ども時代にはかなり深刻であったろう出来事を、消化してから描かれているところに作品の余裕を感じ、子どもたちに読んで欲しいなと思いました。

トチ:みなさんと同じで、とにかくうまい、文章といいプロットといい、まさしくプロの作品だと思いました。冒頭部分など、地理的にも描写が難しいところを主人公の目の位置で描いているから、ありありと読み手の目にうつってくる。構成も、牧歌的な雰囲気ではじまり、ところどころちくっと刺のようなものはあるけれど、ユーモアもあり、ぐいぐいひきつけられていく。丸木舟の冒険で、主人公の気分も晴れ晴れとしてくるところで、一気にどん底まで落ちていく。そこの展開は、すごいと思いました。でも、子羊のように純真無垢な男の子が死んでいく場面はとてもショックで、ああ読まなければよかったと思うくらい、落ち込んでしまいました。ストーリーの上では無くてはならない場面だけれど。
もぷしーさんは、子ども時代に深刻だった事件を大人になって消化して書いているところに余裕を感じたということだけれど、私は少し違った感じを持ちました。昌吉は救えなかったのに自分はいまこうして生きているということに、主人公は子どものころには感じなかった罪の意識を覚えているのではないかしら。カソリックのことはよく知らないけれど、悪とか罪というものに対するカソリック的な考え方(感じ方)がうかがえたような気がする。曽野綾子の『天上の青』も悪と許しを書いた文学だと思うけれど、悪の描き方や感じ方が少し違っていて、そこのところも興味深かった。

ペガサス:さっき、笑いのポイントとして挙がっていた未来の履歴書のシーンでは、私は涙が出て、とても笑えなかった。胸が痛くなった。昌吉は確かにひどい子だけど、子どもの純真さと冷酷さの両方をを併せ持った子として描かれている。だから読者に「憎い」という気持ちを起こさせない。それは作者が人間愛(人間を良い悪いの2つの尺度だけで測らない)をもって昌吉像を描いてるからだと思う。大人になってから書いているからそれができたのではないか。いじめられてるさなかでは、主人公利雄は昌吉をあんなふうには温かく見られなかっただろうし。そういう点で、このお話は、人間の両面性を理解できる大人になってから読む本じゃないかと思った。

トチ:でも、人間の両面性を気にしないでいられる年齢って、今どんどん下がってきてるんじゃない?

一同:うんうん。

アサギ:井上ひさしはやっぱりうまい!って、私も思いました。でも、このお話読んでると、どんどん辛くなってくるのね。確かにユーモアは、対象との間に一定の距離が無ければ生まれないんだけれど、このお話には、かえって距離をとってユーモアにしなければ語れなかったっていう、切実な感じがある。それがこの作品に深みを与えているのね。未来の履歴書も、読んでて胸がいっぱいになった。井上ひさしのユーモア作品と演劇の作品は知ってたけど、これを読んで新たな発見をしました。ただ、いい作品だけど、読んでいてかなり辛かった。若いうちはショックを受けても跳ね返せるけど、だんだん、こういう作品は辛すぎて読みたくないって思ってしまった。

トチ:そういうショックには、子どもの方が強いんじゃないの?

アサギ:絶対強いと思う。でも子どもには、この作品の切実さは、わからなくてもいいんじゃないかしら。

アカシア:切実とはいっても、ユーモアの中にある切実さは、子どもにも通じるものがあるのでは? 「子ども」の年齢によると思うけど、中学生より上には、こういう作品も読んで欲しいと思う。ハッピーエンドでない作品もね。

トチ:私は、本を読んで落ちこんだって、ショックを受けたっていいと思うのよ。じゃなければ、本を読む意味なんてないもの。

アサギ:これは、作品が優れている分、よけい辛かったの。

アカシア:今の子は、本を読んでも、落ち込むまで感じ取れないみたい。

愁童:昔は、中学生といえばもう大人扱い。純文学でも古典でも、難しいものをたくさん読まされた。わからない文学も背伸びして読んでいたものだったけど、今の子は、等身大のものばかり読んで育っている。そもそもあまり読んでいないから、フィクションに共感して、疑似体験をするという経験が少ないし、本を読んで落ち込むこともできない。第一落ち込むような本は読まないよね。

トチ:級友の女の子の家の運転手など、ほんの少ししか出てこない人でも、描き方が非常にうまい。全ての登場人物を温かく、まあるく描いている。それだからこそ、ストーリーの切実さがよけいに増してくるのよね。

アサギ:心に残るんだけど、辛さのほうがたくさん残ってしまうのよ。それを跳ね返せるのは、若さのパワーなの。

愁童:映像ばかり見て育つと、出来上がった他人の既製イメージばかり蓄積されるわけで疑似体験には成りにくいよね。活字でそれを読んでいる子は、自分でイメージを構築しなければならないから、しんどいけど、そのプロセスが体験につながるもんね。

:いや、子どもにはもっと正常なポテンシャリティがあると思うわ。

アカシア:でも、映像だけで育ってきた子は、人間と人間の関係性がうまく結べなくなっているように思う。親子関係だけじゃなくて、他人との間にどれだけ深い関係が結べるか、っていうことが大事なのよ。そして人と人との関係って、文学から吸収できるところがたくさんある。映像文化だけでは、育ってこない力だと思う。ハリポタみたいなのばかりを読んでいると、内面を描いた文学に出会ったとき、暗いだけで面白くありませんでした、っていうことになっちゃう。本は、自分で世界を構築しなければいけないから、ある程度その力がないと楽しめない。結局、力がなくても読めるハリポタみたいな作品ばかりがもてはやされるようになってしまう。

もぷしー:出版社のほうも、たとえ本当は『四十一番の少年』のような本を出していきたくても、そういう本はなかなか読んでもらえないから、どうしてもハリポタのようなものを多く出版する傾向があると思う。映像的な本ばかり出版していたら、読書の楽しみが子どもに育たないのを助長しているようなものなのだけど……ジレンマ。

ももたろう:読書経験の少ない読者に、いきなり『四十一番の少年』を読みなさいといってもそれは無理。やはり、絵本や幼年文学からはじめて、幼い頃からの読書体験を積み重ねていかないと。

:ずっと映像だけで育ってきた子どもでも、大学に入ってから文学に開眼することもある。それからでも遅すぎるわけじゃないと思う。ポテンシャリティはあるわよ。

愁童:最近、学校での10分間読書がきちんと行われてきていて、それでだいぶ変わってきていると思う。この間見学したけれど、その10分は、大人も含めて、学校中全員しーんとして本を読んで、音が全くしない。そういうふうに一日10分何かに集中するということだけでも、何かが変わると思う。問題のある子は、その10分も耐えられないんだけどもね。でもとにかく活字に触れて、考えることが大切だと思う。それから、昔にくらべて、生徒に立って声をだして教科書を読ませるとことが減ってきているようだ。先生が、区切りのいいところで、はい次、と言うことができなくなっているんだよ。文脈と全然違うところでぶちっと切ったりする。あれじゃあ、子どもの読解力は育たないよ。先生が、本が読めなくなってきているわけだ。

ももたろう:究極的に言うと、大人が本を読むべき、ということかな。

(2002年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


小野不由美『月の影 影の海』

月の影 影の海

トチ:私は面白く読みました。オリジナリティーがあって、生き生きと描かれている。フィリップ・プルマンの〈ライラの冒険シリーズ〉はパラレルワールドから入るけど、〈十二国記〉は高校生の日常から、現実からスタートするので、中高生にも読みやすいのではないかと思いました。目新しいことが次々に出てきて、ストーリーにひかれて読みました。一国の統治者の選ばれ方が、選挙でも血筋でもなく、なんとなくダライラマの選び方に似ているところも面白かった。ただ、シリーズをずっと読んでいくと、『風の万里 黎明の空』あたりで、急につまらなくなる。同じ作者が書いたものだろうかと思うぐらい、文章に勢いが無くなるし、どういうわけかお説教くさくなる。ついに沈没してしまい、『図南の翼』は買ったけれど読んでいません。

アカシア:私も、このシリーズを次々に買ってずんずん読んでいったのだけど、途中の巻で読み続けられなくなった。文章も、なんだか急に下手になったなぁ、と思ったし。

カーコ:久しぶりに日本語の本を読みました。ハイファンタジーが苦手で、説明の細かいところは飛ばしてしまいましたが、筋としてはおもしろく、早く先が読みたいと一気に読みました。十二国の構成や階級などの詳しい説明に私は入りこめず、このように書きこんであるからおもしろいと一般の読者は感じるのか、ここまで書かなければおもしろ味がでないのだろうか、というのがよくわからず苦しかった。あと、陽子の父母が出てくる場面での二人のやり取りがステレオタイプに思え、陽子と学校の友達の会話にもひっかかりました。たとえば、宿題のプリントを友達に見せるシーン。「中嶋さんってまじめなんだねぇ」をうけて、「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」というの。十二国以外の部分、現実の世界の表現がこんなに直接的でよいのだろうかとおどろきました。

ペガサス:先入観なく読んだせいか、結構おもしろく読めました。BSでアニメになっているのを観たけど想像したとおりの感じ。主人公が陽子のほかにクラスメイトの男の子と女の子を加えた3人になっていた。普通の生活をしている子どもが異界へ行くファンタジーは、主人公が何か不満をかかえているといった必然性があるものが多いけど、この主人公の必然性はそれほど強くない。いい子に見られているということが不満といえば不満かもしれないけど、特に望まないのに選ばれてしまい、いやだいやだと思いながら引き返せないというところがおもしろい。「なぜ」ということがわからないまま、どんどん進んでいくし、つれてきたケイキという人物が消えてしまうので、ますます何がなんだかわからなくなる、それが読者を引っ張ってくれて、先へ先へと読ませるのでしょう。描写がわかりやすいから想像しやすいし読みやすかった。でも、12国全部読むのはちょっと辛いなあ。異界もの、という意味で、プルマンと一緒に取り上げたのはよかったかも。

アカシア:12の国があるから「十二国記」で、これは12の国のうちの一つの国の物語なのね。

ペガサス:すごくファンは多いみたいだけど、ストーリーが想像しやすいからかしら。

アカシア:プルマンとは質的には正反対だと思う。〈十二国記〉には新しい価値観は無いし、エンターテイメントだと思うけど、私はハリー・ポッターよりはおもしろいと思う。ハリー・ポッターを読むくらいなら、日本のファンタジーにもこんなにおもしろいものがあるのだから読んでほしい。全体に荒削りのところもあるし、文章のばらつきもあるけれど、小野さんにはストリーテラーとしての力もあるし、王様と麒麟の関係に興味がもてるし、必然性が無く選ばれると言うところも私はおもしろいと思った。インターネットで見ると、小野さんのファンのHPってたくさんあるのね。版元の講談社も〈十二国記〉のサイトを開いてるし、関連のイベントもいろいろあるみたいだし、熱烈なファンがたくさんいるのがよくわかる。

愁童:困ったなぁー。トチさんがハマってるっていうから期待して読んだのだけど、大人用(講談社文庫版)は文章がむずかしくて……。X文庫はやさしくしてあるらしいので、そっちで読めば良かったかな。ハリー・ポッター好きな人は同質なおもしろさで読めると思うけど、こっちは翻訳じゃないんだから、もうちょっと気持ちいい文章で読みたいな。劇画だと思えばOKなのだけれど。例えば、「どうしようもない」が「どうしようもできない」といった具合……。そんなにおもねなくてもと思っちゃう。ひょっとしたらハリ・ポタの方が日本語としてまともかな、なんて思ったりして。

ペガサス:「麒麟」なんて漢字で書くと格調高く見えるじゃない?

愁童:わざわざ使う必要があるのか?

アカシア:私は「麒麟」を出してきたのは、おもしろいと思ったな。ただし、全編において伝説や神話を下敷きにして考証を重ねて書いているのかというと、そうでもないみたい。何巻目かの後書きで、作者も不備がバレないか不安って書いていた。でも、アイデアを借りてきて、自由につくっちゃっても、こういうのはそれでいいんじゃないかな?

愁童:月の影が、沸き立つ海面に映ってるみたいな描写は、随分乱暴だなって思うけど……。モチーフは「千と千尋の神隠し」とよく似てる。きっかりした現実に向かい合えば、自立して行動できるというメッセージはそれなりに伝わってくるよね。今の子供達の教室の交友関係をうまく捉えていると思うし、そこを出発点にして、ファンタジーの中でしっかり成長していく女の子像は説得力はあると思う。

トチ:〈ハリー・ポッター〉より、人間の裏表が表現されているよね。主人公が出会う人物でも、動物でも、最初は敵か味方か、悪者かそうでないか、まったく分からない。親切そうにみえた小母さんが、実は主人公を売春宿に売りとばそうとしていたり……。

アカシア:〈ハリー・ポッター〉は、登場人物が紙人形みたいで裏から見るとのっぺらぼうだから、リアリティが感じられない。その点、〈十二国記〉にはリアリティがあるよね。

ペガサス:会話のやり取りにリアリティがあってうまい。〈ハリー・ポッター〉と比べても、実際にありそうな会話が多くて、こっちはおもしろい。表現の不備とか気になるところはあっても、こういうものはあまり考えずにどんどん読める。

愁童:憑依するときのヒヤッとする感じはリアリティがあっておもしろかった。でもこの世界、ファンタジーなの?

アカシア:しいていえばファンタジー的エンターテイメントじゃない? 今並んでいるネオファンタジーの範疇に入るのかな?

ねむりねずみ:最初から文章にひっかかりっぱなしで、すごい日本語だと思いました。時代がかった表現で書こうとしているのは分かるけれど、まず3ページの「目に強い酸味を感じた」というのに、え?こんな言い方したっけと思ったのが運の尽きで、それからは気になって気になって、例えば上巻の42ページの「ヒヒは〜」ではじまる文章にある「乱暴な運送」(講談社文庫版では「運搬」と変更)という言葉、こんなところで運送かあ、といった調子で、片っ端から引っかかった。あと、下巻の26ページに「ダイニングキッチン」という言葉が出てきて、このほうが今の若い人にはわかりいいのかもしれないけれど、中国風の粗末な家にダイニングキッチンはないんじゃないの?と思ったり。小難しい文章で、しかも若い人にわかるようにと考えた結果、こうなっちゃったのかなあ。

愁童:「とらまえる」なんて、平気で出てくるし……。

ねむりねずみ:私も上巻59pの「真っ暗な海で……」のところのイメージが今ひとつわからなかった。でも引っかかりながらも、先はどうなるかと気になって、そういう意味では一気に読めました。一言で言えば女の子の成長物語。箱入り娘だった主人公が、生きて行くだけでも大変な世界に行って、今まで気付かなかった自分に気付くと、そういうことなんだ、なるほど、なるほど、と思って読みました。異界に連れてこられてしまって、訳が分からないまま必死にがんばって生き延びようとする主人公の心の動きはうまくかけていると思いました。箱入りの生活から異界に入るという設定からして、随所に面白いところがあるし、ゲーム的な面白さもある。作品に勢いがあって、日本語を気にするのをやめたらすごい勢いで読めました。でも、イラストは安っぽくていやだった。大人の文庫には挿し絵がないみたいだから、そっちでで読めば良かったかな。

すあま:これはずっと以前に読んでいたのですが、読み直す時間が無くて忘れている部分もありました。図書館では、評価が高かったと記憶しています。〈十二国記〉の中ではこれが一番おもしろいと思う。王様に麒麟がついているという設定が面白かった。他の日本のファンタジーは古代に舞台を求めることが多かったけど、これは中国風なところが珍しい。作者が主人公をいじめていると言うか、女の子チックな話ではなくてハードボイルドなところが変わっていると思う。友人の中には何度も読み直す人もいるし、ホームページサイトもあってファンは多いみたい。大人版の文庫も出ているけど、私はx文庫のイラスト付で読みました。巻が進むにつれてコミカル系になっているのは、最初に力が入りすぎたのかしら。

愁童:陽子が思い迷う描写が冗長で、読むリズムが乱された。

トチ・中高生の読者は、主人公と一緒に悩んだり迷ったりしながら読むんでしょうね。中高生のそういう心の動きを、作者はよくわかって書いていると思いました。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フィリップ・プルマン『琥珀の望遠鏡』

琥珀の望遠鏡

すあま:1巻、2巻を読んでから時間がたっていて内容を忘れているせいもあり、3巻は200pくらいまでしか読めていないが、ここまでだとあまり面白くなかった。3巻に至るまでの道筋を忘れているせいかな。主人公に共感できないし、この子たちが面白くないです。1巻、2巻を読んでいる時も好きになれなかったし、世界が交錯しすぎていてパンクしそうになってしまう。1巻から2巻では世界がガラッと変わっているが、キリスト教の話に至ってからは、作者の狙いが大きすぎるためか、宗教的根元にまで持って行かれるとついて行けない。登場人物も良い人か悪い人か良く分からない。私はキャラクターを好きにならないとついて行けないし、評判になっていることに驚いているくらい。図書館では、一般書とするか児童書とするか、置き場所にも迷う本ですね。

アカシア:このシリーズは最後まで読まないと、作者が言いたいことや構築した世界が見えてこないわね。私も1巻と2巻は主人公に感情移入できなかったの。構築している物語世界には興味があったんだけど、おもしろいと思って読めなかった。でも、3巻の後半になっておもしろくなってきた。
「ホーンブック」の2001年11/12月号にプルマンが「天の共和国」というエッセイを載せているの。そこでは、プルマンはまず、「神の死」によって現代人は生きる意味や、自分と宇宙のつながりを宗教に求めるわけにはいかなくなったと言うのね。そして、宗教のかわりに「天の共和国」という概念をもちだしてきて、どこか別のところに理想の世界があるのだと考えるのではなく、今、この現実界にその共和国をつくるということが重要なのだと言うの。そして、グノーシス派やC.S.ルイスやトールキンのファンタジーなどは、どれも現実界に意味や喜びを見出すという考え方を否定することにつながるから駄目だと、批判するわけね。この「天の共和国」というのは、個々の人間がそれぞれ孤立して生きるのではなく、他の人々や自然や宇宙をかかわりを持ちながら生きる場所ってことらしいんだけど、このエッセイを読んで、私は、「ああ、プルマンはこの『天の共和国』の一つのかたちを書きたかったんだなあ」と思ったんですね。「そうか、そういうことが言いたかったのか」と。
ただね、プルマンは、「ファンタジーに書かれる登場人物は、現実界の人間の特徴を映し出していなきゃいけない」って言ってるんだけど、〈ライラの冒険〉シリーズの登場人物は、私にはあまり現実界の人間というふうには感じられなかった。とくにライラのお父さんとお母さん。ライラやウィルは、終わりの頃になって生き生きと動き出したんだけど、お父さんとお母さんは最後にライラを生かすために犠牲的になって死ぬってところだけしか実体がない。だから私は、ストーリーとしてはあんまり成功してないんじゃないかな、と思ってしまった。訳の問題もあるのかな? リアルに生き生きと浮かび上がってこない点、不満が残った。

ペガサス:1巻を読んだ時は、〈ハリー・ポッター〉よりずっとおもしろいと思いました。長い物語を丹念に書いてあるので、映画を見ているように想像することができ、全くはじめての世界を楽しめました。2巻、3巻と進むにつれて、だんだん多くのことが盛り込まれてくるし、1巻よりも登場人物も増え、場面もくるくる変わるので、ゆっくりと味わうよりも、とにかく先へ進まなきゃ、って感じになる。訳者の解説に書いてあるように、まさにジェットコースターなみの展開ですね。全巻を通して感じたこの作品の特徴は、とにかく異界・不思議世界の構築に独自性があるということ。ダイモンの存在もユニークでひきつけられる。3巻目になるとちょっと飽きてきたけどね。鎧を着たクマ、トンボを乗り回す戦士、ダイアモンド形の足を持つ生き物など、キャラクターにもオリジナリティがある。けれども、これだけ大部で評判も高い作品なので、作者プルマンはこのなかできっと何かを言おうとしているんだぞ、それがわからなきゃあ、だめなんだぞ、ってちょっとプレッシャーを感じてしまう。
それが少しわかったかな、と思ったのは、3巻の464p死の国でウィルが父親と会った場面で、父親の言う「われわれは、地上の共和国—楽園を自分の世界にきずかねばならない。われわれにはほかの場所はないからだ。」というところや、572pでライラに「神を信じるのをやめたとき、善悪を信じるのをやめたの?」と問われたメアリーが「いいえ。ただ、わたしたちの外に善の力と悪の力があると思うのをやめたのよ。そして、善と悪は、人間のおこないについていえることで、善人と悪人がいるんじゃないと信じるようになったの。」という部分で、ああこういうことが言いたいわけなんだな、ってわかってきた。善悪の区別のできないキャラクターを登場させるわけもわかった。でも、何か意味をみつけなきゃ、と思いながら読んでいくってしんどいから、あまり考えずにお話を楽しもうとしたほうがいいけどね。とにかく、たくさんの世界を体験し、果ては死の国まで連れて行かれてしまう。またいろんな切り口で人間をみせてくれる。結果的には、人間って何だろう?この世界は一体この先どうなってしまうのか?というようなことまで、考えさせられた。それは漠然としたものだったけれど、あとがきを読んで、また今紹介してもらったプルマン自身の考えを聞いて頭が整理できました。大きな作品だと思う。
不満な点は、ライラって最初は元気で魅力的だと思ったけど、だんだんそれが鼻についてきて、自己中心的で嘘つきでいやな子どもに感じられてきたのね。それは彼女のせりふの訳し方にも影響されてると思う。「〜〜だわ。」を多発しているのがすごくうるさい。

トチ:訳者は今時の女の子の話し方をよく知らないのでは? 「〜〜だわ」という話し方をするのは、おばさん世代。いまは、男の子と女の子の口調がどんどん近づいてきている。でも、微妙に違うんだわよね。

ペガサス:男の子と女の子の口調の違いがはっきりしていなし、口調のせいもあってすごく子どもじみている。3巻の最後で大人に成長するでしょ。でも成長の途中の過程があまり感じられなかったから、突然ライラがウィルに愛を告白して、なんだか唐突だと思った。こんなに長いことライラに付き合ったのにその成長がいまいち納得できないのは残念でした。ライラとウィルをアダムとイヴになぞらえているんだけれど、キリスト教を知っていないと日本の子どもたちには分からないんじゃないかしら。アダムとイヴのパロディのおもしろさが分からないんじゃないかしら。

トチ:口に赤い実をふくませるところなど「あっ、知恵の木の実!」と創世記の記述を思い浮かべ、その色の鮮やかさにこめたプルマンの心に感動もしたけれど、聖書に親しんでいない日本の子どもは分からないかもしれないわね。

ペガサス:3巻の各章にウィリアム・ブレイクやジョン・ミルトンの言葉が書かれているけど、それぞれに意味を持たせているはずで、そういうところももっと理解できれば良いのかもしれない。

アカシア:ダイヤモンド形の骨格の生き物が出てくるでしょ。こういう姿のものをプルマンが敢えて創造したところに、何か意味があるわけ? 私はその辺もよくわからなかった。

ねむりねずみ:プルマンは、パラレルワールドの作り方がすごくうまいと思う。ダイヤモンド型の骨格の生き物にしても、エデンの園を思わせるのどかさと機械的な部分がない交ぜになっていてオリジナリティがある。どこかで見たようでいて、プルマン独自の世界になっている。

トチ:ダイモンは、中近東の昔話によくでてくる守り神によく似ているわね。たとえば、魔物が悪いことばかりしているので滅ぼそうとするけれど、絶対に滅ぼせない。ところが、海のむこうの小島に魔物の守り神である鹿が住んでいることがわかる。その鹿を殺せば、魔物も滅ぼすことができる。

:私は、1巻の表紙のライラと熊の絵が気に入って期待して読み始めたのですが、ライラがいたずらっ子で『モモ』(ミヒャエル・エンデ著/大島かおり訳/岩波書店)みたいな女の子かなって思ってワクワクして読んでいったら、なんとも複雑で。登場人物も多いし。ダイモンは魂のようなものかな? ダストは何? 気配の事? 深いものがありそうだ、などと考えていると訳わからなくなってきたけど、「?」を考えない事にして読めば、今までになかった世界を面白く読めた。2巻の中くらいでウィルとグラマン博士と出会うあたりから、「?」が分かってきて面白くなってきました。キリスト教の事や聖書の事が生活の一部のようであれば、すんなりと読めるのでしょうね。急ぎ足で読んでしまったけど、もっとじっくり読むべきだと思ったし、細切れで読まずに腰を落ち着けて読まないと大切な事が読み取れないと思った。深い意味のあることがたくさんちりばめられていて、息つく間が無い感じで。もう一度読みなおしたいし、読みなおせる本だとと思います。

トチ:この作品は〈十二国記〉以上にオリジナリティあふれる世界を創造している。そのうえ、テーマが誰にも共感できるものであり、1巻から3巻までしっかり筋が通っている。オリジナリティあふれるファンタジーというだけだったら、他の作者も書いているかもしれない。テーマにしたって、たとえば評論という形だったら他の人も書いているかもしれない。でも、作者が心から言いたいこと、子ども達に伝えたいことを、こういうファンタジーを作ることで成し遂げたというのが、この作品のすごい点だと思う。死者の国から死者が別の世界へ出て、粒子となって世界に溶け込んでいくところに私は感動したけれど、これは宇宙の星の終焉の有様と似ているわよね。ひとつの星が爆発して、人も、石もなにもかも、ばらばらになって、暗い宇宙のなかでタンポポの綿毛みたいになる。やがて、それがまた結びついて、もとの星の粒子が違う結びつきをして、新しい星になる。
それから「万物に神が宿る」という日本人の考え方……というか感性にも近いものがあるわね。養老孟司さんが、「海外で『千と千尋の神隠し』が評価されたのも、唯一神の信仰が文化の土台にある国々の人にはこういう物の見方が新鮮だったからではないか」と言っていたけれど、プルマンの作品も同じような意味で新鮮だったんじゃないかしら。
以上が評価できる点だけれど、翻訳もふくめて本づくりには大いに不満があります。英語にかぎらないと思うけれど、外国語にはたとえば「お母さん」を次の文章では「ミセス・スミス」と言ってみたり、いろいろに言い換えることがあるでしょう? それをそのまま訳してしまうと、文化のギャップなどでただでさえ読みにくい翻訳物がますます読みにくくなる。翻訳者は誰でもそういうところを原作の味を損なわない程度に工夫していると思うけれど、この本ではそういう配慮がみられない。「あー、大変だったろうな」とは思うけれど、楽しんで翻訳しているとは思えないわね。もう一度、じっくり訳しなおしたものを読みたい。それから、訳者後書きで、「ハリー・ポッターを読んだ子どもがこの本を手にとってくれたら……」というようなことを書いているけれど、それはちょっと違うのでは?

アカシア:小谷真理さんもハリー・ポッターとこれを同じところで読んでいるけれど(4/6付けの読売新聞(夕刊)本よみうり堂ジュニア館)、私はこの二つの作品は異質だと思う。

:私は前の作品もまだ読んでなかったので、1巻はじっくりと読んだけど、時間がなかったせいで2巻、3巻は駆け足になりました。テーマが壮大で、構築力のある作家だと思う。まだ私のレベルでは読み切れないところがたくさんあると思うので、時間がたってから読み直せば、新しい発見や、「ああ、そうだったのか」とわかることもあると思う。マルチな文化にいた人かしら? 博学で宗教、物理、文学、中国の易、詩、と、それらを自分流に構築していてすごいと思った。作品全体を通しての印象は、以前『黄金の羅針盤』の読書会で出てきた「頭では面白いのに、心では面白くない」というのが、とてもうなずけるコメントですね。かなり難解なのに、何か読ませる力がある。何がここまで読ませるのか?と考えましたが、それは、誰もがもっている真理を求める心なのではないかと思う。普遍的な何か、真理を求める心があればこそ、神を信じる人もいれば、宇宙の神秘を探ろうとする人もいる。普段は、そんなに考えないことであっても、誰でももっている心のあり方なんだと思う。深い部分を探るような作業になるから、疲れるけれど、もっと先を知りたいという気持ちになる。この人は何が言いたいのか、この先には何があるのか、どんな宇宙観を持っているのか、そんな気持ちが強くなる。宗教的知識も体験もないけど、人を超えた存在はあると信じているし、物理学でいう「揺らぎ」とか「フラクタル現象」のようなものにも興味はある(よくはわかりませんが……)。宇宙に意思というものがあるようにも思う。でも、自分のこの作品の読み方は、頭で読む大人の読み方だなあと思う。子どもだったらどういうふうに読むんだろう。よくありがちだが、羅針盤や剣や望遠鏡などの道具を巧みに使うところは、子どもたちも楽しく読めるところだと思う。ライラが羅針盤を読むときのトランス状態の感じはおもしろい。そんな風に、宇宙の意志のようなものを感じてみたい。

ねむりねずみ:2巻目がここで取り上げられたときに、「おもしろいのは原作のおかげ、わからないのは訳のせいじゃない?」という声もあったので、かなり前に原文を読んでいたこともあり、訳を意識して読みました。原文はともかく先が楽しみで、じっくりと楽しみながら読もうと思っていたのに、ついついどうなる、どうなると、どんどん読んでしまった記憶があります。スターウォーズみたいな活劇場面が出てきたり。でも、なるほど、なるほど、とオリジナリティに感心する一方で、大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなって無理矢理終わらせたんじゃない?っていう感じがしたし、コールター夫人の行動はやはり理解できなくて、そのあたりは、訳書を読んでも変わりませんでした。
それはそれとして、今回訳書を読んでみて一番印象深かったのは、「児童文学の古典」と帯に銘打ってあるわけだけど、それをこんな訳で出したらかわいそうだ、ということでした。こんな生意気をいうのは気が引けるけれど、ほとんど直訳かと思わせるところがあるし、訳のせいでよくわからないところも多々ある。せりふもなんかしっくりこなくて、訳書の204ページで、コールター夫人が「ウィル坊っちゃま、どうするべきだと思う?」というところなんか、とてもコールター夫人の言葉とは思えない。ダイモンの言葉やウィルの言葉にも不自然なところがある。わかりにくいという点でいえば、たとえば544ページの「その道は風景の一部で、税の負担もないのだ」っていう文ですが、こんなところに唐突に税が出てくるはずがない。ここは、自然を破壊したりして作ったのではない、「ごく自然で風景にとけ込んでいる道路」の意味だと思うんです。それに、最後のライラのせりふでも、「だけどどんなにがんばたって、自分のことをまず第一にしていたのでは、絶対にできないの。」という意味だと思われるところが、「自分のことをまず第一にしていたのでは、」の部分がそっくり欠落しているので、まるで無意味な文章になってしまっている。こんなふうに訳が足を引っ張って物語世界がくっきりと浮き上がってこないので、読みにくさが倍増している。ただでさえ、厚い本なのに。でも元々の作品はやっぱりすごいと思うんです。オリジナリティーの点でも、目指すところについても。だからますます残念で……。わたしは前からキリスト教に興味があったので、なるほどなるほどという感じのところが随所にありました。逆にこの本からプルマンのキリスト教への強いこだわりを感じ、それを鏡像のようにして、ヨーロッパでいかにキリスト教が強いのかを実感させられたというところもあります。キリスト教が強いからこそこういう本が書かれるんでしょうね。死者が解放されて自然に帰るいわば輪廻のような感じも、キリスト教文化からすると新鮮なんでしょうね。ライラの両親についてですが、お父さんはあんなものだろうと思うんですが、お母さんの造形はやっぱり物足りない。プルマンって女性を書くのが苦手なのかな。母性とか、いわゆる女性的なものになると、うまく書けていないような気がします。男の人はそれなりに男っぽく書けているのに。それにしても、ダイヤモンド形の生き物はイメージしにくい。確かに原作にもそう書いてあるけれど、訳の段階で読者にもっと親切にしてもいいんじゃないかな。

ペガサス:115pのメアリーのそばにすさまじい音で落ちてきた物体のことだけど、直径1メートルほどの丸い物体で、「……地面をころがりづづけ、とまり、横ざまに倒れた。」と書いてあるから、巨大な円盤状のものを想像するけど、これを見たメアリーが「これってなんなの?種子のさや?」って言うの。どうしても「さや」っていうイメージではないと思うけど?

アカシア:訳者は、3巻まで読んで全体像をつかんでから訳しているわけではないから、きっと大変だったと思うのね。途中の段階では、きっと頭の中にいろいろな疑問がわいてたんじゃないかな?

トチ:汗をかきながらやっている気がする。プルマンは「この本は賢い人に読んでほしい。愚かな人でなく。こんなことを私がいうと、また誤解されるけれど、世の中には賢い人と愚かな人がいるといっているわけではないのです。人間の頭の中には賢い部分と愚かな部分があるけれど、その賢い部分で読んでもらいたいという意味です」とAchuka のインタビューで言っているけれど、脳に賢い部分が少なくなった私には、妙に納得できる言葉でした。分かりやすい本だけでなく、格闘するような本が読みたい。子どもたちにもそういう本を読んでもらいたい。賢い部分で読む本を読みたいと思っている子どもも、世の中にはけっこういるんじゃないかしら。
*なお〈ライラの冒険シリーズ〉については、『黄金の羅針盤』を2000年2月、『神秘の短剣』を2000年10月の「言いたい放題」で取り上げています。

(2002年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


藤野千夜『ルート225』

ルート225

ねむりねずみ:『ぶらんこ乗り』(いしいしんじ作 理論社)と似てるなあって思いました。最初の一人称のしゃべり方で、ガガガってひっかかっちゃった。今風というのはこういうのかもしれないけれど、好きじゃない。とりとめがなくて、宙に放り投げられたような感じで。今を生きていくっていうのはこういう感じなんだろう、うまくそれが出てるな、とは思うけれど、書いてどうなるんだろうとも思った。両親がいなくても何となく生きていけちゃうという感じが今風なんだろうな。弟がいじめられているとか問題はあるのに、なんだか迫ってくるところがない。物書きとしてはすごく力があるのだろうけれど・・・。

ペガサス:はーっ(ため息)。3分の2くらいまではおもしろく読んだのね。現代に生きる子どもたちが、実態のない生活観というのをもっているというのを書きたかったのかなと思う。猫の死体を車がひいたんだけど両親に問いただしても答えは得られない、吉牛(牛丼の「吉野家」)の前に戻ろうとするんだけど戻れないというあたり、今の暮らしの中には、なんかへんだぞと思う瞬間があって、そういう雰囲気を書きたかったのかな。自分が本当に感じたことと、実際に起こったことのずれを書くために、最初のエピソードを出したのかも。ただ、そうなのかなと思うことはあっても、そうなんだよねと思うところはなかった。今の子の、何をしてもうざったいという感じはよく書けてる。小道具も今のもので、固有名詞をちりばめているから、今の子たちにはすっと読めるようになっている。切れ切れの感覚はよく書けてるけど、羅列にとどまっている。途中でABA´と3つの世界が出てきて、どう差があるのかなと考えて読むんだけど、クマノイさんみたいに差がある人もいれば、塾の先生みたいに差がない人物像もある。だから、混乱してしまうときもあった。結局3つの世界をどうやって決着をつけるのかな、ということになるけど、はたして辻褄の合う決着が得られたのか? でも、わけがわからなくてもいいのかな、というふうには思いました。今の子の追体験をした物語だと思います。

アカシア:作者は、性同一性障害を抱えた人ですよね。世間のスタンダードと自分のスタンダードのずれを、ふつうの人より感じていて、それを書きたかったんじゃないかな? 全編を通じて、不安定な感じが読者にも伝わってくる。それに、3つの世界の差があるのは、お父さんとお母さんとクマノイさんだけなんですよね。お父さんとお母さんが死んでいるんだ、と解釈すると、この作品の構造はすっきりわかるような気がしました。両親が亡くなっていると考えると、主人公の頭の中でだんだん想像の世界が薄れていって現実を受け入れる方向に進んでいくんだってことが、わかるでしょ。

ペガサス:そっか、だから写真にうすく写るんだ。

トチ:最後の1行を読んだら、それがわかって悲しくなったけれど、たしかにわかりにくいよね。

アカシア:会話は、今の中学生の会話になっているんだと思うんだけど、p117のダイゴの「失敬だなァ」っていうのは使わないよなと思いました。あと、この子たちが通っている私立の学校は、学生帽をかぶらなければならないくらい校則が厳しいとすれば、ナイキのスニーカーなんか通学に履けないんじゃないのかな? リアリティということでは、そのあたりひっかかったんだけど。題名の『ルート225』って、どういう意味? 国道は出てくるけど。

:私はね、うそー、なんでこれで終わるのかよー、と思いました。でも、子どもの本を読むのは能力がいるんじゃないか、もう私は読めない体質になったんじゃないかとも感じました。会話にいちいちひっかかったりして、読みづらかった。両親が死んだとは思っていなかったので、それを聞いたらストンときちゃった。でも、気持ちがおさまらないので、芥川賞をとった『夏の約束』(藤野千夜作 講談社)を読んだら、そっちは現実逃避の話ではなくて、私たちはこっち側しか見えてないんだけど、向こう側も見えるっていう中間の感覚を書いてるのかなと思いました。p280の「この世界の東京じゃなくてもとの世界の東京のことだけど、どちらにしろ離れてしまうと、その境界はじょじょにあいまいになって、今ではどっちも同じように、ぼんやりとなつかしい場所のような気もする。」という部分を読んだときは、その感覚がわかるような気がした。

もぷしー:この本は、理屈や常識でわかろうとして読んじゃいけないんだなと思いました。最後には元の世界に戻ってくるんだろうと思いながら読んだら、肩すかしをくらいました。そもそも、二人の姉弟に、現実に戻りたいという切迫した気持ちがないような気がする。基本的には、現実に戻ろうとしていると思うんだけど、なんで戻りたいのかは書かれてない。テレカがなくなれば、それはそれであって、本当に戻らなくちゃいけない切迫感はない。今の現実を本当は受け入れたくなくて、考えないようにしていたら、ほかの世界に行ってしまった話なのかなと思いました。弟のダイゴも、自分と世間とのずれを感じてるんだけど、いじめでもなんでも、なかったことにしようとバリアをはっているうちに、現実とか本当のことへのこだわりがなくなってきてしまったんじゃないかな。この話の、パラレルワールドの世界は、二人が現実のところからずれてしまって、でも真実の世界もうっすらと見えているようすを描いているのかと思いました。

紙魚:私は、なにしろ会話がうまいなあと惚れ惚れしました。先月『海に帰る日』(小池潤作 理論社)を読んだときは、こんな言い方するかな? なんてところが、ところどころあったけど、この人の会話には、そういうところがひとつもない。単に語尾なんかの問題ではなくて、ディテールはもちろん、やり取りや間合いが小気味いい。実際の会話って、説明とかどんどんとばして、お互いがわかっていれば飛躍していきますよね。でも、小説ってついつい説明過多になっちゃう。でも、これほんとに、そうそう、そうなのよーって、リズムが心地よかったです。物語としては、これまでの藤野さんの作品の方がおもしろかったけど、『ぶらんこ乗り』みたいに、筋を追うだけが必ずしも本じゃないとも思います。そういった意味では、成功していると思う。

すあま:『ルート225』のタイトルは、数学の√(ルート)だということに読んだ後で気づいた。章タイトルにある「ルート169」、13歳からはじまっていて、最後は「ルート225」で15歳、という意味がわかったら、この本についてはもう気がすんだ。会話の感じは、テンポもいいし、ちょっと前でいうと、吉本ばななというところかな。最後どうなるかを知りたくて読んでいったけど、女の子の気持ちに深みがなくて、気持ちにそえなかった。悩みもさらっとしているし、違う世界に行っても解決するわけでもない。必死さも今一つ伝わってこない。

:テーマは「ずれ」だなと思ったんですよね。現実とのずれ、両親とのずれ、ずれのモチーフをいろいろなところにもってきていて、究極的なずれは、あの世とこの世だったんだなと気づいたんですね。ただ、私はリアリティが感じられなかった。不安定さにリアリティがなくて、感覚的な部分と構成が合致しなくて、外枠と内容物がうまくかみあっていない。ふりまわされて疲れました。会話が物語をつくっているようには見えるけど、物語がおもしろくない。タイトルは、すあまさんの説明をきいて納得しました。

ブラックペッパー:不思議感あふれる作品でした。「理解されること」を重要視していないのかな。わからない人にはわかってもらわなくてもいいというのも、それはそれで好きになることはあるけど、この物語の場合は、どういう仕掛けだったのか知りたくて読んでたのに、私は両親が死んでしまったとは思わなかったので、結局どういうことだったのかわからなくてザンネン。でも、全体の空気は、とってもよかった。たいへんな事態なのにさめさめだったり、会話なんかも今の時代の人はまさにこういう感じ。このあいだの『海に帰る日』は無理してる感じがあったけど、これはナチュラル。藤野さんは、こういうの上手だなあ。このユルーイ感じ、好き。

トチ:わたしも会話はうまいなあと思いました。こういう会話が書ける人って、耳がいい作家だと思う。ただ、これだけのページを費やして書く内容かなあという気もしました。それに、たとえば『吉牛』とか今時の言葉をたくさん使っているけれど、こういう言葉って、あっという間に古くなってしまうのよね。子どもの本はベストセラーよりロングセラーってよくいわれるでしょ。作者は別に子どもの本って意識して書いていない、読みつがれていってほしいなんて思っていないのかもしれないけれど。『ぶらんこ乗り』もそうだったけれど、このごろの理論社の創作ものには、「別に分からなければ分からなくてもいいですよ。好きな人だけ読んでくれればいいですよ」って言われているような気になってしまうんだけど……。

アカシア:以前理論社を創立した小宮山量平さんのお話をうかがったことがあるんだけど、彼は、理論社は必ずしも完璧に仕上がった作品ばかりでなく、これは見所があるとか、この作家は将来性があるっていう視点で本を出版するんだって、おっしゃってましたよ。

ねむりねずみ:すみません、さっき開口一番さんざん批判しておいて寝返るみたいで気が引けるんですが、さっきの、この作品は両親が死んじゃったことを受け入れようとしている子どもの話だというご意見で、目から鱗が落ちました。そう思って見直すと、すべてがあるべきところに見事にはまるんですね。見事にはまるし、作品としての迫力もすごい。非常に近しい人の死を受け入れられずに、すべての事柄を薄い膜を通してしか感じられないでいる人間から見たこの世という感じがよく書けている。この長さがあって、しかも構造もなんだかがたがたしているからこそ、そういう人間の気持ちがきちっと表現できている。そういう意味で必然的。短編ではこういう風には表現できないと思います。野心的だし、なかなかない作品。もっとも、読むほうは疲れるけれど。

ペガサス:ビニール傘を広げるときの感覚とか、ありきたりの日常の描写が、すごくうまいよね。ただね、男の子っていうものを、手にびっしり毛がはえてくるとかって表現するところは、ちょっとげっとなっちゃった。

:私も、性同一性障害を抱えた作家だというのを聞いて、描こうとしていることがわかったような気がしました。

紙魚:いやいや。そういうところを知らなかったとしても、この作品世界はわかると思いますよ。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローズマリ・サトクリフ『辺境のオオカミ』

辺境のオオカミ

:これまでの猪熊先生の訳は非常に読みにくかったけれど、ずいぶんこなれてきたように感じましたね。3部作の続きだからと4作目も出したんだろうけど、やはり古いですね。訳文だけじゃなくて、アル—ジョン、暗喩、象徴性を使って、読者を成長させようとしているんだろうけど、今の読者にはこのスタイルはもう無理だと思う。サトクリフは、運命の不条理に立ち向かっていかなければならないという重いテーマを掲げてる。主人公をとりまく登場人物も不条理を抱いている。だから、啓示の瞬間をあたえるんですね。欲しても自分の力で得られないときに、啓示の瞬間をあたえて、道がひらけるという展開なんだけれども、物語からいくと、単に唐突にうつるんじゃないかな。ある人生観をもっていない読者にとっては、納得がいき辻褄が合うという運びになっていないんじゃないかと思いました。男の世界を書きながらも女を入れていくんだけど、今の中高生には、この男の世界は響かないと思うし、サトクリフが手渡したい読者とつながっていないんじゃないかと思いました。

紙魚:なにしろ読みにくかった。私はこれは修行だと思って読んだくらいです。おもしろいのはどこなんだろう?って考えながら読んで、なかなか見つからないので、不安になったくらい。長老に会いに行くところはちょっとわくわくしたんだけど、あとは読み進むのがつらかったです。もう、自分は、こういうものが読めない新しい世代なのかも、と思ってしまった。でも、読者が子どもっていうことを考えると、とくに子どもの頃って、本を理解できないと本が悪いのではなく自分が悪いと思ってしまう。そういう気持ちにさせてしまったら悲しいな。

もぷしー:私も、難しいというのと、全体の重い印象で、入っていけなかった。

:私は、こういう物語は割合好きなんですよ。だけどね、私が知っている限りの子どものなかでは、この本を薦めたい子はいないなと思って、これは私が読む本だな、と決めました。私はおもしろく読んだんですよ。長老にあいさつに行くところとか、クーノリンクスとの付き合いが深まって砦を守っていくところなんか、おもしろく読んだ。映画を観るように、情景を頭の中でつくりだしていくのは、おもしろかった。映画『ベンハ—』を観たときの感じで。まあ、これはひいき目もあるんですけどね。

アカシア:歴史小説って、日本の子どもに手渡すのが難しいな、といつも思うのね。これは4世紀くらいの話で、私たち日本人は、ローマ帝国については習うけど、そのとき辺境がどんなだったかは世界史でも習わない。だから舞台を思い浮かべるのが難しくて、日本の子どもたちには状況がよくわからないと思うんです。ストーリーの中心は、主人公がローマ帝国からつかわされて、族長の息子と仲良くなるんだけど、仲良くなった人を殺さなければならない運命になってしまう、というところかと思うんだけど、それがうまく浮かび上がらない。ストーリーそのものがドラマティックじゃないのかもしれないけど、日本語版の作り方にも問題があるかもしれない。編集者の手が全然入っていないように思える。翻訳者は物語の世界に入りこんでいるから客観的な目で見れば不足だったり、おかしかったりという点も当然出てきます。それを指摘して読みやすくしていったり、ある場合には日本の読者にもわかるように補足したりするのが、編集者の役目でしょ。
たとえばp57「わしは軍団をあげて怒りを示したんだ。おしまいな」って、「おしまいな」というのはどういう意味? 誤植? p98「族長は入り日の向こうに行くらしいな」ってあるけど、この表現で死をほのめかしているのは、今の子どもにはわからないと思う。「フィナンは正しかった」「そしてクーノリクスはそれを知っていたのだ」っていうところも、よくわからない。しかも、「『おれたちのおやじさんだ!』足が地面につくかつかないうちに彼は喘ぎながらいった」ってあるけど、「死んだのはおれたちの親父だ」っていうことがちゃんとわかるように訳してほしかった。原文でも、状況がとんでいたり、説明的な部分は省いてあったりするんでしょうけど、そのままだと日本の読者には物語の流れがわかりにくくなっちゃう。p156の「ご指摘になりましたように、カステッルムの砦と第三部隊とはわたくしの指揮下にございます。司令長官殿がわたくしを解任なさろうと思われるのでしたら、ここで、司令官としての決断を下さねばなりません。それが誤っていたということが証拠だてられましたら、その後でご処分ください。」っていう部分も、p238「『〜後方から襲いかかる。もしも奴らの馬を逃すことができればもっといい.』森林地帯での戦闘は馬上では不可能だったから、敵にとっても味方にとっても好都合なのだった」という部分も、状況がつかみにくかった。p239の、兵士が矢を放つ状況もわかりにくい。p250には、「隠れ家」という言葉がはじめて出てくるんだけど、これが何を示しているのかとまどってしまう。最後の方は、もうわからなくてもいいや、と思って読んでました。裕さんは、ほかのサトクリフの作品より訳がいいとおっしゃってましたが、私はサトクリフの本の中では、いちばんわかりにくいと思いました。

ウガ:ぼくも、こんなに読みにくい本はたぶん初めてだと思う。しかも斜めに読んでも、筋がわかってしまう。これは小学生上級と書かれているのに、注釈もないのでびっくりした。『ルート225』を読んだときと、まったく別の方向の違和感を感じました。

すあま:私は、サトクリフの作品の中で自分が好きだったのはローマンブリテンものではなくて、『太陽の戦士』(猪熊葉子訳 岩波書店) とかその他のものだったことにあらためて気づいた。図書館員の友だちに聞いても、この作品は評判がいまひとつ。原書で読んだ人は、原書の方がおもしろかったと言っていた。急いで読んだので、わかりにくいところはすっとばして読んだんだけど、私は伏線をはっていたものが後で出てきたりするのが好きなので、そういう部分はおもしろかった。最後の読後感もよく、救いがあるのがいいんですよね。でも、主人公が、自分で復讐するわけでもないし、少年から大人へ成長する物語でもない。作者が書こうと思っているものが、もともとおもしろいものではないのでは? 本人の葛藤も、他の本ほど描かれていないし、友情が生まれるところも、目と目が合うぐらいで、あまり物語がないですよね。あまりにも絆が簡単にできすぎる。主人公の大変さや悩みが感じられないのが物足りなかった。

ペガサス:私はサトクリフはものすごく好きだったんですね。『運命の騎士』(猪熊葉子訳 岩波書店)や『太陽の戦士』とかおもしろくて、訳も気にならずに読んでました。歴史的舞台はわからなくても、物語がおもしろければ読める。これまでのものがおもしろかったのは、初めから主人公に同化して読めるし、これまでの作品の主人公は、何かハンディや劣等感があったりして、それを克服して自分のアイデンティティを確立するという成長物語というところが読者にもついて行きやすかったんだけど、この『辺境のオオカミ』は、主人公がどうしたいのかがわからない。たとえば、『運命の騎士』の冒頭は「名前はランダル〜」と始まって、すぐにランダルのことがわかって、ひきずられていく。だけど、この作品は、主人公のことがなかなかわからない。かなり読まないと、頭がいいのか悪いのか、前向きなのか後ろ向きなのか、わからない。唯一この主人公の人間性を感じたのは、若い兵士が内緒で猫を飼っていて、その猫にミルクを与える方法を教えるところ、あそこはすごく人間的で、この主人公に心を寄せることができる。でもそれ以外には、そういうところが少ない。挿絵もないし注釈もない。ひじょうに難しい。この本は、難しいけど、サトクリフがお好きな人だけお読みなさい、と言っている気がする。

ブラックペッパー:1か月くらいたったドイツパンのような本でした。持ったときずっしり重くて、かたくて、キャラウェイシードなんかが入ってていい匂いがするから食べたいなと思うんだけど、食べてみたら堅すぎてあごが痛くなっちゃったという感じ。読み始めて、すぐわかんなくなっちゃって、あら、と思ってまた最初から読みはじめても、ちょっと中断すると、またすぐわからなくなって、最初の方結局4回くらい読んだんだけど、p76までしか読めなかった。ふつう、わからなくても力技で読んじゃうんだけど、軽薄なのに慣れた読者にとってこの本はムズカシイ。藤野さんのは空気だけでおいしいという感じなんだけど、こちらはしっかり噛まないとわからないという本。

トチ:文体が問題なのかしら?

ペガサス:感覚的にわかるっていうろところが一切ないもの。

トチ:ストーリーがおもしろくないっていうことかしらね。

ねむりねずみ:私はすごく懐かしい感じで読みました。このところ、一人称で感覚的なものばかり読んでいたから、こういう情景描写を積み重ねていくのは久しぶりでクラシックな印象。でも、最初のページで日本語にひっかかって、p30くらいまで行って、しょうがない、もう引っかかるのはやめようと決めてからですね、どんどん読み進めたのは。情景描写自体はすごいなって思うんだけど、いかんせん日本語に引っかかったものだから・・・。前半はほとんど事件らしい事件もなくてちょっとだれたけれど、撤退しなくちゃというあたりからスリリングになり、後半は懐かしの時代物という感じ、映画を見ているような感じで読めました。たぶん、生きていくこと自体が大変で、うろうろと悩んでいられない人間達の活劇の爽快さみたいなものなんだろうけれど。でも一方で、後半に出てくる「自分の命を犠牲にしてでも全体のために奉仕する」なんていう動きは、今の私たちにはぴんとこないなあと思ったり。それと、ハドリアヌスの城壁(イングランド北部にローマ教皇ハドリアヌスが設けた城壁)や舞台となったあたりを知っていると、今の風景とここに書かれている風景をダブらせてタイムトリップする楽しさがあるけれど、日本の子どもにはそういう楽しみ方はできない。そういう意味で、読者となるのはどういう人たちなんだろう? 今の社会状況の中で、活劇のおもしろさを出すにはどういうドラマ作りをすればいいんだろう? と、ふと考えちゃった。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかはすかっとしているけれど。

アカシア:この作品にあらわれている価値観って、男性支配社会の価値観そのままだと思うんだけど。

ねむりねずみ:そうなんですよね。このドラマだって、要するに勝手に侵略してきた連中が撤退しているというだけの話だし。

アカシア:男の潔さだとか、決断とか、昔ながらのものを持ってきているという気もしましたね。

:サトクリフの帝国主義的な価値観も古いですよね。

トチ:過去の物語を書くと、嘘になりやすいし、今の人たちに受けいられないというのもあるし。

ねむりねずみ:地元民を主人公にすれば、そのあたりは変わるのかな。

トチ:やっぱり1ページ目の「膝に頬杖をついて頭を抱えている」っていう描写でつまづいた。「色の浅黒い若者」がアレクシオス・フラビウス・アクイラと同一人物だとわかりにくかったし、物語にも入り込めない。歴史ものを日本で出すときには、登場人物の紹介くらいはあってもよかったと思う。ほかにも百人隊長とかいろいろ混乱してきちゃって、おとなでも難しいのに子どもにはもっとわからないんじゃない。

アカシア:後書きでもローマンブリテン4部作はこれで完結と言っているんだけど、オビ以外その4部作が何をさすのか書いてないのも不親切ね。オビはなくなったり、図書館ではとっちゃったりするでしょ。それに、できればシリーズの他の巻のあらすじくらいは書いておいてほしかった。

:たしかに、そこはほんとに不親切ね。

トチ:初めてローマンブリテンものを手に取る人は、きっと読者として想定されていなかったのね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ベバリイ・クリアリー『ラモーナ、八歳になる』

ラモーナ、八歳になる

すあま:この作者はこんなに時間をかけてシリーズを書いていたのだと驚きました。主人公も、ヘンリー君からラモーナに変わっていき、時代に合わせて書いているんですよね。お父さんが失業しているとか。ラモーナにくっついて読めたので、おもしろかった。8歳の子どもの失敗とか、ひとつひとつのエピソードが、なつかしいような、自分の当時の気持ちがよみがえるような思いで読めました。今の子が読んでもおもしろいんじゃないかな。ラモーナがいらいらしたり、悲しかったりしている気持ちもよくわかった。ラモーナが預けられている先で、どうしようもない子ウィラジーンの相手をするけれど、ラモーナ自身もそうだったことが読者にわかるとおもしろい。ラモーナがはちゃめちゃだった小さい頃がなつかしい気がする。

ペガサス:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きで、子どもの気持ちをよく書いているって毎回感心する。『ビーザスといたずらラモ—ナ』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学研)では、ラモ—ナがはちゃめちゃで、極端に書かれていて、すごくおもしろかった。それに比べるとラモーナも少し小粒になってしまったのかな。昔は、『ビーザスといたずらラモ—ナ』は3、4年生によく読まれたけど、今の子どもたちには、これでも字が小さくて、読めないのかな。でも、絵も昔のほうがいいのよね。今回は、ビーザスの気持ちが出てこなかったのも物足りなかったし、これだけ読んで、ラモ—ナが魅力的にうつるかどうかは心配。それから、お母さんの言葉づかいで、「帰ってらしたわ」「車なしではやっていけませんもの」などの言い方は、今は言わないことばだよね。

ブラックペッパー:私は「ヘンリーくん」シリーズは、ぽつぽつとしか読んでこなかったんですけど、この本はとってもよかったです。トラブルはあっても幸せな感じが底にずっと流れていて、安心感がある。p7の「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」というフレーズが好き。アメリカンテイストもいいし、ラモ—ナのそのときどきの気持ちもわかるので、「そうそう、こういうのが好きなのよね」と思いながら読みました。でも、これ、小粒になったという感じなんですか?

すあま:日常生活をていねいに書いてはいるんだけど、前の作品ではもっとはちゃめちゃな事件が起こってたよね。

ねむりねずみ:悲しいことも嬉しいことも全部、ああ、あったあったと思いながら読みました。根底に、子どもらしく育っている子の安心感ていうのか、安定感がある。そのほんわりした感じが心地いいんですね。最後に、家族が喧嘩した後に見ず知らずのおじいさんがご馳走してくれるなんていうのも、あり得ない話ではあるけれど、やっぱりなんとなく心和んでいいよね、という感じ。今時の子どもを描いた本って、シリアスな社会問題の暗い影が覆いかぶさっていたりするんだけど、読者を元気にしてくれるこういう本っていいなあ。これからを生きていく子どもたちにとって、こういう本がほんとうに大事だと思う。今回の3冊の中では、文章もいちばんぴったり来て、楽しく読めました。

アサギ:ラモ—ナと同じ年頃の子が読んでも、共感すると思うほのぼのとしたいい本ね。現実よりも美化されているとは思うけど、こういうのはいいと思う。全体のトーンはいいのだけれど、ただ訳語はイージーだと思ったわ。たとえば、p6の「お姉さんは実際以上に年上であるかのように」って、8歳の子が読む文章かなと思うし、p7の「正確さを要求する年齢」っていうのも、8歳の子がぜったいに言わない言い回し。

ブラックペッパー:8歳の子が自分で言う言葉ににそういうボキャブラリーはないと思うけど、小さいときってそんな気持ちがたしかにあった。それを言語化して代弁してもらったという喜びがあるんじゃない。

トチ:しかも、わざわざかたい言葉を使ったユーモアなのよね。

すあま:私も、わざわざ大げさに書いているんだと思った。訳が下手で直訳にしているのではなく、雰囲気を伝えるために、わざとこういう表現にしているのでは。

アカシア:私は、この本の読者対象は8歳よりも、もうちょっと上なんだと思う。松岡さんは、小さい子どもたちとしょっちゅう接しているから、そのへんのことはよくわかって訳していると思うな。

アサギ:私はね、p57の「片目のすみから」っていう表現も気になったんだけど、そんなことできるかしら。

アカシア:松岡さんの訳は、全部子どもにわかるようにするっていうより、わからないところは飛ばして読んで、後で「これどういうこと」って大人にきいてもいい、っていうスタンスなんじゃないかしら。ちょっと難しい言葉がわざと入っている。でも、それがユーモアにもつながっている。

紙魚:私もとっても気分よく読みました。さっきブラックペッパーさんが指摘した「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」っていうところが、私もいちばん好き。たとえば、小さいときって年齢きかれたりして、隣の姉が「もうすぐ5歳です」とか勝手に答えちゃったりすると、「ちがう! まだ4歳だもん!」なんて、へんなところに妙にこだわったりして、逐一そんな感じだった。大人になると、まーだいたいそんな感じって、許容量が大きくなるけど、子どものときの、あの正確さを忘れないでいる作者はいいなあと思いました。p12の新しい消しゴムの描写とか、p24のその消しゴムがなくなっちゃったときのラモ—ナの気分、p161の「ラモ—ナはもう章のついた本が読めるのですから」なんていうところもいいですよね。なんといっても、p74のホェーリー先生の「見せびらかし屋」「やっかいな子」という言葉に傷つくラモ—ナの気持ちなんて、本当にこちらまで痛くなるくらい。子どものときの感覚をきっちりと持っているか、子どもをじっくりと見ている人だと思いました。

もぷしー:大人になると、問題を解決をしないことに慣れていきますよね。でも、小さいラモ—ナは、ひとつひとつ確認しながらクリアしていく。ラモ—ナが成長しているというのがわかって、気持ちいい作品だと思いました。吐いちゃったりして、先生に悪く言われたのを、大きくとらえているのもいい。子どものときに持つ感覚がきちんと再現されていて、子ども読者も共感しやすいと思う。

トチ:ここはいかにもアメリカ的ね。

:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きだったんですが、今回も、この8歳の子の気持ちになれました。「見せびらかし屋」で「やっかいな子」と言われて、つらくなる気持ちがよくわかって、しかも病気になって、ただ、お母さんがやさしくしてくれるのはうれしくて。どの場面にも、気持ちをよせて読むことができました。たいへんなことがあっても、安心できる、子どもに向いた物語はいいなあと思いましたね。物語がおもしろいから、訳は気にならなかったです。前にね、図書館で乱丁本をみつけて貸し出し記録を見てみたら、ずらーりと名前が書かれてあって、何人もの子が読んだ本だったんですね。そのとき、ああ、子どもの力ってすごいなと思ったんだけど、そのときの原点にたちかえったような気分です。

アカシア:これまでのラモ—ナ・シリーズは、ああ自分もそうだったなあと思えて、ラモーナに同化しながら読んでたんですけど、今回は、ラモ—ナはなんて自己中心的なんだ、と思っちゃった。以前の作品でビーザスがラモ—ナにあんなに我慢してたのに、この作品でビーザスと同じ立場になったラモ—ナは、ウィラジーンにとってもいらいらしてる。先生の言葉だって、よく考えればわかることなのにね。子どもって、とっても自己中心的な存在なのよね。そこが、とってもうまく書けてるし、だからこそ、その自己中心的なラモ—ナを包みこんでいるお父さんとお母さんの偉さに、今回は感動しちゃった。親たるものこうでなくちゃ、と遅まきながら思いました。それからクリアリーという人は、3年生くらいまで文字が読めなかったらしいのね。学校でつまらない本ばかり読まされてたのが、風邪で休んでいたときに、おもしろいと思える本に出会って、突然読めるようになったんだって。この本の中にも、つまらない本への言及があって、なるほどと思った。つまらない本を子どもにあたえても、読めるようにも、本好きにもならないのよね。

アサギ:作者が子どもの気持ちをわかっているってみなさん言ったけど、ほんとうにそうね。私はこれを読んで親として反省するところがあったわ。下の子が3年生のときに、誕生日会に呼ばれたことがあるのよ。20人以上招待されてたの。そのときの招待状に、「プレゼントは持ってこないように」とはっきり書いてあったもんだから、私、うのみにして子どもに何も持たせなかったのね。そしたら、うちの子以外、全員がプレゼント持ってきたんですって。それを聞いたとき、私は「呆れた! 20人からプレゼントをもらうなんて、第一その子にとってよくないのに」と思ったのだけど、これを読んで、うちの子はやはり傷ついただろうなって、今さらのようにかわいそうに思いました。

ウガ:ぼくも傷つきやすい子だったので、子どものとき読んでたら、ショックでたちなおれないっていうのが、よくわかったと思います。卵が割れちゃうところなんかきっと。つまらない本への言及もありましたが、子どものときって、読まなければいけないっている義務感もあったんですよね。

アカシア:私なんて、子どもに生卵持たせちゃう可能性あるなー。

ペガサス:ラモ—ナは、大人は理不尽なことをするってこと、わかってるのよね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


グロリア・ウィーラン『家なき鳥』

家なき鳥

トチ:なによりテーマがおもしろいし、明るく、さわやかな感じがして、気持ちよく読めました。この明るさが『家なき鳥』のなによりの特徴だと思ったし、訳者後書きにもそう書いてある。角田光代さんが朝日新聞の書評で、この本の明るさは主人公の自尊心から来るものだといっていましたが、なるほどと思った。ただ、その明るさにある種の違和感を覚えたのも確か。時々、『大草原の小さな家』のローラが、インドに放り込まれたような感じさえして・・・インドの大地から立ち上ってくる匂いとか、湿気とか、熱気のようなものが、さわやかな風で吹き飛ばされてしまったような感じ。原文は、明るい散文詩のように書かれているのかしら。この本も、『炎の秘密』も、違う国の人が書いた異国の話。そういうものって、読むときにどうしても猜疑心を持ってしまうのよね。本当にその国のことが書けているの? なにかバイアスがかかっているんじゃないの? って。この本の場合、明るさがかえってマイナスになっているんじゃないのかな・・・っていう気がちょっとしました。

アカシア:明るさがマイナスっていうのは?

トチ:こんなに明るくていいの、ちょっと能天気なんじゃないの・・・と、ついつい疑ってしまうということ。

紙魚:私はその明るいのがいいなあと思いました。どんな厳しい状況でも、子どもは楽しいこと、幸せなこと、遊びをみつけていく。その希望があって、先へ読み進められました。それにしても、この『家なき鳥』と『炎の秘密』って、似てますよね。内容も重なるし、装丁の感じも共通するところがある。どちらも地味なつくりだけど、物語を読み進めさせる力がありました。あと、『家なき鳥』は刺繍だし、『炎の秘密』は服づくり。「手に職」って、人が自立していくにはとっても大切だなあと、しみじみ思いました。

:インドの貧しい物語って、『女盗賊プーラン』(プーラン・デヴィ作 武者圭子訳 草思社)などを読んでいたので、その印象が強かったの。この本では、お嫁にいった義理の父親がコンピュータのせいで仕事を失うという場面になって、やっと現在の話なのかと気づいて、びっくり。明るさについていえば、はぐらかされたような気もしたけれど、この子のもっている楽天的なところは愉快。2冊を比べれば『家なき鳥』のほうが好き。

アカシア:大地の匂いや温度、湿度など、わっとたちのぼってくるところはあったと思うの。ただ、たとえばp14「熱風にふかれて竹林がさらさら音をたてる」という部分があるんだけど、「さらさら」っていう日本語だとなんだかさわやかな感じがしちゃうのよね。この本は、インターネットの書評など見ると、リリカルな作品として評価されているんだけど、そのリリカルな部分が、翻訳でももう少し伝わってくるとよかったな。ところで、カースト制の中で上の階級のブラフマンは掃除も自分ではしちゃいけないなんて聞いてたけど、この子はなんでもやってますね。能天気ということでいえば、フィリピンのごみの山で生きているる子どもの映画を見ても思ったけど、逆に楽天的にしてないと生き抜いていけないんじゃないかな。ただ、けなげな少女が懸命に努力するとそのうちに報われて幸せになるという、昔ながらの「小公女」的な話というふうにもとれるわね。

:どちらかというと、私は『炎の秘密』の方が好きでした。私はキルトなど好きで、『家なき鳥』で、主人公の刺繍の描写が出てくると、わあ見てみたいなあと思いました。とても生き生きしたすてきな絵柄が刺繍されているんでしょうね。この少女、手に職があって、本当によかったですね。話は、悲惨な状況がずっと続きますが、少女の明るさとしたたかさには救われました。前に『ぼくら20世紀の子どもたち』というロシアのドキュメンタリー映画で、ホームレスの子どもたちにインタビューしてるのを見たんですが、少年たちは、明るくて元気なんですね。盗みなんかも平気でやるししたたかさも持ってて。何を支えに生きているのか、と考えたことを思い出しましたね。だから、このあっけらかんとした明るさは、違和感なく読めたんですが、義理のお母さんのいじめの場面や、ラージと結婚するところとか、女の人が意地悪なのに男の人がよく描かれていたりするのは、どっかで聞いたことがある物語だなあと思い、少し気になりました。

ペガサス:昔の名作ものとパターンが一緒なのよね。貧しくて、継母にいじめられて辛い境遇、でも助けてくれる人もいて、最後はお金持ちのご婦人の援助を得て幸せになるという話。場所が違うから感じにくいけど、昔からのよくある話。でも、そういう物語っておもしろいから、スタイルとして確立されているのよね。私も、この子が明るくて、意地悪をされたお母さんに対しても、本当に憎むというのではなく、ちょっとでも親切な言葉をかけてもらえるとうれしいと思ったりする、子どもの素朴で健気なところがよく出ているところがいいと思った。今の日本の子どもたちは、逆恨みしたり、キレたりという部分が描かれることが多いじゃない! 表現については、マーカマラの描写で、枕をいくつもあわせたみたいにまるまるしていたというのが、子どもらしくてよかったな。

ブラックペッパー:私も、おもしろいことはおもしろかったんですけど、あんまり言うことはないっていう感じ・・・。ハッピーエンドでよかったねー、でも最後再婚するのは、つまるところ幸せとはそういうことかー、なんて思っちゃった。明るいし、能天気で、あっけらかんとしているところは、たしかに心地よいんだけど、実際は、初めて会った死にそうなだんなさんに、あんなふうにさっとやさしくできるのかな。私にはちょっと無理そう。

アカシア:それは環境が違うからじゃない。初めて会おうが病気だろうが、新しい家庭環境の中で生きていくしかないんだろうし、そう教えられてきてるんだろうからさ。

愁童:初めて会っても、相手に関心をもったりすることはあるんだと思うけどな。ぼくは自然に感じた。今回の3冊の中ではいちばんよかったですね。ホッとする読後感があった。最近の日本のものって、心のひだを掻き分けて顕微鏡で覗くみたいな、ややこしいのが多いじゃないですか。そういうのに比べるとホッとする。子どもに読ませる本て、波瀾万丈でハッピーエンドで単純なのが案外大事な要素じゃないかって、これ読んで改めて思いました。生きがいとかいうようなことじゃなくて、母親から教わった刺繍が生きていくバネになってるのも、ああ、いいなぁ、なんて思っちゃった。

:どうして女の人をしばる制度を男の人はつくるんだろうね。

アサギ:私はこの本、とっても好きでした。インドのことってあんまり知らないけど、まず、カルチャーショックという意味で、すごくおもしろかった。13歳で顔を知らずに結婚して、持参金がどうのこうのっていうのも、てっきり昔のことだと思ってたのね。途中で、現代のことだとわかって興味深かった。作品としても、明るさがいいなあと勇気づけられた。明るくて前向きに生きていく話って楽しい。翻訳も私は気にならなかったわ。結局『炎の秘密』もそうだけど、主人公が知的な要素に目覚めるっていう定石が昔からありますよね。『若草物語』とか『赤毛のアン』にしてもそう。女性の地位が低い国においては、そういう方向に向くのは自然。しかも、手に職、芸は身を助けるというのもリアリティがある。子どもが読んでも得るところがあると思う。文化が違えば、結婚というのも違ってくるはず。最後はハッピーエンドとはいっても、自分で愛した人との結婚だから、「なんだ結婚か」というお定まりとは違うと思う。p136でも、ラージが結婚を申し込んでも、仕事を続けたいからと主人公が迷う。「家がぴかぴかじゃなくても〜」っていうところも、新しいインドの行き方じゃないかしら。ただね、ラージが登場したとき、あまりにも描写がていねいだから、あっ、この人と結婚するんだって、私わかっちゃったのよ。それと、いじめるお義母さん。彼女に対して、弟のところにいってもうまくいっていないに違いないって思うところなんかもいい。彼女もひどいっていうより、気の毒って感じよね。

すあま:こういうのって、かわいそうな女の子として描くやり方もあるんだろうけど、主人公の描き方がからっとしているところが救われている。終わり方もハッピーエンド。本としては、図書館などでは、児童書としてではなく一般書として置くことを勧めているみたい。異文化だけれど、難しくないし、とても読みやすいのに。ヤングアダルトっぽい感じなのかな。

トチ:表紙の感じが大人っぽいからかしら。

ペガサス:小学校高学年くらいに向くものが少なくて、ヤングアダルトばかりになってしまうなかで、一見大人向きだけど、子どもも読めるっていうのはいいわよね。出版社が白水社だからということもあると思うけど、図書館で機械的に大人のほうに置かれるのは残念。

すあま:こういう本って、本屋さんとか図書館ではすぐに手にとりにくいから、書評とか紹介とかがないとね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


炎の秘密

:実話なので覚悟して読んだんですけど、ときどき文章にひっかかりました。『家なき鳥』と違って、宗教色がなかったのが意外。あんまり新鮮さはなかったけど、内容より、地雷とか社会的なことばかり気になってしまいました。『家なき鳥』ほど気持ちが入らなくて・・・。

ねむりねずみ:帯に実話とあって、本文の最初にもノンフィクションと書いてあるので、それに妙に足をひっぱられて、物語に入っていけませんでした。それにすごく邪魔されちゃって。アフリカのことはあまり知らないけれど、ピーター・ディッキンソンの人類創世の物語を読んだときのイメージと重なって、おもしろかった。鳥をいっぱい飼っているとか、イメージとしてとてもすてきなシーンがいろいろあるけど、それがひとつになってぐっと迫ってくるという感じにはならなかったな。

紙魚:冒頭、わりとイメージで押されてくるじゃないですか。なかなか、状況がつかめなくて、物語に入りにくかったんですね。たしかに、帯でノンフィクションという言葉が強く印象づけられるから、ちょっと動揺しちゃったのかな。それでもすぐに、わりとぐいぐいひっぱられて読みました。筋も気になるし、知らないこともいっぱい出てくるし。もちろん、少女の明るさとたくましさがいちばんでしたけど。驚いたのは、主人公と母親の関係があっさりしている点。一生懸命、義足で家までたどりついたのに。あー、きっと母娘で泣きながら抱き合うんだろうななんて思っていたら、わりとあっけない。その妙にクールなところが気になりました。

トチ:私はノンフィクションということを、全然意識せずに物語として読みました。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール作 原田勝訳 徳間書店)もそうでしたけれど、これを書かなければという作者の熱い思いが痛いほど感じられて、胸を打ちました。登場人物のそれぞれの立場から書かれている点も、なかなかうまい手法だと思いました。

すあま:『家なき鳥』が読みやすいのは、話がうまくいくからじゃないかな。『炎の秘密』は、これでもかという状況が起きてくる。最初は、いつ地雷を踏むんだろうと気になります。踏んでからの足がなくなってしまった感じとか、お姉さんを亡くしたことへの罪悪感もうまく書けていました。たしかにノンフィクションだと、作品として悪いとは言えないということもある。でも女の子の心理描写を追って読めたし、読後感もよかったな。

アサギ:ヘニング・マンケルは、ドイツでもすごく人気のある推理作家。エンターテイメントの作家というイメージがあったんだけど、モザンビークの地雷の話なんで驚いちゃった。最近つらい話は苦手なので、最初いやだったんだけど、不思議と最後まで読んでしまいました。ソフィアは厳しい状況でもたくましく生きる子で、あとがき読んで、ああ他の子とはちがうオーラがある子だろうなと思いました。ただ、一気に読めたけれど、楽しい気分にはならなかったわね。でも、日本の子どもたちに読ませたい。『炎の秘密』っていうタイトルどおり、人間が原始的な生活をしていればしているほど、火って神秘的でよりどころとなると思うのね。モチーフとしてリアリティがあるじゃない! 『洞窟の女王』(ヘンリー・ライダー・ハガード作 大久保康雄訳 東京創元社)を読んだとき、アフリカの奥地に絶えない炎があってという冒険物語で、それは私にとって強烈なイメージだったのね。このモチーフは納得という感じだった。まあ、どっちかといえば『家なき鳥』のほうが好きだけど。

愁童:ぼくは、地雷の話かよっていう思いがあったんだけど、こういうのを子どもに読ませることにどれほどの意味があるのかな。ただこの作家は頭がいいし、うまいとは思ったね。段落を短く切って、いろいろな場面を簡潔に描いていく。メッセージが押しつけがましくない。最後、女の子が『家なき鳥』と同じような展開で、しっかり生きていく。ただ、『炎の秘密』には、「痛みにたえるときに黒い顔でも青白く見える」というような表現が所々にあって、作者が白人だからこういう書き方をするのかなと、ちょっと引っかかった。『家なき鳥』は作者が女の子の中にいるっていうのがわかるんだけど、『炎の秘密』の方は、アフリカはたいへんだなあ、地雷なんか踏んじゃってたいへんだって、外から書いてるような感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:今って、長野オリンピックの聖火ランナー、クリス・ムーン以来、坂本龍一も地雷ゼロキャンペーンみたいなことしたりして、ちょっとした地雷ブームだと思うんですよ。この本、なんて美しい表紙だろうと思いつつ手にとったんだけど、ああ地雷ブームもこんなところまで・・・と、ちらっと思っちゃった。でも、よく見たら作者はここの住民だったりして、とおーいとおーいところから理想だけを語っているのではないということがわかって、よこしまなこと考えてスマンって気持ちになりました。これを読むことは意義があるし、それでいてつらすぎないところもいいとは思うんですけど、今月の落ち込み気味の私の気分には合わなかったんです。

ペガサス:地雷の話とか、本当にあった話という先入観とかもたずに読んだんですね。そうしたらいきなりお父さんが死んじゃって、なんてかわいそうなんだろうと思っていたら、もっとすごいことがつぎつぎに起こって、まあなんてかわいそうなんだろうと思って読んだんですね。なんとかこの子に幸あれと、どんどん先を読まずにはいられない。次がどうなるのかなと。一人称でないのに、こんなに主人公に心をよせて読める本も珍しいわね。周りの人がソフィアをどう見ているかというふうに書かれていくので、ソフィアに心を寄せられたのかもしれない。先入観なく読むと、冒頭部分は何がなんだかわからなくて、2章から様子がわかってきた。1章は途中まで行ってから、もう1度読み直してやっと意味がわかりました。

:ソフィアが好きになったし、本も好きになった。地雷の話については、先入観もあったんですが、テロがあったり、イランの映画監督のインタビューを見たりして、自分は何も知らなすぎたなと思っていたので、興味をもって読めました。NHKのドキュメンタリーでアフリカの黒人の人たちの複雑な状況を知って、ショックを受けたことがあるんですが、私は、そのとき、日本とアフリカでは、あまりにも環境が違いすぎて、自分の身をそこに置いてみても、どういうふうに考えていいいかわからなかったんです。どこか外から見ているようで。この本を読んで、この少女の体験を通して、内から見ることができたような気がします。ソフィアの明るさ、前向きさ、内なる声に耳をすましながら一歩一歩歩いていく確かさとか、彼女の生きざまに心動かされた。自分がこういう状況だったらとても耐えられないだろうと思う。でも、現実のアフリカの状況は、もっと厳しいのだと思います。作者がアフリカ人ではないので、この話にどのくらいリアリティがあるのかは、本当のところはわからないとも思いますが。つくづく出会いが人生を救ってくれるんだなあと実感しました。学校に行きたいとか、家があったらいいなとか、今の日本では考えられないけど、憧れとか、ほしいという気持ちが達成されると、ものすごい健全な喜びが表現されているように思える。だからこそいろいろなことが当たり前になっている日本の子どもたちにも読んでほしい。外側から見てるより感じるところが多いんじゃないかな。白いドレスをシーツで作るところとか、部屋の中に鳥がいて、という場面もいいなあと思ったし。ファティマの家に泊めてもらった日の夜のシーンはたまらなくいいですね。縫い目の中に人生のすべてがあるというファティマの話、私も忘れない! と思ってしまいました。と、かなり入れ込んで私は読みました。

アカシア:ナチとか、地雷の話って、何度も聞くと、あ、またかと思ってしまいがちだけど、この間、それについて学者の話を聞いたんですね。それによると、人間は嫌な情報はなるべく排除しようとする心理が無意識に働くんですって。だから、きちんと社会のこととか世界情勢のこととかを裏面まで含めて見ようとすれば、単なるイメージではなくて、きちんとした知の体系にして頭の中にインプットしていかなければならないって、その人は言ってたんですね。だからってわけでもないけど、私は、またか、と思わないで、敢えていろいろ考えてみようって思うことにしたの。この作品は、作者が舞台となっているモザンビークに住んでいるので、人々の心の動きもふくめて、かなり実像に近いかたちで書かれているんじゃないかしら。ただ北側の人が南側の人たちとまったく同じように暮らすというのは無理があると思うんですね。複雑な垣根がある。それから、挿絵なんだけど、現実が厳しいから夢のような絵にしたんだろうけど、たとえばp64の絵、ドレスっていっても、もう少しアフリカの文化を反映させてもよかったんじゃないかな。白いドレスなのに水色なのも気になる。私は、さっきアサギさんの話を聞くまでこの作家のこと何も知らなかったんだけど、エンタテイメント作家が書いた文章とは思えなかった。導入部も最初はわかりにくかったし、ごつごつしたイメージ。オビには「現実の物語」というところにノンフィクションとルビがふってあるけど、まったくの事実を書いているというよりは、実際に地雷の被害にあった少女をモデルとして書いてるってことよね。
子どもが地雷で足を失って義足をつける場合、成長に伴って義足も替えていかなければならないから、お金がないと大変なんですよね。主人公のソフィアは、13歳で一日中働くわけだから、ユニセフなんかで非難している「児童労働」の範疇に入るんだけど、自分で稼がないと新しい義足も買えない境遇。ソフィアが明るいのは救いだけど、これほど力のない子どもたちは、どうすればいいんでしょうね。

ねむりねずみ:フィクションなのに、これはノンフィクションって押されるのは、私はいやなのよね。

アカシア:現実をもとにしたフィクションだもんね。最初はソフィアの心象風景から入っていくわけだし。あとね、主人公がこの若さで仕立て屋さんになって自立するっていうところを考えても、ほんとにこの子はまれな一人なのよね。そこまでできない子もいっぱいいるんだってことも、考えていったほうがいいよね。

愁童:たとえば、ソフィアがシーツを盗んできて、すごく悩むじゃない。でも、シーツ盗まれたほうは気づいてもいないよね。この作者には、どっちかっていうと後者の目線を感じちゃう。『家なき鳥』は、肌の色の描写もないし、インド人の気分で読めたんだよね。でも『炎の秘密』は、どうしても白人の目線を感じちゃう。

アカシア:この作家はもともとスウェーデンの子どもたちに向けて書いているんだろうから、肌の色なんかまでイメージできるように意図的に表現してるんじゃないかな。私がかかわった本でも、黒人と白人が出てくる話があって、話の内容や名前から白人だとわかるはずと私が思っていた登場人物を、黒人だと思って読んでた読者がいたの。だから、少し詳しく説明しとかないと、わかりにくいってことも、あるのかも。

ペガサス:それは、日本人は、肌の色とか髪の色とか意識せずに読む癖がついているから。いちいち肌の色の描写など、ヒントが書いてないと、イメージを思い描くのは難しいと思う。

愁童:でも、だったら「黒い顔でも青白くなる」って書かなくちゃいけないの? ただ「青白くなる」じゃいけないの?

アカシア:これは「でも」っていう言い方がまずいのかも。翻訳の問題かもしれませんね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


小池潤『海へ帰る日』

海へ帰る日

すあま:これはSFですが、アイディアがおもしろいという本。最後がどうなるのかが気になって読んで、最後いろいろ納得がいかなくなる。続編でも作ってくれなきゃ気がすまない。海に帰るってことについても、周囲の人の理解がありすぎる。ともかく不条理に思える部分が多すぎるんだけど、なぜか最後まで読んでしまった。

トチ:その最後が、なんとも苦しい。ずいぶん前に某社のベテラン編集者に、「君、作品がまとまらないからといって、警官を出しちゃいけないねえ」と、きつーく叱られたことがあったけど、そのときのことを思い出した。まだ作品として完成してないのでは?

紙魚:アイディアはおもしろかったんだけど、これこそ能天気な物語。細かいところがすべて、えーっそんな軽々しくていいのかな、と思うんだけど、最後まですらーっと読めてしまった。だいたい、いきなり海で生活しなくちゃいけないって言われて、これだけの不思議なことが起こったら、相当悩むと思うんだけど、あっさり家族も理解しちゃうし、最後には、なんとしてでも海に帰そう! なんてみんなで力を合わせちゃう。えっいいの? と思わずにはいられない。昔NHKでやっていた、SFのテレビドラマになんとなく似ていました。

ねむりねずみ:ぱーっと読めちゃうけど、それは最後が気になるから。途中で生まれた謎や、これってどうなっちゃうんだと思ったことにケリが付かないままのことがたくさんあって、それが気になった。研究所の正体とか、超能力を持った子たちが悪のりして大騒ぎになるところとかね。地球温暖化っていう大きな問題がテーマみたいな顔をしているけれど、なんかただの道具立てっていう感じで、ぐっとくるわけじゃない。全員が、どんと投げ出された運命にひたすら馴化していくっていう感じですね。

アカシア:私は変なドリンク1本で人間の体質が変わっちゃったっていいし、テレパシーが出てきたって、未来研究所が出てきたっていいじゃん、いいじゃん、エンターテイメントなんだもん、と読んでいったんだけど、最後はやっぱりお手軽すぎましたね。あと、アイデアがおもしろいんだから、もう少し細部のリアリティを大事にすればよかったのにね。

紙魚:それに、装丁がわかりにくかったな。物語のイメージが、装丁に着地してないと思う。

:この本、何かに似てるなって思ったんだけど、私も眉村卓さんの『なぞの転校生』のテレビドラマを思い出しました。あれ、大好きだったんですよね。

ペガサス:私は、この本こそノンフィクションかと思って読んでしまったので、変なことが起こりはじめるとき、ちょっとぞわぞわ感を味わえました。子どもたちの描写も細かく書いてあるのでらくに読んでいけたけど、途中から、なんなのこれ、なんでみんな止めないの? ねえなんとかしたら? っていう感じになってきた。あと、主人公の家族がいい家族で、お父さんや弟が理解をしてくれていいなと思っていたのに、なんで止めないのぉって感じ。

アカシア:でも、止めたらこの子は死んじゃうじゃない。

ペガサス:そうね。その設定自体が変なんだから、そのなかでやっていくしかないのね。写真家のお父さんから写真を教えてもらって、写真に興味をもっていくところなんかよかったんだけど、写真が結局なにも生きてこなかったのは残念。写真というのは現実を映すものなので、非現実的なできごとに反して、何か小道具としてもっと生かされるのかと期待したのに。

ブラックペッパー:いろいろと不思議が残る作品ですが、私は文体について、ちょっとひとこと。なんかオヤジ度の高い文体だなあと思ってしまって・・・。今ふうの言葉をたくさん使っているところが、ハナにつくというか、「がんばって使ってます」という空気を感じてしまった。しみや皺を隠そうとしてたくさんファンデーションを塗ったら、よけいに弱点が目立っちゃったというべきか。今ふうの言葉を使うのはいいんだけど、その一方で、同級生のことを「遠山少年」といったり、あとたぶん中学校では、代数っていわないと思うんだけど、「苦手の代数で」とか、今ふうでない言い回しがするっと出てくるから、そのギャップに「若ぶってるの?」と、だんだん疑いの眼差しが生まれてきちゃってね。たぶん作者は、独自の言語感覚をもってる人だと思うの。そこここにこだわりが感じられて、それはとてもよいことだと思うんだけど、私とはちょっと合わなかったみたい。たとえば「ワンショットグラス」は「ショットグラス」だと思うし、「高層アパート」もちょっと変。「マンション」って言葉、使いたくなかったのなと思ったけど、「高層」だったら、ふつう「アパート」とはいわないのでは・・・。「マンション」って言葉、私も好きではないから気持ちはわかるけど。
それから、雷太が超能力を使って、見知らぬおばさんにアイスを買わせる場面。まず、p80の14行目「おばさんはラウンジのまわりにある店の1つに、ゆっくりと進んでいった」とあるので、ふむ、ここはきっと対面方式で売っているソフトクリームかアイスクリームね、と思ったの。私のイメージとしては、ソフトクリーム。でも、p81の1行目「おばさんは両手に二本のアイスクリームを持ち、佑也たちのすわっている席のほうへ進んできた」とくるでしょ。2本のアイスクリーム? ということは、棒アイスだったの? と、私はちょっと迷う。私のなかでは、アイスの仲間で1本2本と数えるのは、棒アイスだけだから。棒アイスというのは対面方式で売っているのではなくて、まあ、対面方式で売っているところもなくはないけれど、その多くは、包装された状態でコンビニなどで売っているもののことね。コーンに、あっカップでもいいんだけど、その場でかぱっと入れて手渡される、対面方式売りのアイスの仲間だったら、ソフトクリームにしてもサーティワンにしても、私だったら「1こ2こ」とか「1つ2つ」と数える。1本2本とは数えない。そしてたぶん、ここは棒アイスではないはずなのね。この「アイスクリーム」は、p81の12行目「アイスの一本を佑也に渡し、自分のクリームをペロリとなめた」というところから推測すると、むきだしだったと思うし、それにp82の11行目に「アイスのコーン」とあって、コーンの上にのってるアイスということがはっきりするから。となると、棒アイスではなくて、ソフトクリームかアイスクリームだと思うんだけど、ソフトクリームだとしたら「アイス」とはあんまり言わないような気がするし、アイスクリームだとしたら「クリーム」とはあんまり言わないと思う。結局ソフトクリームなのかアイスクリームなのか、私にはわからない。もどかしい気持ち・・・。
まあ、ほんっとにささいなことなんだけど、こういうようなことって案外大事なのではないかと思うのね。こういうことの積み重ねで物語の雰囲気ってできていくと思うから。あと、超能力をもつ子どもたちが力を合わせて物体移動させたりするあたり、『アキラ』(大友克洋作 講談社)とイメージが重なりましたね。

アカシア:私はやっぱりリアリティの希薄さが気になりましたね。防犯カメラをつぶすところがあるけど、透視できるならカメラそのものを躍起になってつぶさなくても、後ろの線を切るとか、どっかのスイッチをオフにするとかでいいんじゃないか、とか。異常な現象について会ったこともない人に説明するのに、電話じゃ無理にきまってるじゃん、とか。近眼の人が眼鏡をかけていて、その目が他人が見て大きく見えるとかね。これ逆じゃないですか?

愁童:これを読んでね、コミックの世界にいる子どもたちに児童文学を広げていこうとする編集者の意欲を改めて感じました。着想は、すごくおもしろかった。でも文章でやる以上は、編集者がしっかりチェックしてほしいと思いましたね。たとえば、「地球温暖化の現象が顕著に始まって」とか「なにをいいはじまった」とか。「花火は極彩色」のルビを「ごくさいしょく」とつけているとか。『家なき鳥』の訳文とくらべて見劣りしちゃ悔しいじゃない。作家なんだから。

アカシア:会話も月並みだし、だらだら続いていくしね。

愁童:翻訳ものの文章にひっかかるのは、ある意味当然だけど、作家の文章が翻訳家に負けちゃあシャクじゃない。昔は、『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝作 草思社)みたいな文章は、たくさんあったよね。もうちょっといい日本語で書いてほしかったな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから・・・。

アサギ:私は整合性って気になるんだけど、エンターテイメントはね、たとえば『旗本退屈男』なんか、洞窟に押し込められたときとは違う絢爛豪華な衣装を出てきたりするんだけど、気にならないのね。昔の映画っていい加減だったわよね。

トチ:いい加減さなんて気にならないほどのおもしろさっていうか、かえっていい加減さを楽しむってこともあるしね。

アカシア:そこまでおもしろがらせてくれれば、まあいいかってことになるんでしょうけど。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


オルレフ『壁のむこうの街』

壁のむこうの街

アサギ:途中、自分の意志で読むのやめたの。私、専門柄、こういうものをいっぱい読んでるんだけど、食傷ぎみ。でも、子どもたちにはいいと思う。『シンドラーのリスト』を見たときも、「私はもういい、でも若い世代にはぜひ見せたい」と思ったのね。若い世代があまりに過去について無知だから。あの映画そのものにはいろいろ問題があると思ったけど(「やっぱ、ハリウッド」って)、それでも「スピルバーグ」の名につられて、ふだんならああいう作品を見ようとしない若者が見に行ったから、それはそれで評価してるの。その意味で、こういう作品も子どもたちには読んでもらいたい。私は年のせいか、シリアスなものがだんだんつらくなってきた

ブラックペッパー:映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なんかもそう。見終わって後悔したもの。

トチ:山中恒さんが講演で、「今の子どもに戦争をどう伝えるか」、「どうしたら戦争を被害者の立場ではなくてホール(whole、全体)として伝えられるか」ということを語っていましたが、私もこの3作を、そこのところを気にしながら読みました。ドイツ兵は徹底的に悪者にしているけれど、その他の人々はいい人と悪い人を分けずに、行動で描いているところはいいなと思った。つらくて読めないというところもないし、最後も大団円がくるわけではないところもいい。壁の向こうの女の子もユダヤ人だったことを知るなんていうところも、経験した人でなくては書けないでしょうね。人間の描き方がステレオタイプじゃないところは、『小さな魚』(エリック・C・ホガード作 犬飼和雄訳 冨山房)なんかと、共通している。被害者の側からだけ書いても、描き方によって、一面的じゃなくてホールとして伝えられるんだなと思いましたね。

愁童:今月の課題のうちでは、ぼくはいちばんよかった。今の子には『ロビンソン・クルーソー』みたいな冒険もの感覚で読めて、案外説得力あるんじゃないかな。

ペガサス:オルレブが来日したときの講演会を聞いて、今でも印象に残っているのは、「いちばん書きたかったところは、子どもというのはどんな状況におかれても、楽しいことを求めるということだ」と言っていたこと。戦争は悲惨だし、この物語は本当に彼の体験したことで、そのことは重いけれど、ささいなことにも楽しみを見出す子どもの姿が描かれているのが、この本のいいところだと思う。

ブラックペッパー:今回、テーマが戦争と聞いて、気が重くなっちゃったんだけど、これとウェストールの『弟の戦争』はおもしろかった。主人公が大人になっていく様子がきちんと伝わってきた。こういう機会がなければ読まない本だけど、読んでよかったなと思いました。最後、お父さんとは再会できないだろうと思っていたんだけど、うまくさっぱり出会えて、無理なく感動させられました。ただし表紙はいや。あと、この子は12歳って設定ですけど、幼いところもあったりして、どうなんでしょうか。

紙魚:戦争の物語って、小さい頃からなかなか読めなかったんです。それは、小学校とかで読まされて読書感想文とかを書かされるじゃないですか。自分から進んで読むというよりは、読まなくちゃいけない本というような印象。必ず、感想文の最後に「だから戦争はいけないと思います」でしめくくるような。にもかかわらず、この本はけっこうひきこまれて読みました。たったの半年たらずのことなのに、主人公の男の子がみるみる成長していくのがビリビリ伝わってくる。部屋をつくったり恋をしたりなんてところも、おもしろかった。

:私は、これまで戦争ものと障害者ものにはケチをつけちゃいけないと思ってたのね。でも、この主人公は、たくましいじゃない。楽天的だったり、恋をしたり、サッカーをしたり。自分もくっついて体験しているような気がした。戦争ものでいい本ありませんかときかれると、「火垂るの墓」(『アメリカひじき・火垂るの墓』 野坂昭如作 新潮文庫)とかになっちゃいがちなのよね。平和教育って言われるけど、実際の子どもたちは、戦時中でも遊んでた、悲しくてつらいだけじゃなかったって聞きました。どんなときにも楽しいものを見つける子どものたくましさを感じましたね。

アカシア:子どもはどんな状況でも楽しいところを見つけるっていう部分では、たしかに共感したけど、この本のバックにあるものは好きになれないな。まずp6に「さいわい私の伯母は、パン屋をしておりましたので、毎日わたしにパンをくれました。その伯母の店の前の歩道に、少年がじっとうずくまっていて、とうとうそこで死んでしまったこともありました」ってある。その時代に生きていくというのはたいへんで、ぎりぎりだったのはわかるけど、作家として「さいわい」っていうのはどうかと思いますね。p23にも、貯蔵室のドイツ兵をやっつけるのに、「うしろからやればもっとかんたんだろう。そんなことをするのは紳士的ではないかもしれない。でも、すべての掟を最初にやぶったのはドイツ兵だから、かれらにたいしてはこっちも正々堂々とやる必要はないと、いつか父さんは、ぼくにいった」という箇所がある。p26では、「頭のおかしいやつが指導者にえらばれたらどんなことになるかを、ほかの人たちが知るように歴史のページにのこしておかなきゃ。…そうすれば、子どもたちでさえ武器をもつよう、おしえなくちゃならない時代があったってことを、のちの世の人もみとめるだろうからな」と、ポラックじいさんが言う。このあたり、過去のある時代の被害者という意識が強すぎて、今だってヒットラーはいなくても無理やり兵士にさせられている子どもがいっぱいいるという事実が、この作家の視野には入ってないのかな、と気になる。それに、お父さんやユダヤ人のお医者さんは、「友だちや家族をすくうため、国をまもるためなら、敵の兵士を殺してもいい。それは勇敢な行為なんだ」って、この子に教えてるのね。とうとう出会ったお父さんにピストルを返す場面でも、この父子が気にしているのは、人を殺したという部分ではなくて、引き金を引く手がふるえたかふるえなかったか、ということになっている。
そりゃあ、あのナチス支配下のユダヤ人社会ではこれが現実だったのかもしれないけど、体験談ではなく、フィクション作品で今こう書かれると、かなりヤバイという気がします。戦争なんて、だいたい自衛っていう名目で行われてるんだし、どんな手を使ってでもビン・ラディンを仕留めるって言いながら民間人を誤爆しているブッシュに行き着く。自分は正義、相手は悪という前提が平和をつくり出すことはない。私は、感動的に書かれているだけに、この本はよけい子どもに読ませたくない、と思ってしまいました。片方の側からだけ書いて、戦争をホール(whole)にとらえることなんて、できないのでは? それから、リアリティに関しては、男の子が縄ばしごを始終使っているのに一度も見つからないなんてありうるのかとか、お父さんはいったいこの間どこにいっていたのかなど、疑問が残りました。

ねむりねずみ:これの前に『砂のゲーム』(ウーリー・オルレブ作 母袋夏生訳 岩崎書店)を読んだときに、ユダヤ人はひたすら被害者という姿勢を感じたんです。この物語も、ロビンソン・クルーソーなんだなとか頭ではわかるんだけど、感動として迫ってこなかった。たとえば、ロバート・キャパ(ユダヤ人)の写真展に行ったときに、彼はとても厚みのある戦争の写真を撮っていて、その一方で建国直後のイスラエルの写真を撮ってるんだけど、彼にとってはイスラエルの建国が文句なしにプラスなんだっていうことがよくわかった。そのとき、あっと思っちゃって、そういうスタンスを感じると、ちょっと待てと思っちゃうんですよね。子どもらしさの点でいっても、ネストリンガーの作品『あの年の春は早くきた』(上田真而子訳 岩波書店)のほうがよく書けてると思う。これは、なんか、いい人はいい人で、悪い人は悪い人っていう感じがした。本当に生きるか死ぬかっていう状況になると、相手を殺すか殺さないかってなっちゃうのかもしれないし、ずっと追われて放浪を続けてきたユダヤの人にとっては、こういうふうな形になってしまうんだろうけど、でも・・・。

アカシア:極限状態のときはこうなってしまう、という書き方には思えなかったのね。自分だって加害者になるかもしれないという視点が欠落してるもの。視野が広がるような書き方をしてないじゃない。

トチ:それは難しいところよね。たとえば、『少年H』(妹尾河童作 講談社)みたいに、あの時代に思っているはずがなかったこと、今だからこそ言えることを、子どもに思わせたり、言わせたりすると、嘘になるし・・・。

アカシア:『アンネの日記』みたいなノンフィクションは、その時代に見えたことだけが書かれてても当然なんだけど、これは創作だから、いろいろな方法がとれるはずでは? お父さんはお医者さんとは違う考えの大人を登場させたっていいわけだし・・・。この本を読んでいると、ブッシュがだぶって見えてくる。

ブラックペッパー:私はブッシュと同じとは思わないけどな。読んでるときも、ストーリーにどっぷり、になっちゃって、ぜんぜんそういうことは思い浮かばなかった。今言われてそういう見方もあるのかと、ハッとさせられた。でも、たしかに切り捨ててしまったのは悪いことかもしれないけど、だからこそ物語が骨太になっててぐいぐい引きこまれて読んだというのもあると思う。不十分な描き方なのかもしれないけれど、こういうほうが物語性は生きてくるのでは?

アカシア:だから恐いんじゃないかな。

トチ:戦争って、もうこういうかたちでは、創作として書けなくなってきてるのかも。だから『弟の戦争』のような作品があらわれたんでしょうね。

ペガサス:今、戦争の話で、子どもが読んでも大丈夫な本って、少ないよね。

:オルレブさん自身みたいに、強烈な経験をしてしまうと、被害者意識がどうしても前面に出て、ホール(whole)で書くのって難しいんじゃないかな。『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター作 上田真而子訳 岩波書店)なんかは、ドイツ人の子どもの目で書いてるからまた違うけど。

アカシア:ナチス支配下のユダヤ人の悲劇は、もちろん書かれるべきだけど、そればかりが評判になったり、日本でも山のように翻訳されたりするのは、どこか胡散臭い。今だって、世界のあちこちでいろいろな戦争の被害を受けている子どもたちがいるのに、そっちからは逆に目をそらさせことになるような気がするんですよね。

ペガサス:書き方が問題。ピストルを撃つとき手がふるえなかったことを誇りに思ったというのは、本当にそういう気持ちだったのもたぶん事実ではあるけれど、それを感動的に書いちゃってるのが問題なのよね。前書きとかで、作者のことが出てきちゃうから、一面的にとらえられがちでしょ。

アカシア:戦争のことって、事実としてはちゃんと知っておかないといけないんだけど、日本の子どもの本では原爆とかナチスとユダヤ人というようなところだけがフィーチャーされて感動的に語られることが多いからみんな知ってて、ほかの部分についてはあんまり知らないという現状ですよね。そうじゃなくて、今を考える材料にしないと、意味がない。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


岡田依世子『霧の流れる川』

霧の流れる川

すあま:いっしょうけんめい書いたんだなという作家の人の気持ちは伝わりました。カナちゃんという女の子の話かなと思って読んだら、途中から主人公は保君というお兄さんということがわかって、カナちゃんの影が薄くなるのは残念。最後、お父さんがいきなり出てきて正論をとうとうと語るので困ってしまいました。作者の言いたいことをぜんぶお父さんに語らせるなよ、と思いました。これで保くんは、納得できたのでしょうか? もし花岡事件を伝えるんだったら、花岡事件のことも書いてもよかったのかな。最初の作品だったということで、よくがんばりました、というところでしょうか。戦争をまったく知らない年代の人が、加害者の立場として書いたんでしょうね。

トチ:花岡事件を書かなきゃという熱意はうかがえるけど、手法が目新しくない。最初読むだけで、ストーリーがわかっちゃう。はじめから風景描写が長々と続いているから、物語に入りにくい。これが書きたいと思ったら、どういうふうに書いていったらいいのかを考えなくてはいけないのだけれど、日本の児童文学って、テーマだけで、よくぞ書いたとほめられるのよね。妹からお兄さんへ視点が移るのもわかりにくいし、妹のカナちゃんにもいまひとつ魅力がない。志は高いけど、書き方がどうもという感じがしましたね。

愁童:この人、自分が戦争をしょってないじゃない。どっか自分たちの世代は関係ないみたいな意識がすけてみえるような気がする。まじめな人だなと思うけど・・・

紙魚:いちばん気になったのはやっぱり、妹が主人公かと思って読んでったら、途中から保に変わっちゃうところ。最後まで、どこを頼りに読んでいくかがつかめなかった。頼りにできる確かな視点がほしい。それに、保が自分でレポートを書きながら発見していくのかと思いきや、すべてお父さんが語って結論づけたりしているところも気になった。ただ、戦争ものって、私自身も体験がないし、自分の立場をどこに置いていいかすごくこわいです。

トチ:戦争についていうべきことって、たったひとつだと思うの。だから、大事なのは書き方よね。

ペガサス:子どもの文学の戦争もので大事なのは、主人公の子どもが、どれだけ自分の眼で真実を見ようとしていくか、という点が描けているかどうか。それが評価の基準になると思うのね。この本の扉に、「戦争中、ぼくの村でなにがあったのか?」と書いてあったので、こういうスタンスなら期待できそうだぞ、と思ったんだけど、やはり途中で視点が変わってしまうとか、がっかりするところがあって、期待したほどではなかった。それにこの人の文章は、読みながら順々にイメージを形作っていく作業をするときに、ひっかかってうまく流れないことが多々あって、大変読みにくかった。自然な流れでイメージが結べないの。冒頭の情景描写からして、目線があっちこっちに飛ぶので、私は混乱してしまいました。うまい文章を書こうという意識があるためか、修飾節を長々とつけすぎるきらいもあると思う。

トチ:核心に迫るために情景を書くんじゃなくて、日本児童文学の常套的な手法なのよね。

アサギ:一般的に、登場人物にえんえんとしゃべらせるのに、優れた文学ってないわね。シリアスなものってそうなりがちだけど。

トチ:自然描写にしても、それにふさわしい登場人物の心の動きがあるのにね。

愁童:対して『壁のむこうの街』は描写が適切ですよね。主人公の心象ともぴったりじゃないですか。

ペガサス:キーパーソンであるおじいちゃんに対しての愛情があまり感じられなかったのも気になった。

ブラックペッパー:おじいちゃんを突き放して書いているのは、そこがリアリティの見せどころよって思ったんじゃないかな。私はまださっきの『壁のむこうの街』が尾を引いていて、戦争を描くのも難しいけど、読書も難しい・・・と思っているところ。気分を変えてこの本にいってみますとですね、表紙はきれいな本ですが、目次を読めば、もうだいたいわかっちゃう感じ。よくできてるんですけど、優等生の人が一生懸命書いたんですね。これは、そう書きなさいと言われたのかもしれないけれど、後書きの「この国で最後の戦争が終わって、ちょうど二十年めの年に、わたしは生まれました」という一文を読んで、私とは気が合わないなと思いました。あとね、p122の少年が夢を見るシーン。夢に見ちゃ、だめよねー。

:読み始めて、だから戦争ものは嫌なんじゃん、とすぐ思ってしまって。この人は、自分の田舎を書きたかったのかな。荒井良二さんの絵で救われた感じ。いっぱい挿絵があれば、もっと読み進められたかな。子どもの本のなかで嫌いなのは、大人が割り込んでくる本。

アカシア:荒井良二の絵が、イメージを豊かにするのに大きく貢献してますね。花岡事件について、この30代の作家がまじめに取り組もうとしているのは、よくわかったし、この人なりに考えぬいているのも好感がもてました。そんなに嫌味だとも思わなかった。考えぬいたものを伝える技術がまだ未完成なんでしょうね。お父さんが子どもに話すとき標準語なのは、どうして? 方言だったら、もう少し演説風じゃなくなったかもしれないな。

ねむりねずみ:前に、この会で花岡事件を扱ったノンフィクション(『花岡1945年夏』野添賢治著 パロル舎)を取り上げたとき、かなり厳しい評価を受けていたから、若い人がフィクションで花岡事件を取り上げるなんて、がんばってるな、っていうのがまずありました。村の人たちが自分たちのやっちゃったことを悔いながら、ひた隠しにしようとする、そういう日本的なところは書けていると思うし、カナの「ごんぼほり」の性格のところなんかもほほえましかったけれど、夢で見ちゃったりするのはやっぱりお手軽。学校で中学生相手に戦争の授業をするとき、講義になっちゃうとまるで相手の心の中に入っていかないし伝わらない。その意味で、こうやって大人にぜんぶ語らせちゃうのはまずい。戦争を伝えるというときに、一つ前の段階にさかのぼって人間がもっている残酷さに立ち返って伝えるっていうやり方があって、それはとても有効なんだけど、だからといって過去の事実を伝えないままでいいということにはならない。現実に若い友だちが南京に行って、南京で何があったか知っていたことで、中国人との関係ががらっと変わったというし。でも、実際に過去の事実を心に届くように伝えるのは本当に難しいんですよね。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ロバート・ウェストール『弟の戦争』

弟の戦争

すあま:もともと弟がエスパーだった、ていう設定には驚いた。この手の話だと、弟が主人公になっていそうだけど、傍観者であるお兄さんが主人公っていうのはおもしろい。弟の名前が2つあるところも、手がこんでいる。今の子がこれを読んでどう感じるのか興味がありますね。これもある意味SF的な物語。どんなに悲惨な話でも、やっぱりおもしろくないとだめだと思う。

アサギ:いちばん感心したのは、手法。彼はこういうテーマで、説得力あるものにするために考えたんでしょうね。次どうなるかなという、本を読ませる原点がきちっとあった。なるほど、こういうかたちで湾岸戦争をとりこんだのかと。それから最後のところがよかったですね。弟が普通の子になってしまったお兄さんの寂しさ。そのへんの感覚がよく出ていた。p164のところが、いちばん言いたいところですよね。それから、p14のあたり、3歳でこんなに思うかな。リアリティとしてひっかかりました。

トチ:今の子どもたちに、被害者の立場ではなくて戦争をどう伝えるかということを、ウェストールはさんざん悩んだ末に、こういう手法を考え出したんでしょうね。メッセージをストレートに伝えるのでは、上滑りしてしまう。その点、うまい手法に卓越した才能を感じたけれど、それ以上に「これを伝えたいんだ」という作者の熱い思いに感動しました。では、次はどういう手法をつかったらいいかというと、とても難しいことだと思う。今の日本の児童文学にどれくらい現代の世界を描いている作品があるか、という点についても、考えさせられたわね。

愁童:たしかに設定はうまいし、感動もあるけど、好きになれない。こういうふうにしないと戦争を語れないというのもわかるんだけど、この設定に惹かれるあまり、兄弟を描くことに力を費やせなかったんじゃないかな。例えば父親のラグビーに同行したときのエピソードなんかでも、試合後のシャワーを英国中年男性の平均的楽しみなんて書いてる。回顧として書いてるのは分かるけど、13歳の少年の印象を語るのに、なぜ中年男性の平均的楽しみが出てくるの?

ペガサス:今、言われてみればたしかにそうだと思うけど、読んでいるときはとにかく弟の変化に目を奪われてしまい、そういうことに気づかなかったな。作者のテクにはまってしまったか・・・。『霧の流れる川』の後だったから、不必要な形容詞もなく、一文一文が短くて読みやすかった。結局、戦争っていうのはどちらかの立場に立つことしかできないわけだから、両方の立場を書くとしたら、こういうのは実にうまい設定だと思った。そのことによって、子どももいろいろ考えるだろうし。

ブラックペッパー:すっとんきょうな設定にびっくりして、だんだんひっぱられて、戦争を描くにはいい手法なんでしょうと思ったんですけど、お母さんが(最後に一段落してから)人助けの仕事に戻らなかったというのは、働く女性としてくくられるのはどうかなと思いました。邦題はいまいち。

トチ:原題は、GULF。湾岸戦争と、人と人との断絶とか亀裂とかいう意味のダブルミーニングでしょ。

アサギ:お母さんの話は、フィギスもいなくなってしまったというくくりでってことじゃない。冒頭と最後は呼応しているのよね。

アカシア:このお母さん、最初は自分と関係ない余裕のある立場で人助けのチャリティーをしてたのが、こんどは自分の家族が大きな問題を抱えこんでしまったわけよね。そこでいろいろ悩み苦しんだんでしょうね。で、一段落したからといって、以前と同じように、いわばお気楽に人助けなんてできなくなったってことなんじゃないのかな。

トチ:私も、そこはかえってリアルだと思ったわ。

紙魚:物語の構図のおもしろさというのはあったけど、構図ばっかりに気をとられてしまって、物語はあんまり楽しめなかったです。たしかに、いろいろな立場にたって戦争を描く必要があると思うけど、この物語は、戦争を体験するのは主人公の弟、しかもその弟が体験しているのは自分の国が戦っている相手国。この複雑な構図に、子どもの読者がどうやって入っていくのかは気になりました。

:あっち側にもこっち側にも戦争があるという手法はうまいです。どちらも書けるんだから、作者は本当に才能があるのね。

アカシア:それにウェストールは『‘機関銃要塞’の少年たち』(越智道雄訳 評論社)や『猫の帰還』(坂崎麻子訳 徳間書店)もそうだけど、戦争は悪いということが書きたいわけじゃなくて、戦争の中でも人間はいろいろな体験をするものだ、ということをユーモアを交えながら書いてますよね。おもしろさを追求しながら、自分もよく考えている作家だと思う。湾岸戦争が起こったのは1991年、この本が出版されたのは1993年。作家としてすばやく反応してますよね。湾岸戦争はお茶の間でテレビ中継された戦争だったわけですけど、大人は大したことなくても、子どもには大きな影響をあたえるんだっていうことを、この作品はよく伝えている。

トチ:1993年にウェストールは亡くなっているから、最後の作品なのではないかしら。声高に戦争反対を唱えていないけれど、相当突き動かされて書いたということは、はっきり伝わってくる。日本の児童文学作家も、第二次世界大戦のことだけでなく、もっと「現代」と切り結ぶ作品を書いてほしい、そういうものが読みたい、とつくづく思いました。

ねむりねずみ:前にウェストールにはまっていたころに読んで、こういう書き方があるのかと、まずそれでぶっとんだ。はるか遠くで起こっている、子どもにとってはまるで関係ないようにしか思えないことを、ここまでぐいっとひきつけて書くのはすごい。どうするんだ、どうするんだ、とはらはらして、最後には弟がこわれちゃうんじゃないかと思ったくらい。ただひたすら圧倒されるばかりでした。ウェストールって、男の子を書かせるとほんとうにうまいですよね。切り口と勢いでうまく持っていったなという感じ。ほんとうにうまい。まわりに無関心な世相に対する批判もあったりして、この人の作品の中では独特ですね。

(2002年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


伊藤遊『えんの松原』

えんの松原

もぷしー:ひと息に読める作品でした。舞台が古典ながら、時代背景には詳しくなくても、初めから引きこまれました。言葉遣いは当時のものなのに、感じていることは変わらないというところにうまく引きつけて調和が取れているので、楽しく読めました。ある意味ファンタジーとしても読めるんですけれども、ノンフィクションのようなフィクションのような、うまい境を書いていて、好きな一冊になりました。

:私は正直いって、入っていくのに時間がかかりました。入っていけたあとは、するすると読めたんだけど。『陰陽師』など怖い話は苦手なんですが、義務感で読んだ感じ。でも、その割には読めました。

ねむりねずみ:時代にきっちり根ざしていて、そこがすごくいいと思いました。この怨霊の正体は何だろうと思って読んでいくと、生まれ損なった人格だった・・・という作りには感心しました。一人一人が楽しくうまく書けていて、怨霊だから悪い人といった感じでなく、どうしようもなくもがいているところがいいですね。この女の子の怨霊は精神分析でいえばシャドーだと思うんですが、そこにも無理がなく、古臭さがなかった。テロ事件以来一連の動きの中で、「えんの松原はなくせない、恨みはなくせない」、というのが、すごく今の状況につながる感じがして・・・。今にもつながることを、こういう時代を背景に描けてるのはすごい! 女の子が最終的に憲平に同化して消えてしまうあたりはぐっと来ました。

愁童:ぼくも、おもしろく読みました。前の、『鬼の橋』(伊藤遊作 福音館書店)を読んだときは、くそみそに言ったけれど、それから時間がたって、この人の作品に対するこちらの理解も深まったかもね。抵抗なく読めた。天の邪鬼的に言えば、本来女の子として生まれるはずだったのを、坊さんが呪術で男にしちゃったっていうことなのかな。で、女の子が怨霊ていうのはちょっと説得力が弱いと思った。それと、「えんの松原」を「昼なお暗い」と表現してるけど、松原って「昼なお暗い」って感じにはならないよね。こんなこと言ってもしょうがないけど、ちょっとひっかかった。まぁ、そう書かなきゃ、松原に怨霊を住まわせるのは難しいものね。

アカシア:前作の『鬼の橋』は、私は評価できなかったんだけど、こっちはあれより良かった。ひっかかったのは、怨霊についての考え方。作者はどうも怨霊に対し理解を示すことをよしとしているらしく、後書きにも「無念を抱いて死んでいった人間を思いやる気持ちも感じられ、他人の悲しみに敏感だった人々の姿が浮かんできます」と書いてある。だけど、闇や不合理や迷信が支配していたこの時代だったら、怨霊ってそんなふうに客観的には思えなくて、もっと大きな恐怖の的だったんじゃないのかな。最初の方では、音羽も、自分の親が怨霊に殺されているから、怨霊と聞くと平静ではいられない、たぎるような憎しみがこみ上げてくる、と言っている。でも、最後には理性的になって、「うまくやるやつがいて、そのあおりを食らう者がいる。そのしくみが変わらない限り、この世から怨霊がいなくなるとは思えない」とか、怨霊がいなくなれば悲しい思いで死んでいった人間のことなどみんな忘れてしまうから、かえってよくないんじゃないか、と客観的で理性的な思索をするようになる。ここは「作り物」のような感じがして、いただけなかった。話は現代的で、舞台だけが過去にあることにも違和感を感じました。あとね、「月光に照らされた雲の白さ」なんていう表現があるけど、いいんですかね? 風景は観察しないで書いてるんじゃないかと感じて、引っかりましたね。 女童にべらべらとしゃべる貞文という侍も、言葉遣いがやけに現代的だし、下っ端の者に向かってこんなにいろいろしゃべってしまうと設定のも妙で、存在自体にリアリティを感じられない。全体として、前作よりはじょうずに読ませるけれど、それでも、生まれてきた物語というより作っている物語という感じがするのが残念でした。

紙魚:一言で言えば、読みやすいのだけれど、ものすごく感動したかといえば、そうでもない。装丁から重厚感が漂っていて、それが内容とあいまって、本のイメージづくりはすごいなと思いました。ページ数もかなりあるし、子どものときに読んだら達成感が感じられたかも。たしかに私も作り事っぽいと感じたけれど、作家の真面目さが伝わる作品で好感が持てました。海外のファンタジーがたくさん読まれているなか、日本のファンタジーもぜひ読んでほしいという思いになりました。日本のファンタジーは、これまでもたくさんいいものが出ているし、せっかくのファンタジーブームなのだから、こういう本も読まれる機会があると本当にいいなと思います。設定は昔だけれど、会話や感覚は今風。読みやすいのは、いいことだと思います。ただ、揺さぶられるほど感動したわけではないのですが。

トチ:怨霊ものは結構好きなので、すらすら読めました。最初の説明は、しんどいなあと思いながら飛ばしましたけど。でも、『鬼の橋』の時もそうだったんだけど、世界が狭いなあ、という気がするわね。さっきの「作り物」という意見にも通じるんだけど、当時も貴族社会だけでなく、今よりずっとさまざまな人たちがいて、この本の登場人物も意識するしないにかかわらず、そういう世界に生きていたはずでしょう。もちろん題材を貴族社会にもっていくのは構わないんだけれど、広がりや厚みが感じられない。外側にそういう社会があるということが感じられないのがいちばん不満だったわね。女の子が葬られて男の子が生まれたっていうところ。これは、双子なんじゃないかと思った。おそらく最初、作者はたぶん双子で書いたんじゃないかしら。それで、女の子を殺すのが引っかかったんじゃないかしらね。女である部分を殺して、男が生まれてくる。そして、その子の女であった部分が、うまれ出た男を恨む、という部分に違和感があったわね。心理学的にはそういうこともあるのかもしれないとは思うけれど。そんなに「男」「女」と、すぱっと図式的に割り切れるものかしら? 会話の点では、いくらなんでも東宮がこの時代に「僕」と言うのは変ね。昔、円地文子が「伽羅先代萩」なんかを子ども向きに書きなおした歌舞伎物語があって、好きでしょっちゅう読んでいたのね。舞台を見る前に、すじをほとんど知っていたくらい。本に載っていない歌舞伎も20か30、ダイジェストして書いてあった。あれは、どういう会話体で書いてあったか、もう一度調べてみたいと思いました。

:細かいところは忘れましたが、基本的におもしろく読みました。ねむりねずみさんに近い感想です。作り物と感じながらも、ある舞台設定の中で、ファンタジーに挑戦し、自然に読ませるようにしたのは、すごいなあと。古典を現代風に解釈してのものですよね。その時代を身近に感じるということで言えば、おもしろい。不備なところ、時代には合わないことが、いっぱいあるのでしょうが、今と同じような人間が、この時代にも生きていたんだなあ、と感じられる。作者は、心理学的なことは考えていないと思いますが、一人の心の中をドラマにしているなあと、おもしろく読みました。音羽と伴内侍の関係など、いいなあと思った。闇に向かっていくことによる展開は面白かった。基本的にはとても好きな作品でした。子どもにとっては、人間関係がわかりにくいので、図解するなどしてもよかったかもしれません。

すあま:書評に取りあげる本を探していて、読んだんです。暗そうという見かけから、評判になった『鬼の橋』も読んでいなかったんです。これはおもしろかったけど、あとから『鬼の橋』を読んだら、おもしろくなかったですね。『えんの松原』の方が、キャラが生きてきて、共感できました。作者の成長があったのだと思いました。その後、『陰陽師』を読んだりもしたので、もう1度読んだら違う感じがするかも。今の子どもにおもしろく歴史に親しみ、興味をもってほしい、と思うので、サトクリフではないけれど、いろいろな時代に舞台をおいて書いてもらいたいと思っています。これで『古事記』などにも興味をもってもらえればと。マンガやコバルトみたいなものを読んでいる子には、これもそんなノリなので、すっと読めると思います。あまり重いものでなく、今の子どものしゃべり方みたいな方が読みやすいのかな。今後もこの作家には精進してもらいたいですね。

ペガサス:私も『鬼の橋』よりおもしろかった。これを本当にこの時代らしく書いても今の子どもたちには読めないから、会話などすっかり今の時代に置き換えてしまうのも、しょうがないかな、という気がしましたね。音羽が女の子の格好をしているという設定はとてもおもしろい。東宮がそれをすぐに見ぬくなど、導入部は読者を引きつけるところがあるし、全体は別として、細部におもしろいところがあった。東宮と音羽の関係が、子どもと子どもの関係として読めるし、勝ち気な女の子が出てきたりとか、子どもとして共感できるところがあって、身近な気持ちをもって読んでいけると思う。音羽は、とても元気いっぱいで魅力的な少年なのだから、それが無理に女の子の格好をしなければならない時には、もっといろいろなおもしろい感じ方があるはずで、その辺の描写をもう少し書いてほしいなと思った。

トチ:氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク 』(集英社)は現代的だけれど、全然違和感がないでしょ。あれに比べると、すごく真面目な人なんだなあと思う。氷室はマンガのノリですよね。

愁童:日本のファンタジーで評判になるのは、怨霊ものが多いね。『空色勾玉』(荻原規子作 徳間書店)もそうでしょ。

アカシア:書きやすいのかもしれないわね。そこから入るのが。

すあま:妖精といっても、妖怪になってしまう(笑)。

アカシア:会話は現代風にしていいんだけど、時代がもっている雰囲気は、ちゃんと伝えた方がいいと思うな。じゃないと、時代そのものがベニヤ板の書き割りになっちゃう。

愁童:いかに女装しようとも、この時代に女の子の中に一人で入るというのは、すごい葛藤があるはず。そこが書かれていないのは不思議だよね。日本ではファンタジーというと、なんでもありになっちゃうんだけど、そっちはコミックがあるのだから、もっとこういうところを大事にしていかないと、まずいんじゃないかな。活字があいまいなことをやっていると、みんなコミックの方へ行っちゃうような気がする。

(2001年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いはだれだ』

魔法使いはだれだ(大魔法使いクレストマンシー)

ブラックペッパー:今ひとつ……でした。ここが笑わせどころなんだろうな、と思われるところがいろいろあるんだけど、それがいちいち復讐など、心の暗い部分から出てくるせいか陰湿な感じになっちゃって、おどろおどろしい印象。寒々しい気持ちになっちゃいました。上手な作家とは思うけどねー。登場人物が自分中心な人ばかりというのもちょっと・・・。どうしてもいやだったのは、食べ物の描写。p37でもう、ずりずりと後ずさりしちゃった。あと、日本語の問題ですが、「大きなスパイクシューズ」は、ちょっと変な感じ。p55の本物の男の子、女の子の描写はいいと思った。

ウェンディ:とびとびで読んだのですが、子ども同士の人間関係にひきつけて、何かを象徴しているのかなと思いつつ、そうやって読みたくもなく・・・。ひっぱられたというより、気になりながら読んだけど、心地よくなかった。

すあま:彼女の作品は、これと一つ前の作品からおもしろくなくなっちゃった。ごちゃごちゃした印象がするんですよ。誰か一人でも登場人物が好きになれれば、くっついて読めていいんだけど。前は、もうちょっとシンプルでおもしろい話を書いていたような気がするんだけどな。登場人物が多くて、混乱してしまった。

トチ:学園物と魔術物を合体させて書いたのね。パラレルワールドの片っぽから入っていくんだけど、それがわかりにくい。もう一つわかりにくい理由は『ティーパーティーの謎』(E.L.カニグズバーグ作 小島 希里訳 岩波少年文庫)といっしょで、登場人物がたくさん出てくるところ。この作者はヘンな人で、感覚的にもヘンで、私はそこがおもしろくて好きなんだけど、この作品は難しいわね。理解しにくいのは、翻訳にも問題があるんじゃないかな。急いで出したと思えなくもない。p22で鳥が教室に飛びこんできた場面で、「残りの時間は〜することで終わってしまった」というところ。そこで終わってしまったのかと思ったけど、本当はまだ終わってはいないのよね。はぐらかされる。

:どうしてこんなに読みにくいのかと不安になった。人物描写が深くないので、ひたすら退屈。後半、パラレルワールドが出てきてから、ああこういうのを書きたかったんだなあとわかったけど。

ねむりねずみ:この人の短編集を読んだことがあって、変な味の人だなあ、なんか人間離れしていて、でも発想はすごいなあと思っていたのだけれど、これもやっぱりあまり人間くさくない。それにこの作品は、糸がゆるいというか、全体の構造がぐらぐらしている感じ。必然性をあまり感じないし、どこかに妙な味が残るし、個人的に好きじゃない。ぐーっと押してくる感じがないんですね。でも最後の、パラレルワールドのねじれをサイモンにかけられた変な魔法を利用して直すあたりは、この人らしいというか、なるほど、やるなあって思いました。フィリップ・プルマンみたいにどっしりしているわけでもなく、あまり好きじゃありませんでした。

:私も進まなくて。

アカシア:仕掛け方とかイマジネーションはおもしろいと思うけど、エンターテイメントだったらスピードに乗せるのが大事なのに、翻訳のせいか、そのスピードが出てきてないのが残念ね。これは、真面目に訳しただけじゃおもしろさが出ないストーリーなんだろうな。

:「これ、本当に徳間の本なの?」と思っちゃった。

紙魚:私も、今まで読書会の課題の本は必ず最後まで読んできたのに、この本は、なぜか読み進められなくて、ショック。登場人物も、ぞれぞれがうかびあがらないから、何度も人物紹介ページを見ちゃって、それでもわかりにくいし、物語もどこを頼りに読んでいけばいいのか全然つかめない。

愁童:ほんと、読みにくいよね。文をもっと短くするとか、もうちょっと日本語、工夫してほしいよね。中学生くらいに読ませようと思っているんだろうけど。

(2001年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


トールキン『サンタ・クロースからの手紙』

サンタ・クロースからの手紙

紙魚:前回、『川の上で』(ヘルマン・シュルツ作 渡辺広佐訳 徳間書店)を読んで、参加者みんなが「物語の力」ついて考えたんですよね。今回は「物語の力」、しかも『川の上で』の設定にならって、お父さんが語る物語をテーマにしようということになりました。父が語る姿というと、私は真っ先にこのトールキンの『サンタ・クロースへ手紙』がうかびます。トールキンのこの絵本は、わくわく楽しい読物ではないけれど、物語のまっさらな力が感じられて大好きです。壮大な物語というわけでもないし、絵本かと思って手にとっても本のつくりがあまり親切じゃないので内容がつかみにくい、トールキンが好きな人ならば楽しめる、というような本なんですけど、クリスマスも近くなると、つい手にとってしまいます。最近ファンタジーというと、大勢の人が読み、たくさん売れて、映画化されたりして大きなプロジェクトになっていくものが目立ちますが、物語の始まりって、本当に少数の身近な人に語られたのがスタートなんだなと、この本を開くとあらためて感じられるんです。大勢を意識して書いたわけでないのに、世界を作りこみ、ビジュアルも一枚一枚眺めていくと、物語がうかびあがってくるものばかり。小さな文字の書きこみなども丹念に読んでいくと、はっとさせられます。

ウェンディ:トールキンを知ってから、子どもにこういう話をしていたのだという興味で読みました。瀬田さんの『お父さんのラッパばなし』もそうだけど、この頃のお父さんて、元気だったのね。語る余裕がお父さんにあるということに、まず驚きます。トールキン好きの大人の目で読んでしまったので、31年のところの世界恐慌とか、37年のものとか、へんなとこが気になってしまった。子どもには、どう伝わるんでしょうね。トールキンの家族の実際の状況とか、資料と照らし合わせて読んだら、もっとおもしろいだろうな。

愁童:ぼくはね、見開きごとに封筒がついている版を読んだことがあるんですよ。これも文字が小さくて読みにくいけど、そっちは古いからもっと読みにくかった。その頃は、日本でもサンタクロースとかクリスマスとかに、今とはちがうイメージを抱いていたんだろうな。

トチ:この出版社は、趣味的で読みにくいつくりの本が多いわね。

オカリナ:いちばんいいなと思ったのは、サンタクロースという夢を子どもにあたえようと思っているトールキンお父さんの姿ですね。サンタクロースって、子どもの想像力を豊かにする大きな役目をもってると思うんだけど、お父さんが一所懸命その夢の世界を子どもに手渡そうとしている姿勢に感動しましたね。素朴だけどトールキン自筆の絵もいいし。

:しゃれた感じと思った。大人として読むと、『指輪物語』や『ホビットの冒険』などの世界がどういうふうに作られていったかがわかって、おもしろい。ただ、全編をとおして、わかりにくいところがある。サンタクロースをいわゆるステレオタイプ的イメージで描くのではなく、かなり具体的な描写や生活感を描いているので、サンタクロースがいるというリアルなイメージが持てます。資料的に価値がありますね。

オイラ:これはなんだろうと思ったけど、後書きを読んでなるほど思った。本にすべき原稿ではなく、資料として出されたものなんですね。トールキンは、非常に物語のあるお父さんだということを感じた。娘が小さいときに、ぼくもサンタクロースのまねをしたことがあるんですよ。枕もとにプレゼントは「玄関のところにある」ってメモがあって、そこにいくと「引き出しのところにある」というメモ、引き出しのところにいくと・・・、なんてね。自分の子育てのときを思い出したな。もう1度、父親をやりなおしたいという思いにかられた。

ねむりねずみ:これは子どもの本じゃないなって思って読まなかったんだけど、今回はじめて読みました。たしかドリトル先生は最初戦場から手紙を送るスタイルで書かれたのだと思いますが、これにもそれと共通の、身近な人に贈るプライベートなもの独特の温かさがあって、いいなあと思った。絵も上手ではないけど、楽しい。工夫してある。北極が折れちゃったり、オーロラが花火だったり、そういうアイディアに感心した。書いている本人も楽しかったんじゃないかな。

トチ:一般の子ども向けではないけど、一般の子ども向けの作品に発展していきそうな力を感じましたね。やっぱり、作家魂といえるようなエネルギーがある。子どもにしてみれば、1年ごとに手紙をもらうわけだから、テレビの「あの人は今」みたいに、あのシロクマがどうしているかというのもわかって、わくわくしたでしょうね。ただ、邦訳版の本をつくるうえでは、もう少し編集上の工夫が必要だったんじゃないかしら。

ねむりねずみ:字面も、横書きの1行が長くて読みにくい。

オカリナ:原書どおりの装本でページ数も同じにしようと思って、各ページに小さい文字をいっぱい入れちゃったんでしょうね。でも、たとえばトールキンの家族の写真を入れるなどの工夫ができれば、大人向けの資料的価値もふえるし、もう少し親しみやすい本になったんじゃないかな。

オイラ:こんなの読むなんて、トールキン家の子どもたちは頭よかったんだね、きっと。

ウェンディ:わからないところはお父さんに読んでもらうといいと書いてあったりしますよ。

紙魚:子どもに「読んで」なんて言われると、トールキンもどきどきして、うれしかったでしょうね。

すあま:子どもたちが書いた手紙も読みたかったな。あと、トールキンは絵がうまいんだなあと思った。こういう本の形になれば一度に全部読みとおせるけど、次のクリスマスまでの1年は子どもにとっては長い。子どもたちは毎年の手紙をどのように読んでいたんでしょうね。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


瀬田貞二『お父さんのラッパばなし』

お父さんのラッパばなし

すあま:おもしろく読んだんですが、なんとなく物足りなさも感じました。それぞれ、オチがもうひとつ。これは、「母の友」の雑誌に連載していたのですかね。カラーも多いし、堀内さんの絵がとてもいいので、だいぶ助かっているのではないかと思いました。ほら話とはいってますが、お父さんの「ほら話」なのか「冒険談」なのか、どっちつかずだった。

:改めて読み直すと、どうも入っていけなかった。ほら話なので、のせられないとつまらない。お父さんはけっこう悪乗りしているのだけれど、う〜ん、ちょっと冷めて読んでしまう。よくアメリカのほら話を読むと、ちょっと入っていけない感じがありますが、この本も同じような感じ。その土地に根付いているようなほら話って、生活しているんだったらリアルに感じられるのかもしれないけど。それが、世界各国の話になっているので、ほんとにこんなことあるのかなーという感じでした。得意になって話しているお父さん像はいいなと思った。この本のなかでは、ビルのガラスふきの場面がちょっとスリルがあって好きでした。

オイラ:入っていけないっていうのは?

:どっか客観的に見てしまうんです。昔あったことをベースにしている話ではあるんですが、ある時代性みたいなものも感じてしまい、今の自分にはピンとこない。時代を超えて楽しめるものにはなっていないということかな。参考になるかどうかわかりませんが、この中の一遍「アフリカのたいこ」は絵本化されてるんです。1966年にハードカバー化されたんですが、問題になって絶版。発展途上国を一段下に見るような見方はいけないんじゃないかと。その当時は、アフリカは野蛮だと思われていて、植民地時代を舞台にして奴隷とか描いているのは、幼い子どもたちが見る絵本としてはいけないんじゃないかということですね。絵本になったときは、現実にあるアフリカの村が舞台になっていて、子どもの名前もタンボ。リアルなお話になっているんです。お話自体も、西洋文明からみたエキゾティズム、イリュージョンとして描かれています。この『おとうさんのラッパばなし』に関しては、ある時代の事実をベースに描かれているし、ほら話としてほらが信じられるくらいリアルではないので、どうなのかという部分もありますね。

オカリナ:今回は半分くらいしか読めてないんだけど、小さい子どもがだれかに読んでもらえば、この本はおもしろいと思う。ただ大人が読むと、楽しめない。大人も子どももおもしろく読める本と、大人が読むとそれほどおもしろくない本があるけど、これは後者。ほら話なら、『シカゴよりこわい町』(リチャード・ぺック作 斎藤倫子訳 東京創元社)の方が、ずっとおもしろかったな。あれは子どもがおばあさんを見るという視点で書かれてるから、おばあさんの欠点も出てくるのよね。この本はお父さんが語っているので、お父さんはすごいだろ、と自分で言ってるだけで、裏がない。だから、最後まで読んでも、お父さん像が浮かび上がらない。そのへんが物足りないのかも。

愁童:ぼくは、しんどくて半分くらいで投げ出しちゃった。子どもたちが3人、お父さんの話を待ち構えているという設定だけど、そんな設定は、今じゃとても通用しない。特に上の子は中学生なんだよ。今読むと、そこに無理を感じないではいられないな。あったかい親子、あたたかい中流家庭のイメージと童話感が微妙にからみあっていて、今読むととてももどかしい。みんなどこかで読んだことがあるような感じがしちゃう。『町かどのジム』(エリノア・ファージョン作 松岡享子訳 童話館出版)に似た展開だけど、説得力とほら話のスケールで負けてるなっていう印象。

ウェンディ:子どもが語ってもらえば入っていける、ってことでしょうかね?

紙魚:この本は、母に一話ずつ絵を見せられながら読みきかせてもらった記憶があります。挿絵も全部覚えていたくらい。でもその後ずっと読んでなくて、今回初めて読み返してみたら、読みにくくてつらかった。きっと昔好きだったのは、身近で絶対的な存在が語ってくれるというスタイルだったからなのかも。今、この本を読むのがしんどいのは、語られる必要性を子どもの頃ほど期待していないからなのかな。当時この本って、装丁が翻訳本のような印象だったんです。他の日本の作品とちがって、本棚からモダンな香りがただよってきたんですね。作者の方も、海外のものに触発されて、お父さんが語るスタイルで書きたかったのでしょうか。そういえば、ダールと同じ題材が出てきましたね、キジ取りです。ダールは生っぽいのに、こちらは違う。それも日本と海外の違いなのかな。今は、どんどん世界が小さくなっていくので、たとえばニューヨークでも、昔思い描いていたニューヨークとは違ってきていると思います。今の子どもたちにとって、遠い世界ってどこなのだろうと考えてしまいました。これからの物語作家は、舞台をどこにさがしていくのか本当に難しいです。

トチ:昔読んだ覚えはあるんだけど、すっかり忘れていて改めて読みました。「こどものとも」でも、66年にはまだ「土人」という表現を使っていたという事実には、あらためて驚きましたね。ダールに比べて、瀬田さんは人柄がいいんじゃないかしら。ほら話と自分では言っているけれど、全然ほらじゃないのよね。ほらの爆発力がない。ダールと比較していちばんおもしろいのは、キジの話。ダールの話だと、銃は使わないけれどキジを「うまい、うまい」と言って食べる。瀬田さんは、殺すことそのものがいけないと言っている。江戸時代ならともかく、今は現実にいろいろな動物を食べているから、大きな子が読むと「なんとなく嘘っぽいな」という感じがするのではないかしら。自分のよって立つ考えがダールははっきり見えてくるのに対して、こちらはあいまい。お父さんと子どものキャラクターが見えてこないのよね。たぶん、お父さんは瀬田さん自身でしょうけど、本当に人のいい、悪気のない感じ。子どもが3人いるけど、これなら、何人いても同じで、それぞれの顔は見えてこない。ダールと比べては気の毒だという気はするけれど。やはり、瀬田さんは、創作の人というより翻訳家だったんだなあと思いました。

ねむりねずみ:荒唐無稽なところがまるでない。安心して読めるといえばそうだけれど、日常から離陸しきれていない。ほら男爵のミュンヒハウゼンのようなほらの力が全然なくて、こぢんまりまとまっている。大風呂敷を広げようとするんだけど、中産階級の品のよさというか、教訓めいている。ほらというのは本来善悪などの教訓的価値をぶっ飛ばしているものなのに、動物と仲良く暮らしていきましょうといった教訓に行ってしまうので物足りない。ロアルド・ダールのキジの話と対照的なのはその点だと思う。瀬田さんの力だけでなく、お父さんと子どものありようが英国と日本では違うんじゃないかなという気もしましたね。お父さん文化の違いかな。ダールからは、男の人の文化がちゃんとあって、それをお父さんが子どもに継承していくという雰囲気を感じたが、日本にはそういうものがないのかなと思って、頼りない気がしました。

オイラ:すごく頭のよい人だと、想像が飛んでいけないのかな。

チョイ:二十何年前に読みましたが、あまりおもしろくなかった印象があります。父ならではの男の怪しさ、魅力をあまり感じないんですよね。瀬田さんは、きちんとしてて、無菌状態というか、正しすぎて、なんだかおもしろくない。父と子の物語では、短篇ですが、筒井敬介さんの『日曜日のパンツ』(講談社/フレーベル館)なんか、いかにも男としての父のおかしさが出ていて好きでした。阿部夏丸さんなんかも、父として子どもに向かって語るとき、おもしろいです。今は、父の子ども時代の思い出話のほうが、ファンタジーになるんでしょうか? しかし、こういう物語って、子どもはおもしろいのかな?

紙魚:私が幼稚園のとき、5歳上の姉は自分で読んでいたんですよ。本棚で背表紙のデザインが際立っていたので、憧れを抱きました。

オイラ:たしかに1970年代だと、描き文字の表紙は少なかったから、目立っただろうなあ。70年代って、こういう本づくり、多かったね。

トチ:現実の方がよっぽどおもしろいのよね。毎日お父さんが背広を着て出かけるけれど、実は泥棒だった・・・そんな話も実際に聞いたわ。世界一周というのも、なんか教養的よね。それから、今読むと、えっ!と驚くようなところもあるわよね。「イスラムの国は泥棒の多い国」と思わせる表現など、この時代だから許されたんでしょうね。瀬田さんの業績は誰しも認めるところでしょうけれど、こういう創作が、今若い女性たちに人気のある似非英国ファンタジー的創作につながっているんでしょうね。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ロアルド・ダール『ぼくらは世界一の名コンビ!』

ぼくらは世界一の名コンビ!〜ダニィと父さんの物語

ねむりねずみ:ダールはあまりちゃんと読んでないのですが、イギリスの子ども向け映画『魔女がいっぱい』や『チョコレート工場の秘密』を見たとき、ぞわぞわっとしたのを覚えてます。大人向けのものを読んだときは、なんて意地悪な人だと思ったり。英国では、映画をテレビ放映するときに、小さい子には見せない方がいいマークがついている。最後にネズミに化けた魔女をスリッパでたたき殺すのが残酷だっていうんですね。それに比べると、『ぼくらは世界一の名コンビ!』は、やりすぎ!という感じがあまりない。でも、ダールが子どもに好評なのは、悪い奴は徹底的にやっつけるという極端なところが子どもの波長に合っているからじゃないかと思います。よってたかって金持ちを徹底的に馬鹿にするあたりも、何もそこまでという感じだけど、それが魅力でもあるんですね。このお父さんは、すごく男っぽくて、男であることを意識しているし、それがいい形であらわれています。もっともそうな顔をしておいて、途中からほら話に離陸するあたり、やるなあと思って読んでました。すごくインパクトがありましたよ。以前、イギリスで目にした、お父さんと息子が歩いている風景と重なって、ここでもいわば男の趣味を次世代の男に伝える様子が描かれているわけだけど、日本ではそのあたりどうなっているんでしょうね。でも、ダールって不気味ですね。

トチ:私はダールは大好き。『あなたに似た人』(ロアルド・ダール作 田村 隆一訳 早川書房)などの大人の小説にある毒みたいなものが子どもの作品にも入っているけど、その毒って現実じゃないかと思うんですね。人生の真実みたいなもの。それが子どもの本にも入っているから、奥行きが生まれる。『お父さんのラッパばなし』では、イメージだけで終わっている話が多いと思うんだけど、これは物語性もあるし、それぞれのキャラクターがよく書けてる。E.M. フォスターは、現実の人間とつきあうより、はっきりとした人間像が描ける小説を書くのが好きだったんですって。人間像を描くのが小説だとすると、人間が書けてないのはなんなんでしょうね? この作品は、牧師さんの奥さんのような脇役にいたるまで、よく書けてるわよね。

紙魚:一気に読むほどおもしろかったです。この物語の感触って、どこかで経験したことがあるなあと感じたんですが、小さい頃に、祖父が勝手に作って語ってくれた物語の感じなんですね。つきはなしたところがなくて、肉の温かさがつきまとうというのかな。たとえば、祖父は布団に入ると、「おいで」ってやさしく呼ぶんですが、布団に入ったとたんに怖い話が始まる。ヘビが寄ってきたり、トラがやってきたり。話に合わせて、布団の中がもぞもぞ動くもんだから、本当にトラがいるのかとものすごく恐かったです。母親が語るような、柔らかい、甘い、優しいものは、そこにはないんですけど。それが男の人しか持てないおもしろさだとしたら悔しいくらい。『ぼくらは世界一の名コンビ』のなかで、いちばんどきどきしたのは、真夜中にダニィがお父さんを助けに行くところ。「気持ちが高ぶるのは死ぬほど怖い思いをするとき」って本文のとおり、その恐怖心がちゃんと伝わってくる。しかも、このお父さんの根底にあるのは、お父さんだけの物差し。世間でどうかということではなく、お父さんだけの価値基準がきちんとダニィに伝えられていく。最初は、このお父さん、道徳的でいい人なんだろうなあと思って読みだしたら、いきなり密猟。でも、密猟は、常識的にはいけないことでも、お父さんにとっては正しいこと。その物差しをちゃんと持ちながら生活していく。ダニィも、それを受け継いでいく。周りの子のお父さんにも、それぞれの物差しがあるんだろうと思うと、お父さんの存在って愛らしく感じられるなあ。

ウェンディ:私も、こんなお父さんがいたらいいなと思いましたね。お父さんはすごいんだとなぜ思うのかが最初わからなかったけど、いずれは父をこえていくんだなと最後は納得していました。一般的に密猟は正しいことではないけど、偽善的なところがない。嘘っぽいところがないのが、きちんと子どもに伝わっていくんでしょう。キジを百何羽隠せるわけもなく、どう決着をつけるのか不安だったけど、乳母車に隠してたとわかったとき、はっとしました。

オカリナ:ダールって、いろんなイマジネーションを変幻自在に扱える人なのよね。しかも、いつもブラックが入ってくる。移民の子だったし、寄宿学校でもいじめられたし、そんな屈折した思いがあったからこそ、物事を裏から見る視線を獲得したんでしょうね。でも、あまりにもイマジネーションが豊かだから、時に悪のりして暴走するんだけど、この作品はうまくまとまってますね。夜、自動車を運転していくところとか、干しぶどうをつめるところとか、キジがぽとんぽとんと落ちるところとか、ひとつひとつのイメージもいい。地主のこらしめ方はすごいけど、じめっとはしてない。そうそう、ダールの傑作といわれる『チョコレート工場の秘密』は、アフリカからピグミーをつかまえてきて工場で働かせたというところが人種差別だと大問題になって、原書では本人が直してるんだけど、日本語版(評論社)はまだ直ってませんね。どうしてだろ? 直してほしいな。

:私もまんまとのせられて読んでしまった。物語性があるし、善悪がはっきりしている。ここに書かれていることは、男から男へ伝える男の文化だなあと思った。今の日本のお父さんはどうなのかな。すっかり男の子になって読んでしまった。とくに後半は、はらはらどきどきだった。おかしいけど最初私はお父さんがこっそり家を出ていくのは、密猟とは思いつかなくて、てっきり誰かほかに家族がいるのかと思ってしまった。清く正しく貧しいながらも楽しく暮らしていたのに、いきなり密猟。悪いことをやるとき、危険とか死と向き合ったときに興奮する感じは、究極の感情。だんだんお父さんがドジをふんだりして、その場にいるような臨場感も感じられました。キジが落ちてくるところは、どすんという音が聞こえるかと思うくらい、入りこんでしまった。ストーリーとしても、快く終わってよかった。村の人たちも皆お父さん側で、悪い人もいなくて、快感がありました。客観的にみると、大人たちが、生っぽく人間らしく描かれてますね。子どもはお父さんを絶対視してる。もしこういうお父さんじゃなかったら、どうなのかなと考えて今のことを思うと、それでもお父さんに対しては、親を自慢したいゆるぎない気持ちはあるのでしょうね、子どもには。私の場合、中学校になる前くらいは、親を絶対と思っていたけど、それ以降はいやなところも見えてきた。先日、映画『千と千尋の神隠し』をみて、両親がいやな存在に描かれてたのが気になったんです。お母さんはキャリア風、お父さんは体操のセンセイ風。それが豚になってしまう。なんでこんなふうに変に描くのかな? 現代の親の象徴としているんだろうけど、千尋はそれでも両親のところに戻ろうと考えている。子どもは、どんな親でも、戻りたい。せつないですね。

チョイ:父親って、子どもにもわかりやすい、目に見える技術があると、それだけで尊敬されて得ですね。凧を作ったり、気球を上げたりもそうだけど、人生を楽しむ術を知っているってことが、息子にとっては、とても魅力なのではないでしょうか。それと、父親なりの価値がはっきりしてるってことも、大切。エンジンを組み立てることを学校より優先させたり、このお父さんは、息子に尊敬されたり好かれたりする要素をちゃんと目に見える形で持ってて、幸せですね。それに対して、人生を遊ぶ術を知らない学校の先生なんかは、割と冷たく描かれています。この物語は 全体に幸福感がただよっていて、ディテールで、きちんとその幸福感が表現されていると思います。馬車の家とか、ナイフとフォークの本数とか、つつましい幸せが細部にあります。父と息子の至福の生活ですね。

ウォンバット:私は、小さい頃1度読んだと思うんですが、あんまりいい印象ではありませんで・・・。タイトルが好きじゃなかったんです。「ぼくら」と「名コンビ」って言葉にまずカチンときちゃって。ヤな言葉だなあと思ったのね、どっちも。今も、いいタイトルとは思えない。それでたしか読んでたはずなのに、どんな話だったかよくおぼえてなかったんだけど、今回最初の方だけぱらっと読んで、キジとりの仕掛けのところで、あー、あの話!と思い出した。全体としてはちょっと斜に構えて読んでたんだけど、こういうところはすっごく楽しんだ記憶がよみがえってきた。

すあま:ダールと瀬田さんを同時に読んで、瀬田さんのほうは、ほら話というよりお父さんが実際に旅をしてきたという感じ。最初はほら話だと期待したので、なんだか物足りない。ダールのほうは、干しぶどうの作業だって実際はできないだろうに、リアリティがある。p11に親子の写真がのっていたりするから、もうすっかり信じちゃう。とんでもない話になっていくのだけど、本当だと思わせて、荒唐無稽になっていくからおもしろい。たしかに、タイトルはやっぱりよくないな。ダニィが主人公になってるところがいいのに。お父さんが仲間とキジとりに行く話で、子どもがその側にいるだけだったらつまらないもんね。

オイラ:うーん、ダールおじさん、やってくれるね。ここまで大人をワルがきに書いたものもないんじゃない? お父さんの悪いこと悪いこと! なのに、子どもは品行方正だよねえ。この本、9刷にしかなってないのにびっくり。やっぱり、タイトルが悪いからかねえ。イギリスは階級社会だから、上の階級をやっつけるのは痛快なんだろうね。それから、自分自身をふりかえって、もう1度親父をやりたいと思った。いたずら心を、子どもといっぱい共有したいと思ったな。ぼくの子どもが小さかった頃、お米をお酒につけてふやかして、鳥に食べさせるのやったことあるんだけど、またやってみようという気になった。いたずら心を刺激されたね。子どももそうだけど、これから子どもをつくるお父さんにも読ませたいと思った。いやね、今回「物語るお父さん」をテーマに決めたとき、なかなか日本の作品でいいものが思いあたらなくて、これはもしかしたら、日本のお父さん自体の問題なのかもしれないなんて話になったんだよ。冗談で、日本のお父さんを代表してごめんなさいと言ったんだけど・・・。ぼくは大好きな作品でした。

チョイ:父親の物語って、日本でも、小さな小品はあるんだけど・・・。だめなお父さんはいっぱい登場しますよね。蒸発したり浮気したり。

オカリナ:ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズのお父さんは、いい意味でも悪い意味でも「家長」だったわけだけど、時代が下って今書かれているのは、ほとんどがだめなお父さんよね。

オイラ:角田光代さんの『キッドナップ・ツアー』(理論社)の、だめなお父さんはおかしかったね。

:重松清なんかは、今のお父さん像をちゃんと描いているんじゃないかな。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ヘルマン・シュルツ『川の上で』

川の上で

ウォンバット:言葉の伝わらない土地での危機的状況に、どきどきしながら読みました。村に上陸するたびに、だいじょぶかしらとはらはら。ただ、どうも私、宣教師ものってしっくりこないところがあって・・・。映画の『ピアノレッスン』なんかもそうなんだけど、ヨーロッパ人がなじみのない国に行ったという設定にちょっと不快感を持っちゃうからかな。あと、徳間書店の児童書って、他のもそうなんだけど、前袖の文句がとってもていねいですよね。だから、本を読む前に、ああこういう本なのかってわかる。自分で書かなくちゃいけないときには、どこまで書いていいものか、いつも迷うんですけど。

モモンガ:私はね、そこ読んじゃうと内容がわかっちゃうから、読まないわ。

ウォンバット:たしかに、読み方が限定されちゃうってこと、ありますね。どういう本なのか、それだけでよくわかっちゃうから。今日みたいに期日までに急いで読まなきゃいけないときは、内容理解に役立って助かるけど。かといって、全然内容が伝わらないのもいけないし。コピーってそのあたりのさじ加減が難しい。ほんと、コピーの作り方って難しいですよね。あと、この本の対象年齢なんですけど、大人の人が読んだほうがおもしろいと思います。ずっとお父さんの視点で書かれてるし。

モモンガ:私はね、この本には物語るということの不思議な力を感じた。行く先々で、ゲルトルートが土地の女の人に介抱してもらいながら話しかけられるじゃない。アフリカの人たちの不思議な力を得て、病気が治っていくんだけど、それは物語る力のおかげだというように書かれている。また、父親も瀕死の娘に物語を語ることで、娘に力を与え、自らも解放されていく。こういう話って、これまでに読んだことがなかったし、不思議な感じがした。出だしは、イギリスの国旗の話でひきこまれていくのよね。でも、途中から、もうそのことは忘れてしまった。なんともいえない不思議な雰囲気があって。目に見えない力が体を治す物語っていうのはほかにもあるんだけど、その中でもとてもおもしろかった。あとね、みんなに聞きたいのは、最後、p140に、動物ショーを見ているゲートルートのことをインド人が「黒いカラスの群れの中にいる白いカモメのよう」と言うところがあるのね。これを、差別じゃないかっていう人がいるんだけど、みんなはどう思う?

オカリナ:これって、お父さんが言った言葉じゃないでしょ。黒にマイナス、白にプラスという概念なしにただ見たままを言ったんじゃないかな。

一同:差別とは感じないけど。いやな感じはなかったな。

紙魚:いやな感じといえば、私は『ダレン・シャン』を読んで不快感を受けました。これ、原題は”Cirque du Freak”「フリークショー」ですよね。今回、読書会のテーマが「ファンタジーと人間の想像力」で、どういう意味なのか不思議だったんですよ。これを読んで、そうか、人間には負の想像力があるということかと思ったくらい。人間の想像力って、質、量ともに拷問を例えに語られることがあるじゃないですか。人間には拷問のような酷いことを考える想像力があるんだと。今回のテロ事件でも、ビルに爆弾をしかけるくらいまでは私でも思いつくけど、まさか飛行機をハイジャックしてビルに突っ込むというという発想はなかなかない。人間を幸せにする想像力もあれば、その逆もあるんですよね。もちろんそのどちらをも人間を持ってはいるんだけど、それをどう描くかは大事なところ。『ダレン・シャン』には、前向きなものが感じられませんでした。しかも、えんえんとフリークショーの描写が続き、おしまいの方で、主人公がバンパイアになるかとつきつけられたとき、あっさりとなっちゃうんですよ。そこに、ぜんぜん葛藤がないんです。こんなに簡単すぎていいの?と思いました。
その後に『川の上で』を読んで、私は、自分が読書に単なる驚きを求めているのではないってことが、よくわかったんです。先ほどからみなさんが言っている、物語の力を私も強く感じることができました。前半、ゲルトルートの描写が極端に少ないんですが、父親がだんだん娘に目を向けるのと平行して、ゲルトルートの形容やら感情やらの描写が増えてきます。自分もまるで船に乗って旅をしているように感じました。

オカリナ:この作品は2つの点でいいな、と思ったのね。1つは、物語の力というものに焦点が当てられている点。p111で、お父さんが「物語にそれほどの力があるとは思えないが・・・」って言うと、人生のベテランらしい女性が、お父さんの語った物語の愛が子どもに伝わったと言うのよね。もう1つは、ヨーロッパの人のアフリカへの目線。貧しくって飢えてる人たちだから、なんとかしてあげようという上からの見方か、アフリカの人のほうが自然と共生していて理想的という見方しかなかったでしょう。でもこの人は、そのどちらでもなく、自分が何を感じて受けとったかという立場で書いている。アフリカの人を理想化してるわけでもない。こういうふうに異文化との出会いを書いた本は、ぜひ子どもにも読んでほしいな。

モモンガ:お父さんが娘に語る話には、お父さんの子どもの頃のことなど、子どもとしてとても興味深いものがありましたね。娘が熱心に聞いたように、読者の子どももひきつけられると思う。だから子どもに読んでほしい本だといえる。

紙魚:そこのところはもっと読みたいと思ったな。物語の力って、力があるって説明するじゃいけないと思う。やっぱり物語の力を体験し、実感できないと。だから、お父さんがゲルトルートに話す物語の部分は、もっと読みたかったし、実感したかった。

オイラ:この本は読んでよかったね。神父さんて、最初のうち偉大に書かれてるんだけど、娘を病院へつれていくあたりからただの男になっていく。あとがきには、神父の功罪も描かれているしね。作者がドイツ人だからか、全体にイギリス人を揶揄しているようにも受け取れたな。この物語のいいところって、人間って変わるんだってことが書かれてるところだね。

オカリナ:でも、アニマがひきとられた人たちはイギリス人で、その人たちはいい人だったとは書いてるよ。

オイラ:そうか。ぼくは、おもしろくないとなかなか最後までたどりつけないけど、これは最後まで読んだんだ。じつは、ライラントの『天国に近い村』は、途中で投げちゃった。『ダレン・シャン』も途中まで。異形の人たちの記述にはついていけなかった。

オカリナ:でも、『ダレン・シャン』は売れてるらしいわよ。図書館でも、ぜんぶ借りられてて棚にはなかったの。

オイラ:こういう奇怪なことをおもしろがる子どもがいるってこと知ってるんだな、版元は。

モモンガ:不快感を味わいたくて読むのかしら。

オイラ:変なものを見たいって気持ちは、あるからね。猟奇趣味だよ。

(2001年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ダレン・シャン〜奇怪なサーカス

ダレン・シャン〜奇怪なサーカス

(『川の上で』を参照)


シンシア・ライラント『天国に近い村』

天国に近い村

ウォンバット:この本は、ものがなしい気持ちになってしまいました。癒してくれようとしてるのかなと思いながら読んでたんですけど、でも結局報われることなく、最後は意地悪しているのかな? と思っちゃった。

オカリナ:天国というものが存在するって信じてる人にとっては、癒されるし報われるんじゃないかな。

ウォンバット:ふだんから天国に行きたいって思って暮らしてる人っていないと思うし、もともと、何かやり残したことがなんにもないって状態で死ぬ人なんていないと思うんです。ここに登場する人はみんな、死んでもやり残したことを埋め合わせようとしてるわけだけど、「もうこれでOK。私の人生、これで納得しました」と思えるようになる人はいなさそう。なんだか虚しくなっちゃって、これって皮肉なのかなとも思っちゃった。

モモンガ:私もそんなにおもしろいとは思わなかったな。同じ作者の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』と似てて、訪れる人のエピソードをいくつか読めば、ぜんぶ読まなくてもいいって感じ。これも、癒しの本って思われてるのかな。

ウォンバット:えー? これで癒されますか? 思わせぶりなのにはずされたって感じがするけどな。

オカリナ:でもこの作家はキリスト教徒だから、その観点で見れば、そうかと思えるんじゃないの?

モモンガ:人間の想像力っていうことで考えると、キリスト教の人たちがみんな天国を信じてるっていうのもすごいわね。

オイラ:相当キリシタンでないと、だめだな。

オカリナ:癒し本というのがあるけど、私は、そんなにお手軽に癒されたりしない方がいいんじゃないかな、と思ってるの。

ウォンバット:どうも癒されたいって人が多いんですよね。どうして人々は癒されたいんでしょうね? 私、そもそも「癒し」っていう言葉、好きじゃない。ちょっと前すごく流行ったけど、いやな風潮だと思ってた。

オカリナ:癒し本なんていっても、ほのぼのする、とか、しみじみするっていうくらいのレベルなのよね。

紙魚:癒しって、本当はきちんと存在しているんですよ。けど、今私たちがかんたんに言葉にする癒しは、商品化された癒しですよね。

ウォンバット:ナンシー関が、「アロマテラピーとかいって匂いかいだぐらいで癒されるのは、疲れてるんじゃないよ」って言ってました。

(2001年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』

ふくろ小路一番地

愁童:この本って、当時は教科書みたいに読んでたんだけど、今回読んで、時代が変わっちゃったなと思ったね。石井さんも、イギリスの下層階級を書いた児童文学の初まりだって書いてるけど、今、下層階級のユニークな子どもが書かれてると言われてもピンとこない。時代のなごりがあったときにはよかったんだけど、今の子どもには無理なんじゃない? こんな変わっちゃった感想をもつとは、自分でも意外だったな。訳の問題もあるけど。

オイラ:原著が出版されたのって、ぼくが生まれたときより前なんだよね。実は飛ばし読みしちゃったんだけど、昔のよき時代らしい、貧しさのなかの良さ、おふくろの存在感、子どもたちの豊かな行動。貧しいからこそ、子どもたちが生き生きと動きまわってるというのがとってもよく出てる。リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』でも思ったんだけど、今のゲームばっかりやってる子は、どう読むんだろう?

ウォンバット:この本、好きだったのに存在をすっかり忘れていたので、今回久々に読むことができてうれしかった。「あー、こんなにいい子がいたじゃないの。忘れててゴメン」と思いました。一か所すごーく好きな場面があって、それはジョーがウィリアムの口に自分の指をスポンと入れるとこなんだけど、そこを読んだら、この本を読んでたころのことがパーッと蘇ってきてね。この「スポン」がカタカナなのもちゃんとおぼえてて感慨深かった。さっき、愁童さんから今の子には受け入れられないんじゃないかというような話が出てましたが、私は無理とは思わないなー。たしかに今回の3冊は古いけど、別の世界のことを知るおもしろさってあると思うから。

愁童:さっきオイラさんも言ってたけど、貧しい時代の子どもの豊かさというのは、ぼくも感じるんですよ。職業による階級なんてのも、昔の日本にもあったしね。しかも学校ではそれがぐちゃぐちゃになって存在してたんだな。そういうセンスで書かれてるんだよね、この本は。今の日本人の感覚からすると、古いアパートにいて、お母さんが夜働いてるなんてのも、あんまりないように思っちゃうけど、実際は多い。だから、それが原因で、ひけめがあったりいじめられたりってこともある。でも、一億総中流って言われれば、子どもたちもそういうもんかって思うじゃない。とすると、今の子どもたちにすっと受け入れられるとは思えないな。

ウォンバット:うーん。でもね、自分とかけ離れていれば、かけ離れているなりに、時代小説を楽しむのと同じようなヨロコビがあると思うの。異世界のように感じながら読むのもまたよし、と思うけど。

モモンガ:当時は、外国の児童文学が今ほどなかったから、はじめての外国のようす、という感じでおもしろく読んだというのもあるわよね。

ウォンバット:パンを食べたというところも、どんなパンなんだろうと思ったりして。

オカリナ:この本は絶版になってるから手に入りにくいんだけど、図書館なんかで借りて若い人たちと読むと、みんな一様におもしろいっていうのよね。ほとんど女の子なんだけど。ここには、ひとつの家族の理想のかたちっていうのがあるのかなと思います。子どもたちは学校や親に一挙手一投足を監視されているわけじゃないし、自分でいろいろ試しては失敗するっていうのがおもしろいんですよ。それと、ここに書かれてる子どもたちは、親が働いている姿を身近に見て育ってるから、家族の基本的なつながりがある。石井桃子さんの訳もそんなに古くないし、エピソードがおもしろいから、この本は復刊してほしいなと思ってるの。

オイラ:やっぱり大家族っておもしろいじゃない。今の若い人がおもしろいっていうのも、その辺じゃないかな。

愁童:出版された当時は理想的な児童文学と言われて、それなりの現実感をもって読んでたんだけど、自分の子ども時代と重なるっていうのとは違う。今読んでみると、現実感がないんだな。

トチ:ここに描かれているのは、物質的な幸せよね。ケーキをもらってうれしいというような、わかりやすい幸せ。同じ時代なのに、ケストナーの『点子ちゃんアントン』のほうは、物質的にみたされてるだけじゃ幸せじゃないって書かれてて、ここが新しいところよね。

オカリナ:うーん、物質的な幸せが描かれているっていうよりは、物がないから、ささやかな物でも幸せになれるってことが描かれてるんじゃない? その辺はローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原」シリーズと同じだと思うけど。点子ちゃんは家庭的に幸せではなかったけど、ふくろ小路の子どもたちは家庭的には幸せなのよ。

トチ:でも、雨にぬれちゃって、お金持ちの家に行ってフランネルを着せてもらうなんてくだりは、物質的な幸せが描かれていると感じましたね。

モモンガ:子どもには、そういうのがわかりやすいのよね。

愁童:帽子買ってもらうじゃない。でも、海に流されちゃって。結局返ってくるんだけど、ここらへんは、昔の家では非常にリアリティあったんだよね。

モモンガ:帽子のところで、みんなと違う古い紺のをかぶっていかなくちゃならないなら、もう生きちゃいられない、っていう気持ちは共通よね。

一同:うんうん(とうなずく)

オカリナ:たしかに自分の体験と重なるからおもしろいっていう本もあるけど、私は子どものとき、自分とはうんと違う人生を送っている人のことを読んでみたいっていう気持ちが強かったの。状況や人物が目の前にうかびあがるように生き生きと書かれてれば、実体験とは重ならなくても、おもしろく読めるんじゃないかな。

:兄弟が多くて、両親が働いていてっていう状況に自分を重ねる一方で、今の子どもたちにどう読まれるかなって疑問をかかえながら読んでました。図書館の仕事をしていたとき、『ふくろ小路一番地』は印象にないんだけど、『やかまし村の子どもたち』と『点子ちゃんとアントン』はいっつも貸し出し中でした。学校図書館で実際にいつも読まれてる本なんです。実生活で制約されてる子どもたちが、気持ちを一緒に遊ばせることができる本なのかなって思ってはいました。

紙魚:この本、昔、確かに読んだはずなんだけど、全然覚えてなくてびっくり。たぶん子どものときは、主人公の子どもたちに自分を重ね合わせて読んでたんだけど、今読んでみると、おかみさんに感情移入してたりってことがありました。小さいときは、このお母さんのこと、なんとなく邪魔だなあって感じてたと思うんですよ。お母さんがいい人だって思うようになったのは、大人になっちゃったってことなのかな。いいくだりがあるんですよね。「赤んぼのことでは、若い男は信用できない」なんてとこ、うんうんなんてうなずいちゃったりして。

オイラ:今のお母さんはあまり怒らないから、こんなふうに生き方を正そうとして怒るお母さんに、子どもは憧れるかもしれないね。

:イギリスの文化がハイカルチャーからローカルチャーに移行する時点で出てきた画期的な作品ですよね。労働者階級に光があたって、読み手も広がっていったんですね。下層の人たちの生活のバイタリティやリアリティが描かれ、ユーモアもあるっていうことで、時を超える価値をもっているんだと思うの。私は帰国子女で、最初英文で読んで、そのあと邦訳で読んだんですが、ふしぎとギャップがなかったんですよ。そういうのはなかなかありません。非常に好きな作品でもあるし、評価したい作品です。現実感覚が遠ざかったとしても、時をこえたリアリティはぜったいにあるはず。これは今回の3作を通して言えることだと思います。

オカリナ:バイタリティやユーモアは充分感じられるけど、労働者階級のリアリティが描かれているかどうかという点は、イギリスではいろいろ反論がありますよね。だからイギリスでは、今の子どもに薦める本のリストにはあんまり入ってこない。

トチ:私は、大人になってから読んだので、子どものとき読んだらどれだけ熱中したかわからないけど、作者の位置、視点が、労働者階級に立ってなくて中流とか上流から見ているのが気になるところ。これくらいの古さのものって、難しいのよね。もっとずっと古い作品だったら、「この時代だったら、作者がこう書くのも無理はない」と思うことができるけれど。やっぱり、私はひっかからずには読めないっていうところが、どうしてもありますね。

愁童:若い頃炭鉱にいたとき、白いヘルメットとかかぶって東大生がくるんですよ。おばさんがおにぎりなんかで歓待するんだけど、実際には、彼らは帰ってから一流会社に入っちゃうんだよね。産学共闘っていうのは幻想なんですよね。今読むと、この本にもそれと似たような違和感がありますよね。ただ、以前「こだま」の同人で薦められて読んだときは、おもしろかったから、こういうふうに書かなくちゃって思いましたよね。

トチ:その頃、日本でも柴田道子さんの『谷間の底から』なんかがもてはやされてましたよね。

オカリナ:柴田さんの作品は、またこれとは違うと思うのよね。普遍的なバイタリティというところで、私はこの作品は評価はできると思うの。イギリスでは階級によって、食べるものも、話し方も、行く学校も違うけど、日本ではそう違わない。だから、日本の読者の方が「労働者階級をきちんと書けているのかいないのか」という問題に目を奪われずに、大家族のにぎやかな暮らしや、子どもの視点におもしろさを見いだせると思うの。ただし、小説家が落としたお金をお父さんが届けたとき、小説家は「ひとりあたま五シリングで、一生の望みをとげ、これほど幸福になれるとは・・・五シリングで! なんてことだ! ラッグルスさんをあわれんだらいいのか、うらやんだらいいのか」と思ったって書いてあるんですけど、この辺は作者の視点が小説家の側に立ってるような感があって、ちょっとざわざわっときますよね。

モモンガ:この本は、貧しい労働者階級を書いてるんだけど、当時は、悪いお金持ちを貧しい人が見返すという類の物語が多かったですよね。でもこれは、貧しい側がちっとも卑屈じゃない。お父さん、お母さんは非常にまっとうな考えをもってるし、貧しいとか貧しくないとは関係ない、普遍的なよさを持ってる。あとはね、私はこの本で、子どものかわいさってものを理解することができたんです。だからこの本、今でも好き。それに挿絵がとてもいいの。挿絵にどの場面かっていいうキャプションがついてるのもいいわね。あとね、(手もとの画集を見せながら)私はイギリスの画家サージェントの「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の絵が大好きで、長女のリリー・ローズの名前の由来がこの絵からきているとわかったとき、それはそれはすごくうれしかったの。

オイラ:そうそう、この本には「待って得た喜び」っていうのが書かれてるでしょ。映画のとことかね。僕らの子どもの頃ってたくさんあったんですよ。帽子を、さんざん待ってやっと買ってもらっても雨の日には絶対かぶらないとかって、本当にあったんですよ。お金がなくてね、ハチに三十何箇所もさされても、病院に行かない。かわりに祈祷するところにいって、お米でおまじないしてもらうっていう生活なんですね。懐かしい場面がたくさんあったなあ。

紙魚:今の幼児だって、大人から見ればたいしたものでないのに、待っても待っても、ぜったいこれじゃなくちゃだめなんだっていう強い気持ちがあると思うな。

オカリナ:3歳くらいまではそうだけど、それが小学生にあがったころから変わってくる。

オイラ:このところぼく、実感してるんだけど、やっぱり家庭かな。そういうのって、家庭によって違うんだよね。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


リンドグレーン『やかまし村の子どもたち』

やかまし村の子どもたち

コナン:ああ、こんな時代があったんだなーと思いました。今回は初参加なので、このくらいです。

:リンドグレーンは、冒険小説としてのおもしろさがあるんですね。映画化されたりするのも、やはりその要素があるからでしょう。

紙魚:幼い頃、リンドグレーンと名のつくものは、片っ端から読んだんですけど、そのなかではやっぱり『長くつ下のピッピ』が最高に好きだった。もう何度くりかえし読んだことか。今回『やかまし村』を久々に読んでみて、「〜のつもり遊び」とか、男の子をちょっと嫌う気持ちとか、いろいろな細部でどうしてこの人はこんなに子どものことをよく知ってるんだろう! と感激してしまいました。秘密のほら穴の章の最後「そこは、わたしたちの秘密です。わたしたちは、だれにも、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいにおしえません。」というくだりも大好きです。秘密の場所をわざわざ「おしえません!」と公言する気持ちはとってもよくわかります。大人だったらあえて言わないことですよね。物語のなかに出てくる大人たちも、子どものやりたいことを決して否定しない。大人と子どもの関係性を説くことなく、子どもの世界のまま物語が動いていくところもすばらしい! でもどちらが好きだったかときかれれば、『ピッピ』ですけど。

オカリナ:『やかまし村』は幼年童話よね。それに大して『ピッピ』は、自分で読む本という違いがあるんじゃないかな。

モモンガ:図書館では、まず『ピッピ』を薦めてみる。これは、たいていどの子も好きになる本だから。それで、リンドグレーンをもっと読みたいというようだったら、次は『やかまし村』を薦めます。

:幼児のまわりの生活に輝きをあててますよね。まだ自分の世界が外のものではなくて、身近にあるという子どもたちには、もってこいの物語。

スズキ:子どもの日常が描かれていて、エピソードのオチが笑えますね。6人子どもが出てくるんだけど、1人ずつの特徴があまり浮かびあがってこないから、ひとかたまりに見えちゃう。絵も、似たように描かれてるし。とにかくかわいらしいお話だし、ぜひ子どもの本棚に置いておきたい本なので、訳を見直してもらって、感情移入しやすいように改訂してほしい。

モモンガ:そうね、確かに個人個人っていうよりは、男の子対女の子ってかたまりなのよね。

オカリナ:私もリンドグレーン・ファンなんだけど、『ピッピ』よりもっと好きなのは、『やねのうえのカールソン』とか『ミオよ、わたしのミオ』。どの作品が好きかっていうのは、はじめて読んだ年齢もあると思う。私は大人になって読んだから、『やかまし村』については、そうそう子どもの頃こうだったよね、という感想になっちゃうのね。さっき裕さんが冒険の要素って言ったけど、この『やかまし村』の子どもたちの行為を冒険と思えるのは、小学校低学年までじゃない? それ以上の年齢だと、冒険物語としては物足りなくなってくると思う。

ウォンバット:私は、リンドグレーンはあんまり印象ないんです。今のオカリナさんの話で、私も読むのが遅かったのかもと思いました。1回読んだんだけど、いまひとつ愛着がもてず、そのままになってた。だけど、今回読んでみたらおもしろくて、とってもよかった! ちょっと話はずれますが、ちょっと前テレビで、江川紹子さんがリンドグレーンに会いにいくという番組をやってたの。大好きだったんですって、「ピッピ」や「やかまし村」。それで、この村へ行って牛を追ったりするんだけど、もう作品世界そのものという感じの、とても美しいところでした。結局、リンドグレーンさんは高齢だから会えませんということになって、お花とお手紙をお付きの人に託すというところで終わったんだけど、江川さんの思い入れが伝わってきて、とってもよかった。私、前から江川紹子さん好きだったんですけど、身近に感じられてますます好きになってしまいました。

コナン:北欧のものを読むと、日本とはちがう感性があるなと思いますね。

オイラ:ぼくはね、リンドグレーンという人は、なんてやさしいまなざしをもっているのだろうと思いました。まず舞台設定がとてもいい。子どもに創意工夫をさせる舞台設定をしているのが実にいいでしょ。子どもたちが生き生きとしてる。訳文にもぼくは感心してしまったんですね。声をあげて読んだら、気持ちがいいんですよ。オーソドックスな「ですます調」の気持ちよさを久々に感じましたね。しかも、いちばん最後の1行にぐいぐいとひっぱられました。「夏だって、冬だって、春だって、秋だって、いつもたのしいことがあります。ああ、わたしたちは、なんてたのしいことでしょう!」大人とは違うなー。ぼくだって、子どものときはこういうこといっぱいしたんだ。干草に寝たりね。なんとか、子どもたちにこういう世界をとりもどしてあげたいと思いましたね。

オカリナ:そうそう、クリスマスの場面でも「わたしは、たのしいクリスマスがむかえられると、ちゃんと自信がありました」って、子どもが言ってるのね。大人にしっかりと守られてるからなんだろうけど、子どもが安心して楽しんでいる感じが伝わってきますね。

オイラ:ぼくはね、大人に読ませたいと思いましたね。

愁童:今日の3冊のうち、『やかまし村』を最後に読んで、ほっとしましたね。ほかの2冊には、世代の相違を感じてたから、大塚勇三さんの訳でホッとしたんですよね。リンドグレーンの目線にもね。『ふくろ小路』なんかは、理論が先に立ってるんだよね。それに比べて、『やかまし村』は、子どもと同じ高さの目線で素直に書いてるって感じがしたね。戦後2年目に書かれてるんだけど、向こうでは子どもの位置がきちっと認識されてたんだね。オイラさんといっしょで、女の子が部屋をもらうなんてとこも感動的。あの年代で自分の部屋をもらうというのはこういうことなんだよね。

モモンガ:こんな訳文って、そうないんじゃないかな。むしろ私はそれが好き。「つまり、こうなんです」「なんてたのしいことでしょう」というような、独特の訳文。一つ一つの文が短くて、子どもの思考に合っていて。

オカリナ:でも、「〜しちまいます」なんていうところは、時代がかってるかな。

:モモンガさんが『ピッピ』より『やかまし村』が好きっていうのは、どうして?

モモンガ:なにしろ好きでくりかえし読んだのよ。私は冒険小説というよりも、子どものこまこました、ちまちました世界の喜びがかかれてるところに、ひかれたの。見開きの絵のなかに、3軒の家が並んでいて、ここでの毎日の暮らしが描かれる。そしてこの本も、子どものかわいらしさがたっぷり味わえる。子どもだけの、子どもらしい世界がある。この本って、私が子どもの本に関わろうと思った原点かもしれない。リンドグレーンは、まさにこの物語と同じような子ども時代を過ごしてて、その頃のことをこと細かに記憶してるんだって。彼女の言葉に、こんなのがあるので読みますね。「二つのことが、わたしたちきょうだいの子ども時代を幸福なものにしました。安心と自由です。おたがいに愛し合う親がいつもいるということは、わたしたちにとっては安心を意味するものでした。必要なときにはいつでもいてくれるけれども、かれらは危険を伴わないかぎり、わたしたちが自由に幸福にまわりのすばらしい自然の遊び場を巡り歩くのを許してくれました。もちろんわたしたちは時代の伝統として体罰を受けたり、母の厳しいしつけを受けましたが、遊びに関しては自由で、監視を受けることはありませんでした。そして、わたしたちは、遊んで遊んで遊びました。『遊び死に』しなかったのが不思議なくらいでした。」(『アストリッド・リンドグレーン』三瓶恵子著 岩波書店より)

オイラ:さっきの『ふくろ小路』の方は、灰谷健次郎さんの視線に似たものを感じない?

一同:あー、そういえば。

愁童:話は戻るけど、『ふくろ小路』のなかで、奨学金もらって農業やりたいっていうところあるじゃない。あそこで、奨学金もらって農業? ってひっかかったんだよね。こんなちっちゃい子が、農業やりたいっていうのは子どもの発想じゃないんじゃないかな。

ウォンバット:単に、街の子だから、そういう暮らしに憧れてるのかと思ってた。

愁童:普通なら、勉強してもっと物質的に楽な生活をしたいっていうのが当時の考え方なんじゃないかな。

オカリナ:この時代って、化学肥料とか農業機械の研究なんかが進んで、新しい近代農業に希望が持てたんじゃないのかな? 『やかまし村』と同じように、アーサー・ランサムなんかも、遊んで遊んでっていう子どもを書いてますよね。でも、『やかまし村』も『ツバメ号とアマゾン号』も、登場する家庭はお手伝いさんがいるような余裕のある家庭で、だからこそ子どもは幸せを確信できるし、子どもらしい子ども時代が保証されてたのかもしれない。『ふくろ小路』と単純に比較することはできないと思うのね。それに、私は『ふくろ小路』についても、子どもの目線に立って描かれていると思ったけどな。

愁童:日本では童心主義っていうのがはびこった時期があって、そんなとき『ふくろ小路』みたいのが登場したもんだから、これこそ児童文学だってもてはやされたんですよね。少なくとも大人の側には、労働者の生活に光を当てるっていう意識があったのは確か。

:宮崎駿さんが「今の時代、遊びが欠落していて、想像力がなくなると言われてるけど、そうじゃないんじゃないか」って言ってるんですね。彼の作品のなかには、飛ぶシーンが多く出てきます。宮崎さんがめざしているのは「身体性の回復」なんですって。『やかまし村』にも、それに通じるところがあるんじゃないかな。

愁童:『千と千尋の神隠し』に、たとえば階段をのぼる子どもが出てくるんだけど、1段目を右足で2段目を左足っていうんじゃなくて、右足を1段目においたら左足もその同じ段にまず置き、それからまた右足を2段目にかけるっていう姿を、宮崎駿はちゃんと描いてるんだよね。あの映画見て、今の児童文学の作家が失ってしまった身体的リアリティが、ここにはあるなと思ったね。たとえば今のゲームなんて、どんな高い階段でも、昇るのも降りるのもとんとんとんってすましちゃう。児童文学も、それに近くなって「身体性」が消えちゃってるんだよな。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』

点子ちゃんとアントン

:ケストナーは、大人と子どもを対等に描こうとしているし、時をこえるものをかならず描いていくという点では評価はしてるんだけど、私は感覚的にどうも合わないんですね。

トチ:ケストナーは子どものときにいちばん好きな作家だったから、きちんと批評できないかもしれないけれど・・・現代のものと比べて、文学の形としては古いかもしれないけれど、作家の立っている位置に現代的なものを感じたわ。お母さんの誕生日のエピソード、子どものときはアントンがかわいそうと思ったけれど、大人になった今読んでみて、お母さんの気持ちに共感できるものがあって、新鮮な感じがしました。訳については、高橋訳が頭にこびりついているために、池田訳はなんだか饒舌な感じね。良い悪いは別にして、初めて読んだ訳でその本のイメージができてしまうってこと、よくあるわよね。

モモンガ:子どもの頃に読んだときは、ケストナーの作品って独特な雰囲気を感じてた。著者が、私は君たちの味方だよって顔を出すところが、ほかの本とは違う感じを受けたの。好きで端から読んだわけでもないんだけど、楽しく読んだ。後になって、ケストナーがマザコンといわれるほど、お母さんとの結びつきが強くって、母と息子の緊密な関係があったということを知ると、なるほどと思ったりして。あと、「点子ちゃん」っていう名前の訳がすばらしいと思うのよねー。これ以外には考えられない! 日本でもロングセラーになってる秘密のひとつだと思う。

愁童:ぼくにはね、ケストナーっていうのは、なんとなくへへーっとひれ伏さなければならない存在に思えちゃうんだよな。大人が顔を出すのは、嫌だな。著者の声を出すんじゃなくて、作品のなかで勝負しろよと思っちゃうんだよね。映画の方観ちゃったら、これ読む子いないんじゃないかな。以上!

オイラ:高橋訳もいいじゃない。ケストナーの力で読ませるんだろうけど。彼は、子どもの本の書き手として何が大事かときかれて、子どもの頃のことをどれだけ覚えてるかだと明言している。核心をついていると思ったし、ディテールが豊かに描かれてるから、読んでて子ども時代の感覚を思い出すところがいっぱいあった。

コナン:あたりまえのことをあたりまえに書いてる感じですけど、子どもの頃を思い出しました。最近、入社2年目で、子どもの頃を思い出すという機会が増えましたね。

ウォンバット:やっぱりケストナーって大きな存在で、今新しいものを読むときにも一つの基準になっている作家だと思うんですけど、私も愁童さんと同じで、作者がいちいち顔を出すのが、ちょっとね・・・。押しつけがましくて嫌。点子ちゃんのキャラクターも好きだし、お話はおもしろくて物語部分はとってもいいんだけど。点子ちゃんと楽しくやってるところにおじさんが出てくると、さーっとさめちゃう。じゃまされたって感じ。「もうおじちゃん、勝手に近寄ってこないでー」と言いたい。そもそも前書きもきらいだった。

オイラ:その部分、ぼくはユーモラスに感じたの。

こだま:大人の書き手が登場すると、子どもの読者が安心するってことはあるわよね。

オカリナ:そうかな?

モモンガ:私は、作られたお話を大人が楽しませてくるって感じがしたな。

愁童:作られたお話ってわりには、点子ちゃんのキャラクターはよく書けてるよね。

オカリナ:私は子どものときに読んで、自分が点子ちゃんみたいな子じゃなかったから違和感を感じたの。この子って、饒舌でおせっかいでしょ。リアリズムの話って、自分と違うタイプの強烈な個性の子が主人公だと入っていけない場合があるじゃない。それに、高橋訳だとユーモアが感じられなくて、おもしろくなかった。歯を抜くときに犬が動いてくれないなんていうエピソードは楽しかったんだけどね。おじさん(ケストナー)が顔を出すところは、うるさいなって思ったわね。アントンがお母さんの誕生日を忘れてて自責の念に駆られるとこなんか、私はアントンがかわいそうでたまらないのに、ケストナーは「考えなしに逃げだして、お母さんをおいてきぼりにするのは感心しない」とか「人間は分別を失ってはいけない。耐えしのばなければならない」なんて、最後に付け加えてる。ヤな感じ。おまけに、登場人物の中でどの人がいい人間で、どの人が感心しないかってことまで、作者が顔を出して言っている。それに、『ふくろ小路』を同時に読んだから階級っていうのを考えちゃったんだけど、階級の低い女中の「でぶのベルタ」なんか、「てんでだめな人だけどがんばりました」っていう書き方よね。それに、貧しいアントンとお母さんは最後には点子ちゃんの家に丸抱えになるんだけど、「この結末は正当で幸福です」ってケストナーは断定してるのよ! 思春期前の男女二人の子どもの友情っていう部分は、じょうずに描かれてるけどね。
映画は、今の時代に合うようにシチュエーションを変えてましたね。映画と原作の違いは、(1)原作ではアントンと点子ちゃんの通う学校は別で、点子ちゃんは私立の女子校に行ってて、自家用車で送り迎えされてる。映画では二人は同じ学校に通っていて、同じことを見聞きしている。(2)点子ちゃんのお母さんは、原作では専業主婦だけれど、映画では第三世界の子どもたちを援助するボランティア団体の役員。(3)点子ちゃんの家庭教師は、原作では悪漢の婚約者を持ったドイツ人だけれど、映画ではフランス人で、悪漢の婚約者はイタリア人のウェイター。(3)原作では家庭教師が点子ちゃんに乞食の真似をさせるけど、映画では家庭教師がイタリア人と遊んでいる間に、点子ちゃんが一人で地下鉄の駅で歌をうたってお金をかせごうとする。(4)アントンのお母さんは、原作では派出婦だけれど映画では元サーカス団員で今はウェイトレス。(5)アントンの家では、原作ではお母さんの誕生日を忘れてたことがきっかけだけど、映画ではお父さんを捜しにいく。(6)いじめっ子は、原作では点子ちゃんの家の門番の子だけど、映画では点子ちゃんやアントンと同じクラスの子。(7)結末は、原作ではアントンのお母さんが点子ちゃんの家の使用人になるけど、映画では点子ちゃんのお母さんが失礼な態度をわびてアントンのお母さんと友だちになる。
訳に関しては、高橋さんのは「よござんすか」とか「大いにおもうしろうござんしたね」なんていう部分が古いし、全体に堅い感じで、私は好きになれないな。新しい訳にしてよかったと思う。

オイラ:高橋訳にも、池田訳にも同じ雰囲気があるのは、ケストナーの文体が軽快なせいだよね、きっと。

愁童:アントンがお母さんの誕生日を忘れてて家出するってとこは、どうも腑に落ちないな。

オカリナ:アントンとお母さんが再会したときの喜びようを見た点子ちゃんが、自分の家庭と引き比べてさびしい思いをするっていうところ、映画ではとても重要な場面だったけど、原作では書かれてないのよね。

:私は点子ちゃんに魅力を感じたんですよね。私は子どものとき、普通にしなさいとか、ちゃんとしなさいって、しょっちゅう大人に言われたんだけど、どういうのが普通なのかよくわからなくて、コンプレックスになってたんです。大人になっても、普通にしなくちゃ、ってずっと思ってて。でも、この本読んだら、点子ちゃんて私と同じじゃないですか。なんだ、私だってあれでよかったんじゃないかって、はじめて思えたんですよ。で、自分の言葉でしゃべれるようになった。そういう意味でも、『点子ちゃん』はすごく好き。

スズキ:映画を見にいったら、子どもたちがすごくかわいかったんで、これは読まなくちゃと思ったんです。実際読んでみたら、アントンが誕生日さわぎで家出しちゃうところが、思ってたアントンと違う。もう少し天真爛漫でもいいのにって思いました。原作では、アントンがあまりにもいい子の見本みたいで、鼻についたんです。点子ちゃんにはキャラクターとしての魅力がありました。名作は敬遠してたけど、ケストナーは思ったより気軽に読めたという感じです。

紙魚:幼稚園の本棚にあったんですよね。いちばん上の左端に石井桃子さんの『ノンちゃん雲にのる』と並んで。棚の低い方には、園児でも読める絵本があって、年齢があがるにつれて徐々に上の方の棚に手を伸ばしていくんです。だから、『点子ちゃん』を読むっていうのは、私の憧れでもあったんですよね。象徴的な本でした。読んでみたらおもしろいんだけど、ケストナーが、時々口をはさんでくるところは、じつは読みとばしていました。子どものときって、物語の部分とそうじゃない部分を交互に読むのって、苦手でした。注を読むのだって、リズムがくるってだめだったくらい。

オイラ:ぼくはユーモアを感じて、ああ、ケストナーおじさん、はいはいって感じで読めたけどな。

オカリナ:19世紀だったら、子どもの本に教訓臭っていうのもわかるけど。20世紀なんだからさ。

モモンガ:教訓臭っていうより、ユーモアなのよ。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


リチャード・ペック『シカゴよりこわい町』

シカゴよりこわい町

愁童:本を読む楽しさが感じられるね。作家って人をだます力次第だと思うんだけど、これは楽しくだまされる感じで、おもしろい。与太話みたいなストーリー展開なんだけど、妙にリアリティもあって・・・。訳もうまいのかな。簡潔な文章で快調に進んでく。原作の文体や雰囲気がよく理解されているんだろうな。心理描写ではなくて、行動をきっちり書くことで人物がしっかり鮮明に見えてくるよね。妹の描きかた、兄妹の距離感が絶妙。さらっと書いているんだけど、イメージははっきり浮かぶ。シャーリー・テンプルなんかの話ともからめて、さりげなく当時の女の子としての妹像を伝えてる。うまいなと思った。このおばあさんも恐いなと思わせながらも、最後の輸送列車の章で、孫への気持ちがストレートに描写される。やられたな、うまくだまされたな、という満足感で読了。これを読めてよかった。

ウォンバット:やっぱり強烈に風変わりな人がいろいろしでかしてくれる話って、おもしろくて好き。この物語は、それがおばあちゃんっていうところがいい! それで、どかんどかんと事件が起こるんだけど、語り口は淡々としていて、苦笑という空気が心地いいし、笑いをかみころしてるというトーンがよかったです。いちばん好きだったのは、「ブレーキマンの幽霊」。しかけもよく、気分もよく読めました。さっき愁童さんが、きょうだいの描き方がいいと言ってたけど、私も同感! 「お互いがいないかのようにふるまってた」というところなんか、特にね。きょうだいの関係をとってもうまくあらわしてると思った。この章では、兄(わたし)が13歳で、妹(メアリ・アリス)が11歳、バンデーリア・ユーバンクスは17歳なんだけど、メアリ・アリスって、なんておませさんなんだろう。11歳とは思えない、大人っぽさ。ああいうおばあちゃんの孫だから、やっぱり血をひいているのかな。後書きによると、メアリ・アリスを主人公にした物語も書いているということなんだけど、そっちもおもしろそう。一箇所だけちょっと、ん?と思ったところがありました。p126の駆け落ちする二人が列車に乗り込む場面なんだけど、「ふたりは手に手をとり、線路の反対側から機関車に近寄ると、特別客車後部の屋根のないデッキによじのぼった」。この「線路の反対側」っていうと……

トチ:線路をはさんで、ブレーキマンの反対側ってことでしょうね。

ウォンバット:そういうことねー。んー、考えたらわかるけど、一瞬あれ? と思っちゃった。とはいえ、ひっかかったのはそのくらいで、全体的には、読みやすかった。

スズキ:久々にいいお話を読んだという感じです。そもそも、時代も一昔前だし、お祭りとか、ショットガンとか、なじみがない世界なんだけど、決して遠い世界には感じないんですよね。それは、このおばあちゃんが魅力的で、人間として惹かれるからこそなのかなと思います。川で漁をするエピソードでは、自分では違法な事をしておきながらも変なおじさんたちの弱みをにぎったりして・・・。どんなルールでも、人の命を助けるためだったら、このおばあちゃんは無視するの平気。たとえ他人が変な目で見ても、人間が生きるための基本的な分別をもたなければいけないなと思わされました。キャラクターが生き生きと読みとれるのは、訳文のうまさもあると思います。でも、題名はちょっとよくないんじゃないかな。もっとすがすがしい感じが伝わってくる題名にしてもよかったのでは?

オカリナ:シカゴよりおばあちゃんやその周辺の方が怖いってことよね。

スズキ:私はタイトルでは買わないな。内容を知ってたら別だけど。

紙魚:主人公が「わたし」と書かれていたので、すっかり女の子だと思いながら読み始めたら、10ページに「わたしのほうが〜男の子だというのに」とあって、えー男の子だったんだ、とわかったんですね。でも、不意をくらったのは、そんなことじゃなくて、やっぱりおばあちゃんの豪快さ。エピソードごとに、ぶんぶんとおばあちゃんのキャラクターが、こちらに迫ってくる。この本は、全体的な流れは決して乱暴な感じはないのに、ところどころ、容赦なく人を酷評するような、罵るような形容がでてきますよね。でも、それもみなあっぱれという感じで、ぜんぜんいやじゃない。言葉って、ひとつだけ取り出すときつくても、全体の中での使われ方しだいで、印象がぜんぜん違うんだなと実感しました。おばあちゃんのことが大好きになった章は、スグリパイの「審査の日」です。これまで、力技ともいえる方法で、なんでも乗り越えてきたおばあちゃんが、なんともしおらしく見えてしまったのでした。とはいっても、こんなことでめげるような人でもないんですけどね。このおばあちゃんには、自分だけの物差しがあるんですよね。町の人の常識でもなく、強者の論理でもなく、自分の判断基準がちゃんとある。そこがとてもよかったです。きっとそれらを孫たちが受け継いでいくのでしょう。最後の輸送列車のシーンは格別でした。すかっとして、じーんとくる物語でした。

トチ:私もとてもおもしろかった。訳文も、訳者がのめりこんでいるというか、本当に原作者に代わって、原作者の声で語っていて、優れた訳だと感心しました。愁童さんが人間を行動で描いているとおっしゃっていたけれど、私もそう思いました。ハリー・ポッターみたいに平面的ではなくて、立体的な人物像なのね。善悪という尺度だけでは、測れない。本作りもこれだったらいいですね。『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳 東京創元社)と同じ会社が出したとは思えないわ。『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)に通じる、アメリカの健康的な児童文学。『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)は、あまり健康的な感じはしなかったけれど。

オカリナ:おもしろかった!! 最初は、ほら話なのかな、あるいは死んだ人が本当に生き返るスーパーナチュラルな話なのかな、と思って読んでいったんだけど、きちんと現実につながっていて、いいですね。強面の豪傑おばあちゃんなのに、最後までくるとまた違う面が見えたりして、うまい作者ですよねー。この作家は、要注目! と思いましたね。表紙の絵は、原書そのままらしいですね。これなら、『肩胛骨は翼のなごり』と違って、子どもも読みたいと思うかもしれない。

トチ:どういう子が読むのかしら? かなり読書力のある子でしょうね。

オカリナ:子どもって、わりあい倫理観が強かったりするから、こんなおばあちゃんダメだっていう子もいるかもしれませんね。

トチ:でも、世界が広い作品よね。

オカリナ:おばあちゃんがトリックスターなのよね。こういうおばあちゃんを、日本の作家も書いてくれるといいですね。

愁童:子どもから見て、不可解なおばあちゃんているでしょ。ちょっと思い出したのは、『西の魔女が死んだ』(梨木香歩著 小学館)。あのおばあちゃんに対する思い入れとくらべたら、なんともこれは健康的だね。モラルを押しつけるでもなく、「嘘も方便」みたいな。たとえば、エフィの描き方。おばあちゃんの宿敵として登場させてるんだけど、不当に加えられる権力的、差別的な攻撃に対しては、おばあちゃんがその宿敵をかばっちゃう。だけど、それが正義だから、というような書き方じゃなくて、おばあちゃんの不可解な性格から来るように読み手に思わせておいて、結果として、生き方の根っこからくるものなんだと感じさせる。一本筋が通ってますよ。

ウォンバット:日本の作品には、なかなかこういうおばあちゃんって出てこない気がする。

トチ:日本では、『ばばばあちゃん』シリーズ(さとうわきこ作 福音館書店)のように、絵本によく元気のいいおばあちゃんが出てくるけれど、あれは子どもがおばあちゃんの姿で登場しているんだものね。

愁童:同じようにやや古い時代を描いた『悪童ロビイの冒険』(キャサリン・パターソン著 岡本浜江訳 白水社)は途中で読めなくなっちゃった。常識とか枠組みが古過ぎる感じで、今さら読んでもしようがないかなんて思ってね。こっちは、古い時代を書いてるけど、そういうのをつきぬけるおもしろさがあったよね。

スズキ:作家がいっしょうけんめい生きているって気はしますよね。

紙魚:たとえば明治生まれのおじいちゃん、おばあちゃんなんか、常識からつきぬけているところ、ありますよね。私の祖父母は、ふだんは温和なやさしい人なんでけど、プロレスが大好きだったんですよ。テレビでプロレスが始まると、二人して血気盛んに大声で応援するんです。血しぶきがあがったりすると、もっともっと興奮高まったりして。幼い頃だったから、なんでこんな恐いものが楽しいんだろうと不思議だったし、その時ばかりは、祖父母が別の人間になっちゃったような感じがしました。プロレスだけでなく、人にどう思われるかとかはどうでもよくて、自分の好きなものをこよなく愛するという姿勢があったと思います。俺がいいと思ってんだから、それでいいんだみたいな。

ウォンバット:あっ、私も明治の人には何かある!と、ずっと思ってた。といっても、私の知ってる「明治の人」は、藤田圭雄さんや高杉一郎さんくらいなんだけど。どこか共通する空気を感じるの。なんかこう、一徹な感じがあって、心にゆとりがあるというか・・・それはまだ自分の中で言語化できていないんだけど、大正や昭和にはない何かが・・・。

オカリナ:私の祖父母も明治生まれだったんですけど、変な人たちで、都会のまん中に住んでるのに、水道ひかなくていいって言って、ギーコギーコこがなくちゃいけない井戸をずっと使ってたの。しかもご飯は、祖父が庭にすえた七輪で毎日がんこに炊いてたのよ。

トチ:昔の人って、物差しが自分の中にあったのよ。

紙魚:今は、学校教育の影響が大きいんじゃないでしょうか。明治の時代って、学校の勉強より家業の方が大事だったりして、その家その家の多様な価値観があったと思うんですよ。でも、学校教育が普及するころから、価値観が束ねられていく。ちょっと違う話かもしれないけど、今の子って、シール遊びをするにしても、決められたページの決められた場所じゃないとシールを貼らないんですよ。自由に貼っていいよって言うと、どこに貼ればいいの?って逆にきかれちゃう。それに、雑誌の付録なんかでも、貼る場所を設定しておかないと、父兄から文句がきたりするんですよね。

オカリナ:高い家具なんかにベタベタ貼られたら嫌だと思うんじゃないの?

紙魚:全体の傾向として、自由になんでもやっていいよと言われるより、定まってることをそのとおりにできて達成感を味わうっていう方が好まれるようですよ。

オカリナ:最近、日本のおばあちゃんもこわいと思うのよね。ラジオの教育相談聞いてると、親や本人じゃなくて、しょっちゅうおばあちゃんから相談電話がかかってくるの。おばあちゃん、やることなくて時間あるから、息子や娘や嫁に子育てを任せておけないみたい。偉い先生に自分の常識的見解の後押しをしてもらって、それを孫に向けようとしてる。この作品に出てくるおばあちゃんとは、逆の意味でこわいと思わない?

ウォンバット:けっこう微妙な問題ですよね。嫁姑だとしたら、なおさら・・・。

トチ:うちのなかで、大人の価値観がみんな一緒だと、子どもはきついわよね。

愁童:怖い事件が子どものまわりで起きたりすると、すぐカウンセラーを派遣して心のケアをみたいな風潮だよね、最近は。一理あると思うけど、まず親じゃないのかな。親がすぐおりちゃって、他人に頼るんじゃ子どもはたまらないよね。

紙魚:たしかに、今って権威がある人をもてはやしすぎですよね。

愁童:かえって、この作品に出てくるようなおばあちゃんのほうが、子どもを癒すんじゃないかね。

スズキ:ハリポタ読んでおもしろいと思う子は、こういうの読んでもおもしろいのかな。

ウォンバット:それは難しいんじゃない? あれは、ここはおもしろいんだよって説明しちゃってる本だもの。

愁童:でも、本を読むおもしろさって、まさにこういう本にあるんじゃないの。想像しながら読むんだから。自分の読書体験をふまえても、わりと子どもって許容範囲が広いから、こういうのも案外いけるんじゃないかな。

オカリナ:ハリポタは、文学とは言えないでしょう。これは文学だから、人間の心理を想像しながら読まないと読めない。プロットの積み重ねのおもしろさだけじゃないからね。

スズキ:この作品は、プロットの無駄がないですよね。必要最低限のことしか書いてないから。情緒的な飾りもないし。

オカリナ:子どもがこの作品をおもしろいと思うかどうかは、このおばあちゃんを好きになれるかどうかで決まると思うな。おばあちゃん像が焦点を結んでくれば、おもしろい。だけど、ただハチャメチャなことしてるだけじゃないか、って思う子もいるかもしれない。

トチ:夜空の星を結んで星座を思い描くように、登場人物のひとつひとつの行動を結んでいって人物像が思い描ける力、それが読書力というものなんじゃないかしら。出来事のおもしろさ以上のものを子どもたちがどう読みとっていくか、ぜひ知りたいわ。

ウォンバット:そういえば、文章を理解するものとして「天声人語」ってなんであんなにもてはやされるんでしょうね。ずっと疑問だったんですよ。

オカリナ:昔はいい文章が多かったんじゃない。凝縮してて。

愁童:今は、ひところのような力がないよね。

オカリナ:「朝日新聞」の「天声人語」っていうのが、一つの権威になってるのね。児童書の出版社だって、「岩波」や「福音館」は権威があるわよ。図書館でも、いまだに岩波か福音館の本だったら疑わずに買うっていうところ多いらしいし。でも、実際にどんなもの出してるか見ると、昔とはずいぶん違ってきてて、権威にばかりは頼れなくなってると思うんだけどな。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


及川和男『なみだの琥珀のナゾ』

なみだの琥珀のナゾ

愁童:反戦とかが中心にあって書いていくのかと思ったら、結局これはルーツさがしなんだね。『雨ふり花咲いた』(末吉暁子著 偕成社)と構成が似てるけど、あっちの方は、子どもに読ませるんだという情熱が伝わってくる。児童文学作家としての姿勢の違いを感じた。謎解きなんだけど、人物描写がまるでない。主人公の設定が内気だとか、人見知りだとかいうことになってるけど、作中の言動には、そんなことを感じさせる表現がない。琥珀を恋人同士が持っていて、戦争がおこって、という着想だけなんだよね。今の子どもたちに何を伝えたいのかはわからない。登場人物のイメージも感動も残らないしね。これじゃあ、登場人物は泣いても、読者は泣けない。琥珀をたよりに、自分のルーツをさがしにいくという着想はいいんだよ。でも、主人公がすんなりおばあちゃんについてっちゃう、なんて、違和感持っちゃうなあ。あまりにも素直すぎる。子どものものにかぎらず、本を書くっていうのは、フィクションの世界を自分も楽しむとか、自分の世界に読者をひきずりこんでやるぞというのがなくちゃ。自分だけ感動してる感じがして、読者を置いてかないでよ、って思った。宮沢賢治なんかも出てくるけど、岩手県だからなのかな。でも出てくるのも必然性がないんだよね。

トチ:私は、児文協の児童文学って感じがする。

愁童:教育的配慮もあるし、理念もわかるんだけど、みさきを出して何を伝えたいかはわかんないよね。琥珀が博物館に飾られるといういきさつをただ書いている気がしてね。すいすい読めることは確かだけど。

トチ:文体とか表現はいいってこと?

愁童:というか気になんないですよね。まあ、筋にひっぱられるて、すいすい読める文体。うまいのかな?

スズキ:私の感想は・・・(てんてんてん)なんですよ。というのは、なんか読み終わったときに、よく書けましたって言ってもらいたいレポートみたい。自分のルーツをさかのぼる旅をした人がその時の事をまとめたレポートの印象があります。悪い作品とは決してないと思いますが、かといって読み終わったときに残る物があまりにもなさ過ぎる気がします。物語の展開やキャラクター一人一人の描き方が薄っぺらい気がしました。あくまでも私の感想ですけど。

紙魚:うーん、私もこの本に関しては言うことがないんですよ。今日の会で言うことないなって困ってしまいました。本って、いろいろな層の本がありますよね。経験もそうだけど。どの本もすべてぴったりくるわけじゃない。どれもが感動するわけじゃない。夏休みに100冊読んでも、どれもがおもしろいわけじゃない。でも、嫌いではないけど特にびびっときたわけでもない本があるから、よけい好きな本が際立つってことあるじゃないですか。この本は、そういうその他に含まれるような印象。

愁童:後書きに書いてあるけど、人と人とのつながりは大事、みたいなところに立っているから、人が書けてないんだよ。課題図書とかにはなるかもしれないよ。感想文はきっと書きやすい。

トチ:ルーツ探しをテーマにするときは、ルーツ探しが主人公の子どもにとって、どれほど深刻で重要な意味があるかを書かなければ、読者を物語の世界にひきこむことができないんじゃないかしら。『蛇の石(スネークストーン)秘密の谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社)は、主人公自身のルーツ探しだから、もちろん深刻だし、感動的な作品にしあがっていた。『雨ふり花さいた』は、タイムスリップというテクニックを使って、読者を物語の世界にひきこむことに成功していた。この作品には、そういう工夫というか、テクニックがないので、夏休みの作文みたいになってしまったんじゃないかしら。

愁童:児童文学に対する情熱が違うんじゃない。

トチ:日本の作家って、どれくらい海外の作品を読んでいるのかしら?

オカリナ:読んでる人もいるけど、数は少ないと思うな。私は、この作品はいいと思えなかったし、まあまあだな、とさえ思えなかった。ストーリーが必然的に進んでいくという感触がまったくなかったんですよ。たとえば、p32で、琥珀の中の空気を、琥珀の涙というところ。まだおばあちゃんのことがわかったわけじゃないのに、どうして涙なんていう安直な言葉をここで出してしまうんだろう? それから、認知症になったおばあさんに民宿の人がきいて、かずさんが泣くとこ。海女なんですよ、と泣く。そこで泣く必然性が書きこまれてないから、読者はおいていかれて、しらけちゃう。あともう一ついやだなと思ったのは、みさきが「おばあちゃんはみなし子なんだ。かわいそうに」って言うところ。孤児イコールかわいそうっていう出し方が安易だし、実際にどんな苦労があったのかを書く前に、こうやって外側から「かわいそう」というレッテルを貼っちゃうのは、文学とは言えないんじゃないかしら。

愁童:同世代の人でも、こういうふうには思わないな。

オカリナ:私は、「かわいそうに」なんていう言葉を安易に使う作家は、信用できないなって思ってるの。かわいそうって、自分が上に立たなきゃ言えない言葉でしょ。

(2001年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


さだまさし『おばあちゃんのおにぎり』

おばあちゃんのおにぎり

今回、読めた人が少なくて残念ながら議論にならなかった。


笹生陽子『きのう、火星に行った。』

きのう、火星に行った。

もぷしー:ひとことで言えば、発想が奇抜でおもしろかったです。火星に行く話でもないのに、タイトルに「火星」が使われているのも、印象強いし。主人公の拓馬って、私が思っている現代っ子にぴったりはまりました。冷めてはいるけど、本当は熱くなるのもいいことを知ってて冷めてる子ですよね。どんなことでも、先に結果が見えてしまう頭のいい子。対照的な努力家、でくが出てきて、影響されて成長していくのも安心して読める感じ。弟に関しては、悪い意味ではなくて、キャラクターが想像しにくかった。無邪気でもないのに子どもらしいっていうのがちょっとわかりづらい。お兄さんの目で書かれているからかな? そう魅力的には感じられなかったです。信じる力とか、熱い気持ち、メッセージって、昔と変わらないテーマですよね。タイトルが『きのう、火星に行った。』てなってるのは、信じてなかったものを信じられるようになったってことでしょうか。p129のビデオのナレーションに「地球を生きた星と呼ぶなら、火星はまさに死んだ星です」ってあるけど、干からびてしまった姿が、主人公に重なってるのかなと思いました。生命力ある地球に対して、死んだ火星が自分だったのかということなのかと。

アサギ:私も楽しく読めました。主人公の年代は、私にとってはるかに昔だけど、リアリティが感じられたわ。全体にすごく感じがいい作品だけど、唯一不満なのは、主人公が勉強もスポーツも何でもできるってとこかしら。はたして対象年齢の小学生にも共感できる本なのかしらね。同世代だったら、優秀な子には、もしかしたら共感を持ちにくいかも。名前の呼び方で、ところどころフルネームが入るのが気になったけど。欧米文学の特徴だと思ってたから。

何人かの声:仲間うちで、いつもフルネームで呼ばれる人っていますよ。

愁童:前に読んでいて、今回あらためてまた読んだんだけど、最初の時の方が印象良かったな。文体、いいですよね。切りこむ感じ。最初読んだ時は、火星に行ったと言う部分が違和感なく読めたんだけど、今回読んだら、何もひっかからなくてすべっていっちゃうのが気になった。アサギさんがいったフルネームで名前を書くっていうの、ぼくは違和感を感じたな。名前と作者が描いている少年のイメージが重ならなくて・・・。

アサギ:それはフルネームということではなくて、「拓馬」という名前が違うんじゃないかしら。

愁童:そうかぁー。名前がトータルなキャラクターをひっぱってこないんだよね。あと、6年生の男の子だから、かなり男っぽいはずなんだけど、感性的な部分での反応が、ちょっと違うなあなんて思っちゃったな。この子の、達観していて屈折したところが、なぜ出てきたのかが書かれてない。必然性がわかりにくいんだよね。でも、ちょっと屈折してる男の子書くの、この人はうまいね。『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)もおもしろかったし。

オカリナ:愁童さんは必然性が書かれてないと言ったけど、私は、今の子はこれがふつうなんじゃないかと思う。ふつう、能力があって冷めてるという子は、なかなか書きにくいんだけど、これはちゃんと書けてるし、おもしろい。カニグズバ—グの『クローディアの秘密』だって、主人公は才能があるけど白けてはいない。その白けてる子が、最後は熱くなったところで終わるから、出来すぎの感もあるんだけど、子どもの本としてのおさまりもいいし、読後感もいいんじゃない! こういう文体って、創作ならではね。弟は特殊な感じだけど、特殊な環境におかれてたってことを考えれば、いるかもしれない。最近読んだ中では、ダントツにおもしろい本の1冊でした。

紙魚:私は、主人公がそんなに冷めてるとは思えなかった。よく、今の子は冷めてるとかって言われるけど、こういう子が冷めてる子だとしたら、まだまだ情熱あるじゃない!と思っちゃった。「静かなる情熱」という印象。表に出なくても内に秘めてるとすれば、それは情熱家でしょう。拓馬に、つぎからつぎへと言いたいことを並べられてるみたいだった。確かに、愁童さんが言っていたように、考えさせられるひまがなくて、ひっかからないんだけど、むしろそれがすがすがしかった。走りぬける爽快感があった。

トチ:最初から作者は、意識して冷めてる子を書きたかったんじゃないかな。弟にリアリティが無いという話もでたけれど、私はそうは思わなかったわ。ただ、文体に迫力があるというところだけれど、口数が少ないという設定の登場人物に、地の文で饒舌に語らせるというのは、難しいという感じがしたけれど。

オカリナ:口数が少ない子のほうが、心の中でいろいろ考えてるんじゃない。

トチ:たしかにそうだけれど、特に初めのうち、キャラクターをつかみにくいところがあったの。

愁童:駅ビルに、弟を置いてきちゃうところがあるでしょ。おやじに殴られるところで、男親との確執みたいなのがもうこの年代では強いからね。冷めてるライフスタイルの子が、一発殴られて、なんで素直になっちゃうのかなとは思うよね。心の機微みたいなのが、物足りなかった。文体にもおされちゃうし。でも読者としてはここで殴られると、それまで溜まったストレスみたいなのがスパっと解消される。そこは、うまいよね。

チョイ:優等生でいることって、学校でも会社でもめんどくさいことなんですよね。そのめんどうを避け始めると、そのスタンスに馴れてきちゃって人生全体がつまらなくなってくる。現実のめんどうくささの避け方を早々と身につけた、こういう子どもを主人公に設定するのは、おもしろいと思った。弟は、体が弱かったゆえに想像力を駆使し、人生を自分でおもしろくしていく術がなかったら生きてゆけなかった。お兄ちゃんは順調で、ある種の優等生で、何をやってもそこそこ器用だから、弟と逆に、人に期待されることでめんどうになるのを避けていく生き方を、身につけてしまったんでしょうね。ただ、この作品では、兄は弟たちに影響され、変化していくんだけど、弟の方は、はじめから出来すぎているっていくか、あまり変化しない。そこがちょっと物足りなかったかな。このタイトルは、「とにもかくにも人生は自分でおもしろくしなくっちゃ」っていうことの象徴かな。フルネームを多用する手法は、皿海達哉さんや、日比茂樹さんたち、「牛」の同人がよくやりましたね。フルネームにすると、書き手と登場人物の間にある距離感が出て、作品にクールな印象が生まれるような気がします。

ねむりねずみ:今回この本をとりあげたのは、前に読んでかなりおもしろいなと思ってたので、みなさんの意見をうかがいたかったからなんです。この会に参加するようになってから、勉強しなくちゃと思って、児童書を山積みにしてばーっと読んだなかで、ひこさんの『ごめん』とこれが心にひっかかってて。まず、主人公の設定がいいと思ったんです。この子のつっぱり具合とかもいいし。私は小さいころ病気がちだったので、へろへろしながら頑固な弟も、とてもリアルだと思いました。私が子どものころも、冷めた子はいたし、現代っ子だって、何も考えてないということはないと思う。あくまでも冷めたポーズをとってるだけじゃないかな。情熱っていうより生命力の問題だと思うんです。今の子どもたちは外部からの刺激が多くて、大人との関係も昔とは違うでしょ。一人っ子も多くて、大人に注目されることも多いし。そういうなかで自分の生命力を守るには、ガードしないとやっていけないんじゃないかな。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ポール・フライシュマン『風をつむぐ少年』

風をつむぐ少年

もぷしー:トーンもテーマも重かったけれど、その割に章ごとに視点の転換が入ってくるし、湿度が低いというか、からっとした感じなので、「たいへんなことをしてしまった責任を、どう償っていくか」というテーマを、純粋に読むことができました。自暴自棄になっているところまでの設定も、主人公の考えなしの行動だとか、周りに迎合しつつ目立とう、という素直な気持ちが、よく表現されていると思いました。やがて、結果的に人を殺してしまうわけですけど、相手の親が言うことは、日本の文学だったらこういう設定はないだろうと思いますね。娘の死に対する償いとして風車を作ってくれという課題を出すなんて、日本だったらありえない。だから文学においてもそうはならない。カウンセリングのやり方にしても、日本では「その問題を見つめてみよう」というアプローチ、アメリカではシュミレーション的というか、問題と直接向かいあうのでなく、気づくと変わっているという療法があると思います。そういう文化に則った、異文化のお話なのかなと思いました。日本だと、こういう場面に親が出てくると、恨みの色になってしまいがちだと思うんですが、それはなぜなんだろう、と考えさせられました。
少し前に読んだので、記憶が定かでないのですが、最後で、p205の「今彼の心の目に、これまで作った四つの人形が、ひとつの大きな装置となって互いに連動しあっているのが見えた。この世界も、言ってみれば巨大な一個の回転装置だ・・・」というところ。風車を作るくらいのことで、彼は本当にここまで分かったのかな。こんなふうに締めくくられると、あまりに立派で・・・という気が少ししました。もうちょっと、彼の言葉としてそっと終わらせてくれた方が、ついていきやすかったのでは? でも、全体を通して考えると、難しいテーマにも関わらず、遠くから、そばから、横から、と各度を変えて、上手に描いているんですね。こういう見方も学んでいかないとな、と思いました。

紙魚:私もp205で急にトーンが変わったので、あれ、まとめに入っちゃったのかなと思いました。わざわざ書かなくても、ちょうど本を読み終わって、自分なりに自然にその構図が描けると思うのにな。まるで文字の色が変わったかのように、トーンが急に変わった気がして。作者は、伝わるかどうか不安になって書いちゃったのかな、なんて思っちゃいました。

トチ:作者は、読者に通じるかどうか不安になるんでしょうね。いい気分になって、書いちゃいけないことまで書いちゃうこともあるだろうし・・・。

愁童:ぼくは、そこに違和感は感じなかったですよ。作者が説明しているだけでしょ。主人公がそう思っているというふうには読まなかった。

スズキ:初めは、主人公はどこにでもいる典型的なティーンネージャーで、物事をあまり深く考えないで、人生今から! どうにでもなる、という感じだった。ところが、そんな男の子が、事故で人を殺してしまう。このシーンは、えっ本当に死んじゃったの、と何度も読み返した。ちょっとしたことで、人の人生が変わることってありうるんだ、と読んでいる私のほうが、重く捉えてまった。でも、ブレントが旅に出て、いろいろやっていって、「前よりうまくできた」「今度はこれができるようになった」といったように体の体験を通して、だんだんと精神的に成長していくあたりが、からっとさわやかに描かれていた。読んでいるうちに、自分の過去の過ちを背負いつつ生きていくことを学び、回復していくブレントに、いつのまにか引きこまれていた。最後のまとめについてですが、私はこの文章にくるまで、なんで風車なんだろう、トーテムポールでもよかったのに、なんて思っていました。だから、最後のこの部分があって納得がいきました。

アサギ:私には印象の薄い本でしたね。うまくできているし、いろいろな人の物語が挿入されて、その人たちがブレントの作った風車に癒されたりする、という構成もうまい。だから、子どもにきかれたら薦めると思うのね。薦めるというのは、相手に時間と労力を使わせるわけだから、自分もどこかいいところがあると思ってるってことよね。日本の親だったら、泣いたりわめいたり、じめっとするわけで、文化の違いを感じたわね。これはキリスト教的背景という本ではないけれど、翻訳ものを読んだり訳したりしていると、背後に神があるのかな、という感じはよくするのよ。もう一つ、私は1年住んだことがあるくせに、アメリカをよく知らなくて、アメリカは均質な文化を要求する文化、という意識があったのね。ドイツなんかだと、それがなくて、南で最もポピュラーな料理を北の人は知らない、というのをよしとする。それに対して、アメリカはファストフード以外にも、同じメニュー、同じ安心感で普及したチェーンレストランが全国にあると聞いてたから、錯覚が起きていたのね。でも、このロードムービーともいうべき作品を読むと、いろんな習慣の違いが出ているでしょ。考えてみれば、あれだけ広い国で、気候も違う。偏見が正されて、新鮮でしたね。
最後の説明の4行について。私は、はじめから地の文と思って納得してたわ。最後は、読み終わった本をもどして、新しい本を読み始めたっていうの。余韻があっていいと思ったわ。あと、ルーシーショーとか、古いアメリカの名前が、懐かしかったわねえ。乱暴だと思ったのは、p176の、おばあさんが最後に「たとえドイツの人でもね」っていうところ。これ、ドイツ人が読んだら怒るだろうなあ。

愁童:これ、すごく好きな本になったな。印象が薄いのは確かだよ。何が書いてあったかは、よみがえってこない。だけども、風車が立っているという存在感、卓越した構成と着想に感動したね。娘の顔をした風車というモチーフを考え出した、作者の書き始めのポテンシャルエナジーはすごいね。読んで得する本だと思うよ。人生観とか哲学だけで本は存在するものでもない。このイメージがすごい。母親の悲しみもよくわかる。こういう形で書かれたことを、癒しのイメージだけで捉えたくないな。

オカリナ:被害者のお母さんのサモーラ夫人は、主人公のブレントに対して、罪の償いというよりブレントの成長のきっかけとなるような提案をするでしょ。でも、このお母さんは、一般的なアメリカ人というより、赤毛で、インド更紗のスカートをはいてて、フィリピン人の男性と結婚するような女性だって書かれていて、その時点で、作家は普通の常識人とはちょっと違うように設定しているんだと思うの。お父さんはブレントを絶対拒否して、手紙だって切り刻んで返すくらいでしょ。その方が普通なのかもしれない。お母さんは、いろんなところでいろんなことをやってきた人。これがなかったら何もわからなかったようなブレントに、最大のプレゼントをするわけよね。すごい!
フライシュマンは、「一人の人間の行為は、直接的にではなくとも、必ずだれかに影響を及ぼす」と強く考えている作家だと思う。作品の印象が薄いとしたら、「アメリカの四隅に娘の顔をつけた風車を立てる」という設定が強く前面に出ていて、それ以外の部分が後から追いかけているからなのかな。一人の行為は必ず誰かに影響する、というのは、他の作品にも見られる、フライシュマンの一貫したテーマ。でも、それがあまりにも前面に出すぎると、かえって印象に残らなくなる気がするのね。こういうことを書かなくちゃ、と思うと、それに引きずられてプロットが後からついていくじゃない。思想は自分の中にあって、思いついたことを書いていくうちに、それがおのずとあらわれてくる、っていう方が作品としてはおもしろいかも。

紙魚:主人公の少年といっしょにバスに乗りこみ、いっしょに風車を立て、ロードムービーを楽しむように読めました。フライシュマンもすごいけれど、さっきその良さを語ってくれた愁童さんの言葉にもじーんときちゃった。世界は自分の力でどうとでも変えられるという考えと、自分の力ではどうしようもないこともあるという考えがありますよね。この作品には、自分の力ではどうにもならないことがいっぱい出てきます。人の気持ちや生死には手出しができないですから。けっしてあきらめでなく、及ばないものに対する畏怖の念を抱き、どうすることもできないこともあるということを知るたび、人は優しくなることもあるんじゃないかな。
子どもの本でも、自分で世界を変えようという本と、自分だけではどうすることもあるという本、その両方があってほしいです。例えば恋愛を描くにしても、「誰でも振り向かせてみせる」という部分と、「どうしても振り向かせられないんだ」という部分。どちらの側の作品もあってほしいと、これを読んで思いました。未来に希望をつなぐ終わり方も、とてもいいなと思いました。取り返しのつかないことをしてしまって、償いに風車を作る。風車というのは、プロペラがあるだけで、風がないと回らない。4つの風車と主人公の気持ちが、風によってつながっていった気がしました。フライシュマンは、自分がしたことで誰かが影響を受けていく、その機微が見える人なのでしょう。最後のp205の「〜巨大な一個の回転装置〜」の4行は、ちゃんと伝わってるから言わなくてもいいよと思ったほど、それまでにイメージができあがっていました。導入部分は、「ビバリーヒルズ高校生白書」のようなアメリカっぽい世界が広がっていて、それもおもしろかったです。それが突然、交通事故のところで、一瞬何が起こったかわからなくなって、次章の挿入部分に入りますよね。そのあやふやさ。ブレントも、そうやってじわじわ事態をのみこんでいくはず。挿入を使って、それを表しているところが、うまいですよね。
ブレントは、まさに自意識過剰な年齢。パーティーに出ていた頃と、旅を終えたときでは、同じように過剰な自意識ではあっても、きちんと成長のステージがちゃんと見えてきますよね。おしつけがましくない描写もいいと思いました。そういう年代の人たちをやさしく見守る視線、寄り添うように眺める視点もいいと思いましたね。

トチ:もっとも優れた点は設定ね。設定を考えついた時点で、この作品は成功だったのでは。同じ作者の『種をまく人』(片岡しのぶ訳 あすなろ書房)と同じで、途中で言いたいことがわかってしまって、同じようなことを言ってるな、と思ったこともあったわ。その意味では、もう少し違うことを書いてほしかった。でも、おもしろかったし、薦めたい本ね。図書館に置くべき本だとは思った。アメリカ的、キリスト教的というよりも、もっと原初的な宗教観を感じたわ。それにしても、アメリカ人は寓話的なものが好きなのかしら。ルイス・サッカーの『穴』や、ジェリー・スピネッリの作品もそんな感じがするし・・・ただ、私の好みを言わせてもらえば、寓話のようにかっちり作者の世界ができているものよりも、破れたところがあって、作者自身も思いもよらぬほうへ行ってしまう文学のほうが好きなのよね。風車を立てるというのは日本にはない感覚という意見があったけれど、私は贖罪のために仏像を彫るというのを連想してしまって、かえって日本的な、なんだか懐かしい感じがしたわ。

オカリナ:この風車は英語だとwhirligigで、シンシア・ライラントの『メイおばちゃんの庭』(斎藤倫子訳 あかね書房)にも出てくるわね。アメリカでは象徴的な意味合いをもっているのかも。

チョイ:ここに出てくる4個所っていうのは、アメリカの四隅にあたるのかしら? 風水でもないのにね。

ねむりねずみ:最初、今回の課題を決めるので、これどうかなって読んで、今回もう1度読んだんですけど、はじめは構成に頭がいってしまって、『種をまく人』といっしょだなって思った。同じフライシュマンの台本形式で書かれた『マインズアイ』(寝たきりのおばあさんから女の子に想像力の翼が継承されていく物語)とも同じだな、っていうのが先に来ちゃった。この著者は、よい意味で行為は波紋を広げるというメッセージを持っているんだなって。2回目に読んでみたら、なるほど主人公の成長物語になっているんだということがわかった。ワシントン州では物をつくる充実感、カリフォルニアではありのままの自分として人と接すること、そしてその次は、自分と他の人とのやりとりの楽しさを知ること、そして最後に心の中の秘密を打ち明けて、本当の意味で前に進める状態になった。順を追ってできているんだなって思った。でも、先にメッセージがあるというのもあるけれど、構成としてできすぎちゃっているような気がする。感情面から読者を巻きこむのとは違う感じの本ですね。派生するエピソードのひとつの、バイオリンを練習させられる男の子のエピソードが好きでした。やはり着想のすごさなんだなって、いま感想をうかがってあらためて思いました。表紙のイメージ(くるくる回る)がすごく大きいと思う。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジェリー・スピネッリ『スターガール』

スターガール

もぷしー:うー、この本に関してはコメントできないです。女の子のキャラクターは、奇抜で印象に残るんだけど、彼女の魅力が伝わらないことには、どうもこの本はおもしろく読めないんじゃないかな。ひとつだけ、スターガールが自分を変えようとしている、演出しようとしているところ、過剰に人にどう見られるかを意識しているところは共感できました。誰の幸せにも不幸にも真剣にやってあげるのは、みんなの理想というメッセージが含まれているかもしれないですね。

スズキ:たまたま「東京ブックフェア」で3割引で売ってたので、お得と思って買ったんですよ。帯には「ほかでは味わえないラヴ・ストーリー」とあったから、「ほかでは味わえない」何かを味わいたかったんだけど、読んでみると「味」がなかった感じ。スターガールがバスケの試合で両方のチームを応援したり、みんなの誕生日を祝ったりするのは、新鮮に感じられて私もやってみたいとは思ったけど。そんなハチャメチャな彼女が大好きだという、男の子がじめじめしてて好きになれなかった。スターガール自身の描写もあまり深みがなく、男の子が彼女にどうして惹かれてるかもわからない。この男の子のほうが、へこたれてこのカップルはだめになるかもと思ったけど、だめになることもなく、最後は彼女のほうが蒸発してしまって、ちょっと消化不良っていう感じ。感想を求められるとつらいです。

ウェンディ:アメリカには個性を認める国っていう印象があったけど、出る杭は打たれるっていうのはやっぱりあるのね。世捨て人でもないかぎり、相手のことを考えてなくちゃいけないというレオの考え方に、スターガールは惹かれながらも、そうはなれない。じゃあ、レオがどうしてスターガールに惹かれるか、わからない。レオが好きなあまりにスターガールが自分らしさを捨てるところも、葛藤が見えてこない。心の揺れがよく書けてるのはレオの方で、スターガールはリアリティがない。レオの視点で描かれるからかもしれないけれど。でも、レオみたいなナイーブな男の子って、結構いるのかもしれない。

愁童:今朝から読み始めたんだけど、あんまり深く読んでないのでわからないです。なんでこういうこと書かなくちゃいけないの? いやに平凡でしょ。幼稚園みたい。何を言おうとしているのかわからなかったですね。個性とは言ってるけど、結局、一面的な状況に対する反論なのかな?

オカリナ:この本は、構造としては『クレージー・マギーの伝説』(スピネッリ 偕成社)の女性版でしょ。でも、独りでも自分の価値観を貫くという主人公のキャラクターが、この作品ではとても観念的で、くっきりとうかび上がってこない。最後までぼやけたまま。『クレージー・マギーの伝説』のほうがおもしろかったな。私はどうしてもスターガールに感情移入できなくて、困った。

トチ:スターガールみたいな子がいたら、私だったらいじめちゃう。

オカリナ:個性あるものは排除されるということが言いたいだけなら、つまらない。スピネッリの他の作品は、もっとおもしろいのにね。アーチ—とか、せっかくおもしろいキャラクターが出てきても、最後には凡人だけが残るというのもねえ。

紙魚:私も、スターガールの魅力がわからなかったなあ。個性というものが、二極で単純に描かれてしまっているのも気にいらない。制服の反対に、奇妙な服とか。スターガールのことを言及すればするほど、スターガールの個性が薄っぺらくなっていくようで、個性って言葉で表すのはほんと難しいですね。装丁はとってもよかったです。

トチ:スピネッリの作品のなかでは失敗作よね。こんな風に(一見)個性の強い子って、自分を理解してくれない人たちとはかかわりたくないと思うのが普通なのに、この子は執拗に他人に好かれたいとするのよね。好きな男の子のために、自分のスタイルも変えてしまうし。

オカリナ:個性的っていうんじゃなくて、単にピュアだっていう設定なんじゃないの?

トチ:スターガールが描けてないと思うの。自我がなくて、自分から行動できない子としか感じられない。『肩甲骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 金原瑞人訳 東京創元社)に出てくる、主人公の隣の女の子も、いってみれば変わり者だけれど、すごく生き生きしてたじゃない。こういう本がどうして人気があるのかしら?

オカリナ:今のベストセラーを見てると、本を読まなかった人がたまたま読んで、あー本ってこんなにおもしろいんだって再確認してるような気がする。本当はもっとおもしろい本がたくさんあるのにね。

愁童:この本、おもしろくないよね。ハリポタのほうがまだおもしろいよ。

アサギ:でもね、ベストセラーになる条件って、ふだん読まない人が買うってことなのよ。

チョイ:スターガールのキャラクターに統一感がないのが、何よりも居心地悪かったですね。生命観、自然観、宇宙観みたいなものが、どうにもイメージできない。一所懸命彼女を解釈しようとすると、アニミズムを体現した存在かなとも思えるんだけど、一方であんなに他人のことを調べまくったりして、何だか気持ち悪い。でも、この本、アメリカのベストチョイスかなんかに選ばれてるんですよね。うーん、アメリカ人って、時々理解しがたい。

ねむりねずみ:スターガールの造形の仕方が、デスマスクをつくる過程みたいだった。しっかりしたものがあるんじゃなくて、ぺたぺたと外側から貼り付けてできていく感じ。とりあえず、レオはだらしない。私はスターガールをすごくいやな奴だとは思わなくて、まあこういうのもいるかなという感じでしたね。でもラストはいやだったな。スターガールを自分に都合のいいときだけ楽しんでいる周囲の残酷さがいやだった。

チョイ:超自然的なものがあらわれたときの平凡な人間の心理的錯乱をかきたかったのかな。

ねむりねずみ:この物語って、最初と最後で誰も変わってないんだよね。もちろんスターガールも。スターガールって寂しがりやなんじゃない?

トチ:だけど、理解してくれる女の子がひとりはいたわけだから、それでいいんじゃないかしら。

チョイ:スターガールは特殊な存在でしょ。作者も、スターガールがみんなからけっして好かれないことを知って書いてる感じがしますよね。

オカリナ:やっぱり主人公は魅力的に描いてほしいな。

スズキ:スターガールのスピーチ原稿を読ませてくれれば、感想も変わっていたかもしれないな。

チョイ:それを書くだけの筆力が、作者になかったってことかな。

愁童:途中から恋愛関係が入ってくると、よけいわかんなくなっちゃう。個人の愛をとるか、大勢の愛をとるかっていうのも、わかんないな。そんなこといってどうするのかな。恋愛っているのはオール・オア・ナッシングじゃないでしょ。これじゃ、破綻するのは当然じゃない。

もぷしー:スターガールに出会ったのは、事故みたいなものっていうことなのかな?

紙魚:まわりのみんなに影響をあたえることもなく、最後はスターガールが去っていくって、まるでスターガールが天災だったかのような。

トチ:ホラー仕立てにしたらよかったかもね。

紙魚:ほんとにこういう子がいて、誕生日の日にお祝いにきたとしたら、ストーカーだと思っちゃうかも。

トチ:スターガールじゃなくて、ストーカーガールにすればよかったじゃない。善意のかたまりみたいな、こわい人っているわよね。

紙魚:このところ、意味がつかみづらいことをスタイリッシュに書くっていう作品が目立つなあ。

オカリナ:そういうの、大人の文学には前からあったのよ。

ねむりねずみ:意味がないことを書くのは、危険がないから楽なんじゃないかな。読者のほうも、何もつきつけられないから、気楽に読めるし。

オカリナ:子どもの文学にはちゃんと物語性があっておもしろいね、っていうことだったのに、最近の作品を見ると、子どもの文学にも中身よりスタイルっていう書き方が浸透してきちゃったのかな。それを持ち上げる人もいるしね。

チョイ:ポーズでおもしろいとか言ってても、本音ではあまりそうじゃなかったら、結局、また読者が少なくなることにつながるからこわいよね。

もぷしー:スターガールって、映画の『アメリカンビューティー』の女の子に重なったな。魅力的には描かれてるけど、女の子のほんとのところはわからない。この作品も、流行に乗ってできちゃったものなのかしら。アメリカでアカデミー賞をとったから、それに近づけてキャラクターを作っちゃったのかな?

アサギ:『作家の値打ち』で、福田和也が批評の責任ということを書いていて、「批評家がつまらない作品を持ち上げると、それにつられてせっかくふだん本を読まない人が手に取ってくれても、なんだ本なんかやっぱりつまらないじゃないか、と思ってますます本離れがすすんでしまう」というようなことをいっていたわね。

(2001年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


末吉暁子『雨ふり花さいた』

雨ふり花さいた

トチ:同じ日本の民話や伝説をもとにした本でも、『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)などに比べるとやっぱり格が違う。どんどんストーリーにひきこまれていくし、真面目にテーマと取り組んでいると言う感想を持ちました。少々重い感じがしたのは、たぶん文体のせいなのね。例えばp189のサダさんと佐藤さんの会話の後の記述。「幼なじみだという二人は、いつのまにかすっかり昔にもどって、えんりょなくやりあっては笑いころげている。顔には出ていないが、二人ともかなり酒が入っているようだ」というようなところ。会話だけをぱっと出さずに、ていねいに念を押している。しっかりと読者に伝えたいという真摯な姿勢のあらわれだと思うし、好感が持てるんだけど、少しくどいかもしれない。かといって、「いまどきの若者や子どもの言葉で書いた」と称する、だらしのない文章もいただけないし・・・今のように言葉がめまぐるしく変わっている時代は、どういう文体で児童文学を書いたらいいか、真面目な作家ほど悩んでいるんじゃないかしら。それから、p267に「自分の場所」に戻るというユカの決心が書いてあるけれど、茶々丸とのストーリーに比べて現実のユカの生活の書き方が少し足りないので、いまひとつぴんと来なかった。あと、細かいことだけれど、宿のノートに書いてあったお母さんの名前にユカが気づかなかったのはふしぎ。これくらいの年齢の少女って、結婚前の母親の苗字には関心があるんじゃないかしら。まして、母親が亡くなっているんだから。

:末吉さんの文章って読みやすくて、しかもユーモアがありますね。でも、この作品は、複雑な構想のうえになりたっていて、それがあまりうまくいってない。昔話の謎とき、悲しい父娘の関係、悲恋などの過去の話と、現代的なテーマである母の不在、父と娘の関係などいろんな要素を全体にまとめていっているんだけど、うまくほどけてなくてそれに違和感を感じちゃった。おそらく読者は、ユカの現代性にコミットしていくはずなんだけど、それと過去の物語がうまくつながってなくて、混乱しているんです。ドライなユカが、ミステリーハントの過程で成長していくのを描きたかったんでしょうけど、リアリティがなくて。私は茶々丸をシェイクスピアの『テンペスト』のエイリアルと重ねて読んだんだけど、彼の女の子にぽっとするようなところや、人間にないパワーの持ち方など、リアリティのあるキャラクターとしてうけとめられなかったな。プロットに混乱があるし、人物の描きこみに違和感があったし、ユカのリアリティがなかったというところでしょうか。

ねむりねずみ:日本の言い伝えって、今どうなっているんでしょうね。この本の中では、現代性と過去のリンクがいまいちうまくいってない。三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』(新潮文庫)なんか読むと、おむつのくさい匂いからはじまっていて、座敷わらしの描き方がぜんぜん違う。座敷わらしって、怨念とかのイメージじゃないですか。だから、どうもこの茶々丸っていうのが、そういう根っこからはなれちゃって、イギリスの妖精に羽がはえたみたいなイメージなんだな。どうもリアリティがない。ただ、遠野という場所は、神話や物語が今もなお生きている場所だっていうことは感じられました。現代と過去だけでなく、物語と不登校の話もリンクしてないんだけど、茶々丸の頭がすぐこんがらがったりする場面はおもしろかったな。

オカリナ:うーん、私はただどんどん読んだという感じ。特にひっかかったところはないし、これといって不満はありませんでしたね。みんなも言ってるけど、『空へつづく神話』よりはずっとよかった。今の子どもはたぶん、座敷わらしっていってもどんなものかわからないだろうけど、そういうものを狂言まわしにしてうまく描いている。ファンタジーって、もう、善と悪の対立で描くのって古いと思うのね。この作品でも、座敷わらしのトリックスター的なところをもっと出したら、もっとおもしろかったかもしれない。

アサギ:全体的にはおもしろいんだけど、どうしてユカにくっきりと座敷わらしが見えるのかっていう必然性がぼんやりしていてわかりにくかったんじゃない? 昔と現代のお話をひとつにもりこむというのは、うまくいっていて、これって日本にしかないファンタジーよね。でも、結局どこへ行ってどこへ帰ってきたかがわかりにくい。

紙魚:本との出会い方って、いろいろありますよね。どうしてもどうしてもほしくてやっと親に買ってもらった本だとか、友だちに薦められなきゃたぶん読まなかった本だとか。この本がどういうふうに子どもたちに読まれるのかなと考えてみたら、たぶん、学校の図書館で出会うような本じゃないかなと思ったんですね。物語もおもしろいし、構成もしっかりしてる。なにしろ親切なんですよ。作者は編集をやってた方だし、決して誤解をさせないような文章と構成なんです。ちょっとでもわからないようなくだりがあって、あれ、これってどういうことかななんて疑問をもつと、すぐその後にちゃんと説明がついてくる。とってもていねいなんです。編集者が誤解がうまれないよう、念を押す感じ。だから、ちょっととっつきにくい歴史をとりこんでいるにもかかわらず、物語がすらすら進んでいく。今まで歴史なんかに興味がなかった子でも、この本を読んで、歴史に興味をもったりするかもしれないですよね。

チョイ:末吉暁子さんってきっと、調べたりするのが好きな作家なんでしょうね。『地と潮の王』(講談社)なんかもそうだけど、調べたこと、学んだことを生かして独自のストーリーを創ろうとしている貴重な作家の一人じゃないでしょうか。まず書きたいモチーフがあって、それを物語化して児童書にするとどうなるかを考えていくタイプみたいですよね。この本の場合も、まず座敷わらしのことを書きたいという気持ちがあって、それを児童文学として成立させるにはどうしたらいいかを考えていったみたい。そのうえでいつも、あるレベルを保っているのは偉いと思う。富安陽子さんの『ぼっこ』(偕成社)とか、柏葉幸子さんの『ざしきわらし一郎太の修学旅行』(あかね書房)とか、こういう土着的な物語ってほかにもあるんだけど、末吉さんのはひとつ頭が抜けていると思う。やっぱり佐藤さとるさんの弟子ということもあって、感情表現をおさえ、客観描写をつみあげていくことによって、読書の誰もがある一定のイメージを作りだせる文章が大事だと考えているんでしょう。安心して読めますね。ただ、その向こうにある香りとか匂いとか湿気みたいなものを表現するのは不得意みたい。松谷みよ子さんみたいな、立ち上がってくるような怨みや、思いの深さなんてものはなくて、いい人が書いた文学って感じ。むしろ短編なんかのほうに、思いを前面に出しているものがあるようです。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ラルフ・イーザウ『ネシャン・サーガ1』

ネシャン・サーガ(1)ヨナタンと伝説の杖

ねむりねずみ:訳者の後書きに、ファンタジーとコンピューターゲームの興奮って書かれているんだけど、いまいちわからなかった。ヨナタンとジョナサンの交錯のしかたなんかはおもしろかったけど。どうしてスコットランドが舞台なんでしょう? ジョナサンとおじいさんの関係が『小公子』に似ているからかな? いろいろ考えながら読んだので、長かったですね。続きは気になるけど。人物についてはあまり書きこんでないけど、どちらかといえば、ヨナタンよりヨミイの方が、おとなに描かれてますよね。ヨナタンが敵を殺してしまった後、悩んだりする場面なんかはおもしろかった。キャラクターとしては、ディン・ミキトさんが好きでした。癒しの権化のようなイメージ、やさしさ、せつなさが残りました。きっと、物語が進んで、あのもらった核が活きてくるんでしょうね。どのキャラクターも名前が覚えづらいので、人物紹介のまとめがあるといいですよね。

オカリナ:これって,ふつうのファンタジーよね。ドイツでは珍しいんじゃない? 特にハイ・ファンタジーって、イギリスとかアメリカとか、やっぱり英語圏が多いですもんね。ドイツは、ファンタジーが育つ環境じゃないのかしら?

アサギ:あら、私が今読んでる、「ほら男爵」系のドイツの物語はすっごくおもしろいのよ!

オカリナ:でも、「ほら男爵」系の物語は、いわゆる魔法系ファンタジーとはちょっと違うんじゃない? この作品、ちょっとひっかかるところがあったんだけど、大急ぎで作っちゃったのかな?

アサギ:5年くらいかかったって聞いたわよ。

オカリナ:たとえば、ここなんだけど「ジョナサンが眠って一週間記憶〜」というところ。本当に眠っていたのか、それとも記憶が欠落しているのか、よくわからない。p136の「ジラーのせいで何度も不快な思いをさせられてきたのだ。ヨナタンはけりをつける決心をして、鳥かごに〜」ってあるけど、「けりをつける」っていったら、最終的な決着をつけるってことでしょ。でも、一言言ってやっただけなのよね。こういう些細なところにひっかかっちゃったの。プロットをどんどん重ねて場面を変化させていくおもしろさはわかるんだけど、それだけだったら、私は物足りないな。

アサギ:たしかに、闇と光というとファンタジーの王道なんだけど、評判になるほどすばらしい作品とも思えなかったわね。私にとって、ファンタジーの決め手は「整合性」。第1巻では、まだいろいろばらまいてる段階で、2・3巻にいくにしたがって、ちゃんと収斂されるのかしら? 気になったのは、人物描写が浅いところ。ジェイボック卿の気持ちがとけていくところも、すてきなんだけど、浅い。とくに20世紀のジョナサンの方に文学性がないのよ。おじいさんとの会話も通俗的。格調の高いところと下世話なところがごっちゃじゃない! うーん、これは翻訳者のせいかもしれないけど。虚構の世界の方は、現実性がないからか、ある程度書きこまれているのよね。でも、補足しながら読んでいる自分がいるのを感じるの。三種の神器みたいな小道具は好きだったわ。筋としては、けっしてきらいじゃないんだけど。

ねむりねずみ:私も、ディン・ミキトさんなんかはおもしろいと思ったな。

アサギ:でも、ゼトアの人物造形は浅いと思わない?

オカリナ:人物造形が浅いってことは、今の多くのファンタジーがそうなんじゃないかな。小道具を手に入れることによってパワーはアップしても、その人物の内面が変わるわけじゃないのよね。私は、スーザン・クーパーあたりからそうなってきてると思う。

ねむりねずみ:人を殺しても、ちょっと悩んで、悩みましたってところで終わっちゃうし。

もぷしー:みなさん厳しい意見のようですが、私は、この会で読むんじゃなかったら、おもしろく読んだかも。「乗せられて読んでしまえばきっとおもしろい」というつもりで読むと、話の先が気になって、読み進められるとは思います。でも、クリティカルな目で読んでいくと、かなりひっかかります。主人公が内面成長もなく困難をクリアしてしまうRPG的なところなんか、読み応えがないなあって。それに、1巻ってまだまだ旅の途中なのに、急に終わっちゃうじゃないですか。1巻なら1巻のなかで、ある程度主人公が成長してほしかったな。
ところで「ジョナサン」ってドイツ語でも「ジョナサン」って発音するんですか? 両方「ヨナタン」だとしたら、早くからヨナタンとパラレルするキャラクターだってわかってしまいそう。日本語だと、だんだん気づいてくる感じだったけど。ところで、これ読んでいて、邦画『ホワイトアウト』を思いだしたんです。テロリストがダムをのっとっていく話なんだけど、そもそもテロリストがなぜテロという行為に及ばなければならなかったか、理由がわからないんです。それといっしょで、ゼトアって、最初から「悪」として描かれていて、なぜ悪に走ったかわからないんですよね。やはり、キャラクターの行動に必然性がないと、読んでいても感情移入できません。それに、ヨナタンが困難をすべて小道具で解決しちゃうのも、どうかな。自力で苦難を乗り越えないなら、逆に、すべての試練に意味がなくなってしまって、読む甲斐がないと思ってしまいました。

アサギ:そうね。ゼトアは逆に、へんに安直な人間的ふくらみをもたせているんじゃないかって気になったわ。

ねむりねずみ:作者は、人間性には興味がないんじゃない?

アサギ:ただ、たしかに先行きは気になるわね。先が気になるっていうのは、エンターテイメントの基本よね。

:うちの息子は、『ハリー・ポッター』を何度も読むんですよ。いいかげんにやめてほしいという気持ちもあって、この『ネシャン・サーガ』をすすめたの。こっちの方が、文学的に一歩進んでいると思うから。この本には『ハリー・ポッター〜』にない「象徴性」が感じられました。

オカリナ:「象徴性」って、剣が力への欲望をあらわすとかっていうこと?

アサギ:「全き愛」というのも、何かしらあるんだろうけど。

ねむりねずみ:自分が神の代理としてふるまえば、剣も敵を滅ぼすようにはたらくわけですよね。

紙魚:私の印象は、エンデ+RPG(ロールプレイングゲーム)+スターウォーズって感じ。キャラクターの描きこみも、物語の世界観もとっても薄い。見返しの地図を見ながら読んでいったんだけど、冒険物語なのに、行き先が見えないんですよ。大きなうねりになっていかない。たしかにテレビゲームっておもしろくて、新しいソフトがあると、私、寝ないでやっちゃったりするんですよ。大人でもこんなにのめりこんでやるものを、子どもにやめろなんて言えないなあ、なんて思っちゃうくらい。ただ、私は大人になってテレビゲームにふれたせいか、読書とテレビゲームって思考の流れが違うなと感じるんですね。読書って、ページをめくりながら少しずつ情報を手に入れて、自分のイメージを構築していきますよね。でも、テレビゲームって反対のような気がするんです。自分の位置がわからなくなったりすると、ボタン一つ押せば、例えば、屋敷の中のどこに自分がいるのか一目瞭然なんです。自分でイメージをふくらませる作業はあまり必要ないんです。この本には、それと同じようなこと感じたな。イメージを構築していくおもしろさがないし、どこへ向かおうとしているのかが見えない。

トチ:私も以前にゲームに凝って、3日3晩くらい午前2時くらいまでやっていたの。それからハッと気がついたのね。これは結局だれか他の人間が作った宇宙で遊んでいるだけのものじゃないかって。そう思ったら、すうっと熱がさめてしまって、もう2度とやりたいとは思わない。ところが文学は違うのね。確かに作者が作ったものではあるけれど、作品の中でも作者が思いもよらぬ展開を見せたりする。まして、読者に渡ったら、どういう風に変わっていくか予想もつかない。変なたとえかもしれないけれど、文学作品にはなにか神とか自然の摂理とか宇宙とか、人知を超えたものに通じる穴みたいなものが無数にあいていると思うの。それがゲームとの違いだと思う。

チョイ:読んでも、この世界の理解が深まらないっていうか、知識が増えない、っていうか、ためにならないのってどこか空しい。どうして他人が勝手に作ったこんな特殊な用語を覚えなくちゃいけないんだろうって思うときあるよ。

:今の子にとっては、哲学的なものはトゥーマッチなのよ。しんどいのはいやなんじゃない?

もぷしー:私は2・3巻でうまく展開していたら、おもしろくなる思います。まあ、もう少しごつい部分はほしいけど。

オカリナ:プロットの変化が本のおもしろさの大部分を占めて、内側の変化とか成長には作者も読者もあまり注意を払わないってことになると、それでも文学なのかな?

アサギ:パソコンがないころは、作者が、想像する世界の隅々まで自分で構築しておいて、その中で動かす人物にしても、くっきり陰翳があるところまで考えぬいたんでしょうけどね。整合性だって、パソコンにいろいろデータを入れておけば、ほころびが出ないのかもしれないわね。パソコンの普及も、文学に影響しているわよね。

オカリナ:それにしても、表紙の佐竹美保さんの絵は物語の奥行きを感じさせるわね。

:『黄金の羅針盤』も、表紙で得してたね!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


スティーヴン・キング『ドラゴンの眼』

ドラゴンの眼(上)(下)

もぷしー:すらすら読ませるのは、さすがスティーヴン・キングだなと。でも初めの方は描写がグロテスクで、気持ち悪い箇所が多い。もうちょっと軽やかに書いてくれた方が、ストーリーの大筋に集中できたんじゃないかな? 設定としては、対照的な兄弟のコンプレックスってことですよね。劣等感を抱いてる弟には共感をもてたんだけど、なんでもできちゃうピーターは、あまりにも優等生すぎて、平等に感情移入できませんでした。

紙魚:私はもう、スティーヴン・キングっていうだけで点があまくなっちゃうので、今回の本にもあまいです! もともと、子どもを書くのがとてもうまいし、人間をよーく見ている作家ですよね。『ドラゴンの眼』に関しても、父親として娘のために書いた物語ですが、もちろん同じことを感じました。親が子に向かって書く物語って、筋とか構成と かは別にして、子どもに向けての願いが強く出ますよね。「真実」ってどういうものなのか、娘に伝えようとしているのがよかったです。

:もう訳がひどくて・・・。みなさん、気になりませんでしたか? たとえば、p120〜121のあたりなんて特にひどい。確かに「真実」が描かれていたはするんだけど、他のキングの作品にくらべれば、生協で1割引で買っても損した気分。キングはもちろん評価してるんですけどね。

オカリナ:私は、訳は気にならなかったけど。

紙魚:私もほとんど気になりませんでした!

:心理的な構築に欠けているし、物語作家としても、語り手の位置に重大な問題があります。章ごとの終わりに「それは君たちの考えること・・・」なんていうのも視点が一定してなくておかしいし、カリカチュアのとらえ方もおかしい。ローランド王の鼻くそも、ドライにとらえてはいるんでしょうけど。小説、物語というのは、『プロット』と『キャラクター』と『ポイント・オブ・ビュー』の3つがそろっていなくちゃいけないんです。確かに、親が子に伝える真実の存在はあるんだけど、それを翻訳が邪魔してる。

ねむりねずみ:終盤に進むにしたがって、スピーディーに、たたみかけるようになってくるので、映像向きかなと思う。たしかに「それは君たちの考えること・・・」のところで、次の章との継ぎ目が見えるみたいな感じ。ずーっと読んでていきなり考えろと言われても、えっ! と思ってしまう。やっぱり翻訳がうまくいってないのかな。でも、後になっていくと物語がぐんぐん進んで気にならなくなっちゃった。弟が矢を射る場面なんかは、そうだ、そうだと読めたし。ただ、全体としてはすごく感動したというほどではなかった。娘に読ませたくて書いて、愛蔵版で作ったという感じでしたね。

トチ:スティーヴン・キングって、ロイス・ローリーと同じグループで勉強してたんだって。最初は児童文学を書いてたのかもね。

オカリナ:私ははじめて『It』(文芸春秋)を読んだときに、スティーヴン・キングの子どもの描き方のうまさに、まいっちゃったのね。『ドラゴンの眼』では、トマスとローランド王がうまく書けてましたね。ピーターは、現実的な存在というより象徴的な善なのよね、きっと。 キングは12歳の娘に「高潔」ってことを教えたかったのかな。後書きを読むと、ナオミというのは娘の名前だってわかるけど、物語の中ではナオミの登場の仕方がずいぶん唐突よね。その辺のことをいえば、他の作品ほど完成度は高くないのかもしれないけど。

アサギ:途中で読者に語りかけるってことでは、吉本ばななにも、唐突に読者に向かって「ところで〜じゃない?」というところが出てくるわよ。あれはあれで、作家のスタイルとして認められてるわよね。私は、人物描写っていうのは性格をつくっていくことだと思う。これこれこういう性格があって、その結果プロットができてくる。奇想天外であろうと、人間を書けているか、性格を書けて いるかってことが大事よね。子どものときに読んで今でも記憶に残ってるのは、性格、人物造形がしっかりしてるものよね。

チョイ:昔話などは、人物はあくまでも象徴的で、プロットで動かすことによって話が動くよね。さっきの「プロット」「キャラクター」「ポイント・オブ・ビュー」の3点が完璧ってばかりではないかも。あと、文体がいいっていうのもあるよね。

トチ:文体と同じに、挿入してある歌や詩に感動するってことが、幼い子どもでも・・・というより、幼い子どもほどあるんじゃないかしら。私自身の経験でも、小出正吾訳の『ニルスの冒険』を読んだときに、白ガチョウのモルテンが他の鳥をからかう短い詩のような言葉や、『雪の女王』に出てくる「野バラの咲いた谷間におりて、小さいイエスさまお訪ねしよう」という歌に、良く意味もわからず感動した思い出があるわ。小さい子どもほど、美しい文体には敏感なんじゃないかしら。

オカリナ:でもさ、『ハリー・ポッター』よりは、この作品のほうがやっぱりおもしろかったな。

紙魚:それって、キングに人間を見る力があるっていうことだと思う。

チョイ:さっき、文体がよくて惹かれる場合があるって話だったけど、ディテールに惹かれることもありますよね。

アサギ:絵本なんかで、絵の中の細部に無性に惹かれることもあるわね。ファッションとかって気になるもの。昔『夕暮まで』(吉行淳之介 新潮社)読んでて、どうしても受け入れられないことがあったの。妻と子どもがフレンチトーストを食べてるの。フレンチトーストがその状況に合わなくて、すごく嫌だったわ。もともと、フレンチトーストは好きだけど、この場面にはどうしても合わないっていうのがあるのよ。

オカリナ:それは、こういう人物だったら、こういうものを食べるんじゃないかっていうイメージがあるってことよね。その辺は固定観念っていうこととも関係してくるから、ちょっと要注意かも。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


角野栄子『魔女の宅急便その3』

魔女の宅急便その3〜キキともうひとりの魔女

オカリナ:ケケという3歳年下のライバルが出現して、その子との軋轢が話の中心になっていると思うんだけど、それだけじゃなくて、エピソードを積み重ねていくのは、今までと同じ手法ね。表現はうまいし、落としどころもあるし、最後もうまくまとめているし、ところどころに泣かせる配置もしている。巧い作家だなと思いました。最近YAばかり読んでいたせいか、そんなに強烈な印象はなかったけど、それはそれでいいんでしょうね。もしかしたら、1巻目や2巻目と比べるとインパクトが少し弱いのかな。挿絵は、シリーズの3冊とも別の画家だけど、並べて比べなければ違和感はなくて、イメージは統一されてると思いました。いずれにしても、角野さんは、どの巻でも独自の世界を展開してますね。

ねむりねずみ:次回に読む本のお知らせをもらったとき、「挿絵に注目」とあったけれど、すみません、1巻目も2巻目も読んでません。 第1作の映画しか見ていないけど、映画のイメージとつながるものは感じました。なんとなく、懐かしい世界で、普通なんだけど、ちょっと魔法があるというゆとりが懐かしくて心地よいのかなって、そんな感じがしました。魔法自体は、すごい魔法とかファンタジー系の魔法じゃなくって日常的だけど、ちょっとだけ外れている程度。ほうきで飛べるくらいのことで、それを周りが「それもあり」と認めちゃうところが心地よいのかな。おもしろかったです。後に何か大きなメッセージが残るというものでないけど、魅力的だけど決して強いばかりではない人間が、つい人と競ってしまったり、そんな自分を何とかしなくちゃと思いつつ、なかなか何とかできないみたいな感じはよくわかる。エピソードが積み重なるなかで、気持ちがうーっと鬱積してしまうあたりなんかよく書けてますよね。同じような経験をしている子が、そうなんだよね!と思って読むんでしょうね。

トチ:角野さんの作品が、この読書会でよく話題になる「似非英国ファンタジー」と違うのはどうしてなのか、と考えながら読みました。けっきょく、登場人物は欧米ファンタジーのキャラクターだとしても、借り物ではない角野さんの世界がきちんとできているからなのね。だから、安心して読めるんだと思う。

:「ブックバード」(IBBYの機関誌)のある記事で、角野さんの作品が多くの日本の魔女ものに見られる「似非英国ファンタジー」といっしょくたにされて書かれていたことがあって、ご本人はとても傷ついていたと聞きました。

紙魚:(イラストを見ると)とんぼさんなんかは、成長しているせいなのか、画家が違うせいなのか、巻によってずいぶん印象が違いますよね。編集者としては、逆に1冊ずつ変えようという意図があったのかもしれませんけど。

ねむりねずみ:「似非英国ファンタジー」が似非だと感じられてしまうのは、書きたいことと設定がちゃんとひとつにまとまっていないからだと思うんですよね。でもこの作品は、書きたいことがあって、それが、時計台のあるような舞台設定で行われているだけのことというくらいにちゃんと書けているから、似非という感じがしないんじゃないかな。

トチ:この作品は「大人」が書いているという気がする。年齢だけは大人でも、大人になりきれていない「少女」が、ファンタジーっぽい雰囲気を楽しむために書いているんじゃなくて。だいたい、子どもの本には「大人が(あるいは、おじいさんやおばあさんが)小さい子どもたちに語りきかせる」というエレメントがあるものね。エリナー・ファージョンやルーシー・ボストンにしても。

:角野さんは自分の少女時代、自分の子ども時代に向かって書いている気がする。自分の子ども観といったらいいかな。彼女のノスタルジーは、今の子どもにも通じる。天性のストーリーテラーだな、そのへんがうまいなと。メッセージも、最後に上手にまとめているし。

紙魚:1巻は、学生のときに、母親に「おもしろいわよ」と薦められて読んだんです。私の母は変わった人で、私が幼い頃、自分は空が飛べると言っていたんです。大人になればみんな空を飛べるようになると。「でも、外で空を飛んでいる人なんか見たことないよ」って疑ったら、「人に見られると飛べなくなるから、みんな見られないように気をつけてるのよ」と言われたりして。それで毎日、ある決まった時間に母が家からいなくなるんですね。少したつと、「空飛んできたわ」って縁側から帰ってくる。だからすっかり信じ切っていました。ある日、縁側の戸をがらっと開けたら、雨戸に張りついている母を発見。まあ、その時分にはそういう嘘もきちんとうけとめられるようになっていたので、ひとつの「物語」として私のなかに残りました。おそらく、母は私に「物語」を伝えたかったのではないかと思います。今では、本という形ではなくても「物語」は存在するんだなあと思います。そういうこともあったせいか、母は大学生だった私に『魔女の宅急便』を渡したんでしょう。母もストーリーテリングの能力があれば、こういうものを書きたかったんじゃないかなあと思います。角野さんのこの本に対しては、自分より年下の人のために、物語を紡ぎだす目線を感じましたね。ただうまいだけではなくて、成長を重ねる自分を確認する作業をきっちりしてきた方だと思うんです。しかもそれを物語につなぎ合わせ、ひとつの世界にしていくことができる人なのでは。だから、設定はファンタジーではあれ、エピソードの中で、私にもこんなことあったなあ、と感じられるんですね。こういう確認作業というのは、誰にでもできることではないですよね。キキの中にちゃんと血がかよった成長が感じられる。そもそも、フィクションというのは、ある意味、人を騙すことだとすれば、人を騙して楽しんでもらうのが好きでないと・・・。

:作者は、お母さんが早く亡くなったので、悲しみを紛らすために、いろいろなお話を作って、お友だちに話して聞かせては、欠落観を補っていたそうなのね。それで、嘘つきと言われたりもしたそうなんだけれど、そういうことが、作家になることを促したのかも知れないわね。

オカリナ:お父さんからしょっちゅう講談を聞いていたとか。

ウェンディ:1巻目を読んだときのことを懐かしく思いながら、キキも思春期になったのね、と感慨深く読みました。ケケというライバルが生活に入りこんできて、虚栄心とか張りあう気持ちが芽生えて・・・というあたりは、私も昔、意固地だなあと自分でも思いながら、どうにもならなかったときの気持ちが、ふとよみがえりました。

愁童:図書館に借りに行ったら、3巻目は36冊もあるのに全部借りられてて予約待ち。結局借りられなくて、読んでいません。2巻目を借りて読んだけど・・・。ハリ・ポタも未だに予約待ちだけど、借りてるのは大人がほとんど。直接子どもに手渡しての感触がつかめないって図書館司書が嘆いていたけど、こっちは、子ども自身が借りているんで、すごいなって思った。1巻、2巻と末広がりに読者が増えてるんじゃないの? アニメなんかの影響もあるだろうけど。

:これが英訳されたらどうかしらと考えてみたのね。訳はあるらしいけれど、出版はされていないの。このレベルでもちょっと厳しいのかな。重厚さが不足してるところなんかが・・・。まず、日本の日常現実世界がもっている骨組みはないですよね。メッセージ性が弱いのかしら。

トチ:マーガレット・マーヒーの、魔女とか英国ファンタジーのキャラクターが出てくる作品は、最初はニュージーランド独自のものが登場しないというので、ニュージーランドの出版社では出してもらえなかったのね。それがニューヨークで出したら大評判になり、たちまちインターナショナルな作家になったのよね。まあ、同じ英語圏なので、日本の作品を海外に紹介するのとは少し事情が違うかもしれないけれど。

オカリナ:日本の児童文学で外国で紹介されているものといったら、何があるのかな。『夏の庭』(湯元香樹実、ベネッセ)、『13歳の夏』(乙骨淑子、理論社)、末吉暁子、吉本ばなな、村上春樹、マンガ・・・、と見てくると、日本独自の世界を書いたものばかりではなくて、いわば無国籍的なものも多いわよね。うちの子は1巻目で好きになって、2巻目も読んだ。で、私が3巻目を読んでいたら、それも読みたがったの。日本的とか無国籍的だとかに関係なく、やっぱりそれだけの魅力があるんだと思う。何でもおもしろがる子じゃないのに。生活臭があったほうがいいのか、ないほうがいいのかは、いちがいに言えないんじゃないかな。

愁童:ハリー・ポッター現象を思うと、この本が読まれていることに、ホッとするね。もしかしたら意識して日本の生活臭をはずしたところで展開しているのかなあ。でも、これの1巻目が出た時は、とても新鮮な感じがしたね。

紙魚:キキはたしかにとてもいい子として描かれていて、今の世の中にはいない子かもしれない。それでも今の子も読みたくなるお話だとすれば、つまり純粋に楽しむために読んでいるとすれば、それもいいことだとは思いますが。

愁童:それだけ今の子どもたちの実生活が大変なんでしょう。大変なときは、角田光代さんの『学校の青空』(河出書房新社)のような陰々滅々としたのは、読みたくないだろうしねえ。

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カニグズバーグ『ティーパーティーの謎』

ティーパーティーの謎

オカリナ:この本はどうも読んでらいれなくて、途中で放り投げたくなりましたね。出版されてすぐ読みかけて放りだし、もう1度挑戦して放りだし、今回みんなで読もうということになって、やっとのことで最後まで読みました。まず、最初に「博学競技会」という言葉で、えっと思ったの。どうしてこんな訳語にするのかな? 物知りコンテストとか、物知りコンクールでいいじゃない。もともと物語の構造が複雑だから、さらっとは読めないんだとは思うんだけど、この翻訳では、おもしろさがまったく伝わってない。ニューベリー賞を獲得した作品とはとても思えなかった。原文は、もっとおもしろいのかもしれないね。

ねむりねずみ:前から気になっていた本で、原文を読みたいなとは思っていました。やっぱりカニグズバーグだし。訳に関する要素を除くと、ノアにしてもナディアにしても、出てくるキャラクターはやっぱりカニグズバーグという感じ。都会的でセンスもあって、子どものキャラクター作りはとってもおもしろいと思った。 でも、訳がいまいちなんですよね。最初のノアのところで、「実は」「実は」のくりかえしにうんざりしてしまった。ノアの口癖なんだろうけど、もうちょっとなんとかならないかなって気になってしまって。短編集『ほんとうはひとつの話』みたいなのかな、と思って読んでいくと、うねうねとつながっていくスタイルだったので、途中でへえっと思い、最後の娘さんのあとがきを読んで納得しました。やっぱりうまいなと思ったし、著者の冒険心みたいなのがおもしろかった。でも、訳には悩まされました。p233のロープの輪っかが出てくるところなんか、どういう状況なのかよくわからなかった。凝った構成なのに、ディテールがきちんと伝わってこなくて、途中でやたらとひっかかった。

オカリナ:身体障害者の先生が出てくるじゃない。この先生像がいまいち見えてこないのよね。やっぱり訳のせいなのかな。うまく訳せば、もっと人物像がうかびあがるはずだと思うんだけど。先生の人柄がうかびあがらないから、この「競技会」に関しても、ただ知識を競わせている嫌な先生のようにしか思えなくて、魅力が伝わらなかった。

ねむりねずみ:『エリコの丘から』(カニグズバーグ 岩波書店)にも似ている感じがしました。物語全体が謎めいているところなんかが。何度かあっちこっちひっくりかえして、やっと全体の話がつながったんだけど、本当は1度でつながらなくちゃいけない。シンさんが時々亡霊みたいに出てきて先生と会話しているところなんかが、よくわからなかった。それと、翻訳がなぜこのタイトルになったかもわからない。p13の、弟のジョイが「祖父母のところに・・・行かされた」っていうくだりも、きっと原書で作者はいろいろ考えて言葉を探しているだろうに、訳が荒っぽい感じ。

:私も、わりと何でも普段は義務感で読みとおすのに、途中で挫折しちゃった。翻訳のせいだとは思わなかったんだけど。

トチ:これって、4人の子どもの話と1人の大人の話が、それぞれ色の違う糸のようにからまって、ついには美しいタペストリーを織り上げていく・・・そういう構成の物語よね。ところが、訳のせいでそれぞれの糸の色分けができていない。だから、さっぱりタペストリーが見えてこない。本当に残念なできあがりになっている。それから、「ジャック・スプラットは脂身がだめ、奥さんは赤身がだめ・・・」というの、有名なマザーグースの唄よね。訳は「童話」となってるけど、原文でも「童話」とは書いてないんじゃないかしら。それから、マーガレットのトレーナーの色が「青緑でとても派手」というようなことを書いているんだけれど、「青緑」だったら日本ではちっとも派手な色じゃないから、「どうしてなの?」と思ってしまった。きっと原文はturquoiseとなっているのでは? ターコイズは日本の辞書では確かに「青緑」となっているけれど、けっして「青緑」ではない。トルコ石の青だから、空色や水色に近い色よね。これなら派手といってもおかしくはない。重箱の隅をつつくようだけど、そういう細かいところが気になりだすと、物語の世界に浸れなくなるのよね。

オカリナ:筋でどんどんひっぱっていく話ならともかく、こういう凝った構成になっている作品は、翻訳には特に気をつけたいわね。

トチ:物語のほうでは、カニグズバーグって、どうしてこんなに頭のいい子が好きなんだろうと思ってしまった。知力で大人と対等にわたりあえて、しかも意志がしっかりしている。こういうのも一種のアメリカン・ヒーローなのかしら。私は、黒板にいたずら書きするハムみたいな子のほうに共感をおぼえるけど。

オカリナ:ハムという子は、物語の中ではあっさり切り捨てられてるのよね。

ウェンディ:「博学競技会」で華々しい勝利をおさめつつあるところ、そろそろ終わるのかなあと思うのに、次々と7、8年生に勝ち進んでいくのは、冗長な気もしましたね。訳文が読みにくいのは私だけかと思ってました。カニグズバーグだし。構成的には興味深く読んで、読み終わってから娘さんの解説でモーツァルトの構成を取り込んだ、と知って、なるほど、と思いました。4つの短篇小説といってもいいようなプロットが、最後に一つのうねりに収束していくところが、もっとうまく描かれていれば、もっとおもしろかっただろうな。でも、これも訳の問題なのかもしれませんね。これだけあれもこれもと要素を盛り込みながら、破綻なくまとめあげられるのは、さすがにうまい人だなと思いましたね。アリスが象徴的に使われていたりする点も、親しみがわくし。ただ、訳は、英語が苦手な私でも、原語が想像できてしまうようなところがある。特に、プロットごとにあえて語り手を替えることによって、織り成す物語だと思うので、やっぱり訳でも語り口をかえてほしかった。ただ、昔だったら何とか日本語にしていただろう言葉でも、今はあえてカタカナのままでいいんだなと再確認できる部分もあって、翻訳の仕方も変わってきたんだな、と参考になりました。

愁童:ぼくも読みにくくて挫折寸前だった。カニグズバーグは大好きなんで、自分の感性を責めてたんだけど、皆さんの翻訳論を聞いてて溜飲が下がりました。最初の結婚式の模様も、どたばた調で、饒舌な割りにわかりにくい。あそこを抜け出るのにエライ苦労しちゃった。

紙魚:この本って、対象が小学5、6年以上となってますよね。その年齢ではもちろんですが、その年代より少しは読解力はがついたのではないかと思う今の私が読んでも、読みにくかったです。構成を把握しながら読むって相当の力を要すると思うんです。やっぱり自分におきかえてもそうですが、子どものときって、大局的にとらえるのって不得手でした。そのかわり細部には目を光らせてるんですけど。小学生の自分だったら、この構成が「モーツァルトの交響曲」と言われてもよくわからなかったと思います。でも、もっと読みやすくて、その組曲みたいな構成がわかれば、読書のおもしろさをもっと味わえて、読書を広げるきっかけになるだろうに。これを読んだゆえに、ほかの本へとの興味もなくなってしまうとしたら、とっても残念。これだけおしゃれな構成のおもしろさを、ぜひ子どもにも知ってもらいたかったな、とは思います。細部だけでなく、大枠の構成がおもしろいなんて感じ方をしてもらえたらいいのに。私が編集を手がけるときは、そうなってもらえるように、ぜひ気をつけたいと思います。こういうのって、わからないところがわかったときがすごくおもしろくて、新しいステージを知ったように世界が広がるから。

トチ:こういう構成の物語は、道しるべというか、キーになる言葉がとても重要だと思うの。それがうまく訳されていなかったり、間違ったりしていたら物語そのものも理解できなくなってしまうと思うわ。

紙魚:うーん、モーツァルトの曲だって、技量があって曲を理解しているピアニストが弾いてこそですよね。

ウェンディ:まず、どこにメロディラインが隠れているかがわからないと、弾きこなせませんものね。

オカリナ:翻訳者が伏線を伏線と意識していないと、読者にも伝わらないから、難しいですよね。

トチ:会話の部分でもノアとイーサンが区別できない。二人の性格の違いも見えてこないわ。

愁童:カタカナで「キョウイクシャ」と書いて、作者がこめた皮肉っぽさを、 今の子どもたちに伝えられるのかな。訳者は、本当にカニグズバーグの言葉を伝えてくれてるのかなっていう不安を感じたな。 『Tバック戦争』(カニグズバーグ)なんかは、実にいいなって思ったのに。

オカリナ:『Tバック戦争』は筋があって、わかりやすかったんじゃない。それでも翻訳はひっかかったけど。そういう意味では、『ティーパーティーの謎』はもっと翻訳が難しい作品ね。

ねむりねずみ:原文の英語はきっとこういうふうに書いてたんだろうなと思わせるところが多々あって、英語にひっぱられてる感じ。英語だと通る言い回しでも、日本語になると変だったりする。

オカリナ:岩波はせっかくカニグズバーグの秀作は全部出そうとしてくれているのだから、もっとていねいに本をつくってほしいな。お願いしますよ、ほんとに。

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


デイヴィッド・アーモンド『肩胛骨は翼のなごり』

肩胛骨は翼のなごり

オカリナ:おもしろかったけど、文句が2つあるのね。まず、表紙が内容と全然違うでしょ。どういう人に読ませたいのかわからない! もう1つは題名。売れるとも思えないし、お洒落とも思えない。それに、この本の出し方は、子どもを読者対象にはしてないわよね。原書の対象は9〜12歳なんだけど、邦訳にはルビもないし。私は、子どもにも読める形で出してもいい本じゃないかと思うんだけどな。内容的には、スケリグは、ホームレスのイメージよね。しかも、死んだ動物を食べ、嫌な臭いがする。「メルヘンチックな」童話が児童文学だと思っている人にはショックだろうし、そういうのと対極にある話。物語は、ウィリアム・ブレイクを下敷きにしてて、ブレイクの詩が好きな隣の女の子の存在がおもしろかった。学校へ行かないんだけど、堂々としていて、イギリスだったらこういう女の子いそうな気がする。主人公の男の子は、引っ越してきたばかりで、妹が死にかけていて、親もそっちに一所懸命になっているから、不安定に揺れている。それで、精神的に日常とは違うところへ行きかけているところを、この女の子が引っ張ってくれる。普段のサッカーや学校生活では見えないものをこの少年が感知していくプロセスが、うまく書けていると思いましたね。

愁童:おもしろかった、すごく。表紙と訳の最初の部分はひっかかったけどね。訳文はおもしろくないなあと思いながら読んでいった。本作りにも作品世界を正確に伝えようというような意欲は感じられないしね。でも原作の力が、そんなものふっとばして輝いていたと思う。スケリグは、子どものときは見えたけど、大人になったら見えなくなったものの象徴かな。赤ちゃんが死にそうになったとき、母親にも見えたという描き方は、イメージがふくらむね。ここまで読んできた甲斐があった、うまい! と 思っちゃた。ところが、次の日に隣の女の子と見にいくと、スケリグが戻ってきていて、それからおもむろに子どもたちの前から居なくなるってところは、ちょっとね。戻ってこないほうがよかった。その方が、 鮮やかなイメージを残してくれると思うんだよね。吐き出したものが臭いといったようなディテールが、きちんと描かれていて、雰囲気が伝わってくるので、引きずられる。そこはうまいと思った。それにしても、訳書の本作りには腹が立ったなあ。

トチ:この作家は私の大好きな作家。「スケリグ」という原題のこの作品も、テーマといい、文学的な香気といい、英国の文学史上に残る作品だと思う。日本でも外国でも、「襤褸の人」と「聖者」を結びつけて描くということが昔からあるけれど、この作品ではそれを「ホームレス」と「天使」にして描き、その汚くて清らかな、力があって無力な存在が、主人公やその妹を救うという設定になっている。特に、それが児童文学という形であらわれているのが、素晴らしい。なのに、日本の出版社は3つの点でこの素晴らしい作品を傷つけているのよね。1つめは、表紙。私の知っている若い人は、本屋の書棚からとりだして表紙を見たとたんギョッとなって、また棚に戻してしまったんですって。まるで、ポルノグラフィもどきの表紙で、内容を裏切っている。2つめは、タイトル。3つめは、カーネギー賞をとった児童文学なのに、子どもに手渡そうとしていないこと。大人の本の出版社がこうやって海外の素晴らしい本をさらっていって、大人の書棚に並べてしまうというのは、本当に残念だと思うわ。この作家の作品は、これからもこの出版社で出すという話だけど、惜しいなと思う。版権というのは買ったからといって、その出版社が煮るなり焼くなり勝手にしていいというものではない。その作品を最良の形で日本の読者に送るという義務があると思うんだけど。

ねむりねずみ:ネズミを食べたたりする汚いイメージと、聖なるもののイメージが一緒になっているところが大切なのにね。私は、訳文が完全に子どもを捨てているのがすごく嫌だった。原文はとても平易なのに、なぜこうするかなあっていう感じ。これじゃあ、子どもはわからない。地の文だって、子どもが語ってるはずなのに、こんな表現、使わないと思うところがたくさんあった。凝りすぎ。ともかく、はじめから大人だけをターゲットにした本にしないでほしい。原作者は、9〜12歳の子に送りたいと思って書いているのだから。でなければ、原書も大人向けの文体にしているはず。それに、子どもなればこその読み方ができるはずで、大人になってから読むのとは違うはずだと思う。そういう点で、ものすごく腹がたつ。原文を読んでいたので、あれ、これって誤訳じゃない?っていうところ(p3のI couldn’t have been more wrong.「それよりひどいことがあるなんて」など)が気になってしまった。訳によって、受け取る作品のイメージが原文と変わってくるから、翻訳って怖いなって思った。1章の最後だったかしら、The baby came too early.「そして赤ちゃんも早く生まれた」ってあるけれど、早く生まれすぎたという感じではないのかしら。

オカリナ:赤ちゃんは臨月で生まれないと、それだけで大変なわけだから、私は「早く生まれた」でもいいと思うけど。

愁童:だいたい、「旨し糧」なんて言わないでしょ。翻訳者のセンスが古くない?

トチ:原作者だって、子どもの本だと意識して書いたと言っているのに。

愁童:「なんでこんなところに越してきちゃったんだろう」とお母さんが思うところ。納得の上のはずだったんじゃないかと思ったけど、確かに、一生懸命そうじしたために早く生まれちゃったという前提があれば、わかるよね。読んだときは、よくわからなかった。

ねむりねずみ:スケリグが好物を中華料理のメニュー番号でいうところも巧いですよね。現代イギリスの生活の雰囲気も伝わってくるし。

オカリナ:スケリグは現代の「星の王子様」なんだなと思いましたね。きれいでもないし、かわいくもないところがすごいじゃない。

愁童:スケリグのことを汚いなと思いながらも、読者が最後までついていけちゃう筆力があるよね。フィリップ・プルマンの『黄金の羅針盤』(新潮社)にエンゼルが出てくるよね。あのイメージに通じるものがある。文化のつながり、ネイティブでないと書けないものという気がしたね。

ねむりねずみ:むこうでは、天使にもいろいろあって、羽が6枚で目がついてたりするのもある。そういう日本とは違うイメージの広がりがあるから。

オカリナ:天使にも階級があるしね。

愁童:日本だとこういう世界を書こうとすれば、廃屋で暮らす少年少女は出てこないよねえ。

オカリナ:今の日本には、スケリグがいてもおかしくないようなスペースがなかなかないけど、イギリスにはまだあるんじゃない?

ねむりねずみ:イギリスは人口が分散しているので、そういうところも残っているんじゃないかなあ。

オカリナ:日本でも、私が小さいときは近所に得体の知れない不思議な人が居たわよ。軒を借りて小屋をつくって住んでいたりするの。そういう人を見ると、いろいろ想像したものだったけど、今は「不思議を感じさせてくれる人」は隔離されちゃっているでしょ。イギリスには移民もふくめて「変わった人」はたくさんいるわよね。学校行かないで平気な人もいるし。日本のような、みんなが「並み」の画一的な社会では、日常的なファンタジーは生まれにくいのかもしれないな。

愁童:ぼくも、集団疎開先で経験してるね。得体の知れないおじさんがいて、村人がそれなりに存在を認めていて、下肥汲み専門みたいな仕事をやってるんだけど、仕事がないと、いつも共同温泉場にボーっと入ってるんだよね。顔だけがお湯の上にプカプカ浮かんでるみたいな感じでね。ぼくら子どもも、そのおじさんとよくいっしょに入ったよ。なんか不思議だったね。

ねむりねずみ:画一社会は、そこにいることで、ぞわぞわっとする部分を感じる人、っていうのを、全部排除しちゃうのよね。

紙魚:これ、表紙はもちろん悪いんだけれども、私にとってはいい経験になりました。編集者の役割というものを考えられたからです。入社したての頃、書店のお手伝いをさせていただいたことがあるんですが、毎朝、その日の新刊が届くと、店長が中身を見ずに、店に置く本と置かない本をふりわけていくんです。店長は、表紙だけをぱっと見て瞬時に判断していくんですよ。わー、待って、その本おもしろそうなのに! なんてことがよくありました。本を選ぶ理由って、いろいろあるじゃないですか。内容がいいってことはもちろん、ほかにも、手ざわりがいいとか、デザインがいいとか、気にいっている書店で薦められていたからとか。でも、やっぱり表紙って大事なんだな、本の顔なんだなって実感しました。今回、内容はいいのに、表紙がよくないこの本を見たことで、本づくりの一端を担う者として、できるだけその本のよさを伝える努力は惜しみたくないと痛烈に感じました。作品を好きになり、この世界を理解しようと努めて、できるだけいい表紙を作ろうと。こんな本になっちゃうこともあるのだったら、逆にそれだけがんばれる部分もあるんだなと思ったんです。

オカリナ:私は、とにかく目をひく表紙にして本屋に置いてもらおうとしてるのかな、とも思ったんだけど、表紙に引かれて買った人は逆に失望するでしょ。売れちゃえばいいって思ってるのかな?

トチ:そういう版元だとしたら、版権を買うのが許せないわよね。

オカリナ:表紙や書名が中身と合っていないいう意味では、今のところ今年いちばんギャップの大きい作品でしょうか?

(2001年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


レルン『すいがらとバラと』

すいがらとバラと

ブラックペッパー:えーっと、この本は,あまり言うことがないなあ。さらっと読めたけど、そんなにすばらしくよくはなかったかな。えひめ丸の事故でも感じたんですが、死に対する考え方が、欧米とアジアでは違うんでしょうか。死生観の違いを感じました。好感をもてたのは,最後の3場面。このあたりにさしかかったとき、うるっとして涙が3粒ほどこぼれました。今、日本ではやっているのは、どーんと泣かせる物語ですよね。でもこの本はそうではなくて、涙3粒で、そこはよかった。ぐっときたのは、p59の「もしもジミーが生まれてくることがなく、わたしとおなじ時を生きることがなかったら」というところ。こう言われてなぐさめられる読者っていると思う。

すあま:北欧の作家だなという感じが非常にしましたね。北欧の子どもの本で離婚や死を扱ったものは、ちょっとわれわれとは感覚が違うように感じますね。装丁的には絵本ですけど、読み物としてはもっと上の年齢を対象にしてますね。p36で、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて、パパがうれしそうな顔をしたという部分は、わかるようなわからないような。まだジミー死んでないときに、こういわれてうれしく思うっていうのは、どういう感覚なんでしょう? おもしろい部分は、最後に家族が別々にいやしの旅にでかけるところ。ママが、パパやジミーと違う旅でリハビリをするというのは、おもしろい。それぞれ立ち直り方が違うのは、興味深いです。まあ、全体的にはおもしろかったかな。

スズキ:命のことを語るときにはいろいろな方法があるけれど、そのなかでもやさしく語りかけてくる本だった。私も「ジミーが死んだらさ」というところではちょっとひっかかったので、誤訳ではないかとも思ったし、きっとトムに対してわかったよという意味でスマイルしたのではないかと勝手に解釈しました。欧米の人は、やっぱり考え方が違うのかな。前に、自分の肉親を亡くされた作家が、死について書いたとき、こういうつくりではなく、200ページ近い本になったことがあります。それだけ、思いがいろいろあって、表現したいことも、たくさんのページが必要だったのだと思います。命を語る時に、「どんな本がいちばん良い」と決めつけることはできませんが、人間にとって、とても大切なテーマなので、自分にとってどんな本がいちばん語りかけるものか、いろんな本を読んでいきたいと思いました。

ねむりねずみ:私はわりと読みにくかったです。なぜか最初からひっかかりっぱなし。死を扱うと、雰囲気が重たくなりがちで、回復していく過程を延々と書いていったりすることがあるけれど、この本は違うなって思いました。なんとなくユーモラスなところがあって、たとえばp35のガールフレンドのところなんかが、おもしろかった。対象年齢がどのぐらいなのかなあ、というのが疑問でした。文章はもう少しひっかからないとよかったなあって思いました。「もう死ぬはずなのに、」といううわさ話の部分は、読んでいてぎょっとしてしまいました。実際にこんなこというかなあ?って。言ったのが看護婦さんだったとしたら、怖いなあって。むしろ、ジミーが死んだら猫をちょうだいと言われてパパがほほえむ話よりも非現実的な感じがしました。スウェーデンでは、血縁とは関係なく養子を受けいれることがわりと多く行われているみたいなんですが、家族もとても大切にしているんですよね。家族のそれぞれが、弟を看取り、死んだ人の残した空白を埋めていこうとするのがよく描かれていました。

チョイ:この本が出た1997年というのは、死などの、喪失感からの回復がテーマとなった書籍が多く出ていた頃だと思います。私もちょうどこの頃、死に関係する本を何冊も読んでいたんですが、そういったものの中では、この本は印象が薄いほうですね。肉親の喪失感の表現は、むしろ『はいけい女王様、弟を助けてください』の方が、ディテールから物語を作りだしていて、達成されていると思います。こちらの方は、もうひとつ弟のキャラクターが立ち上がっていないんですね。エピソードの選び方が、あまりうまくなくて、例えば弟が周囲を「明るくしてくれる」とか、ただひとことで説明しているんですが、それを具体的にイメージさせてくれるエピソードがないんです。これでは、ジミーのキャラが伝わってこない。作品の中に読者が入りにくい。許すことが上手な弟であれば、それをあらわすエピソードを描くべき。私だったら出版しない本ですね。絵もいいとは思えない。ちょっと中途半端な印象です。

オカリナ:おそらく作者は、弟が死んだ後もずっと続いていく日常的な現実と弟の死とを対比させて描いているんでしょうね。自分がすわっている病院のベンチの前には看護婦さんが吸ったタバコの吸い殻がたくさん落ちているとか、看護婦さんがナースシューズでなくてプーマとかコンバースなんかをはいてて、それで吸い殻をもみ消していくんだとか、そういう日常の具体的な情景が書かれているところはおもしろかったんだけど、それに比べて肝腎の弟の人となりはなかなか浮かび上がってこない。最後にまとめて抽象的に描かれているだけだと、どうも伝わってこないんだなあ。

トチ:うーん、私もこの本に関しては言ういことがないです。いやな本だとか、悪い本だとは思わないんですけど。死をシンプルに描いているという点では、好感がもてる。絵が単にきれいな絵ではないのもいいとは思う。でも、弟が最初から天使になっちゃっているのね。猫のエピソードなんかもそう。さっき、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて喜ぶ気持ちがわからないって話が出たたけど、私はお父さんの気持ち、わかるような気がする。自分の子どもの命が、ほかの小さい子どもににつながっていくように感じるんじゃないかしら。そういうところはおもしろい。あと、主人公と父親だけが癒しの旅に出るのもおもしろい。短いセンテンスで作者の思いとか、ものの見方がずばっと出ている。それから『すいがらとバラと』というタイトルは、おそらく原文どおりなんでしょうけど、何か特別な意味があるんでしょうかね。汚い現実と、バラの匂いのように美しくなった弟という意味なのかとか、弟を思いおこした、バラの匂いがする数分間という意味なのかとか、いろいろ考えてしまったわ。

オカリナ:「あいつの猫おれにくれない?」って言ったのは、小さい子じゃなくて大きい子だから、お父さんは息子の命がつながっていくと思ってほほえんだわけじゃないのでは?

ウェンディ:今回の選書係は私なんですけど、先に『ぶらんこ乗り』が決まっていたので、それに合わせて何か翻訳ものから選ぼうとして、七転八倒しました。前に課題になった『イングリッシュ・ローズの庭で』が、姉妹というテーマだったので、今回は、姉から見た弟という視点を考えてみたいなあ、ということも、1つのポイントとして探しました。すでに死んでしまった弟を回想する、その振り返り方が、重なるというか、比べて読めるかなと思って選んだんです。みなさんがおっしゃってるように、私も猫のエピソードにはひっかかりました。大切な人が死ぬ、しかも、若い子どもが死んでしまうということの受け止め方が、日本と違うんじゃないかと考えました。お父さんは、その子が大切にしている猫をほしいと言ってくれたことが、うれしかったのではないかと。幼い子が死ぬというのは、もちろん悲しいことだけど、それを静かに受けとめて、乗り越えていくというあたりを、みなさんがどう思われるかを、今回うかがってみたいと思いました。

オカリナ:でも、たとえば『テラビシアにかける橋』(キャサリン・パターソン著 偕成社)だと、娘が死んだとき、娘の愛犬は親が大事に飼うからって言って、娘の親友だった主人公には渡さないでしょ。外国では死生観が違うって、あんまり簡単には言えないと思うんだけど。

紙魚:私も、読んでも何だかよくわからなかったというのが本音です。死がテーマになっているにもかかわらず、胸に突きささることもなく読みとおしてしまいました。それはどうしてなのか考えてみたのですが、もしかしたら自分に大切な人を亡くすという経験がないからかとも思ったんです。ただ、自分に同じような体験がなくても、深く突きささってくる本というのもあるんですよね。でも、自分に経験がないとわからない、しかも語れないということもあります。たとえば、配偶者を亡くされた人を前にして、経験もないのに死について語るのは難しいです。この本には、そういう距離を感じてしまいました。作者が家族の死を乗り越えようとしている姿勢はわかるんですが、心には伝わりにくかった。あっ、それから、挿絵は作家と別の人によるものだけれど、ぴんとこなかったです。

もぷしー:タイトルと中身がうまく結びつかない本ですよね。これは、文化の違いからくるものなんでしょうか。モチーフ自体が状況を表しているだけであって、タイトルになるほどではないんじゃないかな。これは疑問のまま残りました。北欧らしいと思ったのは、絵もですね。ちょっとひっかいて書いただけみたいな。この本としては、成功していると思います。そっとしておいてくれそうな雰囲気が、よかったです。具体的な部分と、抽象的な部分の開きが大きいのが気になりました。もっと話者のテンポがあれば、ひっぱっていかれるんだろうけど、この人の回想録、ついていくのが難しかったです。それから、日本の場合は、死を乗り越えたところで回想するスタイルが多いんですが、この本はこれから乗り越えようとしている時点で書いているところがおもしろいですね。

愁童:ぼくは、前に読んでたんだけど、ウルフ・スタルクの作品と勘違いしていた。好感度の高い本だと思ってたんだけど、この会に出るんで今回読んでみたら、それほどでもなかった。好感度が高い印象は、訳のおかげじゃないかな。同じ訳者の文体でスタルクといっしょに読んじゃったので好感を持ってしまったんだよね。この本はセンチメンタルだし、スタルクほど良くはなかった。どうも訳で得してる感じ。訳者の体質もあるから、こういうのってどう考えたらいいんだろうか。

トチ:私は昔から翻訳者はピアニストみたいなものだと思ってるの。ショパンのおなじ曲を弾いても、ルビンシュタインとサンソン・フランソワでは、まるっきり違うでしょう。楽譜は同じなのに。後で、プーシキンか誰かが全く同じことを言っているって聞いたけれど。だから、あまり良くない作品なのに、訳文でとても良い作品になるってこともあるし、良い作品を訳でめちゃめちゃにしてしまうこともある。また、誰が聞いても素敵な曲は、下手な人が弾いても魅力的に聞こえるのと同じに、素晴らしい物語は、稚拙な訳でも素晴らしさが伝わるってこともあるわね。たしかにこの本の場合は訳者に助けられていると思う。

オカリナ:スタルクの作品と似てるっていうことなんだけど、この本の場合、原作者の力量不足が有能な翻訳者によってカバーされて、スタルクに近い雰囲気になってきてるってことなのでは?

愁童:ということは、翻訳者を選んだ編集者の力ということかな。

トチ:この本は、主人公も弟も動いてないけど、スタルクの書く人間は動いているものね。

愁童:スタルクに『おねえちゃんは天使』(ほるぷ出版)って絵本があるけど、この本、あれによく似てる。スタルクの方は死んだ姉を弟が思うんだけど、こっちは、姉が死んだ弟を偲ぶということで、女の子が主体になってるから、感傷的なトーンになるのは仕方ないのかな。でも、スタルクの方は、すごくユーモラスに書いてるだけに、かえって愛する者の喪失感みたいなものが読者にどーんと伝わってくる。

オカリナ:『おじいちゃんの口笛』(ウルフ・スタルク文 ほるぷ出版)も、死が描かれてた。スタルクは、死に至る前のおじいさんと少年の関係を、印象的なエピソードを積み重ねて描いているから、人物像がしっかり読者にも伝わる。でも、この作品は人物像を浮き上がらせるための具体的なエピソードが弱いんだと思う。

チョイ:私が、この本だったら出さないかもしれないと思ったのは、誰に向かって、何のために出すかがよくわからないから。想像できる誰かを励ますなり、何らかの新しい価値観が描かれていたりが理解できれば出せるんですけど・・・。でも、いまひとつこの本は、その点がぼんやりしているの。最後の方に、テーマが集約されているようではあるんだけど、それでも淡い。ただ、死というテーマを描くのは、本当に難しいです。スーザン・バーレイの『わすれられないおくりもの』(評論社)のように、老人の死なんかはいままでも書かれ、それなりに納得できるんだど、子どもの死みたいな理不尽な死というのは本当に難しい。どう受けとめて、子どもたちにどう伝えるかは、私にとってずっと課題です。でもこの本はその問いに回答をあたえてはくれませんでした。

トチ:人の死にそう簡単に感動してしまっていいのかって、こういう物を読むたびにいつも思うわね。

チョイ:不幸だと思っちゃったら、受けとめられなくなるんです。

もぷしー:それにしても、スタルクの本っていい印象があるので、スタルクっぽさで評価が1ポイント上がってしまうっていうのは否めない。どうもいい感じの印象だけが残るんだもの。品がいい感じ。すてきな本にしあがっているから、実質よりも評価が高くなりがち。哲学的なのかなあ。

愁童:いやー、哲学はないのかもしれない。地面に落ちてる吸い殻の数をかぞえて、「97本! アイスは、こんなにたべられないや」と弟が言ったりするとこはうまいんだから、それでいいんじゃないの。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


モーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟を助けてください』

はいけい女王様、弟を助けてください

もぷしー:私はこの作品のほうが、素直についていけました。対象年齢に対して、等身大で描かれていますよね。子どもが読んでも共感しやすいし、自分にも何かできるんじゃないか、という誰でもがもつ疑問に答えるというか、提案し、勇気づけてくれる。子ども向けに死を扱っているものとして、やさしく、そっと触るような感じの作品が多いのに対して、この本は、焦りの中でアクティブに描かれていて、おもしろいと感じました。ものがすべて具体的で、誰が見ても「それはないでしょう」、というジョークになる部分は子どもにはジョークとして伝わり、泣きたくなっちゃうところは本当にそうだと思わせるところが、うまいと思いました。エイズとか同性愛者の問題も盛り込みつつ、といって声を大にするのでなく、身近な出来事として書いている。日本では、まだあまり行われていないことだと思いました。結末ですが、弟がまだ生きているというのが、いい終わり方ですね。治るわけでもなく、自分の挑戦に対する応えという意味でよくできていると思った。

紙魚:物語を読んでいくのはとてもおもしろかったです。ただ、今の日本の子どもたちだったら、こういった状況に置かれたとき、どんな物語になるんだろうと考えてしまいました。女王ではなくて、どこにこういう手紙を書く対象をもっているのかな。昔だったら、神様とかお地蔵様に願いごとをしましたよね。でも、今の子どもたちには当てはめにくい。そういう対象が、今はどういうところにあるのかな? それが今の子どもを語る鍵にもなりうると思うんです。利発な子どもなら政治家かもしれないし、もしかしたら芸能人、モーニング娘なんていうのがそういう存在かもしれない。それもあながち笑い話ではないと思うんですよ。日本の子どもたちは、芸能人にものすごく力を見出している。自然の力ではなく、即物的なテレビの力にかなり頼っていると思うんですね。この主人公が、弟の死に直面しても、最初はまず親に対して自分のアピールをしていくところがおもしろかったです。自分の弟が死ぬんだとわかったとしたら、大人だったらただただ落ちこんで、それが物語になっていくのでしょう。だけどこの本の主人公は、そこが出発点となって自分がアクティブになっていくところに好感がもてました。

ウェンディ:初めて読んだときは、電車の中でちょっと読んだら涙ぐんだり吹きだしたりで、これは電車の中で読んじゃいけないな、なんて思いながら、なんてすごい作家なんだろうと、ほかの訳書もさがして読みました。そのときの感動は、前のお二人とも似てるんですが、普通の兄弟喧嘩からはじまって弟の病気を知り、徐々に弟を助けたいという情熱が昂じていく構成とか、両親をはじめ大人がよく描けている点とか、従兄弟やゲイのカップルとの交流を通じて、弟に会いにいこうと思うというラストまで、すばらしい作家だと喝采しましたね。でも、2回目に読んでみると、気になってくるところもあったな。確かにグライツマンはうまい作家だとは思うけど、大人に言われたことへの反応の仕方とか、狙いすぎというか、ちょっとあざとさを感じてしまった。筆がすべりすぎるんでしょうか。あと、弟が入院したら親がコリンをイギリスへ送ってしまうところ。たしかにこんな向こう見ずな子がいて、こんな状況になったら、いっそどこかへ預けてしまおうと思うかもしれない。でも、辛い目にあわせたくないという親の言葉には疑問を感じてしまった。

トチ:イギリスの友人からおもしろいよと薦められていたのに、忙しくてほったらかしておいたのね。しばらくして原書を読んだらおもしろくて、初めのうち、吹きだしてばかりいたわ。今回、日本語で読んだら、初めのほうのめちゃめちゃな行動がうるさいなと思った。原文で読んだときはそうは思わなかったのにね。内的な独白ではなくて、主人公の行動で物語を進めていくところは、児童文学だなと思いました。

オカリナ:最初の部分はドタバタ調が気になったし、こんな子実際にはいないだろうな、と思っちゃった。でも、エンターテイメント作品だと思いこんで読んでいったら、だんだんそれ以上の何かがあるということがわかってきました。日本だと、素直に直接行動に出るようなこういう子は生きられないよね。しかも、コリンは5、6歳なのかと思ったら、12歳。でも、オーストラリアの田舎だったら、12歳でもこういう子どもらしい子どもがありうるんでしょうかね。原本の表紙を見ても、この感じはエンタテイメントよね。まあ、一見してシリアスだと、暗いと思われて手にとってもらえないからかもしれないけど。

チョイ:すごくツボを心得ている作家ですよね。作りすぎの感じもあるけど・・・。コリンがルークとお茶を飲むところではじめてわーと泣くでしょ。あそこではちょっと感動しました。あと、アリステアの一家がすごくおかしい。おばさんがいちいち介入してきて。でも、日本が舞台だったら、こういう物語は成立するのかしら。日本の子どもの現実はこういうおもしろい物語が不自然になってしまうみたい。日本ではなかなかこういう物語は成立しない。これは翻訳物ならではの良さよね。クレメンツの『合言葉はフリンドル』(笹森識訳 講談社)なんかでもそう思いましたが・・・。コリンも13歳にしてはすごく幼いでしょ。日本の男の子なら、こんなことしないじゃない。オーストラリアの田舎の子、素朴ないい子って感じよね。キャラクターに救われてるというか。設定と舞台で作れる良さをしみじみ感じました。ただ、p30あたりの「うー腹ぺこだ」のあたりがわかりにくい。

オカリナ:大人の配慮が子どもにはかえってよくないのだというメッセージは伝わったんだけど、いくらエンタテイメントでも、家に鍵をかけて子どもを閉じ込めるかしらね? 全体的にはよくできてて、おもしろかったけど。

ねむりねずみ:私も、翻訳が出る前に原書で読み始めたら、おもしろくておおしろくてという感じだったな。でも、訳が出たときには少し読んで閉じてしまった。冒頭ががちゃがちゃがちゃ、どどどっていう感じで、原書で受けたイメージと違ったから。グライツマンは確かにうまいと思います。針小な物を棒大にして見せて笑わせるっていう技を持っている人だけど、ここでは、死を扱っているからか、上っ滑りに過ぎる感じをあまり受けなかった。それに、コミカルだから死を内にこもらずに書けたような気もする。シナリオライターだけあって、回転が早い、とんとんと話が展開していって、エンタテイメントとしてもおもしろいし、・・・たしかに非現実的で子どもっぽくて、発想がちょっと誇大妄想的だけど、それって実は小さい頃には誰でもそういう部分をもっていたんじゃないのかな。途中から、この子、どこで現実に着陸するんだろう、軟着陸できるのかなって気になりました。結局、一緒にいること、今を大事にすることが一番だってわかって帰っていくというラストは、納得がいってよかったな。初めて読んだとき、ゲイやエイズを扱っている扱い方を見ていて、なんか日本と違うなって思った。日本だと、やたら重たくなっちゃったり、でなければ、まるでタブーみたいにしてしまいそうな気がするんだけど、こうやって児童文学でさらりと、しかもちゃんと入れてくることができているんだって思いました。

スズキ:私も今回2回目で比較的冷静に読めたので、初めて読んだとき見えなかったことが見えてくることもありました。2回目でも、はらはら、ドキドキさせられて、やっぱりおもしろかった。イギリスに一人で行かせる、鍵をかけて閉じ込めるといった一つ一つのプロットは一瞬どうして? と思うけれど、コリンがストーリーの中にぐいぐい引っ張っていってくれる感覚が気持ちよくて、よい作品だなと改めて思いました。弟の病気や死を意識してずっと読んだあと、ラストシーンでは、感動的な兄弟の再会で締めくくられるので、生きているってすばらしいと思える作品。コリンは女王様に手紙を書いたり、会いに行ったり、それでもダメとわかると、もっとあれこれやってみる。本当に物語がどこに行っちゃうの? と著者に聞きたくなるくらい、次々行動していく。別に死や病気に限らず、やりたいことをやるためには、あんたならどうする? 肩の力を抜いてやってみようよ、という気持ちを引き出してくれるんですよね。日本の作品と比べるとすると、読者へのアプローチのスタンスとして、那須正幹の『ズッコケ三人組』と似ているかなあ。あと、大人ってあてにならないんだな、と感じた。どこの国でも同じなんだなあ、って。

すあま:この子って10歳くらいかな。『ズッコケ三人組』の主人公たちも6年生くらいだよね。でも、今あのシリース゛を楽しめる年代は小学1、2年生どまり。日本の子どもでコリンに共感できるのは? 今の12歳だと、もっとひねくれていて、無理だろうと思う。周りの人物がそれぞれにおもしろく、アリステアとテッドの二人は特にいいキャラ。下手するとドタバタして、出来事だけでおもしろく感じさせてしまいがちなだけど、そうはなっていない。それから、テッドがコリンを助けるんだけど、逆にテッドもコリンに助けられている。ラストシーンはツボにはまって、ぐっとくる。すとんとうまく落としてくれていて、読後感がよい。おもしろく最後まで読めたのが、とてもよかったな。あれっと思ったのは、弟のルークが何の病気なのか、コリンがいつのまにか知っていて、さりげなく病気に言及するところ。病名を知るというところが強調されている作品が多いのに、血を顕微鏡で見たりして気にしている場面がある割には、肩すかしを食ったような感じもあった。訳題はいいような、悪いような。「拝啓」っていうのは、今どきのEメール時代にどうなんだろう。ただ、訳書の扉絵がポストに投函してるところなので、「拝啓」がわからなくても、手紙を書いたのか、ということはわかりますよね。あと、コリンが女王様に電話しようとして、あちこち調べまくるところはおもしろかった。

ブラックペッパー:「おもしろかった」という意見が多いなか、申し上げにくいのですが、私はこの本、とっても読みにくかった。なんだかドタバタしすぎて、くたびれる感じ。トチさんが「日本語の問題」とおっしゃったのを聞いて、それもあるかもと思ったけど、なにより英国風味のギャグにのりきれなくて、物語世界に入りこむのが難しかった。たとえば、おなかをすかせたお父さんの台詞「騎手を乗せたまま馬をまるごと食えるぞ」(p30)とか、アイリスおばさんがアリステアに対してずっごく過保護にしている様子とか、塩がひとさじ多すぎる、というか、やりすぎの感あり。これって、少し前に流行ったミスター・ビーンとか「ハリー・ポッター」にも感じていて、私は「英国フレーバー」の一種だと思ってるんだけど、今回はそれがハナについてしまった。まあ、ミスター・ビーンは、その塩がききすぎてる感じや、なんとなく手放しでわっはっはと笑えないところも好きだったんだけど・・・。そんなわけで、意地悪な気持ちで読んでしまったので、訳者があとがきで書いておられるラストシーンのベストテンという説にも同感できなかった。あとちょっと不思議に思ったことがいくつかあるんだけど、コリンはqueenのもう一つの意味がわからなかったでしょ。ほら、テッドの家に行って表札に「女王様」なんて書いてある、ヘンだな、っていう場面。私たちでもqueenのもう一つの意味を知っているのに、英語圏の子がそれを知らないなんて、あるのかな? 日本でも、小さい子は知らないと思うけど。オーストラリアでは、そっちの意味は流通してないの?

ねむりねずみ:テッドの家に行ったときに、クィーンズって複数で書いてあるわけだから、これが女王様じゃないってヒントは転がってるんだけど、本人の頭の中では結びついていないんじゃないかな。

オカリナ:この子は12歳という設定だけど、日本だったら情報がありすぎるから、女王とか天皇に手紙書いたってしょうがないって思っちゃうだろうし、英国一の名医を自国に連れ帰るなんてできっこないと行動する前からあきらめちゃうだろうし、物語として成立しないだろうな。イギリスでも無理があると思うけど・・・。女王に手紙を書こうなんて、普通はイギリスの子でも思わないだろうな。顕微鏡のシーンもそうだけど。

チョイ:でも、同じくオーストラリアの田舎の話でも、全然違うものもあるんですよ。

ねむりねずみ:一つのこと夢中になると、他のことは見えなくなってしまう子なんですよね。

ブラックペッパー:私は、この子はノーブルな家庭の子で、queenにヘンな意味はありません、と言っちゃうような家庭の子なのかなあ、などど、いろいろなことを考えてしまいました。

トチ:でも、そういうのって、関心がなければ、全然気づかないものでしょう。頭に入ってこないものなのでは?

ねむりねずみ:一般に子どもって、自分の関心のあるところだけを拡大鏡で見ているようなところがあるから、それで気づかなかったんじゃないかな? 女王様に手紙を書くことばかり考えてたから、それに引っ張られたのもあると思うし。

ブラックペッパー:はじめ、テッドが殴られたのも、車をパンクさせた犯人だと思われたからだと思っていたんです。でも、ウェールズ人だからというのもあったんですね。いろんな解釈ができるところなのかも。ゲイを理由に殴られたっていうのもありかもしれないけど、でもさ、ゲイだからっていきなり殴られたりするもの?

ねむりねずみ:労働者階級の過激な人たちだと、そういうこともあるみたいですよ。

ブラックペッパー:あ、あと、もう一つだけ。カエルのチョコって、どういうの? なんでカエルなんだろうって考えちゃった。物語に入りこめないと、どうもヘンなことばかり気になってしまって・・・。

愁童:おもしろいと聞いて期待して読んだんだけど、ちょっと期待外れだったかな。死を扱っているにしては、雑音がうるさすぎた。目配りのよさが、かえってわずらわしくなった。それほど意外性があるわけでもなく、あまりおもしろいとは思わなかった。導入部では弟は、まだ発病してないんだけど、最初から病気だと思って読み始めちゃった。

オカリナ:読む前から弟が死にそうになる話だとわかっちゃうのは、訳題のせいじゃない?

愁童:映画「ホームアローン」の手法とよく似てるね。主人公の設定年齢をもっと低くすればいいのに。この本、死と向き合うというより、弟の死を題材にして、兄の子どもっぽい反応や行動をおもしろおかしく読者の前に提示して引っ張るというほうに力点があるみたい。ラストもそれほど感動的じゃないしね。ゲイを夕飯に招待する設定も、作者の目配りの良さに共感は持つけど、やりすぎって感じ。

トチ:コリンは、12歳というより小学校3、4年くらいの感じね。「できすぎ」ということだけど、作者がシナリオライターでもあるということを知って、なるほどと思った。そのままテレビドラマや芝居になりそうなストーリーですもの。

ブラックペッパー:コリンのやることって、何歳の子の行動なのか、よくわからない。ばらつきがあるでしょ。ホテルで電話を借りる場面で、ドアボーイにチップを渡して・・・なんていうのは、すっごく大人っぽい行動だと思ったけど。

すあま:8歳くらいでいろいろできる方が、12歳で子どもっぽすぎるよりはいいのでは。原書出版が89年だから今から10年前だけど、10年前でもちょっとどうかな、という感じ。オーストラリアではのびのび育っているのかなあ。

チョイ:ちょっと間違うと、頭の弱い子になっちゃうのよね。

愁童:死をテーマにした作品と思って読むと、ちょっと違うしね。

チョイ:『はいけい女王さま、たすけてください』でいいのかも。

ブラックペッパー:たしかに、「弟を」が入ると、お涙ちょうだいの雰囲気になっちゃいますよね。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


いしいしんじ『ぶらんこ乗り』

ぶらんこ乗り

スズキ:書店では、話題の本としてたくさん積みあげられていましたねえ。でも、結論から言ってしまうと、ついていけなかったです。ぶらんこにそんなに魅せられて、ぶらんこで暮らしちゃうというのもわからなかったし、雹にうたれて声が出なくなっちゃうのもわからなかった。私にはついていけない作品でした。

ウェンディ:ネット書店のbk1には、「現代のファンタジー」と評されてましたよ。

スズキ:なかでも、「ゆびのおと」という名前の犬の話がいやだったんです。「ゆびのおと」
のおなかにメッセージを書くところなんて、もうすごくいやだった。もうこうなると、よくわかんない世界です。うーん、これがファンタジーと言われたら、私にはファンタジーはわからないです。今の話題の本として手にとったので、ニュートラルに読んだつもりだけど、こんなにだめだと思った本は今までにもないです。

ねむりねずみ:出だしから、どうも文章が読みにくくくて、違和感を感じました。で、内容を楽しむというよりも、どういうつくりで物語をつくっているのかということを気にかけて読んでしまった感じです。ちょっと、『木のぼり男爵』(イタロ・カルヴィーノ著 白水社)を思わせるところがあって、なんとも荒唐無稽な設定ですね。ここはいいなあと思う表現や部分も何か所かあったけど、どうも印象がまとまらなかったです。作者は、ところどころに出てくる、弟が書いたお話の部分が書きたくてこの作品を書いたのかなって思ってみたり。最初のほうのぶらんこ乗りの夫婦の話や、p247の、死んだ人をどう自分の心の中で収めるのか収めないのかについて書いているところなどは、なかなかすてきだと思いました。ぶらんこも、中原中也のイメージなんだなって思ったから、すっと入れました。ガラスのような世界で、彼岸にいる人の話として読むにはいいとは思うけど、やっぱり個人的には好きではないな。ぐいぐいとひっぱられて読む感じではない。あんまりもやもやするんで、これはひょっとして、主人公の女の子が現実と折り合う話なんだろうかと思ってみたり。うーん、基本的には好きではないです。

チョイ:昨年、出たばかりのころ、大変好意的な批評が相次いで、楽しみに読んでみたんですが、私はおもしろさが全くわからなくて、どうしようとうろたえました。こんなに時間がかかった本も、ここんとこ珍しいです。この本を持って床に入ると、かくっと眠くなっちゃって、前に進まない。批評家が誉めるその意味すらわからなくて、とにかく皆さんのご意見が聞きたかったです。

オカリナ:私は、近くの図書館にリクエスト出してたんだけど、昨日行っても入ってなかったんです。しょうがないので、今日借りて途中まで読んで。でも、最後まで読まないとなんとも言えないな。雹のところでは、てっきり弟はここで死んじゃったのかとも思ったんだけど。文章はまあまあいいんだけど、何が書きたいのかがわからない。それでも全体のイメージや雰囲気で一つの世界が提示されていれば、それでもいいんだけど、くっきりとしたイメージがどうも浮かびあがってこない。自分の体験なり想像世界と共鳴して一つのくっきりしたイメージを持てる人もいると思うんだけど、そういう人が大勢いるとは思えない。この作品、ファンタジーって言われてるのかもしれないけど、ファンタジー世界を支える客観的なリアリティがないでしょ。たぶんファンタジーでもリアリズムでもなくて、寓話なのではないかしら。私は、子どもの本にはストーリーってとても大事だと思っているので、日常的な夢想をだらだらと書いても始まらないなあ、と思うところもあるし、子どもの本から離して考えたら、もっとおもしろい作品はたくさんあるし・・・。

ブラックペッパー:私も図書館で予約したんだけど、結局まにあわなくて、まだ読んでないんですけど、最後は弟が死んじゃうの?

一同:うーん、行方不明。

チョイ:担当者も帯に何を書いていいかわかんなかったんじゃないかな。「衝撃的に新しい初の長編小説」ってなってるけど・・・。

トチ:これはわからなかったわね。あまりにもわからなかったので、私は文学がわからないのかと不安になったくらい。明確なメッセージや、しっかりしたストーリーがない作品でも、なにか読者がついていけるような、一篇を貫く「棒のごときもの」がほしいと思う。「ぶらんこ」だから、一貫したものはいらない、ぶらぶらゆれているところに、この本の味があるんだといわれれば、それまでだけれど。この本を貫いている「棒のごときもの」が唯一あるとすれば、それは「自虐」だと思うのね。弟が作った物語のなかの「鳩玉」や、お酢をのんでサーカスに入るといった話もそう。現代の心象風景とマッチしているのかな。こういう物語をファンタジーというのか、現代文学というのか、私にはわからないけれど、ファンタジックな作品であればあるほど、現実とかけ離れたことを書くときに、読者を納得させる、ひっぱってついてこさせる力が必要なんじゃないかしら。分かる人だけついてきてくれればいいよ・・・というのは、気分が悪い。だいたい、おじいちゃんは日本人なの? 外国人なの? どうして、弟にだけ雹が当たるの? 吐き気がするほど変な声を弟が出すからといって、しゃべらないままにさせておくのを、主人公はかわいそうだと思わないの? どうして犬を外国に簡単に連れていけるの? 弟は死んでるの、生きてるの? 全部が主人公の夢想なの?
それから、表記についても気になったところが何点か。漢字とひらがなの使い分けがまず読みにくい。女の子の口調、「そうなんです、わたし」っていう標準語もへん。いかにも、東京生まれでない「男性」が、「東京の女の子の言葉」を書いたって感じ。でも、この女の子の言葉は標準語ではあっても、生き生きした本物の東京の女の子の言葉ではないわね。当たり前の話だけど、東京の言葉と標準語は似て非なるものだし、標準語というのはちっとも美しくもないし、魅力的でもない。もっと、作者自身が自由にあやつれる、魅力的な言葉で書いてくれると良かったのに。

ウェンディ:私もまさにそう思いながら読んでました。私一人わかってなかったらどうしようかと思って。とにかくわからなかった。リアリティなんてどこにもないし・・・もっとも、リアリティを求めて読んじゃいけない本なんだろうけど。弟が書いてるお話は、いかに天才少年でも、いくらなんでも幼児にはありえない概念じゃないかと思う。小学校低学年なんでしょ。ちょっと無理じゃないかな。語り手の女の子は、当時は小学生で、高校生になった時点で振り返って書いているという設定なのかな。弟を思って書いている感じじゃないと思いました。

チョイ:私もそもそも弟は初めからいなかったのかとも想像しました。主人公が過酷な現実を乗り越えるために作り上げた存在かなとも思ったりした。

ウェンディ:ああー、なるほど。寓話なんでしょうね。すべてはぶらんこが揺れているところに象徴されているのかな。ガラスのイメージと重ねあわせてて、いなくなった弟を美化しているみたい。投げ込みに、いい本に大人向けも子ども向けもない、みたいなことが書いてあったけど、大人の本とか子どもの本とか分けない、というのは構わないけれど、これを児童文学として出す意味はないのでは。

すあま:うーん、図書館泣かせな本ですね。

一同:(笑)

ウェンディ:児童文学の要素が感じられません。これは、雰囲気を楽しむ小説なのでしょうか。

トチ:そういうのが楽しい人にはね。

ウェンディ:もうちょっと、弟が書く話が読みやすければ、入っていけたとは思うんですよね。内容は難しいこと言ってるのに、ほとんどかな書きだから、そのギャップが気になって、すごく読みづらかったです。

トチ:でも、この子にまれな文才があるんだったら、漢字書けてもいいわよね。

ウェンディ:それに、こんな概念を幼児が持っていたら、おかしいし恐い。

ねむりねずみ:弟は生まれた時からエイリアンのような存在、彼岸の存在なんですよ。最初からそのような整合性を求めちゃいけないの。

ブラックペッパー:そうすると、ぽわんとした夢のような世界を楽しむって感じ?

ウェンディ:こういうのをおしゃれって思う人はいるんでしょうかね。ファッションとして読むとか。

チョイ:ファッションとして読むというより、ファッションとして持ってるんじゃないかしらね。

ねむりねずみ:たしかに時々、あれっていうようないい記述があるんですよね。ところどころに入っている。でも、それらがつながっているんじゃなくて、ぱらぱらになっているので、物語の世界に入りにくい。

トチ:じゃあ、メインストーリーはいらなかったんじゃない。もしこれが大人の作家じゃなくて、ティーンエイジャーが書いたとしたら、ちょっと危ないと思うな。

紙魚:私は、皆さんよりは好印象を持っているとは思います。ここで読む本に選ばれる前に、作家や装丁にひかれてすでに読んでたんです。そういえば、前にちらっと読書会のときにこの本のことが話題にのぼって、みなさんがどういう印象をうけたのか、もっとつっこんでききたかったくらい。きらきらっとするところがちりばめられている。弟の文章も、確かに読みづらいけど、なかなか筆力があるなあと思わせられる。でも、どうしても、きらきらしたものが結実しない感じが残っていたので、今、みなさんの感想をきいて、ちょっとホッとした。嫌な感じは受けなかったけれど、もっと理解したいと欲求不満になったので、3回くらい読み、ほかのいしいさんの著作も読んでみたんです。そうしたら、何かわかるかと思って。でもやっぱりわかりませんでした。わかろうとしちゃいけないのかな。
ただ、この人はびっくりさせるのが好きな人なんだなと思いました。爆発的な発想力の持ち主ではありますよね。ほかの人が思いもつかないことを考えたり、考えついたことを、またほかのことに結びつけていくのが上手。きっと、自分の中にたくさん温泉が沸くようなのでしょう。この作品では、今までの作品以上に、思いのたけをぶつけたのではないかと思います。それぞれの源泉はとってもいいのだけれど、それが一つの世界としてばらばらに投げ出されたときに、どこから理解していいかわからないという世界になっている。ほかの作品は誰しもが理解できて、おもしろいと思いそうな本なのに、この本に限っては、薄皮を重ねてできた世界が、危ういバランスのままになっている。どういう意図でこの本を出したのか、ご本人がどう思っているのか聞きたいと思った。発想やアイディアは決して表面的なものではなく、奥行きがある。かんたんに書けるものではないと思います。
この本を読んで、『ポビーとティンガン』(ベン・E・ライス著  アーティストハウス)という本を思いだしました。やはり兄弟の話で、妹にしか見えない行方不明になった友だち二人を、町中の人が探すという話。妹は、その架空の友だちがいることを信じているんだけど、兄をはじめほかの人たちは信じられない。ちょうど扉に「オパールの色彩の秘密は、その不在にある」と書かれているんです。この『ぶらんこ乗り』もそういうことに似ている感覚なのかななんて思いつつ、うーん違うかなと思いながら読みました。リアルなものは追ってこないし、不在性のようなものを書こうとしたのかな、とずいぶん一所懸命に、いしいさん側に立って考えようとしてみたわけです。

チョイ:いしいさんは、前の本で、外国でドラッグをやったようなことを書いてましたが、もしかして、そういう状態の時に書いたのかなとさえ思いました。

紙魚:あー、ありましたね。普通の論理構造ではなかなか思いつきそうもないですもんね。もしかして、常軌を逸したところが評価されたのかな? 物語の構造はすごく変わっていて、ほかに見たことがないし。もう、うなるしかない、奇妙な読後感でした。

もぷしー:私は、3冊の中でいちばん最初に読んだんですけど、今回初めての参加だったので、いつもこんな本を読むのかなあ、いったいどんな会になるんだろう、哲学的に語られるのだったらどうしようと心配になりながら来ました。初回だったこともあって、何かわからなくてはと思って読んだんですが、わからない時分に読んだ村上春樹のようでした。異空間のつくりかたと不安定な部分が似ていると思います。なぜぶらんこ乗りなのか、と言ってしまったらどうしようもないんですけど、そのぶらんこの震えがわからないです。人間と動物の対比とか、美と残酷さのような対比や、理由がつけられるものと理不尽なものという対比が描かれているんですよね。動物サイドに残酷さ、理不尽さが描かれている。主人公たちは、何かのはずみで安心して生きていこうとするところから逸脱したのかなというようなことを考えました。でもやっぱり、あーそうなんだとしっくりきたわけではなくて、「ゆびのおと」など、ディテールをみていくと受け入れにくい部分があります。その受け入れにくさが、ファッションとまではいかなくても、どうせ人間なんて、とか、おれなんてみたいなことが多くて、そういう世界をぶらんこのようにいったりきたりしているのかなあ。イメージは残ったんですけど、なんだか読むのはつらかったです。

愁童:ぼくは読んでなかったので。

一同:えーっ、愁童さんの感想聞きたかったー!!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


コルビー・ロドースキー『ルーム・ルーム』

ルーム・ルーム

アサギ:ノンストップでおもしろく読んだわ。ただし初めから、足の方からムズムズと痒いものがあがってくるような居心地の悪さがあった。いかにも、「ハートウォーミングで、心開いていくいい話なんです」とBGMで言われ続けている気がして、それが鼻についたのではないかしら。あまり高い評価はできないな。

チョイ:色々なシチュエーションが、どこかで読んだことがあるような気がして、こうなるだろう、という予定通りの結末でした。原書で読むと、言葉遊びとかがもっとおもしろいんでしょうが、あまり、そういうおもしろさは伝わってこなくて、つまらなくもないけど、おもしろくもない。今の海外子どもの本の典型で、よくもなく悪くもないという感じかな。

アサギ:これを取り上げた理由は、「ずっとお母さんに語りかけるという手法をどう思うか」ということだったのね。手法としては抵抗なかったわ。昔読んだ『日曜日だけのママ』(メブス作 平野卿子訳 講談社)もこういう展開だったわね。

チョイ:11歳くらいの感覚とか捉え方を表現するうえでは、適切な訳かな。ただジェシー・バーンズって、リビィのお母さんとあまりに対象的に作られすぎてるんですよね。そういう点でリビィが発見していく過程が、あんまり魅力的ではなかった。こういう物語があってもいいけれど、それぞれの役割配置がわかりすぎて、鼻につく感じでした。

ペガサス:こういうのって最近、多い設定よね。何度も読んだことがある感じがしたわね。いちばん面白いと思ったのは、リビィのまわりに色々な人が登場するんだけど、読み進むにつれて一番前面に出てくるのは、お母さんのアルシーアだという点ね。リビィの心の中だけで生きているんだけれど、会話で話が進んでいくので、アルシーアはどういうお母さんだったかとか、2人の緊密な関係だとかが、手に取るようにわかってくるのね。でも実は、それはもうこの世にいない人、というのがおもしろい構造だと思ったわ。
それに対して、ジェシーはあまり描かれていないのね。ジェシーとうまくいくか、ということが焦点なのに、ジェシーとはどんな人なのか、あまり詳しく書かれていない。たくさんの登場人物のなかで、おそらく最も静かで、性格をとらえにくい。いちばん書かれていない人が、いちばん読者が気になる、というのが、他にないおもしろいところではないかしら。その2人︎がだんだん前面に出てきて、この2人はどういう友人関係だったのかということが興味深くなってくる。アルシーアとジェシーの接点はどこにあったのか。日ごろから親しくて何もかもわかっている友人ではないのに、最愛の娘を託したのか。一見何の接点もないような2人の女性に、その実すごく大きな接点があったわけで、それを探っていくのがおもしろいというタイプのお話ではないかな。その接点が果たして何なのかというと、わからないんだけど、人と人とのつながりの︎おもしろさというか、決め手はものすごくつまらないことかもしれないんだけど、自分の身に置き換えてみたりして考えるのがおもしろい、という感じを味わいました。リビィは嫌なことは嫌としながらも、現状を受け入れようとする。「どんなことがあっても、あなたは生きていくのよ」というお母さんの言葉を支えにして、とにかく前に進んでいかなければならないんだ、というところに好感がもてました。登場する大人たちが、子どもを子ども扱いせず、1人の対等な人間として扱っているところが、子どもに励ましになるのではないかしら。『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガアグ)や『ナルニア』(C.S.ルイス)など、子どものころ読んだ本の名前がたくさん出てくるあたりも、なんかうれしかった。子どもに薦めたい本ね。

オカリナ:私は、まず「ルームルーム」っていう題名に惹かれたの。で、どういう意味かなと思ったら、Loom Room(機織り部屋)なのね。このおもしろさが、日本の子どもに伝わるかしらね。原題はこの本の訳語でいうと「くるりや」なんだろうけど、そっちを活かしてもおもしろかったんじゃないかな。

ウォンバット:おもしろかった。好きな雰囲気の本。こういう文体って、下手するとすごく甘ったるくなりそうなのに、そうはなってなくて、素直に読めてとてもよかった。主人公のお母さんを慕う気持ちがよく伝わってくるし、すっと物語に入っていけた。私が興味しんしんだったのは、アルシーアとジェシーの関係。秘密が明かされるのを楽しみに、わくわくしながら読んでいたのに、そういう話じゃないってことがだんだんわかってきて、ああ、違うんだ、リビィが心を開いていく話なのか、と気づいて、ちょっとがっかり。だってアルシーアとジェシーとの間には、絶対何か強い信頼関係が育まれるようなことがあったと思うんだ。子どもを1人託すんだから、誰にでも頼めることじゃないでしょ。その秘密が知りたい! と思っていたから。お母さんとジェシーとの間に、決定的なエピソードが何か1つでもあったらよかったのに。お母さんのことが、だいたいよくわからないんだな。いちばん大切な存在なのに。お母さんがどんな人だったのかに興味をそそられ、それにひっぱられて読んだみたいなところがまずあったから。なんだか変わった暮らしぶりだったみたいだし。しょっちゅうパーティーをしたりして。こういうのってヒッピーなの? あと、登場人物がみんないい人でしょ。それって、こういう状況の子にはいいことだけど、現実にはありそうにないと思った。アパートの住人だって、ふつう1人くらい嫌な人がいるだろうし。と、まあちょっと現実離れしているけれど、この作品では、そのおかげでリビィが救われてるわけだから、よかったと思う。挿絵も新しい感じでよかった。べったりした絵がついていたら、もっと重くなっていたと思う。

オカリナ:アルシーアとジェシーの関係は、それなりに描かれているんじゃないかな。私はわかる気がしたな。2人の間に信頼関係があって、アルシーアのほうから見れば、地味でダサいけど、安定してて誠実で信頼できる人だったんじゃないかな。しょっちゅうつき合ってなくても、そういう関係が結べてる人っているじゃない。

ウォンバット:自分ははちゃめちゃだけど、子どもはちゃんとした人に託したかった、ということでしょうかね。

オカリナ:たとえばキャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(岡本浜江訳 偕成社)だと、自分が必要とされてるのを意識するってことが、子どもが変わる大きなきっかけになるでしょ。でも、この話ではリビィが変わるのは、ルーム・ルームがきっかけなのね。自分が今居る部屋にもともとあったものが、自分が来たことによってくるり屋の地下に移されたために、火事で焼けちゃった、というんだけど、そのことに必要以上に罪悪感を感じてるようで、その後ろめたさでジェシーに歩み寄っていくというのが、ちょっと気分悪かったな。それから、お友達のルーは黒人ですよね。この2人が、まったく人種の違いを感じさせない行き来をしているんだけれど、はたしてそれが、ボルティモアでリアルなことなのか、疑問に思いました。たとえば『クレージー・マギーの伝説』(ジェリー・スピネッリ作 菊島伊久栄訳 偕成社)でも、白人の子が黒人社会と白人社会の間を行ったり来たりするんだけど、寓話としてしか成立しなかったでしょ。この作品は、リアルなフィクションとして書いているんだれど、それで果たしていいのか、そこにいちばん疑問を感じたな。Amazon.comに読者の意見を寄せている人が2人いたんだけど、2人とも「短い」と言ってるのね。アメリカの子にとっては、これが短いのか! と思って印象的だった。1人はディズニー映画にしたらいいんじゃないかとも書いていたわね。

愁童:基本的には、チョイさんやアサギさんに同感。ペガサスさんの意見にも、そういう見方があるのかと思った。ただ、作者や訳者の思惑が透けて見える気がしちゃってね。こういうふうに書けば、こういう題にすれば、読者はついてくる、というね。機織り機が変わるきっかけになっているんだれど、ジェシーと機の関係は書かれてないんだよね。きちんと書き込まれていないことがきっかけで、リビィとジェシーの関係が好転するという展開は、すごくセンチメンタルな感じがして嫌だったな。あと、登場人物がこんなに出てこなくてもいいんじゃないか、混乱させないでよ、と思った。義理の親との葛藤を書いた話で、この読書会でやったものに、『ぎょろ目のジェラルド』(アン・ファイン作 岡本浜江訳 講談社)や『バイバイわたしのおうち』(ジャクリーン・ウイルソン作 小竹由美子訳 偕成社)のようなのがあるけど、これらの主人公は主体的に相手に向き合って動いていくんだけどリビィの方は、思いがすぐ亡き母親にもどっていって、自分からジェシーに向き合おうとはしないよね。母親亡くして可哀想といいう読者の感傷に寄りかかってる部分が大きいような気がする。葛藤といえるほどのぶつかりあいがあるわけでもないし、平板で、状況説明的で、感傷的だよね。それさえ書いていれば読者はついてくると言わんばかりで、平板で淡々としていて、人物が立ちあがってこない。そのへんがちょっと不満。あと、読みにくくて、中味の割には長いなって感じた。

ウォンバット:人物がたくさん出てくるのは、それまでの母1人子1人という状況との対比、という意味もあったんじゃない? 対照的な家族という意味で・・・。そして、人が多いほどに、よけいに強く孤独を感じるってこともあるんじゃない?

愁童:友達との友情から話が発展するのかと思ったけど、大人との関係で進んでいく。子どもの本なんだし、友だちになる子も割にうまく書いているんだから、そのへんをもっとふくらませてほしかったな。

チョイ:素直に読むか意地悪く読むかで、評価がまるっきり違いますね。意地悪く読むと、設計図が見えてしまって・・・。

オカリナ:ジェシーにとって機がとても大事なものだったということは、書いとくべきよね。そこがポイントになってるんだから。

ペガサス:いや、原作の題は「くるり屋」で、機はそんなに大事ではなかったんだと思うけど、訳者が「ルーム・ルーム」を題にしてしまったために、機がキーワードのようになってしまったんでしょう。「ルーム・ルーム」は、おもしろい言葉ではあるけれど、どうしてことさら、これを訳題に取り上げたのかな。親戚の子たちの話から、リビィが使ってる部屋は、もとはルーム・ルームだったんだということをリビィははじめて知るわけだけど、ジェシーにとってどんなに大切だったかということは、あまり書かれていない。

ウェンディ:ジェシーにとってどうこうではなくて、リビィが気にしているということでしょ。でも、最後にあっけなく仲良くなるのはできすぎかも。そのへんを、もっと書きこんだ方がよかったんじゃない?

オカリナ:でも一人称だから無理があるわよね。

ペガサス:「ルームルーム」をキーワードにするのが、無理なのよ。

紙魚:私は、あまりにも淡々と話が進んでいくので、これはきっと何か謎が隠されているんだろうなと思いながら読んだんです。そうやって妄想たくましくした結果、リビィってほんとうはアルシーアの子どもなんじゃないか? なんて考えちゃった。実はジェシーとアルシーアの間には学性時代に何かあって、やむをえずジェシーがリビィをひきとったんだけど、結果としては、またアルシーアのもとに戻ってくることになるんだわなんて勝手に推測しながら読んでました(笑)。

ウォンバット:私も、私も! 実は同じ人を好きだったとか、絶対、何かそういう背景があるはずだと・・・。『”少女神”第9号』(フランチェスカ・リア・ブロック著 金原瑞人訳 理論社)にも、性転換していたって話があったでしょ。だから、実はアルシーアとジェシーのどっちかが男で、リビィは、この2人のあいだに生まれた子どもだった、とか。これは考えすぎですね。

紙魚:そうですよね。ジェシーとアルシーアがすれちがう何かしらののエピソードが出てきてほしいとは思ったな。こういう女の子のけたたましい一人称の話としては、『ブリジットジョーンズの日記』(ヘレン・フィールディング作 亀井よし子訳 ソニー・マガジンズ)を思いだしました。あのブリジットジョーンズの一人称の感じを、ティーンズが言ったらこうなるのかななんて思って。ただ、リビィの“ブリジット・ジョーンズ”らしさは、自分のことを「あたし」と言ったり、「だっさーい」と連呼したりするところぐらいなんですよね。ちょっと疑問に思ったのが、女の子のキャラクターを表すのに、「あたし」と「わたし」と使いわけますよね。訳者はリビィを「あたし」と描いていますけど。日本語では、一人称はそのくらいしか選択肢がないんですね。「わい」とか「あたい」「おいら」いう訳にはいかないし、ここではそんなのヘンだし。ただ、他にもこの子のキャラクターを表す会話の訳し方が出てほしかった。リビィらしいノリ、他人との距離感、この年代の女の子独特のノリの感覚がもう一つ出しきれていない気がして。もし原文で読んだら、それが出ていて、おもしろいのではないかとも思いました。原書はもう少し、この子の生態、体温みたいなものが出ているのではないかと。
あと、挿絵もよかったです。ティーンズだけでなく、もう少し上の年代の女性も手にとりたくなるようなセンスがよかったです。それから、断ちぎりぎりのところに注がいっぱいあって、びっくりしましたね。私は昔、注を読みながら物語を読むのって苦手だったんです。読んでいる最中に注を読むとリズムが止まるので、読みとばして、終わりまで読んでしまってからパラパラ眺める程度でした。だから、こんなについてるのにはびっくりしました。ぐっときたいと思いながら読んでしまうと、ちょっとがっかりするかも。でも、いやな本ではなく、おもしろく読めた本でした。

アサギ:焦点の2人の関係ね。リアリティはないかもしれないけど、こういう人間関係もあるのかな、とヘンに納得してしまったところがあって、違和感は感じなかったわ。こんなこと、現実にあるかなとは思ったけれど、すぱんとかっこよく、潔く・・・なんていったらいいのかな。ずっと疎遠にしていても、何か事があれば、ぎゅっとなる関係というか・・・。

オカリナ:でも、リビィは全然選べないし、何も言えないわけじゃない。今、子どもが大人を訴えられるような国なのに、そのへん、リアリティあるのかな?

ペガサス:事前にリビィに話があってもいいのにね。母親のアルシーアは病気だった時間があって急死したわけじゃないんだから。全然話はなかったことになっているみたいだけれど。

チョイ:でも、弁護士に話す時間はあったのよね。

オカリナ:オーソドックスな子どもの本のパターンだから、それを喜んで読む子もいると思う。でも、リアルな状況を描いて、それを子どもがどう乗り越えていくのか、という話とは違うと思う。

トチ:昔ならリアルになっただろう話が、今はファンタジーになる、という面もあるわよね。

ペガサス:黒人の話でもう1つ気になったことは、ブラン・マフィンというあだ名のおばさんが出てきて、挿絵は黒人のように描かれているけれど、この人が黒人だという描写はどこにもなかった。ブラン・マフィンが茶色いから? 原作の挿絵はどうなんだろう?

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』

だれが君を殺したのか

トチ:最初のうちは、若者の死に至る悩みがえんえんと書かれていて、これって今の若い人にはわかるのかしら、ちょっと遠いかなとも思って読み進んでいるうちに、クリストフが失踪したあとでいわゆるホームレスの事件が起こるところで、ドーンと今につながった。今でもじゅうぶん読み応えがあるし、将来も読みつがれていく作品だと思う。最初、古いなあと感じたのは、訳文のせいかも。「床をともにした」という表現のところで、思わず笑っちゃった。80年代には、まだこういう言葉を使っていたのね!でも、「床をともにする」人がいても救われないというクリストフの痛ましい孤独は、大人の私にもわかるし、今の若い人も身にしみてわかるんじゃないかしら。細かいことだけど、「マタイ受難曲」のような有名な曲は、ことさら「マタイ伝による云々」というようなていねいな訳し方をしなくてもいいと思うのよね。岩波の翻訳ものって、「わからないでしょうから、教えてあげる」というようなところとか、官能的なところをぼかして訳すというような過剰な配慮が感じられるんだけど、私の偏見でしょうか?

ウエンディ:私がいちばん最初にこの本を読んだときは、まだ主人公たちと近い年齢だったんですね。そのときは、私の言いたいことをよくぞ言ってくれたと思ったんです。大人になることの難しさ、若いゆえの純粋さとか潔癖さとか。それを描くための1つ1つのエピソードどはすごいと思う。クリストフをどんどん追いつめていく描写がすごくうまい。クリストフが死んでしまったところから始まって、マルティンが彼のことを思いだしつつ悩みつつ、ショックをのりこえていく構図だけど、数学マイヤーも、実はそういう苦しみをのりこえてきたんだということはうまく書かれていますよね。でも、ほかの登場人物たちは、どこかしら都合よく描くための道具にされている気もしました。床をともにしたウルリケでさえも。あと、コルシュノウにしては、大人がステレオタイプかなという気はしました。そこが不満といえば不満かな。時間がいろんなところに飛んでいて、ちょっと読みづらいところが気になったけど、それは訳の問題かもしれない。逆に、映画になったりしたら、効果的かもしれない。

紙魚:読みすすめていくと、はしばしに突き刺さるような鋭い感覚が描かれていて、次々波が押し寄せてくるようでした。限りなく絶望的でぬかるみにはまっていくようでありながら、ページを読み進める力はぐんぐんわいてくるという感じ。この本は今は絶版なのかしら。なかなか手に入らなくて、結局借りたんです。品切れなのかな? ネットでも流通してなかったし。もし、今出回ってないのだとしたら、とてももったいない。時代は変わっても、この本を読んで、救われた気持ちになる人は絶対にいると思う。絶版にしないで、出してほしい本です。クリストフやマルティンのように、親に対して何も答えたくないとか、学校や社会の事柄も受け入れたくないとか、自分にとって優秀だと思う人にひかれていくところなどは、だれでも必ず通りすぎることだと思うんです。1つ1つのエピソードを読みながら、自分自身の過ぎ去りし日のことをすくいあげて、かみくだく作業がしぜんとできました。この主人公は、クリストフにもなれず、でも大衆にもなれないという葛藤の中に生きているんですね。こういう行ったり来たりしている若者ならではの感覚がきちんと描かれていると思う。どっち派でもなく、何に関しても行ったり来たり。この年代の人に共感を呼ぶのではないかしら。
ところで、私はドイツの教育制度というのは、帰国子女の人からよくできていると聞いていたんです。マイスター制度があったりして、けっして知識偏重の社会ではないと。でもこれを読むと、日本と同じようですよね。子どもが苦しんでいる。彫刻家だったけれど、今ではスイッチを売ってるお父さんが、彫像をたたき割るシーンなどもぐっときましたね。常にマルティンは、クリストフは正しかったのか、章ごとにと問いかけているんですけど、実際はクリストフのことを正しくないと思いつつ、クリストフにひかれている。自分に対しても他人に対してもいつも問いただしていて、大人になると生きることの辛さとか弱さとかを受容できるのに、けっして受容できない若さをうまく表現しているなあと思います。ぐらっときたシーンを挙げだしたらきりがないくらい。ただ、マルティンがちょっとずつ大人になっているなあと思ったのは、p198の「もっとしょっちゅう笑えばいいのに、母さん」という言葉。こういうことって思っていてもなかなか言えないことなんだけど、お母さんに対して言葉に出して言ったときには、胸がつまってしまいました。

愁童:作者が女性のせいか、ぼくにはちょっとクリストフの描かれ方に違和感がありました。ドイツのものには、こういう繊細な少年がよく登場するけど、クリストフのように、金権に反抗したり、公害に反対したり、意識が外へ向かう少年と、自殺する少年のイメージがどうもしっくりこなかった。まあ父親との関係なんかから、意識を外へ向けざるを得ない少年の絶望感みたいな読み方がほんとかなとも思うけどね。自殺するほど追い込まれながら、公害に怒ってみせるなんてできるのかな、なんて思ってしまったら、どうも気持ちが盛りあがらなくなった。少年2人の、それぞれの両親との葛藤はうまく書かれているね。迫力があった。

オカリナ:力のある作品ね。今の若い人たちも、中学、高校時代には同じような気持ちを感じていると思う。でも、そういう部分に寄り添うような作品が少ないのは残念。クリストフが死んだのには、あるひとつの絶対的な理由があるというよりは、いろいろ要因があって、それらが積み重なっていったからだと思うのね。お父さんとの不和は要因の一つだけど、それだけが突出してるわけじゃない。ドイツにだって日本にだって、こういうお父さん、まだいると思うし。ウルリケの妊娠騒ぎも要因の一つで、ウルリケ自身は、クリストフに妊娠したと言ってしまって、実はそうじゃなかったことは告げてなかったから、原因の半分は自分じゃないかと思ってる。教師の無理解もあるけど、この年齢の子どもなら、こんなふうに教師を見てる子は結構たくさんいると思う。他にも、村に急にお金が入ってきたけどみんなお金の使い方を知らないから、大人の愚かな部分見せつけられるとか、浮浪者の事件のこととか、そんなもろもろのことが、いろいろ重なりあってるよね。あたりまえの人間にはなりたくないと抵抗しているクリストフ。それは、主人公のマルティンにも共通している姿だと思う。愁童さんは、意識が外へ向かうのと繊細なのは矛盾するっておっしゃったけど、この子たちは積極的に政治にかかわって公害反対運動をしたり、金権体質に抗議したりしてるわけじゃなくて、本能的に嫌だ、ノーと言ってるのよね。だから矛盾はないと思うの。上田さんの訳は、ほかの作品より硬い感じがしましたね。こういう心理的状況に陥ってる中高生を次の段階に行けるよう助けてくれるような本だと思うけど、この文章だと難しいかもしれないな。

トチ:原文は、もっとユーモアをもって書いていたところももあるんじゃないかしら。すべてがこう硬かったわけでもないと思うのよ。

愁童:先生のあだ名のところなんかは、なかなかおもしろかったよね。ああいうところが、他にもあるのかもしれない。たとえば、マルティンのお父さんがスイッチを売っているという設定や、新しいスイッチを得意げに説明する箇所なんか、おもしろいよね。

トチ:そうそう、軽いところもあるから、重いところもあっていいのよね。知人に、読書会を主催しているお母さんがいるの。その会に中3の子が何人かいるんだけど、いい本を読んだときに、いいとは絶対言わないんだって。自分がほんとうに感動した本のことは言わないらしいの。たしかに子どものときって、感動したことを言葉にはしないわよね。この本は、今の時代につながるところもあるので、違うかたちで出していかなければいけない本なのではないかな。

ウォンバット:よかったという意見が多いなか、言いにくいんですけど、私には、少々りっぱすぎる感じの本でして・・・。内容も苦くて、読んでいるうちに、しかめっ面になっちゃいました。なかなか読み進められなくて、行ったり来たりしてしまって。全体の色はダークで、限りなく黒に近いグレー。能天気なところが、ちょっとくらいあってもよさそうなもんなのに、そういうのも全然なくて、気を抜くところがない。あー、とにかく読みおわってよかった、と思ってしまいました。ねえ、結局、自殺かどうかはわからないんでしょ。

ペガサス:ちょうど風邪をひいていたせいもあるけれど、これを読むとよけい頭が痛くなってしまって。やはり、みんなが言っているように文体が古いのよね。上田さんご自身はそんなに硬い感じの方ではないのに。この本を今の子どもが読みとおすのは、ものすごく大変なのではないかな。それから、内容的には、エイダン・チェンバーズを思いだしちゃったわ。マルティンがお母さんに「何になりたいの」ときかれても、わからない。でも「こうなりたくない」ということだけはわかっている。それってほんとうに青春の悩みよね。父親の挫折とかが目前にあったりね。でも私には、クリストフが何に悩んでいるかは、よくはわからなかった。クリストフがそんなに魅力的には伝わらなかったわ。

ウエンディ:マルティン側から見た目線で書いてるから、すべてがわかるわけじゃないのでは?

オカリナ:私にはクリストフの悩みがよくわかったの。もしかしたら、読む方がどういう体験をしてきたかによって、どの程度共感できるかが違うんじゃない?

ほぼ一同:(うなずく)

トチ:クリストフが抱いていたのは、群集になりたくないって気持ちよね。ところで、黒い本(1983年初版)の方の群集っていう字がまちがっていたのが、ショックだったんだけど。

一同:えーっ! ほんとだ。

オカリナ:文体のことを言えば、同じような年齢の子ども同士の会話でも、この本で書かれているのと、斉藤洋の本では、ずいぶん違うわね。

ねむりねずみ:私は読んでみて、あードイツって感じだった。訳は確かに時代がかっていると思う。でも、学生だったころの同級生が抱えていた問題とも共通していたし、違和感はなかった。若いときって、現実とのつながりがうまくもてなくて、自分を思いっきり持ち上げたり、かと思うとやたら貶めたりするんですよね。そういうところもうまく描かれていて、すごくおもしろかった。暗さにも迫力があるし。途中、この状況からどうやって抜け出すのかなって思っていたら、マイヤー先生が出てきた。ちょっとあれって感じもしたけど、こういう終わり方しかないかなとも思った。ドナウの風景もきれいに描かれていたし。自分自身のことも振り返ってみて、クリストフみたいな人が生きるか死ぬかというところに立たされるのは、何か大事件のせいじゃなくて、細かいことの積み重ねの結果だと思う。私自身は、そういう若い人に、生きるほうに分岐していこうよと言う立場にいたことがあるので、その辺の感じはすごくよく伝わってきた。まあこういうくぐもり方は、ある意味若さゆえの甘えなんだけど。クリストフについては、親との関係が大きいかなって思った。それと社会との関係の中で、この若さだと人生に対して粘り腰になれないんで、はじけてしまったともいえるんじゃないかな。若い世代の人たちからすれば、大人はしょせん大人でしかない。そこをどう「大人」という一言でくくられないようにするか、現場で若者と向き合っている人たちのそういう大変さについて考えてしまいました。大人がいくらがんばっても生身の人間、他者だからこそ若者の心に入っていけないっていう場合もあって、そんなときに本と向き合ったほうが素直になれたりする。そういう意味で、本は若い人が生きていく上で大きな助けともなりうるなあ、とあらためて感じました。

チョイ:ところで、さっきの『ルーム・ルーム』では、生きなくちゃいけないといいつつ、『だれが君を殺したのか』はまた違った内容だし、いったい今回の本選びはどういう主旨なんでしょうね?(一同笑う)私は、この本で16、17歳の頃の感覚がよみがえりました。2年くらい前に、高校のときの日記が出てきて、読んでいたら、やっぱり私の近くにクリストフみたいな子がいるんですよ。現実と折り合いがつかなかったり、高圧的な親がいたり、いろんな状況がこの本と重なっていて、16、17の時ってこうなんだなあと、しみじみ実感。7、80年前に書かれた有島武郎の長編『星座』なんかにも、まさに同じことが書かれていたりするし。若い人たちがどうやって生きていくかという問題は、ずっとく繰り返されるんだなと思いました。今回、「あの子は弱かったのよ」と言うバールのおかみさんや、マイヤー先生など、つい大人の言葉に共感する自分に気づいて、時の流れを感じてしまいましたけど。この本はずっと持っていて、何度か手放す機会もあったのだけど、なんとなく気になって捨てられない本でした。確かに暗いかもしれないけれど、青春時代には必要な本だと思います。どうしようもないその時期の感覚を共有できる本があって、また生きていく力につながっていくんじゃないかな。

アサギ:今回の本選びは、テーマは完全に後づけなのよ。それぞれ読みたいものを持ちよって、それらを並べてみて、それじゃあ10代だねっていうことだったの。斉藤洋さんの本が読みたいというところもあったし。この本の原題は、「クリストフのこと」っていうのね。もともとコルシュノウという作家は、幼年文学を中心に書いていて、10年くらい前に児童書とは縁を切ると宣言して、それからは一般向けのものを書いているの。この本は、当時、ドイツで評判になったんです。やっぱり読んでいて、自分の青春時代を思いだしたわね。確実に時代というものを越えていると思う。クリストフの嘲笑的なところは、ぎりぎり精一杯だけど、他を見下していることで、かろうじて自分を保っているというところ。確かに親の描き方はステレオタイプだけど、実際にそういう人はいるので私はいいかなと思った。むしろ、数学マイヤーがステレオタイプに感じたわ。過激に学生運動をやった人で、いかにもありそうという感じ。ここはありふれていて、平凡と感じてしまった。マルティンのお父さんが、現実と妥協しながらスイッチを売っているというのも、ステレオタイプかもしれないけど、この年になっちゃうとね、どんなものを読んでも、読んだことがあるように感じるのよ。若い人が読めば説得力があるんじゃないかしら。

チョイ:農家のおばさんが「あの子は長生きできないと思った」というのが、うまいわね。おばさんが生命力を見ているあたりも、人物像がくっきりしている。本当のところはわからないけど、私はクリストフは自殺だと思う。人が死ぬっていうときは、いろいろな要素がつまっているも思う。さっき公害というのは違うんじゃないかって意見もあったけど、私は違うとは思わなかった。どちらにせよ、原因はひとつでは言いきれないはず。音楽を愛していても救われないというのがあったり、数々の要因が投げだされていて、そういう総体が彼を追いつめていくさまが描かれている。

アサギ:前に、彼女のインタビューを読んだことがあるんだけど、たしか息子さんの友だちが自殺しているのね。そのときに、なんとかしてこの難しいときを生きのびてほしいと思って書いたらしいの。その試みは、成功していると思う。私はみんなが言うほど暗いとは思わなかった。マルティンは強く生きていくだろうなあとも思うし。この本を読んで、生きていく力を得る子はいるんじゃないかなあ。作者の志は達成されていると思う。考えてみたんだけど、マルティンとクリストフは実は1人で、マルティンは自分の中ののクリストフを殺して生きのびたとも読み取れるわね。そうやって生きのびる子もいるんじゃないかしら。

一同:(ふーむとうなずく)

アサギ:コルシュノウは今でも文壇で活躍しているんだけど、もう児童書は書かないと宣言しているの。彼女は常に、自分の子どもとの関係で作品を書いていたのね。幼年童話にしても、自分の子どもに聞かせたくて書いていたのよ。『ゼバスチアンからの電話』(石川素子・吉原高志共訳 福武書店)もそうだし。でも、児童書の世界から去ってしまったのは残念よね。

ペガサス:アサギさんのクリストフとマルティンは1人だったという考え方は納得できるなあ。なんだかいろいろ言葉にならなかったことが、すとんと落ちた感じ。マルティンはクリストフのことをわかっていたのねと思いながら読んだしね。

チョイ:マルティンがクリストフと違うのは、他者を理解しようとするところじゃないでしょうか。いろいろな外界の重圧の中で、生きていける力になるかならないかは、ここが分かれ道になったんだと思う。マルティン自身もクリストフが生きのびられないことはわかっていたのかも。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


斉藤洋『サマー・オブ・パールズ』

サマー・オブ・パールズ

愁童:2、3年前に図書館の若い男性司書に薦められて読んだことがあったんだね。今回再読して、少し好感度はあがったけど、この本に、この読書会で出会うとは思わなかった。これだけ、あっけらかんと、時代をまるごと肯定されちゃうと、その思い切りの良さに脱帽したくなっちゃう。これ、バブルがはじける直前ぐらいに出た本ですよね。あの頃サラリーマンをやってて、いろいろな経済学者や技術評論家の時代の観測論文を読まされた。例えばニューセラミックのマーケットとして歯科の分野が有望だ。高齢化社会が進むから入れ歯の需要は増加する。口の中の半分が入れ歯になると仮定し、セラミック入れ歯が一本5万から10万とすると、人間1人の口の中に、70万から140万の需要が存在する。車は一家に1台だけど、これは家族全員がマーケットに成りうるのだから、自動車メーカー以上のビッグビジネスが生まれる必然性がある、なんてね。そういう風潮の中で、この作者も同じ視点に立って書いているのね。作家は、そういうのとは違う視点がほしいなんて思うのは古いかな、と思うぐらいに、おもしろく読めるんだけどね。今が書かれているか否かと議論したことがあるけど、こういう今ってありかなって気になった。その作家独自の目がほしいよね。クリストフ的目があってもよかったんじゃないかな。

オカリナ:私は『誰が君を殺したのか』とはわざと違えて、今回はジャンルの違う本3冊になっているのかと思って、まったくのエンターテイメントとして読んみました。会話がおもしろいし、株の仕組みの説明なんかもとてもわかりやすくて、なるほどと思った。ただしバブル期の本ですね。おじさんが100万円貸して、儲かってガールフレンドにプレゼントするなんていうのは、バブルが終わってから読むと、あまりにばかばかしい。読者にも、テレビのバラエティ番組みたいに、おもしろおかしいドタバタとして感覚で受け取られると思う。ただ、女性像が古いなあと思った。言葉遣いもそうだし、女の子は誕生日に金目のものをほしがるものだから稼いでプレゼントするのがいいとか、さちこさんと高杉峰雄さんとの関係にしても、「女というのは金がかかる」だって? ふーん。この作家は、どの作品でも新しい価値観の提示はしてない気がするな。おもしろさで本嫌いの子も惹きつける力をもった作品だと思うんだけど、表面的にはエンターテイメントでも、もう少し芯があるといいな。

ウォンバット:こういう本は、意地悪な気持ちになってしまうと、とめどなくなってしまいそうなので、そうならないようにと注意しながら読んだんですが、出てきてしまったんですね、見過ごせない言葉が。ちょっと今、ここで口に出すのも恥ずかしい単語なんだけど、「ペチャパイ」。アウト! って感じ。今は、誰も使わないでしょ。しかも、女の子が言っちゃうんだもん。「あんまり見ないで。わたしペチャパイだから」なんて、これはないと思う。主人公の願望としてそう言われたい、というのがあるんだろうけれど、「見ないで」という人が、水着になる場所に自分から誘ったりしないでしょ? 本当にコンプレックスがあって、心の底から見られたくない! と思ってたら、男の子とプールに行ったりしないよー。10年前でも、この言葉はなかったと思う。と、まあそういうわけで、ここから先は、もう意地悪な気持ちになってしまって、復活できませんでした。そのうえ、後ろの方でもう1回出てきちゃうのよ、この言葉。(と発言したけど、先日「からくりTV」で浅田美代子がこの単語を口に出しているシーンに遭遇。衝撃を受けました。死語だと思ってたのに・・・。)「楽しめる」っていう意味ではいい作品かもしれないけど、私が「楽しむ」にはちょっと無理があった。服部さんが関西弁こてこてで、楽しいやくざみたいになってるのも、作られすぎの感じ。こういう人が、そんなにぽこぽこいる訳はない。

アサギ:ペチャパイってそんなに古いの? 自分から言うときは何て言うの?

ウォンバット:「胸がない」とか「小さい」とか言うけど、あまり名詞では言わないんじゃない?

ペガサス:斉藤洋は割りと好きな作家。章題のつけ方とかもおもしろいと思ったわ。ものごとのおもしろがり方がおもしろいと思って。ともすれば堅苦しくなりがちな日本の話の中では、好きな方に入るかな。おもしろく読めるお話。でもやっぱり10年前の話だなと思った。子どもたちが、嫌だけどさして反発もせずに学習塾に行くような時代だったんだなと思った。ダメだなと思ったのは、女の子は著者が考えているかわいい女の子に過ぎないというところね。「時々わけのわからない考え方をする」のは自分のお母さんだけのことなのに、それを「女ってものは」と言ってしまうところ、ダメだな、という感じがしてしまった。こういう考え方をする人って女の子ってこういうふうに誰でも話をかえる、とか。自分の考え方をおしつけてる。幸子さんが女性の理想像として描かれているけれど、もういいわ、と思ってしまった。10年前ではあるけれど、やはり外国の作品より身近に感じられるので、日本のものにこそ、もっとおもしろいものが出てほしい、とは思ったわ。気軽に読める楽しいお話がもっとあればと思う。

ねむりねずみ:『誰が君を殺したのか』の後に読んだので、軽いなあと思いました。前に読んだひこ・田中さんの『ごめん』(ベネッセ)に結構インパクトがあったので、つい比較してしまい、まるで違うなあと。この本の最後のプロフィールに、書いていて赤面したってあるけど、赤面するようなレベルの覚悟で書くなよなって思ったりして。『ごめん』は正面から第2次性徴を扱っていて、そのまっすぐさが印象的だった。それに対して、この本は難しいことにあえて切り込んでいく感じがない。作者の好きなイメージが並んでる感じ。うまく配置された出来事にスルスルっとのっかっていくっていうか。エンターテイメントでおしまい、考えさせてくれない感じがすごく強かった。おとぎ話だなって思った。『ごめん』とは好対照だったな。

アサギ:斉藤さんのものを久しぶりに読んでみたかったんです。おもしろかった。ただ、11万いくらの時計って、当時としても、リアリティあるのかしら。すべてにゼロ1つ違うんじゃないかな。文章は上手で楽しく読めると思うのね。目次のつけ方も、いかにもドイツ文学の人ね。ドイツの作品の影響が感じられておもしろいと思ったわ。会話は確かに女の子はこういう話し方しないけど、10年前にリアルタイムで読んだ子は、親近感をもって読んだのでは。金額は別として、やりとりとか口調とかノリっていうのって、共感をもって読んだ子がいたんじゃないかな。どうって話じゃないんだけど、楽しく読めて。女性に関して書いてるところは、体質が古いのね。斉藤さんの作品は、デビュー作が好きで、2作目も好きだったけど、浪花節で、その頃から体質は全然変わんないんだなと思った。思想なんかは、もともとないのかしら。

チョイ: この作品は著者の思想が凝縮されたものなのよ。ストーリーの中に隠されてるんだけど、この作品だといちばんわかりやすい。

トチ:年齢の低い子ども対象のものよりヤングアダルトになると、わかりやすいのよね。

アサギ:これはひたすらエンターテイメントですよね。語り方は通俗的だけど、上手。巧さは今回も感じたんだけど。男の人って女の子をこういうふうにステレオタイプに描く人多いでしょ。「ドラえもん」のしずかちゃんだって、男の子の願望が生み出した女の子像の典型よね。私は見るたびにいやだなと思うけど・・・。逆はどうなのかしら。女性の作家だと男が書けないってこともあるのかしら?

チョイ:『十一月の扉』(高楼方子作 リブリオ出版)みたいに、女が女を書いてもうまくいかないって場合もあるし。

オカリナ:文章の巧い人がそういうふうだと残念よね。

アサギ:子どもが喜んで読める文章を書ける人ね。会話が生きてるし、躍動感がいい。

愁童:一見うまいと思うけど、『誰が君を殺したのか』のややこしい日本語が懐かしくなっちゃうんだよね。

トチ:『天のシーソー』(安東みきえ作 理論社)もそうだったけど、文は人なりよね。ティーンの男の子の話だけど、中年の男の目から書いている。さちこさんもなおみも同じなのね。宝石をもらえば喜び、金目のものをもらえばうれしい。こういう語り口で違う考えのことを言ってくれたら、すばらしいんだろうな、と思った。ファッションについて、ひとつ。90年代にしても、着てるものがやぼったい。リボンがついてたりして。90年頃でも、センスのある子なら、そんなもの絶対に着なかったわよ。

ペガサス:作者がそういうのがかわいいと思っているから書いてるのよ。

ウォンバット:リボン好きですよね。あと、水玉も。

トチ:古いミステリーでも、着ているものの描写がでてくると、うっとりとすることがある。作者のセンスが出てくるのよね。あと、この本が出版された当時の書評に「最後の本物の真珠をちり紙につつんで女の子に渡すところで、読者は喝采するだろう」と書いてあったんだけど、私にはどういうことか分からない。相手の女の子が本物をもらっていながら偽物と思い込むところが、いい気味だと思うのかしら。

チョイ:もう1人好きになった女の子への唯一の免罪符っていうことだと思うけど。

オカリナ:あげないという選択肢もあったのよね。それをちり紙に包んで渡すというのは、いやらしくない?

チョイ:こういうメンタリティですよ。1回やるといったことはやるという。

ペガサス: 顔が立たなきゃというのがあるとか。粗末なもののようにしてあげたけど、本当は高価な物をおれはあげたんだ、っていう・・・。

アサギ:あげないという選択はなかったんじゃないの? 友達との関係でやらざるをえなくなったんだろうと思ったの。

チョイ:反省してると思うんですよ。成り行きでそうなったけど、株で儲けたお金でというのを、いいとは思ってない。

トチ:ちり紙につつんだことの意味は何なのかしらね。

アサギ:単純に、9月1日にって約束しちゃって引っ込みがつかない。プレゼントも買っちゃった。それでちり紙でいいやとなったんだと思ったの。好きじゃない子に高いものと思われても困るんじゃない? あぶく銭だという後ろめたさは感じるわね。

トチ:物に対する感覚が、嫌だなという感じがしたわ。残酷よね。金額に関わらず、筆箱の中で傷だらけになっちゃうだろう、っていう、その感覚がいや。

オカリナ:もともとリアルな話として書いてるわけじゃないんだから、100万円だろうと1000万円だろうといいんじゃない?

ペガサス:金額は、実際にはありえないんだからおもしろいんじゃないかな。中途半端に手が届きそうなより、いいんじゃないかな。

愁童:でも、その時代をまるごと肯定してしまうような書き方は、まずいんじゃないかな。

紙魚:なかなか厳しいご意見が出ていますが、私は皆さんとはちょっと違う視点も持ちました。もちろん物の大切さとか、愛情はパッケージじゃないこととか、今は当然わかっているけれど、シンプルにそう思えない若い頃もあったんじゃないかなと思いだしました。中学生のとき、同じクラスの女の子が誕生日に、つきあっている男の子から2万円の指輪をもらったんです。男の子は夜な夜な工事現場のアルバイトをしてお金をためて、その指輪を買ったんです。そのときに、クラス中でそのことが話題になって、いいなあとみんなからうらやましがられていました。それは、まだ指輪をもらう子なんてそうそういない頃で、指輪をもらうってこと自体がうらやましがられたし、しかも2万円もの高価な指輪だったってことがうらやましがられたんです。若いときって、幼いながらにそういうのをうれしいって思ってしまうことってあると思う。

アサギ:それはバイトしてくれたってところにウェイトがあったんでは。

紙魚:もちろんそれはそうです。でも、正直なところ2万円の価値というものもあったと思うんです。今は、ものの価値は金額じゃないとはっきり言えるけど、それは、その後、いろいろな人と出会ったり、いろいろな経験をしたからこそ、見出せたのであって、単純に若い子たちが高価なものがほしいと思ってしまう気持ちもわかるような気がします。若いときには、ほんとうの価値が見えないことがよくあるんじゃないかな。でもそれは幼稚さゆえのこと。幼稚な男の子と、幼稚な恋におちる幼稚な時代というのが一瞬あって、それはそれで、美しい年代だったりする。この物語は、その時代を描いたのかななんて感じました。

アサギ:今はもっと幼稚になってるわよね。男と女のことだけ突き進んじゃってるけど。

チョイ:身体はそうだけど、心はかえって退化してるみたいで、アンバランスよね。自立していない年代の騒動というか。時代を書くのも難しいし、時代を越えて書くのも難しいし、これからの仕事まで考えてしまった。この2冊で、どちらのやり方も難しいなと思った。

(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


安東みきえ『天のシーソー』

天のシーソー

ペガサス:この作品は、おとなになってから子ども時代を振り返ったときに、よみがえってくる、何か割り切れない感情、いわれのない不安といった感覚をうまく綴っていると思う。なんてことない小さなことだけど、非常に鋭いところを拾いあげてみせる手腕を感じたわ。でも、子どもの目で素直にというよりは、あくまでも、おとなになってしまった者の目から冷静に分析して、感情をおさえて淡々と書くという手法を、非常に意識的にとっていると思う。表現には、これはおとなのものだな、と思わせる視線が多々感じられた。6つのエピソードから成り立っているけれど、最後の「毛ガニ」がいちばんよかったかな。どのエピソードも、明解な答えが出ないまま、割り切れなさを残して終わっているけれど、それでも好感がもてるのは、子ども時代ってそういう割り切れないことがあるものだっていう感覚が、読み手の側にあるからだと思う。そうそう、今回は姉妹というテーマだったけど、姉妹というのは小さい時分には、母親の前で常にライバルで、結構生々しいところがある。家の中ではいやでも一緒にくっついている存在だけれど、いなくなると思うと、とてつもなく不安になるという関係が、よく描かれていると思う。

ブラックペッパー:読んでみておもしろかったけど、どうしてか、淡々としていて薄味という感じだった。きれいな文章だから、するするっと読めちゃったせいかもしれないけど、もうちょっとコクがあってもいいかなと思った。描かれている子どもの遊び方がなんだか昔っぽい。私が子どもの頃とは違ったので、作者自身が自分の子ども時代を書いたのかなと思った。今の子どもたちが読んだら、へだたりを感じるかも・・・。ずいぶん前に読んでから貸してしまって、その後時間がたってしまったので、薄味がより薄味になったみたい。最初の「ひとしずくの海」の中で、目かくし道の場面が好きだったんだけど、なにかで作者が「実際に小さいときやっていた遊びです」と書いてあったのを読んで、ちょっと醒めちゃった。

ねねこ:私は読むのは3回目なんですが、この本は、何が書いてあったか忘れやすいですね。最初に読んだときにはなかなかいい、2回目に読んだときにはそこそこいい、という具合だったんだけど、3回目に読んだときには、評価が下がりました。どうしてかというと、偽善的な匂いが鼻についてきたからなんです。例えば、「毛ガニ」で毛ガニをかわいそうだから返してあげなければと思う部分とか、「天のシーソー」でサノの後をつけていって、シーソーをして仲直りする部分とか。あやまりたいという気持ちがあったら、逆に後なんてつけられないんじゃないかしら。おとなの目で子どもを描いていて、主人公のみおという少女には、感覚的に違和感を感じました。p59の「仕事ってのはきちんとかたをつけなきゃ」とかp75の「ちいさい相手だからという理由で、ウソをいってはいけないときめていた」という箇所などには、作者の安東さんが思う「よい子」というのを感じる。その「よい子」ぶりが、3回読むうちにいかにも作られたもののような気がしてきました。「ひとしずくの海」の目かくし道などはいちばんいいと思ったけれど、佐藤さとるさんの短編に似てたり、「マチンバ」が『夏の庭』に似ているというのも評価が下がった点。この作者は、児童文学をいろいろ勉強しているんでしょうね。

ペガサス:私も作為的なものを感じたんだけれど、今回は好意的に受け取ったのよ。おとなから
子どもを見るという手法で、あえてそうしたのではないかと・・・。

ねねこ:どうも淡いスケッチのような、きれいだけど遠い感じなのね。後で出てくるパンテレーエフとはまったく違う。

オイラ:2回読んだのだけど、2回目のほうが評価は高かった。確かにストーリーはどういうのだったか忘れてしまったんだけどね。「この表現、すてきだなあ」という再確認ができたから。この人は比喩がいいんですよ。たとえば、「ローラーブレードをころがして、子どもたちがミズスマシのように鋪道の上をすべっていく」というところなんか、向田邦子作品のような心地よさで、比喩がとってもいい。「毛ガニ」の中での、「カーテンのすきまからのぞき見た」「夜中の町が月光に照らされて」「まるで海の底」に思えたところなんて、スケッチが絶妙だよね。鋭い表現力をもった新人が出てきて、うれしさを感じた。常々いい短編集を作りたいと思っているんだけど、なかなかその思いにこたえてくれる作家がいないんですね。この人はいい。中でも「毛ガニ」がいちばんよかった。他のに比べてストーリーもいい。

スズキ:エピソードの中では、「毛ガニ」が印象的でした。それから当然のことではあるんですけれど、短編集というのは1冊なんだということを実感しました。いろいろなスタイルを持つ物語を、どんなふうに並べるかということが効果につながるんですね。全体的に結論がなくて、もやもやが残ったけど、最後に「毛ガニ」でしめくくられたので結べたという感じ。みなさんからは、けっこうおとなの視点で描かれたという話が出ていますが、私もたとえば小学校高学年あたりで読んだらついていけなかったと思う。あまりにも表現がすばらしく、美しすぎて、作家自身の匂いがしないのが気になりました。大人の視点を貫くという手法もあるのだなあと勉強にもなりました。

アサギ:私はねえ、結論からいうと、この本は好きです。ペガサスさんが言ったように、自分の子ども時代が描かれているようだった。だけど、これが今の子どもに受け入れられるのかというと疑問。文章はうまいし、表現がいいところもたくさんある。なかでもストーリーのおさまりがいいのは、「毛ガニ」ね。姉妹の感じもよく伝わってくる。だけど、表現がよくても忘れちゃうのよ。印象に残らないの。表現力、文章力があるのに、ストーリー性が弱いのよ。なんとか最初の「ひとしずくの海」と最後の「毛ガニ」の両方でしめているという感じ。ねねこさんが言ってたように距離感を感じてしまうのは、おとなになってから子ども時代をふりかえって書いているからじゃないかしら。だから躍動感がないのよね。子どもには受け入れられないかも。

トチ:作家のYHさんに、私の作品について「表現とか形容をブラッシュアップするのもいいけれど、そんなことばかりしていると、せいぜいエセ安房直子的な作品を書いただけで終わってしまう」と言われて、ずしんと心に響いたことがあるの。読みやすいし、うまいし、感じはいいけど、マチンバにしろハーフの兄弟にしろ、どの人も主人公の人生にふらりと交錯して通り過ぎただけなのよね。どの人も本当の意味でコミットメントしていない。サノたちは、この主人公のために存在していたのではないかと思うくらい。ねねこさんが偽善的と言ったけど、「毛ガニ」の中での母親の描き方が共感できない。いただきものの悪口を母親自らが言うなんて。うちでは、子どもの前でいただきもの悪口を言ったりはぜったいしない。この部分は猛烈に腹が立った。すぐ煮て食べて感謝しなきゃ。それに、あの運転手はぜったいに食べたにきまっているわよね。

オカリナ:食べた方がリアルだけど、作者はきっとそうは思ってないはず。そこが困るとこ。

トチ:腹立たしいのは、名簿の話もそう。文章や表現はいいけれど、いらいらするの。前に魚住直子さんの『超・ハーモニー』(講談社)を読んだ時も言ったけど、どうして日本の児童文学の母親像ってステレオタイプなのかしら。元気で小太りか、病弱で美しいかのどちらか。母親像の貧しさったらないわ。どうして、動いているカニくらい始末できないのかしら。小動物ごときを怖がってキャーキャー騒いだり。

愁童:オイラさんが好きっていうのはよくわかる。まー、ぼくも好きなんだけど。この会の最初の頃に、ねねこさんが「この読書会は日本の作品に厳しすぎる」と言われたけど、確かに日本の作品に対しては評価が偏ってるかも。好きなものでもなんだか文句言いたくなっちゃうんだよな。日本人は花鳥風月が好きだけど、この本、確かに描写はうまいんだよね。情景描写がうまくて、場面も残る。読んでいるときは気持ちがいいんだけど、なにか足りないんだ。結局のところ、人なんだよね。この本はしゃれているし、スマートだし、読後感もいいんだけど、登場人物にかける執念がないんだ。おとなとして子ども時代を振り返るのも文学のありかただけど、児童文学として子どもに読ませる覚悟があるなら、こういう書き方はどうかな?「針せんぼん」の姉妹の描きかたには違和感をもったけど、でも帰り道でミオが妹のヒナコ会うところなんかはうまい。出だしの「ひとしずくの海」のマンガ本のお金について姉妹げんかするところも、子どもの神経をうまく書いている。こういうところをふくらましてきちんと書いてくれれば、もっといいんじゃないかな

オカリナ:2回読んで、最初はよかったんだけど、2回目読んでみて、腹が立ったの。腹が立ったっていうのは、自分の中に、こういう世界を心地よいと思う気持ちがあって、そこから抜けださなくちゃって思いもあるからなんだけど。いちばんまずいのは、現実がとらえきれてないところ。唯一ちゃんと書けているのは、妹とのやりとりで、あとは登場人物と真剣にかかわっている感じがなくて、ほかの人たちはみんな背景とか飾りみたいになってる。文章はいいし、こういう心象スケッチって、私もとても惹かれるんだけど、下手すると自己陶酔的なセンチメンタリズムで終わっちゃう。主人公が出会うのは、自分より弱い立場の人ばかり。再婚家庭だったり、一人暮らしのおばあちゃんだったり、父子家庭の幼い子だったり(しかも母親が外国人)、体が不自由な人だったりね。まわりの人たちを上から見て思いをかけ、そういう自分を美しく描いてるって気がする。まわりの人を、無意識的に健気とかかわいそうという対象にしちゃってる。それに、中3の女の子が小4の女の子と手をつないで、「目隠し道」なんてするかな? もっと幼い年齢ならわかるけど?

ブラックペッパー:そうよねー。でも、昔はやったのかも・・・というか、作者はやってたわけだけど。

オカリナ:この作家はやったかもしれないけど、リアルに想像しにくい。「サチねえちゃんがうちに帰れなくなったときには、あたしがつれていってあげるよ、目かくし道で。だから帰ってきて。きっとまた帰ってきて」「涙がつたってくちびるをぬらした」というところなんか、センチメンタルとしか思えなかったけどな。

ねねこ:私も3回目に読んだとき、何となく美しいイメージにごまかれていたんじゃないかと、自分に腹が立っちゃった。

オカリナ:それに「マチンバ」で、最後、おばあちゃんがピンポンダッシュを好意的に受け取っていたということがわかるでしょ。好意的にとるから美しい話になるんだけど、リアルな状況ではまずありえないよね。このおばあちゃん、ぼけてるわけじゃないんだし。

トチ:本当にうまい作家の作品は、たった1行だけで、とてもたくさんのことを言っているのよね。例えば『テオの家出』(ペーター・ヘルトリング.著 平野卿子訳 文研出版)で、テオがパパフンフンに「おじいさんのうちの家族は?」ってきく場面があるでしょう。するとパパフンフンは一瞬だまってしまうの。そこのところのだった1行の描写読んだだけで、それまでのパパフンフンの人生が読者の目の前にぱあっと広がるのよね。

オカリナ:そうそう。さっきローラーブレードの比喩がうまいって話がでたけど、ローラーブレードは水すましのようにはならないんじゃない?

トチ:あめんぼと水すましって、関東と関西で言い方がちがうのよね。

オイラ:水すましっていうのは、足がすらっと長くて、ぴょーんといくのでしょ。(オイラの勘違いでした。ハズカシイ!)

ブラックペッパー:水すましとあめんぼの違いはよくわからないんだけど、ローラーブレードはアイススケートみたいに、縦一列にローラーがついてて、シャーッシャーッとすべるように進んでいくやつのことでしょ。トンッスー、トンッスーというのはローラースケートかも。

アサギ:ところで、さっきの「マチンバ」の話に戻るけど、私は子どもたちのいたずらを好意的に受け取ったのは、そう思いたいほどおばあちゃんが孤独だったからかと思ったわ。

オカリナ:いくら人のいいおばあちゃんでも、ピンポンピンポンあれだけされて、そう思うかしら? 私には、おばあちゃんがお菓子を用意して待ってたなんて書くことが、年寄りをバカにしているようにも思えるんだけど。「針せんぼん」の父子家庭の兄弟の話にしたって、リアリティがぜんぜんないの。お父さんが風邪をひいたからおばあさんのところに預けられてた5歳と3歳の男の子が、随分前にミオと約束したのを思い出して、寒い日に長い道のりを歩いてミオの家に来るのね。それも、親の人形を紙粘土でつくってそれに色づけするからっていうことで、よけい哀れな感じなんだけど。で、ミオの方は約束をすっかり忘れてて、そのまま幼児たちを帰しちゃうんだけど、この子たち、すぐ近くの家にいるお父さんのところには寄りもしないで、また遠い寒い道をおばあちゃんの家まで帰ったという設定なのね。それで、この子たちの哀切感を出そうってことなのかもしれないけど、子どもってそんなもんじゃないでしょ。3歳と5歳の子どもがけなげに会いにいくっていう設定も、嫌らしい感じがして・・・。いい加減にお姉さんぶってるミオの同情なんか、木っ端みじんにするくらい、小さな子だってエネルギーもってると思うのよね。リアリティのない美しさにだまされちゃいけないんじゃないかな。それから、「天のシーソー」でサノが、帰り道お父さんの前を知らん顔して通りすぎるところがあるでしょ。「カタン、オレのしたことが重い? コトン、あたしのしたことが重い?」って、サノは自分の行為を悪いと思ってるっていう設定なんだけど、あの年頃の男の子が、親を避けるのはあたりまえじゃない?

アサギ:お父さんの前を知らん顔して通り過ぎたのは、貧しさが恥ずかしかったってことよね。

ねねこ:シーソーの話は、ミオがサノにあやまろうと後をつけていって、「あたしたちがわるい。ぜったいにわるい」と言うところが、嫌だった。

ペガサス:子どものときには、ああいうことってあやまろうと思わないはず。うしろめたさや罪悪感は感じていても。

オカリナ:おとなが子ども時代を回想して郷愁にひたるのはいいとしても、子どもにそれを押しつけちゃいけないでしょ。

ペガサス:おとな向けか、子ども向けか、わかりにくい体裁なのよね、この本は。それにしても、子どもはあやまろうとなんてしないわよ。

ねねこ:悪いとは思うかもしれないけど、本当に悪かったと思えば思うほど、そう簡単に言えないのが人間じゃないかな。

:技巧的にシーソーを使って、罪が重いというイメージを出そうと、そっちが先行していたんじゃないかしら。作者はそう深くは考えていないかも。

ペガサス:そこに問題があるかもね。

ねねこ:その象徴が「毛ガニ」よね。今さら海に帰っても、毛ガニは生きられないでしょ。

オカリナ:お道具箱につめてわたしちゃうなんて。

愁童:でも、この作家は才能あると思うよ。「マチンバ」の最後の方で、妹のヒナコがぱくっとチョコレートを食べちゃうあたりなんて、よく書けていると思うし、「天のシーソー」で、シーソーをこいでいる描写などもうまいしね。

オカリナ:私もうまいとは思うの。でも、スキルがあって内容がないとしたらもったいない。

愁童:ぼくは、『バッテリー』(あさのあつこ著 教育画劇)は好きじゃなかったけど、兄弟の描きかたは、この作品に較べたら、はるかにいいと思う。うまい下手はともかく、作者が伝えたいと思ってる人物象がきちんとあるもの。

:男の兄弟と、女の姉妹は根本的に違うとは思いますが。

ウェンディ:私は今日ばーっと読んだんだけど、昔の子どもってこんなだったんだと思いました。今の子どもたちに読んでもらえるとは思いにくい。他の学年の人と交じってドッジボールするなんていうのも懐かしい感じ。でも、昔だってこんないい子はいなかったのではないかな。古きよき時代を振り返っての、いい子ども像が描かれているよう。記憶の中の物語というところでしょうか。

紙魚:読んでみて、なんだかこの感じ何かに似ていると思って考えてみたら、そうそう、昔小学校で読んだ、道徳の教科書みたいでした。小さい頃は、この子のどこがいけないのか、どういうところがやさしいのか、この事件を通して気持ちはどのようにかわったのか、などという設問に答えるのはとっても嫌だった。この本は、設問として傍線が引かれるであろうところが見えかくれしていて、好きになれなかった。

:私はまず、なぜ名前がカタカナなのかが疑問。この本は、情緒的なものをコアにしているけれど、情緒的なものに流されないように書いている。ノスタルジーというよりは、ロマン派的子ども像といった感じで、子どもをふりかえるというよりは、理想的な子ども像を構築しているのではないかしら。ハーフの兄弟の面倒を見たりするところは、決してリアルじゃない。シーソーがカタン、コトンというのもやめてほしい。皆さんから出てきた、偽善的、薄味といった印象を私ももちました。ただ、言葉にならないものを言葉にしていく、メッセージにならないものをメッセージにしていくという点で、短編というかたちをうまく使っているとは思う。「毛ガニ」がいいと言える人はえらいと思います。

アサギ:そういえば、カタカナで名前を表記するのは、川上弘美なんかもそうよね。彼女なんか、苗字もカタカナよ。

ブラックペッパー:『少年と少女のポルカ』(藤野千夜著 講談社)もそうだった。

オカリナ:カタカナで表記した方が、記号的になるからね。

ねねこ:作品の中で、憐れみをかけている相手は、漢字で表されているみたいね。

アサギ:カタカナの方が、観念的だからかしら。

ペガサス:それにしてもヒナコっていうのは、カタカナが似合わないと思わない?

一同:そうねえ。

オイラ:いろいろ批判的な意見が出ているけど、表現がうまいという点で、それだけでも評価したいな。確かにストーリーは弱い。人生観には共感しにくい。重松清のように、著者の強い人生観を見せつけるというような面は薄いけれど・・・。

オカリナ:もしかしたら、私も子どものときは、こういうの好きで読んだかもしれない。でも今は、子どもが読むものだったら恐いなと思う。「毛ガニ」なんか特に。

アサギ:「毛ガニ」がだめだっていう人も多いけど、私は寓話的な感じがしたので、気にならなかったわ。

トチ:オイラさんが言ったように「登場人物の人生観を見せつけるというような面が薄い」というわけではないと思うのよ。作者が薄くしようと思っても、濃くしようと思っても、自然にあらわれるものだと思うの。表現がうまいから、なんだかいい声の人のつまらない話を聞いている感じも・・・。

ねねこ:この作品は、悲しみの底が浅いように感じるの。作者の人生の幅が感じられない。どうも頭で書こうとしてる気がする。

ペガサス:表現と内容(人生観)のギャップに気づいちゃうと、もうそこで読み進められなくなるのよ。こういう人は、ファンタジーを書いたほうがいいわ。

オカリナ:ファンタジーだって、世界観がないと書けないでしょ。

一同:(うなずく)

トチ:命の大切さが感じられないしね。カニに対してかわいそうだわ。

愁童:でも、日本人は本質的にこういう本は好きなんじゃないかな。

ペガサス:表現がうまいだけじゃ、子どもは読まないわよ。

トチ:いや、子どもだってうまい表現っていうのを好んだりするわ。吉田弦二郎みたいのを好んで読んだりするわよ。

ペガサス:でも、おとなは表現がうまいってだけで楽しめるからね。

アサギ:たしかにこの人、表現うまいわよ。私、翻訳するときに使おうと思ったところいくつかあったもの。

:では、元気があるうちに、そろそろつぎの本に・・・。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』

ジョコンダ夫人の肖像

トチ:カニグズバーグの作品の中でも、この作品は今回改めて読みなおすまで、よく覚えていなかったわ。『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)の子ども像の描写はとてもうまくて好きだったけれど。これは、子ども像の描き方は巧いんだけれど、もう一つ高尚な世界。芸術の本質を描いているけど、感動はなかった。登場人物が好きになれなかったからかしら。何を語ろうとしているのかわからなかった。この作品、欧米では評価が高いらしいけれど、それはダ・ヴィンチが欧米人にとっては自分の文化に深くつながっている人物だからという面があるんじゃないかしら。あと、翻訳者に感動がなかったからかも。翻訳者自身、カニグズバーグが描こうとしたダ・ヴィンチの本質をわかって訳していたのか、疑問ね。もう少し感動して訳していたら、違った印象になっていたかもしれない。

ブラックペッパー:カニグズバーグは大好きで、子どもの頃ほとんど読んだんだけれど、この作品はイマイチだったんだなー。やっぱり『クローディアの秘密』とか『ロールパンチームの作戦』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかが好きで、これはあまり印象に残っていなかった。ところが、今回読みなおしてみたら、いいなと思って。それはきっと自分が大人になったからだと思うんだ。たぶん子どものアタマ、子どもの感覚には難しすぎたんだろうね。芸術の本質だとか、ミラノの王侯がどうしたとか、小学生にはなんのことやらわからないもの。イザベラとベアトリーチェの確執とか、結婚生活とか、婚姻によって貴族の力を伸ばすとか、そんなことって、子どもの頃は興味がなかったから。でも、今では知識もちょっとは増えてるし、おもしろく読めた。ひょっとして、大人向けに出したら、もっとおもしろいんじゃないかなと思ったな。

オイラ:義務感で読んだだんだけど、途中で投げ出してしまった。

ねねこ:この作品は、20代の頃はじめて読んで、その頃は『クローディアの秘密』のほうがいいと思ったの。でも、今回読んで、おもしろいと思った。教養小説という感じで、14〜15世紀イタリアの知識が得られて、ためにもなった。資料に基づいていかに小説に作るか、わかっていない部分を推理して作り上げることのおもしろさが、小説の醍醐味のひとつだと思うのね。自分自身のイタリアへの興味が、以前より増えたこともあってか、今回は、一気に読んだ。「姉妹」というテーマに沿って言うと、器量はよくないけれど教養が魅力のベアトリーチェ、美貌に頼ったイザベラという構図はありきたりで、深い感動はなかった。それより「芸術とは何か」についての作者の考えがとてもわかりやすく述べられていて、おもしろかった。また、「無責任であることの責任」とか、芸術に不可欠のワイルドさ、野放図さの概念なんか、なるほどと思い、読んで損はなかったな。

紙魚:この作品は初めて読みました。カニグズバーグだし、めくるめくストーリーかと思いきや、神妙な雰囲気でおもしろく読んだの。でも、小学生のときに読んだら、このおもしろさは決してわからなかったんじゃないかな。児童文学をリアルタイムで読んだとき、こういう形式のものは読み取れなかったもの。ストーリーのおもしろさがなければ、仮に頑張って最後まで読んだとしても、印象には残らないんじゃないかな。私はミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳 岩波書店)や『はてしない物語』(上田真而子訳 岩波書店)を読んで、すごく気に入って、エンデのものは全部読もうとしたんだけど、『鏡の中の鏡』は(丘沢静也訳 岩波書店)は、小学校高学年や中学生くらいでは無理だった。この作品も、今読んでみると、それぞれの人物が不条理を抱えつつ生きている。例えば、サライは、しいて分ければ悪人に入るだろうけれど、はじめのうちは人をだまし、人の心を弄ぶ。でも、この本の体裁からは、まさかそんな話だとは思わない。様々な人間模様は、リアリティはないのだけれど、舞台で演じられている劇を見るつもりで想像しながら読めた。その意味で、シナリオを読んでいるような気分だった。シナリオも子どもの頃はうまく情景が想像できないですよね。

ブラックペッパー:アクが強いっていうか、ひとくせもふたくせもあるような人ばっかり出てきて、ちょっとしんどいしね。

トチ:最後まで来て、ジョコンダ夫人の夫がいい人で、ようやっとホッとできるのよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライの関係って、他で読んだことがなかったからおもしろかった。ただ、松永さんの訳は、上品すぎるんじゃないかな。

トチ:そう、「若者をベッドへ導いて行った」(p133)という1行も、意味がよくわからないで訳したような感じよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライは同性愛だったと思うんだけど、この1行だけで、他の描写からは伝わってこないわよね。それにサライは、最初のうち一見何も考えていない脳天気な少年なんだけど、後のほうでは少しずつ思索的になっていくでしょ。松永さんの訳では、その対比が消えちゃって、ダイナミズムがそがれているような気がする。そのせいで、感情移入しにくいのかな。ベアトリーチェが魚の上に金貨を並べる場面なんか、嫌らしい女性だな、って私なんか思うんだけど、どうしてサライがそんなベアトリーチェにまだ惹かれているのか、というところが出てくると、もっとおもしろいのにな。今のままだとベアトリーチェの人間的な魅力が薄っぺら。サライとベアトリーチェもひょっとして関係していたとしたら、なんて考えると、大人の本として書いたらもっとおもしろいのかな、とも思うけど。

トチ:そのへん、訳者はどう思っていたのかしらね。『彼の名はヤン』(イリーナ・コルシュノフ作 上田真而子訳 徳間書店)でも、上田さんは、官能的なところをセーブして訳してるでしょ。

オカリナ:この本、図書館で借りようとしたら、閉架書庫に入っていて、出してもらわなくちゃならなかったのね。子どもはアクセスしにくい本になっているのかな。

ペガサス:この本が1975年に日本で出たとき、私は図書館に勤めていて、当時、カニグズバーグは昇り調子で、アメリカ現代児童文学の旗手として注目されていたのね。だから旬な作家、旬な作品として非常に楽しみに、おもしろく読んだことを覚えている。でも、子どもたちがこの本を実際に手にとっている姿は記憶にないな。『ロールパンチームの作戦』や『クローディアの秘密』は人気があって、実際に子どもたちがつぎつぎ借りていったし、ブックリストにもよくとりあげたんだけど。外国の、しかも歴史を扱った作品の宿命ということもあるかもしれないわね。ダ・ヴィンチとかモナリザの評価を知らないと無理よね。歴史が舞台になっていても、子どもも楽しめる作品というのももちろんあるけれど、この作品みたいな謎解きのおもしろさは、下地がないと難しいよね。あと、サライの言葉遣いが妙に子どもっぽいのが気になったわ。もう少し大人っぽくてもよかったんじゃないかな。サライの人間像は、ほんとうはもっと生々しく魅力的だったんじゃないかな。この訳だと、無邪気な子どもとしか捉えられていなくて、ちょっと物足りない。

オカリナ:この作品の中で、サライは10歳から20歳まで成長するのよね。

ペガサス:そうそう。なのに、ずっと子どもっぽいままなのよ。この人物の本当の魅力が活かしきれていない気がして、物足りないのよね。

愁童:ぼくもカニグズバーグの作品は全部読んでいたんだけれども、この作品はいちばんつまらなかったね。大人の読者として読めば、すごくおもしろいんだけども、カニグズバーグの作品としては、やや期待外れの感じ。カニグズバーグが作家的成長をめざして、新しい分野にチャレンジするエネルギーとか才能は感じるし、貴重な作品、いい仕事とは思うんだけれど、今読むとカビ臭さは否めないね。少なくとも、日本の子どもにはわからないだろうね。

ねねこ:初版から25年で13刷というのも、岩波の本にしては遅いわよね。

愁童:英語圏の子どもには、身近な題材なんだろうかね。

トチ:日本の子が織田信長を読むようなものでしょ?

スズキ:サライの何にも束縛されない奔放さなんかがおもしろかった。『天のシーソー』の後に読んだから余計そう思うのかも知れないけれど。人物それぞれにクセがあって、それがよく描けていると思ったし、温かさが伝わってきて、のめりこんで一気に読んだわ。ジョコンダ夫人が誰かという落ちにも意表をつかれて、感動して読み終えました。読んでよかったと思った一冊。ダ・ヴィンチについて、これまで、雲の上の人という印象しかなかったけれど、どんな天才にも欠点があって、支えあって生きているんだというメッセージもこめられているんじゃないかしら。カニグズバーグの作品だということを忘れて読んだ。

アサギ:おもしろく読んだけれど、これは子どもの本ではないわね。個人的には関心あるテーマだったけれど・・・。レオナルドのような天才が、サライのような人間を必要としていた、というあたり、すごくおもしろかったわね。ただ、すごく読みにくかったわ。なぜかっていうと、初歩的な翻訳テクニックと言われる話になるんだけど、欧米の作品って、同じ人物を、名前で呼んだり、「誰の弟子」「誰の夫」「誰の娘」といった人間関係を使ったりと、くるくる言いかえるじゃない。それをそのまんま訳しているから、つながりがとてもわかりにくいのね。人間関係を把握しながら読むのに、とても骨が折れたわ。でも、最後のオチなんか、うまい!と思った。実力のある作家よね。うまく訳せていれば、もっと違う作品になったはずよ。

トチ:訳者は、実はこの作品が好きじゃなかったんじゃないかしら?

アサギ:どこかずれているのよね。『ロールパンチームの作戦』とかではそうは思わないんだけれど。訳がよければ、感想も違ってきてると思うのに、とっても残念だわ。

トチ:この時代の訳って、こんな感じだったのよね。

ねねこ:巻き毛を直してやる場面なんかもそうよね。

アサギ:作者がこれだけは絶対言いたいということを、端々で匂わせるような訳を心がけなきゃと思うのね。ベアトリーチェの魅力なんかも、今ひとつ伝わってこないでしょ。でも、それはともかく、芸術の本質を垣間見たという意味ではおもしろかったわ。レオナルドにとってサライがかくも重要だったというあたり、原書はもっとすばらしいはずよ。

:きっちりした小説作法に則った、少し前の作品という感じがしましたね。姉妹の関係が構造的にぴったりはまっているの。つまり、人間の裏と表、光と闇を、2人の人間に分けて描くという形をとろうとしたんじゃないかしら。そういう小説作法の中に位置づけたからこそ、ベアトリーチェはこういう人物として描かれたのではないかと思うの。そして、正反対な2人を芸術が統合する、という構図を、「モナ・リザ」の背景としてもってきているんじゃないかしら。姉妹というテーマから読んでみると、この小説における姉妹の役割は、そういうふうに捉えられると思うのね。
会話のかけあいから物語が展開する話という意味では、最近私が関わった短編集『こどもの情景』(A.A.ミルン著 パピルス)の中にも、まさにそういう作品が収録されてる。幼年文学における兄弟姉妹の役割ということを考えると・・・幼い子どもと“同じ背丈”の兄弟姉妹というのは、幼年文学において、不完全がセットになって、子どもの領域を浮き彫りにするという役割を果たすと思うのね。一人一人の人物が、子どもにとって、自分を投影しやすい存在になっている。その中でも、兄弟と姉妹の役割には厳然たる違いがあって、その組み合わせによって、意味も違ってくるのではないかと思っているの。姉妹ならどうしてもジェンダーの問題がからんでくるし、兄弟なら兄を乗り越えていく弟というテーマがつきまとう。そんな意味から、今回読み返してみて、小説におけるきょうだいの役割という問題に、新たな答えを得られた作品だったわ。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


パンテレーエフ『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』

ベーロチカとタマーロチカのおはなし

アサギ:どうもロシア語の発音というのは日本人には異質のようで、この「タマーロチカ」と
いうのを「タマローチカ」と読む人が多いのよね。この本は、幼年童話としてはよくできていると思う。ただ、古いなと思った。この内容で、今の子は共感するのかしら? ちょっと骨董品を読む感じで。というぐらいで、あまりにも問題性がなかった。

愁童:それなりに読ませるんだけど、キノコとか、海水浴とか、状況設定が日本には合わないんじゃないだろうか。ぼくには、今の日本にこれを持ってくる送り手側の意図がわからない。まあ、幼年童話の教科書的存在ではあると思うけどね。

トチ:私は、幼年童話は特に新しくなくていいと思うの。この本は読者が主人公を自分よりちょっと下に見て「この子たち、こんなことやってるんだ。ばかだなあ。でも、おもしろそうだなあ」という、一種の優越感と幸福感が持ち味になっている。私も子ども時代に読んだら大好きになっていたと思うわ。姉妹の着ているワンピースの色なんて、小さい頃に読んだらわくわくしただろうな。

ペガサス:『ミリー・モリー・マンデーのおはなし』(ジョイス・ブリスリー著 上條由美子訳 菊池恭子絵 福音館書店)とか『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 福音館書店)もそうだけど、幼稚園上級から小学校低学年あたりの子どもに、読み聞かせてあげるととても楽しめるお話のひとつ。エピソードのつみ重ねで、耳から聞くとおもしろい話だと思う。外国の風物なども出てきて、知らない国のお話をちょっと聞かせてもらったという感じね。

ねねこ:よき幼年童話の典型と言えるでしょう。全体的にお父さんのかげがないのが気になったけど、こういった幸せな幼年童話というのは、今やメルヘンに近くなっているのではないかな? 浮浪児だったパンテレーエフは『金時計』など、もっと激しい切ない作品があるけれど、これは53歳のとき、自分に遅くなってやっと子どもができた頃の作品だから、幸福感が流れているわね。

紙魚:私はこの本は大好きです。もし自分がもっと幼いころに出会っていたとしたら、きっと母に枕もとで読んでもらったんだろうなという状況が思い起こされる物語。ベーロチカとタマーロチカの名前のところを、きっと母は、私と姉の名前に置きかえて読んでくれただろうなとか。実際、母が私たち姉妹のいたずらを題材に、手づくり絵本を作ってよく読んでくれていたんですが、なにしろ物語の中で自分たちがしでかすいたずらにどきどきしてたんです。なんてったって最初のページの「ふたりとも、いうことをきかない女の子でした」っていうところで、ぐっとひきつけられる。日本のお話なら『いやいやえん』(中川李枝子著 大村百合子絵 福音館書店)かもしれないけれど、子どものときに「いうことをきかない」ってことは、とっても魅力的だったんです。

スズキ:私は、最後の「おおそうじ」がすごくうまいと思った。子ども独特の、ものごとを大きくとらえられず、ひとつのことしか見えない様子なんかを、うまく出していると思う。古典的な幼年童話というのは、ほめ言葉であるのと同時に、もっと新しい作品をという意見でもあるけれど、幼年童話には安心感があるということが第一条件なのではないかな。もちろん、そうじゃない描き方もあるけど。それにしても、いたずらっていうのはマジックがありますね。つぎつぎとやってくれるというのが、お話をうまく動かしていると思います。

オカリナ:私は、この本は単なる典型的な幼年童話と少し趣が違うと思ってるの。なぜかというと、たとえば森の中でこの子たちが隠れてわざとお母さんを心配させようとするところがあるでしょ。それに対してお母さんは、子どもの声が聞こえなくなっても、立ち止まらずにどんどん先に行ってしまうわけよね。これ、リアルな状況として考えてみると、怖い。子どもは、自分が主人公になって物語に入りこむわけだから、リアルな状況としてとらえると思うの。子どもとお母さんの距離がけっこうある。そんなせいかどうか、福音館でも『ミリー・モリー・マンデー』とか『ジョシー・スミス』はよく売れるけど、これは売れ行きがイマイチらしいのね。

トチ:私も「『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 たていしめぐみ訳 たるいしまこ絵 福音館書店)みたいなのを探してきてって言われたわ。

愁童:ぼくは、なんだかこの本はしっくりこないんだな。どうしてこのような古いものを、わざわざ今の子どもに読ませようとするのかがわからないんだよ。今の子にぴったりくるとは思えないな。

オカリナ:古い感じはしないけど。

愁童:送り手側の思いこみであって、受け手にはどうしてもギャップが生じてしまうように思うんだよね。この病んだ時代、幼稚園だって不登校があるんだ。ここまでハッピーな話っていうのも、どうかと思うけど。

オカリナ:子どもが幼いときには、ハッピーな物語って大切だと思う。生きていていいんだよっていうメッセージを、まわりから受け取って安心する時期があってこそ、次の段階に行けるんじゃないかな。

愁童:でも、どうも嘘っぽいんだよな。この本は、悪くてもいいんだという解放感をあたえてくれるから、おもしろいんでしょう。悪くても社会は受けとめてくれるという安心感があったからだよ。今の時代の子どもたちは、昔よりずっと希薄な人間関係の中にいるんだから、状況は違うと思う。さっき、「いうことをきかない」っていう部分がいいって話が出たけど・・・。

紙魚:「いうことをきかない」っていうのは、時代をこえて子どもに魅力的なことなんじゃないかと思うの。たとえ、社会に受けとめる余裕がなくても、この本の中で、「いうことをきかない」子どもたちがのびのびと動いていることが、読者にとっておもしろいでしょうし、たいせつなことだと思うし。

愁童:物語の中に、自分も同じことをやるかもしれないっていう、ふみこめる領域がないといけないと思うよ。キノコこ狩りや海水浴は、今の子どもたちにわくわくするような機会をあたえられる題材じゃないよ。

オカリナ:幼い姉妹だけで海には行かないかもしれないけれど、子どもって近所の公園の池で遊んだりするときに、そこが海だと思ったりするでしょ。だから、この物語だって、別に遠い話だとは思わないんじゃないかな。

ブラックペッパー:私はほのぼのとかわいらしく、安心感があるこの本がとっても好き。いうことをきかない子がいたずらをするというのは、とってもおもしろくて、読んでてうれしくなる。古いんじゃないかという意見もあったけど、『おさるのジョージ』シリーズ(M.レイ&H.A.レイ作 岩波書店)だって古いけどわからないというわけでもないと思うんです。なかでもくだらない会話がおもしろい。キノコ狩りのところで、お塩をつけるとかつけないとかっていうところが絶妙。こんなにおもしろいのは、なかなかないと思います。

オイラ:読んだ後、幸せになったなあ。子どもの側からすれば、どんないたずらをしても、お母さんには怒られても許してもらえるんだという安心感、お母さん側からすれば、子どもがどんないたずらをしても、容認するということ、この物語には、そうした母と子のとてもいい関係がある。この本を、いらいらしているお母さんが読めば、きっとゆったりとした気分になると思う。

ねねこ:日本の幼年童話のなかにも、松谷みよ子さんとか、いせひでこさんとかに、姉妹を描いたものがありますが、そうした人たちの作品には、どこか、お母さんに不安感や、時代の反映があります。赤ちゃんを迎えにいくところなどでは、お母さんの焦りがこちらに伝わってきます。そういう意味では、松谷さんなんかは時代を描いていたということでしょう。この『ベーロチカとタマーロチカ』は、生活に迷いが生じなかった時代の幼年童話なのでしょうか。子どもからすれば、どちらの類も違和感なく読めるとは思います。ただ、そんなことを考えていくと、今の時代ではどんな幼年童話を作っていけばいいのかと迷います。

オイラ:現実は不幸なので、物語は幸福でいいと思うけど。

愁童:うーん、この物語なんかは、耳から入ったほうがいいかもしれないね。「おおそうじ」でインクがこぼれる部屋のお話なんておもしろいし。ただ、今の時代にこれを読む余裕があるのかということが気になるね。

オイラ:読者からの感想でいちばんうれしいのは、「読んだ後、幸せな気持ちになれた」という感想。この本のように、お父さん、お母さんがゆったりと子どもに読む幼年童話が、もっとできてほしいですね。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


魚住直子『象のダンス』

象のダンス

ねむりねずみ:私はこの本、図書館で借りられなかったから、がんばって立ち読みしてきた。どうも、後味がよくないのよね。深澄がめがねを数えるのとか、タイ人の女の子チュアンチャイとの出会いの場面なんかは、とってもうまいと思う。でもね、どっかひっかかるんだな。ナゼだ?! と考えてみると、私はやっぱり、あのラストが嫌なの。深澄は「あぁ、チュアンチャイも、やっぱりお金だったんだ」って、裏切られた気持ちでいたのに、象のダンスを踊って、仲よしして、ハイおわり、でしょ。それでいいの? と思っちゃう。感情的な部分でとりあえず仲直りみたいなのでいいのかな。ほんとうはチュアンチャイにとってのお金の大切さと自分にとってのお金の大切さとの違いとかに展開していくべきのような気がするし、少なくともそこへ向かってのヒントくらいほしい。でないと上っ面だけになってしまう気がするから。

ウェンディ:私は、今読んでる最中で・・・。今読んだところまでのことでしか言えないけど、ちょっとひっかかったのは、全面的に支えてあげなくてはいけない人の存在。他人に必要とされることによって、自分が変わっていくというのは、ちょっとどうかなと思う。というのは、深澄は、どうしようもない状況に追いこまれているチュアンチャイと出会って、「私がなんとかしてあげなくちゃ」という気持ちになるわけだけど、そういう出会いって、だれにでもあるわけではないでしょ。・・・と思いながら、読み進めてるとこでーす。

モモンガ:魚住さんはやっぱり、今の子どもの冷めた感情をうまくとらえる作家ね。描き方もうまいと思う。でも、後味が悪いのよね。とくに、親との関係。大人はわかってくれないとつきはなす、今の子どもの感情はよくわかるけれど、あまりに冷たすぎる。後味悪すぎ。私、ふだんは主人公の子どもの気持ちになって読むんだけど、今回は、親の気持ちになって読んじゃった。もうちょっと歩みよってくれたっていいのになぁと思いながら・・・。

ウンポコ:まあまあ。お刺身食べて、後味よくしてよ(忘年会を兼ねているので、食事しながら話しています)。

ひるね:私も、2時間ほど前に読みはじめたの。今、深澄が、売春しようとしたチュアンチャイの身代わりになろうとするあたりまできたところ。ここまでの感じはよかったわ。『超・ハーモニー』(講談社)は、人物が類型的だと思ったんだけど、今回は、ひとりひとりがよく描けてる。これは三人称で書かれているけれど、実質、一人称みたいなものだと思うのね。深澄のひとり語りだと思えば、この母娘関係の描き方だって、そんなにひどくはないんじゃない? たしかに母親との関係は冷たいけれど、子どもの目から見たら、こんなふうに見える親って存在すると思うし、チュアンチャイの母娘関係はあたたかで、深澄はそこに惹かれてもいるわけでしょ。それで相殺されていると思うから、私は、深澄と母の関係に対して、そんなに反発は感じなかった。援助交際についても、嫌な感じを抱いていたんだけど、こういうとらえ方もあるって知ることができて、よかったと思うわ。

アサギ:私はけっこう好きだった、この作品。乾いた感じがうまく出てると思う。「男の子と簡単に関係をもつ女の子なんて、とんでもない!」って、つねづね思っていたんだけど、これを読んで、「ああ、こんな感じなのかなー」と、少しわかった気がしたわ。深澄のお母さんって、ずいぶんよね。冷たい母娘関係も、この母だったらしょうがないわよ。たしかに、親の描き方はちょっと雑なところもあって、類型的に思える部分が、なくはなかったけれど。それより、ラストが気になったわね。チュアンチャイを帰国させることにしたのは、少々安易。最後、どうまとめるんだろうと思いながら読んでたんだけど、そうよね、帰らせちゃえば簡単よね、と思った。でも、全体としては、少女の気持ちが非常によく描けている作品ね。

ジョー:私はもう、うれしくてしょうがなかったの。久しぶりに読んだ子どもの本だったから。これもまた、魚住さんらしい世界よね。女の子の心の動きが、よく描けている。どこがどう成長したってわけではないんだけど、女の子の一定期間の心の動きが、うまく描けている。文章も読みやすかった。深澄の両親も類型的かもしれないけれど、こういう親もいるでしょう、きっと。魚住さん、またこういう作品たくさん書いてね。期待してます。

紙魚:まず、言いたいのは、とても魅力的な装丁だということ。センシティブな年代の女の子にとっては、なんとも心惹かれる、お洒落なつくりの本だと思う。自分が少女のときに手にしたかったのは、まさにこういう本。深澄は,両親や美大生に裏切られ、チュアンチャイにも裏切られても、クールによそおってる。だけど,実際は心の中に熱いものをもっている子だと思う。構成はちょっと難しいところもあるけど、自分自身のことをまだとらえきれていない十代の女の子の姿が、とてもよく描けていると思う。

ウォンバット:私は最後まで読むには読んだんだけど、最後のシーンのあのポーズが、象のダンスだったということに、ねむりねずみさんの話を聞くまでわかってなかった……。今、その事実を知って愕然としているところ。なんなんだろうなー、これって」と、思っていたの。魚住さん、ごめんなさい。出直してきます。

アサギ:珍しいわね。ウォンバットさん、いつもは気がつくほうなのに。

ウォンバット:私、へんなことには目ざとく気づくタチで、この美大生、鈴木孝はいまに悪いことをするよするよ、気をつけて、深澄! と思ってたら、案の定・・・。でも、いちばん大事なところがわかってなくて、ほんとお恥ずかしい。もう1回読まなきゃね。だけど、うまくできてると思うけど、2回読みたいって感じではなかったのよね。

ウンポコ:魚住さんって、今いろんな状況におかれてる子どもをするどく描く作家だと思ってるんだよ、ぼく。この作品も、たしかに状況がよく描けている。でもね、手ばなしで感心できないんだな。同世代の読者にとっては、胸に迫るものがあると思うけど、ぼくはどうも、古いタイプの読み手みたいでね。作者の価値観にうなずけるかどうかで、読んじゃうんだよね。これは、読みおわったとき、なんだかとっても寂しかったの。愛のない関係とか、チュアンチャイに刺激を受けるっていうのも、もう、寂しーって感じで。もうちょっとなんとかしてほしいっ! と、いらだちが残った。文章は、読みやすかったけどね。テレビドラマを見てるような手軽さもある。まぁ、複雑な思いが残る作品だね。

ねねこ:うーん。どの意見もわかるな。テレビドラマ的というのも、わかる。それは、「映像的」ということだと思うんだけど。魚住さんの情景描写は、とても映像的だから。中学生を主人公にしている作品では、『非・バランス』(講談社)『超・ハーモニー』につづいて3作目だけど、いちばんよく出来ていると思った。母娘関係については、深澄のお母さんは、カリカチュアっぽくされてるんじゃないかな。南の島に9歳の子どもをおきざりにするなんて、あんまりだーとは思ったけど、これに近いことをする親はいそう。深澄は冷めてるわけじゃないのよ。小さいときから、親にラブコールを送るたびにシャットアウトされてきて、傷つきながら、それでもまだラブコールを送ってるわけだから。だけど、そんな深澄以上に、過酷な状況におかれているのよね、チュアンチャイは。彼女のことを知って、深澄の世界は急激にひろがっていく……。

モモンガ:でも深澄は、親との関係では報いられることがないでしょ。そこには救いがない。親だったら、口では批判的なことを言ってたって、子どもの思いに、もうちょっと敏感になるべきだと思うわ。カリカチュアされてるにしても。

ウンポコ:うーん。でも、今ああいう親ってきっと実在してるよね。あそこまでではないにしても、似たようなことはする親はいそう。リアリティを感じたな。

ひるね:そうね。この作品は、深澄の視点で描かれているでしょ。子どもの目から見ると、ああいうふうに見える親って、存在すると思うわ。

ねねこ:私は、「チュアンチャイも実はお金だった」という意見とは反対に感じたのね。お金では解決できない何かが残ったという印象。タイの少女の世界を知ることによって、自分だけの現実に閉じこもっていた窓が開けていく感じがとてもよくわかった。経済的には豊かな日本の女の子深澄が、まだ発展途上というか、貧しい、アジアの国の少女と出会って、生活のこと、親子のこと、そしてお金のことに対しても、新たな視野が開けたんだと思うの。持っていたお金のことを言いだせなかった、チュアンチャイの悲しみを理解することが、深澄にとってはたいへんな成長だったということなんじゃないかしら。

モモンガ:「お金」っていうものを考える、いいきっかけにはなるかもね。ほら、深澄が100円ショップでフォトフレームを買って、自分で撮った写真を売ろうとするでしょ。

ウンポコ:ねぇ、あんな写真、売れるの?

モモンガ:え? 売れなかったでしょ。

ウンポコ:そうじゃなくて。制服の友だちの写真の方。美大生が売ろうとしたヤツ。

一同:売れるよー。

ウンポコ:えっ、だれが買うの?

ウォンバット:マニア。

ねねこ:人気あるのよ。そういう趣味の人には。ところで、お母さんの台詞「百万円稼ぐのが、どんなにたいへんなことなのか、あなたにはわからないでしょ」っていうの、この人らしいなと思った。

ウンポコ:やっぱり魚住さんは、確実に「今」を描く作家なんだな。これは、まさに2000年の作品だと思う。今、この時代に、この人がいたほうがいいっていうかさ、この時代に、「今」を描いてほしい作家だね。

モモンガ:1作目、2作目と比べて、どんどんうまくなってる。

一同:(うなずく)

ひるね:戦後すぐだったら、違う環境の子ども、たとえば裕福な家の子と貧しい家の子を書こうとしても日本国内でできたけど、今は、外国人をつれてこないと、描くことができないのよね。

アサギ:さっきの、ひるねさんの「この作品は、三人称で書かれているけど、実質は一人称小説」っていうのを聞いて、なるほどと思ったわ。「子どもの視線」と思えば、この親子関係も納得。

ひるね:子どもと親の性格があまりにも離れていれば、こういうことも起きるわよ。

愁童:最初の場面、タイ人の女の子の登場の場面なんだけど、ここ、位置関係がおかしくない? ぼくはここ、よくわからなくて何回も読み返したんだよ。その結果、やっぱり位置関係がヘンだと思った。

モモンガ:私、このシルエットの少女が深澄なのかと思っちゃった。

アサギ:私はここ、よくわからなかったけど、追及せずに進んじゃったわ。

ウォンバット:私も。ま、いいかと思いながら、ずんずん読み進んでたら、大事なところも読みとばしてた。

ねねこ:読者の視点と、深澄の視点にズレがあるから、位置関係って難しいのよ。私は、矛盾はないと思ったけど。

愁童:この最初の夕陽の場面のイメージ好きなんだけど、位置関係の描写みたいな部分、ない方がよかったんじゃないかな。読者が勝手にイメージをふくらませる余地を与えてくれた方が親切だと思うな。

ねねこ:でも、そういうふうに書きたかったんじゃない、作者は。

ウェンディ:私は、位置関係をちゃんと確認したわけではないけど、自分で勝手にイメージをふくらませて、映像的だと思ってた。

ジョー:読者に、あるイメージを与えるだけでも、じゅうぶん価値アリだと思うわ。

愁童:深澄がケガして入院してる場面のお母さんの豹変ぶり、ぼくにはちょっとわかりにくかった。リアリティに欠けるような気がするんだけど。急に泣いたりしてさ。

ねねこ:そうかしら。私は、その不安定さにこそリアリティがあると思うけど。深澄に髪をひっぱられても、されるがままになっていたというところなんて、とくにリアル。だらだらとした描写っていわれるけど、高村薫に比べたら、大したことないでしょ。こういう、描きこみ方に、ぐっとくる読者もいるのよ。

ウンポコ:では、このへんで、『象のダンス』の対局にあるしつこさ、『波紋』にいってみよう。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ルイーゼ・リンザー『波紋』

波紋

紙魚:今回読む本は2冊だったんだけど、先に『波紋』を読んでおいて、ほんとよかった! おかげで『象のダンス』は、楽々だった。この2冊は、またぜんぜん違う本ね。『波紋』は、シークエンスにくぎって、こうだったこうだったと、驚くほど緻密に描写してるんだけど、自分のことをふりかえってみると、子ども、というか、10代のときって、至近距離のものしか見えていなかったと思うのね。「予測」ってものができてなかった。でも今は、多少なりとも成長したから、枠組みの中でものをとらえるのが、ちょっとはうまくなってる。だから、建物の描写にしても、今だったら、全体像を頭においてその部屋の一部を想像するっていう読み方ができるけれど、中学生のときだったら、大枠なんて考えずに、その部屋にぽーんととびこんでいたと思う。リンザーって、非常に筆力のある作家よね。大人になって、この作品を書いたわけだから。子どものころの目線を失わず、ここまで描ききるというのは、大変なことだと思う。それでね、つい自分のやってきた仕事、「編集」について振り返ってしまったんだけど、私はもう、子どものころの目線を失っちゃってるんじゃないの? って思えてきて、反省しながら読んだの。あと、気になったのは、この本を読むのはどんな人たちなんだろうかということ。『象のダンス』と『波紋』の読者層って、重なるのかしら。読者の中で、どんな心の動きがあるんだろうか、とかね。だってこれは、中学生のあいだで「この本、おもしろかったよ」なんて、話題になりそうな本ではないでしょ。『象のダンス』は、友だち同士で「これ、おもしろかったから、読んでみる?」なんて会話が成り立ちそうだけど。『波紋』読者の生態は、いったいどうなんだろう・・・というふうに、読者層がたいへん気になる作品でした。

アサギ:私も『波紋』を先に読んでたから、『象のダンス』は楽だったわぁ。これは、密度の濃い物語ね。電車の中で、とびとびで読んだりすると、すぐ筋がわからなくなっちゃう。最初の「僧院」なんて、雰囲気がよく出てて、ほんとすばらしいんだけど、読むのに疲れた。「見知らぬ少年」も、主人公が野性的なものに憧れる気持ちがよくわかる。確かな筆力を感じたわ。あとね、「エリナとコルネリア」の章は、映画「制服の処女」の世界だと思った。

ウォンバット:えっ? 知らない。いつごろの映画?

アサギ:1930年代。あら、もちろんリアルタイムで観たわけじゃないわよ。ウーファという映画会社の全盛期だったのね、このころって。その後、ナチの台頭で、ドイツ映画はだめになっていくんだけど・・・。「制服の処女」は、カトリックの女子寄宿学校を舞台にした映画で、やっぱり偽善的な校長が出てきたりしてね、雰囲気がこれととてもよく似てるの。

ひるね:そう、似てるわね。「制服の処女」って、戦後、リメイクもされてるわね。ロミー・シュナイダー主演で。あら、私もリアルタイムではないのよ。念のため、言っとくけど。

アサギ:それにしても、この本を読む子どもって、いるのかしら。この主人公と同じ年代の子どもが読むかどうかは、疑問だわ。大人は読むかもしれないけど、現役の子どもには、ちょっとね・・・。濃密、緻密な描写で、ていねいにていねいに描いているから、まさにその場面が目に浮かんでくるんだけど、でも、読むのはたいへんよね、こういう作品って。私は、全体としては「おもしろい」というより「勉強になった」というか、「興味深い」という感じだったわね。

:すごくドイツ的な作品。あとがきを読んだら、そういう読み方もできるのかと思ったんだけど、ナチに文学で対抗しようとした、という姿勢にハッとさせられた。このあいだ、シンポジウムに参加するためにウィーンに行ったんだけど、そのときも考えさせられたのね。やっぱりウィーンも、ナチの支配下にあったわけでしょう。そういう戦中戦後の難しい時代に、文学者がどんなふうに発言してきたか、政治から一歩ひいて、文学にしかできない方法で表現しようとしていたことがあったという事実を、今になって、振り返ることができるようになった。リンザーも、少女の心の中の複雑で入りこめない意識を描いているようだけど、実は非常にポリティカルなのよね。それで、投獄されたりしていてね。そういう複雑な意識がバックグラウンドにあるんだけど、作品の作り自体は、とてもクラシカル。主人公をわかってくれる大人、あの「叔母さま」とかね、そういう人が、ちゃんと存在している。そういうところ、現代の読者からしたら、陳腐に見えるかもしれないわね。体制に対する意識も、ちょっとついていけないかも。私は今回、『象のダンス』は読んでないんだけど、総じて日本の作品って、ファジーでふわふわふわぁって感じでしょ。読みこむ必要がない。でも、この作品はずっしりと書きこんでるから、しっかり読みこまないとだめ。とっても重厚な作品よね。
私は『悪童日記』(アゴタ・クリストフ著、堀茂樹訳、早川書房、1991)を思い出したの。雰囲気がとてもよく似てると思って。私はこういう世界、非常に好き。読者については、翻訳作品としては問題あるかもしれないけど、ドイツだったら、この作品を読む子どもって、いると思う。たしかに、日本の子どもには、ちょっと難しいかもしれないけどね。

アサギ:私、リンザーって、日本でいうとだれだろうって考えてみたんだけど、思いあたったのは、三浦綾子。ま、根拠のない、独断だけど。ほら、純文学ではなくて、主流では認められていないんだけど、熱狂的なファンがいて・・・というあたり、文学界での立ち位置、そのズレ方が、三浦綾子! と思ってね。

ひるね:とても耽美的な作品よね、これ。こういうのって好きな人は好きだけど、嫌いな人はもう生理的にだめよね。ぱっと意見が分かれそう。私はといえば、どうも「美しい」というより、「気味が悪い」と いうほうが先に立っちゃって。好きか嫌いかといったら、嫌いの部類。まず、ユーモアがないでしょ。「ゆとりがない」というのかしら。 だれかが松田聖子のこと、「恋はするけど、愛せない人」って言ってたけれど、この主人公もそういう性格の女性だと思うわ。

:聖子は、体温が低いって感じ。

ねねこ:えー、体温じゃないと思うなー。自己愛の問題じゃない?

ひるね:「エリナとコルネリア」の章は、少女漫画好きにはいいかもしれないわね。ちょっと私には、ついていけない感じだけど。あと、花の名前がたくさん出てくるでしょ。そうそう、それで、日本名とカタカナがごちゃまぜなのが、気になったの。とくに、これだけは言っておかなくちゃと思ったのは「日本アネモネ」。「日本アネモネ」って、「秋明菊」のことよ。「秋明菊」のほうが、だんぜんポピュラー。「貴船菊」とも、いうんだけどね。

モモンガ:この本、私にしてはめずらしいことなんだけど、読めなかったの。いつもカバンに入れていて、電車に乗るたびに開いたんだけど、どうも眠くなっちゃて。

ウォンバット:これ、電車の中では無理かも。

ウンポコ:「祖父」の章を、先に読んでくれればよかったのに。

ひるね:あの章は、体温が感じられるわよね。

ジョー:私は「森のフランチスカ」まで。軽井沢の木かげで、一日じゅうのんびり読んだら、堪能できるであろう作品。日本語も、難しい言葉を使ってるでしょ。さすが岩波書店! という印象。そして、ドイツ的。

アサギ:私も、ドイツ的だと思う。

ジョー:背景にある、民族的なものがよくわかる。異文化を知るとっかかりとしては、よいのでは? たいへん美しい作品だし。

ねむりねずみ:ドイツって、ボリュームのある作品を書く作家が多いよね。私は、一時期ドイツものに凝っていた時期があったの。ヘルマン・ブロッホとか、ギュンター・グラスとか読んでたんだけど、久しぶりにそういうドイツ的な雰囲気が感じられて、なつかしかった。日本語でだって難しい、観念的な世界に入っちゃってるんだけど、その手応えもまた、よくってね。ドイツものにハマる前は、フランスものを読んでたの。ドイツとフランスって、ほんと違うでしょ。雰囲気が。ドイツものって、個人の心理になだれこまず、視野を広くもって 物語世界に入っていくから、どーんとしたものが感じられる。この作品もまた、そういうドイツの骨太な感じを強く受けた。すっごく読みにくいんだけど・・・。最近は「すらすら読める系」ばかり読んでいたから、久しぶりに、アタマ使って読んだって感じ。クラシックな僧院の様子と、思春期の少女の心の動きのアンバランスなところも、とてもよく表現してると思う。ところで、この作品の対象年齢は、いかに? どういう人に、人気あるの?

モモンガ:岩波少年文庫ファンって、たっくさんいるのよ。

ひるね:ファンにとっては、「待望の作品」って感じじゃないのかしら。

ねむりねずみ:ヘルトリングもドイツっぽいと思ってたけど、これとはまた、違う雰囲気。

モモンガ:岩波少年文庫、ドイツ、上田真而子訳の3拍子そろってるんだもの。迷わず買っちゃうっていう人、いるわよ。

ひるね:いわゆる子ども向けの文学、「児童文学」ではないかもしれないけどね。

ねむりねずみ:挿絵がモノクロなんだけど、ぼやーっとしちゃってよく見えないのが、残念。せっかくムードのある絵を使ってるのにね。カラーで見たかったな。

ひるね:あら、わたくしは、絵はなくてもよかったと思ったけど。

ねねこ:少なくとも、キャプションはいらなかったわね。

アサギ:リンザーの作品、日本では『噴水のひみつ』(ハンス・ポッペル絵 前川康男・高橋泉訳 佑学社)が有名よね。

ウェンディ:私は情景描写が続くのって、どうも苦手なんだけど、「波紋」の章の“聖なる泉”の描写は、そのひとことひとことから風景がわきあがってくるようで、とても好きだった。

アサギ:私も! あそこの描写、すごく好き。詩のような美しさがある。

ウェンディ:そういえば、私、いちばん最初に担当した本が、リンザーの『なしの木の精スカーレル』(遠山明子訳 福武書店)だったの。久しぶりに、もういちど読み返そうと思ってるんだけど。

ウンポコ:さて、次は愁童さんだ。絶賛の弁が聞けるかな?

愁童:ちなみに言っとくと、ぼくも「制服の処女」はリアルタイムではないんだけどさ、ぼくたちの高校時代ってのは、ヘッセブームだったんだよ。この本にも、ヘッセに似た雰囲気を感じたね。今どき読もうとすると少々しんどいけど、なつかしかった。重厚で、綿密な描写。糸を織るように心情を描いている・・・。わが青春時代には、そういう本をたくさん読んだものだけど、今の子どもに、読めるかねぇ。

:この本、Tさんが担当したんでしょ。あとがきに書いてあるけど。Tさんらしい本よね。

愁童:と、いうと?

ねねこ:Tさんって、トラディショナルな本を多く手掛けてる編集者でしょう。やっぱり、この本は「岩波少年文庫・ドイツ・上田真而子訳」で成立してる本だと思う。出版社によって、それぞれ「合う本」って、あると思う。たとえば、ミヒャエル・エンデの作品は、最初、講談社からいくつか出たんだけど、岩波書店ではうまくいった。それってつまり、エンデは岩波向きというか、岩波の本が好きな読者にうまく届いたってこともあると思うんだけど。この本、風邪でぼーっとした頭で読んでると、眠くなっちゃうね。なんかこう、たゆたう感じで。今の子どもには、ちょっと難しいかも。『象のダンス』が「映像的」だとすると、この作品は「感覚的」。少女の感覚が、よく描けてる。具体的には、よくわからないところが、いろいろあるのよね。主人公の両親とかさ。この祖父も、なんだかよくわからない。

アサギ:この祖父、唐突に「仏教徒で」なんて出てくるけど、何をしてた人なのかは、まるっきり不明。

ねねこ:全体にキリスト教の教養がないと、物語世界に入っていけないでしょ。もどかしいような感じは一種、自虐的な楽しさでもあったんだけど。でもやっぱり、それぞれの民族の歴史の違いというか、民族的なものの中で蓄積されてきた表現描写の違いというのを、意識しちゃったな。日本人がずっと慣れ親しんできた描写とは、テンポが違うでしょ。だって、ほら「春はあけぼの」のたたみかけの心地よさとは、基本的に違う。だから、読むのがたいへんといえば、たいへん。でも、苦労して読んだ甲斐はあって、その点、「ハリー・ポッター」とは違ってた。「時間、ソンした!」とは、ぜんぜん思わなかったもんね。あとね、「オフィーリア」の絵(ジョン・エヴァレット・ミレー作)を思い出したの。

ねむりねずみ:あ、あの女の人が仰向けで水に浮かんでいる絵! よくわかる、その感じ! 印象的な絵だものね。

ひるね:オフィーリアをタイトルにもってきてる本、あったわね。そうそう死と少女を語った『オフィーリアの系譜 あるいは、死とて女の戯れ』(本田和子著 弘文堂)というおもしろい本があるけれど、『波紋』もその本のリストに加えられるといいと思ったわ。

ねねこ:神沢利子さんの「いないいないばあや」の世界にも似た印象。それにしても、この主人公、頑固よね。

愁童:最後のほうでさ、あの男の子たち、レネとゼバスチアンとずっと楽しく遊んでいたのに、突然主人公がすっと冷める場面、あったよね。こないだまで夢中でやっていた遊びなのに、「こんどこそという期待にみちて試してみるのだが、すぐに飽きてやめてしまった」というあたり。女の子の、そういう心の成長の過程が、よく描けていると思ったな。

:たしかにそうね。でも、男の子の読者は、こういうの読まないんじゃない?

ひるね:わかんないわよー。ほら、ヘッセだって……。

アサギ:でも、ヘッセとは、抱えているものが違うからね。

ウォンバット:私はこの作品、タイトルがいいなあと思って。とってもインパクトがあるでしょ。『波紋』って。今回読む本に決まる前から、気になってたの。このタイトル。池波正太郎のエッセイを思い出してね。どんな話かというと、「俺は、小説を書くことにした。タイトルはもう決まってるんだ。それは『断崖』というのだよ」っていう友だちが出てくるのね。で、正ちゃんは「うむ、いいタイトルだ。がんばれよ」っていうんだけど、その友だち、タイトル決めただけで、ぜんぜん書かないのよ。それで、せっかくいいタイトルなのに、惜しいっていう話。この『波紋』ってタイトルを見たとき、その話が頭に浮かんだの。ま、内容とはなんにも関係ないんだけど。言いたかったのは、言葉のもつイメージ、『波紋』っていう言葉のもってるイメージが、『断崖』と同じくらい強烈で、うっわー、読んでみたいという気持ちを、非常にそそられたということなの。だけど、これって、大人の感覚だと思うのね。子どものとき、たとえば私が中学生だったら、『波紋』っていわれても、ピンとこなかったと思う。今の一般的な中学生も、『波紋』っていわれたって、「なんのこっちゃ」じゃないかな。さっきから読者対象の話がいろいろ出てるけど、タイトルからも、どんな読者に向けて作られた本なのか、いまひとつわからない感じ。ところで内容はというと、最初のほう「僧院」「百合」の章は、文字をいっしょうけんめい追いかけるんだけど、つるつると表面だけをうわすべりするようで、物語の中にぜんぜん入っていけなかったの。でも、3章の「見知らぬ少年」で、外の世界、いけないとされているものへの憧れとか、盲目的に従ってきた戒律への反抗心が頭をもたげるところとか、テレーゼへの憎しみや人形のエピソードがつぎつぎ出てくるでしょ。そこで、それまでが嘘のように、主人公の感情の動きにぐいぐい惹きこまれて、物語世界にすぽっと入っていけたのね。そうしたらその先は、もうどっぷり楽しめた。「エリナとコルネリア」の章も、女子校のエスな雰囲気が、とてもよく伝わってきて、わかるーって感じ。これは恋ではないと思うんだけど、だれかにモーレツに憧れる気持ちとか、モーレツな嫉妬とかって、その対象が男であれ女であれ、10代のころにはよくあることだなぁと思いながら読んだ。

ウンポコ:ぼくは「恒例ウンポコ読み」だけど、おもしろかった。これは、一種の私小説だと思ってさ。で、私小説には、「和食の私小説」と「洋食の私小説」があると思うわけ。これは「洋食の私小説」だな。ぼくは、この作品の出版された年、1940年生まれなの。1940年ごろって、大人は子どもの成長にいっさい関知しない、というか、大人が子どもと無関係に生きてた時代だと思うんだ。大人の存在感が大きい。この作品には、そんな時代性を感じたね。とりわけ、祖父の存在が気になった。なんというのかな、謎めいてるでしょ。バガボンドでさ。

ねねこ:このおじいちゃん、「明治生まれの男」って感じ。あの庭を歩く場面、とってもよかったわ。

ウンポコ:あの建物の描写なんかも、めくるめく感じで、想像の世界を刺激されるよね。子どもの想像力のすばらしさも、感じたな。めずらしくウンポコは、主人公に寄り添ってみたのだった・・・と。

アサギ:さっき、ひるねさんがこの作品には「ユーモア、ゆとりがない」って、おっしゃったでしょ。ちょっとそこにもどりたいんだけど、その「ユーモア、ゆとりのなさ」こそ、「ドイツ的」ってことだと思うのね。本来的なドイツ文学の書き方だと思う。どういうことかというと、距離をおかないっていうことなの。映画にも同じことが言えるんだけど。「ラン・ローラ・ラン」や「ノッキング・オン・ザ・ヘブンズ・ドア」とか、このごろは今までのドイツ映画とは、ちょっと違った感じのものが登場してるけど、対象とのあいだに距離をおかないというのが、本来的なドイツ映画の特徴なのね。「ドイツ文学らしいドイツ文学」もそれと同じで、「自分自身」と密着してるから、ゆとりもないし、客観性やユーモアは生まれにくい。

ひるね:前にここで読んだ『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮社)は、またちょっと違ったわね。

アサギ:あれは、純文学というより、エンターテイメントに近いから。基本的に、ドイツの作家って「オレは書きたいものを書く。読みたい者は読めッ!」って姿勢なのよ。フランス文学との大きな違いは、「観客を意識してるかどうか」という点。とても対照的だと思うのね。ドイツ文学とフランス文学って。ドイツ文学は距離をおかないぶん、主人公が読者の状況と合うと、この上なくぴったりきて、「これは私のもの!」となって、ハマっちゃうのよ。だから、独文好きってオタクが多いのよね(笑)。昔、青春ものっていうと、ヘッセとかカロッサとか、ドイツ文学がとてもよく読まれたのも、ひとつにはそういうことだと思う。

ねむりねずみ:本国ドイツでは、どうなの? たとえば、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(高本研一訳 集英社)は?

アサギ:あーら、ギュンター・グラスの好きなドイツ人なんて、いないわよ。彼はポーランド北部のダンチヒ生まれで、テーマは何かと言えば、「マイノリティ」。『ブリキの太鼓』は別格だけど、その他の作品は、多くのドイツ人にとって、「わからん」って感じじゃない? でも、いいのよ。さっきも言ったけど、「読みたい者が読んでくれれば、それでよし。あとはもうどうだっていい」っていうのが、ドイツ文学だから。

ひるね:久しぶりに外国の文学を読んだって感じがしたわ。

アサギ:50年前の作品だしね。学習によって、当時の雰囲気はよくわかりましたわって感じ。だけど、おもしろかった? っていわれると、ちょっと違う。

ねねこ:この前、久しぶりに二葉亭四迷を読み返したら、何だか妙におもしろかった。『波紋』よりは、ずっとずっと前の小説で比べものにはならないかもしれないけど。若いころはちっとも理解できなくて、「なにこれ、ヘンなの」と、思ってたんだけど。田山花袋の「蒲団」なんかも今読んだら、とっても新鮮! そんな自分に驚いてしまった。

ウンポコ:考えてみれば、日本の近代はみんな私小説だね。

ねねこ:どんなに外国ものに慣れてきたといっても、先祖から代々受け継いできたものって、やっぱり根強いのかも。遺伝子に組みこまれていた感覚が、年齢とともにあらわれてくるのかしらねぇ。

(2000年12月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』

金鉱町のルーシー

モモンガ:カレン・クシュマンの前作『アリスの見習い物語』(柳井薫訳 あすなろ書房)も、好感のもてる作品だったけど、今回もまたよかったわ。前作は時代設定がとても古かったけど、この作品はゴールドラッシュで、もうちょっと新しいから、時代背景も理解しやすかった。母と娘の関係がユニークね。なんていっても、お母さんの個性が強烈! ルーシー本人は、静かに本を読んでいるのが好きっていうおとなしいタイプの子でしょ。だから、お母さんのほうが前面に出てて、印象深かった。少女の成長を描いた物語って、今いるところから出ていくっていうのが多いでしょ。でも、これは逆パターン。あんなに東部に帰るためにがんばっていたけど、最後はカリフォルニアにとどまることを選択する。この選択がたのもしい! 結末が図書館をつくるというのは、ちょっとハマリすぎの感もあるけど……。

すあま:図書館員にとってはうれしいところ。評価のポイントがピピピッとあがっちゃう。

アサギ:私もおもしろかったわ。ノンフィクション的なおもしろさ。ルーシーの生活ぶりが興味深かった。切り傷にクモの巣と黒砂糖の混ぜたものをあてるとか、食べすぎのときは、砂糖を入れたトウヒの煎じ薬を飲ませるとか、料理の仕方、ほら、あの干しリンゴのパイとかね。ゴールドラッシュのころって、こんな感じだったのかな、と思った。でもね、最後まですーっと読んだし、いい作品だと思うけど、ものすごーくおもしろいというわけではなかったの。「おもしろい」というより、「興味深い」と言うべきなのかしら。惜しいと思ったのは、ユーモアが活きてないこと。さらっとした訳だからかな、とも思うんだけど。たとえばね、買ったスイカがとても重くて、運ぶのがたいへんという場面で「すいかに取っ手をつけなかったのは神様の失敗だと思った」とか、森の中で暮らしてる野性児のようなリジーのことを「首の垢にジャガイモが植えられるほど汚い」とか、おもしろい言い回しはそこここにあるの。でも、それが「気がきいてるぅ!」っていう、しゃれた表現には感じられなかったのよね。せっかくの、ユーモラスなところが、目立たなくなっちゃってる。それがちょっと残念ね。あと、クーガンさんは、ほんとにガラガラヘビのジェイクだったの?

オカリナ:どうかな? ほんとのところどうだったのかは、書いてないんじゃない?

アサギ:それと、ルーシーとリジーが、泥だらけでふらついてるインディアンの女の子に遭遇する場面で、生理の話をするでしょ。リジーは「生理中の女がさわるとミルクがだめになる」って言うんだけど、それって、魔女に対して言われてることと同じじゃない? 生理中の女と魔女って、リンクしてるんじゃないかと思うんだけど。穢れてるってことかしらね。近づいてはいけない存在っていうか・・・。私は、いずれにしても、こういう生活ぶりはおもしろいと思ったけど、強烈にひきつけられるというものは、なかったな。

オカリナ:淡々としてるからね。

アサギ:ねえ、いつ気づいた? ルーシーがラッキーディギンズに残ることに。

モモンガ:私、最後まで気づかなかった。

アサギ:あ、よかった。仲間がいたわ。私も最後まで気づかなかったの! だから、ラストは意外性があって、とってもよかったのよ。途中はあんまりインパクトがなかったから、なおさらね。私は映画でもなんでも、いつも最後まで気がつかなくて、作者の思惑どおりにびっくりしちゃうタチなもので、みなさんはどうだったのかなと思ってたのよ。

モモンガ:最後が印象的よね。途中こまかいことは、あんまりよくおぼえてなくても、この結末だけは、心に強く残っているもの。

アサギ:だけど、すごいわね。15歳の女の子がこういう状況で母と離れ、自分の道を選び、ひとりで歩いていこうというんだから。現代の日本の15歳とは、ぜんぜん違うのよね。

ウォンバット:ルーシーをはじめ、登場人物がみんなたくましい! バイタリティにあふれてて、悲惨な状況にもメゲないんだな。弟の死とか、悲しい出来事もあるけれど、悲しいときにはさめざめと泣いて気持ちを落ち着けて、明日はまた新たな気持ちで立ち向かおう! という姿勢が、なんてったって好き。やっぱり、いつも前向きでいなくちゃねという気持ちにさせられた。あと、忘れられないのは、助け合いの精神と荒くれ男の人情味あふれるやさしさ。お母さんたちがサンドイッチ諸島に渡るお金が足りないっていうとき、ひげのジミーがこっそり自分の金歯をさしだすところと、火事で本をなくして悲しんでるルーシーに、ミズーリから『アイヴァンホー』が届く場面ではうるうるしちゃったな。

モモンガ:あ、そうそう! 思い出した! このあいだ、この本の原書を見る機会があったの。クシュマンの第1作Catherine, Called Birdy(未邦訳)とTheMidwife’s Apprentice(『アリスの見習い物語』)、そしてThe Balladof Lucy Whipple(『金鉱町のルーシー』)、3冊一緒に。どれも表紙は女の子の絵なんだけど、とても印象的だった。3冊とも、強い意志が感じられる表情をしてるのよ。ちょっと鬼気せまる感じで、こわいくらい。笑ったりしてなくて。The Ballad of Lucy Whippleは、スッと正面を見すえてる女の子の絵なんだけどね。3冊並べてみるととっても迫力があって、「歴史モノ!」って感じなの。原書とくらべると、日本版は同じ本とは思えない雰囲気。印象がぜんぜん違う。

アサギ:そういえば、翻訳もので、原書の絵をそのまま使うことってあまりないわね。どうしてかしら。テイストが違うから?

オカリナ:うーん。そうはいっても、半分くらいは使ってるんじゃないかしら。ドイツものは特にテイストが違う場合が多くて、あんまり使ってないかもしれないけどね。

アサギ:そう言われてみれば、そうかも。中学生以上とか、読者の対象年齢が高いものは、けっこう使ってるかもしれないわね。もっと小さい子向け、小学校低学年向けのものなんかは、あんまり使ってないと思うけど。

オカリナ:それに、原書の絵を使うとなると、テキストとはまた別に、版権料を払わなくちゃいけなくなるでしょ。だったら、日本人に合ったものを、あらたに描きおこしてもらったほうがいいって考え方なのかもね。

アサギ:この本、読者対象は、どのくらいに設定してるのかしら?

ウォンバット:中学生以上って感じかな。

すあま:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、人にすすめられて読んだのね。すすめられなければ、たぶん読まなかったと思うんだけど、読んでよかった。おもしろかったから! お母さん、ほんと強烈。日々の暮らしはたいへんだし、弟の死とか、シビアな面もきちんと描かれているんだけど、ユーモアがあるから楽しく読めた。母娘のやりとりも笑える感じ。ルーシーは東部にもどるためにお金をためてるんだけど、貧乏くさくなくて、よかった。そんなの、まじめに書いてあったら「おしん」みたいで、つまんないとこなんだけど。でも、おもしろく書いてあるからね、これは。終わり方も、ヨシッ! 主人公に素直に共感できた。本の好きなひとりの女の子として、ついていける。図書館関係者としては、数少ない本をみんなで大事に読むところ、1冊の本が、いろいろな人をめぐりめぐって、またちゃんとルーシーのもとに返ってくるところが、とりわけうれしい。ほらね、アメリカでは、もうこの時代から図書館がちゃんと機能してたんだからねって、いばりたい気持ち。でも、そういうこと言いはじめると、日本と比べちゃってねぇ・・・。ちょっと気持ちにダーク入ってきちゃうんだけど。それにしても、このお母さん、めちゃくちゃだよね。ルーシーは、親のエゴでこんなところまで連れてこられちゃってるわけでしょ。ほんとは静かに本を読んでいたい娘に向かって、「はい、ライフル」って狩りを強要する母だもんねぇ。第一、子どもの名前に「カリフォルニア」なんてつけるかね、普通? そして、それが気にいらないからって、自分で勝手に名前を変えちゃう娘のキャラクターもいい。そういうところも共感できるのが、いいよね。ストーリーはとってもいいと思うんだけど、難をあげれば、見た目とタイトルが、ちょっとね・・・。

モモンガ:このタイトル、「金鉱町」っていう文字が、なんとも硬い感じなのよね。

すあま:この本がポンッと図書館の棚においてあっても、中学生は手にとらないと思う。だから、こういう本こそ、書評なんかで紹介されるべきなのよ! 内容がわかれば、おもしろそうと思って手をのばす子もいるでしょ。ほっといても売れる本は、何もしなくたって売れるんだから、書評で紹介する必要なんてないの。ほんとは。ゴールドラッシュの雰囲気もよくわかるし、それこそ「大草原の小さな家」シリーズとあわせて紹介するのもいいかも。『アリスの見習い物語』は、もうちょっとおとなしい感じだったよね。あれはあれで、また違った雰囲気でおもしろかった。ま、それはおいといて、私が主張したいのは、この本、装丁と内容が合ってないってこと。タイトルもイマイチ。読んでみたら、この表紙から受けた印象とはまったく違ってて、いい意味で裏切られたかって感じでよかったけど、本としては損だよね。

モモンガ:「この女の子、だれ?」って感じよね。ルーシーにしては、幼すぎるでしょ。

オカリナ:「意志をもって生きていこうとする女の子」っていうのが、この作品のいいところであり、読者を獲得しやすいところだと思うんだけど、この表紙では、それが伝わってこない。

すあま:この絵だと、東部に帰るために自力でなんとかしようと奮闘する女の子っていうより、「帰りたーい」とかいって、めそめそしそうな女の子に見えちゃう。

アサギ:可憐な感じ。きれいな絵だと思うだけど、内容を考えるとちょっとね・・・。

すあま:いい絵だけど、この話には合ってない。

ウンポコ:タイトルの「金鉱町」というのも、ちょっとイメージがうかびにくいんだよな。

すあま:こういう「もったいない」っていうか「惜しい」本って、いっぱいあるよね。そういう本を前にすると、つくった人間は、ほんとに売る気があるのかぁ?! ってききたくなっちゃう。こんなんで、子どもにアピールするつもりがあるのだろーか。

モモンガ:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、自分のなかでは「女の子が、自分にあった仕事をさがしていく物語」と位置づけているの。ゴールドラッシュだから「金鉱町」にしたんだろうけど、「金鉱町」なんて、今の日本の子どもたちには、なじみがないと思うんだけど。

アサギ:ちょっと遠すぎる世界。

オカリナ:今の児童書をめぐる状況って厳しくて、せっかくのいい作品も初版4000部作って、それが売りきれなかったら、 すぐに絶版になっちゃったりするじゃない。それじゃ、もったいないと思うのよね。この本も「今年のよい本2000年版」なんかには、きっと選ばれると思うけど、息長く読みつがれていくかどうかは、ちょっと疑問。あとね、逃亡奴隷が出てくるでしょ。私は「カラード」っていう言葉に、ひっかかったの。アメリカでは、黒人の呼び方に歴史的な変遷があって、ニグロ→カラード→ブラック→アフロ・アメリカン→アフリカン・アメリカンって変わってきてるんだけど、「カラード」というと、奴隷だったということが、うまく伝わらないんじゃないかと思う。南アフリカでは、黒人と白人のハーフやインド・パキスタン系の人のことを「カラード」というんだけど、アメリカでは混血じゃなくてもカラードって言ってたからね。

モモンガ:今、アメリカでは、「カラード」って言葉は使わないの?

オカリナ:あんまり聞かない。皮膚の色だけを、具体的に示す場合には使うこともあるだろうけど、それ以外では、使うことないんじゃないかな。

モモンガ:アジア系の人もふくめて、白人じゃない人はみんなカラードなのかと思ってた、私。

オカリナ:今は、とにかくアメリカ人は全員「アメリカン」でしょ。皮膚の色などにこだわるな、っていう気持ちもこめられてると思うけど。それにしても、「カラード」っていう言葉、子どもには、わかりにくいよね。

アサギ:「ニグロ」っていうと、差別的なひびきがあるでしょ。ドイツでは「ネーガー」っていうけど、そこに差別的な意味があるとは思えない。

オカリナ:ニグロにしてもネーガーにしても、元の意味は「黒」だから、それ自体は差別じゃないんだけど、歴史的にその言葉がどう使われてきたかで、いろいろな意味が付け加えられてしまうのよね。黒人が身近にいる国と、そうじゃない国の違いもあると思うし。

アサギ:日本も身近ではない国だけど、なんて呼んでるかしらね、最近は。

ウォンバット:アフリカ系にしても、アジア系にしても、必要がないときはわざわざ書かないようにしてるんじゃない? 新聞なんかでは。中国系だったら名前でわかることもあるけど、そうでもなければ、顔写真をみてはじめて人種を知るっていうこともあるよね。山田詠美は、たしか「アフリカ系アメリカ人」を使ってたと思うけど。

アサギ:でも、文学辞典なんかで、人種をテーマにして書いている作家なんかの場合には、その人の肌の色とか人種の情報も重要なんじゃない?

オカリナ:そういう場合は、解説のなかで、わかるようにしてるんじゃないかな。名前のすぐあとに「黒人作家」なんていうふうには、書かないようになってきてるということだと思うんだけど。
私は、この作品、最初はてれてれしてるなぁと思ったのね。それが、火事が起きるあたりからぐぅっと引きこまれていって、最後は「こうくるかっ?!」と思った。歴史小説だから、アメリカの子どもだったら、きっとおもしろがるだろうね。日本の子どもには、あんまり身近に感じられないだろうけど。日本の作家も書いてほしいな、こういう歴史ものを。日本では、古い時代のものだと、女の人って一歩うしろにさがった存在として描かれることが多いでしょ。そうじゃない女の人って、大人の小説には出てくるけど、子どもの本にはまだあんまり登場してない。それとも、私が知らないだけかな。おもしろいと思うんだけどな、日本版のこういう話。だれか書いてくれないかしら。

モモンガ:私、NHKの朝の連ドラって、けっこう好きなの。とくに、大正から昭和初期の少女の自立もの。時代的に女の人にとっていろいろ障害が多いから、ドラマチックになりやすいのね。それをはねのけて生きぬいていくっていう話、とってもおもしろいと思うんだけど。そのあたり、子ども向けの本で、だれか描いてくれる人、いないかしらね。

ウンポコ:そうだなぁ、いそうだけどね、だれか。今、思いうかばないな。ところで、魅力的なタイトルをつけるっていうのも、大事なことだよね。ぼくは、「タイトラー」っていう職業があってもいいと思ってるの。だって、表紙まわりだって、昔は編集者がやってたのに、今はデザイナーにたのむでしょ。コピーライターっていう職業もあるしさ。編集者は作品に近づきすぎちゃって、客観的にみられなくなりがちなんだ。タイトルを決めるときって、著者、編集、営業もいれて会議をして、さんざん考えて決定する社もあるそうだ。10年くらいまえ、読者である中学生に選んでもらったこともあったけれど、採用しなかった。英語をそのままカタカナにした題が中学生にはウケがよかったんだけど、当時はまだ、原題そのまんまっていうのに抵抗があって、ふみきれなかったんだよね。タイトルとか、オビにいれる言葉とか考えるの、上手な人がいたら、お金払ってもいい。だれかやらない? すあまさん、どうかな?

すあま:そうですねぇ・・・。(気乗りしない様子)

オカリナ:この読書会でも、タイトルつけなおしっていうの、やったら? 「今月のリタイトル本」とか、「今月の売る気があるのか本」とか・・・。せっかく内容がいいのに、タイトルや装丁で損してる本って、たくさんあるから。

モモンガ:書名にカタカナの人名が入ってると売れないとか、いうよね。

ウンポコ:そうかい?

モモンガ:あれ? 図書館員だけ? そういってるのは。

ウンポコ:「ん」が入ってると売れるって、いうのもあるよ。ほら、「アンパンマン」なんて、「ん」が3つも入ってる。

オカリナ:カタカナの書名はだめっていうのも、ない?

アサギ:一時期、長いタイトルが流行ったこと、あったわね。そういえば、この本の章タイトルも、ひとつひとつが長くておもしろいわね。ドイツに多いパターン。ドイツ人って、好きよね、こういうの。

ウンポコ:あ、そうなんだ! ドイツに多いの? 斉藤洋がよくやってるのは、だからだったのか。

オカリナ:装丁のことで言えば、目次の次のページ、人物紹介なんだけど、なんだかここだけ浮いてない?

モモンガ:ゴシックで太い書体だから、黒々してるのよね。

オカリナ:ほかはいいのに、なんだかここだけ妙に素人っぽい作り方。どうしちゃったんだろう? ハリ・ポタに負けないくらいここは素人っぽいな。

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


シャロン・クリーチ『赤い鳥を追って』

赤い鳥を追って

ウンポコ:これは、おもしろかった! 先週、ある受賞式があったんだけどね、そこで作家から売りこみがいっぱいあったの。それで、今週になって持ちこみ原稿がたくさん届いたから、読んでるんだけど、あまりおもしろくないんだな。どうしておもしろくないのか。それは、「コト」は描くけど、「人」は描いてないからなんだと思う。ストーリーを追いすぎてるの。だから人物像が見えてこない。それでは、文学じゃない。いっぽう、この『赤い鳥を追って』は、「人」がよく描けてる。だから魅力的なの。ネイト伯父、ジェシー伯母、自分の心とは裏腹なことをしてしまう主人公ジニー、そしてジニーにアプローチしてくるおかしな若者ジェイク・ブーン。みんな、よく描けているよね。お父さんについては、やや不足ぎみ。もう少し描きこんでほしかった。ちょい役のお店のおばさんなんかもまた、いいんだな。人物像がしっかりしてて、雰囲気がとってもよく出てる。だからこそ、読後しっかりした手応えが残るんだ。ちょっとした会話もうまくて、映画を見てるみたいな気持ちになったよ。「パッパラッパ、パラッパパ」って踊る場面なんて、映像が目にうかぶ。

ウォンバット:えー、そう? 私は「パッパラッパ」と「みんなをあっといわせよう!」が、ピンとこなかった。今日、風邪で休んでるネムリネズミさんにそう訴えたら、Boogie Woogie Bugle Boyの曲を知ってれば、わかると思うよって言われたんだけど。とても調子のいい、楽しい雰囲気の曲だからって。でも「みんなをあっといわせよう!」って、日本語としては、どうも調子がよくなくて、景気づけって感じがしなかったの。これが、もっとぴたっとくる、すてきなセリフだったら、きらっと光る印象的な場面になって、もっとよかったと思うんだけどな。

ウンポコ:たしかに。「パッパラッパ」の場面はいいけど、「みんなをあっといわせよう!」って台詞は、ばちっとはまってるとはいえないね。あ、そうそう、p279で、ジェイクが「まいった!」っていうんだけど、これも、違和感なかった? ニュアンスが、ちょっと違うんじゃないかな。もっとしっくりくる言葉がありそうだぞ。とまあ、いろいろ気になるところはあるけど、全体的には新鮮だったな。舞台設定も魅力的だしね。トレイルとかさ、リアリティもあるし。13歳の子がひとりでテントで過ごすなんて、現実にはちょっと無理っぽいんだけど。いっやー、最近読んだ英文学のなかでは、ダントツの高得点!

モモンガ:前作『めぐりめぐる月』(もきかずこ訳 講談社)もよかったけど、この作品のほうがもっと好き。登場人物は多いんだけど、ぜんぜんこんがらがったりしない。ジニーにとって、この人はどうっていうふうに、一人称で書いてあるから、人物像も人間関係もとってもよくわかる。ただ、オビのキャッチコピーは「自分の存在意味をトレイル復活にかけた少女の葛藤」とうたってるんだけど、「トレイル=自分さがし」というふうにはつながってないと思う。話は少しずれるけど、最近友人がまだ幼い子どもを突然なくすという不幸があって、そのすぐあとにこの本を読んだので、伯父さん伯母さんの、子をなくした親の気持ちが、生々しく迫ってきちゃってね。シャロン・クリーチも、そういう体験をした人が身近にいたかどうかわからないけど・・・。これ、ジニーが、ローズとジェシー伯母の死をどうやって受け入れるか、納得するか、という物語だとも考えることができて、とっても深い話なのよね。だから「自分さがし」とか、そんなことだけをことさらアピールしなくてもいいと思う。それと、ジニーが「何かしなくちゃ」と思っているというのは、わかるんだけど、なぜトレイルを掘るのかっていうのが、いまひとつよくわからなかった。

ウンポコ:そういえば、ネイト伯父が恋人をさがしにいくのって・・・。

オカリナ:そんなはずないと思うなあ。あれほど伯母さんを愛してるんだから、伯父さんは。妄想まで見たりして。そんな男が、別の女に会いにいくはずないじゃない。なのに、まわりが、伯父さんは浮気してるのかもなんて思うのは、不自然。伯父さんのようすを見てれば、そんなことするわけないってわかるはず。人物像がくっきりしてるのに、これはちょっと残念だった。

ウォンバット:私は、伯父さんとお父さんって兄弟のはずなのに、よそよそしいのが気になった。年の離れた兄弟だったのかな。ネイト伯父って、ずいぶん年寄りっぽい感じだし。それに、伯父さんの家のしつらえが、現代とは思えなかったんだけど……。でも、田舎だからこれでいいの?

オカリナ:アメリカも、田舎では普通だよ、こういうの。たしかにずいぶん昔っぽい感じだけど、こんなふうにしてる人、今でもいっぱいいるんじゃない?

アサギ:アメリカって、都市と田舎のギャップが大きいから。ドイツやイタリアは、小さな都市国家が集まって、ひとつの国になったから、どんなに田舎に行ってもちゃんと「街」として、機能していたという歴史があるのね。だから、人口5000人くらいの、日本の感覚でいったら「村」って感じのところでも、誇りをもって「市」っていうのよ。その点、アメリカは、ちょっと違う。アメリカの田舎だったら、今でもこんな感じのところ、たくさんあると思うわ。映画でも、田舎を舞台にしてる作品には、こういう暮らし、出てくるでしょ。

ウォンバット:たしかに。

モモンガ:最初の場面、伯母さんの台所にかざってある壁かけが出てくるんだけど、私ははじめ、なんのことだかよくわからなかったの。「オーブンの上にかけられてる」って、火にかけられてるっていう意味かと思っちゃったのよ。しばらくしてから、ようやく「あっ、これはサンプラーか」と、気づいたんだけどね。

アサギ:なあに、サンプラーって?

オカリナ:刺繍の練習をするためのお手本のこと。ABCとか、お花の絵なんかが多いのよね。クロスステッチの練習とかさ。これは、絵と格言みたいなのがいっしょになったパターンね。私は、たまたますぐサンプラーだと思っちゃったから、引っかからなかったけど。

ウンポコ:そう? ぼくは、わからなかったなあ。じつは、それで挫折しそうになったの。でも、ちょっと辛抱したら、おもしろくなったからね。そんなに苦労せずに、最初のハードルは越えられた。

オカリナ:私が気になった、というか不自然だと思ったのは、次の3点なの。(1)ウンポコさんも言ってた、ジェイクの「まいった!」発言(いまいちしっくりこず)。(2)ネイト伯父の浮気疑惑(前出)。(3)ジェイクが、あれほど愛情を表現してるのに、まだ疑うジニー。

モモンガ:ジニーって、かわいくない子なのよね。

オカリナ:うん。ねじくれてる。

モモンガ:意固地なヤな子。それまで、さんざん痛い目にあってるからね。私は、ジニーのそういうところは理解できた。「おとなしい」っていうより、自分をもちすぎてて、理解してくれなくてもいいわって感じ。複雑だけど、ありがちよね。でも、このあとがきは、ちょっとこじつけじゃない? ジニーのおかれている状況は、今の日本の子どもたちにも通じるものがあるっていうところ。「めぐまれた環境ではあるけれども、さまざまなものが飽和状態に達していて、何をいおうと何をしようと、すでにだれかが口にし、やってしまったことばかり」といわれてもねぇ……。イマイチ無理がある。あと「トレイルは、ジニーが自分の存在を確かめるための手段」っていうのも……。

オカリナ:自分だけの何かが必要っていうことは、わかるけどね。

ウンポコ:訳も、ちょっと乱暴なところがあるよね。でも、それだけじゃないのかな。原書自体、もう少し整理したほうがよかったかも。

オカリナ:ネイト伯父の浮気疑惑のあたり、原文はどうなってるんだろう? あそこが、どうもひっかかるのよね。おさまりが、悪いんだな。ジグソーパズルのピースが、ぴたっとはまりきってない。

ウンポコ:あきっぽいぼくが、最後まで読めたのは、トレイルの魅力だと思うな。舞台セットがすてきだからね。

モモンガ:「道」って、なにか象徴的な意味があるんじゃないの?

オカリナ:『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)も、こんなふうにやってくれればよかったのにね。重層的な感じがなかったからね、あの作品は。

モモンガ:この作品は、小道具が活きてるわね。ひきだしとか、エプロンとか。

オカリナ:どきっとしちゃうよね。イメージがうかびあがってきて。メダルもね。

ウンポコ:うん、うまいよね。

モモンガ:ほんと。

ウンポコ:シャロン・クリーチは、これから注目の人だね。ストーリーテラーとして、なかなかスゴイぞ!

モモンガ:ぜんぜん退屈しないものね。1章が短いし。うまく緩急つけてる。

アサギ:それにしても、一人称小説って年々増えてるわね。全世界的に。「わたし」or「ぼく」が語る物語の増加率って、ものすごいパーセンテージだと思うわ。

すあま:世界的に、みんなジコチューの傾向にあるのかな。

ウンポコ:一人称のほうが、気持ちを主人公に重ねやすいんじゃない?

アサギ:技法としては、一人称のほうが楽よね。だって、自分の視界の範囲、今、主人公が見えてる範囲内で描写すればいいわけだから。

オカリナ:うーん。でも、一人称の小説は、わき役の人物像をうかびがらせるのが、むずかしいんじゃない? テクニックが必要だと思うなあ。

モモンガ:たしかにこの作品も、会話よりも、ジニーの言葉で書いてある地の文のほうが印象に残るわね。

オカリナ:どうかな。でも、それって翻訳の問題かもよ。日本の小説だって、そういうとこは、むずかしいと思うわ。訳といえば、「ネイト伯父」「ジェシー伯母」っていういい方、古くさくない? ちょっと気になったんだけど。

モモンガ:あ、私も感じた! それ。

アサギ:昔だったら、「○○伯父」「○○伯母」っていうの、よくあったけどね。

ウンポコ:でもさ、ジニーはおマセさんだよね。日本の13歳より、2〜3歳は年上の感じ。

アサギ:精神年齢がちがうからね。日本の子どもとは。

ウンポコ:「いつキスされてもいいように、くちびるをしめらせた」なんてとこを読むと、ドキッとしちゃうよ。

オカリナ:それってさ 、日本の子どもと比べてじゃなくて、ウンポコさんの若かったころとは違うってだけじゃないの?

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フィリップ・プルマン『神秘の短剣』

神秘の短剣

ウォンバット:今回、私はたいへん苦しい闘いでして。毎晩、おふとんの中で読もうとしたんだけど、もう眠れて眠れて……。結局p170で時間切れとなってしまいました。このシリーズの1巻目『黄金の羅針盤』(新潮社)も、以前この会でとりあげたけど、私はどうも好きになれなかったのね。寒々しくて。今回も、最初にウィルが人を殺してしまうでしょ。それで彼は、罪の意識にさいなまれるわけだけど、こんなに簡単に人が死ぬっていうのも、どうもなじめないのよねぇ。なんだか、全体におぞましい雰囲気だし。

オカリナ:私は、読むには読んだけど、ぐんぐん引き込まれたというより読書会のために最後まで読んだって感じ。読んでて、気持ちが引っぱられるということはなかった。『黄金の羅針盤』のときも思ったことだけど、頭には響くけど、心には響かないのかな。それで、どうもすわりが悪いというか、おちつきが悪いの。このシリーズは2冊読んでも、全体の構造がまだよくわからない。だから頭ではいろいろ考えるんだけどね。こんな、とてつもない話、この先どういうふうにまとめるつもりなんだろうね、なんていう興味はすごくある。

ひるね:アマゾン・コムに、Margot Liveseyという人が「プルマンをいいという友だちは、しつこくて雄弁だった」って、書いていたんだけど、なるほどと思ったわ。

一同:ふーん、なるほど!

モモンガ:私は、p98までしか読めなかった。『黄金の羅針盤』がとても気に入っていたから、これも楽しみにしてたんだけど、今回は時間がなかったの。ここはun poco読みか?! とも思ったんだけど、この作品はちゃんと味わいたかったから、いいかげんには読めなかった。今回は、世界が3つになるのよね。

ひるね:そうそう。現実世界、ライラたちの世界、ダイモンのいる世界の3つね。

ねむりねずみ:私は、1巻も2巻も原書で読んだのね。まず1巻を読んで、大きなショックをうけたの。うっわー、これはすごい!! って。それで、2巻が出版されたとき、うれしくって、大事に読もうと思ったのに、読みはじめたらおもしろくて、一晩で一気に読んじゃった。今回、翻訳を読んでみたけど、原書どおりのおもしろさだった。プルマンは、すごい世界を作ったわね! やっぱり「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 松岡祐子訳 静山社)とは、根本的に違う。この本は「ライラの冒険シリーズ」の2なんだけど、1巻めに完全におんぶにだっこというんじゃなくて、これはこれで、またすばらしい世界になってる。こうなってくると、3巻目は、もっとすばらしくなるか、おもいっきり破綻するか、のどっちかしかないでしょ。どうなっちゃうんだろうね。私は、1か所、泣けるところがあったの。それは、気球乗りのリー・スコーズビーが死ぬ
ところなんだけど。この物語の登場人物って、基本的にみんな強いでしょ。ライラもウィルも、ものすごく強い。それで唯一、弱いというか、ふつうの人であるリーさんは死んでしまう、と。登場人物があんまりにも強くて、日本人がふだんなじんでいる心象風景とは、ずいぶん違うでしょ。だから、日本の読者の中には、そういうところでなじめないというか、ついていけないって思っちゃう人もいるかもしれないね。登場する子どもたち、ライラにしてもウィルにしても、従来の子ども像とは全然違うのよ。1巻目で、ライラは、父にも母にも裏切られる。2巻目では、ウィルは子どもなのに、保護されるのではなく、逆に母を守らなくてはいけない保護者のような立場に立たされてる。ふたりとも“今”を反映した存在。それから、天使が善悪を越えた存在として登場するのも、オリジナリティがあるよね。

ウンポコ:ぼくは、p47まで。

ウォンバット:さすが、元祖ウンポコ!

ウンポコ:1巻目は読んでなくて、だいじょうぶかなと思いながら読みはじめたんだけど、やっぱりわかんないところがあってね。『黄金の羅針盤』を読んでないとだめなのか・・・と、ちょっと疎外された感じがして、落ちこんじゃったね。物語世界に惹きこまれていけば、すいすい読めるんだろうなーとは思うけどさ。1章は、おもしろかったんだよね。でも2章以降は、もうロッククライミング状態。

愁童:今回のテーマは、ぼくとひるねさんが決めたの。どうしてこれを選んだかというと、裕さんに言われたことが気になっててね。ぼくは、『黄金の羅針盤』を読んだとき「ハリー・ポッター」と同工異曲のご都合主義だと思っちゃったんだよね。ライラが窮地に陥ると、すぐだれかが助けてくれるだろ、というようなことを発言したら、裕さんに「プルマンの世界は、英国では非常に高く評価されてる。これが理解できないのはオカシイ!」というようなことを言われたんだな。そのときは、そんなこと言われてもという感じだったんだけど、どうも、その言葉がひっかかっててね。2巻目を読めば、プルマンの世界のすばらしさが理解できるかなと思ったんだ。そして、読んでみたわけだけど、おもしろかったな。「ハリ・ポタ」と違って独創性もあるし。天使にしても、キューピーみたいな顔をしていて羽がついててっていう既成のイメージとは全然違う、プルマン独自の新しいものになっていて、読み手の中にはっきりしたイメージを残してくれる。力のある頭のいい作家だよね。とてもよく練られていて、よくできてる。だけど、できすぎというのかな、スキがなくて、物語世界に没入できるような作家の体温みたいなものが、あまり感じられない。

モモンガ&ひるね:クールよねー。

ひるね:私は、おもしろくて好きでしたね、この作品。オリジナリティの魅力ね。天使にしても、剣にしても。だけど、こんなものすごい大風呂敷をひろげて、これから先、ストーリーテラーとして、どうまとめるのかしらね。登場人物にしてもなんにしても、ひとことでいえば「おもしろくて、わかりにくい」のよ。おもしろいのは原作のおかげ、わかりにくいのは翻訳のせいかな、と思った。だって、えーっと、ほらここ、p296の「塔の灰色の、胸壁の上には、死肉を食うハシボソガラスが旋回していた。ウィルは、なにが自分たちをそこへひきよせたのかを知って、吐き気をもよおした」っていうところ。読んでて、私は、何が自分たちをそこへ引き寄せたのか、全然わからなかったのね。雑な読み方をして、読み飛ばしてしまったかなと思ったの。これはウィルが指を切断したあとの場面なんだけど、よくよく考えてみたら、指から流れおちる血が、カラスを引き寄せたのかなと、思い当たってね。もしかしたら、これは3人称で書かれているから、themをカラスなのに自分たちと誤訳してこういうわかりにくいことになっちゃったのかもしれないと気づいた。これって編集者が気づかないとね。

オカリナ:これ、もったりした文章だけど、原文は、短く、切り付けるような、すぱすぱっとした文章なんじゃないの?

ひるね:アメリカの友人たちに聞いたら、この作品の文体を好きとか嫌いとかいった人はいたけど、難解だといった人はひとりもいなかった。だから、難解なのは、日本語の問題だと思うわ。

オカリナ:今までの冒険物って、仲間と力をあわせて進んでいくっていうパターンが多かったでしょ。その点、この作品は新しいと思うのね。ライラもウィルも孤独。ひとりでがんばってる。ふたりが協力するところも出てくるけど、一心同体の仲間というふうにはならなくて、お互いに完全に心を許しはいない。こういう世界を描くには、もっと簡潔な、きびきびした文章でないと、雰囲気があわないんじゃない? なんだか人物像がはっきりしなくて、感情移入しにくいのよね。

ひるね:私は、とくに会話が気になったわ。魔女の話し方もピンとこないし、リー・スコーズビーもグラマン博士もまったく同じ口調になってる。原書はどうなのかしら。

オカリナ:それにしても、いったい、どういうふうに終わらせるつもりなんだろうね。まるで見当がつかないわね。3巻目を読んでみないことには、わからない。

愁童:『黄金の羅針盤』で残された謎が、『神秘の短剣』でずいぶん解明された。そこんとこは評価したいね。それはいいんだけど、今回解明されたのと同じくらい2巻目自体の謎があるからなあ。

ねむりねずみ:明らかになった分を埋め合わせるように、また新たな謎が・・・。次の巻へもちこされる謎の数は、結局減ってない。私にとって、ライラはとても魅力的なキャラクターだった。この巻では、彼女の成長もみられるでしょ。わがまま者で、他人を思いやることなんて、『黄金の羅針盤』では皆無だったけど、『神秘の短剣』の途中から、ライラはウィルのことを思いやることができるようになる。それにしても、この話、弱い人はみんな死んじゃうんだよね。リー・スコーズビーも、恋をした魔女も。

ウンポコ:冷徹なのかな。

オカリナ:ウェットではないよ。

ウンポコ:この顔は、絶対ウェットではないね。(後袖のプルマンの顔写真をみて、うなずく)

ひるね:プルマンは、お父さんが軍人だったから、小さい頃から引っ越しが多くて、いろんな国での生活を体験しながら大きくなったのよ。そんな体験が、彼を「ひとりで生きる」ってタイプの人にしたんじゃない?

ウンポコ:この本、子ども向けではないよね。

ひるね:読者として子どもを意識してるのなら、子ども向けの翻訳者を選ぶはず。だから、子ども向けには作ってないわね。子ども向けと限定しないで、大人にも読めるような本にするのはいいことのように思うかもしれないけれど、外国で子ども向けに出版された本を出すのなら、まず第一に子どもが読めるような本作りをして、子どもの手に渡してもらいたいと私は思うの。エミリー・ロッダの『ローワンと魔法の地図』や、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 掛川恭子訳 講談社)が大人の本棚に並んでいるのはとてもうれしいことだけれど、もともと子どもに向けて書かれた本が書店の子どもの本の本棚にないのは悲しい。本というのはお金を出して版権を買った出版社だけのものではなくて、ある意味でみんなの財産なんじゃないかな

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エミリー・ロッダ『ローワンと魔法の地図』さくまゆみこ訳

ローワンと魔法の地図

愁童:これはすごい。発売たちまち4刷! 売れてるんだねー。シンプル・イズ・ベストって感じ。安心して読めた。古典的ファンタジーの定石なんだけど、ゲーム的な要素も入ってる。あとがきを読むと、ジェンダーのこととか、ちょっと難しいことが書いてあるから混乱してしまうけど、強いといわれていた者たちがつぎつぎに脱落して、最後には弱者が使命をやりとげるというのは、おもしろかった。「ハリ・ポタ」やプルマンの理屈っぽい世界に比べると、この作品は、読みながら心の中で遊べる楽しさがある。ファンタジーのよさを再認識したね。

ウンポコ:ぼくも、おもしろかった。すらすら読めて、うれしかったよ。難をあげるなら、登場人物の姿がくっきり浮かんでこないってことくらいかな。ローワン、ストロング・ジョン、アランはOKだけど、その他の人は、男か女かもわかりにくい。ちょっとぼやっとしたところがあった。最初に登場人物の紹介でもついていたら、読書力のないぼくでも、わかったかもしれないけどさ。ちょっと難しいよ。と思っていたら、訳者あとがきに「男女差のない世界を描いている」とあった。ぼくは、そこまでは気づかなかったな。

ねむりねずみ:この本、装丁がいいわよねー。でも、私は基本的に理屈っぽいほうが好きなのかな。ローワンは臆病なんだけど、いい子でしょ。ちゃんと最後までやりとげるし。どこか、悪い子の部分もほしかったと思っちゃうのよね。憎らしくったって、私にはライラのほうが魅力的に見える。ローワンも、もうちょっと悪い子すればいいのに。2巻3巻では、やってくれるのかな? ジェンダーに関しては、ふたごのヴァルとエリスの性別がわからなかったから、気になった。

モモンガ:同感! 私も男か女かわかりにくいと思った。名前も、日本人の名前だったら、性別も、なんとなくわかるけど、ここに出てくるのは、ちょっとわからないものね。日本語は、英語みたいにheとかsheとか出てくるわけじゃないし。実際、双子はヴァルが女でエリスが男なんだけど、エリスのほうが、女の子の名前のような感じもするでしょ。

ねむりねずみ:最後のところ、p211の「ローワンの胸の中にあった古いしこり」って、ちょっとピンとこなかったんだけど……。

オカリナ:父が死んだのは自分のせいだっていう負い目と、母に臆病でひよわだと思われてるってということを言ってるんじゃない?

ねむりねずみ:そっか。あと、p188のローワンがジョンを気づかう場面。ローワンは、旅のはじめのほうでジョンが声をかけてくれたときのことを思い出してるんだけど、私はそこの場面とうまくジョイントしなかった。

モモンガ:謎ときに夢中になっちゃうわよね。ドラクエの世界。謎の詞にあてはめながら、最後まで読める。あの詞のページを、何度もぱらぱらめくったりして。この物語のおもしろさは、弱い子が主人公ってことだと思う。ローワンは弱虫だし、腕じまんの厳選メンバーの中に、ひとりだけ紛れこんだ子どもだけど、子どもならではの動物との交流とか、子どもにしか見つけられないこととか、ローワンだからこそできるっていうことが、ストーリーにうまくいかされてる。この子が最後に残るってことは、はじめからわかっちゃうのはいいんだけど、そこにもうひとつ、インパクトがほしかったな。ローワンは、妙に大人っぽくなっちゃうでしょ。みんなが眠っているところを見て、いとおしく思うところとか、やるのは自分しかいない! って決意したりするところなんか。そうじゃなくて、子どもっぽいままで、大人だったらできないけど、子どもだからこそできたってなったら、子ども読者はもっと喜ぶと思うのよ。

愁童:竜ののどにささったとげをとるところなんて、うまいと思ったけどな。

モモンガ:うーん。でも、いくらバクシャーのとげをとったことがあるにしても、おんなじようにはいかないんじゃない? だって、この絵(p196〜197)見て! すごい迫力! こんな、ものすごい竜のとげを、よくとったわね。

ひるね:けんかの弱い子とか、いじめられっ子って、犬とかウサギとかを愛でたりするでしょ。だからローワンも、痛がっている竜をかわいそうと思ったんじゃない?

ウォンバット:私は、それよりも使命感だと思ったな。ローワンはバクシャーを大切に思っていて、その心の交流には胸が熱くなるものがあるんだけど、その愛するバクシャーや村の人を救えるのは、今や自分しかいないんだ、やらねばっ!! ていう使命感。

ひるね:無意識でも、読者には期待があるのよね。登場する子どもに対して。あんまり優等生なのはイヤとか、やんちゃであってほしいとか、よくある子ども像からはずれると、物語に添っていけないようなところってあると思う。前に手がけた本で、風邪をひいた動物の子が悪夢をみるっていう本があってね。それに対して「子どもは、風邪をひいたくらいで悪夢なんてみません。子どもはもっと強いものです」って書いた書評があってびっくりしたことがあったわ。私は、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったけど。

モモンガ:私も、弱者が主人公というのは、おもしろいと思ったわ。

オカリナ:これは、ファンタジーとしての価値を論じるような作品ではなくて、エンタテイメントの楽しさがウリの本だと思うのよね。物語世界の厚みとかプロットの独自性を期待するんじゃなくて・・・。どこかで見たり聞いたりするようなプロットが使ってあるんだけど、それを組み合わせて、これだけ短くてこれだけおもしろい物語をつくりあげたっていうのが、すごいことじゃない? ファンタジーの名作とは比べられないけど、日本では「ハリー・ポッター」がああいう残念な形で世に出てしまったこともあるし、こういう本にがんばってもらいたい。本が嫌いな子でも楽しく読める要素があると思うの。

ねむりねずみ:ロールプレイニングっぽいよね。これだったら、ゲーム感覚で楽しめて、ふだんあんまり本を読まない人でも、親近感をもてるんじゃないかな。

ウンポコ:逆に、つぎつぎ襲いかかる苦難もクリアするだろうって、わかっちゃうから、大人は、物足りなさを感じたりもするんだがね。でも、子どもはわくわくするだろうね。爽快な感じで。文学へのとっかかりとしてはイイと思うな。

オカリナ:ジェンダーの問題だけど、まず私は、ランが男だと思っちゃったのね。「昔は偉大な戦士だった」というからには、男かな? と。でも、リンの村では「戦士=男」ではないの。ランも、実は老女。職業にしても、男だから女だからということに関係なく、それぞれの適性にあったことを仕事にしている。ふつうのエンターテイメントって、既成の男性像、女性像によりかかってるのが多いでしょ。その点、この作品は新しいと思うのよ。ひと味ちがう。

ひるね:私は、M駅前の児童書に力を入れてる書店でこの本を見て、涙が出るほど感激したのね。この、本づくりのすばらしさに。表紙、別丁の扉、紙の色、書体の選び方……すべてに神経がいきとどいてる。「ハリー・ポッター」とは、なんたる違い!

ウンポコ&モモンガ:感じのいい本だよねー!

愁童:ファンタジーって感じだよな。

モモンガ:表4なんかも、とってもいい雰囲気。佐竹さんの絵がいいのよ。

ウンポコ:このごろ、佐竹さん、大活躍だな。『魔女の宅急便3 キキともうひとりの魔女』(角野栄子著 福音館書店)の絵も、そうだよね。

オカリナ:えっ、3って、もう出たの?

ウンポコ:出たばかりだよ、今月(10月)かな。「魔女の宅急便」は、3作すべて絵描きさんが違うから、(『魔女の宅急便』林明子絵、1985、『魔女の宅急便2 キキと新しい魔法』広野多珂子絵、1993、すべて文は角野栄子、福音館書店)本としては不幸だけど、それぞれイメージは変わってないし、なかなかいいよね。

ひるね:今、大人の本の会社が子どもの本も手がけるようになってきてるでしょ。「ハリー・ポッター」にしても、プルマンにしても。あと、9月に、東京創元社から出版された『肩胛骨は翼のなごり』(デイヴィッド・アーモンド著 山田順子訳)も、原書は児童書でしょ。それはそれで、よいものができあがれば何も問題ないけれど、残念なことに粗悪品も出回ってる。日本の翻訳児童書の装丁って、世界を見回してもとてもレベルが高いと思うの。外国の原作者に日本語版をみせると、いろんな国で翻訳出版されているけど、日本語版がいちばんいいって、みんな言うのよ。本の作り方が、日本ほどすばらしいところはないって。それは、児童書の編集者たちが、長い時間かけてつくりあげてきた文化だと思う。センダックも子ども時代をふりかえって、「本をもらったら、なでて、においをかいで、少しかじってみた」って言ってるけど、やっぱり子どもにとって、本って、特別なものだと思うのね。大人向けの本のノウハウしかない会社が児童書をつくるのは、ちょっと難しいんじゃないかしら。『神秘の短剣』と『ローワン』を比べてみても、違いは明らか。「ライラの冒険シリーズ」も『ローワン』と同じように、大人向けのコーナーと子ども向けコーナーと、両方に並ぶようになるといいのにね。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


富安陽子『空へつづく神話』

空へつづく神話

オカリナ:この本、ここに到着する1時間まえに読み終わったんだけど、なんか、ジグソーパズルのピースがぴったりはまらないって感じなのよね。その土地その土地に伝わる神話を、子どもたちに身近なものにしたいという意図はとてもいいと思ったんだけど・・・。ヒゲさんって神様なのに、神様らしいことをするのって、お姉さんをカエルに変えるのと、空を飛ぶことくらいでしょ。ま、それは記憶喪失だから、しょうがないとして。でも、最後も不満だった。とってつけたみたいなんだもの。理子とヒゲさんの関係の変化も、はじめはけんかしてたのが、だんだん仲良くなって、最後は「行かないで!」ってなるんだけど、その過程がちゃんと描けてないから、「行かないで」が、しっくりこないんだなぁ。全体に、リアリティが感じられなかった。たとえば、最初のほうで、理子が連絡帳で男の子のお尻をたたいたら、女の子たちが「乱暴ねえ」とか「けがさせたんじゃないの」とか、ひそひそ陰口をたたいたり、先生におこられたりっていう場面があるんだけど、ちょっとノートでお尻をたたいたくらいで、そんな展開にならないでしょ、ふつう。このくらいの年の子が、学校でどんなふうにしてるか、具体的に見てから書いたほうがいいんじゃない? 図書館でヘビになったヒゲさんを、後ろのおばさんが見て騒いで、他の人たちに追いかけられる……っていう場面も、現実にはこんなふうにはならないでしょ。ひまわりの花が強風で頭だけ落ちるってことも、ないと思うんだけどな。ひまわりは花がポタッと落ちるんじゃなくて、茎がくたっと折れるんじゃないかな。こまごましたことだけど、そういうことがしっかりしてないと、リアリティはわいてこないな。とびとびの時間で読んだせいかもしれないけど、そんなことがいろいろ気になっちゃった。

ウォンバット:んー、オカリナさんの意見に同感だな。紙の上の世界でしかないって感じ。理子がどういう子なのか、伝わってこない。キャラクターも不明だし、神様がやってくるのもトートツ。最初の場面で、理子が不機嫌だっていうのは、わかるんだけど、前の日に服を買ってもらえなかったくらいで、これほど神をうらんだりするかしら。

ひるね:くだらないと思っちゃう。

ウォンバット:おさがりって、たしかに兄弟姉妹の間で波紋を巻き起こすものだから、ぱっと使ったんだろうけど、思いつきの枠を出てないと思う。

ひるね:使いふるされてるエピソード。

ウォンバット:おさがりが嫌でさわぐのって、もっと小さい頃じゃない? だいたい小学校6年生にもなれば、12年近くも次女をやってるわけだから、次女としての自分の運命を受け入れてるはずだと、次女の私は力説したい。次女ならではのおトクなことだって、いっぱいあるでしょ。おさがりだって、すてきな洋服のときはうれしいし、おさがりがあるぶん、服をたくさんもってるってことだってあるし。6年生だったら、もうそういうことがわかってる年だと思うなぁ。だいたいおさがりなんて、しょっちゅうあることのはずなのに、こんなに、神をうらむほど思いつめるなんてねぇ。「おさがりの服=がっくり」ってたしかに黄金の定理だけど、こんなふうに使うのは感心しない。短絡的だと思う。

モモンガ:着想はおもしろいと思うのよ。会話もうまい。「ツルだってカメだって、恩返しするんだから、神様にも恩返しくらいできるはずよ」とか、くだらない会話がおもしろくて笑っちゃった。でもね、私は、最後、ふたりが飛ぶのが不満なの! 子どもって、自分と同じふつうの子が、不思議を体験するっていうのが好きなのね。こういう物語は、そこが醍醐味なのよ。読んでる子は、理子にも、自分と同じ能力のままで不思議を体験してほしいの。だからヒゲさんは飛んでもいいんだけど、理子は飛んじゃだめなの。ヒゲさんも、こんなりっぱな風体なのに、大したことしないのよね。たぶん作者も、イメージがちゃんとかたまってなかったんじゃないかしら。思いつきっていわれても、しかたないかも。

ねむりねずみ:絵のタッチが似てるせいかな、宮崎駿を連想しちゃった。意図は全部いいんだけど、意図が見えちゃう場合は、物語として成功してないよ。最後も、とつぜん二面性が出てきちゃうのは、いかんぞっ! あと、ちょっと気になってるのは、ヒゲさんの口調なんだけど、昔の人なんだから、もっと古いしゃべり方のはずじゃない? 現代の子どもと、意思の疎通がすっとできるっていうのは・・・。

モモンガ:いきなり現代っ子と、こんなおもしろい会話をしちゃうのは不自然だよね。話がかみ合わなくて困ったりすれば、ストーリーとしても説得力があったのに。

ウンポコ:好きな作家なんだけど、この作品はなんだかチャチになっちゃってる。ほんとは、もっと神秘的なものを描く力のある作家だと思うんだよ。ちょっと、この作品はうまくいってない。宮沢賢治の世界をとりこむことのできる、数少ない作家のひとりなんだけどね。編集者としては、クスサンのもようを、見返しあたりにぜひ入れたいとこだな。道具立てはかなりいいのに、ほんと残念。

ひるね:道具立ては、いいのよ!

オカリナ:アイディアをいかして、ちゃんと世界を構築すれば、いいものが書ける人なのにね。編集の人がもっと作家に迫ってやりとりすれば、もっとおもしろくなったんじゃないかな。

愁童:この作品、最初に読んだどきはおもしろいと思ったんだよ。でも、この会のために、どんなストーリーか思い出そうとしたら、ぜんぜん思い出せなかったんだ。まえに、ねねこさんが「みなさん、日本のものに厳しすぎる」っていってたのが頭に残ってて、一生懸命好意的に、前向きに読んだつもりなんだけど。この作品には、郷土史を発掘するという知的なおもしろさがある。でも、その線を押すなら、たかがおさがりの洋服ぐらいで神に見放されたなんてところから始めてほしくなかったな。神様に出会うのは、学校の図書室なんだけど、描写を読むと図書室ではなくて、図書館のイメージなんだよな。どうも、ぴったりこない。どこかツメがあまい。表現も「とげとげした顔」なんて個性的でおもしろいかなと思う反面、ひょっとしたら誤植かな、なんて思わせるようなワキのあまさを感じちゃう。いい素材を使ってるのに、もったいないな。もっと発酵させる必要があったんじゃないかな。

ひるね:日本の創作に対しては、あまりある愛があるために、ついついけなしてしまうのよ、私。褒めた記憶ってないから、これからは気をつけよっと。でも、これも愛するがゆえなのよ。よろしくね、みなさん。さて、この作品は、郷土に根ざしてるというところは、いいと思うのよ。疑似英国ファンタジーとは、ひと味違う。しかしね・・・。唯一おもしろいと思ったのは、カエルになったお姉ちゃんのエピソードくらいだったの。そもそも、なぜ神様が、理子のまえにあらわれたのか、わからない。風土記の著者の桐山好久の曾孫、中央図書館の館長、桐山克久が登場したときもこいつが悪者か?! と思ったけど、ただの好好爺だったでしょ。拍子抜け。神様もボケてるときはいいけど、たまにまともになったときに、とつぜん破壊する心と、育む心をもってるなんて、自分で言うけど、そういうことが伝わってこないの。こないだも、たいへんな水害があったでしょ。なのに、こういう展開って、ちょっとノーテンキすぎるわよね。こんなこというと生真面目すぎると言われるかもしれないけど、大人より子どものほうが、こういうことって敏感だと思う。この作品のように、日本の風土に根ざしたものが、もっと出てきてほしいから、がんばってほしい。応援してるわよ。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


坂東真砂子『クリーニング屋のお月さま』

クリーニング屋のお月さま

愁童:短い作品だけど、おもしろかった。坂東さんは、非常識を自信をもって書いてる。読者を惹きこむよね。とんちんかんなイメージに読者をひきずりこむ力がすごい。お話としてはナンセンスで、まぁ、どってことないんだよ。でもそれが、逡巡なしにぽーんと出てくるから、なんなんだ?! と思うけど、これだけ自信をもって書かれちゃうと、読んでるほうが「スイマセン!」っていっちゃうね。有無をいわさない迫力がある。ものすごい力強さ。

ウンポコ:坂東さんは、寺村輝夫さんの弟子なんだけど、それを背景に感じてしまった。寺村さんの幼年童話のおもしろさを、ぴたっと受け継いでるね。それは、木にたとえれば、枝も葉もなく、幹だけで進んでいくっていう感じ。この作品も、寺村さんがいちばん喜びそうなパターン。本づくりも、うまくいってるね。ぼくも、32Qの文字の本ずいぶん作ったから、思い入れのある分野なんだよ。こういうタイプの本がではじめた1968〜1969年頃には、非難ゴウゴウだったんだ。サイコロ本なんていわれてさ。

ひるね:えっ? サイコロ?

ウンポコ:ほら、文字が大きくて、サイコロみたいだって。文字が少なくても、話が通じるようなすばやい話の展開が必要なんだ。その点この作品は、この造本にぴったりの、スピーディな展開になってる。でも、タイトルは、あれっ? と思った。だって、お月さまはクリーニング屋に行くわけだろ。ちょっと合わないんじゃない? このタイトルは。

ねむりねずみ:おもしろくて、けらけら笑っちゃった。迫力あるナンセンス。絵もあってるよね。このヘンテコな感じに。こういうもの、あんまり読んだことがなかったから、もっと読んでみたいと思ったわ。

モモンガ:今回は時間がなくて、とてもこの本までは読めないわと思ってたけど、思いがけず、幼年童話でよかった。すぐ読めた。こういう話、好き。おもしろかった。「なんで?」とか、言っちゃいけない世界なのよね。そこがおもしろい。こういうことって、タツオくらいの年齢の子どもが、いちばんよくわかるんじゃないかしら。とくにおもしろかったのは、「お月さまは、ごろりとカウンターに体をくっつけていった。『夜までに、いそいでおねがいしたいの』」っていうとこ。 このクリーニング屋、カネダ・ドライっていう、おかしな名前のお店なんだけど、この名前のおかしさが活きてないと思った。月にもどったお月さまに「カネダ・ドライ」って文字がすけてみえるとか、そういうオチを期待していたんだけど。それとか、自動販売機を食べちゃったお月さまは、空の上で煙草吸ってるとかね。

一同:わっはっは(笑)

モモンガ:でも、全体としては、とても楽しく読みました。

オカリナ:さーっと読んで、ああおもしろい、はいっOK! って感じだった。ナンセンスでこれだけおもしろいものを書けるんだから、重厚なおどろおどろしい大人ものばかりじゃなくて、こういう作品も、もっと書いてほしいな。

ウンポコ:でも、今、幼年童話って、売れないんだよな。ひところにくらべて、売り上げは、がっくりなの。

ウォンバット:おもしろかったけど、言うことがみつからないなあ。読んで「あ、そう」って感じ。ナンセンスって、うまくいってない作品だと、「あ、そう」とはならないのよ。つっこみどころばっかりみたいになっちゃって。その点、この作品はそうはなってないから、とてもうまくいってるんだと思う。絵も、いいよね。お話にあってる。私がとくに好きだったのはp21の絵。

ひるね:私も、気にいったわ。子どもが読んだら、コワイと思うところも、あるんじゃないかしら。子どもにすりよってないところがイイ。モモンガさんとは反対の感想なんだけど、サービス精神のなさが気にいったの! これは、1987年の作品だから、ちょっと前のものだけど、今もとても人気があるのよ。家の近所の図書館でもよく読まれてる。その図書館は旧式だから、スタンプをみれば、何人読んでるかわかっちゃうの。幼年童話って、他のものとは全然違うジャンルなのよね。そして、絵本と物語の橋渡しとなる、とても大事な分野だと思う。基本的にアイディアの勝負なの。SFとか、ショートショートみたいな部分がある。書くほうにとっても、おもしろい分野だと思うわ。幼年童話って外国にもあるの?

オカリナ:あるんじゃない。I Can Read Booksとか、あるものね。

ウンポコ:擬音語・擬態語って作者のセンスがあらわれるとこだよね。とくに擬態語は造語できるしね。クリーニングがすんだお月さまが出てくるところ、「なかから、へにょり」ってなってるんだけど、うまい! と思った。オリジナリティがあるし、よく感じも出てる。手垢のついたような擬態語を平気で使うような作家もいるけどさ、困るんだよね。そういうの。寺村さんは、そのへん、ものすごく神経を使って、よく考える作家だから、その教えをしっかり受けついでるなーと思った。

モモンガ:ちょっとブラック入ってるよね。子どもってくそまじめだから、このブラックはわからないかも。最後、1000円返してもらえなかったことを、気に病んじゃう子もいそう。これ、そうとう自信もって書いてるでしょ。だから、惹きこまれちゃうのよね。これが、もし陳腐だったら、破綻してるね。

愁童:読むほうは、さらさらっと読んじゃうけど、作者はとてもよく考えてると思うんだよ。クリーニング屋のおやじも、いい味出してるよなあ。ふつう、お月さまが来店したら、うろたえそうなもんだけど、平然と「いらっしゃい」なんていってる。子どもにすりよらず、自信をもって書いてると思うね、ぼくも。作品としては、1000円返さないとこがいい。

ひるね:そこは、議論になるところよね。1000円って、子どもにとっては、たいへんなお金だし。ファンタジーって、どこか不思議な場所に行って、もどってきたらマツボックリを手にもってたとか、おみやげをもって帰ることが多いけど、これは、その逆パターンかもね。もって帰るんじゃなくて、もってかれちゃうの。

ウンポコ:お月さまが、「おまえを食べちゃうぞ」っていうのもおもしろいよな。

ひるね:シュールよねぇ。でも、子どもの中には、「これは嘘だよね。お話なんだよね」っていう子もいるでしょ。そういう子には、なんて説明するの?

ウンポコ:ナンセンスは、企画を通すのがたいへんなんだよ。えらい人のなかには、ナンセンスを解さない人もいるからね。こういうのって、感想文が書きにくい本だしね。

ひるね:1000円返してほしかったでーす、とか?

ウンポコ:お月さまが、悪いと思いまーす、とかさ。だから、読書感想文の課題図書には、入りにくいんだよなぁ。こういう作品は。

(2000年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


エルス・ペルフロム『第八森の子どもたち』

第八森の子どもたち

:私は、期待が大きかっただけに、ちょっと残念だった。厚さ2.8センチ、総ページ数 424ページものボリュームなんだけど、こんなにたくさんの文字が必要な内容かしら? というのは、私、アウシュビッツに行ったことがあるんだけど、そのときものすごいショックを受けたのね。もちろん、訪れる前から大虐殺のことは、知識として知ってた。人体から作ったせっけんとかね、残酷なことはいろいろ知ってたつもりだった。だけど、実際にその場所に立ってみて、ここで人間が3年間暮らしていたという営みを見せられたとき、それまで知っていると思ってた「ホロコースト」との間に、ものすごいギャップを感じて愕然としたのね。そして、この隔たりを埋められるものはなんだろうって考えたとき、「それができるのが、文学だ!」と思ったの。人間の営み、その瑣末な日常と、大きな歴史のうねりとを重ねあわせること。それこそが、戦争を題材とした文学に求められているものじゃないかと思うのね。その点、この作品はシチュエーションはきちんと設定されているんだけど、その先の、大きなところまで結びついてないでしょ。そこがちょっと不満。11歳の女の子ノーチェの視点で人間の営みを地道に追っていくという、作者の一貫した姿勢には好感をもったんだけど……。
ドイツ兵にしても、「ドイツ兵=下品で野蛮」というふうに描かれているけど、本当はそればかりじゃなかったと思うのね。ドイツ兵の中にもいい人、悪い人がいたはずだから。「これは自伝ではなくフィクションです」とペルフロムは言ってるって、訳者あとがきにも書いてあるけど、成長した大人が子ども時代を振り返って書いているわけだから、ドイツ兵をステレオタイプに片づけてしまうのは、まずいんじゃないかしら。あと、訳について、ひとこと。野坂さん、だいぶうまくなってると思うけど、ところどころひっかかるところがあった。たとえば「おねえちゃん」。「おねえちゃん」というからには、ノーチェより年上なのかと思わなかった? 本当は7歳だから、ノーチェより「おねえちゃん」のほうが年下なのよね。もともとクラップヘクの人間関係は、ちょっとややこしいんだけど、よけいに混乱しちゃった。それから私には、子どものいきいきとした感覚がいまひとつ感じられなかったな。オビによると、松岡享子さんは絶賛してるんだけど……。

愁童:ちょっと前に、自分の学童疎開体験を話してくれって、近所の中学校に頼まれて、しゃべったことがあるんだけど、その時、当時の小学校があった区役所編纂の「集団疎開児童だった区民の座談会」みたいな資料を読んだら、「集団疎開には林間学校みたいな、うきうきした感じもあった」なんて、なつかしがっている人も多くてさ。そういう感覚と同じようなものを、この作品に感じたね。ペルフロムもあとがきで、村をなつかしがってる。「疎開=悲惨」みたいな図式ってあるけど、確かに当時を生き延びた人にとっては悲惨=100%じゃない面はあって、だから生きてこられたんだと思うけど、作品として子どもたちに伝える場合、こういう視点からっていうのはヤバイんじゃないかな。この作品、いろんな出来事に対する作者の痛みが感じられない。例えば隠れていたユダヤ人一家がいなくなったときも、出来事としてさっと流れていくだけで、主人公の衝撃みたいなものは伝わってこないよね。

モモンガ:心の痛みは、ぜんぜん伝わってこないよね。「おねえちゃん」が死んだところも・・・。

ひるね:p404で、おばさんたちが「あの子は、死んでよかったのかもしれないよ」ってしゃべってるのを、ノーチェが立ち聞きしてしまう場面。なんだかのんきな感じになっちゃてる。もう少し配慮があるとよかったのに。

愁童:こんなことじゃ、「民族と戦争」について考えるのはちょっと難しいね。

ねむりねずみ:いろいろとおもしろい話は出てくるんだけど、さてそれから・・・って思ったところでぷちっと切られちゃう感じがして、私もちょっと物足りなかったな。まあ、子どもの視点で描いているからと言われれば、なるほどと思わなくもないけれど・・・。たとえば、掃除したばかりの廊下を汚されたくないウォルトハウス夫人が、ノーチェに「出ていっておくれ!」っていうのと、ユダヤ人のメイアー一家が連れ去られたことが、同じ重さで描かれちゃってるでしょ。これはちょっと問題だと思うなあ。たしかに子どもの感覚っていうのは、そういうところがあるかもしれない。子どもの頃って、台風が来てもイベントのひとつのように思って、わくわくしたりしなかった? 事態の全体像をつかんでないから、そのときどきの珍しいことを楽しめちゃう。そういう感覚はたしかにあるだろうけど、でも、それだけじゃね・・・。どーんと胸に迫るもののある作品とは、受けとれなかった。こういう状況の中、子どもがどう生きていたかということを描くには、成功していると思うけど、そのもう一歩先まで描いてほしかったな。

オカリナ:主人公ノーチェは11歳でしょ。大状況と日々の自分のことに対する感覚の間に差があるかもしれないけど、11歳だったらこんなもんじゃないかと思うな。「子どもの視点で描いた」というのなら、これはこれでいいんじゃない? 私が興味深いと思ったのは、オランダという場所。1944年のオランダでも、田舎にいけばこういう暮らしがあったのよね。そして戦禍の中でも、こういう遊びをする子どもたちがいた、と。それはいいんだけど、いかんせん長すぎる! 今の子どもたちに読んでもらうためには、もっと刈りこんでもよかったかもしれない。坦々と進む叙述は、読書力のない子だと、ただだらだらしてるっていうふうに思われちゃうんじゃないかな。あとタイトルなんだけど、「第八森」ってなんだろうと興味しんしんだったのに、ただ詩があって、ユダヤ人がかくれててっていうだけだったから、拍子ぬけしちゃった。

モモンガ:それに『(第八森の)子どもたち』っていうわりには、「たち」というほど子どももたくさん出てこない。

ひるね:イギリス版のタイトルは『時が凍りついた冬』。そのほうが、ストーリーにはあってるかも。

:たぶんこれは、さんざん悩んだ末、解釈を加えないほうがいいんじゃないかということで、原題をそのまま日本語にしたんじゃないかしら。

オカリナ:色とか匂いとか、五感をフルに活用して書いてるのは、おもしろいなと思ったけど、「民族」「戦争」という視点から見ると、ちょっと不満がある。なんだかいい人ばっかり出てくるでしょ。全体に明るく、太陽的。そして「そこに立ちはだかる悪」=「ドイツ兵」という図式。ドイツ兵は、「劣っているもの」として描かれてる。作者は、子どものときそう思っていたかもしれないけど、この作品は大人になってから書いたものなんだから、そのへん、もうちょっとなんとかすればよかったのに。そうしたら、陰影も生まれて、長所がもっと引き立ったんじゃない?

:人間洞察に、深みが足りない。もう少し工夫すれば、この裏に大きい歴史のうねりがあるということを知るための、大事な入り口になる可能性はあったのに。

モモンガ:歴史を知ってる大人が読めばわかるけど、子どもにはわからないものね。

ウォンバット:私は今回のテーマ「民族と戦争」というのは全然意識しないで読んだんだけど、おもしろかった。というか、意識しなかったから、おもしろかったのかも。ノーチェたちの暮らしぶりもおもしろかったし、「ああヨーロッパなんだなあ」と思ったの。オランダ語とドイツ語って似てるんでしょ?

オカリナ:んー、ドイツ語と英語の間みたいな感じかな。

ウォンバット:ノーチェのお父さんはドイツ語がよくわかるし、クラップヘクの人たちも、なんとなくだったらドイツ兵の言うことがわかる。やっぱり陸つづきだから、距離的に近いっていうだけじゃなく、言葉もよく似てるのね。そういう土台の上で起こった戦争だったってことが、よくわかった。

モモンガ:私はこの本、とっても読みにくくて。なかなか物語世界に入っていけなかった。なんでだろと思って考えてみたんだけど、これは小さい子向けの文体でしょ。私は、書評や表紙の雰囲気から、なんだか先入観があって、もっと大きい子向け、高学年向けの重いものなのかと思ってたのね。そうじゃなくて、小さい子の視点に徹してるんだということがわかってからは楽しめたけど、そこまでちょっと時間がかかっちゃった。小さい子って、大きいことにはこだわらず、小さな喜びをみつけていくのよね。でもねー、小学校低学年の子がこの本を読むかなと思うと、「おもしろそう」って自分から手をのばしてこの本を読む子は、少ないだろうと思うな。もうちょっと文章を少なくして、読者の対象年齢もあげて、中学年向けにしたほうがよかったんじゃないかしら。

ウンポコ:ウンポコは、いつものようにun pocoしか読めなかった。読みたいという気にならなかったんだよね。ペルフロム自身は「この作品は自伝ではなくフィクションだ」と言ってるって、訳者あとがきでわざわざことわってるけど、物語性がないでしょ。p100に到達する前にダウンしちゃったね。もう、苦労して読むのはやめようと思って、やめちゃった。訳文は読みやすかったんだけどね。ぼくは気にいった作品は、声に出して読んでみるの。そうするとまたよくわかるんだけど、この訳文は、ぼくと呼吸がぴったりあった。この訳者、いい人! と思ったね。

モモンガ:わかりやすい訳よね。

ウンポコ:時間があれば、もう少し読めたんだけど……。でも、ウンポコだから、un poco読みさ!

ひるね:私は、ひるね読みで 270ページ。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』のシリーズのオランダ版と思って読んだら、おもしろかった。

オカリナ:たしかに似てる部分はあるけど、『大草原の小さな家』は、もっとストーリーに盛り上がりがある。この作品も、フィクションなんだから、もっと起伏をつければよかったのに。

ひるね:そうね。それに、はじめ、人間関係がわかりにくかったの。最初、ノーチェとエバートが橇遊びをするシーンではじまるんだけど、それがけっこう長いでしょ。こういう形で入ったら、小さい読者にはわからないんじゃないかしら。それと、翻訳によくあることなんだけど、ノーチェの視点で語られていたものが、突然別の人の視点に変わったりするでしょ。結核のテオとかね。視点が、大人の男の人のものに移ってるのに、口調がノーチェのまま、11歳の女の子のままになっているのは、違和感があった。「ですます調」も難しいわね。ノーチェが主人公だから、こういう語り口にしたのかな。読者対象も原書にあわせたんだと思うけど、日本向けには、オランダよりもう少し対象年齢をあげて、てきぱきと訳したほうが、おもしろかったんじゃないかしら。あと、自分の経験した戦争を描こうとするとき、「なつかしさ」というのも、曲者だと思う。最後の場面、クラップヘクを離れてアムステルダムにいったノーチェが、クラップヘクでのことを「すばらしい生活だった」というふうに、回顧してるんだけど、それもちょっと問題よねぇ・・・。たしかに、なつかしさというのはあるんだろうけど、こうはっきり言ってしまうのは、どうなんだろう。アミットの『心の国境をこえて』と比べてみると、実際ナディアよりノーチェのほうが、ずっと緊迫感のある暮らしをしてるはずなのに、全然そんな感じじゃない。書き方によって、こうも変わってくるものかというのが、よくわかった例。ノーチェは11歳ということなんだけど、もっと幼い子のような感じだし。

モモンガ:ノーチェの台詞、ちょっと子どもっぽすぎるよね。

ウンポコ:やさしく書いてあって、ぼくは好感がもてたけどな。

ひるね:訳者あとがきによると、翻訳期間約5年っていうことだけど、編集者がずいぶん手をいれて、時間がかかったのかしら。「ですます調」より、「〜だ調」だったら、もっとよかったかも。

モモンガ:もっとしまったかもね。

オカリナ:この半分のボリュームだったら、よかったんじゃないの?

ウンポコ:翻訳する人はさ、この作品は「ですます調」でいこうとか、これは「〜だ調」がいいとか、すぐ判断できるものなの?

オカリナ&ひるね:すぐ判断できるものと、そうじゃないものがあるよね。迷ったときは、両方やってみることもある。

ひるね:特別なものをのぞいて、小学校2〜3年までは「ですます調」、それ以上は「〜だ調」のほうが、しっくりくるんじゃないかしら。

:人間って頭の中で考えるとき、「ですます調」では考えていないのよ。

愁童:「ですます調」は、終わったことを言うときに使いたくなるんじゃないかな。作者の中で完結してしまった過去を語る文体。だから切実感や緊張感に欠けるんだよ。

ウンポコ:そう言われててみると、手紙は「ですます調」で書くね。

ひるね:あら、今の若い子のメールは、「ですます調」じゃないでしょ。

ウンポコ:ぼくは、メールも「ですます調」だなあ。「ですます調」でないと、乱暴な口調だと思われるような気がしちゃって。

ねむりねずみ:子どもの視点と、文体にもズレがあるよね。

モモンガ:ノーチェの視点で語られているのは、子どもには読みやすいと思う。でも、子どもの視点と大状況を両立させるのは、難しいことよね。といっても、本当にこの作品を楽しめるのは、大人じゃない?

オカリナ:この本、「売れるか売れないか」といったら、そんなに売れないと思うの。でも、オランダ政府は外国でのオランダの本の翻訳出版に助成金を出してるんだって。この本もそうだと思うんだけど、売れなくてもいい本なら出せるっていうのは、うらやましいわね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ガリラ・ロンフェデル・アミット『心の国境をこえて』

心の国境をこえて〜アラブの少女ナディア

ひるね:題材が新鮮だったわ。イスラエルに住むアラブ人の少女の物語なんだけど、こういう現実があるということを、はじめて知った。その土地で生まれて、ちゃんと国籍ももってるのに、マイノリティなんて、こういうこともあるのね。全体としては、少女小説の手法だけど、中身も濃いと思う。終わり方も、薄っぺらでないいところがいい。ルームメイトの女の子たち、タミーとヌリットにしても、心を開いてくれていると思っていたタミーに最後に裏切られ、逆に、軽薄だと思っていたヌリットと、最後にはなかよくなってしまうのも、おもしろい。訳者あとがきによると、イスラエルでは「自己批判の書として若い人たちに熱狂的に受け入れられた」ということなんだけど、うらやましいわね。こういう本、日本でももっと出版されればいいのに。だけど、こんなふうにナマの議論が出てくるのは、日本ではどうかしら? 受け入れられるかしらね。イスラエルでは、情緒でぼかさずに、身近な問題が直接出てくるところが、若い世代にウケたんでしょうけど・・・。あと、訳についてなんだけど、「やぶさかでない」とか、古めかしいことばが出てくるところが、ちょっと気になったわ。

:これはペルフロムの『第八森の子どもたち』と違って、日々の営みが、ちゃんと大きなものにつながってる物語ね。こういう本を読まなければ、イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人の対立なんて、日本の子どもたちは知る由もないでしょう。この本を日本で出版する意義は、大きいと思うわ。ナディアは慎み深くて、男の子をわざと遠ざけたりするでしょ。日本の女の子たちとはずいぶん違っていて、人物造形には日本の現実とかけ離れたものを感じたけど、感覚的に描かれているところを糸口に、日本の読者も物語世界に入っていけるんじゃないかしら。体験としてとらえられていることを接点に、日本の読者も入っていける。そして、表面的なことだけじゃなくて、大きな物語まで感じることができると思うのね。大人の小説だったら、もっと観念的になってしまいそうなところだけど、子ども向けだから救われてるっていう部分もあると思う。でも、この本、表紙がイマイチね。ナディアが憧れてる女医さんナジュラーも、リアリティが薄くて観念的に片づけられちゃってるのが、残念。でも、ま、細かいことはおいときましょう。こういう本、日本でもどんどん紹介してほしいわね。

ウンポコ:ぼくもこの作品、感心したね。ウンポコも、最後まで読めたよ。作者の姿勢がいいんだな。主人公の心の内を、つぶさに描いてるでしょ。だから、ナディアの気持ちが読者の心にも残って、なんかこう、応援したくなるんだよ。「ナディア、がんばって!」って。もう、ぐいぐい読まされちゃった。ナディアがさんざん悩んでるところも、ぼくなんかからみたら、そんなにふさぎこまなくてもいいのにって思っちゃうところはあるんだけど、また、そういう彼女の葛藤が、いじらしゅうてね。民族のるつぼにある国と、そうでない国日本との、ものすごいギャップも感じたね。ナディアをとりまく日常と比べたら、日本はまさにぬるま湯! 今回の4冊のなかでは、この作品と八百板さんの『ソフィアの白いばら』に大きなショックを受けたな。だけど、それにしても、ちょっと本づくりが古いよね。

オカリナ&モモンガ:古い! 古い! さ・え・ら書房らしいといえば、らしいけど。

ウンポコ:ぼくもそうなんだけど、どうしても感覚が古くなってきちゃってるんだよ。だからそれを自覚して、思い切って外の若い編集者に依頼するとかしたほうがいいときもあると思うんだけど。

オカリナ:タイトルも古いよ。

モモンガ:「心の」とか言われると、それだけで読みたくなくなっちゃう。

ひるね:原題は Nadiaなのよね。

ウンポコ:理論社がつくったら、もっとよかったかも。もっとこう、すてきな表紙にしてさ。こういう作品、日本だったらだれが書けるだろう? やっぱり後藤竜二かな。でも、日本とは比べものにならないほど、イスラエルは深刻だからなあ。ぼく自身、今回読んでみて、はじめてこういう問題を知ることができて、たいへんよかったと思うね。よくぞ、この本を出版してくれましたね。さ・え・ら書房よ、アリガトウ!

ウォンバット:私も、この本読んでよかったな。イスラエルのアラブ人のことって全然知らなかったから、いい勉強になった。そういう知識を得るためにはとてもよかったと思うけど、文学作品としては、ちょっとねー、つまんなかった。なんだかストレートすぎちゃって。メッセージを伝えるために、書きましたって感じがアリアリで。物語を楽しむところまではいけなかった。

ねむりねずみ:私は、さっき読みおわったばかり。どうなるんだろうと思ってる間に、読めちゃった。私はもともと、パレスチナとか、問題のあるところに興味があるのね。こないだも、イスラエル人の夫をもつアラブ人女性が、夫をアラブ人に殺されて、民族間の板ばさみで、苦しい立場に立たされてるっていう新聞記事を読んだんだけど、難しい問題だと思った。日本人から見たらまるっきり他人ごとだから、仲よくすればいいのにって思うけど・・・。日本の中にも差別はある。在日とか、部落とか、人為的につくられた差別が。なんで? って思うけど、これもすぐに解決できる問題じゃないのよね。パレスチナは宗教の問題だから、もっともっと複雑。どうしても折り合うことのできない問題でしょう。個人のレベルで知り合うことと、集団として知り合うことの違いっていうのもあるよね。個人対個人だったらいいのに、それがグループになると、対立が起きてしまう。主人公ナディアは、そんなストレスフルな状況にある。なんでもないことでも「これでいいのか」「相手にヘンだと思われないか」っていちいち確認してからでないと、前に進めなくなってる。自分とは違う志向の集団にひとりで入れられたら、自分自身のバランスをとるのが難しいのね。こういうことがあるっていうのを教えてくれて、その世界にすっと入りこませてくれるのは、まさに児童文学の力だと思うな。

ウンポコ:物語性がないのにその世界にすっと入りこめるっていうのは、なぜなんだろう?

オカリナ:ウンポコさんは、大状況を考えながら読んでるからじゃないの? 私は、逆に主人公には共感をもちにくかった。ナディアは、あまりにもナーバスでしょ。だれに対しても、すぐ、相手
vs 自分というふうに、まず自分と対立するものとしてとらえてる。そういう姿勢に引っかかっちゃったのかな。

ひるね:ナディアって優等生すぎてヤなヤツとも言えるね。

オカリナ:他によって自分を規定していくという感じが強すぎるのね。自意識過剰な気がするの。

ひるね:『大草原の小さな家』で、ローラとメアリーがはじめて町の学校にいく場面でね、ふたりはとても緊張してるんだけど、いざ学校に着くと、ローラは「なによ、あんたたち。カケスみたいにぎゃーぎゃーうるさいわね」っていうの。子どもの本の好きな人って、こういう主人公のほうが好きなのよね。

:アラブ人だから・・・って一歩ひいちゃうようなところは、日本の子どもにはわかりにくいかもしれないけど、うちとけたいのに、うちとけられないっていうようなところは、感覚的に理解できるんじゃないかしら。そういうことって、日本にもあるでしょ。

オカリナ:育ってる文化が違うから、こんなふうに思ってしまうのかもしれないけど、日本の子どもにも共感して読んでもらいたいと思うのね。ナディアをヤなやつじゃなく描く工夫が、翻訳でもう少しあったらよかったのかな。

ウンポコ:ナディアは14歳っていう設定だけど、もっと大人びてる。19歳くらいの感じ。

愁童:意外性がないんだよな。作者の設計図が透けてみえちゃって、設計図通りに物語が進んでいくから、葛藤がない。何かコトが起きると、ナディアが過剰に反応してしまうっていうところはあるにしても。

ひるね:物語に、ふくらみがないのよね。

モモンガ:ふくらみがないのは、作者がこのテーマを語るために、人物を設定してるからじゃない? それが、わかりやすさの秘訣でもあると思う。

ひるね:主人公が、こんなにヤな子なのも、珍しいわね。

オカリナ:イスラエルの作家が、アラブの少女を描いてるっていうせいもあるんじゃない?

ひるね:へつらいを感じるのは、それでかしら。「メッセージがある」ということと、文学的なふくらみというのは、わけて考える必要があるわね。

モモンガ:1対1だったらだいじょうぶなのに、民族とか、単位が大きくなると問題が起きてしまうこともあるっていう事実を伝える本は、あっていいよね。レベルは違うにしろ、ひとつの集団の中に、少数派が入っていくときの摩擦のようなものは、日本にもあるでしょ。そういうときの心理状態というのは、日本の子どもにもわかると思うから、きっとみんな、共感できるんじゃないかしら。私は、最初のほうで、ナディアが、知りあったばかりのタミーとヌリットに自分がアラブ人だってことをいうべきか、いやそれとも……?! とすごく悩む場面で、物語にぐっとひきこまれたの。この本は、民族の問題を知る一端になると思うわ。子どもたちに薦めたい本。

愁童:だけどさ、矛盾もあるよね。ナディアのお父さんというのは、古いしきたりを大事にする村の中では革新派で、新しい機械なんかもどんどん採り入れて、成功した人だろ。いわば、もうふたつの文化の壁を乗り越えちゃってる人なわけだ。そういう父親のもとで育った子がこんなにナーバスだというのは、どうも腑におちないんだよな。

:ナディアは、アラブの世界のパイオニアなのよ! それはフェミニズムの視点からみてみれば、よくわかると思う。進歩的であろうとすることは、ものすごいエネルギーが必要なの。フェミニストもそう。矛盾を抱えてるこそから、悩むんじゃないの。

ウンポコ:この作者、女性? 男性?

オカリナ:「ガリラ」というと、女性のようね。

愁童:ナディアの家は一家総出で、フロンティア路線を歩んでるくせに、ナディアがひとりで古い村から出ていくということを、ドラマにしちゃってる。

ねむりねずみ:ナディアは、化石みたいな村に住んでるんだよね。

オカリナ:村は、ナディアにとってくつろげる場所として、描かれてるんだと思う。

:私は、お父さんがもってきてくれるブドウの使い方がうまいと思った。彼女の緊張をとかしてくれる小道具になってる。村も、彼女の一部なの。だから、村のことを頭から否定するのは不可能だし、新しい世界の価値を認めながらも、全身染まることもできない。板ばさみ状態。こうやって、自己矛盾を抱えながら、女は進歩してきたのよ。

オカリナ:ナディアは、ジーンズにチェックのブラウスといういでたちをしていても、まるっきりイスラエルの子と同じになれるわけではない。そういうところから、ナディアの人間像が浮き彫りになってる。

愁童:ナディアは、村の友だちアジーザがスカートの下にズボンをはいてることをはずかしく思ってる。そういう心って、人間的によくわかるけど、説得力がないよね。ナディアの生き方を考えてみるとさ……。

モモンガ:いったん外に出ていって、他の世界を知ってから、村にもどってきた彼女の感覚はよくわかるわ。新しい場所で新しい経験をした後って、ずっと住んでいた場所も、今までとは違って見えるものでしょ。

ウンポコ:ナディアの心の揺れ動きは、よくわかる。すごく悩んでる。でも、矛盾的構造の中でも、ナディアの未来は明るいぞと思ったね。ぼくは、あんまり悩まない子って不幸だと思ってるんだよ。ナディアは、たくさん悩んでるけど、そこに成長を感じる。いじらしいね。そういうことを手渡してくれる、人間の素敵さを感じるなあ。

愁童:フェミニズムを表に出すのであれば、最後の場面、オディに説得されて、学校にとどまることにするのではなく、自分で決断してほしかったな。

:主人公が女の子だからこそ、この物語は活きてると思う。そこからフェミニズムにも、つながっていくんだけど……。

ひるね:なにもかもフェミニズムでくくるのは、難しいんじゃない?

:でも、愁童さんの疑問は、フェミニズムでみんな解明できると思うわ。

愁童:うーん。でも、ローティーンが読んでも、わからないんじゃないかな。今、ガラス細工みたいな子っていっぱいいるけど、ナディアの葛藤を、そういう感覚で、自分の悩みと同じものとしてとらえられてもねぇ……。

ひるね:メッセージを伝えたいがために、オーバーになっちゃってる。橋田壽賀子のドラマみたい。強調しすぎの感アリかも。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


八百板洋子『ソフィアの白いばら』

ソフィアの白いばら

:読んでて、途中で嫌になっちゃった。がんばって、一応最後まで読んだけど。おばさんのヤなところを、いっぱい見ちゃったみたいで。おばさんっていっても、えーと、作者は1946年生まれ・・・ということは、今54歳か。だったら無理ないわね。世代の違いを感じてしまうのも。なんだか、全編自分をほめてるんだもん。だんだん「もう勝手にして!」って気分になっちゃった。だいたい、どうして副大統領に会いにいったのかしら。別に行かなくたってよかったのに。ベトナムのこととか、惹きつけられていったのに、最後は結局、「古きよき時代のお嬢さまの私小説」になっちゃってて残念。

モモンガ:私も、途中でちょっと。最初は、けなげなのよね。主人公が新鮮なものを見聞きするのを、おもしろく読めていたんだけど、途中で「もういいわ」って思っちゃった。素朴な疑問なんだけど、この本、どうして子ども向けにしたのかしら。留学体験記を読みたい人って、たくさんいるでしょ。そういう人向けに、留学関連書のコーナーにブルガリアの本としておいたら、もっとよかったんじゃない?

ウンポコ:ほんとだよ。どうして子ども向けにしたのかなあ。

ねむりねずみ:家の近所の図書館では、大人の本のコーナーにおいてありましたよ。

:私の家のほうでは、子どもの本の棚にあったわよ。

ウンポコ:あとがきに「心ひかれるタイトルがあったら、そこだけでものぞいてみてください」って書いてあったから、ぼくは安心してウンポコ読みしたね。それで、実はね、おもしろかったの。うわあ、当時の留学生はしんどかったんだなーと思った。民族の歴史を抱えこんだ人たちのるつぼで、もまれてさ。民族の習慣のちがい、とくいアセンカのキスなんて、もし自分の身にそんなことが起こったら、ツライだろうなーと思った。災難だよな。アセンカのジコチューにおしつぶされそうになってるけど、かくいうYOKOも、相当のジコチュー。ぼくも大学生のとき、寮生活をしていたんだけど、そのときのことを思い出した。でさ、その百倍くらいいろんなところから、いろんな人が来てるわけじゃない? そう考えるとオドロキだよな。この本は、ウンポコ読みにしては、だいぶ読んだね。文庫本にして、大学生くらいの子に読んでもらったらいいと思うな。

ウォンバット:私は、「世界ウルルン滞在記」(日曜夜10:00〜 TBSテレビ)が大好きなんだけど、そこに通 じるおもしろさを感じた。未知の国の、未知の暮らしを知る喜びって、大きい。そういう意味ではとてもおもしろかったんだけど、いろいろとハナにつくところはあったのよね。たとえば、YOKOとグェンの出会いの場面。グェンを評して、黒豹みたいな体つきで「身長 185センチ、体重79キロ」と聞いたYOKOは「わたしの倍以上も体重があると聞いて、なんだかこわくなりました」って言ってるんだけど、私はここでつまずいてしまった。185センチ体重79キロって、まあ、大きいことは大きいけど、そんなに特別さわぐほどのことじゃないと思うんだけど。当時はたいへんなことだったのかな。それに、79という数字が、変にリアルじゃない?

ひるね:でも、八百板さんって、とっても小柄でかわいらしい人よ。

ウォンバット:あと、 YOKOの台詞が妙にぶっきらぼうなのも、ちょっと気になった。YOKOが「〜だよ」「〜だよ」というの、違和感なかった? 全体の雰囲気に、合ってないような感じがするんだけど。実際はYOKOがブルガリア語でしゃべったことばを日本語にしてるわけだから、「〜だよ」というニュアンスで話していたといいたいのかもしれないけど、グェンとか、男性との会話の場面で、男の人のほうがずっとやさしいしゃべり方をしてるように見えるところもあったりして・・・。

オカリナ:実際、八百板さんて、きびきびした感じの人らしいけど。

愁童:ぼくは、裕さんに同感。ま、ウンポコ読みだけど。副大統領に会いにいったとか、本の表紙の絵をだれが描いてくれたとか、もう勝手にしてって感じ。ベトナム人青年医師にしても、通念によりかかってる。ずるっこいよ。そのあたりペルフロムの『第八森の子どもたち』と似てる。なんか、いろいろなことが起こるんだけど、自分はいっさい傷つかないんだ。なんとなーくセンチメンタルで流しちゃってる。なあんだ、その程度のモンだったのかと思っちゃうよ。アセンカの亡命にしてもさ・・・。寮生活の様子も、終わりのほうは、なんだかこんがらがっちゃうし。

ウンポコ:ぼくも、この作者を好きか嫌いかといったら、ちょっと「ごめんなさい」だな。この時代の、この国の人の暮らしはおもしろいと思うけどさ。

愁童:恵まれた人だったんだね。最後も、耳が悪くなって、よりよい治療を受けるために日本に帰ってくるわけだし。幸せな人さね。

ねむりねずみ:ウンポコさんが言ったの、まさにその通り! 私も、あの時代、ブルガリアでこんな暮らしをしてた人がいたっていうのは、おもしろかった。やっぱりたいへんだよね。でも、この作者はちょっと・・・。

ひるね:『イギリスはおいしい』(林望著 平凡社)も、そうだった! ずっとおもしろいと思って読んでたんだけど、最後にお墓まいりにいくところがあるのね。そこで、林家が学者の一族であることをひけらかしてるような一節があって、さーっと冷めちゃった。なーんだと思って、一気に嫌になったの。

ウンポコ:なんだか、他人の日記を読ませてもらったみたいな感じだよ。疑似体験できたのは、よかったけど。

ねむりねずみ:自分を語るっていうのは、難しいことよね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


野添憲治『花岡一九四五年・夏』

花岡1945年夏〜強制連行された耿諄の記録

オカリナ:「テーマをもって書く」というのは、大事なことだよね。YAの作家にありがちな、心の揺れを描くのも大事だけど。この本は、メッセージははっきりしすぎるくらいはっきりしてるけど、もっと工夫してほしかったな。工夫したと思えるところは、刷り色がページによって違ってるのと、全部のページに絵が入ってるということくらい。だいたい、この表紙で、子どもが読むかな。主人公は中国人で1944年に日本に連行されてきた耿諄という人なんだけど、日本の鉱山で働かされて、どんなにつらい目にあわされたかということばかり、めんめんと綴られている。そういう話をちゃんと聞くのは大事なんだけど、重要だから聞けって子どもに押しつけても、おもしろくなかったら子どもは敬遠しちゃうでしょ。編集の人が、もっと手を入れればよかったのにね。誤植もあるし。矛盾というか、誤解を招きかねない表現がいっぱいある。「日本人だって、米が4合にメリケン粉が1ぱいです」ときいて、同じくらいだから「しかたないと思った」って書いてあるんだけど、それですんじゃうのなら、たいして踏みつけにされてるわけじゃないじゃんって思っちゃう。「○○があった。○○があった」ってただ羅列してるだけだから、主人公に感情移入もできないし。読んだ子が、自分と主人公を重ねあわせるのが、とても難しい書き方。伝えたいもののあるこういう本こそ、ちゃんと子どもの手に届くように工夫してほしいものです。

ねむりねずみ:あとがきに「才能がないのを知った上で書きました」って書いてあるんだけど、まず文章が読みにくくて、つまずいた。中身に興味のある人間だったら読めるけどねぇ・・・。うわーすごかったんだ、ユダヤ収容所みたいなことを日本人もやってたのね、っていう事実の重さはたしかに伝わるけど、文学というより資料の積み重ねみたいなものだから。社会科学的な読み方のできる人でないと楽しめないかも。これは、物語になってない。学校の先生の資料用にはいいかもしれませんがね。

愁童:ぼくも、つまんなかったな。子ども向けの配慮がされてない。当時、日本のあちこちにこういうことはあったわけだから、ここだけ書いても、しょうがないよな。意味レス。ただ単なる残酷物語になっちゃってる。

オカリナ:ペルフロムの『第八森の子どもたち』ではドイツ兵、『花岡1945年夏』では日本人を悪者として描いてるけど、今書くのなら、それだけでは意味がないよね。なぜ普通の人がこれだけ酷くなれるかってところが検証されないとね。

愁童:そうそう! これじゃ、新聞読んでるのと一緒なんだよ。

オカリナ:子どもに伝わるように書かなくちゃね。

愁童:自虐意識は、子どもには理解できない。普遍的なものに結びつけないとね。

モモンガ:戦争のこと、民族のこと・・・子どもに伝えなきゃいけないことだからこそ、工夫しないとね。

オカリナ:パロル舎と、さ・え・ら書房には、もうちょっと子ども向けの本の工夫をしてほしいわね。

モモンガ:さ・え・ら書房は、心根がいいってことによりかかりすぎてるって感じ、ない?

ウンポコ:せっかくいい本が多いんだからさ、さ・え・ら書房は。もうちょっとがんばってもらいたいね。

(2000年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者

ねねこ:これは、今とても話題になってる本よね。子どもの本ではないけど、少年が登場する物語ってことで、今回とりあげたわけだけど、しかけがうまくて、小説として実によくできてると思う。15歳の少年ミヒャエルと、36歳の女性ハンナの、ひとつの愛の形にとても感動しました。1度別れたふたりは思いもかけない場所、法廷で再会する。被告人と傍聴者のひとりとして。ミヒャエルは、ハンナを追いつめることなく、救うことができるのか、否か。そして、距離感を保ちながら、彼女を理解することができるのか、支えることができるのか……。難しい問題だよね。それと、文字の読み書きができないということは、ただ単に不便というだけではなく、人間としてたいへんな劣等感であり、屈辱であり、デメリットなんだっていうことを考えさせられた。同じテーマを扱った作品といえば『ロウフィールド館の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾美佐訳 角川書店)もあったわね。これもまた、強烈な作品だった。

流&ひるね:そうそう。あれも強烈だったねー。

ねねこ:それにしても、刑務所に入ることを選ぶなんてね・・・。刑務所の中で文字をおぼえ、本を読みはじめてから、自分の犯した罪を含めて、自己の確認をしていくハンナの姿は、とても痛々しかった。最後のハンナの選択も、とてもよく理解できた。

カーコ:私はこの本、こんなに売れてるって知らなくて、図書館で予約しようとしたら88番目だったんで、びっくり! 結局、買って読んだんだけど、すごく好きな作品だった。全体の伏線の引き方、構成がすばらしい! 一息に読んじゃった。このふたりの関係は、いわゆる恋人同士というのとは少し違うと思うのね。ミヒャエルは、ハンナに恋愛感情を抱いていたけど、ハンナは恋愛という点ではどのくらいの感情をもっていたのか、ちょっとわからないから。ふたりの関係は、恋愛とはいえないかもしれない。でも、心の深い部分のつながりは、たしかに存在していて、人間と人間の関係の不思議を感じさせられた。こういう作品がベストセラーになるなんて、日本の読者も捨てたもんじゃないね。あと、戦後50年、戦争、ナチズム、ユダヤ迫害なんかが風化してきてる中で、こういう問題をつきつめようとするっていうのも、スゴイことだと思うな。

ウンポコ:ぼくは、今朝読み終わったところなんだけど、深く、重い感銘を受けたね。ここ数年で、いちばんショッキングな作品だった。ぼくはねー、いつでも主人公に自分を重ねあわせて読むタイプだから、最初の部分は、ちょっと受けつけないっていうか、好きじゃなかったの。ぼくが15歳の少年だったら、21歳も年上の女性なんて、どうしたって嫌だから。それで第1部はピンとこなくて、いやいやながら読んだんだよ。でも、第2部、第3部になると、謎だった部分、たとえばミヒャエルが学校に行きたくないっていったとき、どうしてハンナはあんなに怒ったのか・・・なんかが、だんだんわかってくる。おお、これはなんだ?! と激しく読書欲を刺激された。文学のすごさ、すばらしさを感じたね。ねえ、ナチスの側にいた人を描いた本って、ドイツにはたくさんあるの?

ウーテ:さあ、どうかしら。

ウンポコ:ここまで内面の深い部分をえぐりだしたものって、そうないんじゃない? こういう歴史の現実を、ぼくは重く受けとめた。ところでこの作品、訳がこなれてないね。何回読んでも、何をいっているのか理解できないところがあった。乱暴だし、逐語的訳文が多すぎるよ。もう1回くらい、訳し直す努力をしたら、よかったんじゃない?

ウォンバット:私も一息に読んじゃった。帰りの電車の中で読みはじめたんだけど、早く続きが知りたくて、家に着いても服も着替えず、お腹すいてたのに夕食も食べず、最後まで読んでしまいました。こんなに夢中になった本は、久しぶり。ハンナが文字が読めないっていうのは、ふたりが旅行にでかけたとき、ミヒャエルのメモがなくなってて、ハンナが激怒した……っていう場面で、すぐわかったの。これはテレビ「大草原の小さな家」のエドワーズおじさんだ! って。エドワーズおじさんって、とてもいい人で、インガルス一家の大切な友人なの。テレビでは、彼が主人公の回で、実は字が読めないんだということが露呈しちゃうって話があるのよ。あと、ハンナが出所目前に自殺してしまうっていうのも、やっぱりと思った。映画「ショーシャンクの空に」で、長いこと刑務所に入ってて、ようやく出所したのに自殺しちゃうおじいちゃんがいて、とても印象に残っていたから。でも、それ以外の部分は意外性があって、うーん読ませる! と、うなっちゃった。この、自分の内面をみつめて、どこまでも追いつめていく辛抱づよさ、ねばりづよさって、ドイツらしい感じ。それから、ミヒャエルは匂いにこだわっているでしょ。若いときの、身だしなみに気をくばり、いい匂いのするハンナと、年老いて、老人の匂いのするハンナとの違い。ドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』も、匂いに対するこだわりが感じられた。日本の作品には、匂いがこんなにはっきり出てくるものは少ないような気がして、日本とは違うなあと思った。

H:でも、日本人のほうが、匂いには敏感なんじゃないの? 今の若い子なんて、すごく匂いを気にするでしょ。

ウォンバット:それはそうだけど。でも「匂い」ってもののとらえ方が、日本と西洋は根本的に違うような気がする。何を「臭い」と思うかも違うしね。

モモンガ:私はこの作品、「こうなるだろう」と思ったようにはならなくて、予想を裏切る意外な展開の連続だった。はじめは、年の離れたふたりの関係に興味をもって読んでたのね。でも、それだけではなくて、謎解きの逆というのかしら。途中から、今までに書いてあった伏線を探りつつ読むっていうのかな。それが他にないおもしろさだと思った。意外な展開になるたびに、あそこが伏線だったの? っていうところを思い出しつつ考えるって感じ。こういう読ませ方は、新鮮だったな。この作品のテーマは、恋愛とはまた別に、ナチスの犯罪を若い人がどうとらえるかということだと思うんだけど、とても勉強になった。受け入れなくてはいけない部分と、許してはいけない部分との葛藤がよく描けている。それから恋愛については、ひとつの恋愛が一生に渡って影響を及ぼして、これほどまでに深く人生に関わっていくというのは、すごいことだと思うわ。でも、文章が難しいね。なんか難しげな言葉を使ってるから、3回くらい読んでも、わからないところがあった。そこが惜しい!

愁童:前回ちょっと孤独を感じ、今回は不登校ムードの愁童です。ひるねさんから電話をもらって、なんとか重い腰をあげてやってきました。さて、この作品、第1部は読みづらかった。バンホフ通りの描写なんて、さっぱりわからん。こんな日本語あるかよと思ったね。ハンナの心の揺れ動きは、胸に迫るね。こういう極端な状況設定って、うまいと思う反面、これでいいのかとも思う。前に、この会で『ナゲキバト』(ラリー・バークダル著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房7)をとりあげたときのことを思い出した。ぼくはとてもいい作品だと思ったんだけど、あざとい設定にごまかされちゃいかん! と言われたコンプレックスが、未だに尾を引いているんでね。

:設定に無理があったり、あざとかったりする作品って、それがネックになっちゃうことが多いけど、テーマがしっかりしていれば、そういう障害やほころびなんて乗り越えちゃうっていうこと、あるよね。

ひるね:私は、我ながら頭がいいなと思ったんだけど、広告を見て、もうだいたいストーリーがわかっちゃったのね。この本、大々的に宣伝してるでしょ。「衝撃的な事実」っていうのも、ドイツの作品だから、きっとナチス関係だなと思ったし。文字が読めないっていうのも、気がついちゃった。広告を見ないで読んでたら、もっとおもしろかったんじゃないかと思う。あんまり内容がよくわかっちゃう宣伝も、罪よね。私は、前半のふたりがアパートで過ごすあたりなんか、古典を読んでるみたいな感じがして、好きだったな。後半で、雰囲気が一転するでしょ。その前半と後半のものすごいギャップが、また魅力的。古典的な描き方で、現代的なことを書いている。ダーっと惹きこまれて読んだというよりは、あーやっぱり……と思って読んだんだけどね。でもね、読み終わってから2〜3日たつうちに、なんだか感動が増してきたの。はっきり意味がわからなかったところは、皮膚の表面が風化して、古く汚い表面だけが、ぽろぽろとはがれ落ちるように消えていって、美しくなめらかな肌があらわれてくるように、感動的な部分だけがよみがえってきてね。こういう感覚、最近ではめずらしいことだったわ。あと、読み書きができないということに関して、日本人とヨーロッパ人は感覚が違うように思う。こうまでして、それを隠すなんて。

:ひねくれ者なので、売れてるものにはとりこまれないぞ! と思いながら読んだんだけど、やっぱり惹きこまれてしまいましたねー。私は、夫とともに、長いこと識字運動に関わってるので、こういう形で読み書きの問題を扱ったっていうことに、まず興味をもった。さっき「読み書きができないこと」に対する感覚が、日本とヨーロッパでは、違うんじゃないかって話があったけど、私は日本とヨーロッパの違いではないと思う。「文字が読めない」ということの深さというのかな。でも、文字が読めないということは、マイナスだけではないのよ。朗読を聴いているときの集中力なんかは、文字を読める人には真似できないものがある。だからプラスもマイナスも、両方もあると思うの。

オカリナ:この作品は子ども向けではなくて、はっきり大人向けの作品だと思う。私が13〜14歳のときに読んだとしても、深いところまではわからなかっただろうと思うから。子どもが出てくる大人のための本っておもしろいのが多いけど、この本もおもしろかったな。とくに惹きつけられたのは、ハンナの人物像。今、ノーブルに生きてる人って、少ないでしょ。ハンナは労働者階級で教養はなかったけど、生き方はたしかにノーブルだったと思うの。

ねねこ:15歳の少年が、36歳の女性に惹かれるというのは、どう?

ウンポコ:ぼくはさっきもいったけど、ダメだね。嫌悪感がある。

ウーテ:この本、友人からストーリーを聞かされて、読む前からどんな話か知ってたの。しかけもわかってたから、正当に評価できないんだけど・・・。この作品がドイツで出版されたとき、むこうでも大評判だったのよ。 ミステリーっぽい大衆的なしかけと、純文学の幸せなミックスって感じよね。どっちもいいバランスで、大衆的なところもマイナスに働いてないのが、成功の秘密だと思う。ただね、さっきも話に出たけれど、訳があまりよくないわね。意味不明のところがある。これだけ内容がすばらしいんだから、訳がよければもっとよかったのにと思うと、残念ね。私の友人は、最後にハンナが死ぬ必然性が、どうしても理解できないっていってたけど、みなさんはどうかしら?

ねねこ:ハンナは刑務所の中で変わりはじめるでしょ。字をおぼえて、それで世の中に出ていくことを拒否する……。

愁童:ぼくは、自殺に説得力があったと思う。うまいと思った。

オカリナ:私は、そういう彼女なりの「オトシマエのつけ方」もふくめて、ハンナの生き方はノーブルだと思う。ねえ、ミヒャエルはテープを送るばっかりで、どうして彼女に会いにいかなかったと思う? 私は、具体的な愛情が年月を経て抽象的な、いわばより高次の愛情に変化したからだと思うんだけど。

ねねこ:ミヒャエルが自分を許せないって部分があったんじゃない? 児童文学じゃないっていってたけど、青年時代の愛がその後の人生におよぼす影響の大きさって考えたら、YAっていってもいいと思う。ミヒャエルは、葛藤の中でずっと生きてる。愛こそが、この作品を貫いているのよね。深いね。

ウンポコ:ミヒャエルは、青年時代に熟女から与えられた性の呪縛に、一生とらわれてるっていうふうに思えるけどな。だって、他の女性とどんな交際をしても、だめだったんだろ。ハンナの呪縛から逃れられないんだ。ハンナに手紙を出さないことが、せめてもの抵抗だったんじゃない? ハンナも歴史の波に翻弄されたけど、ミヒャエルもたいへんだったなって思うよ。同情するね。

オカリナ:最初は性の呪縛があっても、年月を経てふたりの関係そのものの質が変わって行くんだと思うけどな。

愁童:この本は、トンボの目玉みたいに、うまくできてるんだよねー。「なぜ手紙を出さなかったのですか」って、ミヒャエルにいうのは、ハンナじゃなくて、刑務所の所長なんだよ。本人には、そういうことを言わせない。それと、読み書きのできない自分を利用した国家権力を、ハンナが間接的に告発してるっていう面もあるんじゃないかな。

ひるね:エンターティメント的要素も、ちゃんとあるわね。グレアム・グリーンの『情事の終わり』って、とても好きなんだけど、あれに通じるようなものがある。

ウーテ:読み書きについてなんだけど、日本人だったらどうっていうことではなくて、識字率の高い国で、文字が読めない存在として生きるというのは、ものすごい重荷だと思うのよ。はじめてローマに行ったとき、首からガバンをさげてうろうろしてる若い人がいっぱいいたのね。何してるのかと思ったら、申請する書類を代筆するアルバイトのために、文字の書けない人がくるのを待ってるの。まあ、昔の話だけど、そういう商売が成り立つくらい、当時のイタリアには読み書きのできない人がたくさんいたし、それを隠してもいなかったわけよね。読み書きができないことを恥と思って、それを命と引き換えにするかどうかってことは、その国の教育程度とか、国民性によって違うと思う。やっぱり識字率の高いドイツや日本で暮らすのは、たいへんでしょうね。

愁童:それと、ぼくは、ハンナの遺した貯金の使い方がとてもうまいと思った。あの収容所の生き残りの人に、ハンナのお金を届けるなんてさ。彼女は「お金はいらないけど、缶だけもらいます」って言うでしょ。「私も昔、こういう缶をもってて」なんて話してさ、説得力があるね。

ウーテ:性の呪縛も、リアリティがあって、うまいわね。だってミヒャエルにとって、ハンナは便利な存在でもあったわけでしょう。15歳なんて、性的欲求の強いときにそばにいてくれて、いつでも自分のエゴを満足させてくれる、都合のいい存在でもあったわけだから。

ウンポコ:匂いから逃れられない、男性の生理が描いてあるんだ。呪縛かどうかはわからないけど、男性の作家でなければ描けない世界だと思うね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』

逃れの森の魔女

愁童:発言すべきこと、すぐには出てこないな。パロディでこういうのをつくるっていうのは、おもしろいかと思うけど、いまひとつ、のりきれなかったんだよね。

H:ぼくも、パロディのおもしろさっていうのはわかるんだけど、とくにそれを追いかけたくはなかったっていうかさぁ・・・。

ウォンバット:私も好きな感じではなかったな。なんかこう、ひたひたと迫りくる恐ろしさは強烈に感じたけど。

モモンガ:私はおもしろかった。パロディを抜きにしても、すっごくおもしろかった。ひとりの人間の中に、邪悪な心と崇高な心が日々せめぎあっているという状況を、とてもうまく描いている。最初に善き行いをするんだけど、それでうぬぼれちゃいけなかったのよね。崇高なものが邪悪に変わっていく過程を克明に描いていて、スリルがあった。描写にリアリティがあるでしょ。

愁童:そうそう、それだ! ぼくもモモンガさんと同じことを感じたんだよ。この作品は魔女と人間を切り離さず、両者をつなぐものをちゃんと踏まえたうえで魔女を描いている。そこにリアリティがあるところが、日本人作家の描く魔女との大きな違いだと思う。つねづね思ってることなんだけど、どうも日本の作家が描く魔女って、そういうことが抜け落ちちゃってるような気がするんだ。なぜ彼女が魔女にならなくてはいけなかったのか、どうしてあんなことをしてしまったのか・・・。この作品は、彼女の心が変化していく過程に、リアリティがある。人間と魔女がまったくの別ものというのではなくて、両者をつなぐ根っこの部分を、きちんとおさえてるんだよね。

モモンガ:たとえば、グレーテルが料理をするシーンの鍋つかみのエピソードなんて、まさに女性の作家ならではのリアリティ。あと、文体もおもしろいわね。短い文の積み重ねのような文体。もしかして原文は、詩みたいな感じなのかな。

ウーテ:どうなのかしら。原文を読んでないからわからないけど・・・。でもこれ、散文は散文よね。

モモンガ:だけど、いわゆるふつうの文体とは、ちょっと違うでしょ。短い文で、たたみかけてくるような感じ。

:アンジェラ・カーターの『血染めの部屋』(富士川義之訳 筑摩書房)とか、マーガレット・アトウッドの『青ひげの卵』(小川芳範訳 筑摩書房)なんかもそうなんだけど、パロディって、もとの物語をフェミニズムで解体すると、よくわかるの。みんな法則的にぴったりあてはまる。AERAのムック「童話学がわかる」にも書いたけど、母性がネガティブなものに変えられていたって、歴史があるでしょ。産婆とか魔女とかね。この作品は地味だけど、母性の二面性がよく描けてると思う。子どもを慈しむ気持ちと、子どもを食べちゃうっていう面と。魔女は、グレーテルのかわいらしさに、このまま家族のように暮らしていきたいと思う反面、習性として、子どもたちを食べたいっていう欲求も、どうしようもない。そういう魔女の心のゆらぎが、とてもうまく描けてる。

ひるね:パロディとしてはうまくいってるし、よくできた作品。でも、予想された書き方ではあるのよね。私は、一読者として、この世界に入ってはいけなかった。ゲーム世代のファンタジーだからかな。今までのファンタジーは、現実の世界と空想の世界をつなぐ扉が、作家の工夫の見せどころで、空想の世界への入口をどうやって開くか、というのが問題だったでしょ。そして、そこがファンタジーの大きな魅力のひとつだったと思うのね。でも、ゲームは入口なんてなくて、キーを押すだけで、即その世界にワープしちゃってて、お約束のように悪魔とか、怪物が出てくるでしょ。旧世代に属する私には、どうもなじめない。アメリカは、こういうパロディが多いわよね。パロディのおもしろさって、読者にかかってると思うの。もとのお話が、どのくらい読者の血となり、肉となってるかというのが、おもしろさのポイントだから。翻訳本として出版するのは、キツイ面があるわね。

:おもしろくてさらっと読めたんだけど、愁童さんの裏返しパターンで、物語世界に入っていけなかった。うまくできてはいるんだけど……。世界観、自然観がはっきりしてるから、苦手。ひるねさんのいうように、日本でYAとして出版するにはキツイね。

ウーテ:ドイツでも、パロディってフェミニズム的傾向があるのよ。カール=ハインツ・マレの『
<子供>の発見〜グリム・メルヘンの世界』、『 <おとな>の発見〜続グリム・メルヘンの世界』(ともに小川真一訳みすず書房)も、フェミニズム的解釈解釈で、印象に残ってる。女の人の生命力のすごさっていうのかしら。子どもがふたりいる四人家族に、食べものがないって危機がおとずれたとき、母はどうするか? 両親が死んで、子どもだけが残されたら、子どもは生きていけないでしょ。でも、大人ふたりだったら、生きていけるからって、子どもを捨てるの。残酷なようだけど、それって理屈から言ったらちゃんと理にかなってるのよね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


吉岡忍『月のナイフ』

月のナイフ

ねねこ:この短編集は、出来のいいのとそうでもないのがあるんだけど、あえて承知でこういう構成にしたのかなと思いました。吉岡忍の全体を見せたかったのかな。好きなものは好き、嫌なものは嫌で、それで結構! って姿勢なのかも。私が特によかったのは「鹿の男」と「子どもは敵だ」。東京国際ブックフェアのときに、オランダの生物学者が「子どもに学ぶことなんてない。動物を擬人化したり、子どもは純粋だなんて思い入れをもちすぎるのもおかしい」って言ったのが、とっても印象的で気持ちよかったんだけど、それを思い出した。「子ども=聖なるもの」というのは、幻想なんだっていうことを、あらためてつきつけられた感じ。子どもも、大人と同じようなずるさをもっていて、大人と同じようにこの世界で生きのびようとしてるのよね。吉岡忍の作品は、アジアや地球のレベルで考えようという、日本にとどまらないグローバルな視点をもとうとしているのが、日本の他の作家との違いかしら。でも、子どもはどうなのかな、こういう作品って。表題作の「月のナイフ」は、よくわからなかった。状況描写がわかりにくくて。あと、連環小説ということで、あえて最初に近未来小説の「旅の仲間」をもってきたのは、失敗だったかも。ここで挫折しちゃう読者もいるんじゃない?

カーコ:私は読むには読んだんだけど、考えてみる前に、流さんに貸しちゃったので・・・えーと、どうだったっけ。あ、そうそう、私は自分の子どものこともあって、10歳くらいから14〜15歳って、どんなふうに成長していくものなのか、興味をもってるところなんだけど、この作品は、現代の子どもの抱えてる問題がたくさん出てきて、キーワードが目にとびこんでくるような感じ。生々しすぎて、今ひとつのれなかったんだった。ノンフィクションの作家がフィクションを書くと、こういうふうになるのかな。

H:好き嫌いが別れる作品でしょう。試みとしては、おもしろいと思うけどね。作者の気持ちもわかる・・・が、もう一歩先まで行ってほしかったって気もする。「月のナイフ」で、きらきら光ってキレイな先生の産毛が、幻想とまじっていく場面とか、あと、どっちも意味がなくて、どっちだかわからないようなことを書いたりしてるところ、こういうところは評価したいね。子どもの文学にこういうことを書くって、これまでになかったと思うから。子どもからは「自由な感じがした」って、手紙が来たりするんだけど。とくに好きだったのは「鹿の男」かな。でもなー、やっぱりハナにつくとこはあるんだよな。学級委員的な臭さっていうか、リーダー臭さ。誠実なのは、わかるんだけどね。世代的なズレを感じる。この作品、不統一な短編集って話がさっきあったけど、作者個人のこだわりがあって、最後のところにすべてが重なるようにできてるんだよ。まあ、最初の作品としては、いいんじゃないかな。

ウォンバット:私は、この作品は、読んでいやーな気持ちになっちゃって。問題意識はわかるんだけど、困った事態をつきつけるだけつきつけといて知らんぷりされちゃうみたいで、感じ悪かった。あとに残されたのは、どうにもならない無力感だけ。唯一好きだったのは「子どもは敵だ」。

H:ぼくも。

ウォンバット:ここにでてくる「言葉」っていうものの定義と、言葉のもつ危うさは共感をおぼえた。この作品は、おもしろかったな。

モモンガ:私も、最初の「旅の仲間」を読んで、こんなのがずっと続くのはつらいなと思ったんだけど、他はまた違ってた。こんなふうに、違った雰囲気のものが1冊になった短編集って、珍しいわね。やっぱり大人と子どもは違う。子どもは、自分の居場所を選べないし、自分が選んだわけではない場所に、ずうっといなくちゃいけないでしょ。閉塞感があるよね。そういうことを考えさせられたんだけど、子どもの目で読んでおもしろいと思える作品ではないかな。なるほどなーと思うところは、あったけど。この装丁は好き。

愁童:ぼくも「旅の仲間」は、拒絶反応。読むのがつらかった。なんだか、作為が目立っちゃって。もっとシャイであってもいいんじゃないの?「その日の嘘」は、タイトルが断罪してる。こんなの書いてどーするんだ?! 何をねらったんだか、よくわからん。ぼくの不登校ムードをくつがえすほどのパワーはなかったね。

オカリナ:私は、半分までしかまだ読めてません。実は、ここにくるまでの電車の中で読もうと思ってたんだけど、疲れて爆睡してしまいましてね・・・。

一同:(笑い)

オカリナ:私は吉岡さんと同世代のせいか、言いたいことがわかりすぎちゃう気がしたの。書いていることは世間的に見れば直球のスローガンじゃないんだろうけど、それでも言いたいことがあってそれに引きずられて書いてるっていう意味ではスローガンみたいに見えてきちゃう。誠実なのはわかるんだけど、もうちょっとセーブしたほうがよかったんじゃないかな?

H:スローガンさえ気にしなければ、おもしろいところはあるんだけど、すけて見えちゃうんだよな。作為が消えきらないっていうかさ。吉岡さんには、問題意識そのものを疑えっていうところがあるんだよね。グロテスクなものの中にも美しいものがあるかもしれないっていうテーゼのたて方も、大人から見たらウザいよね。

オカリナ:酸性雨の影響を受けた湖の水は、その中で生きてる物がいないからとってもきれいに澄んでるっていうことなんかは、すでにあっちこっちで書かれてるわけだから、そんなに新しい視点とも思えなかったし。

愁童:「鹿の男」の描写力には、可能性を感じさせるものがあるけどね。

オカリナ:装丁とか、本の感じはいいよね。

ひるね:私も、だいたいみなさんと同じ。「旅の仲間」は別としても、他のはもう恥ずかしくて読めなかった。最初に意見ありきで、それを創作であらわそうとしてるみたい。それなら、ノンフィクションで書いたほうが、よかったんじゃないかしら。

H:吉岡さんは、「ノンフィクションとフィクションのあいだを書きたい」って言ってるんだよ。

ひるね:「月のナイフ」は表題作だし、書きたかった世界なのかなという感じはするけれど、残念ながら作品として熟していない。惜しい! ナイフに拒否反応をおこす大人を戯画化してるんだけど、突然男が川を流れてきたりして、ナンセンスっていうかシュールな方向にいっちゃって、ラストは、メルヘンの世界でセンチメンタル・・・。もっと書きこめば、おもしろい作品になったんじゃないかしら。これは子どものモノローグの形をとってるんだけど、どう見ても大人の語り口でしょ。違和感があるわね。これからも「ノンフィクションとフィクションのあいだ」をどんどん書いていってほしいけど。

カーコ:「あいだ」ねぇ・・・。

ねねこ:何か提示するものがなきゃ、書いちゃいけないの? 文学って、そういうものじゃないと思うけどな。

:私も、最初の「旅の仲間」は、息が苦しくなっちゃって、読むのがつらかった。自分が感じたことを書いたっていうのは、よーくわかったけど。

H:「旅の仲間」で、カマしてるんだよね。わかるか、わかんないか。メディアの臭みっていうのかさ、一般の人はこうなんじゃないかって設定した上で話してるって感じ。

:なんか、予定調和。私は、時事問題を書くってことに対するアレルギーもあってね。この作品、子どもはどう読むんだろ?

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』

“少女神”第9号

H:これ、初版限定プレミアム・バージョンは、刷色が7色に変化する特殊印刷。原書は、色刷じゃなくて、日本語版のみのサービスなんだよ。フランチェスカ・リア・ブロックは不思議な作家で、雰囲気で読ませるって感じだから、こういうのもいいかと思って……。でも、老人に、白内障の目にはきついと言われましたね。

ウォンバット:私は、好きな作品だった。今は亡き雑誌「オリーブ」の、創刊すぐのころの愛読者「オリーブ少女」たちが好きそうな感じ。「ノンノ」じゃなくて、80年代の「オリーブ」。ちょっと主流からずれたところのカッコよさというのかな。とくに印象的だったのは「マンハッタンのドラゴン」。

モモンガ:「全米ティーンに人気爆発」って書いてあるんだけど、音楽とか、今のアメリカの流行に詳しくないもので、味わいが薄れちゃったような気がして、その点ちょっと残念。女の子があっけらかんとしてるとこなんか、好きな感じだった。それにしても、まばゆい本ね。印刷もそうだけど、紙がすっごく光るの。

オカリナ:この本のつくり方は、おもしろかった。なんだかあっけらかんとしてて、熱がない感じ。今流行の踊りパラパラも、無表情で、のってないようでのってるっていうような、熱のない踊り方がいんでしょ。この本も、それにちょっと似た感じ。私はのれる話と、のれない話と、差があったんだけど、その差はどこから来るんだろ?

H:話のできの善し悪しにもよるからね。たしかに、ばらつきがあるかもしれない。今の若い子がかっこいいと思う文体って、あんまりきゃぴきゃぴじゃなくて、ちょっとおさえめな感じだと思うんだよね。だからそれを目指してるんだけど。あと、内容は実はちょっと古い。ややバブリーのり。

ひるね:花の名前とか、ハーブの名前とかたくさん出てくるところも、好き。名前の魅力、言葉の魅力というのかしら。刷色を変えてるのも、明るくてきらきらしてていいわね。マーブルチョコみたい。ストーリー性のあるものが、とくにおもしろかった。「マンハッタンのドラゴン」とかね。おとぎ話みたいで。

:とーっても好きな作品。カラーもお話も好き。私は著者と同い年だから、なおさらよくわかるんだと思う。好きなものに囲まれている女の子たちのことが、だんだん寂しく感じられちゃって……。まわりに好きなものをいっぱいおいて、好きなもので埋めつくしてるんだけど、そこにある寂しさっていうのかな。

H:ぼくも、最初の「トゥイーティー・スイートピー」は好きなんだけど、最後の「オルフェウス」は、つらくなっちゃうんだよな。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』

クレージー・バニラ

モモンガ:とっても好きな本だった。子どもの気持ちがよく描けていると思う。どういうふうにいったらいいのかな・・・主人公タイラーは、友達がいなくて、家族に対しても、思ってることと違うようなことを、ついいってしまって、それがストレスになっちゃうような子なんだけど、そういう子の描き方がうまいよね。タイラーはミッツィと出会って、彼女のことが好きになっちゃうんだけど、人が突然だれかを好きになるっていう気持ちも、うまく表現してると思った。タイラーとミッツィだけでなく、ミッツィのお母さんとか登場人物はみんな、どこか破綻したところのある人たちなんだけど、どの人にも愛情をもった描き方がされてて、それぞれの人間性がよくわかる。だから、どの人にも人間的な興味がもてるのよね。あと、詩の使い方がうまい! ミッツィの好きなスティービー・スミスの詩。「ぼくはあなたたちが思っていたよりはるか沖まで流されていたのです。あれは手を振っていたのではなく、溺れて助けを求めていたのです」っていうの。この詩が、タイラーの気持ちをよく表していると思う。タイラーは、今の自分の状況はこの詩みたいだっていうんだけど、ミッツィに「きみは溺れてなんかいないよ。手を振っているのかもしれないけど、溺れているんじゃないわ」って励まされるのよね。お兄さんがゲイだって知ったときの家族の反応も、よくわかる感じ。『少年と少女のポルカ』のヤマダの家は、ちょっと嘘っぽいと思ったけど。ねえ、『クレージー・バニラ』って、タイラーにとってどういう意味をもっていると思う? とっても存在感があるタイトルだけど、タイラーって、こういうおもしろい名前がひらめくタイプじゃなさそう・・・。どうしてこのエピソードをもってきたのかしら?

ねねこ:「クレージー・バニラ」って、英語で何か特別な意味があるの?

オカリナ:別にないんじゃない? ただクレージーなバニラってだけで。

ウォンバット:私、いいタイトルだと思う。『クレージー・バニラ』。内容を知る前からいいなあと思ってたけど、アイスクリームの名前だって知ってからはもっと好きになった。とってもおいしそう。高校生のとき、サーティワンアイスをきわめた(毎月変わるアイスクリームの味と名前を常におさえてました)私には、わかるこのすばらしさが。バニラは地味だけど、なくてはならない基本の味。それにクレージーって過激な言葉がくっついて、ユニークな名前になってる。タイラーのいうとおり、ネーミングって、シンプルでインパクトがないといけないと思うんだけど、その両方をちゃんと満たしてる。コンテスト優勝まちがいなし!と思ってたのに、残念ね。さっき、登場人物がそれぞれよく描けてるって言ってたけど、私も賛成。とくにお兄さんの恋人のビンセント・ミラニーズがおもしろかった。3〜4年前かな、日本でもさかんに「ミニマム」っていいだしたの。ビンセントはインテリア・デザイナーでミニマリズムの旗手。倉庫をすばらしい住居につくりかえたって、ベタボメの雑誌記事をお兄さんが送ってくるんだけど、それってタイラーからしたら、がらんとした殺風景な部屋を、おおげさにほめたたえてるように見える。それで、タイラーは「ビンセントってのは、なんてヤなやつなんだ。世界一のいかさま師だ」って、怒って雑誌を捨てちゃうんだけど、たしかにミニマリズムって、いかさまと紙一重ってとこ、あるでしょ。だから、すっごくおかしかった。タイラーは、はじめからビンセントのことをよく思っていなくて嫌いになりたいんだけど、いざ会ってみたら、スキのないちゃんとした人だったもんだから、フクザツな心境・・・。とんでもないやつだったら、あきらめもつくのに。わかるわぁ、その気持ち。という感じで、細部も全体も好きな作品だった。でも、翻訳で1ヵ所気になるところがあったの。ミッツィがタイラーに向かって「きみ」っていうでしょ。二人が池で再会する場面で、「こんなところで何してるんだ」ってタイラーにいわれたミッツィが「きみの池なの?」って聞き返すんだけど、ヘンな感じ。そもそも今あんまり「きみ」っていわないでしょ。しかも「そっちこそ、なんなのよ!」っていうシチュエーションで、「きみ」は、使わないんじゃない?

ひるね:そうかしら。私、ちっともおかしいと思わなかった。女の子が、年下の男の子に対していう言葉だし、ミッツィはクルーカットで男みたいな格好をした子だから、ボーイッシュな雰囲気を醸し出す、うまい訳だなと思ったけど。

ウォンバット:そうかな。やっぱりここは「きみ」より「あんた」って気がするけどな。ここだけではないのよね、「きみ」っていうの。

ひるね:二人が仲よくなってからも、ミッツィは「きみ」っていってるわね。「ウッドラフ」ともいうけど。

ねねこ:「きみ」って、都会っぽい感じ。私、東京に出てきて、はじめて男の子に「きみ」って言われたとき、うっとりしちゃった。うわっ、おしゃれーと思って。うちの地元のほうでは、だれも言わないからね。でも、今の若い女の子が男の子に対しては、あんまり「きみ」って言わないかも。

愁童:ぼくたちの若いときには、女の子に「きみ」っていうの、普通だったけどねえ。

ねねこ:今でも、男の人が年下の男の人に対しては使うけどね。上司が部下に対して「きみ、きみ」とかさ。

ウォンバット:私たちは、茶化すときくらいしか使わないなあ。

ひるね:世代の違いかしら。

愁童:そうかもしれないね。ぼくは、この作品、青春のみずみずしさが感じられて、いい作品だと思うけど、ひっかかりというか、こういう場で話題にする切り口が見つからなくて。ちょっとクラシックすぎちゃうんだな・・・。でも、殺伐とした時代に、こういうお話はいいと思う。一貫して流れているのは「動物の写真を撮ること」。それが、二人をつないでいる。ミッツィがタイラーに「写真にあまりセンチメンタルな感情をもちこんじゃ、だめよ。動物のかわいらしい瞬間だけを選んで撮影しても、その本当の姿を撮影したことには、ならないんだから」って言うんだけど、なるほどと思ったな。とてもいい勉強になった。「クレージー・バニラ」は、すべてのきっかけであり、キーワードなんだよね。二人が出会ったのは、「クレージー・バニラ」がコンテストで落選したからだし、ミッツィは、はじめ「ひどい名前ね」なんていってたんだけど、彼女がこの街を出ていくことになって、さよならをいう場面では「『クレージー・バニラ』ってほんとはすごくいい名前だったよ」って言う。これは、ただ単にアイスクリームの名前のことを言ってるわけではなくて、暗に写真のことを言ってるんじゃない? 同じ動物写真を志す同志として、一緒にがんばろうよっていうエールがこめられた言葉だと思った。

ひるね:私も最後までおもしろく読めた。さわやかな物語。いろいろと問題はあっても、こんな楽しい夏休みを過ごせるなんて、若い人はいいわね。私にとって、この作品の魅力の99%は、野鳥の撮影に対する興味だったんだけど、とてもおもしろかったわ。ちょっと気にくわなかったのは、主人公タイラーがお金持ちのお坊ちゃまだっていう設定。自分は渦中にふみこんでいかないで、ただ外から眺めていて、「ぼくちゃんのことは、どうしてくれるんだよ!?」って言ってるだけみたいな感じがした。タイラー自身、成長はしてるけど、ダメージは受けてないわけだから。あとさっき、ゲイに対する家族の反応がよくわかるっていう話があったけど、私は反対に『少年と少女のポルカ』のヤマダ一家のほうがリアリティがあると思う。この作品のほうが嘘っぽい感じ。

オカリナ:これは、真実を知ったばかりの時期の話だから、『ポルカ』と一概には比べられないんじゃない? ヤマダは、もうずっと前からスカートはいちゃってたわけだから。でも、この作品では、ゲイのお兄さんの影が薄いね。それにしても、この兄とタイラーの会話の部分の訳は、不自然だと思わない? 映画の字幕みたい。「兄さんのこと、大好きだよ」「ぼくもだ。おまえみたいにいいやつはいないよ」なんて訳してる。内容は、よくも悪くもクラシックな作品だよね。

:私は動物が好きすぎて、深入りしすぎるというか、深い関係になりすぎちゃうようなところがあって……それは、ひとつの悩みなんだけど、この作品の「動物との距離のとりかた」は、そんな私に、とても参考になった。タイラーとゼッポの関係とかね。野鳥の撮影も、興味深かった。全体的にはおもしろいけど、まあクラシックな作品だと思う。形式もノーマルだし、先が読めちゃう。結末も「こうなるだろうなあ」と思ったら、やっぱり! だったし。あっさり味。1回読んで、「さわやかで、気持ちいい」作品ってことで、いいんじゃない?

ねねこ:私は、動物を撮る姿勢の違いに、ミッツィとタイラーの性格や生活の違いも感じられておもしろかった。動物をありのままに撮ろうとするミッツィと、できるだけ美しく撮ろうとするタイラーとの対比に、それまでの生き方や生い立ちまでをも連想させられた。

:青春文学の古典、サリンジャーや、ジョン・アーヴィングの流れをくんだ作品だと思う。大人になりきれない子どもが、客体ではなくて、主体となって登場して、自分のアイデンティティを探し求めるっていうタイプ。家族が、自分のアイデンティティを保証してくれなくなっちゃってるのよね。若者の孤独が色濃くあるところも、共通点。でもこの作品は、サリンジャーみたいに「出口がない」ところまでいってない。孤独をポジティブな方向にもっていっているから。孤独を野鳥の撮影に投影していて、それが、「出口」になってる。そこから「さわやか感」が、生まれているんだと思うんだけど。家族といえば、兄弟関係がリアルじゃないわね。感心しなかった。お兄さんは、いかにもプロットのために登場させられたって感じ。ミッツィのお母さんは、アン・ファインを彷彿させた。ほら、エコロジー推進運動をやってたりして、がんばる女性、自立する女性がたくさん登場するでしょ。自立した女の子の影響で、男の子も自立に向かうっていうのは、『青い図書カード』(ジェリー・スピネッリ著 菊島伊久子訳 偕成社)にもあったわね。ここに出てくるアイスクリームの名前って、ヘンなのばっかり。読者のだれもが「クレージー・バニラ」のほうがカッコいいってわかってるのに、「穴ぼこパイナップル」が当選しちゃうのが、現実なのよね。「クレージー・バニラ」が、ぴりっときいてると思ったわ。

ねねこ:「バニラ」は、家庭の象徴としての言葉なのかもしれないね。甘くておいしいけど次第に溶けていくアイスクリームのように、表面的にはうまくやっていたけど、どこかはかない家庭のイメージ。その家庭に内在するクレージーさを表しているのかなって思ったけど、考えすぎかな。こういうふうに家庭を扱うのは、アメリカ映画やアメリカ文学の典型っていう感じがする。安心して読めるんだけど、感動的というには、ちょっと足りないっていうか、またかっていうか・・・。

ひるね:バーバラ・ワースバって、日本ではこれしか翻訳されてないでしょ。他の作品はつまんないのかも。この本は一人称の視野が端正で、ほどよく整ってていいけれど、他はおもしろくなさそう。うますぎるもの。

愁童:『超・ハーモニー』(魚住直子著 講談社)と似てるよね、設定も。

モモンガ:私は「スタンドバイミー」を思い出した。ほら、語り手のお兄ちゃんが死んじゃうでしょ。大好きなお兄ちゃんがいなくなるっていうところなんかが、似てると思わない?

オカリナ:どうして、こういろいろ心配しちゃったりするのかなあ。英語圏の児童文学では、親がだらしないと、子どもが親みたいになっちゃって親子の関係が逆転するっていうとこ、あるよね。タイラーは、経済的に安定した家庭で育てられたからかな。

ひるね:自分は、問題から離れた安全なとこにいるのよね、タイラーは。

ねねこ:そういうタチというか、そういう性格にしたかったんじゃないの?

ひるね:タチもあると思うけど、そこが、主人公が泥沼にずぶずぶはまっていかないっていうところが、安心して読める秘訣なんじゃないかしら。

モモンガ:タイラーには居場所があるからね。それにしても、お金持ちの子が主人公っていうのは、新鮮だった。悩みを抱えた少年少女は、家庭が貧しかったりして、家庭に問題があることが多いでしょ。タイラーの家庭にも問題はあるけど、経済的にはリッチで恵まれてる。いじめっ子とか、敵役でお金持ちの子が登場することはあっても、主人公っていうのは、今まであんまりなかったよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


長崎夏海『トゥインクル』

トゥインクル

モモンガ:今回の読書会は、これといったテーマはなかったのよね。主人公が15歳前後っていうだけで。私、最初てっきりゲイがテーマなんだと勘違いしちゃったの。『少年と少女のポルカ』も『クレージー・バニラ』も、ゲイが出てくるから。でも、この本には出てこないから、私ったら、どこかにゲイが出てきたのに、気づかなかったのかしらと思ってよくよく見たんだけど、やっぱりなかった。

一同:わはははっ。(笑い)

モモンガ:この作品、ちょっとした感覚をとらえるのはうまいと思うけど、とくに「心に残ったこと」というのは、なかったんです。ボリュームも足りないし。なんか軽くて、ふわふわっとどこかへいっちゃいそう。今の子がいいそうなセリフとか、しぐさはちりばめられているんだけど・・・。

ウォンバット:私も読んだことは読んだんだけど・・・。無味無臭だった。

ねねこ:バニラの味もしなかったの?

ウォンバット:うん、何の味も。感想は特にないので次の方どうぞ。

愁童:この作品、最初に読んだんだけど、この会に出ようとしたら、全然思い出せないんだよね。それで、あわててもう1度読み返したんだけど、2回読んだら、案外いいかなって思った。ここに出てくるような子たちって、たしかにいるしね。とくに印象に残っているのは「フォールディングナイフ」「電話BOX」「ノブ」。「フォールディングナイフ」の主人公タケルの家は、お父さんが別の女の人と暮らしていて、月に1度しか帰ってこないっていう、ほとんど崩壊した家庭なんだけど、お母さんはそういう現実を受けとめたくなくて、クリスマスにお父さんが買ってきたケーキを家族みんなで食べるってことに執着してる。タケルはそういう母にいたたまれないものを感じている。そしてそのつらい日をのりきろうと、自分のためのクリスマスプレゼントとしてナイフを買いにいったのに、ナイフは売り切れ。おまけに雨まで降ってくる。仕方なく雨宿りした公園で、3歳年上のリカコにばったり会うわけだけど、そこでの会話がいいんだな。リカコは、コンビニのおむすびを渡しながら、「悲しいときには飯を食え」っていうんだけど、それはタケルの母にいわれたことだっていうんだよ。1か月くらい前に、すごい迫力でそういってコロッケの包みをくれたって。あんな母がそんなことをいってたなんて、そしてリカコはその言葉に救われてたんだってことがわかって、タケルはハッとするんだよね。「電話BOX」も、最後に電話をかける少年の気持ちがとてもよく描けている。「ノブ」は芥川龍之介の『トロッコ』が出てくるんだけど、これなんか痛烈な国語教育批判だよね。この作品、日本児童文学者協会の賞をもらってるでしょ。昔、心象風景とか「そこはかとない感動」というものを徹底的に批判していた日本児童文学者協会が、こういう作品を賞に選ぶというのは、どういうことなんだろね? でも、こういうタイプの作品が児童文学に入ってくるのは、悪いことじゃないと思うんだけど、どうだろう? これはウンポコさんが好きそう。

ねねこ:そうでもない、みたいよ。

愁童:えっ、ダメなの? 意外だなあ。作者のあったかい視線が感じられていいと思うんだけど。まあ、でもちょっと迫力は足りないかもな。

ひるね:私はこの作品、ちょっと印象うすかったんだけど、今愁童さんの解説を聞いて、思い出したわ。

ウォンバット:私も愁童さんの解説聞いて、もう1度読みたくなった。

ひるね:スケッチで、全体をなんとなく示唆するというか、いろんなことの側面をスライスするような感じよね。それは伝統的な日本文学の手法だと思うんだけど。私、このところイギリスの短編をいろいろ読んでいるの。アン・ファイン、ジャクリーン・ウイルソン、メルヴィン・バージェス、ティム・ボーラーとかね。彼らの作品は何か決定的な出来事がおこるから、短編でも、読んだ後になにかしら強い印象が残る。日本の文学も、書きたいことをもう少しはっきり書いてもいいんじゃない? 心象風景ばっかりだと、こういうことを書いてなんになるのと思っちゃう。たとえば「電話BOX」で、老人が一人で食事をするのを見るのは悲しいっていう感覚なんかは、私もティーンエイジャーのとき、ほんとにそう思ったし、とてもよくわかるの。でもこの会話のカコの口調は、今の高校生のしゃべる言葉じゃないわね。「フォールディングナイフ」のリカコは、今の女の子の口調そのもので、とてもいいと思ったけど。やっぱり、2度読まないといけない作品なのよ。っていっても、10代の子は2回読まないと思うけどね。

愁童:中高生は、どうかなあ。でも、日本の小説はこういうのたくさんあるから、これが児童文学にあるっていうのは自然だと思うよ。

ねねこ:中高生が読むかしらねえ。特にこういうつくりでは。

ひるね:完成度にもよるでしょ。

ねねこ:こういうのって、教科書にはのりやすいと思うけど。

オカリナ:私も1か月くらい前にこの作品読んだんだけど、もう印象が薄くなってますね。最近そういうことも多いんだけど、『少年と少女のポルカ』のほうは、最初の方読んだら思い出したし、『クレージー・バニラ』は、ああ写真を撮る男の子の話だったなとよみがえってきたけど、この作品は表紙を見てもよく思い出せなかったの。でも、中学生のときだったら、私こういうの好きで読んだかもしれない。昔、清水眞砂子さんが、大江健三郎を引用して、文学には日常を異化するっていう意味もあるんだってこと言ってたの、思い出したな。この作品は、きわめて日本文学的な作り方をしてると思うんだけど、日本文学の構成って、私は俳句と同じだと思ってるの。心象風景を切り取ってつなげていくやり方だと思うのね。西洋の作品は、まず背骨を作って、そこに肉づけしていく方法で構成されてる。だから、日本の作品の独自性を無視して単純に批判することはできないと思ってるし、こういう日本的な作品もあっていいと思ってるんだけど、この本はどういう読者を想定してるのかな? 子どもの手の届くところにあるのかしら。

モモンガ:日本文学のよさっていうのはわかるけど、子どもにはおもしろくないかも。

ひるね:やっぱり完成度の問題じゃないかしら。こういうタイプの作品でも、おもしろいものはおもしろいのよ。乙骨淑子さんの『13歳の夏』なんて、すばらしかったわ。特に1章が。それから庄野潤三も、日常のこまごましたことばかり書いてるけど、私は、好きよ。おもしろいもの。完成度が高ければ、読めるのよ。この作品は、何が書きたかったのか、見えなさすぎなんじゃない?

:私はこの作品、最初、短編集だと思わなかったの。終わりがはっきりしないから、次に続いてるんだと思っちゃった。ま、それはいいとして、この挿絵でいいのかな? 特に75ページの絵。

オカリナ:雰囲気を出したかったんじゃないの? 人気のある絵描きさんだけど、この本にはあってなかったのかな。

:あと、内容と本の体裁があってないでしょ。ストーリーは中学生向けだけど、本のつくりは小学校高学年くらいの感じ。

ねねこ:推薦がとりやすいのよね、小学校高学年にしたほうが。販売的戦略かな?

:でも、だれが読むのかな? なんか私、そんなことばっかり気になっちゃって味わうところまでいかなかった。

:なんだかみなさん否定的だから、私がサポートしなきゃっていう気持ちになってるんだけど・・・。この作品は、意味もない現実を拾おうとしているんだと思うのね。となると、ひとつの大きな物語ではなくて、短編にする、寄せ集めるしかなかったんじゃないかな。言葉にならないことを、あえて言葉にしようとしてるのよ。つまんないことなんだけど、これが現実なわけでしょ。そして、若者は無感動だとか言われてるけど、本当はちょっとしたところで心が動いているのよね。そういう瞬間を集積して1冊にしたんだと思うの。特に「電話BOX」は、それがうまくいってるかな。忘れちゃうような作品かもしれないけど、こういうのもあっていいと思う。

モモンガ:意味のないことをすくいあげようとしたんじゃなくて、意味のない毎日だけど、そこに意味を見つけようとしてるんじゃない?

ねねこ:長崎夏海さんの作品って、これまではけっこう熱かったよね。常に、今の子どもたちを励ましたいと思ってる作家だから、クールに書いていても、思いにあふれていた。この作品は、そうしたプロセスを経た後、少しさめて、距離をおいたところで、今の子どもたちに共感を得られそうなシーンをスケッチしたっていう印象。今までの長編がクサくなりがちだったから、ワビサビの世界を描いたのかなあ。

愁童:子どもたちの「ぼくはここにいるよ」っていうのを代弁してる感じはあるよね。でも、日本児童文学者協会賞っていわれると、うん? という思いはあるな。

ねねこ:んー、いいんだけど、華がない。華がないから、1回読んだだけでは、よさがわかりにくいし、印象に残らない。

ひるね:やっぱり意味のないことを書くにしても、書き方があると思う。バージェスの短編でも、主人公がものすごく変わるわけでもないし、すごい事件がおこるわけでもないのに、とても魅力的っていう作品あるもの。それは、お父さんとお母さんが離婚することになって、いざお母さんが家を出ていくっていって、荷物を運び出したりしているときに、お父さんがもくもくと巨大な穴を掘りつづけるっていう話なんだけど(“Family Tree”という短編集の中の‘Coming Home’)。視覚的なことなのかしら。小川未明の作品なんかも、まさにその瞬間が目に浮かんでくるものね。

オカリナ:完成度の問題じゃない?「Little Star」でも、小さなほころびが気になるものね。だって幼稚園の子にむかって「おまえ」ってよびかけるのは、ヘンでしょ。なんか年齢不詳なしゃべり方してる。ラストも、これで終わっちゃうと思わなかったし。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)



藤野千夜『少年と少女のポルカ』

少年と少女のポルカ

モモンガ:「なるほど」と思うところも、「ウソでしょ」と思うところもあったけど、どんなことでも、あたかもなんでもないことのように描くこの書き方には、ちょっとはまっていきそうな魅力がありました。もちろん現実にはこんなにあたり前のようにはいかないだろう、というギャップが感じられるけれど、それはそれとして、この小説世界にはまって楽しみたい、という気分になる。でも、女の子らしさの描き方に違和感があるな。女性の作家だったら、こんなふうには書かないんじゃないかしら。 たとえば女になりたいヤマダが、タータンチェックのパジャマとか、赤い薔薇の花でそろえたカーテンとベッドカバーとかね、どうしてそうなっちゃうの?

ねねこ:だって、それはヤマダがそういう人だからよ。そういうふうにしたいのよ。

オカリナ:ヤマダのタイプの人って、過剰に「女性的」になりがちなんじゃない?

モモンガ:あ、そっか。ヤマダはそういう女になりたいわけね。でもそうじゃない女もいるわけであって、オトコがなりたいオンナと本当のオンナは違うわけで・・・えーっと、わけわかんなくなっちゃった。

ウォンバット:私は、この作品とても好き。今日のイチオシ。藤野さんと私って、きっと同じようなものを読んだり聴いたりして大きくなったんじゃないかと思うな。年も近いし。まず思い出したのは、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』(小学館PF ビッグコミックス)。この漫画大好きなんだけど、ここに流れてる空気と共通のものを感じました。いろいろ悩みや問題があることはあるんだけど、全体としては、たらたらとした楽しい高校生活っていう感じでね。藤野さんが、この漫画を読んでるに違いない! と思ったのは、登場人物の名前なんだけど『少年と少女のポルカ』と『河よりも長くゆるやかに』では、クボタトシヒコと能代季邦(トシクニ、トシちゃん)、ヤマダアキオと神田秋男、タニガワミユキと久保田深雪というふうに、かぶってる。それが偶然とは思えなかったんですね。あと大島弓子も好きだと思うな。「漫画の猫みたいだな」っていうのは、『綿の国星』のことじゃない? ヤマダは『つるばらつるばら』を思い出させるし、『午後の時間割』は、『秋日子かく語りき』とか『あまのかぐやま』を連想して、久しぶりに大島弓子、読み返しちゃった。で、私がとりわけいいなあと思うのは、「トシヒコは13歳のときに、自分がホモだということで悩まないと決めた」というところ。このふっきれ方がいい。社会の中で、自分が少数派になる局面っていろいろあるでしょ。とくに学校では、他者と違っていてはいけないことが多いから、少数派になってしまうと暮らしにくくなる。でもそれは価値観の違いであって、絶対的なものではないんだよね。そういうことで悩んでる子には、彼らの対処の仕方がとっても参考になると思うな。

愁童:ぼくは、どうも肌があわなかった。小説としてはおもしろいけど、共感はもてないね。やっぱり生活感がないのはダメと言われて育った世代だからね。知識人の大人が、今の子どもの風俗をうまく料理したという感じがしちゃって。『トゥインクル』と同根異種だと思うな。まあ、生活感がないのが今の生活といわれれば、それまでなんだけど。

ひるね:私も、この作品が今日のイチオシ。ゲイがでてくる物語っていろいろあるけど、身近な人がゲイでっていうパターンが多いでしょ、クレージー・バニラ』みたいに。主人公がゲイというのは、珍しいわね。事実から出発して背筋をのばして、つっぱりもせず、卑下もせず、淡々としてるとこがいいと思う。出来事に対して一直線に怒ったり、悩んだりしてなくて、ちょっとズレてる。そのズレ幅が、余裕というかユーモアになってる。まあ、現実には、学校はこんなに寛大じゃないと思うけど。ヤマダのお父さんが、女っぽくなってきたヤマダに「グロテスクだな」っていうんだけど、どんなカッコしてたって息子は息子なんだから、お父さんのとるべき態度はそれでいいんだよって応援したくなる。でも、ヤマダとかトシヒコみたいな人って、少なくないのよ。表面化してないだけで。彼らより、電車に乗れないミカコの方が深刻だと思うな。未来も全然明るくないものね。ミカコとトシヒコのつきあい方も、自然でこういうのもあるんだろうなと思った。『午後の時間割』もおもしろかったわ。

オカリナ:私、作家について何も知らないで読んだから、最初女の人が書いてるのかと思って、きれいにまとめすぎてるなって思ったの。でも、実際にいろいろ体験してる人だったら、逆にどろどろしたところは書かないだろうなって、思い直した。生きにくい子って今たくさんいると思うけど、この作品の中の彼らはうまくかわしながら生きてるとこがおシャレで、心地よく読みました。悩むのをやめたってふっきれてるところからスタートしてるというか、どろどろ悩んでいるところを、わざと書いてないのよね。でも、『午後の時間割』の方は、同人誌に、載ってそうな作品ですね。

:私は、受け入れられないとこもある反面、すっごくわかるっていうとこもあった。でも、ある種反発があって、肯定的にはなれないな。『午後の時間割』の方が「わかるっ」という感じだったんだけど、高校生の頃の嫌だった自分を思い出してつらくなった。なんか葛藤があって。すごくかきまわされた感じ。わかりすぎる小道具が迫ってきちゃってね。

ねねこ:作りものといえば作りものなんだけど、私はなんだかとても励まされた。日本の文学って、正攻法で戦いすぎて、湿気るか、乾きすぎかのどちらかになりがちだけど、こういうやり方もあるんだなあと思った。おだやかなエールというのかな。あれっ作りすぎ? と思うことでも、許せちゃう潔さというか、性格の良さが感じられた。こまごましたことを具体的に書きこんでるんだけど、それで遊べる楽しさもあるし。小説が現実の乗り越え方を、提示している一つの例だと思った。

愁童:でも、べつに、これを小説でやる必要はなかったんじゃない?

ねねこ:これはこれで、漫画ではできない、小説ならではの空気感だと思うけどな。純文学の人が「これは風俗に流されてる」ってよくいうけど、この作品は、そんな風俗的なものでもないと思う。そもそも「風俗に流される」ってどういうことなのか、私はよくわからないんだけど。

モモンガ:ねね、みなさんおっしゃらなかったけど、「本校開闢以来の伝統」っていうところおかしくなかった? 私、げらげら笑っちゃった。

一同:私もー。

モモンガ:この作品、そういうユーモアもきいててとってもいいけど、タイトルはよくないわね。どうしてこんなタイトルにしたのかな。若い子は手にとりそうにないよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』

一人っ子たちのつぶやき

愁童:まだ3分の1しか読めてないんだけど、中国のひとりっ子政策のことがよくわかった。でも、子どもに読ませる文学作品としては、おもしろくないね。「こういう体制にすれば、こうなるんですよ」っていう基本法則を見せられているみたい。

ひるね:私も途中で挫折。社会学的に読めば、おもしろいんでしょうけど。

オカリナ:私も2日前に入手したばかりで、全部は読めなかったんだけど、ショッキングだった。社会体制が変わると、人間ってこんなに変わっちゃうものなのね。中国って、あれだけの大勢の人がいるのにね。でも、この文章、ちょっと読みにくいね。この訳者は、もっと文章うまかったと思ったけど。

N:陳丹燕はラジオのDJをやってるんだけど、この本はリスナーの子どもたちが、番組あてに送った、親にも先生にも友人にもいえない悩みを綴った手紙をもとに、取材をしてまとめたものなの。実際の手紙そのものではなくて、それに手を加えてるから、正確にはノンフィクションではなくて、フィクションなんだけど。中国は外側からの報道しかされていない国だから、内側からの声がストレートに聞こえるこの本の登場は、とてもセンセーショナルだった。ここに出てくるのは、ものわかりがよすぎて、子どもらしくない、いい子たちばかり。彼らが、親の期待におしつぶされそうになってる姿が、浮かびあがってくる。

オカリナ:もう異星人かと思っちゃった。子どもと親との間には、絶対的な境界線があるんだよね。どうしてこんなふうになっちゃうのか、謎ですね。

:でも、今まで中国ではいじめってそんなに陰湿ではなかったのに、このごろでは陰湿になってきてるんですってよ。やっぱりストレスはものすごいんじゃない?

オカリナ:日本の子どもが、こんなに管理された環境におかれたら、すぐキレちゃうよね。ひと昔前にキレなかった人は、今アダルトチルドレンになってるって話だけど。

愁童:日本は戦争に負けたところでぷつっと切れてて、そこから50年でしょ。韓国や中国は、敗戦でとぎれることなく儒教の教えがずっと続いているから、子どもたちのストレスは、日本以上なんじゃないかな。

ひるね:あえてフィクションにしたというのは、社会的思惑かしら。

N:そういうわけではないと思う。作者がもともとルポライターだからじゃない?

:私は、これを出版した彼女に感動しました。中華民族のスケールの大きさが感じられる。今の時代に、こういう仕事をしようとするのがデカい。1冊の本として、子どもにどうのというのは、最初から度外視してるし、未完成だし、荒削りだけど、今の中国の真の姿を知りたいという人にはとても価値のある作品。読んでてつらくなっちゃうんだけど。

オカリナ:いろんな人の声を集めるというのは、ほかの国でもやってることだけど、やっぱり中国では、やりにくいのかな?

:それはあると思う。字の読めない人だっていっぱいいるわけだし。全中華民族が視野に入ってるって、スゴイことだよ。

ねねこ:やっぱりこれって、手紙100編くらいあったほうがいいのかな?

流&N:多すぎるよねー!

:文体が同じだから、飽きちゃう。

ねねこ:編集上のひと工夫が必要だったかもね。

:でも、中国って、一人きりの子どもをすごく大事にしてて親は肉も食べないっていうの、よくあるのよ、ほんとに。日本でも過保護にしてる親ってたくさんいるけど、それは個人が好きでやってるわけであって、中国は国家政策としてやってるんだからねえ。そういう事実を書いたってだけでも、やっぱりすごいことよね。

N:中国では日本に遅れること20年、今年はじめて金属バット事件がおきたの。1978年にはじまった「ひとりっ子政策」も、2003年にはやめるらしいし、これからどうなっちゃうんだろうね。高学歴の人ほど子どもが少ないしね。

愁童:ひとりっ子が親になったときがコワイよ。

ねねこ:そうだよね。ひとりっ子が大人になって、どういう親になれるかっていうのが、この国にとってこれからの問題でしょうね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


メルヴィン・バージェス『ダンデライオン』

ダンデライオン

愁童:これは、おもしろかった。すいすい読めたね。レベルの高い作品だと思う。でも、今回の「家出」というテーマでとりあげるのは違和感があるな。家出するシーンから始まるんだけど、「家出」そのものというよりは、そこに端を発したディープな世界を描いた物語だからね。だけど、この作品をフィクションとして世に問うっていうのは、どういうことなんだろう? とっても現実感があって、よく描けていると思うけど、これだったら、ルポを読んだ方がいいんじゃないかって気がするんだ。どうも読後感がよくなくて。おもしろくてレベルの高い作品だけど、「これをどう評価するか」ということになると、迷うよね。いいのか悪いのか、よくわからない。大人が文学として楽しむのはいいけど、あえて子どもに読ませたい内容ではないからね。何かストンと落ち着かないものがあってさ。最初の3分の1くらいで、もう結末も想像がついちゃうし。あと、文体なんだけど、一人称で章ごとに話者がころころ変わるから、こんがらがるね。原文は、どうなんだろう。もっと識別しやすくなってるのかな? それにしても、16歳から失業保険がもらえるなんて、イギリスはすごい国だねえ。

モモンガ:私はこの本、図書館で借りられなくて、昨日買ったの。だから、まだ途中なんだけど、おもしろく読める本ね。とくに女の子が生き生きと、よく描けていると思う。これは、書店では一般書、大人向けの文学の棚においてあったんだけど、作者は、だれに向けて、だれに読んでもらいたいと思って書いたのかなあ。

ねねこ:私も、やっと昨日借りられたの。まだ30ページしか読んでないから、ちょっとコメントは無理みたい。

ひるね:これは、ガーディアンとカーネギーのW受賞作品なのよね。そのころ、私ちょうどイギリスに滞在していたんだけど、普通の先生や図書館員たちは、この作品の受賞に眉をひそめてた。こんなに暗いものを、あえて子どもに勧めることはないのにって。そういうこともあって読みそびれてたんだけど、今回読んでみたら、おもしろかったわ。そして、痛ましかった・・・。バージェスの作品に出てくる子どもたちは、みんな普通の子なのね。そういう子が、泥沼にはまっていく様子が、よくわかった。キャラクターが、実にはっきりと描かれているし、登場する大人もステレオタイプじゃなくて、いいわあ。あと「家出」と「ドラッグ」って、全然関係ないように思ってたけど、実は、密接な関係にあったということに気がついたの。家出した子がドラッグと出会ってしまうのって、道ばたの石ころでつまずくようなアクシデントではないのね。当然のことだったんだって、はじめて気づいた。家出するのもドラッグにはまるのも、動機はいっしょなのよ。両方とも「ここから脱出したい、逃避したい」というところから始まるわけでしょ。この作品、若い人はどんなふうに読むのかしら。バージェスファンの子は、あまりのひどい状況に「もうやめてよ」と、思いながら読んだって言ってたたけど。たしかにひどい状況なんだけど、ラストのジェンマの選択には、希望が感じられて、よかった。
バージェスって、一見冷たくて、つきはなした描き方をするんだけど、最後まで読むと、何かあったかいものが感じられるのね。人間、まちがえちゃうこともあるけど、まちがえたら軌道修正しながら、生きていけばいいんだよっていうような。あとタイトルなんだけど、この本、原題は
Junk なのよね。私は、日本語のタイトルは『ダンデライオン』でよかったと思うけど、もしバージェスが知ったら、嫌だと思うかもね。あますぎるって言うと思う。全体に、訳がとてもよかった。この人の訳、『シズコズドーター』(キョウコ・モリ著、青山出版社、1995)は、いまひとつだったけど、今回はよかった。あれは作品としては、おもしろかったんだけどね。そういえば、『シズコズドーター』はアメリカではYAの棚に置かれてるのに、日本では、大人の外国文学の棚に置いてあるわね。あと、どうしてこの本、あとがきが訳者じゃないのかしら。そんなに特別なことが書いてあるわけでもないのに。

ウーテ:私はこの本読めなかったんだけど、なぜかタイトルだけはよくおぼえてたの。書評で見かけたのかしら。たくさんとりあげられてた? 今ここで見せてもらってたんだけど、ちょっとびっくりしちゃった。「〜なのよ」とか「〜だわ」という口調! 今の女の子って、こんなふうにしゃべらないでしょ。これは抵抗あるなあ。リアリティがないと思う。

オカリナ:でも、これは子どもの本ではなくて大人の本として出版されているから。大人の本では符牒になっちゃってるからね、こういう口調。子どもの本の方がそういうところ、神経を使ってるんじゃない?

ウーテ:翻訳専門語っていうの、あるわよね。それにしても、この会話はキレイすぎる。30年前の言葉じゃないの?

ねねこ:たしかに本の中にしかない言葉って、存在すると思う。今現実には、ほとんど使わない言い方。幼い女の子が一人称で「〜だわ」を多用するファンタジーなんか、時代は確実に変わっていると思う。

ひるね:先月もいったけど、キムタクのドラマ「ビューティフルライフ」の会話は、リアリティがあって、そのへん、とても上手だったわよ。

オカリナ:私、今日は資料をいろいろ用意してたのに、忘れてきちゃった。原本とかバージェスのインタビューとか、みんなに見せようと思ってたのにな。私も、この作品おもしろかった。救いがなくて、暗い気持ちになったけどね。ウチも上の子が裏街道系だから、こういう思考ってすごくよくわかるの。主人公の二人は、14歳の男の子と女の子なんだけど、男の子は性格的に弱いって設定なのよね。彼の明るい未来が感じられないまま、物語は終わってしまう。ヘロイン中毒は脱出したけど、メタドン中毒のままで、ジ・エンド。女の子の方はすっかり立ち直って、希望のもてるラストになってるんだけど。
私は、タイトルは『ジャンク』のままの方がよかったと思うんだ。日本には今、ヘロインってそんなに入ってきてないけど、安心していられる状況ではないでしょ。日本の子どもたちにとっても、そのうち麻薬は人ごとじゃなくなると思うのね。不安や不満をいっぱい抱えてるティーンエイジャーにとって、ヘロインとかLSDって大きな誘惑になると思うから。それでね、この本の登場人物タールやジェンマに共感できるような子たちにぜひ読んでもらいたい本なのに、『ダンデライオン』っていうタイトルでは、そういう子は、手にとらないと思うの。裏街道系の10代には、アピールしないタイトルじゃない? だから、ちょっと残念。アメリカ版はJunk ではなくて、Smackというタイトルだった。あと、最初に登場人物紹介があるけど、これが中途半端でよくなかった。だって、たとえば「リチャード=アナーキスト」って書いてあるんだけど、読んでいくと必ずしもそうじゃないのよね。

ひるね:登場人物の紹介が最初にあるのって、大人のミステリー本の作り方よね。

オカリナ:図書館の人なんかに、人物紹介があった方が子どもにはわかりやすくていいって言われたんだけど、紹介文を工夫してほしい。前もいったけど、私は今「現代児童文学における家族像の変遷」というテーマで考えてるの。「家族」っていう単位に、求心力がなくなってきて、バラバラになっちゃってるでしょ。何かで読んだけど、今、イギリスの家庭の3分の1は、血のつながってない子どもを育ててるんだってね。親が親として機能しない、というかちゃんと親の責任を果
たせない人が、親になっちゃってる時代よね。この物語では、ジェンマの家庭はまあ普通だけど、しいていえば親が過干渉。タールのところは、典型的な暴力父とアル中母。それで家を出て、自分の居場所を探しにいくわけだけど・・・。今の家庭に希望がもてなくて、外に出て新たな自分の家族を探すっていう物語は、たくさんあるよね。『ジュニア・ブラウンの惑星』(ヴァジニア・ハミルトン著 掛川恭子訳 岩波書店)とか、スピネッリの『クレージー・マギーの伝説』(菊島伊久栄訳 偕成社)とかね。もう、これって文学の中だけの問題じゃなくなってきてる。今の子どもたちにとって、身近な、切実な問題になってきてるんだよね。

ウーテ:だからといって、この作品、若い子が共感できるかしら?

オカリナ:表面的ではない、ひとつの体験ができると思うな。まあ、疑似体験だけどね。

ウォンバット:私はリアルに疑似体験しすぎて、読んでるうちに身体に変調をきたしちゃった。なんだか気持ち悪くなっちゃって。ヤクの禁断症状がいっぱい出てくるからじゃないかと思うんだけど。具合悪くなりながらも、早く続きが知りたくてばーっと読んじゃった。おもしろかったな。イギリスのダークな部分を強く感じた。やっぱりパンクの本場イギリスはちがうなあと思ったね。音楽でも、日本やアメリカのパンクロックって、形だけっていうか、あまっちょろい雰囲気があるけど、イギリスのパンクは「魂の叫び」って感じ。やっぱり歴史のある国は、抑圧に反発するパワーがたくさん必要なのかなあ。「スクワッター」っていえばね、4〜5年前、姉と自由ヶ丘かどこかを散歩してて、ここしばらくだれも使ってませんって感じのビルの前を通りかかったことがあったの。それで私が「こんなに栄えている場所に、突然荒れ果てたビルがあるのって不気味だね」っていったら、姉が「イギリスだったら、こういうビルなんて、占拠されちゃうんだから」って言いだして、私はそのときスクワッターって知らなかったから、「えっなにそれ。こわーい」とかなんとかいったんだけど、そのときの会話を思い出した。これのことだったのねえ。だけど、ここに出てくるスクワッターってよくわかんないな。ポリシーがありそうで、なさそう。
あと、さっき登場人物紹介の話があったけど、私は人物紹介はなくてよかったと思うな。こういうところにパンクって書いてあるのも、ヘンな感じ。あんまり有効な情報とは思えないし。ま、それはいいとして、彼らがずぶずぶ泥沼にはまっていく様子が、とってもよく描けてると思った。14歳とか15歳って、いちばん危険な年頃よね。なんだかわけもなく、不満があるというか、なんでもないことなのに、無性に腹が立ったりして。そういうイライラ感を、なつかしく思い出しましたね。

ウンポコ:ぼくはねえ・・・こういう本って苦手なんだなあ。なんとか半分くらい読んだけどさ。登場人物のだれにも共感できないんだよ。ドキュメンタリーを読むような興味だけで、なんとかここまできたけど、全部読むのは苦痛だね、たいへん。こういう「単なるスケッチ」みたいな作品は、好きじゃないの。角田光代の『学校の青空』(河出書房新社)にも、同じことを感じたんだけど、切り取り方の問題だと思うんだよ。ぼくは作者のメッセージを、しっかり感じたいタイプなんだよね。だから、作者の姿勢が見えてこないのは、どうもだめだ。

愁童:この本のメッセージって、なんなんだろう?

ひるね:「麻薬は怖い」というだけではないと思うのよ。何かを大々的にばーんと掲げているわけではないんだけど・・・。さっき「救いがない」っていう話があったけど、最後の方に出てくる、タールのお父さんとジェンマとのふれあいが、唯一、救いといえば救いよね。

ウーテ:話は変わるけど、ティーンエイジャーが自分たちのことを書くっていう作品もあるでしょ。この作品はそうではなくて、大人がティーンエイジャーを描いているわけだけど。今まさに渦中にある若者が執筆するのと、大人になった作者が10代のころを振り返って執筆するのって、何か違いがあるのかしら? やっぱり大人になってから書くと、そこに評価や追憶が加わるのかなあ。私の目下の関心は、それだわ。ねえ、みなさんはどう思う?

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カニグズバーグ『クローディアの秘密』

クローディアの秘密

オカリナ:これは、もう評価の定まった作品だけど、「家出」をテーマにするなら、はずせない作品よね。でも、メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』とは、主人公の階層もちがうし……。まあ、ひとつの自分探しの物語だけど、私は何度読んでも、強い印象をあまり受けないの。どうしてかな?

ウーテ:私は、この作品は3回くらい読んだけど、なんといっても家出する先がメトロポリタン美術館だというのが斬新で、わくわくするわね。家出って、子どものとき、みんな憧れるものでしょう。どうしてこの作品が名作といわれてるのか、その秘密について今日は考えてみたいと思ってるんだけど。

ひるね:以前に読んだときも思ったんだけど、やっぱりキャラクターの作り方が、うまいのよね。フランクワイラー夫人もクローディアもジェイミーも、どのキャラクターも生き生きしてる。とってもよく描けていると思う。ただし、フランクワイラー夫人の弁護士が、実はクローディアのおじいさんだったというオチは、ちょっとやりすぎ、というか筆がすべっちゃったという感もあるけどね。だって、クローディアは大冒険をしたつもりだったけど、結局安全な範囲内で動いていたということになっちゃうわけでしょ。でも、名作といわれるだけのことはあるわね。アメリカでの出版が1967年だから、もう30年以上も前の作品だけど、今読んでも楽しめるもの。

ねねこ:この作品は「家出」というより「冒険」の物語よね。私には家出は一人でするものという思い込みがあるの。そこで味わう孤独感や浮遊感こそが、家出の醍醐味、大切な部分だと思うから。クローディアの場合、悲壮感はあまりないし、弟を連れていくってことで、どこか家のにおいをひきずり、安心感に包まれている感じがする。私も子どものころよく家出したんだけど、そうねえ、1年に2回はしてたかな。姉といっしょの時と一人の時では、緊張感がまったく違った。あのころは「ここじゃないどこかへ行きたい」という気持ちが、いつもどこかにあったのよねえ。

モモンガ:私は、この作品、初めて読んだときの印象が、ものすごく強烈だったの。今読んでも、やっぱりいいなと思う。今でも名作を紹介するブックリストなんかを作るときには、必ず入れる作品。新しい新しいと思ってたけど、もう30年も前の作品になっちゃったのねえ。『ダンデライオン』とちがって、クローディアには、何か大きな不幸があるわけじゃない。この作品は、一言でいえば「アイデンティティの確立」ってことになるんだけど、家出して自分の力で何かをやりとげる、内面的な何かを得るっていう物語。さっきの『ダンデライオン』と比較してみると、『ダンデライオン』には「何かを得る」って手応えが感じられないのよね。あと、最初に出てくるフランクワイラー夫人の手紙の意味が、あとになってわかるっていうからくりも、とても新鮮だった。クローディアの冒険がおもしろいものだから、最初の手紙のことはすっかり忘れて読み進んでしまうんだけど、最後になってはじめからすべて仕組まれていたことがわかり、やられたっていう驚きがあって。今はそういう凝った趣向の作品もいろいろあるけど、あのころはまだそんなになかったでしょ。

ねねこ:印象に残る場面、視覚的にぱっと目に蘇ってくる場面がたくさんあるわね。

愁童:とてもよくできてるよね。さすが名作といわれるだけのことはあるね。この作品の魅力は、知的なおもしろさだと思う。「知」の部分がとっても綿密。だけど、少しばかり「知」偏重かもしれない。というのは、「情」の部分に、ちょっと物足りなさを感じるんだよな。できすぎというか、作られすぎで、意外性が感じられないっていうか……。

ウンポコ:ぼくはこの作品、タイトルは知ってたけど、読んでなかったの。今回読む機会があって、本当によかった! とってもおもしろかった。もうねぇ、かなり好きな作品。クローディアもジェイミーも、とってもいい子なの。一所懸命でさ。アグレッシブなんだよね。そんな彼らがいじらしくて……。おじさんは、いとおしくなってしまったぞ。彼らといっしょにメトロポリタン美術館に潜んでるような気持ちになった。疑似体験できたね。ぼくもずっと、早く家を出たいと思ってた子どもだったんだよ。それで大学に受かったときに、やっと波風立てず、合法的に家を出られることになって、ひとりで東京に出てきたんだけど、そのときの喜びとか解放感というのを、なつかしく思い出した。それは家出ではなかったけど、でも家から離れる、ある種、家を捨てるということでは同じだからね。ぼくは、この本、多くの人に薦めたい! しかけもうまいし、ストーリーもとてもいいと思うから。

ウォンバット:私はこの本大好きで、小学校4年生のときに出会って以来、何十回もくりかえし読んでて、もうすっかり自分の血となり肉と・・・それも脳とか心臓とかのだいじな部分になっちゃってる本だから、論じるっていうのは難しいなあ。あんまり好きすぎて、分析できない。映画や音楽、恋人もだけど、あまりにも好きなものって、そうならない? この本を好きな理由でいちばんに思い浮かぶのは、クローディアのキャラクターかな。オール5でいちばん上の子で、しかも女の子だからって不公平が多すぎると思ってる・・・そのくらいはだれでも書きそうだけど、それだけではないの。遠足に行っても、虫がいっぱいいたり、カップケーキのお砂糖がとけたりするのが不愉快だとか、お母さんたちに「私たち家出するけど、FBIを呼ばないで」って手紙を送るときに、もう1通投函するんだけど、それがコーンフレークスメーカーの懸賞。こんなときに! 全然うわついてないのよね。細かいことなんだけど、こういうことで彼女の性格が、とてもよくわかる。おかげでクローディアの姿は、輪郭だけじゃなく頭のてっぺんからつまさきまで、つぶさに目に浮かぶようになってくる。とってもリアリティがあるのよね。この本に出会う前に読んでいた本の主人公は、「いかにも本の中の人」という感じで、身近に感じられることってなかったような気がする。クローディアは私が、近しく感じた最初の主人公かも。それでね、クローディアの家出の計画が、実に具体的で用意周到。もう、あったまいい! やっるぅーって感じ。あと、ジェイミーの台詞も好き。読み返すたびに、うれしくなっちゃう。「家出にいく」とか「ちぇっ、ぼろっちいの」とかね。「ぼろっちい」って、今だったら「さえねぇー」とか「超カッコわりぃ」っていうとこだろうけど。たしかにこの物語は「家出」というより「冒険」の物語だと思う。だからこそ「家出にいく」っていう台詞もあるわけで、全然悲壮感がない。「家から逃げる」んじゃなくて「私の価値を思い知らせてやる」ための行動だから。こういう威勢のよさ、プライドの高さも、私好み。今気づいたけど、この本とあとの3冊との大きな違いは、それかなあ。あとの3冊は「家から逃げる」ための行動なわけでしょ。それこそが、ほんとの家出なんだけど。

モモンガ:表面的には、クローディアって家出する必然性のなさそうな子に見えるけど、そういう子だって、実は心の中には、いろいろなものを抱えてるのよね。

ウォンバット:そうそう、そうなの! そういうことをわかってくれてるってのがウレシイ。優等生とか、何も問題がないとされてる、いわゆる普通の子だって、不満を表に出してないだけであって、何も感じてないってわけではないのよ。

ウンポコ:この物語には、ちゃんとわかってくれて、見守ってくれる大人がいるから、安心感があるね。

オカリナ:『テオの家出』に出てくるパパフンフンとかね。両親ではなくて他人なんだけど、支えてくれる大人がちゃんと存在していて、受け止めてくれるって、いいよね。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ヘルトリング『テオの家出』

テオの家出

モモンガ:これは『クローディアの秘密』と『ダンデライオン』の、ちょうど中間に位置する作品かしら。全体に暗い感じはするけど、味方になってくれる大人がいてくれて、そのパパフンフンとテオの心の結びつきが、とってもいい。これからテオが何かを見つけるっていう安心感、将来の希望が感じられた。

ひるね:私も、おもしろかった。テオの心情の移り変わりが、とても自然に描かれてるわね。パパフンフンだけではなく、途中で出会う人びとが印象的。ケマルとか、店番をしている女の子とかね。深刻になりすぎないで、ユーモアをまじえて描いているところがいいと思う。読んでくうちに、パパフンフンに惹かれていくのよね。テオの成長の過程も、きちんと見えるし。先代の三遊亭金馬の「藪入り」ってあるじゃない? 私、大好きなんだけど、家族から離れることで子どもが目覚ましく成長していくところなんか、あれみたいだと思った。メルヴィン・バージェスの『ダンデライオン』のジェンマより、テオの方がよっぽど自分で選択してると思うし、これから先しっかり生きていけそう。明るさを感じるわ。でも、これはテオが10歳だったからであって、もしもっと年齢が上だったとしたら、こんなふうにはいかなかったんじゃないかしらね。テオの両親が離婚しちゃったのにも、どきっとさせられたわ。あまく流されていないっていうのかな。
この作品も『ダンデライオン』も、作者の社会を見る目、子どもを見る目が、しっかりしてる。真実を誠実に伝えようという姿勢が伝わってくる。主人公だけでなく大人の描き方にしても、それを感じた。パパフンフンに家族のことをたずねたら、「いない」とすぐにきっぱり答えた、というところがあるでしょ。この1行だけで、パパフンフンのそれまでの人生が、よくわかる。それとか「学校ではヒョーキンもののテオが、家に帰ると変わってしまう」っていうところなんかも、作者はきちんと見てるんだなあと思った。今、ティーンエイジャーの犯罪が社会問題になってるけど、犯人の少年についてまわりの大人は「彼がこんなことをするなんて信じられない。ヒョーキンで明るい子だったのに」なんて、簡単に発言したりするでしょ。親も先生も、子どもに対して無関心で、表面的なことしか見てない大人が多いんじゃないかと思う。だって実際には「ヒョーキン=明るい」ということには、ならないのにね。ヒョーキンを「演じてる」ってことだってあるから・・・。誤解だよね。そういうところ、ヘルトリングはちゃんとわかってるんだなあと思ったな。

ねねこ:今回の4冊の中で、心情的にはこの作品がいちばん自分の家出に近いと思った。テオは自分が死んで、両親が嘆き悲しんでるときのことを想像したりするでしょ。これなんて私もよくやったし、その気持ちはよくわかる。子どもの無力感みたいなものが、よく描けていると思う。テオみたいな、苛酷な状況にあったとき、子どもに何ができるの? って考えてみると、どうしようもないのよね。結局、子どもには何もできないわけじゃない? 子どもは、どんな状況でも受け入れるしかない。そういう厳しさが、とてもよく描けていると思った。子どもの内面の深みとか、そのつきつめ方が『クローディアの秘密』とは全然違う。どんなに苛酷な状況だったとしても、がまんしなくちゃいけない期間ってあるでしょ。子どもは、その時代をなんとかやりすごす術というのを、身につけなくてはいけないのよね。

愁童:ぼくはこの本を読んで、「なんで本を読むのか」というか「本を読む原点」みたいなものを、思い出した。読んでよかったと思える本。やっぱりパパフンフンに会えるっていう体験・・・人生の先輩、尊敬できる先輩に会えるというのかな。疑似体験だけど、それが楽しめるから、本を読むんだと思うんだよ。今回の4冊の中では、いちばん安心して読めた。

ウォンバット:私も、おもしろかった。やっぱりパパフンフンが好き。風貌もふくめて、とっても魅力が感じられた。全体的なトーンは、グレーではじまりグレーでおわるって感じなんだけど、暗すぎないし、嘘っぽくないと思うな。

オカリナ:テオみたいな、こういう状況だからこそ、家出するのよね。閉塞状況がとてもよく描けていると思った。「ここじゃないどこか」に行きたくて、転々とするわけだけど、そこで起こる出会いのひとつひとつについて、もうあとひと筆でも、あったらもっとよかったのにと思った。そこが、ちょっと物足りなかった。残念。それに絵も・・・暗すぎると思うんだけど。

ウォンバット:同感。

愁童:ぼくは好きな絵じゃないけど、効果的な絵だと思ったよ。

ウンポコ:ぼくは、この絵、好きだな。とくにパパフンフンがテオを抱きしめるところ(p180)なんて、いいなあ。成功してると思うよ。他の絵描きさんでは、この雰囲気を出すの、難しいんじゃない? 物語もよかったよ。ぼく、ヘルトリング好きなの。『おばあちゃん』(上田真而子訳 偕成社)と『ヨーンじいちゃん』(上田真而子訳 偕成社)が、とくに好き。ヘルトリングは大人を描くのが、うまいと思うんだよね。子どもは残念ながら、自分で家族を選べないわけだけど、パパフンフンみたいな大人もいるんだよっていうのは、子どもを勇気づけると思う。テオみたいな子どもに対する応援歌になってるんじゃないかなあ。エレベーターで出くわす「安ものの香水の女」も、いかにもいそうな感じ。現実には、好き嫌いに関わらず、こういう人に会っちゃうことってあるだろ? いかにもありそうなことなんだけど、こういうことまで書く人、日本の作家にはいないよね。現実には、こういう人ともうまくやっていかなくちゃいけないのにね。

ねねこ:ねえ、親ってなんなんだろうね。

ウンポコ:どんな親であれ、子どもは親に対して満足できないもんだと思うよ。それにしても、ヘルトリングって「この人こそ、少年の物語を書く人」っていう気がする。健全な作家姿勢を感じるね。メッセージも、しっかり伝わってくるし。

オカリナ:私も、ヘルトリングって誠実な人だと思う。最近の彼の作品は、ちょっと暗いものが多いんだけど、社会状況が悪くなってるから、しかたないって部分はあるんじゃない? こんな世の中で、嘘っぽくなく、つくりものっぽくないものを書こうとしたら、どうしたって暗くなっちゃう。そらぞらしいことの書けない、まじめな人だから、現実を書こうとすれば、暗くなってあたりまえ。

ウーテ:これは1977年の作品だから、まだパパフンフンが存在してたんだけど、今はパパフンフンみたいな人って、いなくなっちゃったでしょ。このごろのヘルトリング作品に、温かさが感じられなくなったのは、ヘルトリングが変わったのではなく、社会が変わったんだと思う。ヘルトリングの生い立ちは、悲劇的なのよね。彼は1933年生まれで、お父さんは弁護士だったんだけど、ちょうどヒットラーの全盛のときでしょ。アンチ・ヒットラーだったお父さんは収容所に送られて亡くなり、お母さんは、その後やってきたソ連兵に子どもたちの目の前でレイプされて、自殺。結局、孤児になってしまったのね。そんなふうに小さいときに家族を失ってしまったから、「家族」というものに対する憧れとか思い入れが、人一倍強いんじゃないかしら。もともとは詩でデビューした、大人向けのものを書く作家だったのよ。それが、自分に子どもが生まれてみたら、子どもに読ませたい本がない、だったら自分で書こうって、子どもの本の世界に足を踏み入れた人なのよね。とっても良心的で、適当なことなんて書けない人。詩人だから、「行間で勝負!」という感じで、言葉が少ないのね。だから、翻訳はとても難しいと思う。詩人的な要素のある人の作品は、難しいものよね、翻訳するのが。反対に、ネストリンガーなんかはとっても饒舌だから、訳しやすいと思うけど。

ねねこ:「無口な男ほど理解しにくい」ってのと、一緒よぉ。

愁童:『ダンデライオン』に出てくる煙草屋さんって、ちょっとパパフンフンと似た存在なんだけど、ジェンマやタールに対してもっと冷たいし、まるっきり無責任だよね。彼のような存在に対する扱い方が、ヘルトリングとバージェスでは全然違う。作家の姿勢の違いを痛感するところだね。やっぱり子ども読者を意識してる作家だったら、作品のどこかに明るさがなくっちゃね。いろいろとつらいことはあるだろうけど、がんばって生きていけよっていうようなさ。

オカリナ:絵空ごとになっちゃいけないわけだから、良心的であろうとすればするほど、時代とともに作品は暗くなっちゃうんじゃないかな。

ウーテ:フィクションには普遍性が必要だから、難しいわよね。ノンフィクションだったら、ちょっとくらいヘンでも「事実です」ってことで、すんじゃうけど、フィクションは、そうはいかないから。ヘルトリングって、ほんとにまじめないい人なのよ。

愁童:テオが街の子に会って元気づけられるっていうところ、あったね。あそこもあったかい感じがして、よかったな。一方『ダンデライオン』は、街の子に会って落ち込んでいくんだよ。この違いも大きい。

ひるね:『ダンデライオン』と『テオの家出』では、主人公の年齢による差もあると思うわ。テオがタールの年だったら、またちがったでしょうね。

ウンポコ:翻訳者が苦労して訳してくれたおかげで、日本の子どももこのすばらしい作品を読むことができるんだ。ぼくは、日本の子どもを代表して、訳者にお礼をいいたい気持ちだよ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


柏葉幸子『ざしきわらし一郎太の修学旅行』

ざしきわらし一郎太の修学旅行

ねねこ:これは、柏葉さんの作品としては、できがあんまりよくない。この作品が、今年の青少年読書感想文全国コンクールの課題図書になってしまうっていうのは残念。憂えるべき、日本児童文学の現状。

オカリナ:ざしきわらしを現代にいかそうとしているのはいいと思うけど、いかんせん作品としての完成度が高くない。

ねねこ:柏葉さんって、読者対象が高い方が文章が上手だと思う。

オカリナ:これはリアリティがなさすぎ。お母さんがすぐにあたふたするとか、ざしきわらしを誘拐するところとか・・・。

ねねこ:自分の世界に、自分ひとりだけワーッて入っていっちゃって、説明不足になってるんじゃないかな。それじゃ読者はついていけなくなるから、筆を足したり、少し客観的に描写しないといけないんだけどね。男性像、女性像も、ちょっと古いとこあるのよねえ。それに、単身赴任中のお父さんの住んでるとこへ行くのは「家出」じゃなくて、「家移り」。だって、どっちも自分の家じゃん。

ウンポコ:ぼくも滅入っちゃったな。ざしきわらしに、ちっとも魅力がないんだもん。柏葉さんって、いい作品がいっぱいあると思ってたけどな。今、忘れられかけてるざしきわらしを、現代にいかそうというのは、とてもいいことだと思うんだけど・・・。

ねねこ:柏葉さんの永遠のテーマなんだよね、ざしきわらしって。ざしきわらしの話、たくさん書いているもの。柏葉さん、最近ちょっとマンネリぎみかもしれない。日本の作家って、ともすると起承転結にこだわりすぎるように思うんだけど、それが物語をつまらなくさせてるんじゃない? 『霧のむこうのふしぎな町』(講談社 青い鳥文庫にも)には、日本ばなれしたのびやかなおもしろさがあったのに、残念。

オカリナ:なんていっても、これが課題図書っていうのは、どうなの?「いじめに立ち向かう」っていう点で評価されたのかもしれないけど、それは、この作品の中ではただの図式でしかないのに。

ウンポコ:登場するざしきわらしが、ざしきわらしとしての魅力をちゃんと備えていれば、ちょっとくらいストーリーが破綻してたって、問題ないんだよ。この作品は、ざしきわらしがもってるはずのミステリアスな魅力が失われちゃってる! なんだか今日は、さえない終わり方になっちゃったなあ。

(2000年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジェニー・ニモ『魔女からの贈り物』

魔女からの贈り物

モモンガ:対象年齢ということを考えると、今回の5冊の中では、この本がいちばん3〜4年生にぴったり。怖い話好きの子によさそうな本。でも、こういう場で言うべきことがあんまりないな。結末に期待を持たせてるわりには、思ったほど盛り上がらなかったし。でも、現実的な妹と、魔女の存在を信じている男の子のやりとりは、とてもおもしろかったし、時計がカチコチいう音を効果的に使っていて、うまいなと思う。雰囲気を楽しむ、軽く読めるお話っていうことでいいんじゃない? では次、推薦者の愁童さんどうぞ。

愁童:そういわれると、ちょっと照れるな。『ハリーポッターと賢者の石』(J.K.ローリング著 松岡佑子訳 静山社)を読んで、魔法の世界が、あまりにアニメチックというか、おもしろいけど軽っぽいので、最近の他のイギリス人の書くものはどうかなということがあったのと、日本人の書くものとの違いは何かな、と思ったんだよね。それは、生活感覚に根ざしてるかどうかってことじゃないかと思うんだけど。まあそんなわけで、ちょっと考えてみたくなったわけだ。魔女について。この本を読んで、やっぱりnative の子どもの心の根っこには、今でも生きた魔女が、ちゃんと存在してるんだなと思ったね。この本が、作品として特別優れているというわけじゃないんだけどさ。でも、今回読んでよかったなと思うのは、たとえば、始まりをちょっと読んでみると、「たまらなく寒い日でした。息がこおるほど風が冷たく、空をまっ黒な雲が、野生の馬の形にちぎれて、流れていきます。」となってるんだけど、もうこの3行だけで醸し出されるものがあるでしょ。磨きぬかれた、とてもいい文章だと思う。『冬のおはなし』とくらべたら、それはもう全然違う。書き手の姿勢、skill、執念……そういったものをひっくるめた作家修行の結実の高さを感じるね。強烈な印象はないけど、でも上質な物語だと思う。

ウォンバット:同感。うまいと思う。その場面場面の雰囲気がとてもよく伝わってくる。でも、私も、とくに言いたいことはないなあ。おもしろいけど、どうってことない。魔女とか、そういう恐ろしくて不思議なものの涙が水晶に変わるというのも、どこかでそういうお話を見たような気がして、新鮮味はないし。

ウンポコ:そう? この本が5冊の中でとびぬけてよかったよ。登場人物の形象化が、とてもよくできている。ちょっとずつしか書いてないけど、人物像がとてもよくわかる。物語性も、一級品だね。あえて難点をあげるとしたら、本づくり。イラストの製版にバラつきがあるのが、どうも気になって。きれいに出ているところもあるけど、線がとんじゃってるところがある。ほら(と、ぱらぱら本をめくる)31ページとかさ、50ページ。

ウォンバット:ほんと。章の最初のページのイラストが、とくにひどいみたい。

ウンポコ:それから、改行が少なくて、息苦しいね。原文がそうなのかもしれないけど、3〜4年生向けだし、ちょっと考えたほうがよかったと思う。もうひとついいたいのは、タイトル。これ、原題はThe Witch’s Tears でしょ。『魔女の贈り物』とするより、原題どおり『魔女の涙』のほうがよかった。

モモンガ:そういえば『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ作  小川仁央訳 評論社)っていうのも、あったわね。

オカリナ:私も、タイトルは原題をいかしたほうがよかったと思う。「贈り物」だと、それだけで魔女が「いい人」って最初からわかっちゃうから。あと「オークじいさん」が出てくるんだけど、日本語で「オークじいさん」といってしまうと、ニュアンスが伝わらないでしょ。「オークじいさん」も「魔女」も、伝統的な妖怪のたぐいで、super natural な存在。そして、お互い疎ましく思ってて・・・ということが前提としてあるんだと思うけどね。でも、全体的には、ちゃんとできてるいいお話だと思う。

ひるね:うまい作者よね。好感のもてる作品が多いけど、ちょっとパンチが足りないって印象。『おおかみウルフは名コック』(安藤紀子訳 デイヴィド・ウィン・ミルフォード絵 偕成社)も、そんな感じだった。だけど、この本はよかった! まず、土に根ざした魔女の存在がよく描けているでしょ。現実と幻想のはざまにある魔女を、とてもうまく表現してると思う。子どものすぐ近くにいる、あやしい存在というのかしら。日本の作家が魔女を描くと、日常とかけはなれたハイカラなものとして描くことが多いでしょ。だから、あやしさ、こわさが感じられない。山婆でさえハイカラな魔女みたいに書いちゃうことがあるわけだから。坂東真砂子の『死国』(マガジンハウス)などは、土に根ざした世界だと思うけど、児童文学でもそういう世界を書いてもらいたい。それから、この作品はスリルがあるでしょ。やっぱり3〜4年生には、スリリングな話か、げらげら笑える話のどっちかでないと、ウケないと思うのね。ずいぶん前に、小さい子たちに読み聞かせしたことがあって、そのとき思ったことなんだけど、やっぱり大人と子どものうけとめ方はちがうでしょ。『たろうのおでかけ』(村山桂子作 堀内誠一絵 福音館書店)みたいな大人には単純な話でも、子どもは、「どうなっちゃうんだろう」って、すっごくハラハラしながら聞いているのね。

ウンポコ:五感を使って描いてるよね、この作者は。時計の「チクタクチクタク」という音とか、8章に出てくる「におい」。「洗濯して干してあるおばあさんの洋服から不思議なかおりがたちのぼってきて、台所のにおいを変えてしまいました。ほのかにオレンジマーマレードのかおりがしていた部屋の中は今、松林とせんじぐすりのようなにおいでいっぱいです」っていうところとかね。

モモンガ:私もその場面、うまいなーと思った! 描写が具体的で、イメージがくっきりと浮かんでくるよね。

ウンポコ:説明文と描写文の違いなんだよ。上手な人が書くと、描写文になるんだ。それから、魔女が泣くシーン。ネコのハラムとスカラムばあさんが再会するシーンで、「涙を流す」とは書いていなくて、「チリンチリンと音をたて、床の上にころがっていきます」となっているんだけどさ、本当にうまいよね。大体ぼくは、書き出しがつまんないと、読みたくないタチなの。この作品は、書き出しもイイね! 何か起こりそうだぞって予兆を感じさせる。非常に高く評価をしたい。パチパチパチ(拍手)。

オカリナ:なんだか今日は冴えてるわね。

ウンポコ:2か月休んじゃったから、リキはいってる。今日の俺は、ひとあじちがうぜ。

(2000年4月の「子どもの本で言いたい放題」記録)


松居スーザン『冬のおはなし』

冬のおはなし

オカリナ:この作品、私はいいと思えませんでした。自分で創りあげた雰囲気に、一緒になって酔っちゃってるみたい。とくに気になったのは、いちばんはじめのお話「カシワの葉」。どうしても日本語でひっかかる。たとえば「雪ひら」っていう言葉が出てきますけど、今の日本語では、落ちてくる雪のことを、「雪ひら」とはいわないでしょ。現代日本語で「ゆきひら」といったら鍋のこと。確かに雰囲気はなんとなくわかって、使いたくなる言葉なのかもしれないけど、日本人だったら使いたくても使えない。作者が外国人だから使ってもいいと思われてるとしたら、あんまりいいことじゃないと思う。それからp20ページに「ありがとう、こころやさしい友よ」ってあるんだけど、昔の子どもの本でこういう翻訳ってあったけど、今はないよね、こういう言い方。それから「お話なら、いくらでも語ってあげようとも」とかオオハクチョウのお話が終わったところで、キツネが、「(お話)まだ、とまらないで」っていうのとか、ヘンじゃない? 「お話がとまる」って日本語。まあ、作者は外国人だから仕方ないとしても、本づくりにかかわる人たちはその辺気をつけて、アドバイスしないといけないよね。前に、松居さんの本にかかわった人から、彼女はイメージで文章を書いているから「どういうシチュエーションですか?」って具体的にきかれると困ってしまうっていう話を聞いたことがあるの。あんまりリアリティを考えずに、なんとなくのイメージを文章にしてるのかな? 私は、もう途中で読めなくなった。だって、キツネとウサギが仲よくすりゃいいってもんじゃないでしょ。松居さん、せっかく北海道に住んでるんだから、自然をきちんと見つめて描いてほしかったなあ。

ウンポコ:松居さんは善意の人なのね。善意の人が観念で書いてるって感じ。カシワの葉っぱが最後まで落ちないっていうところなんかは、よく観察してるなと思うけど、キツネとウサギの同席は不自然。読者は、やさしいあまい世界にだまされちゃいかんと思う。救いは絵だね。山内ふじ江さんの絵は好き。うまいね。絵を見て、この本を好きになろうなろうと努力したけど、やっぱり好きになれなかった。

ウォンバット:私もおもしろく読めなかった。どうも松居スーザンさんの作品ってよさがわからないの。日本語を母国語としない人がこれだけの文章を書くのはすごいと思うけど、毒にも薬にもならない感じ。ただただ平和な世界でさ。登場する動物は、キツネもウサギもただ名前だけで、どんな生態の動物なのかとか、どんな性格のキツネなのかとか、いっさい物語には関係ないみたいで。

ひるね:みんな同じで、ただ名札が違うだけなのよね。

ウォンバット:そうそう。中に出てくるお話も、おもしろい? なんだかいつも同じような話だけど。詩もすばらしいの? どうも、よさがわからない。

愁童:今江祥智さんが、昔よくいってたよ。「歌入り観音経なんてヤメロ」って。物語の中に気楽に詩なんて入れるもんじゃないって、すっごい馬鹿にしてた。ぼくも読むのに苦労して、結局半分でヤメた。若い女の人がはじめて書く作品に、こういうのが多いんだよな。そこらへんを読者ターゲットにして、こういう本が出るのかな? 編集者の間に、こういう作品を敬遠する雰囲気があったように思うけど、最近は違うのかな? 日本児童文学の戦後50年はどこへいってしまったのかと、さみしい気持ちになった。さっきも言ったけど、『魔女からの贈り物』と比べると、書き手の姿勢がまるっきり違うよね。何が言いたいのか、さっぱりわからない。ムードばかりで、とらえどころがなくて。自然描写が乏しいし、白鳥が飛ぶときの描写なんかも、ちょっとねえ……。

モモンガ:私は、なんとも、たらんたらんとしたところが、嫌だった。松居さんは、たしかに善意の人だと思うのね。自然を愛し、動物を愛し、お話を愛し、ご自分の世界をていねいにていねいに創っていらっしゃるのはわかるんだけど、こっちに迫ってこないから「どうぞご勝手に」って感じなの。松居さんの本って、他のもみんな似たような感じだし。3つめのお話「キツネの色ガラス」に、赤いガラスのかけらを目にあてて、「赤ちゃんのとき、まるくなって、おかあさんに体をぴったりくっつけて、目をとじると、こころの中が、こういう色になっていたような気がするな」っていうところがあるんだけど、そんな感覚、子どもにわかるかしら。見た目は子ども向けにつくってるけど、子どもにはわからない感覚じゃないかな。動物たちのセリフがどれもおもしろくない。「カシワの葉」でオオハクチョウに「ありがとう、こころやさしい友よ」っていわれて、キツネが「こおりついた白い国から、はるばるとんできた、けなげな友よ」と思わず言ってしまいましたってところ、ここはおもしろいと思ったけど。

ひるね:でも実際には、「けなげ」なんて言葉が言えるわけないわ。だって、このキツネは子どもって設定でしょ。

モモンガ:登場人物が動物だからカムフラージュされて、まだ許せるけど、これが人間だったら、おかしくて耐えられないと思わない?

ひるね:『十一月の扉』(高楼方子著、リブリオ出版)の中の童話みたい。

愁童:これだったら、ビデオやゲームのほうがいいんじゃない? もっとおもしろいもの、いっぱいあるでしょ。

ねねこ:いったい何を書きたかったのかしら。「童話もどき」って感じがするけど。

オカリナ:読み通した人は少ないのね。

ウォンバット:あら、今日は私、貴重な存在。

ひるね:キツネとはどういうものか、ウサギとはどういうものかということをちゃんとおさえていないと、だめよね。食うか食われるかの生存競争をしなければ生きていけない動物たちを、血の通う存在と思って書いてはいないみたいね。動物たちをこんなふうに描くのは失礼だと思う。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジャクリーン・ウィルソン『バイバイわたしのおうち』

バイバイわたしのおうち

モモンガ:今日の5冊の中で、子どもがいちばん楽しんで読むのは、この本だと思う。主人公はかわいそうな状況なんだけど、どこかしらいいところに目を向けようという姿勢が、とてもいいと思った。作者が、主人公アンディーに温かい目を向けていて、どこかいいところがあると信じて、描いてる。登場人物が、大人も子どももみんなリアル。それで、アンディーにとって嫌な人も、根っから悪い人ではなくて、いやいやながらも認めずにはいられない、いいところがあるんだよってことを、ちゃんと描いているのよね。この先アンディーは、それぞれの人と接点を見つけて、うまくやっていけそう。「せつない」だけで終わらず、これからうまくやっていけると思えるところが、前向きでよかった。

愁童:ほんと、アンディーはだいじょうぶそうだね。明るさを感じるよ。ぼくの今回のイチオシは、これだな。「離婚もの」はたくさんあるけど、大人の論理が背景にあって、そこに子どもを引き寄せていくというパターンが、多いと思うんだよね。その点、この本は完全に子どもの視点から描いている。難しいテーマだけど、小学校3〜4年生が読みやすい文章だね。訳文も、こなれてる。すごい事件があるわけじゃないんだけど、人間像がさらりと上手に描けてる。とくにお父さん方の新しい家族になったふたごのゼンとクリスタルなんて、いい味出してると思った。子どもは被害者だけど、離婚については「いい」とも「悪い」ともいってない。「与えられた運命をいかに乗り越えていくか」というのが大事だってことをきちんとおさえている。だけどこの本、訳はいいんだけど、あとがきがねぇ・・・。作品を解説しちゃってるんだけど、ちょっとズレてるんじゃないの? タイトルも『バイバイわたしのおうち』じゃなくて、原題The Suitcase Kid をいかしたほうがよかったと思う。というより、全然意味がちがうでしょう。この訳者はストーリーを理解してないのかな。わかっていたら、このタイトルはなかったと思うなあ。

オカリナ:たしかに。意味がまるっきり変わっちゃってますね。バイバイするのは最初の設定であって、これはそこからの物語なんだから。ちょっと皮肉っぽいおもしろさもなくなっちゃってるし。

ウォンバット:私もそう思う。でもまあ、タイトルはおいとくとして、全体としては、とてもおもしろかったよ。章タイトルが、ABCになってて、AはAndy アンディーとかDは Dadお父さんとか、うまくハマってるのもいい。そして、最後の章はZZoeゾウイで「ABCみたいにかんたんなことです。ほんとですよ」ときれいにしめくくられる。うまいよね。お父さんとお母さんが離婚して、それぞれ新しいパートナーをみつけてて、そこを主人公アンディーが1週間交代でいったりきたりするわけだけど、お父さんとお母さんが、それぞれの新しいパートナーについて、お互いケチョンケチョンにいうのが、おっかしい! ひどい悪口なんだけど、明るくからっとしてて憎めない。アンディーは気の毒な状況だけど、でも全体に陰湿な感じがないから、かわいそうという気持ちにならないし、読んでて楽しくてイイ。

ウンポコ:時間ぎれで途中までしか読めなかった。

ひるね:読むの、やめたの?

ウンポコ:時間が足りなかっただけ。ぼくは電車の中で読むことが多いんだけど、この本、表紙がちょっと恥ずかしくてさ。

ウォンバット:ピンク色で目立つし、カワイイもんね。

ウンポコ:なんかまわりの人に「ヘンなおじさんっ」と思われたら嫌だなと思ってさ、パッと開いて、なるべく表紙が他の人に見えないように気を使って読んだの。途中までだったけど、主人公に寄り添って読めるね。くわの実の登場の仕方も、とてもうまいと思った。ちょっと気になったのは、目次。野暮ったくて損してると思うな。

ウォンバット:そうかなあ。私はこの目次、いいと思うけど。

オカリナ:私は、ジャクリーン・ウィルソン好きなの。彼女の描く子どもはたいてい、貧乏とか離婚とか、何か問題を抱えてることが多いんだけど、どの作品も明るいのよね。主人公が問題を乗り越えて生きていけるということを感じさせてくれる。本好きな子はもちろん、本を読まない子もドタバタっぽいところがエンタテイメントとして楽しめそうじゃない? 本を読む子も読まない子も、どっちもおもしろく読める。だから私、とても好きな作家なんです! このところ児童文学に見られる家族像を考えながら本読んでるんだけど、子どもには安心できる場所が必要だと思うのね。何か問題があったとしても「だいじょうぶ」と思える場所が。だけど、それを家庭に求めるのは無理になってきてる。今は「大草原の小さな家」みたいには、いかなくなってるわけじゃない? 両親の離婚とか再婚とかがすごく増えていて、昔ながらの「古きよき家庭」は崩壊しちゃってるからね。そうなって、「子どもが安心できる場所をどこに求めるか」ということを現代の作家は描いているんだと思うの。ジャクリーン・ウィルソンもそのひとり。この作品でも、親は悪い人ではないんだけど、役に立たないわけでしょ。親が子どもを包みこむ存在ではなくなってる。で、どうするかというと、まわりのいろんな人から少しずつそういうものをもらって、安心をとりもどすわけ。アンディーが遊びにいく、くわの木のある家の老夫婦とかね。それとか、最初は義母・義父とうまくいかないんだけど、義理の兄弟とはだんだんうまくいくようになって、とくにグレアムとは仲よくなって、大切な存在になる。それも一方通行ではなくて、子ども同士が少しずつそういうことを提供しあっている。この作品では、結局のところ助けになるのは義理のきょうだい。そんなふうに説明はしていないんだけど、この作品はそういう新しい関係、子ども同士が「安心」を提供しあえる新しい関係を描いているんじゃないかな。

モモンガ:そうね。くどくど説明はしてないんだけどね。挿絵もまんがっぽい絵なのに、ひとりひとりがどんな人なのか、そして、それぞれの関係が変化していく様子が、よくわかる。人間が、実によく描けているのよね。

オカリナ:「いろんなことがあるけど、この先だってなんとかやっていけるよ。だいじょうぶだよ」っていうまなざしが、あったかいよね。松居さんとの作品とはちがう温かさがある。この作品、今日の私のイチオシ!

ひるね:私も、これイチオシ。この作品は、何年か前にイギリスで買って読んで、すごくよかったの。なかなか翻訳が出版されないなと思ってたんだけど。いうなれば、「子どもへの応援歌」よね。気の毒な状況なんだけど、「かわいそう」という言葉は出てこない。彼女の短編で「お父さんとうりふたつ」というのがあるんだけど、それもすごくいい話だった。イギリスでとても人気のある作家だし、これからも注目していきたいわね。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


はやみねかおる『徳利長屋の怪』

徳利長屋の怪〜名探偵夢水清志郎事件ノート外伝

オカリナ:私はこの本、読みはじめたはいいけど、途中で放棄しちゃった。で、これじゃイカン! ともう一度チャレンジするために買ったのよ。なのに、時間ぎれになってしまった。これ、オビによると55万部だって! すごいわね。そんなに売れているとは知らなかった。登場人物はステレオタイプだし、言葉づかいがヘンだと思う人もいるかもしれないけど、文章のリズムはいいと思う。翻訳の人って自分もふくめてだけど、なかなかここまでできないから、文体について、とてもいい勉強になった。でも、やっぱりご都合主義だし、どうしてもついていけないとこはあるな。だけど、そんなに子どもに読まれてるっていうのなら、こういうのもアリでいいと思う。

ウンポコ:どうしてここまで売れてるんだろって考えてみたんだけど、ぼくは、文体の勝利だと思うな。ところどころ作者のモノローグがはさみこまれてるんだけど、これがイイ。テレビの「ちびまる子ちゃん」といっしょでさ、ポッポッと別の視点からのおしゃべりみたいなものが出てくると、親しみやすいし。これが子どもにウケているんじゃない? 著者紹介によるとこの人、現役の学校の先生でしょ。だから、今の子どもが何をおもしろがるか、ちゃんと知ってるんだな。推理に破綻があるのなんか知っちゃいねえ、これがオモシロイんだってなもんで。まあウォンバットさんの言葉を借りれば「毒にも薬にもならない」かもしれないけど、でも、おもしろければ、こういうのもいいんじゃない? エンタテイメントとして楽しむ気軽さってのも、またいいもんだと思うよ。

ウォンバット:私は、いいもんだとは思えなかった。「これが今、人気のある本だよ」と言われれば、なるほどという感じ。だけど、時代考証がめちゃくちゃなのを、はじめに豪語しちゃってるのが、どうもねえ・・・。「たまに、あれ? と思うようなことが書いてあるかもしれませんが、『まっ、いいか!』と、大きな心でみのがしてください」と、この本の「まえがき」にあたる「なかがきの続き」でいってるんだけど、こういうのって許されるものなの? 私、以前に某歴史雑誌の編集部でアルバイトしていたことがあって、そこでキョーレツな歴史オタクをいっぱい見てしまったから、感覚がちとヘンになってるとこがあるんだけど、これで通ってしまう世界があることに、まず驚いた。歴史を専門にしてる人が読んだら、怒ると思うよ。だって「時代考証のにがてな作者より」となっているのよ。だったら、わざわざ時代モノに手を出さなくてもいいのに。この人、別
に江戸時代を書きたかったわけではないのね、きっと。現代ではないどこかの場所を舞台にしたい、でも1から自分で世界を創造するのはカッタルイから、江戸時代にしとこってだけみたい。カップラーメンのCMで、永瀬正敏が歴史的名場面に登場してラーメン食べるっていうのあるけど、あれを思い出した。時代は雰囲気だけって感じ。歴史を知っててくずして描くのならいいけど、きちんと知らないのに、知ってることだけを適当に使うのは無責任だし、ルーズすぎると思う。まあこういう作品に誠意を求めるのが、おかしいのかもしれないけど。文体も、子どもには魅力的なのかもしれないけど、私は嫌だな。俗っぽいんだもん。「どうも、亜衣(あい)です」っていわれてもねえ・・・困る。エヘヘっとなっちゃう。それに語り手の亜衣は三つ子の設定で、妹の名前は「真衣(まい)」と「美衣(みい)」、お母さんは「羽衣(うい)」ということなんだけど、こういうセンス、私はおもしろいと思えない。

ウンポコ:えっ? なになに?

ウォンバット:だから、お母さんがwe で子どもたちが、I my me なの。

ウンポコ:えっ? そういうことだったの?! はじめて知った。

ウォンバット:だけど、これ三つ子の必然性って全然ないのよ。だって、真衣と美衣はたいして働いてない。シリーズだから、前の巻では活躍したのかな? あとね、絵も好きじゃない。名探偵夢水清志郎がキタナすぎる。黒眼鏡っておかしくない? 容姿が汚くてぐうたらだけど、実は頭がキレるっていうヒーロー像も古くさいよ。格好がよくないけどいい仕事をするというのは、男の憧れの一種なんだろうけど。ほら「美味しんぼ」の山岡士郎みたいなヤツ。今、これがウケてる理由というのは、文体ではなくて、「子どもは謎ときが好きだから」じゃないかと思うな。「名探偵コナン」なんて、ものすごい人気じゃない? あれは、あなどれないよ。ロシア語が出てきたりなんかして、すごく高度な内容でびっくりしちゃった。

愁童:いやあ「名探偵コナン」は、なかなかやるんだよ。この本の謎解きと比べたら、かなり本格的だもの。ぼくは、この本の魅力は謎解きではないと思う。

ウンポコ:うんうん。

愁童:「江戸城を消す」なんていうから、どんなすごいことをするのかと思ったら、ただ絵を書いて回転させるだけなんて、あまりにお粗末な子どもだましの方法じゃねぇか。謎解きに魅力はないよ。昔の講談本なんかと比べて、ほんとにお粗末だよね。この程度のものしかないなんて、今の子どもは不幸だと思う。せっかく活字を読むのなら、「名探偵コナン」以上のものを読んでほしいと思う。やっぱり文体じゃないの? この本の魅力はさ。なんていうかなあ、オタクっぽくないというのかな。エンタティメントを幅広く考えれば、こういうのもアリかなと思うよ。『冬のおはなし』を読むのなら、だんぜんこっちを読むほうがいいと思う。

モモンガ:この本の位置づけの問題よね。漫画を読むのと同じ感覚で、軽いノリで読める楽しい本として、それはそれでいいと思う。私はNHKの「お江戸でござる」を思い出した。江戸のシチュエーションを使ったコメディだけど、あれの子ども版という感じ。あの番組、すごく人気があるのよ。

ウンポコ:あれって、まったく無責任なんだよ。

モモンガ:でも、それはそれでいいんじゃない? 深い感動はないんだけど、ちょっとこう気軽に読めておもしろいじゃんって感じのもので。今の子どものテンポにあってると思う。だから私、否定はしない。今の読まれ方というのは、きっと友達同士で「もう読んだ?」とか、「これ、おもしろいよ」なんていいながら、貸し借りしたりしてるんだと思うけど、そういうところから入っていって、これをとっかかりに文学の道に進んでいく子が出てくるといいなと思うから。それはそれで、いいことだと思わない?

ひるね:私もそう思う。個人的には好きよ、この本。内容はともかく、こういう読まれ方をするって現象はうれしい。前に氷室冴子の『なんて素敵にジャパネスク』(集英社)にハマったことがあるんだけど、これもなかなかおもしろかった。王朝ものなんだけどね。あと赤川次郎とかね、そういうのと同じだと思う。でもその反面、違う本でこのくらい読まれるのがあればいいとも思う。だってね、日本の子どもが赤川次郎を読んでるあいだに、イギリスの子たちが読んでるのは、ロアルド・ダールよ。そう考えると、日本の子どもたちはかわいそうだと思うわ。

ウンポコ:本にはそれぞれ、いろいろな役割があっていい。今の子どもたちってさ、実は楽しくないんだと思うんだよ。明るい未来なんて感じないでしょ。この本は無責任に軽く読めて、楽しい気持ちになれるんじゃないの? きっと心を通わせられるんだと思う。

ひるね:勝海舟なんかを笑いとばしちゃうのは、小気味いいと思うわ。

モモンガ:教科書に出てくるような人を、おちょくっておもしろがるのって子どもは好きよね。前にダウンタウンの番組で時代劇の格好してギャグをやるのがあったけど、うちの子、大好きだったもの。

ひるね:青い鳥文庫だからね、これでいいのよ。『ハリー・ポッターと賢者の石』も青い鳥で出すべきだったんじゃないの? もっといい訳で。

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


土橋悦子作 長新太絵『ぬい針だんなとまち針おくさん』

ぬい針だんなとまち針おくさん

ウンポコ:ぼくは、福音館書店のこのシリーズ(創作童話シリーズ)、とってもいいと思ってるの。高楼方子さんの『みどりいろのたね』も、このシリーズでしょ。ページをめくるおもしろさをねらった本づくりが、いつもうまくいってるんだよ。だけど、この作品はよくなかった。おもしろくない。何がおもしろいのか、わからん。発想が古いよ。「奇想天外なおもしろさ」方面にいってほしいと思うんだけど、いってくれない。絵も全然ダメ。「困った」「弱った」としか、いいようがない。

ウォンバット:えー?! そう? 私は、すごくおもしろかったけど。私、今日のラインナップの中では『バイバイわたしのおうち』と、この作品がよかったんだけど、ウンポコさんにそんなに言われるんじゃ、この本をイチオシにしちゃおう。まず、もう見返しから笑っちゃった。これ、おもしろくない? あといちばんおかしかったのは、ぬい針だんなが無事にもどってきた場面。「ぬい針だんなとまち針おくさんがもどると、針ばこの中はよろこびで大さわぎになりました。ふたりがいなかったので、しごとにならなかったのです」っていうところ。まわりの人たち、心配してるようで、実は妙にさめてるの。笑った笑った。ぬい針とまち針の表情もおもしろいし、さすが長新太!

愁童:そうかなあ。ぼくは、いいとは思えない。たとえばここに出てくるハサミ、ふつうのハサミじゃなくて、にぎりバサミでなくちゃいけないんじゃない? ヘンだよ、糸を切るハサミなのに。それにさあ、まず題材が古いよ。今の子どもには無理じゃない? このストーリー。まち針を見たことのある子なんて、そういないでしょ。今はなんだってミシンだから、「縫い目がきれい」なんてわからないだろうし。フェミニズムの人から見たら、女性の生き方としてまち針おくさんの描き方について、いろいろ言いたい人、いるんじゃない? 主体性がないでしょ。「あんなに、ぬい目のきれいな人は、めったにいないよ」と思っては、ほれぼれとながめるのでしたとは、なんと古くさい。旧態依然としたまち針とぬい針なんて。作家にも、その時代をヴィヴィッドに生きている感性が必要だと思う。書くのなら時代を意識した上で書くべき。土橋さんは持論として、「幼年童話に思想はいらない。簡潔な文章でリズミカルであればいい」っていってるけど、「今」を意識する必要はあると思うよ。たしかにうまいし、手慣れた作品だいうことは認めるけどさ。

ひるね:気持ちよく読めるけど、すぐ忘れちゃいそうな本。やっぱり「文は人なり」「作品は人なり」だから、幼年童話でも、その人の時代とのかかわり方が明確にあらわれるのよね。

愁童:「生きた感性」で書かれるべきだよ。

モモンガ:土橋さんの作品だからこそ、欲を言いたくなってしまうってところはあるわね。ストーリーテリングの名手が物語の執筆を手がけるって、外国でもよくあるじゃない? だから土橋さんもついにここまできたかって、すごく楽しみにしてたのね。期待してた分、実は私もちょっとがっかりした。ぬい針とまち針自体に古さは感じなかったけどね。今でもどこの家庭にも針箱はあるし、子どもにも身近なものだと思うから。それをこういうふうに描くというのは、おもしろいわね。うっかり足をすべらせたぬい針だんなが次の日になっても帰ってこなくて、「まち針おくさんは、しんぱいのあまり、ますますほそくなりました」とか、ドアと床のすきまを通り抜けようとして、じまんのピンクの真珠でできた頭がじゃまになるところなんかは、とてもおもしろかったから、そういうエピソードがもっとたくさんあればよかったと思う。まち針おくさんをもっともっと活躍させてほしかった。ネコや掃除機にだんなのいそうな場所を教えてもらったり、バッタの葉っぱに便乗させてもらったりというのではなくて、人の手を借りずに、一人でもっとがんばってほしかった。その辺は残念。

オカリナ:ここに向かう電車のなかで読み返したんだけど・・・。たしかに古いタイプの夫婦の在り方よね。作者は、ちゃんとこういうお母さんをやってるんだな、と感心したの。

ひるね:あっ! 今、たいへんなことに気づいちゃった!

一同:なになに?

ひるね:あのね、針山っていうのは一夫多妻制なのよ。だって縫い針は1本でいいけど、まち針1本じゃ、縫えっこないもの。

ほぼ全員:ほんとだ!

ウォンバット:そうよお。私、最初からそう思って読んだ。だからナンセンスとしておもしろいんじゃないの?

ひるね:どうせなら、役割を入れ替えて「一妻多夫制」にしちゃったら、もっとおもしろかったかも。

モモンガ:それは新しいかもね。絵もねえ、いいんだけど・・・。でも長さんの絵はもう見なれてるから、新鮮味がなかった。「またこの絵か」って感じは否めない。はじめてこの絵を見る子どもはいいかもしれないけど。

ウンポコ:長さん、ノッてなかったんじゃないの? これはあんまりよくないね。猫の絵なんか、親切に教えてくれるというところなのに、とっても意地悪そうな顔に描いてある。

ひるね:破天荒なナンセンスだったら、長さんももっと力を発揮できたのに。残念ね。夫婦を描いたものでも、イギリス昔話の「お酢だんな」なんてとてもおもしろいナンセンスなんだけど、そこまでいかなくても、翔んでるところがあったらおもしろかったのに。『冬のおはなし』もそうだけど、いい人ばっかり出てきちゃうでしょ。『ふらいぱんじいさん』(神沢利子作 堀内誠一絵 あかね書房)のようなインパクトの強さが必要だと思う。お話を聞かせるときの効果やテクニックをよく心得てる人だから、うまいなと思うところは多々あるけど、登場人物に、もう少し個性がある人、思いを託せる人が一人でも、というか「ひと品」でもあれば、もっと違ったと思うのよ。ところで、読み聞かせって、難しいわよね。

ウンポコ:音読してみると、いろんな発見があるんだよ。この作品も音読してみたけど、どうもイメージがわきにくかった。とくに、どうしても許せないと思ったのは、床とドアのすきまを通
り抜けようとするところかな。「足からはいってみたり」「右をむいたり」「左にうごいたり」と3ページもめくらせておいて、「さんざんくろうして、やっと、戸だなの中に入ることができました」ですませてしまってるところ。これでは、子ども読者は納得しないよ。「どうなるんだろう?」と思って読んでるのに「さんざんくろうして」だけじゃ、この3場面はなんだったんだあ! っていいたくなるでしょ。

モモンガ:さんざん苦労したから、頭がちょこっと欠けてしまいましたっていうなら、おもしろいのにね。ストーリーテリングのときにはとてもいい作品でも、本にするときには、構成を考え直さないとまずかったんじゃないかな。

ウンポコ:まち針おくさんが、掃除機のゴミの袋を「ふみやぶる」っていう表現があるんだけど、針は細い一本足なんだから、踏み破れないよね。

愁童:頭がまだ外にあるのに、だんなのゴミの袋の中で光っているのが、なぜ見えるんだろう……とか。

モモンガ:絵本と物語の橋渡し的存在のこういう本こそ大切なのに、ちょっと残念ね。対象年齢がこのくらいのもので、何かいいものが出てきてほしいわ。

ひるね:私たちでつくっちゃおうか?「一妻多夫制」の『まち針だんなとぬい針おくさん』。たくさんの「まち針男」を従えた「ぬい針おくさん」の話。すきまを通り抜けたあと、「まち針男」の自慢の頭がちょこっと欠けちゃう……。

一同:いいかもね!

(2000年04月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


シンシア・ライラント『人魚の島で』

人魚の島で

ひるね:美しい本ね。さびしい感じがするけど、読みおわったあとに幸福感がある。同じ著者の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』(中村妙子訳 偕成社)も、お天気雨のような明るいさびしさが感じられて、幻想と現実のはざまにあるようなところが好きだった。この作品は訳も、すばらしいわね。竹下文子さんを訳者に選んだのは、大成功だと思う。「ライラントは、このごろ神の世界に近づいている」とか。最近の絵本も、天国にいく前にみんなが暮らす村を描いた話らしいけど、信仰が一種の明るさになってるのかしら。でも、私としてはあんまり神さまに近づいてほしくない。ただ明るいだけになっちゃったら、心配。

ねねこ:静かな時の流れを感じるいい文章よね。小品という感じで・・・ううん、悪くはないんだけど、すごーく惹かれるということもなくって。あんまり深読みしなくていい物語なのかな。ね、この話はつまるところ、アンナがダニエルを守ったってことなのかしら?

ひるね:考え方によっては、ダニエルが島から出ていかないようにしたっていうことにもなるわね。

ねねこ:新人賞の応募作品なんかに、こういう話ってよくあるよね。おじいさんと孫息子の二人暮らしで島に住んでて・・・とかね。大学生とか20代の女性が書くものに多いパターン。

ひるね:小道具に鍵が出てくるのとか、ひとつまちがえば陳腐になりそうだけど、そうなってないところが、いいわね。

オカリナ:全体がありそうなお話になってて、最後のところ、箱づめの犬が出てくるところだけ現実にはありえない出来事になってるのよね。いろいろ象徴的・寓意的に解釈できるんだろうけど、分析しはじめるとなんだかつまんないね。そのままにしといたほうがいい。

ねねこ:分析しないで、ただ味わっておけばいいんじゃない。安房直子の世界ではなくて、あまんきみこ的世界だと思う。感想が言いにくい。

愁童:好みの物語のはずなんだけど、あんまり心に残らなかった。なんでだろ? 文章が悪いわけじゃないけど、文脈から訴えるパワーが不足してるんじゃないかと考えたんだけど。翻訳がいまいちしっくりいってないんじゃないだろうか。だって、日本語がちょっとわかりにくいよね。「人魚の名前は知っているけれど、その謎は謎のままだろう」というとことか、意味がよくわかんない。雰囲気はいいんだけど、きれいなだけっていうかさ。アタマでは俺向きの話だぞ、それにウンポコさんも喜んだだろうななんて思ったんだけどさ……。

ひるね:愁童さんが求める水準まで到達してなかったということかしら?

ウォンバット:私は、こういうの好き。淡々としててロマンチックで、不思議な出来事がおこる物語。あんまり強烈な印象はないんだけど、ぽわっとあったかい感じ。『自分にあてた手紙』(フローレンス・セイヴォス著 末松氷海子訳 偕成社)みたい。小道具が素敵。人魚のくしとか、おでこに白いダイヤのもようがついたラッコとか俗っぽくなりそうだけど、そうならないようにうまくできてる。絵も好き。「人魚の名前は知ってるけど、謎は謎のまま」というあたりも、別に気にならなかった。たしかに日本語として、わからないといえば、わからないんだけど。この物語全体が、ダニエル自身本当にあったことなのかなと思うような夢みたいな出来事だし、どうして人魚が自分の前にあらわれたのかは、本当のところわからないわけだから、「謎のまま」でいいんじゃない? それから、嵐のあとたくさんの死を目撃して、その3年前の自分の両親の死をうけいれられるようになるというのも、納得できる。

オカリナ:おじいさんも死んじゃったあと、ふだんつきあいのない村人たちが、いざとなったら助けてくれるところとか、あったかいよね。

ねねこ:そういえば、神の世界に近づいてるって言ってたけど、海も空も動物たちもみんな生命の循環を感じさせるものだね。

オカリナ:ところで、この本は、一体だれが読むんだろうね。読者対象は、何歳くらいなんだろう? だって小学生から読めるようにつくってるけど、小学生や中学生が対象ではないように思う。若い女の人や、おじさんたちが読むのかしら。ひとつの雰囲気を提出することを目的としてるのなら、それはうまくいってると思う。寓話みたいなことだと思うんだけど、淡々とロマンチックな世界そのものを描いているのよね。普通なら、まるっきり孤独な人生を送るはずだった少年の人生の扉が、広い世界にひらかれていくというところは、とてもおもしろいと思ったんだけど。

愁童:一つの雰囲気をとらえるのが目的というのであれば、これでいいと思うよ。

ねねこ:新人は、おおむね多弁すぎるのね。これだけささっと書けば、ボロはでない。

オカリナ:甘いだけじゃなくて、その先に何かあるんじゃないかと思うんだけど、書いてないからね。

ねねこ:立原えりかの世界を思い出した。彼女の世界にも、ちょっとわからないところがあるから。

ひるね:うまいといえば、うまい。

オカリナ:だけど、愁童さんが「もどかしい」というのも、わかる。

愁童:イメージが、いまひとつわいてこないんだよ。

ねねこ:挿絵はなくてもよかったんじゃない? ささめやさんの良さがあまり出てなかった。全体に軽すぎて。

オカリナ:愁童さんを「大人」としたら、大人にとってはこの絵はじゃまになるよね。

愁童:この作品を読んで、「童話とはこういうものだ」と思われたら、困るなあ。

 

(2000年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


高楼方子『十一月の扉』

十一月の扉

ひるね:これは、読むのに苦労した。後半は、もうとばしとばし。英国ファンタジー好きというか・・・。そういう人向けなのかしらね。需要があって供給があるわけだから、読む人がいるんだったらいいとも思うけど、ときどき文章がわからなくなるところがあるの。土曜日に始まったのに、知らないあいだに日曜日になっちゃってたり。文章を、もっと磨いてほしい。やさしい言葉とむずかしい言葉が無造作に出てくるんだもの。絵本や幼年童話はいいものを書いている作家なのに、長編となると、またちがうんだなと思ったわ。それに、登場人物がどうも好きになれなかったの。女の人ばかりなんだけど、みんな似てるし。描きわけようとしてるのは、わかるんだけどね。とくに嫌だったのは、主人公のお母さん。働きもせず、近所づきあいもせず、ビデオ三昧していたくせに、引っ越して、ちょっとインテリの女性と知り合ったとたんに豹変したりして、ヤな女! インターネットで、誰かが「10代の女の子が、大人の女の人もいろいろ考えているのを知って成長していく話」って書いているのを見たけど、「どこが?」と思っちゃった。

ねねこ:登場人物に、温度が感じられないのよね。女たちにリアリティがないの。頭の中で状況だけつくってて、生きている人たちの体温が伝わってこない。読んでいくうちに、だんだん嫌な気分になってきちゃった。主人公の爽子も気持ち悪い。15歳なのに、おばさんたちの自己肯定的な井戸端会議も嫌にならないなんてヘンじゃない? 気色わるいよ。どうしてみんなこの作品を褒めちぎるんだろ? 力作とかいって。

ひるね:力作っていうのは、厚さのことじゃないの?

ねねこ:たしかにボリュームはあるけど……(厚さ2.5センチ、336ページ)。爽子って、すごーく作りあげたいい子、数十年前の少女って感じ。

愁童:困りますね、こういう作品は。日本の児童文学の衰退の象徴! 「11月の扉をあけると、そこには荒涼たる児童文学の冬の世界がひろがっていた」ってなところかな。どうして、文章がうまいとは思えないのに、評判いいのかねえ。「何ということもない素振りで、電話のお礼を閑さんにのべて部屋に戻った爽子は」なんて出てくるんだけど、お礼をのべるって、何ということもない素振りでできるの?なんて、毒舌吐きたくなる。それに、爽子は中学生なのに「お礼をのべる」なんて表現されちゃっていいの?「こうべをたれる」とかさ、古い言葉が突然出てきたりして、新しい言葉と古い言葉が混在していて、バランスがとれていない。どうもこの作者、さわやかな人じゃなさそうな感じ。「学校をさぼったら、いい点をとっても、いい成績はもらえない」なんて発言、うちの近所のヤなおばさん連中みたいな物言い。日本語の問題点も多々あるよ。「ちょっと憮然とせずにはいられない」なんて出てくるんだけど、「憮然とする」って言葉、おわかりいただいてないんじゃない? それに「解放されてるなあ」なんて言うか? 「なにものかがやってくる」って「なにもの」って見てんじゃねーか? とか。耿介がノートを見つけてくれたいきさつだって、妙だよ。お母さんに自転車の乗り方を教えるなんて、健全な中学生男子のやることかあ? まったくシュークリームみたいな、つくりものなんだよ。もう気持ち悪い。じんましんが出るほど、気持ち悪い。

ひるね:地に足がついていないとか、体温が感じられないと批判されるのを予想しているのか、言い訳してるところもいっぱい出てくるわね。朝ごはんの場面とか。「今日は洋風だけど、和風のときもあるのよ」、なんて。「十一月の扉の向こうでは、みんな品よくみごとにふるまいました」となってるけど、私、実は登場人物がみんな死人でしたっていうオチかと思いながら読んでいたわ。

ウォンバット:「月刊こどもの本」(2000年4月号、児童図書出版協会)の「私の新刊」のコーナーで、高楼さんがこの本について語っているんだけど、なんだか言い訳と開き直りに思えちゃって。「結局、これは三十年前の中学生の物語だ。だが、マスコミがどんなに中学生の変貌ぶりを叫ぼうとも、こういう少女は常にいるものなのさとうそぶきながら、今の物語として書いてみた」なんて。

ねねこ:『時計坂の家』(リブリオ出版)のほうが、作家としての一所懸命さが感じられた。こういう作品が評判になるって、よくないよね。ちゃんと批評もしないと、作家のためにもならないんじゃないかな。

愁童:幸せですよね。文章にはひっかかるけど、お話はつまずくところが全然なくて、すいすい進んじゃって。

ウォンバット:私は乙女チック好きから抜け出せない質だから、すてきな洋館とかね、設定はいいなと思うところが、あったの。しかーし! 中に出てくるお話は許せん! ないほうがよかったと思う。だってまるっきり真似でしょう。『たのしい川べ』(ケネス・グレーアム著、岩波書店)や『クマのプーさん』(A.A.ミルン著、岩波書店)の影響を受けているというのはいいけれど、そこで自分を瀘過して、新しい世界を構築しなくちゃだめだと思う。真似だったら、オリジナルを読んだほうがいいでしょ。とくにロビンソンの手紙は、ひどい。「ち」と「さ」をまちがえてる手紙なんだけど、これ「ぼくてす。こぷたてす」のパロディでしょ。これは「プーさん」に対する冒涜だわ。このあたりで、もう心底嫌になって「ドードー森の話」は飛ばして読んでしまった。

オカリナ:高楼さんの作品は好きなのも結構あるし、この作品も世の評判はとてもいいんですけど、私は楽しめませんでした。不幸なというか、作者にとって不本意な形で出版されちゃった本なのかな。改行の処理もばらばらだったりするから、編集の人がちゃんと見たりしてないのかも。「週刊新刊全点案内」(1998.1.6日号〜1999.3.30日号、図書館流通センター)に連載していたのをまとめたものなんでしょ。毎回締切に追われて書いていて、手を入れるひまもなく1冊にされちゃったとか。この「ドードー森の話」は自分が小さい頃に書いた話なのかしら? もしそうなら、高楼さんのファンの人には、ああ、この作家は、こういうところからスタートしたのかっていう興味はわくと思うんだけど、肝腎の物語自体はあまりおもしろくない。もう一つ気になったのは、恋愛の部分なんだけど、耿介との疑似恋愛はまったく外側のかっこよさを問題にしてるだけ。『スロットルペニー殺人事件』の舞台になっている100年前の時代ならいざ知らず、こんなんでいいのかな。

ねねこ:この作品自体が、高楼さんにとっての「ドードー森ノート」なんじゃないの?

オカリナ:作家が「人間」と向き合ってないように思います。耿介にかぎらず、登場人物みんなに言えることだけど、おたがいのつき合い方が表面的なのね。「共生」を描くというのなら『レモネードを作ろう』(バージニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)みたいに、ちゃんと衝突して、それからつき合い方を探っていったりするところを書いてほしかった。

ひるね:ファンのためだけに書いてるって感じ。

ねねこ:「品がいい」をやたら強調してるのがハナにつく。

オカリナ&ひるね:登場人物が生きている人として感じられない。死んだ人はみんないい人っていうけど、死人じゃないかぎり、こんなのありえないな!

愁童:大人が、いかにこの世代、中学生に無関心かってことだよ。

オカリナ:現実は、もっともっとキビシイものなのに。

愁童:『ビート・キッズ』(風野潮著、講談社)のほうがずっと健康的。

ねねこ:『ことしの秋』(伊沢由美子著、講談社)の対極かも。

ひるね:でも、『十一月の扉』のほうが好きっていう子もきっといるわよ。大人の本なら葛藤がありそうな設定なのに、なあんにもないのよね。

ねねこ:理想の世界を描いたんじゃないの? 葛藤の部分は何ひとつ描かれてないんだけど、葛藤がなければ成長もないよ。

ひるね:キロコちゃんの話もどうかと思ったけど。どっちもリアリティがない。絵本には、けっこういいものがあるのにね。

オカリナ:やっぱり、ぶつかりあいを描いてこそ、作家だと思うけどな。

ねねこ:『ココの詩』(リブリオ出版)のときも思ったことだけど、形でいく人なのかな。

愁童:このごろの児童文学作家は、趣味的な世界に走る人が多いね。梨木香歩とかさ。

ねねこ:しかも、ちょっとかたよってる。柏葉幸子は「プーさん」や「マザーグース」や宮沢賢治や、いろんなものを読んでいて、それが自分の土着のものとうまくミックスされて、独自の雰囲気をかもし出していると思うけど。

愁童:そんな中で、森絵都は今の時代を意識してて、そこでチャレンジしていこうという心意気が感じられる。ちょっと違うよ。

ひるね:この作品を読んで「児童文学とはこういうものか」と思われたら、嫌だな。

愁童:登場人物をもっときちんと描いてほしい。

オカリナ:おままごとの世界みたい。でも、そこがいいんでしょうか。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ロジャー・J・グリーン『スロットルペニー殺人事件』

スロットルペニー殺人事件

ウォンバット:私はものすごく怖かった。前半は表現がくどくどしてて、盛り上げようとしすぎの観アリだけど、でもひたひたと迫りくる恐怖を感じた。ジェシーがスロットルペニーの罪をノートに書きつけているところ、彼女はそうしなくては耐えられないくらい苛酷な毎日を送ってたんだと思うんだけど、私も同じような秘密のノートを書いているから、どうも他人とは思えなくて、もうジェシーの気持ちになりきって読んだのね。「罪の本」は、私にとっては、このうえなく恐ろしい小道具。ふとんの中で本を読むのが私の至福の時間なんだけど、この本を眠る前に読んでたら、怖い夢を見てしまった。それからは、電車の中で読むようにしたの。

ひるね:私も、読んだあと怖い夢をみた! 自分が殺人を犯す夢、昔からよくみるんだけど……。

ウォンバット:犯人は、エマ・ブリッドンが手を洗うところですぐわかったから、あとはもうジョンが助けに来るのか来ないのかだけが心配で……。ジェシーへの愛というより「良心が勝つのか」「自分かわいさが勝つのか」ということだと思うんだけど、もうどきどきしちゃった。

愁童:重苦しい雰囲気がよく描けている。重苦しい時代の雰囲気というのかな。登場人物も、くどいくらいにしっかり描きこんでいるし。謎ときは、途中でわかっちゃうんだけど、犯人を推理することに主眼をおいてるわけではないんだよね。

オカリナ:この話は犯人捜しではなくて、サスペンスなのね。

愁童:今のイギリスにも残ってる労働者階級と上流階級の差を単純化して、わかりやすくしてる。よく考えられていると思うね。でもさ、これハンサム・ジャックも冤罪だったわけでしょ。走っていった牧師も刑の執行には間に合わなくて、結局証拠の手紙を破るんだけど、読者はこれをどう解釈するか、問われてると思う。まあジェシーが助かったからいいような気もして、破って捨てられちゃっても、ぼくはそんなにくやしくなかったんだけどさ。読者に対する挑戦かな。死刑廃止を訴えているとも、とれるよね。

オカリナ:この作家は死刑反対を訴えてるかどうかは定かでないけど、死刑に疑いをもってることは、たしかだよね。

愁童:それとも、人が人を裁くのは、簡単なことではないという暗喩なのか。

オカリナ:現世で人が一人もう死んでるわけだから、それで十分だっていうことじゃない? 牧師だからさ。

ウォンバット:死刑になったのは一人だけど、みんな罪の意識に苛まれて苦しむでしょ。ジェシーもジョンもエマ・ブリッドンも。ハンサム・ジャックだって酔って暴れたりしてて、もし死刑にならなかったとしても、この先以前のように戻れるとは思えない。だからみんな責めは負ってるんじゃない?

ひるね:みんな気の毒よね、たいへんな思いして。スロットルペニーは、最初に死んじゃって一番楽だったかも。

愁童:考えはじめると、アタマが痛くなるよ。でもさ、真犯人がわかるようにちゃんと計算されてるところがすごいよね。

ひるね:少年少女も容赦なく死刑にされる19世紀ならではの物語。とてもおもしろかった! 設定も登場人物もしっかりできてる。私は、死刑廃止を訴えたのではなくて、純粋にエンターテイメントとして書いたんだと思うな。でも、これだけのものを読めるなんて、イギリスの子はいいわね。でもどうして訳文を「ですます調」にしたのかしら。読んでて、かったるかった。原文は19世紀調の迫力あるものだったでしょうに。基本的に小学校高学年以上のものは、「ですます調」でないほうが、いいと思う。途中から自分で「だ調」に翻訳しながら読むようにしたら、すごくよくなった。The Times Educational Supplementには「時代の雰囲気をよく伝えている。働いて働いて、それでも貧しさや苦しみから逃れられないという当時の子どもたちの暮らしを、今の子どもたちも知ることができる。この本の教訓は『大人は頼りにならない』ということ。11〜15歳くらいの子どもたちの共感を得ることができるだろう」と書いてある。それにしても、冤罪で死刑になるジャックは気の毒ね。後味が悪い。最後は子どもが助かるっていうところが、やっぱり児童文学。

オカリナ:この本、表紙がこわい。この表紙では自分から手にとることはなかったと思う。こういう機会でもなければ読まなかった本だけど、読んで本当によかった。なんといっても、人物像がしっかり描けている。私は、上流階級と労働者階級という区別とは思わなかったんだけど。上流階級の中にもいろんな人がいて、たとえば自分の名誉のために裁判を利用しようとする人なんかも出てくるでしょ。そういう個々をきちんと描いていると思うから。「良心がささやく」というのは、宗教がある国だからこそよね。日本では成立しにくいテーマ。ジャックの死も、逆にリアル。あの看守のミセス・サッグも、すごいよね。「たぶん、いまから百年後、1985年には、少女たちは、少年たちの言うことを、いまほどは信用しなくなっているだろう・・・」って、ジョンをにらみつけたりしてるの。『十一月の扉』とは、なんたる違い! 百年後の物語であるはずの『十一月の扉』の女の子は、いまだに夢のような疑似恋愛なんてしてるんだもん。人物の描き方の対比という意味で、『十一月の扉』と一緒に読む価値あったね。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


阿川佐和子『ウメ子』

ウメ子

ねねこ:のどかな幼年時代を回顧的に描くってジャンル、あるよねえ。今村葦子の『かがりちゃん』(講談社)とかさ。そういうものをだれに向けて書き、そしてだれに読ませるべきか悩むなあ。これもその一種だと思うけど、後半がおもしろくない。予定調和的で。今年の坪田譲治賞がこの作品かと思うとね……大人と子どもとが共有できる、という選考基準の坪田賞も苦しんでるんだなと思う。

ウォンバット:おもしろい話だけど、大人向けだね。ちょっとうすっぺらで非現実的。だって幼稚園児が、こんな手紙書ける? ひとりで1時間も読書できる?

ひるね:たしかに幼稚園の子どもでは、ありえないわね。手紙や本もそうだけど、なんといっても、意識の持続が小学校3〜4年生のものでしょう、これは。不自然さを感じる。

ウォンバット:そうね。能力は大人のまま回顧して、幼稚園児を演じてるって感じ。物足りなさは否めない。でも阿川佐和子って2世だし、タレントみたいな人かと思ってたんだけど、案外ちゃんとしてるから、見直しちゃった。「ちびまる子ちゃん」みたいなおもしろさがある。きょうだいの関係なんて、とてもよく描けていると思う。手を引っ張ってもらったあとは、お返しに水くんであげたり、背中をさすってあげたり、やさしくしてあげないといけない、とかね。こういうきょうだいの機微ってあるよね。でも、ちょっと変わった転入生であるウメ子が、サーカスの家の子だったって設定は古い。昔「悪いことすると、サーカスに売られちゃうよ」っていわれてた世代の人らしい設定。

ひるね:ノスタルジーを描きたいっていうのは、わかるんだけど。同世代の人のノスタルジーをそそる本なんだろうね。

ねねこ:でも、時代がちょっとよくわからない。テレビはあんまり出てこないでしょ。紙芝居がもう珍しくなってる時代なのに。わざとぼかしてるのかしら。ノスタルジー本はノスタルジー本として、成立する意味はあるのかな?

ひるね:読みたいって人がいて売れるから、いいんじゃないの?

ねねこ:これは、やっぱり阿川佐和子で成立してる本なんだろうね。無名の人がこれを書いても、本にはならないでしょ。

ひるね:まあ、いい気持ちで読めるけど。群ようこの『膝小僧の神様』(新潮社)なんかは、もっとぴりっとしてたわね。『ウメ子』は、書きたいものがあって書いたって感じがしない。「これを書きたいのよ!」ってものが、感じられないのよ。ウメ子のお父さんが家を出た理由なんかも、うそっぽい。大人の体臭が感じられない。

(2000年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』

ハリー・ポッターと賢者の石

(『黄金の羅針盤』を参照)


フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』

黄金の羅針盤

注:時々勘違いをなさって怒りのメールを下さる方があるので、バオバブより一言申し上げます。『ハリー・ポッターと賢者の石』については、「つまらなくて最後まで読めなかった」一人を除き、ほかの参加者は最後までこの本を読み通したうえで感想や意見を述べています。「続きが読みたくない」と言っている「続き」は続編のことです。

 

:この2冊(『ハリー・ポッター』と『黄金の羅針盤』)は同時期に日本で発売されたファンタジーで、どちらもいろいろな意味で話題になってる本だけど、とても対照的な作品だと思うの。だから、2冊を比較しながら話を進めることにしない?

一同:賛成!

モモンガ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』は、期待ほどじゃなかったな。あちこちで、絶賛する記事を見ていたから、とても楽しみにしてたんだけど。日常生活の中に魔法があるってやっぱりおもしろいことだし、ハリーが魔法学校に入学するまでのあたり、導入部分はとても魅力的だと思ったの。でも、学校生活のドタバタで、ダレちゃって。なんだか主人公に魅力がないのよね。ハリーは欲のない純粋な子で、そんな性格が鼻につくこともあって、いじめられちゃうわけだけど、そういうのって大昔からあるパターンでしょ。ハリー自身には成長もないし、深みを感じられるキャラクターじゃないし。いうなれば、アニメの世界よね。ハグリットの存在も陳腐な感じ。体が大きくてちょっと怖そうなんだけど、実は心やさしい愛すべき人物っていかにもディズニーが好きそうなキャラクター。そのままディズニー映画に出てきそう。『ハリー・ポッター』がアニメとしたら、『黄金の羅針盤』は実写 ね。物語世界に奥行きがあるの。人物の描き方にしても全然違うでしょう。主人公ライラは欠点もあるんだけど、子どもらしくて生き生きしてる。ダイモンの存在も、とてもおもしろい。ダイモンは、守護天使のような存在なんだけど、それが動物の姿をしていて子どものうちは変身できるのに、大人になると姿が定まってしまうとか、人間の性格と動物の性格は密接な関係にあって、動物の姿はその人の性格を表すことにもなるんだけど、みんなが自分の望む姿のダイモンを手にいれられるわけではないとか、とてもよくできてておもしろかった。ひとつの状況を説明する場合の文章の表現がうまいので、出来事だけを追っていくのではなく、文章の表現を楽しむ喜びがある。『黄金の羅針盤』は3部作だということだけど、ぜひ続編が読みたい作品。『ハリー・ポッター』は、もう続編を読まなくてもいいかな。

ウォンバット:私は、どっちもイマイチだった。『黄金の羅針盤』はスケールが大きくて壮大なファンタジーだなあと思うけど、物語には最後まで入りこめなかった。なんだか、ダイモンの大切さが伝わってこなくて。動物の姿をしていて変身するなんて、たしかにおもしろいんだけどねえ。全体的におどろおどろしくて、暗い雰囲気なのもあんまり好きになれなかった理由かな。寒々しいんだもん。あと、ライラは大学の寮で本当の両親を知らずに育ってて、物語が進んでいくにつれて、自分の両親が誰なのか、そして彼らがいろいろな意味で対立していることを知るわけだけど、そういうことに対する葛藤がまるっきりないのも不自然な感じ。父母とか家族から解き放たれた存在なのかもしれないけど、でも、少しは何か感じそうなもんじゃない? 『ハリー・ポッター』は、つまらなくて最後まで読めなかった。誤植も多いし、ルビの不統一とかそんなことばかり気になっちゃって。

パブロ:誤植、ホント多いよねー。読みながらイライラした。23刷なのに、全然直してないんだね。書体をいろいろ変えてるのも、うるさくて嫌だな。

ウォンバット:そうそう! なんだか、おしつけがましいの!

ひるね:編集者は、そういうことが気になるのね。ねえ、ところでどこまで読んだの?

ウォンバット:魔法学校に入学するあたりかな。それまではなんとか我慢して読んでたんだけど、やっぱり学校生活に入ったら、おもしろくなくて、力つきたって感じ。総括してみると、「久しぶりに厚い本を読んだなあ」っていう印象。だって『黄金の羅針盤』は528ページ、厚さ 3.5センチ。『ハリー・ポッター』は 464ページ、厚さ3センチよ!

:この2冊は、系統も読者層もまるっきりちがう作品よね。『ハリー・ポッター』は、さっきも話が出たけれど、アニメ的。主人公や、それをとりまく人のキャラクターの描写が弱くて、みんな、まさにディズニーキャラクター・タイプ。派手な小道具を使ってチャンバラをしてるだけで、「スターウォーズ・エピソード1」みたい。ファンタジーのおもしろさに徹しているだけ。作者が物語にふみこんでなくて、ファンタジーがアイディアの一部でしかないの。だから結果的にドタバタで終わっちゃってるんじゃない? アイディアはいいのに、残念だわ。なにか伝えたいこと・・・たとえば主人公の成長とかね、そういうことを伝えるためにファンタジーという形式を選んだというのがイギリスの伝統的なファンタジーだと思うんだけど、そういうのとは根本的に違うと思う。
いっぽう『黄金の羅針盤』は、イギリスの伝統的ファンタジーの流れをくんだ作品。伝統的なもののなかに、現代的なものをうまく織り込んでて、イギリスファンタジーの良さを感じる。プルマンは、イギリスの伝統的ファンタジーをよく理解していて、あえてそれを壊そうとしてるんだと思う。そうそう、彼は「壊す」ことを意識してるポストモダンの作家。最新情報では、この作品は3部作じゃなくて4部作にする予定らしいんだけど4作目で「壊す」ために、3作目まではしっかりした世界を構築したいって言ってた。彼の意識は児童文学作家というより、大人向けの作品を書いている作家と同じ。描写力もたしかで、ていねいに描き込んでいるから、作品が長くなるわけだわーと思うけど、オックスフォードのハイテーブルのおごそかな感じとか、とてもよく伝わってくる。そこにミステリーもうまく使っているから、読者はぐいぐいひきこまれるよね。ところで、この本の帯、強烈じゃない?

ひるね:表1側は「『指輪物語』『ナルニア国物語』『はてしない物語』に熱中したすべての人に」ってコピーが入ってて、背は「今世紀最大の冒険ファンタジー」となってるんだけど、これ、プルマンが知ったら怒っちゃうと思うわ。だって、彼ははっきり『ナルニア』を批判しているのに、その『ナルニア』といっしょにされてるなんてねえ。日本語が読めなくてよかったね。

ねねこ:私は『ハリー・ポッターと賢者の石』しか読めなかったけど、楽しめなかった。緊張感が持続していかなくて。作者が何を目的に、というか、何を解決しようとしているのか、わからなかった。思索、哲学の深みがないし、人間造形にも魅力が感じられない。この作品を楽しめる人が確実にいるらしいというのは、どういうこと? って考えこんじゃった。深いものを表現するための装置としてのファンタジーではないという気がするのよね。どこかに重いメッセージを求めてしまう、自分の読書姿勢がまちがっているのかな、なんて悩んじゃいました。柏葉幸子さんの世界と近いけど、彼女のほうが、もうちょっとこだわりのあるテーマが見え隠れしてると思う。エンターテイメントと思って割り切れれば、いいんだろうけど。それにしても、朝日新聞はどうしてあんなにほめるのかしら。何回もとりあげたりして、ちょっと異常よね。あの「天声人語」(2000.2.13)は、ひどかったね。

一同:ほんとほんと!

オカリナ:でもさ、そろそろ批判が出てくるころなんじゃないの? 『ハリー・ポッターと賢者の石』も『黄金の羅針盤』も同時期にイギリスで出版されて、どこの出版社もねらってたんだけど、版権がすごーく高くて、結局2冊とも子どもの本専門ではない出版社から、一般向けに出版されたわけでしょ。それで『ハリー・ポッター』は宣伝も上手で、メディアも利用してブームになったのね。マスコミの功罪は、大きいよね。私は『ハリー・ポッター』は、「本嫌いの子にも本好きになってもらう」ところに出版の意義があると思うの。英語圏でもドイツでも、そういう読まれ方して、それで大きな話題になったのよね。ドタバタだっていいじゃない!? おもしろければ。その本その本で、果たすべき役割が違ってていいと思うから。でもねえ、この本づくりでは、その魅力も伝わらないよ。本嫌いが本好きになるような本づくりをしてほしかった。このブームも裏を返せば、ファンタジー慣れしていないおじさんたちが、喜んでるってことじゃないの? だって、物語は、伝統的イギリスファンタジーからしたら「なにこれ?」って感じでしょ。これだったら『ズッコケ三人組』(那須正幹著、ポプラ社)のほうがおもしろいと思うもの。要素があれば、ひっぱっていけるのに、もったいないよね。ほんと残念。
『黄金の羅針盤』は、表紙を見て期待しました。そして、読みました。でも、私はちょっとがっかり・・・。理知的な作家だから、実に緻密に世界が構築されてて、こことここがこうつながってなんて、整合性はすばらしいけれど、作品してはおもしろいと思えなかった。プルマンがオックスフォードや教会に敵対してて、C.S.ルイスを批判してるのは、作品からもよくわかるけど、これなら「ナルニア国物語」(岩波書店)のほうが、おもしろいと思う。頭は惹きつけられるけど、心は惹きつけられないっていうのかな。ポストモダンの作家だっていうことだけど、なんかていねいに訳しすぎてて、それにも惹きつけられなかったのよね。ポストモダンも、作者の意識としてはいいけど、子どもには魅力ないんじゃない? 父母の人物像も人間としての造形が感じられなくて「どうして?」って感じ。これじゃ、ゲームのキャラじゃない? ダイモンとか白熊はおもしろかったけど。白熊のイメージは、スーザン・プライスの『ゴースト・ドラム』(ベネッセ)あたりからきてるのかな。

:そういえば、イギリスでは教育制度の改革があって、エリート向けじゃない小説が必要とされてるって、何かで読んだわ。『ハリー・ポッター』は、そういう意味でも出現を待たれていた作品なのかも。

モモンガ:さっき、ハリーが魔法学校に入るまではおもしろいけど、その後はおもしろくないって言ったけど、イギリスの子にとってはおもしろいらしいわよ。学校の寮の雰囲気とか、懐かしいんだって。でも、大人が必要以上にもてはやすのは、おかしいよね。

パブロ:そうだよ。どうして大人が『ハリー・ポッター』をもてはやすんだろう。ぼくは、続きはもう全然読みたくないな。俗悪なもので何かを乗り越えるってこともあるから、それもまたいいし、それに、誤植とかあれだけの読みづらさを「仕掛けてる」のに、読み終える人がいるってのは、読書力の回復といえるかもしれない。キャラクターの造形が弱いのも、読むほうにしてみれば気楽だし、小道具には駄菓子屋っぽい楽しみもある。ドタバタだってちょっとずつ仕掛けてるから、小刻みな刺激が心地よいってこともあるだろうし、そんな欠点がそのまま受け入れられて、ポピュラリティーにつながっているのかもしれんけど。こんなにもてはやすに値するもんかねえ。寮でのできごとも、みみっちいよね。なんだか不思議なことが起こりそうな感じがしないんだよ。ハリーもヤなやつだし。あと、重箱のスミになっちゃうけど、小道具にも責任をもってほしい。だいたいクィディッチってゲーム、納得いかないよな。見てておもしろいワケ? と、きいてみたい。9と4分の3番線にしても、見かけ倒し。あちらの世界とこちらの世界をつなぐ大切なところなのに、あれはないよねー。
『黄金の羅針盤』はおもしろかったな。続きが読みたい。でも、実は父母だったとかさ、屈折が多くて気持ちがくしゃくしゃとなるよね。ダイモンは、変化していたのがいつしか一つの姿に定まるってことだけど、「成長」と「大人になること」の両面を描いてるのかなと思った。ちょっと露骨な感じがするけど、それもまた快く読める。「幼さに自覚的になることが成長だ」って谷川俊太郎が言ってたのが、印象的だったんだけど、でもそれは、おもしろさとはまた別の問題。それにしても、「寒い」物語だね。しんしんと身体が冷えてる感じがよく描けてる。

ひるね:ほんと、この冷たさはなんなんでしょうね。まさにプルマン・ワールドというべき作品。翻訳はたいへんだったと思うわ。彼は劇画、漫画好きなのよね。そういうものから影響を受けてるでしょう。この前の作品Ruby in the Smokeとか Clockwork(『時計はとまらない』偕成社)もよかった。ロジャーはいい子なのに、死んじゃって気の毒。もうちょっとなんとかできなかったのかって気もするけど。プルマン自身、『ハリー・ポッター』ほど売れないのを残念に思ってると思うな。『ハリー・ポッター』も、そろそろ反論が出はじめたみたいよ。フェミニストの中には、男の子ばかり活躍するって怒ってる人もいる。女の子の描き方がステレオタイプだって。ハーマイオニーも魅力がないし、他の女の子は、たとえばトロルが出てきたときも、かくれて涙をこぼしてるだけとかね。その点プルマンは『黄金の羅針盤』の主人公の女の子ライラも魅力的だし、前の3作もみんな女の子が主人公で気持ちがいい。『ハリー・ポッター』がなんで売れてるのか考えてみたんだけど、理由6つほど思いあたったの。ジェットコースターのようなストーリー展開、ステレオタイプで、わかりやすいキャラクター、トロルとか、おなじみのものが登場する、作者ローリングが劇的に現れたこと、言葉遊びのおもしろさ(日本語版では、それは生かされてないけど)、静山社ストーリー(夫の死で意気消沈してたところ、この作品に出会って感動。ローリングに直接アタックして、小さな出版社なのに版権を獲得したという美談)という6つ。
私は、原書を98年の夏の終わりか、秋のはじめごろに読んだのね。訳者の松岡佑子さんより早かったと思う。3冊3ポンドかなにかで、セールだったのよ。それで買ったんだけど、おもしろくて一気に読んじゃったの。で、もう一度読まなきゃなと思ったんだけど、2度読む気にはならなかった。トールキンの『ホビットの冒険』(岩波書店)とか、ル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)は、いいなあと思うところがあって、また読みたいなっていう気持ちになるんだけど、『ハリー・ポッター』には、そういう気持ちはわいてこなかった。たとえば『ゲド戦記』には、いくつも印象的な文章が出てきて、それぞれの1行こそが『ゲド戦記』の生命というか、とても大切な部分でしょ。この1行が読みたくて、もう1度読みたいなって気持ちになる。でもね、『ハリー・ポッター』には、「この1行」がないの。「おもしろさの質」について考えさせられた。「おもしろければ、それでいいの?」と思うのよね。『ハリー・ポッター』を出版する意味って、私もオカリナさんと同じで、「本嫌いの子を本好きにする」だと思うんだけど、それが現実にはうまくいっているのかどうかというところに、今、興味があるな。日本のマスコミは、こぞってたいへんな持ち上げようだったけど、そろそろ目をさましてほしいな。だって『ハリー・ポッター』よりおもしろいファンタジーって、たくさんあると思わない? この本のファンタジーは、借りものなのよ。絶賛はもういいから、「日本の児童文学にどんなインパクトを与えたのか」「子どもに確実に手渡されているかどうか」を、追及してほしい。この本、日本では大人向けに出版されたわけだけど、私はそのことに憤りを感じているの。もともとは子ども向けの本なんだから。こないだの「天声人語」(2000.2.13)だって、「名訳である」なんてやたらに持ち上げて宣伝に一役買うようなことはしないで、もっとちがう面をとりあげてほしかった。

愁童:さっきも出たけど、天声人語はほんとひどかったね。全然読まないで書いてるんじゃないの?

ひるね:『ハリー・ポッター』の翻訳は、いろんな人がつつきまわしてるのがよくないと思う。明らかに一人の人が一貫して訳してないから、ふつう翻訳って後半のほうがよくなるものなのに、この本は後半がいいかげん。『黄金の羅針盤』の訳も、子どもの会話に「彼」「彼女」なんて出てきて、子どもがそんなふうに話すかしらなんて初めのうち思ったけど、聞きづらくても味わいがある方言といっしょで、物語世界に入りこんでいくうちに、ごつごつした訳がだんだん気にならなくなったもの。

愁童:ぼくは『黄金の羅針盤』は読んでないんだけど、『ハリー・ポッター』の翻訳はたしかにいいとは思えなかった。『ハリー・ポッター』は、猫が地図を見てるとか導入はよかったから、これはおもしろそうだぞと思ったんだけど、読んでみたら詐欺みたいなもんだったね。これはさ、「創作」というより「構成・編集」。今まで読んできたファンタジーの集大成って感じ。イメージをつくる喜びが全然ない。こういうのが今の若い人には喜ばれるのかな。インターネットなんか見てても、小学校の先生で30代の女の人が、こないだここで読んだ『穴』(ルイス・サッカー著 幸田敦子訳 講談社)について書いてて「うまい。とってもおもしろかった」って推薦してたんだけど、その同じ人が「『ハリー・ポッター』はスゴイ!ここ10年で一番おもしろい作品だった」って大絶賛なんだよ。今の30代にはウケるのかなあ。

ウォンバット:私、30代だけど、ウケませんでしたよ。

愁童:まあ、人によるってことだろうけどさ。この作品はきれいなCGみたいなもので、油絵のような奥行きはないけど、CGのほうが好きって人もいるってことじゃない?

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジョアン・マニュエル・ジズベルト『イスカンダルと伝説の庭園』

イスカンダルと伝説の庭園

モモンガ:さっと読めておもしろかった。コメントするような要素はあんまりないんだけど。アラビア風の設定とか、異国情緒たっぷりのところが魅力的。すばらしいものをつくっても、上には上があったっていうのがいいよね。同じように芸術の世界を描いたロベルト・ピウミーニの『光草(ストラリスコ)』(長野徹訳 小峰書店)を思い出した。権力に対する飽くなき欲望もよく描かれている。大人があとから意味をくっつける必要はない作品。

ウォンバット:私は、絢爛豪華な庭のようすに、宝箱をみせられたような、美しいものを見せてもらったっていう喜びが感じられて、好きな作品でした。今回の4冊は、私にとって読むこと自体が修行のような苦しい本が多かったから、この本で、久しぶりにわくわくする読書の楽しみを思い出したわ。

:日本語版は、読者の対象年齢を低く設定してるでしょ。本のつくりが。この本のテーマは、飽くなき芸術への探求心が最後には勝つっていう美学だと思うんだけど、そういことを小学生に理解できるかっていうことに疑問を感じました。作者自身はどういうことを意図したんだろう? 美か権力か、どちらをとることが人間にとって幸せなんだろうね。ジズベルトの作品は『アドリア海の奇跡』(宇野和美訳 徳間書店)も読んだけど、おもしろかった。ちょっと難をあげれば、私にはこの庭の良さがわからなかった。絢爛豪華すぎて、すばらしいものがごちゃごちゃとありすぎちゃって。秘密の画策にしても、種明かしされたら、ガクッと拍子ぬけしちゃう。それから翻訳の問題だけど、希代の詩人が自分のことを「ぼく」っていうのもそぐわない感じ。

ウォンバット:私は、古風な表現もおごそかな感じを加えるスパイスで、わざと使ってるのかと思ったから、別に嫌じゃなかったな。

:まあ、徳間書店らしい本よね。あとフェミニストの立場から言わせてもらえば、女をとっかえひっかえ慰みものにするなんて、「それはないでしょう」と言いたい。

ねねこ:私は、寓話的な意味で、おもしろかった。美味しい一品料理をいただいたような、美しい手工芸品のようなうれしさがある。でも、この世界が理解できるのは、やっぱり中学生以上かなあ。小学生を読者対象とするのは、ちょっと無理があるように思う。それと、すばらしいといわれている詩が、私にはいいとは思えなくて、がっかりした。予言者のお伴の男の子ハシブが活きてないのは残念だったし、結末もちょっと肩すかしというか、もうひとつ工夫が足りない感じがした。庭園そのものを一つの罠にしてしまうとか、いろいろおもしろくできそうなのに惜しいね。全体としては、アラビアの雰囲気を楽しむ、よくできたファンタジーという感じ。

オカリナ:よかったんだけど、私も特別言うことないなあ。期待はずれの超大作2作と比べると、この作品は「佳作」って感じ。こうなるだろうなと思ったことが、その通りちゃんとおさまる安心感がある。あと、西洋の庭は日本の庭とは空間を生かすか、埋めるかという点で根本的にちがうのね。

ウォンバット:やっぱりガウディの国スペインの作品だから、庭のイメージがまた独特なのかも。

ひるね:私も庭の描写には、わくわくした。あれもある、これもあるって贅をつくした庭を想像したりするのって好きなの。お人形遊びのような喜びってあるじゃない。

ウォンバット:そうそう!

ひるね:この作品は、たしかに「佳作」だと思うな。一番おもしろいなと思ったのは、スペインではこういう作品を児童文学として、子どもに手渡すんだなあということ。芸術を中心にすえた作品て、児童文学にはあんまりないでしょ。芸術至上主義の国民性なのかしら。この本『光草』みたいな装丁にしたら、もっとよかったかも。

愁童:『光草』のほうが、こういう場所で話題にするにはおもしろいよね。『イスカンダルと伝説の庭園』は、定石にはまったおもしろさで、ひっかかりがないから、なにを話題にしていいか、困っちゃうな。一休さんみたいな、ひとつの知恵比べの話でしょう。おもしろいけど、とりたててわーわー議論できる本ではないと思うな。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


風野潮『ビート・キッズ2』

ビート・キッズII

ひるね:達者な大阪弁の作品よね。登場人物のキャラクターがステレオタイプで「じゃりんこチエ」と同じ世界。とくに、お母さんは美しくてか弱くて、すぐ病気になっちゃうんだけど、女性の作家がどうしてこういう母親を描くのかしら? 七生は、養子だからっていうことで悩むんだけど、これって一種の差別だと思う。「養子である」という事実を必要以上に深刻に描くのは、どうも気にいらないのよ。それから、音楽をテーマにしてるんだけど、音楽の楽しさが伝わってこなかった。彼らが一所懸命になっている、ビートの追求のおもしろさが伝わってこないの。この作品がもしも大阪弁じゃなくて東京弁で描かれていたら、つまらなくてとても読めなかったと思うな。

オカリナ:私、前回欠席だったからバツとして、日本の作品を決めなさいっていうことになって、この本は議論を呼ぶ本だからおもしろいかなと思って選びました。『ビート・キッズⅡ』ではいろんな賞をとってて(第38回講談社児童文学新人賞、第36回野間児童文芸新人賞、第9回椋鳩十児童文学賞を受賞)賛否両論ある本だから。今回図書館で借りようとしたら、区の全館で貸出中だったの。そんなに人気があるのかとびっくりしちゃった。大阪弁がおもしろくて、ノリでわーっと読めた。『ハリー・ポッター』と同じで、登場人物はステレオタイプ。七生って、絶対いるはずないキャラクターなんだけど、そういうことを深く考えないで、決まりごとのなかにどっぷりつかって進んでいけばついていける。でもさ、この年齢の男の子がジャズバンドとブラバンとを両方好きでやるなんて、私のまわりを見てるかぎりではありっこないと思う。そこはリアリティがないような気がしたな。

ねねこ:本を読まない子に本を読ませるための1冊としては、いいと思うんだけど・・・。今、評価が、混乱をきわめる代表的な本。この本を「新しい」とか「おもしろい」っていう人は、かなり古い人だとは思う。おもしろさのかなりの部分が大阪弁に頼ってる。べつに、それが悪いことではないし、それも一つの芸だとは思うけど。ただ、生活苦のために高校をやめるなんて、今どきピンとこないし、CDも知らない中学生がいるのかなとか、ちょっと不自然な設定はあった。だけど、本を読んだことのない中学生からファンレターがびしびし届くらしいよ。

オカリナ:中学生が手にとりやすいように、装丁とか本づくりに工夫があって、定価も安いし(1100円)、『ハリー・ポッター』よりずっと良心的ね。

ねねこ:たしかに、そういう努力はしてるけど、それだけでいいのかって気持ちもある。それだけじゃなく、漫画にはできないことをやってやろうじゃないか、ぐらいの意気込みはほしいよね。こういう本が売れると、自分がおもしろいと思うものをつくっても売れないんじゃないかって、少し心配になってきちゃった。

ウォンバット:ツッコミどころが多すぎる作品! あとがきによると作者は漫画も描いてたそうで、『ビート・キッズⅡ』の扉の絵もみずから描いてるんだけど、この顔まるっきり吉田秋生のマネ。それで、主人公の名前が英二ときたら、もう『バナナフィッシュ』でしょ。とすると、七生はアッシュそのものやん。天才で美形で、冷酷なところがあって、家庭環境が複雑で、人に言いたくないダークな出生で……。初めにそう思っちゃったもんだから、もう意地悪な気持ちから挽回できなかった。この作品は、漫画のセリフからト書きから絵まで、全部を本の体裁で文章化して、物語のような形にしてるだけなんだよね。だから物語の楽しみである、「心を働かせる」スキってもんが、全然ないの。全部が全部この語り口で埋めつくされてて、空白がない。漫画だったら、きっとこの作品も嫌じゃないと思うんだけどな。文学に夢をもちすぎてるのかなあ、私。この文体だから、関東人にはなじみにくいってこともあるんだろうけど。こーゆーイントネーションで読まないと、ついていくのがたいへんだし、それがスムーズにできない私は、疎外感を感じてしまった。

モモンガ:私も、大阪弁って一字一句一所懸命読まないと入ってこないから、すごく疲れた。でも、日本の創作って最近はヒネこびたものが多い中で、明るくて元気の出る作品だと思った。変なうっとうしさがないのが、この本の特徴。でも、やっぱり登場人物はステレオタイプだし、中学生に薦めたときに、「おもしろかった!」とは言われるだろうけど、それ以上の感想は聞けないと思う。英二が語るという形式にしたことで、必要なこともむだなことも、べらべらべらべらしゃべってるって感じなんだけど、英二が憎めないキャラクターだから、「マ、いっか」と思わせられちゃうところが、成功のカギだと思う。ストーリーも、いきなり浪速節になったりするんだけど、それもすべてキャラで許せちゃう。

愁童:ケチをつけはじめればいろいろあるけど、最終的に今の子どもたちにはいい作品。標準語だったら、許せないと思うけど。ブラバンとかクラブ活動で癒されるってこともあるだろうし、一つの完結した楽しい世界を楽しめばいいんじゃない? 本好きになるためにはこういうプロセスも必要だと思って、まあ、こまかいこといわずに、楽しんでよ。

(2000年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジェリー・スピネッリ『青い図書カード』

青い図書カード

:よくできている話だと思いました。ひとつのテーマでつながった連作短編っていう意味では、『不思議を売る男』(偕成社)『種をまく人』(あすなろ書房)と同じ系列よね。この本は、不思議な図書カードがもたらす4つの物語だけど、大人がアクセスできない子どもの内面をうまく表現してる。短編だからこそ描けた世界だと思う。4編(「マングース」「ブレンダ」「ソンスレイ」「エイプリル」)の中でとくによかったのは「マングース」と「ブレンダ」かな。「ブレンダ」はテレビ中毒の女の子の、ちょっと病的なところもコミカルでおもしろいし、本を読みましょうっていうメッセージもわかる。うちの息子にも、ぜひ読ませたい。そういえば、私スピネッリってドイツ人だと思ってた、ずっと。この本読んで初めて知ったけど、アメリカ人だったのね。

ウーテ:名前から考えると、ドイツ系なんじゃないかしら。それと、メッセージ性が強いから、ドイツっぽい感じがしたのかも。

一同:メッセージ性、強いよねー。

愁童:そうだね。メッセージ性は強いけど、おもしろかった。4編の中では「ブレンダ」が、ちょっと残念かな。

ひるね:ところで「図書カード」っていう言葉、ちょっと違わない? あんまりなじみがないよね。「ライブラリーカード」といえば、カッコいいけれど……。原題は The Library Card で「青い」とはいってないんだけど、どうして「青い」とつけたのかな。アメリカでは青いのが一般的とか?

一同:そうかなあ。(といいながら、自分の貸出カードの色を各自チェック。青の人もあり)

:本文に「青い」って出てくるからタイトルにも持ってきたんじゃない?

モモンガ:それより「図書カード」っていうと、図書館の貸出カードじゃなくて、本を買うためのプリペイドカードの方を思い出さない?

一同:そうだね。

ひるね:とにかくメッセージが強烈よね。意志的なものを感じさせる文学。この本の担当編集者は「ソンスレイ」がイチオシだって。ほろりとさせられますっていってました。「ソンスレイ」には思い出の本が出てくるんだけど、日本ではそういうのってあまりないわね。外国では映画でも、共通の体験として「本」が登場するっていうの、よくあるけど。あと前作『クレイジー・マギーの伝説』『ヒーローなんてぶっとばせ』と比べて翻訳がいちだんとよくなってると思う。とくに男の子の会話が生き生きしてる。

ウォンバット:私は「マングース」と「ブレンダ」がよかったです。とくに「マングース」。図書カードがきっかけで、「知識」というものに目覚めていく様子がとてもいいと思う。こういう目の前がぱあーっとひらけていく感じって現実にあると思うし。最後の場面、取り残されたウィーゼルがかわいそうなんだけど、そういう寂しさもまたいいし、彼は彼でこれを乗り越えて元気でやっていけそうなバイタリティーをもってると思うから。「ブレンダ」もメッセージは強烈だけど、テレビ中毒のコミカルな描写なんかはおもしろかったな。でも、あんまりメッセージばかりが勝っちゃうとつまらなくなっちゃうから、そのあたりのバランスが問題かもしれない。

ウーテ:私は「ソンスレイ」は、何かが欠けているような気がして嫌でした。このごろのヘルトリングもそうなんだけど、苛酷な現実を包む、何かこう温かいものが欠けてると思う。私がヘルトリングから心が離れた理由は、まさにそれなの。以前の彼の描くものには温かさがあったのに、このごろの作品はなんだか寒々として無残な感じなのね。たぶん彼自身に余裕がなくなったからだと思うんだけど。それと同じようなものを「ソンスレイ」にも感じました。いちばんよかったのは「マングース」。終わり方もいいし、少年の心がよく描けていると思う。作者の言いたかったことは「マングース」だけで充分言い切ってるんじゃない? ほかの作品はなくてもいいくらい。

ウンポコ:ぼくも「何かが足りない」っていうのに同感。『クレイジー・マギーの伝説』『ヒーローなんてぶっとばせ』のときにも思ったんだけど、どうも気持ちが愉快にならないんだよね。子どもの内面を描こうとしているのはわかるんだけど、クリアリーなんかとくらべると、スピネッリの作品は「もう1度読みたい」っていう気持ちにならないの。どうも人間性が、ぼくとはすれちがうみたい。理屈じゃない、何かふわっと包みこむものが足りないんだよね。あと、この本は、挿絵がどうも。「物」はいいけど、人物は出さないほうがよかったと思うなあ。表紙もイマイチ。他の本に紛れちゃう表紙だね。前作と比べても同じ作者のものとしての統一感がないから、損だよね。

モモンガ:私もスピネッリって、どうも読みにくいのよね。どんどん進めないの。

:叙述的なところと心情とが、パッパッと切り替わるからじゃない?

モモンガ:そうかもしれない。大人っぽい書き方で、これが今のものなのかな、とも思うんだけど。図書カードをひとつの窓口として使ってるという良さはあるけど、4つの物語がばらばらだから、もっと関連性があってもよかったと思う。「ブレンダ」は冷たくて、ナマの子どもじゃない感じ。なんだかあんまりメッセージがわかりすぎるとつまんない。

 

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ジェリー・スピネッリ『ひねり屋』

ひねり屋

ひるね:どうしてこんな残酷な話にしたのかしらねえ。両親が救い主というのは、とてもアメリカ的な感じ。イギリスだったら、こうはいかないでしょう。アメリカ映画とイギリス映画の違いみたいなもので、アメリカものはどこか甘いのよね。スピネッリというのは、家庭的な人なんだなーと思いました。『青い図書カード』と同じく、メッセージが強く伝わるけれど、2度は読みたくない本でした。

ウーテ:私は、積極的に嫌だったの。少し読んで、自分の意志でもう読むのをやめました。だって楽しくない読書に意味があるの?

:私は、視点を上手に使っていて、うまいと思いました。作者との距離をうまく操作する巧妙さがある。これもまた、ドイツ的な感じ。『きみ去りしのち』とは対照的なクールさがある。ドロシーをいじめるところなんかも、子どもの意識を上手にひろってるし。子どもの成長の一過程をきちんと描いてると思う。

愁童:いいか悪いか、判断に迷うなあ、この本は。『クレイジー・マギーの伝説』(偕成社)もそうだけど、スピネッリはわざと異様な状況をつくって、主人公自身が越えなくてはいけないハードルを設けるんだよね。頭がいい、うまい作家だと思うけど・・・。でも、脇が甘いところも気になるなあ。救い主が両親っていうとこ、ドロシーとの関係が都合よすぎるところなんかね。少年が大人になるプロセスで、親を疎ましく思っていたのに、ぶつかってみたら案外よくしてくれたなんてことも、あるにはあると思うけどね。

モモンガ:今まで読んだスピネッリの4冊のうちで、私はこの本がいちばん読みやすかった。でもねー、変わった本だと思うけど、子どもにはあえて薦めないな。全体としては、どうも後味が悪くて、すかっとしないの。子ども時代に読める本は限られているんだから、あえてこの本を読まなくてもいいって感じ。だって、5歳のときに読む本、10歳のときに読む本っていうふうに考えたら、そのとき読める本てとっても少ないでしょ。そう思うとねえ・・・。だってあんなにいじめられてたドロシーが、なにごともなかったように主人公を許して仲良くなっちゃうなんて物足りないし、両親に関しても、温かい両親だっていうことはわかるけど、お父さんとの関わり方がどうも納得できないのね。おもちゃの兵隊のエピソードも中途半端でしょ。父と子のふれあいを、もう少しきちっとおさえてほしかった。ハトの飼い方とか、首をかしげるハトのかわいらしいしぐさとか、ククーって鳴く様子なんかは、みんなうれしく読むだろうし、子どもを惹きつけると思うんだけどね。

ウーテ:一昨年の直木賞を受賞した桐野夏生の『OUT』を読んだときに思ったことなんだけど、『OUT』は作品としては、とてもよくできていておもしろいし、バーッと読んだんだけど、後味が悪くて、不毛な感じにもう耐えられなかったのね。それで、ストーリーが上手ということ以外に、こういう本を読む意味があるんだろうかと思っちゃったの。そしたら新聞で、賞の審査委員長が『OUT』を評して「おもしろければいいってもんじゃないと、吐き捨てるように言った」という記事を読んで、我が意を得たり! だったんだけど。だって「書いてドースル、読んでドースル」って感じじゃない? 通過儀礼を描くにしても、なにもこんな異様な状況をつくりださなくても、別の状況でも描けるわけでしょ。

モモンガ:大人のものならいいけど、子どもにあえてこういうものを読ませなくてもいいよね。

ひるね:でも、アメリカには実際にこういう町もあるのかもよ。

一同:(しーん)

ひるね:だって、ほら、作者の住むところの近くで実際このフェスティバルが行われているのかもしれないし、それだったらあんまり抵抗ないのかも。

ウォンバット:小さいときからこのお祭りを見ていたら、たしかに抵抗ないのかも。私はこの本を読みはじめたとき、現代の話じゃないと思ったのね。あまりにも設定が強烈だから、昔の話かと思って。ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」シリーズにでてくる博覧会のような、地域のお楽しみ会なのかなと思って読み進めていったら、現代の話だったからびっくりしました。あと、この本は装丁がカッコイイですね(装丁:坂川事務所)。とても目立つし、黄色と黒が印象的。大人向けの本みたい。内容は、みなさんのおっしゃるとおりなんだけど、『ひねり屋』ってタイトルはいいと思う。

: Wringerっていうのは「ひねる人」って意味でしょ。首をひねって鳩を殺す人っていうだけじゃなくて、「ひねくれもの」って意味もあるんじゃない? 彼はこの町では、ひねり屋になりたくない「ひねくれもの」なワケだからさ。

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


志水辰夫『きみ去りしのち』

きみ去りしのち

:感覚的にダメだった。気持ち悪くて。なんだか嘘っぽくて、男のいやらしさがそこここに出ている感じ。ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』を思い出しちゃった。大人になってから子ども時代を回顧して書くという系統のものだから、根本的に違うでしょう、子ども向けのものとは。大人向けのものと子ども向けのものの違いを再確認しました。4つの物語が収められた短編集(「きみ去りしのち」「Too Young 」「センチメンタル・ジャーニー」「煙が目にしみる」)だけど、とくに「Too Young 」は現実的じゃなくて、いかにも男の人が書いたものという感じ。

ウンポコ:「Too Young 」は、たしかにリアリティがないね。看護婦さんの弟がちょろっと出てくるんだけど、それがどこにもつながっていかないから、なんのために登場したのかよくわからない。「きみ去りしのち」も、子どもが描けていない。主人公の男の子は小学校高学年っていう設定だけど、それにしては幼稚すぎるよ。女の子もだけど・・・。この作家、子どもいない人だなと思ったね。今現在を生きている、ナマの子どもを知らないんじゃない? 志水辰夫は、サスペンスもののうまい作家だから、「読ませるなー」と思うところは多々あるんだけどねえ。

愁童:そうだね、うまいと思うけど・・・でも、設定がうまくないんだよ。「きみ去りしのち」は、子どもが語る形式にしたところに無理があると思う。「煙が目にしみる」も、大学生が主人公なんだけど、大学生ってこんなに幼稚なものかなあと疑問を感じた。だって大学生にもなって、こんなに鈍感なわけないんじゃない? それにしても、心のひだをひっくり返してルーペでのぞくような小説は、どうも好みじゃないんだな。

ひるね:なんだかレトロ調よね。文章そのものが、男の子の口調ではないですね。女性の描き方も、外見が美しいとか醜いとか表面的なことばかりで、それもお母さんや看護婦さんなど美しい人は心も美しく描かれているのに対して、主人公に意地悪をする役の紀美子なんて、外見も気の毒なくらい醜く描かれているでしょ。おとぎ話といっしょよね、キレイな人は心もキレイって。「きみ去りしのち」でも、叔母さんがお父さんを奪っていったというのなら、なにか具体的なエピソードが必要でしょう。ただ「この人は、いつも人のものをほしがるんだから」っていうだけでは、納得がいかない。最後の1行にリアリティがないのは、そのせいだと思う。きちんと説明しないで、あいまいに表現することで、終わらせようとしているのよね。説明がなくてもわかる読者にはいいけれど、わからない人には、物語が成立しない。それでもいいっていうスタンス。

ウンポコ:要するに、「女の人は不可解で美しいものだ」ということを書きたがる男の作家ということかな。

ウーテ:私も、物語が上手だってことは認めるわ。上手か下手かといったら上手。でも気にくわないの。この作者「なにさま系」の人なのよ。自分だけが一段高いところにいて、人を判断するタイプの人。「きみ去りしのち」の華やかで美しい3姉妹のからみなんて、よく描けていると思うけど、いかにも「男が描く女」という感じ。だいたい、細部が時代錯誤じゃない? ひとりよがりで不気味だし、へんなセンチメンタリズムがあって、虫が好かない小説でした。

ウォンバット:私も、好きになれませんでした。登場人物がみんな、美しい人を陰からそっとのぞくだけで、何か行動を起こすわけでもなく、美人の傍観者である自分に酔っている。ただ見ているだけでわかったような気になっている自己満足小説。スタンダードナンバーからタイトルをとっているようだけど、内容とタイトルのつながりがわからないし、歌との関係もちっともわからなかった。

ウーテ:これでは、有名な歌の題名をタイトルにもってくる意味ないわよねえ。

(2000年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フローレンス・セイヴォス『自分にあてた手紙』

自分にあてた手紙〜カメのポシェの長い旅

モモンガ:とてもよかったです。共感するところが多かった。低学年でも読めるような体裁についてはいいか悪いか判断がわかれるところだと思うけど、でも「気分の持ちようは、自分が操るしかないんだ」ってことは、子どもも知ったほうがいいと思うなあ。落ちこんだときって、自分がなんとかしなければ、立ち直れないでしょ。自分で嘘の手紙を書くとか、「今日はもうおしまいにして寝ましょう」っていう感覚も、よくわかる。女性の一面
をよく表していると思う。あと、お母さんがたずねてくる場面で、本当はとても悲しい気持ちなのに、泣きついたりしないで、「元気よ」っていうあたりもとても好き。

ウンポコ:ぼくも、好感をもったね。自分の孤独をあてはめながら読むとしたら、小学校高学年くらいから読めるかな。主人公がカメっていうのも、カメの「哲学する動物」というイメージとの重なりぐあいがぴったり。自分で自分に書く手紙というのも新鮮だった。

ウォンバット:私も、今日の4冊の中でこの本がいちばん好き。もう、とってもとってもよかった! 大切な彼プースが死んでしまって、ポシェは悲しくて落ちこんじゃうんだけど、絶望的な気持ちを受け入れて、自分自身でなんとかしていこうとする気持ちがけなげで、胸を打たれました。悲しい設定なんだけど、本人は「いかに悲しいか」ということを訴えているわけじゃないし、文章も淡々としていて冷静だから、おしつけがましさがない。ポシェが書く手紙もとてもいい。はじまりの「大好きなプースへ」というところだけで、もうどーっと涙がでてしまいました。人の心に直接響くのって、案外原始的なことで、しかけとか飾りは必要ないのかもなあと実感しました。それから「頭に石がゴツン!」とか、ユーモアがきいているのもいいと思う。

ウーテ:水をさすようで悪いんですけど、私は好きになれなかった。自分で手紙を書くっていうのはよかったけれど、ファンタジーのレベルが統一されていないのが気になって。擬人化が中途半端なんだもの。2本足で歩いているのに、マロニエでできた葉っぱを日傘にしたりするのは、ヘンじゃない? ふつうの日傘でいいのに。そうかと思えば、パイを焼いたりなんかして、統一されてないのよ。小さなことといえばそうなんだけれど、ひとつ気になりはじめると、もう全体が気にいらなくなっちゃって……。アバウトなんだもの。安っぽく思えてきてしまう。タイトルもよくないと思う。原題
Pochee なんだから、『かめのポシェ』でよかったのにね。

ひるね:こういうアバウトさが「フランス」っていう感じで、私は好き。最後もそうよね。最後にポシェの孫がでてくるんだけど、ということは、プースが死んだあとだれかと再婚したってことでしょ。そういうふうになんの説明もなく、ぱっと時がとんで別
の人と結婚してたことがわかるっていうのも、お国柄という感じ。だって、ほかの国のもの、たとえばバーバラ・クーニーの『ルピナスさん』がもし結婚して、夫が死んでしまったら、そのあと一生ひとりで、亡き夫の小さな写
真を暖炉の上に飾って暮らすと思うのよ。この作品はいわば歌みたいなもの、シャンソンのようなものだと思うのね。だから、こういうのもアリでいいと思う。

愁童:これは「カメ版『女の一生』」だね。生きていればいいこともあるさと、元気が出る本。その孫のことなんかも、あっけらかんとしてるよね。はじめは『葉っぱのフレディ』と同じ路線かと思って先入観があったんだけど、一味ちがってた。文章がよくて、読後感がとてもいい。今、「癒し」って流行っているけれど、ぼくはどうも「癒し」って好きじゃないんだよ。なんだか他人まかせな感じがして。この本も「癒し系」とかいわないほうがいいと思うな。